163 研究ノート 19世紀フランスのセネガル進出とボルドー商人 ─Maurel et Prom社とセネガル銀行─ 正 木 響 1.はじめに 西アフリカへヨーロッパ的な近代資本主義が本格的に導入されたのは19世紀である。それに先だ って18世紀末、フランス革命を受けてフランス人権宣言(1791年)が出されたが、こうした一連の 出来事は、15世紀以降300年以上に渡って行われてきた三角(奴隷)貿易の継続を困難にし、19世 紀初頭を境に、それまでのヨーロッパとアフリカの経済関係を大きく変容させた。この時期に三角 貿易が衰退した直接的な原因は、多少の揺り戻しはあるものの、人権宣言に前後して、黒人奴隷貿 易廃止の気運が高まったことにあるが、間接的には、三角貿易の三角の一点を担っていたカリブ海 のサン・ドマングで、フランス革命に影響されて勃発した黒人奴隷の蜂起が挙げられる。結局、こ の黒人蜂起は、1804年にハイチ革命として成功し、世界最初の黒人共和国を誕生させるが、それと 同時に、1810年以降、次々と発生したラテンアメリカ諸国の独立1をも喚起した。 ラテンアメリカ諸国の独立は、裏を返せば、ヨーロッパ諸国の植民地の喪失であり、新たな入植 地として、それまで主として労働力供給地としての役割が強かったアフリカへの関心を高めること になる。また、三角貿易の衰退は、その担い手であるフランスのnégociant(貿易商人)のアフリ カ地域への進出を促し、奴隷にかわる合法的な代替品−ゴムや落花生、パーム油−の交易に従事さ せることになる。とりわけ、19世紀前半のフランスにおいては、18世紀後半になって本格的に三角 貿易に乗り出したボルドー貿易商人のセネガル進出が顕著に観察され、中でも、19世紀初頭2に設 立されたMaurel et Prom社の名前は、セネガルに進出したBordelais(ボルドー人)として、セネ ガル側の文献にもよく見られる。 筆者は、現在のアフリカ経済問題を本質的に理解するためには、ヨーロッパ諸国による近代資本 主義のアフリカへの導入過程・方法を検証することが不可欠であると考えるが、フランス商社のア フリカでの歴史的展開とその後のアフリカ経済との関係についての本研究は緒についたばかりであ り、暗中模索の状態が続いている。そこで、植民地期にアフリカへ導入された制度の概略を未熟な 164 がらも本研究ノートとして整理し、まとめることにした。そのため、拙稿(2004)と同様、一次資料 を丹念に検証するといった作業は十分には経ておらず3、二次資料を中心に、日本語文献等も参考 にしながら概略をまとめるに留まっている。 2.フランス商社のセネガル進出とその歴史的背景 セネガルは沿岸交易を通じてブラックアフリカで最も早くヨーロッパ諸国との関係をもった地域 の一つである。まず、1444年頃にポルトガル人ディニス・ディアスが来航し、現在のセネガルの首 都ダカール沖にあるパルマ島(現在のゴレ島)や大陸沿岸地域に商業拠点を設けた。パルマ島は、 最大長900m、幅300mほどの小さな島であるが、ヨーロッパのアフリカ進出を語る上では、極めて 重要な場所である。その後、本国ポルトガルに対するスペインによる侵攻(1580年)をきっかけと して、ポルトガルは徐々に力を失っていくが、一方で、1581年にスペインから一部独立したオラン ダが、1588年にパルマ島に辿り着き、1617年4、ヴェルデ岬の首長に何本かの鉄棒を引き渡してこ の島の所有権を得る 5 。この時、島の名称も、オランダ語で「良い停泊地」を意味する Goede Reedeに改められ、それが転じてゴレ島と呼ばれるようになった。この頃から、ゴレ島はアラビア ゴム、そして奴隷の集荷基地としての重要な役割を果たすようになる。1664年にゴレ島は、一旦、 イギリスの手に渡るが、すぐにオランダ領に、そして1678年のネイメーヘン条約6でフランス領と して認められる。 ゴレ島の獲得に先立って、フランスは、1638年、セネガル川の河口地域のボコス島に、1633年に 本国で設立されたカップベール・セネガル・ガンビア会社の商館建設を始めていた7。そもそも、 西アフリカ地域は、ノルマンディーの船乗りたちには以前より知られており、一説によると、最初 にヴェルデ岬に達したヨーロッパ人はポルトガル人ではなく、フランス北部の港町ディエップの商 人たちであり、それはディニス・ディアスの到達より80年も早い1364年のことであるという 8 。 1624年、そのディエップとルーアンの船主が共同でセネガルとガンビアを開発するための企業を設 立するが、セネガル川の河口に到着した1626年頃には、イギリスと領土をめぐって争うことになる 9 。そこで、当時、ヨーロッパ外でもフランスの権威を高めることに熱心だった宰相リシュリュー は、海外との交易に携わる企業を優遇する政策を打ち出し、1633年、のちに現れる一連の特許会社 の先駆けとなる会社−カップベール・セネガル・ガンビア会社−の設立を認め、10年にわたり同地 域での交易を包括的に行う占有権を与える10。 その後、ボコタ島の商館が高潮に飲まれて放棄されたことに伴い11、N dar島に拠点が移され、 フランスがセネガルに本格的に進出した1659年、フランス王12をたたえてこのN dar島はサンルイ という名に改められる。このサンルイ島は、図1にみるように、モーリタニアから突き出した砂嘴 の付け根に向かって、内陸から大西洋岸に流れ出るセネガル川の河口部に浮かぶ中洲島である。し たがって、大西洋からそこに辿り着くためには、砂嘴の先から、砂嘴と大陸の間の細くなったとこ ろをセネガル川河口部に向かって24キロ13も上る必要があるが、大西洋航海用の大型船では困難で 165 図1 セネガルとサンルイ a)サンルイの地図 モーリタリア セネガル川 セネガル 大西洋 サンルイ ● b)セネガルの地図 サンルイ ● ルフィスク ダカール ゴレ島 ● ● ● c)アフリカの地図 ●セネガル 166 あり、積荷は途中で小型船に積みかえられる必要があった。そうしたことから、サンルイは要塞と しても恵まれた場所に立地しており、西インド会社やセネガル会社といった特許会社がセネガル川 上流に向かって、徐々にフランスの勢力を広げていく際にも、重要な役割を果たすことになる。 ゴレ島およびサンルイは、しばしばその主権をめぐって、フランスとイギリスの間で激しく争わ れる。例えば、7年戦争(1756_1763)中にあたる1758年には、両地域ともイギリス軍の手に落ち、 7年戦争終結時の1763年のパリ条約14では、ゴレ島のみがフランスに、それ以外のセネガル領土は、 インドやアメリカの大半の地域とともにイギリスに割譲することが決められた15。しかし、アメリ カ独立戦争(1775_1783)中の、1779年1月30日に、フランスはサンルイの奪還に成功し、要塞と して不安のあったゴレ島から政府機能を移転する。さらに、1783年のアメリカ独立戦争終結時には、 ガンビアをイギリス領とする代わりに、サンルイとゴレ島をフランスの領土として認めさせている 16 。しかし、その後、本国フランスで大革命が、続いて、ナポレオン戦争が発生し、その混乱の中 で、ゴレ島は1800年5月に17、サンルイは1809年7月に再びイギリス軍の手に落ちる。両地域が最終 的にフランスの領土として認められるのは、ナポレオン戦争の終結時に調印された1814年のパリ条 約の時である18。 この1814年に、フランス本国で奴隷貿易が廃止され、それ以後、ゴレ島やサンルイは奴隷貿易の 拠点としての役割を失っていく。もっとも、奴隷貿易の廃止は奴隷の売買を禁じたにすぎず、奴隷 制そのものの撤廃は1848年まで待たねばならない。一方、奴隷に代わって、1820年から1825年の間 に、セネガルからフランス本国へ2000から3000トンのゴムが輸出されるが19。こうした熱帯換金作 物は、物々交換のシステムを利用して現地人から購入されており、各部族の長に税金にかわる贈り 物―coutume―がなされていた。また、イギリス領となったガンビアでは、19世紀前半に落花生取 引が始められ、1830年代にはその輸出が増大しつつあったが20、セネガルからも、1840年頃より、 落花生がフランスへ輸出されるようになる。この立役者となるのが次節でまとめるMaurel et Prom社である。しかし、19世紀半ばまで、セネガル地域でフランスが所有していたのは、ゴレ島 とサンルイのみで、ゴムの産地であるセネガル川の右岸は、トアレグ族やムーア人の、南部に下が れば、ウォロフやマリンケ、マンディングといった複数のアフリカ部族の王国が乱立しており、そ れぞれの首長の支配下にあった。