森有正略年譜 西暦 1911 和暦 明治44年 年齢 1913 大正2年 1914 大正3年 事項等 父・森明、母・保子(旧姓徳川)の長男 として東京(豊多摩郡淀橋町角筈、現在 の東京都新宿区西新宿)で生まれる (11.30)(『森有正エッセー集成5』11 頁)。 2 富士見町教会で受洗(秋)(「全集」5巻 付録)。 3 1915 1918 大正4年 大正7年 4 妹の綾子が生まれる(9.2)。 7 暁星小学校入学。 1923 1924 1925 大正12年 大正13年 大正14年 12 13 暁星中学校進学 14 父・森明、37歳で死去(3.6)。 1929 昭和4年 1932 1933 1936 1937 昭和7年 昭和8年 昭和11年 昭和12年 18 東京高等学校高等科(旧制)入学。 (『遠ざかる…』130頁) 21 東京帝国大学文学部仏文科入学。 22 肺結核(第三期)で病床につく。 25 26 鎌倉、塔の辻に住む。山中湖畔の貸別荘 で一夏を過ごす。(『ふり返る…』29 頁)卒業論文を準備。 著作 参考 父・森明(明治21年生まれ)は森有礼 の三男。母は伯爵徳川篤守の娘。祖 母・寛子は岩倉具視の五女。 社会(国際)情勢 辛亥革命起こる (10.10)。 第一次世界大戦始まる (7.28)。 「フランス語は六歳の歳にフランス人 シベリア出兵 の先生達について。音楽は十歳で母に ついてピアノを続いてオルガンを、引 続いてオルガンの先生について、英語 は十二歳だった。漢文も十二歳。新教 の教理は十三歳(信仰告白)。(カト リック典礼に十六歳で触れる)。ラテ ン語、十六歳。ドイツ語、十七歳。ギ リシャ語はある神学教授のT先生に付い て、十九歳で。」(『森有正エッセイ 集成2』334頁) 関東大震災(9.1)。 弟子たちの手によって、後年『森明著 作集』(新教出版社)が編まれた。 世界恐慌 5・15事件 「あれは一九三七年の事で、間違いな く季節は秋だった。小説を書こうとい う気持ちがはじめて生じたのである。 あれからう三十二年になる。わたくし は二十五歳だった。わたくしは四年間 にわたる長患いから抜け出たところ だった。(『森有正エッセー集成4』 419頁) 1/8 ページ 2・26事件 蘆溝橋事件(7.7)。日 中戦争が始まる 西暦 1938 和暦 昭和13年 1939 昭和14年 1940 昭和15年 1941 昭和16年 1942 昭和17年 年齢 事項等 27 東京帝国大学卒業。大学院へ進学。 著作 参考 「面影」(「共助」六月号)。 「……病気が癒えると共に、研究をつ 「パスカルの信仰──その生成と論理」 づけ、「パスカル研究」として提出し (高橋弘編「森有正著作目録」) て昭和十三年に文学士となった。それ から引き続いて大学院に在学し、特研 生、副手、助手とつとめ、かたわら東 京女子大や慶応予科などでフランス思 想史を講義したり、逓信省無線電信講 習所でフランス語を教えたりした。」 (「わが思索わが風土」)。「森有正 の文章が初めて活字化されて発表され たのは『共助』の昭和13年6月号の「面 影」であったと推定されている」(佐 古純一郎『森有正の日記』13頁)。 28 パスカル(翻訳)『田舎の友への手紙』 白水社。 「象徴と実在と」(「共助」一月号)、 「夏日印象」(「共助」四月号)、「断 想」(「共助」九月号。 29 腸チフスに罹り築地聖路加病院で九死に 「パスカルにおける愛の一考察」(「思 一生を得る(春)。