地名考古学 - 地名を解く

地名を解く4
地名考古学
佐賀県
今
井
欣
一
吉野ヶ里遺跡
地名を解く
4
『地名考古学』
目 次
⒈ 島と岬の名称
4p
⒌ 山間地名の音数
118
7
⑴ 阪と坂峠
119
⑵ 岬
10
⑵ 腰と越峠
122
⑶ 崎
17
⑶ 色名の起源
124
⑷ 鼻
20
⑷ 越の性質
134
⑸ 崎鼻
22
⑸
地名命名法の変化
138
⑹ 島
27
⑹
峠
142
⑺ 岬、島の命名年代
31
⑴ 岬の分布
6. 古地形と地名
2. 地名の復元
150
37
⑴
縄文・弥生時代の地名
150
⑴ 日本語の原型
39
⑵
埼、嶋地名と貝塚遺跡
153
⑵ 外来語の影響
43
⑶
九十九里浜の埼、嶋
157
⑶ 観音と弁天
49
⑷
芦ノ湖の鼻名
163
⑷ 十三本木峠と十六島鼻
53
⑸
縄文のこころ
166
3. 海岸地名と縄文海進
64
⑴ 氷河期と間氷期
70
⑵ 縄文海進
77
⑶ 内陸部の崎と島
82
4. 海岸地名の音数
92
⑴ 嶋と埼地名
93
⑵ 島と岬名
98
⑶ 鼻と花地名
104
⑷ 崎鼻名
111
1
地名を解く
4
『地名考古学』
日本国は倭国の別種なり。その国日辺にあるをもって、ゆえに日本をもって名とな
すと。あるいはいふ、日本はもと小国、倭国の地を合わせたり、と。
『旧唐書』倭国日本伝
歴史資料として全く利用されない『旧唐書』の記述を信じ、7 世紀の日本列島の歴史を
対照すると、貞観 22(648)年の使節団を記した『旧唐書』に初めて登場する「日本国」
は、大化改新の詔(646 年正月)公布により、畿内・東山道・東海道・南海道にできた日辺
の新興国を指したようにみえる。そして北陸道・山陰道・山陽道・西海道の諸国連合体の
総称、
「倭国」が並立していた様子が浮上する。
当時、朝鮮半島の百済が新羅・唐の猛攻を受け、救援を求められた倭国・日本連合が、
663 年に白村江へ出兵したが大敗を喫して、百済は滅亡した。さらに 668 年には高句麗も
滅んで、朝鮮半島に「統一新羅」が立国した。日本の天智帝が崩御した翌年の 672 年に、
大海人皇子が「壬申の乱」を起こして近江朝廷を倒し、天武天皇として即位、新羅・唐の
侵攻におびえる倭国を「日本国」が併合した。
この後、大変貌を遂げた東アジアの政情に合わせて唐の律令制度を取り入れ、689 年 6
月に『飛鳥浄御原令』を施行し、翌年元旦に持統天皇(和風諡号:高天原廣野姫)が即位し、
690 年秋に現代へつづく『日本国』が誕生した。
国号の「日本」が 648 年に初めて登場した史実を参照すると、飛鳥時代以前に「日本」
を使うのは不適切で、全国に「租庸調」の税制、
「国郡郷」の律令体制を整えた 690 年以後
の時代に使うのが正当にみえる。本サイトは奈良時代以後にのみ「日本人、日本語」を使
い、これ以前の時代には「倭人、倭語」を使用して行きたい。
この時代を人類学の立場からみると、
約 60 万人と推定されている弥生時代後期の人口が、
奈良時代中期に 540 万人に増大した原因は、当時の人口増加率を基本に置くと、4 世紀か
ら 7 世紀の古墳時代に、朝鮮半島の「伽耶、百済、高句麗、新羅」と中国からの渡来人、
270 万人ほどが列島へ移入した状況が想定されている〈『日本の古代 5 前方後円墳の世紀』
(森浩一編
1986 中央公論社)にのる、埴原和郎「骨から古墳人を推理する」の記述による〉
。
こうして、縄文・弥生時代からの在来人を凌駕する勢力になった渡来人は、母国語を捨
てて倭語を引き継いだが、言葉の創作法と語源は継承されなかったように見える。これは
前章『言葉と地名』で述べた、掛け言葉を常用した倭語の一字一音で表記すべき言葉と地
名に、一字で二音以上を表わす漢字をあてた事実に残されている。仏教伝来に伴う経典の
読解、
律令施行に不可欠な文字の採用は、
時代の流れに即した必然性を持つ現象であった。
地名では、和銅 6(713)年の『風土記』作成の詔勅に含まれた『好字化令』がこれを表わ
すが、漢字の導入が、倭語の語源を忘れ去る原因になったのは、皮肉な現象と言えよう。
2
前章の『言葉と地名』では、言語活動爛熟期(おそらく弥生時代)に命名された可能性
が高い、利用者への記憶しやすさを中心におく、具体的で多彩な表現を使った「峠名」を
主題にして、地名の解き方・言葉の創り方など、
『倭語』の基本構成を推理した。
本章では、沿岸部の「岬、島」名を中心に置いて、おもに地名の命名年代の推定を行な
いたい。
地形表現を基本におく岬には、
「崎、鼻、崎鼻、岬」の、四種の表現法が使われている。
四つの表現が採用された時期はすべて異なり、
「崎:縄文~弥生時代、鼻・崎鼻:弥生時代、
岬:主に江戸時代」に想定できる。この作業は、1975 年前後の 5 万分の 1 地形図にのる自
然地名の「岬、崎、鼻、崎鼻、島」
、市町村の字名に使われた「崎、鼻・花、島」地名を取
り出して集計し、これを基本資料とした。全数の名と統計数値は『地名資料 Ⅱ 島』
、
『地
名資料 Ⅲ 岬、鼻』としてまとめたので、御参照いただきたい。
二つの『地名資料』には、これまで検証されたことがない「地名の命名年代」を特定し
うる貴重な性質が記録されているので、どんな特性か、表題を『地名考古学』と名づけて、
日本語の原型である『倭語』が、どのように発達して来たかを考えて行きたい。
3
1
岬と島の名称
地名が地形表現を主体につけられた史実を頭において、一つひとつの意味を考えながら
地形図を眺めると、海岸部の地名も、山間地名に酷似する様子がわかる。
たとえば、神奈川県三浦半島にある「岬、島」名を 20 万分の 1 地勢図(図幅名:横須賀)
からとりだして、これらの名に類似した「峠、山」名を対照すると次のようになる。
(㊟
次頁の地名配列は、北東から時計回りに記し、ひらがなは現在のよみ方を示す)
図 4-1-1 三浦半島の岬と島
20 万分の 1 地勢図 横須賀 (昭和 55 年編集 平成 12 年修正版)
4
岬 名
島
旗山崎
はたやまざき
畑山峠
(岡 山
西大寺)
観音崎
かんのんざき
観音峠
(長 野
信濃池田)
千代ヶ崎
ちよがさき
千代国峠 (島 根 八 重)
雨 崎
あめざき
雨坂峠
(新 潟
勝 木)
剱 崎
つるぎざき
剱 岳
(富 山
立 山)
安房崎
あわざき
安房峠
(長 野
上高地)
長津呂崎
ながつろさき
中坪峠
(兵 庫
山 崎)
灘ヶ崎
なだがさき
山刀伐峠 (山 形 鳴 子)
黒崎の鼻
くろさきのはな
黒坂峠
(山 梨
甲 府)
荒 崎
あらさき
荒坂峠
(岡 山
津山東部)
観音鼻
かんのんはな
観音岳
(山 梨
韮 崎)
長者ヶ崎
ちょうじゃがさき
長者ヶ岳 (山梨・静岡 富士山)
大 崎
おおさき
大坂峠
稲村ヶ崎
いなむらがさき
稲村ヶ岳 (奈 良 山上ヶ岳)
猿 島
さるしま
猿
海獺島
あしかじま
足柄峠
(神奈川
沖ノ島
おきのしま
沖ノ山
(鳥 取
坂 根)
横瀬島
よこせじま
横瀬山
(栃 木
川 治)
城ヶ島
じょうがしま
城ヶ尾峠 (神奈川 秦 野)
天神島
てんじんじま
天神峠
(埼 玉
秩 父)
笠 島
かさしま
笠
峠
(京 都
京都東南部)
尾ガ島
おがしま
男鹿峠
(京 都
四ッ谷)
鮫 島
さめじま
笹目峠
(山 口
山 口)
菜 島
なじま
梨 峠
(広 島
上 下)
(富 山
Apafu.
Natakiri.
石 動)
名
峠
(岩 手
田 老)
静岡 小田原)
このように対比すると、
「岬、島」名は、峠や山と同じ系列の言葉を使ってつけた様子が
わかる。峠の「坂」
、岬の「崎」という基本名が、四段活用他動詞の「Saku(裂く:∨型・
∧型地形、崖)」の未然形「Saka」
、連用形「Saki」を基本に置いたように、岬と島だけで
なく、海岸部の「浜、磯、浦、潟、津、江、港」にも共通する現象である。
これが我が国の地形地名の特徴であり、山間と海岸の地名は同じ命名法でつけた姿が浮
かびあがる。つまり「山、岳、峠」などの自然地名と同一名の「岬、島」など、海岸地名
の解釈は、山間地名の解法を比較対照して解く必要があるわけである。
5
この史実を頭において、海岸地名を 5 万分の 1 地形図からとりだして整理すると、興味
ぶかい現象が浮上する。一般に「浜、浦、潟、港」は、転用名を主体にした難しい名前が
多く、
「崎、島、磯、津、江」は一文字の漢字を前においた易しい名が多いことがわかる。
ここに、地名にあてた『言葉は、時代の推移に従い語彙を増した』基本仮説を使用すると、
その理由が浮上する。
「浜、浦、潟、港」が現在の地形になったのは比較的新しい時代で、
大半がこの千年位の間に形成されている。
今でも付近に防潮堤のない浜は変化をしつづけ、
上流にダムのない川の三角州が拡大している様子も、この事実を裏づけている。
とくに「入江、潟、港」の地形が興味
を誘う。奈良~平安時代の文献に「湖、
潟、湊」と記録された地が、流入する川
の堆積作用や人工的な埋立てによって消
え去り、今はこの様子を全く留めていな
いところも多い。現在の大阪市内に相当
する草香江( Kusaka no Ye←東大阪市日
下町:古大阪湾、河内湾)は代表例である。
『記・紀』の神武東征伝をはじめ、平安
〈紀貫之〉にも記され
時代の『土佐日記』
た巨大な潟湖や、桂川・宇治川・木津川
三川合流点に昭和時代の初期まであった
巨椋池(Ofokura→をぐら:京都府宇治市
図 4-1-2
小倉町。式内巨椋神社所在地)を頭に置かな
古墳時代中期(約 1,500 年前)の大阪
日本の古代 5『前方後円墳の時代』(1986 中央公論社)
ければ、付近の古代史への理解は難しい。
きさかた
かつての地形を新潟、酒田(古名:佐潟、砂潟)、象潟の地名だけに留めるものもあって、
難波津(Nanifa no Tu.大阪市中央区高麗橋:上図参照)、吉備津(Kipitu.岡山市吉備津:
吉備国の推定起源地)、儺ノ津(Na no Tu.福岡市博多区那珂:奴國・筑前国那珂郡の推定起
源地)のように、昔の姿を忍ぶことなど不可能なほど地形が変貌したところも多い。
地名の大雑把な捉え方を基本におく本書は、
「潟、湊」のように、個別の歴史を調べる必
要があるものは避けて行きたい。また、
「~ら」という地名に「浦」とあてた例があるもの、
「津、江」のように単にあて字として使われた例が多い名は除外し、
「磯」のような全国に
分布が少ないものを除くと、数が多く、単純に扱える地名は「岬、島」に限られてくる。
「峠、山」名と
「岬、島」には縄文時代早期以来(約 9,000 年前~)の遺跡が多く存在し、
比べて易しい名が多い両者は、地名の歴史を考えるうえでも、大切な意味をもつ。
こうした各地名群の特性から、海岸部の自然地名の代表に「岬、島」を選定するわけで、
命名年代の推定を中心におき、地名の復元を交えて、
「岬、島」地名群を検証するのが本章
前半のテーマである。
6
(1)
岬の分布
峠が「坂、越、峠」
、山は「山、岳、峰、森」と変化をつけて呼ばれるように、岬もまた
「崎、岬、鼻」と、三種類の文字を使って区別されている。
ふだん意識されることなど全くない三者が、
どんな風に使われているかを調べてみよう。
5 万分の 1 地形図にのる岬名(広義)から、全国の「~崎、~岬(狭義)、~鼻」と、三浦
、千葉県犬吠埼に隣接する「長崎鼻」のような、
「~崎鼻」という面白
半島の「黒崎の鼻」
い用法を加えた分布状況を、地方別に集計すると以下のようになる。
表 4-1-1 崎、岬、鼻、崎鼻の分布
5 万分の 1 地形図による
崎 (%)
東
岬 (%)
鼻 (%)
崎鼻(%)
小計(%)
北
238 (85.9)
20 ( 7.2)
19 ( 6.9)
0
277 ( 8.9)
関 東
76 (46.9)
36 (22.2)
48 (29.6)
2 ( 1.2)
162 ( 5.2)
中 部
169 (58.3)
38 (13.1)
77 (26.6)
6 ( 2.1)
290 ( 9.4)
近 畿
157 (60.2)
20 ( 7.7)
80 (30.7)
4 ( 1.5)
261 ( 8.4)
中 国
160 (38.4)
40 ( 9.6)
202 (48.4)
15 ( 3.6)
417 (13.4)
四 国
141 (35.4)
44 (11.1)
190 (47.7)
23 ( 5.8)
398 (12.8)
九 州
719 (55.5)
43 ( 3.3)
439 (33.9)
95 ( 7.3)
1296 (41.8)
計
1660 (53.5)
241 ( 7.8)
1055 (34.0)
145 ( 4.7)
北海道
30 (12.9)
195 (84.1)
7 ( 3.0)
0
232
沖 縄
104 (75.9)
25 (18.2)
8 ( 5.8)
0
137
合
3101
㊟ 崎、岬、鼻、崎鼻のカッコ内の数値は地方ごとの小計に対する百分率。
小計の百分率は、岬全数(3,101 例)に対する比率を表わす。
表の小計をみると、岬(広義)の分布は、極端に西日本へ片寄る様子がわかる。九州地
方に 4 割、これに四国、中国地方を加えると、全体の 3 分の 2 以上がこの地方へ集中する。
岬の多い地方は、凹凸のある溺れ谷地形(リアス海岸)が広く分布し、四面を海に囲まれ
た島の多いことが要因になっている。これを都府県ごとに細分して眺めると、はっきりし
た様相が浮かびあがる。
たとえば、新潟県にある 75 の岬のうち、本州の岬数が 15 に対して、佐渡島(51)、粟島
(9)と、島嶼部の岬が大勢を占めるのも、新潟県全体の地形を頭におけば理解できる。
意外なことに、東京都は全国第 8 位にランクされる 108 の岬(関東地方の岬数の 66.7%)
を保有するが、
都区内に岬はひとつもなく、すべてが伊豆諸島と小笠原群島の所属である。
岬の多い順に、都府県別の仕分けをすると次表がえられる。
7
表 4-1-2 都府県別、岬数のベスト 20
都府県名
地 方
崎
岬
鼻
崎鼻
合計
百分率
1
長
崎
九 州
363
6
218
55
642
20.7
2
鹿児島
九 州
219
20
97
20
356
11.5
3
愛
媛
四 国
61
13
106
15
195
6.3
4
山
口
中 国
65
27
59
8
159
5.1
5
和歌山
近 畿
76
1
33
2
112
3.6
6
石
川
中 部
57
12
41
1
111
3.6
島 根
中 国
43
4
59
5
111
3.6
8
東
京
関 東
48
18
42
0
108
3.5
9
高
知
四 国
42
21
30
2
95
3.1
10
宮
城
東 北
77
1
9
0
87
2.8
大 分
九 州
26
2
51
8
87
2.8
12
熊
本
九 州
48
6
30
2
86
2.8
13
岩
手
東 北
68
8
9
0
85
2.7
14
香
川
四 国
26
6
45
6
83
2.7
15
広
島
中 国
25
7
48
1
81
2.6
16
新
潟
中 部
38
12
21
4
75
2.4
17
三
重
近 畿
37
7
26
1
71
2.3
18
青
森
東 北
64
5
0
0
69
2.2
19
岡
山
中 国
23
2
34
1
60
1.9
20
兵
庫
近 畿
30
5
18
1
54
1.7
1660
241
1055
145
3101
全 国
㊟ 百分率は岬全数(3,101 例)に対する比率(%)。
ここでも驚かされるのは、長崎県が全国(北海道、沖縄県を除く)の約 5 分の 1 の岬を保
有する事実である。5 万分の 1 地形図、対馬中央に位置する「仁位」図幅(1975 年編集)
には 111 もの岬が記載され、この一枚の地形図にのる岬数は、第 6 位にランクされる石川・
島根県と同じ数になっている。岬名を考えるうえでは九州地方、とりわけ長崎・鹿児島県
の比重がおもく、その数と分布を問題にする場合に影響を無視できない。
これに比べて、前章で地名解釈の基本においた「峠」は、おおむね穏当な分布をとるの
で、比較対照のため、峠数の都府県別ベスト 20 をあげておきたい。
8
表 4-1-3 都府県別、峠数ベスト 20
都府県名
地方
峠
坂峠
越峠
越
乗越
合計
百分率
峠指数
偏差値
1
長 野
中 部
163
6
4
9
5
187
5.1
13.8
50.5
2
岩
手
東 北
146
9
6
3
0
164
4.5
10.8
46.0
3
山 口
中 国
145
7
1
4
0
157
4.3
25.7
68.6
4
和歌山
近 畿
129
3
3
17
0
152
4.2
32.2
78.4
5
愛 媛
四 国
119
5
5
22
0
151
4.1
26.6
69.9
6
新 潟
中 部
126
10
1
11
2
150
4.1
11.9
47.7
7
岐 阜
中 部
116
14
7
8
1
146
4.0
13.8
50.5
8
兵 庫
近 畿
97
16
3
11
0
127
3.5
15.1
52.5
9
京 都
近 畿
109
12
2
2
0
125
3.4
27.1
70.7
10
島 根
中 国
99
8
5
11
0
123
3.4
18.3
57.4
11
岡
山
中 国
104
7
2
9
0
122
3.4
17.2
55.7
12
福 島
東 北
100
8
3
6
0
117
3.2
8.5
42.5
13
山 梨
中 部
101
10
0
2
0
113
3.1
25.3
68.0
14
広 島
中 国
91
6
6
4
0
107
2.9
12.6
48.7
15
熊 本
九 州
68
2
4
31
0
105
2.9
14.2
51.1
16
三 重
近 畿
81
10
3
9
0
103
2.8
17.8
56.6
宮 崎
九 州
61
0
0
42
0
103
2.8
13.3
49.8
18
群 馬
関 東
83
6
0
3
0
82
2.5
14.5
51.6
19
福 岡
九 州
78
2
1
6
0
87
2.4
17.5
56.1
20
山 形
東 北
71
4
0
5
0
80
2.2
8.6
42.7
2995 204
88
340
14
3641
全 国
12.5
岬と比べて、峠は常識的な分布をとっている。表において、峠は「~坂峠、~越峠」を
分離した数を記し、県境の峠はJISに定められた北から南への都府県配列により仕分け
をした。たとえば、岩手県は青森県境(峠数:0)を除いて宮城(2)、秋田(8)県境の峠を
ふくめ、長野県では群馬(22)、埼玉(2)、新潟(11)、富山(2)、山梨(5)県境の峠を除
外して、岐阜(10)、静岡(4)、愛知(1)県境の峠を含めている。つまり 1975 年前後の 5
万分の 1 地形図にのる長野県の峠総数は「229」となり、表の数値は実勢を表わしていない
ことになる。しかし一定基準を定めて集計するのが数値統計であり、こうした矛盾があっ
ても、大勢が浮上するところが大切である。
表にのせた峠指数は、峠数を都府県面積で割った値(×1000:km-2)で、全国の峠指数か
ら算出した偏差値は、峠の分布密度を表現している。ここから「偏差値:50.5」の長野、
9
岐阜の峠分布密度は平均的、岩手(46.0)と新潟(47.7)は平均以下、和歌山(78.4)、京
都(70.7)、愛媛(69.9)、山口(68.6)、山梨(68.0)の峠密度が高い様子がわかる。この
分布密度で並びかえると、以下のようになる。
〈都府県面積の単位は、×1,000 ㎢〉
表 4-1-4 都府県別、峠の分布密度ベスト 20
都府県名
地 方
峠 数
都府県面積
峠指数
偏差値
1
和歌山
近 畿
152
4.72
32.2
78.4
2
京 都
近 畿
125
4.61
27.1
70.7
3
愛 媛
四 国
151
5.68
26.6
69.9
4
山 口
中 国
157
6.11
25.7
68.6
5
山 梨
中 部
113
4.47
25.3
68.0
6
大 阪
近 畿
41
1.89
21.7
62.5
7
奈 良
近 畿
70
3.69
19.0
58.4
8
島 根
中 国
123
6.71
18.3
57.4
9
三 重
近 畿
103
5.77
17.8
56.6
10
福 岡
九 州
87
4.97
17.5
56.1
11
岡 山
中 国
122
7.11
17.2
55.7
12
徳 島
四 国
71
4.14
17.1
55.5
13
香 川
四 国
30
1.88
16.0
53.9
14
兵 庫
近 畿
127
8.39
15.1
52.5
15
群 馬
関 東
92
6.36
14.5
51.6
16
熊 本
九 州
105
7.40
14.2
51.1
17
岐 阜
中 部
146
10.60
13.8
50.5
18
長 野
中 部
187
13.59
13.8
50.5
19
宮 崎
九 州
103
7.73
13.3
49.8
20
鳥 取
中 国
46
3.51
13.1
49.5
前章の「3 峠の起源」にもあげた表に現われたように、峠の分布密度は西日本が圧倒的
に髙く、平均(偏差値:50)を大きくこえる東日本の都県は「山梨県」だけである事実が
浮上する。前章でふれたように、山梨県の東京都県境に西日本流の「タワ、タルミ、タニ」
が多用されて、弥生~古墳時代に西日本地方と特別な関係があったように見えるのだが、
理由が解らないのは残念である。
また、平安時代後期に出現した「Tafukoye→Tafuke」発祥の候補にあげた愛媛、和歌山
の分布密度が高いことは、その史実を現代に留めた可能性がある。京都・大阪・奈良・三
重がベストテンに名を連ねるのも、中央集権の律令制度(祖庸調と雑役の義務、官道の整備)
による交易の活性化によって、
「峠」が誕生した史実を語っている。
10
(2)
岬
『崎、岬、鼻、崎鼻』という四種類
海岸部の∧型地形の先端を表わした岬(広義)には、
の地名が併存している。四者の分布域と語源を探索すると、命名時期が異なる史実が浮上
するので、これを検討したい。まず「岬:狭義」からはじめよう。
表 4-1-1 崎、岬、鼻、崎鼻の分布(再掲)
崎 (%)
東
岬 (%)
鼻 (%)
19
北
238 (85.9)
20
( 7.2)
関 東
76 (46.9)
36
(22.2)
中 部
169 (58.3)
38
近 畿
157 (60.2)
中 国
崎鼻(%)
小計(%)
0
277 ( 8.9)
48 (29.6)
2 ( 1.2)
162 ( 5.2)
(13.1)
77 (26.6)
6 ( 2.1)
290 ( 9.4)
20
( 7.7)
80 (30.7)
4 ( 1.5)
261 ( 8.4)
160 (38.4)
40
( 9.6)
202 (48.4)
15 ( 3.6)
417 (13.4)
四 国
141 (35.4)
44
(11.1)
190 (47.7)
23 ( 5.8)
398 (12.8)
九 州
719 (55.5)
43
( 3.3)
439 (33.9)
95 ( 7.3)
1296 (41.8)
計
1660 (53.5)
241
( 7.8)
1055 (34.0)
145 ( 4.7)
北海道
30 (12.9)
195 (84.1)
7
( 3.0)
0
232
沖 縄
104 (75.9)
25 (18.2)
8
( 5.8)
0
137
合
( 6.9)
3101
再掲した岬の分布状況をみると、参考例としてのせた北海道に、岬(狭義)の使用が圧
倒的に多いことが判る。全国平均の十倍以上にのぼる使用率は特異なもので、この地方の
歴史をふり返ると、峠と同様に、
「岬」の名が近世以後に採用された様子を教えてくれる。
この改名以前に使われたアイヌ語地名の岬は、以下の表現法が用いられていた。
Etu
:鼻。
Shir-pa
:大地が海中に突きだした所。
Not
:顎。
Shir-etu :大地の鼻。
Not-ke:顎のある所。
Shir-etok :大地の先端。
En-rum:突きだした頭。
Esan
:頭が浜へ出ている所。
岬の基本語が、人体語などを利用して地形を表現したところが、倭語と同じなのが興味
を惹く。これらの岬は、近代に和人が「岬、崎」をつけて、次のような変化をした。
カムイエト岬 (雄 冬)
尻羽岬
能取岬
(網
ペペシレト岬 (豊 浦)
野付崎
(野付崎)
知床岬
(知床岬)
エンルム岬
(浦 河)
恵山岬
(恵
走)
11
(床
潭)
山)
アイヌ語の自然地名は、小地域を単位につけたために原初的な名が多く、同一名の多い
ことが特徴にあがる。これに対して、本州・四国・九州地方の自然地名には「崎、鼻、島、
峠、山、川」などの単独名がないところは注目すべきである。江戸時代後期から明治時代
初期に蝦夷地を国内に組みいれた際、この性質が内地の実情にそぐわなかったため、岬は
旧名を利用した「野付崎、襟裳岬(←エンルム)、知床岬」や、アイヌ語・日本語地名の転
用名などに改め、固有名がなかった峠には「倶知安峠、小樽峠、北見峠、狩勝峠、塩狩峠」
のように峠下の集落名、郡名、国名などを転用、または、合成名を新設した。
この辺に行動範囲がせまい狩猟採集民族と、交易を主体におく農耕民族の差が残されて
いて、縄文時代と、弥生時代以降の自然地名を区分するときの指針になる。
また、沖縄県の「崎、岬、鼻」の使用状況が全国平均、九州地方と大きく異なるところ
も重要である。この使用比率が東北地方に酷似することは、
「鼻」の出現時期を弥生時代に
想定できるので、縄文時代の伝統を現代に留めた現象とも考えられる。同じ様相は言語学
上でも確認されており、奈良~平安時代の言語表現が、東北地方と沖縄県、そして離島・
山間部に残されているところが参考になる。考古学上では、弥生文化、とくに水稲耕作の
全国への普及は弥生時代中期初頭に想定されるようになったが、縄文時代の伝統を守り通
した地域が現存することは、あらためて認識すべき事柄といえよう。
表 1 で、狭義の「岬」の使用状況をみると、関東地方(2/3 が伊豆諸島と小笠原群島の岬)
の比率が高く、九州地方が低いところを除けば、全国的に岬(広義)総数の 10%前後に落
ちついている。しかし岬名(広義)では、なぜ崎と岬(狭義)が使い分けられているか、お
解りだろうか?
これは岬を個別にあたると解ける問題である。たとえば、明神岬が「みょうじんミサキ
「みょうじんサキ(高知 土佐清水)」のように、岬を「ミサキ、サキ」と
(千葉 勝浦)」
読むものが併用されているので、岬は、崎と同族の「Saki」にあてたものと、
「三崎、御崎、
見崎」と同じ「Misaki:水を裂く∧型地形の先」にあてた名が混合した厄介な存在である。
同一地名で「ミサキ」への当て字が違うものを記そう。
崎 (福 島 小名浜)
御 崎 (高 知 奈半利)
Misaki
三
Karamisaki
唐見崎 (長 崎 神 浦)
唐 岬 (鹿児島
Itumisaki
出水崎 (鹿児島 出 水)
伊豆岬 (東 京 三宅島)
坊 )
岬名では、
「Saki,Misaki」への漢字のあて方が統一されていない様相が浮かびあがる。
関東の岬(狭義)の比率が全国平均の約 3 倍にのぼることや、北海道の使用比率が 8 割を
越すことから、
「岬」の文字をあてた時代は江戸時代と推測できる。だが、全国にこれを徹
底させなかったために、乱雑な状況を招いたのだろう。おなじ様子は、明治時代からの表
記を引きつぐ 5 万分の 1 地形図と、
昭和 40 年代に新たに整備した 2 万 5 千分の 1 地形図に
のる「崎、岬、鼻、崎鼻」
「峠、越」の区分、表示が微妙に違うところにも表現されている
12
(全体の 1%程度)。これは『好字二字化令』などの法令で規制されなかった、自由度をも
つ自然地名の特徴を端的に表わした現象といえよう。
また、
「Saki」から「Misaki」へ進化した例も残されているので、いくつかをあげよう。
天 崎 (石 川 小 松)
天ヶ崎 (秋 田 戸 賀)
天神崎 (岡 山 寄 島)
大 崎 (島 根 浜 田)
大ヶ崎 (佐 賀 唐 津)
大ヶ岬 (千 葉 勝 浦)
金 崎 (福 井 鋸 崎)
金ヶ崎 (香 川 寒霞渓)
金ヶ岬 (京 都 丹後由良)
汐 崎 (青 森 尻屋崎)
塩見崎 (青 森 鰺ヶ沢)
潮 岬 (和歌山 串 本)
トフ崎 (長 崎 仁 位)
遠見崎 (高 知 土佐清水)
サタドー岬 (東 京 三宅島)
明 崎 (長 崎 仁 位)
妙見崎 (長 崎 仁 位)
妙見岬 (福 岡 福 岡)
この岬群も、見事な地形表現を備えている。天崎〈Amasaki=Ama(海、海岸)。Fama(浜)
+masa(坐す)+saki(先、崎)〉
、天ヶ崎〈Amakasaki=Ama+maka(巻く)+kasa(傘:∧
てん じん
、天神崎〈Amakamisaki=Ama+maka+kami(噛む:崖、
型地形。浙す:水に浸ける)+saki〉
∪型・∩型地形。上:上部)+misaki〉のように、音数が増えるごとに懇切丁寧な地形表現
になってゆく様子がわかる。
シホサキの「Sifo」は「汐・塩・潮(海。Sipomu:∨型・∧型地形)」を表現し、
「fosa」
は「干す:波をかぶる陸地。崩ず:崖、山、谷」を表わしている。塩見崎、遠見崎の「fomi」
は基本的には窪み・湿地…次節「地名の復元」で解説…を意味し、倒置語の「mifo」は、三
保の松原(静岡 駒越)のように「海辺、岬」に使われ、明崎(Mifosaki→みょうザキ)、
妙見崎(Mifomisaki→みょうけんザキ)は、変化形と考えられそうである。両者共に転用
名の出水崎、伊豆岬〈Itumisaki=「Itu(出づ:∧型地形)+tumi(積む:∩型地形。摘み
⇔mitu:水、満つ)=出水・泉:湧水地」+misaki〉の表現もすばらしい。
岬名も、地名の基本である「∧型・∨型地形、崖」を使った例が多く、水平方向の∧型
地形(海を主体にすると∨型地形)を表現するほかに、岬の地形を思い浮かべれば、「崖」
「Amakamisaki. Mifomisaki. Itumisaki」の解
を基本に置いた様子がお判りになると思う。
釈に示したように、ミサキが、前にある言葉と『掛け言葉』で結ばれていたと仮定して、
次の二つの地名を考えてみよう。
次頁の図は、能登半島東端にある珠洲岬(金剛崎)付近の地図である。この岬は石川県
珠洲市三崎町(律令時代は能登国珠洲郡草見郷)に属し、三崎町寺家には延喜式内社の須須
神社が鎮座している。したがって、珠洲岬は「スス」地名を基にした「スス岬」が原形と
推理できそうである。
「Susu-Misaki」の「Susu」は細かい黒い砂(煤)を意味して、洲崎(千葉
館山)
、洲ノ
崎(広島 倉橋島)、鈴崎(鹿児島 手打)が実在するので命名も納得はゆく。しかしこの
解釈はもの足らない感じで、「Susumisaki=Susu(砂浜)+sumi(隅)+misaki=砂浜の隅
にある岬」と解くほうが、珠洲岬にふさわしい感じがする。
13
そこで何か手がかりはないかと調べると、有り難
いことに証拠が残されている。須須神社には、天つ
に
に
ぎ
このはなのさくや
神の 瓊瓊 杵 尊、 木花之開耶 姫命と共に、国 つ 神の
み
ほ
す
す
み
『出雲国風
美穂須須見命が祀られている。この神は、
土記』嶋根郡美保郷にのる、御穂須須見命〈式内美保
神社(島根県八束郡美保関町美保関)の祭神〉と同じ
こ
し
名で、『風土記』の国引き神話に、高志 の都都三埼
く にこく にこ
( Tutumisaki=珠洲岬)を「國來國來 」と引っ張っ
てきたのが、美保の埼と記された。
図 4-1-3 2 万 5 千分の 1 地形図 珠洲岬
国つ神の名は、地名が変化したとしても、簡単にかえられるものでなく、古代の名をそ
のまま継承していると考えて良いだろう。この名も他の神名と同様に「Mifosusumi:海辺
に岬型の崖がある砂浜の隅」の地名を元に誕生した名と推理できる。美穂須須見に発した岬
名の「Susumisaki(Tsutsumisaki.堤崎:海が包む、筒型の岬)」に珠洲三埼(都都三埼)
が当てられて、これを珠洲と三埼に分解したために、珠洲市三崎町(1954 年 7 月に石川県
珠洲郡三崎村、飯田町などの 8 町村を統合して市制施行)が生まれたのだろう。
古代から出雲の言葉(雲州方言)が「ズーズー弁」とよばれる東北方言に酷似するのも
ふ げし
は くひ
面白いが、珠洲市が市名にとった郡名の珠洲は、越前国から「珠洲、鳳至、能登、羽咋」
郡を分離して能登国が独立した記録が、養老 2(718)年 5 月、
『續日本紀』に載っている
ので、この勘違い(?)は奈良時代以前に発生していたことになる。
〈㊟ 能登の国名は郡
名を採ったが、能登郡は室町時代に鹿島郡と改称。推定起源地:石川県鹿島郡鹿西町能登部下
(いまは中能登町)。式内能登比咩神社所在地〉
おなじような地名のズサンな扱いは他の郡名、国名にも残されている。伊豆という国名
〈680 年立国:『扶桑略記』
〉は、
『鎌倉実記』にのる『伊豆国風土記』逸文が、
「駿河国の伊
豆の埼を割きて、伊豆国と名づく」と記録した。また、
『延喜式』神名帳の伊豆国賀茂郡の
い
づ み しま
欄に載る伊豆国一宮の「伊豆三嶋」神社は、三
宅島(賀茂郡三島郷)から静岡県下田市白浜(賀
茂郡大社郷)に移され、平安時代中期頃に静岡
県三島市大宮町(三島大社:田方郡鏡作郷)へ
移設されたと考えられている。
二つの史実と、
『續日本紀』天平 13 年の条に
のる島名の「伊豆三嶋」
、東京都三宅支庁三宅
村伊豆に現存する「伊豆岬」から、島と岬の原
形 に 「 伊 豆 三 嶋 : Itsumisima . 伊 豆 三 埼 :
Itsumisaki」を想定できる。
図 4-1-4 2 万 5 千分の 1 地形図
14
三宅島
『伊豆』の地名は、
『日本書紀』と『續日本紀』に、次のように記録された。
推古 28 年 8 月
「屋久島の人、二口、伊豆嶋に流れ来たり」
天武 4 年 4 月
「三位麻續王の一子を伊豆嶋に流す」
天武 6 年 4 月
「杙田史名倉を伊豆嶋に流す」
天武 13 年 10 月
「伊豆嶋の西北二面、自然に増益せること三百餘丈…」
『日本書紀』
文武 3 年 5 月
「役小角を伊豆嶋に流す」
天平 13 年 4 月
「小野朝臣東人、広嗣の乱に坐し、伊豆三嶋に流さる」
天平 14 年 4 月
「塩焼王を伊豆三嶋に流す」
『續日本紀』
奈良時代以前の伊豆は、罪人の島流しに使われた「島」として登場し、文武 3(699)年
までは『伊豆嶋』
、天平 13(741)年以降は『伊豆三嶋』と記されている。この『伊豆三嶋』
は大島、三宅島、八丈島の三島、
『伊豆嶋』はこのうちの一つと捉えるのが普通である。
しかし伊豆国一宮神社が『伊豆三嶋』神社で、奈良時代以前は三宅島(賀茂郡三島郷)
に祀られた史実…現在、三宅島にある富賀神社の祭神が三島大神(事代主命)…と、
『伊豆国
風土記』逸文の記述を重視すると、伊豆の地名は一点に収束する。つまり三宅島の古名が
『伊豆国風土記』逸文の記述から、伊
伊豆三(泉)の字名を転用した「伊豆三嶋」であり、
豆の国号は、この地にある伊豆三埼(伊豆岬)から採られたことになる。
「伊豆」という字名と国名、
「三島」の神名・郷名・市名もまた、勘違いに発した名称と
捉えられる。この誤解は、前章で検討したように、飛鳥~奈良時代に地名の意味が理解で
きなかったことに加え、
「三」を万葉仮名と認識せずに数字として扱い、二字化に拘ったと
ころが問題だった。地名に「伊豆美」を当てていたなら、二字化した『出水、和泉』国が
誕生していた可能性は高い。天平宝字元(757)年に河内国から再分離した「和泉国。旧名
は和泉監:716~740 年。推定起源地:大阪府和泉市府中町。式内和泉神社、泉井上神社、和泉
国府所在地」は、違った国名〈井上国?〉になっていたはずだった。
ここで大切なことは、なぜ国の名に、三宅島の「伊豆三埼」を採用したかの理由である。
これは『延喜式』神名帳にのる、伊豆七島の神社に祀られた神々の相関関係と、
『和名抄』
郷名の比定にヒントが隠されており、神津島(砂糠崎付近)の黒曜石を採取していた先土
器~縄文時代にまで歴史を遡る必要がある問題になる。記録のない時代への推理は難しい
ので、やはり地元の方々によって解明されるべき課題にみえる。
まち
『地名資料Ⅰ市町村』に載せたように、
『昭和の市町村大合併』で静岡県賀茂郡東伊豆町
チョウ
まち
チョウ
、西伊豆 町 、南伊豆町と田方郡中伊豆 町 が伊豆半島に誕生した。さらに『平成の市町村
大合併』により、平成 16 年 4 月に田方郡修善寺町、土肥町、中伊豆町、天城湯ヶ島町を統
合した「伊豆市」
、翌年 4 月に伊豆長岡町、大仁町、韮山町を合わせた「伊豆の国市」を追
加した事実は、歴史を顧みず、ブランド名だけを信奉する、この国の現況を表わしている。
15
こんな風に「Misaki」を解釈すると、案外おもしろい歴史が浮上することもあるが、岬
を単に「ミサキ」とよめば良いかというと、そう簡単にことは運ばない。
鼻面岬(はなづらザキ。岡山 西大寺)、荒岬鼻(あらさきバナ。宮崎 日向青島)のよう
に、ラ行が前におかれて倒置語の「Sara.去る、浚う、皿(∪型・∩型地形。ザラザラな地
質:砂浜)
」しか考えられないものや、岬をあて「ハナ」とよませる大崎岬(おおさきバナ。
山口
小串)、犬鳴岬(いんなきバナ。山口
小串)
、由良岬(ゆらのハナ。愛媛
魚神山)と
いった地名特有の珍妙な例もある。一つひとつ実際の地名にあたらなければ、判読は困難
なのである。〈㊟ 大崎岬は平成に入り、大崎と改名された〉
岬に「崎、岬」の二種類の漢字を使い分けた原因は、近接した地域に同一名が併存して、
これを区別する江戸時代の「気配り」に発したようだが、いまは地名を混乱させただけの
効果しか感じられない。できることなら将来の利用者への便宜を計って、サキとよむ岬は
「崎」にあて戻してほしいものである。
「ベイ、ケープ、アイランド」といった外国語崇拝
も、自由主義国家の「自由」であろうが、難読地名を読みやすいものに置き換えるのも、
高度情報社会にふさわしい措置ではないか、とおもう。
次にあげる用例は、ミサキに「岬」の文字が使われてない例で、さりげなく当てた漢字
の中に、これが隠されているところを味わっていただきたい。
赤神崎 (石 川 剣 地)
住 崎 (和歌山 串 本)
双海崎 (高 知 土佐中村)
鐙 崎 (岩 手 釜 石)
巽 崎 (東 京 父島列島)
待網崎 (鹿児島 古仁屋)
鏡
津上崎 (福 岡 前 原)
南 崎 (長 崎 富 江)
小泉崎 (石 川 小口瀬戸)
殿上崎 (福 島
耳 崎 (島 根 西 郷)
逆網崎 (長 崎 平 戸)
荷積崎 (鹿児島 中之島)
崎 (愛 媛 三 津)
平 )
物見崎 (青 森 陸奥横浜)
文字をあてることなど、全く意識になかった『聴覚』主体の時代に、すべて頭のなかで
組みあげる高度な命名法でつけた「Misaki」の判読は難しい。
『視覚』時代の私たちが本来
の意味を理解するには、横文字と同じように、味も素っ気もない「万葉仮名、ひらがな、
カタカナ」で表記するしか方法がないのが地名の欠陥といえよう。ただ、岬名をつけた人々
が、漢字の意味を併せて地形表現をしたか? という推理を楽しめるのも、我が国の地名
の特徴である。
16
(3)
崎
「Saki:崎、埼、碕」は、岬名のなかで最も使用例の多い用法である。語義は海水面を
「裂く」意味を基本において、
「坂」とおなじ崖の意味をふくみ、水平面の∧型の「先」を
表現している。関連するオノマトペに、倒置語の「Kitsa(階、段。刻み: Kitsami⇔Misaki)」
に関係した「kitsakitsa→gizagiza」がある。
サキにあてた「崎」は、鎌倉時代以後に採用された漢字のようで、奈良~平安時代は別
の文字をあてていた。平安時代中期、延長 5(927)年に藤原時平・忠平が編纂した律令制
度の実勢をまとめた『延喜式』神祇にのる 2861 の神社に「崎」の使用例がなく、
「佐紀、
佐奇、佐支、佐伎、佐岐、佐只、沙貴」などの万葉仮名をあてたもの、「前、埼、碕、咲、
割、鷺」と一字で二音を表記した文字が混在し、
「前」の使用が最も多いことが延喜式神名
(地名資料 Ⅵ 式内社を参照)の特徴になっている。現代に継承された神名が変化し難いこ
とをみれば、
「前」などの一字表記のものより、「佐紀、佐奇、佐支」などの万葉仮名を使
った神名の方が、古い時代の用法であったといえよう。ただ『延喜式』と同時代に編纂し
た『和名抄(二十巻本)』では、近江国神崎郡、但馬国城崎郡のように「崎」を使った例も
あるが、
『延喜式』民部上と『和名抄(高山寺本)』は「神埼郡、城埼郡」と記しているの
で、和名抄の欠点である、数次にわたる転写の際に発した誤写と考えられている。
明治 4(1871)年の『廃藩置県』直後に誕生した埼玉県の名は、県庁をおく予定だった
岩槻町が所属した「埼玉郡」から採られている。しかし岩槻には庁舎に適当な建物がなか
ったため、新庁舎ができるまでの間、とりあえず「足立郡」の浦和町に県庁を設置した。
県庁の所属郡名をとった県は多数あるが、県庁移転問題が何度も起きたにもかかわらず、
この状態が継続されて、きわめて変則的で整合性のない県名が今も使われている。
さいたま
さきたま
さきたま
さきたま
埼玉郡の起源地名に比定される「埼玉県行田市埼玉:武蔵国埼玉郡埼玉郷」に鎮座する
さき たま
式内前玉神社の文字は、郡名の埼玉(さきたま→さいたまの変化は、奈良時代後期~平安時代
前期)より古い用法にみえる。郡名は『好字化令:713 年』によって文字をあて替えた可
能性があり、式内「Kamusaki」神社がすべて神前を使い、郡名が神埼と表記された史実か
らも、埼より前の方が古いあて字と考えられそうである。
「埼」を使った郡名は、中世に漢字をあて替え、廃藩置県の後、近江国神埼郡→滋賀県
神崎郡、播磨国神埼郡→兵庫県神崎郡、但馬国城埼郡→兵庫県城崎郡、豊後国国埼郡→大
分県東・西国東郡、日向国宮埼郡→宮崎県宮崎郡に変化した。いまなお「埼」を使う郡は、
埼玉県南埼玉郡が『平成の大合併』で消滅したので、埼玉県北埼玉郡と、吉野ヶ里遺跡の
発掘によって全国にその名を馳せた、佐賀県神埼郡の二郡である。
年代順に「Saki」の用字を整理すると、「佐紀・佐支・佐岐>前>埼>崎」の順になり、
「岬:Misaki」の採用はさらに新しい時代を想定できる。崎の文字は奈良時代の『記・紀』
『風土記』にも登場せず、
「Kasasa no Misaki.笠紗御前(記)。笠狹御碕(紀)」のように
17
と ほ つ やまさき た
ら
し
記された。ただ、岬の文字が「遠津山岬多良斯神」と、
『古事記』上巻(大國主命の条)に
現われるのは不思議なことで、奈良時代初頭にこの文字も「Saki」として使われていたの
だろうか。現代に伝わる『古事記』は室町時代の真福寺本を元にしているので、あるいは、
転写の際に発した誤写と考えられるかもしれない。
「万葉仮名」で記されたサキの「Ki」が、前章でふれた「上代特殊仮名遣」では、甲・
乙二種に区分されることが、ここにおいても問題になる。
甲類 Saki :佐支、佐伎、佐岐、佐只、前、埼、碕、咲、割、先、崎、岬。
乙類 Sakï:佐紀、佐奇、沙貴。
神名・地名では「甲類、乙類」にまたがる同一音の使用例が多く、動詞に起源を求める
方法では、四段活用動詞の連用形「裂き、割き、咲き」などはすべて甲類に属するので、
乙類の解釈はとれない。式内「佐紀神社(奈良県奈良市佐紀町)。佐奇神社(石川県金沢市佐
奇森町)
。沙沙貴神社(滋賀県蒲生郡安土町常楽寺)
」が該当して、どんな風に解釈をするか
『日本
が問題になる。さらに『延喜式』神名帳に記載された神社名(式内社)は『古事記』
書紀』
『万葉集』より古い時代の用法を留めた可能性があり、ここでも「上代特殊仮名遣い」
に疑問がわく。全国各地の神社が個別に文字を採択した『延喜式』神名帳では、原形がお
なじ音型と推定される名に、甲・乙逆の文字をあてた神社が多数あることは、前章『言葉
と地名』にとりあげた。
本サイトは地名に意味があると仮定し、語源解釈に『掛け言葉』をとり入れているので、
従前どおりこの区分を外して、地名を検証してゆきたい。
神名に使われた文字で注目されるのが、使用例の多い「前」の用法である。この文字を
使った 35 の式内社に「マヘ」とよむ例が一つもなく、大多数が「サキ」とよまれている。
例外は日前神社(Fi no kuma:和歌山県和歌山市秋月)、沼名前神社(Nunakuma.広島県福
山市鞆町:備後国沼隈郡の推定起源地。ヌナクマ→ぬまくま)の二例がある。神名の沼名前
は、
『好字化令』によって二字化した郡名の沼隈より古い遺産であるのは確実で、
『延喜式』
神名、式内社へのあて字の分析も、歴史的に大切な意義をもつ。
式内社の用例をみると、古代の用法を留めた可能性のある地名では、前を「Mafe」とよ
むだけでなく、
「Saki」によみ替える必要もでてくる。奈良~平安時代の用法を多く残した
東北地方には、青森県弘前市のように前を「Saki」とよむ例があり、これを参照すると、
有名な地名の原形を簡単に推理できる。
次頁の図 5 は、静岡県榛原郡御前崎町〈いまは御前崎市〉の「御前崎」付近の地図である。
御前崎の「おまえ」は地名の使用がきわめて少ない名で、自然地名には御前ヶ岳(おまえ
がだけ。福島
針生)がある程度で、音よみの御前崎(ゴゼンさき。愛知
ゼンやま。東京
蒲郡)
、御前山(ゴ
五日市)など少数が存在する。数が少ない原因は、
「Omu」という動詞がな
18
いためだが、右の図を眺めていると、地図
図 4-1-5
2 万 5 千分の 1 地形図
御前崎
の中に「御前」崎の古型と考えられる地名が
み さき
あることがわかる。延喜式内社に「御前神社
(福井県坂井郡芦原町宮前)」があり、御前崎
の古型は「ミサキ」、または現名を尊重した
「オサキ」であったとも推理できる。
そこで、地図をあたると、御前崎に「上岬、
下岬」の字名を見いだせる。これは「ミサキ」
地名に御前をあてた可能性をうかがわせる
もので、時間の経過に従って、いつの間にか
「おまへ」とよみ替えられて岬本来の役割を
失い、そのために「御前+崎」という面白い
名に変化したとも考えられそうである。
また、御前崎付近は典型的な隆起海岸…普段はプレートの引き込み作用によって沈下現象
を見せ、大地震の際に隆起して、この隆起量が沈降量を上まわるためにこう呼ばれる。海成段
丘を伴う地形…であるため、
「ミサキ」とつけた場所が、地形変化によって海から遠く離れ、
岬の先端に御前をよみ替えた「おんまへサキ:古代の岬の前の崎、の洒落を含む?」を新
設した可能性も考えられるのである。同じ系列の岬は他にもあるので、この例をあげよう。
〈㊟
1975 年前後の 5 万分の 1 地形図にのった全数。地名は当時のよみ方を記す〉
御崎岬(宮 城 気仙沼) Osaki misaki
蛭子前崎(山 形 酒 田) Ebisumai saki
磯崎岬(茨 城 那珂湊) Isozaki misaki
御前崎 (愛 知 蒲 郡)
Gozen saki
押崎岬(広 島 土 生) Osizaki misaki
尼御前岬(石 川 小 松)
Amagozen misaki
八崎岬(山 口 防 府) Hassaki misaki
越前岬 (福 井 梅 浦)
Etizen misaki
大崎岬(山 口 小 串) Oosaki bana
神前岬 (三 重 答 志)
Kouzaki misaki
前 崎(熊 本 牛 深)
Mae zaki
四季咲岬(熊 本 口之津) Sikizaki misaki
入前崎(青 森 深 浦)
Nyuumai zaki
少々風変わりな岬名の探求は、地球物理学・地質学・気象学・考古学・言語学の分野が
交錯した難関であり、岬名にみられる様々な特徴を検証したのちに、数の多い「~崎鼻」
という興味ぶかい地名をあわせて考えたい。これらの岬が海岸線の変化に従って名を替え
たのであれば、どの時代に変貌したかを推理できる。
一見平凡にみえる「崎、岬」の自然地名は、地名研究のうえでもさほど注目される対象
ではないが、基本地名の探求は「峠、山、川」と同様、言語学・歴史学のうえでも重要な
意義をもつことを忘れてならないと思う。
19
(4)
鼻
岬名に採用された「ハナ」は、アイヌ語の岬を表わした「Etu:鼻」と同じ表現法である
のが面白い。しかし語源探索は難しく、
「Fanu」というナ行の動詞がないため、「Fa+Na」
と分解して考える必要がある。
「端、葉、羽、歯、刃」にあてた「Pa, Fa」には、似かよった性質があり、共通項は「端」
にあるようにみえる。
「葉、羽根」は、船形をした一枚一枚の形がよく似ていて、口のなか
で湾曲した「歯」の配列や、前歯の形自体が「葉、羽」に通じている。「歯、刃」の用途は
全くおなじで、先土器時代の代表的な遺物である、槍の先端に使われた尖頭器が「葉、羽」
に酷似することは、これが「刃」とよばれた可能性をみせている。また「葉、羽、歯」は、
いずれも小さな「Fa」の集合体であるところも興味を惹く。先土器時代末(約 14,000~12,000
さいせきじん
年前)に使われた「細石刃:Micro Blade」が、木の枝や鹿の骨などに溝を掘り、黒曜石な
どで作った小さな刃を数個から十数個とりつける「替え刃」であったことも、「Fa」の用法
を暗示しているのであろう。
一方の「Na」は、古語に残された「肴(野菜、魚、鳥獣の肉などの副食物)」「菜(野菜)」
「汝、名」から、地名の意味を探りだすのは難しい。しかし「天武紀 下」に再三登場する
「Nafu:震ふ(地震)」の用例や地形語におけるナ行の使用法、
「Ni:丹(土、泥、湿地)」
「Nu:
沼、野(湿地)
」
「Ne:根(地面、地中)」
「No:野(緩斜面)
」の使用例から、
「Na」は地面、ま
たは陸地そのものを表わした名称と考えられている。この解釈法から、「Fana」は陸地端に
ある小さな突起群を表現した「Fa(刃・端)+Na(陸地)」を想定できそうである。
さらに、儺ノ津(Na no Tu:福岡市博多区那珂)や「Nami(波)」の用法などから、「Na」
は港や水辺を表現したことも知られている。これは「Ni,Nu」が湿地に使われた例にも共
通し、
「Pana」の倒置語に関係する「Nafu(縄、網を綯ふ)」「Napu→Namu(二つ以上のものを
横一列に並べる。滑らか、舐める→波)
」の存在も注目される。つまり、鼻の穴から鼻水も出
ることから、岬地形に採用された「Fana」は、「滑らかな斜面と断崖をもつ、陸と水の境界
点にある突起」の解釈もできるのではなかろうか。
人体語の「鼻」は、顔の端(Fana:出っ張り)と考えられるが、植物の「花」の語源はこ
れだけでは解けそうにない。葉と同様に、花が茎や枝の端(Fana)に並んで咲く意味を含
んでいたのであろうが、ほかの意味もあるとおもう。この辺を想像たくましく推理すると、
花の「Na」は「菜、肴」に通じることから、花は鑑賞用のみならず、食用としても重用され
たと考えたい。なぜなら、花が受粉すれば「実」になり、この発達過程を食物として捕ら
えることは、古代人の着想として当然のようにみえる。花には蜜が含まれていて、いまで
も桜や菊が色添えのみならず食用に供されることも、伝統を残した現象と想像したい。つ
「Fa(葉、端)+Na(菜、肴)
」とも採れるのである。
まり花は、
20
さらに「Fa」行から「Wa,A,Ya」行の分化に着目すると、
「Wana(罠)。Ana(穴:落とし
穴)
。Yana(簗:魚をとるために川の瀬などに設ける仕掛け)
」と「Fana(花)」には、捕獲のた
めの∪型の共通点が認められる。三者の原形を「花」におくと、蜜を求めて寄ってくる蜂
や蝶を誘惑し、これを騙して何か(花の場合は花粉)をとり込むという、飛んでもない意味
が隠されているようにみえる。むろん真意が解るはずもないが、
「嵌まる、放つ、離る」な
どの言葉がこれを伝えているような感じがする。古代人の観察力の鋭さと、すばらしい言
語能力、ユーモアを頭におけば、こんな意味が隠されていても不思議はないだろう。地名
とは関係ない怪しげな話になってきたけれど、もう少しこれを続けてみよう。
地名においては、
「鼻と崎」は同じ用法である。つまり「Fana, Saki」、
「花と咲き」には
密接な関係がある。こうしてみると「花が咲く」とは面白い表現法で、崎の起源の「Saki.
