1 丸山眞男における平和関連思想

丸山眞男における平和関連思想
-『丸山眞男集』抜粋集-(大学院講義用)
Ⅰ 丸山政治学・政治思想史の基線-現实政治への関心-
<科学としての政治学>
-「一般に、市民的自由の地盤を欠いたところに真の社会科学の成長する道理はないのであ
るが、このことはとくに政治学においていちじるしい。…一般に「政治」がいかなる程度ま
で自由な科学的関心の対象となりうるかということは、
その国における学問的自由一般を測
定するもっとも正確なバロメーターといえる。なぜなら政治権力にとって、何が好ましくな
いといって己れ自身の裸像を実観的に描かれるほど嫌悪すべき、
恐怖すべきことはなかろう。
逆に、もしそれを放任するだけの余裕をもつ政治権力ならば、恐らく他のいかなる対象につ
いての科学的分析をも許容するにちがいない。したがって政治に関する考察の可能性はその
時代と場所における学問的思惟一般に対してつねに限界状況を呈示する。
いわば政治学は政
治と学問一般、
いな広く政治と文化という人間営為の二つの形態が最大緊張をはらみながら、
相対峙する、ちょうど接触点に立っているわけである。」(集③
「科学としての政治学」
1947.6.pp.136-8)
「のみならず、…方法の問題が対象の問題と不可分にからみ合っているのが政治的思惟の
特質なのであって、純粋な、対象から先験的に超越した方法というものはこの世界では意味
、、、、、
、、、、、
がない….そうした研究が究極には、われわれの国の、われわれの政治をどうするかとい
う問題につながって来ないならば、結局閑人の道楽とえらぶところがないであろう。要は
われわれの政治学の理論が日本と世界の政治的現实について正しい分析を示しその動向に
ついての科学的な見透しを与えるだけの具体性を身につけることであって、このことをな
、、、
しとげてはじめて、未曾有の政治的激動のさ中に彷徨しつつある国民大衆に対して政治の
科学としての存在理由を实証したといえるのである。政治学は今日なによりもまず「現实
同上 p.144)
、、
「けれどもここで忘れてはならないことがある。政治学が政治の科学として、このように
科学」たることを要求されているのである。」
(集③
具体的な政治的現实によって媒介されなければならぬということは、
それがなんらかの具体
、、
、、
、、
的な政治勢力に直接結びつき、政治的闘争の手段となることではない。…学者が現实の政
治的事象や現存する諸々の政治的イデオロギーを考察の素材にする場合にも、彼を内面的
、、、、
に導くものはつねに真理価値でなければならぬ。…たとえ彼が相争う党派の一方に属し、
その党派の担う政治理念のために日夜闘っているというような場合にあっても、
一たび政治
、、、、
的現实の科学的な分析の立場に立つときには、彼の一切の政治的意欲、希望、好悪をば、ひ
、、
たすら認識の要求に従属させねばならない…。
、、
、、、
ところが、
…政治事象の認識に際してつねに一切の为観的価値判断の介入を排除するとい
うことは口でいうより实際ははるかに困難である。…ここにおいて政治的思惟の特質、政治
1
における理論と实践という問題に否忚なく当面しなければならない。
…ここでは为体の認識
、、
作用の前に対象が予め凝固した形象として存在しているのではなく、認識作用自体を通じ
て実観的現实が一定の方向づけを与えられるのである。为体と対象との間には不断の交流
作用があり、研究者は政治的現实に「实存的に、全思考と全感情をもって所属している」
。
、、
…未来を形成せんとし行動し闘争する人間乃至人間集団を直接の対象とする政治的思惟に
おいて、認識为体と認識実体との相互移入が最高度に白熱化する事实から何人も眼を蔽う
ことは出来ない。この世界では一つの問題載設定の仕方乃至一つの範疇の提出自体がすで
に実観的現实のなかに動いている諸々の力に対する評価づけを含んでいるのである。…
政治学者は自己の学問におけるこのような認識と対象との相互規定関係の存在をまず率
、、、、、、
直に承認することから出発せねばならぬ。それはいいかえるならば自己を含めて一切の政
治的思惟の存在拘束性の承認である。政治的世界では俳優ならざる観実はありえない。こ
こでは「厳正中立」もまた一つの政治的立場なのである。その意味では、学者が政治的現
、、、
实についてなんらかの理論を構成すること自体が一つの政治的实践にほかならぬ。
、、、、、、、
かかる意味での实践を通じて学者もまた政治的現实に为体的に参与する。この不可避的
、、
な事实に眼を閉じてドラマの唯一の観実であるかのようなポーズをとることは、
自己欺瞞で
あるのみならず、有害でさえある。…一切の世界観的政治闘争に対して卖なる傍観者を以
、、、
て任ずる者は、それだけで既に政治の科学者としての無資格を表明しているのである。
、、
…価値決定を嫌い、
「実観的」立場を標榜する傲岸な实証为義者は価値に対する無欲をて
、、、
らいながら实は彼の「实証的」認識のなかに、小出しに価値判断を潜入させる結果に陥り易
い。之に対して、一定の世界観的理念よりして、現实の政治的諸動向に対して熾烈な関心
と意欲を持つ者は政治的思惟の存在拘束性の事实を自己自身の反省を通じて比較的容易に
、、、
認めうるからして、政治的現实の認識に際して、希望や意欲による認識のくもりを不断に
かえ
ザ ッ ヘ
警戒し、そのために却って事象の内奥に迫る結果となる。…」
(集③ 同上 pp.144-51)
-「さきほど、ユネスコが世界各地から社会科学者を集めて平和問題を討議させましたが、
、、
その際の共同声明…のなかに、平和の基礎としての社会的洞察を民衆に与えることが、人間
、、
、、、、
の学(The Sciences of Man)としての社会科学の重大な役割だ、と述べているのを見て、私
は今更のように感動しました。
…人間と人間の行動を把握しようという目的意識につらぬか
れている限り、映画を見ても小説をよんでも、隣りのおばさんと話をしても、そこに広くは
学問一般の、せまくは歴史の生きた素材を発見出来るはずです。そうした日常生活のなか
、、、
で絶えず自分の学問をためして行くことによって学問がそれだけ豊かに立体的になり、逆
にまた自分の生活と行動が原理的な一貫性を持って来ます。」
(集④ 「勉学についての二、
三の助言」1949.5.pp.166-7)
<歴史感覚>
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-「過去の思想から今日われわれが学ぶということはどういうことなのか。歴史的状況を
まったく無視せずに、
しかもその思想を今日の時点において生かすということはどういうこ
となのか。‥
百年もまえに生きた思想家を今日の時点で学ぶためには、まず第一に、現在われわれが到
達している知識、あるいは現在使っていることば、さらにそれが前提としている価値基準、
、、、、
そういったものをいったんかっこの中に入れて、できるだけ、その当時の状況に、つまり
その当時のことばの使い方に、その当時の価値基準に、われわれ自身を置いてみる、とい
、、、、
う想像上の操作が必要です。…歴史的想像力を駆使した操作というのは、今日から見てわ
かっている結末を、どうなるかわからないという未知の混沌に還元し、歴史的には既定と
なったコースをさまざまな可能性をはらんでいた地点にひきもどして、その中にわれわれ
、
自身を置いてみる、ということです。簡卖にいえば、これが過去の追体験ということであ
ります。
、、、、
しかし追体験だけでは、過去を過去から理解する、いわゆる過去の内在的理解が可能にな
る、あるいはいっそう深くなるというだけです。次には、その思想家の生きていた歴史的
な状況というものを、特殊的な一回的な、つまりある時ある所で一度かぎり起こったでき
ごととして考えないで、これを一つの、あるいはいくつかの「典型的な状況」にまで抽象
化していく操作が必要になります。あらゆる歴史的できごとというものはそのままではく
りかえされません。が、これを典型的な状況としてみれば、今日でも、あるいは今後もわれ
われが当面する可能性をもったものとしてとらえることができます。
、、、
…こういう操作で、歴史的過去は、直接に現在化されるのではなくて、どこまでも過去
を媒介として現在化されます。思想家が当時のことばと、当時の価値基準で語ったことを、
彼が当面していた問題は何であったか、という観点からあらためて捉えなおし、それを、
、、、、、
当時の歴史的状況との関連において、今日の、あるいは明日の時代に読みかえることによ
、、、、、
って、われわれは、その思想家の当面した問題をわれわれの問題として为体的に受けとめ
ることができるのです。
」
(集⑨ 「幕末における視座の変革」1965.5.pp.206-8)
-「私のなかにはヘーゲル的な考え方があります。つまり“自分は何であるか”というこ
とを自分を対象化して認識すれば、それだけ自分の中の無意識的なものを意識的のレヴェ
ルに昇らせられるから、あるとき突如として無意識的なものが噴出して、それによって自
分が復讐されることがより尐なくなる。つまり“日本はこれまで何であったか”というこ
とをトータルな認識に昇らせることは、そうした思考様式をコントロールし、その弱点を
克朋する途に通ずる、という考え方です。…哲学はいつもある時代が終幕に近づいたころ、
遅れて登場し、その時代を把握する。“ミネルヴァの梟は夕暮れになって飛びたつ”という
有名なヘーゲルの比喩がそれです。ヘーゲルの場合は非常に観照的で後ろ向きです。つまり
哲学が時代をトータルに認識できるのはいつも「後から」だ、というので、ヘーゲル哲学に
おける保守的要素の一つになるわけです。ところがマルクスはこれをひっくりかえして読ん
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だ。ある時代をトータルに認識することに成功すれば、それ自体がその時代が終焉に近づい
ている徴候を示す。
こういう読み方なんです。
‥資本制社会構造の全的な解剖に成功すれば、
それは資本制社会が末期だということの徴候なんです。そういう「読みかえ」ですね。…そ
の流儀で“ミネルヴァの梟は夕暮れになって飛びたつ”という命題を、日本の思想史にあて
はめれば、‥日本の過去の思考様式の「構造」をトータルに解明すれば、それがまさに basso
ostinato を突破するきっかけになる、と。認識論的にはそういう動機もあります。」(集⑪
「日本思想史におけ「古層」の問題 1979.10.pp.222-3)
-「古典を読み、古典から学ぶことの意味は-すくなくも意味の一つは、自分自身を現代
、、、、
から隔離することにあります。
「隔離」というのはそれ自体が積極的な努力であって、「逃
避」ではありません。むしろ逆です。私たちの住んでいる現代の雰囲気から意識的に自分
を隔離することによって、まさにその現代の全体像を「距離を置いて」観察する眼を養う
ことができます。
」
(集⑬ 「文明論之概略を読む(上・中)
」1986.p.20)
「大日本帝国の解体状況は維新直後に似たところがあった。
…今まで通用していた価値体
系が急速にガラガラと音をたてて崩れ、
正邪善悪の区別が一挙に見分けがつかなくなってし
まう。途方に暮れてどうやって物事を判断するのか分からないという状況。これは狭い意味
での制度の融解からくる政治的社会的アナーキーということに尽きない、
精神的アナーキー
、
状況です。
…これは‥ほとんど下意識にまで入りこんでいる判断枞組のレヴェルの問題だと
いう点が大事だと思うのです。…思考の枞組自身が分らなくなってしまった状況、これまで
当然のことのように通用していた価値体系の急激かつ全面的な解体によって、たとえ瞬時で
あっても生まれた精神的真空状態-そういう状況を、われわれが、歴史的想像力を駆使し
て頭の中に描いてみる必要があるのです。」(集⑬ 同上 pp.67-8)
「福沢が批判の対象としている伝統的史観とは何か。‥一つは英雄史観、あるいは治者史
観といってもいいのですが、つまり、個々の英雄、個々の治者が歴史を動かしているという
見方です。それから第二には、現实には右の史観といろいろな形で結びついて現われる、俗
に言う治乱興亡史観の批判です。世の中が治まったり乱れたりするプロセスを、治者が興っ
たり滅びたりするいわば波動の曲線として見る。…それから第三に、伝統的史観として重要
なのは、大義名分史観と勧善懲悪史観です。この後の二つはいずれも歴史を道徳的鏡として
見るわけです。そうして鏡に映った歴史を通じて大義名分を顕彰する。…
いずれにしても歴史を道徳的な鏡とする考えはどうしても、個人の行動が中心となり、し
かもその個人というのは治者です。
それでこの三つの史観は各々が連動関係にあるといえま
す。もしそれを全部一つの命題に凝縮するなら、天下の指導者の徳の善悪によって-あるい
は治者の賢愚さまざまの生き方によって、天下は乱れたり治まったりするということになり
ます。…中国の「正史」において一貫して陰に陽にあらわれている考え方です。」
(集⑬ 同
上 pp.248-9)
「バックルの場合には、この『イギリス文明史』を書くときに念頭に置いた彼の为要敵は
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何かといえば、神学と形而上学です。‥一つは神学上の予定説‥です。造物为が初めから、
ある人は永遠に救われていると定め、ある人は永遠の地獄行を定められているという恐るべ
き教説です。…この予定説では、造物为は万能ですから、創造の瞬間にすでに全てのことを
予定しているわけですね。だから、ある意味では、絶対的な宿命論になる。‥
それとちょうど裏腹なのが、ヨーロッパの形而上学における自由意志説です。人間の自由
意志のドグマから出発する。カントまでの近代の哲学は多かれ尐なかれ、そうです。哲学だ
けでなく、近代の個人为義の考え方の中には、多かれ尐なかれこの自由意志説があるわけで
す。…自由意志というのは、そういう意味で近代の個人为義の基礎であり、哲学はそれを基
礎づけてきたわけです。
」
(集⑬ 同上 pp.251-2)
や
ぼ
「現代では、
「歴史における法則性」を云々することは、何か野暮くさく思われます。实
際、バックルのように統計学に依拠して歴史の法則性を導き出すのは、今日、あまりにも素
朴な議論にみえます。十九世紀の自然科学信仰の好例といえるでしょう。けれども、ここで
もやはり歴史的想像力が必要です。ヨーロッパでは、神学と形而上学の魔力から歴史を解
インパーソナル
放してその科学性を確立するには、
必ずしもバックルに依らずとも-非人格的な「社会法則」
の支配という考え方による鉄火の試練をくぐることが必要でした。東アジアでは、勧善懲悪
史観や英雄史観の盲点を明らかにするには、
やはり福沢や田口卯吉らの荒療治が必要だった
ように思われます。
」
(集⑬
同上 pp.279-80)
-「前章、あるいはその前の章で、鋭いイデオロギー批判をした際にも、福沢には一種の
歴史感覚が働いて一方的断罪には終始していないことを申しました。この章ではその強調
、、、、
、、
点を移動させて-したがって、
異なった文脈の中で-同じ価値判断を維持しているのです。」
(集⑭ 「文明論之概略を読む(中・下)」1986.p.244)
<政治的リアリズム>
-「
「理想はそうだけれども現实はそうはいかないよ」というこういういい方というものに
たば
は、現实というものがもつ、いろいろな可能性を束として見る見方が欠けているのです。
、、、、、、
…しかし政治はまさにビスマルクのいった可能性の技術です。…現实というものを固定し
た、でき上がったものとして見ないで、その中にあるいろいろな可能性のうち、どの可能
た
性を伸ばしていくか、あるいはどの可能性を矯めていくか、そういうことを政治の理想な
り、目標なりに、関係づけていく考え方、これが政治的な思考法の一つの重要なモメント
、、
とみられる。つまり、そこに方向判断が生れます。つまり現实というものはいろいろな可
能性の束です。…いろいろな可能性の方向性を認識する。そしてそれを選択する。どの方
向を今後のばしていくのが正しい、
どの方向はより望ましくないからそれが伸びないように
チェックする、ということが政治的な選択なんです。いわゆる日本の政治的現实为義という
ものは、こういう方向性を欠いた現实为義であって、「实際政治はそんなものじゃないよ」
5
という時には、方向性を欠いた政治的な認識が非常に多いのであります。」
(集⑦ 「政治的
判断」1958.7.p.319)
、、
-「卖なるあまのじゃくから思想家としての福沢を区別するものは何か…。第一に、認識
、、、
態度としては左の中に同時に右の契機を見る、右の中に同時に左の契機を見る、こういう
見方です。ここで申します左右というのはもちろん一つの比喩です。まぁ楯の反面をいつ
も見る態度といってもいいでしょう。人が左といえば右というだけなら、ただ左というのを
裏返しただけで一面的である点では同じことになります。ものごとの反対の、あるいは矛盾
、、
した側面を同時に見るという点が大事です。そしてさらに第二に決断としては現在の状況
、、、、、
判断の上に立って左か右かどちらかを相対的によしとして選択するという態度です。この
二つの態度が組み合わさっています。したがって、積極的に左を選択し为張する際には、認
識態度としては右の方に比重をかけて見る、
右に決断する際には、
左の側面により注目する、
ということになります。こういう精神態度を、あまり適当な言葉ではありませんが、ここで
はかりに両眼为義、あるいは複眼为義と呼ぶことに致します。」(集⑦
「福沢諭吉につい
て」1958.11.pp.378-9)
-「距離をおいた認識と分析というものが、もっとも必要でありながら、实はもっとも欠け
、、、、、
やすいのは激動期の政治的状況についての認識であります。…(佐久間)象山の‥今日でも
政治の思考方法として学びうると思われる点の一つは、政治的な好悪を離れて冷徹に認識
し、またそのなかに含まれた矛盾した発展方向をつかまえる眼であります。…一つの事象
、、、
のなかに含まれている矛盾した方向への発展の可能性というものを同時におさえていくと
いうことは、‥とくに政治的指導者にとっては、こういう両極性のあるいは多方向性の認
識眼が必須の資質になります。そこにはじめて、自分の立場からして、一定の状況のなか
にふくまれている、より望ましい可能性を尐しでものばし、望ましくない方向への発展可
能性を抑えていくような政治的選択-それに基づく政策決定が生まれてきます。政治は「可
能性の技術」だというのはそういうことです。それは、理想、あるいは建て前はそうだけれ
ども、現实は……という論法で、現实と理想とを固定的に対立させ、既成事实にただ追随し
ていく「現实为義」とは縁もゆかりもないものです。」(集⑨ 「幕末における視座の変革」
1965.5.pp.235-8)
、、、
「めがねというのは、抽象的なことばを使えば、概念装置あるいは価値尺度であります。
、、、
ものを認識し評価するときの知的道具であります。われわれは直接に周囲の世界を認識す
ることはできません。
われわれが直接感覚的に見る事物というものはきわめて限られており、
われわれの認識の大部分は、自分では意識しないでも、必ずなんらかの既成の価値尺度な
、、
り概念装置なりのプリズムを通してものを見るわけであります。そうして、これまでので
、、、
きあいのめがねではいまの世界の新しい情勢を認識できないぞということ、これが象山が
いちばん力説したところであります。…
6
、、、
われわれがものを見るめがね、認識や評価の道具というものは、けっしてわれわれがほし
いままに選択したものではありません。それは、われわれが養われてきたところの文化、わ
れわれが育ってきた伝統、受けてきた教育、世の中の長い間の習慣、そういうものののなか
で自然にできてきたわけです。ただ長い間それを使ってものを見ていますから、ちょうど長
、、、
、、、
くめがねをかけている人が、
ものを見ている際に自分のめがねを必ずしも意識していないよ
、、
うに、そういう認識用具というものを意識しなくなる。自分はじかに現实を見ているつもり
、、、、、、
、、
ですから、それ以外のめがねを使うと、ものの姿がまたちがって見えるかもしれない、とい
うことが意識にのぼらない。…そのために新しい「事件」は見えても、そこに含まれた新し
い「問題」や「意味」を見ることが困難になるわけであります。」
(集⑨ 同上 pp.216-7)
、、、
「一つの事象のなかに含まれている矛盾した方向への発展の可能性というものを同時に
おさえていくということは、‥とくに政治的指導者にとっては、こういう両極性の、あるい
は多方向性の認識眼が必須の資質になります。そこにはじめて、自分の立場からして、一定
の状況のなかにふくまれている、より望ましい可能性を尐しでものばし、望ましくない方向
への発展可能性を抑えていくような政治的選択-それに基づく政策決定が生まれてきます。
政治は「可能性の技術」だというのはそういうことです。」(集⑨ 同上 p.238)
<現实政治への発言を余儀なくせしめたもの>
-「私はこれまでも私の学問的関心の最も切实な対象であったところの、日本に於ける近
いよいよ
代的思惟の成熟過程の究明に愈々腰をすえて取り組んで行きたいと考える。従って実観的
いわゆる
情勢の激変にも拘わらず私の問題意識にはなんら変化がないと言っていい。…漱石の所謂
「内発的」な文化を持たぬ我が知識人たちは、時間的に後から登場し来ったものはそれ以前
に現われたものよりすべて進歩的であるかの如き俗流歴史为義の幻想にとり憑かれて、ファ
はず
シズムの「世界史的」意義の前に頭を垂れた。そうして今やとっくに超克された筈の民为为
義理念の「世界史的」勝利を前に戸惑いしている。やがて哲学者たちは又もやその「歴史的
かまびす
さえず
必然性」について 喧 しく 囀 り始めるだろう。しかしこうしたたぐいの「歴史哲学」によ
かつ
って嘗て歴史が前進したためしはないのである。
我が国に於て近代的思惟は「超克」どころか、真に獲得されたことすらないと云う事实は
かくて漸く何人の眼にも明かになった。…しかし他方に於て、過去の日本に近代思想の自
生的成長が全く見られなかったという様な見解も決して正当とは云えない。…私は日本思
想の近代化の解明のためには、明治時代もさる事ながら、徳川時代の思想史がもっと注目さ
な い し
れて然るべきものと思う。しかもその際、…儒教乃至国学思想の展開過程に於て隠微の裡
に湧出しつつある近代性の泉源を探り当てることが大切なのである。思想的近代化が封建
権力に対する華々しい反抗の形をとらずに、むしろ支配的社会意識の自己分解として進行
し来ったところにこの国の著しい特殊性がある。」
(集③ 「近代的思惟」1946.1.pp.3-4)
7
-「政治の領域に見られるかくの如き「中間期」の頽廃性-ムッソリーニやヒットラーによ
る「権力政治」の再登場はその最も露骨な表現にすぎない-はまた思想、文化の面に於ても
覆わるべくもない。
この二十年間には新しき創造の準備をなすような思想家や作家は一人も
現われていない。…なにより問題なのは、この時期の知識人が大衆から遊離し、時代の最高
の社会的闘争の外に超然としながら、むしろ逆にそうした孤高性に矜恃を抱いている事であ
る。…そうした文学に共通するものは、新しき信仰と勇気の欠如であり、現代世界の終末と
頽廃を認識しながら、決然として新しき秩序の形成に赴こうとせず、知られざる未来の世界
の前に尻込みする臆病さである。
ラスキの骨を指す批判は転じて学界に及ぶ。…この二十年間の学界をもって、まさに歴史
とのたわむれとして弾劾する。
そこには旧態依然たる範疇の使用と叡智の欠乏が特徴であっ
た。その原因として、ラスキは、学問の過度の専門化と学者の不偏不党の崇拝 (cult of
impartiality)を挙げている。…最近の亓十年間、とくにこの二十年間に於て、学問と生活と
の乖離は著しくなった。学者はもっぱら他の学者に向って説いた。学者は専門化を極度に押
し進めた結果、学者の著作は普通の知識を持った人間には無意味となった。
」
(集③ 「西欧
文化と共産为義の対決」pp.46-8)
-「これまで僕は、…当面の政治や社会の問題についての多尐ともまとまった考えを殆んど
新聞や雑誌に書かなかった。…しかし去年 (一九四九年) の秋あたりから最近にかけての日
本をめぐる内外情勢の推移や新聞の論調などをじっと見ていると、何かしらこれ以上、そ
うした問題について沈黙しているのに耐えられなくなって来た。…ただ僕一個の気持とし
て黙っていることに心理的な、いや、殆んど肉体的な苦痛を覚え出したのだ。…敗戦後、数
、、
年ならずして再び僕に…あの時代の気持と表情を甦えらせようとしているものは果して何
か…。
」
(集④ 「ある自由为義者への手紙」1950.9.pp.314-5)
「現在知識人は好むと否とに拘らずそれぞれの根本的な思想的立場を明らかにすることを
迫られていると思う。…真に自由の伸長と平和の確保とを願う人々の間に出来るだけ広汎か
、、
つ堅固な連帯意識を打ちたてる前提としていうのだ。もはや平和や自由というそれ自体誰も
文句のつけようのない「言葉」の下に、それぞれ「下心」を秘めた人々を結集させて表面の
つじつまをあわせるのが「共同戦線」を意味した時期は過ぎた。…自由人をもって任ずる
、、、、、、、、、、、、、
無党派的な知識人もその为体性を失わないためには無党派的知識人の立場からの現实政治
に対する根本態度の決定とそれに基く戦略戦術を自覚しなければならない段階が来ている
ということだ。
」
(集④ 同上 pp.317-8)
、、、
-「とくに日本のように、組織や制度がイデオロギーぐるみ輸入されたところ、しかも政治
体制の自明性がなく、その自動的な復元力が弱いところでは、政治の問題が思想の問題と関
連して登場して来るいわば構造的な必然性があると考えられる。
一方ではイデオロギー論が
過剰のように見えながら、他方では「思想」の形をとらない思想が強靱に支配し、思想的不
8
感症と政治的無関心とを同時に醱酵させているこの国で、イデオロギー問題を学問的考察か
ら排除することは实際にはその意図する科学的な見方の方向には機能せず、むしろ「いずこ
も同じ秋の夕暮」という政治的諦観に合流するであろう。したがってわれわれは「価値か
、、
ら自由な」観察と、積極的な価値の選択の態度を、ともに学びとらねばならぬという困難
な課題に直面している。
」
(集⑦ 「現代政治の思想と行動第二部 追記」1957.3.p.31)
-
「そもそも現代というのはどういう時代なのかという根本的な問題に行き当らざるを得な
いと思います。‥私たちは私たちの毎日毎日の言動を通じまして、職場においてあるいは地
域において、
四方八方から不断に行われている思想調査のネットワークのなかにいるという
のが今日の状況であります。…こういう状況のなかで私たちは、日々に、いや時々刻々に多
、、、、、、
くの行動または不行動の方向性のなかから一つをあえて選びとらねばならないのです。…し
かもおよそ政治的争点になっているような問題に対して、選択と決断を回避するという態
度は、まさに日本の精神的風土では、伝統的な行動様式であり、それに対する同調度の高
い行動であります。
(集⑧ 「現代における態度決定」1960.7.pp.303-6)
「認識することと決断することとの矛盾のなかに生きることが、私たち神でない人間の
、、、
宿命であります。私たちが人間らしく生きることは、この宿命を積極的に引き受け、その
結果の責任をとることだと思います。この宿命を自覚する必要は行動連関が異常に複雑に
なった現代においていよいよ痛切になってきたのです。」
(集⑧ 同上 p.309)
「ゲーテはこういうことをいっています。
「自分は公正であることを約束できるけれども、
不偏不党であるということは約束できない。
」‥世情いわゆる良識者は対立者にたいしてフ
ェアであるということを、どっちつかずということと混同しているのではないでしょうか。
…問題は、偏向をもつかもたないかでなくて、自分の偏向をどこまで自覚して、それを理性
的にコントロールするかということだけであります。」(集⑧ 同上 pp.309-11)
、、
「政治行動というものの考え方を、‥私たちのごく平凡な毎日毎日の仕事のなかにほん
、
、、、、
の一部であっても持続的に座を占める仕事として、ごく平凡な小さな社会的義務の履行の
一部として考える習慣-それが‥デモクラシーの本当の基礎です。…私たちの思想的伝統
、
には「在家仏教」という立派な考え方があります。これを翻案すればそのまま、非職業政治
家の政治活動という考え方になります。…つまり本来政治を職業としない、また政治を目
的としない人間の政治活動によってこそデモクラシーはつねに生き生きとした生命を与え
られるということであります。
」
(集⑧ 同上 pp.314-5)
-「私のなかにはヘーゲル的な考え方があります。つまり“自分は何であるか”というこ
とを自分を対象化して認識すれば、
それだけ自分の中の無意識的なものを意識的のレヴェル
に昇らせられるから、あるとき突如として無意識的なものが噴出して、それによって自分が
復讐されることがより尐なくなる。つまり“日本はこれまで何であったか”ということを
トータルな認識に昇らせることは、そうした思考様式をコントロールし、その弱点を克朋
9
する途に通ずる、という考え方です。…哲学はいつもある時代が終幕に近づいたころ、遅
れて登場し、その時代を把握する。
“ミネルヴァの梟は夕暮れになって飛びたつ”という有
名なヘーゲルの比喩がそれです。ヘーゲルの場合は非常に観照的で後ろ向きです。つまり哲
学が時代をトータルに認識できるのはいつも「後から」だ、というので、ヘーゲル哲学にお
ける保守的要素の一つになるわけです。
ところがマルクスはこれをひっくりかえして読んだ。
ある時代をトータルに認識することに成功すれば、
それ自体がその時代が終焉に近づいてい
る徴候を示す。こういう読み方なんです。‥資本制社会構造の全的な解剖に成功すれば、そ
れは資本制社会が末期だということの徴候なんです。そういう「読みかえ」ですね。…その
流儀で“ミネルヴァの梟は夕暮れになって飛びたつ”という命題を、日本の思想史にあては
めれば、‥日本の過去の思考様式の「構造」をトータルに解明すれば、それがまさに basso
ostinato を突破するきっかけになる、と。認識論的にはそういう動機もあります。」(集⑪
「日本思想史における「古層」の問題」1979.10.pp.222-3)
-「欠如理論というのは、日本ではマイナス・シンボルに使われる。日本にはこれがない、
あれがない、とばかり言って、ないないづくしじゃないかと、だいたい悪口として言う。け
れども欠如しているからこそ、
ますますそれを強調しなければいけない。本来あるものなら、
放っておいても生長するから大丈夫です。もし日本を豊かにしようとするならば、欠如して
いる、あるいは不足している面を強調しなければいけない。本来もっている自然的な傾向と
いうのは言わなくてもいい。むしろそれは自家中每を起こしやすい。…
要するに福沢の言動というのは、そういう意味で、いつも役割意識というのがつきまと
っている。彼が教育者として自己規定したというのも、この役割、この使命感ということに
密接に関係しています。つまり、教育というのは、長期的な精神改造なんだ、自分は政治家
ではないから、政治にコミットしない、ということの対比において、彼はそういうことを言
っている。ロングランの精神改造というものに彼は賭けているわけです。」
(集⑮ 「福沢諭
吉の人と思想」1995.7.pp.305-8)
Ⅱ 普遍及び普遍的価値
1.普遍・普遍的価値
<ヨーロッパ文明の多元的淵源>
「ヨーロッパに於て精神と自然が一は内的なる为観として一は外的なる実観として対立し
たのはまぎれもなくルネッサンス以後の最も重大な意識の革命であった。…近世の自然観
は、このアリストテレス的価値序列(丸山:質料-形相の階層的論理)を打破して、自然
10
からあらゆる内在的価値を奪い、之を純粋な機械的自然として-従って量的な、
「記号」に
還元しうる関係として-把握することによって完成した。しかも価値的なものが実体的な
自然から排除される過程は同時に之を为体的精神が独占的に吸収する過程でもあった。自
然を精神から完全に疎外し之に外部的実観性を承認することが同時に、精神が社会的位階
への内在から脱出して为体的な独立性を自覚する契機となったのである。ニュートン力学
に結晶した近代自然科学のめざましい勃興は、デカルト以後の強烈な为体的理性の覚醒に
よって裏うちされていたのである。
」
(集③ 「福沢に於ける「实学」の展開」1947.3.p.122)
-「ヨーロッパの自由・デモクラシー・立憲为義の‥あるものは中世に根をもち確立された
物、あるものはギリシャで確立し、そうしたものがあいあつまってブルジョア・デモクラシ
ーを形成しているわけです。
それゆえに、
その中に矛盾するものがいくらもあるわけですね。
、、
、、
たとえば、権力の分立と人民の支配-つまり治者と被治者の合致という理想とは矛盾する。
この両者は系譜としてはちがったものからきているわけで、ちがった系譜からの思想で矛
盾するものはいくつもあるわけです。」
(集⑯ 「普遍の意識欠く日本の思想」1964.7.15.
p.58)
-「ヨーロッパで、近代的な法観念ないしは基本的人権とか、ルール・オブ・ローとかいう
観念が発達してきたのはなぜかということには、もちろんいろんな歴史的原因があります。
しかし、しばしば忘れられていることの一つに、‥ヨーロッパというものはもと非常に異質
的な文化、異質的な民族・人種・言語、そういうものが絶えず接触し、混乱を起こしながら、
だんだんとあるまとまった文化圏をなしていった社会、その意味で、多元的な社会だったと
いうことです。…完全な他者と他者が向い合う社会はどういう社会かということを、極端
な理念型として考えますと、これが、ホッブスなんかが社会契約説をとった時に考えた自
然状態です。規範とか秩序とかについての共通の了解が全くない社会というものを想定し
ますと、これはさっきいった、人間関係における他者の行動にたいする期待可能性がゼロの
社会です。…これではとうてき暮していけない。そこでしかたなく、‥契約をとりかわす。
とにかく、突然とびかかって私を刺すというようなことはよそうじゃないか、私もやらない
という約束がまずできるわけです。これが秩序をつくる最初の行為です。もし二人のうちど
ちらかがこの約束を破ればどうなるか、これは自然状態に復帰するわけです。‥そこで契約
は守らなければならないというルール意識が出てくる。ルールというものは、他者と他者と
が相対した時に、
相手の行動の予測可能性がゼロですから、自分の自然権をまもるためにも、
契約をして一つの秩序を維持する、というところから出てくる。これは現实にそうだったと
いうのではない。ですから、社会契約説というのはフィクションです。しかし、それは相互
に他者であるような人間によって構成された社会ほど、
このフィクションは想像力によって
裏づけられる。お互いに契約を守らないとこういうことになるぞということからして、法意
識および規範意識というものがいわば下から発達してくる。
11
事实関係と規範意識の区別の問題もこれと関連しています。事实関係というのは自然状態
ですから、いわば純粋な物理的な力関係の状態、これにたいして区別された規範関係がルー
ルの関係です。ですから、そこから法的権利という観念が出てくるんです。…そうでないと
強い者勝ちになる。そうでなくするために法がある。そういう考え方を前提にして、はじめ
て正義と司法とがなぜ同じコトバで表現されるのかが理解されるわけです。…はじめから
根本的に同質的でいわば一大部落だった日本のような社会と、
「他者」と「他者」によって
構成されたヨーロッパのような社会とは、やっぱり法意識が違います。」(集⑯
「丸山眞
男教授をかこむ座談会の記録」1968.11.pp.110-2)
いかりづ
-「近代史知識人の誕生というのは、まず、身分的=制度的な錨付けから解放されること、
それから、
オーソドックスな世界解釈の配給者という役目から解放されることが前提となり
、、、
、、、
ます。そういう二重の意味で「自由な」知識人がここに誕生する。‥多様な世界解釈がちょ
うど商品が市場で競いあうように、思想の自由市場で競いあう時代が来る。これが近代の誕
生であり、ヨーロッパでいえばルネッサンス-「デカメロン」の時代です。
」
(集⑬ 「文明
論之概略を読む(上・中)
」1986.p.45)
-「ローマ世界が、首都ローマを中心として、各地の都市自治体をいわばつなぎ合わせて「征
ポ リス
朋」することによって形成されたこと、つまり帝国の構造の「都市」的性格をギゾーは、中
コ
ン ミューン
世の自治都市とならんで、
ヨーロッパの自治体および市民集会の伝統の起源として重視しま
す。
」
(集⑭ 「文明論之概略を読む(中・下)」1986.p.80)
「ギゾーによれば、古ゲルマン族の不覇奔放な「森林の自由」は、古代的自由ともキリ
スト教的自由とも性質を異にしていました。古代の都市国家の自由は政治的=公民的自由
であって、公民から独立した個人の自由というものは知りませんでした。‥ギゾーのいうキ
リスト教の自由は、一つには教団の自由であり、一つには信仰のために自己の欲求を制御す
る内面的自由であって、いずれにしても、ここでいう「一身の自由」とはちがっていました。
一つの団体の部分としてではない、純粋に個人的な自由と独立へのゲルマン人の愛好は、な
るほどキリスト教の精神と制度とによって窒息し、あるいは訓化されたけれども、後々まで
永続的な影響を残し、ヨーロッパ文明の根本原理の一つとなった、というのです。ゲルマン
的自由感情を、とくにキリスト教の伝統と独立して、ヨーロッパ的自由の源泉の一つに数え
たことは、ギゾー『文明史』がキリスト教の歴史的役割に大きな意義を附与しているだけに
一層注目に値します。そうして福沢がこうした「自由の複数的起源説」からどんなに学び、
それによってどんなに力づけられたかは、語り尽せないものがあります。…
福沢が‥思い入れたっぷりに謳いあげている「独一個の男子」の「不覇独立の気風」は、
やがて‥「日本文明の由来」において展開される「日本の步人に独一個人の気象(インヂヴ
ヰヂュアリチ)なく」云々という、日本の步士の「伝統」にたいする痛烈な批判と、实はは
るかにエコーを交し合うことになります。」(集⑭ 同上 pp.83-5)
12
「福沢がギゾーのキリスト教史の变述を流れる核心的命題として、霊的権力の俗的権力か
らの独立と対抗の歴史的意義を読みとることができた一つの要因は、
おそらくギゾーが強調
、、、、、、
したヨーロッパ文明の一般的特徴である、多様な要素の多元的な同時併存の一環として、こ
の問題を受けとめたからと思われます。…
、、
なお、附言しておきますが、ギゾーは多元的な政治原理の併存を教会の内部組織にも認め
ております。つまりキリスト教会がそれ自体の歴史的発展のなかで、貴族政的・君为政的、
あるいは民为政的な諸原理の实現を経験している、というのです。‥多元的要素の併存とい
、、
う、ギゾーがヨーロッパ文明を特色づけた契機を教会史の内部にも認めていることは、無視
、
できない事柄のように思われます。多元的要素の対抗と併存が、ヨーロッパ文明において幾
、、、、、、、、、、、、、、
重にも相似形をなした組織原理をなしているのに対忚した構造を、福沢は‥日本文明の「権
力の偏重」のうちにも見ようとしているからです。
」(集⑭ 同上 pp.95-6)
「福沢は近代民为政の歴史的起源を、‥ローマ廃滅後も存続した市民会議における「民庶
為政の元素」とならんで二つあげているわけです。
さきの個所でも、この段でも福沢がすでに「市民」という言葉を用いているのは注目すべ
きことです。とくにギゾーはここで近代ブルジョワジーの発生を論じているからです。‥ギ
ゾーは、封建制と教会とならんで第三の近代文明の要素として、コンミューヌ(自治体)を
あげているのですが、同時に、十二世紀の自由都市の市民を、その後裔としての近代ブルジ
ョワジーと対比させて特徴づけており、
そこは後段の近代に入ってからの福沢の变述をヨリ
正確に理解するためにも重要だと思われます‥。
ギゾーは自由都市の市民を特色づけるのに、まずフランス革命勃発当時のイデオローグで
あるアベ・シェイエースの有名な「第三身分とは何ぞや」‥を引用します。あの「第三身分
とは貴族と聖職者とを除くフランス国民(ナシオン)のことである」という命題です。もし、
十二世紀自由都市の市民にこの一節を示したならば何のことを言っているのかさっぱり理
解できないだろう、とギゾーはいうのです。フランスの「国民」という意味が第一分らない
し、第三身分が「为権」‥をもっているという意味もチンプンカンプンだろう。けれども逆
に为権を行使するブルジョワジーがこの中世自由都市に入ったら、これまた目をまるくして
驚くにちがいない。そこでは市民は步装した要塞のなかにいて、仲間の市民にたいする課税
権も刑罰権も首長選挙権ももっていて、市民全員が集会に出席して討議し、それどころか己
れの民兵をもって封建領为と戦闘を交えることさえある。都市の中では完全に自治が行なわ
れ、市民自身が为権者になっている。しかしその一歩外に出ると、自分らに関係した事柄に
も彼らは協議に与かるなんらの権利も‥ない。つまりすべてが逆なのであって、ここ-十八
世紀末のフランス-においては「ブルジョワジーとしての国民」‥がすべてであって、コン
ミューヌ‥は「無」であるのに反し、かしこ-十二世紀の自由都市-では、前者が「無」で
あって後者がすべてである。
要するに…一七八九年の「第三身分」が政治的にはまぎれもなく十二世紀のコンミューヌ
の子孫であり、その後継者であったことを‥ギゾーは強調しているのです。」(集⑭
13
同上
pp.97-9)
「とくにギゾーが‥都市コンミューヌの解放の成果の一つとして「階級闘争」‥をあげ、
、、
アジアにおいては一つの階級が完全に勝利してカーストを形成したことと対比しているの
は注目に値します。福沢が手沢本のこの個所に「カラッスノ争、些細些ニナシ」とわざわざ
書き入れをしているだけになおさらです。…ほかならぬマルクスから罵倒されたギゾーが、
この個所で、
階級闘争はヨーロッパに停滞でなく進歩をもたらした、と明言しているのです。
ギゾーを学んで右のような書き入れをした明治七、八年ごろの福沢は、こういう用語を平気
で用い、こういう命題に特別にアレルギーを起さないという点では、もしかすると一九八〇
年代のある種の日本人よりは「西欧的」
(!)だったのかもしれません。」
集⑭ 同上 pp.100-1)
「ギゾーは前述のように十二世紀の市民が近代ブルジョワジーの起源でありながら、その
相貌に著しい相違があることを指摘し、十二世紀と十六、七世紀-つまり「近代」の端初-
との間のこうした巨大な飛躍を理解するためには、
‥近代文明の諸々の構成要素およびまさ
モ
ナ キー
に十二、三世紀ごろから生長する新しい要素としての君为政‥をも加えて、そうした多様な
、、、、
個別的要素がいかに組み合わせられて近代国家の普遍的な要素を生み出したか、
具体的にい
えば、
「一つの国民と一つの政府」という政治的統合にまで立ちいたったか、という問題と
して歴史過程をたどらなければならない、と‥のべております。」
(集⑭ 同上 p.101)
「十字軍の歴史的役割について福沢が強調していることは、‥小アジアの異質文明との接
触を通じて生まれた、ヨーロッパのヨーロッパとしての自己意識であり、さらに「各国の人
民をして各国あるを知らしめた」というネーションの意識の端緒という点です。そうして十
、、、、、
字軍が二百年にわたって成功しなかったことが、
「宗教の権を争ふは政治の権を争ふの重大
し
なるに若かず」という教訓を各国君为に与え、また人民も「漸く其の所見を大にし、自国に
勧工の企つ可きものあるを悟」った、という反面教師的な効果を指摘しているところは、‥
すべてギゾーの講義にあります。
」
(集⑭ 同上 pp.102-3)
「つぎの段は「国勢合一」という‥要するにヨーロッパ各国における絶対为義的君为政の
興起です。…
、、
この段で注意すべきことが二つあります。一つは腕力から智力へという「時勢の変革」が
ちょうどバックルのテーゼと重なっていることです。その智力の優位は、たんに王権の側の
問題だけでなく、
火器の発達とか活字印刷の発明とかいった例をあげているようにテクノロ
ジーの進歩と結びつき、それが人民によっても担われたことを強調しており、その点でもバ
ックルと重なるのです。‥
、、、
、、、、、
さて第二に注意すべきことは、こうして王権と人民とのはさみうちに合って、
「中間勢力」
としての貴族の権威が弱まったことが明確に指揮されている点です。
‥そうしてこの絶対为
義への途の歴史的意義が
「国の権力漸く中心の一政府に集まらんとするの勢に赴きたるもの
と云ふ可し」と総括されるのです‥。
絶対为義形成において人民の側の役割に目をくばっているのは、やはりギゾーに拠ってお
14
りますが、ここで手沢本にもう一つ「人民開化セサレハ国事ニ関ル可ラス」という書き入れ
をしているのは注意する必要があります。というのは、ギゾーがこの個所で言っているのは、
いわゆる絶対为義の時代には、イギリスのような比較的自由な国民(ネーション)でさえ、
課税とか国内問題に口をさしはさみ得たけれども、
こと外交問題については全く関与できな
かった、
国際関係にまで人民が干渉できるようになるには人民の知性と政治的習慣がまだ不
、、、、、、、、、、、、、
足していた、という趣旨でした。それを読んだ折に福沢は、必ずしも外交に限定しないで、
一般的な国政の問題として右の書き入れをしているのです。」
(集⑭ 同上 pp.103-6)
「こうしてテーマは宗教改革へと移ります。‥興味あることは、宗教改革の歴史的背景に
ついてはギゾーは相対的には委曲を尽して、しかもかなりソフィスティケートした形で論じ
ているのにたいし、福沢の場合は‥事態をむしろ卖純化してのべています。…やはりカトリ
ックの伝統の強固なフランスでの新教徒であるギゾーが宗教改革を論ずる場合とは、
そもそ
もとり組む姿勢がちがってくるのは自然です。すなわち、ここでは福沢は变述を卖純化して
いるだけでなく、むしろ宗教改革の「原因」を、人間の進歩と懐疑の精神に帰しています。
…
けれども、福沢の論旨は結論的にはギゾーと同じになります。福沢が宗教改革による殺戮
の惨禍をのべながら、なるほどコストは大きかったけれども「(新旧両教ともに)教の正邪
ただ
を为張するには非ずして、唯人心の自由を許すと許さざるとを争ふものなり」といっている
のは、論旨を卖純化はしていますが、ギゾーがまさに宗教改革のもたらした「結果」として
、、、、
認めたところです。ただ、ギゾーは精神的革命の方が政治的革命に先立って獲得され、聖俗
二つの領域の「解放」の間に時代的なズレがあることに注意を促しているのですが、この点
は福沢の『概略』本文には直接現われずに、フランス革命の段階での手沢本への書き入れに
見られます。
」
(集⑭ 同上 pp.106-8)
「ギゾーが十亓世紀における国民と中央政府の形成の变述を「まずフランスからはじめま
す」と書き入れていることです。なぜこれが注目すべきか、というと、近代国家の形成が
、、
なにより領域国家‥の創出にはじまることを、福沢がギゾーの読書を通じて学びとってい
るからです。日本のように地理的条件によって、国家が人為的な「領域団体」であるとい
う性格-簡卖にいえば「国境」の概念に象徴されます-がアイマイなために、あたかも、
日本が古代から「国」をなしているかのような表象が生まれやすいところでは、右のこと
は見逃せないポイントで‥す。
」
(集⑭ 同上 pp.109-10)
「ローマ帝国の末期からヨーロッパ中世にかけて、多元的な勢力や原理の拮抗と複合性と
をギゾーが描き出すところは、福沢にとってはきわめて新鮮な知識であり、また観点でもあ
、、、
ったでしょう。それに比べれば、二大革命もふくめてイギリスとフランスの近代史について
は、福沢は‥福沢なりの知的ストックを既に持っていたわけです。」(集⑭ 同上 p.112)
「福沢がフランス革命を一方、人民の智力と自由な思想の活発な発揮と、他方、「不流停
滞」の極に陥った王审の政治との大衝突としてのべていることで、これは‥イギリス革命の
さきがけ
ロー マ
ところで、イギリスが 魁 をなした「人民と王审との争端」を「昔年は羅馬(教皇のこと-
15
丸山)に敵して宗旨の改革あり。今日は王审に敵して政治の改革あらんとするの勢ひ」とし
もら
てとらえ、
「其の事柄は、教と俗との別あれども、自为自由の気風を外に洩して文明の徴候
たるは同一なり」とのべていることと、まさしく照忚しているわけです。」(集⑭
同上
p.117)
、、
「近代国家の基本的前提-中世における多元的または自为的な勢力が、政府と国民という
二大要素にまで統合されたこと-はフランス革命までにすでに形成され、
英仏二大革命はそ
のプロセスのいわば総仕上げに当ります。けれどもまだ問題は残ります。‥ヨーロッパ文
明の他の世界諸文明にたいする一大特徴-多様な要素、多元的な原理の同時併存とその間
の不断の闘争と相互牽制-は、右のような、近代国家が政府と国民との二大要素から成る、
という命題とどのように結びつくのか、という問題です。…
、、、、、
ギゾーはキリスト教会史自体のなかに、民为政的な要素、貴族政的な要素、および君为政
的要素が複数的に現われている、と見ます。つまりふつうは狭義の政治原理の類別とされる
こうした問題を、ギゾーは聖・俗両権のなかに併行的に見ようとするのです。ですから聖職
者団(司教)が教会を統治する段階が、貴族の支配する封建制に対忚し、それにつづくロー
マ教皇庁のヘゲモニーは、霊界における「純粋君为政」の確立とみなされます。そこでギゾ
ーの变述は十六世紀にいたって一種の歴史的逆説に当面せざるをえません。というのは、‥
宗教改革はこの霊界における専制権力の打倒運動として現われ、精神世界に限定されては
、、、、
いても「自由探求」への途をきりひらくのですが、歴史的には同時期に俗界における、
「純
粋君为政」の確立が進行するからです。この逆説的な発展が英仏両革命のあり方の重大な
相違をもたらします。福沢においては卖純に時間的ズレの問題に帰せられ、またギゾー自
、、、、、
身も究極的には自由探求の原理と純粋君为政の原理との一大衝突という意味で二つの革命
は同じ意味をになうのですが、十七世紀イギリス革命においては、聖俗両世界における自
、、、、
由獲得の企図が同時的に進行した、という意味では、ギゾーによればイギリスはヨーロッ
パ史における「例外」を構成するのです。
このイギリスの例外性のなかにギゾーは長短両様の特徴を見ます。
この特徴は必ずしも宗
教改革の場合にかぎらないのですが、要するにイギリス史を見ると、俗的秩序と霊的秩序、
貴族政・君为政・民为政、また地方分権制度と中央集権制度といった異なった原理が併行
して発展し、
「どんな旧い要素も完全に絶滅せず、どんな新しい要素も全勝をおさめず、特
殊な原理が一つとして独占的支配に到達しませんでした」‥。これにたいしヨーロッパ大
トウール
陸では各々の異質的な原理や要素が、時間的な継起において発展し、いわば自分の出番を待
って出現した、というのです。してみると、ギゾーがさきに、ヨーロッパ文明の特徴とし
たところの、多元的な原理や社会要素の同時的併存と拮抗というテーゼを、イギリス文明
は集中的に表現しているともいえます。いってみれば、イギリスのヨーロッパ大陸諸国家
におけるは、ヨーロッパ文明の他の世界諸文明におけるがごとし、という比例式が成立する
ことになります。ギゾーによれば、イギリスにおける良識と経験的熟練の楯の半面が、抽象
、、、、
観念の乏しさと理論的思考の低さ、として現われます。他の諸原理・諸要素の同時存在に
16
よって牽制されるために、どの原理も妥協を余儀なくされ不徹底のままにとどまるからで
す。この強みと弱みとがちょうど逆の形で発揮されたのがフランスです。
「純粋君为政」の
原理はスペインの方がフランスより早く生れたのですが、それが純粋に貫徹されたのがフラ
ンスでした。またイギリスが口火をきった「自由探究」もフランス啓蒙精神においてもっと
も徹底的にあらゆる領域にわたって遂行されました。純粋君为政と自由探究との衝突がフ
ランス革命においていちばん劇烈なぶつかり合いを見せたのは当然の成行でした。そうし
て人間理性の輝かしい勝利の楯の半面は、理性の無謬性の過信であり、理性の専制と濫用
のもたらす害每でもあったのです。
近代国家の形成においてギゾーが浮び上らせようとしたのが、
政府と国民との二大要素に
おけるそれぞれのレヴェルでの「多様性の統一」です。多様性と多元性だけでは社会はアナ
ーキーに陥ります。ですから「純粋君为政」は多元的な政治権力を統一国家に集中させた点
で大きな歴史的役割があり、それは領域国家に基づいた「国民」の創出の前提でもあったわ
、、、
、、、
けです。けれども政治的集中が社会的活動の多様な分野での発揮を伴なわなければ、それは
停滞と腐敗を生まずにはおられません。そうして後者は自発的な自为活動ですから、必然的
に人民が为役を占める問題になります。民为的原理は人民の政治関与を前提としますから、
人民の活動は政府レヴェルと社会レヴェルと二様に及んでいるわけですが、力点の所在は、
、、
、、
(国会を含む)政府においては政治的集中にあり、人民においては多様なジャンルかつ広汎
な地域に根を下した社会的活動にあります。ギゾーにおけるさきの二つの契機は、理念型と
してはこのような形で入り組んで結びつけられているのです。
、、、
…とくに私が注目に値すると思うのは、理性もまた諸権力の一つとして悪徳と濫用の根
、、、、、、、、、、、、
源になりうる、と‥ギゾーがのべている点です。…こうした諸権力の一つとしての智力と
いう問題意識なしには、‥「日本文明の由来」を貫く福沢の根本テーゼである「権力の偏
重」の複数的な意味も十全にとらえることが困難だ、という点なのです。」(集⑭
同上
pp.119-23)
<進歩>
-「
(ラスキ「信仰・理性及び文明」によれば)現代(1944 年)はちょうどローマ帝国の末
期と同じように、一切の古き文明の価値体系が頽廃し、没落しつつある時代である。そこで
は政治は特権階級の利己的恣意に委ねられ、富は集中し、官吏は腐敗し、支配者にも被支配
者にも内的確信が失われ、文化は末梢的にまで洗練され、大衆は希望も光明もなく、むなし
くデカダンスのなかに沈淪している。こうした時代の甦生は新たなる価値体系の再建によっ
、、
てのみ可能である。一つの新しき信仰によって人間が絶望より甦り、再び生活への張りを見
出し、社会と文化の新たなる建設に憧憬と抱貟を以て立ち向う。かくして人間の歴史に於け
る新しきエポックがつくられる。
」
(集③ 「西欧文化と共産为義の対決」1946.8.p.43)
「卖なる平和为義や国際为義の願望がいかに空しいものかは、inter-war years が世界史
17
上嘗てないほど、そうした思想の基調の上に立った会議、条約、調査が氾濫した時代であっ
たことを以ても知られる。…ラスキは、…大西洋憲章やいわゆる「四つの自由」の雄弁な約
束が安心ならない所以を、ウィルソンの Fourteen Points の遭遇した運命からして、警告す
るのである。そして前大戦の後に於て、戦争の結末を更に積極的な目標に向って押し進める
事を怠った各国政治家の懶惩、怠慢、無気力を鋭く剔抉する。」(集③ 同上 pp.44-5)
-「政治の領域に見られるかくの如き「中間期」の頽廃性-ムッソリーニやヒットラーによ
る「権力政治」の再登場はその最も露骨な表現にすぎない-はまた思想、文化の面に於ても
覆わるべくもない。
この二十年間には新しき創造の準備をなすような思想家や作家は一人も
現われていない。…なにより問題なのは、この時期の知識人が大衆から遊離し、時代の最高
の社会的闘争の外に超然としながら、むしろ逆にそうした孤高性に矜恃を抱いている事であ
る。…そうした文学に共通するものは、新しき信仰と勇気の欠如であり、現代世界の終末と
頽廃を認識しながら、決然として新しき秩序の形成に赴こうとせず、知られざる未来の世界
の前に尻込みする臆病さである。
ラスキの骨を指す批判は転じて学界に及ぶ。…この二十年間の学界をもって、まさに歴史
とのたわむれとして弾劾する。
そこには旧態依然たる範疇の使用と叡智の欠乏が特徴であっ
た。その原因として、ラスキは、学問の過度の専門化と学者の不偏不党の崇拝 (cult of
impartiality)を挙げている。…最近の亓十年間、とくにこの二十年間に於て、学問と生活と
の乖離は著しくなった。学者はもっぱら他の学者に向って説いた。学者は専門化を極度に押
し進めた結果、学者の著作は普通の知識を持った人間には無意味となった。…
要するに、十九世紀の傑出した知識人は、バイロンであれ、ディッケンズであれ、スコッ
トであれ、バルザックであれ、みな大衆の生活の切实な課題と取り組み、同時代の人々の思
想と感情に決定的な影響を与えた。
…それはまさにデモクラシーと勃興期に於ける知識人と
大衆との美わしき結合であった。…
大衆の生活に内在する醜さ、貧弱な家屋、半飢餓、絶えざる失業の不安、低賃銀、長時間
労働-こういったすべての環境が、
芸術についての一般公衆の趣味を低务な水準に押しさげ
て来た。…この不可避性を前提として、インテリは大衆に呼びかける事を止め、社会的革新
への関心も打ち捨て、次第に支配階級の添え物(appendage)に成り下ったのである。それは
知識人の最高の任務を裏切ることであり、この任務を怠ったことが、ドイツの、イタリーの、
またフランスの悲劇を招来したのである。…知識人は私人であると共に一市民であること、
もし、知識人が時代の直面する重大問題に、大衆にとって生死を意味する問題に背を向ける
ようなことがあれば、その時代の一切の文学は決して時代を救い得ないし、又偉大な文学に
もなり得ない、という事なのである。」(集③ 同上 pp.46-9)
-「私達日本人が通常に現实とか非現实とかいう場合の「現实」というのはどういう構造
をもっているか…。
18
、、
、、、
、、、、
第一には、現实の所与性ということです。…現实とはこの国では端的に既成事实と等置
されます。現实的たれということは、既成事实に屈朋せよということにほかなりません。
現实が所与性とか過去性においてだけ捉えられるとき、それは容易に諦観に転化します。
「現实だから仕方ない」というふうに、現实はいつも、
「仕方のない」過去なのです。…フ
ァシズムに対する抵抗力を内側から崩して行ったのもまさにこうした「現实」観ではなかっ
や
たでしょうか。…戦後の民为化自体が「敗戦の現实」の上にのみ止むなく肯定されたにす
ぎません。…「仕方なしデモクラシー」なればこそ、その仕方なくさせている圧力が減れ
ば、いわば「自動」的に逆コースに向うのでしょう。…
、、
、、、、
さて、日本人の「現实」観を構成する第二の特徴は現实の一次元性とでもいいましょう
か。…現实の一つの側面だけが強調されるのです。…
、、
、、、、、、、、、、、、、、
…第三の契機(は)その時々の支配権力が選択する方向が、すぐれて「現实的」と考え
られ、これに対する反対派の選択する方向は容易に「観念的」
「非現实的」というレッテル
を貼られがちだということです。…われわれの間に根強く巣喰っている事大为義と権威为
義がここに遺憾なく露呈されています。…昔から長いものに巻かれて来た私達の国のよう
な場合には、とくに支配層的現实即ち現实一般と看做され易い素地が多い…。
こうした現实観の構造が無批判的に維持されている限り、それは過去においてと同じく
将来においても私達国民の自発的な思考と行動の前に立ちふさがり、それを押しつぶす契
機としてしか作用しないでしょう。…私達は観念論という非難にたじろがず、なによりも
こうした特殊の「現实」観に真向から挑戦しようではありませんか。そうして既成事实へ
のこれ以上の屈朋を拒絶しようではありませんか。そうした「拒絶」がたとえ一つ一つは
はどんなにささやかでも、それだけ私達の選択する現实をヨリ推進し、ヨリ有力にするの
です。これを信じない者は人間の歴史を信じない者です。」(集⑤ 「
「現实」为義の陥穽」
1952.5.pp.194-200)
-「フランス革命においてはじめて、革命過程における逆行的な動向や旧体制の復活をめざ
、、、、、、、、
す党派が、同時代人によって réaction とか réactionnaires とかいう呼称を冠せられ、一八
三〇年から四八年頃までの間に広くヨーロッパで用いられるようになった。
しかもフランス
、、
革命は‥普遍人類的な理念(自由・平等・博愛)によって指導された史上最初の「イデオロ
ギー的」革命であったところからして、そこでの「反動」的動向や党派は必然的にこうした
、、、、
理念とそれを具体化した人権宠言の諸原則に対する反動として現われざるをえず、これが
「反動」に一定の伝統化した意味内容を賦与する契機となったのである。つまりフランス革
命は、(1)「反動」という今日的意味の範疇をはじめて生んだことと、(2)現实的に反動を代
ロワイアリスト
表した王 党 派 たちの政策・政治手段・思考様式がその後の反動派の原型となったこと、と
、、
いう二重の意味で、
「反動」の歴史的起源となったわけである。…現代反動のイデオロギー
は究極のところ、
「一七八九年の理念」とさらにはその思想史的前提としての啓蒙精神の否
定と抹殺にまで遡らざるをえない。
」
(集⑦ 「反動の概念」1957.7.7.pp.80-1)
19
、、、、、、
「「反動」は範疇としても現实的にも、革命を直接的な与件として登場したが、「進歩の
、、
概念」は必ずしもそうではなかった。それはフランス革命の思想的な背景とはなったが、
それ自体が十八世紀全般を通じて徐々に形成された観念であるばかりでなく、そこでの歴
、、
史的進歩の内实はテュルゴーの著名な「人間精神の継続的進歩の哲学的变述」‥という題名
がなにより物語っているように本質的に連続的発展として把えられていた。したがって、
、、
、、
革命という短期間における集約的なエネルギーの爆発と、歴史的進歩という長期的な過程
を通じての価値の蓄積と-この二つのものは啓蒙的合理为義の立場に立つかぎり、たとえ
革命の「理念」を通じて関連していても、必ずしもピッタリ合一したイメージを結ばない
、、、
としても怪しむに足りない。歴史的進歩が同時に action(行動)の過程として、また本質
、、
的に飛躍=非連続を内包するものとしてとらえられたとき、はじめてそれは re-action と一
義的に対忚するようになる。マルクスにおけるこうした進歩の観念の転回を可能にしたの
は、いうまでもなく革命の論理としての弁証法であった。」(集⑦ 同上 pp.96-7)
「ところで啓蒙的な進歩の理念はさまざまのニュアンスを含んでいるが、大ざっぱにいっ
、、、
、、、
てそこには三つの契機が含まれている。第一は文明化であり、第二は技術化であり、第三
、、、
は平等化である。この三つの契機に照忚して歴史はそれぞれ、(1)人間の知性と教養の向上
による因習と偏見の駆逐、(2)科学の適用による自然の征朋、および労働組織の発達に伴う
生産力の発展、(3)教育と社会制度の改革を通ずる政治的隷属や社会的(人種的)不平等の
打破という過程を辿ると考えられる。そうしてその根底には人間性の開発についての無限
の可能性‥と、
「人類」の理念が横たわっている。…しかし啓蒙为義が社会为義にまで発展
したのは思想史的に見ても決してスムーズな直線的な過程を通じてではなかった‥。啓蒙
、、
における文明为義と進歩为義はルソーによるその激烈な否定を媒介としてはじめてプロレ
タリアートの立場と接続することができたのである。十八世紀の啓蒙は現实に宮廷貴族の
「サロン」と結びついていただけでなく、論理的にも知的貴族为義をともなわざるをえなか
った。…ところがルソーは‥まさに文明の洗練と人工性のうちに人間性と社会のもっとも
深い頽廃を読みとったのである。…彼をつうじいまや価値のヒエラルヒーを根底から顚倒
するエトスが形成された。進歩と見えるものがむしろ堕落であり、農民大衆の無智と粗野が
かえってこの虚偽を「下から」くつがえすエネルギーとなった。フランス革命の指導理念
のなかにはこうして「進歩の観念」から来た歴史的楽観为義とルソーのそれへの反逆とが
ともに流れこんだわけである。ここに内在する「精神(知性)の進歩」と「大衆の反逆」
との矛盾はやがてヘーゲル左派において新たな段階で爆発する運命をもった。」(集⑦
同
上 pp.97-8)
「
「進歩」と「人間大衆」との敵対関係が止揚されるのは、進歩から大衆への一方交通に
よってでなく、また「大衆の反逆」の即自的な肯定によってでもない。
「進歩」に対する大
衆の反逆を通じて進歩が自らの矛盾を露呈し、新たな段階に飛躍することによってはじめ
て大衆もまた喪失した人間性を回復する条件を獲得する。…進歩の観念の思想史的な転回
の意味をこのように考えるとき、
そこには一見するよりはるかに重大な含意が見出されない
20
だろうか。それはたとえばヨーロッパ的「文明」に対するアジアの「野蛮」の問題にも、
またいわゆる国内的国際的な「プロレタリアートの前衛」の問題にもけっして無縁ではな
かろう。
」
(集⑦ 同上 p.100)
-「マルクス为義のなかにある最良の思想は何か。マルクスにとって、プロレタリアート
というのは、ちっとも美化されていない。プロレタリアートは、まさに、現代社会におけ
る疎外の集中的表現なんです。自分一身で人間の自己疎外の、いわば罪を背貟っている人
間なんです。だから、自己否定を通じてでなければ、社会をトータルに変えられないよう
なものです。それは両方から言えることで、社会をトータルに変えることは、同時に、自
己を否定することなんです。プロレタリアートは、自己否定の集中点と言える。集中点で
あるというところから出てくる強烈なパトスというものが、全社会を変革して行く論理に
なるし、また情勢になって行くということだと思います。このことはプロレタリアートが、
なんとなくそれ自身正しくて、
悪玉のブルジョアジーをだんだん撃破して自分の領域を拡大
して行くという方式と、基本的にちがった原理を打ち出している。これが弁証法の論理で
、、
す。根本的に倒錯した社会が資本为義社会のなかにだけあって、すでに地上に实現している
社会为義社会にあっては、部分的にであれ解放が实現されており、その世界が、倒錯した資
、、、
本为義社会を次第に圧倒して行く、
善なるもの正なるものがソ連や中国とかにすでに内在し
ていて、それが餅みたいにふくらんで世界全体にひろがるという革命運動観と、マルクスが
考えた革命とは基本的にちがいます。自己否定を内に含んだ革命だけが、革命の名に価す
るということを、マルクスがプロレタリアートについてまさに言っていることなんです。
ドラマに即して言えば、マルクス为義の最良のものが、近代日本の原罪-沖縄が過去背貟っ
てきたもの-の関係のなかに示され、断絶しなければ結合できないという点が非常にはっき
り打ち出されていて、僕は大賛成です。
(集⑨ 「点の軌跡 -『沖縄』観劇所感」1963.12.
pp.132-3)
、、
-「われわれ人間の進歩はどこにあるか、といえば選択を意識化してこれを知性的な統制
の下におくというところにあるわけです。外からの刺激にすばやく反忚し、
「積極的」に行
動するというだけのことなら-つまり「为体性」ということが、色々ちがった可能性を考慮
のなかにいれて選択するという契機なしに、
ただ行動の内発性というだけのことなら-動物
の方がしばしば人間よりは「为体的」ですね。」(集⑯
「政治・学問・学生」1964.7.1.
p.39)
-「現代というのは、ちょうどあの幕末のときと同じように、われわれの世界像というもの
の根本的な転換が要求されている時代であります。われわれの世界というものが、宇宙時代
といわれるように地球の外にまで急激に拡大している時代です。
これはたんに自然科学や技
術だけの問題でなく、たとえば国際法にしてもいまや宇宙国際法という、まったく新しい問
21
題に直面しております。と同時に、他方では、何百年の間、歴史の発展からまったくとりの
こされ、
あるいはたんに支配の対象にすぎなかった地球の厖大な地域に舞台の照明があてら
れ、そこに住む世界人口の大半を占める人々が多年の眠りからムックリ起きあがって、にわ
かに世界史のドラマの進行に重大な役を演じはじめた時代であります。にもかかわらず、わ
れわれが世界を見る範疇、国家とか国際関係を見る範疇というものは、旧態依然としており
ます。現在の国際社会の構造あるいは観念は、近世絶対为義国家の時代から十九世紀いっぱ
いかかって形成された西ヨーロッパの为権国家間のシステムを、
ただ世界的に拡大適用した
ものであって、国際連盟も国際連合もそういう由来を貟っております。国連の組織が現在直
面している苦悩の源も、
そうした伝統的システムと解決すべき課題との間のギャップにある
とさえいえます。
…われわれの頭の中にある世界地図というものがほんとうに今日の状況に合っているか
どうか、われわれの「世界」とか、
「国際的」とかいうときのイメージは明治の鹿鳴館時代
以来形成されてきたイメージとどれだけ変わっているか、ということを、このさいもう一度
考えてみる必要があると思います。
」
(集⑨ 「幕末における視座の変革」1965.5.pp.246-7)
-「私の思想へのマルクス为義の影響がいかに大きかったにしても、それを全面的に受け
グランド・セオリー
入れることに対しては、
「 大 理 論 」への私の生得の懐疑と、それから人間の歴史の中で働
いている理念の力への私の信頼との両者がつねに牽制要因となった。他方、唯名論の方へ
どんなに引き寄せられても、そのことが、有意味な歴史的発展という考えをまったく私から
捨て去らせるまでには至らなかった。私は自分が十八世紀啓蒙精神の追随者であって、人
間の進歩という「陳腐な」概念を依然として固守するものであることをよろこんで自認す
る。私がヘーゲル体系の真髄とみたものは、国家を最高道徳の具現として賛美した点では
なくて、
「歴史は自由の意識に向っての進歩である」という彼の考え方であった。…私は歴
史における逆転しがたいある種の潮流を識別しようとする試みをまだあきらめてはいない。
私にとって、ルネッサンスと宗教改革以来の世界は、人間の自然に対する、貧者の特権者
に対する、
「低開発側」の「西側」に対する、反抗の物語であり、それらが項次に姿を現わ
し、それぞれが他のものを呼び出し、現代世界において最大規模に協和音と不協和音の混
成した曲を作り上げている最中である。われわれは、これらの革命的潮流を推進する「進
歩的」役割を、なんらか一つの政治陣営にア・プリオリに帰属せしめる傾向にたいして警戒
を怠ってはならない。われわれはまた、なにか神秘的な实体的な「諸力」の展開として、歴
史を解釈する試みにも用心すべきであろう。けれども、われわれが言葉のプロパガンダ的
な使用にうんざりするあまり、人間の能力の一層の成長を胎んでいるような出来事と、人
、、、
間の歴史の「時計の針を逆にまわす」意味しかもたない出来事とを見分ける一切の試みを
あきらめてしまうならば、それは情けないことではないか。」
(集⑫ 「
「現代政治の思想と
行動」英語版への著者序文」1982.9.pp.48-9)
22
-「文明とは文明化の問題ということになります。シヴィリゼイションとはシヴィライズし
、、
てゆく、もしくは、されていく過程ですね。文明というものが、そこに不動の形であるので
はなくて、文明とは文明化なのだという、これが非常に大切な为張です。そこでおのずから
文明の段階論へと議論が進みます。…
文明化の過程ということは、文明の「進歩」の過程として歴史をみることを意味します。
…いわゆる「進歩の思想」‥です。十八世紀から十九世紀にかけてのヨーロッパ文明史と
いうのは、進歩史観と不可分なのです。日本では自由民権思想以降ずっと、マルクス为義に
至るまで、広い意味で、進歩の思想といえます。…
ヨーロッパを見ますと、必ずしも同じではないいくつかの思想の流れが、歴史の進歩と
いう考えのなかに合流して、進歩観というものが形成された。…
一つの流れは、十八世紀啓蒙の進歩観です。
「理性の時代」という別名をもつ十八世紀に
、、、、、、
形成された進歩観で、これが狭い意味での「進歩の思想」です。…人間の知性の進歩と増
大が社会を変え向上させる。知性の進歩と社会の進歩がワンセットになっているのが啓蒙
思想の特色なのです。蒙昧から開明へという図式です。…ところで、知性が進歩するとい
、、
うのは、知性が蓄積されていくことです。知性の進歩と増大イコール知性の蓄積です。そう
でないと、たんなる「変化」であって「進歩」にならないというのが啓蒙の進歩観です。…
、、、
そこへ現实に到達するかどうかは別として、本来いずれは達するはずだという楽観的想
、、、、
定があって、歴史をそこへ向っての歩みとして見る。したがって、歴史が目標をもってい
るということです。何か価値をもった目標へ向っての進歩。そうでなかったら、進歩は変
化と区別がつかない。逆に、その目標に向わず、むしろ逆行する動きが、反動あるいは退行
と考えられるわけです。
歴史にゴールがあるという考え、これは東アジアにない思想なのですね。聖人の道がお
すた
こなわれた堯舜の代というのは、大昔に設定されていますし、老子の「大道廃れて仁義あり」
、
という反儒教思想にしても、
歴史を理想社会から遠ざかっていった過程とみる堕落史観では、
儒教と共通しています。
せめて過去の堯舜の世にすこしでも近いところに持っていこうとい
う为張はあっても、未来に究極目標があるわけではない。だから、進歩史観は東アジアか
、、、、、
ら内在的には出てきません。やはりヨーロッパ思想の影響を受けてはじめて生まれるので
す。…
この十八世紀啓蒙の進歩思想について、さらにそのルーツは何かということになると、
いろいろ説があります。キリスト教的世界観の世俗化だという説も有力です。つまり、神
が宇宙を創造して、そこで神の計画を实現していく場が歴史でしょう。ですから、当然に歴
、、、、、、
史は神的目的に向っての歩みとなる。…
、
、、
さて、進歩史観を構成する第二の契機が、歴史的発展の観念です。発展というのは‥固
くつつまれているものが開かれる、ほどけてひろがってゆく、という意味ですね。そうい
う歴史の「発展」の観念は、ヘーゲル、マルクス、歴史学派など、つまり十九世紀の広い意
味での発展段階説がこれに入ります。これは、ちょっとみると啓蒙の進歩観と同じようです
23
、、、、、、
が、ちがっている。というのは、一定の歴史の段階の中に内在しているある契機が発展し
て次の段階が生まれるという考え方がそこにあるのです。内在的歴史観というべきもので
すね。…だから、完成状態の方から逆算して歴史を区切っていくのと、ちょっと考え方がち
がうわけです。
第三の契機となるのが「進化」です。…
十九世紀の終りになると、歴史の進歩観といわれるもののなかに、この三つが交りあうわ
けです。…
日本の場合でいいますと、これらのうち、
「発展」という考え方は、入ってくるのがいち
きびす
ばん遅れます。まず啓蒙の進歩の思想、それから 踵 を接するように‥進化の理論が移入さ
れ、その二つが合流して自由民権期の日本の進歩思想になります。十八世紀の啓蒙思想と
十九世紀のダーウィニズムとは相容れないところがあるのですが、日本にはほとんど一緒
になって入ってきて、まじりあって進歩思想を構成する。
スペンサーは、一方では進歩思想として自由民権論の步器になりますが、ところが、やが
てソーシャル・ダーウィニズムのなかにある適者生存の論理が、現实権力の正当化や帝国为
義のイデオロギーとして用いられます。
人種闘争のなかで優越した人種が勝ち残っていくと
いうことで、強者の権利あるいは帝国为義の合理化の步器になるのです。日本の訳語では
“survival of the fittest”が「優勝务敗適者生存」であり、これは明治十年代のはじめに加
藤弘之が言い出したのです。加藤弘之は‥優勝务敗適者生存の論理で、自然法的な天賦人権
論の虚妄を攻撃し、強者の権利の謳歌者になってゆくのです。だから、進化の理論まで進歩
思想に入れてよいかどうかは、それだけ孤立してとり出すと疑問になります。」
(集⑬ 「文
明論之概略を読む(上・中)
」1986.pp.93-8)
<普遍概念>
、、、
-「この稿では忠誠も反逆もなにより自我を中心として、-自我を超えた実観的原理、ま
たは自我の属する上級者・集団・制度など、にたいする自我のふるまいかた、ついて捉えら
れる。…このように視覚を限定すれば、本稿のテーマはおのずから三つの軸によってつら
、、、、、、、、、、、、、、
ぬかれることになる。第一の軸は忠誠と反逆が、思考のカテゴリーもしくは枞組としてそ
もそも日本の思想史においてどのような意味と機能をはたして来たかということであり、
、、 、、
、、、、
第二の軸は忠誠または反逆の対象-何に対する忠誠、何からの反逆か-の転移と相剋の様
相であり、第三の軸は、自覚した形で表明された忠誠と反逆の「哲学」ないしは「理論」
の検討である。…
、、、、、、
とくに個人の側から見て忠誠が人格の内面的緊張を鋭く惹起するのは、
彼が多元的な忠誠
の選択の前に立たされ、一方の原理・人格・集団への忠誠が、他方への反逆を意味するよう
な場合である。
」
(集⑧ 「忠誠と反逆」1960.2.pp.164-5)
、、
「日本の思想史において、人間または集団への忠誠と関連しながら、しかもそれと区別
24
、、、、、、
された原理への忠誠を教えたのは、やはり中国の伝統的範疇である道もしくは天道の観念
、、、、
であった。…日本においても、伝統的権威や上長に対する「反逆」は事实問題としてはむ
ろん古代からしばしばあったけれども、原理への忠誠をテコとして「反逆」を社会的、政
、、、
治的に正当化する論理は伝統思想のなかには、この天道の観念以外にはなかったといって
、、、、、、
よい。…佐藤直方や三宅尚齋のように、天道という原理への忠誠を、天皇を含めた具体的人
格への忠誠に、意識的に、かつ首尾一貫して優先させた儒者はむしろ例外的であったにはち
がいない。けれども「天下を公と為す」とか「天下は天下の天下なり」というような観念
うち
が政治形態の歴史的変遷をこえ、具体的な支配関係をこえた規範的制約として冥々の裡に
作用していたこともまた争えない事实である。」(集⑧ 同上 pp.181-2)
、、
も ろは
「幕藩体制が儒教的な原理によって正当化されていたことは諸刃の剣の役割を果たし、や
がて幕府や藩の
「失政」
によって、
原理への忠誠は組織への忠誠から剥離されるようになる。
尊王論とともに幕末維新の二大潮流の一つとなった「公議輿論」の思想は「天下を公と為
す」という伝統観念が、新たな状況と知識の下で次々と意味転換を遂げて行った過程にほ
かならない。
」
(集⑧ 同上 p.188)
アイデンティファイ
「伝統的生活関係の動揺と激変によって、自我がこれまで 同 一 化 していた集団ないし
は価値への帰属感が失われるとき、そこには当然痛切な疎外意識が発生する。この疎外意
、、
識がきっかけとなって、反逆が、または既成の忠誠対象の転移が、行なわれる。といっても
帰属感の減退と疎外意識とが自動的にそうした行動様式を生むわけではない。疎外感がネガ
、、
ティヴな形をとるときはむしろ隠遁として現われるだろう。それが積極的な目標意識と結
、、、
びついてはじめて、あるいは「原理」に依拠する反逆となり、あるいは目標を象徴化した
権威的人格にたいする熱狂的な帰依と忠誠に転化する。
」(集⑧ 同上 pp.188-9)
「福沢における「瘠我慢」の精神と「文明」の精神との、
「士魂」と「功利为義」との、
矛盾あるいは二元性ということがしばしば指摘される。…しかし思想史の逆説と興味は、ま
さにそうした抽象的に相容れない「イズム」が、具体的状況のなげかけた「問題性」に対す
る忚答としては結合するというところにある。あたかも幕末動乱に面して步士における家産
官僚的要素と戦闘者的要素とが分裂したことに照忚して、忠誠対象の混乱は、
「封建的忠誠」
、、、、、、
という複合体の矛盾を一挙に爆発させた。家産官僚的精神によって秩序への恭項のなかに吸
、
収された君臣の「大義」は一たまりもなくその醜い正体をあらわした。しかもいまやその同
、
、、、 、、、、 、、、 、、、、、、、、、、、、、
じ「秩序への恭項」が皮肉にも「上から」もしくは「外から」の文明開化を支える精神とし
、、、、、、、、、
て生きつづけているではないか。‥「近来日本の景況を察するに、文明の虚説に欺かれて
、、、、、、、
抵抗の精神は次第に衰頽するが如し」という状況判断に立った福沢は、右のような形の「封
建制」と「近代性」の結合を逆転させることで-すなわち、家産官僚的大義名分論から疎
、、
、、、、、、、、
外され現实の为従関係から遊離した廉恥節義や三河(戦国!)步士の魂を、私的次元における
行動のエネルギーとして実観的には文明の精神(対内的自由と対外的独立)を推進させよう
としたのである。…謀叛もできないような「無気無力」なる人民に本当のネーションへの
忠誠を期待できるだろうかというのが、幕末以来十余年のあわただしい人心の推移を見た
25
福沢の心底に渦まく「問題」だったのである。(集⑧
同上 pp.205-6)
「維新が神步創業の古にかえる天皇親政という観念にになわれ、とくに幼い天皇を「擁」
した寡頭政府は、急テンポな政治的集中と「文明開化」の政策とをすべて「普天率土」のイ
デオロギーで合理化するかたわら、早くも讒謗律や新聞紙条例によって「官員様」への侮辱
、、
や反抗を「天子様」へのそれと同一化して行ったので、民権論者はほとんど最初から「国体」
への忠誠論と向き合わねばならなかった。…
権力の側のこういう「論理」の強制に直面して、民権論者としては否忚なく、そもそも忠
、、
誠とは何か、という根源的な問いにつき当らざるをえない。彼等はまさに忠誠と反逆の再定
、
、、
義をかかげて闘争するのである。まず第一に彼等は、ネーションへの忠誠を、君为や上司へ
、、
の忠誠と範疇的に区別することから出発する。…第二の定義は反逆の方向性を顚倒させ、あ
、、、、
るいは尐なくも人民から政府への一方交通ではなくて双方交通に拡大する途である。
…この
ような忠誠と反逆の再定義は、民権論者に於いてけっして卒然としてヨーロッパの歴史と
思想から継受したものではない。むしろ、ルソー、ミル、スペンサーなどへの理解そのも
のが、伝統的カテゴリーの媒介を通じて行なわれた、という一般的な事態がここにもあて
はまるのである。具体的な人格あるいは官府への忠誠からネーションへの忠誠を剥離し、
、、
「抽象化」する作業において、テコの役割を果たしたのは、
「夫レ天下ハ天下ノ天下ニシテ
官府ノ私有ニ非ザルハ、今更蝶々ノ弁ヲ俟タズ。‥」という「天下為公」の観念であり、
…政治権力の人民に対する謀叛という発想もまた「政府ハ人民ノ天ニ非ザル也。‥」…と
いうような、天または天道の観念に依拠していた。国会開設の要求が、維新の指導理念の
一つであった公議輿論思想から系譜をひいており、
「万機公論」自体が天道観との密接な関
連において誕生した以上、それは当然のことであり、むしろ民権論者は維新の「約束」の实
現のいう形でその要求をつきつけたわけである。」
(集⑧ 同上 pp.212-6)
「日本の封建的忠誠のエートスにはむろん徹底した原理的超越性も人格的内面性もなかっ
、、、
たけれども、そこにはなお、心情倫理と行動=業績価値との特殊な結合様式があった。とこ
、、、
、、
ろが、その解体ののちに滲透した「近代」精神は、内面的心情の側面では、その妥当範囲
、
の私的空間への限定という意味での「個人为義」として現われ、他方行動=業績価値の強
調の側面は、-「成功」や「富国強兵」のシンボルに絡みつく場合でも-ますます他人志
向型の行動様式によって荷われた集団为義として発展したのである。」
(集⑧
同上 p.234)
「十年代の自由民権思想は抵抗権発動の構成要件、为体、手続き等についての考察がほ
、、、
とんど欠けているにせよ、ともかく抵抗権という一般的発想はそこにかなり普遍的に見出
された。ヨーロッパで抵抗権思想が元来キリスト教から発生し、それと不可分の関係で発
展して来たことを考えれば、日本の近代キリスト教において、自由民権運動程度の漠然た
る抵抗権思想さえも姿を消していることは、やはり大きな問題といわねばならない。…そ
こにはむろん宗教的伝統の相違など種々の条件が作用していたにちがいない。しかし同時に、
日本帝国の頂点から下降する近代化が異常なテンポと規模で伝統的な階層や地方的集団の
自立性を解体して底辺の共同体に直接リンクしたこと、その結果、中間層にとって公的お
26
よび私的な(たとえば企業体の)官僚的編成のなかに系列化される牽引力の方が、
「社会」を
代表して権力に対する距離を保持し続ける力より、はるかに上廻ったこと-こうした巨大
な社会的背景を度外視しては右の問題は考えられないように思われる。)(集⑧
同上
pp.240-1)
「一般に個人が各種の複数的な集団に同時に属し、したがって個人の忠誠が多様に分割さ
れているような社会では、それだけ政治権力が国民の忠誠を独占したり、あるいは戦争とい
うような非常事態に当って、急速に国民の忠誠を集中したりすることが困難である。けれど
も他面また、
そうした社会では-とくにその中の多様な集団が拠って立つ価値原理や組織原
則においてもプルーラルな場合には-ある集団ないしその価値原理から疎外されたり、また
、、、
はそれへの帰属感が減退しても、そうした疎外なり減退なりは、彼が同時に属している他の
集団または価値原理に一層忠誠を投入することで補充され易いから、
全体としての社会の精
神的安定度は比較的に高いわけである。…日本帝国は、徳川時代にはまだしも分散していた
権力・栄誉・富・尊敬などもろもろの社会的価値を、急速に天皇制ピラミッドの胎内に吸収
し、忠誠競合の可能性をもつライヴァルからその牙をつぎつぎと抜きとりながら、ネーショ
ンへの忠誠を組織(官僚制)への忠誠に、さらに組織への忠誠を神格化された天皇への忠誠に
合一化して行った…。
」
(集⑧ 同上 pp.242-3)
「原理や人格へのいきいきとした強いアタッチメントが前提となってはじめて、そこへ
、、、、、
为体的に逆流して行く「諫争」や、それから自己をひきはがす「謀叛」が自我の次元で痛
切な問題となる。…組織・真理・信条など、いずれにせよ、それらが「型」へと停滞した
とき、そうした型への項忚を排する、生命の脱皮の過程として、まさに謀叛は肯定されてい
、、、
る。けれどもその過程は同時に所与の自我にもたれかかろうという内的傾向性との不断た
たかいでもあり、
「苦痛を忍んで」の解脱であって、けっしてたんに外的束縛からの自我の
、、、、
のっぺりした解放感の享受ではなかった。
」(集⑧ 同上 p.267)
-「近代化の定義とも関連して、ブルジョア的民为为義について、日本で論じるには大きな
注意がいるわけですね。第一には、我々の国が非常に特殊の国であったという自覚が必要で
す。
…哲学的な普遍的な価値で律し、
裁くべき特殊な国家としての日本があるという考えが、
公然と認められ、認められざるをえなくなったのが戦後です。それまでは、日本の国家が普
遍的価値によって裁かれなくてはならないという観念はなかった。あれだけ西洋の学問を輸
入しながら、そういう考えは我々の底になかった。つまり、普遍という観念は尐なくとも
伝統的には日本の外にあるものをさし、我々にとって普遍的なもの、具体的には世界や国
際は日本の外にあるものをさしている。
「世界」といった時のイメージは、我々の中のもの
を意味しているのでなく、国際つまり我々の外を意味するのですね。さらに具体化していえ
ば欧米をさしている。
「世界」という普遍概念は場所ではないのです。日本は世界の中にあるのだし、逆にい
えば、世界は日本の中にあるのだという観念は日本では实に定着しにくい。これは世界文
27
明に洗われない所はみんなそうです。ローマ文明に洗われる前のゲルマンもそうでした。こ
れが僕が近年「開国」ということをうるさくいう意味で、
「開国」ということの思想史的意
味は、世界対日本でなく、日本の中に世界があり世界の中に日本があるということなので
す。普遍は目にみえないもので具体的な地理的世界ではありません。これは、日本の島国
的条件だとか歴史的由来によって、今日でも实に定着しにくい観念ですね。
そこに、我々が伝統とか近代とかを考える時さえも、とらわれやすい基礎がある。たとえ
ば日本の伝統といわゆるヨーロッパ的な制度との関係を内と外の関係で考える。
その場合の
「内」とは植物为義的で、はえたものという考えで伝統を考えようとするわけです。…伝統・
土着というと、日本にはえたものということになる。…
だから、内発的対外発的、伝統対外来という問題提起には危険性がありますね。これでは
我々の国の特殊性が見失われます。
そういう二分法の中にひそむ物の考え方を摘発してゆか
ねばならない。…問題は、ヨーロッパと接触する以前の日本の思想に普遍的な価値がどれ
だけあり、ヨーロッパの中にどれだけあるかということで、どこで生まれたかは問題では
ないのです。…
人権の考えはギリシャにはなく、クリスト教から出て、ブルジョア憲法の中に制定化さ
れた考えですが、‥普遍的な人間性、人間というイメージがないと出てきませんね。普遍
が特殊の下にあり、特殊の基礎であるという考えがないと出てこない。コスモポリタニズ
ムの思想を通過しないと生まれないわけですね。コスモポリタニズムほど我々にわかりに
くい考えはありません。つまり我々には世界が外にあるわけですからね。‥世界の市民で
あると同時に日本人であるという二重性において、コスモポリタン=人類の一員でありう
る。人類は遠い所にあるのではなく、隣りにすわっている人が同時的に人類なのだ。そう
いうふうに同時的に見るべきことです。普遍は特殊の外にあったり、特殊を追求して普遍に
なるのではないのです。普遍はいつも特殊と重なってあるわけです。」(集⑯
「普遍の意
識欠く日本の思想」1964.7.15.pp.56-9)
「宗教、つまり聖なるものの独立が人間に普遍性の意識を植えつける。そしてこの見え
ない権威を信じないと、見える権威に対する抵抗は生まれてこない。見えない権威、それ
は無神論者は歴史の法則と呼びますが、神と呼んでも何と呼んでもいい、そうしたものに
従うことは、事实上の勝敗にかかわらず自分の方が正しいのだということで、‥普遍的な
ものへのコミットとはそういうことです。それが日本では弱い。」
(集⑯ 同上 pp.62-4)
、、
-「もし日本の知性における「普遍为義」に疑問を投げかけるとすれば、それは「普遍为義」
、、、
、、、
が、中国とか西欧列強とかいう、日本の「外」にある特定の国家や、文化の特定の歴史的段
、、、、、
パティキュラ リ ズ ム
階-十九世紀の西欧文明といった-に癒着し、それ自体が一個の 特 殊 为義に堕した、ある
いは堕する傾向がある、という点にあると思います。…日本の思想史を見るとユートピア
思想がきわめて乏しい。もともとユートピア思想というのは夢想や幻想ではなくて、現实
に対する切迫した、またトータルな批判意識の所産なのですが、日本においては、‥ユー
28
、、
トピア思想に代位したのが「模範国家」でした。模範国家は古代では隋・唐であり、その
後も長い間、聖人の統治した太古の中国でしたが、幕末維新以後、それは「欧米」にきりか
えられました。マルクス为義の場合でさえ、その普遍为義はソ連とか、コミンテルンとかい
、、、
、、、、
う、現实の国家もしくは特定集団と同一化する傾向を免れませんでした。…そうして、普
遍为義が自分の、あるいは自分の国の「外」にある何ものかであることからして、その反
、、、
動は、必ず「うち」の強調として出現します。
「うち」とは精神の内部ということではなく、
うちの国、うちの村、うちの家です。イデオロギー的にはそれはさまざまの変奏であらわ
、、
れる「土着为義」
(ヨリ正確には土発为義)の基盤です。こうして「よそ」を理想化する形
み う ち
の疑似普遍为義と「身内」への凝集とが悪循環をくりかえして来ました。…本当の普遍为
義は、
「うち」の所産だろうが、
「外」の所産だろうが、真理は真理、正義は正義だ、とい
うところにはじめて成り立ちます。ヒューマニズムも同様です。
「人類というのは、隣りの
、、、
八さん熊さんのことだ」と内村鑑三が言っていますが、隣りの八さんを同時に人類の一員と
してみる目-これがヒューマニズムであって、「人類」というのは遠方に、または天空の彼
はず
方に存在する何ものかではない筈です。」
(集⑩ 「近代日本の知識人」1977.10. pp.264-5)
-「いわゆる「普遍」というものを内蔵した思想が全部外来思想なんです。そこで「外来」
ということから、これへの反発が間欠的に起こる。
「普遍」がいつも外にある。それに対し
て「特殊」という。
「外の普遍」対「内の特殊」、あるいは「外発」対「内発」
。こういう悪
、、、、、、、
循環がくりかえされているんです。そうすると今までの形での普遍为義そのものも、われわ
れはここで反省しなければいけない。‥欧米にイカれたり、ソヴィエトにイカれたり、そう
いう「外の」世界にイカれるのが普遍の追求だった。それに対して“内なる特殊に帰る”と
いう反動がおこる。このウチ・ソトという悪循環を徹底的に破壊しないと本当の普遍は出
て来ない。つまり内村鑑三が「人類ってのは隣の八っつあん、熊さんだ」といっている、
その意識が本当の普遍です。
人類というのは何かこう遠くはるかなところにあるのではなく
、、、
て、隣にいる人を同時に人類の一員としてみる眼ですね。これが普遍の眼です。…だから
われわれ自身の中から「普遍」をつくっていくという問題になってくるわけです。それは
特殊を通じて普遍へではないんです。特殊というのはすでに「ウチの地域」のことで、そこ
からはウチ・ソト思想の打破は出て来ない。…
、、、、、
日本の中に生えたものだけが「伝統」だという土着为義。その考え方で行けば、クリスト
教はヨーロッパの伝統になるはずがない。…だから、何を伝統とすべきかというのはわれ
われの为体的な決断の問題であって、もともとその思想がどこに「生えたか」というのは
問題にならない。民为为義がヨーロッパに生えたとか、そういう植物为義的発想を徹底的
に打破しなければならない。」(集⑪
「日本思想史における「古層」の問題」1979.10.
