翻 訳 呉偉明著、 「辛亥革命以前梅屋莊吉在香港的活動 (辛亥革命以前の梅屋庄吉の香港に おける活動)」、 「辛亥革命與亞洲」 横浜会議 (2011年11月5日∼7日) 報告論文 合 田 美 穂 まで交流を続けた。 こういった交流は、 現在 の若者にとっての目標となるべきものである」 と述べた。3) 2011年は、 日中両国における辛 亥革命百周年の記念となる年であり、 映画 孫文と梅屋庄吉 が、 日中共同制作で作成 されることが発表され、 2012年の春に、 両国 において上映された。 孫文と梅屋庄吉は、 日 中友好の象徴とみなされるようになった。 梅屋庄吉の中国革命における役割は、 表立っ て活躍する役者のようなものではなく、 縁の 下の支持者といえるものであった。 孫文およ び宮崎滔天 (1871-1922) などの中国革命派 の文章の中には、 ほとんど彼の名前が取りあ げられることはなかった。 現在、 梅屋庄吉に 関する書籍は、 基本的には概論的なものであ り、 専門的および分析的な研究は欠如してい る。4) 庄吉は、 遺言の中で、 子孫に対して、 彼と孫文の文献を公開しないようにと言い遺 していたために、 1973年になってようやく、 子孫によってその一部の文献が公開されたも のの、 出版されることはなかった。 このよう な事情から、 学者にとっては参照することは、 容易ではなかった。 南開大学の 辛 教授は、 梅屋庄吉の研究のために、 何度も梅屋庄吉の 子孫を訪ねて閲覧をした。 梅屋庄吉関係文 書 (近代立法過程研究会收集文書No.16、 日本人にとって、 梅屋庄吉 (1868-1934) は、 日本の映画の先駆者となった人物である が、 中国人にとっては、 孫文の熱心な支援者 として知られている。 清朝末期の香港は、 梅 屋庄吉の主要な活動場所であり、 この西洋と 東洋が融合した英国の植民地において、 彼は、 撮影事業で十分な成功を収め、 孫文と終生の 友情を結んだ。 1895年、 2人は、 香港のセン トラルで初めて出会った。 庄吉は、 孫文に対 して、 「もし挙兵をするなら、 経済的な支援 をしたい」 と申し出た。1) これが、 彼が一生 守り続けた盟約となったのである。 庄吉は、 一生、 孫文の革命事業に対して、 変わらぬ支 援を続け、 金銭的にも、 また労力でも力を発 揮し、 40年間 (1895-1934) で、 合計10億円 におよぶ金額の支援を行なった。 現在の価値 に換算すれば、 2億円を超える額である。2) 2人の友情は、 近代の日中交流における美 談となった。 2007年から2010年にかけて、 孫文と梅屋庄吉 の話劇が、 東京紀伊国屋 会館にて上演されたが、 それは中国において も上演された。 2010年の上海万博では、 日本 館が 「孫文と梅屋庄吉展」 を開催し、 福田康 夫元首相が、 開幕式において、 「2人が香港 で出会った時は20歳あまりであったが、 死ぬ 出所は、 梅屋庄吉 永代日記 。 辛 、 熊沛 彪 孫中山宋慶齡與梅屋莊吉夫婦 (北京:中華 書局、 1991)、 17頁に転載。 2) これは、 庄吉の曾孫である小坂文乃が見積もっ た数字である。 詳細は以下を参照。 小坂文乃 革命をプロデュースした日本人 (東京:講談 社、 2009)。 歴史小説家の井沢元彦は、 約一兆円 であると見積もっている。 詳細は以下を参照。 井澤元 友情無限:孫文に1兆円を与えた男 、 2010年に 夕刊フジ に連載。 そのシリーズの 内容は、 角川書店によって、 単行本として出版 された。 「日本館で 「孫文と梅屋庄吉展」、 辛亥革命を 支援した日本人」、 産経新聞 、 2010年8月24日。 4) 概論的な書籍には、 以下のものがある:読売 新聞本社編 梅屋庄吉と孫文:盟約ニテ成セル (福岡:海鳥社、 2002)、 車田譲治 国父孫文と 梅屋庄吉:中国に捧げたある日本人の生涯 (東 京:六興出版、 1975) および小坂文乃 革命を プロデュースした日本人 (東京:講談社、 2009) など。 車田の著作は、 主に、 梅屋庄吉の 娘である国方千勢子の後述をもとにしたもので ある。 小坂は、 庄吉の曾孫であり、 家内で秘蔵 にされていた資料を利用して、 書籍を執筆した。 1) 3) ― 179 ― 環境と経営 第19巻 第2号 1972) に収められた日記および書信は、 おし なべて辛亥革命以降のものであった。 史料が 限られているために、 梅屋庄吉の専門的な研 究は多くなく、 多くが辛亥革命以降の歴史で あった。 梅屋庄吉に関する研究には、 2つの大きな 問題がある。 