校 歌 作詞 寺田 彰司 目 次 会長挨拶 ︰︰︰︰︰︰︰︰︰ 年度総会案内 ︰︰︰︰︰︰︰ 7 ︰︰︰︰︰︰︰︰ 4 ︰︰︰︰ 4 年度総会報告 ︰︰︰︰ 3 校長挨拶 ︰︰︰︰︰︰︰︰︰ 平成 平成 同窓会便り 母校の想い出 ︰︰︰︰︰︰ ︰︰ ︰︰︰︰︰︰︰︰︰ ︰︰︰︰︰︰︰︰︰ ︰︰︰︰︰︰︰︰︰ 母校と私の人生 多士済々 トピック 進路状況 先輩の語る仕事を聴く会 部活動状況 ︰︰︰︰︰︰︰︰ 教室から ︰︰︰︰︰︰︰︰︰ ハワイ島海外研修報告 ︰︰︰ オーストラリア夏期海外研修 ︰︰ 部活動奨励金贈呈式 ︰︰︰︰ ︰︰︰︰︰︰︰︰︰ ︰︰︰︰︰︰ ︰︰︰︰︰ 編集後記 ︰︰︰︰︰︰︰︰︰ 生活体験発表大会 進路ガイダンス てーじ庵 ︰︰︰︰︰︰ 19 第三回旧職員会 19 一 千秋の雪積もりたる 富士の高嶺の雄姿ぞ 幾万代の後までも 変わらぬ誠の鑑なる 二 奔流百里石をかみ 巌に激しいや増しに 勢加わる利根の水 これ剛健のためしなり 三 あゝ此の山と此の川と 日夕眺むる健男児 自然の示す巨人をば 如何に学ばん習わなん 四 白幡台の雪月花 四季の折々常総の 平野にしるく輝くは 高潔無垢の別天地 五 石段登る六十余 一足ごとに踏みかため 心を鍛え身を練りて 忠良有為の基たてん 白幡同窓会事務局 〒301-0844 龍 ケ 崎 市 平 畑 2 4 8 TEL 0297-62-2146 FAX 0297-62-9830 ホ ー ム ペ ー ジ http://www.shirahata.sakura.ne.jp メールアドレス [email protected] 印刷所:倉沢印刷㈱ 題字:秋山海堂(中 21) 表紙写真:野球全校応援 ひたちなか市民球場(H 28.7.12) 竜ヶ崎第一高等学校内 2 2 12 15 15 17 18 19 18 28 29 19 20 20 20 20 20 2016 年(平成 28 年)12 月発行 竜ヶ崎一高白幡同窓会会報(第28 号) (1) ご挨拶 ことをとても嬉しく思いました。 後輩の皆さんの活動に関して にまつわる話題を取り上げてくれ ました。各県一校という中で、本 県からはわれらが母校が選ばれた がよく見えるように、櫻井篤美校 外幹事が中心となって鋭意進めて います。 会報も年内には皆様のお手元に お届けすることができるようにな りましたが、内容も年々充実して きています。ご協力に感謝いたし ます。 六月の白龍祭には、今年も同窓 生有志が参加して餅つき大会を行 白幡同窓会会員の皆様にはご健 いました。お揃いのポロシャツを 勝にてご活躍のこととお慶び申し 誂えたのでたいへん人目を惹きま 上げます。 した。売上金は熊本大地震で被災 日頃本会並びに母校の充実発展 された方々のために役立てていた のために深いご理解と温かいご支 だくよう学校側に委託しました。 援を賜り心から感謝申し上げま 今年は野球部が夏の県大会準々 す。 決勝まで進む活躍をしてくれまし 本年は四月二日︵土︶の同窓会 たが、球場でも例のポロシャツを 総会開催となりましたが、今回も 着た一団が熱い応援を繰り広げて 総会に先立ち、在校生の吹奏楽部 いました。 による演奏と応援団及びチアリー 八月末には神奈川に出かけ、湘 ダーからのエールで総会を盛り上 南高校と小田原高校の同窓会活動 げていただきました。 の様子を伺ってきました。だいぶ 総 会 に お い て は、 招 待 学 年 の 充実した活動をしており、たいへ 高 十 九 回 生、 高 三 十 四 回 生、 高 ん参考になりました。対応してく 四 十 九 回 生、 高 五 十 九 回 生 並 び に 定 時 制 十 五 回 生、 三 十 回 生、 ださった両校の役員や事務局の皆 さんには心から感謝いたします。 四十五回生、五十五回生の出席者 九月に入って、毎日新聞が首都 の 皆 さ ん に 陶 芸 家 植 竹 敏 氏︵ 高 圏版の﹁母校をたずねる﹂シリー 二十七回︶作製の湯呑みを記念品 ズで、竜ヶ崎一高の卒業生や一高 としてお贈りしました。総会の審 白幡同窓会会長 染谷 信洋 議・承認事項等については﹁総会 報告﹂欄をご覧ください。 今年度は活動の柱の一つとし て、ホームページを立ち上げるこ とにしました。同窓会の活動状況 ご挨拶 は、折にふれ校長先生はじめ職員 竜ヶ崎一高は今年創立百十六年 ます。また、 ﹁失われた二十年﹂ の皆さんからご案内をいただいて 目ですが、百二十周年に向けて学 と呼ばれる経済の長期低迷、少 おります。先生方の熱心なご指導 校側と連携をし、皆さんのご支援 子 高 齢 化 に よ る 人 口 減 少 な ど、 に、心から敬意を表する次第です。 ご協力をいただきながら方向性を 日本は過去に経験したことがな 本会では、関東大会以上の大会 考えてまいります。どうぞよろし い多くの重大な困難に直面して に出場する生徒に対して﹁奨励金﹂ くお願いをいたします。 おり、新しい時代に向けた課題 を贈呈していますが、ライフル射 結びに、会員の皆様のますます 解決が今後益々必要となってき 撃で浅井優太君が全国大会で優勝 のご多幸ご活躍と母校のさらなる ています。 してくれたのをはじめ、皆さんが 充実発展をご祈念申し上げ、ご挨 昨年の六月に、公職選挙法等 期待に応えて活躍してくれ、たい 拶といたします。 の一部を改正する法律が成立し、 へん嬉しく思っています。 公布され、本年六月十九日施行 となりました。選挙権年齢が満 残っておられ、大変心強く思っ 十八歳以上に引き下げられたこ ております。また、勤務二年目 とを踏まえて、高校生の間から の三月は歴史的な大震災に見舞 有権者となりうる高校生世代が、 われた年でもありました。そし これまでの歴史、つまり今まで てその四月には、混乱のさなか 受け継がれてきた蓄積や先人の 後ろ髪を引かれるような気持ち 取り組みや知恵といったものを で新任地に異動したのもちょう 踏まえ、自分が暮らしている地 どこの年でした。しかし、再び 域の在り方や日本・世界の未来 本校に戻ってみると、すっかり 文武両道の実現を目指して について調べ、考え、話し合う 震災の傷跡もきれいに元通りに 染谷信洋会長をはじめといた ことによって、国家・社会の形 なり、とても嬉しく思いました。 成者として現在から未来を担っ しまして、白幡同窓会の皆様に 日本社会は、古来より豊かな は、日頃より物心両面にわたり ていくという公共の精神を育み、 自然の恩恵を受ける一方で、抗 まして、本校の教育活動に格別 行動につなげていって頂きたい しがたい自然災害に繰り返し見 のご理解とご協力を賜り、心よ と思います。幾多の困難、災害 舞われる運命にあることを、昨 り感謝申し上げます。 を通して感じたこと、学んだこ 今私達は改めて思い知らされま 私は、今春の定期人事異動に と、得たものを忘れず、これか した。自然と人間との関係、当 より、小沼光一前校長の後任と らの行動に生かすことで、より し て 本 校 に 着 任 い た し ま し た。 たり前と思っていた生活への反 良い社会をつくる一員となって 省、人の命について等、こうし 本校には平成二十一年度から二 くれることを在校生には期待し た経験をいかに自分のものとし、 ています。 年間定時制教頭として勤務して これからの生き方につなげてい おりましたので、七年ぶりの勤 本校は、平成二十二年度に﹁い くか、それが今後問われている 務になります。その当時に在職 ばらき版サイエンスハイスクー 大きな課題の一つであると思い しておられた職員の方も多く ル︵ I S H ︶ ﹂ と し て、 ﹁ 医 学・ 鮏川 光義 校 長 (2) 竜ヶ崎一高白幡同窓会会報(第28 号) 2016 年(平成 28 年)12 月発行 竜ヶ崎一高白幡同窓会会報(第28 号) (3) 2016 年(平成 28 年)12 月発行 総 会 報 告 難関理工系進学コース﹂の指定 学校へ駆け上がっていきたいと ︻本部役員︼ を受けるなど、理数教育の充実 会 思います。さらに、これからの 長 染谷 信洋︵高 ︶ を図ってまいりました。さらに、 日本を担う数多くの優秀な人材 副会長 小倉 培夫︵高 ︶ 平成二十六年度からは、文部科 が 輩 出 で き る よ う 微 力 な が ら、 副会長 大和佐知雄︵高 ︶ 学省﹁スーパーサイエンスハイ 監 職員一丸となり在校生の指導に 事 関口 広行︵高 ︶ スクール︵SSH︶ ﹂に指定され、 邁 進 し て い き た い と 思 い ま す。 監 事 山田 實︵高 ︶ 科学立国日本を担う優秀な科学 顧 同窓会の皆様の更なるご支援と 問 野口武太郎︵中 ︶ 者の育成と世界に通用する人材 ご 協 力 を お 願 い い た し ま し て、 顧 問 齋藤 佳郎︵高8︶ の育成を目指し、大きく躍進し 顧 ご挨拶とさせていただきます。 問 横須賀英明︵高 ︶ ようとしています。このプロジェ クトで実践する協働的探究活動 をとおして、 ﹁主体的に学び続け る力﹂ ﹁チャレンジ精神﹂ ﹁リー 平成二十八年度の白幡同窓 ダーシップ﹂ ﹁問題解決能力﹂ ﹁コ 会総会が四月二日に竜一高体 ミュニケーション能力﹂ ﹁発信力﹂ 育館で開催されました。開会 などの資質や能力を育むことを の言葉に続いて、応援団とチ アリーダーによる校歌と応援 SSH五年間の目標としていま 歌の斉唱。そして恒例となっ す。 た吹奏楽部による演奏披露が 開校一一六年目に入り、 ﹁文武 あ り ま し た。 出 席 者 は ア イ 両道﹂の旗印の下、各部が活気 ガーデン下平での懇親会を含 を呈し、着実に進学および部活 め て 百 十 余 名 で し た。 今 年 動での実績を挙げています。こ の文武両道について、私は職員、 度 の 招 待 学 年 は 高 校 十 九 回、 三十四回、四十九回、五十九 生徒に﹁文と武に努めるだけで なく、さらに秀でることである。 回 と 定 時 制 十 五 回、 三 十 回、 四十五回、五十五回でした。 言うは易く、行うは難し﹂と常 審議・報告事項は次の通りで にお話しをさせていただいてい す。 るところであります。本校の生 一 平成二十七年度事業報 徒であるならば必ずや、その本 告・決算報告 意に一人一人が合致できると信 二 じております。 平成二十七年度会計監査 報告 次のステージである一二〇年 三 の節目に向け、SSHの指定を 平成二十八年度事業案・ 予算案 きっかけに、地域の進学校とい 四 学校概況報告︵進路・部活動︶ うだけでなく、茨城を代表する ︵収入の部︶ 平成 2 7 年度白幡同窓会収 支 決 算 書 収入総額 16,192,312 円 支出総額 10,823,028 円 差引残高 5,369,284 円(平成 28 年度へ繰越 ) 科 本年度 予算額 目 比 本年度 決算額 越 金 10,742,273 10,742,273 2 入 会 金 1,788,000 1,722,000 3 協 力 金 3,200,000 2,983,000 4 雑 収 入 1,727 745,039 15,732,000 16,192,312 本年度 予算額 本年度 決算額 目 66,000 全日制 6,000 円× 273 名= 1,638,000 円 定時制 6,000 円× (12+2) 名= 84,000 円 217,000 460,312 比 較 摘 減 1 事 務 費 530,000 445,756 1 消耗品費 10,000 4,040 2 支払手数料 200,000 171,704 3 印刷通信費 300,000 270,012 4 旅 費 20,000 0 20,000 2 事 業 費 4,490,000 3,747,237 742,763 1 総 会 費 200,000 93,237 2 会報発行費 2,500,000 2,367,206 3 会 議 費 150,000 148,242 4 招待学年 記念品費 0 0 5 卒業記念品費 200,000 157,505 1,000,000 560,000 7 学校行事補助 300,000 281,047 8 国際交流基金 140,000 140,000 3 慶 弔 費 350,000 183,000 4 基金積立金 6,000,000 6,000,000 5 予 備 費 4,362,000 447,035 15,732,000 10,823,028 計 ゆうちょ銀行扱い分 (27.3.7 ∼ 28.3.6) 676 件 1,387,000 円 コンビニエンスストア入金分 (27.3.7 ∼ 28.3.6) 798 件 1,596,000 円 11 回卒業高橋さん(10,000 円)から寄付金 定期預金利息 定期 ① 1189 円 , 定期③ 251 円 , 定期①解約利息 18 円 普通預金利息 381 円,名簿売上 22,500 円 同窓会名簿販売協力金 710,700 円 743,312 増 6 部 活 動 奨励金等 要 平成 26 年度より繰越 内訳 定期① 5,962,998 円 常陽銀行 (H28.3.9 解約) 定期③ 1,254,142 円 水戸信用金庫 会計用 3,525,133 円 常陽銀行 普通預金 要 84,244 5,960 定期残高証明書,高校野球記念誌代 ゆうちょ銀行扱い分 (27.3.7 ∼ 28.3.6) 手数料 79,040 円 28,296 コンビニエンスストア入金分 (27.3.7 ∼ 28.3.6) 手数料 92,664 円 29,988 総会案内用往復葉書・宛名ラベル代 106,763 総会経費補助 132,794 会報 27 号印刷代 (504,468 円) 会報郵送代(1,862,738 円) 1,758 幹事会経費 25 年度に招待学年記念品代 ( 白萩湯呑) 300 個作成 42,495 卒業記念品代 ( 卒業生へ証書用筒) 440,000 ※ 20,000 円+ 5,000 円×出場者人数 (10 万円限度 ) 関東 ( 陸上部,射撃部,ソフトテニス ) 全国(射撃部,ソフトテニス) 18,953 SSH関連事業経費,出前授業生徒交通費,高大連携経費 国際交流補助(平成 26 年度∼ 28 年度) 167,000 餞別金( 27 年度定期異動 12 名) 基金積立金 3,914,965 白幡会館管理室エアコン改修,白龍祭参加経費 △ 4,908,972 10 40 26 26 28 20 15 ︻校外幹事︼ 大野 雅之︵高 ︶ 幹事長 宮本 正俊︵高 ︶ 大野 雅彦︵高 ︶ 副幹事長小嶋 豊︵高 ︶ 福田 道義︵高 ︶ 副幹事長木野内昭治︵高 ︶ 本田 仁子︵高 ︶ 服部 俊夫︵高 ︶ 山崎 睦︵高 ︶ 倉持 正男︵高 ︶ 海田磨起代︵高 ︶ 篠塚 文男︵高 ︶ 横田 ※校内幹事は十五名です。 