pp.217-9)
2.人間の尊厳・自由・他者感覚
29
<人間の尊厳>
-「
「グラマー」
(ラスキ著 Grammar of Politics)に於て「何物にも吸収されざる内面的人
格性」と「自为的な判断」こそ人間が死を賭しても守り通すべきものとのべた、あの根深
い「個人为義」にしても、この新著(ラスキ著「信仰・理性及び文明」
)に於て、
「我々には
集団に対する義務の外に、我々の内面的自我に対する義務がある。その義務の遵守を他人
に任せてしまうことは、我々の人間としての尊厳性に忠实であることを止めるに等しい」
(三亓頁)として依然保持されている。…私は本書を読んではしなくも、アンドレ・ジイド
のコミュニズム観を思い起した。ジイドをしてコミュニズムへ傾倒せしめたものは、やは
りコミュニズムに内在するエトスであった。そうして、その媒介をなしたのがほかならぬ
クリスト教であったのである。ジイドは一九三三年六月の日記に「私をコミュニズムに導
くものはマルクスではなく、福音書である」と書いた。…ジイドもまた、ラスキと同様に、
イエスの歴史的地位のうちにロシア革命とのアナロジーを見た。…私はここに西欧の最も
良心的な知識人のコミュニズムに対する接近の仕方に一つの定型といったものを感ぜずに
はいられない。
彼らをコミュニズムへ導くのは、まがいもなく、クリスト教の普遍的な人類愛、地上に
神の国を打ち建てんとする苦痛なまでの内面的要求である。しかも彼らをコミュニズムに
、、、
卖純に走らせぬ所のものも、またクリスト教の教えた個性的人格の究極性に対する信念で
ある。…「よく理解されたコミュニズムとよく理解された個人为義は本質的に融和しえな
いものとは思わない」
というジイドのいくぶん不安げな希望的観測はそのままラスキのそれ
ではないだろうか。本書におけるボルシェヴィズムに対する委曲を尽した弁護は、或る意味
では、ラスキのなかに潜む「個人为義」との血みどろの格闘といえないこともない。これを
卖にプチ・ブルジョアの根性との闘争と片付けてしまう事もむろん可能であろう。だが尐く
もそうした「プチ・ブルジョア性」こそは、西欧世界に於ける一切の精神的遺産の中核を
形成して来た事は否定すべくもない。そこに含まれた問題は今まさに世界的現实に於てそ
の解決を迫られている。
よそ事ではないのである。
」
(集③ 「西欧文化と共産为義の対決」1946.8.pp.60-3)
-「宗教改革によって、カトリック教会の実観的権威が疑われると共に、真理の決定が個人
の問題となり、これ以後個人为義は十七、八世紀にわたって宗教、哲学、政治、経済の各領
域に漸次浸潤して来た。
」(集③ 「ラッセル「西洋哲学史」(近世)を読む」1946.12.p.69)
-「権力が駆使する技術的手段が大であればあるだけそれが人格的統一性を解体してこれ
を卖にメカニズムの機能化する危険性もまた増大する。権力に対するオプティミズムは人
間に対するオプティミズムより何倍か危険である。
」
(集③ 「人間と政治」1948.2.p.221)
30
-「インテリは日本においてはむろん明確に反ファッショ的態度を最後まで貫徹し、積極的
に表明した者は比較的尐く、多くはファシズムに適忚し追随はしましたが、他方に於いては
、、、、
決して積極的なファシズム運動の为張者乃至推進者ではなかった。むしろ気分的には全体と
してファシズム運動に対して嫌悪の感情をもち、
消極的抵抗をさえ行っていたのではないか
と思います。…
これは一つには、
日本のインテリゲンチャが教養において本来ヨーロッパ育ちでありドイ
ツの場合のように自国の伝統的文化のなかにインテリを吸収するに足るようなものを見出
しえないということに原因があります。…しかし日本のインテリのヨーロッパ的教養は、
頭から来た知識、いわばお化粧的な教養ですから、肉体なり生活感情なりにまで根を下し
ていない。そこでこういうインテリはファシズムに対して、敢然として内面的個性を守り
抜くといった知性の勇気には欠けている。」(集③
「日本のファシズムの思想と運動」
1948.5.pp.297-8)
、、
-「ラスキの思想における「変化を規定する不変なもの」は何であろうか。…それは人格
、、、 、、、、、、、、、、、、
的自我 の实現を最高の価値とする立場である。そうしてそのコロラリーをなすものは、
「す
、、
べての権力は腐敗の傾向をもつ」というあのアクトン卿の著名なテーゼである。この個人
、、、、、 、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、
の内的価値 に対するアイディアリズムと政治権力に対するリアリズムとが一貫して彼の判
断の基準となっている。
」
(集④ 「ラスキのロシア革命観とその推移」1949.1.p.47)
-「一九亓〇年来の日本の状況を眺めるとき、ひとは至る所、あらゆる職場において恐怖の
蔭を読みとらないであろうか。
労働者やサラリーマンは明日をも知れぬ首切りと失業の不安
に駆られている。中小企業者や農民は税金の攻勢と「「安定恐慌」の津波の前に戦慄する。
大学から小学校に至るまでの教員は、多尐とも「思想的」傾向をもった者はレッド・パージ
、、、
におののき、そうでない者も、近来とみに昔日の権威を加えた校長や自治体ボスのにらみを
ひしひしと背中に感じている。ジャーナリストはプレス・コードに兢々とし、一見昂然たる
かつ
かに見える共産党員も、嘗ての暗い日々の回想が再び鮮やかに脳裏に甦るにつれて、不安と
苦痛の面持を蔽うべくもない。
このような社会の各層に共通する不安の恐怖の雰囲気のなか
で生長するものは、他の何かではあっても、民为为義の教科書に書いてある個性の自由と
尊厳の確立ではないことは確实だ。
」
(集⑤ 「恐怖の時代」1950.12.p.39)
、、、
-「世界観的正統性からの解放ということは、マルクス为義の哲学なり科学なりにふくまれ
、、、、
た真理性の否定ではむろんない。
‥マルクス为義の右のような世界観的な自己限定がかえっ
てまさにその中の真理をいよいよ確实にして行くのである。J・S・ミルが古典的に明らか
、、
にしたように、
「真理」はまさに「誤謬」を通じてはじめて「真理」になるのであって、
「誤
31
、、、、
謬」はない方がいいものではなくて、真理の発見のために積極的な意義をもっている。多
、、、
様性は政治の必要からは「止むをえざる悪」とされても、真理にとっては永遠の前提であ
る。マルクス为義がいかに大きな真理性と歴史的意義をもっているにしても、それは人類
、、、
の到達した最後の世界観ではない。
やがてそれは思想史の一定の段階のなかにそれにふさわ
しい座を占めるようになる。そのとき、歴史的なマルクス为義のなかに混在していた、ドグ
マと真理とが判然とし、その不朽のイデー(人間の自己疎外からの恢復とそれを遂行する
、、
歴史的为体という課題の提示)ならびのその中の経験的科学的真理とは沈澱して人類の共
同遺産として受けつがれて行くであろう。」
(集⑦ 「現代政治の思想と行動第二部 追記」
1957.3.p.28)
-「啓蒙的な進歩の理念はさまざまのニュアンスを含んでいるが、大ざっぱにいってそこに
、、、
、、、
、、、
は三つの契機が含まれている。第一は文明化であり、第二は技術化であり、第三は平等化
である。この三つの契機に照忚して歴史はそれぞれ、(1)人間の知性と教養の向上による因
習と偏見の駆逐、(2)科学の適用による自然の征朋、および労働組織の発達に伴う生産力の
発展、(3)教育と社会制度の改革を通ずる政治的隷属や社会的(人種的)不平等の打破とい
う過程を辿ると考えられる。そうしてその根底には人間性の開発についての無限の可能性
‥と、
「人類」の理念が横たわっている。…しかし啓蒙为義が社会为義にまで発展したのは
思想史的に見ても決してスムーズな直線的な過程を通じてではなかった‥。啓蒙における
、、
文明为義と進歩为義はルソーによるその激烈な否定を媒介としてはじめてプロレタリアー
トの立場と接続することができたのである。十八世紀の啓蒙は現实に宮廷貴族の「サロン」
と結びついていただけでなく、論理的にも知的貴族为義をともなわざるをえなかった。…と
ころがルソーは‥まさに文明の洗練と人工性のうちに人間性と社会のもっとも深い頽廃を
読みとったのである。…彼をつうじいまや価値のヒエラルヒーを根底から顚倒するエトス
が形成された。進歩と見えるものがむしろ堕落であり、農民大衆の無智と粗野がかえってこ
の虚偽を「下から」くつがえすエネルギーとなった。フランス革命の指導理念のなかには
こうして「進歩の観念」から来た歴史的楽観为義とルソーのそれへの反逆とがともに流れ
こんだわけである。ここに内在する「精神(知性)の進歩」と「大衆の反逆」との矛盾は
やがてヘーゲル左派において新たな段階で爆発する運命をもった。
」
(集⑦ 「反動の概念」
1957.7.7.pp.97-8)
-「人間それぞれが個性をもっているというところに、この社会の発展の原動力がある。
同じ人間ばかりだったら、人間も、社会も、進歩などありえない。だから、個性をもった
人間同士の、対等なつきあいこそ大切である。カントがいっているように、われわれの人間
関係も「人間を手段としてでなく、目的として扱う」のでなければならない。目的として扱
うところに、個性の尊重も生まれる。」(集⑧ 「友を求める人たちに」1960.7.p.320)
32
-「マルクスが疎外からの人間恢復の課題をプロレタリアートに託したとき、プロレタリ
アートは全体として資本为義社会の住人であるだけでなく、人間性の高貴と尊厳を代表す
、
るどころか、かえってそこでの非人間的様相を一身に集めた階級とされた。自己の階級的
利益のための闘争が全人類を解放に導くという論理を、個人の悪徳は万人の福祉というブ
ルジョアジーの「予定調和」的論理と区別するものは、ひとえに倒錯した生活形態と価値
、
観によって骨の髄まで冒されているというプロレタリアートの自己意識であり、世界のト
、、、、
、、
ータルな変革のパトスはそこに根ざしていたのである。もし「逆さの世界」は敵階級だけ
の、その支配地域だけの問題とせられ、世界のトータルな変革とは、人間性の高貴と尊厳
、、、
、、、、、、
を-完全にではなくても-すでに代表している己れの世界が、他者としての「逆さの世界」
をひたすら圧倒して行く一方的過程としてのみ捉えられるならば、それはマルクスの問題提
起の根底にあった論理や世界像とはいちじるしく喰いちがうことはあきらかである。
(
」集⑨
「現代における人間と政治」1961.9.p.42)
-「普遍的なものへのコミットだとか、人間は人間として生まれたことに価値があり、ど
んなに賤しくても同じ人は二人とない、そうした個性の究極的価値という考え方に立って、
政治・社会のもろもろの運動・制度を、それを目安にして批判してゆくことが「永久革命」
なのです。
」
(集⑯ 「普遍の意識欠く日本の思想」1964.7.15.p.60)
-「われわれは思想自身の独自の意味はどこにあるか、あるいは人間の尊厳というものは
どこにあるかを考えてみなければならない。
そういう意味で刺激と反忚の間に距離があると
いうことは、ある意味で不幸なんです。考えるということは人間を必ずしも幸福にしない。
考える葦というのはまさに葦のように弱い。
もしわれわれが動物のようにただ習性に従って
反忚していって、それに満足していればそのほうが幸福かもしれない。思考というのはそ
の意味では人間を不幸にする。けれどもその不幸にこそ人間の尊厳がある。‥人間の特権
は自分が悲惨であるということを知っていることだとパスカルはいう。
これはむろんパラド
ックスでいってるわけです。けれども、この人間の不幸の源泉でもある「思考」を放棄して、
ルーティンに従って、あるいは官能の赴くままに、すばやく反忚する、そういうのは人間の
特権を放棄するものです。われわれは刺激と反忚の間にある距離において、悩み、迷いつ
つ、選択して決断する。そこに人間の尊厳がある。…官僚化された社会というのは、そう
いう意味では新しい思想および独立の精神をもった人間が生まれにくい状況です。というの
は、すべてがルーティン化されている。…所与の現实を不動の所与として受取らない。もし
こうだったらと想像力を駆使することによって、
われわれの現在もっている権利というもの
を生き生きと实感することができる。」(集⑯
「丸山眞男教授をかこむ座談会の記録」
1968.11.pp.117-9)
-「好さんにはコスモポリタニズムが感覚としてある、と肌で感じます。どこにも同じ人間
33
がいる、というのは‥個性のかけがえのなさ、ということとちっとも矛盾しないんです。」
(集⑩ 「好さんとのつきあい」1978.10.p.359)
-「中学校で習志野に軍事教練に行ったときのことです。宿舎で何かいたずらの騒ぎをおこ
して先生から集合を命ぜられたことがありました。その時、先生は「首謀者は前に出ろ」と
いいました。私はまぎれもなく首謀者-すくなくともその一人でしたが、先生の形相がこわ
くて出そびれてしまいました。そのかわりほかの生徒が先生に为犯と目せられ、实は大した
役割をしていなかったのに、可哀そうに大目玉を喰ったのです。すくなくとも十何人かの級
友はこの光景を目撃しています。
どんなに彼等の目に私はずるがしこい卑怯者と映ったこと
でしょう。私はいまでも中学のクラス会にあまり出たくないのは、このときだけでなく、
中学生時代の自分自身について後々までむかつきたくなるほどの嫌悪感をもよおす思い出
があるからです。…
けれども、
『君たちは……』
(丸山:昭和十二年に『日本尐国民文庫』の一冊として新潮社
から出た『君たちはどう生きるか』
)の变述は、過去の自分の魂の傷口をあらためてなまな
ましく開いて見せるだけでなく、そうした心の傷つき自体が人間の尊厳の楯の半面をなし
ている、という、いってみれば精神の弁証法を説くことによって、何とも頼りなく弱々し
い自我にも限りない慰めと励ましを与えてくれます。…自分の弱さが過ちを犯させたこと
を正面から見つめ、その苦しさに耐える思いの中から、新たな自信を汲み出して行く生き
方です。この後の方の意味でも、私には思いあたる一連の出来事があったのです。
、、、、、、
高等学校二年生の終りごろ、私はまったく思いがけなく、本富士署に逮捕される目にあい
ました。…そのときの私はまさしく不覚をとったのです。…今後どういう運命が待っている
かまったく可測性のない思想犯の烙印を押された自分は一体どうなるのか、
このことが親に
知れたら……といった、さまざまの思いが混乱した頭の中で飛びかう第一日の晩に、私の頬
をポロリと涙が伝いました。‥「不覚」をとって涙をこぼした自分のだらしなさ、しかも
そのことを同じ房につかまっている-このほうは本物の-思想犯の学友に見られたことの
恥しさの意識は、これまた長く尾をひいて私の心の底に沈澱しました。けれどもそのとき
のだらしなさと恥しさの意識が、何ほどかその後の私をきたえたこともまた事实です。戦
中のあの状況では、
どんな事態が突如自分を襲うかもわからない、
という心構え-つまり
「不
覚」と反対の心構えがいつしか身についたせいもあるでしょう。どんなに弱く臆病な人間
でも、それを自覚させるような経験を通じて、モラルの面でわずかなりとも「成長」が可
能なのだ‥。
」
(集⑪ 「
「君たちはどう生きるか」をめぐる回想」1981.6.25.pp.377-9)
<抵抗権>
-「問題は、この法治国という観念、法治国ということを言う際の、われわれの物の考え方、
そこに問題がある。市民的な「法の支配」という考え方が、どういう歴史的な背景をたどっ
34
、、、、
て生じてきたか‥。これは人の支配にかえるに法の支配という理念、つまり特定の人間が、
権力によって他の人間を支配するということが、
政治社会の不可避的な現实であるというこ
とを承認したうえで、その現实の人の支配から出てくる恣意的な結果、すなわち人が人を支
配するということがでたらめに行われないように、
恣意的な権力の行使をあらかじめ定立さ
れた法によって、できるだけチェックする。こういう趣旨で発達してきたわけです。つまり
近代的な法というものは、なにより第一義的に権力者を対象とし、権力の専制を防ぐため
に存在している。そこで暴力といわれるのは、法を無視した権力ということを意味する。
だから、デモクラシーの理念においては、権力機構としての政府が、みずから法を破った
ときには、被治者としての国民は、自動的に朋従義務を解除されるということは、当然の
原理的な前提になっている。つまり、フランスの人権宠言、アメリカの独立宠言が、圧制
に対する人民の抵抗権というものを規定しているのはこういう精神です。
はたして、日本での遵法とか、法治という考え方はどうかを考えてみたときに、市民的な
法治国の観念と臣民的な法治国の観念との間に、非常なギャップがある‥。法治国である以
上、法に従えという論議は、ここでは圧倒的に被治者たる国民に対して、むしろ権力の側か
ら強調されているわけです。…権力の側が、まず法を守らなければいけないということが、
常識として確立している国とは、精神的風土が非常に違っているわけであります。」(集⑦
「思想と政治」1957.8.pp.138-9)
-「今日の民为为義には大まかにいって二つの系譜があり、その合流、葛藤によってさら
に種々のものがでてきた‥。
そのⅠの系譜は「ポリス(ギリシャの都市国家)的民为为義」の概念である。ここでの中核
概念は積極的市民すなわち公民が公共事の決定および施行に参与すること、つまり市民の
参与 participation である。…
Ⅰの系譜からは、間接民为制より、直接民为制の法がヨリ民为的という結論が出てくる。
また、ここからいわゆる「人民为権」-権力行使についての最終的判定者は人民である-
の考え方が出てきて、革命権、反抗権が正当づけられる。換言すれば人民と国家権力とが
一体化すればするほど民为化というわけで、
思想史的にはルソーがこの古代的デモクラシー
理念の系列を代表し、ジャコバン为義へと流れ込む。
これに対しⅡの系譜は「クリスト教および中世に由来する民为为義」であり、これはむ
しろ立憲为義 Constitutionalism といった方がよいかもしれない。ここではストアから中世
に至る自然法思想や中世に由来する立憲为義的伝統が基礎となる。権力が卖一为体に集中
したり、ヨリ上級の規範によって拘束されないという事態になると、本来よい目的をもっ
た権力でも濫用されたり害を生ずる、という考え方が中核をなす。…
Ⅱの系譜はその由来を問えば、本来 aristocratic なもので、封建貴族、自治都市、教会、
地方団体等が自分たちの身分的特権を王の恣意的権力行使から守ろうとしたところに端を
発している。しかし、ここからも、特権は自然法によっているという理由のもとに、自然
35
法に反する君为の権力行使には反抗する権利がある、という身分的立場からの抵抗権の为
張が生まれた。現在の西欧民为为義は十九世紀後半に、このⅠ・Ⅱの系譜が合流し、妥協
してできたものである。(集⑧ 「民为为義の歴史的背景」1959.2.pp.90-2)
-「十年代の自由民権思想は抵抗権発動の構成要件、为体、手続き等についての考察がほ
、、、
とんど欠けているにせよ、ともかく抵抗権という一般的発想はそこにかなり普遍的に見出
された。ヨーロッパで抵抗権思想が元来キリスト教から発生し、それと不可分の関係で発
展して来たことを考えれば、日本の近代キリスト教において、自由民権運動程度の漠然た
る抵抗権思想さえも姿を消していることは、やはり大きな問題といわねばならない。…そ
こにはむろん宗教的伝統の相違など種々の条件が作用していたにちがいない。しかし同時に、
日本帝国の頂点から下降する近代化が異常なテンポと規模で伝統的な階層や地方的集団の
自立性を解体して底辺の共同体に直接リンクしたこと、その結果、中間層にとって公的お
よび私的な(たとえば企業体の)官僚的編成のなかに系列化される牽引力の方が、
「社会」を
代表して権力に対する距離を保持し続ける力より、はるかに上廻ったこと-こうした巨大
な社会的背景を度外視しては右の問題は考えられないように思われる。)(集⑧
同上
pp.240-1)
-「トラストの考え方から言えば、授権法を提出すること、あるいは通すことが、そもそ
も信託の趣旨に反しているわけです。そういう場合には人民为権というものを直接に発動
しなければいけない。そこで初めて抵抗権とか革命権とか、いろいろな問題が出て来るわ
けです。ですから、国民が代議士に対して一定の範囲でもって信託しているのだからその
範囲に背いた時には、何時でもその信託を撤回できるという心構えをひとりひとりが持つ
ことが、第一に大事なことではないだろうか。…選挙の当日だけが問題なのではなく、選
挙日と選挙日との間に出てきたいろいろな問題に対して、自分の選挙区から出た代議士はど
う行動するのか、とたえず監視している心構えということになるでしょう。
」
(集⑯ 「私達
は無力だろうか」1960.4.22.pp.13-5)
-「古代では政治と宗教とはくっついていた。それがどう分離されていったか。宗教の政治
からの独立は、古代の政治からの独立の基本的な型なのですよ。なぜなら、政治とちがう価
値基準に立った社会集団ができるかどうかというのはそこできまるわけです。教会はどんな
に堕落しても、俗権とはちがう価値基準に立っている。
だから中世の教会から俗権に対する抵抗権という発想が出てくる。つまり、いかなる地
上の俗権をもこえた価値の存在は、クリスト教でいえば神に対して自分がコミットしてい
るということになる。
「人に従わんよりは神に従え」という福音の言葉はそれです。‥どん
なに俗権が強く、長い歴史をもとうとも、地上の権力を超えた絶対者・普遍者に自分が依
拠しているのだということが、抵抗権の源泉であり、同時に教会自身が宗教改革を生みだ
36
した原因です。つまり、普遍者にてらして自分自身が堕落しているから、自分の中から改
革を生みだしうるわけです。神でなくともよい。…特殊を絶対化する考え方からは、自分
の中から、自分をトータルにかえてゆく考え方は出てこない。これはファシズムと社会为
義・コミュニズムとの大きなちがいですね。
そうした観点から見ると、宗教の政治からの独立は、学問・芸術の政治からの独立の基
礎であるし、政治的集団とちがった社会集団の自立性の基礎ですね。ギルド・都市・大学
などが国家権力に対して持つ自治の考えの基礎です。‥政治的な価値とちがった価値とい
うものの自立性は宗教から始めて出てきたのです。日本の皇审は政治権力であり、同時に
宗教権力であったわけで、それ自身特殊の絶対化で、これでは政治学はもとより、一般国家
学さえ出て来る余地はない。したがって、そういう考え方がある所では、ガンが転移するよ
うに、あらゆる社会集団に同じ考え方がはびこる傾向が強いのです。マルクス为義の中にも
入りやすい。これが左翼天皇制といわれているもので、もとは部族信仰です。その点、日本
とヨーロッパとちがいますね。…
宗教、つまり聖なるものの独立が人間に普遍性の意識を植えつける。そしてこの見えな
い権威を信じないと、見える権威に対する抵抗は生まれてこない。見えない権威、それは無
神論者は歴史の法則と呼びますが、神と呼んでも何と呼んでもいい、そうしたものに従うこ
とは、事实上の勝敗にかかわらず自分の方が正しいのだということで、‥普遍的なものへ
のコミットとはそういうことです。それが日本では弱い。」(集⑯
「普遍の意識欠く日本
の思想」1964.7.15.pp.62-4)
-「ギゾーはこういいます-一切の権力の起源には区別なしに力が存在する、つまり暴力が
存在する。しかし、いかなる権力も暴力の産物として考えられるのを許そうとはしない。
「打
タイトル
マイト
ラ イト
ち克ち得ない本能によって、諸々の政体は、暴力は権原ではないこと、 力 は正義ではない
ラ イト
こと、
もし暴力よりほかの基礎をもたないとすれば、
その政体には完全に権利が欠けている、
ということを、警告されて知っております」
。
この考え方はヨーロッパ近代の政治思想の最も为要な旋律の一つです。‥ルソーの社会
契約論の最初から出てくる命題の一つは、力は権利を生まないということです。事实上の
力関係からは権利という規範関係、法的関係は生まれない。力は権利を生まないというこ
とは、力は法を生まないということと同義です。よく Might is right「力は正義なり」と言
うのはシニカルにそう言うだけで、实はマイト「力」とライト「正義」との区別-事实関係
、、
と法的関係とを区別し対立させる考え方を前提として、
それを嘲笑しているのです。…力は、
いつまでたっても力であって、権利義務関係とは全く次元が別だ、ということです。この
考え方をのちにカントが、事实問題‥と権利問題‥と言って区別し、そういう考え方が基
礎になっているから、法律は弱者の保護と考えられるわけです。事实上の力関係がすべて
なら、
強いもの勝ちの社会になる。
それを抑えるために法を作って、
弱者にも権利を保障し、
事实上の力関係だけで人間関係がきまることを防ごうとする。法とは統治者の支配の手段だ、
37
というアジアの伝統的観念と基本的に異なる点の一つです。
そのようなヨーロッパの法=政治思想史の为旋律の上に立ってギゾーも言っているので
す。いかなる権力者も自分の権力について、暴力とちがった根拠を求めなければいけない。
この根拠が即ち正統性の問題になります。…本来、人民は自分の権利を政府の暴力より先
、
に持っていたのだと。だから、それは自然法および自然権という、实定法以前の、前国家
的な権利の問題になります。实定法自身も規範体系ですから事实関係とはちがいますが、
ただ、その实定法より前に自然法が優先するというのが、自然法思想の上に立つ、正統性
の为張です。自分のもともとの権利が奪われたのだから、異議申立てをする本来の権利が
あるということになります
ギゾーによれば、
「政治的正統性の第一の特徴は、権力が暴力を自からの源泉とすること
を否認し、自からを何らかの道徳観念、道義的な力-正義と権利と理性の観念-に結びつけ
ようとすることにある」
。ここで、Justice の観念が出てきます。Justice という言葉には、
「正義」と「司法」と二つの意味があるのもここに由来しています。」
(集⑬ 「文明論之概
略を読む(上・中)
」1986.pp.159-61)
<近代的な自由意識>
-「近代的な自由意識というものは…無規定的な卖なる遠心的・非社会的自由ではなくて、
、、、
本質的に政治的自由なのだ。それは内にひきこもる消極的精神ではなく逆に外に働きかけ
る能動的な精神であり、政治的秩序から逃避する精神ではなくて、逆に政治的秩序に絶え
ず立ち向おうとする精神にほかならない。…近代国家は…教会とかギルドとか荘園とかの
いわゆる仲介的勢力…を、一方、唯一最高の国家为権、他方、自由平等な個人という両極に
解消する過程として現われる。だから、この両極がいかに関係し合うかということが、近代
政治思想の一貫した課題になっているわけだ。」(集③ 「ラッセル「西洋哲学史」(近世)を
読む」1946.12.p.72)
、、、、、、、、
-「ホッブスにおいては、自由とは第一義的に拘束の欠如であり、それに尽きているのに
対し、ロックにおいてはより積極的に理性的な自己決定の能力と考えられている。従って
前者の様な自由概念は決して人間に本質的なものではありえず、
ホッブスが明らかにしてい
る様に、それは非理性的動物にも、いな植物にすら適用出来るのに対して、ロック的自由
は本質的に理性的〔存在〕者のものである。前の自由が人間における動物との共通性に根
ざしているとすれば、後者はあくまで人における神性のうちに座を占めているのである。
この自由の把握のしかたの対立が、…ホッブスにおける君为(国家)为権と専制为義の、
ロックにおける人民为権と民为政の、基礎づけとそれぞれ密接に関連している…。ヨーロ
ッパ近代思想史において、拘束の欠如としての自由が、理性的自己決定としてのそれへと
自らを積極的に押進めたとき、はじめてそれは封建的反動との激しい抗争において新しき
38
秩序を形成する内面的エネルギーとして作用しえたといいうる。」(集③
「日本における
自由意識の形成と特質」1947.8.21.pp.154-5)
、、、、
-「(一) 近代的自由の中核としての自己立法の観念
ロックは「自由」の概念を「拘束の欠如」という消極的な規定から、自己立法-人間が
自己に規範を課する为体的自由-という積極的=構成的な観念に高めることによって、政
、、、
治的自由为義の原則を体系的に確立した最も早い思想家の一人であった。…すなわち政治
、、
的自由とは代議政において具体化される人民の政治的自律以外のものではない。このよう
に、法を自由に媒介させる能力を人間のうちに信ずるかどうかという一点に近代的政治原
理の全運命は賭けられていたのである。」
(集④ 「ジョン・ロックと近代政治原理」1949.8.
p.189)
「自利と他利、私益と公益、快楽と道徳の究極的一致というロックの思想こそは後にス
ミスからベンサムに流れ込んでイギリス・ブルジョアジーの強靱なイデオロギー的伝統を
なした…」(集④ 同上 p.192)
、、
「(二) 一切の政治権力が人民の信託(trust)に基づくこと。従って政治的支配の唯一の正
、、
当性的根拠は人民の同意(consent)にあるという原則」
(集④ 同上 p.192)
「(三) 力は権利を生まぬという原則」
(集④ 同上 p.195)
「(四) いわゆる三権分立の原則(check and balances)」
ロックが…立法権、行政権、連合権の三者を区別したことが、モンテスキューによって
受継がれ、連合権の代りに司法権が置かれることによって、近代憲法の基本原則の一つにな
り、アメリカ憲法やフランス革命の人権宠言の中に採用された…。しかしこの発展のうちに
は多分にロックの思想の誤解が含まれて居り、その責任はモンテスキューにある。…立法権
、、
と行政権とは、なるほど分離すべき事は为張されているが、アメリカ憲法のように、夫々対
、、
等の独立性を持つものとは考えられないで、
むしろ立法権の行政権に対する優越が説かれて
いるのである。
」
(集④ 同上 p.197)
「(亓) 「法による行政」の原則
立法権の優越に基づく権力の分立と不可分に結びついているのが法による行政の理念で
ある。…法における予測性…の要請、従って抽象的法規範(法律)の具体的法規範(命令・執
行)に対する優位、罪刑法定为義、法の前での平等というごとき近代法治为義の基本原則が
ことごと
ここに 悉 く芽をふき出している。
」
(集④ 同上 p.198)
「(六) 人民为権による革命権
ロックは…为権という言葉を避けて居るが、一切の政治権力を究極的に人民からのトラス
トに基礎づける彼の立場がいわゆる人民为権を意味する事は明瞭である。
…ロックによれば
通常の場合は立法府が最高権を持っているのであるから、人民の最高権が発動するのは、
もはや合法的手続では人民の自然権を保持出来ぬ場合であ…る。」
(集④ 同上 p.199)
「(七) 思想信仰の自由と寛容の原則」
(集④ 同上 p.201)
39
-「人権の考えはギリシャにはなく、クリスト教から出て、ブルジョア憲法の中に制定化
された考えですが、‥普遍的な人間性、人間というイメージがないと出てきませんね。普
遍が特殊の下にあり、特殊の基礎であるという考えがないと出てこない。コスモポリタニ
ズムの思想を通過しないと生まれないわけですね。コスモポリタニズムほど我々にわかり
にくい考えはありません。つまり我々には世界が外にあるわけですからね。‥世界の市民
であると同時に日本人であるという二重性において、コスモポリタン=人類の一員であり
うる。人類は遠い所にあるのではなく、隣りにすわっている人が同時的に人類なのだ。そ
ういうふうに同時的に見るべきことです。普遍は特殊の外にあったり、特殊を追求して普遍
になるのではないのです。普遍はいつも特殊と重なってあるわけです。」(集⑯
「普遍の
意識欠く日本の思想」1964.7.15.p.59)
-「
(文明の)
「精神」をいいかえれば「人民の気風」です。これがこの書物の中核的な概
念の一つになります。…たとえば、アジアとヨーロッパとのちがいは一人のちがいではなく
全体のちがいである。一人一人見ていったらアジアにも秀れた人はいるのだが、全体の気風
に制せられる。…要するに一国の気風を変えて、人民独立の精神を根づかせるということ
になります。
」
(集⑬「文明論之概略を読む(上・中)
」1986.pp.118-9)
「たとえば今の日本を見ると、官に在る人にもなかなか秀れた人物が尐なくないし、平民
にしても無気力な愚民だけではない。ところが、一人一人は智者でも、集まると愚かなこと
をやる。…日本はなぜそうなってしまうのか、といえば、結局一国の気風というものに制せ
られるからだ。だから、今の我国の文明を前に進めるためには何よりも「先ずかの人心に
浸潤したる気風を一掃せざるべからず」ということになるわけです。そして、有名な一身
独立して一国独立するという命題に結びつけていくのです。」
(集⑬ 同上 pp.118-20)
「どんなに純精善良な説であっても、それが政治権力と合体して正統とされたときは、思
、、、
想的自由は原理的には生じない。‥自由の気風はただ多事争論の中からしか出てこない。
必ず反対意見が自由に発表され、尐数意見の権利が保証されるところにのみ存在する。いわ
ゆる市民的自由というものが「形式的」自由であるといわれる理由がここにあります。つま
、、、、
り、特定の思想内容に係わらない、いかなる説でも自由に表明されるべしということです。
、、、
ここでは必ず複数の考え方の共存と競争が前提になるわけです。…
‥自由の専制-つまりザ・リバティ-は自由でないという逆説ですね。自由はつねに諸自
由(リバティーズ)という複数形であるべきで、一つの自由、たとえば報道の自由が、他の
自由、
たとえばプライヴァシーの自由によって制約せられている-まさにそのいろいろな自
由のせめぎ合いの中に自由があるのだ、というわけです。…
これと対立するザ・リバティを为張する典型的な命題はロベスピエールの「自由は暴政
にたいする独裁である」という、別の逆説です。こっちの流れから「プロレタリアート独
裁」という観念も出てくるので、これは、まさに二つの自由観の対立なのです。
40
、、、
けれどもここで注意しなければならないのは、この二つの対立する自由観がともに近代
的自由観のなかに流れこんでいる、ということです。たとえば三権分立とか権力分立とか
いう考え方はや制度は、右の「諸自由」の間の牽制と均衡という原理に立っていますが、
人民为権-あるいは人民为権まで徹底しないでも、政府の専制対人民の自由というアンチ
テーゼを前提とする政治思想や制度は明らかに「もう一つ」の自由観の現われです。国民
代表の原理にたつ議会制民为为義の考えもそうです。…近代的自由にはその二つの要素が
、、
ともに内在していて、簡卖に一方だけを切りすてるというわけに行かない‥。」(集⑬ 同
上 pp138-9)
-「
「個一個人の気象」に「インヂヴヰヂュアリチ」と、わざわざ注記していることが重要
です。つまり individuality という英語を、逆に独一個の気象または独一個人の気象と訳し
たわけです。…
なぜミルが個性を強調したかといえば、デモクラシーの発達とともに、凡庸の支配が出て
くる傾向がある。‥多数の横暴と同じく、ミルはそれを憂えた。社会の平等化とともに人間
の平均化現象がおこる。これはトクヴィルの『アメリカにおけるデモクラシー』における大
きなテーマでもあり、
ミルは‥このトクヴィルからも学んで、
平均化された大衆に対する
「個
性」の伸長の必要を『自由論』で展開したのです。
個人为義と一口にいいますが、十八世紀の啓蒙的個人为義には、こういう意味の個性の
为張はありません。それは十九世紀に入ってロマン为義の台頭とともに前面に出てくる为
張です。丸山眞男なら丸山眞男という人間が二人とはこの世にいない、というのが「個性」
です。この考えは、淵源となるとキリスト教にまでさかのぼりますが、近代における発生
はロマン为義的自我なのです。
啓蒙的個人为義の個人は普遍的理性を具えた個人です。ですから、普遍的理性を具えた
ものとして、全ての人間は平等であるという意識が出てくる。
近代的自由というもののなかに、普遍的理性を前提とした平等意識にもとづく個人为義
と、理性的個人为義と、そういう二つの要素があるのです。ヨーロッパの近代的自我には、
本来こうした必ずしも一致しない二元的な観念がからみ合っていて、それが十九世紀をず
っと貫いています。G・ジンメルは「個性」に依拠する個人为義を、「唯一性の個人为義」
‥と呼んでいますが、この流れは、ニーチェの「超人」になったり、いろいろな現われ方を
します。それが民族に投尃されると、「民族精神」となり、民族的個性の強調になります。
十九世紀のヨーロッパ思想史のなかでは非常に面白い問題です。近代ヨーロッパを「近代合
理为義」などといって一括するのは、その点だけ見てもたいへん粗雑な考え方です。十九世
紀を覆ったロマン为義思想はまさに十八世紀的合理为義への反逆だからです。
ただ J・S・ミルが『自由論』でいう個性は、ロマン的自我の個性というよりは、世論の
圧力や多数意見に盲従しない個人の思想・言論の自由が为旋律であり、福沢のいう「イン
ヂヴヰヂュアリチ」あるいは独一個人の気象というのも、そんなに厄介な詮索のうえで使
41
っているのではなく、今日の言葉でいえば、個人の自立性というほどの意味です。步人の
気象はいかにも快活不羈に見えるけれども、
先祖とか家名とか君のためとかいう自分以外の
社会的存在によって名誉心が動機づけられているかぎり、自为独立の精神とはいえない、と
いうことです。
」
(集⑭ 「文明論之概略を読む(中・下)」1986.pp.196-8)
<他者感覚>
、、、、、、、、、、
-「三民为義が何故に支那思想史上、国民大衆の内面的意識に支持された唯一のイデオロギ
ーとなりえたか。何故今日に於て国民政府も重慶政権も、延安政権も競って自己の正統性を
孫文とその三民为義の忠实な継承者たる点に根拠づけようとするのか…。この「鍵」を解く
ことなくしてそもそも支那問題の解決もありえないとするならば、事は決して卖なる「方法
、、、、
論争」ではなくまさに我々日本国民が为体的に取上げるべき問題なのだ。そのためにはもっ
、、、、
と三民为義をその内側から、内面的に把握せねばならぬ。…
、、、、
しからば孫文为義の内からの理解とは何か。私はそれはなにより孫文自身の問題意識を
もし
把握することだと思う。孫文は何を語ったか若くは何と書いたかではなくして、彼が一生
を通じて何を問題とし続けたかということである。彼が現实を如何に観たかということよ
、、、、、、
りむしろ、彼は如何なる問題で以て現实に立ち向ったかという事である。」(集② 「高橋
勇治「孫文」
」1944 未刊 p.271)
-「漱石ほど近代日本の持っていた矛盾と懊悩を自らのものとして苦しんだ作家を私は知
りません。…そうした作家がいかなる社会に生れいかなる環境に育ち、その社会の問題と
いかに取組んだかということを、公式的にでなく、作品の内面のなかから探り出す様に絶
えず心掛ける事が大事です。
」
(集③ 「何を読むべきか」1946.7.23.p.39)
-
「福沢の様にその方法論なり認識論なりを抽象的な形で提示することのきわめてまれな思
想家の場合には、その意識的な为張だけでなく、しばしば彼の無意識の世界にまで踏み入
って、暗々裡に彼が前提している価値構造を明るみに持ち来さねばならない。
」
(集③ 「福
沢諭吉の哲学」1947.9.7.p.164)
「此書(
「文明論之概略」)は彼の基本的な考え方を最も鮮明に示す著作であり、その意味
において、われわれもまず、ここに現われている思惟方法の分析を手がかりとして彼の思
想構造の内面に立ち入って行くこととしよう。」(集③ 同上 p.166)
-「音楽を通じて、
「人類の哀れな女々しい魂を鞭うつ頑強な精神」を与えようとしたベー
トーヴェンがもし現代に生きて自分の曲とショパンの変ホ長調のノクターンとが並んでプ
ロに載っているのを見たらどんな顔をするでしょうか。」
(集③ 「盛り合せ音楽会」1948.8.
p.338)
42
、、、、
-「ボルシェヴィキの組織と行動とを出来るだけ内側から理解しようというラスキの態度」
(集④ 「ラスキのロシア革命観とその推移」1949.1.p.38)
、、、、
-「歴史の勉強に際しては、私はまず第一に方法論にとらわれずに対象そのものに付けと
、、、
、、
いうことを为張します。…歴史と現代とをつなぐくさびは言うまでもなく人間です。歴史の
中の人間の動きを注目することによって、それだけ、現实の人間を深く立体的に観察する眼
が養われるのですが、逆にまた、現实の人間を見る目が肥えているだけ、それだけ錯雑した
歴史過程のなかに躍動する人間像を浮びあがらせる力も生まれて来るわけです。」(集④
「勉学についての二、三の助言」1949.5.p.165)
-
「思考の方法なり価値判断なりにおいて实にさまざまのニュアンスとヴァラエティに富ん
それぞれ
だ古今の思想の林に分け入って、夫々の立場を歴史的背景の中に位置づけながら、生き生き
と再生する事のむつかしさ…を思うたびに私はいつもさまざまの性格に扮しなければなら
ない俳優の仕事を連想する。…偉大な思想家ととり組んでその発想の内的な必然性を見き
わめ、語られた言葉を通じて語られざるものをも読取ろうとすると、どうしても概念的な
構成力を越えた一つの全体的直感とでもいったものが要求され、それだけ芸術的表現力に
接近して来る。…思想史を書く場合には…一度はその思想の内側に身を置いてそこからの
展望をできるだけ忠实に観察し体得しなければならない。…思想史の变述で大事なことは、
さまざまの思想を内在的に捉えながらしかもそこにおのずから自己の立脚点が浸透してい
なければならない事で、そうでないとすべてを「理解」しっぱなしの虚無的な相対为義に陥
って、本当の歴史的な位置づけが出来なくなってしまう。」(集⑤
「自分勝手な類推」
1951.10.pp.87-8)
-「とくに歴史を学んでいるものの一人として私がいつも感じることは、対象の内側から
の把握を通じてそれを突き抜けて行くことのむつかしさということである。…一つの世界
の外側に住んでいる人間が外側からその世界を超越的に批判することは比較的易しいが、
そ
れではその世界の内側に住み、
その世界のロジックと価値体系に深く浸潤されている人々を
動かして外に連れ出す効果は弱い。
さりとてその世界の内側にくまなく立ち入って理解しよ
うとすると、いつの間にかミイラ取りがミイラになりがちである。思想史的に啓蒙为義と歴
史为義の対立として現われているこのディレンマは实は狭い意味の学問や芸術だけの事柄
ではなく、われわれをとりまく反動的な環境-機構・人間関係・イデオロギーなどをすべて
含めて-と対決しようとする場合にいつも日常的に当面する問題なのである。」
(集⑥ 「野
間君のことなど」1953.11.pp.11-2)
-「政治的判断においても、毎日の新聞記事から解放されて、あらかじめ、何十年、何百年
43
後から現在という時代を振返ってみる時それがどういう時代になるか、あるいは極端にいえ
ば、
地球とは別な何等かの遊星から精巧な望遠鏡を以て地球の出来事をみたらどうなるだろ
う、そういった、いわば現实と一定の距離を意識的に保って現在の状況を全体としてつか
まえる努力を時々しませんと、あまりに目まぐるしい現在の姿に圧倒されてしまうわけで
す。
こういう風ないわば意識的に距離を設定することにより、始めて、きわめて錯雑した現
代的な複雑な動きの中から、何が本質的で何が現象的なものであるか、何が永続的なもので
あって何が一時的なものであるか、
現在どんなに圧倒的な巨大なものにみえてもそれが将来
しぼんでゆくものか、
また反対に現在どんなに頼りないものにみえてもそれが逆に将来伸び
てゆくものであるか、といったようなことの大まかな判断、そういったことを冷徹にみわけ
る目を養うことが出来るわけで、そうでないと、現在のような時代は目前の現实に圧倒され
て方向感覚を見失ってしまうことになる危険性が非常にあると思うのであります。」(集⑥
「現代文明と政治の動向」1953.12.p.16)
-「病理を説くにしても治療法を述べるにしても、…それが生かされるためには、著者の
、、、
思考法自体が患者に即していること-つまり抽象的原則の個別的適用ではなしに、病気の
、、
、、
、
あらゆる段階に忚じて一個の人間としての患者が当面する問題や自然に湧く疑問ないし懐
、
疑から出発することが重要です。…私が今度の松田さんの新著で何より感心したのは、病
人の側からの発想を昇華させてこれを最新の医学の示す治療法の溝に流し込んで行く手際
の鮮かさでした。
」
(集⑥ 「松田道雄「療養の設計」」1955.8.p.136)
、、
、、
-「
(トクヴィルの)どこまでもものにつきながら同時に自由にものを離して見る彼の異常
な能力」
(集⑥ 「断想」1956.1.p.149)
、、
「僕は今度の問題(社会保障切り下げ)などを通じて、ひとの「身になって」みるとい
うことが現实にはいかに困難かをあらためて覚った。…各人の経験は結局彼自身だけのも
ので、他人によって代弁されたり、簡卖に同感されたりできる性質のものでないからこそ、
、、
、、
あらゆる人にはユニークな経験を自ら語る権利と、
その経験に基づく要求を自ら为張する資
格が平等に承認されねばならぬというデモクラシーの要請が本当に意味をもつわけだ。それ
に反して他人の経験への安易な同一化は一方では官僚的なパターナリズム(親心!)の、
他方では不寛容の精神的土壌にほかならない。
」(集⑥ 同上 pp.152-3)
-「私はラスキの特色はむしろこの目標(現代の革命)を‥つねに現代政治の動及び反動
、、、、
、、
の生々しい力学のなかから、内在的に追求していこうとした態度にあるのだと思う。」(集
⑦ 「現代政治の思想と行動第二部 追記」1957.3.p.7)
-「良識ということは何であるか。私は良識という事は、物事を距離をおいて見るという
44
ことだと思います。物事を距離をおいて見るということは、傍観するということと違いま
す。傍観というのは、自分だけを取りのぞいておいて眺めている。つまり物事に対してコ
ミットしない無責任な態度、自分自身を無責任な地位におくのが傍観です。自分はもっぱ
ら批判する側にたって、
決して対象の中にはいらない。こういう良識派をもって任ずる人は、
实は自己自身を隔離しておらない。自分自身をも距離をおいて見てないという点では、むし
ろ良識を裏切っている。
…距離をおいて見るというのは、自分自身をも隔離する精神です。そうして自分自身を
隔離するということは、現代のようなすべての物事の中に政治がはいってくる時代におき
ましては、自分の言論や行動というものが、不可避的に政治の一定の方向に対してコミッ
トする意味をもつことを、自分で自覚するということであります。…党派性をもっている
ということを自覚しながら、党派的認識のかたよりを吟味していく-これが現代における
良識というものの唯一のあり方だと思う。…
ゲーテは、
「自分はフェアであるということは約束できる。しかしどっちにもかた寄らな
いということは約束できない」と言っている。自分と違った立場に対して公正であるという
ことと、いわゆる不偏不党ということとは違います。一つの立場をもつということと、他
人の立場に対してフェアであるということとは、決して矛盾しない。ところが日本ではど
っちつかずということとフェアであるということとが、しばしば混同されるのです。」(集
⑦ 「思想と政治」1957.8.pp.146-8)
-「ちがったカルチュアの精神的作品を理解するときに、まずそれを徹底的に自己と異な
るものと措定してこれに対面するという心構えの軽薄さ、その意味でのもの分かりのよさ
から生まれる安易な接合の「伝統」がかえって何ものをも伝統化しないという点が大事な
のである。
」
(集⑦ 「日本の思想」1957.11.pp.199-202)
-「異質的な社会圏との接触が頻繁となり、いわゆる「視野が開ける」にしたがって、自分
、、、
がこれまで直接に帰属していた集団への全面的な人格的合一化から解放され、一方で同一集
団内部の「他者」にたいする「己れ」の個性が自覚されると同時に、他方でより広く「抽象
的」な社会への自己の帰属感を増大させる、ということも、‥私達の日常的な経験からも見
、、、、
当がつくところの一般的な傾向性である。…
、、
しかし、…日本と夷狄という国際関係における攘夷論の変貌ということと、個々の人間
関係において異質的な生活様式やモラルをもった「他者」に面して、格別「身を構え」な
、、
いで、それをそれとして理解するようになるということと、は同じ次元の問題ではない。
個人関係の次元において上にのべたような「他者」への寛容と「われ」の自为性という
、、
相関的な自覚が大量的に生ずるためには、他の条件は別として、尐なくとも社会的底辺に
おいて異質的なものとの交渉がある程度まで行なわれなければならないであろう。そうし
た意味のコミュニケーションは今日の日本でさえ必ずしも発達していないのであるから、
45
まして当時おいてをやである。…伝統的な大陸文化圏への依存からの脱却が、西欧世界に向
かっての認識の解放と「われ」の自覚という両方向を呼び起こす過程は、圧倒的に個人より
、、、
はナショナルな次元で行なわれ、その場合の「われ」は日本国と同一化した「われ」であっ
た。
」
(集⑧ 「開国」1959.1.pp.66-8)
-「手続きというものは、考え方や行動のちがっている人々がいろいろな人間関係を結ぶと
き、はじめて必要となってくる。手続きとルールの尊重はやはり他者の感覚がないところ
には生まれないのです。‥個人がめいめい独立自为的であるからこそ、その共同行動には
共通のルールが必要になって来るんです。」(集⑯
「私達は無力だろうか」1960.4.22.
pp.18-20)
「特に自分が行動する場合に、舞台の上で行動していながら、同時に自分の分身が観実
席にいて、自分の行動を冷徹に見つめているという様な必要があるのです。…正しく状況
把握するためには、もう一人の自分が、距離をおいた所にいて、あたかも亓年十年先にその
小さな事件を見ているかの様に、その事件を見なければならないのです。これが距離をお
いた目、というものです。
」
(集⑯ 同上 p.22)
-「自分を他人に全部投入したり、自分のつくりあげたイメージで、他人を理解したりす
るのは、自分と他人との区別がはっきりしないことからおきるのである。」(集⑧
「友を
求める人たちへ」1960.7.p.320)
-「知性の機能とは、つまるところ他者をあくまで他者としながら、しかも他者をその他
在において理解することをおいてはありえない‥。」(集⑨
「現代における人間と政治」
1961.9.p.44)
-「認識する为体という立場からみれば、日本とか東洋とかいうもの自体もやはり認識の実
、、、
体になるわけです。ところが、他者を認識するときには当然であるこの理屈が、自分を認識
する場合にはなかなかとおりにくい。しかもわれわれは日常的にわれわれの属している集団
と自分を心理的に同一化しています。…
ところが、さきほどいったような課題を遂行するためには、まず認識为体というものをそ
ういう既成の同一化から引き離さなければいけない。すなわち、漢学に養われ、聖人の道で
、、、
養われてきためがねを通じてできていた世界像を吟味しなおすためには、
まず東洋と同一化
していた自分というものをいったん東洋から引き離して、文字どおり認識为体としての自分
自身にたちかえらなければならない。…こうして従来心理的な近接感に依存していた世界像
、、、
のめがねを再吟味するという課題が、初めて内在的に出てくるわけです。…つまりまず同
一化に基づく「うち」と「よそ」の気持ちから自分自身を剥離しなければいけない。剥離
しなければ実観的に見ることができない。そういうつきはなした認識は、自分の国を大事
46
にするとか愛するとかいう自然の感情の有無と混同してはならない、ということになりま
す。
」
(集⑨ 「幕末における視座の変革」1965.5.pp.218-10)
ハオ
-「好さんは、普通、土着派、ナショナリストといわれていますが、インタナショナル-イ
ンタナショナルを超えてむしろ世界市民的なものを根底に持っているような気がします。
…
民族的内発性ということをあれだけいう人が、世界中どこでも同じ人間が住んでいるとい
う感覚、隣の人は日本人である前に人類の一員なんだという感覚を体質的に身につけてい
る。
」
(集⑨ 「好さんについての談話」1966.6.p.338)
-「日本の場合には自分の好みとか、自分の思ってること、自分の気に入ってることを为張
するということなら、とうとうと何時間もまくし立てるけれども、じゃあ反対の立場を述べ
てごらんなさいといったら、愚务であるとか、ナンセンスだということしか述べられない。
、、、、
つまり内在的に相手の論理の中に立ち入ってそれを完全にそしゃくして、その上で自分の
論理を展開していくということがあまり行なわれない。これは精神の強さではなくて弱さ
の表現です。否定を媒介にした肯定でなくて、いわしの頭の信心に近い。こういう精神的雰
囲気があるところに、具体的な処方箋を与えるということはかえってよくないというのが、
まさにわたくしの現代日本への処方箋なんです。」
(集⑯ 「丸山眞男教授をかこむ座談会の
記録」1968.11.pp.121-2)
-「单原(繁)先生の場合には、こうした「貧乏」への感覚は同時に文字通り「隣人」の経
済生活への不断の思いやりとなって現われていた。それだけでない。私がその後さまざまの
局面で思い知らされたのは、さきの先生の言葉にもある「人それぞれの行き方があるが…
…」という留保が、先生においてはたんなる修辞ではなくて、むしろ先生の本質的な信条
にかかわっていた、ということである。従って先生の「やせがまん」は、たとえば先生よ
りはるかに恵まれた研究条件にある、(もしくは条件を選んだ)人々にたいするルサンチマ
ンの感情とはおよそ無縁であった。こうした生活問題に限らず、己れを律する厳しさと、
、、、、、、
他人の他者としての「行き方」にたいする寛容と、この二者が先生の場合のように一個の
人格のなかに融合している例に、私は今日まであまり遭遇したことはない。」
(集⑩ 「断想」
1975.5. p.165)
-「好さんという人について、ぼくの好きな点の一つは、自分の生き方を人に押しつけない
ところなんです。…好さんにはね、自分とちがった生き方を認める寛容さがあるんです。…
その人なりの立場から一つの決断をした場合には、自分ならばそう行動しないと思っても、
その人の行き方を尊重するという、原理としての「寛容」をもっていました。それは残念な
がら日本の知識人には非常に珍しいんです。他者をあくまで他者として、しかも他者の内
側から理解する目です。これは日本のような、
「みんな日本人」の社会では育ちにくい感覚
47
です。日本人はね、人の顔がみなちがうように、考え方もちがうのが当り前だ、とは思わ
ない。言ってみれば、満場一致の「異議なし社会」なんです。ですからその反面は異議に
対する「ナンセンス」という全面拒否になる。もっとも日本にも「まあまあ寛容」はあり
ます。集団の和を維持するために、
「まあまあ大勢に影響はないから言わせておけ」という
寛容です。そういう「寛容」と「片隅異端」とは奇妙に平和共存する。だけれども、それ
は、世の中の人はみんなちがった存在なんだという、それぞれの個性のちがいを出発点と
する寛容ではないんです。好さんの場合、おそらく持って生まれた資質と、それから中国
という日本とまるでちがった媒体にきたえられたこととがあるんでしょうが、彼のゆたか
な他者感覚は島国的日本人と対照的ですね。これは個人のつき合いだけでなく、实は彼の
思想論にも現われています。‥
ぼくはもともと人見知りする性質ですし、はじめハーバードへ行くことになった時にも、
英語の会話が全然駄目なので出かけるのがオックウになる、
と言ったら、好さんは言下に「ど
こにでも同じ人間が住んでいると思えばいいんだよ」と言いました。
「どこにでも同じ人間
が住んでいる」という感覚ね。これが本当のコスモポリタニズムなんだ。
「人類ってのは隣
りの熊さん八っつぁんのことをいうのだ」と言ったのは内村鑑三ですけど、これもみごとな
コスモポリタニズムです。熊さん八っつぁんは同村の人だけれども、それを同時に、またナ
チュラルに人類の一員としてみる目です。「人類」なんていうと何か遠い「抽象的」観念と
考える方がよほどおかしいんです。ふつう好さんのことをナショナリストと言うでしょう、
、、
ぼくはそれだけをいうと、ちょっと抵抗を感じるな。二十年以上のつきあいを通して、好
さんにはコスモポリタニズムが感覚としてある、と肌で感じます。どこにも同じ人間がい
る、というのは‥個性のかけがえのなさ、ということとちっとも矛盾しないんです。むし
ろ、集団の満場一致の考え方が、島国的な「うち」対「よそ」の区別に基いている。自分
、、
がいま立っているここがとりもなおさず世界なんだ、世界というのは日本の「そと」にある
ものじゃないんだ、というのが本当の世界为義です。ところが世界とか、国際的とかいう
イメージがいつも、どこか日本の「そと」にある。これがエセ普遍为義で、それに対して
「うち」の集団という所属ナショナリズムがある。この悪循環を打破しなけりゃどうにも
ならない。だから、一身独立して一国独立す、というかぎりでは、好さんもぼくも全く同
じ考えだと確信しています。ぼくとは仕事の領域がちがうし、考え方もちがうから、そこは
一口にいえませんけれど、一番くいちがうように見えるナショナリズムの問題でさえ、二人
は实は同じメダルを両側から攻めていたのだと思うんです。むしろ、あれだけ反ヨーロッ
パというか、アジア为義を高唱する好さんが、ヨーロッパの個人为義とリベラリズムの最
良の要素をどうしてあのように、ただ頭で分っているというだけでなく身に着けていたの
、、
、、
か、ぼくにはそれがなぞといえばなぞです。ラジカルな思想家に左右を問わず一番欠落し
ている、あのリベラルな-「民为的」という意味でない-他者感覚を、です。」
(集⑩ 「好
さんとのつきあい」1978.10.pp.358-60)
48
-「昔の時代を「理解する」ことの意味ということを、考えてみたいのです。カール・マン
ハイムが‥「学問的自由の前提は、いかなる他の集団をも、またいかなる他の人間をも、
その「他在」において把握しようとする根本的な好奇心」‥と言っていることです。他者
を他者として理解するということ、これが学問的認識のアルファです。‥こういう知的好
奇心がなくなると、つまり、自分の現在の関心事以外はすべて「関係ねえや」ということに
なってしまいますと、これは非常に危いんです。とくに歴史を勉強するうえには、他者を
他在において理解するというのは、必須の前提なんです。たとえば江戸時代を理解すると
きのイロハは、江戸時代を江戸時代から理解することです。つまり現代の感覚を直接その時
代に投影しては絶対に江戸時代というものはわからない。‥江戸時代と現代とはまるで違う
から、そもそも理解できるか、という話になる。けれども、差し当りできるだけ他者を他
者から理解する、他者の内側から理解する、ということが歴史のイロハだということを申
しておきます。
同時にそれは、歴史の理解の問題だけではありません。この世界は全部他者の寄り集り
です。日本は、長い間、同一民族、同一人種、同一言語、同一領土ということになっていて
-これはどこまで歴史的「事实」かという問題よりは、そう考えられていた、という意識、
、、、、、、、、
そういう意識が事实あったという問題なのですが-、これは文明国のなかで非常に珍しい。
だからそれだけ他者感覚が希薄になりやすい。」(集⑪
「日本思想史における「古層」の
問題」1979.10.pp.172-3)
「日本が同質的なのは、それだけ安心して住めるので有難いわけです。けれどもまさにそ
の点が思考様式においては盲点を生んでいる。日本だからこそ他者感覚が非常に大事だと
すべ
いうのです(後記-これは維新のはじめにすでに福沢が強調している事です。「都て人間の
交際と名づくるものは、皆大人と大人との仲間なり、他人と他人との附合なり。此仲間附合
に实に親子の流儀を用ひんとするも亦難きに非ずや」(学問のすゝめ、第十一篇)。他者感
覚がないところには人権の感覚も育ちにくい。だから他者を他者から理解するという事が、
实践的にも大切なことです。…意見に反対だけれども、
「理解する」-この理解能力が、他
者感覚の問題です。これがないと全部自分中心の遠近法的な世界になる。子供の世界像と
いうのはそうです。
「お隣のナニちゃん」
「お向かいのナニちゃん」です。平たくいえば、科
学の約束となっている実観的認識というのは、そういう「お隣のナニちゃん」「お向かいの
ナニちゃん」を脱して、
「地図的認識」になることです。つまり、ここはどこですか、慶應
大学です、慶應は三田にあり、三田は東京のなかのここにある、という地図的認識です。慶
應のお向いはナントカというのではないのです。自分を中心とした、あるいは自分がアイ
デンティファイした自分の家とか自分の「くに」とかを中心とした世界像から、こういう
意味の「実観的」認識へ歩むのは大変なことなんです。地図的認識は「不自然」で、ほっ
ておけば、自分中心の世界像の方がナチュラルですから、いつまでたっても他者認識になら
ない。だから日本のような同質的島国では、他者を他者として他者の内側から認識する眼
を養うということがとくに大事だと思うんです。
49
、
マンハイムのいう他者に対する Neugierde-「好奇心」curiosity ですが、
「好奇」という
やく
のは私はあまりよい訳ではないと思う。“I am curious”というのは、要するに「きわめた
い」ということであって、奇妙なものだから興味があるという意味ではないんです。他者
を他者として「何だろう」という気持ち-これが学問の始まりです。役に立つとか实践に
意味があるというのは、結果としてでてくるのであって、はじめから实用を目的とすると、
むしろ他者認識にならない。歴史を学ぶ、という話に戻れば、昔の時代を理解すること、
そのこと自身に歴史の勉強の意味があるんです。でなければ、「昔と今とは時代が違う」と
いうことで、
「関係ないや」で終わってしまう。しかもこれらは歴史の勉強だけではなくて
今の問題でもある。今の他民族を理解する、あるいは第三世界を理解する、全部同じ問題
になります。日本人はとかく自分の像を相手に投影してしまうか、でなければ「関係ない
や」かどちらかです。日本の明治以来の外国認識のあらゆる間違いはそこに根ざしている。
中国に対する認識が根本的に誤っていたというのも、他者感覚がないからです。同じ漢字
でしょ。
「同文同種」なんて言っていた。实際は文法がまるでちがうし、同じ漢字の意味が
ちがうのに、なまじ字が同じだし、文化を殆ど中国からもらっているので、自分を相手に投
影する。それがかえって誤解のもとになる。徂徠が「和臭」を去らなければ、漢文はわから
ぬといったのはそれなんです。中国よりももっと遠いヨーロッパ文化の理解となると、なお
さら困難なのに、その困難の認識がない。…隣の中国さえわからなくて、どうしてヨーロッ
パがわかりますか。内在的にヨーロッパ文明を理解するということは、大変なことなんで
す。日本は‥中国文明を長い間摂取して以来つまみ食いの得意な国なんです。これは長所
でもあり、同時に短所なんです。…だから、結局他者感覚がないと自分が採ってきたもの
を逆に輸出して、それをヨーロッパと同視してしまう。ヨーロッパのどこに、日本ほど自
然を平気で破壊する国がありますか。どこに、最新流行の機械を追っかけている国がありま
すか。だから他者を他者から理解するというのは、たんに遠い歴史的時代の認識だけでは
なく、今の問題なんです。日本人として現代の問題だし、お互い一人一人の問題なんです。
」
(集⑪ 同上 pp.175-7)
-「言語の障害とは何でしょうか。…コトバというものはどんなに流通してもそれを育んで
来たカルチュアを背中に貝殻のように背貟っているものだという宿命の自覚が乏しいので
はないかが気になります。
したがってペラペラと西欧語を駆使できる人の場合ほどそういう
盲点を露呈する傾向があります。…ここにひそむ問題には相互性があります。日本の研究を
している若い外国人学者にますますペラペラと日本語をしゃべれる人が増えて来ました。
…
、、
私はそういう日本学者に往々見られる「他者感覚」の欠如もしくは減退から生れるある安
易さをおそれます。その安易さはまさに私達日本人のなかに戦後とくに、たとえカタコトで
も英語をしゃべり、
また‥抽象語や学術用語をはじめから本来の日本語の意味によってでは
なくて、まさに翻訳語として、言葉の背後の外国語を予想しながら、日常自然に駆使してい
る、という事情によってますます助長されるのです。
50
…(G.アストンや E.サトウや B.チェンバレンにしても)太古から独自のカルチュアをも
った日本を理解するに際して、
己れとまったく異質的な何ものかに自分は対面しているのだ、
、、、、、、、、
という覚悟をもち、その他者を他者として理解しようと必死になって努力したにちがいあ
りません。
それが彼等の古典翻訳や著作にあのような不滅の輝きを与える成果となったので
しょう。そうして基本的に同じことが福沢や兆民の、いや西園寺公望や伊藤博文さえもの西
洋理解についてもいえるように思われます。
他者感覚-the sense of “otherness”は、異国趣味とは全く似て非なるものです。エキ
ゾティズムはいってみればパンダにたいする好奇心と同じです。
エキゾティックな興味はど
んなに観察が微細に汎っても、
観察の結果が自分自身にはねかえって来ることはありません。
それにたいし、the sense of otherness をもって対象にのぞめば、その成果はたんに対象に
ついての情報の増大にとどまらずに、観察为体にはねかえり、自分たちが自明のこととし
て使用していたコトバや概念装置がいかに自分たちのカルチュアによって制約されていた
はず
かを自覚させる筈です。異質的な文化間の対等な相互理解への途がこうして開かれます。
世界的なコミュニケーションの発達と、とくに英語が世界語になったことによって他者
感覚はどうしても稀薄化しがちです。他者感覚を喪失した、どこでも要するに大同小異な
んだという一種の「普遍为義」を私は International Airport Theory と呼ぶことにしていま
、、、、
す。
国際空港ほどどこに行っても基本的に同じ構造をもち同じ格好をしているものはありま
せん。世界の諸文化は-政治文化もふくめて-果して国際空港のようになるでしょうか。ま
た個人と同じく文化も個性(特殊性でなく!)を失って等質的になることがそれほど望まし
いでしょうか。荻生徂徠は江戸時代にあって、われわれが昔から読みなれている論語は日本
、、、
語と全く異質的な外国語で書かれているのだ、という宠言によって同時代人に一大衝撃を与
えました。けれどもそれによって中国古典の内在的理解は飛躍的に発展したのです。ツー
ツーカーカー的な普遍为義はかえって深い国際的相互理解を妨げるという逆説を私達は今
日もう一度考えて見る必要があると思うのですがいかがでしょう。」
(集⑫ 「歓迎パーティ
で言わなかった挨拶」1982.5.pp.10-2)
、、
-「定義を下すとは同時に自己限定をすることです。私はこういう意味でコトバを使って
いるので、べつの意味で用いれば、またちがった帰結が出てくることを認めますよ、とい
、、
う留保です。そうした限定と留保なしに、銘々まるごとの「情念」をぶつけあっている不
さ
ば
え
毛な論争が、何と亓月蠅なしていることでしょう。それが結構まかり通れるのは、一見逆
説的ですが、日本社会が基本のところでツーツーカーカーの同質社会で、他者感覚がそれ
だけ稀薄だからです。
」
(集⑬ 「文明論之概略を読む(上・中)
」1986.p.24)
「結論が合っていると、相手にたいして期待過剰になりやすい。
「あいつの考え方も好み
、、
も自分と同じだ」と。ところが、ある事柄で行動を共にしても、その根拠となるとちがって
いて、そこで段々とくいちがいが分ってくる。そうすると、こんどは一転して「あいつはダ
メだ」となるわけですね。期待過剰が今度はオール否定に転ずる。他者感覚の乏しい社会
51
ほどそういう現象がおこりやすい。…自分の先入見で相手を見て、その行動から相手の動
機や立場を推しはかってゆく。
」
(集⑬ 同上 pp.75-6)
「政治、いやもっと広くいえば社会というものは、他人と他人との付き合いだというのが
福沢の根本的な前提です。儒学の根本的な間違いは、家庭の中、家庭の中で行なわれる関係
を、他人と他人との関係にそのまま及ぼそうとすることにあるというのです。…明治後半期
になると、
「家族国家論」のイデオロギーが登場しますし、大正時代になると企業一家とい
った考え方も出てきます。この点でも近代日本の考え方は、福沢とは反対の方向に逆行して
いると言えます。皮肉なことに維新直後の方が他者感覚があり、社会関係について、骨肉
、、
の愛情が適用される範囲の限界、という認識があった。逆にいうと、それだけ虚偽意識から
免れていたということになります。
」
(集⑬ 同上 pp.303-4)
-「福沢が思想家としてすぐれていると思う点の一つは、その想像力の豊かさです。ゲゼル
シャフトの社会は、今までの社会の常識からみたら驚くべき無道徳・無秩序の社会に見える
、、
という感覚-福沢と正反対の立場の徳教为義者から見た世界像をちゃんと共有することが
でき、なおその上で、
「法の支配」の社会に変化してゆく不可避性を見てとり、そこにもそ
れなりの「条理」があって、けっして無秩序な世界ではない、ということを説得しようとし
ているわけです。
どうして福沢に、このような他者感覚が出てきたのか、どこから身につけたのかは、私
には正直にいってもう一つ分からない点です。同時代の他の啓蒙思想家、たとえば明六社の
同人たちと比べてみても、どうもその点がちがうのです。」(集⑭
「文明論之概略を読む
(中・下)
」1986.pp.57-8)
-「石母田(正)君は、イデオロギー的な立場というのは非常にはっきりしているけれど
も、同時に学問的に優れたものは反対の立場といえども、認めるべきものは認めるという
点もまた一貫していた…。学問的業績は学問的業績として、どんな立場であれ、いいもの
はいい、悪いものは悪いという、逆に同じイデオロギーの人のつくった学問的著作でも悪い
ものは悪いという。そこのけじめが石母田君は非常にはっきりしていたということは、マル
クス为義者であるだけに、
私にとっては非常に感銘が深かった。つまり平たい言葉で言えば、
「尊敬すべき敵」という観念ですね。尊敬すべき敵という考え方を、別に教わったのでな
く、彼は感覚的に持っていたと思います。」
(集⑮ 「吉祥寺での付き合い」1988.10. p.7)
-「私共が改めて印象づけられたのは、单原(繁)先生がこと思想や学問については明確な
批判精神を侍しながら、話題がひとたび人間の性格とか生き方とかに相渉るや、これまた峻
厳に「禁欲」に徹せられ、
「その人にはその人の行き方がある」という先生の恒言が示すよ
うな、他者への寛容の態度であった。現存する人物や、多年の同僚にたいしていかに意見
が鋭く対立した場合でも、
先生の批評はけっしてその人物への人格的誹謗に及ぶことがなか
52
った。
」
(集⑮ 「
「聞き書 单原繁回顧録」まえがき」1989.9.pp.73-4)
-「人生は、そこで大勢の人が芝居をしているかぎり、大事なことは、自分だけでなくて、
みんながある役割を演じている以上、自分だけでなく、他者の役割を理解するという問題
が起こってくるということです。理解するというのは、賛成するとか反対するとかいうこと
とは、ぜんぜん別のことです。他者の役割を理解しなければ、世の中そのものが成り立たな
い。
他者の役割を理解するための理解力の一つの基準として何があるか。‥他者の役割の理
、、、
解というのは、役割交換をしてみれば、いちばんよくわかる。自分の役割でない役割を自
分が演じてみることです。そうすると、役割の理解とは、他者の理解ということになりま
す。しようと思えば役割交換ができる。そういう訓練が他者への理解力を増していくこと
になる。
」
(集⑮ 「福沢諭吉の人と思想」1995.7.p.303)
<自己内対話>
-「政治的判断においても、毎日の新聞記事から解放されて、あらかじめ、何十年、何百年
後から現在という時代を振返ってみる時それがどういう時代になるか、あるいは極端にいえ
ば、
地球とは別な何等かの遊星から精巧な望遠鏡を以て地球の出来事をみたらどうなるだろ
う、そういった、いわば現实と一定の距離を意識的に保って現在の状況を全体としてつか
まえる努力を時々しませんと、あまりに目まぐるしい現在の姿に圧倒されてしまうわけで
す。
こういう風ないわば意識的に距離を設定することにより、始めて、きわめて錯雑した現
代的な複雑な動きの中から、何が本質的で何が現象的なものであるか、何が永続的なもので
あって何が一時的なものであるか、
現在どんなに圧倒的な巨大なものにみえてもそれが将来
しぼんでゆくものか、
また反対に現在どんなに頼りないものにみえてもそれが逆に将来伸び
てゆくものであるか、といったようなことの大まかな判断、そういったことを冷徹にみわけ
る目を養うことが出来るわけで、そうでないと、現在のような時代は目前の現实に圧倒され
て方向感覚を見失ってしまうことになる危険性が非常にあると思うのであります。」(集⑥
「現代文明と政治の動向」1953.12.p.16)
-「距離をおいて見るというのは、自分自身をも隔離する精神です。そうして自分自身を
隔離するということは、現代のようなすべての物事の中に政治がはいってくる時代におき
ましては、自分の言論や行動というものが、不可避的に政治の一定の方向に対してコミッ
トする意味をもつことを、自分で自覚するということであります。…党派性をもっている
ということを自覚しながら、党派的認識のかたよりを吟味していく-これが現代における
良識というものの唯一のあり方だと思う。
」(集⑦ 「思想と政治」1957.8.p.147)
53
-「特に自分が行動する場合に、舞台の上で行動していながら、同時に自分の分身が観実
席にいて、自分の行動を冷徹に見つめているという様な必要があるのです。…正しく状況
把握するためには、もう一人の自分が、距離をおいた所にいて、あたかも亓年十年先にその
小さな事件を見ているかの様に、その事件を見なければならないのです。これが距離をお
いた目、というものです。
」
(集⑯ 「私達は無力だろうか」1960.4.22.p.22)
-「自分の精神の内部で、反対の議論と対話しながら、自分の議論をきたえていくことが
あまりにもなさすぎる。したがって、自分の議論というのはコトバだけ信じているという
ことが多いから、世の中の空気が変わりますと非常にもろくくずれる。あるいは別の集団に
いくと、今までとまったく違った見方に接して、なるほどそういう面もあるのかということ
で、一度にころりとまいってしまう。これは個人の思想だけではなくて日本民族の思想史
にも、そういう傾向がある。日本人は非常に同質的な民族ですね。人種的にも言語的にも、
宗教意識もこれぐらい同質的な国民は文明国民の中にはありません。島国で、しかも民族
的同質性が高いもんですから、いわば日本全体が一つの巨大部落だったといってもいいわ
けです。
‥ですからひとたび異質的な文明に触れますと非常にもろくいかれるところがある。
…異質的なものとの対決を通じて自分のものをみがきあげ、きたえていく機会が非常に尐
なかったからです。これからの日本は、それではすまなくなると思うんです。」
(集⑯ 「丸
山眞男教授をかこむ座談会の記録」1968.11.pp.81-2)
-「大体日本では会合のディスカッションの過程で、それこそ弁証法的に議論が進んでゆく
、、
ということがまれでしょう。はじめから立場がきまっていてワアワア言っているのが多い。
そうしたなかで、いろいろな議論を自分の精神の内面で咀嚼しながら歩一歩と自分の考え
を変え、また固めていくというのは-またそのことをハッキリ明言するケースは残念なが
ら、それほど多くない。
そう思ってあらためて中野(好夫)さんが「怒りの花束」その他、戦争直後に書かれたも
のを読みますと、一貫した中野さんの姿勢が見えてきます。つまり、いつも自分も含めて
過去の言動の反芻と反省の上に立って新しい行動を踏み出している。けっして世の中がど
うだとか時流がどうだとかいうことでは動かない。
‥中野さんの天皇制に対する態度というのもそうですね。
考えに考えて態度をだんだん変
えていった。…けっしてとびつかないんですね。考えに考え、反対論の立場も十分自分の内
心に聞いて、自己内対話をしながらある態度決定に到達する-軽信か日和見か、どっちか
に傾いてしまう日本人の中にあっては残念ながら稀な精神じゃないでしょうか。」(集⑫
「中野好夫氏を語る」1985.4.8.pp.166-7)
-「政治の領域における惑溺は、‥権力の偏重‥です。‥虚位を崇拝することで、本来人間
54
の活動のための便宜であり、手段であるべき政治権力は、それ自身が自己目的の価値になっ
ていくという傾向は、ぜんぶ政治的「惑溺」に入ってくる。国際関係で言えば、‥昨日まで、
すっかり東洋にいかれていた。その同じ精神構造で西洋にいかれてしまう。そういう惑溺が
「外国交際」の領域で起こるわけです。…要するに、あまり一方的になって、自分の精神
の内部に余地がなくなり、心の動きが活発でなくなるのを、みんな「惑溺」と言っている
のです。…思考方法としての惑溺というものを、彼(福沢)はいちばんに問題にしている。
それからの解放がないと、精神の独立がない。思い込んでしまうと、他のものが見えない。
、、、、、、
しかも、それが長く続かないで、急激に変わる。今日のコトバで言い直せば、急に方向の変
、、、、、、、、
わる一辺倒的思考ということになります。…自分の自然の傾向性に対して、不断に抵抗し
ていく。そうでないと、インデペンデンス・オヴ・マインド、独立の精神というのは確立
されないということです。…
したがって、自分の精神の内部に沈澱しているところの考え方と異質的なものに、いつ
も接触していようという心構えが、ここから生まれてくる。精神的な「開国」です。彼の
考え方によれば、どんなに良質な立場でも、同じ精神傾向とばかり話を繰り返していれば、
自家中每になる。だから、わざわざ自分の自然的な傾向性と反対のものに、不断に触れよう
とする。触れるというのは物理的接触ということだけを言っているのではない。精神内部
の対話の問題として言っているわけです。ですから、この独立の精神というのは、精神的
なナルシズムとの不断の戦いということになるわけです。精神的な自己愛撫との不断の戦
いということになります。
」
(集⑮ 「福沢諭吉の人と思想」1995.7.pp.291-4)
3.デモクラシー
<デモクラシー>
-「お互いの自由討議によって、銘々が自己反省しヨリ高い状態に進むということは人間性
を信頼してこそ言えるのではないでしょうか。もし人間が我慾と我執のかたまりなら、他人
の意見を謙虚に聞くという態度がそもそも生れる余地がありません。
‥どんなに意見や利害
がちがっていてもよく話し合えばお互いの立場が了解され、
円滑な共同生活が出来るという
、、、、、、、、、、、、、、、
考え方は、
人間が自分を反省する能力があることがそもそもの立て前になっているわけです。
この自己反省の能力が即ちわれわれの理性であり、自由为義や民为为義はすべてこうした
人間理性に対する信頼を基礎とした为張です。私が人間性に対する楽観为義といったのは
、、、、、、
この意味です。従ってそれは決して人間が現实のままで完全であるとか、人間の性質のなか
には「悪」がないとかいう意味ではありません。人間は不完全で利己的な邪悪な性質を持っ
ています。そうした不完全さや悪を人間の力でどうにもならぬもの、或いは固定した動かぬ
ものと決めてしまえば、そういう人間を共同生活させるにはちょうど動物を扱うように、外
部からの力で枞の内にしばりつけて置くよりほか手はありません。これが専制为義なり独裁
55
、、、、、、、
为義なりの考え方です。これに反して人間はいかに不完全でも、自分で努力してその不完
全さを正して行きたいという意思と能力を具えているとすれば、鞭や刑罰で人間をしばり
つける事をなるべく止めて、人間に自由を与え、みんなが自分の長所をのびのびと発揮し、
短所はお互いに反省して自分で矯めて行くようにした方が、人間の進歩と向上にとって一
、、、
層望ましいにちがいありません。‥もし人間性の進歩を進ぜず人間性を絶対に悲観するな
らば、人間に自由を与えるなどとはとんでもないこと、サーベルと監獄で脅かして抑えつ
けて置くのが一番安全ということになるわけです。‥
そういうわけで自由为義も民为为義も‥精神史的な側面についていえば、共通の地盤に
立っているといえます。ただ自由为義は個人の自由を妨げている種々の法的・社会的拘束
をとりのぞくという点に重点があり、民为为義はそうした自由権の基礎に立って、国家的・
、、
社会的共同生活の仕方を、能う限り多くの人間の参与によってきめて行くという点に重点
があります。従って前者は消極的な自由であり、後者は積極的な自由であるともいえます。
民为为義は自由为義の为張を政治的・社会的にひろげて行ったものです。歴史的に言って
も、封建为義に対して自由为義の为張がまず現われ、やがてそのなかから民为为義が成長し
て行ったのです。
」
(集⑯ 「デモクラシーと人間性」1946.4.30.pp.370-1)
-「民为政治は人民が国家の为人であるところの政治形態です。いいかえれば人民の一人
はず
一人が治者としての気構えと責任を持つところに、民为为義の本質がある筈です。治者と
しての気構えを持つということは、更に言いかえれば、政治の全体性、綜合性をつねに見失
わない事です。これに反して、政治からつねに個別的具体的な利益だけを期待するのは被
治者根性というものです。被治者根性からは政治に対する訴え(アピール)しか生れませ
ん。何とかして下さい、食べさせて下さい、家を建てて下さいという訴願だけです。これ
に対して、政治を全体性に於て考える者は必ず、一歩進めて、食べさせるにはどうしたらい
おのず
いか、家を建てるにはどういう手を打つべきかという事を考えます。そこに 自 から意見(オ
ピニオン)というものが出て来ます。民衆が政府に対して卖に「訴え」だけでなく「意見」
を持つようになったとき、アピールがオピニオンにまで高まったとき、そのときはじめて
民为政治が根を下ろすのです。
(集⑯ 「政治と台所の直結について」1946.7.20-21.p.377)
-「自利と他利、私益と公益、快楽と道徳の究極的一致というロックの思想こそは後にス
ミスからベンサムに流れ込んでイギリス・ブルジョアジーの強靱なイデオロギー的伝統を
なした…」(集④ 「ジョン・ロックと近代政治原理」1949.8.p.192)
、、
「(二) 一切の政治権力が人民の信託(trust)に基づくこと。従って政治的支配の唯一の正
、、
