紀要創刊号 073-085 海老島

課題研究論文
73
スポーツ科学からスポーツ学へ
|社会学から見たパラダイムシフトの必要性
1)
海老島 均
From Sport Science to Sport Study:
Sociological Perspective on the Paradigm Shift
Hitoshi EBISHIMA
Abstract
The sociology of sport used to be treated as a sub-discipline of physical education. This
discipline experienced an inter-discipline expansion and more researchers from different
backgrounds are now involved in this field. The discussion about the methodology of sociology
of sport was occupied with the dichotomy, 'Agency or Structure'. However some newly
emerged methodologies are expected to engulf this gap. Among those are Cultural Studies
and Figuration Sociology. Figuration Sociology is versatile in depicting the process of social
change. Figurational structure of human relations is a key to analyzing society, and
unexpected and unplanned social changes happened through the web of interdependent
humans, which are the main theme in this methodology.
Review of the development of modern sports and sport science with the viewpoints of
figuration sociology gave the clear idea of a structured process of interplay between these two
actors.
The development of modern sports was characterized with the ideological ethos of
modernization, which is rationalization in pursuit of maximum efficiency. The homologized
approach to quest for peak performance was enhanced with the accumulated wisdom
acquired by the achievement of sport science. Although the world sport scene is creating a
borderless world, the competition between nations in world sporting events becomes more
severe and each nation takes a more serious attitude in creating better conditions for elite
athletes in order to gain a better position among the world sporting nations. Sport science is
well-respected as a tool to meet this need. Initially the research methodology in sport science
had been more closely related to natural science and this tendency was strengthened as the
practical virtue of this discipline is increasingly acknowledged.
However, some crucial characteristics of sport are underestimated as a research topic in
sport science, such as humanistic aspects of sport. Over-involvement of researchers in the
topic of efficient mechanism of the human body can lead to the loss of a wholistic view of the
human body and sports. The segmented image of the human body, as a machine, could
1)生涯スポーツ学科 74
びわこ成蹊スポーツ大学研究紀要 創刊号
deteriorate the image of sport and the sport itself.
An alternative concept for sport science is needed for restructuring the framework of
studying. The paradigm shift, introducing the new framework as‘Sport Study’
, is able to
bring a rebalanced weighting of research topics in the academic studies of sport.
Sociology of sport is believed to make a contribution to redirect the distorted progress of
the study on sport.
Key words:Sport Science, Sport Study, Figuration Sociology, Globalization
はじめに
近年の国際的スポーツ・イベントにおける
学会員として迎え,研究分野の裾野の拡大と
ともに,その方法論にもさらなる質的充実が
期待されている。
競争の熾烈化および参加選手のパフォーマン
スポーツに関連するその他の様々な分野で
スを最大限に引き出すためのスポーツに対す
これと同様の動きがあり,スポーツ心理学,
る科学的研究のニーズの高まりについては今
スポーツ生理学なども今までの体育という研
さらながら言及するまでもない。土着の身体
究領域から,より学際的な広がりを見せてい
文化は近代のエッセンスを有する現代の洗練
った。こうした流れと呼応するかのように研
されたスポーツの形へと変容し,またそのス
究を包括していた体育という概念は,様々な
タイルが収斂化する過程において,近代化イ
領域(大学の研究科の名称等)でスポーツ科
デオロギーと合致しながら,近代社会の構造
学と名称を変えてきた。そのプロセスにおい
を強化する装置としての機能を果たしてき
て,研究対象の重みづけの変化という微妙な
た。しかしその反面独自の文化的性格からく
学問領域における変容(意図的または意図し
るオートノミーにより異彩を放つ特殊性は,
ないものを含む)が生じてきたという事実も
スポーツが研究対象としてユニークな存在で
否定できない。
ある理由であろう。
我が国では欧米からスポーツが輸入され,
本論文では最初に,スポーツ社会学の研究
動向を概括し,次にこのスポーツ社会学の分
学校体育という教育の文脈の中でスポーツの
析方法を用いて近代スポーツの発展とスポー
普及・発展が実現していった。このようなス
ツ科学の関係を論じ,スポーツ科学からスポ
ポーツという対象に対する学問的研究は教育
ーツ学へのパラダイムシフトに関して,スポ
学的領域から派生したものが多くを占め,体
ーツ社会学の未来への展開と重ね合わせた議
育研究を中心視座に据えた日本体育学会,そ
論を導いていく。
の学会誌である『体育学研究』がミッション
を遂行してきた。しかし近年,教育という領
域ではカバーしきれない,学際的研究対象で
ある「スポーツ」としての身体文化のとらえ
1.スポーツ社会学研究の流れ
1-1.スポーツ活動を決定するものは自由意
志(エージェンシー)か社会構造か?
直しが進行してきた。例えば体育学会の専門
スポーツ社会学の研究は1960年代後半にそ
分科会であった「体育社会学」は,1992年に
の胎動を見るわけであるが,当初は社会現象
日本スポーツ社会学会として独立した研究組
としてのスポーツの社会的機能の研究とスポ
織を確立した。これによって理論社会学をは
ーツの発展を支配する法則を強調したものが
じめとする幅広い分野での社会科学研究者も
主流だった。アプローチとしては機能主義的
スポーツ科学からスポーツ学へ−社会学から見たパラダイムシフトの必要性
75
方法が主流となっていった。ケニヨン(G. S.