まずは、 参考にできる資料の問 題である。 梅屋庄吉の研究における最大の困 難といえるものは、 大部分が、 庄吉の個人的 な記録によるものであり、 孫文、 宮崎滔天お よびカントリー博士 (Dr James Cantlie、 1851-1926) 等の、 庄吉と関わった人物の文 章からは、 確証を得ることができていないこ とである。 これは一方的な見方となることも ありえる。 もう1つは、 評価の問題である。 これまでの梅屋庄吉に関する研究は、 批判的 な見方に欠けていた。 単純に、 孫文と梅屋荘 吉の関係を、 日中友好の象徴とみなして、 よ り深い学術的な分析がおこなわれていなかっ た。 本文は、 梅屋庄吉および孫文の一次資料お よび関連する研究をもとにして、 梅屋庄吉が、 1886年に初めて香港を訪れてから、 1911年に 辛亥革命が勃発するまでの間の、 庄吉の香港 における足取りと孫文との接点について、 理 解することにつとめたものである。 本文の学 術的な意義は、 梅屋庄吉と孫文との関係、 そ して、 梅屋庄吉の辛亥革命における役割とい う2つの大きな課題について、 あらためて見 直すことである。 前の香港において自力で成功した日本人ビジ ネスマンの模範となった。 梅屋庄吉は、 長崎人で、 旧姓は本田といっ たが、 裕福な商人である梅屋吉五郎の養子と なった。 吉五郎は、 輸出入貿易を行う梅屋商 店を経営しており、 三菱財閥の創業者である 岩崎弥太郎 (1835-1885) とも親しい間柄で あった。 家族経営の梅屋商店は、 上海と貿易 関係を結んでおり、 長崎と上海を往来するい くつかの商船を所有していた。 庄吉、 少年時 代、 向上心が強く広い視野を持っており、 1882年、 彼が13歳の時に、 梅屋商店が所有す る商船である鶴江丸に乗って、 上海に密入国 し、 数ヶ月の滞在の間に、 肉体労働に従事し て、 中国語と英語を学んだ。 これが彼の最初 の海外生活であり、 これによって中国と海外 に深い興味を抱くようになって、 海外で発展 したいという考えを持つようになった。6) 彼 は、 上海で、 イギリス人が中国人を使役して いるのを目の当たりにして、 アジアの隣国に 同情を抱き、 また西欧列強に対して警戒心を 強めるようになった。 彼は、 日中およびアジ ア各国が共に立ち上がり、 欧米の野心に対抗 することを考えついた。 1886年、 彼は思い切っ て全てを捨てて、 アメリカのサンフランシス コに留学する計画を立てた。 しかし、 彼が乗 船した米国の貨物船が、 長崎を発って、 上海 および香港を経由した後に、 不幸にもフィリ ピンで台風に遭遇し火災を起こした。 庄吉は、 海に飛び込んで助けられ、 香港に送り返され た後、 駐香港日本領事館の援助を得て、 長崎 に戻った。 彼は、 こうやって1886年に2回、 香港に足を踏み入れたことわけであったが、 2回とも経由したに過ぎず、 深い印象は残ら なかった。 当時、 彼は、 後に自らが香港で発 展することになるは考えてもいなかった。 戦前の香港は、 野心家にとって楽園といえ る場所であり、 ビジネスチャンスに満ち溢れ ていた。 香港は、 東洋のカサブランカとも言 われ、 政治における密談、 情報戦、 そして武 器の密輸の大本営でもあった。 香港にてビジ ネスをすることになった梅屋庄吉と、 革命活 動に従事した孫文は、 この特定の時空におい 1870年代から1890年代にかけて、 香港は、 日本の九州からの野心家が集まる天国のよう な場所であり、 売春に従事する者であれ、 小 規模なビジネスを展開する商人であれ、 多く が九州出身者によって占められていた。 彼ら の活動は、 主に、 香港島のワンチャイおよび セントラル一帯に集中していた。5) 長崎出身 の梅屋庄吉は、 香港で撮影事業に従事し、 戦 5) (2013年) 偉明 「ある在外日本人コミュニテェの光と 影:戦前の香港における日本人社会のサーベイ」、 貴志俊彦編 近代アジアの自画像と他者 (京都: 京都大学学術出版会、 2011)、 261-284頁。 6) ― 180 ― 梅屋庄吉 わが影 (出版地不詳、 1926)、 4頁。 呉偉明著、 「辛亥革命以前梅屋莊吉在香港的活動 (辛亥革命以前の梅屋庄吉の香港における活動)」、 「辛亥革命與亞洲」 横浜会議 (2011年11月5日∼7日) 報告論文 て香港で出会い、 火花を散らし、 名を歴史に 遺すことになるのである。 1893年、 長崎で事業に失敗した庄吉は、 ア モイ、 香港を経て、 シンガポールにおいて再 起を図った。 彼は、 シンガポールで小さな写 真館を開き、 自ら撮影と現像の技術を磨いた。 