NBAの発展からみるスポーツマーケティング

2000年度 早川ゼミ 卒業論文
NBAの発展からみるスポーツマーケティング
71273
第1章
NBA黎明期(創設∼1984年)
第2章
NBA発展期(1984年∼現代)
∼デビッド・スターンの戦略∼
第3章
これからのNBA(現代∼未来)
∼インターネット戦略とNBA∼
山崎 大輔
目次
第1章 NBAの黎明期(誕生∼1984年) … 1
1.
NBAの誕生 … 1
2.
テレビと観客動員 … 3
3.
選手連盟とサラリーの増大 … 6
4.
まとめ … 8
第2章 NBA発展期(1984年∼現在)
∼デビッド・スターンの戦略∼ … 10
1.
2.
3.
4.
5.
6.
労使協定 … 10
テレビとの契約 … 13
スポンサー契約 … 16
ライセンス契約 … 18
海外進出 … 19
まとめ … 22
第3章 これからのNBA(現在∼未来)
∼インターネット戦略とNBA∼ … 23
1.
2.
3.
インターネットとNBA … 23
現段階でのNBAインターネット戦略 … 26
NBAへの提言 … 27
はじめに
NBA(National Basketball Association )を卒論の対象としたのはなぜかと言う
と、まず見るスポーツとしてNBAのリーグが大好きだからということがある。ジョー
ダンの神業的なジャンプシュートには寒気を覚えたし、シャキール・オニールの豪快な
ダンクとフリースローの下手さのギャップにはなぜか笑いがこみ上げてくる。そしてど
の試合も第4クウォーターの最後までどちらが勝つかわからないという緊迫感。その他
にも様々な要素が挙げられるが、エンターテイメントとしてこれ以上完成されている媒
体を私は他に知らない。
私だけでなく世界中の多くの人がNBAをかっこいいと言う。けれどもNBAにはか
つて氷河期というより、瀕死の状況の時代があったというのを知っている人はどれだけ
いるだろうか。もちろん生まれる前の時代の話なので、私も詳しくは知らなかった。N
BAはどのようにして誕生したのか、どうして冬の時代を過ごさなければならなかった
のか、それをどのように乗り切って現在のような春を迎えたのか、そしてこれからのN
BAはどうなっていくのであろうか。冬の時代を乗り切り国際的なマーケティング・カ
ンパニーと呼ばれるまでに成長したNBAには、スポーツマーケティングと呼ばれる手
法の粋がその歴史に刻んであると推測し、NBAを追求することはスポーツマーケティ
ングを追求することだと私は考えたのである。さらには今だにNBAの本と言えば、選
手の花形プレイに注目が向けられている。それ自体を否定する気はないが、NBAの成
功は一つのケースとしてまとめあげた本を私は今だに読んだことがない。この論文で新
たな視点を世に広められたらと願うばかりである。根底には大好きなスポーツを見る目
を多面化することを通してさらに養い、もっと楽しもうという魂胆もあったことは隠す
わけにはいかない。
ここで本論文の構成である。第1章ではNBAの黎明期を1984年までと区切り、
冬の時代はどうして起こったのかということを中心に記述している。第2章ではNBA
の発展を1984年から現在までと区切り、NBAが大きく発展し現在のような国際的
規模での成功をおさめたのか、スターン・コミッショナーの手法をテレビ、スポンサー、
ライセンスといった側面から取り上げている。終章である第3章ではこれからのNBA
の歩むべき姿を、恥ずかしながら提案という形で述べさせてもらい、同時に総括として
いる。
当初予想された問題は、参考文献の不足であったがこれは「古くて新しい問題」とな
りそうである。またマーケティング的な側面を、読み物としても面白く記述することを
本論文では大きな目標としている。
第1章 NBAの黎明期 (創設∼1984年)
NBA(National Basketball Association)
。この単語を聞いて、ピンと来る人の数は今
や非常に多いはずである。その名の通り、スポーツ大国アメリカが世界に誇るバスケット
ボール機構のことであり、アメリカ4大スポーツのひとつとして数えられるバスケットボ
ールの中枢を担う組織である。ここで言うNBAとは「アメリカ・プロバスケットボール
を統括する機構」と定義する。
NBAの総本山は、ニューヨーク・マンハッタンの中心、5 番街に面したオリンピック・
タワーの中にある。現在のNBAオフィスには 3 つの大きなパートから成り立ち、それぞ
れが1つの企業としても登記されている。その1つがリーグ・オフィス、それからNBA
プロパティーズとNBAエンターテイメントで、それぞれのセクションをあわせると数十
部門にもなる。また、アイスホッケーは発祥の地であるカナダにも本部を置いているもの
の、世界中に支局が広がっているのは4大スポーツにおいてもNBAだけである。もはや
繁栄を極めていると言ってもよいかもしれない。数々のスター選手の功績で、日本でも多
くの人が「興味がある」と答えるようにまで成長したプロバスケットボールリーグを持つ
NBAではあるが、それまでの道程は決して平坦ではなかった。むしろここまで発展した
のは奇跡だと表現しても誇張ではないだろう。ここではまず、NBAの発祥とその成長を
他の4大スポーツと比較しながら見ていくことにする。
1.NBAの誕生
プロ野球(Major League Baseball=MLB)は1879年にナショナル・リーグが、19
00年にはアメリカン・リーグが創設され、1903年には第1回ワールドシリーズが行
われている。プロホッケー(National Hockey League=NHL)は1912年に創設され、
プロフットボール(National Football League=NFL)は1920年に初のプロリーグが
創設され、その2年後にはNFLが誕生している。いずれにしても第 2 次世界大戦前には
プロとして一人立ちしているのだ。それらと比較するとNBAの発祥は、バスケットボー
ルというスポーツが誕生した時期自体がおおよそ1890年ということもあるのだが遅れ
ている。
アメリカのバスケットボールは、長い間アマチュアやカレッジが支配していた。192
6年にABL(American Basketball League)という初のプロバスケットボール機構が誕
生したが、大恐慌の影響もあり1931年には解散している。その後1937年にNBL
(National Basketball League)という機構ができたが、とても成功しているとは言えない
ような惨状だった。いずれにしても一地方リーグだということに変わりはなかった。
そんな状況が変化の兆しを見せはじめたは、戦後直後の1946年に大都市のスポーツ
アリーナのオーナーによりBAA(Basketball Association of America)が結成されてから
である。これがアメリカにおけるプロバスケットボール初の全国リーグであった。結成の
目的はNHLやカレッジバスケボールのプロモーションといった消極的なものであり、ア
リーナのオーナーたちは冬の間にこれらのスポーツに空きがあった場合の埋め合わせくら
いにしかプロバスケットボールを考えていなかった。だが、1948年には低空飛行を続
けていたNBLから4チームを吸収し、翌1949年にはさらに5チームを吸収し、その
名称もNBAと変え現在の機構ができあがった。プレーオフ制が採用されたのもこの時で
ある。
その成長の影には他のスポーツを模倣し、プロバスケットボールで始めてドラフト制を
採用したことにより優秀な選手を集め、スポーツというソフトにおいて最も重要なエンタ
ーテイメント性が高まったという事情がある。
そして1951年に、この時期においてはおそらくNBAの成長を最も促進した出来事
であるのだが、NBAの眼下の敵であったカッレジバスケットボールのスキャンダルが起
こった。というのは「賭けのために選手が得点を操作していたこと、つまり八百長をおこ
なっていたということが明るみに出てしまったのだ。そのうえ不法な選手のリクルートや
補助金の授与をしていたことまでも明るみにでた」1 という事件である。その結果、多くの
大学が大都市のアリーナでの試合を拒否したので、アリーナのオーナー達はカレッジバス
ケットボールに変わる手段として、NBAの試合を行った。これによりバスケットボール
ファンがカレッジからNBAに流入することとなり、NBAは幸運にもアメリカ全土にフ
ァンを持つに至った。
2.テレビと観客動員
NBAは誕生してからずっとテレビとの契約はうまくいかず、苦労してきたという歴史
がある。1946年に初めてテレビ放映されたのは3試合、それも録画であるのだが、1
試合につき1万3000ドルだった。レギュラーシーズンの初期のテレビ契約は1952
−1953年にかけてはデュモン・ネットワーク、1953−1962年にかけてはNB