「咲き」の語源になっていた様子を感じとれる。言語学
割き、裂き(∧型・∨型地形)」が、
では、アクセントの違いからこの解釈は許されてないが、気軽に考えてみたい気がする。
ところが岬名を調べると、数多くあって良いはずの「Fanasaki」という、岬にふさわしい
名は意外に数が少ないのである。
鼻 崎(長 崎 三 角)
象鼻崎(東 京 父島列島)
鼻 崎(熊 本 牛 深)
象鼻ヶ岬(山 口
おひ ぱな
生鼻崎(秋 田 船 川)
光 )
立花崎(大 分 鶴御崎)
館鼻崎(宮 城 津 谷)
津鼻崎(青 森 佐 井)
か はな
川奈崎(静 岡 伊 東)
5 万分の 1 地形図からとりだした 3,101 の岬のなかで、「ハナサキ」の用例がたったの 9
例というのは不思議なもので、岬名として最高の形態と考えられる花咲岬(根室南部)は、
北海道の地名である。
『北海道の地名』〈山田秀三 1979 北海道新聞社〉によると、花咲岬
はアイヌ語で解けない地名〈上原熊次郎地名考:文政 7(1824)年の解釈〉とされ、原名は
「Poro-not:大きな・顎(岬)
。永田地名解:明治 24(1891)年」と解説された。花咲岬は、
文政年間以前に和人が根室周辺に入っていた史実を残した、日本語の地名なのである。
「Fanasaki」が岬名にあまり使われなかった理由の一つは、中間におかれた掛け言葉の
「Nasa」は、前章の梨ノ木峠で触れたように、
「成す、為す」
「nasa」をみれば理解できる。
を起源とした緩斜面や平坦地を表わす地形語として使われ、この系列の言葉は、岬名でも
使用例の少ない部類に属している。ほかの地名の命名法を考慮すると、「Fanasaki」地名群
は最初からこのようにつけたとは考えにくく、象鼻 ( Kisafana→ゾウはな)、 立花、川奈
(Kafana:静岡県伊東市川奈)などの地名をもとに、ある時代以後に「Saki」を添加して新
設された名称と考えらて良いようである。
もうひとつの理由は、
「Fana」と「Saki」の命名年代が異なることがあがる。自然地名に
「~森山、~峰山」
、「~坂越、~坂峠、~越峠」が多用されていても、語順が反対の地名
が皆無に近いのは、
「森、峰>山」
、
「坂>越>峠」の順に命名した年代の差を表わしている。
つまり、崎よりも、
『鼻』のほうが新しい名称と考えるわけである。
21
(5)
崎鼻
「Fanasaki」の用法が予想外に少ないことに対して、
「Fana.Saki」の語順を反対にした
「Sakifana:崎鼻」は、7 ページの表 1 に載るように 145 もの使用例がある。この大差が発
した原因の一つは、もうお判りのように、
「Sakifana,Sakipana」には、
「Kifa(際:崖端)、
Kipa(牙:∧型地形)」という、岬地形に適した掛け言葉が含まれるためである。崎鼻名の
代表例をあげよう。
赤崎鼻(長 崎 大 村)
黒崎鼻(愛 媛 宿 毛)
長崎鼻(鹿児島 佐多岬)
大崎鼻(島 根 浜 田)
高崎鼻(長 崎 漁生浦)
宮崎鼻(佐 賀 呼 子)
神崎鼻(福 岡 神 湊)
戸崎鼻(宮 崎 日向青島)
山崎鼻(高 知 須 崎)
このように、
「大崎、黒崎、長崎」などの岬に多用された、四音以内の名を「鼻」の前に
おくことが、この地名群の際だった特徴としてあがる。崎鼻地名群も「Misaki-saki,
Osaki-misaki, Kafana-saki, Tatipana-saki」と同じように、ある時代以後に「Ofosaki,
Kurosaki, Nakasaki」などに「Fana」を添加した地名と推理できる。命名時期の探索は大
切なテーマであるが、地名の復元をはじめ、検証しておくべき事柄が山ほどあるので、順
を追って考えたい。
〈カッコ内の数値は、地方ごとの岬総
まず「崎鼻」が、どんな分布をとるかを再掲しよう。
数に対する百分率:%。次の鼻も同様〉
東北地方 0
近畿地方 4 (1.5)
関東地方 2 (1.2)
中国地方 15 (3.6)
中部地方 6 (2.1)
四国地方 23 (5.8)
九州地方 95 (7.3)
全 国 145 (4.7)
東北地方にない「崎鼻」は、西高東低の様相がはっきり現われる。これだけでは判りに
くいので、数の多い「鼻:崎鼻をふくむ」の分布状況をあげよう。
東北地方 19 ( 6.9)
近畿地方
84 (32.2)
関東地方 50 (30.9)
中国地方 218 (52.2)
中部地方 83 (28.7)
四国地方 212 (53.4)
九州地方 534 (41.2)
全 国 1200 (38.7)
「鼻」の分布も西高東低の傾向をみせるが、九州地方よりも、四国・中国地方の岬総数
に対する比率が高い点が注目される。四国・中国では「鼻」の使用例が岬全体の過半数を
占めているので、都府県別の岬総数に対する、鼻(崎鼻をふくむ)の使用率を高い順に並べ
〈岬総数 10 例以下の県はのぞく〉
てみよう。
22
県
名
岬総数
鼻
1 大 分
九 州
87
59
2 愛 媛
四 国
194
3 香 川
四 国
4 広 島
百分率
都県名
岬総数
鼻
百分率
67.8 %
11 東 京
関 東
108
42
38.9
120
61.9
12 三 重
近 幾
71
27
38.0
83
51
61.4
13 石 川
中 部
111
42
37.8
中 国
81
49
60.5
14 熊 本
九 州
86
32
37.2
5 岡 山
中 国
60
35
58.3
15 佐 賀
九 州
36
13
36.1
6 島 根
中 国
112
65
58.0
16 徳 島
四 国
25
9
7 福 岡
九 州
50
23
46
17 兵 庫
近 幾
54
19
35.2
8 宮 崎
九 州
39
17
43.6
18 高 知
四 国
95
32
33.7
9 長 崎
九 州
642
274
42.7
19 新 潟
中 部
75
25
33.3
10 山 口
中 国
159
67
42.1
20 鹿児島
九 州
355
116
32.7
3101 1200
38.7
全 国
36
こうした細部に目をむけると、
「鼻」は瀬戸内海を中心に分布する様相が浮かびあがる。
表にあげた鼻の使用率(百分率)をみると、九州東部の大分県から、四国の愛媛・香川県、
中国の広島・岡山・島根県に拡大使用された痕跡が残されているのも興味ぶかい。九州で
は瀬戸内海に面した大分・福岡県と、宮崎・長崎県の比率が高く、他の県は平均以下の様
相をみせ、四国では瀬戸内海に面する愛媛・香川県と、徳島・高知県に二分されるところ
が重要である。この様子は「~越、~越峠」
「タワ、タオ、トウ、サヒ」などの分布状況と
酷似し、ここから陸上交通路の要所につけた「~越、~越峠」と、海上交通の重要拠点に
採用された「鼻」には、なんらかの関係があったと推理できる。そこで「越+越峠」の峠
総数(乗越:14 例を除く)に対する比率の高い都府県を記すと、次のようになる。
県
名
峠総数
越
百分率
県
名
峠総数
越
百分率
1 宮 崎
九 州
103
42
40.8 %
11 青 森
東 北
26
4
15.4
2 熊 本
九 州
105
35
33.3
12 和歌山
近 幾
152
20
13.2
3 徳 島
四 国
71
22
31.0
13 島 根
中 国
123
16
13.0
4 高 知
四 国
62
18
29.0
14 奈 良
近 幾
70
9
12.9
5 大 分
九 州
77
21
27.3
15 愛 知
中 部
34
4
11.8
6 長 崎
九 州
51
12
23.5
16 三 重
近 幾
103
12
11.7
7 滋 賀
近 幾
38
7
18.4
17 鹿児島
九 州
44
5
11.4
8 愛 媛
四 国
151
27
17.9
18 兵 庫
近 幾
127
14
11.0
9 石 川
中 部
48
8
16.7
19 福 井
中 部
46
5
10.9
香 川
四 国
30
5
16.7
鳥 取
中 国
46
5
10.9
3627
428
11.8
全 国
23
ここでは山間の「越」
、海岸部の「鼻」という両極端の自然地名を検証しているので、直
接の因果関係を浮上させるのは難しい。が、両者の分布域をみても縄文時代の命名は考え
にくく、古墳時代後期~終末期(飛鳥時代)には渡来人の大量移入によって『倭語の語源、
地名命名法』が忘れ去られた様子がうかがえるので、自然地名の『越、鼻』の命名時期は
弥生時代におくのが順当にみえる。両者の命名時点が確立されると、縄文時代から弥生時
代の交通体系が大きく変貌した史実の傍証になって、「~崎」から『~崎鼻』への改名も、
弥生時代以後に想定できるのである。
もうひとつ興味をひく現象は、岬地形にあてた「崎、岬、鼻」を使わない不思議な地名
群が、瀬戸内海を中心に分布することである。5 万分の 1 地形図に 100 例以上記されたこの
地名群は、「クピ、クリ、クシ、クチ、カス、カタ、カミ、キリ」などで岬(一部は小さな
入江)を表現している。
牛ヶ首(香 川 寄 島)
虫 喰(和歌山 海 南)
鷹 巣(長 崎 勝 本)
亀ヶ首(広 島 倉橋島)
大 栗(山 口
鳶ヶ巣(広 島 福 山)
鷺ノ首(福 岡 前 原)
鼻グリ(広 島 厳 島)
象ノ肩(山 口
鹿ノ首(和歌山 海 南)
長 串(広 島 尾 道)
立 髪(岡 山 寄 島)
琵琶の首(熊 本 教良木)
獅子の口(鹿児島 中 甑)
萩 )
光 )
鋸 (和歌山 海 南)
文字のあて方も楽しい地名群は、命名時に動植物・事物を意識してつけたのは確実とい
える。くびれ(∪型、∩型地形)を表わす「Kupi,Kufi(食ふ)」、地名の基本形である「Kuri(∪
型、∩型地形)」
、串状の∧型地形を意味する「Kusi」
、海上への出入口と∪型地形の「Kuti」
、
・傾斜地(傾ぐ)を表現した「Kasu」
、高い崖端の「Kata
水に浸けてふやカス意味と砂地(Suka)
(肩、潟)
。Kami(上、髪)
。Kiri(切り)
」のどれもが、岬に適切な名である。
なかでも「鋸:Nokogiri」は、信じがたいほど素晴らしい命名法がとられている。
「Noko(除く、退く:崖端)+kogi(漕ぐ:往復反復動作)、koki(放く、扱く:むしり取る、
崖)+kiri(切る:崖)
」と解ける「Nokokiri」は、地名では崖の三重の重複語になり、切り
立った断崖絶壁の岬を連想できる。しかし工具の「鋸」を考える場合は、
「Nokokiri」だけ
で使用目的(除く+放く+伐る)と使用法(退く+漕ぐ+切る)、そして鋸の発する「gikogiko,
girigiri」の音まで的確に表現してしまったうえに「ooii」の音律を整える、空恐ろしい
ほどの物凄さが感じられる。石の鋸が出現するのは縄文時代晩期とされるので、「鋸」は
3,000~2,300 年前に考案された名かもしれない。
和式の「Nokogiri」は退いて切り、洋式の「Saw」は押して切るので、この表現は西洋式
「Osogiri
鋸には合わない。そこで、音が揃わない「Tukogiri(突く+漕ぐ+切り)」だとか、
(押す+削ぐ+切り)
」とかのオソマツな命名を一所懸命に考えているのだが、
「Nokogiri」
ほど、迫力ある名を造りだすことなど、逆立ちしても絞りだせるものではない。古代の人々
のすばらしい能力に、ただただ感服させられるばかりである。
24
峠の章でふれたように、
「峠」が平安時代後期に出現した史実から、
「桜、榎、松ノ木」峠
などは、それ以前の時代は、これらの言葉だけで峠地形を表現していた模様を推定した。
さつ もん
岬地形にあてたこの地名群も同じ状況が考えられるようで、擦文文化(鎌倉時代に相当)以
後に誕生したアイヌ語の鼻(Etu)
、顎(Not)が岬に使われた史実も参考になる。こうした
状況から、「牛ヶ首、虫喰、鋸」などの地名は、岬地形に「鼻」が定着する前に競合して、
一敗地にまみれた地名のようにも感じられる。この名に「崎、岬、鼻」を添加した岬名も
実在するので、一部を記そう。
牛ヶ首鼻(長崎 佐世保南部)
琵琶ノ首鼻(長崎 大 村)
鳶の巣崎(岩手 気仙沼)
鷺ノ首崎(長 崎 佐須奈)
鼻繰鼻 (岡 山 岡 山)
立神鼻(長 崎 早 岐)
鹿ノ首岬(徳 島 日和佐)
長串ノ鼻(広 島 倉橋島)
鋸 崎(京 都 鋸 崎)
このような実例が現存することが、「牛ヶ首、鼻繰、鋸」などが「鼻」に敗けた史実を残
したようにみえる。
「~崎、~岬」地名全体にあたると、これほど具体的な事柄を表現した
岬名は少なく、
「~鼻」には峠と同様に、この種の地名が数多くみられるのも言語の進化を
表わしている。この現象も地名の命名年代を推理するカギになり、縄文時代の抽象的な表
現法から、弥生時代以後の遺物に共通する、具体的な表現が好まれる世相(渡来人の影響?)
に変化した姿が認められる。
鼻の使用頻度の高い「大分、愛媛、香川、広島、岡山、島根」県と、越が多い「宮崎、
熊本、大分」県と四国の各県。そして北九州と近畿地方の分布状況をみると、弥生時代か
ら古墳時代中期にかけて、大分・宮崎の県域が、四国地方と密接な関係をもっていた時代
があったのは確実といえる。といっても、弥生時代前期から古墳時代中期までに約 800 年
の期間があり、鎌倉時代から現代を一杷ひとからげに扱う手法は、何の意味もない気もす
るが、海上交通路を支配した四国地方に、強大な勢力が存在した様子を感じとれる。
おほやまつみ
を ち
を ち
伊豫国一ノ宮が式内大山祇神社(愛媛県越智郡大三島町宮浦。祭神:大山積神、乎知命:伊
豫国越智郡の推定起源地)であることや、古代から中世の越智水軍(本拠地:大三島)、村上
みょう
水軍(最初の拠点は大島。愛媛県越智郡吉海町 名 :村上神社所在地。のちに来島、能島、因島
へ勢力を拡大:村上三島水軍)、河野水軍(愛媛県北条市宮内:河野神社、河野小学校所在地。 伊
し わく
豫国風早郡河野郷)、塩飽水軍(香川県丸亀市本島町)などの存在と、山陽地方の水軍が登場
しない史実にも注目する必要があるとおもう。瀬戸内海にひかれた、四国が圧倒的に優位
な現在の県境も、歴史の伝統を継承した結果に位置づけられる。
この辺も、定量分析ができる地名研究が進展すれば解明される可能性があり、
「鼻、越」
の分布が、四国は愛媛・香川県と、高知・徳島県に二分され、中国地方の山口県は、島根・
広島・岡山県と違って福岡県に近い性質をもち、佐賀県を間に挟んだ長崎県は、これとは
少し異なる様相をみせることなどが注目される。
25
この現象は、山名の「岳」の分布にも関係して、中国・四国地方には皆無に近い岳が、
〈第 3 章。
山口県に集中し、長崎県もまた福岡・佐賀県とは違った地名群落を造っている。
図 3-1-3〉
二つの様相は、ごく最近、頭骨の分析から明らかにされた、九州地方の弥生人の形質が
「北九州・山口」型、
「西北九州(長崎)」型に区分される性質(ほかに南九州型がある)に関
係した現象かもしれない。地名を群として扱い、そこに現われる様々な特性を、考古学、
文献史学、文化人類学、民族学、言語学の成果をとり入れて、多変量解析法を使って比較
検討すると、案外おもしろい歴史が浮上するのではなかろうか。
『記・紀』などの文献に比
べて客観的な資料、とくに縄文~弥生時代のデータが豊富に残されているところが、地名
研究の利点なのである。
つい最近まで地名の統計資料は整備されていなかったが、平成 13 年に『数値地図 25000
(地名・公共施設)』
〈2001
国土地理院〉の CD-ROM が刊行されて、2 万 5 千分の 1 地形図に
のる全地名の検索が、誰にでも簡単にできるようになったのは素晴らしい出来事であった。
同時にGPS〈Global Positioning System:人工衛星をつかった位置決定システム〉の発達に
伴い、民間会社の発行する地図ソフトには、地名と地図の対照、同一地名の分布図が瞬時
に見られる機能を備えたものも登場した。考古学と違って発掘調査の必要もなく、最初か
ら全体像をつかめる、地名の特性を発揮できる環境がようやく整ったのである。
こうして基本地名の岬を検証すると、
「崎、岬、鼻、崎鼻」地名群にも「森、峰、岳、山」
「坂、越、峠」と同じように、命名した時代に違いがあることがわかる。各地名群の生成
年代の推定は、
「島」の概略を述べたのちに検討することにしよう。
26
(6)
島
島は、山、峠、岬とは違って、「しま:島、嶋。タウ→トウ(漢呉音)」のよび名の他に、
別称がないのは不思議な現象といえよう。海中のごく小さな島には、ハエ(Fafe:碆、礁)、
クリ(礁)、イワ(Ifa:岩)、イシ(石)、セ(瀬)、ネ(根)と呼ばれるものもあるが、大半
が小さな岩礁につけられているので、島の範疇に入れないことにする。
〈カッコ内の数
5 万分の 1 地形図にのる、島の分布状況を数値で表わすと次のようになる。
値は合計に対する百分率(%)
。北海道、沖縄県はのぞく。『地名資料Ⅱ 島』に全数を表示〉
東北地方
340 (11.9)
近畿地方
267 ( 9.3)
関東地方
133 ( 4.7)
中国地方
599 (20.9)
中部地方
192 ( 6.7)
四国地方
373 (13.0)
九州地方
合 計
956 (33.4)
2860
岬と同じように、島の分布も西日本地方へ片寄り、九州・中国・四国地方を合わせると、
全数の約 3 分の 2 がこの地方に集中する。都府県別のランキングは以下のようになる。
県
島数
島百分率
島数
島百分率
長 崎 九 州
529
18.5
20.7
11 三
重 近 畿
85
3.0
2.3
2 島 根 中 国
233
8.1
3.6
12 岩
手 東 北
76
2.7
2.7
3
愛 媛 四 国
182
6.4
6.3
13 東
京 関 東
65
2.3
3.5
4
宮 城 東 北
176
6.2
2.8
岡
山 中 国
65
2.3
1.9
5
山 口 中 国
165
5.8
5.1
15 新
潟 中 部
59
2.1
2.4
6
鹿児島 九 州
139
4.9
11.5
16 石
川 中 部
57
2.0
3.6
7
熊 本 九 州
137
4.8
2.8
兵 庫 中 国
57
2.0
1.7
8
広 島 中 国
126
4.4
2.6
18 大
分 九 州
48
1.7
2.8
9
和歌山 近 畿
100
3.5
3.6
19 千
葉 関 東
47
1.6
0.8
10
香 川 四 国
99
3.5
2.7
20 高
知 四 国
46
1.6
3.1
福
岡 九 州
46
1.6
1.6
1
名
岬百分率
都県名
岬百分率
㊟ 百分率は島全数(2860 例)に対する比率(%)、岬(広義)も同様。
島の分布は、全体では岬と同じ西高東低の模様をみせるが、島の百分率が岬の百分率を
上まわる県は小さな島を多く保有し、下まわる県域は陸部に溺れ谷地形が多いか、大きな
島の多い地域と考えてよさそうである。
島数のランキングは、岬と同様に、長崎県が群をぬいたトップに立ち、この県がいかに
特殊な地勢に立地するかを表現している。島の百分率が、岬の百分率を倍以上に上まわる
その名もふさわしい島根県(県名は県庁所在地の松江が属した出雲国嶋根郡の名を採用。推定
27
起源地:島根県松江市東川津町)が 2 位、松島群島を擁して東北地方の過半数の島を有する
宮城県(←陸奥国宮城郡:宮城県仙台市宮城野区原町)が 4 位に位置して、正反対の様相をみ
せる鹿児島県(←薩摩国麑嶋郡。薩摩:鹿児島県串木野市上名字薩摩山。麑嶋:鹿児島市玉里
町:鹿児島神社所在地。式内鹿兒嶋神社が姶良郡隼人町朝日〔旧大隅国桑原郡〕にも鎮座するので、
桜島の古名が鹿兒嶋と考えられるかもしれない?)
、東京都などがランクを下げている。
「Sima」の語源は「占む、締む:下二段活用他動詞。締まる:四段活用自動詞」が基本
のようで、大海の中に、ささやかな陸地(tsimatsima⇔matsimatsi)の存在を誇示する島を
「シマ」と命名したのはあざやかな表現法である。しかし、ここにもピタリと当てはまる
「Sima」の倒置語は「Masi:
古語の動詞がないことは、シマ地名の歴史を物語るのであろう。
坐す」で、
「Saki」の倒置語の「Kitsa(象、階、刻み。gizagiza)」が、
「Nakitsa:渚(Naki,
Nagi:細長い陸地、浜辺)。Kitsi(岸、基地)」と関係するのも素晴らしい。
いまでも、シマという言葉は、ある特殊な業界の「縄張り」を表わす専門用語として使
われている。この言葉は江戸時代から使われ始めたというが、業界の古い歴史を考えれば、
江戸時代をはるかにこえ、権力者が出現した弥生~古墳時代あたりまで遡れるのではなか
ろうか。古語の意味を正しく現代にまで伝えてくれた、という点では、この業界に感謝す
る必要があるかもしれない。
「島」の音よみの「タウ→トウ」も大切なもので、この言葉が地名の基本形であること
に加えて、∧型の島に、崖系の言葉が多用されているところにも注目しなければならない。
山形をした島で、いまでも「トウ」とよむものは、当初からこのようによばれていた可能
性がないとはいえない。古来「Sima」とよばれた∧型の島に、中国・朝鮮から導入された
「島:タウ」の漢字をあてたのは実に見事だが、この用法も「東、西」と同様に地名を混
乱に陥れた元凶になっている。この文字があてられたために「タフ、タウ、トウ」を名乗
っていた島は、統一名称の「タウ」に吸収され、後に「しま」に訓転したものが含まれて
いるようにみえる。
Urifutau
有竜島(広 島 尾 道)
Tafusima
塔 島(和歌山 田 辺)
Kamutau
官 島(大 分 臼 杵)
Tausima
堂 島(熊 本 三 角)
Sakatau
座賀島(三 重 波 切)
Taukasima
桃頭島(三 重 島勝浦)
Nafutitau
納地島(大 分 佐 伯)
Tousima
銅 島(宮 崎 都井岬)
Pirafutau
蒲葵島(高 知 柏 島)
Towosima
十 島(島 根 温泉津)
こういった島名が残されているのが気になるところで、右側の地名の一部は、かつては
単に「タフ、タウ、トウ」とよんでいたものに、島を添加した名とも考えられそうな感じ
がする。山や峠、岬のように各種の用法が残されていれば、そこから命名時期を推理する
楽しみも生まれるが、2,860 例の中で、島を「Tafu」とよむのは 20 数例というのも寂しい
かぎりで、研究対象として、あまり面白味のない地名群といわざるをえない。
28
さらに「Sima」には、もうひとつ厄介な語源が含まれるところも、地名解釈を難しくす
「Simu(湿む、染む、滲む、凍む:四段活用自動詞)
」がその言葉で、紙
る要因になっている。
のうえにインクを垂らしたり、幼児が布団のうえに引き起こす現象が島の形になって、「地
図を書く」と表現されるのも面白い。まさに島国ならではの発想であり、こんな表現が大
陸にあるかを知りたくなる。
島の語源の一つにあげた「湿む、滲む」が自動詞であるのは気になるが、この名は地名
の基本を定めた時代(縄文時代早期?)以前にあった可能性があり、単純に例外として扱え
ない感じがする。この語源をとると「湿る、滲み出す」意味から、シマは湿地…広義には水
のあるところ:海、湖、沼、川、湧水地…を表現した広範な地名になる。
『日本書紀』国生み
神話は、シマに「洲」をあてているので、島に「湿地を占む」意味が含まれていたことは
確実だろう。しかし、陸上にもある「Sima」地名のすべてを、島(Island)と解釈できるか
というと、かなりの問題が発生する。
たとえば、鹿島(島根 益田)、加島(広島 尾道)、嘉島(愛媛 伊予高山)とあてた島は、
「Kasi(傾ぐ:斜面。浙す:水際、湿地)+sima(島)」と解釈できる。だが「Kasima」は内
陸にも併存し、常陸国鹿嶋郡の起源地名に比定される茨城県鹿嶋市宮内(式内鹿嶋神宮所在地)
の「Kasima」は、
「Kasi(斜面)+sima(島)
」とも「Kasi(斜面)+ma(間)」
「Kasi(斜面)
+sima(湿地)」
「Kasi(水際、湿地)+sima(湿地)
」とも採れる。四者の表わす地形は大同
小異とはいっても、命名地点の地形を検証する必要がある難解な地名なのである。
なめがた
『常陸国風土記』は鹿嶋郡を香嶋郡と表記し、行方郡の条に登場する「建貸間命:Take
Kasima=貸し+シマ(領域)」の神名も興味をよぶ。もしこの地名に香島、貸間をあててい
たなら、鹿島アントラーズ(Antler.鹿の角:英語)の愛称は、香島フレイグラント・アイ
ランズ、貸間レンタル・ルームズと命名されていたかもしれない。
地名と苗字に使用例の多い「島田」も、島田川(←山口県光市島田)に用いられたように、
「島にあるタンボ」といった呑気な解釈はできない地名で、「Sima(湿地)+mata(谷端、
扇状地⇔tama:水溜まり、湧水地)
」と解すると意味がとりやすくなる。人体語の「股」が水
溜まり、湧水と関係をもつところを注目すべきである。
図 4-1-6 5 万分の 1 地形図
中之条
左の地図にのる、群馬県渋川市川島
(Kafasima)
・祖母島(Upasima)
、吾妻郡
東村箱島(Fakosima)の名も、あてた漢
字からは「島」を表わしているように見
えるけれど、地形から判定すると、この
「Sima」も、島と解釈しない方が良い地
名であろう。
29
Kafasima=Kafa(川。側:崖、谷)+fasi(崖端)+sima(湿地、水際)。
Upasima =Upa(上:崖上)+pasi(崖端)+sima.
Fakosima=Fako(凹地、崖)+kosi(漉す:水際。掘じ:谷、崖)+sima.
この名は樺島(山口 防府)、姥島(神奈川 平塚)、箱島(宮城 塩竈)と、実際の島にも
使われているので、単純にこう解釈できるかの判断は難しい。だが地図にのる一帯は、南
西に位置する榛名山の中央火口丘、二ッ岳の大噴火(6 世紀初頭と中頃の二回)による火砕
流と土石流の影響で、地形が大きく変化していることを頭におかねばならない。昭和 60
(1985)年に発掘された黒井峯遺跡(群馬県北群馬郡子持村北牧。地図の東側)では、2mほ
ど積もった軽石層の下から、古墳時代後期の集落跡がそっくり出土して、
「日本のポンペイ」
と注目を集めた。同じ時期に発掘された渋川市有馬の有馬条里遺跡、高崎市浜川町の御布
呂遺跡からは、足跡まで残された当時の小区画水田跡が出土し、平成 9 年には古墳時代の
ままの石積みがそのまま出土した円墳が発見されて話題を呼んだ。
この噴火がどの程度、地形と地名に影響を与えたかが注目されるところで、
「川島、祖母
島、箱島」などが、噴火以前の名を引きついでいるか、それ以後につけた地名であるかの
痕跡が地形、地層に残されていれば楽しいものである。しかしこんな大規模の地質調査に
予算がつくはずもなく、仮説ばかりの地名解釈法自体に検討の余地が大いにあるので、こ
ちらに専念することが肝要であろう。
この地図の左下に、岡崎(群馬県吾妻郡東村岡崎)が記されているのは注目すべきである。
『延喜式』神名に記録されたように、
「Saki」地名も海辺や湖の岬名に使われただけでなく、
山間でも尾根の突端につけた例が多数みられる。岡崎は「Woka(岡。Foka.ほぐ、ほぐす:
崖、谷、山)+kasa(∧型・∨型地形)+saki(坂の先)
」と解釈され、同名の峠が小笠木峠
(福岡
脊振山)
、ほぼ同じ意味の峠に小鹿坂峠(埼玉
寄居)
、岬名では尾ヶ崎(三重
鳥羽)
をあてた例がある。
このように、海辺に使われる地名が、内陸部で少し違った形で使用されたところが地名
解釈を難しくする要因になっている。が、この性質を逆手にとって利用すると、内陸部に
のこる海岸地名と同じ形の地名群には、現役の「岬、島」より、古い時代に命名されてい
た歴史的に重要な意味をもつ一群が、大量に混入している史実を立証できる。この現象も、
「岬、島」の命名年代の概略を述べたのちに、項を改めてとりあげることにしたい。〈第 3
節「縄文海進と海岸地名」
〉
先にのべたように、島には「Sima」以外の表現がないため、峠名の「越」
、岬名の「鼻」
のように独特の分布域をとるものがなく、この地名群だけでは命名年代の測定は難しい。
「島」は、岬より古い時代に
ところが、岬(崎、鼻、崎鼻)地名群の特性を比較対照すると、
命名されていた史実が浮上する。この模様を検討しよう。
30
(7)
岬、島の命名年代
岬は、
「崎、岬、鼻、崎鼻」の個別の分布状況を比較するだけでも、ある程度の年代区分
はできるが、個々の地名にも痕跡が残されている。そこで第三章『言葉と地名』にあげた
崎(岬をふくむ)、鼻(崎鼻をふくむ)のベストテンを拡大して、使用頻度の高い名の 30 位
までのランキングをつくると以下のようになる。
表 4-1-5 崎名のランキング
え びす
蛭子崎
5
10
尾 崎
5
柏 崎
金ヶ崎
7
亀 崎
5
兜 崎
鎌 崎
城 ヶ崎
7
串
崎
5
田ノ崎
堂 崎
1 黒 崎
47
10 松 崎
13
2 観音崎
35
12 明神崎
3 赤 崎
32
13 小 崎
じょう
21
4 例ある崎・岬は、
大 崎
32
5 長 崎
23
早 崎
7
高 崎
5
塚 崎
寺 崎
6 弁天崎
20
宮 崎
7
野 崎
5
戸 崎
殿 崎
7 仏 崎
18
17 大瀬崎
6
真 崎
5
中 崎
鋸 崎
8 白 崎
14
権現崎
6
南 崎
5
曲 崎
三 崎
松ヶ崎
14
洲 崎
6
弁天岬
5
観音岬
10 荒 崎
13
御 崎
6
地名総数 1901
30
烏帽子崎
ベスト 10 地名数 248
4
占有率 13.0%
表 4-1-6 鼻名のランキング
1 長崎鼻
23
10 黒 鼻
5
2 大崎鼻
22
天狗鼻
3 松ヶ鼻
明神鼻
4
5
高崎鼻
4
和田の鼻
3
17
ビシャゴ鼻 5
戸崎鼻
4
黒崎ノ鼻
3
4 宮ノ鼻
11
神崎鼻
5
犬戻鼻
3
宮崎鼻
3
5 赤 鼻
7
黒崎鼻
5
猪ノ鼻
3
山崎鼻
3
7
16 権現鼻
4
城ノ鼻
3
7 赤石鼻
6
洲ノ鼻
4
地蔵鼻
3
天神鼻
6
竹ヶ鼻
4
長尾鼻
3
赤崎鼻
6
長瀬鼻
4
番所鼻
3
10 大 鼻
5
丸山鼻
4
番所ノ鼻 3
じょう
城 ヶ鼻
地名総数 1200
16
25
ベスト 10 地名数 110
31
25 弁天鼻
占有率 9.2%
3
両者を対照すると、「崎」は二文字で表記する名が多く、
「鼻」は三文字の使用が多い様
子がわかる。これを数値で表わすために、崎、鼻の前にある言葉の音数を「御・小(1 音)。
黒・赤(2 音)。仏・松ヶ(3 音)。観音・大崎(4 音)」として、平均音数を算出すると、
崎:921(ベスト 30 の音数合計)÷372(ベスト 30 の地名数)≒2.48 音
鼻:709(ベスト 35 の音数合計)÷203(ベスト 35 の地名数)≒3.49 音
という大差が現われる。これを、本サイトが基本におく『地名は単音に発し、時代の推移
と共に二音、三音、四音へ進化した』現象と捉えると、全体では、崎より「鼻」の方が、
新しい時代に命名された地名群に位置づけられる。
個別の名を比べると、崎に色名などの抽象的表現が使われているが、鼻は、崎鼻と色名
をのぞくと、
「天神鼻、天狗鼻、ビシャゴ鼻、犬戻鼻、長者鼻」などの事物を表わす具体的
な名が多用されて、両者の命名時期が違う様子を暗示している。
崎名が抽象的な文様を特徴とする「縄文土器」との共通点をもち、鼻名は実用性を重視
した「弥生土器」と関連しそうなところも興味を惹く。この特徴ある現象と、先に検証し
た分布域の特性から、「鼻」が弥生時代に新設された可能性が高いため、「崎」は主に縄文
時代に命名された地名群と考えられるのである。
崎の占有率が 13.0%(崎だけの占有率:14.9%。岬:10.4%)、鼻は 9.2%(鼻の占有率:7.0%。
崎鼻:53.8%)の大差をみせ、ここでも、四者の命名年代に違いがあることを示唆している。
この差は「大、黒、長」などの岬名(広義)に多用された名の使用状況にも残されていて、
地名群別に仕分けをすると次の結果がえられる。
表 4-1-7 岬名の名称ベスト 20
崎 崎鼻 鼻 岬 合計
崎 崎鼻 鼻 岬
合計
1
大
32
22
5
1
60
11
松
13
1
1
0
15
2
黒
47
5
5
0
57
12
荒
13
1
0
0
14
3
長
23
23
0
2
48
城ヶ
7
0
7
0
14
4
赤
32
6
7
1
46
14
宮ノ
2
0
11
0
13
5
観音 35
1
1
4
41
15
高
5
4
2
0
11
6
松ヶ 14
1
17
0
32
16
宮
7
3
0
0
10
7
弁天 20
0
3
5
28
権現
6
0
4
0
10
8
仏
18
0
0
0
18
小
7
2
0
0
9
9
白
14
2
1
0
17
尾
5
2
2
0
9
明神 10
0
4
2
16
大瀬
6
0
2
0
8
10
18
20
32
この分類は、漢字で仕分けを行なったため、「Wo」にあてた「小、尾」が分離するなどの
弊害もある。小が「Wo,Ko」のよみ方を共用するように、地名にあてた漢字が様々な読み
をもち、音転・訓転などの要素もあって、命名時の名を正確に復元することは困難な状況
に陥る。しかし簡便な区分を採用した表をみても、同じ文字をあてた「崎、鼻」にも命名
年代の差があることは容易に判定できる。上位にランクされた名は、過半数が「崎、崎鼻」
に多用された文字がならび、両者に同一名が多いことを表現して、命名時に地名にあてる
語彙が少なかった様子を語っている。
たかまん
145 例の「崎鼻」に使われた名は、観音崎鼻(長崎 漁生浦)と高万崎鼻(長崎 漁生浦)
の四音(2)、松ヶ崎鼻(鹿児島 薩摩黒島)などの三音(5)のほかは、二音(123)と一音
(15)の名を使っている。ここから崎鼻の平均音数を計算すると「1.96 音」になり、岬系
地名群の音数を集計して平均音数を算出すると、
「崎(2.82 音)
。岬(3.32 音)
。鼻(3.6 音)
」
の大差をもって、ベスト 30 の地名群よりも高い数値が出現する。
ここに再び『地名が単音から二音、三音、四音へと進化した』基本仮説を使用すると、
音数の少ない地名群ほど命名年代が古く、崎鼻に変化した「大崎、長崎、黒崎」などと同
一名の「~崎」が、岬名では最も古い歴史を有する地名と推理できる。さらに各地名群の
ベスト 10 の占有率(崎鼻:53.8%,崎:14.9%,鼻:7.0%)を対照すると、崎鼻の「~崎」
>「崎」>「鼻」の順に命名された史実が浮上する。江戸時代に崎から分離した可能性が
高い 241 例の「岬」は、弁天岬(5 例:1 位)、観音岬(4 例:2 位)、八幡岬・明神岬(2 例:
3 位)などの信仰名が上位にランクされることも、生成年代を暗示している。
このように、各地名群の平均音数が年代測定の重要なカギになるので、地名を原形に戻
す作業…明神(みょうじん)は「Mifosimu」を原形と考えて 4 音とした。次節「地名の復元」
で解説…と共に、各地名群の音数分析を後半のテーマにおくのが本サイトの狙いである。
つづいて、5 万分の 1 地形図にのる島名のベスト 30 をあげよう。
表 4-1-8 島名のランキング
1 小 島
122
11 平 島
25
21 雀 島
13
2 大 島
73
12 前 島
22
丸 島
13
3 黒 島
66
13 野 島
21
23 寺 島
12
松 島
66
14 竹 島
18
24 中 島
11
5 弁天島
65
長 島
18
水 島
11
6 横 島
34
16 鳥 島
16
26 亀 島
10
7 中ノ島
31
裸 島
16
白 島
10
8 赤 島
28
18 青 島
14
竹ノ子島
10
沖ノ島
28
鍋 島
14
立 島
10
10 高 島
27
二子島
14
30 牛 島
片 島
姫 島
33
向 島
女 島
9
島名の分類は上黒島・下黒島(広島 倉橋島)、大小島・小小島(愛媛 伊予高山)、地の
小島・沖の小島(宮崎 延岡)のように、一つの島名から分化した可能性がある島は原形を
「黒島、小島」とした。またタブノ大島(岩手 霞露ヶ岳)、紀伊大島(和歌山 串本)、奄
美大島(鹿児島 赤木名ほか)などの地域名や通称を冠した名も、これを除いて「大島」の
分類に含めている。こうして仕分けをした島名と崎名、鼻名の占有率(カッコ内の数値)を
対比すると、次のようになる。
総 数
1~10 位の合計
11~30 位の合計
1~30 位の合計
島 名
2860
540(18.9%)
287(10.0%)
827(28.9%)
崎 名
1901
248(13.1%)
129( 6.8%)
377(19.8%)
鼻 名
1200
110( 9.2%)
78( 6.5%)
188(15.7%)
ここに現われた占有率の大差は、一般に、崎名より「島名」の方が古い歴史をもつ様子
「島、崎」の命名年代を縄文
を暗示している〈島名全体の平均音数:2.58 音〉。この様相は、
時代におくと、後に検証する『縄文海進(約 10,000~4,000 年前)』という大気温度の上昇に
伴って海水面が上がり、海が陸地へ侵入した大気候変動に関連した現象に位置づけられる。
縄文時代早期前半(約 9,000 年前)以前には、瀬戸内海も東京湾もなく、両者はこの時代
以後に海が侵入して形成されたのであった。日本列島の全体に溺れ谷の地形(リアス海岸)
を造った海進現象…先土器時代の 15,000 年前と比べて約 120mの海水面上昇…を頭におくと、
現代に伝えられた地名では、
「島名」が崎名より古い時代につけられていても何の不思議も
ないのである。さらに縄文海進のピーク(約 6,000~4,000 年前)に、現在の海面より「3~5
m」ほど高い位置に海があり、この後の緩やかな大気温度の降下(-2~-3℃)によって海
が退く「海退」によって、弥生時代初頭に今と同等の海水位になった史実も、海岸地名の
命名年代を解く鍵になる。
「崎
これらの現象を総合すると、
「島(平均音数:2.58 音。ベスト 10 の占有率:18.9%)」
(2.82 音。14.9%)
」はおもに縄文時代(一部は弥生時代)の命名、
「鼻(3.6 音。7.0%)」は
弥生時代の命名を想定できる。
「崎鼻(1.96 音。53.8%)」は、縄文時代につけた「~崎」へ
弥生時代以後に「鼻」を添加した地名に位置づけられ、
「岬(3.32 音。10.4%)」は縄文~弥
生時代に命名されていた崎を主体に、江戸時代に岬へ改称した地名と考えられそうである。
さらに、岬(広義:3,101 例)と島(2,860 例)の地名総数がおおよそ等しいことから、両
者のベストテンにランクされた名を対照すると、ここにも興味ぶかい現象が出現する。
大
黒
長
赤
観音 弁天 仏
白 明神 松
松ヶ
岬 名 60 57 48 46 41 32 18 17 16
15 32
島 名 73 66 18 28
66
2 65
6 10
34
2
小
9
横
1
中ノ 沖ノ 高
2
0 11
2 122 34 31 28 27
「大、黒」のように、両者ともに使用頻度が高い名のほかは、どちらかに片寄った使用
状況が現われる。これをみても、地名がいい加減につけられていない様子がお判りになる
だろう。同じような信仰名に感じられる「観音、弁天」の使用状況が、これほど極端な差
を示すのも不思議なもので、
「松崎、松ヶ崎」と「松島、松ヶ島」の用法が、まるで正反対
の様相をみせるのが面白い。この現象も、
「崎」と「島」の命名年代の違いを暗示している。
〈㊟
観音、弁天は次節で検証〉
松崎〈真っ先。Matu(∧型地形の先端、崖)+tusa(意味不明)+saki〉
、松ヶ崎〈真っ赤
先。Matu+tuka(塚:∩型地形。突く:∧型地形、崖)+kasa(笠、傘:∧型地形。浙す:水
際)+saki〉の語源を比較すると、松崎より音数が多く、命名年代が新しい「松ヶ崎」の方
が岬名にふさわしい様子がわかる。「tusa」の意味が解けないのは残念だが、
「Sa」行の言
葉は、相関関係をもつ「Ta」行におき換えると意味のとれるものが多いので、これを「Tuta
(蔦:包む、続く)、Tuti(土)
、Tutu(筒)
、Tute(伝手)
、Tuto(苞)と同一語源。Tuta⇔Tatu
〈立つ、断つ(蔦の一部には木を絞め殺すものがある):直立崖、∩型地形〉」と解くと、岬に
適合する意味がでる。
地名の使用例から推すと、タ行とサ行は破裂音の「Tsa」行の同一音だった可能性が高い。
地名の基本形の「Tafa(峠:高所の∨型地形)」と「Safa(沢)」、「Taki(滝:水が落ちる段丘
崖。地名では水が流れていない急崖にも当てられている)」と「Saki(崎:水に囲まれた段丘崖)
」
には、地形上の共通項が認められる。前者の倒置語の「Fata(崖端)」「Fasa(挟む、狭間)」
にも共通点があり、後者の倒置語の「Kita,Kisa(階、段)」も段丘端に使用されている。
このあたりに、かつて「タハとサハ」「タキとサキ」が区別されていなかった様子が感じら
れて、「Tsa」行から「Ta,Sa」行の分化を想定できる。つまり松崎はこの分離以前、また
は「Tsutsa」の意味が伝承されていた時代につけた地名と考えられ、松ヶ崎は、これ以後に
命名された可能性をみせている。
この現象が、命名年代の違う島、崎、鼻に「松島(66).松ヶ島(2)」「松崎(13).松ヶ
「松鼻(1).松ヶ鼻(17)」の大差をもたらした原因と推定され、歴史の古い松島
崎(14)」
の原形は「Matsutsima」とも考えられる。これは、言語学上でも、
「Sa,Si,Su,Se,So」
の古型に『Tsa,Tsi,Tsu,Tse,Tso』が想定されていることが参考になる。
さらに松ヶ島の二例が、いずれも松島群島(宮城 松島)に所属するのも不思議な現象と
いえる。このデータだけで判断すると、
「松島」という日本三景の一つとして広く知られた
総称(この諸島に松島の名をもつ島はない)との競合を避け、両者は「マツ島→マツカ島」
へ名をかえた島名とも推理できる。つまり、この二例を除くと、
「松ヶ島」の使用例は皆無
「Matukafana(松ヶ鼻:17 例。kafa:
となり、弥生時代以後に命名された可能性の高い鼻でも、
側)
」に対して、
「Matupana(松鼻:1 例、石川
小口瀬戸。tupa.鍔:崖端。唾:水際)
」とい
う極端な使用状況をみせている。この現象は、意味が解りにくい「tusa,tusi」をふくむ
「Matusaki,Matusima」の名が、
「Ta,Sa」行の分離以後に地名に使われなくなった史実を残
35
したものかもしれない。こんな空想を楽しめるのも地名研究の醍醐味であり、足し算と割
り算しか使わない単純な数値統計の威力も、まんざら捨てたものではないのである。
なお、
「Tsa」行から「Ta,Sa」行へ、
「Pa」行から「Ma,Ya,Wa,A」行への分化を縄文
時代早期(約 9,000~6,000 年前)に置くのは、土器の普及によって煮炊きが進歩し、これに
伴う顎の筋肉の退化が始まったと考えられるからである。この現象は破裂音の「Tsa,Pa」
行の衰微と共に、定住生活に起因した言語の多様化を表わしている。
「Pa」行から「Ya」行
への分化は、先土器時代と縄文時代の区分指標である「刃.Pa→Ya.矢(弓矢の使用)」「Pu
→Yu:湯(現在も「おぶ」の用法が残されている):煮沸用土器の使用開始≒定住生活」と連動
した可能性もあり、おなじ様相が、奈良時代から現代にいたる発音の変化、
「Pa→Fa→Ha・
Wa 行」
「Ha・Wa→A 行」に残されたところが大切である。
このように、一見おなじようにみえる地名でも、地形図から収集して統計資料を作ると、
予想をはるかに上まわる個々の特性が浮かびあがる。この辺が普遍的な論理を基に構成し
た厳格な地形表現によって、倭語の推移を記録した『地名』の特徴といえる。この、現代
の勝手気ままにつけられる、いい加減な『記号類』にない性質を利用して、もう少し詳し
く倭語の変遷と、各地名群の特性を探求しよう。
36
⒉
地名の復元
前章『言葉と地名』にあげた自然地名の「坂、越」、本章の「島、崎、岬、鼻、崎鼻」に
現われたように、地図から地名をとりだして集計する簡単な分類でも、各地名群の命名年
代に違いがある様子が判る。さらに、内陸の大字・小字名にも同じ基本形を使った「~坂、
~越」地名が併存し、両者は自然地名より古い時代に命名された可能性があるのは、前章
に記したとおりである。これは、自然地名とおなじ「島、崎、鼻」を使った「中島、大島」
「山崎、岩崎」
「立花、竹鼻」などの大字・小字名に共通する現象である。本章の後半では
音数分析を始め、具体的な数値統計を基に、字名と自然地名の命名年代の違いを検討する
のだが、その前に考えておく必要があるのが『地名の復元』問題である。個々の地名の復
元形は、
『地名資料Ⅱ~Ⅵ』に載せたので、復元の概要を記しておきたい。
古文と現代文の違いに見られるように、奈良時代から現代にいたる間にも、「日本語」は
大きく変化を重ねてきた。地名を基に、縄文~弥生時代の言語活動を検証するには、現在
の読み方をそのまま採用するのでは再現は難しく、この間に起きた言語の変遷を把握して
おかねばならない。
たとえば、
『廃藩置県:明治 4 年 7 月 14 日』の後に誕生した都道府県の中で、さまざま
な事情から郡と同じ名になった県は、律令時代のよみ方を対照すると、大多数(15/18)が
変化した様子がわかる〈秋田、山梨、島根は同一〉。
律令期
現在
律令期
現在
岩手県(陸奥国岩手郡) Ifate
いわて
愛知県(尾張国愛智郡)
Ayuti
あいち
宮城県(陸奥国宮城郡) Miyaki
みやぎ
滋賀県(近江国滋賀郡)
Sika
しが
秋田県(出羽国秋田郡) Akita
あきた
三重県(伊勢国三重郡)
Mife
みえ
茨城県(常陸国茨城郡) Muparaki いばらき
島根県(出雲国嶋根郡)
Simane
しまね
群馬県(上野国群馬郡) Kuruma
香川県(讃岐国香川郡) Kakafa
かがわ
埼玉県(武蔵国埼玉郡) Sakitama さいたま
佐賀県(肥前国佐嘉郡)
Saka
さが
千葉県(下總国千葉郡) Tipa
ちば
大分県(豊後国大分郡)
Ofokita
おおいた
石川県(加賀国石川郡) Isikafa
いしかわ
宮崎県(日向国宮埼郡)
Miyasaki みやざき
ぐんま
山梨県(甲斐国山梨郡) Yamanasi やまなし
鹿児島県(薩摩国麑嶋郡) Kakosima かごしま
明治時代初期に成立した県名の制定には、複雑な事情が隠されている。県の名は基本的
には県庁所在地名を昇格させた例が多いが、県名と県庁所在地名がちがう「岩手県盛岡市、
宮城県仙台市、茨城県水戸市、群馬県前橋市、石川県金沢市、山梨県甲府市、愛知県名古
屋市、滋賀県大津市、島根県松江市、香川県高松市」などが生まれたのは、県庁所在地名…
各県の旧名は盛岡県、仙台県、水戸県のように藩(県庁)と同一名…に替えて、県庁の所属郡
名を採用したためであった。さらに、郡名をとった県名を決めた後に県庁を他郡に移した
37
埼玉県さいたま市(県庁がある浦和は足立郡に属した。埼玉は県庁設置予定の岩槻の所属郡名)、
あのう
三重県津市(津:安濃郡。旧県庁の四日市が三重郡に所属)といった変則的な県名が誕生した。
茨城県水戸市のように、律令時代は那珂郡に属した地域が中世に茨城郡へ編入されたため、
『風土記』の記録、『和名抄』郷の分布と合わない県名も生まれた。県庁所在地名(大半が
藩と同一)から郡名への変更は、
『廃藩置県』直後の明治 4~5 年に行なわれた。おもに徳川
時代の親藩・普代大名が統治した国域、戊辰戦争の敗戦国などが、明治新政府への気兼ね
から替えた名を、現代にまで継承しているところは問題視すべき事柄である。
さらに、県庁所在地名を県名に採択した栃木県栃木町から、自由民権運動弾圧のため、
県庁を強引に宇都宮へ移動した例(明治 17 年:加波山事件の発端)。神奈川県横浜市・兵庫
県神戸市のように、諸外国と修好通商条約をむすんで、開港地に予定して県名に採用した
神奈川港、兵庫港が外国人居住地の問題、尊皇攘夷運動などから計画どおりに開港できず、
近接した寒村の横濱村、神戸村が代替地に選ばれ、ここに県庁が置かれて、設立当初から
空洞化した県名も生まれた。これに加えて、愛媛は『古事記』国生み神話から名をとり、
京都という通称、北海道・東京・静岡のような新設名まで誕生して、結果的には全く論理
性を欠く状態になってしまった。
各地各様に複雑な事情があった維新直後の時代背景を考えれば、やむをえない様子も感
じられるが、明治時代中期あたりに抜本的な手直しを加えるべきだった。すべての都道府
県名を県庁所在地名に統一しておけば、今日の煩わしい状況は避けられた。
全体像の掌握もなく、一貫した論理をもたない都道府県名と県庁所在地名の丸暗記を強
要されて、この記憶量の多寡を競い合うことから、
「地理」が嫌いになった方も少なくない
とおもう。歴史ある小地名を小手先でちょこちょこ替えるより、将来の利用者に配慮して、
百年少々の歴史しかない都道府県名こそ、変更の必要が感じられるのである。
38
(1)
日本語の原形
ちょっと話題がそれてしまったけれども、郡名をとった県名の変化に現われたように、
倭語には「濁音がなかった」様子がうかがわれる。これは『濁音が語頭に立たない』倭語
の定理と、言葉が「掛け言葉、倒置語」で成り立つ仮説から導きだせる論理である。
語頭に濁音の使用がなければ、「掛け言葉」の存在から中間音に濁音はなく、
「倒置語」
の利用から語尾にも濁音はなかったことになる。万葉仮名をくずした草書体を元に誕生し
た「ひらがな」
、漢字の偏と旁を変化させた「カタカナ」を創りだした平安時代に、濁音と
半濁音…パ行…の文字を特別に用意しなかった事実が重要である。仮(カ:漢音。ケ:呉音。
かり:和音)をあてた仮名を、
「かな、がな」と二通りによませたのも、当時、濁音の使用
が少なかった様子を暗示している。
また、語頭以外に「ア」行が使われなかった史実も大切で、倭語に『裸母音の連続使用
がない』定理として知られる。この様子は、母音を連続してつかう現代語の「Au(会う)。
Iu(言う)」が、古語では「Afu(会ふ)。Ifu(言ふ)」と表記された史実に示されている。
子音の喪失は摂取食物の変化、とくに煮炊きの発達による、柔らかい食べ物への嗜好変
化が顎の筋肉の弱体化をまねいて、発音も変化した。かつて堅果類を主食とした人類の顎
の筋肉は、煮炊きの発見以来、減衰の一途をたどりつづけ、いまと同等の退化のペースを
維持しつづけたなら、近い将来には流動物しか摂取できなくなる可能性も指摘されている。
原人や旧人、縄文人(草創期~早期)の復元された顔が、現代人と比較して顎が四角ばり、
口をつきだした形をしているのは、堅果類を主食としていたためであった。
この形態は、破裂音とよばれる「Ka,Tsa、Pa」行の発音に適していて、口を開いて発声
する「Na,Ha,Ma,Ya,Wa,A」行や、濁音に向いていない様子は興味を惹く。濁音は、破
裂音の衰微による平板化から、アクセントを強調するために生まれた。
地名が清音から濁音に変化した様子は、平安時代中期の承平年間(931~938 年)に、源順
(みなもと したかふ)が編纂した『倭名類聚抄:和名抄』に 66 国 2 島、591 郡と 4,000 余
りの郷の大半に読み仮名が振られているので、ここからも類推できる。
先にあげた諸郡は「陸奥国宮城郡(Miti no Oku no kuni Miyaki no kofori:美也木)。
常陸国茨城郡(無波良岐)。上野国群馬郡(久留末)。下總国千葉郡(知波)。近江国滋賀郡(志
賀)。讃岐国香川郡(介加波)。肥前国佐嘉郡(佐嘉)。日向国宮埼郡(三也佐岐)。薩摩国鹿
兒島郡(加古志萬)」と記されている。万葉仮名の「岐、賀」は、律令時代に「Ki,Ka」と
よまれていたので、郡名が濁音のよみ方に変化したのは、律令体制が崩壊した後の鎌倉時
代と考えられている。
この変化は、比較的ゆるやかな岬・島地形を表現した「中崎と長崎」、
「中島と長島」の
原形が、同じ地名であった可能性をもつ様子に残されている。
39
図 4-2-1 「中崎、長崎」と、「中島、長島」の分布
両者の地名解釈、
「Nakatsaki=Naka(凪ぐ、長い:緩斜面。薙ぐ:急斜面)+katsa(笠:
∧型地形。潟、肩:段丘の上部)+tsaki(先、崎。滝:段丘崖)」、「Nakatsima」を原形とし
た地名が「Nakazaki(中崎)。Nagasaki(長崎)」「Nakazima(中島)。Nagasima(長島)」へ二
分した可能性を持つところが大切である。5 万分の 1 地形図にのる自然地名は「ナカ崎(1).
さき
中崎(4)」、「ナガ崎(2).長崎(23).長岬(1)」、「長崎鼻(23).長崎ノ鼻(1)」、「中島(11)」、
「長島(18)
」が残されているが、字名には「中崎(20)」、
「長崎(70)
」、
「中島(314)
.仲島(7)
」、
「長島(30)
.永島(4)
」が使われている。
自然地名の岬・島が西日本に片寄った分布をとって、語源探索の資料として使いにくい
ことがお解りになると思う。そのために、大字・小字名が注目され、ほぼ全国均質に分散
する「中島」の他は、東日本に「長島」が多く、
「中崎」が東北北部と九州中部に偏在して、
「長崎」は中部地方南部と中国地方を除く分布をとる事実を読みとれる。
「中崎」が長崎地
名群の両端にあることや、
「長島」が中島の密集域に混在することから、かつて、「中崎と
長崎」
「中島と長島」は、おなじ地名だったと推理できそうである。
語頭以外に使われなかった「ア」行が、ほかの音から変化した県名に「埼玉(Sakitama.
式内前玉神社)→さいたま(佐伊太末:
『和名抄』
)。愛智(Ayuti.