久︵高 ︶ 櫻井 篤美︵高 ︶ 繰 摘 減 幹 事 ︵支出の部︶ 1 科 較 増 29 28 28 27 25 13 10 10 36 31 31 31 31 30 同窓会便り 高 校 第 七 回 傘寿の同窓会 高 校 第 八 回 高 校 第 九 回 ネルですが兼松さん旧姓寺田は 幹事代表塚本延世氏のもと、 方も多く参加できるよう会場を 作詞者寺田彰司先生のお孫さん 三か年お世話になった恩師、今 東京にしてはという提案。高校 です。 年卒寿を迎えられた齋藤邦彦先 第八回卒の皆さん、再来年の会 この校歌のもと相集う絆は喜 生︵数学、剣道部、バスケット を御期待ください。 び幸せを感じます。お開きの校 部担当︶のご臨席をいただき、 十 月 二 十 九 日︵ 土 ︶ ﹁松泉閣﹂ 歌応援歌は竜一高創立百周年記 において開催されました。女性 念で頂いたCDの伴奏で声高ら 大久保泰夫 七名、男性三十九名が参加、記 かに歌いました。 念撮影の後、木梨孝子さんの司 次回も圧倒的多数の賛同を得 て開催することに決定しました。 会で、物故者に対する黙祷、幹 事代表の挨拶、齋藤先生からご 健康に留意してまた皆で声高ら 挨拶。 かに歌いましょう。 宴会に入ると、七名の女性に 千秋の雪積もりたる⋮と。 囲まれた先生のもとに次々と男 一足先 性も集まり歓談。先生もご満悦 に旅立っ の様子でした。久しぶりに会う た仲間が 同窓同士。自分がすっかり忘れ 八十五名 ていたことを友から話され、友 の多きに 達しまし が忘れていたことをこちらから た。 語るなど、これぞ同窓の集まり。 ご冥福 どなたも笑顔に満ち、実に和や 井原 邦夫 をお祈り かな雰囲気で時間が進む。賑や 高野 睦 黙祷を捧 かに話が弾み、中締めの前に校 なんとまぁ、のんびり屋がそ げました。 ﹁先生、 ろったもんだ、竜一高第九回卒 歌斉唱。 お疲れと思い、 お座りのままどうぞ﹂との声 業の面々には! にも、 ﹁校歌斉唱だから立つよ﹂ 今般、同窓会を開いたのはよ と、さすが剣道達人の先生のお いが、これが二十一年ぶりの快 姿。中締めの後、先生をお送り 挙 し、同所にての二次会にも三十 か ら り と 晴 れ た 日 曜、 五 月 齋藤 佳郎 名近くが参加し、名残尽きない 十五日、シビレをきらした高齢 昭和三十一年に卒業して今 話、カラオケが続いた。 者がおよそ六十人、やって来ま 年は卒後六十周年を迎えまし 幹事会では次回の話になり、 した、アイガーデン下平へ。受 た。前回平成二十五年に開催し 従来三年ごとに開催してきた会 付を済ます前に、ご無沙汰して た際、次回は卒後六十周年を記 を一年早めて再来年開催しては いる母校の今の姿を見に行く。 念して平成二十八年開催を決定 どうか。また、東京近辺在住の 永きにわたって事務長を務めた し、会報でも紹介しました。 二年毎に開催している同窓会 も今年は傘寿の同窓会となり七 月十日喜仙で開催しました。こ の歳になると出席者は減るので はないかと思っていましたが予 想以上の五十七名が参加してみ んなニコニコ和気あいあい、大 盛会となりました。 幹事長挨拶は傘寿らしく踊り 用の蛇の目傘をさして挨拶しま した。竜一高から先生と生徒が 旧講堂に関するアンケートの 依頼に来て生徒さんから主旨説 明がありました。この研究論文 は青少年の地域研究を奨励し郷 土愛を育むことを目的とする第 十五回櫻井徳太郎賞に応募する との事です。 続いて乾杯の発声は一番遠く から参加の兼松友子さんにして いただき大成功。そして宴の半 ば頃兼松さんが歌った曲は﹁誰 か故郷を想わざる﹂ 。その脇に写 真で参加の 浜さんが踊ってい る曲が同じく﹁誰か故郷を想わ ざる﹂ 。遠方に住んでいる人は故 郷を想っているのでしょう。そ の上に掲げてあるのは校歌のパ !? (4) 竜ヶ崎一高白幡同窓会会報(第28 号) 2016 年(平成 28 年)12 月発行 平成 29 年度 総 会 の 案 内 平成 29 年度の総会は4月8日(土)12:30 に竜一高体育館にて開催予定です。今回ご案内の往復葉 書を差し上げるのは、各卒業回の幹事の方々と、招待学年の高 20 回(昭 43 年)・35 回(昭 58 年)・ 50 回(平 10 年)・60 回(平 20 年)及び定時制 16 回・31 回・46 回・56 回の卒業生全員です。 お誘い合わせの上、多数の同窓生の参加をお待ちしています。 なお、招待学年の出席者の方には、陶芸家・植竹敏氏(高 27 回)作製のオリジナル、校章入りの「白 萩釉鎬湯呑」 を記念品として贈呈いたします。 招待学年以外の同窓生の参加も歓迎いたします。参加いただける方は事務局までご連絡ください。 総会終了後には、例年通り懇親会を竜一高下の「アイガーデン下平」で開催する予定です。 2016 年(平成 28 年)12 月発行 竜ヶ崎一高白幡同窓会会報(第28 号) 橋本忠一幹事の説明によると、 われらが在学中になれ親しんだ 建造物で今に残るのは、当時の 図書館前の人工池 日本海 の みとか。 会場へ戻って、まず記念撮影 なのだが、前列中央、先生方の 椅子が空いている。誰が座って も違和感ないヨとヨタが飛んだ が、国吉勝彦代表幹事が開会挨 拶の中で、 ﹁ご高齢を気遣って どなたもお招きしていないが、 ご恩は忘れません﹂と。恩師の みならず、級友の中にも共に喜 寿を祝うことの叶わなかった者 も少なくない。その無念を汲ん で黙祷を捧げ、つづいて校歌斉 唱。たちまち時間が逆戻りして、 先導役の串田武久君もしばし無 言。それへ被せて﹁乾杯!﹂と 発声したのが中島俊彦幹事、一 同気を取り直して拍手、着席。 祝宴の盛り上がりは言うまで もなく、十台のテーブルを各自 行き来しては、往時の思い出に ふけり、歩んできた道の遙けさ を振り返った次第。やがて、 ﹁二 年後にまた会いましょう﹂との 決議案が急遽採択され、中締め の三本手締めが野口二夫幹事に 託された。なお、名簿チェック、 案内状発送など事務作業は、昌 浦幸雄幹事および田村カツ子 ︵旧姓吉田︶幹事が一手に引き 受けてくれたのである。 (5) 宴は、まだ終わらない。若干 の退席者はあったが、喉自慢・ 腕自慢たちが第二部を賑やかに し て く れ た。 古 舘 イ チ ロ ー も 真っ青の司会役、野崎尚孝幹事 に盛大なる拍手を! 尚、今回の同窓会に際し、幹 事全員で、白幡同窓会名簿をひ とりひとり当 たって、住所 を 確 認、 訂 正し、新し い名簿を作 成した。 そ し て、 全員に送付、 学校事務局 にもお渡し した。 高校第十五回 糸賀 興右 平成二十八年十月二十九日 ︵土︶ 十一時開始で、竜ヶ崎第一高等学 校第十五回卒業生同窓会が母校 下の﹁アイガーデン下平﹂で開催 されました。参加者は五十八名で した。私は神戸の会社で働いてい たことから、長い間同級生との接 触がなく、五年前の前回には参加 できませんでした。しかし、退職 と家庭の事情により四年前に帰 郷し、今回参加できたことを本当 高校第二十七回 に嬉しく思いました。 住所不明者の中で亡くなられた 紹介をしていただきました。多く 方を考慮しても沢山の方がお元 参加者の集合写真撮影の後、会 の人は在学当時の制服姿を思い 気です。喜寿までには後五年、東 は野沢君の司会で始まり、篠崎君 出したのではないでしょうか。当 京オリンピックかその翌年頃次 の開会の辞の後、発起人を代表し 日、一番の遠隔地から参加したの て石嶋君の挨拶がありました。発 は北海道旭川市からの大嶺君で、 の会が開催されればこの上もな く嬉しいと思う次第です。 起人会は何度も開催されたと聞 近況を話していただきました。囲 いていましたが、出席者名簿や出 碁の会をスタートさせる話が出 欠回答に書かれた近況報告の編 て、私も含めて数名が手を上げま 集等々、周到に準備が進められた した。 細野︵金子︶純子 ことが窺い知れました。感謝の念 時間は瞬く間に過ぎ、何年振り 霜月十九日、朝の雨が色と で一杯であります。次に白幡同窓 かの校歌の斉唱、一島君による りどりの落ち葉を濡らし、カ 会長の染谷君から挨拶を頂きま エール、潮田君の音頭での三本締 ラ フ ル な 絨 毯 を 踏 み し め て、 した。同級生から白幡同窓会長が めによる中締めで会は終わりま 誕生したことは大変名誉なこと した。 前回は平成二十五年の開催、 還暦竜一同窓生が三々五々学 び舎の近く﹁アイガーデン下 であり、嬉しい限りです。会長と 約七十名の参加で恩師もお招き 平﹂に大集合。 して同窓会活動をますます盛り したとのことですが、今回は残念 上げて頂けると思っています。 ながら恩師のご参加はありませ 記念写真撮影後、十四時か ら大宴会スタート。幹事挨拶、 石田君の発声で乾杯をした後 んでした。 次期幹事決定後、一つ目の目 は、皆思い思いの顔を捜してテー 私共は敗戦のすぐ前、昭和十九 玉の恩師紹介。 ブルを動き回り、旧交を温め合い 年から昭和二十年生まれです。干 ました。ともすれば話題は健康に 支は六巡目の申と酉で今年から お足元の悪い中をお運びく 関することが多くなる年頃で、本 来年にかけて満七十二歳となり、 ださった、大野英二先生、石 島勝先生。両恩師ともお変わ 会でも例外ではなかったようで 古希は疾うに過ぎております。近 りなくお元気。 すが、元気になる話もたくさんあ 年では古希と言う言葉は元々の りました。一島君から高十五回同 意味を成さ 大野先生は、言わずもがな の英語で自己紹介。もちろん 窓ゴルフ会の紹介がありました。 ず、 七 十 歳 一同大受け。 参加者を壇上に呼び上げ、年二回 は何ら希で の開催でこれまで七回実施した はありませ その独特の語り口は今も健 在で、毎朝四時からYOU T との報告と、新たな参加者の勧誘 ん。 昨 年 刊 UBEで英会話を楽しんでお が行われました。まだまだ元気な 行の卒業生 られるとのこと、脱帽。英語 人が沢山居られ、 心強い限りです。 名 簿 に よ れ を一生の友として楽しみ、今 また、女性の参加者が十名ありま ば物故者は なお勉強するお姿は、学ぶ楽 したが、姓が変わった人が多数で 二 十 七 名。 しさを身をもって教えて下さ あり直ぐには誰か分からない人 その後亡く る、正に一生の教師。 も居るだろうとの配慮から自己 なられた方、 < > 高校第三十四回 ﹁○○君﹂ 、 ﹁○○ちゃ き還暦同窓会だからなおさら。 かった瞬間、 石島先生は、白い御髪以外 ん﹂と呼び合う光景が広がりま は当時のお姿のまま。元々の 各人の近況報告の後、二つ 目 の 目 玉、 武 石︵ 現・ 矢 口 ︶ した。皆の気持ちが三十五年前 お若いお顔立ちは、我々の中 に戻ってしまったのかどうかは 久良先生登場。紅葉に映える に席を設けて語らえば、たち 分かりませんが、少なくとも皆 まち区別がつかない若々しさ。 白いお召し物が心憎い。お元 の会話は在学当時と何ら変わる 気なご様子で何より。 新卒で竜一に赴任され、我 ことのない感覚で交わされてい が学年の受け持ちとなられ随 その後有志で二次会、楽し たと思います。これも、時は流 いひと時は 分と手こずらせたこと、今更 れても竜一高の同級生だという 瞬く間に過 ながら頭の下がる次第。退職 絆の醍醐味なのでしょう。 ぎ、ほろ酔 後も望まれて教壇にお立ちと いで再会を 懇親会ではお互いの近況を報 聞き、その若さに納得。 約束して 告し合い、昔話に花が咲き、出 ご多分にもれず、会が進む 席者が持参した高三当時の野球 散会。 につれ席は乱れ、湧き起こる 応援の写真や卒業アルバムの 歓声や少女の如き高らかな笑 最 後 に、 写真を見て、眠っていた当時の い声、少年のような戯れの叫 長い時間 記憶が呼び起こされ、皆の会話 をかけて尽 び。何だこれは?そう、ホー が更に弾みました。また、在学 力してくれ ムルームでアルコールが入っ 中はクラスが違い話す機会がな た幹 事 の たらきっとこうだろう、これ かった者同士も気軽に言葉を交 方 々に感 こそ歓談。 わす和気あいあいとした雰囲気 謝。 面変わりの同級生と言いつ が溢れていました。 つ も、 よ く よ く 見 れ ば 面 影 懇親会は三次会まで続き、名 が。同級生定番のギャグ、お 残尽きない宴は竜鉄の最終で終 前 い く つ に な っ た? で 爆 笑、 了しましたが、皆それぞれに白 キャーッ、しばらくネー、と 幡台で過ごした三年間の思い出 肩を抱き合う目元は、竜一時 宇都宮加城 を大切にしていることが確認し 代の少年少女の眼差しそのも 平成二十八年四月二日に開催 合え、より親睦を深めることが の。 