詞姿> (figureofspeech) rhema rhetor rhetoric rhetoriketechne techne

Akita University
西 欧の弁論 ・
修辞学概論
奥山
藤 志美
1
古典弁論 ・修辞学 (レ トリック) という言葉は現代では耳慣れない言葉である。これ には
いささか理由がある。この学問はギ リシャ・ローマで確立 され、いわゆ る西洋の学問の伝統
の 「自由の七学科」の中で論理学 と共に枢要な位置 を占めていたのが 、19世紀 にな ると学
校教育で も省み られな くなった とい う事情にもよるのだ。さらに現代の文章で レ トリック
とい う片仮名は しば しば見 られ るが、その意味す るところは漠然 と して、その適用範囲が多
岐にわた っている。日 く、<文章の構成法>であった り、<テーマ>そのものであった リ、<
fi
g
u
r
eo
fs
p
e
e
c
h)、つま り装飾的な語嚢選択であった リ、多様 な文章の型や リズ
詞姿> (
ムのことだった リ、果ては意味のない大言壮語だった りという、はなはだ好ま しか らざるも
のであるか らである。
しか し、これ らの 多義ににわたる弁論 ・
修辞学 (レ トリック)の概念にも共通の要素が あ
る。これ を簡潔に要約す るな ら「
言語の説得的用法」と言 うことになろうか。そもそもこの言
h
e
m
aは<言葉>という意味であ り、この派生語 r
h
e
t
o
rは 「
弁論術の
葉の語源のギ リシャ語 r
h
e
t
o
ri
cという名詞は
教師」の ことであることが この間の事情 を物語 るであろう。英語の r
h
e
t
o
ri
k
eに由来 しているCこれは r
h
e
t
o
ri
k
et
e
c
h
n
e(
字義通 りで
ギ リシャ語の女性形容詞 r
e
c
h
n
eが とれた形容詞がそのまま取 り入れ られたか らだ。ただ英語
は「
弁論の術」の意)の t
h
e
t
o
ri
q
u
eを経 由 している。 この よ う
の場合、ギ リシャ語か ら直接ではな く、フランス語の r
に語源にあた って見 ることは修辞学の元来の意味 をつまび らかに して くれ ることは確かだ。
つま り、人前で 「
話す こと」、r
演説すること」とつなが りを持 っていることがわか るだ ろう。
大体、
紀元前 5世紀のギ リシャのポ リス社会が起源なのだが、それが ローマに受け継がれ、
隆盛 を極 めた。文法、論理学 と共に三学科の一画 を占めることになるが、主に弁論術 に関係
した。中世の大学は これ をそ っくり踏襲す るが、演説の他 に<書簡の技法 >とい う<書 き言
葉>にも適用 され始める。しか し、全面的に<書 き言葉 >に用 い られ るよ うにな ったのは、
15世紀の活版印刷術の発明後、
すなわちルネ ッサ ンス以降の ことである。ただ大変興味の
あることは現代では古典修辞学の技法は、欧米の大学ではいわゆ る文学や文法、
言語学 を教
える人文系の学部 でよ りも、新興の コ ミュニケー シ ョン関係の学部で重ん じられ る傾 向に
あることだ。ここにおいて一種の先祖返 りを行 っていると言 っても良いだ ろう。
その始ま りを歴史的にた どると弁論 ・修辞学は専 ら「
説得的な演説の技法」と考 え られて
ることは間違 いない。従 ってその 目的は 「
聴衆 をある方法で説得 した り、行動 に駆 り立 てる
こと」であった。説得的言辞 と しての弁論 ・
修辞学は我々現代人にも大 いに必要 とされ るが、
アメ リカの大学では、これまで この説得の技術が徹底的に仕込まれ ることはまれであった。
- 4
7-
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しば しば現代の大学教育では古典弁論 ・修辞学の残淳的なものとして、次の
(
a
r
g
u
e
m
e
n
t
a
ti
o
n
)
2.解説的展開法 (
e
x
p
o
si
ti
o
n
)
3.描写的展開法 (
d
e
s
c
ri
p
ti
o
n
)
4.物語的展開法 (
n
a
r
r
a
ti
o
n
)
1.論述的展開法
の中で 1の論述的展開法に主に注意が払われている点だろう。 しか し、この展開法は普通大
学では論理学の一部門 として扱われ ることが しば しばだ った。古典弁論 ・修辞学に とって
は、論理学は補助的なものであるが、いわゆる弁論 ・
修辞学 とは別個のものである。例 えば
ア リス トテ レスは弁論 ・
修辞学を論理学か らr
枝分かれ したもの、あるいは相補 うもの」とと
らえている。演説者は聞 き手 を説得するために<論理>を駆使するかも しれないが、其れは
あ くまで説得の様 々な手段の一つに過 ぎないと考えるのだ。
今 日ではおおむね古典弁論 ・修辞学は学校の教科科 目か ら姿 を消 して しまったが、か って
は中心的な科 目であ り、大変盛んだ った時代があった。その理 由は、その時代において演説
や論述的文章 を草す る技量が宮廷や法曹界並びに教会社会では昇進の決め手になったか ら
だ。近代か ら現代に進むにつれて、弁論 ・修辞学の実践や研究が下火になった理由の一つは、
ノ
産業 .
