前田寛治の絵画観の変遷について

鳥取県立博物館研究報告 Bulletin of the Tottori Prefectural Museum 42: 61 - 66. March 30, 2005
[転載]論文 Article
前田寛治の絵画観の変遷について※
竹氏 倫子
〒 680-0011 鳥取市東町 2-124 鳥取県立博物館
E-mail: [email protected]
A study of Kanji Maeta: concerning the changes of his idea about paintings
Tomoko TAKEUJI
Tottori Prefectural Museum, Higashi-machi 2-124, Tottori, 680-0011 Japan
はじめに
前田寛治(1896 ∼ 1930)は,美術団体「一九三〇年協会」
れるが, それは従来より, 画家の人間的成長の過程とし
の設立者の一人であり, また, ギュスターヴ・ クールベ
そこで本稿では, 先行研究を参照しながら, 画家の自
の日本への紹介者としても知られる洋画家である。
筆ノートや著書などの文献資料に注目することにより,
33 歳で病没した前田の, 画家としての本格的な活動期
前田の思想的な推移を改めて辿ってみたいと考える。 そ
間は非常に短い。 しかし, 古典主義的な静謐さを湛える
れにより, 前田の画業の筋道と, 日本近代洋画史におけ
作品から, フォーヴへの近接も感じられる破調の作品ま
る彼の独自性を, よりクリアにつかむことができると思
で, その仕事は複層的な変遷を重ね, 密度の高い展開を
われるからである。 なお, まだ調査が行き届いていない
示している。 ただでさえ「どこか茫洋とした大味な, とい
資料もあるために, 本稿は, 現時点での整理結果である
うか大づかみなところがあって, すぐにはその良さをつ
ことをあらかじめお断りしておきたい。
て評伝的に扱われることが多かった。
かみにくい」
(注1)前田の作品は, その複雑な変遷のた
めに, 尚更わかりにくさを増していると言ってもいい。
1.東京美術学校時代
ところで, 前田は, 制作活動と並行して日記や随筆,
小論等の多くの文章を執筆している。 そうすることによ
1- 1. 徳富蘆花
鳥取県中部の農村に生まれ育った前田は当初エンジニ
り, 自分の制作態度を内省し, 進むべき仕事の方向や,
アを目指していたが, 高等学校受験の失敗を経て画家へ
画家としての立ち位置を常に確認しようとしていたのだ
と進路を変更する。 油彩画を実見することも叶わない環
ろう。 それらの文章を読んでいくと, 彼が, 自分なりの
境にありながら洋画家を志した理由として, 多くの先行
絵画観を, 作品制作と理論構築の双方によって確立しよ
研究は, 前田が徳富蘆花の著作「風景画家コロオ」を読ん
うと企図していたことがよくわかる。 どのような表現者
で感銘を受けたことを挙げている(注2)。 瀧悌三は, 母
であれ, その作品スタイルの根底には独自の芸術観が存
校・倉吉中学の美術教師である中井金三に, 前田が「最近
在するものだが, 前田の場合は特に, それをあえて言葉
コローの伝記を読んで非常に感激した。
(中略)人として
でも表現し, 客観的な理論として確かなものにしようと
の絵描きの生活を美しいものと感じている」と話したとい
の意志が顕著であったようである。
う逸話を紹介している(注3)。
また彼は, キリスト教や共産主義思想の影響を強く受
蘆花の「風景画家コロオ」は, 1897(明治 30)年に発表
けており, それが作品の主題選択等に強く反映されてい
された, 画家カミーユ・ コローの人生を一種の成功譚と
たことも広く知られる事実である。 以上のような理由か
して美文調で述べた短編である。 発表時の反響について
ら, 前田の思想的な変遷, すなわち絵画観の変遷を確実
詳しくは不明だが, 本作が納められた小品集『自然と人
に押さえておくことが作品理解のためには必須だと思わ
生』
(1900 年刊行)は, 当時の幅広い層に受け入れられた