1894年6月に日清戦争が勃発すると、 シンガ ポールの華僑の中に反日の動きが起こり、 7 月に彼は香港に移住することになった。 そし て、 10月にセントラルにおいて写真館の営業 を開始した。 セントラルは、 当時、 香港のビ ジネスの中心地であり、 日本の大企業の多く がここに会社を置いていた。 一方、 ワンチャ イは、 平民が活動する場所であり、 日本の遊 郭や、 日本人が経営する店舗が多く集まる場 所であった。 梅屋写真館は、 セントラルの最 もにぎやかな場所に位置し、 2階建ての1棟 の建物を使用していたことから、 庄吉は、 十 分な資本を持ち、 またその写真館が高級路線 であったことがみてとれる。 その他の日本人 が、 ワンチャイで営んでいた小売店とは異な り、 彼のサービスの主な対象は日本人ではな く、 世界各地から来た裕福な人々であり、 そ の中には多くの西洋人も含まれていた。 当時、 撮影業は、 新興ビジネスに属しており、 競争 相手も少なく、 多くの利益を得ることができ た。 彼は、 さまざまな撮影技術を掌握してお り、 室内の人物撮影だけではなく、 屋外にお ける撮影もでき、 更に、 交際術にも長けてい たため、 多くの客が利用した。7) 庄吉は、 英 7) 語も少しできたので、 西洋人の顧客も多く、 その中の1人が、 西医学院 (香港大学の前身) のイギリス籍の教務長であるカントリー博士 であった。 孫文は、 その愛弟子であった。8) 庄吉は、 カントリーを通して孫文と知り合っ たのである。 1894年、 孫文は、 ハワイにおいて興中会を 立ち上げ、 1895年1月に、 香港に来て資金を 募った際、 カントリーが孫文に対して、 革命 を起こすには、 欧米人の支持を得るだけでは なく、 同じ理想を持つ日本人を味方につけた ほうがいいと助言した。 孫文がそれに当初抵 抗を感じたのは、 日中が開戦しており、 日本 語もできなかったからである。 カントリーは、 戦っているのは、 両国の政府であって、 人民 ではないということを強調した。 1月3日、 カントリーは、 ある慈善の会席において、 孫 文を庄吉に紹介した。 2人は英語で会話をし、 意気投合した。 孫文は 「カントリー先生から、 あなたが中国を愛していて、 アジアの前途に 関心を持っている人だと聞いています」 と伝 えた。9) 2人は、 互いに名刺を交換し、 また 話をする約束をした。 2日後の午後、 29歳の 孫文は、 スーツを着て、 辮髪姿で、 自ら、 セ ントラル大馬路28号 (現在の皇后大道中) の 梅屋写真館に出向き、 27歳の庄吉に会った。 庄吉は、 まず、 孫文の写真を撮影し (皮肉に も、 後に清朝が孫文を手配した際に、 この写 真が使用されることになった)、 その後、 孫 文を2階の書斎に連れて行き、 互いに理想と 抱負を語り合った。 庄吉は、 西洋列強がアジ ア人を欺いていることに不満を表し、 以下の ように語った: 梅屋写真館は、 日本人が香港において最初に 開設した写真館ではない。 1891年に、 恵良彦一 郎がワンチャイに開いた恵良写真館は、 5人の 男性と1人の女性を雇用していた。 同年、 山田 嘉三郎と中川円次も撮影業に従事していたこと がわかっているが、 その詳細は不明である。 詳 細は以下に詳しい。 奥田乙治郎 明治初年に於 ける香港日本人 (台北:台湾総督府熱帯産業調 査会、 1937年)、 310-311、 314頁。 一方、 1904年 に、 上海で撮影に従事していた日本人には、 佐 藤伝吉と井上重雄がいる。 詳細は以下に詳しい。 陳祖恩 上海日僑社会生活史1868-1945 (上海: 上海辞書出版社、 2009), 70頁。 1910年のシンガ ポール日本領事館の記録によると、 日本人が開 設した写真館が1軒あったとされている。 詳細 は以下に詳しい。 シンガポール日本人会編 戦 前シンガポールの日本人社会 (シンガポール: シンガポール日本人会、 1999)、 79頁。 欧米各国は、 租界を拡張し、 領事裁判権 8) カントリーと孫文との交際については、 以下 に詳しい。 盛潮、 王耿雄編 孫中山集外集 (上海:上 海民出版社、 )、 頁。 ) 車田譲治著、 李択隣訳 「孫中山與梅屋庄吉」、 中国人民政治協商会議広東省委員会文史資料研 究委員会編 孫中山與辛亥革命史料専輯 (広州: 広東人民出版社、 )、 頁。 9) ― 181 ― 環境と経営 第19巻 第2号 を行使し、 横暴な方法を限りなく使い、 治外法権の範囲を拡大している。 我々ア ジア人は、 自分を過小評価してはならず、 こんな侮辱を受けてはならない。