日本のアニメとニューエイジとの関連についての一考察

大阪府立大学人間社会学部人間科学科森岡研究室レポート 2012年度
http://www.lifestudies.org/jp/univ/report.htm
日本のアニメとニューエイジとの関連についての一考察
:アニメの中に生きるニューエイジ的思想
木村長永
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はじめに――日本のアニメの特異性
日本における「アニメ」という言葉は、英語においては“Animation”と表記される。これ
には「生気(を与えること)」という意味も含まれており、その語源は「生命」や「魂」を
表すラテン語の“Anima”である。
では近年しばしば話題になる日本のアニメは、人々にどのような「生気」を与えている
のだろうか。2011 年から 2012 年の春にかけて、アニメ業界においてある複数のアニメが
話題を呼んだ。『魔法少女まどか☆マギカ』『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』
『輪るピングドラム』など、視聴まではしなくともどこかでそのタイトルを目にした、あ
るいは耳にした人は多いだろう。特に『魔法少女まどか☆マギカ』は巧みな宣伝戦略も功
を成して社会現象ともなり、第 15 回文化庁メディア芸術祭アニメーション部門においては
大賞を受賞した。i
アニメが社会現象となるのは、これに始まったことではない。1970 年代の『宇宙戦艦ヤ
マト』や『機動戦士ガンダム』といった作品もかつてはそうであったし、スタジオジブリ
の制作したアニメ(主に宮崎駿監督による)は今でも公開の度に大きな話題となる。1995
年に放送された『新世紀エヴァンゲリオン』iiも当初はアニメファンの間で話題を呼び、1997
年の再放送や同年の劇場版公開を経て大衆的に受け入れられ、社会現象となった。難解な
内容だったためいくつもの解説本が出版され、メディアも注目して積極的に取り上げた。
この作品のヒット以降、主人公の内面の危機と世界の危機とが直結している「セカイ系」
と呼ばれるジャンルのアニメや、専門用語やメタファーを多用した難解なアニメが以前に
増して制作されるようになり、現在にもその影響を深く残している。
しかしながら『新世紀エヴァンゲリオン』が放送開始される直前、阪神淡路大震災とそ
れに続くオウム真理教による地下鉄サリン事件が発生したことは、未だ人々の記憶の中に
根強く残っているだろう。聖書からの引用などキリスト教的な要素や精神分析学的なメタ
ファーが散りばめられた『新世紀エヴァンゲリオン』に対して、社会学や臨床心理学の視
点で分析した文献や、オウム真理教との関連を指摘した議論は多数存在する。
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そもそも 1990 年代という時代自体、阪神淡路大震災やオウム真理教に関する事件だけで
なく、湾岸戦争やそれに次ぐバブル経済の崩壊、冷夏による米の凶作、1999 年の 7 の月に
恐怖の大王が降りてくると主張したノストラダムス本や UFO・超常現象本が大量に出版さ
れるといった世紀末ブーム、神戸連続児童殺傷事件や池袋通り魔事件など凶悪な事件の連
続、自殺率の急激な増加など、世間を揺るがす様々な現象が起こった特異な時代なのであ
る。
特異な時代といえばアニメにも同じことがいえる。『新世紀エヴァンゲリオン』のヒット
だけでなく、
『美少女戦士セーラームーン』や『少女革命ウテナ』もブームとなっていたし、
押井守監督による映画『GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊』はアメリカのビルボード誌
でビデオ売り上げランキング一位を獲得し、ジャパニメーションという言葉が新聞やテレ
ビに登場した。iii
漫画家の大友克洋が監督した『AKIRA』や宮崎駿監督の『もののけ姫』
も話題を呼び、これらは実写映画が上位の存在で、アニメは子供向けの下位の存在である
とされていた映画界の常識を覆したのである。さらに今日のデジタルアニメの先駆となっ
た『青の六号』や『serial experiments lain』が登場するなど、アニメの一つの転換期とも
いえる時代を迎えていた。『新世紀エヴァンゲリオン』が生まれた背景には、こういった時
代の異常性のようなものが関わっているように思える。
日本で制作されたアニメを新旧問わず視聴していると、核や未知のエネルギーの暴走に
よる惨劇、人間の科学至上主義への報復、霊的な存在の尊重、肉体からの脱却や超越、既
存の体制へのテロリズム、善悪など固定された価値観の逆転(あるいは絶対的な価値観の
否定)、既存の社会(または世界)の破壊や再構成、新世界の創造などといった要素が散見
する。そしてそれらが『新世紀エヴァンゲリオン』に限らず、もっと昔のアニメ初期から
バリエーション豊かに受け継がれてきたものであるということに気付かされる。これらに
ついては後の「日本のアニメについて」において詳しく述べることにするが、筆者は日本
の近代史とアニメの歴史との間には何らかの深い関連があるのではないかと考えた。両者
はそれぞれ独立していながらも、どこか合わせ鏡のようになっている部分がある。アニメ
の世界は、あたかも当時のオルタナティヴな現実世界を写しているかのように思える時が
あるのだ。
著者は日本のアニメと日本の近代史には、そして時代ごとのアニメの特徴を抽出し、日
本の近代史と照らし合わせる中で、著者はこの両者の間を流れるある一つのまとまりを見
出した。かつてニューエイジやニューサイエンスと呼ばれていた新時代運動である。それ
は 1970 年代に始まって今なお継続しており、世間を揺るがせたオウム真理教も結局はこの
一環で生まれてきたものの一つに過ぎない。
この論文は、古くから日本のアニメの中には少なからずニューエイジ思想と共通する要
素が盛り込まれており、しかもそれは現在にも息づいているものであるということを、幾
つかのアニメについての少々の分析を通して指摘するものである。
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ニューエイジについて
(1)ニューエイジの定義
ニューエイジとは、西洋的価値観を排し、東洋文化に見られる神秘思想や超自然の観念
を取り入れ、宗教・医学・環境などの分野をホリスティックな視点で見直そうとする新時
代運動のことであり、日本ではニューサイエンスと呼ばれていた。
その起源は 1960 年代後半のアメリカにおけるカウンターカルチャー運動にある。当時の
