社会学演習Ⅰ期末レポート CMにおけるエスノメソドロジー分析 メンバー:薄木絢子 折田智之 加藤美紀子 村上愛 《目次》 1.はじめに(折田) 2.「洋服の青山」CF にみる差別の潜在と顕在(薄木) 3.カメラ付きケータイのCMの分析(折田) 4.サントリー/ウーロン茶 桃白ドレス篇(加藤) 5.フジカラー「チェキ」(村上) 6.総括(薄木) ※1、6に関しては、()内はメンバー全員の調べた結果と意見をまとめたものです。 《はじめに》 ◇広告の定義 1.広告主体(明示された広告主) 2.広告対象(広告すべき商品、銘柄、企業 CI−コーポレイト・アイデンティティ、提案など) 3.広告表現(提示される広告メッセージ) 4.広告媒体(インパーソナルなメディアの使用) 5.有料形態(広告自体商品であること) ◇広告の機能 ①コミュニケーション機能 ・消費者は広告を受容する際、「認知→感情→能動」の3つの心理プロセスを踏む。 ・広告を発信する側が持つ広告の説得機能は感情レベルや能動レベルに向けた働き ②マーケティング機能 ・ユーザーに働きかけて、さらに使ってもらう。 ・現在のユーザーに新しい使用方法を提案して。受容を作り出す。 ・新製品や新サービスで受容を創造すること。 ③顧客との関係強化機能 ④社会的な付加価値機能 ・広い意味で、社会的に善悪を問わず、影響を与える。 以上、参考文献から広告の定義を拝借した。今回の分析では、4つのCMを扱うことで、特に ①コミュニケーション機能における消費者と広告を発信する側のそれぞれの心理、各CMが果た す②マーケティング機能、社会的背景、現代事情、流行などを踏まえた④社会的な付加価値機能 などを分析していきたい。 ※参考文献:『テレビ CM を読み解く』 『21世紀のマスコミ 内田隆三 03 広告』 1 講談社現代新書 桂敬一代表 1997 大月書店 1997 他 web 上の情報 担当 薄木絢子 「洋服の青山」CF にみる差別の潜在と顕在 ◇トランスクリプト ※場面:会議室 スーツ姿の中年男性(三浦営業部長と書かれたプレートが前に置かれている。) 三浦 「今度の礼服祭どうしようか」 女性社員「店内にパーティ会場をつくって礼服を ※場面転換:スーツ姿の男たちがシャンパンを飲んでいるきらびやかなパーティ風景 試着してもらうとか」 ※場面転換:もとの会議室へ 全員が口々に女性の案をほめる:会議室の全体を見わたすアングル 女性1人に男性5人 掃除のおばさんが1人 掃除のおばさんが三浦のもとへすり寄る おばさん「じゃあ私さぁ…」 三浦 N 「コンパニオンは要らないから」(おばさんをさえぎって) 「青山の礼服祭」 ※おばさんはあきらめて部屋を出ていく。去り際に部屋の電気を消していく。 全員 「あっ」 三浦 「おばちゃーん」 ※青地白抜きで「洋服の青山」+歌 ◇補足 「洋服の青山」第二弾(第三弾?)。前回は年末セール中における現場に指示をする男性社員 と掃除のおばさんの衝突を描いていた。どちらも男性社員が少し図々しいおばさんを邪険にし、 おばさんが一泡吹かせるという内容になっている。一説によると年明けに初詣編が放映されてい たそうだが確認できなかった。 ◇図―常識と差別の潜在化⇔非常識と差別の顕在化 会議室 →清掃は控える →× →清掃中 →パートは正社員に口を出さな →× い 2 →パートだが正社員に口出しす →相手にされる る →相手にされな → 引 き 下 が ※×はストーリーの終結。 い =差別が顕在化しない。 る →仕返しす る 「洋服の青山」CF にみる差別の潜在と顕在:考察 ◇第二弾 CF のストーリー性 この CF にはストーリーの展開上、常識の「打ちこわし」が生じている。そのまま常識的に話 が進めば、この CF は特異性が失われ、ストーリーも進行しない、という部分が3箇所ほどある。 まず、会議中の部屋では普通は清掃しない。これは世間の常識であるといえる。しかし希樹キ リン扮する清掃員はかまわず掃除をしている。ここで初めから常識に即して会議中の清掃を遠慮 したとしたら、この CF のストーリー自体が発展せずに終わる。 さらに、次の段階に進むと清掃員は会議に口を出してしまう。これもまた常識的に考えると異 常なことである。