Cとの間で結ばれたが、その契約金は非常にわずかなものだった。
これはアメリカ最大の都市であるニューヨークに強力なチームを作れなかったことが原
因のひとつとして挙げられる。NFLにはジャイアンツ、NHLにはレンジャーズ、ML
Bにはヤンキースといずれも優勝を狙える、つまり強豪チームが存在した。もちろんNB
Aにもニックスというチームが当時から存在していたのだが、「オーナーが目先の利益の
ために不可解なトレードやドラフトを行っていた。そのためチームは決して強豪と呼べる
代物ではなく、そのような姿勢がわざわいしファンもあまり寄り付くことはなかった。テ
レビ局側も、ニューヨークにおける視聴率が保証されないNBAに大金をはたくことはで
1
川口智久
『スペクテイタースポーツ』大修館書店
1983年
P.139
きなかった」2。当時からニューヨークは経済の中心であったため、そこでの低視聴率はス
ポンサーにとって魅力的には映らないという事情があるからだ。
テレビとの契約がうまくいかなかったもうひとつの原因として、試合の内容が挙げられ
る。一方のチームがいったんリードを奪うと、そのチームは時間稼ぎをし、相手チームは
それを阻止しようと身体的接触の非常に多い、醜いファウルプレイが横行していた。19
50年には18対19というバスケットボールとは思えないロースコアの試合もあり、こ
のような試合はNBAがその将来を危惧するには十分な効果があった。そのため1954
年にはファンとテレビ局の圧力により、ボールを保持しているチームは24秒以内にシュ
ートを打たねばならないという、「24秒ルール」が制定されることとなる。
「24秒ルー
ル」が持っていた意味は大きい。これによりファンはシュートという球技の花形シーンを
常に意識しながら、つまりエキサイティングに観戦をできるようになった。結果的にNB
Aはスポーツというソフトに不可欠なエンターテイメント性を得ることができたのだ。
しかしそれでもなおNBAはテレビ契約においてはうまくいかないままであった。19
62年にはNBCによりレギュラーシーズンのテレビ放映を打ち切りされてさえいる。そ
こでNBAはABCと65万ドルでレギュラーシーズン中、日曜の午後の試合を放送する
という契約を結んだ。ちなみにこの時期、NFLがCBSと年間1400万ドル、AFL
(American Football League)が5年間で4200万ドルという契約をしていることを考
えると、非常に慎ましい契約であったことがわかる(NFLとAFLは1966年に合併)
。
テレビ局側はファンがバスケットボールに退屈していると考えていたのだ。だがこのAB
Cとの契約は徐々に大きな意味を持つことになる。各チームは「1972年には、年間約
32万5000ドルを受け取るようになっていた。さらに1974年のCBSとの新たな
契約により、この額は年間約53万5000ドルにまで達した。そして1980年になる
とCBSとの一括契約により、各球団とも年間88万ドルが約束されるなど徐々にテレビ
との契約は向上していった」3。
このようにテレビとの契約においては非常に苦しんできたのだが、観客動員数において
は事情が違っていた。カレッジバスケットボールの不祥事以来、安定した人気を保ってき
たのだ。テレビではその当時あまり大きな意味を持たなかった「24秒ルール」も、観客
動員数の点では大きな意味を持っている。カレッジバスケットボールファンだった人たち
を、NBAファンへと変貌させたのはこのルール改正が大きな力を持っていた。カレッジ
バスケットボールではシュートは30秒以内で撃てばよかったので、よりエンターテイメ
ント性が高いNBAへと流入した。
「24秒ルール」に加え、1960年代になるとウォルト・チェンバレン、ビル・ラッ
セルという往年のNBAファンならばよだれが出るほどのスーパー・スターが登場した。
また選手の技術向上に伴い、試合内容も向上しNBAはさらなるエンターテイメント性の
2
3
同上
同上
P.164
P.165
高まりを見せた。おりしも1960年代というのはアメリカの政情不安とも重なり、非日
常を味わうためにプロスポーツブームが起こった時期であった。その結果NBAの観客動
員数は60年の200万人強から、1970年には500万人以上へと飛躍的に伸びた。
これは他の4大スポーツと比べても非常大きい数字であった。
(表1参照)
テレビでの不人気と観客動員数の大人気のアンバランスは非常に興味深い。その原因は
このスポーツ固有な特徴に依るものであったと考えられる。
「つまり、バスケットボールで
は野球、フットボールと違ってプレイがずっと続いており、テレビ放送で重要視されてい
た解説者やファンがドラマチックに緊張感を盛り上げるための小休止がほとんどなかった。
さらにこのスポーツを楽しむ鍵は、ファンと選手の間でのある種の特別な緊張感だと考え
られていた。密閉されたアリーナで審判の判定に大声で文句をつけ、コーチや選手にも大
声で指示を出し、選手と観客がお互いに感激を味わうことこそが最大の魅力と考えられて
いた。テレビでは味わえない感動をファンは求めていたのだ」4。
だが1970年代に入ると事態は急展開を見せる。NBAを支えてきた観客動員数が停
滞し始めたのである。そのためスター選手を抱えるロサンゼルス・レイカースやフィラデ
ルフィア、ボストン以外のチームはすべて赤字という、危機的な経済状態を迎えた。この
不人気の象徴的な例としては、ABAを吸収して初めてとなった1977年のオールスタ
ーゲームが挙げられる。海外はともかくとしても、開催地ミルウォーキーの新聞社ですら
ただの 1 社も取材に来なかったのだ。
この原因としては、NBA評論家の小林孝氏は次のように述べている。
「1976年から
1979年にかけてはドラフトが不作でこれといったスター選手が現れなかったこと。ま
た従来 NBA の人気を引っ張ってきたボストン、ニューヨーク、ロサンゼルス・レイカース
などの力が落ちたこと。そして この頃から NBA における黒人選手の比率が極端に上がり、
白人の NBA ファン離れが起こったことと、さらに決定的だったのが NBA 選手の60パー
セント以上が薬物中毒である、と報じられるほどリーグの環境、モラルが低下し、NBA そ
のものがダーティーなリーグという烙印を押されてしまったことが挙げられる」5。こうし
た結果、NBA の人気はどんどんと下がっていき、まさに「どん底」という言葉がぴたりと
当てはまる状態に陥ることとなる。
その状況の打開策として、よりスリリングなシーンを演出するためにNBAは「3 ポイン
トシュート」を採用した。だがそれ以上に NBA にとって起爆剤となったのが、1979年
の NCAA ファイナルで競い合ったラリー・バードとマジック・ジョンソンの登場だ。
「19
79年 NCAA ファイナルでは史上最高の視聴率をマークしたほどの二人の競い合いはその
まま NBA に舞台を移すことになる。白人選手と黒人選手、陽気なマジックと寡黙なバード、
東の名門セルティックスと西の名門レイカース。これ以上は無いという舞台設定が整えら
れた。そして何よりバスケットボールと選手としての実力が二人とも図抜けていて、後に
4
5
同上 P.139
http://www.hi-ho.ne.jp/shihan/index.htm2001.1.15
『生きる伝説』と称されるラリー・バードはセルティックスに史上最高の巻き返しをもた
らし新人王も獲得した。マジック・ジョンソンは超人的なプレイオフでの活躍からレイカ
ースをリーグ優勝に導いた。この二人の破天荒な活躍はリーグに新しい活気を吹き込み、
NBAはまたファンの注目に値するプロスポーツへと再生し始めていた」6。ここでも2人
のスーパースターがもたらしたエンターテイメント性の向上が、NBAを蘇生させた最大
の要因であると言える。
3.選手連盟とサラリーの増大
NBAの選手連盟ができたのは1966年。わずかではあるがテレビマネーの流入、リ
ーグの人気上昇によりサラリー増大への期待が高まったことが原因となっている。4大ス
ポーツの中でもNBAのそれは特に強力な選手連盟であった。なぜなら「選手数は全チー
ムあわせてもやっと100名を超える程度であり、選手間のコミュニケーションはフット
ボールや野球より綿密なものであった」7 からだ。もともと強力であった選手連盟をさらに
強力にしたのは、ABAの発足によりサラリーが急上昇したことが大きな要因として挙げ
られる。
NBAが徐々に成長していくのに刺激され、青年実業家達は新たなプロバスケットボー
ルリーグを創設することを思いついた。こうして1967年、ABA(American Basketball
Association)は誕生したのである。ABAは1966年のNFLとAFLの合併をモデル
とし、全米規模の放送契約を獲得し、それを武器にNBAとの合併を図ろうとしていたの