10) (2013年) 30と5年前、 香港の弊店において先生を 迎えた。 興が乗って、 国家について語り 合った。 日中の親善、 東洋の興隆、 そし て人類の平等など、 見ていることは全て 同じだった。 その実現を求めて、 まずは 大中華の革命を起こした。 先生の雄大な 計画とそれによせる情熱は、 私の勇気を 震わせた。 ある午後の誼が、 将来の契り となったのである。13) 孫文の以下の話は、 庄吉の心を動かした: 眠ったままの人間があまりに多い!君は そう思わないか?だから欧米各国の人間 はみな、 中国を眠れる獅子だと言う。 も し獅子なら、 目を覚ましてこそである。 眠ったままなのは、 全ての中国国民では ないが、 目を遮られて、 他人事になって いる人間が、 本当に多すぎる!...... これが、 孫文の、 アジアにおける、 革命を支 援する日本人との交わりの始まりである。14) 1895年10月、 孫文は、 マカオから香港に到 着し、 庄吉を数回訪問し、 彼に広州起義の計 画を打ち明け、 庄吉および駐香港日本領事館 に対して支援を求めた。15) 庄吉は、 孫文の広 州における活動に同行し、 商人の身分を隠れ 蓑として、 秘密裏に銃を6百丁購入し、 香港 の税関を買収して、 銃を香港から広州へと運 んだが、 最後には清朝の税関によって差し押 さえられた。 1895年11月、 孫文が自ら指揮し た広州起義が失敗した後、 清朝の圧力の下で、 香港政府は孫文を5年間、 入境禁止とした。16) 庄吉とカントリーの説得の下で、 孫文は、 香 港経由で、 神戸および横浜に避難した。 これ が孫文の初めての日本滞在であり、 旅費は、 すべて庄吉の提供によるものだった。 12月20 日、 庄吉は、 香港から1,000米ドルを孫文に 送った。 1896年、 横浜にいる孫文は、 欧米に 赴いて活動をするために、 香港の牧師である 欧建時を通して、 庄吉に援助を求め、 庄吉は すぐに香港から、 1,300米ドルを送った。 彼 は、 その 永代日記 の中で、 「それ以降、 今の状況が、 もし続いたままであるなら、 中国は、 西欧列強の殖民主義者のものに なってしまうだろう。 中国だけではなく、 全てのアジアの国々が西欧の奴隷になる。 日中両国は、 不幸にも戦争を起こしてし まったが、 我々は、 団結しなければなら ない。 中国を植民化の危機から逃すこと が、 アジアを守る第一歩である。 中国を 救うために、 私は、 同志たちと革命を起 こす準備をし、 清朝を倒す。 私は、 本当 の漢民族の国家を作ることを誓う。11) 庄吉は当時、 写真館を始めてから3ヶ月しか 経っておらず、 経営は悪くはなかったものの、 それは単なる家族経営であり、 大企業ではな かった。 彼は、 それでも、 惜しげもなく、 財 政面で孫文の革命事業を支援した。12) 彼は晩 年、 過去を振り返って、 以下のように語って いる: 出典は、 梅屋庄吉 梅屋庄吉文書 による。 孫中山宋慶齡與梅屋莊吉夫婦 、17頁からの転載。 14) 李廷江の研究によると、 孫文が最初に知り合っ た日本人は、 1894年にハワイで出会った、 キリ スト教の牧師兼自由民権主義者の菅原伝 (18631937) である。 伝は、 興中会を支援し、 宮崎滔 天を孫文に紹介した。 詳細は以下を参照。 李廷 江 日本財界與辛亥革命 (北京:中国社会科学 出版社、 1994)、 152頁。 13) 車田譲治著、 李択隣訳 「孫中山與梅屋庄吉」、 中国人民政治協商会議広東省委員会文史資料研 究委員会編 孫中山與辛亥革命史料専輯 (広州: 広東人民出版社、 1981)、 263頁。 11) 同上、 263、 269頁。 12) 車田譲治 国父孫文と梅屋庄吉:中国に捧げ たある日本人の生涯 、 1-6頁。 孫文の支援を開 始した時期については、 辛 、 熊沛彪および 車田譲治は、 1895年の広州起義の前に、 庄吉が 既に軍機購入のために出資をしたと考えている。 一方、 梅屋庄吉の 永代日記 には、 1886年2 月に、 初めて孫文に1300米ドルを出資したと記 されている。 10) 15) ) 多元文化と未 来社会 ― 182 ― (名古屋大學、 ) 呉偉明著、 「辛亥革命以前梅屋莊吉在香港的活動 (辛亥革命以前の梅屋庄吉の香港における活動)」、 「辛亥革命與亞洲」 横浜会議 (2011年11月5日∼7日) 報告論文 何度もの資金の提供を行なった、 私は詳細な 記録はしていなかった」 と述べている。17) 1896年の秋、 孫文は、 一度、 清朝の手の中に 落ちたが、 カントリーによって救われた。 