膜の構造と機能 慶應義塾大学環境情報学部・基礎分子生物学 3 平成 22 年 11 月 24 日 本テキストを利用するに当たっての注意 本テキストは慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス (SFC) で行われている基礎分子生物学 3 の履修者 有志によって作成されたものです。生物学の専門家によって作成されたものではありませんので、 重要なポイントについては元となった書籍「Essential 細胞生物学 (原著第 2 版)」[1] でしっかり確 認して下さい。 ただ学生が作ったものとはいえ、独自に作成した豊富な図を用いて初学者の視点から分子生物学 を分かりやすく解説することを試みています。 また本テキストはウィキ (Wiki) 方式で毎年履修者によって改良され、どんどん良い物になってゆ くでしょう。本テキストを受動的に利用するのではなく、ぜひ執筆活動に積極的に参加する姿勢で 利用して頂きたいと思います。 Saito R. 2 目次 1 膜の役割と基本構造 4 2 脂質二重層の流動性と非対称性 4 3 膜タンパクの構造と膜への結合 8 4 膜と細胞表面 8 5 膜輸送の原理 10 6 イオンチャネルのイオン選択性 16 7 神経細胞のイオンチャネルとシグナル伝達 16 8 細胞の区画とタンパク質の輸送 20 9 糖と脂肪の分解 27 10 ミトコンドリアの4つの区画とその役割 29 11 クエン酸回路と電子伝達系 30 12 食物の備蓄と利用 32 13 葉緑体の構造と機能 34 14 光合成の仕組みとその進化 36 3 膜の役割と基本構造 1 膜は細胞の内容物を入れる容器の役割を果たすもので、細胞が生きてゆく上で欠かせない物質で す。化学的には膜の正体は脂質二重層であり、厚さは約 5nm です1 。細菌では細胞膜が唯一の膜で すが、真核生物には細胞内区間を仕切る細胞内膜も存在します。細胞膜には多数の膜タンパク質が 存在しており、 1. 無秩序な細胞外部液の流入、細胞内部液の流出の防止 2. 栄養物の取り込み 3. 老廃物の排出 4. 外界の刺激に対する応答 5. 細胞の運動 を行うことが可能です。 図 1 に示すように、脂質二重層は親水性の頭部と、疎水性の 尾部でできています (両親媒性)。尾部の炭化水素間に二重結合 がある部分では、尾部が折れ曲がります。親水性の頭部は水に 親水性の頭部 引き寄せられ、疎水性の尾部は水を避けて他の疎水性分子と会 合しようとする性質があります。この 2 つの性質をちょうど満 たす構造が脂質二重層で、頭部が外側に出て水分子と接してお 疎水性の尾部 り、尾部が内側に入っています (図 2)。脂質二重層はそれぞれ が引きつけ合って形成されるというよりむしろ、疎水性の尾部 が周りの水分子と結合を持てないことによって結果的に形成さ れています。脂質二重層に末端があると、尾部が水分子と接し てしまうことになるので、それを避ける構造、つまり丸まった 図 1: 膜を作る脂質分子 構造が安定したものになり、これがまさに細胞膜が丸まる原理 です。生体内で最も多く存在する膜脂質はリン脂質であり、親水性の頭部とそれ以外の部分がリン 酸基を介して結合しています。 脂質二重層の流動性と非対称性 2 細胞膜中の個々の分子の並び順はほぼ一定というイメージがあるかも知れませんが、実際には細 胞膜を構成する脂質分子は自由に動きまわることができます2 。脂質分子がどの程度の速さで動き回 れるかは温度などに依存しますが、場合によっては、大型の細胞膜全体 (2µm) にほぼ1秒で拡散す ることが可能なのです。また脂質分子は細胞質→細胞外の方向を軸として回転することが可能で、 速いものは毎秒 30,000 回転にも達します。しかしながら、細胞質側の脂質分子が細胞外側に移った 15 × 10−9 m、原子ほぼ 50 個分に相当する。 (SPT 顕微鏡観察法) を用いると、個々の分子あるいは小集団の分子を標識して追跡することができる。 2 単粒子追跡 4 水 図 2: 脂質二重層 細胞小器官 小胞 細胞外液 細胞質 図 3: 膜の合成 り、また逆に細胞外側の脂質分子が細胞質側に移ったりする現象 (フリップ・フロップ) は自発的に はほとんど起こりません。リン脂質分子の流動性を決める要因はいくつかあります。まずは炭化水 素鎖の長さで、 短いとそれ同士の相互作用が少なくなり、流動性が増します。次に、炭化水素尾部 の二重結合の数 (不飽和度) で、これが多いと、尾部をきっちり並べるのは難しくなり、流動性が増 します。そして、コレステロールは不飽和炭化水素鎖の尾部の折れ曲がりによって生じたリン脂質 分子間の隙間を埋め、流動性を低下させます。 新しい膜の合成はほとんど小胞体 (ER, 8 節も参照のこと) で行われ、細胞小器官から出芽した小 胞が細胞質を移動し、細胞膜に取り込まれます (図 3)。このとき、細胞質に向いている側の脂質層は 常に一定です。膜の合成過程では、小胞体の内腔にて、脂質はまず膜の細胞質側に取り込まれ、フ リッパーゼによって一部は細胞外部側へ運ばれます。フリッパーゼにはリン脂質の選択性があるた め、脂質二重層の非対称性が生まれます (図 4a)。ゴルジ体内の酵素群は細胞質と接していない側の 膜だけに糖残基を付加するため、これも非対称性を生む要因となります (図 4b)。 5 (b) (a) 細胞外部 細胞質 図 4: 脂質分布の非対称性 (a) フリッパーゼのリン脂質選択性によって生まれる非対称性、(b) ゴルジ体内の酵 素群が細胞質と接していない側の膜だけに糖残基を付加するために生まれる非対称性。 6 角形が糖残基を表す。 6 (a) (b) 細胞外部 細胞質 (d) (c) X Y 図 5: 膜タンパクの様々な機能 膜タンパク質が持つ機能のうち、主なものを 4 つ図示した。(a) 輸送体、(b) 連結体、(c) 受 容体、(d) 酵素。 7 膜貫通型 単層結合型 C末端 N末端 脂質連結型 タンパク質付着型 図 6: 膜タンパク質の膜への結合様式 3 膜タンパクの構造と膜への結合 膜タンパク質は膜に結合したタンパク質、もしくは膜と連動しているタンパク質を指し、膜の機 能のほとんどは膜タンパク質が担っています。膜タンパク質の機能は図 5 に示すように主に、細胞 内外への分子の輸送 (細胞外へ Na+ を運び出し、細胞内へ K+ を運び入れる Na+ ポンプなど)、他 のタンパク質の膜付近への固定 (アクチンフィラメントとマトリックスをつなぐインテグリンなど)、 細胞外からのシグナルの受容 (PDGF を結合し、シグナル伝達によって細胞の成長、分裂を起こす 血小板由来増殖因子受容体など)、そして代謝 (外のシグナルに応じて環状 AMP の生産を触媒する アデニル酸環化酵素など) です。 