通常、清掃を行う人員は外部に委託するかアルバイトやパートタイマーで雇う だろうと予想される。つまり、一般的に立場としては清掃員が正社員に対して(しかも会議中に) 口を出すという行為自体がありえない。しかしここで希木きりんが口を出さねばストーリーはや はりここで終わってしまう。 また次の段階では少々様子が変わり、常識的に考えても適切な「相手にしない」という態度が とられる。しかしここでもし男性社員が「相手にする」という行動をとったとしてもその後スト ーリーは発展せずに終わるかもしれない。最後の希木きりんの応酬というこの CF で一番愉快な 部分はあらわれてこない。最後、相手にされなかった希木きりんは最も常識はずれな行動にでる。 つまり腹いせに部屋の電気を消して出て行ってしまう、といオチである。 「常識」が日常生活を支配するルールとして君臨する限りは目に見えてこない差別というもの がある。この CF でいえば、会議中に清掃員が入ってくることや口をはさむことは世間一般の常 識として暗黙のうちに慎まれるものである。しかしなぜ清掃員に限らずパートタイマーが正社員 に意見してはいけない風潮があるのかという問題は、それが日常である職場では問題として認識 すらされない。 ガーフィンケルのアグネスという「女性」を扱った論文では、彼女が生物的には男性であると いうことを世間に気取られずに生活するために用いた社会的技術、それを身につけていくための 過程について述べられている。周囲の人々は彼女が女性であると信じて疑わなかった。それは彼 女が女性としての本来ならば無作為の特性をたゆまぬ努力によって作為的に装うことができた からであった。女性としての「常識」に逆らわずに生活することができれば誰でもが「女性」に なることができ、周囲の人々も同じ常識のなかで生きる限り、その人物を女性であると疑わない だろう。しかしアグネス自身はどんなにその「常識」に同化したとしてもそれに違和感を覚えず にはいられないだろう。たとえその違和感をいかに最小限にとどめるかが「常識」に近づく鍵で あるとしても、である。克服すべき現実が目の前にある限り自分が周囲の常識から外れていると いうことを意識しなければならないからである。差別の悲劇はこのアグネスの悲劇と非常に似て 3 いるのではないだろうか。差別を意識できるのは「常識」から外れてしまった、差別の真っ只中 にいる人々だけだからである。 しかし「常識」の中にいる人々が差別を認識できる機会がある。その「常識」が常識ではない ということが証明されたときである。アグネスでいえば彼女の違和感は、周囲の人々が彼女の生 物学的性がわかった時に知られることとなるだろう。この CF では「掃除のおばさん」を軽んじ る空気が彼等の「常識」であり、彼女に報復された時に彼女への扱いの妥当性に疑惑が生じるの である。特に視聴者が「ああ、そういえばパートの、しかも女性に対しての扱いが悪いのではな いだろうか」と。そして彼女の報復を導く舞台設定もまた常識が何度か破られることで支えられ ている。 「常識」がルールとして保持されている中での「差別」は「常識」の中に埋もれる。そのため 「常識」が通用しなくなった時いつもの構図が逆転し、人々がそれに違和感を覚えることによっ て「差別」が目に見える形となって現れるのではないだろうか。 ◇第一弾からの流れにみる「シリーズにおける常識」の構築 この CF は既述のようにシリーズとなっている。第一弾と第二弾の間にはストーリー上の関連 があり、そこではこのシリーズにおける「常識」が構築されていることがわかる。 第一弾において背広と割烹着、男と女というわかりやすいシンボル。中年女性であるゆえにパ ートである。発言権は認められず、存在自体を邪険にされる。男性の上司、正社員としての特権 を誇示。潜在化した差別構造: 〔男⇔女、正社員⇔パート〕 。といった一般的な常識は男性社員よ りも先に的確な指示を与えるかっこいいおばさんという今までにない意外性にみちた在り方に よって打破されている。しかし第二弾では、根本的なストーリー構成は変わらないのだが、おば さんはかっこよさを失い男性社員とのからみはかけあい漫才に終わってしまっている。