釈 放された後、 孫文は、 庄吉の書信による勧告 を受け入れ、 日本に避難することを決めた。 1897年8月、 孫文は、 横浜に到着し、 中華街 一帯で活動した。 孫文が横浜を選択したのは、 場所が東京に近いこと、 そして、 広東省出身 の華僑が非常に多いために、 孫文に賛同する 者も多く、 資金調達や活動をするのに便利で あったからである。 1897年から1900年にかけ て、 孫文は、 日本での活動中、 継続して香港 にいる庄吉と連絡を取り続けており、 庄吉は 宮崎滔天に、 孫文の世話を委託した。 梅屋庄吉の性格は、 豪気であり、 常に香港 の日本人に援助をしていた。18) 庄吉と宮崎滔 天の交流は、 1896年に始まる。 その年の3月、 滔天は、 香港に立ち寄ったが、 6月になって、 帰国のための船の切符が買えず、 人助けをす ることを惜しまない庄吉のことを小耳に挟み、 訪問して助けを求めたのである。19) 1897年、 孫文は、 日本に避難し、 庄吉は、 滔天に世話 を依頼した。 滔天は、 この時から、 孫文に忠 誠を尽くす支持者となったのである。 1898年、 戊戌変法に失敗して、 後に指名手配された康 有為 (1858-1927) および梁 超 (1873-1929) を救うために、 滔天は香港を訪れたが、 庄吉 も同様に援助を行った。 同年、 庄吉は、 香港 に亡命していたフィリピン独立運動の指導者 で あ る エ ミ リ オ ・ ア ギ ナ ル ド (Emilio Aguinaldo, 1869-1964) と知り合った。 当 時、 アギナルドは、 ワンチャイで自転車屋を 営み、 その身分を隠していた。 1899年、 アギ ナ ル ド の 同 志 で あ る ポ ン セ (Mariano Ponce, 1863-1917) は、 庄吉の紹介状を持っ て、 日本へ向かい、 孫文を訪問して、 孫文か らフィリピン独立運動の支持を取り付けた。 庄吉は、 27万米ドルを、 フィリピン独立運動 軍の武器購入のために提供した。 庄吉の、 中 国革命およびフィリピン独立運動に対する支 援は、 清朝および日本政府に知られることと なり、 日本の外務省は、 彼の名を 「要注意人 物」 のリストに載せた。20) 1900年7月、 孫文は、 宮崎滔天を連れて、 日本の客船の佐渡丸に乗って、 香港に到着し たが、 上陸を拒否された。 庄吉は、 本来、 孫 文の上陸を強行する計画を立てていたが、 駐 香港日本領事館によって阻止されたのであ る。21) 孫文はやむなく、 佐渡丸の中で、 日中 の革命の同志と会議を開き、 恵州起義を決定 した。22) 庄吉は、 その会議には立ち会ってお らず、 起義にも参与しなかったが、 一方で、 物資の購入と運搬を行ない、 また、 広州など の地に人を派遣し、 清軍による防衛の虚実を 偵察させていた。 この工作は、 失敗に終わり、 山田良政 (1868-1900) が戦死した。 1902年 12月、 孫文は秘密裏に香港を訪れ、 梅屋写真 館に身を隠した。 梅屋写真館の商売は、 日一日と繁盛し、 人 手も増え、 規模も大きくなり、 映画業に参入 する計画も出てきた。 1903年、 庄吉は結婚し、 その妻の 子 (1875-1947) も同年、 香港に 来た。 彼女もまた長崎人であり、 非常に有能 で、 人付き合いも得意で、 英語も理解し、 内 助の功を発揮した。 また、 庄吉が孫文を支援 することにも賛同していた。 豊富な財力と人 脈によって、 庄吉は、 香港の日本人社会では、 重要な地位にあって、 彼の一挙手一投足が影 響をおよぼすような存在となっていた。23) 在 詳細は以下を参照。 「孫文を支えた日本人:辛 亥革命と梅屋庄吉」、 NHK特集、 2010年5月22日、 NHK BS放送。 18) 庄吉は、 香港にいる間、 麻雀を好んでいたた め、 多くの日本人と知り合い、 一部の日本人は、 一生涯、 彼と行動をともにした。 19) 宮崎滔天 宮崎滔天全集 一巻 (東京:平凡 社、 1971)、 327-338頁。 同年、 庄吉は、 香港で 混血児の世話を専門に行なうための孤児院を設 立している。 「要視察人関係雑纂:本邦人ノ部」、 18卷、 外 務省アーカイブ I-0831、 国立公文書館アジア歴 史資料センター (http://www.jacar.go.jp/)。 21) 趙金 日本浪人與辛亥革命 (成都:四川人 民出版社、 1988)、 246-247頁。 22) 日本人の参加者は、 宮崎滔天、 近藤五郎、 清 藤幸七郎 (1872-1931)、 平山周 (1870-1940) お よび福本日南 (1857-1921) であった。 