図 6 に示すように、膜タンパク質の膜への結合様式は様々です3 。タンパク質の膜貫通領域では、 疎水性の側鎖が同じく疎水性の脂質の尾部と接触し、親水性の主鎖が互いに水素結合を作ると安定 した立体構造になります。親水性の主鎖の結合数はタンパク質がαへリックスという構造をとると 最大になります。このため、膜貫通型のタンパク質にはαへリックスが多いことが知られています。 4 膜と細胞表面 細胞膜自体は極めて薄く破れやすい構造になっているので、ほとんどの細胞膜は膜貫通タンパク を介して膜に付着しているタンパク質で出来た枠組みで支えられています。細胞膜の力学的な性質 3 ここに示してある例は内在性膜タンパク質。界面活性剤を用いて脂質二重層を壊さなければ膜から離れない。一方、表 在性膜タンパクは脂質二重層を壊さなくてもタンパク質間の相互作用だけを変える抽出処理によって膜から分離できる。 8 脂質分子と界面活性剤分子 細胞膜に最も多く使われているホスファチジルコリンというリン脂質分子は、親水性の頭部と 疎水性の尾部を持った両親媒性の分子です。界面活性剤分子も基本的な構造は同じですが、こ の 2 つは疎水性の尾部の構造が異なっています。リン脂質分子は疎水性尾部が 2 本の鎖状アル キル基からなっているのに対し、界面活性剤分子は 1 本しかありません。図形的に考えるとリ ン脂質分子は頭部と尾部の横幅がほとんど同じ円柱状の分子です。一方界面活性剤分子は親水 性頭部に比べて疎水性尾部の横幅が短いので、頭部を底面とする円錐状の分子です。水中では 円柱状のリン脂質分子の疎水性尾部は水を避ける傾向があり、その結果として二重層を形成し て安定した構造を保ちますa 。細胞質ゾルには水が含まれるので細胞内での振る舞いもほぼ同 じです。一方、界面活性剤分子は同じように疎水性尾部を水から隠すように結合すると、ミセ ルと呼ばれる球体を形成します。リン脂質分子の疎水性尾部の片方を切断し一本にするか親水 性の頭部を大きくすると、円錐型の立体構造に変わり、界面活性剤として働くようになります。 膜の脂質分子 界面活性剤分子 親水性 疎水性 単純な図形的イメージ リン脂質分子 界面活性剤分子 構造 疎水性尾部が 2 本 疎水性尾部が 1 本 水中状態 疎水性尾部を内側に集めた二重層を 疎水性尾部を中心に集めたミセルを 作る 作る 疎水性尾部を完全に水から隔離する 疎水性尾部を他のタンパクや油脂に 性質 “ 膜 ”を作る 結合させ、 “ 洗剤 ”としてはたらく a 親水性頭部には極性があるので水分子と水素結合を形成するが、疎水性尾部は無極性なので、ファンデルワール ス力のみで結合している。 9 ~100 nm アクチン 膜貫通タンパク スペクトリン 付着タンパク 図 7: ヒト赤血球の細胞皮層 は、繊維状のタンパク質が作る細胞皮層と呼ばれる網目構造で決まります (図 7)。皮層の主成分は、 スペクトリンという細長くて柔軟な、長さ約 100 nm の棒状タンパクです。スペクトリンの作る網 目構造が細胞膜を支え、細胞を平たい形に保っているのです。細胞膜にスペクトリンをつないでい るのは細胞内付着タンパクで、これがスペクトリンを特定の膜貫通タンパクに結びつけています。 赤血球のスペクトリンに遺伝的な異常が見られるマウスやヒトは貧血症状を呈し、赤血球細胞の数 が正常より少なく、形も扁平ではなく球状で極めて壊れやすくなっています。ヒトのほとんどの細 胞の細胞皮層には、スペクトリンとその付着タンパクに似たタンパク質がありますが、それは赤血 球細胞のものより遥かに複雑です。これは赤血球は血管内を押し流される際の圧力に耐える力学的 な強度があれば十分なのに対し、他の細胞は活発に形を変えたり移動したりしなければならないた めです。 真核細胞の細胞表面の脂質や膜タンパクには多くの場合、オリゴ糖が結合しており、これらは糖 衣という被覆を作っています (図 8)。オリゴ糖は水を吸収するので、細胞表面はぬめぬめしていて、 潤滑剤の役割を果たしています。これによって細胞表面が機械的、化学的な損傷を受けるのを防い でいるのです。また糖衣は細胞同士の識別や接着にも重要な役割を果たしています。レクチンと呼 ばれる一群のタンパク質は、特定のオリゴ糖側鎖を識別してそれに結合します。 5 膜輸送の原理 細胞の持つ細胞膜は脂質二重層なので、極性のある大きな分子やイオンを拡散によって細胞内に 取り込むことはできません。実験的に脂質二重膜のみを作った場合、水溶性の物質は膜をほとんど 通過できないでしょう。そこで、細胞が生きていくうえで必要な物質は細胞膜上に存在する膜輸送 タンパクを利用して細胞内に輸送されます (図 9)。 膜輸送タンパクにはチャネルタンパクと運搬体タンパクの 2 種類があります。チャネルタンパク (図 10) はランダムに開いたり閉じたりを繰り返すタンパク質で、分子の持つ電荷とその大きさで通 過できる分子を選択します。 10 細胞外部 表面に吸着された 糖タンパク 糖残基 糖衣 糖脂質 脂質二重層 膜貫通タンパク質 細胞質 膜貫通プロテオグリカン 図 8: 細胞表面に存在する糖衣 11 (a) 疎水性の 小分子 O2 CO2 N2 電荷を持たない 極性小分子 2 大型で電荷を持 たない極性分子 イオン ベンゼン HO グリセリン エタノール アミノ酸 グルコース ヌクレオチド H+, Na+, HCO3-,K+ Ca2+,ClMg2+ (b) 人工脂質 二重層 (c) 図 9: 人工脂質二重層と細胞膜の違い (a) 人工脂質二重層を通って分子が拡散する速度は分子の大きさと溶解度に依存す る。(b) タンパク質を含まない人工脂質二重層は水溶性分子をほとんど通過させない。 (c) 細胞膜にある輸送タンパクはそれぞれ特定の分子だけを運搬する。このため、膜内 の区画には選ばれた溶質だけが蓄積する。 12 閉 イオンなど 開 図 10: チャネルタンパク 図 11: 運搬体タンパク 13 ャㅍߐࠇࠆಽሶ Ớᐲ൨㈩ ⢽⾰ੑ㊀ጀ ㆇ៝ ࠲ࡦࡄࠢ ࠴ࡖࡀ࡞ ࠲ࡦࡄࠢ ࠛࡀ࡞ࠡ න⚐ᢔ ࠴ࡖࡀ࡞ߦ ㆇ៝ߦ ࠃࠆᢔ ࠃࠆᢔ ฃേャㅍ ⢻േャㅍ 図 12: 受動輸送と能動輸送 運搬体タンパク(図 11) は、タンパク質の一部に分子が結合するとタンパクが変形し、それによっ て内外への輸送を行います。その機構の性質上、輸送できる分子に選択性があります。 輸送には、エネルギーを必要としない受動輸送と、その逆の能動輸送があります (図 12)。溶質は その濃度勾配と膜をはさんだ電位差に従って自発的に移動します。この 2 つの駆動力を電気化学的 勾配と呼びます。受動輸送では電気化学的勾配を利用して輸送を行っており、エネルギー消費は起 こりません。例えるならば、坂道の頂上に置いたボールが坂のふもとへ自然に転がっていくように 溶質が輸送されるのです。