嘉納治五郎のレガシー 教育×スポーツ×国際貢献 一般財団法人 嘉納治五郎記念国際スポーツ研究・交流センター Jigoro Kano Memorial International Sport Institute 〒 150-8050 東京都渋谷区神南 1-1-1 岸記念体育会館内 TEL: 03-5790-9656 / FAX: 03-5790-9657 www.100yearlegacy.org 「青年の真の教育者」嘉納治五郎(1860 ~ 1938) 嘉納治五郎先生は幕末の 1860 年 12 月 (万延元年 10 月 28 日)に生まれ、東 京帝国大学を卒業後、講道館柔道を創 設。その後、高等師範学校(現在の筑 波大学)の校長を 3 期 23 年半にわたっ て務め、教育改革を行いつつ、日本の 学校教育の充実、体育・スポーツの発 展、そして国際的なオリンピック・ムー ブメントの推進に貢献しました。1909 年 5 月、48 歳でアジア初の国際オリン ピック委員会(IOC)委員に任命され ると、文字通り世界を股にかけてスポー ツの振興と青少年の教育のために活躍 しました。明治維新を経て日本が正に 新たな姿に生まれ変わりつつあった時 代に、嘉納先生は教育とスポーツを通 して、日本と国際社会に積極的に貢献 していける人材の育成を押し進めたの でした。このような嘉納先生の活躍に 感銘を受けた海外のスポーツ関係者や IOC 委員達は、嘉納先生を「青年の真 の教育者」と讃えました。 教育者として、国際人として、未来を 見据えて常に行動し続けた嘉納治五郎 先生の思想と功績は、今後の日本が進 むべき道を指し示してくれているよう に思われます。 2 3 嘉納治五郎の功績 — 教育 × スポーツ × 国際貢献 嘉納治五郎先生は 77 年半の生涯において、瞑想に耽り哲学を探究することを良しとせず、常に活発に行動を続けた教育者でした。 その目的は、教育そしてスポーツを通して、人類社会の平和的発展に貢献していける人材を育成することでした。 柔道を通した 人間教育 嘉納先生は伝統的な柔術に合理的な考え方を取り入れてこれを 再編し、講道館柔道を創設しました。柔道の修行を通して、人々が 事実を観察する科学的な態度、正義感、公正さや謙虚さを身につけると ともに、修行で得たことを社会生活に活かしていくことを目指しました。 そして、目的を果たすために最も効果的な方法を用いつつ、それを実生活 に活かすことを「精力善用」、その実践を通して社会の進歩・発展に貢献す ることを「自他共栄」と表現しました。 嘉納先生にとって柔道とは、心身 の鍛錬であるだけでなく己の心身の力を最も有効に活用し、自己を完成さ せ、社会に貢献する人材を育成する術であったといえます。 柔道の稽古が女性にも強健な心身を育む効果があることを確認し た嘉納先生は、1893 年から女子の講道館入門を許可し、更に 1926 年には講道館に女子部を開設しました。 女性に対し てもスポーツへの門戸を開くことは、当時としては 非常に画期的なことでした。 すべての国民に スポーツを! 嘉納先生は、1911 年の大日本体育協会創立趣意書において、 国の盛衰は国民の精神が充実しているか否かにより、国民の精神 アジアにおける オリンピック・ムーブメントの 先駆者 の充実は国民の体力に大きく依存すると説き、体系的に国民の体育・ スポーツの振興を図ることが必要であると訴えました。 嘉納先生は特に、男女の別や年齢、器用さに関係なく、誰でもできる日 本人に適したスポーツとして水泳と長距離走を重視しました。東京高 等師範学校では、全生徒を対象とした大運動会、長距離走、水泳実習 嘉納先生は 1909 年にアジアで初の国際オリンピック委員会(IOC)委員に就 を実施しました。全国の学校に指導者として派遣された卒業生たち は、高等師範学校と同様に各地で長距離走、水泳実習などを実施 し、国民的なレベルでスポーツの普及が図られました。また、 1911 年に大日本体育協会を創設すると、陸上と水泳の 全国大会を創設しただけでなく、その他様々なス ポーツの普及に尽力しました。 任し、アジアや日本のオリンピック・ムーブメントの推進に貢献しました。1912 年のストックホルム大会に、嘉納先生は団長として参加し、日本選手団のオリンピッ ク初参加を果たします。それ以来、日本はオリンピックを通して世界の人々とスポーツ や文化の交流を行うことになりました。 IOC 委員就任後も嘉納先生は、体育やスポーツによる人間教育、外国人の若者と日本人 学生とのスポーツを介した交流を活発に行いました。IOC 委員として海外に渡航した際 には、各国で柔道の実演や講演を行い、スポーツを通した教育の重要性を説きました。 