日本学術振興会 人文・社会科学振興プロジェクト研究事業 平成二十年度研究報告 伝統から創造へ 3 〈 目 次 〉 はじめに メンバーのプロフィール 研究会記録 1. 第12回 植民地文化の創られ方―カンボジアの宮廷舞踊・影絵芝居の場合 フランス植民地主義時代のカンボジアの 伝統美術復興政策(1907-1930) ……………………………… 藤原貞朗 ……… 2 「伝統」としてのカンボジアの宮廷舞踊と影絵芝居……………… 笹川秀夫 ……… 7 藤原貞朗 ……… 20 ……… 27 桑原規子 ……… 37 佐伯順子 ……… 48 ……… 60 ……… 69 「観物場取締規則」の比較を通して― ………………………………藤本寛子 ……… 75 国民形成と身体の生成 …………………………………………………兵藤裕己 ……… 83 1. 5年間の活動記録 ………………………………………………………………………………………… 92 2. 公開イベント記録………………………………………………………………………………………… 95 2. 第13回 陶芸をめぐって 焼物の歴史・評価のいろは ………………………………………… 【インタビュー】安倍安人氏をお迎えして 3. 第14回 日本の美術と芸能 創作版画と伝統木版画―1930年代版画論争のゆくえ ………… 現代演劇における古典芸能の影響―泉鏡花『天守物語』を中心に ……………………………………………………………………… 4. 第15回 西洋音楽におけるアジア 【論文】近代フランス音楽にあらわれたアジアの表象 ―20世紀前半音楽シーンにおける異国の伝統の取り扱いについて ………………………………………………………………………… 根来章子 【質疑応答の記録】 5. 第16回 伝統と身体 明治時代の興行取締と「音楽」―「劇場取締規則」 「寄席取締規則」 資 料 編 はじめに 2004年度も終わろうという2月初旬に慌しくスタートを切ったこのプロジェクトも,いよいよ終わりに近づ いた。丸4年をかけて,芸術・言語文化における「伝統的なもの」を問い直してきたわけだが,本書はその 2007年から2008年までの記録であり,グループの研究報告書としては3冊目になる。 この研究グループは,音楽・美術・文学という複数の研究領域からの寄り合い所帯である。そうしようと考 えた根幹には,それぞれの領域で一定の認識とそれに付随するニュアンスをまとっているこの「伝統」概念を 解体し,手垢を落として積極的な思考ツールとして活用できないかという発想があった。プロジェクト開始直 後は,この言葉のもっている様々な表情に幻惑され,領域間に共通項を見出すどころか,議論は拡散するばか りに見えた。伝統とは,単に時間的持続性の言い換えにすぎない場合から,しきたりや習慣,近代国家主義の 創造物として糾弾すべき存在にまでなり得る。しかも,いわゆる学術用語と違って,だれもが気軽に口にする, 便利で耳あたりのよい言葉ゆえに,様々な意味をスポンジのように吸収してしまうのである。私たちは,しき たりや習慣の成立事情やその現在形にはそれほど興味がなかった。また,伝統の成立に国家が関与したとすれ ば,その構造を解き明かすことは魅力的ではあったが,かくして伝統とは幻想である,というお決まりの結論 に落ち着くことにはそろそろ限界を感じていた。おそらくそれは,芸術的・言語的創造物の手触りを知ってい る者として,そこに何かがあることを否定できなかったからだろう。 少し方向性が見えてきたのは,2005年度に入って「教える・伝える」を共通テーマに研究会を重ねた頃だ ろうか。私たちは,創造のための素材として「伝統」が高い生産性を有していることに気付き始めた。そこで 次の段階として,日常的に「伝統」と向き合っているクリエーター/パフォーマーの方々にお出ましいただくこ とになった。創作者の語りは,対象への深い愛着と五感をとおして得られた鋭い洞察力に満ちていた。印象的 だったのは,お呼びした方のほとんどが,「伝統」という言葉を口にしたとたん,何とも居心地の悪そうな表情 をされたことである。現場の方々は,その活動が何より好きで,過去の蓄積に直接学び,表出手段と伝達シス テムをもち,表現を生活の糧としている。創り手にとって重要なのは,過去との「つながり」を認識し,そこ に自分がどう乗るか,ということであって,創作現場にナショナル・アイデンティティの問題が介入する余地 はほとんどない。 創造する人々は,「つながり」に乗って座標のラインの一部となり,さらに「表現」の領域に踏み込む。研 究者ができることは,担い手が「伝統」という表現ツールを用いて芸術文化に新たな生命を吹き込むのを励ま し,芸術文化史の座標においてそれを評価し,適切な位置づけを行うことではないだろうか。 さて,本プロジェクトの報告書はこれで完結する。研究メンバーからの報告と,クリエーター/パフォーマー をゲストに催した公開イベントの記録は,1冊目の報告書に掲載した。それ以後は,研究者をゲストに行う研 究会と,創作者をゲストに行うインタビュー・セッションとをバランスを取りながら開催し,2冊目には研究 者の2回分,創作者の2回分を収録した。3冊目に当たる本書には,研究者の3回分と創作者の1回分,さらに, 5年間のあゆみと公開イベント関係の資料を含めた。今後まとめの研究会が1回予定されているが,残念ながら それを収録するだけの時間的余裕がない。クリエーター編を始めてからは,毎回のゲストがその道の大家ぞろ い,しかも聞き手は畑違いとあって,付け焼刃がいつ露呈するかと冷や冷やの連続であったが,メンバーのだ れかがその都度上手にコーディネートしてくださった。お呼びしたゲストの方々がいつも一様に, 「楽しかった」 とおっしゃったことは,研究代表としてほっとすると同時に励みにもなった。この研究会ほど,メンバーとゲ ストに恵まれた経験を私は知らない。 伝統問題に深く関わった4年間で得たこと,それは,「伝統」という言葉の使用に禁欲的であれ,ということ ではないかと思う。説明のために「伝統」という言葉を使わざるを得ないモノゴトはたくさんあるが,それだ けでは1行で終わってしまう。伝統的モノゴトの本当のおもしろさを知りたければ,別の言葉でそれを表現す る練習をしてみたらどうだろうか。4年間に出会った創り手たちが示してくれたように。 2009年3月 高松 晃子 (日本学術振興会 人文・社会科学振興プロジェクト研究事業 研究領域V-1「伝統と越境―とどまるちからと越え行く流れのインタラクション」 第3グループ「伝統から創造へ」 サブグループ「芸術文化における〈伝統的なもの〉 」代表) メンバーのプロフィール 岡田 裕成 高松 晃子(研究代表) 1963年生まれ。大阪大学大学院文学研究科博士後期 1963年生まれ。お茶の水女子大学大学院博士課程人 課程退学。文学修士。1997年から福井大学助教授, 間文化研究科修了。博士(人文科学)。1994年福井大 2007年から大阪大学准教授。主要著作:『名画への旅 学助教授,2004年から聖徳大学教授。主要著作:『は 11 じめての世界音楽』 ( 共著,音楽之友社,1999年), バロックの闇と光』 ( 共著,講談社,1993年), 『西洋美術館』 (共著,小学館,1999年), 『南米キリスト 『スコットランド 旅する人々と音楽−「わたし」を証 教美術とコロニアリズム』 (共著,2007年,名古屋大 明する歌』 (音楽之友社,1999年),『スコットランド 学出版会)。専門・関心分野:美術史,特に16-17世 文化事典』 (共著,原書房,2006年),『音楽文化学の 紀スペインおよび植民地時代中南米の美術・視覚文化。 すすめ』 (共著,ナカニシヤ出版,2007年),『世界音 楽の本』 (共著,音楽之友社,2007年)。専門・関心分 野:音楽学,特にスコットランドを中心とした英国音 楽,音楽を通じた少数民族の自己表現。 小塩 さとみ 藤原 貞朗 1966年生まれ。お茶の水女子大学大学院博士課程人 1967年生まれ。大阪大学文学部卒業・同大学院修了, 間文化研究科修了。博士(人文科学)。2002年から宮 リヨン第2大学に留学。大阪大学文学研究科助手を経 城教育大学助教授(現准教授)。主要著作:“ Gender て,現在,茨城大学人文学部准教授。主要著書: La Vie des fromes; Henri Focillon et les arts (共著, INHA, Paris, 2004),Hokusaï(共著, Fage Édition, Lyon, role in performing arts in Japan, The Garland encyclopedia of world music vol.7,(Routledge 2002年), 『音をかたちへ』 (共著,醍醐書房,2006年),『現代日 2005),『オリエンタリストの憂鬱―植民地時代フラ 本社会における音楽』 ( 共著,放送大学教育振興会, ンスの東洋学者とアンコール遺跡の考古学』 ( めこん, 2008)。専門・関心分野:音楽学,特に日本の三味線 2008),主要訳書:ダリオ・ガンボーニ著『潜在的イ 音楽とベトナムの宮廷音楽や少数民族の音楽。音楽の メージ』 (三元社, 2007),専門・関心分野:フランス 伝承における変化と固定のあり方。 近代美術史,近代考古学・美術史学の学史研究。 菅 聡子 根来 章子(研究補助) 1962年生まれ。お茶の水女子大学大学院博士課程人 1975年生まれ。お茶の水女子大学大学院博士前期課 間文化研究科修了。博士(人文科学)。1993年女子聖 程人間文化研究科修了。修士(人文科学)。2003年か 学院短期大学専任講師,1997年お茶の水女子大学助 ら2006年まで沖縄県立芸術大学音楽学専攻助手。現 教授を経て,2006年同大学教授。主要著作『時代と女 在,お茶の水女子大学大学院博士後期課程在学中。専 と樋口一葉』 (単著,NHK出版,1999年),『メディア 門・関心分野:音楽学,特に20世紀前半フランス音 の時代 明治文学をめぐる状況』 ( 単著,双文社出版, 楽及び音楽における異文化受容の問題。 2001年),『日本女性文学大事典』 (共編著,日本図書 センター,2006年),『〈少女小説〉ワンダーランド』 (編著,明治書院,2008年)。専門・関心分野:近代 日本文学,樋口一葉・尾崎紅葉を中心とする明治文学, 近現代の女性表現。メディア時代の表象をめぐるジェ ンダー機制。 田井 竜一 藤本 寛子(研究補助) 1961年生まれ。大阪大学大学院文学研究科博士後期 1978年生まれ。お茶の水女子大学大学院人間文化研 課程単位取得満期退学。1997年くらしき作陽大学音 究科博士後期課程在籍。修士(教育学)。論文:「『日本 楽学部助教授,2000年から京都市立芸術大学日本伝 音楽会』の設立とその運営―伊沢修二との関わりにつ 統音楽研究センター助教授(現准教授)。主要著作: いて―(『お茶の水女子大学人文科学研究』第2巻, 『ソロモン諸島の生活誌―文化・歴史・社会』 (共編著, pp.97-108〔2006年〕),「明治20年代の東京音楽学 明石書店,1996年),『都市の祭礼―山・鉾・屋台と 校と日本音楽会」 (『お茶の水音楽論集』第8巻,pp.11- 囃子―』 (共編著,岩田書店,2005年)。専門・関心分 23〔2006年〕)。専門・関心分野:音楽学,明治期の 野:民族音楽学,日本およびオセアニアの音楽芸能に 日本における「音楽」環境と「音楽」概念の変化。 おける動態論。 第12回 植民地文化の創られ方 ―カンボジアの宮廷舞踊・影絵芝居の場合 <日時>2007年10月20日 (土)13:30∼17:30 <場所>聖徳大学2号館1階研修室 <ゲストスピーカー>笹川秀夫(立命館アジア太平洋大学 アジア太平洋学部専任講師) 初期の芸術文化復興政策 まず押さえておくべき年代は1887年。フランスがトン キン,アンナン,コーチシナ,カンボジアを治める「フラ ンス領インドシナ連邦」を結成(1893年にはラオスも併 <出席者>岡田裕成,小塩さとみ,菅聡子,田井竜一, 合)。その後1900年に,学術機関であるフランス極東学 高松晃子,藤原貞朗,根来章子(研究補助) 院が創設された。1907年には,フランスとタイの間で条 <スケジュール> 約(フランス=シャム条約)が結ばれ,それまでタイが統 1.次回研究会打ち合わせ[省略] 治していたアンコール地区一帯がカンボジアに割譲され 2.報告1「フランス植民地主義時代のカンボジアの伝 た。この年から,フランスが直接アンコール遺跡の調査や 統美術復興政策(1907-1930)」藤原貞朗 〔休憩〕 3.報告2「「伝統」としてのカンボジアの宮廷舞踊と影 絵芝居」笹川秀夫 それを用いた文化政策を,実質的に行っていくことになる。 このあと,1907年から徐々に考古学的な調査等が行わ れていくわけだが,大きく動くのは,1910年代の後半に なってからである。その中心人物になるのが,ジョルジ ュ・グロリエ George Groslierである。この人物なしには, 第12回研究会は研究者をお招きする回で,ゲストは立 カンボジアの美術伝統復興は実現しなかった。彼を中心に 命館アジア太平洋大学アジア太平洋学部専任講師の笹川秀 して,1918年にカンボジア美術学校,1920年にはカン 夫さん。フランスの植民地政策やカンボジアの文化政策な ボジア美術館(通称アルベール・サロー美術館,現プノン ど,幅広い見地から論じた『アンコールの近代―植民地カ ペンの国立博物館につながる施設)が開館する。そして, ンボジアにおける文化と政治』 (中央公論新社,2006)を この美術館と美術学校とを統括する機関として,カンボジ 上梓された笹川さんに,カンボジアにおけるアンコール遺 ア芸術局が創設された。 跡の「伝統」について伺った。 それに先立ち,プロジェクト・メンバーの藤原貞朗によ (藤原)今まではこの機関を「美術局」と訳していたのだが, る,フランス植民地時代のカンボジアについての基本的な 美術に限らないかと思い,最近,「芸術局」と訳す レクチャーを聞いた。ここには発表順にそのレポートを掲 ようになった。舞踊はこの芸術局が管理をしている 載する。 と思うが,学校が教えているということはなかった だろうか。 1.報告1 (笹川)学校で教えるようになったのはもっと後,大学にな 藤原 貞朗「フランス植民地主義時代のカンボジアの伝統 ってからだ。1965年に美術学校から王立芸術大学 美術復興政策(1907-1930)」 に変わり,舞台芸術学部ができたところで学校で教 えるようになったということははっきりしているの 【報告】 「フランス植民地主義時代のカンボジアの伝統美術復興 政策(1907∼1930)」という年表を作成したので,それ を見ながらお聞きいただきたい。 だが,それ以前についてはよくわからない。 (藤原)グロリエが舞踊にも手を出していたのだとすれば, 「芸術」学校と呼ぶほうがよいかと思っていた。 (笹川)学校で教えていたのは,織物,彫刻,銀細工といっ たものだった。 2 (藤原)そうであれば,美術と訳すほうがよいのかもしれな い。 ともかく,このカンボジア芸術局,美術館,美術学校が, 三位一体となり,グロリエがカンボジアの伝統美術復興を 推進していく。 出品した美術学校の学生の作品が高く評価されたりする, という流れにつながっていく。 伝統復興の経済的側面 では,グロリエはなぜ伝統を復興させようとしたのだろ うか。グロリエが単に伝統文化を復興させようとして美術 また,アルベール・サロー Albert Sarrautが1910年代 教育を行っていたわけではなく,功利的目的を持っていた 後半に2度目のインドシナ総督を務めた際,グロリエを抜 ことを指摘できよう。グロリエはパリに本部のあるアンコ 擢し,カンボジアの芸術政策計画を立てていった。カンボ ール協会のカンボジア支部で重要な位置にあった。 ジアには,サローの考え方がかなり色濃く現れているもの と思われる。 1907年に,極東学院がアンコールの実質的な調査を始 (藤原)アンコール協会については,まだ詳しくは調べきれ ていないが,笹川さんはお詳しいか。 めた。そこで中心となったのがラジョンキエールという軍 (笹川)20世紀の初頭においては,あまり重要ではない気 人で,彼は単に遺跡を探すだけではなく,周辺の民俗誌的 もする。グロリエがプノンペンに来て役人になった な調査も行った。彼は,「『アンコールの都を建造した人々 ところで,プノンペン支部を作り,チュオンという とは程遠い』住民しか周辺にはいない」,さらに,「過去の カンボジアの大臣を巻き込んだ。 クメール人がこの国にもたらした芸術的な感性は突如とし て消滅した」といった報告をしている。つまり,遺跡から 1920年代の会議録を見ると,カンボジアにどうやって 見て過去に芸術があったということはわかるが,周辺にそ 欧米からの観光客を呼ぶか,という戦略を練っている。そ れを受け継ぐような者は誰ひとりといない,と述べている の中で,土産品として絵葉書を作る話が出てきている。グ のである。このような見方が,フランスによる初期調査に ロリエ自身は,美術館にブティックを作って,美術学校の おける一般的な通念として流布していく。 学生が作ったものを置いたり,レプリカを置いたりするこ そこにグロリエが,やや違うタイプの視点をもたらした とを提案し,実現させた。また,欧米で開かれる博覧会に のだが,そもそも1913年に,アンリ・マルシャルという, 参加して,クメールの工芸品を売り込むために展示即売を 後にアンコール保存局の局長となる人物が,建築家として 行なっている。 アンコール地区を調査した際に,次のような見解を示して グロリエは,1920年代のカンボジアに対してかなり大 いる。すなわち,ラジョンキエールが,クメール人から芸 きな影響力を持った。観光客誘致が実現してカンボジアに 術的な才能が失われたと言ったのは間違いで,王宮にはま ホテル等ができ始めるのは1920年代の半ばくらいから。 だ腕のよい職人が,少ないが存在している,それをきちん また,極東学院の古美術品販売が始まるのが1923年のこ と保護せねばならない,とするものである。グロリエはこ とだが,グロリエが1920年の時点で,発掘品を売ろうと のあたりの言説に乗って,後の中心人物になっていくこと いう趣旨の発言をしていることから,グロリエの関与の大 になる。 きさがうかがえる。 グロリエの政策はある意味で成功し,結果として,例え 実際にブティックに置くことはなかったにせよ,本物の ば1927年頃にクメールの工芸品がパリで大流行したり, 古美術品はカンボジアのアルベール・サロー美術館で販売 1931年のパリ国際植民地博覧会で,カンボジア芸術局が されていた。グロリエと,アンコール保存局の人物の2人 3 が実質的に関わって,学生が作ったものと,職人が作った いたもののなかでは,仮面や銀細工などが売れたよ もの,そして古美術品を一緒にして売ったのである。アン うだ。あとは,グロリエは商売を広げようとして, コール協会というのは,これまであまり研究をしていなか 土器作りで有名なコムポン・チナンという町や,少 ったけれど,こういった経済的な動きを見る限りでは,重 数民族の大理石の彫刻で知られるポーサットという 要だと思う。伝統復興政策について,経済面からはこのよ 町に分校を建てた。それらも,プノンペンなどで外 うに説明できる。 国人観光客に売るのが目的だったが,結局,誰も買 わなかったようだ。 (笹川)アンコール協会の設立は1907年ということになっ (藤原)人気はあるが,本物でもそれほど高価ではないから, ている。あとは,1912年にカンボジア各地で,遺 学生が作ったところで…というのは欧米人側にはあ 跡を直すために知事や一般人から寄付金を集めた, ったのだろう。 というデータがある。 (藤原)1920年ごろに関しては,提言だけで実行力はない にしろ,かなりいろいろな試みをしている。 (岡田)仮面の素材は木か。 (笹川)木に紙粘土のようなものをつけた感じのものだ。 (岡田)アフリカだと,元々の素材は植物製の,朽ちやすい (笹川)カンボジア古美術委員会が1901年にできたのだ ものだったが,ヨーロッパに売るために木製のもの が,アンコール協会ができたためにしばらく活動を が圧倒的多数になって,それが商品化されていった 止めていたのが,1919年に再度動き始め,チュオ というプロセスがある。ヨーロッパ化するときに, ンなどの現地の大臣やグロリエなどの極東学院関係 そういう面での配慮は何かあったのか。 者が入ってきて,こちらが中心になってくる。 (藤原)わかりやすい例は破風だ。アンコール遺跡に行けば, (藤原)1920年くらいから,いろいろなことが一気に起こ これぞクメールという破風があるが,石でできてい り始める。それまでは,本国は戦争でそれどころで るものは売り物にならないので,木で作って売る。 はなかったというのもあって,実際にアンコール協 会はやることがほとんどなかったのだと思う。 陶器の場合はかなり本気で復元しようとしていたのだろ うが,他の伝統工芸に関しては,グロリエの言葉によれば, グロリエの教育方法 現代の時代にふさわしい,新しい伝統工芸を作り出そうと 次はグロリエの教育方法について。 していた。彼自身も芸術家出身なので,パビリオンや美術 美術に限って言うと,美術学校内での教育で,グロリエ 館の設計をしている。それを見ると,彼が作ろうと思って が重視したのはデッサンだった。カンボジアの古美術品の いたのは伝統的な建物ではない。構造的にも,装飾的にも, 装飾などをデッサンさせていたようだ。デッサンから始め クメールと西洋のモダニズムの折衷である。伝統といって るというのは,ヨーロッパ,特にフランスの伝統である。 もどこを伝統の起源とするのか,それ自体が問題だが,か グロリエの目的は,西洋的なデッサンのもとに,西洋人の りにアンコール時代を起源と考えれば,それらしいものは 目にかなうような工芸品を作り出そうというものだったの ない。 である。 1922年のマルセイユ内国植民地博覧会を訪れた極東学 (笹川)プノンペンにある資料では何がいくつ売れた,とい 院メンバーのヴィクトル・ゴルベフが視察レポートを書い った情報がリストで出てくる。プノンペンで作って ている。その中で木製の破風を評価し,「ヨーロッパの近 4 代的なものにも自由に対応できる」というくだりがある。 環境を,その制度を維持しながら進化させていく…」と述 そこで,グロリエの指導を高く評価している。一方,アン べている。もともとカンボジアはフランスに対して友好的 ナンの芸術学校の生徒の作品についてゴルベフは,「アン だったので,融和政策のパイロット・ケースとして実践さ ナンの現代芸術は危機に瀕している」と評している。なぜ れたといえる。デッサン教育の採用という点では西洋的教 かというと,そこではヨーロッパ的なものを出品していた 育も潜在していたが,クメールの伝統工芸を復興すること からだ。 を掲げる教育を植民地で行ったのは,世界的に見ても少な 伝統復興という点で面白いのは,カンボジア美術学校は いかと思う。日本において岡倉覚三(天心)が手がけたよ 1917年の創設で,フランスの植民地に設立した芸術学校 うなことを,グロリエがカンボジアで行っていたといえる としては後発なのだが,そこでの教育内容は西洋美術の教 だろう。 育ではなく,クメールの伝統工芸に特化されていたことで カンボジア生まれのグロリエは,フランスの融和政策を ある。ベトナムでは1900年くらいから5つほど美術学校 遂行するには適任で,学者とも軍人とも異なる立場にあっ を作っていて,西洋美術の教育を行っていたのとは対照的 た。このような政策に対して,当時のクメールの人々がど である。1920年くらいになると,ベトナムには相当優れ う思っていたのかは興味深いが,私はその点に関する資料 た洋画家が育っていたのだが,その頃になると,「それは 調査はしていない。笹川さんの方がお詳しいと思う。 西洋の真似事でダメだ,カンボジアのものこそ素晴らしい」 というような評がみられるようになる。 グロリエは,それまでの押し付けの政策とは違う,ある 意味で,より「たちの悪い」政策を行ったといえよう。ク ここがフランスの伝統芸術復興のポイントになるかと思 メール人をうまく取り込みながら,政策を成功させた。文 う。ベトナムは,介入が早かったということもあるが,ヨ 化政策として評価するなら,(そしてフランス側からいえ ーロッパ型の教育内容で,一方のカンボジアでは,完全に ば,)成功したといわざるをえないだろう。 伝統工芸に徹した。これは政策としても明確にされていて, もうひとつ面白い資料としては,1940年に日本の仏印 例えば,カンボジアの美術学校では,教師陣もカンボジア 進駐が始まって以降,現地の芸術学校を訪れた日本人の芸 の芸術家ないし職人から採用されることになっていた。入 術家が一様に,ベトナムの芸術学校の作り出す作品は良い 学できる学生も,クメール文化の保護という観点を強く打 がカンボジアの美術学校の工芸品はレベルが低いと言って ち出すための制限,すなわちクメール語を話すことができ いる。アジア人の目から見れば,その作品は,アジア的で る現地の少年少女に限る,ということになっている。つま はないし,技術もなっていない。一方で,西洋的なものは り授業もクメール語で行われたということかと思う。カン よく見えたのだろう。このように,アジアと西洋とで評価 ボジアの美術学校は今で言うと職業高校のようなもので, の視点に大きなずれがあった。 15歳で入学,教育期間は3年から4年だった。それほど卒 業生は多くなく,1921年の最初の卒業生は21人だった。 ちょうどこの頃は,フランスの植民地政策がいわゆる同 (岡田)グロリエは2歳までカンボジアに住んでいたという ことだが,クメール語は話せたのか。 化政策から融和政策へと,大きく転換するときだ。アルベ (藤原)わかりません。 ール・サローは,融和政策の推進者として最も名高い人物 (笹川)話せるということは聞いたことがない。 である。彼は1923年に「古い同化政策の過ちが教えるよ (岡田)クメール語で書いているものはないか。 うに,軍隊によって植民地をフランス文化に強引に順応さ (藤原)ない。 せるのではなく,我々の保護のもとで彼らの文明や伝統や (笹川)役所はすべてフランス語で動いている。カンボジア 5 の人間でなくても,フランス語ができれば雇ってい る。 (岡田)アフリカでも,本来の素材ではなくて,ヨーロッパ 人が評価する素材への置き換えがあった。そういう ことはないのか。 (高松)グロリエのやったことが結果的には成功だったとい う評価だが,どういう点からそう判断するのか。 (笹川)カンボジアの絵画は本来,布に描くものだ。首都の 周辺であれば,絵描きが行って壁画を描けるのだが, (藤原)植民地主義政策として成功したという意味。もとも そう遠くは行けないし,来てもらうお金もないとい と王宮の中に職人がいたので,フランスが介入せず う場合,20年代くらいまでは,布に描いたものを ともけっして消滅しはしなかっただろう。 運んでお寺の壁に掛ける,という方法をとっていた。 (笹川)銀細工の場合は,ほとんどこの学校の出身者の教師 売る気になれば売れるかもしれないが,売ったとい から習っているらしい。今のカンボジアでは,近代 的な教育を受けた教師の弟子が,伝統的な「親方― う話もあまり聞かない。 (岡田)私が関心を持っているのは,商品化のプロセスで, 徒弟」の形態に戻っている。いくつかは成功だと思 どういう置き換えをしたのかということだ。たとえ う。絵画は宮廷絵師が教えていた。王宮のラーマ物 ば,台座を作って商品に仕立てたり,壁画だったも 語の壁画を描いた人物だが,彼はタイに留学して, のを,タブローのように西洋人が理解できるものに タイの美術様式を持ち込んでいる。 して売り出したりしたのではないか。あるいは,ヨ (岡田)その壁画の画材は何か。 ーロッパ人が好む石や金属といったものに摺り寄っ (笹川)本来は,植物から採ったものに膠をくっつけるよう ていったために,もともと主流ではなかった素材が な形。タイのシラパコン大学という美術系の大学で 主流になっていった,というようなことだ。 はいまだにそれを教えているらしい。バンコクの王 (藤原)どういうものが一番売れているのか。 宮隣のワット・プラケーオでも,修復の現場をのぞ (笹川)仮面は単価が高く,よく売れているという資料を見 くと,いかにも伝統的な画材が使われていた。しか し,カンボジアではそもそも技術が途絶えているの で,修復していない。 た記憶がある。 (藤原)古美術品の販売についても,伝統復興政策の枠組み で考える必要もあるだろう。 (岡田)商品化したときは,同じ技法がとられたのか。 (笹川)絵画は売らない。そもそも,絵はお寺の壁画のため に描かれたものだ。 (藤原)美術史的には絵画は復興政策の対象にならないと思 う。カンボジアに限らず,ラオス,ベトナムも同様 で,絵画に関しては,西洋人の教えていたのは西洋 のものだ。ベトナムの場合も,ベトナム絵画といっ て余り知られておらず,日本で聞いても知っている (高松)美術学校ができる前の工芸というのは,だれがどこ でやっていたものなのか。 (笹川)グロリエなりその部下なりが,土器や大理石でもい けるのではないかと国中探してまわる。 (高松)物を探しに行くのか,作っている人を探しにいくの か。 (笹川)作っている人と物を探す。そして,作っている人を 人が少ない。もしかしたら,フランス人が関与して, 連れてくるよりは,そこに学校を作ってしまえ,と 逆に退廃してしまったひとつの例なのかもしれない。 いう発想で,分校ができる。24年に分校を建てて (岡田)それを商品化しようという発想はなかったのか。 32年に廃校になっているから,けっこう長く動い (笹川)売るとしたら,布に描いた絵だろう。 ていたと思う。 6 (高松)さきほどの分校の話はそういうことか。 (藤原)アンコールと結び付けられるかは別として。 (笹川)アンコール遺跡の模様を土器に描いたら売れるか な,といった記述もあった。 いから,この研究がスタートしたように思う。 そのあと大学院時代に,遺跡の調査団の事務室でアルバ イトをしたときに,カンボジアに連れて行ってもらった。 見たかったのは,アンコール・ワットの回廊の浮彫りにな (藤原)つまり成功というのは,ブランドにできるかという っているラーマーヤナだった。行けばきっと感動するだろ こと。クメール工芸として売るという戦略は,この うと思っていたのだが,行って見えてきたことは少し違っ 時代では,フランス人しかできないと思う。 ていた。意外にもドロドロしたものを見てしまったな,と いう感想を持ったのだ。遺跡の調査には,上智大学や早稲 (岡田)銀細工はどんなものか。 田大学などの調査団のほか,以前からインド,フランス, (笹川)象や兎などの,動物の形をしている。ただしそれも, アメリカ,イタリア,中国,インドネシア,と色々な国が まったくよく似たものがラオスのルアンパバーンに かかわってきた。彼らが,看板を立てて「うちがどこをや ある。ということは,19世紀半ばくらいの,タイ る」というようなことを主張すると,カンボジア側の役人 の宮廷文化の影響があるということだ。タイの宮廷 もよく心得ていて,みながこれに関わりたがる。というの 文化がカンボジアとラオスの両方に大変強く影響を も,1年間に億単位のお金が動くからだ。それに,目立つ 及ぼした時期があって,どうもそのときに始まって ところは直しているわりに,本当に直すべきところを直し いるのではないかと思う。 ているかは疑わしい。これは政治であり,利権である,と (岡田)どれくらいの大きさのものか。 いうのが第一印象である。いつ頃からこの状態になったの (笹川)それほど大きくなく,煙草入れや物入れのようなも かというと,やはりフランス人が入って来て,植民地支配 のだ。 を始めたところに端を発するのだと思う。 さて,私の通ったプノンペンの公文書館では,植民地時 2.報告2 代に建てたアーカイブスが整理してあった。ポル=ポト時 笹川秀夫「『伝統』としてのカンボジアの宮廷舞踊と影絵 代に仏教研究所は失われたが,それ以外の図書館や公文書 芝居」 館は全部残った。そこにトヨタ財団の補助金がつくなどし てかなり整理が進み,今やフランスのアーカイブスに行く 【報告】 よりも,プノンペンのほうがはるかに検索しやすく,所蔵 『西遊記』では言うまでもなく猿が活躍するのだが,そ されているデータも細かい。エクス=アン=プロヴァンス れより2000年前から,やはり猿が出てきて,空を飛んだ (フランス)の海外公文書館では,本国まで上がっていった り,体が大きくなったり小さくなったりして活躍する, 資料が見られるが,そこまで行かない細かい話については, 『ラーマーヤナ』という物語があった。このインドの話が, プノンペンの方に残っている。ここは,独立後も基本的に 西遊記の孫悟空に影響を与えたのではないかと,ずいぶん 外国人の研究者には公開していなかったが,1997年末か 前から言われてきた。昔は,仏教は北伝だといわれていた ら公開されたので,そちらを見たほうがよいのでは,と思 が,私が大学で中国文学を専攻していたころの先生は,東 い,通うようになった。 南アジア経由もあったのではないかと言っている。その先 ラーマーヤナのような古典のクメール語版には,17∼ 生はその後,確か91年頃に,国交のない時代のカンボジ 18世紀のものがある。ただし,半分くらいはサンスクリ アに行かれた。私も何年かすれば行けるかなあ,という思 ット語やパーリ語が混ざっているので,現地の人も簡単に 7 は読めない。しかし,古典というのはどこの国の人も読ま 直前にできたプノンペンの王宮を見ると,建築様式もタイ ないものだし,文献だけでやっていてもなあ,という気持 の影響を強く受けていることがわかる。その隣に,ヴォア ちがあって,踊りを通じて伝わっているものや,お寺の壁 ット・プレア・カエウ・モロコット(本堂の床に銀の板を 画といった,他の伝わり方を見ていこうと思うようになっ 敷いてあるため銀寺と呼ばれている)という寺がある。最 た。そして,フランスによる文化政策の話と,踊りの話と, 後の「モロコット」 (宝石)を除いてタイ語にすると,「ワッ 壁画の話が,最終的に1本になったわけである。 ト・プラケーオ」となるのだが,その名を持つ寺が,バン コクのかつての王宮の隣にある。これは,ラーマ1世が 1.シャム(タイ)の文化→カンボジアへの影響 1.1 19世紀以降の歴史的状況 19世紀の前半は戦争の時代だった。カンボジアの王族 18世紀の末に建てたもので,ヴォアット・プレア・カエ ウ・モロコットはこの真似をして建てられたものだ。これ が建てられた際に,当時フランス極東学院の院長だったル どうしが王位継承をめぐって争いを起こし,隣のタイとベ イ・フィノが,タイの模倣をしたことを批判しているが, トナムの勢力を引き込んでしまって,カンボジアが戦場に 当時のカンボジアの王族にとっては,タイの文化こそが格 なった。アン・メイ女王の時代に,ベトナムにべったりだ 好良かったという時代だ。16∼17世紀,タイのアユタヤ った時期もあったが,アン・ドゥオン(r.1847-1859)と 朝が力を伸ばしていた時代にも,タイの影響が入って来て いう王はタイに逃亡し,タイの軍隊のバックアップを受け いるのだが,証拠があまりない。しかし,19世紀の半ば て帰国すると,ベトナムとの戦いに勝利して王位についた。 以降になると,物が残ってくるので,タイの影響だという そうなると,タイの王宮としてはカンボジアを影響下に置 ことがわかるようになる。 いておきたい。そこで,ノロドム(r.1860-1904)とシソ バンコクのワット・プラケーオの回廊には,インドから ワット(r.1904-1927)という,次の王と,その次の王に 伝わったラーマ物語(のタイ版。ラーマ1世が作らせた18 なる人物を,人質としてバンコクの宮廷に住まわせた。2 世紀末くらいのもの)が描かれている。まず,あらすじを 人がタイ語を流暢に話すようになったのは,そういうわけ 述べておこう。阿修羅の王ラーヴァナのもとに,シーター である。彼らはタイ語の王族用語を操り,逆にクメール語 という王女が生まれる。阿修羅の国滅亡を予言したシータ を話したがらなかったという。一方,その下の世代からは, ーは,鉢に入れられて川に流される。それを,他の王が見 既にフランスの植民地になっているため,次のシソワッ つけて養女にした。この部分は,川を流れてきたというバ ト・モニヴォン王(r.1927-1941)はフランスに留学して ージョンと,王が田畑を耕して国の豊穣を祈る儀式をして いる。 いた最中にシーターを見つけたというバージョンがある。 藤原さんの話にもあったように,フランス側は20年代 そもそもラーマ物語の冒頭は2種類あって,古いのは,ラ くらいから本気で文化政策を推し進めるわけだが,それま ーマーヤナというサンスクリット語のもの。これは,王が でのカンボジアではタイの宮廷文化の影響が非常に強かっ 田を耕すバージョン。インドにもいろいろなバージョンが た。その後は,フランス式の教育が行われ,王族もフラン あり,どれが東南アジアに伝わったかもわからない。東南 ス文化に対する見方を変えていくという流れができる。 アジアに伝わってからも,どんどん変容を起こし,結果的 に絵に描くときに両者がくっついたりすることもある。 1.2 寺院壁画 1.2.1 タイ ワット・プラケーオの壁画 タイの宮廷文化の影響が強かった頃,ノロドムが没する 8 (ワット・プラケーオの壁画の映像を見ながら)主人公の ラーマが,弟のラクシュマナと一緒に森に修行に行く。一 方,シーターを養女にした王が,神からもらった弓を持ち 上げることができた人物にシーターを嫁がせようとしたと たりしているのも面白い。 ころ,ラーマだけがそれを成し遂げ,2人は結婚すること になる。 (藤原)舞台か何かが描かれているようだが,これは何か。 そのあと,いろいろな話が続いていく。例えば,猿の王 (笹川)即位式のお祭りをやっている場面だ。中国の大衆芝 ヴァーリンの話。父親を倒し,猿の国に行って暴れまわっ 居のようなものに見える。これはラーマ1世の時代 ている水牛を,ヴァーリンが洞窟の中に誘い込んで決闘す に作られたもの。タイの大衆演劇にとって中国の影 る場面。もし猿が死んだら,きれいな赤い血が流れてくる。 響が非常に強かった時期だ。 水牛が死んだら,どす黒い血が流れてくる。もし赤い血が (藤原)四面塔のようになっている。 流れてきたら,自分が死んだということだが,洞窟の入り (笹川)アユタヤの遺跡にも四面塔があるように,タイの建 口を石でふさげば水牛は出てこないから,国の憂いは取り 築様式は,もともとはクメールの影響を受けている 除ける,というようなことを言う。結果的に,ヴァーリン と思う。アユタヤがクメールに攻め込んだときに, が勝って,どす黒い血が流れ出すのだが,途中に泉が湧い 王宮の中にいる職人や踊り子を連れて行った,だか ていたために,洞窟の外には赤い血が流れ出てしまう。こ ら,アンコールの伝統はタイで守られた,と言った れを見た弟のスグリーヴァが,洞窟の入口をふさぐ。その りもする。 後,自力で這い出した兄は,弟が自分の王位を奪うつもり (高松)今見ている絵はワット・プラケーオのほうか。 だったのだろうと疑い,スグリーヴァやハヌマーンらを追 (笹川)そうだ。カンボジアのものはあとで触れる。タイの い出してしまう。 方は,まめに直されているので,こうやって鑑賞に 続いて話はラーマのほうに戻る。ラーマの父には3人お 値する。また,この寺で有名なのは,ラーマ4世の 妃がいて,その中の一人が,自分の子どもを王位につけた アンコール・ワットの模型。19世紀の半ば,バッ いがために,ラーマとラクシュマナ,シーターが追放され タンバンの地方の太守はクメール人なのだが,タイ た。その後,美しいシーターを狙う阿修羅の罠にはまり, の王が任命するという形をとっていた。カンボジア シーターがラーヴァナに誘拐される。そこでラーマは先ほ の北西部が1907年までタイの領土だったことと, どの追放された猿たちと出会い,一緒にシーターを探しに 既にタイの王権がそこまで影響力を及ぼしていたと 行く。 いうことがあった。タイの王もアンコール・ワット インドのハヌマーンはほとんどのバージョンで非常に身 が欲しいと思っていた証拠とも言えるだろう。 持ちが固いのに対して,タイのハヌマーンはなぜか女好き。 海に潜ったときに綺麗な人魚がいて,言い寄ろうとするシ 1.2.2 ーンがあるが,これは踊りの題材として有名だ。 次にプノンペンの銀寺の絵を見ていきたい。 プノンペン 銀寺の壁画 クメール語版のラーマ物語があるにもかかわらず,チュ [タイ舞踊の映像視聴] オンが,宮廷大臣になるかならないかというときに翻訳主 宰となり,タイ語のラーマ物語をクメール語に翻訳して, このように,細かいエピソードがずっと続いていく。最 それをもとに壁画を描いている。要するにバンコクの真似 後はラーマとラーヴァナの一騎打ちで,ラーマが勝つ。壁 をしたものだ。だから,川から流れてきたシーターを見つ 画には,シーターが捕まっていた間にお手つきになってい ける場面や,水牛の闘いがあったり,ハヌマーンが人魚に ないかどうか審判する場面があったり,影絵芝居が描かれ 言い寄る場面があったりする。クメール語で場面を説明す 9 る注記が書かれているのだが,4分の1くらいのところで 2.2 突然タイ語が出てくるのは,それだけタイの影響が強かっ グロリエの著書『古代と現代のカンボジアの踊り子』 たからだろう。 ただし,この回廊は保存状況が悪く,悲惨な状態である。 ジョルジュ・グロリエ (1913)の挿絵を見ると,アンコール遺跡のレリーフと踊 り子を,何とか関連づけようとしていることがうかがえる タイからの影響は残っていても,あまり重要視されないと ものがある。ただし,グロリエ自身は,タイ文化の影響を いうことだろう。私は寺を百箇所くらいまわったが,全国 認めていた。実際に,踊りの先生や踊り子の中にはタイ人 で6∼7箇所,タイの影響を強く受けた壁画が残っていた。 が多数いたし,演目はタイのもの,踊りに関する用語もタ 時代的には1920年代。描いたのは,タイで絵の勉強をし イ語である。真面目に調べていれば,タイの影響は認めざ て,帰ってきて王宮で仕事をしていた宮廷絵師だ。チュオ るを得ない。それでもグロリエは,カンボジア文化の頂点 ンの出身地のコムポン・トロラーチというところには,周 にアンコールがある,とする立場をとっている。 りに何にもない中に,1920年代の壁画がポツリと残って グロリエは,王族が西洋かぶれになってしまったために, いたりする。これは,宮廷大臣になってお金ができたので, カンボジアの美術が衰退の危機に瀕しているので救わなけ チュオンが自分の出身地に建てたものだろう。部分的には ればならないと,インドシナ総督府や本国に訴えかけてい 程度もよく残っている。普通は遠くまで絵師を呼んでくる く。ただ,グロリエは衰退と言っているが,その発言と同 ということはできないのだが,この場合は宮廷絵師が壁画 時期である1913年に建てられた,プノンペンの王宮の舞 を描いている。 踊殿を見ると,特に衰退しているとは思えない。また, 1920年に開館したアルベール・サロー美術館の建物や扉 2.植民地時代の宮廷舞踊 2.1 フランス人による植民地時代前半の語り を見ると,すべてアンコール的というわけではないので, この発言にはグロリエの趣味も絡んでいる気がする。 宮廷舞踊の話に移ろう。植民地化が始まると,例えば グロリエ指揮下の美術学校では,デッサンは基礎として 『アンコール詣で』を書いたピエール・ロティが,カンボ 重視されてはいるのだが,宮廷絵師に師事する段階になれ ジアの宮廷舞踊がアンコール遺跡のレリーフにいかに似て ばフランス人は口出ししない,という方針をとっていたよ いるかといったことを言い出す(似ているというよりも, うだ。このようにしてしばらくは弟子たちが育ってゆき, 実際はタイの影響なのだが) 。 それは今でもまったく途切れたとは言えない。現在,「タ また,マルセイユで植民地博覧会(1906)が開かれたと イの影響」とは一言も言わないが,「古典絵画の描き方」 きには,カンボジアの王が舞踊団と一緒にマルセイユに行 のようなマニュアル本が,少しはカンボジアで出版されて った。フランスでは,王様も舞踊団も来たということで大 いる。ただし,お寺の壁画については,宮廷絵師の流れを 騒ぎになったようだ。パリで野外公演を行なったときも, 汲む人によるものは全くなく,油絵や,地方のペンキ屋の 観客が殺到して大混乱が起きた。ロダンはパリの公演を見 仕事のような壁画もよく見かける。何か様式にのっとって て気に入ってしまい,彼らがマルセイユから船で帰るとき 描くというのは,20年代で終わりと言えると思う。 について行って,デッサンをしている。そのデッサンを見 プノンペンの公文書館で出てきたグロリエの報告書は, ると,衣裳というよりも,体の動きに興味を持ったようだ。 本や論文などと書かれていることが微妙に違っている。衰 アンコールと関係があるから踊りも素晴らしい,というこ 退の危機や,フランスによる保護の必要性といったところ とではなく,ロダンの場合は単純に踊りそのものが素晴ら は一致しているが,舞踊を保護すれば1931年のパリの植 しいと思ったのではないか。 民地博覧会に「間に合う」,といった記述があり,これが 10 本音かなと思う面もある。 覚的かつ選択的だったのではないか。 (写真を見ながら)これは,1922年にマルセイユで開 その一方で,30年代には,タイ文化からの影響を重視 催された植民地博覧会のインドシナ館。アンコール・ワッ する語りもあった。『カムプチェア・ソリヤー』という雑 トの巨大な模型を作り,その前で舞踊を行った。