一方、運搬体タンパクによって何らかのエネルギーを輸送に用いなけれ ばならないのが能動輸送です。これは先ほどの例に例えるなら、坂道のふもとに置いたボールを労 力を使って坂の頂上にもっていくように溶質を輸送するのです。つまり能動輸送は電気化学的勾配 に逆らって溶質を輸送します。これには以下に挙げる方法があります。 共役輸送 ある溶質の勾配に逆らう方向の輸送と別の溶質の勾配に従う方向の輸送とを組み合わせ る方法です。2 種類の溶質が同じ方向に輸送されるものをシンポートといい、その逆をアンチ ポートといいます (図 13)。また、共役輸送ではありませんが、1 つの溶質のみで行われるも のをユニポートといいます。 ATP 駆動ポンプによる輸送 ATP → ADP + Pi の過程で得られるエネルギーを利用する方法です (ATP については 9 節で説明します)。人体の Na+ ポンプはこれにあたります。 光駆動ポンプによる輸送 細菌細胞等が使う方法で光エネルギーを利用して勾配に逆らう輸送を行う 場合をいいます。 図 14 に ATP 駆動ポンプの一種である Na+ -K+ ポンプが機能する様子を示します。このポンプは 以下のステップで Na+ を細胞外に K+ を細胞内に運びます。 14 共役輸送体 低 濃 度 勾 配 脂質 二重層 高 (a) (b) (c) 図 13: 共役輸送体 (a) ユニポート、(b) シンポート、(c) アンチポート Na+ Na+ Na+ Na+ Na+ Na+ Na+ Na+ Na+ Na+ Na+ Na+ Na+ Na+ K+ K+ K+ Na+ +++++++++++++++++++++ +++++++++++++++++++++ --------------------細胞質側 --------------------- Na+ K+ Na+ Na+の結合部位 ATP K+ Na+ ADP K +Pi K+ K+ K+ K+ K+ + K+ 図 14: Na+ -K+ ポンプの機能 15 K+ K+ K+ K+ K+ 1. Na+ がチャネルに結合 2. ATP の加水分解 (ATP+H2 O → ADP+Pi) 3. リン酸基 (Pi) がチャネルに結合してリン酸化され、チャネルの構造が変化する → Na+ が細 胞外に放出される 4. 細胞外の K+ がチャネルに結合して脱リン酸され、K+ は細胞内へ流入する 運搬体タンパクは選択制が極めて高いため、多くの場合、1 種類の分子しか運びません。そのた め、膜で包まれた各々の細胞小器官には、必要な分子を取り込むための運搬体タンパクが独自の組 み合わせで備わっているのです。 6 イオンチャネルのイオン選択性 イオンを透過させる働きのあるチャネルをイオンチャネルと呼びます。イオンチャネルには選択 性があります。例えば Na+ チャネルは Na+ イオンしか通さず、K+ チャネルであれば、K+ イオン しか通しません。このように特定の無機イオンしか通さない細胞膜表面の小さな穴が、イオンチャ ネルの実体です。イオンは膜の外と内のイオン勾配差によって起きる受動輸送によって運ばれます。 イオンチャネルがイオンを特異的に通す仕組みとしてまず挙げられるのが、イオンの直径や形で す。穴に合わない形のイオンや穴より大きいイオンは通りません。次にチャネル内の電荷の分布で す。例えばチャネル内が+に電荷している場合、+の電荷を帯びたイオンは反発しあうため、通る 事ができません。 また図 15 に示すように、チャネルの一番狭いところでは、選択フィルターと呼ばれる、関所が存 在し、イオン選択性を助けています。例えば、K+ イオンチャネルでは、チャネルの内側に負の電 荷を帯びたカルボニル基が並び、K+ イオンが一時的に結合する部分を作ります。またイオンはた いてい水分子をまとっていますが、水分子をつけたままこの狭いフィルターを通る事は不可能なた め、水分子をほとんど外してこのフィルターを通ります。イオン輸送のこの段階がチャネル通過の 最大速度を制限しています。したがってイオン勾配の差が増大するとチャネルを通るイオンの流れ は勾配に比例して増加しますが、このフィルターの働きによって速度には上限ができるのです。 7 神経細胞のイオンチャネルとシグナル伝達 ニューロン (神経細胞) はシグナルを受け取って次の目的地に運ぶ重要な細胞です。多くの動物は 神経系を持っており、どの神経系も、数多くのニューロンからなるネットワークなのです。図 16 に 示すように、ニューロンには核を含む細胞体と、細胞体から遠く離れた細胞までシグナルを伝達する 長い軸索、他のニューロンからのシグナルを受け取る表面積を増やすための樹状突起、他のニュー ロン、筋肉などたくさんの細胞にシグナルを伝達するためたくさんの枝に分かれた神経末端から構 成されています。 細胞外を基準とした細胞内の電位を膜電位と呼びます。ちなみにネルンストの式を使うと、細胞 内外のイオン濃度の比から理論上の静止膜電位を計算することが可能です (コラム参照)。静止状態 16 K+ 水分子 カルボニル基 カルボニル基 K+ K+ o o K+ K+ o K+ o K+ K+ o o K+ K+ 図 15: K+ イオンの選択フィルター チャネルの一番狭いところには選別の関所(選択フィルター)が存在する。 樹状突起 軸索 細胞体 神経末端 図 16: 神経細胞 (ニューロン) 17 ネルンストの式 以下のネルンスト (Nernst) の式は平衡状態を定量的に表すもので、これを用いると、細胞内外 のイオン濃度の比から理論上の静止膜電位の値を計算できます (イオンが 1 個の正電荷をもち、 温度が 37 ℃のとき)。 V = 62 log10 (Co /Ci ) ここで、V はミリボルト (mV) で表した膜電位で、Co /Ci は細胞外/内のイオン濃度を表しま す。この式の導出過程を下図の膜を間に挟んだ2種類の溶液を使いながら、説明します。 膜 C1 C2 濃度 C1 の溶液中から 1 mol の物質を濃度 C2 の溶液中に輸送するときの自由エネルギー変化 ∆G は、 ∆G = RT ln(C2 /C1 ) です(自由エネルギーに関しては p.33 のコラム参照)。ここで、R は気体定数 (8.314J/K· mol) で T は絶対温度です。輸送は C1 = C2 、すなわち ∆G = 0 となるまで続きます。 そして、細胞膜の両側で生じている電位差、すなわち膜電位を式に組み込むと、 ∆G = RT ln(C2 /C1 ) + ZF ∆Ψ となります。ここで、Z はイオンの電荷、F はファラデー定数 (96.5 kJ V−1 mol−1 =23.06 kcal V−1 mol−1 )、∆Ψ はボルト (V) で表した膜電位です (方向は外→内とする)。ZF ∆Ψ は 1 mol のイオンが電位差を超えて移動する時のエネルギー変化を意味します。