嘉納先生は武道的精神とオリンピック・ムーブメントの理念を融合させて、オリン ピックを世界の文化にするために 1940 年のオリンピック競技大会を日本に招致 知徳体の融合を 目指した教育改革 嘉納先生は知育・徳育・体育を分けることなく、それらを融合させた教育 を目指していました。 先生は教師の養成所であった高等師範学校の校長を 3 期 23 年半にわたり務め、在 任中に多くの教育改革を実行しました。軍隊的な学生寮の規則を改正して学生に自由 な気風を与えるとともに、課外活動の導入や留学生の受け入れなど、当時としては画期 的な改革を実行します。嘉納先生はまた、大学の研究を踏まえつつも教育現場に資する 実践的な教育学を重視し、積極的に教授法の研究を押し進め、中等教員養成のモデルを確 立しました。 1915 年、嘉納校長の努力により東京高等師範学校内に「体育科」が開設されました。 それまでの体操科は修業年限が 3 年でしたが、体育科では 4 年制になり、内容が充実 し他の教科と同等になり、学校体育と体育教員の地位と質の向上を実現しました。 併せて、課外活動を学校教育として行うことにより、誰もが学校でスポーツを 行えるシステムを構築し、全国に普及させました。国際オリンピック委員 会やユネスコは今日、世界各国の政府に対して繰り返し学校体育を充 実させるよう勧告を出していますが、誰もがスポーツに親しむ ことができる日本の学校体育と部活動・クラブ活動は、 世界的にも稀な非常に優れたシステムで 4 あるといえます。 しようと努力しました。 近代オリンピックの父クーベルタンも、東京でオリ ンピックが行われることで東西の文化が接触し、新たなオリンピック理 念が生まれることを期待していました。嘉納先生はオリンピック・ 留学生受入れと 自他共栄 ムーブメントには、西洋の思想のみならず、世界各国の多 様な思想が含まれることを示したのでした。 嘉納先生は、明治以降、最初に留学生を受け入れた教育者です。 1896 年から 1909 年まで、当時の中国(清)からの留学生を 8,000 人 以上も受け入れました。日清戦争後、早急に近代化を担える人材を育成する ことが必要と考えた清国政府は、国費留学生の受け入れを日本に要請します。 これを受諾した嘉納先生は、日本語、人文学や自然科学の勉強のみならず、留学 生にも柔道や長距離走、テニス、サッカーなどを行う機会を提供しました。東京高 等師範学校では、中国人留学生のサッカーチームが結成され、都内の学校と対外試 合が行われました。当時の記録には、彼らが格段に上達したことを称え、故国に戻っ たらスポーツの発展にも尽くしてほしい、とエールを贈っている日本人学生の様子 が記されており、スポーツを通した国際交流が盛んであったことがうかがえます。 嘉納先生は日本が近代化の過程で経験した成功と失敗の両方を隣国に学んで もらうことは重要であると考えていました。そして、自己の利益のみを考 えず、真に善隣を尽くしてこそ、巡り巡って日本の更なる発展につな がると固く信じていました。このような嘉納先生の「自他共栄」 の精神は、今日のグローバル社会の発展にとって欠かせ ない考え方であるといえるでしょう。 5 嘉納治五郎とその時代 日本が明治維新を経て近代日本へと様変わりする時代を生きた嘉納先生は、教育そしてスポーツを通して国を支え、 国際社会に貢献できる人材の育成を目指しました。 西洋では近代オリンピックの父クーベルタンがオリンピック・ムーブメントを通して平和な社会の実現に邁進していました。 嘉納治五郎の活動 1909 1860 1893 12 月 10 日(万延元年 10 月 28 日)、 現在の兵庫県に生まれる 講道館女子の門下生受け入れ 高等師範学校(現筑波大学)校長に就任 アジア初の IOC 委員に 就任(48 歳) 1920 父と上京し、漢学を学ぶ 1875 東京高等師範学校陸上運動会と 水上運動会に留学生参加 官立外国語学校(現東京外国語大学)卒業、 官立開成学校(現東京大学)入学 学習院講師就任 私塾の嘉納塾、弘文館を開設 1898 1882 講道館柔道を創設(21 歳) 柔道・剣道を東京高等師範学校の 全学生選択必修化 1894 高等師範学校にて大運動会開催 起倒流柔術免許皆伝 1896 清国留学生の受け入れを始める 1889 1 年半にわたってヨーロッパ視察 社会の 動き 1880 第 9 回オリンピック競技会臨席 その後、欧州各国で柔道の実演 と講演 1890 1890 1933 1900 1900 1910 1910 4 月、IOC 総会(アテネ)出席のため渡欧、 ウィーン、ロンドンなどで柔道の実演と講演 1930 1920 東京で帝都復興祭開催 1936 第 11 回オリンピック競技会(ベルリン)臨席 