技術社会では言語によるコ ミニュケーシ ヨン能力以外の能力 (
数理能力や専門的な機
械に関す る知識)でも世に出ることが可能 となったか らだ と言 うことが言 えよう。
アメ リカでは 1870年か ら 19 10年あた りまで、ほ とん ど読み書 きの満足に出来な
い人でも億万長者 になるものがあ り、彼 らの中の何人かは幸 いにも読み書 きの殿堂 である
である図書館 とか大学 を設立する資金を寄付するという夢のようなことが起 こった。
弁論 ・
修辞学の歴史 を概観 して気が付 くことは、大体弁論 ・
修辞学が注 目を浴びる ときは、
社会が激 しく動揺す るときだ と言 うことだ。
古 い秩序が保てな くな り、新 しい価値観 が台頭
するときは言葉に巧みな人間に役割がまわ って くる。ルネ ッサ ンス時代のイタ リア、宗教改
革時代のイギ リス、独立戦争時のアメ リカとい う歴史の激動期 を想起すれ ば十分だ ろう。こ
のような危機のの時代には弁舌巧みな人間が時代の寵児になるのだ。名著 『イタ リア ・
ルネ
ッサ ンスの社会 と文化』の著者 ブルクハル トとが指摘 した ごとく、中世の現木 をを投 げ捨て
た 15世紀の人文主義運動では、雄弁家や修辞学の専門家が重要な役割 を演 じている。イギ
カ トリック教会 と決別 した後、彼の宮廷は没収 した修道院
リスではヘンリー 8世が ローマ・
o
mP
ai
n
e
の財産の処分 をめ ぐって、法曹家たちの議論が沸騰 していた。アメ リカ独立時の T
の扇動的なパ ンフ レッ ト、
P
a
t
ri
c
kH
e
n
r
yの激 しい演説、
T
h
o
m
a
sJ
e
f
f
e
r
s
o
nの大胆な独立宣
言文等 を想起すれ ば、激動の時代にはいかに口舌の徒がの し上が って くるかが理解 できる
だろう。
現在、これに似た現象が声高に国益 を叫ぶ開発途上国の指導者 に見 られ るの も興味
深いことである。
148-
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まず必要なことは古典修辞学の仕組みの概略 とそ こで使われる特異な用語の理解だ ろう。
キケ ロは弁論 ・
修辞学の論文 を書 くようになった頃、研究 ・
教授に便宜なよ うに、弁論 ・
修辞
学を 5つの部分に分けていた。即ち
1.I
n
ven
ti
o
2.Di
s
posi
ti
o
3.El
ocuti
o
4.Me
mori
a
5.Pr
onun
ti
a
ti
o
である。これ らの用語の解説か ら始めよう。
弁論 ・
修辞学の 5つの部門
発想の部
1. I
nven
ti
o: 英語の i
n
venti
on とか di
s
cover
y に相当するラテン語。ギ リシャ語では
he
ur
esi
s という。理論上は弁論者はいかなる主題に付いても演説することが出来るこ
とになっている。なぜな ら弁論 ・
修辞学に固有の主題 というものは存在 しないか らだ。
しか し、実際にはこれがなかなかやっかいなのだ。む しろ演説者の力量はこれに挑戦す
ることにあると言 っても過言ではない。どんな場合でも、どんな視点か らも揺るぎのな
い論点を見つけなければな らないのだ。キケ ロによると演説者は適切な論点を見つけ
るためには持ち前の才能、方法、を総動員 しなければな らないとの こと。明 らかに直感
的に固有の論点を見つけ出す生来の能力を持 っている人は大変に有利な立場にあるの
だが、このような才能に恵まれな くとも、たゆむことない努力によ り、
論点 (
最近の言葉
で言えば [
切 り口]にあたるだろうか)を見つける方法論 を身に付ければ対処できる
と言 っている.ここで言 う I
n
ven
ti
o とは、この論点を見つけ出す方法の ことなのであ
る。
2.
ア リス トテ レスは論点または説得の方法には二つの方法があるとい う。まず第一は非技
echn
oipi
s
tei
sと呼んでいる.これは弁論 .
巧的な説得の術であるOこれ をギ リシャ語で aJ
修辞学の一部ではない。これは方法-術の埼外だか らだ。演説者は頭 を絞 って考え出す必要
はな く、単にそれ を利用すればいい。彼は これに属す るもの として五つばか りあげている。
すなわち、
「
法律」、
「
証言」、
「
契約」、
「
拷 問Jそれに「
宣誓」だ。明 らかに裁判において訴訟 を担
当する法曹家はこの種の証拠 をもっとも多 く利用する人たちであるが、政治家もこれ を使
うことは出来る。例 えは消費税 を導入 しようとする政治家は統計 とか、法的な契約 とか、既
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存の法律 とか、歴史的な資料 とか、はたまた学識経験者の意見 とかをよ く援用す る場合がそ
れにあたる。彼 らはこれ らの 自説を支える論点をひね り出す必要はない。これはすでに存在
しているのだか ら。ただ これがあるとい うことを覚えていなければな らない。そ して、それ
が何処で入手出来るかを知っていなければならない。
ア リス トレスがが述べている二番 目のものは、
方法的に考え出されたものである。つま り
弁論・
修辞学で言 う a
r
tの領域に属するのである。1,理性 ・
論理に訴える方法。2,感情 ・
情
倫理に訴える方法である。
緒に訴える方法。3,道徳・
論理的な訴えをす るときは演説者は聴衆の理性 ・
悟性に訴える。文字通 り「
論証す る」、「
議
論」(
a
r
g
u
e
)
するのであるOこの場合には、演樺的な方法 と帰納的な方法がある。肯定的な陳
述から結論を導 くか、それ とも否定的な陳述か ら結論を導 くかのいずれかである。
例 1、
誰もこの人生において完全な幸福など達成できない :太郎は人間である。従 って太
郎はこの世では完全な幸福は達成できない。
例 2、い くつかの類似の事実を観察 した後に、一般的な結論 を導 く方法の例。私のかぶ り
ついた青い リンゴはどれも酸 っぱかった。全ての青いリンゴは酸 っぱいに違 いない。
普通、演梓的な議論の方法を論理学の方では三段論法 と呼んでいる。これもア リス トテ レ
スが命名 したのである。弁論 ・修辞学で三段論法は e
n
t
h
y
m
e
n
eと呼ばれ、普通 「省略三段論
法」 とか、
r
省略推理法」と訳 されている。論理学の帰納法に相当するのが弁論 ・修辞学では
「
事例」(
e
x
a
m
pl
e
)である.