だ。ABAの実状を前述の小林氏は次のように言っている。
「ABA では NBA が守ってきた
ルールの多くが無視された。卒業前の大学生をドラフトしたり、その選手が一番観客に受
け入れられそうなフランチャイズにドラフトさせたり、さらには高校生まで指名したりと、
なりふり構わぬ選手獲得策に走った。当然競合する NBA も同じ選手を指名しているわけで、
結果としてそれは新人選手の契約金の当時では考えられない額への高騰へと結びついてい
った。そして新人選手は何の協定もなく両リーグの示す契約金額でより好条件のチームを
選んでいくようになった」8。
この両リーグでの壮絶な選手獲得合戦により、選手のサラリーは急上昇を見せることと
なる。「1952年−1957年の選手のサラリー上昇率が平均すると33パーセントで
あったのに対し、1967年−1971年の間にNBAの平均的サラリーは2万5000
ドルから4万ドルへと60パーセントも跳ね」9 あがり、ウォルト・チェンバレンはこの時
期にNBA初の10万ドルプレイヤーとなっている。
同上 2001.1.15
『アメリカメジャースポーツ読本』ベースボールマガジン社 P.163
8 http://www.hi-ho.ne.jp/shihan/index.htm 2001.1.15
9 川口智久
前掲 P.234
6
7
当然なことではあるが、財政基盤がまだしっかりしていなかったABAは苦しい状態に
陥った。その結果両リーグは上昇しつづけるサラリーに歯止めをかけるため、1970年
に合併に関する協定を結ぶこととなり、NBAがABAを吸収するということで一応の決
着はついたかのように思われた。
だが選手連盟は1966年のNFLとAFLの合併により、フットボール選手のサラリ
ーが減少したこと(2分の1から3分の1になった)を知っていたので、断固として合併
には反対した。彼らはバスケットボールを独占禁止法から除外し、合併を認めることにな
る法律の制定に反対した。そして1970年には両リーグに対して、ドラフト制度と選手
保留制度と同様に、合併も禁止せよという集団訴訟をおこした。しかしこの訴訟の結果は
火を見るより明らかで、最終的には選手側は1975年に合併を認めた。だが選手連盟も
さすがに強力である。選手連盟はNBA側に選手を他チームに取られたチームに補償する
といった具合に選手保留制度を変えさせたのである。さらに1980年には、現役選手に
対する補障はすべて廃止された。
1965年から1975年におけるNBA、ABA両リーグ間の競争と、それ以降新た
に獲得した自由により選手のサラリーは記録的に上昇していった。そしてついに1980
年にはオーティス・バードソングが100万ドルプレイヤーとなるのである。このサラリ
ーの上昇率は他の4大スポーツと比較しても、目を見張るものがあった。
野球
バスケットボール
フットボール
1967年
1975年
1980年
19133ドル 46000ドル 135000ドル
20000ドル 107000ドル 185000ドル
25000ドル 42000ドル 69000ドル
(出典『スペクテイタースポーツ』P240)
4.まとめ
NBA誕生から1980年代前半までのNBAは人気には大きな浮き沈みがあり、順風
満帆とはとても表現できなかったのだが、NBAには幸運だったことがあった。どのスポ
ーツもチーム戦力の均等化には手を焼いていたのだが、NBAではそれがなぜか実践され
ていたのだ。観客の激減による危機を乗り越えたのにもこの意味は大きい。スポーツがエ
ンターテイメント性を保つためには「平等」ということは非常に大きな要素である。マジ
ック・ジョンソン、ラリー・バードというスーパースターが加入する以前にNBAが消滅
しなかったのは、戦力の均等化により2年連続で優勝したチームがなかったことで、最低
限のエンターテイメント性を確保していたからだと考えられる。これはバスケットボール
というスポーツの特性上、スーパースターでチームを組むよりも5人の選手を適材適所に
配置し、ひとつのチームとしてまとまっているかということが勝利の鍵であったためで、
リーグの経済的構造に起因したものではなかった。リーグの構造上の問題としてはNBA
では他の4大スポーツと違い、ホームチームが入場料収入の全額を取ることが許されてい
たという事情がある。例えば「ニューヨーク(人口789万5000人)がフランチャイ
ズであるニックスは、ポートランド(人口39万8000人)などの小規模の都市がフラ
ンチャイズである球団の2倍の入場料収入」10 を得ていた。
1980年代前半までのNBAは観客動員数ではある程度の人気を保ってはいたものの、
他の部門が精細を欠き、プロバスケットボールリーグとしての将来はいま一つはっきりし
ていなかった。徐々に黒人選手がリーグに多くなってきたのだが、NBAを支えていた白
人ファンにとってそれは望んでいる状態ではなかった。またその人気というのも古くはカ
レッジバスケットボールの不祥事、さらには皮肉にもリーグの特徴である戦力の均等とは
矛盾する、ウォルト・チェンバレンやラリー・バード、マジック・ジョンソンといったスー
パースターの力に依存していたものであり、よりエンターテイメント性を高めるルール改
正(表2参照)を行いはしたが、NBAそのものの実力で勝ち取ったというよりも運に依
るものが大きかったと言える。
はたして他の 4 大スポーツがフランチャイズ・スポーツとして発展して来たのに対し、
NBAは傑出したスターに依存する構造を生み出した。普段は空席の目立つ球団でも、ラ
リー・バードのいるボストンやマジック・ジョンソンのいるロサンゼルス・レイカースが
相手となれば観客席は埋まるのがNBAの通例となった。一部の有力球団を除いては財政
的な面で不安定で、スーパースターの出現等の幸運がなければ、先輩プロバスケットボー
ルリーグを見習い消滅していた可能性もあった。だがこの時期があったからこそ、現在の
NBAの繁栄があるというのもまた事実である。
最後にこの時期のNBAと日本の関係を書くことにしよう。日本でNBAが初めて行わ
れたのは1974年に行われたNBA・ABAオールスターゲームである。これはシーズ
ンオフを利用して当時競いあっていたNBA・ABAの各チーム7番目から9番目の選手、
語弊を恐れず表現するならば補欠選手が大量に来日してエキシビションゲームを3試合行
ったものである。だが、この頃はテレビ放送も年に1回あるかないかといった状況であり、
小林孝氏は自身のホームページで一握りの人たち以外にはあまり人気が高かったとは言え
ない、と語っている。
10
『アメリカメジャースポーツ読本』 P.79
第2章 NBA発展期(1984年∼現在)
∼デビッド・スターンの戦略∼
前章で記したように、1980年代前半までのNBAはある程度の人気を保ってはい
たが、決して確固たる地位を確保しているわけではなかった。そんな状況が劇的に変わ
ることになったのが、1984年である。それはつまり、マイケル・ジョーダンのシカ
ゴ・ブルズへの入団とデビッド・スターンがNBA4代目コミッショナーに就任したと
いう2つのことを指している。もちろん当時はこんなにも大きな意味を持つことになる
とは考えられていなかった。マイケル・ジョーダンはスター・プレイヤーに依存してい
たNBAの構造においても、これまでにないほどのカリスマ性を持つことになる選手で
ある。また、スターンはこれまであまりうまく機能していなかったNBAのマーケティ
ング構造を確実に作り直していった人物であり、すなわちNBAをスター選手の力だけ
に頼らない構造へと変換させた人物と言うことができよう。ここで初めて、強力なスタ
ー・プレイヤーとその選手を大々的に売り出していく体制が整ったのだ。
スターンがコミッショナーに就任する前年、つまり1983年当時のNBA全球団は
「23チームあったのだが、そのうち17チームは赤字という状況だった。また、シー
ズン・チケットの売上とテレビの放映権料、マクドナルドら数社の公式スポンサー料と
いう、いわば固定収益の数字は1億8130万ドルであった」11。人気はそこそこあっ
たものの、財政面では決して潤っているわけでもなく、言ってみれば空気がしぼんだ状
態であった。第2章ではいかにしてNBAは苦境を脱し、現在に至る国際的な成功を収
めるに至ったのかを見ていくことにしよう。
1. 労使協定
スターンはまず他の4大スポーツから見ると、異常なほどの権力があった選手の力を
制限することにした。彼らの発言力は強く、あまりに高額なサラリーを要求していたと
いうことが、現実問題として各球団の財政を圧迫する大きな要因となっていた。そのた
め選手とNBAとの連盟の間で労使協定が初めて結ばれたのである。正確に言うと就任
前年、3代目コミッショナーであるラリー・オブライエンがコミッショナーを務めてい
11
梅田香子
『NBA解体新書』ダイヤモンド社
1996年
P.44