れが存在する。マルクス主義的アプローチ,
Kenyon)とロイ(J. W. Roy)は『スポーツ
フェミニズム的アプローチ,エスニシティに
の社会学に向かって(Toward a sociology of
基礎を置いたアプローチなどである。初期の
sport)』の中で,もしも社会学が社会秩序,
マルクス主義的なスポーツおよびレジャーに
すなわち人間の社会的行動の根本に係わる規
関する研究は,スポーツを生産性向上のため
則性を研究するものであれば,スポーツ社会
の道具として扱っている資本主義的ブルジョ
学はスポーツに関与している人間の社会的行
アジーのスポーツの積極的利用という観点に
動の規則性およびそれからの逸脱について研
焦点を当てた。また,スポーツもレジャーも
究するものとなると述べ,社会心理学的手法
労働者の生産力向上だけでなく,市場の拡大
に傾倒したスタンスでスポーツ社会学の一局
という点で消費対象であるという文化的自立
面を切り開いていった。具体的には,スポー
性を脅かす社会構造を暴いてきた。ブロム
ツに参与する集団や個人的行動を説明するた
(J. Brohm)は「余暇に行われる身体活動は,
めに理論的モデルを構築し,そのモデルに従
大衆を鈍感にさせ,知的に中立化させる最良
って,多変量解析等の統計的データの分類や
の手段である」[Brohm, 1978:90]として
分析によって研究を展開していったのだ。ス
いる。このように初期のマルクス主義的アプ
ポーツ社会学は,その研究の基礎を「身体活
ローチには,階級により搾取されるスポーツ
動は良い」という仮定に置かなくてはならず,
の姿があった。
一つの没価値的社会科学であるとしている
一方,フェミニズム的アプローチは,階級
[ロイとケニヨン, 1988]。社会的また経済的
の代わりに男性中心主義に焦点を当てて社会
不平等という現実はあるもの,究極的な選択
構造を分析しようとしている。そこには文化
は個人の自由意志に基づいているとしたアプ
生成での男性優位性,特にレジャー活動の中
ローチは,当然ながらその没価値的視点に関
でスポーツにおいて男性が女性よりも時間,
して広範囲に批判を受けた。原因Aが結果B
機会という面でより優位なアクセス力を持っ
との一義的な作用関係を限定された条件の中
てきたという歴史が存在する。この点でスポ
で,アンケート調査に代表される量的方法を
ーツという環境は,女性が重大な不利益を被
基に検証していくという自然科学に近い立場
ったり,性差別が生成された文化の中でも特
は,様々な要素が複雑に絡み合った社会全体
異な様相を呈しているというテーマが中心と
の構造,そこで展開されている社会現象とし
なった[Hargreaves, 1989]。
てのスポーツを研究するにはあまりにも縮減
1
またエスニシティに基盤を置いたアプロー
傾向が強いと指摘された 。菊[1999]はス
チでは,組織的な人種間の搾取や抑圧といっ
ポーツ文化システムという構造自体の全体的
たテーマに焦点が当てられてきた。例えばス
構造が複雑化すればその内部でどのような縮
ポーツの世界での黒人の成功は,生理学的に
減の機能的戦略をとるのか,あるいは複雑化
身体能力が優れている部分もあるかもしれな
した外部環境とのズレからスポーツ文化シス
い。しかし,ヘゲモニーという視点で見ると,
テム自体が構造的縮減やメディアと関連した
社会的成功の機会を限定されている部分を補
過程的縮減をどのように機能的序列において
うために,黒人の階級間移動(上昇)の抜け
作動させるかの2点が焦点になると,この方
道としてスポーツが用意され,それによって
法論の今後の変革の必要性について提言して
黒人が搾取されている事実を隠蔽するために
いる。
利用されてきたという分析がある(例えば
これに対して個人レベルよりも既成の社
会・文化構造レベルに基礎を置いた研究の流
[Cashmore, 1996]
)。
これら社会構造に基盤を置いた研究では,
76
びわこ成蹊スポーツ大学研究紀要 創刊号
スポーツ活動参加は個人の選択や自由意志と
の連関性に焦点を当てた研究に問題解決の糸
いう要因に起因するのではなく,社会構造に
口を発見しようとした動きがあった。一部で
組み込まれた装置としてのスポーツの機能が
はネオマルクス主義と評されるこのアプロー
絶対的な力を持ってくるという視点が存在す
チは,伝統的なマルクス主義が「土台|上部
る。スポーツとレジャーは権力構造の連関の
構造」の関係に基盤を置き,この土台と上部
中で理解されなくてはならず,階級,ジェン
構造の間に因果関係があると主張するのに対
ダー,エスニシティといった社会構造が,レ
して,相互作用や弁証法的方法論により重き
ジャー時間,レジャー空間においてもその特
を置く手法をとる。
徴づけに重要な役割を果たすという議論から
出発している。
こうした構造を主眼に置いた研究に対して
具体的な研究方法としては,エスノグラフ
ィ(民族誌)がその代表例として挙げられる2。
前述のエージェンシー(自由意志)を基点と
の批判は主に以下の3点に集約される。
した機能主義的手法が,質問紙と数理統計で
1)社会構造という概念の取り扱いが,とも
マスを対象とした研究より普遍性を導き出そ
すると一方的になるきらいがある。階級,
うとしたのに対して,エスノグラフィでは,
ジェンダー,エスニシティという要素が,
対象により深く接近し,当該者の事象に対す
個人の意志決定に関して絶対的な因子であ
る解釈を調査者の参与観察という作業を通し
り,個人の自由意志の存在がないに等しい
て解釈し綴っていくという手法をとる。近年
ように扱われている。
の研究では清水[1998]の甲子園野球への詳
2)構造が変化を経験することがないかのよ
細なフィールドワークを経てその物語生成過
