授業配布資料

哲学・思想の基礎」(石田)配付資料 7
7.正義を考える その 7: リベラル・リバタリアン・コミュニタリアン論争(2)
7.1 サンデルのリベラリズム批判
リベラリズムに対する、コミュニタリアニズム側からの批判として、まずサンデルの批判を取り上
げる。ただし、サンデルは自分を単純な意味でコミュニタリアンとは考えていない。サンデルは、現
代のリベラリズムがコミュニティについての不十分な説明をしているので、それを彼が批判する限り、
自分はコミュニタリアンと呼ばれてよいと考える。しかしながら、多くの点で、その名称は誤解を招
く、と述べている。つまり、コミュニタリアニズムが多数決主義(majoritarianism)の別名、あるいは、
いかなる所与のコミュニティにおいても、またいかなる所与の時においても、優越する価値に権利が
依拠すべきであるという考えの別名である限り、それはサンデルが擁護しようとする見解ではない(サ
ンデル『リベラリズムと正義の限界』v-vi 頁参照; Cf. p.ix-x; 『公共哲学』372 頁参照; Cf.p.252)。
(1)道徳的個人主義
サンデルはリベラリズムを道徳的個人主義として特徴づけ、それのもつ「同意と自由な選択」(consent
and free choice)を批判する。カントの自律的意志という発想とロールズの無知のベールに覆われた仮説
的同意という発想には、次のような共通点がある。いずれも道徳的行為者を独自の目的や愛着
(particular aims and attachments)から独立した存在と考えている。道徳法則(カント)を望むとき、あるい
は正義の原理(ロールズ)を選ぶとき、われわれは自分の役割やアイデンティティ、つまり自分を世界
のなかへ位置づけ、それぞれの人となりを形づくっていることを考慮しないのである。われわれは自
由に選択する独立した自己であるという考え方は、次のような発想の土台になっている。つまり、人
間の権利を定義する正義の原理は、特定の道徳的あるいは宗教的概念に基づくべきではなく、善良な
生活について対立するさまざまな観念に対して中立であるべきだという発想である(サンデル『これから
の「正義」の話をしよう』276-278 頁; p.213-215)。
正しさの道徳性は自我の境界に対応し、われわれを識別するものを表しているのに対して、善の道
徳性とは、人格の統一性に対応し、われわれを連結するものを表している。義務論的倫理学では、正
しさが善に優先することは、われわれを分離するものが何らかの重要な意味で、われわれを連結させ
るものに優先する。われわれはまず「独自の個人」(distinct individuals)であって、ついで他者と関係し、
協働の調整を請け合う。それゆえ、多元性は統一性に優先している。われわれはまず所有の乏しい主
体であり、ついで所有する目的を選択する。それゆえに、自我はその目的に対して優先している(サン
デル『リベラリズムと正義の限界』153-154 頁参照; Cf. p.133)。
カントとロールズにとって、善良な生活に関する特定の考え方に基づく正義の理論は、その考え方
が宗教的であれ、世俗的であれ、自由とは相容れない。そうした理論は他人の価値観の押しつけとな
るため、目的と目標を自分で選べる、自由で独立した自己として人間を尊重しない。自由に選択でき
る自己は中立的国家と密接な関係がある。われわれはまさに自由で独立した自己であるがゆえに、ど
んな目的にも中立な、道徳的・宗教的議論でどちらにも与しない、国民〔市民〕がみずから自由に価
値観を選べるような権利の枠組みを必要とする。中立的枠組の魅力は、まさに、より好ましい生き方
や善についての考え方を断定しない点にある(サンデル『これからの「正義」の話をしよう』279-280 頁;p.216)。
正しさを善より優先すべきかどうかという論争は、究極的には人間の自由の意味を問う論争である。
カントとロールズがアリストテレスの目的論を退けたのは、みずから善を選ぶ余地が与えられないよ
うに見えたからである。アリストテレスは正義を、人間とその本性にふさわしい目的や善との間の一
致の問題として見ている。だが、われわれは正義を、一致ではなく選択の問題として見る傾向がある。
善良な生活の概念に対して正義は中立的であるべきだという考え方は、人間は自由に選択できる自己
