販売コテージフランス

義塾
の
学食
学生生活のなかで学食は欠かせない。卒業後も、授業や課外活
動とともに学食も思い出の一角を担うに違いない。カレーやラー
メンの味を懐かしむだけでなく、学食のテーブルでクラス仲間や
サークルメンバーと語らったシーンも、かけがえのない義塾の思
い出となる。今回は、義塾の学食の始まりや、現在の各キャンパ
スの学食事情を紹介する。
義 塾の学 食 ──その始 ま り
義塾の学食の歴史は古く、慶應義塾と命名される前の後期
鉄砲洲時代︵1863∼ 年︶に食堂があったことが、当時
の塾生の回想から分かる。1871年の三田移転を機に制定
された﹃慶應義塾社中之約束﹄中の﹁食堂の規則﹂には食事
時間やマナーが記されていて、いち早く椅子に座る欧米風の
スタイルが取り入れられていた。1900年に建設された大
寄宿舎には約400㎡の大食
堂が作られ、後に小食堂もで
きた。昭和初期には、教室や
塾監局の地下にも食堂が作ら
れ、塾監局地下の食堂では医
銭の廉価で供され、塾
学部食養研究所が調理した食
事が
合わせて進化してきた。
キャンパスでも学食は時代に
の後、三田はもとより、他の
生 の 人 気 を 呼 ん だ と い う。 そ
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2
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協力:福澤研究センター、慶應義塾図書館
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三田山
上寄宿舎 食 堂(大正 5年頃)
・ む かし 〜
〜 いま
1986 年の日吉キャンパスにて
三田 キャンパス ──焼 け 跡にバラックで 開 店 し た「 山 食 」
戦後の三田キャンパスの
学食を語るには、
やはり﹁山
中 階 へ と 移 転 し た。
1年に現在の西校舎
付近に移り、199
食﹂から始めるべきだろう。
1997年には塾員
かおる
初代経営者の塚田 馨 氏は
多数が集まり、
歳
1934年より義塾の学食
いだ。空襲で焼失した食堂
三田の食堂の経営を引き継
費組合︵生協の前身︶から
した山食には、その
ス内で移転を繰り返
れた。三田キャンパ
周年記念の会も行わ
の幸さんを迎えて
をいち早くバラックで再建
時期それぞれの塾員
に勤務し、1941年に消
したのも塚田氏である。
﹁山
山上の食堂だからという説
食﹂の名前の由来は、三田
ご存じ﹁山食のカレー﹂の味は今も昔も変わらない。
う。場所は移れども、
の思い出があるだろ
と慕われた塚
があるが、塚田夫人で2代
おばちゃん
こう
田幸さんは、バラック時代
プンしたその学食
への福利厚生の一
と は 異 な り、 塾 生
運営されていたの
協との委託契約で
一般業者または生
は、 従 来 の 学 食 が
学 生ホ
ール 落成式(1949年)
の食堂は風が吹くと揺れる
ため塾生が﹁まるで山の食
堂 じ ゃ な い か ﹂ と 言 っ て、
山食と言われ始めたと語っ
ら れ た 学 生 ホ ー ル 内 に 移 転 し た。 さ ら に
1962年にオー
目 社 長 で も あ り、 山 食 の
生協食堂
93
60
西校舎中階の山食から階段を下ると、﹁生協食堂﹂がある。
こ こ に は か つ て 義 塾 直 営 の 学 食 が あ っ た。 西 校 舎 竣 工 後、
山食
て い る。 そ の 後、 山 食 は 1 9 4 9 年 に 建 て
会での塚田幸さん
1961年には西校舎建設のために現北館
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山食 60 周年記念の
し、その後に慶應生協三田食
り1991年で営業を終了
た。しかし、諸般の事情によ
るという画期的な試みだっ
が責任をもって運用・管理す
売など食堂業務全般を、義塾
環として、仕入れ、加工、販
∼
店し、2011年に新築なった南校舎で復活した。2005
校舎建て替えに伴う事務室などの移転で2008年に一旦閉
現在南校舎4階にある﹁ザ・カフェテリア﹂は、当初は北
館にあった。1994年の北館完成とともにオープンし、南