うに,社会生活の中で揺るぎない存在とし
程に対するテキスト分析をした『甲子園のア
て扱われる傾向がある。
ルケオロジー』が代表例である。甲子園野球
3)スポーツやレジャー活動の参加動機に関
のテレビ中継に関しての記号論的分析により
して階級,ジェンダー,エスニシティの中
その物語生成のメカニズムを明らかにし,徳
で一元的理由によって生じるという点を過
島県立池田高校の監督,コーチ,選手等の関
度に強調するあまり,権力構造の相互作用
係者,また池田町の住民へのインタビューを
についての視点が欠けている。
通じて対象者の実生活と高校野球の間に生ま
れた「物語性」という連関を明らかにしよう
1-2.代替的方法論|自由意志(エージェン
シー)か構造かの議論を超えて
としている。またその後清水は,過激といわ
れるJリーグ「浦和レッズ」のサポーターへ
自由意志(エージェンシー)または社会構
の参与観察を通してスポーツファンのサブ・
造を主眼に置いてのアプローチのいずれもの
カルチャーについて分析している[清水,
欠点を補填する研究方法として,スポーツ社
2001]。こうした清水の試みは日本における
会学研究で中心的役割を果たしつつある2つ
身体文化を解き明かす上でカルチュラル・ス
のアプローチが存在する。それがカルチュラ
タディーズのアプローチが効力を発揮するこ
ル・スタディーズ(文化研究)とフィギュレ
とのひとつの証となっている。
ーション社会学である。
1)カルチュラル・スタディーズ(文化研究)
上記研究の批判として権力構造間の相互作
2)フィギュレーション社会学
社会学者エリアス(N. Elias)はその代表
用の欠如という点に触れたが,マルクス主義
作『文明化の過程(Civilizing Process)』で,
の流れをくむグラムシ(A. Gramsci)のヘ
人間の習慣が宮廷社会の出現等で洗練化され
ゲモニー論を起点としつつ,様々な権力構造
ていくにつれて,つばを吐くなどの生理的行
スポーツ科学からスポーツ学へ−社会学から見たパラダイムシフトの必要性
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動が次第に見えない部分へと追いやられ,い
会的に影響力を持ってきた中流階級層が貴
わゆる理性的行動と称されている行為のウェ
族・上流階級層とのせめぎ合いの中,新興の
イトが増してくる過程について考察した。彼
パブリック・スクールであるラグビー校の発
は「暴力」も中心的テーマとして扱い,前述
展に大きく関与していることを論じた。教育
のマナーの生成と同じように,「暴力」に対
としてのスポーツの採用による成功で学校の
する生理的嫌悪感が個人の中で内面化されて
社会的地位を上げ,すでに社会的認識を確立
きたことを史実に基づいて検証した[Elias,
していた既存のパブリック・スクールに対抗
1994]。この嫌悪感が自己抑制機能を導き出
していった状況の中で,ラグビーが競技とし
し,集合的に非暴力社会を作り出してきたわ
ての成立していった過程がそこでは検証され
けである。彼の研究は文化としてのスポーツ
ている。またラグビーの競技自体の性質も,
の生成にも及び,英国における近代スポーツ
暴力をコントロールする内面的抑制が一般市
の社会発生は,議会政治の社会的発生と軌を
民の間で強くなるに従って,ハッキング(足
同一にするものであり,ルールに基づく競争
を蹴るプレー)などが規制され,この社会的
の構造化という点でのシンクロニシティを論
変化に呼応する形で変容した[ダニングとシ
じた。
ャド, 1983]
。
メネル(S. Mennell)によれば,エリアス
エリアスの説によると,社会変化(文明化
の社会学のキー概念は「相互依存(inter-
の過程)は目的を持った個人ないし集団に対
dependence)」と「過程(process)」である
する教育という手段による合理性(rational-
[Mennell, 1998]。人間は生まれた瞬間から
ity)によって生じたのではなく,おおむね予
誰かに依存しているわけであり,一生を通し
期しない,計画されていないことによって生
て必要なものを得るために相互依存という連
じたのである。しかしそこにはある一定の法
鎖の中に居続ける。しかし,「人々の依存の
則(文明化へと向かう流れ)が存在していた
度合いというものは平等でないため,この依
[Elias, 1994:443]と人間の関係構造が醸し
存に絡む権力の配分は異なってくる。そして
出す予測不可能な,複雑な社会変化の過程が
この権力配分は時代とともに変化するのであ
強調されている。
るが,単純にランダムに起こるのではなく,
構造化された過程の中に生じてくるのであ
スポーツはホイジンガ(J. Huizinga)らが
指摘するようにもともと「遊び」としての人
る」[Mennell, 1998:36]とされている。多
間本来の文化的活動から派生したものである
くの社会学の分野で,概念化に際して,たび
[ホイジンガ, 1973]。この活動が,様々な社
たび過程(プロセス)が省略されてきた。エ
会変化の過程を経て,近代化のイデオロギー
リアスはこの傾向を変えるために,プロセス
と合致した側面で,その形式は洗練化され,
社会学という分野を強調した。その方法論の
一部エリートのための競技スポーツへと変容
特徴から,他の学派より「フィギュレーショ
していくわけであるが,その変容過程の大部
ン(関係構造)社会学」とラベリングされた。
分は,計画されていなかった予期せざる近代
エリアス派社会学の流れを汲むダニング
への移行のプロセスであるともいえるであろ
(E. Dunnig)によって,さらにスポーツは
う。この「予期せざる変容」を分析する手段