た時に、スターンは弁護士として活躍したのではあるが、選手とNBAの利害をまとめ
あげたのはスターンの力が大きかった。
また1984年に契約されたこの労使協定は契約期間が切れたということで、199
6年には労使協定は改定されている。
NBAの労使協定を以下に紹介する。
選手保有制度
最初は契約2回以上、年数にすると7年という条件を満たした選手だけが、
「制限の
ないFA」になることができた。この年数は徐々に減っていき1993−1994シー
ズンには3年に縮まっている。また複数年契約の最長期間も7年と決められており、こ
れより長い期間の契約は認められていなかった。
他の4大スポーツの労使協定との違いに、オールスターゲームの扱いがある。たいて
いの場合はオールスターゲームの出場給は、各球団とのオプション契約に含まれ、連盟
側からのギャランティーは存在しない。だがNBAの場合は、もちろん各球団とオプシ
ョン契約している選手はいるだろうが、NBAからのギャランティーが発生する。
「1
996年−1998年の間は勝ったチームの選手に1万2000ドル、負けたチームの
選手には6000ドル。1999−2001年までは勝った方の選手が1万5000ド
ル、負けた方の選手が7500ドルを手にいれるように値上がりしている。またルーキ
ーゲームは勝者に4000ドル、敗者に3000ドル」12 が支払われる。
さらに「麻薬にとりつかれたリーグ」というレッテルをはがすため、コカインとマリ
ファナのテストもこれまでより厳しいものを義務付けている。
サラリーキャップ
アメリカのプロスポーツを見ていると、しばしば「サラリーキャップ」という言葉を
耳にする。この言葉を聞いて、なんのことだかピンと来る人はスポーツに対して造詣が
あると自負しても良いだろう。「サラリーキャップ」とは、その名の通り、サラリーに
キャップをすること、つまりは選手の給料に上限をつくることをさす。
1984年に結ばれた労使協定では、チームが得る収入のうち53パーセントまでが
所属している選手たちへ支払うサラリーの上限と認められていた。それが1994年か
らの労使協定では48.04パーセントとなった。一見するとサラリーキャップは減少
したと感じるかもしれない。だがこの10年間でNBAの収入は非常に多岐に渡るもの
へと変化していた。そのため1994年におけるサラリーキャップは、選手のロゴマー
クの使用料や海外での収益が、収入の対象として広がっている。さらに選手の権利を守
るため、チームは上限の最低75パーセントは使わねばならない。
また、ルーキーに対するサラリーキャップも定められている。これはドラフトの指名
12
同上
P.68
順位ごとに過去7年間にわたり、指名されてきた選手たちが受け取った平均年棒をベー
スに、プラスマイナス20パーセントにおさまらなければならないことになっている。
だがサラリーキャップには例外条項も含まれている。その代表的な例が「ベテラン・
フリー・エージェント・エクセプション(ラリー・バード例外規則)
」である。これは3
年以上の契約を満了した選手がFAの権利を得てよそではなく、もともと在籍していた
チームと再契約することになったときだけ適用され、サラリーキャップの額とは無関係
にサラリーを供給してもよいという規定である。
しかしこのサラリーキャップが原因となり、1998−1999シーズンはシーズン
オフの間からロックアウトが起こり、NBAの試合は行われなくなるという事態が起こ
った。ロックアウトとは日本後に訳すと、
「締めだし」とでもすればよいのだろうか、
その通り選手を一切の施設から「締めだし」てしまうことである。これはNBAの歴史
上初めてのことである。原因はサラリーキャップの上限金額にあり、1997−199
8シーズンは「2690万ドルが1チームあたりの上限のはずだったのだが、実際はリ
ーグ総収入のうち57パーセントにあたる3200万ドルが選手にサラリーとして支
払われていた」。13「ラリー・バード例外条項」の影響である。そのためNBA側はこ
の例外条項を例外としないように画策した。それに反発した選手連盟とNBAとの対立
がこのロックアウトを引き起こしたのである。
一時はNBA、選手連盟が互いに譲らず、4大スポーツで初めて1シーズンがまるま
る開催されないような雰囲気が漂った。しかし「ロックアウト中のサラリーは払わなく
てよい」という判決が裁判で出されたこともあり、1999年1月18日に新労使協定
が結ばれ、シーズンは50試合という短縮の形で始まった。
新しく規定されたサラリーキャップでは、そのチームとの契約が 1 年目の選手はプロ
契約年数に従いサラリーの上限が定められている。またサラリー上昇率、契約年数も「ラ
リー・バード例外条項」に該当する選手とそうでない選手で区別されている。さらに最
低年棒額もプロ契約年数制に見なおし、ベテラン選手のサラリーを上げることでサラリ
ーの格差を是正している。(表3参照)
2.テレビとの契約
NBAでは他の 4 大スポーツと同様、全国ネットとのテレビとの契約はNBAが一括
して収益を受け取り、各球団に分配し、地元のローカルテレビ局との契約はそれぞれの
球団が独自に契約し、それを収入にするという形をとっている。
ここでも1984年はターニング・ポイントとなっている。ラリー・バードのボスト
ンとマジック・ジョンソンのロサンゼルス・レーカースが激突したファイナルで全試合
13
http://www.kumagaku.ac.jp/seminar/~saionji/folder01/folder0111/html
2001.1.16.
が生中継されたのだ。今では考えられないことだが、ファイナル全試合が生中継された
のはこれが初めてのことだった。
こうしてNBAとテレビは徐々に親密交際を始める雰囲気が漂いはじめたのだが、そ
れを爆発的なものとした背景にマイケル・ジョーダンの力があったことを忘れるわけに
はいかない。彼はシカゴ・ブルズに入団するとすぐさまその浮世離れしたプレイで人々
を「魅せる」ことになる。ジョーダンが入団する前の年のシカゴ・ユナイテッドセンタ
ーの観客動員数は、「平均すると6365人だったのだが、ルーキーの年には早くも1
万1887人と約2倍」14 にしてしまったのである。そして他の都市でも、ジョーダン
のプレイを見る(魅せられる)ためにファンはアリーナに殺到し、一瞬にしてシカゴ戦
のチケットをプラチナペーパーとしてしまったのだ。ジョーダンのプレイは跳躍力、集
中力に富んでおり、それと同時に挑戦的、野心的というイメージが重なり、これまでN
BAを支えてきた白人ファンだけでなく、黒人ファンにもターゲットを増やしていくこ
とになった。ジョーダンのプレイは見る者を魅了し、人種、年齢、性別を問わず全米中
の人々の一大関心事になったのだ。つまりジョーダンの出現は、NBAというソフトの
品質向上を促したと言えるだろう。
1982年のCBSとの契約は1990年まで続いた。ジョーダンの出現でソフトと
しての品質の高まりは前述した通りだが、バスケットボールというスポーツ自体は、依
然としてテレビには向かないと考えられていた。そのためスターンは、NBAというソ
フトを加工することに取り組んだ。つまりスターンはバスケットボールをテレビ映えす
るスポーツにするために、番組をNBAの管理下に置いたのである。どのアングルから
撮れば視聴者により興奮を与えられるか、アップを効果的に入れることで選手の魅力を
引き出せないか、テレビ局への注文は細部にわたり、試合後のインタビューを受ける選
手用に「メディアに協力するためのビデオ」まで作った。
マイケル・ジョーダンに出現による「品質向上」とスターンの「品質改良」により、
NBAのリーグはテレビにおいてもエンターテイメント性を高めることに成功した。こ
うして1990年からはこれまでのCBSとではなく、NBCとの新契約を結ぶことに
なる。その契約高は「4年間で6億ドルというものであり、これまでのCBSと結んで
いた契約と比較すると約3倍にあたるものだった。また、この契約が切れた1994年
には4年間7億5000万ドル」15 と、さらに上乗せした契約にも成功している。
この契約成功の影にはNBAエンターテイメントの功績も忘れるわけにはいけない。
NBAエンターテイメントは6000平方フィートにも及ぶ、豪華な録音・撮影スタジ
オを所有するNBAオフィスの一画をしめる製作会社なのだが、そこが製作する毎週3
0分間のハイライト番組『インサイド スタッフ』がNBCで放送されるということが
14
15
梅田香子 前掲 P.46
『アメリカメジャースポーツ読本』P.155
契約に含まれていたのである。スポーツリーグを組織する団体が主導で番組を制作する
のは4大スポーツでは初めてのことだった。内容もNBA主導ということで、選手が普
段は見せない素顔を思わずポロリと出してしまうなど、非常に興味深いものだった。そ
