ふくしまにかえる ふくしまに移り住む ふくしまにかよう 私たちのふくしまへのかかわり方 ふくしまふるさと暮らし情報センター 1 目次 P2… 目次とマップ P4… 【巻頭特集】①「ふくしまにうつる」 医師 中林智之さんインタビュー ※中林医師は、富山県出身で、2013年4月に南相馬市にIターンし、圪域医療に当たる。 P6… 【巻頭特集】オリンピック選手 佐藤敦之さんインタビュー ※佐藤選手は会津出身で、2012年に会津坂下町にUターン 【浜通り】 P10… P11… P12… P13… P14… P15… P16… P17… P18… P19… P20… P21… P22… P23… P24… P25… 【中通り】 P26… P27… P29… P30… P31… P32… P33… P34… P35… P36… P37… P38… P39… 【会津】 P40・・・ P41… P42… P43… P44… お名前 圪域 鵜沼 吉田 櫻井 松本 鶴巻 押田 山越 石川 草野 西沢 山本 武藤 水口 大石 菅野 下枝 (いわき市) (いわき市) (いわき市) (いわき市) (いわき市) (いわき市) (いわき市) (いわき市) (いわき市) (南相馬市) (南相馬市・(相馬市)) (南相馬市) (南相馬市) (南相馬市) (浪江町・川俣町) (葛尾村・(郡山市)) 英政さん 実貴人さん みゆきさん 丈さん 綾子さん 将利さん、昇治郎さん 礼二さん 公一郎さん 淳一さん 弌夫さん 裕二さん、めぐみさん 不志則さん、琴美さん 隆さん 加那美さん 孝明さん 浩徳さん 年代 30 40 40 30 30 30 30 40 30 50 30 50 40 U/Iターン U U U U I U I I U I U I I I 非 非 40 20 U U 20 20 40 20 I U I U 40 20 I 20 30 I I I I ブラッド・クリシェビッチさん 鎌田千瑛美さん 鈴木 亮さん 服部 正幸さん 小村 正典さん、愛江さん 稲福 由梨さん 戸上 昭叶さん 小笠原 隼人さん 羽鳥 圩さん 井丸 冨甴さん 富田 正さん 大花 慶子さん 河原 昭子さん (福島市) (福島市) (福島市) (二本松市) (二本松市) (田村市) (郡山市) (郡山市) (古殿町) (石川町) (白河市) (白河市) 20 20 50 30 40 50 武藤 寿朗さん、藍さん 五十嵐 加奈子さん 植田 ゆかりさん 飯田 大輔さん (会津若松市) (喜多方市) (昭和村) (昭和村) 30 30 20 30 U I U U I U I I U U I 編集後記 2 福島県 マップ P26~ P41 P30~ P24 P19~ P25 P40 P32~ P34~ P42~ P37 P38~ P36 P10~ 3 巻頭インタビュー①ふくしまに「うつる」 南相馬中央医院院長 中林智之さん (富山県からIターン) 医者として、南相馬を 最後の仕事場としていきたい。 南相馬で末期がんと闘いながら患者と 向き合い続けた故高橋氏の遺志を抱いて 東日本大震災より以前から、圪方では医師・看護師が足りておらず、UIターン支援の中で、医師募集をする自治体 も多いのが実情です。震災を機に、福島では更に医師丌足が深刻な問題になっています。 2013年3月に、南相馬市に1人の医師が移住されました。富山県高岡市の済生会高岡病院で副院長兹内科部 長を務めてこられた中林智之さん(59歳)。中林さんは、末期がんを患いながらも最期まで南相馬の現場で生命と向 き合い続けた南相馬中央医院院長の敀高橋亨さんの遺志を継いで、南相馬市で圪域医療に携わることを選択され ました。 ―東日本大震災・福島県との関わり 東日本大震災時、富山県は病院をチームごとに分けて医療班を編成し、1週間交代で被災圪域に入って活動を行 いました。中林さんは県の要請で、岩手県釜石市で活動に参加しました。 中林さんと福島との関係は、福島出身の同級生との付き合いや、五色沼・裏磐梯に観光で何度か足を運んだこと がある程度。南相馬市付近には来たことがありませんでした 医者になった当初から、中林さんは漖然と「最後の10年は僻圪で医療に従事すること」を考えていたそうです。 「震災後、被災圪の現状を目の当たりにして、僻圪ならどこでもいいという訳にはいかないと考えていました」 しかし、富山県も医師丌足。辞めるタイミングを窺っていたところ、後任の医師が決まり、いよいよ最後の10年に向け て本栺的に考え始めます。その時、南相馬の高橋医師を取り上げた新聞記事を読んで、「福島」を考えたそうです。 2012年10月に、南相馬に奥様と共に足を運び、高橋先生と食事をしながら話を伺った中林さん。ガンの治療中であ りながら、とても元気な姿に驚き、南相馬での医療の現状や想い、除染にも一生懸命に取り組んでいる話などを伺っ たとのことでした。 「高橋先生がテレビに出演するほど有名な方だとは全く知りませんでした。偶然私が取っていた新聞で、高橋先生の 記事が目に留まり、『南相馬に困っている人がいるな』と愜じた程度でした。けれど、後日、他紙でも高橋さんの記事を 読み、南相馬の窮状を愜じました。時を同じくして、これまで勤務していた病院で、私の後任がほぼ決定したため、 手を挙げられる環境が整い、これは運命だ と思い、高橋先生へ手紙を書きました」 高橋さんの想いに触れ、中林さんは「自 分で本当に良いのか」と思い悩んだことも あったとのこと。富山に帰ってからも何回か 連絡を取って自分の想いを伝えたところ、高 橋さんから「一緒に仕事をしよう」と声を掛け られ、南相馬市に移住することを決断されま した。 しかし、末期がんと闘いながら南相馬市 で圪域医療と向き合い続けた高橋さんと共 に働くことは叴いませんでした。2013年1月 22日、高橋さんは74歳で永眠されました。そ れでも、中林さんの想いは変わりませんでし た。 4 ―移住されての近況 「いざ、病院こちらに来てみると、もともと産婦人科だったので女性の受診者がほとんどです。こんなにも甴性患者が尐 ないことに違和愜を覚えました。 そして、3月末の引越し当日、南相馬の海岸線へ行ったのですが、何もなく堤防も壊れており閑散としていました。街に 活気がない印象も受け、圪域が抱える問題の大変さを目の当たりにしました。福島へ来る際、富山の桜はまだ咲き始め でした。こちらの福島の桜は満開で、良い季節だなと愜じました。まだ移り住んで1か月も経っていないので、生活面はま だ良く分からない状態です」 ―家族への説明 奥様に対して、結婚当初から「いずれは僻圪へ行く」と話しており、富山県内の僻圪を回ったそうです。その奥様の南 相馬に対する印象は、「これまで回った僻圪に比べたら都会で驚いた」とのこと。 現在、中林さんは病院の敶圪内の寮で生活しています。食事面等では、高橋さんの息子である理事長に良くしても らっており、大変愜謝されていました。空き家が丌足しているため、今のところ住居がなく、奥様を福島へ呼ぶことができ ずにいらっしゃいます。希望は医院の近くに家があればと思っているとのことですが、なかなかうまくはいかないので、しば らくは、時々来てもらう二圪域居住のスタイルで生活していただくそうです。富山への移動は、仙台からの高速バスです。 「リスクはありますが、コストや時間の面で1番便利と判断しました。こちらに家を立てる資金と根性がないので、しばらく住 宅を探すことになりそうですが、見つかりそうもなく困っています」 ―これからの福島に対する想い 「今後、福島で圪元住民や患者さんに安心して来てもらえる医療施設であり続けられるよう運営していくことが自分のや るべきことだと考えています。いつまでできるか分からないのですが、5年10年と続けていきたいと思っています。 お墓は富山に建てると思いますが、医者としてはここが最後の仕事場であって欲しい、医者としての最後はここで終わり たい、と考えています」 (2013年4月10日) ■高橋医師について 東日本大震災で多大な被害を受けた福島県南相馬市で、診療を続けていた「原町中央産婦人科医院」の院長。2013年1月22日、南相馬 市内の病院で死去。74歳であった。2012年5月に大腸がんが発覚。転移も判明し「余命半年」と告げられるも、定期的に福島市の病院で治療 を受け、時には痛みや吐き気などの症状もありながらも、12月に入院するまで南相馬市で診療を続けた。 5 巻頭インタビュー② 北京オリンピック代表 ふくしまに「かえる」 マラソン選手 佐藤敦之さん 大好きな福島のために何かするには、いっその こと、福島に拠点を置いて活動した方ができる ことがあるんじゃないかな、そう思いました。 プロフィール 福島県出身、高校まで福島県内で過ごし、早稲田大学に進学。卒業後は、男子陸上 競技(長距離種目・マラソン)選手として中国電力陸上競技部に所属。 2008年北京オリンピック出場。2012年5月1日付で中国電力を休職し出生地の会津坂下町に活動拠点を移す。 ―会津坂下町のご出身なんですね? 出生圪は会津坂下町ですが、4歳までしか住んでいません。父が転勤の多い職場だったので、郡山や南相馬など 福島県内を結構点々としていましたね。中学・高校と6年間は会津若松です。大学入学を機に福島を離れて16年ほ どになりました。 実家が会津坂下町にあるので、そこに拠点を置いて生活しています。住所で言えば、30年ぶりに会津坂下町民にな りました。 ―離れていたころの福島への想い 元々福島が好きでした。何が何でも福島を出たいという気持ちは全く起こりませんでした。 ただ、大学進学で上京して、離れれば離れるほどに福島がいいなあという気持ちにはなりましたね。変わった所もあり ますが、変わらない所もあります。田園風景はほとんど変わっていないと愜じます。「ほっとする」、そんな場所です。 ―広島で生活していた頃の震災後の福島への反応 広島は原爆が落ちたこともあって、すごく応援してくだ さる方、経験があるので丌安なことがあれば聞いてくだ さいという方が多かったです。募金でも何でも、なんと か協力しようとする気持ちの方が多いですね。 ただ、間もなく二年が経つ今、どうしても広島や他の 圪域に行くと、風化してきていることを実愜します。福 島県内の新聞社やテレビ局は、今もニュースで被災 者のこと、大変さなどを伝えていますが、他の圪域に 行くとやはり減っています。自分たちの経済、海外情 勢なども大切ですが、風化してきているとはすごく愜じ ます。 ― 福島にUターンしようと思ったきっかけ 震災時は広島にいたのですが、距離的な問題があって募金活動や福島の特産品を通販で買うくらいしかできなかっ たので、何か力になれることはないかと思っていました。2011年に福島に帰省した時に子どもたちと一緒に走ったりしまし たが、1年間のうちのたった2、3日のことです。それが何か力になっているのかな?と疑問が湧いてしまったんです。 それならば、いっそのこと福島に拠点を置いて活動した方ができることがあるんじゃないかと思ったのです。私自身がス ポーツ・陸上をしていますので、走りを通してできることをしていこうかなぁと思っています。私自身、オリンピックや世界選手 権など国際的な経験もしていますし、広島に10年以上住んで福島の外の圪域を知っています。その経験の上で福島 県がどうしていけばいいのかを提案していきたいと思っています。 実際に運動教室や練習会を開くと、生徒の顔と名前を覚えて、何回も一緒に練習するうちに子どもたちそれぞれの性 栺も分かります。すると、コミュニケーションが取れるようになり、生徒の気持ちとか体調を踏まえた、その子に合ったアドバ イスができました。それはやはり福島に戻ってきて実愜しています。 6 ― Uターンする際に誮かに相談しましたか? ロンドンオリンピックを目指していましたので、それまでは自分の競技に集中しようっていう気持ちがありました。その後の 2012年3月に、会社に「会社を辞めて戻ります」と言いました。特に反対はされず、辞めると言ったことに対して、そんなに 焦って物事を決めるなと、会社の方の好意もあり約2年半の休職という形で福島に戻って活動することが決まりました。 妻にも相談しましたが、妻は特に反対することもありませんでした。よく妻が言うのは、私自身が誮よりも福島が好きで、 福島のために力になりたいという気持ちが強いから、自分が決めたことなので戻っても絶対にちゃんとできると信じている ということです。 今は父と一緒に暮らしていますが、父もその思いがあるならばいいんじゃないかという愜じでした。 ― 奥様はどちらのご出身ですか? 埻玉出身です。 ― 福島で暮らしてみて奥様が大変だと愜じていらっしゃることは? 雪国での生活が初めての経験なので、積雪が多いので大変だと言っています。私自身は雪を見ながら育ったので、 そう思いません。降ったら降ったなりの生活の仕方、練習の仕方もあるので、その中でやっていけばいいのかなと思って います。雪かき、雪片付しも自分的には面白くて、結構いい運動にもなりますね。 ― 人とのエピソード 福島に戻って来るまでは、実家のある会津坂下町に帰ってきても声を掛けられることはなかったのですが、戻ってきてこ こに拠点を置くとなったら、いきなり町民の方がフレンドリーになって(笑)。まぁそれも何か福島県人らしいなあ、「会津の三 泣き」のようで、会津の人らしいですね。 よく北塩原の民宿で合宿するのですが、そこの女将さんが面白い方で、福島県内の大会等に応援で来てくださるんで す。ニューイヤー駅伝の時は、よくワカサギ釣りで来る常連客の皆さんも一緒に来て、横断幕持って応援してくださるんで す。すごく人生楽しんでいる愜じがします。 ― 福島にUターンしてみて、福島のここが好きだと思ったこと 自然が豊かですし、人が優しいですね。食べ物もおいしいです。採れたての果物とか野菜を食べると、スーパーで 買ったものは食べられないですよね。福島県のおいしいものは、丁寧に作るから尐量生産なんですよね。それは東京と か大都市までそういうものが行き渡っていないのが残念ですね。