ヽ■}『■ 虻 ㌧ノ 発 行 所 〒921金沢市泉野出町 3丁目10−10 金沢泉丘高等学校内 一泉同窓会 電話(0762)42−02、11 定価 ∫1部 150円 ㈱繚本清文堂 山長与作〓中4 4回卒︶ 西尾稔︵泉5回卒︶ 漢香以都子︵泉1 0回卒︶ 柴野常太郎︵泉6回卒︸ I以上の八氏− 中谷道子︵泉6回卒︶ 山本道生〓中5 4回率︶ 三野−裕︵泉4回卒︶ 新副会長 感田誠〓一中33屈空 長となり、会長を補佐し、イ同窓会の運営に透 たることと・なったっ に寄与きれた。 今後、渋谷新会長のもと、次の方々が副会 会長職をつとめられ、今日の一泉同窓会発展 な第一歩をふみ出すこととなった。 過任された宮前会長は初代会長、英 姿書 氏のあとを受け継ぎ、√十数年の長きに亘って 泉同窓会総会の席上にて、次期会長として渋 谷亮治氏が選出きれ、一泉同窓会は、あらた 役員の改選が行われた。 このため、去る十月十五日に開催された一 一泉同窓会は、このたび新年度をむかえて、 新会長に 渋谷亮治氏を迎え 官金長逝任される 発行昭和60年12月20日 ‖)十一号 同窓会長を交替するにさ/いし これ遍Ⅵご協力を感謝します 宮 太 郎 この度、一泉同窓会会長の交替に際し英前 ご あ い さ つ 暮泉同窓会会長 渋 小谷 義 治 会員の皆様に、は、益々ご健勝ご隆昌め事と お慶び申し上げます。 はからずも本年度給金におきまして、会長 職をお預りする次第に相なり、若輩非才の身 で恐縮致しております。 永く深い伝統と広がりを持つ一泉同窓会の これからも、たゆむことなく前進発展を続け る歴史の一コマを、身を引きしめて担っ了て参 会長のあとを受け継いで十六年、その間、役 員、各期委農の方々は勿論、会員皆様のご支 援をいただき、八十周年、九十周年の各創立 記念行事を盛大に挙行させていただき感謝に りたいと肝に銘じております。 何と言いましても同窓会は、同窓生一人一 やりの経営論でいうホロン的組織であろうか と思います。個と全体の生き生きとした調和 人の、そして全員の結集体であります。今は 堪えません。 ま㌢、昭和五十六年度から始まった新校舎 今後∵同窓会の中心も愈々泉丘出身の会員 の全面改築につづき、その落成式等幾多の想 い出が残ります。 か 中 心 と な り 新 し い 息 吹 き の 導 入 と 共 に 新 会 初軒で、活力ある、また楽しい活動が出来れ ′長のもと益々親睦を深め、活動されんことを ば幸いと念じております。 祈念し今後の発展を期待いたします。 諸先輩方、諸役員の方々のご指導ご支援を 賜わりまして、何とか任を全うさせて頂きた く、ご挨拶を申し上げる次第であります。 ﹁一声第±号によせて 播けば播く程、弁舌独特の墨書写 本であった。 一八・八×一四・五 上編四冊、大野弁富者 著者自筆本 蔵書印﹁石川県尋常中学校蔵書之 章﹂ 難読印一 / 昭和五十三年六月一日、於石川県 立郷土資料館﹁銭屋五兵衛展﹂ があ った。その時、泉丘本と同名同藩の 弁書自筆本 ﹁応象寛暦書﹂ ︵朝倉昭 実半径﹂ ﹁ボ日天実半径﹂ の順に解 説を試みている。即ち 衷月天実半径 用有本輪加減度輔那朋舶般倍之英一 加減平望月本輪周度為月本輪周実 度検表求具徐弦以月高卑差〇二九 一〇乗之為月高卑差以加減月天半 径之頂閉域藍矩豪通 幹㌃ 以月東西志度之除弦除之即月天実 之半径 の如くである。弁舌確信ある論説場 所には必ず ﹁鶴寿軒一束堆之団﹂ の 署名捺印がある。例えば前記 ﹁上編 之二﹂巻末に、 視寛政暦 鶴寿軒一束推之 厩 天保十三年壬寅年六月十五日壬辰 日夜月帯食云々 とある。按うに、同じ本多利明の流 れをくむ遠藤数馬が、文政十年 二 八二七︶能登の宝達山の高さを測り、 ほては地球の半径を測定したのと其 の軌を一にしている様に思えてなら ぬ。 、︶ 抑々天保十年 二八三九︶ フラン ス政府が、公式に写真発明ダゲール を発表した。それから約一年にして る処、海舟つぶさに述べたと云う。 しも既知であったと云う。我邦前途 に深い理想擾画しておられたに違い ない。弁膏の博学もとより幕府の知 あった。 筆者大野弁書を語るに、どうして 東洋の天文学を当時の蘭学によっ 然 も 雑 書 と 一 緒 に 在 っ た 。 特 に 和 て解説した天文測量書である。 ︵筆 も銭屋五兵衛を語らぬばならぬ。弁 漢書の整理活は二階書架、階下は項 者 去 る 昭 和 六 十 年 九 月 十 四 日 一 泉 同 書、銭玉串の両輪の如く、表裏一体 呂不明、として未整理の書冊であっ と 云えよう。 窓 会 常 任 委 員 会 甚 参 じ 、 同 校 資 料 室 た。 ︵桑山周一氏聞書︶ −我が郷土碩学国府種徳氏が宮内省 に展観、なつかしき表紙を見る︶ 先ず筆者の目をーひいたのは、三ヶ 本 書 の 説 く 処 は 、 中 国 暦 を ほ な れ に入ったとき、末だ幕臣勝海舟が居 所にある﹁鶴寿軒一束﹂ の墨書捺印 て 、 蘭 学 に よ る も の が 多 い 。 泉 丘 本 た 。 日 く 、 加 藩 は 早 ま っ た こ と を し であった。 た。幕府は銭屋五兵衛の海外貿易の ︵応象寛暦書上編之二︶ は ﹁推歩法 月食﹂ の大見出しを掲げ、 ﹁ボ月天 件 を 既 に 知 り 、 見 て 見 ぬ ふ り を し て いたに。シーボルトの異法海外持出 山 森 青 硯 文氏蔵︶ が展観になっていた。これ 〓中三十三回卒︶ は泉丘本と併せて一部のものか、伺 筆者が泉登校に通い、最も驚いた 巻二部の筆写のものか、その内容筆 のは、昭和五十四年五月十六日同校 者 未 見 の た め 、 何 と も 言 え ぬ が 、 い 図書館階下室/に於て、大野弁書の稿 ず れ も 著 者 自 筆 本 で あ る こ と だ け は 本 ﹁應象寛唐音﹂ を発見したときで 確かである。 大野弁吉の稿本\ ﹁応象寛暦書﹂ 泉丘校蔵書解題日録の 編集を終えて ㈱ (2) ︺ ︶ 談︶ 此の望湖稜と目と鼻の近距離、卵 辰山麓鷺町に芹斉家があった。芹斉、 拡がっていて、その下でテーブルを 切ると、ビーチパラソルがいくつも 靴で歩いた老先輩には少々なじみに 我イ邦に輸入されたは、塞とに早Lと め ら れ た も の を 、 柳 川 書 店 よ り 購 入 ら 歌 い 歩 く 若 人 の 姿 は 六 十 年 前 ス リ 驚異で衆は見た。先師鏑木勢岐氏は されたものであった。 ︵柳川昇爾氏 減 っ た 本 多 の 森 の 校 舎 の 石 畳 を ド タ 弁書の写真術を調べれば、調べへる程、 不可解の淵に沈むと云われた。︵ダゲ 仁ルより早期となる︶ 景層毎日の如く此の楼 ︵望湖楼︶ に 囲んで男女生徒が生き生きと話合っ 学校新聞 ﹁桜章時報・いずみの原L 縮刷版の発売について 昨年秋、母校創立九十周年記 念事業の一環として昭和十二年 より昭和十七年にかけての旧金 くいものだった。外に出て中庭を横 弁舌の写真資料は九州でも大野で 沢一中時代の学校新聞﹁桜草時 ており、外人客もまじっ.て見える。 眼の前のこれらの風景が日本の現状 金沢0−⊥四二五四 職〇七六二㈹〇二一一 郵便振替 〒921 金沢市泉野出町子千十 一泉 同 窓 会 A4版五八〇ハー 当事務局宛お申込み下さい。 ◎ 縮刷版 レザック表紙 す。 同誌をご希望の方は、金二、 五〇〇円︵送料共︶ ご送附の上 として興味ある記録かと存じま 刊行されました。卒業された皆 様には青春時代の往時の思い出 報﹂ の全号と昭和二十三年の旧 金沢一高時代から現在に至る ﹁いずみの原﹂全号の縮刷版が なのだ、これでいいのだと自分なり に納得する。 町元金沢市立図書館前 ︵元医学館跡︶ そのことはちょうど駅弁を食べる に彼が植樹した赤松が現存している。 時 、 蓋 に く っ つ い た 飯 つ ぶ か ら 先 に も な い 。 駿 河 の 清 水 で あ る と 。 此 の 集合清談にふけったと云う。 話は史実を離れて御伽化するので止 筆者芹斉が二日に贈った角型望遠 鏡と、弁舌写真機を見たことがある。 めたと漏らされた。 筆者の父、仁三郎 ︵安政六年生︶ 因に芹斉の孫、松田壬作は後の金沢 はよく筆者に語られた。 ﹁弁舌の作 医学館植物学教師を勤め、金沢大手 った人形は、金石からお城迄歩いて 来た。藩主の前で、藩主を呪み、腰 ﹁子欲儀親完工符﹂ の文句がフト浮んだ。