された白幡同窓会に私たち高校 三十四回生︵昭和五十七年卒︶ できたと思います。 互いの近況、悲喜こもごも また、私たちが卒業した当時 多々あろうが、この場に集え が 招 待 さ れ、 総 会 に 二 十 四 名、 は携帯電話などが無く、連絡先 る 喜 び と 有 難 さ を 語 り 合 い、 懇親会に三十一名が出席しまし を維持し続けることは今ほど容 瞬く間にタイムスリップ。 た。私たちも卒業して三十五年 易なことではなかった時代です が過ぎ年齢も五十歳を超え、皆 改めて、同級生とは、かく も不思議なものと感じ入る至 が、この同窓会を通じて疎遠と の風体も年齢相応に変わってし 福の時、特に今回は、後にも なっていた仲間とも連絡先が再 まいましたが、会場で久々に対 先にもこれっきりの記念すべ 確認でき、容易に連絡できるよ 面した旧友が誰であるかが分 (6) 竜ヶ崎一高白幡同窓会会報(第28 号) 2016 年(平成 28 年)12 月発行 高校第四十七回 うになったことは意義深いこと 以外は久しく会っておりませ だと思います。 んでしたので、誰かわかるか この同窓会では、皆が時代を な、 わ か っ て も ら え る か な、 共有した仲間と交流することの そんな思いを胸に当日を迎え 楽しさを感じ、またいつの日か ました。 再会したいという気持ちが芽生 予想は的中し、誰だっけ? え、今後もこういう繋がりを大 のオンパレード。さりげなく 切にしていきたいと思う良い契 名札を見て、予習してきた卒 機になったと思います。 業アルバムを思い出しながら 最後にこのような素晴らしい 話してみると、意外にもすぐ 機会を頂き に当時の感覚に戻り、会話が ました同窓 絶えないものでした。そんな 会幹事及び 最中、三年次の担任である清 事務局の皆 水先生にお会いし、目を疑い さまに感謝 ました。高校時代と全くお変 を申し上 わりがないのです。さらに一 げ、同窓会 瞬タイムスリップした感覚に のレポート なり、頭の中が若干混乱状態 に代えさせ のまま、二十二年ぶりの挨拶 て頂きたい もそこそこに、 失礼ながら﹁先 と思います。 生今何歳ですか?当時おいく つだったんですか?﹂と畳み かけてしまいました。先生は 私達のちょうど一回り上とい うことで、当時は漠然と先生 =大人=親世代と思っていた 嶺 芙美子︵旧姓 満木︶ の で、 少 々 衝 撃 を 受 け つ つ、 卒業してから二十二年の歳 自分が子供だったのだなと感 月が過ぎ、四〇歳になる年を じると共に、先生の偉大さを 迎えました。そんな折、当時 再確認する思いでした。 の生徒会長である飯塚さんが 発起人となり、一〇〇人での 今回の同窓会には、学年主 任の椎名先生をはじめ、全ク 同窓会実現に向け奔走してい ラスの担任の先生方八名がご るという連絡を頂きました。 出席され、海外や遠方からの 同窓生も集まりました。参加 卒業以来母校に足を踏み入 れることもなく、数人の友人 高校第四十九回 者 は 合 計 九 十 名 以 上 と な り、 た。当日は四人の恩師をお迎 当時の思い出や今だから言え えし、総勢五十人に及ぶ盛会 ること等々、話題に尽きるこ となりました。当時の学年主 とがありませんでした。また、 任川北弘先生からご挨拶と乾 都合がつかず欠席となった 杯のご発声をいただき、会が 方 々 か ら の 近 況 報 告 も あ り、 スタートしました。在学時の 二十二年ぶりに恩師、多くの 思い出などに花が咲き、出席 同窓生と繋がった気持ちにな 者一人ずつにマイクを回して りました。最後は野球部の青 近況報告をしてもらいました。 木さんによる万歳三唱で、盛 また、海外在住の恩師からの 大な会は幕を閉じました。 ビデオレターも上映し、最後 は校歌を全員で合唱しました。 母校の素 晴 ら し さ、 最後の締めとして一本締めで 有難さを改 一次会に幕を下ろしました。 めて感じた その後の二次会も新しいメ 貴重な機会 ンバーが加わり、改めて恩師 の実現にご と同期生との絆の強さを感じ 尽力頂きま ました。様々な立場で活躍す した同窓会 る同期との交流で新鮮な刺激 幹事の皆さ を受けた中身の濃い、非常に まに、心よ 有 意 義 な 時 間 と な り ま し た。 り御礼申し また、同窓会に出席できなかっ 上げます。 た同期生や恩師の近況報告を 事前に収集し、一覧にまとめ て 出 席 者 に は 配 布 し ま し た。 今 で はF AC E B O O K やL I N E 等 のS N S を 通 じ て 簡 単に連絡の取りあえる時代と なりました。本卒業生のLI NE グループも立ち上がりま した。今後も積極的に声を掛 け合って同期で集まっていこ う、という意見が多数出まし た。何かの縁で同じ時期に高校 生活を過ごした仲間との絆を、 第一回同窓会を終えて 田中 明人 霜降の始まる十月下旬とい う、学校の運動会など多くの 子供行事と重なってしまう秋 の 時 期 の 開 催 案 内 で し た が、 今年十月二十二日、千葉県柏 市 S H AN T Y に て 一 九 九 七 年卒同窓会を開催いたしまし 音 楽 部 高 20 回 母校の想い出 なお音楽活動に励んでいる者な 尽力いただき 今回の同窓 ど生活スタイルは様々ではある ました十九回 会を機に更 ものの、実年齢よりも皆ずっと 卒舩橋部長と に太く強い 若々しく、南畝先生も当時と変 田坂先輩にこ ものにして わらずお元気そのものでした。 の場をおかり いけたらと 南畝先生を囲み、当時の部活 して厚く御礼 切に願って の話から今日までの五十年、こ 申し上げます。 おります。 れから先の人生について語ら い、仲間の今に大いに刺激され た有意義な時間を過ごすことが できました。南畝先生にも﹁夢 のような楽しい時間をすごせ た﹂とお言葉をいただき、全員 で最後に校歌を歌うことで、楽 ゆっくりと流れた学生時代 しい時間を共有できたことに感 野上 哲夫︵高 回︶ 謝しながら来年二〇一七年五月 二〇一六年五月二十二日、母 の再会を約束し、解散しました。 校近く﹁アイガーデン下平﹂に 次回開催時には二十二回卒以降 て、十九∼二十一回卒メンバー の皆様もお集まりください。 での音楽部同窓会が開催されま また、現在音楽系の部活は吹 卒業五十年、学生時代はゆっ した。懐かしい恩師南畝清志先 奏楽、軽音楽等に引き継がれ、 くりとしていました。先ず石段 生と古き良き仲間達との、卒業 ス タ イ ル は 異 な る も の の、 今 まで自宅から徒歩で校内を抜け 後実に半世紀ぶりの再会となり もなお脈々と音楽を愛する心は て教室へと。其の後、教室へ入 ました。 引き継がれているようです。昭 るやいなや職員室に掲げられた 今 回、 同 窓 会 開 催 に 至 っ た 和四十一年創部の吹奏楽部は、 授業の変更の黒板を見に行き、 きっかけは、十九回卒の舩橋音 四十四年ぶりの甲子園出場を 六限のカットの有無で一喜一憂 楽部初代部長が当時一年生だっ きっかけに吹奏楽経験者を募っ で始まる誠にゆるやかな調子で た部員と偶然市内で出会い、県 て急遽結成されたという歴史が 一日の開始。其の様な三年間の 立県民文化センターでの合唱コ あり、創部五十年目を迎えてお 学生生活は、部活は一年でリタ ンクールに出場したメンバー ります。当時とスタイルは変わ イア、学業は入試合格後の試験 ︵十九∼二十一回卒︶で集まろ れど、生活の中に﹃音楽﹄があ 以降、早急に部活同様にリタイ うかと意気投合したことからで ることで、我々は心豊かに生き ア。 した。 只々授業を受けるだけであり、 私たちも皆六十五歳を超え、 ていけるのではないかと改めて 感じることができました。 所謂大学入学後、すぐに始まっ 悠々自適に生活する者、現役で 最後に、今回同窓会企画にご た学生運動にたとえれば正しく 仕 事 に 携 わ っ て い る 者、 今 も 秋田 光祥 2016 年(平成 28 年)12 月発行 竜ヶ崎一高白幡同窓会会報(第28 号) (7) 21 私は﹁ノンセクト﹂ ﹁ノンポリ﹂ です。 しかし顧みて思い出すのは 多々有り。 入学直後の体育館での先輩と の対面式 ﹁宜しくお願いしまぁー す﹂ ﹁礼﹂と校歌の﹁石段登る 六十余﹂ 、当時一割にも満たない 女子学生は、しとやかに車坂を 上る。 恒例、一月十五日に行われた 二十キロ徒競走、英語の先生で あ っ た 飯 島 教 頭 が 曰 く﹁ 明 日 二十キロ走があるがグリコキャ ラメル何個食べたら完走出来る か考えろ﹂一粒三百メートル、 ユニークな問題で、当日、最初 の市中だけは一生懸命に走った。 三年次の体育祭、待ちに待った フォークダンス。女子学生が少 ないので男子学生と肩を組む事 もしばしばあった。先生方を思 い出せば渾名で﹁アボガドロ大 先生﹂﹁ベートーベン﹂﹁館長先生﹂ ﹁バ⋮﹂渾名は止めましょう。各 先生も気軽に返事をなされた。 なんやかんやで卒業式。音楽 の授業も無く先生も居ないので 大徳先生が、ポロンポロンと弾 いていました。以上の如く三年 間が終わった。 真船校長とは︵当時、県高野 連の会長。私達が卒業と同時に 退官されたと記憶する︶大学時 代に神宮のライトスタンドでよ く二人で芝の上で寝ながら幾度 となく観戦しました。只々書き 綴り、私のほっこりの学生時代 です。 白幡台に集まり散じて 高 20 回 池辺 勝幸 白幡台を去り、五十年の時が 流れました。振り返ると昨日の 事のように思い出されます。 入試合格発表の日、自分の名 前を探すが、目がふわふわして、 見つからない。 ﹁アッタ﹂と貼 られている合格リストを見る と、自分の名前が間違ってる。 池辺の辺が田になっている。耳 もとで誰かが間違っていないと 言う。自分の名前はないのか。 余裕をもって受験したつもり が、一瞬血の気が引く。慌てて 探すうち、自分の名前をヨウヤ ク見つけた。ホットした。これ が入学の始まりだった。 私の高校生活は、ほとんどが 剣道一本だったように思われ る。勉強はしたとは思うが、あ んまり記憶にない。稽古の疲れ か、授業中は舟をこぐばかり。 家に帰って、 ﹁朝早く起こして﹂ と母に頼み、起きるはずが本を 机に立てて、これまた舟こぎ。 方 々 も 亡 く な ら れ た 人 が 多 く のです。その後のクラス分けテ なった。 勉強しなくちゃー、しなくちゃ ス ト も 受 け ら れ ず、 ﹁ ホ ー ム・ 白幡台に集まり散じた大勢の と思いながら、未消化状態だっ スクール﹂の区別があることも 同窓会の方々、陰に陽にとつな たことが思い出される。個性的 知らず、入学当初、移動の際に がり合う縁に助けられ、生きて で、優秀な先生方には申し訳な はただただオロオロしていたこ きた今日。本格的に迎える少子 かった。でも剣道部長をされた とを思い出します。 超高齢化社会、激動の地域社会 井坂先生の特別授業があり、土 長い石段を登り、古めかしい の変化が訪れるのを迎える今、 校舎、講堂を目の当たりにし、 浦一高の理数系の数学平均点数 肩 の 力 を 抜 い て、 共 鳴 し 合 え をクラス平均で上回ったことが さらに小中学校のものとは全く る仲間と地域づくりを考え、行 記憶にある。通学時間の節約に 違った校歌を耳にした時、深い 動する思いを新たにする機会を と、大野敏和と自転車で通った 歴史と伝統を感じ竜一の生徒に 6号国道。肌が痛い冬の牛久沼 与えてくれた小倉君に感謝しま なれた幸せを改めて感じており に浮かぶ白い富士山、そして数 す。 ました。友人に誘われてよくわ 羽の白鳥。霜解けの女化道で車 竜ヶ崎一高の名声が益々高ま からずに竜一を志願した私でし 輪に泥が詰まり、自転車をぶん り、生徒、先生方が充実した高 たが、この決断がとても良かっ 投げる衝動にかられた日。県の 校生活を送られ同窓の諸氏がま たと心から感じました。 代表戦で大将の私が負け高校総 すます活躍されん事を祈念しま 進路については、製薬会社に 体茨城代表になり損ねた日。い す。 勤めていた父の勧めもあり、中 ろいろの思い出が浮かんでは消 学時代より衛生検査技師︵後の 歴史と伝統を誇る母校 え、なつかしく思われます。多 臨床検査技師︶を目指していま くの友人の交わりの中で、今年 した。たまたま友達となった一 も同窓会がありました。横須賀 人に、お姉さんが検査技師の方 先生もお元気で出席され、仲間 がいらっしゃっていろいろな情 と共に親交を深める事ができま 報を得ることができました。就 した。父も叔父も龍中卒。妻も 職してからも大変お世話になり 長男も一高卒。卒業後、東京で ました。また病院の見学に行っ 竜ヶ崎一高を卒業し約半世紀 様々の経験をさせてくれた弁護 た時なども竜一の先輩にお会い を過ぎようとしています。記憶 士の大野先生も龍中卒。小学生 することもあり心強く思ってお も次第に薄れていく中で、今も の時は東武館、中学生の時は一 りました。竜一で築いた友人や 鮮明に頭をよぎってくるのは合 高剣道部と小さい時から剣道を 先輩、後輩とのつながりには深 格発表の出来事です。当日母が 通して様々な経験を積ませてく い感謝の念に堪えません。 発表を見に行き、 ﹁合格﹂の知 れた谷島先生。大野敏和はガン 先 日、新聞に﹁科 学 の 基 礎 に らせを受けましたが、私は自分 に倒れ、池田は同窓会の開かれ 日本名﹂の見出しがありま でも確かめたいと思い出かけて た日にマッキンレーの露と消 し た。 