フランス 誌は,中表紙と目次にはフランス語を併記,本文はクメー の雑誌などを見ると,とにかくアンコール・ワットがすご ル語のみ,というものだが,発行部数が当初の800部か いもので,その前でやった踊りはアンコールのもの,と結 らすぐに5000部発行までになった影響力の強い雑誌であ びついていくのがわかる。 る。ここに,舞踊に関するタイ語の文献が翻訳されて掲載 やがて舞踊団はグロリエの美術局に移管される。これは, されている。 1927年にシソワット王が亡くなった際に,舞踊団のメン バーが大きく入れ替わったのを潮時に,行なわれたのかも 4.カンボジアのナショナリズム しれない。舞踊団というのは,もともと王族の妻や妾を養 このように,30年代までは,宮廷舞踊はタイから影響 成するような側面があったので,王が変わると舞踊団のメ を受けたという語りと,アンコールの伝統文化だという語 ンバーも変わるということはある。しかし,結局はうまく りが混在している。やがて30年代の後半から,他者認識 いかず,1930年にカンボジア側に返還することになった。 を契機としてカンボジアのナショナリズムができあがって 返還後も,補助金をつけたり,アンコール・ワットでの くる。『ナガラ・ヴァッタ』という新聞が代表的だが,そ 公演を許可したり,美術学校の職人が作った被り物を優先 こでは,カンボジアにおける他者として,国内にいるベト 的に舞踊団にまわす,などといった支援は続けた。 ナム系,中国系といった人々が批判されている。「ベトナ ム人は,役所で下級役人としてたくさん雇われていて,彼 3.カンボジアの知識人による記述 グロリエの例に対して,今度はカンボジアの知識人,チ らがポストを独占しているからわれわれクメール人は発展 しないし,お金も入ってこない。一方,都市部の商業は中 ュオンに触れたい。彼は,フランス語ができるということ 国人に握られていて,彼らが経済の発展を阻害している」 で,出世のスピードが速かった。大臣は5人いるが,たい といった話が出てくる。 てい3年くらいで次のポストに移るところを,この人だけ さらに1940年には,タイとの戦争が始まる。これには, は例外的に,40年近くにわたって宮廷大臣という要職に タイ側が拡張主義的になって,東南アジア大陸部各地に影 就いている。宮廷大臣というのは予算の権限ももっている 響を及ぼそうとした側面がある。ここにきて,前述の新聞 ため権力が強い。 や雑誌がさかんにタイ人批判を始め,タイ人を他者とする そのチュオンは,1931年の植民地博覧会に向けて,フ ランス語で舞踊に関する書籍を出版した。ここに至って, 言説が広まった。タイはこの時点で枢軸国側として参戦し ていて,日本が仲介した。 カンボジアの知識人も,アンコールの文化がタイに伝わり, それがカンボジアに戻ってきた,だからこれがアンコール (藤原)この戦争は,フランスが戦争に負けたのを機に,タ の伝統だ,という,フランス人が作り出した伝統観に近い イから割譲したアンコール地区一帯の返還を要求す ことを言い出す。それを,フランス人の客に向けて言って るものだったと記憶するが。 いるということがポイントだ。ただ,彼の発言は,フラン (笹川)そうだ。当時のフランスはヴィシー政権で,仏領イ ス人のそれとまったく一緒ではない。伝統に対する見方や ンドシナもフランス政府の管轄になっていた。アン 言説を受け入れるときには,自分たちの都合を優先して自 コール・ワットはぎりぎり割譲されていないが,シ 11 アム・リアプの町までは入っていた。東南アジアに を披露した。カンボジアはラーマ物語を上演したが,実際 は,19世紀半ばになるまで,国境というものがそ はこれはタイの影響を色濃く受けているものである。意地 もそも存在しない。結局フランスとイギリスが軍隊 の悪い言い方をすると,アンコール・ワットを舞台に,と を送り込んで,ぶつかったところが国境ということ いうのは,植民地博覧会のときと同じ価値観だなと思う。 になった。あとは,かつてのタイの王室がカンボジ こうして見ると,先ほど見たものとほとんど変わってい アやラオスに影響を与えていた区域が,タイの領土 ない。語り方のほうが変わってしまったので,踊り自体は だったと読み替えられ,われわれにしてみれば失地 変えなくてもよかったわけだ。フランス人のお墨付きで, なのだという話になってくる。それも19世紀後半 カンボジアもそれを受け入れて,政府が上から伝統だ,伝 以降の話だ。このあたりのことについては,トンチ 統だ,と言っていればそれで済む。また,これほど大がか ャイ・ウィニッチャクンの『地図が作ったタイ』と りでなくとも,レストランやホテルでこういうものを見る いう本に詳しい。アンダーソンの『想像の共同体』 機会が最近増えているが,これをアンコール時代からの伝 の一節の種本になっているほどのもので,東南アジ 統文化だと言うことは変わっていないと思う。 ア研究に限らず,ナショナリズム研究の見地から, もっと広く読まれてよい本だと思う。 (藤原)タイの人たちはそれに対して,何も言わないのか。 (笹川)聞いたことがない。そもそも見下しているところが 5.独立後の宮廷舞踊 あると思う。それに,タイ側は,元はアンコールか その後,カンボジアは1953年に独立する。 ら受け入れた文化であっても,自分たちなりに消化 カンボジア人は,「われらクメール人」という言葉をい して,自分たちのものになっているという自信があ まだによく使うが,これが民族のことを言っているのか, るのだと思う。また,最近のタイの仮面舞踊劇は, 国民のことを言っているのかは定かではない。8割か,多 どんどん変化している。かなり大きな鉄骨を組んだ く見積もっても9割がクメール人,残りがベトナム人や中 りして,歌舞伎の猿之助のように空を飛んで,これ 国人という状況で,カンボジアはクメール人の国だ,とい は私たちの伝統です,と言ったりするのが面白いと う。彼らにはあまり多民族国家という意識がない。実際は, ころだ。 国民統合のために国民文化を作る必要性が生じたので,か つてチュオンが書いたフランス語の本を独立後になってリ カンボジアで演じているのは,文化芸術省に所属する劇 プリントしてみたり,カンボジアの舞踊はアンコール時代 団で,今は王宮の所属ではない。ラーマ王子を女性が演じ からの「伝統」だと言ってみたりする。60年代にアプサ ているのは昔の宮廷舞踊の流れで,そもそもは猿も女性が ラー・ダンスが作られたが,これをアンコール時代からの 演じることになっていたのを,独立前後くらいに,猿だけ 伝統といっているのは,今ではもうガイドブックくらいの は男性が演じることになった。そういったところは変化し ものだ。 ている。このように,当然,カンボジアでも文化変容はし ここで,最近上演されたカンボジア舞踊の映像をご覧い ているということになる。 ただきたい。 これは,数年前,ASEANの議長国になった年の上演で 6.カンボジアの影絵芝居 ある。ASEAN文化ウィークと称して,アンコール・ワッ 次に,影絵芝居の場合はいつ頃から伝統について語り出 トを舞台に,というふれこみのもと,各国が踊りやお芝居 されるのかを見ていきたい。影絵は,東南アジアにかなり 12 広く分布している。タイとカンボジアで共通しているのは, から,これは伝統だということを言う人もいるが,先ほど 大型と小型の2種類の影絵芝居があるという点である。 も述べたとおり,カンボジアの北西部はタイの支配下にあ 上演開始時の儀礼の呼び方だが,内戦前までは「ハオ ったし,文化的にもタイの影響が非常に強い場所である。 ム・ローン」 (タイ語で「ホーム・ローン」),つまり踊りや いまだに北西部のお寺では,タイ語を勉強している人が多 影絵の前に,踊りの神様にお祈りを捧げるという意味で, く,シアム・リアプより西側の町ではタイのバーツが通用 明らかにタイ語からの借用だったのが,内戦後にはそれが するし,さらに国境沿いまでいくと,その下の硬貨まで使 意図的に消され,「ソンペアハ・クルー」 (先生にお祈りす っている。地理的に近いので,文化の影響はあるだろうし, る)という言い方に変わってしまった。 しかも1907年までタイの領土だった場所に多く分布して 大型の影絵芝居は,セリフは一人一役で,演目としては, いる。 ラーマ物語のみ。大型の特徴は,幕の前に出てきたり,人 形を置いて,人間が踊りだしたりすることだ。小型のほう は,古典もあるが,地方で徹夜で行われるお祭りの際に, 7.内戦前の影絵芝居 影絵に関する文献で一番古いのは,国立公文書館収蔵の むしろ現代ものの方が演じられる。こういったものは,現 1920年の資料だ。それは,宮廷大臣チュオンが,ポケッ 地の人に受けるために,風刺を入れたり,笑いや下ネタを トマネーで建立したコムポン・トラーチの寺で,フランス 入れたりするのだが,近年は,NGOなどが外国人に見せ 人やカンボジア人を招いて式典を開催し,夜に地元の人た るために,「お行儀のいい」話としてカンボジアの昔話が ち向けの影絵芝居を上演した,というもの。このときはや 演目に選ばれてきている。 はり「ナン・タルン」と書いてある。 そもそも大型の影絵芝居は,内戦前は「ナン・スバエク」 では,フランス人の文化政策としてはどうかというと, と呼ばれていた。「ナン」はタイ語で「皮」,「スバエク」はク グロリエは,今まで見たなかでは,何ひとつ影絵芝居につ メール語で「皮」。つまり,内戦前は「皮・皮」と呼んでい いて言及していない。フランス人でこれを取り上げるよう たのだが,文化情報大臣だったチェン・ポーンが87年に になったのは,アンリ・マルシャルからである。彼の論文 書いた本くらいから,タイ語からの借用である「ナン」が のなかで,大型の影絵芝居として,「ナン・スバエク」が 消されてしまい,「スバエク・トム」 (大きな皮)と呼ばれる 紹介されている。そこでも,タイ語からの借用語で呼んで ように変わる。小型のほうは「ナン・タルン」「ナン・カ いる。また,寺院の壁画と構図が似ていると言っているの ルン」 「アヨーン」 と呼ばれていたのが, 「スバエク・トーチ」 だが,両方ともタイの影響を受けたラーマ物語であるとい (小さな皮)に統一される。タイの南部で小型の影絵芝居を う点から言って,これは当然のことである。ただし,映画 「ナン・タルン」と呼んでいるのをそのまま借用して,ク が入ってくるなどして,他の娯楽に興味が移り,消滅して メール語でも「ナン・タルン」と呼んでいた。また,それ いく傾向が指摘されている。タイからの影響については, がなまって「ナン・カルン」。「アヨーン」は,マレー語,イ 言及されていない。 ンドネシア語の「ワヤン」が語源だろうという説が有力で 1970年代になると,ジャック・ブリュネという民族音 ある。ともかく,借用語で呼んでいたのが,「スバエク・ 楽の専門家がカンボジアの影絵を扱った論文を2本書いて トーチ」,という純クメール語で呼ばれるようになる。ど いる。ここでは,小型の影絵芝居については,タイ語から うも,借用語が意図的に消されているような印象を受ける。 の借用であるという指摘がされている。大型については言 影絵は本来,シアム・リアプという,アンコール・ワッ トに近い北西部の町に多い。アンコールの近くにあるのだ 及していない。 では,カンボジア側はどうかというと,1950年代後半, 13 『カムプチェア・ソリヤー』に,影絵芝居に関する記事が 代半ばくらいまではそうだったかもしれないが,90年代 2編載っている。そこでは,「大型の影絵芝居は,かなり 後半から一気に観光開発が進んで,シアム・リアプでは観 大がかりでお金がかかるものなので,お客もそれなりの入 光客向けの上演が急増した。にもかかわらず同じ語りを続 場料を払ってくれないと上演ができない[もともとは王宮 けてよいのだろうかと感じ,2000年前後に,そのときに がパトロンになって上演していたものが,このときにはそ 上演している人たち全員と会ったことがある。行くと,そ うではないことを意味する]。人形は王宮とシアム・リア こにはローカルNGOといったものが出来上がっていて, プにあるのだが,これも廃れる可能性が高いので,文書で 孤児を集めて,影絵や踊りの練習をしていた。影絵より踊 記録しておく必要があるのではないか」ということを言っ りの方が観光客に喜ばれると言って,影絵をやめていたケ ている。また,小型に関しては,王宮がパトロンとなって ースもあった。 上演している場合もあるし,民間でも行われている,とあ る。また,「アヨーン」の語源を「ヨーン」という人の名 (岡田)その踊りとは,どういったものか。 前であるとする,俗語源のような情報が載っていた。また, (笹川)いわゆる民間舞踊だ。タイの影響も受けた古典舞踊 ここでは「ナン」がタイ語からの借用であることについて もあるし,新たに創作されたアプサラー・ダンスの 言及されている。 ようなものを上演する場合もある。子どもを集める 政府系の出版物でも,影絵については,アンコールの伝 場合はそれも難しいので,民間舞踊をやろうという 統と結びつける意図がない。とりあえず紹介したという程 ことになる。民間舞踊とは言っても,これは観光客 度である。ただし,60年代ともなると,タイとの関係性 向けの舞踊だ。65年に王立芸術大学に舞台芸術学 を言うのは,オフィシャルな語りの中では許されないので, 部ができたときに先生になったチェン・ポーンが, そのことについては触れていない。しかし,アンコールか 国中から色々な民間舞踊を集めて観光客向けにアレ ら続く伝統だ,とも言っていない。『カムプチェア・ソリ ンジしてできあがった。したがって,ここには北東 ヤー』の中で取り上げられるなど,何とかしなければ,と 部の少数民族の踊りなど,エスニック・マイノリテ いう動きはあったようだ。文化功労者として賞を与えてみ ィの踊りも入ってくるわけだが,それをクメール人 たり,国際博覧会へ出品したりしているが,そのあと内戦 が作りなおして,クメール人が踊っているというこ に入ってしまった。 とが起きている。 8.内戦後の文献 ローカルNGOの中にはフランスに支部をもつものがあ 1987年にチェン・ポーンの著作が出版される。このあ って,比較的資金に余裕のある組織では,孤児の雇用の場 たりからアンコールとのつながりが語られるようになり, のようになっている。ここでは,ホテルで週に1∼2回, タイ語からの借用語が消されていく。また,チェン・ポー 定期的に公演をしていて,外国人のお客さんを相手にそれ ンの部下であったペーチ・トゥム・クラヴェルという人物 なりの値段の入場料を取り,興行としても成り立っている。 が,『色つきの影絵と小さい影絵』という本を書いている。 他のNGOでは,もともとは小さな小屋から始まった組 ただ,私自身は,色つきの影絵というのは見たことがない。 織が,1997年にドイツの財団の助成により,国道沿いの 日本語の文献では,ポル・ポト時代に文化が否定されて, 学校内に施設を増設した例がある。ここの老教師は,影絵 そこからの復興が大変なので援助が必要だ,という文脈の の人形を作ってもお金にならなかったので家具の彫刻で食 中で影絵に言及される場合が多い。しかし,確かに90年 いつないでいたのが,こういったNGOができ,雇われたこ 14 とによって,影絵だけで食べていけるようになったと言っ あって,長い間対立している。その後,お寺のほうは高級 ていた。また,インタビューの際,タイの影響についての ホテルの契約をとったという話も聞いた。 話が引き出せるのではないかと質問をしてみた。すると, シアム・リアプは,観光客がアンコール遺跡を見に来る 老齢の先生は知っているけど,答えにくい,といった様子。 ところなので,観光客の側も,そういった語りを求めてい 一方で,別の若いNGOのスタッフのほうは,ぺらぺらと, ると言えるかもしれない。プノンペンで1箇所だけ定期的 これはアンコールから続く伝統だ,なぜならこんなに人形 に公演を行っているところがあるが,むしろここでは,伝 がアンコールのレリーフに似ているから,といったことを 統がどう,とは言わない。公演を始めた人も,劇場に落ち 言う。 ていた影絵の人形を拾ったことをきっかけに,独学で始め たような人。はじめはレパートリーすら知らなかったため, 9.1990年代後半∼2001年の現地調査 調査でお会いした方々について,簡単に述べていこう。 演者については,まずD.R.氏の例を挙げたい。彼は, 昔話集から自分なりに作っていこうということになった。 こうして見てくると,2000年くらいの段階ではすでに, 内戦の影響で外国の援助が必要だ,という状況ではなくな ポル・ポト政権期に人形を土の中に隠していた人で,内戦 ったと思う。もう少し違うカンボジアの影絵の語り方を作 前から文化功労賞を受けるなど,一番有名な人だ。96年 っていかなければいけないだろう。 くらいに会いに行ったところ,一家離散のような状態にな しかし,カンボジアの中では,踊りに関しても影絵に関 っていた。聞くと,海外のNGOがやって来て,人形の散 しても,アンコールからの伝統であるという語りがまだ支 逸を防ぐために人形を買い上げてしまったそうだ。そのた 配的である。文化芸術省が関与し,観光開発との接点があ め,D.R.氏は別の町で孤児を集めて影絵を教えていると る中で,まだまだカンボジアの人々自身が,違う語り方を いうことだった。NGO側は良かれと思ってやっているの もつまでには至っていないと思う。それでいて,中身のほ だろうが,これでいいのかという気がする。 うは,必ずしも変わらない場合がある。タイから影響を受 次に,カンボジアの大型影絵芝居といえばこの人,とい けた踊りも,「これは伝統です」という語りさえできてし うのが T.C.氏。チェン・ポーンが人形を与え,役所が作 まえば,やっていて問題はない。そうすると,語りが先に り上げていった伝統の継承者だった。2000年に彼が亡く 変わったら,中身が変わらなかったりもするのかなと思う。 なって息子の代になると,あまり振るわなくなった。 次の例はお寺のご住職で,出家前に影絵を習っていた人。 10.「伝統」に相当するクメール語 内戦中はタイに逃れ,その後フランスに行ってギメ博物館 さて,過去の研究会で,伝統という言葉はそれぞれの言 所蔵の人形をもとに人形製作をおこなった。彼はその人形 語で何と言うか,という議論があったので,カンボジアの をもとに,2001年の段階で,大がかりな影絵劇団を持っ 例を探してみた。 ていた。普段は農業や商売をしている人がメンバーだ。タ まず,「伝統」という日本語をクメール語でどう訳すか イに逃れていたということもあって,彼は,タイの影響を と聞かれたら,「プロペイネイ」と答える。これは,意味 明言していた。実は彼はT.C.氏と対立関係にある。若い頃 としては,伝統というよりは「風俗,習慣」に近い。「踊 は同じ先生について一緒に習っていたのだが,内戦後に り」という言葉につけると,「ロバム・プロペイネイ」。こ T.C.氏がもてはやされるようになると,T.C.氏本人も自分 れは「伝統舞踊」というより「民間舞踊」という意味にな こそがアンコールから続く伝統の継承者だ,と言うように る。では,その「プロペイネイ」がどこから来ているかと なり,住職の影絵はタイから持ってきた偽物だとの発言も いうと,フランス語の"tradition"ではなく,やはりタイ語 15 の「プラペーニー」だと思う。スペルはほとんど同じだ。 るだけで,一般的には使われないのか。 いきさつはこうだろう。まず,フランス語を学んだ知識 (笹川)普通に書いてあるのを見るのは,本屋の「クメール 人たちの中に,“tradition”という概念が入ってくる。ク の文化」というコーナーや,民間舞踊や民間の文化 メール語に置き換える言葉がない場合は,フランス語をそ といった文脈だろう。 のままクメール文字で綴ることになる。40年代後半,そ ろそろ独立できそうだという時期から,やはり言葉も置き 換えていかないとまずいだろうということになり,委員会 (藤原)日本人が言うところの「伝統的」なものを意味する ものとして使われているのか。 (笹川) 「伝統」というと,これしか出てこないと思う。た ができた。委員会には,サンスクリット語やパーリ語とい だし,アンコールと関わる文脈においては使わない。 ったインドの古典語の知識があるお坊さんが多くいた。古 この文脈で出てくるのは「ボラーン」という別の言 典語には,ギリシア・ラテン語や漢語のように,造語能力 葉だ。(「ボラーン」にもまたタイの影響がある。) があるから,近代的な概念を示す新しい言葉を作り出すこ 「ボラーン」の対概念として「サマイ」という言葉 とができる。こうして,フランス語そのままだったものが, がある。「サマイ」は「時代」という意味だが,具 サンスクリット語やパーリ語を使って言葉が作られ,雑誌 体的には「現代」を表す。「ボラーン」は,もとも などを通じて宣伝されていく。「プロペイネイ」という言 とは単に「古い」という意味で,例えば影絵で古典 葉も,恐らくそのあたりから使われたのだろう。 文学に題材をとったものは「ボラーン」,現代物は タイでは,英語の“tradition”が入ってきたときに,お 「サマイ」と呼ぶ。このタイ語の用法が,カンボジ 坊さんや王族がサンスクリット語やパーリ語で相当する語 アでも舞踊の文脈に持ち込まれて,以来いつ頃から 彙を探した結果,タイ語の「プラペーニー」が発生する。 かは正確にはわからないが,同じような使い分けが サンスクリット語の辞書にある「プラヴェーニー」には, されるようになった。「ボラーン」という言葉はサ 伝統や慣習といった意味はまったくない。それに対して, ンスクリット起源なので,「立派そうに」聞こえる。 パーリー語の「パヴェーニー」には,派生した意味として, このため,単に「古い」,というだけではなくて, “custom, usage, …tradition”と出てくる。もともとどち 「古代」という意味を帯びてくる。では「古代」と らもインドの古典語なのだが基本的には別物で,インドの はいつかというと,「アンコール」だろうと。こう 人がこれを混同することはあり得ないのだが,タイ人はそ いった具合に,だんだんとカンボジアといえばアン のあたりがいい加減で,語形はサンスクリット語から,意 コール,という連想が強まるなかで,この言葉がア 味はパーリ語から持ってくるなどということを行った。そ ンコールを示す役割を担っていくようになる。 れが40年代,50年代のカンボジアで,フランス語の 「宮廷舞踊」に相当する現地語の言葉はあるが, “tradition”に相当する言葉を作らなければならないとい 直訳すると,「王の財産である踊り」となる。これ うときに,タイから入って来ているとは言わずに,「プロ を別な言い方でいうと,「ロバム・ボラーン」つま ペイネイ」という言葉を持ち出したのかなという見通しを り「古典舞踊」となる。ロン・ノル時代というのは もっている。 シハヌークを追い出して政権が成立しているわけな ので,王のものとは言えなくなる。このときに「ロ (高松) 「プロペイネイ」という言葉は,例えば政府が出す バム・ボラーン」という言い方に変えたりしている。 ようなオフィシャルな文書に好んで使われるもの か。観光の文脈では? それとも,辞書に載ってい 16 (藤原)日本では,国がお金を出すところが影響力を強くも つと思うのだが,今のお話では,NGO等が現実的 ういった動きは全くないようだが。 なお金に結びつける目的で動く。国の政策として考 (笹川)あと何年かすると,どこかで規制がかかるかもしれ えるところと,民間レベルの問題と捉えるところと ない。バリも,80年代から時間をかけて,ようや が,複雑で難しい。国のほうはどう考えていたのか。 く最近になってからのことだ。カンボジアは本格的 (笹川)いちばん力を入れていたのはチェン・ポーンだと思 う。人民党はもっともアンコールにこだわらない政 な観光開発が99年からなので,まだ時間がかかる と思う。 党だろう。フン・センはフランス的な教育を受けて いないこともあってか,過去の政権ほどアンコール の栄光を取り戻せとは言わない気がする。文化政策 (岡田)影絵は,やっている人の数などの点で,どれくらい の広がりがあるのか。どの程度の規模の産業なのか。 というよりは,むしろ金儲けができれば,といった (笹川)シアム・リアプの町と,先ほど他の町に出て行って ところか。ちなみに,今の文化大臣は正確に記憶し しまった例に触れたが,その行き先,シソポンとバ ていないが,その先代は,シハヌークの娘,ノロド ッタンバンに事務所を作って,それだけだ。 ム・ボッパデーヴィーだった。彼女は,60年代に 以前は例えば,村のお寺でお祭りがあって,その アプサラー・ダンスを踊って,王族がアンコールか 日の晩に影絵をやるというのが,小型影絵芝居の形 ら続く伝統を体現していると言われていた人だ。 だったのだが,今はそれをやるためのスポンサーも かつては遺跡の発掘も文化芸術省が管轄していた なく,結局,観光客が落とすお金以外の収入源はな のだが,アプサラという別の組織ができると,アン い。人形を地下に埋めていたお爺さんも,普段は農 コール遺跡の地域はすべてそこが引き受け,文化芸 業をしていた。 術省は一切関われないことになった。そうなると, (岡田)バリでやっている影絵の規模とは,かなり違うとい アプサラのトップを王党派と人民党のどちらが押さ えるかということになる。最初は王党派のものだっ うことか。 (笹川)バリも,影絵についてはそれほどの規模ではない。 たのだが,数年前,人民党が押さえてヴァン・モリ ウブドで2箇所くらいと,デンパサールの芸術系の ヴァンという有名な建築家が総裁から解任された。 学校で教えているクラスが確かあるが。ただし,む (藤原)クメールの伝統と,王党派の結びつきの意識は今で もあるのか。 (笹川)ボッパデーヴィーが文化大臣だった時代は,多少あ った。プノンペンで時々おこなわれていた公演に本 しろあれはジャワの影響だ。 (高松)宗教やコミュニティ維持といった目的は全くなく, ほとんどお金だけがモチベーションということなの か。 人が見に来て,舞台にも上がるくらいだったので。 (笹川)そんな感じがする。 今はあまり聞かなくなった。特にシアム・リアプの (藤原)そもそも影絵は新しいものではないのか。 町は,あまりにも観光開発が急速に進みすぎて,あ (笹川)どのくらい歴史がたどれるのかがわからない。 まり近づきたくない町になってしまった。 (高松)バリだと,免状を持っていないと観光客に見せては いけないことになっている。また,コンクールを開 (高松)アンコール以外に「ボラーン」な古さを担うものは ないのか。 催して,きちんとしたものを保存しようという動き (笹川)ないと思う。アンコール時代は,領土も広く,頂点 があると聞いた。今のお話だと,カンボジアではそ にあったとされる。その後は,ポスト・アンコール 17 と呼ばれ,「衰退」の時代になる。そして,タイと はフランス語,ということで,隠れてフランス語の ベトナムに攻め込まれて領土も小さくなり,カンボ 勉強を始めた。20年代になって,いよいよフラン ジアは弱体化した。だから過去の栄光をわれわれフ スが本気で政策として進めたときに,パーリ語学校 ランス人が取り戻すのだ,ということになって,独 の先生になるのにふさわしい人物として,2人が推 立した後は,シハヌークが,ロン・ノルが,ポル・ 薦されて,極東学院に行く。そこで,フランス人の ポト政権がずっとそれを目指してきた。 オリエンタリストから,サンスクリット語やパーリ (高松)では,山はひとつということか。 語,アンコール碑文の読み方,仏教学といったもの (笹川)そうだ。実際は取り戻せはしないのだが。あとは, を習ってくる。1922∼1923年だったかと思う。 私自身,わかってはいるがうまくまとめられていな そうすると,パーリ語学校でも,タイに留学してい いことだが,フランスの植民地になったから近代の たそれまでの先生と,がらっと教え方が変わってし 概念が生れた,というだけの話ではない。タイが先 まった。結局,もともとあったものは何か,フラン に,イギリスなどの影響で近代的な価値観を身につ スから影響のあったのは何か,という問題は整理し けていた。そこにカンボジアのお坊さん達が留学し にくいところがある。 たり,王族がとらわれたりしたことを通してカンボ ジアに入ってきたタイの文化というのは,ある意味 近代を経験しているのであって,それをどう説明で きるか,と考えている。 (藤原)タイとカンボジア,というナショナルな関係よりも, (藤原)その2人にとっては,アンコール遺跡は伝統ではな かったのか。 (笹川)仏教界では彼らこそそういう意識をもっていた。ル イ・フィノから碑文を習ったので,クメール人で碑 文が読めるのはこの2人が最初だ。 仏教的なものとフランス的あるいは西洋的なもの, という関係で捉えられるのかな,という気もする。 (笹川)しかし仏教自体,少なくとも19世紀後半から20世 紀初頭までは僧がタイに留学していたわけだし,ま 所なのか。 (笹川)一生のうちに一度は行っておきたいところ。その程 た,タイでタンマユット派の改革運動が起これば, 度には刷り込まれている。実際,ある程度の層は, その数10年後にはカンボジアに入ってくる。フラ 行けるようにもなっている。 ンス側はその紐帯を切りたかった。また,そもそも タイのバックにはイギリスがいると思い込んでいる から,留学してほしくないと考えている。 18 (高松) 「超」一般人にとって,アンコールとはどういう場 (岡田)アンコールを相対化するような文化的アイコンは, カンボジアにはないのか。 (笹川)ちょっと今の段階では見えてこない。 当時,タイ留学の目的は,パーリ語の教育を受け 最後に,現代のカンボジアについて少し触れてお ることだった。それなら,自国にパーリ語学校を作 くと,2000年前後から,タイのポップスをパクる って勉強すればよいということになる。そしてカン ようになった。曲そのものをパクるのだが,クレジ ボジア版のお経を編纂すればタイに行かなくてよい ットには,オリジナルのタイ人の名前は出てこない。 だろうと。すると,その政策に乗っかってくるお坊 歌詞は勝手に付け替えてしまう。 さんもいた。20世紀初頭,まだタイに留学してタ (藤本)タイで発売されたら,すぐにパクるのか。 イ語を勉強するのは当たり前,という時期にお坊さ (笹川)海賊版がすぐに出回るので,タイで発売されたらも んになっている人たちが,植民地化されてこれから う数ヶ月後にはカンボジアでも出るという状況だっ た。それが,ここ1∼2年で,タイのコピーばかり なのはけしからんということで,ずいぶん減っては いる。タイの曲はパクるのに,カンボジアの別レー ベルが出した同じ曲の場合は,律儀に歌詞だけ変え ているのがおもしろいところだ。こういった例がた くさん出てきている。 写真1 笹川秀夫氏(左から2人目) 19 第13回 陶芸をめぐって 1.報告「焼物の歴史・評価のいろは」 (藤原貞朗) 第11回研究会前半の記録 2.インタビュー 安倍安人氏をお迎えして 第13回研究会の記録 1.12月のゲスト:安倍安人さんについて 安倍さんの作品のうち,備前の伝統的な焼物数点が3∼ 4年前にメトロポリタン美術館に収蔵されたが,日本の美 術館にはまだ入っていない。また,最近は―彼はもともと 画家だったのだが―90年代あたりに,現代アートの一部 クリエーター/パフォーマーをお迎えしてお話を伺う企 門としてのクレイワークというジャンルに属するものも作 画の3回目は,陶芸をテーマに,2007年12月16日に開 っている。こういった作品は,去年,京都近代美術館に2 催された。ゲストは陶芸家の安倍安人氏。それに先立って, ∼3点入った。ともかく,陶芸界ではユニークな存在であ 2007年2月10日の第11回研究会において,研究会メン る。 バーの藤原貞朗が,陶芸に関する入門的な内容を簡潔にま 安倍さんの作品は,備前のなかでも特異なものである。 とめた報告をした。ここにはまず藤原による報告の記録, 焼色がまったく違う。彼しかこういう色を出すことができ 続いて安倍氏インタビューの記録を掲載する。 なかった。何回も焼く手法が特徴で,こういうことは,こ れまでの近代の備前ではしないことだ。だからと言って完 1.報告「焼物の歴史・評価のいろは」 (藤原貞朗) ∼第11回研究会より <日時>2007年2月10日 (土)13:00∼17:30 全に孤立して制作しているのではなく,最近,若いお弟子 さんが学びに来ており,伝統と創造を考えるにはうってつ けではないかと思っている。 <場所>聖徳大学2号館1階研修室 <出席者>岡田裕成,小塩さとみ,菅聡子,田井竜一, 高松晃子,藤原貞朗,根来章子 (研究補助), 土田真紀(ゲスト:元三重県立近代美術館学芸 員・美術史) <スケジュール> 2.焼物の種類とヒエラルキー まず,安倍さんが手がける備前焼がいつ頃生まれたか, といった話から始めよう。 最初に,ヤフーオークションのトップページをプリント した資料を見ていただきたい。これにより,陶磁器がどう 1.これまでの研究会のレビュー[省略] いう分類をされているのか,手っ取り早く理解できるので 2.報告1 はないかと思う。 藤原貞朗「焼物の歴史・評価のいろは」 〔休憩〕 3.報告2 土田真紀「工芸における伝統議論」[本研究 会報告書『伝統から創造へ2』に収録] 日本の陶磁器の分類の中で一番上にあるのが備前。現在 最も人気があるということだろう。その下に伊万里,有田 が続く。件数としては伊万里,有田の方が多い。また,レ ジュメの次ページに,いわゆる人間国宝を列挙したが,備 藤原 貞朗「焼物の歴史・評価のいろは」 【報告】 前は常に現存作家がいる状態である。 一般的に押さえておきたいのは,日本における焼物には, 前半は陶芸のイロハについてお話しし,後半は,今回作 まず唐物があり,その次に朝鮮半島の高麗物があり,最後 成した陶芸の研究年表に基づいて,近代の陶芸史において に和物,というヒエラルキーがあることだ。このヒエラル 伝統というものがどう関わってくるのかということをお話 キーは,室町,桃山,江戸時代を通じて形成されてきてお ししたい。 り,今日でも基本は揺るがない。 また,それぞれ唐物や和物のなかにも階層があり,基本 20 的には南宋元あたりのものが一番といってよいかと思う。 203件,高麗物37件,和物108件(ほかにベトナムのも 国宝のものも,このあたりのものが一番多い。いわゆる のが10件とタイのものが1件)となっている。国宝は14件 「名物」などの名品は,名の知れた巻物よりも高い値がつ のうち,唐物8件,高麗物1件,和物5件で,やはり中国 くことがある。工芸は,あまり学術的な対象とはならなか のものが多い。国宝は日本のものだけだと考えられがちだ ったが,コレクターにとっては,書画以上にランクが上だ が,そうではない。工芸品全体での国宝指定は252件で ったといえる。 あるので,このうち陶磁器の占める割合はごく少数である 国宝とは,近代に生まれた名称であるが,「大名物」と と言える。 は,江戸時代に松平不昧が名づけたものだ。今日でもその 分類は,産地で分けるのがわかりやすい。先のヤフーの 名前を一部踏襲することがあり,大名物,中興名物などと 分類では中国は時代別に分けているが,日本の場合にはそ いっている。これは主に,唐物を中心に,室町の後期から うすると,桃山,江戸,近代の区分で終わってしまう。有 桃山時代に集められたもの。 名な伊万里も,江戸時代から。近代以降の陶芸の評価はた 日本の陶磁器の歴史,とくに茶器の歴史について言えば, とえば「人間国宝」だとか,日本工芸会会員とか,そのよ 桃山時代に,有名な千利休が登場し,ここで,和物がお茶 うなレッテルがひとつの規準となっているが,古陶磁を理 席に登場する。室町時代までは,唐物中心で,高麗物が少 解するには,桃山時代の美学や江戸の大名趣味のようなも し,といった感じだったのが,桃山時代になって日本の焼 のを知らないといけない。 物が登場してくる。その背景には,お茶そのものの変化が 今の人間国宝の形ができたのは戦後である。1950年に あった。だからこそ,千利休が芸術的な革新者として取り 文化財保護法ができて,無形文化財指定者が生まれるのが 上げられる。室町までは,どちらかというと,仏教の中で 1952年,その後,1954年に法改正されて現在の「重要 の宗教的な儀式,あるいは,建造物でいえば,書院のなか 無形文化財(人間国宝)」ができた。長い陶芸の歴史のなか で行うような,派手な形での儀式だったのが,桃山時代の では,ごくごく最近のことにすぎない。 美的受容の変化の中で,渋い,今の形のスタイルが確立し て,茶室が作られた。それゆえ,桃山以降の和物は,唐物 や高麗物の写しというよりは,時代の流行を反映した独特 の芸術性をもつ特徴を有しており,愛好者もまた少々変わ った芸術趣味をもつものであった。 (岡田)戦前には,人間国宝に相当するような制度はなかっ たのか。 (藤原)ない。戦後に指定されるまでは,荒川豊蔵ですらか なり苦労したようである。はじめのころの人間国宝 備前,伊賀,瀬戸,特に唐津,美濃あたりは,桃山を代 にしても,今ほどの権威はなかった。1952年と 表する焼物であるが,産地については難しい問題をはらん 1954年の間に,なぜ改正があって選ばれる人が変 でおり,未解明な部分が多い。京都で新しい形のお茶を作 わったのかは議論されているところだ。辻成史氏は, った集団が,唐津や美濃の陶工集団に自分好みのものを作 ここに民藝の濱田庄司が入ってきたりすることを重 らせたと考える人もいる。というのは,例えば,美濃で発 視しているが,このあたりは今も謎である。 掘しても,志野や織部は1930年代までその陶片が全く出 1960年頃までの陶芸史を考える上では,人間国 てこなかったのに,京都からは出てくる。ということは, 宝のうち,特に,富本憲吉,石黒宗麿,濱田庄司, 京都の人々が美濃で焼かせて,それを持ち帰って選別して 荒川豊蔵,三輪休和,金重陶陽,中里無庵,加藤唐 いたと考えるのが妥当だと言われている。 九郎は,欠かせない名前である。 昭和39年時点では,重要文化財359件のうち,唐物 21 (岡田)帝室技芸員に選ばれていたのはどのような人物か。 (岡田)なぜ多いのか? (土田)高村光雲など,ちょうどアルチザンからアーティス (藤原)国宝の和物5点のうち2点が仁清というのは,異常 トへの境目にいる人。高村光雲にしても,出自とし といえば異常。重要文化財の指定は仁清研究が始ま ては完全に職人であったのが,東京美術学校の彫刻 ってかなり経ってからなので,仁清像が個人の名前 科の教授になっていった。江戸時代の職人の地位は, とともに出来上がり,それが一人歩きした結果だろ おそらくヨーロッパに比べると高かったと思う。た う。 だ,社会的な地位としてはそれほど高くなかったか ら,そういう人たちを美術学校の教授にするときに, 先ほども触れたが,大名物や大名のコレクションの研究 裏付けとして一定の役割を果たしたのかもしれない。 は江戸時代にもあるが,日本の陶工の研究はなかったので, (藤原)陶芸に関しては,1927年に,帝展で初めて陶芸部 陶工の名前は長く忘れ去られていた。それが,明治時代, 門ができる。1925年頃がひとつの転換点といえる 日本が日本美術の編纂をする時期に入って,仁清研究が立 かもしれない。陶芸で食べていけるかという意味で ち上げられた。例えば,1900年のパリ万博の際に作成さ はまだまだであるが。 れた『稿本日本帝国美術略史』 (1901年)の陶芸の項目に (岡田)東京芸術学校には陶芸科はあったのか。 も,仁清の名が特筆大書されている。つまり,唯一,仁清 (藤原)当時はなかった。富本憲吉が,1935年に帝国美術 だけが研究されており,京焼についての歴史がわかりつつ 学校,1944年には東京美術学校の教授になってい あったということだ。備前や唐津,志野など今日の和物の るから,44年になれば芸大にもそういうのがあっ 中心として語られる茶器類は,ここにはほとんど語られて たことがわかる。ただ,独立したものではない。独 いない。その代わりに,置物やら変わったものが図版で載 立した陶芸科ができるのは,京都市立芸大が初めて せられている。パリに出品したときの美術史にはこういっ だと思う。 たものが堂々と出ていたが,今の陶芸史には出てこない。 つまり,どこかでこういうものが排除されていくわけだ。 日本は陶芸の国だが,陶芸家がそれで食べていけるよう になったのは戦後で,ごく最近のことであると言える。 3.近代陶芸史 今回配付した人間国宝の表のなかに選ばれているのは,現 次に近代陶芸史について,大きく4段階に分けてチャー 代の陶芸を代表するものとして,ある種の目安になると思 トを作成し,整理してみた。研究史を手がかりに時代を区 う。この表にないものも当然ある。 切ったが,作陶の歴史としては,また違った時期で切るべ 人間国宝とは個人に対して与えられるものだが,この称 号が一般的な市民権を得るようになってからは,焼物の産 きなのかもしれない。ただ,私が研究するとすれば,研究 史と作品の歴史を重ねる点が特色になろう。 地の格付けなども大きく変わった。特に,70年代頃,小 第1段階は1900年までで,第2段階が研究上の一つの 鹿田焼などが国宝に入るようになってから,ずいぶんと様 ピークである1910年から1925年。第3段階の1925年か 変わりしたように思う。 ら1945年が,日本で作陶が盛ん行われる時期で,第4段 岡佳子氏は,なぜ国宝に仁清が多いのか,という問題提 階は1950年から1960年とした。 起で『国宝 仁清の謎』 (角川叢書,2001年)という本を 書いている。 第1段階:対西欧(ジャポニスムの時代) (1870-1900) 1900年頃までは,桃山のものも知られていない。それ 22 は人気がないという意味ではなくて,表に出ていないとい ーク。輸出陶磁器が中心で,欧米での需要が大きか うことだ。美術館はもちろんなく,個人が収集していたも った。ただし,品質はよくなく,美術品の名に値し のは外に出てくる機会がなかったからだ。中国のものも状 ないものではあった。 況は同じ。そのような中,1870年代に蜷川式胤(のりた ね)が日本全国を調査してまわり,陶器を収集して『観古 輸 出 陶 磁 器 が 中 心 の 時 代 が 1900年 頃 ま で 続 く が , 図説』を作成した。この書の長所は,ほぼ実物大なので本 1900年の万博で輸出陶磁器が不振になり,1903年に京 物をイメージしやすい点だ。今とは違う感覚でとてもおも 都の陶工たちの間で「遊陶園」が結成された。大雑把に言 しろく,リトグラフがよくできている。それでも,今の知 うと,もっと品質のよいもの,ヨーロッパに通用するもの 識からすると,掲載されているのはほとんど大したもので を作ろうという動きで,まさにアール・ヌーヴォー風な感 はないものばかりだ。名品と言われるものは一つもあがっ じのする作品がある。浅井忠の作品や,初期の板谷波山も, ていない。 大きな流れでいえば,アール・ヌーヴォー風なものからの 出発といえると思う。 (岡田) 『観古図説』は個人で作ったのか,何かバックアッ プがあったのか。 (藤原)そこがポイントで,今まではそういった調査はほと 法律的には,1898年に古社寺保存法が制定される。こ れは国宝に相当するものだ。同時期に,1900年の万博へ の出品物が選定される。ただしこの法律は,名前どおり, んど個人が趣味でやったと考えられていたのだが, 寺院,神社しか対象としておらず,旧大名は対象からはず 今井祐子氏の研究によって,どうやらそうではない れる。つまり,陶芸はここに入っていない。法的な制定が ということがわかってきた。というのは,蜷川の 始まるのは,1929年の国宝保存法まで待たねばならない。 『図説』が1877年なのだが,フランス版 (Kankozusetsu, 1876)の方が早く出ている。こ 第2段階:中国・朝鮮陶磁器の再発見 (1910-1925) れをやらせたのが,S・ビング。実際このなかの一 京都の動きは活発で,1917年には好陶会,1921年に 部はフランスに渡り,ビングに買い取られている。 は洛陶会が結成される。この洛陶会において,日本の古陶 (田井)名品がないというのは,コレクターに見せてもらえ なかったということか。 (藤原)そういうことだ。当時は,見せたりするものではな が称揚され,同時に,京焼復興の意図も強く打ち出された。 仁清,乾山,木米を顕彰するために大茶会を催したり,明 らかに京都のやきものの伝統を意識して記念碑を建てたり かったし,そもそも,名品録を作ることではなく, もした。京都の博物館に日本全国から仁清を集めて, 手に入れることが蜷川やビングの目的だったのだと 3,000点から鑑定を経て500点を陳列するという展覧会 思う。 も開催した。 フランスに渡ったものの一部は,たとえば1883 第2期には,また別の大きな動きがある。まずは,高橋 年のルイ・ゴンスの『日本美術 L’Art Japonais 』 箒庵に注目したい。1921年から1926年に,『大正名器 に図版入りで掲載されている。その後,蜷川のコレ 鑑』全9冊を刊行した人物である。これは,江戸期の松平 クションは有名なモースのコレクションとなる。要 不昧にならい,明治,大正,昭和の名物記を作ろうとした するに蜷川の焼物研究は外国人に協力して行った研 ものである。彼は,富裕層の茶会に参加しては,彼らが持 究といってよいだろう。 っていたものを観察していた。それが可能になったのは, ジャポニスムの時代の陶芸生産は1880年代がピ 1910年から1925年の茶道具大移動と関連が深い。岡佳 23 子氏によると,「大正期に鑑賞陶器や茶陶の研究が著しく 1916年の彩壺会が,特筆すべきものである。中心人物の 進展したのは,実作品が世に現れてきたためである。高橋 一人,奥田誠一は,10年後の1927年に東洋陶磁研究所 箒庵が『大正名器鑑』を編纂できたのも,大名物や中興名 を設立した。また,美術雑誌『國華』にも,唐物や高麗物 物が,当時の財界人たちの茶会で実際に使われていたから に関する論文が次々と発表された。