1931 東京市がオリンピック 開催要望を決議 IOC 総会にて第 12 回競技会(1940 年) 開催地が東京に決定 1930 1894-1895 1904-1905 1914 大政奉還 日清戦争 日露戦争 第 1 次世界大戦 国際連盟発足 1920 1940 1923 1929 1937 関東大震災 世界恐慌 日中戦争始まる 1863 1883 1920 1928 1 月 1 日、 クーベルタン生誕(パリ) クーベルタン、イギリス視察 第 7 回オリンピック競技会(アントワープ) 第 9 回オリンピック競技会(アムステルダム) テニスで日本が初めてオリンピックメダル獲得 織田幹雄が三段跳びでアジア初の金メダル獲得、 人見絹江は陸上 800m で日本女子初のメダル(銀) 「オリンピック復興会議」開催、 IOC 結成 1896 1912 第 5 回オリンピック競技会 (ストックホルム) 日本選手団初参加 1924 第 1 回オリンピック競技会(アテネ) 1937 シャモニー(仏)で第 1 回オリンピック冬季大会 オリンピック・ムーブメント 23 年 嘉納先生は 3 期 23 年半にわたり中 等教員の養成機関である高等師範学 校(現在の筑波大学)の校長を務め 多くの教育改革を進めました。 バンクーバーから 帰国途上の船中で 肺炎のため逝去 (5 月 4 日、77 歳 ) 1934 講道館文化会創立、 「精力善用」「自他共栄」発表 (61 歳) 1867 What’s this number? 1938 欧米各国を訪問(11 月帰国) 1894 6 7 月、第 12 回オリンピック 競技会(東京)、第 5 回冬季 大会(札幌)の返上 6 月、IOC 総会(ウィーン) 出席のため渡欧、各国で国 際会議出席、要人面会、柔 道指導 1922 大日本体育協会設立、 初代会長に就任 (50 歳) 3 月、IOC 総会(カイロ)で 第 12 回オリンピック競技会 を東京、冬季大会を札幌にて 開催することを確認 1928 第 5 回オリンピック競技会に 団長として参加、 クーベルタンとの最初の対面 (51 歳) 1911 1883 1938 第 10 回オリンピック競技会 (ロサンゼルス)臨席、IOC 総会の席上で東京市長の招 待文を朗読し演説 1912 1882 1870 第 7 回オリンピック競技会臨席のため渡欧、 クーベルタンと再会 欧州の教育事情を視察、各国で柔道の指導 1909 1932 全国各地で 「精力善用」「自他共栄」 について講演 東京高等師範学校に体育科を設置、 体育教員養成を強化 1870 1860 1927 1915 8,000 人 嘉納先生は明治以降、日本で初めて国費留 学生を受け入れた教育者です。清国から約 8,000 人の留学生が来日し、日本語や学問 だけでなくスポーツも熱心に学びました。 1909 年 教育とスポーツ振興で既に多くの功績の あった嘉納先生は、1909 年 5 月 27 日、 アジアで初めて国際オリンピック委員会 (IOC)の委員に選出されました。 100 周年 クーベルタン逝去 (9 月 2 日、74 歳) オリンピック選手の育成とスポーツ振興を目的として嘉納先生 は大日本体育協会(現、日本体育協会及び日本オリンピック委 員会)を 1911 年 7 月6日に創立しました。2011 年、日本の スポーツは 100 周年を迎えました。 7 嘉納哲学の神髄 — 書を読み解く 嘉納治五郎先生は多くの書を門弟に書き残しました。 嘉納先生が自身の哲学を晩年に集大成させた言葉が、最も有名な「精力善用」「自他共栄」です。 しかし、この 2 語以外にも、嘉納先生が思いを込めた多くの言葉が全国に残っています。 嘉納先生の書には四書五経の中の言葉のみならず先生自身の造語によるものも多く、「雄渾、闊達に して、殊に行書に於て、気魄風韻兼ね備はり、流暢、自由の妙を極めている」(横山健堂『嘉納先生伝』 1931 年)と評されています。 講道館が発行した『嘉納治五郎』(1964 年)によると、全国の柔道場や学校等に掲げてあった嘉納 書の数は 226 に達し、そのうち最も数の多いのは「順道制勝」で、「勝つにしても道に順って勝ち、 負けるにしても道に順って負けなければならぬ。負けても道に順って負ければ、道に背いて勝ったよ り価値がある」という嘉納先生の考えを示したものといえます。 嘉納先生は雅号として、60 才までは「甲南」、60 代は「進乎斎」、70 代では「帰一斎」を用いました。 「甲南」は、嘉納先生の生地御影が六甲山の南に当たるため。「進乎斎」は荘子の句にもとづき、技の 修得以上に人の道を得ることの大切さを込めた雅号であるといえます。 