そこで、1850年代後半以降、フランス政府によるセネガル統一が 実行されるが、その指揮官となったのがLouis Faidherbeである。彼は、フランスの理工科学校 (Ecole polytechnique)を卒業して、公共事業の指揮官として1852年にセネガルに赴任していたが、 その2年後の1854年にサンルイ植民地の総督に任命される。なお、このFaidherbe総督誕生に際し ては、先のMaurel et Prom社の意向が強く働いたとの指摘もある21。 このFaidherbe総督の下で、1857年にヴェルデ岬にダカールが創設されるが、フランス勢力の拡 大を好ましく思わないセネガル側の各部族は、フランスに対してその後約30年に渡って反乱を続け ることになる。また、当時ゴムに代わって需要が高まっていた落花生を運ぶための大型船はサンル イ沖の浅瀬に係留するには不都合であり、ダカールもしくはその南岸のルフィスクに運び出す必要 があったことから、ダカール港、サンルイ―ダカール間鉄道の建設などが進められるが、これに対 167 してもセネガルの主要部族の一つであるウォロフ族が激しく抵抗する。しかし、そうした反乱は 次々とFaidherbe等に鎮圧され、サンルイ―ダカール間の鉄道は1885年に開通し、1890年初頭には、 フランスによるセネガル統一が達成される。なお、これは、コンゴ河下流地域の領土権をめぐるヨ ーロッパ諸国の対立が表面化し、ビスマルクの提唱により、コンゴ河、ニジェール河沿岸の交易や、 アフリカに将来入植するための国際的な踏査の決まりを論じるためのベルリン会議(1884年11月15 日から1885年2月26日)の開催とほぼ同時期のことである。 1879年からサンルイはフランスの植民地地方評議会の本部となり、1895年から1902年まで、セネ ガル、スーダン(現在のマリ)、ギニア、コートジボワールを束ねたAOF(Afrique occidentale francaise 仏領西アフリカ)の首都としての役割も担う。1902年にはAOFの首都はサンルイからダ カールに移されているが、サンルイは引き続き1957年までセネガルの首都でもあった。なお、1872 年、植民地支配下のセネガルでは、総督に全権が委任され、ダカール、ゴレ、サンルイの3自治体 (1887年からはルフィスクも加わって4自治体)の市民にはフランスの市民権が与えられ、後に、議 会議員を選出し、フランス本国の国会に代表者を送ることが許されることになる。 3.Maurel et Prom社 図2と図3にMaurel 家とProm家の家系図をまとめているが22、Maurel et Prom社の始まりは、 フランスの港湾都市ボルドーで株式のブローカーをしていたMaurel家のJeanとProm家のAnneの 結婚に遡る。2人は、9人の子供(うち、女4、男5)をもうけるが23、Maurel et Prom社の創設 を語る上で重要な人物は、このうち第3男のJean-Louis(1797_1869)と第5男のHilaire (1808_1884)、 そ し て Anneの 兄 ( も し く は 弟 ) に あ た る Alexis-Hilaire Promの 息 子 Jean-Louis-Hubert Prom(1807_1896:以下、Hubert Prom)である。最初にセネガルとの交易に携わったのは、Hubert Promであるが、彼は、ボルドーとセネガルのゴレ島間の交易を手がけていたPotin氏のビジネスを 手伝うために、1822-23年頃24に、16歳でゴレ島に渡っている。英国との戦いに勝利し、1817年にフ ランス人の総督Schmaltzがセネガルに赴任したわずか数年後のことであった。当時、セネガルで フランスの支配下にあった地域はゴレ島とサンルイに限られ、その土地に進出した貿易商人たちは、 カーボベルデ岬やセネガル川上流を支配していたアフリカ部族の王と複雑な駆け引きを行い、 coutume(報酬)を支払って交易をすることが強いられる状況であったが、Hubert Prom自身はそ うした状況が嫌いではなかったようである25。 Potin氏のビジネスの失敗に伴い、1827年にHubert Promは一旦、ボルドーへ帰還するが、 Hubert Promの伯父Jean-Louis Prom氏の下で働いていたいとこのJean-Louis Maurelの援助で、そ の年の暮れに雑貨を携えてセネガルへ再出発する。そして、1828年に、今度は自分の経営する会社 Hubert Prom et Cieを資本金3000Frで設立し、サン・ルイとゴレ島に店を開いた26。1830年代前半 には、Hubert Promを手伝うためにその前年よりセネガルへきていたいとこのHilaire Maurelと、 双方が5233.50Fr拠出する形で、資本金10,467Frの新会社、Hubert Prom -Hiraire Maurel社が設立 168 される 27。また私生活でも、1829−1830年頃、Hubert Promはゴレ島の Maire であるArmand Laporte氏の娘Sophieと、また、1832年にHiraire Maurelが同じく、Laporte氏のもう一人の娘 Constanceと結婚するなど、2人はセネガルとの縁を深めていく28。Maire とは、市町村長を意味 するフランス語であるが、セネガル生まれの名士が終身身分で任命され、フランスの支配者とアフ リカ社会の間に立ってさまざまな折衝に関わる重要な役割を担っていた29。Laporte氏はゴレ島は 169 もとより、セネガルでの権力者であり、1827年から1848年までセネガル川上流にあるGalamという 町との交易独占権が与えられていた会社Societé de Galamなどとも関わりがあった人物のようであ る30。Hubert PromおよびHiraire Maurelの二人そろって、そのLaporte氏の娘と結婚し、Hubert Promは二人の娘を、Hiraire MaurelはEmilleとJeanという二人の息子と一人の娘を授かる。 このころまでは、Hubert PromとHiraire Maurelの商売は、入植したフランス人を相手にフラン スから仕入れたヨーロッパ製品をゴレ島やサン・ルイで小売りすることが主であったが31、1830年 代初頭以降32、Jean-Louis Maurelの援助等で、次々と大洋航海船を購入していき33、船舶会社及び 商社としてのビジネスを拡大させていく。 Hubert Promは、ビジネスのみならず、政治の分野でも成功し、セネガルの評議会 Conseil Général の代表を務め、奴隷制の廃止や落花生生産の導入などに尽力したが、1843年に、ボルドー商人の娘 Marie Coraly Boyéと再婚したことや肝臓の病を患ったこと等から、1845年、ボルドーに戻ること を決意する34。こうして、Hubert Promは、Hilaire Maurelに彼の持分を売り、一方、ボルドーへ 帰還した後に、再びJean-Louis Maurelの協力を得て、資本金400,000Frの新会社Jean-Louis Maurel et Hubert Prom & cieを立ちあげる。一方、サンルイに残ったHilaire Maurelは、新しくH.Maurel et Cieを設立するが35、その片腕として活躍したのが、兄にあたるPierre Maurelの長男で、1841年 に15歳でセネガルに来ていたMarc Maurelである36。 1848年には奴隷制が廃止され、ゴム市場の低迷、新しい熱帯作物である落花生への関心が高まる など、彼らをめぐるビジネス環境も、1840年代後半から1850年代初頭にかけて大きく変化する。例 えば、ボルドーで最初の落花生加工工場を設立(1857年)するために、1853年にHilaire Maurelが 帰国し、セネガルで生産された落花生輸入および、セネガルの殻付落花生を植物油に加工するビジ ネスにMaurel et Prom社は参入する。これには、セネガルの落花生がマルセーユに運ばれないた めの、つまりマルセーユを基盤とした貿易商人を抑制するための経営戦略があったという指摘もな されている37。