第二番 目の説得の方法は感情に訴えることである。人間の本性は理性的存在故に、
私的な
事柄でも、公的な事柄においても理性の光に照 らして判断を下すべきであるが、しか し、人
間は悲 しいかな感情や情緒によっても左右される存在でもある。ア リス トテ レスは弁論 ・修
辞学で専 ら取 り扱 うべ きは理性への訴 えであると言 う願望 を持 っていたが、彼は現実 をよ
く見る人なので、人間はその感情によって駆 り立て られた り、感情によってものを受け入れ
ることを知っていた。修辞学 とは彼の定義によれば、「
全ての説得の手段を兄いだす こと」で
あったので、彼の弁論 ・修辞学の中で普通の人間の感情の分析を扱った章 も入れている。こ
れは心理学の学問 としての始ま りにあたるだろう。も し演説者が聴衆の感情に訴 えること
を目論むな らば、その感情 とはいかなるものか、どうすればその感情 を揺 り動かすかを知 ら
なければな らないのだ。
第三番 目の説得の方法は倫理 ・
道徳に訴えるや り方である。これは演説者 自身の人柄に由
来する。
話 しには人柄が反映 しているか ら。話 し手が信頼 された り、賞賛 された りするのは、
知性のある人、慈悲の心のある人、
誠実な人 という印象を聞 き手に与えるか らである。ア リ
ス トテ レスはいみ じくも言 っている。上の三つの説得の方法の中で、もっとも説得力の ある
のは、第三番 目の倫理 ・
道徳に訴えるや り方であると。感情 ・
情緒に訴 えようと躍起にな って
も、聴衆が話 し手を人間 として信頼 していなければ、水泡に帰す るのである。それで後世の
キケロもクインテ リアンも演説者に高い道徳的モラルを要求 しているの も、他な らぬ この
理由によるのだ。クインテ リアンは理想の演説者 を定義 して 「
言葉使いに秀でた徳の高 い
-5
0一
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人」と言 っている くらいだ。
古典修辞学が上述 の三 つの説得の様式 (
理性、感情、倫理 ) を展 開す る材料 を兄 いだす手
助 けになるもの と して考 え られたのが t
opi
csと言 う概念 である。
Topi
csとはギ リシャ語 の
to
poi
,ラテ ン言
吾の l
ociの英語訳 で、字義通 りでは<場所 >を意味す る。例 え ば topogr
aphy
は地形学の意 である。修辞学 では t
o
pi
c とは、ある任意 の主題 につ いて、述べ るべ き、議論 す
べ きもの、つま り発想 の糸 口をま とめてお く「
場所」、
r
貯蔵庫」、
「
宝庫」とみ て いい。 も う少
し具体的に言 うと、様 々な話 しの展開 をほのめかす 、話 しの穂 口の ことで ある。談話 が途切
れ る ことな く展 開 して い くき っか けである。言 い換 えれ ば トピックス とは ある主題 を展 開 ・
発展 してゆ く様 々 な可能 な方 法 を見 つ けるための組織 だ った方法 論 の こ とを指す の で あ
るC
ア リス トテ レスは この トピックス を二つに分 けている。すなわち (1)特別 の トピックス
と (i
di
oito
pojとか ej
de と命名 している) (2)普通の トピックス (k
oi
n
oitopoiと命
名 している) (1) の特別の トピックスは読んで字の ごと く特別の言辞 に固有の もの で、専
0
ら法廷 で用 い られ るもの と、公的な演説会場 と、
儀式的な演説の場合 に分 け られ る。 (2)の
普通 の トピックス は どの種 類 の談話 に も利用可能 だが、これ には ご く限 定 され た話 の展 開
の レパ トリーが あるに過 ぎない。ア リス トテ レスは四つ考 えて いる。す なわ ち
1) 多 いか、
少ないか (
程度の トピックス)、2)可能か不可能か 、3)過去の ことか、未 来の ことか 、 4)
大 きいか、小 さいか である0 1) と 2) を区別 して d
egr
eeの トピックス と sj
zeの トピック
スに分 けている。
以上が i
n
ven
tj
oの領域 に属す るのであるが、後の r
討議、談話の展開の糸 口の発見」の章 で
詳 しく説 明す る こ とにす る。この部分、つま りある主題 につ いて、何 か語 るべ きもの を よ ど
み な く発想す る こと、これ を方法論 的 に身につ ける こと。これ が弁論 ・
修 辞 学 を習 うもの に
とって も っとも重 要 な部 分 なのだ。主題 につ いて どう展 開 して い いかわ か らな い とい うこ
との主 な原因 は、その人がそれ らの主題 について情報 を持 って いな い と言 うことで、経 験 を