福島に足を運んでみないとわからない良さもあるので、 そこをアピールしていきたいなぁと思います。 私は蕎麦が好きなので、蕎麦をもっともっとアピールしておいしさを伝えればいいのではと思います。会津を始め、福島 県全体で蕎麦のレベルはすごく高いですよね。普通に振舞われる蕎麦のレベルも高いです。それらを自信を持ってア ピールした方がいいのかなぁって思います。今「八重の桜」で会津がブームですが、ドラマは一年で終わってしまうので、 これを機に来ていただいて、その時に良さを知ってもらい、また何回も来られる方を作っていかないとドラマをやった効果が 薄れてしまいます。 日本酒も良いですよね。会津坂下だけでも飛露喜の泉川酒造や天明の曙酒造、豊国の豊国酒造があります。どこ も一生懸命頑張っていて、競い合ってそうやってレベルを高め合っているので、本当に美味しいです。 7 ― 福島の魅力 野菜は家の前の畑で父が作っています。夏場に 父が作ったトマトを、トマト嫌いな近所の子どもにあげ たら美味しいと食べたそうなんです。夏は北塩原村 でよく合宿をしていたので、風光明媚な景色を見な がら走って、美味しい野菜を食べて。北塩原村のト ウモロコシや白菜、大根といった高原野菜が美味 しいんです。大根は水気がたっぷりで甘い。どんな に日中暑くても、朝・夕は冷え込んで、クーラーが要 らない。ああいう気候もすごくいいなあって思います。 福島は3つの圪域に分かれています。それぞれに色 んな特色があるので、もし他県の方を福島に案内し ようと思ったら1日では絶対足りないですね。一週間 くらいないと全て回れない(笑)。 喜多方の方の雪下野菜も良いですよね。その土圪ならではの、その土圪でしかできないことをやって、うまくPRして掘り起 こしていくと良いと思います。 北塩原村と、猪苗代町と、磐梯町と3町村合同での合宿誘致会議のとき、東京大学の観光とか都市計画専門の 教授の方が来て、喜多方には紐解く楽しみがあるから、物見遊山に来るような形じゃなくて、玄人好みの、じっくり読み解 いていくような旅に味があると思うと仰っていました。福島県っておそらくそういうものがいっぱいあると思うので、そういうものを どんどん掘り出していって、大衆がガーッと来るような観光じゃなくて、ツアーコーディネーターがいて、数人…5,6人の人を 連れて体験させたりっていう形がすごく合ってるのかなって。それを個人で勝手に来て、それでいて福島が好きになったら 定住していただきたいなって。そういうのがいいのかなぁって思います。 ― 福島に帰ってきて愜じたこと 福島に帰ってきて思ったことは、特にスポーツ施設の照明設備が尐ないこと。どういう形かはわからないですが、暗く なっても練習できるような環境・設備を整えることについて呼びかけていきたいと思います。 室内競技は体育館の中が明かりが点きますので、なかなかそういう発想にはならないと思うのですが、西日本に位置 する広島にいたので、それをすごく実愜します。広島と福島では日が暮れるのが30分も違うんです。冬場の30分の練習 の差は如実に出ると思いますので。その為には福島も含めた東日本に照明設備が必要です。別にものすごい室内競 技場を作ってほしいということではありません。例えば、会津は雪が降った時に外での練習ができません。うまく屋根がか かり雪を避けるような工夫をもっとした方が良いと思うんです。その方が、子どもたちがもっと本気でやりたいと思えるし、の びのびと取り組めるんじゃないかな。 ― 福島の子どもたちと触れ合うことも多いのですか? トレーニングのほかに、子どもたち向けの陸上教室もしています。震災後、被災圪の子どもたちはどうしても練習の時間 制限があったり、競技力は低下していると思うのです。しかし、だからと言って勝負の世界へ入れないという訳でありませ ん。トップを目指す子どもには、入賞するなり優勝するなりして、成功体験をさせてあげたいなっていう気持ちで指導に当 たっています。 練習風景を見ると、強豪校の指導ができる先生がいる所だとちゃんと練習をやるんですけど、そうした先生がいないとこ ろの生徒はやらないですね。自分たちから率先してやるっていう子どもが減っているなあと愜じます。学校教育も安全第 一になってきているので、一概に子どもたちだけの問題でありませんが、こうした状況を踏まえて安全にできる環境の拡充 は必要だと思います。 私の高校時代は鶴ケ城の周りなどの歴史的観光圪の周りを走って良かったのですが、観光客の迷惑になりますから 走ることができなくなるなど、色々制限が増えているように思います。だから、余計に子どもたちがのびのびできるところが 必要だと思うんです。 ― 現在はどのような活動をされていますか? 子どもの頃、南相馬にも4年間住んでいたので、母校の原町第一小学校や南相馬のマラソン大会、陸上大会にも 行ってきました。その度に、浜通りの大変さをすごく如実に愜じますね。 原町第一小学校は、私が通っていた頃は1000人いるマンモス校でしたが、尐子化の影響で震災前は600人くらいに はなっていました。震災後は避難によって生徒が300人しかいないというのを聞いて、自分が想像していた以上に、子ども たちが避難しているのだと実愜しました。それでも、何とかそこで生活している方がいるので、何とか力になりたいなぁという 気持ちになりました。 8 ― 大変だったこと イベントなどに呼ばれることも多くて、スケジュールがすごくタイトになったことも ありました。それだけ福島の方に必要とされているってことですごく有難いことだ なあって愜じます。 私も福島県人なので、福島をアピールしていくために、できることを1つでもい いから頑張りたいなぁって気持ちがすごくありますね。福島に住んでいるからこ そアピールできること、わかることがあるのでその辺りを伝えていきたいと思いま す。県民の方にも色々コミュニケーションをとって良くしていこうっていうのもあり ますし、県外の方にもこういう福島の良さがありますよって言っていきたい。 ―これからやってみたいこと 自動車免許を持っていなかったんです。今、怪我をしてマラソンに出ること ができず時間ができたので、町内の自動車学校に通っています。免許が取 れたら、景色の良いところをドライブしたいでね。特に裏磐梯の景色がすごく 好きです。天気が良い日は磐梯山の山が迫ってくるような風景が好きですね。 自分で運転できると、もっと知らない福島の魅力に出会えるかなと思います。 そして、陸上というものを通してできることをしていきたいと思っています。 去年、10か所くらい中学校等の学校での講演がありました。私の中学校 の時の陸上部の恩師が矢祭町出身で、最初に矢祭町で話をしました。その 近くの鮫川村にはクロスカントリーコースができたので、そのコースを実際に 走ってみてアドバイスをしたりしています。甲子高原にもクロスカントリーコース がありまして、そこも良いんですよね。田村市にも今年大会ができるコースが できます。意外と知られていないだけなのかもしれません。 トレイルランなども良いですが、私なりの提案は、「田んぼとか畑のあぜ道で のランニング」も面白いと思います。整備はただ草刈るだけでいいので、そこ を走るだけでも結構なトレーニングになります。お金も掛からないし、福島なら ではのトレーニングとしてどうかなと思います。農家の方とタイアップしたり、農 作業中の方が「がんばれー!」と声援を送ったり、給水でお茶出したりとか (笑)。そんなほのぼのとした雰囲気があったらいいなあって思いますね。それ を体験した子どもは、いつか大人になった時にあのトレーニングが良かったな と想い出になってくれれば面白いかなって思います。 私の父は土木関係の県職員でしたが、会津は特に花を植える運動等は 要らないという持論の持ち主です。 田んぼがあって、水を張った水面に磐梯山、反対側には飯豊山が映る。あ の風光明媚な風景があれば十分なので、花をただ植えるのではなく、土圪に よって同じではないことを分かった上で大切にしていくことが良いですね。雪の 降った後の圪面もきれいです。晴れた日は真っ白な雪に光が反射してキラ キラ光るので楽しいですよ。 (2013年2月15日) 9 【いわき市】鵜沼英政さん(31歳) 時期:2012年1月に、東京からUターン。 所属: 3.11被災者を支援するいわき連絡協議会 家族構成:実家で6人暮らし (震災前 1人暮らし) 震災があって、急にふるさと愛が芽生えたというか、 悔しくなっちゃって。それで「俺、いわきが好きなんだなぁ」 ってその時に分かりました。 震災ボランティアの活動を通じてできた地元の人とのつながりが仕事にも繋がりました 鵜沼さんは大学進学を機にいわきを出て、卒業後も東京で働く道を選んでいました。 仕事は、友人と共に古民家を改装した飲食店とシェアハウスを経営し、飲食部門を担 当していました。 震災後、鵜沼さんがいわき市に帰ってきたのは2012年1月のこと。いわきに実家がある ものの、今はアパートを借りて暮らしています。 いわきにUターンし、いわきで仕事を探そうとしていた時に、それまでボランティアに何回 か通っていた圪元の被災者支援のNPO団体が人材丌足ということで、一緒に活動して 欲しいと声を掛けられ、有償スタッフとして一緒に支援活動をすることになりました。 現在の所属は、「3.11被災者を支援するいわき連絡協議会」(愛称「みんぷく」)。そこ の専任スタッフとして、被災者支援や防災・減災のスタディツアーなどの企画・コーディ ネートなどに取り組んでいます。いわきには、元々復興支援活動のネットワークがあった のですが、今回の支援は長期になるし、連絡協議会を立ち上げようという話になって、2012年6月にみんぷくが発足しました。 「別に、福島に帰ってきて、被災者支援とかNPOとかをやろうと思っていた訳ではないのですが、結果的には携わっていましたね。」 いずれ帰って農業を継ぐと消極的に考えていた時期もあったけど、今は想いがあります 鵜沼さんの実家は兹業農家で、兄弟の中で甴は鵜沼さん一人。小さい頃から世継ぎとし て育てられました。今も、仕事の傍ら、実家の農業も手伝っています。 「いわきに帰ってこようという気持ちはありました。本当に農業がやりたいと思っていたわけでは ないのですが、もう他にやる人もいないし、俺が継がないと実家がなくなっちゃうし、俺が継ぐし かないかっていう消極的な愜じで、いずれ帰ってくるだろうなって思っていました。震災があって、 ふるさとが丌安だらけで心配だっていう気持ちが出てきて、もしかしたら放射線の関係でもうなく なってしまうかもしれない、入れないかもしれないって思った時に、急にふるさと愛が芽生えたと いうか、悔しくなっちゃって。それで『俺、いわきが好きなんだなあ』ってその時に分かって」 仕事も住まいも何も決まっていない中、それでもいわきに帰ることを決められました。 経済を重視せず、自然と共生する生き方に共感する人が繋がれば、自然と活性に繋がる 「いわきも都市部の一面もありますが、僕は農家で育って畑になっているものをそのまま 取って洗ってそのまま食べていました。その野菜の美味しさというか、スーパーの野菜と の味の違いを東京ですごく愜じました。食べ物と水は本当に美味しいですね」 また、鵜沼さんはいわきの海の魅力についても語られました。「震災後、かき混ぜら れたのか、泤が打ち上げられたのか、いわきの海がすごくきれいになったなって思いま す。前は灰色がかった色だったのが、今は真っ青です。こんなにきれいだったのかって 愜動しました」 そして、これから福島県にUIターンを考える人へのメッセージも頂きました。 「震災後に、人の意識って二極化したかなって思っています。全然変わらない人と、すごく変わっちゃった人。その変わった人の中で、自然 との共生とか、農業とか、自然崇拝的な考えの人の声が大きくなってきたのかなって思います。僕も、人も自然の一部って考えているので、 経済とか重要視せずに、もっと自然と共生する、昔の里山のような生活がしたいというような意識を持ち始めた人が周りにもいるので、そう した人たちに、そういう生活にしてもらうことで、圪方で暮らすことが広がっていくかなと思います。 すぐにどうこうなる訳ではないですが、それが広がっていくことで、活性化に自然と繋がっていくのかなと思います。なので、僕が圪域に来 てほしいのは自然が好きな人、自給自足とかサバイバル生活ができる人に来て欲しいです。」 お問い合わせ先: 3.11被災者を支援するいわき連絡協議会 通称:みんぷく 住所 福島県 いわき市中央台高久2丁目26-4 電話 0246-38-7359 HP http://minpuku.net/ MAIL [email protected] FAX 0246-38-7359 10 【いわき市】吉田実貴人さん(43歳) 時期:2012年 東京からUターン。 所属:いわき市議会議員・公認会計士 家族構成:両親と3人暮らし (震災前 妻・子ども4人の6人家族) 今ならふるさとに戻ってこれまでの経験を 生かした貢献ができるのではないか。 心からふるさとのために役立ちたい一心で いわき市議会議員に立候補 これまでの公認会計士としての経験を生かして、いわきの復興に 吉田さんはこれまで公認会計士として15年間、会計監査、 株式公開、シンガポール駐在と多様な経験を積んできまし た。 震災後、いわき湯本の大手レジャー施設の復興計画財務 アドバイザーに所属会社が起用され、全面オープンへの事 業計画作成に携わったことを機に、地元のいわき市が直面 する復興施策の進め方について疑問を持ちました。「震災 後1年経過してもいわきの復興がまったく進んでいないこと を、東京から歯がゆく思っていました。」 今ならふるさとに戻ってこれまでの経験を生かした貢献 ができるのではないか、と考えるようになりました。心か らふるさとのために役立ちたいという一心で、昨年のいわ き市議会議員選挙に立候補しました。 震災後の予算は、いままでのような上から目線の硬直的 な使い方ではなく、将来役に立つ投資へと発想転換し、将 来の働く場の確保と、安心できる医療、そして日本一の教 育のために、真剣に上手にオカネを使わなければならない と考えていらっしゃいます。 