17) 20) 23) ― 183 ― 環境と経営 第19巻 第2号 香港の日本人は、 彼を 「先生」 と呼び、 その 写真館は、 日本の若者の集会所となっていた。 1902年、 庄吉は、 インドから、 仏舎利塔を手 に入れることができ、 香港でそれを安置する 寺院を探していた。 彼は、 コーズウェイベイ の荒れた寺に、 人まとまりの無縁墓を見つけ、 そのうち、 九州出身の売春婦のものが最も多 いことを知った。 彼は、 墓地を購入して、 墓 標を修復した。 1903年、 彼は、 ワンチャイに 土地を購入し、 日本式の寺院を建立し、 京都 の東本願寺の僧である高田栖岸を迎えて、 仏 舎利塔を安置し、 盛大な法事を行なった。 こ れが、 香港に建立された、 最初の日本の仏教 寺院である。24) 1904年、 庄吉が、 広州および恵州における 起義に対して、 援助をしたことから、 広東省 政府から香港警察に、 逮捕の要請が出た。 友 人の加藤忠武が、 清朝がおそらく暗殺者を仕 向ける可能性があると警告しに、 梅屋写真館 までやって来た。 庄吉と徳子は、 その噂を聞 いて、 シンガポールへ逃げ、 香港の写真館は、 徳子の兄の神尾が任されることとなった。 庄 吉は、 シンガポールで、 梅屋写真館を開き、 また、 映画館の建設に着手した。 彼は、 本来、 香港で映画事業に着手したいという思いがあっ たが、 場所をあらためて、 シンガポールで露 天映画場を開いた。 彼は、 フランスから設備 を購入し、 香港を経てシンガポールに運搬し 24) (2013年) た。 庄吉は、 西洋の映画も取り入れたために、 多くの集客を得て、 巨額の富を得ることとなっ た。 1905年6月、 庄吉は、 日本円で50万円を持っ て帰国し、 映画会社であるM・パテー商会を 設立した。 彼は、 シンガポールの写真館およ び映画館を売却し、 香港の写真館は、 引き続 き神尾に任せた。 帰国後の数年間、 彼は、 精 力的に映画製作を行ない、 日本では有名な実 業家となった。25) 彼は、 中国革命事業を支援 することは忘れてはいなかった。 1905年8月、 孫文は東京において、 中国同盟会を成立させ た。 庄吉は、 日本人の支援者を組織し、 東京 の有楽町にて、 中国同盟会の後援事務所を成 立させた。 その目的は、 同盟会への経済的な 支援だった。 彼は、 個人的に、 同盟会の機関 紙である 民報 を発行するために、 1万円 あまりを出資し、 孫文は、 その機関紙におい て有名な三民主義を発表した。 1907年3月10 日、 庄吉は、 香港に出向き、 外国映画の機材 および映画を購入した。 同月14日、 孫文は、 萱野長知 (1873-1947) とともに、 日本から 香港に到着し、 庄吉に香港での集金を委託し、 5月の潮州黄岡起義への支援を求めた。 7月、 孫文の指示に従って、 庄吉は、 日本に戻り、 長知に協力して、 軍機を購入した。 1908年、 庄吉は、 東京の大久保百人町にある1万平方 メートルの私邸 (兼映画製作所) を、 中国革 命分子の集会の場所とした。26) 1910年、 孫文 は1911年の広州起義を計画した。 庄吉は、 陸 軍大佐の石浦謙二と親しく、 その協力の下で、 日本にて武器を購入および不法入手し、 金銭 で日本の税関を動かして、 軍機を横浜から香 港へと輸送した。27) 庄吉は、 宮崎滔天および 萱野長知が、 中国にて革命派を支援するため 高田栖岸は福岡出身者で、 浄土真宗大谷派 (東本願寺) の僧侶であり、 その前後に、 朝鮮お よび広東で布教を行なっていた。 彼は、 早くは 1900年に単独で香港に布教に来ており、 田良 平 (1874-1937) と面会している。 栖岸は、 庄吉 の長い友人であり、 招待に応じて、 1903年2月 に香港に布教に訪れた。 その期間、 彼は、 マカ オおよび広東でも活動を行った。 翌年2月に、 香港を離れて、 潮汕地区でも布教を行なった。 彼と、 中国革命派および玄洋社とは、 ともにつ ながりがあり、 かつて孫文と 田良平を助けた ことがある。 詳細は以下を参照。 田良平著、 丁賢俊訳 「中國革命」、 中国社会科学院近代史研 究所編 近代史資料 、 66号 (北京:中国社会科 学出版社、 1987)、 47頁。 栖岸の香港における布 教は、 個人的行為とされている。 西本願寺は、 1907年に、 正式に香港に拠点を作り、 大規模な 布教活動を展開した。 詳細は以下を参照。 