静止膜電位は細胞内外 で電気化学的勾配が 0 になっている状態における膜電位なので、∆G = 0 のときの ∆Ψ を求め ればいいことになります。これは ∆G = RT ln(Ci /Co ) + ZF ∆Ψ より ∆Ψ = ln(Co /Ci ) · RT /ZF となります。従って、37 ℃ (T = 310) で 1 価のイオン (Z = ±1) という条件では、 ∆Ψ ≃ ±27 ln(Co /Ci ) ≃ ±62 log10 (Co /Ci ) となります。ネルンストの式は数種類のイオンを同時に扱うことはできません。そこで異なっ たイオンの膜に対する相対的な透過性を考慮したゴールドマンの式があります。 18 (a) (b) 刺激電流 (mV) 膜電位(mV) -50 0 -50 1 0 2 時間(ms) (c) 閉 開 不活性 閉 図 17: 電位依存 Na+ チャネルと膜電位 (a) 短いパルス電流。これが活動電位を発生させる。(b) 刺激電流が流れた後の膜電位の変化。 (c) Na+ チャネルの状態。 のニューロンでは、軸索の外側は内側に比べ正に荷電しており、これを分極しているといいます。静 止状態で分極が起こっているのは、K+ 漏洩チャネルによって細胞内に多く存在する K+ が細胞外 に流出し、結果として負の電荷を持つイオンの割合が増えているためです。実際に電位差の測定を 行うと、細胞膜の内側が外側に対して-20mV から-200mV 程度の電位を持っていることが分かりま す。このように観測される電位差を静止膜電位といいます。ニューロンによる情報伝達は、この膜 電位の変化の電気信号によって行われます。電気信号は減衰して消えてしまわないように所々で増 幅されながら伝えられますが、この電気的興奮が伝わる波を活動電位といいます。以下では活動電 位が生じて機能する仕組みを説明します。 図 17 に示すように、電位依存 Na+ チャネルは閉、不活性、開の 3 種類の形状をとります。ニュー ロンが刺激を受けると電位依存 Na+ チャネルが開き、細胞外の Na+ が細胞内に流入し、膜電位の 負の値がわずかに正に近づきます。このような膜電位の変化を脱分極といいます。これによって細 胞内と細胞外の電荷が逆転する活動電位を生じます。そしてチャネルはすぐさま不活性となります。 これにより刺激の直後、再び刺激を受けても Na+ チャネルが不活性状態から閉状態に戻るまでの 間、次の活動電位を発生する事はできません。 活動電位はすぐさま軸索の膜上の Na+ チャネルに沿って隣へ隣へと伝えられます。刺激がある一 19 シナプス後細胞 シナプス前細胞 イオン ++++++---+ ------+++- --+++++++ ++------- ------+++++++++---+ ++--------+++++++ Ca2+イオン 神経伝達物質 電位依存 Ca2+チャネル 神経伝達物質受容体 図 18: ニューロンが他のニューロンへ情報を伝える仕組み 定の値 (閾値) を超えると活動電位を生じますが、その値を超えなければ、静止膜電位に戻ります。 あるニューロンが他のニューロンへ情報を伝える仕組みを図 18 に示します。シグナルを伝達する 細胞(シナプス前細胞)と受け取る細胞(シナプス後細胞)の間にはシナプスと呼ばれる特別な接 合部があります。ニューロンがニューロンへ情報を伝えるためには神経伝達物質がシナプスを通る 必要があります。神経伝達物質は神経末端でシナプス小胞に蓄えられています。神経末端にシグナ ルが電気信号として到着すると、電位依存 Ca2+ チャネルが開き、Ca2+ イオンが細胞内に流入しま す。これをきっかけにシナプス小胞の中に含まれる神経伝達物質が化学信号として細胞外に分泌さ れます。分泌された神経伝達物質は神経伝達物質受容体によって受容されます。受容体が働くとイ オンが細胞内に流入し、シグナルが伝達されます。この際、化学信号は再び電気信号に変換される ことになります。神経伝達物質には興奮を伝えるアセチルコリン、グルタミン酸などの興奮性伝達 物質と、興奮を抑える GABA、グリシンなどの抑制伝達物質が存在します。興奮伝達物質は Na+ や Ca2+ などを受容するイオンチャネルに結合し (図 19)、抑制伝達物質は Cl− などを受容するイオ ンチャネルに結合します。 シナプスでは、複数の化学信号が加算されることや、シナプスでの化学的活動がそのシナプスの 強度を変えることがあります (シナプス可塑性)。シナプスでの化学的な信号伝達は、一見神経系の 活動を非効率にするようにも見えますが、このようなニューロンによる演算や記憶を容易にすると いう重要な側面を持っています。 サリンは副交感神経毒です。受容体によって受容されないで余ったアセチルコリンを分解するコ リンエステラーゼの合成を阻害し、細胞内にアセチルコリンがたまったままにすることで、副交感 神経を興奮させたままにする働きがあるのです。 8 細胞の区画とタンパク質の輸送 バクテリアの細胞には細胞質 (cytosol) という細胞膜で囲まれた区画が 1 つあるだけですが、真核 生物の細胞の内部は図 20 に示すように、細胞内膜によって複雑に分割され、特定の機能を果たすよ 20 (a) (b) 䜰䝉䝏䝹䝁䝸䞁 ⤖ྜ㒊 - (c) ⬡㉁㔜ᒙ - Na+ 䜰䝉䝏䝹䝁䝸䞁 - - - + -Na - ⣽⬊㉁ 図 19: アセチルコリン受容体の構造 筋細胞膜にあるものを例として示した。アセチルコリンがチャネルに結合すると開く。小孔の 両側には負電荷を持つアミノ酸側鎖があり、正電荷を持つイオン (主に Na+ や K+ ) が通過でき る。(a) 全体の構造、(b) 閉状態、(c) 開状態 区画 主要機能 細胞質 多数の代謝経路、タンパク質合成系 核 ゲノムがある、DNA と RNA を合成する 小胞体 脂質のほとんどを合成、多数の細胞小器官や細胞膜に送るタンパク質の 合成 ゴルジ体 タンパク質と脂質を修飾・選別して、分泌や別の細胞小器官に送る小胞 に詰め込む リソソーム 細胞内消化 エンドソーム エンドサイトーシスにより取り込まれた物質の選別 ミトコンドリア 酸化的リン酸化による ATP の合成 葉緑体 (植物細胞) 光合成による ATP の合成と炭素固定 ペルオキシソーム 有毒分子の酸化 表 1: 真核細胞に存在する膜で包まれた小区画の主要機能 21 ヤリイカを用いて膜の興奮の秘密を探る ヤリイカの持つ軸索は太くて長いため、神経の軸索を伝わる電気シグナルの研究をするのにヤ リイカは都合のよい生物です。神経の興奮状態を知る上で実際にアメリカケンサキイカが研究 に使われていました。その巨大な軸索に毛細管電極を挿し、刺激を与えることで活動電位を直 接測ることができます。