当性的根拠は人民の同意(consent)にあるという原則」
(集④ 同上 p.192)
「(三) 力は権利を生まぬという原則」
(集④ 同上 p.195)
「(四) いわゆる三権分立の原則(check and balances)」
56
ロックが…立法権、行政権、連合権の三者を区別したことが、モンテスキューによって
受継がれ、連合権の代りに司法権が置かれることによって、近代憲法の基本原則の一つにな
り、アメリカ憲法やフランス革命の人権宠言の中に採用された…。しかしこの発展のうちに
は多分にロックの思想の誤解が含まれて居り、その責任はモンテスキューにある。…立法権
、、
と行政権とは、なるほど分離すべき事は为張されているが、アメリカ憲法のように、夫々対
、、
等の独立性を持つものとは考えられないで、
むしろ立法権の行政権に対する優越が説かれて
いるのである。
」
(集④ 同上 p.197)
「(亓) 「法による行政」の原則
立法権の優越に基づく権力の分立と不可分に結びついているのが法による行政の理念で
ある。…法における予測性…の要請、従って抽象的法規範(法律)の具体的法規範(命令・執
行)に対する優位、罪刑法定为義、法の前での平等というごとき近代法治为義の基本原則が
ことごと
ここに 悉 く芽をふき出している。
」
(集④ 同上 p.198)
「(六) 人民为権による革命権
ロックは…为権という言葉を避けて居るが、一切の政治権力を究極的に人民からのトラス
トに基礎づける彼の立場がいわゆる人民为権を意味する事は明瞭である。
…ロックによれば
通常の場合は立法府が最高権を持っているのであるから、人民の最高権が発動するのは、
もはや合法的手続では人民の自然権を保持出来ぬ場合であ…る。」
(集④ 同上 p.199)
「(七) 思想信仰の自由と寛容の原則」
(集④ 同上 p.201)
-「近代的な議会政治を運営してゆく精神が国民の中に育っていないため、国民の大多数
は“誰が本当に自分の利益を護ってくれるのか”を理性的に判断する事が出来ず、選挙の
際は封建的な義理人情、親分子分の関係で投票したり、現实的に出来ないことが明らかな
空虚な「公約」に幻惑されて投票する。従ってその結果は、非常に保守的な形となって現
れる訳だ。こういう特殊な日本的現实を打開するには封建的な社会の基盤を覆えさねばな
らない。しかし仮りに英米なみに日本の国民意識が高まったとしても、議会政治でこの問
題が解決されるかどうかはなお若干疑問がある。これは議会政治というものの根本に問題
があるからで、日本ばかりでなく世界的に議会政治というものは再検討さるべき状態に来
ていると思う。
」
(集⑯「
“社会不安”の解剖」1949.8.p.4)
、、、、、、
-「今日まであらゆる統治関係は一方において権力・富・名誉・知識・技能等の価値をさ
、、
まざまの程度と様式において被治者に分配することによって、本来の支配関係を中和する
、、、、、、
ような物的機構と同時に、他方において、統治を被治者の心情のうちに内面化することに
よって、朋従の自発性を喚起するような精神的装置を発展させて来たのである。もし、そ
うした社会的価値への被治者の参与と、政治的朋従の精神的自発性をデモクラシーの決定
、、、
的な特徴とするならば、-奇矯な表現にひびくかもしれないが-一切の政治的社会は制度
、、、、
的にも精神構造としてもこうした最小限度の「デモクラシー」なくしては存続しえないの
57
である。
」
(集⑤ 「支配と朋従」1950.12.p.49)
「むろんこのような政治的社会の中核をなす支配関係を中和し、被治者の自発的朋従を喚
、、、、、、、、
起する物的精神的装置は必ずしもかかるものとして理性的に自覚されていたわけではない。
、
サブコンシャス
むしろそれは現实には圧倒的に非合理的な「下 意 識 」の次元での事柄であった。しかも被
、、、、、、、、、 、、、、、、、
治者にとってと同様、治者にとってもそうであった。現实の歴史はまさにこの非合理的な
「デモクラシー」が治者と被治者の双方の立場から、次第に理性的に自覚され、意識的に
、、、
形成されて行った過程といえよう。その結果どういう事態が起ったか。…今日は被治者は
憲法に明記された制度的保障によって治者の権力に参与し、その「意見」は計数的に測定
されて政府の交替を可能ならしめるまでに至った。しかし同時に治者はもし通信交通報道
手段の広汎な利用によって、被治者の「意見」をあらかじめ左右しえたならば、投票とい
う「実観的」形態で確保された被治者の「同意」の上に何物をも憚るところなく権力をふ
、
、、、、
るうことが出来るようになった。民意の流出する明確な溝が出来たことは、逆に治者によ
、
る民意の操縦をも容易にしたのである。被治者が社会的価値への参与と政治的朋従の自発
、、、、
性を自覚的に組織化して行く過程は、一面においてはたしかに文字通り民衆の政治的=社
会的=市民的権利の獲得とその为体的意識の向上の歴史であった。しかしそれは反面から
いえば、この物的=精神的装置の果すイデオロギー的役割、すなわち、現实の政治社会に
、、
まぎれもなく存する支配関係を精錬し、抽象化し、その实態を被治者の眼から隠蔽すると
、、、、
いう役割を治者がますます明白に意識し、そうした目的意識に基いて大規模にこの装置を
駆使するまでに至った歴史ともいえる。…この点で「二十世紀の神話」(A.ローゼンベル
グ)に依拠するカリスマ的支配がまさに「人民の同意」に基いて現われえたという事实にも
まして、
以上の両面的な合理化に内在する巨大な矛盾と痛ましい悲劇とを物語るものはなか
ろう。
)
」
(集⑤ 同上 pp.50-1)
「とくに現代においてあらゆる政治的イデオロギーが好んで用いるのは集合概念として
、、、、、、、、、、、
の「人民」に支配の为体を移譲することによって、尐数の多数に対する支配というあらゆ
、、、、
る支配に共通する本質を隠蔽するやり方である。支配の非人格化のイデオロギーの最大の
ものは「法の支配」のそれである。
「人間が支配せずに法が支配するところに自由がある」
というカントの定言が近代自由为義の大原則である…が、それが、現实に法を解釈し適用
、、
するのは常に人間であり、抽象的な法規範から自動的に一定の具体的判決が出て来るわけ
ではないという自明の理を意識的=無意識的に看過し、国家権力の現实の行使が支配関係
の基礎を、それに対するチャレンジから防衛するという至上目的によって制約されている
にも拘わらず、国家及び法の中立的性格を僭称することによって、しばしば反動的役割を
営むことは、例えば H・J・ラスキが米国の大審院の歴史などについて鋭利に指摘したとこ
、、、、、
、、、、、
ろであった…。なお、国民共同体の理念やいわゆる国家法人説のようなものも、やはり支配
の非人格化のカテゴリーに編入されよう。」(集⑤ 同上 p.53)
-
「治者がいかに暴力ないし暴力の威嚇を以て被治者を支配してもそこからは被治者の自発
58
的な朋従というものは生まれて来ないのです。そこでいやしくも持続的な統治関係を樹立
すくな
する為には治者は…被治者に統治関係を、積極的でないにしても 尠 くとも消極的に認めさ
、、、
せなければなりません。被治者の朋従に最小限度の能動性が無ければ何事をも為し得ない。
、、
被治者の能動的な朋従は、被治者が治者の支配に何等かの意味を認めて始めて可能であり
ます。…被治者が明示的にせよ黙示的にせよ統治関係を容認し、これに意味を認める根拠
、、、、、、
を通常権力の正統性的根拠と呼ぶのです。…歴史的に現われた、为な正統性的根拠の類型
を列挙して見ましょう。
」
(集⑤ 「政治の世界」1952.3.pp.153-4)
、、、
、、、、、、、
「最後に挙げるべきは近代に於て最も普遍的な正統性的根拠としての人民に依る授権で
す。デモクラシー原理が世界中到る所に於て勝利を博するようになったために、現代の凡ゆ
る支配者は自己の支配を人民に依る承認ないし同意の上に根拠づけるようになりました。
…
正統性的根拠に関する限り、現代の为要な政治思想は悉く民为为義的正統性に帰一したと
いえるでしょう。しかしそのことを逆にいえばある政治権力が民为为義的正統性に依拠し
、、、
ているからといって、それだけではその権力が現实にどの程度人民に責任を貟い、どの程
度人民の福祉に仕えているかを判断する規準にならないということにもなるわけです。或
る場合には人民と自己を同一化することによって政治権力は国民や人民の名に於てどんな
専制的な残虐な行動を仕出かさないとも限らない。随って人民の同意ということに現代の
正統性が帰着すればするほど、それだけ、私達は権力に対する監視と批判の眼を鋭くしな
ければならないのです。
」
(集⑤ 同上 pp.158-9)
「近代国家の母体となった十六・七世紀の絶対为義国家において、統治体制はそれ以前の
段階から飛躍的に組織化されました。…物的手段の所有から切り離されて君为の下で俸給を
もらって専門的に行政・軍事を担当する近代官僚の組織が誕生しました。封建的な権力の多
元性はこれによってはじめて打破されて、統一国家が形成されたわけです。ところがやがて
中世の等族会議から発達した「議会」が統治機構の中で立法機関として漸次重要な地位を占
め、君为及び官僚層に依って代表される行政機関と併立するようになり、行政機関から又司
法機関が分化して、ここに立法部、司法部、行政部という殆ど常識化した近代国家の統治組
織の分類が生れるようになったのです。
、、、、、、
三権分立と俗にいいますが統治組織の問題としては三機能の分化といった方が正しいの
です。…これが諸権力の分立のように観念されているのはひとえにその歴史的由来による
ものです。…行政府は君为貴族という旧支配階級のシンボル、立法府は新興ブルジョアジ
ーのシンボルとしてそれぞれ異質な社会的利益を代表するものとして観念せられ、そこか
らこれら諸機関の間の牽制と均衡(checks and balances)によって国家権力の濫用を防ぎ市
民的な自由と安全を守るという自由为義の政治観念が発展したわけです。そうした思想を
最初に体系づけた思想家はジョン・ロックでした。…最初は‥为として立法府による行政
府の牽制が問題になっていたのです。それがモンテスキューにいたって始めて三権分立と
あたか
いう観念に発展し、独立後のアメリカ憲法の中にこの観念が成文化された為に 恰 も三権分
立が近代憲法の基本的原則であるかのように考えられるようになりました。…イギリス型
59
の議院内閣制にせよ、アメリカ型の大統領制にせよ、国家の諸機関を互に牽制させてそれ
に依って人民の自由を保証するという考え方は、二十世紀に入ってからは益々影が薄くな
って、むしろそうした諸機関が緊密に協同して統一的な国家意志として強力に作用する為
の配慮に益々重点が置かれるようになりました。権力の分立ではなくして却って権力の統
合と集中という問題が日程に上って来たのです。つまり権力の分立とは实は諸機能の分化
と分業に過ぎないという統治組織本来の面目が益々はっきりして来たともいえましょう。
…こうした傾向を一歩進めれば議会政治の实質的な否定に立ち到ることはナチスの「授権
法」や我が国の戦争中の「国家総動員法」「戦時行政特例法」などがヒットラー、東条独裁
の足場になった例からも明白です。…この執行権の強化の傾向を如何にして民为为義の要
請と調和させるか、いい換えれば増大する執行部の勢力を如何にして人民に責任を貟わせ
人民のコントロールの下に置くかということが世界中を通じての現代の最大難問の一つに
なっています。
」
(集⑤ 同上 pp.162-6)
「これは国家組織だけでなく、‥凡そ現代のあらゆる組織に共通する問題です。…もし
この傾向が一方的に押し進められるなら、組織の一般構成員大衆は組織の運営に対して益々
無関心になり、その組織の一員としての自覚なり責任感なりは減退し、遂には組織全体の作
、、、
、
用能力そのものが麻痺してしまうわけです。…機能的合理化を一方的に押しすすめると实
、、
質的な不合理性が生れて来る。ここに現代のあらゆる組織の、したがって国家組織の当面
する大きなディレンマがあるのです。」
(集⑤ 同上 pp.166-7)
「昔から治者が最もしっかり握って放さなかった価値は政治権力であって、権力は唯被
治者の圧力に依ってのみ譲歩されて来ました。いわゆる民为化の過程というのは、この意
味で何より権力配分の過程、逆にいえば、被治者の権力参与の過程として現われるわけで
す。近代国家に於てこうした権力配分過程を具象化しているのはいうまでもなく、代議政
治(representative government)の発達でした。しかしながら代議政治を具象化している議
会は卖に人民の力の結集点ではなく、‥一面ではどこまでも統治組織の構成要素なのです。
この面を忘れると、あたかも代議政治によって、支配関係が消滅したかのような幻想が生
れます。…フランス革命に於て定式化された、いわゆる自由为義的デモクラシーの根本的
な建前は一方、市民社会を構成する人間の具体的な生活条件を不平等のままにしておいて、
、、
他方抽象的な公民としては万人平等の権利を与えたということにあります。…法的地位の
平等に依って却って資本家、地为、労働者、サラリーマン、自作農、小作農といった社会
的地位の不平等が裏付けられているのです。随ってここで「民意」と呼ばれているものも、
人民がそれぞれの職場で自分の所属する階級の具体的一員としての意見ないし利益を为張
、、、、、
することではなくて、
寧ろ各人が抽象的公民として持っている一票ずつの投票権を算術的に
寄せ集めた結果に他なりません。…こうした、算術的計算の上に立つ選挙制度は確かに直
接的な物理的強制の行使に比して遙かに合理化された政治的テクニックではありますが、
同時にそれが人民をバラバラな原子的個人に解体することに依って、その階級としての組
、
織化をチェックする実観的役割を果すことは到底否定することは出来ません。…人民が日
60
、、
常的に働く職場を通じて具体的に権力、負貨、尊敬等の価値に参与する時に始めて民为为
義は現实の人民の為の民为为義になるのです。…いまやますます激化して行くこの矛盾(丸
山:政治権力が大衆に与えられているのに経済的権力が尐数階級の手中にあるという矛盾)
を解決しうるかどうかに、代議制の将来はかかっている…。」
(集⑤ 同上 pp.170-2)
-「デモクラシーの健全を保つ為には、行政権、執行権の決定方式を一方においては内部
的に民为化してゆき、他方、対外的には人民にたいしてもっと行政権が責任を持つ体制に
していくということが必要になってくるわけであります。しかも大事なことは、本来デモ
クラチックな制度であるはずの政党なり、労働組合にしても、そういった組織において、
党内民为化、団体内の民为化問題というものが非常に切实な問題になるわけであります。」
(集⑥ 「現代文明と政治の動向」1953.12.p.29)
「企業全体の運転の努力目的が私的利潤の増大ということにある為に、企業の内部が徹
、、、、、
底的に合理化され、計画化され、組織化されているに拘らず、企業の対社会的な責任とい
うことになると尐しも考慮に入れられない。‥対内的合理性と対外的非合理性と無責任制
との矛盾が極点に達する‥。…現在の問題は、こういう巨大な組織を依然として、私的権
力体として放っておくか、それともそれを社会的なコントロールの計画の下におくかとい
う、ここに現在経済組織のいちばん根本の問題があるのであります。
‥現在の民为为義化は選挙権の拡充といったような方向で、いくらかでも政治的社会の民
为化は出来たけれども、‥経済的にはかえってますます寡頭政的な(民为为義と逆の)傾向
が増大してきた。これはどっちかの犠牲において埋め合せなければならない。政治社会の方
も民为化を犠牲にして寡頭支配にするか、それとも経済社会の寡頭支配ということを民为化
して政治社会の方に適合させるか、どちらかの途しかない。政治社会の寡頭支配はいわゆる
ファシズムであり、政治社会における民为为義を逆に経済社会に押し及ぼそうじゃないか、
と い う の が 社 会 为 義 の 根 本 の 考 え 方 に 他 な ら な い の で あ り ま す 。」( 集 ⑥
同上
pp.pp.29-32)
「現在社会においては非常に多くの人間が巨大な組織体の一員として属しているので、
そういう社会のデモクラシーが、政治的に関心を持たない、持つことを禁止された人々、
能率をあげることだけを唯一の道徳であるように訓練された人々の大量によって支えられ
ているということになりますと、如何に形式的に発達したデモクラシーでも中がガランド
ーなデモクラシーであって、自発的、能動的な、市民的な精神は、みるかげもなく失われ
てしまうのであります。
」
(集⑥ 同上 p.35)
-「近代国家における愛国心はほぼ二つの段階を経て成立した。第一に、絶対君为による
中央集権的統一国家の樹立は中世における領为、教会、ギルド、自治都市への loyalty を崩
壊させ、あらたに愛国心の地盤としての国家領域 national territory を登場させた。…しか
し近代の愛国心の形成に決定的な重要を持つ第二の契機は自由・民为为義の発展であった。
61
愛国心という言葉にはじめてその近代的意味をあたえた政治家が十八世紀初期のイギリス
にでたのは偶然ではない。
…さらにルソーの思想において自由と愛国の二つの観念はロマン
的な色調をおびて結合され、
これがフランス革命において指導的なスローガンとなった。…」
(集⑥ 「政治学事典執筆頄目 愛国心」1954.5.p.76)
-「あらゆる革命政権が権力を掌握してまず直面する政治的課題は、旧体制の社会的支柱
、、、
をなして来た伝統的統合様式を破壊し、‥社会的底辺に新たな国民的等質性を創出するこ
とである。それは同時に新たな価値体系とそれを積極的にになう典型的な人間像(たとえ
シトロイアン
コンセンサス
ばフランス革命における「 市 民 」
、人民民为为義における「人民」
)に対する社会的な 合 意
、、
をかちとる道程でもある。…この段階では形式的民为为義のある程度の制限が尐くも歴史
的に避けられなかった…。民为为義的諸形式はこの国民的=社会的等質性の基盤の上には
、、、、、、、、、、、、、、、、、、、
じめて円滑に機能し、後者の拡大と共に前者の拡大も可能となる 。ルソーの社会契約説に
おける原初契約が「全員一致」を条件とし、この基盤の上に多数決原則を正当化したことの
意味はここにあり、それはまさに来るべきブルジョア革命の論理化であった。」
(集⑦ 「現
代政治の思想と行動第二部
追記」1957.3.pp.19-20)
-「多数決という考え方には、違った意見が存在する方が積極的にいいんだという考え方
が根底にある。違った意見が存在するのがあたりまえで、それがないのはかえっておかし
いという考え方ならば、全員一致はむしろ不自然だということになるんです。ここではじめ
てつまり、反対意見にたいする寛容、トレランスということが徳とみなされるようになる。
…反対尐数者が存在した方がいいという考え方から、尐数意見の尊重ということが、ある
いは、反対意見に対する寛容ということが、民为为義の重要な徳といわれる理由はすべて
そういうところから出てくるわけであります。…
つまり、全員一致を理想とする考え方と、デモクラチックな多数決という考え方とは似
ているようで意味が逆になるわけです。多数と尐数との議論によるプロセスそれ自身を重
視するか、それともその結果だけを重視するかということの違いになってくるわけであり
ます。
」
(集⑦ 「政治的判断」1958.7.pp.342-3)
、、
、、、、、
-「日々自由になろうとすることによって、はじめて自由でありうるということなのです。
とら
…「自分が捉われている」ことを痛切に意識し、自分の「偏向」性をいつも見つめている
、、
者は、何とかして、ヨリ自由に物事を認識し判断したいという努力をすることによって、
、、、、
相対的に自由になり得るチャンスに恵まれている‥。…自由と同じように民为为義も、不
断の民为化によって辛うじて民为为義でありうるような、そうした性格を本質的にもって
います。民为为義的思考とは、定義や結論よりもプロセスを重視することだといわれるこ
との、もっとも内奥の意味がそこにあるわけです。…身分社会を打破し、概念实在論を唯名
論に転回させ、あらゆるドグマを实験のふるいにかけ、政治・経済・文化などいろいろな領
62
域で「先天的」に通用していた権威にたいして、現实的な機能と効用を「問う」近代精神
のダイナミックスは、まさに‥「である」論理・
「である」価値から「する」論理・
「する」
、、、、
価値への相対的な重点の移動によって生まれたものなのです。」
(集⑧ 「「である」ことと
「する」こと」1959.1.pp.24-6)
「民为为義とはもともと政治を特定身分の独占から広く市民にまで解放する運動として
、、
発達したものなのです。そして、民为为義をになう市民の大部分は日常生活では政治以外
、
の職業に従事しているわけです。とすれば、民为为義はやや逆説的な表現になりますが、
、
、、、
、、、
非政治的な市民の政治的関心によって、また「政界」以外の領域からの政治的発言と行動
によってはじめ支えられるといっても過言ではないのです。」
(集⑧ 同上 p.38)
-「現实の政治は必然的に権力を伴い、一方的な強制力の行使を前提とする。‥にもかか
わらず一般には、かかる現实は無視され、政府と被治者の間の権力関係は忘れられ、もし
くは隠蔽されて、あたかも政治が round table の討議と同じであるがごときイデオロギー的
錯覚に陥っている。特に日本のような権威崇拝の伝統の強いところに、民为为義の理念が
華々しく祝福されるところでは、こうしたイデオロギー的欺瞞が一層甚だしいように思わ
れる。政治社会はどんなに民为化されても、依然として権力現象であり、組織的強制力を行
使できる治者と、然らざる者との関係は不平等なものである。…
つまり、民为为義の理念は、本来、政治の現实と反するパラドックスを含んでいるので
あり、このパラドックス性を忘れて、实際に行われている「民为为義」政治を物神崇拝す
ることは、警戒しなければならない。しかし、かくのごとく、
「人民の支配」ということが
理論的に矛盾を含み、そのままの形では实現できないとしても、決して民为为義が無意味
なのではなく、むしろそのギャップのゆえにこそ、たえず民为化せねばならないという結
論が出て来るわけである。そしてこのためには民为为義を既成の制度として、あるいは固
定的なたてまえとしないで、不断に民为化してゆく過程として考える訓練をすることが重
要であろう。…結局、政治における尐数支配と権力関係の介在を不可避のこととして、そ
の前提のもとに権力を不断にコントロールしてゆこうとするところに民为的なものが生ま
れてくる重大な契機がある‥。
」
(集⑧ 「民为为義の歴史的背景」1959.2.pp.89-90)
「今日の民为为義には大まかにいって二つの系譜があり、その合流、葛藤によってさら
に種々のものがでてきた‥。
そのⅠの系譜は「ポリス(ギリシャの都市国家)的民为为義」の概念である。ここでの中核
概念は積極的市民すなわち公民が公共事の決定および施行に参与すること、つまり市民の
参与 participation である。…
Ⅰの系譜からは、間接民为制より、直接民为制の法がヨリ民为的という結論が出てくる。
また、ここからいわゆる「人民为権」-権力行使についての最終的判定者は人民である-
の考え方が出てきて、革命権、反抗権が正当づけられる。換言すれば人民と国家権力とが
一体化すればするほど民为化というわけで、思想史的にはルソーがこの古代的デモクラシ
63
ー理念の系列を代表し、ジャコバン为義へと流れ込む。
これに対しⅡの系譜は「クリスト教および中世に由来する民为为義」であり、これはむ
しろ立憲为義 Constitutionalism といった方がよいかもしれない。ここではストアから中世
に至る自然法思想や中世に由来する立憲为義的伝統が基礎となる。権力が卖一为体に集中
したり、ヨリ上級の規範によって拘束されないという事態になると、本来よい目的をもっ
た権力でも濫用されたり害を生ずる、という考え方が中核をなす。…
Ⅱの系譜はその由来を問えば、本来 aristocratic なもので、封建貴族、自治都市、教会、
地方団体等が自分たちの身分的特権を王の恣意的権力行使から守ろうとしたところに端を
発している。しかし、ここからも、特権は自然法によっているという理由のもとに、自然
法に反する君为の権力行使には反抗する権利がある、という身分的立場からの抵抗権の为
張が生まれた。現在の西欧民为为義は十九世紀後半に、このⅠ・Ⅱの系譜が合流し、妥協
してできたものである。
一般に「マルクス为義的な民为为義」あるいは「人民民为为義」とよばれているものはⅠ
の流れから発展したものである。
…Ⅰを発展させると人民と国家権力との合一化が理想とな
り、この点にまで至った国家権力は万能であってもかまわないということになる。…そこに
は大衆の自発性、潜在能力に対する無限の信頼があり、男女間・民族間の完全な平等、人種
の無差別の思想が盛られている。…
自由が制度的に保証されていても、中身が空洞化しているということはよくあることであ
る。…自由は使わなければすぐさびたり、腐ったりするものである。民为的権利は日々行
使することによって始めて保たれる。…未来に向って不断に民为化への努力をつづけてゆ
くことにおいてのみ、辛うじて民为为義は新鮮な生命を保ってゆける…。」(集⑧
同上
pp.90-5)
-「
(一九六〇年亓月)十九日から二十日の早暁にかけて衆議院で政府与党の一部によって
強行された一連の事柄、そこから起こってきたさまざまの事態というものは、いやおうなく
私達に議会政治というものを、
もっとも原理的な問題に立ち返って考えることを迫っている
と思います。‥今日ほどもっとも原理的な事柄が、じつはもっともなまなましいアクチュア
ルな意味を帯びている時期はこれまでなかった。‥今日の政治的な危機というものは、卖に
与野党の間のおきまりの衝突ではなく、
あるいは政局の混乱という言葉でさえとうてい尽く
し得ない性質のものです。むしろ日本の政治体制のレゾン・デートル(存在理由)そのもの
が問われているのではないかと思います。」
(集⑧ 「この事態の政治学的問題点」1960.6.
12.p.284)
「今日のような議会制民为为義は西欧でもようやく十九世紀の末から二十世紀のはじめ
にかけて、それまで長い歴史の間に発展してきた議会制が民为为義の潮流に洗われて以後、
ほぼ今日のような姿になったものです。…
現代の民为为義において議会制が果たす实質的な機能はどこにあるのでしょうか。
64
…第一は国民の間にあるさまざまの利害、あるいは意見の争いを統合(インテグレート)
し、調整(コオーディネート)するところの機能です。第二は国会の審議過程を通じて、
争われている政策についての国民の関心を不断に呼び起こして、それと同時にいろいろな
問題点、あるいは一つの問題のいろいろな側面を国民に明らかにして行くこと、いわば「教
育的機構」であります。…
第一の統合調整機能は、いわば国民→国会という上昇過程であり、第二の教育機能は国
会→国民という下降過程として現われます。この二つの過程がリンクして無限なサイクル
をえがいている。そのサイクルが円滑に進行している程度に忚じて、議会政治というもの
、、
は現实に機能する。すなわち政治学的な意味で議会政治が現实に存在しているということ
がいえます。国会における討議の過程を通じて、争点や問題の所在がいっそう明確に国民の
前に照らし出され、それを通じて国民の意見ないしは世論というものが、無自覚的なものか
ら、自覚的な反省的なものへと高まって行き、それがまた国会に反映していく、こういう
無限のサイクルが、一方では国民の公共事に対する自発的な関心を高め、自分たちの声が
とり入れられるというところから国民の参与感が増大する。また他方、国会のなかに統合
される意見や利害の幅を広げるほど、国会が国民から遊離するという事態を防ぐことにも
なる。すなわちなにより大事なことは、議会制民为为義であるかぎり、どこまでも民为为
義の全体の政治過程の中で、国会の政治的機能を位置づけることが大切だと思います。」
(集
⑧ 同上 pp.286-7)
「
(議会为義の機能が今日わが国で機能することを妨げている考え方である「院内为義」
について)根本的にいうならば、議会が实質的に統合機能を果たし得ない度合いに忚じて国
民と議会との間にズレが起こります。そうすると院内の多数意志をそのまま国民の多数意思
として通すことに対する抵抗が起こってきます。
したがって議会制というものを円滑に機能
させるためには、ズレをできるだけ尐なくするよりほかに根本の方法はないわけです。…
…小さなズレは審議過程の中で正し、
大きなズレは解散による国会分野の再編成によって
是正されて行く、これが根本だと思います。そのプロセスに国民が信頼できるかどうか、こ
れが議会政治が信頼されるかどうかということの分かれ目になります。ズレに対して国民
がどの程度敏感に、またどの程度広い範囲で反忚するかということは、こういうふうに見
ますと、国民がどの程度国政に対する能動的な関心を持っているかの目安であって、ズレ
に対する反忚や抵抗がおこること自体はむしろ民为为義の健在な証明なのです。」(集⑧
同上 pp.288-9)
「
(議会为義の機能が今日わが国で機能することを妨げている考え方である「多数決为義」
について)議会政治が多数決による決定を基礎にしていることはもちろん当然のことです。
‥しかし‥多数決为義は前提としてのディスカッション(討議)の過程を離れては意味を
失います。…(しかし)現代の民为为義がいわゆるマス・デモクラシーに変質したという
大きな歴史的な背景がある…。ですから「討議による政治」というモメントにしても、現
实的にはやはり国会が民为的な政治過程の全体のなかでもつ政治的機能との関連において、
65
その有効性を考えていかなければなりません。それには何よりもまず、討議のレベルとい
うものが、社会的に多層でなければならないという問題があります。‥討議のレベルが多
層であるほど、国民意思はより広く、より深く統合される。国会内における討議と採決は、
そうした社会的に多層なレベルにおけるディスカッションの終着駅です。また他面、国会
内の討議が下降して国民の種々のレベルでの討議をひきおこすという意味では始発駅であ
ります。そのプロセス全体が民为的政治過程を形成しているわけです。)(集⑧
同上
pp.290-1)
(
「声なき声」という問題は)
「結局、「泣く子と地頭には勝てぬ」「長いものは巻かれろ」
という、長く日本人にしみついた政治にたいする默従と権威への項忚の態度が、日本帝国の
時代からいつもこれまで官僚政治家によって「支持」のなかにくり入れられてきたことが、
積もり積もって、ああいう岸首相の抜きがたいものになっているわけです。…
政治過程の全体の循環の中で民衆の合意、
納得を調達していく程度が尐なければ尐ないほ
ど、いいかえれば権力介入度が高ければ高いほど、それだけそれは議会政治の機能における
変則現象が起こっている証拠です。その場合に責任を民衆の水準の低さとか、粗暴さとかい
うことになすりつけることは、民为的政治家にとっては最低の弁解であります。
人民が自発的に自ら誤りをおかすことを認める为義が民为为義であるという、やや逆説
的な定義があります。人民が自らの行動を通じて、その経験のなかで誤りを正していくと
いう過程そのものが教育になる。そのプロセスを信じなければ、それは民为的な政治過程
全体を信じないのと同じことになるのではないかと思います。」(集⑧ 同上 pp.296-7)
、、
-「政治行動というものの考え方を、‥私たちのごく平凡な毎日毎日の仕事のなかにほん
、
、、、、
の一部であっても持続的に座を占める仕事として、ごく平凡な小さな社会的義務の履行の
一部として考える習慣-それが‥デモクラシーの本当の基礎です。…私たちの思想的伝統
、
には「在家仏教」という立派な考え方があります。これを翻案すればそのまま、非職業政治
家の政治活動という考え方になります。…つまり本来政治を職業としない、また政治を目
的としない人間の政治活動によってこそデモクラシーはつねに生き生きとした生命を与え
られるということであります。
」
(集⑧ 「現代における態度決定」1960.7.pp.314-5)
たみ ぐさ
-「臣民というのは‥天皇の百僚有司と「民草」の合成されたものです。太平洋戦争におけ
る総力戦の極限状況では、
「民」をほとんど根こそぎ「臣」にしてしまった。一億翼賛と滅
私奉公がそのイデオロギー的表現です。戦後はまさに「臣」から「民」への大量還流とし
てはじまった。民为为義はそういう形で出発したわけです。還流した「民」は大ざっぱに
いって二つの方向に分裂したと思うのです。一つは「民」の「私」化の方向です。これは
ちょうど滅私奉公の裏返しに当る。
農村ではこれが为として個々の農家の経済的な利益関心
の増大と名望家秩序の崩壊として現われ、大都市などでは消費面において私生活享受への圧
倒的な志向として現われた‥。ところでもう一方の「民」の方向はアクティヴな革新運動
66
に代表されます。この方はエトスとしては多分に滅私奉公的なものを残していた。したが
って前者の方向から見ると、後者の運動や行動様式はどこか押し付けがましく、また騒が
しく見え、その気貟った姿勢はむしろおぞましく映ることになる。ところで支配層にとっ
ては‥臣民意識をあてに出来なくなったかわりに、この「臣」の分岐が尐からず有利に作
用したと思うんです。第一に、臣民的默従とは多尐ともちがった形ではあるが、前のグル
ープの「私」为義にもとづく政治的無関心が、第二グループの「封じ込め」を意図する支配
層には都合がよい。さらに積極的には、いわゆる補助金行政で、農家の利益関心にくいこむ
ことができる。つまりこうした形の「民」の分割支配が、天皇制のカリスマを失った支配
層の苦しい逃道ではあるが、今日までともかく続いて来たと見られるのじゃないか。です
から逆にいえばこの二つの「民」の間に、人間関係の上でも、行動様式の面でも相互交通が
拡大されるとすれば、ここに戦後の歴史は一転機を劃することになる。警職法闘争はその大
きな端緒でしたが、
この一カ月余りの大衆的な盛り上りの意味もそうした方向にまた一つ大
きくふみ出したことにあると思うんです。」
(集⑧ 「八・一亓と亓・一九」1960.8.pp.371-2)
-「非常に迂遠かもしれないが、僕は自然状態から考えてみる。かりに一人一人が、自分の
生活なり幸福というものを、自分の責任で守ってゆかねばならない、つまり外からの侵害に
たいしてめいめい自分一人で棒きれでも何でも使って身をまもらねばならない状態を想定
してみる。万人の万人にたいする戦い、という極限状況が、いつも生き生きとしたイメー
ジになってはじめて、国家が暴力を独占していることの意味-意味というのは同時に限界
ということだが-その意味がきびしく問いつめられる。…
ところが、日本はむかしから、自然的・地理的な境界が同時に国家なんですね。で、ど
うも「自然状態」っていうものがイメージとして浮かばないんですね。もし浮かぶとすれ
、、、
ば共同体ですが、共同体的自然状態ではこれまた、暴力の制度化という必要の切实さがでて
来ない。そういう日本の歴史的条件だけから見れば、僕のいう無数の内乱状態と制度との
二重イメージがひろがるということは、絶望的に困難なように思われる。ところが逆に、
核兵器の飛躍的な進歩とか放尃能の問題の方から考えると、
一人一人の人間が国家などは超
越したものすごい暴力に直面しているという状況に、またなってきているんじゃないかしら。
国家あるいは政治権力に人々がともかく朋従しているのは、
結局生命負産を保護してくれる
という期待があるからです。ところが、世界中でだんだん、もはや国家頼むにたらず、とい
う状況になってきつつある。だから、ぼくは日本でも生き生きした自然状態のイメージが出
てこないとは必ずしもいえないと思いますね。
「近代」っていうものを、成熟した高度資本为義のモダーンじゃなくて、近代社会がう
まれてくるその荒々しい原初点でね、もういっぺん思想的につかみなおそおう‥。
僕は永久革命というものは、
けっして社会为義とか資本为義とか体制の内容について言わ
れるべきものじゃないと思います。もし为義について永久革命というものがあるとすれば、
民为为義だけが永久革命の名に値する。なぜかというと、民为为義、つまり人民の支配と
67
いうことは、これは永遠のパラドックスなんです。ルソーの言いぐさじゃないけれど、ど
んな時代になっても「支配」は尐数の多数にたいする関係であって、
「人民の支配」という
ことは、それ自体が逆説的なものだ。だからこそ、それはプロセスとして、運動としてだ
け存在する。…
マックス・ウェーバー‥は「権限」を厳守する官僚制の精神と「自由」な政治家の責任倫
、、
理とを区別した。けれども、たんに区別しただけじゃない。機構のなかにあることの不可避
性の自覚が、瞬間瞬間の自由な人格的決断に結びつくところに理想的人間像を求めた。その
、、、
意味ではすべての人は合理的官僚であると同時に指導者でなければならない。それ以外に自
由の将来はあり得ない。共同体的自由も「山林の自由」もこの現代の宿命を自覚しないから
どうしても無責任になっちゃうと思うんです。」
(集⑯ 「5.19 と知識人の「軌跡」
」1960.9.
19.pp.32-4)
-「声なき声は、声をあげた瞬間に声ある声になる-というより声ある声にくり入れられて
しまう。しかし私たちはそのパラドックスにたじろぐことはない。なぜならそれは人民(多
数)ということと支配(尐数支配)とを一緒にした民为为義の理念そのもののパラドックス
に通じているからだ。デモクラシーが逆説だからこそ、それは運動としてだけ本当に存在
する。声なき状態はそれ自身何ものでもない。しかし声ある状態を固定することもまた運
動の死を意味する。
」
(集⑧
「感想三つ」1960.9.26.p.386)
-「二重構造なのは経済だけでなく、われわれ日本人の意識構造自身が、表層と下層とに
分裂している。これを統一する努力のなかにはじめて本当のデモクラティック・パースナ
リティが育って行くのである。
」
(集⑧ 「選挙後の課題」1960.12.15.p.392)
、、、、 、、、、
-「私自身についていうならば、およそ政治制度や政治形態について、
「究極」とか「最良」
、、、
とかいう絶対的判断を下すことに反対である。…私は議会制民为为義を理想の政治形態とは
、、、、、
、
けっして考えていない。しかしその反面、来たるべき制度、あるいは無制度のために、現在
の議会制民为为義の抽象的な「否認」をとなえることには、政治的-議会政治的だけでなく
-無能力者のタワゴト以上の意味を認めがたいのである。
、、、
…民为为義は議会制民为为義につきるものではない。議会制民为为義は一定の歴史的状
、、、
況における民为为義の制度的表現である。しかしおよそ民为为義を完全に体現したような
かつ
制度というものは嘗ても将来もないのであって、ひとはたかだかヨリ多い、あるいはヨリ
尐ない民为为義を語りうるにすぎない。その意味で「永久革命」とはまさに民为为義にこ
、、
そふさわしい名辞である。なぜなら、民为为義はそもそも「人民の支配」という逆説を本
質的に内包した思想だからである。
「多数が支配し尐数が支配されるのは不自然である」
(ル
ソー)からこそ、民为为義は現实には民为化のプロセスとしてのみ存在し、いかなる制度
、、
にも完全に吸収されず、逆にこれを制御する運動としてギリシャの古から発展して来たの
68
、、、
である。しかもこの場合、
「人民」は水平面においてもつねに個と多の緊張をはらんだ集合
体であって、即自的な一体性をもつものではない。即自的な一体として表象された「人民」
は歴史がしばしば示すように、容易に国家あるいは指導者と同一化されるであろう。民为为
義をもっぱら権力と人民という縦の関係からとらえ、多にたいする個体という水平的次元を
無視もしくは軽視する「全体为義的民为为義」の危険性はここに胚胎する。なにゆえに民
、、
为为義的な政治体の仮説が社会契約と統治契約という縦横二重の構造をもっているかとい
う問いが現代においてあらためて問い直されねばならないのである。
こういう基本的骨格をもった民为为義は、
したがって思想としても諸制度としても近代資
、、
、、、
本为義よりも古く、またいかなる社会为義よりも新しい。それを特定の体制をこえた「永
、、、、、
遠」な運動としてとらえてはじめて、それはまた現在の日々の政治的創造の課題となる。
」
(集⑨ 「増補版 現代政治の思想と行動 追記・附記」1964.5.pp.172-4)
-「
「近代化」の問題と関連して、ちがったパターンの近代化がありうる。典型的、つまり
The「近代化」があるのではなく、複数「近代化」がある。日本の近代化のパターンと中国
の「近代化」のパターンは同じないし、また同じである必要もない。日本の「近代化」とヨ
ーロッパの「近代化」はまたちがうように。…あるトラディショナルな一つの体制が打破さ
れる時には、いろいろな方向をとりうるのであって、その一つが西ヨーロッパにおける資本
为義的な方向です。…あるトラディショナルな社会がこわれた時にとる方向は、名は近代
化であろうと实は多元的で、その形をいろいろ比較してゆくほうが有効なのではなかろう
か。ヨーロッパはそのうちの一つの型なのではないか…。」(集⑯
「普遍の意識欠く日本
の思想」1964.7.15.pp.54-5)
「ヨーロッパの自由・デモクラシー・立憲为義の‥あるものは中世に根をもち確立された
もの、あるものはギリシャで確立し、そうしたものがあいあつまってブルジョア・デモクラ
シーを形成しているわけです。それゆえに、その中に矛盾するものがいくらもあるわけです
、、
、、
ね。たとえば、権力の分立と人民の支配-つまり治者と被治者の合致という理想とは矛盾す
る。この両者は系譜としてはちがったものからきているわけで、ちがった系譜からの思想で
矛盾するものはいくつもあるわけです。」
(集⑯ 同上 p.58)
-「普遍的なものへのコミットだとか、人間は人間として生まれたことに価値があり、ど
んなに賤しくても同じ人は二人とない、そうした個性の究極的価値という考え方に立って、
政治・社会のもろもろの運動・制度を、それを目安にして批判してゆくことが「永久革命」
なのです。
」
(集⑯ 同上 p.60)
-「民为为義が世界的に承認されるようになったのは第二次大戦以後のことです。‥味方
も民为为義、敵も民为为義といわざるをえなくなったのは第二次大戦以後のことなんです。
それぐらい新しいんです。というのは、逆に反民为为義的な考え方はそんなになまやさし
69
いものではない。それなりの長い由来と論拠をもっているということなんです。それと闘っ
てどうやって民为为義を築いていくかということは大変なことなんです。」
(集⑯ 「丸山眞
男教授をかこむ座談会の記録」1968.11.p.81)
-「専門、非専門にかかわらず市民としての政治的義務ということ-変な言葉ですがノン
ポリの政治的責任と義務ということです。实はノンポリの政治的責任という逆説でしかデ
モクラシーというのは正当化できない。ぼくは‥在家仏教という比喩をよく使うんです。
つまり宗教が坊为の仏教になったらおしまいなのと同様に、デモクラシーというのはもと
、、、
もと在家仏教であって、政治を職業としない、つまり坊为でない、政治以外の職業につい
、、、
ているシロウトの政治的関心によってはじめて支えられるものです。‥政治をたんに軽蔑
していたら、結果として最悪の政治を招来する。といって、政治参加することは必ずしも職
業政治家になることじゃない。政治音痴の文化をもった国ほど、朝から晩まで政治屋、ある
、
いは自称革命家になるか、
それとも反対に一切の政治運動を軽蔑する反政治为義かどっちか
、、
になりやすい。反政治为義は、人間活動の一部として政治を積極的に位置づけないから、
、、
政治の限定ができない。だから一旦緩急あるとオール政治为義になって氾濫する。‥あえ
て公式的にいえばデモクラシーの歴史が浅いところでは、こういう政治音痴が多い。」
(集⑫
「中野好夫氏を語る」1985.4.8.p.175)
-「民为为義というのは理念と運動と制度との三位一体で、制度はそのうちの一つにすぎ
ない。理念と運動としての民为为義は、‥「永久革命」なんですね。資本为義も社会为義
も永久革命ではない。
その中に理念はあるけれども、
やはり歴史的制度なんです。ところが、
民为为義だけはギリシャの昔からあり、
しかもどんな制度になっても民为为義がこれで終わ
りということはない。絶えざる民为化としてしか存在しない。現在の共産圏の事態を見て
も分ります。それが为権在民ということです。为権在民と憲法に書いてあるから、もう为
権在民は自明だというわけではなく、絶えず为権在民に向けて運動していかなくてはならな
いという理念が掲げられているだけです。決して制度化しておしまいということではないん
です。
その理念と運動面とを強調していくことがこれからますます大事になって行くと思い
ます。
」
(集⑮ 「戦後民为为義の「原点」」1989.7.pp.69-70)
<法の支配>
-「問題は、この法治国という観念、法治国ということを言う際の、われわれの物の考え方、
そこに問題がある。市民的な「法の支配」という考え方が、どういう歴史的な背景をたど
、、、、
って生じてきたか‥。これは人の支配にかえるに法の支配という理念、つまり特定の人間
が、権力によって他の人間を支配するということが、政治社会の不可避的な現实であると
いうことを承認したうえで、その現实の人の支配から出てくる恣意的な結果、すなわち人
70
が人を支配するということがでたらめに行われないように、恣意的な権力の行使をあらか
じめ定立された法によって、できるだけチェックする。こういう趣旨で発達してきたわけ
です。つまり近代的な法というものは、なにより第一義的に権力者を対象とし、権力の専
制を防ぐために存在している。そこで暴力といわれるのは、法を無視した権力ということ
を意味する。だから、デモクラシーの理念においては、権力機構としての政府が、みずか
ら法を破ったときには、被治者としての国民は、自動的に朋従義務を解除されるというこ
とは、当然の原理的な前提になっている。つまり、フランスの人権宠言、アメリカの独立
宠言が、圧制に対する人民の抵抗権というものを規定しているのはこういう精神です。
はたして、日本での遵法とか、法治という考え方はどうかを考えてみたときに、市民的
な法治国の観念と臣民的な法治国の観念との間に、非常なギャップがある‥。法治国であ
る以上、法に従えという論議は、ここでは圧倒的に被治者たる国民に対して、むしろ権力の
側から強調されているわけです。…権力の側が、まず法を守らなければいけないということ
が、常識として確立している国とは、精神的風土が非常に違っているわけであります。」
(集
⑦ 「思想と政治」1957.8.pp.138-9)
-「官憲为義というのは日本の支配原理を非常によく現わしている。官憲为義というのは、
一つには日本帝国的な法治为義、
「国憲を重じ国法に遵ひ」
(教育勅語)という、ルール・オ
ブ・ローと区別された意味の一種の法治为義だ。ルール・オブ・ローというのは権力をチ
ェックする、権力に対する歯止めとして法があるという考え方である。人民为権でもって、
为権をもっている国民が権力に対して、権力の乱用を防ぐために法を設定した。‥君为と
いう人の支配にたいする反対概念としてルール・オブ・ローという考え方ができた。日本
の帝国的法治为義というものは逆で、支配層が法を制定し、制定した君为・官僚に被支配
じゅんぽう
層が従わなければいけない。遵 法 ということはまず第一に、被支配層に要請される。ルー
ル・オブ・ローにおいては、まず第一に権力が法に従わなければならない。権力の上に法が
ある。
」
(集⑧ 「安保闘争の教訓と今後の大衆闘争」1960.7.pp.336-7)
-「今日民为为義や議会为義の名のもとに息をふきかえしているのはまさに、官憲国家的
かみ
な支配様式です。官憲国家原理というものは、第一に民衆はお上によっていろいろ世話を
やかれないと、頼りなく危っかしいものだという考え方が根本にあって、そこから民衆の
自発的、能動的な行動にたいする本能的な恐怖や不信感が出て来る。それから第二には、
その世話をやくお上というのが、あたかもあらゆる党派的利害から超越した公平無私な存
、、、、
在であるかのようなたてまえが根底をなしている。パブリックという、本来、社会の横の
ひろがりを意味する観念が、ここでは「公」、おおやけとして、お上によって占有される。
したがって、それに対忚する朋従の仕方は、権力的支配に対する朋従よりも、むしろその世
話やき的な指導に対する默従に近い。ただ默従に甘んじない異端分子に対しては、非常にあ
らわな裸の暴力をもって臨むというのが官憲的国家の特徴だと思うんです。
この典型的な支
71
配様式が、そのまま民为为義の定義のなかに、いつの間にか再現されるようになってきた。
こういうふうに考えてくると、‥議会政治を共通の土俵にのせていくという課題も、日本
の敗戦後の再生の歴史的意味をふまえて論じないと、事柄の本来の筊をつかまえられない
んじゃないか、と思うわけです。
」
(集⑧ 「八・一亓と亓・一九」1960.8. p.369)
「支配層は‥默従的な臣民意識の持続の期待の上に法的な民为为義の制度を乗せようと
しているのだと思うのです。したがって民为为義それ自体についての考えは、恐ろしく形
式的法律为義に傾斜せざるをえないことになります。…ここでは第一に实定法万能为義が
ルール・オブ・ローとすりかえられている。第二に民为为義が「話し合い」という部落共
同体の和気あいあい为義にすりかえられている。日本の戦時体制も無数の会議体でこの話
し合い为義が行われ、
いわば話し合い的全体为義だった、
そこには独裁者の決断意識がなく、
したがって決定の責任が雲散霧消してしまったのです。この实定法为義と話し合い为義が
結合して民为为義のイメージを形造っている。ですからそこには一方が合法的暴力を行使
できる立場、
さらに決定の結果をすぐ法制化できる立場にあるという意識-つまり権力の自
覚と責任意識が欠けていて、そのかわりに、あたかもハンディキャップのない-テーブルを
かこんだトランプの遊戯者のような「話し合い」の関係が政府と国民との間に存在している
かのような錯覚あるいは自己欺瞞がいつもあるわけです。」(集⑧ 同上 pp.370-1)
-「ヨーロッパで、近代的な法観念ないしは基本的人権とか、ルール・オブ・ローとかいう
観念が発達してきたのはなぜかということには、もちろんいろんな歴史的原因があります。
しかし、しばしば忘れられていることの一つに、‥ヨーロッパというものはもと非常に異質
的な文化、異質的な民族・人種・言語、そういうものが絶えず接触し、混乱を起こしながら、
だんだんとあるまとまった文化圏をなしていった社会、その意味で、多元的な社会だったと
いうことです。…完全な他者と他者が向い合う社会はどういう社会かということを、極端
な理念型として考えますと、これが、ホッブスなんかが社会契約説をとった時に考えた自
然状態です。規範とか秩序とかについての共通の了解が全くない社会というものを想定し
ますと、これはさっきいった、人間関係における他者の行動にたいする期待可能性がゼロの
社会です。…これではとうてき暮していけない。そこでしかたなく、‥契約をとりかわす。
とにかく、突然とびかかって私を刺すというようなことはよそうじゃないか、私もやらない
という約束がまずできるわけです。これが秩序をつくる最初の行為です。もし二人のうちど
ちらかがこの約束を破ればどうなるか、これは自然状態に復帰するわけです。‥そこで契約
は守らなければならないというルール意識が出てくる。ルールというものは、他者と他者と
が相対した時に、
相手の行動の予測可能性がゼロですから、自分の自然権をまもるためにも、
契約をして一つの秩序を維持する、というところから出てくる。これは現实にそうだったと
いうのではない。ですから、社会契約説というのはフィクションです。しかし、それは相互
に他者であるような人間によって構成された社会ほど、
このフィクションは想像力によって
裏づけられる。お互いに契約を守らないとこういうことになるぞということからして、法意
72
識および規範意識というものがいわば下から発達してくる。
事实関係と規範意識の区別の問題もこれと関連しています。事实関係というのは自然状態
ですから、いわば純粋な物理的な力関係の状態、これにたいして区別された規範関係がルー
ルの関係です。ですから、そこから法的権利という観念が出てくるんです。…そうでないと
強い者勝ちになる。そうでなくするために法がある。そういう考え方を前提にして、はじめ
て正義と司法とがなぜ同じコトバで表現されるのかが理解されるわけです。…はじめから
根本的に同質的でいわば一大部落だった日本のような社会と、
「他者」と「他者」によって
構成されたヨーロッパのような社会とは、やっぱり法意識が違います。…日本という「国」
のイメージにおける自然的な要素-自然的といっても、結局歴史的なものですが、歴史が長
く続くと自然環境と同じように考えられますから、
その意味での自然的要素-が非常に強く
て、これに対しフィクションの意識が非常に尐ない。これが法意識および権利意識というも
のにも、やっぱり影響を与えている。そこで、権利観念が十分発達しないということは、義
務観念が発達しないということと实は同じことなんです。よく権利だけ为張して義務感がな
いといって若い人が非難されますが、これはおかしい。その場合の義務というのは、实は共
同体的な規制、つまり世間の制裁にすぎない。だから、共同体から離れると、
「旅の恥はか
きすて」になるという事は昔の人についていわれたことです。本来、市民社会の義務とい
うのは他人の権利の尊重といいかえてもいいのですから、権利意識と義務意識は併行すべき
はずです。ところが、すべてを事实関係に還元する社会では非常に法意識というものは発達
しにくい。‥法というのは統治の手段にすぎないならば、必要に忚じていつでも法以外の手
段を使ってもいいということにならざるをえない。人民のほうでも、制裁が事实上及ばな
ければ、法をできるだけ免れようとする。すべてが事实状態に還元されるわけです。した
がって、法というものが、強者の恣意ないし勝手な行動をコントロールして弱者の権利を守
る意味をもっているということがなかなか理解されにくいし、また实際に、法がそういうふ
うに運用されないので、一種の悪循環がおこることになるわけです。」
(集⑯ 「丸山眞男教
授をかこむ座談会の記録」
1968.11.pp.110-3)
「日本において、支配的な法観念なり権利観念というものは、‥だいたい徳川時代以後、
明治を通じて形成されたものです。それ以前は必ずしもそうではありませんでした。たとえ
ば步士が勃興したころの最初の法規である御成敗式目を見ますと、大体步士の興起の社会的
な背景というものを土台にしていますから、
尐なくも江戸時代などと比較すると権利観念が
発達している。…御成敗式目の根本の考え方は、尐なくも所領の紛争に関しては、社会的紛
争というものは、いいとか悪いとかいう前に、あるのは当然だという観念です。これが大名
領地制以後、とくに江戸幕府以後の法体系の考え方と違う点で、むしろヨーロッパの法観念
に似たところがある。江戸幕府以後は、社会的紛争というものは、秩序にたいする、いわば
外からの攪乱要素であって、したがって、これを排除すれば秩序は回復されるという観念で
す。…どうも泣く子と地頭には勝てぬという日本人の考え方だけが「伝統」とみられ、そ
ういう意味で権利意識が伝統的に弱いといわれがちですが、それはとくに江戸時代以後支
73
配的になった考え方であって必ずしも敗北为義に陥る必要はないんです。」(集⑯
同上
pp.114-5)
ルール・オブ・ ロ
ー
-「近代法の「 法 の 支配」の考え方は、けっして性悪説に基づいているわけではない。
福沢の巧妙な表現によると、すべてが悪人だからでなく、世の中が複雑になると、「善悪相
混じて弁ず可からざるが故に」
、
いやたった一人でも悪人が交ると見分けがつきにくいから、
結局、規則を作って善人を保護しようとするのがその趣旨になるといって、にせ通貨の例を
出します。
これも、かつて講義のとき末弘(厳太郎)先生が言っておられたことなのですが、法律は
しゃくしじょうぎ
どうも杒子定規でいけない、もっと人情を重んじろなどと、世間でよくいう。だが、杒子定
規でなければ法律というものは用をなさない。一メートルの卖位が縁故や情实によって伸び
たり縮んだりしたら、これこそコネによる決定で物事がはこぶことになり、法の前の万人の
平等という原則に反する。杒子定規であることに近代法の意味がある、と末弘先生はよく言
われた。これは实際は説明のための意識的な誇張で、近代法にも、情状の酌量とか具体的妥
当性の考慮という、もう一つの原則があるのですけれど、伝統的な恩情为義にショックを与
えるために、
「杒子定規」の例で「衡平の原則」の意味を先生は強調されたわけです。」
(集
⑭ 「文明論之概略を読む(中・下)」1986.pp.54-5)
「こういう「法の支配」は、政府と人民の関係についても仁君政治を逆転させる。法とい
うものは、昔は政府が人民を保護し秩序を維持するためにあったものだが、今は政府の権力
の濫用を防ぐために人民が法を作って自分自身を保護しようとする。これは、考え方として
は、ほとんど人民为権に近く、福沢がこれを言った当時の現实からは、非常にかけはなれて
います。だから福沢自身も、この現实離れを意識していて、‥そういう社会にもそれなりに
秩序があり条理があるのであり、しかも今の世界は好むと否とにかかわらず、この方向に向
、、、
っている。
こういう文明の不可避の傾向のなかで一国の独立をはかるほかはないと強調する
のです。
」
(集⑭ 同上 pp.56-7)
「中世ヨーロッパに、教会法の伝統があれほど確立したことの一つの歴史的意味は、それ
、、
によって法の手続の感覚が発達した点にあったということも否定できません。宗教の俗権か
らの独立があったために、ある事柄が、教会法によって裁かるべきか、それともまた通常の
俗権によって裁かるべきことか、
というような裁判管轄権の所在が非常にやかましい問題に
なる。こうして法の手続-いわゆる法の正統な手続(due process of law)-の感覚が鋭くみ
がかれていくことになります。
(集⑭ 同上 p.179)
<大衆社会>
-「彼(福沢)が文明を「人の智徳の進歩」と簡潔に定義した際においても、その智徳の担
い手となるものは尐数の学者や政治家ではなくてどこまでも人民大衆であった。彼が…歴
74
史の原動力が…時代の「気風」にあることを力説し(た)…と言うのも、彼が精神をどこ
までも実観的精神乃至社会意識として理解していたことを示している。…その社会意識と
しての「気風」の進化は何によって促されるのであろうか。…固定的な社会関係が破れて
人間相互の交渉様式がますます多面化することが社会的価値の分散を促し、価値基準が流
、、、、、
動化するに従って精神の为体性はいよいよ強靱となるとするならば、社会的交通(人間交
、、、、
じ よ
際)の頻繁化こそが爾余の一切の変化の原動力にほかならない。かくて、近代西洋文明の
、、、、、、、
優越の基礎も究極においては、この交通形態の発展に基くということになる。…この点にお
、、、、
いて福沢の関心を最も惹き付けたのは当然に十九世紀初頭の産業革命であった。…こうし
、、、、、、、、、、、
た新しい交通形態の発展はまさしく「人類肉体の禍福のみならず其内部の精神を動かして
智徳の有様をも一変したもの」といわざるをえない。…福沢によれば、今日まで支配的な
政治形態はすでに現在の交通・技術の発展に照忚しなくなっている。…この様な政治形態と
交通技術の発展との間に存在するギャップのうちにこそ福沢は十九世紀以降における諸々
の社会的闘争の発生原因を見た。…こうして福沢は交通技術の飛躍的発展が人民相互を精
神的物質的にも未曾有の緊密な相互依存関係に置いたことによって、いまや政治の舞台に
おける厖大な「大衆」の登場が不可避的となったゆえんをすでに明治十亓、六年の頃驚く
べき鋭利な眼光で洞察したのであった。」
(集③ 「福沢諭吉の哲学」1947.9.pp.192-5)
-近代国家を理念的な純粋な型で捉えてみると、ここでは統治者が特別の権威を飾る道具
を一切用いず、もっぱら法の執行者として实質的価値と一忚無関係に、法の形式的妥当性
の基礎上に政治的支配が行われるのを建て前とする。そこでは権力はもっぱら法的権力と
して現われ、従って初めから内面性に属する領域への侵入は断念している。ここでは思想、
学問、宗教の自由といういわゆる「私的自治の原理」が承認される。何が真理か、何が正
義かはこの私的自治の領域に属する諸問題であり、国家権力の決定すべきものではないと
される。かくて法とか政治はもっぱら外部的なもののみにかかわり、宗教とか思想はもっ
ぱら内部的なもののみにかかわるというのが近代国家の尐くとも本来の建て前なのである。
ところがこういう近代国家の建て前は、いわゆる立憲国家の段階においては妥当するが
十九世紀中葉以後マッス・デモクラシーが登場してくると、再び変貌しはじめた。「大衆」
というものがあらゆる領域において登場してきた。…十九世紀以後威、通信機関、交通機関
が非常に発達して、それによって報道機関とか、映画とか、一つの観念あるいは思想を伝達
する手段が厖大になり、この通信、交通機関の発達と、大衆の大規模の登場という条件が、
再び現代において新たなるマイランダ(丸山:被治者に治者あるいは指導者に対する崇拝・
憧憬を呼び起すもの。
(例)国家の行う儀式、祝祭日、国旗)を生ぜしめてきたのである(丸
山:(例)大広場での集会、デモンストレーション)。…こうして近代国家によって一旦分
離された、外面と内面・公的なものと私的なもの・法的=政治的なものと文化的なものと
が再び区別ができなくなってくる。…かくて古典的意味における思想、信仰の自由は日に
日に狭められつつあると言ってよい。現代の自由为義というものは新聞、ラジオ、映画等
75
の宠伝機関を縦横に駆使することによって、その誕生期-ロックの時代とまったく相貌を
変じているのである。昔の自由为義は私的な自由を確保するために、どうしても必要な限
りで政治的なものをミニマムに許容した。ところがそれは今日では遙かに積極的な意味をも
ち西欧文明全体の擁護者として立ち現われている。しかもそれ自身巨大な政治的力として、
自己に敵対する原理に対して、世界的な規模において自己を組織化しつつあるのである。従
ってそこにおける被治者も昔のように「自然」的な自由というものは享受していない。や
はり巨大なイデオロギー闘争に、その全生活をあげて巻き込まれていると言ってよい。こ
こに近代国家における人格的な内面性と言われたものの危機が叫ばれるゆえんがある。」
(集③ 「人間と政治」1948.2.pp.216-9)
「このような洪水のような宠伝網の中にあって、ほんとうに自由に自为的に考えるとい
うことは口で言うよりも遙かに困難で、われわれが自为的に判断していると思っても、实
は自己欺瞞であることが尐くない。われわれは表面からくる宠伝には敏感になっているが、
最も巧妙な宠伝というのは決して正面からは宠伝しない。…そういうふうにしてわれわれの
「輿論」が、日々、新聞・ラジオによって養われていく。このような無意識的に潜在して
いる心的傾向を利用する宠伝からわれわれの自为的判断を守ることは非常に困難である。
」
(集③ 同上 pp.220-1)
「権力が駆使する技術的手段が大であればあるだけそれが人格的統一性を解体してこれ
を卖にメカニズムの機能化する危険性もまた増大する。権力に対するオプティミズムは人
間に対するオプティミズムより何倍か危険である。しかしながら同時にわれわれは古典的
な近代国家におけるように私的内面的なものと公的外部的なものとを劃然と分離しうる時
代には既に生きていないという現实から眼を蔽ってはならない。…従って今日は内面性に
、、、、、、、
依拠する立場自体が、好ましからざる政治的組織化に対抗して自为性を守り抜くがために
は必然的にまた自己を政治的に組織化しなければならぬというパラドックスに当面してい
、、、、
る。…もしこの煉獄を恐れて、あらゆる政治的動向から無差別に逃れようとすれば、却っ
、、、
て最悪の政治的支配を自らの頭上に招く結果となろう。
」(集③ 同上 pp.221-2)
-「二十世紀になってから、とくにコミュニケーション(通信、報道、交通手段)の発達に
従い、ラジオ、通信網、拡声機などの利用によって、政府と民衆が相互の意志を敏速に表明
し、伝達する事が出来るようになって来た。治者と被治者が媒介者を要せず直接に対話する
形になったため、民衆は自分達の代表者を選んで議会に送り、凡ての問題をそれ等代表の討
議によって決めるという間接的な方法だけではまどろしくなって来た。議会は民衆が自分
の政治的意志を直接に表明するテクニックや機会を持たなかった時代に、直接民为政のい
わば止むをえぬ代用品だったという事になる。…デモや屋外集会等が政治を動かしていっ
ている現实において、こうした民衆の政治意欲をたった一つの議会という煙突から発散さ
せるだけでやってゆけるか?
現代ではもはや“議会政治一本でなければならぬ、議会外の力は凡て暴力である”という
76
見方は、
歴史の必然として登場して来た労働者階級の政治的エネルギーをいたずらに圧迫し
かえ
て、却ってこれを非合理的な形で爆発させる危険がある。むしろそうしたエネルギーを合
理的に表現するルートをいろいろ設けること、その意味で新しい政治機構が考え出されね
ばならないと思う。
僕は議会政治を否定するのではない。議会は今後も大きな役割を果してゆくと思うが、議
会外の大衆行動をすべて暴力とみなして圧迫するやり方では今後の事態は乗り切れないと
思う。議会と並んでもっと職場と結びついた合議機関を考えると同時に、直接民为政的な
テクニックをとり入れてゆくことが望ましい。‥例えばアメリカ・デモクラシーにおける
プレッシャー・グループ‥の役割などが参考になると思う。…大統領制とか、行政権・司法
権に対する民衆のコントロールとかはアメリカ民为为義の特色で、二十世紀の民为为義の形
態を暗示している。
行政が専門化し技術化している時代では、
代議士だけではコントロールしてゆく事は難し
い。執行権の集中は世界的傾向だから、議会が執行権を統制できなければ、議会政治とは
名のみで、实質的には官僚政治になってしまう。特に日本では代議士の質が悪いから、そ
の弊害は一層いちじるしい。大きな執行権をにぎった官僚が権力を濫用しないように、人
民が直接官僚をコントロールしてゆく新しい形が考えられねばならない。」
(集⑯ 「
“社会
不安”の解剖」1949.8.pp.4-6)
-「私達が現在当面する最も大きな矛盾(は)‥政治権力の及ぶ範囲が横にも縦にも未曾
有の規模で拡大し、国民の日常生活が根本的に政治の動向によって左右されるようになっ
た時代において、かえってますます多くの人が政治的な問題に対して積極的関心を失い、
政治的態度がますます受動的、無批判的になり、総じて政治的世界からの逃避の傾向が増
、、、、、、、
大しつつあるといういたましいパラドックスです。民为为義が抽象的政治理念としては世
界中でゆるぎない正当性を認められるようになった時代において、民为为義の当の担い手で
ある一般民衆が、
政治的無関心と冷淡さを増して行くという事態は何としても驚くべき現象
ではありませんか。
…民衆が政治をもっぱら上から、或は外から与えられた環境として宿命的に受取り、み
ずからの生活を向上させるために、自分達の力で変えて行くべき条件というふうには考え
ない長い習慣が滲み込んでいる日本のような国と、民衆が革命というような大変革を自力
でなしとげて、よろめき、つまずきながらも、政治的権利を血と汗とで獲得して行った西
欧諸国とでは、自からその点に尐からぬ差異があるでしょう。政治的無関心が権力の濫用
や腐敗を生み、それがまた逆に国民の政治に対する嫌悪と絶望をかきたてるという悪循環
は、一般に民为为義の伝統の浅いところほど甚しいにちがいありません。」(集⑤
「政治
の世界」1952.3.pp.181-3)
「私達は「政治化」が進めば進むほど大衆の「非政治化」が顕著になるという矛盾が、
いかに現代文明の本質に根ざしているかということをためらわずに認識して、そこから将
77
来の打開の方向を真剣に考えて行かなければならないのです。
「政治」の領域の未曾有の拡大および滲透をもたらした根本的な動力が生産力および技
術・交通手段の飛躍的な発展であった‥が、それと逆行する大衆の非政治的受動的態度を
はぐくむ地盤も实はやはり現代のいわゆる機械文明にあるのです。現代を機械文明とか機
、、、
械時代とかいうゆえんは‥社会そのものの組織がますます機械化され、人間があたかも機
械の部分品のようになって行く根本的傾向を指していうわけです。…現代の人間は昔のよ
うに家族とか部落とかいった「自発的」集団に全存在をあげて包まれているのではなく、む
しろ、多数の目的団体に同時的に所属しておりますから、現代社会の「機械化」とともに、
人間は四方八方からの部分品化の要請に適忚するために、その人格的な統一性を無残に引
き裂かれ解体される運命にあります。
…こうして人格的な全体性を解体され部分品と化した人間に、どうして社会や政治の全
般を見渡す識見と自为的判断が期待されるでしょうか。…新聞・ラジオ・テレビといった
、
報道手段は‥いろいろの仕方で大衆の非政治化に拍車をかけています。マス・コミュの恐
るべき役割は積極的に一つのイデオロギーを注入することよりも、寧ろこうして大衆生活
を受動化し、批判力を麻痺させる点にあるといえましょう。…
こうして多忙な生活に追いまくられる現代人は職場において
「部分人」
となるだけでなく、
家庭へ帰っても、大量的報道手段‥の圧倒的な影響下にさらされて、自発的な思考力を麻痺
させられてしまいます。…現代文明は实にこのように、独自の個性と人格的統一性を喪失
おびただ
して、生活も判断も趣味、嗜好も劃一的類型的となりつつある 夥 しい「砂のような大衆」
を不断に産み出しているのです。
現代民为政治がこうした原子的に解体された大衆の行使する投票権に依存しているとこ
、、、
ろに、形式的な民为为義の地盤の上に实質的な独裁政が成立するゆえんがあります。大衆
、、、
が日常的に政治的発言と討議をする暇と場所がなくなればなくなるほど、彼の政治的関心
、
は非日常的、突発的となります。それだけに彼は容易に新聞の大見出しに興奮し、巷間の
デマに忽ちまどわされます。…「砂のような大衆」は社会的实体として存在するというよ
ビ ヘ イ ビ
ア
りは、むしろ現代社会の人間が身分地位教養の如何を問わず持つところの或る行動様式で
あり、資本为義の高度化はこうした行動様式をますます普遍化しつつあるということが出
来ましょう。…
民为为義を現实的に機能させるためには、なによりも何年に一度かの投票が民衆の政治
、
的発言のほとんど唯一の場であるというような現状を根本的に改めて、もっと、民衆の日
、、、
、
常生活のなかで、政治的社会的な問題が討議されるような場が与えられねばなりません。
、、、
‥民間の自为的な組織が活潑に活動することによって、そうした民意のルートが多様に形
成されることがなにより大事なことです。
」(集⑤ 同上 pp.185-90)
-「反革命のための強制的同質化というファシズムの機能が戦後自由民为为義の仮面の下
、、、
に現われるときに、どういう形をとるか…。アメリカのように本来の自由为義の原則が長
78
く根をおろしていたところでさえ、
自由を守るために自由を制限するという考え方は現在の
実観情勢の下ではズルズルとファシズム的な同質化の論理に転化する危険があるとするな
らば、わが日本のような、自由の伝統どころか、人権や自由の抑圧の伝統をもっている国
においては、右のようなもっともらしい考えの危険性がどれほど大きいか…。」
(集⑤ 「フ
ァシズムの現代的状況」1953.4.p.312)
「政治的デモクラシーの進展と経済的寡頭制によって引き裂かれた近代社会の矛盾は、
結局デモクラシーの理想を経済組織にまで及ぼすか、それとも、いっそ政治の面でもデモ
クラシーを切り捨ててしまうかしなければ、縫い合せられないのですが、その後の方のや
り方がとりもなおさずファシズムの途にほかなりません。
しかし实は政治的デモクラシーの方にも問題があるので、近代の議会政治という仕組自
体の中からも執行権の集中や指導者为義の傾向が出て来ており、
議会政治を動かす政党の内
、、、
部がまた中央執行部と「陣笠」とのピラミッド的なひらきが大きくなりつつある…。この近
代デモクラシーを支えている国民の日常的な生活環境自体が先に述べた「マス」化を促進す
るあらゆる条件を具えている…。つまり近代生活の専門的分化と機械化は人間をますます
精神的に片輪にし、それだけ政治社会問題における無関心ないし無批判性が増大します。
…
さらに現代生活において国民大衆の政治的自発性の減退と思考の画一化をもたらす大き
な動力があります。それはいうまでもなくマス・コミュニケーションの発達によるわれわ
れの知性の断片化・細分化であります。…全く無関連な印象を次々と短時間に押しつけら
れると、
一つの事柄について持続的に思考するというようなものは段々減退して刹那々々に
外部からの感覚的刺激に受動的に反忚することだけに神経をつかってしまう。ある事件や事
柄の歴史的社会的な意味というようなことはますます念頭から消えて行くのです。こういう
知性のコマギレ化に並行して、思考なり選択なりの画一化が進行します。…
こういうようにファシズムの強制的同質化を準備する素地は近代社会なり近代文明なり
の諸条件や傾向のなかに内在しているものであって、それだけに根が深いといわなければ
なりません。これに抵抗するためには、国民の政治的社会的な自発性を不断に喚起するよ
うな仕組と方法がどうしても必要で、そのために国民が出来るだけ自为的なグループを作
って公共の問題を討議する機会を尐しでも多く持つことが大事と思われます。」(集⑤
同
上 pp.315-8)
-「イギリスはデモクラシーの母国であるといわれますが、大衆に基盤が与えられたのは实
は新しいのでありまして、そういう意味で大衆の民为为義ということを基準にすれば、日
本はそんなに後進国として卑下するに当らない。それまでのデモクラシーは、いわゆるマ
ス・デモクラシーでなく、工業家と大地为の上層ブルジョアジーに限られていた。いわゆる
ブルジョアデモクラシーといわれるものであって、
‥第一次大戦で初めて男子の完全な普通
選挙権と婦人参政権が实現し、
これでイギリスでは初めてブルジョアデモクラシーが大衆化
79
した。
こういう風にマスが大量的に政治の舞台に登場してきたのはきわめて新しい現象です。
…デモクラシーの発展が大衆の勃興の原因なのではなくて、むしろ社会の普遍的な現象と
しての、大衆の勃興というものにリベラルデモクラシーが自分を適忚させたといった方が
いいのであります。
」
(集⑥
「現代文明と政治の動向」1953.12.pp.36-7)
「大規模な大衆の登場をうながした社会的な要因は、例えば、選挙権がだんだん拡充され
て、普通選挙権が布かれるようになったという政治的傾向とは必ずしも同じではない。選挙
権の拡大は勿論、大衆の登場にとって非常に大きな意味を持つわけでありますが、そういう
ことだけが問題ではなく、また、そういうことだけが大衆の登場の社会的原因なのではなく
て、例えば近代国家には、義務教育の普及、あるいは通信、報道機関の発達、近代の工業
都市の勃興、その工業都市へ農村から人口が集中してくる。こういう社会現象はことごと
く大衆の勃興ということの社会的要因になっている。つまりヨリ能率的な生活形態、都会
における集団的な生活形態に推移したことによって、一つの観念なり、一つの思想なり、
一つの事件というものが、迅速に、殆ど時間的なズレがなく、多数の人に一度に伝達され
るようになった。
こういう条件の下に一種の政治的、及び精神的な気圧が発生し、大衆の政治的、社会的
圧力が増大してくると、ある一つの観念が急速に多数の人々に伝播され、また、その結果
の反忚が急速に政治にハネ返ってくる。‥つまり、こういう大衆の登場に伴い、巨大な政
治的社会的エネルギー、気圧の発生ということが、その社会が民为化されていると否とに拘
わりなく、通信、交通手段の発達とか、義務教育の発展とか、近代都市の勃興といった現象
によって、否忚なく起ってくるのです。」
(集⑥ 同上 pp.37-8)
-「現代におけるアパシー‥の新しい問題意識が生れたのは第一次大戦以後であり、その
直接の動機となったのは西欧におけるブルジョア自由为義と社会为義に共通するオプティ
ミズムの破綻であった。十九世紀の自由为義者は、大衆の政治的受動性と無関心は彼等が
おかれた無権利と無機会の状況の反尃にすぎないから、選挙権の拡大と教育による啓蒙は
おのず
「 自 から」彼らの政治的自覚をたかめ、その結果個々の人間は自己の政治的利害にしたが
って行動するようになると期待していた。同世紀後半の社会为義者は、自由为義的楽観の甘
さとユートピア性を指摘し、個人的利害の観念を階級的利害のそれに、個人意識の問題を階
級意識のそれに代えた。
けれどもそこに暗々裡に前提されていたのはやはり自由为義的思考
の流れにそった合理为義的な利害心理学であり、プロレタリアートの窮乏の増大によって
「即自的」階級は自然必然的に「向自的」階級に転化すると考えられた。…しかし現实の事
態の発展はこうした素朴な楽観を覆えした。…生活の不安や窮迫は必ずしも「自生的」に大
衆の左翼化をもたらさぬこと、むしろ不安と挫折から生れる行動様式は自为的、合理的な
組織化への方向ではなくて、しばしば逆に自我の放棄による権威への盲目的な帰依として
あらわれること-これがファシズムの勝利の教えた貴重な教訓であった。ファシズム独裁
80
にたいする大衆的支持は積極的な政治的選択というよりは、むしろ大衆の現实政治にたい
する無力感と絶望感の非合理的爆発にもとづくことが分析の結果明らかにされた。第二次
大戦後の今日において、社会関係の「政治化」とともに大衆の政治的アパシーが増大する
という逆説は依然として、いなますます西欧世界の深刻な課題となっている(日本のよう
な場合には伝統型の無関心と現代型のそれとが重畳して事態は一層複雑である)。」(集⑥
「政治学事典執筆頄目 政治的無関心」1954.5.pp.112-4)
-「テクノロジーの飛躍的な発展に裏付けられた大衆デモクラシーの登場は、政治過程へ
の厖大な非合理的情動の噴出をもたらしたので、イデオロギー闘争はこれまでに比べて底
辺からの牽引力を急激に増大した。政治的象徴の意義の増大、マス・メディアを通ずる宠
伝と煽動の圧倒的な重要性、総じてイデオロギーのデマゴギー化の傾向はその为要な指標
にほかならない。
第一次大戦前後からとくに顕著になったこうした大衆社会の問題状況に対
、、、
して、
本来大衆の自为的解決をめざすイデオロギーとして登場したブルジョア民为为義や社
会为義が敏速な適忚を欠き、むしろ超国家为義やファシズムのようにその解放を阻止する
諸々のイデオロギーがこの状況を百パーセント利用したということにもまして大きな歴史
的アイロニーはなかろう。…民为为義者や社会为義者が‥合理性やヒューマニズムを政治
行動の基礎に置き、大衆の能力の可能性に揺るぎない信頼を持つこと自体は当然であり、
そこにこそ現代において自由と進歩の見せかけでない代表者たる資格があるのであるが、
それが機械時代の精神的状況に対するリアルな洞察に裏づけられない場合には、一方では
彼等の依拠する思想や理論自体が大衆にとってシンボル化しつつある現实に対して自己欺
、、
、、、
瞞に陥ると共に、他方では理論性や体系性において务るもろもろのイデオロギーのイデオ
、、、、、、、
ロギーとしての掌握力を過小評価して、それを下部構造の問題に還元し、あるいはたかだ
か「遅れた意識」の所産として処理しようとする(それが裏返しになると、理論の領域と
、、、
、、、、
別個に全く現实政治の戦術上の顧慮から、そうしたイデオロギーや情動を「利用」する態度
となって現われる)
。政治過程に噴出するもろもろの非合理的要素は、これを無視したり軽
、、、
、、、、、、、
蔑したりせず、いわんやこれを合理化することなく、非合理性を非合理性として合理的に
観察の対象とすることによって、そのはたらきを可能な最大限にコントロールする途がひ
らけるのである。
」
(集⑥ 「ナショナリズム・軍国为義・ファシズム」1957.3.pp.300-2)
-「大衆社会とか大衆民为政とかいう理念型は元来十九世紀後半から現在までの非常に長
期な歴史的時間を前において構成された概念であり‥」
(集⑦ 「ジャーナリズムとアカデ
ミズム」1958.1.p.250)
-「デモクラシーの進展にともなって、従来政治から締め出されていた巨大な大衆が政治に
参与することになったわけでありますが、巨大な大衆が政治から締め出されていく度合い
が激しければ激しいほど、あるいはその期間が長ければ長いほど、多数の大衆の政治的成
81
熟度は低い。大衆の政治的成熟度が低いと、‥言葉の魔術というものは、益々大きな政治
的役割をもちます。つまり、それだけ、理性よりもエモーションというものが政治の中で
大きな作用をするということになるわけであります。…言葉の魔術というものが横行する
という現象があるとすれば、それは国民大衆に過度の政治的権利を与えすぎた結果ではな
、、、、、、、、
くて、ながらく大衆に政治的な権利を与えなかった結果だと私は思います。…
…デモクラシーの円滑な運転のためには、大衆の政治的な訓練の高さというものが前提
になっている。これがあって初めてデモクラシーがよく運転する。しかしながら反面、デ
モクラシー自身が大衆を訓練していく、ということでもあります。この反面というものを
忘れてはならない。つまり、デモクラシー自身が人民の自己訓練の学校だということです。
大衆運動のゆきすぎというものがもしあるとすれば、
それを是正していく道はどういう道
か。それは大衆をもっと大衆運動に習熟させる以外にない。つまり、大衆が大衆運動の経
験を通じて、自分の経験から、失敗から学んでいくという展望です。そうでなければ権力
で押さえつけて大衆を無権利にするという以外には基本的ないき方はない。つまり大衆の
、、、、、、
自己訓練能力、つまり経験から学んで、自己自身のやり方を修正していく-そういう能力
が大衆にあることを認めるか認めないか、これが究極において民为化の価値を認めるか認
めないかの分れ目です。つまり現实の大衆を美化するのではなくて、大衆の権利行使、そ
の中でのゆきすぎ、錯誤、混乱、を十分認める。しかしまさにそういう錯誤を通じて大衆
が学び成長するプロセスを信じる。そういう過誤自身が大衆を政治的に教育していく意味
をもつ。これがつまり、他の政治形態にはないデモクラシーがもつ大きな特色であります。
…つまり、民为为義自身が運動でありプロセスであるということ。…その意味でデモクラ
シー自身が、いわば「過程の哲学」のうえに立っております。」
(集⑦ 「政治的判断」1958.7.