青年たちが高度管理社会による既成の価値体系に対する反発を強め、脱社会的な行動を取
り自然への回帰を訴えるなど新たな意識変革を迫った運動である。その背景には人種問題
の激化やベトナム戦争の泥沼化、大学紛争などがあり、いわゆるヒッピー現象もその一つ
である。1968 年には生物学者ベルタランフィによって一般システム理論が唱えられ、科学
の世界においてそれまで個々に独立していた領域間の関係性が重視されるようになる。そ
ういった流れを受けて、ニューエイジは 1970 年代初頭から 1980 年代にかけてアメリカや
イギリスにて始まった。それがまもなく日本にも輸入され、1980 年代には多くのニューエ
イジに関する著書が翻訳・出版され、当時の一部の若者たちの間で盛況を博した。
(2)ニューエイジの実際
ニューエイジの一つの柱であったのは、近未来に霊的な革命が到来し、<新しい時
代>がはじまるという思想であった。その一つの期限は、紀元二〇〇〇年というミレ
ニアム(千年紀)であり、今まさにその前夜と考えられる。iv
海野(1998)は、ニューエイジについて様々なキーワードからその運動をまとめた著書の中
で、以上のように述べている。
ニューエイジは当初アクエリアン・エイジと呼ばれていた。占星術の世界では、だいた
い 2000 年ごとに第一星座が交代し、その都度時代が変わるとされている。これはキリスト
教とも関連しており、旧約聖書の時代が牡羊座(アリエス)の時代、ローマ・カトリック
教会の時代がうお座(ピシーズ)の時代であり、そして次に来たる聖霊の時代がみずがめ
座(アクエリアス)の時代とされている。イエスが生誕した時にはすでにうお座に移って
おり、それから 2000 年間、つまり紀元 2000 年ほどまではうお座の時代であって、次の 2000
年間に来るのはみずがめ座の時代、アクエリアン・エイジだというのである。このうお座
の時代からみずがめ座の時代への移行にかけて、ニューエイジは興ったのである。これは
キリスト教徒にとって無視できない重要な時期であったし、異端とされた原始キリスト教、
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グノーシス派も注目されるようになった。
アメリカはベトナム戦争に事実上敗戦したことで、それまで絶対としていた欧米中心主
義を崩された。また多くの帰還兵が PTSD の症状を呈した上、アダルト・チルドレンが話
題になるなど社会の心理学化が進み、それまでの科学主義・合理主義では太刀打ちできな
い問題が生じてきた。そうして西洋中心の価値観に疑問を呈し、東洋の価値観から多くの
ヒントを導入するようになったのである。とにかく絶対的な価値観の崩壊という点は、ニ
ューエイジにとって最も重要なきっかけの一つであった。ヨガやチャクラ、輪廻転生など
霊的なものが評価されるようになり、宗教的な要素と科学の融合が図られようとする。そ
れからやがて霊的な目覚めによって霊能力や超能力を開花させるというスピリチュアリズ
ムに繋がり、自己啓発ブームや超能力ブーム、精神世界ブームを巻き起こしていく。
公害問題をはじめとする環境汚染も深刻化し、地球温暖化が問題視されるようになった。
人々は絶対と信じていた自然科学の有害性を疑い始めたのである。これが契機となって、
人と自然は一体の存在であるという価値観に目覚め、意識変革を経て自然と呼応する存在
にならなければならないと主張するディープ・エコロジー運動が発生した。
ニューエイジ関連の書籍によく登場するのが、スイスの精神科医 C.G.ユングである。ユ
ングが自己分析の末に生み出した分析心理学には、ニューエイジャーたちが好む用語が含
まれている。人々は皆普遍的無意識で繋がっているとする元型論や、晩年に発表した共時
性(シンクロニシティ)の概念などは、ニューエイジの基本ともなっているものである。
ユングは単なるオカルトマニアだったわけではなく、あくまで科学者としてあろうとした
人であるのだが、しかし心霊現象や空飛ぶ円盤、錬金術など、ロマンティシズムを追い求
める一面もあり、結果的に彼は神秘の人となったv。
ニューエイジの初期である 1972 年、心理学においてはマズローらによってトランスパー
ソナル心理学が立ち上げられた。これは個人を超えた神や霊的なものとの交信、宇宙との
融合など、西洋の知では捉えきれないものを東洋の知を取り入れることによって追求しよ
うとした学問であり、C.G.ユングの共時性なども多大な影響を与えた。vi
ユング派の心理療法家である河合隼雄の著書で、1994 年に発刊された『河合隼雄著作集
第 11 巻
宗教と科学』には、こう記されている。
ユングが共時性について公的に発表したのは、1952 年のエラノス会議においてであ
るが、彼は早くからこのような考えをもちつつ二十年余りの沈黙を守り、ついに発表
したものである。それでもなお理解する人は少なく、多くの非難も浴びた。それが最
近になって少しずつ認められるようになり、トランスパーソナルの人々にとっては、
ユングの共時性は彼らの考えを支える強力な基盤となった。vii
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さらに河合はニューサイエンスの特徴について「専門的な科学者のみならず、文科系の
学者、さらには一般市民をも巻き込むような形で展開されつつある」ことと「今までは単
純に対立的に捉えられがちであった宗教と科学が、思いの外に相接する形で論じられる」
ことにあると指摘している。
ここで 1981 年に工作舎から出版され、当時のベストセラーとなったライアル・ワトソン
の著書『生命潮流』を読んでみよう。彼はニューエイジの盛況について次のように述べて
いる。
今はそういう時期なのだ。神秘的な前兆とか、予兆があったというのではなく、現実
の世界やわれわれ自身に対するわれわれの理解が、重要な段階にさしかかっているか
らである。進化過程における土手のようなものが、生命潮流をやっとのことでくい止
めているのである。潮が退き、次の周期の時に再び戻ってくるのか、それとも何かが
きっかけとなって怒涛が防波堤を超えて打ち寄せてくるのだろうか。その洪水は地形
を永遠に変えてしまうかもしれない。チャールズ・ダーウィンはそういった波を起こ
し、フロイトも別の波を作った。いずれの影響もいまだに根強いものである。しかし
今回の洪水は人間の精神の奥深い波動が引き起こす意識の変化という大うねりによる
ものだviii
今や西欧科学も、規制に満ち時代遅れになった同じような因襲を排除すべきだろう。
「主観的経験」をも人知の確たる資産として認め、客観的実験という富に並立させる
努力を始める潮流が――科学という身体に精神(マインド)を与えて生命を吹き込む潮