欠 いているか、読書量 が足 りないのかの いずれ かである。す でに持 って いる情報 を吟 味 して、
ど う展 開 してゆ くかわ か らな い とく とち って> しま うわ けだ。この く とち り> をな くす た
めの組織的救済方法 が j
nven
ti
oと呼ばれ る弁論 ・修辞学の眼 目で ある と言 って も過言 では
なか ろう。
弁論 ・修辞学の第二番の部分 は di
sp
osi
ti
oと呼 ばれ るもので、ギ リシャ語 では taxi
sと
いい、英語 で言 うと'di
sposi
ti
on'. `
arr
a
ng
e
men
t'
`or
g
ani
zati
on' と言 うもの
になるだ ろ う。 この部分 は話 し言葉 や書 き言葉 をいか に効果的 に、かつ秩序 たてて並 べ る
か とい うことに関わ る。話 しの糸 口がつかめた ら次 々にそれ を どの よ うに取捨選 択 して、聞
き手の注意 をそ らさず に最後 まで持 って行 くか とい う問題 が残 っているのである。
単純 に図式化す る と、<は じめ >、<中>、<終わ り> と言 うことにな ろ う。弁論 ・修 辞 学
では ここをよ り詳 しく、か つ機能 的 に分析す るわ けで ある。再 びア リス トテ レス は陳述 の部
分 と証 明 ・
裏付 けの部分 だ けが言辞 の場合 にはある と言 って いる。これ が本 質的 な部分 で あ
-51-
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るが、それに付 け加 えて、導入部 と結論部 を考えると実際の演説者には大変に役に立つ と主
張 している。ラテ ン語の弁論 ・修辞学者になると、さらに細かに分類 している。すなわち、1)
di
u
m(i
n
tr
oduc
ti
on
),2)状況の陳述 narr
a
ti
o(S
tate
me
n
torex
posi
ti
onoft
he
導入 exor
話題の眼 目の概要 di
vi
si
o(
ou
tli
neofthe
ca
seun
derdi
sc
ussi
on
)、3)論点、問題点、
論拠 confi
r
ma
ti
o(
thepr
oofofthecase),
p
oi
ntsors
te
psi
nthear
gu
men
t).4)証明、
5)予想 される反対論に対す る論駁 c
onf
u
tati
o(t
her
e
fu
ta
ti
onoftheopposi
ngar
gu
men
ts,
6)結論 p
er
or
a
ti
o (con
cl
usi
on)。
このよ うな細かな分類 は機械的で、煩壊であると思われ るか も知れない。しか し、これ を
あえて弁護すれば、二つの ことが指摘できるかも知れない。これは明確 な組織立てのための
原則の必要性 を述べているのであって、
初心者は材料 を並べ る際の指針 と考 えればよいCむ
ろん弁論 ・修辞学者はこれに厳密に従 うべきだとは言わない し、適度に取捨選択 を許容 して
いる。ア リス トテ レスの言 う説得のためのあ らゆ る手段 ・
方法 とい う考 え方 を容れ て、あ ら
ゆ る部 分 を省 略 す る場 合 も あ る。例 えば予想 され る反 論 が い くつ も出 て くる場 合 は
c
onfu
ta
ti
o の部分 をとって しま うと言 う手もあるし、順序を並び代えるというと言 う手 も
ある。
例 えば自説 を前面に出す よ りは、
想定 され る反論 を論駁 してい くとい う消去法な ども
それであろう。
n
ven
ti
oの部分 と di
s
p
osi
ti
oの部分がお互 いに密接に絡み合 っ
明 らかに言 えることは i
ているということだ ろう。 この二つの部分 を一括 して扱 っている弁論 ・修辞学書 もある く
s
posi
ti
oは i
nven
ti
oの別の面と見なす ことも出来る。又 i
n
ven
ti
oの部分 は発
らいだ。Di
sp
osi
ti
o の部分は材料 を組織 ・
構成す る部分にその主
想の部分に力点を置 いているのに、di
眼点があると言 うことも出来よう。
ベー コンは
事実、
弁論 ・修辞学の歴史を見ると、16世紀のラメー一派並びにフランシス・
i
n
ven
ti
onと di
sposi
ti
onの部分 を論理学で扱 うもの として、これ を弁論 ・修辞学か ら取 り
eとか me
mor
yや del
i
ver
yの部分に限定するという動 きも出て く
除き、その領域 を専 ら styl
るのである。
ocuti
oと呼ばれる部分だ.
ギ リシャ語では l
exi
s,
her
meni
a.