のうえ、製作はNBAエンターテイメントなので、NBCはほとんど経費を使わないで
看板番組を1つ増やしたこととなり、NBCにとっても有益な契約となった。
『インサ
イドスタッフ』が放送されはじめたのは1990年のことなのだが、1991年には『N
BAアクション』という、
2 つ目の週 1 回のテレビシリーズを制作する計画を発表した。
この番組は、全米および海外に配信する計画の30分のハイライト番組である。こうし
てテレビにおける露出をさらにエンターテイメント性あふれるものに変えていくこと
で、テレビとNBAの関係は良好なものになっていった。 (表4参照)
ここまでは地上波について述べてきたが、アメリカのテレビ事情を考えるとケーブル
テレビを除外することはできない。アメリカではケーブルテレビ会社が大きな意味を持
っている。アメリカのテレビ受信世帯というのは、現在9500万世帯から9600万
世帯ぐらいあるのだが、そのうち6000万世帯はケーブルテレビである。なぜこのよ
うなことが起こるのかと言うと、全国放送局と言われるテレビ局は、都市部では絶対に
映るのだが、ちょっと田舎に行くと見ることができなくなってしまうことがあるからだ。
NBAと同じく1984年はケーブルテレビにも大きな意味を持つ年であった。ケー
ブルテレビは1948年に登場したのだが、その後1960年頃から急速に普及し始め
た。さらに技術革新にともなって1970年代になると普及率は50パーセントに達し、
州レベルでの規制緩和の動きが始まり、1984年ケーブル通信政策法によって連邦レ
ベルでそれが確定された。同法では、
「(1)地方当局との事業免許契約を義務化(FCCには登録のみでよい)
(2)地方当局による料金規制が原則撤廃(ただし、有効競争が確保され
るという条件下でのみ)
(3)地域電話会社(ベビー・ベルズ)によるケーブルTV業への参入は
禁止」16
ということが定められており、ケーブルテレビの地位が高まり、本格的にスポーツ界に
も影響をもたらすことになったのだ。
残念ながらNBAとケーブルテレビの詳しい契約内容は、資料を見つけることができ
なかったのだが、NBAとターナー スポーツはターナーの国内での独占ケーブル放送
権を1994年から1997年までの4年間で3億5200万ドルの契約で合意して
いる。
16
http://www.geocities.co.jp/WallStreet/1311/archive/glo_3.html2001.1.17
3.スポンサー契約
1995−1996シーズン、NBAと公式スポンサー契約を結んだ企業は次に記す
ように16社ある。
17
AT&T
AMERICANEXPRESS
CASTOROL
INC
IBM
CORPORATION
THE
COCA−COLA
COMPANY
FANNIE
MAE
KELOGG
COMPANY
NESTLE
USA
LUCENT
TECHNOLOGIES
McDONALD’S
MILLER
CORPORATION
BREWING
NORWEGIAN
THE
FOUNDATION
QUAKER
COMPANY
CRUIS
LINE
OATS
COMPANY
SHERWIN−WILLIAMS
WARNER−LAMBERT
COMPANY
COMPANY
SONY
一見しただけで、いずれも世界的に名高い有名企業ばかりだということがわかる。こ
こではNBAはスポンサーにCMの権利を売るという図式が成り立つ。企業にとっても
NBAでCMを流すこと広告戦略としては魅力的である。妥当な金額でCMの権利を買
い取り、知名度と信頼度をアップさせることは商品の売上を伸ばし、利益をあげること
につながるからだ。もっと追求すると、各企業はNBAとスポンサー契約することで健
全なイメージというブランドイメージを購入していると言えるだろう。
スターンはスポンサー契約に関しても、敏腕を発揮することになる。当然のことだが、
レギュラーシーズンはプレーオフと比較すると、注目度は低くなる。そのためレギュラ
ーシーズンの価値を落とさないようにするため、レギュラーシーズンとプレイオフを一
つのパックにまとめ、商品としたのだ。例えば「ゲータレードやマクドナルドは、NB
Cで放送される試合で一本30秒のCMを流す権利を、1シーズンを通して700万ド
17
梅田香子
前掲
P.52
ルから800万ドルで購入していることになる」18。参考までに1999年のNFLス
ーパーボウルのCM契約料がたった30秒で200億ドルだったという現状がある。こ
のことを考慮に入れると、プレイオフでのCMの権利を含んでいるこの契約内容は、企
業にとっても安い買いものだと感じられるのである。
さらにスターンは各スポンサー企業の戦略にあわせて、CMの対象をアメリカ内外、
アメリカ国内のみ、アメリカとカナダ、そしてアメリカ国外のみと4つに分類し、契約
内容にも柔軟性を持った商品としている。それによりスポンサー企業が自社の戦略とマ
ッチした契約を選択することを可能にし、スポンサー契約の商品としての質を高めるこ
とに成功しているのである。
4.ライセンス契約
ライセンス料というのはNBA関連グッズやロゴの使用料のことをさしている。1つ
の商品の売上高に対して、3パーセントから7パーセントがNBAに支払われるという
ことになっている。
それらを一括管理する目的でNBAプロパティーズは1982年に創業した。この部
門は現在のNBAでも非常に伸びている部門であり、1998年には30万ドルをここ
で得ている。実際にNBAとライセンス契約しているのは、アパレルメーカーが33社、
子供服メーカーが17社となっておりファッションとしてNBAが認知されているこ
とがわかる。近年では、家具や文房具メーカーとも契約を結んでおり、このことは生活
の一部として社会に溶け込んでいる現状を表していると言ってもよいだろう。ここでも
マイケル・ジョーダンの人気は郡を抜いており、1996年のNBAグッズの総売上の
うちの16パーセントはジョーダン関連だった。
ここでNBAのユニフォームを思い出してほしい。NBAのユニフォームはかつてピ
シッと体に密着したものであったのだが、現在のようなだらっとしたものへと変わった
のはプレイをしやすいということに加え、ファッション性を高めることでユニフォーム
の売上を伸ばそうとしたことも一因としてある。さらに最近チームのロゴや、ユニフォ
ームデザインが頻繁に変わるのは、こうしたプロパティー収入を上げるためと考えて良
いだろう。やはりファン心理としては、古いデザインのユニフォームやロゴマークの入
った T シャツを着るのには抵抗があるので、新調されたひいきのチームのグッズをこ
ぞって買うことになる。
このような現象はもちろん、ライセンス契約している企業が自社の売上を伸ばすため
18
同上
P.52
に起こっているのだが、それを促している黒幕としてNBAが存在している。ライセン
ス契約している企業の商品が売れれば、その一部はNBAの懐にはいってくるのである
から、NBAはこの現象を促進させようと考えるのが自然である。そこでNBAは、例
えばユニフォームならばスターター、ナイキ、チャンピオンと3つの企業とライセンス
契約することで、企業間の競争をあおっているのだ。これは他の商品の場合でも見られ
ることである。決してライセンスを乱発して安売りするのではなく、バランスを保ちつ
つ競争が起こるようにしているところにNBAのライセンス契約戦略の妙がある。
5.海外進出
ここまではNBAのアメリカ内における戦略を中心に考察してきた。だが現代のNB
Aを語るうえで、世界に目を向けることを避けるわけにはいかない。1996−199
7年のレギュラーシーズンでは海外からきたメディアに対して、NBAが発行した取材
証の数は1940枚にのぼり、さらにNBAファイナルになると34カ国の報道者に対
して、200枚の取材証が発行されている。このような積極的な海外戦略は、1989
年にNBAインターナショナル・オフィスが6人のスタッフで創設されたところから始
まる。
海外におけるNBAの初めてのオフィスは、オーストラリアのメルボルンだった。そ
の後、海外のオフィスは徐々にその数を増やしていき、現在では8つになっており、も
ちろんその中には「NBAジャパン」も含まれている。
海外でNBAのプレイを生で見ることは、チャリティーマッチやオールスターという
形ではあったが、本格的な大会で見られるようになったのは、1987年にマクドナル
ドチャンピオンシップができてからである。これは国際バスケットボール連盟とNBA
が創設した国際的なバスケットボールの大会で、NBAの 1 チームが国際バスケットボ
ール連盟のクラブチームと対戦するものである。その結果、NBAは開催地を中心に
徐々に国際的にも認知されるようになってきた。
だが海外での人気急上昇の背景にはバルセロナオリンピックからプロの参加が認め