これらは新しい研究の であった」 (『国宝 仁清の謎』)。大名の家族たちの持って 流れだといえる。中国・韓国の新しいもの,今まで知られ いたものが戦争の混乱期に市場に出て,それを企業家たち ていなかったものについての研究なので,江戸までの名物 が購入し,一般の人々も近づくことができるようになった 研究とはかなり違っている。 のである。 それを示す当時の資料としては,研究者の第一人者であ 東大初の美術史の教授に就任した瀧精一は,1921年, パリで開かれた国際美術史会議に日本代表として参加し, る奥田誠一が,1928年に「欧州大戦の結果,我が財界の そこで中国の古陶磁を見て帰ってきた。次の引用は,その 好況と戦後財界不況の変動は,積極的にも消極的にも色々 ことについて瀧が述べた,「欧米に於ける東洋の古美術品 な動揺を伝えて,旧諸大名や富豪の宝庫が開かれ,数百年 に就いて」という講演の筆記である(『國華』282号)。瀧 来,世の風に当てられなかった珍什佳器が公衆の面前に暴 は何度も,「焼物の事に就いて私の興味を持つに至つたの 露される様になって,一般人士の芸術に対する鑑賞欲は一 は近頃」,と繰り返しながら,二度目の欧米訪問で「特別 時に盛んになると同時に,これが刺激に依って,工人は製 に興味を持って見た」のは,イギリスのユーモルフォパウ 作に活動せねばならぬ様になった。」と書いている(「東洋 ロス(George Eumorfopoulos, 1863-1939)等が蒐集・ 陶磁器の完成」『陶磁』第1巻第5号,1928年)。 研究した「漢から唐宋元あたりの」陶磁器だった,と述べ ただ,工人たちが昔のものを見られるようになったこと ている。興味深いのは次のくだりで,「支那陶磁器の研究 で,一つの基準を得て製作活動が活発になったと,素直に を反つて西洋人から教へられる運命に陥りつつあるは悲し 受け取ってよいのかは疑問である。こういったことはどの むべき」と感想を漏らし,古美術に対する価値変換の必要 陶芸研究史をみても出てくるが,それに加えて,私なりに を悟る。彼によれば,「こうした事態を招いた原因は,… もうひとつ重要なことを加えるとすると,それは「中国・ (中略)…江戸時代の名物器を鑑識の標準とする茶人者流の 朝鮮古窯発掘」である。中国では,1907年の鉄道工事に 見方は(…)偏狭の見解を持つ。」からであり,日本的な見 よって多くの墓が掘り返され,多数の唐三彩をはじめとす 方を脱却して,宋元以前のものにも関心をもち,欧米の陶 る古い陶磁器が発見される。すると次々に盗掘が始まり, 磁器研究と肩を並べないといけない,と言っている。 品々が出回ってくる。朝鮮半島も同様で,こちらは日本人 興味深いのは,1920年頃には,瀧のような絵画の専門 が直接関与している。韓国併合後に考古学者がたくさん渡 家も興味をもつほど焼物が流行しているということ。それ り,その後,美術関係者も多く乗り込んだ。あまり数のな までの人はなぜ焼物に興味がなかったかというと,名物記 かった青磁を中心に,優れた陶磁器を探すためである。こ と美術研究は別ものと思っていたからだろう。 うして,中国や朝鮮半島のものが見られるようになり,展 覧会も数多く行われるようになった。もう一つ重要なのが, 1912年の中国の革命である。これを機に,中国秘宝が流 出し始める。 第3段階:日本の伝統をめぐる競合 (1925-1945) いずれにせよ,1925年頃までには色々なものがひとと おり出揃ったといえるだろう。江戸期までの日本の伝統的 陶芸研究史としては,1910年代頃からこの中国物・朝 な唐物,高麗物を実際に目にすることができるようになり, 鮮物の研究が活発になってくる。1914年の陶磁器研究会, 再び中国,朝鮮半島のものへの関心が出てくると,それな 24 りにいいものも見られるようになってきた。そういう中で, 顧客もそれなりにいた。 1925年くらいから,日本国内で芸術的によいものを作ろ 織部が有名な唐九郎は,『陶器大事典』を編纂した研究 うという動きができてくる。25年以降,桃山派(桃山陶芸 者でもある。1936年に唐九郎は,魯山人の雑誌に,「織 の復興を目指した人々)と柳宗悦の民藝運動という2つの 部こそ日本の真のやきものなり」というような論文を掲載 柱を並べてみると,当時の状況がよくわかると思う。 している。このように,この頃には「日本の」焼物や「真 民藝は朝鮮陶芸の紹介から始まった。朝鮮の陶器は日本 の」焼物が意識されるようになっていた。豊蔵は,1930 でも昔から知られていたが,それほど芸術的な価値が見い 年に美濃で志野の陶片を見つけて,美濃が志野の焼物だと だされてきたわけではなかったものを,1920年頃,柳宗 いうことを証明した人である。美濃に窯を築いて作品を作 悦が盛んにその素晴らしさを説き始める。柳は1921年に, り始めるが,最初はまともなものができなかった。どうし 韓国に朝鮮民族美術館を設立しようと動き始める。同じ時 たらその陶片のようなものができるかと,最初は器として 期に奥田誠一も,満州,中国,朝鮮に調査に行った。柳は は成り立たないレベルからはじめて,友人たちの協力も得 研究家というより思想家であり,その影響力は大きかった。 ながら,初めての個展が1941年。そもそも日本の古陶で 民藝派と呼ばれる人たちの当初の作品は,かなり朝鮮半島 すら名物でなければたいして値段がつかない時代だったの のものと近いと言ってもよいのではないだろうか。例えば, で,近代の作家が作ったものはそれほど値段がつくはずが 河井寛次郎がその例だろう。 なかった。 陶芸家の地位が今ほどにまで上がったのは,戦後のこと (土田)直接的な影響を感じさせるものもあるが,朝鮮だけ だと考えてよい。戦後,重要無形文化財ができる前の桃山 ではなくて沖縄等いろいろな影響がある。河井寛次 派は,日本農村工業振興会を作り,そこで教えていた。民 郎の場合は中国や朝鮮からかなり影響を受けている。 藝は1920年代からこういった活動をしていたので,その 模倣的な側面があると思う。 桃山復興を目指した人たちが活動し始めるのも,同じ頃 のことである。魯山人が東京に料亭を作るのが1924年。 第4段階:統合の模索(1950-1960) 鎌倉につくった窯に,京都で作陶していた荒川豊蔵を呼ぶ 無形文化財の指定を受けた時点から,無形文化財日本伝 のが1926年のことである。この荒川豊蔵と加藤唐九郎の 統工芸展が始まる。1954年に第1回が開かれたが,この 2人は,桃山陶芸の復興を語る上で欠かせない人物である。 時点では,無形文化財に選定された人たちの作品を展示す この頃の他の重要事項といえば,帝展に工芸部門ができた ることが目的だった。つまり,文化財の指定を受けたもの こと。25年あたりに,焼物の芸術性が一般的にも徐々に の,一般にはあまり知られていなかったわけである。 市民権を得てきたと考えてもよいのではないか。また, 1955年には,人間国宝と旧無形文化財指定者によって日 1932年に,唐九郎が「陶芸」ということばを作ったと言 本工芸会が作られ,それが今日の日本工芸界に見られるあ われている。逆に言うと,それまでは陶芸ということばは る種アカデミー的なものの出発点となる なかったのである。 ここにきて,芸術性が意識されるようになる。例えば, 1925年からの流れでいうと,このあたりが伝統を統合 しようと試みられた時期である。特に1954年には,富本 1930年頃に,唐九郎や魯山人,そして小山冨士夫が,民 憲吉や濱田庄司も人間国宝に指定されて,日本工芸会に名 藝批判をおこなう。当時は民藝のほうが彼らより陽の当た を連ねる。 る場所にいたといえる。河井寛次郎は毎年展覧会を開催し, 日本の伝統と一口にいっても複合的である。考え方は大 25 きく分けて2つあると思う。ひとつは民藝のいう伝統。日 たいという意志があったのかと思うだが,どうだろ 本各地に残るものを保存していこう,あるいは伝承してい うか。 こう,という伝統観である。一方,桃山復興を目指した人 (藤原)昔のものを知って,いいなと思って見ているうち たちは,桃山イコール日本というわけではないが,日本の に,作ってやろうという気になる。どうやって作る 芸術的な伝統というものを構想し,すでに失われた日本陶 のかはわからないが,純粋に作りたいという気持ち 芸の源流を伝統とみなし,それを復興させようとした。伝 はあってもおかしくない。作る人から見れば,創作 統復興という観点である。 意欲がかき立てられるのは織部だろう。 芸術的な伝統なのか,民衆的な伝統なのか,両者は交わ (田井)桃山時代を評価するような言説は残っているのか。 りつつも,対立することも多々あった。その対立の様相は (岡田)やはり桃山はカノンではないだろうか。和物は茶と 非常におもしろい。1955年に日本民藝館で初めての茶会 完全に結びついていて,茶と言えば,やはり利休と が開催されたとき,柳宗悦も茶の講座を開いたが,その裏 いうことになる。要するに,物自体のスタイルより で桃山の人たちは新しい陶芸の茶会を催しており,現実的 も,むしろ好んだ人のスタイルが重視される。鑑賞 には対立関係がかなり鮮明になってくる。ただ,制度的に 側の関与が大きいというのは,日本の美術には非常 は統合の試みがなされていく。 に特徴的なことであるが,茶の世界は特にそれが甚 また,最初は,「日本伝統工芸会」という名前であった だしいという印象がある。特にそれがあらわれてい のが,「日本工芸会」に変わったという経緯がある。その るのが,「利休好み」や「・・好み」という概念だ。 理由を,安倍安人さんが,当時は伝統というと民芸的なイ 茶との関わりからすると,やはり桃山は何かしら特 メージがあったのでそれを削ったと聞いている,と証言し 別で古典的なカノンとして,選択されるべくして選 ている(辻成史編『伝統』)。 択されたのではないかと思う。 伝統ということばは大きく変転を繰り返すので,その後 も観察していかなければいけないだろう。 (田井)桃山時代が日本の焼物の頂点だという意識はあった のか。 (藤原)茶器では(唐九郎が「織部こそ日本の真のやきものな 【質疑応答】 り」と言ったように)そのような感覚はあっただろ (田井)桃山派の登場についてであるが,選択肢がいくつか う。しかし,それ以外については,別の美学もあっ あるなかで,なぜ桃山の復興という方向に進んだの たというべきだろう。展覧会のためにつくる鑑賞陶 か,その文脈についてお聞きしたい。 器などでは創作的なものがやはり好まれたし,だか (藤原)なぜ桃山の古窯の陶器だったか,答えることは難し い。伝世の名物をじっさいに見ることができるよう らこそ「陶芸」という発想も出てくる。 (菅) 加藤唐九郎の33年の筆禍事件とは何か。 になったということは大きな要因であろう。また, (藤原) 『黄瀬戸』という本の中で,瀬戸焼の陶祖とされて 直接関係があるかはわからないが,中国や朝鮮の発 きた神話的人物を実在しないと書き,非難を受けた 掘を知って,陶片集めや考古学的な関心から,徐々 というもの。 に桃山へと向かって行った面もあるかもしれない。 (菅) 学問的には正しいのか。 とにかく,当時は作っても売れないのに,よくぞ作 (藤原)それはわからない。 ったと思う。 (高松)陶祖という伝説的な人物が表面化したのは,やはり (田井)桃山の古陶磁に何らかの発見があって,それを探り 26 復興運動のおかげなのか。それとも,瀬戸の人たち には,こういう人物がいたようだということが伝わ とした人たちは学問史のうえでは重要だが,陶芸愛 っていたのか。 好家全体からみれば,それほど大きな事件でもなか (土田)そういった伝説はよくあるものだ。実際に歴史的に っただろう。瀧がそれまでの鑑賞方法がダメだとい 立証はできないものだが,彼らにとって存在をもつ くら言ったところで,数寄者の世界にまではその影 ということは,何らかの意味があると思う。 響力は及ばない。いくら研究していても,その中に (藤原)特に瀬戸の人たちにとって,1930年代は嫌な思い は入っていけないものだ。 が溜まっていく時期だ。例えば,志野は瀬戸で焼か (土田)やはり,ものを見せ合う必要があるからだろう。一 れたことになっていたから,焼物の最高位は瀬戸に 人で買えるものには限りがあるし,特にお茶関係は あると一般的に思われていたのが,次々と否定され, その側面が強い。 地位が落ちてしまう時期であったのかもしれない。 (高松)瀬戸物ということばはいつ頃生まれたのか。 (藤原)昔はいいものを指したのかもしれないが,このあと 悪いものの代名詞になってしまった。 (高松)ことば自体は以前からあったのか。 (藤原)ことばとしては,古いものだと思う。 (藤原)学者ばかりの会が面白くなかったので,彩壺会がで きた。 (岡田)この流れは,編年的な陶芸史を再編成しようとした ということだと思うが,そこで研究しようとした人 たちが思い描いた,陶芸史の範囲はどういうものか。 (藤原)名物記では伝世の茶器が中心に研究されるが,そこ (高松)その場合は,あくまでも瀬戸のものという意味か。 からもれるものが新たな研究対象となる。伝世では (藤原)さぁ,どうでしょう。 なく新坑の発掘品なども重要になる。実際のところ, イギリス人がそれをやりとげてしまったのだから。 (岡田)瀧精一について。美術史において陶芸史も構築しな ければいけないと言ったそのあと,どうなったか。 (藤原)瀧が陶芸研究をすることはなかったが,奥田誠一に (田井)ヨーロッパでやっていたことが,日本でやっていた こととかなり乖離しているということか。 (藤原)西洋人は編年的に集めたり,フォルムや装飾によっ ついて言えば,27年に東洋陶磁研究所を設立し, て分類したり,と日本人の蒐集傾向,研究傾向とは 30年にイギリス東洋陶磁協会のホブソンが来日し まったく違った。 て,奥田と意見交換をしたりしている。 (岡田)奥田はどういうポジションの人物か。 (藤原)研究者で,のちに東京国立博物館の館長にまでなる。 2.インタビュー 安倍安人氏をお迎えして ∼第13回研究会記録 (土田) 東洋陶磁研究所には東大の心理学教室出身者が多い。 <日時>2007年12月16日 (日)11:00∼17:30 (藤原)その中には,田中豊蔵や,考古学者の関野貞など, <場所>備前焼ギャラリー青山→お茶の水女子大学文教育 その後の日本の美術史を担っていく人たちがいる。 彼らは,かなり学問的にやろうとした人たちだ。江 学部2号館110教室 <出席者>岡田裕成,小塩さとみ,田井竜一,高松晃子, 戸の方法論から脱却したいという意識を強くもって 藤原貞朗,藤本寛子,根来章子(研究補助)+ いたと思う。 辻成史(ゲスト:大手前大学人文科学部教授), (田井)裏返して言えば,学問的なアプローチを行わない人 たちもいたということか。 (藤原)いた。というよりも,学問として陶芸研究を行おう 今井祐子(ゲスト:福井大学教育地域科学部講 師),藤田りん子(ゲスト:ウィーン大学),オ ブザーバー5名 27 <スケジュール> 1.安倍氏個展鑑賞 〔昼食〕 2.安倍安人さんをお迎えして の風景を描いた絵を喫茶店にかけていたら,画商か ら連絡があった。「契約しないか」と。結局15万円 で契約した。今で言えば200万から250万ほどに 相当する金額だ。29歳で会社を辞め,日生劇場で 初個展を開いた。 今回のゲストは陶芸家の安倍安人氏。アート関係のクリ 当時それだけの給料をもらうとつい何かに使いた エーターをお招きするのは今回が初めてである上,いきな くなるもので,その対象が古美術だった。たくさん り備前焼の大御所をお呼びしてしまい,一同これまでにな の贋作を買った。そのころ―金重陶陽,藤原啓が人 いほど緊張しながら,まずは,個展開催中のギャラリーを 間国宝だったころだが―ふと「これは備前か?」 訪問した。そこには何とご本人が。ご自分の作品を「どう 〔古備前とかなり違うのではないか?〕という疑問 ぞ」と無造作に手渡すと,我々素人の恐る恐るの質問に, を感じた。それなら自分で作らなければ,というこ 丁寧に答えてくださった。午後のインタビュー・セッショ とで,あくまで趣味として陶芸を始めた。展覧会に ンには,辻成史さんをはじめ安倍さんのご友人やメンバー 出したり売ったりすることは考えなかったので,窯 の知人など8名の方々も参加,熱心な議論が展開された。 から出たらすぐ割ってしまう。絵で稼いだお金で薪 そのレポートを掲載する。 を買って焼く,できたら割る,という生活だ。77 年,虎ノ門で古美術商していた友人が私の焼いたも 【ゲスト略歴】 安倍 安人(あべ あんじん) のを見て,「すごい古備前がある」と。それでは展 覧会ということで,1回目の展覧会を開いた。 1938年生まれ。陶芸家。現代美術研究所宮本三郎教室 ろくろをひいていると桃山の心の破片が出てく にて画業を志し,1972年に作陶を始める。1986年に岡 る。その破片と破片を継ぎ合わせてぴたっと合った 山県牛窓町(現・瀬戸内市)に築窯。安土桃山期のいわゆる ときの快感がたまらない。焼物は,人間が本能的に 「古備前」の復興者,継承者と言われ,その作品はメトロ 興味を抱く火,水,土がひとつになっているものだ。 ポリタン美術館にも収蔵されている。 責任をいろいろに転嫁できるところもいい。立体や 平面は私の理念だとすると,焼物は情念と言えるだ 絵画から陶芸へ ろう。 (藤原)前もって質問を4点ほどお送りしてあるので,それ に沿ってお話しいただこうと思う。まずは経歴につ いて。お生まれは昭和13年で,32年から絵画の修 (藤原)今日は作品を1点(彩色水指)お持ちいただいたが。 行,47年に陶芸の初の展覧会を開かれた。 (安倍)どのような過程でこれができたか,という話にして (安倍)昭和32年に高校を卒業し,進学するつもりで東京 28 焼物の「味」とそれを決定するもの いこう。まず焼物というと一般的に,窯,土,燃料, に来た。ところが,高校時代の彼女が忘れられず, 時間についての質問をいただくが,私はこれを全部 故郷に帰ってしまったことが人生の転機に。親は驚 否定する。これらは焼物と何の関係もないからだ。 き,彼女も結婚してしまったために,翌年再び上京 というのは,焼物とは「味」の世界。「味」から時 したが,学校へは行かずに研究所に入り,やがてサ 代を判断することができる。たとえば桃山なら,北 ラリーマンになった。課長代理に昇進した頃,箱根 から南まで全部桃山の顔をしている。土が表現して いる「味」はその時代で統一されているから,特定 リケン粉や山芋を入れたところ,つなぎが多くなっ できるのだ。それを決めるポイントは温度で,数値 て,いつのまにかメリケン粉で蕎麦を打つようなも は3つ。3つの数値と酸化と還元で成り立っている のだ。 のが焼物。その結果がこの作品だ。 現代の焼物が,古いものと全く違うもうひとつの 以前,こういう実験をしたことがある。私は岡山 原因は釉薬だろう。魯山人が古陶を復興したときに, のほかに島根にも窯をもっているが,そこに専門学 長石釉に着目したことがずれの始まりではないか。 校生に自分の作品を詰めさせ,私は岡山から,一定 しかし実際に志野の釉薬を分析してみると,シリカ の温度に達したらどうしろ,ここで還元,ここで酸 と酸素しかない。シリカとは桂石 (ガラスの原料) だ。 化,と電話で指示した。すると,計算どおりに上が シリカは元素だが,長石は純度が悪い。長石釉と思 ってくる。私のところのアルバイトもそれを覚え, いこまずにシリカだと見抜いていたら,焼物も変わ みなが私のようなものを焼いている。古備前や桃山 っていただろう。では,釉薬を桂石釉に代えたらい を再現しようなどと思ったことはないのだが。 いと思われるだろうが,今の設備ではどうにもなら (藤原)絵が売れて古美術を蒐集するうち,「これが備前か」 ないというのが日本の現状だ。 と疑問をもたれたということだが,どのあたりが古 (藤原)先生は志野はお作りになる? 備前の風格と違うと感じられたのか?陶陽は,古備 (安倍)挑戦しようと思ったがお金がない。京セラや旭化成 前を復興しようとしていたわけだが。 (安倍)古備前と陶陽さんの備前は似ていない。ここに分析 ならすぐできるだろう。陶芸家は,あの世界と陶芸 ―窯の前に注連縄を張ってお酒あげて手を打ってと 表があるが,古陶磁と現代陶磁は分子構造が違う。 いう世界―とは違うと思っているのが問題だ。京セ 分子の構造が違えば見てはっきりわかる。日本の陶 ラなら,さきほどの3つの数値を拾えば実に簡単だ 芸全集などを見ると,備前の名器と呼ばれるものは ろう。分子構造は複雑に絡まっている。それに熱を 5回も10回も焼いているのがわかる。なぜかとい 加え,一定の温度がくると並列になる。それが一つ うと,日常から遠いものを求めたからだ。ところが, 目のポイントになる温度で,このときに硬度が出る。 陶陽さんの時代に民俗学者の桂又三郎が田土説(桃 次のポイントになる温度帯にもっていくとまた絡ま 山の名品は第二次粘土である田土を使ったとする) るが,そのときに軟度が出る。現代備前は,硬度の を唱えた。この土は本来つなぎに使うものだが,陶 みで軟度がないから,落としたら粉々だ。古い備前 陽さんは田土100パーセントで作った。窯たきは はひびが入っても使えるだろう。 非常に難しい。ナトリウム,カルシウム,マンガン が多く,融点が低いために無理が利かない。当然, 桃山のようなものは焼けなくなる。田土説を唱えた 人は自分で焼いているわけではないから,これがわ (今井)現代備前で,硬度はあるが軟度がないという,その 要因は温度ですね? (安倍)はい,窯は関係ない。分子の構造を変えておけば割 れない。変えるポイントは温度だ。 からないのだ。いつしか,田土でないといけないと (今井)それがわかったのは試行錯誤の結果? いうようなことになってしまい,焼ききらずに途中 (安倍)いいえ,最初からです。そんなに難しくなかった。 で炭を入れて焼く,炭桟切という方法を今も行なっ ニューセラミクスとかハイセラミクスの本なんかに ている。これでは桃山の再現にはならないだろう。 出ている。この方法は,燃料の節約にもなる。つま 蕎麦粉100パーセントでは蕎麦にならないからメ り,こういうことです。窯は,焼き続けると薪をた 29 くさん使って地球を破壊する。朝火をつけて1週間 焚き続けるのは燃料の無駄だ。朝つけて夕方やめ, また次の朝…とやると,燃料は3分の2ぐらいです (岡田)何回も焼くとそのたびに自然釉が厚くかかる。色あ いとは関係が…? (安倍)あります。一度の釉でガラス状にしておいて,二度 む。火は上に,水は下に,という摂理があるから, 目で透明になる。1,2,3回目にかかったゴマは 高いところはますます温度が上がる。そこで休ませ それぞれ違ってくる。 ると天井が冷え,次に入れると火は下を這う。熱効 率がいいんです。炊き続けると放熱の量がすぐ飽和 伝統について 状態になって,火はなお高いところにいくから効率 (安倍)実は,私には「伝統」というのがわからない。なぜ が悪い。「私のところは薪をたくさん使う」と自慢 かというと,ひとつは,技術や考え方が現在に伝わ する人がいるが,資源の無駄遣いだから,このこと っているとは思えないからだ。利休が詫び茶の世界 はあちこちで話す。本当は予防接種と同じで,家族 をつくるまでは,器は朝鮮や中国からの借り物。利 にだけやって効きましたというのではなく,みんな 休以後,日常を遮断した,茶のためだけの焼物がで がやることに意味がある。 きあがった。 (藤原) [女性の弟子の]末田恵さんも同じやり方ですか?男 利休から織部へきたときにちょうど家康が天下を 性は我慢が足りない,などということを読んだ記憶 取り,織部は切腹。おそらく家康は,これからの国 があるが。 づくりにあたって,桃山時代を象徴する堺の派手な (安倍)同じやり方です。男性と女性の違いを言うと,男性 商人文化に代えて,質素をモットーとする近江の文 は実に思い切りがいい。負けたらすぐ腹を切る。諦 化を生かしたかったのだろう。だから,利休の哲学 めがいいんですね。でも女性はそこからがしつこい。 が反映された茶碗400個を急いで埋めたのではな だから女性はいいもの焼く。 いか。それが京都の埋蔵文化財研究所にある織部の (岡田)3つの温度と酸化と還元のタイミングで決まるとは 茶碗だ。ここで,伝統らしきものは切られてしまう。 とてもシンプルだ。分子構造が目に見えるようにな 伝統といった場合,「伝統的な社会」というのが った,表面の質感が「味」ということだろうが,そ 背景にあって,それをもとにわれわれの仕事が成り こには釉薬的な効果も含まれて…? 立っていると考えなければならない。でも残念なが (安倍)います。 ら,現在お茶をやっている人はわれわれの作品を使 (岡田)この色のゴマ(自然釉)の効果も温度のコントロール わない。だれが買うかというと,コレクターだ。こ で出るのか。 (安倍)そうだ。だれが焼いても松の灰の融点は1200度。 では,まったく伝統的なものはないのかというと, 完全に透明になる。現代の志野は,そうすると売り 京都の楽〔吉左衛門〕さんや永楽〔善五郎〕さんが 物にならないから,透明になる前にやめている。私 やっていることは伝統だと思う。お茶の世界が背景 のこれは一回透明になり,次の数値で不透明になっ にあるからだ。私たちのは,コレクターが伝統と間 た。私の理論では,透明になったそのむこうに正解 違って買っているのではないか。使ってもらったこ がある。 とがないのに,伝統と言えるのだろうか。 (岡田)何度も焼くというのとは関係ない? (安倍)関係ない。 30 れは伝統と言えるだろうか? (田井)今はお茶をやる人と茶碗を作る人とが乖離している そうだが,ある時期は茶人と創作人が刺激し合いな がらやっていた。今なぜそれができないのだろうか。 (安倍)お茶の世界に原因があるのでは?家元が認めた来歴 のついたものしか使わないので。 角度から見たことないですよね。 (安倍)あれは三方から撮っているが,ほかのはなかなかな い。 (辻) 家元「制度」がつくった一つの制約だろう。 (オブザーバーA)半泥子などは自分で作って自分で喜んで (辻) 話の向きが変わるかもしれないが,作家というもの いた。あの世代はそうだったが,いわゆる家元制度 は今も昔もそれほど「再現」しようとはしていない にはなじまない。 ようだ。これは,近代になって「伝統」という概念 (藤原)非常に衝撃的なお話です。伝統とはよくわからない が通用したから,作家というのは昔のことをやって ということですが,今回の展覧会でも織部様式のか いるように思い込んでいるだけで,実は毎回新しい ちっとした作品がある。自分で作ろうとしたときに, ことをやっている。それには簡単な理由がある。日 伝統という言葉がふさわしいかどうかはわからない 用雑器とは使ったら捨てるもの。だから,「こんど が,古いものに近いものを作り出そうという意図な はこうやったら売れるだろう」と考えて作る。昔と り,古いものはいいというお考えをお持ちではない 同じものを作っても売れないから,作ろうとしない ですか? だろう。実際,昔のとおりやったから褒められたと (安倍)もう一度名品の観察ができれば大きな発見があると いう話は一つもない。たとえば豊蔵は,志野がきれ 思う。どうやって焼いたか,よく見ればわかるから いだったから自分でも作ったが,見た目全然違う。 だ。備前の名品は,明らかにゴマの掛け方をコント 伝統というのはある時代のひとつの観念であって, ロールして焼いていた。1回目,2回目,3回目の 作家はそれほど考えていないだろう。各世代どれ一 ゴマは色が違う。問題は,日本を代表する作品はほ つとして同じものはないことからもわかるように, とんどひとりの方が持っていて,写真もいつも決ま こういう種類の工芸は,古いものの復元が目的では ったものしか公開されていないことだ。展示すると ない。古いもののイミテーションをもらってもうれ きも写真どおりに展示する。有名な花入れなどでも, しくないでしょ。 こっち側は誰も見たことがない。名品の図録に出て 作家が変わると作れないものはたくさんある。私 いるものは,ぜひ全体を公開できるようにしてほし は唐津の割山椒が好きなので唐津の田舎に行ったこ い。写真だけでも,いろいろな角度から撮影できれ とがある。そのとき,「おじいさんがつくった」も ばずいぶん変わるだろう。 のを飾っているところがあったので同じものを作っ (小塩)それはどういう意味か。古備前がどういうものかと いう認識が変わる?それとも,いま作っている人の やり方が変わる? てと言ったら,もう作れないと。 (田井)伝統的なものを作ろうという意識はないにしても, ある種の技法を使っているうちに,伝統的といわれ (安倍)両方です。 るようなものができてくるということはあるのだろ (菅) 図録の写真はいつも同じという背後に,この名品は うか。 こういう形で鑑賞するべきなのだという教育的配慮 (安倍)造形の話になるとまた長くなるが,長次郎以来,古 があるのか? いものはだいたい三点で展開している。五島美術館 (安倍)それはどうだろうか。 にある鼠志野と,長次郎の「俊寛」を比べると,全 (オブザーバーA)五島美術館の鼠志野(峯紅葉)も,ほかの く同じように造形されている。あれは織部様式で, 31 よりダイナミックではあるが,長次郎の様式がその (藤原)例を挙げるとすると? まま伝わったのだろう。利休の時代に,長次郎とい (安倍) [ノートを繰りながら]「究極の伊部」なんてのがあ う作家をつかってそれまでなかったものを作りたか る。生地を焼く,さやで焼ききる,ゴマをかける, ったのだろう。それまでは二点展開だったから同じ 酸化還元どちらでもよい,塗る土を全面にする,灰 ものができるが,三点(点と点と面)で展開すると, をかける,仕上げの焼き,とかね。順番を書く。 同じものは2つとできない。桃山の名品を写そうと 思わなくても,三点で展開すると似てくる。 (藤原)デッサンをされるときに,名品を思い浮かべたり は? (安倍)ないですね。恥ずかしい話だが,僕はおそらく石膏 ―休憩― デッサンというのは1回ぐらいしかやったことな い。東京の研究所で,裸婦を見たら恥ずかしいから, デッサンと言葉をかたちに (藤原)後半は,制作に関する具体的なお話にいきましょう。 ラフスケッチをお持ちいただきました。 (安倍)デッサンをいっぱい描いて壁に貼ってある。設計図 のようなものにするとそれに囚われるので,丸と四 人の影からちょろっと見るんですよ,これじゃだめ だなと思って,研究所でそうやるより自分で研究所 つくった方がいいだろうとね。裸婦だけはどうも苦 手。ですから,僕はデッサン下手です。でもこれは 修正しながら作っていくので,下手でも何とかなる。 角の組み合わせだけのラフスケッチ。できるだけ考 えないで,たとえば,テレビを見ながら描く。旅行 (藤原)一般的な今の日本の基準は1回焼きですか?日本の するときにも小さなスケッチブックをもっていって 美学だと「手直しのきかない一発勝負」という美学 デッサンする。これらはすぐに役にたたないが,い があって,それと合うのかな。 つか使える。デッサンはラフだが,作るときはこの ラフスケッチに忠実に作ります。 (岡田)ほかの作家は何度も焼くという方法は取らないだろ う。それはなぜか? (藤原)できるだけ考えない,というところが,先ほどの, (安倍)何度も焼くのは「下手」の証拠になるから。土が田 「絵は理念,陶芸は情念」と通じるのか。100年ぐ らい前のジャポニスムの陶芸家によるスケッチがあ 土だから何回も焼けないと諦める。備前の鑑定では, 二度焼きは認められないですし。 るが(スライド上映),これも非常にラフだ。こんな 適当なものを描いてよく作れるなと思っていたが, 新作の色について 安倍さんも同じだった。こういったやり方というの (田井) [持参の新作を見ながら]赤い色がとても印象的だ。 は,安倍さんご自身が別のもの,たとえば現代アー (安倍)私が赤好きですから。 トのオブジェをつくるときとは違いますか? (藤原)ここ1,2年で色つきのもの(色ガラスを流した作品) (安倍)いえ,ほとんど変わりません。 が出てきたが,この展開には何か理由があるのか? 職業柄,私も陶芸家の先生とよく話すが,安倍先生 (オブザーバーA) [作品を見ながら]これのデッサンは? のように積極的かつ論理的に話してくださる方は稀 (安倍)似ているのはいっぱいあるが…。大事なことはほと 有なので,ご自身でご説明いただけませんか? んど文字で書くんですよ。絵にしてしまうと転換が できないので,なるべく文で書く。 32 (安倍)ラトヴィアに出品したとき,1週間以内に写真を送 るよう言われたのがきっかけだ。1週間でできるこ とといえば,色をつけてひっくり返すことぐらい。 作り手と使い手 (*この水指は,天地を逆にして底に蓋をしてある) (田井)さきほどの色のお話を伺うと,先生が仕掛けようと (藤原)さかさまにして裏から赤をかけているのもある。 なさっているというよりも,ユーザーの要望に応え (安倍)それは,裏に色をかけなくて売れなかったからだ。 ている感じがするが。 色をかけたら買うというのでね。裏にかけると,と (安倍)そうだ。実は,アメリカで骨壷を作らないかという たんに売れるんです。派手なほど喜ばれる。 話がある。アメリカの金持ちは大きな美術館のよう (藤原)私なりに,一つには欧米で発表する機会があったか なお墓をもっていて,最近は土葬から火葬になりつ ら,新たな展開があったのだろうと思っていた。ま つある,だから骨壷を,というわけだ。まだ,具体 た一方で,お弟子さんがよくできた「安倍備前」を 的な形などについての話はないが。 つくるようになって,その結果,ある種の差別化を 図ろうとしたのではないかとも想像します。 (安倍)それもありますね。 (田井)使う人と作る人のコミュニケーションがある世界 だ。絵画ではないのでは? (安倍)いや,あるんです。評判のよかった絵と同じものを, (藤原)色をつけると,備前から遠いものになってくる。色 何号で何枚描いてくれ,という注文があった。また つきのものは,欧米で“Raku”と呼ばれる。それ 別の話で,展覧会の前1週間ぐらい,画商の家に泊 に近づいていくが,こだわりはないか? まりこんで絵を描いて,手直しされたことがある。 (安倍)ないです。ああいうものもあるが,まるきりの備前 も作っているので。そもそも,色についてはラトヴ ィアで味しめて,パラミタでやったときも,出した その日に買い手がついたことが大きい。焼物は,芸 術とかアートとかいうのと同時に商品だから,それ [売る工夫]も必要だろう。 「そこに赤」というふうに。そうすると見事に売れ る。 (田井)画廊が画家を育てるという話があるが,そういうこ とか。 (安倍)はい。一筆入れるとずいぶん変わる。特に赤。私は 美術大学に行かなかったが画廊には行っていた (笑)。 (菅) 一筆入れるとご自分でも違いがわかります? (高松)そもそもなぜこのような作品を? (安倍)考え方としては,日常を拒否したところに茶の湯が (安倍)はい。で,そのうちに言われなくてもすむようにな る。 成り立っているとすれば, 「ではお茶も拒否しよう」 。 (藤田) 「赤入れろ」と言われたときのお気持ちは?このま 自分では,デュシャンの便器に匹敵するのではと思 っている(笑)。 までいいんだ,と思わなかったか? (安倍)思わなかった。画商は目利きで,並んだときに売れ (オブザーバーB)日常を否定する必然性はどこに? る見方を知っている。自分もそこから学ぶことがで (安倍)深い意味はない。こういうやり方もあっていいんじ きる。日本人はそういうのをあまり好まないかもし ゃないかな,と。私はよく立体もやるが,そのとき はお前は理屈っぽいとか文学っぽいと言われる。で は逆に,文学がなくてもいいんじゃないか,という れないが。 (岡田)いわゆる芸術家といわれる方が,こういうことをは っきりおっしゃることが新鮮だ。 のがこのときの考えだ。否定されることは逆に肯定 (安倍)私は劣等感の塊。作家のなかで賞も学歴もないのは してもいいんじゃないかな,と。理屈っぽいものも 私だけだ。だからすべてをさらけ出すことでやって あっていいし,そうでないものもあっていい。 いけるのではないかと思う。 33 (辻) いま,美術のありかた,受容のされかたは,すごく してしまったことも。桃山は,実はめちゃくちゃや 狭く限定されているように思える。こっちに芸術と ってアヴァンギャルドだったのだろうが,そこと偶 いうものをやる芸術家がいて制作して,こっちに評 然響きあうところがある。 論家がいて何か言うとそれが売れる。でも,売れる (オブザーバーA)桃山がいかにアヴァンギャルドかという ように作る,売るために同じものをいくつも作ると のはわかる気がする。桃山は伝統の出発点だったか いうのが,本来の姿だ。芸術家は,自己の創作意欲 のように言われるが,実はアヴァンギャルドだ。 だけで創作しているわけではないから。本人はいや (辻) まったくそのとおりで,僕は伝統というものは,つ だと思っても,作らざるを得なかった。それが,今 まり前の形を追うというようなことは,存在してい のように限定されるようになったのは近代の話だろ ないと思う。桃山アヴァンギャルドは命がけだ。二 う。 人も死んでいる。あんな真っ黒なの(黒織部)を作っ 作り手の意図をあまりに前面に打ち出すと,需要 たおかげでね。一部の人には,アヴァンギャルドに と供給の関係が成り立たなくなる。ふつうの陶芸家 対する無意識の抵抗があったのだろう。伝統は創造 は,問屋などの指示を待ち,それを受けて作るもの である,といわれたことがあるけど,僕は違うと思 をとおして,徐々に固定客が決まってくる。最初か う。芸術が創造なのだから。 ら素晴らしいと,売れるものは出てこない。職業的 (藤原)いわゆる伝統的な窯元とは関係のない若い世代が, な窯元が生計をたてるのは日常の器だ。もちろん自 安倍さんに学んで活動している。10年20年すれば, 分の創作もあるが。 彼らの作品が「備前の伝統」と言われかねない。し かし,これが,これからの「伝統」という言葉の意味 「安倍備前」の継承 となるのではないか。私たちは,このような新しい (岡田)陶芸は趣味だというのが面白い。最近の若い人たち 継承のあり方を研究対象として見続けたいと思う。 も,何度も焼くのをタブーのように思ったり,田土 お弟子さんと言われる人たちがどういうものを作っ 説を信じ続けたりしているのか? ていくのか,安倍さんが新しい世代から影響を受け (安倍)いや。若い人たちはもう田土を使っていない。炭桟 切もやめている。 (岡田)どういうきっかけで? てどういう展開をされるのか,興味深いところだ。 (安倍)社会への影響もある。山土のことをあまりにも言う から,値段が上がって土屋さんに影響がでた。 (安倍)私ががんがん言ったから。で,私についてきた人た ちが売れているからです。産業だから,人は売れる 方に向く。いまや炭桟切は悪いものの象徴のように (辻) 僕は自分の本のなかで,伝統というコンセプト自体 言われている。ただ,山土を使って何度も焼いて, が近代の産物だといったが,それについての反響が ということを始めてしまった私の不安は,自分が遠 面白かった。「昔からあったんじゃないですか」が くまで走らないと追いつかれることだ。だからこれ ひとつ。依然としてある種のクエスチョンマークつ [ひっくり返して底に蓋/色] 。 (岡田)趣味だからとおっしゃっていて,無意識に絡め取ら れている部分を無視するところから始められたのが 面白い。「味」をひょうたんからこまのように再現 34 ふたたび伝統について き。伝統はあったんじゃないか?研究者ほど伝統の 実在性を信じている。これは面白い。僕は,桃山の 作家は伝統ではなくてその逆だと思っているが。 (藤原)欧米でも,伝統は近代のものだと意識的に受け入れ られているが,日本では,まあアタマのなかでは理 家的任務を担っていると思えば思うほどそうだ。そ 解できても,しかし,何か伝統のような原型みたい こに国家とか伝統とかが出てくる。 なものがあったのではないかとついつい思いたくな る。 (辻) 近代が「伝統」概念をつくったことは簡単に証明で きる。それは国家の伝統だ。明治以前にはそんなも のはありえなかった。そのころは,「日本の」伝統 として概念化されてはいなかった。 (岡田)国家の力が強くなったときに伝統と呼ばれるのはよ くわかる。が,そうでないときにそこにあるものを 何と呼ぶか。何かしらの有効性があるということを 言っていかないと。 (辻) 歴史の問題ではなく地域の問題として考えよう。安 倍さんは,国家のためではなく自分や家族のために (藤原)コンセプトとして,というのはわかる。 やっている。それは地域と結びついたひとつの創作 (オブザーバーA) 日本的である,というのもわかる。でも, だ。安倍さんの住んでいる,記憶の詰まった地域が 日本的というのと伝統的というのは接続するだろう 安倍さんを動かしている。地域という視点で国家を か。 解体する必要があるのではないか。 (岡田) 「ここに何かありそうだ」という感覚は,何かしら ある。そこに「日本的」という形容詞をもってくる のが明治以降だ。「日本的」というのを否定するの 備前焼作家ではない? (高松)地域で思い出したが,安倍さんの焼物は「備前」。 はわかるが,「何かある」ということまで否定する ここまでやったら備前でなくなるとか,やりすぎだ となるとちょっと違うだろう。そこの違いが,学者 からこうやって引き戻そうという心の動きはある? と作っている人の差だ。この研究会を重ねてきてわ (安倍)いや,ないですね。 かったが,作っている人は,「伝統」についてそれ (オブザーバーA)備前の作家だとは思っている? ほど自己反省的に考えていない。捏造じゃないかと (安倍)思っていない。備前でいろんなグループ活動がある 思った瞬間に,それまでやってきたことができなく が,そういうものに入っていれば仲間だと思うだろ なるから。なにかしら過去とつながって,そこに何 うが,私は入っていないので。陶芸家という言葉も かあるということは非常にリアルに感じていらし 嫌です。 て,その伝達システムをお持ちで,家元制度などの 型をもっていて,やっている人どうし一体感をもっ (オブザーバーA)備前の土を研究しているけれど,自分が 備前焼の作家であるとは思っていないでしょう。 ている。それを言葉にするときに,「日本的」とい (安倍)思ってません。思ってたらこんなこと言えません。 う言葉をもってきやすい,そこが違うが,彼らが感 (オブザーバーA)だから,地域のことはどうでもいいと思 じている何かしらの一体感は幻想ではない。だから, っているのでは? 桃山なりこの時代なりの作家たちが,そういう一体 (辻) いや,僕が言う地域というのは,そういう地域じゃ 感を持っていたのではないかという類推をもつの なくて,安倍さんが生きているその空間だ。あるい は,すごくよくわかる。どこかに何かある。 はもっとプライベートなその空間のこと。人間のア (辻) 広い意味での文化的な記憶,想起はあるだろう。そ イデンティティは,その人が子どものときに見た景 れは否定しないが,それを伝統というととたんに…。 色によって形成される,という話を聞いたことがあ ちょっと気になるのは形式(主義)。茶道が形式を気 る。安倍さんが見た様々な風景の記憶がそれを作っ にするのは家元制度を強めるためだ。自分たちは国 ているのだろう。 35 (オブザーバーB)本当に伝統が継承されていると言えるの は,「伝統」を意識しなくなったときだろう。あえ て言えば,備前の伝統を継承できるのは「備前作家」 と思わない人だろう。 (オブザーバーA)日本には「伝統」があることを前提にし ていないか?安倍さんは伝統について否定的だ。否 定する対象として意識している。 (辻) 伝統が生きているとしたら,外から見たときだろう。 (オブザーバーA)明治時代以来捏造されてきたものが伝 統?でも伝統はあるでしょう。 (辻) 僕はないと思う。記憶があるだけだ。外から見たら あるように見えるかもしれないが。 (オブザーバーA)生活習慣としての伝統と芸術の伝統の議 論が,錯綜してきたようだ。 (藤原)ではそろそろ。いつも伝統概念の話になると煮詰ま ってきますので(笑)。 (高松)そうですね。今日の感想を言うと,伝統工芸然とし ている陶芸の世界が思いのほか自由であることに驚 いた。安倍さんが特別に自由でいらっしゃるという ことなのかもしれないが。いまのところは家元制度 もないようだが,そのような状況で次の世代が自発 的に学び,技術を受け継いでいることは心強い。今 日,これほど率直にお話いただいたことに感謝して いる。ありがとうございました。 36 写真2 デッサンと作品を前に語る安倍安人氏 第14回 日本の美術と芸能 <日時>2008年2月2日 (土)13:00∼17:30 1-2 1930年代美術界における古典復興,伝統回帰 <場所>聖徳大学2号館2201教室 1930年代におけるモダン・クラシックというテーマ設 <ゲストスピーカー>桑原規子(聖徳大学准教授) 定は,美術界には1930年代の半ばくらいから,古典復興 佐伯順子(同志社大学教授) や伝統回帰という時代思想があったことを大前提としてい <出席者>岡田裕成,小塩さとみ,菅 聡子,田井竜一, 高松晃子,藤原貞朗,根来章子 (研究補助) <スケジュール> る。資料2[本書では省略]に,そのような立場で書かれ た文章の中で私が集めることのできたものを,目次だけ書 きだしてみた。これが,1930年代半ばから1940年代に 1.次回研究会打ち合わせ[省略] 入るまでの5,6年の間で拾えたものの一部だ。このよう 2.報告1「創作版画と伝統木版画―1930年代版画論 に,1930年代の半ばから,日本趣味やジャポニスムとい 争のゆくえ」桑原規子 〔休憩〕 3.報告2「現代演劇における古典芸能の影響―泉鏡花 った題目の言説が次々と出てくる。もうひとつの山場は, 1937年くらい,日中戦争に入るあたりからで,長谷川三 郎の『前衛美術と東洋の古典』などがある。 