(『森有正エッセー 想」三月号、「聖ヨセフの像」(「共 集成5』52頁) 助」三月号、「神の義」(「共助」九月 号)、「神の忍耐と人生」(「共助」十 二月号)、「パスカルにおける『愛』に ついて」(「共助」五〜八月号) 30 「デカルトの自然研究について」(「科 学ペン」五月号)、「明証と象徴」 (「文学界」十月号)、「父の独子の栄 光」(「共助」十月号) 31 結婚。 プトルウ(翻訳)『パスカル』創元社。 「浅野夫人から聞いた話では、浅野先 「パスカルにおける『愛』について(承 生と相談して教会関係の女性を森先生 前)」(「共助」二月号〜八月号)、 にすすめられた。……数人の女性のう 「イエスと学者達」(「共助」七月 つっている写真を見せて『この方よ』 号)。 といわれた。『先生のおすすめ下さる 方なら喜んで』と森先生はお答えに なった。『その写真の左のはじの人を すすめたのだが、どうも右のはじの人 とばかり早合点されていたみたいなん ですのよ』と浅野夫人は仰有った」 (『天地有情…』127頁) 2/8 ページ 社会(国際)情勢 国家総動員法制定(4) 第二次世界大戦始まる (9.1) 日本が米英に宣戦布告、 太平洋戦争始まる (12.8)。 西暦 1943 和暦 昭和18年 1944 昭和19年 1945 昭和20年 1946 昭和21年 1947 昭和22年 1948 昭和23年 1949 昭和24年 年齢 事項等 32 鎌倉雪ノ下協会婦人会主催夏期錬成会に 参加(8.18)(鎌倉雪ノ下協会年表)。 祖母・寛子死去。83歳(11.2)(関屋、 114頁)。森保子の一家が”淀橋の家”を 売り長野県松本市に疎開。関屋家(綾 子、光彦)、及び妻の実家・久野家も同 所に疎開。東京都文京区(一九四三・昭 和一八年六月までは東京府本郷区)の東 大前の仮寓と松本との二重生活にはい る。(12)(恵光院白「森有正の周辺─ 母、伯父─」)。東京大学仏文科助手 (対話編II、371p)。 33 長女正子誕生。東大YMCA会館に住み込む (2)。 一高の教授(対話編II) 34 長女正子死去(晩秋)(森「ひとつの 『経験』」) 35 次女聡子(としこ)誕生。 著作 『デカルトよりパスカルへ』日新書院、 『パスカルの方法』弘文堂。 「パスカルにおけるイエス・キリストの 問題」(「共助」一〜四月号)、「パス カルの内的発展における科学と宗教」 (「科学思潮」二月号)、「神の休み」 (「共助」七月号) 参考 社会(国際)情勢 アラン(翻訳)『わが思索のあと』筑摩 書房。 「パスカルにおける『死』の問題」(浅 野順一編・論文集『死の理解』新教出版 社、所収)。 36 デカルト(翻訳)『真理の探究』創元 社、パスカル(翻訳)『幾何学的精神』 創元社。 37 東京帝国大学仏文科助教授。田浦の横須 『デカルトの人間像』白日書院、『近代 賀基督教社会館にて講演「信仰につい 精神とキリスト教』河出書房。 て」(4.29)。 「パスカルにおける〈愛の構造〉」 (「表現」春季号)、「自覚というこ と」(「向陵時報」第一六二号)、「デ カルトと十八世紀思想」(「世界文学」 七月号)、「勉強ということについて」 (「向陵時報」第一六四号)。 38 各学部の教授・助教授に2名ずつで構成さ アラン(翻訳)『わが思索のあと』思索 れる「学生委員会」のメンバーになる 社、『パスカル─方法の問題を中心とし (丸山真男のはなし) て─』要書房、パスカル(翻訳)『田舎 の友への手紙』白水社。 3/8 ページ 日本無条件降伏 (8.15)。 日本国憲法公布(11.3) 資本論研究会に参加。内田義彦を チューターに、メンバーは森有正、加 藤周一、瓜生忠夫、下村正夫、野間 宏、木下順二、岡倉士朗(「森有正に ついて」展望1978.8)。