※本論文は、財団法人 鹿島美術財団 2002 年度研究助成による調査研究の成果であり、
『鹿島美術研究 年報第 21 号別冊』
(財団法人 鹿島美術財団 , 2004 年)から転載したものである。転載を承諾いただいた鹿島美術財団に感謝の意を表し
たい。なお、文献引用にあたっては、原著論文を引用いただくようお願いする。
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ベストセラーであったことが知られている。 本書のメイ
また, ノートには, 1921(大正 10)年の冬に長崎を旅行し
ンとなる随筆「自然と人生」は, 自然の視覚的な美しさを
た際に, 浦上天主堂の建設に尽力中のエミール・ ラゲ神
徹底的に描写することによって, 当時の社会に新たな美
父と面会した時の感激や, 翌年2月に内村の自宅を訪れ
意識を提唱するものであった。
た時の印象なども記されている。
前田が「風景画家コロオ」を読み, 感銘を受けたことに
ついて, 彼と同時代の研究者である今泉篤男は「それは
むしろこの時代の美術青年たちの一般的風潮のようなも
1- 3. キリスト教と絵画
ところで, 前述のノートには, 前田の画業初期におけ
のであって, 特に問題とするに足らないことであろう」
る絵画観を伺うことのできる文章が散見される。 セザン
と述べている(注4)。 しかし,「風景画家コロオ」の文中
ヌ, ゴッホを賞賛する言葉が頻出しているところに, 前
に随所に見られる, 具体的な作品よりも画家の生き方に
田が『白樺』世代の画学生であったことを想起させられる
注目し,「理想的な人格」として礼賛する姿勢や, 表現対
が, それにも増して, 宗教と美術を結びつけて論じた文
象として牧歌的な自然美を強く志向する思想は, その後
章が随所に現れる点に注目される。
の前田の進み方を考える上で示唆するところが大きい(注
「宗教ハアートを活氣づける, アーチストを活氣づける」
5)。
「誰も自分の藝術に干渉し得るとは思〔は〕ない, けれど
も唯一人衷心から干渉し得る者がある, 誰も自分に関係
1- 2. 内村鑑三とキリスト教
前田は 1916(大正5)年, 東京美術学校西洋画科に入学
し得るとは思はない, けれども誰〔唯?〕一人ある, そし
した。藤島武二の教室に在籍し,1921(大正 10)年に卒業,
「美的恍惚ハ善, 快樂でハない聖なる喜び/肉を離れて精
その後は研究科に在籍して制作を続ける。
さて, 美術学校時代の前田の姿を語る最も重要な資料
て凡ての世界の人はその子供である」
神, 即チ智より情操, 故に宗教的喜悦と相似」
「所謂宗教藝術と間違ふなかれ」
として,「一九二一,十二月以後」と第1ページ目に記され
ここに見られるのは, 宗教を背景とした絵画論の萌芽
た1冊の大学ノートを挙げることができる(注6)。 ここ
である。 明言されているように, 彼は宗教絵画を描くこ
には, 手紙の下書きや日記, 描いた絵の行き先などの雑
とを目的としているのではない。 また, 彼は長崎旅行の
多な情報が記されているが, ノートの中ほどに書かれた
帰途に倉敷に寄り, 大原コレクションの展観を見て強い
次の文章に特に注目したい。
印象を受ける。 その日に書いたと思われるものが次の言
「神田靑年会館に導かれ御贖ひから主御再臨に至る講演を
聴いて餘りの感銘に人中も知らず涙を流して蹌踉として
葉である。
「繪は詩である, 詩がなくていゝ繪は出来ない, 大原展覧
歩いた頃から丁度いままる三年目である。 それ以来, 日
会をみて二つのものに分ることが出来る/詩と, 風俗と,
曜の講演ハ實にある意味の待望にさへなつた。 丁度赤兒
/そして詩を/力だ」
が母の乳房を欲する様だと自身思つて居る」
「信仰的力/チャームにはげまされて出来る詩/が力
この文章の2ページ前にも,「一九二二,二,十六」の日
(僕)だ, /信仰が力だ」
付けの後にほぼ同様の記述があるので, それらに従うと,
ここに, 前田の画業初期のスタンスがはっきり示され
前田は 1919(大正8)年2月 16 日に, 神田基督教青年会