phr
asi
s
第三番 目の部分が el
とか言 う字が当て られている。さて、ところで el
oc
u
ti
on と言 う英語は現代では古典弁論 ・
修辞学者が使 っていた意味 とは異 な った意味で使われている。現代では この語は話す行為
oc
uti
onc
on
t
es
t 等 というように。この意味は この語の語
と結びつけられている。
例 えば el
oqui
=" 話 す "に 含 意 さ れ て い る が 、 例 え ば I
oquaci
ous,
源 を な す ラ テ ン語 l
C
oHo
qui
al
,
el
oquence, i
n
terr
oc
a
ti
onに見 られるよ うに。だが el
oc
uti
onと言 う語が この
現代の意味 を持つよ うにな ったのは 18世紀の後半以降、演説の仕方 に対 しての関心が再
燃 してか らだ と言 うことを知 ってお くことは大事な ことだ。古典弁論 ・
修辞学者 にとっては
el
o
cu
ti
oとは文体 s
tyf
eを意味 していたのだ。
-
52-
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文体 styl
eとはなかなか定義が難 しい。
大抵の人はそれは何であるかは漠然 と感 じている
が。有名な文体の定義、例 えば ビュフォンの r
文体は人な り」Styl
ei
stheman,スイ フ トの
r
適切な しかるべき場におけるしかるべき言葉Jpr
operwor
ds i
npr
operpl
acesとかニュー
ei
sathi
nki
ngout i
nto l
anguage,ブ
マンの r
文体 とは思いを言葉に絞 り出すこと」styr
レアの r
人が 自分の想念 を表現す る特異なや り方Jthe peculi
armanner i
nwhi
ch aman
やは り漠然 と
expr
esseshi
sconceptJ
'
ons 等はなかなか うまいところを突いているいるが、
して一般的過ぎるのである。弁論 ・修辞学の大家たちはこれまでそれぞれの定義を与えてい
ないが、この ことについては大いに言及 している。実際、ルネ ッサ ンス時代の弁論 ・
修辞学者
は専 らこの文体のことに費や していると言 っても過言ではない。
ここで問題にされている点は文体 styl
eの分類のことであった。
文体の種類についていろ
いろな語が使われたが、要は三つの文体の レベルがあると言 うことである。<低い、または
簡素な文体> l
o
worpJ
ai
nな文体、ラテン語では atte
ma
ta,subtil
eという。次に<中間的
なまたは力強い文体 >mi
ddJ
eorfor
ci
bl
estyl
e.ラテン語では medeocri
s,r
obustaと言
う。そ して三つ目は<崇高な、または流ちょうで華やかな文体 >hi
ghorfl
ori
dstyZ
e ラテ
ン語では gr
avJ
S.fl
ori
da と言 う。クインテ リアンはそれぞれの文体は弁論 ・修辞学の三つ
の機能にふさわ しいと述べ、簡潔な文体は人を教え、諭す場合に、中間の文体は人を動かす
場合に、そ して上位の文体は人を魅惑するのにそれぞれ適切であると提言 している。
文 体 の考 察 の 中 に は必 ず 語 嚢 の選 択 が含 まれ て い る。この場 合 、大 体 そ の 正 確 さ
correctness,純粋 さ purj
ty(外来語をなるべ く排 して、自国語で統一す る場合)、
簡潔 さ
si
mpli
cj
ty.透明さ、
明澄性 cl
ear
ness,適切 さ appr
opri
ateness,装飾性 or
natenessとか
の項 目に従 って論 じられている。
次に扱われているのが句や節、文単位の配列の仕方である。 (
弁論 ・
修辞学の専門用語で
peri
odsと言 う)。シンタックスが正 しいか、
習慣的な連語はどうか、セ ンテンス・
Jtタ- ンは
どうか、平行法とか対照法 (
par
aHeHs
m,an
ti
thesi
s) 又接続詞の使 い方 とか、
その他文 と
文、節 と節を結ぶ連結語の使い方や、母音や子音 を組み合わせる音声的効果等がその中に含
まれている。
むろんこれまで比職的表現法 tr
opesfi
gur
esに多大の注意が払われ てきたことは事実で
ある。 (
ギ リシャ語では schemata,英語では schemesの こと)。これは非常に複雑なので章
を改めて論ずることにする。
文体 styl
eに関わる議論には、
機能的な文体に対 して、
装飾的な文体 とか、口語的な文体に
対 して文語的な文体 とか、豊富な言葉 を述べ立てるのに対 して無駄 を省 いて簡潔 を旨とす
る文体 とか、古来多 くの議論がなされてきた。しか し、これ らの議論は今 日の修辞学者が こ
のことにいかに時間 とエネルギーを費や してきたかを知るのには格好の材料である。
第四番 目の弁論 ・修辞学の項 目は<記憶 >memori
a(ギ リシャ語では mne
me)であるが、
五
つの弁論 .
修辞学の部分の中でもっとも注意が払われなか った部分である、その訳は記憶の
過程はもっとも理論的に解明 しに くいためだろうと思われる。特に弁論 ・
修辞学が<書 き言
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Akita University
葉>を主に扱 うようになると、記憶の部分を問題にする必要がな くなったのだろう。しか し、
この過程はか ってソフィス トの学校ではかな りの注 目を浴びていた。演説者は常に実践 を
重ね ることで記憶力を磨 いていた。それはちょうど今 日舞台の俳優たちがセ リフを話ん じ
ている驚 くべき能力を習得 しているのと同 じである。
第五番 目の弁論 .