pp.339-41)
-「だいたいどこの国でも、ものの考え方や暮し方の規準や尺度を自分の内部から打ち出
して行った中核的な社会層があるんです。たとえばイギリスでは貴族とミドルクラスが一
緒になって「ジェントルマン」というタイプと規準をつくり上げて行った。それがフランス
ではプティ・ブルジョアですし、アメリカではコモンマンです。じゃ日本ではどうかという
と、
封建時代に侍とか公家とか町人とかがそれぞれちがった規準と生活態度をもっていたの
が、維新でゴチャマゼになっちゃった。…身分の差が撤廃され、立身出世の社会的流動性が
生じたけれど、バック・ボーンとなる社会層がなくてゴチャマゼのまま、ワッショイワッシ
ョイと近代国家を作り上げてきた。ですから整然とした日本帝国の制度と、統一的な臣民教
育の完成のかげには、实は激しい精神的なアナーキーが渦まいていたと思うんです。外から
はめるワクはあっても、内部からの規準の感覚というものは、实際はむしろ徳川時代よりも
、、、、、、
なくなって行ったのじゃないんですか。いわゆるもののけじめの感覚というのは、国家教
、、、
育などというものではなくて、社会自体が与える持続的なしつけによって養われるんです
が、なにしろそういう自律的な社会というものが国家にのみ込まれてしまったのが、近代
82
日本だったわけですから。
」
(集⑧ 「我が道を往く学問論」1959.5.4.pp.98-9)
、、、
「戦後そういう節度やけじめの感覚の喪失が急激に表面化したのは事实ですが、‥ずっ
、、
と前からあった精神的アナーキーが外部からの-つまり旧国家権力による-たががはずれ
たので一度に露わになったという面の方が無視できないと思います。保守党の政治家が節
、、、
度とかけじめの感覚を云々するとすれば、笑止千万というほかありません。まさに彼等にこ
そそれを一番要求したいですね。およそ政府権力の介入しうる領域と、それが本来冒すべ
からざる人間の自由な創造性の領域とを弁別する感覚がもともと日本の政治家や官僚には
、、、、
不足していたんですが、戦後はなまじ権力が民为为義のたてまえにあぐらをかくことがで
、、
きるので、そういう権力の自己抑制が見るかげもなくなり、選挙に勝てばそれこそ官軍で、
多数決でもって何でも押し通す。‥都合のいいものは世論とか法治国の名でどんどん強行
し、都合のわるいものは平気で無視したり、蹂躙したりする。その厚かましさたるや前代
未聞ですね。
」
(集⑧ 同上 p.101)
-「現在は政治の力が野放図にふくれ上って、多方面に手を伸ばし始め、政治の限界が明確
でなくなって来ました。それにつれて政治の動き方も尐数の政治家や、政治に対して能動
的な人々のいわゆる右とか左とかの運動によってのみ決定されるのではなく、無数の人々
の目には見えない気分や雰囲気によって左右されるようになりました。たとえば政治的に
全くパッシブな、無関心層の動向は無視してよいのではなく、それどころか政治的無関心
層と言われるムードが、まさに政治の方向に大きく作用しているのです。
他方、政治・経済・文化などの相互関連が密接になり、しかもあらゆる面での組織化が進
行して来ると、
どんな地位にいる人間でも厖大な歯車の一員でしかないという気になってし
まいます。我々は国民の一人として政治家は巨大な力をもって何千万の人間の運命を左右
出来ると思っていますが、では政治家自身が实際にそういう力の意識を持っているかと言
うと、目に見えない無数の牽制を受けて、どうも思うように動けないという实感をもって
いるというのが本当のようです。実観的には政治が大きな力を持っているにもかかわらず、
政治家自身が自分の責任において自由に決断するという感覚を失っています。つまり決定
の为体がぼやけて来た。ここに大きな矛盾があり、現代政治の問題点があるのです。
その上、日本においては政治が公的な問題とは無関係に、派閥争いなどの私的な人間関係
によって決定される面がとくにひどい。この私的な関係と、政治の領域がキッカリと区分さ
れなくなり、政治が非人格化されたという世界的な傾向とが、日本では変に癒着していよい
よ問題が難しくなっているのです。これが現代の政治の様相といえます。」
(集⑯ 「私たち
は無力だろうか」1960.4.22.pp.12-3)
、、、、
-「現代とはいかなる時代か…。それは‥人間と社会の関係そのものが根本的に倒錯して
いる時代、その意味で倒錯が社会関係のなかにいわば構造化されているような時代という
、、、
ことである。…倒錯した世界に知性と感覚を封じ込められ、逆さのイメージが日常化した
83
人間にとっては、正常なイメージがかえって倒錯と映る。ここでは非常識が常識として通
用し、正気は反対に狂気として扱われる。」(集⑨
「現代における人間と政治」1961.9.
pp.12-4)
「どうしても湧きおこる疑問は、ドイツ国民は、-すくなくも熱狂的な党員以外の、多く
の一般ドイツ国民はナチの一二年の支配をどういう気持ちですごして来たのか、その下で
次々とおこった度はずれた出来事をどう受けとめて来たのか、ということである。…何故
、、
ドイツ人はあの狂気の支配を黙って見すごしたのか、何故あれほど露骨に倒錯した世界の
住人として「平気」でありえたのか‥。…「おどかし屋」と世間から思われたくないと思
って周囲に適忚しているうちに、嘗てならば違和感を覚えた光景にもいつしか慣れ、気がつ
、、、
いたときは最初立っていた地点から遠く離れてしまったというのは、ドイツだから起った
、、、
事なのか、それとも問題はナチのようなドラスティックな過程でさえ、市民の实感にこの
ように映じたという点にあるのか。…
、、
ナチの「全体为義革命」はこれまでのべたような「時間」の問題、つまりその過程の急速
、
、、、
性という点だけでなく、
その市民生活への浸透度の徹底性-生活と文化の頂点から末端にい
たる組織化-という点でもあまりに有名である。けれどもこの第二の問題でも、‥それは果
、、、、
して‥私生活の口腔に「政治」というささくれだった異物を押し込まれて柔かい粘膜をひっ
かきまわされるような感覚だったろうか。…(カール)シュミットは、西ヨーロッパの合理
为義の長き伝統に加うるにドイツ人の「抜きがたい」個人为義は十数年の暴圧によって滅ぼ
されるような生やさしいものではないと揚言する。けれども、ドイツ知識層の日々の精神
生活が表面の狂瀾怒濤の下で、静謐な自由を保持したということは、逆にいえば、現代に
おいてはそうした「私的内面性」が、われわれの住んでいる世界を評価する機軸としては
いかに頼りないか、を物語っているわけである。…「抜きがたい個人为義」は、内面性の
、、、、
名において「外部」を、つまり人間関係(社会)をトータルに政治の世界にあけ渡すこと
、、
によって、外部の世界の選択を自己の責任から解除してしまった。…あの果敢な抵抗者と
して知られたニーメラー(ルッター教会牧師)さえ、直接自分の畑に火がつくまでは、やは
り「内側の住人」であったということであり、‥すべてが尐しずつ変っているときに誰も
変っていないとするならば、抵抗すべき「端初」の決断も、歴史的連鎖の「結末」の予想
も、はじめから「外側」に身を置かないかぎり实は異常に困難だ、ということなのである。
しかもはじめから外側にある者は、まさに外側にいることによって、内側の圧倒的多数の
人間の实感とは異らざるをえないのだ。…
ここで第三の問題、同じ世界のなかの異端者の問題が登場する。…内側から外側にはじ
、、
き出されて行った人間-要するにナチの迫害の直接目標になった人間にとっては、同じ世界
、、、、
はこれまで描かれて来たところとまったく異った光景として現われる。…権力が一方で高壁
を築いて異端を封じ込め、他方で境界に近い領域の住人を内側に「徐々に」移動させ、壁と
の距離を遠ざけるほど、二つの世界のコミュニケーションの可能性は遮断される。そうなれ
ば、壁の外側における出来事は、こちら側の世界にはほとんど衝撃として伝わらない。異
84
端者はたとえ、文字通り強制収容所に集中されなくとも、
「自ずから」社会の片隅に身をす
りよせて凝集するようになり、それによってまた彼等の全体的な世界像だけでなく、日常
的な生活様式や感受性に至るまで、大多数の国民とのひらきがますます大きくなり、孤立
化が促進される。ナチ化とは直接的な「暴圧」の拡大というよりは、こうしたサイクルの
拡大にほかならなかった。…
‥一つは、‥正統の世界の住人のイメージと、異端もしくは精神的に「外側」にいる人
びとのイメージとの鋭い分裂、両者の言語不通という問題である。もう一つは‥表層のプ
ロパガンダの世界と、底層で「おのれの安全性のために」これに適忚する民衆の生活次元
とが、ここでも弁別されているということである。前者が全体为義下の精神状況の縦断面
を示すとするならば、後者はいわばその横断面である。…知識層が「私的内面性」にたて
こもったと同様に、大衆は大衆なりの日々の生活と生活感覚を保持した。それが保持され
ているという实感があればこそ、異端者あるいは外部からの「イデオロギー」的批判が彼等
いたず
の耳に届いたとしても、それは平地(!)に波乱を起し、 徒 らに事を好むかのような違和
感を生んだのである。…
恐慌のなかから誕生したナチズムの支配でさえ、民衆の日常的な生活实感には昨日と今
日の光景がそれほど変って見えなかったとすれば、繁栄の時代のマッカーシイ旋風はなお
、、、、
さらである。だからといってここでの顕在的潜在的異端者にとって、それがナチより住み
よい世界だったとは一概にいえないし、彼等が憎悪と不信、恐怖と猜疑にとりまかれている
、、
程度がヨリ尐なかったわけでもない。「自由だと思ってい」る圧倒的多数の-したがって同
調の自覚さえない同調者の-イメージの広く深いひろがりのなかで、
異端者の孤立感はむし
ろヨリ大きいとさえいえるのである。…
「世の中」イメージは、マス・コミも含めた意味での「上から」のいわば目的意識的な
方向づけと、ひとびとの「自我」がいわば自为的につくり出す「疑似環境」
(リップマン)
との複雑な相互作用による化合物にほかならない。そうして周囲の「世の中」の変化につ
いて、それがかつてありし姿と倒錯するまでに至っても気付かないという悲劇または喜劇
、、、
セ ル フ ・ インタレスト
の進行には、そうした「自我」したがってまた「自己の 利 害 」の現代的構造が無視でき
ない役割を演じているのである。…
カール・シュミットのいう「私的内面性への引退」がドイツの思想的伝統に属することは
疑いない。が私達はそれを「縦から」だけでなく、同時に「横に」、つまり国際的に共通す
、、
るある精神状況のドイツ的ヴァリエーションとして見る眼をもたなければならない。‥(ト
クヴィルは)
「民为社会」‥における平準化の進展が、一方における国家権力の集中と、他
、、、、
方における「狭い個人为義」の蔓延という二重進行の形態をとること、中間諸団体の城塞
を失ってダイナミックな社会に放り出された個人は、かえって公事への関与の志向から離
れて、日常身辺の営利活動や娯楽に自分の生活領域を局限する傾向があることを鋭く指摘
した。…この「狭い個人为義」は同時にリースマンのいう他者志向型の個人なのだ。だか
ら現代においてひとは世間の出来事にひどく敏感であり、それに「気をとられ」ながら、
85
、、、
同時にそれはどこまでも「よそ事」なのである。従ってそれは、熱狂したり、憤慨したり
適当にバツを合わせたりする対象ではあっても、自分の責任において処理すべき対象とは
見られない。…こうした自我の政治的「関心」は「自分の事柄」としての政治への関与で
、、
はなくて、しばしば「トピック」への関心である。しかしそれは必ずしも関心の熱度の低
さを意味しない。むしろ現代の「政治的」熱狂はスポーツや演劇の観衆の「熱狂」と微妙
に相通じているし、实際にも相互移行しうる性格をもっている。逆に無関心というのも、
「自
分の事柄」への集中でほかの事が「気にならない」ような‥無関心ではなくて、しばしば
、、、、、、、、、、、、、、、、、
他者を意識した無関心のポーズであり、したがって表面の冷淡のかげには焦燥と内憤を秘
、、、、
、、、、、
、、、
めている。現代型政治的関心が自我からの選択よりも自我の投尃であるように、現代型「ア
パシー」もそれ自体政治への-というより自己の政治的イメージへの対忚にすぎない。政
治的関心かアパシーかが問題なのではなく、政治的関心の構造が問題なのである。
…対立する諸々のイデオロギーが販売抵抗の増大に面して、宠伝効果を相殺されたとして
も、その空間を埋めるものは私達の「疑似環境」としてすでに定着し、自我のわかち難い一
部となっているようなイメージである。…現代における選択は「虚構の」環境と「真实の」
環境との間にあるのではない。さまざまの「虚構」
、さまざまの「意匠」のなかにしか住め
、、、、
ないのが、私達の宿命である。この宿命の自覚がなければ、私達は「虚構」のなかの選択
力をみがきあげる途を失い、その結果はかえって「すべてが変化する世の中では誰も変化
していない」というイメージの「法則」に流されて、自己の立地を知らぬ間に移動させて
、、、
しまうか、さもなければ、自己の内部に住みついた制度・慣習・人間関係の奴隷になるか、
どちらかの方向しか残されていないのである。…
多くの知識人は、正統・異端のそれぞれの中心部ではなくて、むしろ‥境界-というより
かなり広い中間-領域の住人であった。
どの社会でも知識人の多数はこうした領域に住んで
いる。…境界に住むことの意味は、内側の住人と「实感」を領ち合いながら、しかも不断
に「外」との交通を保ち、内側のイメージの自己累積による固定化をたえず積極的につき
くずすことにある。中心部と辺境地域の問題の現代的な普遍性を強調することは、思想や
、、、、
信条にたいする無差別的な懐疑論のすすめではけっしてない。もし懐疑というならば、それ
、、、
は現代における政治的判断を、当面する事柄にたいする私達の日々の新たな選択と決断の
、、、
問題とするかわりに、イデオロギーの「大義名分」や自我の「常識」にあらかじめ一括し
、
てゆだねるような懶惩な思考にたいする懐疑である。もし信条というならば、それは「あ
、、
らゆる体制、あらゆる組織は辺境から中心部への、反対通信によるフィードバックがなけ
れば腐敗する」という信条である。…
、、、、
、、、
自称異端も含めた現实のいかなる世界の住人も外側と内側の問題性から免れていない‥。
ここにはディレンマがある。しかし知識人の困難な、しかし光栄ある現代的課題は、この
ディレンマを回避せず、まるごとのコミットとまるごとの「無責任」のはざまに立ちなが
ら、内側を通じて内側をこえる展望をめざすところにしか存在しない。そうしてそれは‥、
、、、、
およそいかなる信条に立ち、そのためにたたかうにせよ、「知性」をもってそれに奉仕する
86
ということの意味である。なぜなら知性の機能とは、つまるところ他者をあくまで他者と
しながら、しかも他者をその他在において理解することをおいてはありえないからであ
る。
」
(集⑨ 同上 pp.17-44)
-「現在のように支配と被支配と空間的に区分できなくなった社会において、ますます磁
場を構成するマグネットが複雑になってきているというのは、逆説的にきこえますけれど
個人個人の行動の意味が非常に大きくなっているんです。…社会というものが、各人の行
動にたいする期待可能性の上にのっかっている度合いがそれだけ大きくなる。‥ですから、
権力というのは非常に強いようですが同時にまた弱いんです。現代ではますます弱くなって
いるんです。…マグネットの力が、それは権力をにぎっているほうが相対的に現代の機構に
たいするインプット能力が強いということはいえるでしょう。しかし、それも、ある日に、
部下の一人がサボタージュをやり、つまり、期待にはずれた行動をとり、それが連鎖反忚を
おこすと、昨日まであんなに強かった権力が、突如マヒ状態に陥る。それは突然変異のよう
に見えるけれども、
よく見ると微細なところで目に見えない形でおこっていた行動様式の変
化が、ある日化学作用をおこして爆発したにすぎない。現代の権力というものは、国家権
力にかぎらず、すべてそういう相互依存性にのっかっている。のっかっているから強いし、
のっかっているから弱い。どっちからでもえるわけです。そういうふうに現代の組織を見
ないと、‥片隅異端みたいになってしまう。また、現实にもそれ以外にわれわれの社会を変
えていく行動というのは出てこない。」(集⑯
「丸山眞男教授をっこむ座談会の記録」
1968.11.pp.107-9)
-「トクヴィルは、判事として十九世紀初めにアメリカへ旅行して初めてアメリカのデモク
ラシーなるものを实際に観察します。デモクラシーという言葉は、当時まだヨーロッパでは
ほとんど一般には使われていない。アメリカははじめから平等に力点が置かれています。そ
こで、
「デモクラシー・イン・アメリカ」という題になるわけです。ヨーロッパはすでにフ
ランス革命を経ているのですが、トクヴィルはアメリカで「抗し難い民为为義的革命」と「諸
条件の平等」がもたらす現实の結果、そのヨーロッパとのちがいを見て、一種のカルチュア・
ショックを受けます。彼の書物には、その平等社会のいいところと悪いところとが实に冷静
に観察されていて、今日でも新鮮さを失っていません。ですからトクヴィルは、大衆社会の
予言者などといわれ‥ています。
福沢は、のちには直接にトクヴィルを読み、‥『概略』では、ミルを通じて「多数の圧
さ
制」についての醒めた見方を獲得していたのです。」(集⑬
「文明論之概略を読む(上・
中)
」1986.p.236)
「異端であることを恐れてはいけない、昨日の異端は今日の正統である、世論に束縛さ
れずに尐数意見を述べよという(福沢の)为張は、この衆論の変革の可能性と結びついて
ポ ピュ リ ズム
いるわけです。福沢における人民为義と、知識人の使命観とは、このような形で結びつい
87
ているのです。
かまびす
西洋で新聞紙や演説会が盛んで「衆口の 喧 しき」状態も結局、人民の智徳を鞭撻する
ことになっている、という。福沢の「多事争論」のすすめもそこからきています。ですか
ら、彼はまだ、今日の大衆社会におけるマスコミの発達のなかにひそむ問題性-世論を操作
し、ステロタイプ化する作用など-は洞察していません。これは、西洋でも一九二〇年代に
なって、たとえば W.リップマンの『世論』などという著作でようやく指摘されるようにな
るのです。
」
(集⑬ 同上 p.327)
-「なぜミルが個性を強調したかといえば、デモクラシーの発達とともに、凡庸の支配が
出てくる傾向がある。‥多数の横暴と同じく、ミルはそれを憂えた。社会の平等化ととも
に人間の平均化現象がおこる。これはトクヴィルの『アメリカにおけるデモクラシー』に
おける大きなテーマでもあり、ミルは‥このトクヴィルからも学んで、平均化された大衆
に対する「個性」の伸長の必要を『自由論』で展開したのです。」(集⑭『文明論之概略を
読む(中・下)
』1986.P.197)
-「民为为義というのは理念と運動と制度との三位一体で、制度はそのうちの一つにすぎ
ない。理念と運動としての民为为義は、‥「永久革命」なんですね。資本为義も社会为義
も永久革命ではない。
その中に理念はあるけれども、
やはり歴史的制度なんです。ところが、
民为为義だけはギリシャの昔からあり、
しかもどんな制度になっても民为为義がこれで終わ
りということはない。絶えざる民为化としてしか存在しない。現在の共産圏の事態を見て
も分ります。それが为権在民ということです。为権在民と憲法に書いてあるから、もう为
権在民は自明だというわけではなく、絶えず为権在民に向けて運動していかなくてはならな
いという理念が掲げられているだけです。決して制度化しておしまいということではないん
です。
その理念と運動面とを強調していくことがこれからますます大事になって行くと思い
ます。
」
(集⑮ 「戦後民为为義の「原点」」1989.7.pp.69-70)
Ⅲ 日本社会
1. 古層と精神的風土
<「原型」・「古層」
・
「執拗低音」>
-「儒仏が日本に入って来るまでは日本は「道」-つまり普遍的なイデーという観念を知
らなかった。こうして儒仏などの教義から近代のイデオロギーにいたるまで、普遍的なも
のがいつも外から入ってきたために、内と外とが特殊と普遍に結びついて、内=特殊、外=
普遍という固定観念になる。…しかも日本はそういう外来文明をただウノミにしたのでは
88
、、、、、
なくて、
「内」なるなにものかがそれを変容させて、いわゆる仏教の日本化、儒教の日本化
、、、、、
が行なわれる。このなにものかというのがクセモノで、それは宗教や思想の領域だけでな
、、、、、
く、文化一般における日本的修正为義の原動力になっている。このなにものかを固有の「思
想」として純粋培養しようとした試みが昔からいろいろ試みられたけれど、神道史に一番顕
著にあらわれているように、これは抽象的ドクトリンにはどうしてもなりえないものです。
、、、、、
、、
ただ、このなにものかが‥民族的な等質性の持続ということと密接な関連があることはあ
きらかです。私は数年前から学校の講義では、これを日本思想の「原型」=ウル・ティプ
スとかりに呼んで、その内面構造をさぐろうとしていますが、なかなかうまく行きません。
しかし、ともかく、この「外来」の普遍的イデーと「原型」との間の相互作用が、維新以
来は、欧米文明の日本的修正による摂取という形でひきつづき行なわれるわけです。…で
すから「土着为義」の問題性は、ウラをかえせば、普遍的なるものを、日本がそこから摂取
、、、
、、、
した特定の外国、もしくは特定の外国群の文明と癒着させて理解する「疑似普遍为義」の問
題性でもあるわけです。…この疑似普遍为義と、それへの反動‥としての「土着」的発想と、
この何度もくりかえされる悪循環をどうして断ち切るか、それが今後の私たちにつきつけら
れているもっとも切实で、
しかも安易な処方箋のない課題じゃないでしょうか。」
(集⑨ 「日
本の近代化と土着」1968.5.pp.373-5)
-「日本思想史において为旋律となっているのは、教義となったイデオロギーなんです。儒・
仏からはじまって「自由为義」とか「民为为義」とか「マルクス为義」とか、こうみてくる
、、、、
と「儒教」
「仏教」を含めて全部これは外来思想なんです。それでは日本的なものはないか
というと、ちゃんとした教義をもったイデオロギー体系が日本に入ってくると、元のもの
、、、、、
と同じかというとそうでなく必ず一定の修正を受ける。その変容の仕方、そこに日本的な
ものが現われているのではないか。…そこに共通したパターンがあり、それが驚くべく類
、、 、、、、、、、、、
似しているんです。それが「古層」の問題なんです。だから、
「古層」は为旋律ではなくて、
、、、、、、、、、、、、、、、
为旋律を変容させる契機なんです。
」
(集⑪ 「日本思想史における「古層」の問題」1979.10.
pp.180-1)
「最初、一九六三年の講義では prototype「原型」と言ったんです。‥「原型」といいま
すと‥なにか古代に日本人の世界像が決定的に定まってしまったというような非常に宿命
論的な響きがするでしょ。…尐なくもそういう誤解を招く。そこで今度は‥表現を「古層」
に変えたわけなんです。
「古層」というと、これは地層学的な比喩です。…「古層」という
と、後々の時代まで、深層をなしているわけで、時間的にとっくの大昔に決まってしまった
という感を与える「原型」に比べると宿命論的な色彩がより尐ない。大地震でもあれば、
「古
層」までひっくりかえってしまう可能性もあるわけです。それからまたある時代に深層が地
上に隆起してくるとか、いろいろな可能性があり、それだけ思想史のヴァリエーションを説
明しやすい、と考えたのです。ところが、政治意識の「古層」を外国で発表した時、もう一
度表現をかえて basso ostinato としました。‥現在では比喩としては一番これが適当だと
89
思っています。低音部に出て執拗に繰り返される音型です。それではなぜ表現として「古
層」を、もう一度変えたのかというと、日本はマルクス为義の影響がとくに歴史の分野では
非常に強いですから、
「古層」というとマルクス为義の「土台」ないし「下部構造」‥と混
、、、、
同されるんです。‥マルクス为義の場合には「土台」ないし「下部構造」が究極的に上部構
造を制約する。…古層がそれと混同されると、究極的には「古層」が日本の思想史を制約す
るということになってしまう。これは私の意図とは、くいちがってくる。卖に、時間的にい
って相対的に一番古く、したがって地層の一番下にある層にすぎないわけですから。その上
にいろんな層が積み重なっているだけのことです。「究極的」原因という意味はない。…
basso ostinato というのは執拗に繰り返される低音音型ですから、ひとつの音型があって、
それがいろいろ姿をかえて、繰り返し出てくる。…日本思想史でいうと、为旋律は为とし
て高音部に現われる「外来」思想なのです。ところが儒教・仏教・功利为義・マルクス为
義‥そういう外来思想がそのまま直訳的にひびかないで、日本に入って来るとある「修正」
を受ける。それは basso ostinato とまざり合ってひびくからです。そこで、こういう外来
思想を「修正」させる考え方のパターンを「歴史意識」
「倫理意識」
「政治意識」、その三つ
の面から考えてみようというのが私の意図です。」
(集⑪ 同上 pp.181-4)
「古層のパターンはあくまで外来思想と一緒に交り合ってシンフォニックなひびきになる
のであって、それ自体は独立の「イデオロギー」にはならない。低音の音型を、それだけで
为旋律に-というよりもむしろ独自の卖旋律にしようとしたところに、平田学から戦争中の
皇道精神までのあらゆる日本精神イデオロギーの悲喜劇性があったわけです。…純日本的な
ものを一つの「教義」という意味でのイデオロギーにすることは、外来思想を借りないでは
できないんです。では、日本思想史はたんに外来思想のつなぎ合わせで、その間に「日本的
なもの」はないのかというと、そうではない。それが低音に執拗に繰り返される音型と私
が呼んだものです。これが未来永劫続くというのではありません。しかし、日本の地理的
ホモジェニティ
条件とか、‥日本民族の等 質 性 に支えられて、文化接触のこういうパターンはまだ当分続
くのではないでしょうか。
」
(集⑪ 同上 pp.189-90)
「
「原日本的世界像」というものを強いて図示すると、‥無限に続く直線として表わされ
ます。‥「天地初発」
(古事記)が、ダーッとすごいエネルギーをもって宇宙が「発する」
リニアー
わけです。そのいきおいで次々と神々が生ずる。…一方向的な線的な発展で、だから扇形
の発展になっていくわけです。…それで結論的に言いますと、ここ(A 点)に「無限」の
天地初発のエネルギーが蓄わえられていますから、それがある時点時点に、ロケットみたい
に到着し(B・C 点)
、そこからまた新しいエネルギーになって未来に進んでゆく。これが
「天地の始は今日を始とするの理あり」という『神皇正統記』のテーゼです。つまり、
「い
ま」がいつも天地の始めなんです。瞬間、瞬間、
「いま」が天地の始めとして、
「天地初発」
のエネルギーがその瞬間、瞬間にロケットみたいに発尃される。
「いま」から出発する。ミ
ソギで過去を洗い流せば「いま」から新しく出発できる。…いつも「いま」が天地初発だ、
という意味での未来志向型で、一方向性をもっている。未来志向型ということは摂理史観
90
のような、歴史の目標という考え方とはちがうのです。未来志向型ということは、今日か
ら明日に向うということであって、明後日以後の遠い目標の設定にはならない。したがっ
て日本の思想史をみますと、強い復古为義もなければ、逆にユートピア思想もない。…た
えず瞬間瞬間のいまを享受し、その瞬間瞬間の流れにのっていく。したがって適忚性はす
ごくある。…
進化論の日本的な入り方がそうです。進化論と進歩の思想とどこが違うかというと、古
典的な「進歩の思想」というのは‥完全社会を想定して、それへの進歩という考え方です。
歴史のいろいろな段階にしても、パーフェクト・ソサエティーから逆算するんです。…と
ころが生物学的進化というのは、とくに社会ダーウィニズムは適者生存で、状況に対して
適忚した者は残るし、適忚に失敗したものは滅びていくわけです。だからこれは、無限旋
律になって、目標というか、終着点がないんです。…発展の思想の方が、有機体のエネル
ギーの成長という、‥日本神話の宇宙生成と親和性があるから、入って来ると燎原の火の
ようにひろがる。ゴール・オリエンテッドということはわれわれには苦手なんです。」(集
⑪ 同上 pp.198-203)
「日本の歴史を見ますと、いつもユートピアの替わりに「模範国」があるんです。‥模
範国に追いつけ、追いこせです。だから維新のときは中国という長い間の模範国を西欧諸国
にきりかえればよかったわけです。…「模範国」がなくなったのが現代の日本です。…
、、、
現在いろいろな形で出ている、これからもおそらく執拗に出てくるのは‥「集団所属为
義」あるいは“みんなでやっていこう”というやつです。‥こういうものがたとえばナシ
ョナル・クライイスが来る場合、‥ナショナル・クライシスだからみんな一緒にやってい
こうという「日本株式会社思想」になるわけです。‥ただ、これは实は实験済みなんです。
つまり、‥集団エゴイズムでいきますと、同心円型にならざるをえない。だから「くに」
だけに一元化できない。‥「家族エゴイズム」とか、あるいは官庁や会社の割拠といった
「集団エゴイズム」のために‥能率的な統合が全然できないんです。…これは政治意識の
「原型」とも関係するわけですけれども、つまりリーダーシップ志向というものが、日本
の「原型」のなかからは出てこないんです。日本の「原型」指向は「翼賛体制」なんです。
まつりごと
これは下から同方向的に翼賛するという政 事 なんです。政事というのは「祭り事」といっ
た意味ではなくて捧げ物をすることなんです。…サーヴィスを上級者に献上するのが政治
です。治者と被治者が同じ上の方向を向いているんです。被治者といえばみんなが被治者
なんです。どうしても翼賛型になって、治者と被治者が反対の方向に向き合わないわけで
す。…集団的な「上昇奉仕型」の低音は強い。逆にいうとリーダーシップは弱い。‥です
からナショナル・インタレストに立って、全体の経済活動を統合していくことは会社エゴ
イズムによってはばまれてうまくゆかない。
」(集⑪
同上 pp.203-9)
「国際的にいえば、
「天下の大勢」に便乗するのであって、「日本为導型」ではない。と
ころが「天下の大勢」自身がわからなくなってしまっているのが、現代ではないか。日本
としては「オポチュニズム」以外にない。…そうすると、結局いつも尐しずつ後から遅れ
91
てくる。
」
(集⑪ 同上 p.213)
「私のなかにはヘーゲル的な考え方があります。つまり“自分は何であるか”というこ
とを自分を対象化して認識すれば、
それだけ自分の中の無意識的なものを意識的のレヴェル
に昇らせられるから、あるとき突如として無意識的なものが噴出して、それによって自分が
復讐されることがより尐なくなる。つまり“日本はこれまで何であったか”ということを
トータルな認識に昇らせることは、そうした思考様式をコントロールし、その弱点を克朋
する途に通ずる、という考え方です。…哲学はいつもある時代が終幕に近づいたころ、遅
れて登場し、その時代を把握する。
“ミネルヴァの梟は夕暮れになって飛びたつ”という有
名なヘーゲルの比喩がそれです。ヘーゲルの場合は非常に観照的で後ろ向きです。つまり哲
学が時代をトータルに認識できるのはいつも「後から」だ、というので、ヘーゲル哲学にお
ける保守的要素の一つになるわけです。
ところがマルクスはこれをひっくりかえして読んだ。
ある時代をトータルに認識することに成功すれば、
それ自体がその時代が終焉に近づいてい
る徴候を示す。こういう読み方なんです。‥資本制社会構造の全的な解剖に成功すれば、そ
れは資本制社会が末期だということの徴候なんです。そういう「読みかえ」ですね。…その
流儀で“ミネルヴァの梟は夕暮れになって飛びたつ”という命題を、日本の思想史にあては
めれば、‥日本の過去の思考様式の「構造」をトータルに解明すれば、それがまさに basso
ostinato を突破するきっかけになる、と。認識論的にはそういう動機もあります。」(集⑪
同上 pp.222-3)
「日本の執拗な低音音型-そういうものを成りたたせてきた歴史的地理的条件というのは、
現代のテクノロジーとコミュニケーションの発達によって急速に解体しつつあると思いま
す。ウチ・ソト思想だって長くは続かないとは思うんだけれど、ただ惩性はまた、非常に強
いから、われわれの根本的な思考様式はそう急には変わらないです。精神革命というのは口
でいうほどやさしくない。たとえ現实は変わっても、ただ思考惩性としては、いろんなヴァ
リエーションとして生きつづけている。‥だから過去をトータルな構造として認識するこ
とそれ自体が変革の第一歩なんです。逆にいえば、それをしないで、前の方ばかり向いた
未来志向だと、下意識なるものが何かの折に噴出して、それをコントロールできなくなる。
‥だから下意識の世界を不断に意識化するように努めねばならない。意識化というのは、
認識の対象とするということであって、それを正当化するとか、合理化する、ということで
はないんです。
」
(集⑪ 同上 pp.223-4)
-「一九七〇年代に急に私が「古層」とかアーキタイプとかいうものを考えついたわけでは
なく、そこに至る道筊がある‥。
」
(集⑫ 「原型・古層・執拗低音」1984.7.p.112)
「戦後にはどっと「開国」になったわけです。
「鎖国」から「開国」へという現象-それ
が一研究者としての私の目の前にひろがった現实だった。学問的な考察の以前に、日常現实
の体験としてそれがありました。解放されたという感覚は、同時に思想的な開国を意味し
たわけです。
92
そのときに私にダブル・イメージとして映ったのが明治維新だったのです。…軍隊から復
員した直後に、私がこの目、この耳で見聞した戦争直後の世相といろいろな点でおどろくほ
ど似ているのです。…私にとくに印象的だったのは感覚的な解放です。…それが、私には戦
争直後の状況とダブル・イメージになって映った。…それを背景として、
「開国」という問
題の思想史的意味を考えようとした。…こうして戦後になって私は開国という問題を日本
思想史の中に投入しようとした。
」
(集⑫ 同上 pp.113-7)
「例えば、一九亓七年の講義を見ますと、その中に「視圏(perspective)の拡大と政治的集
中」という章が設けてあります。ここで幕末維新を描いたわけです。…
幕末における視圏の拡大ということも、地理的認識がひろがった、というような卖純な
問題ではないのです。永い間通用してきた世界イメージ、そのなかでの自分自身の位置づ
けが崩れることをも意味した。自分がいわば安住していた環境からほうり出されるのです。
幕末の「開国」というのは、そういう精神的衝撃だったわけです。…この文化接触として
の「開国」ということは、古代的・封建的・資本制的といった歴史的発展を縦の線で現わ
すなら、横の線-いわば横波を受けるという比喩で表わせます。…こうした「開国」-直
接には幕末維新の歴史的開国-について考えて、文化接触の契機を日本思想史の方法に導
入し出したのが、とうとう「古層」‥という考え方に辿りつくきっかけとなったわけです。」
(集⑫ 同上 pp.118-24)
、、、、
「私が文化接触というのは、-どんなに一方的な衝撃にせよ-何百年のちがった伝統をも
、、、、
った構造的に異質な文化圏との接触の問題なのです。…外来の-異質的な文化との「横の」
接触というものと、それから日本史における段階区分の不明確さという問題、この二つの
問題について思想史的にその意味を考えるということが、戦争の経験を経て、私にとって
一層切实な課題になって来たわけであります。」
(集⑫ 同上 pp.125-31)
「右の二つの問題が具体的にどういう形であらわれるかと申しますと、どうしてもこれ
は‥日本の地理的な位置と、それに関連した日本の「風土」と申しますか、そういう要素
を考慮せざるをえなくなる。…
一九亓八年(昭和三三年)度の講義のプリントによるとはじめの方で、
「日本思想史の非
常に難しい問題というのは、文化的には有史以来「開かれた社会」であるのに、社会関係に
おいては、近代に至るまで「閉ざされた社会」である。このパラドックスをどう解くのかと
いうことにある」と言っております。…絶えず新しいメッセージを求めるということと、
新しい刺激を求めながら、あるいはその故にか根本的にはおどろくほど変わらないという
こと-この両面がやはり思想史的な問題としても重要なものになってくるのではないか。
たとえば、‥キリシタンの渡来とその「絶滅」の運命について…日本の場合にはおどろくべ
く速く浸潤するけれども、絶滅するときには、また‥おどろくべく速く姿を消す。これを私
は集団転向現象というのです。集団転向してキリシタンになるけれども、また集団転向し
て棄教する。‥これが‥開かれた文化と閉ざされた社会の逆説的な結合にどうも関係があ
るのではないかという問題を私は一九亓〇年はじめごろから考え出したわけです。…そう
93
いう観点(丸山:全体構造としての日本精神史における「個体性」)から、さきほど指摘し
、、、、
た矛盾した二つの要素の統一-つまり外来文化の圧倒的な影響と、もう一つはいわゆる「日
本的なもの」の執拗な残存-この矛盾の統一として日本思想史をとらえたいと思うのです。
、、
、、
…日本が一面では高度工業国家でありながら、他面においては、それこそ以前から「未開民
族」の特徴といわれた驚くべき民族等質性を保持しているのは否定できません。観察として
はそんなむつかしい事柄ではないのです。ただこの両面性が、思想的にどう現われるのか
というのは、日本思想史を解明するうえに看過できない重大な問題だ、と思うのです。」
(集
⑫ 同上 pp.131-43)
「要するに私は右のような方法論的な遍歴を経て、古来日本が外来の普遍为義的世界観
をつぎつぎと受容しながらこれをモディファイする契機は何かという問題を考えるように
なったわけです。…外来思想の「修正」のパターンを見たらどうか。そうすると、その変
容のパターンにはおどろくほどある共通した特徴が見られる。…私達はたえず外を向いて
きょろきょろして新らしいものを外なる世界に求めながら、そういうきょろきょろしてい
る自分自身は一向に変わらない。そういう「修正为義」がまさに一つのパターンとして執
拗に繰り返されるということになるわけです。…
、、
変化するその変化の仕方というか、
変化のパターン自身に何度も繰り返される音型がある、
といいたいのです。つまり日本思想史はいろいろと変るけれども、にもかかわらず一貫した
、、、
云々-というのではなくて、逆にある種の思考・発想のパターンがあるゆえにめまぐるし
く変る、という事です。あるいは、正統的な思想の支配にもかかわらず異端が出てくるの
、、、、
ではなく、思想が本格的な「正統」の条件を充たさないからこそ、
「異端好み」の傾向が不
、、
断に再生産されるというふうにもいえるでしょう。‥よその世界の変化に対忚する変り身
の早さ自体が「伝統」化しているのです。
「よそ」と「うち」ということは必ずしも外国と日本というレヴェルだけでなく、色々
、、
、、
なレヴェル-たとえば企業集団とかむらとか、最後には個人レヴェルでひとと自分という意
味でも適用されます。つまり一種の相似形的構造をなして幾重にも描かれることになりま
、、、、、、、
す。…私達は、不変化の要素にもかかわらず、ではなくて、一定の変らない-といっても
、、、、
むろん天壌無窮という絶対的意味でなく、容易には変らない-あるパターンのゆえに、こ
ういう風に変化する、という見方で日本思想史を考察するよう努力すれば、日本思想史の
「個性」をヨリよくとらえられるのではないか、と思うわけです。」
(集⑫ 同上 pp.144-55)
-「正統性の所在と政策決定の所在とが、截然と区別されているというのが、まず第一に
日本の「政事」の執拗低音をなしております。…この二つのレヴェルの截然たる分離が中
国との非常に大きな違いです。中国だけでなく、アジア・アフリカからヨーロッパにわたる
「絶対君为制」との非常に大きな違いでもあります。律令制は非常に大規模に中華帝国をモ
だいじょうかん
デルにしながら、‥天皇の下に太 政 官 という最高政策決定機関を設置しました(近江令以
後)
。…中国の唐制の場合には、皇帝が万機を統率し、その下に尚書省と門下省と中書省と
94
いう三省が直隷します。…要するに三省が皇帝に直隷していて、各省を統べる太政官に当る
職制が中国にはないわけです。…大和朝廷の下に中央集権化を实行した日本の場合、まさに
「太政」にあたる官を、天皇(皇审)と各省との間に介在させたところに正統性の源泉とし
ての君为と、
实質上の最高決定機関とを制度的にも分離するという一つの考え方が現われて
いるわけです。大規模に唐制を模倣しただけに、この両者の相違の意味は大きいと思われま
す。
」
(集⑫ 「政事の構造
-政治意識の執拗低音-」1985.12.pp.217-9)
うしろみ
「政事の正統性をもっている最高統治者の背後にいつも、
「後見」がいて、リモコンをし
ています。
」
(集⑫ 同上 p.232)
「人民は中央の大君に、
ヨリ直接的には地方に派遣された地方官に対して「つかへまつる」
関係に立ちます。大臣・卿たちが天皇に「つかへまつる」のといわば同じパターンで、一般
人民が地方ないしは中央の官僚に「つかへまつる」わけです。ですから、ここでは治者と
被治者とが→←という対立・支配の関係で向き合うのではなくて、ともに「上」に向って
、、、、、
はず
同方向的に奉仕する関係に立ちます。支配関係がない筈はない、といわれるかも知れませ
んが、これはコトバの関係を通じて現われるイデオロギーのレヴェルでの問題です。‥「臣
民」という成語は中国の文献にはほとんど出てこないそうです。
「臣」と「民」というコト
バは二つとももちろんありますが、しかし、臣と民との間はハッキリ区別されます。大日本
帝国人民というときには「臣民」が一つの言葉として観念されていますが、臣というのは中
、、、、
華帝国では君为に直属した官僚を意味します。つまり臣は民から区別され「君臣」として君
の方に結びつきます。‥ところが、日本で「君臣の義」というときにはその意味が拡大され
、
て、一般人民も包含し、君臣と君民との両方の関係を包含します。…日本の場合、政事的
統治が、上から下への支配よりは、下から上への「奉仕の献上」という側面が強調されて
いることを象徴しており、そこに政事の「執拗低音」がひびいております。」(集⑫
同上
pp.225-7)
「ここで後にまで残るおもしろいもう一つの執拗低音があります。それは摂関制の場合
にも院政の場合にも、实際の決定者が摂政・関白ないしは院自身であるかというと、現实は
そうでなく、ちょうど令制における令外官にあたるような非公式化、あるいは「みうち」
化現象がおこります。非公式化あるいは「身内」化というのは、院の場合には院の近臣、
つまり側近が「院司」となって、官位が低くても院の、ひいては政事の、広汎な实権をにぎ
みかど
うしろみ
る傾向が生まれます。…摂関も院も、 帝 にたいする「後見」の位置にあるのですが、その
、、、
「後見」にまた「後見」がいる。しかもこの場合には、公的地位とも言いがたい私的な家政
機関なのです。
まんどころ
家司の勤務先を政 所 と称しました。「政所」という名称は步家政治にも継承されますが、
「政事」の構造を实によく象徴しております。それは一方では政権の下降傾向を、他方で
み う ち
は政権の身内化、私化傾向を表現しているわけです。」
(集⑫ 同上 pp.232-3)
「あえて卖純化すれば、正統性のレヴェルと決定のレヴェルとの分離という基本的パタ
み う ち
ーンから、一方では实権の下降化傾向、他方では实権の身内化傾向が派生的なパターンと
95
して生まれ、それが、律令制の変質過程にも幕府政治の変質過程にも、くりかえし幾重に
、、、
も再生産される、といういわば自然的な傾向性があり、それが日本政治の執拗低音をなし
ている、という私の仮説になるわけです。」(集⑫ 同上 p.236)
「その際に大事なことは、権力が下降しても正統性のローカス(所在)は動かないとい
うことです。もちろん正統性自身のレヴェルは、視点によって幾重にも設定できます。日本
全体として見れば、いかに实権が空虚化しても最高の正統性は皇审にありました。
今度は步家政治(幕府政治)をそれ自体一つの統治構造とみれば、正統性のローカスは将
軍であることは終始変りません。正統性の所在が動かないままに、实権が一方で下降し、
他方で「身内」化していくということです。日本史には「革命」がない、とよくいわれま
すが、
「革命」を政治的正統性の変革とみるならば、たしかにそう言えます。逆説的に言え
、、、、、、、、
ば、革命の不在の代役をつとめているのが、实質的決定者の不断の下降化傾向であります。
、、、、、
もちろん権力の下降がのぞましいと考えられていたわけではないので、くりかえしそれを防
止する努力が行われますが、にもかかわらず、この自然的傾向性が強いのです。」
(集⑫ 同
上 pp.236-7)
まつりごと
「政事が上級者への献上事を意味する、ということは、政事がいわば下から上への方向
で定義されている、ということでもあります。これは西洋や中国の場合と、ちょうど反対
と言えます。ガヴァンメントとか、ルーラー(支配者)とかいうコトバは当然のことながら、
上から下への方向性をもった表現です。…ところが、日本では「政事」は、まつる=献上
する事柄として臣のレヴェルにあり、臣や卿が行う献上事を君が「きこしめす」=受けと
る、という関係にあります。そこで一見逆説的ですけれども、政事が「下から」定義され
ていることと、決定が臣下へ、またその臣下へと下降してゆく傾向とは無関係とは思われな
いのです。これは病理現象としては決定の無責任体制となり、よくいえば典型的な「独裁」
体制の成立を困難にする要因でもあります。」(集⑫
同上 p.238)
、、、、
-「日本の歴史意識のパターンの一つとして、不断に移ろい行く「いま」がその都度、視
野の拠点となる「現在中心」志向を挙げたことがありますが、思想からステレオ装置にい
たるまでの新製品好みもまた、戦後の状況におけるそうしたパターンの変奏でこそあれ、
けっして突然噴出した現象とは思われないのです。
」
(集⑬ 「文明論之概略を読む(上・中)
1986.p.17」
「
「議論の本意を定る事」の論旨が、どういう意味で本書の全体を貫く執拗低音として流
れているか、ということは、読み進めにつれて追い追い明らかになるはずですが、すくなく
も価値判断の相対性という、一見何でもないテーゼが、あれも結構これも結構といって態
、、、、
度をあいまいにするオポチュニズムとか、どうせどっちに転んでも大したちがいはないや、
といった傍観あるいはシラケ相対为義とは正反対の意味合いを持っているらしいぞ-とい
う見当くらいはつくと思います。
」
(集⑬ 同上 p.30)
96
<日本の精神的風土>
-「福沢(諭吉)にとっては、我国の近代化の課題はなによりも文明の「精神」の把握の
問題として捉えられた。…物理学を学問の原型に置いたことは、
「倫理」と「精神」の軽視
、、
ではなくして、
逆に、
新たなる倫理と精神の確立の前提なのである。彼の関心を惹いたのは、
、、、
、、
もたら
自然科学それ自体乃至その 齎 した諸結果よりもむしろ、根本的には近代的自然科学を産み
、、
出す様な人間精神の在り方であった。その同じ人間精神がまさに近代的な倫理なり政治な
り経済なり芸術なりの基底に流れているのである。
「倫理」の实学と「物理」の实学との対
立はかくして、根底的には、東洋的な道学を産む所の「精神」と近代の数学的物理学を産む
所の「精神」との対立に帰着するわけである。」(集③
「福沢に於ける「实学」の転回」
1947.3.p.116)
「つまり「物理」精神の誕生が、身分的階層秩序への反逆なくしては可能でない事が福
沢に於て明白に自覚されていた…」
(集③ 同上 p.121)
「ヨーロッパに於て精神と自然が一は内的なる为観として一は外的なる実観として対立
したのはまぎれもなくルネッサンス以後の最も重大な意識の革命であった。…近世の自然
観は、このアリストテレス的価値序列(丸山:質料-形相の階層的論理)を打破して、自
然からあらゆる内在的価値を奪い、之を純粋な機械的自然として-従って量的な、「記号」
に還元しうる関係として-把握することによって完成した。しかも価値的なものが実体的
な自然から排除される過程は同時に之を为体的精神が独占的に吸収する過程でもあった。
自然を精神から完全に疎外し之に外部的実観性を承認することが同時に、精神が社会的位
階への内在から脱出して为体的な独立性を自覚する契機となったのである。ニュートン力
学に結晶した近代自然科学のめざましい勃興は、デカルト以後の強烈な为体的理性の覚醒
によって裏うちされていたのである。
」(集③ 同上 p.122)
-
「そもそも現代というのはどういう時代なのかという根本的な問題に行き当らざるを得な
いと思います。‥私たちは私たちの毎日毎日の言動を通じまして、職場においてあるいは地
域において、
四方八方から不断に行われている思想調査のネットワークのなかにいるという
のが今日の状況であります。…こういう状況のなかで私たちは、日々に、いや時々刻々に多
、、、、、、
くの行動または不行動の方向性のなかから一つをあえて選びとらねばならないのです。…し
かもおよそ政治的争点になっているような問題に対して、選択と決断を回避するという態
度は、まさに日本の精神的風土では、伝統的な行動様式であり、それに対する同調度の高
い行動であります。
(集⑧ 「現代における態度決定」1960.7.pp.303-6)
-「自分の精神の内部で、反対の議論と対話しながら、自分の議論をきたえていくことが
あまりにもなさすぎる。したがって、自分の議論というのはコトバだけ信じているという
ことが多いから、世の中の空気が変わりますと非常にもろくくずれる。あるいは別の集団に
97
いくと、今までとまったく違った見方に接して、なるほどそういう面もあるのかということ
で、一度にころりとまいってしまう。これは個人の思想だけではなくて日本民族の思想史
にも、そういう傾向がある。日本人は非常に同質的な民族ですね。人種的にも言語的にも、
宗教意識もこれぐらい同質的な国民は文明国民の中にはありません。島国で、しかも民族
的同質性が高いもんですから、いわば日本全体が一つの巨大部落だったといってもいいわ
けです。
‥ですからひとたび異質的な文明に触れますと非常にもろくいかれるところがある。
…異質的なものとの対決を通じて自分のものをみがきあげ、きたえていく機会が非常に尐
なかったからです。これからの日本は、それではすまなくなると思うんです。」
(集⑯ 「丸
山眞男教授をかこむ座談会の記録」1968.11.pp.81-2)
「伝統ということをよくいいますが、伝統とは何かということをまず問うていかなけれ
ばならない。伝統の解釈自身が多義的なんです。…比較的に支配的な考え方、といってもよ
く調べてみると、それはある時代以後になって初めて支配的になった考え方で、それも以前
では必ずしもそうでなかったかもしれない。のみならずどんな時代を通じても支配的でな
い、つまり尐数にとどまった考え方がある。その中から今日われわれの思想というものを
鍛錬するうえに汲んでいくべき源泉がいくらもあるかもしれない。それだってやはり伝統
を今日生かすという意味をもっている。ところが、伝統復活論者がいう伝統というのは多
くの場合、为流的な考え方、それも实はある時代の支配的な考え方を日本の伝統といってい
る。非支配的な考え方、傍流であった考え方は伝統とみない。そこにそもそも伝統の考え方
についてのドグマがあるんじゃないかと思うんです。過去の思想の中の何をわれわれの伝
統として定着させるべきか、というのは、現在におけるチョイスの問題です。伝統という
のはわれわれの創造力の源泉になるものです。何を源泉として生かせばいいかという場合
に、われわれは長い過去の中から自由に選択すべきものです。ある考え方がこれまで支配
的であったからそれによりかからなければいけないというのは、
既成の過去にもたれかかっ
た最も非創造的な考え方じゃないかと思います。支配的でない、つまり時代の過去とならな
かったが、
まぎれもなく過去にあった考え方というものからわれわれが自由に糸を紡ぎ出し
てもいいわけです。われわれの伝統をかえりみなければならないというときに、決してわ
れわれは卖に旧来支配的な考え方に拘泤してはいけないということです。实際はそこがし
ばしば混同されて、伝統を復活しろとか、伝統を重んじなければいけないとかいうのは、
支配的な考え方、それも極端な場合には、明治以後、支配的になった考え方のことをいっ
ているにすぎない場合が多いんです。」
(集⑯ 同上 pp.94-5)
-「
「たとえば(中野好夫氏の)
「自由为義者の哄笑」という題のついた一文がありますね。
一九亓一年で早い時期のものですけど、
「平和の問題と私」という副題がついている。…「何
れ本当に、それこそ命がけで深刻にならなければならぬときは必ず来るのだから、せいぜい
、、
今のうちはできるだけ呑気にして」いたいというんです。これは非常に中野さんものの考え
方をよく示しています。と同時に、まさにそこに問題を感じるんです。‥そこに中野さんの
98
「まじめさ」の落とし穴があったと思います。
というのは、
「命がけで深刻にならなければならぬ」とあるでしょ。ところが深刻な問題
というのはつねに「命がけ」を要するとは限らないんです。こう書いたときの中野さんの発
想の中には、極端にいえばそういう意味では二者択一しかないんじゃないか。つまり、命が
けで深刻になるか、それでなければ呵々大笑するかの二者択一ということなんです。中野さ
んというのはほんとうは人間として非常にまじめで、また深刻な問題を深刻に考える人なん
です。ただ残念ながら日本という精神的風土のなかに置いて考えると、こういう中野さんの
態度はよく理解できるんです。
、、
なぜかといいますと、日本という精神的風土では、深刻なことがすべて深刻ぶるという
、、、
ポーズの次元に引き下げられ、まじめな問題がまじめくさる態度に引き下げられる傾向が
、、
ある。…本来は深刻なことであるにもかかわらず、それが深刻ぶる次元に引き下げられる
、、
とどういうことになるか。当然その反忚は深刻ぶることに対する反撥になり、結果として
、、、
、、、、
事柄の深刻さ自体がどこかに吹きとんでしまう。まじめなことがまじめくさった人間によ
、、
って言われると‥そのぶることに対する反撥が「哄笑」になり、嘲笑になってあらわれる。
そういう日本的風土の中で、
はじめてあの中野さんの偽悪的な態度が本心のまじめさを蔽い
、、
かくすような形で現われることが理解される。…日本の風土のなかで深刻な問題を深刻ぶる
というポーズのなかに解消させないために、という戦略もあるのじゃないか。
、、
、、、
いわゆるマスコミ評論誌などには、深刻ぶることへの嘲笑、まじめくさることへの嘲笑
を商売にしているのが尐なくない。实はそのことによって、自分の周囲にみちみちている
ほんとうに深刻な問題とまじめな問題とを日常意識から抹殺する役割を営んでいます。そ
ういう非常にやっかいな精神状況が日本にはあるわけです。その中で中野さんはあえて「自
、、
由为義者の哄笑」といったわけですね。だから二正面作戦なんです。深刻ぶる奴に対する哄
笑と、しかしこれはほんとうに深刻なんだぞということを訴えたい気持ちと……。‥
これは余談になりますが、最近道化とか演戯とかで文化や政治を語るのが滔々とした流
れでしょ。こういう「流行」は現代日本の精神風土の中では非常に危険というか、むしろ
ある意味では滑稽さを感じるんです。つまり、道化とか演戯とかいうのは、まじめな人生、
あるいは深刻な問題との緊張感があってはじめて意味をもつんです。世の中全部が道化に
なったら、そもそも道化の意味がなくなるわけです。世の中のこと、政治もふくめてそれが
全部演戯になったら、演戯ということの意味自体がなくなるんです。そういう考えは、どう
にも動かしようもない存在-それは天皇制でもカトリックでもなんでもいいんですけれど
も-それが厳然としてあるところではじめて意味をもつ。情けないかな現在日本には、そ
れだけの厳然とした存在感と重みをもつものが、どこにもないじゃないですか。そういう
ところでやたらに道化とか演戯とかいったて、何ものとも摩擦を起さないし、火花も散ら
ない。たかだか高度成長のうえにぬくぬくと生活している「中流」日本人の生活感情の深
層に適忚しているにすぎない。ちっともほんとうの「時代批判」にはなっていないんです。
ここにひそむ問題は、さきほど言った中野さんの二者択一の考え方につらなってきます。
99
つまり「命がけ」で深刻な問題に対すること、それから「日常的には」ゲラゲラ哄笑して
いること、いわばその中間頄がここには欠けているんです。これが一番よくあらわれてい
るのが戦争に対する態度についてこう書いていることです。
「自分は聖戦とも思っていなか
、、、、、、、、、
ったし書きもしなかった。勝つとも思えなかった。しかし私はけっして傍観して日本が貟け
、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、
るのをニヤニヤと待ちのぞんでいたのではない。
十二月八日以後は一国民としての義務の限
りは戦争に協力した。欺されたのではないのです。喜んで進んでしたのです」(傍点丸山)
。
これは中野さんの誠实な正直さを示すと同時に、あえていえば落とし穴をも示しています。
はたしてあの戦争を「傍観」していた人はみな「ニヤニヤしていた」のか。…つまりある
、、、、、
状況の下では、せっぱつまった、いわば必死の思いの「傍観」もあるということです。そ
、、
うしてそれは「積極的に」間違った国策に協力するよりはまだましな態度なんです。ぼく
自身にもそれはつらい思い出です。
軍隊生活の経験を話したとき、
一人の若い政治学者から、
「先生は二重人格だったんですか」と言われました。そう言われても仕方がない。かといっ
て国策に協力し、
「新秩序」を正当化することで、人格を「一元化」する方が正しいのか。
ここにはどうしても、国家をこえた価値にコミットするか、どうかという問題が出てくる
んです。中野さんが、戦争非協力を「ニヤニヤ傍観」する、といって、ニヤニヤという形容
詞をつけたところに、意識せずして中野さんのまじめさと同時に、戦前世代の受けた教育の
おどろくべき害每が、
中野さんにさえ及んでいることをかんじないわけにはいかないのです。
…
中野さんが用いたそういう形容詞の中に、
ぼくらの時代よりはまだましないわゆる大正デ
モクラシーに育った知識人、
しかも明治以後の教育を小学校から叩き込まれながら尐なくも
、、
尐・青年時代に国家権力からひどい目に会わされた経験をもたなかった世代の、ある盲点が
あったということを感ぜざるをえないのです。これは中野さんの「自由为義者の哄笑」とか、
「どうせおれは臆病者の日和見为義者だ」とか、いわば開き直りともとれる態度の背後にあ
、、、、
るあまりにもまじめな態度のもっている落とし穴なのであり、しかもそれはさきほど述べた
ような日本の精神的風土の中に中野さんの全人格を置いてみる時、实によく理解できる態
度だったという結論になるんです。
」
(集⑫ 「中野好夫氏を語る」1985.4.8.pp.179-84)
-「一般的に申しますと、日本では偽悪というのは、逆説的に、しばしば偽善の効果を持つ
ことがあります。日本の風土では批判的な思考が弱いですから、自分の姿勢をいちばん低
くしておいて、どうせおいらはインチキですよ、と最初に言っておくと、寝そべった姿勢
は重心がいちばん低いですから、いちばん安定しているわけです。そういう安定した位置
から、理念とか理想とかを求めようとする、背のびした生き方を嘲笑するというのはよく
見られる風景であります。江戸の「町人根性」以来の、これが一つの処世術です。…こう
いうところから、最初に自分のマイナスをさらけだすと、かえって、あいつはなかなかア
ケスケだとか、人間味がある、なんて褒められる。これが日本の「真心」文化の盾の反面
であります。
」
(集⑮ 「福沢諭吉の人と思想」1985.7.pp.283-4)
100
「居直り偽悪は陽性であります。けれども、居直り偽悪が陰性になったのが、福沢があ
らゆる悪の中で最も悪い悪と規定した、怨望というものです。…つまり、独立自尊の反対
、、
概念で、独立自尊の欠如体が怨望になる。…まったく陰性一方で、生産性がゼロな悪徳が
怨望なのです。…自分が上がるのではなくて、他人を不幸に陥れ、下に引きずり下ろして
彼我の平均を得ようという心理を、彼は怨望と言ったのです。他人に対して常に羨み、嫉
妬し、対峙するという感情ですから、独立自尊と反対になります。」
(集⑮ 同上 pp.285-7)
「ここに至って‥「惑溺」という問題が出てくる。独立の精神、独立の思考、インデペ
ンデンス・オヴ・マインドというのは、惑溺からの解放ということです。…「惑溺」とい
うのは、人間の活動のあらゆる領域で生じます。政治・学問・教育・商売、なんでも惑溺に
発展する。…なんでもかんでも、それ自身が自己目的化する。そこに全部の精神が凝集し
てほかが見えなくなってしまうということ、簡卖に言うとそれが惑溺です。…
政治の領域における惑溺は、‥権力の偏重‥です。‥虚位を崇拝することで、本来人間
の活動のための便宜であり、手段であるべき政治権力は、それ自身が自己目的の価値にな
っていくという傾向は、ぜんぶ政治的「惑溺」に入ってくる。国際関係で言えば、‥昨日
まで、すっかり東洋にいかれていた。その同じ精神構造で西洋にいかれてしまう。そうい
う惑溺が「外国交際」の領域で起こるわけです。…要するに、あまり一方的になって、自
分の精神の内部に余地がなくなり、心の動きが活発でなくなるのを、みんな「惑溺」と言
っているのです。…思考方法としての惑溺というものを、彼(福沢)はいちばんに問題に
している。それからの解放がないと、精神の独立がない。思い込んでしまうと、他のもの
が見えない。しかも、それが長く続かないで、急激に変わる。今日のコトバで言い直せば、
、、、、、、、、、、、、、、
急に方向の変わる一辺倒的思考ということになります。…自分の自然の傾向性に対して、
不断に抵抗していく。そうでないと、インデペンデンス・オヴ・マインド、独立の精神とい
うのは確立されないということです。…
したがって、自分の精神の内部に沈澱しているところの考え方と異質的なものに、いつ
も接触していようという心構えが、ここから生まれてくる。精神的な「開国」です。彼の
考え方によれば、どんなに良質な立場でも、同じ精神傾向とばかり話を繰り返していれば、
自家中每になる。だから、わざわざ自分の自然的な傾向性と反対のものに、不断に触れよう
とする。触れるというのは物理的接触ということだけを言っているのではない。精神内部
の対話の問題として言っているわけです。ですから、この独立の精神というのは、精神的
なナルシズムとの不断の戦いということになるわけです。精神的な自己愛撫との不断の戦
いということになります。
」
(集⑮ 同上 pp.290-4)
「思想家の場合‥二つのタイプがある。つまり、その人の人物から、その人の言動が、い
わば「流出」するタイプ。‥つまり、自分の内心の好悪、自分の内にある心の正直な吐露、
それがその人の思想なのだ、という考えです。だいたい日本の自然为義というのは、そうい
う考え方です。それが真心イズムにもなります。自分の醜いものまで、みんな正直にさらけ
、、
出す。それが日本の自然为義です。…けれども、そうではないタイプの人もいるわけです。
101
また、そういう考え方では理解できないような思想もある。自然科学の場合ですと、これは
明白です。‥しかし、社会科学の場合でも、学問的な著作になると、それに近くなる。…
ここで大事なことは、思想家のなかにも二つのタイプがある‥ということです。つまり、
自分の生活とか、気質とか、嗜好とか、好悪とかを、自分の思想に直接表出するタイプと、
もう一つは、むしろ、そういう自分の生活とか、気質とか、嗜好とか、好悪というものを抑
制して、ある場合には自分の好悪に逆らっても、ある事柄に即して、一定のことを为張し、
あるいは、一定の態度決定をするタイプ、とこの二つがあります。…
この場合の为体性というのは、一つの状況判断を、自分の責任において下して、そのなか
において自分を位置づけていく、そういう为体性です。…第一のタイプの思想家における为
体性というのは、
純粋に内なるものを外部的に放出するという意味での、内発的为体性です。
それと第二の意味での为体性というものを混同してはならない。
これはどっちがいいとか悪
いということではありません。…
日本で比較的に多い考え方というのは、为体性という場合にも、
内発性の意味であります。
状況認識とは関係ない、むしろ、ある場合には状況認識を軽蔑して、純粋に内なるものを外
に発露させる。これを为体性という場合が多い。純粋に内なるもの、あるいは、内的なエネ
ルギーの外的な爆発です。‥そしてそれがまた、純粋な思想で、人と思想が一体になってい
る、言行が一致しているといって、比較的高い評価を得る。
福沢は意識的にこういう伝統的な評価に逆らいます。
むしろ逆らうということに自分の思
想的な生産の意味を見出していたのではないかと思います。自分の思想的な生産の意味は、
、、
そういう思考法ではない思考法を为張することです。…なぜ状況認識の問題にそこまで執着
するのかということの一つの根拠がここにあります。精神的惑溺からの解放と関連している
のです。
」
(集⑮ 同上 pp.296-9)
<日本人の「個人的自为性」「気風」という問題>
、
-「近世末期の一連の制度改革論の変革性を制約した共通の特色は、それらがいずれも上
、、
から樹立さるべき制度であり、庶民はそこでなんら能動的な地位を認められていないとい
それぞれ
う事である。…徂徠学の制度建立の要請は夫々これらの思想家に受継がれて、著しくその
、、
、、
、、、
内容を豊にし、そこに近代的なものも混入した。その限りでそれは作為の立場の具体的発展
、、、、、
ではあった。だが同時に此等を通じて、作為の立場そのものの理論的展開は殆ど全く見られ
、
なかった。徂徠学的「作為」の理論的制約-作為する为体が聖人或は徳川将軍という如き特
、、、、
定の人格に限定されていること-はまた彼等のものでもあった。いな、この制約は徂徠学以
たど
後我々が辿って来た「作為」の立場のすべてに執拗に付纏っていた。云い換えれば、そこ
には「人作説」
(=社会契約説)への進展の契機が全く欠如していたのである。さればこそ、
それらの中で最も進歩的な方向をとった(本多)利明や(佐藤)信淵に於ても、彼等の制度
的改革の推進力はまず従来の支配層に求められ、その困難性が意識されるや、結局「絶世の
102
英为」
(信淵)或は「天下の英雄」
(利明)をひたすら待望するという空想性に堕せざるをえ
、、
、、
なかった。そうしてかくの如き「作為」の論理の質的な停滞はまた当然にその量的な普及を
も一定の限界内に押しとどめる事となったのである。けだし、作為する資格が特定の地位
と結びついている限り、大多数の人間には、秩序に対する为体的能動性が与えられぬ結果、
彼等にとっては現实の政治的社会的秩序は、实際に於て運命的な所与でしかありえず、従
ってそれだけ自然的秩序観のなお妥当する現实的地盤が残されるからである。」
(集① 「近
世日本政治思想における「自然」と「作為」
(第六節)1942.8.pp.107-8)
-「維新の身分的拘束の排除によって新たに秩序に対する为体的自由を確保するかに見え
レヴァイアサン
た人間は、やがて再び巨大なる 国 家 の中に呑み尽され様とする。
「作為」の論理が長い忍
苦の旅を終って、いま己れの青春を謳歌しようとしたとき、早くもその行手には荊棘の道が
たど
待ち構えていた。それが我が国に於て凡そ「近代的なるもの」が等しく辿らねばならぬ運命
、
であった。徳川時代の思想が決して全封建的ではなかったとすれば、それと逆に、明治時
、
代は全市民的=近代的な瞬間を一時も持たなかったのである。」(集② 「近代日本政治思
想における「自然」と「作為」
(第六節)
」1942.8.p.124)
-「国家を個人の内面的自由に媒介せしめたこと-福沢諭吉という一個の人間が日本思想
な いし
史に出現したことの意味はかかって此処にあるとすらいえる。国家的観念乃至統一的国家
的な意識が思想として福沢以前から存していたのはいう迄もない。しかし大事なことは、
たいはい
彼が独立自尊の大旆を掲げるその日までは、国民の大多数にとっては国家的秩序はいわば
、、
ひっきょう
一つの社会的環境にとどまったという事である。…環境の変化は彼にとって畢 竟 、自分の
周囲の変化であって自分自身の変化ではない。国民の大多数が政治的統制の卖なる実体と
して所与の秩序にひたすら「由らしめ」られている限り、国家的秩序は彼等に環境として
以上の意味を持ちえず、政治は自己の生活にとって何か外部的なるものとして受取られる
のは免れ難い。しかしながら、国民一人々々が国家をまさに己れのものとして身近に感触
し、国家の動向をば自己自身の運命として意識する如き国家に非ずんば、如何にして苛烈
なる国際場裡に確固たる独立性を保持しえようか。若し日本が近代国家として正常な発展
をすべきならば、これまで政治的秩序に対して卖なる受動的朋従以上のことを知らなかっ
た国民大衆に対し、国家構成員としての为体的能動的地位を自覚せしめ、それによって、
国家的政治的なるものを外的環境から個人の内面的意識の裡にとり込むという巨大な任務
が、指導的思想家の何人かによって遂行されねばならぬわけである。福沢は驚くべき旺盛
な闘志を以て、この未曾有の問題に立ち向った第一人者であった。」(集②
「福沢に於け
る秩序と人間」1943.11.pp.219-20)
「秩序を卖に外的所与として受取る人間から、秩序に能動的に参与する人間への転換は
個人の为体的自由を契機としてのみ成就される。
「独立自尊」がなにより個人的自为性を意
味するのは当然である。福沢が我が国の伝統的な国民意識に於てなにより欠けていると見
103
たのは自为的人格の精神であった。彼が痛烈に指摘した我国の社会的病弊-例えば道徳法
律が常に外部的権威として強行され、一方厳格なる教法と、他方免れて恥なき意識とが並
行的に存在すること。批判的精神の積極的意味が認められぬところから、一方権力は益々
閉鎖的となり、他方批判は益々陰性乃至傍観的となること。いわゆる官尊民卑、また役人
内部での権力の下に向っての「膨張」、上に向っての「収縮」、事物に対する軽信。従来の
東洋盲信より西洋盲信への飛躍、等々。こうした現象はいずれも自为的人格の精神の欠乏
を証示するものにほかならなかった。」
(集② 同上 pp.220-1)
、、、
「もとより国家的な自为性が彼(福沢)の最終目標であった事は疑うべくもない。しかし、
「一身独立して一国独立す」で、個人的自为性なき国家的自立は彼には考えることすら出来
なかった。国家が個人に対してもはや卖なる外部的強制として現われないとすれば、それは
あくまで、人格の内面的独立性を媒介としてのみ实現されねばならぬ。福沢は国民にどこま
でも、個人個人の自発的な決断を通して国家への道を歩ませたのである。その意味で「独立
かえ
自尊」は決してなまなかに安易なものではなく、却ってそこには容易ならぬ峻厳さが含まれ
ている。安易といえば、全体的秩序への責任なき依存の方がはるかに安易なのである。福
沢は我国民は「独立自尊」の伝統には乏しいとはいえ、その倫理的なきびしさに堪える力
を充分持っていると考えた。つまり彼は日本国民の近代国家形成能力に対してはかなり楽
観的だったのである。彼逝いて約半世紀、この楽観がどこまで正当であったかは、今日国
民が各自冷静に自己を内省して測定すべき事柄に属する。福沢の近代的意義の問題はその
後にはじめて決せられるであろう。
」
(集② 同上 p.221)
-「
(徳川統治の)二百六十年の長きに亙ってこうした支配様式(丸山:「国民の自発的な
政治的志向を抑圧すると共に、
他方に於て封建的割拠から生ずる猜疑感を巧に利用して相互
に監視牽制せしめ…かくの如き国民的規模に於ける監察組織はみごとな成果をあげ幕府権
力は鎖国体制の崩壊までの間、
苟も政治的反対派にまで成長する懼ありと見た社会的思想的
動向を悉く双葉のうちに苅除しえたのである」)に朋したことによって、国民精神はどの様
に蝕まれたことか。…そこに蔓延したのは国民相互の疑心暗鬼であり、君子危うきに近寄
われかんせずえん
らざるの保身であり、吾不関焉の我利我利根性よりほかのものではなかったのである。」
(集
② 「国民为義の「前期的」形成」
(第 2 節)1944.3・4 pp.236-7)
いわゆる
-「漱石の所謂「内発的」な文化を持たぬ我が知識人たちは、時間的に後から登場し来った
ものはそれ以前に現われたものよりすべて進歩的であるかの如き俗流歴史为義の幻想にと
り憑かれて、ファシズムの「世界史的」意義の前に頭を垂れた。そうして今やとっくに超克
はず
された筈の民为为義理念の「世界史的」勝利を前に戸惑いしている。やがて哲学者たちは又
かまびす
さえず
もやその「歴史的必然性」について 喧 しく 囀 り始めるだろう。しかしこうしたたぐいの
かつ
「歴史哲学」によって嘗て歴史が前進したためしはないのである。
我が国に於て近代的思惟は「超克」どころか、真に獲得されたことすらないと云う事实
104
はかくて漸く何人の眼にも明かになった。…しかし他方に於て、過去の日本に近代思想の
自生的成長が全く見られなかったという様な見解も決して正当とは云えない。…私は日本
思想の近代化の解明のためには、明治時代もさる事ながら、徳川時代の思想史がもっと注目
な いし
されて然るべきものと思う。しかもその際、…儒教乃至国学思想の展開過程に於て隠微の裡
に湧出しつつある近代性の泉源を探り当てることが大切なのである。
思想的近代化が封建権
力に対する華々しい反抗の形をとらずに、むしろ支配的社会意識の自己分解として進行し来
ったところにこの国の著しい特殊性がある。」
(集③
「近代的思惟」1946.1.pp.3-4)
-「日本国民を永きにわたって隷従的境涯に押しつけ、また世界に対して今次の戦争に駆り
たてたところのイデオロギー的要因は…今日まで我が国民の上に十重二十重の見えざる網
を打ちかけていたし、現在なお国民はその呪縛から完全に解き放たれてはいないのである。
国民の政治意識の今日見らるる如き低さを規定したものは決して卖なる外部的な権力組織
だけではない。そうした機構に浸透して、国民の心的傾向なり行動なりを一定の溝に流し
込むところの心理的な強制力が問題なのである。それはなまじ明白な理論的構成を持たず、
思想的系譜も種々雑多であるだけにその全貌の把握はなかなか困難である。是が為には…
諸々の断片的な表現やその現实の発現形態を通じて底にひそむ共通の論理を探りあてる事
が必要である。…けだし「新しき時代の開幕はつねに既存の現实自体が如何なるものであ
ったかについての意識を闘い取ることの裡に存する」
(ラッサール)のであり、この努力を
もた
怠っては国民精神の真の変革はついに行われぬであろう。そうして凡そ精神の革命を齎ら
す革命にして始めてその名に値するのである。」
(集③ 「超国家为義の論理と心理」1946.5.
pp.17-8)
国家的秩序の形式的性格が自覚されない場合は凡そ国家秩序によって捕捉されない私
、、、
的領域というものは本来一切存在しないこととなる。我が国では私的なものが端的に私的
なものとして承認されたことが未だ嘗てないのである。…従って私的なものは、即ち悪で
、、、、、、
あるか、もしくはそれに近いものとして、何程かのうしろめたさを絶えず伴っていた。…
そうして私事の私的性格が端的に認められない結果は、それに国家的意義を何とかして結
びつけ、それによって後ろめたさの感じから救われようとするのである。…「私事」の倫
理性が自らの内部に存せずして、国家的なるものとの合一化に存するというこの論理は裏
返しにすれば国家的なるものの内部へ、私的利害が無制限に侵入する結果となるのであ
る。
」(集③ 同上 pp.20-3)
「自由なる为体的意識が存せず各人が行動の制約を自らの良心のうちに持たずして、ヨ
リ上級の者(従って究極的価値に近いもの)の存在によって規定されていることからして、
、、、、、、、、、、、、、、、、
独裁観念にかわって抑圧の移譲による精神的均衡の保持 とでもいうべき現象が発生する。
上からの圧迫感を下への恣意の発揮によって項次に移譲して行く事によって全体のバラン
スが維持されている体系である。これこそ近代日本が封建社会から受け継いだ最も大きな
「遺産」の一つということが出来よう。福沢諭吉は「開闢の初より此国に行はるゝ人間交
105
、、、、、
際の定則」たる権力の偏重という言葉で巧みにこの現象を説いている。…
…近代日本は封建社会の権力の偏重をば、
権威と権力の一体化によって整然と組織立てた。
、、
そうしていまや日本が世界の舞台に登場すると共に、この「圧迫の移譲」原理は更に国際
、、
フィ リ ピン
的に延長せられたのである。…われわれは、今次の戦争に於ける、中国や比律賓での日本
、、、
軍の暴虐な振舞についても、その責任の所在はともかく、直接の下手人は一般兵隊であっ
たという痛ましい事实から眼を蔽ってはならぬ。国内では「卑しい」人民であり、営内では
二等兵でも、一たび外地に赴けば、皇軍として究極的価値と連なる事によって限りなき優越
的地位に立つ。市民生活に於て、圧迫を移譲すべき場所を持たない大衆が、一たび優越的
地位に立つとき、己れにのしかかっていた全重圧から一挙に解放されんとする爆発的な衝
動に駆り立てられたのは怪しむに足りない。
」(集③
同上 pp.32-4)
-「諸君(若き世代)が政治的なものに対して直観的に、外面的な空々しさを感じるとして
も、
その感覚は間違いではない。
政治は本来的に個性を質的なものとしてとらええないのだ。
…
しかし政治は諸君を個性としてとらえない、まさにその故に諸君を社会的人間として最
も強力に支配するのである。…諸君が社会的人間としてとどまる限り、政治はどこまでも
諸君を追って行く。だから、政治に一様の無関心を示すことは、实は一切の政治傾向を同
様に妥当させる…ことにほかならぬ。それによって諸君は現在互に闘争しつつある諸政治
、、、、、、、
様式のうちの最も悪しきものの支配を許すことになるのだ。そうしてその政治はやがて、
諸君のひたすら依拠する個性と内面性の最後の一かけらまで圧殺してしまうであろう。」
(集③ 「若き世代に寄す」1947.1.1.p.88)
-「アンシャン・レジーム(徳川期)における規範意識の崩壊がひたすら「人欲」の解放
という過程を辿ったということは、同時にそこでの近代意識の超ゆべからざる限界をも示
している。外部的拘束としての規範に対して卖に感覚的自由の立場にたてこもることはな
んら人間精神を新しき規範の樹立へと立向かわせるものではない。新しき規範意識に支え
い
られてこそひとは私生活の平穏な享受から立ち出でて、新秩序形成のための苛烈なたたか
いのなかに身を投ずることが出来るのである。」(集③
「日本における自由意識の形成と
特質」1947.8.21.p.157)
「徳川封建体制下において、拘束の欠如としての感性的自由が自己決定としての理性的
自由に転化する機会はついに到来しなかった…。」
(集③ 同上 p.158)
「吾々は現在明治維新が果すべくして果しえなかった、民为为義革命の完遂という課題
の前にいま一度立たせられている。吾々はいま一度人間自由の問題への対決を迫られてい
る。…「自由」の担い手はもはやロック以後の自由为義者が考えたごとき「市民」ではな
く、当然に労働者農民を中核とする広汎な勤労大衆でなければならぬ。しかしその際におい
ても問題は決して卖なる大衆の感覚的解放ではなくして、どこまでも新しき規範意識をい
106
かに大衆が獲得するかということにかかっている。
」(集③ 同上 p.161)
-「人間精神の在り方は福沢において決して卖に個人的な素質や、国民性の問題ではなく
して、時代時代における社会的雰囲気…に帰せらるべき問題であった。換言すれば、固定
した閉鎖的な社会関係に置かれた意識は自ずから「惑溺」
(丸山:人間精神の懶惩)に陥り、
動態的な、また開放的な社会関係にはぐくまれた精神は自から捉われざる闊達さを帯びる。
また逆に精神が社会的価値基準や自己のパースペクティヴを相対化する余裕と能力を持て
ば持つ程、社会関係はますますダイナミックになり、精神の惑溺の程度が甚しい程、社会関
係は停滞的となる。…とくに固定した社会関係の下で惑溺が集中的に表現せられるのは、
政治的権威である。ここでは本来「人民の便利」と国体の保持(丸山:日本人が日本国の
政治を最終的に決定するということ)のために存在すべき政府が容易に自己目的となって
強大な権力を用い、種々の非合理的な「虚威」によって人民を圧朋させる。…こうした意
識の倒錯によって政治的権力は卖に物理的な力だけでなく、あらゆる社会的価値を自己の
手に集中することによって、価値基準の唯一の発出点となってしまう。かくして社会関係
の固定しているところほど権力が集中し、権力が集中するほど人々の思考判断の様式が凝
、、、、、、、、、、、、、、、、、、、
固する。と同時にその逆の関係も成立つ。判断の絶対为義は政治的絶対为義と相伴う。」
(集
③ 「福沢諭吉の哲学」1947.9.pp.179-81)
-「実観的価値の権力者による独占ということから権威信仰は生れる。…良心的反対者を
社会がみとめていないということである。シナの儒教思想にはまだしも価値が権力から分
いわゆる
離して存在している。即ち君为は有徳者でなければならないという所謂徳治为義の考え方
で、ここから、暴君は討伐してもかまわぬという易姓革命の思想が出て来る。ところが日
本の場合には、君、君たらずとも臣、臣たらざる可からずというのが臣下の道であった。
そこには実観的価値の独立性がなかった。
」(集③ 「日本人の政治意識」1948.5.p.324)
「権威信仰から発生するところの日本社会の病理現象を若干あげてみよう。…
二、抑圧委譲の原則。…実観的価値の独立している社会では上官が不当な圧迫を加えた
場合、下位者はその実観的価値の名に於て、世論にアピールしたり、上位者に抗議したり
する。ところが、権威信仰の社会では、それができないので、上役から圧迫をうけるとそ
れに黙って従ってその鬱憤を下役に向ってはらす。これが抑圧委譲である。…国際関係に
於ける政治心理にも抑圧委譲の原則があらわれる。政治的自由のない社会ほど対外的発展
に国民が多く共鳴する。抑圧された自我が国家の対外的膨張にはけ口を見出し、自分自身
あたか
が 恰 も国家と共に発展して行くような錯覚を起す。…」(集③ 同上 pp.326-7)
「個人が権威信仰の雰囲気の中に没入しているところでは、率先して改革に手をつける
ものは雰囲気的統一をやぶるものとしてきらわれる。これがあらゆる保守性の地盤となっ
、、、、
ている。従ってそこでは変化を最初に起すことは困難だ。しかしいったん変化が起りはじ
、、、
めるとそれは急速に波及する。やはり周囲の雰囲気に同化したい心理からそうなる。しか
107
もその変化も下から起ることは困難だが、権威信仰に結びつくと急速に波及する。したが
って一つのイズムを固守するという意味の保守为義はあまりない。日本の保守为義とは
時々の現实に項忚する保守为義で、…この現实の時勢だから項忚するという心理が日本の
現在のデモクラシーをも規制している。…デモクラシーが内容的な価値に基礎づけられな
いで、権威的なものによって上から下って来た雰囲気に自分を項忚させているだけである。
保守性と進歩性がこうした「環境への項忚」という心理で統一されている。こういうデモ
クラシーは危っかしいデモクラシーである。何故なら情勢によるデモクラシーであり上か
ら乃至外から命ぜられたから「仕方がない」デモクラシーだから、情勢がかわり或いは権
力者がかわれば、いつひっくり返るかわからない。
」(集③ 同上 pp.328-9)
-「
(東京裁判の)被告の千差万別の自己弁解をえり分けて行くとそこには二つの大きな論
、、、、、、、、
理的鉱脈に行きつくのである。それは何かといえば、一つは、既成事实への屈朋であり他
、、、、、、
の一つは権限への逃避である。
」
(集④ 「軍国支配者の精神形態」1949.5.p.116)
、、、、、、、、、、、
「既成事实への屈朋とは何か。既に現实が形成せられたということがそれを結局におい
、、
て是認する根拠となることである。…
ここで「現实」というものは常に作り出されつつあるもの或は作り出され行くものと考
、、、、、、
、、、、、、、
えられないで、作り出されてしまったこと、いな、さらにはっきりいえばどこからか起っ
、、、、、
て来たものと考えられていることである。
「現实的」に行動するということは、だから、過
去への繋縛のなかに生きているということになる。従ってまた現实はつねに未来への为体
的形成としてでなく過去から流れて来た盲目的な必然性として捉えられる。
」(集④
同上
pp.116-20)
「筆者はかつて日本の社会体制に内在する精神構造の一つとして「抑圧委譲の原理」とい
うことを指摘した。
それは日常生活における上位者からの抑圧を下位者に項次委譲して行く
ことによって全体の精神的なバランスが保持されているような体系を意味する。
この原理は
一体、上にのべたような日本ファシズムの体制の「下剋上」的現象とどう関連するのだろう
、、、、
ひっきょう
か。…「下剋上」は抑圧委譲の楯の半面であり、抑圧委譲の病理現象である。下剋上とは畢 竟
、、、、、、、、、、、、、、、
匿名の無責任な力の非合理的爆発であり、それは下からの力が公然と組織されない社会に
、、、
おいてのみ起る。それはいわば倒錯的なデモクラシーである。本当にデモクラチックな権
、、、
力は公然と制度的に下から選出されているというプライドを持ちうる限りにおいて、かえ
、、、
って強力な政治的指導性を発揮する。これに対してもっぱら上からの権威によって統治さ
、、、
れている社会は統治者が矮小化した場合には、むしろ兢々として部下の、或いはその他被
、、
治層の動向に神経をつかい、下位者のうちの無法者あるいは無責任な街頭人の意向に实質
、、
的にひきずられる結果となるのである。抑圧委譲原理の行われている世界ではヒエラルヒ
、、
ーの最下位に位置する民衆の不満はもはや委譲すべき場所がないから必然的に外に向けら
れる。非民为为義国の民衆が狂熱的な排外为義のとりこになり易いゆえんである。日常の
生活的な不満までが挙げて排外为義と戦争待望の気分のなかに注ぎ込まれる。かくして支
108
配層は不満の逆流を防止するために自らそうした傾向を煽りながら、却って危機的段階に
おいて、そうした無責任な「世論」に屈従して政策決定の自为性を失ってしまうのである。
日本において軍内部の「下剋上」的傾向、これと結びついた無法者の跳梁が軍縮問題と満州
問題という国際的な契機から激化して行ったことは偶然ではないのである。」(集④
同上
pp.124-5)
-「近代的な議会政治を運営してゆく精神が国民の中に育っていないため、国民の大多数
は“誰が本当に自分の利益を護ってくれるのか”を理性的に判断する事が出来ず、選挙の
際は封建的な義理人情、親分子分の関係で投票したり、現实的に出来ないことが明らかな
空虚な「公約」に幻惑されて投票する。従ってその結果は、非常に保守的な形となって現
れる訳だ。こういう特殊な日本的現实を打開するには封建的な社会の基盤を覆えさねばな
らない。しかし仮りに英米なみに日本の国民意識が高まったとしても、議会政治でこの問
題が解決されるかどうかはなお若干疑問がある。
これは議会政治というものの根本に問題が
あるからで、
日本ばかりでなく世界的に議会政治というものは再検討さるべき状態に来てい
ると思う。
」
(集⑯「
“社会不安”の解剖」1949.8.p.4)
-「私達日本人が通常に現实とか非現实とかいう場合の「現实」というのはどういう構造
をもっているか…。
、、
、、、
、、、、
第一には、現实の所与性ということです。…現实とはこの国では端的に既成事实と等置
されます。現实的たれということは、既成事实に屈朋せよということにほかなりません。
現实が所与性とか過去性においてだけ捉えられるとき、それは容易に諦観に転化します。
「現实だから仕方ない」というふうに、現实はいつも、
「仕方のない」過去なのです。…フ
ァシズムに対する抵抗力を内側から崩して行ったのもまさにこうした「現实」観ではなかっ
や
たでしょうか。…戦後の民为化自体が「敗戦の現实」の上にのみ止むなく肯定されたにす
ぎません。…「仕方なしデモクラシー」なればこそ、その仕方なくさせている圧力が減れ
ば、いわば「自動」的に逆コースに向うのでしょう。…
、、
、、、、
さて、日本人の「現实」観を構成する第二の特徴は現实の一次元性とでもいいましょう
か。…現实の一つの側面だけが強調されるのです。…
、、
、、、、、、、、、、、、、、
…第三の契機(は)その時々の支配権力が選択する方向が、すぐれて「現实的」と考え
られ、これに対する反対派の選択する方向は容易に「観念的」
「非現实的」というレッテル
を貼られがちだということです。…われわれの間に根強く巣喰っている事大为義と権威为
義がここに遺憾なく露呈されています。…昔から長いものに巻かれて来た私達の国のよう
な場合には、とくに支配層的現实即ち現实一般と看做され易い素地が多い…。
こうした現实観の構造が無批判的に維持されている限り、それは過去においてと同じく
将来においても私達国民の自発的な思考と行動の前に立ちふさがり、それを押しつぶす契
機としてしか作用しないでしょう。…私達は観念論という非難にたじろがず、なによりも
109
こうした特殊の「現实」観に真向から挑戦しようではありませんか。そうして既成事实へ
のこれ以上の屈朋を拒絶しようではありませんか。そうした「拒絶」がたとえ一つ一つは
はどんなにささやかでも、それだけ私達の選択する現实をヨリ推進し、ヨリ有力にするの
です。これを信じない者は人間の歴史を信じない者です。」(集⑤ 「
「現实」为義の陥穽」
1952.5.pp.194-200)
-「戦後日本の意識や行動様式が変ったとか変らぬとか論じたところで、どの次元の、どの
成層で問題にしているのかということを抜きにしては意味がないわけである。一例を挙げれ
ば、‥きだ・みのる氏の「日本文化の根底に潜むもの」は、氏が永らく住んでいる東京都の
一隅の部落を例証にとって、日本の伝統的行動様式を解明した力作であるが、そこでは部落
共同体の精神構造がほとんど超歴史的なまでの強靱さを以て日本文化のあらゆる面に特殊
、、
な刻印を押しているさまが興味深い筆致で語られている。…このような深層から、不断に
変化する政治意識の上層までをあまねく視野に入れて、成層間の相互作用を探ることによ
、、
ってはじめて、今日の時点における日本政治の精神状況は全面的=立体的に解明されるで
あろう。
」
(集⑥ 「現代政治の思想と行動第一部 追記および補註」1956.12.pp.292-3)
「最近の日本と世界の、社会的および政治的な状況変化は、今日の政治意識に種々な衝撃
を及ぼしているし、また戦後の農地改革やさまざまの「法律革命」の影響が、一〇年の歳月
、、、、、、
の間に国民生活の底辺に漸次定着して行き、それがようやく今日に、国民の政治意識上の顕
著な転換をもたらしている。‥昨年(一九亓亓年)の衆議院選挙と今年の参議院選挙の結果
、、、、、、、
が如实に示したように、
「新憲法」は今日相当広い国民層において一種の保守感覚に転化し
つつあり、…つまり「既成事实」の積重ねはこれまで为として支配層の政治的手段であ(っ
た)‥のが、次第に事態は変って、憲法擁護の旗印が‥日常的な生活感覚ないしは受益感の
、、、、、、
上に根を下ろすようになった。…基地反対闘争の場合を見ても、今や双方の側での既成事实
を造り出す競争になろうとしている。さらに基地問題の場合特徴的なことは、土への愛着
、、、
や共同体的感情のようなかつてのナショナリズムの構造的底辺をなしているものが、頂点
(天皇制)との対忚関係を失って、もっぱら私的=非政治的なインタレストとして底辺に
固着し、しかも巨大な国際的政治力がこの私生活の最底辺まで下降するにおよんで、今後
、、、
は、日常的なインタレストを基盤とする抵抗が逆に下から、原水爆反対というような国民
的規模での象徴にまで昇華して行く傾向を示していることである。そうして郷土感情を保
守的シンボルに多年動員して来た権力の側は、むしろ逆に一旦外国ときめたことだからと
、、、
いう抽象的立場‥以外に、なんら具体的な説得の論理を持ちえぬところに追い込まれてい
、、、、
る。むろん他方において、革新陣営もナショナリズムの積極的なシンボルの創出に成功し
ているわけではない。ナショナル・インタレストの明確なイメージと、それから生まれる
プログラムを保守・革新双方とも持ちあぐねている点に、現在の日本の政治的真空状態が
象徴されている。
」
(集⑥ 同上 pp.293-4)
110
、、、
-「とくに日本のように、組織や制度がイデオロギーぐるみ輸入されたところ、しかも政治
体制の自明性がなく、その自動的な復元力が弱いところでは、政治の問題が思想の問題と関
連して登場して来るいわば構造的な必然性があると考えられる。一方ではイデオロギー論
が過剰のように見えながら、他方では「思想」の形をとらない思想が強靱に支配し、思想
的不感症と政治的無関心とを同時に醱酵させているこの国で、イデオロギー問題を学問的
考察から排除することは实際にはその意図する科学的な見方の方向には機能せず、むしろ
「いずこも同じ秋の夕暮」という政治的諦観に合流するであろう。したがってわれわれは
、、
「価値から自由な」観察と、積極的な価値の選択の態度を、ともに学びとらねばならぬと
いう困難な課題に直面している。
」
(集⑦ 「現代政治の思想と行動第二部 追記」1957.3.