られ、「ドリームチーム」が結成されたということが大きな意味を持っている。
「一度同
じチームでプレーしたい」というラリー・バードとマジック・ジョンソンの夢が前面に
押し出されて結成されたが、根底にはスターンの世界戦略があった。知ってのとおりオ
リンピックは世界最古にして、最高のスポーツイベントである。ドリームチームの強さ、
エンターテイメント性の高さは世界中に放送され、観客だけでなく全世界がそのプレイ
に心を奪われた。NBAはオリンピックというこれ以上ない舞台で、これ以上ないパフ
ォーマンスを見せ、これ以上ないプロモーションをしたのである。こうしてNBAは世
界的にも大きな注目を集めることになり、マーケットが世界へと移っていった。
1998年のレギュラーシーズンの試合は、
『NBA解体新書』によると、世界19
9カ国、40言語で約6億5000万世帯にテレビ放送されている。1990年の77
カ国、2億世帯に比べると驚異的な伸びである。もちろんこの中には経済的に貧しい国
も含まれており、アメリカのように高い放映権料を払うことのできる国は数えるほどし
かない。そこでスターンは「貧しい国のテレビ局に対しては事前にリサーチを重ね、真
の購買力をつきとめてしまい、意外なほど安い金額で放映権を売ってしまうこともある。
ただしこの場合、買い手はCMも含むゲームパッケージとして買うことが義務付けられ、
そのCMタイムをNBAがスポンサーにプールして儲けを得る」19 という手法を取って
いる。テレビ局にとってもNBAにとっても利益を得ることのできる仕組みである。
また1995年にはエクスパンションによりトロント、バンクーバーとカナダにもフ
ランチャイズを置くことに成功し、つぎのエクスパンションではメキシコにもフランチ
ャイズをおこうと計画している。そのために1992年からメキシコでプレシーズンマ
ッチを行ったり、トーナメント大会を開催するなどの試みを成功させ、現段階からファ
ンを獲得するという容易周到ぶりを見せている。
さらに1995年には北米、ヨーロッパ、オーストラリア、香港のフットロッカー、
ワールド フットロッカー、キッズ フットロッカーの店舗にファンが投票するための投
票箱が置かれ、NBA オールスター投票が初めて世界的に行われることになった。投票
用紙は、フランス語、スペイン語、イタリア語、ドイツ語、オランダ語、英語で作成さ
れた。オールスターをまさに世界規模のものにしようとしたのだ。
ここで日本に目を向けてみることにする。アメリカと同様「ジョーダンを一目見てみ
たい」という欲求が高まり、日本でNBAが本格的に放送されるようになったのは19
88年からである。これはNHK−BS放送であった。そして1994年には、アメリ
カの場合と同様に、NBAエンターテイメントが日本のテレビ東京向けに制作した30
分間のマガジン番組「NBA ウイークリー」がスタートした。
1990年にはアメリカ以外で初めての公式戦が日本で行われている。NBAという
枠だけではなく、アメリカ4大スポーツにとっても初の試みだった。これはだいたい2
年に1回のペースで行われ、記憶に新しいところでは2000年の開幕戦がある。試合
はもちろん大盛況だったのだが、プロモーション活動も忘れていない。NBAはナイキ
と提携し、パレットタウンで体験型バスケットボールエンターテインメントスペース
「NIKE/NBA
A
19
HOOP JAM ’99」を開催している。これに関してNB
Japanのマーケティングディレクター、ジョンライスはこう話している。
同上
P.172
「NBA
JAPAN GAMES の一環として、この様なファンが楽しめる参加型
イベントの開催への協力ができ、大変喜ばしく思います。日本に限らず、世界の国々で、
バスケットボールファン・NBAファンの皆様に様々なバスケットボールを体験してい
ただき、そしてエキサィティングなNBAがより身近なものになるように私達のパート
ナーと共に願っています。」20
この試みは1996年の開幕戦の時以来2度目であるが、NBAの試合を観戦させる
だけでなく、直にバスケットボールと接触させることで、NBAへの関心をさらにより
おこし、プロパティー収入を増やそうという戦略を端的に表している言葉と言えるだろ
う。実際にグッズの売り上げも、スポーツジャーナリスト出村義和氏によると、199
8年の30億ドルのうち16パーセントはアメリカ以外の市場で売れたものだった。こ
れはMLBにもNFLにもなかった状態であり、スターンの世界戦略は見事に成功をお
さめたと言える。(表5参照)
6.まとめ
以上のような経緯、戦略で今やNBAは世界規模のマーケットを獲得した。その結果
NBAの総収入は、『NBA解体新書』によると、スターン就任当時の1984年の6
800万ドルから1996年には30億90万ドルに伸びた。またNBAオフィスに勤
務する人の数も1984年の65人から1997年には400人と増加している。その
影にはスターンの手腕とジョーダンの活躍が常に見え隠れしている。
スターンがとった方法は要約すると、
「いかに客を楽しませるか」ということであっ
た。そしてジョーダンはあの家族主義のアメリカで、尊敬する人は誰かというアンケー
トで「父親」を押さえトップに立つなど、まさに「神様」となっていくのである。だが
NBAの野心は留まることを知らない。
「――NBAの今後のマーケティング戦略は。
テレビ中継やインターネットに力を入れ、各国にNBAのオフィスも置きたい。女子
のWNBAで、女性層にも食い込むつもりです。あと、これはたまたまですが、南米や
アフリカ、中国からもドラフト指名される選手が出ています。
」21
上は昨年の日本開幕戦でスターンが来日した時にされたインタビューの一部である。
ここから判断すると、スターンはアメリカ国内はもちろん全世界的にさらなる発展を狙
っていると考えられる。これからのNBAはさらに目を背けられないようだ。
20
21
http://www.geocities.co.jp/WallStreet/1311/archive/glo_3.html2001.1.16
http://asahi3.asahi.com/paper/sports/basket/nba/japangames/stern.html2001.1.16
第3章
これからのNBA(現代∼未来)
∼インターネット戦略とNBA∼
前章に述べたようにNBAは21世紀も全世界を視野に入れて、さらなる繁栄を狙っ
ている。それでは具体的にどのような戦略をとることが考えうるであろうか。私なりに
想像力を働かせて、次代のNBAについてインターネットを中心に提案してみることに
する。
1.インターネットとNBA
昨年の流行語大賞を覚えているだろうか。
「おっは∼」と「IT革命」が受賞したの
だが、もちろんここで重要視したいのは慎吾ママの活躍ではなく、後者「IT革命」に
ついてである。そのITの中核にあるものとしてインターネットがある。インターネッ
トは,もともと「ネットワークを繋ぎあわせる」という意味があるが、それは今や世界
中に普及し、「ネットワークにより世界中を繋ぎあわせている」と言える。多くの人が
手軽に使えるようになったインターネットではあるが、ここで一度どのようなものか整
理しておく必要があるだろう。
通信白書ではデジタルネットワークの特徴として、次のように記してある。22
1.空間の制約を取り払い、相手が世界中のどこにいても、情報のやりとりが可能とな
る。
2.時間の制約を取り払い、いつでも、相手に情報を届けることが可能となる。
3.情報発信コストが低廉化し、多様な情報が流通し、多くの人がこれを享受できる。
4. 情報の複製コストがかからないため、同一の情報を多くの人で共有で
きる。
1については利用者はインターネットの回線に接続すれば、瞬時に世界中のサーバー
に接続が可能となっている。そのため地球の裏側のほんの小さな情報であっても簡単に
アクセスができる。またインターネットによる情報のやり取りは、先方が東京であろう
22
http://www.abrain.co.jp/~youichi/meikai/01st/ 2001.1.17
と大阪であろうと、ニューヨークであろうと所要時間に変わりは無い。つまりどこにい
ても全ての世界中の情報に平等に接続できるうえ、情報の発信者は何の障害も無く世界
中の人々から参照してもらえる。これは従来のように都市部に情報が集中し,地方部で
は情報が少ないといったことと対称的である。
2についてインターネットでの情報発信は24時間365日が原則であるから、放映
時間とか、時差といったものが存在しない。しかも数秒から数分で情報の送受信は完了
する。郵便は時差を気にしないで送ることができるが、日数がかかる。電話は時間差無
しに情報のやり取りが出来るが、時差があると時間をあわせるのが難しい。しかしイン
ターネットであれば、地球全域において、時間を気にすることなく情報のやり取りが可