吾湯市、年魚市:
『日本書紀』
神代、景行紀)→あいち(阿以知:
『和名抄』
)。大分(Ofokita. 碩田:景行紀)→おほいた(於
保伊多:『和名抄』
)」など、平安時代中期以前に変化していたものもあった。
しかし、これは特殊な例で、
「岩手:Ifate→いわて。石川:Isikafa→いしかわ。香川:
「Fa→Ha」行が「Wa,A」行に転移するのが
Kakafa→かかわ。三重:Mife→みえ」のように、
普通だった。この変遷も文献に残されていて、上信国境の「うすひ峠。推定起源地:群馬県
碓氷郡松井田町横川。旧名:上野国碓氷郡臼井村横川、碓水神社所在地」の当て字を記そう。
40
碓日坂 『日本書紀』
奈良時代
竽吹峠
『松屋筆記』
江戸時代中期
宇須比乃佐可『万葉集』 奈良時代
芋吹峠
『大日本野史』
江戸時代後期
碓氷坂 『類聚三代格』 平安時代
臼井倒下『熊野皇太神社』釣鐘銘 鎌倉時代
臼日峠 『吾妻鏡』
鎌倉時代
臼居塔下『園太暦』
室町時代
笛吹峠 『太平記』
室町時代
碓井峠
江戸時代後期
『文政天保國郡全図』
何度も述べたように、
「峠」が平安時代後期に出現した様子は、文献に記録された史実に
基づいている。この変遷は「坂→峠」の転移のみならず、地形図を作成して自然地名を単
一名に統合した明治時代以前に、
「碓水」の当て字が定着していなかった様子を残している。
ここに現われたように、地名に当てた漢字を基に解説する、いわゆる「バスガイド地名学」
が語源探索に通用しないことがお判りになるだろう。
なお『日本書紀』
『万葉集』にのる古東山道の碓日坂は、中世にルートを変更した現在の
碓水峠の南にある入山峠に比定されていて、ここを通る碓氷バイパスが古代の道(東山道→
中山道)を復元した形になっている。また、
『太平記』の笛吹峠は、埼玉県比企郡嵐山町と
鳩山町の境にある同名の峠(ふえふき峠)に想定されている。
このように、「Usufi」を原形とした峠も、時代の推移に従い「Usufi→Usuwi→(Usui)」
と発音が変化した。
「うす・ひ」とあてた碓日、碓氷、臼日。「ウ・すひ」をあてた笛吹、
竽吹、芋吹。
「うす・ゐ」とよんでいた臼井、臼居、碓井と音節の切れ目を逆におくものす
ら見られ、この文字をあてた時代に語源…Usu(臼:∪型地形)。Utu(打つ:∪型・∩型地形)
+sufi(吸ふ:水際。tupi,tufi:開、終:∪型地形の開口部≒扇状地。fi:水)…が理解さ
れていなかった様子が窺われる。ここに現われた「Fa→Ha→Wa,A」行の転移は、倭語全般
にみられる定型だが、もうひとつ、これ以前に「Fa」行が、破裂音の「Pa」行から変化し
た実例が残されている。
せ
日の暮れに 碓氷の山を越ゆる日は 夫なのが袖も さやに振らしつ
『万葉集』巻十四 3402
ひな曇り 碓氷の坂を越えしだに 妹が恋しく 忘らえぬかも
巻二十 4407
碓氷の山(峠)に、さや(はっきりと。Safa,Safi の系列語:峠を表現した地形語)が使
われた情景描写のすばらしい第一句、坂を越えしが「恋し」を誘導する第二句に、なぜ碓
氷の枕詞に「日の暮れに、ひな雲り」が使われたかお解りだろうか。これは倭語の変遷を
逆にたどると理解できて、うすい峠は「うすひ」坂と共に、
「うすぴ」坂とよばれた史実を
「Pa→Fa」行の
表現している。和歌の作者は今もウスビとよむ「薄日」を意識したわけで、
遷移も、奈良時代に使われた漢字の分析研究から立証された定理である。
ハ行のひらがなの原形になった「波、比、不、部、保」が、「寒波、反比例、担保」など
「不器用、語り部」
の半濁音(パ行)を表わす文字として使われるのも伝統を堅持した例で、
41
など、濁音にも使われる「不、部」も、呉音・漢音より歴史が古い慣用音のよみ方である
ため、当初は「ぷ、ぺ」とよまれた様子が想定されている。
この定理から、縄文~弥生時代に、濁音を使わなかった可能性が高い倭語においても、
半濁音(破裂音)の「Pa」行があったことは確実視され、いまは濁音の「Ba」行と、清音の
「Ha」行の一部を「Pa」行にもどす必要がでてくる。
現在は「うすい」峠と読む碓氷も、奈良時代以前は「Usupi」と読まれた可能瀬が高く、
これが「Usufi→Usuwi→(Usui)
」に変化したのであった。
42
(2)
外来語の影響
言葉を考える上で大切なことは、弥生時代以後、とくに古墳時代中期から奈良時代初頭
にかけて渡来人が大量移入し、外来語(漢語)が入って、基本文法は変化しなかったものの、
倭語になかった発音が生まれて、名詞などに大きく影響を与えたことである。そのため、
倭語と外来語を区別することが重要な意味を持つのである。
先にあげた「寒波、反比例、担保、不器用」は漢語で、
「語り部」が倭語であることは、
すぐお判りになるだろう。ところが、地名では両者の識別が極めて難しく、漢語に発した
「明神(Myouzin)
、天神(Tenzin)
、観音(Kwan on→Kan non)」も、地名の使用例だけは
倭語から変化した可能性がたかい。この辺を考えてみよう。
奈良時代に使われた言葉は、『古事記』『日本書紀』『風土記』『万葉集』などの使用例か
ら復元されていて、現代の五十音にあたる仮名遣いは、次の形であったことが明らかにさ
〈㊟ 赤字部分は、
「上代特殊仮名遣い」の甲類・乙類に区分される箇所〉
れている。
上代仮名遣い一覧
a
i
u
e
o
fa
fi
fu
fe
fo
ka
ki
ku
ke
ko
pa
pi
pu
pe
po
ga
gi
gu
ge
go
ba
bi
bu
be
bo
sa
si
su
se
so
ma
mi
mu
me
mo
za
zi
zu
ze
zo
ya
yu
ye
yo
ta
ti
tu
te
to
ra
ri
ru
re
ro
da
di
du
de
do
wa
wi
we
wo
na
ni
nu
ne
no
奈良時代の「上代特殊仮名遣い」を厳格に適用すると、これまで述べた「Pa・Fa」行か
ら「A,Ma,Ya,Wa」行への転移を考えた、仮説が成り立たなくなる。とくに「Fi→I・Wi」
「Fe→E・Ye・We」
「Fo→Mo・Yo」が問題になるが、地名の論理を根幹にすえた仮説の提起
を基本に置く本サイトは、例によって、この区分を外して考えてゆきたい。
飛鳥時代中期~後期に定めた「郡名」が平安時代まで変化せずに、清音だけの読みを堅
持したのは、
『律令制度』という法規が存在したためであった。これと違って、表面的には
今の五十音とほとんど変わらない様相をみせる「上代仮名遣い」も、細部にあたると現代
語とは大きく違う様子が判る。ここでは、これ以外の仮名遣いが使われなかったところが
大切である。
「n:ん」という撥音や、
「Kya, Kyu, Kyo:きゃ、きゅ、きょ」などの拗音、
「Kakka, Kakki,
Kakko :かっか、かっき、かっこ」という促音の表記がなかった様子を示している。こう
43
した言葉遣いに特別の配慮をしなかったことは、当時、この種の発音が希薄だった様子を
表現し、地名を復元するときの基本要素になる。
たとえば、神崎(神埼)のよみ方は、
『和名抄』に「加無佐岐(Kamusaki)」と記されてい
るので、ここから「Kamsaki→Kanzaki」
、
「Kausaki→Kouzaki」へ二分した様子がわかる。
前者の「mu→n」の転移は定形パターンといってよく、
「上野国甘楽郡(加無良→かんら)。
越後国蒲原郡(加無波良→かんばら)。備後国品治郡(保牟治→ほんち)」などの郡名、郷名
のよみが『和名抄』に多数のせられている。撥音(ん)が他の音から変化した名に「丹波国
(太迩波:Tanipa→たんば)」
「筑前国遠賀郡〈Woka(崗:神武紀)→をんが〉」があるが、両
者とも後に漢字のよみ方が変わったために変形した地名だった。
後者の「au→ou」の転移は兵庫県神戸市が典型で、この名は県庁と同じ町(神戸市中央区
下山手通)に鎮座する式内生田神社の「神戸。Kamupe:神社の経済活動を支える封戸」に発し
や たべ
か むぺ
た攝津国八部郡神戸郷→神戸村を継承したが、よみは「Kamupe→Kaupe→Koube」と変化した。
ここに現われた「au→ou」母音の変化は、「Tafu→Tau→Tou:峠、島、塔」などの地名、言
葉に多く残され、中世から近世にかけて発音が大幅にかわった様子をみせている。古語の
四段活用動詞の未然形が「a」母音だけであるのに対して、現代語の五段活用動詞が「a,
o」母音を未然形とするのも、中世以降の発音変化に由来した。
神戸、神崎(Kamusaki→Kausaki)のように、子音を消失する「mu→u:ウ音便」の変化
は顎の筋肉の弱体化に伴ってうまれ、「茨城:Muparaki→Uparaki→Ibaraki」も同様の変形
である。
「Upara→Ibara」の転移は「茨」のよみの変化に連動し、漢字のよみの変貌に引き
ずられて大きく変形した「群馬:Kuruma→Kumuma→Gunma」など、地名にも少数が存在する。
先にあげた「Kakka,Kakki,Kakko」などの促音をもつ言葉は、
「Kaka. Kaki. Kako」
「Katuka.
Katuki. Katuko」という二種類の原形からの変化が想定される難しいものだが、地名の使
用例は少ないので無視しても構わない。しかし「Kya. Kyu. Kyo」などの拗音をふくむ地名
は膨大な数にのぼり、この原形を解明しておかなければ、地名の復元はおぼつかない。
両者は倭語になかった音型で、発音の弱体化と同時に、外来語(漢語)の発音が活発化し
たために生まれた。この現象も、倭語が「二音節の動詞の掛け言葉で成り立つ」仮説から
導きだせて、古語の動詞に促音(ッ)、拗音(ャ、ュ、ョ)の活用がないこと、促音・拗音
は語頭に立たない定理が、これを立証する。
こ
し の み
ち の
な
か
き ぴ
旧 国名の「越中 (富山県):古之乃三知乃奈 加 →ヱッチュウ 」「備中 (岡山県西部):岐比
の み ち の な か
こし
き
び
く ち
乃三知乃奈加→ビッチュウ」は、越国・吉備国を三分した飛鳥時代末に「越の道の前(久知)、
し り
「吉備の道の前、中、後」の国名をつくり、二字化に従って「越前、
中(奈加)、後(之利)」
越中、越後」
「備前、備中、備後」と文字を省いた誰もよめない訓よみから、音よみへ転じ
た例である。また倭語そのものが変化した「日向(宮崎県)
:Fimuka(『記・紀』神代)→Fiuka
(『和名抄』
)→Hyuuga」は、発音弱体化の「ウ音便」と「Fa→Ha」行の転移によって、拗音
と濁音をもつ音型に換わった。
44
このように、拗音が入る地名は漢字の「訓→音」のよみ替えに発したものと、倭語の発
音自体が変化した例が混在した、きわめて厄介な存在である。国名・郡名は律令時代の記
録が残されているので復元は難しくないが、数千万に上る一般地名ではこうはゆかない。
そこで拗音の変遷を辿ると、ここにも一定の論理で変化した史実を見いだせる。
たとえば、いまは『万葉集、古今和歌集』に「まんようしゅう、こきんわかしゅう」と
振り仮名をつけるが、平安時代には「まんえふしふ、こきんわかしふ」と振られていた。
つまり当時は集を「Syuu」と発音せずに、
「Sifu」とよんでいたのである。この変化が記録
されたところが大切で、現代では「i」段だけに使われる拗音を、地名の意味と命名された
地形を対照して考えると、
「Sya. Syu. Syo」の原形は「Sifa. Sifu. Sifo」と復元できる。
この表記は、昭和 21(1946)年に制定された「現代仮名遣い」誕生以前の「歴史的仮名
遣ひ」の一部に残されていた。自然地名の「中坂峠(ちゅうざか)。十丈峠(じふぢゃう)。
明星峠(みゃうじゃう)。妙光寺峠(めうくゎうじ)。女郎島(ぢょらう)。瓢箪島(へうたん)。
蝶ヶ崎(てふが)。長者ヶ崎(ちゃうじゃ)」など、各種各様の仮名遣いを使ったところに残
存していた(拗音の小文字化は「現代仮名遣い」から)。なぜ、こんな多彩な表現を採用した
かは判かる由もないが、この形では動詞を基本におく地形語の解釈がとれない。
そこで、
「Meu. Heu. Tehu」は、倭語に「e」母音の使用が極端に少ないことから、次の
ように復元できるかとおもう。
中坂峠 (熊 本 高 森) →Tifusaka.
女郎島 (香 川 三本松)→Tiforafu.
十丈峠 (和歌山 栗栖川)→Sifutifo.
瓢箪島 (熊 本 教良木)→Fifotamu.
明星峠 (長 崎 佐世保)→Mifosifo.
蝶ヶ崎 (長 崎 長 崎) →Tifoka.
妙光寺峠(静 岡 佐久間)→Mifokafusi.
長者ヶ崎(神奈川 横須賀)→Tifosifaka.
この復元は、
「しゃ、しゅ、しょ」
「ちゃ、ちゅ、ちょ」などの拗音が、「現代仮名遣い」
ではすべて「i」母音で表記されることを基本に置いている。「Sifo,Tifo」から拗音に変
化したものは、「Tsifo→Syou. Tyou」の転移を想定すると理解しやすい。長者ヶ崎は
「Tsifotsakatsaki」からの変化が考えられるかもしれない。
もうひとつ大事なことは、全国津々浦々にある地名では、同一系列の名がおなじ文字を
使用するとは限らず、他の漢字をあてた類型が併存することである。中坂峠の関連地名に、
原形をとどめた治部坂峠(Tipusaka.長野 中津川)、渋坂峠(Sipusaka.京都 京都西北部)
があり、蝶ヶ崎(Tifokasaki)のように「Sifo・Tifo(∨型・∧型地形、崖)」に「Foka(ほ
ぐ、ほぐす:∨型・∧型地形、崖)」を組み合わせて「Tsifoka→Sifoka・Tifoka→Syouka・
Tyouka」へ変化した自然地名には、様々な当て字が施されている。ここにも、文字を当てた
時代に、地形表現を基本に置いた地名の意味が継承されていなかった様子が残されている。
意味が伝わっていたなら、これほど多彩な文字を当てなかっただろう。
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Sifo
塩 崎 (兵 庫 姫 路)
Sifokane
城ヶ根山(長 野 妻 籠)
〃
庄 崎 (愛 媛 八幡浜)
Sifokafa
庄川越 (和歌山 周参見)
汐ヶ島 (青 森 深 浦)
Sifokafata
尉ヶ畑峠(京都・兵庫 城 崎)
城ヶ島 (神奈川 三 崎)
Sifokafu
勝光山 (広 島 庄 原)
Sifoka
〃
Tifoka
丈ヶ島 (長 崎 佐世保南部)
〃
少合峠 (岐 阜 金 山)
嫦娥島 (長 崎 勝 本)
Tifokafusi
常光寺山(静 岡 佐久間)
Sifokakura
城ヶ倉山(秋 田 碇ヶ関)
Sifokamu
将冠岳 (長 崎 佐世保)
Sifokake
潮掛鼻 (新 潟 河原田)
Sifokatani
城ヶ谷峠(大 分 豊後杵築)
Tifokamusi 常願寺山(山 形 大鳥池)
Sifokatu
正月鼻 (愛 媛 三 津)
Sifokawo
〃
〃
城岸鼻 (広 島 柱 島)
城ヶ尾峠(神奈川・山梨 秦野)
これはほんの一例にすぎないが、原形が同じとは思えないほど、漢字のあて方によって
表わす雰囲気が一変するのが地名の特性である。そのため、この分類に際してどこまでを
同一地名と考えるか、という問題が発生する。基本的には同一語源(緩斜面、東北・関東地
方では急斜面)と推定される「ナカ、那珂、那賀、中、仲、ナガ、長、永」は,すべて別の
地名、格助詞の「ノ」を添加したと考えられる「中ノ、中の、中之、中乃」はおなじ地名、
「中野、長野」は別地名として扱う不都合が生まれる。この辺は、地名研究が進展すれば
解消される問題であり、とりあえず大勢をみる、ということでご了承いただきたい。
例にあげた明星峠の「Mifo→Myou」は、前節の岬にあげた明崎(Mifosaki→ミョウざき)、
妙見崎(Mifomisaki→ミョウケンざき)、妙見岬(Mifomimisaki→ミョウケンみさき)の用法
〈㊟ 妙見は、Mifoken=Mifo+foke(ほぐ:バラバラにする、崖)+kemu(煙:
が参考になる。
直立崖)の解釈もできる。
〉
また、「Mifo,sifo」を逆に組みあわせた「Sifomifo」が称名の滝、称名川(富山
立山)
に使われたことから、
「Mifo」は海岸部では「海辺、岬」
、山間部では「水際、∨型・∧型地
形、崖」を表現した基本地名と推理できる。この用法から、地名の「ミョウジン←Mifosimu
=Mifo(水際、崖)+fosi(干す:水際の崖)+simu(湿む:湿地)」も倭語だった可能性が
窺われるのである。この名は明神崎(17)、明神島(2)、明神山(22)、明神岳(7)、明神峠
(5)と使用例が多く、
「岬、島、山、峠」などに平均して多用された名は地形地名と捉えて
良いようで、地名の「明神(名神):神のなかで、とくに霊験あらたかな神」はあて字と考
えられそうである。なお、この地名群には明神崎(Mifokamusaki→ミョウかんざき。鹿児島
赤 木 名 ) とい う、 重箱よ みの 岬が 奄美 大島 に現 存す るの で、 あま り語 呂が よく ない
「Mifosimusima:明神島」は、こちらからの変化を考えた方がよいかもしれない。
女郎島は「ジョロウ←Tiforafu=Tifo(∨型・∧型地形、崖)+fora(掘る:∨型・∧型地
形、崖)+rafu⇔fura(降る、振る:∨型・∧型地形、崖)
」と復元できるかに多少の問題(原
形は Tiforo?)はあるが、
「Tifo」が谷型地形にあてられた事実は興味を惹く。この典型が
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律令時代の日向国臼杵郡智保郷(宮崎県西臼杵郡高千穂町三田井字高千穂)で、天孫降臨伝説
をもつ五ヶ瀬川の峡谷は、高千穂峡とよばれる。
この「Tifo」に、
「Piti・Fiti(土、泥、湿地)」
「pitipiti(雨音)
」
「pityopityo・bityobityo
(湿地、水際)
」を加えた地名が、
「Pitifo→Pityo→Bizyo」に変貌をとげて、美女峠(福島
宮下)
(岐阜
高山)、美女平(富山 五百石)
、美女谷温泉(神奈川
上野原)と表記される
のが面白い。一升峠(Pisifo→Hisyõ→Ittusyõ.山口 徳佐中)のように愛飲家が漢字
をあてた峠名も楽しいが、
非情にもむくつけき男性名を与えられた眉丈山(Pitifo→Bizyõ.
石川
氷見)や、命名した人々には思いもよらぬ言葉が後の時代にうまれ、その音だけで
誰にも相手にされない、ブスノ峠(伏野峠←新潟県東頸城郡安塚町伏野:緩斜面)には人生
同様の悲運が感じられ、不憫に思われてならない。
こうした変化の実例から、漢語に発した「天神:Tenzin」地名もまた、倭語からの音転
を想定できそうである。岬の項で例にあげた天崎 ( Amasaki :海、浜に坐す崎) →天ヶ崎
(Amakasaki:海がとり巻く∧型の崎)→天神崎(Amakamisaki:海がとり巻く∧型地形の上部
にある岬)の進化がこれを立証するわけである。ただ、岬名はこの解釈をとれるが、
「山、
峠、沢、谷」名には無理なようで、
「Temusimu=Temu(湿地?)+musi(蒸す:湿地)+simu
(湿む:湿地)」からの変化を考えた方がよさそうである。
「Temu」の語源がはっきりしない
のは問題だが、「天狗←Temuku.Muku(剥く:崖、谷)」が山・鼻名に多用されて、「Sa」行
の「Semu⇔Muse(蒸す)」が、仙丈ヶ岳(Semutsifokatake.山梨・長野 市野瀬。仙丈沢から
の転用名)、戦争の記録がない奥日光の湿地帯、戦場ヶ原(Semutsifokafara.栃木
や、千寿ヶ原(Semutsifukafara.富山
男体山)
五百石)、千丈の滝などが湿地地形にある実例から、
「Tsemu→Temu,Semu」にも湿地、谷の地形表現があった様子を感じとれる。湿地名には動
詞を起源としないものもあるので、地名や言葉の使用例…湿地・凹地系の地名は「Na,Ma」
行と「u,e,o」母音を使った例が多い…から、類推するほかはないのが辛いところである。
と、この項を書いていたのが昭和時代末だったので解らなかったが、平成 16(2004)年
にNHK総合テレビで『冬のソナタ』が放送されて、韓流ブームが起こり、韓国の地名と
人名が、旧来の日本語よみから、韓国語のよみ方に変更されたことが、大きなヒントをあ
たえてくれた。
たとえば、微笑みの貴公子、ヨン様こと裵勇俊(ペ・ヨンヂュン)は、
『冬のソナタ』で
姜俊尚(カン・ヂュンサン)=李珉炯(イ・ミニョン)を演じ、恋人役の鄭惟珍(チョン・
ユヂン)を崔志宇(チェ・ジウ)が好演したことは、韓流ドラマファンの常識と言えよう。
さらに、春川(チュンチョン)の高校時代からの友人である金相奕(キム・サンヒョク)、
呉彩琳(オ・チェリン)
、權勇國(クォン・ヨングク)
、孔珍淑(ユン・ヂンスク)や、1975
年に開設した韓国最初のスキー場、平昌郡竜平(ピョンチャン郡ヨンピョン:2018 年冬季
オリンピック開催地)での施設改良工事に携わる、ミニョンの部下のキム・ヒョクス次長
や、ユジンの先輩であるイ・ヂョンアが複雑に絡み合う様子は興味を誘った。
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ここで、苗字と名前を続けてよむ時は「カン・ヂュンサン。ユン・ヂンスク。イ・ヂョ
ンア」と呼ぶが、名前だけの場合は「チュンサン。チンスク。チョンア」と発声するのも、
濁音が語頭に立たない古代日本語とおなじである。
さらに、紀元前1世紀~7世紀の時代を描いた様々なドラマ、
『朱蒙(チュモン):高句麗
の初代大王伝』
、『風の国:高句麗三代目大王伝』、『鉄の王キム・スロ:伽耶の初代大王伝』、
、
『薯童謡(ソドンヨ):百済の薯童王子→武王の伝記』
、
『善
『大王四神記:広開土王の伝説』
徳(ソンドク)女王:新羅の女帝伝』など、韓国古代史ドラマの地名・人名も、同じ様相を
見せる姿が興味をひいた。
『朱蒙』では高句麗軍の旗印に三本足のカラス、
「神武記・紀」に、天照大神が遣わして、
熊野から大和の宇陀へと「神日本磐余彦(かむやまといわれぴこ):神武天皇」を先導したと
や
た がらす
記された、
「八咫 烏 :今はJリ-グのマーク」が出てきたのにはビックリした。
『善徳女王』には、647 年(孝徳紀)に来訪したと記された金春秋(キム・チュンチュ)が
出ていたのも懐かしい。女王の甥の金春秋は来邦後に新羅・唐の連携を推進し、朝鮮半島を
統一に導く基盤を築いて、太宗の称号をつけて『武烈王』と呼ばれた名君である。新羅の
中心、慶州(キョンジュ)の美しい円墳に葬られて、つぎの金庾信もねむる慶州古墳群は、
2000 年に『世界遺産』へ指定された。
『善徳女王』の準主役だった金庾信(キム・ユシン)は新羅軍の長官となり、百済再興
をかけて倭国が遠征して、大敗を喫した白村江の戦い(663 年)では、新羅軍の総督だった。
この後、壬申の乱(672 年)を経て、天武天皇が我が国を律令国家に統一するきっかけを創
ったのが、金春秋と金庾信だった史実は、古代史の常識に加えて良さそうな感じがする。
ここにあげた人名と地名に、日本語に使用例が少ない撥音の「ン」、拗音の「チャ、チュ、
チョ、チェ、ヂュ、ヂョ、ニョ、ヒョ、ピョ」が多用されているところが大切である。
朝鮮半島が戦乱の時代の 5~7 世紀、伽耶(カヤ)
、百済(ペクチェ)
、新羅(シルラ)
、
高句麗(コグリョ)からの渡来人、250 万近くの人々が移入した古墳時代(初期の人口:約
100 万人)→奈良時代中期(人口:約 540 万人)と人口が急増した時代に、倭語から日本語
に変化した姿を連想させる。つまり、古代日本語(倭語)になかった『撥音、拗音』などが
日本語に定着したのは、朝鮮半島からの「渡来人の影響」と考えるわけである。
なお、
「Mifo→Myou」「foke」「Tsemu→Temu,Semu」に下線をつけたのは、
「u. e. o」母音
の異種を組み合わせた「ue. uo. eu. eo. ou. oe」は、『谷、沢、峠』に使われた例が
多く、大多数が「凹型地形、湿地:Fekomu. Kupomu. Uturo. Feso」などを表現している。
この種の地形は縄文時代に余り利用されず、どちらかといえば敬遠(Utomu,Sute oku)さ
れていた様子を感じとれる。凹地・湿地は水稲耕作を移入した弥生時代以後に重用された
史実も注目すべきで、縄文地名と弥生地名の識別に有用なのである。
「少数音型」と名づけた六種類の音型は、『古事記』歌謡や『万葉集』和歌で効果的に使
われたので、次章『日本語の源流 3-4 古事記・万葉集のリズム』で詳しく検討したい。
48
(3)
観音と弁天
もうひとつ検討の必要があるのが、妙光寺(めうくゎうじ)峠、正月(しゃうぐゎつ)鼻
に使われた、拗音の範疇に入る「くゎ」の音型である。この発音も渡来人が移入したもの
で、いまは「Ka」とよむ「Kwa:火、花、化、果、課、華、科、貨、過」「Kwai→Kai:会、
回、快、怪、外」
「Kwau→Kou:光、皇、広、荒」
「Kwatu→Katu:活、月」
「Kwan→Kan:観、
巻、貫、官、寛、関、冠、願、丸」などが該当する。
52 ページの図 4-2-4 に見られるように、この発音は、現代にも近畿・四国・九州地方と、
中国地方の島根県東部(旧出雲国)と鳥取県西部(旧伯耆国)、北陸から東北地方に残されて
いるという。出雲方言が東北弁に近いのは有名な話だが、渡来系の言葉に共通要素がある
のが面白い。一般に、言語活動が変化すると、古い言葉は交易・流通の要所から消え去り、
伝統を保持する遠隔の地域、山間僻地、離島などに残るという。古代の言葉を伝える地名
にも類似点があるので、
「くゎんおん→かんのん」と変化した「観音」地名と、同じような
信仰名にみえる「弁天」地名を検証しよう。
わき じ
「観音」は観世音菩薩の略称であり、勢至菩薩と共に、阿弥陀如来の脇侍として、その
左右に立つ形が本来の姿とされている。仏像としての両者は同一形で、阿弥陀如来の左側
に立って冠に阿弥陀の仏像をかざるのが観世音菩薩、右に位置して宝瓶のついた冠(Kapuri
→Kamuri→Kanmuri)をかぶるのが勢至菩薩である。
観世音菩薩は、如来のかわりに人間の苦難をすくう、慈悲ぶかい仲介神として知られる。
観音信仰は仏教が伝来してすぐ広まり、鎌倉時代に法華教の普及に伴いますます盛んにな
って、室町~江戸時代には農民社会の豊作、安産祈願にむすびついた観音講へ発展した。
これに対して勢至菩薩は臨終に来迎し、衆生を極楽へ引導する理知的な教義であったため
一般に広まらなかったが、教条のみならず、クヮンゼオン(クヮンオン→かんのん)、セイシ
という、音の響きの差も一役かったとするのは考えすぎだろうか。自然地名での勢至の使
用例は、勢至堂峠(福島 長沼)、勢至ヶ岳(成就ヶ岳。山梨・静岡 富士山)がある。
「弁天」も辨才天の略称で、サラスヴァティという河を神格化した、仏教成立以前のイ
ンド教の神名と伝えられて、梵天(Brahmà:インド教の最高神)の后になった女神という。
辨才天は弁舌、音楽、知恵の神として知られている。わが国に入ったのち、室町時代以後
に「辨財天」の文字があてられ、
『言霊』信奉の語呂あわせから、福財を与える女神として
七福神の一員に加えられた。
七福神自体が、大黒天(Mahàkàla:インド教の守護神。後に大国主命と習合)、毘沙門天
(Vaisravana:多聞天)、福禄寿(中国の神:南極星の化身。福・禄・寿の神)
、寿老人(中国
ほ てい
の長寿の神)、布袋(唐代の禅僧)、恵比須(漁業・商業の神:式内大國主西神社〈西宮神社〉
の祭神。兵庫県西宮市社家町)と、インド・中国の神と禅僧、そしてわが国の地神の混成と
いうメチャクチャな構成をとっている。現代に通じる、いかにもこの国らしい現世利益だ
49
けを優先した論理性と整合性に無頓着な福の神の集合体といえる。しかし弁才天が河の神、
航海の女神として信仰されたところは重要である。
いまは、観音(菩薩:本来は中性。わが国に入る前、中国で女性化)と弁天は同じような信
仰名にみえるが、地名における両者の使用状況は極端な差をみせるので、これをあげよう。
〈㊟
「岬、島、峠」は 5 万分の 1 地形図、
「山、岳、峰、森」は 20 万分の 1 地勢図の用例〉
崎
岬
鼻
崎鼻 島
観音
35
4
1
1
弁天
20
5
4
0
峠
越
山
岳
峰
森
2
5
0
9
5
0
5
65
0
0
3
0
0
1
「観音崎、弁天崎」「観音岬、弁天岬」「弁天島」はそれぞれのベストテンにランクされ
るほど使用例の多い名である。ところが、弁天峠は地形図になく、山・岳・森でも観音、
弁天の使用法は大きく違っている。この原因がどこにあるかを考えよう。まず両者の分布
〈㊟ 岬・鼻・崎鼻は「崎」に含め、岳・森も「山」に入れた。
を作成したものが次図である。
弁財天島(岩手
大槌)
(高知 須崎)(熊本
牛深)
、弁財天山(鹿児島
羽島)を含む。
〉
図 4-2-2 「観音」と「弁天」地名の分布
ここでは、さらにはっきりした違いが浮かびあがる。図に現われたように、岬・島名の
「観音」が主として西日本地方に偏在するのに対して、「弁天」は全国に分布し、北海道、
沖縄県にまで勢力をひろげて名づけられている。
50
両者のうち、岬・島名として正常な分布と判定されるのは、常識とは反対に「観音」の
分布図である。なぜなら、岬、島の 6 割以上が九州・四国・中国地方に偏在するため、数
のまとまった岬・島の分布図を作ると、つねに西日本地方へ片寄った分布傾向をみせるの
である。注意してみると、弁天の分布では「弁天崎、弁天島」の分布域が少し違っている
様子をよみとれる。佐渡島は弁天崎だけが分布し、能登半島には弁天島が多く現存する。
四国・九州地方は極端に弁天崎が少なく、どの地域をみても弁天崎と弁天島が共存すると
(愛媛 魚神山)しかないので、
ころは少ない。
「観音」では観音島が 2 例(石川 小口瀬戸)
この現象はみられない。だが、なぜこうした分布をとるかの解明は難しい。いまでは原因
追求は不可能かもしれないが、岬・島の使用状況に差がでる傾向は「弁天」のみならず、
数のまとまった、どの地名にもみられるものである。
「ベンテン:弁天。クァンオン:観音」は、音よみの漢字をあてたもので、「Benten」を
無理に「Pemutemu」と復元しても、
「Pemu」
「Mutu」
「Temu」の動詞がないため、地名解釈は
できない。
「Mutu,Temu」は湿地名として使用されることはあるが、
「六ヶ岳(福岡 直方)、
睦月島(愛媛 三津浜):Mutuka,Mutuki=Mutu+tuka・tuki(突く)」「天神=Temu+musi
(蒸す)+simu(湿む)」のように、地形語の基本形と組みあわせて使うのが通例である。
弁天信仰の歴史背景、そして弁天地名の分布状況を考慮すると、この名は地形地名でな
く、やはり「弁天信仰」をもとにつけた名と考えられそうである。弁天信仰が、七福神に
加えられた後に発展した史実から、菱垣廻船・樽廻船、北前船によって海運が著しく発展
した江戸時代に、航海の女神として、旧地名を改めた名と考えてみたい。大小さまざまな
形がある島の中で、弁天島は小さな島(おもに無人島:改名しても問題が少ない)に当てら
れているのも、この史実を留めたようにみえる。
これに対して、
「観音」は様相をかえている。この地名は「弁天」のように単純に考える
のは無理なようで、さまざまな要素を含む難解な地名群といえる。図 2 に現われたように、
観音崎・観音島が西日本へ片寄るのに対して、観音峠、観音岳の主分布域は近畿地方から
中部・東北地方になる。この問題はあまりにも難しいので避けることにして、比較的考え
やすい観音崎をとりあげよう。
観音の発音は、古語の用法では「Kwan-on」と表記されるが、ふつうに「Kan-non」と読ん
で古型に戻せば「Kamunomu」になる。つまり、岬名に登用された「観音崎」のよみは「Kamunomu
-saki,Kamuno-musaki」となって、
「Kamusaki=Kamu(噛む:∪型・∩型地形)+musa(蒸
す:湿地、水際)+saki」に神崎をあてた事例を参照すると、この地名群には神ノ岬、すな
,Kamino-misaki」から転じたものがあるのではないか、と
わち「Kamuno-misaki(musaki)
の疑問がわく。そこで「Kami,Kamu,Kamino,Kamuno」とよむ岬、島をとりだして分布図
4-2-3 をつくると、
「観音崎、観音島」に比べて、分布域が少し違った様相が現われる。
51
不思議なことは、
「カムノム崎(35).カミノ崎・
図 4-2-3 「Kami」系の岬、島の分布図
カムノ崎(0).カミ崎鼻・カム崎・カム崎鼻・カ
「カムノム島(2).カミノ
ム崎岬(9)」に対して、
島・カムノ島(9).カミ島・カム島(12)」と、崎・
島での同じ音型の使用比率が大幅に違っているこ
とである。観音崎が観音島と比べて数が多いのは、
使用例のないカミノ崎(カムノ崎)、カムノ岬から
「観音崎」に転じた岬名が多く、カミノ島(カム
ノ島)は、
「神ノ島、上ノ島」として残存したよう
にみえる。岬名と島名の極端なアンバランスをみ
ると、どうしてもこう考えたくなる。
さらに観音崎鼻(長崎 漁生浦)という、原型は縄文時代の命名が想定される崎鼻が現存し、
「Kamunosesaki」から変化した可能性がある観音瀬崎(鹿児島
中甑)や、弥生時代の命名
が考えられる「ガンモン鼻←Kamumomufana(長崎 仁位)」も気にかかる。しかし観音地名
を個別にあたると、観音信仰を基につけた例もあり、わが国最古の洋式灯台(関東大震災で
倒壊)があった三浦半島の観音崎(神奈川
横須賀)の旧名は仏崎と伝えられ、岬の近くに
観音寺が建てられたため、寺名を岬に採ったと記録されている。この辺も難しいところで、
「観音崎、観音島」は地形地名から変化したものと、観音信仰に基づいて平安時代以後に
命名されたものが、混在した地名群と考えるのが穏当かもしれない。
もうひとつ注目すべきは、
「クァンオン」と発音されて
いた地名が、左図の「Kwa」音(●印〉の方言分布図とは
違った分布をとることである。方言分布図が昭和 30 年代
「Kwa」音で発声
に作られた史実を考える必要はあるが、
されたはずの「観音」が、分布図をまるで無視したよう
「Kwa」
につけられているのは、何を語っているのだろう。
音の分布域から外れる「観音」を、信仰地名として捉え
れば簡単に片付けられるが、はたしてそんな程度に扱っ
てよいかは難しい。先にのべたカムノ崎、カムノ岬から
「観音崎」への変化のみならず、観音地名の分布自体が、
「Kwa」音が導入された弥生時代以前の姿を留めた印象を
うけるのは、筆者だけではないとおもう。
図 4-2-4 「Kwa」音の分布図
『日本の方言地図』
〈徳川宗賢編
中公新書 533 1979〉
こうして検証すると、
「弁天」地名はこの信仰が普及
した江戸時代の命名が想定され、
「観音」地名の大半は、
倭語でつけた名に、律令時代から中世にかけて、観音を
あてて変形した地名と推定されるのである。
52
(4)
十三本木峠と十六島鼻
地名にあてた音よみの漢字が、倭語、漢語のどちらで当てたかの判定は難しい。この解
明には、動詞を起源としない湿地系地名の解釈法の確立が鍵を握っているようにみえる。
おそらく我が国の地名の中で最も難しい、自然地名の「沢、谷、滝、沼、池」名や、これ
を転用した例の多い「山、峠」名、過半数が湿地系地名の転用が想定される「川、湖」名、
そして各種各様の「字名」の分析が必要になるわけである。本書程度の地名収集法での追
求は無理な相談だが、一端くらいは推測できるので、それをとりあげてみたい。
「Pitsifo→Pitsyo→美女、一升、眉丈」のように、原形にもどすと想像以上に同一名が
多い地名に、漢字を当てたことは、利用者に夢とロマンを与える素晴らしい出来事だった。
が反面、地名を難解なものに仕立てあげて、語源探索を困難な状況に陥れたのも事実で、
復元作業の最も難しいのが「数詞」をあてた地名群といえる。
十三本木峠(岩手 荒屋)、十六島鼻(島根 大社)はこの代表例で、前者が「じゅうさん
ぼんぎ」峠、後者は「うっぷるい」鼻とよばれる。十六島鼻は、誰がみてもこう読めるは
ずがなく、地名解説書にしばしば取りあげられる、語源不詳の超難解地名として知られる。
ここに地形語の使用法と自然地名の命名傾向、言葉の変遷史を参照して両者を復元すると、
「ジュウサンボンぎ」は、倭語でつけた地名が、漢字を当てた後に外来語と倭語を交えた
重箱よみに変形した例。
「うっぷるい」は正真正銘の倭語の地名で、この岬の別称であった
十六島鼻…島根県平田市十六島からの転用名…を合わせて、ひとつの地名にした横着な名称。
という結論がえられる。なぜ、こう考えられるかを検証しよう。
「十三本木」峠のよみを、外来語と倭語の組合せといったら、不思議に感じる人が多い
と思う。が、漢和辞典をひけば「十:ジュウ(呉音)。三:サン(漢呉音)。本:ホン・ボン
(漢呉音)」
「木:き・ぎ(和音)」と記されていることがお判りになるだろう。いま私達が
毎日使っている「イチ、ニ、サン、シ、ゴ、‥‥‥」の数詞は、倭語でなく、漢字と一緒
に導入された古代中国語の用法であったことを、しっかり認識しなければならない。
数のかぞえ方
一
和
音
二
ひ
ふ
ひと
ふた
三
み
四
よ
五
い
六
む
いつ
七
な
八
や
なな
九
十
こ
と
ここ
とを
呉
音
イチ
ニ
サン
シ
ゴ
ロク
シチ
ハチ
ク
ジュウ
漢
音
イツ
ジ
サン
シ
ゴ
リク
シツ
ハツ
キュウ
シュウ
十までのかぞえ方だけでは判らないが、倭語の「数詞」の欠陥は、十一以上の数をかぞ
えるときに、たいへん面倒な表現を使用したことである。
53
『日本書紀』巻第十一は、「大鷦鷯天皇(Ofosazaki):仁徳天皇」の条だが、この数詞の
『古事記』景行記に登場する倭建命(Yamato Takeru no mikoto)
よみは「Towo amari Fito」で、
の東征伝にのる、東の方「十二道」のよみ方が「Towo amari Futa Miti→Towomarifuta Miti」
であったことは、古文の教科書に載るほどに知られる。律令制の根幹をなす「祖、庸、調」
の税制、
「班田収授法」などの土地制度を運用するには、戸籍・土地台帳が不可欠で、ここ
には当然、数字が多用されて十以上の数詞が頻繁に使われた様子は想像できる。飛鳥~奈
良時代の官吏に渡来系の人が多く登用された史実と、倭語の数詞の使いづらさを考えれば、
この時代に呉音・漢音の表現がとり入れられ、のちの時代に倭語を駆逐するほどの勢力に
なり、日本語に定着したのではなかろうか。
現代の数詞は、
「九」をのぞいて呉音が使われるが、漢音の表現もさまざまな分野で利用
されて、折衷文化を特技とする国にふさわしい様相にみえる。呉音の導入は古墳時代の中
期(5 世紀)頃と考えられているので、ひょっとすると巨大古墳を築造するときに採用され
ていたかもしれない。本国では、とおの昔に姿を消した古い言葉が、わが国で大手をふっ
て活躍しているのは、何とも不思議な現象である。外国語崇拝がとやかくいわれる時代に
なってはいるが、この現象は古代からの伝統と考えられることも、肝に銘じておく必要が
〈㊟ 現代中国語の数詞:イー、アール(麻雀で使われるリャンは両、二つの意味)、
あるだろう。
サン、スー、ウー、リュー、チー、パー、チュー、シ〉
こうした言語の変遷から、古東山道・陸羽街道の難所、
図 4-2-5 20 万分の 1 地勢図 八戸
鉄道全盛の昭和 43(1968)年 10 月の複線電化以前に蒸
気機関車(C51. C57. C60. C61. D51)の重連、三重連で
鉄道マニアを集めた東北本線盛岡~八戸(当時は尻内)
間の約 100 ㎞におよぶ峠道のサミット(奥中山~小繋)
にある十三本木峠(457m)の「ジュウサンボンぎ」は重
〈㊟ 2002 年 12 月の東北新
箱よみであることが分かる。
幹線八戸延伸に伴い、盛岡~目時の旧線は第三セクターの
「IGRいわて銀河鉄道」
、目時~八戸も「青い森鉄道」へ
委譲した。奥中山駅は奥中山高原駅に改名〉
地名の語源を考えるとき、当てた漢字が音よみ、訓よみであるかの識別は重要な意味を
もっている。さらに法令で規制されなかった自然地名は、鎌倉時代以後に文字を当て替え
たものも多く、律令時代と江戸時代では漢字の使用状況がちがうので、数詞地名の誕生は
洒落たあて字が流行した江戸時代を想定できそうである。これまで記したように、地名の
語源探索は、類型の多い特性を利用して原形をさぐる手法が有用なので、
「山、峠、岬、島」
名から十一以上、百未満の数詞をあてた地名をとりだして整理すると、数が限定される模
様が出現する。20 万分の 1 地勢図にのる「山」名と、5 万分の 1 地形図の「峠、岬、島」
における使用例全数をあげると、次のようになる。
54
十二峠
(新 潟 越後湯沢)
十六山
四十四島
(新 潟 加 茂)
(兵 庫
姫 路)
十二段峠 (秋 田 森吉山)
十六曲峠 (群 馬 軽井沢)
四十八曲峠 (長 野 坂 城)
十二段峠 (秋 田 阿仁合)
十六島鼻 (島 根 大 社)
四十八ヶ所越(新潟 両 津)
十二弟子峠(徳 島 桜 谷)
十九島
四十九院峠 (福 島 只 見)
十二岳
二十曲峠 (山 梨 山中湖)
五十人山
十二ヶ岳 (群 馬 中之条)
二十五山 (岐 阜 有峰湖)
五十三峠 (岐 阜 御嶽山)
十二ヶ岳 (岐 阜 船 津)
二十六屋山 (山 梨 上野原)
六十里越 (福島・新潟 須原)
十二神山 (岩 手 宮 古)
三十人ヶ仙 (岡 山 智 頭)
七十森山 (青森 青森東部)
三十三間山(福井・滋賀 熊川)
八十里越(福島・新潟 守門岳)
四十曲峠 (鳥取・岡山 湯本)
八十三山 (長 野 岩菅山)
十三峠 (大阪・奈良 大阪東南部)
四十日峠 (新 潟 十日町)
九十島
十三曲峠 (岐 阜 乗鞍岳)
四十鼻
(山 口
防 府)
九十九曲峠(愛媛・高知 梼原)
十三本木峠(岩 手 荒 屋)
四十島
(広 島
尾 道)
九十九島 (愛 媛 今治東部)
十三野山 (熊 本 本 渡)
四十島
(愛 媛 土 生)
九十九島 (愛 媛 三津浜)
十三石山 (京 都 京都西北部)
四十島
(愛 媛 三津浜)
九十九島 (長 崎 島 原)
十三峠
(青 森
油 川)
(神奈川 横須賀)
(和歌山 御 坊)
四十ヶ島 (長 崎 唐 津)
(福 島 常 葉)
(長 崎
仁 位)
九十九島 (長 崎 佐世保)
数詞地名の大多数が、いまは「ジュウニ、ジュウサン」のように呉音でよまれて、地名
解釈をとれなくなったものが多い。
「十一、十四、十五、十七、十八」がない十代の地名群
は、
「峰、崎、岬」に使用例がないのも不思議な現象だが、とりわけ「十二、十三」が峠と
山に限って使われたところが興味をよぶ。この辺にも文字をよみ替える必要が感じられて、
数詞群を倭語のよみを主体に、地形語の意味が出るように変換すると、以下のようになる。
〈㊟
A・Wa 行は「Fa」行に置換。下線をつけた音型は、∪型地形を表わす少数音型〉
十二
Tofu,Tofuta.
四十八 Yotoya.
十三
Tomi,Tofomi.
四十九 Yotoko,Sisifuku.
十六
Tomu,Tofomu.
五十
十九
Toko,Tofoko,Sifuku,Turu.
五十三 Itomi, Isomi.
二十
Futo,Futofo,Fata.
六十
Muto,Mutofo,Muso.
二十五 Futofi,Fatako.
七十
Nato,Nanato,Natofo,Naso.
二十六 Futomu,Fatamu.
八十
Yato,Yatofo,Yaso.
三十
八十三 Yatomi,Yasomi.
Mito,Mitofo,Miso,Samusifu.
Ito, Itofo,Iso, Kosifu.
三十三 Mitomi,Misomi.
九十
四十
九十九 Kotoko,Kusifuku.Tutura,
Yoto,Yotofo,Yoso,Sisifu.
四十四 Yotoyo,Sisifusi.
Koto,Kotofo,Koso,Kusifu.
Tukumo.
55
ほぼ全数が音転した数詞地名に、十九島(つるしま)、八十三山(やそみやま)、九十九島
(つくもじま:島原)などの、古形を留めた地名が現存するのはありがたい。
十二をよみ替えた「Tofu」は峠の原形で、「Futa(蓋)。Futsaku(塞ぐ)」も∪型地形の上
部を指している。つまり、十二をあてた「Tofu,Tofuta」は、峠の地形を表現したわけで、
同名の峠は戸蓋峠(Toputa.埼玉 万場)、藤田峠(Tofuta→トウだ。山梨 甲府)とも当て
られている。秋田県の十二段峠は「Tofutamu」峠に復元され、北陸~山陰地方では、谷田峠
(Tamutatafa→たんだタワ。鳥取・岡山
上石見)
、菅谷峠(Sukamutamu→すがんたん。福井
今
庄)など、谷を「Tamu→たん、だん」とよむ例が多いので、峠にふさわしい地名になる。
山名も「十二岳(Tofutake).十二ヶ岳(Tofukatake).十二神岳(Tofukamitake)」に復元
できるようで、類型に堂山(Tafuyama.宮城 桑折)、塔ヶ岳(Tafukatake.神奈川 秦野)、
遠上山(Tofokamiyama.秋田 鳥海山)がある。しかし十二弟子峠は難しく、古語では弟子
を「をとこ」とも読むので、
「Tofotoko または Tofutoko」を原形とする苦しい解釈をあげて
おきたい。「Tofotoko=Tofo(峠)+foto(∪型地形)+toko(研ぐ:突起、刺、∧型地形)」
に十二弟子(Tofuwotoko)をあてるかに疑問はあるけれど、洒落たあて字には、こちらも洒
落で対処したいところではある。
十三の原形とした「Tofomi」には、遠見の段(鹿児島 中甑)、峠御堂(Tafumitafu→とう
のみドウ。愛媛
久万)といった、峠らしからぬ珍妙な名が類例にあがる。遠見は海岸付近
の山名、とくに九州地方に集中する名で、遠見山(宮崎 蒲江ほか 5 例)、遠見岳(長崎 仁
位ほか 3 例)に使われたほかに、岬名にも遠見崎(高知
(福岡
土佐清水)
(長崎
厳原)、遠見ノ鼻
折尾)があるが、島に使用例のない名称である。十二の古型とした「Tofuta」も、
トウダキノ鼻(長崎 仁位)があがるだけで、この音型も他の島に使われていない。この用
例から、「Tofuta,Tofomi」は主に∨型・∧型地形を表わした地形語と考えられて、「Fomi」
の倒置語が「Mifo(岬、∨型・∧型地形、湿地)」であることも、この言葉の意味を暗示して
いる。十三野山は「Tofominoyama」、十三石山は「Tomifisiyama」へ復元できるだろう。
十三曲峠、十六曲峠、二十曲峠、四十八曲峠などの「曲(まがり)」は、七曲峠(岩手 一
関ほか 6 例)のように峠に多用されて、峠道の屈曲度を表わしたと採るのが一般である。が
実際にこの名をもつ峠を歩いて、地形図を対照すると、こうした要因だけでつけたとは考
えにくくなる。曲は「まがり、キョク」とよむだけでなく、
「かね、くせ、くま」のよみも
併存する。例にあげた四つの峠が長野県周辺にあることを考慮すると、曲のよみは千曲川
とおなじ「Kuma(隈:崖端)」であったと考えてみたい。
地名にあてた文字は地域ごとに一定しているようなので、十三曲峠(Tomikuma)、十六曲
峠(Tomukuma)、二十曲峠(Fatakuma)、四十八曲峠(Yotoyakuma)と復元できそうである。
十三曲の類型に富倉峠(Tomikura.長野 飯山)、二十曲に畑倉山(Fatakura.宮崎 尾鈴山)、
七曲峠(Nanakuma)は七熊山(宮崎 須木)・七座山(Nanakura.秋田 鷹巣)、九十九曲峠
(Tuturakuma)にも、三重県飯南郡飯高町田引字九十九曲(つついらくま)が現存する。
56
判じ物とみまがうばかりの数詞地名は、奈良時代の『風土記』
、平安時代の『和名抄』郷
名や『延喜式』神名に姿がなく、言葉あそびを楽しむ余裕ができた江戸時代、とくに元禄
時代以後に漢字をあて替えて誕生した地名群と考えたい。峠などの自然地名は、地形表現
を主体にした言葉を組み合わせて命名され、韻律を整えた 3~4 音の「簡潔さ」が尊ばれて
〈㊟ 「~峠」における「~」の平均音数は約 3.5 音、
いたところを重視しなければならない。
第 5 節「山間地名の音数」で解説〉
十三の原形が「Tofomi」または「Tomi←Topi」と復元できれば、十三本木峠の後半、重箱
よみの「本木(ボンぎ)」も元に戻す必要がある。
「~本木」地名も数が多く、自然地名に一本木峠(島根 川本)、一本木鼻(石川 七尾)、
二本木山(新潟 飯豊山)、二本木峠(埼玉 寄居)、二本木鼻(熊本 牛深)、三本木峠(熊
本
砥用)などがある。
「一本木、二本木、三本木」は字名に多用されるが、愛知県名古屋
市緑区四本木、東京都目黒区五本木、東京都港区六本木、愛知県半田市七本木町、群馬県
安中市原市字八本木、千葉県鴨川市西字九本木、栃木県今市市千本木なども実在する。
いまの「本木」のよみは「ホンぎ、ポンぎ、ボンぎ」で、原形に「Fomuki,Pomuki」を想
定できる。だが「Fomu,Pomu」の古形をのこす地名は皆無のようで、大半が「ホン、ボン」
に変化しているので、解釈が難しい言葉になっている。
本坂峠 (静岡・愛知 豊 橋)
本城山 (静 岡 浜 松)
ポンノ鼻 (福 岡 神 湊)
本茶峠 (鹿児島
本谷山 (静 岡 大河原)
ボンノ鼻 (兵 庫 坊勢島)
五本峠 (長 野 信濃池田)
日本国 (新 潟 温 海):山名
本 島
(香 川 玉 野)
八本越 (鳥取・岡山 智 頭)
本場鼻 (山 口 阿 川)
本久島
(長 崎 有 川)
赤木名)
「Pomu,Fomu」が自然地名全般に使われたことや、人体語の「ぼんの窪」
、∪型の皿を表
わす盆(ボン:呉音)の用法から、ポムは基本形の「∪型・∩型地形、崖」を表現した地形
語と推定できる。しかし、
『山手線』原宿駅で触れたように、言葉の方は奈良時代以前に消
えていたようで、古語辞典にも記載されず、わずかに「窪む(Kupomu).つぼむ(Tupomu).
萎む(Sipomu)」などの合成動詞に姿を留めるのみである。「遠見・十三(Tofomi)」に組み
込まれた「Fomi」も系列語で、地名の使用例から推すと、おもに窪地、湿地(広義には海、
湖、沼、川、谷、沢、水源)の崖端に命名された地形語と考えられそうである。
この仮説から、本木は「Fomuki=Fomu+muki(剥く:∨型・∧型地形、崖)」へ復元され、
一本木から九本木を倭語に戻してこれをよむと、
「Fifomuki, Fufomuki, Mifomuki,Yofomuki,
Ifomuki,Mufomuki,Nafomuki,Yafomuki, Kofomuki」になる。ただ、倭語で最も大切にされてい
た韻律の面からみると、これらの音型は不自然な印象を与えるばかりでなく、他の文字を
あてた地名がないところが問題になる。
そこで、
「~本木」が洒落であてた様子をうかがえることから、本意を「ほい」とよむ例
を参照すると、本木は「ほんき」にあてたものでなく、地名の基本語である「Foki(∨型・
57
∧型地形、崖)」にあてられた可能性がでる。この形の地名は、別のあて字を施したものが
実在する。
一本木
Fifoki
鹿児島県日置郡日吉町日置
評議峠 (三 重 木 本)
二本木
Futafoki
‥‥‥
三本木
Mifoki
妙義山 (群 馬 富 岡)
茗荷峠 (Mifoka. 島根・岡山 根 雨)
四本木
Yofoki
愛知県半田市四方木
蓬 峠 (Yomoki. 群馬・新潟 越後湯沢)
五本木
Ifoki
高知県安芸市伊尾木 (東京都杉並区井荻は、井草と荻窪の合成名)
六本木
Mufoki
‥‥‥
七本木
Nafoki
鹿児島県日置郡松元町直木
八本木
Yafoki
大阪府八尾市八尾木
九本木
Kofoki
小穂口山 (Kofokuti. 群 馬 藤 原) 小歩危 (Kopoke. 徳 島 川 口)
八方ヶ岳 (Yafoka. 熊 本 八方ヶ岳)
「Foki」は、
「Foka」と同じ「ほぐ、ほぐす(pokapoka,pokopoko 殴る、pokipoki 折る:
barabara にする)
」意味をもつ地名の基本形である。ただ、この言葉にあてる一文字の漢字
がないため、保木鼻(山口 久賀)、保基谷岳(長野 須坂)、東京都足立区保木間、岐阜県
郡上郡白鳥町歩岐島、兵庫県神崎郡市川町保喜などと表記される。これがホキに本木をあ
てた原因のようで、
「~本木」と語頭に数詞をおく洒落た手法は、今も電話番号等を「倭語、
古代中国語、英語」の用法を組みあわせて、語呂あわせをしているところが参考になる。
この仮説を使うと、一本木は「Fifoki=Fifo(水際の高所、∨型地形)+foki」、または
「Fitofoki=Fito〈人:女(∪型)
、男(∩型)地形〉+tofo(∨型・∧型地形、峠)+foki」
の双方を原形に想定できそうである。ただ、一本木は「イッポンぎ」とよむ例が多いので、
「Fitupoki=Fitu(櫃:∪型地形)+tupo(壺:∪型地形)+poki」
、あるいは「Fitupomuki」
も考えられるかもしれない。
「Futafoki」に類似名がないのは残念だが、二本木(ニホンぎ)の関連地名に、山名の日
本国(ニッポンコク:Nipomutani からの転用名か。日本谷をあてた後に山名に採用され、さら
に洒落たあて字を施した名称?)や、日本坂、日本平、日本橋の地名があるので、
「Nifomuki
=Nifo(湿地)+fomu(水際の崖、窪地)+muki(崖、谷)」に重箱よみのあて字をした地名
と考えられそうである。しかし地名の基本形で構成した「Futafoki」も捨てがたく、山名や
峠名ではこちらの読みをとりたい気もする。洒落たあて字を施した時期は、江戸時代の可
能性が高いので、各種の復元形を揃えておく必要もあるとおもう。
三本木は「Mifoki」のほかに、いまのよみ方を復元した「Samupoki=Samu,Sapu(寒:沢、
崖、湿地)+mupo⇔pomu(水際の崖、窪地)+poki」に、音訓併用(サンぽき:重箱よみ)で
あてた地名が含まれているように感じられる。
58
地名の用例が少ない四本木の「Yofoki」は、「Yofo」の解釈が難しく、ヤ行がパ行から転
「Popo(∪型地形)。Fofo(頬:直立崖)
」の基本形へ復元される。東京都
じた仮説を使うと、
新宿区代々木(Yoyogi)は、大字名では全国で唯一、ここしか使用されていない珍しい地名
だが、系列名と考えてよさそうである。名古屋市の「シホンぎ」は「Sifoki,Sifomuki=Sifo,
Sipomu(萎む:∨型・∧型地形、崖)+foki, muki」の基本形に戻せるが、なぜかこの種の地
名も少なく、福島県いわき市四倉町塩木、岡山県赤磐郡吉井町塩木と、山名の将棊頭山
(Sifokikasirayama→ショウギがしらやま。長野
ウザン。広島
赤穂)
、正教山(Sifokifoyama→ショウキョ
加計)が上がる程度である。
五本木の現在のよみである「Kofomuki→ゴホンぎ」は、やはり「Kofo」の意味がとれず、
類型のある「Ifoki=Ifo・Fifo(水際の高所)+foki」を原形としたい。「Kofo」の倒置語の
「Foko,Poko(ほぐ、凹地)」の間連語(Kopu:瘤)と採れないこともないのだが、この言葉
を語頭に採用した例はほとんどないようで、九本木の類似例とした「小穂口山、小歩危」
も、原形に「Wofokuti,Wopoke←Popoke」を考えてみたい。
六本木は、ラ行が語頭に立たない倭語の定理から、これ
図 4-2-6 土地条件図 東京西南部
を地形地名と捉えると「ロッポンぎ」を元にした地名とは
考えにくい。「Mupoki」 または 「Mutupoki=Mutu(湿地)+
tupo(壺:∪型地形)+poki」を原形に想定できそうである。
ただ、明治 2 年に「麻布龍土六本木町、飯倉六本木町」な
どを統合して生れた六本木町に伝わる、松の大木が六本あ
った、という伝承も捨てがたい。地形地名であれば、色分
けで基盤にある地形を区分した右図、25000 分の 1 土地条
件図『東京西南部』右上の白桃色で表現された窪地にある
六本木交差点付近が「ムツポキ」の発祥地、と考えられそ
うである。名古屋の「四本木」
、東京の「五本木と六本木」が、大字名では全国唯一の地名
であることは覚えておいて良いだろう。
七本木は、湯桶+重箱よみの「ななホンぎ」は少数で、「シチホンぎ」のよみが多用され
ている。これを重視すると「Siti,Fiti(泥地、湿地)+tifo(谷、崖)+foki」と解ける。
「Yafoki.Yafo(谷の上部)」より、
「Fatifoki=Fati(鉢:∨型
使用例の少ない八本木は、
地形、端)+tifo(谷)+foki」が良さそうで、
「Fatifosi」か「Fatifafusi」を原形に想定
できる東京都八王子市元八王子町が類例にあがる。
九本木も解釈の難しい「Kofoki」でなく、「Kupoki=Kupo(窪)+poki」を考えてみたい。
59
そこで十三本木峠に戻ると、この名は「Tofomifoki」または「Tomifoki」峠へ復元され、
韻律の上でも満足のゆく結果がえられる。地名解釈は「Tofomifoki=Tofo(∨型・∧型地形、
峠)+fomi(∨型地形の水際、水源)+mifo(∨型地形の水際)+foki(∨型・∧型地形、崖)」
となり、とほ(遠)から長い道のりが連想されて、「水際の崖、谷」という基本形の四重の
重複語には、水源をふくむ川に沿った峠道が示されているように感じとれる。
かつて東山道、奥州街道とよばれた峠道(国道 4 号線)は、岩手県盛岡市から北へ向かい、
「taputapu→tafutafu→tautau→toutou」と流れる北上川を、
「topotopo」と徒歩で遡るだ
けで「Tofomifoki」を越え、分水点の中山から小繋川(こつなぎ:岩手県二戸郡一戸町小繋)、
馬淵川(マべち:岩手県岩手郡葛巻町馬淵:マぶち)に沿って歩けば、自然に青森県八戸市
へ辿り着く。この名をつけた当時の人たちは、「Tofomifoki」の地名だけで、延々100 ㎞に
およぶ道のりと川に沿った峠道を理解できたと想像したい。
もう半世紀も昔になった蒸気機関車を追いかけていた時代に、東北本線奥中山駅とスイ
ッチ・バックの西岳信号所(奥中山~小繋間。1966 年の複線化により廃止)の間にある峠道
を歩いて、数えるだけでもメンドクサイ、中途半端な十三本の木々の塊を探し出せなかっ
た想い出も懐かしい。しかし、こんな気を起こさせる「とほみほき:十三本木」などと、
素晴らしく洒落た文字をあてたのはどんな人達だったのだろうか?