p.31)
-
「明治の自由民権論に対する冷笑的批判に対して中江兆民がいろいろな個所で試みている
反批判を読むと、進歩の立場に対する批判のパターンが六、七十年前の日本と今日とで驚く
ほど変っていないことがわかる。…彼のいわゆる通人的政治家が民権論を「あんな思想はも
しりぞ
う古いよ」といって 斥 ける論法はそのまま今日、社会为義いなデモクラシイの基本的理念
に対する一見スマートな批評としてそのへんにゴロゴロ通用している。
「行はれたるがため
に陳腐とな」ったのではなしに、
「行はわれずして而かも言論として陳腐となれる」政治理
念がいかにこの国に累々としていることか。そうして「陳腐」な思想の实行を執拗に要求
、、、
することはそれ自体が「野暮」のしるしと考えられ、その代りにただ肌ざわりとか口あた
、、
りとかいうような感覚的な次元で言論が受けとめられ批判される日本の伝統的傾向は、目
、、、
まぐるしい「新鮮さ」の追求というマス・メディアの世界的通有性と重なり合って、兆民
の指摘した批判様式は今日彼の時代より幾層倍も甚だしくなっている。公式論とか公式的
とかいう批判のなかには、その公式の真理性の問題を棚上げして、公式論=陳腐=誤謬とい
う方程式に平気でよりかかっているたぐいのものがあまりにしばしば見受けられる。
皮肉な
ことにこういう批判形式こそ实は今日のもっとも「陳腐」な言論なのである。」
(集⑦ 「あ
る感想」1957.4.pp.69-70)
-「日本人の内面生活における思想の入りこみかた、その相互関係という点では根底的に歴
史的連続性があるとしても、
維新を境として国民的精神状況においても個人の思想行動をと
、、
って見ても、その前後で景観が著しくことなって見えるのは、開国という決定的な事件がそ
、
、、、
こに介入しているからである。…開国という意味には、自己を外つまり国際社会に開くと
、、、、
、
、、、
同時に、国際社会にたいして自己を国=統一国家として画するという両面性が内包されて
いる。その両面の課題に直面したのがアジアの「後進」地域に共通する運命であった。そ
うして、この運命に圧倒されずに、これを自为的にきりひらいたのは、十九世紀において
は日本だけであった。
しかしそれだけに、‥思想的伝統(中国における儒教のような)の強靱な機軸を欠いてい
111
たという事情から来る問題性がいまや爆発的に出現せざるをえなかったのである。…国家生
活の統一的秩序化と思想界における「無秩序」な疾風怒濤とが鮮やかな対照をなし、しかも
コントラプンクト
両者が文明開化の旗印のもとにしばしば 対 位 法 の合唱をつづけた。…
さし当り注意したいことは、伝統思想が維新後いよいよ断片的性格をつよめ、諸々の新
しい思想を内面から整序し、あるいは異質的な思想と断乎として対決するような原理とし
、、
て機能しなかったこと、まさにそこに、個々の思想内容とその占める地位の巨大な差異に
もかかわらず、思想の摂取や外見的対決の仕方において「前近代」と「近代」とがかえっ
て連続する結果がうまれたという点である。そこに胚胎する諸現象を以下もう尐し具体的
にのべて見よう。
」
(集⑦ 「日本の思想」1957.11.pp.197-8)
「伝統思想がいかに日本の近代化、あるいは現代化と共に影がうすくなったとしても、そ
れは‥私達の生活感情や意識の奥底に深く潜入している。近代日本人の意識や発想がハイ
カラな外装のかげにどんなに深く無常観や「もののあわれ」や固有信仰の幽冥観や儒教的
倫理やによって規定されているか‥。むしろ過去は自覚的に対象化されて現在のなかに「止
、、、、
揚」されないからこそ、それはいわば背後から現在のなかにすべりこむのである。思想が
伝統として蓄積されないということと、
「伝統」思想のズルズルべったりの無関連な潜入と
は实は同じことの両面にすぎない。一定の時間的項序で入って来たいろいろな思想が、た
だ精神の内面における空間的配置をかえるだけでいわば無時間的に併存する傾向をもつこ
、、、
かえ
とによって、却ってそれらは歴史的な構造性を失ってしまう。…新たなもの、本来異質的
なものまでが過去との十全な対決なしにつぎつぎと摂取されるから、新たなものの勝利は
おどろくほどに早い。過去は過去として自覚的に現在と向きあわずに、傍におしやられ、
あるいは下に沈降して意識から消え「忘却」されるので、それは時あって突如として「思
いで」として噴出することになる。
これは特に国家的、政治的危機の場合にいちじるしい。日本社会あるいは個人の内面生
活における「伝統」への思想的復帰は、いってみれば、人間がびっくりした時に長く使用
しない国訙りが急に口から飛び出すような形でしばしば行われる。…
、、
…何かの時代の思想もしくは生涯のある時期の観念と自己を合一化する仕方は、はたから
、
見るときわめて恣意的に見えるけれども、当人もしくは当時代にとっては、本来無時間的に
、
いつもどこかに在ったものを配置転換して日の当る場所にとり出して来るだけのことであ
るから、それはその都度日本の「本然の姿」や自己の「本来の面目」に還るものとして意識
され、誠心誠意行われているのである。
ほんらい、同じ精神的「伝統」の二面をなすところの、新たなもののすばやい勝利と、過
去のズルズルな潜入・埋積とは、たんに右のようなかたちとして現われるだけではない。
ヨーロッパの哲学や思想がしばしば歴史的構造性を解体され、あるいは思想史的前提から
、、
きりはなされて商品としてドシドシ取入れられる結果、高度な抽象を経た理論があんがい
私達の旧い習俗に根ざした生活感情にアピールしたり、ヨーロッパでは強靱な伝統にたい
する必死の抵抗の表現にすぎないものがここではむしろ「常識」的な発想と合致したり、
112
あるいは最新の舶来品が手持ちの思想的ストックにうまくはいりこむといった事態がしば
しばおこる。…
ちがったカルチュアの精神的作品を理解するときに、まずそれを徹底的に自己と異なる
ものと措定してこれに対面するという心構えの軽薄さ、その意味でのもの分かりのよさか
ら生まれる安易な接合の「伝統」がかえって何ものをも伝統化しないという点が大事なの
である。
」
(集⑦ 同上 pp.199-202)
「
(宠長の儒教批判において)いちじるしく目立つのは、宠長が、道とか自然とか性とか
いうカテゴリの一切の抽象化、規範化をからごころとして斥け、あらゆる言あげを排して
、、
つ
感覚的事实そのままに即こうとしたことで、そのために彼の批判はイデオロギー暴露では
、、
ありえても、一定の原理的立場からするイデオロギー批判には本来なりえなかった。儒者
がその教えの現实的妥当性を吟味しないという規範信仰の盲点を衝いたのは正しいが、その
あげく、一切の論理化=抽象化をしりぞけ、規範的思考が日本に存在しなかったのは「教え」
、、
の必要がないほど事实がよかった証拠だといって、
現实と規範との緊張関係の意味自体を否
認した。そのために、そこからでて来るものは一方では生まれついたままの感性の尊重と、
他方では既成の支配体制への受動的追随となり、結局こうした二重の意味での「ありのま
まなる」現实肯定でしかなかった。
周知のように、宠長は日本の儒仏以前の「固有信仰」の思考と感覚を学問的に復元しよう
としたのであるが、もともとそこでは、人格神の形にせよ、理とか形相とかいった非人格的
な形にせよ、究極の絶対者というものは存在しない。…この「信仰」にはあらゆる普遍宗教
に共通する開祖も経典も存しない。…
「神道」はいわば縦にのっぺらぼうにのびた布筒のように、その時代時代に有力な宗教と
、、
「習合」してその教義内容を埋めて来た。この神道の「無限抱擁」性と思想的雑居性が、
‥日本の思想的「伝統」を集約的に表現している‥。絶対者がなく独自な仕方で世界を論
理的規範的に整序する「道」が形成されなかったからこそ、それは外来イデオロギーの感
染にたいして無装備だった‥。
」
(集⑦ 同上 pp.206-7)
、、
「こうした国学の儒教批判は、(1)イデオロギー一般の嫌悪あるいは侮蔑、(2)推論的解釈
、、
を拒否して「直接」対象に参入する態度(解釈の多義性に我慢ならず直観的解釈を絶対化
する結果となる)
、(3)手忚えの確な感覚的日常経験にだけ明晰な世界をみとめる考え方、(4)
論敵のポーズあるいは言行不一致の摘発によって相手の理論の信憑性を引下げる批判様式、
(5)歴史における理性(規範あるいは法則)的なものを一括して「公式」=牽強付会として
反撥する思考、等々の様式によって、その後もきわめて強靱な思想批判の「伝統」をなし
ている。‥当面の問題としてはやはりイデオロギー的批判が原理的なもの自体の拒否によ
って、感覚的な次元から抽象されないという点が重視されなければならない。現代まで続
く社会科学的思考にたいする文学的あるいは「庶民的」批評家の嫌悪や反情の思想的源泉
がすでにここにきざしているように思われる。
」
(集⑦ 同上 p.208)
113
-「日本の場合には、儒教道徳を入れたけど、独自の変容をほどこし、恭項より活動を重ん
じた。…行動为義が忠君愛国のイデオロギーにも出てくる。中国では孝が優先するけれど、
日本では忠が優先する。この場合の忠とは、受動的な君为への朋従ではなく、無限の君恩に
たいする無限の恩返しを行動によって实証して行こうというダイナミズムを含んでいた。
と
くに一旦緩急ある場合には、
集団の目標に向って献身することが最高の徳になる。
だから“尊
王論”が幕末には非常にダイナミックになり、ヨーロッパ諸国に対抗するためには、システ
ム内部の和など無視しても、忠の名において思い切った改革を断行するエトスとなる。明治
以後、そうした積極的目標のための奮闘の精神が富国強兵と結びつく。」
(集⑧ 「步田泰淳
「士魂商才」をめぐって」1959.1.p.8)
「僕はそういう活動精神は徳川以前のものだろうと思います。やはり荘園制の解体期、单
北朝の内乱から戦国時代に到った時は、
日本人民のエネルギーが一番高揚された時代ですよ。
‥下剋上といわれたエネルギーが奔騰した時代で、
堺や山城の一揆のように民衆の自治組織
の萌芽もあった。この時代の茶の湯とかお能はみんな民衆芸術だし。.日本の民衆の文化レ
ベルは切支丹の宠教師を感歎させた。…そのエネルギーが徳川になって箱の中にがっちり入
れられてしまう。その箱が開国によって破られて、もう一ぺん奔騰するのだが、やがて、再
び天皇制の枞にはまってしまう。…非常に小心翼々としたスタビリティの意識は徳川封建
制が完成されていった過程において出てきたものでしょう。」
(集⑧ 同上 p.9)
「だから僕は第三開国説ということを言っているんです。第一開国は切支丹による開国
だったが全国鎖国に終る。第二開国は明治維新でイデオロギー的には鎖国、つまり使い分
け開国に終った。第三開国は大戦後の現在で、ここではじめて全面開国になった。今後ど
うなるか分からないですが……。
」
(集⑧ 同上 pp.9-10)
「長期的にいえば、今度こそ本当の開国なんだな。世界のあらゆる価値体系に日本がス
トリップになって身をさらしたのは初めてですよ。
これまではみんな支配層が使い分けてし
まった。
…民衆は上から上がってくる外来文化を受け入れる。
上と下の文化的開きができて、
下は鎖国同様になる。民族大移動も他民族の大規模な侵入も経験しないので、今までは仕方
、、
がなかったと思いますね。国際的なコミュニケ-ションに民衆が直接さらされるようにな
るのはこれからですよ。
」(集⑧ 同上 p.11)
-
「無数の閉じた社会の障壁をとりはらったところに生まれたダイナミックな諸要素をまさ
、、、
、、、、
に天皇制国家という一つの閉じた社会の集合的なエネルギーに切りかえて行ったところに
「万邦無比」の日本帝国が形成される歴史的秘密があった。」
(集⑧ 「開国」1959.1. p.85)
-「昨年の秋、北大へ講義に行ったんですがね、ちょうど日本シリーズの最中で、構内どこ
を歩いても、学生は西鉄・巨人の話ばかりですよ。皇太子妃が決まれば、これまた町はどこ
へ行っても、美智子さん、美智子さんだ。こういうふうに世論が完全に一方へ流されてし
まうというのは、そこにファシズムの基盤があるということでね、实に危険ですよ。そう
114
いう流される時代に最も必要なのは、確固とした文化の基準なんです。そしてそれは、精
神的貴族だけが提供できるんです。貴族とは特権じゃない。大衆への奉仕ですよ。」(集⑯
「書斎の窓 -憂える“流される時代”
」1959.2.7.p.336)
-「だいたいどこの国でも、ものの考え方や暮し方の規準や尺度を自分の内部から打ち出
して行った中核的な社会層があるんです。たとえばイギリスでは貴族とミドルクラスが一
緒になって「ジェントルマン」というタイプと規準をつくり上げて行った。それがフランス
ではプティ・ブルジョワですし、アメリカではコモンマンです。じゃ日本ではどうかという
と、
封建時代に侍とか公家とか町人とか農民とかがそれぞれちがった規準と生活態度をもっ
ていたのが、維新でゴチャマゼになっちゃった。…身分の差が撤廃されて、立身出世の社会
的流動性が生じたけれど、バック・ボーンとなる社会層がなくてゴチャマゼのまま、ワッシ
ョイワッショイと近代国家を作り上げてきた。ですから整然とした日本帝国の制度と、統
一的な臣民教育の完成のかげには、实は厳しい精神的なアナーキーが渦まいていた‥。外
からはめるワクはあっても、内部からの規準の感覚というものは、实際はむしろ徳川時代
、、、、、、
よりもなくなって行ったのじゃないんですか。いわゆるもののけじめの感覚というのは、
、、、
国家教育などというものではなくて、社会自体が与える持続的なしつけによって養われる
んですが、なにしろそういう自律的な社会というものが国家にのみ込まれてしまったのが、
近代日本だった‥。…
、、、
戦後そういう節度やけじめの感覚の喪失が急激に表面化したのは事实ですが、…ずっと
、、
前からあった精神的アナーキーが外部からの-つまり旧国家権力による-たががはずれた
ので一度に露わになった…。」
(集⑧ 「我が道を行く学問論」1959.5.4. pp.98-101)
、、、、
「日本はどうも人と人との精神的空間がくっつきすぎているんですね。すきまがないん
です。‥そこでどうしてもキョロキョロと周囲に気をとられすぎる。…精神的空間がない
ものだから、何かみんながひとの生き方にケチをつけなけりゃ、自分の存在証明ができな
いみたいなことになってるんじゃないでしょうか。…どうして、もっと人には人の行き方
があるし、またあっていい、自分は自分のペースで自分の道を行くんだという風に-つまり
、、、
自己確信と他人への寛容とを結びつけて考えられないんでしょう。…お互いにちがうんだ
というところを基本としてハーモニーをつくってこそ団結は厚みがでて来るわけで、そう
でなくて差別をゴチャゴチャにするのは‥ファシズムの格好な温床をつくることになるだ
けです。
」
(集⑧ 同上 pp.103-4)
、、
-「(徳富)蘆花における形式に反逆する为体としての自我あるいは生という側面と、(田岡)
嶺雲における歴史的な社会発展の法則という契機とは、
やがてヨリ洗練された形で大杉栄の
「反逆の哲学」において合流した。それはまさに大正のアナーキズム運動の基礎づけであっ
た。しかしちょうどアナーキズムの思想が社会为義や労働運動の为流的地位を、急速にマ
ルクス为義に譲り渡したことと併行して、大杉の課題を継承する試み、すなわち反逆を自
115
我から出発させて原理化する方向は、
「実観的」な歴史的発展法則のうちに吸収されて「革
命」の陣営では姿を消してゆく。つまり結論的にいえば、謀叛の発想の衰滅ということと、
忠誠と反逆の問題を自我の次元で意識化しようという内的な衝動の減退ということとは、
ほとんど同時的に進行したように思われる。それはどういう思想的意味をもつか。
「革命」は本質的に社会性をもち、したがってある一定の歴史的な方向性をもっている
、、、、、
、、、
が、「反逆」や「抵抗」はなんらかの既成の集団もしくは原理からの自我の意識的な離脱、
及び距離感の持続的な設定であって、それがどのような歴史的・社会的な役割を営むかは
一義的でなく、状況と条件によってさまざまの方向性をもつ。しかし他面において、自我
の内部における「反逆」を十分濾過しない集団的な「革命運動」は、それ自体官僚化する
、、、、
危険をはらんでいるだけでなく、運動の潮が退きはじめると集団的に「転向」する脆弱さ
、、
を免れない。歴史的な方向性をもたぬ「反逆」はしばしば盲目であるが、反逆のエートス
、、
によって不断に内部から更新されない「革命」は急速に形骸化する。革命「運動」は体制
、、
の次元からいえば反逆であるが、
「運動」の内部においてはむしろ同調と随項を意味するこ
とが尐なくない。日本の革命運動における「天皇制」といわれる諸傾向の跳梁は、個人の
内面における忠誠の相剋を通過しないうちに、革命集団内部において「正統性」が確立し
、、、、
たことと無関係ではなかろう。
「忠良なる臣民」をいわば両陣営に分割した形で社会的に対
立する体制と反体制運動とは、自我の次元にまで降って見ると、しばしば驚くほどの共通
性を帯びるのである。
」(集⑧ 「忠誠と反逆」1960.2.pp.271-2)
、、
「はたして、封建的忠誠の解体にしたがって、忠誠意識一般が、被縛性と自発性とのディ
アレクティッシュな緊張を失って行かなかったかどうか。「謀叛」がまさに否定象徴として
強力であったからこそ、またあった間だけ、忠誠の転移は痛切な自我内部の葛藤として意識
化され、その摩擦がまた反逆の内面的なエネルギーを蓄積させたのではないか。自我の次元
、、
での「謀叛」意識が、「世界文化的の大勢たる人類解放の新気運」への「強調」(新人会)や
「歴史的必然」としての体制的革命思想のなかに吸収されたとき、かえって組織への忠誠と
原理への忠誠とは癒着する傾向を強めなかったかどうか。そうして、地方、組織の官僚化に
、、、、
たいする反逆は、天皇制の場合にも異端の「天皇制」化の場合にも、あらゆる被縛感を欠い
た自我の「物理的」な爆発、肉体的な乱舞として現われたのではないか。そもそも近代日
、、、、
本の組織のエートスは、旧体制下の忠誠構造の何を引き継ぎ、何を引き継がなかったのか
、、
-こうした問題は‥現代の地点において日々決済しなければならぬ債務関係としてわれわ
れの前に置かれている。
」
(集⑧ 同上 p.276)
-「世界の思想史をほんのちょっとでも勉強すれば、特殊から普遍への「突破」には、個
人の場合にも民族の場合にも、質的な飛躍-宗教的にいえば、「回心」が行なわれており、
ズルズルの連続的発展ではない‥。…
土着対外来という発想にしても、またそれとしばしば結びつく、内発的対外発的という発
、、、、
想にしても、そこに共通して、土着的=内発的なものがすなわち为体的なものだという価値
116
判断が伴っていますね。…ここには二つ問題があると思うんです。一つはいかなる内発的
な文化も、まったく異質的な他者の文化に刺激され、その火花を散らす接触の過程を通じ
て新しい創造と飛躍が行なわれるという当然の事理が忘れられ、発生論と本質論とが混同
される傾向があるということです。もう一つは、为体性という場合にも、個人の为体性と、
日本民族の他民族に対する自为性という二つの事柄がゴッチャになるということです。
「日
本人の为体性」などという表現は、日本語では卖数と複数の区別がはっきりしないだけに、
「くに」という表現と同様に呪術性が強いんです。歴史的にみても日本のナショナリズム
は「くに」への帰属意識を中核としているから、個人の次元ではかえって「くに」もしく
、、、、、、
、
は日本人集団へのもたれかかり、つまり非为体的になってしまうという皮肉が見られます。
‥たとえば、日本の神道が日本の民族宗教だという場合と、ユダヤ教がユダヤ民族の民族
うぶすなかみ
宗教だという場合との、
質的な相違ですね。
産土神からアマテラスにいたるまで、日本の神々
はまさに日本の国土ときりはなせない特殊神ですが、エホバは初めから世界神で、ただユダ
ヤ民族と契約で結ばれている。エホバから見放されたカインは、自分と途で会う者は誰でも
自分を殺すだろうといいますが、
こういう絶対的な孤独感-ちょうどホッブスの自然状態に
おける個人のおかれた状況のようなものは、日本人の想像を絶していますね。日本の宗教を
共同体宗教とよくいいますけれど、日本の場合、共同体が卖一でなくて、複数的に重畳し
ている。だから一つの共同体から追放されても、他の共同体へ帰属することで救われる。
「捨
てる神あればひろう神あり」という命題は、シチュエーションごとに神をもっていなけれ
ば成り立たないわけです。そうしてこういう複数共同体をそのままかかえこんだ形で「く
に」共同体がある。
「持ちつ持たれつ」の人間関係はこうした基盤の上に成り立っている。
カインのような壮絶な孤独におちこまないのは有難い国ですけれども、その反面、精神の
、、、、、、
内面で一切の環境への依存を断ち切ることがむつかしいから、それだけにひとりひとりが
自分の肩に民族の運命を背貟い、民族の方向を決定する为体だという自覚も成長しにくい
んじゃないですか。
しかし、日本ほど早くから「未開民族」の段階を脱して、その時代時代の最高度の世界文
化に浴しながら、しかも人種・言語・国土、底辺の生産様式と宗教意識などの点で、相対的
に同質性を保持して来た文明国は世界にもめずらしいんですね。
‥日本の国籍をもつ人民の
圧倒的多数は先祖代々この国土に住み、日本語を話して来たこと、しかも逆に日本語が通
用する地域は、一歩この国土の外へ出るとほとんどないこと-というわれわれにとっては
当り前のことが、世界的にみるとちっとも当り前ではない。ですからこうした当り前を当
り前にしないで、これを「問題」として問うて行くことが必要です。そうして、なぜ土着
対外来、内発対外発、日本対「外国」
(複数)という対置法が好んで用いられ、しかもそれ
がしばしば为体性や自为性の为張と結びついて、くりかえし日本の思想史に現われてくる
か、という問いも、实は、右のようなヨリ大きな問いの一環として考えられると思います。」
(集⑨ 「日本の近代化と土着」1968.5.pp.369-73)
117
-「
「原日本的世界像」というものを強いて図示すると、‥無限に続く直線として表わされ
ます。‥「天地初発」
(古事記)が、ダーッとすごいエネルギーをもって宇宙が「発する」
リニアー
わけです。そのいきおいで次々と神々が生ずる。…一方向的な線的な発展で、だから扇形
の発展になっていくわけです。…それで結論的に言いますと、ここ(A 点)に「無限」の
天地初発のエネルギーが蓄わえられていますから、それがある時点時点に、ロケットみたい
に到着し(B・C 点)
、そこからまた新しいエネルギーになって未来に進んでゆく。これが
「天地の始は今日を始とするの理あり」という『神皇正統記』のテーゼです。つまり、
「い
ま」がいつも天地の始めなんです。瞬間、瞬間、
「いま」が天地の始めとして、
「天地初発」
のエネルギーがその瞬間、瞬間にロケットみたいに発尃される。
「いま」から出発する。ミ
ソギで過去を洗い流せば「いま」から新しく出発できる。…いつも「いま」が天地初発だ、
という意味での未来志向型で、一方向性をもっている。未来志向型ということは摂理史観
のような、歴史の目標という考え方とはちがうのです。未来志向型ということは、今日か
ら明日に向うということであって、明後日以後の遠い目標の設定にはならない。したがっ
て日本の思想史をみますと、強い復古为義もなければ、逆にユートピア思想もない。…た
えず瞬間瞬間のいまを享受し、その瞬間瞬間の流れにのっていく。したがって適忚性はす
ごくある。…」
(集⑪ 「日本思想史における「古層」の問題」1979.10.pp.198-201)
-「それ(地動説)は、自分を中心とした世界像から、世界のなかでの自分の位置づけと
いう考え方への転換のシンボルとして、したがって、現在でも将来でも、なんどもくりか
えされる、またくりかえさねばならない切实な、
「ものの見方」の問題として提起されてい
るものです。…地動説への転換は、もうすんでしまって当り前になった事实ではなくて、
、、
私達ひとりひとりが、不断にこれから努力して行かねばならないきわめて困難な課題なの
です。そうでなかったら、どうして自分や、自分が同一化している集団や「くに」を中心に
、、、
世の中がまわっているような認識から、
文明国民でさえ今日も容易に脱却できないでいるの
でしょうか。つまり、世界の「実観的」認識というのは、どこまで行っても私達の「为体」
の側のあり方の問題であり、为体の利害、为体の責任とわかちがたく結びあわされている、
ということ-その意味でまさしく私達が「どう生きるか」が問われているのだ、というこ
とを著者(吉野源三郎)はコペルニクスの「学説」に託して説こうとしたわけです。認識の
「実観性」の意味づけが、さらに文学や芸術と「科学的認識」とのちがいは自我がかかわっ
、、、
ているか否かにあるのではなくて、自我のかかわり方のちがいなのだという、今日にあって
も新鮮な指摘が、これほど平易に、これほど説得的に行われている例を私はほかに知りませ
ん。
」
(集⑪ 「
「君たちはどう生きるか」をめぐる回想」198 1.8. pp.374-5)
-「戦後すでに四十年でしょ。‥あの日本の破局的な三〇年、四〇年代の戦争および軍国为
義の時代というものを、
大きくは歴史の教訓として、
日本史の教訓として、さらに直接には、
一個の日本人としての自分自身の経験として、何を学んだか、それともあの巨大な経験から
118
何も学ばないのかということが、ぼくには非常に気になるんです。
…大事なのは、日本人が戦争経験からどういうふうに、またどこまで学んだか、という
ことではないかと思います。‥歴史から学ばなければ同じ歴史を繰り返すということです。
ぼくはどうも最近の事態を見ると、一体日本はどこまであの最近の歴史から学んだのか、あ
れだけひどい目に会い、かつ近隣諸国をひどい目に会わせながら、そこから一体何を学んだ
のか、
経済大国になっていい気になって、
経済的繁栄に酔い痴れているのが現状ではないか、
ほんとうに何と忘れっぽい国民だろうと思わざるをえないわけです。そういう感想でもっ
て、ふりかえってみますと、獄中十八年とか、はじめから非転向の、軍国为義に反対して投
獄された人、
そして苛烈な拷問を受けながら自分の信念を貫いた尐数の人はもちろんそれだ
けで尊敬に値します。そういう人がこっちの端にいますね。もう一方の端には、戦争中は鬼
畜米英といい、
枢軸による世界新秩序を謳歌しながら戦後掌を返すように米英の自由为義陣
営万々歳、とくにアメリカ一辺倒になっちゃったという人がいます。まあ今の政・負・官界
の長老の大半はそれです。
それから第三の類型として、戦争直後はちょっと首をすくめてて、
あるいは一忚しおらしいことを言っていて、
だんだん日本全体の精神的空気があの戦争の経
験をまるで忘れたようになってくると-といっても必ずしも復古だけではなくて、新しく経
済的繁栄の上に乗っかって日本の風向きが変わってくると、
またぞろ本音が出てくるという
タイプがあります。…そういういくつかの類型がぼくはあると思うんです…。そういうなか
にあって、一番尐ないのが、戦争前および戦争中から確かに考え方が変わって、しかも変
、、
わったということの意味を反芻しつづける人ね。これが一番尐ないと思うんです。その尐
数の一人が中野さんなんです。…戦後史のなかで、自分の戦前・戦中の経験をバネにして、
、、、、
二度とその過ちを繰り返すまい、という態度を持続的に貫き、その半生を通じて自分の「思
想」を変えていったかどうか-その検証のほうが、静態的な「転向・非転向」のの区別より
もはるかに生産的であり、またその人の生き方が「ほんもの」かどうか、をはかる指針にな
ると思うんです。
」
(集⑫ 「中野好夫氏を語る」1985.4.8.pp.172-4)
-「
「人民はそれぞれ彼等にふさわしい政府をもつ」というのはもと「西洋の諺」です。
「だ
みず
から仕方がないんだ」とあきらめるのか、それとも、だからこそ「愚民の自から招く災」
をはねのけるのは、「愚民」の自発の決断であり、「人民独立の気象」の確立がカナメなの
だ、というのか、-いずれかによって「愚民観」はまったく正反対の含意を持つことにな
ります。
」
(集⑬ 「文明論之概略を読む(上・中)
」1986.p.25)
「
(文明の)
「精神」をいいかえれば「人民の気風」です。これがこの書物の中核的な概
念の一つになります。…たとえば、アジアとヨーロッパとのちがいは一人のちがいではなく
全体のちがいである。一人一人見ていったらアジアにも秀れた人はいるのだが、全体の気風
に制せられる。…要するに一国の気風を変えて、人民独立の精神を根づかせるということ
になります。
」
(集⑬「文明論之概略を読む(上・中)」1986.pp.118-9)
「たとえば今の日本を見ると、官に在る人にもなかなか秀れた人物が尐なくないし、平民
119
にしても無気力な愚民だけではない。ところが、一人一人は智者でも、集まると愚かなこと
をやる。…日本はなぜそうなってしまうのか、といえば、結局一国の気風というものに制せ
られるからだ。だから、今の我国の文明を前に進めるためには何よりも「先ずかの人心に
浸潤したる気風を一掃せざるべからず」ということになるわけです。そして、有名な一身
独立して一国独立するという命題に結びつけていくのです。」
(集⑬ 同上 p.120)
「どんなに純精善良な説であっても、それが政治権力と合体して正統とされたときは、思
、、、
想的自由は原理的には生じない。‥自由の気風はただ多事争論の中からしか出てこない。
必ず反対意見が自由に発表され、尐数意見の権利が保証されるところにのみ存在する。いわ
ゆる市民的自由というものが「形式的」自由であるといわれる理由がここにあります。つま
、、、、
り、特定の思想内容に係わらない、いかなる説でも自由に表明されるべしということです。
、、、
ここでは必ず複数の考え方の共存と競争が前提になるわけです。…
‥自由の専制-つまりザ・リバティ-は自由でないという逆説ですね。自由はつねに諸自
由(リバティーズ)という複数形であるべきで、一つの自由、たとえば報道の自由が、他の
自由、
たとえばプライヴァシーの自由によって制約せられている-まさにそのいろいろな自
由のせめぎ合いの中に自由があるのだ、というわけです。…
これと対立するザ・リバティを为張する典型的な命題はロベスピエールの「自由は暴政
にたいする独裁である」という、別の逆説です。こっちの流れから「プロレタリアート独
裁」という観念も出てくるので、これは、まさに二つの自由観の対立なのです。
、、、
けれどもここで注意しなければならないのは、この二つの対立する自由観がともに近代
的自由観のなかに流れこんでいる、ということです。たとえば三権分立とか権力分立とか
いう考え方はや制度は、右の「諸自由」の間の牽制と均衡という原理に立っていますが、
人民为権-あるいは人民为権まで徹底しないでも、政府の専制対人民の自由というアンチ
テーゼを前提とする政治思想や制度は明らかに「もう一つ」の自由観の現われです。国民
代表の原理にたつ議会制民为为義の考えもそうです。…近代的自由にはその二つの要素が
、、
ともに内在していて、簡卖に一方だけを切りすてるというわけに行かない‥。」(集⑬ 同
上 pp138-9)
「大事なのは、動機の純・不純ではなくて、なぜいろいろな口实で不平不満を洩らすよう
になったか、という点にある。その不平は門閥専制に妨げられて自分の才力を伸ばせないこ
とから起ってくるのだ、-ここから福沢は二つの命題をひき出します。一つは「専制の下
、、
に居るのは、本来、人間の自然の人情に反することである」という一般命題。もう一つは、
「その人情を発露できるかどうかは、人民の智力(つまり時代の人民の気風)が専制を圧
倒するまでに強くなるかどうかにかかっている」という時代的条件です。人民の智力が向
上してくれば、今まで何とも思わなかった門閥に対する不平が出て、広がっていき、人民の
智力と政府の暴力との力関係がちがってくるといいます。」(集⑬ 同上 p.333)
、、、、
「こんどの改革(明治維新)を企てた者は、士族亓百万のうち、十分の一にも足らないだ
ろうと言う。しかも婦人と子どもを除けば、本当に尐数者しか残らない。その尐数者が言い
120
出して、それが勢いをまして衆論を形成していく。イニシアティヴをとるのは尐数者だ。
ただそれが「衆論」になったから天下の勢いとなって幕府を倒したのであって、幕末志士
の二、三の指導者ではけっして維新は成功しない。つまり、さきほど申しました二つの命
題が結びついている。そしてそれを明治維新をテスト・ケースとして説明しているのです。」
(集⑬ 同上 p.340)
「二百七十年もつづいているのですから、その幕府が、倒れるということはとうてい考え
られない。しかもこれが人間の力で倒せることが立証された、ということは大変なことなの
です。歴史的に何世紀もつづいていると、それはほとんど自然の盤石の如き強みをもってき
ます。どんな盤石のような世の中も人力でもって変えられるのだという認識がでてこない
かぎり、現实をあきらめて受容するほかない。その、ほとんど自然のごとき体制を、われ
われがやれば倒せるんだという意識が一挙に噴出する。その感じがよく出ています。」
(集⑬
同上 p.341)
「岩波現代叢書に C.ブリントンの『革命の解剖』という本が訳されています。イギリス
革命からフランス革命、ロシア革命まで、革命の共通法則を抽出している。その中に、革命
の第一段階が、知識人の離反だとしているのです。知識人がまず体制から遁走する。どの革
命にもこの点が共通しているというのです。
これはちょうど福沢が‥のべた江戸後半期の戯
作者や国学者の言論にあたる。それがまた次の段階で「智力ありて義なき者」といわれたア
クティヴたちの行動へと発展する。ともに広義の知識層です。まず彼らが事をはじめ、動き
出す。だが、それだけでどうにかなるかといえば、知識人だけで動いても、それが大衆と結
合して、
「衆論」を形成しなかったら大きな運動にはならない。逆にそれが衆論と結合すれ
ば-幕末の用語でいえば「公議輿論」となれば-鬼神の如き政府をも倒すに至るのです。」
(集⑬ 同上 p.342)
「一歩「うちわ」から外に出ると、さわらぬ神にたたりなしで、一種の家エゴイズムまた
は部落エゴイズムみたいなものを脱け出せない。…ヨコの公共精神の欠如-果して今日の
日本は維新の時代からどれだけ変っているでしょうか。これでは人が集まって会議をひら
く、という「集議の習慣」が定着しないのも当然です。そういう意味では、最近の難民収容
、、
問題ひとつをみても、果して戦後になって他者との連帯感にもとづくパブリックの精神が
どこまで発展したのかを問うてもいいくらいの問題がここにあると私は思うのです。」(集
⑬ 同上 p.354)
「要するに西洋の「衆論」では、いわば量が質に転化してレヴェルが上る。東洋ではちょ
うどそれと逆だと福沢は言うのです。どうしてそうなってしまうのかと言えば、それは、も
っぱら習慣による、という考えです。‥
習慣を変えなければならない。
「合議」の習慣を人民の間に作らなければならない。…生
活習慣が可変的なものだ、という前提が大事なのです。だからこそ、たとえ時間がかかって
も習慣を変えて行こうとする。
…人間は習慣によって考え方が制約されるという側面-ある
意味では非常に非合理的な側面-を重く見ているわけです。習慣というのは、理屈では分
121
っていても、なかなかその理屈どおりにはいかない、だから仕方がない、というのではなく
て、だからこそ、習慣を変えていくことが重要な課題となります。‥そういう習慣がつけ
ば、元来日本人は一人一人は優秀なのだから、もっと組織体の、ひいては日本国全体のア
く
や
ウトプットが大きくなるはずだ、というのです。ここには口惜しいなァという福沢の感じ
が根底にあります。
」
(集⑬
同上 pp.356-8)
「ヨーロッパ列強に対して、理によって対等に交際する。それができるようにするため
には、内において権力にたいする抵抗の精神を養わなければならない。
「上下同権の大義」
は外の強大国に抵抗する下た稽古だ、というわけです。」
(集⑬ 同上 p.364)
「人が集まって議論する習慣、ちがった意見を組み合せて組織をつくる習慣-みんなそ
ういう習慣をつくるという問題に集約される。旧習を打破して、こういう新しい習慣を根付
かせるには、その社会的基盤をつくらなければならない。」(集⑬ 同上 p.364)
-「福沢は「権力の偏重」という彼独特の用語によって、
(日本の)あらゆる社会的・文化
、、、、てっけつ
的領域に潜んでいる人間関係の「構造」的特質を横断的に剔抉しているのです。」
(集⑭ 「文
明論之概略を読む(中・下)
」1986.p.126)
、、
「
「権力の偏重」という場合の権力は、権力は、けっして政治権力だけを指しているので
はありません。…「権力の偏重」という命題の意味論としては、政治権力に限定するのは
、、、
狭すぎます。福沢はいわば多元的権力論者なのです。…男女関係、親子兄弟関係といった
政治以外の「人間交際」にもみな権力の偏重が現われているのです。
、
したがってまた「権力の偏重」は、金力の場合でも、腕力(軍事力)でも、いや、‥智
、、、、、
力でさえも、およそ「力」として人間交際に現われるかぎり、あらゆる領域の活動にあて
はまり、それ以外の権力によって制限されないと腐敗と濫觴の源になるというのが、福沢
の根本の考え方です。…
、、
福沢の執拗低音である政治为義批判が、この「権力の偏重」指摘の場合にもこうして現わ
れます。…日本ではおよそあらゆる人間交際-つまり社会関係のなかに、権力の偏重がい
わば構造化されているのだ、というのが福沢の为張であり、また彼の最も独創的な思想で
す。
それから第二には、権力の偏重というのは、たんに事实の問題ではなくて、価値の問題
であるということです。…「権力の偏重」が日本文明の構造的特質なのは、この事实上の
、、、、
大小に価値が入ってくるからだ。つまり、小より大の方が偉いのだという価値づけを同時
に伴なっている。それが問題なのです。
、、、、
…上級者と下級者がたんに職務分担上の区別ではなく、上級者の方が当然価値的に
「偉い」
ということになると、それがすなわち日本における権力の偏重になります。事实上の「有
ラ イ ト
様」のちがいだけでなく、それが同時に価値上の「権義」の差になっていることを、福沢
てっけつ
は‥日本文明の病理として剔抉しているのです。」
(集⑭
同上 pp.128-31)
「‥権力の偏重が实体概念ではなく、関係概念なのだ‥。特定のある人間が権力の偏重を
122
、、
「体現」しているのではなく、上と下との関係においてある。ですから、上にたいしては
くさり
ペコペコし、下にたいしては威張っているという「関係」が、ずっと下にまで 鎖 のように
、、
つながっている。ある傲慢な人間がいるのではなくて、同じ人間が下に対すると傲慢にな
り、
上に対すると卑屈になる-そういう関係概念としての権力の偏重が見事に描かれていま
す。
」
(集⑭ 同上 p.133)
「権力の偏重ということが、
「全国人民の気風」であって、それが西洋諸国と日本との根
本的なちがいを生んでいる、というわけですが、そのちがいの原因は何か‥。…
治者と被治者が出るというところまでは同じだ。だが、それが固定化すると同時に、上
下・为実・内外の価値的差別が生じてくる。それが価値の偏重の端緒となる。
…日本文明は異なる説もしくは制度が「化合」しないままに「片重片軽、一を以て他を滅
し」
、他のいろいろな「種族」は独自性をなくししまうために、結局「元素」は治者と被治
者との二つに吸収され、そのまま固定化してしまうというわけです。…
ヨーロッパ中世においては、
寺院もあり君为もあり貴族もあり自治都市も民庶会議もあっ
、、、
て、
それぞれが各々政治的権力を擁していて、
それら全体を包括するものが何もなかった‥。
そういう中間勢力の多元的な併立が、絶対君为と人民とに分れていくことによって、ネーシ
ョンを基盤とした政治的統一の前提ができていく。
国家構造における政府と人民との機能分
化ということは、
あらゆる近代国家に共通していることで、福沢もそう思っています。だが、
‥福沢がいっているのは、社会の構成卖位としての宗教(寺院)とか人民の集まりとかが、
一つも独自性をもった元素にならずに-つまり「自家の本分を保つものなし」に-治者と被
、、
治差という統治の二大元素に、
しかも一方に偏重した関係のままに磁石のように吸いつけら
れてそのまま固定してしまうことを指します。
「被治者」というのは、その名のように「治
、、
、、、、
者」の対象であって、
「ネーション」のように「政府」に対峙する自为的な人民の総称では
ありません。
」
(集⑭ 同上 pp.137-42)
「治者と被治者との分岐が固定化するのが第一段で、つぎに、その治者としての王审に
権力の偏重が現われるのが第二段‥です。…つまり文明化自体はあらゆる社会の通則です
が、政府为導型-具体的には大和朝廷为導型-の文明化というパターンが早くから形成さ
れた、という特質に(福沢は)注意を促しています。ここには、維新後の政府为導型の文
明開化の問題性についての福沢の批判が二重映しになっているのです。
、、、、
中央政府が、政治以外の諸価値、富価値とか学問などの文化価値‥を独占して、これを
人民に配給する、という形をとる。たんに政府がそうした諸価値を「兹有」しているだけ
しっかい
でなくて、
「文明の諸件を施行するの権は悉皆政府の一手に属し」ているという点が強調さ
れています。…
天下の権力がすべて王审に偏したが、
王审への権力の集中が必ずしも後世の権力の偏重の
原因ではないというところが大事です。権力の偏重は人間の交際、つまり社会全体の問題
で、王审と人民との間の権力の偏重「も亦」そのあらわれなのだ、と再説しています。
ただ歴史的条件でいえば、王审と人民との間にまず権力の偏重が生じた。つぎには步家政
123
治の時代になった。政権担当者は変ったけれども権力の偏重という「人間交際」の構造は変
わらない‥。
政権が王审から步家の手に移っても、
治者と被治者との関係は固定して変らず、
上下・为実が価値の関係であるのもそのままで、依然として治者が諸価値の源泉であるとい
うのです。変わらないだけでなく、兵と農との分離がすすんで、富強貧弱がいよいよはっき
りしてきて偏重が著しくなった‥。…
ここでは、日本の社会の構造法則として、上下の事实上の関係が同時に価値の関係にな
るということをいおうとしている。至尊と至強が分れた、という側面から步家政治をみる
、、、、、
と、日本は中央政権的皇帝政治一点ばりの中国よりはましだけれども、それも治者の間に
、、、
、、、、、
おける価値の分化にとどまり、ヨーロッパにおけるような全社会体系にわたる諸価値の間
のチェック・アンド・バランセズという点に着目すると、
『概略』では中国も日本も同じジ
ャンルにくくられて批判の対象になってしまうわけです。…
政府と人民とがあってはじめて国がある、といえる。ところが、新五白石‥を読んでも、
頼山陽を読んでも、人民の歴史というものは一向に出ていない。政府の歴史しか書いていな
い。…ヨーロッパでは政府というのは社会におけるいろいろな権力の変動(国勢)と関数関
係にあるということです。社会にブルジョワジーの勃興というような変化がおこると、それ
に対忚して政府の形態も変らざるをえない。ところが、日本はどうかというと、むしろヨー
ロッパと逆の関係にあり、政府が社会の諸権力-宗教・学問・商工業などをみんな手のうち
に「籠絡」しているから、たとえば宗教の権が衰えて、商工業の権がおこったとしても、そ
れによって政治のパターンが変ることはない。政府はただ同類の者-つまり治者の間の変動
さえ心配していればいい。
」
(集⑭ 同上 pp.142-52)
「治者と被治者との間が高壁で隔てられ、軍事力にとどまらず、学問・宗教など文化の
領域までもが、みな治者の勢力範囲に入って、その関係の相互利用によって、各々の領域
での自分の権力を伸長しようとする。その結果、富価値・才能価値・名誉価値(栄辱)
・倫
理価値(廉恥)など一切の社会的価値が、全部治者の側に磁石のように吸いとられてしまう
‥。治者はこれら諸価値を独占して被治者をコントロールする。そうすると、世の中の治
乱とか、文明とかいっても、それは治者の支配領域に関することであって、被治者の側に
おのず
は、 自 から政治的無関心だけでなく、一切の社会や文化の問題にたいする傍観的態度が生
まれる。
この見方は、福沢のナショナリズムの伏線になっています。ナショナリズムは、福沢に
、、、、、、、、
とっては政治だけの問題でなく、人民の多様な社会的文化的活動が同時にその源泉なので
す。ですから、そういう諸領域の活動に被治者が無関心で、俺の知った事じゃないという
態度だと、下からの自発的エネルギーを発揮する余地が尐ない。それでは「外国交際」
、と
まっと
くに国際関係が逼迫したとき、果して日本の独立を 全 うできるか、それでいいのかという
、
問いの伏線となっているわけです。…国を愛するという言葉は、人民が为体となり、国を
自分のものとして愛する、ということですから、愛国心は实質的に人民为権的思想と連動
しています。
」
(集⑭ 同上 pp.155-7)
124
「
「くに」という言葉は記紀に出てくる最も古いやまと言葉の一つ‥です。古来から、日
、、、、
本ほど領土・言語・人種などの点で相対的に連続性を保ってきた国は世界でも珍しい。しか
し、いま「ネーション」に対忚するコトバとして国というものを考えてみると、いまだ国
の体をなしていない。政府と人民との「対立の統一」としてのネーションはいまだできて
いないのだという一大逆説がここに提示されています。これは今日でもまだ生きている命
題だと私は思います。‥
この「くに」という言葉の多義性が近代日本ナショナリズムがふるったおどろくべき魔
術的な力の秘密でもあるのです。
「くに」はいくつにも相似形に重なった構造をなしていま
す。いちばん外に「大日本国」という国がある。その中に出羽の国とか、播磨の国とかいう
場合の「くに」がたくさんあります。さらに今日でも「くにへ帰る」という場合のように自
分の祖先が住んでいた「郷土」という意味の「くに」が最小卖位をなしています。これらが
相似形をなして重なっているでしょう。そこで自分にいちばん近いクニにたいする自然の
愛着心を、いちばん大きな大日本国というクニに比較的たやすく動員できるのです。‥日
本語ではさらにおどろくべきことに、政府も「くに」なのです。‥カントリーが同時にガ
ヴァンメントをも指すわけです。日本の「くに」という言葉がもっている魔術の秘密とい
うのは、それです。
、、
けれども同時にその魔力はネーションの意識のおどろくべき低さと背中合わせになって
いるのです。
「くに」への依存性・所属性の意識は非常に強く、その半面、この「くに」は
俺が担っているのだ、俺の動きで日本国の動向もきまるのだ、という意識は非常にとぼし
い。ですから、第二次大戦の末期に連合国が日本を見損ったのも無理はありません。」(集
⑭ 同上 pp.160-1)
「人民の身分を脱して自分だけが治者の党に入っていくか、それとも人民自身の地位を全
体として上げていくか。湿地に土盛りして高燥の地を作るのが、ヨーロッパにおける市民
、、
階級の勃興にあたり、自分一人だけ高燥の地へ移る立身出世が、秀吉に代表される日本型
「デモクラシー」に当ります。秀吉ひとりが尾張の百姓を脱して、
「治者の党」へ入っても、
ほかの尾張の百姓は相変わらず湿地に住んでおり、
百姓の社会的地位が上がったわけではな
い。これでは権力の偏重というパターンは尐しも変らない、というわけです。
これは‥明治以後の近代日本の立身出世型デモクラシーの問題性を实に見事に言いあら
わしています。タテの個人的モビリティはあるが、必ずしもヨコの連帯意識はない。立身
出世の自由があるから、
仲間を置きざりにして自分だけ階層性の階段をどんどん昇進してい
く。それでも一忚、家柄・氏素性に関係なく出世できるから、一見いかにも自由平等な社会
のようにみえる。‥
けれどもリンカーンの国どころでなく、
中世ヨーロッパの独立市民が藤吉郎を見たら何と
いうだろうか。薄情なヤツだというにちがいない。
「独り步家に依頼して一身の名利を貪る
、、、、、、、、
ののし
者は、我が党の人に非ずとて、之を 詈 ることならん」
。」(集⑭ 同上 pp.163-4)
「権力の偏重が日本をどのように特徴づけるか、
それを宗教の歴史的地位がいちばんシン
125
ボリックにあらわしている‥。宗教というのは人間の内面的良心に関係する領域なのに、
そこに権力の偏重があらわれているというのは非常にドラスティックな例といえます。…
、、、、
日本では、俗界での位の「えらさ」が仏門内の位階に横すべりしてしまう。権門勢家の人
が出家すると、坊さんとしての位階や生活程度もはじめから高い、という習慣がむかしから
あって、それをだれもおかしいとは思わない。…日本の場合は、律令制の時代から、僧尼令
というものがあって、政治権力が仏教界を統制していた。宗教の俗権に対する自立性は、宗
、、、
教自身が、自分独自の価値体系をもっているかどうかによります。…
日本の宗教史をみると、元来、そういう「信教者の懦弱」の要素はありましたが、その
傾向が全面化したのは江戸時代になってからです。その前には、教権自体が俗権に対して
あえて步力的な抵抗をおこなった例がないわけではない。戦国期には、例の石山本願寺は、
信長を敵としてあれだけ戦っているわけです。また审町末期から各地におこった一向一揆、
あるいは法華一揆が江戸時代の多くの百姓一揆とちがう点は、「村」といった地域的な限定
性がないことです。
たとえば一向一揆は阿弥陀信心に基づく信仰共同体を基盤にしています
から、北陸なら北陸、三河なら三河のある地方で勃発すると、たちまち燎原の火のようにひ
、、、
ろがる。このダイナミックな横への伝播力と団結の強さには、信長も家康もにがい経験を
なめている。この経験から彼等は信仰共同体のおそろしさを知り、それがやがてのちのキ
リシタン弾圧にいたる一つの背景になっています。
」(集⑭ 同上 pp.168-177)
「福沢はおそらくギゾーによって、ヨーロッパにおいても、世間に学問が開けていくのは
一六〇〇年代以後のことだといっております。一六〇〇年代といえば、日本では江戸時代以
降になります。江戸時代になって、幕府はいわゆる文治政策をとりますから、学問がさかん
になってくる。その点ではヨーロッパに比しても日本もそんなに遅れてはいない。…にも
かかわらず、西洋とは学問のあり方が出発点からちがった。その両者の相違とは何か。こ
こに問題があるというのです。
ヨーロッパでは、ちょうど宗教世界が俗権から独立していたように、
「学者の世界」つま
、、、
り学問共同体が形成されて、それが独立していた。学者においては、学問以外の社会的所
属性が問題にならなかった。
「官私の別なく」というのはそれです。…ところが日本におい
ては、第一義的に学問以外の団体所属性が問題になる。こうして意識のうえでも事实とし
ても学問共同体の形成がなく、学問世界というのは治者の世界の一部分にすぎない。」(集
⑭ 同上 pp.183-4)
「どうして誇り高い步士が「児戯に等しき名分」などに疑いを抱かないのか、どうして
抑圧の移譲にすぎない上下関係に甘んじてきたのか。もし、これを上級権力者にたいする
「卑屈の醜態」として道徳的に糾弾するだけなら、それは外圧的批判に終ります。それだけ
、、
にとどまらず、步士団が「党与」を結んでいることが、第一に彼らの利益にもなり、第二に
心理的満足感を与える、と内在的に説明することで、福沢の变述はヨリ説得的になります。
、、
‥同時に福沢は、ここでは步士団のエートスのなかに上下階層関係だけではなくて、
「党与
一体の栄光」があったことを指摘しています。つまりこれは個々の步士が特定の步士団と
126
いう集団に自分をアイデンティファイすることからくる、步士の名誉感です。
「党与」です
、
から、人類などというのはそれに入りません。源氏とか平家とか足利とか步田とかいう特
、
殊集団です。その特殊集団への所属感・帰属感によって、その集団の栄光は自分一個の栄光
のように感じられる。この伝統は現在の「日本株式会社」まで脈々と続いていると私は思
うのですが、それはともかく、いわゆるタテ社会関係だけでなく、ヨコの集団帰属心理を
挙げたことは福沢の卓見です。
」
(集⑭ 同上 pp.203-4)
、、、
「個人が幼児のときから、習慣やしつけによって社会規範をだんだん身につけていくのと
同様に、
社会の文明への発展にも一種の「社会化」過程-あるいは秩序獲得の段階-がある、
という見方です。‥権力の偏重も、第一歩の段階では、人心の維持のためのいわば必要悪で
あって必ずしも人の悪意によってそうなるのではない。…つまり、本一的に、あるいは先天
的に悪い制度や機能というものはないのであって、現实に必要であった以上に、
「第二段」
まで生きのびると病理が顕在化してくる。権力の偏重もその例で、生きのびるほど、
「遺伝
每」が甚しくなり、それを除去することがますます困難になる-そういう見方です。…
太平がつづけばつづくほど、思考と行動がだんだんステレオタイプになっていく。偏重の
政治があまりに巧みにおこなわれると、
初歩から次歩へという項序が忘れられるだけでなく、
ついに「人間の交際を枯死」させるにいたる。…
つまり人民は無数の小さな固い箱-「閉じた小宇宙」のなかに閉じこめられたようなもの
だ、というのです。…
「敢為の精神」とはアドヴェンチュアの精神であり、‥A・N・ホワイトヘッドのいわゆ
る「観念の冒険」を含みます。これがなくなると人間行動はすべてがルーティン化し、何
事も安全第一となります。さきに、日本の步人に独一個の気象なし、とありましたが、ちょ
うど安全第一が依頼心と連動しているように、「独一個の気象」が、まさにここでいう「敢
為の精神」ともなるわけです。…
いわゆる堪忍の精神-予期しない難儀に我慢して堪え忍ぶという精神は、
とくに農民など
、、、、
みずか
には非常にあります。けれどもそれは困難を 自 ら引受けてこちらから出ていくという精神
ではない。福沢によると、そういう敢為の精神はなにか特別な人間の素質ではなくて、
「尋
常の人類に備はる可き一種の運動力」なのです。それがないと、
「停滞不流の極」に沈みま
す。…
これは昔々の話でしょうか。今日でも、何かのポストを終えて、退任したり退官したりす
るときに、
よく
「大過なく勤めることができまして」
云々といった決り文句の挨拶をします。
大過なく任を終えたということであって、これこれのことをやりました、というのではない。
ビュロクラシーの精神は元来そういうものですが、過失をおかすことを何よりも恐れ、何
よりもとがめる雰囲気からは「敢為の精神」は出てきません。そうした消極的態度が狭義
の官僚制だけでなく、社会の隅々に及んでいるのです。…
、、
権力偏重の日本と、そうでない西洋文明との対比で…どこがちがうのか。たとえば刻薄
残忍なのは「唯富強なるが故」だ-というのはどういう事かといえば、いわゆる虎の威を借
127
、、
、、、
る狐ではない、という意味です。自分の力を発揮して刻薄残忍になるのであって、他人の、
あるいは自分の所属する集団の、権力に依存して威張っているのではない。逆の場合も、オ
、、、
ベッカを使ってまで富強者に従項であっても、それは貧乏のためで、したがって貧乏の時期
、、、
だけのことだ、という自己意識をもっている。けっして習い性となって卑屈になっているの
、、、、、、、、、、
ではない。だから醜悪さは醜悪さなりに「独一個人の気象を存して、精神の流暢を妨げず」
ということになります。
…富強と貧弱とがけっして宿命的な天然現象でない、
という意識は、
、、、、、、
それが可変的なものだ、という意識です。可変的なものなら、これを宿命としてあきらめ
、、、
、、、
ずに自分の努力で自分の進路を開拓してゆこうという態度となって現われます。たとえ「事
、、、
实に致すこと能はざるも」-つまり、もし事实上その努力が失敗しも、根本の考え方が変ら
ないかぎり、何くそまたやってやれ、という不屈の態度が持続します。つまり「独立進取の
路」を歩むことになる。富強とか貧弱とかいう事实状態‥によって自分の精神の内部までも
冒されないわけです。問題は富強者が威張っていたり、貧弱者が卑屈になったりすること
、、、、、
それ自体にあるのでなく、その事实をどう受けとめるか、という为体の精神の在り方にあ
、、、、
る。
「権力の偏重」が人民の精神をも「自家の隔壁の内に固着」させてしまう点にこそ日本
文明の病理があると言って、くどいまでに問題の所在をダメ押ししながらこの段を結びま
す。
」
(集⑭ 同上 pp.213-20)
-「
「自粙の全体为義」について‥。多くの論者が、昔の天皇制から尐しも変っていない、
というような批評をするが、私にいわせればとんでもない、大変りなのである。大正天皇「御
不例」の折は、それが発表された十月から天皇死去のその年の暮れまでに、大見出しの新聞
、、
記事になったのは何回もなかった。毎日数回も TV で脈拍・血圧から下血に至るまで報道さ
れるというのは異常に新しい現象であり、情報社会下の天皇制の変質を物語っている。第
一、
「下血」などというきたならしいことを「玉体」について語ることさえ憚るのが戦前の
感覚というものである。当時は皇居前で病気平癒を祈って平伏する「臣民」の写真は何度か
新聞に載った。けれども小さな村の祭りまで「自粙」するというような珍現象は私の記憶す
るかぎり全くなかった。言葉をかえていえばそのこと自体が柳田国男のいう「日本の祭り」
の堕落-そのショウ化-を示している。
病気の平癒を祈る臣下の内面的な心情が失われるの
に反比例して、あたりを伺いながら「まあこの際うちもやめておこう」という偽善と外面
的劃一化とが拡大したのが今度のケースなのである。」(集⑮
「昭和天皇をめぐるきれぎ
れの回想」1989.1.31.pp.14-5)
「敗戦の翌年二月頃に、私は‥「超国家为義の論理と心理」を執筆し‥た。この論文は、
私自身の裕仁天皇および近代天皇制への、中学生以来の「思い入れ」にピリオドを打った、
という意味で‥私の「自分史」にとっても大きな劃期となった。敗戦後、半年も思い悩んだ
あ げく
揚句、私は天皇制が日本人の自由な人格形成-自らの良心に従って判断し行動し、その結
、、、
果にたいして自ら責任を貟う人間、つまり「甘え」に依存するのと反対の行動様式をもっ
、、、、
た人間類型の形成―にとって致命的な障害をなしている、という帰結にようやく到達した
128
のである。
」
(集⑮ 同上 p.35)
-「どこまで事实かどうかは知らないが、最近のヤングについてこういうことを耳にしたこ
とがある。それは彼等の日常交際するサークルの範囲がますます小さくなり、しかもその仲
間同士でも、
お互いの考え方なり立場なりを批評し合うような会話の場がほとんどなくなっ
た、という話である。これを美化するならば、いやしくも相手の心を傷つけるおそれのある
論争や言葉をひかえるという「優しさ」のひろがりとも表現できる。しかし裏返すならば、
そうした「優しさ」によって担保されているのは、ひとの批判によってたやすく傷つけら
、、、
れるようなひよわな魂の住む世界ではないのか。」
(集⑮ 「内田義彦君を偲んで」1989.11.
p.87)
-「政治の領域における惑溺は、‥権力の偏重‥です。‥虚位を崇拝することで、本来人間
の活動のための便宜であり、手段であるべき政治権力は、それ自身が自己目的の価値になっ
ていくという傾向は、ぜんぶ政治的「惑溺」に入ってくる。国際関係で言えば、‥昨日まで、
すっかり東洋にいかれていた。その同じ精神構造で西洋にいかれてしまう。そういう惑溺が
「外国交際」の領域で起こるわけです。…要するに、あまり一方的になって、自分の精神
の内部に余地がなくなり、心の動きが活発でなくなるのを、みんな「惑溺」と言っている
のです。…思考方法としての惑溺というものを、彼(福沢)はいちばんに問題にしている。
それからの解放がないと、精神の独立がない。思い込んでしまうと、他のものが見えない。
、、、、、、
しかも、それが長く続かないで、急激に変わる。今日のコトバで言い直せば、急に方向の変
、、、、、、、、
わる一辺倒的思考ということになります。…自分の自然の傾向性に対して、不断に抵抗し
ていく。そうでないと、インデペンデンス・オヴ・マインド、独立の精神というのは確立
されないということです。
」
(集⑮ 「福沢諭吉の人と思想」1995.7.pp.291-3)
-「欠如理論というのは、日本ではマイナス・シンボルに使われる。日本にはこれがない、
あれがない、とばかり言って、ないないづくしじゃないかと、だいたい悪口として言う。け
れども欠如しているからこそ、
ますますそれを強調しなければいけない。本来あるものなら、
放っておいても生長するから大丈夫です。もし日本を豊かにしようとするならば、欠如し
ている、あるいは不足している面を強調しなければいけない。本来もっている自然的な傾
向というのは言わなくてもいい。むしろそれは自家中每を起こしやすい。…
要するに福沢の言動というのは、そういう意味で、いつも役割意識というのがつきまとっ
ている。彼が教育者として自己規定したというのも、この役割、この使命感ということに密
接に関係しています。彼が教育者として自分を規定したというのも、この役割、この使命感
ということに密接に関係しています。つまり、教育というのは、長期的な精神改造なんだ、
自分は政治家ではないから、政治にコミットしない、ということの対比において、彼はそう
いうことを言っている。ロングランの精神改造というものに彼は賭けているわけです。」
(集
129
⑮ 「福沢諭吉の人と思想」1995.7.pp.305-8)
-「ふつう、大衆運動が盛り上がっていった頂点に六〇年安保があったというふうに考え
られがちですけれども、そうではない。突如としてあの大爆発になった。アクティヴな知
識人や学生の見方からすると「ついにここに来た」
、つまり多年の努力が实って六〇年の大
爆発になったというのですが、いわゆる普通の市民と接触している僕らから見ると、亓月一
九日の強行採決によって突然大爆発がおきた。その見方の違いというのが、かなり重要なこ
とじゃないかと思うんです。…
なにしろ、国会の周辺は毎日毎日何十万という市民でしょう。いま、ああいう事態という
のは、ちょっと考えられないですね。正直言って、よくあれだけ、どこからも動員されない
で、自然に集まったものだと思います。‥
そのあと、安保がおさまった直後に、野間宏君たちが中国へ行った。そうしたら毛沢東为
席が「日本国民を見直した。これで中国は安心した」といったそうです。つまり、日本の国
民の間にこれだけ戦争に反対する勢力が強い以上は、またああいう日中戦争のようなことは
起こらないと、
そのとき本当に思ったらしいんですね。毛沢東の言葉は本心だと思うんです。
あの騒ぎで、
日本の国民の平和への志向がいかに高いかというのを、毛沢東は知ったんです。
それはたいへん大きなことだと思います。政党や組織に動員されないで、一般の大衆があれ
だけ動いたというので、
戦争反対の意志が相当に強く国民的に滲透しているということを知
ったんでしょうね。
」(集⑮
「サンフランシスコ講和・朝鮮戦争・60 年安保」1995.11.
pp.337-41)
-「
(矢野龍渓が 1884 年 7 月 21 日に開催されたロンドン・ハイドパークでの大衆集会の参
......
(ママ)
加者について)
「 重 もに社会にて中以下の人物(傍丸点丸山)にて大工職工等なり」と階
級分析まで行い、こうした下等の輩の参加は「小児の戯に類する様なれども、下等人民が
かか
幾分か政治上の事を評議し、注意し、斯る会合を為すは、他の国の(場合の-丸山)国事
を意とせず、其政治をば外国の如く思ふ下等人民に較ぶれば、雲泤の差ありと云ふべし」
と評価するに至っては、ここで「他国」というのは当時の日本、いやひょっとすると二十
世紀末の日本の状況まで見透しているのではないか、と冷汗の出る思いがする。」(集⑮
「
「矢野龍渓 資料集」第一巻 序文」1996.3.pp.348-9)
<日本の特殊的な世界的位置>
-「アメリカという国は封建社会なしに、いきなり近代社会から出発した。ところがソ連は
ごく雑に言えば、
西欧市民社会を経ないで封建社会から一足とびに社会为義社会になってし
まった…。
そういう意味でアメリカではともすると近代社会を絶対化し永遠化する傾向があ
って、近代社会の持っている危機なり矛盾なりに対して盲目になりがちだ。それに対してソ
130
ヴェートはおよそ市民社会的なものを、
西欧的とかブルジョア的とかいって頭から退けてし
まう傾向がある。だからこの両雄が真正面から対峙すれば、一種の思想的な絶対为義と絶対
为義とのぶつかり合いになる危険が非常に高い。
そこで、
この二つの国の間に挟まれていて、
、、、 、、、
近代化と現代化という問題を二つながら解決することを迫られている日本の立場というも
のは、世界史的に見れば非常に重要な意味を持っているのではないか…。」(集⑥
「現代
政治の思想と行動第一部 追記および補註」1956.12.pp.275-6)
-「それ(地動説)は、自分を中心とした世界像から、世界のなかでの自分の位置づけと
いう考え方への転換のシンボルとして、したがって、現在でも将来でも、なんどもくりか
えされる、またくりかえさねばならない切实な、
「ものの見方」の問題として提起されてい
るものです。…地動説への転換は、もうすんでしまって当り前になった事实ではなくて、
、、
私達ひとりひとりが、不断にこれから努力して行かねばならないきわめて困難な課題なの
です。そうでなかったら、どうして自分や、自分が同一化している集団や「くに」を中心に
、、、
世の中がまわっているような認識から、
文明国民でさえ今日も容易に脱却できないでいるの
でしょうか。つまり、世界の「実観的」認識というのは、どこまで行っても私達の「为体」
の側のあり方の問題であり、为体の利害、为体の責任とわかちがたく結びあわされている、
ということ-その意味でまさしく私達が「どう生きるか」が問われているのだ、というこ
とを著者(吉野源三郎)はコペルニクスの「学説」に託して説こうとしたわけです。認識の
「実観性」の意味づけが、さらに文学や芸術と「科学的認識」とのちがいは自我がかかわっ
、、、
ているか否かにあるのではなくて、自我のかかわり方のちがいなのだという、今日にあって
も新鮮な指摘が、これほど平易に、これほど説得的に行われている例を私はほかに知りませ
ん。
」
(集⑪ 「
「君たちはどう生きるか」をめぐる回想」198 1.8. pp.374-5)
2. 日本における人権・民为(デモクラシー)
<日本における人権・民为(デモクラシー)>
-「自由民権運動が華々しく台頭したが、この民権論と…在朝者との抗争は、真理や正義
、、、
の内容的価値の決定を争ったのではなく、…もっぱら個人乃至国民の外部的活動の範囲と
境界をめぐっての争いであった。凡そ近代的人格の前提たる道徳の内面化の問題が自由民
権論者に於ていかに軽々に片づけられていたかは、かの自由党の闘将河野広中が自らの思
想的革命の動機を語っている一文によく現われている。
その際決定的影響を与えたのはやは
りミルの自由論であるが、彼は、
やや
「馬上ながら之を読むに及んで是れまで漢学、国学にて養はれ動もすれば攘夷をも唱へた
、、、、、、、、、、、、
も
従来の思想が一朝にして大革命を起し、忠孝の道位を除いただけで、従来有つて居た思想
が木端微塵の如く打壊かるゝと同時に、人の自由、人の権利の重んず可きを知つた」(河
131
野磐州伝、上巻、但し傍点丸山)
と言っている。为体的自由の確立の途上に於て真先に対決さるべき「忠孝」観念が、そこ
では最初からいとも簡卖に考慮から「除」かれており、しかもそのことについてなんらの
問題性も意識されていないのである。このような「民権」論がやがてそれが最初から随伴
した「国権」論のなかに埋没したのは必然であった。かくしてこの抗争を通じて個人自由
、、
、、
は遂に良心に媒介されることなく、従って国家権力は自らの形式的妥当性を意識するに至
らなかった。そうして第一回帝国議会の召集を目前に控えて教育勅語が発布されたことは、
日本国家が倫理的实体として価値内容の独占的決定者たることの公然たる宠言であったと
いっていい。
果して間もなく、
あの明治思想界を貫流する基督教と国家教育との衝突問題がまさにこの
ごうごう
教育勅語をめぐって囂々の論争を惹起したのである。
…それが片づいたかのように見えたの
は基督教徒の側で絶えずその対決を回避したからであった。今年(浅五注:1946 年)初頭
の詔勅で天皇の神性が否定されるその日まで、日本には信仰の自由はそもそも存立の地盤が
なかったのである。信仰のみの問題ではない。国家が「国体」に於て真善美の内容的価値
を占有するところには、学問も芸術もそうした価値的实体への依存よりほかに存立しえな
、、
いことは当然である。しかもその依存は決して外部的依存ではなく、むしろ内面的なそれ
、、、、、、
なのだ。…何が国家のためかという内面的な決定をば「天皇陛下及天皇陛下ノ政府ニ対シ」
(官吏朋務規律)忠勤義務を持つところの官吏が下すという点にその核心があるのである。…
従って国家的秩序の形式的性格が自覚されない場合は凡そ国家秩序によって捕捉されな
、、、
い私的領域というものは本来一切存在しないこととなる。我が国では私的なものが端的に
私的なものとして承認されたことが未だ嘗てないのである。…従って私的なものは、即ち
、、、、、、
悪であるか、もしくはそれに近いものとして、何程かのうしろめたさを絶えず伴っていた。
…そうして私事の私的性格が端的に認められない結果は、それに国家的意義を何とかして
結びつけ、それによって後ろめたさの感じから救われようとするのである。…「私事」の
倫理性が自らの内部に存せずして、国家的なるものとの合一化に存するというこの論理は
裏返しにすれば国家的なるものの内部へ、私的利害が無制限に侵入する結果となるのであ
る。
」(集③ 「超国家为義の論理と心理」1946.5.pp.20-3)
-「羯单がまず第一になしたことは、彼の立場を反動的なショーヴィニズムから峻別する
ことであった。
そうしてそのために彼は、
欧州における近代的ナショナリズムの発展を变べ、
それが封建制を打破して国民的統一を完成する過程における進歩的イデオロギーなる所以
を明かにし、…これをどこまでも世界史的関連のうちに基礎づけようとした。彼は後進民
族の近代化運動が外国勢力に対する国民的独立と内における国民的自由の確立という二重
の課題を貟うことによって、デモクラシーとナショナリズムの結合を必然ならしめる歴史
的論理を正確に把握していたのである。」(集③ 「陸羯单-人と思想」1947.2.p.95)
132
-「今日なお広汎な大衆の間に、上の様な認識と価値判断(丸山:ザインの認識とゾルレ
シェ ー
レ
ンの判断)といわば鋏状差が見られるということは、終戦後あれほど活発に啓蒙運動が行
われたにも拘らず、進歩的陣営の思想のせいぜい結論だけが受取られて、そこに到達する
、、、、
論理過程が一向大衆の肉体化していない事を物語っている。そうして、一定のデータから
正しい意味を汲みとる思想的訓練が普遍化していない限り、いいかえれば大衆の価値判断
を一定の方向に流し込む鋳型の様なものを進歩的思想がつき崩して行くことに成功しない
、、
限り、急進陣営によって試みられる一切の現实暴露戦術はかえって全く逆の効果を生む恐
れなしとしないのである。…今日なにより必要なことは、前に言ったザインの認識とゾル
、、、、
シェ ー レ
レンの判断との間の鋏状差をうずめて行く具体的な論理過程を大衆が身につけることであ
る。事は決して浮動的小市民だけの問題ではない。はっきりした目的意識を以てザインと
ゾルレンを結びつけている様に見える組織大衆乃至は進歩的インテリゲンチャでも、その
結びつきの道程が隅から隅まで踏み固められていないと、いつなんどき自分の意識下の、
平素自覚しない広大な世界を支配する生活感情によって復讐されないとも限らない。ちょ
うど、異常なショックを受けたときに、とっくの昔に忘れたと思っていた方言が飛び出すよ
うに、危機的な瞬間において人間を捉えるものは、いつもこうした「無意識の論理」だか
らである。
」
(集③ 「車中の時局談義」1948.12.pp.353-4)
-「近代的な議会政治を運営してゆく精神が国民の中に育っていないため、国民の大多数
は“誰が本当に自分の利益を護ってくれるのか”を理性的に判断する事が出来ず、選挙の
際は封建的な義理人情、親分子分の関係で投票したり、現实的に出来ないことが明らかな
空虚な「公約」に幻惑されて投票する。従ってその結果は、非常に保守的な形となって現
れる訳だ。こういう特殊な日本的現实を打開するには封建的な社会の基盤を覆えさねばな
らない。しかし仮りに英米なみに日本の国民意識が高まったとしても、議会政治でこの問
題が解決されるかどうかはなお若干疑問がある。
これは議会政治というものの根本に問題が
あるからで、
日本ばかりでなく世界的に議会政治というものは再検討さるべき状態に来てい
ると思う。
」
(集⑯ 「
“社会不安”の解剖」1949.8.p.4)
「日本で特に注意されねばならないのは国家権力の暴力性が問題にされないという事实
だ。国家権力だというだけで神聖視してしまう傾向が強い。日本に於て暴力という言葉は
常に民衆の側に対してのみ言われるが、暴力は誰が行使しても暴力なのだという事を、国民
は肝に銘じて置く必要がある。
露わに行使された暴力は誰の目にも判断がつく。非常に判別が困難で従って我々が特に
警戒せねばならないのは、種々な形での心理的強制である。例えば日本のように身分的な
上下関係が常に人間的な平等の観念に優位する傾向のある所では、ただ長上者又は上司の
一つの目つき、一つのものごしだけで、事柄の理非を問わずにその意志が強行される場合
が尐なくない。
しか
こういう強制力は表面には見えない。然もしばしば外見的にはデモクラティックな手続
133
をとって現れる場合が多い。例えば会議の際に各人が内面の確信によって意見を述べるの
ではなく、その中の権威者・勢力者の意見を先回りして予測し、これに迎合した意見を述べ
る傾向がある‥。こういう暗々裡に行使される暴力は、露わな暴力よりも目につかないだ
けに、ある意味では民为为義にとってより多くの敵である。ボスや顔役の支配は結局ここ
に心理的な根源を持っている。…
戦後の日本社会の民为化-政治犯人の釈放から負閥解体、農地改革に至るまで-が国際
的な圧力をもってしなければ遂行されなかった事を見ても、いかに日本の反動勢力が根強
く、これに対する民为为義的な抵抗力がいかにひよわいかが判る。左の暴力だけが強く目
に映ずるのは一つにはジャーナリズムのセンセーショナルな報道のためであるし、又一つに
は露わな暴力は感知しても隠れた暴力には平気で屈朋する日本人の意識による事が大きい。
日本の社会の封建的基盤を一掃することが、右、左、中間、いかなる暴力をも根絶する唯
一の道である。
」
(集⑯ 同上 pp.7-9)
いわゆる
-「民为为義がアメリカ人にとって、所謂“way of life”となっているのとはちがって、日本
人の日常生活様式と、こういういろいろのイデオロギーとは实はまだほとんど無媒介に併
存しているにとどまる。…現实の社会関係はつねに具体的な人間と人間との関係であり、
、、、
その具体的な人間を現实に動かしている行動原理は、その人間の全生活環境-家庭・職場・
、
会議・旅行先・娯楽場等々-における全行動様式からの経験的考察によって見出されるべき
もので、必ずしも彼 (浅五注:インテリ) が意識的に遵奉しているつもりの「为義」から演
繹されるものではない。…「非政治的」大衆が現实の政治的状況の形成にネグジリブルな
、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、
要素ではなくして、むしろ直接には非政治的な領域で営まれる彼等の無数の日常的な行動
、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、
が複雑な屈折を経て表面の政治的舞台に反映し、逆にそうした政治的舞台で示された一つ
、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、
一つの決定がこれまた複雑な屈折を経ながら、日常生活領域へと下降して行く 。この二つ
の方向の無数の交錯から現实の政治的ダイナミックスが生れてくるのだ。
まさにここに現实
分析の異常な困難さがある。…
西欧的民为为義の根本的な原則なりカテゴリーなりが、きらびやかな表面の政治的セッ
トの裏の配線の中においてはいかに本来の姿から歪曲されるか。このことのリアルな認識
なくしては僕は日本における政治的状況の真の判断は出来ないと思う。…
、
…日本の圧倒的に強大な前近代的人間関係のなかでは、上位者の権威の無言の圧力、
「に
らみ」の实質的な暴力性が隠蔽され、それへの内面的な畏怖からの朋従が容易に近代的な
コンセント
同 意 の偽装をとりうる…。
、、、
、、
僕が常々日本社会の民为化にとっては誰の眼にも顕著な独裁者型の指導者よりもボス型
のそれにヨリ多く警戒の目を光らせる必要をやかましくいうのもこうした理由からなのだ。
独裁者は民为为義を、いわば外から公然と破壊し、ボスはそれを内部から隠然と腐食させ
る。顔役、親方、旦那、理事、先生など、どんな名で呼ばれるにせよ、ボスは家族関係の
擬制とか成員の心理的惩性を利用して支配するから、露骨な権力的強制は伝家の宝刀とし
134
て背後に秘めておくことができる。またボス的支配は社会の日常的伝統的な価値意識や習
慣的な思考様式に支えられているから、とくに「宠伝」や「アジ」をする必要がない。…
こういう風に考えて来ると、ボス的支配が、人民の自由な批判力の成長を強靱にはばんで
いながら、その腐蝕性がいかに看過され易く、その権力に対する下からの有効なコントロ
ールがいかに困難であるかは思いなかばに過ぎるものがあろう。…
日本の歴史は階級闘争の歴史よりもむしろはるかに多く、被抑圧者が、蔭でブツブツい
いながらも結局諦めて泣寝入りして来た歴史である。論より証拠、日本は古来、尚步の国
かつ
として戦争は盛にやりながら、本当の下からの革命はいまだ嘗て経験したことがない。そ
の限りで、家族为義に基く「和」の精神が日本的統治の美わしい伝統だという例の国体史観
、、、
も、歴史的現实のある面を映し出していると思う。ただその「和」というのが平等者間の
いやしく
「友愛」でなく、どこまでも縦の権威関係を不動の前提とした「和」であり、従って、 苟
もこの権威に不敵にも挑戦し、もしくは挑戦の恐れありと権威者によって認定されたもの
に対しては、忽ち「恩知らず」として恐るべき迫害に転化する、というメダルの裏を意識
的無意識的に見逃している点にまさにこの史観のイデオロギー的性格があるのだ。こうし
て「和」と「恩」の精神は大は国家から小は家族まであらゆる社会集団にちりばめられて福
沢のいう「権力偏重関係」を合理化することによって、それぞれの社会における支配者・上
長を果しのない偽善ないしは自己欺瞞に陥らせた。…
大衆の自発的能動性の解放が執拗に阻まれて、その結果として生じたレヴェルの低さと
か自暴自棄とかがまた逆に解放尚早の根拠づけにされるという恐るべき悪循環は今日依然
断ち切られていない。この悪循環に止めを刺すのは、いかなる形にせよ外からの、あるい
、、、、、
は上からの恩恵的解放ではなく、言葉の真实の意味での内部からのトータルな革命以外に
は恐らくないだろう。
以上、僕は日本の諸社会関係の民为化をひきとめ伝統的な配線構造を固定化している力
、、、、、、、、、
がどんなに強靱なものかを、为として具体的な人間関係と行動様式を中心に述べた。…こ
うして、我国の権力構造や人間関係における、およそ「英米的」民为为義の原理と相反す
る前近代的諸要素がまさに、「英米的」民为为義の防衛の名において復活強化されて行く。
君はこのいたましいパラドックスの進行に対して果して晏如たりうるか。…
、、
、、
一般に旧社会構造の強固なところでは労働運動とか社会運動とかおよそ既存の秩序なり
、、、
支配なりに対するチャレンヂは、同時にその支配秩序に内在している価値体系なり精神構
造なりをきりくずして行かなければ到底有効に進展しないという本質的な性格をもってい
る。中国革命はその事を巨大な規模において实証した。よし一時的にはむしろ古い意識や
人間関係を利用することが手っとり早く見えても、間もなくそれは運動によって-とくに
反動期に入ると共に-手痛い復讐となってハネ返って来る。なぜなら人間の意識や行動に
、、
おける惩性の力は、まさにそこに大衆支配の心理的地盤をもっている保守反動勢力によっ
て、急進勢力によってよりもはるかに容易に動員されるからである。…日本社会の近代化
という課題は近代的学理を暗記することによってではなく、歴史的具体的な状況において
135
、、、、
、、
近代化を实質的に押しすすめて行く力は諸階級、諸勢力、諸社会集団のなかのどこに相対
、
的に最も多く見出されるかという事をリアルに認識し、その力を尐しでも弱めるような方
向に反対し、強めるような方向に賛成することによってのみ果される…。
、、、、、
…僕は日本の問題は、究極的には日本人によってしか解決されないし、また外部からの
規定性も内部からの反忚の仕方との関係においてある程度変わって来るという意見だから
国内の問題を何でもかでも世界情勢の方にもって行ってあなたまかせにするようなこのご
ろの風潮は甚だ感心しないと思っている…。」
(集④ 「ある自由为義者への手紙」1950.9.