そのため、軸索の中を空にした後、そこに軸索の内外に存在する主な イオンの純粋溶液で満たす灌流を行うことで、活動電位に関係しているイオン (Na+ と K+ ) を 同定することができたのです。またそれぞれのイオンがどのような働きをしているかも、イカ の巨大軸索によって明らかになりました。また膜外の K+ と Na+ の濃度を変化させ、それが膜 電位にどのような影響を与えたのかを調べた結果、Na+ は活動電位のピークに、K+ は静止状 態の軸索の膜電位に関係していることが分かりました。さらに、活動電位によって Na+ チャネ ルが開くこと、Na+ チャネルが閉じた後は余分の K+ チャネルが開くことによって膜電位が静 止状態に戻るのを促進していることも判明したのです。 灌流用カニューレ ゴムのローラー 巨大軸索 灌流液 軸索の細胞質 ヤリイカの軸索内の細胞質をゴムのローラによって取り除き、カニューレを用いて灌流 液に置き換える操作。 22 エンドソーム ペルオキシソーム ミトコンドリア 細胞膜 ゴルジ体 細胞質 小胞体 リソソーム 核 図 20: 小腸上皮細胞の模式図 真核生物の場合、このように細胞内に多様な区画が存在する。小さな黒い粒はリボソームを表 す。リボソームには膜に結合しているものもあれば、遊離しているものもある。 23 細胞質で合成されたタンパク質 膜を通る 輸送 核膜孔を通る輸送 小胞による 輸送 葉緑体 ミトコンドリア ペルオキシソーム 図 21: 細胞小器官のタンパク質の取り込み うに専門化された構造、すなわち細胞小器官 (organelle) が見えます。その主な機能を表 1 にまと めます。 タンパク質の合成はほとんど細胞質で行われます4 。その中で細胞質に留まるタンパク質もあれ ば、他の区画に輸送されるタンパク質もあります。後者のタンパク質の場合、図 21 に示すような 3 種類の方法で輸送が行われます。どの輸送機構でもエネルギーを必要としますが、膜を通る輸送で はさらにタンパク質の立体構造をほどく必要があります。 水溶性のタンパク質が小胞によって輸送される場合、そのタンパク質は翻訳終結前に小胞体の中 に入りこみます。そして図 22 に示すように、合成されたタンパク質は輸送小胞の出芽・融合の繰り 返しによって他の細胞小器官や細胞膜へと輸送されます。小胞による輸送経路は、小胞体からゴル ジ体を介して細胞膜を抜けて外へ向かうものと、細胞膜からエンドソームを介しリソソームという ように内に向かうもの (エンドサイトーシス経路) があります。 膜から出芽する小胞は細胞質側の表面に独自の被覆を持ちます。最も研究が進んでいるのはクラ スリンというタンパク質の被覆です。それぞれの区画から出芽する輸送小胞が正しく働くためには、 まず輸送の対象となる小胞体中のタンパク質が小胞に詰め込まれなければなりませんが、アダプチ ンというタンパク質が輸送対象のタンパク質の選別を行い、クラスリンとともに小胞を覆う被覆を 形成するのです。小胞の出芽後は被覆は離脱します。 その後、小胞は標的となる膜とだけ正確に融合しなければなりません。小胞の特異的融合は SNARE とよばれる一群の膜貫通タンパクの働きによるものです。図 23 に示すように、小胞に存在する v- SNARE を、標的膜にある相補的な t-SNARE が識別するのです。 24 初期エンドソーム 初期エンドソーム 後期エンドソーム 後期エンドソーム リソソーム 核膜 ゴルジ体 体 ゴルジ 細胞質 核 細胞外部 小胞体 輸送小胞 図 22: 小胞による輸送 細胞外に向かう経路を赤い矢印で、エンドサイトーシス経路を緑色の矢印で示す。 他の細胞区画 t-SNARE v-SNARE 積み荷受容体 積み荷a 接着 融合 積み荷b v-SNARE 被覆 小胞 t-SNARE 図 23: SNARE による標的膜の認識 25 H 2N O O O- P O O- P N O O O- リン酸 N P O O O- 太陽光や食物からの エネルギー N N OH OH アデニン リボース ATP 細胞活動や化学合成に 利用できるエネルギー H 2N O HO P O O O- N N P O O O- N N ADP OH OH 図 24: ATP と ADP の化学構造 食物 タンパク質 糖類 脂質 グリセリン 脂肪酸 アミノ酸 グルコース 細胞質 解糖系 ピルビン酸 ミトコンドリア アセチルCoA O2 TCA回路 NADHの形での 還元力 電子伝達系 CO2 ATP 図 25: 食物からエネルギーを得る仕組み 26 H2O OH ATP ATP O HO HO OH フルクトース 1,6-ビスリン酸 OH グルコース ATP ATP NADH ピルビン酸 ジヒドロキシ アセトンリン酸 ピルビン酸 ジヒドロキシ アセトンリン酸 ATP ATP NADH 図 26: 解糖系 9 糖と脂肪の分解 我々が生きてゆくためにはもちろん食物を食べる必要があります。その最も大きな理由は、食物 から生きてゆくために必要なエネルギーを得るためです。化学的にはこのエネルギーは ATP(アデ ノシン三リン酸) と呼ばれる分子に蓄えられています (図 24)。ATP が ADP(アデノシン二リン酸) という分子に変わるとき蓄えられたエネルギーが放出され、様々な活動に使われます。食物からエ ネルギーを得る過程は、食物から ATP を合成する過程であると考えていいでしょう。ではどのよう な過程で食物から ATP が合成されるのでしょうか。その全体像を図 25 に示しました。 食物は消化されたあと、糖類は解糖系と呼ばれる一連の化学反応の経路へ進みます (図 26)。解糖 系では ATP 生成の中心的経路であり、そこでは我々にとって最も重要な糖であるグルコース 1 分子 がピルビン酸 2 分子になり、その過程で 2 分子の ATP と NADH(ニコチンアミドアデニンジヌクレ オチド) ができます。これをもう少し詳しく説明すると図 26 に示すように、グルコース 1 分子につ き ATP2 分子が消費されますが、その後の反応で 4 分子の ATP が得られるため、差し引き 2 分子 の ATP が得られるのです。このときの ATP は ADP から生成されます。ADP は ATP からエネル ギーが放出されたときにできる低エネルギーの分子なので、そこからまた ATP ができるのは不思 議に思えるかも知れませんが、図 27 に示すように、この反応ではエネルギー的に起こりにくい反応 をエネルギー的に起こりやすい反応と共役させる酵素が用いらているのです。このとき、グリセル アルデヒド 3-リン酸がグリセルアルデヒド 3-リン酸脱水酵素によって 3-ホスホグリセリン酸に変換 され、これによって生じた高エネルギーのリン酸基が ADP に転移し、ATP ができます。 嫌気状態ではこれ以上酸化が進まず、解糖系で ATP を作るために必要な NAD+ を再生する発 酵を行います (図 28)。