ていると言えよう。 彼にとって信仰は制作の原動力であ
館で行われた内村鑑三の講演「イエスの終末観」を聞いて
り,絵とは,作家胸中の想念を存分に吐露するものであっ
いることになる。 このとき, 前田は 22 歳である。 無教会
た。 この頃に描いたとされるスケッチの横に, 彼は次の
主義を謳う内村は当時, 独自の聖書解釈によりキリスト
ような印象的な言葉を記している。
再臨説を説き, 各地で講演会を開催していた。
「かけかけ, あゝ何と云ふ喜びだ感謝!」
(注9)
なぜ前田が内村の講演を聞きに行ったのかについては
推測の域を出ないが, 彼はその感動をきっかけに, キリ
2. フランス留学時代
スト教に強く惹かれることになる。 故郷の自然をこよな
く愛していたとされる前田は, 自然の理を通じて神を感
2- 1. キリスト教から唯物論へ
東京美術学校を卒業した前田は, 1922(大正 11)年 2 月
じよ, と説く内村の思想にも共感を抱きやすかったのだ
から 1925(大正 14)年 6 月まで, 絵画研究のためにフラ
ろう(注7)。 受洗には至らなかったにせよ, 強く傾倒し
ンスに留学する。 彼にとってこの留学は, 学生時代に抱
ていた様子は, 同年9月に兜屋畫堂の「兜屋主催洋画展覧
いていた絵画観を壊され, 新たな価値観を用意させられ
会」に《来世と教会の人々》と題された2点の作品を発表
る体験となった。 この体験は, ヴラマンクに「このアカデ
していることや,美校同級生の発言からも伺える(注8)。
ミック!」と罵倒された佐伯祐三の例があるように, 渡仏
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した多くの画学生に共通するものだったと考えてよい。
た。 震災によって日本からの送金が途絶し, 経済的な苦
渡仏前の前田は, 絵画作品とは感情の迸りに任せて制
労を重ねていた前田にとって, 福本から聞く共産主義思
作するものであり, 結果的に作家の人格が投影されるも
想が, 強い現実味を帯びて受け止められたであろうこと
のとして捉えていた。 しかし, 留学先で数々の作品を実
は想像に難くない。
見した彼は, 絵画とは緻密な思考によって造形されるも
また, 違和感を覚えさせるこの方向転換にも, 一貫し
のであること, また, 西洋絵画には「実在感」という概念
た必然性があったとする見方もある。 例えば, 土方定一
が存在していることなどに気付く。 これらの思考の推移
は, 次のように述べている。
「この内村鑑三による人間解
については, 帰朝歓迎会のための有名な挨拶原稿に詳し
放の思想は, 前田寛治のパリ時代の後半に福本和夫によ
い(注 10)。 この原稿については後述する。
るマルクス主義の洗礼となっているものである」
(注 12)。
さて,留学当初の前田は,セザンヌの郷里エクス・アン・
また, 小泉淳一も次の指摘をしている。
「平等への志向を
プロヴァンス訪問をはじめ, オーヴェールのヴラマンク
徹底させる社会主義の考え方は, 一面倫理的な側面を持
に面会したり, ゴッホの墓参りをしたりするなど, いわ
ち, 一方では当然それがキリスト教の倫理感に結びつく
ば聖地巡りのような行動を取っていた。 しかし, パリで
こともあり得たことは, 例えば日本最初の社会主義政党
の生活に慣れるに従い, 次第にキリスト教との乖離を感
である社会民主党で幸徳秋水とともに活動した木下尚江
じ始める。 祈ることをしなくなり, 生活の規律も緩くな
らそのメンバーの多くが, キリスト教主義者であったこ
り, 美校からの友人でキリスト者の石河光哉とも信仰上
となどを考えれば, 特に不思議な話でもない」
(注 13)
の問題で決裂してしまう。 そして, やがて自分自身を「マ
なお, この時期の前田の心境を知る上で重要な資料が
テリアリスト(唯物論者)」と称するようになり, マルク
ある。 それは, 前田が留学中に書いたとされる「巴里滞在
ス全集を購入して共産主義の研究を始める。 キリスト教
中の手記」という原稿であり, 外山卯三郎がその著書で一
徒から唯物論者へ, 一見したところ余りにも極端に思え