小島 勝 「香港日本人学校の動向と香港本願寺」、 佛 教文化研究所紀要 43期 (龍谷大学、 2004年11 月)、 42-43頁。 25) 松下長重は、 梅屋庄吉を、 日本近代の実業家 のモデルの1人であるとしている。 詳細は以下 を参照。 松下長重 東洋成功軌範 (東京:中央 教育社、 1911)、 34-35頁。 庄吉は、 商業映画に 従事したほか、 孫文に啓発されて、 教育映画を 製作し、 人々に文化や知識を広めた。 詳細は以 下を参照。 張家鳳 中山先生與国際人士 上冊 (台北: 秀威出版社、 )、 頁。 ) 日本浪人與辛亥革命 、 頁。 ) ― 184 ― 呉偉明著、 「辛亥革命以前梅屋莊吉在香港的活動 (辛亥革命以前の梅屋庄吉の香港における活動)」、 「辛亥革命與亞洲」 横浜会議 (2011年11月5日∼7日) 報告論文 の援助を行った。 彼は、 広州起義の費用を募 るために、 日比谷に事務所を設立した。 1911 年4月、 「黄花崗72烈士」 が使用した武器は、 庄吉が提供したものである。 1911年10月10日、 武昌起義が勃発し、 庄吉 は、 全面的な支援体制に入った。 同盟会の陳 其美 (1878-1916) は、 送金および萱野長知 を武昌起義の支援に遣すように、 要求する文 書を庄吉に宛てた。 10月末、 庄吉は、 11万6 千元を提供した。 彼はまた、 撮影隊 (M・パ テー商会のカメラマンである荻谷堅蔵が指揮 を取った) を武漢の三鎮まで派遣して、 7分 間の記録映画である 武昌起義 および大量 の写真を撮影し、 革命軍と清軍の、 漢陽と漢 口における作戦を記録した。 11月、 庄吉およ び頭山満 (1855-1944) は、 日本で辛亥革命 を支持する者を集め、 友隣会を組織した。 12 月、 庄吉は、 友隣会を代表し、 医療隊6名の 医師、 10名の看護師、 梅屋夫人のプライベー トドクターである山科多久馬がリーダー、 頭 山満が付き添いを務めた) を、 武昌の前線に 派遣して、 革命軍に協力した。 これらの支出 はすべて、 庄吉1人によるものであった。 同 月、 庄吉は、 黄興 (1874-1916) の請求によっ て、 日本円で28万6千円を、 革命軍の軍機購 入のために援助したことから、 巨額の負債を 抱えることになった。28) 彼はまた、 陳其美の 委託に応じて、 東京の新宿にある石田印刷所 にて、 革命軍発行による額面5元の軍票を250 万枚印刷した。 これが革命軍によって初めて 発行された軍票である。29) 12月25日、 アメリ カに逃れていた孫文は、 中国に戻り、 中華民 国の臨時大統領となった。 庄吉は、 思いがけ ないことに大変喜び、 日本から祝電を打った。 彼は、 映画会社を売却し、 日本円で60万円を 得て、 一部を臨時大統領になったばかりの孫 文に送った。 辛亥革命後も、 庄吉は、 孫文を 追随し、 財力および人脈を使って、 その事業、 反袁運動および飛行学校設立を支援した。 彼 は、 更に、 孫文と宋慶齢の結婚式の際の立会 人も務めた。 彼は、 遺言の中で、 40年間の中 国革命事業に対する支援について総括し、 以 下のように述べている: 「私の中国革命の全 てのためにおこなったことは、 すべて孫文と の盟約によるものである」。30) 香港は、 清末期における革命運動の重要な 拠点であり、 また孫文と梅屋庄吉が接触した 場所でもあった。 1886年から1904年までの19 年間、 香港は、 庄吉の家であった。 孫文が、 何度も香港を訪れ革命運動に従事するたびに、 ほとんど毎回、 庄吉に連絡し、 その写真館に 身を寄せることさえあった。 当時、 巨額の富 を得る前の庄吉は、 孫文に、 できる限りの支 援を行なった。 庄吉は、 継続して、 孫文が軍 機を購入するのを支援したり、 各地を回って 集金活動を行ったりして、 財政面で孫文を支 え、 中国革命運動に対して、 後方から強力な 支援を行なった。 彼の、 辛亥革前の役割は、 香港の富豪である李紀堂 (1874-1943) と類 似していた。 孫文にしても、 梅屋庄吉にして も、 武昌起義には直接参与していないが、 彼 らの長年の努力は、 辛亥革命に対して、 有利 な歴史的条件を与えた。31) 日本および中国の学者の多くは、 梅屋庄吉 のことを、 「アジア主義者」 および 「大陸浪 人」 とみなしている。 こういった呼称は、 我々 が歴史上の庄吉を知ることや、 彼に対する公 平で妥当な評価をするためには、 何の役にも 立たない。 「アジア主義者」 および 「大陸浪 孫中山宋慶齡與梅屋莊吉夫婦 、 129頁から の転載による。 