先にふれたように、奈良・平安時代の文献にこういった数詞地名が皆無にちかいため、
この種の文字をあてた時代は、鎌倉・室町時代以降と推理できる。歴史の流れをみると、
長い戦乱の時代が終わり、華麗な町人文化を築きあげた元禄時代あたりに、ふたたび言語
活動を楽しむ余裕がうまれ、洒落たあて字が流行したのではなかろうか。碓氷峠のように、
かつては一つの地名に様々な文字が使われていたようで、東京の五本木、六本木などが地
形地名であれば、
、時代の流行にのって漢字をあて替えた雰囲気が感じられる。残念ながら
変遷記録は残されてないようで、全国にのこる数詞地名を徹底的に調べあげて分析する他
に手がないかもしれない。しかしこれまであげた地名をみてお判りのように、漢字をあて
た地名は、どうして、こんなによみ替えられてしまうかは不思議でならない。
し
り
ぺ
し やま
Shir-pet-nupuri
後方羊諦山→しりべしヨウテイザン→羊諦山→ヨウテイザン。
Tukiyama
月
Ifafasiyama
磐椅山→磐梯山→バンダイサン。
Futara
二
荒→ニクァウ→日光→ニッコウ。
Sirayama
白
山→ハクサン。
Mukoyama
武庫山→六甲山→ロッコウサン。
Safimeyama
佐比賣山→三瓶山→サンベサン。
Atsukisima
小豆島→ショウドしま。
Yu
温
Firakikitake
開聞岳→カイモンだけ。
山→ガッサン。
泉→オンセン→雲仙→ウンゼン。
60
羊諦山は昭和 30 年代まで後方羊諦山(シリベシは「齋明紀」にのる東北北西部の地名?)
を併用していたようで、最近では日本アルプスの「Siromuma:代馬→白馬→ハクバ」岳、箱
根芦ノ湖畔の「Umisiri:湖尻→コじり」の変化が知られる。伊達政宗が千代を改名したと
伝えられる仙台〈Kafafuti:川内→センダイ→千代→仙臺→仙台。推定起源地:宮城県仙台市
青葉区川内。仙臺城(青葉城)所在地〉の例をみると、長い戦国時代の諜報活動に使われた隠語
的な「訓→音」のよみ替えの影響、あるいは洒落好きな江戸時代の人たちが、何らかの意
味をもたせた漢字をあてたために読み替えが発して、こういった様相になったのだろうか。
飛鳥時代以後に地名の語源が伝えられなかったことに加え、音訓併用のあて字を特徴と
する日本語の弊害が如実に現われるのが地名研究の難関といえる。この辺も、四段活用他
動詞で構成された地名の基本語(山、谷、崖)と、湿地に使われた地形語の分析研究がすす
めば、原形への復元に『定理、公理』を確立できる期待がもてる。
このように、十三本木峠が倭語から外来音のよみ方に変貌したのに対して、十六島鼻は
そうではなさそうである。この当て字を「うっぷるい」鼻とよむのは、倭語・漢語の表現
法をどのようにヒネクリまわしても不可能であり、こう読むからには、何らかの理由があ
ったと考える必要がある。
たてぬひ
図 4-2-6 20 万分の 1 地勢図
十六島鼻は、
『出雲国風土記』楯縫郡の条に
大社
お
つ ぷり
於豆 振 埼と記録されている。於豆振は「Otu
(potupotu 落つ:∪型・∩型地形、崖)+tupu
(粒、潰す:崖)+puri(降る、振る:崖)」
と解けるので、岬名に適切な「Otupuri」は、
間違いなく倭語の地名と捉えられる。
ここから、「うっぷるい」も「Utupuri」か
「Utu(∪型・∩型地形、
らの変化が想定され、
崖)
。Uturo(虚ろ:洞窟)
」も、落つと深い関
係をもつ「ぶつ、打つ」の存在により、自然
地名のウツ崎(鹿児島 名瀬)、渦ノ鼻(愛媛
今治西部)、宇図島(島根
形
西郷)
、宇津峠(山
手ノ子)などに使われている。
「Putupuri→Utupuri」の地名解釈は「打つ+潰す+振り」となり、やはり岬にふさわし
い名称になる。この名に近い用例に、打伏の鼻(Utupusi.香川 三本松)、打吹山(Utupuki.
鳥取
倉吉)
、ウツバリ峠(愛媛 松山北部)があり、
「うっぷるい」は半濁音を含む「Utupuri,
Utupurufi」の古い発音を留めた珍しい地名といえそうである。この地名群のように「u」
母音を意識的に重ねた名は、
ウツン崎(Utumu.鹿児島 薩摩硫黄島)、宇津須利ノ鼻(Utusuri.
長崎
厳原)、舂峠(Usutuku.兵庫
龍野)、鈴宇峠(Susufu.宮城・福島
岩手
陸中関)などに残り、韻律をとくに重視した、倭語の特徴を表わす語法になっている。
61
角田)
、夕向峠(Yufumuki.
一方の「十六島」は、常識的な「Tofomusima=Tofo(∪型・∩型地形、崖)+fomu(水際
の崖、窪地)+musi(蒸す:湿地)+sima(湿地)」
、または「Tomusima.Tomu←Topu(∪型・
∩型地形、崖)」という海岸地名にしっくり合う解釈をとりたい。十六島鼻は、この岬の根
元にある「島根県平田市十六島:平成 17 年 3 月以降は出雲市十六島」からの転用名であり、
字名をとった岬は数多く実在する。
大間崎(←青森県下北郡大間町大間)
綾里崎(←岩手県気仙郡三陸町綾里)
関
野母崎(←長崎県東彼杵郡野母崎町野母)
崎(←大分県北海部郡佐賀関町関)
富津岬(←千葉県富津市富津)
伊豆岬(←東京都三宅支庁三宅村伊豆)
伊良湖岬(←愛知県渥美郡渥美町伊良湖) 室戸岬(←高知県室戸市室戸岬)
生地鼻 (←富山県黒部市生地)
折紙鼻(←長崎県福江市蕨町字折紙)
須美江鼻(←宮崎県延岡市須美江町)
宮崎の鼻(←和歌山県有田市宮崎)
〈㊟
崎名の転用率:14.8%。鼻名:6.6%。島名:10.6%〉
こうして、語源解釈と地名の転用を考えると、この岬には「うつぷり(おつぷり)」
埼と「とほむしま」鼻という、二つの名が共用された可能性がうかがえるわけである。
山や峠と同様に、明治時代以前には二種以上の名をもつ岬が数多くあった史実を忘れ
〈日本古典文学体系 2 1958 岩波書店〉にのる『出雲国
てならない。また、『風土記』
風土記』の注釈によると、於豆振埼の「埼」は原文になく、単に於豆振と記されてい
るだけという。ここから於豆振埼は、於豆振鼻であった可能性もでてくる。
明治時代初期に地形図が創られて、地名が単一名に統合される以前に、二つ以上の名を
もっていた岬に足摺岬(高知 土佐清水)がある。この岬の古名は蹉跎埼(Satasaki)で、
これを訓でよみ替えた「あしずりさき」に足摺崎の文字があてられ、田宮虎彦の『足摺岬』
の小説の題名によって「崎→岬」の変化が定着した。さらにこの岬は「西鼻、西寺崎」の
別称をもっていたことが記録されている。前節であげた珠洲岬(石川 珠洲岬)も 5 万分の
1 地形図は金剛崎と記し、かつての国名をとって能登岬ともよばれたと伝えられている。
『出雲国風土記』にのる美保埼(←出雲国嶋根郡美保郷:島根県八束郡美保関町美保関)は
現在の地蔵崎、杵築御埼 (←出雲国出雲郡杵築郷:島根県簸川郡大社町杵築) は日御碕
(Finomisaki)を指して、
『風土記』に詳しく記された岬名、島名を現在名と対照すると、
〈㊟ 『類語の辞典 下』
(1970 講談社学術文庫)には、
今とはかなり違っていた様子がわかる。
十六島鼻の別称として経島鼻(Fumisima-fana:島名の転用)を載せている〉
こうしてみると、この岬が「とほむしま、うつぷり」鼻と二種類の名をもっていた為に、
とんでもない洒落気を起こし、双方をまとめて十六島鼻を「うつぷり」鼻とよませ、これ
に伴い、本家の平田市十六島までもが「うっぷるい」と呼ばれるようになったと考えては
如何であろうか。いまのところ、十六島鼻の解釈にはっきりした定説がないので、ひねく
れた推理をするわけである。
62
だが、
「うつぷり」鼻に嘉字をあてなかったのは、実に残念なことであった。この地名に
「空降」をあてていたなら、
『出雲国風土記』国引き神話をさらに雄大な展開にして、空降
鼻が壮麗な文体に彩られて登場したやもしれず、のちにこの名は「からぶり」と読み替え
られて、大陸からの渡来伝説をもつ神社が建てられていたかもしれない。
鰯の頭も信心から、というように、登富夢宇津布留比命(投武打震の命、十六空振の命)
をまつる「空振神社」があったなら、高校球界のエース達は確実に日参したはずで、三振
をとれないプロ野球の投手陣もこの地にキャンプを張り、北風の吹き荒ぶ岬で、黙々と精
神修養に努めたことだろう。村起こし・町起こしに躍起となって、藁をもすがりたい様子
が感じられる現況をみれば、
「うっぷるい」が単なる難読名として存在するのは勿体ない気
がしてならない。
まあ、これは冗談話として、こう解釈すると「ジュウサンボンぎ」峠は中国語と倭語の
合成名、
「うっぷるい」鼻は純粋な倭語という、なんとも不思議な結果になってしまう。
本節で概略をのべたように、地名の復元には、さまざまな問題が含まれており、言語学、
文献史学、考古学の成果を参照して、一般的な地名解釈法を確立することが課題になる。
しかし未解明の問題が山積されていることは楽しみも多く、この難関を踏破して、記録が
ないと思われている『縄文、弥生』時代の言語活動の一端を再現することこそ、地名研究
に課せられた使命といえるのである。
63
⒊
海岸地名と縄文海進
ここまでは、
「峠、岬、島」をテーマにして地名解釈法と命名年代を推理し、自然地名の
大多数が縄文~弥生時代につけられていた可能性をのべた。根拠は各地名群の「分布状況、
ベスト 10 と 30 傑の占有率、地名の音数」に現われる差異をもとにしたが、これらは状況
証拠であり、仮説の範囲に留まっている。
考古学の時代区分が、石器と土器の「地方毎の分布、形態の変遷、出土した地層の順位
と年代測定」を基に確立した史実をみると、石器と土器の形態変化が、占有率、音数、個
別の名称」に該当しそうなので、出土した地層にあたる指標を探す必要がある。
ここに、地名が一地点の「地形表現」を主体に命名した史実に注目すると、時代の推移
に従って変化した『自然地形』が、地層と同等の指標になる可能性が高いことがわかる。
ふだん見なれている地図でも、注意してみると、常識では判断しにくい地名が随所に残
されていて、なぜこのような場所に、こんな地名をつけたのだろうか? という疑問を抱い
た経験はないだろうか。いまは潟湖をなくした新潟、砂潟(→酒田)、象潟などが典型だが、
前章の「Nakatsaki(中崎、長崎)。Nakatsima(中島、長島)」の分布図に示したように、現
役の「岬、島」と共に、もうひとつ極だった特徴をもつ「崎、島」地名群が併存している。
次の地形図にのる「崎、島」地名から、二つの重要な共通点を読みとっていただきたい。
といっても、難しく考えるとかえって判らなくなるおそれがあるので、小学生程度の視線
で御覧いただきたい。
図 4-3-1 5 万分の 1 地形図
波切(三重県志摩半島 昭和 43 年編集 平成 13 年修正)
64
図 4-3-2 5 万分の 1 地形図
玉島(岡山県倉敷市 昭和 57 年編集 平成 12 年修正)
もう、おわかりのように、二つの共通点とは次のことがらである。
➀ 崎・島地名は、内陸部にも「字名」として現存する。
➁ 内陸部の「崎、島」地名は、いま海に面している「岬、島」名と比較して、
音数の少ない、やさしい名が多用されている。
図 1 に載るように、現役の岬・島名は「大王崎、大王島」のように小文字で表記され、字名
の崎・島地名は「大 崎、志 島」など、大文字を使って区別されている。本書は『地名が
一音または二音に発し、時代の推移に従い、三音、四音、五音に発達した』仮説を使って
いる。この仮説が正しければ、➁の様相から、いま海に面している自然地名の「岬、島」
名より、内陸部にある字名の「崎、島」地名のほうが古い時代につけられたことになる。
ただし、この比較を行なうには、内陸部と海岸部に併存する「崎、島」が、同じ様式で
命名された史実を立証しなければならない。
「島」の項でふれたように、山間地域にも字名
の「崎、島」地名があることが比較対照を難しくする。が、この地名群を詳細にあたると、
山間の「崎、島」地名と内陸平野部のそれには、命名法が微妙に違った形跡があり、この
わずかな差異から、平野部の「崎、島」地名は、現役の「岬、島」名と同じ命名法でつけ
〈後述〉
た史実が浮上する。
65
また、おなじ様相が、東北、関東、中部、近畿、中国、四国、九州地方と、日本列島の
全域に見られるところが重要である。なぜ、現役の「岬、島」に酷似した地名が列島全域
の平野部に残されているのだろうか? この理由が判れば、内陸の「崎、島」地名群の成立
要因と命名年代を解明できそうな期待がわく。
そこで原因を考えると、次のことがらを想定できる。
⒜ 海岸部の集落名をつける際に、この地名群は「~崎」
「~島」のような岬名、
島名とおなじ様式をとることが決められ、実際の岬や島の名は時代の流行に
のって変化したが、集落名だけ古型をとどめて現代に伝えられた。
⒝ 海岸部の地名をつけた後に、日本列島全体が隆起し、かつて海に接していた
地は、海と遠く離れて集落名だけが保存され、「岬、島」になった場所には
時代に応じた新地名が採用された。
⒞ 列島全体の地形に大きな変動はなく、海水面だけが下がったため、平野部に
「崎、島」地名が残され、あらたな「岬、島」に新設名がつけられた。
この一つひとつの要素を検討しよう。
⒜
海岸集落の命名法
現在の海岸集落の分布状況をみても、風水害や津波の災害をさけるために、集落の位置
は海水面からできるかぎり高い場所に形成されるのが普通である。近年は土木・建設技術
の進歩と土地利用の変化から、海水面ギリギリ、または水面下の沖積平野や埋立地にまで
都市形成がなされているが、かつては自然災害をさけた段丘上、水利のよい扇状地に集落
が造られていた。こうした状況から、「~崎、~島」地名が海岸から離れた内陸平野にある
ことは理解できる。しかし、次の二つの地図を御覧いただきたい。
図 3 は小さくて判りにくいが、字名の
「崎、島」地名が、いまの海岸線に平行
して点在せず、平野と丘陵の接点付近に
つけられている様子がわかる。
さらに沖積平野の「崎、島」地名の標
高が、図 2 にも見られたように、おおよ
そ 10m前後の地にあるところも注目す
べきである。二つの要素はどの沖積平野
にもみられる共通項で、
「崎、島」地名が
命名された後に、地面と海水面の関係が
変化した様子を暗示し、地名命名法の癖
から発したとは考えにくくなる。
図 4-3-3
66
5 万分の 1 地形図
高知
図 4 は、東京湾から 30km も離れた内陸の埼玉県さ
いたま市(もと浦和市、大宮市)周辺の地勢図である。
やはり地図が小さく、都市化が進んでいて判り難い
が、
『京浜東北線』浦和駅で検証したように、大宮台
地の丘陵端に「~崎」や海岸地名がつけられ、これ
をかこむ低地に「~島」や湿地名が残されている。
浦和〈←Urafa=浦(海にある入江)+fa(端)。Urafara
=原・腹(台地端)の裏〉付近の海岸地名が正確に地
形と対応していることは、この地名をつけたとき、
付近が海に面していたと考えるのが、もっとも理解
しやすい解釈法になる。
日本列島全域(除く北海道)に同じ様相が見られ
るので、集落名の「崎、島」は地名命名法の癖から
発したとは考えにくいのである。
⒝
図 4-3-4
20 万分の 1 地勢図
東京
日本列島の隆起
この捉え方は、現代の生物学・人類学、考古学の成果、地学・地質学の定説をあわせて
考えると、まるで問題にならない発想になる。約 700 万年の歴史をもつといわれる人類は、
猿人(アウストラ・ロピテクスなど)、原人(シナントロプス・ペキネンシスなど)、旧人(ネ
アンデルタール人:ホモ・ハイデルベルゲンシス)
、新人(クロマニオン人系:ホモサピエンス・
サピエンス)全体を指している。しかし白人と黒人、日本人などの現生人類はすべて新人で、
他の種は絶滅したのである。言葉を駆使したことが確実視されている約 2 万 3 千年前に消
えた旧人と、新人とでは、口腔の構造の違いによる言葉を操る「言語能力」に大差があっ
た様子が推測されている。
分子生物学が発達した現在は、新人のルーツ捜しが活発に行なわれ、女性の遺伝子だけ
に継承される「ミトコンドリアDNA」の分析から、約 20 万年前にアフリカで新人が誕生
した可能性が高い様相が浮上した。環境変動に応じて変化しうる一般のDNA(ディオキシ
リボ核酸)に比べて、ミトコンドリアDNAは一万年に一回新種がうまれる程度の安定した
性質をもち、今のところ現世人類のそれは八十数種、日本人は十六種類のミトコンドリア
DNAで構成されることが判明している。アフリカにうまれた新人が東アジアに登場した
のは約 5 万年前、日本列島に定着したのは 3 万年ほど前と考えられている。つまり、私達
の祖先が全国に地名をつけた可能性がある時代は、古く見積もっても約 3 万年前の先土器
時代Ⅱ期(中期)初頭と考えて良さそうである。
これを地球物理学、地質学の分野から眺めると、この程度の年月で、日本列島全体が一
様に隆起した史実は、まったく考えられないのである。
67
「北米、太平洋、フィリピン海、ユーラシア」プレートがひしめき合うこの国の地形は、
世界に類をみない地形変化の激しい地域といえる。この地殻変動によって、いまでも褶曲
山脈や岬状地形などは隆起をつづけ、関東平野の一部や琵琶湖、諏訪湖周辺などは連続沈
降している。この平均隆起量の最大値(飛騨山脈など)は年間 1~2 ㎜と計測されていて、
この値を使うと 3 万年の年月では 30~60mほどの隆起量が一般的な最大値になる。だが、
これほど地殻変動の激しい列島であっても、第四紀には地域ごとに様々な隆起・沈降が起
きていて、列島全体の一律の隆起は、3 万年ほどの短期間では考えられないのである。
⒞
海水面の低下
⒜・⒝の推論が否定されると、残された要因はこの項目だけになる。約 3 万年前から現
代にいたる間に、日本列島全域におよぶ海水面の低下があったかが問題になるが、答えは
イエスである。この現象は地球物理学、地質学、気象学、考古学、生物学など、さまざま
な分野から立証された有名な事実である。
約 1 万 5 千年前に、10 万年ちかく続いた氷河期(ヴュルム氷期)が終って後氷期に入り、
地球環境が温暖化…9 千年の間に 10℃ほど気温が上昇…し、海水位が氷河期と比べて 120~
130mほど上がった。温暖化は約 5 千 5 百年前をピークに終息したが、この後に緩やかな大
気温の低下(-2~-3℃)を伴ったため、ピーク時に今より 3~5mほど高い位置にあった海
水面が、4 千年の期間をかけて徐々に低下し、弥生時代に今と同じ状態になったものである。
この現象は世界各地に認められて、温暖化した時代が、わが国の時代区分では縄文時代
草創期~前期(約 15,000~5,500 年前)にあたるため、海水面が上昇して陸地に侵入した現
象を『縄文海進』
、または、この時代の暖水系の貝殻を大量にふくむ沖積層(有楽町層)が
最初に発見された、東京都千代田区有楽町の名をとって「有楽町海進」ともよばれている。
(第一章『山手線の駅』新橋・有楽町駅参照)
この『縄文海進』が地名の命名年代測定の大切なカギになり、先にあげた、さいたま市
周辺の地図でも、付近の地名が海岸地名に酷似するだけでなく、縄文時代前期~中期(約
9,000~4,000 年前)の海産の貝を主体にした貝塚群が、海岸地名に重なる事実が注目される。
海進が終息した後の縄文時代後期~晩期(約 4,000~2,300 年前)には、気温の低下に伴って
海が後退する現象(海退)により、貝塚の位置が次第に今の海岸線に近づいていった様子が
残されている史実も大切である。
もうひとつ興味をひく現象は、内陸の「崎、島」地名は、本州・四国・九州地方の海岸
と沖積平野に一様に残されているが、北海道に痕跡がほとんど見いだせないことである。
一般に、北海道の現存地名の解釈は難しく、江戸時代後期から明治時代に和人がアイヌ語
地名を変形して二文字の漢字をあてた名が、さらに変形したものや、屯田兵や開拓民によ
って内地の地名を移入した例も多いため、現存地名をみるだけでとても解釈できる代物で
68
はない。が幸いなことに、上原熊次郎、松浦武四郎、永田方正、金田一京助、知里真志保、
山田秀三、更科源三という先人諸氏の優れた研究によって、地名の大半の語源が解明され
ている。この成果を参照して、沿岸部から沖積平野の地名をあたると、縄文時代に東北北
部と同じ円筒式土器の文化圏(第三章 36p 図 3-1-9)にあった道南地方に、海進→海退の
形跡が多少残されている様にも見えるが、道東・道北地方に痕跡をまったく見いだせない。
この事実も、重要なことがらを語っている。
現在、
『アイヌ語』の成立年代は、擦文・オホーツク文化(鎌倉時代に相当)以後とする
説が提起されていることを考慮し、本州・四国・九州地方に残された「崎、島」などの字
名が縄文時代早期~晩期に命名されたと仮定すると、北海道に痕跡がないのは必然の現象
になる。この地方の先土器~縄文時代の遺跡や、東北地方などとの交流を考えれば、北海
道においても、縄文時代に地名をつけていたとの推測はできる。が、この時代にどんな言
葉が話されていたかを示す資料がないため、想像の域をでないのは残念だが、縄文時代、
またはそれ以前につけられていた地名も、アイヌ語の成立によって抹消されてしまった。
とは考えられそうな気がする。言語が変化すると、地名を替える例は諸外国にもみられ、
現在この国で進行中の地名改変も、言葉が平板・無国籍化し、日本語への理解度と表現力
をはじめ、様々な能力が落ち込んだ世相を反映した現象と考えられるかもしれない。
この仮説が成り立つなら、アイヌ語の成立年代をくりあげて擦文・オホーツク文化時代、
さらに続縄文(弥生~平安)時代に想定しても、北海道の内陸部に「崎(Etu, Not など)。
島(Moshir, Shir:山の意味での使用例はある)」地名がない理由を理解できる。
これとは反対に、沖縄県と奄美群島の海岸平野に、同種の地名(~島、~崎)が残され
ているのは興味を誘う。倭語と琉球語の起源は同じ言語とするのが定説であり、内陸部の
「崎、島」地名は、この傍証の意味で重要な存在になるかもしれない。ただ、内地と同じ
地形語の解釈がとれそうな琉球の地名研究がアイヌ語地名ほど進展していないため、この
辺を比較できないのは残念である。しかし本州、四国、九州と沖縄に 6,000 年以上も昔に
命名された地名が大量に残されている。という、実に楽しい推理が生まれるのである。
地名のもつ際だった特徴、
『地形を端的に表現して、他の地名をはっきり区別する簡潔で
印象的な発音』は、為政者、行政府、地方公共団体、公益企業などの人為的な手が加えら
れなければ、保存されやすい性質を備えている。村落が形成されて権力者が登場した弥生
時代から、強力な首長の生まれた古墳時代中期あたりまでは、命名法が理解されていたと
考えられるので、この種の古い地名が全国いたる所にあったと推理できる。
幸か不幸か、大きな港湾地帯や沖積平野の一部を除けば、地形の制約から海岸部に大集
落が形成されることは少なく、民族学・考古学の実証から、漁法をはじめ縄文以来の伝統
がいまもなお受けつがれている事例が解明されている。使い捨て全盛の都市部とは違って
古い伝統をひきつぐこの地域には、為政者などの手に掛からなかった地名が大量に継承さ
れていると考えても、間違いとは言いきれないだろう。縄文時代早期~前期の生活状況は
69
ある程度まで復元されており、この人々が、現代の私たちには真似することもできない、
正確に地形を表現する『地名の命名論理』を構築し、これを自在に操っていたのは確実と
考えられるのである。
内陸部の「崎、島」地名群が、縄文時代早期~晩期に命名されたことを立証できれば、
当時使われていた言葉の一端が浮かびあがる。果たして、それが可能であるかは、現役の
「岬、島」地名群、弥生時代に新設された可能性が高い「鼻」地名群の特性の比較対照に
委ねられる。さらに『自然地形』が、先土器時代から現代にいたる間にどのように変化し、
現存する内陸部の「崎、島」地名が、どの時代の地形を表わしたかを調べることが大切な
意義をもつ。歴史は単に過去の様相を記したものでなく、未来への手掛りをも残している。
そこで、いま注目を集める「地球温暖化」が実際に起こり、それに連動した『縄文海進→
海退』とは、どのような現象であったかを考えよう。
(1)
氷河期と間氷期
縄文海進が、どんな原因で引き起こされたかを理解するには、いまから百万年ほど前に
発した『氷河時代』を頭におかねばならない。氷河時代とは、「氷河期」と呼ばれる今より
5~10℃ほど気温が低い時代と、現在とおなじ程度の大気温の「間氷期」が交互に現われる
時代を指している。私たちの暮らす現代が、氷河時代の『後氷期=間氷期:高温の時期』
であることは、記憶すべき必須事項である。
「氷河期」は、地球の公転軌道の変化(円に近い楕円から長楕円への微小変化)、自転軸(公
転軌道面の鉛直線と約 23 度)の傾きの変化と歳差運動の変動、太陽の活動状況、地磁気反転
(南極⇔北極の逆転)などの影響から、太陽光の照射量が減って極地の気温が低下すると、
高緯度地帯の雪原が夏の間も溶けずに、万年雪になるために起きる現象という。万年雪の
地域が拡大すると、白い雪の表面が太陽光を反射するために、地表面が吸収する熱エネル
ギーが減少し、さらに気温を下げる要因になる〈アルベト効果〉。雪原が発達しつづけると、
大気と地表面、海水面との水循環が変化をする。
現在のように地球環境が温暖な時代には、海水面や地表面から水が水蒸気として蒸発し、
雲になってふたたび海面や地面に雨をふらせるが、これが氷山や氷冠、万年雪として高緯
度地域や高山に蓄えられると、水の循環サイクルが変動する。太陽光をうけて低緯度~中
緯度地域の海面や地表面から蒸発した水分は、ふたたびこの地域にもどらず、高緯度地域
に氷や万年雪として蓄積されてしまう。この現象はアルベト効果をつよめて地球全体の気
温を低下させ、水循環の変動によって海水面は次第に低下する。最終氷期の最も大気温度
の低い時代(約 2 万年前)には、いまより 120~130mほど海水位が低下した事実が解明され
ている。この名残りが、
「大陸棚」とよばれる海面下 120m前後にある段丘状の地形で、か
つての洪積平野や海岸段丘の姿をとどめた地形が、氷河期の海岸線を示している。
70
右図は約2万年前の日本列島の陸地と
植生の復元図である。ふだん見なれた列島
の姿とは大きく異なるこの図に、東京湾も
瀬戸内海もない。東京湾(観音崎―富津岬
を結ぶラインの内側)の水深は 20~30mと
一般には浅いが、航路として使用される
「観音崎海底水道」という水深 40~50mの
水路は、氷河期に形成した古東京川(荒川、
利根川、多摩川などが合流した川)の浸食谷
を利用しているのは興味ぶかい。次の氷河
期に、ウォーターフロントのレインボー・
ブリッジ、東京湾アクア・ライン、本四連
絡架橋はどんな姿に映るだろう?
など
と余計な想像をするのも楽しいが、先土器
図 4-3-5
~縄文時代草創期の貝塚が発見されない理
2 万年前の日本列島の姿
『環境考古学事始』
〈NHK ブックス 365
由だけは簡単に理解できる。
安田喜憲 1980〉図 7,8 も同書から転載
一般に「氷河期」とよばれる言葉は、ヨーロッパやカナダ、アメリカのように、生活圏
の大半が氷雪に覆われてしまう、高緯度地帯から発したことに注目しなければならない。
中緯度の大陸東端に位置するこの国には、氷河期の遺物は少なく、わずかに北海道の日高
山脈や中部地方の飛騨・赤石・木曾山脈に残された、カール(圏谷)やモレーン(堆石)な
どに痕跡を留めるのみである。
氷河期には、大陸と列島の間にある日本海が、北部は氷で閉ざされ、海水面の低下から
西部も大陸との間隔が狭まって、暖流(黒潮→対馬海流)の流入しない巨大な湖に変化して
いた様子が想定されている。さらに、温帯モンスーン気候をもたらす偏西風帯が、気温の
低下によって低緯度地域に移動したために海水の蒸発量が減り、世界有数の豪雪地帯とし
て知られる北海道、東北、北陸地方においても、冬期の降雪量が激減したのである。こう
した状況から、わが国では大陸に比べて氷河の影響は少なく、この時代の地層に含まれた
植物花粉の分析結果などから、最終氷期の最寒期の気温は今と比べて 7~8℃ほど低かった
様子が明らかにされている。
これを現在の年平均気温に単純にあてはめると、鹿児島(年平均気温 17.3℃)が、高山
(10.3℃)、盛岡(9.8)、青森(9.6)、ロンドン(9.5)、パリ(10.5)ほどの気温になって、
広島(15.0℃)、京都(15.2)、名古屋(14.9)、東京(15.3)などが函館(8.3℃)、札幌(8.0)、
ミュンヘン(7.9)、コペンハーゲン(8.5)くらいの温度になり、札幌はツンドラ気候の樺
〈『理科年表』
(東京天文台編 1987 丸善)
太中部(0℃)ほどの気温に変化していたことになる。
による〉
71
一度でも北海道を旅行された方なら、地形が本州、四国、九州とかなり違っている様子
に気づかれたとおもう。大陸的とも形容される道央、道東、道北の地形は、しゅうきょく
山脈や火山地形をのぞくと、道南や本州以西と比べて、なだらかな山や丘陵で構成されて
いるのが一般である。近年よくとりあげられる「富良野、美瑛」のラベンダー畑を典型と
するこの地形は、氷河期の名残りを留めたものである。私たちは氷河というと、すぐフィ
ヨルドなどの急峻な∪字谷を思い浮かべるけれども、中緯度の地域ではこの種の現象より、
気温が 0℃前後を上下するために起こる、周氷期現象(ソリフラクション)とよばれる作用
のほうが重要である。
雨、雪の少ない低温地帯に発生するこの現象は、土壌にふくまれた水分が凍結、融解を
くり返すために表土がはがれやすくなり、斜面の岩石や砂礫が転がり落ちて、山は低くな
だらかに、谷は落石や土砂で埋まり、地形全体がゆったりとした趣きを見せることになる。
さらに、ツンドラ気候では霜の影響から木が根づかないので斜面が崩れやすく、降雨・降
雪量が少ないことから浸食作用も働かないために、大陸風とよばれる北海道に、ほぼ同緯
度のフランス、イギリスによく似た、なだらかな地形が出現したのだった。
本書の解釈法は、話題の中心が常に「∨型・∧型地形、斜面、崖」ばかりで、この手法
が「崖づくし」と揶揄されるのも当然といえる。本州以西の地形は、地殻変動の激しい地
形条件と、温帯モンスーンの多雨・多湿気候の浸食作用によって造りだされた急峻な山岳
地形を主体にしている。しかしこの地方も、北海道や大陸のようになだらかな地形で構成
されていたなら、これほど「崖」が多用されることはなかっただろう。おそらく地名命名
法も変わった形が採用されていたはずで、ものの名前や言語の構成も、いまとは様相を換
えていたかもしれない。この意味でも、地形と地名の関係を考えることが重要度を増し、
気候風土に密着して営まれた、かつての生活形態を理解することが大切なテーマになる。
近年、わが国と欧米諸国との生活習慣、思考法の差が問題になる場合も多いが、原点に、
地形条件と気候風土の大きな違いがあった史実を忘れられない。
氷河時代の研究は、この数十年の間に飛躍的といえるほど進展して、様々な現象が解明
されている。比較的最近まで、第四紀の氷期はドナウ川の本・支流名を採用した「ドナウ、
ギュンツ、ミンデル、リス、ヴュルム」の区分があてられていたが、各種の調査結果から、
倍数ちかくの氷期が確認され、最終のヴュルム氷期のほかは長く親しまれてきた名が使い
にくくなったのは、ちょっと寂しい感じもする。現在さまざまな分野からのデータが公表
されているので惑いを誘うが、ここでは深海底に残された有孔虫化石の殻に含まれた酸素
同位体の比率(酸素 18 と酸素 16 の割合:δ18O)を基に算出された、この 70 万年ほどの間
におきた気候変動の変化曲線を示そう。
72
図 4-3-6 この 70 万年間の気候変動曲線(Emiliani,1978 に加筆)
考古学シリーズ➇ 『地層の知識』
〈町田 洋ほか 東京美術 1986〉
有孔虫は単細胞の原生動物の一種で、アメーバの親類とも考えられる生物である。この
生物は海底にすみ、細胞をつくる原形質のまわりに石灰質の殻をつくって、水深や水温、
海水中の塩分濃度に応じて棲み別けをするので、古い時代の気候変化や環境を復元するう
えの大切な化石資料になっている。有孔虫の殻は炭酸カルシウム(CaCO3)で形成され、
CaCO3にふくまれた酸素の安定同位体(18O)の、酸素(16O)に対する割合「δ18O」
が水温や塩分濃度に左右されることから、海水温度や塩分の変化が調べられる。
図 6 では、
「δ18O」の濃い下の部分が寒冷な時代、つまり水が氷河や氷山に蓄えられて
海の塩分濃度が高まった氷河期を表わし、
「δ18O」の薄い上の方が温暖な間氷期を示して、
過去 70 万年の間に約 8 回の氷期が訪れた様子を表現する。このグラフは、私たちに重大な
事実を提起している。
ひとつは、図に示された低温の「氷河期」と、現在と同程度の気温の「間氷期」は交互
に現われ、氷河期と間氷期では圧倒的に「氷河期」が長いところが重要である。水惑星の
地球は、常にこうした気候変動をくり返す特性をもっている。とくに私たちが暮らす後氷
期(間氷期)は、マクロ的にみると、新生代第四紀の地球気候のなかでは特殊な時代である
ことへの理解が必要である。いま注目を集めている地球環境問題も、個々の現象をとりあ
げるだけでなく、多面的・総合的にとらえる必要が感じられる。
もうひとつ大切なことは、いまの地球環境が、第四紀の中で最も温度の高い時代である
ことへの認識である。46 億年という地球の永い歴史を考えるうえでは、人類の 700 万年と
いう歴史はほんの一瞬としか映らないが、この間にも地球環境が変化をし続けてきた史実
に注目する必要がある。永いヴュルム氷期が終わり、温暖な気候に変化しはじめたのは約
15,000 年前だった。この大気温が最高に達した時代(今より 2~3℃の気温上昇)は約 5,500
年前に想定されている。最高温度になった前後の 2,000~3,000 年の期間は「ヒプシ・サー
マル」
、または「クライマティック・オプティマム」とよばれる。
73
両者の和訳が人類にとっての「最高温期、最適条件」であるように、約 11,000 年前に起
きた極端な気温急降下による食糧不足によって必然的に生れた農耕文化に加え、この時代
に現在の生活基盤をつくった都市文明が誕生し、古代エジプト、メソポタミア、インダス、
黄河などの文明が花を開いたのだった。
わが国においては、まだ具体的な農耕文化の発生がこの時代に認められてはいないが、
三内丸山遺跡(約 5,500~4,000 年前)などの発掘調査から、クリ・ヒエなどの栽培が行なわ
れていたのは確実視されている。5,500 年前は縄文時代前期→中期の境界にあたり、この
2,000 年の間に東北、関東、中部地方を中心にした前期~中期の華麗な文化がうまれて、こ
の時期が縄文時代で最も人口の多い時代(約 26 万人)と考えられている。これ以後は気温
の低下(-2~-3℃)に伴う植生の変化などから人口は次第に減少し(晩期:約 8 万人)、土
器の形も自由奔放で華やかな姿をみせる中期に比べ、後期、晩期と洗練されては行くが、
なにか呪術的な色合いをおびた暗さを感じさせるものが多くなっていった。
ふだん私たちは全く意識しないことだが、長期間の年平均気温の変化(±0.5℃前後)が
植生をかえ、人類に及ぼす影響がたいへん大きいことを、改めて意識しなければならない。
大気温度の変動は地球のもつ特性であり、動植物は生活拠点の移動でこの変化に適応する
ので、これ自体が問題になるのではなく、人間社会に大問題が発生するのである。近年、
とくに注目を集めている現象が、大気中の炭酸ガス濃度の増加によって引き起こされる大
気温度の上昇である。
ご承知のように、この現象は「温室効果」とよばれる炭酸ガスの性質に発するもので、
炭酸ガス(CO2)は太陽光を通すが、地表面で反射された赤外線を吸収して熱を宇宙空間
に逃がさない働きをして、一部をふたたび地面に返すために、大気の保温効果が現われる。
温室効果は重要な働きで、空気中に炭酸ガスがなければ気温が極端に低下して、人類など
は死滅してしまうことになる。むろん動物は空気と水から酸素を呼吸し、炭酸ガスをだす
システムによって環境に適応した生活を営み、植物が日中に炭酸同化作用を行なうため、
こんなことは考えられない。この温室効果を生みだす炭酸ガス、水蒸気、オゾン(O3)、メ
タン(CH4)、酸化窒素(N2O,NO,NO2)などの適度の存在が、生物が陸上で生活を
した約 4 億年の期間を支えてきた。
過去の地球環境をみると、新生代の氷河時代以前は、いまより温暖な時代だったようで、
約 5 億 8 千万年~6 千 5 百万年前の古生代から中生代の間は、炭酸ガス濃度が高く…古生代
石炭期は約 3,000ppm…、植物の生育に適していたと考えられている。この時代の植物は現在
のものより形が大きく、これに合わせて、中生代に出現した草食恐竜の巨大な姿も時代を
象徴するようにみえる。生物が陸上へ進出して、炭酸ガスは次第に生態系にとりこまれ、
その遺骸が地中、海中に固定されて大気中の濃度を下げ、第四紀の哺乳類全盛時代を迎え
たのだった。しかし人類文明の拡大によって、せっかく固定されていた化石燃料を地表面
に引きずり出し、かてて加えて、これを緩和する自然環境の改変を積極的に行なってきた
ために、地球環境は古代に逆もどりの様相を見せはじめている。
74
いま大気中のCO2濃度は「400ppm」と計測されるが、第四紀氷河時代後半(約 25 万年前
~現代)の自然環境に、炭酸ガス濃度が「300ppm」を越える時代はなかったとみるのが現代
科学の推論である。これは南極大陸やグリーンランドの 3,000mにおよぶ氷床を調べた結果、
この 25 万年間の氷に封じ込められていた大気中のCO2は、大気温度とおおよそ比例し、
約 13 万年前と 6 千年前の氷河期から間氷期へ移行した最高温の時代(ヒプシ・サーマル)
でも、前者で 300ppm 前後、後者は約 280ppm と計測されている。ごく最近まで、炭酸ガス濃
度と大気温度の関係ははっきりしなかったが、この分析により、予想どおり両者が比例す
る事実が明らかにされた。近年の炭酸ガスは自然発生する炭素の安定同位体(13C)含有量
が少なく、人為作用でCO2が増えていることも解明された。6,000 年前の時代から産業革
命の 250 年前まで、炭酸ガス濃度は「280ppm」前後の一定値を示し、1800 年代から徐々に
上がって、この数十年の間は指数関数的に急激な上昇をみせている。
この具体例は、20 世紀 100 年間に大気温度が約
0.6℃(わが国では約 1℃。東京・大阪などの都市部
は、ヒート・アイランド現象の影響を交えて約 3℃)
上昇し、高温化が最も激しい極地の氷山の分離、
アラスカ、シベリアの永久凍土融解、ヒマラヤ、
アルプスにおける氷河後退などの現象に確認され
ている。近年の海水温上昇と偏東風の変動に伴い、
太平洋中部の暖水塊が移動する「エル・ニーニョ、
図 4-3-7 大気中の炭酸ガス濃度の推移
ラ・ニーニャ」現象が大規模化していることや、
台風発生が赤道付近から北上し、偏西風帯の大蛇
行、梅雨前線の移動、大熱波・大寒波、集中豪雨・
大旱魃など、いわゆる世界各地の異常気象にこれ
が認められている。各種の調査分析から、やや低
温の時代が続いた 20 世紀中盤は、炭酸ガス増加が
大気温度の低下を相殺していた亜低温の時代と考
えられるようになった。
図 4-3-8 大気温度の変化〈北半球〉
1970 年以降は自然現象の微温暖化時代に位置
づけられ、温室効果ガスの増加は相乗効果を与え、
『地球温暖化を考える』
〈宇沢弘文 1995 岩波新書〉
予測の倍近い気温上昇の様相をみせているという。
この原因は、温室効果が炭酸ガスだけでなく、過度の放牧や永久凍土の融解によるメタ
ンガス(CH4:1 分子あたりの温室効果はCO2の約 20 倍)、窒素肥料の大量散布により発生
する亜酸化窒素(N2O:約 100 倍)、冷媒・洗浄剤として使われてきたフロン(CCl2F2,
CCl3Fなど:1 万倍以上)の増加が大気の温室効果を高めると考えられている。
〈㊟
大気温度上昇に温室効果ガスが関与する割合は、おおよそCO2:64%.CH4:19%.
