さばえの偉人一覧表

整理
1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
氏名
功績等
第7代鯖江藩主。
寺社奉行、大坂城代、京都所司代、天保11年(1840)には37歳で西丸老中となる。同14年老中を辞任す
るが、安政5年(1858)井伊大老のもと再び老中となる。日本開国、安政の大獄に大きく関わる。鯖江
まなべ あきかつ
間部 詮勝
では、西山嚮陽渓を造り、教育にも力を入れた。書画を好み、萬慶寺の天井絵(市指定文化財)は有
名。藩主在任48年2ケ月は最長。「泰平の眠りを覚ます上喜撰 たった四杯で夜も眠れず」の句の作
者といわれる。
第6代藩主。(
(3)詮熙の長子。
詮熙
まなべ あきざね
鯖江で生まれ、文化9年(1812)六代藩主となる。教育に尽力し、江戸藩邸に惜陰堂、鯖江中小路に藩
間部 詮允
校進徳館を建設した。
第5代藩主。第4代藩主詮茂の子。
まなべ あきひろ
鯖江で生まれ、天明6年(1786)5代藩主となる。文武を奨励し、京都から儒学者(
(24)
24)芥川元澄を招き
芥川元澄
間部 詮熙
「越前鯖江誌」「間部家譜」を編纂。
旧鯖江藩士小泉親正の三男。医学博士。
こいずみ ちかひこ
昭和16年(1941)厚生大臣、同20年(1945)自決。幼くして両親に死別祖母たねに育てられる。祖母
小泉 親彦
たねは川島町高原武右エ門の娘。
代々庄屋を務め、所有農地は120町歩。
明治23年(1890)には直接国税総額804円45銭(当時県第2位)。この頃の米価1石当り14円60銭。県
さいとう よじろう
斎藤 與二郎
会議員として県政発展に貢献。舟津村の初代村長。(
(151)
151)永田定右衛門、(
永田定右衛門、(88
、(88)
88)三田村八高、杉田
三田村八高
定一らとの交流があった。
衆院議員。英吉利法律学校(現中央大)卒。
ふくしま よしぞう
小学校訓導から大津日報主幹、大津商法会議所理事長を務める。農商務省御用掛、商工業視察の嘱託
福島 宜三
を受け、渡欧。第7.8.9回の衆院選に出馬し連続当選を果たす。
植田貢之助。嘉永6年(1853)鯖江藩家老となる。
まなべ とうさい
幼少時に(
(23)
23)芥川帰山、
芥川帰山、(35)
35)大山陶斎に学ぶ。明治2年(1869)鯖江藩大参事になり、明治3年に衆
大山陶斎
間部 東斎
議院議員になる。町村制により初代鯖江町長となる。
第1回県議会議員。昭和23年に福井大震災で被害を受けた織物業界再建のため県庁に繊維課新設を知
玉木 一馬(一栄) たまき かずま
事に進言。国道8号線期成同盟会の会計幹事。
はやかわ しょうこさ 父敬五郎は鯖江藩の細工見習いとして奉仕、尚古斎は大阪に住んで「浪華の籠師」として近世の名匠
早川 尚古斎
い
と称えられた。享年83。
家は醤油醸造を家業とした。
(16)
16)富田董とともに上池田村の持越に水力発電所を建設するため奔走。越前電気㈱を創立し、明治42
富田董
福島 文右衛門
ふくしま ぶんうえも 年(1909)9月に送電した。明治43年福井県農工銀行頭取、明治44年貴族院議員。氏を含む28人が発
ん
起人で鯖浦電気鉄道㈱を創立し、社長に就任、大正15年(1926)鯖江・佐々生間が完成、昭和3年
(初代)
(1928)佐々生・織田間が開通した。越前電気㈱は北陸配電㈱となり、鯖浦電鉄は福井鉄道と併合し
た。
よみなが
1/13
生年没年
1804~1884
1790~1814
1770~1812
1884~1945
1849~1935
1863~1927
1837~1917
1900~1987
~1897
1873~1937
整理
氏名
よみなが
功績等
「あめや」呉服店の主。江戸末期より呉服屋を創業。
明治30年(1897)の県議会で福井の簡易農学校を鯖江町に移転する建議案を提出。大正3年(1914)
に今立農学校が設立認可。明治41年(1908)越前電気㈱の設立発起人の1人。大正12年(1923)設立
の鯖江電気鉄道㈱では(
(10)
10)福島文右衛門氏とともに設立発起人
福島文右衛門
下深江生まれ。生糸問屋を営む。
大正10年(1921)鯖江撚糸織物㈱取締役社長、昭和4年(1929)には酒伊合同紡織㈱を創設。昭和9年
(1934)三井物産と資本提携し、酒伊織物㈱となる。昭和12年(1937)酒伊繊維工業㈱へ。翌年には満州
にも工場進出した。県織物界の第一人者。
旧藩時代、藩米問屋に生まれる。明治20年ころ大阪米穀肥料商の店員を勤めた後独立。神戸市栄町で
米殻商を営む。貿易で巨商となる。享年79。
大正5年(1916)飛島組(後の飛島建設)の発起人に。昭和4年ごろ同士と共に鯖浦合同運送㈱を設立
し社長に。県会議員。鞍谷川の改修、今立農学校の改築などを意見。
鯖江藩士。廃藩後、鯖江県小属となるが、まもなく廃県。
明治17年(1884)滋賀県大津市松本の近江麻絲紡織㈱(東レの前身)設立を受け社長に。明治36年
(1903)合併により日本製麻㈱となり、その代表取締役に。
鯖江町生まれ。東京帝国大学工科卒業。郡内の河川を徹底調査し、上池田村に水力発電所建設を画
策、(
(10)
10)福島文右衛門を社長とする越前電気㈱を創立へ。その創立前の明治37年没。
福島文右衛門
鯖江藩の蔵役を務めた為治の二男として鯖江町に生まれる。
神戸で西沢商会を起こし、明治38年(1905)台湾と香港の間に真珠、海苔が無尽蔵にある無人島を発
見、一大事業を展開した。島内だけに流通する貨幣の発行や憲法を制定するなど、さながら一つの国
家であった。後に、この島は清国領「プラタス島」と判明、返還された。また、第1次世界大戦で
は、ドイツ領であったアンガウル島でリン鉱石採掘を軍に命じられた。
次男隆二(たかじ)は徳田球一らと活動した政治活動家であり、詩人(ぬやまひろし)である。司馬
遼太郎「ひとびとの跫音」では、正岡子規の没後に妹・律の養子となった正岡忠三郎を主人公とし