今この校舎に 撰 極 ま る 妄 言 と 言 わ ぬ ば な ら ぬ 。 読 自分の脳裡に、昔漢文の時周に復詣 させられた 者諒とされよ。 ﹁樹欲静而風声止し 筆者同じ書庫に歳する前記カラー 喰べる名分を若い人がどう見ようと の刀に手をかけた。藩主不快となり、 作 者 弁 舌 を 厳 し く 責 め ら れ た と 云 、 J 着色硝子板により、善本 ﹁応象寛唇 それでいいのだと思うようにー−。 音﹂ の入手先を判ずるは、塞とに拙 厳霜碑を見上げながら校門を出る 弁書明治三年五月十九日殺す。七 十歳。法名は釈巧善、大野町伝泉寺 に葬らる。 籾本書﹁、応象寛暦書﹂ がどうして 泉丘校書庫に入つたのオあろうか。 同校記録帳を調べても末載であった。 これでいいのだ ::≦茎数 学ぶ若人達の意識の深層の中にもや はりこの思想は潜んでいるように思 ㌔ 大 森 玄 衆 えてならなかった。 襲芦宅芦芦■ 筆者あく迄臆測であるが、松田芹斉 と云う人のもとより入ったのでなか ぶ中をマイクを片手に腰をふりなが 琴 ̄ ろうか。同校に色ガラス使用の ﹁ゲ の小路︶周辺の府屋某氏に依って求 ︵一中三十五回卒︶ ントの種板﹂ が数菓ある。是れはか 九月十四日にたまたま一泉同窓会 つての加賀藩望遠鏡の発明者松田芹 斉よ牛入手が略々うかがわれている。 の 常 任 委 員 会 に 出 席 し た 折 、 泉 ケ 丘 筆者かづての大野弁吉 ﹁覚え書き 高校では創立記念祭が催されていた。 大講堂の外にひびき渡る吹奏楽に ノート﹂として、かの有名な弁舌自 ひかれて演奏を開く生徒の中にまじ 筆本が畏友大友璽堂宅にある。此れ は高井二日氏の望湖楼︵山上町お覇 り込んでみた。大きな楽器の立ち並 (3) 半公半私の優勝 薫が 藤 章 夫 二㌦中三十六回卒︶ 諸先生 ︵ニッタネ主ム省略︶ らが厳 しく膝を揃えている。 昭和三年四月来、高岡高等商業学 校から﹁第二園北陸地方中等学校剣 ここだ″と大将永茸が立ち上るや、 ものの二、三秒間に続けさま鮮やか に胴二本を勝ち取ったのだ。 先輩達から ﹁優勝お日出とう﹂ と 大いに祝われ、ライスカレーを御馳 走になり、凱旋の汽車の中、優勝旗 を握りしめ正に意気揚々、思いはひ たすら母校へと駆った。もちろん、 学校に電話したとき、〝小便きん″ の声も上ずっていた。 金沢駅頭には矢田富雄君らが何時 のまにか百人近くの諸君を集めて迎 に煮え切らない。眼はいつものよう 先生に相談したのだが、先生、一向 送ってくれたもので、先年北陸大会 に優勝して甲子園へ駒を進め亀名選 してくれない。 事情をいうと、この大会は ﹁第一 回﹂ ということで突然勧誘が来たた め、校友会として参加予算が計上さ そこで、われわれは汽車賃、弁当 れていなかったのだ。 く、みんな何円かの費用を用意して 現地では、間鴨先生を始め何人か 高岡へ乗り込んだのである。 の先輩達が終始面倒を見てくれた。 外地に出て初めて ﹁母校﹂ というも へ︺ だ。 わが陣容は、永井宏、北川政雄、 上木宗雄、海野利兼 爪以上五年生︶、 広朝、村田君ら四年生三名、他にマ 先生に電話を掛けようかとの声もあ ったが、優勝するまでと、逸やる心 を押さえて決戦に臨んだ。 野 。 凹 胸像前で、誇らしく優勝報告をした のは言う迄もない。 翌日、朝礼打際、吉村校長から生 徒一同に剣道部の優勝を讃えて、共 このような体験は初めてのことだっ 先鋒広朝から海野・上木まで、二 この言葉の異様なひびきが私の胸に た の で 、 一 同 大 い に 感 激 し 緊 張 し た 。 対 一 と 優 勢 樫 に 進 み 、 副 将 北 川 は 練 残っている。 ぼって勝負一本宛で引き分け、〝さあ、 一中﹂ を代表して参加したのも事実 であり、六十年近く経った今でも、 ネージャI兼応援団格として斎藤の に喜びを嶺ちあったのだが、ただそ その旨を富野先生に申し出て諒承を 得た。 他、田口利介、野村喜久男君らが居た。 の中に ﹁半公半私﹂ という言葉があ 試合は緒戟から何回戦かを順調に 六月だったか、まだ学期試験の始 った。或いはこれは ﹁半校半私﹂ と ま ら な い 頃 、 と に か く 日 曜 日 の 朝 早 勝ち進み、愈々決勝戦に砺波中学と いわれたのかもしれない。とにかく 対 す る こ と に な っ た と こ ろ で 、 吉 野 ﹁全校﹂ ではなく、一部の有志参加 であったことは間違いないが、﹁金沢 代自弁で街こうということに決め、 坊、広坂通を経て、石浦神社を右折 すると懐しい校門が見えた。あの感 の の 垂 味 を し み じ み と 痛 感 し た も の 激は忘れられない。︼同、久田校長 えてくれていた。隊伍を組んで、強 飯町、武蔵ケ辻、尾山神社前、杏林 れまた憶い出の、北陸三県剣道大食 で優勝した折の記念写真である。膏 村校長を始め、富野√・小凍・水蓮の 手達の顔が見えるパ もう一一枚は、こに 爛 々 と 輝 い て い ら っ し ゃ る の だ が 、 どうも日頃の先生らしくなく、即答 が見つかった。一枚は中学三年の/と し て い た の だ が 、 都 農 諸 君 に 諮 る と 、 き の 野 球 部 日 月 一 同 の も の 。 こ れ は 松既 に 参 加 の 決 っ て い た 夏 の 京 都 武 徳 任に住む同期の本保斉弘君が数年前 殿での金団大会を前に晩試めしとば に、﹁君も写っているよ﹂ と言って か り 一 同 大 い に 張 り 切 り 、 早 速 吉 野 此 の 頃 思 い た っ て 古 い 写 真 を 整 理 道大会﹂ への参加勧誘状が届いた。 していると、五十七、八年前のもの 当時、私は剣道部のマネージャーを (4) 土田真吾氏のこと .平 石 英 雄 〓中西十一回卒︶ 吾氏の全人格を作って行った様です。 が無言の説得力とな、つて輝く土田兵 ︶ 土質氏は、昭和五十九年九月に満 J 九十歳の長寿を町田市で閉じられま 清濁併呑の魅力ある人間像が之から 慈味と包容力の大きさ、云いノ換れば、 J した。 小生が土田兵吾氏の事を書く機縁 れて周辺の人物へも土田氏′の性格が 土田氏の人間味と見事にカクテルさ 名で書かれている事で、その群像が に出没した幾多の実在の人物が、実 した一中時代の同窓はじめその周辺 の結う一つの魅力は、土田氏が在学 二万この本から受ける土田真吾氏 姿だと感じました。 以後約七十年を生きた土田兵書氏の きびしい中にも汲めども尽きない√ は、同じ第二十回の同期生としてま ﹁同期で心から尊敬する友人が二 谷氏衷らのお手紙で 今年の七月に ﹁ゲリラ将軍﹂ とい だご健在でおられる谷悪書郎氏に戴 う三〇〇頁足らずの本が﹂ 東京の恒 きました。兼々小生が私淑している 文社から髄版された事に気づかれた 方がおられると思います。然し書名 か ら 見 て 最 近 屡 々 目 に つ く 際 物 と 思 人おり、その一人は土田君であり、 わ れ た 方 は 見 過 さ れ た か も 知 れ ま せ もう一人題村田義人君である﹂ んが、内容は、偶々軍籍には身を置 と云われており、戴くお手紙にも土 い た が 実 に 人 間 味 豊 か な 一 人 物 の 評 田氏のエピソ!ドが時々書かれてあ 波及して行った事がよく判ります。 五十九年まで封に生きていた事を知 が、嘗て我々と共にこの地上で昭和 創立九十周年記念事業の一 同窓会 会員名簿について 扱て、土田兵書氏は明治二十六年 るだけで紅不思議な運命を感じます。 兎に角、この様に魅力のある人物 に金沢市に生れ、長町小学校1金沢 局からの依頼で土田氏のことだけ に書くつもりでいましたが、事務 の集った時点で村田氏の事も一緒 小生は土田氏め事と共に、資料 追記㌦ つとして去る五十八年十月発 行した同窓会会員名簿の在庫 正二年陸軍少尉に任官し、 ﹁のっけから朝鮮へ独立運動鎮圧 た無抵抗の民衆のカに強い感銘を受 の任務で出動を命ぜられ、その時見 け、以後長い軍歴の間に彼はゲリラ、 を切離して書きました。 六十年十一月﹂日 一言経緯を書き加えます。 パルチザン、匪賊などと称せられた 相手と戦い、苦戦し、悩み、考え、 相手の中に尊敬すべきもの共感すべ きものを見るようになってゆく﹂ ︵﹁﹂部分は軒島欣也著の本書か らの引用です︶ この様にして、何とも云えない豊 能な人間味に満ち、そしてその行動 郵便振替 〇七六二 金沢○−四二五四 ⑫−〇二一一 電 話 一泉同窓会 三−一〇−一〇 〒軌金沢市泉野出町 ︵送料込︶を振込みの上、お 申し込み下さい。 