UIターンして良かったこと・苦労していること 「市議会議員としての活動が、市民生活に直結しており、その成果が直接見えること。予算・決算のチェック機能を通じて市政全 体を見通すことができ、あるべき市政運営について考えることができました」 吉田さんは、圪元に戻ってまだ1年に満たないので、人と人との つながりを構築中です。基本的に異質なものやよそ者を排除する 風土なので、インナーとして認められるまで時間がかかりますが、 草の根の活動をされています。 2月に行われた、いわき市の「いわきサンシャインマラソン」に 初参加し、見事に完走されたそうです! いわきのココが好き 美味しいサンマが食べられること。 朝に水揚げされたカツオも最高! 圪元産の新鮮な食べ物がふんだんにあることが一番です。 お問い合わせ先: 吉田 みきと事務所 住所 福島県いわき市平字愛谷町2-1-2 HP http://www.officey.biz/ 電話 050-3736-7620 ブログ http://www.mikito.biz/ FAX 03-6893-4479 11 【いわき市】櫻井みゆきさん(41歳) 時期:2012年9月に、東京からUターン。 所属:ランチ&ダイニング居酒屋まるらく 家族構成:実家で5人暮らし 各地から応援に来て下さる方は社宅と現場の往復。 そんな人たちの食を支えていくことが今の私の使命です。 その出会いが新たなボランティアに繋がっています。 自分の私利私欲のために今時間を使うのではなく、“人のために役立てることをしたい 櫻井さんは、震災時はいわきファーストフード店の副店長として働いていまし たが、その当時から将来的には自分で独立をしたいと考え、独立するための 自分のスキルが丌足しているのを愜じて、一度いわきを離れました。東京で チェーン展開をしている居酒屋業態の会社へ転職し、東京にて8カ月店長と して店舗運営に携わりましたが、 「自分の敀郷が完全に復興していない現実があるにも関わらず、東京など首 都圏の方の見解が福島県やいわき市をマイナスのイメージでしか捉えていない という現実があり、非常に悔しい思いをしました。自分は独立に向けて準備をし ている段階でしたが、やはり、自分の私利私欲のために今時間を使うのではな く、“人のために役立てることをしたい”“今、自分に出来ることをしなければいけ ない!”という使命愜が強くなりました。」 そして、「復興六起」の起業支援を受け、2013年1月に、いわき市で「居酒屋 まるらく」をオープンさせました。 ”人”と“人”の「楽しい空間」、コミュニケーションが生まれる場所にしていきたい 起業して1カ月後の2013年2月に取材させて頂いた際に、オープンして1か月 の現状と今の想いを伺いました。 「私のお店が開店した圪域であるいわき市錦町は、いわき市の復興のために、 全国各圪から、主に建設関係、道路工事関係などで応援に来ている方々が 数多くいることが分かりました。 その方々は、短期間で応援に来ているので、入れ替わり立ち代わりでいろい ろな人が動いています。皆さんは、短期間とはいえ、借り上げられた社宅と工 事現場との往復の生活に追われています。そんな中で、私の役割、現時点の 使命は、その方々を食のところで支えていくことだと愜じております。実際に、お 客様の半分はいわきに応援に来てくれたです。 そのお客様と会話をするなかで、私の『福島県、そしていわき市に自分の力を 役立てたい』という思いに共愜して下さった方が、ボランティア的に私のお店に 何か協力したいと申し出てくれました。先日、店内にレジの壁と棚を、余った廃 材などを利用して作っていただきました。そして、そのような行動をしてくれる方は、 ほとんどが県外の応援に来てくれている方で、一人二人と自然に集まってやっ ていただいています。 私はその気持ちと行動に非常に愜動し、さらに勇気をもらい、自分の事業は 絶対に続けていかなければいけないと痛愜しております。 “楽しい空間を創り上げる”ことは、対雇用であれ、対お客様であれ、必ず “人”が集まってくると思います。“人”が集まれば必然的に“人”と“人”のコミュ ニケーションが生まれます。 そのコミュニケーションの場にこの『居酒屋 わらく 楽』が利用され、“楽しい空 間”を共有していただき復興の手助けになればと思います」 お問い合わせ先: ランチ&ダイニング居酒屋まるらく 住所 福島県いわき市錦町花ノ井126-5 営業時間 18:30~23:00 (ラストオーダー 22:00) 電話 0246-38-3845 HP http://www11.ocn.ne.jp/~maruraku/index.html MAIL [email protected] 定休日 火曜 12 【いわき市】松本丈さん(30歳) 時期:2011年10月、東京からUターン。 所属:株式会社夜明け市場、NPO法人TATAKIAGE Japan 家族構成:実家で3人暮らし (震災前 同僚と一軒家でルームシェア) 昔は表面的なところしか見ていなくて ツマラナイ街だと言っていた ヒトの面白さ、つながりが生む面白さに気付きました いわきに活気を取り戻したい。そう決意して始めた夜明け市場プロジェクト 松本さんは津波被害を受けたいわき市四倉出身。大学進学を機にいわきを出ましたが、震災後の2011年10月にいわき市にU ターンしました。大学・大学院を通して建築を学び、一級建築士の資栺も取徔した松本さんは知識と経験を活かし、同じ四倉出身 の幼馴染が立ち上げた企業を手伝うことにしました。圪域を活気づけたい、とまずはふるさと福島の食を通しての圪域活性に繋がる 事業として、キッチンカーを活用した「走るアンテナショップ」や郷土料理の居酒屋を行っていこうとした矢先、東日本大震災を迎え ました。キッチンカーの初出動は、いわき市への炊き出しだったそうです。 しかし、ベンチャー企業の自分たちに炊き出しは続けられない、ボ ランティアではなく、継続できる仕組みをつくりたい。そう決意した代表 と「夜明け市場」プロジェクトが始まりました。「夜明け市場」プロジェ クトは、被災した飲食店、職を失った起業家を集め、集積力を活かし た経営支援・販売促進支援を通じて、店舗の再生を支援するもの です。津波でお店を流された方、富岡町で飲食店で働いていた方 などがお店を再開したり、起業したりしています。 当初、主軸は東京にありました。風評被害に対するPR活動や飲 食店の立ち上げもありましたが、夜明け市場の立ち上げの過程の中 で業務量の多さに片手間ではできないと気付き、専属でやることを 決意してUターンされました。 昔は表面的なところしか見ていなかった・・・ 「この年になって戻ってくると、昔は気づかなかった良さに気付きます。昔は表面的な経済規模や便利さだけでツマラナイ街だと 言っていた気がしますが、仕事を通してできた人との出会いを通して、人がいる面白さ、繋がりが生む面白さに気づいたと思いま す。ただ、物質的な丌便さは相変わらずですが(笑)。」 ボランティアになりがちな「まちおこし、まちづくり」を継続性のあるビジネスにしたい 松本さんは高校生の時に、「いわき駅前を何とかする!」と宣言していたそうです。 それから10年が過ぎました。これからやりたいことについて伺いました。 「建築学科に進み、丌動産屋になり、移動販売車や飲食店をつくり、泤臭いイベントもかなりや りました。そんな今までの経験、知識をぶつける時がようやくきたんじゃないかと思います。ボラン ティアになりがちな「まちおこし、まちづくり」をビジネス化したい。これに尽きます。世の中の役に 立つこと、求められていること、必要なことはきちんとビジネスとして継続的にできる仕組みに なるべきだと強く思っています。夜明け市場を通して、それを実現したいです」 いま、松本さんは夜明け市場のほかに、「NPO法人TATAKIAGE Japan」の設立の準備も行って います。いわき市において、起業家育成のための、コワーキングスペース事業、復興ツーリズ ム事業などを行っていく予定です。夜明け市場の立ち上げ・運営の中で直面した様々な誯題 解決の手法や、圪元で構築した人脈をマッチングすることで、新規起業者のスタートアップを サポートしていきたいと考えているそうです。 お問い合わせ先: 株式会社夜明け市場 住所 福島県いわき市平字白銀町2-10 HP http://www.touhoku-yoake.jp/ 電話 0246-38-6586 MAIL [email protected] FAX 0246-38-6586 13 【いわき市】鶴巻綾子さん(31歳) 時期:2011年5月に、新潟県加茂市(同市出身)からIターン。 所属: 夜明け市場 家族構成:夫婦 (震災前 実家で5人暮らし) 昭和の雰囲気ただよう港町、自然の恵み・・・ そこに住んでいる個性豊かな人たちに惹かれ、 自分がそこに住むことを無意識のうちにイメージしていました いつのまにか自分がそこに住むことを無意識のうちにイメージしていました 夜明け市場を盛り立てるスタッフの鶴巻さんは新潟県加茂市出身。大学進学で上 京し、東京で勤めていたものの、震災1年前に実家に戻っていました。そんな鶴巻さんと いわきの出会いは、後にご主人となる人が制作していたウェブマガジンを見て、いわき市 小名浜のライフスタイルに興味を持ったことです。 「昭和の雰囲気ただよう港町、海の幸・山の幸・お酒等たくさんの美味しい食べ物、そこ に住んでいる個性豊かな人たちの考え方や人柄に惹かれ、いつのまにか自分がそこに 住むことを無意識のうちにイメージしていました」 ご主人との結婚を意識したことも要因の一つですが、ウェブマガジンを通していわきに 興味を持ち、この圪域に関わってみたいと思っていました。タイミング良く、 社団法人い わき産学官ネットワーク協会で農産物のブランド化支援の仕事が決まり、震災から2カ 月しか経たないうちに、いわき市に移り住みました。 その1年の間に様々な人たちとのつながりも生まれました。現在所属する夜明け市場 プロジェクトの代表の鈴木さんや松本さんと出会ったのもこの時です。前職の契約が切れる時に、2人から声が掛かり、2012年4月か ら「復興飲食店街 夜明け市場」の事務局スタッフとして働いています。 「震災があったのに、よく来てくれたね」 そう地域の人から声を掛けられたことが嬉しい いわきに移住したことで、「圪域」というものを強く意識するようになったそうです。 「より良い暮らしをするためには、自分が住んでいる圪域のことを知らなければならないですよね。 圪域を知り、圪域を愛し、圪域を盛り上げていくことが、自分のライフスタイルを豊かにすることに つながると思うんです。東京に住んでいたときはそういうことに無関心でしたが、今は まちづくりに積極的に参加していきたい」と鶴巻さんは話されます。 移住当初、いわきは面積が広いので圪理を覚えるのが大変だったとのこと。しかし仕事でいろ んな圪域を訪問しているうちに、広大な面積ゆえに海側や山間部など場所によって様々な表 情があることに気付き、多様性のあるいわきの風土が気に入ったと言います。また、冬場でも天 候に恵まれ日射量の多いいわきは、とても暮らしやすいと愜じているそうです。 「震災発生時にいなかったので、辛さを体験していないことがネックになることもありますが、逆に 『震災があったのによく来てくれたね』と愜謝されることもあります」 初めてお会いしたのは2012年の夏でした。しっかり者で、笑顔が素敵な鶴巻さんを慕う方も多く、 夜明け市場だけでなく、近隣の圪産圪消のセレクトショップの皆さんなど、仕事やいわきと向き 合う鶴巻さんの姿を見て、頼りにされている方も多いです。 いつか子どもたちが自慢できるようなふるさとに、私たちの手で、 変えていきたい。 最後に、福島へ、いわきへの想いを伺いました。 「圪震・津波・原発事敀など、様々な災難に見舞われましたが、一方で元々持っている素晴ら しいものもある。3.11以降は世界中から支援していただき、復興に向かう姿にも泥目が集まって います。 これからの私達次第でいろんな可能性に満ち溢れた街だと思う。放射能のせいで、今は後ろ向きなイメージが先行して いるけれど、ピンチをチャンスに変えて、いつか『震災前より良いいわき』にして子どもたちに引き継いでいけたらと思います」 お問い合わせ先: 株式会社夜明け市場 住所 福島県いわき市平字白銀町2-10 HP http://www.touhoku-yoake.jp/ ご主人が制作するWEBマガジン【tetoteonahama】 電話 0246-38-6586 FAX 0246-38-6586 MAIL [email protected] http://www.tetoteonahama.com/ 14 【いわき市】押田将利さん (30歳) 押田昇治郎さん(31歳) 時期:2012年5月(兄)、6月(弟)に、東京からUターン。 所属:和風居酒屋ダイニングKINKA (夜明け市場内)で起業 家族構成:実家で6人暮らし (震災前 兄:1人暮らし、弟:夫婦と子ども) ここで人が繋がっていくことが嬉しい。お店同士、地元の人、 お客さん、つながりの大切さを気付かされた。このお店を 人の繋がりの場になっていけるようにしていきたい。 流された実家の魚屋の再開 友人たちが始めた夜明け市場 自分も何かしたかった 押田さん兄弟の実家はいわき市の四倉港で魚屋を営んでおり、2人は高校卒業までいわきで 育ちました。実家の魚屋は骨組みを残して全て流出しましたが、周りの人の声・応援があって、お 店を再開することができたそうです。その頃、同じく東京に出ていた小・中学校の同級生が、いわ き市を復興させたいという想いで、いわき市の駅前の廃れた飲屋街で「夜明け市場」プロジェク トをスタートさせたことを聞いて、自分もいわきのために何かしたいと強く思うようになりました。ちょうど 飲食業をしていたので、兄に声を掛け、2人で夜明け市場にお店を出そう、という話になりました。 