て、ぬやま・ひろし(西沢隆二)らとの交友が描かれている。
11 桑原 甚六
くわばら じんろく
12 酒井 伊四郎
さかい いしろう
13 柴田 慶治
しばた けいじ
14 高木 治作
たかぎ じさく
15 高谷 光雄
たかたに みつお
16 富田 薫
とみた かおる
17 西沢 吉治
にしざわ きちじ
18 五十嵐 小右衛門
いがらし しょうえも
窯業振興に尽力。焼き物「新王山」
ん
さいとう もとみ
窯業振興に尽力。焼き物「古王山」
19 齋藤 元実
(21)
21)青柳柳塘の
青柳柳塘の長子。
長子。
明治39年没 郷土資料の収集に尽力。
あおやぎ りゅうとう 勘定奉行兼郡奉行。維新後、論文、漢詩に励み、教育に力を注いだ。明治11年没
21 青柳 柳塘
(24)
24)芥川思堂の
芥川思堂の子
あくたがわ ぎょくた
22 芥川 玉潭(希由) ん
名は希由(幼名は轍)、玉潭は号。藩校進徳館創設に功大。(
(1)詮勝の領内巡見の様子を「政午紀
詮勝
行」にまとめている。享年56。
(22)
22)芥川希由の
芥川希由の長男
京都後藤佐市郎に従学、ついで江戸林大学頭に入門。父の後を受けて進徳館師範となる。安政6年
23 芥川 舟之(帰山) あくたがわ しゅうし
(1859)足利学校に学ぶ。維新後、惜陰小学校に教鞭をとり、武生伝習所の一等教師となる。名は舟
之、帰山は号。享年74。
20 青柳々涯(宗治)
あおやぎ りゅうがい
2/13
生年没年
1867~1936
1892~1952
~1944
1871~1946
1837~1913
1874~1904
1872~1933
~1906
~1878
~1832
~1890
整理
氏名
よみなが
24 芥川 思堂(元澄) あくたがわ しどう
25 大郷 学橋(穆)
26 大郷 浩斎(浩)
おおさと(おおごう)
がっきょう
おおさと(おおごう)
こうさい
おおさと(おおごう)
27 大郷 信斎(良則) しんさい
28 喜多山 儀兵衛
きたやま ぎへえ
29 斎藤 元厚
さいとう がんこう
30 高木 善行
31 中島 確堂
32 中島 美水
たかぎ ぜんこう
なかじま かくどう
なかじま びすい
33 西島 俊庵
にしじま しゅんあん
34 江坂 広雄
えさか ひろお
35 大山 陶斎(孝治) おおやま とうさい
36 片寄 帆山
かたより はんざん
37 小池 恕堂
こいけ じょどう
38 曽我 東涯
そが とうがい
39 竹内 重規
たけうち じゅうき
40 竹内 半
たけうち ばん
功績等
生年没年
名は元澄、思堂は号。天明8年(1788)(
(3)間部詮熙の招聘に応じ藩儒となり、間部家譜、鯖江誌を編
間部詮熙
~1807
纂。
(26)
26)大郷浩斎の
大郷浩斎の子。名は穆、学橋は号。
~1881
(1)間部詮勝公が老中のおり、諸藩の志士と交わり国事に奔走。碑は向島三囲神社西門外にある。
間部詮勝
(27)
須子孫作の弟を大郷家の世嗣とした。惜陰堂師範、麻布学問所教
27)信斎に子がなかったため、藩士須子孫作
信斎
須子孫作
授となる。名は浩、浩斎は号。
(24)
24)芥川思堂に学び、後に林大学頭述斎の門に入り、学問所の教授となる。(
芥川思堂
(1)詮勝の名付け親。
詮勝
屋代弘賢や滝沢馬琴とも交遊があり、「兎園会」という同好会を作っていた。江戸の藩邸にあった藩 ~1844
学惜陰堂を命名。名は良則、金蔵とも称す。信斎は号。
福井藩士吉江小左エ門の二男。後に鯖江藩士喜多山の養子となる。藩の軍学者として父子二代に亘っ ~1859
て重んじられた。長崎に留学し西洋軍学を研究した。
(30)
30)高木善行に
高木善行に師事
関流の算法を極めた。
通称、平四郎。関流の算法を研究。(
(1)詮勝の時代の人か。
詮勝
~1865
(32)
32)中島美水の
中島美水の子。竹内重規に数学を学ぶ。享年45。
~1843
藩の数学者。享年51。
鯖江藩医。江戸で杉田玄白・大槻玄沢に学び、長崎で蘭学を学ぶ。
1785~1810
杉田、大槻両氏が解剖術を実験した時、俊庵は助手を勤めた。前途を嘱望されながらも文化7年没。
明治35年(1902)、東京高等師範学校英文科に進学し、ア式蹴球部創設とともに入部、日本初の近代
サッカーチームのメンバーとなる。卒業後、郷里で教職に就き、武生中学校長、福井高等女学校長を ~1946
歴任。教育界での活躍後、護国神社宮司となる。享年65。
(21)
21)青柳柳塘の
青柳柳塘の実弟
~1898
鯖江藩を代表する漢学者、書家。門人たちの報恩の志として惜陰小の門前に石碑を建立、撰文は
(161)
161)渡辺洪基。(現在はない。)享年78。
渡辺洪基
(23)
23)芥川舟之(
芥川舟之(帰山)
帰山)に師事。
維新後、小学校教師。旁塾を開き、漢学を講ずる。古希の記念に門弟が松阜神社の境内に松の木を植 ~1910
樹。そのそばに碑をたてる。享年78。
(23)
23)芥川舟之(
芥川舟之(帰山)
帰山)に師事。江戸の林大学頭に入門。藩校進徳館館長の傍ら、漢学塾である小池塾
~1899
を開き多くの門弟を集める。碑は嚮陽公園にある。享年76。
藩士で維新後武生で塾を開いて漢学を教える。墓は鯖江の妙正寺だが碑は越前市沢の妙行寺にある。 ~1888
文は大柳英の撰。
藩士で数学を専攻。多くの門弟を集め教育のために活動(安政2年頃)。舟津神社に一の鳥居から見
た日野山を描いた測量図を奉納。
(79)
79)片山又右衛門に師事し数学を学ぶ。維新後、小学校教師、傍ら数学塾を開いた。筆算を普及。享
片山又右衛門
~1913
年75。
3/13
整理
氏名
41 中島 亀太郎
功績等
(52)
52)中島蘭荘の
中島蘭荘の長男
福井県師範学校卒業後、惜陰小学校訓導に任命される。大正2年(1913)に文部大臣から教育効著顕
なかじま かめたろう
著なるものとして選賞。大正11年に奏任待遇を受ける。当時小学校長では県下で2人。退職後、薫陶