ところで、殻付の落花生は重量がかさばるため、後に、マルセーユ系貿易商人の流 れを汲むCFAOなどは、セネガルでいかに殻を効率的にはずすかに知恵を絞るが、Maurel et Promをはじめとしたボルドー系の商社38は、品質の方を重視し、殻付落花生を好んで運んだよう である。19世紀末から20世紀初頭にかけて、このようにボルドーでは、少なくとも4つの落花生加 工工場39が稼動しており、年にして、セネガルから運ばれた15万トンの殻付落花生を、1500人の労 働者が、4.8トンの植物油と6トンの飼料・肥料用搾りかすに加工していた40。 Hilaireが帰国して2年後の1855年には、Jean-Louis Maurel、Hilaire Maurel、Hubert Promそれ ぞれが400,000Frを、セネガルの店を引き継いだMarc Maurelが200,000Frを拠出して、新会社 Maurel et H.Promが誕生する。本部の住所も、ボルドーのRousselle通りから、Grand Théa ^treに 近いEsprit des Lois通りへと移され、資本金も1400,000Frに増大した41。表1に見るようにMaurel et H.Promのビジネスはそれなりに拡大し、アフリカのみならず、ベトナムやアルゼンチンとの取 引にも関与していたようである42。 1861年には、先の4人に加えてHirailre Maurel の二人の息子、Emile とJean および、Jean-Louis 170 表1 Maurel et H.Prom社の利益の変遷(1857-1860) 1857 17,975,95Fr 1858 20,915.37 1859 96,190.43 1860 69,900.03 De LUZE,S.(1965), op.cit. Maurelの息子Camileの3人が共同経営者(Associés)に加わり、7人で新会社が設立され、1869年 のJean-Louis Maurel死亡後には、Marc Maurelが代表を引き継いでいる。この時、資本金は 2,100,000Frに増大しており、会社名も正式にMaurel et Promとなる43。 このようにMaurel et Prom社は、Hubert Promがセネガルで会社を起こした1827年から何度も 刷新されており、正確には屋号も変わっている。それにもかかわらず、広く彼らのビジネスを語る 際には、まとめてMaurel et Promと表記されることも少なくないようである。また、Maurel家と Prom家の人間が幾重にも重層的に繋がっており、ここで紹介した以外の人物も貿易や関連事業に 携わっていた様子も観察される44。また、ボルドーとアフリカとの間の渡航には数ヶ月が必要であ ったためか文献によって年号のずれもみられる。さらにフランスではよく起こりうるが、類似した 名前−例えば、Jean-Louis Maurel、Jean-Louis Prom等−も散見され、それらの人物が同じ活動に 携わっていることから、彼らの活動をまとめた文章においてですら、混同や誤記がなされているの でないかとの疑いを持たずにはいられない箇所もある。現時点では、研究ノートとしてMaurel et Prom社の概略をまとめてみたが、ここに掲げた問題は、今後の課題としたい。なお、Maurel et Prom社は、7大メジャーと比べれば規模の小ささは否めないものの、現在でも、コンゴを中心に アフリカで石油開発を行う企業として存続している。 4.交換手段としての貨幣 アフリカ諸国との交易において、貿易の決済のために何を支払い手段とするかは、貿易商人たち にとって大きな問題であった。金・銀貨は、蓄財手段として用いられることも多く、小額の取引に おいても不適切であり、ヨーロッパ本国においてですら、人々は交換手段の不足に悩まされていた。 さらに、国内に金を蓄積することが国富を高めると考えられていた重商主義の下では、金銀の流出 は好ましからざることと認識される傾向にあり、貿易商人達が国外へフランス通貨を持ち出すこと も禁止されていた45。そこで、国際的な取引手段としては、スペインの8レアル銀貨やオーストリ アのマリア・テレジア・ターレルといった外国通貨を用いたり、植民地においては、特権会社等を 通じて、海外の取引でのみ使用される銅貨や、植民地用通貨などを導入する試みもおこなわれた。 しかし、そうした通貨はメトルポル通貨との対等な交換が保障されていなかったにも関わらず、流 動性不足の本国で代用されることも少なくなく46、とりわけ、植民地での交換手段の不足は深刻な 171 問題であった47。 こうした事情もあって、ヨーロッパ諸国とアフリカ地域との交易は、他の植民地と同様、長い間、 バーター取引(物々交換)で行われていた。しかし、このバーター取引においても、アフリカ産作 物(砂金、胡椒、象牙、奴隷等)とヨーロッパ産製品(武器、アルコール飲料、布、鉄等)の交換 尺度をどうするかという問題があった。例えば、ダホメ地域(現在のベナン)の経済取引に関する 研究をまとめたカール・ポランニー(1987)においては、16世紀中頃にギニア湾岸貿易を行ったイ ギリス人と現地のアフリカ人との間で繰り広げられた布と金の交換比率を巡る攻防が描かれている 48 。それによると、当初イギリス人は、アフリカ人の首長に対して、イギリスの物差しと分銅を送 って、2エル49の長さの布(ヨーロッパ製品)に対して、2エンジェル50の重さの金(アフリカ産 物)を交換することを要求した。これに対して、アフリカ側は、よりアフリカに有利な交換比率を、 イギリスのそれよりも少し長い布の物差しと少し軽い分銅をイギリス側に送り返すことによって要 求したという。長い交渉を経て、最終的に、両者はイギリスの物差し3単位分(3エル)の布に対 してアフリカの分銅(1エンジェルと12グレイン51)1単位分の金という、当初イギリスが要求した ものよりも、アフリカ側に有利な交換比率で合意する。 しかし、17世紀に入り、本格的に奴隷貿易が行われるようになると、このような単純な度量衡で 取引を行うことが難しくなる。なぜなら、カール・ポランニー の言葉を用いるなら、「奴隷は、分 割できるものでなかったし、取引される商品に対し、相対的に高い価値をもっていた。」からであ る。したがって、奴隷一人に対して数種類の異なるヨーロッパ製品を組み合わせて交換する必要が、 そして、その際、それぞれの商品に対して共通の価値尺度を用いることが不可避となった。この共 通尺度としてしばしば用いられたのが、鉄棒、布、子安貝などである。 まず、鉄棒であるが、アフリカではヨーロッパの鉄棒の需要は高く、現地の鍛冶師がそれを溶か して、農具、料理用具、武器などに加工するための投入財として不可欠であった。形や大きさは時 代や場所、鉄棒の生産地に応じて変化したようであるが、セネガルでは、比較的小型化した18世紀 後半においても、規格に収まった鉄棒1本の長さは96センチ、重量も7キロ超のものが4本に細分さ れて取引の際の通貨として用いられたという52。 一方、このような鉄棒は重量がかさみ、輸送コストも高くつくため、鉄棒のかわりにギネーと呼 ばれるインド産の青色の布も交換手段として広く利用されていた。小川了(2002)によると、セネ ガルにおいては、長さは16メートル、幅は15〜17センチメートルのギネー1反が鉄棒10本分の価値 に相当したようである53。 一方、アラビア人は、ヨーロッパが大航海時代に入るよりもずっと以前より、インド洋を縦横無 尽に横断し、交易を行っていた。彼らが中継地としてしばしば利用していたのがインド洋のモルデ ィブ諸島であるが、そこから船のバランスを保つための底荷としてインド、アフリカへと大量に運 びだされたのが子安貝である。それぞれの搬入先では、子安貝は稀少であり、持ち運びに便利な形 状(一定量を紐に通して纏めて用いる)ということもあって、価値の高い貨幣として利用されるよ うになる。例えば、14世紀に活躍したアラブの冒険家Ibn Batutaの記録によると、1343−1344年及 172 びその2年後の1346年に彼が訪れたモルディブ諸島のマーレでは、1ディナール金貨に対して、40万 から120万個の子安貝が取引されていたという。これに対して、その7年後に訪れた金の産地である 西アフリカのマリ王国では、子安貝が稀少で金が相対的に豊富であるせいか、1ディナール金貨の 価値は子安貝1150個に相当しており、この交換比率の差を利用して、Ibn Batuta自身も貿易から利 益を得ていたようである54。18世紀になると、ヨーロッパ人によって、モルディブから西アフリカ へ、奴隷の購入手段として、大量に子安貝が輸出され、現地での子安貝の価値は暴落する。