加藤周一・中 村真一郎らと同人雑誌「方舟」を創 刊、編集長は原田義人。 中華人民共和国成立。 NATO成立(4.4)。 西暦 1950 和暦 昭和25年 年齢 事項等 39 中渋谷教会でフランス留学の送別会 (7.26)。戦後初のフランス政府給費留 学生として渡仏。神戸港より、ラ・マル セイエーズ号に乗船(8.27)。マルセー ユ着(9.23)。パリ着(9.25)。大学都 市にある日本館に寄宿する。 著作 『デカルト研究』東大協同組合出版部 (11)、『思想の自由と人間の責任』日 本評論社、『ドストエーフスキー覚書』 創元社。 「暖かい心のともしび──山本安英さん の文章を読む──」(「東京大学学生新 聞」5月18日付)、「宗教改革にみる近代 精神」(「三田新聞」6月10日付)。 第7区のベルグラード街、ほどなくカル ストロウスキー(共訳)『フランスの智 ティエ・ラタンのアベ・ド・レぺ街の安 慧』岩波書店(7)、アラン(翻訳)『わ ホテルに転居。(『遠ざかるノートルダ が思索のあと』新潮社。 ム』16頁) 東京大学に退職願を提出(暮)(全集4、 428頁)。 『内村鑑三』弘文堂アテネ文庫。 ソルボンヌで日本文学史の講義を始める 『自由と責任』河出書房。 (佐古、47頁)。最初の一時帰国(7)。 「留学と会話」(「ふらんす」11月 号)、「文学について」(『第二・学生 への手紙──人文科学を学ぶものへ』同 文館刊11月)。 1951 昭和26年 40 1952 昭和27年 41 1953 1955 昭和28年 昭和30年 42 44 1956 昭和31年 45 NHK欧州総局の求めによるデカルト生誕 360周年記念講話(『森有正論』67頁) 1957 昭和32年 46 ギリシャ旅行(8.26〜9.12) 『バビロンの流れのほとりにて(初 版)』大日本雄弁会講談社(1)。 4/8 ページ 参考 当時の騒然とした政治状況の中で、森 は学生委員の一人として忙殺され、 ラ・マルセイエーズ号に乗船したのも 神戸からであった。すでに東京を出発 したラ・マルセイエーズ号を汽車で追 いかけ、神戸で乗船したのである。 (「森有正における〈西欧〉と〈日 本〉) アンドレ・ジッド死去 社会(国際)情勢 朝鮮戦争始まる (6.25)。 サンフランシスコ平和条 約・日米安全保障条約調 印(9.8)。 「先生の妹(関屋さん)から、お母さ まと奥さまのあいだがうまくいってい ないことを聞き、一九五五年の六月か ら三か月帰国し、まず、母を妻から切 り離し、妹夫妻(関屋夫妻のこと)の ところに預かってもらうことにした。 そして、長年の形だけの最初の妻との 結婚関係を解消し、妻が長男と一緒に くらしたいという意思だったので、そ れを許し、次女をパリの彼のアパルト マンに引きとることをきめた」(伊藤 勝彦『森有正先生と僕』161頁) 加藤周一『運命』大日本雄弁会講談社 国連加盟(12.18) (5)。「以前加藤周一君が『運命』と いう小説を書き、君も私もモデルに なっているようですが」(高田博厚/ 森有正『ルオー』224頁)。 辻邦生フランス留学、関綾子からの伝 言を携え森に会う(秋)。 西暦 1958 和暦 昭和33年 年齢 1959 昭和34年 48 1960 昭和35年 1961 昭和36年 50 1962 昭和37年 51 1963 昭和38年 52 1965 昭和40年 54 1966 昭和41年 55 1967 昭和42年 56 事項等 小学生の次女を呼び寄せ、カルティエ・ ラタンからポルト・ディヴリに近いアパ ルトマンに転居(1.22)(「森先生との 出会い」展望1976.12)。