部を紹介している(現在は紛失・ 注 14)。 以下に, その
る転身である。
部分を再掲する。
留学初期から中期にかけて前田が迎えた精神的な転機
「前田のアカデミックな傅統に對する反抗は, 福本の現代
について, 小泉淳一は「三つの危機」と表現している(注
の社會組織への反抗と似てゐた。 それ等を打碎いて何者
11)。 すなわち, 帰朝歓迎会の原稿に「私の天分といふ如
かに突き進みたいといふ欲求は, 同じであった。 そのこ
きは思ふても傷々しい位のものであつて, さて今後の方
とを知りあつてから, 二人は共通したある感情をもつて
針はと考へますと努力して進むるより外残りませんので,
ゐることを諒解した。 ただ福本は推定し得る彼の行く行
こゝに観念上の蹉てつを来しました」と述べているよう
くの立場から, 歩調正しく極めて鮮明に進んでいく態度
な, 自信喪失の段階が「第一の危機」である。 そして, 渡
を得てゐるに反して, 前田にはそれよりも更に一段初期
仏から7ヶ月後の関東大震災により, 生活費の送金が一
のそれ等の觀念に到達する前に, 障碍となるキリスト教
時途絶えてしまい, 困窮に陥ったことを「第二の危機」と
的の力が深く潜入してゐた。 彼は彼の作つてゐる藝術は
する。 この危機によって, 前田は留学中の行動計画を大
捨てやすいと思つた。 何故ならば, 彼に現在作り得られ
幅に変更する必要が生じてきた。 そして, 震災前の夏に
る範圍の藝術は, 最後に色々の理論や價値やを付せられ
パリを訪れた共産主義者・福本和夫(1894 ∼ 1984)によっ
るにせよ, 詮ずれば彼一個人の欲望充足の仕事に他なら
てもたらされた思想的な影響を,「第三の危機」とみなし
なかつたから!
ている。 この危機は前田にとって, 画家としてのアイデ
けれども彼の宗教への反抗は怖れを伴つてゐた。
(中
ンティティすら揺るがせるような,最も深刻なものであっ
略)前田の奉じてゐるキリスト教が, このやうに自己を沒
た。
却してしまうほどの思想上には, いと幼稚とせられてゐ
る原始的のものものであつたにも拘らず, それは彼にと
2- 2. 福本和夫
共産主義を研究するためにパリを訪れた福本和夫とは,
つては單なる観念上の問題ではなくして, 前田の力とな
後に「福本イズム」の提唱者として, 日本共産党の指導的
この中で前田は, 福本とは既成の価値観に反抗する点
存在となる人物である。 彼と前田は倉吉中学校の同級生
において共通していたことや, 福本の思想と協働するた
であったことから文通を始め, やがてパリで再会してか
めには, キリスト教信仰がもはや「障碍」となり得ること
らは, 1年余にわたって密接に交遊したという。 福本は,
を自覚し, 思想と信仰の間で揺れていたことなどを吐露
法律の勉強をするという名目で留学しながら実際は共産
している。 また, 中でも看過し得ないのは, 共産主義思
主義の研究をしており,前田にその思想を説くことがあっ
想を実現するために,「藝術を捨て」ることすら想定して
つて臨んでゐたことが, 彼の怖れるところであつた」
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いたという事実である。 このことについては, 後年「僕は
から喜びを感じて端的に藝術の極地に飛び込むことが出
當時人道上のある理想を抱いておりましたので, 必要の
来る。 それは現代人の幸福である。 だがクルべエの残し
ある場合は自分も藝術も土芥のように抛っても惜しくな
た頑強な意志と冷酷な物的探究の作品から誰しもが觸れ
いと考えていましたが」と回想してもいる(注 15)。 これ
なければならない生ま生ましい現實の生活に引戻される
は, 画家としての道を放棄し, 活動家として生きること
時, 我々は先づ人間である事を識つて眞劔に動き出す底
を指している。
力を得なければならない」
(注 19)
しかし, 結果的に前田は, 自分の芸術を捨てることは
クールベの人生と芸術を研究することと, 美術館や画
しなかった。 それには, 1924(大正 13)年 8 月, 福本が