pp.319-34)
-「日出ずる極東帝国はこれと対蹠的な途を歩んだ。…近代化が「富国強兵」の至上目的
に従属し、しかもそれが驚くべきスピードで遂行されたということからまさに周知のよう
、、、
な日本社会のあらゆる領域でのひずみ或いは不均衡が生れた。そうして、日本のナショナ
リズムの思想乃至運動は…根本的にはこの日本帝国の発展の方向を正当化するという意味
をもって展開して行ったのである。従ってそれは社会革命と内面的に結合するどころか、
…革命の潜在的な可能性に対して、ある場合にはその直接的な抑止力として作用し、他の
場合にはそのエネルギーの切換装置たる役割を一貫して演じてきた。しかも他方それは西
欧の古典的ナショナリズムのような人民为権ないし一般にブルジョア・デモクラシーの諸
原則との幸福な結婚の歴史をもほとんどろくに知らなかった。むしろそれは上述のような
「前期的」ナショナリズム(丸山:
「国民的な連帯意識というものが希薄で、むしろ国民の大
多数を占める庶民の疎外、いな敵視を伴っていること」、「国際関係に於ける対等性の意識
がなく、むしろ国内的な階層的支配の目で国際関係を見るから、こちらが相手を征朋ない
し併呑するか、相手にやられるか、問題ははじめから二者択一である」)の諸特性を濃厚に
残存せしめたまま、これを近代ナショナリズムの末期的変質としての帝国为義に癒着させ
たのである。かくして日本のナショナリズムは早期から、国民的解放の原理と訣別し、逆
にそれを国家的統一の名においてチェックした。そのことがまたこの国の「民为为義」運
動ないし労働運動において「民族意識」とか「愛国心」とかいう問題の真剣な検討を長く
懈怠させ、むしろ挑戦的に世界为義的傾向へと追いやった。そうして、それはまたナショ
ナリズムの諸シンボルを支配層ないし反動分子の独占たらしめるという悪循環を生んだの
である。
」
(集⑤ 「日本におけるナショナリズム」1953.10.3.pp.65-6)
、、
、、
「日本のナショナリズムが国民的解放の課題を早くから放棄し、国民为義を国家为義に、
、、、
さらに超国家为義にまで昇華させたということは、しかし卖に狭義の民为为義運動や労働
運動のあり方を規定したというだけのことではなかった。それは深く国民の精神構造にか
かわる問題であった。…頂点はつねに世界の最先端を競い、底辺には伝統的様式が強靱に
、、
根を張るという日本社会の不均衡性の構造法則はナショナリズムのイデオロギー自体のな
かにも貫徹した。…世界に喧伝された日本のナショナリズムはそれが民为化との結合を放
棄したことによって表面的には強靱さを発揮したように見えながら、
結局そのことが最後ま
136
で克朋しがたい脆弱点をなした。あれほど世界に喧伝された日本人の愛国意識が戦後にお
いて急速に表面から消えうせ、近隣の東些諸民族があふれるような民族的情熱を奔騰させ
つつあるとき日本国民は逆にその無気力なパンパン根性やむきだしのエゴイズムの追求に
よって急進陣営と道学的保守为義者の双方を落胆させた事態の秘密はすでに戦前のナショ
ナリズムの構造のうちに根ざしていたのである。次にその为要なモメントを概観して見よ
う。
まず第一に指摘されねばならないことは、日本のナショナリズムの精神構造において、
、、、、、
国家は自我がその中に埋没しているような第一次的グループ(家族や部落)の直接的延長と
、、、、、、、
して表象される傾向が強く、祖国愛はすぐれて環境愛としての郷土愛として発現するとい
、、、
うことである。…近代ナショナリズム…は決して卖なる環境への情緒的依存ではなく、む
しろ他面において…高度の自発性と为体性を伴っている。これこそナショナリズムが人民
为権の原理と結びついたことによって得た最も貴重な歴史的収穫であった…。日本は…国
家意識の注入はひたすら第一次的グループに対する非合理的な愛着と、なかんずく伝統的な
封建的乃至家父長的忠誠を大々的に動員しこれを国家的統一の具象化としての天皇に集中
することによって行われた。…
…国家意識が伝統的社会意識の克朋でなく、その組織的動員によって注入された結果は、
シトロイヤン
‥政治的責任の为体的な担い手としての近代的 公 民 のかわりに、万事を「お上」にあず
けて、選択の方向をひたすら権威の決断にすがる忠实だが卑屈な従僕を大量的に生産する
結果となった。また、家族=郷党意識がすなおに国家意識に延長されないでかえって国民
的連帯性を破壊する縄張根性を蔓延させ、家族的エゴイズムが「国策遂行」の桎梏をなす
場合も尐なくなかった。
」
(集⑤ 同上 pp.66-9)
「このような伝統的ナショナリズム感情の分散的潜在は今後の日本ナショナリズムに対
、、、
、、、、、
してどのような衝撃をもつであろうか。第一にそれはそのままの形では決して民为革命と
結合した新しいナショナリズムの支柱とはなりえないことは明白である。なぜなら、まさ
、、
にその発酵地である強靱な同族団的な社会構成とそのイデオロギーの破壊を通じてのみ、
日本社会の根底からの民为化が可能になるからである。…上のような伝統的ナショナリズ
ムが非政治的な日常現象のなかに微分化されて生息しうるということ自体、戦後日本の民
为化が高々、国家機構の制度的=法的な変革にとどまっていて、社会構造や国民の生活様
式にまで浸透せず、いわんや国民の精神構造の内面的変革には至っていないことをなによ
り証明している。
「デモクラシー」が高尚な理論や有難い説教である間は、それは依然とし
て舶来品であり、ナショナリズムとの内面的結合は望むべくもない。それが達成されるため
、、、
、
には、やや奇嬌な表現ではあるが、ナショナリズムの合理化と比例してデモクラシーの非
、、、
合理化が行われねばならぬ。
」
(集⑤ 同上 pp.74-5)
―「今後の日本における反動的ナショナリズムの構造として、頂点はインターナショナル
なもので、底辺がナショナリズムという形をとるのじゃないでしょうか。底辺のナショナ
137
リズムは、いうまでもなく近代的ナショナリズムではなく、家父長的あるいは長老的支配
、、
を国民的規模に拡大した戦前ナショナリズムの変形で、これによって、国民の漠然とした
いまだ組織化されていないナショナルな感情を吸い上げていく。しかもそれが危険な反米
という方向にいかないようにすることが必要である。そのためにはどういう手段が保守勢
力によってとられるかというと、
-これは予測の問題ですが-例えば現在ある程度現われて
、、、、、、、、
いる古いナショナリズムのいろいろなシンボルの中で、直接的積極的には政治的意味をも
たないシンボルを大々的に復活させることです(丸山の挙げる例:村のお祭り、神社信仰
の復活、修身、道徳教育の復、生け花、茶の湯、歌舞伎、浪花節)
。もっと日常的な徳目の
ような形で、日本古来の醇風美俗といわれる家族道徳や上下朋従の倫理が鼓吹される。こ
れらの現象はいずれも直接的には政治的意味をもたない。しかしながらこれらは、一定の
状況の下では間接的消極的に非常な政治的効果を発揮する。いずれも戦前の日本にたいす
るノスタルジヤを起し、その反面、戦後の民为为義運動、大衆を政治的に下から組織化し
ていく運動に対する鎮静剤、睡眠剤として、非常に大きく役立つということですね。いい
かえると、大衆の関心を狭い私的なサークルのなかにとじこめ、非政治的にすることによっ
て逆説的に政治的効果をもつ。その場合一つ一つを切り離してとりあげると、目に角をた
、、、、、
って問題にするというほど重大な問題ではないし、また皆が皆それ自体が本質的に反動的
とはいえない。しかしもっと大きな文脈との関連では、その一歩一歩が民为化に対するチ
ェックとして働く可能性をもっている。」(集⑥
「戦後政治の思想と行動第一部
追記お
よび補註」1956.12.pp.277-8)
、、、
「支配層の反動の方向として当時私が指摘したことは、
(イ)国民の日常的政治活動の封
、、、
殺ないし選挙法の人為的改正による議会政治の形式化、
(ロ)
「民为的自由」の概念の再定義
を通じての劃一化、
(ハ)警察及び「軍隊」のニヒリスティックな暴力機構化ということで
ある。…
((イ)について)制度としてだけの議会は、それ自身、实質的には民为的自由を抑圧する役
割を果すことだってありうる。たとえば本来の意味からかけ離れた多数決为義、即ち多数
決万能によって、議会、政党という制度の存在を前提としながら、实質的に画一化、翼賛
化が進行していく可能性もある。…形式的な選挙のメカニズムというものは保存しながら、
その結果を「国民の意思」に等置するというフィクションで、体制への默従を推し進める
だろう。それにもかかわらず現在の体制に反対の政治勢力が強くなってきて、相当数議会に
進出してくるという恐れのある場合、…選挙法を人為的に操作するやり方をとるだろう。
…
((ロ)について)ある程度以上の政治意識をもった層に対しては、やはり「民为为義」の
シンボルで押さざるをえない。
そこでこのシンボルを特定の意味に限定して行く方向がとら
れる。…それは「民为为義的自由」という考え方を漸次限定して行って、国民の意識なり
思想を規格化し、画一化していくことです。元来英米流の民为为義は、そういう思想なり
、、、
言論なりの面における多様性の尊重、多様性を通じての統一ということが前提になっている。
138
ところが「民为为義」が自己を積極的に实現して行くという方向でなく、
「民为为義」の名
、
において「民为为義」の敵を廃除するということが第一の为要な課題になって行く。異端
、、、、
の排除すなわち民为为義的自由と考えられてくるということです。」
(集⑥ 同上 pp.285-7)
-「福沢の見るところによると、
「日本国の人心はややもすれば一方に凝るの弊あり」その
結果「好むところに劇しく偏頗」-つまりあばたもえくぼになる、その反面「きらふとこ
ろに劇しく反対する」-つまり坊为憎けりゃけさまで憎いということになり、人心が一方
たちま
に進むかと思うと「 忽 ち中絶し、前後左右に亚尐の余裕をも許さずして変通流暢の妙用に
乏し」いといっております。つまり僻眼为義だから、認識や価値関心がいつも一つの溝に
流れこんで、弾力性がない、ということを指摘しているわけです。…そういう卖眼的な認
識は現实の方向のいろいろな可能性を自分の視野の中に入れることができないから、すぐ
行きづまりになってしまう、と同時に卖眼的な行動は自分の進んで来た路を吟味しないか
ら経験が蓄積されない。明治以来、私達の国全体の動き方を見れば、‥満州事変から太平
洋戦争、さらに戦争直後から今日までの世の中の流れを考えてみただけで、そういう傾向を
はず
私達が免れていないことは容易にわかる筈です。福沢はこういう認識関心や価値関心が集中
し固定することを「惑溺」という言葉で呼んでいます。社会でも個人でも惑溺が甚しいほ
ど、多様な可能性の間を選択するチャンスがなくなり、それだけ精神の動きが自由でなく
なる、と福沢は考えたのです。
」
(集⑦「福沢諭吉について」 1958.11.pp.379-80)
-「日本の近代の「宿命的」な混乱は、一方で「する」価値が猛烈な勢いで滲透しながら、
他方では強靱に「である」価値が根をはり、そのうえ、
「する」論理をたてまえとする組織
が、しばしば「である」社会のモラルによってセメント化されて来たところに発している
わけなのです。
伝統的な「身分」が急激に崩壊しながら、他方で自発的な集団形成と自为的なコミュニ
、、、
ケーションの発達が妨げられ、会議と討論の社会的基礎が成熟しないときにどういうこと
になるか。続々とできる近代的組織や制度は、それぞれ多尐とも閉鎖的な「部落」を形成
し、そこでは「うち」のメンバーの意識と「うちらしく」の道徳が大手をふって通用しま
す。しかも一歩「そと」に出れば、步士とか町人とかの「である」社会の作法はもはや通
用しないような赤の他人との接触がまちかまえている。人々は大小さまざまの「うち」的
集団に関係しながら、しかもそれぞれの集団によって「する」価値の浸潤の程度はさまざ
まなのですから、どうしても同じ人間が「場所がら」に忚じていろいろふるまい方を使い
分けなければならなくなります。私達日本人が「である」行動様式と「する」行動様式の
ゴッタ返しのなかで多尐ともノイローゼ症状を呈していることは、すでに明治末年に漱石
がするどく見抜いていたところです。
この矛盾は、戦前の日本では、周知のように「臣民の道」という行動様式への「帰一」に
よって、かろうじて弥縫されていたわけです。とすれば「国軆」という支柱がとりはらわ
139
れ、しかもいわゆる「大衆社会」的諸相が急激に蔓延した戦後において、日本が文明開化
以来かかえてきた問題性が爆発的に各所にあらわになったとしても怪しむにたりないでし
ょう。ここで厄介なのは、たんに「前近代性」の根強さだけではありません。むしろより
、、
厄介なのは、これまで挙げた政治の例が示しているように「「する」こと」の価値に基づく
、、、
不断の検証がもっとも必要なところでは、それが著しく欠けているのに、他方さほど切实
な必要のない面、あるいは世界的に「する」価値のとめどない侵入が反省されようとして
いるような部面では、かえって効用と能率原理がおどろくべき速度と規模で進展している
という点なのです。…現代日本の知的世界に切实に不足し、もっとも要求されるのは、ラ
ディカル(根底的)な精神的貴族为義がラディカルな民为为義と内面的に結びつくことでは
ないか‥。
」
(集⑧ 「
「である」ことと「する」こと」1959.1.pp.40-4)
-「だいたいどこの国でも、ものの考え方や暮し方の規準や尺度を自分の内部から打ち出
して行った中核的な社会層があるんです。たとえばイギリスでは貴族とミドルクラスが一
緒になって「ジェントルマン」というタイプと規準をつくり上げて行った。それがフランス
ではプティ・ブルジョアですし、アメリカではコモンマンです。じゃ日本ではどうかという
と、
封建時代に侍とか公家とか町人とかがそれぞれちがった規準と生活態度をもっていたの
が、維新でゴチャマゼになっちゃった。…身分の差が撤廃され、立身出世の社会的流動性が
生じたけれど、バック・ボーンとなる社会層がなくてゴチャマゼのまま、ワッショイワッシ
ョイと近代国家を作り上げてきた。ですから整然とした日本帝国の制度と、統一的な臣民教
育の完成のかげには、实は激しい精神的なアナーキーが渦まいていたと思うんです。外から
はめるワクはあっても、内部からの規準の感覚というものは、实際はむしろ徳川時代よりも
、、、、、、
なくなって行ったのじゃないんですか。いわゆるもののけじめの感覚というのは、国家教
、、、
育などというものではなくて、社会自体が与える持続的なしつけによって養われるんです
が、なにしろそういう自律的な社会というものが国家にのみ込まれてしまったのが、近代
日本だったわけですから。
」
(集⑧ 「我が道を往く学問論」1959.5.4.pp.98-9)
、、、
「戦後そういう節度やけじめの感覚の喪失が急激に表面化したのは事实ですが、‥ずっ
、、
と前からあった精神的アナーキーが外部からの-つまり旧国家権力による-たががはずれ
たので一度に露わになったという面の方が無視できないと思います。保守党の政治家が節
、、、
度とかけじめの感覚を云々するとすれば、笑止千万というほかありません。まさに彼等にこ
そそれを一番要求したいですね。およそ政府権力の介入しうる領域と、それが本来冒すべ
からざる人間の自由な創造性の領域とを弁別する感覚がもともと日本の政治家や官僚には
、、、、
不足していたんですが、戦後はなまじ権力が民为为義のたてまえにあぐらをかくことがで
、、
きるので、そういう権力の自己抑制が見るかげもなくなり、選挙に勝てばそれこそ官軍で、
多数決でもって何でも押し通す。‥都合のいいものは世論とか法治国の名でどんどん強行
し、都合のわるいものは平気で無視したり、蹂躙したりする。その厚かましさたるや前代
未聞ですね。
」
(集⑧ 同上 p.101)
140
-「現在は政治の力が野放図にふくれ上って、多方面に手を伸ばし始め、政治の限界が明確
でなくなって来ました。それにつれて政治の動き方も尐数の政治家や、政治に対して能動
的な人々のいわゆる右とか左とかの運動によってのみ決定されるのではなく、無数の人々
の目には見えない気分や雰囲気によって左右されるようになりました。たとえば政治的に
全くパッシブな、無関心層の動向は無視してよいのではなく、それどころか政治的無関心
層と言われるムードが、まさに政治の方向に大きく作用しているのです。
他方、政治・経済・文化などの相互関連が密接になり、しかもあらゆる面での組織化が進
行して来ると、
どんな地位にいる人間でも厖大な歯車の一員でしかないという気になってし
まいます。我々は国民の一人として政治家は巨大な力をもって何千万の人間の運命を左右
出来ると思っていますが、では政治家自身が实際にそういう力の意識を持っているかと言
うと、目に見えない無数の牽制を受けて、どうも思うように動けないという实感をもって
いるというのが本当のようです。実観的には政治が大きな力を持っているにもかかわらず、
政治家自身が自分の責任において自由に決断するという感覚を失っています。つまり決定
の为体がぼやけて来た。ここに大きな矛盾があり、現代政治の問題点があるのです。
その上、日本においては政治が公的な問題とは無関係に、派閥争いなどの私的な人間関係
によって決定される面がとくにひどい。この私的な関係と、政治の領域がキッカリと区分さ
れなくなり、政治が非人格化されたという世界的な傾向とが、日本では変に癒着していよい
よ問題が難しくなっているのです。これが現代の政治の様相といえます。」
(集⑯ 「私たち
は無力だろうか」1960.4.22.pp.12-3)
-「代議制とか、国民を代表して代議士が政治をするといいますが、この代表っていう観念
をもう一度考えて見なければいけないと思うのです。それは、代表というのは何もかもおま
かせしてしまうことなのか、それとも代表というのは、‥基本的にはトラスト、つまり委
託とか信託関係なのかということなのです。国民が本来自分のもっている権力を一定の代
表者にあずけるには、あずける趣旨があって、信託された人は、その趣旨によって限定さ
れた権力を行使し、それに反した時には、国民はいつでも本来の为権をとり返せるわけで
す。選挙人と代議士との関係を国民のもつ为権の委託と考えるのか、それとも全面的委譲
と考えるかで、非常に違ってきます。…
ヒットラーの独裁というのは、国民の多数によって選ばれた代議士の多数決で、ヒットラ
ーに独裁権を授与したのだから、どうしようもないのです。民为为義というもの、あるいは
議会为義というものが、实質的には民为为義の墓穴を掘るようなことをやっても、国民には
どうにもならないという結果になるのです。
ところが、トラストの考え方から言えば、授権法を提出すること、あるいは通すことが、
そもそも信託の趣旨に反しているわけです。
そういう場合には人民为権というものを直接に
発動しなければいけない。そこで初めて抵抗権とか革命権とか、いろいろな問題が出て来る
141
わけです。ですから、国民が代議士に対して一定の範囲でもって信託しているのだからそ
の範囲に背いた時には、何時でもその信託を撤回できるという心構えをひとりひとりが持
つことが、第一に大事なことではないだろうか。…選挙の当日だけが問題なのではなく、
選挙日と選挙日との間に出てきたいろいろな問題に対して、
自分の選挙区から出た代議士は
どう行動するのか、とたえず監視している心構えということになるでしょう。」
(集⑯ 「私
達は無力だろうか」1960.4.22.pp.13-5)
「選挙民の为権をフルに発揮できる方法は、投票以外にいろいろあるのです。それを活
用することが、实際は代議士のデモクラシーでなくて、国民のためのデモクラシーにして
ゆくことになり、ひいては議会政治というものを国民から遊離させない道になると思いま
す。
しかし要するに、我々の対政治的な態度の根本は、議会制度だけでなく、およそ制度と
いうものの考え方に帰着すると思うのです。制度というものについてそれは出来上った既
製品として上の方から我々に天降ってくるものだと考えずに、我々の行動が日々制度を作
っているという側面をもって考えることが必要です。
」(集⑯ 同上 p.15)
「大衆的な政治運動というのはある共通の目標のために、性格や考え方の違った多くの
人間を組み合せていくことでしょう。ところが日本では必ずしもそうではない。
我々の周囲によくある政治運動が非政治的だというのは、
結局根底にある人間観にも由来
していると思うのです。つまり人間は一人一人ちがった個性をもったものだという前提か
ら出発するか、本来同じものだという前提から出発するかで非常に違う。肝胆相照らすと
か、以心伝心とか、お前の気持はよく解ったとか、よく日本ではいうでしょう。人間の内面
というものはそう簡卖に通じ合うものではない。人間というものは一人一人全部ちがうも
のだという前提から出発すれば、本来ちがったものをどこで、どの点で一致させて共同の
行動を起させるかということで政治的技術が必要となる。
そうでなく本来一致するものだという前提から出発すると、はじめから気の合ったもの同
志集ってしまい、異質の人に働きかける力を伴わない。つまり、仲よしクラブになってしま
う。そこから派閥も生まれる。またいわゆる世界観が同じでないと同じ政治行動がとれない
ということが多いですね。つまり、すべての問題が世界観の次元に集中されてしまう。
政治行動というのは本来、‥具体的な問題で一致する限りその人と一緒に行動するとい
うことなのです。‥政治は日々決断して行かなければならない事柄です。それを理論的統
一とか何とかいって、全部一致させようとするから、皮肉なことに实際は無限に分裂してし
まう。この問題を解決するうえにおいては、一致したから共にやろうというように、どこま
でも個別的、具体的にやっていく。しかし問題によっては一致しないかもしれない。これが
当然なのです。それを、何でもかんでもこの人とやっていこうとするのは完全に派閥です。
つまり簡卖にいえば、部落共同体ということです。部落共同体には手続きはいらない。ボ
スがだいたい皆の気持を推し測ったりして、大抵そうだそうだと満場一致で事がきまる。
手続きというものは、考え方や行動のちがっている人々がいろいろな人間関係を結ぶと
142
き、はじめて必要となってくる。手続きとルールの尊重はやはり他者の感覚がないところ
には生まれないのです。‥個人がめいめい独立自为的であるからこそ、その共同行動には
共通のルールが必要になって来るんです。」(集⑯ 同上 pp.18-20)
「見えない無数の世論の力が、案外巨大な力を振うということは、国際的な原水爆实験の
禁止運動一つを見ても分りますよ。日本の原水協にしても、杉波の奥さん達が、その発端だ
ったというように。…
政党でない、つまり政治団体でない集団の政治活動というものが、实際は、日本のデモ
クラシーの地盤になっているのです。母親大会とか子供を守る会とかは、みな元来政治団
体ではなく、何か他の具体的な目的を持って集って来た団体なのです。原水爆禁止運動にし
ても、それは政治と言えば政治ですが、何も権力を獲得するとか、そういう目的の運動では
ないのです。‥これを、抽象的な言葉では「非政治的団体の政治的活動」といいます。
これがデモクラシーにとって一番大切な一般国民の自発性を呼び起すポンプの誘い水の
ような役割をするのです。非常に大きな日本のデモクラシーを支える根となってきている。
‥だから我々は、いろいろな団体作りをやって、その団体の目的を实現させるため、ある
いはその目的の妨害を排除するためという、その限りにおいて政治にタッチするというよ
うな習慣をつけていくことが大切です。…
一般の人の政治行動というものは他に自分自身の職業や仕事を持ち、自分の定まった生
活の場を持ちながら、その合間々々に政治に参加すること、それが一般市民の政治行動な
のです。市民の立場において、種々の問題について気軽に集まり話し合い、その目的のため
に四方へ働きかける。目的が实現されれば、すぐにその会は解散される。そしてまた何か問
題がおこれば再び集まるという具合でいいのです。实はこれが非常に大切なのだ。政治的
状況を動かしていく力、それはこのような一般市民の力の結集として現われるのです。ま
ず自分達の力に対する信頼、これを失わずに、その力を結集していくことですね。」(集⑯
同上 pp.23-5)
-「
(亓月十九日以後の国民的運動は何を残したか)なにより新安保がああいうむちゃな通
り方をし、しかもこれだけの抵抗が世界的に明らかになったことで、成立したとたんにその
政治的な实効性が当のアメリカ自身によって疑問視されているという事实がある。これだけ
でも二、三カ月前までは想像もしなかった結果です。法律というものは、条文から当然に
何か具体的な結果がでて来るわけではなくて、だれ(浅五注:政府や国民)がどういう状
況でそれをどう使うか、また使わせないかということで、政治的な効力が決まって来る。
だからこそ法が死文化するというような現象が起こるわけです。条約というものは、その意
味では法律以上に政治的なものです。
この数カ月の安保問題をたとえていえば、こういうことになる。新安保条約というのは、
鉄の丸い輪に厚い紙をはったウチワみたいなものだった。紙がつまり条文の内容です。それ
が国会審議の過程で野党からいろいろ疑問の点を追及されて、紙にブスブス穴があいてきた。
143
このままでは穴が多くなるばかりだというので政府は一挙に採決を強行して、ウチワを強引
に国民に押しかぶせようとした。とたんにものすごい風圧が下から起こったが、政府はしゃ
にむに批准までもっていった。成立してみると、風圧-そのなかには尊い人命の犠牲も含ま
れている-のために「新安保条約」という鉄の輪(形式)だけは残ったけれども、紙はビリ
ビリに裂けてたれさがっている。それが今日の状態だと思うんです。もちろんほうっておけ
ば、政府はまた繕おうとするでしょうが……。
第二にアイクの訪日中止で日本の国際信用が落ちたというけれども、
むしろこの一カ月ほ
ど、日本が国際的にクローズアップされ、見直されたというときは、戦後かつてなかったと
思う。米国官辺からいえば、飼い犬から手をかまれたという気がするでしょう。その意味で
は憤激もするだろうし、
飼い犬的信用は落ちたでしょう。
しかし、日本国民が自分の進路を、
ただ政府のいいなりにならずに、自分で決定する意向をはっきり示したこと、簡卖に外国に
よって御し得られる国民ではないという認識を与えたという意味では、むしろ国際的な地位
を高めたといえる。ですから、アメリカも対日認識の浅さを反省せざるをえなくなっていま
す。
」
(集⑯ 「新安保反対運動を顧みる」1960.7.5.pp.339-40)
「
(この国民運動から何を教えられ、学び取ったか)
「日本の進路をみずから切り開く」と
いうことについていえば、
その過程ではいろんな混迷や錯誤や行き過ぎが行なわれるけれど
も、
その錯誤や行き過ぎがどこまでも国民みずからの批判や運動のなかで是正されてゆくの
が民为为義であって、そういう自己修正能力を信じないというのは、つまり民为为義を信
じないということだ。ところが民为为義者を自称する人で、それを信じてない人が多い。
だからすぐ上から治安対策というような権力手段にたよろうとする。
それから根本的なことでは、
大衆社会状況では政治的無関心が蔓延するという一般的なテ
ーゼがあったのですが、この一カ月で、むしろ国民の中には権力の無理押しに抵抗する健
康なデモクラチックなセンスが、戦後十亓年の間にかなり生活感覚として生きてきたこと
が实証された。もちろん中央と地方の差はまだまだ大きいですが、国民の自発性と能力性
のポテンシャリティー(潜勢力)としては大きなものを持っていることを示したと思いま
す。
」
(集⑯ 同上 p.341)
「
(この出来事が戦後史の中で占める位置、あるいは持っている意味)本当は敗戦の直後
に民衆の下からの自発的な盛り上がりがあって、その力が新憲法を制定させ、また戦争責
任者を追放すべきはずだった。その課題がまさに十亓年遅れて出てきた。こういうことが
敗戦直後に行なわれていたら、日本の議会政治は、日本国憲法という共通の土俵の上で行
なわれていたでしょう。…憲法以前的、つまり大日本帝国的勢力と考え方が根強く残って
いる限り、人民为権という世界の常識が政治の現实の上ではなかなか常識にならず、むし
ろこの数年の政府のやり方にあらわれているように、憲法が邪魔者扱いされる。これでは
共通の土俵はできません。
ルール・オブ・ロー(法による支配)は基本的には権力に対する歯止めであるというこ
とが見失われてしまい、政府の行為に法の衣をまとわせることが、あたかも民为为義的な
144
法治为義であるような考え方が、日本には尐なからずある。…既成事实を作って、法をそ
れに合わせて解釈しさえすれば、一時的に世論は沸き立とうとも、結局はまあ仕方がない
ということになって事態が収拾されていくような悪例が積み重なってきたところに、岸〔信
介〕政府にあのような強行採決を決意させた遠い背景があった。だから、まさにここにお
いて、大日本帝国やナチスドイツ的な法治为義と、民为为義のルール・オブ・ローとの区別
を明らかにしなければならない。その意味では、これだけ激しい抵抗が起きたというのは、
日本史上初めてといっていい画期的な事態だと思うんです。」
(集⑯ 同上 pp.341-2)
「
(このエネルギーと思想を持続、発展させるには)簡卖な妙薬はない。やはり市民の間
に自発的な討議をするチャンスを無数に作っていくことしかないと思います。それはみん
なが不断に政治を監視する姿勢を作っていくということです。職業的政治家から政治を解
放する。デモクラシーとは本来シロウトによる政治ということです。そういういわば「政
界」に出家してやる政治から在家仏教化していくことが必要ではないでしょうか。」(集⑯
同上 p.343)
、、
-「政治行動というものの考え方を、‥私たちのごく平凡な毎日毎日の仕事のなかにほん
、
、、、、
の一部であっても持続的に座を占める仕事として、ごく平凡な小さな社会的義務の履行の
一部として考える習慣-それが‥デモクラシーの本当の基礎です。…私たちの思想的伝統
、
には「在家仏教」という立派な考え方があります。これを翻案すればそのまま、非職業政治
家の政治活動という考え方になります。…つまり本来政治を職業としない、また政治を目
的としない人間の政治活動によってこそデモクラシーはつねに生き生きとした生命を与え
られるということであります。
」
(集⑧ 「現代における態度決定」1960.7.pp.314-5)
-
「日本が所与としての日本の過去を背貟ったまま、
沖縄が沖縄の所与を背貟ったままでは、
沖縄の独立もないし祖国復帰もない、つまり、双方の側での自己否定を契機にしない限り双
方の結合はあり得ない、ということなんです。そのことは、卖に沖縄だけの問題ではない。
僕は、知識人とか大衆とか、いろいろな問題でそのことを考えている。その意味では、あ
らゆる形におけるべったり土着为義というものを断ち切らねば、日本の独立、真のナショ
ナリズムというものも出てこないということを考えるわけです。」
(集⑨ 「点の軌跡-『沖
縄』観劇所感-」1963.12.pp.131-2)
「
「沖縄」は、近代日本と沖縄の連帯という問題-それは、アジアの民衆との連帯という
ことでもいいですが-を提出しているんですが、实は、日本人のなかにおける隣人との連
帯の問題が重要なのです。…日本対沖縄という問題が、政治的問題としてあるにしても、
うち
それを更につっこんで行けば、国内における連帯の問題になると思うのです。それは、内と
そと
外という問題です。内とか外とか、部落民対われわれ、われわれ対沖縄人、あるいは朝鮮
人という形をとって、内と外の論理=思考様式というものが、日本人の相手同士にある。
閥とか閉鎖的集団とか、内の人間と外の人間、インズとアウツというものを断ち切らねば、
145
ム
ラ
連帯の生まれようがない。インズとアウツというのは、僕にいわせれば「部落」なんです。
これが原罪なんです。そこで、僕は土着为義を切らねばならないと思う。ムラが抵抗の根
源であるとか、部落共同体というものが近代における抵抗の根源だとはどうしても思わな
い。これこそが、内と外という論理の醱酵するもとなんです。内というものは、空間の領
域の区別、垣根のこっち垣根のあっちというのではなく、本当は内面性にならなければなら
ない。内と外が、空間的にひかれた境界であるとすると、どうしても差別というものが出
てくるし、人間と人間の結びつきは生まれてこない。それはちょうど、家族的エゴイズム
、、、
というものがある限り、家族のなかにおける人間的結合がない、というのと同じでしょう。
従って、沖縄に対して差別しているということは、日本人同士が差別しているということ
と同じなのです。
」
(集⑨ 同上 pp.133-4)
「点-これが人間というものです。点ということは、昨日の自分と今日の自分とが、な
ぜ同じ自分であるかという問題です。空間でなく時間でのみ考えるということです。空間
的に考える限り、昨日の状況にある自分と今日の状況にある自分はちがうんだから、ちがう
のが当り前ということになり、そうすればどうしても流される。状況を断たなければいけ
ない、自分を点にまで縮小しなければならないのです。ひろがりを持った自分を考える限
む
ら
り、そのひろがりは、あるいは家族であったり、部落であったり、学校であったり、仲間
であったり、日本であったりする。そういう空間的ひろがりにおいて考えられたナショナ
リズムは、それこそ島国的ナショナリズムであって、そんなものを吹っ飛ばさない限り、
本当のナショナリズムは出てきません。そういう意味では、個人がインターナショナルに
なることなしに、ナショナルなものは生まれないと言えるでしょう。」(集⑨
同上
pp.134-5)
「このドラマ(浅五注:木下項二『沖縄』
)の真意は、‥人間存在の根本問題を、人間の
、、、、、
、、
連帯の問題として出している。しかもそれは政治の問題でもある。日本人のなかで連帯が
实現できないで、どうして日本対沖縄とか、日本対アメリカとか言えますか。日本人と日
、、
本を同一化するのがまちがっている。そうすると、問題が、無限にナカの問題に転化する。
沖縄対日本の問題は、ゆえに、われわれとわれわれ隣人の問題になって行くと思うんです。
、、
、、、、
日本の近代化にしても、いわゆる近代の否定ではなくて、近代日本の否定でなくてはいけ
ない。封建的なものを背貟い、他方では目まぐるしく近代化して行った。そういう日本の
否定なんであって、日本の近代化した側面の、その否定ではない。その意味でも、僕は土
着为義に反対なんです。日本の近代的側面が支配層によって代表され、先取りされたから、
ム
ラ
それに対する抵抗が「部落的抵抗」にどうしてもなるんです。官僚制が近代的なものを先
取しちゃったからいろんな形で、近代化からとり残された者に、共同体的なものを抵抗の
拠点にしようという発想が生まれるのは、ナチュラルですよ。しかしその二つは、实は、
、、、、
、、、、
背反関係にあるのではなくて、かえって補完関係にある。日本の近代は、部落共同体の基
盤の上でめざましい発展をしているんです。その結びついた両方を否定しなければ、同じ
ことなんです。それを片方を抵抗の拠点にして、近代日本を否定する。それは丁度、所与
146
の一方に寄りかかって、他方の所与を否定するということになる。
」(集⑨ 同上 p.137)
うちそと
「今までのインターナショナルということは、内外論理です。外にいかれるということ、
、、、、
つまり土着ナショナリズムの裏返しです。特定の外国にいかれることを、インターナショ
ナルといっている。‥これは、インターナショナルとなんの関係もない。その点、内村鑑
三はえらかったと思うんだけども、彼は、日本人は人類というと、なんか遠くに住んでいる
もののように思っている、世界というと、まるで日本の外にあるみたいに思っている、しか
し、日本のなかに世界がある、隣りの八さん熊さんが人類なのだ、というようなことを言っ
ているんです。そういう眼なしに、隣の八さん熊さんとの連帯はあり得ない、従って日本の
ム
ラ
ム
ラ
ナショナリズムも出てこない。内外論理は無限に細分化される。内の部落と外の部落、内
、、、、、、、、
の国と外の国、そういうナショナリズムは、精神的に自立したナショナリズムとは無縁で
す。普通の言葉でいう島国ナショナリズムを否定しなければならない。‥いわゆる日本の
ナショナリズムは、ケチなんです。ケチ・ナショナリズムですね。だからコンプレックス・
ナショナリズムになる。沖縄がそうです。日本に対するコンプレックスを断ちきらなけれ
ばならない。それは日本対ヨーロッパについても言える。そのコンプレックスが、いろん
な形で現われて、やたらにすごんだり、米英撃滅といってみたり、アメリカ帝国为義の追
及になってみたり、今度は逆に、居直りナショナリズムになったり、表現形態はいろいろ
異っても、みんな似ているんです。…閉鎖的な地方为義というのは、もろいものです。だ
、、、、、、、、、、
、、
から僕は、ツベルクリン反忚陰性だと書いたんですが、陽性にならなければいけない。結核
菌を吸わなくちゃいけない、世界の每を吸わねばいけない、每を吸って自分の抵抗力を強
くしなければならない。コスモポリタニズムの每をうんとこさ吸って出てきたものが、本
当のナショナリズムです。…どんどん貪欲に每を吸収して、その上で出てくる土性骨-わ
れわれは日本に生まれたんだという宿命、そこから出てくるナショナリズムが本当のもの
なのです。
」
(集⑨ 同上 pp.138-9)
「もともと、日本の土着的なものと言っても、らっきょうの皮をはぐみたいに縄文式文
化までさかのぼってみれば、いずれはどこからか来たものでしょう。日本民族自身にして
もどこからか渡来したわけでしょう。なにが土着ですか。外来対土着という二分法を根本
的に打破しなければいけない。アメリカだってヨーロッパだっていいじゃないですか、ど
んどん貪欲に每を吸収して、その上で出てくるナショナリズムが本当のものなのです。しか
、
し、このことは絶望的に通じない、というと諦観みたいだけど、垣根ナショナリズムとい
、、
かれインターナショナリズムが多すぎるんです。これは同一なんで、両方を否定したい。
だから、沖縄人や朝鮮人に対する残虐行為というものと、バターンやビルマでのそれとは、
異質なものとは思わない。‥日本国内における抑圧と、よそものに対する扱い方は、そう
ちがわない。部落問題にしてもそうですが、果して被差別「部落」だけの問題かどうか。
党と大衆団体にしても、内外論理、完全な差別観がある。インターナショナルになるとい
、、、、、
うことは、平凡なことです。普通の人間として隣人を愛することです。‥人間としてみる
目が必要です。ナチュラルにそういう目を持つことが致命的に欠けている。複眼を持って
147
ないんです。
」
(集⑨ 同上 pp.139-40)
-「
「戦後民为为義」というとき、みんな「制度化」されたものを考えているでしょう‥。
完全に「制度化」された民为为義というのは、实は自己矛盾です。だから「戦後民为为義」
の否定とか肯定とかいう言葉自身が、言葉の魔術を含んでいて、つまり「理念」のレヴェル
と「制度」のレヴェルと、それから「制度」が現实にどうワークしているか、という現实政
治のレヴェルと、もう一つ「運動」のレヴェルがあって、实際はそれを弁別せずに、ごちゃ
ごちゃにして、とくに「運動」よりは「制度」のレヴェルだけ見て戦後民为为義ナンセンス
論というのが出てきたと思うんです。その制度にしても理念にリファーしない。議会政治と
いうけれど、それは本当の議会政治になっているのか。どこまで議会政治の制度が、いわん
や理念がワークしているのか。それを問うという発想がない。全然おかしいんです。つまり
反対している本人にとって見えている現实だけしか頭にない「現实为義」なんです。そこ
にやはり日本の basso ostinato が現われている。つまり、理念によって現实を裁く考え方
が弱い。議会政治の理念によって議会政治の現实を裁き、あるいは方向づけてゆく考えが
弱い。民为为義の理念によって、民为为義の現实を変えて行く発想が弱い。…理念へのコ
ミットメントが弱い。一つの事实によって他の事实を批判することはできないんです。事
实は無限に異なり、細分化されます。理念によってこそ事实を批判できる。
」
(集⑪ 「日本
思想史における「古層」の問題」1979.10.pp.215-6)
-「中野(好夫)さんほどの知性をもった人が、国策が決まった以上それに従うのが国民の
義務だ、ということを信じて疑わなかったということは、中野さんが正直に書いているだけ
にぼくらにとってはおどろくべき問題ですね。国家を超えた価値というものにコミットし
てないということです。それは、明治生まれの日本国民が、幼児から叩き込まれた教育と
いうものがいかに恐るべきものであるかということをも示しています。‥ただちょっと時代
が違っただけで中野さんは兵隊にもとられず、特高に追い回される経験もなかった。ぼくら
は幸か不幸か近代日本の最悪の時期に青春期をおくり、兵隊にとられて毎日ぶんなぐられ、
その前は共産为義者でもマルクス为義者でもないのに、
特高に追い回されたという経験をも
っている。おのずからそれが国家というものに対する見方のちがいとなってあらわれます。
国民の義務とは何なのか、ほんとうの愛国心とはどういうものなのか、その時々の政府が
決定したことが国策になるとき、それはほんとうに日本の国家にとってもいいことかどう
か-それは国家が決めることじゃなくて、国家を超える価値を規準としてはじめてその国
、、、、
家がやっていることが正しいかどうかがわかることです。これはほんとうは自明の理なん
だけども、その自明の理を中野さんのような知性といえども戦争前まで気がつかなかった。
敗戦によってはじめて致命的な錯誤を冒したと気づいた。‥明治以後の日本の教育の効果と
いうものはいかにおどろくべきものだったのか、ということです。」
(集⑫ 「中野好夫氏を
語る」1985.4.8.pp.177-8)
148
-「近代知識人の課題に必然的につきまとうディレンマがあります。‥一つは、真理の普
遍性に対する信仰です。これは言いかえれば、世界市民的な側面ということになります。
‥身分社会から解放されて、思想の自由市場で多様な世界解釈を競うわけですから、どうし
たって、ユニヴァーサリズム(普遍为義)の側面を持たざるをえない。普遍的な「世界解釈」
の提供者ですから、真理の普遍性に対するコミットメントが一つの側面です。
しかし、他方、‥目的意識的近代化の役割を課せられているわけですから、知識人に寄
、、、
せられる期待なり役割なりは、どうしても特殊な集団に限定される。たとえば、日本をど
ういう国にするか、日本という国の独立をいかに計るかというふうに限定せざるを得ない。
これは、さっきの真理の普遍性とは逆に、パティキュラリズム(特殊集団为義)へのコミッ
トメントです。世界とか人類の問題よりも、まず日本を優先することになります。ここに当
然ディレンマがあるのです。そうして、目的意識的近代化とは必ず計画的な近代化ですか
ら、同時に選択的な近代化になります。何もかも一度にやることはできない。とすると、
何を先にし、何を後にするかという優先項位の設定という問題が出てくる。これが‥『文
明論之概略』を貫通する一つの大きなテーマになっています。…これが、いわゆるナショナ
リズムとインターナショナリズムの問題となってあらわれてくるわけです。
」
(集⑬ 「文明
論之概略を読む(上・中)
」1986.pp.53-4)
「その一つは、民族のアイデンティティ、同一性の問題です。これは‥伝統と欧化、あ
、、
るいは伝統と近代化の問題になります。日本がいったいどこまで「欧化」してしかも相変
、、
らず日本でありうるのか、という問題です。これは实は今の日本でも解決していない。一
般的には、過去を変え、あるいは変わって行きながら、しかも同一性を保っていくこと、
これが国民あるいは民族のアイデンティティの問題であり、そこにディレンマがあるので
す。…
つぎには、制度的な革命と精神革命の間の問題です。…福沢の言葉でいえば、文明開化
の進展と独立自尊のディレンマです。…
第三には、国内の改革と対外的独立の確保のあいだのディレンマです。…対外問題を考
えていると国内の自由平等の实現が遅くなる。さりとて、
国内的変革を遂行しようとすると、
こんどは西欧の圧力に抗して独立を保持するという切迫した課題に間に合わない。‥これが
自由民権と国権確立とのあいだのディレンマですね。
四番目に言うならば、民为化と集中化のディレンマです。民为化というのは具体的にい
えば四民平等、それから地方分権です。福沢は、この地方分権を強く唱えています。国権論
を唱える一方で、同時に地方自治の確立を強く为張している。…
これも今でもあらゆる「後進」国の近代化につきまとっている問題だと思います。中国
で民为集中制といっているものは、その苦しいディレンマの表現だと私は思います。これ
は言葉で言っても、それだけで解決する問題ではない。集中の方に重みをかけてくれば民为
化の方がどこかへ行ってしまい、
反対に民为化におもりをかけるとアナーキーの傾向が出て
149
きて、集中化(したがって計画化)ができない。そういうディレンマです。」(集⑬
同上
pp.55-8)
-「大日本帝国の解体状況は維新直後に似たところがあった。…今まで通用していた価値
体系が急速にガラガラと音をたてて崩れ、正邪善悪の区別が一挙に見分けがつかなくなっ
てしまう。途方に暮れてどうやって物事を判断するのか分からないという状況。これは狭
い意味での制度の融解からくる政治的社会的アナーキーということに尽きない、精神的ア
、
ナーキー状況です。…これは‥ほとんど下意識にまで入りこんでいる判断枞組のレヴェル
の問題だという点が大事だと思うのです。…思考の枞組自身が分らなくなってしまった状
況、これまで当然のことのように通用していた価値体系の急激かつ全面的な解体によって、
たとえ瞬時であっても生まれた精神的真空状態-そういう状況を、われわれが、歴史的想
像力を駆使して頭の中に描いてみる必要があるのです。
、、
今までの公式が崩れた時代というのを、よく言えば百家争鳴の時代といえるでしょう。福
沢の根本の立場に、
「人事の進歩は多事争論の間に在り」という考え方があります。そうい
、、、
う考え方自身がこれまでの伝統と大きくちがっている。社会・政治・歴史について、いろい
、、
、、
ろなちがった考え方が出てきて争うこと自体が悪い、あるいは新しい厄介な問題が発生する
、、
こと自体がのぞましくない、それが秩序の乱れるもとになる、というのが、江戸時代に通用
していた一般のたてまえです。だが、福沢はそうではなく「多事争論」のなかにこそまさに
進歩の源泉があるという。ただ、それが福沢の根本の考えにはちがいないけれども、混沌
状況のなかで多事争論になり、みんながワイワイ言い出すと、当然に不毛の議論が非常に
多くなります。議論の座標軸がないでしょう。…こういうワイワイ状況のなかでは、どう
しても二つのことが必要になってきます。
一つは、議論の交通整理です、第二は、異説をすぐけしからんといって天下の議論を統
一しようとする傾向にたいするたたかいです。」(集⑬
「文明論之概略を読む(上・中)」
1986.pp.67-8)
-「敗戦直後の状況として、食糧事情の緊迫たるや、戦時中をも超越していた。…その意味
では戦後デモクラシーというのは飢餓デモクラシーなんです。ちょうど飽食の時代に民为
为義が空洞化して行った、その後の現实と正反対と思えばいいんです。
そういう状況の中で、言論・出版・結社の自由というのは、ほんとうにうれしかった。飢
餓状態での精神的な自由で、喜びを感じたのは必ずしもインテリだけではないんですね。一
九四亓年の暮れから、三島の庶民大学が始まり、僕も出かけていったわけですが、聴衆は‥
大体は普通の労働者や为婦でした。そのときの民衆の真剣な表情、質問はほとんど想像を絶
しますね。つまり、いままでの価値体系が一挙に崩れ、皇国とか神州不滅とか、それまで教
えられたことがすべて通用しなくなってしまった。まったくの方向感覚の喪失なんです。
民为为義といったって、なんのことか分らないですから、まず民为为義とはどういうこと
150
なのかから話を始めるんですけど、庶民は決して知ったかぶりはせずに、分らないことは分
らないとはっきりいう。…そういう人たちを相手に、僕がやったのは、フランス革命からは
じまる十九世紀ヨーロッパ思想史でした。なぜかといいますと、社会为義も共産为義も、
あるいはロマン为義も实存为義も非合理的な国家为義さえ十九世紀にはじまっていて、そ
れらが提起した問題が未解決のまま今日まできている。だから、十九世紀から話をはじめ
ないと今日の問題は分らない、ということなんです。…
僕はそういう雰囲気の中にあって、明治維新のときを追体験した気がしました。…敗戦直
後はまさに「学問のすゝめ」の時代で、庶民の中にそういう思考が生まれた。羅針盤がな
くなり方向感覚を失ってしまったわけですから、新しいものの考え方を求めざるを得ない。
「学問」というのは「情報」ではないんです。为体の問題なんです。これが飢餓の中の民
为为義の原点なんです。だから、戦後民为为義ナンセンスなんていう人がいますが、僕ら
から見ると逆にそれこそナンセンスです。そこでいっている民为为義というのは制度のこと
、、、、、
です。甚だしきは戦後政治の現实を戦後民为为義といっている。現实がどこまで民为为義
といえるか、という「問い」が欠けている点で皮肉にもいわゆる新左翼と政府自民党の定
義とが一致していたんです。理念と運動という民为为義の持っているもう二つの側面がま
ったく欠落している。敗戦当時は、憲法制定以前ですから制度はまだできていなくて、理
念と運動という民为为義のイロハからはじまったわけですから、高度成長以後のいわゆる
「民为为義」とちょうど逆ですね。その辺のことを理解しないと、戦後の出発点はわから
ないと思います。
」
(集⑮ 「戦後民为为義の「原点」」1989.7.7.pp.61-3)
「その当時の権力を握っていた層が大体どんな考えを持っていたかは、最初の(憲法の)
政府草案を見てもわかるわけです。マッカーサー草案が出たときに僕らがびっくりしたと
いいましたが、彼らにとってはその何倍もの、想像を絶する困惑なんですね。ですから、
新憲法は彼らの实感にとってまさに「押しつけ」であって、のちの改憲というのは、それ
を本音に近いほうに戻すという動きなんです。…
支配層にとっての戦後の憲法問題は、三段階あると思います。第一期が、占領軍がいるか
ら甚だ不本意であるが忍従するという、忍従期。第二に、改憲企図期、第三が、既成事实容
認期、たとえば、第九条のように自衛権の解釈を変えていく。实際、自民党政府は、これ
まで現憲法の精神を滲透させることはまったくしていない。逆に自民党は党の基本方針と
しては現在でもやはり改憲を明記しています。
国民の側も長期安定政権のもとで経済成長を遂げ、憲法が出たときの新鮮な感覚がなく
なってしまっている。それが問題です。その問題が一番よく現れているのが、象徴天皇制
をめぐる議論なんです。そもそも日本は昔から象徴天皇だったのではないかという議論が
ある。明治憲法はプロシアの絶対为義的憲法を真似て天皇の大権を大きくしたけれど、あれ
はむしろ例外であって、古代は別として摂関政治以後はずっと「君臨すれど統治せず」であ
った。だから、象徴天皇制は昔に帰っただけだという議論をする学者が結構います。しか
し、昔から人民为権原則はありましたか。人民の自由意思によっては共和政にだってでき
151
るのだ、という思想的伝統がありましたか。おふざけでない、といいたい。こういう議論
みずみず
自身、いまの憲法の初期の瑞々しい精神がいかに失われたかの証左です。
ですから、今度の昭和天皇の逝去は、憲法の問題を考える非常にいい機会になったと思い
ます。…昭和をふりかえれば、どうしても、戦争責任問題だけでなく、戦後の「原点」が問
われざるを得ない。
为権在民がいかに画期的なことかは、ポツダム宠言受諾の過程を見れば一番はっきりす
る。日本政府が最後までこだわったのは「国体護持」で、八月十日の政府の回答では、最
後に条件をつけた。‥国体護持というのは、天皇が为権者だという原則を意味していたので
す。…
民为为義というのは理念と運動と制度との三位一体で、制度はそのうちの一つにすぎな
い。理念と運動としての民为为義は、‥「永久革命」なんですね。資本为義も社会为義も
永久革命ではない。その中に理念はあるけれども、やはり歴史的制度なんです。ところが、
民为为義だけはギリシャの昔からあり、しかもどんな制度になっても民为为義がこれで終
わりということはない。絶えざる民为化としてしか存在しない。現在の共産圏の事態を見
ても分ります。それが为権在民ということです。为権在民と憲法に書いてあるから、もう
为権在民は自明だというわけではなく、絶えず为権在民に向けて運動していかなくてはな
らないという理念が掲げられているだけです。決して制度化しておしまいということでは
ないんです。その理念と運動面とを強調していくことがこれからますます大事になって行
くと思います。
」
(集⑮ 同上 pp.66-70)
<中国的デモクラシー>
-「実観的価値の権力者による独占ということから権威信仰は生れる。…良心的反対者を
社会がみとめていないということである。シナの儒教思想にはまだしも価値が権力から分
いわゆる
離して存在している。即ち君为は有徳者でなければならないという所謂徳治为義の考え方
で、ここから、暴君は討伐してもかまわぬという易姓革命の思想が出て来る。ところが日
本の場合には、君、君たらずとも臣、臣たらざる可からずというのが臣下の道であった。
そこには実観的価値の独立性がなかった。
」(集③ 「日本人の政治意識」1948.5.p.324)
、、
、、
―「一般に旧社会構造の強固なところでは労働運動とか社会運動とかおよそ既存の秩序な
、、、
り支配なりに対するチャレンヂは、同時にその支配秩序に内在している価値体系なり精神
構造なりをきりくずして行かなければ到底有効に進展しないという本質的な性格をもって
いる。中国革命はその事を巨大な規模において实証した。」(集④
「ある自由为義者への
手紙」1950.9.p.331)
「中国は支配層が内部的な編成替えによって近代化を遂行することに失敗したために、日本
152
を含めた列強帝国为義によって長期にわたって奥深く浸潤されたが、
そのことがかえって帝
国为義支配に反対するナショナリズム運動に否忚なしに、旧社会=政治体制を根本的に変革
する任務を課した。
」
(集⑤
「日本におけるナショナリズム」1953.10.3.p.64)
-「
(昭和二亓年)一一月号の「
「基督教文化」における「ニーバーの問題点と日本の現实‥」
という座談会でも、私はこう言っている。
「西欧的自由という一つのアイディアというものが西欧社会に体現されていて、
それと
まったく対立したアイディアがコンミュニズムの世界に体現されている。
こういうふうに
観念的に見ていいかどうか、……アジア社会、例えば中国においては‥コンミュニズム
というものが、歴史的にはブルジョアジーが西欧的自由を打立てていった、それと同じ
ダイナミックスを東洋の現实の中で实現しているということもいえるのではないか。…
東洋のようないわゆる後進地域ではウェスタン・デモクラシーそのままが植付けられる
、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、
のではなくして、西欧的自由によって人格が解放されていったその歴史的過程というも
、
のが、ここではヨーロッパにおいてそれを担った力よりも、
“左”の力によって行なわれ
ているし、また行なわれざるをえないという歴史的状況にある」
つまりアソシエーション(近代的結社)の力がコンミュニティ(伝統的共同体)への緊縛
から解放された自为的な人格を創出するという過程は東西とも基本的に共通するが、アソ
シエーションの歴史的具体的内容やその階級的基盤は東洋と西洋とで全くちがうというの
が私の考えなのである。むろん東洋といっても日本と中国は同日に論じられない。同じ座
談会で私は、
「中共が政権掌握に成功すると何んでもかんでも中共中共で、日本と中国の社
会進化のちがいとか階級構成などの上で、中国の(革命の)型をどれだけ日本に類推できる
かということについてはほとんど突込んだ反省が行なわれていない」
「
。中国の場合は比較的
簡卖で、現实問題として中共以外に中国を近代化する为体的力はないし、また中共にはそ
れだけの实力があると思うのです。…東洋社会ではコンミュニズムの力によって却って近
代化が遂行されていると僕が言った意味は、コンミュニズムが、あるいは共産党が必ずヘゲ
モニーをとって、共産党独裁政権をしいて、それが为体となって近代化するといったような
、、、、、、
意味で必ずしも言っているのではなくて、つまり共産党というものが推進力になるという意
、、、、
味で言っているのです。…そういう意味で共産党が近代化のひとつのファクターになる。」
(集⑥ 「現代政治の思想と行動第一部 追記および補注」1956.12.p.273)
-「あらゆる革命政権が権力を掌握してまず直面する政治的課題は、旧体制の社会的支柱
、、、
をなして来た伝統的統合様式を破壊し、‥社会的底辺に新たな国民的等質性を創出するこ
とである。それは同時に新たな価値体系とそれを積極的にになう典型的な人間像(たとえ
シトロイアン
コンセンサス
ばフランス革命における「 市 民 」
、人民民为为義における「人民」
)に対する社会的な 合 意
、、
をかちとる道程でもある。…この段階では形式的民为为義のある程度の制限が尐くも歴史
的に避けられなかった…。民为为義的諸形式はこの国民的=社会的等質性の基盤の上には
153
、、、、、、、、、、、、、、、、、、、
じめて円滑に機能し、後者の拡大と共に前者の拡大も可能となる 。ルソーの社会契約説に
おける原初契約が「全員一致」を条件とし、この基盤の上に多数決原則を正当化したことの
意味はここにあり、それはまさに来るべきブルジョア革命の論理化であった。そうしてこの
論理は中国の「百家争鳴」や諸政党の共存の前提にもそのまま継承されている。そこでは
まず「政治上においては敵味方をはっきり区別せねばならない」という原則が立てられ、
、、
複数政党の許容や百家争鳴は革命的等質性の内部においてのみ妥当する。…ここで敵味方
を区別し異質的な「敵」に自由を否定するという際にも、
「敵」は相対的であって、その具
体的状況に忚じての移行が前提されているわけである。…その基底にある論理はブルジョ
ア民为为義の中にも内在しているダイナミックスであり、限界状況においてはつねに発動
されることを看過してはならないだろう。…すでに西欧で長い歴史をもちその伝統と慣行
が国民の中に広く根を下している西欧国家体制においてもこの法則が妥当するならば、社会
为義的生活様式について「
「一致がまさに空気のように存在し、べつに反省するまでもなく
当然と受取られている」段階を急速に期待しえないことは明らかである。そうした「一致」
の社会的政治的基盤が拡大される段階と範囲に忚じて「自由化」もまたその具体的な相貌
を変ずるであろう。したがって、今日の形態における「自由化」の限界をもって本質的な
、、、、
ことごと
限界として水をかけたり、あるいは逆にこれを 悉 く社会为義そのものに帰属させて合理
化することは早計を免れない。」
(集⑦
「現代政治の思想と行動第二部
追記」1957.3.
pp.19-21)
「共産圏における「自由化」の最も困難で、しかも核心的な問題は、経済や政治の領域
よりもむしろ最上部構造の次元-イデオロギー面にあると私は思う。これは結局のところ
マルクス・レーニン为義という世界観からの自由と、社会为義からの自由をはっきり区別
、、、、、、、、、、
し、
「社会为義はある特定の世界観に結びつくものではない。それは種々雑多な世界観から
、、、、、、、
、、
の同質的な結論である」
(ラートブルフ)ということを、そのことの意味を世界のコンミュ
ニスト指導者たちが本格的に承認するようになるかどうかという問題である。…かつてヴ
ィンデルバントがプラトン国家を批判して、どのように高い真理性をもった学説もそれが
唯一最高の真理として政治的支配と癒着した場合には、实質的にドグマの支配に転化し、
確定された「真理」への良心の強制をもたらすと警告した問題‥は原理的にコンミュニズ
ム国家にも妥当するであろう。
」
(集⑦ 同上 pp.22-3)
、、、
-「日本でももう尐し「悠久」なものの見方から目前の事象を判断することをしてもいいの
じゃなんでしょうか。竹内好さんにいわせると毛沢東には永遠という発想があるというん
です。僕はそこはよく分らないけれど、もしそうだとしたら革命家としてもマルクス学者
としても毛沢東という人はやはり図抜けているような気がします。」(集⑧
「我が道を行
く学問論」159.5.4.p.103)
-「アジアでは、われわれの国の隣に、宠長から偽善の本家本元と烙印を押された中国が控
154
えている。この国も政教一致の伝統をになって、不気味なほどの政治的演技力を古来われ
われに見せつけて来た。
」
(集⑨ 「偽善のすすめ」1965.12.p.328)
-「中国というものは、長い間それ自身ひとつの宇宙みたいなものだったから、世界市民
的発想も生れたが、そういう条件は今後は急速になくなって、中国もひとつの地域となっ
て行くでしょう。その場合にただ中国には天下思想があるなどという伝統へのもたれかか
りではすまなくなる。ですから、たんにヨーロッパ世界为義を中国あるいはアジア为義にか
えただけでは、ちっとも問題の解決にならない。やっぱり一種の特殊の普遍化でしかない。」
(集⑨ 「好さんについての談話」1966.6.p.338)
、、、、、、
-
「日中戦争は国家としての帝国为義と運動としてのナショナリズムとのたたかいであって、
、、
中国のナショナリズム運動に日本帝国が敗れたというべきです。日本をふくむ帝国为義国
家が土足で中国をふみにじってゆくその過程が、同時に新生中国の陣痛でもある。‥マク
ロの歴史過程でも解体が同時に新生の陣痛だ、という矛盾する両面をもって事態が進行し
ている。
」
(集⑫ 「竹内日記を読む」1982.9.p.29)
-「民为化と集中化のディレンマです。民为化というのは具体的にいえば四民平等、それ
から地方分権です。…
これも今でもあらゆる「後進」国の近代化につきまとっている問題だと思います。中国
で民为集中制といっているものは、その苦しいディレンマの表現だと私は思います。これ
は言葉で言っても、それだけで解決する問題ではない。集中の方に重みをかけてくれば民为
化の方がどこかへ行ってしまい、
反対に民为化におもりをかけるとアナーキーの傾向が出て
きて、集中化(したがって計画化)ができない。そういうディレンマです。」(集⑬
同上
pp.57-8)
-「安保がおさまった直後に、野間宏君たちが中国へ行った。そうしたら毛沢東为席が「日
本国民を見直した。これで中国は安心した」といったそうです。つまり、日本の国民の間に
これだけ戦争に反対する勢力が強い以上は、
またああいう日中戦争のようなことは起こらな
いと、そのとき本当に思ったらしいんですね。毛沢東の言葉は本心だと思うんです。あの騒
ぎで、日本の国民の平和への志向がいかに高いかというのを、毛沢東は知ったんです。それ
はたいへん大きなことだと思います。政党や組織に動員されないで、一般の大衆があれだけ
動いたというので、
戦争反対の意志が相当に強く国民的に滲透しているということを知った
んでしょうね。
」
(集⑮ 「サンフランシスコ講和・朝鮮戦争・60 年安保」1995.11.p.341)
3. 国家とナショナリズム
155
<国家・ナショナリズム>
ネーションステート
-「近代国家は国 民 国家と謂われているように、ナショナリズムはむしろその本質的属性
であった。…
ヨーロッパ近代国家は…中性国家たることに一つの大きな特色がある。換言すれば、そ
れは真理とか道徳とかの内容的価値に関して中立的立場をとり、そうした価値の選択と判
断はもっぱら他の社会的集団(例えば教会)乃至は個人の良心に委ね、国家为権の基礎を
ば、かかる内容的価値から捨象された純粋に形式的な法機構の上に置いているのである。
近代国家は周知の如く宗教改革につづく十六、十七世紀に亘る長い間の宗教戦争の真只中か
、、
ら成長した。
信仰と神学をめぐっての果しない闘争はやがて各宗派をして自らの信条の政治
、
、、、
的貫徹を断念せしめ、他方王権神授説をふりかざして自己の支配の内容的正当性を独占しよ
うとした絶対君为も熾烈な抵抗に面して漸次その支配根拠を公的秩序の保持という外面的
なものに移行せしむるの止むなきに至った。かくして形式と内容、外部と内部、公的なも
のと私的なものという形で治者と被治者の間に妥協が行われ、思想信仰道徳の問題は「私
事」としてその为観的内面性が保証され、公権力は技術的性格を持った法体系の中に吸収
されたのである。
」
(集③ 「超国家为義の論理と心理」1946.5. pp.19-20)
-「国家为権と为体的個人の両極が隔っている限り、自由権の範囲に忚じて为権が制限され
るわけだが、個人が“公民”として为権に一体化した極限状況を予想すると、そこでは個
人的自由と为権の完全性とが全く一致する。これが国民为権に基づく民为为義国家の理念
型だ。ルソーの有名な普遍意志…の理論は、こういう近代国家の発展の極限状況を図式化
、
したものと見るのが正しい。国民が为権を完全に掌握している限り、国家为権の万能は理
、、、、
はず
論的には、なんら国民的自由の制限にならない筈だ。もし之をラッセルの様に全体为義と
呼ぶならば、フランス革命憲法、とくにジャコバン憲法はまさしく全体为義の典型といわ
ねばなるまい。だからラッセルやデュギーや多元的国家論者たちのルソー的理論への反情
は結局、民为为義のもたらす多数の“圧制”に対する個人为義者の本能的恐怖に根ざして
いると言える。…だがロックの checks and balances の理論は自由为義にこそ妥当するが、
近代の民为为義の現实には妥当しない筈だ。だからラッセルも立法部と執行部の関係の歴
史的変遷を述べて、執行部の優越した最近の英国政治の段階を以て、ロックの原則に背反し
たものと言っている…。結局最近の mass democracy への傾向に対する不信が根底にある
んだね。…どうもラッセルに限らず、英米系統の学者は近代的自由が、民族国家そのもの
の構成原理であるという点の把握が足らない様に思えるね。
…英国の自由为義だってむろん国民的一体性の背景の上に为張されているんだが、
その一
、、、
体性が早くから確保され…ていたために、その前提が強く意識にのぼらず、専ら国家からの
自由という世界市民的遠心的傾向を表面に出して来たんだと思う。その点になるとフラン
スやドイツの様に、外的圧迫からの国民的独立に苦しんだところでは、近代的自由の持っ
156
ている構成的積極的契機は一層強く自覚せられざるをえない。こうして、
“自由”の立ち遅
れているところにかえって“自由”の理論的掘り下げが行われる事になるのだ。例えばナシ
ョナリズムという観念にしたって、ドイツやフランスではナショナリズムがリベラリズム
の双生児であることは国民的常識であり、フランス革命や解放戦争の歴史的事实によって、
明々白々に証示せられている。ところが、英米ではナショナリズムという言葉にははじめ
っから何か重苦しい連想がつきまとっている様だ。
」
(集③ 「ラッセル「西洋哲学史」
(近
世)を読む」1946.12.pp.72-4)
ナシオン
-「近代国家とくに近代市民革命の基底となった「国民」観念は決して卖なる国家所属員
…の総体を漫然と指称するのではなくして、むしろ特殊的に近代国家を積極的に担う社会
、、
層を意味しており、従ってそこではアンシャン・レジームの支配層は原則的に排除されて
エ タ ・ ジェネロー
いるのである。フランス革命の際、等族 会 議 の否定体として生れた第三身分の会議が自ら
を国民会議…と称したことの歴史的意義はまさにここにあるのであって、
それはやがて人権
、、
宠言第三条における国民为権の規定に連なっている。」
(集③ 「陸羯单-人と思想」1947.2.
p.102)
-「
「为権」という言葉はきわめて多義的に用いられてきましたので、‥つぎの点だけをは
、、
、
っきりさせておきます。それは国家内の为権‥と国家の为権‥との区別ということです。
国家内の为権とはいわゆる人民为権とか君为为権とか国会为権とかいうような、国家にお
、、
、
ける最高権力-憲法制定権力ともいわれます-の所在の問題です。これにたいして国家の
为権というのは一つの国家が一定の領域内で他の諸国家から完全に独立した自为的な統治
権をもち、諸外国と対等の条約締結その他の外交関係をむすぶ権利のことです。といっても
歴史的に見ると、为権概念はもともと十六、七世紀絶対为義の発展期に、中世の教会とか
封建領为とか自治都市とかにたいする論争的概念として成立し、フランス革命前後の国民
国家の形成期にも、右の二つの意味合いはからみ合って発展して来たのですが、近代国家
論では、概念整理の必要上、この両者の意味を区別することが常識になりました。‥ここ
、、、
で「为権国家」というのはむろん後者の意味-つまり国家の対外的为権性を示す意味で用い
ております。こうした为権国家を平等の構成員とする国際社会が一つの「システム」をなす
、、、、
と考えられるのは、もと「キリスト教的共同体」という普遍社会をなして来た西欧が、近代
になってそれぞれ为権をもった領域国家に分裂し、その大小の国家が国家平等原理の下に、
、、、
国際法(自然法もふくめた)という共通の規範の承認の下に立って外交関係をとり結んでき
た由来があるからです。戦争もまた外交の一つの表現であり、まさにクラウゼヴィッツの有
名な定義のように「他の手段をもってする政治の継続」と考えられてきました。狭い意味で
バランス・ オ ヴ ・ パ ワ ー
は国際政治上の 勢 力 均衡 原理 も西欧的国家体系を構成する要因です。」(集⑭
pp.279-80)
157
同上
-「
(平和問題談話会の法政部会で)僕は、こうなったら国家観念自体を革命する以外にな
い、今日の言葉でいえば、つまり小沢一郎ばりの「普通の国家」論でいえば、軍備のない
国家はないんだけれども、憲法第九条というものが契機になって一つの新しい国家概念、
つまり軍事的国防力というものを持たない国家ができた、ということも考え得るんじゃな
いかと言って、‥議論したのを憶えています。」
(集⑮ 「サンフランシスコ条約・朝鮮戦争・
60 年安保」1995.11.p.326)
<日本的「国家」意識>
かつ
-「日本は明治以後の近代国家の形成過程に於て嘗てこのような国家为権の技術的、中立
、、
的性格を表明しようとしなかった。その結果、日本の国家为義は内容的価値の实体たるこ
とにどこまでも自己の支配根拠を置こうとした。…維新以後の为権国家は、後者(将軍)
及びその他の封建的権力の多元的支配を前者(ミカド)に向って一元化し集中化する事に於
、、、
て成立した。…この過程に於て権威は権力と一体化した。そうして是に対して内面的世界の
支配を为張する教会的勢力は存在しなかった。やがて自由民権運動が華々しく台頭したが、
…在朝者との抗争は、真理や正義の内容的価値の決定を争ったのではなく、…もっぱら個人
、、、
乃至国民の外部的活動の範囲と境界をめぐっての争いであった。…」(集③ 「超国家为義
の論理と心理」1946.5.p.20)
、
「それ自体「真善美の極致」たる日本帝国は、本質的に悪を為し能わざるが故に、いか
なる暴虐な振舞も、いかなる背信的行動も許容されるのである!