フランス改革派 協会に転籍の手続きを終える(12.24)。 著作 参考 「CHEMINEMENT ET DIRECTION DE LA 「森先生の家庭が破局に至ったときに PENSÉE AU JAPON DANS SA NOUVELLE GÉN は、『悲しいことです。貴君は夫人の ÉRATION D'APRÈ-GUERRE」(「L'AGE ところへ行ってお慰めしてください』 NOUVEAU」4=6月号)。 という、奉書に毛筆で記したおたより をわざわざくださった。今も手もとに ある南原さんのこのおたよりは一九五 八年(昭和三十三年)七月二日付であ る」(小塩節『朝の光のさすときに』 211頁) 母・保子死去。71歳(6.4)(恵光院 『流れのほとりにて──パリの書簡 I』 白)。バカンスに赴く。ストラスブール 弘文堂(7)。『流れのほとりにて──パ 着(9.1)。ガール県ソミエール着 リの書簡 II』弘文堂(7)。 (9.3)。 第5区のノートルダムに面する小さなア パートに転居。(『遠ざかる…』16頁) "LES THEATRES D'ASIE", Editions du C.N.R.S., 1961; A. MORI: "LE DRAMATURGE JAPONAIS: KINOSHITA JUNJI"。 南仏の女性と再婚(『ルオー』130頁)、 「やがて、先生はフランス人の女性と パリの南郊イヴリーに住む(春)。妹の 結婚された。父親のいない娘のいる人 関谷一家が一年の予定で訪仏へ(11)。 であった」(伊藤勝彦『天地有情…』 128頁) ドルドーニュ県モンティニャックへ行 『城門のかたわらにて』河出書房新社。 き、ラスコーの洞窟壁画を見る(春)。 ローマ(9.5)。カステラーヌ(9.17)。 (仏訳)『Rashômon et autres contes, par Akutagawa Ryûnosuke』Éditions Gallimard。 一時帰国(10.1〜11.19)(辻『森有正』 「東京の一隅」(「図書」12月号。 22頁)。ICUにて講演「ヨーロッパより帰 りて」(10.27)。東京日仏学院で講演 「パリの生活の一断面」(10) インドを経て一時帰国(8)。伊藤勝彦と 『遥かなノートルダム』筑摩書房(4)、 西川長夫、パリにて森自身の口からマ 対談(8)。国際文化会館で栃折久美子と 『ドストエーフスキー覚書/新版』筑摩 チネ・ポエティク批判を聞く(秋) の出会い(9.1)。東京を発ちパリへ 書房。 (「旅の思想」展望1978.8)。 (11.1)。ブリュターニュを旅する 「唐木さんの面影」(『唐木順三全集』 (12.22〜1.3)。 第六巻月報。 5/8 ページ 社会(国際)情勢 日米新安全保障条約成立 (6)、ベトナム戦争 ケネディ暗殺(11.22) 西暦 1968 和暦 昭和43年 1969 昭和44年 1970 昭和45年 1971 昭和46年 年齢 事項等 57 アフガニスタン、インド、カンボジア、 日本、メキシコをまわる(5〜10.21)。 (佐古、173頁)『遥かなノートルダム』 で文部大臣賞芸術選奨を受ける。 58 国際基督教大学客員教授。この頃より ディアーヌ・ドゥリアーズ、森のタイピ スト役を務める(ディアーヌ)。一時帰 国(9.22)。京都北白川教会にて説教 「アブラハムの信仰」(10.26)。学習院 大学で集中講義、伊藤勝彦・栃折久美子 ともに聴講(秋)。パリへ(11.22) 59 一時帰国(7.11)。北海道大学文学部主 催の講演会のために札幌へ(7.22)。ク ラーク会館に約一ヶ月滞在するが、頸動 脈閉塞症にかかっていることがわかり、 札幌医大の内科に入院する。