「帰一斎」の「帰一」の語は荀子の「百王乃法不同、所帰者一也(百王の法同じからざるも、帰する 所は一なり)」という句に由来していると考えられます。嘉納先生は、晩年に多く著した「自他共栄」が、 万人が帰すべき根本原理であるという意味を込めて「帰一斎」の雅号を使ったものと思われます。 「力必達」(進乎斎)努力すれば必ず目的に達すことができる(大滝節子氏所蔵) 「擇道竭力」(帰一斎)道を択んで力を尽くす(谷本道夫氏所蔵) 「盡己竢成」(帰一斎) 己を尽くして 達成するのを待つ (谷本道夫氏所蔵) 「常択最善志堅行力」(甲南) 常に最善の選択をし、 志を強く持って努力する (兵庫教育大学所蔵) 「教育之事天下莫偉焉一人徳教広加万 人一世化育遠及百世」(進乎斎) 世の中に教育ほど尊いものはない、 一人の徳の教えは、広く万人に影響し、 一代の教えが百代後の世まで及ぼす (横山アサ子氏所蔵) 「修己治人」(進乎斎)自分自身を修めて徳を積み、(その徳でもって人を感化し)世の中を治めること (横山アサ子氏所蔵) 8 9 100-Year Legacy Mission 嘉納治五郎の哲学の下にスポーツを通した人間教育と社会の発展を目指す 一般財団法人 嘉納治五郎記念国際スポーツ研究・交流センター 活動実績 調査研究事業 ・嘉納治五郎関連資料の収集・分析 ・社会におけるスポーツの価値に関する調査研究 ・国際的なアンチ・ドーピング活動の歴史及び Vision アンチ・ドーピング教育の実態に関する調査研究 ・アンチ・ドーピング社会科学研究の動向調査 Mission 嘉納治五郎記念国際スポーツ研究・交流セ ・オリンピック大会におけるアンチ・ドーピング活動の現地調査 ンターは、大日本体育協会(現在の日本体 ・第 1 回ユースオリンピックゲームズ(シンガポール)及び 育協会及び日本オリンピック委員会)の創 シンガポールのスポーツ政策に関する調査 設者であり、国内外のスポーツの発展に多 ・スポーツを通した国際開発プロジェクトに関する調査研究 大な功績を残した嘉納治五郎先生を讃え、 ・国際オリンピック委員会及びオリンピック・ムーブメントの その理念を継承し、嘉納先生がアジア初の 歴史的展開に関する調査研究 国際オリンピック委員会(IOC)委員に選 Strategies 任され、日本がオリンピック・ムーブメン 教育事業 トに参画してからちょうど 100 年の節目と ・教育用 DVD『嘉納治五郎—スポーツを通した人間教育』作成 なる 2009(平成 23)年 5 月 27 日に設立 ・筑波大学とともに、日本初のオリンピック教育・研究センター されました。 (Centre for Olympic Research & Education)設立、運営支援 当センターでは、社会におけるスポーツの ・オリンピック教育セミナー開催 価値の向上に努め、嘉納治五郎先生が唱え ・スポーツ教育に関するコンサルティング た「精力善用」 「自他共栄」の考えを社会に 普及させることを目指し、スポーツの価値 Working Principles 国際会議企画・開催 を「探求する」 「護る」 「広める」をモットー ・「国際青少年スポーツセミナー」開催 に活動を展開しています。 ・国際オリンピック委員会委員による講演会開催 ・世界アンチ・ドーピング機構カンファレンス開催協力 ・スポーツ指導者フォーラムの企画・運営 国際協力事業 ・KipKeino High School(ケニア)におけるスポーツ教育推進支援 ・途上国スポーツ団体へのスポーツ用品送付 1 2 3 4 5 6 1:国際青少年スポーツセミナー(2009 年 9 月) 2:ジュニアスポーツアジア指導者フォーラム(2010 年 3 月) 3:モハメド・ムザリ IOC 委員による講演会(2009 年 10 月) 4:KipKeino High School(ケニア)への支援(2010 年 12 月) 5:スポーツ用品送付事業(ギニアでの中古柔道着・畳の贈呈式) 6:教育用 DVD『嘉納治五郎 スポーツを通した人間教育』 ・途上国へのスポーツ指導者派遣 ロゴについて 当センターの法人ロゴは、嘉納治五郎先生の意志と哲学を受け継ぐという意味合いを込め、 そのイニシャル“JK (Jigoro Kano)”から「心」を形づくっています。 またこの「心」は同時に、嘉納先生の哲学だけでなく、スポーツを通じて個人、社会、 世界の発展に貢献するという当センターのミッションも示しています。 10 編集協力:真田久・筑波大学教授 写真提供:講道館、Photo Kishimoto このパンフレットはスポーツ振興くじ(toto)の助成を受けて作成しました。 11
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