つまり、 一般的な常識が第一弾で崩されたことによって〈おばさん〉と〈男性社員〉の間に対等性が生ま れ、それがこのシリーズの新たな常識として確立したのである。かけあい漫才というオチはその 対等性からくるものであるため、第一弾のように明確な立場の逆転が生じないものとなったのだ ろう。逆転させる立場そのものが消失しているからである。結論として、一般的な常識をやぶっ て第一弾で構築された新たな常識が第二弾においてもまた存続されているといえる。 ※参考文献:ハロルド・ガーフィンケル「アグネス、彼女はいかにして女になり続けたか ―ある両性的人間としての通過作業とその社会的地位の操作的達成」 担当 折田智之 カメラ付きケータイのCMの分析 実際にカメラ付きケータイに関わらず、ケータイのCMは早いペースで新作のCMが登場して います。今回は au と J-PHONE を分析するわけですが、トランスクリプトに載せているバージョ ンは多分2∼3ヶ月前のものです。au と J-PHONE において、それぞれのコンセプトがバージョン は変わっても一貫して流れていると自分では感じました。ベースはトランスクリプトに載せてあ るCMですが、広い視点で au と J-PHONE の比較という面でも分析を加えてみたいと思います。 4 (au) ある部屋の中から始まる。何かがきっかけで軽い口ゲンカが始まった感じ。 女性(仲間由紀絵):「優等生。」 女性(菊川玲) :「暗いなあ。」 女性(仲間由紀絵):「説教好き。」 女性(菊川玲) :「悩みたがり。」 女性(仲間由紀絵):「上から言いたがり。」 女性(菊川玲) :「上だもん。」 女性(仲間由紀絵):「帰ってよ。」 女性(菊川玲) :「帰ります。」 (菊川玲が)立ち上がる仕草。 女性(仲間由紀絵):「顔も見たくない。」 菊川玲の方が出て行く。 女性(菊川玲) :「顔だよーん。」←画像付きメールで送る。 それを見てフッとした表情を浮かべ、 女性(仲間由紀絵):「中学生か。」 ナレーター :ムービーメール au by KDDI (J-PHONE) 東京タワーっぽい風景の前で12時になった瞬間− 男性4人:「行くよ!マリコ!ハッピーバースデー!」 ナレーター:ムービー写メールだからもっと伝わる 女性「サンキュー」 ナレーター:選ばれてカメラ付きケータイナンバーワン。さあ、写メールワールドへ。 では J-PHONE と au について取り上げてみたいと思う。J-PHONE の方では誕生日に友達4、5人 で集まってその日誕生日の女の子に「誕生日おめでとう!」とカメラで撮った画像と共にメール を送っている。一方 au についてはささいな口論の仲直りのきっかけとしてカメラ付きケータイ が用いられている。口論の後、 「もう顔なんてみたくない。 」と言って家を出た直後に「顔だよ∼ ん。」とこれまたカメラでとった画像と共にメールを送る。では、双方のあらすじを説明したと ころで、本人の主観による影響がどのくらい入り込むか心配ではあるが、自分なりの分析を行っ てみたい。 まずこの J-PHONE と au の比較から行ってみたいと思うが、両者のはっきりとした違いは J-PHONE は特別な場合、を意識して作っている傾向があるように思われる。ここで言うならば誕 生日。J-PHONE のCMは他にもあるが、大方が相手を励ましたり、感動を伝えたり、ということ に重点を置いているように思われる。J-PHONE の方は画像付きのメールを送る、という行為自体 に重きが置かれているような印象を受ける。もちろんそれにカメラ付きケータイというケータイ に付属しているカメラで撮った画像の内容にも本人が感動的になる要因が含まれていることは 間違いないが。 5 一方 au の場合はカメラ付きケータイの特徴、利点をより表していると思う。けんかの後、 「も う顔なんてみたくない。 」という科白を投げかけられた後、ただ言葉だけで「ごめん。」と送るこ と、このことは意味がないとは言えないが、CMの題材として取り上げるには値しないだろう。 ここでは「もう顔なんてみたくない。」と言われた後に「顔だよ∼ん。 」と自分の顔を画像として 送っているところがポイントだろう。