流が――いままさに満ちている。ix
これらのように、当時の新時代への期待感はかなり高かったということがうかがえる。
またライアル・ワトソンはこのニューエイジの現象を潮の満ち退きに例えており、一度き
りのものではなく、衰退しても再びやってくるものとしている。
唐突ではあるが、ニューエイジャーの目指していたものはおよそこのようなものではな
いか、と考えられる事例があるので、紹介しておきたい。小林和彦による著書『ボクには
世界がこう見えていた ―統合失調症闘病記―』の中に、その内容は記されている。かつて
アニメーション制作会社の亜細亜堂に勤務し、
『タッチ』『ドラえもん』
『日本昔ばなし』な
どといった作品に携わった小林は、1986 年 7 月に幻覚妄想状態に陥り、精神神経科に入院
した。以下はその時の体験に関しての記述を抜粋したものである。
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突然テレパシーのようなもので誰かと交信がつながった。昼間も聞こえたミックの
声のようだった。声は耳からではなく、頭の中に直接入ってきた。これがテレパシー
というものかと思い、幻聴だとは全く思わなかった。(中略)どんな内容だったか残念
ながら忘れてしまったが、テレパシーで会話できるのはミックだけでなく、あらゆる
人間と交信できることがわかった。交信を司る器官は頭の中だけでなく、手とか足と
か背中とか各内臓とか、すべての器官でできるのだ。中枢神経は頭の中にあるのだろ
うが、体中の各器官が色々な感覚を引き起こす形で行われたのである。個人との交信
も団体との交信もできた。
僕は体制を変革してよりよい世界を作ろうと思っているが、僕一人の力ではできな
い。みんな協力してくれないかと伝えると、皆、拍手や歓声で受け入れてくれた。受
信は、手や足が震えたり、背中がぞくぞくしたりする形で行われた。x
小林は発症前の 1986 年春、日本のニューエイジ・グループである C+F コミュニケーシ
ョンズの『パラダイム・ブック』を精読したことで、新しい時代、新しい世界の展望が目
の前に開け、この世の全ては密接に関連し合っているとの認識を得たという。彼はそれか
ら「アニメーションで体制を変える」ことを強い使命感をもって夢想し始めるのだが、現
場の厳しさに「アニメーションを作る前にまず体制を変えなければならない」と考えるよ
うになり、葛藤する。幻覚妄想状態に陥ったのはその最中のことだった。
これらは僕の幻覚が幻聴、あるいは思い込みと大方の人は判断するだろう。しかし
交信相手は不特定多数を除けば皆僕の好きな人ばかりで、不穏当な指令のようなもの
は一切なく、双方向のコミュニケーションだった。僕はこの夜のことは、肉体的苦痛
もあったが、人間の心は皆つながっており、ある種の精神状態に入れば誰とでも交信
できるという認識を新たにした幸福な体験をしたと思っている。(中略)ぼくはこの晩
を境に新しい人間に生まれ変わったことを確信した。xi
もちろんこの体験は明らかに幻覚妄想であるし、「体制を変革してより良い世界を作ろ
う」とか「新しい人間に生まれ変わった」とか思うのも、誇大妄想としてはよるあるもの
である。しかしながらこの体験には明らかに『パラダイム・ブック』の影響が現れている
し、興味深いものである。ニューエイジャーたちが目指していた意識変革やテレパシーな
ど超能力の開花、深い精神世界への目覚め(チャネリング)といったものが、実にわかり
やすく再現されているように思えるのである。
(3)よみがえったグノーシス主義
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こうして盛況し、また混沌としていたニューエイジではあったが、しかしこの動きにつ
いて前ローマ教皇のヨハネ・パウロ二世はその著書である『希望の扉を開く』の中で、ニ
ューエイジは「よみがえったグノーシス主義」であると批判していた。xii
そもそもグノーシスとは何なのか。グノーシス主義(あるいはグノーシス派)というと
キリスト教の異端思想であるが、もとはキリスト教とは独立した神秘思想であり、キリス
ト教内部の異端の所産ではない。かつてペルシアに成立し、世界的宗教にもなったマニ教
もこのグノーシス主義である。グノーシスについて、岩波書店の広辞苑第六版には「(認識
の意)①ローマ帝国周辺に興った諸宗教思想における、救済をもたらす神の認識。②キリ
スト教の異端思想。人間が肉体・物質世界から浄化され自分が神であることを認識するこ
とで救われると説く。グノーシス主義。」とある。
グノーシス主義についての研究で知られる大貫(2000)は次のように述べている。
グノーシス主義は古代末期の地中海世界に現れた宗教思想の一つである。それは伝
統的な都市国家や民族文化という根を失って、今や広大無辺な世界の中に分断された
個人として放り出された人間たちが、新しい自己定義を求めて挙げた懸命な叫びであ
る。この意味で、グノーシス主義が世紀末の現代日本社会に対してもつ親和性は、積
極的か消極的かを問わず、極めて大きい。xiii
グノーシスとはそもそも認識や知恵といった意味を持つ言葉であり、独自の救済神話を有
している。人々は知恵によって真の神の世界に辿り着ける、あるいは自分自身が真の神と
なって光を放つ存在になるというものである。
やはり似通ったところがあるからか、ニューエイジに関する書籍の中でもグノーシス主
義は度々登場する。しかしこれには誇大妄想のように自分は神であると思い込む危険性が
あり、悪魔崇拝につながりかねない。ローマ・カトリック教会系のキリスト教徒にとって
は、異端のグノーシス主義の要素を持つニューエイジは眉唾ものだったのかもしれない。
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日本のアニメについて
(1)ニューエイジ的なアニメの歴史と分析
さて、筆者はこの論文の最初に、日本で制作されたアニメには、核や未知のエネルギー
の暴走による惨劇、人間の科学至上主義への報復、霊的な存在の尊重、肉体からの脱却や
超越、既存の体制へのテロリズム、善悪など固定された価値観の逆転(あるいは絶対的な
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価値観の否定)、既存の社会(または世界)の破壊や再構成、新世界の創造などといった要
素が、アニメ初期からバリエーション豊かに受け継がれてきたものであるということを主
張した。
まずはこれらの要素が日本のアニメの中にどのように受け継がれてきたかを追っていこ
う。とりあえず、ニューエイジが盛り上がるようになった時期と重なる 1970 年~1980 年