を受けた人々が惜陰小学校校庭に胸像を建てる。
よみなが
42 伴 宗古
ばん そうこ
43 古川 田溝
ふるかわ でんこう
44 松井 政治
45 三好 得恵
46 矢代 操
47
窪田 彦左衛門
(二代目)
48 秋元 時憲
49 島津 浮亀
50 清水 完和
51 須子 蕉石
52 中島 蘭荘
53 益子 魯山
54 上田 質
55 窪田 しづ
56 鈴木 竹香
57 水石 聳
58 多賀 九江路
59 如覚上人
藩士で菊潚と号す。郷土史家。著書に「さむしろ」。歌道では(
(86)
86)東溟上人に師事。 鯖江町助役。
東溟上人
東小路に生まれる。苦学の末、東大医科卒業。
学生時、学費を得るための標本作りが高じ、県博物学会副会長も務めた。医業の傍ら、惜陰小学校学
務委員となり、大正14年(1925)鯖江白菊婦人会による幼稚園の園主となる。
まつい せいじ
旧藩士、維新後、小学校教育に従事。新撰鯖江誌一巻を著す。
みよし とくえ
三国尋常高等小学校の「自発教育」の実践を研究
藩士松本伝吾の次男。明治2年(1869)、藩士矢代家の養子となる。藩校進徳館を経て、大学南校
やしろ みさお
(現東大)に進学、後に仲間と明治法律学校(明治大学)を創設。
県会議長彦左衛門の長男。東京農大卒、貝類研究者。戦前、鯖江女子師範で博物学を教え、戦後も引
き続き鯖江高校に勤務。県文化財保護専門委員を務める。昭和8に県生物目録作成に取り掛かり、以
くぼた ひこざえもん
後貝類調査をライフワークとした。鯖江在住の医師(
(43)
43)古川田溝の援助により『福井県産貝類目録』
古川田溝
840種をまとめた。
あきもと ときのり
江戸に住み、服部南郭に学び、詩集小丘園集初篇十巻を著した。
しまづ ふき
藩士島津信之の妻。女流書家。和歌も堪能。
藩士中島権右エ門の二男。 歌人。鐸廼舎と号した。幼にして清水氏の養子となり後京に上り城戸千
しみず かんわ
楯の門に入り国学を学び鐸廼舎と号して歌を作り且つ、和様の書をよくした。新町蛸薬師に住む。
妻子なく、没後、等持院に葬る。没後その歌集「かけひの水」が刊行された。享年83。
(26)
26)大郷 大郷 浩斎の兄で天才的画家。宋元時代の画法を研究。長泉寺町の西福寺の屏風は代表作。享年
浩斎
すこ しょうせき
74。
なかじま らんそう
文武に通じ、書道で大成。巻掖山に師事。享年51。
ますこ ろざん
鯖江藩士で、(
(51)
51)須子蕉石に就いて絵を学ぶ。
須子蕉石
うえだ ただし
(35)
35)大山陶斎に師事、一流の書家。惜陰小、東京府立二中、武生中学等で教鞭を執る。享年78。
大山陶斎
女子美術学校日本画高等師範科を優秀な成績で卒業後、京都で八田高容、木村杏園に師事。
彫刻家で箏曲・京極流二代目宗家雨田光平
雨田光平と結婚、渡米後、家具工場のデザイナ-として活躍するも
雨田光平
くぼた しづ
32歳で没。確認されている彼女の作品は約20と少ないが、若い女性をモデルにしたロマンチックな哀
感あふれる作品と、評価が高い。
すずき ちっこう
名は隈、空谷と号す。画を山本梅逸に学ぶ。
みずいし しょう
鯖江藩士。菱湖流の画を学ぶ。
歌集『車前草』、詩集『點心』。後年、俳句に移り、日野草城主宰『青玄』同人。句集『句読点』を
たが きゅうこうろ
出版。福井市民俳句会会長、県俳句作家協会幹事等を歴任。
(60)
60)道性上人の
道性上人の長子
にょかくしょうにん
本山誠照寺の第三世の上人。
4/13
生年没年
1866~1936
~1900
1874~1948
~1925
1880-1959
1852~1891
1896~1967
~1783
~1873
~1880
~1863
~1875
~1860
~1947
1895~1926
1822~1887
~1884
1903~1970
~1394
整理
氏名
よみなが
道性上人
60
(本山誠照寺)
どうせいしょうにん
61 秀諴上人
しょうかんしょうにん
62 承天
しょうてん
63 橋本 政恒
はしもと まさつね
64 法林寺 恵南
ほうりんじ けいなん
65 朝倉 了昌
あさくら りょうしょ
う
66 梅谷 孝永
うめたに たかなが
67 梅谷 孝成
うめたに たかなり
68 小泉 了諦
こいずみ りょうたい
69 木村 意水
きむら いすい
すずき たいじゅ
70 鈴木 大寿
71 土屋 公章(得所) つちや こうしょう
72 木村 孝蔵
きむら こうぞう
73 清水 春松
しみず しゅんしょう
74 土屋 寛之
つちや ひろゆき
75 富田 長秀
とだ ながひで
76 藤田 惣左衛門
ふじた そうざえもん
77 松田 兵左衛門
まつだ へいざえもん
功績等
本山誠照寺の第二祖。
親鸞上人の第5子という説あり。
本山誠照寺の第15世の上人。
顕密二教に通じ、文才に長けていた。
萬慶寺開祖。赤穂浪士が討ち入りの後、立ち寄った江戸の泉岳寺で彼らを受け入れる決断を進言した
という逸話をもつ僧侶。
(86)
86)東溟上人と
東溟上人と親交
舟津神社宮司、筑前守。和歌の佳作を遺す。享年78。
円智坊とも称し、洋栄の子。寺領朱印を没収された本山誠照寺の復旧に尽力。享年68。
(68)
68)小泉了諦の
小泉了諦の弟
本山誠照寺派法林寺に生まれる。17歳で「教途策進」を著す。明治12年(1879)に足羽郡東郷厳瑞寺
の養子に。インドに遊学。真宗大学教授。金沢の長徳寺住職に。(当時加賀一国屈指の大坊)
田中九平の次男として生まれる。三千院住職(
(67)
67)梅谷孝成の仏弟子となる。
梅谷孝成
蓮成院住職、比叡山竹林院住職、三千院住職、権大僧正に累進、京都市東山大仏妙法院門跡、延暦寺
247代座主。日中親善に努力。
舟津村上鯖江生まれ。田中弥右衛門の長男。
明治21年(1888)元梶井三千院第51代門跡。荒廃した妙法院を復興した。明治34年(1901)天台宗総
本山延暦寺第240代座主。
(64)
64)朝倉了昌の
朝倉了昌の兄