人 類 の 長 い 歴 史 で も 行きました。ところが、そこで え、 母 も 父 も お 世 話 に な っ た 一一八種しか見つかってい 私は交通事故に遭ってしまった 高 20 回 持丸とみ子 (8) 竜ヶ崎一高白幡同窓会会報(第28 号) 2016 年(平成 28 年)12 月発行 ない物質の基本要素である 元 素 の 周 期 表 一 一 三 に﹁ N h ︵ニホニウム︶ ﹂と命名されたと いう内容でした。五十年近く前 に私は専門学校の面接で周期表 について質問を受けたのでし た。今でも忘れられない事の一 つです。 現在、夫、弟、義姉、妹、息子、 三人の姪たちが同窓生です。さ らに孫が加わるのを楽しみに 願う今日このごろです。 せてもらえたからだと思う。 なかで、のんびりとした空気が たのは辛かった。思い出は尽き また懐かしい出来事である。 ﹁母校の思い出﹂の原稿依頼 漂っているような、ある意味、 ない。 そして卒業式後、高校生活最 を受けて、何が一番の思い出だ 現在は毎年、部活の仲間が同 昭和の最も平和な時代でもあっ 大最後のイベント、卒業旅行で ろうと考えた。先生方、友達や 期の女子を招集してくれ、ファ たのだろう。そんな中、学校生 ある。クラス四十四名全員が参 加した二泊三日のバス旅行は、 クラスメート、当時の風景、教 ミレスで集まっておしゃべりし 活そのものが世の中の空気に同 多少羽目を外しながらも、大い 室、 新 旧 体 育 館、 授 業、 部 活、 ている。折に触れてメールをく 調するかのようにゆったりと流 に楽しみ、高校時代のすべてを 行 事、 浪 川 パ ン 屋、 い ろ は 坂 れる同級生もいる。それぞれの れていたような、おおらかさと が映画のように、生き生き 人生を歩んでいるが、それを分 和やかさがあったように思う。 凝縮したような想い出深いもの etc. と迫って来て、たくさんの﹁あ となった。 かち合える人々に出会えたこと もちろんその当時は、そんな時 りがとう﹂や﹁ごめんなさい﹂ をありがたく思う。 別れ際に全員とがっちり交わ 代背景など考える由もなかった の気持ちが湧き上がり困った。 した握手は、それぞれの道へと 最後に、紙面をお借りして、 のだが。 私が竜一に入学した昭和 お世話になった先生方、同級生 そんな高校生活だったので、 進む友人との別れの儀式として 五 十 五 年 は、 ま だ 古 い 講 堂 が は最高のものであった。 や先輩後輩に心からお礼を言い 特にギラギラとした興奮や追い 残っていた。先輩方が大人で、 た い。 ま た、 そ の ご 恩 返 し を、 つめられるような圧迫感など感 時代とともに、学校の雰囲気 同級生も立派に見えて、自分を も当然変わってきていると思う 今そしてこれから自分が関わる じることもなく何となく学校に 実物大以上に見せようと必死 が、現役諸君には良き想い出づ 行き、当たり前のように楽しく 所でしていきたいです。 だった。いろは坂を初めて自転 くりを、と願うばかりである。 過ごしていた三年間だったよう 車 で 登 り 切 れ た 時 は、 誇 ら し な気がする。伝統のある進学校 かった。十二月の英語の授業中、 ゆったりとした時間の中で⋮ であるが故の先生方の熱心な進 先生からジョン・レノンが射殺 我が人生 路指導や、避けては通れないは 竜一OBに囲まれ されたニュースを聞き、衝撃を ずの受験戦争も我々生徒にとっ 受けた。高二の時は、多くの同 てはどこ吹く風、という雰囲気 級生がそうであったように、部 のまま三年の秋を迎え、いよい 活動︵バドミントン部︶中心の よ最後の白龍祭、想い出づくり 生活だった。英語の発音を良く にクラスが一致団結して大いに 私が在学した昭和五十五年か したくて、﹁百万人の英語﹂や﹁ラ 盛り上がり楽しんだ。これがそ らの三年間は、高度経済成長後 時折風に流され聞こえてくる ジオ英会話﹂を聞いた。七月に のオイルショックを乗り越え、 の後わずか三か月間ほどの猛勉 太 鼓 の音 ダイアナ妃とチャールズ皇太子 強へと私を向かわせたターニン 日本経済が安定成長期の真った 母校から僅か十分足らずにあ が結婚し、体育祭の仮装行列で グポイントだったのだが、時す だ中にいた時代であった。卒業 る自宅。夏の日差しが眩しくな は三年生が成婚パレードを華や でに遅しだったのは言うまでも 後の数年で華やかなバブル経済 る頃になると後輩たちの野球応 かに再現して感動した。高三の ない。卒業間近、結果を真摯に が絶頂に達し、その後失われた 援と思われる声に耳を傾ける。 時は六月に部活を引退して、一 受け止めつつも半ば愚痴をこぼ 二十年ともいわれる厳しい時代 先日久しぶりに白幡台の石段 気に受験がのしかかり不安で一 すように担任の坂本先生のとこ を迎えたことを考えると、当時 を登り詰めた。勿論きっかけは 杯だった。その反動で自由登校 ろに受験結果を報告に行ったと の社会はそこそこの活気があり この白幡の寄稿である。あれか になると無気力になってしまっ ころ、大いに励まされたことが ながらも、落ち着いた雰囲気の ら三十四年⋮よく考えれば卒業 高 35 回 飯野 浩人 いろは坂から 娘の保護者面談で母校を訪れ ると、うれしい反面、高校生の 未熟で恥ずかしい自分に会いそ うで、隠れたくなる。実は父も 卒業生︵昭和二十年代︶で、靴 が買えずに下駄で通学したこ と、野球に没頭していて勉強し なかったことなどを子供の頃か ら聞かされている。三代に渡り お世話になる竜一は、私にとっ て永遠に青春の場だ。 ﹁人生の いつに戻りたい?﹂の話題が出 ると、 ﹁高校時代﹂と即答して きた。なぜか?周りの人々に恵 まれ、のびのびと自由に過ごさ 高 35 回 福島 正明 高 35 回 冨山 正美 2016 年(平成 28 年)12 月発行 竜ヶ崎一高白幡同窓会会報(第28 号) (9) 以来初めてだ。近くて遠い我が 母校竜一高。 卒業と同時に関数は忘れたが ︵笑︶かけがえのない恩師・仲間 達と過ごした三年間は鮮明に覚 えている。何故なら今尚、酒を 酌み交わしながら竜一時代を語 れる先輩・友人・後輩達、そし て竜一OB達との付き合いが続 いているからだ。 当時の竜一ならではの自由な 校風︵?︶のお陰で、三年間本 当に楽しませてもらった。部活・ 学業では全うすることが出来な かった分、体育祭・白龍祭では 本業そっちのけで楽しんだこと を思い出す。受験勉強で忙しい 級友をよそに、クラスの出し物 の台本作りに夢中になり、演出 する楽しさを味わった。今の時 代なら手軽にビデオがあるのに と悔やんでならない。だが無かっ たからこそ、良き思い出だけが 残っているのかもしれないが⋮ 地元龍ケ崎に生まれ竜一卒の 父に育てられ小さい頃、竜一の 甲子園での一戦のテレビ観戦に 熱中した。参考書片手に自宅前 を歩く一高生に憧れた中学時代。 念願の竜高生になり陸上部に入 るが途中挫折。行き場のない私 を支えてくれた恩師・友人そし て今尚竜一に関わる人達に囲ま れている。 八十余年続く地元写真館の三 代目として、近隣学校の卒業ア ルバム制作にも関わっている。 必ずと言っていい程各校に、竜 一OBの先生方。他校で偶然再 会した恩師、また教壇に立つ同 級生の誇らしい姿をレンズ越し に見ることもしばしばだ。そし て酒を酌み交わす仲間も竜一O B達。我が人生の周りには、い つも竜一OB。 十代の多感な時期に日々過ご す環境と、一緒に過ごす仲間と の関わりが、いかにその人のそ の後の人生を左右するものであ るか、人生の折り返し地点を過 ぎた今、入学時の喜び以上に竜 一卒業生である喜びを幾度とな く感じる今日このごろである。 最後にこの寄稿を私などに薦 めてくれた友人達にこの場を借 りて心から感謝します。竜一高 万歳! これはダメ押しかな?縁とは 不思議なもので、義父・義弟も 竜一OBでした︵笑︶ 回 和田 浩明 高校時代の思い出 高 今回のお話を頂いてから改め て高校時代を振り返ってみまし た。担任の先生方、クラスの皆 さんごめんなさい、私にとって 竜ヶ崎一高での一番の思い出は やはり男子バレーボール部で過 50 私のバレーボール人生はその 力善用﹂の精神性に則った人間 ごした日々です。 後 意 外 に も 続 け て い ま す。 高 教育が本質である。技術や体力 朝練から始まり、夜遅くまで 校卒業後は大学でも、社会人に がどんなに優れていても、土台 ボールを拾って繋ぐ毎日、今思 なってもチームを作って試合に である精神が劣ったものである えば何故あそこまでやれたのだ 出ていたら海外赴任になりまし ならば将来の人間形成にはつな ろうと自分のことながら不思議 た。しばらくバレーもお休みだ がらない。当時顧問だった羽成 に思います。 と考えていたら赴任先のオラン 邦男先生からは、試合で勝つこ 今でも強く印象に残っている ダでも在蘭日本人チームに入 とを目標に置くことはもちろん のが週末に関東各地から複数の り、二メートルのオランダ人相 だが、竜一柔道部の選手として 高校が集まっての合同合宿で朝 手に日本人の技と根性をぶつけ 恥ずかしくない態度で試合に臨 九時から夕方六時まで練習試合 てきました。好きなことが出来 み、全員がチームのために全力 が続き、その後に夕食。そこで ることで慣れない環境での色々 を出し切ることが大切だという 終わればいいもののそこからO な困難を乗り越えてこられたの ことを教えていただいた。時に Bチームとの夜練が始まるなど だと考えています。 練習は厳しく、また試合で負け 本当に一日中バレーボールをし ることもあった。そのような辛 ていたことを記憶しています。 く苦しい時もお互いを励まし合 当時監督、顧問だった久保田先 生、諏訪原先生に長い時間お付 いながら切磋琢磨した。そして、 青春をかけた部活動 き合いいただき感謝しておりま 試合に勝って喜び合い、負けれ ば共に涙を流し、先輩後輩関係 す。 なく絆を強め団結していった。 その甲斐もあり、男子バレー 今考えると私は本当に恵まれ ボール部の歴史でも久し振りの た 環 境 の 中、 多 く の 方 々 に サ 関東大会出場を二年次に達成す ポ ー ト し て い た だ き、 柔 道 に ることができ、自分たちの代で 高校を卒業して早十九年。人 日々打ち込む事が出来た。私達 も出場することができました。 生の半分以上が経とうとしてい を温かく見守り、柔道の精神を 両大会共に一回戦で敗退してし る。全国高校野球を見ながらこ まいましたが今でもいい思い出 の原稿を作成しているためか、 教えて下さった羽成先生、部員 一人一人の性格を把握し、勝つ です。三年最後のインターハイ 高校時代のことを振り返ると思 ために今何をすればいいのかを では優勝を目指しましたが残念 い出されるのは所属していた柔 ながら県ベスト8で終わってし 道部での思い出である。近年、 適切に教えて下さった矢須先生 には今でも感謝しています。ま まいました。マネージャー含め 柔道はますます国際的なスポー て同期六人、仲が良かったのか た、竜一柔道部で出会った仲間 ツ競技として注目を浴び、その と言えばそうとは言えなかった は柔道に自信があって入部した 技術の向上、進歩は目覚ましい と思うものの良くも悪くもそれ 者、ひたすら強くなりたいが為 ものがある。しかしながら、柔 ぞれと濃い時間を一緒に過ごせ に 入 部 し た 者 等、 理 由 は 様 々 道は他のスポーツとは違いあく ました。 だったが十九年経った今でも交 まで武道であり﹁自他共栄﹂ ﹁精 高 50 回 高橋 俊一 (10) 竜ヶ崎一高白幡同窓会会報(第28 号) 2016 年(平成 28 年)12 月発行 だったな﹂と思った。移動の足 流があり一生の財産となってい は自転車。そこに今、帰ってき る。このような素晴らしい経験 たのだ、新しい自転車とともに。 をさせていただいたことに感謝 当時の私は、我が実家から一 し、竜一柔道部で学んだ事を後 高まで二つのルートを用意して 輩達に継承していくのが我々O いた。一本目は佐貫駅を経由し Bの使命だと感じている。 て文化会館脇を通るAルート。 東京オリンピックが開催され 二本目は高須橋を越えて竜ケ崎 る二〇二〇年に創立一二〇周 駅を経由するBルート。 年を迎える竜ヶ崎一高の益々の メインはAルートだ。ここを 御発展とあの石段を登り降りす もう一度、走ってみようと思っ る後輩達の益々の御活躍を祈念 た。 し、結びとさせて頂きます。 佐貫駅から文化会館までは、 長い直線が通っている。田園風 正門坂が待っている 景を貫く道路に防風林はない。 冬は向かい風をののしりながら ペダルを 漕いだ。回れ右をした くなる日もあった。一高の制服 は、重かった。この風に打ち勝 てば一高の入口は目の前だ。 ﹁もう十九年も経つのか﹂ 正門坂。 改めて数えてみて驚いた。私 二ツ折れの坂道。測ってみたら たち平成九年卒業の代は、今年 等距離の折り返しで、二百四十 で三十七歳。今では社会人とし メートル。高さはおよそ三十メー て、家庭人として、皆が各々の トルだ。前半は易しい。勾配が 毎日を過ごしている。その中の 緩いからだ。通学用自転車でも 一人である私は、職場の先輩の 座って上れる。折り返しでペー 勧めでこの一月に自転車を買っ スが落とされる。勾配がきつく た。青いロードバイク。始めは なる。同じ距離でも今度は立ち フラフラおぼつかないへっぽこ 漕ぎだ。息が上がる。自転車を 乗りだったが徐々に慣れ、つく 降りて押す生徒も多い。 ば市まで毎日通勤できる程度に 車は上っていく。