好気状態の場合、ピルビン酸・脂肪酸はミトコンドリアでアセチル CoA に 変換されてクエン酸回路に入っていき、さらにその先の電子伝達系で多量の ATP が生産されます。 4 ミトコンドリアと葉緑体は独自のゲノムを持っており、そこで合成されるタンパク質もある。 27 自由エネルギー NADH 高エネルギーの 結合を持つ1,3ビ スホスホグリセリ ン酸の合成 ATP NAD 1,3ビスホスホグ リセリン酸の高 エネルギー結合 の切断 ADP グリセルアルデ ヒド3-リン酸のCH結合の酸化エ ネルギー 図 27: 共役反応により NADH と ATP が生成される仕組み (a) グルコース 2 NAD+ 2 ADP 解糖 2 NAD+ 2 NADH +2H+ 2 ATP NAD+の再生 ピルビン酸2分子 (b) 乳酸2分子 グルコース 2 NAD+ 2 ADP 解糖 2 NAD+ 2 NADH +2H+ 2 ATP ピルビン酸 2分子 H+ アセトアルデヒド 2分子 NAD+の再生 CO2 2分子 図 28: 発酵 (a) 乳酸が作られる発酵 (b) アルコールと CO2 が作られる発酵 28 エタノール 2分子 ࡑ࠻࠶ࠢࠬ ౝ⤑ ⤑㑆ㇱಽ ᄖ⤑ 図 29: ミトコンドリアの構造 10 ミトコンドリアの4つの区画とその役割 ミトコンドリアは ATP を生産する細胞小器官で、真核生物の細胞に広く存在します。ミトコン ドリアには、外膜、内膜、マトリックス、外膜と内膜の間の部分である膜間部分の 4 つの区画が存 在し、エネルギーの合成においてそれぞれが重要な役割を担っています (図 29)。 外膜 ポリンと呼ばれる輸送タンパクをもち、それが大きな親水性チャネルを構成しています。その ため膜間部分の分子構成は、5000 ドルトン以下の分子については細胞質とほぼ同じになって います。 内膜 膜輸送タンパクによってマトリックスに入る分子の種類の選択をするという機能と、マトリッ クスから送られてきた高エネルギー電子を使って電子伝達系でプロトンを膜間部分に汲み出 すという機能を持っています。 マトリックス 膜を通ってきたピルビン酸と脂肪酸を酸化してアセチル CoA を作り、クエン酸回路 を回します。そしてできた高エネルギー電子を内膜の電子伝達系に送ります。また、電子伝達 系で形成されたプロトン勾配を使ってマトリックス内部にある ADP から ATP を合成します (これについては 11 節で詳しく説明します)。 膜間部分 マトリックスから送られてきた ATP を用いて、ほかのヌクレオチドをリン酸化します。 ミトコンドリアは独自のゲノムおよび転写・翻訳系を持っており、ミトコンドリア内に存在する タンパク質の一部を合成しています。ミトコンドリアは真核細胞の中に存在する微生物のようにも 見えますが、実際にミトコンドリアの祖先は他の微生物で、それが原始的な真核細胞の中に取り込 まれたと考えられています (図 30)。 29 原始的な真核生物 細菌(ミトコンドリアの祖先) 図 30: ミトコンドリアの進化 11 クエン酸回路と電子伝達系 クエン酸回路5 と電子伝達系は、共に酸素呼吸が可能な細胞すなわち、ミトコンドリアを有する細 胞のみに存在するエネルギー代謝経路です。クエン酸回路はミトコンドリア内膜内 (マトリックス) に存在し、電子伝達系はミトコンドリア内膜上に存在しています。 ミトコンドリアを有する細胞では、解糖系によって生じたピルビン酸を二酸化炭素とアセチル基 に分解し、さらにこのアセチル基を CoA(補酵素 A) に結合させ、アセチル CoA6 を生産します。 アセチル CoA はオキサロ酢酸と結合し、クエン酸となってクエン酸回路というループ状の代謝経 路に入ります (図 31)。アセチル CoA は 2 つの炭素を有し、オキサロ酢酸は 4 つの炭素を有する分 子です。クエン酸はその合計、6 つの炭素を有しています。クエン酸回路は回転しながら徐々に炭素 を減らしつつ電子を NAD+ に渡してゆきます。この「電子を渡す」ことこそがクエン酸回路の大き な意義なのです。NAD+ は電子を受け取って大きな還元力を持つ NADH になります。 これに対して、電子伝達系の意義は「ATP を生産する」ことにあると言えるでしょう。クエン酸 回路で合成された NADH から得た電子が電子伝達系を流れるときのエネルギーを用いて H+ がマ トリックスから膜間部分に汲み上げられます。結果的にミトコンドリア内膜を境に、膜間部分では H+ が増え、マトリックス側では e− が増えます (図 32)。なおこのような電子の動きを予測するに は酸化還元電位の計算が有効です。 このようにして生じたプロトン勾配を利用して ATP 合成酵素がリン酸を使って ADP をリン酸化 し、ATP を合成します。NADH が酸化されて放出された電子は最終的に酸素に移って水分子が出 来上がるため、ここで酸素が消費されます。このように ATP が合成される工程は酸化的リン酸化と 呼ばれます。 5 他に TCA 回路、TCA サイクル (tricarboxylic acid cycle)、トリカルボン酸回路、クレブス回路 (Krebs cycle) など の呼び方がある 6 「アセチルコーエー」と読む。 30 O H3C C S CoA アセチルCoA 2C NADH + H+ 4C 6C オキサロ酢酸 クエン酸 6C NADH + H+ クエン酸回路 4C 5C CO2 4C 4C 4C FADH2 NADH + H+ CO2 GTP 図 31: クエン酸回路 31 シトクロムb-c1複合体 NADH脱水素酵素複合体 シトクロム酸化酵素複合体 H+ H+ 外膜 H+ H+ 内膜 膜間部分 ATP合成酵素 eO2 O2 NAD+ 2H2O NADH H+ 電子伝達系 ATP ADP + Pi ATP ADP + Pi NADH クエン酸回路 CO2 CO2 マトリックス アセチルCoA ピルビン酸 脂肪酸 ピルビン酸 脂肪酸 図 32: 電子伝達系 酸素のない発酵で 1 分子のグルコースから獲得できる ATP の数は 2 個です。これに対し、酸素 を使う場合は解糖系から 2 個、TCA 回路から 2 個、電子伝達系から約 30 個の ATP を獲得できる のです。酸素を用いる呼吸代謝が ATP を獲得する上でいかに効率が良いか、よく分かります。 12 食物の備蓄と利用 これまで述べてきたように、生物が活動するためには常に細胞内で ATP が必要となります。こ れは生体内で起こる多くの化学反応のエネルギー源となるからです。しかし現実には生物は常に食 物にありつけるわけではありません。そこで生物には食物分子を備蓄する機構が備えられています。 