(『天地有 情の……』123p)。札幌医科大学に入院 (8.7)。講演会開催(8.15)。演題「思 想と生きること」。学習院大学の集中講 義(9)。国際基督教大学にて5回連続の 講演「人間の生涯─アブラハムの信仰 ─」(9.22〜10.20)(佐古、178p)。講 演「経験について」、青山学院 (10.25)。 60 パリ第三大学所属国立東洋言語文化研究 所外国人教授に任命される(3.26)。一 時帰国(7.4)。次女・聡子の帰国を、前 妻・長男・栃折と出迎える(8.1)。札幌 (8.5〜9.1))。バビロンへの旅 (12.23)。日本YMCAにて講演「古いもの と新しいもの」(8.24)。大学キリスト 者の会にて講演「伝統と改革」 (8.26)。目白町教会にて説教「土の器 に」(10.10)。ICUにて講演「権威につ いて」(10.28)。宮城学院創立八十五周 年記念講演「古い革袋」。パリへ (11.27)。 著作 『言葉 事物 経験…森有正対話集』晶文 社、『バビロンの流れのほとりにて(Sur les Fleuves Babylone)』筑摩書房 (6)。 『現代の省察』春秋社、『旅の空の下 で』筑摩書房、(仏訳)『Akutagawa Ryûnosuke : Rashômon et autres conte』(Le Livre de Poche)。 「ベルグソンとの対話」(未発表)。 参考 『生きることと考えること』講談社現代 新書(11)、『砂漠に向かって』筑摩書 房、リルケ(翻訳)『フィレンツェだよ り』筑摩書房。 「思い出 その他」(『日本思想体系』 第二十五巻月報)、「ふさがれた道」 (「朝日ジャーナル」11月1日号)。 「三島さんは芥川氏のあとを追ったの です。私はそう思います。凡ゆる思想 や主張や信念を全部呑みこんでうねう ねと進む蛇のような日本の「社会」を 思って慄然としています。日本人は生 きるためには死ななくてはならないの です」(栃折久美子『森有正先生のこ と』筑摩書房、116頁) 『近代精神とキリスト教』講談社、小田 実/森有正『人間の原理を求めて…揺れ 動く世界に立って』筑摩書房、『デカル トとパスカル』筑摩書房、 『思索と経 験をめぐって』講談社学術文庫。 「ドストエーフスキーと神」(「読売新 聞」10月24日付)、「新鮮な書」(「図 書」11月号)。 「…思いがけないことが起きた。右 手、右腕が、突然、力を失ってしまっ たのだ。すべてが滑り落ちてしまう。 右半身が重くなっているのを感じた。 ……終末は既に始まったのだ」 1971.12.17の日記(佐古、183頁)。 6/8 ページ 社会(国際)情勢 フランス5月危機 (5.3)。チェコ事件 (8.20) 万国博覧会開催 (3.14)。三島事件 (11.25)。 西暦 1972 和暦 昭和47年 1973 昭和48年 1974 昭和49年 1975 昭和50年 年齢 事項等 61 長男の有順(ありゆき)パリで挙式 (3)。仏人女性との離婚が成立。基督教 共助会の夏期修養会にて主題講演「現代 における信仰の意義」於信州美ケ原三城 ロッジ(8.3)。ICUにて講演「冒険と方 向」(9.19)。柏木教会にて説教「パス カルについて」(9.24)。中渋谷教会の 創立55周年記念礼拝にて説教「神の知恵 と知識の富」(10.8)(佐古、237頁)。 北星学園大学にて講演「日本人の心」 (10.14)。ICUにて講演「独り子の誕 生」(10.31)。宮城学院女子大学夏期公 開講座「日本文化とキリスト教 その一、 その二」。