このフィギュレーション社会学の中心的研究
としてエリアスに代表されるフィギュレーシ
領域となった。ダニングの代表作『ラグビー
ョン社会学者は,人と人との関係構造が様々
とイギリス人(Barbarians, Gentlemen and
なパワーバランスの揺らぎを経験しつつ,意
Players)』では,イギリスの階級構造が変化
図しない方向に進んでいく現象を史実に基づ
した産業革命後,ビジネスの成功によって社
いて丹念に読み解いていった。スポーツ社会
78
びわこ成蹊スポーツ大学研究紀要 創刊号
学研究においてひとつの主流的流れと見なさ
欠くことのできない要素であるという共通認
れる所以はまさしくこの局面である。とはい
識を作り出す後ろ盾となってきた。
えフィギュレーション社会学に対する批判も
オリンピックを初めとする競技スポーツ
多様な側面よりなされている。その多くが,
は,国際化社会で重要なツールとなり,ナシ
今までの社会学領域での研究蓄積との関係論
ョナリズムの過強調,商業主義による支配な
から派生している。フィギュレーション社会
どの問題を内包しつつ発展してきた。その発
学が,「構造」と「自由意志(エージェンシ
展過程でオリンピック・モットーに見られる
ー)」のギャップを埋める画期的な学派とし
「より速く,より強く,より高く」というよ
て注目されたことと裏腹に,他の学派と議論
うに人間の身体的パフォーマンスには限界は
を交わしたり対比したりして社会学の中での
ないかとの幻想に人々を駆り立てられてき
位置づけをはっきりさせてないことは大きな
た。この限界への挑戦の中でスポーツ科学の
戦略上の失敗である[Rojek, 1992:1-35]と
果たした役割は大きく,無限の可能性を秘め
いう指摘がその代表例であろう。
たツールとしてアスリートたちの関心を集め
社会学の分野でスポーツに対する研究の比
てきた。M.ウェーバーが近代化の条件とし
重はここ数年劇的に高まっているといえる。
て挙げた「能率化」「合理化」という過程が,
スポーツ研究において高く評価されたフィギ
近代スポーツでは自然科学の力を借りて合理
ュレーション社会学が,他の領域でも認知を
的に究極のパフォーマンスを追求するという
受け,社会学研究の準拠枠組みにしっかりと
図式に集約されてきた。情報化社会の国を超
根を下ろし,新たな局面を展開する担い手と
えての広がりと共に,ますますボーダーレス
なっていくかどうかは,今後のスポーツ研究
化する国際的なエリート・スポーツ界で,
を含めた多種の文化領域における研究成果に
様々な自然科学の研究成果の集積の共有によ
かかっていると思われる。
り,最大限の効率が約束されるエリート・ス
次にこのフィギュレーション社会学の視点
ポーツ選手の均質的育成方法が世界中至ると
から,スポーツ科学の発展と研究対象への重
ころで採用される傾向にある。つまり共通の
みづけが変化していく過程に注目してみた
スポーツ価値とイデオロギーの下で,合理化
い。
されたラインに沿って選手や選手のパフォー
2.近代スポーツへの変化とスポーツ
科学
近代スポーツの確立に際して,それ以前に
存在していたプリミティブな身体文化は構造
化された過程を経て,その形が洗練されてき
マンスが生産されていく[Maguire, 2002]
という懸念に代表されるように,大量商品の
生産過程と同様のプロセスがエリート・スポ
ーツの育成・発展にも適用されることが危惧
される状況が存在する。
科学至上主義により人間疎外に陥ってしま
たとされている。グットマン(A. Guttmann)
った状態は,まさしくホイジンガが指摘した
はその過程を5つに分類している。つまり
「まじめ支配」3 の中で公的世界に収斂され,
「世俗化」「機会の均等化」「専門化」「組織の
「遊び」という人類の文化において他に還元
合理化」
「数値化」である[Guttmann, 1978]
。
しえない本源的性格が,スポーツの中から失
またロジェック(C. Rojek)は,「民営化」
われていく過程であろう。
「個性化」「商業化」「脱戦闘化」を挙げてい
る[Rojek, 1985]。これらの過程は,様々な
分野における近代化のイデオロギーと多くの
共通項を有しており,スポーツが社会生活に
2-1.加速するグローバリゼーションとスポ
ーツ科学の親和性
グローバリゼーションという言葉が現代を
スポーツ科学からスポーツ学へ−社会学から見たパラダイムシフトの必要性
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描写するキーワードであることは衆目の認め
込み」されたコードを共有し,人々がコスモ
るところである。ITに代表されるようなテ
ポリタニズムに向かう可能性を示唆している
クノロジーによって,人間が生活,さらに突
わけである。
き詰めていけば生存するために必要とする相
国際的なスポーツ・イベントは,異文化を
互依存のウェブがますます肥大化し,世界レ
超えることで生まれる相互理解や協調などポ
ベルで起きていることの相互的な影響力を避
ジティブな側面が強調されがちであるが,山
けては通れない現実が存在する。かつては
下はこのコスモポリタニズムに潜む新たな危
人々の社会認識も「国民国家」という準拠枠
険性を指摘している。近代スポーツ発展の
にほとんど限定されていたのに対して,現在
「脱埋め込み」の過程でトランスナショナル
ではそのようなシステムを超越する「人類」
な統轄機関であるFIFAやIOCなどを生み出
という単位での枠組に取って代わろうとして
してきたわけであるが,同時にスポーツ=メ
いる。一部でグローバリゼーションに近い認
ディア複合体やスポーツ商品の生産・循環・
識で用いられたアメリカナイゼーションは,