があります。 ご希望の方は一部三千円 一中−陸士重陸大のコースを経て大 伝であります。 りました。その一端は、嘗て一泉 そ の 人 物 と は 、 金 沢 一 中 第 二 十 回 ﹁六号﹂に﹁谷恵膏郎先輩のこと﹂ の卒業生で、陸軍少将で終戦を迎え と題した小生の拙文に書きました。 た土田真吾氏であります。 (5) ニューギニアへの道 轟対平準幽 ‡三言三三l二 いるパ 囁折そよ風が頬を撫でていっ たりすると若い見習い士官達の胸は い真青な空、珊瑚礁に白い波がこま かく砕け、一本の帯となって踊って やられるのではないかと、戟懐が身 エンジンをかけていない。今度こそ そして毎夜のように我々の乗ってい 体の中を走っていった。海岸から百 いた我々の艇目がけて島の方から、 が空の彼方を指さして何か言ってい どかな風景を楽しんでいると、誰か 潜艇である。朝食前のひととき、の 員二十名足らず、三〇〇トン位の駆 時頃乗船する。兵曹長の艇長以下乗 輸送してくれるとのこと、翌午前六 んから連絡があり、明朝ラバウルへ 確かな日は忘れたが或る日海軍さ に超低空できたため、椰子の木に邪 ︵後で分ったことなのだが︷、あ計り た。今あたるか、今あたるかと、私 の身体は金縛りになっていた。⋮⋮ 大きさを増し、眼の中で広がってき 髄は私を目がけてその速度を増し、 端が真赤に燃えているみたいだ。爆 ミリ機銃が一斉に火をふき、翼の前 を二個ずつ落としてゆく、六艇の1 数機のグラマンが次から次へ\と椰子 貯木すれすれた降下してきて、爆弾 る。見るとあぶの集団のような、真 いまいましい。 てゆく、その都度睡眠を妨げられて てやってきて、爆弾を飛行場へ落し と 同 じ あ あ B 2 4 哨 戒 機 が 定 期 便 と し メ′‡トル位練れたところに停泊して た ﹁ぶえのすあいれす丸﹂を沈めた 甘 ず っ ぱ く 、 く す ぐ ら れ て し ま い そ 頃の太平洋前進基地の横顔である。 うだ。だが我々十︸名は赴任途中な 五本と、大きなパパイヤ二個、叉一 は編隊を解いてきた。一隊は飛行場 大きな穴をあけて澗座してしまった。 後ろにいた砲艦に命中、どてっ腹に 箱 な ら バ ナ ナ 〓 居 と 交 換 し て く れ た 。 叫ぶ。その数、百数十機Q 黒い集団 の方へと向ってゆく。 戟死傷者も何人かでた様子。 に助かり我々の体力は回復していっ 今ははっきりと分る。翼の尖端の ソロモン群島方面の航空戟で消耗し ん降下し、すさまじい爆音と共に港 のである。これが戦場なのだ。まだ に銃弾の穴があいていたが助かった やがて去っていった。艇のあちこち ク ∵ グ ラ マ ン F 6 F で あ る 。 ぐ ん ぐ グラマンは銃、爆弾を使いはたすと き り た っ た 、 ず ん ぐ り 胴 に 星 の マ ー どれだけ時間がたったのだろう。 た魔爆隊等が時折飛来し、再編成の に停泊していた艦船や施設に次々と まだ序の口なのかも知れない。 銃爆撃をはじめた。 ︹︶ 完全に不意をつかれ、どの艦船も ため傷ついた巽を休めていたし、叉 こ されていた。昭和十八年十二月中旬 海戟で乗艦を失った将兵も大勢収容 カビエン基地には飛行場があって た。 乏しい煙草ではあったがこれで大い 何個か通りすぎていって我々のすぐ 物々交換に応じてくれることを知っ ない。然し我軍にはあれ程多くの飛 1 3ミリの機銃が一挺あるだけ、海軍 た 。 か び の は え た ゴ ー ル デ ン バ ッ ト 行機がある筈がない。眼鏡をのぞい さん銃身も焼けよと射ちまくったが、 ていた海軍さんが、﹁グラマンだ﹂ と あたるもんではない。爆弾は頭上を 住民 ︵メラニシア系︶ が住んでいて こ と な の だ が 、 我 々 の 起 居 し て い る 黒 い 大 き な か た ま り が こ ち ら に 向 っ 魔されて、爆弾を落とす角度と、タ 小 屋 か ら そ う 遠 く は な い と こ ろ に 現 て き て い る で は な い か 。 と っ さ に 敵 イミングとか丁度我々の頭上を通り 味方何れの飛行機の編隊なのか分ら 越すようになっていたとは︶。艇には すこし日がたってから気が付いた ︵我が太平洋戦記 その3︶ のである。これからニューギニア、 ウエワクにある第四航空軍司令部へ 片 岡 茂太郎 行かねばならない。一週間の漂流で 〓中西十六回卒︶ さすがに若い我々も、いささか体力 同窓会誌二泉﹂第十号に﹁爆音﹂ を消耗していた。そして何よりも腹 で南太平洋一週間漂流の後、昭和十 がへってやりきれない。海軍から分 Å年十二月五日カビエン基地に収容 配される給食ではとても足りないの されたところまで書きましたが、そ である。何処かに陸軍がいないもの の続編です。 かと開いたところ、通信隊の一部が カビエン ︵日米の激闘つづくソロ いることが分り、早速尋ねることに モン群島に近い、ニュ‡アイルチン した。事情を説明し乾パンと煙草を ド島の北端にある海軍基地︶∴・′⋮・海 いくらか分けてもらい、又四航空軍 辺にゆらぐ椰子の菓ぺ どこまでも高 司令部への連絡を依頼する。 (6) 3 末な見張台が立っていたので、声を ぴしく仔んでいるだけ、ぼっんと粗 ものである。申告をすますとよく逐 てくれたということで茶わん酒を振 詰三、四個とするめ少々のさびしい 問いrていた。卓上の料理は魚のかん ︺ 宿舎で四航軍よりの緒示をまつこと かけてみたら兵隊が.一人上から顔を ︺ にする。 出した。四航軍司令部へ行くのには 米軍機が去ったあとの海面ははげ 十二月三十一日午後飛行場から連 と大きな魚が、色も鮮明な南海の魚 しい爆撃のため裏白となっていた。 が ぽ っ か り と 浮 い て い る の で あ る 。 絡があり、輸送機が我々を迎えに飛 移しいノ数だ。浄軍さん喜んですぐ飛 どうしたらよいかと尋ねるが要領を 舞ってもらう。久し振りにのど透通 る こ と と な っ た 。 飛 行 場 に 着 く と 連 え な い 。 海 岸 に 出 る と 時 々 ト ラ ッ ク ってゆくまろやかな液体は様々な感 よ く 見 る と あ っ ち に も 、 こ っ ち に も来 し た と の こ と 小 生 他 五 名 が 先 発 す び込んでその魚を何匹も拾いあげて が通るからそれに聞いて下さいとの ︵戦後のこと、昭和二十五年東京で 慨をこめて叉格別の味であった。 日の激しい航空戟を物語るかのよう 日耳鼻学会の総会があった時、/懇親 師団の全保有機数なのか∵内地にい こと。1 これが第週航空軍︰第四飛行 美な姿の零戦が眼に入ってきた。戦 き 〝 て 、 馴 れ た 手 つ き で 刺 身 を つ く りに 、 塗 料 の は げ た 、 然 し な ん と も 優 酢じめた。朝の食事はまことに豪勢 会場でその時の軍医部員、武田中尉 ほいたが、前線へ来てみてこれは駄 大晦日の夜は更けてゆく、ニュト 田一雄博士である。︶ の三月まで大阪医大教授であった武 にばったり会ったのには驚いた。こ な も の で あ っ た 。 鯛 の 刺 身 や 、 切 り 争 の 初 期 、 ゼ ロ フ ァ イ タ ー と 恐 れ を た時、日本の敗色はうすうす感七て 目だとはっきり思い知った。 もって呼ばれていたあの零式戟斗機 ど こ か に 吹 き 飛 ん で お い し い 料 理 を である。艶々の乗りこむ輸送機は、 身の入った味噌汁、先程の修羅場も 海岸にでると地平線の/彼方に夕日 転 用 し た も の で あ る か ら ま こ と に 窮 が半ば沈み、あたりは大分暗くなっ 屈至極、六人腹ばいになって、なか た ら ふ く 食 べ さ せ ′ て も ら っ た が 、 我 爆撃機 ︵春龍︶ をそのまま輸送機に が方に凝当の損害が出ているのは間 違いない。 洗う波のL音だけが耳を打ってくる。 たものかなという思いと、やっと着 音を聞きながら、はるばるやってき て小た。全く静かであるひ 足もとを ギニア海岸にうち寄せる静かな波の 内地を離れて数千キロ、六人の胸に べく前の方へとかたまっていたが、 に着くり 去る十一月二十四日はじめ 機長、尻 ︵飛行機の︶ が重くて揚が いたという安堵とが交錯するなか、 その日の午後無事に再びラバウル て ラ バ ウ ル あ 土 を 踏 ん で か ら 一 ケ 月 り に く い か ら も っ と 前 の 方 へ つ め て 去来するものはなんであったろう。 