(freely choosing self)であり、従前の道徳的束縛から自由であるという発想を反映している(サンデル『こ
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れからの「正義」の話をしよう』282 頁;p.218)。
戦争責任や過去の奴隷制についての謝罪はどのように考えられるべきであろうか。このとき問題に
なるのは、道徳的個人主義である。過去の世代が起こした戦争や奴隷制に現在の世代は謝罪すべきで
あろうか。これには当然反対論がある。サンデルによれば、この反対論の根底にあるのは、われわれ
は自分がすることにのみ責任を負い、他人の行為にも、自分の力の及ばない出来事にも責任はないと
いう考え方である。両親や祖父母の罪について釈明する義務はないし、さらにいえば、同胞(compatriot)
の罪についても同様である。公式謝罪への原理的反対論が重要なのは、それが「道徳的個人主義」(moral
individualism)という道徳的に強力で魅力的な考え方に拠っているからである。道徳的個人主義の原理
は、人間は利己的だと仮定しているわけではない。道徳的個人主義者にとって、自由であるとは、み
ずからの意思で背負った責務のみを引き受けることである。他人に対して義務があるとすれば、何ら
かの同意―暗黙裡であれ公然とであれ、自分がなした選択、約束、協定―に基づく義務である(サンデ
ル『これからの「正義」の話をしよう』275-276 頁参照; Cf. p.212-213)。
私の責任は私が引き受けたものに限られるという考え方には、解放感がある。この考え方は、われ
われは道徳的行為者として「自由で独立した自己」(free and independent self)であり、従前の道徳的束
縛から解き放たれ、みずからの目的をみずから選ぶことができるという前提に立っている。習慣でも
伝統でも受け継がれた地位でもなく、一人ひとりの自由な選択が、われわれを約束する唯一の道徳的
責務の源である。このような自由観には、連帯責任(collective responsibility)も、前の世代が犯した歴史
的不正の道徳的重荷を背負う義務も、ほとんど入る余地がない(サンデル『これからの「正義」の話をしよ
う』276 頁; p.213)。
(2)負荷なき自己と位置ある自己
サンデルは、リベラリズムとコミュニタリアニズムの論争を、
「負荷なき自己」(unencumbered self)
と「位置ある自己」(situated self)との論争とも呼んでいる。この論争は、政治の領域では、
「権利の政
治」(politics of right)と「共通善の政治」(politics of common good)の論争になる。リベラリズムとコミ
ュニタリアニズムの立場は、同じ政治に賛成するにしても、異なる主張を展開することがある。サン
デルの挙げている例では、1960 年代の公民権運動(civil rights movement)について、リベラル派は人間
の尊厳と人格の尊重の名の下にそれを正当化し、コミュニタリアンは国民の共同生活(common life of
the nation)から不当に排除された同胞(fellow citizens)に全面的な成員資格を認めるという名目でそれを
正当化するかもしれない。また公教育については、リベラル派が学生に自律的個人 (autonomous
individuals)となるための素養を与え、自分なりの目的を選択し、それを効率的に追求できるようにな
ってほしいとの願いからそれを支援するのに対し、コミュニタリアンは学生に善き市民(good citizens)
となるための素質を与え、公共の討議と営為に有意義な貢献ができるようになってほしいと願ってそ
れを支援するのかもしれない(サンデル『公共哲学』230-231 頁; p.153-154)。
この論争で特に問題になるのが、共通善の政治である。サンデルによれば、リベラル派はしばしば、
共通善の政治は、特定の忠誠(loyalties)、義務、伝統に頼らざるをえないため、偏見と不寛容(intolerance)
への道を開く、と主張する。善の構想によって統治を行おうとすれば、坂道を転げ落ちるように全体
主義へと誘い込まれる可能性が高い(サンデル『公共哲学』232 頁; p.154)。これに対して、コミュニタリア