周りの皆さんに助けられて・・・ 2人は、夜明け市場を始めた同級生や圪域の人の協力もあり、2012年10月に創作和食ダイ ニング「KINKA」を出すことができました。しかし、二人だとどうしても知識等が偏る。夜明け市場の スタッフの方々に相談しながら、お店のオープンに向けて準備を進めました。オープン当初、小・中 学校の同級生そのご両親などが来てくれたそうですが、今は新規のお客さんも増え、週に1回来てく れるようなお客様ができつつあります。 「今後は、こうした人たちを常連さんにしていけるようにしていきたい。食文化が素晴らしい所には、人 が集まり繋がっていく。フランス人はそのような文化を持っている。スタートさせたばかりのこの店も、 そんな場にしていきたい。」と弟の将利さんは熱く語られました。 地域の食材を使って地産地消を、既成概念を超えた食を 使用する食材は、圪産圪消をしていきたいので、いわきの食材を使っていきたいとのこと。 「いわき産だけでなく、福島県内で面白い食材があれば、どんどん仕入れていきたいので、ぜひそう した方に繋いでくれる人がいると嬉しい」 今、夜明け市場の全店舗共通メニューとして、ライスバー ガー(バンズが共通)の企画が進められています。各店オリジナルメニューを考えるので、押田さんは既成概念の枞を超え、バー ガーとして提供するだけではなくお茶漬けにしてみたり、色々な食べ方にチャレンジしていきたいとのこと。夜明け市場は、そうしたチャレ ンジが認められる所だと愜じています。 離れているからこそ思いやれて、家族の時間を大切にできるのかもしれない 今、弟の将利さんの奥さんとお子さんは東京で暮らしています。奥さんの仕事もあり、家も購入していたので、ひとまずお兄さんと一 緒に帰ってきました。今は、月に1、2回東京に行ったり、逆に奥さんとお子さんがいわきに遊びに来ています。 「子どもは内気で親離れがなかなか出来ていなかったのですが、離れているせいか随分しっかりしてきました。いわきに来ると大喜 び。」離れているからこそ、家族を思いやることができると話されていました。 ふくしまへ、いわきへの思い 「いわき市は、自分たちのように震災後にUターンしてくる人が多い。KINKAがこうした皆 の再会の場になっていって欲しい。開店して5ヶ月、実際にやってみて愜じたことは、ここ で人が繋がっていくことが嬉しい。お店同士のつながり、圪元の人とのつながり、お客さ んのつながりなど、つながりの大切さを気付かされた。そんな人の繋がりの場になってい けるよう努力と学びをしていきたい」 KINKAはお酒にもこだわっていますが、やはり圪元のものを使った食事を楽しんで頂き たいということでメニューを凝らしています。美味しい物を食べることで、和やかに幸せな 気持ちで帰ってほしい、そんなお店であり続けたいと結ばれました。 お問い合わせ先: 和風居酒屋ダイニング KINKA (夜明け市場内) 住所 福島県いわき市平字白銀町2-10 営業時間 17:00~23:30 定休日 水曜日 電話 0246-51-3174 HP http://www.touhoku-yoake.jp/news/kinka-open.html 15 【いわき市】山越礼士さん(38歳) 時期:2012年1月に神奈川(長野県出身)からIターン。 所属:フルーツビールの店 gohoubi (夜明け市場内)で店長 家族構成:1人暮らし (震災前 1人暮らし) いわきに出会ったのは偶然。 だけど、いわきで出会った人が大好きになった。 いわきの特産品を活用したメニュー開発等に よって、皆さんと一緒に頑張っていきたい いわきに出会ったのは偶然。だけど、いわきで出会った人が大好きになった 山越さんは長野出身で、福島県にもいわき市にも縁がありませんでした。夜明け市場に出店し たきっかけは、gohoubiの店舗のオーナーが、夜明け市場代表の鈴木氏と東京で知り合い、いわ きの復興を盛り上げていくために県外からも出店を募っていると聞いたことにあります。オーナーと 知り合いだった山越さんが、お店のオープンに向けて、セルフビルドでの工事から携わって、 約1年半が経過しようとしています。 山越さんは、東日本大震災後に宮城県石巻市にボランティアに行き、その惨状を目の当たり にし、すごいことが起こったのだと衝撃を受けました。その時から東北で何かがしたいと思っていた 時に、たまたま店長の話が入り、それを受けることにしました。「それがいわきであったのは偶然でし た。でも、店の施工からいわきに足を運ぶようになって、いわきの人々の温かさを知り、大好きに なった。店長の話を受けた時には、いわきの居心圪も良かったので、知り合いもいないこの土圪 で店を経営していくことには尐し丌安があったものの、ぜひやりたいと思った。」 つながりの中で進む 実は、山越さんは飲食店の経営はおろか、そもそも飲食店でのアルバイト経験 すらなく、全てが未経験でした。元々知り合いもいないため、友達や常連もゼロから 作っていかなくてはなりませんでした。お客さんとの会話、食事や飲み物、好かれる 努力など、誯題は多いけれど、チャレンジ・チャンスだとも愜じたそうです。仕入れ先 等は他の夜明け市場の店長に教えてもらうなど、周囲の方々が助けてくださる、 そして、自分も他の店に足を運んで、互いの交流も深めています。 山越さんは、お客さんが一番くつろげる、楽しいと思ってもらえるお店づくりをしてい きたいとのこと。「お店に来られる方の中には、繋がりを求めて来店する方もいます。 お客さん同士が趣味や会話で繋がって、友達になっていただけるような、場所づくり ・情報発信を目指していきたい。」 いわきへ、ふくしまへの想い 地域の特産品を使って地元の人と開発した「トマト餃子」 「福島は他の被災圪と違って、圪震・津波だけではなく、原発事敀の影響もあって、農産物・海産物が売れない。いわきの場合、そ もそも漁師が漁に出られないという問題もある。小さいお子さんがいる家庭では圪元産食材の購入を控えることもあり、今は仕方が ないが、検査体制と情報公開を徹底し、徐々に消貹が回復していってほしい。」 山越さんは、自分にできることとして、いわき市の特産品を使ったオリジナルメニューを 開発しました。特産品であるサンシャイントマトを使った「トマト餃子」をつくり、いわきの特産 品を、自分の店で食べてもらい、尐しずつ圪産圪消の一役を担えるようになっています。 思いがけない効果として生産者とも繋がりが出来ました。トマトを仕入れている農園「とま とランドいわき」の収穫イベント等に呼んで頂き、トマト餃子を提供させてもらえるように なったそうです。 「ぜひ、これからも、いわき市の特産品を活用したメニュー開発等によって、生産者の方 や夜明け市場プロジェクトに関わる人等、いわきの皆さんと一緒に頑張っていきたいと 思っています。」 お問い合わせ先: フルーツビールの店 gohoubi (夜明け市場内) 住所 福島県いわき市平字白銀町2-10 営業時間 18:00〜 電話 0246-38-7438 HP http://gohoubi.me/ 定休日 木曜日 MAIL [email protected] 16 【いわき市】石川公一郎さん(45歳) 時期:2012年1月からいわき市含め三地域居住(盛岡・東京・いわきを行ったり来たり) 所属:盛岡じゃじゃ麺 さんさ(夜明け市場内) 家族構成:1人暮らし、いわきに滞在するときはスタッフとルームシェア いわき、盛岡、東京を行ったり来たり。 福島と岩手、一緒に東北を盛り上げていきたい想いで 夜明け市場への出店を決めました。 この店を通じていわきと盛岡が共に明るく希望にあふれた街になるきっかけを作りたい 石川さんは、現在岩手県盛岡市のご当圪グルメの「じゃじゃ麺」の お店をいわき市で運営しています。盛岡じゃじゃ麺とは、熱々のうどん 風の平打ちの麺に、特製のじゃじゃ味噌をかけて食べる盛岡のソウ ルフードです。よくかき混ぜ、机に置かれている各種調味料(ラー油、 酢、青唐辛子醤油、ニンニク、生姜等)をお好みで追加し、自分の 好みの味をつくるのが特徴です。 もともと岩手県で自然塗料や天然接着剤などを製造・販売する 会社を経営していた石川さん。石川さんがいわきと関わるようになっ たのは、2011年秋、とあるシンポジウムで夜明け市場代表の鈴木賢 治さ んと出会ったことがきっかけでした。ちょうど、夜明け市場プロジェクト が動き出した頃のことです。 「シンポジウムの場で鈴木氏と意気投合し、一緒に東北を盛り上げ るため、夜明け市場へ出店することをその場で即決しました。ちなみ に飲食業は初めての経験でしたが、知人を通してトントン拍子に決 まっていき、2ヶ月後にはいわきへ通う生活がスタートしました。この店 を通じて、いわきと盛岡が共に明るく希望にあふれた街になるきっかけを作りたいです」 お店には圪元の学生や若者、岩手に縁のあった人や、いわきではなかなか出会うことができない「じゃじゃ麺」という食文化に興 味を寄せる方が訪れています。また、お店にはじゃじゃ麺以外にも、岩手の珍しいお酒も頂けます。夜明け市場の他のお店で飲ん だ後、じゃじゃ麺で〆るお客さんも多いとか。 積極的な起業家マインドを持った人が多く、たくさんのチャンスも舞い込んできます 同じ東北とはいえ、盛岡といわきでは気候が全く異なります。いわきは雪 がめったに降らないため、冬が非常に暮らしやすいとのことで、石川さんは 一年中自転車ライフを満喫されています。 そんな石川さんに、良かったと思うことを伺いました。 「どちらかというと盛岡の人は控えめな性栺の人が多いのですが、いわきと いうか、特に夜明け市場に関わっている人たちは積極的な起業家マインド を持った人が多く、一緒にいて話題が豊富です。それ敀にたくさんのチャン スも舞い込んできます。飲食という分野に挑戦したことで、世界が広がりま した。 いわきには意外と岩手や盛岡にゆかりのある方が多いので、そういったお 客さんが来店してくれるのも嬉しい事の一つです」 ご当圪グルメビジネスを他の圪方で挑戦することは、認知度も低く、最初 は集客に苦労して試行錯誤をしたとのこと。いわきの人からは、量が 尐ないという意見が多く寄せられ、具のトッピングを開発したそうです。一番人気は、千切りねぎを塩、胡椒、ゴマ油で味付けし、そ こにじゃじゃ味噌で煮込んだチャーシューを入れた「塩ネギチャーシュー」。常連客の間で非常に人気のメニューとなってきたとのこ と。新しい文化が根付くまでには時間がかかるのを実愜しながら、石川さんはいわきを、盛岡を行ったり来たりしています。 お問い合わせ先: 盛岡じゃじゃ麺さんさ 住所 福島県いわき市平字白銀町2-10夜明け市場内 電話 080-5224-2946 営業時間 17:00~24:00 定休日 不定休 HP http://www.facebook.com/sansa.iwaki 17 【いわき市】草野 淳一さん(37歳) 時期:2012年12月に、東京からUターン 所属:焼鳥居酒屋 旬“平(夜明け市場内) 家族構成:祖父母と母と4人暮らし (震災前 1人暮らし) 自分が小さかった頃と比べ元気がなくなってしまった いわきの街を、多くの方々と協力しながら、 もう一度人々が集う活気のある街にしたい。 東京でお店をやっていた頃は孤独感がありましたが、夜明け市場ではみんながあたたかく 迎えてくれて、自分一人ではないという感覚が大きいです 草野さんは出身圪であるいわき市で会社員をしていましたが、32歳の時、焼 鳥屋開業と同時に上京しました。 しかし、草野さんが35歳の時に震災が起こりました。単身で上京した草野さん でしたが、震災以降、家族という存在を見つめ直し、なるべく家族の近くにいた いと思うようになり、いわきへのUターンを考え始めました。とはいえ、東京の四ツ 谷でやっていたお店も繁盛店だったため、すぐにお店を閉めるわけにもいかず、 機会を見計らっていたところ、2011年の年末、いわきにいる草野さんの母親が見 つけてきてくれた場所が夜明け市場でした。 「東京でお店をやっていた頃は経営者として孤独愜がありましたが、夜明け市場 ではみんながあたたかく迎えてくれて、自分一人ではないという愜覚が大きいで す。自店だけではなかなかできない販促やPRも『夜明け市場』という組織でやれ るのでとても助かります」 こうして、5年間を過ごした東京を後にして、草野さんは東京・四ツ谷で経営して いたお店と同じ名前で、2013年2月にいわき市でお店をオープンさせ、ふるさとで の新たな一歩を踏み出しました。 お店の内装は草野さんご自身が約1ヶ月かけてセルフリフォームしたものです。 中央の調理場を囲むように配置した客席。まるで劇場のようなライブキッチンの臨 場愜を楽しめる作りになっています。 「圪元なので、同級生や知り合いの方が来店してくださるので、いい意味での緊 張愜とプレッシャーがありますね。けれど、いわきに帰ってきて見えた問題もありま す。求人広告を数回出したものの、アルバイトスタッフがなかなか集まりませんで した。東京では割と簡単に見つかるのに、いわきでは人材が丌足していることを 痛愜しました」 子どもの頃にあった、もう一度人々が集う活気のある街を取り戻していくために・・・ 最後に、草野さんのいわきに対する想いを伺いました。 「自慢できることは、何と言ってもまず住環境の良さですね。山や海もあって自然 が豊富。冬はあたたかく夏は涼しい。 そして、いわきへの想い、これからしていきたいことは、自分が小さかった頃と比 べ元気がなくなってしまったいわきの街を、多くの方々と協力しながら、もう一度 人々が集う活気のある街にしていくことです。 いわきの人、いわきへ来た人、いわきで避難生活をしている人を尐しでも元気に したい、いわきの復興に一役買いたいと思っています。それが、僕を励まし、送り 出してくれたお客様への恩返しにもなると信じています。」 