例えば、 カール・ポランニー (1987)に基づくと、17世紀から18世紀にかけてのダホメ(現在のベナン) では、金1オンスには子安貝3万2000個の価値が、しかし一方で、奴隷といった商品を購入する際の 単位としては、表3にみるように、商品単位1オンスが子安貝1万6000個で計算されていたようであ る55。なお、この時、金の重量をはかるオンスと、商品を交換する際の単位として用いられたオン スは全く別ものである56。 このように、通貨が不足していた18世紀においては、表2や表3に見るように、ヨーロッパ製品、 アフリカ商品(奴隷)それぞれの価値が、鉄棒や子安貝を用いて共通の価値尺度で示され、取引が なされていた。つまり、貨幣には、交換機能(取引の媒介)、尺度機能(商品の価値を統一的に表 現)、貯蔵機能(価値の保存)の3つの機能が必要とされるが、鉄棒や布といった商品や貝殻は、 表2 フランス船ダホメ号(1772年)の書類から観察される交換尺度(オンス) ヨーロッパ製品の組み合わせ アフリカ商品 ブランデー 女奴隷1人 = 8オンス 3樽 3オンス 123ポンド 3オンス 白い木綿敷物 8枚 1オンス ハンカチ布 2枚 1オンス 子安貝 出所:カール・ポランニー(1987)、205頁。 表3 1785年当時のセネガル川上流部で交易に必要な鉄棒 ヨーロッパ製品 鉄棒 ギネー一反 8本 交易用の銃 8本 銃弾100発 2本 火酒(4パイント) 4本 奴隷1人 70本 アフリカ商品(奴隷) 奴隷1人につきアフリカ 側の君主に支払う貢納 出所:小川了(2002)、181-190頁。 2本 173 それらの機能をほぼすべて満たす財であり、物々交換の中で貨幣としての役割を果たしていたので ある。 しかし、両地域の取引とヨーロッパ諸国の世界進出が活発になるなかで、メトロポル通貨との兌 換性をもった植民地通貨やそれを発行する銀行が必要とされるようになる。例えば、18世紀末に産 業革命に成功し、19世紀初頭に7つの海を支配した英国は、各植民地に発券業務を行う民間銀行を 設立し、1825年には、英国大蔵省の命を受けて、カレンシーボードが設立され、それぞれの地域の 通貨をポンドに一定レートで兌換可能とする制度が構築された57。スターリング圏の誕生である。 一方、フランスにおいても、大革命の後の1803年、フランスフランが導入58され、1826年、シャ ルル10世の命59で植民地通貨リーブルが廃止され、本国と同じフランスフランが使用されることに なる60。これにより、1840年ごろには、セネガルにおいても、フランスフランスが本格的に流通す るようになっていた61。しかし、信用創造機関が存在しない状況の下では、融資業務は、富裕なフ ランスの貿易商人に委ねられるに留まり、セネガルといった植民地では、法外な利子率が要求され、 資本蓄積プロセスが観察されなかった62。こうした中、ナポレオン3世の命を受けて、1840年代後 半に、各植民地で発券銀行が創設されるが、奴隷制の廃止とこの植民地銀行設立との間には深い関 係がある。これについて次節でまとめることにする。 5.奴隷制廃止と植民地銀行創設 1794年2月4日に黒人奴隷制廃止が決議63されるが、その後、ナポレオンによる奴隷制の復活や、 1815年のウィーン会議での黒人交易廃止の動き等をへて、1848年、フランスは正式に奴隷制を廃止 した。これに伴い、1685年以来効力のあった黒人奴隷を管理・支配するための法律、Code Noir (黒人法典)も撤廃され、無償で働かされていた黒人奴隷が、給与を支払われる権利のある労働者 に転換する。したがって、翌年の1849年には、奴隷制の撤廃により不利益を受けた元奴隷主たちに 賠償をすることを、その一方で、ギアナ、マルティニック、グアドゥループ、レユニオン、セネガ ルに植民地銀行を創設し、その資本金の一部に奴隷主に対する賠償金の一部を当てることを記した 法律64が定められる。具体的には、現金として600万フランの賠償金およびそれと同額の国債を発 行し、それを各植民地銀行に預け、それを元に銀行券を発行するというものである65。これにより、 レユニオンでは約205万フランの、セネガルでは約105万フランの賠償金およびそれと同額の国債が フランス政府より拠出された66。さらに1851年の法律で、各銀行に預けられた国債の8分の1が現 金化され、しかしそれは奴隷主に支払われるのでなく、その現金に準じた株券を元奴隷主に渡すこ とで、元奴隷主を銀行の株主にすることが取り決められた67。 ところで、1850年は、1847年の経済危機、続いて1848年の革命を経験したメトロポルにおいても 大きく金融システムが変化する転換の年であった。1800年に創設されたフランス中央銀行は、 Haute Banqueと呼ばれる、貿易商人や船主として資本を蓄積したパリの大個人金融業者によって 出資・支配されており、短期の融資(90日以内)が中心であった68。こうしたことから、フランス 174 では、資本金を親族等が出資する合資会社が多く見られる傾向にあり、銀行や市場から資本を調達 す る ケ ー ス は そ れ 程 多 く は な か っ た 69 。 こ れ に 対 し て 1850年 以 降 、 Cré dit industriel et Commercial(1859年)、Crédit Lyonnais(1863年)、Comptoir d Escompte(手形割引銀行:1860年)とい った長期融資や海外との取引等も行うGrands Etablissementsとよばれる大信用機関が出現する70。 セネガル銀行設立の背景には、こうしたメトロポルでの金融システムの変化も無視できない。 1853年12月21日、ナポレオン3世によるデクレ(décret71)によって設立された72セネガル銀行は、 フランス領アフリカにおける最初の発券銀行でもあり、1855年8月にサンルイで業務を開始した。 それまで、セネガルには、銀行というものは一つも存在せず、経済システムが機能・拡大する際に 不可欠な信用創造が困難であった73。セネガル銀行の資本金は230万フランであり、その一部は、 前述の賠償金の一部があてられ、額面500フランの株式に分割された74。ところで、セネガルでは、 奴隷主の大半はヨーロッパ人ではなく、Seigner75はもとより、混血者−mula ^tre−や伝統的に家内 奴隷を持つ習慣のあった現地の黒人であった。しかし、彼らは、賠償金の一部として受け取ったセ ネガル銀行の株式をヨーロッパ人に譲渡することが多く、とりわけ前述のボルドー商人−なかでも Maurel et Prom社 − が 、 現 金 や ヨ ー ロ ッ パ 製 品 と 交 換 に そ の 多 く を 買 い 取 っ た 76 。 ALIBERT,J(1983)によると、セネガル銀行の資本金の73%、169,330.86Fr.をMaurel et Prom社が所 有したという77。これにより、セネガル銀行の経営をボルドー商人グループが担うことになり、彼 らの意図がその経営に大きく反映されることになる78。 そもそも、こうしたフランス系商社は、ボルドーやパリに取引金融機関を持っており、植民地に ある発券銀行の経営権を持つ必然性はそれほど大きくない79。それにもかかわらず、なぜ、Maurel et Prom社をはじめとしたボルドー商社は植民地銀行の経営権をもつことに関心があったのか、次 節では、ボルドー商社のセネガル進出とセネガル人商人の盛衰についてまとめることで、その答え の一部を示したい。 6.ボルドー商人の繁栄とセネガル商人の衰退 6.1 セネガル銀行設立前 奴隷交易が廃止された後、ヨーロッパ商社が望むアフリカ産品は、1840年代前半まではゴム、次 いで落花生であった。こうした熱帯換金作物を収穫していたのは広い地域に散らばって生活するア フリカ人−とりわけゴムの場合はセネガル川上流のモール人―である。1817年に、最初の総督とし てセネガルに着任したSchmaltzは、Portal男爵が彼に宛てて提出したメモワールを受けて、失われ たサンドマングの代わりとなるようなプランテーションをセネガルに創ることを考えていた 80。 Portal男爵とは、ボルドー市長も歴任し、1818年から1821年の間、フランスの植民地行政にも携わ ったPortal Pierre Barthélemyを指すと思われる。