N2O:6%.フロン:10%.その他:1%といわれる〉
75
気温が上がる現象は、約 6,000 年前の最高温期が人類の「最適条件」とよばれるように、
人間社会のうえでも歓迎してよさそうな感じがする。だが、これは一地域に限った歴史解
釈である。大気温の上昇は、地域毎に極端な乾燥、湿潤の二分化をもたらし、当時のエジ
プト、メソポタミアでは砂漠化が発生して、必然的にナイル、チグリス・ユーフラテス川
流域に人口が集中したことが、二つの都市文明が誕生した主因と考えられている。
はこぶね
『旧訳聖書』の「ノアの方舟」説話は、20 世紀にイラクで発見されたシュメール語で記
した洪水伝説と、地中の花粉分析、地質調査などにより古代環境を復元する『環境考古学』
の成果から、メソポタミアで実際に起きた、約 5,500 年前の大洪水の伝承である可能性が
高い様相が浮上した。同じ時代の洪水伝説が世界各地に伝えられ、地層にそれが記録され
ているところが傍証になっている。
わが国にもこの痕跡が残されていて、縄文時代草創期~前期(約 12,000~5,500 年前)の
低湿地遺跡として名高い鳥浜貝塚(福井県三方郡三方町鳥浜)が前期中葉に放棄された史実
は地中に残る洪水層に確認され、
関東地方でも約 5,500 年前に湿潤化して大洪水が多発し、
地層分析と遺跡の分布状況から、この時代におきた河川の氾濫が関東平野の原形を造った
と推定されている。
「ノアの方舟」説話が誇張して書かれていても、温暖化ピーク(気温上昇→下降の変曲点)
の巨大洪水は、歴史時代に起きたそれとはスケールの違う大規模なものと推定されている。
縄文時代早期~前期の文化が内湾型の漁労を中心に成立したのに対して、華やかな中期は
クリ・ナラ・トチの林を主体に、八ヶ岳山麓などの内陸型の狩猟採集に移行したのも、気
候大変動の影響だった。三内丸山の遺跡集落が中期(約 5,500 年前)に始まったのも、この
大変化に無縁ではないのである。
地球環境は常に変動する。なかでも、現代はこの 2,000 年間で最も激しい気象変動期に
入った可能性が高いところが大切である。今の約 70 億という世界人口をみても、居住空間
はこれ以上拡大できない状況にあり、肥大を重ねてきた人類の生活基盤が、きわめて脆弱
な「砂上の楼閣」にあることを意識しなければならない。
たしかにこの国は世界第三位の経済大国、技術国である。しかし基本ベースが自給不能
の食糧事情と、海水面ギリギリの沖積平野や埋立地にまで進出した土地利用に依存してい
る現実を、あらためて見直すことが大事である。年平均気温のわずかな変化が世界全体に
与える深刻な影響を考える必要があって、この数十年後に起こりうる事態への対応策を、
いまから充分に考えておかねばならない。
76
(2)
縄文海進
地球環境が温暖になり、海水面が上昇して陸地に侵入する現象を『海進』とよび、大気
温度が下がり、海水面の低下にしたがって、海岸線が後退する現象は『海退』とよばれる。
両者は「氷河期→間氷期→氷河期」の温度変化に対応して現われる。わが国では、最終氷
、約 13 万年前のリス氷期から
期(ヴュルム氷期)から後氷期への『縄文海進(有楽町海進)』
間氷期へ移行した際の『下末吉海進(標識地名:神奈川県横浜市鶴見区下末吉。第二章「京浜
東北線の駅」東神奈川駅の図 2-13 参照)
』が知られている。
左図 9 は、縄文海進がピークに達した約
5,500 年前の日本列島の復元図である。先
にあげた氷河期の形を比較すると、この図
は痩せおとろえた実に貧相な姿に見える。
今より 2~3℃ほど気温が高かったピーク
時には、海水面が 3~5mほど高い位置に
あり、私たちが生活拠点にする平野の大半
が海中に没していた。関東平野、濃美平野、
大阪平野などの沖積平野が、後の気温低下
に伴う海退現象、隆起作用、火山の噴火や
河川の堆積作用によって、陸地として存在
する恩恵を感謝しなければならない。
もし、いま地表面に蓄えられている氷雪
図 4-3-9
や極地の氷山が全て溶けたと仮定すると、
約 6000 年前の日本列島の姿
海水面は 70~100mほど上昇するという。
すでに大気温が上がりはじめた現状も、数十年でこの状態になることは考えられないが、
50~100 年後に、縄文海進に似た数 10 ㎝~1m程度の海水位上昇は予想されている。
左の図 10 は、最終氷期から現代にいたる大気温
の変遷(左の目盛:℃。図 6 とは逆に右が現在)と海
面の変化(右の目盛:m)を表わすグラフで、ここ
に見られる現象も重大な事実を喚起している。
〈㊟
図の曲線 1 は東京湾沿岸、2 は伊勢湾沿岸、
3 は大阪湾沿岸のそれぞれ海面変化のカーブで、
曲線 4 は年平均気温の推移を表わす〉。
精度が上った最近のデータでは大気温がも
っと細かく上下した様子も明らかにされている。が、
図 4-3-10 この 1 万 3 千年間の気候変動曲線
これに伴う海水面の上下動の解析が難しく、気温と
海水位変動の模式図として、このグラフの上下動を基本に考えて良いようである。
77
この図から、自然現象の大気温の上昇・下降はきわめて緩やかで、海水面の上昇・下降
もひじょうにゆったりした現象だった様子がわかる。
本来の地球環境とは、こうした変化を示すのであ
る。いま予測されている大気温度上昇は、100 年後に
「+1.5~+6℃(2000
「+1~+3.5℃(従来の予想)」
年にIPCC…気候変動に関する国連の政府間パネル…が
変更した 20 世紀最後の予測)」があり、地球気候が極
端な変動を起こした海進時でさえ、1℃の温度上昇に
1,000 年もの期間を要した史実を較べる必要がある。
いま進行中の急激な温暖化は農耕文化、都市文明を
獲得した一万年の歴史の中で、未曾有の事態である
図 4-3-11 この千年間の気候と将来の予測
ことを意識しなければならない。
『地球温暖化を考える』〈前出〉
上図に見られるように、この千年間の大気温は「±0.7℃」の範囲内にあって、藤原氏が
栄華を誇った平安時代中期は「中世温暖期」と呼ばれる安定時代だった。しかし 14 世紀か
ら寒冷化が始まり、15~16 世紀の戦国時代を経て、16 世紀後半の安土桃山時代、小氷期の
17 世紀に、自然順応型として我が国最高峰の文化を築いた、江戸時代へ移行した。
21 世紀に入った最近は、一地域へのゲリラ豪雨、大量のヒョウが降ることが増え、昭和
時代にほとんどなかった竜巻の発生が恒常化してきたのも、地球温暖化の影響であろう。
大気は気温上昇と共に含水量を増やし、夏の風物詩だった積乱雲が巨大・恒常化している
のも、太平洋西南部の海水温が「28~30℃」の範囲が増大して、水分補給を欠かさないた
めである。これに伴い、台風の激増、巨大化が進行し始めた。
一般に、植物の荒廃地から極層林への植生変化は 200 年以上の期間を要することを考え
れば、こんな過激な気候変動は、植物とそれに依存する動物(むろん人類を含む)にどれほ
ど影響を与えるかは予測できないという。これは、今でさえ土壌を酷使しすぎる大陸内部
の大穀倉地帯を乾燥させて不毛・砂漠化し、世界全体の穀物需給が壊滅的な状況に陥るこ
とを暗示する。経済成長だけを身上に脱農業化を推進し、主穀物自給率を 40%前後に落と
した、おおよそ自給可能な先進国の中での、唯一の非農業国が存続できるか、ということ
は問題にもならない。
主穀物の自給をどの程度大切に考えるかは難しいが、先進諸国、たとえばアメリカ合衆
国(穀物自給率 124%:2007 年度実績)、カナダ(168%)、フランス(111%)、ドイツ(80%)
や、G7諸国では低位のイギリス(65%)、イタリア(63%)と比べても、わが国の「39%」
という穀物自給率は悲惨としか言いようがない。2030~2050 年にひっ迫が予想される世界
的な食糧需給の悪化が訪れたら、真っ先に影響をうけるのが飽食・グルメを礼賛し、これ
を謳歌している「お笑い大国」なのである。
78
札束で食糧を買い集められる時代が 20 世紀で終わった様子は、EU諸国の穀物需給がヨ
ーロッパの範囲に限定されつつあることや、食糧輸出大国だった中国が輸入国に転じた事
実を見れば明らかである。わが国の穀物輸入は、土地の生産力をあまり配慮しない収奪型
農業を主体にするアメリカ合衆国に依存し、この耕作法が急激な温暖化の影響をもろに受
けることを覚悟しておかねばならない。さらに、上がった大気温度を下げる芸当は人類に
不可能…実現できるなら、とっくに行なわれている…であり、生態系・自然界の緩和作用に
期待する以外に方法はなく、修復に数百~千年以上を要することも覚悟すべき事柄である。
左図は、約 13 万年前から現代にいたる関東
平野における地形変遷の模式図である。この
図を見ただけでも、わずか 10 数万年の間に、
海水面の上下動につれて地形がどれほど変貌
するかが解る。これが地球本来の姿で、科学
技術がいかに進歩しようとも、自然地形を人
為的に変えることなど不可能なのである。
古生代~中生代の区分点にあたる約 2 億 5
千万年前に、パンゲア大陸生成と巨大プルー
ム上昇に伴う火山活動の活発化による酸素の
激減から、三葉虫をはじめ全生命の 95%が死
滅した事例や、中世代~新生代の境界点の約
6 千 5 百万年前の恐竜、アンモナイト絶滅、
約 1 万年前の第四紀更新世と完新世の区分点
にサーベル・タイガーやマンモスが絶滅した
史実をみると、現代までつづく生命力の逞し
さに感銘をうけると同時に、どれほどの種が
絶滅してきたかにも驚嘆せざるをえない。
図 4-3-12 13 万年間の関東平野の地形変遷
『日本の地形』〈貝塚爽平 岩波新書 996 1977〉
だが、この現象も感傷的に捉えてはならないと
いうのが、生物学上の見解である。
棲息数が限られ、常に環境が変化する地球上では、ある種の絶滅が新たな種の繁栄をも
たらす。中世代の恐竜は当時の環境にあまりに順応しすぎたために、のちの環境変動に耐
えられずに絶滅したが、この時代を生きぬいて新たな生態系を造りあげたのは、裸子植物
から被子植物へと進化をとげた植物と、これを可能にした昆虫と鳥類、哺乳類であった。
恐竜絶滅がなければ哺乳類、とりわけ人類の発展はなかったと考えられている。私たち
人類が主食にする「米、小麦、豆」や「果物、野菜」は、中世代白亜紀に出現した被子植
物の「種、実、葉、根」であり、植物が昆虫と鳥、哺乳類の協力を求めない裸子植物のま
まであったなら、人類は誕生しなかったのである。
79
現在の生態系は、花粉の交配、種子の広範囲散布と施肥をして植物を助ける動物たちと、
このお礼に食料を動物に供給する植物の、あざやかな連携によって構築されている。大系
の中で、搾取だけをしたようにみえる恐竜たちは、ここからはじき出された可能性もある。
この史実をみれば、すでに数 10 万種の生物を過去帳へ追いやった人類が、おなじ体験をす
るのはやむをえない現象といえるかもしれない。地球環境を数十年、数百年前の状態に戻
す最善の方法は、地球上から「人類が姿を消すことにある」と逆説的に指摘されることや、
近年では、少なからぬ絶滅の兆候が現われ始めていることを意識しなければならない。
次の図は、1988 年から 2014 年までの、我が国の綾里(岩手県大船渡市)、南鳥島(東京都)、
与那国島(沖縄県)で観測され続けている大気中の炭酸ガス濃度の推移である。植物の光合成
は夏に活性化するので、炭酸ガス濃度は冬に上がり、夏に下がる上下動を見せている。
図 4-3-13 炭酸ガス濃度の経年変化
気象庁ホームページより転載
1992 年の環境サミットでは、21 世紀末のCO2濃度安定の目標値として、産業革命以前
の二倍にあたる「550ppm」が掲げられた。しかしこの 10 年間にCO2排出量は 10%以上も
増加し、いまのままでは 21 世紀末に「700ppm」を越える予測も出されている。そのため、
従来の希望的観測、100 年後の「+1~+3.5℃」から、説得力がある「+1.5~+6℃」の気
温上昇に替えられた。2005 年に、なかなか合意が得られなかった京都会議(COP3:1997 年)
で分担目標を定めたCO2排出量が決定した。しかし巨大排出国のアメリカ、中国、インド
への規制はなく、世界全体の趨勢をみると、各国に気候変動による直接の悪影響が出ない
限り、排出量削減は難しそうである。いまの気象状況(大気中のCO2濃度:400ppm)を維持
するだけでも、温室効果ガス排出量の「70~50%」削減が必要、という地球科学者の意見
を参照すると、地球温暖化を止めるのは、まず不可能と考えざるをえない。
80
近年の研究成果から、大気温度が上昇すると、大西洋から南極海~インド洋~太平洋を
めぐる深層海流(熱塩循環)の動きを止める作用があることが解明され、約 11,000 年前の
気温上昇期に深層海流が弱まり、急激な寒冷化(-5~-10℃の気温低下。77 ページ 図 10)が
発した様子も考えられている。さらに海水温の上昇は、海底にシャーベット状に固定され
ている膨大なメタン(メタン・ハイドレート)をガスにかえて温室効果を相乗した、急激な
気温上昇も約 8,000 年前に起きた様子が推定されている。
高緯度の南極・北極に顕著に現われる海水温の上昇と遺伝子に悪影響を与えるオゾン・
ホールの拡大は、この海域に棲息する莫大な量の植物プランクトン(海洋生物の基盤)を減
少させて、海の生態系全体が変化をする。熱帯域のサンゴの白化現象(共生する褐虫藻を放
出して死滅する現象)の増大と共に、いまは炭酸ガスを大量に吸収している海洋が、この排
出源になる可能性も指摘されている。
しかし、さまざまな要素がどのように絡みあって、大気温の変動が引き起こされるかは
予測不能(温暖化のみならず、寒冷化も考えられる)とされ、過去の気候の復元精度があが
るにつれて、第四紀の氷河期、間氷期とも大気温度の安定期間が少なかった様子が解って
きた。図 10 では平均気温(0℃)の直線で表わされるが、実際はごく短期間の「±0.7℃」
以内の上下動に収まったこの 1,700 年間の安定時代…人類の農耕文化、とくに水循環を活性
化した水田耕作普及の影響?…の方が異常気候ではなかったか、という意見すら出ている。
こうした現実をみると、実に暗たんたる気分に苛まれ、はたして、人類はいまのままの
ライフ・スタイルで良いのか、と考えさせられる。生活様式の向上をめざして経済、技術
の発展が求められ、両者が資源・エネルギーの消費量に比例することをみれば、世界全体
が経済成長を追い求めると、温室効果ガス削減などは夢のまた夢になる。
経済という言葉が、
「経国済民:国を治め、民を助ける」意味から生まれたところを、あ
らためて熟慮すべき時代が現代である。
自ら引き起こしている環境悪化の根源も追求せず、その因果関係を忘れ、末梢的な部分
に拘泥するのは本末転倒の思考法であり、「環境保護」という言葉自体が泥縄式の発想とい
える。この意味からも「地球が危ない、地球にやさしく」ではなく、
『人類が危うい、人類
に優しく』とキャッチフレーズを変換する必要がある。地球史に記録された約 6 億年前と
29 億年前の「全球凍結:バクテリアなどの炭酸同化作用が活性化し過ぎて、温室効果がなくな
った」現象や、
「大陸の衝突と分裂、プルーム上昇や巨大隕石衝突」に発した地球環境大変
動を何度も体験した生態系全体に、数度の気温上昇はたいした問題ではないかもしれない。
阪神・淡路大震災の震源だった野島断層周辺でも、一般の動植物はまったく被害を受け
なかったところは教訓とすべきであろう。中世代末の恐竜絶滅はことさら話題になるが、
生態系全体では種が増加した時代に位置づけられている。全球凍結の後、5 億 8 千万年前の
「カンブリア大爆発」という生命の一大進化をはじめ、環境大変動のどの時代にも新種が
誕生して、あらたな生態系を構築するのが生命の歴史である。個々の生命の寿命を定め、
子孫に形質を継がせる遺伝子伝達は、環境変化に適応する最善の方法なのである。
81
極論すると、地球温暖化の影響を直接うけるのは人類だけのようで、叡知の動物と自賛
しながら、自身にふりかかる因果を自覚して、行動に移せない生物の自業自得の現象とも
いえそうである。能力・経験のある者が、弱者・未熟者に対して使用する『保護』という
言葉を、いまの環境を造りあげた 36 億年の歴史をもつ地球生態系に用いることにも不遜な
印象を免れえない。今後の温暖化にともなう気候変動、海面上昇、北極海の氷床消滅、農
耕地の激減が確実に起きる事態を覚悟して、人類の破綻、絶滅を回避して生活すべき時代
が現代である。
陸地の地形は、さまざまな要因によって変化をつづけている。これまで検証したように、
『地名』の命名は縄文時代へ溯りうる可能性が高く、縄文海進~海退時の地形を地名に留
めたものが、数多く現存するようにみえる。
大自然・生態系の変動を熟知していた縄文時代の人々の基本思想は「輪廻転生」であり、
そのため、命名時の地形が時代をへて変貌しても、地名はそのまま残され、
『言霊』として
丁重に継承されたのであった。
この史実と、地名が地形表現を基本においたことから、地形変化の変遷をたどって地名
が表現した地形がどの時代にあったかを検討すれば、命名時期が浮上する期待をもてる。
縄文海進~海退時に岬、島であった可能性の高い平野部の「崎、島」地名は、いまの市町
村の字名に存続している。むろんこの地名群も、単純に縄文海進、海退と結びつけられる
わけではなく、海岸地名の特性を提起したのちに、海進~海退時の地形変化の実例と、貝
塚遺跡を対照して検証することにしたい。
82
(3)
内陸部の崎と島
それでは、ようやく本論にうつり、「内陸部の大字・小字名に使われる崎と島」地名群を
検討しよう。ただ「内陸部の崎、島」地名の表現は長くて煩わしく、現役の岬、島との区
別もつけにくいので、これ以後は、便宜的に『埼、嶋』という古い用字を当てて、
「岬、島」
と区別をしたい。まず、二つの地名群がどのように分布するかを 5 万分の 1 地形図からと
〈㊟ 岬は「崎、岬、鼻、崎鼻」の総
りだして、現役の岬、島を対照すると次表がえられる。
称とした。カッコ内の数値は合計に対する百分率(%)。北海道、沖縄県をのぞく〉
表 4-3-1 埼、嶋地名の分布
面積(×10²㎢)
埼地名
岬
嶋地名
島
東 北
66.9 (22.9)
484 (20.5)
277
( 8.9)
277 (10.5)
340 (11.9)
関 東
32.3 (11.1)
422 (17.9)
162
( 5.2)
442 (16.7)
133
( 4.7)
中 部
66.7 (22.9)
359 (15.2)
290
( 9.4)
946 (35.7)
192
( 6.7)
近 畿
33.1 (11.3)
180 ( 7.6)
261
( 8.4)
210 ( 7.9)
267
( 9.3)
中 国
31.8 (10.9)
261 (11.1)
418 (13.5)
210 ( 7.9)
600 (21.0)
四 国
18.8 ( 6.4)
143 ( 6.1)
397 (12.8)
154 ( 5.8)
373 (13.0)
九 州
42.2 (14.5)
512 (21.7)
1296 (41.8)
409 (15.4)
955 (33.4)
全 国
291.8
2361
3101
2648
2860
本サイトは、数千万にのぼるという地名全数を扱うのではなく、「地形図にのる」地名に
限定して、地名の特性を探ることを基本にしている。前に述べたように、ここで扱う地名
も昭和 45~52 年に刊行された 5 万分の 1 地形図にのるもので、
実勢として昭和 40 年代…1965
~1974 年…の地名を表わしている。地形図の性格上、大都市周辺の字名は大幅に省略され
ていて、
「埼、嶋」地名も倍数以上残されている様子が感じられる。さらに昭和 40~50 年
には、全国規模の住居表示変更が実施されたため、現行の地形図で同じ作業をすると多少
違った様相を示す可能性があり、表の細かい数値を問題にするのではなく、全体の傾向を
捉えることを主体に御覧いただきたい。
字名に使われた「埼、嶋」地名には、「千葉県銚子市犬吠埼。神奈川県藤沢市江の島。静
岡県熱海市初島」など、現役の岬名、島名と重複する字名のほかに、村名、町名、市名に
採られた名も含めている。そのために「東京都大島支庁利島村。静岡県榛原郡御前崎町(現
御前崎市)。広島県因島市(現尾道市)
」などの広域地名も混在する。この辺の分類も難しく、
「岡山県倉敷市児島。長崎県長崎市出島町。東京都江東区夢の島」のように、かつては島で
あったものが地形変化や埋め立てで、いまは陸地に同化している例も多く、広域地名の大
83
半が小地名の昇格と考えられるので、こうした例を含めている。
〈㊟ 現役の岬との重複 78
例(3.3%)
.島との重複 211 例(8.0%)〉
こんなことを頭において表を眺めると、現役の「岬、島」が西日本地方に著しく片寄る
のに比べて、
「埼、嶋」地名は、地方ごとの面積に応じた比較的まともな分布をとる様子が
わかる。とくに関東地方に「埼、嶋」地名、中部地方に「嶋」地名が集中する事実は注目
すべきで、この地名群がどんな場所にあるかを調べる必要がでる。そこで「埼、嶋」地名
群を高度別に分類したものが次表である。〈㊟ カッコ内の数値は小計に対する百分率(%)
を表わす。地名資料Ⅱ~Ⅳの字名に、地形図の図幅名の次に、20m未満:a。20~100m:b。
100~500m:c。500m以上:dと表記した。
〉
表 4-3-2 埼地名の高度
20m 未満
20~100m
100~500m
500m 以上
小 計
東 北
193 (39.9)
132 (27.3)
151 (31.2)
8 ( 1.7)
484
関 東
247 (58.5)
106 (25.1)
66 (15.6)
3 ( 0.7)
422
中 部
209 (58.2)
57 (15.9)
60 (16.7)
33 ( 9.2)
359
近 畿
82 (45.8)
51 (28.3)
47 (26.1)
0
180
中 国
167 (64.0)
34 (13.0)
59 (22.6)
1 ( 0.4)
261
四 国
78 (54.5)
36 (25.2)
22 (15.4)
7 ( 4.9)
143
九 州
306 (59.8)
100 (19.5)
88 (17.2)
18 ( 3.5)
512
全 国
1282 (54.3)
516 (21.9)
493 (20.9)
70 ( 3.0)
2361
20~100m
100~500m
500m 以上
表 4-3-3 嶋地名の高度
20m 未満
小 計
東 北
88 (31.8)
100 (36.1)
80 (28.9)
9 ( 3.2)
277
関 東
190 (43.0)
162 (36.7)
88 (19.9)
2 ( 0.5)
442
中 部
363 (38.4)
217 (22.9)
252 (26.6)
114 (12.1)
946
近 畿
134 (63.8)
49 (23.3)
27 (12.9)
0
210
中 国
139 (66.2)
40 (19.0)
30 (14.3)
1 ( 0.5)
210
四 国
100 (64.9)
39 (25.3)
13 ( 8.4)
2 ( 1.3)
154
九 州
266 (65.0)
102 (24.9)
38 ( 9.3)
3 ( 0.7)
409
全 国
1280 (48.3)
709 (26.8)
528 (19.9)
131 ( 5.0)
2648
84
この集計でも、命名地点の標高を 5 万分の 1 地形図から読んでいるので、高度の境界付
近に個人的判定が入っている。おなじ作業をしても、作成者の意向が絡んで同一データが
得られない不確定要素があるのは、なんとも辛いところである。このような問題をふくむ
集計データを眺めると、まず、埼地名と嶋地名の高度別の分布が同じような傾向をとり、
両者共 20m未満の低地に約半数が集中して、高度を増すごとに数を減らしている。
この現象はどの地名にも共通する性質で、今の土地利用を考えれば当り前の結果になる。
地名は利用者のために存在し、使用頻度の少ない地名は地形図に記載されないため、こう
した傾向が現われるといってよいだろう。二つの分布図を作ると、以下のようになる。
図 4-3-14
嶋地名の分布
地方毎に分布状況を眺めると、中部~近畿地方を境に、東日本と西日本の分布傾向が違
う様子がわかる。この現象は「嶋」地名に顕著に現われて、近畿、中国、四国、九州地方
では嶋地名の 2/3 近くが 20m未満の低地に集中する。この原因を探るのは難しいが、これ
まで述べたように、嶋地名が「島(Island)」を表現するだけでなく、「湿む(湿地)」をも
表わした点が重視される。東西ではっきり区別された「沢、谷」の用法は、東日本の沢は
水源に近い∨型地形につけられ、西日本はこの地形をも「谷」と表現し、沢は主に「湿地」
にあてられた。この用法を参照すると、大河川が多く、標高の高い盆地が多い東日本の 20
m以上の地域に嶋地名が集中する事実は、西日本と命名法が違っていた様子を想定できる。
近畿地方の埼地名にこの傾向が見られるのも、京都盆地、奈良盆地、近江盆地などの盆地
群があるためだろう。この辺も難関だが、東日本の嶋地名は「湿地、島」につけた二種類
の地名が混在し、西日本では「島」を主体に名づけた地名が多い、と考えてみたい。
85
図 4-3-15
埼地名の分布
埼地名の分布図は、沖積平野の分布が縄文時代の貝塚遺跡と重なる様子が判る。この辺
は後に検討することにして、個別の名をあたると、ここにも興味ぶかい様相が出現する。
埼地名における使用頻度の高い名のランキングを作成すると、以下のようになる。
表 4-3-4 埼地名のランキング
1 山 崎 211 ( 4)
11 黒 崎
31 (55)
21 寺 崎 16 ( 4)
2 岩 崎 90 ( 0)
12 神 崎
29 ( 8)
矢 崎 16 ( 2)
3 川 崎 89 ( 0)
13 岡 崎
28 ( 1)
23 石 崎 15 ( 0)
4 尾 崎 87 ( 7)
14 戸 崎
27 ( 8)
柴 崎 15 ( 0)
5 長 崎 70 (49)
15 木 崎
26 ( 3)
25 小 崎 14 (10)
6 大 崎 68 (57)
林 崎
26 ( 1)
松ヶ崎 14 (15)
7 松 崎 61 (14)
17 高 崎
23 (10)
27 芝 崎 13 ( 0)
8 宮 崎 51 (11)
18 柏 崎
22 ( 4)
洲 崎 13 ( 6)
9 野 崎 38 ( 7)
19 中 崎
20 ( 4)
田 崎 13 ( 1)
10 赤 崎 37 (39)
20 須 崎
18 ( 2)
竹 崎
12 ( 4)
30 杉
崎 12 ( 0)
三 崎 12 ( 4)
㊟ カッコ内の数値は、同一漢字をあてた崎(崎+岬+崎鼻)の合計数を表わす。
埼地名総数 2361
ベスト 10 の地名数
802
占有率 34.0%
ベスト 30 の地名数 1193
占有率 50.5%
86
御覧のように、埼地名は二文字を使ったごく単純な名が多用されている様子がわかる。
第三章で、岬・島名が、峠・山名と比べて簡単な名称が使われていると述べたが,埼地名
は更にやさしい名を多用した。現役の岬名の上位にランクされた「観音崎、弁天崎、明神
崎」は、観音崎(山口県下関市観音崎町。長崎県南松浦郡奈留町船廻郷字観音崎)が記載され
ているだけで、6 音の名は少なく、
「山崎、岩崎、川崎、尾崎、長崎」のように、大多数が
3~4 音で構成されるのが埼地名の特徴である。
「観音、弁天」は仏教伝来以後に導入された
信仰であり、弁天の採用はおもに江戸時代に想定されるので、伝統を堅持した字名の埼地
名に使用例がないことに納得がゆく。
ベスト 30 にランクされた地名の合計が全体の「50.5%」を占めるように、わずか 30 種
類の名が全体の過半数を独占するほど、地名にあてた語彙の少なさを感じとれる。さらに
『地名が単音に発し、時代をへて二音、三音、四音へ発達して語彙を増していった』基本
仮説から、内陸部の「埼」地名は、いま海に面している「岬」名より古い時代の命名を想
定できる。上位にランクされた「岩崎、川崎、柴崎・芝崎、石崎(律令時代は Ifasaki と読
む例が多い)」が現役の岬にないのは不思議な現象だが、
「山崎、尾崎、岡崎、木崎、林崎」
も岬の用例が極端に少ないことも興味をひく。
「山崎、岩崎、川崎、尾崎、柴崎・芝崎」は、
地図で所在地形をみると∧型地形のみならず、∨型地形にあてた例が混在して、ここにも、
現役の岬とは命名法、名づけた時代の違いが残されている。
Yamatsaki =Yama(山、谷間)+matsa(坐す、又)+tsaki〈裂く(∨型・∧型地形)。
焚く(高所、滝:段丘崖)
。抱く(∪型地形)。
〉
Yapa,Papa(谷、崖)+ patsa(挟む、端)⇔tsapa(沢)+ tsaki.
Ifatsaki =Ifa(岩)。Fifa(水際の高所)+fatsa(挟む、端)+tsaki.
Kafatsaki =Kafa(川、側。交ふ:谷)+fatsa+tsaki.
Wotsaki
=Wo(尾:尾根、∧型地形)。Otsa(押す、雄:∩型地形。落つ:∪型地形)。
Wotsa(食す:∪型・∩型地形)+tsaki.
Sipatsaki =Sipa→Siwa(皺:∪型・∩型地形)⇔Pasi(崖端)+patsa+tsaki.
この解釈法から、
「山崎」は∧型、∨型地形の双方にあてても、問題ないようにみえる。
現役の岬が山崎(新潟 粟島)…この島は日本海の孤島で、120mもの海面の上昇によって山間
の山崎地名が岬名に変化した可能性がある…一例だけであるほかは、縄文時代に山間地名、
岬名だった山崎へ、弥生時代に鼻を加えた山崎鼻(愛媛 魚神山)(愛媛 伊予高山)(高知
須崎)の「崎鼻」であることも、山崎の古い歴史を描きだしている。
現役の岬に使われない岩崎、川崎は、
「岩・側が挟む、岩肌が抱く」谷にあてた例が多く、
川の合流点にある川崎には「川が挟む先(洲の先端)」の解釈もとれそうである。高度別分
類を利用すると、これらの埼地名は平均より高い場所にある様子が浮かびあがるが、地名
は目にみえる範囲の相対的な視点で命名されているので、特別な論理はなさそうである。
87
このように、今はおなじ崎の文字で表記される「埼、岬」は、字名の埼だけに使われた
名と、現役の岬にのみ用いられた名、そして両者に共用された三種類の名に区分できる。
現役の岬が∧型地形を表わすのに対して、字名の「埼」地名、とくに山間部のそれは∧型・
∨型の両者にあてたところが際立った特徴になっている。この辺は「Saki」の基本語源が
「裂く(∨型)」であることが参考になり、埼・岬に共用された「大崎、黒崎、長崎、赤崎」
などの海岸部にあるものは、海洋民族が海を主体に∨型の意味でつけた地名があるかもし
れない。この名が「崎鼻」に残されているのは、
「岬、島の命名年代」に示したとおりで、
埼地名と岬名(広義)を対照すると、∨型地形にあてた「Tsaki(裂き、埼)」の歴史が古く、
縄文文化の基盤を造った前期(約 7,000~5,500 年前) から、∧型地形を表わす地形語の
「Tsaki→Saki(崎、岬)」に変化した様子を感じとれる。
律令時代の郡名には、この小地名を起源とした「近江国神埼郡、播磨国神埼郡、肥前国
神埼郡、但馬国城埼郡、豊前国国埼郡、日向国宮埼郡」が採用され、7 世紀以前に埼地名が
あった史実をみせて、神社名にも数多くの埼・前地名が残されている。
肥前国神埼郡の起源地名に比定される「肥前国神埼郡神埼郷→佐賀県神埼郡神埼町神
埼:今は神埼市神埼」は、吉野ヶ里遺跡(神埼郡三田川町田手字吉野ヶ里:今は吉野ヶ里町)
のある舌状台地の最先端に位置し、縄文時代前期~後期に有明海に面した岬であった様子
が忍ばれる。沖積平野が発達して条里を整えた付近には、奈良時代に幹線道路が設けられ、
た
で
じょうばる
田手川、 城 原川(←神埼町城原)との交点の間に水陸交通の要所として驛家(切山驛:神埼
町田道ヶ里字駅ヶ里:Mumaya ka Sato→エキガリ)が設置された。縄文~律令時代に重用さ
れた「神埼」が郷名、郡名に採用された史実が大切で、付近は中世にも神埼御荘(後鳥羽院・
後白河院などの御領)として交易の中心地の役割を果たした様子をみると、今は吉野ヶ里を
なのる集落遺跡も、弥生時代に「Kamusaki」とよばれた可能性がうかがわれる。
埼地名のランキングを見て気がつくのは、ここにあがる名のほぼ全数が苗字に採用され
た事実である。親しみぶかい苗字ばかりで、友人・知人やマスコミを賑わす有名人におな
じ名を見いだすのは難しくなさそうな感じがする。私たちの苗字の 7~8 割が地名を採った
史実はよく知られ、
『古事記』『日本書紀』に登場する人名の大半が地名を名乗ったのも、
地名がいかに大切な資産であるかを語っている。
「観音崎、弁天崎、明神崎」という苗字を
見聞きしたことがないのも面白く、
「大峠、地蔵峠、桜峠」など、平安時代後期以降に誕生
した「~峠」の苗字が少ないのも興味をさそう。これは簡単な理由によっており、歴史を
ふり返ると、古代の豪族や中世の武士団などの名は、彼等が拠点にしていた土地の名をと
った例が多い様子がわかる。
わ
に
かしはら
大和の豪族の和珥氏(奈良県天理市和爾町)、阿部氏(桜井市阿部)、蘇我氏(橿原市曽我町)、
こ
せ
ご
せ
かつらぎ
巨勢氏(御所市古瀬。式内巨瀬山口神社所在地)、葛城氏(御所市林。旧名:葛上郡葛城村。葛城小
へ ぐり
学校所在地)
、平群氏(生駒郡平群町西宮。式内平群神社所在地)などの起源地名は、いまもなお
奈良盆地の周辺に名を留めている。中世の関東の武士団「足利、新田、秩父、比企、豊島、
88
千葉、三浦」の諸氏も、当時あった集落名、もしくはその小地名を起源とした所属郡名を
名乗っていた。この様子をみてお判りのように、苗字に使われた名は、彼等が拠点を構え
た集落名に発したもので、生活拠点としての適性がない「山、峠、岬」の自然地名や、
「島、
川」などの広域地名が採用されることは少なかったのである。
「~山、~川、峠」の苗字も実際の山や川、峠を表わした名でなく、小地名の「~山、
~川、峠」の採用を考えるのが判りやすく、
「~崎、~島」の苗字も大字・小字名からの転
用を考えると納得できる。埼地名の集計にみられるように、同種と判定される「字名」を
整理・分類してランキングを作ると、上位にノミネートされる名の大多数が、馴染みぶか
い苗字に収束するところが興味をよぶ。苗字のルーツを探るうえにも、地名研究が重要な
鍵を握っているところを認識していただきたいとおもう。
次に、嶋地名を同様に整理すると、埼地名にみられる諸現象がここにも現われる。
表 4-3-5 嶋地名のランキング
1 中 島 314 (11)
11 北 島
30 ( 1)
21 出 島 15 ( 2)
2 大 島 131 (73)
長 島
30 (18)
22 牛 島 14 ( 9)
123 ( 0)
13 飯 島
28 ( 0)
下 島 14 ( 2)
4 小 島 94(122)
松 島
28 (66)
前 島 14 (22)
5 福 島 88 ( 4)
15 向 島
26 ( 9)
矢 島 14 ( 1)
6 田 島 60 ( 4)
16 西 島
21 ( 2)
26 青 島 13 (14)
7 鹿 島 50 ( 8)
17 寺 島
19 (12)
平 島 13 (25)
8 三 島 49 ( 5)
宮 島
19 ( 3)
八 島 13 ( 3)
9 高 島 37 (27)
19 中ノ島
18 (31)
29 竹 島 12 (18)
10 川 島 36 ( 0)
20 柳 島
17 ( 0)
30 浮 島 11 ( 3)
3
島
㊟ カッコ内の数値は、同一漢字をあてた島数。
嶋地名総数 2648
ベスト 10 の地名数
982
占有率 37.1%
ベスト 30 の地名数 1351
占有率 51.0%
嶋地名は、それぞれ地形の意味をもつ「大小上中下」
「東西南北」を頭に冠した名が多く、
この識別も難しいが、「上島⇔下島」「東島⇔西島」など、二つ以上の隣接した字名が残さ
れているものは原形を「島」とした。埼地名と同じように、嶋地名の上位にランクされる
名も苗字として親しみぶかいものばかりで、比較対照のために、32 ページにあげた現役の
島名ランキングを再掲しよう。
89
表 4-3-6 島名のランキング(再掲)
1 小 島
122 (94)
11 平 島
25 (13)
21 雀 島
13 ( 0)
2 大 島
73(131)
12 前 島
22 (14)
丸 島
13 ( 6)
3 黒 島
66 (10)
13 野 島
21 ( 7)
23 寺 島
12 (19)
松 島
66 (28)
14 竹 島
18 (12)
24 中 島
11(314)
5 弁天島
65 ( 1)
長 島
18 (30)
水 島
11 ( 7)
6 横 島
34 ( 7)
16 鳥 島
16 ( 2)
26 亀 島
10 ( 3)
7 中ノ島
31 (18)
裸 島
16 ( 0)
白 島
10 ( 1)
8 赤 島
28 ( 4)
18 青 島
14 (13)
竹ノ子島
10 ( 1)
沖ノ島
28 ( 5)
鍋 島
14 ( 7)
立 島
10 ( 3)
10 高 島
27 (37)
二子島
14 ( 1)
30 牛 島 9 (14) 片 島 (10) 姫 島 (6) 向 島 (26) 女 島 (2)
㊟ カッコ内の数値は、同一漢字をあてた嶋地名数。
地名総数 2860
ベスト 10 地名数
540
占有率 18.9%
ベスト 30 地名数
827
占有率 28.9%
両者を対比すると、
「島」という基本地名が現役の島になく、三音の「田島、鹿島、三島、
矢島、八島」も島の用例が少ない様相が浮上する。現役の島に同一名のない「川島、飯島、
柳島」、使用状況に極端な差をみせる「中島、福島、北島、西島、宮島」、反対に島に使わ
れた「弁天、裸、雀、竹ノ子」など、音数の高い名が嶋地名の使用例が皆無に近い状況も興
味を惹く。ごく普通の苗字である「島」に対して、
「崎」の姓が少ないのは 5 万分 1 地形図
にのる大字・小字名の「崎」の使用が 8 例、これ以外に、歴史的に名高い、奈良県奈良市
佐紀町だけという、地名の用例が少ないためであろう。島と同様に、基本地名の「崎」が
現役の岬にないことは、
「嶋、埼」地名群の歴史がいかに古いかを語っている。
嶋地名で最も使用例の多い「中島」は、「Nakasima=Naka(凪ぐ、和ぐ:緩斜面)+kasi
(傾ぐ:斜面。浙す:水際)+sima(島、湿地)
」と「Nakatima=Naka(殴る:急斜面)+kati
(katikati:岩石で構成された急斜面、固い肩:段丘)+tima(timatima した小さな地形。tipa:
地端)」の二通りの解釈ができるようで、解釈しにくい「松崎、松島」と同様に、
「Tsa」行
から「Sa、Ta」行が分離する以前につけた様子をみせている。
また、現役の島に少ない「福島、田島、鹿島、三島」は湿地名と考えると理解できる。
「Fukutsima =Fuku(噴く、拭く:湿地)+kutsi(口、朽ち:∪型地形、崖)+tsima(湿地)」、
「Tsatsima=Tsatsi(立つ、断つ:直立崖。刺す、射す:∨型地形、斜面)+tsima」
、
「Katsima
90
=Katsi(斜面、水際)+tsima」
、
「Mitsima=Mitsi(満つ:水際⇔Tsimi.滲む:湿地)+tsima」
と解けることが、湿地を表現した様子を暗示している。
嶋地名に 36 例ある「川島:Kafa(側、川。交ふ:谷、崖、合流点)+fatsi(端、鉢)+tsima」
と河島(2 例)のあて字が現役の島名になく、古型を留めた嶋地名の樺島(Kapasima:長崎県
西彼杵郡野母崎町樺島)、椛島(佐賀県杵島郡北方町芦原字椛島)と同じ文字を当てた島に、
樺島(山口 防府)、椛島(長崎 佐尾)がある。おそらくこれは、「Pa」行の発音を使って
いた飛鳥時代後期~奈良時代初期に文字をあてた様子を残したもので、地名の意味を理解
していたなら、
「側島」を採用したはずだった。こんなところに言語の変遷、言葉の理解度、
好字化令の影響が残されているのは面白いものである。
方位を指したようにみえる「北島」は、東・西方言境界の飛騨山脈の西側に多い地名で、
「Kitsatsima=Kitsa(階、段:段丘)+tsatsi(立つ、射す:崖)+tsima」と解けそうだ
が,
「西島:Nitsitsima=Nitsi(意味不明、Nita⇔Tani の系列語:∪型湿地?)+tsitsi(乳、
父:二つの∩型・∪型地形)+tsima」が解けないのは残念である。
「Ifitsima=Ifi(飯:泥地、湿地)+
全数が東日本に分布して島に使用例のない飯島も、
fiti(泥地、湿地。fisi.菱:水生植物、∧型・∨型地形、水際)+tsima」の解釈から、湿
地にあてた飯島のルーツは東日本と考えられそうである。ただし、5 万分の 1 地形図に載ら
ない西日本の大字名に山口県徳山市(現周南市)飯島町があり、おなじ文字をあてた島根県
「Fatsima=Fatsi(端、鉢)+tsima」を原形とした別種の地名である。
安来市飯島町は、
このように、「岬、入江、谷」の三者にあてた埼地名と共に、
「湿地、島」に共用された
嶋地名の語源探求は重要な意味をもつ。「崎・岬(∧型地形)。島(Island)」の表現固定化
は、地名解釈法の確立と全国の分布状況の精密な分析、命名地点の地形復元に委ねられる。
地名全般の命名傾向から推すと、縄文時代早期、または『縄文海進』ピーク時の縄文時代
前期~中期(約 5,500 年前)に想定できそうな感じがするので、縄文「海進→海退」現象が、
ふたつの分化を促進したと考えられるかもしれない。
埼地名と同様に、
「嶋」地名も律令時代の国・郡名に採られ、
「志摩国志摩郡(奈良時代に
たふ し
あ ご
さ しま
答志郡、英虞郡へ分割。明治 29 年、志摩郡に再統合)、常陸国鹿嶋郡、下總国猨嶋郡、武蔵国
と しま
豊嶋郡、越後国三嶋郡、尾張国中嶋郡、近江国高嶋郡、攝津国嶋上・嶋下郡(原形は三嶋。
て しま
『二字化令』による変形)
、攝津国豊嶋郡、備前国兒嶋郡、美作国眞嶋郡、周防国大嶋郡、筑
き しま
前国志摩郡、肥前国杵嶋郡、薩摩国甑嶋郡、薩摩国麑嶋郡(鹿兒嶋郡)」と、その歴史を十
二分に感じさせるほどの数が記録されている。
こうして、現役の「岬、島」と「埼、嶋」地名を比較対照すると、命名法の違いがはっ
きり現われるので、この原因がどこにあるかを考えよう。これまで、地名の命名年代の指
標として利用した「占有率:ベストテン地名の合計数を地名総数で割った値の百分率」が
91
地名群ごとに異なり、大差をもって現われるところが重要なので、この値を再掲しよう。
〈㊟
峠に越、鼻は崎鼻、崎には岬(狭義)をふくむ〉
地名群
占有率(%)
嶋
埼
島
崎
鼻
峠
川
37.1
34.0
18.9
13.1
9.2
5.5
4.1
自然地名と比べて、大字・小字の「嶋、埼」地名の占有率はきわめて高く、両地名群で
は使用頻度の高い 30 種類の名の合計が、全体の過半数を占めている。同一名が多い現象は、
「嶋、埼」地名をつけた時代には、地名にあてる語彙が少なかった様子を語り、ここにお
いても、両者の命名時期は、自然地名より古い時代と考えられる。この現象は、これまで
検証した自然地名と大字・小字名の分布域の差にも認められて、おなじ基本形を採用した
地名群では、前者より、後者の方が広範囲に分布する事実も、命名年代の違いを表わして
いる。
全数が小地名や「山、峠、沢、谷、滝」名などを採用した川名、3 分の 1 以上が転用名の
峠(転用率:36.2%)、転用名の少ない鼻(8.6%)、島(10.6%)、崎(14.8%)を比較すると、
様々な小地名を転用した自然地名は、同一名が少ないために占有率が低く、
「鼻、崎、島」
のように、地形そのものにあてた名の多い地名群は占有率が高くなっている。つまり、現
代に継承された転用名は「小地名、沢、谷、滝」などが命名された後に誕生したもので、
字名と自然地名の命名順位を確立することも大切な事柄になる。
再三のべたように、本書は『言葉が時代を重ねるに従い、単音から二音、三音、四音へ
と進化し、その語彙を増していった』仮説を使っている。この仮説から、音数の少ない名
を多用した地名群は名づけられた時代が古く、音数の多い地名群ほど新しい時代の命名を
想定できる。そこで、島名の項で提起した各地名群の『音数』にはどんな性質が認められ
るか、占有率の高い順、すなわち「嶋、埼、島、崎、鼻」「坂、越、峠」をとりあげ、具体
的に地名を検証してゆこう。
92
⒋
海岸地名の音数
第二節「地名の復元」で検討したように、現存する地名は、音訓併用というこの国独特
の漢字使用法から、文字をあてた後によみ替えられたものが多数存在する。今のよみ方を
そのまま使うのでは、命名時の地名を正しく再現することにはなりえず、少なくとも奈良
時代の姿にもどす必要がある。
地名を古代の形に復元するには、地名の語源を検証して地名群ごとの命名傾向をさぐり、
奈良時代の『古事記』
『日本書紀』
『風土記』
『万葉集』、平安時代の『延喜式』『和名抄』な
どの記録をもとに地名の変遷をたどり、そこに表われた類型から個々の地名を原形に戻す
という、たいへん繁雑な作業が必要になる。この作業は、きわめて難しく、個人の力では
よみ替えられた可能性がある地名の半数の復元すらおぼつかない状況である。ただ、幸い
なことに、最初にとりあげる「嶋、埼」地名は、30 位までのランキングに現われたように、
易しい名が多く、誰が読んでも間違いないものばかりといえる。さらに上位 30 種の地名が
全体の過半数を占めるので、
「嶋、埼」地名に関しては、古代の状況をかなり正確に復元で
きるとの期待がもてる。
次ページの表 1 は、嶋地名に使われた名を音数別、地方別に分類したものである。ここ
では「島、嶋、志摩、四万。シマ:0 音」
「小島。こシマ、をシマ:1 音」
「中島。なかシマ:
「観音島。かむのむシマ:4 音」のように区分をした。
2 音」
「中ノ島。なかのシマ:3 音」
これに「シマ」の 2 音を加えた数値が、実際の音数になるわけである。
この地名群に縄文時代の命名を想定すると、「地名の復元」で解説したように、外来音で
ある「しゃ、しゅ、しょ」などの拗音、促音(っ)、撥音(ん←む)、長音(ー)が、命名時
点にあったとは考えにくくなる。そのため、今は「しょうじま」とよむ正島(静岡県榛原郡
中川根町徳山字正島)、庄島(福岡県筑後市庄島)、荘島(福岡県久留米市荘島町)、「じょうじ
ま、じょうしま」とよまれる城島(福岡県三瀦郡城島町城島)、上島(山形県西村山郡西川町
月岡字上島)は、塩島(長野県北安曇郡白馬村北城字塩島。ほか 3 例)と同様に、
「しほシマ」
とよんで 2 音と判定した。
また、尺丈島(しはくちほシマ→しゃくじょうジマ:宮城県仙台市太白区四郎丸字尺丈島)、
常通寺島(ちほつふしシマ→じょうつうじシマ:高知県南国市岡豊町常通寺島)、市右ェ門島(い
ちへもむシマ→いちえもんジマ:福井県吉田郡上志比村市右ェ門島)は 5 音にかぞえた。尺丈
島の原形は「Tsakutsipo-tsima:4 音」、常通寺島も「Tsoputsutsi-tsima:4 音」の可能性
はあるが、嶋地名(埼地名も同様)にこのような難しい名は十数例ほどで、少しくらい読み
違えても大勢に影響しないところを、記憶に留めていただきたい。
93
(1)
嶋地名と埼地名
表 4-4-1
嶋地名の音数
0音
1音
2音
3音
4音
5音
累 計
地名数
音 数
東 北
14
45
190
21
6
1
517
277
1.87
関 東
17
87
250
75
13
864
442
1.95
中 部
50
117
553 177
47
1952
946
2.06
近 畿
20
34
126
27
3
379
210
1.80
中 国
9
39
123
35
4
406
210
1.93
四 国
5
38
83
25
2
292
154
1.90
九 州
14
69
249
64
13
811
409
1.98
全 国
129
429
1574 424
88
5221
2648
1.97
2
1
4
㊟ 累計は音数に地名数を掛けた値の総和。音数(平均)=累計÷地名数。
嶋地名の音数(百分率表示:%)
0音
1音
2音
3音
4音
5音
音 数
偏差値
東 北
5.0
16.2 68.6
7.6 2.2
0.4
1.87
42.5
関 東
3.8
19.7 56.6 17.0 2.9
1.95
53.0
中 部
5.3
12.4 58.5 18.7 5.0
2.06
67.3
近 畿
9.5
16.2 60.0 12.9 1.4
1.80
33.4
中 国
4.3
18.6 58.6 16.7 1.9
1.93
50.4
四 国
3.2
24.7 53.9 16.2 1.3
1.90
46.5
九 州
3.4
16.6 60.9 15.6 3.2
1.98
56.9
全 国
4.9
16.2 59.4 16.0 3.3
0.2
0.6
0.2
1.97
表に現われたように、中部地方の平均音数が高い点を除くと、ほかの地方は 2 音(実際
は 4 音)を中心にやや低い音数側に片寄るものの、
『正規分布』の典型といえるほどの様相
をみせて、全国的にも一定した値をとるのが「嶋」地名群の特徴になっている。
この種のデータ整理をされた方なら御存知のように、全国レベルで数値をあつかう場合、
ある程度バラツキが出て当然といえる。統計学でいう「ノイズ」
、つまり、この地名群には、
本来の嶋地名とは異なる「シマ」名が混入して、データが乱れると予測していたので、予
94
想外の結果にビックリしてしまった。地名のもつ永い歴史を考えれば、この様相はとても
信じられないものである。嶋地名を集める際に、古い地名と決めつけて収集したことが、
こうした結果を誘発したのではないかとの疑念さえ生じ、もう一度地図にあたって集計を
やり直しても、おなじ結果しか得られなかった。
この現象は、倭語と地名の歴史を考えるうえにおいて、きわめて重要であり、同じ様相
をみせる「埼」地名を集計したものが次表である。
表 4-4-2
埼地名の音数
0音
東 北
1音
2音
3音
4音
5音
累 計
地名数
音 数
53
309 110
11
1
1050
484
2.17
1
855
422
2.03
関 東
2
68
276
70
5
中 部
1
70
233
53
2
703
359
1.96
近 畿
2
38
118
19
3
343
180
1.91
中 国
1
50
177
32
1
504
261
1.93
24
101
15
2
284
143
1.99
345
55
8
988
512
1.93
1559 354
32
4727
2361
2.00
四 国
九 州
3
101
全 国
9
404
1
3
埼地名の音数(百分率表示:%)
0音
東 北
1音
2音
3音
4音
5音
音 数
偏差値
11.0 63.8 22.7 2.3
0.2
2.16
71.7
0.2
2.03
55.5
関 東
0.5
16.1 65.4 16.6 1.2
中 部
0.3
19.5 64.9 14.8 0.6
1.96
46.8
近 畿
1.1
21.1 65.6 10.6 1.7
1.91
40.6
中 国
0.4
19.2 67.8 12.3 0.4
1.93
43.0
1.98
49.3
1.93
43.0
四 国
16.8 70.6 10.5 1.4
九 州
0.6
19.7 67.4 10.7 1.6
全 国
0.4
17.1 66.0 15.0 1.4
0.7
0.1
2.00
「埼」地名群も嶋地名とおなじ様子をみせて、平均音数にやや東高西低の傾向が現われ
ると同時に、その 98%にあたる地名が「2 音、1 音、3 音」の言葉を使用した事実が浮かび
あがる。
95
全国的に美しく整った数値をみると、
「嶋、埼」地名をつけた時代は、東北地方から九州
地方にいたるまで同一言語を使用し、地名の命名法も統一されていた様子を想定できる。
さらにある時代(弥生時代?)以後、内陸部にこの種の地名がつけられなくなった雰囲気も
感じとれる。
「嶋、埼」地名の半数が 20m未満の地点に命名され、高度の高い地域では川岸、
盆地状の地形に残る両地名群は、大多数が実際の海、あるいは湖、沼、湿地があった時代
につけた、とも考えられるのである。
この時代は、いまより 2℃~3℃ほど気温が高く、大気⇔海面・地表面の水循環が活発で
あったために、海水面が 3m~5mほど上昇していた『縄文海進』の時代、約 7,000 年前の
縄文時代前期から、大気温が低下して『海退』が発生し、それが終息した約 2,300 年前の
縄文時代晩期の間に推定されるのだが、断言はできない。そこで、先にあげた高度別の分
類では、どんな現象がみられるかを検証しよう。
表 4-4-3
嶋地名の音数(高度別分類)
地名数
東 北
関 東
中 部
近 畿
中 国
四 国
九 州
全 国
88
190
363
134
139
100
266
1200
20~100m
100
162
217
49
40
39
102
709
100~500m
80
88
252
27
30
13
38
528
500m 以上
9
2
114
0
1
2
3
131
合 計
277
442
946
210
210
154
409
2648
東 北
関 東
中 部
近 畿
中 国
四 国
九 州
全 国
20m 未満
1.89
1.92
2.03
1.95
1.94
2.04
1.98
1.97
20~100m
1.77
1.96
2.12
1.53
2.13
1.77
1.94
1.95
100~500m
1.95
2.03
2.10
1.62
1.7
1.23
2.11
1.99
500m 以上
2
1
2
1
1.5
2
1.97
1.87
1.95
2.06
1.93
1.90
1.98
1.97
20m 未満
音
数
平
均
―
1.80
嶋地名の全国平均の音数では、20~100mの範囲にある名が、もっとも低い音数をとって
いる。言語が『単音から二音、三音、四音へと進化したとする』基本仮説を使用すれば、
この一帯にのこる嶋地名が最も古い時代に名づけられ、海岸と山間部のそれは後の時代に
命名されたことになるが、関東、中部、中国地方には逆の様相が現われる。これは、嶋の
語源が「湿地、島」の意味を共用したことに加え、地方ごとの地形が関係した現象と考え
られて、東日本と西日本を別けて扱う必要がでる。そこで、両者を分離したものが次表で
ある。
96
表 4-4-4
嶋地名の音数(高度別、地方別分類)
東日本
0音
1音
2音
3音
4音
5音
20m 未満
29
106
384
97
23
2
1267
641
1.98
20~100m
25
76
276
81
20
1
956
479
2.00
100~500m
19
56
251
72
22
862
420
2.05
500m 以上
8
11
82
23
1
248
125
1.98
81
249
993
273
66
3
3333
1665
2.00
0音
1音
2音
3音
4音
5音
20m 未満
23
114
377
110
14
1
20~100m
15
45
132
33
100~500m
10
18
70
7
3
2
1
180
581
151
計
累 計
地名数
音 数
西日本
500m 以上
計
48
累 計
地名数
音 数
1259
639
1.97
5
428
230
1.86
3
191
108
1.75
10
6
1.67
1888
983
1.92
22
1
東日本では中部地方の用例が過半数をしめて、関東・東北が霞んでしまうのが欠点だが、
高度別の分類が意味をなさないほど音数が一定している。これに対して、西日本地方では
海岸部の音数が最も高い値をとる点が注目される。つづいて、埼地名の模様もあげよう。
表 4-4-5 埼地名の音数(高度別、地方別分類)
東日本
0音
1音
2音
3音
4音
5音
累 計
地名数
音 数
3
109
395
131
8
1
1333
649
2.05
20~100m
42
193
53
5
1
612
294
2.08
100~500m
36
192
44
5
572
277
2.06
500m 以上
4
36
5
91
45
2.02
3
191
818
233
18
2
2608
1265
2.06
0音
1音
2音
3音
4音
5音
累 計
地名数
音 数
20m 未満
2
112
433
79
6
1
1244
633
1.97
20~100m
3
43
149
21
5
424
221
1.92
100~500m
1
51
142
19
3
404
216
1.87
7
17
2
47
26
1.81
213
741
121
2119
1096
1.93
20m 未満
計
西日本
500m 以上
計
6
14
97
1
東・西日本に均等に分布する「埼」地名も、嶋地名と同等の結果がえられる。埼地名の
語源も「岬・入江、尾根の先端・谷」を共用する難点はあるが、西日本地方では岬名とし
て「埼」が命名され、
「嶋」もまた島につけた様子が感じられる。つまり 20~100mの間に
命名された嶋・埼地名よりも、20m未満の低地につけた地名群の方が新しい時代(縄文時代
中期~晩期)の命名を想定するわけである。この考え方では、東日本の数値が時代の推移に
従って言語が進化した仮説に反するようにみえるが、考古学、人類学のうえでは許容され
る推論なのである。
縄文時代、とくに前期~後期の時代は、東日本が西日本に比べて人口が多く、文化も進
んでいたと捉えるのが考古学上の見解である。三内丸山遺跡(縄文時代中期)の遺構と出土
品は、従来の推論を一変させる反響をよんで注目を集めた。しかし、クライマティック・
オプティマム(人類の最適条件)の期間は、今の生活基盤を造った古代エジプト、メソポタ
ミア、インダス、黄河などの都市文明が誕生した時代であり、わが国だけが狩猟採集のゆ
えにレベルが低かったとは考えにくい。世界史・日本史に現われた諸現象が大気温度の変
化に連動してきた史実をみても、狩猟採集の限界をはるかにこえる環境をもったこの国の
自然条件と、これを十二分に活用した人々の能力をもう少し高い位置に設定して古代史を
考える必要があると思う。
つまり、東日本では縄文時代前期に言語形態が整えられていたために、縄文海進~海退
時に命名された「嶋、埼」地名が、それ以前の地名と大差のない表現法がとり入れられた
と推理するわけである。本章の最後に、縄文時代前期~晩期の『縄文海進→海退』の痕跡
を留める、千葉県九十九里平野の「嶋、埼」地名の具体例を検証するが、ここにおいても
縄文時代前期から晩期まで、約 4,000 年の間、地名の命名法が変化していない様子が残さ
れている。東日本の嶋・埼地名の高度別分類の音数も、これを暗示しているようにみえる
のである。
〈小山修三 1984 中公新書 733〉
縄文時代でもっとも人口の多かった中期は、
『縄文時代』
の考察では約 26 万人であり、近畿以西の人口が 1 万人ほどと、きわめて人数が少ないこと
を考えると、はたして現存する地名が、この時代の名称を伝えているかにも疑問もわく。
しかし定説にとらわれずに、データを客観的によむことも大切な事柄であり、推論・仮説
の提起を中心におく本サイトは従前どおりの方針を貫きたいとおもう。この章のテーマは、
さまざまな地名群の特性を提示することにあり、個々の地名群の分析は、のちに項を設け
〈次章『日本語の源流』にて詳述〉
て述べたい。
次に、きわめて特異に映るふたつの地名群に対して、現役の「島、岬」名はどんな様子
をみせるかを検証しよう。以下にあげる「島、崎、岬(狭義)、鼻」名は地名の復元が充分
でなく、よみ替えに少なからぬ独断が混入しているが、第二節「地名の復元」で述べたよ
うに、全体では現在のそれより音数を少なめによんでいる点に、注目していただきたい。
98
(2)
島と岬名
表 4-4-6
島名の音数
1音
2音
3音
4音
5音
6音
121 115
73
11
1
累
計
地名数
音 数
959
340
2.82
東 北
19
関 東
4
49
50
27
3
375
133
2.82
中 部
15
86
55
34
2
498
192
2.59
近 畿
12
106
94
49
4
734
267
2.75
中 国
65
287 175
69
4
1460
600
2.43
四 国
66
129 120
48
8
2
928
373
2.49
九 州
120
368 323
129
13
2
2418
955
2.53
全 国
301
1146 932
429
45
7
7372
2860
2.58
2
島名の音数(百分率表示)
1音
2音
3音
4音
5音
6音
音 数
偏差値
東 北
5.6 35.6 33.8 21.5 3.2
0.3
2.82
62.5
関 東
3.0 36.8 37.6 20.3 2.3
2.82
62.5
中 部
7.8 44.8 28.6 17.7 1.0
2.59
47.1
近 畿
4.5 39.7 35.2 18.4 1.5
2.75
57.8
中 国
10.8 47.8 29.2 11.5 0.7
2.43
36.5
四 国
17.7 34.6 32.2 12.9 2.1
0.5
2.49
40.5
九 州
12.6 38.5 33.8 13.5 1.4
0.2
2.53
43.1
全 国
10.5 40.1 32.6 15.0 1.6
0.2
2.58
0.7
表に現われたように、いま海の中にある「島」の名は、内陸部の嶋地名とは全く違う性
質をもつことがわかる。嶋・埼地名と比較して、全体に音数が高くなっているだけでなく、
ここに現われたデータのバラツキ加減が、統計では一般形といえるのである。「嶋、埼」地
名の集計結果が、いかに異様なものであるかがお判りいただけると思う。
この現象は、前章に再掲した島名のベスト 30 にランクされた名にも表現されて、全体に
嶋地名より「島」名の方が音数の多い名称、言葉をかえれば複雑多彩な名が使われている。
島名のランキングに登場した「小島、大島、黒島、松島」などの 1~2 音の名に嶋地名と同
一名が多いことは、縄文時代に命名された地名が含まれる様子を示している。3 音以上の名、
99
とくに 4 音以上の島名は弥生時代以後に命名された可能性をみせ、もっとも音数の多い 6
音の島名に弁財天島 ( Benzaiten .岩手
( Ofotakasaki.三重
大槌)(高知
須崎)(熊本
波切)、金光坊島( Komukafupafu.和歌山
(Kifonotsiforo.香川
牛深)、 大高崎島
那智勝浦)、 京の 上臈島
玉野)があがる。弁財天島は江戸時代の改名、大高崎島は岬名か
らの転用が考えられて、金光坊・京の上臈も、直接島につけた地形地名ではなさそうな印象
を与える。統計手法は全体の特性を描き出すだけでなく、こうした異分子の存在を浮上さ
せるところも利点といえよう。
つづいて、崎名、岬名の集計結果を記すと以下のようになる。
表 4-4-7
崎名の音数
1音
2音
3音
4音
5音
6音
累 計
地名数
音 数
東 北
8
50
90
83
6
1
746
238
3.13
関 東
2
17
37
18
2
229
76
3.01
中 部
7
56
68
37
1
476
169
2.82
近 畿
11
67
50
29
411
157
2.62
中 国
14
55
55
32
4
437
160
2.73
四 国
7
65
49
19
1
365
141
2.59
九 州
37
279
253
134
13
3
1973
719
2.74
全 国
86
589
602
352
27
4
4637
1660
2.79
崎名の音数(百分率表示)
1音
2音
3音
4音
5音
6音
音 数
偏差値
東 北
2.4
21.0 37.8 34.9 2.5
0.4
3.13
67.6
関 東
2.6
22.4 48.7 23.7 2.6
3.01
61.1
中 部
4.1
33.1 40.2 21.9 0.6
2.82
50.8
近 畿
7.0
42.7 31.6 18.5
2.62
39.9
中 国
8.8
34.4 34.4 20
2.5
2.73
45.9
四 国
5.0
46.1 34.6 13.5 0.7
2.59
38.3
九 州
5.1
38.8 35.2 18.6 1.8
0.4
2.74
46.4
全 国
5.2
35.5 36.3 21.2 1.6
0.2
2.79
100
表 4-4-8 岬名(狭義)の音数
1音
2音
3音
4音
5音
東 北
3
9
6
2
関 東
4
12
17
2
中 部
7
13
14
4
近 畿
2
11
1
5
中 国
7
14
16
四 国
15
13
九 州
10
全 国
48
6音
累 計
地名数
音 数
67
20
3.35
128
36
3.56
129
38
3.39
72
20
3.6
3
135
40
3.38
14
2
135
44
3.07
19
13
0
1
135
43
3.14
91
81
18
3
801
241
3.32
1
1
岬名の音数(百分率表示)
1音
2音
3音
4音
5音
東 北
15
45
30
10
関 東
11.1 33.3 47.2
中 部
18.4 34.2 36.8 10.5
近 畿
10
55
5
中 国
17.5 35
40
四 国
6音
音 数
偏差値
3.35
49.7
3.56
61.2
3.39
51.9
3.6
63.4
7.5
3.38
51.3
34.1 29.5 31.8
4.5
3.07
34.3
九 州
23.3 44.2 30.2
0
2.3
3.14
38.1
全 国
19.9 37.8 33.6
7.5 1.2
3.32
5.6 2.8
25
5
第一章では解説の都合上、「崎、岬」を広い意味での「崎」としてまとめて扱ったため、
表面にでなかった現象が、両者を区分して集計すると、あざやかな大差をもって現われる。
「崎、岬」と二種類の文字を混用した岬名(広義)では、岬(狭義)をあてた地名群が崎を
使った地名群より、音数が多くなっている。岬は「ミサキ、サキ」の二種のよみが混在す
る地名で、
「唐岬⇔唐見崎、伊豆岬⇔出水崎」などの同一名が併存するので、本来はその語
源を検証して「ミサキ、サキ」を明確に区分し、全数を崎名の中に含める必要がある。
しかし前にふれた蹉跎埼(さたサキ←Tsatsatsaki?)→足摺崎(あしずりサキ:蹉跎の意
味訓…つまずく…からの文字の当て替え)→足摺岬(あしずりミサキ:田宮虎彦の『足摺岬』
の流行による変形)のように、崎を岬へあて替えたために「サキ→ミサキ」に変貌したもの
101
も入っていて、この復元は虫眼鏡や爪楊枝でなく、重箱の隅に電子顕微鏡を要するほど難
解な地名群といえる。本書のレベルで、このような復元は全く不可能だが、岬名を復元し
て崎名に含めても、多少音数が上がる程度で、大勢にそれほど影響がでないことから両者
を区分して表示した。ここにあげた岬名の音数は、
「~岬」の語幹にあたる「~」をあげて
いるわけで、これを崎と同等に処理すると、岬を「ミサキ」とよむ地名では「~み・サキ」
と、大半の岬がもう一音ふえる点にも注意を払わねばならない。
第一節では「~崎、~岬」
「~鼻、~崎鼻」地名群を「~」にあたる部分を一括して話を
進めたので、あらためて「崎、岬」を分離したランキングを作成すると、次のようになる。
表 4-4-9 崎名のランキング
え びす
1 黒 崎 47 (31)
10 松 崎
13 (61)
21 蛭子崎
5 ( 0)
2 観音崎 35 ( 2)
12 明神崎
10 ( 0)
尾 崎
5 (87)
3 赤 崎 32 (37)
13 小 崎
7 (14)
亀 崎
5 (11)
大 崎 32 (68)
城ヶ崎
7 ( 4)
串 崎
5 ( 5)
5 長 崎 23 (70)
早 崎
7 ( 5)
高 崎
5 (23)
6 弁天崎 20 ( 0)
宮 崎
7 (51)
野 崎
5 (38)
7 仏 崎 18 ( 3)
17 大瀬崎
6 ( 0)
真 崎
5 ( 8)
8 白 崎 14 (11)
権現崎
6 ( 0)
南 崎
5 ( 2)
松ヶ崎 14 (14)
洲 崎
6 (13)
10 荒 崎 13 ( 2)
御 崎
6 (10)
29 烏帽子崎 4 ( 0)
鎌 崎 4 ( 3)
寺 崎 4 (16)
鋸 崎 4 ( 0)
柏 崎
4 (22)
田ノ崎 4 ( 0)
戸 崎 4 (27)
曲 崎 4 ( 0)
金ヶ崎
4 ( 6)
堂 崎 4 ( 5)
殿 崎 4 ( 2)
三 崎 4 (12)
兜 崎
4 ( 0)
塚 崎 4 (11)
中 崎 4 (20)
㊟ カッコ内の数値は、同一漢字をあてた埼地名数。
崎名総数 1660
ベスト 10 の地名数
248
占有率 14.9%
ベスト 30 の地名数
371
占有率 22.4%
表 4-4-10 岬名のランキング
1 弁天岬
5 (0)
3 刑部岬
2 (0)
3 八幡岬
2 (1)
2 観音岬
4 (2)
崎山岬
2 (0)
明神岬
2 (0)
3 大山岬
2 (1)
長 岬
2(70)
竜宮岬
2 (0)
金ヶ岬
2 (6)
長根岬
2 (0)
102
㊟ カッコ内の数値は、同一漢字をあてた埼地名数。
岬名総数
241
ベスト 10 の地名数 25
占有率 10.4%
ここにあげた地名以外の 214 の岬は、頻度 1 の名称。
「崎、岬」の上位にランクされた名と「埼」地名は、
「島⇔嶋」地名の関係と同じように、
姿をかえる事実が浮かびあがる。
はちまん
同一名が少ない岬名に「弁天、観音、八幡、明神、竜宮」が上位を占める現象は注目す
べきで、この地名群が近世~近代につけられた様子を暗示している。数のうえで圧倒的な
西高東低の分布をとる「崎、鼻」地名群を対照すると、全国均質に分布する岬は異質な存
在で、北海道に岬が多用された史実を考慮すれば、
「岬」の文字をあてた時代は、江戸時代
中期から明治時代前期の間と考えて間違いないようである。
ここにあげた地名の中で、明神岬は「みょうじんミサキ。千葉 勝浦」「みょうじんサキ。
高知 土佐清水」と違ったよみをして、原型が「~み・サキ」であったと考えられそうなの
「刑部岬:きほぷミサキ、竜宮岬:
は「金ヶ岬:かなかみサキ。Kami(噛む)」位のものである。
りふくふミサキ。Pumi(踏む:∪型地形)」にも可能性がないとは言えないが、全体をみると、
長岬(ながサキ。新潟 河原田)のように、~崎を「~岬」の漢字に替えただけの印象しか
感じられない。おそらく当初は、比較的近接した地に同一名があったため、両者の識別の
便宜をはかって、一方を崎にかえて「岬」をあて、これがはやりすぎて今の混沌とした状
態になったのであろう。
だが、岬に「ミサキ、サキ」の二種類のよみが混在するのは地名を混乱させただけの効
果しかなく、
「サキ」とよむ岬こそ復元の必要があるとおもう。勝手気ままに行なわれる無
定見な地名改変よりも、利用者への便宜をはかり、難読地名をよみやすい文字にあて替え
るのも地方自治体の使命であろう。利用者を意識した気配りから生まれた「岬」に、ふた
たび心配りを加えることが大切である。
なお、竜宮に用いられた「龍・竜(Rifu→リュウ:慣用音。リョウ:漢音。たつ:和音)」
は、倭語として例外的に「Ra」行を語頭におく珍しい言葉である。地名の使用例も多く、こ
「Pifu(水
の言葉が、道教における四神思想の「海、湖、沼などの水の神」を意味するので、
際の崖)
。Nifu(湿地)
」などの言葉が変化し、渡来人がふえて「ラ」行の発音が活発化した、
弥生時代以後に生まれた言葉と推理しておきたい。
これまであげた地名の平均音数を再掲すると、嶋(1.97 音)、埼(2.00 音)、島(2.58 音)、
崎(2.82 音)、岬(3.32 音)の大差が現われる。この大差は、もうひとつの指標として利用
したベストテン地名の占有率にも共通し、嶋(占有率:37.1%)、埼(34.0%)、島(18.9%)、
崎(14.9%)、岬(11.2%)と、ある一定の状況…平均音数と占有率にそれぞれ対数をとって
積をつくると、ほぼ同じ値( 0.5 前後)をとる現象…が出現する。
103
嶋地名
log 1.97×log 37.1=0.46
島名
log 2.58×log 18.9=0.53
埼地名
log 2.00×log 34.0=0.46
崎名
log 2.82×log 14.9=0.53
岬名
log 3.32×log 11.2=0.55
対数は常用対数を使用。
なぜ、こうした様相をみせるかの原因は追求できないが、自然界・生態系における様々
な現象は指数法則(⇔対数法則)に従うものが多く、これを微分・積分法などを使って分析
する際に片対数、両対数グラフを使用すると線型…勾配をもつ直線…になる例が多いことは
理学、工学、生物学上の基本常識である。正規分布をみせる「嶋、埼」地名の音数、地名
群ごとの平均音数と占有率の対数の積が一定値をとる現象は、「嶋、埼、島、崎、岬」名が
一定法則に従って命名された様子を表現しているのではなかろうか。論理思考を尊んで、
不変の法則を遵守した姿は、大自然に同化して生活を営んでいた人々の「理性、感性」を
も表現しているかもしれない。
先にのべたように、占有率の高い地名群は同一名が多く、命名時に地名にあてるべき語
彙が少なかった様子を物語り、低い地名群は、言語が発達した後の時代に複雑多彩な名を
使った事実を示している。各地名群の平均音数と、占有率とをあわせて考えれば、平均音
数が低く、占有率の高い地名群ほど古い時代に命名され、現代に伝えられた大字・小字の
「嶋、埼」地名と、自然地名の「島、崎、岬」名は、はっきり命名年代の差をみせている。
ただ、ここにあげた「岬」は数も少なく、「平均音数、占有率」の値がサンプル総数に左右
されることや、岬の誕生経緯をみても示準地名として適当でないため、数が多く、さらに
特異な様相が現われる「鼻(崎鼻を除く)」地名群を検証しよう。
104
(3)
鼻と花地名
これまでと同様に、
「鼻」の分布と音数を分類して、ランキングを作成すると次の結果が
えられる。
表 4-4-11
1音
鼻名の音数
2音
3音
4音
5音
2
9
7
1
64
19
3.37
4
13
20
10
178
48
3.71
中 部
8
41
21
7
258
77
3.35
近 畿
9
26
33
12
288
80
3.6
東 北
関 東
1
6音
8音
累 計
地名数
音 数
中 国
1
19
80
85
15
3
712
203
3.51
四 国
1
17
72
70
27
2
678
189
3.59
九 州
3
23
167
174
59
12
1
1621
439
3.69
全 国
6
82
408
410
131
17
1
3799
1055
3.6
鼻名の音数(百分率表示)
1音
東 北
関 東
2音
3音
4音
5音
音 数
偏差値
5.3
3.37
36.8
8.3 27.1 41.7 20.8
3.71
62.4
3.35
35.2
3.6
54.1
10.5 47.4 36.8
2.1
中 部
10.4 53.2 27.3
近 畿
11.3 32.5 41.3 15.0
6音
6音
9.1
中 国
0.5
9.4 39.4 41.9
7.4 1.5
3.51
47.3
四 国
0.5
9.0 38.1 37.0 14.3 1.1
3.59
53.3
九 州
0.7
5.2 38.0 39.6 13.4 2.7
0.2
3.69
60.9
全 国
0.6
7.8 38.7 38.9 12.4 1.6
0.1
3.6
105
表 4-4-12 鼻名のランキング
1 松ヶ鼻
17
11 権現鼻
4
17 長尾鼻
3
2 宮ノ鼻
11
洲の鼻
4
番所鼻
3
3 赤 鼻
7
竹ヶ鼻
4
番所ノ鼻
3
4 城ヶ鼻
7
長瀬鼻
4
弁天鼻
3
5 赤石鼻
6
丸山鼻
4
和田の鼻
3
天神鼻
6
明神鼻
4
7 大 鼻
5
17 犬戻鼻
3
黒 鼻
5
猪ノ鼻
3
天狗鼻
5
城ノ鼻
3
ビシャゴ鼻 5
地蔵鼻
3
26 2 網代鼻
大野鼻
下り松鼻
鯛の鼻
広瀬鼻
石切鼻
折瀬鼻
崎山鼻
長者鼻
福見鼻
鵜糞鼻
風無鼻
獅子ヶ鼻
通ヶ鼻
曲り鼻
牛ノ鼻
北ノ鼻
白岩鼻
虎ヶ鼻
女瀬ノ鼻
氏神鼻
崩 鼻
洲 鼻
中 鼻
焼尾鼻
蛭子鼻
黒島鼻
住吉鼻
長手鼻
呼子ノ鼻
恵比寿鼻
小島鼻
高 鼻
中ノ鼻
竜宮鼻
龍王鼻
こ
ち とまり
恵比須鼻
東風 泊 鼻
岳ノ鼻
入道鼻
大瀬鼻
御番所鼻
立石鼻
野首鼻
大瀬ノ鼻
金比羅鼻
田ノ尻鼻
八幡鼻
鼻名総数 1055
ベスト 10 地名数
74
ベスト 30 地名数
135
占有率
7.0%
占有率 12.8%
log 3.6 ×log 7.0 =0.47
ここにあげた 73 種、221 例をのぞく 834 例(79.1%)が異なる名称…文字による区分…を
使った鼻名は平均音数が「3.6」音ときわめて高く、「7.0%」の占有率も、この地名群が、
いかに豊富な語彙を使っているかを表現している。
「鼻」の約 8 割が瀬戸内海を中心に九州、
四国、中国地方に分布し、おなじ地方を主分布域とする山間の「越」地名と共に、おもに
弥生時代につけた可能性が高い状況証拠を残している。
上位の「松ヶ鼻、宮ノ鼻、城ヶ鼻」は、崎名にも使われた名だが、「松ヶ鼻(真っ赤鼻)、
赤鼻、黒鼻、大鼻、天神鼻、天狗鼻、ビシャゴ鼻、地蔵鼻、長者鼻、恵比寿鼻」のように、
具体的なイメージを作りやすい、洒落た名の多いことがこの地名群の特徴になっている。
106
「えびす:戎、夷、蛭子。ゑびす:恵比寿、恵比須、恵美須」と、ア・ワ行にまたがる
漢字を使って、あて字の混乱ぶりを如実に表わした「エピス」は、戎島(3 例)、蛭子島(3)、
夷島(1)、恵比寿島(2)、恵比須島(2)と違う文字をあてたために島名ランキングに登場
せず、崎・鼻名でも蛭子崎(5)、恵比須崎(2)、エビス崎・恵美須崎・戎崎(各 1)、蛭子鼻・
恵比寿鼻・恵比須鼻(各 2)、恵美須鼻・戎鼻(各 1)、恵比須ヶ崎(1)、戎が鼻(1)、蛭子前
崎(1)と、各種各様の文字をあてて区別されたために上位へ進出できない。この辺が漢字
(山口 仙崎)とよむ例もあり、
で分類する手法の欠点だが、夷島をハタケジマ(秋田 戸賀)
「古志岐島、コシキ島、越木島、五色島、甑島」の原形を一律に「Kosikisima」と判定でき
ない弱みから、あてた漢字と現在のよみを尊重して仕分けを行なった。
・(佐世保)・
同一名が集中する地域、たとえば長崎県の「エビス崎(漁生浦)、蛭子崎(平戸)
(野母崎)・(玉之浦)
、恵美須崎(大村)、恵美須鼻(大村)
、戎鼻(仁位)
」や、山口県の日本
海側の「雄島(須佐)、尾島(萩)、男島(小串)」のように、識別のために意識してあて字を
かえた例もある。この辺も語源研究がすすんで、地名ごとの解釈を確立すれば解消される
問題であり、ここにあげたデータは地名の復元をふくめて、暫定的なものであることを御
了解いただきたい。
エピの語源は、海老の体とヒゲ、毒のある鱏(エヒ→えい)の尾、纓(えい:冠の後につ
ける尾のような紐)
、箙(えびら:矢を入れて背負う容器、エピの複数型。Epi+pira:直立崖)
、
とぐろを巻いて頭をだす蛇(Fepi)に共通する、細長い突起を表現した名と考えられそうで
「Episu=Epi(∩型
ある。このうえに倒置語の「Pife(水辺→冷え)」の意味を加味すると、
地形、水際)+pisu⇔supi(吸ふ:∪型地形)」、すなわち洲に突き出した岬地形を表現した
名と捉えられそうである。「Episu」地名の大半が海岸部に位置し、西宮神社(式内大國主西
神社:兵庫県西宮市社家町)の祭神から、七福神の一員へと変身した漁業、商業の神である
「恵比須」が、釣竿と鯛を手にする姿も興味ぶかく眺められる。
ただ、東京都渋谷区恵比寿は、日本鉄道品川線(→JR山手線)へ明治 36 年に設置され
ビ ール
た日本麦酒醸造会社の専用貨物駅(当時の地名:東京府豊多摩郡澁谷村下澁谷)が、ビール
の商標をとってヱビス貨物駅とつけられ、明治 39 年に新設した旅客駅の名に転用したのち、
昭和 3 年から町名(恵比寿通)に採用されたものである。
「ビシャゴ鼻」は、普通ひしゃげたぺちゃんこな鼻を意味して、地名解釈では「Pitsi+
tsifa+fako」と分解される。
「Pitsi→Pisi」は、縄文時代に食糧として重用された水生植
物の菱の実にみられるように、四辺が同じ長さの平行四辺形(菱形:ひしゃげた正方形)を
表わし、これを社名にとった三菱のマークは広く知られる。この形から「Pitsi」は水辺の
「Sifa(皺:凸凹な地形)
。Tifa(地端⇔fatsi.