廊で実見した数々の西洋名画の印象を整理し, 自分の制
前田より1年早く帰国したことが影響しているだろう。
作に反映させること。 その二つが, 留学終盤の前田の関
福本の帰国後に何らかの逡巡があったことは推測される
心事だったと言ってよいだろう。 留学最終年の 1925 年上
が, 共産主義思想の同志でもあった親友がいなくなると,
旬に前田は, 古典絵画を思わせるような静謐さを湛えた
前田の関心は次第に絵画制作に引き戻されていった。
油彩画《J・C 嬢の像》を完成させた。 この作品は, 第6
回帝展で特選を受賞する。
2- 3. 福本和夫の帰国とクールベ
福本は後年, 前田との交友や, その芸術について忌憚
のない心情を吐露した講演をしている。 その講演原稿の
3. 帰国と前田のレアリスム
前田は, 1925(大正 14)年7月1日パリを発ち, 帰国の途
中で福本は, 自分が前田に与えた影響のうち最も強かっ
に就く。 日本での前田は一九三〇年協会と帝展を舞台に
たものは, 唯物論的な思想よりも, 熱心な「私の仕事振り
活躍し, 旺盛な制作活動と画論の執筆等によって画壇の
そのもの」ではなかったかと述べている。
(注 16)。
寵児となったものの, 程なく病気により夭折してしまう。
事実, 福本が帰国した後の前田は, 留学の成果をま
以下に, 帰国後の前田の足取りのうち, 重要な出来事を
とめるべく旺盛な制作活動に取り掛かっていった。 そし
記してみる。
て, 福本に代わる精神的支えとして, フランスのレアリ
1925 (大正 14)年
スムを代表する画家, ギュスターヴ・ クールベ(1819 ∼
1925 (大正 14)年10 月 《J・C 嬢の像》により, 第 6
夏
1877)の存在をより強く意識していく。 前田は, 震災によ
り送金が止まった 1923(大正 12)年の秋から春にかけて,
帰国。
回帝展で特選を受賞する。
192
6(昭和元)年 4 月 木 下 孝 則, 里 見 勝 蔵, 佐 伯
読書や翻訳に熱心に取り組んでいた。 当時彼が読んだ本
祐三, 小島善太郎と美術団体
の中には, キュビスムの理論書「De Cubisme」も含まれて
「一九三〇年協会」を結成す
いる。 前田の翻訳によると,「Cubisme の價値を計る爲に
は Gustave Courbet に遡らなければならない」という(注
る。
1927 (昭和2)年 10 月 《横臥裸婦》により, 第8回帝
17)。
展で特選を受賞する。
この一文が前田にクールベを発見させたとの断言はで
1928 (昭和3)年6月
きないが, 一つの契機にはなっただろう。 福本により共
(アルス美術叢書)。
産主義の考え方を学んだ前田は, クールベの政治的な思
1928 (昭和3)年6月 「前田写実研究所」を発足させ
想にも大きな共感を抱いたに違いない。 その後, 前田は
著書『クルベエ』発行
る(東京市外杉並町)。
1925(大正 14)年初頭, A. エスティニャール著『クールベ
1929 (昭和4)年 3 月
発病。
その生涯と制作』を翻訳し,「クールベの一生」として『中
1929 (昭和4)年 6 月
帝展審査員に推薦される。
央美術』に掲載させる。 また, 帰国後の 1928(昭和3)年
1929 (昭和4)年 10 月
300 号の大作《海》によって,
にはそれを下敷きにした単行本『クルベエ』を発行する。
帝国美術院賞を受賞する。
この本の中には, 前田がクールベの人生と, 現実主義と
1930 (昭和 5) 年4月
鼻腔内腫瘍により死去。
もいうべき彼のレアリスムに惹かれていることを示す文
以 上 の よ う に, 前 田 が 日 本 で 本 格 的 に 活 動 し た の
章がいくつか見受けられる。 例えば, 以下の通りである。
は, 5年にも満たない期間である。
「彼の燃える様な熱情と頑強な意志とを以て生活を貫
この間に前田は, 自分が信じる絵画のあり方について,
き, 遂にラ・ コンミュンの一員として革命に参加し, 捕
様々な媒体で語るようになる。 それは, 一九三〇年協会
へられて獄中に餘生を送るに到つた生涯を知るに及んで