しかし、カーボベルデに入植したヨーロッパ人 の多くが、厳しい環境に耐えられず死亡し81、アフリカの各部族長から土地の購入もしくは借地を 考えるものの、アフリカ側の十分な合意も得られなかった82。また、フランス政府の投資に見合う 175 だけの植民地換金作物も生産できなかったため、1820年代後半に、フランスはセネガルでのプラン テーション経営をあきらめてしまい83、フランスが入手を望むアフリカ産熱帯作物の生産はアフリ カ人に託されることになる。つまり、セネガル北部では、ゴムといった収穫物はセネガル川流域で traitantと呼ばれる仲介商人を通じて、ヨーロッパ製品と引き換えられ、サンルイへ運ばれ、そこ でヨーロッパ商人に現金もしくはヨーロッパ製品と交換された。この時、前述のギネーが貨幣とし て用いられたが、コルベールの排他性の原理を汲む Pacte Colonial の影響が強かった19世紀前半 においては、インドから運ばれるギネーですら、一旦はフランスを経由する必要があり、フランス 商社の介在は必然であった。また、フランスは、ゴムの取引場であるescale利用時やセネガル川通 過時に、これもまた、コルベールの時代と同様、それぞれを管轄するアフリカ部族もしくはその首 長にcutumesを払う必要もあった。とりわけ、セネガル川の右岸(モーリタニア側)でゴムを生産 していたムーア人に対しては、この税金は、ゴムの取引量の多少にかかわらず、各部族の権力者に ヨーロッパ製品という形で支払われる分(固定)と、通過する船の重量に応じて支払われる分の二 つで構成されていたことから、ゴムの価格が低下するにつれて、こうした税の負担感は増し、フラ ンス商人の間で不満は高まっていた84。 PASQUIER,R.(1983)に基づくと、traitantには、表4のように大きくわけて独立自営業者Traitants とヨーロッパ商社の代理人GerantsまたはMandatairesとして働く2つのタイプがあり、さらに前 者は、完全に独立企業としてビジネスを行う者Gros Traitantsと、特定の商社の下で下請け的な働 きをする者Petits Traitantsの2つに分けられた。Gros Traitantsのなかには、前述のSeignerを始 表4 Traitant の3つのタイプ Gros Traitants traitant自身でヨーロッパ製品を調達し、セネガル川の上流で ゴムを購入、サンルイの市場に運び、複数のヨーロッパ商社を 独立自営業者 競わせ可能なかぎり有利な値段で取引をする。 Petits Traitants ヨーロッパ製品を特定のヨーロッパ商社から借り、ゴムと交換 した後で、事前に決められた値段で一定量のゴムを引き渡す。 ヨーロッパ Gerants 特定の商社の下で代理人として働き、リスクを負わず、毎回、 商社の代理人 もしくは 決まった額の支払いをヨーロッパ商社から受け取る。 Mandataires PASQUIER,R.(1983)、p.149を参照に筆者作成。 めとして、ヨーロッパ商人と対等に競争し、手広くビジネスを手がける特権階級もみられたようで ある85。 当初、こうしたゴム取引は自由市場でおこなわれており、さらにtraitant間での競争も激しく、 適切な価格よりも高い値段でモール人からゴムを買い取る者も少なくなかった86。そこで政府は、 1833年に、traitantの間で協定を結び、ギネー一反をある一定量以下のゴムと交換しないように働 176 きかける 87 。また、翌年には、 traitant の数を制限する意味も込めて、裕福な traitant の間での association privilégié(特権団体)も形成された88。つまり、許可を与えられたtraitantにのみゴム 交易に携わることが認められたのである。しかし、このシステムは2年後の1835年に中断され、 1841年に、再び、同じような団体の形成が試みられるが、これも1年と続かなかった89。そこで、 フランス政府は、セネガンビア問題を扱う委員会を作り、議長に、Jean-Elie Gautierを指名する。 彼は、ボルドーのあるジロンド県出身の名士であり、彼の下でまとめられた意見は、1842年11月5 日の ordonnance に反映された 90。そこでは、1836年のゴム取引開始時から、セネガル川沿いの escale(取引場)91でゴムの取引・出荷に従事しており、かつ、貿易商人のライセンスは所持して いない、セネガル生まれの自由人にtraitantの資格が与えられ、作成されたリストから抽出された 者のみが、その年のゴムの仲介業に従事できるとされた92。一方、ヨーロッパ人は、自分の契約も しくは雇用しているtraitantを監督する目的以外ではescaleに上がることは禁じられていた。つま り、このordonnanceは、escaleでの過度な競争を抑制することを目的としており、リストに登録さ れてはいるが、割り当てからもれたtraitantは、内陸からサンルイへゴムが輸入される際に徴収さ れる5%の重量税93を通じて集められた基金から補償を受けるというものであった94。 しかし、1848年に奴隷制が廃止され、これにより、奴隷主でもあったtraitantの負担と、自由人 として改めて市場に放出された労働者数が増大したことから、ゴム交易を一部のtraitantに制限し た1842年のordonnanceは、1849年に廃止される95。しかし、ゴム市場の自由化は、参入者を増やし たことから、ゴム市場は再び低迷することになり、ゴムの価格は急落96する。一方、ゴム価格の低 迷で多額の借金を背負うことになった独立自営型traitantは、ヨーロッパ商社の代理人として働く ことを選択せざるをえなくなる。当初、独立型traitantが大半であったにもかかわらず、ゴム交易 の危機はこうしたセネガル商人たちを衰退させ、1840年代末の時点でその割合は過半数に、その10 年後には、4分の3に達することになる97。 しかし、この時点でも、依然としてヨーロッパ人にはescaleへのアクセスはみとめられなかった 98 。1850年以前の段階では、フランス政府は、植民地に投じる費用削減の意味からも現地住民との トラブルの回避を望んでおり、アフリカ人の意向を最大限汲みいれようとする姿勢がまだ見られた。 これに対して、1850年以降、サンルイの貿易商人を中心に、ゴム交易の自由化を求める動きが強く なり、その中心人物となったのがMaurel et Prom社のMarc Maurelであった。彼は、1851年12月8 日、escaleの廃止などを求めた嘆願書をセネガル総督であるProtetに提出し99、それを受けて翌年 の1852年には、Marc Maurelの意向を十分に反映しないまでもゴム市場は自由化される100。 6.2 セネガル銀行設立後 このような時に、セネガル銀行は設立された。奴隷解放の賠償金の一部はセネガル銀行の資本金 に当てられ、元奴隷主には、出資額に応じて額面で500Fの株券が配布された。そして、特権階級 としてセネガルのゴム交易を独占していたtraitantの多くは、奴隷の代わりにセネガル銀行の株の 所有者になった。しかし、前述したように、ゴム価格の低迷で経済危機に直面していたtraitantた 177 ちの中には、その株をMaurel et Prom社をはじめとするヨーロッパ商社に譲渡するものも少なく なかった。セネガルのtraitant達は未曾有の経済危機に直面していたが、ヨーロッパ商社の方は、 ギネーの価格高騰や、また、ゴム以外の交易品−象牙、皮革、とりわけ1940年代以降は落花生−も取 り扱っていたことから、利益をあげる者も少なくなかった101。こうした中、NEURRISSE,A.(1987) およびASSIDON,E.(1988)は、サンルイでビジネスを行っていたMaurel et Prom社をはじめとした ボルドー商社が、アフリカ人商人の台頭を阻むために、セネガル銀行の経営権を握ることに関心を もったと指摘する102。つまり、ボルドー商社は、セネガル銀行の経営者として、銀行が、当時、ヨ ーロッパ商人とゴム交易を巡って対立関係にあったセネガル人商人たちに信用割り当てを行わない よう介入し、後者のビジネスの拡大を阻止したというのである。同様に、Harding,L.(1992)におい ても、アフリカ商人たちが、資本や近代部門にアクセスできず、現地の商業ネットワークがヨーロ ッパ商人のアフリカ進出によって破壊され、後者が、直接、生産者との取引を行うようになった点 が指摘されている103。