る。上部が山型なのは、
学生ホールの壁面の形の名残である。
描かれた猪熊弦一郎の壁画﹁デモクラシー﹂が移設されてい
る。壁には、1949年の学生ホール落成時に山食の壁面に
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C
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があった。ピザーラを経営している会社による出店だったが、
﹂という喫茶コーナー
メニューとリーズナブルな価
ピザではなくホットドッグやサンドイッチなどの軽食を提供
年には、南館 階に﹁
堂となった。現在は、豊富な
格で、三田キャンパスのメイ
していた。
る待望の大食堂がオープンした。ちな
みに消費組合は、1903年、三田の
寄宿舎内でのパンの販売をきっかけに
発足している︵当時の理財科教師ヴィ
が、返還後、高等学校の食堂として再
た1946年3月に建物は消失した
日吉キャンパスが米軍に接収されてい
堂 ﹂ の 愛 称 で 親 し ま れ て い た。 戦 後、
木造2階建てで、塾生から﹁赤屋根食
き継がれた。この食堂はコテージ風の
戦直後まで活動して、現在の生協に引
有志が株主となった株式会社として終
成 だ っ た と も 言 わ れ て い る ︶。 寄 宿 舎
合の話をしたことに影響を受けての結
ッカースが、講義の中で西洋の消費組
ン学食として親しまれてい
1
赤屋根食堂
日吉キャンパス ──赤 屋 根 食 堂 か ら 食 堂 棟へ
1934年4月、日吉キャンパスが
開校した。まだ日吉村といわれていた
地域に、予科新入生約1000名が入
学したのだから、昼食の場所に困った
月に、現在の高等学校のグラウ
ことは容易に想像できる。そんななか
同年
08
フ ェ テ リア
ザ・カ
ンド付近に、義塾の消費組合経営によ
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義 塾 の 学食
建された。
1956年に営業を終了し、
1973年頃には建物も取り壊された。
返還に伴い、新たに田沼文蔵氏が大
学と高等学校に食堂を開いた。後に田
沼氏は塾生から社名を公募し、195
しかし約 年を経て食堂棟の老朽化
が目立ってきたため、塾生と教職員が
ーアルオープンした。
し、食堂棟は2005年に全面リニュ
ともに食堂運営について意見を交わ
30
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ぶり物が充実している。
てみてはどうだろう。鉄板焼きとどん
が多いが、他学部の塾生も一度は行っ
とささやかれるほど理工学部生の利用
で あ る。 一 部 で リ コ シ ョ ク︵ 理 工 食 ︶
キ ャ ン パ ス 内 で 穴 場 的 存 在 な の が、
北端の第6校舎の
﹁グリーンズテラス﹂
わっている。
﹂があり、いつも塾生でにぎ
﹂﹁
現在の食堂棟は1階に﹁遊遊キッチ
ン﹂
﹁麺 遊遊﹂
、2階に﹁グリーンズ
マ ル シ ェ﹂﹁
s
4年に﹁グリーンハウス﹂と命名した。
名称が採用された塾生には食券1年分
が贈られたという。なお、義塾の学食
を機に設立された同社はいまも日吉で
二幸
食 堂 食 券機
食堂棟
数店舗を展開している。
野球部員に愛されたのが飯田信治氏
経営の﹁梅寿司﹂である。かつて梅寿
司は大田区の武蔵新田にあり、同地の
新田運動場で練習を行い合宿所もあっ
た 野 球 部 関 係 者 か ら 親 し ま れ て い た。
しかし、日吉開校に伴い、運動場は閉
鎖され、野球部も日吉に移ることにな
った。慶應ファンの飯田氏も店ごと日
吉に引っ越し、キャンパス内に新﹁梅
グリ
ー ン ズ テ ラス
寿司﹂を開いたのである。そのほか日
吉には﹁二幸食堂﹂もあった。
そして1974年、現在の位置に食
堂棟が建設された。当時は1階には約
800名収容の二幸食堂が、2階には
150名収容の梅寿司と230名収容
の日吉初の生協食堂が入り、塾生の胃
袋を満たしていた。
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・ むかし 〜
〜 いま
梅寿 司
過去と現在のメニュー価格を比べてみました!