消費の連鎖のグローバルな展開によって,統
文化帝国主義という異文化間交流のネガティ
轄機関を媒介としてグローバルな水準でスポ
ブな側面として描かれ,アメリカ文化やその
ーツが再編されている[山下, 2002:383]。
価値観の一方的な押しつけとの批判的論調で
つまり経済を中心とした世界資本によるシス
とらえられている。同様にスポーツのグロー
テムの均一性の中にスポーツが編み込まれ,
バリゼーションの過程でも,西洋で生まれた
それ以前の固有の地域,文化においてスポー
スポーツのヘゲモニーが非西洋圏に拡大して
ツを通して存在していた付加的な意味がそぎ
いく中で,帝国主義的な一方向的な伝播につ
落とされていく傾向にあることが危惧される
いて論じられてきた。しかしグローバリゼー
わけである。マグワィア(J. Maguire)もこ
ションの過程がそれほど単純でないことが指
の国際統括機関と多国籍企業などによるスポ
摘される傾向にある。例えば山下[2002]は,
ーツの再編には危機感を表明しており,スポ
ギデンス(A. Giddens)が近代社会の特徴を
ーツ界の方向性に対する意志決定において,
表現するのに使った「脱埋め込み」というキ
一部の元エリート・スポーツ選手,メディア
ーワードを用い,近代スポーツがコスモポリ
やマーケティング関係者,多国籍企業の経営
タニズムに向かう方向性のメカニズムについ
者の影響力がますます強くなり,「民主的コ
て論じている。近代スポーツの主要な構成要
ントロールや運営の透明性や説明責任に対す
素の中に見られる抽象化,とりわけ数量化に
る要求は満たされなくなる」[Maguire, 2002
よる時空間を超えた広がりや,前近代のフォ
:12]と予見している。
ーク・ゲームと異なった規範やルールの「脱
国際統括機構および巨大化したスポーツ産
埋め込み」などは普遍化されたコードとして,
業界に支配され,相対化してきた「国家」で
時空間を超えた人々の相互結合を常に意識化
あるが,オリンピック,サッカーワールドカ
させてきた[山下, 2002:382-383]。この場
ップに代表されるスポーツのメガ・イベント
合「脱埋め込み」とは,民族や地域文化にお
は「国家」としての認知を世界に広める大き
いて歴史的に埋め込まれたコードに代わる,
なチャンスであり,冷戦時との構図は違って
固有の文化的な差異を横断して,相互理解し
いるものの国際大会での競争力を渇望するナ
うる新たな記号を有する価値体系の準拠枠を
ショナリズムはいまだに高いといえる。例え
与えることによって,文化的差異を有する
ばイギリスでは1996年に英国(GB)スポー
人々の意識をつなげることを可能にするシス
ツ・カウンシルから競技スポーツ部門が独立
テムを表す。スポーツを通してこの「脱埋め
した形で,UKスポーツが政府組織として発
80
びわこ成蹊スポーツ大学研究紀要 創刊号
足した。「2012年までに世界のスポーツ大国
4
は,極めて均質的に画一化されつつあるとい
5番以内に入る」ことを大目標に,競技力向
う現実が顕在化しているのだ。スポーツで究
上と国際大会での成功という目的を達成する
極的パフォーマンスを追求する上で,様々な
ための戦略に従って,宝くじの収益を各競技
文化的差異を超越した単一文化が形成されつ
団体やスポーツ科学研究組織に分配した。会
つあるといっても過言ではない。我が国にお
長のウォーカー卿(Sir R. Walker)は,
「我々
いてもエリート・スポーツの分野が,この単
の役割は,イギリスの競技者に,それぞれの
一文化に収束しつつあるプロセスを経験して
目標を達成するための現実に即した機会を与
いることにおいて例外ではないが,エリー
えることである。今後1年間にオリンピック
ト・スポーツ,そしてその選手の供給源とな
並びにパラリンピック競技者が1秒1センチ
るべきである大衆スポーツが全く独自の発展
でも良い記録を出せるよう,サポートを続け
形態を持ってきたことで,この両者には大き
ていくつもりである。世界のスポーツにおけ
な溝があることが特徴であるといえよう。二
る競争はますます激しくなってきているの
極化し,いわば歪んだ形でのスポーツ発展形
で,こうしたわずかな差が勝敗を分けるので
態を持つ我が国のスポーツ界の中で,スポー
5
ある」と述べて,記録重視と業績重視の方向
ツ科学に対する特徴づけの背景となった体制
性を打ち出している。競技別の予算配分に当
に次のセクションでは焦点を当てる。
たっては,メダルの可能性,世界クラスの競
技者の数,目標メダル数が重要となった 6 。
2-2.我が国のスポーツ科学の体制
とにかく,毎年3000万ポンド(約65億円)も
我が国では1950年に日本体育学会が設立さ
の巨額の宝くじの収益金が有効かつ説明のつ
れ,戦後スポーツ発展のためのミッションを
く形で利用されるという点を明らかにしなく
担ってきた文部省と連携して,スポーツ科学
てはならなかった。このため研究助成に関し
研究体制の制度的確立がなされていった。
ては,スポーツ科学やスポーツ医学に基礎を
1960年代に入って,東京オリンピックのため
置いた研究に助成金が与えられることになっ
の競技力向上の科学体制が設立されたことを
た。というのは,こうした分野の研究成果は,
機に,競技選手の強化対策が,オリンピック
スポーツ団体が適切な恩恵を受けているのを
での成功という目的のために国策へと発展し
明示的に示しやすいからである。近年では競
ていった。選抜された選手の個人的パフォー
技者のパフォーマンス向上を目標とするスポ
マンス向上に研究課題の重点が置かれ,動員
ーツ科学,スポーツ医学の研究成果は,国際
された科学者の多数は自然科学者であった。
的に共有されるものが多くなり,それぞれの