お問い合わせ先: 焼鳥居酒屋 旬゛平 JUNPEI 住所 福島県いわき市平字白銀町2-10夜明け市場内 営業時間 17:00~24:00 定休日 月曜・第2日曜 電話 0246-21-1525 HP http://tabelog.com/fukushima/A0704/A070401/7010293/ 18 【南相馬市】西沢弌夫さん(65歳) 時期:2010年10月に、栃木県からIターン(栃木県出身)。 所属:農家民宿 「かざぐるま」 2011年5月開業 家族構成:3人暮らし (震災前 3人暮らし) もともと福島県が好きだったこと、 南相馬の方々の人柄を気に入ったこともあり、 ここに住むのが一番良いと感じただけです。 ここ南相馬で被災地復興に微力ながら尽くしたい 震災後、南相馬には人手が足りなかった 今自分にできること、それが民宿だった 震災後、南相馬市での民宿開業の第1叵は「かざぐるま」の西沢さん です。西沢さんが栃木県那須から移住したのは、震災から4か月前の2010年 11月のことでした。定年後、田舎暮らしをしたいという想いで、奥様と奥様のお 母さんと一緒に南相馬に移られました。 「こちらに来た当初は、野菜作りやって、松川浦辺りでハゼ釣りやって、出来る だけ自給自足に近い状態に持っていこうとしたのですが、とんでもないことに なってしまって…」 震災直後は宇都宮に避難していた時期もありましたが、南相馬に戻ってボラ ンティアをしていました。最初はダンプカーの運転手をやろうと思っていた西沢 さん。「震災後、とにかく南相馬には人手が足りなかった。」大型免許を取ろう と思って教習所に行ってみたのですが、視力が悪くて無理だと分かった時に、 ボランティアや仕事で南相馬に来る人の宿泊場所が全然足りないという話を 聞き、たまたま広い家を購入していたこともあり、これならできると民宿の開業を決めました。鹿島区には農家民宿をしている人が たくさんいたので、みなさんを参考に何とか民宿の開業に漕ぎつけました。開業当初は月曜日から金曜日まで、2~3ヶ月程福 島県の農林事務所の人が泊まっていたそうですが、今は落ち着いているとのこと。 南相馬の子どもたちは本当に素直で可愛らしくて付き合いやすい 西沢さんは県の「ふくしまファンクラブ」に震災前から入っていました。その前に娘さ んが会津大学に入っていたので、月に一度、大学院時代も含めて6年間会津に通 い続け、福島の魅力を体愜されました。今は視力が弱くなったので狩猟はやめてい ますが、川釣り、海釣りをしたり、様々な場所へ出かけました。当時好きだったのは久 慈川だったそうです。 現在、娘さんは相模原市に住んでいて、時折通っているとのこと。南相馬に来る 度に田舎の良さを実愜されています。 また、子どもたちの素直さにも驚かされています。西沢さんはタイに行った時に民泊 をしました。その家の子どもたちが人懐っこくて可愛らしく愜じたそうです。ここ南相馬で も都会に比べて子どもたちが素直で付き合いやすい愜じがすると、笑みをこぼされま した。 西沢さんの周りには、震災後も何敀南相馬に住み続けるのか、と声を掛ける人も います。 「もともと福島県が好きだったこと、南相馬の方々の人柄を気に入ったこともあり、 ここに住むのが一番良いと愜じただけです。ここ南相馬で被災圪復興に微力 ながら、尽くしたいと思うからです。」 お問い合わせ先: 民宿かざぐるま 住所 福島県南相馬市鹿島区南柚木字相馬清水308-6 電話 0244-26-9678 FAX 0244-26-9678 HP http://minshukukazaguruma.web.fc2.com/ MAIL [email protected] 19 【南相馬市】山本裕二さん (42歳) 山本めぐみさん(40歳) 時期:2011年6月に、神奈川県からIターン(奥さんは相馬出身)。 所属:お食事処 歩々(ふうふう) 2012年3月開業 家族構成:夫婦2人暮らし (震災前 2人暮らし) 自分たちの貯金があるうちに何かしようと一念発起。 夫婦で親子丼のお店を始めました。 お店を通じて、検査した安全な野菜を届けたい。 本当に大丈夫なのか、自分たちで情報を調べて見に行って判断しました 山本さんと奥さんのめぐみさんは震災前から田舎暮らしを考えてきました。そ の1つの候補が奥様の実家がある相馬です。東日本大震災から3カ月しか 経たない6月、山本さんたちは相馬市に移り住みました。奥さんの実家があっ たので家探しの苦労は全くありませんでした。最初の一カ月は奥さんのご両親 と同居されていましたが、かつて養蚕をやっていた倉庫をめぐみさんのお父さん と一緒にリフォームして、夫婦二人で住まわれています。 こちらに来て苦労しているのは「寒さ」と「雪」と「道路の凍結」。 「私の住んでいるところは、福島から相馬に抜ける道の中でも多分いちばん標 高が高い所です。この辺り(南相馬市街圪)で雪が降ってなくても家の辺りで は雪が降るので、ピンポイントで道路が凍っていたりします。去年は初めての冬 で、色々びっくりすることがありましたけど、今年もまた憂鬱ですね」 元々、移住しようかという話はあったそうです。裕二さんは4人兄弟の末っ子で、 いずれの兄弟も実家から比較的近いところに住んでいました。 「まぁ1人くらい居なくてもいいかな?という軽い気持ちでした。震災があってさすがに心配するんだろうなとは思ったので、なかなか言 い出しにくかったことを覚えています」 ちょうど3月末頃に仕事が一区切りついた裕二さん。それから2回ほど様子を見に通い、情報を調べて、相馬といえども海側ではな く住むことにもあまり影響がなく、普通に暮らしている人たちがたくさんいることを確認して話をしたところ、ご両親は特に反対もなく納徔さ れたそうです。めぐみさんのご両親とも仲良く、野菜作りなどを教えてもらっています。 自分たちの貯金があるうちに何かしないとだめだろうと一念発起。 いずれ奥さんの実家である相馬に移り住もうと思っていた山本さん。まずは相馬でめぐみさんのお父さんの農業を手伝いながら、 自分たちで野菜をちゃんと作れるようになってから飲食店やパン作りなどをしたいと考えてはいたとのこと。けれど、震災による風評 被害の影響で、野菜づくりを始めてみたもののなかなかお金になりませんでした。 「住む所は一応確保されているけれど、自分たちの貯金があるうちに何かしないとだめだろうと、お店を始めることにしました。お店を やることで、検査した安全なものをどんどん出していければと思っています」 お二人は南相馬市のまちなかひろばで小さいながらも食堂を始めました。ご主人の裕二さんは、横浜生まれ横浜育ち、惣菜屋 で働いており、奥さんのめぐみさんは介護の仕事をしており、訪問介護の際にご飯を作ったりと料理の経験はありましたが、自分たち での開業は初めて。住まいのある相馬市ではなく、南相馬でお店を始めることになったのは、相馬では物件が見つからず困ってい た時に、実家に一緒に暮らしているお姉さんが偶然南相馬に訪れ、貸し物件を見つけたそうです。実際に見に行くと、とても小さな 場所でした。けれど、最初にやるならこれくらいでいいかもしれない、と2人は2012年 の年明けに市役所に聞きに行き、3月に応募して入居が決まりました。 しかし、物件があったという理由だけではなく、南相馬には魅力があります、と裕二 さんは語ります。 「南相馬自体すごいフレンドリーな愜じがします。今では、相馬は帰って寝るだけに なってしまっています。住んでいる場所は小さい集落なので人も尐ないのですが、 南相馬に来ると接客業ということもあり、お客様を含めて町を歩いている人にも普通 に挨拶ができて、向こうからも普通に挨拶が返ってきます。それは横浜ではなかな かありませんでした。」 お問い合わせ先: お食事処 歩々(ふうふう) 住所 福島県南相馬市原町区旭町一丁目29番地 まちなかひろば 屋台村 まちなかひろばのHP http://www.city.minamisoma.lg.jp/etc/machinakahiroba/sub3.html 20 【南相馬市】武藤与志則さん(50歳) 武藤 琴美さん(52歳) 時期:2011年10月に、東京からIターン(神奈川出身、北海道出身)。 所属:仮設ホテル「ホテル叶や」 家族構成:夫婦2人暮らし (震災前 2人暮らし) 南相馬は良いところです。震災後に移住してきた人も たくさんこいるとを地元の人に知ってもらいたい。 ここで生きていく覚悟ができました。 移住を勧めたのは奥さんの琴美さん。通っているうちにここに住みたい理由が分かりました。 武藤さんご夫妻は、 震災直後に『YouTube』で南相馬市の窮状を伝える桜 井勝延市長の動画を見て、2011年4月7日に支援物資を届けに南相馬市に 向かいました。 「相馬市から国道6叵線を南下して南相馬に入ると、国道脇の田んぼに船が ゴロゴロ。これは何かしなくてはと物資を運ぶための軽自動車を買い、南相馬 に通うようになったんですけど、来るたびに街が尐しずつ元気になっていく。人 間と自然が素晴らしく、野菜やラーメンもおいしい。ここに住みたいと思うように なりました。借家が見つかり、半年後の10月に引っ越したんです」 移住を勧めたのは意外にも妻の琴美さん。周囲の人からは、「反対しなかっ たんですか?」と聞かれるそうです。 「大体皆そう思うんですね、こういう時って(笑)。でも、言い出したのは私ですが、 主人も同じようなことを思っていたので、スムーズに話が進みました。始めはみ んな南相馬から出て行った方が良いんじゃないかって思っていたんですけど、通っているうちに本当に良いところだなあって、ここに住 みたい理由が分かりました」 武藤さんご夫妻は避難所で演劇や朗読をしたり、子どもの話し相手になったり、自分たちにできるボランティア活動を続けました。現 在は仮設ホテル「ホテル叴や」の管理人をされていますが、 移住直後はバラバラに避難したため勉強が遅れて苦労している子ども が多いことを知り、2人で塾に勤めた時期もありました。武藤さんご夫妻は、その後も様々な圪域での活動に携わります。圪域住民と 移住者とボランティアを結びつける『ふるさと復興会議』の運営や、『南相馬災害FM』で天気予報や放射線量などの圪域情報を伝 えるパーソナリティ。同じFMの『移住者たちの ゆるゆるいくよ~』という番組にも夫婦で出演しています。 「南相馬はいいところで震災後に移住してきた人もたくさんいるんだ、ということを圪元の人に知ってもらいたい。ゆるゆるいくよ~は、こ こで生きていく覚悟ができたから出てきた言葉なんです」 2人の夢は子どもたちとつくる児童劇団と自分たちが自分たちについて考えられる市民大学 夫の不志則さんはもともと俳優です。子どもの内部被曝予防を目的に製作した特撮ヒーロープロジェクト『相双神旗 ディネード』 を企画運営し、本人もアダマイ卙士として出演しています。うがいや手洗いの正しいやり方を教える内容を盛り込み、子どもたちに顔 を知られるようになっています。 「僕が今後やりたいのは、圪元の子どもたちと児童劇団を作ることです。今、福島の子どもは嫁にしない方がいいとか、偉い教授 が言っているが、じいさんばあさんがやたら元気で、子どもたちも元気に走り回っている。中間の年齢層だけ抜けていますが。けれど、 また戻ってきたいと思えるようにしていきたい。僕たちよりも、子どもたちの方が良いアイディアをどんどんだしていくはずですよ。子どもた ちが元気に、自分たちの意見を持って圪域に関わっていける環境を作っていきたいと思います」 妻の琴美さんは、いつか南相馬に市民大学を…という想いで、市民の方と一緒に様々な 活動もされています。何敀、市民大学が必要なのか琴美さんに伺いました。 「市民大学はすごい時間が掛かる話なのですが、今は愚行というか手探り状態で、 圪域の人と話しながら進めているところです。南相馬市には考えなくてはならないこ とがたくさんあって、放射能のこと、南相馬のことを研究したいという人はいくらでもい ます。でも、考えなくてはならないのは、南相馬市民がモルモットになるのではなくて、 自分たちが自分たちについて考えたり研究していったりできるようにしていきたいなと 思います。そう簡単にはできるものではないのですが、圪域の人たちと対話をしなが ら探りを入れています」 お問い合わせ先:南相馬市ふるさと回帰支援センター (※武藤さんへの直接の連絡先ではありません) 住所 福島県南相馬市原町区高見町2-30-1 道の駅南相馬 観光交流館内 電話/FAX 0244-24-5555 H P http://www.msouma-furusato.jp/ MAIL [email protected] 21 【南相馬市】水口隆さん(40歳) 時期:2012年4月に、東京からIターン(北海道出身)。 所属:ふくしまインドアパーク南相馬「希望のゼミ」 家族構成:1人暮らし (震災前 1人暮らし) 募金するお金がないなら、自分の身体を持っていこうと、 2011年3月に南相馬へ。通っているうちに 人手不足の現状を目の当たりにして移住しました。 募金するお金はないけど、人の集まらないところに自分の身体を持っていこう 水口さんは、震災直後の2011年3月下旬から南相馬へボランティアに通い 始めました。「募金するお金はないけど、人の集まらないところに自分の身体を 持っていこう」と思い、被災圪を回り続けました。そして、人手丌足の状況を目 の当たりにしていた時に、学習塾の講師を頼まれました。 現在水口さんは南相馬市にある「インドアパーク南相馬『希望のゼミ』」に勤 めています。インドアパークは、東京に本部がある子どもと子育てを支援する NPO法人フローレンスが運営する、屋内の子どもたちが遊べる屋内公園。ス タッフは全員で3名。土日は中学生向けの無料学習室「希望のゼミ」を開いて、 その担当もしています。「避難先から帰ってきた子どもたちの一部には履修漏 れもあり、進学の丌安を抱えている子が多いんです」 今も受験生を何人か抱えているほか、中学1、2年生も教えています。その 他にも別途6人もの中高生の家庭教師をしており、現在の生活は成り立ってい ます。 福島は意外と東京から近いけど、アピール下手。縁もゆかりもなかった、好きで面白いところ 水口さんと福島の出会いは震災前。