『天守物語』を中心に」佐伯順子 1-3 創作版画における「伝統」,「古典」とは? ゲストスピーカーにお二人の研究者をお招きしての第 『クラシック モダン』に書かれたのは,「モダニズムと 14回研究会のレポート。お一人目は,恩地孝四郎を中心 古典が結びついている」「古典というものは,何よりも移 に,近代の版画史について研究している桑原規子さん。続 ろわない,確かな価値のシンボルである」,あるいは,「固 いてお二人目は日本文学者の佐伯順子さんで,古典芸能と 有性と普遍性を兼ね備えた1930年代の古典は,アンチモ 現代演劇に関する報告を聞いた。 ダニズムというよりは,来たるべき新たなモダニズムの形 である」といったことであった。ところが,題目に「古典」 1.報告1 という言葉を使っている方と,「伝統」という言葉を使っ 桑原 規子「創作版画と伝統木版画―1930年代版画論争 ている方がいる。では,「古典」と「伝統」の差異は何な のゆくえ」 のか,という疑問が出てきた。結局,このことについての 結論は出ず,どちらを使ってもよいということになった。 その結果それぞれの論文で表明されたのは,「古典」は時 【報告】 1.はじめに 1-1『クラシック/モダン―1930年代日本の芸術』につ いて 今日は版画史についてお話ししたいのだが,その前に, 代の継続性を必要としないが,「伝統」とは歴史性,継続 性を要するのではないか,という考え方である。 本の編集過程で顕在化したもうひとつの問題は,同じ 1930年代を扱っていても,専門とするジャンルによって 2004年にせりか書房から出た『クラシック/モダン』と 微妙なずれが出てきたこと。特に顕著だったのが,版画・ いう本に触れておこう。これは,『モダニズム/ナショナリ デザインの分野だったのではないかと思う。デザイナーで ズム』の第2弾として企画されたもので,「来たるべき古 もあり,デザイン研究の第一人者である川畑直道氏が, 「日 典∼モダン・クラシック,クラシック モダン」を共通テ 本の美術の中には古典や伝統を持たない分野がある,モダ ーマとして,私を含めて数人の研究者が寄稿した。 ン・デザインはあるが,クラシック・デザインはない」と いう意見を出された。私も,創作版画をテーマにして古典 37 について書けと言われても困る,というのが正直なところ 画系の壮大な発展ということ,一方で伝統的な形式は,と であった。デザインがモダン・デザインであるならば,創 もすれば滅亡の危機に瀕したということである。」 (楢崎宗 作版画は,言ってみればモダン版画のようなものだ。その 重「渡辺庄三郎翁の業績を偲んで」『渡辺庄三郎』渡辺木 中で,古典と伝統という問題を扱えるのか,と思っていた。 版美術画舗発行,1974年。レジュメより引用) そこで,伝統なのか古典なのかという視点で題目を考え 現在,銀座の並木通りには,伝統版画を扱う渡辺木版店 始めると,「古典」というのはどうもピンとこない。創作 と,現代版画を扱う養清堂画廊という2つの画廊があり, 版画というのは,明治末期から大正期に勃興した新しい芸 戦前の2種の版画の関係を引き継いだ形になっている。 術ジャンルであるため,この中から古典を見つけるのは非 常に難しいからだ。では,伝統はどうだろうか。版画にお ける伝統を考えると,おのずから,創作版画と浮世絵の距 2.日本近代版画の2つの流れ ―創作版画と伝統木版画(新版画) 離感といった問題が出てくる。伊東深水や川瀬巴水らによ 2-1 る浮世絵形式の伝統版画―一般には「新版画」と呼ばれて 創作版画とは,基本的に,画家自身が自分で絵を描いて, 創作版画運動 いる流れは確かにある。さらに,日本の近代版画の中には, 彫って,摺るものである。創作版画運動が勃興したのは, 西洋的な版画の概念,つまりムンクやルドンなどから影響 1910年代。背景には,幕末から明治にかけて写真術や石 を受けた創作版画の流れもある。この2つの関係を考えて 版術が入ってきたために,それまでの浮世絵木版画などが みようとしたのが,この論文の始まりだった。 衰退していったことがある。この新しい創作版画は,木版 で和紙に摺るという工程を経るので,その根幹には日本の 1-4 1930年代の版画論争 1930年代は,創作版画と新版画(伝統版画)の対立関係 伝統的な木版技術を復興させようとする意図がある。 [スライドを見ながら]左側は山本鼎の版画,右側は, がクローズアップされた時期だった。そのきっかけとなっ 萩原朔太郎の『月に吠える』の挿絵で知られる田中恭吉の たのが,1934年にパリの装飾美術館で開催された「日本 作品だが,これらは,画家が個人の芸術性を重視するが故 現代版画とその源流」という展覧会である。レジュメの冒 に,彫師や摺師に任せず自ら全てを行なうべき,という理 頭に引用したのは,浮世絵研究者の楢崎宗重が,版元であ 念で始まったものだ。ただしこの理念は,当時から第二次 る渡辺庄三郎について,1974年に書いた文章からの抜粋 世界大戦前まで,彫師や摺師を使わないのはアマチュアリ である。これは,今日の結論にもつながっていくところな ズムであるとして,批判の対象ともなっていった。 ので,読み上げておこう。 2-2 新版画運動 「恩地孝四郎を先鋒とする創作版画運動に対して伝統版 創作版画運動にやや遅れて興ったのが,伊東深水や川瀬 画を守株する渡辺さんは,一種の対立関係にあった。浮世 巴水による新版画運動である。これもやはり,新しい浮世 絵を研究している私は,どちらかというと伝統様式の系脈 絵をつくろうとする動きだが,こちらの方は,伊東深水や に立って,この両者の双極的主張の間に何らかの一致点を 川瀬巴水が絵を描いて,彫師や摺師が作品に仕上げていく。 見出そうと,私なりに努力した一時期―第二次大戦前―が その版元として活躍したのが,銀座の渡辺木版店の渡辺庄 あった。それはいわば平行線を辿るもののように見えたし, 三郎であった。こちらは彫師や摺師がついているので,版 敗戦の昭和二十年からのちの文化の一大変動は,自然にそ 数も多いし,きれいに仕上がる。今でも,銀座の渡辺木版 の結論を明徴にしてきたかにみえる。率直にいうと創作版 店のビルの上では,彫師や摺師が仕事をしている。ただ, 38 戦後になると「作家」という存在が廃れてしまった。そう 口が絵を描いて,彫師,摺師が摺ったものだ。ここまでが, しているうちに,創作版画運動を引き継いだ「現代美術」 前半の回顧編。後半の創作版画としては,長谷川潔の銅版 としての版画が,国際版画ビエンナーレのようなところで 画や,平塚運一などの木版画が紹介された。 賞を取るようになる。このような流れについて,楢崎宗重 は,「戦後は,伝統的形式は滅亡の危機に瀕した」と書い 3-2 「日本の古版画と現代版画展 Estampes Japon- ている。 aises Anciennes et Modernes」 (1936年, ジュ ネーヴ,マドリッド) と欧米巡回 「日本現代版画展」 (1936∼37年,アメリカからヨーロッパを巡回) 3.西欧への眼差し―海外における日本現代版画展 3-1 「日本現代版画とその源流展 L'Estampe Japonaise Moderne et ses Origines」 (1934年 パリ) 標題の展覧会2つは,1936年のジュネーヴを皮切りに, マドリッド,サンフランシスコのデ・ヤングメモリアル博 楢崎氏が言うような対立関係が1930年代に生じたのは 物館,1937年のベルリンの民族博物館まで,非常に長い なぜか。その1つのきっかけは,1934年にパリの装飾美 期間をかけて欧米の美術館を巡回したが,いつも現代版画 術館で開かれたL'Estampe Japonaise Moderne et ses と浮世絵版画がセットになっていた。 Orignes (日本現代版画とその源流展) だった。 これは,西洋のまなざしを意識した現代版画の展覧会で ここで問題となるのは,なぜ“origin”―源流なのかと ある。その背景には,それ以前に海外で知られていた観光 いう点である。当初,日本版画協会(日本創作版画協会, 誘致のための版画ポスターの存在があった。例えば,川瀬 洋風版画会,無所属作家らが団結して1931年に創立,後 巴水の新版画「宮島」を木版で摺って上に貼り付けたもの 述)は創作版画家だけで展覧会を開くつもりだった。とこ は,1万枚刷られたと言われており,鉄道省により観光誘 ろが,パリにはジャポニスムの流れがあって,当時の現代 致策として欧米に送られていた。深水の「娘道成寺」 版画だけを持っていっても恐らく評価されないだろう,と (1932年)も同様である。そのため海外では,貼り付けら いう懸念があった。そこで,パリの装飾美術館のキュレー れた新版画のほうが日本的に見えるので,商品としては売 ターと,当時パリにいた長谷川潔や岡田三郎助,日本の日 れる。しかし,日本版画協会には,純粋美術として作品を 本版画協会のメンバーとで協議し,最終的に浮世絵版画と 紹介したいという思いがあった。 日本の現代版画,しかも,新版画ではなく,新しい創作版 画を持っていくことになった。 この展覧会のカタログをご覧いただきたい。浮世絵版画 3-3 新しい日本版画とは? 1934年のパリの展覧会前に,日本で開催された内覧会 といっても,西洋の透視図法を受容したあとの浮世絵で, のカタログが残っている(『於巴里日本現代版画展準備展覧 鈴木春信など,初期のものは省かれている。というのも, 会目録』)。その中の「現代日本版画における発展と現勢」 パリの装飾美術館では,すでに1900年代から6回も浮世 という文章に,日本の創作版画がどのように発展してきた 絵版画展が重ねられていて,この展覧会も,恐らくその延 かが書かれている。ここで重要なのは,「自画自刻自摺」 長線上にあるものだったからだ。「源流」とされたのは, が大前提になっていることだ。その上で,新しい日本版画 歌川広重などの後期の浮世絵で,そのほかに,長崎絵や開 の性質が3つ挙げられている。 化絵もあった。そして,小林清親など,明治の浮世絵とし 1つ目は「日本在来の伝統技法に新精神を盛る」もの, ては最後の時期の版画に,漱石の『吾輩は猫である』初版 つまり,木版を使って和紙に摺っているが,画風は洋風 本の装丁も担当した橋口五葉。これは新版画の系統で,橋 (新精神とはおそらくこのことだろう)であるような作品。 39 2つ目は,「洋風技法に伝統精神を生かさんとする」もの。 洋風技法とは石版や銅版の技法のことである。織田一磨の る人どうしの論争になってしまっているのが特徴である。 浮世絵の研究者側は,次のような理由で創作版画側をバ 作品がその例で,浮世絵的な画風を石版で表現している。 ッシングした。彼らが源流と考えている浮世絵は自画自刻 3つ目は,「洋風技法,洋風画眼を行る(ママ)」もので, 自摺ではないのに,新版画はなぜ他彫他摺ということを理 長谷川潔の洋画風銅版画がその例である。 由に認められないのか。創作版画の人たちには,新版画は ここで欠如しているのが,「日本伝来の伝統技法プラス 複製だという意識があるのではないか。創作版画は商品と 伝統精神」だ。日本の美術に洋画と日本画の流れがあると して売れないのだから,社会と乖離したものになっている。 するならば,彼らは,自分たちは洋画側にあるという意識 その原因は,芸術至上主義の自画自刻自摺にある。自刻自 を持っている。もし「伝統技法プラス伝統精神」とすると 摺の版画は家内工業的創作版画で,アマチュアリズムにす どうなるかというと,川瀬巴水による広重風の風景や,伊 ぎない。彫師・摺師を使った伝統版画は,マニュファクチ 東深水の,タイトルは「現代美人」とあっても日本画的な精 ュア式総合版画である,というわけである。 神をにおわせるもの,ということになる。これが欠如して それに対して,恩地孝四郎が先頭に立った創作版画の人 いるのは,このような作品を排除するためだったのであろ たちは,自分たちが求めているのは数ではない,と言う。 う。版画論争のひとつの焦点は,ここにあったと思われる。 版画によって得られる美を追求しているのであって,数多 さきほどのパリ展に出品された恩地孝四郎の作品を見る く摺れればいいという問題ではない。自画自刻自摺という と,半分は抽象画,半分は頒布会で売れるような具象作品 のは,主観主義・個人主義に根差しているのだが,そうで にしている。日本の現代版画がパリで受け入れられるよう なければ創作的意義は追求できない。つまり創作版画は現 に,との配慮からだ。本人は,創作版画と浮世絵をセット 代人の芸術であり,伝統木版画のほうは過去の芸術である, で展示してほしくない,と主張していたのだが,長谷川潔 と主張した。 ら,パリに住んでいる人から見ると,創作版画だけを展示 しても受け入れられないことは十分にわかっていた。創作 4-2 版画家の間にも考え方には大きな差があったし,京都の創 ここに至るまでに,文展(帝展)において創作版画はどの 作版画家の場合は浮世絵に対して非常に親近感を持ってい ジャンルに含まれるか,問題になったことがある。創作版 た。このことからもわかるように,本当は全体を一括りに 画の出展が始まったのは1927年だが,そのときに,創作 して論じることは難しいのだが,基本的には2つの流れは 版画は工芸に含まれるのでは,という意見があった。とこ 並行していて重なることはなかった。 ろが,作家の側には工芸品を作っているのではないという 創作版画の定義 意識が強かったので,結果的には洋画の一部に入ることに 4.創作版画 vs. 浮世絵研究家との対立・論戦 4-1 なり,油絵,デッサンに,創作版画が付け加えられた。創 自画自刻自摺(一部制)か絵師彫師摺師(三部制) 作版画を「美術」として受け入れてもらうには,新版画を か? 入れると自分たちのアイデンティティーが揺らぐから排除 では,具体的にどのような論争になったのか。雑誌『浮 した。山本鼎は「美術時評 帝展と創作版画」の中で,版 世絵芸術』誌上で論戦を仕掛けていたのは,主に楢崎宗重 画を下の6種類に分類し,(A)の「自刻自摺のもの」だけ ら浮世絵研究者であった。彼らは,版元と絵師を取り込ん が美術的版画であるとした(「創作版画は複製を目的とせざ だグループを形成していたが,対する創作版画側は,美術 るものにして,自刻自摺をもつて,一種の絵画を創作する 家だけのグループであった。このように,全く立場の異な ことを原則とす」 ( 山本鼎「美術時評 帝展と創作版画」 40 『アトリエ』1927年10月号)。 5.版画論争後の展開 5-1 (A)自刻自摺のもの 創作版画のアイデンティティー 展覧会は結局,1937年までしか巡回できなかった。戦 (B)摺りだけ摺師にやらしたもの 時下でもあり,また,助成金を出す国際文化振興会が欧米 (C)彫りだけ版屋にやらしたもの からアジアへと方向転換しつつあったため,1937年のベ (D)版も摺りも人手をかりたもの ルリン展以降,海外展ができなくなったのである。そうす (E)絵も版も摺りも人手によるもの ると,創作版画の人たちにすれば,それまでは海外に出す (F)絵だけを他人に仰いだもの からこそ浮世絵とセットでも我慢していたのが,西洋での 反響を気にする必要がないのであれば好きなようにでき (高松)帝展に浮世絵は入らないのか。 る,ということになる。そこで,1937年を境に創作版画 (桑原)入らない。帝展は,現代の作家の作品を出品する の方向性が変わり,浮世絵版画とははっきりと一線を画す もの。伊東深水や川瀬巴水の作品も入らない。とい ようになった。そもそも,創作版画が興った本筋は浮世絵 うことはつまり,これらは美術ではないとみなされ へのアンチテーゼだったわけで,風俗画である浮世絵を脱 たことになる。美術の枠を限定するために,創作版 して純粋芸術を目指す彼らとしては,いつまでも浮世絵を 画家たちが帝展の受理運動をしたわけだ。 引っ張りたくなかったのである。 実は,版画自体も微妙な位置にあって,1927年 創作版画の人たちが,版画のもつ大衆性という問題を無 の帝展受理の段階では西洋画のカテゴリーだったの 視していたのか,というと,そうでもない。たとえば, が,1941年の仏印巡回日本絵画展国内展では日本 1938年に日本版画協会が軍人向けに「新日本百景」を出 画のカテゴリーに入れられた。というのも,創作版 し始めるのだが,ここで限界が来て職人摺りを採用した。 画の中にも,日本画家だった人が作るものもあれば, なぜかというと,まず数が必要であるということ。それか 洋画家が作るものもあるし,富本憲吉のように工芸 ら,芸術としての版画だと言っている間は1点作ればよか の人が作るものもあるからだ。版画という言葉の枠 ったのが,国家のために作るとなると,何百回と摺らなけ が広いし,時代に翻弄されてもいる。はじめ西洋画 ればならない。そうすると,自分で摺るわけにもいかない でも,戦時中になると,木版だからという理由で日 だろう。展覧会用には自画自刻自摺,出版や頒布用には自 本画にくっついていく。 画自刻他摺,といった使い分けをしていったようだ。 日本版画協会のこのような方針に対して,徹底的に批判 4-3 安井曽太郎の版画と位置づけ ここで問題になったのは安井曽太郎の版画だった。安井 的だったのは楢崎宗重で,「浮世絵版画に対するアンチテ ーゼという立場をどこまでも堅持して,変節しないことを の作品は他刻他摺で,石原求龍堂という版元から出された 願う」と言っている。これをきっかけに論争になったので, ものだったが,これもパリの展覧会に出品されたのである。 日本版画協会としては,自分たちの立場をはっきりさせな 新版画系の人たちにとって,これは不可解なことだった。 ければいけなくなった。ここではじめて,古典という言葉 同じ他彫他摺なのに,どうして自分たちの作品はダメなの を使ってくる。 か,と。版画の置かれていた微妙な状況がうかがえる。 (高松)日本版画協会というのは,創作版画の人たちのみに よる協会か。 41 (桑原)まず,1918年に日本創作版画協会が設立される。 の版画を,1940年には,第3次の版画復興期作品として, このときは「創作」がついていた。そうしないと, 1910年代初頭の恩地らの作品を特陳して,自分たちの歴 芸術と見られなかったからだ。また,英語にすると 史を作っていった。同時に,この歴史的な回顧が,日本の “print”になってしまうので,印刷と誤解されない 近代版画史の記述の原型になった。その証拠に,どの展覧 ように「創作」をつけた。これが母体となって, 会でも,日本の近代版画史というと最初に必ず山本鼎が出 1931年に日本版画協会ができた。これは,パリの てくる。 展覧会を立ち上げるために作った団体だ。「創作」 を取っても美術として認められる時代に入っていた ということだ。 (高松)日本版画協会は,日本創作版画協会が単に改称した だけか。 (桑原)成長し,他の版画家も取り込んでできあがったもの だ。ただし,版元の版画家は入ってはいけなかった。 6.おわりに―戦時期・占領期へと 1941年に,「仏印巡回現代日本画展覧会」が開催され た。そこに出品されたのはほとんど日本画なのだが,最後 に創作版画が20点くらい付いていた。ただし,それらは すべて木版画で,伝統技法と見なされたために,日本画と いう枠組に入れられた。1943年には,日本版画奉公会が (高松) 「新日本百景」に携わった人たちは,すべて創作側 結成されるが,ここには,これまで対立していた,創作版 の人でありながら,やむを得ず職業摺師に依頼した 画家,版元,彫師,摺師,浮世絵研究者など,皆が入って ということか。 くる。つまり,国家の体制によって,反発し合っていた人 (桑原)そうだ。ただ,最初に創作版画運動が興ったときは, 間が,合流させられてしまったのである。委員長は恩地で, 自画自刻自摺という原則はそれほど厳密ではなかっ 結成式の挨拶で国粋的な発言をしていくのが,東大教授で た。たとえば,恩地孝四郎が1914年に創刊した 浮世絵研究の第一人者だった藤懸静也である。 『月映』という詩と版画の同人誌にも,機械摺りだ 占領期には,創作版画が発展し,伝統版画が衰退してい ったり,手摺りがあったりした。ただ,美術のひと った。創作版画は,GHQとして来日していた欧米人に高 つのジャンルとして確立するために,純粋な方向に く評価され,購入されていった。今でもそれらは海外の美 持っていかざるを得なかった。そこで,帝展では 術館に多く所蔵されている。1948年1月に開催された現 「自画自刻自摺」が原則とされた。 代版画展“Modern Prints”は,進駐軍の人たちに日本文 化を伝える部署にいた,ウィリアム・ハートネットが企画 5-2 創作版画の「古典」 したものだ。ここに出品されたのは,創作版画と伝統版画 1938年以降,新版画とも浮世絵とも線を引きたいとな が半々。この時期のコレクターは,浮世絵はすでに見飽き ると,浮世絵を自分たちの古典とすることはできない。で ていたし,新版画も,現代の日本を描いていないという点 は,どこを古典と定めるかというと,自分たちの歴史の始 でその延長線上に見えた。逆に創作版画は面白く見えたよ まりにそれを持ってきてしまう。つまり,創作版画運動の うで,たいへん安い値段で買い上げて,アメリカに持って 始祖である山本鼎を,現代版画の古典とした。自分たちの 行った。この展覧会の際,ハートネットは「日本の現代版 歴史はそこから始まっていて,その前は関係ない,という 画に接して」という文章を雑誌に発表し,次のように述べ 姿勢をとる。それをアピールするために開催したのが, ている。「既に発展性を失つた浮世絵派,即ち浮世絵が作 1938年12月の日本版画協会展覧会(山本鼎と織田一磨の られたような過程によつて作られている版画はしばらく考 特別展)だ。次の1939年の展覧会には南薫造と富本憲吉 への外に置くとして,この新しい芸術版画である創作版画 42 こそは,将来日本の美術の先鋒として広く世界にその名を めた,非常に重要な本だろうと思う。 馳せることを私は深く信じている。且て,浮世絵に瞠目し た世界は再びこの日本の特異な芸術に驚嘆するであらう。 【質疑応答】 従つて自ら書き自ら彫り自ら摺るというこれ等創作版画家 の手にこそ日本美術の将来が握られているといつても敢て 過言ではないと思う」 (『美之国』1948年3月号)。アメリ その後の新版画 (高松)そのスタットラーの本も山本鼎から始まっているの か。 カにはこのようなコレクターがたくさんいて,彼らが集め (桑原)そのはずだ。ただし,海外の日本美術ギャラリーに たものはシカゴやホノルル,サンフランシスコの美術館に 行くと,展示されているのはもっぱら新版画だ。シ 入っている。 カゴの日本美術ギャラリーでは,二十数点,写楽が 資料左は,萩原朔太郎と親しかった恩地による,萩原の 展示されたあとの展示替えは,伊東深水だった。ロ 肖像版画。アメリカ人のコレクターたちの間で大人気とな スに行くと橋口五葉がずらっと並んでいる。ところ った作品である。ところが,現物は展覧会用に作った2点 が,日本の美術館は,新版画は美術ではないと考え しかないため,摺り増しをすることになった。しかし,新 るので買わないし,展示もしない。最近,ようやく しい抽象版画に専念したかった恩地は摺りの作業を嫌い, 浮世絵の研究者から見直しの声が出て,現在はその 他人の手を借りた。まず[当日のレジュメの]右上は,恩地 反動か,新版画の展覧会もあちこちで行われるよう が生前,弟子の関野凖一郎に摺らせたもの。関野自身版画 になっている。やはり,国外に行くと,創作版画も 家なのだが,摺りだけを手伝っている。右下は,恩地亡き 浮世絵の創造的進化として捉えられているのだと思 あと,メモリアル・エディションとしてご遺族が浮世絵の う。だから,その中で,スタットラーが現代版画だ 摺師に摺らせたものだ。版は同じでも,摺る人によってこ けを集めて本にしたというのは,非常にインパクト れだけ違ってくる。浮世絵の摺師の摺り方というのは,と があったのだろう。 にかくすべてが同じように,きれいに摺れるように型紙を (高松)今,新版画をやっている人はいないのか。 乗せる。ぼかしもきれいに入れるので,一目で違いがわか (桑原)基本的にはいない。 る。このように,戦後,大衆性の問題が出てくると,摺り (高松)新版画は今でも売れているのか。 を誰がやるのかが問題になっていく。 (桑原)海外で一番売れているのは,現存作家というよりは, ここでハートネットが言ったことが現実になる。ベネチ 過去のもの,例えば川瀬巴水の作品をまだ摺ってい アやサンパウロの国際展で,日本は油絵では全く受賞でき たりする。ただ,版元が版権を持っている。 ないのだが,棟方の版画などが大賞を取っていく。駒井哲 (高松)なるほど,今の人が入り込む余地がないということ 郎の銅版画なども同様だ。そのような状況で,1957年, か。 東京国際版画ビエンナーレが創設された。戦前はマイナー (桑原)私が,養清堂画廊というところから依頼されて仕事 アートと言われていたものが,戦後,国際舞台へ出ていっ をしていたときに,アメリカに渡ったスタットラー て初めて,日本でも評価されるようになったわけである。 のコレクションを買い戻して展覧会をやっていた オリバート・スタットラーという人が出した“Modern が,新版画のコレクターが日本にもたくさんいて, Japanese Prints” (1956年刊)という本は,日本の現代版 値段は創作版画よりも高い気がした。 画として完全に創作版画だけを取り扱ったものだが,影響 は大きかった。英語圏において日本の創作版画の評価を高 43 創作版画と新版画 (佐伯)創作版画の人たちは,新版画や浮世絵版画とは違う と言うが,技法はどうなのか。 (桑原)技法は作家によって異なるが,基本的に違う。浮世 絵版画の場合,最初に線をとって,色をのせていく しなければいけないという前提があった。本当は摺 りも全部自分でやってこそオリジナルだという意識 はあったのだが,摺りの問題は非常に複雑だ。現代 の作家や創作版画家の中でも,摺りにお弟子さんを 使う方もいて,「何か違う」と感じる場合がある。 という形をとる。しかし,創作版画では輪郭線がな (田井)自画自刻自摺と声高に言わなければならない面もあ くて面だけで表現していたり,恩地などは使えるも ったけれども,摺りに関しては,目的に応じて生産 のはすべて使うという感じで,戦後になるとシュル 性を上げるといった,現実的な問題がかかわってく レアリスムの影響で針金を使ったり,紙版を使った るということか。 りと,新しい表現を模索する。ただ,初期の創作版 (桑原)そう思う。1930年の「新東京百景」が大英博物館 画家たちの時代は,美術学校で版画を習うというこ に2種類あるのだが,それを比べてみても,職人摺 とがありえないので,はじめは彫師の人たちに習い りと本人が摺ったものは違っていて,本人が摺った に行ったそうだ。山本鼎は絵を描くことに加えて彫 ものはむしろ技術的に劣る。現在は美術学校で摺り る技術も持っていたので,先駆的な役割を果たすこ も教えているので,今の作家は非常に摺るのが上手 とができたということになっている。 だが。 (佐伯)画風の違いはどうか。 (桑原) 非常に浮世絵に近いものをつくる創作版画家もいる。 (田井)版画家が版木を破棄しない限り,本人が意図しない 形で,誰かが知らない間に摺ってしまう,という問 特に京都の版画家たちは伝統技法を守っていた。協 題が常につきまとう。その意味では危うい世界だと 会があるので展覧会のときはひとつになって動く おもう。 が,作品そのものには,日本画的なもの,洋画的な (桑原)そのとおりだ。海外には,失敗摺りではないかと思 もの,デザイン的なもの,といったように,いろい われるようなものまで流出している。それでも彼ら ろな系統のものが混ざっていた。また,考え方にし は自摺だというが,では自摺ならよいのか。「自画 ても,他刻他摺でいいではないかという人もいた。 自刻自摺」なら何でもOKというわけではなくて, そんな中,恩地孝四郎という人は飛び抜けたモダニ その中で良いものを見抜くことが必要だろう。 ストだったので,浮世絵に対する反抗心のようなも (藤原)特に創作系の作家の作品は,摺りに重要なポイント のが強かった。恩地がトップに立っていたがために, があると思う。絵描きさんなので,摺りの段階で, 他の版画家たちの間では考え方に微妙なずれがあっ 絵を描くように色をのせることも多い。日本画系の ても,表に出しにくかったのかもしれない。 ほうは線中心なので,摺師に任せないと摺れないだ ろう。技術面が根本的に異なっている。 版画のオリジナリティ (岡田)先ほどの萩原朔太郎の作品比較でいうと,「ざらっ (田井)最後に見せていただいた版の摺りの問題と関係する としたところ」が,絵画的にいうと「タッチ」に相 が,同じ版木を使っても全く印象の異なる作品が成 当するニュアンスだ。それをああいう風につるっと 立し得るとなると,版画におけるオリジナリティと 摺られてしまうと,彼らからすると芸術の匂いがな は何なのか。 くなってしまうのだろう。 (桑原)当時の版画家の意識として,最低限,製版は自分で 44 (桑原)版元の要望が非常に大きな力をもっていたことも, 摺りの問題と関係してくる。創作版画の人たちが伝 去りにされている。画風や形式に統一感がないのも, 統版画の人たちを批判的に見ていた理由も,ここに 日本版画協会という団体そのものが,ただ「版画」 あった。実際,橋口五葉は,1点きりで渡辺木版店 というだけで結びついているからだ。 を離れた。そこでは自分の意志を生かせないからだ。 (田井)そうでありながら,日本版画協会は非常に大きな影 その後橋口は,自分で彫師と摺師を雇って,自分自 響を持っているというお話だった。傾向や統一感が 身が版元のような形をとった。また,吉田博という 見出せない状況でありながら,この団体が主流にな 版画家は,今でもアメリカでたいへん売れている作 っていくのはどうしてだろうか。 家だが,彼も版元を離れて自分で彫師と摺師を雇う (桑原)それはやはり,戦前においては,ひとつの居場所を ようになった。いわゆる伝統版画の作家の中にも, 確立するためだったと思う。戦後になると,版画と 自分が彫ったり摺ったりしなくても,絵を描いてす いうものが美術としてある程度は認知されてきたか べてを統括できることが重要だと思っている作家は ら,版画協会にこだわらなくてもよくなったが。 いる。 (佐伯) 芸術家としてのアイデンティティーを重視する人は, (岡田)この人たちが,日本という周縁地の芸術の周辺にい た。だからこそ,フィクショナルな芸術をめぐるフ 当然自分で自分の作品を支配したい気持ちがあっ ィクショナルなゲームの核心に,意図せずして触れ て,商売だからしかたなく使ってやっている,とい ていたという感じがした。要するにこれは,周辺に ったスタンスがあったのかもしれない。 いた人たちが中心に行こうとするプロセスであるわ (桑原)浮世絵の後摺から近代版画まで摺りを担当した人の けだ。そのために,ある人は浮世絵を使い,ある人 回想録を見ると,絵師が摺りに介入してきたと書か は芸術という価値に対してオリジナリティや個人性 れている。そうなると出来上がりも全然違う。西村 という概念を使ったわけだが,それを探究していく 熊吉という摺り師によると,新しい絵になると,そ ときに出来てきた人工的な概念が,「自画自刻自摺」 れまでの技術ではできないことを要求されて大変だ という,実態としては非常にフィクショナルなもの ったそうだ。だから,版の作り方そのものも,摺り だった。彼ら自身も,一生懸命主張はするけれども, 師の摺りに影響を与えていると思う。伝統版画とい 本当のところは信じていないのでは?安井曽太郎の っても,版元が入っているかいなか,作家がどこま 話がいちばん示唆的だと思ったが,ちょっと西洋っ で監督するか,などの問題が絡んでくる。 ぽい,ちょっと芸術っぽい匂いさえすればよいとい うのが本音なのだろう。けれども,そうは言えない イデオロギーとしての「自画自刻自摺」 (田井) 「日本版画とその源流展」について。素人目で見る ので,「自画自刻自摺」がイデオロギーとして使い 分け可能な仕掛けとして機能していたのかと思う。 と,創作版画は非常に多種多様で,共通しているの そして,版画が「芸術」の中心まで行ったら,そん はプリントという技法だけのように思える。これで なことはもうどうでもよくなってしまう。 は,ひとつの様式あるいは潮流とは呼びにくいよう でも逆に,それがヨーロッパ芸術というヘゲモニ な気がする。これはどのように考えればよいのか。 ーと日本との関係の縮図だと思う。日本にも芸術と (桑原)ここで問題になるのは,創作版画と新版画の論争が, 言えそうだけれどもともとそうではない,いわゆる 「自画自刻自摺」対「他刻他摺」のレベルから先に 伝統的なものがある。そこに上からポン,と芸術と 進まないことだ。結局,絵の内容や質の問題が置き いう概念が入ってきたときに,とりあえず,そちら 45 についていかなくてはならない状況の中で,何とか (藤原)日本国内向けの言説とインドシナ向けの言説は違っ やっていく。スタットラーはこの本の序文で,創作 ている。さらに,インドシナ向けといっても,本格 版画は浮世絵の生まれ変わりだと書いている。一回 的なものは実はフランス人向けで,フランス人に媚 死んだ浮世絵は,近代芸術と接触して共同作業のプ びるような内容だ。日本国内向けには国粋的に見え ロセスを失い,自画自彫自摺の創作版画として生ま るかもしれないけれど,展覧会の目的としては,実 れ変わった(reborn),と。歴史的展開を非常にわか は二枚舌だったのでは,と思っている。 りやすく解説してくれていると思う。歴史のストー (桑原)ただ,結論としては同じだ。つまり,国威発揚の効 リーとしてはそういうことだけれども,裏側には, 果はほとんどなかったということ。展覧しては,そ 中央に這い上がろうとする欲求の現れのプロセスが この軍の人たちにあげるわけで,そういう意味では あったわけで,その点がすごく面白かった。 親交を深めたことになるかもしれないが。 (桑原)恩地たちはrebornと思ってなくても,海外では,創 作版画は浮世絵の伝統を引き継いだ創造的発展であ る,というのが一般的な見方だろう。浮世絵研究者 古典として参照されるもの (藤原)専門領域が近いので細かい質問をいくつかさせてい の藤懸静也が,1930年代に“Japanese Prints” ただきたいのだが,創作版画運動というのは,フラ という本を出したが,そこでは,やはり浮世絵の歴 ンスにあった,『レスタンプ・オリジナル』の模倣 史の最後に少し創作版画が入っているだけだった。 から始まっているのか。このあと,方向がずれてく ところが,創作版画を大量に買い集めたハートネッ るということか。 トの協力により,戦後それを改訂した後は,創作版 (桑原)そうだ。 画の記述が大幅に増えて74∼75ページになる。ア (藤原) 「伝統木版」という言い方は一般的なのか。 メリカで流通した日本の版画本を考えると,彼らに (桑原)今,変えようとしている人たちがいるので変わりつ とって必ず浮世絵が先で,そのあと創作版画を知る ことになる。 つある。 (藤原)新版画運動をやった人たちは,この言葉を使ってい るのか。 1941年の展覧会は「国粋的」か (桑原)楢崎宗重は「伝統版画」と言った。ごく最近まで, (藤原)1941年の「仏印巡回現代日本画展覧会」に関連し 新版画と呼ばれていたが,新版画の研究者の岩切信 て,当時の言説の変化を「国粋的」と説明していら 一郎氏が,「伝統版画に対する『新版画』という呼 したが,この時点のこの展覧会に限っては,特にそ び名はあとで作られたもので,当時は『新しい版画』 ういうこともないかと思った。 という意味で使っていただけだった。新版画という (桑原)そうだろうか。1941年には明らかにあると思うが。 言葉をこの実態に相当させるのはおかしい」と言っ (藤原)ただ,同じ時期に洋画も行っているということは重 た。「伝統版画」,「伝承版画」が正しい呼び方だと 要ではないか。別々に企画されたのかもしれないが。 (桑原)広告塔だった藤田嗣治や,事務局担当の美術評論家 (藤原) 「伝承」という言葉で言わんとする意味はわかるが, 佐波甫が,国際文化振興会の『国際文化』や『国画』 新版画運動の人たちが,はたして浮世絵を伝統と考 という雑誌に報告しているところでは,これらは宣 えていたかどうか。 撫工作のために持って行ったということだ。 46 岩切氏は提唱している。 (桑原)考えていたのでは? おわりに (高松)さて,まだまだほかにもお聞きになりたいことはあ ると思うが,最後に,この研究会ならではの質問を ひとつ。私たちは何かを伝えたり教えたりすること に注目してきたのだが,創作版画の世界では「師弟 関係」は濃密なのか。また,その関係性の中でどう いうものが伝わるのか。 (桑原)恩地のところには,自然発生的に若い人が集まり, 「一木会」という会を開いて討論などをしていたが, 一般的に言って師弟関係はない。作家は独立してい 写真3 桑原規子氏 るのが普通だ。 (高松) レッスン代で食べていくという形はとらないわけか。 (岡田)伝統と古典という言葉の使い分けについては,この (桑原) それはない。版画で食べていける人は数える程度だ。 研究会でいつも問題になるのだが,我々が考えたの (高松)芸術家が創作だけで生計を立てるのは,どのジャン は,「伝統」はハイ・アートに対しては使わない場 ルでも難しいということか。では,とりあえずこの 合が多い,ということ。一方,「古典」は規範と結 へんで一区切りとしよう。実は,この研究会にお誘 びついている。そう考えると,浮世絵は比較的,伝 いしたとき,桑原さんはとても心配されていたのだ 統としてとらえやすいのかもしれない。では,創作 が,ふたを開けてみれば,これまで私たちが扱って 系の人たちにとって古典はというと,じつは西洋芸 きたテーマすべてに触れてくださったように思う。 術だったのではないか。クラシックという言葉は使 それは,古典と伝統はどう違うか,「古典」とはジ わないけれども,「こういう理念と出会って生まれ ャンルごとに考えなければならないのではないか, 変わった」などと言うところをみると,規範として マイナーなものが中央に出ていくときにどういう戦 参照されているのは西洋芸術イデオロギーだ。 法を使うか,歴史を書く必要性が生じたときに出発 (桑原)私もそう思う。 点を定めなければならないから,いささか強引に (藤原)20世紀初頭の木版画をやっていた前衛系の西洋人 「古典」や「源流」を定める,など。「新∼」といわ には,明らかに古典の意識がある。たとえばフラン れるものの実体が「伝統∼」である,といったこと スだと,中世の木版のようなものを参照したりした。 も,まさにこの研究会にうってつけの,示唆に富む 山本鼎らはフランスに関係があったことを考えて 内容だったと思う。どうもありがとうございました。 も,今のことは当たっていそうだ。 (岡田)面白いのは,山本鼎は「ゴーギャンもどき」をやっ ていることだ。山本鼎にとって古典とは西洋近代芸 術で,中でもゴーギャンの版画を規範とする意識が あったかもしれない。 (藤原)ゴーギャンが古典と考えたものを引き継いでいるよ うだ。 47 2.報告2 理を通すことによって,原作の各部分はまったく別の照明 佐伯順子「現代演劇における古典芸能の影響―泉鏡花『天 をあてられ,異様な相貌をおびる」 。(鈴木忠志) [レジュメ 守物語』を中心に」 より引用]ある女性が狂気に至るほどの精神的高ぶりをみ せる点こそが,鈴木氏が演出のポイントとして意識したと 【報告】 ころだと思う。具体的な演劇の場面としては,「とくに 本報告では,泉鏡花の作品を中心に,現代演劇の中で, 『湯島の境内』で白石加代子が鎖にぎりぎりとしばられな 伝統や古典というものがどのように意識されてきたのか, がら,お蔦と早瀬の科白を一人でしゃべるシーンや,タク という問題を考えてみたい。 アンを食いちらし,失禁の世話をさせながらお蔦の名科白 日本の現代演劇,特に小劇場における演劇の歴史を考え を聞かせる場面は,原作の場面設定と極度なずれをつくり るために,風間研氏による4つの世代区分を挙げておこう。 出すことによって観客に衝撃を与えた。」 (鈴木忠志) [レジ まず,鈴木忠志,寺山修司,唐十郎あたりが小劇場「第一 ュメより引用]と,書かれている。 世代」と位置づけられていて,「第二世代」はつか・こう 当時,いわゆる商業演劇の中では新派が大きな勢力を持 へい, 「第三世代」は野田秀樹,80年代以降に「第四世代」 っており,興行的にも成功していた時期だった。私が学生 の鴻上尚史,という時代区分になっている。 時代に聞きに行った鈴木氏の講演では,堕落した商業演劇 に対するアンチをいかに提示するかということに精力を使 1.鈴木忠志/早稲田小劇場による鏡花―『劇的なるものを めぐってⅡ』 (1970) った,と盛んに言われていた。ここで鈴木氏が鏡花に目を つけたのは,ひとつには,商業演劇の軸として用いられて 早稲田小劇場を主宰する鈴木忠志の出世作となったの いるものと同じ素材を使って,アンチの立場を主張すると が,1970年の『劇的なるものをめぐってⅡ』である。こ いうねらいがあったと思う。もうひとつは,一見商業的で れは,泉鏡花という素材をヒントのひとつとして,日本の 通俗的であるように見える鏡花の作品が,実はそうではな 演劇の独自性を意識したもの。いうなれば,鈴木氏なりの いということを示したかったのではないか。鏡花の作品に オリジナリティと伝統を組み合わせた作品だ。それが高い は,鈴木氏自身が目指している,極限状態に置かれた女性 評価を得て伝説的な舞台となった。 の狂気といったモチーフを見出すことができる。こう考え 『劇的なるものをめぐってⅡ』の台本の一部分を資料と して配付した。これは,泉鏡花『婦系図』の「湯島の境内」 ると,鏡花が彼の出世作となったこともうなずける。 このときの演出の意識として,「実際のところ,ベケッ のシーンで,劇団の中心女優である白石加代子が話す場面 トや泉鏡花や鶴屋南北の台詞を借りたとはいえ,稽古過程 の抜粋である。鈴木忠志は,古典芸能を意識しながらこの において訂正されたり,書き加えたりしていて,台詞じた 演劇を演出している。「切れるの別れるのッて,そんな事 いは彼らの面影をのこしていても,元の作品とは似ても似 は芸者の時に言うものよ。」という,メロドラマ風の有名 つかない状況の中で演じられるようになっている。」 (鈴木 なセリフを使いながら,演出は,よく知られた新派のもの 忠志) [レジュメより引用]とある。 とは異なる方法でほどこしてある。この芝居では,ベケッ ここでは,例えば,鶴屋南北のような歌舞伎の演目も参 ト,南北,鏡花のセリフを元の戯曲からほとんど手つかず 照されているのだが,それはもちろん歌舞伎そのままの演 のまま取り出し,コラージュのような形でつぎはぎしなが 出を模倣するのではなくて,「歌舞伎的なるもの」と彼が ら使っている。 考えるところの何かを,違う形で取りだそうとした。「か ここでは,「狂気に至るまで抑圧された女の生々しい生 48 つて折口信夫は,六世尾上菊五郎を称して『体の戯曲を舞 台で書いていった』と評したが,演出的観点に立てば,こ 強い様式的所作」 (鈴木1994:220) [レジュメより引用] こに集められ構成された言葉は,戯曲を演出するのではな といったものを意識しながら舞台を作り上げている,と盛 く,肉体を演出する――極端にいえば,一人の人間を徹底 んに述べていた。それらは,様式的な所作や,「語り」に 的に演出するのだという態度によって支えられている。要 注目した演技を意味する。たとえば,能に「狂女物」とい するに,俳優という存在を軸にした演劇の現場性を重視す うカテゴリーがある。『隅田川』や『班女』に見られるよ る私の演劇観の所産なのだ。 (鈴木忠志) 」 うに,親子や男女の別れ話の末,悲しんだ女性が狂気に陥 また,鈴木氏は,活字を使って印刷した台本には,舞台 るというものである。先ほどの白石加代子さんの「湯島の 自体の価値はあまり残らない,としている。ただ,舞台の 境内」の演技で言えば,男女のメロドラマ的な別れを基盤 価値の片鱗として,あるいは戯曲集として,または自分自 にしながらも,能の様式的な語りを意識したセリフを話す 身の演出の覚え書きとして,この舞台の記録を残している, ことによって女性の激しい狂気が浮かび上がってくる。そ と言う。鈴木氏の演劇に対するこのような考え方,つまり, の言葉には,夢や怨霊の世界を現出させる力がある,とい 「演劇の現場性を重視する」ことや「肉体を演出する」と うのが鈴木氏の持論である。狂気というモチーフを共有し, いったようなことは,しばしば古典を参照しながら論じら 能の演技や舞台にヒントを得ながら,一方ではもちろん能 れる。例えば,「現代演劇は,能という演劇が提示した人 や歌舞伎そのものとは全く違う演劇をどのように創り上げ 間の身体というものに対する深く暗い洞察を素通りするこ ていくのか。鈴木氏はそれをずっと模索していた,という とはできないのではないか」 (鈴木忠志『越境する力―演劇 ことになると思う。 論』1984:28) 「 能や歌舞伎は古典芸能であるといわれ 先ほど『劇的なるものをめぐってⅡ』について述べた際, る。現代人が演ずる以上,能も歌舞伎も現代演劇であると 鈴木氏が鏡花を使った理由として,商業演劇に対するアン いうのが私の観点である」 (鈴木1984:29)といった具合 チだったのだろうと申し上げたが,これは,桑原さんのお である。つまり,過去の古典として能や歌舞伎を意識する 話にあった,商業的な版画に対する純粋芸術としての版画 のではなく,むしろその中のエッセンスを現代演劇の手法 の主張,という構図によく似ていると思う。ただ,鏡花の に取り入れたいと,鈴木氏は繰り返し語っている。 