日本基督教団仙台東一番丁教 会聖日礼拝「生命の水」。パリへ (11.28)。 62 パリ・大学都市の日本館館長に就任。 著作 『LEÇONS DE JAPONAIS(日本語教科 書)』大修館書店、『木々は光を浴び て』筑摩書房 「『夏の砦』について(『辻邦生作品 集』第二巻帯)。 『現代のアレオパゴス』日本基督教団出 版局(6)、『バビロンの流れのほとりに て』筑摩書房。『デカルトとパスカル』 筑摩書房。 参考 社会(国際)情勢 「フランス人の奥さん(パン屋の娘) 沖縄が日本に復帰する。 との離婚の問題について、私の姉(精 日中共同声明 神科病院の院長)に相談に来られた。 そのフランス人女性は大酒飲みで、レ ズビアンで、ときどき女の恋人が彼女 を求めてしのんで来る」(伊藤勝彦 『最後のロマンティーク 三島由紀夫』 118頁)。「カフェで、機嫌よくちょっ とおしゃべり。『わたくしは、やっと 離婚が成立しました。もうこれで何も 払わなくていいのです。……』」 (『森有正先生のこと』169頁)。森有 順は財団法人小塩報恩会(東京都港区 高輪4-16-10)会長か。 「兆候が一つ二つ現れてもまだ決定的 第4次中東戦争。オイ とは言えない」「僕にとって老いが始 ル・ショック まった。老いとは、死が、いつ何時、 突然やってくるか知れない人生の一時 期をいうのであり、この期間は数年続 くかもしれない」(1973.3.4の日 記)。 63 一時帰国(8.16)。NHK・TV「女性手帖」 『パリだより』筑摩書房、アンリ・ペ 「この時NHKにおいて森有正はバッハの 録画(8)(伊藤勝彦『森有正先生と リュショ(共訳)『ゴッホの生涯』紀伊 『人よ、汝の大いなる罪を嘆け』とい 僕』、59頁) 国屋書店。 うコラールをオルガンで演奏し、バッ ハの音楽、そのオルガン演奏の魅力、 その他さまざまのことについて講演す る」(伊藤勝彦『森有正先生と僕』森 有正略年譜) 64 一時帰国(9.2)。国際基督教大学にて説 『古いものと新しいもの』日本基督教団 教「人格の基礎」(10.7)(佐古、100 出版局。 頁)。東京YWCAにて講演「きたるべき世 「夏の日の感想」(「在仏日本人会」9月 代を思って」(10.10)。ICUにて講演 10日号)。 「光と闇」(10.12)。 7/8 ページ 西暦 1976 和暦 昭和51年 1999 2002 平成11年 平成14年 年齢 事項等 65 最後になる帰国(3.6)。パリ着 (4.14)。アンギャンに転居(8)(ディ アーヌ)。二宮正之、ディアーヌ・ドリ アーズに伴われてラ・サルペトリエール 病院に入院(8.13)。病院にて死去 (10.18)。ル・ペール=ラシェーズ墓地 にて火葬に付される(10.25)。次女聡子 とともに遺骨が帰国する(11.2)。中渋 谷協会にて前夜式(11.3)。ICUのチャペ ルにて葬儀(11.4)。 次女・聡子死去。 妹・関屋綾子死去(10.12)。 著作 『土の器に』日本基督教団出版局(6)、 『内村鑑三』講談社学術文庫(9)、『い かに生きるか』講談社現代新書(9)、 『遠ざかるノートルダム』筑摩書房 (12)、『思索と経験をめぐって』、高 田博厚/森有正『ルオー』筑摩書房。 「文化委員会設置に際して」(「在仏日 本人会」6月20日号)。 8/8 ページ 参考 木下順二と吉利和、緑川亨より森有正 の病状についての報告を受ける (10.18)。遺骨は東京・多磨霊園(3 区1種9側)にある「森家の墓」に眠っ ている。 社会(国際)情勢
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