ここは J-PHONE と違って画像付きメールを送るという行為 はもちろんだが、より画像の方に重きが置かれているのである。言葉だけでは心も伝わらないか もしれないのを、実際に自分の顔の表情も見せることによって、言葉以上のものを伝えようとし ている姿がうかがえる。 両者の比較を行ってみたが、このCMが作り出すプラスのイメージとして、企業側としてはカ メラ付きケータイの実用性、という点ではプラスのイメージを作り出せただろう。なぜなら直接 カメラ付きケータイという商品を商品の実用性そのままに打ち出せた訳なのだから。視聴者側に とっては自分のカメラ付きケータイの使い道の良い例となったわけであり、実際にCMと全く同 じ構図で知人に使ったとしてもそれは社会的にも価値を産み出すものだと認識されるはずであ る。また、そこから自分なりの使用方法を思いついたり、ということも可能だろう。これは直接、 というより直接でしか意味がないだろうが、商品の持つ要素を全面的に打ち出したものと言える。 ケータイのメールが対人間のコミュニケーション手段として大々的に確立した今、各会社もそ れぞれの個性を出したCMを企画・放映している。それはケータイだから、カメラ付きケータイ だからできること、ということをモチーフとしている。直接会ってコミュニケーションを取らな いことから社会的に人間関係を危ぶむ声もあるが、カメラ付きケータイなどは直接会う、という 手段には劣るが、ちゃんとその人の雰囲気、服装、表情などを表すことが可能である。今の若者 たちはこういった機器をクリエイティブに使いこなす能力には優れている。それによってまた新 たな、自分流のコミュニケーション手段を確立していくだろう。カメラという本来非日常を移す ものも、上手く日常に融合させている面もある。これが行き過ぎるとプライバシーの問題、とい うことも起きてくるだろうが。上に挙げたCMを見て感動とか人間の情というメッセージが込め られていて、またそれが伝わってくるということは、ケータイのメールという新たなコミュニケ ーション手段の浸透を示すものだろう。 携帯電話は電話の本来の役割だけではなく、メールや画像を送信する機能を持つことによって、 特に若者にとってはなくてはならないコミュニケーションツールとなった。直接言いにくいこと もメール(画像)なら言える。カメラ付きケータイのCMも、面と向かって言いにくいことも、 画像でなら伝えられる、ということを伝えているものが多い。だが、以前は直接言うとか電話で 伝えるなどして、何とかすれば言えた事も、今では直接言えなくなってしまったとも言える。 携帯電話の急激な普及は人と人とのコミュニケーションの在り方を大きく変えたと言われる。 単なる電話ならば、まずかける側に時間・空間的な制限が存在していた。さらに相手に対しても また時間空間的な配慮を必要としていた。しかし電話が携帯可能になった時、まず双方の空間的 制限が取り払われた。そして携帯電話にメール機能がついたことによって時間的制限もまた取り 払われた。メールならばすぐ読まなければならないという意識は薄く、送り手は相手の都合を考 えずに自分の伝えたい内容だけ送りっぱなしにすることができる。さらに携帯電話にカメラ機能 がつくことによってメールに写真・動画を添付して送信することができるようになった。ただで 6 さえPCのEメールの普及によって手紙を書く頻度が激減していた中で、携帯電話のメールとい うツールは文章らしい文章をつづる必要をなくしていった。それが今度は文字そのものをなくし たコミュニケーションを可能としてしまったわけである。とは言っても写真のみ送りつける者は いるわけはないが、少なくとも文字主体のコミュニケーション技術ではなくなった。現実には何 かの記念で利用したり、アルバムとして利用する人間のほうが多いわけではあるが、Jフォンの CMは明らかに文字をなくしたコミュニケーション、文字以上のコミュニケーションを売りにし ている。口に出して言えないような言葉を視覚的に(文字に補われながらも)伝えることのでき る簡便さ。精神的な距離を超えられる伝達媒体。