施設・諸条件が保証された一流選手の能力向
国家体制下で新たな知見を得るための研究環
上に課題が一元化されたことによって,日本
境を確立することより,この研究成果を活用
のスポーツとスポーツ科学像を著しく自然科
するに値するトレーニング施設等の競技環境
学に傾斜したものとしていった[山下,
を整えることの重要性が増している。また選
1986:233]。一方,社会科学関連の研究分野
手のマネージメントに関しても,特にプロ選
においては,「体力の養成にはスポーツが主
手においては,国際的なマネージメント機構
要な役割を果たすものであり,ここに体育・
が均質化かつ高度に効率化された方法で,
スポーツ振興に新たな意義がある」7という音
様々な国の選手をマネージメントする体制が
頭の下で「体力向上運動」がテーマの中心と
整っている。要するにスポーツの国際大会で
なり「スポーツ参加」をキーワードとして
の成功を希求するナショナリズムは根強く存
様々な調査研究が展開されていった。また,
続しているものの,それに対するアプローチ
生産性の向上のための従業員の健康という観
スポーツ科学からスポーツ学へ−社会学から見たパラダイムシフトの必要性
81
点から企業もスポーツを取り上げ,この「手
スポーツというスポーツ・エリートを輩出し
段化されたスポーツ」は経営科学を指向する
てきたエージェントの脆弱化という状況を補
社会科学の分野においては重要なフィールド
うための手段的スポーツ環境の民主化とも考
となっていった。山下[1986]は,こうした
えられるが,「国民の週1回のスポーツ実施
スポーツ科学の流れに対して3つの問題点を
率を現在の35%から50%に引き上げる」と
指摘している。すなわち1)著しい自然科学
「オリンピックでのメダル獲得率を現在の
的傾斜,2)その自然科学自体の跛行性,3)
1.7%から3.5%に倍増させる」という目標項目
社会科学の経営科学化である。そこに欠落し
の共存は,市民スポーツを基盤とした真のエ
ていたのは国民の自己教育主体,スポーツ文
リート・スポーツから大衆スポーツへの連続
化の享受=創造主体としての位置づけである
したピラミッド構造の確立という可能性を秘
と山下は批判している。こうした歪んだ構造
めているといえる。
のツケは1990年代になって顕在化してきた。
具体策としては,2010年までに,基盤とな
つまり,一部のエリート選手育成の基盤を担
る総合型地域スポーツクラブの創設・運営活
ってきた企業スポーツと,学校スポーツがそ
動の支援を目的とする広域スポーツセンター
れぞれ不況,少子化でその存在自体を脅かさ
を各都道府県に4∼5ヶ所設立し,全国で
れてきたのである。1991年から2003年の間に
300ヶ所設立することになっている。また総
277もの企業スポーツクラブが休廃部に追い
合型地域スポーツクラブ自体は中学校区に1
込まれた 8。学校スポーツでは少子化による
ヶ所,全国で1万ヶ所の総合型地域スポーツ
部員不足によりチーム(特に多くのメンバー
クラブを作ることが目標値として設定された。
を必要とする団体スポーツの場合)を形成す
2003年1月の時点で,全国で1,135の総合型
ることができなかったり,または指導者の高
地域スポーツクラブが立ち上がった 9。その
齢化による活動の停滞などが見られ,大いに
足取りは順調のように見えるが,実際には既
危機的な状況にあるわけである。文部科学省
成の草の根クラブを単なる数そろえで総合型
はこうした問題を一気に解決する理想郷とし
地域スポーツクラブとして登録したものや,
ての「総合型地域スポーツクラブ」という考
補助金目当てで設立したものの補助金が打ち
え方を導入し,競技スポーツと大衆スポーツ
切られたら存続が危ぶまれるクラブなどもあ
を一元化するため,2000年9月に策定された
る。多くの都道府県における総合型スポーツ
スポーツ振興計画の下でスポーツ環境の再編
クラブの発展が,地方公共団体の直接運営型
成を試みている。企業や学校主体による選手
である広域スポーツセンターによる官主導型
育成では断絶していた大衆スポーツからエリ
の展開でしかない実情が明らかになってい
ートの競技スポーツへの流れを作れば,今ま
る。多少悲観的な見方をすれば,今回のこの
で見向きもされなかった層に埋もれた原石を
総合型地域スポーツクラブのプロジェクト
発見できるかもしれないという点で,このプ
は,今まで自然発生的に生まれてきた,また
ロジェクトは意義があるといえる。また,小
はそれぞれの競技団体が独自に育成してきた
学校,中学校,高校という異なる段階で分断
草の根レベルのスポーツクラブが官主導型で
された競技または指導体制から,長いスパン
再編成されているとも考えられる。欧州型の
に渡るシステマティックな一貫した指導体制
エリート競技者を輩出するような競技スポー
という,競技者の長期的発展のために大きな
ツとレクリエーション・スポーツの連続性の
利点を生み出しうる競技環境を創出するとい
あるクラブづくりという官が描いている画一
う目標は,総合型地域スポーツクラブの根幹
的な鋳型に,補助金助成というフィルターを
的理念であるといえる。学校スポーツと企業
使って多くの草の根クラブを押し込んでいる
82
びわこ成蹊スポーツ大学研究紀要 創刊号
ともいえる。クラブ運営面でも,クラブ運営
イブリッドを生み出すことはない。(中略)
の合理化モデルをクラブ・マネージャー等の
その代わりに,スポーツ科学は人間の身体器
資格を浸透させることによる経営効率の画一
官を機械のように,もしくは機械であるべき
化,つまり均質的効率性の演出による管理体
かのように扱っている。この機械化された人
制が見え隠れしてくる。これはある意味では