修辞学の部分が発話 p
r
o
n
u
n
ti
a
ti
oに当て られている。ギ リシャ語では
h
y
p
o
k
ri
si
sと言 う。英語では d
el
i
v
e
r
yに相当する。発話 と訳すべきか。
M
e
m
o
r
i
aの場合 と同
様に発話の理論も 18世紀の中頃になって演説運動が起 こって くるようになるまで久 しく
注目を引かない部分であった。しか し弁論 ・
修辞学者は説明的言辞においては効果的な発話
の重要性はよく認めていた。ギ リシャ最大の演説家のデモス トネスが弁論 ・修辞学の中で何
が一番重要か と尋ね られたとき、彼は「
実際に登壇 して発話することだよ」と答えている。理
論の方面では無視 されていたにも関わ らず、ギ リシャとローマの学校でおいては、この発話
の訓練には意外に多 くの時間が割かれていたことは興味深い。実際の発話の技術は理論 に
耳を傾 けるよ りも、実際に聴 きそれ を分析 してみ ることで身に付 くとい うことだ ろうと思
う。
容易に推察されるように、<記憶 >m
e
m
o
r
yの部分 と同様にこの<発話 >d
el
i
v
e
r
yの部分
も印刷技術が行き渡 るようになると影が薄 くなるようであるO
<発話 >d
eHv
e
r
yの部分で関わるのが r
発声」や r
身振 りJのや り方で、これ をラテ ン語 で
は a
c
ti
oと呼んでいるが 「声の高 さや量」や「
語句の切 り方」に関 しての様々な教えが扱わ
れている。身振 りに関 しては、演説家は立 った時の姿勢、視線のもって行 き方や顔の表情の
訓練が課 されている。古来歴史に残る大演説家は達者な演技者であった ことは意味あるこ
とである。
演説の効果を高めるための実際の 「
発話」
d
el
i
v
e
r
yの重要性は否定できない。例え周到に
準備 され、かつ推鼓を重ねた原稿 をもって しても「
発話J
d
eHv
e
r
yが拙 いと聞き手の耳には
届き難い。書き手は話 し手の聞き手 と対面 しての利点を持 っていないのだ。書き手の場合 は
この欠点を補 うものが<文体 >s
t
yl
eをいかに鮮やかに演出するかにあると言えよう。
三つの種類の説得的言辞
eI
i
b
e
r
a
ti
v
eo
r
a
t
o
r
yと
一般に修辞学者は演説を三つの種類に分けている。まず英語で d
呼ばれるもの。日本語ではr
審議、検討または討議の演説」とでも訳せ ようか。政治的課題、助
言、忠告的な事柄を扱 う演説である。
例えば 「
戦争をやるべきか否か 」 、
「
税金をどう徴収す
べきか」、「どの園 と同盟 を結ぶべ きか」、「
道路を建設すべ きか否か」とい うあらゆる公の政
治的問題が この範暗に入る。これは人々をある行為へ と駆 り立てるか、
意見を受け容れて貰
うための演説なのである。ア リス トテ レスによると、全ての政治的演説は「
未来」に関わ って
いるということだ。将来、何かをやるか、や らないかを論ずるか らである。その特異な トピッ
クスはr
的を得ているか」
e
x
p
e
di
e
n
tであるか、それ ともr的を得ていないかJi
n
e
x
p
e
di
e
n
tで
e
x
h
o
r
t
a
ti
o
nか、
「
政策を打ち切 る
あるかが焦点になる。その手段、目的はr
熱心な勧告、
奨励J
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Akita University
か」
d
e
h
o
r
t
a
ti
o
nを画するのである。
二番 目は法廷的演説である。つま り、司法、裁判に関わる言説である。法廷において弁護士、
検察官、
裁判官たちが 日常 これに携わ っている。しかもこの種の言説は司法の場だけではな
く、人を弁護 した り、非難 した りする時にも応用できるものなのだ。再びア リス トテ レスを
引き合いに出す と、この種の演説は概 して過去の事象に関わ っている。すなわち法廷での裁
きは過去に起 こった行為や犯罪に関わ っているか らだ。この種の演説に固有の トピックス
は法 j
u
s
ti
c
eにかな うか、法にもとるか、つま り i
n
j
u
s
ti
c
eか ということであ り、その手法 ・
c
c
u
s
a
ti
o
nと弁護すること d
e
f
e
n
c
eのいずれかである。
目的は告訴すること a
第三番 目に e
pi
d
ei
c
ti
cor
a
t
or
yと呼ばれるものが くるo集会で意志表明をした り、宣言文
を読み上げた り、人や物 を公式に賛辞 した り、儀式を執 り行 った りす る際の言辞である。有
名な リンカー ンのゲテスパーグでの演説 とか独立記念 日に国民に結束を訴える大統領の演
説がその代表的なものだが、この種の演説の場合は集まった聴衆 を説得すると言 うよ りは
r
励ま し」、「
喜ばせる」ということに関わる。これはどうも 現̀在'に力点が置かれ、その特異
な トピックスは h
o
n
orか di
s
h
o
n
or
.