までの四点のアニメを紹介し、少々の分析を行う。
『海のトリトン』に見る善悪逆転
1972 年に放送されたアニメに『海のトリトン』というものがある。捨て子だった少年ト
リトンは、ある日言葉を伝えてくる白イルカによって、トリトン族の最後の生き残りであ
ることを伝えられる。そして七つの海を支配し暴虐の限りを尽くすポセイドン族と戦う運
命にあることを告げられ、トリトンは父母の仇でもあるポセイドン族を倒すために旅立つ。
トリトンは紆余曲折を経て、強力なオリハルコンの剣を武器に少年漫画らしくポセイドン
族と戦い、どんどん強くなっていく。そうしてついに海底にあるポセイドン族の本拠地に
乗り込むのだった。
しかし最終回において、物語は大きな逆転を迎える。実はポセイドン族は、かつて人身
御供として海底に追いやられた人々であり、プラスのオリハルコンの輝きを太陽として
細々と暮らしていたのである。トリトン族の持つマイナスのオリハルコンの短剣が近付く
とプラスのオリハルコンが動いて太陽を失い、ポセイドン族は滅びてしまう。それを避け
るために戦闘要員を送り出し、トリトン族を近づけまいとしていたに過ぎなかったのだ。
それを知らなかったトリトンはポセイドン族から警告を受けながらも、結果的にプラスの
オリハルコンを動かしてしまい、一万人の非戦闘員のポセイドン族を殺してしまう。その
中には子どもを抱いた女性もいた。そこで初めて、トリトンは真実を知ることになる。ポ
セイドン族は海の平和を乱す悪であり、自らをその悪に対抗する善であると信じて疑わな
かったトリトンは半狂乱に陥ってしまい、物語は完結する。xiv
このアニメには早くもニューエイジで話題となっていた問題と共通する要素を扱ってい
る。使い方次第でオリハルコンは太陽にもなるし、大勢の人を殺す剣にもなる。これは核
兵器や未知のエネルギーの暴走を危惧する要素といえるだろう。また善悪というような固
定された価値観も逆転するし、トリトンがポセイドン族を滅ぼしてしまったのは、世界の
破壊という要素に繋がる。
『キャシャーン』に見るエコロジーと救世主の悲哀
1973 年に放送された、アニメ業界に台頭していた竜の子プロダクションによるアニメ『新
造人間キャシャーン』にも、こういった面は見られる。この作品世界では公害問題が深刻
化しており、科学者である東博士がこの解決のために、公害処理用アンドロイド BK-01 を
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造り出す。しかし落雷によって BK-01 の電子頭脳が書き換えられてしまい、公害を引き起
こした人間こそが、公害処理にとって最も害悪であると判断するようになる。BK-01 はブ
ライキング・ボスと名乗り、ロボットを大量生産しアンドロ軍団を結成して人間に反旗を
翻す。人間は奴隷であったはずのロボットたちによって反対に奴隷にされたり殺戮された
りして、存亡の危機に追い込まれる。これに対抗するため、東博士の一人息子である鉄也
が自ら新型のアンドロイドに魂を移し変え、新造人間キャシャーンとしてロボット犬フレ
ンダーとともにアンドロ軍団と戦うことになる。
キャシャーンはロボットを素手で破壊できるほどの戦闘力を持ち、しかも頑丈な不死身
のヒーローである。しかしながらそのボディには多くの欠陥があり、またキャシャーン自
身も自分が人間ではなくアンドロイドであることに苦悩し、同胞である人間に忌み嫌われ
ながらも人間のために戦い続けることになる。ロボットが制圧した地域は自然が回復する
一方で、人間が生活する場所は環境破壊が進んでいるという皮肉な描写もされており、善
悪を単純に二分できない複雑さを持っている。
このアニメはエコロジーを題材としているし、また肉体からの脱却によるヒーロー化と
いう要素もある。人間の世界を救う救世主になるという点も、グノーシス主義的である。
しかしそれは必ずしも素晴らしいものではない。肉体からの脱却をしたり救世主になった
りしても、次の苦しみがあるのだ。物語の中でキャシャーンは悲壮感をもって孤独にアン
ドロイド軍団と戦い続けるのである。
ロボットが人間を公害の原因として排除しようとするのは、既存の体制へのテロリズム
に通じる。ロボットによって反乱を起こされるというのは、古典 SF からよく用いられるテ
ーマであり、別段珍しくもない。しかし特異なのは、このアニメにおいてロボットは人間
のように感情豊かで実直な存在であるということである。実際にブライキング・ボスはペ
ットロボットを可愛がったり葉巻を吸ったりと、人間を敵視しているはずなのにやたらと
人間の真似をしたがる。人間とロボットが同じように愛嬌があり感情的であるというのは、
日本独特の価値観なのかもしれない。
『機動戦士ガンダム』に見る意識変革とその失敗
1979 年に放送された人気アニメ『機動戦士ガンダム』は、地球連邦政府に対して宇宙移
民で構成されたジオン共和国が独立戦争を仕掛けるというストーリーである。人と人との
戦争が描かれるのは、当時のロボットアニメには珍しいことであった(それまでのロボッ
トアニメはもっぱら宇宙人や怪獣、ロボットといった非人類と人類との戦争が描かれるこ
とが多かったのである)
。このアニメにはモビルスーツと呼ばれる巨大ロボットが登場する
他、ニュータイプという新人類が登場する。主人公のアムロ・レイと宿敵シャア・アズナ
ブルはそのニュータイプであり、作中で様々な活躍を見せる。シャアはニュータイプによ
る人類の革新を目指しており、何度もアムロを同胞に誘い入れようとするが、アムロはそ
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れを拒否し続ける。彼らはその勘の良さのためにある程度の先読み能力があったり、テレ
パシーのような能力が使えたり、サイコミュと呼ばれる特殊な兵器を使用することができ
るが、単なるエスパーというわけではない。かといって明確なニュータイプの定義はなく、
いいかげんであるが、人との共感力というか、理解し合える能力を持った人々として描か
れることが多い。まるで理想的なニューエイジャーそのもののようである。
『機動戦士ガンダム』は以後もシリーズとして連続し、1988 年の劇場版『機動戦士ガン
ダム 逆襲のシャア』において、アムロとシャアの長い対決の物語は一旦完結する。この間
一度は共に戦ったりすることもあったが結局は決裂し、二人は理解し合えないまま最後を
迎える。
『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』で、シャアは宇宙移民を統制し続けようとする地球
連邦政府に反乱の狼煙を上げ、「地球の重力に縛られた人間を解放する」ために小惑星を地