たん、空襲警報がかかり、操縦の丹 重なって漸く離陸、上空に昇ったと けをところまで乗せてもらうことに 早速とめて司令部の方向を開き、ゆ こ と こ と と 音 を た て て や っ て き た 。 \ いた。 近くたっていた。内地を発つとき、 くれという。六人重箱のように折り と あ ち ら の 方 か ら 一 台 の ト ラ ッ ク が いつしか深い眠りに落ちてしまって 一緒だったラバウル組の山岸見習士 保准尉の真険な表情、全速力で一目 ねてきてくれ、お蘭達もう戦死した 官︵現宇出津保健所長︶ が宿今に尋 夕方ウエワクに着く。輸送機は我 向、つ。 く軍医部に辿りつくことができた。 あたりはもう真暗、時計を見ると九 も の と 思 っ て い た の に と 、 再 会 を 心 散 ラ バ ウ ル を あ と に ニ ュ ー ギ ニ ア へす る 。 途 中 ト ラ ッ ク を 乗 り つ ぎ 、 漸 かち喜んでくれた。そして中谷亮一 見習士官等ほすでに潜水艦でブ‡ゲ ついて作られた、椰子の葉で葺いた 時をまわっていた。早速高級軍医の ン ビ ル 島 に 渡 っ た こ と を 聞 か さ れ る 。 我を降すとすぐ何処かへ飛び立って いってしまった。飛行場にとり残さ ところへ申告にゆく。事務室にくっ れた時、一瞬、地の栄に来たのでは 先号にも書きましたように、﹁ぶえ 人影もない、荒涼とした飛行場に、. のすあいれす丸﹂ が沈没し、その漂 数機の一式戦︵隼︶、三式戟︵飛燕︶が、 流中に我々の中何人かほ軍刀をはじ め所持品をすべて失っていた町で、 な い か と い う 思 い が よ ぎ っ て い っ た 。粗末な六畳位の部屋を教えられる。 今日は昭和十八年の大晦日、固形 先ずは服装を整えることが先決と、 あ っ ち に 一 機 、 こ ち ら に 一 機 と 、 わ部員五、六人が集って忘年会︵?︶を 燃料のうす暗いあかりのもとで軍医 貨物厳へゆき、必要なものを調達、 (7) 摘心身障害児と適ごして ︵旧姓 谷︶ 辻 成 人 必死に追いかける様相に似ていなく もない気がする。 事実、以前は賂性障害児は高率で 幼若期に死亡した。しかし、今は医 ︵一中五十一回卒︶ 学の進歩で救命可能である。障害児 ﹁人間五十年、化転のうちに較ぶ も簡単には死ななくなった。例えば、 れ ば 夢 幻 の 如 く な り ﹂ と か 、 ﹁ 人 生 出産時の赤ちゃんの体重が二、五〇 七十古来稀なり﹂ とかいわれてきた 〇 g 以 下 を 未 熟 児 と い う が 、 最 近 で は七〇〇g位の新生児が救命されて が、現在の日本では男性七十五歳、 いる。自然のかまに放置すれば必ら 女性は八十歳位が平均寿命である。 と歩けるようになった時、その歩き 方が異常なパターンの歩行であって 人間の寿命が⑬ように延びたのは医 ず死亡する筈のベビーである。必然 的に障害児は無くならない。 学の漫歩や生活環境の改善や平和で 今、︶身体の移動すら出来なかっ︶た あることが主因であろう。私は二十 子供が、数年間の訓練や種々の医療 年位前から心身障者児を相手に、日 の成果として、独りで起立し、やっ 夜ヤプ医者生活を過ごしてきたが、 自分が還暦近くになってきて、今ま で天職と信じてやってきたことが、 別である。 所詮、人間社会は、私のような自 も、子供の嬉しさに輝く笑顔を見る 本当は神の意志・自然の摂理に反虜 と、当方も嬉しくて思わず眼から汗 しているのではないか?と思うこと が流れる。理ぐつではない。子供の がある。 自給世界で甘、生掛に突然変異の 長期間の毎日の努力を見てきた者と ために、正常ならざる状態が生ずる して、たとえその歩き方が異常でも、 こ と は 広 く 知 ら れ る こ と で あ る が 、 潅た切りの状態から脱した喜びは格 私が毎日行なっている仕事の目標は、 障害を持つ子供を少しでも改善させ ようとすることであり、元来、障害 然の法則に反したことに人生をかけ 児は自然の摂理からすると、自然淘 てきた着をも含めて、歴史的過程と である。 人 昏 ハ︺ ノ︵高川記︶. なることと思います。 とに続く後輩には大きなはげみと 伝統の灯がともされた感じで﹂あ 額いたしました。道場にまた一つ、 装の上、贈呈いただき、道場に掲 去る十月ム日、高辻会長よ牒額 一足一刀一断 鹿ハ水鳥ノ泳グガ如ク 打ツ太刀ハヌレ手拭ヲ絞ルガ如ク 椀ハ赤子ヲ抱クガ如ク 手ノ内ハ生卵ヲ握ルガ如ク 眼ハ遠山ヲ望ムガ如ク 会長のもとに届けられました.︶ ということで、次のような剣の極 意を示す痩豪が一泉剣友会の高辻 が道場で在校生相手に稽古に汗を 流し、激励されました。その後、 坂本先生よ牛、何か後輩のために 昨年九十周年記念式の際来校さ れた坂本三十次労働大臣 ︵当時︶ 坂本三十次発巷の揮豪 母校剣道場に掲額される って考えるほどのことではないよう 汰 さ れ る べ き も の で あ ろ う し 、 そ の して複雑に進むものらしい。 ような子供に手術やその他の医療行 これは、文の林に分け入りて、世 の前線を拓くべLと言うほど肩肘張 為をし、機能訓練や教育を施行して、 改善向上を努力することは、あたか も警察犬ががむしゃらに犯人の跡を ︵︶ ト . . ■ . ■ ■ l ↑ . 、 ■ l 一 ▼ 一 l l 一 − ■ . ; ■ . ■ ■ 1 . ■ L 橋立漁港 斉藤弥書く−申49期) 同窓の集い ︺ 畳の菱形の部屋の左右に三角形、の小 上 廻 る よ う に な っ て き た の は う た た 部屋がある。柱、建具、畳に至るま 寂蓼の感。 で聡てが三角形叉は象形の書斎兼茶 二時から喫茶室で積もる話、四時 室で、当時の大工以下の職人達の苦 か ら 宴 会 場 に う つ っ て 賑 や か な び と 労が偲ばれる。一時間余の見学の後、 時 。 ﹁ 九 十 歳 ま で の 長 生 き を 目 指 し 内部を改装したみそ蔵で昼食。新潟 て ガ ン バ ロ ー ﹂ を 合 言 葉 に 万 歳 を 三 駅で解散。〟来年を約して西、J東に枚 凸Y第十三回 /一中三三舎弥虐大会記 期日 昭和六十年五月十九、二十日 嶋して七時散会した。 ︵出席者︶大滝武雄、福田重二、金 岩明、牛塚藤雄、屠村喜久治、南部 兵衛、嵯峨通、梶本国男、高橋外雄、 大浦喜三郎、笠野外善夫、小坂音次、 貞一、脇水利勝、越田喜久治、木戸 哲二、篠原一碁、畑中幸三、板垣膏 市︶、小出武︵長野市︶和田光夫妾︵高 岡市︶高田小市夫妻、柳瀬斉憲夫妻、 小寺俊一、近藤紺家司、武藤文雄、 内田囁太、松井順孝、浅地忠、杉野 啓、結城与久、桜井喜文、清水忠次 義孝︵以上関東組︶井口政雄夫妻、 郎、市島亀太郎、大森玄衆︵順不同︶ 池田知雄夫妻、岩城谷博、宇都宮亮 1大森 記i 一、岡田一男、門野菜、田中憲太郎、 村叉富、村上外雄、安田俊雄、山田 /場所Ⅴ新潟県弥彦温泉 やひこ観光ホテル 思い浮べて校歌合唱。 翌朝は相憎夜来の雨で相当難渋し を分つ。 鍬 参加者氏名次の通り。 米林栄 ︵旭川市︶、松本正雄 ︵川西 ノ数日前からの晴天続蓬で案じられ た天候も、幸い持ち直してひと安心。 地元北陸勢及び関西からの松本兄を 含めて十八名、午後二時過ぎ東三条 駅着。出迎えのパスで新幹線燕三条 駅で待つ関東勢及び北海道の米林見 と合流、総員三十一名、久潤を叙す。 直ちに越後一の宮たる名神大社、 も鮮やかに眼を楽しませる。この豪 邸は明治中期に建てられ、百年近い ﹁三五会﹂ は毎年一回寄ることにし 納米三万俵、県下第一の地主だった と の こ と 。 庭 園 は 雨 に 洗 わ れ 、 花 木 ◇三五会の総会 昭和三年、金沢一中卒第三五期の 弥彦神社に参詣、宝物殿を見学の後、 たが、見学が阿賀野川畔の ﹁豪農の 俵 正、辻義雄、西村四部市、村尾 背 後 の 弥 彦 山 山 腹 を 縫 う 弥 彦 山 ス カ 館﹂ だけのため、大いに助かる。同 泰、村上進、藤田誠一︵以上地元組︶ イ ラ イ ン を ド ラ イ ブ し て 、 頂 上 か ら館は江戸時代中期からこの地にあり、 ︵藤田 記︶ 日 本 海 に 浮 ぶ 佐 渡 と 広 大 な 越 後 平 野 所有田畑、山林は二、三七〇余町歩、 最盛時には小作人二、八〇〇余名、収 を鳥敬する。 