間の身体器官も,心と体を持つのであり,二
独自の形で発展してきた草の根クラブのオー
つの異なったシステムから成り立っているわ
トノミーを切り崩す危険性をはらんでいる。
けである。この実は二つの異なったシステム
3.スポーツ科学からスポーツ学へ
を持っているという要求は顕在化しないた
め,人間のイメージは一元的に扱われ,単純
エリート競技を取り巻く環境に形成されつ
化されたものとなってしまう」[Hoberman,
つある単一の均質的文化,それを支えている
1988:325]。つまり「こころ」不在のマシン
スポーツ科学,我が国のスポーツ振興の根底
化された身体のデフォルメされたイメージが
にある均質的管理体制について見てきた。こ
強調されるわけである。
の単一の均質文化および均質的管理体制によ
藤井はスポーツ学という総合学を提唱する
って合理化,効率化が追求された暁に皮肉に
ことによって,科学偏重の学問体系からの脱
も出現する現実は「人間の疎外」であろう。
皮,経験知を生かす学際的分野としての正常
藤井は稲垣[2001]が唱えているスポーツ
な舵取りが可能であることを示唆している。
文化の脱構築論に依拠し,自然科学万能時代
またスポーツ現場での知の積み重ねが生かさ
に警鐘を鳴らしている[藤井, 2003]。そし
れなかった理由として,それらが単なる「経
てその行き着く先が人間の「モノ」化という
験知」であって,「科学的でない」という理
結末であり,スポーツ科学の有する未来像が
由から軽視されたということを挙げている
人間性の疎外へつつながっていることを論究
[藤井, 2003:2]。この「経験知」再確認と
している。また,マグワィアは社会学の永遠
いう作業こそ,欠落した「こころ」を身体イ
の課題である「参加|距離化」
(Involvement-
メージに取り戻すことにつながるものであ
Detachment)の議論から,この「モノ」化
る。
現象の過程を分析している。彼によると,自
社会科学の領域でも,特殊なハビトゥス
然科学者はピーク・パフォーマンスや科学的
(社会的体質)を有するスポーツの世界は周
コーチングといったトピックを追求する際
辺分野としての位置づけに甘んじてきた。マ
に,自分の実験課題に対して全体像からの位
グワィアはスポーツの世界の特殊な倫理体系
置づけを欠いたまま,過度に研究対象に「参
として,1)犠牲を厭わない,2)卓越性の
加」してしまうことが問題であるとしている。
ための努力,3)危険を容認したり,参加に
この研究者を「参加|距離化」のバランスを
よる苦痛の可能性を伴うこと,4)究極のパ
失わせるほど近視眼的に研究対象に参加させ
フォーマンスの追求には限界がないことの暗
る動機づけは,成功の社会的認知であったり,
黙の了解[Maguire, 2002:3]を挙げている。
一部の学術分野での評価であったりする。こ
これらの倫理体系はスポーツ経験を通して
うして全体像としての人間を見失うことによ
若年期に体得するので,スポーツ関係者にと
り,「モノ」化された人間像が創出されるわ
っては自明の理となり彼らのハビトゥスとな
けである。「モノ」化された人間像の危険性
る。この特殊性ゆえ社会科学者がスポーツと
をホバーマン(J. Hoberman)は以下のよう
いうテーマに本腰を入れて取り組んでこなか
に描写している。
ったために,自らスポーツ科学の中心領域と
「スポーツ科学は人間と機械の物理的なハ
なることを潜在的に回避してきたという因果
スポーツ科学からスポーツ学へ−社会学から見たパラダイムシフトの必要性
83
関係も存在する。しかしスポーツが一部のエ
1)共生スポーツの観点,2)スポーツ文化
リート競技者だけでなく,多様な形で多くの
の観点,3)実践学の観点(経験知),4)
人の生活に浸透している現代,スポーツは社
総合学の観点(総合知)という4つの側面が
会科学の研究領域として近年急激に重要度を
挙げられている[藤井, 2002]。このうち共
増し,中心的研究対象へのベクトルも出現し
生スポーツの観点には,高度化しグローバリ
つつある。
ゼーションの波にのみこまれつつあるエリー
またスポーツ科学領域での研究先鋭化の賜
ト・スポーツと,地域文化を象徴するローカ
である優生学や遺伝子工学によって人間の選
ル・スポーツまたは地域を基盤に活動する生
抜を強化したり,高度なスポーツ医学によっ
涯型スポーツ(地域住民の交流を目的とした
てサイボーグ化された人間を作り出す技術
レクリエーション的動機が強いもの)のトー
は,スポーツ倫理を飛び越えて人間性そのも
タルな形での発展という理念が表現されてい
のの倫理に対する挑戦であるともいえる。人
ると思われる。一方でエリート・スポーツで
間や人間社会を全体像でとらえることのでき
の達成への注目が地域の生涯スポーツ実践者
る社会学,スポーツ社会学はその舵取り役と
の動機づけになったり,エリート・スポーツ
してより大きな役割を担ってきているわけで
でのトレーニング法などの実践方法等の知識
ある。
が生涯スポーツの競技環境改善に役立ったり
しかし個人エージェント,多国籍企業,非
するという競技スポーツから生涯スポーツへ
国家的エージェント,スポーツ組織などの複
のプラスのストロークがある。また他方では,
合体から世界的な規模のスポーツ産業が構成
多世代のスポーツ実践者と接し,人間として
され,グローバリゼーションの過程において
の成長の土壌を提供している地域スポーツで
著しく巨大化しているスポーツの姿がある。
の経験が,その後エリート・スポーツへと発
スポーツの将来に対する意志決定や方針決定
展していく若年スポーツ選手の精神的発展の
に関して民意を反映することは極度に困難に
礎となり,多くのスポーツ愛好家を生み出し,