作品は,一方で古典芸能とも深い関わりを持っていて,能 また,やはり鈴木氏の演劇論の中に,「能舞台の鏡の間 の舞台装置や登場人物を,かなりあからさまに取り入れた や橋懸りは,能が素材として扱った夢や怨霊の世界にから 作品も書いている。鏡花の作品の中には,能のような神秘 だがよく遊び,それによってみるものをうまくまきこむた 幻想系の作品と,リアルなメロドラマ系の作品という,二 めの制約=仕掛けである。折口信夫によれば,日本の伝統 つの潮流があるとされ,『婦系図』は後者であると言われ 芸能の特質である語り物の語るとは,騙りであり,他人の ているが,やはり同じ作家が書いたものであるから,『婦 魂をこちらにかぶれさせ,だますことである。」 (鈴木忠志 系図』のなかにも,狂気的な要素とメロドラマ的な要素の 『演出家の発想』1994:220) [レジュメより引用] とある。 両方が見出される。神秘幻想系の傾向がより強い作品にな 鈴木氏は,盛んに折口の民俗学を参照し,折口の語りに依 ると,お化けや幽霊が露骨に登場するし,メロドラマ系の 拠しながら,伝統芸能の表現上のメリットを強調する。そ 作品にも女性の狂気が描かれるので,能との接点がはっき して,自分は西洋の近代演劇ではなく日本の芝居をやるの りしてくる。こうしてみると,鈴木氏が能を参照したこと だ,という意識を,鈴木氏は随所で語っている。1980年 と,泉鏡花を取り上げたことは,決して偶然ではないと思 代の講演でも,折口の言う「騙り」や,「日本の伝統芸能 う。ただし,鈴木氏はこのあと,鏡花からは離れて,ギリ の制約に制約を重ねたところから導きだされる簡潔かつ力 シャ悲劇やチェーホフの方に行ってしまう。ただ,鏡花と 49 いう軸で見ると,いろいろな演劇活動の中で,伝統と創造 という問題意識を整理しやすいのではないかと思う。 まず,花組芝居の加納氏の言葉。これは,2002年の劇 団15周年記念公演のパンフレットで,改めて自分たちの 目指す演劇について語っている部分である。「大目標は, 2.加納幸和/花組芝居の鏡花と宮城聰/ク・ナウカの鏡花 ―『天守物語』 (1995,1996年) 資料の年表を参照していただきたい。小劇場「第一世代」 『新演劇よ!今一度!』江戸時代を生き抜いた庶民が,怒 涛と押し寄せる欧化の波に,潰されまい,大口開けて飲み 込もう!と踏ん張りつつ,江戸の水で洗われた感性はその の鈴木氏以降の,「第二世代」 「第三世代」 「第四世代」を支 ままに,新しい芝居を創ろうじゃないか!と,後に『新演 えた演劇人たちは,ほとんど鏡花というモチーフには関心 劇』と呼ばれるニューウェーブ華やかなりし当時。魅力的 を示さなかった。昭和62(1987)年に,加納幸和さんが ですね。そこから枝分かれしていった,『新派』『新国劇』 花組芝居という劇団を旗挙げして,その3年後,宮城聰氏 『新劇』etc. 今どうでしょう?」。ここでは,明治の演劇 によりク・ナウカという劇団が組織された。花組芝居と 改良以降の,新派や新国劇といった新しい演劇を模索する ク・ナウカという,80年代後半から90年代にかけて創立 動きが意識されている。けれども,鈴木氏のような「アン された新しい劇団は,風間さんの時代区分でいうと,「第 チ」が頑張ったために,現在それらは廃れつつあり,今度 四世代」よりも後の世代になるのだが,彼らは一様に鏡花 は逆に新派が現代の演劇に対するアンチのような存在にな に注目している。たとえば,平成8年(1996)にク・ナウ ってしまっている。そんな時代に,加納氏としては,先ほ カが,利賀村野外劇場で「天守物語」を上演している。利 どのご発表にてらしあわせれば,「フィクションとしての 賀村は,鈴木氏が開いた演劇村である。また,平成9年 伝統」を持ち出す。そして加納氏は続ける。「現代人が, (1997)には,花組芝居が「泉鏡花の天守物語」を上演し 日本民族のアイデンティティーを探ろうとしている今,芝 ている。ということはつまり,新しい世代と鈴木氏との間 居では,生き残った古典群以外,その糸口がないというの に共通する問題意識があると言えるだろう。「ネオ歌舞伎」 は,如何にも寂しいではありませんか? で,生煮えだっ を目指してスタートした花組芝居は,歌舞伎の演目に触発 たかも知れませんが,大和民族と地続きの現代演劇!狙っ された「ザ・隅田川」という作品を旗挙げ公演として上演 てるんスよ。」 (加納幸和『「金幣猿嶋群」劇団創立15周年 した。ク・ナウカの方は,明らかに人形浄瑠璃に影響を受 記念公演第二弾』)パンフレット,2002年5月) けた演出をしている。普通はお芝居というと,演技をする もうひとつは,ク・ナウカの演劇観である。「ひとつの 人が同時に台詞を喋ることが前提として考えられている 役を『語る』俳優と『動く』俳優の『二人一役』で演じる が,ク・ナウカを旗挙げした宮城氏はその常識を破り,演 独自の方法を用いて古典戯曲に取り組む。」 ( ク・ナウカ 技をする人と台詞を喋る人を分けた。前者は「ムーバー」 2001年7月公演チラシ)という文脈で,「古典」という言 と呼ばれ,所作だけを担当する。後者は「スピーカー」と 葉が使われている。このチラシには,劇団のセールス・ポ 呼ばれ,登場人物の台詞を担当する。人形浄瑠璃と似てい イントとして「伝統と現代を融合させる最先端の劇団とし ると言うこともできるし,歌舞伎の中の義太夫狂言と共通 て,欧米,アジア各国での評価も高い」という一文がある。 しているという見方もできる。彼らは,古典芸能を参照し ここでの「古典」とか「伝統」をどうとらえるのかという ていることをかなりあからさまに打ち出しながら,鏡花に 議論もあるだろうし,「欧米,アジア各国での評価も高い」 行き着いている。 というところもポイントだ。海外では,鈴木忠志氏の, 彼らの演劇に対する考え方を,彼ら自身の言葉で確認し てみたい。 50 「スズキメソッド」という演劇の稽古法が高く評価されて いる。これは,戦略として日本の古典を用いるのだが,結 果としてある種のオリエンタリズムに迎合する形にもなっ 業的な要素だとすると,鈴木氏や宮城氏は,そこにこだわ てしまう。だからこそ,日本国内のみならず海外の演劇ワ っているのではない。舞台の照明は基本的に暗く,派手な ークショップにおいても高い評価を得ているわけだ。先ほ 舞台装置も少なく,言葉や演技に力点を置いた演出がなさ どのご発表にあった浮世絵版画と同じような形が,多かれ れている。 少なかれ,演劇というジャンルにも見出されるといえよう。 さて,ク・ナウカも花組芝居も,10周年という節目の 3.渡辺守章/演劇集団「円」の鏡花― 「天守物語」 (1989) 公演に,そろって泉鏡花の『天守物語』を取り上げたが, 『天守物語』は能の影響がみられる戯曲なので,「伝統と それは決して偶然ではないだろう。一方は歌舞伎という形 創造」という問題意識から様々な演劇人に取り上げられて で,もう一方は人形浄瑠璃の演出を通して伝統芸能を意識 きた。次に,仏文学者の渡辺守章氏が1989年に演出・上 してきた。その共通性が,両劇団を泉鏡花に結びつけてい 演した舞台を紹介しよう。花組芝居とク・ナウカが『天守』 ったと言えるだろう。そこにあるより詳細な違いは,ビデ を取り上げたのは1995, 96年なので,それよりも前のこ オを見ながら考えていきたい。 とになる。渡辺氏は自分で劇団を持っているわけではない 「『アジアの身体芸能』と『語り』へのこだわり」という のだが,演劇集団「円」に深く関わっていて,特に後藤加 文章は,ク・ナウカ旗挙げ10周年にあたって,座長の宮 代さんという女優さんを使って,彼の信じる演劇理念を具 城聰氏自身が自分の演劇について書いたものだ。そこには, 体化しようとしていた。渡辺氏がこだわっていたのも,い 次のような記述がある。「『天守物語』は“アジア演劇の遺 わゆる日本の伝統芸能だった。1987年の渡辺氏の発言に 産を現代劇にどう生かすか”というテーマに対するク・ナ は,「能をその本質において特長づけているのは<力>で ウカの回答であり,それをアジア・アフリカ・ヨーロッパ あり,それも外へ発散する<力>であるよりは,演者の身 の交点であるカイロで上演することで,作品の普遍性を試 体性そのものにかかりそれを変容させるような内的な力, すことができると考えた。…カイロ公演のひと月前に『オ 言いかえれば<強度>であるとすれば,現行の能の様々な イディプス王』の韓国公演をおこなった。…やはり『語り 言語態の中でも,冥界や地下の霊たちに呼びかけ,それら 物の国』として日本と共通の素地があることを痛感させら を呼びさまし,地上に再臨させるような強い怨声は,能の れた。」ここでの「語り物の国」という表現が,何世代か 持ち得る最も現代的な<声>であったと言える。新劇と呼 上の鈴木氏とつながるところだ。鈴木氏も,折口信夫を引 ばれる西洋近代型演劇が見失って久しいこのような<聖な き合いに出しつつ,日本の伝統芸能の特質に「語り物」が るもの>の感覚は,それを取り戻すことによって「ステー あり,自分もそれに依拠した,と述べていた。 ジ円」の『アンドロマック』は,現代の演劇作業に,言わ では,このような意識は具体的にどう舞台上に現れてく るのだろうか。鈴木氏も宮城氏も,商業演劇に特徴的に見 ば垂直軸の次元を蘇らせ得たのだ。」とある。[レジュメか らの引用] られがちな,カラフルな舞台装置や舞台衣装といったもの 渡辺氏と鈴木氏にはよく似たところがある。渡辺氏は能 の力を借りずに,彼らの考える「劇的なるもの」へと観客 を意識し,実際に,狂言師の現・野村萬斎さんを使って を誘おうとした。商業演劇というのも,正確に定義するに 『能ジャンクション』という演目を創ったり,彼が演出し はいろいろな議論があろうかと思うが,興行的にはチケッ た『アンドロマック』『ベレニス』に狂言役者を登場させ トが売れることが肝心なので,観客を喜ばせるために視覚 たりして,具体的に能・狂言との接点を見せている。80 的なエンターテインメントを提供するということになろ 年代に盛んに言われていた,「新劇と呼ばれる西洋近代型 う。仮に視覚的な華やかさや女優の美貌といったものが商 演劇」 (ある種紋切型の,西洋由来のリアリズム演劇)とは 51 違うものをめざすのだということは,鈴木氏もかなり繰り 体の演劇人によっても行なわれた。例えば平成14,15年 返し言っていたし,渡辺氏もそれと基本的に似た立場に立 のヒデオゼミ「鏡花を読む」がそれである。「ヒデオゼミ」 って,新劇をのりこえようとする。「新」とは言っても, の「ヒデオ」とは観世栄夫のこと。彼は,喜多流に移って いまや手法が古臭くなってしまったので,新劇よりもさら 観世流に戻るといった形で,現代演劇における能楽を彼な に新しいものを実現しようとしたときに,いわゆる古典が りに捉えなおそうとしていた。そんな彼が晩年に行なった 蘇る。色々な芸術分野に似たような動きが出てくるのかも この「鏡花を読む」プロジェクトは,謡の語りを意識しつ しれないが,日本の演劇界,特に60年代と80年代には, つ鏡花作品を身体化する試みである。第1回公演は,鏡花 そういう,日本的なる演劇と西洋リアリズム演劇とを対立 の小説『歌行燈』で,第2回公演は,同『日本橋』。公演 軸と捉えたうえで,後者に対峙できる価値として能や歌舞 といっても,演劇ではなく朗読である。まったく舞台装置 伎を参照する,というスタンスが目立って見られた。その がなく,椅子が置かれてあるだけの場所にゼミ生が座り, ひとつの実現として,渡辺氏による1989年の『天守物語』 それぞれセリフを読んでいく。言葉を強く意識するという があるわけである。 点では,これまで紹介してきた他の演劇人の問題意識と近 渡辺氏は「あくまでも地下を目指す,地霊的なるものへ いのかなと思う。 の回帰とも言うべき下降運動」という言い方をしている。 言葉と身体という問題意識の出発点的な位置にいた鈴木 こういう物言いは,明らかに能を意識しているわけだが, 氏は,「戯曲を演出するのではなく,肉体を演出する」と 新劇界からは,亡霊やお化けが出てくるような演劇は荒唐 いう言い方をした。彼は,現代演劇の中に肉体を復権させ 無稽だと批判される。それに対抗するために,渡辺氏は鏡 るために,能や歌舞伎を使ったのである。一方,渡辺氏は 花をみいだしたのではないか。「鏡花は亡霊を書いている 文学者らしく言葉にこだわった。渡辺氏の『天守物語』は, ではないか」と。このように,渡辺氏,花組芝居の加納氏, 戯曲のト書き部分を,あえてセリフとして語らせることに ク・ナウカの宮城氏は,いずれも似たような動機で鏡花に よって,鏡花の言葉の持っている肉体性をあらわそうとし 行き着いたということになる。ただし,具体的な演出は異 た。言ってみれば,鏡花の戯曲を題材にして,肉体と言葉 なっている。渡辺氏と鈴木氏には,基本的に暗い照明で, の二項対立を超えようとする試みである。それに対して, 華やかな舞台装置もない中で言葉や身体そのものに焦点を 花組やク・ナウカは,より視覚に訴える直接的な身体性を 当てる,という共通した傾向が見られる。ク・ナウカは, みせている。つまり歌ったり踊ったりすることで,能が持 同様に暗い照明の中で,言葉を聞かせる方法を継承してい っている歌舞劇の要素を,もう少し現代人に身近に感じら るが,花組には,歌舞伎はエンターテインメントだったの れるような形で再現するという方向性があった。 だから華やかでいいではないか,という考え方があって, 面白い衣装を着ていたり,派手な動きをしたりして,必ず 5.映像で見る3つの鏡花―花組芝居,ク・ナウカ,映画 しも語りやセリフのみにこだわってはいない。エンターテ 今日は,花組,ク・ナウカ,そして歌舞伎役者が演じてい インメント的な要素を同時に追求しようとした加納氏に対 る映画の『天守物語』の3種類の映像をご覧いただきたい。 して,ク・ナウカは60年代的な匂いを残した劇団だと言 鏡花の原作では,舞台装置は次のように指定されている。 えるだろう。 「舞台。天守の五重。左右の柱,向って三方を廻廊下の如 く余して,一面に高く高麗べりの畳を敷く。…」これは, 4.2000年代の鏡花 鏡花を使って伝統と創造を融合する試みは,古典芸能自 52 明らかに能舞台と似た空間である。舞台となっている姫路 城の五重は,実際に行ってみるとわかるが,木の床と,そ の周りに柱があって,能のイメージそのもの。ここを舞台 にしているのは,実際の天守閣の内部も意識させる意図が 味深かった。 映画『天守物語』では,能役者ではなく,歌舞伎役者の あるのだと思う。その上で,さらに鏡花は,「紅の鼓の緒, 坂東玉三郎が主役を演じている。[VTR視聴]映画ではあ 処々に蝶結びして…」と,能を思い起こさせる装飾を指定 るが,能舞台を連想させるシンプルな舞台で,鏡花がイメ している。その後に,「女童三人――合唱――此処は何処 ージした世界が表現されている。演出としては,これが一 の細道じゃ」という歌がある。 番能に近いだろう。先ほどの花組芝居の例では,動きまわ これが花組芝居の手にかかるとどうなるだろうか。 [VTR視聴]原作では能の印象だったものが,見せ場にな るとアップテンポの踊りになる。舞台装置はほとんどない りながら語るので,歌舞伎の仕方話に近い仕上がりだった が,ここではじっと座ったまま語っている。 映画は,いわゆる伝統芸能あるいは古典芸能の世界の人 が,衣装はかなり派手だ。昔の能を見ていた人にとっては, が鏡花を演じた場合の一例であるが,歌舞伎役者が演じる 能の「クセ」や「キリ」に似た楽しみを感じると思う。 ことによって,鏡花と伝統芸能との接点が,演技的に明確 主人公の富姫が,空を飛んで天守閣に帰ってきたあと, になってくる。手元の扇子を閉じたり開いたりしながら, 外の世界で経験したことをお付きの人たちに語って聞かせ 仕方話的に語る玉三郎。歌舞伎役者の演技だからこそ,飽 る場面がある。過去に経験したことを,相手役に対してと きさせず,長ゼリフをとうとうと語っていく,という演出 うとうと話すのは,能によくあるシチュエーションである。 効果が面白く出ていると思う。 能は,よく「シテ一人主義」と言われるように,主人公が 今日は『天守物語』全部をご覧いただくことはできなか 自分の生前に経験したことを,おとなしいワキにむかって ったが,さわりの部分だけでも,伝統と創造がさまざまな ひたすら語る設定が多いのだ。こういった一人語りの場面 形で模索されていることがおわかりいただけたのではない では,能と似たような演出ができる。ここでは,主役の夫 か。 人の語りを通して,雨に濡れて侍たちが慌て騒ぐ様子が面 白かった,という場面を,観客の私たちに,あるいは舞台 【質疑応答】 上の夫人の周りにいる人たちに想像させる。 (高松)ありがとうございました。まず,私は音楽をやって 次に,ク・ナウカのバージョンを見ていきたい。[VTR いるからかどうしても気になってしまうのだが,い 視聴]夫人の「この辺は雨だけかい。…」という場面は, ま見せていただいた3つの映像ではどれも音楽が一 この演出では,男の声が「スピーカー」によって語ってい 様に,何というか...「つまらない」感じがするの る。実は歌舞伎にも仕方話という似たような演出があって, はなぜだろう。語りや動きが,古典や伝統と結び付 義太夫狂言の場合は,主役のセリフを義太夫が一部取って いているのはよくわかるのだが。 語る。役者ではなく語りの専門職に語らせるわけで,リア (田井)私もそう感じる。大衆性に対するアンチテーゼとし リズム演劇の方法とは異なっている。ク・ナウカの演出も, て出発したかもしれないが,結果としてはむしろ大 これに近い。ク・ナウカのセリフ回しは,一語一語,義太 衆演劇に近いものがある。 夫のような凝った語り方だ。役者の美加理と話したとき, (佐伯)確かに音楽は安っぽい印象もある。 スピーカーはスズキメソッドを使って練習していると聞い (田井)伝統的な囃子の音楽を使うと,負けてしまうのかも た。スズキメソッドというのは,声の稽古ではなくて,所 しれない。初めて聞いたときは,語りもテープを使 作を稽古するときに用いるものだと私は思っていたのだ っているのかと思った。 が,スピーカーが声を出すのに役立っているというのが興 (高松) 音楽という視点がすっぽり抜けているように見える。 53 (佐伯)そうかもしれない。演出の人たちも,音楽について はあまり明確に言及しない。そこだけは配慮が欠け ろで陳腐な音楽を使ったという選択は,ある意味正 しいのではないかと思う。 ているような気もするが,私自身,もう少し音楽に ついて考えてみるべきだった。 (田井)2点ほど伺いたい。ひとつは,言葉や声を重視する (高松)音楽監督はいるのか。 ことや霊的なるものへの関心,あるいは現代演劇に (田井)いるだろう。ただ,大衆演劇の音楽と同じようなつ 肉体を取り戻す,といったあたりのことはたいへん ながりの人ではないか。 (佐伯)渡辺氏の「天守」では,渡辺氏が選曲しているが, 確か亀姫が登場する場面でワーグナーを使っている。 (田井) やはり,そのあたりが大衆演劇に近いかもしれない。 大衆演劇では《ワルキューレ》なども使われますか ら。 よくわかるが,その狙いとしてなぜ泉鏡花が選択さ れるのか。参照可能なものがほかにもあったかもし れない中で,なぜ泉鏡花が集中して選ばれるのか, ということだ。 もう1点は,ク・ナウカが,浄瑠璃風の語りをし たり,2人で1つの会苦を演じていたりしたが,発 (岡田) 「ク・ナウカ」と「花組芝居」を見ると,全体的な 想は日本的かもしれないが,出来上がったものを見 タッチとしてはポップな印象を受ける。音楽がチー ると,南アジアのパントマイム劇(たとえば南イン プというのは確信犯かとも思う。あのような場面に ドのカターカリなど)にむしろ近い感じがした。一 合う,シリアスで高尚な音楽というのは想像できな 部分しか見ていないのではっきりとは言えないが, いから,あえて狙った効果なのではないか。となる 浄瑠璃のような日本のものの影響は,あまり感じら とたぶん,その前の,鈴木演劇の中での引用と,ベ れないように思う。ちょうどこの頃は,アジアの演 クトルが逆ではないかと思う。鈴木氏は,西洋的演 劇への関心が高まっていた時期でもあるので,アジ 劇を日本的に乗り越える,という前提を立てていた ア演劇を取り込もうとする意識が強く反映している かもしれないが,あくまで芸術性追求の素材として ような印象を持ったのだが,どうだろうか。 鏡花を使った。だから,パーツとして使ってコラー (佐伯)宮城氏のほうは,「アジア演劇の現在形としての天 ジュ的に構成したのだろう。論理としては,明らか 守物語」という表現をしている。「日本演劇の現在 に前衛演劇のそれだ。いっぽう,花組やク・ナウカ 形」ではなく。玉三郎のように,日本が舞台なのだ は,日本の演劇界にあった,否定的な価値としての から着物に日本髪という選択も当然できるのだが, 西洋的演劇を解体するために,アジア的なものを持 宮城氏はそれをしたくなかった。アジアとは何かと ち出す。その象徴が泉鏡花だったのだろう。語り口 いう問題意識を持ちつつ,アジアの他の地域のコス も違っている。鈴木さんの演劇論は「いかにも」な チュームや楽器を取り入れていくと,日本の話であ 芸術論といった調子だが,後の世代の人たちは,そ る「天守」に対して別な演出の可能性が見えてくる。 れをある意味「ダサイ」と思ってきたから,「寂し それが彼を鏡花に,なかでも『天守』に向かわせた いじゃありませんか」といった調子で意識的に語り のだと思う。『婦系図』だと,こういう演出はしに 言葉を使って演出をしている。音楽の話に戻ると, くい。『夜叉ヶ池』と『天守物語』は,あからさま 渡辺さんが《ワルキューレ》を使ったような,ある に化け物が登場するのでやりやすい。ほかにも選択 時期の日本のエリートかぶれの思想みたいなものの 肢があったのでは,というお話だったが,宮城氏は, ダサさを知り抜いた人たちが,いちばん猥雑なとこ ギリシャ悲劇に向かったり,『安達原』をモチーフ 54 にした歌舞伎をやったりしたので,確かにいろいろ だ,鏡花においては引用であっても,その外枠にあ と模索はしている。渡辺氏はフランス文学者という る『天守物語』というお芝居はラディカルなものだ こともあり,ラシーヌ演劇に行っている。渡辺氏の ろう。そうすると,例えば,現在の新しい世代の演 代表作は,『天守』よりもむしろラシーヌだろう。 劇の人たちが,古典の延長として鏡花をやるときに, ラシーヌの方が,能と現代演劇を結びつける試みと 鏡花の中にある古典の引用をキャッチして,そこを しては完成度が高い。渡辺氏は鏡花に集中していっ 伸ばしているのか,あるいは,古典の引用を含んだ, たわけではないのだが,全員に共通する要素は,な かつてはラディカルであった『天守物語』それ自体 ぜか鏡花にあった。『天守』は大正に書かれた後, をまた,新たな古典としているのか。『天守物語』 長い間上演されなかった。それはつまり,歌舞伎で は,読んでも理解するのが難しい。鏡花と同時代に も上演できないし,新劇がやるわけはないし,放っ も,『婦系図』なら上演できると思う。もし同時代 ておかれていたのだ。それがやがて,「歌舞伎とも の読者が,『天守』を斬新な芝居だと感じるなら, 新劇とも新派とも違う何か」をやりたいという機運 いったい「古典」とは何だろうか。鏡花の『天守物 が高まったときに,とても都合のいい素材に見えた 語』の中には,恐らく古典が息づくものとして鏡花 のだろう。書かれたのが早すぎて大正期の演劇状況 が引用した能などがあって,その鏡花が構築したお では視聴覚化できなかったところ,小劇場「第一世 芝居自体は,意匠など外枠の材料は別として,実は 代」以降になって,ギリシャ悲劇かチェーホフか, 世界観そのものが伝統的なそれのラディカルな組み という選択肢が出てきて…。 替えとなっている。これは果たして,伝統的な歌舞 (田井)おどろおどろしい世界を背景にもった作品というこ とで,題材としてうってつけだったということなの かもしれない。手あかがついていない。 伎や能が持っているような世界の捉え方を引き継い でいると言えるだろうか。 (佐伯)世界観としては,鏡花はむしろ通俗劇的に書いてい たと思う。鏡花はドイツのメルヘンなども好んでい (菅) この人たちはどうやって鏡花に出会ったのだろう。 て,お姫様のところに王子様がやってきてハッピー 渡辺氏は90年より少し前だが,花組,ク・ナウカ エンド,というような,説話的なものを彼流に書く が鏡花を取り上げたのは90年代。文学のほうでは, とこうなったのだろう。でも,当時は自然主義が流 その少し前に鏡花の再評価ブームがあった。それま 行していたので古臭いとされた。 で,近代文学では鏡花は趣味の対象であって,文学 的に分析できる手法もなかった。鏡花にこういう作 (菅) そのあとプロレタリア演劇などが出てくるので,ま すます古いものとされていく。 品があるということを知らないと,出会うこともな かったはずなので,一般的な鏡花ブームが少し先行 (小塩)スズキメソッドというのは,どういうものなのか。 して起こっていたことが,彼らの目に入るきっかけ 何か日本的なものがあるから,海外で受けるのだと になっていたと思う。 思うのだが,どこに特徴があって,それは西洋演劇 また,『天守物語』が作者と同時代には上演でき のメソッドと何が違うのか。 なかったというお話があった。今日ビデオを見て思 (佐伯)スズキメソッドでは,下半身を鍛えることを重視し うのは,『天守物語』の中には,確かに能や浄瑠璃 ていて,歌舞伎の黒子の動きなどをお芝居に取り入 的な要素があるが,それは一種の引用かと思う。た れようとしたものだ。 55 (小塩)書かれたテキストがあるのか,あるいはメニューの ようなものがあるか。 この手法で,テネシー・ウィリアムズの『欲望とい う名の電車』など,いろいろなジャンルを試みてい (佐伯)鈴木氏の演劇の最後には,いつも稽古の一部を見せ たのだが,すべてをこれではできないと思った。や てくれていたのだが,それを見ると,邦楽をアレン はり,鏡花や神話のようなものでないと…。先ほど ジしたような音楽に合わせて,中腰で動くようなこ の版画のお話に例えると,新版画と創作版画のいい とをしている。 とこどりをして,商業的に生き残っているのが,演 (田井) 発声法は,日本の伝統的な発声法とは思えなかった。 劇界ではたぶん蜷川幸雄なのだと思う。 部分的にはそう感じられるところはあるけれども (田井)先ほどの映像を見ていても,蜷川幸雄の舞台を思い …。「復権」といえるほどの要素は意外に少なかっ 出した。けばけばしい衣装などに,共通点がある。 たように思う。 (菅) 蜷川幸雄さんだったら,夫人が帰ってきて色々と話 をしているときに,その映像をバックに流すような (桑原)観客の反応はどうだったのか。 「サービス」をしそうだ。 (佐伯)鈴木氏は,この時代のインテリオタクのような人た (佐伯)そういったサービスのほかに,可愛い少年俳優を入 ちから,「自分たちは芸術を見ているんだ,僕たち れるというようなやり方で,蜷川さんは生き残って は通だよね」といった共感を得ていたと思う。今は, いる。ク・ナウカはそういう迎合的なキャスティン そのような演劇シーン自体が崩壊していて,花組は グをしない。 インテリ層に評価されつつ,女の子が「キャー」と 喜ぶような存在だ。ク・ナウカの観客層は,鈴木さ ん的な60年代演劇の名残を引きずっていたように 思う。ただ,ク・ナウカは現在活動休止中である。 (高松)鈴木演劇とク・ナウカでは,40年近く開きがある から,世代が入れ替わってしまっている? (小塩)ク・ナウカの俳優は,もともと劇団のオリジナルの 俳優を使うのか。 (佐伯)そうだ。花組も,自分たちの劇団の俳優を使うのが 基本だ。 (小塩)それは,宝塚などをパクっているわけではない? (佐伯)宝塚のパロディのようなこともしている。 (佐伯)そうだと思う。ク・ナウカと早稲田小劇場の観衆は 重なりうると思うが,私くらいの世代までが両方か (高松)花組はまだ存続しているのか。 ろうじて経験できた。 (佐伯)人気は根強く,この間も公演があった。化け物が出 てくるストーリーが得意な漫画家がいて,その原作 (岡田)ク・ナウカ,というのは,何語でどういう意味なの か。 (佐伯)ロシア語で,「科学へ」という意味だと書いてあっ た。 (田井)どうして存続しなかったのだろうか?若い人にも人 気があるように思えるが。やはり,経年変化という (菅)『百鬼夜行抄』? (佐伯)そう。あと,音楽に関しては,『劇的なるものをめ ぐってⅡ』で,どんな音楽が流れていたかは知らな いのだが,鈴木さんのギリシャ悲劇などでは,盛り 上がるところで必ずベタな演歌を流している。 か,少し煮詰まってしまったというようなことがあ (岡田)エリートの非日常を使うわけだ。 るのだろうか。 (田井)先ほど岡田さんがおっしゃったように,これだけ演 (佐伯)確かに,多少「煮詰まった」という印象はあった。 56 を使った。 劇にこだわっていて,音楽だけがチープなのは,戦 略と考えたほうがよさそうだ。かなり巧妙だと思う。 (高松)でも,自分たちは古典が好き? (菅) ただ聴いていると大衆演劇そのままだ。 (佐伯)はい。日本舞踊を習っているし,新派も好き。 (田井)そう思う。じっくり観ると,面白いものがあるので (田井)そうなると,アンチテーゼではない。 はないか。ただ聴く限りでは大衆演劇のようだが, (佐伯) 『天守』も,初演は新派だった。女形の花柳と,女 そこに彼らならではのものがあって,観客はそこに 優の水谷八重子が共演した。これがちょうど,女形 嵌っていくのだろう。 時代新派から女優時代新派への,過渡期を象徴した (桑原)学生たちに誘われて,浅草の大衆演劇に行ったこと 舞台だったと思う。 があるが,まさに「キャー」という世界で,若い子 (田井)新派では再演されていないのか。 たち嵌っている。振りは日本舞踊だが,和あり洋あ (佐伯)再演している。何年か前にもやっている。これは新 り何でもありの世界。 派以外の出演もあり,宮沢りえ,新国劇の故・島田 (田井)そういう世界と通ずるものがある。 正吾,上條恒彦も登場している。この芝居は,役者 (高松)どういう客層なのか? のジャンルを問わず上演可能だ。新派でないといけ (佐伯)大衆演劇は,中年の女性中心だろう。 ない,とか,花組でなければ,ということがない。 (桑原)プラス大学生などの若い層。 (菅) 最近,若いスターが現れたからだろう。 (桑原)戦前は一度も上演されなかったのか。 (桑原) 私のゼミの学生だと,大衆演劇の,よくわからない, (佐伯)そうだ。 でも非常に身近なぐちゃぐちゃとした世界が,逆に (桑原)発表は,『新小説』での連載? 面白いと感じるようだ。 (佐伯)そう。ある意味この作品はポップすぎて,自然主義 (佐伯)花組は,明らかに新劇風のインテリ臭と違うところ 全盛期の文学界やプロレタリア演劇がトレンディだ を目指しているので,その客層は,いわゆるインテ と思われていた時代には,古いのか新しいのかわか リ層にとどまらず「楽しいから好き」という人たち らなかったのだと思う。新劇ってダサイね,という だ。 時代になって初めて,受け入れられるようになった。 (桑原)入場料はどのくらいなのか。 (菅) 舞台装置としては,幻想的に作ろうと思えば作るこ (佐伯)現在は4∼6千円位。歌舞伎ほどは高くない。 とができるから,そういうものがかえって魅力だっ (高松)本当の古典を知っているような客層ではない? たのかもしれない。でもやっぱり,私は,新しい演 (佐伯)まず,歌舞伎座で『忠臣蔵』を観て,花組を観る, 劇の人たちが,鏡花や『天守物語』の何を古典と捉 という人もいれば,歌舞伎の『忠臣蔵』は難しいけ えているのかわからない。その前の鈴木さんの考え れど,花組なら行きましょう,という人と両方いる はわかりやすい。鏡花の作品を媒体にして,過去の と思う。 何かを呼び戻して,そこでつながろうという発想な (田井)逆に,花組を観て,歌舞伎の『忠臣蔵』を観る,と いうパターンもあるのではないか。 のだから。 (田井) 『天守物語』に対して,古典という意識はあるのだ (佐伯)そうかもしれない。 ろうか? 先ほどから出ている,何かおどろおどろ (高松)劇団の方針として,最終的には古典に親しんでもら しいもの,心霊的なものに対する関心はあっても, おう,といった啓蒙的な方向性はあるのか。 古典への回帰という意識は,少なくともこの作品に (佐伯)それはあまり強くないと思う。 ついてはあまりないのではないか,という気もする。 57 上演手法として古典芸能を参照しているということ 花なりの回答なのかもしれない。 はあるかもしれないが,作品自体に古典的なものを 求めているのか,という点では,どうなのだろう。 (藤原)この研究会で,95年以降のものを題材にするのは (佐伯)原作を書いた時の鏡花の意識はこうだったのではな 初めてなので,これまでの議論とは異質な何かを設 いか。彼の自然主義的でない小説が時代に合わない 定しないといけないような気がした。自分自身も, と思われていたときに,何かで活路を見出したいの 世代的についていけないものがある。鏡花の年譜を だけれども,それが何かわからない。鈴木忠志が, 見る限りでは,盛んに上演されるようになったのは, 新劇的リアリズムなんて嘘だと思ったような違和感 90年代に入ってからのこと。意外と日本の伝統教 を,鏡花は同時代の小説家に感じていて,小説に何 育のたまもののひとつと思ったりしないでもない。 か別の可能性を求めようとしたら,頭打ちになって 逆に言うと,それまでの空白が気になる。私は, しまった。そこで彼にとって身近な能の世界にひと 「変なもの」が好きという理由で鏡花を読んでいた つの救いを求めた。鏡花は,鈴木忠志のように方法 ので,伝統云々という意識は持っていなかった。そ 論として理屈をつけてやったわけではないのだけれ れが,今ちらっと観た中では,歌舞伎とか能とかに ど,無意識に出してきたものが,リアリズム至上主 結びつけられていた。もちろん,結びつけている人 義に対するアンチテーゼ,という点で,鈴木さんと には作戦があるのだろうが,伝統とか,日本とかい ぴったり合ったのかな,という気がしている。 うものをもてあそんでいるような気がする。96年 (田井)ということは,鏡花は,古典としての能が基盤とし 以降の芝居との世代差がすごくあると思う。鏡花が て持っていた,日本人のある種の習性というか,お 『天守』を出した17年と,50年代,空白期,現在, どろおどろしい別の世界への関心,そういった心性 のように段階的に見ると,まさにこの研究会が本当 に惹かれて,そちらに活路を見出した,そしてそれ にテーマとしなければならないものが見えてくるの はリアリズム演劇にはないものだった,というわけ では。 か。 (岡田)特定できないが,日本がカッコいいと語れるように (佐伯)小山内薫が,鏡花は古臭くて今の演劇には合わな なった時期がどこかにある。伝統がどうとかを意識 い,というようなことを言っていることからもわか せずに,無条件にポップで素敵,という感覚で日本 るように,インテリ演劇としての新劇は,新派的な を受け取ることができるようになる世代が,どこか 商業演劇を明らかにバカにしていく。その流れで, を境に生まれているはずだ。それは単純な感覚的な 鏡花も,新派のような通俗演劇と見られてしまって レベルなのかもしれないし,藤原さんが言ったよう いる。たしかに,鏡花が小説として書いたものが新 に,伝統教育がどこかで生きているのかもしれない 派に移るとすごく受けたが,鏡花が自ら戯曲を書こ し,あるいは複合的な要因があるのだろうが,結果 うとしたときには,花柳界の世界よりも,ドイツ的 として,例えば花組などには,若い人があまり深く なメルヘンを日本流に書く方向に行った。ドイツの 考えずにぱっと入っていけるものがある。 民話にあるお姫様と異類の結婚は,日本の土着的な (桑原)今の学生は,例えば陰陽師のように,とっつきやす 幽霊の話や異類神婚譚と似ている。『天守』は一種 い「日本の文化」に惹かれていく。学生の卒論テー の異類神婚譚なので,ドイツ文学と日本の伝説,能 マの選択などを見ても,今おっしゃったようなこと 的な怨霊のようなものをミックスしたうえでの,鏡 は強く感じられる。 58 (菅) 漫画などのサブカルチャーの影響は強いと思う。日 本がカッコいいと言えるようになったことと,サブ カルチャーの影響と,東アジアにおける反日感情へ の反感といったものが全部混ざって,今の若い人の 受容が成立しているとするなら,メディア研究をや っている私としては,非常に深刻で重要なことだと 思う。 (田井)現在,「伝統文化教育」といわれるものは,それほ ど教育の現場で浸透しているのか。 (岡田)承認を得ているという面はある。日本的,伝統的な ものに対してまったく抵抗がなくなった。学習指導 要領にも記述があり,学校で扱う機会も増えている。 写真4 佐伯順子氏 昔は,大学の先生はとりあえず日本の悪口を言って いたようなところがあったが,今ではそれはちょっ と度胸のいることだ。反発が返ってくる。 59 第15回 音楽における異国の表象 研究補助としてご協力いただいた根来章子氏による発表 <日時>2008年6月7日 (土)13:30∼17:30 <場所>聖徳大学2号館1階研修室 を軸に,20世紀前半のフランスにおける「日本らしさ」 <出席者>岡田裕成,小塩さとみ,田井竜一,高松晃子, の形成について,音楽面から考察した。発表の内容は,後 日,論文としてまとめられた。この記録には,まずその論 藤原貞朗,根来章子(研究補助) 文を掲載し,当日行われた質疑応答の様子を末尾にまとめ <スケジュール> 1.報告「近代フランス音楽にあらわれたアジアの表象 ―20世紀前半音楽シーンにおける異国の伝 た。論文には質疑応答がはさみこまれた場所を明示してあ るので,随時参照されたい。 統の取り扱いについて」根来章子 〔休憩〕 2.座談会[省略] 近代フランス音楽にあらわれたアジアの表象 ―20世紀前半音楽シーンにおける異国の伝統の取り扱いについて― 根来 章子 はじめに 以降,近代のフランスの作曲家たちは,多かれ少なかれ, 19世紀のロマン主義の時代から,音楽における異国趣 「フランスの音楽とは何か」という命題と常に対峙するこ 味は,すでに高まりを見せていたが,19世紀末から20世 とになり,そのアイデンティティが常に意識されるように 紀にかけての流通の発達や,人的交流の増加は,異国趣味 なっていた。 の様相を少しずつ変化させていく。 このような状況を背景に持ちつつ,アジアの音楽の受容 19世紀末の音楽界は,伝統的な機能和声に基づく作曲 がフランスの作曲家たちの中に広がっていく。そして,異 法が限界に達し,誰もが新しい書法を模索していた。その 国の文化要素を音楽作品に持ち込む際の,創作者側の意識 ような時期に,万博や植民地を介して入ってきた非西洋の や態度は,時代の変化とともに,徐々に変質していった。 音楽言語が,作曲家たちの興味の対象となっていくのは当 当初は,異質な文化要素を誇張することで,観客に驚きと 然のことであった。 滑稽さを提供していたが,徐々に,正統性の獲得へと,態 フランスに関して言えば,1871年,普仏戦争の敗戦に 度がシフトしていく。 よって,フランス国内で国民意識が高まるのと時を同じく しかし,正しいものを追求し,真のアジアに近づけば近 して,「アルス・ガリカ(フランスの芸術)」の標語を旗印 づくほど,意識すべき「フランスの音楽」からは遠ざかる に,サン=サーンスやフランクらが国民音楽協会を創設し ことにもつながりかねない。一見,自己矛盾のように思え た。この協会の目的は,フランスの作曲家による作品の上 る,この相反する2つの方向性は,アジアを志向した,当 演を奨励し,フランス音楽の覇権を取り戻すことであった。 時の作曲家たちにどのように消化されたのだろうか。 60 本稿では,20世紀前半に作曲された,アジアを題材と 狙って,コシキとの政略結婚を企む親族たちの物語である。 した作品を事例とし,19世紀の表層的なエグゾティスム “Osaka” “Nousima” “Nangasaki”等,登場人物の名前に不 を脱して,「正統性」を求めようとする作曲者の意識や態 自然さがあり,物語の舞台も,日本でなければならない必 度,素材の取り扱い方について検討したい。 然性はないように思われる。また,音楽については,はっ きりとした調性を持つが,ユニゾンの多用や五音音階の部 1. 19世紀末のフランス音楽におけるアジア フランス音楽における異国趣味の対象は,19世紀末に 入ると,アフリカ,中東から徐々に東アジア,東南アジア, 極東へと及ぶようになる。 分的な使用もみられる。【質疑応答1】 また,アンドレ・メッサジェ André Messager (1853-1929) のコメディ・リリック《お菊さん Madame Chrysanthème》 (1893年初演)は,ピエール・ロティの同名小説を原作と なかでも,主にフランス美術,工芸の分野でフランスを し,台本はジョルジュ・アルトマン,アンドレ・アルクサ 席巻していたジャポニスムの余波を受け,音楽界において ンドルによる。日本に寄港した海軍士官が,日本女性と同 も,日本を題材とした作品が目立ち始めた。その多くは, 棲生活を送るが,やがて倦怠を感じ,フランス帰国ととも オペラ・コミックの分野で,逸話的な題材として取り扱わ に女性を捨てるというストーリーである。サン=サーンス れた。 と違い,東洋風の音階は使用されていない。この作品は, カミーユ・サン=サーンス Camille Saint-Saëns( 1835- L’Année musicale 誌上で, 「美しさと優雅さに不足はないが, 1921)の,《黄色い姫君 La Princesse jaune》 (1872年初演) 色彩とオリジナリティに欠ける。目を閉じて聴くと,人々 は,ルイ・ガレの台本による1幕のオペラ・コミックであ は,日本にいるというよりも,ノルマンディーかブルゴー る。オランダ人の少女レナが,浮世絵に描かれた女性に, ニュにでもいるかと思うだろう。」 (Anon 1893: 87)と評さ 自分の恋人コルネリウスが執心していることを知り,嫉妬 れている。楽譜に「お菊とお雪の声とともに“samésen” をする,という筋書きで,そこで描かれている日本は,2 が聞こえる」と書かれている第4幕の冒頭シーンでも,使 人のオランダ人の想像の中の日本である。音楽は,まず序 われているのは変ト長調の分散和音で,三味線の音が模倣 曲で,増2度進行を含むアジア的な旋律が,ユニゾンで奏 されているわけではない(Messager 1893: 200)。 される。コルネリウスが秘かに絵の中の日本女性「ミン」 また,前述の批評では,「このオペラ・コミックの大き を眺めて書いた手紙を,レナが発見する場面から物語が始 な失敗は台本にある。くだらないコピーで,《ラクメ》の まるが,レナがそこに書かれた,日本語の断片のような文 取るに足らない縮小だ。」と,台本への批判が書かれてい 章を読み上げるときの音楽は,律音階が使われ,合間にレ る(Anon 1893: 86)。 ナが自分の心情を吐露するセリフには,機能和声に基づく ここで挙げた3作品は,いずれも日本に関わりのある題 調性音楽が付けられている。心がミンへの思いに支配され 材であるが,作家による創作の物語であり,真正さに欠け てしまっている,コルネリウスの歌は,時に両者が接続, る。音楽についても,西洋的な部分は機能和声に基づく単 混合させられている。 純なもので,どちらかというと前時代的であり,日本的な シャルル・ルコック Charles Lecocq (1832-1918) による, 3幕からなるオペラ・コミック《Kosiki》 (1876年初演)は, 音楽が用いられている箇所は,色づけのために挿入されて いる程度である。 台本は,劇作家のウィリアム・ビュスナックと,台本作家 のアンドレ・リオラの共作である。“Yedo”を舞台とし, 亡くなった王の遺した娘であるコシキとその恋人,王位を 2. 20世紀前半の状況 20世紀に入ると,アジア文学の翻訳書の出版と普及に 61 応じて,これらを歌詞に用いたり,原作として採用したり 1913年から1918年にかけて作曲された,アルベール・ル する作品が目立ってくる。また,アジア的な作品は,かつ ーセル Albert Roussel(1869-1937)の《Padmâvatî 》Op.18 てはオペラ・コミックで目立っていたが,徐々に,舞台か (以下,《パドマーヴァティ》と表記),1920年から1921年 ら離れた,器楽曲や歌曲のなかでも扱われるようになって にかけて作曲された,ジョルジュ・ミゴ Georges Migot くる。 例えば,1912年作曲のストラヴィンスキー《3つの日本 (1891-1976) 《Hagoromo — symphonie chorégraphique et lyrique》 (以下,《ハゴロモ》と略記)を検討していきたい。 の抒情詩》をはじめ,フランスの「ハイカイ」ブームに伴 19世紀末の,アジアの逸話を題材とした作品群は,既 い増加した,日本の短歌や俳句のフランス語訳をテクスト に,ロマン派の残党として,また,軽薄で歪曲された異国 に用いた歌曲を挙げることができる。1916年に出版され 趣味であるとして,一部の作品を除いて,楽壇から認めら た , ポ ー ル ・ ル イ ・ ク ー シ ュ ー Paul-Louis Couchoud れなくなっていた。海軍退役後に作曲家を志したためにキ (1879-1956)の『アジアの賢人と詩人 Sages et poètes ャリアが短いルーセルや,まだ年齢の若いミゴが,このよ d’Asie』に掲載された訳詩には,ジャック・ピロワの《5 うな時代に,アジアの題材を舞台にかけ,評価を問うとい つの俳諧 Cinq Haï-Kaï 》 (1925年初演),クロード・デルヴァ うことに,ある程度のリスクが伴うことは想像に難くない。 