下深江本山誠照寺派法林寺第9世住職。本山の命を受け、朝倉了昌とインドに遊学。セイロンに渡り
大僧正より衣鉢を受ける。その後、トルコ、フランス、イギリスと諸国を巡歴し、仏教講演を行っ
た。
木村家六代の祖で木村病院長木村知孝の高祖父。(
(1)間部詮勝に従い京都に滞留。後に私財により貧
間部詮勝
民救済にあたった。
(1)間部詮勝公の侍医。
間部詮勝公
勝山藩泰家生まれ。19歳で鯖江藩医土屋家を継ぐ。種痘の普及に尽力。
万延元年(1860)南小路生まれ。金沢医学校初代外科医長、金沢医学校付属病院長、大阪府立医学校
病院外科医長、大阪高等医学大学教授。心斎橋塩屋町に木村病院創設。
味真野町生まれ。明治43年(1910)に中小路に眼科医院を開業。清水式角膜切開刀、清水式トラホー
ム鑷子で特許取得。著書「トラホーム予防図解」。昭和3年博士号取得。菊作りの達人。
(71)
71)土屋得所の
土屋得所の長男
長崎精得館で西洋医学を研究。岐阜県医学校長などを経て、帰郷後、鯖江興病院の礎を築く。
府中の出身、越前守護職。織田信長により府中城主に任命。後、一向一揆で、長泉寺城を攻め上がっ
たが、討死。享年24。長泉寺町の歯塚権現境内に墓碑あり。
早くから絹織物に関心を持ち、明治21年(1888)家督を相続するや家業の製油業から羽二重機業に転
業。新横江村長、県議を務めた。敦賀港の施設充実に尽力するなど、産業振興に貢献した。
松田家は古くからの名望家で農業のほか絹織物業を経営。新横江村長。
5/13
生年没年
1221~
~1838
~1838
1856~1910
1863~1945
1845~1914
1851~1938
1814~1867
1883~1936
1845~1906
~1574
1853~1935
1875~1945
整理
氏名
78 砂村 新左衛門
79 片山 又右衛門
禿 須弥
80
(須美 スミ)
81 八田 清右エ門
82 岩野 寛
83 堀 芳孝
85 秀如上人
86
藤原 善超
(東溟上人)
87 禿 了教
88 三田村 八高
89 板田 孫兵衛
90 三田村 吉継
91 松平 忠直
92 清水 九十郎
93 清水 此吉
よみなが
功績等
生年没年
すなむら しんさえも
1601~1667
全国各地で、土地開発・新田開発事業に尽力。
ん
かたやま またうえも 東鯖江だが元は五郎丸町法常寺の出。農家の三男、数学を好み、勉学に励む。廃藩置県時には敦賀県
~1885
ん
の小学校教師に、石川県時代には地租改正係雇に採用された。享年57。
(87)
87)禿了教の
禿了教の長女
五郎丸町浄覚寺の禿了教の長女。東京成立学舎女子部を経て、明治26年(1893)同志社女子部に入
とく すみ
学。父とともに日本道徳会を創設。女子教育に尽力し、明治31年(1898)23歳で「婦人仁愛会教園」
を創立し、仁愛学園の基を築く。
はった せいうえもん 上河端辻長兵衛に数学を学び、農業の傍ら門弟を集めて講莚を開いた。
新横江、片上、国高の各尋常小学校長を歴任。新横江村長。昭和23年(1948)関係村長と協力し、鯖
いわの ひろし
江町、新横江村、舟津村合併を実現。
福井師範卒、福井中学に24年勤務。昭和8年(1933)『福井県生物目録』植物之部を担当。昭和27年
ほり よしたか
(1952)開館の福井市立郷土自然科学博物館の初代館長。
本山證誠寺の第17世の上人。
しゅうにょしょうにん
近江国膳所城主本多隠岐守康慶の末男。享年54。
ふじわら ぜんちょう
(とうめいしょうに
京都生まれ。本山證誠寺第20世。
ん)
(80)
80)禿須弥の
禿須弥の父
五郎丸町浄覚寺住職。農家の長男として生まれ、外祖父禿了法の養子なる。明治17年(1884)京都勧学
院に学び、同20年(1887)神田英学館で語学を学び、インド欧米を視察。仁愛教団創立。
新横江村初代村長で9年間務める。明治6年(1873)18歳で小学校教師、同8年には地租改正のため測量
みたむら はちこう
技師となる。同17年には今立郡農事通信委員となる。明治24年(1891)県制施行とともに県議会議員
に。明治41年(1908)㈱商業銀行頭取。商業銀行は後に福井銀行と合併。
性格非常に心堅く、辛抱強い人と伝えられる。結核で倒れ、病床にあって死後の献体を申し出る。こ
はんだ まごべえ
れにより明治9年(1876)鯖江で初めて献体が行われた。全国的にも早い例。
明治維新後に戸籍の調査や地租改正などの仕事にあたった。明治20年(1887)県会議員。県会議員後は
みたむら よしつぐ
新横江村発展に(
(88)
88)三田村八高と共に尽力。新横江村第3代村長に就任。松ケ鼻用水大改修に尽
三田村八高
力。
第2代福井藩主。原野であった鳥羽野を奉行(
(197)
197)渡辺長久らに命じ開拓。大坂の陣で大坂城一番
渡辺長久
まつだいら ただなお 乗りを果たすなど大功をたてたものの恩賞がないことを不満とし、参勤交代を怠るなど不遜な行動を
とった。それゆえか暴君といわれているが、裏付ける資料なし。
明治13年(1880)から同14年まで石川県会議員、同14年から同17年まで福井県議会議員。遠祖は朝倉
しみず くじゅうろう 義景の部下吉江左内で、北陸街道筋に御伝馬方ならびに荷物問屋を営み、現在の水落町の基礎をつ
くった。
しみず これきち
神明小学校(通明、合智の2校が合併)初代校長。
とく りょうきょう
6/13
1876~1950
1835~1905
1891~1968
1902~1977
~1729
1785~1855
1854~1937
1854~1928
1845~1934
1595~1650
1832~1899
整理
氏名
94 山本 治
95 若泉 敬
96 野尻 弥重郎
97 増永 英明
養浩斉
瓜生 守也
野尻 新太郎
山本 雅雄
久島 弥左衛門
103
(雪嶺先生)
104 畑 彦兵衛
山森 弥久吉
105
(左近先生)
99
100
101
102
106 伯 治門
107 加藤 吉太夫