原付も上っ なった。日々に埋もれつつある ていく。横目で見る度、 ﹁くそッ﹂ 一高生時代を振り返ったとき、 と思っていた。 ﹁ あ の 頃 も 自 転 車 通 勤、 通 学 ロードバイクはすいすい上っ て行った。折り返しも後半の勾 配アップも意に介さない。正門 が見えた。通ったことのない新 校舎も見えた。変わらない坂が あったから、自分の成長が分かっ たのだ。 いつかまた、この坂を上ろう と思う。 マルキン・男クラ 書きたいことは色々あるが、 ﹁マルキン﹂ ﹁男クラ﹂について 寄稿する。 ﹁マルキン﹂竜一陸上部の思い 出は中華料理マルキンの話なく しては語れない。高一の県総体 後に先輩に連れていってもらっ て以来、休日の練習や大会の後 はよく通うようになった。疲れ た体には裏メニュー︵今はもう 表メニュー?︶の焼肉丼で元気 をつけた。何度も通ううちに店 長とも仲良くなった。近況報告 をしたり、息子の少年野球のビ デオを見せてもらったりした。 平成二十四年、修士一年の私 は竜一で教育実習を行った。緊 張しながら臨んだ初めての授業 終了後、一人の生徒が私に声を 高 60 回 藤田 光 2016 年(平成 28 年)12 月発行 竜ヶ崎一高白幡同窓会会報(第28 号) (11) 高 50 回 飯泉 充長 の母校の思い出である。共感し かけてくれた。 ﹁自分、マルキン て思い出し笑いしてくれる方が の息子です﹂卒業してから五年 いたら幸いである。 後、マルキン店長の息子に授業 をするという巡り合わせもあっ た。竜一陸上部OB・OGのみ 最高の三年間 なさん、懐かしのマルキンへま た行きましょう! ﹁男クラ﹂私は理系物理コー ス を 選 択 し、 男 子 だ け の ク ラ ス﹁ 男 ク ラ ﹂ で 高 二 ∼ 三 を 過 ご し た。 体 育 の 授 業 後︵ 特 に ﹁受験番号六十七⋮あった!﹂ 夏︶は、男クラでは異臭騒ぎが そこから私の高校生活は始まっ 多発した。原因は皆思い思いの た。 メーカーの制汗スプレー噴射に 高校生活といえば吹奏楽部が よるものである。体育の次の授 切り離せません。当時は部室が 業、先生が教室の扉を開けた瞬 なくプレハブでの活動。汗を流 間の﹁臭っ!﹂の一言は男クラ しながら合奏した夏、体が芯か 名物だった。そんなむさ苦しい ら冷え手足が痺れた冬。隙間風 男クラを、担任の横倉先生はま はもちろん、地震で倒壊しそう とめてくれた。担当教科の数学 な環境にも負けず部活動に励み では土浦一高にも負けない数学 ました。 力をつけてくれた。球技会の綱 中学時代と異なる楽器に苦戦 引きでは2連覇︵だったと記憶︶ し た 私 は、 白 龍 祭 で 演 奏 す る に導いてくれた。スローガンと 同級生から遅れをとっていまし して掲げていた﹁スーパー﹂な た。一人別室での個人練習、隣 クラスだったと思う。男クラメ から聞こえる合奏に悔し涙を流 ンバーの絆は強く、卒業してか したことも。思い通りに吹けず、 らもたまに男クラ飲みが開催さ 投げ出したいと何度も思いまし れている。私自身大学時代は北 た。そんなとき親身になって話 海道にいたため参加できなかっ を聞いてくれた友人。楽しいと たが、就職で関東に戻ってきた きも辛いときも一緒に過ごして ので次回の男クラ飲みは是非と きた吹部の友人は一生の宝物で も参加したい︵スガシ君よろし す。 く!︶ 。 部活での思い出の一つは定期 以上がほんの一部であるが私 高 60 回 國松 侑夏 高 27 回 清原 洋一 母校と私の人生 ます。準備期間になると、自分 三年間では、切磋琢磨したかけ 卒業して九年目を迎える今で 省が﹁スーパーサイエンスハイ 演 奏 会。 寸 劇 や 小 道 具・ 照 明 の担当であるオブジェの制作と がえのない仲間ができました。 スクール﹂として指定し、学習 も当時の思い出は色褪せること などの演出、ポスターやパンフ スタッフによる創作ダンスの振 そして私たちを温かく見守って なく、再会すれば学生時代の話 指導要領によらないカリキュラ レットなど各班に分かれて自分 たちで創りあげました。定演の り付けで頭がいっぱいの毎日で くださった多くの先生方に出会 に花が咲きます。貴重な三年間 ムの開発・実践や課題研究の推 準備を通し部員との関係がさら し た。 こ の 白 龍 祭 を 支 え る ス えました。 をここ竜ヶ崎一高で、六十回生 進、観察・実験等を通じた体験 に深まりました。また、この定 タッフは全員熱い情熱を持って 竜一での出会いや経験、校訓 として過ごせたことは、誇りで 的・問題解決的な学習等を支援 演はOB・OGの先輩方と親睦 いるため、時にはぶつかること あり大変嬉しく思います。勉学 を忘れることなく、そして六十 するものです。平成十四年度に を深める良い機会でもありまし もありましたが、全員が一丸と に励み、将来を考える機会も充 回生ということを誇りに思いな 開始、この事業が始まる直前の た。二十歳近く離れた先輩と同 なって白龍祭の成功に走り続け 実。先生・先輩・後輩・友達す がらこれからも日々邁進してい 二月に赴任しました。特にこの じステージに上がり、先輩方の ました。そのため、白龍祭の最 べてに恵まれていた三年間。竜 きたいと思います。 SSHが軌道に乗るまでの数年 素敵な音色に包まれながら、会 一は私にとって心から﹁居場所﹂ 後に全校生徒での合唱が終わる 間、主担当である科学技術政策 場いっぱいに竜一サウンドを響 ことが何よりも寂しく思ってい と思える場所です。これからも の部局や具体の運営を担当する かせました。たくさんのお手伝 たことを思い出します。そんな 母校﹁竜一﹂が発展し続けるこ 科学技術振興機構の担当者と激 いをいただき、みんなの思いの 白龍祭の思い出の品にとして、 とを祈っています。 論を交わしたことが思い出され 詰まった定演は最高の思い出で スタッフ証を大切に保管してい ます。 これからの時代を担う人材を す。 ます。この裏には生徒会長や白 これらの部署は、もともと科 育成する環境の整備 そしてもう一つ、野球応援。 白幡の青春 龍祭実行委員長からのメッセー 学技術系の研究を担当するとこ 球場へ向かうバスの中、大声で ジが書かれており、これに気付 ろです。SSHという新しい教 校歌や応援歌を熱唱し牛久大仏 いたときには嬉しくてひっそり 育施策が開始されても、研究費 に向かって勝利を祈りました。 と 感 涙 に む せ び ま し た。 こ の の扱いに慣れている大学や研究 試合中は私たちの演奏に合わせ 日々があったからこそ、一つの 所と同じような対応になってし て竜一生が一つとなり、声が嗄 目標にチームで動くこと、また、 まっていました。もちろん彼ら 母校を卒業して四十年以上が れるまで声援を送りました。後 チームの上に立つ人間がどのよ も努力していたようですが、学 経 過、 そ の 間 に 教 諭 と し て も 六十三段の階段を見上げると 半で巻き返し逆転勝利を掴んだ うにチームを動かすのかを学ぶ 校や教職員への配慮は不十分で 七年間勤めました。現在は、文 その重厚さに身を引き締めら 水戸一戦、延長に持ち込み最後 ことができ、その経験はその後 あるように私は感じていまし 部科学省にて初等中等教育行政 れる思いでしたが、ある日ばか の最後まで力を振り絞った水戸 の大学生活や現在の社会人生活 た。そうした運用面の改善、あ にかかわっていますが、勤務地 りはその階段が色彩豊かな看板 の糧になっています。 葵陵戦。白熱した試合から目を るいは科学技術系人材の育成を を 東 京 に 移 し て か ら 十 五 年 が 過 と と も に 校 舎 へ と 訪 れ る 者 を 導 離すことができず、部員一同、 き、頭上からはたくさんの明る この文章を書くにあたり、卒 施策としてどのように進めて ぎようとしています。その仕事 演奏を通して必死に応援しまし 業 ア ル バ ム や 白 幡、 そ し て 学 いったらよいかといったことに のなかでも、印象深いものの一 く楽しげな声が降り注いできま た。試合後、スタンドめがけて ついて、激論を交わしました。 つがスーパーサイエンスハイス した。そう、白龍祭の日です。 年の先生が開設してくださった ブログなど、思い出の品々を見 走ってくる野球部員の姿には、 これほどわくわくする日といえ この活力の源になったものは クール︵SSH︶事業です。 ながら竜一で過ごした日々を振 込み上げてくるものがありまし 何か。そう振り返ったとき、大 このSSHとは、将来の国際 ば、クラスで出し物やお揃いの た。試合後に歌う校歌は格別。 Tシャツについて考えた日々、 り返っていました。入学試験の きな影響を与えているのは、竜 的な科学技術関係人材を育成す 時には異常に長く感じた六十三 こんなにも誇らしげに歌ったこ 一高での三年間、そして教鞭に るため、先進的な理数教育を実 そして、実行委員として白龍祭 段。あの日を乗り越えて迎えた とはありません。 立った七年間だと思います。ま 施する高等学校等を、文部科学 制作に携わった日々を思い出し (12) 竜ヶ崎一高白幡同窓会会報(第28 号) 2016 年(平成 28 年)12 月発行 高 60 回 麻生 裕恵 陸上部の顧問も担当、私もその ず、高校時代、将来を夢見つつ、 ていることでしょう。全国のS 心躍らされる話でした。正直残 し て い た 私 で す が、 ﹁子ども達 一員になりました。 目先のことではなくじっくりと SHが集まる今年の成果発表会 念ながら母校での勉強の思い出 に陸上競技の楽しさを伝えた 着任したばかりの若い齊藤先 育てる雰囲気が、白幡台にはあ で、その一端ですが間近に見る は少なく、陸上部で過ごした時 い ﹂ と 思 い、 当 時 年 長 と 小 四 生が、練習の合間に聞かせてく りました。例えば、観察・実験、 こ と が で き ま し た。 竜 一 高 の 間が私の高校生活と言えると思 だった二人の息子の友達十一名 れる陸上競技の話は高校一年生 今に比べれば機器の数が少ない 益々の発展をお祈り申し上げま います。そんな楽しい三年間は で二〇〇〇年一月にスタートし の私にはどれも新鮮で面白く、 あっという間に過ぎ去りました。 たのがスポーツ少年団アスレッ 中で、その工夫としてでしょう す。 ︵文部科学省 か、各班すべて異なる実験を行 その後は、私にとって﹁先生の コ ク ラ ブ で す。 そ れ を 母 体 に 主任視学官︶ 授業が終わり部活の時間が来る のを心待ちにするようになって い、レポートを作成したことを 言われたこと﹂そして、﹁親が言っ 二〇〇四年七月にNPO法人阿 いきました。中でも一番思い出 覚えています。大枠のテーマは ていたこと﹂への挑戦の始まり 見アスリートクラブを設立。私 人生の岐路、人との出会い 深いのが、国鉄のストライキで 設定されていますが、その具体 でもありました。 が 四 十 一 歳 の 時 で す。 退 路 を 数日間学校が休校になった時、 は、実験の目的、方法など、す 齊藤先生と当時の野球部監督 断って、クラブ経営に集中した 先生の住んでいた教員宿舎に泊 べて生徒が班で話し合い決定し の持丸修一先生の薦めもあり、 いとの思いから二〇〇六年二月、 まり、陸上部の仲間と合宿と称 て実施し、実験レポートとして 駒澤大学に進学することになり 二十四年十一か月勤めたヤクル した強化練習をした時のことで まとめ提出するというものでし ました。全国インターハイにも トも辞めました。あれから十七 す。初めて接した一流の陸上競 た。ある意味、生徒の主体性を 行っていない、県大会五〇〇〇 年の歳月が過ぎ現在に至ってお 三つ上の兄の影響で陸上競技 技の世界の話は本当に面白かっ もとにした課題研究に近いもの m 六位の実績しかなかった私で ります。 の長距離をやるようになり高校 たです。いつしか勉強はそっち でした。これは一例ですが、先 したが、大学では四年連続で箱 陸上競技の世界にはなかっ でも続けようと思っていました。 のけ、陸上競技にのめり込んで 生方の指導は、それぞれに個性 根駅伝を走りました。その実績 た、ジュニア世代︵小・中・高︶ 当時、陸上をやるなら土浦三高 的であったことを記憶していま いきました。 から、実業団三社から声をかけ の選手を一貫指導の出来る仕 がいいと言われましたが、文武 す。 そ ん な あ る 日、 先 生 が﹁ 楠、 て頂き、最も印象の良かったヤ 組みを作りました。その後、大 両道を目指し勉強も運動もでき また、教鞭に立った七年間で 陸上競技で強くなれば大学にも クルト本社に入社しました。そ 学、実業団に送った選手が世界 ると思い竜ヶ崎一高を選びまし は、物理をはじめ理科の科目を 実業団にも行けるぞ﹂と話して の後は、長距離界では知らない を目指す、引退しても、生涯ス た。そこで出会った人が、その 担当しました。やってみようと くれました。私にとって初めて 人 の い な い 瀬 古 選 手、 宗 兄 弟、 ポーツとしてクラブで走る。そ 後の私の人生に大きな影響を与 する気持ちを育てるのがまず第 聞いた話でもあり、そのことを 中山選手、谷口選手など当時の んな世代間育成システムを確立 えてくれました。 一と、普通教室で行う授業でも すぐに親に伝えたところ﹁そん 名だたる選手たちと駅伝、マラ することができました。まずは 私が母校に在籍したのは昭和 手軽に行えるような実験装置を 二〇二〇年東京オリンピックに な話は聞いたことがない!陸上 ソンなど多くのレースで走り競 持ち込んだものでした。