しかし実際にはそうした使われ方をされるのは 「特別な場合」であるということにきづいた(のかどうか分からないが)Jフォンはスーパーで ベッカムに会った、というかなり非日常的な出来事を切り取り、(おそらく)息子という日常へ 送ったのである。ここには電話本来の物理的(地理的・時間的)距離の超越という利便性を基本 ベースとした「お祝い」的場における使用を売りにしたわけである。これはかなり実際の利用者 の利用状況に即した「現実的」な状況の「非現実的」状況による例示というわけである。そのこ とは他のカメラ付きケータイのCMがクリスマスパーティーであることからも言える。 担当 加藤美紀子 サントリー/ウーロン茶 桃白ドレス篇 30 秒 (ソファでうたた寝する女の子。場面一転、「東京ブギウギ」を中国語版にアレンジした「上海 ブギウギ」を歌い出した女の子は、ミュージカル風に踊りながら、服の寸法を測ってもらう。裁 縫工場では男性職員たちがリズミカルにミシンのペダルを踏んでいる。縫いあがった桃白色のチ ャイナドレスに身を包み、ものかげから現われる女の子。そんな彼女を見て、男性職員たちはニ コニコ顔。ポワーンと見つめる青年。女の子はカメラを向き、ウーロン茶を飲む。) N「自分史上最高キレイ」 N「サントリーウーロン茶」 (再びソファで眠っている女の子。先ほどまでの映像は彼女が見ていた夢だった。) 広告批評 2002 年 12 月号 №266 より ここ2,3年の日本茶ブームで幾分おされ気味だとは言え、すっかり日本に定着した中国茶。 スタンダードをマンネリに陥らせないため、今期サントリーはウーロン茶のCMを一新した。現 代の歌謡曲のイメージを一掃し、戦後の復興真っ直中の昭和 23∼24 年に大ヒットした、高度経 済成長時代の幕開けを予感させるような「東京ブギウギ」を中国語版にアレンジした「上海ブギ ウギ」を使用することで、上海を中心としてエネルギッシュに成長している中国のイメージを素 材とし、発展著しい中国を象徴しているかのような作品に仕上がっている。 ビールや炭酸飲料などと違って、お茶の CM は商品自体を前面に打ち出すというよりは、商品 を飲んだことで得られる清涼感や安堵感などを伝えようとしているものが多く見られるが、この CM もその例に違わない。ウーロン茶の、消化促進、ダイエット効果、油脂分を分解する(サポニ ンという酵素)作用など、実際の効能がうまく CM のイメージと融合したかたちになっている。 しかし、今回紙面ではその快活、健康的なイメージとは裏腹に、製作者の意図にはない無意識的 に内在化されている要素を摘み取ってゆきたい。 7 「上海ブギウギ」を歌う女の子の服を縫うのは、巨大な裁縫工場の男性たち。この状況は私の 目にはいささか奇妙に映った。CM に出てくる女性はスレンダーな美しい女性である。そのキレイ な「女性」はさらにきれいになるためにウーロン茶を飲み、「男性たち」がその女性のための服 をつくるという姿は、現実の構図とは反転しているのではないか。この状況の背景にはいったい どのようなことが埋没しているのであろうか。 戦前、細井和喜蔵が「女工哀史」で指摘しているように、劣悪な環境の製糸工場で働くのはも っぱら女性であった。紡績業は日本の資本主義的発展を担う、基幹産業の一つであった。日本に 限らず、産業化、工業化の発展を遂げた国は多くがマニュファクチュアから始まって、重金属、 機械工業、IT 工業へと主力工業は変化していった。そして近年日本では、大規模な資本をもつ服 飾メーカーの多くは、安価な労働力を求め裁縫工場を海外へ進出させている。そのため、現在裁 縫工場の多くは中国、台湾などを中心に分布している。 「女工哀史」は現在も、他のアジアの国々 では実際におきていることなのだ。 このような状況をみると、海外へ拠点を移したといっても、裁縫工場の労働力の中心は男性に なった、とは決していえないであろう。やはり根強い男性性(たくましさ、活動性、攻撃性など)、 女性性(依存的、服従的、家庭的など)での役割分業は日本国内のみの話ではない。そのような 女性への抑圧が多々露見する中、現在の日本は長引く不況のため、男性、特に中高年、の元気が なくなっていて(精神的観点、経済的観点からの言及か?)、女性の活動的、積極的側面が評価 され始めてきた。