「野生の思考」について

「野生の思考」について
私の論文『日本的精神と中村雄二郎の「リズム論」』の 第2章第3節『「リズム論に基
づく生活」について 』の「2」において詳しく説明したが、その要点は、次のとおりで
ある。すなわち、
『 形而上学的にいえば、二度の革命的 変化があるという。第一次が一神教の成立がも
たらした宗教によって思考のしかたが変り、思考能力がある程度セーブされた。自由奔放
な流動的知性というものが、これを中沢新一はレヴィ・ストロースに敬意を表して「野生
の思考」と呼んでいる。』
『 「野性の思考」は日常的な生活を支配し、「宗教的思考」は非日常的生活を支配して
いた。それらの違いははっきりしているが、違いを認めつつ思考は流動的である。それ
は、山口昌男のいう「両義性の論理」に通底するものがあるのであるが、中沢新一はそれ
を「対称性社会の知恵」だと呼んでいる。』
また、私は「新たな勉強」という論考の『 1、淮南子(えなんじ)の思想について』
で、「 金谷治の書いた「淮南子(えなんじ)の思想・・・老荘的世界」(1992年2
月、講談社)を読んで私がいちばん強く思うのは、老荘思想のような物凄い思想が何故あ
のような「辺境の地」に誕生したかということである。それは、私の思うに、グノーシス
の力による。」と述べ、「グノーシス」の説明にリンクを張ったが、「グノーシス」をひ
と言で言えば、「辺境の地」において「文明」と「野蛮」の統合が起こるが、その統合さ
れた思考が「野生の思考」である。
以上をさらに要約すれば、「野生の思考」とは、宗教によって思考能力がある程度セーブ
される以前の自由奔放な流動的知性であるし、また「グノーシス」によって統合された思
考ということになるが、これでは「野生の思考」を判りやすくかつ正確に説明したとは言
い難いように思う。そこで、私は、今ここで、「野生の思考」とは「宮沢賢治の思考のよ
うなもの」と理解する事にする。
中沢新一はその著書「ミクロコスモス1」(2007年4月、四季社)において、「宮沢
賢治は理想の農場をつくり、そこを人間と動物、人間と自然のあいだに生み出されるべき
通底路をつくりたかったのだと思います。」と言っているが、そのような農場とは、「宇
宙との一体感を直感する」、そのことが可能な「場」としての農場だと私は思う。宇宙と
の一体感とは、動物や自然との一体感のことである。
さらに、 中沢新一はその著書「ミクロコスモス1」(2007年4月、四季社)におい
て、『 トーテミズムの体系は、人間と自然とのあいだに失われた永遠の関係を回復する
ことによって、宇宙のなかの人間の位置について、全体を直観する知性をあたえようとし
てきたのである。「野生の思考」という本(レヴィ・ストロース)には、このようなトー
テミズムの世界の豊かさが、たぐいまれな思考力と文章力によって、みごとに表現されて
いる。』と述べているが、私たちのおなじみの人でいえば、宮沢賢治こそ「野生の思考」
を身につけた人であったと思う。多くの方は、宮沢賢治といえば、どういう人であるかを
イメージできるし、「宮沢賢治の思考のようなもの」といえば、どのような思考かをイ
メージでできる。
以上が、「野生の思考」とは「宮沢賢治の思考のようなもの」と理解する所以である。草
野心平の思考もおなじようなものである。
なお、 中沢新一はその著書「ミクロコスモス1」(2007年4月、四季社)において、
『 チベットの先生は、「あなたは過去の生において、カンガルーというあの奇妙なオー
ストラリアの動物だったことがあります。』と言ったことを紹介した上で、『ぼくはオー
ストラリアの砂漠に住むカンガルーで、夜明けから日没まであきもせず目の前にあるあの
赤い山を見つづけていた』と述べているが、チベットの先生も中沢新一も「野生の思考」
の身についた人であったのであろう。こういう「野生の思考」についての哲学的説明とし
ては、田邊元の「種の論理」がある。
私は、今後多くの人によって「野生の思考」に関係のある思想や哲学が書かれることを大
いに期待しながら、論文「日本的精神と中村雄二郎のリズム論」の第2章第3節の「4」
に、「野生の思考」と関係のある思想や哲学をピックアップしておいたので、「野生の思
考」については、上述の新たな説明の他にそれらも参考にしていただければありがたい。