また、 四十九年度∼五十一年度の三年 出場できる選手が出てくるもの 競技では飯は食えない、いつま うことが出来ました。高校時代 間、入学の年に茨城国体が開催 夢を育むために学術の専門家を と信じております。 でもやらず勉強をやれ﹂と一蹴 齊藤先生が教えてくれた道を歩 されました。その関係で茨城県 お呼びしての出前講座に、協力 高校時代に齊藤先生に出会っ されてしまいました。 む こ と が で き た こ と、 そ れ は、 の教員に採用され竜ヶ崎一高に して手がけたことも思い出しま たことで開けていった私の人生。 しかし、私はその後も、保健 今振り返っても鳥肌が立つ素晴 着任されたのが齊藤︵現・香取︶ 体育の授業の時に話されるオリ その先生は、現在、コーチとし す。 らしい時間でした。 正樹先生です。中京大学を卒業 てクラブに関わってくださり、 今、竜一校はSSHに指定さ ンピック陸上競技の話などにの 二十八歳で現役を引退して結 したばかり、百m 十秒六︵当時 ずっとこのクラブをそして私を れ 活 動 し て い ま す。 こ れ も 先 めり込んでいきました。クラス 婚、その後は、ヤクルト本社営 日本ランキング八位︶の実績を 支えてくださっています。 生方の熱意、結束そして努力の メイトはあまり興味を持ってい 業部七年、販売会社の営業十三 持つ先生は、現役を続けながら 最近は、竜ヶ崎一高の出身者 成果ですし、生徒もそれに答え ないようでしたが、私には大変 年、陸上競技とは離れた生活を 高 29 回 楠 康夫 2016 年(平成 28 年)12 月発行 竜ヶ崎一高白幡同窓会会報(第28 号) (13) の皆様にもクラブにご支援頂け の甲子園に向けた試合応援の記 竜一時代が、これからも仕事 組んで演奏したレベッカやプリ した企業の再建は救急病院での るようになり、改めて母校の出 憶が特に残っています。今思え の原点 プリ、学校のそばにあった龍舎 手術と同様、時間との闘いでも 身者のご活躍も少しずつ知るよ ば、一度しかない高校時代にも という喫茶店で部活の皆とピザ ありました。気力も漲り、より うになりました。常に地域貢献・ う少し意識高く様々なことに取 を食べたこと、真夏の炎天下の 良い結果に向けて全力投球した 社会貢献を意識するNPO法人 り組んでおけばよかったとも思 野球場での応援などなど、楽し ことを憶えています。次に、銀 の代表を職にしていると、改め います。もちろん今だからそう かった思い出もほろ苦い思い出 行の業界団体の仕事もしました て母校での人との出会いを大切 思うという面もあるのかもしれ も、今でも鮮明に脳裏によみが が、それは一つの会社に染まり にする。そんなことも感じるよ ないのですが。 えってきます。 つつあった自分にとって視野を 同期の皆様、またお世話にな うになりました。 竜一卒業は、昭和から平成へ そして思春期の混乱で自分を 広げてくれるものでした。最近 りました先生方、吹奏楽部等の 皆様の御健勝をお祈りいたし 元号が変わった年です。大学に 持て余す中で、いつか思春期の でも、昨年から異業種交流会に 先輩・後輩の皆様方、お元気で ます。 入学するとベルリンの壁が崩壊 子供の援助ができるような臨床 参加しました。官民一緒に日本 お過ごしですか?高校時代の私 ︵ 特定非営利活動法人 し、 東 西 冷 戦 が 終 結。 そ し て、 の明日を考えるというものです。 は、竜一と竜一生の皆様の深い 心理士という仕事につきたいと 阿見アスリートクラブ代表︶ 日本ではバブル経済が崩壊し、 人口減少、 思ったのも竜一生の時でした。 少子高齢化、 財政赤字、 懐をお借りし、たくさんの思い 失われた二十年とも言われる長 現在、私は神奈川県にある独 周辺諸国との関係など、今の日 込みや勘違い、様々な失敗、高 く暗いトンネルに入らんとして 立行政法人国立病院機構久里浜 本の危機的な状況を冷静に見つ 校時代にやりたかったことをは 金融業界に生きて いました。そんな時代が大きく 医療センターという海の目の前 め、そして議論し、今後どうし じからやらせていただいたよう 高 回 梅基 彰史 変 わ り つ つ あ る な か 、 法 曹 界 を にある病院で、心理療法士をし て い く べ き か を 考 え る 良 い 機 会 に 思 い ま す 。 加 え て 、 誰 よ り も 目指したものの願い叶わず、銀 ています。久里浜医療センター でした。また、自分と違う社会 勉強をしない生徒で、いつか自 行に就職することにしました。 人生活を送ってきた人たちと一 は、二〇一一年七月に日本で初 分が同窓会会報に寄稿させてい 採用面接では好奇心が強いので めてネット依存専門治療を標榜 緒の時間を過ごすことによって ただける日が来るとは想像もし 様々な会社の事業に関係したい した外来を立ち上げました。そ 異なる世界に触れることができ、 ておりませんでした。当時の先 とアピールしたことを今でも憶 れから五年が経過しましたが、 好奇心も満たされました。 生方、先輩方、同期の皆様には え て い ま す。 実 際、 銀 行 で は、 現在では鹿児島から北海道ま 自分の年齢は四十六歳です。 多大なるご迷惑をおかけしたの 若くしていろいろな会社の事業 竜一で学び卒業してから、かな ではないかと思っております。 で、全国から患者さんが来てく に触れることが出来ました。な ださっています。その八割が中 りの時間が経過しましたが、ま また、どなたかを深く傷つける かなか得難い経験をさせても だまだ長い人生が待っていると ことがあったかもしれません。 高大学生です。毎日、当時の自 らったと思います。そうこうす 分と同じ年齢の子供たちの話を 思います。これからも、好奇心 この場をお借りしてお詫びしま るうちに金融機関の不良債権問 聞いたり、心理検査を行ったり、 を大切にし、世の中のために微 す。お恥ずかしい限りです。 題が起きました。二〇〇〇年前 一緒にスポーツをしたりしてい 力ながらも自分に出来ることは 高校卒業から約二十五年の月 後の出来事です。自分が働く銀 ます。 何なのか自問自答していきたい 日が流れたことは信じられま 行も金融再編により違う銀行と 現 在、 世 界 保 健 機 関︵ W H と思う今日この頃です。 せん。朝の竜鉄で話した友達の 統合し新しい組織を創り始める O︶は、国際疾病分類︵ICD︶ 最後になりましたが、母校、 笑顔、隣のクラスの子に世界史 こととなりました。私は、 その後、 竜ヶ崎一高の益々の発展を祈念 を改訂中です。この中に、ネッ の教科書を貸したら、センスの 不良債権処理そして企業再生の ト依存の診断ガイドラインを組 いたします。 良い落書きだらけにして返して 仕事につきました。新聞を賑わ ︵㈱みずほフィナンシャルグループ勤務︶ くれたこと、文化祭でバンドを み入れるべく、WHOと緊密に 41 気が付けば竜ヶ崎一高を卒業 してからそろそろ三十年にもな ろうとしています。すっかり母 校とは疎遠になってしまいまし たが、今でも白幡台の石段と授 業中に校舎の窓から見えたのど かな風景が思い出されます。竜 一時代は部活動に所属せず、漫 然とゆるい毎日を送った私に とって、今、仕事で緊張感ある 場面に遭遇すると、あの高校時 代のゆったりとした時間の流れ を非常に懐かしく感じるときが あります。 思い返すと目的意識の弱い竜 一生でした。竜一時代は、何か を成し遂げたということはなく、 大学受験に向けた勉強と野球部 (14) 竜ヶ崎一高白幡同窓会会報(第28 号) 2016 年(平成 28 年)12 月発行 高 42 回 三原 聡子 協力しながら、様々なプロジェ た。 した。 友がいた。その方々の名は鈴 二年生のときに赴任されて クトに参加しています。写真は 木博︵ペンネーム鈴木比露思︶ 来た長南俊雄先生の指導のも なおこの遺稿を大切に保管 染谷同窓会会長と校長先生 二〇一五年にWHO本部に行か と彼らはますます短歌の世界 されていた御仁は、永らく茨 二 人 に よ る 餅 つ き を は じ め、 そして平山寛︵ペンネーム真 せていただいた時のものです。 木龍一郎︶と片山文男︵ペン に入り込み、多数の歌を競っ 城大学付属小学校で絵の指導 飛び入りの生徒、そして来場 高校時代に勉強しなかったつけ て詠った。そして短歌結社﹁さ をされていて、十数年前に故 した一般の方にも餅つきを経 ネーム片山芙美夫︶です。 をいまだに必死になって払い続 さがに﹂にも数多く投稿した。 郷、 つ く ば み ら い 市 に 戻 り、 験していただき、多くの皆様 片山文男は残念にも在学中 けている次第です。 白寿を迎えようとしている今 方に喜んでいただいたと思い に病に倒れ早逝されてしまっ そんな彼を不幸にも病が襲 思春期の子供たちと関わる仕 い、彼は学業半ばにして休学 日も矍鑠と絵筆を走らせてい ます。 た。最近彼の生家から彼の遺 事ができていることは幸せなこ し、病気治療に専念したが病 る、片山八重子画伯です。片 時には、購入するお客様に、 稿集が見出されたので彼のこ とだと思っています。しかし問 状は回復せず、十八歳を間近 山画伯は文男の八歳下の妹 二十メートル位の長蛇の列が とを紹介させていただきま 題をかかえる子供たちと会いな に控えた昭和六年一月二十一 で、当時片山家を訪れて、離 出来てしまうほど盛況でし す。 がら、当時の自分がなりたかっ 日、帰らぬ人となった。 れの間で楽しそうに語り合っ た。並んで待つお客様も、若 彼は大正三年三月二十五日 たような、いくばくか子供たち 彼の訃報を聞いた長南先生 ていた四人を知っている、唯 い同窓会員が汗だくで餅を搗 につくばみらい市足高︵旧筑 の役に立てる心理士になれてい と学友達は嘆き悲しみ、号泣 一の御方です。 いている姿を見て、美味しい 波郡久賀村足高︶に生まれて るだろうかと考えると、まだま したと言う。そして彼の霊を 最後に三人の仲間が称賛し お餅がまもなく出来上がるこ います。奇遇にも大野誠夫と だとても届いていないと恥ずか 慰 め る た め に、 彼 の 書 き 残 た一首を紹介して終わりとし とを想像すれば我慢も出来る 誕生日が一緒です。 しくなります。これからも、竜 し た ノ ー ト や 手 帳 か ら、 約 ます。 ようです。 この地は谷原三万石の東端 一時代は私の仕事の原点であり 二百八十首を選び、ガリ版で の高台に位置しており、南に また、今年はおそろいのユ 続けると思います。 刷り上げ四十五頁に及ぶ遺稿 ・ 遠く鳴く 蛙の声のしたしもよ ニフォームを作成して、参加 田園が広がり、その彼方には いたつきの身を 湯にひたしつゝ 最後になりましたが、伝統あ を編んだのです。 した同窓生も年齢を忘れ一致 雪を冠った富士山が見え、集 る竜ヶ崎一高同窓会会報に寄 長南先生の提案で彼の大好 団結して餅をつき、餅を丸め、 落を北に向かって進むと広々 稿させていただく機会を賜りま きなこの台地をイメージして 接 客 を し て 白 龍 祭 に 参 加 し、 とした畑地があり、そこから トピック して誠にありがとうございまし 気持ちは高校時代にタイムス 北東に牛久沼が見渡せ、北西 ﹁ 丘 ﹂ と 銘 打 っ て、 彼 の 霊 前 白龍祭﹁餅つき﹂ た。 に供えられました。 リップしたようでした。 に目を転ずれば紫に聳える筑 ︵独立行政法人国立病院機構久里浜 小嶋 長 南 先 生 の 巻 末 言 に、﹁ 片 波山を望むことが出来る、緑 吉浩︵高 回︶ 医療センター 主任心理療法士︶ 山芙美夫は﹃ささがに﹄をと 今 年 の 白 龍 祭 は 六 月 三 日 豊 か な 台 地 で す 。 彼 が こ の 台 ほして、その将来を期待され ︵金︶、四日︵土︶に開催され、 地から詠った四首、 一般公開の四日は、天候にも ・ 起き出でて うれしきものは南空の ていたのに遂に此の春、十八 多 士済々⑥ 恵まれ多くの人が来場されて 朝日に映えし富士の秀麗 歳を迎へて間もなく逝去され 大野誠夫と三名の学友 ・ 雪積みて 筑波の山に生ふる樹の た、何といっても悲しい損失 盛大に行われました。 木並はあらはに見えにけるかな である﹂と書かれている。 当日は、朝早くから多くの 鹿野 勝政︵高 回︶ ・ 眼前にかくさふ霧の はれゆきて 同窓生の協力を得てテントの こんな素晴らしい先人がい 設営から看板設置、臼、杵や 眼にすがすがし 筑波の山は たことを誇りに思うと同時 旧龍中時代の大野誠夫︵ペ 餅米の準備も整い、一般公開 に、会員の皆さんにも知って ン ネ ー ム 浅 間 農 芙 夫 ︶ に は、 ・ 雨やみて うす陽は丘に匂ひをり 開始と共に餅つきを開始しま いただきたく拙筆を執りまし 特別に仲の良かった三名の学 しきりに百舌鳥の鳴きすましつゝ 13 31 2016 年(平成 28 年)12 月発行 竜ヶ崎一高白幡同窓会会報(第28 号) (15) 2016 年(平成 28 年)12 月発行 竜ヶ崎一高白幡同窓会会報(第28 号) (16) 全日本大学駅伝 んな時に竜ヶ崎一高陸上競技部 チーム︵青山学院大︶優勝 の顧問である内田先生や川口先 第六区 区間賞、大会MVP獲得 生、陸上競技部の仲間、そして 森田 歩希︵高 回︶ 竜ヶ崎一高のたくさんの先生方 に支えてもらい、時には叱って もらい私はあきらめることなく 陸上競技を続けることができま した。 また竜ヶ崎一高は進学校とい うこともあり勉強が大変でし た。入学して初めて受けたテス トでは学年で下から六番の成績 第 回生森田歩希です。