六時半から総会、昨秋母校九十周 年を記念しての金沢大会以来半年振 りの会合だが、型通り藤田幹事の開 会挨拶、会員の消息報告等があって 開宴。宴半ばにして井口兄から相撲 風 雪 に 耐 え て 往 時 そ の ま ま に 保 有 さ て い る 。 こ と し も 五 月 二 十 五 日 、 駅 部応援歌の替歌及び旧師の全ニック れている純日本風の建築で、九千坪 前の ﹁ホテルニュー金沢﹂ で総会を ネームを歌い込ん・だ ﹁箱根の山﹂ の 近い敷地内に建坪千二百坪、附属建 開いた。 参集したのは次の二十七名、欠席 替歌 ︵いづれも同兄苦心の傑作︶を 物十数棟、茶室だけでも五棟も点在 発表、一同斉唱の後恩師を偲び歓談 し て い る 。 中 で も 三 楽 事 と 云 わ れ る 者 は 四 十 三 名 、 亡 く な っ た 友 の 数 九 十名は、生きている者の数を造かに し き り 。 最 後 は 例 年 通 り 本 多 の 森 を 正三角形の小事は建坪十一坪余、十 (9) ◇六桜会大会 ︵昭和六年卒︶ ノ 毎回の出席者も定着した十五、六 名、合わす顔も同じなら愛す話も叉 当日午後六時すぎ二、三人の欠席 た。 出席1着は次のとおり。 散会しました。 美 竹 会 館 で 開 催 す る こ と に な り ま し 校校歌を合唱し、次の会合を約して と 云 う こ と に な り 六 月 十 七 日 渋 谷 の 十年前の往時にかえり金沢第二中学 早 速 祝 賀 を 主 体 と し た 集 り を 開 こ う 九時過ぎ㌢つやくしめくくり、五 が 出 た こ と は 復 と な い 名 誉 を こ と で れる有様でした。 間国宝に認定を受けられたので、七 山正敏君、大阪より河原安治君、松 宴鮒となり、暫ぐ振りの′美め懐旧 本 猛 者 の 両 名 が 急 き ょ こ れ に 加 わ り 桜 全 会 員 の な か か ら こ の よ う な 達 人 談・近況の話合いに時のたつのも忘 花が咲く、五十歳、六十歳を熟年と 同 じ 、 よ く も 根 気 よ く こ の 会 合 が 続 称するなら七十歳を超えた老人が五 て 祝 詞 を 述 べ 乾 盃 後 宴 に 移 り ま し た く も の と 他 人 か ら 見 れ ば 可 笑 し い と 十年前の学生にと変身したかの意気 その間西出兄から作品の写真を配布 込みで、賑やかに時の移るのも忘れ 裁金技法の説明と、永年に紆たる苦 思うだろう。 心談があり一同傾聴する。 今年の定例六桜会大会が去る八月 ての宴となった。 翌日の散会に際しても、次の中食 二十一日粟津の坂田屋にて催す。ご ︵西多 記︶ 会が待ち遠しいとばかり幹事を責め 招待し美恩師の宮沢外与治先生が心 よ く 参 加 し て い た だ き 、 東 京 よ り 中 たてる風許鳥克ちれ童心そのものの 同窓会であった。 ◇関東七桜会の集い 田達︵旧姓井上︶ ◇一中4 1期生︵昭和九年卒︶ 古橋記念大会 何等かの口実をみつけて集りたが る年齢になり、数え年で古稀だから ということで、八月十三日〓泊︶ 片山津みたにや水先園で、古稀記念 大会を開いた。開催通知が一ケ月程 東京の如月の寒さは特に酷しいので、 は二月の初め頃実施していましたが、 関東在住者︶ の集りは、ここ二年間 には昌もくれず、一昨年の卒業五十 ∼当日湖上で開かれていた花火大会 らの参加は一同を深く感激せしめた。 戒の両君が病をおして杖をつきなが 参加者は二十八名と従来の大会に比 し意外に少なかったが、佐久間、府 前であった為か、或は真夏の為か、 古稀を迎えた面々では誰れ竃うとも ダベリに忙しく、遅くまで話に花が 年記念大会以来の旧交を温めようと 咲いていた。酒量が予定よりもだい まろうじゃないかと云うことになり、 開催を延していたところ、西出大三 ︵︶ 見が裁金 ︵きりかね︶ 技法により人 なく、今年から暖かくなってから集 関東七桜会︵金沢一中昭和七年卒 甲子太郎、山本正治、幸村博敏、森 時六桜会中食会なるものを開催して 懇 親 会 に 移 る や 、 い つ も の 同 窓 会 者 あ っ た も の の 十 六 人 集 り 、 例 年 の 西出大三、伊藤直之、伊藤春夫、 顔 を 合 わ す 機 会 を も つ よ う に な っ た 。 風 景 と 変 か こ と な く 三 、 四 名 の グ ル レ ギ ュ ラ ー メ ン バ ー を 超 え る 盛 会 さ池 田 克 己 、 瓜 生 復 男 、 奥 出 美 朔 、 、 越 ー プ が で き て ソ コ 、 コ コ に 懐 旧 談 ので し た 。 ま ず 西 出 兄 を 中 心 と し て 記 村 衛 一 、 篠 原 外 志 武 、 高 井 誠 二 、 高 念撮影をとり、瓜生見が皆を代表し 松一書、福田三書雄、前田弘、村上 三十名が一堂に会した。 卒業して五十余年、それぞれ膏稀 席上、本年四月の春紆叙勲に際し を過ぎると無精に過去のことどもが 勲五等瑞宝章を授与をれた大川兼夫、 懐かしく想い乱される。 毎 年 一 回 、 八 月 の 旧 盆 頃 に 開 か れ 青戸泰賢の両君に対し、その栄誉を る六桜会の会合だけでは、どうも淋 お祝いし新保会長より賀表に記念品 し い き わ み ︹ 昨 年 か ら ほ 随 時 に 臨 をそえてお祝いとした。 (10) ︺ 塚野蓄蔵先生、宮沢外与治先生は琶 L 元気になられて、御面談出葬る事を 療養中であり、だんだん老年健康に 気 を つ け ね ば と の 話 題 も 多 く な り ま 祈りました。 した。叉本年は恩師諸先生の御出席 例年欠かさずに編集発行している が な く 残 念 で し た 。 御 消 息 を 載 い て 会員消息通信を会場で配布し、同期 会らしい笹みの絆の役割を果しまし いる斉藤天六先生、竹内直良先生、 た。尚物故者が六十一名となりまL と鴎外荘で開催し、梶川欽一郎会長 はじめ、約四十数名の会員と夫人達 で 久 し 振 り の 楽 し い ひ と と き を 持 ち 、礫 と さ れ て 毎 日 を お 過 し で す が 、 藤 田誠一先生は九月末腰痛で御入院さ 御互いの健在を喜びあいました。 同 期 生 一 七 〇 名 車 一 〇 九 名 の 会 員 れ、後藤重郎先生は大阪で御病臥中 動 静 を 伺 っ て み る と 、 十 五 名 の 方 が との御近況を承り、みんな来年は御 本年は第十四回目の集りを、十月十 一日と十二日の両日上野の弥生会館 昭和十年何期の十桜会は、毎年全 国総会を秋頃ひらいておりますが、 ◇金沢−中十桜会 全国総会報告 ︵牧沢善二記︶ 大会の参加者は左記の通り。 ぶん少なかったのは、矢張りお年の 赤時雄七郎、伊佐敏男、岸輝善作、 せいか。 小泉茂膏、近藤益秀、佐久間文雄、 尚早生れの者から、自分達は来年 佐久間夫人、杉田正、須田正春、 が七十歳だから、来年もう一度古稀 高岡精一、武内俊尚、中栄正雄、 大会を開けという緊急動議が出て、 西田成好、野崎外書男、萱 恵式、 世話人で検討中であるが、人恋しく 何 か ば つ け て 集 り た い と い う 気 特 の 英 勝雄、張江 武、番 幸次、 府城 浩、牧沢章二、南 秀男、 現れであろう。 村北清栄、八十島健二、矢部睦夫、 山岸智十郎、山口社義、芳揖 保、 吉本喜久次 (11) たが、来年の六十一年総会は、昔流 の古稀の年輩者の集い美なる機会亨 もあノウ、物故者追悼会を併せて行う べきだ、との建議もありました。散会 後は散々位々、上野の森、博物館、ノ 美術館の見学とか、六儀園後楽園等 の名園を散策し、秋晴の午後、来年 の再会を期してそれぞれ別れました。 叉鬼が笑うかも知れないが、来年六 十一年総会は金沢各値幹事担当です が粟津温泉で十月二十六、二一十七両 日開催することが決定されました。 文責 十桜会東豪幹事 古沢、久保田 同窓、先輩よ月の 著書のご寄贈 ◇浦 茂氏〓中三駕回︶ 明治の軍神、アメリカの 元帥を走らす ◇二口 一雄氏〓中四二回︶ 合同歌集﹁雪花抄﹂ 豪華客船のドラと共に ○斉藤 弥膏氏〓中四九回︶ 寄 贈 ◇加藤俊男氏〓中三八回︶ ゲリラ将軍 異色の武人−土田兵吾 の生涯 ◇一中4 5・46期 合同クラス会 つ何十になってもチャンとリーダー は居るもの。 