∧型・∨型地形を表わした言葉と考えられて、
鉢、端)+fako(箱:∪型、∩型地形)、faku(剥ぐ:崖)」の意味と、ぴちゃぴちゃ・ぴしゃ
ぴ し ゃ ( ←pitsapitsa ) が 水 の 打 ち よ せ る 擬 音 語 と し て 使 わ れ る の で 、 ビ シ ャ ゴ 鼻
(←Pitsako)は岬地形にふさわしい名になっている。
107
「ひさご、ひしゃご」が瓢箪を表わすのも面白い。この外来植物は、
「Pi(水)」をしゃく
る〈Tsakuru=Tsaku(裂く、抱く)+kuru(刳る、来る)≒手繰る〉ための「ひしゃく(杓、
柄杓)」や容器として使われ、縄文時代草創期~前期の遺跡、鳥浜貝塚から出土した事例は
とくに名高いものである。
「Pi→Mi.Tsa→Ta,Sa」の変化は縄文時代早期と考えられそう
なので、
「ひしゃく」はこれほどの歴史をもった名前かもしれない。ビシャゴ鼻とよむ地名
に瓢子鼻(長崎 有川)、睢鳩鼻(長崎 福江)をあてた例もあり、この辺になると同一名と
認定するには、いささか躊躇せざるをえない。
ビシャゴが鼻名に 7 例、島名に 1 例あるのに対して、ヒョウタンは崎・鼻になく、瓢箪
島〈Fifotamu=Fifo(水際の崖上)+fota⇔tafo(∪型、∩型地形)+tamu(谷、段:∪型、
∩型地形)⇔muta(湿地)
〉に 7 例と、突出しているのも不思議な現象である。地名の用例
だけでは、「ひしゃご、ひょうたん」が好対照をみせる要因はわからない。瓢箪の別名に
「Fukupe=Fuku(噴く、拭く:湿地。膨らむ:∩型地形)+kupe(食ふ:∪型、∩型地形、崖)」
があって、瓢箪山(石川・岐阜 白川村)、大瓢箪山(石川 白峰)、瓢ヶ岳(岐阜 美濃)は、
いずれも「ふくべ」とよまれている。あて字からは瓢箪を連想できないフクベ鼻(香川 玉
野)、福部島(香川
草壁)、福江島(長崎
福江)を同類と判定できるのも、地名を基本に
おく語源解釈ならではの強みといえる。
天神鼻は、前にふれたように「Amakami(海に取り巻かれた∩型の崖の上部)」、「Temusimu
(湿地の三重重複語)」のどちらの解釈をとるかは難しい。しかし「あまかみ、テムシム」
のどちらをとっても音数が変らないのが大事なところで、こうした例が多いのも、作業を
気軽にすすめられる利点になっている。
いまは東照権現(祭神:徳川家康)をさすことが多い「権現」は、自然地名に多用された
湿地名で、「Komukemu=Komu(込む、凹む:∪型、∩型地形、崖)+muke(剥く:∪型、∩型
地形、崖)+kemu(湿地、煙:直立崖)」に、権現をあてた地名と考えられそうである。
「犬戻鼻:いぬもどし、いぬもどり」は、
「numo」という変な音型が含まれているので、
長いあいだ解釈のとれない地名だった。たまたま漢字辞典を調べていたら、戻は「戸の下
を犬がくぐり抜ける」様子を表わした漢字と記されていて、この文字は「Kaferu(帰る)」
と読まれたことも判った。これを採り入れると「Inukaferi=Inu, Finu(Fi:水+nu:沼=
湿地)+nuka(糠、ぬかるみ:泥地、湿地。抜く:崖)+kafe(壁)+feri(縁)=湿地の水
際にある崖端」という解釈ができる。縄文時代から狩猟の伴侶として親しまれた犬を主題に、
犬戻鼻(岡山 玉野)(大分 蒲江)(鹿児島 坊)、犬戻ヶ鼻(広島 呉)と命名した人達の
力量はいうまでもないが、これに犬帰、犬返、犬ヶ縁でなく、「犬戻」をあてた人の見識も
相当なものである。
「鼻」地名は弥生~古墳時代につけた確度が高いので、漢字の「戻」の
語源を熟知して地名をつけた可能性もあり、古語辞典にも載らない用法は、
「十三本木」峠
と同様、洒落たあて字の多い地名のなかでもトップ・クラスの作品といえよう。
108
しかし、犬は湿地とは無関係にみえる動物で、繋いでおかないとすぐ「往ぬ(いなくなる)」
「寝ぬ(よく寝そべる)」、倒置語の「縫ひ(狩猟の際に、森や林の中を縫うように走る)」な
どから、語源を考えた方がよいかもしれない。
こうして、
「鼻」に使われた名を吟味すると、崎・岬とは違った味わいぶかい命名法が、
浮かびあがる。峠名にも同種の現象が認められるので、
「鼻」は、崎の命名より後の、言語
活動が爛熟期を迎えた「弥生時代の地名」と考えたい。
さらに、鼻と同種の「Fana」地名も内陸部の字名に「~鼻、~花」の形で現存し、これを
「花」地名と名づけて集計すると、以下のようになる。
表 4-4-13
花地名の音数
0音
1音
2音
3音
4音
5音
東 北
2
17
43
19
160
81
1.98
関 東
1
5
30
5
80
41
1.95
中 部
8
25
16
106
49
2.16
近 畿
6
21
10
78
37
2.11
74
33
2.24
58
29
2
地名数
音 数
中 国
1
5
13
13
四 国
2
2
19
6
5
29
6
2
89
42
2.12
48
180
75
3
645
312
2.07
九 州
全 国
6
1
累 計
花地名の音数(百分率表示)
0音
1音
東 北
2.5
関 東
2.4
音 数
偏差値
21.0 53.1 23.5
1.98
39.8
12.2 73.2 12.2
1.95
36.8
中 部
16.3 51.0 32.7
2.16
58.1
近 畿
16.2 56.8 27.0
2.11
53.0
15.2 39.4 39.4 3.0
2.24
66.3
2
41.9
11.9 69.0 14.3 4.8
2.12
54.1
15.4 57.7 24.0 1.0
2.07
中 国
3.0
四 国
6.9
九 州
全 国
1.9
2音
3音
4音
6.9 65.5 20.7
109
5音
表 4-4-14 花地名のランキング
1 立 花 30
10 ◍松ヶ鼻
6
21 赤 花
2
◍洲 鼻
2
2
25
12 ◍竹ヶ花
6
出 花
2
津 花
2
16
◍湯ノ花
5
◍岩の鼻
2
土 花
2
4 ◍竹 鼻 14
◍須 花
4
江 花
2
戸 花
2
5 ◍岩 鼻 11
14 石 花
3
◍岡 鼻
2
◍中 花
2
尾 花 11
15 小 花
3
◍岡之鼻
2
浪 花
2
橘
3 ◍竹ノ花
7 猪ノ鼻
9
◍大 鼻
3
◍尾之花
2
野 花
2
8 猪 鼻
8
法 花
3
神 花
2
蓮 花
2
9 ◍高 花
7
◍山 鼻
3
獅子ヶ鼻 2
春 花
2
6
◍山ノ花
3
盆 花
2
宮の鼻
2
10 ◍ 花
花地名総数 312
◍新 鼻
2
ベスト 10 の地名数 137
占有率 43.9%
ベスト 30 の地名数 196
占有率 62.8%
◍ 印は花、鼻を共用する地名
log 2.07×log 43.9=0.52
少数が全国に分布する「Fana」地名群では、「花、鼻」と二種類の文字を使っているが、
両者を区別してあてた様子がまったく感じられないのが面白い。たとえば「Takenofana」は
竹ノ花(5)、竹の花(3)、竹之花(4)、竹野花(1)、竹ノ鼻(3)と表記され、
「Takefana」は
竹花(5)、竹鼻(10)、「Ifafana」も岩花(5)、岩鼻(6)とあてられている。この状況を地
〈㊟ カッコ内の数値は、合計に対する百分率。
〉
方別にわけると、以下のようになる。
花、鼻の使用状況
花
鼻
橘
計 (%)
東 北
58
23
0
81 (26.0)
関 東
28
10
3
41 (13.1)
中 部
31
13
5
49 (15.7)
近 畿
18
17
2
37 (11.9)
中 国
12
20
1
33 (10.6)
四 国
9
12
8
29 ( 9.3)
九 州
23
13
6
42 (13.5)
合 計
179
108
25
312
110
両者の使用状況をみると、「花、鼻」の文字を端(Fana)にあてた時代…飛鳥~奈良時代
…に語源が忘れられていたようで、しっかり意味が継承されていたなら、
『好字令』に影響
されても、このような無秩序な状況には陥らなかったであろう。なお、花地名では「Fasi,
Fata,Fana」にあてた、富山県東礪波郡城端町(じょうはな←Tsifofana)などの「端」地
〈大字の「~端(Fana)
」の使用は 6 例〉
名は除外した。
花地名群は「平均音数:2.07.占有率:43.9%」に現われたように、使用された語彙が
極端に少なく、ベスト 10 にランクされた地名の語頭が「タ、イ、ヰ、ヲ、マ」に限られる
のも異様に映る。ハナを単なる「端:崖端」の意味でつけた地名群では、二種類の文字を
あてた「立花、橘:Tatipana=Tati(立つ、断つ:直立崖)+tipa(地端)⇔pati(端、鉢:∨型・
∧型地形、崖)+pana(崖端)」が圧倒的に多く、花地名では少ない、苗字に多用されたとこ
ろは注目すべきであろう。
花地名を称するからには、すぐに「桜、梅、菊」のような美しい姿を連想したくなるが、
「立花、橘」
「蓮花:Fasufana=Fasu(斜面)+sufa(洲端、吸ふ:水際)+fana→レンゲ」と、
数十年に一度咲いて枯れるという「竹の花」をのぞくと、情趣を誘う植物名は皆無の状態で
ある。
「松ヶ花」のほかに「瓜花、柿花、栃花、松花」と、まるで情緒が感じられない名称
が 1 例ずつあるだけである。この辺も、具体性をもつ味わいぶかい名の多い「鼻」とは、
明らかな命名法の違いがあり、平均音数と占有率の大差も、
「花」地名群の古い歴史を表現
している。
またこの地名群には、花を使っていても、文化の花ひらく処をもじって昭和 40 年に新設
した文花(ブンカ:東京都墨田区文花。もと吾嬬町西・東)などは除外し、「Kafana:静岡県
伊東市川奈」
「Kufana:三重県桑名市桑名」のように、原形に「Fana」が含まれていても、花・
鼻を使わない地名を外している。この辺も矛盾が感じられるが、音訓併用と当て字の弊害
が如実に現われる地名に対して、統計という一定部分を切りとって分析する手法に、相容
れない要素が交錯するのはやむを得ないことである。当面は大勢を重んじ、こうした少数
例を無視することも大切とおもう。将来、地名解釈法が確立されて、正確な復元が行なわ
れるようになれば、この程度の問題は簡単に解消されるだろう。
「嶋地名⇔島名。埼地名⇔崎名。花地名⇔鼻名」を比較対照すると、平均音数と命名法
の違いから、各地名群の命名年代の差異をはっきり認識できる。語頭に使われた言葉の平
均音数で区分をすると、平均音数が 2 音前後の字名の「嶋、埼、花」
、自然地名の 2.6~2.8
音の現役の「島、崎」
、そして 3.6 音の「鼻」と、三つのグループに大別できる。各地名群
の音数と全国の分布状況を考慮すると、字名の「嶋、埼、花」地名が縄文時代、
「島、崎」
は縄文時代から弥生時代、
「鼻」は弥生時代から古墳時代の命名を想定できそうである。
さらに、現役の岬には「崎、鼻」のほかに、前章である程度の検証をした「~崎鼻」と
いう興味ぶかい地名群が併存している。この「崎鼻」地名が、どんな性質を示すかを調べ
てみよう。
111
(4)
崎鼻名
崎鼻地名群のデータを集計すると次のようになる。
表 4-4-15
0音
1音
2音
崎鼻名の音数
3音
4音
5音
累 計
地名数
音 数
東 北
関 東
2
4
2
2
10
6
1.67
中 部
2
4
近 畿
1
2
1
8
4
2
中 国
1
13
1
30
15
2
四 国
1
20
2
47
23
2.04
九 州
10
82
1
2
185
95
1.95
全 国
15
123
5
2
284
145
1.96
音 数
偏差値
2
54.5
1.67
28.1
2
54.5
崎鼻名の音数(百分率表示)
0音
1音
2音
3音
4音
5音
東 北
関 東
㊟
100
中 部
33.3 66.7
近 畿
25
50
25
中 国
6.7 86.7 6.7
2
54.5
四 国
4.3 87.0 8.7
2.04
57.7
九 州
10.5 86.3 1.1
2.1
1.95
50.5
全 国
10.3 84.8 3.4
1.4
1.96
先鼻(鹿児島 古仁屋)、先ヶ鼻(新潟
112
泊)は、「鼻」に含めたために除外。
表 4-4-16 崎鼻名のランキング
1 長崎鼻
23
2 大崎鼻
22
3 赤崎鼻
11 磯崎鼻
2
大崎ヶ鼻
2
6
尾崎鼻
2
4 神崎鼻
5
小崎鼻
2
黒崎鼻
5
白崎鼻
2
6 高崎鼻
4
津崎鼻
2
戸崎鼻
4
野崎鼻
2
8 黒崎ノ鼻
3
焼崎鼻
2
宮崎鼻
3
山崎鼻
3
崎鼻名総数 145
以下は 1 例
ベスト 10 の地名数 78
占有率 53.8%
log 1.96×log 53.8=0.51
全数の約 8 割が中国・四国・九州地方に偏在する「鼻」のなかでも、92%がこの地方に
集中する「崎鼻」地名群は特異な存在である。平均音数の「1.96 音」
、占有率の「53.8%」
は現役の崎・鼻とは大きく違って、字名の「埼」地名の性質に酷似し、上位にランクされ
る名も埼地名と一致することが「崎鼻」の特徴にあがる。この特性から、
「~サキ鼻」はあ
る時代に「~サキ」という旧地名の後に「鼻」を添加した新設地名と推理できる。
地名全体の命名傾向、とくに地名の転用を考えると、川名が小地名を採用した史実に注
目する必要がある。平安時代に深井戸をほる技術が確立する以前に、湧水と共に「命の水」
として生活を支えて、交通路としての重要な役割を考えれば、「Kafa」に名をつけた時代は
古く、その起源地名になった集落名はさらに古い遺産と考えられる。
狩猟採集時代は、農耕民族と比べて交易範囲がせまく、集落・小地域を単位として地名
が命名された様子は、せまい範囲のなかに同一地名が併存することに残されている。この
性質が広範囲の標識名として使われる自然地名に適合しなかった史実は、明治時代初期に
アイヌ語地名の大幅な手直しを必要とした北海道の自然地名に残されている。おなじ現象
は農耕文化の移入期、すなわち弥生時代に起きた可能性があり、この時代に、地名の転用
現象が拡大したと考えてみたい。岬名の「崎鼻、崎+岬、鼻」における、字名からの転用
率はそれぞれ違っているので、これをあげよう。
113
表 4-4-17
崎鼻
転用名
東 北
0
関 東
2
2
中 部
6
近 畿
岬名の転用率
転用率
崎+岬
転用名
転用率
鼻
転用名
転用率
258
47
18.2
19
1
5.6
100
112
14
12.5
48
0
―
3
50
207
26
12.6
77
4
5.2
4
1
25
177
37
20.9
80
2
2.5
中 国
15
2
13.3
200
29
14.5
203
12
5.9
四 国
23
3
13.0
185
23
12.4
189
16
8.5
九 州
95
22
23.2
762
105
13.8
439
35
8.0
全 国
145
33
22.8
1901
281
14.8
1055
70
6.6
表に現われたように、
「崎鼻」は岬名のなかでは転用率が高く、「鼻」とは違った性質を
もつことがわかる。埼地名とおなじ名の多い崎鼻の特性を考慮すると、「22.8%」の転用率
は低すぎる印象を与えるが、縄文時代前期(約 7,000 年前~)以来の永い埼地名の歴史と、
同一名は省略する傾向がある地形図の表記法から、こうした結果になったのだろう。
図 1 にのる長崎鼻、図 2 の大崎鼻、野崎鼻の地図には、
この名と共に「千葉県銚子市長崎町」「大分県南海部郡鶴
見町沖松浦字大崎、野崎」の名が記されている。ここから、
崎鼻名は埼地名からの転用が想定され、集落名を先につけ
た様子を暗示している。
犬吠崎に隣接する長崎鼻周辺は、海成段丘をもつ隆起地
形の典型として名高い場所で、「長崎、長崎鼻」地名を考
える上にも、たいへん重要な地になる。地図に記されたよ
図 4-4-1 5 万分の 1 地形図
銚子
うに、長崎鼻は関東地方最東端にある岬で、航路上の役割
からも、歴史的に最重要の位置にあった岬と想像できる。
おそらく縄文時代にも重視されたこの岬が無名であった
とは考えにくく、長崎町から長崎鼻の地形変化を考慮する
と、かつては長崎町付近が海に面した岬だったのであろう。
「長崎=Naka(凪ぐ:緩斜面。薙ぐ:∧型地形、崖)+ katsa
(傘:∧型地形、水際。潟、肩:段丘)+ tsaki」が岬名と
して命名されたのち、縄文時代後期以降の「海退」による
海水面低下と、度重なる隆起作用(おもに地震)によって、
岬先端が長崎町から 500mも離れたとは、考えられないで
図 4-4-2 5 万分の 1 地形図
佐伯
あろうか。
114
大気温度の変動にともなう海水面低下や、地面の隆起は長期間を要する自然現象であり、
命名時に海に接していた「長崎」も、本来の岬が集落から遠ざかる不都合が生じたため、
弥生時代の流行にのって、長崎に鼻を加えた地名が生まれたと考えたい。崎鼻には、大崎
ヶ鼻(←鹿児島市吉野町字大崎)、宮崎の鼻(←和歌山県有田市宮崎)のように、崎と鼻の間に
助字の「ヶ、の、ノ」を挟んだものが 19 例あるのも、命名経緯を留めたようにみえる。
いまは、犬吠埼という特異な名称の岬がひろく知れわたり、長崎鼻の存在はかすんでし
まったが、立地場所をみれば、こちらの岬が古代に重用されたのは確実である。犬吠埼の
「Inupafusaki
地名解釈は、吠のよみ方(ほえ:和音。ハイ:漢音。バイ:呉音)が難しいが、
=Inu←Finu(湿地)+nupa(湿地端)+pafu〈這う:緩斜面。ハエ(碆、礁):岩礁〉+fusa(房:
∩型地形)+saki」と解してみたい。岬の命名傾向全体をみると、この名は言語活動爛熟期
の弥生時代に命名した可能性が高い雰囲気を感じとれる。
図 3 の御崎岬(おさきミサキ←宮城県本吉郡唐桑町崎浜字
御崎)という風変わりな岬や、図 4 の磯崎岬(いそざきミ
さ か つ らい そ さ き
サキ←茨城県ひたちなか市磯崎町。式内酒列磯前薬師菩薩神社
所在地)
も崎鼻と同様に考えると理解し易くなる。御前崎(お
まえざき←みさき、おんまえ+サキ:静岡県榛原郡御前崎町
御前崎字上岬、下岬)もこの現象があてはまる感じがする。
ただ、昭和時代の地形図にのっていた磯崎岬も、地図の
図 4-4-3 5 万分の 1 地形図
気仙沼
図幅名が「那珂湊」から新市名の「ひたちなか」に換えら
れたとき、常識的な「磯崎」に変わってしまった。
同様に 5 万分の 1 地形図に記載されていた特異な大崎岬
(おおさきバナ。山口 小串)も、いまは普通の「大崎」の表
記になってしまい、この種の研究資料としての価値を失っ
たのは残念である。
いま着実に進展している縄文海進→海退による、各地の
海水面の変遷と土地の変化量の総合解析がさらに進んで、
時代ごとの日本列島の海岸線が復元されると、一見無関係
図 4-4-4 5 万分の 1 地形図
那珂湊
(昭和 44 年編集 昭和 57 年修正版)
にみえる「言語学と地学」、すなわち「地名学と地理学」
の新たな接点が生まれる期待がわく。近年では、人工衛星
から撮影した赤外線写真のリモート・センシング法による
分析から、地表面の地質と含水量の判定が可能になり、古地形の復元も進んでいるので、
大いなる楽しみをもてる。
地名命名法の一般的傾向から推理した仮説が妥当であるか、筆者に判定できる由もない
が、ここに述べた現象によって「崎鼻」名が生まれ、一部でも土地の地形変化や海退から
発したことが立証されると、字名の「長崎、大崎」などの埼地名群は、海退期の縄文時代
後期から晩期(約 4,000~2,300 年前)より、前に命名された史実が浮上するのである。
115
現代に伝えられた「島、崎、鼻」地名群は、余りに平凡な外観から見過ごされやすいが、
こうして分類すると、案外な特性が浮上する。これまであげたデータを整理すると次表が
〈㊟ 音数×占有率の数値は、両者に常用対数をとって掛け合わせた値〉
。
えられる。
表 4-4-18
海岸地名の平均音数
大字・小字名
自然地名
嶋
埼
花
崎鼻
島
崎
岬
鼻
東 北
1.87
2.17
1.98
―
2.82
3.17
3.35
3.37
関 東
1.95
2.03
1.95
2
2.82
3.05
3.56
3.71
中 部
2.06
1.96
2.16
1.67
2.59
2.83
3.39
3.35
近 畿
1.80
1.91
2.11
2
2.75
2.64
3.6
3.6
中 国
1.93
1.93
2.24
2
2.43
2.76
3.38
3.51
四 国
1.90
1.99
2
2.04
2.49
2.61
3.07
3.59
九 州
1.98
1.93
2.12
1.95
2.53
2.77
3.14
3.69
全 国
1.97
2.00
2.07
1.96
2.58
2.82
3.32
3.6
標準偏差
0.08
0.08
0.10
0.12
0.15
0.19
0.18
0.13
占有率
37.1
34.0
43.9
53.8
18.9
14.9
11.2
7.0
0.46
0.46
0.52
0.51
0.53
0.53
0.55
0.47
2648
2361
312
145
2860
1660
241
1055
音数×占有率
地名数
先にも行ったように、表に現われた地名群ごとの全国の平均音数をグループごとに仕訳
すると、音数が 2 音前後の「嶋、埼、花、崎鼻」
、2.6~2.8 音の「島、崎」
、そして 3.6 音
の「鼻」に大別できる。ここで注目されるのが、地方ごとの音数のバラツキ加減(分散)の
度合をしめす指標の「標準偏差」が、他の地名群と比べて、
「嶋、埼」地名群が低い値をと
ることである。
標準偏差がゼロに近い値をとる現象は、地方ごとの音数が一律に平均している様子を表
現して、
「地名に使った語彙の少なさ」に発した現象と捉えられる。全国にそれが見られる
ことから、
「嶋、埼」地名群をつけた時代は、列島全体でおなじ言語を使用していた史実を
示すと同時に、ほかの命名法でつけた、同種の地名の混入が少ない様子を表わしている。
つまり、両者は地名にあてる語彙が少なかった時代、または両地名に使う語彙を限定して
いた時代に集中して名づけられ、言語が発達して自由自在に地名を命名した時代、あるい
は厳格なルールが存在しなくなった時代には、もう、この種の地名をつけることはなかっ
たと考えられるのである。
116
平均音数 2 音の「花、崎鼻」地名の標準偏差がちょっと高い値をとるのは、サンプル数
の少なさに起因する。とくに「崎鼻」では、中部地方の 6 例(大崎鼻 2。沢崎鼻、新崎鼻、
津崎鼻、野崎鼻:各 1)の平均音数が「1.67 音」になることが標準偏差を乱している。もし、
この値が「2」であったなら、崎鼻全体の標準偏差は「0.12→0.04」と大幅に変化すること
にも注意を払わねばならない。
また、以前にふれたように、関東地方と区分をしてはいても、ここに現われた「島」名
133 例中の 65 例(48.9%)、「崎、岬、鼻、崎鼻」地名群 162 例中の 108 例(66.7%)が、
東京都の伊豆諸島と小笠原群島の地名で占められ、統計に現われる数値を鵜呑みにしては
ならないことを戒めている。
表 4-4-19
崎、岬、鼻、崎鼻の分布
崎 (%)
岬 (%)
鼻 (%)
北
238 (85.9)
20 ( 7.2)
19 ( 6.9)
0
277 ( 8.9)
関 東
76 (46.9)
36 (22.2)
48 (29.6)
2 ( 1.2)
162 ( 5.2)
中 部
169 (58.3)
38 (13.1)
77 (26.6)
6 ( 2.1)
290 ( 9.4)
近 畿
157 (60.2)
20 ( 7.7)
80 (30.7)
4 ( 1.5)
261 ( 8.4)
中 国
160 (38.3)
40 ( 9.6)
203 (48.6)
15 ( 3.6)
418 (13.5)
四 国
141 (35.5)
44 (11.1)
189 (47.6)
23 ( 5.8)
397 (12.8)
九 州
719 (55.4)
43 ( 3.3)
439 (33.9)
95 ( 7.3)
1296 (41.8)
1660 (53.5)
241 ( 7.8)
1055 (34.0)
145 ( 4.7)
東
合
計
崎鼻(%)
小計(%)
3101
表に現われたように、関東地方の「崎、岬、鼻、崎鼻」の使用比率が、東北・中部地方
とは違った様相をみせるのも前記の理由によっている。江戸時代に採用された可能性の高
い「岬」の比率が、全国(のぞく北海道:84.1%)で最も高いことも納得できる。
崎鼻、そして、これをふくむ平均音数の高い鼻地名群が、瀬戸内海を中心に分布する状
況を考慮すると、崎鼻をふくむ「鼻」の命名年代は、やはり弥生~古墳時代を想定できる。
さらに、先土器時代の最寒期(約 22,000 年前)と比べて、海水位が 120~130mも上昇した
縄文海進という現象を考えに入れると、現在の「島、崎」名が命名された上限は縄文時代
「島、崎」名は主として縄文時
前期(約 7,000~5,500 年前)に置けるようである。つまり、
代前期から弥生時代まで、音数の低い「嶋、埼、花」地名群の山間部にあるものは先土器
時代から縄文時代中期、沖積平野と海岸部のそれは縄文時代早期~晩期の間につけた地名
と推理したい。
117
弥生時代以後、とくに飛鳥時代におきた「百済(ペクチェ)滅亡:660 年」
「統一新羅(シ
ルラ)建国:668 年」という大事件によって、大陸(朝鮮半島)から渡来人が大量移入し、
倭語が『日本語=倭語+漢語』に変貌して、ものの名前の命名法が、それ以前とは大きく
変化したところが大切である。
再三のべたように、奈良時代初頭の文献にのる地名解釈法は、地名の語源を理解してい
たとは考えにくく、地名に対する『好字化令:713 年』はその端緒な例にあがる。
『古事記』
『日本書紀』
『風土記』に代表される奈良時代初頭の文献は、渡来人を主体におく中央政府
や地方の官吏が編纂したもので、当時の一般人の様相を反映したとは考えにくい。
地名全体を見渡せば、飛鳥時代以後の新設地名は、旧来の地名を転用したもの、生活一
般に関わる普通名詞を採用した例が多く、地形を端的に表現した地形地名はほとんどない
ようにみえる。聴覚を主体にした古代には言葉が尊ばれ、韻律を整えた簡潔な名に込めた
意味を理解し、
『言霊』として丁重に敬われていた。
「地名」も同様に扱われていたはずで、
その意味が忘れ去られた後にも、大切に伝承されたと考えて良いであろう。
倭語の語源が忘れ去られた原因に、渡来人の大量移入、そして同時にもたらされた文字
の普及、文書を情報伝達の基本に置く『律令制』の実施によって、聴覚から「視覚」中心
の思考法に変わっていった文化の変容があがる。この辺は、高度情報時代を誇る現代が、
テレビやコンピュータを中心におく視覚化を推進し、さらなる「聴覚の衰退。記憶・思考
能力の減衰。理性・感性の消失」を招いた過程が参考になる。
さまざまな現象を合わせて考えると、飛鳥時代以後は、地形語を使った新設地名がつけ
られなくなった姿を想像できる。地名にみられる言語活動の爛熟期も、大気温度の低下に
従って、やや停滞した様子が感じられる縄文時代後期から晩期でなく、生産性の高い農耕
文化導入の余裕と、気温の再上昇による活気あふれた弥生時代から、古墳時代中期ころま
でと推理したい。全体に命名時期の幅が広すぎるのはお許し願いたいが、いずれにしても
この分野の研究は資料皆無とされる未開拓の分野であり、大いなる夢をもって取り組みた
いものである。
つづいて、海岸地名とおなじ時代の命名が考えられる、山間の「坂、越、峠」地名群は
どんな性質をもつか、検証をつづけよう。
118
⒌
山間地名の音数
『言葉と地名』の峠の節でふれたように、自然地名の「~坂峠、~越、~越峠、~峠」
と共に、山間地域にも大字・小字名の「坂、越、峠、タワ、タヲ」が使われている。本項
ではこの地名群をこれまでと同じ手法で検証するが、字名の「峠、タワ、タヲ」の一群は、
地名資料として使いにくい面があるので、ここから検討をはじめたい。
タワ系地名の特徴は、
「タフ、タウ、トウ、トホ、トヲ、ト」など、地形語でもっとも重
要な基本語で構成されていることである。この名は「塔、道、堂、当、東、洞、遠、通、
十、戸、登、土」などの各種各様のあて字が施されて、峠の文字でさえ「トウゲ、タワ、
、ウネ(大
タオ、トウ、ト」の他に、トキ(高峠。鹿児島 岩川)、トケ(三峠山。京都 綾部)
峠。高知 伊野)、オネ(陣ヶ峠。島根 木次)、ソネ(島根県大原郡大東町下阿用字三峠)、ビョウ
(千葉県我孫子市中峠)の読みが混在した分類不能の様相をみせている。そのため、系列地名
とみられる約 500 例の大字・小字名のランキングだけをあげたい。ベストテンにのる道下
も「ドウゲ、ドウした、みちした」
、登尾は「のぼりお」
、東下は「トウしも、ひがししも」
と読まれるが、系列名の可能性もあるので集計に入れている。
表 4-5-1
1
峠
タワ系地名のランキング
96
11 丹 波
5
17 笹ヶ峠
3
2 田 尾 14
中 峠
5
峠 原
3
3 大 峠 13
仁田尾
5
太 尾
3
4 小 峠 12
14 太田尾
4
宮ノ乢
3
5 道 下 11
乢
4
6 登 尾 10
遠 下
4
7 大田和
9
17 石 峠
3
東 下
9
大田尾
3
垰
8
大 乢
3
10 田 和
6
越田和
3
25 榎 峠
2
才ヶ峠
2
多 尾
2
太夫内
2
日田尾
2
大多和
2
諏訪峠
2
峠 下
2
田 甫
2
宮ヶ峠
2
大多尾
2
瀬田尾
2
高 峠
2
藤 下
2
向
2
大石峠
2
手 向
2
塔 下
2
東 家
2
金ヶ峠
2
峠 田
2
田布施
2
灰ヶ峠
2
9
地名総数
峠
502 ここにあげた 262 例のほかは頻度1の地名。
(『地名資料 Ⅳ 坂、峠,
越』の「垰地名」に記載)
119
この地名群では、
「タワ,タオ」系地名と「とうげ」地名がはっきり別れた分布をとり、
前者が中国・四国地方に密集する特徴を持っている。この様子は、前章『言葉と地名』に
示したので、次に起源の古い「坂」地名を検証しよう。
(1)
阪と坂峠
前節で行なった区分とおなじように、大字・小字名に使われる「~坂」を、大阪・小阪・
松阪などに使用例がある「阪」地名となづけ、自然地名の~坂峠を「坂峠」として、両者
の音数、ランキングを作成すると次のようになる。
表 4-5-2
阪地名の音数
0音
1音
2音
3音
4音
東 北
4
35
191
77
13
関 東
6
25
68
16
7
中 部
8
54
174
28
近 畿
4
40
107
中 国
7
48
四 国
8
九 州
全 国
5音
累 計
地名数
音 数
700
320
2.19
242
123
1.97
7
514
271
1.90
19
2
319
172
1.85
112
13
1
315
181
1.74
10
46
15
0
139
79
1.76
5
28
91
31
1
307
156
1.97
42
240
789
199
31
2536
1302
1.95
1
1
阪地名の音数(百分率表示)
0音
1音
2音
3音
4音
5音
音 数
偏差値
2.19
69.6
1.97
54.1
東 北
1.3 10.9 59.7 24.1 4.1
関 東
4.9 20.3 55.3 13.0 5.7
中 部
3.0 19.9 64.2 10.3 2.6
1.90
49.2
近 畿
2.3 23.3 62.2 11.0 1.2
1.85
45.7
中 国
3.9 26.5 61.9
1.74
37.9
1.76
39.3
1.97
54.1
四 国
0.8
7.2 0.6
10.1 12.7 58.2 19.0
九 州
3.2 17.9 58.3 20.0 0.6
全 国
3.2 18.4 60.6 15.3 2.4
120
0.1
1.95
表 4-5-3 阪地名のランキング
や
1 赤 坂 129 (2)
10 八 坂 16 (1)
21 嵯 峨
8 (0)
2 小 坂 84 (7)
12 一ノ坂 14 (1)
馬 坂
8 (1)
14 (1)
湯 坂
8 (2)
14 高 坂 13 (1)
24 佐 賀
7 (0)
3 長 坂 48 (4)
岩 坂
たか
4 大 坂 29 (8)
5 石 坂 28 (1)
野 坂
13 (2)
飯 坂
7 (0)
6
早 坂
13 (4)
寺 坂
7 (4)
石名坂 12 (0)
西 坂
7 (0)
坂
27 (0)
7 白 坂 25 (2)
はっ
8 三 坂 18 (4)
熊 坂
11 (2)
八 坂
7 (0)
9 松 坂 17 (6)
19 鳥 坂
10 (4)
前 坂
7 (1)
10 黒 坂 16 (1)
20 相 坂
9 (0)
29
6 逢 坂 (4)
篠 坂 (0)
半 坂 (0)
宮 坂 (1)
高 坂 (0)
戸 坂 (2)
平 坂 (0)
向 坂 (0)
神 坂 (1)
花 坂 (0)
船 坂 (3)
横 坂 (0)
かふ
㊟ カッコ内の数値は、同一漢字をあてた「坂峠+坂越」の数を表わす。
阪地名総数 1302
標準偏差
ベスト 10 の地名数 421
占有率 32.3%
ベスト 30 の地名数 618
占有率 47.5%
0.14
log 1.95×log 32.3=0.43
表 4-5-4
0音
㊟
坂峠の音数
1音
2音
3音
4音
東 北
3
17
3
1
関 東
1
14
4
中 部
9
40
7
近 畿
7
38
中 国
14
四 国
5音
累 計
地名数
音 数
50
24
2.08
41
19
2.16
2
118
58
2.03
4
1
99
50
1.98
13
2
1
50
30
1.67
5
7
4
31
16
1.94
九 州
2
4
1
13
7
1.84
全 国
41
133
25
402
204
1.97
5
大坂越、小坂越などの~坂越(8 例)は、
「~越」の区分に含む。
121
坂峠の音数(百分率表示)
0音
1音
東 北
2音
3音
4音
5音
12.5 70.8 12.5 4.2
関 東
5.3 73.7 21.1
音 数
偏差値
2.08
58.1
2.16
63.5
中 部
15.5 69.0 12.1 3.4
2.03
54.7
近 畿
14
1.98
51.3
中 国
46.7 43.3
1.67
30.5
四 国
31.3 43.8 25
1.94
48.7
九 州
28.6 57.1 14.3
1.86
43.3
全 国
20.1 65.2 12.3 2.5
1.97
76
表 4-5-5
1 大坂峠
6
小坂峠
2
6.7 3.3
坂峠のランキング
尾坂峠
3
18 猿坂峠
2
18 舟坂峠
2
6
暮坂峠
3
白坂峠
2
万坂峠
2
松坂峠
6
杉坂峠
3
道坂峠
2
湯坂峠
2
4 逢坂峠
4
遠坂峠
3
椿坂峠
2
寺坂峠
4
藤坂峠
3
妻坂峠
2
鳥坂峠
4
船坂峠
3
戸坂峠
2
長坂峠
4
見坂峠
3
名坂峠
2
早坂峠
4
赤坂峠
2
中坂峠
2
仏坂峠
4
荒坂峠
2
野坂峠
2
三坂峠
4
熊坂峠
2
深坂峠
2
坂峠総数
11
8
18
204
標準偏差 0.15
以下は 1 例。
ベスト 10 の地名数 46
占有率 22.5%
ベスト 30 の地名数 93
占有率 45.6%
log 1.96×log 22.5=0.40
「阪」地名と「坂峠」を比べると、両者ともに正規分布の様相をとり、音数が「嶋、埼」
地名群と同様に東高西低の様相をみせて、平均音数もおおよそ一致する。さらに占有率、
標準偏差もほぼ等しい値をとって、全体では「嶋、埼、花、崎鼻」地名の性質に酷似する
ことから、字名の「阪」
、峠に使われた「坂」も同じ時代の命名を想定できる。「阪」地名
と「坂」峠は、少なくとも縄文時代に存在した、との印象を深めるのである。
122
(2)
腰と越峠
「越」地名群は、大字・小字名に使われる「越」地名、峠名に採用された「~越峠」、そ
して峠を付加しない「~越」の三者に区分される。これまで、字名の「こし、こえ」に越
(Kosi.Ko:甲類)の文字を使ってきたが、以後は混乱をさけるため、「埼玉県秩父郡皆野
町皆野字腰、新潟県中頸城郡三和村山腰、石川県鳳至郡門前町堀腰」など、字名の一部に使
われる「腰:Kösi.Kö:乙類。胴のくびれた部分:∩・∪型地形、直立崖」をあてて区
別をしたい。まず「腰」地名と「越峠」のデータをあげよう。
表 4-5-6
0音
東 北
腰地名の音数
1音
2音
3音
4音
10
125
22
2
5音
累 計
地名数
音 数
334
159
2.10
182
95
1.92
関 東
4
9
73
9
中 部
8
17
127
15
1
320
168
1.90
近 畿
1
17
34
8
1
113
61
1.85
中 国
2
18
68
4
166
92
1.80
11
64
14
1
185
90
2.06
四 国
九 州
4
19
106
18
3
297
150
1.98
全 国
19
101
597
90
8
1597
815
1.96
腰地名の音数(百分率表示)
0音
東 北
1音
2音
3音
4音
5音
音 数
偏差値
6.3 78.6 13.8 1.3
2.10
65.4
9.5
1.92
47.6
関 東
4.2
9.5 76.8
中 部
4.8
10.1 75.6
8.9 0.6
1.90
45.6
近 畿
1.6
27.9 55.7 13.1 1.6
1.85
40.6
中 国
2.2
19.6 73.9
1.80
35.7
12.2 71.1 15.6 1.1
2.06
61.5
53.5
四 国
4.3
九 州
2.7
12.7 70.7 12.0 2.0
1.98
全 国
2.3
12.4 73.3 11.0 1.0
1.96
123
表 4-5-7 腰地名のランキング
1 打 越 78 (3)
11 ◍ 越
13 (0)
18 乗 越
8 (2)
2 鳥 越 61(23)
大 越 13 (4)
◍森 越
8 (0)
3 ◍堀 越 45 (5)
◍塚 越 13 (0)
23 遅 越
7 (0)
4 船 越 39 (1)
14 尾 越
9 (1)
風 越
7 (8)
5 馬 越 26 (4)
津 越
9 (0)
川 越
7 (0)
6 細 越 22 (3)
中 越
9 (0)
矢 越
7 (1)
7 水 越 17 (9)
◍横 越
9 (0)
27 吹 越
6 (3)
8 名 越 15 (2)
18 獺 越
8 (0)
28 内 越
5 (0)
◍山 越 15 (0)
鬼 越
8 (0)
押 越
5 (0)
10 腰 越 14 (1)
◍館 越
8 (0)
切 越
5 (1)
舟 越
5 (0)
㊟
カッコ内の数値は、同一漢字をあてた峠名の「~越、~越峠」の合計数を示す。
◍ 印は「越、腰」を共用する地名。
腰地名総数 815
ベスト 10 の地名数 332
占有率 40.7%
ベスト 30 の地名数 496
占有率 60.9%
標準偏差 0.10
log 1.96×log 40.7=0.47
表 4-5-8
1
東 北
音
1 ( 7.7)
越峠の音数
2
音
3
音
累 計
地名数
音 数
偏差値
1.92
47.3
2
53.4
12 (92.3)
25
13
3 (100)
6
3
関
東
中
部
5 (23.8)
16 (76.2)
37
21
1.76
35.2
近
畿
2 (13.3)
13 (86.7)
28
15
1.87
43.5
中
国
1 ( 6.7)
13 (86.7)
30
15
2
53.4
四
国
1 ( 8.3)
11 (91.7)
23
12
1.92
47.3
九
州
70.0
全
国
10 (11.4)
1 ( 6.7)
7 (77.8)
2 (22.2)
20
9
2.22
75 (85.2)
3 ( 3.4)
169
88
1.92
㊟ カッコ内は、百分率表示。
124
表 4-5-9 越峠のランキング
1 鳥越峠 12
8 名越峠
2
2 水越峠
9
鍋越峠
2
3 風越峠
7
沼越峠
2
4 星越峠
4
乗越峠
2
堀越峠
4
細越峠
2
馬越峠
4
吹越峠
2
7 大越峠
3
峰越峠
2
8 打越峠
2
持越峠
2
猿越峠
2
越峠総数
88
標準偏差 0.13
以下は 1 例
ベスト 10 の地名数 48
占有率 54.5%
log 1.92×log 54.5=0.49
二つの地名群にも阪地名、坂峠とおなじ様相が現われるので、縄文時代の地名と考えら
れそうである。「阪⇔坂峠」「腰⇔越峠」のランキングにみられるように、字名と自然地名
では使われた名が微妙に異なり、
「嶋⇔島」
「埼⇔崎鼻・崎」
「花⇔鼻」にも共通する現象は、
命名法が同じでも地形を表現する言葉の違い、命名年代の差を暗示している。
(3)
色名の起源
「阪地名、坂峠」と「腰地名、越峠」のランキングにのる個々の名を対比すると、前者
に「赤坂、白坂、黒坂」の色名がみられるのに対して、後者に「赤越、白越、黒越」地名
がないことが目に映る。これは 7~8 割が小地名をとった苗字にも表現されていて、
「赤坂、
白坂、黒坂」は普通の名前だが、
「赤越、白越、黒越」などの苗字を聞いたことがないのが
筆者の実感である。この辺に「阪」と「腰」の命名年代の違いを感じとれる。前章でふれ
たように、文献史学の考証とアイヌ民族の実例、そして地名の使用状況を比較対照すると、
「赤、青、白、黒」は狩猟採集民の色彩表現であった可能性が高い。倭語の特徴といえる
「aa,ao,io,uo」の韻の踏み方からも、ある時期に旧来の名を整理統合して、一遍に
つけたのは確実といえよう。
前節で縄文時代の命名を想定した「埼、嶋、花、崎鼻」のランキングに、赤崎・黒崎、
青島、赤花、赤崎鼻・白崎鼻・黒崎鼻が入り、縄文~弥生時代の命名を考えた「崎、島」
にも黒崎・赤崎・白崎、黒島・赤島・青島・白島が登場することが、これを裏づけるよう
にみえる。弥生~古墳時代の地名とした「鼻」に赤鼻、黒鼻がランクされるのは、赤崎・
黒崎を改名したか、あるいはこの地名だけは縄文時代の命名が考えられるかもしれない。
弥生時代に誕生した自然地名の「越」に四色の単独使用がなく、平安時代後期以降に出現
した「峠」にも単独の使用例が皆無なのは、重要な事実である。
125
この様子は、
「赤、青、白、黒」の使用状況が、地名の命名年代を特定する重要なカギに
なり得ることを示唆する。そこで、虹の七色に使われる「赤、橙、黄、緑、青、藍、紫」
と「白、黒」の地名群ごとの用例を表にまとめると、以下のようになる。
〈㊟
集計は、基本形に直接かかる「赤崎、青島、白坂、黒岳」型の地名だけを抽出した。
「橙」は以下の地名群に使用例がないため除外〉
表 4-5-10
赤
嶋
色名の使用状況
青
白
4 13
1
10
10
31
字
埼
37
名
花
2
阪
129
2
1
25
黒
黄
緑
藍
1
1
1
紫
16
腰
地名数
百分率
31
2648
1.2
80
2361
3.4
2
312
0.6
171
1302
13.1
0
815
―
122
2860
4.3
93
1660
5.6
1
241
0.4
28 15
10
66
崎
32
14
47
岬
1
鼻
7
1
5
13
1055
1.2
自
崎鼻
6
2
8
16
145
11.0
然
峠
0
2995
―
地 峠
坂峠
6
204
2.9
名
越峠
0
88
―
越
0
340
―
14
14
410
3.4
1
2
246
0.8
10
9
21
1201
1.7
10
3
15
5169
0.3
1
34
35
283
12.4
2
87
2.3
1
29
2390
1.2
2
653
26812
2.4
2
1
2
森
山
1
峰
岳
2
山
森山
1
峰山
川
集 計
7
257 34
1
計
島
岬
2
合
1
1
1
1
8
12
94
257
1
3
3
2
この表は 5 万分の 1 地形図記載のデータを主体にして、「山、川」を 20 万分の 1 地勢図
から抽出しているので、参考として集計を出した。また、
「岬(広義)、島」の 7 割以上が西
日本に偏在して、全国を代表していないところにも注意が必要である。
126
表に現われたように、色名の使用状況は地名群ごとに違っている。もっとも使用量が多
い「赤、黒」と比べて、
「白」が半分以下、
「青」が約 1/8、
「黄、緑、藍、紫」は約 1/100
という極端な姿になるのが地名の特徴である。
この様子は、地名の命名時点に基本の四色はあったが、
「橙、黄、緑、藍、紫」など物の
名前(植物名。緑は地形語)を転用した色名を使っていなかったことを暗示する。この史実
は色の語源解釈からも導きだせて、「赤、黒、白、青、緑、紫」は地形語の意味をもつが、
地名に使われた他の色名は単なる当て字と考えられる。この辺を検証しよう。
赤の基本語源は「Aka(開く:∨型・∧型地形、崖)」で、太陽が「上がる=Aka(上ぐ)+karu
〈駆る:
(海、陸が)追い立てて動かす。
(太陽が遠ざ)離る〉
」につれて、
「明るく=Aka(開く、
明く)+karu(駆る:加速する)+ruku⇔kuru〈
(空に)来る、
(光を)呉る、眩る(目がくらむ)
〉
=Akaru+karuku=太陽が軽くなって上がる:夜明け」が浮かびあがる。
「Aku(開く)←Faku(吐く)⇔Kufu(食ふ)
」
赤に「Pa→Fa→A」行の転移を取り入れると、
が現われ、口を「pakupaku」開けるオノマトペが浮上する。四段活用他動詞の「Paku→Hagu
(剥ぐ)→Aku(開く)」は、石器を使って動物を解体する作業をも表わすので、色彩表現の
赤は、口の中と、皮を剥いだ中身の「血、肉」の色を意識してつけたのは確実である。
黒は、四段活用他動詞の「Kuru(刳る:えぐる)」を基本においている。クロの系列語は
「クラ、クリ、クロ」は
∪型・∩型地形(両者を合わせると○型)を表わす地名の基本形で、
どの地名群にも多用される。黒は「暮る、暗し」と共通の意味をもち、夕闇、穴蔵、
・山・
谷と地面の色、球形の頭〈Atama=Ata←Fata(端、旗:上端でひらめく意味をもつ)+tama
(球、魂)
〉にはえる髪の毛の色を含めて、
「Kuro」の表現を採用したと考えたい。
この系列のオノマトペは興味ぶかく、
「kurukuru,guruguru」は物が回転するさまを表わし、
「kurikuri」は丸い状態を表現する。これは「刳る(くり抜く、石器を回転させて穴を開ける)
」
「繰る〈糸を手元にたぐり寄せる(→来る)、糸車を回転させる〉」作業を考えれば必然の現象
になり、基本動詞そのものがオノマトペに発した様子も感じとれる。
「来る・暮る、暮らし」も、朝→昼→夕→夜をくり返す自然現象をグルグルまわる循環
としてつけた表現であろう。回転可能な頭への「kurikuri」が主に丸坊主、「kuroguro」は
「fusafusa」した頭髪、という正反対の様子を表わすのが面白い。
「guragura」が揺れる状態
「guriguri,guruguru」穴を開けるドリルを使う状況を頭におくと理解できる。
を表わすのは、
狂ふ(Kurufu)という言葉も「Kuru(刳る繰る、回転させる)+rufu⇔furu(振る:purupuru,
furafura 振れる)
」中心軸が偏心する、厄介な状態をさしている。
これらのオノマトペが、石器または植物の茎を使って根気よく穴をあけた古代人の労苦
を伝えるようにも感じられて、頭が「kurakura」するほど、大変な作業であった様子も忍ば
〈kurakura⇔rakuraku:楽々。ラク:漢呉音〉
れる。
127
「白」は解釈の難しい言葉で、古語の動詞にも「Siru(領る、知る)」四段活用他動詞と、
下二段活用自動詞の「痴る」しか用例を見いだせない。知識を得る「知る」と、正反対の
「痴る」に使われたのは、例によって、∩型⇔∪型を対照した言葉と考えられるだろう。
黒の項にあげた「暮らし:Kurasi=Kura(∩型・∪型)+rasi⇔sira〈領る:思うがままに
手に入れる(→知る)
、痴る:手に入れた物を失う〉
」が、
「朝が来る~日が暮る」日中の太陽
「暮る+痴る(光を失う)→暗し夜(∪型、黒)」の双方を指
光(∩型、白)を領る意味と、
すのも素晴らしい。しかし「Siru」の用法をみると、地名の使用例は、この動詞を起源と
しない言葉と考えたほうが良さそうである。
かしら
しり
うしろ
「シラ、シリ、シロ」のなかで、比較的意味をとりやすいのが「 頭 、尻、 後 」の用法で
ある。シロは「糊代」と使われるように物の端を意味し、硬い頭は「Katsi(katsikatsi、
傾ぐ)+tsira(体の端)」
、後には「Utsi(∪型地形、湿地)+tsiro(端)≒後背湿地」を想
定できそうである。この系列語はシル(汁:湿地)の意味をふくめて「谷端、崖端」にあて
た例が多く、「暮らし=Kura+ratsi⇔tsira」が「夜明け→日没」の両極を指すことから、
「シラ、シロ」は物体、時空の両端を表わした言葉に位置づけられる。さらに地形語の「端」
の用法が尻にあたる崖下のみならず、崖上(頭)にあてた例も多く、山頂も表現している。
『魏志』倭人伝にのる倭国の大乱を始め、戦乱の時代
同音異義語の「Siro(城←領る)」が、
だった弥生時代後期の「高地性集落」に辿れそうなので、高台・山頂に築かれた砦、城塞
に、地形語の「シロ」をあてたと考えてみたい。
こうして「白む(夜が sirazira 明ける。雪がふる)」状況を山頂、または稜線におくと、
色名の「シラ、シロ」の語源が考えやすくなる。雪のふる様子を「tsiratsira」と表現する
「Tsiru→Siru,Tiru」へ二分した「散る(ものが分解・拡散する様子。痴るの起源?)