が開催する講演会や単行本, 定期刊行物など, 様々なメ
は, 一入厳粛な氣持ちで彼を眺めずには居られない」
(注
ディアに亘っていた。
18)。
「我々現代人はセザンヌの 畫的構成の要素そのもの
ところで, 彼は友人の鈴木千久馬宛の手紙に,「寫實に
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前田寛治の絵画観の変遷について
ついてならば, 僕は誰とでも言ひ合ふことを恐れない」と
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「寫實!それには異常な意識の統一力と強靭な体力を要す
書いている(注 20)。 それほどまでに彼が賭けた「写実」
る」
(注 25)
とは,具体的には何を指しているのだろう。1929(昭和4)
前田にとって写実とは, 元来自分が持ち合わせている
年に発表された「寫實技法の要訣」という文章では, 写実
感覚的・ 詩的な性質を押さえ込み, 矯めたうえでようや
とは「質感」
「量感」
「実在感」の三要素から成るものであ
く取り組めるものだったのではないだろうか。 かつて「絵
り, とりわけ「実在感」とは,「質感」と「量感」の双方が
は詩である」と考えた前田にとっては, 溢れ出るイマジ
備わって初めて得られる「全體的の統一感」を指すと述べ
ネーションを意志で抑え, 知的な画面構成のための作業
ている(注 21)。 その他にも彼は「寫實「裸體」の傑作と凡
を行っていくことは, 苦痛を伴う仕事だったに違いない。
作との構成上の差異」
「肉體と背景の關係の要訣」等の写
矛盾を抱えて描き進む苦しみを, この言葉より推察する
実に関する画論を書いているが, いずれも実作のための
ことができる。 前田のレアリスムは, このように2つの
具体的な絵画論にとどまるものであり, 主義としての「写
要素に分裂したまま統合されることがなく, 画家の死去
実」を語っているものではない。
によって道を閉ざされることになった。 33 歳の, 早すぎ
また, 彼の画論の中にはアングルを始めとする新古典
る死だった。
主義のフランス人画家の名前や,「古代の古典の研究を絶
とうと思うのは, 狂氣の沙汰か怠惰である」という言葉も
見える(注 22)。 実在感のある絵画を実現させるために,
まとめ
以上, 前田寛治の絵画観の推移について, 彼の言葉を
前田は 19 世紀の新古典主義まで遡ったところから歩き始
主な資料としながらアウトラインをなぞってきた。 作家
めようとしていた。
の言葉をそのまま信じることは時として危険であるが,
しかし, これらの文章を読んでいると, クールベのレ
前田のように制作の前に先ず思想ありきというタイプの
アリスムは前田の作品に反映されていないのではないか
画家については, 有効な方法の一つであるように思われ
という疑念がわく。 事実, 当時の作品を見てもその印象
る。 このように彼の思考を辿ることによって我々は, 前
は免れない。 また, 理念としての写実にも, 2種類の要
田の独自性と, 当時の時代相を知ることができた。
素が見受けられる。 それは, 一つにはクールベへの傾倒
前田の歩みは, 日本の「近代」を生きた一人の画家がど
に見られるような現実主義としてのレアリスムであり,
のように西洋美術と出会い, 対峙し, それを自分の問題
またもう一方は, 実在感の顕現としてのレアリスムであ
としてどう咀嚼していったかを示す,ひとつのテストケー
る。
スであるように思われる。
後者について物語るものに,「一九三〇年協会の設立」
画家としての前田の出発点は, 白樺的な絵画観に強く
というタイトルで書かれた文章がある。 これは, 会の設
影響されているという点で, 1910 年代の多くの画家や画
立に寄せながら, 前田が自分の絵画観を率直に吐露した
学生の典型的なものだった。 キリスト教の影響もその延
エッセイである。
長上にあったと考えられるが, 1920 年代に留学すると,
「傑作の前に立つ時は先づ「そこに居るもの」を見る――そ