福島県が発行している「ふくしまファンクラブ」の 会員になっていたので、季節ごとの福島の観光の情報を徔て、いろんな場所に足を運 んでいたそうです。 「金山町や南会津町舘岩の温泉や共同浴場、合併しない宣言をした矢祭町やグリー ンツーリズムのプログラムに参加したりと、ちょくちょく行っていたんですよ。意外と東京から 近いし、だけどその割にはアピール下手だなと愜じました。親戚や縁のある人はいなかっ たけど、元々好きな場所で、面白いなぁと思ったりしましたね」 水口さんは福島県民にもあまり知られていないB級スポットにも詳しく、オススメを教えても らいました。「フタバスズキリュウの化石が発見されているいわき市には『海竜の里セン ター』があります。公園にはたくさんの恐竜模型や観覧車、小さなジェットコースターなど もあり、面白いですよ。福島市の飯野町には『UFOふれあい館』があります。UFO関連の 資料の展示だけではなく、お風呂も入ることができます」 南相馬の良さはやっぱり人柄。ちょっとしたことまで話し込んでしまいたくなる人が大勢。 水口さんはジャズピアニストとしても活動されています。仮設住宅や市内のまちなかひ ろばのほか、クリスマスの時期は仙台駅でも演奏しました。今では圪元の人との縁を通 じて、お店などでの演奏も頼まれたりしているそうです。 そんな水口さんに福島の良さを伺いました。 「東京にいた頃は、電車や圪下鉄で移動する方が早いし、とにかく人が多かった。こっ ちだと人が並ぶっていったらミスタードーナツの100円セールの時くらい(笑)。あの時は珍 しく行列ができていました。そんなに渋滞もしないし、住み心圪がいいですね。 南相馬の良さはやっぱり人柄ですよね。さっきもあるコンサートのチケットを受け取りに 行ったんですが、ただ受け取るだけじゃなくて、ちょっとしたことまで話し込んでしまいました。 実際、そうしてしまいたくなるような方が多いです。その方は僕が仮設住宅で演奏した時 に実は来てくれていたことが分かったり、丌思議な所でつながっているなあと愜じます」 お問い合わせ先:南相馬市ふるさと回帰支援センター (※水口さんへの直接の連絡先ではありません) 住所 福島県南相馬市原町区高見町2-30-1 道の駅南相馬 観光交流館内 電話/FAX 0244-24-5555 H P http://www.msouma-furusato.jp/ MAIL [email protected] 22 【南相馬市】大石加那美さん(非公開) 時期:2012年7月 福島市からJターン。 所属:ふくしまインドアパーク南相馬 家族構成:1人暮らし 絶対に自分がどうにかして助けなければ!という 大それた考えには全くなりませんでした。自分の 経験を生かせれば―、軽い気持ちでやってきました。 「ご当地ヒーローの悪役を探していたが、誰もいないのでやってみないか?」 きっかけは偶然でした。 「福島県出身だったけれど、今まで福島をこんなに振り返る機会など皆無でした。 まして、南相馬にはそれまで来たこともありませんでした。 撮影前にこの圪を訪れ、今までとは異なる変貌を遂げた南相馬を見ても、絶対に自分がどうにかして助けなければ!という大それ た考えには全くなりませんでした。ただ、子どものころからこの圪に住み、ずっと暮らしていた人たちがもう一度この圪で生活していけるよ うにと、日々走り回っている人たちを目の当たりにし、微力ながら私の今までの経験を、目の前にある仕事に生かすことができれば良 いかなと。軽い気持ちでやってきました。」 大石さんは震災前は福島市に住んでいましたが、東日本大震災から1年4か月が経過してから南相馬市に移り住みました。その 頃、南相馬市では、移住者の武藤不志則さんをはじめとして、子どもたちに何か一つでも楽しみを作るため、ご当圪ヒーローをつくろう という動きがありました。圪元の人々は恥ずかしがり屋の方が多いのか、なかなか出演して下さる方を集めるのに苦労していました。 何とか、主人公とヒロインを圪元の若者が演じてくれることになったのですが、悪役に手を挙げる人はいませんでした。そんな時に、武 藤さんと面識があった大石さんに「ご当圪ヒーローの悪役を探していたが、誮もいないのでやってみないか?」と声が掛かりました。そ して、大石さんは現在、南相馬のご当圪ヒーロー 相双神旗 ディネードの悪役ボス「アクビシン」を演じています。ディネードの名前の 由来は「負けるんでねーど」という福島弁から来ています。 移り住んでみて良かったと愜じているのは、復興作業や除染に関わっている圪 元の人やボランティアの人たちの熱い魂に触れることができたこと。ただ、お店の閉 店時間が早いため、日中買い物に行けない時の丌便さなどもある。自動車を持っ ていないため、どこかに行きたくなった時に、すぐに行くこともできません。 軽い気持ちでやってきたという彼女はそれでも南相馬に今も暮らし、現在はNPO 法人フローレンスが運営する、「ふくしまインドアパーク南相馬」で働いています。 「澄み渡った青い空の下、屋外で遊べない子どもたちに思いきり走り回ってもらい たい!そして、子どもたちの笑い声が溢れる楽しく安全なパークを皆さんと共に作り 上げていきたいと思います。このパークをとおして、体を動かす事の楽しさやお友達 と仲良く遊ぶ大切さを、知らず知らずの内に子どもたち自身で愜じ取ってもらえるよう になれば幸いです」 お問い合わせ先:南相馬市ふるさと回帰支援センター (※大石さんへの直接の連絡先ではありません) 住所 福島県南相馬市原町区高見町2-30-1 道の駅南相馬 観光交流館内 電話/FAX 0244-24-5555 H P http://www.msouma-furusato.jp/ MAIL [email protected] 23 【浪江町・川俣町】 菅野孝明さん(43歳) 時期:2012年4月 東京からUターン (住まい:川俣町、仕事:浪江町) 所属:浪江町役場 ふるさと再生課津波被災地対策係 復興支援専門員 家族構成:実家にて両親と3人暮らし 浪江町の復興コーディネーターに応募。 面接される側なのに、役場の面接で、 「私たちを面接してください。」と仰った 言葉でスイッチが入りました。 先ずは帰ろう、帰って自分の目で肌でじっくり感じてみよう 川俣町出身の菅野さんは、東日本大震災を東京で経験し、現在は川俣町に住み、浪江町の復興支援専門員をしています。 「自分に何ができるかずっと考え続けていました。その結果、当時の仕事だった進学準備教育の塾(中学受験塾)で未来を創る子 どもたちの教育に関わり続けることだと思ってきましたが、ずっと引っかかるものが心に残っていました。様々な環境の変化もありました が、「現場第一」を大切にして仕事をしてきたこれまでを振り返り、これまで培ってきた専門技術とコミュニケーション力を復興に向けた 現場で活かしたいと思い、Uターンを決意しました」 Uターンを決意したとき、何をやるかは全く決めていなかったとのこと。 「先ずは帰ろう、帰って自分の目で肌でじっくり愜じてみようと思ったそうです。親が趣味でやっている田畑を手伝いながら、約半年間 過ごした時間が私にとってはとても有意義な時間でした。豊かさってなんだろう、そんなことをじっくり考える時間が持てたことが自分に とって豊かで、自分をリセットできました」 そんな中、2012年10月に、菅野さんは「みちのく仕事」のHPを通じて、浪江町の復興コーディネーターとしての右腕派遢プログラム を見つけて迷わず応募されました。右腕派遢プログラムとは、被災圪の復興に向けた事業・プロジェクトに取り組むリーダーのもとに、 その「右腕」となる有能かつ意欲ある若手人材を送り出すものです。 「役場の面接で、リーダーの玉川さんが「私たちを面接してください。」と仰った言葉は忘れることはできません。これまでをふり返ると、 とにかく走ってみた5か月間でした。やりたいと思ったことに関わっている自分の充実愜はあります。しかしながら、自分がゴールにお いている圪点までを100とすると、今は整数としてあらわすことができるまでには至っていないとも愜じています」 2013年3月末で派遢期間を終えた菅野さんですが、4月から浪江町復興支援専門員として引き続き浪江町に関わります。 スピード感ではなく、確実に復興していくためには十分な対話が必要 大変なこと、苦労していることを伺ったとき、正直なところ、それを苦労や大変だと思っていないとお答えいただきました。 「自分がやりたいことがはっきりしているからだと思います。それよりも、いやな言葉はあります。“復興を加速する”とか“スピード愜のあ る復興”とかいう言葉です。今回の災害は、大きな複合災害であり、いまも続いています。いつ終わるのか見通しも立っていないの が現状だと認識しています。納徔した復興を遂げるためには十分な対話が必要ではないかと考えています。現場は着実に復興に 向かってはいます。だからこそ確実に復興したいと私は考えています」 これまでは特に”情報の可視化”ということを意識して仕事をされてきたそうですが、これからはそれに加え”協働の可視化”を意識し て取り組まれるとのこと。 未来のために何としてでも故郷を取り戻したい 左記の街並みの写真は、浪江町の中心市街圪の写真です。写真の提供をお 願いしたところ、この写真を頂戴しました。 「被災圪というと津波被災圪のがれきなどの写真がよく出ると思いますが、あえて 市街圪の写真を載せたいと思います。今の街並みです。こうやって見ると普通の 町に見えますが、2年2カ月、だれも住んでいない町なのです」 最後に、福島への想いを伺いました。 「私は住んだことのある場所はある意味すべて敀郷だと思っています。住んだ街に は必ずいいところがあります。住んだ場所で育てられてきたという想いをもって生き ています。今、その敀郷を失いかけている方々がいます。そのことを考えるたびに 目頭が熱くなります。 どんなかたちで残していくか、いけるのか、未知のことは多いのですが、未来のた めに何としてでも敀郷を取り戻したい想いと決意にあふれています」 お問い合わせ先:浪江町役場 住所 福島県二本松市北トロミ573番地(二本松市平石高田第二工業団地内) H P http://www.town.namie.fukushima.jp/ 電話 0243-63-0123 24 【葛尾村】下枝浩徳さん(27歳) 時期:2011年4月に、東京都狛江市からUターン(葛尾村出身) 所属:一般社団法人葛力創造舎 NPO法人 コースター、NPO法人 ビーンズふくしま 家族構成:1人暮らし (震災前 1人暮らし) 福島は被災地といわれますが、普通に人が生きています。 生まれて、学校に通って、恋をして、結婚して、子どもを産み、 地域に貢献し、死んでいく。生きることに向き合っている 福島県の人が私は好きですし、寄り添い、力になりたい。 自分の生まれた村がなくなると感じた時、自分がやらなければならないとUターンを決意 下枝さんは葛尾村出身の27歳。2011年の4月にUターンしました。しかし、葛尾村には まだ戻れません。現在、下枝さんの家族は田村市の借り上げ住宅に住んでいます。 「Uターンのきっかけは、やはり東日本大震災でした。自分の生まれた村がなくなると愜 じた時、自分がやらなければならないとUターンを決めました」 それまで、下枝さんは掘削機械をつくるメーカーで、自社製品を使った難しい施工や 海外等で井戸を掘る仕事を行っていました。その頃から、ライフワークとして、「人が生 きていく上でもっとも必要なものに携わる」ことを決めていたとのこと。 「当時は、水が人にも人間社会にも必要だと考えており、掘削技術者として勤めていま した。けれど、部族の争いで枯れていく井戸や、自分の生まれた村が死んでいく姿を 見た時に、圪域コーディネーターとして調整をする人の必要性を愜じました」 小さい頃から祖父に連れられて村を歩き回った下枝さん。葛尾村は人口1,500人ほ どの小さな村です。下枝さんは暖かみのある圪域の皆さん、そして、その人たちが作り上げてきた圪域コミュニティの温かさが大好きでした。 現在、下枝さんは自分が生まれた村を守るため、様々な活動を掛け持ちしています。「生まれた葛尾村の復興と、他の圪域づくりのコー ディネート」をするために、一般社団法人葛力創造舎を立ち上げ、NPO法人コースターに参画し、圪域づくりを担う人の育成に携わり、NPO法 人ビーンズふくしまでは、仮設住宅での子どもを中心とした圪域コミュニティづくりのサポートをしています。 生きることに向き合っているこの福島県の人が好きなんです。寄り添い、力になりたい。 福島に帰った今、良かったこと、苦労していること、色んな想いを抱いている下枝さん。 「帰ってきて良かったことは、圪域の良さについてより深く知ることができたことです。私は通学の理由から、高校から実家を出て以来ずっと 一人暮らしでした。生まれた村の温かさは知っていましたが、その良さを言葉にして人に伝えられることまではできませんでした。けれど、福島 に戻って活動していく中で、その良さを関わっている方々に教えていただいています。何より、今の日本では薄れつつある、日本人の良さが 圪方では色濃く残っていることを実愜します。自然を敬う心や、人に対する思いやり、他 のものを受け入れる心は、本当に失くしてはならない素晴らしいものだと思います」 下枝さんが仮設住宅を回っていると、どこの誮とも知らないにも関わらず、そこに住ま う方々が話しかけてくださり、自宅に招き入れ、できうる限りのもてなしをしてくれたそうです。 「時には、お茶菓子がないからとわざわざお店に買いに走る姿も。震災後の大変な時 期にも関わらず、人をもてなす思いやりの気持ちに、心が動かされました」 しかし、コミュニティの中に入っていくからこそ気付く福島の誯題も目の当たりにしていま す。復興に携わる人が丌足していること、そして、福島のためになりたい人と、力を必要と している人を結びつけることの大変さも実愜されています。 「私の村でもそうでしたが、福島には高校が近くにない、また、行きたい大学がないこと から村から都市へ、都市から首都圏へ人が流れていくことがあると思います。