動物の場合、肝臓や筋肉など多くの細胞の細胞質にグリコゲンという多糖が小さな顆粒として存 在し、急な必要性に素早く対応できるようになっています。一方、脂肪は脂肪組織に蓄えられ、必 要なときは血中に放出されます。これはグリコゲンに比べ備蓄性に優れるという長所があり、また 1g 当たりのエネルギーもグリコゲンの約 2 倍です。 植物の場合、食物をデンプンと脂肪という形で蓄えています。どちらも葉緑体に蓄えられ、日光 から ATP を生産できない時に使われます。種子には多量のデンプンや脂肪が蓄えられており、成長 するためのエネルギーや生体分子として使われています。発芽中の種子は、必要に応じて、脂肪を グルコースに変えられます7 。 7 動物細胞では糖は脂肪に変えられるが、脂肪酸は糖に変えられない。 32 自由エネルギーと酸化還元電位 細胞を構成する分子は振動、回転、並進運動のエネルギーのような原子間の結合に蓄えられた エネルギーを持っていますが、自由エネルギー (kcal/mol) はある系から取り出して、化学反応 の進行などの仕事に利用できるエネルギーです。特に細胞内のような定温定圧を仮定できる系 ではギブスの自由エネルギー (G) が用いられ、その定義は、 G ≡ U + PV − TS です。ここで U は系が持つ内部エネルギー、P は圧力、V は体積、T は温度、S はエントロピー を表します。また標準自由エネルギー Go はある物質について一定の濃度 (1M)、温度 (25◦ C)、 圧力 (1 atm) の状態で測った自由エネルギーです。化学反応は常に ∆G ≤ 0 となる方向に進み ます。 さて、分子から分子に電子伝達が起こる際の標準自由エネルギー変化 ∆Go の尺度となるのは、 酸化還元電位の差 ∆E0′ (mV) です。ある原子から電子が取り除かれる反応を酸化、逆に電子が 与えられる反応を還元と呼びますが、酸化還元電位は、電子の物質に対する親和性を表す指標 です。プロトン (H+ ) に対する電子の親和性を基準 (標準酸化還元電位 E0′ = 0) として親和性 が低い物質は低い酸化還元電位を、高い物質は高い酸化還元電位を持ちます。電子はより酸化 還元電位が高い方に移動します。酸化還元電位を測るためには、対象となる酸化還元物質対を 1:1(等モル)に混合した溶液と、基準として運んできた他の酸化還元物質対の等モル溶液を連 結する電子回路をつくり、両者の間の電位差 ∆E0′ を測定します。このとき、∆E0′ = E0′ (受容 体) − E0′ (供与体) であり、また、 ∆Go = −nF ∆E0′ が成立します。ここで F はファラデー定数 (0.02306 kcal mV−1 mol−1 )、n は酸化還元電位の差 が ∆E0′ のときに輸送される電子の数です。例えば NADH⇀ ↽NAD+ +H+ 2e− の反応の酸化還元 電位を測ると −320 mV となり、H2 O⇀ ↽ 21 O2 +2H+ +2e− は +820 mV なので、NADH から O2 への電子伝達は極めて起こりやすいことが分かります (結果として 12 O2 +2e− +2H+ となり、O2 が消費されて H2 O ができます)。この場合、∆E0′ = 1140 となり、n = 2 より、∆Go = −52.4 kcal/mol となります。 33 内膜 DNA 膜間部分 外膜 チラコイド膜 リボソーム チラコイド内腔 ストロマ グラナ 図 33: 葉緑体の構造 体外から摂取された食物分子や、体内に備蓄された糖や脂肪は、解糖系やクエン酸回路を中心に 異化反応によって利用されます。異化反応によって、細胞は、エネルギーだけでなく、体を作るた めに必要な材料を作ります。この代謝経路は、複雑に枝分かれしていますが、調節機構の巧妙な働 きにより、調和を保っているのです。 13 葉緑体の構造と機能 光合成は光のエネルギーを使って大気中の二酸化炭素 (CO2 ) から有機分子を作り出す一連の反応 で、植物や藻類、シアノバクテリアなどがこれを行っており、一連の反応は葉緑体葉緑体の中で起 こります。 図 33 に示すように葉緑体は外膜・内膜・チラコイド膜の 3 重膜構造になっており、内膜の内側を ストロマ、チラコイド膜とその内側をチラコイドと呼びます。チラコイドは多くの場合、いくつも 重なって存在しており、そのチラコイドの塊をグラナと呼びます。チラコイドには光合成色素であ るクロロフィル a や、光エネルギーを吸収し、エネルギーをクロロフィル a に伝える補助色素(ク ロロフィル b・キサントフィル・カロテン)などがあります。 これらの区画でおこる光合成の一連の反応は図 34 に示すように、2 段階に分けることができます。 光エネルギーにより、チラコイド膜にあるクロロフィルが活性化し、電子伝達系内に電子を移動さ せる光合成電子伝達反応 (明反応) が初めに起きます。これによりクロロフィルは電子を水から取り 出し、反応副産物として酸素を発生させます。このとき生じた電気化学的プロトン勾配がストロマ までの ATP 合成を駆動します。次に、ATP と NADPH をエネルギー源と還元力として使い、CO2 を炭水化物に変換する炭素固定反応(暗反応)がおきます。このような葉緑体の区画を利用して光 合成を行っているのです。 34 CO2 H2O 光 チラコイド膜に ある光合成電 子伝達反応 ATP + NADPH ストロマにある 炭素固定反応 糖、アミノ酸 脂肪酸 葉緑体 細胞質 O2 図 34: 光合成反応の概要 CO2 CO2 O2 糖 ATP 葉緑体 糖 クエン酸 回路 O2 酸化的 リン酸化 代謝産物 ATP 図 35: 植物における葉緑体とミトコンドリアの協力 35 光子 水から獲得した電子 + 高エネルギー電子化 電子伝達 電子伝達 電荷分離 - 低エネルギー電子の供与体 クロロフィル分子 高エネルギー電子の受容体 電子伝達系へ 電子 (大きさがエネル ギーの高さに比例) 図 36: 反応中心クロロフィル分子による光エネルギーの捕捉 桃、赤、橙の丸は電子を表し、その大きさは電子が持つエネルギーの大きさを表す。 ミトコンドリアと異なり、葉緑体の内膜は光合成でできた ATP(と NADPH) を通しません。そこ で葉緑体から植物細胞の他の部分へは代わりに糖が送り出されます (図 35)。 14 光合成の仕組みとその進化 光合成では CO2 と H2 O から有機分子が生成されることがよく知られていますが、その過程で必 要となる ATP、NADPH の生成も光合成によって行なわれています。図 36 に示すように、光がク ロロフィル分子に当たると、まず光化学系 II で電子が高エネルギー化されます。次に、この高エネ ルギー化された電子が電子伝達系を流れ、その過程でチラコイド膜にあるプロトンポンプ (シトク ロム b6 -f 複合体) が駆動されてプロトン (H+ ) 勾配ができます (図 37)。