」
ので、
と同族と採れば、
「∧型・∨型地形、崖端」の意味がでる。ただ、散るは自動詞であり、本
サイトは「Tsa→Sa,Ta」行の分化を縄文時代前期におくので、地名の基本様式とは少し違
った「シロ」は、この時代より前にあった言葉と想像したい。
太陽光をもとにつけた「白、黒」が明度の両極端を表わす色名に対して、
「赤、青」は彩
度の代表として使われてきた。倭語の赤は、暖色の「赤、橙、茶、黄」色の範囲を指し、
青は「緑、青、藍、紫」など寒色の総称として使われてきた。いまなお信号機の緑を「青」
と表現して、これに「Blue」を当てると誤訳になるのは、国際化が声高に叫ばれる中では
不親切な表現法といえる。暖色の赤が「太陽光。Pi:日、陽→緋色」を意識してつけたこ
とから、寒色の青は「Pi→Mi:水」色から生まれたと考えられそうである。簡潔な表現を
尊んだ古代の人々が、色彩表現を明度・彩度の両端にある四色に限定したのは、地図の四
色塗り分け問題に示されるように、これだけですべてが識別できたからだろう。
「青:Awo←Afo」の語源は、「Afu〈合ふ、和ふ(交じる):∨型・∧型地形、崖端〉」「Fafu
(這ふ:緩斜面、平坦地。奪ふ:谷、崖)
」があがる。両者は文字どおり「川合、河合。川井、
河井:Kafafi=Kafa〈川、(大地の)側、皮〉+fafi(這ふ、合ふ)」や「落合:0tsifafi=
128
Oti,Foti(谷、崖)。Osi(押す)+tsifa(地端)⇔fatsi〈鉢:∨型地形(鉢合わせ)、皺⇔
端〉+fafi」のように川の合流点につけられた例が多い。合流地点は、川が土砂を堆積させ
るために緩斜面、平坦地になりやすいことを考えると、自然現象への観察眼を基本におい
て構築した『言霊=倭語』の論理性と、素晴らしい造語力には舌を巻かざるをえない。
この様相から、
「青」は水の色から発した言葉と考えられそうだが、青の系列オノマトペ、
「Aka, Awo,Siro,Kuro:
たとえば「awoawo:青々」が必ずしも水を表現しない様子をみると、
aa,ao,io,uo」の韻律が揃う言葉を、同じ∨型でも「開く→赤」とは、逆方向ベクトルの
「合ふ→青」を、水の関連用語から選定したのではなかろうか。
表に現われたように、青が「Afotsima=Afo(緩斜面)+fotsi(干す:水際。落つ:崖)
+tsima(湿地)」の「嶋、島」名に多用されているのも、青の古型である「Fafo(這ふ:緩
斜面、平坦地)」に発した様子をみせている。そのため、おもに∧型・∨型地形を表わす言
「Pa→A,Wa」行が分化した縄文時代早期以降
葉を常用した「岬、峠、山」の用例が少なく、
「青ヶ島:Afokasima=Afo(崖)+foka(崖)
に「Afu(合ふ、谷、崖)」の意味が強調されて、
+kasi(浙す:水際。傾し:斜面)+sima」などの名が生まれたと考えたい。
青が、未成熟の青い実を表わすことに関連する「阿保」が西日本、
「掃く、剥ぐ、吐く、
開く」の古型である「Paku」の系列の「馬鹿」が東日本と、区別して使われるのも面白い。
「Paka(⇔Kapa,Kafa:側、皮)→Faka(墓:魂のぬけた外形を葬る場所)→Aka(垢)」は、
急斜面の崖からはがれ落ちた土砂をも表現するので、両者を対照すると、馬鹿の方が阿保
より古い言葉にみえる。川の語源が「Kafu〈大地の皮・側を交ふ:下二段活用他動詞。生物の
皮(体)を飼ふ:四段活用他動詞〉」であるように、古代人は、大自然が人類を養っているこ
とを充分に理解していた。自然界の摂理を忘れ、地上の覇者などと錯覚して生態系から外
れかけた人類が、
「地球生態系から剥がれる、掃かれる=絶滅」して、後の生物に地球上の
「バカ、垢」などと命名されないように心掛けることも、大切だとおもう。
このように、彩度の両極にある、暖色の赤が「剥ぐ、吐く、開く」
、寒色の青が「這ふ、
奪ふ、合ふ」という逆方向ベクトルの∨型地形を表現し、明度の高い白が「領る、痴る、
散る:崖端」、暗い黒が「刳る、繰る、来る:∪型・∩型と○型」地形表現を備えて、地名
に使われてきた。太陽の光と運行を意識して、「赤、白、黒」が命名されたところは重視す
べきで、転用名の色は、こうした原初的な意味を備えていないのである。
ミカン科の常緑広葉樹の名を転用した「橙(だいだい)」色は、収集した地名での用例が
か すみ
ないため(字名には千葉県習志野市香橙がある)、『広辞苑』にのる「橙:ダイは『橙』のシ
ナ音の転訛」とする説を転記するに留めたい。原形を「Tafitafi」におくと地名の基本形
に収束するのだが、どのように橙色と関係づけるかは解らない。
黄の使用例は、字名の黄島(オウしま:長崎県福江市黄島)を転用した同名の島(長崎 富
江)と、黄島(きしま。 岡山 西大寺)があがる。前者は明らかな当て字で、原形に戻すと
129
「Wafusima←Fafutsima=Fafu(緩斜面と崖、台地状地形)+futsi(伏す:緩斜面。節:∩・
∪型地形。淵)+tsima(湿地)
」になり、後者は「Kitsima=Kitsi(岸、基地)+tsima」に
当てた名と推理できる。キシマは、嶋地名に「木島(5),城島(1),来島(1)」、島名では
「木島(5),黄島(1),杵島(1),鬼島(1)」のあて字が施された名で、語源を重視すると、
岸間をあてたほうが良さそうにもみえる。黄島と同様、城島に「しろしま、ジョウじま」、
来島は「くるしま」
、鬼島にも「おにしま」とよむ嶋、島が混在するのは地名全般の難点だ
が、文字をあてた人々の創意は尊重すべきであろう。
「黄」色は、単音の言葉が使われた珍しい名で、一般に使われる色では「緋色:陽色」以
外に単音の名がないのは面白い。かなり古そうに感じられる黄色も、文献に登場するのは
平安時代とされ、これ以前の時代には、黄色周辺の色も「赤」の範囲に入れるのが普通だ
ったという。黄色が律令時代の命名であれば、イチョウなどの落葉広葉樹の「木、紅葉」
色に求めるのが常識的な線で、優雅な暮らしをしていた平安貴族が和歌や散文を作るため、
新たに転用した作品と考えられるのだろうか?
緑は「みずみずしい新芽、新緑」のように、木々の青々とした姿から発したと採るのが
普通だが、数少ない地名の語源を検討すると、そうではなさそうな感じがする。2 万 5 千以
上の地名のなかのわずか三つの例ではあるが、緑島(埼玉県さいたま市浦和区中尾字緑島)、
緑山(山口 徳山)、緑川(推定起源地:熊本県上益城郡清和村緑川)の「Mitsori=Mitso(溝:
谷。水戸:入江、湊)+tsori(取る、剃る、反る:∪型・∩型地形、崖)
」の地形表現に注目
すると、緑島は縄文海進時の入江につけた湿地名、緑山は錦川(山口県岩国市錦見)の谷に
つけたミドリ(所在地不明)からの転用地名、緑川も峡谷の側面につけた名と考えられそう
である。この辺から、
「緑」は水草や水苔の繁茂した湿地、谷を流れる川の深い緑から命名
されたようにみえる。
嬰児を「みどりご」とよぶのは、美斗能麻具波比・遘合〈Mito no makufafi:『記・紀』
国生み神話〉に使われたように、
「Mito←Mitso←Pitso(密かに潜む→人)
。Pitsu(櫃:∪型
収納器⇔Tsupi:開)
」は女性器をも意味して、ここから嬰児をトリだすことから、この表現
が採用されたのだろう。人名の「美登里、美土里、緑、碧、翠」が女性名に限定使用され
るのも、語源は伝えられなかった、古い伝統を堅持する一例かもしれない。
字名の藍島(福岡県北九州市小倉北区藍島)が所在する島の名に共用された「アイ」は、
「合ふ」の系列語「アヒ」が原形と考えられ、相島(山口県萩市相島)、安居島(愛媛県北条
市安居島)と同様に、
「Afi(水際の緩斜面、崖)+fitsi(菱:水際の∧型地形、湿地)+tsima」
と解釈できる。藍色は原材料の植物名を転用した名で、タデ科に属する藍は湿地の水際に
生えるというので、「Afi(水際の緩斜面、崖)。Fafi(緩斜面・平坦地・崖=段丘端)⇔Fifa
(水端)」となんらかの関係をもつのであろう。しかし藍の自生する姿をみたことがないの
で、はっきりしないのは残念である。
130
藍と同様に、植物名に起源をもつ「ムラサキ」は、紫川(福岡県北九州市小倉北区黄金。
旧名:小倉市紫町)、紫山(山形県最上郡舟形町舟形字紫山からの転用名)に使われ、村崎ノ鼻
(山口
安岡)などとあてると、雰囲気が一変するのが地名の特性である。ムラの系列語の
「Mure(牟礼)」は湿地名で、原形に「蒸らす、蒸れる」を推定できる。
「Muro(室)」が住
居のみならず、食物を貯蔵する保温室として使われたことは、「Puro,Furo:江戸時代前期
の風呂は蒸し風呂」との関係にも注目すべきであろう。
律令時代に全国一の広大な郡域をもっていた紀伊国牟婁郡(Muro:和歌山県東・西牟婁郡、
三重県南・北牟婁郡)の郡名発祥地が、
「天武紀 下」に牟婁の湯と記された和歌山県西牟婁
郡白浜町湯崎に比定されるので、ムロにも「湿地、温泉」の意味を設定できそうである。
今でも、お湯を「おぶ」とよぶ用法が残されていて、「Pa→Ya」行の分化が縄文時代草創期
〈約 15,000~12,000 年前:土器の使用=湯(Pi:水→Pu→Yu)の利用。弓矢の発明=刃(Pa)
→矢(Ya)の誕生〉、
「Pa→Ma」行も縄文時代早期以前〈水(Pi→Mi)の変化。縄文尺を使う時
の数詞の一(Pi→Fi)
、二(Pu→Fu)
、三(Mi)
、四(Yo)
、五(I)
、六(Mu)
、七(Na)
、八(Ya)
、
九(Ko)、十(To)の誕生〉に辿れる可能性があることは、火山地帯の温水・噴気(pûpû,
pukupuku→Puku)を利用した「湯(Pu→Yu)
、風呂」の歴史がいかに古いかを語っている。
川(Kafa)に生物を「Kafu:飼ふ」意味が含まれるように、古代には水際、湿地が重要な
意味をもっていた。
「群る、群がる」の語源も、沼や湿地が水飲み場として動物の群がる最
高の狩猟場であったことや、各種の植物が群生するところが大切である。弥生時代に初期
の水田耕作地として格好の扇状地や谷地(Yati:∪型湿地)などの湧水地が開拓され、人が
群がってムラが形成された史実も、
「Mura」の語源を暗示している。「Muri(無理)」も湿地
に発した表現と考えられ、水際に潜む危険性と底無し沼の脅威を伝えた言葉と推理したい。
こうして、地名のムラサキは「Mura(湿地)+ratsa⇔tsara(浚ふ、皿、垂る:∪型地形)
+tsaki(裂き:∨型地形)
」と解けるが、絶滅危惧種に指定された植物のムラサキは、色と
無関係の「湿地に群生して咲く」程度の解釈でよいかは判らない。
古代には、紫色が世界的に最高の色として尊ばれた。推古天皇 11(603)年に制定したと
いう冠位十二階は、
「紫、青、赤、黄、白、黒」の順に濃淡をつけて、十二階に区分したと
いわれる。
『日本書紀』に色の記載がないのではっきりしないが、ここに「黄色」が使われ
ていたなら、この色の誕生を飛鳥時代以前にくり上げる必要がある。単音の「木(幹、枝の
断面。Kiru:切る)→黄」色は、日常生活が木々と密接な関わりをもっていた、縄文時代の
命名を考えてよいかもしれない。
さらに古代の紫色は、ムラサキの根から採取しただけではないことは良く知られ、巻き
貝の内蔵から、ごくわずかに取れる染料(アクキ貝科のパープル腺液)が利用されていた。
考古学上でも、縄文時代中期の貝塚から側面に穴をあけた巻き貝が出土していて、この穴
は食用にあけたとは考えにくいため、紫の歴史は想像以上に古い時代に溯れるようである。
吉野ヶ里遺跡の墳丘墓から出土した、有柄銅剣に付着していた布片に、貝ムラサキ染めの
痕跡が残されていたことも興味をひく。植物のムラサキの語源が紫色とは結びつきにくい
131
ので、植物名から色名への転用は弥生時代、あるいは縄文時代中期に行なわれていた史実
を伝えているのかもしれない。この現象は、約 4 音をとる「~サキ」の埼地名が弥生時代
以後につけられていない様相に通じるもので、地名にみられる命名傾向が、各時代の言語
活動の一端を再現する手掛りになることを暗示している。
このように、色名の語源解釈と使用法から、「地名、言葉」の意味とおおよその命名年代
が浮かびあがる。ただ、本サイト全体に共通する、仮説と推論をもとにした状況証拠ばか
りで、立証にほど遠いのが難点だが、誕生当初の考古学の時代区分がおなじ状態にあった
姿をみれば、こういった推理の羅列も許されるかとおもう。
縄文時代の区分が、戦前~戦後に石器と土器をもとに、出土した地層の順位、両者の形
態と土器に施された文様の微妙な差違から、最初は「前期、中期、後期」と区分された後
に「草創期、早期、晩期」を加え、昭和 30~40 年代に科学分析による実年代の判定により、
今の「草創期、早期、前期、中期、後期、晩期」の時代区分を確立した史実が参考になる。
地名における層位は各地名群の全国の分布状況、石器と土器の形態が音数、文様は使われ
た言葉の語彙の多寡に同定できることが、同じ手法をとりうる可能性をみせている。この
実例は、縄文海進~海退時の命名状況が、沖積平野にのる膨大な数の地名と地形に残され、
「縄文地名」と「弥生地名」では韻律のとり方、とくに「u,e,o」母音の使用法と、助
字「の、ヶ、が」の使い方に微妙な差があることも時代区分に利用できる。さらに「赤、青、
白、黒」の使用状況が命名年代を推定する指標になるので、表 10 の「色名の使用状況」の
百分率に着目すると、
「崎鼻、森山」と「阪」地名の使用率が 10%をこえる点が注目される。
前節で検討した「崎鼻。四色の使用率(11.0%)」は、海退による海面の低下と岬先端の
隆起作用によって、弥生時代に旧来の「~崎」に鼻を加えた地名と考えた。この「~崎」
の命名時期は、縄文海進時の前期~中期(約 7,000~4,000 年前)におけそうである。~崎と
「山崎、岩崎、尾崎、川崎」な
同一名を含む埼地名(色名使用率:3.4%)の値が低いのは、
どの尾根の先端や川の合流点に命名された埼と、縄文時代後期~晩期につけた埼が混合し
たことが原因にあがる。おなじ様相は、縄文時代早期から弥生時代までの、幅広い命名年
代が考えられる自然地名の崎(5.6%)にもみられる。
これまで述べた事象だけでは、命名年代を特定しにくい山名のなかで、
「~森山」の色名
使用率が最も高いところは注目すべきである。~森山は「崎鼻、坂峠、越峠」と同様に、
ある時代に「~森」に山を加えた地名群と推定される。この様子は森(占有率:19.8%、平
均音数:3.21 音、色名の使用率:3.4%)、森山(占有率:55.5%、平均音数:2.32 音、色名の
使用率:12.4%)の数値データが表わすように、音数の少ない~森だけに山を添加した史実
を暗示している。第三章『言葉と地名』の図 3-1-3 にあげた分布地図を参照すると、
「森+
山→森山」の変化は弥生時代以後に行なわれ、中部・近畿・九州地方の森は一斉に「森山」
へ変化したが、東北地方北部と四国地方西南部の「森」は旧来の伝統を保持して、音数の
132
高い進化した名をふくむ地名群として残存したと考えたい。
〈㊟ 山名の音数、占有率などの
数値データは、本節の最後に提示〉
「阪」地名は字名の中で色名の使用率が最も高く(13.1%)、とりわけ「赤坂=Aka(開く:
∨型・∧型地形、崖)+kasa(笠:∧型地形)+saka」が、表にあげた地名では、群をぬく
トップにたつ事実は注目すべきである。坂の利用が先土器時代(約 15,000 年以前)に溯れ
ること、
「赤、青、白、黒」は縄文時代早期(約 9,000~7,000 年前)に誕生した可能性があ
ることから、阪地名群は縄文時代でも早期~中期(約 9,000~4,000 年前)につけた可能性を
みせている。峠名の「赤坂、青坂、白坂、黒坂」峠は、色名・地名の語源を忘れ去った平
安時代以後に、旧名の~坂に峠を付加して誕生したため、
「坂峠」の色名使用率(2.9%)が
低くなっている。こうした現象を総合すると、「赤、青、白、黒」の四色を基本形の前にお
く地名は、縄文時代でも早期~中期の命名を想定できそうである。
これに対して、平均音数が約 2 音をとることから、縄文時代の命名を考えた字名の「腰」
地名と自然地名の「越峠」
、そして弥生時代の「越」
、平安時代以後に誕生した「峠」に、
色名の単独使用がないところは重視しなければならない。先に鼻名の「赤鼻(7),白鼻(1),
黒鼻(5)」を「~崎」からの改名、または縄文時代の命名を推理したが、四色地名は縄文時
代でも中期以前につけた可能性が高いため、
「赤崎→赤鼻」などの改名説の方が、説得力は
ありそうな感じがする。
もうひとつ気になる現象は、
「腰、越」が「Kotsi(kotsukotsu 掘じ:活用不明他動詞。越
す:四段活用他・自動詞)」と「Koye(越ゆ:下二段活用自動詞)」を原形におくことである。
ものを変化させる意味をもつ「Kotsi(掘じ)」が四段活用動詞であれば問題ないが、この意
味をもたない地名の基本形は「Tafu+koye→峠」と「Seto(瀬戸:海峡、川幅の狭い早瀬)
←Se(瀬)+to(戸:出入口)
」があがるだけである。湿地を表わす「Sima(湿む、染む:四
段活用自動詞)
」は、湿地名が他動詞を原形としない言葉で構成されているので例外でなく、
崖系の地形語のほぼ全数が四段活用他動詞を使った様子をみると、異例といえる「腰、越」
地名の誕生は、縄文時代中期以降に想定できるかもしれない。
この辺も、古語の二音節の基本動詞が約 200 種類なので、考古学の成果を参照すると、
面白い相互の関係が浮上する。たとえば「煮る(地名の使用例はごく少数。Ni:粘土、泥、
湿地)」という動詞は上一段活用であり、
「焚く、焼く(原形は Paku:剥ぐ?)、蒸す(←pusupusu
Pusu.燻す?)」が四段活用をとって、
「煮」より歴史が古いことが興味をさそう。煮炊きを
する土器の利用が縄文時代草創期の約 15,000 年前に想定されるので、上一段活用他動詞の
「煮る」が、これ以後に誕生したのは確実であろう。また、
「植ゑ.Uwe(下二段活用他動詞。
原形は Pupe(増へ?)」が植物の栽培と関係をもつのも重要な意味をもってくる。今は水稲
耕作の導入を弥生時代でなく、縄文時代晩期におくのが常識になり、畠・畑〈Fatsake=Fatsa
(斜面の端、狭間)+tsake(焚く、割く、咲く)⇔kesu(消す)≒焼畑農耕〉や、栗などの
植林が縄文時代中期まで辿れることは、三内丸山をはじめ、各地の遺跡で立証されている。
133
もし本サイトの推論のように、地名の基本語が動詞をもとに構成されていたなら、縄文
時代前期にも溯りうる「阪、埼」の原形である「Tsaku(裂く)」という四段活用他動詞と、
「Tsimu(占む:下二段活用他動詞。原形は Tsipu:
「嶋」地名の「Tsimu(湿む:四段活用自動詞)」
四段活用?)」はこれ以前の時代にあったことになる。つまり、先にふれた「Pa→Ma」行の
転移と共に、基本動詞の歴史が、考古学の実証と地名の使用状況から推理できるのである。
「Yama(山).Saka(坂).Tafa(峠).Safa(沢)
.Kafa(川).Tani(谷)
.Taki(滝).
Saki(崎).Fana(鼻)
.Fama(浜)
.Sima(島)」など、地名の基本形が「a,i」母音を
主体に構成された事実から、地名の基本語彙は「四段」活用動詞の未然形(a)と連用形(i)
が多用され、これに次いで「上一段、上二段」活用動詞の未然・連用形(i)が使われた様
子がわかる。地名が命名時の言語活動、時代背景を写しとる重要な性質をもつことから、
先土器時代から縄文時代前半の言語活動では、主に「四段」活用動詞が使われ、ある時期
から「上一段、上二段」活用動詞、さらに「下二段」活用動詞が分化したと推定される。
この様子は、同じ言葉を重ねたオノマトペ(重畳型:akaaka,awoawo,sirazira, kurikuri
など)の大半が、
「a,i」母音を中心に構成されていることに残されている。
この使用例から、
「越:Koye」の音律は異例と判定できるわけで、「Tafuke,Seto」も基
本地名群より、かなり後の時代に採用された史実が浮上する。膨大なページを要するので
次章『日本語の源流』で検討するが、地名に採用された音律は『a,i』母音を基本に据
えた一定法則…『u,e,o』母音は凹地、湿地系の地名( Kupomi, Fekomi, Nure,Mure
など)と『uu,ee,oo』の連母音型を除いて、相互の組合せをとらない法則…が貫か
れている。本サイトが地名の原形をローマ字で表記しているのも実例を示すためで、この
韻律は、弥生時代から多少変化しているようにもみえるが、倭語の基本として、『古事記』
『日本書紀』にのる神々の名と歌謡、『万葉集』和歌に引きつがれ、いま私達が使っている
『日本語』の基盤になっている。むろん地名の基本語に「黒:Kuro」など少数の例外はある
のだが、大自然の音を根幹に置いて構築した倭語が、
『厳格な論理と普遍性』を中心にすえ
て成立した史実を忘れてならないのである。
134
(4)
越の性質
このように、阪、坂峠とは様相を変える「腰」と「越峠」に相関関係があるとすれば、
峠に使われたもう一つの「~越」地名群がどんな様相をみせるかが心配になる。なぜなら、
「~越」の九州中央部から四国、近畿地方への強烈な分布状況から、この命名時期を弥生
~古墳時代と推理したからである。腰と越峠が縄文時代に命名されたなら、
「タウゲ→峠」
が平安時代に出現した経緯をみても、峠をつけない「~越」も縄文時代の地名と考えるの
が常識的な捉え方である。そこで「越」のデータを提示して、ここにあげた推論のどこが
こしぢ
〈㊟ 集計に越路(0 音:長野 大河原)をふくむ〉
間違っているかを検討しよう。
表 4-5-11
1音
越名の音数
2音
3音
4音
5音
6音
東 北
8
6
7
1
1
関 東
2
2
2
1
5
15
21
4
近 畿
6
20
17
9
中 国
7
9
14
2
中 部
1
8音
1
3
四 国
1
11
23
17
7
1
九 州
1
18
35
48
12
1
全 国
3
57
110
126
36
5
2
累 計
地名数
73
23
3.17
23
7
3.29
168
48
3.5
203
55
3.69
107
32
3.34
203
60
3.38
395
115
3.43
1172
340
3.45
越名の音数(百分率表示)
1音
2音
3音
4音
5音
東 北
34.8 26.1 30.4
関 東
28.6 28.6 28.6 14.3
中 部
2.1
10.4 31.3 43.8
6音
8音
4.3 4.3
8.3
2.1
音 数
偏差値
3.17
35.0
3.29
42.8
3.5
56.5
近 畿
10.9 36.4 30.9 16.4 5.5
3.69
68.9
中 国
21.9 28.1 43.8
3.34
46.1
3.38
48.7
3.43
52.0
6.3
四 国
1.7
18.3 38.3 28.3 11.7
九 州
0.9
15.7 30.4 41.7 10.4 0.9
全 国
0.9
16.8 32.4 37.1 10.6 1.5
135
1.7
0.6
音 数
3.45
表 4-5-12
越名のランキング
1 鳥 越
11
4 大戸越
2
4 冬 越
2
2 小野越
3
笹 越
2
松尾越
2
八丁越
3
笹の越
2
六地蔵越
2
4 尾平越
2
杉が越
2
大 越
2
地蔵越
2
越名総数
340
標準偏差 0.15
ベスト 10 の地名数 31
以下は頻度 1 の地名(299 例)
占有率 9.1%
log 3.45×log 9.1 =0.52
御覧のように、
「越」地名群は、同族にみえる「腰・越峠」とは、似ても似つかぬ特性が
現われる。この極端な統計数値の違いをみると、先の推論で、
「腰・越峠と越を同類」と判
定した『常識的な捉え方』が誤りになる。
この差異は、大字・小字の「嶋、埼、花」と自然地名の「島、崎、鼻」にも見られて、
字名の「腰」と、峠の「越」の命名年代に大差があるのは確かである。しかし峠名の両者
を一概にこう決めつけるのは難しい。「~越」「~越峠」が二分されたのはタウゲの概念を
確立した平安時代後期以降で、それ以前は、両者が区別されていなかったと考えて良いだ
ろう。
「~越峠」
「~越」に使われた個々の名を対照すると、
「鳥越峠」が前者に 12 例、
「鳥
越」が後者に 11 例あり、~越峠の上位にランクされる「風越、堀越、打越、大越、猿越、
吹越、細越」が一例ずつ~越に現存し、
「おそ越、萩の越」が双方に一例ずつ存在する。
この様子をみると、~越峠は平安時代以前に全数が「~越」とよばれ、峠が一般に普及
した鎌倉時代以降に、音数の少ない~越の一部が「~越峠」に名を換えたと捉えられそう
である。この考えに立つと、
「~越峠」の命名時期を縄文時代におくことにも問題が発生す
るわけで、これを検討するために、第三章の最初に提示した「腰」地名と「~越、~越峠」
の分布図を再掲しよう。
136
図 4-5-1
「~腰」地名と、
「~越、~越峠」の分布
この図では、「~越峠」の大半が「~越」の主分布域、またはその延長線上に存在して、
越の密分布域、すなわち西日本の「~越峠」は、
「~越」から分離した峠名と判定できる。
しかし、西日本の「~越峠」
「~越」が一定の流れを感じさせる分布をとるのに対して、東
日本では分散傾向を示して、両者の命名時期、または命名法が違っていた可能性をみせて
いる。そこで、峠の章では一括して扱った「~越峠、~越」の小地名からの転用を、
「峠」
から分離して比較すると、ここにも大差が現われるのである。
表 4-5-13
越峠、峠、越の転用率
越峠
転用数
転用率 %
転用率 %
越
転用数
転用率 %
北
13
2
15.4
470
168
35.7
23
7
30.4
関 東
3
1
33.3
251
91
36.3
7
5
71.4
中 部
21
2
9.5
768
320
41.7
48
29
60.4
近 畿
15
4
26.7
586
218
37.2
55
29
51.8
中 国
15
2
13.3
508
157
30.9
32
17
53.1
四 国
12
2
16.7
242
53
21.9
60
22
36.7
九 州
9
3
33.3
374
136
36.4
115
46
40
全 国
88
16
18.2
3199
1142
35.7
340
155
東
峠
137
転用数
45.5
このように、
「~越、~越峠」の分布図から両者は同種にみえ、統計数値からは異種と判
定したほうが理解し易いというのも困ったものである。さらに「~越」「~越峠」が、越の
文字を「こし、こえ」と二種類のよみ分けをしているのも厄介なもので、現在のよみ方が、
両者を区別しうる分布をとっていないことも、混乱を助長する要因になっている。
地名の基礎的探索を旨とする本サイトは、縄文~弥生時代に峠そのものにつけた「~越」
と、字名などを弥生時代以後に転用した「~越」は、平安時代以前には区別されずに使わ
れていたようである。
風越 = Katsa(笠:∧型地形。肩、片:崖端)+tsako(逧、硲:谷間の道)+kotsi
水越 = Mitu(水、満つ、道)+tuko(突く:∨型地形)+kotsi、
鳥越 = Tofori(通り)+koye(越え)
。Topi(飛び、鳥)+piko(引っ込んだところ:
山と山の鞍部、∨型地形)+koye
などの音数の少ない越だけに峠が添加されて、鎌倉時代以後に「~越峠」が分離したと
考えたい。現在もここにあげた数の倍以上が残されている、
「腰、越峠、越」地名全数を検
討すると共に、命名時期を特定できる地名群との比較対照を行なえば、命名年代は探求可
能な問題と推測しておきたい。
138
(5)
地名命名法の変化
ここまで述べたように、わが国の地名は、諸外国の地名と比べ『a,i』母音を基調に
整えた韻律と、その音数をおおよそ「3,4」音に限定したところが際立った特徴にあがる。
毎日ひんぱんに使われる都府県名、市町村名、県庁所在地名の大多数が、二文字をあてた
「3,4」音の名を使用し、7 割以上を地名から採った「苗字」もおなじ様相をみせている。
市町村の大字・小字名や駅名も、後に加えた「新本東西南北上中下」などの接頭字を取り
去ると、やはり「3,4」音で構成されるのが普通である。字名の「嶋、埼、花、阪、腰」
地名の平均音数が「2+2=4」音をとることがこれを表現し、「ものの名前、言葉」もおな
じ様式をとるところが大切である。倭語の特性は、地名を考えるうえでも、重要な意味を
もっている。
~越峠に「Torikoye,Mitukosi,Kasakosi,Fosikoye,Forikosi,Makoye」などの 3, 4 音
の名が上位にランクされることがこの特性を表現し、~坂峠でも「Ofosaka, Kosaka,
Matusaka, Afusaka」が多用されている。Saka の「裂く、避く、逆さ(∨型+∧型地形)」
の解釈から、この 3, 4 音の「~サカ」は峠地形につけたことが判る。
「~坂峠、~越峠」
は鎌倉時代以後に旧来の「~サカ、~コシ」に峠を加えた地名群だが、旧地名に新名称を
加える現象(地名の転用)は、地名に対する理念と命名法が、ある時代を境に変化した史実
を語っている。字名の「嶋、埼、花、阪、腰」地名の平均音数が「2+2=4」音と一定の値
をとるのに対して、自然地名の平均音数は、地名群ごとに大きく異なっている。
島: 2.6+2=4.6 音
崎鼻: 2+2+2=6 音
崎: 2.8+2=4.8 音
坂峠: 2+2+3=7 音
鼻: 3.6+2=5.6 音
越峠: 2+2+3=7 音
越: 3.5+2=5.5 音
「島、崎、崎鼻、坂峠、越峠」は、語源解釈と上位にランクされる名をみても、縄文時
代に起源をたどりうる地名群である。「島、崎」の音数が高い理由は、地方ごとの音数に対
する標準偏差(バラつき加減:分散)の値が高いことから、弥生時代以後に旧名にかえた新
設名が多数混入したためと考えられそうである。これを裏面からみると、
「島、崎、坂」な
どの基本地名の前におく言葉を 2 音に限定していた規則が、ある時代を境に外された様子
を推定できる。瀬戸内海を中心に分布する「鼻」
、九州中央から四国、近畿地方を主分布域
とする「越」は、この分布状況から弥生~古墳時代の命名が考えられる地名群だが、両者
の前においた言葉が共に「3.5」前後の平均音数をとるところが大切である。
「3.5」は 3 と 4 を合わせた平均値で、この音数の言葉を「鼻、越」の前におく手法は、
同種とみえる平均音数 2.8 音の「崎」、約 2 音の「越峠、坂峠」とは明らかに命名法が違っ
ている。
「島、崎、坂」は「Sima,Saki,Saka」の前においた言葉の語尾が「Si,Sa」と掛
139
け言葉で結ばれた例が多いのに対して、
「鼻、越」名では上位にランクされた音数の少ない
名を除くと、こうした例が少ないことが特徴になっている。これは各地名群の占有率…越
峠(54.5%).崎鼻(53.8%).坂峠(22.5%).島(18.9%).崎(14.9%).越(9.1%).鼻(7.0%)
…に表現されるように、
「鼻、越」は同一名が少なく、1,055 の鼻名のうちの 834 例(79.1%)、
転用名の多い 340 の越名中 299 例(87.9%)が頻度 1 の名で占められる事実に示されている。
両者の前におかれる地形語の語尾は、鼻の「Fa」
、越の「Ko」へ常に掛け言葉で結びつけら
れるほど、地形用語は広範なものではないのである。
これらの現象を総合すると、かつては 4 音以内に音数を定めて『掛け言葉』を用いる厳
格な規則で命名されていた地名が、言語の発達に伴って、時代の要請にあわせた多様性を
もつようになり、岬、峠を表わす自然地名の「鼻、越」名では、前におく言葉が 4 音内外
の地形語であれば自在に名づけて構わない。という新ルールを定めた様子を想像できる。
「鼻、越」名の大多数を弥生~古墳時代の命名とすれば、変化がひき起こされた時代は、
それ以前の重大な転換期が浮かびあがる。同じ様相は、考古学の遺物に残されている。
厳格なルールを定めて、この規定を一万年以上の間、抜本的な変化を求めなかったもの
が『縄文土器』であり、これを大きく変化させたのが『弥生土器』だった。抽象的な表現
を特色とした縄文土器、文様は簡潔で実用的で多様性をもつ弥生土器に、
『地名』との共通
点を見いだせる。狩猟採集を主体にした縄文時代から、金属器を使う農耕文化の弥生時代
への変換点は、わが国の歴史上、特筆にすべき出来事だった。
この転換は、緩やかに下がっていた大気温度が、縄文時代後期後半からさらに降下した
ために起きた現象である(76 ページ 図 4-3-10 参照)。縄文時代晩期中葉から弥生時代初期
にあたる、大陸の「春秋・戦国時代(BC 770 年~BC 221 年)」は、農作物の不振から大乱が
続発し、この難を逃れて人々が列島に渡来したことが、変換の引き金になったと考えられ
ている。わが国でも、気温低下に伴なう植生の変化から狩猟採集だけでは限界に達して、
次第に人口を減らしていった様子も、全国の遺跡分布状況から判明している。かつて隆盛
をきわめた縄文時代中期の華麗な文化は姿を消し、以前より洗練されて芸術的価値は高い
ものの、見方によっては呪術的な暗さすら感じとれる亀ヶ岡式土器(青森県西津軽郡木造町
亀ヶ岡)の、厳格な「擦り消し縄文」の手法にも、縄文時代晩期の世相が反映されてみえる。
縄文から弥生への転換が、渡来人の移入によって引き起こされたところは注目すべきで、
後の「明治維新、第二次世界大戦後の復興と高度成長」という重大な変換期にも、おなじ
共通項がみられる。
「明治維新、戦後の復興」後の時代に共通する点は、外国の影響をうけ
た生活様式の変化と共に、言語活動も変化をとげたことである。
維新の開国以後は、渡来文明を消化するために不可欠な外来語を多くとり入れ、これを
「外来、文明、電気、鉄道、郵便」などの漢語の表現におきかえて、日本語の語彙を増し
ている。日常会話と文章表記の著しい差をあらためた「言文一致」運動は、言語形態の変
化を示す例として、とくに名高いものである。
140
戦後の時代にも同種の現象が認められるが、なぜか、外国語を消化不良のまま取り込む
ケースが増加した。近年は「コミュニティ、アメニティ、インフラストラクチャー」のよ
うな、意味をはっきり規定しない曖昧な生の表現が好まれ、
「PKO.ODA.NGO」な
どという、一見しただけでは何を意味するかを判断できない略号も激増した。
「JA.JR.JRA.JH.JT」といった訳の判らない記号に至っては、利用者の混乱
を招いただけで、以前の「農協、国鉄、中央競馬会、道路公団、専売公社」とでは、優劣
をつける比較の対象にもならない。平成 11 年に茨城県那珂郡東海村でおきたウラン燃料に
対する無知に発した臨界事故も、この会社名がJCOでなく、旧名の日本核燃料コンバー
ジョンであったなら、周辺の人々はもう少し注意を払っていただろう。
二者以上の間で、意思・情報を伝達するものが『言語』であるなら、そこには、だれも
が納得できる全体像をふまえた明解な論理と、一定法則が不可欠といえよう。単純な外国
語崇拝と、自由の意味をとり違えた自己中心の功利主義が『言語』を堕落させ、不自由な
形態に変化させてゆく現況は、やはり考えさせられる。
さらに弥生、明治、戦後の転換期には、この変革を可能にした大切な要素があったこと
も忘れられない。一万年という年月に培われた縄文文化。表面では鎖国の形をとりながら、
世界の趨勢をしっかり把握していた江戸時代後期の文化。そして富国強兵の明治から昭和
の軍国主義のなかに隠れた、道徳を基本におく基礎教育の充実と、農林水産業・家内工業
を中心にした伝統文化の拡充が、この大変革の基盤になっていた点である。
三つの転換点は、変化期間の短さと鮮やかな転身ぶりでは世界史上希有な出来事であり、
これほどの変革が一国の歴史にみられることは特筆すべきものであった。
だが外国文化を未消化のまま受け入れることばかりに腐心して、極力伝統文化を排除し、
見かけだけの豊かさを謳歌する現代は、この潜在能力を喪失してしまったと指摘されるこ
とは、認識をあらたにする必要がある。優れた外国文化を積極的にとり入れ、時間をかけ
て充分に消化吸収し、自国の伝統を融合させて自前の文化を築くことが、この国固有のも
のであったなら、経済効率最優先の拙速主義をあらためて見直さねばならない。
言語活動において顕著に認められるこの様相は、珍奇を求めてフィーリングにおぼれ、
旧来の用法を崩すことだけが優先されて、全体像の掌握、表現法の優劣の比較などがお座
なりにされてきたため、次第に言語能力を低下させる要因になっている。かてて加えて視
聴率と購買率、利益率向上だけを社是とするマスコミ各社・広告代理店などの多大な尽力
もあって、20~30 年前には話題にもならなかった幼稚な表現が主流を占めつつある現実を
直視しなければならない。最近の流行語大賞が、かつては小学生すら見向きもしなかった
低レベルの言葉をノミネートすることや、日本語と外国語の言葉の意味に関係なく、どれ
をも四音短縮する「幼稚化、痴呆化」現象に、時代のレベルが象徴されている。
技術革新に支えられた、頭脳と体力をできうる限り使わない、大量のエネルギーを消費
する生活様式の変貌には目を見張るものがある。だが、伝統的な家族制度をはじめ、社会
141
一般に存在する「不文律」を自由の名のもとに葬り去ることが、どんな現象を誘発するか
を考えておかねばならない。いまは、やや下がっているが、歴史的にも世界最高の繁栄を
謳歌する現代が、わが国の文化史上、どの辺に位置づけられるかを意識することが大切で
ある。
このように、外国の影響を直接うけた「明治維新、戦後の復興」という変革期を境に、
言語活動が変貌をとげた様子がみられることから、渡来人の移入と大気温度の上昇を契機
とした「縄文→弥生の転換期」にも同種の現象を想定してみたい。この様子をもう少し詳
しく検討するため、
『峠名』のデータをあげよう。
142
(6)
峠
表 4-5-14
1音
2音
3音
東 北
5
41
146
関 東
2
10
中 部
4
近 畿
峠名の音数
4音
5音
6音
7音
累 計
地名数
音 数
237
47
4
2
1754
483
3.63
91
126
23
2
926
254
3.65
70
270
382
59
4
2801
789
3.55
1
66
246
252
34
2
2061
601
3.43
中 国
6
60
218
215
22
2
1762
523
3.37
四 国
1
27
105
94
23
4
885
254
3.48
九 州
2
41
121
177
36
5
1
1372
383
3.58
全 国
21
315
1197 1483 244
23
3
11561
3287
3.52
はぎなりうすない
㊟ 坂峠・越峠をふくむ。8 音(萩形臼内峠:合成名。秋田 阿仁合)が東北
地方に 1 例あり。
峠名の音数(百分率表示)
1音
2音
3音
4音
5音
6音
7音
8音
音 数
偏差値
0.4
0.2
3.63
60.6
東 北
1.0
8.5 30.2 49.1 9.7
0.8
関 東
0.8
3.9 35.8 49.6 9.1
0.8
3.65
62.7
中 部
0.5
8.9 34.2 48.4 7.5
0.5
3.55
52.4
近 畿
0.2
11.0 40.9 41.9 5.7
0.3
3.43
39.9
中 国
1.1
11.5 41.7 41.1 4.2
0.4
3.37
33.7
四 国
0.4
10.6 41.3 37.0 9.1
1.6
3.48
45.1
九 州
0.5
10.7 31.6 46.2 9.4
1.3
0.3
3.58
55.5
全 国
0.6
9.6 36.4 45.1 7.4
0.7
0.1
143
0.0
3.52
表 4-5-15 峠名のランキング
1 大 峠
46
13 国見峠
9
25 石神峠
6
2 地蔵峠
35
水越峠
9
大坂峠
6
3 桜 峠
25
15 石 峠
8
大谷峠
6
4 中山峠
22
天神峠
8
大内峠
6
5 小 峠
13
花立峠
8
小坂峠
6
6 榎 峠
12
仏 峠
8
杉ヶ峠
6
鳥越峠
12
堀切峠
8
七曲峠
6
梨ノ木峠
12
松尾峠
8
富士見峠 6
9 才ノ峠
11
21 風越峠
7
松坂峠
6
10 鳥居峠
10
笹 峠
7
三国峠
6
薬師峠
10
笹ヶ峠
7
明神峠
6
山伏峠
10
桧 峠
7
峠名総数
標準偏差
3,287
0.10
ベスト 10 の地名数 198
占有率
6.0%
ベスト 30 の地名数 348
占有率 10.6%
log 3.52×log 6.0 =0.43
自然界・生態系の森羅万象を表面におき、裏面に地形表現を配した自由自在、融通無碍
とみえる「峠」の命名法にも、一定法則が存在したことが明確に現われる。峠名の 8 割が
「3, 4」音を採用し、偏差値の最大が「62.7」、標準偏差も「0.10」という見事に統一され
た音数は情報伝達の的確さを物語っている。平均音数が「3.52」音になることから、命名
された主な時代は、言語活動の爛熟期、
『弥生時代』を考えて良さそうである。
「峠」が平安時代後期に誕生した経緯を頭におくと、この推理はちょっと納得しにくい
が、実際の峠名にあたれば理解がえられる。前章の峠の節で解説したように、峠に使われ
た言葉の大多数が峠地形(∨型・∧型地形、崖、水源)を表現して、一部は峠の原形である
「タワ、タヲ、トウ」をふくむ形でこれを表わしている。この形は中国・四国地方に多く
残され、近畿地方を含めて平均音数がやや低いことから、この表現法は中国、四国地方に
発した様子を想定できる。むろん地名の基本形を採用した「タワ、タヲ」地名は縄文時代
に起源を辿れるが、峠全体には弥生時代の命名を想定した方が理解しやすい。
また、峠は小地名、沢・谷名などを転用した名が全数の約 1/3 を占め、転用名の原形
も「3, 4」音で構成されているために、平均音数が「3.52」音に集束したとも捉えられる。
先に検証した「越」名は半数近くが転用地名で構成されており、この地名群の一部は後の
命名であったとしても、縄文時代から名の通った小地名を「坂、タワ(峠)、越」に転用を
許す規定は、弥生時代に誕生したと推理したい。
144
「井の中の蛙」
「島国根性」とも表現されるように、広い視野をもちにくい、山岳地形を
中心におく島国に形成された『森の文化』は、外部から刺激をうけると変化する特性が知
られている。渡来人の移入と大気温度の上昇が農耕文化を育成し、狩猟採集と比べて圧倒
的に生産性の高い余力が、縄文時代の厳格な規則を開放して、言語が進化したと考えたい。
弥生時代の特徴は、物的・人的交流が縄文時代と比べて著しく増大したことである。その
ため、縄文文化の特徴とみえる、やや融通性を欠く規則を基に造られていた自然地名では
同一名、類型地名ばかりであったために時代に適応できず、この規制を緩和した岬地名の
「鼻」
、峠地名の「越」が新設されたのも縄文から弥生への交通体系、自然地名の命名法が
変化した様子を物語るのであろう。おそらくここには、大陸における地名命名法の影響や
渡来人の嗜好(タフ、トウ:塔・道≒峠)などが反映した様子も想像できるが、はっきり証
拠をあげて、具体的な考証ができないのは残念である。
再三のべたように、地名を考えるうえでの大切な事柄は、大字・小字名と自然地名の基
本特性が違うことへの認識である。大字・小字は地域社会の日常生活に密着した小範囲の
地名であり、自然地名は、交通路など少し広い範囲の役割を担う地名として利用される。
前者では小地名から選びだされた代表名、たとえば「国、郡、県、市町村、駅」名などが
後者と同等の役割をはたし、行政上の意向が絡まなければ、地域社会という保守的な性格
から、小地名は継承されやすい特性をもっている。
『延喜式』民部上記載〉の大多数(558 郡:94.4%)
律令時代の国全数と郡〈66 国 2 島。591 郡:
が、明治初頭の『廃藩置県:1871 年』までの 1,000 年以上もの間、ほとんど変化しなかっ
た史実は、世界史上希有な出来事といわれる。維新の改革で旧国名は全滅したが、郡は、
明治時代中期の『府県制・郡制:1890 年公布、1896~1900 年実施』によって、律令時代以来
の約 1/3 の郡が区画変更、統合、名称変更などで変化した。その後、大正 11(1922)年
の『郡制廃止法』
、大正 15 年の「郡役所、郡長の廃止」によって地方自治体としての機能
は失ったものの、いわゆる『平成の市町村大合併』が開始された平成 12 年まで、半数以上
の 300 余りの郡名が形式上の区画として生きつづけていた。
、戦後の『町
町村もまた、明治の『郡区町村編制法:1878 年』と『市制・町村制:1888 年』
『新市町村建設促進法:1956 年』などの施行によって、明治時代初
村合併促進法:1953 年』
頭の 7 万余りの町村が 3,200 有余の市町村へ統合され、
平成の合併で約 1,700 に縮小した。
これらの変革は時代の要請に基づいたもので、飛鳥時代末以来の区画をそのまま受けつぐ
こと自体に問題があった。しかし大字・小字名が、行政の大変革のなかでも古い伝承を堅
持しているところが大切で、さまざまなデータに現われたように、この地名群の大多数に
「縄文、弥生」時代の命名を想定できるところを重視しなければならない。
字名と自然地名の命名法に違いがあるのは、地形図にのる地名を収集して、整理するだ
けでも簡単に理解できる。地形図で峠をあたると、ごく近い範囲では峠におなじ名をつけ
ない「不文律」があった様子ことが判る。これは「山、川、島、岬」名などにも共通する
145
自然地名の基本特性である。これに対して、大字・小字名は小地域を単位としてつけられ、
同一名が近接した地域にも数多く併存する。この現象は、狩猟採集を主体にした「アイヌ」
地名に顕著に見られる。北海道のアイヌ語地名は集落、小地域を単位にした命名法がとら
れた。そのため、地名自体が元始的な意味で命名されたことが、際立った特色にあがる。
たとえば、島を表わす「Shir,Moshir」や、岬を指す「Shir-pa, Not, Enrum 」が、この
まま自然地名に使われて、峠は「Ok-chish, Ru-chish, Ru-pesh-pe」、川は大河の「Poro-nai」
、
本流の「Shi-pet」、支流の「Pon-pet」、湖は「Penke-to, Panke-to」の上下だけの区分な
どで、日常生活を営んでいた姿を想像できる。
この様子は、狩猟採集民族の行動範囲を如実に示している。現代に継承された「内地」
の自然地名に、この形態をとるものが皆無に近い状態で、大字・小字名にだけ、原初的な
「島、崎、鼻、坂、田和、田尾、峠、越、山、川、沢、谷、滝」の地名が残されている。
アイヌ語地名と内地の自然地名をへだてる違いは、狩猟採集と農耕・交易を主体にした民
族の生活形態の差に発した現象と捉えられる。今も字名にのこる「島、崎」などの元始的
な地名群は、先土器時代から縄文時代草創期~早期の遺産と推理できる。これは、
「~嶋、
~埼」地名が縄文時代早期から命名されたとしたなら、この根幹をなす「Tsima,Tsaki」
の語型は、それ以前に決めておく必要があることから導きだせる推論である。
北海道におけるアイヌ語の自然地名は、江戸時代後期から明治時代初期に蝦夷地を国内
に組み入れた際、この基本的な性質が内地の実情に適合しなかったため、岬は旧名を利用
した「尻羽岬、能取岬、襟裳岬」などに改め、固有名がなかった峠には、峠下の集落名、
郡名、国名などを転用・合成した名を新設した。
同様の例は、かつて人があまり入らなかった内地の特定地域にもみられる。ここでは、
「峠、
越」の区分に入れなかった「乗越:のっこし」地名に、さらに後の時代に命名された転用名
の顕著な例があるので、5 万分の 1 地形図にのる全数を記そう。
951m
南沢乗越 ▽ (富山・岐阜 槍ヶ岳) 2480m
裸山乗越 △ (新 潟
須 原)
大倉乗越 ▽ (新 潟
妙高山)
2240m
東沢乗越 ▽
(長 野
槍ヶ岳)
2253m
ハシゴ谷乗越▼(富 山
立 山)
2005m
水俣乗越 ◎ (長 野
槍ヶ岳)
2480m
室堂乗越 ○ (富 山
立 山)
2380m
硫黄乗越 ▽
(長野・岐阜 槍ヶ岳)
2580m
新越乗越 ▽ (富山・長野 立 山)
2462m
千丈沢乗越▽ (長野・岐阜 槍ヶ岳)
2734m
岩苔乗越 ▼ (富 山
2710m
飛騨乗越 ▽
3000m
槍ヶ岳)
中俣乗越 ◎ (富山・岐阜 槍ヶ岳) 2460m
△:山名の転用
▽:沢名の転用
(長野・岐阜 槍ヶ岳)
大ノマ乗越△ (岐 阜
▼:谷名の転用
◎:川名の転用
146
槍ヶ岳)
○:小地名の転用
2460m
乗越地名は、北アルプス(飛騨山脈)に集中する特異な峠群である。全数が「沢、谷、川、
山」名を転用した乗越地名の命名時期は、アルピニストやハイカーが足繁く訪れるように
なった近代 (おもに昭和時代 ) と考えられている。この地名群も、高山の鞍部を単に
「Norikosi→のっこし」と呼んでいたものが、利用者が急増したために個々の識別が必要
になり、付近は平野部と比べて地名の絶対数が少ないため、
「沢、谷、川、山」名を転用し
て命名された。普遍的な一定法則のなかで、言葉を自在にあやつれた言語活動の爛熟期で
あれば、地形に応じた新設地名をつけたであろうが、飛鳥時代以前にこの能力を喪失した
民族には無理な要求といえよう。乗越の音数が「2 音(1 例).3 音(1). 4 音(7). 5 音(4).