球に衝突させようとする。「人の心の光を見せなければならない」と訴えるアムロに、乗機
の ν ガンダムに内蔵されたニュータイプ専用機器サイコフレームが反応して共振の光を放
ち、小惑星は押し返される。しかしアムロとシャアはそのまま光の中に消え、行方不明と
なる。
ニュータイプは、ニューエイジャーのいう意識変革や進化主義を強く連想させる。しか
しこのアニメにおいては結局ニュータイプによる人類の革新はなされず、またニュータイ
プ同士で理解しあうことすらできていなかった。戦争がなくなることもなく、何度かの終
戦を迎えても、また新たな思想主義を持った組織が現れ、開戦を繰り返す。まるで人類の
意識変革は不可能であると訴えているようである。劇場版においてアムロが「人の心の光」
(実際にはサイコフレームの光であるが)を見せて、その後光の中に消えてしまうという
のも、意識変革に対してどこか否定的なイメージを抱かせる。
『伝説巨神イデオン』に見るチャネリングと肉体からの脱却
『新世紀エヴァンゲリオン』が放送される 15 年前、同じようなテーマを扱い、類似の結
末を迎えたアニメがあった。それが 1980 年に放送された『伝説巨神イデオン』である。
このアニメは、地球出身の少年少女たちがソロ星と呼ばれる植民星において超巨大ロボ
ットであるイデオンを発見し搭乗したことから、地球人と異星人バック・フランとの戦い
に否応なく巻き込まれていくというストーリーである。イデオンは伝説の無限のエネルギ
ーであるイデを搭載したロボットであるため、バック・フランは何としてもイデオンを手
に入れようとする。和解しようにも地球人とバック・フランの間で小さな誤解が重なって
しまい、結局両者は泥沼の戦いを繰り広げていく。39 話で本放送が打ち切られたため、そ
の結末は劇場版である『発動編』で描かれることとなった。
実はイデオンは絶滅した第六文明人によって造られた古代兵器であり、人の意思をエネ
ルギーに変換するイデ・システムによって稼動する。伝説の無限のエネルギーの源は人の
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意思だったのである。しかしそれは予想以上の能力を発現し、暴走すると人類の意思を肉
体から切り離してしまう。第六文明人が絶滅したのはこのためである。イデは切り離した
人類の意思を一つの場に閉じ込め、そこで統合された人類の意思は永遠不変の存在となる。
そして物語の中で、やがてイデ自体が自分の意思を持つようになる。イデオンが生存する
ためには、人と人との協調と友愛をもった関係が必要となる。その関係にある人類の意思
こそが、イデオンにとって最良のエネルギーとなるのである。イデは結局、現人類にはそ
の関係の生成が不可能と判断して、地球人とバック・フランの意思を肉体から切り離して
絶滅させ、新たな人類の生成へ向けて眠りにつくのだった。
人の意思、特に協調と友愛をもった関係のもとに生み出されるものがエネルギーになる
という設定は興味深い。このアニメの結末に、肉体から切り離された人類が宇宙空間のよ
うな不思議な空間に裸で集まり、多幸感に包まれながら交信し合う、という場面が描かれ
る。これはまさにニューエイジャーたちが掲げていたテレパシーやチャネリングなどの霊
的な目覚めに通じるものがあるだろう。前述の小林(2011)の幻覚妄想における交信の場面が
思い出されるが、しかしこのアニメの中でそれは必ずしも幸福なものとしては描かれてい
ない。争いを止められず、いつまでもわかりあえない人類はイデオンによって滅ぼされ、
永遠に魂を閉じ込められるのである。登場人物たちにとっては幸福だったのかもしれない
が、それは結局人類のイデオンに対する敗北を意味する。人類は争いを止めて意識変革を
行う前に「そんなことはできっこない」と強大な力によって滅ぼされ、結果的にニューエ
イジャーたちが求めていた姿に変えられてしまうのである。
ニューエイジャーたちが求めていたのは、もっと明るく肯定的なものだったはずである
が、アニメの中ではすでにそれに対する疑問が投げかけられていたことになる。アニメ制
作者たちが何を思ってこのアニメを制作したのかは不明な点が多いが、結果的にはニュー
エイジ的思想を懐疑的・否定的に描いていたことになる。
以上四点のアニメを紹介したが、当時子ども向けとされていたアニメの中にも、ニュー
エイジと共通する要素が実に様々な形で表現されていたことがわかるだろう。次に紹介す
るもう一点のアニメは 1990 年代末と年月が大きく飛ぶが、実際に世紀末を目前に控えてア
ニメの中のニューエイジ的思想はどう変わったのだろうか。このアニメはいわゆる「おた
く」向けのアニメであり、その内容はかなり難解でかつ独特の世界観を有しており、現在
でもファンの間で様々に解釈が行われているものである。
『serial experiments lain』に見るグノーシス主義と真の神の世界
本作は 1998 年に深夜枠で放送されたテレビアニメである。当時はまだ珍しかったデジタ
ル技術を駆使してアニメーションを制作しており、また本作は様々な意味で「実験作」的
な意味合いが強く、映像的にも内容的にも随所に意欲的な試みがなされている。さらにこ
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の作品の驚くべきところは、まだインターネットはおろかコンピュータでさえ一般家庭に
それほど普及していなかった時代に、プライバシー流出やネット依存、コンピュータウィ
ルスなどの危険性を描くなど、現在のような高度な情報化社会の状況を予言し的中させて
いたことにある。その話はここではそれほど重要ではないと思われるので、割愛する。
さて、ストーリーは次のとおりである。ワイヤードという電脳世界的な空間にアクセス
できるコミュニケーション用コンピュータ端末「NAVI」(ナビ)が普及した時代、中学生の
少女岩倉玲音はある日、自殺した四方田千砂からメールを受け取る。そこには「私は肉体
を捨てただけ」「ここ(ワイヤード)には神様がいる」という内容が書かれていた。四方田千
砂のメールの言葉に興味を持ち、玲音は父に相談して大型の「NAVI」を手に入れるが、そ
れ以来ワイヤードに「もうひとりの玲音」が現れるようになる。そしてさらに奇怪な事件
に巻き込まれていくのである。
この作品に登場するワイヤードという空間は、我々の世界でいうインターネットのよう
な世界であるが、インターネットよりもあいまいで、はるかに現実への影響力を持ってい
る。一方でリアルワールドとは、現実世界のことである。物語が進む中で、どうやら死者
の魂もそこにあるらしいことがわかってくる。ワイヤードで起こった出来事はリアルワー