つま り「
褒め称える」か 「
反対者 を非難するJかいずれかで
r
ai
s
eと非難すること bl
a
m
eである。
ある。その 日的・
手段は賞賛すること p
古典古代の弁論 ・
修辞学では教会の説教に相当する分野に該当す るものを考えていない
が、しか し後の中世時代になって、弁論 ・修辞学がキ リス ト教文化の中で研究の対象になっ
て くると、説教壇での説教の中に組み入れ られ るようになる。この場合、説教者は 「
現在」と
言うよりも、人間の 「
過去」 (
原罪)と「
未来」 (
最後の審判)を専 ら論 じられ るのだが。
現代における修辞学の意義
これまで古典弁論 ・
修辞学の主要概念 を一通 り述べてきたが、現代の読者 は「これ はなか
なか興味深いが、それが我々にどのような関わ りを持 っているか ?」という疑問に突 きあた
るだろう。確かに弁論 ・
修辞学が西欧の学問伝統の中では輝か しい歴史を持 っているのはわ
かるが、この形式張 った、古風で格式張った方法は現代の科学技術の発達 した時代にそ ぐわ
ないのではないか という感想 を持たれ るの も当然だ ろう。 これに対す る回答 を以下に試
みようと思 う。
結論か ら先に言 うと、我々はいかなる職業に就いていてもこれ (
弁論 ・
修辞学= レ トリッ
ク)か ら逃れることが出来ないのだ。日々の生活において我々は無意識の うちに レ トリック
を使 っているか、それ に晒 されている。テ レビの前に座 っていると30分毎にコマー シャル
という、人を買い物に誘 う巧妙な戦術に晒 される。そ して自分 自身も日常知 らず知 らずそれ
を駆使 しているのだ。うま くい くか どうかは別問題 として、
例えば恋人をデー トに誘 うとか、
子供が両親 に物 をねだるとか。逆に両親が子 どもたちを上手に勉強 させ るとかの場面に見
られるように。テ レビコマーシャルの場合などは、
他社の品物 と自社の品物の比較 を問題に
する、いわゆる度合いの トピックスを駆使 しているのだ。又子供 を勉強に向かわせる動機付
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けには因果の トピックス、つま り今勉強 しておけば、将来の夢が叶えられ るという論理的な
説得法が根底にある。
弁論 ・修辞学は文法や論理学、詩学 と同様にそれ 自体が先験的学問に属 さない。ア リス ト
テ レスは自分の個室 に閉 じこもって他人を説得する一連の原理 を紡 いだのではな く、実際
の演説家の行状を観察 して、彼 らの戦術を分析 して、その観察 と分析の結果か ら、他人を説
得す る技を体系づけていったのである。彼は他の弁論 ・
修辞学者 と同様に、人間が本能的に
やることは、もし人がそれ を意識的にその行動の術を教え込むと、よ り効果的に行 うことが
可能であると信 じて疑わない。多 くのジャズ・ピアニス トは レッス ンを受けたのではな く、
たまたまつま弾いてみたのだが、しか し彼 らの中で大成 したプ レーヤーの誰一人 として、も
し彼 らが音楽学校に行 く機会があった ら、そ して正常な音楽の手ほどきを受けていた ら、演
奏をよりいい物にすることが出来たかも知れないことを否定する者はないはずだ。
つま りレ トリックも同 じことで、生来巧みな人はいるが、それ を意識的に訓練すれ ば、よ
り説得力を増す ことは確かだ。これは言葉 を使 う存在 としての人間では不可欠なことなの
だ。人間とは何にもま して言葉を操る存在なのだか ら。
四つの レ トリックの部分 :「
提示の部分J
e
x
p
o
si
ti
o
n
.
「
議論的展開の部分J
a
r
g
U
e
m
e
n
t
a
ti
o
n
,
「
記述的・
描写的部分」
d
e
s
c
ri
p
ti
o
n
,そ してr
物語的・
解説的部分J
n
a
r
r
a
ti
o
nの中もっとも し
ば しば使われ、そ して顕著なのは 「
議論 した り、
論評 した り、個人の意見 を述べる部分」つま
りa
r
g
u
e
m
e
n
t
a
ti
o
nの部分であろう。各個人は他人との関係において存在 している限 りにお
いて、必然的に他人を説得 しなければならない立場にある。よ り正確には 「
説得 した り、説得
された り」というべきだが。母親 は子供を、先生は生徒 を、店員はお客 を、工場長は職工達 を
説得 しなければならないのだ。
文法、論理学そ して弁論・
修辞学は言語に関する三つの術
a
r
t
sであるが、一般的にいって
この言語の術は、今 日ではか ってよ りもよ り重要な存在になっている。交通 ・
通信手段の発
達は国内並びに国外の人々がよ り密接に接触す ることを可能に しているが、このよ うな世
の中において他人 とどう渡 り合 うか、つま り自分の思想 ・
信条並びに欲求 をどう伝えるか、
又いわれない恐怖や不安をどう和 らげるか、つま りそれぞれの違いをどう調整するかは、も
っとも重要な課題である。ここに レ トリックの出番があるといっても過言ではない。核兵器
という最終兵器が発明されて以来、人類は破滅の危機に瀕 している。並びに価値の多様化が
進み、しかもバラバラな個人が都市化 された空間の中に密集 して住む ことか ら起 こる精神
的ス トレスが昂 じているいるのが現代社会である。これ ら現代社会 を取 り巻いている諸問
題を言葉を用いて、緊張を和 らげ、不安を取 り除 く役 目がますます見直 されているのだ。
これ を見ても現代社会の様 々な分野で レ トリックが求め られ るのは自明であろう。国 と
国の仲立ちをする外交官 とはアタシュケースを持 って飛び回る レ トリシャンと言 えるか も
知れない し、複雑な人間関係の利害 を裁 く法曹関係者はまず この道の達人でなければな ら
ないし、営業マンや保険の勧誘員は宣伝的 レトリックの達人でなければならない。政治家は
将来のヴィジ ョンを提示 して大衆 を引っ張 っていかなければな らない。精神科医でな くと
-
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も、医者たる者すべか らく患者の不安 を取 り除 くためには言葉の選択に気 を付 けな ければ
ならないのだ。
ただ、今 日レ トリックの中でも疑いと嫌悪の念をもって見 られる部分がある。それ はいわ
ゆるプロパガンダの部分だ。プロパガンダという話はか っては中性的な意味の詩で、「
真実
をまき散 らす もの」と言 うぐらいの意味を持 った言葉だったのだ。ところがある種の人間が
プロパガンダを悪 い目的のために使 ったので、プロパガンダとい う語は今では好ま しか ら
ざる意味を持つようになったのだ。
さらにこれ と結びついたのがデマ、つま り d
e
ma
g
o
g
u
er
y
=悪宣伝、または扇動的行為 と言 う
ものである。 20世紀に入 って、これを巧みに行って政治権力を握 った人たちが我々の記憶
の中に悪夢のように こび りついているので、これについて特別の嫌悪感 を抱かせるの も当
然 と言えよう。彼 らは公共の利益を増進すると言 うよ りも、
論理をね じ曲げ、
読弁を弄 して、
真実 と言 うよ りも、噂 に近 い、あやふやなもの長 さも真実であるかの ごとく、自分に都合の
良いように歪曲 し、一般大衆の野卑な感情に訴 えて、扇動す る輩である。これ に引 っかか る