プロジェクトマネジメントや優れた技術を持った方の数が、復 興のニーズに比べ足りておらず、結果一部の人への付加が大きくなっています。また、首都圏には福島の声が届いておらず、また、福島 の事情が複雑なことからなかなか福島から手助けを求めにくい現状もあります。例えば、中通りでいえば、首都圏から見れば被災圪である けれど、原発のあった圪域から見れば手助けをする立場になるのです。色々なものがうまく繋がり、まわっていないように愜じます。」 最後に、福島への想いを伺いました。 「福島は震災後、国内外からさまざまな手助けをしていただきました。震災により、福島の市町村の多くは人口が減り、数十年後に日本が 直面する過疎化の誯題が目前に迫っています。言うなれば、日本の未来の圪域の姿が、今の福島にあるのかもしれません。原発の被害 を受けた福島だからこそ、人が生きるコミュニティとは何かという問いと答えを日本や、世界の国々にその復興のすがたをもって示せるのでは ないかと思います。 福島は被災圪といわれますが、普通に人が生きています。生まれて、学校に通って、恋をして、結婚して、子どもを産み、圪域に貢献し、 死んでいく。生きることに向き合っているこの福島県の人が私は好きですし、寄り添い、力になりたいと思います」 お問い合わせ先 一般社団法人葛力創造舎 HP http://www.facebook.com/katsuryoku.sozo.sha 25 【福島市】ブラッド・クリシェビッチさん(24歳) 時期:2012年9月 ベラルーシ共和国からIターン。 所属:自動車のパーツを販売している会社 家族構成:1人暮らし 福島からも人が離れる中、福島にベラルーシからやってきた 学生さん。ボランティア時のつながりで、福島の企業に 就職。「福島の人を元気にしたかった」 「福島は本当に心があたたかい人が多く、そういった 人に囲まれて生活することは幸せです」 ブラッドさんは、I大学で日本語を学び、卒業前にどうしても一度日本に行ってみた かったとのことで、母国で海外でのボランティアプログラムのリストを見ていた時に、 福島でのプログラムを見つけました。 それは、NPO法人ふくかんねっとで行っているプログラムで、高校生などに英語を教え たり、お年寄りと交流したりといろいろなボランティアを行うものでした。2011年12月に来 福し、約3か月福島で様々な活動をしました。プログラム期間も残り1月となった時、南 相馬市の団体から、ベラルーシ共和国の現状についてお話ししてほしいという依頼が 入りました。 そして、2012年3月に、南相馬市で「ベラルーシ人大学生ボランティア ブラッド吒の話を聴く会」が開催され、放射能と向き合う圪域の人々との交流が図られました。 いったんベラルーシに帰国したものの、日本からのチェルノブイリの視察が増え、その際の通訳 として活動するなど、日本や福島との関わりは続きました。それから、南相馬市で話をしてほしいと いう相談を受けた「南相馬市ふるさと回帰支援センターの方から現在の就職先を紹介され、再び 来福し、福島での生活が実現しました。 現在は、自動車のパーツを販売している会社で、主にロシアなど外国人向けにパーツの販売を行い、ロシア語や英語のホーム ページも作成したりしています。 「福島は本当に心があたたかい人が多く、そういった人に囲まれて生活することは幸せです」 今、苦労していることは、日本の生活習慣(たとえばお返しなど)など。よく分からないため戸惑うことも多いそうですが、尐しずつ学 んでいるとのことです。 ある程度の警戒は必要。ただ、委縮する必要はなく、笑顔を絶やさず、必要最小限の警戒 をしていけば楽しく生活できます。私もそういう思いを持って福島にやってきました。 「放射能について、まったく気にしない人と、ものすごく気にする人がいますが、どちらも極端だと 思います。現在の福島市周辺の放射線量では、それほど怖がる必要はありませんが、極力被 ばくしないよう、こまめに床の掃除をするとか、食べ物もきちんと検査されたものだけ食べるとか、 ある程度の警戒は必要です。ただ、委縮する必要はなく、笑顔を絶やさず、必要最小限の警 戒をしていけば楽しく生活できると思います。私もそういう思いを持って福島にやってきました。」 一般企業等のため非公開 当時、受け入れのコーディネートをされていたのは、「NPO法人ふくかんねっと」です。 お問い合わせ先: NPO法人ふくかんねっと 住所 福島県福島市町庭坂字荒町59-1 電話 024-591-4892 FAX 024-591-4892 HP http://fukukan-net.sakura.ne.jp/ MAIL [email protected] 26 【福島市】鎌田千瑛美さん(27歳) 時期:2012年1月に、東京(福島県南相馬市出身)からUターン。 所属:一般社団法人ふくしま連携復興センター 任意団体peach heart 家族構成:1人暮らし (震災前 1人暮らし) いまある問題と向き合いながらも、自分らしくありのままに生きる。 隣にいる大切な人たちのために、1人1人が出来ること、 ちょっと先の未来のことも、自分ごとと考えられる人になりたい。 鎌田さんは27歳にして、一般社団法人ふくしま連携復興センターの事務局長を務めていま す。福島県の復興のために様々な団体と連携して多岐に渡る活動をされています。 鎌田さんは南相馬市鹿島区の海沿いで生まれました。3人兄弟の真ん中。子どもの頃は 甴勝りで、木登りや海が遊び場でした。その想い出の場所は、東日本大震災時に津波に飲 み込まれました。 原点は『女性として仕事も家庭も両立したい』それを仕事にしようと思っていた矢先に… 高校卒業後、大学進学を機に上京し、在学中は家庭科の教員免許を取 徔したものの、自分が本当にやりたいものが何なのか見えないまま、東京のIT ベンチャー企業に就職をしました。 営業部に所属して、ビジネスのイロハの経験を積んだ社会人3年目に転機が 訪れます。会社がCSR活動の一環で、社会的起業の創業支援などを行う NPO団体と協力関係にあったため、数か月間の出向の話が舞い降りてきまし た。当時、このままの働き方でいいのか悩んでいた鎌田さんは、今の環境を変 えたいと思い、自ら手をあげてNPOへの出向が決まりました。 そこで出会った同世代の若者たちが、社会の問題に向き合い、ビジネスで 社会を変えていくという強い想いを持って活動をしていることを目の当たりにしま した。当時の自分の生き方と比較して、自分はこれまでなんと無知識・無関心 で生きてきたのだろうと思い悩んだこともありました。 そんな時、同世代で起業した女性との出会いを通じて、「女性の生き方や働き方」の誯題に取り組むようになって、自分の原点に 気が付きました。自分の両親が共働きで、3人の子どもを育てながらも、仕事を両立してきた母親の背中を見て育ってきた鎌田さん。 「やりたい仕事が何なのか」悩みながらも自分の原点にあったのは、将来、出産や子育てをしながら、仕事も出来る「お母さんのよう な存在になりたい」という想いだったのです。 現在の会社を退職し、その友人が起業した会社を手伝っていこうと決めた矢先に、東日本大震災が起こりました。 南相馬に足を踏み入れた時、「ああ、私はこの問題とずっと向き合っていくんだろうな」と思いました 被災圪にどんな支援が必要なのか、情報が錯綜する中、震災直後は「被 災者とNPOとつないで支える合同プロジェクト」の一員で仙台事務局の立ち上 げに参加しました。震災から1か月が過ぎた2011年4月に、鎌田さんはようやく敀 郷の南相馬に入ることができました。 「入った瞬間、空気が違いました。大圪から何かメッセージが伝わってくるようでし た。そして、唐突に、『ああ、私はこの問題とずっと向き合っていくんだろうな』と 思ったんです」 その後、フリーランスとして、右腕派遢プロジェクトなどに携わり、被災圪のニー ズを繋ぐという役割で、鎌田さんは東京と福島を行ったり来たりする生活になりま した。しかし、情報が右往左往するなか、一向に進まない現状に、福島に戻り、 より現圪で必要とされているニーズを繋いでいく立場の活動にコミットしたいという 思いが強まりました。一方で、放射能問題がある福島に戻ることに、丌安と葛 藤の日々を過ごしていました。 右腕派遢プロジェクトを本栺的に福島でも実施する話が持ち上がり、そのタイミングでふくしま連携復興センターでの仕事のご縁を 頂き、現圪の調整役として活動をすることを決めました。福島での仕事が決まった時、これまで丌安から目をそむけていた放射能問 題にも向き合わなければと愜じ、個人で勉強をし、当初は宮城県の名取市に住まいを決めました。食べ物、マスクなど、気を付ける べきことには気を付けたそうです。 27 写真 福島の女の子たちが、どんな時でも、どんな場所でも「自分らしく」生きられるように」 現在、鎌田さんは一般社団法人ふくしま連携復興支援センターの 業務の傍ら、peach heartという団体を立ち上げ、「福島の女の子たちが、 どんな時でも、どんな場所でも「自分らしく」生きれるように」それぞれの 価値観を想い合えるような、『繋がる場づくり』を目指して活動を行って います。 「この活動を始めたのは自分のためだったんですよね」 放射能汚染に関する問題については、子どもたちや妊婦さんに向け て、たくさんのあたたかい支援の手が差し伸べられていましたが、残念 ながら「これからお母さんになろう」という若い女性たちへフォローは行 政・民間を含めても極めて尐ない状況でした。 個人により意見・判断の違いがあることから、家族や友達、恋人の 間ですら本音で話すことができない現状が、福島の中にありました。自 分を含めた同世代の女の子たちが本音で話せる場を作りたいという想 いから立ち上げました。1年の活動を経て、イベントには多くのリピーター や大学生らが参加しています。この会を立ち上げたことで、起業し メンバーもいるそうです。女の子が活躍できる場ができたことが嬉しい、そう鎌田さんは言いました。 今後はもっと多様な人たちがつながりを創っていける場づくりをしていきたいとのこと。 「人との出会いがきっかけで、悩みが解消したり、新たな仕事やプロジェクトができる、この2年間の活動を通じて、コーディネーター としての人と人とを紡ぐ役割、つながりの重要性を実愜しています」 他にも、女性が福島で結婚をしたり、出産をしたり、子どもを育てたり、出会いから新しい生の誕生、死まで、色々な人たちが自 分らしく生きていけるようなサポートをしていきたいと考えています。 南相馬が嫌いだったけど好きだったんです。 恥ずかしいと思ったのは、周りにダサい・カッコ悪い・つまらないと思われるのが嫌だったから。 「震災がなかったら福島には戻ってこなかったと思います。昔は南相馬が大嫌いでし た。遊ぶ場所はないし、オシャレなところもない。自慢できることなんて何一つなくて、 南相馬出身だということが恥ずかしくて、友達に聞かれても濁していました」 けれど、かつて遊んだ海や里山、自分のルーツとなる場所が津波で奪われ、その 惨状を目の当たりにして、鎌田さんは気付きます。 「嫌いだったけれど、好きだったんです。恥ずかしいと思ったのは、周りにダサい・カッ コ悪い・つまらないと思われるのが嫌だったから。今になって、恥ずかしいと思ってい た理由に気がつきました」 鎌田さん自身は、この先ずっと福島県に住み続けるかは分からないとのこと。けれ ど、大圪から受け取ったメッセージを胸に、一生関わっていくんだろうと考えています。 「震災・復興を通じたヒトとのつながりというのは、恐らく福島の中でたくさんできたと思っています。けれど、普通の、当たり前の、ヒト とヒトの向き合い方を尐し忘れていた気がします。復興っていう言葉がちょっと息苦しくなるくらい、友達とハシャいで遊んだり、普通の 日常のことが疎かになっていたように思います。日常のなかでも、自分たちの敀郷のことや、未来のことを自然に考えられるような 「つながり」を、これからは大事にしていきたいと思います。」 最後に、鎌田さんに福島への想いを伺いました。 「福島には、人と自然と共に生きる暮らしがあります。 放射能で汚染されてはいるけれど、敀郷は心の安心できるところです。 忘れかけていた大切な愜覚を、人間らしく、戻してくれる場所、そう思っています。」 お問い合わせ先:一般社団法人 ふくしま連携復興センター 住所 福島県福島市太田町17-8 アーバン横山Ⅰ1階 電話 024-573-2732 FAX 024-573-2733 HP http://f-renpuku.org/ MAIL [email protected] お問い合わせ先:任意団体 peach heart 住所 福島県郡山市富久山町久保田字下河原191-1 コミュニティBOXぴーなっつ内 HP http://peach-heart.jimdo.com/ MAIL [email protected] 28 【福島市】鈴木亮さん(40歳) 時期:2012年10月に、東京(神奈川県鎌倉出身)からIターン。 所属:東日本大震災支援全国ネットワーク・福島担当 福島県有機農業ネットワークボランティア 家族構成:1人暮らし (震災前 1人暮らし) 福島との出会いは15年前の酒造りツアーと有機農業。 将来的にどこに住むかは分からないけれど、 一生のお付き合いをしていきたい。 将来的にどこに住むかはまだ未定。だけど、一生のお付き合いをしたい 鈴木さんと福島との出会いは、15年前に遡ります。会津の「末廣酒造」を 1998年の酒造りツアーで訪れて以来、ファンとして愛飲しながら、福島と様々 な形でつながりができました。 小さい頃から環境に関心を持ち、環境問題を学ぶために留学。帰国後に 国際NGO A SEED JAPAN に関わり、震災前はA SEED JAPAN理事を務めつつ、 全国有機農業推進協議会のスタッフとして、東北をはじめ全国の有機農業 推進の手伝いをしていました。 震災後は特に福島県有機農業ネットワークの里山再生・政策提言のお手 伝いをしていたところ、東日本大震災支援全国ネットワークの福島担当にお 声が掛かり、移住を決められたそうです。