ルドに影響をもたらす。たとえばワイヤード上である事件について書き換えると、リアル
ワールドでもその事件について変化が現れる、といった具合に。そして玲音はなぜかワイ
ヤードにアクセスして過去を書き換えられる能力を持っており、しばしばリアルワールド
の時間をループさせたり、実際の事件をなかったことにしたりする。
物語の終盤にデウス(神)を名乗る人物が現れる。彼はもともと人間であり、ワイヤー
ド上に神としての人格をつくってから自殺した。玲音の生みの親を自称する。彼の目的は
リアルワールドとワイヤードを統合し、人間を肉体に縛られない自由な存在にすることで
あった。そのために玲音を生み出したのだという。
肉体の脱却、自由な魂の解放というのはニューエイジにも含まれていた要素であるし、
玲音が行うワイヤードでのコミュニケーションも、チャネリングを連想させる。
さらに玲音は、複数の人格を持っており、玲音自身はそれを当初自覚していなかった。
脚本集xvによると、それらの人格は玲音(弱気な性格)、レイン(ワイヤード上の強気な性
格で、強力な能力を持っている)、れいん(悪魔的な性格。人の秘密を暴露する)
、lain(神
のような普遍的な存在)に分かれている。物語の終盤で、最終的に幾つかの人格は玲音に
統合されることになる。
玲音の正体はもともとワイヤードに存在していた元型のような存在であり、デウスによ
ってその一部を拾われ、肉体を与えられていたに過ぎなかった。玲音は終盤にデウスを否
定してワイヤードに戻り、自ら神のような存在となる(本人は神ではなく、「多くの人の中
に偏在する存在」と言っている)。そして玲音は、自分と関わることで不幸に陥ってしまっ
た人々を救うために、ワイヤードの記録を書き換えてリアルワールドから自らの存在を抹
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消し(人々の記憶から自分についての記憶を消し去る)、観測者として世界の行く末を見守
る立場になる。この辺りはグノーシス主義的な要素が強く感じられるだろう。玲音は世界
の真実を知ることで偽りの神を否定し、自らが真の神(厳密には違うらしいが)であると
いうことを認識して、世界を救済するのである。
それと前後して、この世界観についても、実はリアルワールドはワイヤードの生み出し
たフィクションであるということが見えてくるようになる。リアルワールドがワイヤード
を生み出したのではなく、ワイヤードという上位の世界を発見したに過ぎなかったのであ
る。ここに価値観の逆転が起こる。しかしそれだけではない。リアルワールドで生きる人々
もワイヤードが生み出したフィクションであるため、極端にいえばワイヤードの元型のよ
うな存在である玲音の多様な面のコピーに過ぎない。玲音は真の世界には自分以外に誰も
存在しないということを悟るのである。最終的に玲音はその事実を受け入れ、永遠にワイ
ヤードからリアルワールドを孤独にただ見守り続ける。
やはり世紀末が迫っていただけあって、この作品にはニューエイジ的な要素がかなり見
つけられるのだが、それらは決して明るく肯定的には描かれていない。ただ玲音は別にそ
の結末を嘆いたり悲しんだりはせず、悟ったように受け入れるのである。まるでアニメ制
作者たちが「人々がニューエイジに求めていたのは、要するにこういうものではないか」
との答えを導き出したかのようである。それは必ずしも肯定的ではないが、否定的という
わけでもないのかもしれない。
これらのように、やはり日本のアニメにはニューエイジ的な要素が好まれているものの、
ニューエイジ的な思想自体には懐疑的、否定的であることがわかるだろう。次は日本の近
代史と絡めて、なぜアニメにそのような要素が盛り込まれるようになったかを考察する。
(2)日本の近代史と絡めて
日本はかつて第二次世界大戦の折、神の国と称して、国民に絶対的正義を信じて疑わせ
なかった。しかし結果的には原子爆弾を二度も落とされ降伏し(しかも原子爆弾はウラン
型とプルトニウム型の二種類で、半ば兵器実験的な意味合いもあった)、GHQ によって占
領される。極東国際軍事裁判によって戦勝国に一方的に戦争犯罪を追求され、国民は自国
が悪の国であったとの認識を与えられるという逆転の経験をすることになる。さらに現人
神として崇められていた昭和天皇も「人間宣言」を発し、神の国日本は死を迎えた。
その後日本人は失ったものを取り戻そうと、復興のためにしゃにむに働き始める。やが
て高度経済成長期が訪れて世界に例を見ないほどに成長し、海外からエコノミック・アニ
マルと揶揄されるほどの働き振りを見せた。日本はどんどん豊かになり、時には先進国を
追い抜くこともあった。かつて不良品の代名詞であったメイド・イン・ジャパンは今や高
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品質を保証する代名詞へと変わり、世界に名を馳せる日本企業も多く登場した。ついには
「日本はもう海外に学ぶことはない」とその傲慢さを露にすることほどであった。
そして日本人が最もよく働き、最もよく遊んだと言われるバブル景気が崩壊してから、
日本国内の空気は一変し、国民は失意の中に落ちていった。阪神淡路大震災やオウム真理
教による一連の事件などはその終末観に拍車をかけた。世紀末が近付くと、一部でノスト
ラダムスの大予言も話題となり、注目を集める様々な事件も発生した。以後は不景気が続
き、二十一世紀を迎えてしばらく経った今もその暗雲が晴れる見込みはない。
このように日本は戦後失意の中から再出発し、一度は輝かしいまでの復活を遂げるが、
その後再び失意の中に落ちるという激しい浮き沈みを経験した。その度に絶対的だった価
値観は揺らぎ(これはニューエイジにとっても最も重要なきっかけの一つである)、柔軟な
対応や発想の転換を強いられてきた。日本のアニメが海外のアニメと比べてあらゆる特殊
な側面や強いメッセージ性を持っているのは、こういった経緯があるからだろう。
日本のアニメ業界を引っ張ってきたのが、虫プロダクションを設立してテレビアニメの
基盤を築いた手塚治虫や、『機動戦士ガンダム』『伝説巨神イデオン』などの人気作を手掛
けてきた富野由悠季、スタジオジブリの宮崎駿ら戦中世代だったことも大きい。敗戦など
によって価値観が逆転した経験があったからこそ、日本のアニメにはたとえ子ども向けの
作品であっても絶対的な勧善懲悪の物語はそう多くないし、むしろ善悪が逆転するという
ストーリーが散見する。主人公は必ずしも正義を行っているとはいえないし、むしろそれ
は誰かにとっての悪であるかもしれない。ハリウッドのヒーローのように爽快感をもって
悪を倒し、人々から賞賛され、ハッピーエンドを迎えることということも少ない。日本の