それは、女性自身の社会進出の増加もさることながら、「市場」が女性を見る 目も変わってきたのからなのではないだろうか。服飾、貴金属は、購買者は男女とも存在するの に、女性向けの商品が多いことは確かであるし、最近は旅行や飲食店も女性向けのプランを数多 く企画している。 最後に、この CM を分析することによって見えてきたものは、日本×中国、男性×女性、さら には好況×不況というような対立関係ではないだろうか。かつて日本の経済発展を支えた「裁縫 工場」が、経済成長著しい「中国」へと場を変え、その工場の貴重な労働力だった女性たちは、 「元気のない」男性たちに代わって購買力を得た。この CM は女の子が見ていた華やかな物語は 夢だった…という結末を迎えるが、夢から醒めるという行為はバブルの崩壊、などといった解釈 も可能であるのだろうか。 ※参考サイト http://www.minpaku.ac.jp/study/hirai_kyonosuke/02.html 担当:村上愛 フジカラー「チェキ」15 秒 ○クリスマス・イブの夜、レストランでプレゼントを握り締め、1人彼を待つ田中。 ○彼が来る気配はなく、ため息をつく。 ○店は閉店し、プレゼントを抱えたまま店の外に出る。落ち込んだ表情の田中。 ○柱の影からクリスマスリボンのかかった「チェキ i」が出てくる。 ○チェキで顔を隠した2人の女性がムーンウォークで登場。チェキで顔を撮りながらブレイクダ ンスを決める。 ○それを見た田中は2人が希木と岸本だと気づき、落ち込んでいた田中から微笑みがこぼれる。 ○その後も技を決め、チェキを顔からよけると、いつもの2人。 ○撮ったその場で出来上がった写真を田中に手渡す。そこには2人からのメッセージが。 ○「男なんて」「星の数!」それを見て田中は微笑む。 8 ○2人は側転しながらその場を去る。 冒頭部分で、女性が男性を待っている。また、店を出たときの女性は泣いてはいないものの、 今にも泣き出しそうである。この、 「待つのは女性である」 「泣くのは女性」ということは、性の ステレオタイプではないだろうか。 次に、希木と岸本が登場する場面。希木樹林は、お笑いタレントではないのにいつも笑いの対 象になっている女優である。そのため、この場面で彼女が着物を着ているのに足を開いて回転し ても、いつも通り、意外な感じはあまりしない。だが、希木ではない女優が着物を着て同じこと をするなら、きっと意外な感じがするだろう。希木なら大丈夫だが、他の女性はマズイ。マズイ ことを希木にやらせることによって、問題を避けている。 その希木に元気付けられる田中。希木は冒頭の田中の「待つ・泣く」(そして、もっと言えば 性のステレオタイプ)を吹っ切る役目になっている。 撮った写真に書いてあるメッセージ「男なんて」 「星の数!」男は(彼以外にも)たくさんいるん だから、くよくよしないで元気を出して!というメッセージは、女性が男性を選ぶことを前提に している。「男性が女性を選ぶ」ではなく「男性を選ぶのは女性」というのは、冒頭の性のステ レオタイプとは異なっている。希木の登場で性のステレオタイプを吹っ切ったことが、このメッ セージの場面でも維持されている。 このメッセージには、別の解釈もある。BGM「クリスマスキャロルの頃には」は、男性が女 性に、クリスマスには2人の答え(=別れ)も出ているだろうと語りかけるという内容である。そ のため、このCMに男性はいないにもかかわらず、視聴者は男性を感じる。また、歌詞の内容か ら考えれば、冒頭部分は、男性が、来るはずのない自分を待っているかつての恋人の様子を空想 しているような状況とも言えるのではないだろうか。そして、この「男なんて」 「星の数!」とい うメッセージは、男性から恋人への慰めである可能性もある。 このCMの表層的な主人公はなぜ女性なのか。まず、この商品が若い女性を対象にしたもので あるから。特別な記念日ではなく、日常をキレイに残しておきたいという若い女性の心理を捉え ているといえる。実際に、CMの主人公の田中麗奈がキレイに写真に撮られている。そして、ひ ねた見方をすれば、女性は男性よりも恋愛を重視するという潜在意識が働いているために、この ような失恋のCMの主人公を女性にしたのではないだろうか。