と洗脳 という恐ろしい現象を生むことになる。これを分析 した名著は 『1984年』 とい う
ジョウージ,
オウエル G
e
or
g
eOr
weL
lの作品である。真の意味の レ トリックを研究す ること
の論拠はこのような悪 しきプロパガンダやデマに引っかか らないように自らを訓練す るこ
とでといえよう。
レ トリックを学ぶ主なメリッ トは文章を書 くことに対す る積極的な問題解決法を学ぶ主
な利点は文章 を提示す ることだといってもいいかも知れない。普通 「これ をやってはいけな
い」、「
これには注意 しろ」と言 うような消極的なア ドバイスに直面 して書 く意欲 をそがれ る
しま うことが多いのであるが 、真の レ トリックの 目的はむ しろ特定の 目的のためにある特
定の読み手を想定 した文章 を革する場合はどうすればよ り効果的かを積極的に教示す るこ
とだ と言 って良いだ ろう。む ろん レ トリックを学んだか らと言 って万能 な方法を身につ け
たと言 うではない。しか しレ トリックはある特定の状況にふ さわ しい一般的な法則は提示
できる。換言すれば少な くとも文章 を書 く過程に戦略的な選択を行 う指針になる一定の手
続きや基準のようなものを教 えることは出来るのだ。
レ トリックは主に統合的な術 (
アー ト)である。つま り何かを「
構築す る術Jである。しか
しこれは分析的な術 としても使 うことが出来る。つま り書いた文章 をバ ラバラに分解す る
のにも利用可能 と言 うことだ。この面を推 し進めると、レ トリックを研究す ることは我々を
良き読み手に導 くということになるだろう。
文章 を書 く技術 を習得 し、訓練す ることは必然的に他の書 き手達がある効果 をね らって
書いたものをよ りよ く分析できる立場にもなるのだ。マルコム ・カウ リーMaL
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nのようなニュー ・クリテシズム Ne
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mの旗手達は レ トリック
の諸原則を詩歌の鑑賞に応用 した実例 を示 して くれた し、そ してそれが詩歌の本文 を撤密
に分析する方法を伝授 して くれたo又モーテマ一.
ア ドラーM
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erの 『
読書術』f
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-57-
Akita University
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kと言 う本は 1940年代の大ベス トセラー となった本であるが、この本 は散
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on) と議論文 (
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men
tati
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ose) を読み解 くテクニ ックを数 え
文の解明文 (
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て くれたものであるo又 ウーエンIC ・ブース WayneC.Booth の 『小説の レ トリック』T
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nは短編小説や長編小説の中で レ トリックが どのようにどのよ うに働 い
ているかをつぶ さに我 々に示 して くれたのである。
格好な例 は風刺の分析 である。風刺 とは本質的には レ トリックの応用である。この場合、
ber
ati
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hetori
cか
古典弁論 .
修辞学 での説得文の意味での ことだが。風刺作家は deli
cer
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moni
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c かのいずれかを使 っているのだ。つま り彼は究極的には読者 をある種
の行動に駆 り立てよ うと言 う目的で読者の心的態度に影響 を与えようとね らって いるか、
それ とも賞賛 した り、非難 した りして自分の読者に働 きか けて、ある人物や一群の人たちを
受 け入れ させ るか、拒 絶 させ るか、いずれ か をね らって いるのだ。ジ ョナサ ン・
スイ フ ト
JonathanSwi
ftの 『貧民児童利用策私案』M
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cの例 を見たいな らば ドライデ ン
John Dr
yden の 『ア ブサ ロン とアキ とふ える』"A
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"とか ポー プ
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exanderPope の 『あぴゅすの と博士への書簡』〝E
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"のよ うな作品に見 られ る彼 らの政敵や文学上の競争相手の痛烈
しあっど』" T
な人物描写にまさるものはない。
人は一般に文章 を書 くことに組織立 った方法論 を前面に出す と、書 くことを促進 す るよ
りも、
書 くことに構 えて しまって、
創意工夫や創造性 を損な うのではないか と言 う懸念 を抱
くかも知れない。方法論が前面に出ることは書 き方に慎重 さを要求す るか も知れないが、し
か しこれが いつも書 くことに消極 的にな らせぬ とは限 らないのだ。イギ リスの 18世紀 ま
での大作家達- チ ョウサー、ジ ョンソン、シェクス ピア、ミル トン、ドライデ ン、ポー プ、ス
ウイフ ト、バー ク等 はその幼年か ら少年時代の教育において、古典弁論 ・
修辞学 を しっか り
修めた ことが彼 らを大作家に した とは言 えないまでも、ただ これ を修めた ことがそ うでな
か った場合よ りも彼 らに利 した とは言えると思 う。古典弁論 ・
修辞学の諸法則 を身につ ける
ことは、もの書 きとして成功する特効薬ではないが、これ を自家薬篭中のものにす ることは
確かな第一歩であることは確かなことだ。
放弁への道は険 しく、孤独で気の弱い者にはこの行程は耐え られないかも しれない。 しか
し言葉 を駆使す る能力、そ して これ を使 っての己の思想や感情 を伝達す る ことが出来 る能
力は人間だ けに与 え られた もっとも崇高 な能力には違いない。人生において言語運用能 力
を極めることはもっとも誇 らしいことなのだ。
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