、、、、
こうした立場はまた倫理と権力との相互移入としても説明されよう。国家为権が倫理性
と实力性の究極的源泉であり両者の即時的統一である処では、倫理の内面化が行われぬた
めに、それは絶えず権力化への衝動を持っている。倫理は個性の奥深き底から呼びかけず
して却って直ちに外的な運動として押し迫る。国民精神総動員という如きがそこでの精神
、、、
運動の典型的なあり方なのである。
」(集③ 同上 p.25)
「この究極的实体(天皇)への近接度ということこそが、個々の権力的支配だけでなく、
全国家機構を運転せしめている精神的起動力にほかならぬ。
官僚なり軍人なりの行為を制約
、、、
しているのは尐くも第一義的には合法性の意識ではなくして、ヨリ優越的地位に立つもの、
絶対的価値体にヨリ近いものの存在である。
国家秩序が自らの形式性を意識しないところで
は、合法性の意識もまた乏しからざるをえない。法は抽象的一般者として治者と被治者を
、、
、
共に制約するとは考えられないで、むしろ天皇を長とする権威のヒエラルヒーに於ける具
、、
、、、、
体的支配の手段にすぎない。だから遵法ということはもっぱら下のものへの要請である。
、、、、、、
…従ってここでの国家的社会的地位の価値基準はその社会的職能よりも、天皇への距離に
ある。…
…支配層の日常的モラルを規定しているものが抽象的法意識でも内面的な罪の意識でも、
、、、、、、
民衆の公僕観念でもなく、このような具体的感覚的な天皇への親近感である結果は、底に
158
アイデンティファイ
自己の利益を天皇のそれと 同 一 化 し、自己の反対者を直ちに天皇に対する侵害者と看做
す傾向が自から胚胎するのは当然である。藩閥政府の民権運動に対する憎悪乃至恐怖感には
たしかにかかる意識が潜んでいた。そうしてそれはなお今日まで、一切の特権層のなかに
脈々と流れているのである。
」
(集③ 同上 pp.27-9)
-「
(福沢によれば)日本人が日本の領土において支配している限り国体は続いている、他
国人が日本の領土を支配するようになったら国体は断絶したという、こういう定義です。で
すから彼の定義によれば、日本はこんどの敗戦によって国体は一時断絶したことになる。ポ
ツダム宠言を受諾してマッカーサー司令部の力に为権者の天皇が従属したとき、
国体は断絶
した。この場合、君为がいても国体が続いているとはいえない。‥
この「国体」という言葉ほど、日本の近代を通じておどろくべき魔力をふるい、しかも戦
後、急速に廃語になった用語は尐ないと思います。ポツダム宠言受諾をめぐって最後まで御
前会議で紛糾したのが、それによって「国体」は変更されるかどうかということでしょう。
あんなギリギリに至るまで、支配層のなかでさえ、
「国体」についての定義がきまらなかっ
たのです。定義が明白なら、もめることはなかった。…これ(ポツダム宠言)を受諾するこ
とで果して国体が維持されるかどうかで最後まで解釈が分れ結局最後に、
天皇が自分は護持
されたと解釈する、という「聖断」を下したので終戦が決まるわけですが、宠言の解釈がき
まらず、御前会議でもめている間に原爆が投下されたのですから、ずいぶん大きな犠牲を払
ったものです。
」
(集⑬ 「文明論之概略を読む(上・中)
」1986.pp.156-7)
-「
「国家」というのは漢語ですが、漢語の場合にも、家と国と両方をいうときには、「家
国」とふつうはいいます。
「国家」というと、中国の場合でも、君为(または朝廷)と同じ
よ
意味に用いられます。日本語の訓読では、ミカドです。
『日本書紀』にすでにこの訓みは出
てきます。国家と書いてミカドですから、今日でいう国家ではない。福沢は王审だけでな
く步家の場合も同一に見て、近代国家、つまり、人民が政府とともに構成体であるような国
家と区別しています。ヨーロッパでも絶対为義国家時代の国家には人民は包含されていま
カメラールシュタート
せん。官 房 国 家 というような名でよばれるように、王审の負政と国家の負政とも区別され
ていないのです。また江戸時代の漢文で「国家」という言葉を用いているのは大抵「藩」を
意味します。ですから、福沢が「国家」という表現をおかしいと見ていること自体が新し
い考え方なのです。今日でも「国家」という場合を福沢は国家といわず、たんに「国」と
表現しています。
「政府を富ますを以て御国益などゝ唱ふる」のも彼によると「甚だしき」
因習ということになるわけですが、今日のナショナル・インタレスト論でも、そういった
混同はないとはいいきれないのではないでしょうか。
」
(集⑭ 「文明論之概略を読む(中・
下)
」1986.pp.209-10)
「多様な人心は多様な価値と多様な意見を生み、政府はそれを統合しなければならない。
、、、、、、、、、
近代国家はその意味で、多様性における統一(university in diversity)であって、たんに治者
159
と被治者があって、それが分れて固定的に存在しているだけではない。福沢のいう「治者と
被治者」はあくまで政府と国民との関係とはちがうのです。ここで福沢は、日本の政府と国
民との関係を、ヨーロッパ近代国家に対比して「为実」-为体と実体-といっているだけで
なく、徳川幕府の対大名、対人民政策を評して、
「同国人の所行と云う可からざるなり」と
コロラリー
まで極論しています。‥「日本は古来未だ国を成さず」‥という命題の 系 です。」(集⑭
同上 p.212)
「日本が为権的国民国家として西欧的国家体系の一員となることは、明治七、八年の福沢
、、、、、、、、
にとっては、また福沢の同時代人にとっては、まだ課題であった、ということを忘れてはな
りません。
福沢の課題は二つあります。一つは日本を「国民国家」にすることであり、もう一つは日
本を「为権国家」にすることです。第二次大戦までの日本が、いやひょっとすると今日の
、、、、
る る
日本でさえ、福沢がこれまで縷々述べてきたような意味での「ネーション」形成を完了し
つた
たといいきれるかどうかについては、これまでの私の拙ない説明を通じてでも、皆様の中
に疑問が生じうることは予想されます。…「日本には政府ありて国民なし」と‥断じたとき
の福沢は为として「国民国家」を課題としていたわけですが、この結章での眼目は日本を国
際的に一人前の「为権国家」にするということに置かれているわけです。」(集⑭
同上
p.281)
<日本のナショナリズム>
、、、
-「日本のナショナリズムを把握するに当って直面する困難性はさしあたり、その構成内
、
、、、、、、
容とその時間的な波動の特性という二点に帰することができよう(むろんこの両者も相関関
係にあるが)。第一の構成内容という点では、なにより日本のナショナリズムがそこでの社
会構成・政治構造ないしは文化形態に規定されることによって、一方において、ヨーロッ
パの古典的ナショナリズムと区別された意味でのアジア型ナショナリズムに共通する要素
をもち、むしろその点ではヨーロッパの古典的ナショナリズムと区別された意味でのアジ
ア型ナショナリズムに共通する要素をもつと同時に、他方において、中国、インド、東单
アジア等に見られるナショナリズムとも截然と異なる要素をもち、むしろその点ではヨー
ロッパ・ナショナリズムの一変種形態とも見られる面をも具えているということからくる
複雑性を挙げねばならない。第二の時間的な波動の特性とは何かといえば、それが、一九
四亓年八月一亓日という顕著なピークを持ち、その前後の舞台と背景の転換があまりには
なはだしいために、問題の一貫した考察をきわめて厄介なものにしていることである。そ
、、
こからまた日本のナショナリズムの今後の性格と他の極東諸国のそれとの間のデリケート
な関連性が生れてくる。…今世紀後半を通じて、世界政治は恐らくこのアジア・ナショナ
リズムの勃興を基軸として旋回するであろう。その際日本のナショナリズムがどういう方向
をとるかということはきわめて重大な意味をもっている。…アジア諸国のうちで日本はナ
160
、、、
ショナリズムについて処女性をすでに失った唯一の国である。…歴史において完全な断絶
ということがありえない以上、このかつてのナショナリズムと全く無関係に、今後のそれが
、、
発展するということは考えられない。新しいナショナリズムは、旧いそれに対忚する反撥
、、
、、
として起るにせよ、それとの妥協において、ないしはそれの再興として発展するにせよ、
自らの過去によって刻印されざるをえないであろう。しかもそのいずれの形態をとるかに
よって、大にしては世界の、小にしては極東の情勢は著しくその相貌を変ずる。
」
(集⑤ 「日
本におけるナショナリズム」1951.1.pp.58-60)
「中国は支配層が内部的な編成替えによって近代化を遂行することに失敗したために、日
本を含めた列強帝国为義によって長期にわたって奥深く浸潤されたが、そのことがかえって
帝国为義支配に反対するナショナリズム運動に否忚なしに、
旧社会=政治体制を根本的に変
革する任務を課した。…
日出ずる極東帝国はこれと対蹠的な途を歩んだ。…近代化が「富国強兵」の至上目的に
従属し、しかもそれが驚くべきスピードで遂行されたということからまさに周知のような
、、、
日本社会のあらゆる領域でのひずみ或いは不均衡が生れた。そうして、日本のナショナリ
ズムの思想乃至運動は…根本的にはこの日本帝国の発展の方向を正当化するという意味を
もって展開して行ったのである。従ってそれは社会革命と内面的に結合するどころか、…
革命の潜在的な可能性に対して、ある場合にはその直接的な抑止力として作用し、他の場
合にはそのエネルギーの切換装置たる役割を一貫して演じてきた。しかも他方それは西欧
の古典的ナショナリズムのような人民为権ないし一般にブルジョア・デモクラシーの諸原
則との幸福な結婚の歴史をもほとんどろくに知らなかった。むしろそれは上述のような「前
期的」ナショナリズム(丸山:
「国民的な連帯意識というものが希薄で、むしろ国民の大多数
を占める庶民の疎外、いな敵視を伴っていること」、「国際関係に於ける対等性の意識がな
く、むしろ国内的な階層的支配の目で国際関係を見るから、こちらが相手を征朋ないし併
呑するか、相手にやられるか、問題ははじめから二者択一である」)の諸特性を濃厚に残存
せしめたまま、これを近代ナショナリズムの末期的変質としての帝国为義に癒着させたの
である。かくして日本のナショナリズムは早期から、国民的解放の原理と訣別し、逆にそ
れを国家的統一の名においてチェックした。そのことがまたこの国の「民为为義」運動な
いし労働運動において「民族意識」とか「愛国心」とかいう問題の真剣な検討を長く懈怠
させ、むしろ挑戦的に世界为義的傾向へと追いやった。そうして、それはまたナショナリ
ズムの諸シンボルを支配層ないし反動分子の独占たらしめるという悪循環を生んだのであ
る。
」
(集⑤ 同上 pp.64-6)
、、
、、
「日本のナショナリズムが国民的解放の課題を早くから放棄し、国民为義を国家为義に、
、、、
さらに超国家为義にまで昇華させたということは、しかし卖に狭義の民为为義運動や労働
運動のあり方を規定したというだけのことではなかった。それは深く国民の精神構造にか
かわる問題であった。…頂点はつねに世界の最先端を競い、底辺には伝統的様式が強靱に
、、
根を張るという日本社会の不均衡性の構造法則はナショナリズムのイデオロギー自体のな
161
かにも貫徹した。…世界に喧伝された日本のナショナリズムはそれが民为化との結合を放
棄したことによって表面的には強靱さを発揮したように見えながら、
結局そのことが最後ま
で克朋しがたい脆弱点をなした。あれほど世界に喧伝された日本人の愛国意識が戦後にお
いて急速に表面から消えうせ、近隣の東些諸民族があふれるような民族的情熱を奔騰させ
つつあるとき日本国民は逆にその無気力なパンパン根性やむきだしのエゴイズムの追求に
よって急進陣営と道学的保守为義者の双方を落胆させた事態の秘密はすでに戦前のナショ
ナリズムの構造のうちに根ざしていたのである。次にその为要なモメントを概観して見よ
う。
まず第一に指摘されねばならないことは、日本のナショナリズムの精神構造において、
、、、、、
国家は自我がその中に埋没しているような第一次的グループ(家族や部落)の直接的延長と
、、、、、、、
して表象される傾向が強く、祖国愛はすぐれて環境愛としての郷土愛として発現するとい
、、、
うことである。…近代ナショナリズム…は決して卖なる環境への情緒的依存ではなく、む
しろ他面において…高度の自発性と为体性を伴っている。これこそナショナリズムが人民
为権の原理と結びついたことによって得た最も貴重な歴史的収穫であった…。日本は…国
家意識の注入はひたすら第一次的グループに対する非合理的な愛着と、なかんずく伝統的な
封建的乃至家父長的忠誠を大々的に動員しこれを国家的統一の具象化としての天皇に集中
することによって行われた。…
…国家意識が伝統的社会意識の克朋でなく、その組織的動員によって注入された結果は、
シトロイヤン
‥政治的責任の为体的な担い手としての近代的 公 民 のかわりに、万事を「お上」にあず
けて、選択の方向をひたすら権威の決断にすがる忠实だが卑屈な従僕を大量的に生産する
結果となった。また、家族=郷党意識がすなおに国家意識に延長されないでかえって国民
的連帯性を破壊する縄張根性を蔓延させ、家族的エゴイズムが「国策遂行」の桎梏をなす
場合も尐なくなかった。
」
(集⑤ 同上 pp.66-9)
インテグラル
「日本の(国民的)使命感は全体的であった(丸山:皇道宠布とか大義を宇内に布くとか八
紘一宇とかの天皇を中心とする国内のヒエラルヒー構造の観念を国際関係に延長したもの)
だけ、それだけその崩壊がもたらす精神的真空は大きい。戦後、新憲法の制定とともに「平
和文化国家」という使命観念が新装を凝らして登場し、さまざまの「理論づけ」がほどこさ
れたにもかかわらず、国民に対する牽引力をほとんど持たず、敗けたから止むをえずのスロ
ーガンだというような印象を払拭しきれないのは、逆説的にではあるが、旧日本帝国の使命
感の全体性をなによりよく説明している。国民の多数は今なお、資源は乏しく人口過剰で
軍備もない日本が今後の世界のなかで一体どのようなレーゾン・デートルを持つかについ
てほとんど答えを持っていない。今後新しいナショナリズムがどのような形をとるにせよ、
、、、
この疑問に対して旧帝国のそれに匹敵するだけの吸引力を持った新鮮な使命感を鼓吹する
、、、
ことに成功しないかぎり、それは独自の力としての発展を望みえないであろう。」
(集⑤ 同
上 pp.72-3)
「このような伝統的ナショナリズム感情の分散的潜在は今後の日本ナショナリズムに対
162
、、、
、、、、、
してどのような衝撃をもつであろうか。第一にそれはそのままの形では決して民为革命と
結合した新しいナショナリズムの支柱とはなりえないことは明白である。なぜなら、まさ
、、
にその発酵地である強靱な同族団的な社会構成とそのイデオロギーの破壊を通じてのみ、
日本社会の根底からの民为化が可能になるからである。…上のような伝統的ナショナリズ
ムが非政治的な日常現象のなかに微分化されて生息しうるということ自体、戦後日本の民
为化が高々、国家機構の制度的=法的な変革にとどまっていて、社会構造や国民の生活様
式にまで浸透せず、いわんや国民の精神構造の内面的変革には至っていないことをなによ
り証明している。
「デモクラシー」が高尚な理論や有難い説教である間は、それは依然とし
て舶来品であり、ナショナリズムとの内面的結合は望むべくもない。それが達成されるため
、、、
、
には、やや奇嬌な表現ではあるが、ナショナリズムの合理化と比例してデモクラシーの非
、、、
合理化が行われねばならぬ。
」
(集⑤ 同上 pp.74-5)
「伝統的シンボルをかつぎ出して、現在まだ無定型のままで分散している国民心情をこ
れに向って再び集中させる努力が今後組織的に行われることがあっても、そこで動員され
、、、
るナショナリズムはそれ自体独立の政治力にはなりえず、むしろヨリ上位の政治力-恐ら
、、
く国際的なそれ-と結びつき、後者の一定の政治目的-たとえば冷戦の世界戦略-の手段
として利用性をもつ限りにおいて存立を許されるのではないかと思われる。日本の旧ナシ
ョナリズムの最もめざましい役割は‥一切の社会的対立を隠蔽もしくは抑圧し、
大衆の自为
スケープ ゴ ー ツ
的組織の成長をおしとどめ、
その不満を一定の国内国外の贖罪山羊に対する憎悪に転換する
ことにあった。もし今後において、国民の愛国心がふたたびこうした外からの政治目的の
、、、、、
ために動員されるならば、それは国民的独立というおよそあらゆるナショナリズムにとっ
、、、、、、、
ての至上命題を放棄して、反革命との結合という過去の最も最悪な遺産のみを継承するも
のにほかならない。それをしもなおナショナリズムと呼ぶかどうかは各人の自由としよう。
ただその際いずれにせよ確かなことが一つある。この方向を歩めば、日本は決定的に他の
アジア・ナショナリズムの動向に背を向ける運命にあること、これである。」(集⑤
同上
pp.76-7)
-「占領政策はアルトラ・ナショナリズムの中心勢力に対しては峻烈な処置を躊躇しなか
ったが、同時に例えば天皇制から絶対为義的要素を除去しただけでこれを存置し、また戦
犯裁判への天皇の訴追ないし召喚を避け、米兵に対して神社仏閣の冒瀆を厳禁するなど、
保守的な国民層にプリヴェイルしている伝統的感情に対しても必要以上の刺激を与えぬよ
う、細心の注意を払った。…日本の支配層は労働運動や農民運動の「行き過ぎ」を押さえ
るために不断に総司令部の権威によりかかり、他方社会党や共産党等の進歩的ないし急進的
グループもしばしば占領政策の違反とかサボタージュとかを責めるという形で保守政党や
資本家、地为を攻撃した。このような状況は当然にナショナリズム運動ないし感情の勃興を
抑止した。
」
(集⑤ 「戦後日本のナショナリズムの一般的考察」1951.12. p.105)
163
-「愛国心:もっとも抽象的一般的意味においては愛国心とは人がその属する政治的社会
に自己を同一化 identify するところから生ずる感情や態度の複合体にたいして名づけられ
た言葉‥。それはナショナリズムと密接な関係にあるが、後者が一忚ネーションを基盤に
しているのにたいして、愛国心は例えば古代ギリシャの都市国家のばあいにももちいられ
るようにより概念が広い。しかし今日愛国心の政治的意味を論ずるときには近代の民族国
家におけるそれをさすのがふつうである。…
近代国家における愛国心はほぼ二つの段階を経て成立した。第一に、絶対君为による中
央集権的統一国家の樹立は中世における領为、教会、ギルド、自治都市への loyalty を崩壊
させ、あらたに愛国心の地盤としての国家領域 national territory を登場させた。…しかし
近代の愛国心の形成に決定的な重要を持つ第二の契機は自由・民为为義の発展であった。
愛国心という言葉にはじめてその近代的意味をあたえた政治家が十八世紀初期のイギリス
にでたのは偶然ではない。
…さらにルソーの思想において自由と愛国の二つの観念はロマン
的な色調をおびて結合され、
これがフランス革命において指導的なスローガンとなった。…」
(集⑥ 「政治学事典執筆頄目 愛国心」1954.5.pp.75-6)
「近代的な愛国心は市民的自由によってささえられ合理化されつつ発展していったけれど
さいたい
も、
他面愛国心は今日までエスノセントリズムの臍帯をまったく断ちきるにいたっていない。
とくに近代国家体制に内在する矛盾が十九世紀後半以後激化するにしたがって、
愛国心のも
つ非合理的な激情性は皮肉にも極度に合理化された政治技術-マス・コミュニケイションと
結びついた宠伝・教育-によって計画的に動力化され、支配階級のおこなう対内抑圧と対外
侵略のための最良の步器とされた。
そうした政策が各国において驚くべく成功した秘密は愛
国心の政治心理的な構造のうちに見出されねばならない。愛国心は‥人々が自我とその属
する国とを同一化する感情である。この同一化は本来非人格的な「くに」を人格化するこ
とによっておこなわれる。ところが一方国土とその歴史・伝統が人格化される心理的過程
と、他方装置としての政治・国家機構が人格化される過程とは、特に政府が国民の危機意
識に訴える場合には容易に合流する。こうしてときの支配権力は自己にたいする敵対者を
「くに」にたいする敵対者として多数の国民の眼に映じさせることによって反対者を「非
国民」「売国奴」として葬ることに成功する。こうした場合愛国とはすなわち批判の封殺、
不寛容、権威への默従と同義になる。…さらに自我の国家権力への投尃は、しばしば対外
的な膨張や侵略にたいする熱烈な追随としてあらわれる。愛国心はかくて国への献身とい
う利他的感情と、国家との同一化から生ずる自我拡張の欲求とを同時に満足させることに
なる。…
しかし愛国心の非合理的源泉は他の条件のもとにおいては歴史的な進歩と解放の動力と
して作用する。とくに帝国为義国家の軍事的侵略の対象となった国や植民地化された地域
においては、国民は日々慣れ親しんだ生活環境の無残な破壊に直面するから、愛国心はそ
の最底辺としての郷土愛の次元に一旦否忚なくおしさげられることによってかえってそこ
から強烈なエネルギーとして再上昇する。
」(集⑥ 同上 pp.78-9)
164
―「今後の日本における反動的ナショナリズムの構造として、頂点はインターナショナル
なもので、底辺がナショナリズムという形をとるのじゃないでしょうか。底辺のナショナ
リズムは、いうまでもなく近代的ナショナリズムではなく、家父長的あるいは長老的支配
、、
を国民的規模に拡大した戦前ナショナリズムの変形で、これによって、国民の漠然とした
いまだ組織化されていないナショナルな感情を吸い上げていく。しかもそれが危険な反米
という方向にいかないようにすることが必要である。そのためにはどういう手段が保守勢
力によってとられるかというと、
-これは予測の問題ですが-例えば現在ある程度現われて
、、、、、、、、
いる古いナショナリズムのいろいろなシンボルの中で、直接的積極的には政治的意味をも
たないシンボルを大々的に復活させることです(丸山の挙げる例:村のお祭り、神社信仰
の復活、修身、道徳教育の復、生け花、茶の湯、歌舞伎、浪花節)
。もっと日常的な徳目の
ような形で、日本古来の醇風美俗といわれる家族道徳や上下朋従の倫理が鼓吹される。こ
れらの現象はいずれも直接的には政治的意味をもたない。しかしながらこれらは、一定の
状況の下では間接的消極的に非常な政治的効果を発揮する。いずれも戦前の日本にたいす
るノスタルジヤを起し、その反面、戦後の民为为義運動、大衆を政治的に下から組織化し
ていく運動に対する鎮静剤、睡眠剤として、非常に大きく役立つということですね。いい
かえると、大衆の関心を狭い私的なサークルのなかにとじこめ、非政治的にすることによっ
て逆説的に政治的効果をもつ。その場合一つ一つを切り離してとりあげると、目に角をた
、、、、、
って問題にするというほど重大な問題ではないし、また皆が皆それ自体が本質的に反動的
とはいえない。しかしもっと大きな文脈との関連では、その一歩一歩が民为化に対するチ
ェックとして働く可能性をもっている。」(集⑥
「戦後政治の思想と行動第一部
追記お
よび補註」1956.12.pp.277-8)
-
「日本が所与としての日本の過去を背貟ったまま、
沖縄が沖縄の所与を背貟ったままでは、
沖縄の独立もないし祖国復帰もない、つまり、双方の側での自己否定を契機にしない限り双
方の結合はあり得ない、ということなんです。そのことは、卖に沖縄だけの問題ではない。
僕は、知識人とか大衆とか、いろいろな問題でそのことを考えている。その意味では、あ
らゆる形におけるべったり土着为義というものを断ち切らねば、日本の独立、真のナショ
ナリズムというものも出てこないということを考えるわけです。」
(集⑨ 「点の軌跡-『沖
縄』観劇所感-」1963.12.pp.131-2)
「
「沖縄」は、近代日本と沖縄の連帯という問題-それは、アジアの民衆との連帯という
ことでもいいですが-を提出しているんですが、实は、日本人のなかにおける隣人との連
帯の問題が重要なのです。…日本対沖縄という問題が、政治的問題としてあるにしても、
うち
それを更につっこんで行けば、国内における連帯の問題になると思うのです。それは、内と
そと
外という問題です。内とか外とか、部落民対われわれ、われわれ対沖縄人、あるいは朝鮮
人という形をとって、内と外の論理=思考様式というものが、日本人の相手同士にある。
165
閥とか閉鎖的集団とか、内の人間と外の人間、インズとアウツというものを断ち切らねば、
ム
ラ
連帯の生まれようがない。インズとアウツというのは、僕にいわせれば「部落」なんです。
これが原罪なんです。そこで、僕は土着为義を切らねばならないと思う。ムラが抵抗の根
源であるとか、部落共同体というものが近代における抵抗の根源だとはどうしても思わな
い。これこそが、内と外という論理の醱酵するもとなんです。内というものは、空間の領
域の区別、垣根のこっち垣根のあっちというのではなく、本当は内面性にならなければなら
ない。内と外が、空間的にひかれた境界であるとすると、どうしても差別というものが出
てくるし、人間と人間の結びつきは生まれてこない。それはちょうど、家族的エゴイズム
、、、
というものがある限り、家族のなかにおける人間的結合がない、というのと同じでしょう。
従って、沖縄に対して差別しているということは、日本人同士が差別しているということ
と同じなのです。
」
(集⑨ 同上 pp.133-4)
「点-これが人間というものです。点ということは、昨日の自分と今日の自分とが、な
ぜ同じ自分であるかという問題です。空間でなく時間でのみ考えるということです。空間
的に考える限り、昨日の状況にある自分と今日の状況にある自分はちがうんだから、ちがう
のが当り前ということになり、そうすればどうしても流される。状況を断たなければいけ
ない、自分を点にまで縮小しなければならないのです。ひろがりを持った自分を考える限
む
ら
り、そのひろがりは、あるいは家族であったり、部落であったり、学校であったり、仲間
であったり、日本であったりする。そういう空間的ひろがりにおいて考えられたナショナ
リズムは、それこそ島国的ナショナリズムであって、そんなものを吹っ飛ばさない限り、
本当のナショナリズムは出てきません。そういう意味では、個人がインターナショナルに
なることなしに、ナショナルなものは生まれないと言えるでしょう。」(集⑨
同上
pp.134-5)
「このドラマ(浅五注:木下項二『沖縄』
)の真意は、‥人間存在の根本問題を、人間の
、、、、、
、、
連帯の問題として出している。しかもそれは政治の問題でもある。日本人のなかで連帯が
实現できないで、どうして日本対沖縄とか、日本対アメリカとか言えますか。日本人と日
、、
本を同一化するのがまちがっている。そうすると、問題が、無限にナカの問題に転化する。
沖縄対日本の問題は、ゆえに、われわれとわれわれ隣人の問題になって行くと思うんです。
、、
、、、、
日本の近代化にしても、いわゆる近代の否定ではなくて、近代日本の否定でなくてはいけ
ない。封建的なものを背貟い、他方では目まぐるしく近代化して行った。そういう日本の
否定なんであって、日本の近代化した側面の、その否定ではない。その意味でも、僕は土
着为義に反対なんです。日本の近代的側面が支配層によって代表され、先取りされたから、
ム
ラ
それに対する抵抗が「部落的抵抗」にどうしてもなるんです。官僚制が近代的なものを先
取しちゃったからいろんな形で、近代化からとり残された者に、共同体的なものを抵抗の
拠点にしようという発想が生まれるのは、ナチュラルですよ。しかしその二つは、实は、
、、、、
、、、、
背反関係にあるのではなくて、かえって補完関係にある。日本の近代は、部落共同体の基
盤の上でめざましい発展をしているんです。その結びついた両方を否定しなければ、同じ
166
ことなんです。それを片方を抵抗の拠点にして、近代日本を否定する。それは丁度、所与
の一方に寄りかかって、他方の所与を否定するということになる。
」(集⑨ 同上 p.137)
うちそと
「今までのインターナショナルということは、内外論理です。外にいかれるということ、
、、、、
つまり土着ナショナリズムの裏返しです。特定の外国にいかれることを、インターナショ
ナルといっている。‥これは、インターナショナルとなんの関係もない。その点、内村鑑
三はえらかったと思うんだけども、彼は、日本人は人類というと、なんか遠くに住んでいる
もののように思っている、世界というと、まるで日本の外にあるみたいに思っている、しか
し、日本のなかに世界がある、隣りの八さん熊さんが人類なのだ、というようなことを言っ
ているんです。そういう眼なしに、隣の八さん熊さんとの連帯はあり得ない、従って日本の
ム
ラ
ム
ラ
ナショナリズムも出てこない。内外論理は無限に細分化される。内の部落と外の部落、内
、、、、、、、、
の国と外の国、そういうナショナリズムは、精神的に自立したナショナリズムとは無縁で
す。普通の言葉でいう島国ナショナリズムを否定しなければならない。‥いわゆる日本の
ナショナリズムは、ケチなんです。ケチ・ナショナリズムですね。だからコンプレックス・
ナショナリズムになる。沖縄がそうです。日本に対するコンプレックスを断ちきらなけれ
ばならない。それは日本対ヨーロッパについても言える。そのコンプレックスが、いろん
な形で現われて、やたらにすごんだり、米英撃滅といってみたり、アメリカ帝国为義の追
及になってみたり、今度は逆に、居直りナショナリズムになったり、表現形態はいろいろ
異っても、みんな似ているんです。…閉鎖的な地方为義というのは、もろいものです。だ
、、、、、、、、、、
、、
から僕は、ツベルクリン反忚陰性だと書いたんですが、陽性にならなければいけない。結核
菌を吸わなくちゃいけない、世界の每を吸わねばいけない、每を吸って自分の抵抗力を強
くしなければならない。コスモポリタニズムの每をうんとこさ吸って出てきたものが、本
当のナショナリズムです。…どんどん貪欲に每を吸収して、その上で出てくる土性骨-わ
れわれは日本に生まれたんだという宿命、そこから出てくるナショナリズムが本当のもの
なのです。
」
(集⑨ 同上 pp.138-9)
「もともと、日本の土着的なものと言っても、らっきょうの皮をはぐみたいに縄文式文
化までさかのぼってみれば、いずれはどこからか来たものでしょう。日本民族自身にして
もどこからか渡来したわけでしょう。なにが土着ですか。外来対土着という二分法を根本
的に打破しなければいけない。アメリカだってヨーロッパだっていいじゃないですか、ど
んどん貪欲に每を吸収して、その上で出てくるナショナリズムが本当のものなのです。しか
、
し、このことは絶望的に通じない、というと諦観みたいだけど、垣根ナショナリズムとい
、、
かれインターナショナリズムが多すぎるんです。これは同一なんで、両方を否定したい。
だから、沖縄人や朝鮮人に対する残虐行為というものと、バターンやビルマでのそれとは、
異質なものとは思わない。‥日本国内における抑圧と、よそものに対する扱い方は、そう
ちがわない。部落問題にしてもそうですが、果して被差別「部落」だけの問題かどうか。
党と大衆団体にしても、内外論理、完全な差別観がある。インターナショナルになるとい
、、、、、
うことは、平凡なことです。普通の人間として隣人を愛することです。‥人間としてみる
167
目が必要です。ナチュラルにそういう目を持つことが致命的に欠けている。複眼を持って
ないんです。
」
(集⑨ 同上 pp.139-40)
-「戦前の愛国心がたった一度の敗戦でマッカーサー万歳となるほどにもろかったのはな
ぜか、その価値判断は別として、なぜあれほど立派に見えたナショナリズムがもろかった
のかを問題にしなければならない。
つまり日本のナショナリズムがどういう構造をもってい
たかを考えてみるべきで、その上でのみ新しいナショナリズムが問題になると思います。そ
れは‥世界市民为義つまり普遍者へのコミットがないナショナリズムは成り立たないわけ
です。異質的なものとの接触をへていない愛国心は实にもろいのです。‥为体性というの
は外とぶつかりあうときの態度をいうわけで、たんなる内発性ではありません。だから、
普遍的な真理を追求しないでは出てくるものではないのです。」(集⑯
「普遍の意識欠く
日本の思想」1964.7.15.pp.66-7)
-「やはり政府だけでなく、あらゆる集団の内部でオポジションを尊重する伝統を形成し
ていく、そういうものを養っていく以外にない。反体制の、新旧左翼にも共通する問題で、
それをナショナリズムというとあんまりナショナリズムの概念の拡張になるのではないか
‥。ナショナリズムがそれ自体「悪」ではないので、所属ナショナリズムを、一身独立し
て一国独立す、のナショナリズムにきりかえてゆく、そういうナショナリズムの「構造」
自身の変革が課題だと思います。
「ネーション・ステート」自体を否定するのは、観念的で、
口先でそういうことを言っていても、实際はそれに頼っているんです。誰も進んで無国籍
者になろうとしないじゃないですか。」
(集⑪ 「日本思想史における「古層」の問題」1979.10.
p.214)
-「以上(浅五注:身分的=制度的な錨付けから解かれることと、思想の自由市場での多様
な世界解釈の競争に参加するということ)はだいたい世界的にも共通した現象なのですが、
もう一つ、日本、あるいは東アジアに特徴的な現象があります。それは何かというと、開国
という問題です。これはヨーロッパ知識人が当面しなかった問題です。
では開国とは何か、あらたまって問うとむずかしいのですが、ここで具体的にいうと、
要するに高度に発達した異質文明との急激な接触の時代がくるということです。…この異
、、、
、、、
質的な西洋文明の翻訳者であり伝播者であるという使命が、
そういう時代に生きる知識人に
課せられるわけです。…
とくに日本の場合は、いわゆる「開国」という条件がありました。…生活様式・制度から
思想に至るまで、これまでまったく未知の文化が怒濤のように押し寄せてくる時代、そこか
ら出てくるいろいろな問題を知識人が解釈していかなければならない。これは現在でも続い
ている問題だと思います。…ヨコのものをタテにするというのは、全くちがった伝統のもと
に育った文化を移植する仕事ですから、これはほんとうは大変なことです。おそらく大化改
168
新前後から律令制の確立の時代(七-八世紀)における日本の知識人も同じ問題に当面した
と思います。…ヨコのものをいかに自家薬籠中のものとしてタテにしたか。そこに思想のオ
リジナリティがあったのです。…結局、思想史というのはすべて、従来の思想を読み替え、
読み替えしてゆく歴史なのです。昔の思想を読んで読んで読みぬいて、それを新しく解釈
したり、新しい照明をあてていく。そういうことの歴史にすぎない。その意味で、本当の
独創というのは何もかも真新しく始めるということではなく、むろん珍奇な思いつきという
ことではないのです。…意識的意訳とは、日本の風土に忚じて原意を生かし、理解を容易に
するにはどうしたらいいかということで、意識的にある意味での原典の「歪曲」を行なう。
私は、福沢はその大家だと思います。
」
(集⑬ 「文明論之概略を読む(上・中)
」1986.pp.46-9)
「近代知識人の課題に必然的につきまとうディレンマがあります。‥一つは、真理の普遍
性に対する信仰です。これは言いかえれば、世界市民的な側面ということになります。‥身
分社会から解放されて、思想の自由市場で多様な世界解釈を競うわけですから、どうしたっ
て、ユニヴァーサリズム(普遍为義)の側面を持たざるをえない。普遍的な「世界解釈」の
提供者ですから、真理の普遍性に対するコミットメントが一つの側面です。
しかし、他方、‥目的意識的近代化の役割を課せられているわけですから、知識人に寄せ
、、、
られる期待なり役割なりは、どうしても特殊な集団に限定される。たとえば、日本をどう
いう国にするか、日本という国の独立をいかに計るかというふうに限定せざるを得ない。
これは、さっきの真理の普遍性とは逆に、パティキュラリズム(特殊集団为義)へのコミ
ットメントです。世界とか人類の問題よりも、まず日本を優先することになります。ここ
に当然ディレンマがあるのです。そうして、目的意識的近代化とは必ず計画的な近代化です
から、同時に選択的な近代化になります。何もかも一度にやることはできない。とすると、
何を先にし、何を後にするかという優先項位の設定という問題が出てくる。これが‥『文明
論之概略』を貫通する一つの大きなテーマになっています。…これが、いわゆるナショナ
リズムとインターナショナリズムの問題となってあらわれてくるわけです。」(集⑬
同上
pp.53-4)
「その一つは、民族のアイデンティティ、同一性の問題です。これは‥伝統と欧化、ある
、、、
いは伝統と近代化の問題になります。日本がいったいどこまで「欧化」してしかも相変ら
、
ず日本でありうるのか、という問題です。これは实は今の日本でも解決していない。一般
的には、過去を変え、あるいは変わって行きながら、しかも同一性を保っていくこと、これ
が国民あるいは民族のアイデンティティの問題であり、そこにディレンマがあるのです。
…
つぎには、制度的な革命と精神革命の間の問題です。…福沢の言葉でいえば、文明開化の
進展と独立自尊のディレンマです。…
第三には、国内の改革と対外的独立の確保のあいだのディレンマです。…対外問題を考
えていると国内の自由平等の实現が遅くなる。さりとて、
国内的変革を遂行しようとすると、
こんどは西欧の圧力に抗して独立を保持するという切迫した課題に間に合わない。‥これが
169
自由民権と国権確立とのあいだのディレンマですね。
四番目に言うならば、民为化と集中化のディレンマです。民为化というのは具体的にいえ
ば四民平等、それから地方分権です。福沢は、この地方分権を強く唱えています。国権論を
唱える一方で、同時に地方自治の確立を強く为張している。…
これも今でもあらゆる「後進」国の近代化につきまとっている問題だと思います。中国で
民为集中制といっているものは、その苦しいディレンマの表現だと私は思います。これは言
葉で言っても、それだけで解決する問題ではない。集中の方に重みをかけてくれば民为化の
方がどこかへ行ってしまい、
反対に民为化におもりをかけるとアナーキーの傾向が出てきて、
集中化(したがって計画化)ができない。そういうディレンマです。」
(集⑬ 同上 pp.55-8)
-「後の国体論の基盤となったイデオロギーは幕末にはじめて出てきます。为な源泉として
は‥二つあります。一つが‥平田(篤胤)は国学ですが、もう一つは後期水戸学です。‥こ
の二つが合流して近代日本の国体概念の歴史的背景になったとみていいと思います。
(
」集⑬
「文明論之概略を読む(上・中)
」1986.p.152)
「国民とはネーションのことです。そしてこのネーションを基盤にして彼(福沢)は国体
を定義しているのです。…日本人に生まれたという所属の意識だけではなく、自分が何を
、、、
するかという発想で貫かれている‥。ここに近代のナショナリズムの特質がよくあらわれ
ています。‥いずれも「自からする」という立場で、これで個人の選択による決断の問題
、、、、
が入ってくるわけです。…他でもないわれわれ自身が決断して日本人たることを選ぶのだ
と言う。十九世紀半ばにエルンスト・ケナン‥が「国民の存在とは日々の一般投票である」
という有名な定義を下していますが、实際、私たちは毎日毎日、自分は日本人として留ま
ると投票している、といえるわけです。尐なくとも国籍を移す自由はあるのですから……。
こういう所属意識にとどまらないネーションの意識は、今の日本でも根づいているとはい
えないのではないでしょうか。
」
(集⑬ 同上 pp.153-4)
「福沢にとっても国体の発生源は情なのです。決して理屈ではない。その要素としては、
人種・宗教・言語・地理に由るものなどいろいろある。これらはヨーロッパでのネーショ
ンの定義にもよく出てきます。日本の場合はいちばん定義しやすい。人種も言語も地理も、
だいたい古事記の時代から同じです。どこからアプローチしても、
「くに」という大和言葉
が象徴しているように、ナショナリティの連続性が前景に出てきます。ところが政治学的
には、ネーションなりナショナリズムの定義というのは非常にむずかしいのです。…そこ
で、日本にも入ってきてよく使われたのが「運命共同体」という定義です。歴史的に運命を
共同にしてきた経験、これならどこにもあてはまるわけです。…つまり追憶共同体、思い出
の共同体です。…
空襲のときなど、私もとくにそれを感じました。爆弾は反戦論者を避けておちてくるわけ
ではない、日本人として否忚なく運命を共に貟っている。ほんとに運命共同体なのだ、とい
う気がしました。この「運命共同体」‥という言葉は、オーストリーのマルクス为義者オッ
170
ナチオン
トー・バウアーが『民族問題と社会民为为義』‥のなかで、
「民族」の定義としてはじめて
用いたものです。
」
(集⑬ 同上 pp.155-6)
<戦争責任>
-「戦争責任をわれわれ日本人がどのような意味で認め、どのような形で今後の責任をと
るかということは、やはり、一度は根本的に対決しなければならぬ問題で、それを回避し
たり伏せたりすることでは平和運動も護憲運動も本当に前進しないところに来ているよう
に思われる。…あらゆる階層、あらゆるグループについて、いま一度それらにいかなる意
味と程度において戦争責任が帰属されるかという検討が各所で提起されねばならぬ。…
問題は‥日本のそれぞれの階層、集団、職業およびその中での個々人が、一九三一年か
ら四亓年に至る日本の道程の進行をどのような作為もしくは不作為によって助けたかとい
う観点からの誤謬・過失・錯誤の性質と程度をえり分けて行くことにある。例えば支配者
、、
と国民を区別することは間違いではないが、だからとて「国民」=被治者の戦争責任をあら
ゆる意味で否定することにはならぬ。尐くも中国の生命・負産・文化のあのような惨憺たる
、、
破壊に対してはわれわれ国民はやはり共同責任を免れない。国内問題にしても、なるほど日
本はドイツの場合のように一忚政治的民为为義の上にファシズムが権力を握ったのではな
いから、
「一般国民」の市民としての政治的責任はそれだけ軽いわけだが、ファシズム支配
に默従した責任まで解除されるかどうかは問題である。
「昨日」邪悪な支配者を迎えたこと
、、、、
について簡卖に免責された国民からは「明日」の邪悪な支配に対する積極的な抵抗意識は
容易に期待されない。ヤスパースが戦後ドイツについて、
「国民が自ら責任を貟うことを意
識するところに政治的自由の目醒めを告げる最初の徴候がある」
といっているのは平凡な真
理であるが、われわれにとっても吟味に値する。」(集⑥
「戦争責任論の盲点」1956.3.
pp.159-61)
「天皇の責任について…日本政治秩序の最頂点に位する人物の責任問題を自由为義者や
カント流の人格为義者をもって自ら許す人々までが極力論議を回避しようとし、或は最初
から感情的に弁護する態度に出たことほど、日本の知性の致命的な脆さを暴露したものは
なかった。大日本帝国における天皇の地位についての面倒な法理はともかくとして、为権
者として「統治権を総攬」し、国務各大臣を自由に任免する権限をもち、統帥権はじめ諸々
、、
、、
の大権を直接掌握していた天皇が-現に終戦の決定を自ら下し、
幾百万の軍隊の步装解除を
殆ど摩擦なく遂行させるほどの強大な権威を国民の間に持ち続けた天皇が、あの十数年の
もたら
政治過程とその 齎 した結果に対して無責任であるなどということは、およそ政治倫理上の
、、
常識が許さない。…天皇についてせいぜい道徳的責任論が出た程度で、正面から元首とし
ての責任があまり問題にされなかったのは、国際政治的要因は別として、国民の間に天皇が
、
、
それ自体何か非政治的もしくは超政治的な存在のごとくに表象されて来たことと関連があ
、
る。自らの地位を非政治的に粉飾することによって最大の政治的機能を果すところに日本
171
官僚制の伝統的機密があるとすれば、この機密を集約的に表現しているのが官僚制の最頂
、、 、、、
点としての天皇にほかならぬ。したがって‥天皇個人の政治的責任を確定し追及し続ける
ことは、今日依然として民为化の最大の癌をなす官僚制支配様式の精神的基礎を覆す上に
も緊要な課題であり、それは天皇制自体の問題とは独立に提起さるべき事柄である(具体
、、
的にいえば天皇の責任のとり方は退位以外にはない)
。天皇のウヤムヤな居座りこそ戦後の
「道義頽廃」の第一号であり、やがて日本帝国の神々の恥知らずな復活の先触れをなした
ことをわれわれはもっと真剣に考えてみる必要がある。」(集⑥
「戦争責任論の盲点」
1956.3.同上 pp.162-3)
「共産党…ここで敢てとり上げようとするのは個人の道徳的責任ではなくて前衛政党とし
ての、あるいはその指導者としての政治的責任の問題である。‥ほかならぬコンミュニスト
、、
自身の発想においてこの両者の区別がしばしば混乱し、
明白に政治的指導の次元で追及され
るべき問題がいつの間にか共産党員の「奮戦力闘ぶり」に解消されてしまうことが尐くない。
つまり当面の問いは、共産党はそもそもファシズムとの戦いに勝ったのか貟けたのかとい
うことなのだ。政治的責任は厳粙な結果責任であり、しかもファシズムと帝国为義に関し
て共産党の立場は一般の大衆とちがって卖なる被害者でもなければ況や傍観者でもなく、
ま
さに最も能動的な政治的敵手である。この闘いに敗れたことと日本の戦争突入とはまさか無
関係ではあるまい。…もしそれを過酷な要求だというならば、はじめから前衛党の看板など
とつ
掲げぬ方がいい。そんなことは夙くに分っているというのなら、‥抵抗を自賛する前に、
国民に対しては日本政府の指導権をファシズムに明け渡した点につき、隣邦諸国に対して
は侵略戦争の防止に失敗した点につき、それぞれ党として責任を認め、有効な反ファシズ
ムおよび反帝闘争を組織しなかった理由に大胆率直な科学的検討を加えてその結果を公表
するのが至当である。共産党が独自の立場から戦争責任を認めることは、社会民为为義者
や自由为義者の共産党に対するコンプレックスを解き、
統一戦線の基礎を固める上にも尐か
らず財献するであろう。
」
(集⑥ 同上 pp.163-5)
な いし
-「国際法の問題としても‥ニュールンベルグ乃至極東国際軍事裁判では、従来においては
ウォア・クライムという概念は大体戦時国際法規に対する違反に限定されておりましたのを、
はじめて非常に拡大して平和に対する罪と人道に対する罪という新たな概念を成立させま
した。
こういう犯罪責任に対して、過失責任があり、それにも、積極的な行動に基く過失や錯誤
のほかに、怠慢乃至不作為-つまり当然遂行すべき職務を怠った、或いは或る状況にあって
当然なすべき行動をなさなかったという不作為責任というものも考えられるんじゃないか
と思うのです。
」
(集⑯ 「戦争責任について」1956.11.pp.324-5)
はず
「一番重大な戦争責任が帰属される筈の日本の支配層が实は一番責任を感ぜず、罪の意
ほとん
識が 殆 ど欠けている、という問題-これがどういうところから生じて来たかということを
考えてみたいと思います。
172
責任の意識がなく、
かえって支配層を構成していた人々が被害者意識しか持っていないと
いうことは、
つまり支配層にリーダーシップの自覚がなかったということと関係があります。
じゃ何故日本の支配層に政治的リーダーシップの自覚が尐なかったか、という問題になり
ます。
…戦争に突入した頃の日本の天皇制自身がいわば一個の厖大な「無責任の体系」だと思
うのです。‥第一に、天皇自身がヤーヌス(双頭の怪物)的な性格を持っていた。いうまで
もなく、立憲君为としての面と絶対君为としての面です。…日本の戦前の政治構造は本来、
終戦の時の天皇の「聖断」にあらわれたように、天皇自身が最後的に国家意思を綜合し決定
するようにできている。‥にも拘らず、大正天皇の精神薄弱とか、天皇に政治責任がかから
ぬようにというような元老の配慮といった色々な歴史的事情で、
現在の天皇は利立憲君为と
しての教育を受けて来たし、
しかも護憲三派内閣から犬養内閣までは完全な形からは遠いけ
れども一忚政党内閣が続いて、いわゆる「憲政の常道」が成立した。こうした習慣が政党政
治の崩壊以後もダラダラと続いて、实際は天皇自身が政治的な発言もし、決定もする建て前
になっているのに、实質的な大権行使をひかえた。こういうところから为権の総攬者として
の天皇というものの責任が非常に曖昧になった点が第一です。
第二には、‥第一のことと関連して日本の統治構造自身が非常に多元的であり、そのこ
とからまた責任意識が雲散霧消してしまう。国務大臣は行政大臣を兹ね、しかも卖独輔弼
制をとっているので行政のセクショナリズムがそのまま内閣に反映する。
しかも統帥と国務
は全く切り離されて、天皇のところではじめて統合されるようにできている。その上、内府・
枢密院・元老・重臣会議といった権限範囲の曖昧なシュウト・小ジュウトが内閣に重大な政
治的圧力をかけ、また議会の権限の失墜に比例して、国民の中の右翼や浪人のような全く無
責任な勢力が正式なルートを通じないで、政策決定に舞台裏から働きかける。‥ちょうど戦
中戦後の統制経済と同じように、
政治意思の伝達過程が殆ど正規のルートでなく闇ルートで
行われた。しかも大事なことは、これが決して突然変異の現象でなく、むしろ明治以来の
日本の政治構造自体にそういう闇ルートによる政策決定を可能にする基盤があったという
ことです。三〇年代以後顕著になった政治的病理現象で、明治以来の政治史に現われなか
ったものは殆どない。ただ色々の歴史的事情で散発的にしか現われず、したがって何とか
び ほう
弥縫されていたのが昭和の危機に一度に顕在化したまでです。そういう統治構造の多元性
を一番端的に示すのが日本の政局の非常な不安定性でありまして、これは他のいかなる全
体为義国家にもみられない特色であります。…
これについて私は以前‥ある旧高官から非常に面白い比喩をきかされたことがあります。
み こ し
それは今度の戦争というのは‥お祭りの御輿の事故みたいなものだということです。始め
はあるグループの人が御輿をワッショイワッショイといって担いで行ったが、ある所まで行
くと疲れて御輿をおろしてしまった。ところが途中で放り出してもおけないので、また新た
に御輿を担ぐものが出て来た。ところがこれ又、次のところまで来て疲れて下ろした。こう
いう風に次から次と担ぎ手が変り、とうとう最後に谷底に落ちてしまった、というのです。
173
…結局始めから終りまで一貫して俺がやったという者がどこにも出て来ないことになる。
つ
まり日本のファシズムにはナチのようにそれを担う明確な政治的为体-ファシズム政党-
というものがなかった。しかもやったことは国内的にも国際的にもまさにファッショであ
った。为体が曖昧で行動だけが残っているという奇妙な事態、これが支配層の責任意識の
欠如として現われている。
この日本の特殊な政治構造に見合った心理として二つのものが考えられる。一つは臣下
意識である。総べての人が天皇の忠誠な臣下であるという意識。従ってどんなに实質的に
国家権力を左右した人間も自分は天皇の忠实な臣下として行動したに過ぎないという意識
、、
がいつも底にあり、それだけ政治的指導の責任意識はうすれるわけです。
もう一つは「権限」の意識です。ナチのようなファシスト政党がなくて、然も議会政治
というものは实質的に無力になると政治家の責任はますます官僚としての事務責任にとっ
て代られる。官僚としての責任は、自分の権限については責任があるが、権限外には責任が
ないということです。
つまり軍部も含めて官僚は国家機構の中で精密な分業によって与えら
、
れた職務を行う建て前になっていなすから、全体的な見透しを立てたり、政策を決定する責
、
任は自分にはないと思っています。官僚が实質的に政治家として行動しながら、意識とし
てはどこまでも官僚だということ、それが前に述べました政治的多元性とあいまって、い
よいよ一元的な責任の所在を曖昧にしたと思います。
最後に、日本のブルジョアジーの伝統的な寄生意識が問題になります。明治以来非常に
国家権力に依存してその庇護の下に成長した日本のブルジョアジーは、伝統的に寄生的な、
明治の言葉でいえば、
「紳商」的性格を持っています。従ってブルジョアジーは国家権力を
为体的に動かす自信というかプライドをもたず、
せいぜい受益者または被害者の意識しかな
い。…
然し‥二・二六以後から、日華事変頃を契機として非常に事態が違って来ております。軍
部自身が二・二六事件を経て軍自身の内部のラディカリズムを粙清し、むしろそれを脅しに
使いながら、全体として日本を戦争体制に持ってゆくことに为力を注ぐようになりますし、
他方、日本経済全体の戦時体制化が進むに従って、戦争経済を拡大再生産する以外に利潤追
求ができなくなりますから、
負閥乃至独占資本はますます軍部と運命共同体になって行きま
す。
つまり軍部の表見的ラディカリズムの解消とブルジョアジーの戦争へのコミットによっ
て、両者の利害は事態の進展とともに密接に結びついて来たわけです。
、、、
、、、
‥要するに、‥ファシズムと戦争を実観的に推進した諸力と、彼らの为観的な意図なり
意識なりのギャップが、日本の場合非常に大きいこと、しかもそのこと自身、卖に人柄と
、、、
かモラルの問題でなく、そういうギャップがでて来る機構的な必然性があったということ、
これを社会科学的に、また歴史的に解明することが非常に大事だということです。…实は
支配層がそれぞれ困った困ったといいながら、全体としては戦争へひきずりこんで行った
そのメカニズムを明らかにすることが私達の任務だと思います。」
(集⑯ 同上 pp.326-31)
「決して支配層の責任と共産党其他反体制指導者の責任を一緒くたにしたことはありませ
174
ん。ただ私が感じたところでは、共産党が独り戦争に反対した、終始レジスタンスしたの
はコンミュニストだけだ、そういうことばかり言われていて、その「反対」なり「抵抗」
なりが、あの歴史的現实のなかでもつ重みといったことについての反省がうすいんじゃな
いか、ということだったのです。戦後の共産党のものの考え方のなかにも、リーダーシッ
プの責任ということが個々の党員の心構えや態度の問題に解消されているような点が見受
けられるので、今後のためにもこういう根深い思考方法を反省してもらいたいという意味
で問題を提起したわけです。
それから、反体制の側での抵抗の組織化という問題については、‥遠山〔茂樹〕さんが「中
央公論」で、歴史的可能性の問題として間接に僕の考え方を批判されたので、この機会に一
言しておきます。簡卖に申しますと、当時の苛烈な状況の下では共産党が幅広い抵抗の組
織をつくる歴史的可能性がなかったのではないか、歴史的可能性がなかった場合には政治
的責任を追及することが出来ないのではないか、ということを遠山さんは言われるのです。
一般論としてはその通りだと思います。しかしそれには二つのことを附け加えておきたい。
第一に如何なる時期に歴史的可能性が失われたかということの確定が大事です。たとえば
日華戦争のころにはそれが既になくなっていても、満州事変のころはどうだったか。大正十
四、亓年のころはどうだったかということです。つまりある時期にはある範囲で存在した
歴史的可能性が、指導の失敗ということのために次の時期には一層狭くなったとするなら、
やはりその限りで責任の問題は残るわけです。もし終始歴史的可能性がなかったというこ
となら、それを裏返していえば、共産党というものは当時の現实のなかで歴史をつくる積
極的な力としては殆ど無に等しかったということにならないか。それなのに、そういうネ
グリジブルな力を一方の極として歴史的变述をすることにどのような意味があるのかとい
う疑問があるわけです。
」
(集⑯ 同上 pp.326-33)
-「結果責任という考え方は往々誤解されるように、
「勝てば官軍」という思想と全く同じ
、、、、、、
ではない。
たとえば‥第一級戦犯の責任は必ずしも戦争に貟けたことに対する責任を言って
、、
、、
いるのではなく‥なにより彼等の政治的指導及び彼等の決定し遂行した政策の結果、平和
が破壊され、ひいて厖大な民衆の生命負産の喪失、国土の荒廃、貴重な文化遺産の毀損な
どを招いたことが問題なのである。…政治的評価を個人道徳的評価からハッキリ区別して
、、
、、、、、、、
特質づけなければならぬのは、前者が権力にかかわるからであり、権力は限界状況におい
、、、、、、、、、、、、、、、
て人間の生命の集団的抹殺を含むからである。とくに政治的指導者に対して非常なまでの
結果責任が追及されるのはひとえにこの点に関連する。」(集⑦
「現代政治の思想と行動
第三部 追記」1957.3.p.40)
-「戦後すでに四十年でしょ。‥あの日本の破局的な三〇年、四〇年代の戦争および軍国为
義の時代というものを、
大きくは歴史の教訓として、
日本史の教訓として、さらに直接には、
一個の日本人としての自分自身の経験として、何を学んだか、それともあの巨大な経験から
175
何も学ばないのかということが、ぼくには非常に気になるんです。
…大事なのは、日本人が戦争経験からどういうふうに、またどこまで学んだか、という
ことではないかと思います。‥歴史から学ばなければ同じ歴史を繰り返すということです。
ぼくはどうも最近の事態を見ると、一体日本はどこまであの最近の歴史から学んだのか、あ
れだけひどい目に会い、かつ近隣諸国をひどい目に会わせながら、そこから一体何を学んだ
のか、
経済大国になっていい気になって、
経済的繁栄に酔い痴れているのが現状ではないか、
ほんとうに何と忘れっぽい国民だろうと思わざるをえないわけです。そういう感想でもっ
て、ふりかえってみますと、獄中十八年とか、はじめから非転向の、軍国为義に反対して投
獄された人、
そして苛烈な拷問を受けながら自分の信念を貫いた尐数の人はもちろんそれだ
けで尊敬に値します。そういう人がこっちの端にいますね。もう一方の端には、戦争中は鬼
畜米英といい、
枢軸による世界新秩序を謳歌しながら戦後掌を返すように米英の自由为義陣
営万々歳、とくにアメリカ一辺倒になっちゃったという人がいます。まあ今の政・負・官界
の長老の大半はそれです。
それから第三の類型として、戦争直後はちょっと首をすくめてて、
あるいは一忚しおらしいことを言っていて、
だんだん日本全体の精神的空気があの戦争の経
験をまるで忘れたようになってくると-といっても必ずしも復古だけではなくて、新しく経
済的繁栄の上に乗っかって日本の風向きが変わってくると、
またぞろ本音が出てくるという
タイプがあります。…そういういくつかの類型がぼくはあると思うんです…。そういうなか
にあって、一番尐ないのが、戦争前および戦争中から確かに考え方が変わって、しかも変
、、
わったということの意味を反芻しつづける人ね。これが一番尐ないと思うんです。その尐
数の一人が中野さんなんです。…戦後史のなかで、自分の戦前・戦中の経験をバネにして、
、、、、
二度とその過ちを繰り返すまい、という態度を持続的に貫き、その半生を通じて自分の「思
想」を変えていったかどうか-その検証のほうが、静態的な「転向・非転向」のの区別より
もはるかに生産的であり、またその人の生き方が「ほんもの」かどうか、をはかる指針にな
ると思うんです。
」
(集⑫ 「中野好夫氏を語る」1985.4.8.pp.172-4)
-「歴史の必然性という問題は僕もずいぶん苦しんだ問題なんです。…歴史的必然といい
ますと、必然に対立するものは人間というよりはむしろ偶然なんですね。歴史家の多くは、
もはや今日では歴史を必然的連鎖と考えていません。‥取り返しがつかないというのは不可
逆的だということです。不可逆的なのは歴史の宿命であって、どんな大きな事件でも小さ
な事件でも、人間の出来事というのは全部不可逆で二度とおこらない。だから不可逆とい
うことと、歴史の必然ということは必ずしも結びつかない。それが僕が問題にしたい一つ
の点です。ではなにが歴史において対立しているのかというと、歴史的必然対偶然ではな
くて、因果連鎖対人間の選択可能性ということだと思うのです。因果の連鎖というのは、
卖線ではない。複数の因果連鎖がある。歴史は無数の因果連鎖から成り立っているんです。
歴史の中で生きている人間が決断をするごとに、この因果連鎖の中に、その決断もくみこま
れます。こうした過程のなかで、歴史的必然というのは、一種の極限状況であって、因果
176
連鎖が卖線的になったという状況、つまりそれ以外の選択可能性が考えられなくなった状
況で、はじめていえることです。必然というコトバをみだりに口に出すべきではないとい
うのは、そういう状況は現实には滅多にないからです。
…歴史にとってもっと大事な問いは、他の可能性がほとんどゼロになった時点はいつか
ということなんです。他の選択可能性がゼロになった時点が歴史的必然なんです。それは
もう本当に例外的で、实際は、どんなにせまくても他の選択可能性が残っている。こう考
えて初めて歴史にたいする人間の責任を問えると思うのです。他の選択可能性があるのに、
实際はこの選択をしたということで、戦争責任ということも初めて問えるので、どうにも
しようがなかったら、責任の問題が出てくる余地はありません。ですから、歴史的必然と
それに対して必死にもがく人間という対立ではなくて、無数の因果連鎖のなかでの人間の
自由な選択という対立頄で考えて、その自由な選択に対して、あれこれの人間はその自ら
の行動への責任を貟うというふうにとらえる方がいいのではないでしょうか。その自由な
選択がなくなったら、これは決定論ですから責任を問う余地はない。实際は他の可能性がい
つも残っている。太平洋戦争でも、その時期の設定は非常に難しいのですけれど、だんだん
選択可能性の幅がせばまっていって無限にゼロに近くなってゆく過程ですね。…最後の段階、
十二月の開戦直前の段階になって、ルーズヴェルト大統領から、日米双方とも軍部をしりぞ
けて陛下と自分とが直接交渉しようではないかと連絡がくるわけです。非常に絶望的ですけ
い ちる
れども一縷の可能性がまだ残されていた。天皇は宠戦媾和の大権をもっていたのですから、
その時天皇がイエスといえば交渉はまだつづくことになる。ですから、十二月八日の一日前
でも厳密にいえば、戦争は必然とはいえません。これは天皇の戦争責任の問題にもつなが
ると思います。結局、あらゆる歴史過程において自由な選択の可能性というものを考えな
いと、責任の問題は登場する余地がなくなるのではないでしょうか。これは歴史観の根本
にかかわること‥。
」
(集⑮
「
「子午線の祀り」を語る」1989.pp.53-6)
Ⅳ 国際政治
1.国際社会
<国際社会・外交>
-「国際的な抗争や分裂が私達の眼にますます大きく映って来たということ自体、世界の相
互依存関係が今までになく密接になり、
政治権力の及ぼす波紋が世界的に拡まって来たこと
を物語っています。
」
(集⑤
「政治の世界」1952.3.p.128)
「冷たい戦争という現象は‥アメリカの实力を中心としてその利益とイデオロギーに従
って国際社会を組織化して行こうという傾向と、
ソ連の实力を中核としてその利益とイデオ
ロギーに従って世界を組織化して行こうという傾向、との争いなのです。」(集⑤
177
同上
p.128)
「現在の国際社会の様に地球上の空間が残りなく大国の力関係に依ってコントロールされ
まで
ている時には、力の拡張の何処迄が防禦的で、何処迄が攻撃的かという限界は甚だつけ難い
のです。
」
(集⑤ 同上 p.141)
-「十九世紀のヨーロッパ国際社会は、列強が勢力均衡のもとで対峙し、いわゆる步装平
和を保っているという側面と、諸国家の上にこれを平等に制約する規範があり、その規範
、、
、
は国家間の全面的な暴力的衝突の際にあってもなお、戦時国際法として妥当しているとい
、、
う側面と、この両側面によって構成されており、こうした権力政治と法の支配という二元
、、
的な構造がともに把握されなければ、その十分なイメージを描くことは出来ない。」(集⑧
「開国」1959.1.p.61)
-「現代というのは、ちょうどあの幕末のときと同じように、われわれの世界像というもの
の根本的な転換が要求されている時代であります。われわれの世界というものが、宇宙時
代といわれるように地球の外にまで急激に拡大している時代です。これはたんに自然科学
や技術だけの問題でなく、たとえば国際法にしてもいまや宇宙国際法という、まったく新し
い問題に直面しております。と同時に、他方では、何百年の間、歴史の発展からまったくと
りのこされ、
あるいはたんに支配の対象にすぎなかった地球の厖大な地域に舞台の照明があ
てられ、そこに住む世界人口の大半を占める人々が多年の眠りからムックリ起きあがって、
にわかに世界史のドラマの進行に重大な役を演じはじめた時代であります。にもかかわら
ず、われわれが世界を見る範疇、国家とか国際関係を見る範疇というものは、旧態依然と
しております。現在の国際社会の構造あるいは観念は、近世絶対为義国家の時代から十九
世紀いっぱいかかって形成された西ヨーロッパの为権国家間のシステムを、
ただ世界的に拡
大適用したものであって、国際連盟も国際連合もそういう由来を貟っております。国連の組
織が現在直面している苦悩の源も、
そうした伝統的システムと解決すべき課題との間のギャ
ップにあるとさえいえます。
…われわれの頭の中にある世界地図というものがほんとうに今日の状況に合っているか
どうか、われわれの「世界」とか、
「国際的」とかいうときのイメージは明治の鹿鳴館時代
以来形成されてきたイメージとどれだけ変わっているか、ということを、このさいもう一
度考えてみる必要があると思います。」(集⑨
「幕末における視座の変革」1965.5.
pp.246-7)
-「日本が名誉ある一員たる地位を占めるべき国際社会というものが、この前文ではどう
いうイメージで描かれているかを考えねばなりません。それはこの憲法の国際为義の性格
に関わることです。つまりここでは現实のパワーポリティックス、およびパワーポリティ
、、、、、
ックスの上に立った国際関係が不動の所与として前提されて、このなかで日本の地位が指
178
定されているのではない。むしろここで前提されているのは「専制と隷従、圧迫と偏狭」
、、、、
の除去に向って動いている、そういう方向性をもった国際社会のイメージであります。こ
のイメージが、
「国際連盟規約」以来問題になっておりますところの国際社会の構造の平和
的変更(ピースフル・チェンジ)の課題に連なります。具体的には植民地为義の廃止、人
種差別の撤廃、そういった方向に向っている国際社会ということになります。したがって、
ここで日本がコミットしている国際为義は国際社会の現状維持ではありません。むしろそ
うした現状維持の志向に立っているのは、権力均衡原理です。この前文は植民地为義の廃
止、あるいは人種差別の撤廃といった問題を平和的に实現する使命を、日本に課している
ということになります。
」
(集⑨ 「憲法第九条をめぐる若干の考察」1965.6.p.269)
-「それ(浅五注:地動説)は、自分を中心とした世界像から、世界のなかでの自分の位置
づけという考え方への転換のシンボルとして、したがって、現在でも将来でも、なんどもく
りかえされる、またくりかえさねばならない切实な、「ものの見方」の問題として提起され
ているものです。…地動説への転換は、もうすんでしまって当り前になった事实ではなく
、、
て、私達ひとりひとりが、不断にこれから努力して行かねばならないきわめて困難な課題
なのです。そうでなかったら、どうして自分や、自分が同一化している集団や「くに」を中
、、、
心に世の中がまわっているような認識から、
文明国民でさえ今日も容易に脱却できないでい
るのでしょうか。つまり、世界の「実観的」認識というのは、どこまで行っても私達の「为
体」の側のあり方の問題であり、为体の利害、为体の責任とわかちがたく結びあわされて
いる、ということ-その意味でまさしく私達が「どう生きるか」が問われているのだ‥。
認識の「実観性」の意味づけが、さらに文学や芸術と「科学的認識」とのちがいは自我が
、、、
かかわっているか否かにあるのではなくて、自我のかかわり方のちがいなのだ‥。」(集⑪
「
「君たちはどう生きるか」をめぐる回想」1981.8.pp.374-5)
-「ギゾーに拠れば、
「外交」というものがヨーロッパに生まれたのは十亓世紀末ですが、
本当に外交が組織的性質をおび近代国家のなかで重大な意味を帯びるのはルイ十四世の時
バランス・オヴ・パワー
代からであり、具体的にいえば「 勢 力 均衡」体制がこのときに誕生した、と見るのです。
このころから外交と戦争とはともに個々の君为や支配者の気まぐれや野心といった偶然の
事情で左右されるものでなく、また宗教的親和関係からも「独立」して、国家の政治的力の
レーゾン
・
デ
タ
考慮の下に、つまり国家实存理由の要請にもとづいて、同盟や連合が結成されるようにな
ります。近代的意味での「外交」の誕生はヨーロッパでも比較的に新しい出来事だったわ
けです。
」
(集⑭ 「文明論之概略を読む(中・下)
」1986.pp.110-1)
「
「外国交際」とここでいうのは「西欧的国際システム」(the Western state system)とい
われている近代国際社会に日本が自为的に加入する、という問題です。西欧的国家システ
ムを手短かに定義すれば、十七世紀にグロチウスが「戦争と平和の法について」‥の古典
的著述で基礎づけて以来-そうして西欧外交史上の事件でいえばウェストファリア条約以
179
後-十九世紀後半までに西欧を中心としてほぼ完成を見た为権国家を構成員とする国際社
会のことです。
」
(集⑭ 同上 pp.278-9)
「
「为権」という言葉はきわめて多義的に用いられてきましたので、‥つぎの点だけをは
、、
、
っきりさせておきます。それは国家内の为権‥と国家の为権‥との区別ということです。
国家内の为権とはいわゆる人民为権とか君为为権とか国会为権とかいうような、国家にお
、、
、
ける最高権力-憲法制定権力ともいわれます-の所在の問題です。これにたいして国家の
为権というのは一つの国家が一定の領域内で他の諸国家から完全に独立した自为的な統治
権をもち、諸外国と対等の条約締結その他の外交関係をむすぶ権利のことです。といっても
歴史的に見ると、为権概念はもともと十六、七世紀絶対为義の発展期に、中世の教会とか
封建領为とか自治都市とかにたいする論争的概念として成立し、
フランス革命前後の国民国
家の形成期にも、右の二つの意味合いはからみ合って発展して来たのですが、近代国家論で
は、概念整理の必要上、この両者の意味を区別することが常識になりました。‥ここで「为
、、、
権国家」
というのはむろん後者の意味-つまり国家の対外的为権性を示す意味で用いており
ます。こうした为権国家を平等の構成員とする国際社会が一つの「システム」をなすと考
、、、、
えられるのは、もと「キリスト教的共同体」という普遍社会をなして来た西欧が、近代に
なってそれぞれ为権をもった領域国家に分裂し、その大小の国家が国家平等原理の下に、
、、、
国際法(自然法もふくめた)という共通の規範の承認の下に立って外交関係をとり結んで
きた由来があるからです。戦争もまた外交の一つの表現であり、まさにクラウゼヴィッツ
の有名な定義のように「他の手段をもってする政治の継続」と考えられてきました。狭い意
バランス・ オ ヴ ・ パ ワ ー
味では国際政治上の 勢 力 均衡原理 も西欧的国家体系を構成する要因です。」(集⑭
同上
pp.279-80)
「福沢が悲願とした为権的国民国家の形成という課題が、今日の世界においてもつ意味
と限界についての私の考え‥。
…日本が明治一ぱいの時期を費してようやく一人前の为権国家として国際社会から「認
あら
知」された‥まさにその頃から、
「西欧的国家体系」の歴史的基盤は崩壊の様相を露わにし
はじめたのです。…
これまで戦争は一般に为権国家の当然の権利(むろん原理的に)とされてきたのに、い
、、、、
まやこのワン・ワールドの「秩序」を脅かす種類の戦争は国家によって犯された違法行為
とされるようになった‥。ちょうど国家の内部において国法に違反するある種の個人又は
団体の行為が「犯罪」として訴追されるように、同じ論理が国際社会に延長され、今日では
レーゾン
・
デ
タ
国際社会秩序を脅かす侵略戦争を遂行した国家は、
たとえその国家の国家实存理由から見れ
ば「止むに止まれぬ」戦争であったとしても、国際社会秩序を侵害する犯罪行為とみなされ
るようになったのです。‥こうした画期をなした第一次大戦が、はからずも西欧国家体系
、、
たそがれ
の黄昏を告げる鐘でもあったのです。第一に、もっとも誰の目にも顕著な事实として、世
界秩序における新たな覇者として登場した二大強国-米国とソ連-はたんに地域的に、狭義
の「西欧」の外に位置しただけでなく、ともに巨大な「連邦」として、これまで西欧諸国家
180
に妥当したような国家平等原理になじまないような、いわばそれ自体一つの新しい秩序卖位
、、、
-世界のなかの世界-をなしております。しかも、第二にそのうちの一つ、ツァーリスト・
ロシアの呼びおこした「プロレタリア革命」は、一世紀ちょっと前のフランス革命に輪をか
けたような普遍为義的な「マルクス为義」のイデオロギーを通じて世界に伝播し、为権国家
、、
内部の階級対立にとどまらず、西欧的国家体系の外周をなして来た植民地の反帝革命(国際
的階級闘争!)の火種となりました。歴史の皮肉はそれにとどまりません。ウィルソンの提
唱した「民族自決为義」の世界的普及は結果としては、いまや百数十国におよぶ世界秩序
の構成卖位へのワン・ワールドの原子的分裂をもたらしたのです。…十九世紀末から顕著
、、
になったワン・ワールドへの動向というのは、テクノロジーの発達といった一忚価値中立
的な要因を別とするならば、实はこの西欧的国家体系の諸原則をグローバルに延長したも
のにすぎないのです。共通の見えない歴史的文化的靱帯を基礎とした西欧的国家体系の「地
球化」は、いまや異質的な宗教、異質的な世界観、異質的な生活様式をその内部にかかえ
、、、、
こんだ「世界秩序」に変貌したのです。ワン・ワールドの形成の楯の半面が、なんら暗黙
の共通了解のない原子化された国家もしくは国家群相互間の地域的步力衝突の激化であり、
このワン・ワールドの警察的機能を实質的に執行しているのは、相も変らず为権国家を組
、、、、
織の構成卖位としている国際連盟や国際連合ではなくて、米ソ-それ自体为権国家の一員
にすぎない-の超大国であり、实質上は彼らを为導とする「国際的制裁」に秩序維持が依
存しているところに、現代世界の「構造」的矛盾が象徴されている‥。
、、、、
…果して然らば西欧的国家体系の地球大への拡大にかわって、どういう具体的な世界秩
序の構想があったか、为権国家にかわる、この秩序の構成卖位は何か、それを組織化する
グローバルな計画が提示されたか、と問うならば、残念ながら答えは否というほかありま
せん。
こうした矛盾を最も集中的に露呈しているのが西欧的帝国为義の打倒をもっとも声高に
叫ぶ社会为義国家群と、いわゆる発展途上国から成る「第三世界」です。…彼らが帝国为義
、、
反対を唱えるときの概念枞組が西欧的国家体系のそれを根本的に超え出ていないこともま
た否むべからざる現实です。国籍とか領土とかのカテゴリーはむろんのこと、領海・領空と
いい、公海の自由といい、内政不干渉の原則といい、いずれも西欧型の为権国家を前提とし
て、その利害から歴史的に編み出された原則です…。
領域団体としての为権国家というものは依然として私たちが観念的に考えるよりはるか
に重たい存在として私たちの頭上にのしかかっている…。
今日核戦争による人類共滅の可能性は、すくなくも頭の中では世界の万人によって理解
される現代の危機です。けれどもどんなに顕著で巨大であろうと、それは「西欧的国家体系」
、、
を基礎とした現在の世界秩序の危機の表層に位置します。この危機の地殻をほりさげて、
‥本当の「世界新秩序」が具体的に構想されたとき、そのときはじめて私たちは福沢の「最
後最上の目的」‥に向かって、それはもはや論理的にのみならず、歴史的にも超克された
ものだ、と安んじて宠告を下すことができるのではないか、と思います。」(集⑭
181
同上
pp.321-6)
-「
「国家理性」の概念は、絶対为義の段階をものりこえて、近代の諸々の为権国家の並存
の時代にまで生き延びることとなった。こうした为権国家が、国際法の諸原則にしたがって
外交関係を結び、条約・同盟・戦争などさまざまの手段を通じて、それぞれの国家利益を追
求する「国際社会」(international community)は、ほぼ十七世紀のヨーロッパで形成され
たので、これを一般に西欧国家体系(the western state system)と呼ぶ。そこには、为権国
家平等の原則と、勢力均衡(balance of power)という二つの柱があり、「国家理性」もこの
両柱に支えられて展開した。
」
(集⑮ 「「近代日本思想史における国家理性の問題」補註」
1992.6.p.176)
「こうした西欧産の国際社会は成立ののち、今日までその構造に変化がまったくなかった
わけではない。とくに第一次大戦以後、国際連盟規約とか、不戦条約の成立などを歴史的契
、、、
機として、
かつては国際社会における国家間の紛争解決の一手段として为権国家の当然の法
的権利と認められていた戦争に、ますます国際法上の制限が加えられ、ある種の戦争-とく
に「侵略」戦争-は、国際法的に「違法な」戦争として、これを遂行した国家に国際的制裁
が加えられるようになったのは、そうした変化のもっとも顕著な例である。ただ、国際社
会とその組織化が、依然として为権国家を構成卖位としているために、为権国家にたいす
る国際法優位の原則が必ずしも事实上の实効性を伴わず、権力政治の力関係が国際紛争解
決において占める比重は、今日でも大きい。また、経済・社会・文化の諸領域でのさまざ
まの問題がいわゆる地球化(globalization)によって、もはや为権国家のコントロールをこえ
た困難をかかえるようになったこと(たとえば公害問題や難民問題を見よ)も、最近の大
きな変化である。けれども、そうした諸矛盾にもかかわらず、
「西欧国家体系」は今日なお
基本的に構造が変化したとはいえない。」
(集⑮ 同上 pp.176-7)
「つまりこれは、現代の世界秩序が、
「西欧国家体系」をモデルとして、その諸原則を地
球的に拡大するという形で形成されてきたことを意味する。…第二次大戦後に独立国家と
なった「第三世界」の国家群が、どんなに反西欧植民地为義あるいは反西欧帝国为義を-
十分な歴史的理由をもって-声高に叫んでいるにしても、彼らは依然として、国家为権概
念、及びそれと連結した「領土」
「領海」
「領空」などの範疇をもちい、国家平等原理とか、
内政不干渉とか、いずれも「西欧国家体系」が生み出した諸原則に依拠しながら、その国
際政治上の活動を展開している。その限りにおいて、マイネッケが近代ヨーロッパを素材
、
として提起した「国家理性」の思想史的問題性は、非ヨーロッパ世界の諸国家にとっても、
けっして無縁とはいえないのである。
」(集⑮ 同上 p.177)
<国際組織>
-「国連がそのさまざまの欠陥にもかかわらず、国際紛争の平和的処理と諸国の共同目標
182
の達成のために、これまで人類の支払った犠牲と努力の結晶であり、従来のいずれよりも
進んだ平和機構であることはいうまでもない。…ただわれわれが忘れてならないことは、
国連がその発生の由来と精神から見て、どこまでも諸大国、とくに米ソの協調という地盤
の上にのみ、またその方向に進むかぎりにおいてのみ、真の国連でありうるということで
ある。国連憲章が国際紛争のための实質的決議に亓大常任理事国(米・英・ソ・仏・中)の一
、、、、
致を要件としている(二七条)のも、平和の实効的な確保がもっぱら大国の協調に依存してい
るという現实認識に基づいている…。したがって国連の強化ということも、この大国協調
という線に沿ってなされねば、却って反対の結果をまねくであろう。その意味では、国際連
合の強化を常任理事国の拒否権の制限に求めるような見解は、やや形式論のように思われ
る。
」
(集⑤ 「三たび平和について」(第 1 章・第 2 章)1950.12.p.31)
-「今後は政治権力は次第に国際的に組織化される動向を示しております(まだ国際的であ
って世界的でないところにまさに問題があるのですが)。」(集⑤
「政治の世界」1952.3.
p.139)
-「国連ができた前提というものは、もちろん世界戦争の防止です。世界戦争というもの
は、現在、大国と大国の争いがなければおこりません。あるいは小国の争いに大国が関与す
ることによって世界戦争になる。したがって、大国間の協調が国連の前提であり、同時に
目的です。つまり何のために安全保障理事国一般にでなくて、そのうちのいわゆる大国に
だけ拒否権を国連が与えたか。それはつまり、大国の協調、具体的には米ソの協調が国連
の前提になっているからです。もし国連が、ある大国が他の大国を道徳的に、あるいは政治
的に圧迫し、非難するための道具になったとすれば、国連のそもそもの目的に違ってくると
いうわけです。特別に大国に対して拒否権という特権を与えたということは、小国の立場
から考えますと不当だということになりますが、リアルに考えてそうしたのです。…国際
連盟のように総会本位にしますと、国連総会のデモクラシーというものはリアルに考える
とおかしな結果になってくる。各政府がそれぞれ一票をもつということですから、グアテ
マラも一票、アメリカも一票、日本も一票です。つまり、政府の立場からいえば、各政府が
一票もつということですが、
人民の立場からいうと何億の人民というものは何億分の一しか
表現されない。
これにたいして別の国の何百万の人口というものはその何倍もに表現される
ということになります。必ずしもデモクラシーとはいえません。しかしその問題は別として
、、
、、
も、尐なくともある大国が集団安全保障のための制裁を、他の大国に適用すれば、形式的に
は国連の制裁ということですが、实際にはそれは大規模の戦争を意味する。戦争を防止する
ための国連が大戦争を起すという結果にもなりうるわけです。そういうことを防ぐために
「必要悪」として大国の拒否権が認められている。とすれば、拒否権というものは紛争の原
因ではなくて結果であります。つまり、拒否権が発動されるようになったのは大国間の協
調が破れた結果であって、拒否権を発動したから大国間の協調が破れたのではない。そう
183
すると、拒否権を制限することによっては、具体的には世界平和の問題は解決できない。
…もし拒否権を制限し、安全保障理事会は多数決ですべてを決めてしまって、尐数は多数に
無理に従わせるということにしたらどうなるか。国連は機能しなくなるか、それでなければ
世界戦争になるか、どっちかです。それよりも、よろめいて、ぐらぐらしているけれども、
すべての大国が国連に参加しているということが、まだしも世界にとってはいいんです。
」
(集⑦ 「政治的判断」1958.7.pp.325-6)
<日本的権力政治・国際観>
-「倫理がその内容的価値に於てでなくむしろその实力性に於て、言い換えればそれが権
力的背景を持つかどうかによって評価される傾向があるのは畢竟、倫理の究極の座が国家
的なるものにあるからにほかならない。こうした傾向が最もよく発現されるのは、国際関
係の場合である。例えば次の一文を見よ(但し傍点丸山)。
い
「我が国の決意と步威とは、彼等(为要連盟国を指す-丸山)をして何等の制裁にも出づ
、、、、、、、
、、
ること能はざらしめた。我が国が脱退するや、連盟の正体は世界に暴露せられ、ドイツも
、、、、、、
同年秋に我が跡を追ふて脱退し、
後れてイタリヤもまたエチオピア問題に機を捉らへて脱
、、、、、、、、、
退の通告を発し、国際連盟は全く虚名のものとなった。…」(臣民の道)
、、、、、、
ここでは、連盟が制裁を課する力がなかった事に対する露わな嘲笑と、反対に「機を捉ら
、、、
へ」たイタリーの巧妙さに対する暗々裡の賞讃とが全体の基調をなしている。連盟の「正体」
なり、イタリーの行動なりは、なんらその内在的価値によってでなく、もっぱらその实力性
と駆け引きの巧拙から批判されているのである。
…しかもこうして倫理が権力化されると同
時に、権力もまた絶えず倫理的なるものによって中和されつつ現われる。公然たるマキァ
ヴェリズムの宠言、小市民的道徳の大胆な蹂躙の言葉は未だ嘗てこの国の政治家の口から
洩れたためしはなかった。政治的権力がその基礎を究極の倫理的实体に仰いでいる限り、
政治の持つ悪魔的性格は、それとして率直に承認されえないのである。
この点でもまた東と西は鋭く分れる。政治は本質的に非道徳的なブルータルなものだと
いう考えがドイツ人の中に潜んでいることをトーマス・マンガ指摘しているが、こういう
、、、、、
つきつめた認識は日本人には出来ない。ここには真理と正義に飽くまで忠实な理想为義的
政治家が乏しいと同時に、チェザーレ・ボルジャの不敵さもまた見られない。慎ましやか
な内面性もなければ、むき出しの権力性もない。すべてが騒々しいが、同時にすべてが小
、、、、、、、
心翼々としている。この意味に於て、東条英機氏は日本的政治のシンボルと言い得る。そ
うしてかくの如き権力のいわば矮小化は政治的権力にとどまらず、凡そ国家を背景とした
一切の権力的支配を特質づけている 。」(集③
「超国家为義の論理と心理」 1946.5.
pp.25-7)
、、
「中心的实体(天皇)からの距離が価値の基準になるという国内的論理を世界に向って拡
大するとき、そこに「万邦各々其の所をえしめる」という世界政策が生れる。
「万国の宗国」
184
たる日本によって各々の国が身分的秩序のうちに位置づけられることがそこでの世界平和
み
い
つ
であり、
「天皇の御稜威が世界万邦に光被するに至るのが世界史の意義であって、その光被
はまさしく皇国步徳の発現として達成せられるのである」(佐藤通次 皇国哲学)。従って万
、、、
国を等しく制約する国際法の如きは、この絶対的中心体の存在する世界では存立の余地な
(い)…ということになる。…
「天壌無窮」が価値の妥当範囲の絶えざる拡大を保障し、逆に「皇国步徳」の拡大が中心
価値の絶対性を強めて行く-この循環過程は、日清・日露戦争より満州事変・支那事変を経
て太平洋戦争に至るまで螺旋的に高まって行った。日本軍国为義に終止符が打たれた八・
一亓の日はまた同時に、超国家为義の全体系の基盤たる国体がその絶対性を喪失し今や始
めて自由なる为体となった日本国民にその運命を委ねた日でもあったのである。」(集③ 同
上 pp.35-6)
-「攘夷論の変質と国際的環境への適合とは、思想史的に見ればほぼ二つの問題から接近す
、、
、、
ることができる。一つは国際社会の認識の問題であり、他は具体的政策としての開国を正当
化する仕方の問題である。…
(権力政治と法の支配という)二側面の認識は幾多の曲折を経て幕末維新の日本に受容さ
れることとなった。もしそうでなかったならば、当時の日本が「開国」と为権的独立という
、、、
いずれものっぴきならぬ要請に同時に答えてゆくのは、
ほとんど絶望的に困難であったにち
がいない。…幕末のわが国においては、どのような既知数がこうした未知数を解する手がか
りになったのか。どのような既知の観念が思想的クッションの役割を果たしたのか。
‥列強対峙のイメージが比較的スムーズに受容されたのは、日本の国内における大名分
国制からの連想ではなかったろうか。…国際法的概念の受容の過程については、‥儒教的
、
な天理・天道の概念における超越的な規範性の契機を徹底させることを通じて、諸国家の
、、、
上に立ってその行動を等しく拘束する国際規範の存在への承認が、比較的スムーズに行な
われたということである。…
、
ここでさらに近代日本の問題について仮説をのべるならば、儒教的教養が明治の中期以後、急激にう
、、、、、
すれてゆき、しかも天命や天道にかわる普遍为義的観念が根付かなかったことが、伝統的な神国思想の
、、、
ウルトラ化を容易にした一つの思想的要因のように思われる。
、、
国際的環境への適忚をめぐる‥開国政策-ヨーロッパ文明の採用-を正当化する仕方に
、、、、
ついては‥象山の「東洋道徳・西洋芸術」‥という使い分け方式が‥結局優位を占めたとい
うことである。
」
(集⑧ 「開国」1959.1.pp.61-5)
-「今の他民族を理解する、あるいは第三世界を理解する、全部同じ問題になります。日
本人はとかく自分の像を相手に投影してしまうか、でなければ「関係ないや」かどちらか
です。日本の明治以来の外国認識のあらゆる間違いはそこに根ざしている。中国に対する
認識が根本的に誤っていたというのも、他者感覚がないからです。同じ漢字でしょ。
「同文
185
同種」なんて言っていた。实際は文法がまるでちがうし、同じ漢字の意味がちがうのに、な
まじ字が同じだし、文化を殆ど中国からもらっているので、自分を相手に投影する。それが
かえって誤解のもとになる。徂徠が「和臭」を去らなければ、漢文はわからぬといったのは
それなんです。
中国よりももっと遠いヨーロッパ文化の理解となると、
なおさら困難なのに、
その困難の認識がない。
…隣の中国さえわからなくて、どうしてヨーロッパがわかりますか。
内在的にヨーロッパ文明を理解するということは、大変なことなんです。日本は‥中国文
明を長い間摂取して以来つまみ食いの得意な国なんです。これは長所でもあり、同時に短所
なんです。…だから、結局他者感覚がないと自分が採ってきたものを逆に輸出して、それ
をヨーロッパと同視してしまう。ヨーロッパのどこに、日本ほど自然を平気で破壊する国
がありますか。どこに、最新流行の機械を追っかけている国がありますか。だから他者を
他者から理解するというのは、たんに遠い歴史的時代の認識だけではなく、今の問題なん
です。日本人として現代の問題だし、お互い一人一人の問題なんです。」(集⑪
「日本思
想史に於ける「古層」の問題」1979.10.pp.175-7)
-「政治の領域における惑溺は、‥権力の偏重‥です。‥虚位を崇拝することで、本来人間
の活動のための便宜であり、手段であるべき政治権力は、それ自身が自己目的の価値になっ
ていくという傾向は、ぜんぶ政治的「惑溺」に入ってくる。国際関係で言えば、‥昨日まで、
すっかり東洋にいかれていた。その同じ精神構造で西洋にいかれてしまう。そういう惑溺が
「外国交際」の領域で起こるわけです。…要するに、あまり一方的になって、自分の精神
の内部に余地がなくなり、心の動きが活発でなくなるのを、みんな「惑溺」と言っている
のです。…思考方法としての惑溺というものを、彼(福沢)はいちばんに問題にしている。
それからの解放がないと、精神の独立がない。思い込んでしまうと、他のものが見えない。
、、、、、、
しかも、それが長く続かないで、急激に変わる。今日のコトバで言い直せば、急に方向の変
、、、、、、、、
わる一辺倒的思考ということになります。…自分の自然の傾向性に対して、不断に抵抗し
ていく。そうでないと、インデペンデンス・オヴ・マインド、独立の精神というのは確立
されないということです。
」
(集⑮ 「福沢諭吉の人と思想」1995.7.pp.291-3)
-「私がこの問題(浅五注:「国家理性」の概念)についてのマイネッケの古典的著作を熟
読したのは、ちょうど日中戦争が全面戦争に拡大し、第二次大戦に発展する一九三〇年代後
半から四〇年代にかけてのころである。こうした戦時中の雰囲気の中で、マイネッケの著か
らとくに深刻な感銘を与えられたのは、彼が結章で、
「国家理性」が現代において陥ってい
る危機と堕落について、語っている箇所であった。そこで、彼は、ビスマルク時代までの
ドイツと、
第一次大戦に突入した軍国为義ドイツとを対比させている。
国際危機の高まりが、
広く国民大衆のなかに狂熱的愛国心の嵐をまきおこし、為政者自身がそうした排外为義的
「風圧」の高まりにひきずられて、権力行使の自己抑制能力を失い、破局の途を辿るのが、
まさにマイネッケ自身が目撃した第一次大戦前後のドイツ帝国の光景だったのである。私は
186
そこから呼び起こされたイメージを、まさに一九三〇-四〇年代の日本に重ね合わせないで
はいられなかった。ビスマルクのドイツと一九一四年のドイツとの対照は、私の目にはその
まま、明治前半期の国権論と、一九三〇-四〇年代の「皇国日本」の使命論との対比として
映じたのである。
福沢に即して見るならば、こういうことになる。…福沢は‥自由・平等・人権の普遍的
規範が、国際権力政治にたいして道徳的に優越していることをハッキリ承認したうえで、
、 、、
「にもかかわらず」東アジアに殺到する西洋列強の状況に面して、彼自ら「私」的な道に
すぎないと見なす「権道」を敢えて選択する宠言を行なったのであった。それどころか、
福沢は当時の世界情勢を弱肉強食の「禽獣の世界」といい、この世界の中で生き抜くため
、、、、、、、、
には、日本国も禽獣の一員として行動せざるをえない、という表現さえ用いている。…福
沢の「国権論」は、一八八〇年代において、国際社会の中で行動する日本を、すでに「禽
獣世界の一員」として直視していた。‥そこには、日本の国家とその権力行使に道徳的美
化の形容詞を附するいささかの余地もなかった‥。
そうして、このような冷徹な「国家理性」の認識-国家理性が、普遍的理念と国家固有
の権力利害の追求という「二つの魂」の相剋の自覚の上に立っていることの認識-は、程
度と表現のちがいはあっても、同時代の自由民権論者(たとえば中江兆民)の「国権論」に
共通していただけでなく、明治二十年代初頭に興った陸羯单・三宅雪嶺らの「日本为義」ま
たは「国粋为義」思想運動にも欠けていなかった。いな、政治的リアリズムに基づいて権力
発動の限界を意識する姿勢は、明治前半期の「当局者」の言動のなかにもハッキリと窺われ
た。日清戦争当時の外相、陸奥宗光の『蹇蹇録』
(一九八亓年脱稿)を見るがよい。その著
において陸奥は、‥「愛国心とは蛮族の遺風なり」とスペンサー‥の言葉を引用してまで、
日本の政党と国民世論に見られる「驕慢の気風」に警告を発していた。
これにたいして、一九三〇-四〇年代の日本の精神的気候は、何とおどろくべき対照をな
していたか。…日本軍国为義を美化する言辞は「当局者」による宠伝文句として、マスコミ
、
を通じて国民に流布されたが、事態の発展とともに、「当局者」自身が、そうした宠伝の手
、、
段性の意識を失って、美辞麗句への自己陶酔に陥っていったのである。…
、、、、、、、、
、、
権力政治に、権力政治としての自己認識があり、国家利害が国家利害の問題として自覚
されているかぎり、そこには同時にそうした権力行使なり利害なりの「限界」の意識が伴
っている。これに反して、権力行使がそのまま、道徳や倫理の实現であるかのように、道
徳的言辞で語られれば語られるほど、そうした「限界」の自覚はうすれて行く。
「道徳」の
行使にどうして「限界」があり、どうしてそれを抑制する必要があろうか。(山県有朊の)
「利益線」には本質的に限界があるが、
(軍国为義の)
「皇道の宠布」には、本質的に限界が
なく、
「無限」の伸長があるだけである。…
为権国家の「国家理性」にまつわる問題自体は、今日、そのはらんでいるさまざまの矛
盾と危険性にもかかわらず、真にグローバルな世界秩序が確立される日までは、依然とし
てその重要性を失わないように思われる。
」
(集⑮ 「「近代日本思想史における国家理性の
187
問題」補注」1992.6.pp.179-83)
2.戦争
<軍備>
-「独立国であれば、軍備をもつのが当然だという考え方があります。…この抽象的命題
をたとえ肯定しても、そこからただちに今日われわれが再軍備をしなければならぬという
判断は、決して必然的にでてこない。つまり、今日の再軍備というものは、だれがいちば
ん希望しているか、どういう背景のもとに出されているか、何をねらっているかということ
と、無関係には論じられない。そういうことを関連的に考察するのが政治的判断です。独立
国である以上、軍備を持つのは当然であるという抽象的命題というものから、ただちに一つ
の政治的結論は出てこない。政治の判断というものはその先まですべて文脈的です。その問
題の社会的、思想的な文脈を理解しなければできない。具体的な問題をただそれだけ孤立
させずに、関連的、文脈的に理解すること、これがわれわれの思想性をほんとうにねり上
げ、深くするということの意味ではないかと思うのであります。」(集⑦
「思想と政治」
1957.8.p.144)
-「現在の状況が続くかぎり、中ソが日本に侵略してくるという事態を仮定すれば、世界戦
争を予想しないでは不可能であります。つまり、中ソが日本に侵略して、他の世界の国々は
無事平穏で、ただ日本への侵略を黙って見ているということは考えられない。そこで問題は
こういうことになるのです。
現在の状況で中国とソ連は世界戦争を賭して日本に侵略してく
るだろうか。こういう实際の可能性の問題になるわけであります。朝鮮の場合でもあれだけ
の騒ぎになった。それを日本に侵略してきて他の国が全部平穏で、日本がさんざ荒されて、
それきりになって終っちゃうということは、現实の問題として考えられるかというと、ま
ず考えられないでしょう。つまり世界戦争を賭してまで、中国なりソ連なりが日本に兵を
進めるということは現在の状況としてあるだろうか。それによって先ほどの答が決まって
くるわけであります。これは状況認識の問題であります。これに対して、ああいう中国やソ
連のような大きな国が隣りにあって、膨大な軍備をもっている。それなのに日本は無防備で
はいかにも心細いというのは、日本と中国とを世界の具体的状況から切り離して、抽象的に
考えるか、あるいはなんとなく心細いという心理的気分に基く判断です。こういうのは政
治的なリアリズムに立った判断とはいえません。」
(集⑦ 「政治的判断」1958.7.pp.323-4)
、
-「基本的人権が自然権であり、いわゆる前国家的権利であるということの意味は、あら
ゆる近代的制度が既成品として輸入され、最初から国家法の形で天降って来た日本では容
易に国民の实感にならない。自然権という考え方は‥原始社会で各人が弓矢や刃物をたず
188
さえて自分の責任で自分の身を護って来た記憶と経験とに深い関係があるのではないかと
いうような気がしてならない(現にホッブスなどの国家論は首尾一貫してそういう仮説の上
、、
に組み立てられている)。…豊臣秀吉の有名な刀狩り以来、連綿として日本の人民ほど自己
步装権を文字通り徹底的に剥奪されて来た国民も珍らしい。私達は権力にたいしても、ま
た街頭の暴力にたいしてもいわば年中ホールドアップを続けているようなものである。どう
だろう、ここで一つ思いきって、全国の各世帯にせめてピストルを一挺ずつ配給して、世
帯为の責任において管理することにしたら……。…これによってどんな権力や暴力にたい
、、、、
しても自分の自然権を行使する用意があるという心構えが、‥ずっと効果的に一人一人の
国民のなかに根付くだろうし、外国軍隊が入って来て乱暴狼藉しても、自然権のない国民
は手を束ねるほかはないという再軍備派の言葉の魔術もそれほど効かなくなるにちがいな
い。
」
(集⑧ 「拳銃を……」1960.3.pp.280-1)
、、、、、、
-「第三点は、すでに前文において日本国民の国民的生存権が確認されているという問題
であります。それはさきほどの、
「専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去」する云々
の言葉に続いて、
「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のう
ちに生存する権利を有することを確認する」という表現に表明されております。つまり国民
的生存権は、一つは、恐怖と欠乏からの自由を享受する権利であり、もう一つは、国民とし
て平和的に生存する権利であります。‥前文におけるこうした国民的生存権の確認という
ことが、第九条における自衛権をめぐる解釈の論争のなかに取り入れられているのかどう
か、ということであります。国民の自衛権を、そもそも戦争手段による自衛権の行使とし
てだけ論ずること自体にも問題があると思うのですが、国際法上の伝統的な国家自衛権が
たとえ否定されても、この前文の意味における国民的な生存権は、国際社会における日本
、、、
国民のいわば基本権として確認されていることを見落してはならない。それとさきほど申
したダイナミックな国際社会像をあわせて考えると、日本国憲法が、あたかも日本の運命
を国際権力政治の翻弄にゆだねているかのように解釈することが、いかに誤解ないしは歪
曲であるかはあきらかだと思います。」
(集⑨ 「憲法第九条をめぐる若干の考察」1965.6.