ンは次のように反論する。不寛容が蔓延するのは、生活様式が混乱し、社会への帰属意識がゆらぎ(roots
unsettled)、伝統が廃れるときである。現代において、全体主義の衝動は、確固とした位置ある自己の
信念から生じているわけではない。そうではなく、ばらばらにされ(atomized)、居場所を失い、フラス
トレーションを抱えた自己の困惑から生じている。公共生活(public life)が衰退する限り、われわれは
共通の充足感を徐々に失い、全体主義を解決策とする大衆政治に陥りやすくなる(サンデル『公共哲学』
232-233 頁; p.155)。
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7.2 マイケル・ウォルツァーのリベラリズム批判―リベラリズムの修正としてのコミュニタリアニズ
ム―
マイケル・ウォルツァーは、コミュニタリアニズムはリベラリズムを前提とし、その修正として成
り立つと論じる。ウォルツァーによれば、コミュニタリアニズムは、(独立した教義ないしは実質的な
政治綱領としてよりもむしろ)リベラルな理論と実践に対する修正としてもっともよく理解しうる (ウ
ォルツァー『政治と情念』2 頁参照; p.x)。こうしてウォルツァーは、現代のリベラリズムを内在的に批判し、
コミュニタリアン的修正をそれに加えようとしている。コミュニタリアニズムは、リベラルな共同体
の存在を前提としたうえで、リベラリズムに特有の人びとの結びつきを解く傾向に対する周期的で反
復的な批判として意味をもつ。リベラルな国家の枠組みのなかで、特定の種類のアソシエーションを
維持し、強化するための理論的・実践的営為がコミュニタリアニズムである(ウォルツァー『政治と情念』
訳者あとがき、279、283 頁参照)。
(1)コミュニタリアンのリベラリズム批判
今日のリベラリズムに対するコミュニタリアン的批判には二つがある。その一つは、主としてリベ
ラルな実践を標的としており、もう一つは主としてリベラルな理論を標的としている(ウォルツァー『政
治と情念』236 頁参照; Cf.p.143)。
a.第一の批判―断片化した社会の病弊の反映
第一の批判は、リベラルな政治理論はリベラルな社会の実践を正確に表現している、と主張する。
現代の西洋社会(とりわけアメリカ合衆国の社会)は、根本から孤立した個人たち、合理的なエゴイスト
たち、そして実存主義的な行為主体の住処(home)である。つまり彼あるいは彼女らのもつ譲渡不可能
な諸権利によって保護されると同時に分断された男女の住処である。リベラリズムは、
「非社会的な社
会」(asocial society)についての真実を伝えている。その社会を作り出しているのはリベラルたちであ
る。―リベラルたちの理論は、彼らが無からその社会を作り出すかのように語るが、実際にはそうで
はなく、彼らはさまざまな伝統、共同体そして権威に対する闘いの中でその社会を作り出している。
リベラルな社会の成員はいかなる政治的な伝統も宗教的な伝統も共有していないとされる。彼らが自
分自身について語ることができる物語は一つだけであり、それは自然状態または原初状態で始まる無
からの創造という物語である。各々の個人は自分が絶対的に自由で、
「負荷をもたず」(unencumbered)、
そして自立している(on his own)と想像する。彼は、共同体から切り離され、自分自身のなかに引きこ
もり、自分の私的な利益に完全に心を奪われて、自分の私的な気まぐれに従って振る舞う個人である
(ウォルツァー『政治と情念』236-238 頁参照; Cf. p.143-144)。
「自発性」(willfulness)によってのみ構成され、あらゆる結びつきから解放され、共通の価値(common
values)、紐帯となる絆、習慣あるいは伝統をいっさいもたないといった個人の自画像は、価値の欠如を
具体化したものである。個人は自らの権利を享受しており、社会は孤立した自己の共存にまで縮減さ
れると想像してみよう。個人たちは具体的には、分離、離別、退却、孤独、プライヴァシー、そして政
治的無関心(political apathy)といったもので表現される。リベラルな社会では、男も女も、もはやいか
に生きるべきかをそこで学ぶことができる単一の道徳的文化へのアクセスをもっていない。リベラル