このCMの登場人物を全て男性に してしまうと、かなり情けない上に現実感が薄れてしまう。あえて言えば、ここに一般的に共有 された意識を用いた権力作用が働いている。 ※参考サイト http://www.fujifilm.co.jp/tvcm/02win-checki 《総括》 以下では、便宜的に「紳士服の青山」―A、「サントリー・ウーロン茶」―B、「フジカラー 『チェキ』」―C、「カメラ機能つき携帯電話」―Dとしておく。 CM 自体は人々の日常生活における一コマではない。むしろテレビをつけるという行為は非日常 への移行を示す。行為自体は日常の一コマかもしれない。しかしこの不思議な箱の中で繰り広げ 9 られる日常からかけ離れた奇想天外な内容を考えると、テレビは人々が日常の退屈さから逃れて 非日常へ逃げ込むスイッチといってもよいだろう。またテレビを見るという行為は一方通行な行 為である。テレビを見て誰かと論じるとなるとそれは立派な相互行為となるが、テレビを介する 製作者側そして視聴者側の行為や意図は一方的な働きかけなのである。日常的でもなく相互的で もないテレビを介するこの空間はしかし、極めてエスノメソドロジー的ではないか、というのが 今回の分析の結論である。 我々が視聴者としてテレビの前に座った瞬間、多元的な空間が生まれる。考えられるのは①テ レビの外にある視聴者の世界、②テレビで放映されている番組や CM 内の世界、③テレビを製作 する側の世界、の三つである。もっとあるかもしれない。視聴者の世界と CM 内の世界はテレビ によってのみかろうじてつながれている。一方は実在する世界。一方は虚構の世界。この大きな 違いを埋める手段として用いられるのがエスノメソドロジーでいうところの「自明(暗黙)の理 解」、そして文脈依存性である。 CM は 15 秒から 30 秒という非常に限られた時間しか与えられていない。そして一方行なので視 聴者は説明を求めて質問することができない。つまり全くお互いを知らない一人の個人と個人が 出会い、自己紹介もできずにただ自分の話したいことを話すだけ、という状況に置き換えられる。 しかもそれが、たったの 15 秒間のできごとなのである。自分が一体何語をしゃべるのか、どの ような文化圏で育ちどのような価値観をもっているのか。それを一通り紹介してからお互い共通 の何か―合図やジェスチャー、表情、言葉の使いまわし―を創りだしていく。一通りお互いの「自 明の理解」を創って初めて、道端で会っても何の問題もなく天気の話しや最近の出来事に語るこ とができるのである。それが日常の一コマでなくても、例えば論文発表の場であっても同じであ る。まず発表者の肩書きや研究内容を紹介する。論文で使われる専門用語や独自の使いまわし、 言葉の解釈を論文中で明示しておく。最後に質疑応答でお互いの認識の差を埋める。そうして出 席者が「自明の理解」を得て初めて発表者は自分が主張したいことを完全に納得させることがで きる。それを CM は 15 秒で行う必要がある。 しかしその CM の製作会社が日本の企業であり日本人に向けて商品の情報を発信する限り、そ して同時に視聴者が日本国内の日本人であり CM の役割を認識している限り、全く知らない個人 同士が「知人」となるほどの努力は必要ない。その商品に対する予備知識があればなおのことで ある。だが CM は以上のような自明性では対応しきれない非日常的な「場」を創ることがある。 その場合製作側は視聴者の世界の自明性を端的に表すシンボルによって CM 内部の世界との接点 を創りだす。それによって視聴者の世界と CM の世界が共通の自明性を持っていると錯覚させる ことで、視聴者をその世界に取り込み、自分の伝えたいこと=「この商品はいい」を少ない時間 で効果的に伝えることができる。 今回の例の中でA、C、Dは明らかに視聴者の生活を忠実に再現した舞台なので特に共通の自 明性を強調する必要はない。強いて言えばAではサラリーマンのユニフォーム「スーツ」とその 舞台としての「会議室」、Cでは「レストラン」 、Dでは「マンションの一室」もしくは「東京タ ワー」。