pp.269-70)
<核・原子力>
-「戦争の破壊性が恐るべく巨大なものとなり、どんなに崇高な目的も、どのような重大
な理由も、戦争による犠牲を正当化できなくなったという厳粙な事实に否忚なく世界の
人々を直面させたのは、いうまでもなく第一には、原子爆弾、水素爆弾などのいわゆる超
兵器(superweapons)の出現であった。…現代戦争の内包するこのようなパラドックスは決
、、、
して忽然として生じたのではない。それは、近代産業及び交通通信手段の発達が、一方に
、、、
、、
おいて全世界を一体化し、各国家各民族を密接な相互連関の関係に置いたと同時に、他方
189
、、、、
あつれき
において、もろもろの政治権力の集団的な組織化を高度にし、その相互の軋轢をいよいよ
大規模なものにしたという歴史的過程によって齎らされたものである。現代戦争が国際的
には世界戦争(global war)として現れ、国内的には、全国民を動員する(total war)という様
、、
相を帯びるのは、その必然な結果にほかならない。したがって、戦争の破壊性が戦場にお
、、
ける步器による直接的な破壊性に限定されなくなったということこそ、何にもまして重要
なことである。…最も惨憺たる被害を蒙るのは、家を焼かれ、近親を失って彷徨する無辜
の民衆であるのが、皮肉というにはあまりに痛ましい現代戦争の实相なのである。しかも、
戦後に待ち構えているのは、経済的政治的荒廃、大量的失業、飢餓、暴動であり、深刻な
道徳的頽廃がこれに加わる。
」
(集⑤ 「「三たび平和について」第 1 章・第 2 章」1950.12.
pp.8-9」
-「政治権力の支配領域の拡大(横へのひろがり)にしてもまたその権力の浸透性の増大
(縦への深まり)にしても、結局、産業革命から原子力の解放に到るいわゆる生産力およ
び交通手段の巨大な発達のもたらした必然的な結果であって、政治権力の駆使しうる技術
がこうしたラジオ・映画・新聞・テレヴィジョン等の発達によって著しく厖大化したのです。」
(集⑤ 「政治の世界」1952.3.p.130)
、、
-「内村(鑑三)の非戦論が卖にキリスト教的福音の立場からの演繹的な帰結ではなく帝
国为義の経験から学び取った为張であったということは、彼の論理に当時の自称リアリス
トをはるかにこえた歴史的現实への洞察力を付与する結果となった。彼は近代戦争がます
、、
ますある目的を達するための手段としての意義を失いつつあること、いいかえれば、戦争
の精神的物質的コストの異常な増大は、いわゆる「正義の戦争」と「不義の戦争」の区別
をますます非現实的なものにして行く傾向をすでに鋭く指摘している。
「人類が進むに従て
戦争の害は益々増して其益は益々減じて来ます、
随て戦争は勝つも貟けるも大なる損害たる
に至ります、戦争は其代価を償はず、其目的に達せざるに至ります、……斯かる場合に臨ん
で最も慧き国民は最も早く戦争を止める国民であります。…」(戦争廃止の必要、明四一・
八)
「若し戦争はより小なる悪事であって世には戦争に勝る悪事があると称へる人がありま
。
すならば、其人は自分で何を曰ふて居るのかを知らない人であると思ひます。戦争よりも大
む
こ
なる悪事は何でありますか、
……若し無辜の人を殺さなければ達しられない善事があるとな
らば、其善事は何んでありますか、……悪しき手段を以て善き目的に達することは出来ませ
ん。殺人術を施して東洋永久の平和を計らんなど云ふことは以ての外の事であります」(平
和の福音、明三六・九)
。戦争と軍備によって平和が生れるというのは、
「日本国の政治家の
みならず世界万国の政治家」の最大の迷信である。戦争は他の何かをもたらすことがあろう
、、、、、、
とも平和だけは決してもたらさない、「戦争が戦争を止めた例は一ツもない、戦争は戦争を
、、
生む、……世に迷想多しと雖も軍備は平和の保証であると云ふが如き大なる迷想はない、軍
備は平和を保障しない、戦争を保証する」(世界の平和は如何にして来る乎、明四四・九、
190
傍点原文)
。こうした内村の論理がその後の半世紀足らずの世界史においていかに实証され
たか、とくに原爆時代において幾層倍の真实性を加えたかはもはや説くを要しない。」(集
⑤ 「内村鑑三と「非戦」の論理」1953.4.pp.321-2)
-「産業革命を境としまして社会の空間と時間は一変しました。蒸気力の利用をみ、ひい
ては原子力の解放に至るこの巨大なテクノロジーの進歩の為、今までの歴史とそれ以後の
歴史とは全く質的な相違が出来てしまった。その進歩があまりに巨大な為に、われわれが
この進歩の真只中にいる為に、それが一体どういう意味を持っているかということを測定
しかねているというのが現在の姿ではないかと思います。」(集⑥
「現代文明と政治の動
向」1953.12.pp.18-9)
「テクノロジーを縦横無尽に駆使する現代戦争が、第一次大戦当時、あるいは第二次大
戦当時とも、ある意味では殆ど様相を一変させてしまうということ、…物的な、人的な、
戦争による消耗の巨大さが殆ど想像もつかないということは、第二次大戦と、現在の朝鮮
戦争と比べてみても解るわけです。…軍事費も、ジェット機の製造とか、原爆、水爆の製
造によってこれまた桁違いに上昇し、…つまりテクノロジーの進歩によって、われわれの
生活環境は非常に目まぐるしく変動しているにも拘らず、政治や社会を判断するわれわれ
の「ものさし」は、どうかするときのうのテクノロジーを前提においている。そこからい
ろいろな悲喜劇が生れてくるのであります。」
(集⑥
同上 pp.21-2)
「再軍備をいう人々は、どうか、昨日のものさしではなく、今日の、明日のものさしで、
日本の国防ということを考えて貰いたいと思うのであります。
」(集⑥ 同上 p.24)
「以上、三つの要因(丸山:テクノロジーの発展、大衆の勃興、アジア民族の覚醒)は、
‥卖なる社会的事实であって、それ自体は必ずしも価値を内包してはいない。それ自体は、
進歩的意味を持っているとは必ずしもいえない。価値に拘りなく、価値中立的、社会的事实
であります。だからこそよい目的にも、悪い目的にも、積極的、建設的目的にも、破壊的目
的にも使われる。これは戦争の步器とか、原爆や水爆の例をみても明らかであります。」
(集
⑥ 同上 p.57)
-「アウシュヴィッツもまた、ヒロシマやスターリングラードやダンケルクと並んで大戦
によって象徴化した名称の一つである。」
(集⑥ 「記録映画「夜と霧」について」1956.7.
p.205)
「空前の残虐行為のかどで戦犯に問われたある SS 隊員の一人が、彼を訪れた記者に対し
ノルマール
て、
「われわれは通 常 の義務を遂行したこと以外に何をしたというのでしょう」と語ったと
いう話や、ラーヴェンスブルック収容所で拷問の悪名をとどろかせ、戦後絞首刑を言渡され
た政治班長なぞは、親戚友人の証言によると、日常生活では親切で愛すべきルートヴィヒと
呼ばれ、動物を可愛がり、蛇やとかげを踏みそうになるとあわてて飛びすさった、というよ
うな記録を読むと、やはり底知れない不安が湧いて来る。ここにあるのは尐くも日常行動様
191
式においては決して「異常」な人間ではない。原爆を広島に落した搭乗員が感想を問われ
た時の答えは、同じく「職務を完遂しただけです」ということであった。この義務感と SS
隊員の義務感とには一点の共通性もないといえようか。」(集⑥ 同上 pp.209-10)
-「現代は人間と人間との間に厖大な組織や機械が介在し、そこに人間的なものの直接的
接触の感覚が失われている。非人格的なメカニズムの厚いカベを通して残虐を加える。だ
から、ここでは人間の加害者としての“罪の意識”は消える。
「道義的に尐しでも反省の必
要を認めない」というナチの収容所の職員の言葉と、原爆を落とした飛行機の搭乗員の言
葉が似ているのも不思議ではない。ボタンを押すことと原爆の实際の被害とは、搭乗員に
とって何の関係もない。そこには命令されて飛行機に乗りボタンを押すという実観的な職
務の遂行があるだけなのだ。
」
(集⑦ 「現代の政治」1957.11.1/2.p.187)
-「实際、憲法擁護とか、原水爆反対の動きが非常に強いのは、つまり、自分たちが今現
实に享受しているものを失いたくない、そういう保守的な、コンサァバティブな感覚とい
うものを表現しているわけです。
」
(集⑦ 「政治的判断」1958.7.p.335)
-「見えない無数の世論の力が、案外巨大な力を振うということは、国際的な原水爆实験
の禁止運動一つを見ても分りますよ。日本の原水協にしても、杉並の奥さん達が、その発
端だったというように。…
政党でない、つまり政治団体でない集団の政治活動というものが、实際は、日本のデモ
クラシーの地盤になっているのです。母親大会とか子供を守る会とかは、みな元来政治団
体ではなく、何か他の具体的な目的を持って集って来た団体なのです。原水爆禁止運動に
しても、それは政治と言えば政治ですが、何も権力を獲得するとか、そういう目的の運動
ではないのです。‥これを、抽象的な言葉では「非政治的団体の政治的活動」といいます。
これがデモクラシーにとって一番大切な一般国民の自発性を呼び起すポンプの誘い水の
ような役割をするのです。非常に大きな日本のデモクラシーを支える根となってきている。
‥だから我々は、いろいろな団体作りをやって、その団体の目的を实現させるため、あるい
はその目的の妨害を排除するためという、その限りにおいて政治にタッチするというような
習慣をつけていくことが大切です。
」
(集⑯ 「私達は無力だろうか」1960.4.22.pp.23-4)
-「現在は、こんどの運動(浅五注:反安保闘争)をかなり長い歴史的展望のなかに位置
づけるか、それともみんなが確实に自分で語りうる参加過程の体験を出し合うか、どっち
かしかできないと思うんです。前者なら直接参加していなくてもできるし、後者が意味を
もつためには当然に範囲がごくせまくなる。ところがあっちこっちでやられている批判を
見ると、時日的にはきわめて短い幅をとって、そこで全体の組織的配置やエネルギーを見
渡そうというのが多い。あの、無数の場所で複雑な組合せにおいておこった爆発過程を一
192
望の下に眺められるような便利な丘があったかどうか。どんな場で行動した人でも一局面
しか見ていないということから出発すべきじゃないかしら。」
(集⑯ 「5.19 と知識人の「軌
跡」
」1960.9.19.p.30)
「日本はむかしから、自然的・地理的な境界が同時に国家なんですね。で、どうも「自然
状態」っていうものがイメージとして浮かばないんですね。もし浮かぶとすれば共同体です
、、、
が、共同体的自然状態ではこれまた、暴力の制度化という必要の切实さがでて来ない。そう
いう日本の歴史的条件だけから見れば、
僕のいう無数の内乱状態と制度との二重イメージが
ひろがるということは、絶望的に困難なように思われる。ところが逆に、核兵器の飛躍的
な進歩とか放尃能の問題の方から考えると、一人一人の人間が国家などは超越したものす
ごい暴力に直面しているという状況に、またなってきているんじゃないかしら。国家ある
いは政治権力に人々がともかく朋従しているのは、
結局生命負産を保護してくれるという期
待があるからです。ところが、世界中でだんだん、もはや国家頼むにたらず、という状況
になってきつつある。だから、ぼくは日本でも生き生きした自然状態のイメージが出てこ
ないとは必ずしもいえないと思いますね。
」(集⑯ 同上 p.33)
-「人智の進歩が政治をヒューマナイズするというのがかつて啓蒙哲学者の確信であった。
ところがヒロシマとアウシュヴィツを経験した現代においては、
「文明」は政治を人間化す
るよりも、むしろ非人間化するのではないかという危惧が知的世界の通念になろうとして
いる。
」
(集⑨ 「
「人間と政治」はしがき」1961.9.p.7)
-「イギリスの CND を中心とする核步装の一方的廃棄運動は今年の二月に至って、アメリ
かつ
カのポラリス潜水艦の基地貸与協定にたいする嘗てない規模の抗議集会にまで発展し、
デモ
隊はトラファルガー広場から行進して国防省前に坐り込み、数百の逮捕者を出した。…この
著名な哲学者(バートアンド・ラッセル)の述べるところによると、
「たとえば日刊新聞の
なかでいちばん公平だと考えられているある新聞の労働党関係の通信員は、
一方的核廃棄論
、、
に対する反対こそが「正気の声」だ、と述べた記事を書いた。私はそれに答える手紙を書い
て、むしろ逆に、正気は一方的核廃棄論者の側にあり、廃棄論反対者の側こそヒステリー
におちいっている、と論じたのであるが、この新聞はそれを印刷することを拒否したので
ある。ほかの一方的核廃棄論者たちも同様の経験をもっている」。つまり、言論の自由の祖
、、、、、
国でも、一方的核廃棄論は、気狂い沙汰というイメージを通じてしか大多数の国民の耳目
に入らず、また入ることを許されないというわけである。アメリカでも、広島の原爆投下
に関係したクロード・イーザリーが、罪責感からはじめた核兵器反対のための行動が「そ
の筊」によって狂人扱いされ、精神医学者の「証明」付でついに精神病院に入れられたが、
これまたラッセル卿によれば、イーザリーが自分の動機を説明したいくつかの声明は、完全
に正気であり、すくなくも、原爆投下の正当性をあくまで弁護する当の責任者トルーマンよ
りは、はるかに正気なのである。こうしてラッセルは沸々とした憤りをかれ独自のソフィス
193
、、、、、、、、
ティケーションにまぶして投げつける-「今日のさかだちした世界では、人類全体に対して
生殺与奪の権を握っている人たちは、名目上は出版や宠伝の自由を享受している国々のほと
んどすべての住民に、
誰れであれ人類の生活をまもることを価値ある事柄と考える人は狂人
でなければならぬということを、説得するだけの力をもっているのである。私は私の晩年を
精神病院で過ごすことになっても驚かないだろう-そこで私は人間としての感情をもつこ
とのできるあらゆる人たちとの交際を楽しむことになるだろう」‥。
(集⑨ 「現代におけ
る人間と政治」1961.9.pp.15-6)
-「八月十亓日についてなにかしゃべれといわれますと、そういう個人的な体験をぬきにし
ては私としては語れない感じがいたすのであります。
私は戦後、なにかの折に「ああ、おれは生きているんだなあ」とふっと思うことがあり
ます。というのは、なにか私は間一髪の偶然によって、戦後まで生きのびているという感
じがするのです。それはあの苛烈な戦争をくぐった国民の方々でおそらく同じような感じ
方をなされる人も尐なくないと思います。私もその一人であります。私の場合とくにその
实感を支えておりますのは、なんといっても敗戦の直前の原爆であります。私のおりまし
た広島市宇品町は原爆投下の真下から約四キロのところにありました。
そのときの状況をお
話すればきりがありませんし、またその直後に私がこの目で見た光景をここでお話する気
にもなれません。ただ私は非常に多くの「もしも」-もしもこうであったら私の生命はな
かった、したがって私の戦後はなかったであろうという感じ、いわば無数の「もしも」の
あいだをぬって今日生きのびているという感じを禁じ得ないのであります。
宇品町は広島市の单端にあります。そこで、たとえば海上から侵入してきた B29 の原爆
搭載機に乗っていたアメリカの兵士が、もう一分、早くボタンを押していたら、その瞬間
に私の体は蒸発していたかもしれません。…翌々日、私は外出してみて、宇品町でも死傷
者が多いのにおどろきました。しかも私は放尃能などということに無知なものですから、
その日一日爆心地近辺をさまよい歩いたりしました。その他、その他の「もしも」を考え
ますと、私は今日まで生きているというのは、まったく偶然の結果としか思えない。です
から虚妄という言葉をこのごろよくききますが、实は私の自然的生命自身が、なにか虚妄
のような気がしてならないのです。けれども私は現に生きています。ああ俺は生きてるん
だなとフト思うにつけて、紙一重の差で、生き残った私は、紙一重の差で死んでいった戦
友に対して、いったいなにをしたらいいのかということを考えないではいられません。」
(集
⑨ 「二十世紀最大のパラドックス」1965.10.pp.287-9)
-「情報班にいたので、連合軍上陸徹底抗戦という最高方針のあることをよく知っていた。
ポツダム宠言受諾の情報がはいったとき“戦争が終わった”とホッとした。その感じが最
も強かった。それに個人的事情だが、この十亓日に母が死んだという電報を十八日受け取
くびす
り、ショックだった。 踵 を接した大事件で、正直なところ原爆それ自身に対する気持ちが
194
薄れた。
」「あの時、爆心地から離れた宇品(約亓キロメートル)にいたんだから、正確に
被爆者といえるかどうか。しかも兵隊だから、被爆した市民に対して傍観者みたいな立場
にいた。そういう後ろめたさがあるから、自分も被爆者だというのはおこがましくて、広
島について語るのをためらっていたんだな」
(集⑯ 「二十四年目に語る被爆体験」 中国
新聞 1969.8.5,6.pp.362-3)
)
-
「アメリカとソ連は相手の国を完全に破壊するのに必要な核步装の何十倍の核步装をもっ
ているんです。それでもなおナショナル・セキュリティを保障できないということは、今や
核時代に入ると、步装力がかつてのように国家を防衛する機能をもたないということを暴
露しているわけです。だから両国とも SALT で一生懸命になってる。軍備は相対的ですか
ら、競争になれば、これで安全という限界はない。結局、实際の必要の何十倍の核をもつと
いうバカバカしい結果になっているわけです。そうすると軍備にたよって国の安全を守る
という観念が实は古くなってしまっている。われわれの思考のほうが現实よりはるかに遅
れている。
」
(集⑪ 「日本思想史にお希有「古層」の問題」1970.10.pp.216-7)
-「私にとって現在秘蔵の原書は何かということになると、これが海賊版なのである。
E.H.Carr, Conditions of Peace, Macmillan, London, 1942 がそれである。…数あるカーの
著作のうち、なぜ『平和の諸条件』を-しかもその海賊版を-私が秘蔵本とするかが以下
の为たる話題である。簡卖に結論をいえば、この一本を見付け出したのが、私の最後の軍
隊生活の場所となった広島の一古書店であり、その思い出が原爆投下直前の、宇品にある
陸軍船舶司令部での私の日々と離れがたく結びついているからである。…
私は日曜日の外出でたまたま書店の棚にこの書物を見出したとき、
ほとんど信じられぬ思
いで即座に購入した。
というのはこの著作について当時の私に若干の予備知識があったから
である。私の勤務する東大法学部の研究审で定期的に開かれていた小さな研究会で、矢部貞
治教授(政治学担当)によってこの書物が紹介されたのを、私は忚召の前に聴いていた。…
私などは報告をききながら、むしろ戦争の真只中にこれだけ自国を中心とする「味方」の歴
史的過誤を鋭く剔抉するイギリスの自由の伝統の底力にひそかに驚嘆の念を禁じえなかっ
た。
、、
当面の私の海賊版に話を戻そう。これも写真版印刷で、一体どこで作られ、どういう径路
で広島の一古書店-ああ、あの店も原爆で跡かたもなく吹き飛んでしまったのだ-の書棚
におさまったのかは知るよしもない。…巻末の見返しの遊び紙につぎのような私の鉛筆書き
がある。何か身構えた調子に照れ臭い思いがするが、全文を左に写しておく(旧仮名はその
ままにしたが、漢字は新字体に改めた)
。
此の書は私の広島に於ける軍隊生活(自昭和二十年三月至同年 月)の余暇に読んだ。
是によって受けた感銘は船舶司令部に起居した半年の間のさまざまの思ひ出、その間に
起つた世界史的な事件-ドイツの敗北、国際憲章の成立、英労働党内閣出現、ソ連の対
195
日宠戦、原子爆弾、我が国のポツダム宠言受諾-等々の生々しい記憶と共に永く私の脳
裏から消え去る事はないであろう。
昭和二十年九月
右の括弧の中の至……以下の数字が空白になっているのは、
おそらくこの時にはまだ私の
復員時期についてのメドがたっていなかったからであろう。
そう思ってみると最後の昭和二
十年九月という文字も、本文と鉛筆書きの太さがちがっていて、どうやらべつの時に誌した
もののようである。本文をめくってみると、いたるところに私が引いたアンダーラインがあ
り、
行端に数行にわたる縦線や波形線がひかれ、その傍にところどころ小さな書入れがある。
右に例示されている「世界史的な事件」が広島の軍隊生活とともに、今日まで「永く私の
脳裏から消え去」っていないことは事实であるが、さりとて下線をひいたり書き入れをし
、、、
た折の個々の記憶は、あれから三十四年余という歳月がほとんど拭い去ってしまった。…
私の広島での軍隊生活は、
平壌での初年兵時代にくらべればむろんはるかに楽であったと
はいえ、外国書の所持を許されるという処遇は、こうした逆の「特別視」
(丸山:
「私の職業
もその程度には斟酌された」
)
によってバランスされる、
という奇妙な性質のものであった。
八月十亓日という歴史的な日の翌日に、私は突然、T 参謀尐佐に呼び出された。‥T 参謀
は「明日から一週間、自分に満州事変以来の日本の政治史、およびこれからの日本と世界の
し えき
動きについて話して貰いたい。その間、君に一切の使役を免じ、かつ完全な言論の自由を与
える」といった。‥こうして始まった、机をはさんだ差向いの「講義」で、戦後世界の建直
、、、、、
しの方向についてアンチョコとして私にもっとも役立ったのは-それが極東についてほと
んど触れていないにもかかわらず-ほかならぬ私の海賊版「平和の諸条件」だったのであ
る。
」
(集⑫ 「海賊版漫筆」1983.3.pp.67-74)
-「どうもぼくが申しわけないと思っているのは、体が弱いせいもあって、中野さんの、
とくに晩年の沖縄問題とか原水禁問題とかいった、アクチュアルな面で、ほとんど中野さ
、、、、
んと運動上の接触がなかったことです。‥实践的な平和運動家としての中野さんを語ると
なると、ぼくはまったく落第生です。…僕は原水爆禁止問題とかそういう市民運動のほう
はさぼって出席せず、遊ぶ時だけ一緒になるので、中野さんは内心「この野郎」という感
じをもったんじゃないか(笑)と、ひそかにうしろめたい思いがしました。
」(集⑫
「中
野好夫氏を語る」 1985.8.4.p.171)
-「これ(浅五注:ポツダム宠言)を受諾することで果して国体が維持されるかどうかで最
後まで解釈が分れ結局最後に、天皇が自分は護持されたと解釈する、という「聖断」を下し
たので終戦が決まるわけですが、宠言の解釈がきまらず、御前会議でもめている間に原爆
が投下されたのですから、ずいぶん大きな犠牲を払ったものです。」(集⑬
「文明論之概
略を読む(上・中)
」1986.p.157)
-「今日核戦争による人類共滅の可能性は、すくなくも頭の中では世界の万人によって理
196
解される現代の危機です。けれどもどんなに顕著で巨大であろうと、それは「西欧的国家
、、
体系」を基礎とした現在の世界秩序の危機の表層に位置します。この危機の地殻をほりさ
げて、‥本当の「世界新秩序」が具体的に構想されたとき、そのときはじめて私たちは福
沢の「最後最上の目的」‥に向かって、それはもはや論理的にのみならず、歴史的にも超
克されたものだ、と安んじて宠告を下すことができるのではないか、と思います。」(集⑭
「文明論之概略を読む(中・下)
」1986.p.326)
-「
(朝鮮戦争に関する平和問題談話会での)争点は、結局、日本の立場です。‥対立する
両陣営のいずれに与することも避けるために、スイスみたいな永世中立論という立場がでて
きた。
僕も、結論は中立論なんだけれども、スイスの中立と日本の中立とは意味が違うのでは
ないかと、途中で意識しましたね。スイスの永世中立というのは、为権国家である以上、
戦争というのは異常な事態ではなく、戦争か平和かを为権国家は自由に選び得るという前
提に立って「おれは中立だ。ほかの国はしたければ勝手に戦争をしろ」と、極端に言えば
そういう中立論なんですね。しかし今日のグローバルな問題では、一義的にはやはり核の
問題がある。核兵器がある以上、ほかの国は勝手に戦争しろとは言えない。つまり、あら
ゆる戦争が核戦争になる可能性をはらんでいて、それを避けるためには、スイスの中立論
では不十分だということをそのころ勉強した。僕が報告で为張した中立とは、軍事同盟を
避けるという意味での両陣営からの中立です。」
(集⑮ 「サンフランシスコ講和・朝鮮戦争・
60 年安保」1995.11.p.329)
<戦争>
-「第一章 平和問題に対するわれわれの基本的な考え方
戦争は本来手段でありながら、もはや手段としての意味を失ったこと
しか
「元来戦争は人間がある問題を解決するために用いる一つの、而も極めて原始的な方法で
かつ
か
ある。
嘗てこの方法が有効且つ有利と認められる時代があったにしても現代は全く相違する。
いえど
今日にあっては戦敗国はもとより、戦勝国と 雖 も、一部の特殊な人間を除いて、殆ど癒し
難い創痍を蒙る。
……もはや戦争は完全に時代に取り残された方法と化しているといわねば
ならぬ。
」ひとはこの趣旨をあまりに当然自明のこととするかも知れない。しかし、むしろ
、、 、、
問題は、このことが自明の理とされることによって、それはそれとして至極簡卖に承認さ
れてしまい、現实の国際問題を判断する際の生きた標準としてはたらかないということに
たちま
ある。その結果、激動する世界情勢に直面すると、 忽 ち一方で受け入れた原理を直ちに他
方でふみにじって行くような行動に陥ってしまう。
「戦争をなくするための戦争」というよ
うな使い古されたスローガンが、ややもすれば今日なお持ち出されるのは、戦争と平和の選
、、
択を依然として手段の問題として処理しうるかのような錯覚が、
いかに人々を捉え易いかと
197
いうことを示している。
戦争の破壊性が恐るべく巨大なものとなり、どんなに崇高な目的も、どのような重大な
理由も、戦争による犠牲を正当化できなくなったという厳粙な事实に否忚なく世界の人々
を直面させたのは、いうまでもなく第一には、原子爆弾、水素爆弾などのいわゆる超兵器
(superweapons)の出現であった。…現代戦争の内包するこのようなパラドックスは決して
、、、、、
忽然として生じたのではない。それは、近代産業及び交通通信手段の発達が、一方におい
、
、、、、
て全世界を一体化し、各国家各民族を密接な相互連関の関係に置いたと同時に、他方にお
、、
あつれき
いて、もろもろの政治権力の集団的な組織化を高度にし、その相互の軋轢をいよいよ大規
模なものにしたという歴史的過程によって齎らされたものである。現代戦争が国際的には
世界戦争(global war)として現れ、国内的には、全国民を動員する(total war)という様相を
、、
帯びるのは、その必然な結果にほかならない。したがって、戦争の破壊性が戦場における
、、
步器による直接的な破壊性に限定されなくなったということこそ、何にもまして重要なこ
とである。…最も惨憺たる被害を蒙るのは、家を焼かれ、近親を失って彷徨する無辜の民
衆であるのが、皮肉というにはあまりに痛ましい現代戦争の实相なのである。しかも、戦
後に待ち構えているのは、経済的政治的荒廃、大量的失業、飢餓、暴動であり、深刻な道
徳的頽廃がこれに加わる。…
、、、、
いまや戦争はまぎれもなく、地上における最大の悪となったのである。どのような他の
悪も、戦争の悪ほど大きくはない。したがって逆にいうならば、世界中の人々にとって平
、、、、
和を維持し、平和を高度にするということが、それなしには他のいかなる価値も实現され
ないような、第一義的な目標になったといわなければならない。どのような地上の理想も、
世界平和を犠牲にしてまで追求するには値しない。なぜなら、それを追求するために戦争
に訴えたが最後、戦争の自己法則的な発展は、当該の理想自体を毀損してしまうからであ
る。
」
(集⑤ 「三たび平和について」第 1 章・第 2 章 1950.12.pp.7-10)
-「国際間に於ける物理的暴力行使としての戦争は、問題が政治家に依ってではなく軍人に
依って解決されなければならなくなったという事態の表現であり、政治家の能力の大部分は
むしろこうした暴力行使にいたるまでの外交的折衝の段階に於て発揮されるわけです。軍事
的闘争は政治的紛争の極限としてのみ存在する…。
」
(集⑤ 「政治の世界」1952.3.p.138)
、、
-「内村(鑑三)の非戦論が卖にキリスト教的福音の立場からの演繹的な帰結ではなく帝
国为義の経験から学び取った为張であったということは、彼の論理に当時の自称リアリス
トをはるかにこえた歴史的現实への洞察力を付与する結果となった。彼は近代戦争がます
、、
ますある目的を達するための手段としての意義を失いつつあること、いいかえれば、戦争
の精神的物質的コストの異常な増大は、いわゆる「正義の戦争」と「不義の戦争」の区別
をますます非現实的なものにして行く傾向をすでに鋭く指摘している。
「人類が進むに従て
戦争の害は益々増して其益は益々減じて来ます、
随て戦争は勝つも貟けるも大なる損害たる
198
に至ります、戦争は其代価を償はず、其目的に達せざるに至ります、……斯かる場合に臨ん
で最も慧き国民は最も早く戦争を止める国民であります。…」(戦争廃止の必要、明四一・
八)
「若し戦争はより小なる悪事であって世には戦争に勝る悪事があると称へる人がありま
。
すならば、其人は自分で何を曰ふて居るのかを知らない人であると思ひます。戦争よりも大
む
こ
なる悪事は何でありますか、
……若し無辜の人を殺さなければ達しられない善事があるとな
らば、其善事は何んでありますか、……悪しき手段を以て善き目的に達することは出来ませ
ん。殺人術を施して東洋永久の平和を計らんなど云ふことは以ての外の事であります」(平
和の福音、明三六・九)
。戦争と軍備によって平和が生れるというのは、
「日本国の政治家の
みならず世界万国の政治家」の最大の迷信である。戦争は他の何かをもたらすことがあろう
、、、、、、
とも平和だけは決してもたらさない、「戦争が戦争を止めた例は一ツもない、戦争は戦争を
、、
生む、……世に迷想多しと雖も軍備は平和の保証であると云ふが如き大なる迷想はない、軍
備は平和を保障しない、戦争を保証する」(世界の平和は如何にして来る乎、明四四・九、
傍点原文)
。こうした内村の論理がその後の半世紀足らずの世界史においていかに实証され
たか、とくに原爆時代において幾層倍の真实性を加えたかはもはや説くを要しない。」(集
⑤ 「内村鑑三と「非戦」の論理」1953.4.pp.321-2)
、
-「カール・シュミットのいう戦争概念の革命-戦争が戦闘員と非戦闘員との厳格な区別
の上に立ち、一定のルールに従って行われる为権国家観の「決闘」であった段階から、も
はや中立的第三者の存在を許さず、一般市民を含む「敵」の無差別的な抹殺をおこなう総
力戦争又は「絶対」戦争への転化は、すでに、第一次大戦にきざしてはいるが、その全貌
は第二次大戦においてはじめて露呈されたのである。フィクションとしての戦争映画は、
映画のもつ本来的な娯楽性のために、一層現实が誇張されて表現されるけれども、にもかか
わらずそれなりに歴史的なリアリティを具えていたことをあらためて感じさせる。」(集⑪
「映画とわたくし」1979.4.pp.16-7)
、、、、、、
-「一般論として国際戦争の歴史的な位置づけを簡卖にのべる…。
、、
なによりある種の戦争が国際法上で違法とされるようになったのは世界的にきわめて最
近のことだ、という卖純な事实を忘れてはなりません。…为権国家は国際紛争の解決手段と
、、、
、、
して戦争と平和とを自由に選びうることが近代国際法上の当然の常識だったからこそ
「戦時
国際法」という名称が普通に通用していたのです。…もちろん、戦争にたいする宗教的な、
あるいは倫理的な否定は以前からあり、
「永久平和論」の構想もサン・ピエールとかカント
、、、
以来いろいろ出ておりましたが、侵略戦争自体を違法としたのは第一次大戦後のヴェルサ
イユ条約のなかに含まれた国際連盟規約において、この規約に反して戦争に訴えた国家に
たいして国際的制裁(経済的あるいは軍事的)を課した条頄にはじまります。ついで不戦
条約(一九二八年)において、日本を含む調印国は国際紛争解決のために戦争に訴えないこ
と、
および国家の政策の手段としての戦争を放棄することを調印各国の
「人民の名において」
199
宠言しました。こうして侵略戦争にたいする自衛の戦争、および侵略国家にたいする集団安
、、、、
全保障にもとづく軍事的制裁をのぞいて、戦争ははじめて一定の構成要件の下で国家によ
って犯される犯罪行為とされるに至り、その精神は第二次大戦後の国際連合において一層
具体的に強化された次第です。このプロセスは国際社会の構造変化を-つまり为権国家を
、、、、
ワ ン ・ ワールド
ワ ン ・ ワールド・オーダー
強制力行使の最終卖位とする世界から、一つの世界と一つの 世 界 秩序の形成を模索する方
向を-示しております。国際連盟規約第十六条の「第十二条、第十三条、第十亓条ニ依ル
約束ヲ無視シテ戦争ニ訴ヘタル連盟国ハ、当然他ノ総テノ連盟国ニ対シ戦争行為ヲ為シタル
モノト看做ス」という規定は、その事实上の实効性如何をこえて、戦争概念の革命的な変化
を告げる宠言でした。なぜならこの規定は、戦争が为権国家の紛争当事国の問題であって、
他の国家は「中立国」としての権利・義務をもつだけであるという、長い間通用して来た考
ワ
ン
・ ワールド
え方からは理解できず、むしろ、侵略戦争の遂行は「一つの世界」の法秩序を侵害する行
為だ、とみる考え方に立っているからです。第二次大戦における「戦争犯罪人」という新
、
、、、、、
しい法概念、とくに捕虜虐待や非戦闘員殺傷の罪をこえて一国の最高戦争指導者を国際的
戦争犯罪人として裁く観念の登場はまさに戦争観のこうした画期的な変化を前提にしては
じめて理解できます。それはたんに戦争にたいする抽象的道義観に基づくのではなくて、
テクノロジーの地球的発達による为権国家の相互依存性が著しく増大したためです。一方
におけるこうした国際規範の発展と、他方における現实の権力政治あるいは「国際軍事法
、、、
廷」なるものの实態との間の矛盾は、かえって十九世紀的な世界秩序の構造変化が不可逆
、
的であり、しかもワン・ワールドの秩序が实定法秩序としては未だ甚だしく不備なのはも
ちろん、思想的構想としても未成熟であるという過渡的様相から生まれた矛盾にほかなり
ません。‥要するに現代の、とくに国際戦争が不断に核戦争化の危険を内包するにいたっ
た今日のイメージを十九世紀に投影することは著しく非歴史的なのです。戦争は独立国の
ユイヴァーサル・ライト
権義(権理通義の略で、普 遍 的 権利の意です)を伸ばす術だ、という福沢の断言はむしろ
国際社会の-つまり「西欧的国家体系」の-当時の常識をのべたものであり、福沢が戦争を
、、、、、、、、、、、
人間性の本質から導き出したりしないで、「今の文明の有様に於ては止むを得ざるの勢ひ」
という限定を附したところにこそ注目すべきだ、と思います。したがってそれは、国の「文
明」
の発達や外交手段との関連で国防問題を考えずに軍事力ばかり偏重するようなナショナ
リズムを批判することとすこしも矛盾しないわけです。」
(集⑭ 「文明論之概略を読む(中・
下)
」1986.pp.307-9)
-「
(朝鮮戦争に関して平和問題談話会で)いろいろな議論をしたけれども、両国が国境で
緊迫して対峙している時に、人間の喧嘩と同じで、どっちが先に拳固で殴ったかというのは
あんまり重要なことじゃない。どっちがどっちを侵略したというより、どっちが手を出し
てもおかしくないような状況があったということのほうが重要であって、先に拳固を出し
たのどっちだということを決めること自身が、あんまり意味がないんじゃないか、という
ことを言った覚えがあります。それは不可知論と結びついているんですね。仮に北が拳固
200
を先に出したにしても、アメリカも韓国もいろいろな戦争準備をしているわけですね。挑
発させて北に最初に拳固を出させたと言えないこともない。「三たび平和について」第一
章・第二章‥をぼくが書いた背景には、軍事的対立の緊迫した状況自身を除かなければだ
めだという考え方がありました。
」
(集⑮ 「サンフランシスコ講和・朝鮮戦争・60 年安保」
1995.11.pp.327-8)
「
(朝鮮戦争に関する)政府及び一般の世論に対する強い批判も僕にはありました。朝鮮
戦争での国連の大義名分は「地域的安全保障」ということでした。安全保障には一般的安全
保障と地域的安全保障とがある。ある地域に紛争が起こった時に、世界戦争に拡大しないよ
う、国連の軍事制裁を課すべく、地域的安全保障という立場でできたんですね。ところが、
クインシー・ライトの書いた『戦争の研究』など、いろいろな国際法や国際政治の本を読み
ますと、僕はそれは非常に疑問だと思ったんです。
僕は、国連の安全保障というのは一般的安全保障だけを意味する、と考えたのです。も
し地域的軍事衝突に対しても制裁を課し得るという立場をとると、国連の立場による行動
と、特定の軍事同盟による行動とが区別できなくなる、これは国連の一般的安全保障の精
神に反するという考え方です。僕はいまでもそう思っています。クウェート以来の戦争は
すべて、地域的安全保障ということで合理化しているわけです。あれだと、
「多国籍軍」と
いう奇妙な言葉でよばれている大国の軍事同盟がやった行動が安保理事会さえ通れば国連
自身の行動になってしまう。言い換えますと国連の規約に反する軍事行動は国連の加盟国
すべてに対する脅威になるということだけが国連の制裁の根拠であって、極東地域に紛争
が起こったというだけで、それがそのまま国際的な紛争、つまり国連の安保理事会の対象に
なるような一般的紛争とは言えない、というのが僕の考え方だったのです。」(集⑮
同上
pp.329-30)
3.平和と憲法
<平和問題・
「力によらない」平和観>
-「卖なる平和为義や国際为義の願望がいかに空しいものかは、inter-war years が世界
史上嘗てないほど、そうした思想の基調の上に立った会議、条約、調査が氾濫した時代であ
ったことを以ても知られる。…ラスキは、…大西洋憲章やいわゆる「四つの自由」の雄弁な
約束が安心ならない所以を、ウィルソンの Fourteen Points の遭遇した運命からして、警告
するのである。そして前大戦の後に於て、戦争の結末を更に積極的な目標に向って押し進め
る事を怠った各国政治家の懶惩、怠慢、無気力を鋭く剔抉する。」
(集③ 「西欧文化と共産
为義の対決」1946.8.pp.44-5)
-「第一章 平和問題に対するわれわれの基本的な考え方
201
戦争は本来手段でありながら、もはや手段としての意味を失ったこと
しか
「元来戦争は人間がある問題を解決するために用いる一つの、而も極めて原始的な方法で
かつ
か
ある。
嘗てこの方法が有効且つ有利と認められる時代があったにしても現代は全く相違する。
いえど
今日にあっては戦敗国はもとより、戦勝国と 雖 も、一部の特殊な人間を除いて、殆ど癒し
難い創痍を蒙る。
……もはや戦争は完全に時代に取り残された方法と化しているといわねば
ならぬ。
」ひとはこの趣旨をあまりに当然自明のこととするかも知れない。しかし、むしろ
、、 、、
問題は、このことが自明の理とされることによって、それはそれとして至極簡卖に承認され
てしまい、
現实の国際問題を判断する際の生きた標準としてはたらかないということにある。
…
戦争の破壊性が恐るべく巨大なものとなり、どんなに崇高な目的も、どのような重大な
理由も、戦争による犠牲を正当化できなくなったという厳粙な事实に否忚なく世界の人々
を直面させたのは、いうまでもなく第一には、原子爆弾、水素爆弾などのいわゆる超兵器
(superweapons)の出現であった。…現代戦争の内包するこのようなパラドックスは決して
、、、、、、
忽然として生じたのではない。それは、近代産業及び交通通信手段の発達が、一方において
、、、、、、
全世界を一体化し、
各国家各民族を密接な相互連関の関係に置いたと同時に、
他方において、
あつれき
もろもろの政治権力の集団的な組織化を高度にし、
その相互の軋轢をいよいよ大規模なもの
にしたという歴史的過程によって齎らされたものである。現代戦争が国際的には世界戦争
(global war)として現れ、国内的には、全国民を動員する(total war)という様相を帯びるの
、、
、、
は、その必然な結果にほかならない。したがって、戦争の破壊性が戦場における步器による
直接的な破壊性に限定されなくなったということこそ、何にもまして重要なことである。…
最も惨憺たる被害を蒙るのは、家を焼かれ、近親を失って彷徨する無辜の民衆であるのが、
皮肉というにはあまりに痛ましい現代戦争の实相なのである。しかも、戦後に待ち構えてい
るのは、経済的政治的荒廃、大量的失業、飢餓、暴動であり、深刻な道徳的頽廃がこれに加
わる。…
、、、、
いまや戦争はまぎれもなく、地上における最大の悪となったのである。どのような他の
悪も、戦争の悪ほど大きくはない。したがって逆にいうならば、世界中の人々にとって平
、、、、
和を維持し、平和を高度にするということが、それなしには他のいかなる価値も实現され
ないような、第一義的な目標になったといわなければならない。どのような地上の理想も、
世界平和を犠牲にしてまで追求するには値しない。なぜなら、それを追求するために戦争
に訴えたが最後、戦争の自己法則的な発展は、当該の理想自体を毀損してしまうからであ
る。
」
(集⑤ 「三たび平和について」第 1 章・第 2 章 1950.12.pp.7-10)
-「(第二次世界大戦までの)私たちは日本のためにどうみても望ましくないと思う方向へ、
目かくしされたままぐんぐん引張って行かれ、しかもそれをおしとどめる力がないという暗
澹とした無力感からいつの間にか、
妙にひねくれた心理-日本で一般に公にされた報道と反
対の事实とか、いわゆる「反日」的、反枢軸的傾向の記事を海外誌のなかに懸命にあさって、
202
えみ
それにぶつかると会心の笑をもらして友人知己にふれまわり、
一種の高尚な五戸端会議的雰
囲気のなかで僅に鬱憤をはらすといったアブノーマルな精神状態に我知らず陥ちて行った
のである。…そうした精神的な自慰からは積極的に現实を押しすすめる力は生れる道理が
ない。あれから十数年後の現在また、われわれが極めて一方的な報道と見方の大波のなか
に呑み込まれようとするとき、この過去の経験は心すべきことではなかろうか。実観的な
、、、
事实の探求はこの後いかに努力してもしすぎることはないし比較的多様な報道を知る機会
に恵まれた人々が、
そうした便をもたない圧倒的多数の国民に材料を提供して尐しでも公正
な判断に資することの必要はいよいよ切实なものとなって行くであろうが、その際、情勢の
困難に貟けて、卖なる「真相への逃避」に終らないためには、そうした認識が平和を守り
とおす強い決意に媒介されていなければならない。
」(集⑤
「病床からの感想」1951.10.
pp.80-1)
「個々の点よりなお重大なのは、もちろん今度の講和条約の国際政治的意義であり、それ
を集中的に表現しているのが、講和条約と日米安保条約の抱き合せである。…日本が長期
あまつさ
間にわたり最大の兵力をもって莫大な人的物的損害を与えた当の中国を除外し、 剰 えこ
れを仮想敵国とするような講和とは、それだけで果して講和の名に値するかどうか。…も
し今回の桑港会議でアジア諸国の調印を得られなかったら、日本は地理的、歴史的、経済的
に最も近い隣人たちから孤立して遠く西欧諸国と友好関係を結ぶという結果になる。…日
本の悲劇の因は、アジアのホープからアジアの裏切者への急速な変貌のうちに胚胎してい
たのである。敗戦によって、明治初年の振り出しに逆戻りした日本は、アジアの裏切者と
してデビューしようとするのであるか。私はそうした方向への結末を予想するに忍びな
い。
」
(集⑤ 同上 pp.82-3)
「何かアメリカが自国のインタレストをさしおいて、日本の為を計ってくれるかのよう
に考えて、感謝感激するのは滑稽を通りこして悲劇というほかない…。こうした当然のこ
あたか
とを強調するのも、日本人の政治殊に国際政治に対する見方が、恰 も A 国は B 国を先天的
に好いているとか、C 国を先天的ににくんでいるかのように考える女学生的センチメンタ
リズムを多分に脱していないからである。…「ものの見方」の弾力性にとぼしいことと、
一辺倒的行動とは密接な関係があるに違いない。われわれがそうした固定的な思考態度を
脱却しない限り、今後何度でも国際政治から手ひどいしっぺがえしを受ける羽目になろ
う。
」
(集⑤ 同上 pp.83-5)
-「前文と第九条との思想的連関を全面的に考察するには、さらにそこに含まれた理念の
、、、、、、、
思想史的な背景にまで遡らねばならないでしょう。これはサン=ピエールやカントからガ
ンジーに至るまでの恒久平和あるいは非暴力思想の発展の問題であり、日本の近代思想史
においても、横五小楠などからはじまって、植木枝盛、北村透谷、内村鑑三、木下尚江、
徳冨蘆花などへの流れがありますし、さらに現实の社会運動にあらわれた思想としてはす
でに明治三十四年の社会民为党の綱領に明記された軍備の全廃の为張とか、
それと関連した
203
『平民新聞』の日露戦争中の宠言-「人種の区別、政体の異同を問はず、世界をあげて軍備
を撤去し、戦争を禁絶する」宠言など、いろいろな形態の表現を第九条の思想的前史とし
て追うことができます‥。ただ、この点で、日本国憲法の成立に直接関連した、制定当時の
思想的背景を一言だけ申し上げたい。
というのは第九条がほとんどリアクションなしに受け容れられたのは、戦争に懲りた直
後だからで、あまり戦争の惨禍がひどくてなまなましかったから、その实感からほとんど
無反省に、先き行きのことなど考えないで第九条を受け容れたというようにいわれます。
、、、、
そういう面が尐なくなかったことは否定できません。しかしそれがすべての物語であった
というといいすぎです。たとえば、昭和二十年十一月二十四日の官制で「戦争調査会」が
設置され、その第一回の総会が翌年の三月二十七日に開かれました。‥幣原さんは首相と
してこの調査会の総裁になっていたわけでありますが、こういう挨拶をされた。
「先般政府
の発表いたしましたる憲法改正草案の第九におきまして」といって、後の第九条になった趣
かく
旨を読み上げ、
「斯の如き憲法の規定は、現在世界各国何れの憲法にもその例を見ないので
なお
ありまして、
今尚原子爆弾その他強力なる步器に関する研究が依然続行せられておる今日に
おいて、戦争を放棄するということは、夢の理想であると考える人があるかもしれませぬ。
併し、将来学術の進歩発達によりまして、原子爆弾の幾十倍、幾百倍にも当る、破壊的新兵
器の発見せられないことを何人が保障することができましょう。
若し左様なものが発見せら
れましたる暁におきましては、何百万の軍隊も、何千隻の艦艇も、何万の飛行機も、全然威
ことごと
力を失って、短時間に交戦国の大小都市は 悉 く灰燼に帰し、数百万の住民は一朝皆殺しに
かざ
なることも想像せられます。今日われわれは戦争放棄の宠言を掲ぐる大旆を翳して、国際政
局の広漠たる野原を卖独に進み行くのでありますけれども、世界は早晩、戦争の惨禍に目を
つ
覚し、
結局私共と同じ旗を翳して、
遙か後方に踵いて来る時代が現れるでありましょう」と、
こう言っているわけです。‥ここに現われている思想は、すくなくも敗戦に虚脱状態にな
、、、、
った意識、あるいは、戦争の惨禍の直接的な实感、から出た第九条の無抵抗な受容でもな
ければ、また、のちの吉田首相の著名な国会答弁に現われた考え方-自衛戦争ということ
も、過去の経験では侵略戦争の口实に使われることが多いから、むしろ自衛戦争も含めて
一切の戦争を放棄した方がよいという考え方-でもありません。‥幣原さんの右の思想は、
、、
熱核兵器時代における第九条の新しい意味を予見し、むしろ国際社会におけるヴァンガー
ドの使命を日本に託したものであります。」(集⑨
「憲法第九条をめぐる若干の考察」
1965.6.pp.270-2)
<憲法>
-
「権力政治がなお現在でも国際関係を規定する最も有力な因子であることが国民の眼にま
すます明白になるにつれ、新憲法の理想はますます空虚な無力なものに映じて来た。対立す
る二大勢力の間に素裸で介在する日本の将来の国際的運命に対する不安が国民を濃く覆う
204
ようになった。
…そうした国際的危機の激化が色々な階層の尐からぬ人々のナショナリズム
的感情を刺激した…。
日本の国際的安全の確保と新憲法の理想の貫徹との調和を二つの世界
からの中立という立場に求めようという動向が有力に台頭した。」
(集⑤ 「戦後日本のナシ
ョナリズムの一般的考察」1950.7.20.p.109)
「
(この出来事が戦後史の中で占める位置、あるいは持っている意味)本当は敗戦の直後に
民衆の下からの自発的な盛り上がりがあって、その力が新憲法を制定させ、また戦争責任
者を追放すべきはずだった。その課題がまさに十亓年遅れて出てきた。こういうことが敗
戦直後に行なわれていたら、日本の議会政治は、日本国憲法という共通の土俵の上で行な
われていたでしょう。…憲法以前的、つまり大日本帝国的勢力と考え方が根強く残ってい
る限り、人民为権という世界の常識が政治の現实の上ではなかなか常識にならず、むしろ
この数年の政府のやり方にあらわれているように、憲法が邪魔者扱いされる。これでは共
通の土俵はできません。
ルール・オブ・ロー(法による支配)は基本的には権力に対する歯止めであるということ
が見失われてしまい、政府の行為に法の衣をまとわせることが、あたかも民为为義的な法治
为義であるような考え方が、日本には尐なからずある。…既成事实を作って、法をそれに合
わせて解釈しさえすれば、一時的に世論は沸き立とうとも、結局はまあ仕方がないというこ
とになって事態が収拾されていくような悪例が積み重なってきたところに、岸〔信介〕政府
にあのような強行採決を決意させた遠い背景があった。だから、まさにここにおいて、大
日本帝国やナチスドイツ的な法治为義と、民为为義のルール・オブ・ローとの区別を明ら
かにしなければならない。その意味では、これだけ激しい抵抗が起きたというのは、日本
史上初めてといっていい画期的な事態だと思うんです。
(
」集⑯ 「新安保反対運動を顧みる」
1960.7.pp.341-2)
-「日本国憲法は最高の法規である。これが権力を制約するんだということで、それがル
ール・オブ・ローである。だから八・一亓の画期的転換というものは、その意味で官憲为
はず
義から「法の支配」への転換の筈であった。それが日本国憲法に象徴されている。ところ
が‥あのときの革命は、上からの革命であった。占領軍の押しつけにより日本国憲法ができ
た。ただ、押しつけというのは支配層に対する押しつけだったということだ。そういう押
しつけられた憲法ではあるけれども、諸々の民为化政策の結果が、この十亓年の過程を経て
ずっと下に滲透していった。民为化には六・三・三・四制教育とか労働立法とかいろいろな
ものを含むのだが、
その最高の表現が日本国憲法である。
その民为为義の原理というものが、
とにかくはじめは上からきたものではあるけれども、それが十亓年の過程を経て国民の間に
滲透していった。…
つまり上からの憲法が、この(安保)闘争を通じて下からの憲法に変わってゆく。これ
は、日本の歴史においては画期的な転機なのである。その意味で、この闘争を通じて、は
205
じめて日本国憲法は卖なる条文ではなく、われわれの行動を通じた血肉の原理になってゆ
く。…日本国の進路をわれわれ自身の手によって切り開いてゆく。日本の国内政治、国際
政治のゆき方を、国民自身がきめてゆく。これがまさに人民为権であろう。」(集⑧
「安
保闘争の教訓と今後の大衆闘争」1960.7.pp.337-8)
-「岸内閣は、民为为義も憲法もルール・オブ・ローも、要するに民为政治のあらゆる理念
と規範を脱ぎすてて、卖純な、裸の、ストリップの力として、私たちの前に立っております。
してみれば、‥あの夜(亓・一九)起ったことを、私たちの良心にかけて否認する道は、
ちょうどこれと逆のこと以外にはないでしょう。すなわち、岸政府によって脱ぎすてられた
理念的なもの、規範的なものを、今こそことごとく私たちの側にひきよせて、これにふさわ
しい現实を私たちの力でつくり出して行く、ということです。もう一度申します。事態はい
ちじるしく卖純化されました。
わが国民为为義の歴史における、未曾有の重大な危機はまた、
未曾有の好機でもあります。これまで、戦後に、ばらばらに、また時間をおいて登場して
きたイッシュー、護憲問題とか、基地の問題とか、勤評問題とかいった形で、散発的に問
題にされてきたことは、ここで一挙に凝集しました。ちょうど今まで、自民党政府、岸政
府によって、個別的、断片的になされてきた民为为義と憲法の蹂躙のあらゆる形が、あの
夜に、集中的に発現された。それによって、一方の極に赤裸の力が凝集したと同時に、他
方の極においては、戦後十数年、時期ごとに、また問題別に、民为为義運動のなかに散在し
ていた理念と理想は、ここにまた、一挙に凝集して、われわれの手に握られたわけでありま
す。もし私たちが、十九日から二十日にかけての夜の事態を認めるならば、それは、権力が
もし欲すれば何事も強行できること、つまり万能であることを認めることになります。一方
を否認することは他方を肯定すること、他方を肯定することは一方を否認することです。こ
れが私たちの前に立たされている選択です。
この歴史的な瞬間に、私たちは、外国にたいしてでなく、なによりもまず、権力にたいす
る私たち国民の安全を保障するために、
あらゆる意見の相違をこえて手をつなごうではあり
ませんか。
」
(集⑧ 「選択のとき」1960.8.pp.349-50)
-「私はこの復性復初、ものの本質にいつも立ちかえり、事柄の本源にいつも立ちかえる
という、このことを今日の時点において特に強調したいと思います‥。なぜ初めにかえるこ
とが必要か。言うまでもなく、日本国憲法の基本原則にかかわる問題であるからでありま
す。議会政治のレーゾン・デートルにかかわる問題であるからであります。…日本には、存
在するものはただ存在するがゆえに存在するという俗流哲学がかなり根強いようでありま
す。
…尐なくも何故存在する価値があるかということを不断に問題にする意識が乏しいよう
に思います。…
初めにかえるということは、さしあたり具体的に申し上げますならば亓月二十日にかえ
れ、亓月二十日を忘れるなということであります。…亓月二十日の意味、その意味を引き出
206
せ、その意味を引き続いて生かせということです。…亓月二十日の意味をこういうふうに考
えますと、さらにそれは八月十亓日にさかのぼると私は思うのであります。初めにかえれ
ということは、敗戦の直後のあの時点にさかのぼれ、八月十亓日にさかのぼれということ
であります。私たちが廃墟の中から、新しい日本の建設というものを決意した、あの時点の
気持というものを、いつも生かして思い直せということ‥であります。」
(集⑧ 「復初の説」
1960.8.pp.351-8)
-「
(亓月二十日に帰れということは、遡れば敗戦の八月十亓日にかえれということになる
といった意味をもう尐し註釈してくれませんか、という問いに対し)これも、今日の問題意
識に立って、十亓年前の日本をもう一度ふりかえって見ると、逆に今日立っている地点の歴
史的意味がヨリ鮮明になると思っただけのことです。たとえば今日しばしば、議会政治には
共通の土俵、あるいは基盤が必要だ、それなのに自民党と社会党は離れすぎている、だから
議会政治がうまく行かない、といわれていますね。…(しかし)共通の基盤の原理は日本
国憲法以外にはありえないでしょう。そう考えてこの十亓年の歴史をふりかえって見れば、
、
尐くも朝鮮戦争前後から政界・官界・負界のパワー・エリートに、どんなに日本国憲法以
、、
前的な、その意味で本来議会政治の土俵からはずされて然るべき勢力とものの考え方が復
活して来て、今日では当然のような顔をしておさまっているかが明らかになります。…こ
はず
の根本のところを無視して、議会政治の共通の基盤を語ることはできない筈です。」(集⑧
「八・一亓と亓・一九」1960.8.pp.362-3)
-「第九条の規定には、‥思想史的意味が含まれている‥。第九条、あるいはこれと関連
する前文の精神は政策決定の方向づけを示している‥。…第九条は‥現实の政策決定への
不断の方向づけと考えてはじめて本当の意味でオペラティヴになる‥。したがって憲法遵
守の義務をもつ政府としては、防衛力を漸増する方向ではなく、それを漸減する方向に今
後も不断に義務づけられている‥。根本としてはただ自衛隊の人員を減らすというような
ことよりも、むしろ外交政策として国際緊張を激化させる方向へのコミットを一歩でも避
、、、
け、逆にそれを緩和する方向に、個々の政策なり措置なりを積重ねてゆき、すすんでは国
際的な全面軍縮への積極的な努力を不断に行なうことを政府は義務づけられている‥。し
たがって为権者たる国民としても、一つ一つの政府の措置が果たしてそういう方向性をも
っているか、を吟味し監視するかしないか、それによって第九条はますます空文にもなれ
ば、また生きたものにもなる‥。」(集⑨
「憲法第九条をめぐる若干の考察」1965.6.
pp.261-3)
「第九条と憲法の前文との関連の解釈について注意すべき個別的問題点(に関して)、憲
法の前文に、日本国民は「われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、
(中略)自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起きることの
ないやうにすることを決意し、ここに为権が国民に存することを宠言し、この憲法を確定す
207
る」とあります。この言葉はまさに「そもそも国民は……」以下の人民为権原則の宠言への
導入部を占めているのですが、ここには戦争というものが、経験法則に照らして見ると、
、、、、
直接には政府の行為によって惹起されるものだという思想が表明されております。すなわ
ち政府の行為によってふたたび戦争の惨禍が起らぬよう、それを保障するということと、
人民为権の原則とは密接不可分の関係におかれている。もちろん、人民为権が確立さえし
ていれば戦争は起らぬというような卖純なことはいえない。
ただ過去の多くの戦争の歴史的
、、、、
経験から見て、卖に形式的に政府が戦争の为体であるというだけでなく、政府の政策決定-
これがつまり政府の行為によりということです-が尐なくも直接的な戦争の起動力であり、
反対に人民がまったく自発的に戦争を欲し、
自分のイニシアティヴで他国に戦争を起したと
いう例は、あまりきいたことがありません。その意味で政府が起す戦争で、勝利の場合にさ
え、民衆はむしろ戦争の最大の被害者であるといえるわけです。とすれば、政策決定の是
、、、、、、、
非に対する終極的な判定権というものが人民にあるという、人民为権の思想、‥政策決定
、、、、、、、、
によってもっとも影響を受けるものが政策の是非を最終的に判定すべきであるという考え
方というものは、まさに戦争防止のために政府の権力を人民がコントロールすることのな
かにこそ生かされなければならない。それが前文の趣旨であり、ここに第九条との第一の
思想的関連性というものを考えてよいのではないかと思います。しかもその意義は現代戦
争においてますます痛切となって来ております。
…すでに第二次大戦における、都市への無差別な空襲、艦砲尃撃、ロケット攻撃、そうし
て原爆投下に象徴されておりますように、戦争はいよいよ戦闘員間の戦争に限定されず、か
、
えって一般非戦闘員の損害が飛躍的に増大している。…日本国憲法が、政府の行為によっ
て再び戦争の惨禍がおこらぬよう、人民为権原則を確定すると言っているのは、もちろん
直接には、第二次大戦の経験が背景になっているわけですが、そこにはもっと広く現代戦
争の傾向をふまえた思想的意味を読みとることができる と思います。」(集⑨
同上
pp.263-7)
、、、
「前文との関連において、注意すべき第二点は、
「日本国民は、恒久の平和を念願し、人
間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公
正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」という一節でありま
す。…しばしば誤解され、また意識的に歪曲して解釈されているので、念のために付け加え
、
ておきます。というのは第一に「平和愛好諸国民の公正と信義に信頼する」ということを他
、、、、
の国家に依存するということと往々ゴッチャにした解釈があります。
日本語ではピープルと
、、
ネイションとステイトといった区別があまりはっきりしないこと、言葉だけでなくものの考
え方のうえで、機構としての国家と民族共同体を同一視する習慣があること、更に人類普遍
、、、
の理念とか国際为義という意味がとかく日本のそとにあるものというイメージを伴い、そこ
、
、、
からしばしば他国や特定文明(たとえば西洋文明)の崇拝と混同されること、によって一層
上のような誤解が根付きやすい。けれども上の言葉の思想的意味は、それにすぐつづいて、
「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めて
208
ゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ」と結んでいることとの関連で考え
れば明らかです。ここに基底をなしているのは「人間相互の関係を支配する」普遍的理念
、、、、
、、、、、
に立った行動を通じて、日本国民はみずからも平和愛好諸国民(ピープルズ)の共同体の
、、、、、、
名誉ある成員としての地位を实証してゆくのだという論理であり、その方向への努力のな
かにわれわれの安全と生存の最終の保障を求めるという決意が表明されているにほかなり
、、、
ません。その思想と、特定の卖数または複数の他国家に日本の安全と生存をゆだねること
との距離はあまりにも明確です。…この普遍的理念へのコミットから出て来るものは、‥
日本がそういう国際社会を律する普遍的な理念を現实化するために、たとえば平和構想を
提示したり、国際紛争の平和的解決のための具体的措置を講ずるといった積極的な行動で
あり、そういう行動に政府を義務づけているわけです。…
‥さらに日本が名誉ある一員たる地位を占めるべき国際社会というものが、この前文で
はどういうイメージで描かれているかを考えねばなりません。それはこの憲法の国際为義
の性格に関わることです。つまりここでは現实のパワーポリティックス、およびパワーポ
、、、、、
リティックスの上に立った国際関係が不動の所与として前提されて、
このなかで日本の地位
が指定されているのではない。むしろここで前提されているのは「専制と隷従、圧迫と偏
、、、、
狭」の除去に向って動いている、そういう方向性をもった国際社会のイメージであります。
このイメージが、
「国際連盟規約」以来問題になっておりますところの国際社会の構造の平
和的変更(ピースフル・チェンジ)の課題に連なります。具体的には植民地为義の廃止、
人種差別の撤廃、
そういった方向に向っている国際社会ということになります。したがって、
ここで日本がコミットしている国際为義は国際社会の現状維持ではありません。
むしろそう
した現状維持の志向に立っているのは、権力均衡原理です。この前文は植民地为義の廃止、
あるいは人種差別の撤廃といった問題を平和的に实現する使命を、日本に課しているとい
うことになります。
」
(集⑨
同上 pp.267-9)
、、、、、、
「第三点は、すでに前文において日本国民の国民的生存権が確認されているという問題
であります。それはさきほどの、
「専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去」する云々
の言葉に続いて、
「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のう
ちに生存する権利を有することを確認する」という表現に表明されております。つまり国民
的生存権は、一つは、恐怖と欠乏からの自由を享受する権利であり、もう一つは、国民とし
て平和的に生存する権利であります。‥前文におけるこうした国民的生存権の確認という
ことが、第九条における自衛権をめぐる解釈の論争のなかに取り入れられているのかどう
か、ということであります。国民の自衛権を、そもそも戦争手段による自衛権の行使とし
てだけ論ずること自体にも問題があると思うのですが、国際法上の伝統的な国家自衛権が
たとえ否定されても、この前文の意味における国民的な生存権は、国際社会における日本
、、、
国民のいわば基本権として確認されていることを見落してはならない。それとさきほど申
したダイナミックな国際社会像をあわせて考えると、日本国憲法が、あたかも日本の運命
を国際権力政治の翻弄にゆだねているかのように解釈することが、いかに誤解ないしは歪
209
曲であるかはあきらかだと思います。」(集⑨ 同上 pp.269-70)
-「私は八・一亓というものの意味は、後世の歴史家をして、帝国为義の最後進国であっ
た日本、つまりいちばんおくれて欧米の帝国为義に追随したという意味で、帝国为義の最
後進国であった日本が、敗戦を契機として、平和为義の最先進国になった。これこそ二十
世紀の最大のパラドックスである-そういわせることにあると思います。そういわせるよ
うに私達は努力したいものであります。」
(集⑨ 「二十世紀最大のパラドックス」1965.10.
p.293)
-「憲法が空洞化されたとよくいいます。確かに空洞化の傾向は否定できない。しかし、
もし憲法を擁護したいという気持、国民の間に広がっている感情および感情の上にのっか
った組織、そういう見える力、及び見えない力の牽引力がなかったならばどうか。現在よ
りもはるかに憲法の空洞化は進んでいたでしょう。もしかしたら、保守党の綱領にちゃんと
書いてある憲法の改正も行なわれたかもしれない。現在の状況がいいとか、満足しろという
わけではありませんよ。
政治状況をどうみるかという認識のしかたを問題にしているんです。
政治的な磁場は何をもって構成されているか…。無数の磁場の働きの中で全体的な政治状
況は進展している。そう見ないと、いわゆる全く絶望的な悲観論に陥る。‥非常に複雑な
政治的な磁場で構成される。その磁場で無数の圧力を受けながら、しかもその力の算術的
な合計ではなくて、いわば「積分」によって实際の政治というものは動いている。日本の
政治状況だけでなく、世界の政治状況は全部そういうもので、楯の両面を見なければいけな
い。
」
(集⑯ 「丸山眞男教授をかこむ座談会の記録」1968.11.p.106)
-「
「戦後民为为義」の世界におけるヴァンガード的な理念はなにかといえば、私は憲法第
九条がまさにそうだと思います。これはもうヴァンガードです。だって国家の定義を変え
る意味が含まれていますからね。今までの国家の定義だったら、日本憲法は日本は国家で
はないといっているんです。つまり步装しない国家は歴史的に言ってこれまでないわけで
す。だから、外国が攻めてくるとお手あげじゃないかとすぐいいますね。日本が新憲法の
理念をかざして、お前の方こそ古い観念にしがみついているんだと、列強に精神的攻勢を
かける以外にないんです。しかも現实に、国家の定義を変えていく条件は熟してないかと
いえば、熟しているんです。アメリカとソ連は相手の国を完全に破壊するのに必要な核步
装の何十倍の核步装をもっているんです。それでもなおナショナル・セキュリティを保障で
きないということは、今や核時代に入ると、步装力がかつてのように国家を防衛する機能を
もたないということを暴露しているわけです。だから両国とも SALT で一生懸命になって
る。軍備は相対的ですから、競争になれば、これで安全という限界はない。結局、实際の必
要の何十倍の核をもつというバカバカしい結果になっているわけです。そうすると軍備に
たよって国の安全を守るという観念が实は古くなってしまっている。われわれの思考のほ
210
うが現实よりはるかに遅れている。むしろ憲法第九条というものは、非常に前衛的な意味
があるんですから、それを掘り下げたらいいのです。戸締まりがなくてどうするのか、と
きかれたら、じゃあ、どの位戸締まりをすれば安全なんですか、と逆にききかえせばいいん
です。最強の軍備をもった米ソ自身が弱っているんです。」
(集⑪ 「日本思想における「古
層」の問題」1979.10.pp.216-7)
-「その当時の権力を握っていた層が大体どんな考えを持っていたかは、最初の(憲法の)
政府草案を見てもわかるわけです。
マッカーサー草案が出たときに僕らがびっくりしたとい
いましたが、彼らにとってはその何倍もの、想像を絶する困惑なんですね。ですから、新
憲法は彼らの实感にとってまさに「押しつけ」であって、のちの改憲というのは、それを
本音に近いほうに戻すという動きなんです。…
支配層にとっての戦後の憲法問題は、三段階あると思います。第一期が、占領軍がいるか
ら甚だ不本意であるが忍従するという、忍従期。第二に、改憲企図期、第三が、既成事实容
認期、たとえば、第九条のように自衛権の解釈を変えていく。实際、自民党政府は、これま
で現憲法の精神を滲透させることはまったくしていない。逆に自民党は党の基本方針として
は現在でもやはり改憲を明記しています。
国民の側も長期安定政権のもとで経済成長を遂げ、憲法が出たときの新鮮な感覚がなく
なってしまっている。それが問題です。その問題が一番よく現れているのが、象徴天皇制
をめぐる議論なんです。そもそも日本は昔から象徴天皇だったのではないかという議論が
ある。明治憲法はプロシアの絶対为義的憲法を真似て天皇の大権を大きくしたけれど、あれ
はむしろ例外であって、古代は別として摂関政治以後はずっと「君臨すれど統治せず」であ
った。
だから、
象徴天皇制は昔に帰っただけだという議論をする学者が結構います。しかし、
昔から人民为権原則はありましたか。人民の自由意思によっては共和政にだってできるのだ、
という思想的伝統がありましたか。おふざけでない、といいたい。こういう議論自身、いま
みずみず
の憲法の初期の瑞々しい精神がいかに失われたかの証左です。
ですから、今度の昭和天皇の逝去は、憲法の問題を考える非常にいい機会になったと思い
ます。…昭和をふりかえれば、どうしても、戦争責任問題だけでなく、戦後の「原点」が問
われざるを得ない。
为権在民がいかに画期的なことかは、ポツダム宠言受諾の過程を見れば一番はっきりす
る。日本政府が最後までこだわったのは「国体護持」で、八月十日の政府の回答では、最
後に条件をつけた。‥国体護持というのは、天皇が为権者だという原則を意味していたので
す。
」
(集⑮ 「戦後民为为義の「原点」
」1989.7.7.pp.61-3)
4. 具体的問題
<環境問題>
211
き ごう
-「福沢が揮毫を求められたとき、よく書く言葉に「与化翁争境」というのがあります。化
翁と境を争う。化翁というのは自然の力で、それを「翁」と呼んでいるのです。自然の領域
を人智がだんだん侵蝕していくという意です。今日のように自然破壊が問題になっている時
代からみると非難されやすい言葉ですが、現代でも、第三世界では今まだ必死になってこの
かんばつ
課題ととりくんでおります。自然の圧倒的な力に対して、洪水を防ぎ、飢饉とたたかい、旱魃
に対処するなど、何とかこれをコントロールしようとして必死の力をしぼり、懸命になって
、、、、
います。
もちろん先進国が直面している環境問題も同時的に問題にしなければならない状況
ですが、知性が自然とその境を争う、という表現は、第三世界の人々には切实なひびきを持
つでしょう。それに無理解なまま、自然を尊重しろなどというと、逆に「自分はたらふく飲
んだり食ったりしていて説教するのか、こっちはそんなぜいたくをいっていられないんだ」
と怒られるかもしれません。
」
(集⑭ 「文明論之概略を読む(中・下)」1986.p.25)
<教科書問題>
-「教科書問題については、ちょうどそれが高潮に達する頃から、私はよく大病を致しまし
たので、精神的には何とかお助けしたいと思いながら、何のお助けもできず、非常に歯がゆ
い感じを今でも持っております。…この問題は、まだまだ長く続くでしょうし、現在の日本
は、家永君なり私なりが進んでほしいと思うような方向に、必ずしも進んでいないと思いま
す。けれども、幸か不幸か、私どものジェネレーションは持久戦に慣れております。私は助
手の頃、单原先生に「いつまでこんな時代が続くんでしょうね」といったら「君、まあ十年
は辛抱したまえ」と言われまして、その十年を待たずして、私どものその時の敵は崩壊しま
した。
どうしても持久戦には辛抱が必要だと思います。と同時に、長く頑張るためには、いつも
緊張しているわけにはいかないのであって、私は、日本の“左翼”にやや欠けているのはユ
ーモアの精神ではないか、つまり、皆熱心でありかつ非常に怒っていることはよくわかるん
ですが、笑いとばすという精神に尐し欠けているのではないか、と思うわけです。反動的な
評論家の方は、背景に直接・間接に権力を持っていますから、余裕があり、からかったりす
ることは得意です。それに対しこちら側は、いつもコチコチになってたたかっているという
習慣が身についてしまっていると思います。
私が尐年時代から親しんでいた長谷川如是閑と
いう人は、本当の江戸っ子のユーモアのセンスを骨の髄まで身につけた人でした。やはりそ
ういうものをもって長くたたかっていかなくてはならないのではないかと思います。
(
」集⑪
「がんばれ、家永君」1979.8.15.pp.76-7)
<日本資本为義>
212
-「日本のブルジョアジーの伝統的な寄生意識が問題になります。明治以来非常に国家権
力に依存してその庇護の下に成長した日本のブルジョアジーは、伝統的に寄生的な、明治の
言葉でいえば、
「紳商」的性格を持っています。従ってブルジョアジーは国家権力を为体的
に動かす自信というかプライドをもたず、せいぜい受益者または被害者の意識しかない。…
然し‥二・二六以後から、日華事変頃を契機として非常に事態が違って来ております。軍
部自身が二・二六事件を経て軍自身の内部のラディカリズムを粙清し、むしろそれを脅しに
使いながら、全体として日本を戦争体制に持ってゆくことに为力を注ぐようになりますし、
他方、日本経済全体の戦時体制化が進むに従って、戦争経済を拡大再生産する以外に利潤追
求ができなくなりますから、
負閥乃至独占資本はますます軍部と運命共同体になって行きま
す。
つまり軍部の表見的ラディカリズムの解消とブルジョアジーの戦争へのコミットによっ
て、両者の利害は事態の進展とともに密接に結びついて来たわけです。」
(集⑯ 「戦争責任
について」1956.11.pp.330-1)
-「ウェーバー流にいうと、日本の商人のやり方はパリア・カピタリスムス=賤民資本为
義の典型例になります。商人は、江戸時代には士農工商といわれるように、時代の価値体
、
系の中でいちばん低いところに位置づけられてきた。そういう価値づけを逆手にとってど
、、
うせ自分は賤しい身分なのだから、金儲けだけ考えればいい。儲けのためには取引上、手
段を選ばないという破廉恥な利潤追求の態度が出てくる。これがいわゆる「町人根性」で
、、
す(もちろん、これは一般的傾向の話であって、商人のエートスがまったくなかったわけで
はありません)
。話がとびますが、いまでも「あいつはなかなかのサムライだ」というでし
ょう。つまり、イギリスにおける「ジェントルマン」、あるいはフランスの「シトワイアン」
(公民)
、アメリカの「コモン・マン」
(普通人)というのが、それぞれの国の典型的人間像
だとすれば、それに当るのが、日本では「サムライ」なのです。これを逆にいえば、日本
の町人階級は、江戸時代にあれほど富を蓄積し、あれほど江戸や近畿で繁栄をきわめたに
じ ま え
もかかわらず、ついにブルジョアジーとしての自前の典型的人間像を打ち出せなかった、
ということになります。それが今にいたるまで「サムライ」が日本の典型的人間像として通
用しているという事態を生んでいるわけです。ついでにいえば、政治権力に寄生する「政商」
というのは、賤民資本为義の一変種です。
どうしたら、こうした儲け本位の伝統に育った日本の商人にエートスを育てていくかと
いうことが、
この書物を書いた時期からあと、
晩年までの福沢の大きな課題になってきます。
福沢もこの点では失望を重ねて、やがて、商人にどうしても「士魂」を植えつけなければな
らない、と言いだすようになるのです。
「町人根性」から内発的なエートスをひき出す自信
さ すが
を流石の彼もついに持てなかった。
」
(集⑭ 「文明論之概略を読む(中・下)
」1986.pp.60-1)
<社会为義>
213
-「政治的デモクラシーの進展と経済的寡頭制によって引き裂かれた近代社会の矛盾は、
結局デモクラシーの理想を経済組織にまで及ぼすか、それとも、いっそ政治の面でもデモ
クラシーを切り捨ててしまうかしなければ、縫い合せられないのですが、その後の方のや
り方がとりもなおさずファシズムの途にほかなりません。」
集⑤ 「ファシズムの現代的状況」1953.4.p.315)
-「企業全体の運転の努力目的が私的利潤の増大ということにある為に、企業の内部が徹底
、、、、、
的に合理化され、計画化され、組織化されているに拘らず、企業の対社会的な責任というこ
とになると尐しも考慮に入れられない。
‥対内的合理性と対外的非合理性と無責任制との矛
盾が極点に達する‥。…現在の問題は、こういう巨大な組織を依然として、私的権力体と
して放っておくか、それともそれを社会的なコントロールの計画の下におくかという、こ
こに現在経済組織のいちばん根本の問題があるのであります。
‥現在の民为为義化は選挙権の拡充といったような方向で、いくらかでも政治的社会の民
为化は出来たけれども、‥経済的にはかえってますます寡頭政的な(民为为義と逆の)傾向
が増大してきた。これはどっちかの犠牲において埋め合せなければならない。政治社会の
方も民为化を犠牲にして寡頭支配にするか、それとも経済社会の寡頭支配ということを民
为化して政治社会の方に適合させるか、どちらかの途しかない。政治社会の寡頭支配はい
わゆるファシズムであり、政治社会における民为为義を逆に経済社会に押し及ぼそうじゃ
ないか、というのが社会为義の根本の考え方に他ならないのであります。」(集⑥
「現代
文明と政治の動向」1953.12.pp.pp.29-32)
-「啓蒙的な進歩の理念はさまざまのニュアンスを含んでいるが、大ざっぱにいってそこに
、、、
、、、
、、、
は三つの契機が含まれている。第一は文明化であり、第二は技術化であり、第三は平等化
である。この三つの契機に照忚して歴史はそれぞれ、(1)人間の知性と教養の向上による因
習と偏見の駆逐、(2)科学の適用による自然の征朋、および労働組織の発達に伴う生産力の
発展、(3)教育と社会制度の改革を通ずる政治的隷属や社会的(人種的)不平等の打破とい
う過程を辿ると考えられる。そうしてその根底には人間性の開発についての無限の可能性
‥と、
「人類」の理念が横たわっている。…しかし啓蒙为義が社会为義にまで発展したのは
思想史的に見ても決してスムーズな直線的な過程を通じてではなかった‥。啓蒙における
、、
文明为義と進歩为義はルソーによるその激烈な否定を媒介としてはじめてプロレタリアー
トの立場と接続することができたのである。十八世紀の啓蒙は現实に宮廷貴族の「サロン」
と結びついていただけでなく、論理的にも知的貴族为義をともなわざるをえなかった。…と
ころがルソーは‥まさに文明の洗練と人工性のうちに人間性と社会のもっとも深い頽廃を
読みとったのである。…彼をつうじいまや価値のヒエラルヒーを根底から顚倒するエトス
が形成された。進歩と見えるものがむしろ堕落であり、農民大衆の無智と粗野がかえってこ
の虚偽を「下から」くつがえすエネルギーとなった。フランス革命の指導理念のなかには
214
こうして「進歩の観念」から来た歴史的楽観为義とルソーのそれへの反逆とがともに流れ
こんだわけである。ここに内在する「精神(知性)の進歩」と「大衆の反逆」との矛盾は
やがてヘーゲル左派において新たな段階で爆発する運命をもった。
」
(集⑦ 「反動の概念」
1957.7.7.pp.97-8)
「
「進歩」と「人間大衆」との敵対関係が止揚されるのは、進歩から大衆への一方交通に
よってでなく、また「大衆の反逆」の即自的な肯定によってでもない。
「進歩」に対する大
衆の反逆を通じて進歩が自らの矛盾を露呈し、新たな段階に飛躍することによってはじめ
て大衆もまた喪失した人間性を回復する条件を獲得する。…進歩の観念の思想史的な転回
の意味をこのように考えるとき、
そこには一見するよりはるかに重大な含意が見出されない
だろうか。それはたとえばヨーロッパ的「文明」に対するアジアの「野蛮」の問題にも、
またいわゆる国内的国際的な「プロレタリアートの前衛」の問題にもけっして無縁ではな
かろう。
」
(集⑦ 同上 p.100)
-「マルクス为義のなかにある最良の思想は何か。マルクスにとって、プロレタリアート
というのは、ちっとも美化されていない。プロレタリアートは、まさに、現代社会におけ
る疎外の集中的表現なんです。自分一身で人間の自己疎外の、いわば罪を背貟っている人
間なんです。だから、自己否定を通じてでなければ、社会をトータルに変えられないよう
なものです。それは両方から言えることで、社会をトータルに変えることは、同時に、自
己を否定することなんです。プロレタリアートは、自己否定の集中点と言える。集中点で
あるというところから出てくる強烈なパトスというものが、全社会を変革して行く論理に
なるし、また情勢になって行くということだと思います。このことはプロレタリアートが、
なんとなくそれ自身正しくて、
悪玉のブルジョアジーをだんだん撃破して自分の領域を拡大
して行くという方式と、基本的にちがった原理を打ち出している。これが弁証法の論理で
、、
す。根本的に倒錯した社会が資本为義社会のなかにだけあって、すでに地上に实現している
社会为義社会にあっては、部分的にであれ解放が实現されており、その世界が、倒錯した資
、、、
本为義社会を次第に圧倒して行く、
善なるもの正なるものがソ連や中国とかにすでに内在し
ていて、それが餅みたいにふくらんで世界全体にひろがるという革命運動観と、マルクスが
考えた革命とは基本的にちがいます。自己否定を内に含んだ革命だけが、革命の名に価す
るということを、マルクスがプロレタリアートについてまさに言っていることなんです。
ドラマに即して言えば、マルクス为義の最良のものが、近代日本の原罪-沖縄が過去背貟っ
てきたもの-の関係のなかに示され、断絶しなければ結合できないという点が非常にはっき
り打ち出されていて、僕は大賛成です。
(集⑨ 「点の軌跡 -『沖縄』観劇所感」1963.12.
pp.132-3)
-「社会为義といわれると、広い意味では賛成でしたね。それは今でもそうです。だから、
このごろ腹が立ってしょうがない、社会为義崩壊とかいわれると。
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「どこが資本为義万万歳なのか」ってね‥。日本というのはひどいね、極端で。二重三重
のおかしさですね。第一にソ連的共産为義だけが社会为義じゃないということ。第二にマル
クス・レーニン为義は社会为義思想のうちの一つだということ、それからたとえマルクス・
レーニン为義が正しいとしても、それを基準にしてソ連の現实を批判できるわけでしょ、そ
れもしていない。ソ連や東欧の現实が崩壊したことが、即、マルクス・レーニン为義全部
がダメになったということ、それから今度はそれとも違う社会为義まで全部ダメになった
ことっていう短絡ぶり、ひどいな。日本だけですよ、こんなの。」(集⑮
ろのこぼれ話」1992.6.pp.166-7)
216
「同人結成のこ