能となるのである。
3については従来のメディアでも全世界に向けて情報発信することは可能であった
が,多大な費用が必要とされるため、費用対効果の点から言えば、発信可能な情報は世
界的なニュースに限定されている。地域の情報誌から世界的な放送を持つCNNまで、
費用と情報の発信力・範囲は比例関係にあったと言える。それに対し、インターネット
の場合にはそうした関係が全く存在しない。非常にローカルな情報であっても、ワール
ドワイドな情報であってもインターネットで発信する限りにおいては費用面において
差異は無い。具体的に言えば月額数千円もあれば実現できてしまう。この価格で自分専
用の「メディア」を持つことが出来るというのは、特筆すべき点であろう。
4についてはフローだけでなくストックするメディアとしての機能を持っているこ
とがあげられる。既存のメディアでは情報を発信する場合に、物理的な制約(紙面の大
きさ,枚数)、時間的な制約(放映時間,本数)が存在していた。その結果、情報をス
トックするには不適であった。しかしながらインターネットには物理的な制約も,時間
的な制約も存在しない。そのためバックナンバー的な情報も効率的にストック&発信す
ることが可能である。任意に更新でき、その更新が即時に更新されるという即時性を兼
ね備えていながら、情報のストックも可能な事はインターネットの特異性を示すものと
言えよう。さらにこれは情報の発信者だけの特典ではない。インターネットの情報はデ
ジタル情報であるから,利用者はオリジナルと全く同じ情報を簡単にストックすること
ができる。
以上のような特徴を生かし、現代では多くの産業界で新たな仕組みを作る動きが見ら
れる。そして21世紀においては、インターネットは生活の一部になるだろうというの
が大方の見解である。このような動きはスポーツ産業界においても、例に漏れず見られ
ることである。インターネットはスポーツ産業界においても、もはや注目の分野となっ
ているのだ。調査会社 Jupiter Communications の2000年3月1日発表の資料に
よると,オンライン上でスポーツ関係に消費される金額は,2003年までに30億ド
ル規模に達するであろうという。当然のことながらNBAもこの影響を受けることは間
違いない。それに対して、スターンは次のように話している。
「(Jupiter の統計値ですら)電子商取引へと向かうインターネットの成長を,正確に反
映したものではないと思う。インターネットは将来の成長の要だ。なぜならこれによっ
てNBAは,ファンとの直接の関係をうち立てる新たな手段を得るからだ。
」23
この発言からわかるように、スターンはインターネットをこれからのNBA発展の鍵
とし、これを中心とした戦略をとっていくものだと考えられる。実際,アパレル,スポ
ーツグッズ,シューズなどのオンライン販売によって大量の金銭が舞い込み,また収益
のおよそ3分の1は,オンラインチケット販売によって得られるようになると見込まれ
ている。インターネットが持つ「空間の壁を取り払う」
「時間の壁を取り払う」といっ
た特徴を考慮すると、さらなる世界進出を狙うNBAにとっては最も有効なインフラで
あると言うことができる。
2.現段階でのNBA・インターネット戦略
ここまでを読むと、NBAはインターネットを現段階では利用していないと判断され
るかもしれないが、実際はそうではない。実はすでにNBAはインターネットを利用し
ているのだ。
世界中に情報を発信するためにワールド ワイド ウェブ上の公式サイト、
「NBA.com」が創設されたのは95年11月3日のことである。これはアメリカ4大
スポーツにおいては初めての試みであった。ここでは選手のデータベース、 チーム成
績、 個人成績、 各試合の詳細な統計情報、 試合結果の解説はもちろん、毎日のハイ
ライトシーンをリアルビデオを使って無料で公開している。そしてこのサイトは
「NBA.com/Japan」なども増設されカナダ版、日本版、スペイン版、イギリス版がで
きた。内容はほぼ同じであるが、英語だけではなく多国語で読むことのできる公式サイ
トを持つのは、アメリカ4大スポーツにおいてはNBAだけである。さらにチケットの
販売やユニフォーム、カードなどのNBAグッズはこのサイトで購入することもでき、
オンラインショッピングにも積極的である。
(チケットはアメリカ版でのみ発売)昨年
日本で開催されたNBA開幕戦は、大半が「NBA.com/Japan」を通して販売されてい
る。ウェブサイトの視聴率調査を行っているメディア・メトリックスによると
「NBA.com」は4大スポーツで唯一、ヒット数がトップ500に入るサイトである。
そして1996年12月12日にはNBAの試合がリーグ史上初めて、ESPNET
スポーツゾーンを通してインターネット上で世界中にサイバーキャスト(コンピュータ
23
http://search.zdnet.co.jp/news/0003/02/sports.html 2001.1.17
ネットワーク放送)されている。サイバーキャストというのは音声やビデオをアナログ
フォーマットからデジタルフォーマットに変換し、インターネットでストリーミング配
信することである。さらに現在では、毎日5−10試合はあるNBA の全試合をイン
ターネットラジオで中継もしている。しかも、応援するチームによってホームとアウエ
イの二つのバージョンがあるのだ。もちろんこれらは有料である。
3.NBAへの提案
現時点においてもNBAはインターネットを利用し、オンラインショッピングや情報
配信そして「サイバーキャスト」をビジネスとして成立させている。そのうえインター
ネットというインフラが技術的にも発展し、また年間徐々に普及している現状を考える
と、さらにビジネスとして成立させることは可能である。それでは具体的にはどのよう
なプランが考えられるだろうか。
一つには、公式サイトのコンテンツの質を向上させていく必要があるだろう。ここで
言う質の向上とは、情報量の向上とサイト自体のエンターテイメント性の向上を指して
いる。情報量を向上させるのは、公式サイトに載ってない情報は、他のどのサイトでも
メディアを通しても得られないという印象を与えることである。これにより既存のNB
Aファンは、よりコアな情報を求め、公式サイトに集まる。そしてサイト自体のエンタ
ーテイメント性を高めることは、世界中から多くの種類の人間を集めることにつながる。
インターネットが持つ「空間の壁を取り払う」
「時間の壁を取り払う」という特徴を最
大限に発揮できる場である。そうすることによりヒット数が増え、広告料収入の上乗せ
が見込まれるという図式が考えられる。
広告料収入は今のインターネット産業では非常に大きな位置を占めている。Jupiter
Communication によると、インターネットの広告市場は次のようになっている。
インターネット広告市場
1997
9.4
1998
19
単位:億ドル
1999
30
2000
44
2001
58
(参考:『ECビジネス最前線』218ページ)
またポータルサイトではあるが、ヤフーは1998年には広告料収入だけで8801
万ドルを上げている。
インターネット広告市場でNBAが成功を収めるには、特に多種多様な人を集めるこ
とが大切だと考えられる(人種を指すのではない)
。インターネット広告はバナー広告、
スポンサーシップ、インタースティシャルなどから成り立っているが、バナー広告が今
やインターネット広告とほぼ同義に使われるほど、その中心となっている。かつてはテ
レビや新聞の場合と同様に、バナー広告の料金体系も、それぞれのサイトへのアクセス
数に基づいて掲載時間あたりの広告料を設定する「料金先決め型」だった。しかし現在
では多くの場合、バナーのクリック数やそのバナーを通して広告主のサイトにアクセス
してくる利用者の数に基づいて広告料金を設定する方式や、一定のアクセス数に達する
までバナーを掲載しつづけるという方式となっている。つまり、実際にそのバナー広告
に関心を持った人の数により広告料を支払うという「料金後決め型」となっている。そ
のため情報を充実させコアなファンを集めることと同様に、サイト自体の魅力を増大さ
せ世界中から多種多様な人を引きつけることの重要性は高まっているということが言
える。コービー・ブライアントファンの牛肉好きな人は食料品店のバナー広告に注目す
るだろうし、アラン・ヒューストンファンのおしゃれな女性は化粧品のバナー広告に目
を留めるだろうからである。
またサイト自体の魅力を高め、世界中からのヒット数を増やし、NBAファンを開拓
していくことは、グッズ収入やテレビ放映権の高まりにつながる。
二つ目には有料オンラインマガジンの発行が考えられる。かつてテレビ番組をNBA
エンターテイメントが主導して制作したように、NBA独自の情報網を駆使し他では入