6 音(1)」という使用例から、平均音数も「4.21 音」と高くなって、約 3.5 音の峠・越と
比較して、大幅に値をかえている様子がわかる。
この例のように、最近の新設名・記号類は借用する名の音数や音律に配慮しなくなった
ところが著しい特徴になっている。かつての高級避暑地、近年は新宿・原宿・渋谷の同類
ともみえる「軽井沢:Karufisafa=Karu(刈る:∪型地形。涸る)+fi,wi(水)。rufi⇔firu
(放る、干る)+isa(砂)+safa≒水源にある砂の多い涸れ沢」は、この有名ブランドを利
用して旧軽井沢(本来の軽井沢)、新軽井沢(軽井沢駅付近、もと草軽電鉄駅名。今はこの名
を使わない)、北軽井沢(千ヶ滝)
、南軽井沢(発地)
、中軽井沢(沓掛)
、西軽井沢(御代田)
といった判別しにくい記号がつくられ、はっきり地形を表現した由緒ある地名を駆逐して
ゆくのも時代を反映した姿にみえる。ただ、こんな長ったらしい名前よりも、
「旧軽、北軽、
南軽、中軽」の略称が好まれるのも、利用者の方に古い伝統が息づいている証拠といえる
かもしれない。
この現象は「エアコン、リモコン、パソコン、ゼネコン、マザコン、ボディコン」など
といった外国語起源の名にまで拡大し、おなじ「コン」でも「Conditioner, Controller,
Computer, Contractor, Complex, Conscious」が原形であることは、今なら判読できるが、
どんどん同類が増えてゆくと、収拾のつかない状態になるのは目にみえている。本来は形
容詞である「Conscious」を、名詞(Consciousness)のようにあつかう「和製英語」にも問
題があり、英語圏の人々に通じない安直な造語法と、これを容認するトレンドにはやはり
疑問が感じられる。最近若者の間、というよりマスコミ(Mass-Communication)を中心に、
言葉を 3~4 音に短縮することが流行しているが、これは伝統的な言葉遊びを踏襲したもの
でなく、言葉の成り立ちや意味を理解できないことに加えて、無意味なものを尊ぶ「幼稚
→痴呆→白痴」化が表われた、深刻な現象なのである。
物の名や地名などは、他のものとの区別さえできればよく、語源・品詞などは関係ない
とする説には一理もあって、つまらない処に目くじらを立てるな!という声が聞こえてく
るような気がする。しかし「言語」とは、利用者を意識した普遍性をもつものを指すよう
に思われ、論理性を重んじて、秩序だった一定法則のなかで最高度に成熟した、かつての
言語活動を見直すことも必要ではなかろうか。現代が高度情報化社会を自称するように、
経済活動の拡大、技術革新の進展にともない、旧来の日本語だけでは語彙が足りないのは
147
致し方ないところだが、コンピュータを「電脳」とつくる本家中国の用法には、本質をつ
いた大らかなユーモアが感じられ、明治の人々の気概を彷彿とさせるのである。
人間の能力には、ある一定の限界点があって、単に時代を重ねるだけで全体の知的水準
が上がる、というものではなさそうな感じがする。従来の用法を崩すことのみにこだわり、
目新しさを追い求めることだけが「進歩」でなく、両者を比較対峙し、その優劣を対比し
て、あらたな言語体系を構築する『温故知新』の精神が大切に思われる。現代がエントロ
ピー…無秩序さの度合いを表わす指標…の増大する時代といわれることには、放任ともみえ
る「自由」の存在があり、将来を見据えて、ふたたび節度を備えた「秩序ある不文律」を
立てることが今後の課題になろう。
これまで述べた諸現象だけで、地名の命名年代を確立できるとは言えないが、大字・小
字名と自然地名に命名法、命名時期に差があることだけは確実である。比較対照の意味で、
これまでとりあげた地名群を整理し、本章で検討しなかった山、川(第六章『富士の語源』
で解説)のデータをそえて、表にまとめておきたい。
〈㊟
表の推定命名年代の欄で、崎鼻などの「縄文+弥生」の表記は、~崎の命名を縄文
時代、鼻を添加した時期を弥生時代以降と推理した〉
表 4-5-16
大字・小字名と自然地名の音数( 5 万分の 1 地形図による)
大字・小字名
自然地名
嶋
埼
花
阪
腰
崎鼻
坂峠
越峠
東 北
1.87
2.17
1.98
2.19
2.10
―
2.08
1.92
関 東
1.95
2.03
1.95
1.97
1.92
2
2.16
2
中 部
2.06
1.96
2.16
1.90
1.90
1.67
2.03
1.76
近 畿
1.80
1.91
2.11
1.85
1.85
2
1.98
1.87
中 国
1.93
1.93
2.24
1.74
1.80
2
1.67
2
四 国
1.90
1.99
2
1.76
2.06
2.04
1.94
1.92
九 州
1.98
1.93
2.12
1.97
1.98
1.95
1.86
2.22
全 国
1.97
2.00
2.07
1.95
1.96
1.96
1.97
1.92
標準偏差
0.08
0.08
0.10
0.14
0.10
0.12
0.15
0.13
占有率
37.1
34.0
43.9
32.3
40.7
53.8
22.5
54.5
音数×占有率
0.46
0.46
0.52
0.43
0.47
0.51
0.40
0.49
地名数
2648
2361
312
1302
815
145
204
88
―
―
―
―
―
22.8
31.2
18.2
推定命名 縄 文
縄 文
縄 文
縄 文
縄 文
縄 文+
縄 文+
縄 文+
弥 生
鎌 倉
鎌 倉
転用率 %
年代
148
表 4-5-17
自然地名の音数
5 万分の 1 地形図による
島
崎
岬
鼻
峠
越
東 北
2.82
3.17
3.35
関 東
2.82
3.05
中 部
2.59
近 畿
乗越
3.37
3.63
3.17
―
3.56
3.71
3.65
3.29
―
2.83
3.39
3.35
3.55
3.5
4.21
2.75
2.64
3.6
3.6
3.43
3.69
―
中 国
2.43
2.76
3.38
3.51
3.37
3.34
―
四 国
2.49
2.61
3.07
3.59
3.48
3.38
―
九 州
2.53
2.77
3.14
3.69
3.58
3.43
―
全 国
2.58
2.82
3.32
3.6
3.52
3.45
4.21
標準偏差
0.15
0.19
0.18
0.13
0.10
0.15
―
占有率
18.9
14.9
11.2
7.0
6.0
9.1
―
音数×占有率
0.53
0.53
0.55
0.47
0.43
0.52
―
地名数
2860
1660
241
1055
3287
340
転用率 %
10.6
13.9
21.2
6.6
35.3
45.5
推 定 命 名 縄 文 ~ 縄 文~
縄文~弥
弥 生~
弥生~古
弥 生~
年代
生+江戸
古 墳
墳+鎌倉
古 墳
弥 生
弥 生
14
100
昭 和
㊟ 平均音数×占有率は、それぞれに常用対数をとって掛け合わせた値。
峠に坂峠、越峠をふくむ。
表 4-5-18
山、川の地名数
20 万分の 1 地勢図による
森
峰
岳
山
森山
峰山
岳山
川
東 北
347
30
259
1744
216
17
8
667
関 東
0
11
65
496
1
11
4
194
中 部
3
99
323
1375
23
21
11
585
近 畿
3
44
104
503
20
17
3
287
中 国
0
12
44
516
2
13
6
169
四 国
57
29
6
285
11
3
0
131
九 州
0
21
400
620
10
5
7
357
全 国
410
246
1201
5539
283
87
39
2390
149
表 4-5-19
山、川の音数
森
峰
岳
山
森山
峰山
岳山
川
東 北
3.16
3.37
3.42
3.83
2.32
2
1.38
3.33
関 東
―
2.73
3.28
3.65
1
2
1.25
2.90
中 部
2.67
3.06
3.53
3.66
2.30
1.95
1.27
3.17
近 畿
2.67
3.32
3.69
3.67
2.65
1.88
0.33
2.94
中 国
―
3.33
3.52
3.53
2.5
1.85
0.5
3.08
四 国
3.58
3.14
3.5
3.73
2.27
2.33
―
3.11
九 州
―
3.24
2.99
3.51
1.7
1.8
1.29
3.21
全 国
3.21
3.17
3.33
3.69
2.32
1.94
1.10
3.16
標準偏差
0.38
0.21
0.21
0.10
0.53
0.16
0.42
0.14
占有率
19.8
17.9
10.9
5.5
55.5
54.0
69.2
4.1
音数×占有率
0.66
0.63
0.54
0.42
0.64
0.50
0.08
0.31
地名数
410
246
1201
5539
283
87
39
2390
転用率
8.3
10.6
22.7
15.9
10.2
11.5
17.9
79.3
縄 文 ~
縄 文~
縄 文~
縄 文~
縄 文 +
縄 文 +
縄 文 +
縄 文 ~
弥 生
弥 生
明 治
明 治
弥 生
弥 生
弥 生
古 墳
㊟ 山は中国地方の仙と「森山、峰山、岳山」をふくむ。峰は「峰、峯、嶺」の総称。
「森、森山,岳山」の標準偏差が高いのは、地名数が少ないための現象。
150
⒍
古地形と地名
ここまでは、各地名群の分布状況と数値データの個別の特性をもとにして、各地名群の
おおよその命名年代を推定した。しかし残念なことに、これらは地球科学・考古学の裏づ
けを伴なわない状況証拠ばかりで、相変わらず推論・仮説の範囲に留まっている。そこで
本サイトが地名解釈の根幹におく、
『地名は、地形表現を主体に命名した』基本仮説を拡大
使用すると、どんな様相が浮かびあがるかを考えよう。
地形を表現するために『地名』がつけられ、字名の「~埼、~嶋」が縄文時代の地名だ
ったなら、どこかに痕跡が残されているはずである。幸いなことに、地球科学・考古学の
成果から、氷河期→後氷期の温暖化に発した『縄文海進』、そしてヒプシ・サーマル以後の
気温降下に伴なう『縄文海退』期の地形変化の概略は解明されており、その実例をあげて、
「埼、嶋」地名などが当時の地形に結びつくかを検討しよう。
ただ、その前に各地名群のデータを別の角度から眺めると、はっきりと『縄文⇔弥生』
時代の地名を区分できる興味ぶかい事実があるので、この辺を検討しておきたい。
(1)
縄文時代、弥生時代の地名
次のデータは、前節の最後にあげた『字名』地名群の音数集計を百分率で表わした表で
ある。この地名群の平均音数が『2+2=4 音』になるところが重要で、わが国の「字名」の
基本特性に認定できる。もうひとつ大切な点は、どの地名群も 2 音を中心に置いて、おお
よそ左右対称の数値をとる『正規分布』の様相をみせることである。
表 4-6-1 『字名』地名群の音数(百分率表示:%)
0音
1音
2音
3音
4音
6音
平均音数
地名数
嶋地名
4.9
16.2 59.4 16.0 3.3
0.2
1.97
2648
埼地名
0.4
17.1 66.0 15.0 1.4
0.1
2.00
2361
花地名
1.9
15.4 57.7 24.0 1.0
2.07
312
阪地名
3.2
18.4 60.6 15.3 2.4
1.95
1302
腰地名
2.3
12.4 73.3 11.0 1.0
1.96
815
0.1
正規分布とは、統計数値が平均値を中央に据え、左図
のような山型グラフになる集計(図は標準偏差:σ=1)
である。この形のグラフは一定法則に基づいて構築し、
余計な要素が入らない、自然状態で組み上げた体系を表
わしている。五つの地名群は、自然に密着して生活をし
た人々が創作した作品と考えて、間違いないだろう。
151
次の表は、いまあげた『字名』地名群と、自然地名の『島、崎、鼻、峠、越』地名群の
音数を百分率で表わして、対比した集計である。
表 4-6-2
各地名群の音数(百分率表示:%)
大字・小字名
自然地名
嶋
埼
花
阪
腰
4.9
0.4
1.9
3.2
2.3
島
崎
鼻
峠
越
0
音
1
音
16.2 17.1
15.4 18.4 12.4 10.5
5.2
0.6
0.6
2
音
59.4 66.0
57.7 60.6 73.3 40.1 35.5
7.8
9.6 16.8
3
音
16.0 15.0
24.0 15.3 11.0 32.6 36.3 38.7 36.4 32.4
4
音
5
音
6
音
7
音
0.1
8
音
0.0
3.3
1.4
1.0
0.1
平均音数
1.97 2.00
地名総数
2648 2361
2.4
0.3
1.0 15.0 21.2 38.9 45.1 37.1
0.1
1.6
1.6 12.4
7.4 10.6
0.2
0.2
0.7
1.6
2.07 1.94 1.96 2.58 2.96 3.6
312 1302
0.9
1.5
0.6
3.52 3.45
815 2860 1901 1055 3287
340
御覧のように、これまで述べてきたとおり、普通は同じ種類と見ている「島、崎」など
の『字名』と、
『自然地名』が、まったく別種の地名群である事実が更にはっきり浮かびあ
がる。表に現われたように、
『字名』地名群が正規分布の様相をとるのに対し、『自然地名』
群は音数が増えたばかりでなく、地名群ごとに個性的なバラツキを見せている。
これは命名年代の違いを表わすが、注目すべきは、字名に「0 音」
、すなわち『島、崎、
鼻、坂、越』という基本地名が現存するが、自然地名にこれがないところである。ただし、
1 例ある越は「越路(長野 大河原)」で、犬越路(神奈川 秦野)、大越路峠(栃木 栃木)
という類型があるため、便宜的に「0 音」とした例外とみていただきたい。
第三章『言葉と地名』から提起しているように、
「言葉と地名は、時代を経るごとに音数
と語彙を増していった」基本仮説を使うと、五種類の『字名』地名の命名時期は縄文時代、
自然地名の『島、崎』が縄文時代から弥生時代、
『鼻、峠、越』地名群の大半に弥生時代の
命名を考えて間違いなさそうである。
「0 音」地名、
『Saki(←Tsaki), Sima(←Tsima)
』などの基本語は、倭語の様式を確立
した時代につけた可能性が高い。縄文時代早期、さらに遡って先土器時代(15,000 年以上前)
に誕生していた言葉と考えられるかもしれない。こう考えるのは、『島、崎』などの基本語
を決めておかなければ、
「~島、~崎」の地名がつけられないからである。
152
さらに、まだ提示してない次章『日本語の源流』に取り上げる、地名の母音音型の分類
にも証拠が残されているので、これをお目にかけよう。
表 4-6-3 大字・小字名、自然地名の母音音型の種類
大字・小字名
自然地名
嶋
埼
花
阪
腰
島
崎
鼻
峠
越
0
音
1
1
1
1
1
1
音
5
5
5
5
5
5
5
3
4
2
2
音
25
25
20
24
23
24
24
19
23
17
3
音
83
60
25
55
33
104
99
93
108
55
4
音
61
28
3
22
7
170
178
211
296
82
5
音
4
3
40
87
118
170
32
6
音
4
18
17
24
4
7
音
3
1
2
1
8
音
1
2
合
計
179
122
1
54
108
69
1302 815
1
347
414
462
地名総数
2648 2361 312
地名総数/使用音型
14.8 19.4
平均音数
1.97 2.00 2.07 1.94 1.96 2.58 2.96 3.6
5.8 12.2 11.8
628 196
2860 1901 1055 3287 340
8.2
4.6
2.3
5.2
1.7
3.52 3.45
母 音 音 型 と は 、「地名 資 料 Ⅱ ~ Ⅴ 」 の 最 後に の せ た 統 計 数 値 で ある 。 地 名 を 小 島
(Kosima→oia:1 音)
、大島(Ofosima→ooia:2 音)
、中ノ島(Nakanosima→aaoia:3 音)
のように分類し、0 音は基本型のみ、1 音は「a, i, u, e, o」の五母音+基本型、2 音は「5×5
=25 種類+基本型」
、3 音は「5×5×5=125 種+基本型」の母音音型となる。
しかし、倭語には独特の韻律(リズム)が存在するため、全数に及ばないところは、次章
『日本語の源流』で検討したい。表 3 に見られるように、字名地名群と自然地名群では、
言葉の使用状況に大差が現われる。この差は、厳格な規則を一万年も守り通した狩猟採集
の縄文文化。農耕・交易を主体にした自由闊達な弥生文化の差異、と考えて良いようで、
言語の発達過程を残しているのは確実といえる。
これほど大差がある『字名』、
『自然地名』をとりあげた地名研究、言語研究がまったく
為されていないのは、たいへん不思議な現象である。そのために様々な仮説を立て、これ
を証明へ導こうとしたため、こんなに長い考察を重ねてしまった。
ここで、ようやく『埼地名』
『嶋地名』を縄文時代の地名と考えられるようになったので、
二つの地名群が縄文時代の地形、貝塚遺跡に合致するかを検証したい。まず『京浜東北線』
浦和駅にあげた、両地名の分布図を再掲しよう。
153
図 4-6-1 『埼地名の分布』
図 4-6-2 『嶋地名の分布』
ここで全国の「埼・嶋地名」を検証するのは無理なので、関東地方、とくに平野の生成
過程が公表されている千葉県「九十九里浜」と、箱根山の「芦ノ湖の岬名」を題材にして、
『縄文時代の地名』と『弥生時代の地名』の実例を検討したい。
154
(2)
埼・嶋地名と貝塚遺跡
図 3 は、
『京浜東北線』川口駅に
あげた 5,500 年前の最高温の時代
から、『縄文海進→海退』が起きた
ときの関東地方の海岸線復元図で
ある。第四紀の地質学や縄文時代に
関心をもつ考古学ファンには常識
といえる有名な地図だが、はじめて
御覧になる方は、ビックリされるか
もしれない。
いま私たちが生活を営んでいる
沖積平野の標高が数メートルの地
(空色と水色)は海進時代に大半が
海面下に没していたのである。
図は現代の地形図を基に、おおよ
そ 10mの等高線を基準に描かれて、
6,000 年の間の隆起・沈降、河川の
堆積作用の影響が抜けているので、
細部は実際の縄文海進(3m~5mの
海面上昇)とは多少異なると考えら
れている。ところが、この海岸線と
図 4-6-3 縄文時代の海岸線の変化
週刊朝日百科
『日本の歴史 36 火と石と土の語る文化』
(1986)
縄文時代早期後半~中期(約 7,000~
4,000 年前)の貝塚遺跡の分布状況は
ピタリと一致する。
江戸時代前期に銚子への流路にかえた利根川は、それ以前は今の中川、江戸川を本流と
して東京湾へ流れ込んでいた。海進時にこの河口から 70km も離れた渡良瀬遊水池(栃木県
下都賀郡藤岡町。いまは栃木市)付近まで入り込んだ奥東京湾は、干満の差の大きい遠浅の
海岸だった。湾奥の汽水域…淡水と海水が混合した水域…にヤマトシジミ、干潟ではアサリ・
ハマグリを主体にした貝塚が形成され、湾口の黒潮に面する地域(千葉県館山市、南房総市)
には亜熱帯に産する貝を交えた貝塚群も併存した。
台地端の貝塚遺跡は、早期の海進時代から後期~晩期の海退期まで、位置があまり変化
しない様子が知られている。有名な大森貝塚(東京都品川区大井:後期~晩期)、東山貝塚(目
黒区東山:中期~晩期)
、芝丸山貝塚(港区芝公園:後期)、西ヶ原貝塚(北区西ヶ原:早期~
晩期)、加曾利貝塚(千葉市若葉区桜木町:中期~晩期)など長期にわたる遺跡も多く、後期
から大型化するのが特徴になっている。
155
次の図 4 は、関東地方に現存する「埼、嶋」地名の分布状況である。関東全域に分散す
る二つの地名群も、細部にあたると、はっきりした違いを見いだせる。
図 4-6-4 関東地方の「埼〈左〉、嶋〈右〉」地名の分布
左図の「埼」地名は、貝塚遺跡の密集域に重なる地点が多い様子が目に映る。これは
古代人の生活拠点が、水を得やすい、湧き水のある台地端に営まれた史実を頭におけば
理解できる現象である。埼の語源は台地の先端を表わす「先」であり、内湾型狩猟採集
の拠点は、海に突きだした∧型の「岬」地形と、∪型に凹んだ「入江(岸、基地)」が重
視されていた。いまの「崎、岬」は∧型の岬に当てられているが、かつての「Saki(裂き)」
は、
「Saka,Tafa,Yama,Kura,Foto」と同じように、水平方向の∧型・∨型地形の両者
を表現したことは、第三節「内陸部の崎と島」で検証したとおりである。また山間部に
も数多くの埼地名があり、こちらも語源どおりに稜線の「先」、「坂(傾斜面の通路)」の
意味をこめて命名した様子をみせている。水際につけた「崎」と、尾根の先端、谷につ
けた「先、裂き」が、どの程度の割合で混在するか、前にあげた関東地方の埼地名の高
〈㊟ カッコ内の数値は合計に対する百分率。嶋地名も同様〉
度別分類を再掲しよう。
埼地名
関東地方
全
国
20m 以下
20~100m
100~500m
500m 以上
合
計
247 (58.5)
108 (25.1)
66 (15.6)
3 ( 0.7)
422
1281 (54.3)
516 (21.9)
494 (20.9)
70 ( 3.0)
2361
日本一の大平野をもつ関東地方では、埼地名の高度は全国平均を下まわり、全国の貝塚
遺跡の半数以上(約 60%)が、関東に集中する事実と関連するのも興味ぶかい。
156
この表と、図 4 の分布状況をあわせて考えると、埼地名の過半数が、海進時に実際の海
や湖沼地帯の「岬、入江」として存在した様相が浮上し、現在の海岸平野にある埼地名の
一部が海退期に命名された様子をよみとれる。
これに対して、
「嶋」地名の分布は様子を変えている。嶋地名の高度別分類をあげると次
のようになる。
嶋地名
関東地方
全
国
20m 以下
20~100m
100~500m
500m 以上
合
計
190 (43.0)
162 (36.7)
88 (19.9)
2 ( 0.5)
442
1280 (48.3)
709 (26.8)
528 (19.9)
131 ( 5.0)
2648
埼地名が関東地方全域に分散する傾向をみせるのに対して、高度別の仕分けでは埼地名
より幾分高い場所に位置する「嶋」地名は、ある一定条件にしたがって命名された史実が
浮かびあがる。
関東地方の嶋地名は、海進時に水没していた海岸部と、鬼怒川、利根川、荒川、相模川
水系の氾濫原に集中してつけられている。この事実は、シマ地名が「湿む、滲む(湿地)」
の意味でつけたものと、
「Sima(占む)、島(Island)」を表現してつけた地名が混在する様
子を表現している。埼・嶋地名が併存する地では、サキが嶋より高い場所に位置する事実
も、シマが低湿地(Simo:下)を基本において命名された様子をみせている。関東地方に山
間の「Sima」は少ないが、中部地方に多い類型をみると、嶋地名は「湿地」につけたもの
が古く、海、湖、川の中にある「島(Island)」は、湿地を占む意味を備えた後に、分離し
た地名と考えられると思う。
この変化は、
「Tsima」から「Sima〈湿地、洲(縞)、島〉」「Tima(timatima:小さな湿地、
陸地⇔Mati:∨型・∧型地形の先端)
」の分化に関係した可能性があり、
「Tsaki」にも「Saki
(裂く:先、崎)」「Taki(焚く:鉛直に昇る煙≒直立崖、滝。抱く:両手で包む、∪型地形≒
入江)」の解釈をとれることが、段丘の∧型地形の先端と、入江地形に共用された「Tsaki→
埼、滝」の歴史を残したようにみえる。両者が分離をはじめた時代は、縄文文化の基盤を
造りあげた前期(約 7,000~5,500 年前)を考えてみたい。
この具体例を検証するために、比較的「埼、嶋」地名が多く、陸地の生成過程が解明さ
れている千葉県、九十九里浜付近の模様を眺めよう。
157
(3)
九十九里浜の埼地名、嶋地名
図 5 は、縄文海進ピーク時から現代にいたる、九十九里浜周辺の陸地化の模式図である。
いまは九十九里平野とよばれて、平坦で単調にみえる地形も、形成過程には複雑な変遷が
あった〈㊟ 九十九里平野の位置は図 3、埼・嶋地名の分布は図 4 に提示〉。
図 4-6-5 九十九里浜の変遷 『地層の知識』〈森脇 広ほか 東京美術 1986〉から転載
約 5,500 年前の海進のピーク時(左端の地図)に、付近は太平洋の荒波が台地端を洗い、
標高の低い谷にも海が侵入していた。現在の九十九里平野はなく、平野部の地名はすべて
縄文時代前期以後に命名された様子がわかる。この台地端に埼地名が数多く現存するので、
これを列記しよう。
「埼、嶋」地名は 5 万分の 1 地形図(1975 年前後の刊行)に載った地名
を記し、配列は北東から南西への順、小字として使われるものは大字名を省略した。右端
の青字の表記は、平成の大合併後の市町村名。
千葉県旭市
江ヶ崎。
八日市場市
そ うさ
匝瑳郡光町
さ んぶ
山武郡芝山町
〃 松尾町
なるとう
〃 成東町
八重崎、公崎、山崎、神崎、亀崎。
芝崎。
宮崎、根崎。
岩井崎、石崎、堂ヶ崎。
山武市
寺崎、川崎。
山武市
158
山武郡山武町
〃
根崎、妙見崎、小川崎、椎崎、松崎。
大網白里町 宮崎。
茂原市
ちょうせい
山武市
山崎。
むつざわ
長生 郡睦沢町
寺崎。
台地端にのる埼の音数は「1 音(2)。
図 4-6-6
5 万分の 1 地形図 「東金」を加工
2 音(16)。3 音(4)」となり、平均音数
が「2.09」になることは興味をさそう。
ただ、これだけで埼地名が海進時、また
はそれ以前に命名されていたとは断言で
きない。が、埼地名が約 7,000~3,000 年
前に海に面した岬、入江であった地点に
名づけられ、付近に縄文時代前期~後期
の貝塚が多数形成されていたのは事実で
ある。第三節「内陸部の崎と島」でふれ
たように、現役の岬に使用例が少ない「山崎、芝崎、石崎、川崎」の一部が、入江状地形
(Tsaki→Daki:抱き)につけられているところは注目すべきである。
上図 6 は、2010 年刊行の地形図に 1977 年度の地図に載っていた埼地名(妙見崎、小川崎、
椎崎、石崎)を赤字で追加したものだが、こんな狭い範囲でも、四つの埼地名を抹消したの
は問題視すべきである。どの地域でも常に地名改変が行なわれるのは、縄文・弥生時代の
『遺跡』と同格といえる『地名』の価値を理解できないためだが、地域社会、自らが歴史
を消し続ける、幼稚な自虐行為といえるだろう。
海進時の九十九里浜北部には大きな潟湖(後の椿海)が存在して、潟湖を造った二つの砂
洲のうち、北東から伸びた砂嘴の先端にあたる地に、旭市江ヶ崎が現存する。この名は
「Yekasaki=Ye(入江)
。Yeka←Peka⇔Kape(壁、交ふ)。Kaye:離え(Karu:離ると同意。下
二段活用自動詞)+kasa(∧型地形、水際)+saki」と解釈できる。主に段丘崖につけられ
てきた「Tsaki→Taki(高い崖)」の意味をもたない岬として、江ヶ崎をつけた様子をみせて
いる。ここに使われた「Saki」は、海と入江(潟湖)を「裂く」と、太平洋の荒波を「避く」
「Tsa→Sa,Ta」行の一部が、縄文時代前期に分離していた
意味を重ね合わせたのは確実で、
史実を暗示するようにもみえる。
また、前章で縄文時代草創期(約 12,000~9,000 年前)の変化を考えた「Pa→Ya」行と、
「八重崎、山崎」、
早期(約 9,000~7,000 年前)よりも前に想定した「Pa→Ma」行の分離は、
「松崎、宮崎、神崎(Kamusaki)、亀崎、公崎(Kimisaki)、妙見崎(Mifomisaki)」などの
埼地名が、縄文時代前期以前につけた可能性が高いことを根拠に置いている。これだけの
数の地名が、命名された後に、
「Pa→Ya,Ma」行へ転じたとは考えにくいのである。
159
台地内部にまで侵入した海は溺れ谷地形をつくり、この状態は縄文時代後期までつづき、
弥生~古墳時代にも湿地帯の後遺症を残している。かつての溺れ谷内部に、
「嶋」地名が現
存するので、これを記そう。
千葉県八日市場市
寄島。
長生郡睦沢町 川島。
香取郡多古町 島、小島。
匝瑳郡光町
茂原市
綱島、中島。
中島。
嶋地名が「島(Island)」につけられていれば、
縄文時代早期後半から後期の間に命名した地名と
考えられる。しかし「湿地」につけたとなると、
下限を古墳時代にまで拡大しなければならない。
この辺も難しいが、左図の嶋(多古町島・小島。光
町中島)が平地のなかに島型地形を残し、湿地に
つけた嶋地名の歴史が古いこと(縄文時代前期以
前?)、付近の「埼、嶋」地名がおおよそ 2 音の言
葉を前におくので、
「埼、嶋」を縄文時代の命名と
した仮説を補強する証拠のようにみえる。
つまり、この嶋地名は「島」につけた可能性が
図 4-6-7
5 万分の 1 地形図
成田
高い、と考えられるのである。
5,5000 年前に海進がピークに達した後には、南から北へ
向う黒潮の働きによって、南部の台地が浸食作用をうけ、
その北側に土砂が集積して細長い砂州が形成された。同じ
様相は縄文海進以後の時代、全国どの入江状地形に見られ、
潟湖(ラグーン)をつくった経緯を重視する必要がある。
ここにおいても、椿海の砂嘴と同様に、砂州の先端付近に
きさ
山武郡大網白里町木崎(Kitsaki:象の鼻や、木のような細
長い形の岬。Kitsa⇔Tsaki,gizagiza,階、段:段丘。キザ:
突出して気障りになる様子)が現存する。
木崎が細長い砂州の先につけられたとすると、岬ができ
た 5,500 年前の縄文時代前期後半から、潟湖に姿をかえた後に海が消滅した後期末の 3,000
年前の間に命名されたことになる。
この解釈ができるなら、約 15,000 年前に列島から姿を消した「Kitsa。象:ナウマン象」
は、これ以上の歴史をもつ名と考えられ、古代には、地形が大幅に変化した後にも古い地
名を大切に伝承していたことになる。『言霊』と敬われた言葉とおなじように、地名もまた
神聖に扱われた様子を感じとれるのである。言葉を自在にあやつれた当時の人々は、この
160
地名を聞いただけで、すぐ昔の地形を連想できたのだろう。地形を端的に表現することが
地名の使命であり、その分布状況を聞いただけで、瞬時に過去の地形、地質を判定できる
利点が重視されたのではなかろうか。これは集落をつくる際の大切な要素になり、当時の
人々は、かつて湿地であった場所、崖崩れの常習地に家を構えるような無知蒙昧な愚挙は
行なわなかったのである。
この様子をみると、古代人は長い年月の間に地形が変化することを充分に理解していた
ようで、有為転変の『無常、もののあはれ』を悟る心は、自然現象に対するふかい洞察力、
伝承を大切にする文化に発したと考えて良さそうである。
また、長い砂州の根元付近に埼地名。先端部と東部に嶋地名が集中しているので、これ
を記そう。
砂州の根元付近
茂原市 木崎。
長生郡長生村
高崎。
砂州の先端付近
東金市 蛇島。
山武郡大網白里町 高島、前島、仏島。
茂原市 北小島。
長生郡白子町
砂州の東部
福島、中島、中島。
ふたつの埼地名(木崎、高崎)は、前ページの右の模式図にみられる砂州の根元の両側に
ある突出部につけられていたようで、両者の命名時期も縄文時代前期中葉~後期に置くこ
とができる。嶋地名が「島」につけられたものであれば、この砂州の外側に長大な浜堤が
形成された、縄文時代後期の命名を想定できよう。
このような状況証拠を並べると、これまであげた「埼、嶋」地名群は、やはり縄文時代
早期~後期の命名を想定するのが妥当な感じがする。海岸部の嶋を「湿地」と採って下限
を古墳時代にまで拡大するのでは、埼・嶋地名は縄文時代の命名、と推理した仮説をぶち
壊すことになる。
嶋地名、とくに山間の「嶋(湿地)」の命名年代探求は「Tsipa(地端)→Tsima(湿地)」
と、倒置語の「Patsi(端、鉢:∨型地形)→Matsi(∨型・∧型地形の先端)」への変化、す
なわち「Pa」行から「Ma」行への遷移をとくカギになるので、重要な意義をもつ。
なお、ここにあげた町も、平成の大合併で名称が変化したものがある。
匝瑳郡野栄町
2006 年 1 月 23 日
匝瑳市
匝瑳郡光町
2006 年 3 月 27 日
山武郡横芝光町
山武郡横芝町
山武郡横芝光町
同上
山武郡山武町、松尾町、成東町
同上
161
山武市
埼・嶋地名には、縄文時代後期以降に命名されたものもあるようで、長大な浜堤の内部
や外側に痕跡が残されている。
埼地名
八日市場市
吉崎、林崎。
山武郡成東町
川崎。
山武郡横芝町
新島、三島。
山武郡成東町
島、姫島、高島、中島。
東金市
高島、 薄 島。
花地名
山武郡成東町
瓜花。
前地名
八日市場市
塔之前。
匝瑳郡野栄町
釜前、宮前。
山武郡横芝町
宮前。
嶋地名
すすき
山武郡大網白里町 宮前、原ノ前。
茂原市
萱場前。
大気温の降下に伴う「海退」により、砂浜が急速に拡大した九十九里浜では、縄文時代
後期~晩期の命名が想定される「埼、嶋」地名群も、早期から中期につけた地名と同じ形
をとり、台地端と九十九里平野に併存する「埼、嶋」は、早期から晩期まで命名傾向が変
わらない様子をみせている。縄文土器と同じように、地名の命名法にも厳格な規則…約 4 音
の音数をとり、掛け言葉と倒置語を使用して地形を表現する法則…を定めて、遵守していた姿
を想定できる。この現象は、全国の海岸平野のどこにでも見られるところが大切である。
今まで見られなかった「花」地名は、付近の 5 万分の 1 地形図にのる唯一の例で、成東
町松ヶ谷字瓜花〈Urifana=Uri(得る←降る:潤む、湿地、浦)+rifa⇔fari(張り出す)+
fana(突出部)〉に使われている。大字の松ヶ谷は「Matukaya=Matu(∨型・∧型地形の先端)
+tuka(突く、築く、塚:小さな∩型地形)+kaya(蚊帳:小さな∧型地形)」の解釈から、
砂丘(tsuka→suka.須賀:砂浜)につけた雰囲気が感じられる。隣接する成東町井之内が
「井の淵:狭窄部(∪型地形)の水辺の淵(内側)」と解けるので、砂州の外に浜堤が形成さ
れて、そこに砂丘と入江ができた縄文時代後期の命名が考えられそうである。
前地名と規定した前は、律令時代に「さき」と読まれた例が多く、九十九里浜最南端に
ある長生郡一宮町の式内玉前神社(上總国一ノ宮)は、いまも「たまさき」と呼ばれている。
前地名は、原形が「たふのさき、かまさき、みやさき、はらのさき、かやぱさき」であっ
た可能性もあり、岬地形にあてた前は、
「さき」によみ替える必要も感じられる。
ただ、釜前は「Kamamafe=Kama(釜、噛む:∪型地形)+mama(崩れやすい水際の崖)←papa
(巾:崖の側面)+mafe(前)」、宮前も「Miyamafe←Mifamafe=Mifa(水端)+fama(浜:
波が食む)+mafe」
「Mifamape=水際の浜辺。Mifapape=水際に直立した岩礁、fafe(碆、礁)」
とも解けるので、岬にあてたかの判定は難しい。
162
地形語の「Pa,Ma」行は、破裂音の「Pa」行が岩石などで形成された固い急峻な地形に、
「Ma」行は浸食作用などで変化した、柔らかな湿地状地形にあてた例が多いところも注目
すべきである。また、「塔之前、原ノ前」のように格助詞をはさむ用法は、弥生時代に拡大
使用された可能性が高いので、この検証は、次章『日本語の源流』で行ないたい。
約 6,000 年の間に 6 ㎞~9 ㎞(年平均:1m~1.5m)もの砂浜を拡大した「九十九里浜:
クジュウクリはま←Tsukumorifama?=Tsuku(鋤く、付く、継ぐ、築く)+kumo(組む)+mori
(盛る)+rifa⇔fari(張る、貼る)+fama=(魚を)突く銛浜」では、弥生~古墳時代の汀
線と、いまの波打ち際の間にある名を検証すると、この間には、
「埼、嶋」名をはじめ、古
墳時代以前につけた『地形地名』がない様子を感じとれる。
九十九里浜北部から中部にかけては、縄文時代晩期~弥生時代に陸化した場所の「○○」
という地名を転用した「○○浜」が数多くみられ、そのほかの名も、現代語で理解できる
「新堀、関、川岸」などが多用されている。南部では、この地域特有の「~納屋(江戸時代
の命名)」が浜堤の地名を頭に冠して並び、飛鳥時代以後に、地形語を使った『地名』がつ
けられなくなった、との仮説を補強できそうな感じがする。
さらに寛文 11(1671)年に、北部の椿海(←八日市場市椿:唾+吐き=潟湖の出入口。隣
接町名は八日市場市川口=川+吐く+口。∴椿≒川口)を干拓して造成された、海上郡海上町、
旭市、香取郡干潟町、八日市場市の字名は「一番割、二番割、三軒家、四軒町、六軒家、
八丁歩」のように数詞を使ったもの、「小川、入野、新町、栄町、東町」など、比較的意味
が判りやすい名が多用され、やはり地形を的確に表現した地名がない様子をみせている。
こうして現行の大字・小字名と古地形を対照すると、九十九里平野の『地名』は、縄文
~弥生時代の地形を表現したものが多く、飛鳥時代以後に生成した砂浜、砂丘にのる名は、
『転用名、普通名詞』で構成された姿が浮かびあがる。
九十九里浜形成の模式図は、各地層に含まれた花粉の分析、植物珪酸体や有孔虫などの
化石分析、放射性炭素 14Cによる年代測定、砂丘・浜堤の形成順序と微地形の観察、溺れ谷
や潟湖における砂礫、シルト、粘土層の堆積状況、海水、気水、淡水産の貝塚遺跡の形成
年代などを総合して、精密に分析されたものである。
これに対して詳細な現地調査も行なわず、大字・小字の命名地点を記す地籍図を調べる
こともなく、地形図や土地利用図、地質図、各種都市地図と総武本線・東金線・外房線の
車窓からの眺めだけを頼りにした、本書の対照法は実に荒っぽいものである。が、時によ
ってはこうした作業も必要で、素人の特権といえる「定説、通説、常識」に反した仮説を
組み立てることも許されるかとおもう。
縄文海進~海退時の地形を『地名』に残した例は、北海道をのぞく全国(ふくむ沖縄県)
の海岸、沖積平野のどこにでもみられて、山手線の「大崎、新橋、日暮里、駒込、巣鴨、
大塚」駅、京浜東北線「磯子、根岸、川口、浦和」駅が該当するので、もう一度、第一章・
第二章を御参照いただきたい。
163
(4)
芦ノ湖の鼻名
ちょっと視点をかえて、もうひとつ興味をひく地名を考えてみたい。下図 9 は箱根火山
の「芦ノ湖(あしのうみ→あしのコ)」周辺の地形図である。この湖の岬に「鼻」が多用され
ているので、本書の提起した仮説どおりに、鼻が弥生~古墳時代に命名されたかを箱根山、
芦ノ湖の生成過程をもとに調べてみよう。
現在の箱根火山は、約 40 万年前から 20 万年の期間をかけて生成した 2,700mほどの高さ
があった成層火山を基にしている。約 20 万年前にこの火山が大火砕流を発生させ、
「明星
ヶ岳、明神ヶ岳、金時山、三国山、鞍掛山、白銀山」を外輪山とする古期カルデラ地形を
形成した。この後、流動性に富む玄武岩を噴出してカルデラ内に楯状火山を生成したが、5
万年ほど前にふたたび火砕流、軽石流を噴出して新規カルデラを造りだした。いまは新期
外輪山の大半が中央火口丘の下に埋没し、「鷹巣山、浅間山、湯坂山」など東部にのみ痕跡
を留めている。約 3 万年前から中央火口丘の「駒ヶ岳、神山、冠ヶ岳、台ヶ岳、小塚山」
が噴出し、雲仙普賢岳や有珠山と同じ、粘性の高い石英安山岩(デイサイト)で形成された
溶岩円頂丘「二子山」の 5,000 年ほど前の噴火を最期に、箱根山は活動を停止した。
この後、約 3,000 年前に冠ヶ岳が水蒸
気爆発をひきおこして山腹を崩壊させ、
この土石流が早川を塞き止めて「芦ノ湖」
が生まれた。冠ヶ岳の爆裂火口跡である
「大湧谷: Ofofakutani=Ofo(∩型・∪
型地形、崖)+fofa(山の側面≒fofo:頬)
+ faku(剥ぐ、吐く)+ kuta⇔taku(下
る⇔焚く)+tani(谷)
」の北にある小塚
山付近まで湖成層が残されているので、
誕生当初の芦ノ湖は、仙石原を含む現在
の二倍の規模をもつ湖であったと考え
られている。
芦ノ湖の誕生が、約 3,000 年前の縄文
時代晩期にあたることは、地名・言語研
究の上での貴重な資料になる。箱根神社
から時計まわりに「弁天の鼻、塔ノ鼻、
箒ヶ鼻、百貫ノ鼻、小杉鼻、亀ヶ崎、都
嶋ノ鼻」とつけた芦ノ湖の岬は、江戸時
代の改名が想定される弁天の鼻を除くと、
図 4-6-8
すべて地形語の解釈可能な地名である。
芦ノ湖の鼻
2 万 5 千分の 1 地形図
164
裾野+箱根
5 万分の 1 地形図には「箒ヶ鼻、百貫ノ鼻、都嶋ノ鼻」が載るだけで、2 万 5 千分の 1 地
形図も「小杉鼻(西側、箱根町の表記の右側の岬)、亀ヶ崎(上部、芦ノ湖の表記の左側の岬)」
の記載はないが、一部の観光地図に記されているので、これらを解いてみよう。
とう
塔ノ鼻 ←Tafunofana=Tafu(∧型・∨型地形、高所)+funo⇔nofu(伸ぶ)+nofa(伸ぶ)
+fana(突出部)。単に「Tafu+no(格助詞)+fana」と解くべきか?
ほうき
箒 ヶ鼻 ←Fafakikafana=Fafa(巾:崖の側面。奪ふ:∨型・∧型地形、崖。這ふ:緩斜面)
+faki(剥ぐ:∨型・∧型地形)+kika⇔kaki(欠く:∨型・∧型地形、崖)+Kafa
(側)+fana.
ひゃっかん
百貫 ノ鼻←Fifakukamunofana=Fifa(水際)+faku(剥ぐ)+kuka⇔kaku(欠く)+kamu(噛
む:∪型・∩型地形)+muno⇔nomu(飲む:∪型地形、湿地)+nofa+fana.
小杉鼻
Kosukifana=Kosu(漉す、擦る:水際の∪型地形)+suki(鋤く、空く:∨型・∧
型地形)+kifa(際、牙)+fana.
都嶋ノ鼻 Tosimanofana=To(戸:出入口)。Totsi(閉じる⇔sitosito,tsitotsito:湿地)
+sima(湿地)
。都島(川の流入口が閉じた沼)の地名を転用した鼻名?
あるいは「Mifakosima=Mifa(水端)+fako(剥ぐ)+kosi(漉す)+sima(島)」
からの転用名?
約 4 音で構成した「花」地名に比べ、音数を増して地形をより懇切丁寧に表現したのが
「鼻」名の特徴だが、五つの鼻の命名年代上限が、縄文時代晩期より前に溯れないところ
が大切である。字名の「埼、花」
、いま海に面している「岬、鼻」の命名傾向を考えると、
芦ノ湖の鼻は『弥生時代』の命名を想定できそうである。
この様子は鼻の音律のとり方にも表わされていて、「塔ノ鼻:Tafunofana.百貫ノ鼻:
Fifakukamunofana.小杉鼻:Kosukifana」に使われた「uo,ou」の音型は、
「a,i」
母音を基調に韻律を整えた『縄文地名』では、凹地、湿地を表わす地名以外に使用例が
極端に少ないため、本サイトでは下線をつけた「少数音型」として特別に扱っている。
また、自然地名の「島、崎、鼻、峠」に共通する「ノ、ヶ」の多用は、弥生時代の流行と
も考えられて、韻の踏み方、助字の使用法の違いも命名年代区分に応用できる。さらに芦ノ
湖の小さな岬状地形につけた「三ッ石、トリカブト、沓石、立岩、和田角」などは、瀬戸
内海に類似例があり、鼻とは少しニュアンスを替えて命名されているところも『弥生地名』
の特徴をみせている。
厳格さを基本におく『縄文地名』
、実用的で多様性をもつ『弥生地名』の間にある微妙な
「韻律、助字の使用法」の差異は、次章『日本語の源流』に項を設けて検討したい。
165
鼻を主体にする岬名の中で、最北に位置する亀ヶ崎だけが「崎」を使うのには何らかの
理由があるかもしれない。これは、古期外輪山形成後にもカルデラ湖が存在した事実が、
40mもの粘土層が堆積する仙石原の地質調査から明らかにされていることがヒントになる。
外輪山と中央火口丘の間にあったカルデラ湖は、約 5,000 年前の二子山生成以前は、排水
が南部の須雲川へ流れていたと考えられている。二子山の噴火がこの流出口を塞いだ後、
小塚山北面の銚子の鼻〈Tyōsi←Tsifotsi=Tsifo(∪型地形)+fosi⇔sifo(谷、崖)。foti
(→落ち:∪型地形)〉付近から湖水があふれ出て北部の早川への流路に変わり、仙石原は
沼沢地に変貌した。この後、約 3,000 年前の大湧谷の水蒸気爆発が、ふたたび早川を塞き
止め、仙石原に浅い湖を復活させて、西部では温泉荘から長尾、高原にかけての土石流が
仙石原と芦ノ湖を二分した。
大湧谷爆発以前の芦ノ湖は、湖底に多くの倒木が現存するので、森林が形成されていて、
いまほど大きな規模でなかった様子が想定されている。これは、先にあげた「都嶋」を川
の流入口とした解釈に関連するもので、亀ヶ崎(Kamekatsaki=Kame(瓶、噛む:∪型・∩型
地形)+meka⇔kame+katsa(∧型地形、水際の段丘)+tsaki)は、縄文時代中期~後期に
芦ノ湖北部にあった、小さな湖の岬名を継承した名とも考えられるのである。
仙石原上の地名は、湖が干あがった後に命名されたのは明らかで、
「温泉荘、高原、大原、
新田、中筋、川向、下向」の一部は、地形語の解釈も可能だが、地形を対照すると地形地
名とは考えにくく、やはり近世~近代につけた名と採るのが妥当であろう。なお、芦ノ湖
の名は、現在の箱根町に湖名の由来が伝えられているので、第六章『富士の語源』に記し
たい。
九十九里浜、芦ノ湖のように、わが国の沖積平野や火山地形などには、かつての地形と
対照可能な『地形地名』が残されている。いまは地理学・地質学、環境考古学などの発展
により、列島各地の地形変動も把握しやすい状況にあり、平野部の地形変遷や火山の生成
過程などを参照して、命名年代の上限・下限を特定できる地名も多く現存する。これらの
地名の相関関係を分析してゆけば、縄文~弥生時代の言語活動の一端くらいは浮上する可
能性をみせている。
166
⑹
縄文のこころ
このように、沖積平野や火山地形などには、かつての地形を表現した『地名』が数多く
現存している。全国数千万の地名を分析してゆけば、各地名群の命名年代を確立できる期
待がわく。いまは地形・地質学、環境考古学などの発展によって、列島各地の地形変動も
把握しやすい状況にあり、平野部の地形変遷や火山の生成過程などを参照して、命名年代
の上限・下限を特定できる地名も多く残されている。これらの地名の相関関係を分析して
ゆくと、縄文~弥生時代の言語活動の一端くらいは浮上する可能性をみせている。
本章では、自然地名の「島、崎、鼻、峠、越」と、字名の「嶋、埼、花、阪、腰」を主
題にして、地名解釈の基本と各地名群の命名年代の概略を提起した。しかし「山、川」の
命名法則をはじめ、一般地名全体に適用できるかを検討しないで応用範囲を拡大している
ので、以後、順をおって具体例をあげ、これらを検証して行きたい。
『倭語』は、地名や言葉をつくる基本に『誰にでもわかる、普遍性をもつ簡素な法則』
を根幹に据えている。「嶋、埼、花、阪、腰」
「島、崎、鼻、峠、越」地名にみられる、簡
素でありながら『掛け言葉、逆さ言葉』を利用して二重・三重の意味を掛け合わせ、もの
の形質を表現する複層構造の論理的な構成法は、言語体系全体に拡大使用しても問題は少
ないようにみえる。本章で行なった「嶋、埼、花」を中心にして周辺地名の解釈をすると、
縄文海進~海退期の地形があざやかに浮上する地域も多く、地質学と考古学の成果を応用
して、地名全体から時代背景を復元することが大切におもう。
地名の命名は、地形を端的に表わすために的確な語彙を厳選して組み立てている。その
ため、
『縄文地名』は語彙が少ない同一名の多い特性をもち、厳格な規制を緩和して多様性
をたかめた『弥生地名』は、言語爛熟期の最高度の表現を備えたとも考えられる。だが、
本書の解釈法は、細やかな特徴をとらえて命名された個々の地名に対しては暗中模索の状
態にあり、命名の根底にある「∨型、∧型」地形も、ある時期(縄文時代前期以前?)は共
「Tsaki(埼、滝)」が岬、
用した様子も認められ、この分化年代の探求も重要な課題になる。
「抱く」意味から∪型の入江に当てた例があることは述べ
滝型地形(段丘端)のみならず、
たが、「Pa→Ya,Ma,Wa,A」行、「Tsa→Sa,Ta」行の分化にも関連する、ひとつの言葉が
相反する状況を表現する、同種の例をあげよう。
いまも頻繁に使われる重畳型オノマトペに、ものが拡張して分解するさまを表わす
「paripari→baribari(張り切る、割る、破る)。parapara→barabara(割れる、分かれる)」
がある。このオノマトペに関連する動詞の「Paru(張る、貼る)」と、棒状の物体を表わす「Pari
(梁:上からの荷重を支える、横または斜めに突っ張る部材)
(針:糸を使って布を縦横斜めに
貼り合わせる道具)」は、正反対の「割る、破る⇔張る、貼る」を基本においている。
自然音に発したオノマトペ(擬音語:paripari,parapara)のほうが動詞、普通名詞より
「Paru(張る)
。Pari(梁、針)
」から、手元をはなれる「Yaru
も言葉の歴史が古いと仮定すると、
167
(遣る)。Yari(槍)」を分離した、と考えられそうである。
「Yapuru(破る)」は、棒状のも
のを斜めから真横に「放る:Fafuru=Papu→Pafu→Pofu→棒+puru(振る)。または、Pa(刃)
+puru」からの変化を想定できそうなので、
「遣り→槍」先に使われた尖頭器が先土器時代
の遺物であることや、先土器⇔縄文時代を区分する「弓矢の発明:Pa(刃)→Ya(矢)」と
「煮沸土器の使用:Pi(水)→Pu(おぶ)→Yu(湯)」の変遷から、「Pa→Ya」行が分離した
時期は、この時代まで溯れる可能性をみせている。
「Waru:割る(古型は parapara, paripari Paru)⇔Paru:貼る」が逆の動作を表わすのは
注目すべきで、割れた箇所を補修した縄文土器が多数出土している例をみると、
「Pa→Wa」
行の転移も古い時代に辿れそうである。宝物という言葉が「Takaramono=Taka(焚く、炊く、
高い)+kara(殻、空、水分が涸る)+ramo⇔mora(盛る:土器の使用法と、輪型の粘土を高く
積み重ねる製造法)+mono(物:液体を入れる∪型容器⇔nomo:飲む)
」と解けることが、縄文
「Waru(割る)+ruki⇔kiru
土器の価値の高さを表わしている。この宝物を破損する意味から、
(切る)=Waruki(悪き、悪気)」、
「Waru+rutsi⇔tsiru(散る、汁、痴る:道具の機能を失う)
=Warusi(悪し)
」が生まれたのではなかろうか。
〈㊟
悪き、悪しの古型とされる「Waroki,
Warosi」も語源は同一になる〉
また、「Poru(掘る、彫る)」という下向き、∪型地形を表現する動詞は、「Moru(漏る)。
Yoru(選る)。両者はザル(zarazara したものを sarasara 水で流す:去る。poroporo こぼす)
で、ものを選別した様子を表わす」を分離したほかに、「Moru(盛る:上向き、∩型地形)」
にも使われる。ここには、
「Poru」の系列語「登る、昇る=Nopo(伸ぶ)+poru」という上向
きベクトルを表わす合成動詞が、
「掘る→盛る」分化以前の姿を留めている。
「上る、登る」動作の後には、必ず下向きの反作用を伴う…元に戻れないときは遭難とみ
なされる…ところが大切で、
「Poru→Woru(折る:∧型)、Oru(降る、下る)」意味を込めて、
「Noporu」を創作した様子をみせている。
おなじ動作の、上がるが「Akaru=Aka(上ぐ)+karu:離る、駆る(加速:上向きベクトル)、
Aka(飽く:満足する→飽きる)+karu:刈る(減速:下向きベクトル)、枯る」
、反対語の下が
るも「Saka(下ぐ、裂く、避く、咲く:∨型)+karu(刈る、枯る、離る、駆る)」を合わせて
命名されているところも注目すべきである。
こうした言葉の分化は、字名に残された各地名群の命名年代測定と、地名に使われた語
彙の分析から導きだせる可能性があり、精密に区分された縄文式土器と同じように、地方
ごとの差異が浮上する様子も感じられる。先土器~縄文~弥生時代の言語構成の基本様式
が、性の表現、太陽の運行と四季をもつ気象現象、そしてこの国土の際だった特色である
山岳地形と、岬・入江に彩られた複雑な海岸線に関連した『∪型⇔∩型、∨型⇔∧型』で
あったところが大切である。この様式は平面だけでなく、立体、すなわち三次元空間を意
識してつけたことは、岬(平面:∧型。断面:∩型)、坂・峠(正面:山の鞍部、∨型。断面:
∧型)の地形をみても明らかである。
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古代の人々が、さまざまな現象をひろい視野で捉えていたことは、あらためて私たちが
学ぶべき姿勢を喚起している。∨型⇔∧型に象徴されるように、言葉の創作法が対称性を
重んじ、
「張る→割る→貼る」
、
「掘る→盛る、漏る」などの作用⇔反作用、主動作⇔反動作
を主体に「Pa→Wa,Ma」行の分化を行なったところが大切である。とくに「上る・昇る=
上向きベクトル+下向きベクトル」、「上がる=上昇+加速、減速」
「下がる=下降+減速、
加速」に込めた意味は、上がったあとには必ず下がり(∩・∧型)、下がったものも再び上
昇(∪・∨型)する自然の循環現象(∩+∪=∿型)を意識して、言語体系を構築した様子
をみせている。上・下の言葉が「あがる:事をなし遂げて引退する=さがる」、「さかる:
盛る(性の表現をふくむ)」に共用されるのが端的な例であり、玄妙とみえるバランス感覚
が『倭語=言霊』の特徴にあがる。
色の項でふれた「暮らし」の造語法も同様で、
「朝が来る→日が暮る+領る=太陽光を存
「日が暮る→朝が来る+痴る=暗し夜(∪型、黒)」の循環現象
分に浴びる日中(∩型、白)」
を一言で決めた表現法は、簡潔さを重んじた基本構造のすばらしさと、大系を造りあげた
人々の、とてつもない構想力を連想させる。
か ふく
あざな
よ
「禍福は 糾 える縄のごとし:災いと幸せは、縒った縄のように表裏一体である」とは、
約 2,100 年前に記された『史記』南越伝にのる格言だが、∩+∪=∿型を基本において断
面が○型の連続する縄(自然科学では、円運動の正射影であるSinθの正弦曲線)、すなわち、
縄目が、縄文人の基本思想である『永遠の循環、輪廻転生』の象徴であった様子がわかる。
この縄目文様を宝物(水平断面:円形。縦断面:∨型→∪型の縄文式土器)に施して敬ったの
も必然の現象であった。波状口縁と呼ばれる立体造形は、縄文時代中期の華やかな土器の
象徴であり、円形・波型装飾の多用もおなじ時代の土器の特徴になっている。
立身出世、経済発展といった、現代に蔓延する「単調上昇」志向は縄文人になかった発
想であった。人類の一方的な利益追求を中心におくと、地球生態系…『八百萬の神』…に悪
影響を与えるばかりでなく、太陽光、空気、水、土、動植物からの恵みをうけて暮らす、
人類そのものが破滅することを十二分に理解していた様子は、現代にも継承される八百萬の
神への『精霊信仰(アニミズム)』が表現している。
「砂漠の文化」とも評される、自然条件に恵まれない開発主体の西洋文明が、比較的ひ
ろい視野をもつのに比べて、恵みは多いものの見通しの悪い山岳地形、「森の文化」に育ま
れたこの国では、
「井の中の蛙、島国根性」ともいわれる、やや利己的、排他的な民族性が
昨今の話題にあがっている。だが、この形質は飛鳥時代以後、おもに平安時代以降に形成
されており、大自然・生態系に精通していた『縄文~弥生』時代の人々は、私たちより広
い捉え方をしていたところに注目しなければならない。
これが古代語の探求、すなわち地名研究の本分であり、いま私たちが使っている日本語
の源流にある、
『倭語=言霊』の語源探索が大切な意義をもつのである。
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