108 山田 仙之助
109 山口 孝雅
110 笠嶋 一榮
111 斎藤 優
112 杉原 為治郎
功績等
山本雅雄の8男。昭和26年(1951)神明町長。同30年(1955)県議会議員に当選以来5期。同37年
やまもと おさむ
(1962)、41年に議長就任。県営広野ダムの完成に尽力。神明朝日線の道路整備に尽力。金谷トンネ
ルにも尽力。鯖江市長2期(1978~1986)。
今立町生まれ。東大法卒。保安庁保安研修所教官を経て、米国ジョンズ・ホプキンス大学客員教授。
わかいずみ けい
防衛庁防衛研究所所員を経て、京都産業大学教授に。佐藤栄作の密使として、ニクソン政権と協議を
進め、沖縄返還のために尽力。
朝日小学校校長を最後に教職を退き、東鳥羽で養蚕を行い、殖産興業を起こす。神明村長として25年
間。合智、通明の2小学校を神明小学校に統合。初代校長は(
(93)
93)清水此吉。
清水此吉
のじり やじゅうろう 大正4年(1915)に武周電力㈱を設立して専務に。大正12年(1923)に福武電鉄㈱を設立して社長に
就任し、同13年2月に武生-兵営間、同14年7月に兵営-福井間が開通。浅水川改修の用地交渉に尽力。
大正9年(1920)衆議院議員に当選。
増永家の遠祖は柴田勝家の家臣増永公文だという。人絹平地の機業場を設け不動産業。国道8号の建
ますなが えいめい
設促進に尽力。
ようこうさい
碑は岡野町妙法寺境内。
うりゅう もりや
和漢学
のじり しんたろう
東京高等師範学校、静岡中学校、福井師範学校、福山師範学校などで教鞭。
やまもと まさお
号は六堂。漢学と漢詩を研究。大正15年(1926)神明村長。元鯖江市長(
(102)
102)山本治氏の父。
山本治
よみなが
くしま やざえもん
医療のかたわら儒学教育を好む。碑は長久寺境内。享年51。
はた ひこべえ
本家と共に酒造業を営む。穴田川用水の紛争解決に尽力。
やまもり やくきち
鍼灸術医、(
(103)
103)雪嶺先生の後を継ぎ儒学を教えた。碑は長久寺境内。
雪嶺先生
県議会議員時代に県産婆看護婦養成事業を推進。中野の耕地整理105町歩を造成。大正4年(1915)に
中河村長に就任し20余年にわたり尽力。
戦後第1回衆議院議員に当選。中河村農業協同組合長、県農民連盟委員長を務め、戦後の農業復興と
かとう きちだゆう
農民政治力の結集の先頭に立った。
家業は菜種油・桐油等の製造販売と石油・肥料の販売。明治37年ころ羽二重の製織が盛んになり、明
治38年に機業に転向。43年に力織機を考案して販売。
やまだ せんのすけ
県会議員、貴族院議員。独力で幼稚園を建設し運営費を寄贈。神社仏閣にも寄贈。戦時中に戦闘機
「山仙号」を献納。戦後もラジオ放送教育資材を寄贈。
昔からの水不足を補うため、巨額の私財を投じて橋立町浄法寺境内に18間あまりの井戸を掘る。県議
やまぐち たかまさ
時代に浅水川改修を建議した。中河村長だけでなく、請われて神明村長にも就任。
かさしま かずえ
第1回県議会議員。浅水川、文室川改修(中野町出口より上流)に尽力。
県考古学界の草分。戦時中満州にて遺跡調査。戦後郷土の考古学調査に挺身。王山古墳群をはじめ近
さいとう まさる
隣の古墳群の調査に従事。第1回鯖江市民文化賞受賞。県文化財専門委員。
すぎはら ためじろう 初代片上村長
はく じもん
7/13
生年没年
1916~2001
1930~1996
1868~1947
1899~1964
~1962
1877~1970
~1884
1846~1892
1871~1938
1895~1988
1876~1947
1861~1910
1902~1992
1910~1988
1851~1922
整理
氏名
よみなが
113 福田 耕
ふくだ たがやす
114 松永 伍作
まつなが ごさく
115 山本 由松
やまもと よしまつ
116 西山 真一
にしやま しんいち
117 禿氏 祐祥
とくし ゆうしょう
118 斎藤 実盛
さいとう さねもり
119 毛受 庄助
めんじゅ しょうすけ
120 松平 昌親
まつだいら まさちか
121 安立 又三郎
あんりゅう またさぶ
ろう
122 佐々木 清六
ささき せいろく
123 松谷 弥男(野鷗) まつたに やおう
124 吉川 治左衛門
よしかわ じざえもん
125 石森 靜
いしもり しずか
126 大橋 庄右ヱ門
おおはし しょううえ
もん
功績等
明治40年(1907)加バンクーバーに渡航、学問の必要性を感じ4年後、帰国。東京帝大法学部卒業
後、中国に渡り小学校設立、現地の教育に専念。帰国後、昭和9年(1934)岡田内閣の秘書官とな
る。昭和11年(1936)二二六事件で首相を真正寺に隠した事件は有名。
今立郡大野村生まれ。明治7年(1874)上京、農事試験場に入り、養蚕を研究。同32年(1899)京都
蚕業講習所所長となる。明治期、農業の主軸であった養蚕の発展に貢献。京都北野天満宮に碑あり。
大正11年には片上小学校に銅像があったが、戦時中に供出された。
片上村で生まれ、幼時に鯖江町南小路山本家へ。県師範学校卒業後、惜陰小学校訓導に。
大正4年広島高等師範学校に入学、卒業後鹿児島県第一師範学校教諭となったが、大正9年(1876)に
は東京大学理学部に入学、台湾植物学の権威早田又蔵博士に師事し、在学中から台湾総督府中央研究
所の嘱託となり、卒業後、小石川植物研究室に。昭和3年(1928)には台北大学に赴任。昭和9年
(1934)に理学博士となり、戦後も台北大学に留まった。開学以来初の大学葬で弔う。
洋画家。福井師範卒業。昭和5年上京。翌年、帝展と光風会に初入選。以後同展を主な発表の場とす
る。鈴木千久馬に師事。昭和55年(1980)日本芸術院賞。
吉谷町西教寺9世祥雲の長男。仏教大学講師。大正12年(1923)、中国の仏教関係史蹟を踏査研究。
昭和9年(1934)龍谷大学図書館長、同大教授。昭和25年(1950)『東洋印刷史序説』で文学博士。