手不可能な情報を集め、それを定期的に配信するのだ。さらにオンラインマガジンに広
告を載せることで、広告料収入の増益も考えられる。
オンラインマガジンの成功例としてはウォール・ストリート・ジャーナル誌のケース
が挙げられる。「購読料はアナログのウォール・ストリート・ジョーナルを購読している
場合は年間29ドル、非購読者は59ドルとなっている。前者の割合を3分の1、後者
の割合を3分の2と仮定すると、購読料収入だけで年間1200万ドル強あることにな
り、このほかに1700万ドル程度の広告料収入があると見られているので、合計して
年間3000万ドル近くの収入があることになる」
。24
ここではインターネットが持つ情報をスタックできるという特徴を最大限に利用す
ることができよう。つまりNBAは、それぞれ違う情報を求めるファンのデータをデー
タベースに集めることで、その人が求めている情報を的確に提供することができるとい
うことである。いわゆるワン・トゥー・ワンマーケティングである。またインターネッ
トは「情報の低廉化」という特徴も持つ。オンラインマガジンなら1通送るのも1万通
送るのもコストはあまり変わらない。NBAのように選手がどのチームにいたのかわか
24
『ECビジネス最前線』株式会社アスペクトP.220
らなくなるほど移籍が激しく、それぞれのチーム、選手にファンがいるリーグでは、そ
の動向を日々伝える媒体としてオンラインマガジンは大きな意味を持つはずである。ま
た雑誌とは違い写真ではなく、ダウンロードすることで映像を提供することも可能であ
るから、コンテンツとしての魅力はいくらでも高めることができると考えられる。
最後にケーブルテレビや衛星放送に変わる手段としてインターネットテレビ中継が
考えられる。前述したようにサイバーキャスティングはすでに実践されているが、これ
は単に試合をデジタルに変換して、インターネットを通して生放送したものだった。こ
の点では、さらに発展させる余地があると考えられる。
具体的に言うと、インターネットのチャネルは無限にあるので、別々のアングルから
の多画面同時中継が実現できる。かつてスターンはバスケットボールをテレビでエキサ
イティングに放送するために試行錯誤を繰り返したことは先にも述べたが、インターネ
ットを通して放送することにより視聴者一人一人が見たいアングルで試合を見られる
ようになるのだ。双方向通信技術のいったんである。結果的に、バスケットボールの放
送がさらにエキサイティングになるすると言えるだろう。
また IBM はマーケッティングや経営分析で使われるデータマイニングという技術を
用いて、膨大なデータから選手を評価する先進スカウトシステムを開発した。このシス
テムとインターネット放送を融合させることも可能である。これによりあの選手のシュ
ートはここからが最も決まりやすいだとか、誰が誰をディフェンスしたときに一番有利
になるかなど、非常に詳細な戦力分析をすることができる。究極まで進めば、ラトリフ・
スプリューウェルが右に抜くときには左肩が2cm上がる、みたいな癖まで分析されて
しまうかもしれない。つまり、マニアにとってはたまらないシステムであるのだ。この
他にも、お気に入りのプレーヤーをひたすら追いかける「ジョーダン・ビジョン」など
も考えられる。
このようにしてインターネットテレビ中継は、かつてないほどNBAをファンの視点
から放送させることが可能である。そしてこれまでのサイバーキャストはただ生放送し
ていただけだが、録画放送ができるようになれば、つまりデジタル化した試合のデータ
を公式サイトなどに置き、有料でダウンロードすることができるようになれば、さらな
る利益を見込むことができる。それは近年のものだけでなく、古いものも揃えればジョ
ーダンやバークレーのプレイをもう一度見ることができ、雑誌のバックナンバーを読む
以上の感覚を映像を交えながら味わうことができるだろう。このことはインターネット
の特徴を最大限に生かしていると言えるだろう。つまり情報を「ストック」しているの
で好きな試合やシーンを、「空間の壁を取り払い」好きな場所で、「時間の壁を取り払
い」好きな時に観戦することができるのである。例えばパソコンさえあれば、ベトナム
に出張に行ったがしばらく時間が空いたので、昨年のファイナルでも見ようかというこ
とが可能なのである。
ただしNBAはインターネットテレビ中継をするにあたり、注意しなければならない
ことがある。この場合もちろん便利な情報を付加して試合を提供することができるのだ
が、それと同時に視聴者を不快にさせる情報−例えば無駄なラインなどの必要以上の演
出や広告料収入を得るためにバックボードなどに過度の広告を載せる−などのことは
避けなければならない。「インターネットテレビがNBAの人気を奪った。
」ということ
が起こらないようにしなければならない。インターネットテレビ中継が歴史の浅いもの
だけに、初心に返り視聴者を楽しませる方法をもう一度考えるのがこのメディアでの成
功の秘訣となるだろう。
このように現段階では行われていないことでも、無限にインターネットを通したビジ
ネスには可能性がある。現在のインターネット人口が世界中で3億人といわれている。
1998年末の時点で世界のインターネット人口は1億4700万人だったというこ
とを考慮に入れると、その数は今だに発展途上であり、留まるところを知らないと言う
ことができそうだ。当然そのようなインターネットをこれからの戦略の中心に据えるN
BAはさらなる世界戦略を成功させ、私たちにエンターテイメントを与えてくれるソフ
トだと考えている。これからのNBAがどのように発展していくかはファンだけでなく、
世界進出を狙う企業の役員方も要注目である。
おわりに
本論文を書いている間に、20世紀から21世紀へと一つの節目としては大きすぎる
出来事があった。時代は常に変化するが、それはもちろんスポーツ界も例外ではない。
NBAも今でこそ隆盛を極めているが、決して陽のあたる道を邁進してきたわけではな
い。そしてかつてのNBAの状態は、現在の日本スポーツ界にも当てはまるのではない
だろうか。記憶に新しいところではJリーグ・横浜フリューゲルスの消滅が挙げられる。
NBAでも発足当初は多くのチームが消滅している。またテレビの視聴率が取れないと
いう理由で、マイナースポーツがテレビ放送されるということがほとんどない日本にお
けるスポーツとテレビの関係。これもNBAは過去に経験したことである。
もちろんスポーツに対する文化的な価値観の違いが日本とアメリカではあるうえ、リ
ーグの運営の仕方も違いが見られる。そのため一概に模倣すればいいということは言え
ないが、少なくとも参考にすることはできるだろう。現にJリーグはあまりに高い選手
のサラリーへの対策として、NBAのシステムを研究したことがある。多くの問題が叫
ばれるようになった日本のスポーツ界が現状を打破するために、NBAを参考にするこ
とは決して無駄ではないと考えられる。
以上のことを踏まえ本論文は構成されているが、果たしてこれでいいのかと疑問の余
地がある。第1章では過去のNBAを紹介したのだが、私が生まれる前の出来事である。
そのうえ資料も少なく、特にテレビ放映権料などは残念ながら詳しく調べることができ
なかった。改善の余地があることは否定しない。第2章では視点を現代に向けたことも
あり、自分の知識を交えながら楽しく書くことができ比較的満足している。ただしチケ
ットの価格がいかに推移したのか、これも資料を見つけることができず、もう一歩踏み
込むことができなかったのは後悔が残る点である。第3章ではインターネットを中心に
話は展開している。ここではITについての知識の少なさを露呈することになってしま
った。一朝一夕では何もできない。戒めになりそうである。このように数々の欠陥を残
していることは否定できないが、NBAの歴史を選手やプレイというショー的要素では
なく、マーケティング的な側面から記述した論文は数少ないことを考慮に入れると、非
常にわかりやすい形でまとめたという自負はある。NBAをさらに深く知りたい人には
歓迎されるべき論文である。
最後になるがNBAと言えばマイケル・ジョーダンと「パブロフの犬」になってしま
う人は多いと思う。ジョーダンがいなければNBAはここまで繁栄していないだろうし、
極論してしまえば消滅していた可能性もあるだろう。それは否定のしようのない事実で
あり、NBAを語るうえで決して避けて通れないところである。だが本論文ではジョー
ダンというスーパースターを敢えて一商品と捉え、焦点はその商品価値をうまく高めた
NBAという機構に向けている。
インターネットはこれからも発展する方向にあり、NBAは間違いなくその時流に乗
ると見られる。さらなる発展を見せるNBA、大人しく見ているだけではなくこれから
の動きを見ることで、日本の停滞したスポーツ界にも一つの光明が見えてくるはずであ
る。