アニメにおけるヒーローはその多くが孤独で悲壮感を漂わせている。強力な武器や最新の
技術が用いられた装置は時として大きな被害をもたらし、科学は必ずしも主人公の頼れる
相棒とはならない。ただ強い使命感や情熱あるいは霊的な才能のみが主人公に味方するが、
それも時に害をもたらす。そうして紆余曲折を経ながら複雑に物語が展開していくという
のが大体である。まるで世界には絶対的な価値観はなく、時としてあやふやで怪しいもの
に頼らざるを得ないということを、当初のアニメ視聴者層だった子どもたちに教え諭して
きたかのようである。アニメの世界は、ニューエイジ的な思想にはうってつけの土壌がで
きていたのかもしれない。
4
全体的な考察
日本のアニメの世界において描かれる善悪など固定された価値観の逆転や体制へのテロ
リズム、霊的なものの重視などは、決して珍しいものではない。アニメに限らずフィクシ
14
ョンの世界ではよく用いられるテーマであるし、ニューエイジが興るずっと昔から存在し
ていたものである。ニューエイジに興味がなくても SF やファンタジーのストーリーを好む
人は大勢いるし、それは特別なことではない。特異だったのは、ニューエイジが盛況して
いた時代にニューエイジと共通する要素あるいはニューエイジを連想させるアニメが大量
に制作されていたという事実である。
今振り返ってみると、ニューエイジは時代そのものがファンタジーだったといっても過
言ではないだろう。人々が意識変革や霊的な目覚めを経てより高次の存在となり、新時代
をつくっていく。そんなファンタジックな理想に多くの人々が関心を持ち、思いを馳せた
のである。ニューエイジは、オルタナティヴな世界の物語を追い求め、それを現実のもの
にしようとした人々の共同幻想であったともいえる。
アニメの制作者たちが何を思い、どう考えて数々のアニメを世に生み出してきたのか、
その全てを把握することはできない。もしかしたらニューエイジなどは全く興味の対象外
だったかもしれないし、制作に忙しくてそれどころではなかったかもしれない。しかし多
くの人に支持されるような作品を制作するためには、豊かな創造性だけではなく深い教養
やトレンドへの敏感さも必要となる。そう考えると彼らは一般の人々以上にニューエイジ
に関する書籍を読み漁り、思考し、それを題材として積極的にアニメに取り入れたのかも
しれない。
いずれにせよ結果的に多くの日本のアニメにニューエイジ的な要素が含まれることとな
ったし、今でもそれは続いている。彼らはそういったアニメを制作し放送することによっ
て、このニューエイジについてともに考えようとしていたのではないか、とすら思える。
ニューエイジャーたちが追い求めていたオルタナティヴな世界の物語は、アニメの中に描
かれていたのである。
おそらく今後もニューエイジ的な要素はアニメの重要な題材として好んで使用されるだ
ろう。ニューエイジャーたちが求めたオルタナティヴな世界の歴史や世界観は、確かに一
部のアニメの中で生き続けており、その発するメッセージはアニメの視聴者に受け止めら
れる。アニメの中に生きるニューエイジ的思想は、決して幸福でも肯定的でもないかもし
れない。アニメの視聴者は、アニメを通して真に我々が必要とするものは何なのか、考え
させられるのである。
5
おわりに――これからのアニメとニューエイジ
前述した通り、アニメにおけるニューエイジ的な動きは未だ続いている。
2011 年に放送された『魔法少女まどか☆マギカ』は、魔法と少女というアニメの世界で
15
は使い古されたテーマを題材にしながらも、その枠に縛られない悪夢的なビジュアルを用
いたハードな作風で、SF 的な要素も含んだ神話性を演出し、巧みな宣伝戦略も功を成して、
一躍話題となった。インターネット上はおろか、コンビニや電車、新聞の中でもこのアニ
メの名前は頻繁に登場し、普段アニメを視聴しない人でさえファンに引き込まれることが
あった。さらに同年、タイムスリップ(過去に遡って未来を変えるなど)の要素を持った
作品が多く登場し、しかもそれらの放送時期が奇しくも関東大震災や原発事故と重なった
りしたという事実も、ユングの唱えた共時性や集合的無意識を連想させる。
2011 年を締めくくるアニメとなった『輪るピングドラム』は、物語の随所に謎が隠され
ており、その謎がさらに謎を呼ぶといった精巧なミステリーに仕立て上げられていたため、
放送中はおろか放送後もインターネット上に考察記事が蔓延した。ピクトグラムなどの象
徴表現を多用して独特な世界観を演出するなど、映像的にも特異な作品だった。この作品
のテーマはいたって単純な「愛」であったのだが、しかしそれゆえに複雑な物語が展開さ
れていた。登場人物は誰しも愛に飢えており、愛の対象に選ばれないことは子どもたちに
とって死を意味していた。
「95」という数字をキーワードに、オウム真理教をモデルにした
と思われる革命団体やその家族が登場するなどした本作は筆者にとって、ニューエイジと
は何だったのかということを、もう一度問い直しているような感じを受ける。
もう余裕もないので上記の二作品xviについては詳しく触れられないが、筆者が見た限りど
ちらのアニメもニューエイジ的な要素が色濃く現れており、結末もグノーシス主義的で、
とても興味深かった。おそらくそう遠くないうちに、上記のアニメを臨床心理学や社会学、
経済学などの視点から分析した論文が登場するだろう。あるいは、すでに登場しているか
もしれない。
筆者はこの論文の中で幾つかのアニメに対してニューエイジ的な視点で少々の分析を行
ってきたが、これらはあくまで「そういうふうに見ることもできる」という一つの解釈を
提案したに過ぎず、作品の意味や見方を固定するものではないということを強調しておき
たい。アニメはそれを視聴した人によって自由に受け取られるべきものであり、人それぞ
れ自由な解釈があっていいという個人的な思いがあるからである。
インターネット環境が整備され、パソコンやスマートフォンなどの高度な通信機器が一
般化しつつある今、YouTube やニコニコ動画などの動画サイトでアニメを視聴するのは難
しいことではない。ギャグを多用した軽いストーリーのものから、重苦しい空気の難しい
ストーリーのものまでバリエーション豊かな日本のアニメは、思春期にある中高生たちは
おろか、成人でさえ夢中になることがある。
今の時代に「アニメ」と聞いて眉をひそめる人は、以前ほど多くはなくなっただろう。
アニメは子どもが見るもの、という固定観念を払拭しつつある日本のアニメは、海外です
ら多くのファンを獲得するに至っており、日本のアニメについて語り合うインターネット
16
上のファンサイトも多数存在する。
もはやアニメは子どもや「おたく」と呼ばれていたごく一部の人々だけのものではない。