世界の珍書を集めた『禿氏文庫』は有名。
平家物語によると、後に武蔵野国長井に移り、長井斎藤別当と称した。源平盛衰記にも登場。木曽義
仲軍との加賀国篠原の戦いで討死。幼い頃実盛に命を助けられた義仲はその首を抱いて号泣したとい
う。西日本で行われている伝統の虫送りは実盛の供養の意味を持つ。
12歳で柴田勝家の小姓として取り立てられ、後に小姓頭となり一万石を与えられる。この領地が片上
郷とされる。賤ヶ岳の戦いで勝家軍が敗れ、勝家が討死を覚悟すると、退却を進言する。自らは時間
稼ぎの為に兵200を率いて勝家の馬印「金の御弊」を掲げ、秀吉勢の大軍を惹きつけ果敢に応戦、勝
家の逃走時間を十分に稼いだとみて最後は自刃した。吉谷町春日神社に、毛受庄助像とされる朽ちた
木像が安置されている。
吉江藩ただ一人の藩主。後に家督を継いで福井藩主となり、吉江藩は廃藩となる。吉江城下町の整備
に尽力。
(133)
133)高島茂平
高島茂平の3男
明治6武生有明町の酒造業安立家を継ぐ。武生聨合会議長、酒造惣代を歴任。以後、自由民権運動に
尽くす。家財を投げ打って政治活動を行う。
第12代、第17代立待村長。
作詞、古銭、酒、釣、養鶏を好む。明治13年(1880)石川県議会議員。明治24年福井県議会議員。
(132)
132)岡井慎吾は明治16年から数年師事。
岡井慎吾
代々村役を務める。第三十六連隊の兵舎建設に協力。
(124)
124)吉川治左衛門の
吉川治左衛門の4男
福井県木材協同組合連合会初代会長。福井農林卒。石森家へ婿養子。木材の登録制度の創設、目立工
の養成、各種講習会を開催するなど林業界発展に多大な貢献。
立待村長、県会議員。吉江町にあった小学校を杉本町に移転することに尽力。石田縞増産を図り、ま
た武周電力㈱を設立する。美濃派俳諧の宗匠でもある。
8/13
生年没年
1888~1970
1853~1908
1893~1947
1906~1989
1879~1960
~1183
~1583
1640~1711
1847~1928
1872~1945
1835~1914
1856~1928
1896~1962
1859~1921
整理
氏名
127 加藤 吉平
よみなが
かとう きちべい
功績等
酒造業。越前製瓦㈱、北新庄製紙㈱の社長。
(129)
129)高島七郎右衛門に従事。
高島七郎右衛門
藍玉商、醤油の醸造に従事
128 北山 由松
きたやま よしまつ
129 高島 七郎右衛門
たかしま しちろうえ
衆院議員。東京法学院卒。福井銀行、越前電気㈱取締役。
もん
たかしま ぜんざえも
石田縞の祖
ん
130 高島 善左衛門
135 高島 正臣
織物検査官。田所町渡辺源兵ヱの長男。竹下円右ヱ門の婿養子となる。
明治34織物検査所に入所、所長で退職する昭和15まで検査事業に精励、輸出人絹織物の技術指導に尽
たけした げんじろう
力。戦中戦後の物価政策の確立に貢献。世界恐慌時には、外務省の嘱託として日印会商に参加、イン
ドとの通商再開に成功した。多趣味で、日本画、サツキ作りの名人。
熊本医大予科教授 九州大文学部講師
おかい しんご
昭和6年「玉篇の研究」で文学博士の学位を得る。(
(123)
123)松谷弥男に師事。
松谷弥男
たかしま もへい
東京高等師範学校を卒業し、福井中学校の教諭。県会議員。
(133)
133)高島茂平の
高島茂平の長男
たかしま いちろう
東京帝大農学科卒。農業団体の育成強化に一生を捧げた。
たかしま まさおみ
字は君牙、通称慎三、蕉堂と号した。
136 近松 門左衛門
ちかまつ もんざえも
東洋のシェークスピア、元禄の三大文豪。浄瑠璃、歌舞伎作者。
ん
131 竹下 源次郎
132 岡井 慎吾
133 高島 茂平
134 高島 一郎
九右衛門、天保13年(1842)生まれ。号を一窓庵丹青とし俳諧で活躍。南越獅子林分社二代目代表。
石田上の西蓮寺に碑あり。
たかしま たんざん
琴棋を学び詩文書画を好む
高島 丹山
たかしま みんざん
名は九兵衛、少年のころより花を挿す楽しみ京都六角堂の池の坊に学ぶ。享年79。
高島 眠山
漢学を(
(35)
35)大山陶齋、和歌を河津直入に学び、殊に書に達した。
大山陶齋
牧野 孤竹(源吾郎)まきの こちく
杉本町報恩寺に生まれる。東京帝大文学部卒、本定寺に養子として入り、住職に。龍谷大講師、京都
あさくら ぎょうずい 女子高等専門学校校長。戦中戦後の激動期に本願寺派執行長を務める。昭和29年(1954)にはビルマ
朝倉 暁瑞
で開かれた世界仏教徒会議に日本代表団の団長として参加。
立待村村長。歩兵第三十六連隊設置のため私費で用地を買収し献納した。これに感服した市民の土地
のじり ろくべい
野尻 録衛
献納や労力奉仕により、連隊用地が確保、整備された。
江戸時代の旗本。文政12年(1829)~天保10年(1839)飛騨高山の郡代として越前の幕府領役5万石
おおい ながまさ
大井 永昌
を支配。天保7年(1836)天保の大飢饉では窮民救済に尽力する。平井町平等会寺に報恩碑あり。
西大井・川去の両地区の農業用水は、常に不足し絶えず水争いが起きてた。西野翁は大変心を痛め、
この水不足を解消するために日野川から水を取水することを考え、1605年に江戸へ赴き、二代将軍徳
にしの りへい
西野 利兵衛
川秀忠公に直訴し許可を得た。それから、約1500mの西川用水路(二ヶ用水または千人堀用水)に着
手、20年を費やし完成したといわれている。
生年没年
1871~1939
1855~?
1869~1923
1775~1849
1881~1967
1872~1945
1867~1945
1890~1977
1847~1873
1653~1724
137 青柳 丹青(旦青) あおやぎ たんせい
1842~1912
138
139
140
1837~1911
141
142
143
144
9/13
1836-1899
1877~1968
1844~1912
1771~?