31) 一部の研究は、 孫文の辛亥革命における役割 は直接ではなく、 彼がアメリカにて、 ニュース を通してこの件を知ったとしている。 彼が、 臨 時大統領に委任されたのは、 各勢力の妥協の下 での便宜的措置であるとされている。 詳細は以 下を参照。 30) 孫中山宋慶齡與梅屋莊吉夫婦 、 51頁。 一説 では、 45万円であるとも言われている。 詳細は、 「孫文を支えた日本人:辛亥革命と梅屋庄吉」、 第四部を参照。 29) 1907年、 田中昂が東京日本橋にて、 革命軍の ために秘密裏に軍費3百万円を印刷したが、 税 関によって差し押さえられ、 使用することがで きなかった。 詳細は以下を参照。 中山先生與國 際人士 、 上冊、 367頁。 28) ― 185 ― 環境と経営 第19巻 第2号 人」 には、 実際、 様々なタイプの人物が含ま れているのである。32) 日本にとってよく言う なら、 政府あるいは軍部とつながりがあった 野心家 (頭山満および内田良平など)、 ロマ ンを抱いた行動派 (宮崎滔天および山田良政 など、 そして、 後方から支えた支援者 (梅屋 庄吉など) がいる。 梅屋庄吉は、 日本政府お よび軍とは関係はなく、 彼はまた、 黒竜会、 玄洋社あるいは東亜同文会のメンバーでもな かった。 彼は、 正義感が強い日本の商人であ るだけであり、 中国革命を後方から援助して いたに過ぎない。 最後に、 本論文の2大テーマである、 梅屋 庄吉と孫文との関係、 そして梅屋庄吉の辛亥 革命における役割について振り返る。 現在、 梅屋庄吉と孫文の関係を持ち上げて、 日中友 好の象徴だとみなしたり、 梅屋庄吉の辛亥革 命における多大な貢献をひときわ強調したり することが、 主流な見方となっている。 この 見方は、 多少なりとも政治的な意図が含まれ ており、 完全に公平で妥当な見方であるとは いえない。 本研究において修正を加えたい。 まず、 梅屋庄吉と孫文の関係についてであ る。 公平な見方をすれば、 両者の関係は対等 ではないといえる。 庄吉は、 孫文に対して、 心から傾倒しており、 私利私欲なく、 一生か けて孫文を支援することを光栄に感じていた。 一方、 孫文にとっての庄吉は、 単に革命事業 を行なう上で必要な存在であったに過ぎず、 庄吉のことを、 数多くの革命事業の支援者の 1人としてしかみておらず、 特別重要な存在 として認識していたわけではなかったようで ある。 孫文は自身の文章の中で、 庄吉につい てはほとんど言及していなかった。33) 例えば、 孫文は 建国方略 の中で、 数十人もの中国 革命を支援した日本人を回想しているが、 そ の中には梅屋庄吉は含まれていなかった。 こ (2013年) ういった一方的な関係は、 日中友好の象徴と はいえない。 次に、 梅屋庄吉の辛亥革命における役割に ついてである。 梅屋庄吉の中国革命における 役割は、 財政面で孫文を支援していたことで ある。 彼は、 常に孫文の身近な場所にいたわ けではなく、 一度も革命派による政治決議あ るいは軍事行動に参加したことはなかった。 彼には、 政治理論はなく、 演説はせず、 文章 を書くこともしなかった。 庄吉は、 行動派で はなく、 理論を宣伝していたわけでもなかっ た。 単に、 正義感が強く、 大アジア主義へ思 いを寄せる日本の商人であるというだけで、 中国革命に対する支援を、 寄付や軍機の購入 を通して行なうだけであった。 実際に、 孫文 は、 辛亥革命ではリーダー的な役割を担って いたわけではなかった。 彼自身は、 辛亥革命 に直接参与しておらず、 長年の努力が、 辛亥 革命の実行に有利な環境を与えただけに過ぎ なかった。 孫文は、 間接的に、 辛亥革命を支 援しており、 梅屋庄吉もまた、 孫文の革命事 業を間接的に支援していたのである。 よって、 庄吉の、 辛亥革命に対する影響力は、 実際に は限られたものであった。 梅屋庄吉が、 最も関心を持っていたのは、 アジアの発展の道であり、 日本一国の利害を 考えたものではなかった。 1886年、 庄吉と孫 文が、 香港において盟約を結んで以来、 庄吉 はそれをずっと守り続けた。 孫文に対する支 援は、 純粋に彼の理想から生まれたものであ り、 政治への投資や個人の名利とは無関係で、 行動によって 「天下為公」 の徳行を体現した のであった。 このことはまさに、 彼が尊敬に 値できる人物であり、 独得であると考えられ よう。 <参考文献:引用順> 梅屋庄吉 永代日記 ( 辛 、 熊沛彪 孫 中山宋慶齡與梅屋莊吉夫婦 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