な社会では、善い生活の本性をめぐっていかなるコンセンサスも、いかなる「公共の合意」 (public
meeting-of-minds)も存在しない(ウォルツァー『政治と情念』238-239 頁参照; Cf. p.144-145)。
われわれリベラルは選択する自由をもち、選択する権利をもつ。しかしわれわれは、自分たちの気
まぐれな利益と欲求についてのわれわれ自身の気まぐれな理解のほかには、われわれの選択を制御す
る基準を何ももっていない。したがって、われわれの選択は、首尾一貫性や連続性という質を欠いてい
る。こうしてリベラルな社会は、断片化しているがわかる。しかし共同体はそれとは正反対であって、
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首尾一貫性と、結びつき(connection)と語りの能力(narrative capacity)の住処である(ウォルツァー『政治と
情念』239-240 頁; p.145)。
b.第二の批判―社会の深層構造に対する理解の欠如
第二の批判は、リベラルな理論は現実の生を根本的に間違った仕方で表現していると主張する。世
界はリベラルな理論が表現するようなものではないし、またそのようなものではありえない。あらゆ
る社会的絆から切り離されて、文字通り負荷をもたず、一人ひとりが彼あるいは彼女ら自身の生の唯一
の発明者であって、その発明を導くいかなる基準も、いかなる共通の尺度ももたない男女たち―この
ようなものは神話の登場人物である(ウォルツァー『政治と情念』241 頁;p.146)。
人間社会のなかで生まれた個人が、さまざまな関係のパターン、権力のネットワーク、意味の共同
体のなかに捉えられているのを見出すことは、人間社会の本性に属する。何かに捉えられているとい
うその性質が、個人を何か一定の種類の人にするものなのである。しかる後に初めて個人は、いやお
うなしに彼らのものであるパターン、ネットワーク、共同体の枠内で、彼らが何者であるかを反省し、
多少なりとも独自の仕方で行為することによって、彼ら自身を(わずかばかり)異なった種類の人にす
ることができるにすぎない(ウォルツァー『政治と情念』242 頁; p.146-147)。
この第二の批判の要点は、たとえリベラルな社会であっても、その「深層構造」(deep structure)は実
際にはコミュニタリアン的だということである。リベラルな理論はこの現実を歪曲している。そして
われわれがリベラルな理論を採用する限り、その理論はわれわれ自身が共同体に埋め込まれていると
いう経験にすでにアクセスする機会を、どれもわれわれから奪ってしまう(ウォルツァー『政治と情念』242
頁; p.147)。
(2)リベラリズムの奇妙な両義性
ウォルツァーはアメリカ合衆国のような社会のあり方に注目して、その特徴を四つ挙げて論じてい
る。われわれは(アメリカ合衆国において)個人が相対的にみて社会的絆から離れて相互に分離された
社会に、あるいはより正しくは、個人がお互いから離れつづけてゆく、しばしば孤独でそして明らか
にランダムな動きの中にいつづける社会に住んでいる。したがって、われわれは「根本的に安定を失
った社会」(profoundly unsettled society)に住んでいる(ウォルツァー『政治と情念』245 頁; p.148)。ウォルツ
ァーは、社会の流動性として地理的流動性、社会的流動性、婚姻上の流動性、政治的流動性の四つを
挙げている(ウォルツァー『政治と情念』245-248 頁参照; Cf. p.148-150)。
個人の運動に注目するならば、リベラリズムは、この個人の運動の理論的な是認および正当化であ
る。したがって、リベラルな見解によれば、四つの流動性が表すのは、
「自由の法制化」(enactment of
liberty)であり、
「私的または個人的な」幸福の追求なのである。このように考えるかぎり、リベラリズ
ムとは紛れもなく人々に支持された主義主張(popular creed)である。ここで述べられた四つの分野にお
ける流動性を縮小しようとするどんな試みも、国家権力の大規模で激烈な適用を要求する。それにも
かかわらず、リベラリズムの人々の人気(popularity)には、周期的に表明される悲嘆と不満という隠れ
た側面がある。そしてコミュニタリアニズムとは、もっとも単純にいえば、これらの感情の周期的な