1569~1626
整理
氏名
146 島村 日正
功績等
生年没年
バイオリン奏者。大正5年海軍軍楽隊入隊。大正7年委託生として抜擢され、東京音楽学校(現東京芸
大)入学。卒業後軍楽隊教官となる。大正12年山田耕筰、近衛秀麿らとともに新交響楽団(現N響)
の創立に参画。バイオリン・イングリッシュホルン奏者として活躍。昭和4年以降学習院音楽部、東 1900~1970
たないけ けいすけ
京工大音楽部講師として両大学のオーケストラの指揮者を勤める。昭和21年鯖江に戻り、棚池アンサ
ンブルを結成し、多くの音楽愛好家を育て音楽文化向上に尽力した。
校歌:吉川小・片上小・中河小・足羽中
しまむら にっしょう 本妙法華宗の管長
147 のゑ女
のえじょ
145 棚池 慶助
よみなが
明和4年(1767)持明寺村生まれ。味真野清水頭の毫摂寺へ乳母奉公に。文化5年(1808)秋、本山の
二女児を連れ外出したところ、手負いの猪に襲われる。身を張って猪と格闘、二女は無事で、のゑ女 1767~1846
も命をとりとめる。その勇敢な行為に対し、福井藩より褒美を授かった。当寺境内に石碑あり。
庄屋を務め、酒屋も営む(銘柄姫心)。法律学、英語を学ぶ。県議会で吉川道路費の県費全額支弁を
建議。吉川橋架橋も建議。
幼少にして鯖江藩(
(23)
23)芥川帰山に学び、後に大阪の藤沢南岳の泊園書院に遊学。明治43年(1910)
芥川帰山
わしだ またべえ
149 鷲田 又兵衛
足羽郡長等歴任。
永田 定右衛門
父は第1回衆議院議員(
(151)
151)永田定右衛門。県議会議員中に豊村から鯖江町に通じる県道の路線変更
永田定右衛門
ながた さだうえもん
150
と幅員拡幅を手掛ける。
(定視)
藩士湯浅重次郎の次男として鯖江町に生まれる。
漢籍に通じる。明治4年(1871)下氏家町永田家の養子となる。後に自由民権運動に傾倒し、政治団
ながた さだえもん
151 永田 定右衛門
体南越倶楽部副会頭として幅広く活動、明治23年の第1回衆議院議員選挙で当選。板垣退助を補佐
し、党の発展に尽力。
明治30年の貴族院多額納税者議員互選人名簿(県下で15人)に登載。慶応義塾で福沢諭吉に指導を受
ける。豊村(岡山村)初代村長。
にお たのま
152 丹尾 頼馬
明治31年11月県議会で九頭竜川改修施行を可決、さらに上流まで改修するよう要望し、日野川は湯尾
までさかのぼった。衆議院議員当選4回
ふじた ひろし
153 藤田 寛
明治44年(1911)に産業組合を創設。
まきの かめじろう
154 牧野 亀次郎
慶応大学経済科卒業、昭和16年(1941)明治生命保険社長
昭和9年(1934)に細幅織りを始める。同18年(1943)丹生金属工業㈱を設立したが大戦により廃業
はしもと たかえ
155 橋本 孝恵
し、航空機部品を製造、戦後細幅織物を復活。昭和26年(1951)豊村長。30年県議会議員。
にお かつら
156 丹尾 桂
田水灌漑に尽力
西洋医学を修め、京都に遊学し諸大家に学ぶ。1844年帰郷、武生善光寺街に医業を開いた。種痘を学
わたなべ せいあん
157 渡辺 静庵
び、その功により大医となる。長男の(
(161)
161)洪基は東大総長。
洪基
ふじもと こうたろう 保険学、会計学においての我が国第1人者。
158 藤本 幸太郎
仰明寺生まれ、明治9年(1876)東京石川島徒場へ出張し受刑者に説諭。日本における刑務所教誨の
みのわ たいがく
159 蓑輪 対岳
最初。
わたなべ いわお
160 渡辺 巌
東京帝国医学部卒業、東京帝国大学医学部外科医長
148 竹内 淇
たけうち みぎわ
10/13
1858~1927
1864~1939
1878~1921
1851~1914
1858~1928
1874~1941
1899~?
1910~2007
1808~1880
1880~?
1911~1950
整理
氏名
よみなが
161 渡辺 洪基
わたなべ こうき
162 西岡 龍也
にしおか たつや
163 鉾碕 与左衛門
ほこさき よざえもん
164 熱田 霊知
165 中村 応隆
166 佐々木 吉良
あつた れいち
なかむら おうりょう
ささき きちりょう
167 小谷 重右衛門
おだに じゅううえも
ん
168 揚原 新十郎
あげはら しんじゅう
ろう
169
170
171
172
金粕 五右衛門
境口 永信
青木 市五郎
青木 豊市
かねかす ごえもん
さかいぐち ながのぶ
あおき いちごろう
あおき とよいち
173 今立 吐酔
いまだて とすい
174 植村 善四郎
うえむら ぜんしろう
175 木戸 武雄
きど たけお
176 石黒 蘭芳
いしぐろ らんぽう
178 田中 孫兵衛(南翠 たなか まごべえ
179 竹齢園 靍二
功績等
(157)
157)渡辺静庵の
渡辺静庵の長子。
長子。
文久2年(1862)福井にて漢学、蘭学を修め、1864年江戸に上り、幕府の医学所教授となる。明治4年
(1871)、岩倉具視、大久保利通、伊藤博文らの随行で渡米。同16年(1883)東京府知事、同19年
(1886)東京帝大の初代総長となる。
観世流謡曲の師
号は春竹庵岡山。池坊家元から両皆伝を受け大日本総幹事となる。明治中ごろには台湾に渡り華道茶
道を教える。春竹庵岡山先生碑あり。
真宗大教校教授、仏教大学教授(安政元年~大正7年)
曹洞宗大学林、慶応義塾、真宗大谷派大学に学ぶ。
陸軍大学卒、陸軍少将
幼名駒吉。北中山村長通算15年。県議会議員12年。村役場助役時に北中山村の落井(中山)、赤坂
(化致)、中戸口(柔順)、川島(南越)の4小学校を1校に統合することに尽力。鞍谷川の川島・新
堂一帯の改修に尽力。
昭和9年(1934)絹織物製造業を創業。同24年(1949)にベルベットの生産を始める。同34年
(1959)に県議会議員に当選し2期。県議会議長時に北陸自動車道の湖西、湖東コースの紛糾を解
決。戸口トンネルの開通に尽力。
習字、植物、動物、生理を勉学し、教職に就く。(
(30)
30)高木善行と交流
高木善行
和算家、(
(169)
169)金粕 金粕 五右衛門の第1門人
五右衛門
川島生まれ。9歳の頃から橋立村の医師品川道哲に算数、棒術を学ぶ。和算家。
漢学、四書、五経、十八史略、近古史談等に通じる。
松成村満願寺第14世乗永の末子。福井の明新館に入学、米国人教師グリフィスと出会う。明治7年グ
リフィス帰国の際、渡米しフィラデルフィア大学に留学(20才)。大学で抜群の成績。苦学の末帰
国。京都府で日本初の中学校校長となる。後に外交官。
教員後村長就任、県会議員に2期当選。九頭竜川の改修工事等に尽力。
福井県美術教育協会理事として美術推進に尽力。天賦の画才をもって努力精進、文部省図画科検定試
験に合格。福井大学で通算15年間教鞭をとる。日展入選作品「湖水」
落井町の農家に生まれる。大正9年(1920)池坊家元の門に入り、(
(180)
180)中山庵青翠に学ぶ。後、池
中山庵青翠
坊総華督兼考査員となる。
号は南翠。画家であったが、毎年の水災を受け、大工事を完成、治水に尽力する。日本画、第5代北