なり,かつ複合体の運営母体から民衆への説
生涯に渡ってエリート・スポーツを参加以外
明責任はより実現不可能なものとなりつつあ
の形態で支援する人々を生み出すなど,生涯
る。スポーツ社会学者はスポーツ科学におけ
スポーツから競技スポーツへのプラスのスト
る位置づけ同様,スポーツに関するポリシー
ロークを生み出す。「スポーツ学」はこの両
決定において,ますます蚊帳の外に追いやら
者の共存はもちろんのことの,相乗効果でと
れる傾向にある。
もに成長していくという「共生」というパラ
マグワィアはスポーツ科学の概念の代替的
ダイムシフトへのキーワードを含有してい
概念形成を提唱し,この試みこそがエリー
る。スポーツ科学は結果として特殊な範囲の
ト・スポーツに偏重しているグローバル・ス
スポーツ像に焦点を当ててきたが,スポーツ
ポーツの世界において,ローカル・スポーツ
学はトータルなスポーツ像(それがスポーツ
のニーズと地球規模の相互依存性とのバラン
本来の姿だと思われる)に回帰させるバラン
スをとる手助けになるのではないかと主張し
ス取りの役割を担うはずである。その過程に
た 10。私は,「スポーツ科学」において欠落
おいて,社会学がトータルな視点で人間社会
してきた部分を補完する可能性を秘めた代替
を分析する理論枠組みを提示してきたよう
概念として,稲垣・藤井が構築しつつある
に,スポーツ社会学もこの「揺り戻し」の作
「スポーツ学」がこのマグワィアの要求にま
業に大きく貢献しうるものであると確信して
さしく合致するものであると考える。藤井が
構成した「スポーツ学のコンセプト」には,
いる。
84
びわこ成蹊スポーツ大学研究紀要 創刊号
注
1 例えばA.G.インガムはケニヨンのスポーツ
の社会的区分に関して全体論的な関係を包摂
藤井英嘉, 2003, 『スポーツ学入門』びわこ成蹊
スポーツ大学2003年度開講科目「スポーツ学
入門」授業用資料
Guttmann, A., 1978, From Ritual to Record. The
する理論化からの退却とし,J. ハーグリーブ
Nature of Modern Sports, New York, Columbia
スはヘゲモニー論から,価値関与の明示の欠
University Press
如を指摘している。
Hargreaves, Jennifer, 1989,‘The Promise and
2 清水[2001]が,スポーツ社会学の実証的
Problems of Women’
s Leisure and Sport’in
アプローチについて,エスノグラフィを主た
Rojek, C. ed., Leisure of Leisure:Critical
る方法論として,松村[1997],リーヴァー
Essays, London, Macmillan
[1996],ビュフォード[1994]らの研究成果
Hoberman, J., 1988,‘Sport and Technological
を例示し,その有効性について論じている。
View of Man’
, in Morgan, W. & Meier, K.:
3 山下[1999]は『「まじめ支配」と近代スポ
(Hrgs). Philosophic Inquiry in Sport 1988
ーツ』の中で,ホイジンガ,バフチンの議論
を分析し,近代世界の中におけるスポーツの
近代性と「遊び」の固有の世界の関係性につ
いて論じている。
4 UK Sport Annual Review, 2002/2003
5 UK Sport, Annual Review, 2002/2003
6 UK Sport, Annual Report, 2001,p.7
7 金田智成(前内閣審議官)「国民体力向上の
Campaign,Ⅱ, pp.319-327
ビュフォード,B., 北代美和子訳,1994,『フー
リガン戦記』
,白水社
ホイジンガ, J.,高橋秀夫訳,1973,
『ホモ・ルー
デンス』,中央公論社
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文社
ケニヨン,G. S., ロイ,J. W.,1988「スポーツ社
ための政府の施策」『体育の科学』19巻11号
会学に向かって」,粂野豊・編訳,『スポーツ
8 株式会社スポーツデザイン研究所の2003年
と文化・社会』,ベースボールマガジン社,
度調査による。
pp8-16
9 黒須[2003]の調査による。
10
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|理論的アプローチ|機能主義/マルクス主義
ケルン・スポーツ大学,2003年6月18日から
/カルチュラル・スタディーズ(CS)/歴史主
21日)のテーマ別セッションでのMaguire氏
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Social Capital, Governance and Sustaina-
Human Development? Reconfiguring Sport
bility)
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清水諭,1998,『甲子園のアルケオロジー』,新
評論
清水諭,1999,「スポーツ文化研究の方法と成果
|実証的アプローチ」,井上俊,亀山佳明編
『スポーツ文化を学ぶ人のために』,pp.321-340
山下高行,2002,「グローバリゼーションとスポ
ーツ|ノルベルト・エリアス,ジョセフ・マ
グワィアの描く像」,望月幸男・村岡健次・監
修『スポーツ|近代ヨーロッパの探求』,ミネ
ルヴァ書房,pp.365-387