表明のことなのである (ウォルツァー『政治と情念』248 頁参照; Cf. p.150-151)。
リベラリズムは一つの奇妙な教義である。それはつねに自分自身を掘り崩し、それ自身の伝統を蔑
み、そして歴史と社会の両方からの、より絶対的な自由に向けた新たな希望を世代ごとに作り出そう
とする。ロックからロールズにいたるリベラルな政治理論の大部分は、リベラルな解放の果てしなさ
に終止符を打つために、その教義を固定し安定させようとする試みである。しかし、その時々に流行
しているリベラリズムの先に、いつでも一つのスーパーリベラリズムのようなものがある。リベラリ
ズムは、絶えず境界を踏み越えてゆく自己から成る共同体を要請する。こうしてウォルツァーによれ
ば、リベラリズムは「自らを転覆させる教義」(self-subverting doctrine)である。まさにこの理由のゆえ
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に、リベラリズムは定期的なコミュニタリアン的修正を必要とする。しかし、ウォルツァーは、リベラ
リズムが、何らかのリベラリズム以前の、または反リベラルな共同体によってが取って代わられうる
と示唆することは、有益な修正ではない、と考える。ウォルツァーは、独立し、さまざまな権利をも
ち、自発的アソシエーションを作り、自由に言論を行使する、リベラルな自己の重要性を認める。その
際、彼は、そうしたリベラルな自己に、彼ら自身を社会的存在として、すなわちリベラルな諸価値の歴
史的所産として、そして部分的にはそれらの価値を体現するものであることに気づかせることが重要
だと述べる。というのも、リベラリズムのコミュニタリアン的な修正は、それらの価値の選択的な補
強以外のものではありえないからである。(ウォルツァー『政治と情念』S.252-254 頁参照; Cf.p.153-154)
(3)リベラルな社会結合と国家の役割
ウォルツァーは、
「自発的なアソシエーション」(voluntary association)というリベラルな観念に注目
する。その理論と実践の両方において、リベラリズムは「結びつきを解く傾向」(dissociative tendencies)
と並んで、
「強い結びつきを作る傾向」(strong associative tendencies)も示している。すなわち、リベラ
リズムの支持者たちは、
彼らが形成する集団から分裂することもあれば、
集団を形成することもある。
現存するアソシエーションのさまざまな類型について、それらのすべてが、あるいは大部分が自発的
かつ契約的である、言い換えれば意志のみの産物であるわけではない。リベラルな社会でも、他のどの
社会とも同じように、人びとは男であれ女であれ、いくつかの重要な集団のなかに、いくつかのアイ
デンティティを伴って生まれてくる。支えになるアイデンティティは、選択されるというよりは演じ
られる(enacted)ものである。リベラリズムが際立っているのは、これらのアイデンティティをもとに
して集団を形成する自由によってではなく、集団を、場合によってはアイデンティティをも離れる自
由によってである。アソシエーションは、リベラレルな社会ではつねに危険にさらされている(ウォル
ツァー『政治と情念』254-255 頁参照;Cf.p.154-155)。
リベラルな社会とは、その最善の状態では、ジョン・ロールズの描いた、
「さまざまな社会結合から
なる社会結合」
、すなわち寛容とデモクラシーという共有された理想によって結ばれた、「多様な集団
からなる一つの集まり」(a pluralism of groups)である。けれども、もしすべての集団が不安定で、つね
に解消されたり放棄されたりする瀬戸際にあるとしたら、その場合にはより大きな結合の方も脆弱で
傷つきやすいものであるほかはない。あるいは、そうでないとすれば、より大きな社会結合の指導者
や公務員たちは、アソシエーションの不備をどこか別のところで補おうとして、彼ら自身の結合を、す
なわち中央集権的国家を、リベラリズムが確立したさまざまな制約を超えて強化する方向に駆られる
であろう。これらの制約は、個人の権利や市民的自由といった言葉で最もよく表現されているが、し
かしそれらは、国家の中立性(state neutrality)への指令も含んでいる。善き生(good life)というものは個