中山村長
本名、八田武助。多忙な家業に追われながらも、歌道に精進にした。乗誓寺境内に碑あり。
180 中山庵 青翠
ちくれいえん つゆじ
ちゅうざんあんせいす
中野の斎藤雲錦師について池の坊に入門。
い
181 中林 与三兵衛
なかばやし よそべえ
182 前田 清左衛門
下戸口生まれ。号は涼月。(
(179)
179)竹齢園靍二の第一の門人。多くの人に和歌、短歌、狂歌を教え
竹齢園靍二
る。享年78。
まえだ せいざえもん 松成生まれ。方々で浄瑠璃や芝居行った。
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生年没年
1847~1901
1860~1932
1854~1918
1883~1936
1878~1941
1912~1988
1878~1950
1837~1887
1870~1948
1855~1931
1868~1932
1908~1956
1894~1968
1847~1921
1808~1889
1888~1944
~1938
1832~1896
整理
氏名
183 細井 盤司
吉田 円助(初
代)
185 野原 金治
184
ほそい ばんじ
よしだ えんすけ
のはら きんじ
186 岩田 幸七郎
いわた こうしちろう
187 真保 由斉
しんぼ ゆうさい
188 杉本 五助(三代目 すぎもと ごすけ
189 市橋 勘左エ門
いちはし かんざえも
ん
190 高橋 幸八郎
たかはし こうはちろ
う
191
霊鞍 竹叟
(明正寺 竹叟)
功績等
よみなが
たまくら ちくそう
加多志波神社三十六代神官。加多志波神社の改築をはじめ、敬神思想の普及に努力した有徳の士。
衆議院議員、県会議長。山岸治右衛門の三男。明治23年(1890)県議補選に当選。明治37年(1904)
『北日本』発刊に尽力。総選挙に国民党候補として出馬し当選。大正4年(1915)福井新聞専務。
竹細工業の普及振興に功績。
上河内町生まれ。河和田村長、郡会議員を歴任。明治27年(1894)には日本漆工会を創設、漆液の改
良、栽培の奨励、国産漆の保護運動を展開。漆器業界の功労者。
本名由太郎。明治45年(1912)今立郡小坂村沈金徒弟養成所に入所。
輪島出身の和田其水に沈金を、平野次良太に図案を、日本画を桑野長松に師事して修行、大正3年
(1914)独立し、東京美術学校教授帝室芸員六角紫水、芸術院会員山崎覚太郎らと連繋を保ちつつ技
を習得。 学童時代から絵画に天才的な才能を発揮し、日々の努力と気性の激しさで修行の段階から
頭角を現し、21歳で独立した後は商工省工芸展覧会やベルギー万博、シカゴ万博など各種展覧会に出
品し数々の賞を受賞。太い彫り跡で堅い漆器に堅い鑿を使う太彫りや片彫りで、「由斎彫り」と称え
られる。
二代目が牧田三之丞から生漆の採取法を取得したのが漆に関係した始まりで、三代目は藤五郎の掻き
子となって山形県の山に赴いて漆掻きの仕事をした。以後、製漆業に転業し一代で財を成した。
山岸泉から市橋勘左エ門の養子となる。農業のかたわら機業を営み、次第に主となる。杉の植林を奨
励、林道の開設に尽力、峰越林道の開発は村民から感謝された。昭和21年河和田村長。県議会議員。
議員在任中の福井大震災と昭和28年(1953)9月の台風13号による若狭地方の災害対策に尽力。上河
内清根線、鞍谷川の改修に尽力。
西欧経済史学者。戦後、東大教授、社会科学研究所長。日本学術会議副会長・国際経済史協会日本代
表委員。
河和田町小坂に生まれる。父に漢籍、詩文および書を学び、特に幼時から画を好んだ。歌人加茂季鷹
のもと歌も学び、長崎の書家鶴亭竹石や江戸の画家谷文晁らと交遊。(
(1)間部詮勝ら諸大名とも交
間部詮勝
わり悠々自適にして優雅な生涯をおくる。
河和田町字小坂、明正寺に生まる。幼時から学を好み、近江の正崇寺派法霖の門に入り仏学を研精
し、帰郷後、福井西別院で数十日間にわたり他力本願についての講義を続け「願生帰命弁」を著し
た。
その功により本願寺から賞与され、京都の大學・別院で三十数回にわたり講釈した。50歳のとき6代
目能化大講主に推され、法主から実明院の号を賜る。
地区民のため、医業に専念する一方、趣味も多彩で、特に俳句では「北吟会」を戦後復活継承し、
「馬酔木」誌を歿年まで主宰。
鯖江市の軍人、赤木嘉一郎の子として生まれ東京文理大国史学科にはいり、歴史学者松本彦次郎に師
事した。お茶の水女子大助教授に就任したころより、平安時代の研究に情熱を傾け『紫式部とその時
代』を著した。これは、歴史学者が国文学の分野に踏み込んだ先駆的研究として高く評価された。代
表作「御堂関白藤原道長」「後白河天皇」
192 実明院 功存
じつみょういん こう
そん
193 伊与 美代丸
いよ みよまる
194 赤木 志津子
あかぎ しずこ
195 青山 彦左衛門
あおやま ひこざえも
眼鏡事業創業の一人。増永五左衛門の従兄弟
ん
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生年没年
~1918
1864~1921
1895~?
1853~1913
1899~1976
1895~1971
1912~1982
1774~1840
1719~1796
1894~1977
1900~1990
整理
氏名
196 木水 奥右エ門
197 渡辺 長久
198 波多野 影之
199 若泉 新一
功績等
生年没年
昭和61年(1986)度市民文化賞。福井創造美育運動を組織して小コレクタ-運動を展開。瑛九、泉
茂、池田満寿夫、靉嘔(あいおう)など当時まだ社会に認められていない作家の作品の頒布会を開き 1919~1997
きみず おくうえもん
支援した。同時に、頒布会をとおして真の鑑賞能力向上に貢献。「子供の絵を玄関に飾ろう」運動を
展開、戦後美術教育の草分け的存在。
福井藩主にとって悲願であった鳥羽野の開拓に尽力。
(91)
91)松平忠直の命により、奉行渡辺長久らが鳥羽野に居を構え本格的な開拓事業を進めた結果、人家
松平忠直
わたなべ ながひさ
も建ち始め、田所村・鳥羽中村・野尻村の4か村の集落は次第に街道沿いに移住し、さらに五軒町
村・中町村・一里塚(町)村・江尻町村といったいわゆる「鳥羽八町」(鳥羽野新町ともいう)が形
成された。
上野ケ原の豪族で、親鸞聖人の通過の際に自分の別邸にお迎えして熱心に聞法したといい、のちに空
はたの かげゆき
然と名乗る。己の茶室を道場に改め聖人の第五子道性上人を招請して住職とし、第三代如覚上人と教
線をはる。これが真宗誠照寺派の本山誠照寺の別院である上野別堂、通称「車の道場」である。
初代鯖江市長。
旧舟津、新横江両村と鯖江町との合併後、鯖江町長に再選。旧鯖江、神明、立待、吉川、豊、中河、 1900~1957
わかいずみ しんいち
片上の合併による鯖江市発足、旧北中山、河和田両村の編入に功績。
市財政の再建や市庁舎位置問題などに尽力した。
よみなが
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