これについては、別の機会により詳しくまとめることにする。 セネガル銀行は、ローカル経済の資金調達需要や経済の変化に柔軟に適応することに失敗し、 1901年7月29日のデクレで、西アフリカ銀行(以下BAO:Banque de l Afrique Occidentale)に取っ て代わられ、本部もサンルイからパリへ移転された。また、BAOは、1867年7月24日付けの法律に 基づく政府監督下の株式会社であったが、ボルドー商人が実質上支配するセネガル銀行と比べて、 マルセーユの商人や銀行家の資本参加がなされた点もセネガル銀行との違いとしてあげられる104。 7.まとめと今後の課題 19世紀前半は、奴隷貿易からアフリカ産作物交易への過渡期であり、入植した貿易商人も本国の 家族を頼りに、比較的小規模なビジネスを行う程度であったのに対し、ヨーロッパ諸国によってア フリカ大陸の分割がなされ、領土が明確化した19世紀後半には、アフリカ産換金作物のヨーロッパ での需要の高まりを背景に、規模の大きなヨーロッパ商社がアフリカとの交易に積極的に携わるよ うになる。本研究ノートでは、19世紀前半にセネガルに進出した、家族を主体とするボルドーの、 あるMaison《商会》に光を当ててみたが、執筆するにつれて明確になった曖昧な箇所を調べなお すとともに、こうしたMaison《商会》が、19世紀後半に出現する近代的な組織を持つ商社へどの ように役割をバトンタッチさせていくのか、そしてセネガル経済にどのような影響を与えたのかを 明らかにしていきたい。 付記 本稿は文部科学省、科学研究費補助金(若手研究B・経済史)、課題番号14730060、研究課題 「域外企業が地域進化に果たす役割〜旧フランス領西アフリカでの仏系企業の史的展開を中心に」 に基づく研究である。 178 1 ラテンアメリカ諸国の独立の系譜。 1810年代:パラグアイ(1811)・アルゼンチン(1816)・チリ(1818)・コロンビア(1819)・ベネズエ ラ(1819、最初は大コロンビアと合邦、1830年に分離独立)。 1820年代:メキシコ(1821)・ペルー(1821)・中央アメリカ連邦共和国(1821、コスタリカ・グアテマ ラ・ホンジュラス・ニカラグア・エルサルバドルが合邦して形成)・ブラジル(1822、ポルトガルの王子の 支配する帝国として独立)・ボリビア(1825)・ウルグアイ(1828)。スペイン領ラテンアメリカ独立の背 後には、ハイチで見られたような、入植白人・混血人の本国に対する不満の高まりだけでなく、本国のナポ レオン支配に対する反乱(1808-1814)といった混乱があったことも知られている。 2 Maurel et Prom社のホームページでは設立年は1813年となっている。http://www.maureletprom.com/。一 方、De LUZE,S.(1965). La maison Maurel et Prom 1828-1870, Mémoire de Université de Bordeaux III. DC 583.によると、1831年に、セネガルで、Hubert PromとHilaire Maurelが、それぞれ5233.50フランの資本を 拠出してHubert Prom-Hilaire Maurel社が設立されたとある。Maurel et Prom社は、第3節でまとめるよう に、縁戚関係にある二つの家族の下で何度も屋号を変えている。また、創始者の一人Hubert Prom氏は1807 年生まれなので、1813年に設立したとするMaurel et Prom社のホームページの情報が何を意味しているか は現在のところ不明である。 3 実際、手元にある二次資料を比較してみても、年号や会社の名前、人物の名前、数量、事実関係等に多く の齟齬が生じており、一次資料に遡って確認する作業が必要であることを痛感している。 4 もしくは1627年。DELCOURT,J.(1984).Gorée Six Sie `cle d Histoire, Editions Clairafrique, Dakar,p.20. 5 DELCOURT,J.(1984),op.cit.p.20. 6 1672年のルイ十四世のオランダ侵攻に始まるオランダ戦争の講和条約。フランスとオランダ,スペイン, 帝国のそれぞれの二国間条約。 7 小川了(2002)『奴隷商人ソニエ−18世紀フランスの奴隷交易とアフリカ社会』山川出版,114-115頁。 8 同上書、3頁。 9 DELAFOSSE,M.(1961).Afrique Occidentale Francaise, Gabriel Hanotaux et Alfred Marineau ed. Histoire des colonies francaise et de l expansinon de la France dans le monde,Tome IV, Societé de l Histoire Nationale, Paris.p.10. 10 Ibid., p.10. 11 小川了(2002)、前掲書、115頁。 12 ルイ14世の時代の改名であるが、「その父、ルイ13世に対するhommage(敬意)」という表記がなされた文献 も少なくない。 13 小川了(2002)、前掲書、116頁。 14 1763年のパリ条約の第10条では「英国国王陛下はフランスに対し,〔西アフリカの〕ゴレ島をそれが征服さ れたときの状態において返還し,フランス国王陛下は英国国王陛下にセネガル川を,サンルイ,ポドル,ガ ラムの砦および商館,そして前記セネガル川の利権,付属領のいっさいとともに,完全なる権利のもとに割 譲し,保証する」とあり、インドやアメリカ大陸の大半をイギリスに割譲するのに対して、西アフリカのフ ランスへの割譲が決められている。翻訳:友清理士、参考:歴史文書翻訳プロジェクト http://www.h4.dion.ne.jp/˜room4me/docs/paris1.htm。 15 セネガル北部のゴム、セネガル川上流部にあるガラムの金、モーリタニアの奴隷といった財の重要性を主 張したChoiseul外相の強い希望が背景にあったという。出所、DELCOURT,J.(1982).La Turbulente histoire 179 de Gorée, Editions Clairafrique, Dakar. pp.48-51. また、この時、フランスが所有していたカリブ海の西イン ド諸島のいくつかもイギリスに引き渡されている。 16 DELCOURT,J .(1982).op.cit. p.56. 17 1793年と1797年の二度にわたるイギリス軍の攻撃の後、1800年4月4日、ゴレ島はイギリス軍の手に落ちる。 その後すぐに、サン・ルイの駐留軍がゴレ島をフランスの元に取り返すが、その6週間後に、再び、イギリ ス軍に奪い返される。DELCOURT,J.(1984). op.cit. 18 両地域にフランス人の総督が赴任するのは1817年。 19 De LUZE,S.(1965),op.cit. 20 BONIN,H.(1987).CFAO, cent ans de compétition,Economica,p.13. 21 BARROWS, L.-C. (1974).General Faidherbe, The Maurel et Prom Company, and French Expansion in Senegal, University of California, LA, Ph.D. Dissertation. 22 本節の内容は、De LUZE,S.(1965)およびBARROWS, L.-C. (1974)に依拠するところが大きいが、どちらの研 究においても、Hubert Promの父の姉もしくは妹であるAnne Prom と兄もしくは弟のJean- Louis Promが 同年に生まれたことになっている。生年の表記ミスである可能性もあると思われる。 23 BARROWS, L.-C. (1974), op.cit., p.116. 24 De LUZE,S.(1965)によると1823年、BARROWS, L.-C. (1974)によると1822年となっている。 25 De LUZE,S.(1965), op.cit. 26 Ibid., op.cit. 27 Ibid., op.cit. 28 Ibid., op.cit. 29 DELCOURT,J.(1982).op.cit.,pp.68-70. 