このどれもが多くの人が想像するそのままの形で用意されているため(例えば「会議室」 の壁が迷彩色だったりはしていない)視聴者は自分の「常識」の通用する世界であると簡単に認 識できる。しかしBのCFは非常に非日常的な風景である。なぜなら舞台は「裁縫工場」なので ある。しかもBGMに流れる歌は日本語ではない。しかし人はこの歌の印象で「これは中国語で はないか」と考える。さらにここが「中国」であり、「中国ならばこうした工場は今でもあるだ 10 ろう」と帰結する。つまり、BにおいてCMの世界と視聴者の世界をつなぐ自明性は「中国」と いう「常識」によって確立するのである。 このようにCMの空間と視聴者の空間が同一のものとなったうえで、もう一つの要素である文 脈依存性が発揮される。文脈依存性の定義をここでは「行為や発話が文脈を指示することによっ てしか意味を確定できぬ表現を含んでいること」とする。(A.ギデンズ「社会理論の現代像」 第三章)CMのほとんどが日常世界を舞台としていても非日常的にストーリーが展開することが 多い。この非日常的展開をなぜ人は 15 秒の間で理解できるのか、それに文脈依存性は一枚かん でいるのではないだろうか。先ほどのBのCFを例にとりたい。視聴者は舞台が中国であること に気づき、常識として備えている「中国」についての知識を総動員させる。そして「中国」であ るという文脈の中でこそ、視聴者の世界では非日常的な展開は日常として認識されうる。例えば 「上海ブギウギ」というBGM、工場制手工業、チャイナドレス、男女の立場逆転、そして「ウ ーロン茶」。そして加藤の指摘によればこの「中国」にオーバーラップしてくるのが「経済成長 期=過去の日本」という文脈である。こうした文脈の中で普段であればつながらないキーワード は意味をなしていく。(これらの要素がどうつながりあい、どのような解釈がなされるかは加藤 のレポートを参照。)また、AのCFにおいての文脈は第一弾からの流れである。この文脈がな ければ希木きりんの登場は脈絡のない展開となる。Cはもちろん「クリスマス」、Dでは「携帯 電話」がそれぞれの文脈といえるだろう。(これらのCFがどのような文脈を形成し何を伝えて いるかは各レポートを参照。) このようにCMはたくみにエスノメソドロジー的実践を行っているといえる。しかしこれ以上 のことを視聴者が行うことも可能である。それは一種の自己反省のように思われる。 エスノメソドロジーにおいて分析者が自己反省性を保つのが難しいのと同様に、CMの分析者 たる視聴者もまた自己反省的立場に立つことは難しい。しかしそうした立場に立ってみると見え なかったものが見えてくる。CMにおける反省性はそのCMの世界に一度浸った後で一歩距離を 置くことである。そのCMの文脈から自己を切り離すだけではなく、自分の現実世界の「常識」 とも一度距離をおくのである。なぜ掃除婦希木きりんが滑稽に見えたのか、なぜ裁縫工場にいた のは女工ではなく男性だったのか、なぜクリスマスに待たされたのが女だったのか?(山下達郎 の歌にあるような男性もいるだろうが、その状況で「女なんて星の数」というメッセージが渡さ れるとしたら非常に滑稽である。しかしそれすらもなぜ男性ならば滑稽なのか?という問題が生 じる。)そしてなぜ自分はそうした疑問を感じずに普段CMを見るまま聴くままに流すことがで きるのか?テレビの恐ろしさは非日常的な内容でありながら現実世界の日常を構築するのと同 じ手法でテレビ番組内部での日常を構築するため、そしてそもそも番組に没頭しつつも現実の自 分とは乖離しているという安心感をもっているために、疑問を抱く機能が低下してしまうようで ある。しかしテレビを視聴するという行為は、例えばくしゃみをするような単なる「行動」では ない。テレビの中の世界に組み込まれている「行為」である。視聴者はポルナーの言う「自己内 省的ラディカル・リフレクシビティ」を分析者として常に意識する必要があるだろう。例えそれ が永遠に続く作業だとしても、真実に遠いよりは一ミリでも近い方がずっといいだろう。 (担当:薄 木) ※参考文献:A.ギデンズ「社会理論の現代像」 11 12
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