ンクールの《露の世界 Ce monde de rosée》 (1925年初演) ルーセルは,オペラ座での上演を前提とした作曲であった 【質疑応答2】,ジャック・ブリュアン《4つの俳諧 Quatre し,ミゴの《ハゴロモ》は,オペラ座での上演こそかなわ Haï-Kaï 》 (作曲年,初演年不明,1924年上演情報あり),な なかったが,ミゴ自身はオペラ座での上演を期待し,目指 ど,多くの作曲家が曲付けを行っている (松本 1943)。 していた(1)。 また,モーリス・ドラージュ Maurice Delage (1879-1961) 同時代のバレエ・リュスのための作品にも,ストラヴィ の,《4つのヒンドゥーの詩 Quatre poèmes hindous》では, ンスキーの《夜啼き鶯》のように,中国を舞台としたもの 古代インドの詩人,バルトリハリの詩のハイネ訳を用い, があるが,そもそも,東側にルーツを持つ者がアジアを扱 ドラージュ自身がフランス語に訳して,テクストとして用 うことに対しては,少なくともその正統性において,疑念 いている。フルート,オーボエ,クラリネット,弦楽四重 を持たれることは少なかっただろう。しかし,西側に属す 奏,ハープと声のための作品であり,これらの楽器で,ポ る,フランス人としての彼らがアジアを扱う際には,表層 ルタメントやグリッサンドを多用することによって,イン 的な異国趣味に陥らないための配慮が必要であったと考え ドの民族楽器の音色を模倣している。ドラージュは,商人 られ,ルーセルもミゴも,題材の出自と,その正統性に対 であった実家の家業のために,インドや中国,日本での滞 して,慎重な姿勢を見せている。 在経験を持っていた。これらの作品の特徴としては,いず れも短詩をテクストとしていることから,作品自体も短く, 簡潔である。ワーグナーの音楽の持つ,長大さや冗長さの 反動で,より簡潔な書法を目指そうとしていた作曲家たち に,短詩が好まれたのは当然のことでもあった。 3. 制作時における題材研究の過程 3-1.《パドマーヴァティ》の成立背景 《パドマーヴァティ》は,2幕からなるオペラ・バレエ である。あらすじは次のとおりである。 一方で,同時期に,舞台音楽の分野でも,文学作品の翻 13世紀末,西側でパキスタンに接する,古都チトール 訳を原作として採用するという,同様の傾向が見られ始め (現・インド北西部のラジャスターン州)に,ムガール帝 た。しかも,19世紀末の,アミューズメント的な創作で 国の侵略の手が伸びる。ムガールの皇帝アラウディンは, はなく,シリアスな音楽として登場し始める。ここでは, 同盟交渉のために出向いたチトールの宮殿で,王ラタン= 62 サンの妃,パドマーヴァティに心を奪われ,侵略の中止と 引き換えに,パドマーヴァティを引き渡すよう要求する。 図1 《パドマーヴァティ》第1幕のマケット パドマーヴァティは,シバ神の聖職者から,少なくとも2 (Comoedia, 2, juin 1923.) 人以上の犠牲者が必要であると予言を受ける。戦いはチト ール側が劣勢となり,パドマーヴァティは,王の苦しみと 民の犠牲とを思い,最愛のラタン=サンを殺し,自らも炎 の中で殉死する。 流し,ドビュッシーの評伝を初めて書いた人物でもある。 ラロワが見つけてきたという「2つの詩」が何であった ルーセルは,「オペラ座のディレクターであった,ジャ のかは定かではないが,1914年11月16日付けのルーセル ック・ルーシェから,1913年10月に,彼のディレクター からラロワ宛ての書簡では,「パドマニの伝説」と題され としての初めての仕事として,何か都合のよい主題で,バ た「パヴィ氏の古本」についての情報を,ラロワから教え レエかオペラを書いてほしい」と依頼され,「しばらくの られたことに対する,感謝の言葉が綴られている。パヴィ 間,主題を探した後,私は,1909年にラージプターナに 氏,つまり,テオドール・パヴィ Théodore Marie Pavie あるチトールの遺跡を訪ねた際に知った,インドの歴史物 (1811-1896)は,1856年1月に,Journal Asiatique 誌上で 語に決めた。」という。 「チトールの王妃パドマニの伝説」という題で,数多くあ 25歳まで,海軍士官であったルーセルは,軍務として 東洋に行き,退役後に,再度,インドとカンボジアを旅し た。ルーセルは,その際に知った,インドの伝説の内容を, るパドマニ伝説の完訳を掲載している。ラロワは,これを 基に台本を書き起こした。 ルーセル自身が聞いた伝説を,翻案して創作することも スコラ・カントルムで知り合った友人,ルイ・ラロワに話 可能であったはずだが,それをせず,原典を発掘しようと した。「私は,[パドマニ(Padmani),あるいはパドマーヴ するのは,アジアの文物に没頭していたラロワの性格によ ァティ(Padmâvatî )と呼ばれる王妃の伝説について]優れ るものが大きかったのかもしれないが,アジアに精通した た東洋学者である,友人ルイ・ラロワに話して聞かせた。 人物として既に有名であったラロワに,相談を持ちかける 彼は,国立図書館で,パドマーヴァティ物語に基づく2つ 行為そのものが,正統性への志向と見てさしつかえないだ の詩を発見し,台本の執筆を引き受けたいと申し出た。」 ろう。 (Labelle 1987: 158) ルイ・ラロワ Louis Laloy(1874-1944)は,フランス東部 のジュラ地方に生まれた,音楽学者である。パリ大学(ソ ルボンヌ)に入学し,音楽史を学ぶと同時に,スコラ・カ また,《パドマーヴァティ》の舞台装置のことで,ルー セルが,ルーシェと話し合った内容について,ラロワに, 「ルーシェは,私がインドの旅から持ち帰った写真をよく 調 べ た い , そ れ は 装 飾 の 役 に 立 つ , と 言 っ て い る 。」 ン ト ル ム に て , ダ ン デ ィ や ボ ル ド に 作 曲 を 師 事 し た 。 (Roussel 1920)と書き送っている。舞台装飾を担当したの 1901年に, 『ルヴュ・ミュジカル』誌の編集長となり,他, は,スイス生まれの画家で,ルーシェの娘婿であったヴァ 『コメディア』をはじめとした,多数の新聞や,主要雑誌 ルド・バルベイであったが,ルーセルが求めに応じていた に音楽批評記事を掲載している。ラロワの博士論文は,古 とすれば,制作にあたって,実際の現地の風景が参考とな 代ギシリャのアリストクセノスの音楽に関する研究であっ ったということである。『コメディア』に掲載された,第 たが,幼い頃に遠縁の親戚が中国を旅した際の話を聞かさ 1幕の舞台装置のマケット(図1)を見ると,ファサードや れて以来,中国への興味が芽生え,1900年代初頭には, バルコニーの波型の装飾などが,ラジャスターンのウダイ 中国音楽の研究を始める。多数の作曲家や文学者たちと交 プル宮殿に似ており,やはりここでも,なるべく真実の姿 63 るものであった。 に近づけようとする努力が垣間見える。 演奏時間は約40分で,舞台音楽としては短いものであ る。 3-2.《ハゴロモ Hagoromo》の成立背景 ジョルジュ・ミゴは,1891年にパリに生まれ,パリの 舞台装置については,台本の冒頭に,「日本の浮世絵の コンセルヴァトワールで,ダンディやヴィドールに作曲を エスプリで」という一文が付されており,霞がかった富士 学んだ。ミゴは,当時のパリ音楽界の時流に乗ることを嫌 山と,裾野の松林,波に揺れる小舟の帆といった具体的な い,同時代のフランス六人組に対して,自らを「一人組 装置のイメージが書かれてある。実際の舞台も,これに基 (“Groupe du Un”)」と呼び,自身の目指す独自の書法を追 づいて作られた。 衣装は,想像上の羽衣を身につけているが,基本的には 求し続けていた。 ミゴは,もともと,極東の文化に興味を持っており,特 洋装である。デザインは,ロシア・バレエの衣装も担当し に日本については,《ハゴロモ》以外にも,山部赤人や, ていたレオン・バクストで,ここからは,ミゴが当時の前 柿本人麻呂の詠んだ短歌のフランス語訳に曲を付け,《日 衛を意識していたことがうかがえる。 本の7つの小情景― 平安時代(9世紀)の連作より Sept 台本作者には,ミゴとともに,やはりラロワが名を連ね e ている。しかし,《パドマーヴァティ》に比して,ラロワ petites images du Japon: tirées du cycle de Heian( IX siècle)》として,1917年に出版している。 《ハゴロモ》は,1920年から1921年にかけて作曲された。 の関与度は低かったようだ。マルク・オネゲル氏は,「ミ ゴは,手紙のなかで,ラロワは『協力しない協力者』であ ニュー・グローヴ・オペラ事典の言葉を借りれば, 「オペラ ったと述べており,このことから,ラロワの協力というの とバレエの要素を結びつけた」 (Honegger 1992: 384-385) は,主題と台本をミゴにゆだねたということではないか, 舞台作品であり,バレエと歌によって物語が展開していく と推論できるように思います。 」と述べている。 《ハゴロモ》 点では, 《パドマーヴァティ》と共通しているが,ミゴ自身 に関してラロワとミゴの間で交わされた書簡等も,ラロワ は,オペラ・バレエとは呼んでおらず,副題を“symphonie の遺品の中にも,ミゴの遺品の中にも残っていない。 chorégraphique et lyrique” (「舞踊と歌による交響曲」 )とした しかし,《ハゴロモ》を出版したモーリス・セナール社 うえで,スコアの注記で,さらに“symphonie chorégraphique と,ラロワ,ミゴの三者契約の契約書を見ると,ラロワが et lyrique, decorative, polylinéaire et polyplanaire” (「舞踊的, 台本作者として明記,認定されており,ミゴに支払われる 抒情的,装飾的,多線的,多形的交響曲」)というタイトル 金額の3分の1が,ラロワに支払われるようになっている が,この作品にはふさわしい,と述べる。ミゴは,この作 ことも確認できた(2)。当然,出版譜にもラロワの名前が 品において,舞踊はもちろんのこと,波や雲といった,動 掲載されている。先述したように,ラロワは,多数の新聞 きのある舞台装置までをダンサーに担わせ,指揮者に委ね や雑誌に音楽批評記事を書いており,アジアの文化に傾倒 られる音楽の一部として取り扱った。「交響曲」と呼んで しながらも,「エグゾティスム exotisme」は既に過ぎ去っ いるのは,このためである。また,こういった舞台装置を たものであると表明していた。観客はもう異国の風物に驚 「流動的なデコール」と呼び,「デコールの流動性は,キュ かされることに慣れてしまい,すでにエグゾティスム自体 ビスムによって試みられている流動性よりも好ましいと考 が消え去ったという (3)。そのようなラロワが,自分の名 えている。デコールの流動性は,少なくとも音楽的だ。」 入りで発表される作品の内容に,無頓着であるとは考えに (Migot 1922)とした【質疑応答3】。ミゴの意識としては, くく,やはり,原作の正統性の保証には,一役かっていた 既存のジャンルを乗り越えた,新しい作品を目指そうとす 64 と考えるのが自然だと思われる。 いずれにしても,ミゴとラロワによって選ばれ,書かれ た台本は,原作の内容に忠実なものとなっている。日本に 伝わる羽衣伝説は複数存在するが,ミゴの《ハゴロモ》は, していることを,ルーセル自身が1928年2月7日付けのモ ーリス・エマニュエル宛ての手紙の中で明言している。 「あなたが先日,ルヴュ・ミュジカル誌の中で書いた, 天人が松の木に羽衣をかけて水遊びをしていたところ,通 異国の音階に関する興味深い記事について,私は,ちょう りかかった漁師の白龍が羽衣を取り上げ,返すかわりに, ど《パドマーヴァティ》において(このことは,もちろん 天人に舞を要求し,天人はこれに応じる,といった筋であ コンサートの解説文では,論じることはありませんが), る。この物語展開や,登場人物が一致しているのは,丹後 これらの音階からのいくつかを,利用したことをお知らせ 風土記を世阿弥元清が脚色して作った,能《羽衣》である。 しておきたいのです。その使用は,興味をそそられる和声 しかし,ミゴが制作に入った当時,フランス語で出版され を作り出します。特に,ブラーフマナの歌は,半音変化さ ていた能研究論文は,『極東フランス学院年報』に掲載さ せた第4音を含み,増2度で終わる短音階を使って書かれ れた,ノエル・ペリの「能研究」 (Peri 1909)であるが,こ ています。」 (Labelle 1987: 139) こに「羽衣」は掲載されておらず,ペリが1911年から ここで触れられている,「ブラーフマナの歌」で使用さ 1920年にかけて同年報上で連載した,能のフランス語訳 れた音階は,インドのカルナティク音楽から取られたもの にも「羽衣」は含まれていない。ミゴの《ハゴロモ》と内 で,この使用例以外にも,数々のインド音階が作品中に使 容や,人物の呼び名が合致しているのは,ミッシェル・ル 用されている(Meine 2002)。【質疑応答4】 ヴォンによる『日本文芸抄』所収の“Hagoromo” ( Revon 1910)である。 譜例1 《パドマーヴァティ》ブラーフマナの歌(4) 原作と,台本のテクストを比較すると,原作にある,天 人と漁師の対話が,すべて歌詞として採用されているわけ ではなく,原作から逸脱しない程度に概括し,かいつまん で縮める形をとっていることがわかる。また,能で,天人 が「駿河舞」を舞う場面を,ルヴォンは, “Souruga-mai”と 訳し,続く「序の舞」「破の舞」の連続を指して,“Variant les styles de sa danse”としている。これらの記述も,ミ 一方で,使用楽器については,あくまで西洋楽器の使用 にこだわる姿勢を見せる。 ゴの《ハゴロモ》では,それぞれ原作と対応した箇所で, 「オーケストラは,木管と金管4本ずつ(フルート3本と バレエダンサーが担当する天人役への指示として,楽譜上 アルトフルート,オーボエ3本とコールアングレなど…) に記載されている。このことからは,物語展開,セリフ, を 擁 す る が , エ キ ゾ チ ッ ク な 楽 器 は 全 く 用 い な い 。」 型,ともに,できる限り,原作に忠実であろうとするミゴ の姿勢がうかがえる。 (Labelle 1987: 98) さらに,ルーセルが,この作品を,「オペラ・バレエ」 として舞台化したことに注目したい。 4. 音楽の取り扱い方について オペラ・バレエとは,17世紀から18世紀にかけて,フ 4-1.《パドマーヴァティ》の音楽におけるアジア ランスで成立,上演された舞台演目の一種で,16世紀後 次に,アジア音楽の利用に対する,彼らのスタンスにつ 半から17世紀後半のフランス宮廷で愛好された,歌や器 いて,検討していきたい。 《パドマーヴァティ》に関しては,「異国の音階」を使用 楽,舞踊,パントマイムといった,様々な要素が盛り込ま れたバレエ・ド・クールの流れを汲むものである。17世 65 紀後半,ルイ14世の宮廷作曲家であったリュリが,劇作 譜例2 冒頭のモチーフ 譜例3 白龍の歌に使用される旋律 家の作品とバレエ・ド・クールを融合させて,フランス独 自のオペラを完成させ,リュリの死後,1697年に,カン プラが《優雅なヨーロッパ》という作品で成立させた。 18世紀には,ラモーが《優雅なインドの国々》,《エベの 祭り》など,オペラ・バレエを上演している。その後,フ ランスオペラが勢力を失う19世紀を経て,ルーセルはこ こで再び,フランス音楽の伝統を取り戻すべく,オペラ・ バレエを蘇らせようとしたのである。 【質疑応答5】 ルーセルは,《パドマーヴァティ》における,オペラ・ バレエ形式の選択について,次のように述べている。 和声的には,譜例4のように,完全5度と,完全4度の堆 積により,第3音のない,調性を排した響きが作り出され ているのが特徴的である。 「私はワーグナーの抒情劇から完全に脱出したかったし, マイヤベーアのオペラに再び陥るのも嫌だった。私はソロ 譜例4 45小節目∼47小節目 とコーラスを伴うバレエ,あるいはオペラ・バレエの形式 が,現代の,少し広い舞台の上に,興味深い作品を開花さ せることを可能にすると信じている。そこでは,舞踊とコ ーラス,舞台設定や照明効果などが,作曲家に真の交響的 作品を書く可能性を与えるだろう。 (Labelle 1987: 98) 」 こういった姿勢から,台本も音楽も,「正統な」インド を意識の上では志しながらも,演奏形態や,ジャンルとい った,枠組みの部分は,西洋芸術音楽の伝統的なスタイル を堅持していることが指摘できる。 ミゴは,この《ハゴロモ》の音楽について,後年,エッ セイで多くの説明を試みている。例えば,譜例4で示した, 4-2.《ハゴロモ》の音楽におけるアジア 完全5度や完全4度,その結果生じる完全8度や,あえて1 《ハゴロモ》には,作品全体にわたって現れるいくつか オクターヴ低く重ねて奏される,ユニゾンについては,次 のモチーフがある。これらのモチーフは,変化を伴いなが の記述のように,倍音に対する強い意識を打ち出すことで, ら,様々なパートに断続的に現れる。これらのうち,譜例 説明をつけている。 2は,冒頭に奏されるモチーフであるが,これは,日本の 「楽譜に書かれた音は単独ではない。あらゆる作品に作 音階と筝を意識されているように思える。譜例3は,白龍 用している倍音,書かれた和音を損なうことなく,それら の歌でよく用いられる旋律である。作品全体のうち,明ら を取り巻く極めて上品な音響の厚みを作り出す倍音を,書 かに国籍を感じさせる音階を用いた箇所は少なく,また, かれた音が呼び覚ますのである。 (Migot 1931: 52) 」 特定の音階の使用に固執することはない。 一方で,日本の音階やその他アジアの音楽との出会いや 研究についての記述は,まったく見られない。譜例1以外 にも,曲のクライマックスに向けて,長いスパンで徐々に 音量が上がっていき,リズム的な書法が顕著になることや, 66 最後に奏される高音部のフルートの音色など,能の音楽に ていたことは事実である。ただ,当然,脈絡のない「異国 近似している部分がある。当時,パリでは,アマチュア公 風」では,単なる時代遅れの異国趣味だという評価を免れ 演ではあるが,在仏邦人による能「羽衣」の公演が1917 得ず,いくら正しいものであっても,ある国固有の旋律を 年から1919年頃に催されており,何らかの形で能に接触 部分的に移植するような使用では,目新しさに欠ける。既 した可能性はある。【質疑応答6】 に,アジアに関する知識は,フランス人の中にもある程度 しかし,ミゴは,そうした日本との関わりは明言せず, 蓄積ができていた時代ということもあり,フランス音楽界 理想とする旋律のあり方について,「調性と和声の規則を で正当な評価を得るためには,題材の正統性は絶対条件で 解放した,ある感覚のもとでしか作曲されることのない あった。そこで,アジアについての知識を豊富に持つ,ラ 『線的−旋律的(linéaire-mélodique)』な状態に到達した ロワという人物を,題材の選択や考証に関わらせることで, 我々の音楽,そして旋律,前打音の連続が,和音と低音を その正統性を担保した。 決定する。」 (Migot, 1931: 43-45)と述べている。何よりも 音楽については,両者ともに,旋律が和声に優先するス 各声部の旋律の流れを重視するという,この考え方は,や タイルを取っており,特にミゴにとっては,そのことがポ がて中世のポリフォニー様式に熱中していくミゴの方向性 リフォニー様式への接近という,西洋の伝統への回帰に連 に沿うものである。 なっている。 また,ミゴは,作曲活動の比較的初期に集中して,日本 ルーセルにおいては,インドの音階の研究と利用を,聴 を題材とした作品を生み出している。このことからは,ミ 衆には表明しようとはしなかったものの,利用に対しては ゴが,調性から解放された,自由な旋律の動きを目指して かなり積極的で,自分の書法の中に取り込み,利用してい いくなかで,習作のために,西洋と異なる旋律構造を持つ る。一方で,西洋楽器の使用に限定し,オペラ・バレエの アジアの音楽を通過したとも考えることができる。 復活という点で,やはり,当時,顧みられていたフランス このように,ミゴの場合,アジアの音楽の直接的な利用 宮廷音楽の伝統に連なろうとする。 に対しては,積極的であるとはいえない。あるいは,アジ フランス音楽界が求めていた,「フランス的なもの」を アの音楽の利用を「表明すること」に対して消極的である 目指すために,彼らは,18世紀以前の古いフランスの伝 と言ったほうがふさわしいかもしれない。このことは,ミ 統に立ち返ろうとしていた。その際に,アジアの音楽の, ゴが,アジアの音楽を表現しようとしたのではなく,それ 調性を持たない旋律の世界は,利用するのに好都合であっ を媒介にして,フランス音楽の文脈において,自分自身の た。19世紀末に強調された異質性は目立たなくなり,む 目指す書法や,音楽的方向性を実現しようとしたことを示 しろ,自分たちの向かおうとうする音楽的方向性と,同じ しているものと考えられる。 ベクトルを持つ要素が,選択受容され,利用されたと考え られる。 おわりに 以上の考察から,ルーセルとミゴに共通して言えるのは, 本稿では,20世紀前半のフランス音楽において,アジ アという題材がどのように取り扱われたかを検討した。本 アジアを題材にしながらも,そのバックボーンに,フラン 稿で触れることのできなかった,当時の雑誌や新聞におけ スの作曲家たる自分,フランスの音楽たる作品,というも る,演奏会批評の詳細な検証については,当時に何が「正 のが,常に意識されていたということである。 統」とされ,何が忌避の対象となっていたのかを知るため ルーセルもミゴも,アジアの文化に対して好奇心を持っ ており,直接的な選択動機は,個人的嗜好が大きく関係し に重要で,今後の課題としなければならない。 また,ミゴやルーセル以外の作曲家や,オペラ座のディ 67 レクターであったルーシェに深く関わり,フランスの主要 な新聞,音楽雑誌で,膨大な数の記事を執筆していたラロ ワが,アジア音楽の紹介を熱心に行っていたことは,先行 研究でもほとんど触れられていない。ラロワは,1906年 以降,ストラヴィンスキーやサティ,アンゲルブレシュト などと,毎週定期的に集まっており,特に,ドビュッシー との親交が深かった。アジア研究者のなかで,楽壇に直接 つながりがあったのは,ラロワのみで,ラロワの知識やア ジア観が,彼を取り巻く作曲家たちに与えた影響は大きい。 対作曲家だけではなく,一般向けのレクチャーコンサート なども行っていた。当時の音楽界に与えた影響力と,そこ に何らかの功績が認められるかどうか,今後,検証を進め ていきたいと考えている。 Loti; poème de MM. Georges Hartmann et André Alexandre; musique de M. André Messager.” L’Année musicale 6, Paris: Delagrave. Honegger, Marc 1992 “Georges Migot” The New Grove dictionary of Opera, London: Macmillan, 384-385. Labelle, Nicole (text réunis, présentés et annotés) 1987 Letters et ecrits. Paris: Flammarion. 松本太郎 1943「佛蘭西楽界に現はれた日本(資料)――日本的作品の年 代的記録」中山晋平(編)『音楽研究第2号』東京:日本 音楽文化協会, 165-219. Meine, Anne Sophie 2002 Albert Roussel “Padmâvatî” (1923) vor dem Hintergrund des Exotismus in der französischen Oper (1831-1932). Eisenach: Verlag der Musikalienhandlung. Migot, Georges 1931 Apposiatures résolues et non résolues (Troisiéme cahier). Paris: Cahiers de la douce France. 注 (1)筆者は,ジョルジュ・ミゴ協会の事務局長を務め,ミゴの 遺品管理者であった,故マルク・オネゲル氏より,筆者宛 ての私信の中で,オネゲル氏の筆写により,ミゴの書簡の 内容提供を受けた。この中で,「ラロワは,この冬,オペ ラ座で《ハゴロモ》をやろうと私に約束してくれた。」 (1922年5月14日[所蔵者注:「あるいは21日?」]付)という 記述がある。 (2)《ハゴロモ》出版に関するモーリス・セナール社・ミゴ・ ラロワ間の契約書。1922年5月5日付。ヴァンサン・ラロワ 氏所蔵。 (3)1914年5月15日の『コメディア』紙上では,「エグゾティス ムの終焉」と題したコラムを書いている。 (4)本稿の譜例はいずれも,文末「参照楽譜」Roussel 1923よ り筆者が写し書いたもので,使用ソフトの特性上,連符の 記譜等が原本と異なる場合がある。 Peri, Noël 1909 “Etude sur le drame lyrique japonais (nô)” Bulletin de l’Ecole française d’Extrême-Orient 9. Hanoï: Imprimerie d’extrêmeorient, 251-284. Revon, Michel 1910 “Hagoromo” Anthologie de la Litterature Japonaise des origines au XX e siecle. Paris: Librairie Ch.Delagrave. Roussel, Albert 1920 Lettre d’Albert Roussel à Louis Laloy. [Varengeville, 6 août 1920]. 参照楽譜 Message, André 1893 Madame Chrysanthème, reduction pour chant et piano. Paris: Choudens. Migot, Georges 1922 Hagoromo, partitions d’orchestre. Paris: Editions Maurice 参考文献 Anon. 1893 “Théâtre-Lyrique: Madame Chrysanthème, comédie lyrique en quatre actes, un prologue et un epilogue, d’après M. Pierre 68 Senart. Roussel, Albert 1923 Padmâvati: opéra-ballet en deux actes / poème de Louis Laloy. Paris : A. Durand. 質疑応答の記録 シンフォニー」というのが,どういうものを想定し 【質疑応答1】 ていたのかわからない。彼はどんな音楽を目指した (高松) 「Kosiki」は何と発音するのか。 のだろうか。 (根来)正しくはわからないが,「コ・スィ・キ」ではない かと思う。 (高松)登場人物は,全員が日本人というわけではないよう だが。 (根来)日本人だけではない。 (岡田)第3幕に「日本のダンス」とある。「日本人の合唱」 (根来) 「可塑的なシンフォニー」というのは,舞台装置も すべて含めて音楽であるはずなのに,舞台装置だけ 固定されて動かないのでは音楽的でない,装置も含 めて音楽に従属させたい,ということだと思う。 (高松)ということは,音楽は流動的である,というのが前 提となっているのだろうか。 も。そこにエキゾチックなモチーフがあるのか。 (小塩)ミゴはどんな音楽も流動的なものだと考えていたこ (根来)切り取って持ってきている可能性はあると思う。 とになるのか。ミゴが日本音楽を知っていたと仮定 (岡田)中国風にも聞こえるが。 して彼の発言を読めば,どういう音楽を流動的と言 (田井)楽譜の表紙を見ると,中国のイメージと混同してい ったのか想像することはできるが,そう読んでいい るようにも見える。音ではそれなりに日本のイ のか。もし,19世紀西洋的な音楽から脱け出した メージを表象しているようだが。このころ,日本や い,という意味で「流動的」と述べているのだとす 中国の旋律集のようなものは出版されていたのか。 れば,どういう音楽を目指していたのかということ そういったものを引用した可能性はあるだろうか。 を,先にある程度明らかにして,そこから見ていく (根来)それほど出回っていたとは思えないが,なかったわ とよいと思う。 けではないだろう。 (高松)音楽は日本風とはいえないが,西洋風でもない。特 に,いきなりユニゾンで始まるところなど,西洋人 があまりとらない方法だ。 (田井)やはりそこに東洋の和声のない音楽に対する驚きの ようなものが入っているのかもしれない。 【質疑応答4】 (小塩)インドの音階理論についての著書などを参照したと いうことか。 (根来)著書を参照したかどうかはわからないが,実際に現 地を訪れて,音楽に接している。 (田井)英語であれば,この時代は既に理論書を読むことが 【質疑応答2】 できただろう。 (高松) 《露の世界》の楽譜を見ると,ピアニッシモから始 (高松)規則まできちんと理解していたかどうかわからない まり,最強でもピアノ。ドビュッシーの世界と似て が,抽出した音階がどういうものであるか探すこと いる。 はできただろう。 (小塩)それに,確かにシンプルではある。 (根来)そういったシンプルさが,日本の俳諧に求められて いたものだと思う。 (田井)インドの場合,特有の音の動きがあるが,譜例集の ようなものがあればそれを使うことができる。固有 の旋律は見いだせなくても,理論的なアプローチは 可能だっただろう。 【質疑応答3】 (小塩)レジュメにある,「音楽的構造の流動性,可塑的な (根来)当時の批評をいくつか読んでみた限りでは, 「イミテ ーション」といったような悪評価からは逃れている。 69 (小塩) 「イミテーション」というのは,異国ものについて は定番の評価だったのか。 (根来)そうだ。20世紀に入ってもまだ,19世紀的な異国 趣味的作品が上演されていて,ラロワがそれに対し ンドの音楽についての情報はどの程度あったのだろ うか。それが,先ほどの話に出た,評価の基準に関 わってくると思う。あまりなかったのではないか, という気はする。 て「イミテーションの域を出ていない」などと評価 している記事がある。 (高松)批評の論調も,ある種ステレオタイプなものがあっ たのかもしれない。 (岡田)どのように評されているのか。 (根来)西洋の作曲家のなかで,東洋の正統を初めて実現し た作曲家だ,という評価があった。 (高松)これを正統と言ってしまうのか…。 (根来)今年3月には,《パドマーヴァティ》がパリで再演 された。 (田井)ということは,それなりに評価が高いのかもしれな い。 (岡田)上演資金はどこが出しているのか。 (根来)主催はパリ市で,エルメスが協賛についている。 (岡田)どういう文脈で再演したのだろうか。現在のインド (田井)ただ,新鮮ではあったのだろう。 は世界的に台頭してきているので,フランスとの外 (岡田)彼らが東洋の「正統」と呼んだものが,どういう響 交関係において何らかの戦略があったかもしれな きだったのか,比べてみたいところだ。「イミテー い。 ション」と区別する基準が,どこかにはあったのだ (田井)企業にとって都合のよい題材だったのか。 ろう。本当のところは,どちらも正統ではないのだ (岡田)エルメスが興味を持つとしたらインド市場以外に考 ろうが。何をもって正統なのか,ということも,も えられない。富裕層に対する戦略だろうか。 ともと怪しいところなのだから。 (田井)何か基準のようなものがあったのだろう。例えば, (小塩)パリ市が主催ということは,パリ市側にも何か理由 があってのことだろう。 知られている民謡をそのまま引用すると,「それは イミテーションだ」と言われるような。 【質疑応答5】 (岡田) それが言えるくらい,流通はしていたのだろう。今, (根来)ミゴの中世ポリフォニーへの回帰や,同時代にスコ 偽物と呼ばれているものも,30年前までは正統と ラ・カントルムで盛んに行われた民謡復興もまた, 呼んでいたのかもしれない。恣意的な境界線なのだ フランス的なものに立ち返るという動きのあらわれ ろうが,それがどう動いていたのか興味がある。 だと考えている。ただ,フランス的なものに立ち返 (高松)そこで評価されている「正統性」とは,音楽に関し ろうとしたときに,アジア的な素材が好まれたのも て?「インドの」ではなく,「東洋の」正統と言っ 不思議なことだ。民謡復興について考えてみると, ているから,かなり範囲が広い。実際にインドの音 フランスの都市部,つまりパリの音楽と地方の音楽 階を用いても,評価されるときには,「東洋の」と は切り分けられていて,パリの楽壇にいる作曲家の 言われてしまうのだろうか。 中でも,フランス音楽の伝統は地方の民謡のなかに (田井)その頃,東洋という枠の中で,インドはかなり大き こそ存在している,と考えている人もいた。そうし な比重を占めていたとは思う。例えば,イギリスで た民謡復興を奨励していたのが,スコラ・カントル はこの時代,知識人たちによって,かなりのインド ムだった。 の音楽が入ってきていた。ただ,フランスでは,イ 70 (高松)聖歌を歌う傍ら,民謡を採集していた? (根来)フランスの諸地方の民謡の中にこそ信仰が残ってい るという考え方だった。ラロワもルーセルもそのス コラで学んでいるし,ミゴもスコラ・カントルムの 創始者であるダンディに師事していた。スコラ出身 者が,同じような方向性を持っているのは気になる ところである。非西洋に対する親和性のようなもの 【質疑応答6】 (高松)ミゴは,能以外の日本的な音へのアクセスは可能だ ったのか。 (根来)彼の書いたエッセイや本の中では,まったく触れら れていない。 (田井)歌舞伎の音楽は知らなかっただろうか。「羽衣」は があったのではないだろうか。 いろいろな形で歌舞伎音楽にも使われている。ある (岡田)非近代,ということではないだろうか。 いはそういった楽譜のようなものを見ていた形跡は (根来)非19世紀,ということかもしれない。 ないか。 (岡田) 「非近代国際音楽」だろうか。標準化された古典,つ まり,いわゆる「クラシック」をヨーロッパの国際 (根来)遺品の管理者によると,それを証拠づけるものもな く,能の資料もないと聞いた。 様式だと考えれば,非クラシックと言ってもよいか (小塩)周辺には,日本人の知り合いはいたのか。 と思う。 (根来)時代的にいてもおかしくはないが,はっきりとはわ (根来)まだ整理しきれていないのだが,アジアに向かって からない。杵屋佐吉がパリに三味線公演に行ったり いく動きというのは,実は,自国の文化の中で過去 もしていたから,興味があれば出かけていただろう に回帰していく動きと,同じ流れにあったのではな が,それを裏付ける証拠がない。 いかと考えている。 (高松) 「主流」が厳然と存在するところに,「非主流」であ るいろいろなものが,大きな対抗勢力としてまとま (田井)日本音楽に興味があった,ということは言えるか。 (根来)それも,ミゴは明言していない。 (高松)西洋音楽とカテゴライズするのでは説明し難い実験 っていく,ということだろうか。それから,少し話 をしたいときに,説明するための方便として, 「能」 はそれるが,フランス人は歌ものに必ずバレエを付 を持ち出したのかもしれない。「能」と言ってしま けたがる傾向がある。このオペラ・バレエに関して えば何でもできる,というような,いわば「仮面」 は,「立ち返る」ことになるのだろうか? つまり, 的な用い方だ。そう考えると,対象は日本ではなく 一度途切れているのか。 てもよかった可能性がある。日本音楽にそれほど詳 (根来)フランスのオペラ自体が,19世紀には下火になっ ている。オペラ・バレエとしては,一度途切れてい ると言っていいと思う。ラモーがオペラ・バレエを 書いているが,この時期,ラモーに戻ろうという動 きがあったので,もしかしたら,そこに「立ち返る」 という意味があるのかもしれない。 (田井)ただ単にオペラにバレエが入るというのと,オペ ラ・バレエの概念は違うものだろう。ワーグナーが しいわけでもなさそうだ。 (根来)ミゴは,中世の音楽に興味を持っていたから,そこ で,線的な音楽への方向性と接続する。 (田井)極論を言えば,日本の物語でなくてもよかったとい う可能性もあるだろう。 (高松)日本以外の異国ものというのは作っているのか。 (根来)ないわけではないが,やはり日本が多い。後年,短 歌を習いに行くほどの熱中ぶりだった。 フランスで上演するときに,バレエの場面を足す, (田井)日本への憧れは強かったのだろう。 という話よりも,オペラ・バレエを作っていこうと (高松)オーケストラ編成はどれくらいか。2管? いうのは,もっと積極的な意味がありそうだ。 (根来)大編成だったかと思う。(※後日,3管編成と確認 71 した。)それで,全員で高さの違う同じ音を鳴らすよ うな曲だ。 いるのか。 (根来)短歌に曲付けをした《7つの日本の小情景》は (岡田) 日本的な音楽というのは,結局,入っていないのか。 1919年に初演で,それ以外にも,《5つの日本の漆 (根来)部分的に「感じられる」程度で,何かから引用して 屏風》という器楽曲を《ハゴロモ》より前に作曲し いるというわけではない。 (小塩)短歌に曲を付けた作品と,アイデアとしては同じも のと考えてよいのだろうか。 ている。後者の楽譜の冒頭には,やはり短歌の翻訳 がイメージとして記載されている。 (田井)日本への憧れが強い一方で,そのことと素材の利用 (根来) 詩の朗唱のような歌という点では似ていると思うが。 が結びついてこないのが,面白いと言えば面白い。 (小塩)改作することなく,元の短歌をそのまま用いてメロ 逆に言うと,なぜ,それほどまでに日本への憧れを ディーを付けている点も同じなのでは。 抱き続けていたのか。 (岡田) その歌というのは,日本の音楽とは関係がないのか。 (根来)日本がどうというような記述は不思議と見当たらな (根来)ない。西洋音楽の範疇にあるものだ。 い。方向性として,中世のポリフォニーに惹かれて (高松)発声も西洋風なのか。 いた,ということだけが,一致しているように思う。 (根来)それについては特別な指示がないのでわからない。 (高松) 《ハゴロモ》以降にも日本ものはあるか。 (田井)この文脈からすると,その可能性が高いだろう。 (根来)それらしいタイトルのものがあるが,楽譜を手に入 (岡田) そこまでの情報は入っていなかったのかもしれない。 れておらず,確認できていない。 (高松)ナント公演でのバリトンの牧嗣人はどうやって歌っ たのだろうか。 (小塩)牧は留学していたのか。 (根来)遊学に近い形のようで,帰国後は,主に俳優の仕事 をしていたようだ。 (小塩)バリトンのメロディーはどういったものか。4度5 度の響きが作りだす主旋律のようなものか。 (根来)オーケストラの伴奏に合わせて主旋律を歌うという 【質疑応答7】 (高松)レクチャーコンサートで言及されたという「ジャワ の音楽」について。ガムランから「堅苦しいリズム からの解放」を学んだ,とあるが,ガムランのリズ ムこそ規則正しく堅苦しいのでは? (田井)旋律やリズムを聴くと,「解放された」印象を受け てしまうのかもしれない。 形よりも,縦の響きが鳴らされて,その間をうごめ (小塩)三味線については何も書かれていなかったか。 くような感じの箇所が多い。 (根来)傍聴記には,中国の音楽は騒がしいものだったが, (高松)そのとき,音域的には,オーケストラに埋まってい るのか。 (根来)埋まっている。 日本の音楽はデリケートだ,といった記述だけはあ った。 (田井)そこには,フランスでの中国研究の厚みと,日本に (田井)ナント公演のときに作曲者は立ち会ったのか。 対するそれとの,温度差のようなものが表われてい (根来)立ち会っている。 るのかもしれない。 (田井) だとすると,牧はそれなりのレベルだったのだろう。 (高松) 《 ハゴロモ》と《パドマーヴァティ》は,初演が1 わざわざ日本人を採用するというのは,何か意図が 年しか違わない。ほとんど同時期の作品であるのに, あったのかもしれない。 ずいぶんと傾向が異なっている。 (高松)ミゴは,この作品の前に習作のようなものを重ねて 72 (田井)かたや素材の引用もなく,かたや理論を理解して作 っている。時代が20年くらい違うような印象を受 を勉強するためだったし,《ハゴロモ》も,日本と けた。 いうよりは中世の音楽への接近を感じさせるという (高松)彼の中では,模倣から「本物」へと脱却を図ってい お話だった。ここで中世のポリフォニーに回帰する た時期なのかもしれないが,その1年後に《パドマ というのは,どういう位相なのだろうか。フランス ーヴァティ》のような作品が出てくると,やはりそ 的なもの,ということではあるのだろうが,いくつ の差を感じる。 も選択肢はあったはずだ。 (根来)しかも,ミゴのほうが年齢的に若い。 (高松)ラモーにも回帰する。 (田井) やはり現地に行って経験しているというのは大きい。 (根来)ラモーに帰りつつ,中世にも帰りつつ,でも19世 (小塩) 《パドマーヴァティ》の原作を書いたのはどういう 人か。 (根来)やはり東洋研究者だったようだ。 紀には帰らない。機能和声ではないもの,線的な音 楽を求めたのだろう。 (田井)パリ音楽院を中心としたアカデミズム,クラシック (高松) 「パドマーヴァティ」とはどういう意味か。 の人たちに対抗する形で,様々な人たちが,いろい (根来)主役である王妃の役名だ。伝説上の人物である。 ろと模索をしていた。ここで,いわゆる非西洋的な (小塩) 《ハゴロモ》は原作がどの程度生かされているかと ものがどのように位置づけられたのかが問題になっ いうことがわかっているが,《パドマーヴァティ》 てくる。 はどうか。 (根来)まだそこまで調べきれていない。 (田井)音楽はまだでも,文学は相当研究が進んでいただろ う。 (高松)この研究をどういう方向に持っていこうとしている か。 (根来)ラロワが,影響を与えた側と被影を受けた側の間に (高松)原作は小説なのか。 立って,どういう機能を果たしていたのかを見てい (根来)未確認だ。 きたいと思っている。作曲家だけで活動していると, (高松)フランスオペラは下火だったかもしれないが,フラ 結局,自分たちがやっていることは偽物かもしれな ンス音楽全般で言えば,1920年代というのはかな い,という気持ちが拭えないと思うが,ラロワのよ り輝いていた時代だ。 うな知識人を媒介とすることで,正しいものを扱っ (根来)アジアへの関心がその原動力のひとつとなったと思 う。 (高松) 「自国の伝統的な枠組み」というのは,オペラ・バ レエのようなものを指しているのか。 (根来)それもあるし,五線譜の枠組という大雑把な意味も あるだろう。そこから出ていない中で,新しい創造 を生み出すために,異国の要素が推進力として働い た。 ているという保証を得たような気になったのではな いだろうか。 (田井)音楽の場合は,パフォーマンスが絡むので,具体的 な素材や知識を得るのは大変だ。そういう時に,し っかりした知識を持ったコーディネーターの存在 は,確かに大きいかもしれない。 (高松)ドビュッシーが,1889年の万博で聴いたガムラン に影響を受けて〈塔〉を作ったということがよく言 (田井)異国の要素もそうだが,先ほどの話にあった,中世 われるが,実際の作曲年(1903年)と万博の間がか のポリフォニーなどもそう言えるのでは。サティが なり離れているのを疑問に思っていた。私の想像に スコラ・カントルムで学び直したのは,まさにこれ すぎないが,もしかすると,間のどこかでラロワと 73 の接触があって,それで記憶が呼び戻されたのかも しれない。それから,ラロワは,「その地域の正統 を目指す」ということをよく言う人なのだろうか。 20年代にそれを言うのは,かなり勇気がいると思 うが。 (田井)ラロワは,中国音楽とどの程度接触があったのか。 (根来) 「中国音楽」を書いたときには,まだ中国に渡って はいない。 (田井)在仏の中国人が関わっていたのかもしれない。古典 研究の流れも感じる。 (高松)外国の演奏家を呼ぶことなどは? (根来)オペラ座の事務局長をやっていた時期に,そういっ たこともあったかもしれないが,そこまでの実権が あったかどうか,またやったのかどうかはわからな い。 74 写真5 根来章子氏(右から2人目) 第16回 伝統と身体 <日時>2008年12月13日 (土)13:30∼17:30 そのころの演奏会は,技術ももとより充分でなく, <場所>お茶の水女子大学文教育2号館110教室 一般社会も今日とは,およそ違つてゐたから,全部が <ゲストスピーカー>兵藤裕己(学習院大学教授) 全部「慈善」の名のもとに行われてゐた。しかし私た <出席者>小塩さとみ,菅聡子,田井竜一,高松晃子, ちは,慈善を離れての研究発表を目的としてゐたため 藤原貞朗,藤本寛子,根来章子 (研究補助), に,さうした擬装的な名称を付けることを好まず,先 海野るみ(オブザーバー:お茶の水女子大学大 例を破り,慈善にあらざる音楽会の願書を,会場とし 学院博士後期課程) て選んだ神田青年会館の所轄署錦町警察に提出した が,それは一も二もなく却下されてしまつた(山田耕 <スケジュール> 1.