に、1978 年 当 時 の 食 堂
メニュー価格が書かれて
いました。現在の価格と
が『医学部六十周年記念
スブタライス
¥300
¥460
誌』(1983 年刊行)に掲
カツ丼
¥350
¥500
カレー
¥150
¥259(中サイズ)
カツカレー
¥320
¥410(中サイズ)
カツ丼
¥300
¥432(中サイズ)
比較してみましょう。
¥194
日吉・生協食堂
¥510
(1978 年当時は学生食堂)
信濃町キャンパス
業しており、見晴らしの良い店内には一般客の姿も
多く見られる。しかし、多忙な学生や病院関係者た
ちは塾生・教職員専用の﹁グリーンズカフェ﹂を利
用したり、売店等で買ってきたものを敷地内で食べ
たりすることが多いようだ。
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信濃町に医学部が開設され大学病院が開
業 し た 1 9 2 0 年 に は、 す で に 業 者 に よ る
食堂があった。1920年代後半になると、
現 在 の 東 門 あ た り に 三 四 会 館︵ 後 の 学 生 ホ
ー ル ︶ が 建 て ら れ、 塾 生 向 け の 食 堂 が 入 っ
て い た。 三 四 会 は、 現 在 で は 医 学 部 の 同 窓
会組織だが、当初は医学部生による団体で、
その三四会館の1階には売店とともに桑野
伊 之 助 氏 の 経 営 す る 食 堂 が あ っ た。 塾 員 の
回想によると﹁食堂も極めておおらかで、飯
と 沢 庵 は 食 い 放 題。 安 い 惣 菜 を 買 え ば 満 腹
になるということで、しかも午食のみで、こ
れでは全く採算がとれず、桑野氏は途中で止めてしまった﹂とある。
そして戦後、6号棟地下で﹁レストランえん﹂が、新棟 階では﹁オアシ
ス﹂が営業していた。現在は和食の﹁百花百兆﹂がある正面玄関脇にはかつ
店だったが、新病棟の着工で取り壊された。また、﹁オ
喫茶﹁ブランシェ﹂となり、当時としてはしゃれた
て﹁慶應四谷食堂﹂があった。その後、レストラン・
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アシス﹂のあった場所では現在﹁ザ・パーク﹂が営
部 三 四 会 館 食堂
医学
パスのイラストマップ
¥400
三田・生協食堂
¥60
サバ塩焼き
載した三田・日吉キャン
ビーフシチューライス
山食
『塾』のカットも担当し
ているヒサクニヒコさん
現 在(税込)
1978 年
メニュー
食 堂
四谷食堂
義 塾 の 学食
食があった
業者による学
当初から地元
1990年
のSFC開設
プンした。
館2階に、学食︵学生ホール︶がオー
その後、2002年に竣工した現1号
義塾薬学部以前の共立薬科大学の時
代、 旧 3 号 館 の 地 階 に 食 堂 が あ っ た。
芝共立キャンパス
が、 撤 退 に 伴
2008年に義塾と合併して、芝共
立キャンパスとなった。それまで学食
湘南藤沢キャンパス
矢上キャンパスには1972年の開
校時から、生協食堂があった。木造平
い学内で食環
を運営していたのは、共立薬科大学と
矢上キャンパス
屋建てだったが、近くに飲食店が少な
境改善プロジ
同窓会が共同出資して1998年に設
に は 喫 茶﹁ ラ・ ポ ワ ー ル ﹂ が 開 店 し、
された。2000年竣工の創想館1階
れ 1・2 階 が 食 堂 と な り、 狭 さ が 改 善
1989年に厚生棟として建て替えら
い こ と も あ り、 こ こ が 頼 り だ っ た。
ェクトが組織
さ ら な る 食 環 境 の 向 上 を 目 指 し、
2012年 月には﹁屋台村﹂を誘致。
レーパンが塾生に好評である。
な雰囲気﹂などの希望が、教職員から
サ ー ク ル 仲 間 と 過 ご す 場 ﹂﹁ お し ゃ れ
調査を実施した。塾生からは﹁談話や
され、新業者選定にあたりアンケート
伴い、2013年から慶應生協の運営
ていた。その後、薬学事業会の解散に
へと移行し、学食の運営も同社が行っ
合 併 後、
﹁株式会社慶應薬学事業会﹂
立した﹁株式会社共薬なごみ﹂だった。
その場で焼き上げるフランスパンやカ
ランチタイムには曜日ごとに、ドネル
は﹁ビジターの接待や打ち合わせに使
スタートして
ケバブやタコライスなどを販売するワ
年に新学食が誕生した。
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N
I
W
H
T
U
O
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は計650席。1階にはカフェテリア
﹁レディバード﹂、教職員向けの﹁タブ
リ エ ﹂。 鴨 池 を 見 渡 せ る ラ ウ ン ジ に は
﹁ サ ブ ウ ェ イ ﹂ が オ ー プ ン し、 現 在 も
連日にぎわっている。なお、看護医療
いる。
が提供されて
も、 不 定 期 だ
應パワー丼﹂
で 人 気 の﹁ 慶
芝共 立 生協 食 堂
い る。 日 吉 な
どの生協食堂
となり、リニューアルした生協食堂が
ポ ワ ー ル の パン
ラ・
﹂と
厚生棟地下の﹁
﹁
﹂の2つの生協食堂
える場﹂との要望が出され、2005
屋台村
ゴン車が現れ、人気を博している。
学生 ラ ウン ジ
学部校舎にも生協食堂がある。
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