尚、特筆すべきことは墓参をかね 会。こんな会合が開かれるのもトシ 運びとなったのが今年の合同クラス おもしろかろうというこ七で条規の 内田両代表の間で出た話が、それむ 開いてみようや。4 夫山本周三尾本堅太郎大西 関東中村八郎益谷一夫安田道 ︹出席著名︺ もまたトシがなせるワザならん。 の客数名の声があった′ことで、これ けていただき感謝する﹂という遠来 し﹁本当によいタイミングに呼びか た旧盆のこの時期を選んだことに対 がなせるワザ。 5期石崎、.46期 於﹁金沢国際ホテル﹂ 正治 関西東海西川利夫野村欽一 ◇在京金沢一中 第四十七期同窓会開催 ◇五主の会 卒業四十周年記念大会 われわれが金沢一軒を卒業したの 秋色の箱根湯本温泉、ホテルおか だ に お い て 、 去 る 十 月 十 九 日 同 窓 会 は、太平洋戦争が蛾烈を極める昭和 二十年の四月でした。以来四十年の 歳月を経ました。思えば、われわれ を開催しました。集る者二十五名は 坂本三十次ご夫妻を囲み卒業後四十 れ自己の生き方を模索しながら、日 本の復興と発展の先頭をきって走っ ︵世話人 中野喜代二︶ 五年の積る話に花を咲かせました。 が卒業後歩んだ四十年は、日本が敗 次 回 は 京 都 で と い う こ と で 和 気 為 戟の荒廃と混乱の中から立ち上り、 義のうちに散会しました。 今日のGNP世界第二位の経済大国 へ発展した四十年でありました。戦 争中は筋金入りの軍国主義教育をう 北陸荒川宏高畠三郎鳴瀬茂男 けたわれわれが、それこそ百八十度 の思想転換を余儀なくきれ、それぞ くたった今となってほ往時のニキピ 三田幸一郎山崎昌八木田善良 磯部明 華やかなりし美少年も、貫禄だけは こ 太田定夫 ︵4 6期太田記︶ 山田正勝大垣秀邦青梅洪治 次松本洋三宮北啓宮村利雄 功松本郁郎松本忠男松本豊 欣一二口敬松田仲之介松谷 栄作中野輝一深田元夫藤井 小林貞夫白沢実辻良徳登谷 敏夫片岡茂太郎金丸直治 て来たわけであります。いま卒業四 次とこれだけ歌ったものなり。いく ﹁桜草﹂﹁南征の調﹂とよくも次から ﹁一中校歌﹂﹁猛勇﹂﹁桜が森﹂﹁香雲﹂ 交盃。挙句の束は校歌応援歌。 肴に酒をぐみかわし、大いに歓談、 介あり、あとは青春時代の想い出を この間幹事による出席者全員の紹 唱は八木用書良個でしめくくった。 た遠来の安田道夫個。最後の万歳三 音頭は山中時代校旗の旗手をつとしめ 荒川宏㈹内良二∴珊石野竜山鳩 より報告をかねた挨拶あ月、瀧杯の ﹁オマン︸体誰や﹂/ 幹事む敷ではない。 十分の白嘗禿頭の類多く ﹁アノオッサン何という名前や﹂ 内鴇二石野竜山石立実稲松 いくらすぐ上のグラス或はすぐ下 のクラス″と言っても草葉後五十年近 昭和六十年八月十七日 たま正二クラス合同のタラズ会を (12) 十年を迎え、齢六十に近く、社会的 ※、・・’ ̄ −_ 二 となる様、幹事一同はりきると共に 諸先生、諸氏の健康を祈念し万歳三 唱をもって別れを惜しみました。 ︵第三回世話人代表 荒磯千舟記︶ 甲親W踊W皿W槻W皿冊餓冊蛸W皿湖珊瑚肌湖珊瑚刷㈲肌彗 き…._____._.…_‥_‥___‥_…___…_…__.__−_._.….…_…_‥______._長 さ 蔓誓華∵巨木 J でもせんと、どうにもならん敗鬼ど にも、家庭的にも一応安定した時期 も や っ た さ か い な t P と い っ た 金 沢 に 入 り ま し た 。 こ こ ら で 、 過 ぎ 去 っ 弁まる出しの会話がとびかい、ただ た四十年をふりかえり、お互の健康 話・話・話⋮⋮時のたつのも忘れて を た し か め 、 明 日 の 未 来 へ の 踏 台 に いました。桑原先生が ﹁誰も歌わん する意味で記念大会をやろうという の な ら 、 ワ シ が 一 つ 歌 う J と 舞 台 に 声があがり、地元の世話人十人で、 上られ、訓辞につづいて、正調佐渡 去 る 十 月 五 日 、 わ れ わ れ の 巣 立 ち の おけさを歌われました。最後は校歌 地沌‖=ほ現金沢泉丘高校に集合をかけた斉 唱 で し め く く り 、 散 会 し ま し た 。 次第です。 参加された六十六名の会員、思いは 〓品川記︶ 当日は午後三時より、新装なった それぞれでしょうが、四十年の節目 としての今日の一日を、深く心に刻 泉丘高校の大講堂で、物故会員の慰 霊法要を、僧籍にある藤濃・西河両 まれたことと思います。そして、こ 君 の 読 経 で 、 し め や か に と り お こ な れからの人生を更に元気で生きられ るよう心から念じて筆を置きます。 舎の面影の全くない校舎ですが、道 い、その儀母校在勤の高明教諭の案 内で、、線内の見学をしました。旧校 場で雇校生の柔剣道の稽盲をくい入 るように見つめでいたまなざしには、 少年のnUの輝きを見た思いで、印象 的でした。 ∴二塁章二 生持参による当時のスライド映写等 夜 は 六 時 よ り 、 金 沢 ス カ イ ホ テ ル ◇泉丘第十八回生 同窓会開催報告 で二時間余、和気あいあいと思い出 で、恩師六名 ︵薯崎先生、桑原先生、 四日先生、高堀先生、富田先生、二 去 る 八 月 十 七 日 出 ガ ー デ ン ホ テ ル 話に花を咲かせました。 ﹁おはこ会﹂ は三年毎の開催であり 金沢に於いて、第三回泉丘十八期同 木先生︶ と会員六十六名の出席のも と で 、 懇 親 会 を も ち ま し た 。 四 位 例 窓会 ︵おはこ会と命名︶ を開催致し 次 回 は 初 老 祝 を 兼 ね た イ ベ ン ト に な りますので、一層趣向をこらじた会 君が世話人を代表して挨拶に立ち、 ました。 三年時のクラス担任をされた諸先 富田先生の発声で乾盃、宴に入りま し た 。 酔 が ま お る に つ れ て 、 先 度 方 生のうち、高橋正行、安高、山村、 大田稔、柳田、、安藤三郎先生の御出 の前には友垣が出来、 ﹁先生、ワシ 覚えとるかいねが ﹁先生に塵取で頭 席を頂き、紀勢百十名余の参加があ た た か れ た の 忘 れ ん ぞ い ね ㌦ ﹁ そ う り、師弟それぞれの近況報告と同窓 (13) 向窓会通信 戦禍に沈んだ商船をしのび r豪華客船のドラと共に﹂ を出版 二口一雄氏 相撲場が再建されノる ﹁日本商船隊戦時遭難史﹂ によると 陳列された。 当時の美術担当の富沢外与治先生 死亡した船員は三万人を超え、死亡 も連日、会場にあって、集まる卒業 率は陸軍々人二〇%、蘭箪々人は一 生への応対に檻がしく立ち廻れてい 六%で船員は四三%に達するという。 た。 二口きんは戦後各般の足取りを克 明に調べ、自分の航海記録とを重ね 合せて二冊の本にまとめた。 、会員百余名のうち書や絵画、写真、 陶器の作品九十二点を出品、今春、 諾綱目膵か設け川慧お椚荒許諾的窓掛 軒誓、長考姦通札錮蓋慧㌔紬始射齢ヰ雛納れ 畏粧鍔諾轡㌔摘録紳㌢笠沙幽濃等助成 かつて相撲部に在籍していたOB会 よ彗新設の議がたかまってきた。 毎年、卯辰山にて開催されている 全 国 高 瞭 相 磯 大 会 も 来 年 は 七 十 回 大 建設を是非との案が出てきた。 る。 学校に贈られた。 現相撲部員も選手を更に強化し来 年度にそなえて大いに張り切ってい され近代化した立派な相撲場として 望の相撲場開きが行われ、関係者一 同が祝盃を挙げた。 同相撲場脇には脱衣洗面場滝併設 行する運びとなった。 工事は順調に進み五月十日には待 尚英氏の協力を得て四月十九月、運 動場の東南隅の区画にて地鎮祭を挙 に一般卒業生よりの寄附を仰ぐこと になり、建設にも辰村組社長の中側 が集まる ﹁絵の同窓会﹂第十三回桜 会と銘、7ち盛大に奉行きれること紅 そ こ で 泉 丘 O B の 一 人 で あ る 寺 西 美 会 美 術 展 が 十 月 三 日 よ り 大 和 ヂ パ あり、叉来会開催以来連続出場の歴 正夫君が世話人代表となり、かつて 史 を も つ 泉 丘 校 と し て は 、 是 非 こ れ の旧一中の相撲部OBと協議の結果、 !ト文化ホールで始まった。 