現在 でした。しかし高校二年のあた は青山学院大学陸上競技部に所 りからは成績も上位に入った 属しています。今年の十一月六 り、数学では学年一位を取るこ 日に行われました全日本大学駅 ともできました。そういった陸 伝ではメンバーとして第六区を 上競技や勉強の努力をすること 走ることができました。結果は、 で速い選手ではなく強い選手に チ ー ム 優 勝 に 加 え て、 区 間 賞、 少しずつ近づくことができまし そしてMVPを獲得することが た。私が竜ヶ崎一高で過ごした できました。今回の駅伝で多く 日々、陸上競技部での経験はか の方から応援され、注目される けがえのないものであり、私を 選手になることが出来ました。 人として成長させてくれた時間 私は竜ヶ崎一高で陸上競技・ と場所だと思います。これから 長距離をやりたくて入学しまし は竜ヶ崎一高で学んだことを忘 た。中学校では五〇〇〇m の日 れずに今まで支えてくれた人の 本記録を更新し、高校一年の時 ためにも陸上競技・駅伝での活 には五〇〇〇m で高校一年歴代 躍という形で恩返しをしていき 記録上位のタイムを出すなど順 たいと思っています。そして将 調に進んでいきました。しかし 来、母校で教員・指導者として 高校一年秋の県駅伝で左足の腓 後輩である竜ヶ崎一高生を指導 骨を疲労骨折してしまいそこか できることを願っています。 らは故障の連続でした。自己記 応援ありがとうございまし 録を更新することもできずにつ た。これからもよろしくお願い らい時間が多くありました。そ します。 67 67 毎日新聞『ぐるっと首都圏・母校をたずねる』 平成 28 年9月の第一金曜から毎週金曜日に毎日新聞の『ぐるっと首都圏・母校をたずねる』のコーナーで竜ヶ崎一高の OB・OG12 名の皆さんのインタビュー記事が掲載されました。記事は「インタビュー本記」とインタビューの内容に関連 した「別稿」から構成されており、それぞれ以下のようなタイトルでした。記事の詳細は竜ヶ崎一高の HP(http://www. ryugasaki1-h.ibk.ed.jp)や白幡同窓会の HP(http://www.shirahata.sakura.ne.jp)でご覧いただけます。 第1回『「未来」は自ら切り開く』ビックカメラ社長 宮嶋宏幸氏(高 30 回) 別稿 地元期待 1900 年創立 校章に2頭の竜 第2回『怠惰と決別 外交官に』元コンゴ大使 北沢寛治氏(高 18 回) 別稿 文化祭では旧字体踏襲 49 年に校名を龍→竜 第3回『多様性支えた包容力』中国地域研究者 田島英一氏(高 33 回) 別稿 浪川商店のゴムそば 部活動帰り 胃袋満たす 第4回『射撃通しアクティブに』青山学院大3年 鎌田早伎氏(高 66 回) 別稿 密室で集中力養う 何度も全国 V の強豪部 第5回『芸人志望も認める校風』小説家 藤崎 翔氏(高 56 回) 別稿 真心で客集める OB うな丼「発祥の地」の老舗 第6回『柔道部で苦しくも楽しく』農林水産省畜産部 羽島 瞳氏(高 57 回) 別稿 進学モデル校、SSH 指定 教諭が協力 生徒の可能性考える 第7回『自由の風に導かれて』陶芸家 植竹 敏氏(高 27 回) 別稿 新校舎に卒業生の作品 多くの芸術家を輩出 第8回『厳しい練習 仲間が支えに』高校野球指導者 持丸修一氏(高 19 回) 別稿 勉強と部活動両立 「甲子園」には 10 回出場 第9回『温かい応援あってこそ』元日航客室乗員部長 荷見三七子氏(高 13 回) 別稿 戦後、男子校から共学へ 「二十六の瞳」話題に 第 10 回『自分の限界 決めないで』声優・俳優 豊嶋真千子氏(高 42 回) 別稿 通学支えるミニ路線 わずか3駅 関鉄竜ヶ崎線 第 11 回『なに一つ無駄はない』龍ケ崎市長 中山一生氏(高 33 回) 別稿 より良き教育環境を 卒業生の募金で白幡会館 第 12 回『縮こまらず、世界に視野を』柔道家 岡野 功氏(高 14 回) 別稿 64 年東京五輪 生徒らに高揚感 第 13 回『卒業生 それぞれの思い出』 別稿 生徒と先生 絆強く 会社員 石川るい子氏 会社員 綿貫哲也氏 地方公務員 大野雅之氏 元NTT勤務 高野 昇氏 整骨院院長 小菅陽彦氏 白 幡 同 窓 会 ホ ームページを立ち上げました 白幡同窓会では平成 28 年度の事業として計画してまいりましたホームページを 7 月 21 日付で正式に立ち上げました。 URL アドレ ス は 以 下 の 通 り で す 。h t t p :/ / www. shi r ahat a. sakur a. ne. j p 会員の皆様に白幡同窓会をより身近に感じていただきたく、同窓会からの情報発信のひとつとして新鮮な情報をお伝えす ることを目指して行きたいと考えております。 ホームページには新着情報、同窓会からのお知らせ、同窓会の開催情報、竜一の歴史、竜一コレクションなどを用意して おり、内容につきましては今後充実したものにしていく予定です。 特に会員の皆様からの学年同窓会、部活 OB・OG 会の開催予定情報などをいただき、お伝えすることで同窓会の活性化に 貢献できればと考えておりますので、ぜひご連絡ください。 ホームページのご意見、ご希望等がございましたら同窓会事務局までお知らせください。 櫻井 篤美(高 29 回) 3 1 1 1 3 2 2 1 6 9 1 7 4 4 37 1 2 3 52 合 計 17 15 10 15 9 6 2 24 6 7 16 8 13 4 16 2 5 25 19 29 30 60 43 26 9 28 11 262 717 過年度 1 現 役 16 15 10 12 9 6 1 23 5 7 13 6 13 4 14 1 5 25 13 20 29 53 39 22 9 27 9 259 665 大 大 大 大 大 大 大 大 大 大 大 大 大 大 大 大 大 大 大 大 大 大 大 大 大 大 大 他 計 大 学 名 獨 協 文 教 青 山 学 院 学 習 院 北 里 共 立 女 子 慶 應 義 塾 駒 澤 上 智 順 天 堂 芝 浦 工 成 蹊 成 城 専 修 中 央 東 京 医 科 東 京 女 子 東 京 電 機 東 京 農 東 京 理 東 洋 日 本 法 政 明 治 明 治 学 院 立 教 早 稲 田 そ の 私 立 大 学 合 10 合 計 1 1 1 145 1 3 4 2 1 8 1 1 5 2 3 1 2 2 1 1 1 3 1 1 1 2 1 1 1 1 1 1 1 過年度 現 役 1 1 1 135 大 大 大 計 ◆主な私立大学合格者数 北 帯 室 弘 東 山 福 茨 筑 埼 千 東 一 お 東 東 東 電 横 新 信 静 九 琉 釧 秋 県 茨 高 群 首 横 都 山 大 学 海 広 畜 蘭 工 前 北 形 島 城 波 玉 葉 京 橋 茶の水 京 学 京 工 京 気 通 浜 潟 州 岡 州 球 路 公 田 県 立米沢 城県立 崎 経 馬県立 都 大 浜 市 留 文 梨 県 名 道 大 産 大 業 大 大 大 大 大 大 大 大 大 大 大 女子大 芸 大 業 大 外 大 信 大 国 大 大 大 大 大 大 立 大 立 大 栄養大 医療大 済 大 女子大 東 京 立 大 科 大 立 大 現 役 2 1 1 1 3 2 1 41 19 10 7 過年度 合 計 2 1 1 1 3 3 2 42 19 11 7 1 1 2 1 1 1 3 3 1 1 2 1 3 4 2 1 8 1 1 6 2 3 1 大 学 名 長 野 県 看 護 富 山 県 立 高 知 工 科 国公立大学合 ◆国公立大学合格者数 進 路 状 況 職員で三年生を支援する体制 るとも感じています。 年度、数学と理科において新 れて五十大学にまで増加して が敷かれており、学校一丸と 課程の先行実施で行われた大 います。 昨年度の入試結果は、国公 なって試験に立ち向かえた成 立大学合格者が一四五名を数 学入試センター試験では、得 本校の生徒も、国公立大学 果であると感じています。 え、 七 年 連 続 一 〇 〇 名 以 上 点調整が行われる事態となり の出願にあたっては、後期試 北海道大学 2名 受験は人間を大きく成長さ を 達 成 す る と と も に、 現 役 ましたが、今回の試験では特 験の廃止・縮小を行う大学が 東北大学 3名 相 次 い だ た め 受 験 し た い 大 学 せます。生徒たちには、大学 一 三 五 名 合 格 は こ れ ま で の 最 に 目 立 っ た 混 乱 も な く 実 施 さ が見つからず、実質前期一本 受験を通して、困難に立ち向 高記録となりました。中でも、 れました。文系学部に人気の 筑波大学 名 勝 負 と な っ た 者 も い ま し た。 かい、それを乗り越えていく 東京大一名、一橋大一名合格 揺り戻しが生じていることも 東京大学 1名 そ の よ う な 厳 し い 状 況 で は あ 逞しさを身に付け、社会で活 ︵ い ず れ も 過 年 度 卒 ︶ は 特 筆 今 回 の 入 試 の 特 徴 で す 。 一橋大学 1名 りましたが、生徒たちは果敢 躍できる人間に成長していっ すべきであり、他にも北海道 ところで、国公立大学の個 東京工業大学 1名 に挑戦してくれました。結果 てもらいたいと願ってやみま 大二名、東北大三名、筑波大 別試験は一部の公立大学の中 慶應義塾大学 2名 は上述したとおり素晴らしい せん。 十九名、東京工業大一名、お 期及び別日程を除き、同一募 ものであります。生徒一人ひ 高野 茶の水女子大二名、東京外語 集単位の入学定員を前期と後 早稲田大学 名 健二 ︵高 回︶ 大一名、九州大一名︵過年度 期 に 振 り 分 け る﹁ 分 割 ﹂ と、 とりの努力は勿論のこと、全 東京医科大学 医 学 科 1 名 卒︶など難関大合格者が多数 前期の合格者が入学手続きを 出ています。また、私立大学 完了してから後期試験を行う 本校では、入学直後の導入 期 指 導﹁ R プ ロ グ ラ ム ﹂︵ 九 では難関大学の慶應義塾大二 という、前・後期試験の﹁分 年 目 ︶、 筑 波 大 学 合 格 を め ざ 名、早稲田大十一名、上智大 離﹂とを組み合わせた﹁分離 す﹁ 筑 波 大 研 究 委 員 会 ﹂︵ 八 六名の他にGMARCH︵学 分割方式﹂が平成元年より実 年 目 ︶、 医 学 部・ 難 関 大 学 合 習院・明治・青山学院・立教・ 施されておりますが、後期募 格 を め ざ す﹁ R マ ス ト ﹂︵ 七 中央・法政︶と呼ばれている 集を縮小・廃止し︵前・後期 年目︶などを柱とする進路指 大学に一三〇名以上の合格者 の定員比率の弾力化︶、﹁前期 導が展開されています。その が出ています。また二年続け 集中化﹂や推薦・AO入試の 成果は着実に現れており、毎 て東京医科大学医学部医学科 導入・拡大を図る、所謂﹁分 年安定した進路実績を残して に 合 格 し て い ま す。︵ 私 立 大 離分割方式﹂の弾力化が現在 います。さらには文部科学省 の合格者数は現浪合計数︶ 一層強く推し進められていま よりスーパーサイエンスハイ す。 さて、大学入試全般を振り スクール︵SSH︶校の指定 返ってみると、二十八年大学 国公立大学で﹁推薦・AO を受けて三年目となり、協働 入試は全教科・全科目で新課 入試﹂が増加し︵推薦・AO 的探究活動も本格化し﹁たく 程対応となった初めての入試 入試の募集人数は、全国で約 ましい科学系人材﹂の育成を であります。ただし、二十七 二 万 三 千 人 に ︶、 国 立 大 学 の 図っております。学年の枠を 年入試のような旧課程履修者 推薦入試は東京大・京都大の 越えた学校全体での進路指導 に対する﹁経過措置﹂は、セ 新規実施を含め七十七大学 体制が整い、〝学校の指導力〟 ンター試験を含めて原則とし に、AO入試は宇都宮大・京 が確かなものとなってきてい て講じられませんでした。前 都大・宮崎大の新規導入を入 平成 28 年3月進路状況一覧 19 11 2016 年(平成 28 年)12 月発行 竜ヶ崎一高白幡同窓会会報(第28 号) (17) して、ファーニー・グローヴ ﹃街をつくり、幸せをつくる﹄ 楽しくなりました﹂ 先 輩 の 語 る 仕 事 を ﹃学ぶことの意味﹄ 高校に通いました。 有川法律事務所 弁護士 野村不動産 本社 人事部 聴く会 有川 保氏︵高 回︶ 古澤 悠貴氏︵高 回︶ ﹃世界と を繋ぐ航空 学校では、バディと呼ばれ NARITA ﹁生徒さんが真面目に話を ﹁ 高校からキャリア教育を実 会社で働くということ﹄ るパートナーと組んで、同じ 平成二十八年十一月五日︵土︶ 聴いている姿がとても良かっ 施するのはとても良いことだと ANA成田エアポートサービス 旅客サービス 授業を受けたり、休み時間を たです。今後の生徒さんの勉 思います。今回限りではなく、 佐久間 智子氏︵高 回︶ 過 ご し た り し ま す。 他 に も、 強の一助になれば幸いです﹂ 継続的・恒常的にキャリアにつ 本校生だけで英会話を集中的 ﹁ 今年入社したばかりの私の いて考えようとする姿勢ができ 話をこんなにもキラキラとした に練習する時間もあります。 ﹃ まちづくりのためにできること﹄ れば更に良いと思います﹂ 表情で真剣に聴いてくださり、 学校が終わると、それぞれ 大変嬉しく思っております﹂ のホストファミリーの家に帰 龍ケ崎市役所 市民協働課 り、食事をしたり、買い物に 鎌倉 克彦氏︵高 回︶ ﹃旅行を通して地域貢献﹄ 近畿日本ツーリスト つくば支店 ﹃ 研究する人生∼生物工学者の例∼﹄ 出かけたり、子どもやペット ﹁講師のお話をいただいた 時には、在校時の想い出をた 山間 省悟氏︵高 回︶ 電力中央研究所 環境科学研究所 研究職 と遊んだりもします。 