観念的な絵画観に修正を加えるようになる。 それは先に
れは實に觀念的諸事項の動きに先立つ――それは亦あらゆ
も少し紹介した, 帰国歓迎会の挨拶の言葉に端的に表現
る傑作の持つ晝の要素――土壌――/リアリテー」
されている。
「西洋の傑作と称せられますものは, 真に労
「「裸の女が居る様だね」とマネのオリンピヤを見て木下
苦して考へ考へして仕上げたものが大部分でありまして,
は云ふ。 /「繪だと思う前に人間が居ると思ふのだからや
嘗て考へてゐた様に慾望の奔出にまかせて無我のうちに
り切れない」と感嘆する。」
(注 23)
作られたものとか, 単に余興や遊戯的の気持で終始して
また, 画友である中野和高は, フォンテーヌブロー
ゐるものは少くあります」
「近世の個性中心の最も偉大な
派の画家, ジャン・クーザン(父・1490 頃∼ 1560 頃)
者と思はれますセザンヌの絵を見ましても, 単に特殊な
の作品《エヴァ・プリマ・パンドラ》の前で, 留学中
自我を主張するのではなくて, 充分リヤリズムの法則を
の前田が「こんな絵を一枚描いて来いよ」と言ったと
極めた上に彼固有のものに突入して行ったものでありま
いう話を伝えている(注 24)。 マニエリスム様式の強
す」
(注 26)。
いこの作品に惹かれていたという点に, アングルを例
この確信を得るまでに, パリ留学は2つの大きな転機
に写実を説くことの多かった前田の意外な一面と, 彼
を前田にもたらしている。 すなわち, 日本で得た絵画観
の目指した「実在感」の深さを伺うことができる。
の修正とキリスト教の棄教という, ほとんど信念となっ
ところで, 前田が入院中に書いた日記が,『病中日記』
ていたものを根底から覆される体験である。 それは, 前
として残されている。 その中に, 次の一文がある。
田にとっては二重の自分殺しのような痛切な体験だった
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に違いない。 しかし, その結果前田は, 西洋絵画に見
て鑑三を正しく理解することはできない。そして彼の感
られる合理的な造形思考を認識するとともに, 写実(実
嘆の声の通りに,彼はここに神を見,また造物主の偉大
在感)という概念を発見することになる。 彼の写実観は,
さに触れたのであって,このことは,天然が彼の世界観
整合性の取れないまま死によって断絶されてしまったが,
と宗教観とに密接につながっていることの最も明らかな
それは西洋美術の徹底的な咀嚼をベースにしようとして
いた点において特筆される。
前田の写実論は, 日本人画家の課題として理解され,
共有されるためにはあまりにも未成熟であったと言って
証である」
と述べている。
(8)写真家・野島康三が経営していた兜屋畫堂で開催された
展覧会(9 月 28 日∼ 10 月 6 日)
。審査には安井曾太郎,
梅原龍三郎,斎藤与里があたった。兜屋は 1920 年に閉鎖
されたものの,フュウザン会,二科会,創土社等,多岐
いい。 しかし,彼が長生して論を深めていれば,それは,
にわたる作家の作品を展示する貴重なギャラリーであっ
主情的な表現に流れる日本の洋画界に対して楔を打つも
た。前田が出品した展覧会の直前(9 月3∼ 25 日)には関
のとなっていた可能性は高い。 今泉篤男が 1965(昭和 40)
根正二遺作展覧会を開催し,兜屋は展覧会カタログ「信
年の文章に書いている「畫家前田寛治の日本の近代繪畫史
仰の悲しみ」を発行している。また,同年の 11 月 11 日∼
上に果した役割は, 黒田清輝がもたらした折衷的印象派
30 日まで,村山槐多遺作展を開催している。美校同級生
の作風に風靡された日本の油畫が, その後の多くの畫家
の発言内容については,瀧悌三の前掲書 pp.87-88 参照。
たちが企てたようなヨーロッパにおこった革新的繪畫運
(9)
鳥取県立博物館所蔵のデッサン。
動であるフォーヴィスムや立體派の思考や手法を踏襲す
(10)
個人蔵。外山卯三郎と瀧悌三の前掲書に抄録あり。
ることによってではなく, 遡って西歐の油繪の古典に一
歩立ち帰って出直そうとした点である。 しかもそれは後