30 BARROWS, L.-C. (1974),op.cit.,pp.70-71.およびDe LUZE,S.(1965), op.cit. 31 De LUZE,S.(1965)によると、毎年、8月にボルドーに注文リストを送付し、12月前半に注文した荷が届き、 それを現地で販売するというサイクルであったようである。 32 BARROWS, L.-C. (1974)に基づくと1832年となっているが、De LUZE,S.(1965)によると、1835年ごろ 16,000FRで購入し、改修を加えると28,747FRにまで費用は増大し、1836年4月に着水したとある。 33 34 例えば、1836年に、L Amanda、1840年にGirondin、1845年にSaint-Louis。 De LUZE,S.(1965). op.cit.肝臓の病を患った件については、WAGNER,R.(1914),Livre d'or de la Gironde, Dictionnaires Bibliographiques Illustrés Départementaux, p.371. 35 WAGNER,R.(1914).op.cit. 36 De LUZE,S.(1965). op.cit. 37 WAGNER,R.(1914).op.cit. 38 その他のセネガルに進出したボルドー系の商社に、Devés et Chaumet, Peyrisac, Buhan et Teisseire などが あるが、Devés et Chaumet 社なども、ボルドーに1861年に落花生の加工工場を設立している。CAMARA,C. (1968).Saint-Louis du Sénégal, evolution d une ville en milieu africain ,Institute Fondamental d'Afrique Noire. cité par Biondi,J.-P.(1987). Saint-Louis du Sénégal,Editions Denoël,pp.183-184. 39 Maurel et Prom社系列のSociété des Huileries Maurel et H.Prom et Maurel Fre `res社、Calvé商会(Maison Calvé)によって1866年に創設され、1897年にSociété Franco- Néerlandaiseによって運営された製油所、先 のDevés et Chaumet 社が運営していた加工工場とも関係があり、1896年に稼動始めたGrande Huilerie 180 Bordelaise、そして、1910年にガロンヌ川の右岸に設立されたHuilerie Franco Colonialeの4社。 40 MAUREL,P.(1933).L industrie de l Huilerie ` a Bordeaux,Le Port Autonome de Bordeaux,Le Sud-Ouest Economique,Aou ^t,1933. 執筆者のPaul Maurel氏は、当時、ボルドーの植物油精製組合長をしていた。姓から、 Maurel家の人物と推察されるが詳細は不明。 41 De LUZE,S.(1965), op.cit. 42 Ibid., op.cit. 43 Ibid., op.cit. 44 たとえば、ボルドーの名士についてWagner氏がまとめた Livre d or de la Gironde では、Jean-Louis Maurel氏は、Hubert Promとは別のいとこ、Joseph Prom氏を援助して、Tampico(Mexico)で煙草を中 心としたビジネス展開していたことが記述されている(p.371)。また、図2の家系図で、Hiraireの娘のみ、 わざわざ(Mme Prom)と表記されていることから、Hiraireの両親の例のみならず両家の間で婚姻関係が 結ばれていたことも伺える。 45 Déclaration du Roy (Louis XIV) du 19 février, les édits de Louis XV de décembre 1716 et de juin 1721, de décembre 1730, de janvier 1763 et d aou ^t1770, そしてLouis XVI les édits de mars 1781 et d octobre 1788, l ordonnance de janvier 1782など。cité par NEURRISSE,A.(1987). Le Franc C.F.A, Librairie Général de Droit et de Jurisprudence, p.53. 46 GERARDIN,H.(1994).La Zone Franc face ` a son Histoire et aux autres Zones Monétaire, Rapports de Domination et Dynamique d Intégration, SANDRETTO, René ed. Zone Franc, Les Editions de l Epargne,p.21. 47 例えば、フランス領アメリカ(現在のカナダ)では、通貨がフランスから輸入されても、すぐに交易の支 払い等でフランス本国に流出してしまうため、深刻な流動性不足に苦しんでいた。そこでケベック駐在の兵 士の給料支払いにも窮した植民地政府は、1685年、トランプのカードに裏書をしてそれを通貨の代わりに用 いる。これがきっかけとなり、18世紀半ばまで、カナダでは紙製カードの通貨が使用されていた。出所 カ ナダ中央銀行の通貨博物館、http://collections.ic.gc.ca/bank/francais/index.htm#6.また、スペイン通貨な どの外国の通貨を代用して用いることもめずらしくなかったようである。 48 カール・ポランニー (1987)『経済と文明−ダホメの経済人類学的分析』 、サイマル出版会、186-187頁。 49 1エルは45インチ。 50 1エンジェルは、1/16オンス。 51 1エンジェルは、30グレイン。 52 例えば、小川了(2002)『奴隷商人ソニエ−18世紀フランスの奴隷交易とアフリカ社会』山川出版、268−269 頁。その他にNEURRISSE,A.(1987).op.cit.pp.26-29で貨幣としての鉄棒について詳しい叙述がなされている。 53 小川了.(2002)、前掲書、269頁。 54 Maniku, Maizan Hassan (2002).Des cauris aux roupies, SAMUDRA , Juillet,45-46, extract of a th communication at the Conference concerning the Indian Ocean(9 October, 2001, Chennai). 55 カール・ポランニー(1987)、前掲書、204-205頁によると、 3オンス=123ポンド(4万8000個)の子安貝とあ る。 56 カール・ポランニー(1987)、前掲書、207頁。 57 GERARDIN,H.(1994).op.cit.,p.28. 58 Loi du 17 germinal an XI(7 avril 1803). 59 Ordonnance royale du 30 Aou ^t 1826. 181 60 その前年のordonnanceで、セネガル向けの通貨の発行が決められていたにもかかわらず、1826年12月の法 令 でそれが廃止となる。NEURRISSE,A.(1987),op.cit.,p.60. 61 Ibid., p.60. 62 ALIBERT,J.(1983).De La Vie Coloniale au Défit International:Banque du Sénégal, BAO, BIAO, 130 ans de Banque en Afrique, Chotard et Associés Editeurs. p.18. 63 Décret du 16 pluvio ^se-21 germinal an II(le 4 févrie- 11 avril 1794). 64 Loi du 30 avril de 1849. 65 NEURRISSE,A.