報告1 「明治時代の興行取締と『音楽』―『劇場 筰「若き日の狂詩曲」山田耕筰;後藤暢子,團伊玖磨, 取締規則』『寄席取締規則』『観物場取締規 遠山一行編『山田耕筰著作全集』東京:岩波書店, 則』の比較を通して―」 2001年。1951年12月20日の回想。) 藤本寛子 〔休憩〕 2.報告2 「国民形成と身体の生成」兵藤裕己 これは多クワルテットというグループが,明治42年1 月30日に「演奏会」を開催しようとした際の苦労を,グ 第16回研究会では,人間の身体が規制され,「伝統化」 ループの一員であった山田耕筰が後年,回想したものであ されてゆくプロセスをテーマに,2件の報告を聞いた。最 る。当時は音楽の演奏を含め「芸」を披露する催しをまと 初の報告者は,本プロジェクトで研究補助をしていただい めて「興行」と括っていたが,「興行」は風俗取り締まり た,お茶の水女子大学大学院生の藤本寛子氏。明治時代の の一環として警察の管理下に置かれていた。山田は当時の 日本において,芸能にたずさわる人々のふるまいがどのよ 法令に従い,警察に開催を申請したわけだが,慈善ではな うに選別・選択されるようになったかを,当局の取締規則 い音楽会であったために,開催を却下されてしまったとい に基づいてお話しいただいた。続いて,学習院大学教授の うのである。 兵藤裕己氏が,身体規制による大衆の「国民化」について 回想の続きを引用する。 具体的にお話しくださった。ある現象について,取り締ま る側の論理と取り締まられる側の主張の両面から考えるこ とのできた,意義深い研究会となった。 私たちの懇願に同情した係官の警部は,形式的に, 慈善音楽会の名目にせよとむしろ好意ある勧告をさへ してくれるのだが,それは私たちの感情が,また意思 1.報告1 が許さない。どこまでも純粋な「音楽会」で,と頑張 藤本 寛子 「明治時代の興行取締と『音楽』―『劇場取 り通した。たうとう係官も匙をなげたと見え,「兎に 締規則』『寄席取締規則』『観物場取締規則』の比較を通し 角これを見て,そつちで何とか考へて見ろ」と,分厚 て―」 な「法令綴」を私の前へ投げ出してしまつた。 その法令綴のどこを見ても,劇場,寄席以外の催し 【報告】 物は,「慈善」でない限り開催することを許されない 1.目的 らしく見えたが,唯一「仮設観物」という一條が,私 まず始めに,山田耕筰の回想を引用する。 の目を引きつけた。 75 ここから浮かび上がるのは,法令の中に,音楽会を公に 政官によって以下の達が出された。 開催するための明らかな規定がなかったことである。では, 明治時代において,音楽に関わる催しはどのようにして, 別紙ノ條款是迄東京府ニテ取扱来候処自今其庁〔発表 また,どのような形で行われていたのか。明治23年と24 者注:警視庁〕ニ於テ可取扱此旨相達候事 年に定められた3つの法令「劇場取締規則」「寄席取締規 第八條 演劇場相撲場寄セ席諸観セ物等衆人会合所取 則」「観物場取締規則」を比較することにより,明治期の 締ノ規則ヲ施行シ及ヒ之ヲ許可スル事 東京,特に区部/市部における音楽に関する催しと興行の 関係をさぐる。 興行の場を管理する機能が警視庁に移されたのである。 この移管は,警視庁を廃止して内務省の一部局として東京 2.明治20年代の3つの取締規則「劇場取締規則」「寄席 取締規則」「観物場取締規則」 2.1 3規則の制定まで 興行の開催については,風俗を取り締まるにあたって, 警視本署を置いたのと同時期に行われ,これを機に,東京 の警察が国の警察としての色を強めるのと同時に,風俗取 締の対象として,これら興行の場を取り締まる姿勢が打ち 出される。 政府が最も関心を持つところであった。しかし,明治初期 警視庁が東京警視本署となってから,前述の太政官達に にあっては,江戸以来の手続きを引き継ぎながら,その都 示された通り,各種の取締規則が定められた。まず初めに 度,必要な法令を出すことによって,興行を管理していた 明治10年2月に「寄席取締規則」が,続いて明治11年2 ようだ。例えば,東京府は明治2年の町触で「東京市中寄 月に「興行場取締規則」が定められた。この規則はこれま 席ニ於テ音曲物真似又ハ歌舞妓ニ同シキ所作芸ヲ禁ス」と でに出されていた寄席や観せ物に関する規則をひとつにま 定めた。これは,江戸時代同様,歌舞伎は許可された劇場 とめたようなもので,これまでの手続きを大きく変えるよ で行われるものであるという姿勢を示したもので,同様の うな規定はなく,細かく場の在り方について定めていたわ 布令がしばしば出されている。明治6年の布令には「見世 けでもなかった。その後,明治15年1月に「劇場取締規 物興行之儀ハ鳥獣或ハ諸藝ヲ以衆人之縦觀シ司致筈ニ付願 則」が制定されたが,これも同様である。この時期にあっ 出次第夫是取調之上差許シ來候」とあり,諸芸を公開する ても,興行に対する取り締まりの考え方に曖昧な部分を残 ものは願い出て許可を得る必要があったことがわかる。明 していたと言えるだろう。 治5年には「音楽歌舞ノ類」が教部省の管轄となり,同省 ただし,明治13年3月,東京警視本署が寄席で演じら が「演劇ノ類専ラ勧善懲悪ヲ主トスヘシ」と布達を出すな れる種目についての見解を示し,明治16年10月の「寄席 ど,明治政府による上演内容に関する干渉が始まった。ま 取締規則」改正の際に,規則中に以下のとおり寄席におけ た,東京府は,税金を納め,許可を得るならば,江戸以来, る種目を明記したことは,後述する明治23年の「寄席取 歌舞伎を上演していた三芝居の他にも劇場を認めるとし, 締規則」改定を先取りするものであった。 興行の拡大路線に転換するが,許認可制という興行に対す る基本的な姿勢に変わりはなかった。 しかし,明治7年1月9日に「音楽歌舞」の担当が教部 第六條 寄席ニ於テハ左ノ項目ノ外演藝セシム可カラ ス 省より内務省に移されてから,少しずつ状況が変化してい 一 講談 一 落語 一 浄瑠璃 一 唄 一 音曲 く。内務省に業務が移管されてから,しばらくは東京府が 一 寫繪 一 手品 一 操人形 興行手続きの管理をしていたが,明治9年10月25日に太 76 2.2 3規則の制定 以上のような経過の後,明治23年に「劇場取締規則」 しかし,これらの場は各自が自由に設けられるものでは なかった。まず「劇場」については「第二條 劇場ヲ分テ があらためて定められ,「寄席取締規則」が改正され,明 大劇場及小劇場ノ二種トス大劇場ハ十ヶ所小劇場ハ十二ヶ 治24年に「興行場取締規則」を廃して「観物場取締規則」 所ヲ以テ定限トス」とし,劇場の数を制限しているほか, が定められた。この3つの取締規則の條文を,ひとつずつ 附則に示されているように,学校や病院などとの距離を考 見ていこう。 えて建設された。寄席については,規則中には特に言及さ まず,制定年月日だが,「劇場取締規則」は明治23年8 れていないが,営業届を提出する際に,やはり場所につい 月2日,「寄席取締規則」は明治23年8月15日,「観物場 ては勘案されたようだ。観物場については,「常設」と 取締規則」は明治24年10月3日に定められており,3つ 「仮設」の二種類の場を想定していることがわかる。常設, の規則はほぼ同時期に出されていることがわかる。 次に「場の定義」についてだが,この3規則において, 初めて「劇場」「寄席」が定義され,これまで「観せ物興 行」などといっていた催しの場が「観物場」としてまとめ られた。まず「劇場取締規則」において「劇場」は次のよ 仮設いずれにしても,劇場同様,学校等との距離をはかる ことはあったが,許可され得られれば,比較的自由に場を 設置できるように見える。第四條,第五條にあるように, 「路上観物」すなわち路上の観せ物も認められていた。ま た,場の数の制限もない。 うに定義された。「第一條 本則ニ於テ劇場ト稱スルハ俳 次は,興行にあたって,警察に申請しなければならない 優ノ演技ヲ衆庶ノ觀覧ニ供スル公開ノ場所ヲ云フ」。つま ことだが,これは大きく二種類に分けられる。まずは建物 り,劇場は俳優の「演技」を「公開」する場所だったわけ の構造や場所についてである。建物の構造について申請し である。次に「寄席取締規則」において「寄席」は次のよ なければならないことは,「劇場取締規則」の第三條,「寄 うに定義された。「第一條 本則ニ於テ寄席ト稱スルハ開 席取締規則」の第二條,「観物場取締規則」の第七條を見 キ席ト否トヲ問ハス藝人ノ演藝【割注:講談,落語,浄瑠 てわかるように,内容はほぼ共通している。また,建物の 璃,唄,音曲,寫繪,手品,操人形,幻燈】ヲ衆庶ノ聽聞 検査を受けなければならないことや,落成後も興行しなけ 若クハ觀覧ニ供スル公開ノ場所ヲ云フ」。この演芸の種目 れば免許を失うことといった手続きについても共通してい は,前述のように,明治13年の法令および明治16年の規 た。しかし,観物場については,一般の家屋を代用するこ 則改正でも言及されていたが,これに加えて,聴いたり観 とが認められていたことが特徴的である。これは,仮設の たりする「公開の場」であることが示されている。最後に 場が認められていたことに起因すると考えられるが,比較 「観物場取締規則」において「観物場」は次のように定義 的,様々な場所で興行できる可能性を持っていると言える。 された。「第一條 本則ニ於テ觀物場ト稱スルハ左ニ掲ク 次に興行内容については,劇場の演劇が突出して厳しく ル種類ヲ衆庶ノ觀覧ニ供スル公開ノ場所ヲ云フ 一 角觝 定められている。第十七條において,次のように規定して 撃劒 輕業 手品 足藝 力持 曲馬 犬藝 猿藝 獨樂 いた。「演劇ノ興行ヲ爲サントスルトキハ二週間前ニ演劇 回 人形 太神樂 倭獅子 パノラマ 其他諸種ノ技藝動 脚本ヲ警視廳ニ差出檢査ヲ受クヘシ」。この脚本の検閲に 物等ノ類 二 自動鐵道及山獄橋梁ノ模造其他大厦高樓等 ついては,明治5年に教部省が内容に干渉し始めてから, 遊覧ニ供スル建造物ノ類」。これからわかるように,観物 すでに行われていたことなので,明治23年の規則で突然 場とは,演劇および寄席の演芸以外の「技芸」と建物を含 出てきたものではなかったが,寄席や観物場については, めた「物」を公開する場所であった。以上の定義から,場 次のような届出でよかったことを考えると,警察の演劇に によって演じられるものを設定していたことがわかる。 対する高い警戒心がうかがえる。寄席については「第六條 77 左ニ記載シタル事項ハ其前日迄ニ所轄警察署ニ届出ヘシ但 條ノ所爲アルヲ認ムルトキハ之ヲ制止シ若シ肯セサル者ア 第二項ノ場合ニ於テハ成規ノ届出寫ヲ添フヘシ 一 演藝 ルトキハ退場セシムルコトアルヘシ」。ここでは観客が ノ種別【割注:講談ト色物トノ區別】時間ヲ定メ及之ヲ變 「どのような態度で観るべきか」という指針が示されてい 更シ又ハ休席ヲ爲サントスルトキ 二 外國人ヲシテ演藝 る。同様の規定は「寄席取締規則」にも後に設けられてお ヲ爲サシムルトキ」。観物場については「第十七條 觀物 り,法令によって「観る姿勢」を矯正しようとしていたこ (路上觀物ヲ除ク)興行ヲ爲サントスル者ハ左ノ事項ヲ詳 とがうかがえる。 記シ所轄警察署ヲ經テ警視廳ニ願出免許ヲ受ケ興行終リタ ルトキハ其旨届出ヘシ但假設ニ係ル興行期限ハ六十日以内 3.興行と「音楽」 トス 一 場所竝觀物ノ種類及其方法 二 興行期限及時 以上の比較から,興行は「音楽」の演奏という観点では 間 外國人ヲ雇入レ興行ヲ爲サントスル者ハ前項規定ノ外 区切れないものであることが明らかである。警察による興 成規ノ雇入届書ノ寫ヲ添フヘシ」。つまり,寄席および観 行の管理は,場の管理を前提としたものであり,その上で 物場については,行うという事実の管理であったものが, 場と演じられるものが連関していたと言える。つまり, 劇場における演劇については,内容まで細かくチェックさ 「音楽」は「音楽」としてあるのではなく,芸事もしくは れた上で上演が認められていたのである。なお,「観物場 歌舞音曲といった広い範囲で捉えられるものであると同時 取締規則」の第二十條も演劇を取り締まるひとつの條文で に,より細かく種目毎に存在を確認されていた。この3規 ある。「第二十條 鬘又ハ大道具類ヲ使用シ演劇類似ノ所 則はその後,細かな改正はあるが,明治40年代に至るま 作ヲ爲スヘカラス」。 で明治23年版をベースに運用されており,はじめに引用 また,禁止事項も定められた。「劇場取締規則」「寄席取 した山田耕筰は,3規則で定められた三種類の場の中から, 締規則」「観物場取締規則」この三つに共通するのが「猥 寄席でもなく,劇場でもなく,観物場のうち「仮設」を選 褻其他風俗ニ害アル」ものは演じてはならないというもの んで「演奏会」を開催したのである。 だった。また,「寄席取締規則」と「観物場取締規則」に しかし,実はより自由に音楽に関わる催しを開催する方 は「藝人ノ休息所ニ客ヲ入レ若クハ藝人ヲ客席ニ入ラシム 法がふたつあった。ひとつは山田も触れているように「慈 ヘカラス」という規定もあった。この條文は改正前の「劇 善」を目的として会を催すことである。明治24年12月 場取締規則」にも見られるもので,楽屋で過ちが起こらな 21日に出された警察令第22号には次のようにある。 いように,といった考えからできた一文だと推測されるが, 演者と観客を意識的に区別し始めたとも言えるだろう。 なお,興行時間については,劇場,寄席,観物場いずれ も夜11時までとされていた。 名義方法ノ何タルヲ問ハス演藝ヲ公開セントスル者ハ 劇場寄席觀物場ニ於テ各其取締規則ヲ遵守スルニ非サ レハ之ヲ爲スコトヲ得ス 最後に,明治23年時は「劇場取締規則」だけに見られ 慈惠金醵集ノ爲メ興行スル者ハ他ノ建物内ト雖モ構造 るものだが,観客に対する規定も設けられた。「第二十四 堅牢客席備具シタリト認ムルモノニ限リ左ノ規定ニ從 條 演藝中觀客ハ左ノ事項ヲ遵守スヘシ 一 放談高話其 イ特ニ認可スルコトアルヘシ 他喧噪ニ渉リ他ノ妨ケヲ爲スヘカラサル事 二 濫リニ舞 一 演藝興行ノ場所及開會ノ趣旨目的贈與ノ方法竝収 臺ニ上リ又ハ花道ヲ徘徊スヘカラサル事 三 帽子ヲ冠リ 支ノ豫算ヲ具シ所轄警察署ヲ經テ警視廳ニ願出ヘシ 他ノ妨ケヲ爲スヘカラサル事 四 袒裼裸軆頬冠リ其他之 二 特ニ認可ヲ受ケタル場所ニ於テ興行スルモノハ其 ニ類スル不軆裁ノ所爲アルヘカラサル事 第二十五條 前 日數三日以内ニ限ルヘシ 78 三 興行ヲ終リタルトキハ収支決算書及贈與請取書ノ しく取り締まられていたのは,思想的な問題が関わ 寫ヲ添ヘ五日以内ニ第一項ノ手續ニ依リ届出ヘシ但期 っていたからか。 限内ニ請取書ヲ添付シ難キ事情アルトキハ其事由ヲ付 記スヘシ (藤本)はい。勧善懲悪が推奨され,天皇,皇室を批判する ような内容のものは上演を許されなかった。 (田井)西洋音楽が取締りの対象から外れていたのが不思議 明治23年の「寄席取締規則」で定められたように,「演 芸」は寄席でのみ興行を許されていたが,慈善を目的とす るならば,他の建物であっても興行を認めるというもので だ。この時代にはすでに,西洋音楽の様々な活動が 展開していたはずだが。 (藤本)明治20年代に西洋音楽が盛んに行われていたのは, あった。東京都公文書館に警察令第22号の各項で定めら 主として学校であり,興行として行うには至ってい れた手続きに関する書類がいくつか残っているが,慈善の なかったのではないか。山田耕筰が回想している頃, 目的は養育院への寄付や災害被害を援助するものが多い。 すなわち明治時代の後半頃から,興行として成立し 江戸時代にも寺社の境内で不作などの困窮を補うための金 ていくと考えられる。 銭を集める催しが行われていたが,明治政府は,江戸期の 「慈善金」募集とは一線を画し,自らの管理下にある慈善 興行を作ろうとしていたのではないか。 (田井)西洋音楽の演奏は,学校の中か,学校の外であって も「おさらい会」程度のものだったのだろうか。 (藤本) 「 おさらい会」をどのように捉えるかは問題だが, そしてもうひとつの方法は会員組織を持つ会を設立する 学校における催しが主であったと考えられる。ちな ことである。明治24年12月21日に出された訓令第57号 みに,蓄音機が世に出て来ると,楽器店などが蓄音 には次のようにある。 機を聴かせる会の開催も始まる。 (田井)純粋な演奏会はいつごろからか? 警察令第二十二號発布候處會員又ハ子弟等ノ會合ニシ (藤本)今の感覚でいう西洋音楽の演奏会がいつから始まっ テ入場料下足料等ヲ請求セサル私會ニ屬スルモノハ不 たのかを明示するのは難しい。形態としては,明治 問ニ附フヘシ 中期から東京音楽学校などでそのようなものが催さ れていたが,基本的に当時は,音楽以外の「演芸」 会員組織による催しとお浚い会のような内々の「子弟等 とともに披露されることが多かった。 の会合」は,入場料をとらないのであれば,警察令第22 (田井)明治40年代でもまだ? 号で定めた「慈善」でもないので,興行にあたらないとす (兵藤)大正ぐらいでは?明治の時代に,新渡戸稲造や伊沢 るものであった。しかし,会員組織であれば当然,会費が 修二が中心になって,学校で盛んに音楽会を催した 発生し,お浚い会であれば,師匠との金銭の授受は発生す が,学校の外には出ていなかっただろう。西洋音楽 ることは想像に難くない。詳細は別の機会に譲るが,実は が一般化する前,日清戦争前後に軍歌が流行した。 このより自由な会員組織による催しと慈善,そして学校に 東京音楽学校の先生も軍歌をたくさん作曲してい おける催しを軸に,明治時代の音楽を内容の主とする催し る。新派劇など,軍歌を取り入れたお芝居はたくさ は展開していくことになる。 んあった。 (藤本)鉄道唱歌の影響も大きいだろう。 【質疑応答】 (田井)いろいろな興行があるなかで,演劇の内容が特に厳 (兵藤)明治23年の前年22年に帝国憲法が制定され,23 79 年に第1回帝国議会が開かれた。このとき,民党と それとも逆に,演説のようなものが寄席の演目に入 野党の争いはたいへんなものだった。中江兆民が東 っていたから,必然的にそこで行われるようになっ 京から追放されたのもこの時期だ。このころ,演説 たのだろうか。 という表現形式が流行し始める。演説,つまり,不 (藤本)寄席に関して詳しい分析は行っていないが,広く発 特定多数の人を相手に自分の主義主張を話すなどと 表する場,アピールする場としての意味はあっただ いうことは,それまでの日本人にない行為だったの ろう。何をやってもいいという場ではなかったが。 で,福沢諭吉は講談師に演説を習ったそうだ。この (兵藤)観物場というのはこういう感じだ。[写真を見なが ことからも想像できるように,20年代の講談や浪 ら]ほとんどが仮設で,よしずばりのいい加減な小 花節,落語は,政治運動とクロスしていたから,政 屋がならんでいる。秋葉原の観物場は規模が大きか 府は寄席に対していつも神経を尖らせていた。講談 ったので,当時両国始発だった電車が秋葉原に伸び, 師に成りすまして政治的主張をするやからが後を絶 浅草とつながった。中には相当いかがわしいものも たなかったからだ。そもそも,明治23年の取締規 含んだごちゃごちゃしたところで,ここに紛れ込む 則ができる以前に,明治14年に集会条例が制定さ と現場統制ができない。だから明治24年に,浅草 れた時点で,公開の場での演説(おそらく講談含む) 6区以外に観物場を設けることを禁止した。東京か をかなり厳しく取り締まっている。鑑札を持ってな ら怪しげなものが駆逐され,全部浅草に押し込めら い芸人は寄席や観物場に出られない。このように, れたわけだ。東京の街をキレイにして,言論活動を 自由民権運動を背景に言論活動がたいへん緊迫して 抑圧しよう,と。明治24年というのは芸能にとっ いた時代だったので,ご発表の中でもそのへんの関 ては大きな年だっただろう。 係を指摘する必要はあっただろう。 (藤本)ご指摘のとおり演説という行為もひとつのポイント で,演説によっても公の「場」が作られていく。ま (藤本)当局の考えるわいせつなもののをそういうところに 押し込んで,他の音楽は別のところで育てながら大 正時代へ,ということになるだろうか。 た,明治10年代から演説会場も作られていくが,そ (兵藤)西洋音楽がまがりなりにも大衆の目に供されるよう こでは音楽などの催しも行われるようになっていく。 になったのは,浅草オペラだろうから,この面から (兵藤)明治10年代には寄席とか劇場でも演説が行われる。 みても,浅草が芸能の行われる場所になっていくこ 事前に内容をチェックして,本番には必ず警察官が とがわかる。 入っていた。届出と違うことをしたら即刻中止だ。 政治活動を抑圧するために政府はいろいろな手立て (海野)ここで言う慈善というのは? を講ずる。すると抜け道もどんどん考えられていく (藤本)孤児院,養育院への寄附や,不作の援助などだ。 のだが。 (海野)それは,日本固有の概念?それとも近代国家をつく るにあたってどこかから現われた,チャリティーの (海野)南アフリカではボクシング場が政治的な反対運動の 翻訳だろうか。 場になったりするので,よく似ているなと思った。 (藤本)鹿鳴館時代にチャリティー的な催しは行なわれてお 80 明治の日本の場合,まず寄席が先にあって,そこで り,近代国家主義的な意味づけもあっただろうが, あれば何をやってもいいという意味づけがあったか 江戸時代にすでに,不作の援助などのために寺社の らこそ,そこを抜け道として利用したのだろうか。 境内で興行を行い,お金などを集めていた。もとも とそういう活動の素地があったところに,チャリテ ら私利に走ることが問題となっていたようだ。 ィーの概念が接続したのではないか。単純にチャリ (小塩)ただ,役者や芸人には,上流階級の人のように慈善 ティーを翻訳したというのは,正確でないと考えて 公演をすることで,上のステイタスに上がりたいと いる。 いう欲求はあったのではないか。当時の役者は,役 (藤原)たとえば19世紀のフランスでも,チャリティーの 美術展といったものがあったようだ。毎年開催され 者として実力があっても社会的地位は低かったの で。 るサロン以外には,市民はそういうところでしか美 (藤原) 「慈善」の定義は法的に決められていたわけではな 術作品を見ることができなかったので,皆いそいそ いでしょう。100パーセント寄附をせねばならな と出かけていった。芸術の公開については「慈善」 いというわけではないのでは? というのがひとつキーワードになるのかと思いなが ら,発表を聴きました。 (田井)音楽の世界では18世紀から入場料を取る予約演奏 (藤本)もちろん必要経費は収益から出る。ただし,収支を 報告し,寄付先から受領書をもらわなければならな かった。 会などを始めたが,美術は違うのか。 (藤原)印象派がグループ展を開催するまでは,サロン以外 (藤原)政治的な法律の話を離れて,芸術レベルで考えたい には,一般人に作品を公開する機会はほとんどなか のですが,劇場,寄席,観物場の区別はどうなって った。だから,いざ公開となったときにも,法外な いたのか。どのような芸術的なヒエラルキーがあっ 入場料を取ることはできなかっただろう。いずれに たのだろうか? しても,「慈善」とは明らかに翻訳語なので,外国 (兵藤)寄席と観物場の区別ははっきりしている。観物場の の習慣とも関係があるのではないかと思う。 役者は大道芸人なので寄席には出られない。明治 (菅) 明治の小説に現われる「慈善」は,たいてい,上流 10年ぐらいまでは浪花節も観物場でやっていて, 階級の奥様やお嬢様たちがやるバザーの形を取る。 寄席に這い上がるのに大変な苦労をした。単に上か それらは当然,20年代の前後に起こったキリスト らの規則というだけでなく,むしろ芸人相互の差別 教の女性たちの運動を素地としている。そういう関 の連鎖が反映しているのだろう。講談師や落語家は, 係もあって言葉が定着したのでは? 明治30年代になっても,浪花節語りのことをひど (小塩) 「慈善」の名前で催されているのは西洋音楽が多い のか,それとも演劇,寄席なども? (兵藤)西洋音楽だけだろう。 (藤本)ただ,「慈善演芸会」というのは時々開催されてい く差別していた。そういえば,泉鏡花の『貧民倶楽 部』という小説は,スラム街の住人たちが鹿鳴館に 乗り込んで慈善会を妨害するという話だ。 (菅) あれはロマン化しすぎのところもあるが。 る。浄瑠璃などの慈善興行を行いたい,という届出 (高松)そのヒエラルキーはあるていど固定的なのか。 を見たことがある。 (小塩)そのようだ。いまでも長唄の人の中には,「あの人 (菅) 慈善となると,建前上は寄附だ。歌舞伎や浄瑠璃の 人が,寄附でもいいから公演をしたいというのは, 自己表出が目的だからか?それとも,寄附金を着服 しているとか? (藤本)慈善興行を騙って儲けようとする者はおり,当時か は観物場で演奏していた人だから」というようなこ とをおっしゃる方もいる。 (藤原)こういった差別はどの国にでもあると思うが,日本 のように法律に書いてしまうのは珍しいのではない か。きちんとしておかないと何か起こりそうだった 81 のかもしれない。 (小塩)江戸時代から,大芝居/小芝居という分け方はあっ た。それを受け継いだか利用したかでは? (藤本)江戸時代の考え方を引き継ぎつつ,「慈善」のよう 写真6 報告する藤本寛子氏 な概念が入ってくるのがこの頃だろう。 (小塩)現在,公民館などは学校のそばにあっていいと思う が,そのころ観物場は学校から適当な距離をおいて 劇は,大衆に開かれていると同時に,ヨーロッパの 建てよ,と書いているところを見ると,パチンコ屋 近代の芸術概念と複雑に絡み合っているところがあ なんかと同じ扱いですね。 る。そこで引き裂かれ,抱月はつぶれてしまったの ではないか。 (高松)以前この研究会でお話しくださった,明治時代の 「音楽会」と,今日のお話はどのように関係してく るのだろうか。 (藤本)会員組織の話が関わってくる。明治時代には,会を 設立して音楽に関わる催しを行っているものが多く 見受けられた。今の考え方ならば,会を作らなくて もやりたい人が集まってやればいいが,当時はそれ ができない環境だったわけだ。 (高松)長唄,常磐津だと寄席ですか?観物場? (兵藤)寄席ですかね。 (小塩)長唄の場合は,一般に公開せずに,私的なお座敷な どに呼ばれて演奏していたので。 (兵藤)ここでいう浄瑠璃というのは,娘義太夫などのこと だろう。 (小塩)劇場に出るような人は寄席には出ないし,軽業など (兵藤)演劇の場合の会員組織について言うと,小山内薫が の時に伴奏している人はお座敷には出ないというよ 自由劇場を立ち上げたときに,やはり会員組織をつ うに,演奏の場所による演奏家の格付けのようなも くった。それは別に取締り対策ではなくて,当時非 のがある。演奏会形式の長唄演奏を始めたのは,研 常に人気のあった新派の観客を排除して,あるてい 精会というやはり会員組織で,政治家や上流階級の ど知的なエリートだけを囲いこみたかったからだ。 奥様などが会員になって成長した。なぜ研精会がつ 西洋音楽の会員組織にもそういった側面があるので くられたか,今日のお話を聞いてよくわかった。い はないか。 までも,おさらい会では「○○会」という団体がた (藤本)おっしゃる通り,音楽の会員組織にもその側面はあ くさんあるが,これらは明治30年代後半から家元た る。例えば,明治20年代に日本音楽会という会員 ちが作ってきた会員組織がその始まりと言えそうだ。 組織ができるのだが,それには審査を受けないと入 れなかった。ただ,「臨時入場券」を作り,会員以 (藤本)会員組織には徴税の問題も関わってくる。明治初期 外も入場できる制度も設けられており,様々な人が から種目ごとに頭取,副頭取を決めて,彼らが取り 取り込まれていく様子が確認される。 まとめ,税金を納めるようになった。 (兵藤)小山内は会員組織を作って大衆を排除したが,島村 抱月が芸術座を作ったときは会員組織を否定した。 82 (高松)部門ごとにいくつかの伝承組織があって,それらを とりまとめる長がいるのか。 その結果,島村抱月は大衆に埋没したような芝居を (藤本)そうだ。誰が頭取なのかも東京府に届け出なければ 作って,結局はゆきづまってしまったのだろう。演 ならなかった。取りまとめが大変で,辞めたいとい う申し出もあったようだ。 (高松)雑務が増えるだけで,ステイタスが上がるわけでは ありませんものね。 置された体操取調掛は,掛内に体操伝習所を設置して体操 の調査と教員の養成を,また,翌12年に設置された音楽 取調掛も同様に,唱歌の調査と教員の養成を行った。 ここで,音楽と体操がセットで考えられたことに注意し 2.報告2 ておきたい。体操と音楽の教育は,常磐津や盆踊りといっ 兵藤 裕己 「国民形成と身体の生成」 た在来のものを禁止し,欧化主義のもとで開始されたが, そこには独特の折衷主義が見られる。体操・音楽双方の取 【報告】 調掛主幹であった伊沢修二は,外国で行われている体操や さきほどは,私自身も関心があるテーマについて,藤本 音楽をそのまま日本に持ってきても,あまり効果はないの さんが詳しい資料とともに発表してくださり,とても参考 ではないか,と考えた。在来の日本のリズム感や身体感覚 になった。これから私がお話しすることも,それが関係し と,西洋のものとの折衷を図ろうという姿勢が見られる。 てくる内容だ。 唱歌の教科書は,明治15年から17年までに刊行された, 3巻の『小学唱歌集』が最初である。それには,〈蝶々〉 1.国民化する大衆 〈蛍の光〉〈むすんでひらいて〉〈埴生の宿〉など,現在で まず,「国民化」ということからお話ししよう。身体の も知られている歌が収録されている。4拍子,2拍子系の 「近代化」とはつまり「国民化」ということだ。近代国家 歌が多く,3拍子が少ないのは,在来の日本の歌に3拍子 は,規律を内面化した従順な身体をつくりだす装置として, が極めて少ないからであろう。それに七五調の歌詞をつけ, 学校,工場,軍隊といった装置をつくった。日常生活にお ファとシのないいわゆるヨナ抜き音階によるものが特徴的 いては隠蔽されている,これら近代国家の装置や制度の権 である。それらのもととなったケルト系の歌曲は,ヨーロ 力性については,カルチュラル・スタディーズの人たちが ッパの中心の音楽とは少し異なっている。在来のわらべう 盛んに議論してきたが,この,上からの規律化議論の一方 たの音階に少しは接点のありそうなもの,ということで, で,私は下からのアイデンティティ形成の問題を考えてき 意図的にもってきたのだろう。アメリカで作曲を習ってき た。例えば,明治10年代の自由民権運動は,幕末から明 た伊沢修二のつくった「天長節」という歌は,昭和24年 治初年にかけての一揆や打ち壊しからつながってきている。 まで学校で歌われたが,これも基本はヨナ抜きで二拍子だ。 このような,大衆による下からの動きが,日本の身体の内 別宮貞徳は,『日本語のリズム』という本の中で,「七五調 面化・国民化を考える上で見過ごせないだろう。「国民」 の詩を朗読すると自然に二拍子になる」と述べている。 という言葉じたいも,実は反政府側(自由民権運動側)が用 国民としての身体のリズム感形成に影響を与えた例とし いた言葉で,明治政府は「臣民」と言ってきたのである。 て,伊沢修二作の《小隊》という唱歌を挙げておこう。こ 上からの規律化は,学制(明治5年8月)と徴兵令(明治6 れは,小学校の隊列運動(行進)の練習のために作られたも 年1月9月)の公布に始まる。ここでは学制による学校教育 のである。身体のリズム感が,こうした行進曲で作られて について考えていこう。身体との関係で注目されるのは, いった。音の面から言っても,厳密なヨナ抜きではないが, 小中学校の教科に体術と唱歌が入ったことだ。これらはい 日本民謡などと通じるような音の動きがある。実は,私は ずれも江戸時代の寺子屋にはなかった教科で,教授法も教 この曲を最近まで携帯電話の着信メロディにしていた。ラ 材も皆無であった。それゆえすぐには実施されず,明治 フカディオ・ハーンは,この歌を歌いながら松江城を散策 10年代に入って具体化されることになる。明治11年に設 している小学生に感銘を受けたと言っている。 83 次に体操だが,明治19年ごろから小学校では「隊列運 動」つまり行進の練習が始まる。その名残か,日本では現 在も盛んに行進の練習をさせるが,アメリカでは想像もで (高松)こうですね。1拍を3連符にして最初2つをタイで つなぐ。 (兵藤) わかりました。いやわからないかな (笑) 。たとえば, きないことだろう。明治19年5月の文部省令で授業の時 酔っ払いの手拍子だと,手を1回打ったら揉み手を 間数が決まり,尋常小学校では6時間,高等小学校では5 したりする。いわゆる「もちを入れる」というもの。 時間が体操の時間になった。なお,「隊列運動」は明治23 年に「兵式体操」と呼称が変更された。 《戦友》という軍歌は楽譜を読むと例のリズムのく り返しで勇ましい感じがするのだが,我々の頭の中 西洋風の唱歌教育をしても,洋楽はなかなか大衆に根付 にあるイメージは,森繁久弥が歌うような,もっと かなかったようだ。洋楽がまがりなりにも定着してくるの タラーンとしたもの。そんなふうに崩れてくる,と は明治20年代で,軍歌の流行がそのきっかけである。軍歌 いうことだろうか。 の最初のヒット曲《敵は幾万》がそうであるように,リズ ムは付点8分音符と16分音符の反復,旋律はヨナ抜きで作 話を戻すと,付点8分音符と16分音符といっても,い られたものが非常に多い。このリズム形式が重要で,以後 わゆる西洋的なタクトとはちがって,「オイッチニィ」の に作られるさまざまな唱歌のリズム形式の基本となった。 ような間が入るのが近代日本のリズムである。明治27年, 菅谷規矩雄が『詩的リズム』に書いたように,「ほんらい 文部省は,男子が兵式体操をする際は軍歌を歌いながら行 強弱をもたぬ日本語の拍を,西洋的な〈拍子(Tact)〉 (規 進をするよう,通達を出している。近代化された七五調二 則的な強弱拍の四分の二拍子)にのせようとすれば,強拍 拍子系リズムが浸透してきたころに,正岡子規や与謝野鉄 は音をながく,弱拍は音をみじかくとるという対応以外に 幹による俳句・短歌の近代化(国民化)運動が起こったこと まずありえなかった。これはひとつの必然的な選択である。 は,偶然ではないだろう。 しがってそのリズム構成はおのずと の長短型をなした。」 さて,伝統的な武道はどうだったかというと,20年代 20年代後半の日清戦争期に盛んに作られた軍歌は,日 前半まで,学校教育には不適当とされた。伊沢は武道の導 本の大衆が最初に受容した洋楽だった。ただ,坊田寿真は 入を拒否している。しかし,日清戦争前後から,木剣と薙 『日本音楽と和声』に次のようなことを書いている。「この 刀が取り入れられるようになった。あのような身体の動き のリズムも,実際に歌われるときはさらに不明確な二拍子 はナンバである。ナンバの身体が近代化された形で公教育 になり,付点八分音符は定められた暦時よりも短く,した に復活してくるのである。近代柔道が奨励されたのは明治 がって十六分音符はその暦時よりも自然伸ばして歌われ 20年代後半。身体が国民化したといっても,過去から引 た。」これはどういうことでしょう? き継いだ身体感覚と妥協あるいは折衷する形である。つま り,七五調二拍子やナンバを身につけた身体による行進は, (高松)つまり,軍歌のやり方は3連符に近いということで は? 8分音符と16分音符の付点なら4つ割りの最 だろうか。 初3つと最後の1つというリズムになるが,軍歌で このあたりのことを論じた,三浦雅士さんの興味深い本 は3つ割りにして最初の2つとあとの1つというリ がある(『身体の零度』)。ただ,特殊日本的な不透明なもの ズムになる,ということ。つまり,軍歌のほうがで を抱え込んだ,行進に適した身体は,「零度」とはいえな れっとした感じになります。 いかもしれない。 (兵藤)楽譜に書くと? 84 西洋的だったのだろうか。それとも「もち入り」だったの 2.「近代化」される演劇 ている。 この近代化された身体を前提にして,身体パフォーマン 東京で爆発的人気を博したのは,川上が舞台で歌いだし スとしての近代演劇が作られていく。ここで,簡単に近代 たオッペケペー節だった。これは,明治最大の流行歌であ 演劇のおさらいをしておこう。 る。七五調の朗誦リズムをそのまま歌にした感じのものだ。 始まりは自由民権運動の民権芝居(壮士芝居)で,明治 翌24年の東京中村座公演で,川上の名声は不動のものに 15年4月の板垣退助遭難の話が同年6,7月に,『唐紅乱れ なった。ここで演じられた『存廃花柳噂』はまったくのニ の緒』 (高知),『花吹雪伊奈波の黄昏』 (岐阜)という芝居に ワカ。川上の芝居はニワカから生み出されたことがよくわ なった。いずれも浄瑠璃のちょぼを使った散切狂言で,題 かる。 材は目新しいがかたちは歌舞伎とほとんどかわらないもの 今日残るニワカはいくつかあるが,ここで高知県室戸市 だった。一方,中央では九代目市川団十郎が演劇の「改良」 のものを少し見ていただこう。川上演劇の原点である新聞 を行っていたが,こちらは結局,団十郎が歌舞伎の世界に ニワカをいまだに続けているのは高知県だけだ。高知は自 戻ったのでそれほど成功したとはいえないものだ。 由民権運動の発祥の地でもある。 明治20年代になると,従来の歌舞伎とは全く違う文脈 から新しい演劇が生まれた。後の新派劇につながってくる ―高知県室戸市の佐喜浜ニワカ「金と刃物は使いよう もので,その元祖が川上音二郎(1864-1911)である。川 の段」……視聴― 上は,明治15年,18歳の時から自由民権運動の弁士とし て活動し,警察に70回も捕まっている。そこで,講談師 今見たのは,2004年のもの。地元の高田牛乳の社長と の芸人鑑札を取得して寄席に上がるのだが,それでも捕ま 楽天の社長役,これから高知県知事役も出てきて,3人に った。手を尽くして自由民権運動を鼓吹しようとしたので よる掛け合いになる。このように,川上音二郎の始めた口 ある。彼が次に目をつけたのが演劇だった。明治10年代 語演劇は,弁士時代の演説口調,オッペケペーの七五調朗 の京阪神地方では,新聞ネタを即興で演じる新聞ニワカが 誦リズム,ニワカ芝居の口立てぜりふと,一続きになって 流行中。川上もこの流行にのった。たいへん人気が出たの いる。これらが明治30年の新派劇に踏襲されるが,のち で,明治20年になると,ニワカから改良演劇に向かった。 に芸術演劇の小山内薫により,「いかにも芝居がかったせ 明治20年2月,川上は,京都の阪井座で,『南洋嫁の嶋 りふと所作」と批判されることになる。 月』という,義太夫のちょぼを入れた芝居を上演した。い わゆる散切狂言だが,幕外で土人チャンキイとのニワカ式 の掛け合いが行われた。そのときの台本に,「これより弁 3.〈大衆〉の身体性,社会的アイデンティティ さて,こうして成立した川上演劇の舞台に,近代化され にまかすこと」「川上しきりに弁じること」などとあり, た〈大衆〉の身体(七五調,もち入り二拍子)が共振してい これで台本といえるのかと思うが,ようするにこれはニワ く。〈大衆〉が現われるのはまさにこの頃である。日清戦 カで,即興芝居なのである。口立てのニワカ芝居が歌舞伎 争は,近代日本が最初に体験した国民戦争だが,戦争によ とドッキングし,その後に「置上るり」がつづく。このよ る資本主義の成長にともない,従来の家単位の生産様式が うなものに人気が出てきた。明治23年の東京公演では, 崩壊,結果的に大家族・血縁・地縁の関係が崩れる。関係 筋書きと相違があるという理由で停止させられたが,川上 性を失った人々が,都市に吸い寄せられてくる。それが が提出した警視庁への上申書によれば,これは演劇ではな 〈大衆〉だ。彼らが,従来のアイデンティティに代わるも い,ゆえに台本と違うのは当たり前だ,という理屈をつけ のとしてナショナル・アイデンティティという自意識を持 85 ち始めるのも日清戦争がきっかけである。 (兵藤裕己『演じられた近代』岩波書店,2005年) 。 川上は,日清戦争劇でも成功を収める。当時の新聞を見 ると,大勢の見物人が殺到したことがわかるが,戦時ゆえ に観衆もみな殺気立っていたようだ。 明治30年代に入ると,20年代までに生成された日本近 明治30年代後半になると,欧米化の時代であったにも かかわらず浪花節 (口語体の七五調) が大流行する。それが, やはり三味線の下座音楽を用いた明治の口語演劇(新派劇) 代のリズム感,身体感覚として主体化された大衆の共同性 と時期的に平行していたのは興味深い。しかしやがて,新 を言語化するかたちで,「国民精神」なるものが言われ始 劇運動,つまり,主に文学者を中心とした演劇の芸術化が める。新渡戸稲造の『武士道』をはじめ,国民教育の指針 始まる。ただ,芸術演劇や新劇は,近代に形成された「日 としての啓蒙的な著作が多数刊行された。軍隊教育の現場 本人」のリズム感や身体感覚―これは言語化されない共同 でも,「軍人精神」「大和魂」「武士道」などが強調された。 的な観念や幻想だが―を,果たして克服できたのだろうか。 なかでも,「大和魂」は白兵戦での銃剣突撃にこそ示され 大正3年に《カチューシャの唄》が大ヒットするが,小山 る(『歩兵操典』明治42年改訂)とされたため,2年間の兵 内はそれを「どぶ泥のにほひ」などと言って批判した。そ 営生活において銃剣突撃の身体が鍛えられた。これは,近 の小山内と仲が良かったのが山田耕筰だ。山田も,《カチ 代に作り直されたナンバそのものだ。日露戦争における無 ューシャの唄》を作曲した中山晋平が大嫌いだった。これ 謀な白兵戦を支えたのは,近代の「国民化」されたナンバ は一種のエリート趣味だろう。新劇はその後,岸田國士な の身体だった。 どのすぐれた人を出して大正,昭和と展開していくのだが, さて,さきほども話題にした《戦友》。戦友の死を嘆き 1960年代後半に,新劇批判のいわゆるアングラ演劇が出 悲しむ内容で,たいへん流行した歌だ。しかし,明治政府 てくる。唐十郎が「思いあがったナリキン芸術の啓蒙者」 は,戦地でこれを歌うことを禁止した。このことについて, などと言って,新劇の観客動員組織の母体となる文化的な 吉本隆明は,『日本のナショナリズム』のなかで次のよう 「民衆」イメージの欺瞞性を批判した。唐や寺山修二らに に述べた。「「戦友」には,お国の為が,個人の生死や友情 よるアングラ演劇は,新派や浪花節が抱え込んだ日本近代 と矛盾し,それを圧倒し,しかしあとに余情が残るという の影の部分を復権させようとしたのだろう。 ことが表現されている」。自著からの引用になるが,私は 次のように考えた。 【質疑応答】 (田井)明治初期に,学校教育として音楽と体操がセットに 「お国の為」と「個人の生死や友情」,いわば義理と人 なって始まったところがおもしろい。しかし,そこ 情の矛盾が,大衆のやり場のないセンチメンタリズム では伝統的な武道がはずされていたのはなぜか。と となり,それが七五調二拍子系のリズムがもつ独特の ころが一方で,20年代になると,今度は公教育の 間として表出される。歌い手の思い入れをいくらでも 中で柔道が復活してくる。その辺のからくりはどう 吸収する二拍子系リズムの間(いわゆる「もち」)は,時 なっているのだろうか? 86 枝誠記の言語理論でいえば,歌声における一種の零記 (兵藤)武道を禁止したのは明治10年代。当時は鹿鳴館時 号といえようか。それは言語化されない共同的な観念 代で,あらゆるものが欧化主義だったから禁止され や幻想が表出される場だが,近代の「われわれ」日本 たのは当然だろう。長唄や常磐津などは,「芸人が 人が抱えたいわば身体の零記号が,明治三〇年代に言 習うのならいいが一般人が習うのはけしからん」と われだす「国民精神」なるものを受容・吸収してゆく され,学校では唱歌だけを歌うよう,奨励されてい た。盆踊りは歌も踊りも伴うので当然禁止。日本を になる。日本にもともとあった音階を使っているの 近代化するということは,イコール欧米化,という で,長短調の曲やヨナ抜きよりも,当時の日本人に 短絡的な発想があった時期だ。20年代になると, とっては馴染みやすかったかもしれない。ファが使 当時の重要な外交課題だった不平等条約の撤廃のた いにくいのも,基本的に「律」の動きをしているか めに施した計画,策略が,結局すべて失敗に終わる。 らだろう。 それに対する批判が一気に噴出してきてナショナリ ズムが起こった。それと平行して,武道を見直そう (小塩)最初のころの唱歌は雅楽を使っている。『小学唱歌 集』にもいくつか入っていますね。 という動きが出てきた。俳句や短歌の近代化もそう (高松)私は明治期の音楽教科書を集中的に調べたことがあ だ。短歌を一部の趣味人のものから国民の歌と位置 るのだが,『小学唱歌集』3巻には,ヨナ抜きはそ づけたのが,正岡子規たちだ。そのおかげか,私た れほど多くはない。むしろ,20年代の軍歌に盛ん ちも学校で短歌の1,2首は作ったことがあるし, に使われたことで,標準語法になったのだろう。ま 標語を作ってみても七五調になってしまう,という た,スコットランドなどケルト系の音楽がヨナ抜き 具合だ。 でできているという点はよく指摘されるが,実はそ うでもない。ケルトのものが戦略的に日本にもたら (高松)近代化されたリズムの方で言うと,音楽において されたかどうかは不明だが,数はそれほど多くない 「人と合わせる」ようになったことが重要だろう。 し,少なくとも明治10年代の日本人にとって,ヨ 明治の初期までの日本音楽には,拍子のようなもの ナ抜きはそれほど耳に馴染んでいたとはいえないの はあったにせよ,拍の間隔は伸び縮みするから,規 ではないかと思う。平成のいま振り返って考えると, 則正しいわけではないし,人と合わせるための指標 両方ヨナ抜きなのでいかにも戦略的だったように見 となるようなものでもなかった。それが,あのよう えるが。 に1,2,1,2と揃えて合わせることを知ってしま (兵藤)ピョンコ節というのは正式な名称なのか。 