そしてそのチラコイド膜に ある ATP 合成酵素がこのプロトン勾配を使って膜のストロマに面した側で ATP を合成します。 光化学系 I では、光エネルギーによってできた反応中心の正孔に、電子伝達系から流れてきた電 子が入り、光化学系 II での反応と同様に電子が高エネルギー化されます。このエネルギーを用いる ことによってフェレドキシン NADP 還元酵素が NADP+ から NADPH を合成することができるよ うになるのです。 クロロフィル分子から外れた分の電子は水分解酵素を用いて水から補充され、結果として O2 が 放出されます。 電子伝達系を流れる電子の方向を推測するとき、酸化還元電位が有効な指標です (p.33 コラム参 照)。図 38 に電子の流れる方向と酸化還元電位、および関連する反応をまとめておきます。 36 光 光 O2 チラコイド内腔 H+ H+ チラコイド膜 H+ H+ 光化学系II シトクロム b6-f複合体 電気化学的勾配 2H2O 4H+ ATP H+ NADP+ NADPH 光化学系I ストロマ フェレドキシンNADP還元酵素 図 37: ATP、NADH 生成の流れ 赤色の矢印は、電子の流れを表す。本図では一部省略して描いているが、青色の矢印で示し たプロトン勾配が、チラコイド膜にある ATP 合成酵素を駆動し、その結果として ATP が生成さ れる。 光合成電子伝達反応で合成された ATP や NADPH は炭素固定回路で CO2 の炭素から炭水化物を 作るのに使われます。図 39 に示すように、炭素固定回路では、3 分子の ATP と 2 分子の NADPH を消費して、1 個の CO2 分子が炭水化物に変換されます。 さてこのような光合成の仕組みや ATP 合成法はどのように進化してきたのでしょうか。初期の生 命は、地球科学的な反応でできた有機物を使って発酵により ATP を合成していたと考えられます。 細胞内が酸性になるのを避けるために ATP を使ってプロトンを汲み出すことを始め、その後 ATP ではなく電子伝達のエネルギーで汲み出すポンプを持ったものが出現し、それらの個体が生存する 上で有利になったのでしょう。その中でも、プロトンを余分に汲み出す事のできる生物は、ATP 駆 動型プロトンポンプを逆にまわして ATP を生成しており、発酵性栄養物質に頼らずに生存できた と考えられます。初めて光合成を行った生物は光学系 I だけを持ち、硫化水素から電子を取り出し ていましたが、やがて光学系 II を備え、有り余る水から電子を取り出すことができるようになりま した。地球初期の環境に近いと思われる深海の熱水の噴出口付近に生活しているメタン細菌が化学 浸透共役を行っている事は、この機構がきわめて古くから存在していた事を示しています。 37 光化学系I -1200 フレドキシン NADP還元酵素 光化学系II 酸化還元電位(mV) Q 電気化学的 勾配ができ てATP生成 に使われる 光によって 起こる電荷 こる電荷 分離 フェレドキシン NADP+ H+ 0 + シトクロムb6-f 複合体 光によっ て起こる 電荷分離 プラストキノン pC + プラストシアニン 水分解酵素 2H2O Mn + 1200 O2 4H+ 電子の流れる方向 図 38: 電子伝達系と酸化還元電位 38 H+ NADPH 3分子 CO2 1C 6分子 3分子 リブロース 1,5-ビスリン酸 3 ADP 3-ホスホ グリセリン酸 5C 3C 6 ATP 3 ATP 3分子 リブロース 5-リン酸 2 6分子 6 ADP 1,3-ジホスホ グリセリン酸 3C 3C Pi 6 NADPH 5分子 グリセルアルデ ヒド3-リン酸 3分子のCO2が固定され て1分子のグリセルアル デヒド3-リン酸が作られ、 その際9分子のATPと6分 子のNADPHが消費される 6分子 グリセルアルデ ヒド3-リン酸 3C 3C 6 NADP+ 6 Pi 1分子 グリセルアル デヒド3-リン酸 1C 図 39: 炭素固定回路の概要 39 糖、脂肪酸、アミノ酸 参考文献 [1] Alberts B et al., 中村桂子、松原謙一監訳「Essential 細胞生物学 (原著第 2 版)」南江堂 (2005/09) [2] Mathews CK et al., 清水孝雄、高木正道、中谷一泰、三浦謹一郎監訳「カラー生化学」西村書 店 (2003/05) [3] Fraser CM et al.(1995) The minimal gene complement of Mycoplasma genitalium. 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[9] 高木利久、冨田勝 (編集) 「ゲノム情報生物学」中山書店 (2000/10) 40 索引 糖衣, 10 ADP, 27 ATP, 27 ニューロン, 16 アセチル CoA, 30 ネルンストの式, 18 イオンチャネル, 16 能動輸送, 14 運搬体タンパク, 10 発酵, 27 解糖系, 27 不飽和度, 5 界面活性剤, 9 フリッパーゼ, 5 活動電位, 19 分極, 19 還元, 33 膜タンパク質, 8 クエン酸回路, 30 膜電位, 16 光合成, 36 膜輸送タンパク, 10 コレステロール, 5 マトリックス, 29 細胞小器官, 24 ミトコンドリア, 29 酸化, 33 葉緑体, 34 酸化還元電位, 33, 36 酸化的リン酸化, 30 両親媒性, 4 軸索, 16 脂質二重層, 4 シナプス, 20 自由エネルギー, 33 受動輸送, 14 小胞体, 5 神経細胞, 16 スペクトリン, 10 脱分極, 19 炭化水素鎖, 5 チャネルタンパク, 10 電気化学的勾配, 14 電子伝達系, 30 41 42 Contributors Baba F., Oshita K., Murakami S., Kikuta K., Matsumura K., Kido N., Nakashima N., Nozaki T., Iuchi H., Sekiguchi I., Hasebe Y., Machida H., Sato A., Shindo Y., Akechi R., Kawasaki A., Yamamura Y., Ishiguro S., Umeda E., Usui T., Usui Y., Aoki R., Kawasaki M., Shinnabe H., Shioguchi T., Okubo C., Kitagawa N. 慶應義塾大学環境情報学部 基礎分子生物学 3(2010)
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