(1987). Le Franc C.F.A, Librairie Generale de Droit et de Jurisprudence,p.65. 66 Ibid.,p.65. 67 Ibid.,p.65. 68 DIATKINE, D. et GAYMAN, J-M.(1994).Histoire des faits économiques, Tome 1, NATHAN,pp.59-61. 69 Ibid.,p.51. 70 Ibid.,pp.159-165. 71 王、皇帝、大統領、行政府等によって発せられる命令 72 Loi du 21 décembre 1853. セネガルで交付されたのは、その3ヵ月後の1854年2月21日. NEURRISSE,A.(1987), op.cit.,p.73. 73 ALIBERT,J.(1983). op.cit.,p.18. 74 Ibid., p.18. 75 アフリカ人とヨーロッパ人の混血女性。高い経済力と地位を持ち、サンルイおよびゴレのSeignerには、セ ネガルのヨーロッパ交易を取り仕切る者も少なくなかった。 76 NEURRISSE,A.(1987).op.cit.,p.74. 77 ALIBERT,J.(1983). op.cit.,p.19. 一方、ASSIDON, E. (1988)によると、1869年の数字で、セネガル銀行の資本 金の58%をボルドー商人グループが保有しており、とりわけその中心であったMaurel et Prom社は、その 前年の数字で、10隻の帆船と、複数の沿岸航海船、いくつかの支店を保有する一大商社になっていたとある。 ASSIDON,E.(1988), op.cit.,p.19. 78 DIENG,A.A.(1982). Le Ro ^le Syste `me Bancaire dans la Mise en Valeur de l Afrique de l Ouest, Les nouvelles editions africaine cité par NEURRISSE,E.(1987). op.cit.,p.74. 79 NEURRISSE,A.(1987) . op.cit.,p.74. 80 BARROWS, L.- C. (1974). op.cit.,50-51. 81 Claude Faure(1914). Histoire de la Presqu ile du Cap Vert et des origines de Dakar, pp.30-49.cité par BARROWS, L.- C. (1974).op.cit.,p.52. 82 アフリカの部族長の多くはフランスへの敵対心から、土地の貸与を認めなかったが、Wolo族のBrak Amor Fati Mborsoといった一部とは合意がなされた。しかし、Wolo族を労働者として雇い、フランス政府が灌漑 施設建設といった公共事業を行うという条約の締結に際して、Wolo族の一部のクランやモール人から反対 意見が出されたという記述もある。BARROWS, Leland Conley (1974). op.cit.,p.52. 83 BARROWS, L.- C. (1974). op.cit.,pp.52-53.また、正式にプランテーションプロジェクトが終了したのは1831年 とある(p.64)。 84 BARROWS, L.- C. (1974). op.cit.,p.62. 85 例えば、PASQUIER,R.(1983)では、ヨーロッパ商人に不動産を賃貸し、10数人の乗組員が乗船可能な小型船や 182 多くの奴隷、そして多くの宝石や金を所有するtraitantがいたことが記されている。PASQUIER,R.(1983).Les traitants des comptoirs du Sénégal au milieu du XIXe sie `cle,Entreprise et Entrepreneurs en Afrique XIXe et XXe Sie `cle,L Harmattan,p.147,pp.150−151. 86 Ibid.,p.148. 87 Ibid.,p.148. 88 BARROWS, L.- C. (1974). op.cit.,p.65. 89 Ordonnance du 15 novembre 1842.を指す。BARROWS, L.-C.(1974), op.cit.,p.66. 90 BARROWS, L.- C. (1974). op.cit.,p.66. 91 BARROWS, L.- C. (1974)では、さらにモーリタニア側のescaleと限定されている。op.cit.,p.66. 92 PASQUIER,R.(1983). op.cit.,p.148.この条件は後に、セネガル生まれの21歳以上、3年間 traitantのアシスタン トとして働いていたという証明をもった者と修正される。 93 のちにこの補償金についての条項は取り外される。BARROWS, L.- C. (1974). op. cit.,p.67. 94 BARROWS, L.- C. (1974). op.cit.,p.67. 95 Décret du 5 May 1849. BARROWS, L.- C. (1974)によると、フランス語が読め、サンルイもしくは過去5年間 沿岸部の住人であったことが唯一の条件であったという。BARROWS, L.-C. (1974). op.cit.,p.67. 96 PASQUIER,R.(1981)によると、1846年には、ゴム1kgあたり2.10Fの価格がついていたのに対し、翌年には 1.70F、1848−1849期間では、1.05Fとなっている。また、1847年には、ほとんどのtraitantが利益を出せな いばかりか、赤字を計上していることが記されている(p.155). 97 PASQUIER,R.(1981). op.cit.,p.161. 98 HARDY, Georges(1921). La Mise en Valeur du Sénégal de 1817 ` a 1854, Paris, Emile Larose, pp.273-275. cité par BARROWS, L.- C. (1974). op.cit.,p.68. 99 BARROWS, L.- C. (1974). op.cit.,p.132. 100 ASSIDON,E.(1988). op.cit.,p.19. 101 PASQUIER,R.(1981).op.cit.,p.158. 102 NEURRISSE,A.(1987). op.cit., pp.74-75,および ASSIDON,E.(1988). op.cit.,pp.18-20. 103 HARDING,L.(1992).Les Gands Commercants Africains en Afrique de l Ouest:Le cas du Sénégal et de la Co ^te d Ivoire. Essai de synthése, HARDING,L.Ed. Commerce et Commercants en Afrique de l Ouest:La Co ^ te d Ivoire,L Harmattan. 104 NEURRISSE,E.(1987). op. cit.,p.75. 3000の株式のうち、600がボルドー人以外に所有されたが、その多くは、 マルセーユにゆかりのある人物・企業であったという。これに対して、「セネガル銀行が設立された時点で は、マルセーユは、資本金の1%のしか保有していなかった。」との表記もある。ALIBERT,J(1983). op.cit., p.19. 183 参考文献 ALIBERT, Jacques.(1983). De la vie coloniale au défi International: Banque du Sénégal, BAO, BIAO, 130 ans de banque en Afrique,Chotard et Associes Editeurs. ASSIDON, Elsa(1988). Le commerce Captif, Les sociétés commerciales francaises de l Afrique noire, L Harmattan. 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