く さ ん 振 り 返 る こ と が 出 来、 ﹁ 自 分 の 仕 事 を リ ア ル に 話 渡部 良朋氏︵ 元PTA役員︶ 朝から晩まで英語を使う生 良い経験にもなりました﹂ すことで自分自身に言い聞か ﹁ 学 ぶ こ と の 意 義 や 意 味 を 活は大変ですが、研修が終わ せることが出来、仕事の再認 考えるきっかけになるお話が るころには堂々と話せるよう 第 一 学 年 で は、 文 理 選 択 を ﹃ ものづくりの喜びと着想から 識が出来ました﹂ 出来たら良いなと思いました。 になりました。また、文化や 考えさせるための取り組みのひ 実現までのいろいろ﹄ 多くの竜一生が自分の希望す 考え方の違いに気づく機会に とつとして、毎年この講演会を ㈲デンパン 研究開発 研究職 ﹃人を看るということ﹄ るプロフェッショナルな道に もなったでしょう。 実施しています。今回は十一名 丹治 昭夫氏︵高 回︶ 筑波メディカルセンター病院 看護師 進む事に役立てば幸いです﹂ 本校のウェブサイトに詳し の人生の先輩をお招きし、それ ﹁ 昨 年 に 引 き 続 き、 と て も 野々村 優希氏︵高 回︶ い報告がありますので、お読 ぞれ以下のような演題で仕事の 熱心な目つきで話を聴いてい ﹁ 講 演 を す る 中 で 生 徒 さ ん みいただければ幸いです。 オーストラリア夏期海外研修 やりがいや面白さなどについて る様子が感じられ、話をする 方の生の声を聞くことができ、 最後になりましたが、この 英語科教諭 小野瀬勇一 語っていただきました。講師の 側も熱が入りました﹂ 自分が看護師を目指そうとし 研修に際しまして同窓会から 皆様、ご協力ありがとうござい た動機や、大学合格に向けて 八 月 に、 国際交流基金として多大なる 本校初の海 ました。講師の方々の感想の一 ﹃運・可愛げ・専門性﹄ ひたむきに頑張っていた頃を ご 支 援 を い た だ い た こ と に、 農研機構 農業環境変動研究センター 研究職 外英語研修 部をご紹介させていただきます。 思い出すことができました﹂ この場を借りて御礼申し上げ を実施しま 飯泉 仁之直氏︵高 回︶ ます。夏休みは、授業に影響 ﹃ 私の進路選択と技術者という職業﹄ ﹁生徒の皆さんは、進路は考 ﹃ 食品・栄養系ってどんなところ?﹄ し た。 二 年 が出ない一方、渡航費用が膨 生十七名が、 えても就職についてはイメー カネク株式会社 研究室 商品開発 ら ん で し ま い ま す。 今 後 も、 日本サポートシステム ソフトウエア設計製作 吉田 真奈美氏︵高 回︶ オ ー ス ト ラ ジがあまりないようで、興味 生徒にとって有益な事業を企 リアのブリ ﹁とても真面目で素直な生 深く聴いていたようです﹂ 画しますので、同窓会の皆様 徒 が 多 い と い う 印 象 で し た。 ス ベ ン に 二 のご理解・ご協力をよろしく 週間のホ ー きちんと話を聴いてくれる姿 お願いします。 ムステイを 勢や眼差しに、話をするのが 秀島 昌行氏︵高 回︶ ﹁生徒さんの態度等は大変 良 い も の だ っ た と 思 い ま す。 このような講演会を経験でき る生徒は幸せだと思います﹂ 58 62 63 64 33 44 44 49 (18) 竜ヶ崎一高白幡同窓会会報(第28 号) 2016 年(平成 28 年)12 月発行 30 64 2016 年(平成 28 年)12 月発行 竜ヶ崎一高白幡同窓会会報(第28 号) 52 白龍祭以降は、当時を知る方々 か ら の 聞 き 取 り 調 査 を 行 い、 七 月 か ら 八 月 に か け て は、 本 校 の 講堂と同じ設計図で建てられた と さ れ る 水 海 道 一 高、 太 田 一 高 へ 現 地 調 査 に 赴 き ま し た。 水 海 道 一 高 の 調 査 で は、 当 時 の 部 材 が 二 点 残 さ れ て お り、 太 田 一 高 の 調 査 で は、 太 田 一 高 の 講 堂 を 実 測 し、 本 校 に 残 さ れ て い る 設 計図の寸法と一致することを確 認 し ま し た。 な お、 水 戸 二 高 の 講 堂 は、 大 正 七 年 に 火 災 で 焼 失 していることが明らかになりま 現 在、 昭 和 五 十 五 年 ま で 本 校 した。 の象徴として威容を誇っていた 一連の活動は新聞各紙に取り 講 堂 の 残 像 を 追 い か け て、 二 年 生の樽井京也、永井淳、中澤祐香、 上 げ ら れ る と と も に、F M 放 送 で も 定 期 的 に 放 送 さ れ ま し た。 山 内 浩 平、 山 口 智 也 が、 レ ポ ー 生 徒 た ち は、 注 目 度 の 高 さ に 戸 ト の 作 成 を 目 標 に 調 査・ 研 究 を 地歴科教諭 小野 威人 講堂の歴史を掘り起こす取り 組み 教室から 進めています。 ハワイ島海外研修報告 三月の白幡同窓会役員会にお 教諭 西元 重雄︵高 回︶ い て、 生 徒 た ち が 講 堂 調 査 の 協 力 依 頼 及 び 聞 き 取 り 調 査 を、 ま 昨年に引き続き、今年度は 十一月四日から九日にかけて た、 今 年 度 の 同 窓 会 総 会 の 招 待 四泊六日でハワイ島海外研修 学 年 が、 偶 然 に も 講 堂 解 体 時 に を実施してきました。参加者 在籍していた学年であったこと は男子二名、女子六名、引率 か ら、 四 月 の 総 会 で ア ン ケ ー ト 教員二名の計十名。研修中は 調 査 を 実 施 し ま し た。 六 月 に 開 雄大な自然を舞台に、ハワイ 催 さ れ た 白 龍 祭 で は、 倉 庫 に 保 大学教授の英語によるフィー 管されていた講堂部材の一部を ル ド ワ ー ク を 体 験 す る な ど、 展 示 し ま し た。 全 日 制 一 二 名、 大変貴重な時間を過ごすこと 定時制四名の計十六名でプロ ができました。 ジェクトチームを結成して準備 を 進 め、 当 日 は 約 二 五 〇 名 に ご 来場いただきました。 (19) 惑 い な が ら も 調 査 を 継 続 し、 二 勢として三十五年ぶりに浅井 部活動奨励金贈呈式 本のレポートを完成させていま 優汰︵3E︶が優勝し、団体 す。 題 名 は﹁ 煌 め く 古 き 講 堂 戦においては男子チーム︵寺 教諭 矢口 博︵高 回) 竜ヶ崎一高と水海道一高の講堂 田、水柿、浅井︶が準優勝と 県外大会に出場する部活動 を調査して分かったこと ﹂ 、 ﹁ま いう素晴らしい結果を残すこ に対して、大会ごとに二万円 ぼ ろ し の 講 堂 を 追 っ て 竣 工、 とができました。夏休みから から十万円の範囲で﹁白幡同 解体、そして伝説へ ﹂ 。いずれ 二年生がチームの主体とな 窓会部活動奨励金﹂を贈呈し も外部行政機関の懸賞論文に応 り、秋の大会に向け日々精進 経済的な支援を行っていま 募 し て い ま す。 今 回 の 取 り 組 み を重ねています。 す。例年、全校生徒が集まる により、生徒 壮行会の中で奨励金の授与を 十月一日から岩手県で行わ たちは、竜ヶ れた第七十一回国民体育大会 実施していますが、白幡同窓 崎一高の歴 では、新キャプテンとなった 会会長が壇上で直接生徒に贈 史を感じる 高木薫︵2E︶が少年女子ビー 呈することで、白幡同窓会の ことができ ムピストルの部で準優勝、ま 目的の一つである﹁母校後援 たと思いま た浅井優大︵3E︶も少年男 のための活動﹂に対し、在校 す。素晴らし 子ビームライフルの部で第三 生の認識が深まってきていま い経験を積 す。 位という優秀な結果を収める みました。 ことができました。現在は選 今年度は五月二十三日に壮 行会が実施され、男子軟式テ 手それぞれが自分の課題を見 ニス部、射撃部、陸上競技部 つけ、次の目標である関東選 抜大会に向けて日々練習して の県外大会出場へ向けて白幡 部 活 動 状 況 おります。毎年のことですが、 同窓会の染谷信洋会長より奨 学校や同窓会はじめ、 PTA、 励金が手渡されました。 射 撃 部 OB、OG、保護者の方々の ご声援やご支援のおかげであ ると、部員共々感謝しており ま す。 今 後 ともご指導 の 程、 よ ろ しくお願い します。 − − − 顧問 菅原 冬樹 今年の全国 高等学校ライ フル射撃競技 選 手 権 大 会 は、 七月二十八日 から三十一日 まで広島県安 芸太田町の﹁つ つがライフル射撃場﹂で行わ れました。個人戦では茨城県 − 29 第三回旧職員会 て ー じ 庵 倉持 定時制教諭 正男︵高 回︶ 櫻井 美奈 四年前発足した竜一旧職員会︵隔年実施︶ 六月四日︵土︶の白龍祭で 主催の講演会・研究発表会が十一月十九日に は、定時制の生徒も﹁てーじ 飛龍館で開催されました。 庵﹂で参加しました。白龍祭 第一部では、これまで英国を二十八回、湖 名物としてすっかり定着した 水地方を十三回訪れたことのある旧職員で、 感のある ﹁てーじ庵﹂のカレー 元県教育長の齋藤佳郎先生︵高8回︶による は、つくばの地鶏を使い、生 ﹁ビアトリクス・ポターとイングランド湖水 徒が丁寧に下ごしらえした野 地方﹂を演題にした講演が行われました。 菜とともにじっくり煮込んだ 第二部では、竜一高生の有志による﹁講堂 本格派です。販売開始ととも の歴史を掘り起こす﹂をテーマに昭和五十五 に行列ができ、たくさんのお 客様に味わっていただくこと ができました。 年に解体された講堂についての研究発表が行 われました。 進路ガイダンス もに、充実感や達成感がどの その後、総会・懇親会が、一高下のアイ 結果は、十三時には三五〇 ガーデン下平で開催され、現職の先生も含め、 食が完売!心地よい疲れとと 総会においては引き続き大野英二先生︵高 六十一名の参加者が一堂に集いました。 回︶に会長をお願 いすることになりまし た。懇親会では石神由 範先生︵中 回︶の旧 定時制教諭 櫻井 美奈 七 月 十 五 日︵ 金 ︶、 定 時 制 では生徒のキャリア教育の一 環として進路ガイダンスを実 施 し ま し た。 生 徒 は、﹁ 大 学 コース﹂﹁専門学校コース﹂﹁就 職コース﹂にそれぞれ分かれ、 大学の担当者の方から大学で の学びや入試の情報をお聞き したり、実践的な面接指導を 受けたりして、普段の授業で は学べない貴重な体験をする ことができました。 生徒からは﹁自分の将来の 編 集 後 記 生徒の表情にもあふれていま 切見ず、一人一人に語りかけ 生活体験発表大会 した。行事が少ない定時制で るように話す菊池君の言葉は は、生徒のこうした活動の場 定時制教諭 櫻井 美奈 聴衆の胸を打ちました。惜し は貴重なものです。ひとつず くも全国大会への出場はかな 十 月 一 日︵ 土 ︶、 全 国 の 定 つ大切にしながら、さらに充 時制通信制の生活体験発表大 いませんでしたが、見事﹁結 実を図っていきたいと考えて 会の茨城県予選が結城市民文 城市長賞﹂を受賞することが おります。今後ともPTAお 化センター・アクロスで行わ できました。ご支援いただき よび同窓会の皆様のご支援を れ、本校からは二年生の菊池 ましたPTA及び同窓会の皆 賜ります 蓮君が参加しました。タイト 様に感謝申し上げます。あり ようお願 ルは﹁あなたへの言の葉﹂。 がとうございました。 い申し上 今年の夏に経験した祖父母 げます。 との永遠の別れをきっかけ に、祖父母からかけてもらっ た﹁言の葉﹂の意味に気づき、 自らも﹁言の葉﹂の力で人を 癒せるようになりたい、とい う考えを持つにいたるまでの 心の軌跡を、情感を込めて訴 えました。手もとの原稿を一 ことについて真面目に考えよ う と 思 っ た ﹂﹁ オ ー プ ン キ ャ ンパスや学園祭にぜひ行って て、鹿野勝政氏︵高 回︶か みたい﹂といった感想も聞か ら執筆者の鈴木久氏︵高2回︶ れ、 卒 業 に連絡がありました。大野誠 これまで﹁叙勲・褒章﹂の 後の進路 夫に関する新事実について鹿 コーナーで受章された方々を について ご紹介してきましたが、毎回、 野 氏 に 原 稿 を 依 頼 し ま し た。 真剣に向 会員の皆様からの直接の反応 情報収集の限界を感じてまい き合う有 が会報編集に携わる者にとっ りました。役員会等で検討し 意義な機 てはとてもありがたいもので た結果、今号から﹁叙勲・褒 会となり す。 章﹂のコーナーを割愛するこ ました。 とにいたしました。ご理解の 今後も、読みやすく、興味 の持てる会報を目指して充実 程よろしくお願いします。 した紙面作りに努めてまいり 前号の﹁多士済々⑤﹂で紹 介された歌人大野誠夫のペン ます。 ネームに関する記事につい 倉持 正男︵高 回︶ 13 27 追記 本旧職員会については、ユニークな活 動として、同窓会のための情報誌﹁同窓会の いに楽しみました。 藹々の懇親の時間を大 た。 旧 交 を 深 め 和 気 声で会が始まりまし 本君代先生の乾杯の発 職員代表挨拶の後、松 41 チカラ 2016﹂に紹介されました。 同窓会HPに掲載しましたので、ご覧くだ さい。 27 11 (20) 竜ヶ崎一高白幡同窓会会報(第28 号) 2016 年(平成 28 年)12 月発行
© Copyright 2025 Paperzz