にも続けて参加したいとの学校側の 急ぎ建設が決り同OBの人々を中心 希望もあり、今春までにほ相撲場外 金沢山車、泉丘出身の美術愛好者 美の同窓会ひらく 一中、泉丘、 こ の ほ ど こ の 一 冊 を 一 泉 同 窓 会 に 昨年、全校舎が完成した当時から、 ヾ 痛 恨 再 び 繰 り 返 す な し と 船 員 仲 間 対 し て ご 寄 贈 を い た だ き 感 謝 に 堪 え いろいろ議題に上っていた相撲場の への鎮魂込めて、二日酷がその戦時 ません。 設置が今春になって愈々具体化し、 体験記を〓冊の本としてこの夏に発 著者の二日一雄氏 〓中四十二回 卒︶ は早大専門部卒で昭和十三年に 人 間 寓 宝 に 認 定 さ れ た 西 出 大 三 氏 の 日本郵船に入社、以来戦時中にかけ 丑︵きり金着彩木版画︶や、同じく隅 膏稲埠宮r A Iiよは. 亀乳 頭 }沌 Y農産 谷正峯氏の刀子のほか、日展、一水 準、 おれ誤射f 必 用L′く今‡ {夜 宮や.雇代弦 て船員生活を送り、最初に陸軍病院 √ ノ払 勧学∼色、㌢ 咤菰一和ノ 歌聯扁虎 邸破㌔AA遠:′、ノ∵警輝 男† 飾 磨■>忌む左、 叫ぶ葦慧憲禦研削 11・¶.′ 往誓紙㌶肇鰻篭㌔㌔銅器射嵐警掛如托 きく11 会、一陽会々員などの大作、力作が 船の第一号となった六牒丸に乗船、 欧州航瀞の定期客船榛名丸、太平洋 航路に就航した商船新輯丸、続いて ㌫岬斡誌純卵断 シアトル航路の平安丸に乗船した︵が、 急に大洋丸への転船を命じられた。︶ 戦争の拡大とともに、これ等の商船 は陸・海軍に徴用され、輸送船に或 は改装されて航空母艦に生れ変り、 これ迄に乗船した船は次から次へと 敵の攻撃を受けて沈没した。 冬瞥余糸井P晩稲 鴇勤森♯農務域の洩 増勢弁義憤興 人減数麦登艶食創製射 場離鱒諒正郎刀舶 蚤最強戯弱卒猿 (14) 人間国宝に 文化財保護審議会はこの春、人間 載食の酋出氏が思定される 一、 ︺ ︶ 沢へ帰省中の坂本三十次前労相もこ の総会に馳せ参じ、乾盃の音頭をと って会場のふんいきを盛り上げる。 つづいて懇親会に移る。折よく金 り前年度の会計決算報告あり、承認 されたあと、分校校長より泉丘校の 現況の報告あり総会を終る。 となったひ 現在、東京に在住されて 線 会 は 会 場 を 金 沢 ニ ュ ー グ ラ ン ド 続いて渋谷新会長の就任の挨拶が いるが、昭和七年旧金沢一中を卒業 とし、午後五時より受付を開始した。 あ り 、 今 後 の 会 員 の 方 々 の 協 力 を お 後、東京美術学校彫刻科に入り、古 本 年 は 参 加 の 会 員 が 多 く 旧 金 沢 一 中 願いするとの辞があった。、事務局よ 出身会員約一〇〇名、泉丘出身会員 美術品、木彫の修理技術を学ばれ、 国 宝 と し て 新 た に 石 川 県 開 凝 着 二 人 この間、金箔を細切りし仏像の装飾 八 〇 名 の 計 百 八 十 名 の 盛 会 振 り で あ に用いる裁金の加飾技法\に関心を示 った。 を含む八人を翠荒した。 総会は小川副会長の司会にはじま 今 回 石 川 県 関 係 で 認 定 さ れ 美 の ほ し、研究を深めた。裁金の技法を置 工芸技術の部で蒔絵の寺井直次氏と 物、香合などの工芸品に応用し高い る、宮太郎会長の挨拶に移り、議案 として会長以下の役員の交替、改選 共に蔵金︵きりがね︶の蕃出太三氏で 評価を得て今日に至ったのである。 の議が諮られ、次期会長に渋谷亮治 氏が推薦され、ここに新しく第三代 会場はところ狭しの盛会で卒業期ご 会長として渋谷会長が選出され会場 とに囲むテーブルも老いた先輩、若 の会員の柏手の狸に決定した。 い会員が入り混じり交盃が続㌢談笑 弥生先輩が立ち、来年は更に会員を 動員し、歴史と伝統に輝く一中、泉 が交わされる。 最後は旧一中、泉丘の両校歌の交 歓合唱、閉会には大正十年卒の高島㌦ ある厳霜碑前にて物故会員の慰霊祭 丘の同窓会をもり上げようではない かと力強い微を飛ばして散会した。 分校校長以下、同窓会員、学校関係 者、遺族等三十余名が参列した。 も雲一つない秋晴れに恵まれ、会旗 のひるがえる赦霜碑の前で宮会長、 が石浦神社長谷宮司の司祭のもとに 執行された。前日迄危ぶまれた天候 一泉同窓会定期線会が例年通りの 十月十五日に開催された。この級会 にさきだち午後三時より母校々庭に ある。∴これで現在の県関係者は故人 先 般 開 催 の 関 東 一 泉 同 窓 会 に も 元 気なお姿で出帝され、全会員の祝福 を含めて十−人工怒った。 / をうけて一同この慶びを共にした。 まや一泉同窓会々員中、人間瞥宝 として認定された会員は昭都五十六 ◇一泉同窓会定期総会を催す 年取月、金工、臥本刀、の瀧の隅谷正 峯氏;中四十五回︶/に続き、この度 の西出大三氏〓中三十九回︶打二人 (15) ◇一泉同窓会宮山支部六十年度 総会並びに上田コス先生を 囲む会開催について. 砺波建設工業㈱会長、富山県建設業 た剣道七段範士上唇コス先生には益 益お元気で′∵富山県砺汲市に於て、 した。/ 金沢ナ中時代、数学の鎗導をうけ 六十年九月二十八日富山市駅前、 ホテル書痕に於て、表記の会を開催 (16) 入役一中三十六期の橋場雄次氏の万 オ三唱で盛況のうちに終会となった。 氏には、是非近いうちに亘子園の土 を踏んでもらいたいと、叱咤激励の 声が湧きあがり、最後に顧掛の元収 歌をご披露して、拍手喝釆の宴とな 協会副会長として御活躍中で、一夕、 ◇第二回 った。また母校の近況︵生徒の部活 懐旧談と、教師生活町中で食択一中 野 々 市 l 泉 同 窓 会 総 会 開 く 動など︶\については、会員の田村・ 時代の八年間が一番壊しいとの思い 野々市一泉同窓会総会が、九月二 押田両教諭かち憩があり、Jそれを受 出と、教え子達の一人二人を相変 ら ず 、 き び し い 態 度 で 激 励 さ れ た 姿 十 一 日 出 六 時 よ り 町 内 の ブ ル ト ン に けて特に野球部顧問︵監督︶ の押田 は 年 一 回 の 会 合 と は い え 、 誠 に 心 楽 て、会員約六十人が参加し、母校よ √︺ 再建第五回にあたる関西一泉同窓 問一中三十五期の大森玄衆氏の音頭 くに泉丘会員が多く女性会員が目立 で乾盃し懇親会に入った。応援歌あ ち会場全体に華やかなムードがみな り カ ラ オ ケ あ り 、 思 わ ぬ 人 が 思 わ ぬ ぎった。 一中・泉丘の校歌を斉唱し、本会顧 熱あふるる心情に接し、深い感銘を 会場ところ狭Lと、あふれる会見 受 け た こ と し き り で あ っ た 。 続 い て を前にして八十島健二会長の挨拶が ある。年毎に盛況を加え、今年はと 話しになり、出席者一同学校長の情 選 に は 全 員 留 任 と い う こ と で 総 会 を 啓、松川一雄の諸先生、学校側より 終了した。 校長代理として石田健教諭、それに 次に来賓としてお招きした分校校 同窓会本部より西多外書次事務局長 長が、母校の現況を鑑みて、期すべ が出席、地元側は幹事の努力によ膏 き 教 育 方 針 、 さ ら に は ご 自 身 の 教 育 旧金沢一中卒の会員が五十余名、泉 理 念 を 厳 霜 碑 の 一 節 を 説 き な が ら お 丘卒の男女会嚢が百二十名、総勢百 八十余名の大盛会となった。 け じ と 花 を い っ ぱ い 咲 か せ 、 本 会 の 会総会が今春五月二十五日、大阪梅 今後の発展をみるような思いがした 田 駅 前 の ア サ ヒ ビ ヤ ハ ウ ス ・ ウ メ ダ と挨拶の 挽いて事務局より事業報告、 を会場として開かれる。 決算報告がなされ、次年度の役員改 金沢よりは旧師宮沢外与治、張江 だ小さいが、そ氷でも隣あ大木に負 足した本会の記念事業/として、云警貝 尚、この四月に野々市﹁泉同窓会 の募金によって、母枚前庭に桓樹し の会員名簿が新しく発行され全員に た桜の苗木 ︵ソメイヨシノ︶ が、早 配布された。 くも今年の春には身/の丈/こそまだま ◇第五回関西−泉会総会 しく\一同再会を約して別れた。今後 り 分 校 公 平 校 長 を お 招 き し て 盛 大 に は 更 に 一 泉 同 窓 会 ・ 富 山 支 部 の 輪 を 行われた。 開会にあたり山下貞雄会長が、ノ昨 拡げて盛大に実施したいと考えてい 年母校創立九十周年記念と同時に発 幹事 稲松敏夫 ︵十四年率︶ る。尚、一泉同窓会員の富山県在住 者は二百名をこえている。 