いずれは今よりも多くの人々に受け入れられる媒体となるだろう。そしてアニメが人々や
社会に与える影響力も大きくなっていくだろう。ましてニューエイジ的な要素を持ったア
ニメならば、やはりニューエイジ的な思想を影響として与えるのだろうか。今後新たなニ
ューエイジの潮流が訪れた時、アニメはより多くの人々をニューエイジ的な思想に誘い込
むものとなるだろうか。筆者はそうは思わない。アニメがニューエイジを題材としながら
もその思想自体には懐疑的・否定的な面を持っていたことは本論文でしばしば指摘したし、
ニューエイジ自体がファンタジーであったのだから、多くの人はファンタジーを視覚的・
聴覚的に表現した媒体であるアニメを視聴することで満足するだろう。しかしこれは単に
筆者がそう思っているだけで、本当のところはどうなるのかわからない。実際にそのよう
な状況が来てみなければ何もいえないのである。
さてどうなるだろうか、少し楽しみである。
本論文を作成する中で、何度か方向性について検討し直したりしたので、結果的に不備
な点が多くなってしまったかと思う。努めて冷静に、客観的な見解の下に作成しようとし
たが、筆者の思いよらぬ様々な場所で(特にアニメの分析に関しては)主観が入り過ぎて
しまったかもしれない。論文として一貫性が保たれているかどうかも少々疑問に感じると
ころである。まだまだ書き足りないというのが本心であるし、いつかこの論文を再構成し、
完璧なものに仕上げたいとも思うが、とりあえずはこれで筆を擱きたい。
最後に、2012 年度人間学演習1の担当教員である森岡正博教授をはじめ、当該講義を受
講していた学生の皆様には、本論文を作成するにあたって貴重なご意見、ご感想を頂いた
ため、ここに深く感謝の意を表す。特に筆者にニューエイジやニューサイエンスといった
視点を与えてくださった森岡正博教授には格別の感謝を申し上げたい。ニューエイジに関
する書籍はどれも面白く感じられ、楽しんでこの論文を書き上げることができた。
17
脚注
オトナアニメ編集部 2012
2012』洋泉社 を参照。
i
ii
『洋泉社 MOOK 別冊オトナアニメ オトナアニメ年鑑
『新世紀エヴァンゲリオン』を分析心理学的な視点で分析した書籍に、西村則昭
『アニメと思春期のこころ』創元社
iii山口康夫
2004
がある。
2004 『日本のアニメ全史
世界を制した日本アニメの奇跡』テン・ブックス、
125 頁を参照。
iv海野弘
v
1998 『世紀末シンドローム
ニューエイジの光と闇』新曜社、244 頁
当時のユングに関するニューエイジ系の文献には、コリン・ウィルソン
1985
vi
店
vii
viii
『ユング――地下の大王』
この経緯については、河合隼雄
河出書房新社
安田一郎訳
などがある。
1994 『河合隼雄著作集第 11 巻
宗教と科学』岩波書
に詳しい。
同上、ⅷ~ⅸ頁
ライアル・ワトソン
1981
木幡和枝・村田恵子・野恵津子ら訳:
『生命潮流 来たるべ
きものの予感』工作舎、10 頁
ix 同上、22 頁
x小林和彦
2011
『ボクには世界がこう見えていた ―統合失調症闘病記―』新潮社、127
頁
ミックというのは小林の親友の愛称である。
同上、131 頁 精神神経科を退院した後も、小林はニューエイジを牽引した一人であるコ
リン・ウィルソンの著書を愛読し、ますますニューエイジ的な思考を研ぎ澄ましていくこ
とになる。
xi
xii圓光寺「悪の問題」http://ww4.tiki.ne.jp/~enkoji/akunomondai.html
(2012 年 8 月 25
日 確認)やカトリック六甲教会「ニューエイジの挑戦 – 六甲カトリック教会」
http://www.rokko-catholic.jp/Training/tuesdayclass/tuesdayclass-rejime-12-16.htm
(2012 年 8 月 25 日 確認)を参照。
xiii大貫隆
2000 『グノーシス考』岩波書店
xiv岩宮恵子
ⅴ頁
2012 「思春期と喪失 ~「海のトリトン」から考える~」
『児童心理 1 月号 第
66 巻第 1 号 《特集》規範感覚を育てる』深谷和子[編] 金子書房
116~122 を参考にま
とめたものである。
xv小中千昭
1998 『scenario experiments lain the series』ソニー・マガジンズ を参照。
xvi オトナアニメ編集部
2012 『洋泉社 MOOK 別冊オトナアニメ オトナアニメ年鑑
2012』洋泉社 においてこの二作品のアニメが特集されているので、是非参照してほしい。
18
文献一覧
2012 「思春期と喪失 ~「海のトリトン」から考える~」
『児童心理 1 月号 第
岩宮恵子
66 巻第 1 号 《特集》規範感覚を育てる』深谷和子[編] 金子書房
海野弘
1998 『世紀末シンドローム
大貫隆
2000 『グノーシス考』岩波書店
オトナアニメ編集部
ニューエイジの光と闇』新曜社
2012 『洋泉社 MOOK 別冊オトナアニメ オトナアニメ年鑑 2012』
洋泉社
1994
河合隼雄
『河合隼雄著作集第 11 巻
コリン・ウィルソン
1985
宗教と科学』岩波書店
安田一郎訳:『ユング――地下の大王』
2007 「31 地下鉄サリン事件」
『近代日本の転機
小風秀雄
河出書房新社
昭和・平成編』鳥海靖編著
吉川弘文館
小中千昭
1998
『scenario experiments lain the series』ソニー・マガジンズ
小林和彦
2011
『ボクには世界がこう見えていた ―統合失調症闘病記―』新潮社
中西寛
2010
「第十三章
戦後日本と日米関係
近世・近現代編』藤井讓治・伊藤之雄編著
新村出[編]
第Ⅱ部
日本の近現代」『日本の歴史
ミネルヴァ書房
2008 『広辞苑 第六版』岩波書店
西村則昭
2004
『アニメと思春期のこころ』創元社
山口康夫
2004
『日本のアニメ全史
ライアル・ワトソン
1981
世界を制した日本アニメの奇跡』テン・ブックス
木幡和枝・村田恵子・野恵津子ら訳:『生命潮流 来たるべき
ものの予感』工作舎
圓光寺「悪の問題」http://ww4.tiki.ne.jp/~enkoji/akunomondai.html
(2012 年 8 月 25 日
確認)
カトリック六甲教会「ニューエイジの挑戦 – 六甲カトリック教会」
http://www.rokko-catholic.jp/Training/tuesdayclass/tuesdayclass-rejime-12-16.htm
(2012 年 8 月 25 日 確認)
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