ご心配頂きました皆さま、ホームページ上に掲載も出来なかった今までのことも含めて お詫びに代えてご報告いたします。私共家族も、ほぼ一ヶ月前に最後の一人、73 人目、無 事が分かった会社のスタッフも今元気です。中には家族や親戚、家や車をなくしてまだ苦 難の生活から立ち直っていない者もおりますが、きっと生かされたことに感謝し未来に向 かっていくでしょう、皆がそうあって欲しいと念じています。有り難うねと何度繰返し頭 を下げても足りない、皆さんの思いやりをこの手に余るほど沢山頂きました。感謝してお ります。 『リセット』 全てが一瞬でゼロになって避難所で偶然出会った中学高校の同期生で同じ水産界の社長 との合言葉になりました。リセットと何度話しても何も浮かぶことはありませんでしたが、 とにかくリセットと。 3・11 から 9 日間、記憶は途切れとぎれで毎日話していた社員の名前さえ出てこない始末。 10 日目 3 月 21 日からようやく書き始めた携帯メモ日記は今日で 50 日に。記憶がとぎれて いるのは自分の自己防衛本能か、四日目から避難所神社の山を下り毎日行けるようになっ てからは毎日片付けに、でも戦争ならこうだろうと思うガレキや家に立て掛けられひっく り返った車の山を越えて会社工場や自宅に行きまた戻ると深い疲れが出てきたものです。 見ていても見たくない、でも無惨すぎる現実が迫ってくる、しかし見たくない、認めたく ない。ヘナヘナと残骸の中で座り込むことさえ初めはなかった、ただ立ち尽くすだけ。何 が起きているのか理解もできない。 市の指定外の私的避難所牧山神社社務所の大広間には 120 人を超える身一つの無言の家 族やうつ向いた人がいた。宮司さんの計らいでロウソクと石油ストーブと備蓄の玄米お握 りが朝に、夕方には玄米雑炊が振る舞われた。タンクに貯めおいた水道水は底をつき数百 年使い続けた井戸水は極端に制限しつつ顔さえ洗わなかった。余震の度に真夜中でも皆が 起きあがり、乳飲み子が若いお母さんの胸元で何組も泣く寒い夜が続く。しかし一週間以 上も満足な食事もない小学校の教室には一部屋 80 人以上が暖房もなく食事らしいものも水 もなく朝陽が上がるまで寄り添って暗い夜を過ごしたり、取り残されたビルや建物の屋上 で救難ヘリコプターが来るまで日々を過ごした、濡れた身体で震えていた人から見れば私 達の避難所は天国だったと。 二週間風呂にも入れず下着も替えの靴下も歯ブラシもないまま髭ボウボウ髪にはフケさ えなくなっている。しかしそれ以上に何メートルもの津波に車ごと流され戻らぬ人、電線 や電柱の街灯や看板に泳ぎ着いてすがっている前を助けてぇと流される子供や大人を見な がら、大きな流木がぶつかり電線から手をはなし飲み込まれていく人、「生き死に」の分か れ目が紙一重であった人たち。まだ続いている遺体捜索。巨大地震は揺れと言うより破壊 の時間が長く続きこの世の終りと死を感じたのは私だけではなかった。 亡き母の 49 日に直来の最後のお客様を見送った時。コンクリートやアスファルトが割け て 10 センチも縦に躍り横に揺さぶられガラスや瓦や建物が崩れ土埃で薄暗くなった。地獄 の絵はその後の 45~60 分後に全てを破壊し飲み尽くした。工場にも向かいの自宅にも 7 メ ートルの津波の痕跡が残っていた。20 分間何波もの津波に何トンものものが軽々とさらわ れ車も家々も破壊した。申し訳ないが行方不明者含めさせてもらうと 25000 人がなくなっ たと言える。数ではなくあの人その人のだれそれだ。皆に何らかの関係がある一人一人名 前も生活も人生も心も感情も悲しみも血が通った一人一人だ。愛し愛された一人一人だ。 リセット、私達は生かされ行方不明者は海に漂い瓦礫の下で傷だらけの顔さえ識別でき なくなくなっている。私達は何故か生かされた。残された人々はまた震災前のように同じ 過ちをおかそうとしていないか、リセットは自らに厳しく問いたださねばならない。あん な生き方でまた生きるんですか、それが生かされた貴方なんですか?と。 また書くことにしよう、避難所の消灯時間の 21 時になりました。今朝のように 1 時 30 分には起きないように身体の痛みが起きないように。朝が素晴らしい、こんなにも待ちど うしく朝を迎えるなんて考えたこともなかった、震災までは。明日があることに、皆さん の力と支えに感謝して・・・ 5 月 9 日 21 時牧山神社社務所にて・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ (株)高橋徳治商店 代表取締役 高橋英雄
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