人によって追求され、さまざまな集団によって支援される。他方国家は、善き生の追求および支援の主
宰者の役を務める(preside)が、しかしどちらにも参加することはない (ウォルツァー『政治と情念』256 頁;
p.155)。
リベラリズムのコミュニタリアン的修正は、
ある特定の種類のリベラルな国家を要求する。
それは、
主権の及ぶ領域の少なくともある部分に関しては、意図的に中立的でない国家である。中立性を支持
する標準的なリベラルな議論とは、社会の分断化(social fragmentation)からの一つの帰納である。個人が
結びつきを解かれている度合いが高ければ高いほど、国家は唯一の、あるいは最も重要な社会結合に
なる (ウォルツァー『政治と情念』257-258 頁; p.156)。
(4)リベラルな共同体の可能性
リベラルとコミュニタリアン的批判者たちとの間の中心的な争点と見なされるのは、
「自己の成り立
ち」(constitution of the self)である。リベラリズムは「前社会的な自己」(presocial self)の観念に基礎を
置いている。前社会的な自己とは、孤独で時には英雄的な、社会と対立する個人であり、社会とのその
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対立が始まる以前に十分に自己形成がなされているとされる個人である。そこでコミュニタリアンの
批判者たちは次のように論じる。第一に、不安定と分解こそが、この種の個人によって現実にもたらさ
れた嘆かわしい成果である。批判するコミュニタリアンたちは、社会と対決することのできない、根本
的に社会化された自己を信奉していると言われる。つまりコミュニタリアンが主張する自己は、はじ
めから社会にからめとられていて、それ自体が社会の諸価値を体現するものである。しかしウォルツ
ァーはこの両者の対立をそれほど先鋭なものだとは考えない。現代のリベラルは、前社会的な自己に
コミットしているのではなく、自己の社会化を支配してきた諸価値について批判的に反省する能力を
もった自己にコミットしているにすぎない。そしてコミュニタリアン的な批判者たちとは、まさにそ
うしたことを行っている人たちであり、社会化がすべてであると主張しつづけることは彼らにはでき
ないのである(ウォルツァー『政治と情念』266-267 頁参照; Cf.p.161-162)。
政治理論にとってより重要な中心的な争点は自己の成り立ちではなくて、成り立った複数の自己の
間の関係、社会的な諸関係のパターンである。リベラリズムは関係についての一つの理論として最も
よく理解される。その理論の中心には自発的なアソシエーションがあり、その理論は自発性を決裂な
いし撤退の権利として理解する。なんらかのアイデンティティや緊密な結びつき(afflilation)を自発的
なものにするのは、それとは別のアイデンティティや緊密な結びつきが容易に手に入る可能性がある
ことである。しかし、この容易さがますます容易になるにつれて、われわれの関係すべてはますます
不安定になることが予想される。流動性が増し、社会は絶えることのない動きのなかにあるように見
える。かくして、リベラルな実践の主題は、
「前社会的な自己」ではなくて、きわめて一時的で限定的
な同盟関係以外のものすべてからついに自由になった、「ポスト社会的な自己」(postsocial self)である
と言ってよい。いまやリベラルな自己は、根本的に規定が曖昧で分断されており、公共的な場(public
occasion)に出るたびに自らを新たに創造しなおすことを強いられている( ウォルツァー『政治と情念』
267-268 頁参照;Cf.p.162)。
結局のところ、コミュニタリアンのほとんどにとっても、彼らが実際に知っている唯一の共同体と
は、いつでも不安定でいつでも危険にさらされている、このリベラルな社会結合からなる社会結合だ
けである。このリベラリズムに打ち勝つことはコミュニタリアンにはできない。彼らにできるのは、
リベラリズムの内部にある結びつきを作る能力をときどき補強することだけである(ウォルツァー『政治
と情念』269 頁;p.163)。
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