ろ向きの姿勢においてではなかった」
(注 27)という指摘
は, 今なお有効であるといえるだろう。
(11)小泉淳一「前田寛治と「労働」のテーマ」
『前田寛治の芸術
展―詩情と造形』
愛知県美術館,1999 年,pp.136-141。
(12)土方定一「前田寛治の世界」
『没後 50 年記念 前田寛治展』
日本経済新聞社,1979 年。
(13)
小泉淳一
「前田寛治と
「労働」
のテーマ」
(前掲)
p.139。
(14)
外山卯三郎
『前田寛治研究』
(前掲)
pp.219-222。
注
(15)
前田寛治「悲しき人 小島善太郎君」
『寫實の要件』
(前掲)
(1)富山秀男「序文 前田寛治の遺したこと」
『前田寛治作品集』
美術出版社,1996 年,pp.5-6。
(2)
今泉篤男
『前田寛治』
アトリヱ社,1941 年,p.8。
p.180。
(16)
講演「前田寛治の人と芸術」
(1954 年 10 月 23 日,東京国
立近代美術館)草稿複写(鳥取県立博物館所蔵)参照。福
外山卯三郎
『前田寛治研究』
建設社,1949 年,p.21。
本は続けて,
「私は帰国直前,紙片に次の意味の言葉を書
瀧悌三
『前田寛治』
日動出版部,1977 年,p.59。
いて前田に示した。来た/みた/しった/サア,帰ろう
(3)
瀧悌三
『前田寛治』
(前掲)
p.61。
/帰って戦おう 後に前田は,この言葉を今でも自分は
(4)
今泉篤男「あとがき」
『 寫實の要件』中央公論美術出版,
ハッキリ覚えているよ。あれには非常に感動した,とい
1966 年,p.210。
(5)
「風景画家コロオ」
『蘆花全集 第三巻』新潮社,1929 年参
うことを私に語った事があります」と記している。なお,
鳥取県立博物館所蔵の前田作品の中には,福本による「来
照。本文中には,
「画家をして高潔ならしめよ。彼をして
た,見た,考へた/道は確(?)かだ。/帰らう,見よう,
六塵の欲に誘はれず,超然として専心一意其の向ふ所に
行はう/々〔我々〕は道と一つだ/オ丶わが〔 〕!/
向はしめよ。彼が心をして媚嫉不平より自由ならしめ,
一九二四,F」
という書き込みのある素描がある。
彼をして世間の好悪に淡からしめ,単に美と真とに走ら
(17)前田寛治「立體派研究(グレエッとメッサゼエ)
『
」前田寛治
しめよ」
など,画家の望むべき人格について言及する部分
が多い。
畫論』
(外山卯三郎編集)
金星堂,1930 年,p.112。
(18)
前田寛治『アルス美術叢書 クルベエ』アルス,1928 年,
(6)
個人蔵。
序文。
(7)
内村鑑三の自然観,宗教観については内村祐史
『わが歩み
(19)
同上,p.90。
し精神医学の道』
みすず書房,1968 年,pp.387-389 を参照。
(20)
今泉篤男
『前田寛治』
(前掲)
p.27。
鑑三の実子である内村祐史は,
「私はまた鑑三の門弟たち
(21)
前田寛治
「寫實技法の要訣」
『寫實の要件』
(前掲)
p.9。
の中にあまり見られない特色として,彼の自然科学的趣
(22)前田寛治「古典派と新古典派とは何か」
『 寫實の要件』
(前
味と,天然に対する限りない憧憬の心とを挙げたい。こ
掲)
p.30。
れは彼が札幌農学校で自然科学(水産学)を修めたことに
(23)
瀧悌三,前掲書,pp.216-217。
もよるが,また天成のものでもあった。そしてこれが彼
(24)
今泉篤男
『前田寛治』
(前掲)
p.17。
の宗教を,乾燥した律法的なものよりも,より純朴なも
(25)
前田寛治
「病中日記」
『寫實の要件』
(前掲)
p.163。
のとし,何びとの心にも訴えるものとしたのではあるま
(26)
注 10 に同じ。
いか。
「
」この途方もなく強い自然への感動,これを見ずし
(27)
今泉篤男
「あとがき」
『寫實の要件』
(前掲)
p.216。
鳥取県立博物館研究報告 Bulletin of the Tottori Prefectural Museum 42. March 2005 © 鳥取県立博物館 Tottori Prefectural Museum