ったわけだ。 (高松)俗称だ。いつごろ誰が使い始めたかわからないが。 (田井)日本音楽にないリズム感なので,最初はほとんどで 実はこのリズム(付点8分音符と16分音符)はス きなかったということだ。でも,軍隊で行進するこ コットランドにも多い。ヨナ抜きピョンコ節をバッ とを考えたら,合わせられないととても困るだろう。 グパイプで吹きながら行進する。 整列してきちんとやらせるためにはとても効果的だ ったにちがいない。 (兵藤)これ(《小隊》)は行進しやすい音楽ですか? (藤原)早い時期から音楽と体操がセットになっていたとい うのは,最初から軍歌で行進させようと? (高松)そうですね。いちおう2拍子ですから。私がこの楽 (兵藤)まあそれはなかったと思うが。こういうことではな 譜に赤マルをつけたのはなぜかというと,音に特徴 いか?江戸時代の識字率はすごく高く,男性で40 があるからで,この曲は「ヨナ抜き崩れ」というよ パーセントぐらい。江戸時代までの教育はかなり高 りも,雅楽でいうところの「律」音階でできている 水準だっただろうが,ヨーロッパと比べて圧倒的に と思うからだ。「レ」で始まるもので,《君が代》は 見劣りするのは身体が貧弱なことだ。だから体操を それでできている。この曲には実は《君が代》が隠 やらなくてはいけない,と,アメリカで勉強した伊 れている。赤マルの音をつないでいくと《君が代》 沢修二などは特に感じていただろう。 87 (藤原)音楽が身体の鍛錬とか軍隊の行進を目的としていた (菅) 日本の軍歌はマイナーコードが多いのでどうしても ということは,芸術的なものというよりは,実用的 哀愁を帯びる。近代が身体やリズム感を均質化した なものと考えられて入ってきたのだろうか。 ということはあると思うが,そこにセンチメンタリ (兵藤)常磐津や清元的な感性がよくないとされたのだろ ズムが絡んでくると必ずはずれてしまうものが出て う。歌われているのは色恋なので,それを子どもに くる。日清戦争の頃の短歌も,戦意を昂揚するよう 歌わせたくなかった。 なわかりやすいものがある一方で,「月を見てもの (小塩)歌うと健康になるという,体育的な発想もあった。 を思う」というような伝統的なコードが入ってくる (藤原)現在の学校には音楽か美術から選択,という考え方 と,戦時の歌としてふさわしくないものになる。均 があるが,当時は音楽と体育だったわけか。 質化したものと,感傷的な逸脱したもの。人々が身 (海野)もともとヨーロッパの学校じたいが軍事教練をモデ に沁みて受容していくのはどちらだろうか?国が反 ルにしていた。その流れが日本に入ってくるという ことも考えられるかもしれない。それと,官軍が 《宮さん宮さん》に合わせて行進しながらやって来 対しても《戦友》はヒットしたわけだから。 (田井)実は隠れて歌われてきたわけだ。 (菅) そう。今もここにいる全員が《戦友》を歌えました るというのは,事実ではなくイメージか? よね。それもびっくりしましたけれど。あれを歌っ (兵藤)私もよくは知らないが,もともと祇園の芸子さんが ても戦意は昂揚されない。「国民」の心性はどこに 作った都都逸で,後からそれを行進曲的に作り変え たらしい。 (海野)では,整然と整列して行進していたのではなく,だ らっと?(笑) コミットしていたのだろうか。 (兵藤) 《露営の歌》というのがあった。「勝ってくるぞと勇 ましく」というものだ。あれも,ピョンコ節で歌う と勇ましいのだが,間延びした感じに歌うと変に悲 (兵藤)まあ,薩摩や長州はイギリスなど外国の軍事教練の しい。「死」という言葉が何度も出てくるから,歌 顧問も招いているので,まったくだらっとしたもの い方ひとつでとてつもなくセンチメンタルな歌にな ではなかったと思うが。 る。でも同時に鼓舞されもする。それが日本人のメ (海野)ブッシュマンの世界に,同調行動というのがある。 それは,ある一人が何らかのリズムで採集を始める と,みなそのリズムになるというものだ。ある集団 が形作られるための,コミュニケーションのひとつ ンタリティだろう。 (菅) 悲劇的なものの方が鼓舞されるといういうことはあ るかもしれない。 (田井)勇ましさと哀愁という点で言えば,替え歌の影響も だ。ほんらい自発的に同じ事をやるものだったのが, 考えるといいのではないか。軍隊経験者に話を聞く 近代の均質化に乗っかってしまったときに,みなが と,同じ旋律で,ずいぶん違った替え歌が密かに, 強制されてやるところが,近代化の怖い点だろう。 しかも非常に多く歌われていた。中には心情を吐露 (高松)子どものうちから同調するように鍛えられるわけ するものや,かなり体制批判的なものもあったよう だ。軍歌というと大人のものと見られがちだが,音 だ。勇ましい軍歌に,批判精神や本心を組み込む可 楽の教科書に載っているのだから。 能性もあっただろう。 (田井)戦争に行っていなくても,教科書に載ると皆が歌う (高松)ただ,軍歌のセンチメンタリズムについて音楽面だ から,今でも多くの人々の記憶に残ることになる。 けでいうと,意外かもしれないが,明治20年代の 軍歌は圧倒的に長調が多い。短調が増えてくるのは 88 明治30年代だと思う。それから気をつけなければ ならないのは,長調は楽しくて短調が悲しいという 感じ方が身についたのはいつごろからか,というこ とだ。マイナーがセンチメンタルだというという連 想がないところでは,今の議論は難しくなる。 (高松)ともあれ,みなで足並みを揃えられる日本人という のは,近代の発明だったのだろう。今でも,何につ け日本人は揃えたがる。 (菅) オリンピックの行進のとき,「うちだけきれい」と 思う。 (田井)軍隊でもないのにね。 写真7 兵藤裕己氏(中央) (小塩)でも最近揃えなくなりましたよね。 (高松)揃えるなと言われるとまた困っちゃったりする。 (兵藤)まあ,それが近代日本の欧米並みの発展を支えてき たのだろう。 89 プロジェクト5年間のあゆみ 第1回研究会 メンバー顔合わせとワンポイント発表 〈日時〉2004年2月5日10:30∼17:30 〈場所〉聖徳大学2号館3階2301教室 〈出席者〉岡田裕成,小塩さとみ,田井竜一,高松晃子, 藤原貞朗,藤本寛子(研究補助) 〈場所〉聖徳大学2号館1階研修室 〈出席者〉岡田裕成,小塩さとみ,菅聡子,田井竜一, 高松晃子,福岡正太,藤原貞朗,藤本寛子 報告1「三味線音楽における創作と伝統」 (小塩さとみ) 報告2「『水口囃子』にみる芸能の戦略」 (田井竜一) (研究補助) 第5回研究会 教える・伝える その1 研究ワークショップ「伝統芸能の映像記録の可能性と課題」 〈日時〉2005年10月15日(土)11:00∼17:30 〈日時〉2005年2月22日 〈場所〉聖徳大学2号館1階研修室 〈場所〉国立民族学博物館第4セミナー室 〈出席者〉小塩さとみ,菅聡子,高松晃子,藤本寛子 (研究補助) 〈発表者〉高松晃子(「英国における少数民族芸能の保護 政策」) 第2回研究会 専門領域からみた「伝統」その1 報告 高松晃子・菅聡子・小塩さとみ 第6回研究会 教える・伝える その2 〈日時〉2005年3月29日(火)11:00∼17:30 〈日時〉2005年11月26日(土)11:00∼17:30 〈場所〉聖徳大学2号館1階研修室 〈場所〉聖徳大学8号館8716教室 〈出席者〉岡田裕成,小塩さとみ,菅聡子,田井竜一, 〈出席者〉小塩さとみ,田井竜一,高松晃子,藤原貞朗, 高松晃子,藤原貞朗,藤本寛子(研究補助) 報告1「スコットランドのトラヴェラー・プロジェクト 藤本寛子(研究補助) 報告 田井竜一,藤原貞朗 ―内側からの試み」(高松晃子) 報告2「エキゾチズムの転倒−アンデス植民地美術・ 公開イベント シリーズ《伝統と創造》1 史/論における『先住民的伝統』の幻想」(岡田 「箏が今に伝えるもの,伝えたいもの」 裕成) 米川裕枝 × 小塩さとみ 〈日時〉2006年2月18日(土)14時開演(13時30分開 場)入場無料(先着100名) 第3回研究会 専門領域からみた「伝統」その2 〈日時〉2005年5月21日(土)11:00∼17:30 〈場所〉聖徳大学10号館12階小ホール 〈場所〉聖徳大学2号館1階研修室 〈主催〉日本学術振興会人文・社会科学振興プロジェク ト「伝統と越境」 〈出席者〉岡田裕成,小塩さとみ,菅聡子,高松晃子, 藤原貞朗,藤本寛子(研究補助) 報告1「〈女性性〉と和歌・序―〈感傷〉の効用―」 (菅聡子) 〈後援〉松戸市教育委員会・聖徳大学音楽研究センター 〈出演者〉米川裕枝(現・2代目米川敏子),岡崎敏優, 中川敏裕,小塩さとみ 報告2「日本の美術史編纂と『伝統』の創出あるいは生 成」(藤原貞朗) 第7回研究会 筝曲イベントを振り返る/教える・伝える 第4回研究会 専門領域からみた「伝統」その3 〈日時〉2005年8月26日(金)11:00∼17:30 92 その3 〈日時〉2006年2月19日(日)10:00∼12:00 〈場所〉聖徳大学2号館研修室 〈出席者〉岡田裕成,小塩さとみ,田井竜一,高松晃子, 藤原貞朗,藤本寛子(研究補助) 1.箏曲イベントを振り返る 2.報告 岡田裕成 公開イベント シリーズ《伝統と創造》3 「スコティッシュ・ダンスは国境を越えて―グローバル に維持されるローカルな伝統」岡田昌子 × 高松晃子 〈日時〉2006年9月30日(土)14:00開演(13:30開 場)入場無料(先着100名) 〈場所〉聖徳大学2号館1階奏楽堂 公開イベント シリーズ《伝統と創造》2 「歌のことば,女のことば ― その継いできたもの ―」 阿木津英 × 菅聡子 〈日時〉2006年3月18日(土)14:00開始(13:30開 〈後援〉松戸市教育委員会・聖徳大学音楽研究センター 〈出演者〉岡田昌子(RSCDS公認教師),東京スコティ ッシュ・ブルーベルクラブ,八丁堀SCD教室, 高松晃子 場)入場無料(先着50名) 〈場所〉聖徳大学10号館12階小ホール 第5領域横断フォーラム「文化・芸術研究の新たな地平」 〈後援〉松戸市教育委員会 〈日時〉2006年10月30日(月) 〈出演者〉阿木津英(歌人) ,菅聡子 〈場所〉ぱ・る・るプラザ京都 〈発表者〉高松晃子(「音楽における伝統と革新」 ) 第8回研究会 インタビュー 近藤譲さんをお迎えして 〈日時〉2006年6月24日(土)11:00∼17:30 第10回研究会 言葉を伝える,日本語で語る 〈場所〉お茶の水女子大学文教育学部2号館110教室 〈日時〉2006年12月24日(土)10:00∼17:30 〈出席者〉岡田裕成,小塩さとみ,田井竜一,高松晃子, 〈場所〉国立文楽劇場会議室 藤原貞朗,藤本寛子(研究補助) 〈ゲスト〉近藤譲氏(作曲家) 〈出席者〉岡田裕成,小塩さとみ,菅聡子,後藤静夫 (京都市立芸術大学日本伝統音楽研究センタ ー,コーディネーター),佐伯順子(同志社大 第9回研究会 対抗勢力とのかかわりにおける文化の解釈 と発信―沖縄とスコットランド 〈日時〉2006年8月21日(月)11:00∼17:30 〈場所〉聖徳大学2号館3階2301教室 〈出席者〉岡田裕成,小塩さとみ,菅聡子,田井竜一, 高松晃子,根来章子(研究補助) 〈ゲスト〉松井優子氏(駿河台大学),久万田晋氏(沖縄 県立芸術大学) 報告1「スコットランド文学における文学伝統の再編」 (松井優子) 学,コメンテーター),田井竜一,高松晃子, 藤原貞朗,藤本寛子,細田明宏(別府大学, コメンテーター),根来章子(研究補助) 〈ゲスト〉吉川和夫氏(宮城教育大学・作曲家),鶴澤清 介氏(文楽三味線奏者) 1.報告「音と言葉を結ぶ ∼ 作曲家の仕事」 (吉川和夫) 2.文楽劇場バックステージツアー 3.事前レクチャー(後藤静夫) 4.インタビュー 鶴澤清介さんをお迎えして 「これまでの文楽・これからの文楽」 報告2「ポピュラー音楽における伝統と民族アイデンテ ィティ∼宮古出身ミュージシャンを例に∼」 (久万田晋) 第11回研究会 工芸における伝統議論 〈日時〉2007年2月10日(土)13:00∼17:30 93 〈場所〉聖徳大学2号館1階研修室 〈出席者〉岡田裕成,小塩さとみ,菅聡子,田井竜一, 高松晃子,藤原貞朗,根来章子(研究補助) 〈ゲスト〉土田真紀氏(元三重県立近代美術館学芸員) 1.報告1「焼物の歴史・評価のいろは」 (藤原貞朗) 2.報告2「1930年代の『工芸』領域における『伝統』 と『創造』」(土田真紀) 第14回研究会 日本の美術と芸能 〈日時〉2008年2月2日(土)13:00∼17:30 〈場所〉聖徳大学2号館2201教室 〈ゲスト〉桑原規子氏(聖徳大学),佐伯順子氏(同志社 大学) 〈出席者〉岡田裕成,小塩さとみ,菅聡子,田井竜一, 高松晃子,藤原貞朗,根来章子(研究補助) 1.報告1「創作版画と伝統木版画―1930年代版画論 第12回研究会 植民地文化の創られ方―カンボジアの宮 廷舞踊・影絵芝居の場合 〈日時〉2007年10月20日(土)13:30∼17:30 争のゆくえ」(桑原規子) 2.報告2「現代演劇における古典芸能の影響―泉鏡花 『天守物語』を中心に」(佐伯順子) 〈場所〉聖徳大学2号館1階研修室 〈出席者〉岡田裕成,小塩さとみ,菅聡子,田井竜一, 高松晃子,藤原貞朗,根来章子(研究補助) 〈ゲスト〉笹川秀夫氏(立命館アジア太平洋大学) 1.報告1「フランス植民地主義時代のカンボジアの伝 統美術復興政策(1907-1930)」(藤原貞朗) 2.報告2「「伝統」としてのカンボジアの宮廷舞踊と影 絵芝居」(笹川秀夫) 第15回研究会 西洋音楽におけるアジア 〈日時〉2008年6月7日(土)13:30∼17:30 〈場所〉聖徳大学2号館1階研修室 〈出席者〉岡田裕成,小塩さとみ,菅聡子,田井竜一, 高松晃子,藤原貞朗,根来章子(研究補助) 1.報告「近代フランス音楽にあらわれたアジアの表象 ―20世紀前半音楽シーンにおける異国の伝統の 取り扱いについて」(根来章子) 第13回研究会 陶芸をめぐって 2.これまでの研究会を振り返って∼まとめに向けて 〈日時〉2007年12月16日(日)11:00∼17:30 〈場所〉備前焼ギャラリー青山→お茶の水女子大学文教 育学部2号館110教室 〈出席者〉岡田裕成,小塩さとみ,田井竜一,高松晃子, 藤原貞朗,藤本寛子,根来章子(研究補助) 第16回研究会 伝統と身体 〈日時〉2008年12月13日(土)13:30∼17:30 〈場所〉お茶の水女子大学文教育2号館110教室 〈出席者〉小塩さとみ,菅聡子,田井竜一,高松晃子, + 辻成史(ゲスト:大手前大学人文科学部教 藤原貞朗,藤本寛子,根来章子(研究補助), 授),今井祐子(ゲスト:福井大学教育地域科 海野るみ(オブザーバー:お茶の水女子大学) 学部講師),藤田りん子(ゲスト:ウィーン大 〈ゲスト〉兵藤裕己氏(学習院大学) 学),オブザーバー5名 1.報告1「明治時代の興行取締と『音楽』―『劇場取締 〈ゲスト〉安倍安人氏(陶芸家) 規則』『寄席取締規則』『観物場取締規則』の比較 1.安倍安人氏個展鑑賞(備前焼ギャラリー青山) 2.インタビュー 安倍安人さんをお迎えして 94 を通して―」(藤本寛子) 2.報告2「国民形成と身体の生成」 (兵藤裕己) 公開イベント シリーズ「伝統と創造」1 「箏が今に伝えるもの,伝えたいもの」 (2006年2月18日 於・聖徳大学10号館12階小ホール) 開催レポート(高松 晃子) 伝統的なものといわれる芸術文化・言語文化がどのよう との相違などについて,お話がありました。印象的だった に「伝統性」を獲得し,それを伝えてきたか,作り手と一 のは,家元の娘として特別な教育を受けたわけではないと 緒 に 考 え る 企 画 の 1回 目 。 地 歌 筝 曲 演 奏 家 の 米 川 裕 枝 いうこと。でも,できないと「どうしてできないの?」と (現・2代目米川敏子)さんとお弟子さんの岡崎敏優さん, 言われてしまう。お弟子さんと一緒に同じことをしている 中川敏裕さんをお招きしたレクチャー・コンサートを開催 中から,重要なことを学び取っていかなければならないの いたしました。当日は,定員を超えるたくさんのお客様が, だそうです。「あなたはできなければならない」という一 美しいお琴の音色と楽しいお話を堪能されました。 種の帝王学を学ぶわけですね。それはかえって辛いかもし まずは古典曲《乱》でしっとりとしたお琴と三絃の合奏 れません。 を楽しんだ後,古典のなかでも新しい《千鳥の曲》の演奏 へ。しかも《千鳥》では,吉沢検校のオリジナルと,裕枝 休憩後は,裕枝さんの作品《月彩》。オリジナルの調弦 さんのお母様,人間国宝の米川敏子さんの手付けの2種類 を使用した,幻想的で何とも素敵な曲でした。作曲の方法 を並べて聞かせていただきました。同じ曲がこんなに変化 をお聞きしたところ,曲作りは調弦を決めるまでがたいへ するとは!聞いている我々もさることながら,ご本人も, んで,調弦が決まればその曲のイメージが半分ぐらいはで 「普段こんなことはいたしませんから」とおっしゃりなが きあがるそうです。あとは,お琴を弾きながら横で録音し, ら,2つの違いにあらためて感じるところがおありのよう 13弦譜に拾い上げる。メロディーを考えてほかのパート でした。 を付けていくのが基本ですが,縦の響きを優先することも 続いて,今回の進行役である小塩さとみさんとの対談に。 あるそうです。どうしてもメロディー優先でつくるので, そこでは,家元の娘としてどんな教えを受けられたのか, 古典的な「手の動きで音が決まる」式にはならない。だか ほかの流派とどこが違うのか,お母様やお祖父様とご自身 ら古典的な手はあまり出てこないそうです。伝統的である と言われるお琴の世界ですが,新しい作品もどんどん生ま れています。作るときには,古典と違うものにしたいとい う意識が働くようで,オリジナルの調弦を考案したり,古 典的な手が入らなかったり,洋楽器と共演したり,いろい ろな工夫があるのですね。 最後に,アンコールとして米川敏子さん作曲のかわいら しい小曲,《花》のプレゼントがありました。古典を弾く のも作曲するのも両方とも私たちの責務,とおっしゃる裕 枝さんのお言葉が,筝曲界をリードする次期家元らしく, とても頼もしく感じられました。 写真1 米川裕枝氏(右)と聞き手の小塩さとみ 95 <資料>第1回公開イベント チラシ (表) 96 <資料>第1回公開イベント チラシ (裏) 97 <資料>第1回公開イベント プログラム(1ページ目) 日本学術振興会人文・社会科学振興プロジェクト「伝統と越境」主催 シリーズ《伝統と創造》 箏が今に伝えるもの、 伝えたいもの 米川裕枝 × 小塩さとみ 2006年2月18日(土) 14時開演(13時30分開場) 入場無料(先着100名) 聖徳大学10号館12階小ホール 主催 日本学術振興会人文・社会科学振興プロジェクト 「伝統と越境」 後援 松戸市教育委員会・聖徳大学音楽研究センター 98 TRADITION & creation <資料>第1回公開イベント プログラム(2ページ目) 曲目解説 みだれ 乱 八橋検校作曲 やつはしけんぎょう 箏の旋律は、八橋検 校(1614-1685)の作と伝えられています。八橋検校は箏曲の創始者と呼ばれ、「六段 の調べ」の作曲者としても知られていますが、現在演奏されている「乱」や「六段の調べ」の旋律は、八橋 検校の演奏した形そのままではなく、後の演奏家たちの創意工夫がつけ加えられたものだと考えられていま す。また、八橋検校も、これらの旋律を独自に創作したのではなく、それ以前から演奏されていた旋律を発 展させて曲を作っています。「乱」も「六段の調べ」も一種の変奏曲で、1曲の中がいくつかの段(部分) に分かれています。ただし、「六段の調べ」では各段の長さ(拍子の数)が同じなのに対して、「乱」は段に よって長さが異なる点に特徴があります。 「乱」や「六段の調べ」のような器楽曲は、独りでも演奏できますが、三弦(三味線)や尺八など他の楽 器と合奏したり、同じ楽器で異なる旋律を新たに加えて合奏したりという演奏方法も古くから行われていま てつけ す。この場合、合奏のために新しいパートを作るわけですが、このことを「手付」と言います。1つの曲が さまざまな編成で演奏でき、それによって曲の雰囲気の違いが楽しめるのは、箏曲のおもしろさと言えまし ょう。本日は、箏と三弦の組合せで「乱」をお聴きいただきます。三弦の手付は、演奏者米川裕枝によるも ので、昭和63(1988)年に、三弦の「乱」と合奏するために作られました。箏と三弦の旋律の絡み合う面白 さをお楽しみ下さい。 千鳥の曲 吉沢検校作曲 よし ざわ けん ぎょう 幕末に活躍した二世吉沢検 校(1801/08-1872)は、三弦との合 奏が主流であったその頃の箏曲界で、純箏曲の復興を試みた音楽 家の一人です。「千鳥の曲」は『古今和歌集』と『金葉和歌集』か ら千鳥を詠んだ歌を一首ずつ選び歌詞とし、古今調子と呼ばれる 新しい箏の調弦法で作曲されています。二つの歌の間には器楽の てごと みで演奏する「手事」という部分があり、ここでは波の様子や千 鳥の鳴き声が描写されます。同じ楽器で合奏を行う時には、主た ほんて かえて る旋律を「本手」、それを装飾する第二の旋律を「替手」と呼びま す。この曲は、吉沢検校自身が替手も作曲したと伝えられています。 「千鳥の曲」の本手の旋律に、独創的で新しい旋律を組み合わせ きん おう たのは米川敏子(1913-2005)です。地歌・箏曲家の米川琴翁(1883-1969)の長女として生まれ、古典曲の 優れた演奏家として活躍しただけでなく、長唄や大和楽などの三味線音楽に箏の手付を行なったり、100曲 以上の作品を生み出すなど、創作にも大きな功績を残しました。「千鳥の曲」への手付を行ったのは20代の 時で、本手よりも1オクターブ低く調弦された箏は、本手とは異なる対旋律を紡ぎだします。今回は、吉沢 検校による本手・替手と、米川敏子による箏低音手付の2つの演奏を聴き比べ、手付による曲の変化を味わ いたいと思います。 歌詞 さしで [前弾]塩の山、差出の磯に住む千鳥、君が御代をば八千代とぞ鳴く、君が御代をば八千代とぞ鳴く。 [手事]淡路島、通う千鳥の鳴く声に、幾夜寝覚めぬ須磨の関守、幾夜寝覚めぬ須磨の関守。 99 <資料>第1回公開イベント プログラム(3ページ目) 昨年秋にはヴィオラと箏の二重奏「風彩」を作曲、創作にも意欲的 に取り組む米川裕枝(1950-)が、平成14(2002)年に第3回「新・日 本音楽抄」という演奏会のために作曲した作品です。初演は、本日の 演奏と同様に箏のパート2つと十七弦という編成でしたが、その後打 楽器パートが加えられ、日本舞踊の作品にもなりました。作曲者によ れば、“かぐや姫”や“アラビアンナイト”など月に纏るイメージを膨 らませて書き進めたとのこと。月を題材にした作品は古典曲にもあり ますが、夜空を照らす月の光のイメージを音で表現するという発想は、 新しい音の世界を作り出しています。短いフレーズの繰り返しが次々 と展開していく音楽の構成は、時の経過に従って形を変え、見る時々 により異なる印象を与える月の姿を箏で描いているかのようです。リ ズムの面白さや効果的な和音の使用など現代的な音の響きに加えて、 3つのパート間のやりとりなどには古典曲との共通点もあるように思 われます。 演奏者紹介 米川裕枝(よねかわ・ひろえ) 3歳より母、米川敏子(人間国宝・文化功労者)に箏曲・地歌の手ほどきを受ける。祖父は箏曲家の米 川琴翁。NHK邦楽技能者育成会(1973年18期卒業)で現代邦楽の基礎を学ぶ。古典曲から現代曲まで幅広 いレパートリーをもち、演奏家としての高い評価を受けている。1989年の国際交流基金自主派遣海外公演 (旧ソ連)以来、海外での演奏も多く、1994年にはポーランドにてクラクフ交響楽団と、1998年にはベル ギーでブリュッセル音楽院管弦楽団と宮城道雄の「越天楽変奏曲」を協演。長唄や大和楽など他の邦楽ジ ャンルとの共演でも定評があり、100曲以上の手付(箏パートの作曲)を行っている。創作活動も活発で、 作品には「海?たゆとふー」「雪のぼれろ」「月彩」「風彩」などがある。平成7年度文化庁芸術祭優秀賞、 2004年エクソンモービル音楽賞受賞。研箏会副会長、くらしき作陽大学特任教授。 岡崎敏優(おかざき・としゆう) 箏曲・地歌を米川敏子、米川裕枝に師事。NHK邦楽技能者育成会第36期卒業。1999年より「岡崎敏優リ サイタル」を開催。2003年第4回ビクター邦楽オーディションに合格し、CD「生田流箏曲 岡崎敏優」が 発売される。 中川敏裕(なかがわ・としゆう) 箏曲・地歌を米川敏子、米川裕枝に師事。NHK邦楽技能者育成会第39期卒業。第2回賢順記念箏曲コン クール奨励賞受賞。1998年文化庁芸術家国内研修員。2000年に第1回リサイタルを開催。 案内役・曲目解説 小塩さとみ(おしお・さとみ) 宮城教育大学助教授(音楽学)。日本学術振興会人文・社会科学振興プロジェクト「伝統と越境」メン バー。2001年に『長唄三下り曲における旋律生成の仕組み』でお茶の水女子大学より博士号を取得。 100 <資料>第1回公開イベント プログラム(4ページ目) 演奏曲目 みだれ 1.乱 八橋検校作曲 米川裕枝三弦手付 三弦 米川裕枝 箏 中川敏裕 2.千鳥の曲 吉沢検校作曲(本手・替手) 箏替手 岡崎敏優 箏本手 中川敏裕 *おはなし(その1) 3.千鳥の曲 吉沢検校作曲 米川敏子箏低音手付 箏低音 米川裕枝 箏本手 岡崎敏優 ∼休憩∼ *おはなし(その2) つきあや 4.月彩 米川裕枝作曲 箏Ⅰ 米川裕枝 箏Ⅱ 中川敏裕 十七弦 岡崎敏優 101 公開イベント シリーズ「伝統と創造」2 「歌のことば,女のことば―その継いできたもの―」 (2006年2月18日 於・聖徳大学10号館12階小ホール) 開催レポート(高松 晃子) 伝統的なモノゴトについて,作り手と一緒に考える企画 さて,休憩を挟んだ第2部は,阿木津さんによる短歌の の第2弾。歌人の阿木津英さんをお迎えして,短歌におけ レッスン。10首挙げられた歌の中から3首を選び,感じ る伝統と創造について,実践を交えながらお話を伺いまし たことやちょっとおかしいと思ったところを発表します。 た。当日は,早くからたくさんのお客様がいらっしゃいま 生徒に扮した聞き手の菅さんは,「こんなの高校以来だわ」 した。 と冷や汗をにじませながら大奮闘。でも,次々とおかしな 第1部は,「歌人としての私」と題して,阿木津さんが ところを指摘するのはさすがです。さらに,阿木津さんの 短歌を志したきっかけから短歌の歴史,女流歌人の系譜な 講評を聞いて納得。私たちが日常ごく普通に使う言葉でも, どについてお話を伺いました。「和歌」と「短歌」の違い, 短歌に入れると「?」という言葉,視線をちょっとずらす 俳句と短歌の微妙な立ち位置など,基本的なところが腑に だけでぐんと生き生きしてくるもの,無理に文語体にして 落ちてすっきり。和歌は体制の象徴として機能してきたも 失敗しているものなど,指摘されて初めてわかったことが の。そういう意味では,現在「和歌」をつくるということ たくさんありました。阿木津さんは,「自然体」という言 はほとんどないわけですね。もうひとつ興味深かったのは, 葉に疑問を呈します。「自分のことばで語る」のがいいと 女性が文学界で活躍することの偶然と困難です。古くから いうのは,近代の呪縛である。短歌というジャンルにおい 女性の先生や作り手がいた和歌,短歌は,俳句とは比較に ては,先人の歌を学んでことばと形式に対する感度を上げ, ならないほど女性向きであったそうです。女性の歌の系譜 そのスタイルにふさわしい表現をするのが「自然」なこと もまたいろいろ。のびやかに性愛を歌う人,「主婦」の喜 なのであって,先達のもち札になかったもの=新しいも びを誇らしげに歌う人,全共闘世代として社会に立ち向か の=「自分のことば?」はすなわち不自然なものだ,とい う人,使う言葉も口語体に文語体,定型に自由律とさまざ うのが阿木津さんのお考えでした。伝統とはどのようなも まです。その中で,阿木津さんは,良妻賢母的近代家族の のだろうか,という,このプロジェクトの核心にして返答 枠内に自足できないおのれを見つめながら,歌のことば, 困難な問いに対しては,「この歌のここにこのことばは変, 女のことばを模索し,世に問うてきました。 これはいい,という感覚」とお答えいただきました。その 感覚は,先人の歌を学んで初めて形成されるもの,そのプ ロセスが伝統を学ぶことなのだそうです。「和歌・短歌は 日本の伝統」とはよく聞くフレーズですが,今回の阿木津 さんのお話を心に刻んで,お手軽な表現に踊らされないよ うにしなくては,と用心しきりです。 写真2 102 阿木津英氏(右)と聞き手の菅 聡子 <資料>第2回公開イベント チラシ (表) 103 <資料>第2回公開イベント チラシ (裏) 104 <資料>第2回公開イベント プログラム(1ページ目) *オリジナルは縦書き。 歌のことば、女のことば ――その継いできたもの―― 2006・3・18 阿木津 英 【第一部】 Ⅰ なぜ「短歌」だったのか。 戦後生まれにとっての「短歌」のイメージ・・・古くさい、年寄りの趣味、かっこ悪い 小説・現代詩・短歌・俳句 Ⅱ 文学としての「短歌」・・・斎藤茂吉//塚本邦雄・岡井隆 近代短歌//現代短歌・前衛短歌 文語定型//口語・自由律・隠喩による飛躍 良寛の歌 「人生を作っていく」 全人的 文人 思想性 社会性 抒情性 なぜ五句三十一音か 三十一文字か 短歌とはいったいいかなるものか 調べ・リズム と 散文的・説明 Ⅲ 性差の問題 女であることのマイナス経験――→中性的なペンネームの選択 抒情的 恋歌 vs 思想的社会的哲学的経済的政治的 女(男)のテーマ vs 男のテーマ 「女であるということ」 Ⅳ 戦後生まれの第一世代 河野裕子 ブラウスの中まで明るき初夏の陽にけぶれるごときわが乳房あり 抱擁のきはまるうつつ捲き締めし髪わらわらとゆるみ始めつ まがなしくいのち二つとなりし身を泉のごとき夜の湯に浸す 君を打ち子を打ち灼けるごとき掌よざんざんばらんと髪とき眠る 子がわれかわれが子なのかわからぬまで子を抱き湯に入り子を抱き眠る 白シャツのかの長身を軸としてひと夏の円を描きし草地 1969年 角川短歌賞、23歳。1972年、 『森のやうに獣のやうに』刊行。 のびのびと、ごく自然に青春の性愛の歌をうたう。結婚・出産・育児・・・近代家族(男は仕事、女は家事。サラ リーマンと専業主婦。核家族)の大衆化を背景に・・・を、うたう。五島美代子のような特別なエリート女性でな く、女の命の感覚から。 道浦母都子 明日あると信じて来たる屋上に旗となるまで立ちつくすべし 調べより疲れ重たく戻る真夜怒りのごとく生理はじまる あてどなく街さまよいぬデモ指揮の笛の音のごと風の鳴る日は 105 <資料>第2回公開イベント プログラム(2ページ目) 生きていれば意志は後から従きくると思いぬ冬の橋渡りつつ 1975年、『未来』合同歌集『翔』所収「われらがわれに還りゆく」154首で、全共闘世代の学生運動に行動した初め ての女性の歌として、注目。1980年、『無縁の抒情』刊行。 *1975年、栗木京子が角川短歌賞の受賞者なしの次席。1977年、松平盟子が同賞受賞。1979年、今野寿美が同賞受賞、阿 木津英が短歌研究新人賞受賞。二十代の若い女性が次々に新人賞によって登場、女性の時代を迎える。 松平盟子 君の髪に十指差しこみ引きよせる時雨の音の束の如きを 口移されしぬるきワインがひたひたとわれを隈なく発光させゐる 汝が肩を咬みて真朱き三日月を残せし日より夏はじまりき ぎちこなく撓ひなびけり満腔の帆を張る父のやうに抱けば 宇宙塵やみに燃え果ついくたびもディープキスわれを揺さぶり上ぐれば 1980年、『帆を張る父のやうに』刊行。その大胆な性愛の歌、不倫の歌は、すでにスキャンダルとしてではなく、受 け入れられた。 今野寿美 こ そめづき つばめさりつき かり く つき 木染月・ 燕 去月・雁来月 ことばなく人をゆかしめし秋 人あらぬ野に木の花のにほふとき風上はつねに処女地とおもふ 1981年、『花絆』刊行。古典に親しんだ纏綿体、いわゆる女らしい語法を特徴とする。 阿木津 英 唇をよせて言葉をはなてどもわたしとあなたはわたしとあなた ちちははと卵焼など食べている夢より覚めてさびしかりにき 心地よく生き得る範囲をまたひとつ叩き潰して出でて来にけり 厨べに烏賊の嘴ぬきにつつ阿部定などのこともよぎ過りぬ え この昼のわけのわからぬ悲しみを木の箸をもて選り分けている 卵巣を吊りて歩めるおんならよ風に竹群の竹は声あぐ おうきみ いにしえの王のごと前髪を吹かれてあゆむ紫木蓮まで 産むならば世界を産めよものの芽の湧き立つ森のさみどりのなか 1980年、『紫木蓮まで・風舌』刊行。良妻賢母的近代家族の枠の中に自足できない女としてのおのれ。 80年代女歌論議の時代 、初の女性だけのパネリスト。河野裕子・道浦母都子・阿木津英・ 1983年5月 名古屋でシンポジウム「女・たんか・女」 永井陽子。 1984年4月 京都で初の女性企画によるシンポジウム開催。企画者は、前年のパネリスト。パネルディスカッションに、 沖ななも・阿木津英・今野寿美・松平盟子。 1985年6月 東京で、阿木津英・今野寿美・松平盟子・米川千嘉子そのほかによってシンポジウム「三十一文字集会」開催。 阿木津 英『天の鴉片』1984 男女にて棲むあわれさは共どもに瓢箪に呑み込まるるごとし ぎしぎしの赤錆びて立つこの暑さ「家族」とはつね歪めるものを たいらけくひとしきという概念を大笑いせよ遠阿蘇の嶺 106 <資料>第2回公開イベント プログラム(3ページ目) 今野寿美『星刈り』1985? 〈新しい女〉など言ふおぞましさ朝々這ひつくばひて床拭く 誇らしげなるを憎みてみつしりと白いきのこの傘うち落とす 松平盟子『シュガー』1989 子育ての女もつとも充実すと信ずる男の単純さよし 真の闇こころにはあり泣きやまぬ子を階下へと突きおとさむとす 河野裕子『紅』1991 しつかりと飯を食はせて陽にあてしふとんにくるみて寝かす仕合せ 良妻であること何で悪かろか日向の赤まま扱きて歩む Ⅴ 芸術としての言葉 言葉を扱うレッスン 言葉に対する感度・純度 言葉を洗う・・・身元を洗う・手垢を洗う 俗語をただす 言葉とは、わたしたちにとって他ならぬ日本語 短歌という形式 言い回しの型 類型 【第二部】ヴァーチャル歌会詠草 (この中から三首選んでください) はこ 一、手を匣に差入れつかみぬ二十番われは大吉引き当てにけり 二、凍て蝶と暫し日向を分ち合い抓みて移す躑躅の根元 三、カルチャーの椅子に座りて安らぎし思い叶いて還暦すぎに にいどし 四、六階の窓に見下ろすわがクルマ新年の雪積みて輝く 五、門辺より香の流れ来ぬ見上ぐれば枇杷の円らな蕾ほどけり 六、冬の日の汀に犬と坐りいて媼の吾れは花貝探す 七、すがれたる栗の葉間に吹く風を聴きてをりたり曇れる道に 八、木を歩む母猿の腹に下がりつつ空見たものを子猿のわれは し 九、後戻りしかねることのみ教へかはんぺんの肌の醤油に染まる 十、ブラインドの隙間の幅に切られたるくもりの空を過ぐる鳥あり 107 公開イベント シリーズ「伝統と創造」3 「スコティッシュ・ダンスは国境を越えて―グローバルに維持されるローカルな伝統」 (2006年9月30日 於・聖徳大学2号館1階奏楽堂) 開催レポート(高松 晃子) 3回目は少々趣向を変え,ある地域の文化がどのように ンスをどのように普及させていったか,その手段について 外に出て行くか,そのテーマにぴったりの「スコティッシ これも3つ―人・場所・物―示していただきました。これ ュ・ダンス」に焦点を当てて考えていく企画にしました。 らが丁寧に実演で示され,地域的多様性よりも世界に通用 ゲストは,ロイヤル・スコティッシュ・カントリーダン する普遍性を優先させたRSCDSの方向性が,よくわかり ス・ソサエティ(RSCDS)公認教師の岡田昌子さん。案 ました。1923年を境に,地域のスコティッシュ・カント 内役の高松との対談を軸に,ダンス・カンパニーによる実 リーダンスは規格化された「ナショナル・ダンス」として 演も交えた贅沢な舞台になりました。 生まれ変わったのです。 第一部は「伝統の誕生」。スコティッシュ・カントリー ダンスというジャンルがどうやってできあがったかを解明 「伝統の越境」と題された第二部では,ナショナル・ダ するセクションです。まずは,どんなダンスか知りたい, ンスでありながらインターナショナル・ダンスとなったス ということで,1曲のダンスがどのように構成されている コティッシュ・カントリーダンスの現状と,創作の可能性 か,完成品を部品に分解するように説明していただきまし についてお話しいただきました。できたてほやほやのダン た。フォーメーションの連結とプログレッシブ(最初に踊 ス,Masakoの初演に立ち会えたのは何とラッキーだった ったカップルが先に進んでいく)な進行がこのダンスの基 ことでしょう!ダンスを創作する方法として,フォーメー 本で,たいへん論理的にできていることがよくわかりまし ションをアレンジしたり,新しいフォーメーションを作っ た。ただ,このわかりやすさの背景には,RSCDS たりすることができるそうです。それに対して,ダンスの (1923年設立)とその創立者ミス・ミリガンの努力があ セットの形やステップ,プログレッシブであること,フォ った,というダンスの成立事情に話は進みます。つまり, ーメーションをつなげて作るという手法は,変えてはいけ RSCDSは,だれもが同じダンスを同じように踊れるよう ないのですね。伝統を守りつつ新しいものを生み出すため に,古いダンスを整え,「規格品」を作っていったのでし には,やはり手をつけてよいところといけないところがあ た。しかし,規格化・標準化については,守り伝えるべき るようです。 とされた3つのポイントがありました。1にテクニック 後半にかけて舞台は次第にヒートアップ。音楽の革新と (ステップ),2にマナー,3に形です。また,RSCDSがダ いうトピックを実演で盛り上げてくださったピアニスト, カントリーダンサーから変身したバッグパイパーにハイラ ンド・ダンサーが登場すると,盛り上がりは最高潮に。最 後は優雅なカントリー・ダンサーの描く正確なフォーメー ションを堪能しながら,ローカルな伝統をワールドワイド に維持するシステムを編み出したRSCDSの選択は,ある 意味で大胆,しかし結果的には吉と出たように感じました。 写真3 (左から)聞き手の高松晃子,岡田昌子氏,東京スコテ ィッシュ・ブルーベル・クラブと八丁堀SCD教室のみなさん 108 <資料>第3回公開イベント チラシ (表) 109 <資料>第3回公開イベント チラシ (裏) 110 <資料>第3回公開イベント プログラム(1ページ目) 日本学術振興会人文・社会プロジェクト「伝統と越境」主催 シリーズ《伝統と創造》3 スコティッシュ・ダンスは国境を越えて ∼グローバルに維持されるローカルな伝統∼ 岡田 昌子 (RSCDS公認教師) × 高松 晃子 (聖徳大学教授) Part 1. 伝統の誕生 Part 2. 伝統の越境と創造 そもそもスコティッシュ・ダンスとは? 規格化されたダンスはやすやすと国境を越え、イ 実演を交えてダンスの構成をご覧いただいた後、 ンターナショナル・ダンスとしての活力を得まし ローカル・ダンスからナショナル・ダンスへと た。越境先に伝えられるもの、伝えられにくいも 変貌したプロセスをご紹介します。 のとは? 伝統を踏まえた新作の創造とは? 東京スコティッシュ・ブルーベルクラブほかによ るミニ・ステージにもご期待ください。 2006年9月30日(土) 14時開演(13時30分開場) 入場無料(先着150名) 聖徳大学2号館1階 奏楽堂 主催 日本学術振興会人文・社会プロジェクト「伝統と越境」 後援 松戸市教育委員会、聖徳大学音楽研究センター お問い合わせ 聖徳大学音楽研究室 高松 Tel. 047-365-1111 (内線4628) Eメール [email protected] 111 <資料>第3回公開イベント プログラム(2ページ目) 第一部 伝統の誕生 1.スコティッシュ・カントリーダンスの概要 今日のテーマはスコティッシュ・カントリーダンスと呼ばれるダンスです。まずはどんなダンスな のか見てみることにしましょう。《Reverend John MacFarlane》というダンスについて、それがどの ように構成されているか、完成品を部品に分解するように説明していただきます。次のような特徴が おわかりいただけるでしょう。 ↓ ①ロングワイズ(縦長)というカタチ ②プログレッシブ(1組目が端から踊り始め、もう一方の端へ行き着く)という仕組み③いくつ かのフォーメーションの組み合わせという構成 2.「伝統」の作られ方―規格化という選択―ミス・ミリガンとRSCDSの仕事 上で見せていただいたステップやフォーメーションは、地域差のない共通言語で、スコットランド じゅうどこへ行っても通用する、いわば規格品です。しかし、昔からそういうものがあったわけでは ありません。いったい、いつ、どこでこれができあがったのでしょう?ロイヤル・スコティッシュ・ カントリー・ダンス・ソサエティ(RSCDS)と、その設立に尽力した二人の女性=ミス・ミリガンと ミセス・スチュワートをご紹介します。 古いダンスのリニューアル・規格化の例を見てみましょう。まず古い踊り方、続いて同じダンスの リニューアル後の姿をどうぞ。曲は《Duke of Perth》です。 ただ、リニューアル、規格化といっても、そこにはきっと彼女たちの方針や基準があったはず。そ れが ①テクニック ②マナー ③形 です。 こうしてミス・ミリガンたちとRSCDSは、地域的多様性に多少目をつぶっても、スコットランドら しい踊りを全国に、全世界に、普及させる道を選びました。 3.RSCDS スコティッシュ・カントリーダンスを普及させるための手段あれこれ ダンスを普及させるために、RSCDSは次の3つの戦略を取りました。 ①人―教師の養成 ②場所―スクールの開設 ③物―古いダンスの発掘・新しいダンスの奨励・それらレパートリーの公刊 教師へのさまざまな資料の提供 112 <資料>第3回公開イベント プログラム(3ページ目) 4.水準維持のための手段 スコティッシュ・カントリーダンスは、型が決まっていてわかりやすく、誰にでも開かれたダンス である一方で、高いレベルを目指していくらでも突き詰めていくことができます。そのチャレンジの 場のひとつがコンペティションです。しかしながら、だれが、どんな場面で躍るにしても、その精神 は「ソーシャル・ダンス」であることを忘れてはいけません。 【休憩】 第二部 伝統の越境と創造 1.伝統の越境について スコティッシュ・カントリーダンスは、ナショナル・ダンスでありながらインターナショナル・ダ ンスになる可能性が充分。そして実際そうなっています。いまや世界中にスクールやクラブがありま す。 2.越境した先で 国籍やバックグラウンドの違いによって、踊り方もさまざまです。ここでは、日本人ゆえのハンデ、 あるいは踊り方の特徴について伺ってみます。 3.創造について―新曲の創造 伝統は守るものでもありますが、また変わることも必然です。スコティッシュ・カントリーダンス のレパートリーはほとんど決まっているように見えるため、「つくる」ということがなかなかイメージ しにくいのですが、「創造」はどのように行われているのでしょう。 ①既存のフォーメーションの組み合わせを工夫する方法 《Masako》というダンスがあります。これは、まず新しい音楽を作って、そこに振り付けし たもの。このダンスの場合は、既存のフォーメーションから選んで新しく組みなおすというの が基本的な作業になります。 ②既存のフォーメーションをアレンジする方法 Half Reel of Fourという既存のフォーメーションをアレンジするとどうなるでしょう。ふつ うのものとアレンジしたものを比べてみましょう。 ③フォーメーション自体を創作する方法 Tournéeという新しく作られたフォーメーションを見てみます。 113 <資料>第3回公開イベント プログラム(4ページ目) フォーメーションはどんどん増えていって、覚えるのもたいへんになりますが、ステップは基本的 に変えたり作ったりしてはいけないそうです。創作といっても守るべきところがあるわけですね。ス テップ以外にも、次のような部分は変えてはいけません。 ①ダンスのカタチ(ロングワイズ、スクエア、サークル) ②プログレッシブであるということ ③フォーメーションをつなげて作るという方法 ④「ソーシャルである」こと 音楽面での創作はどのように行われているのでしょうか。いくつか例を示していただきます。その 国の身近な音楽をアレンジして用いると、越境するときにたいへん効果的です。 4.創造について―ステージ・アートとしての可能性 最近、アイルランドのダンスではリヴァーダンスなどが登場して、ステージ・アート、つまり、お 客さんに見せるダンスという方向性が出てきました。スコティッシュ・カントリーダンスがステー ジ・アート化する可能性はあるのでしょうか。 質問コーナー どうぞご自由にご質問をお願いします。 ミニ・ステージ 1.ハイランド・ダンス 《Highland Fling》 2.スコティッシュ・カントリーダンスのゆっくりした踊り 《Miss Milligan’ s Strathspey》 3.スコティッシュ・カントリーダンスの速い踊り 《Ian Paurie’ s Farewell to Auchterader》 (高松 晃子) 114 日本学術振興会 人文・社会科学振興プロジェクト研究事業 平成二十年度研究報告 伝統から創造へ 3 編 集 デザイン 制 作 発 行 高松 晃子 藤原 貞朗 (株)セイワコーポレーション 日本学術振興会 人文・社会科学振興プロジェクト研究事業 「伝統と越境―とどまる力と越えゆく流れのインタラクション」 「芸術文化における<伝統的なもの>」 グループ 発行年月日 2009年3月31日
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