西井義隆 ︵十七年率︶ 高口 穣 ︵二十年率︶ uJ ︶ J 婆婆で活潜な処の一つに数えられ ている市場に於て、その中の一泉同 窓会である市場一泉会が余り活常で ◇市場一泉会の ・ 諸報告について 泉丘校歌の斉唱で幕をとじた。 続いて懇親会に移り各自のスピー チ、隠し芸にと移り和やかな雰囲気 の中に進行し、最後に旧一中校歌、 れたが、現幹部にその件を一任する こととなった。 催しは、余りいい目に恵まれたか却 って参加が少く五名でした。然し、 五月三十一日 平石英雄 したの三一日に尽きる一日でした。 参観後、母校正門前の ﹁さか井﹂ で昼食を兼ねてビールでノドを潤し ました。つまり大変楽しく且つ感動 めてものお礼と感謝の意をこめて五 万円を寄附して釆ました。 女の子のケツばかり追い廻すんじゃ ないかとの暁やきもありました。せ せずして口を出た言葉でした。然し 恵まれすぎて果して勉強するかな? 入り直しするかとは同行した者の期 時代の流れとは申し乍ら、中西知 の年間経過報告及び会計報告があり、 総会準備不足のお詫びを述べられた。 事 が 日 本 一 と 自 負 す る だ け あ っ て 誠 に素晴らしい内容と偉容でした。心 尚、次年度にそなえて東海支部の 強 化 を 図 る た め 役 口 許 の 改 選 が 提 案 さ を新たにして、通信制の泉丘高校へ 設計者の張江武氏の詳しい説明と、 なことであった。 総会は本部より西多事務局長を迎 わざわざ持参して下さいました諸資 料、更に三宅先生の御案内で隅なく えて開会し、湯谷照喜界会長の挨拶 につ/づき沖野事務局長より支部運営 鬼学させて頂きました。 閉 会 の 予 定 時 刻 も 過 ぎ 一 同 旧 金 沢 一 のお二方の急逝で再びお顔を見﹁るこ 中の校歌、泉丘の校歌の合唱で散会 とが艶釆なくなったことは杓に残念 ないのを常に悔やしいと思っていま 宮 沢 、 張 江 、 松 川 の 旧 恩 師 の も と 人気を博した。 本年は事務局の準備不足や諸種の す。責任を痛感すると共に、会長と ・ へ 、 か つ て そ の 教 え を 受 け た 生 徒 た そ の 後 演 台 に 立 ち 歌 う 者 、 轍 を 飛 事情が重なり、例年の半数程の会員 ち が 集 り 、 そ れ ぞ れ の 当 時 の 話 に 花 ば す 者 、 時 の 移 る の も 忘 れ て 楽 し い の 集 り と な っ た 。 と く に 毎 回 欠 か さ して心からお詫びします。 去る五月二十六日、母校の参観の 懇親会がつづいた。午後五時過ぎ、 ず出席されていた米原佐市、伊佐務 が咲き賑やかな同窓会風景である。 叉、石田教諭がわざわざ母校より持 参した、昭和十二年、金沢一中が本 ◇l泉同窓会 多 町 の 旧 校 舎 よ り 新 し く 建 築 さ れ た した。 現在の泉野出町 ︵当時の富樫町︶ 校 だ暑気の厳しい九月八日、弥生会館 に於て開催した。 舎への移転が在校生の手によって行 わ れ た 当 時 の 八 ミ リ フ ィ ル ム が 映 写 /−東海支部総会を開く ノ例年秋に催す束海支部の総会を未 された。 本多町にあった初代︿校長の銅像等 を大八車に乗せて運搬する当時の生 徒の姿や、沿道の杏林坊、片町商店 街の風景もあり、当時の生徒は懐か しく、戦後の会員は物珍しく見入り (17) ◇関東l泉会心らく しく副会長に泉丘出身の北野昭弐氏 及び高浪克子氏を指名され仝鼠の驚 同を得た。 会場となった新宿のサンルート束 京のホールも一七〇名の会員で熱気 に溢れる盛況であった。 学校側より胃畠教薮、田村教諭、 同窓会本部より小甘副会長、西多事 務局長が出席し夫々学校、同窓会活 動の状況報告があった。 開宴は顧問の下村節義氏の乾盃で 始ま.る。壇上、1枚をとばす者、スピ ーチをなす者、流行歌をうたいまく る者、久潤をよろこび合うグループ ◇枚任一泉同窓会総会ひらく Jノ 東 大 、 金 大 へ の 塵 進 際 立 つ ヽ 昭和60年3月罰日 石川県内高校別の主な国公立大学合格者数 (29日、北国新席社調べ) 度の会計決算の審議、六十年度の予 算、役員の選出等の議事をはかり、 全員の賛同を得て議事を終る。 懇親会に先きだち、特別講師とし て招待された日展作家・山瀬晋吾氏 ′︺ 終って西多本部事務局長より昨年 秋に開催された一中・泉丘創意九十 周年に対し、多大のご協力を感謝す るとの辞と共に学校、同窓会活動の 近況を報告して懇親会に移った。宴 便りを要望してやみません。 西 多 外書次 世代となりました。 泉丘出身の会員の万々の消息やお も逐次減少し愈々泉丘出身の会員の 屠ります。吾々旧金沢一車出身の数 前回にも申した通り、この会誌は 皆様のご意見、感想の交換の場とし てご利用を願うことを第一議として ありません。編集に手間どり叉不手 際もあり深くお詫びを申します。 行が十二月となり遅れて河に申し訳 思われます。 この凍稿は皆様より九月から十月 にかけていただいたものですが、窟 この機関紙﹁一泉﹂ が皆様の許に 届くのは明けて正月を過ぎる頃かと ㊨⑥㊨⑧ して散会した。 が ﹁印度の美術﹂ と題して印度の地 会 に は 会 員 の テ ー ブ ル え ピ ー チ を 混 を訪れられた際の美術研究の成果を、 、え、和やかな同窓会風景がかもし出 当 時 撮 ら れ た ス ラ イ ド を 映 写 し 乍 ら され大いに賑わった。 一 時 間 余 に 亘 り 講 演 さ れ 、 会 員 一 同 最後は旧一中校歌、泉丘校歌の斉 唱で九時近く閉会となり、再会を約 深い感銘を受けた。 大 名 績 紳 北 兼 薪 筑 静 お 奈 千 情 金 嘗 楓 金 富 橿 東 京 山 井 浜 山 井 沢 檎 阪 古 北 為 波 岡 藁 良 美 医 医 屋 風 戸 女 葉 州 大 大 大 大 大 大 大 大 大 大 大 大 大 大 大 大 大 大 大 大 大 3 1 4 2 28 1 2 36 9 4 8 3 1 1 147 9 2 2 3 2 4 9 1 10 7 9 9 3 4 2 11 2 1 1 2 3 3 ’1 103 34 3 3 1 1 1 4 2 6 4 1 3 _ 3 77 巧 j 8 1 2 1 7 .  ̄2 3 4 2 1 2 3 2 1 2 1 1 63 31 2 4 1 1 1 52 23 1 3 2 1 1 1 2 1 3 才 3 1 1 2 官 26 12 1  ̄ 1 2 3 1 1 24 18 l 10 1 1 ユ 15 9 1 8 l 1 8 5 5 5 十 1 6 4 3  ̄首 7 2 2 4 1 4 4 \ 1 1 1 _ 1 21 1 1 2 2 4 1 . 1 1  ̄ l 2 3 1 1 1 1 1 1 l l 1 1 1 1 571 191 25 52 8 9 44 27 7 22 17 20 12 6 15 21 23 12 7 1 9 18 5 − 1 欄 T7 t碩 一 増 −7 ーⅠ ヰち 肇 明2 ・ 招 +1 キ3 ー 用 4 5 +17 − 4 ー … −7 −3 +7 − 蒼 ̄天  ̄ 葡 泉 丘 ニ 水 小 海 桜 丘 七 尾 萄 ̄ ̄  ̄ 嘩 韓 丘 蔓− 複 大 聖 寺 金 沢 西 線一 義 門 前 小松 明峰 飯 _ 田 寺 井 宇 出 津 訂岬 膏 東 西 壷沢 女子 松 任 宝 達 県 エ ホ転 面責 北陸 大谷 弛 薩学薩 計 昨 年 比 があちこちに集り和気あいあいの風 景がみられた。 尚、会場には先般、人間国宝に指 定された裁金工芸の西出大三氏の姿 もみられ、大会は来年の再会を期し て九時散会した。 今春の国公立大合格者 例年、′春にひらく松任一泉同窓会 √本年度関東一泉会の総会は、九月 の絵会は本春西片二十日、松任市民 二十日計画及び運営は一切が泉六期 文化会館ホールに於て行れれた。 生で開催の準備をすることになった。 泉丘校より校長代理として草鹿教 金沢より馳せ参じた同期生五、六名 頭、同寄会本部より西多事務局長を も加わり大成功裡に大会が進布した。 招き開催される。 六期生の北野昭弐君の開会の辞に 司会の開会のことばに始まり林繁 献じ吏り√、浦茂会長の挨拶と釆案の 夫会長より挨拶あり続いて総会に移 紹介があり議事にハ続き役員の改選が る。大谷渉氏が議長となり五十九年 あり、\情勢も次第に泉丘出身の時代 となる為に役員の強化の意味で新ら (18)
© Copyright 2024 Paperzz