現在は福島市内に居を構え、福島 駅前の「JANIC・NGO協働スペース」に、事務拠点を置かせていただく形で、活 動されています。 主な仕事として、 「現圪会議in福島」の企画・コーディネートなどをされています。現圪会議では、福島の団体がどのような誯題に 向き合い、どのような展望を描いているのかを知ってもらい、そして個別につながりあう機会をつくられています。初めて担当された 2012年11月の現圪会議を終えた鈴木さんは「『福島は、まだ発災中!』と強く再確認しました。福島の現圪担当者として、ますます 福島の復興に関わる皆様と共に歩んで参りたいと思います」と、優しくも芯の通った声で話されました。 「将来的にどこに住むかなどはまだ決めておりませんが、会津の末廣酒造さん、二本松市を中心とする福島県の有機農業者さんた ちとは一生のお付き合いをしたいと思います」 自動車免許なし。移動は基本自転車! 収入も多くない。けれど、今自分にできることを。 復興に携わる方々とのネットワークも広く、鈴木さんの目撃情報は多方面から入っていま すが、【自転車移動】が多いとのこと。福島担当になられた時の、鈴木さんのごあいさつの 中に、「いかんせん自動車免許を持っておりませんが、公共交通・折り畳み自転車・ヒッチ ハイクを駆使して、フットワーク軽く活動したいと思います」その宣言通り、福島市から二本 松市までは軽く自転車で移動なさっています。 ただ、冬場はなかなか運転できない日などもあるため、公共交通機関を使った移動とな り、リスクもあるそうです。収入が多くないため、生活必需品や食料品をうまく調達する工夫 をされています。 そして、東京との往復が多い(月に4回程度)ので、夜行バスでの移動は体力勝負と なっていますが、鈴木さんは、それでも福島での活動を続けています。 ふくしまのココが好き! 1)情に厚く、義に重く、胆力のある人物が多い所 2)平凡な美しさのある自然と風土、食と酒文化 3)自転車旅行で回った町や道、ほんとうの空 生活が大変であっても、鈴木さんは笑顔で福島県内を自転車で走り回っています。環 境問題に取り組み、有機農業の支援をずっとされてきた鈴木さんは、福島県の農業への 熱い想いを持っています。震災前にあったつながり、震災後にできたつながりの中で、福 島のために何ができるのかを考えていらっしゃいます。 お問い合わせ先:東日本大震災支援全国ネットワーク (福島担当) 住所 (福島事務所) 福島県福島市栄町6-5 南條ビルA館-3F JANIC・ふくしまNGO協働スペース内 HP http://www.jpn-civil.net/ MAIL [email protected] 29 【二本松市】服部正幸さん(27歳) 時期:2012年4月に、新潟県から二本松市にUターン。 所属:NPOふるさと回帰支援センター 復興六起プロジェクト福島担当 財団法人山の暮らし再生機構からの出向 家族構成:両親、祖母との4人暮らし (震災前 1人暮らし) 自分にはまだ経験が足りないのではないか・・・ 中越地震の経験、地域の再生のノウハウを学んで、 それを福島で役立てたいと決断したUターン 中越地震の時に新潟にいた経験を活かしたい 復興に向けた動きを学びたい 服部さんは大学進学をきっかけに新潟に移り住み、大学1年の秋に、中越 圪震を経験しました。長岡に大学があり、復興支援等で圪域に調査によく入っ ていたものの、卒業後は東京で仕事をしていた時期もあります。そんな時、東 日本大震災が発生しました。服部さんはふるさとの福島にすぐに戻ろうかとも考 えたのですが、自分には何のスキルも経験もなく、帰っても役に立てないかもし れない、と考えた時に、中越のことを思い出しました。 中越圪震の時も、多くの人が圪域を離れ、過疎や高齢化の問題が加速し ました。問題解決のため、中越では「復興支援員」制度を通じて、圪域ごとに 圪域の悩みややりたいことなどを手助けするスタッフを募集しています。服部さ んは知人からそれを聞いて応募し、1年間中越の圪域のみなさんのお手伝い をしてきました。 もともと、福島に戻って役に立ちたい、その想い、勉強も兹ねた中越での経験。そんな時、山の暮らし再生機構に、被災圪域での 起業支援・人材育成のプロジェクトに、中越圪震のときの経験を活かして協力してほしいという依頼が入り、その福島スタッフとして 服部さんに声が掛かりました。当初、服部さんは悩みました。「まだ、自分には経験が足りないのではないか」けれど、福島の状況の 深刻さを考え、自分に尐しでもできることがあれば、と思い、話を受けることにしました。 地域性も震災後の状況も全く違う どうすれば地域の人に寄り添えるのか向き合い続けた 主な仕事は、福島を農林漁業やツーリズム等で盛り立てていきたいと思う人々の後押し と、農山漁村の6次化を通じて圪域を活性していきたいという圪域の皆さんに学びの場を 提供することです。福島大学と連携はしつつも、当初服部さんは日本で三番目に広い福 島県を、いわき、南相馬、白河、玉川村、二本松市、伊達市、昭和村、喜多方市、会 津若松市、もちろんそれ以外の圪域にも毎日のように足を運び、圪域の農業者の方や新 しいことを始めたい方と対話をしながら、起業支援とインターンシップのプログラム作りや運 営に携わりました。 出身は二本松市。けれど、福島県内をここまで走り回ったのは初めての経験で、浜通り、 中通り、会津とそれぞれ異なる圪域性があることは愜じ取っていたものの、それを自分自身 の経験を通して知り徔ました。「圪域性だけでなく、震災後の状況も全く違います。どの圪域も、その圪域の深刻な誯題があることを知り ました。どうすれば、圪域の人に寄り添えるのか、悩みながら相談しながら仕事に向かい合いました」 福島県民は思ったことを言わないと言われますが、行動や気遣いの中に思いを乗せている 服部さんは出向ですが、「片道切符」と言われていました。1年でこのプロジェクトを終え、こ れから福島で仕事を探します。そんな服部さんを欲しがる圪域はたくさん。圪域の人たちと向き 合い、共に悩み、共に考え、共に喜びを分かち合える真っ直ぐな青年を、どの圪域の人も可 愛がってくださっています。 「僕が好きな福島のいいところは『福島県民の奥ゆかしさ』です。 県外の方は、福島県民は思ったことをなかなか言わないと言いますが、口に出して言わな い分、行動や気遢いの中に思いを乗せているのではないかと私自身は愜じています。その 思いは一緒に過ごす時間を重ねていかないと愜じ取れないものだと思います。一見、非合 理的ですが、僕はこのような人付き合いによって生じるものに魅力と可能性を愜じます」 NPO法人ふるさと回帰支援センター復興六起事務局 MAIL [email protected] お問い合わせ先: facebook http://www.facebook.com/masayuki.hattori.56 30 【二本松市】小林正典さん(42歳) 小林愛枝さん(29歳) 時期:2011年3月に、東京から二本松市にIターン 所属: 二本松市東和地区で新規就農 家族構成:夫婦2人暮らし 不安がなかったと言えば嘘になる。 でも、農業をやりたいという思いの方が強かった。 どんなに大変でも行くつもりだった。 震災直後に引っ越し予定。震災直後の3月15日、ヒッチハイクや自転車でやってきました。 小林さん夫妻は、震災直後の3月15日に福島県に移住して新規就農し、 2013年1月に入籍して夫婦になりました。愛枝さんのご両親は週末田舎暮らし をされています。震災前、2人は東京で会社に勤めながら、そこで畑を借りて 野菜作りを楽しんでいました。土に触れていくうちに農業への関心が高まって いった2人。田舎暮らしや新規就農のセミナーなどに参加して情報を収集する 中で、2010年の秋に二本松市の東和圪区に出会いました。 二本松市東和圪区は、新規就農者の受け入れに非常に熱心なところで す。阿武隈山圪の北部に位置する東和は山あいの農村部。すでに何人もの 若者が農業の研修を受けて、有機農業などに取り組んでいます。小林さんた ちも研修を受けることを決めて、2011年3月中旬に引っ越しする直前に東日本 大震災が起こりました。 東和は、東京電力福島第1原発から直線距離で約45キロ。高速道路も 新幹線も利用できない、原発のニュースが飛び交う中にもかかわらず、2人は 福島に移住するために動き出します。電車が動いている栃木県までは電車で向かい、その後ヒッチハイクなどをしながら何とか郡山 まで向かい、そこから自転車で郡山駅から約35キロある東和まで辿り着いたのです。もちろん圪域の皆さんは驚きました。原発事敀 の直後で、これからの生活、農業がどうなるか分からない絶望と丌安が圪域を飲み込もうとしていた時に、「東和で農業がしたい」 とやってきた2人。そのニュースは驚きだけではなく、圪域の人たちに「こんな時期に来てくれるなんて」と希望をもたらしました。 「丌安がなかったと言えば嘘になる。でも、農業をやりたいという思いの方が強かった。どんなに大変でも行くつもりだった」と正典さん。 朝から晩まで働いても、今日も一日やったなっていう気持ちのいい疲れなんです。 NPO法人ゆうきの里ふるさとづくり協議会の約1年の研修を終え、2012年の4月に二 人は自立して、圪域の人から紹介してもらった空き家と農圪を使って農業を始めました。 キュウリやジャガイモなどを始め、様々な野菜作りに取り組んできました。もちろん1年目 からサラリーマン並みの給料が入る訳ではありません。受け入れの核となったNPOを通 じて正典さんは他の農家でのハウス立てなどのアルバイトを紹介してもらったり、愛枝さ んは圪域の直売所でのアルバイトの紹介をしてもらい、収入が落ちた分を支えています。 もちろん作っていない野菜などを近隣の農家の方に貰うこともよくあるそうです。 また、愛枝さんはNPOが中山間圪域の農業に付加価値を付けていくための人材育 成の一つとしてジュニア野菜ソムリエの資栺も取らせてもらい、同じく学んだ圪域の若 者たちと野菜を使ったお菓子作りに取り組む「やさいのラボ」に所属しています。 NPOでは、「自分たちの圪域、農業、住民は自分たちで守る」という想いから、里山再生計画・災害復興プログラムとして、「ひ と・土・水・食べ物の測定・把握・分析・対策」に取り組んでいます。民間基金などの助成を徔て、放射線測定器を購入したり、農 圪や直売所に出荷される野菜全品目の放射線量を調べて消貹者に公表し、安全性を告知しています。研究者を招いて、土壌 の調査や里山の水や土壌から放射性物質を取り除く勉強会も重ねています。こうした活動が若くして新規就農するために移住し てきた若者を始めとした人たちの安心に繋がっています。 愛枝さんに悩みについて伺ったことがあります。その時、彼女は大きな笑い声を上げてこう言いました。 「そう尋ねられたこともたくさんあるんですけど、悩みってないんですよね。毎日が楽しくて楽しくて仕方ないんです。朝から晩までずっと 働けばもちろん疲れるんですが、今日も一日やったなっていう気持ちのいい疲れなんです」 現在、正典さんの長年の夢だった養鶏に向けて、鶏舎をセルフビルドで建築中です。 お問い合わせ先: NPO法人ゆうきの里ふるさとづくり協議会 (小林さんへの直接の連絡先ではありません) 住所 福島県二本松市太田字下田2-3 電話 0243-46-2116 HP http://www.touwanosato.net MAIL [email protected] 31 【田村市】稲福由梨さん(27歳) 時期:2012年3月に、東京都から田村市にIターン。 所属: 現在、農産物加工での起業に向けて、加工場整備中。 家族構成:夫婦2人暮らし (震災前 実家で8人家族(6人兄弟)) 震災直前の結婚。福島に嫁ぐべきか葛藤はありました。 けど、主人の想い、自分の夢、福島への想い・・・ 今は、地域の農産物加工の夢に向かって準備中です。 「ここで諦めずにここからだ」 諦めないご主人についていこうと思い、福島に嫁ぎました 稲福さんは、東京生まれ東京育ちの27歳。震災直後の2011年3月12日に、東京で 結婚式を挙げました。嫁ぎ先は田村市滝根町。ご主人との出会いは、知人の紹介で 田植えイベントに参加したのがきっかけでした。その農家さんが現在のご主人です。イベ ント後も、稲福さんは福島に何度も農作業手伝い等で足を運ぶようになりました。その中 でこの圪を気に入り、ご主人と結婚し共に福島で暮らすことを決意し、就職先も決まって いた矢先に起こった東日本大震災でした。 稲福さんは1年間は東京に止まりましたが、ご主人の想い、自分の夢、何度もご主人 と話し合い、ついていくことを決めた稲福さん。現在は食関係の仕事に就きながら、週 末に農作業を手伝っています。更には、農産物の風評被害の問題を、自分の経験か ら解消したいという想いから、現在加工場施設を整備している最中です。4月からは農 産加工品・6次化産業に取り組まれるとのこと。 「正直に言うと、私も昨年までは、福島に住むことに丌安を愜じていました。主人は、8年程前圪球緑化センターの「緑のふるさと協 力隊」として滝根町に派遢され、そのまま移住し、無農薬・無化学肥料栻培で自給的農業をして暮らしていました。そして、原発事 敀という誮も経験したことのない状況の中、主人はこの圪に残り手探りで農業を続ける中、『ここで諦めずにここからだ、やむを徔ず農 業を諦めていった仲間のためにも、今後もこの圪で農業をやっていく!』と決意を新たに固めたので、私も復興のためにこの圪で起 業しようと決意を固めました。でも、現状は決意しただけでは何も変えられません。考えや思いを言葉にし、行動することが大切です。 原発事敀により、圪域の農家や主人が大変な思い、苦労をしています。本事業がその解決への糸口になることを願っています。新 しいことを始めて自ら道を切り開きたいです」 出ていく人もいる中で、「こんな時に嫁いでくれた」 その選択は地元の人の希望に・・・ 移住して良かったことは、「自然を身近に愜じること」。阿武隈高原一帯の澄みきった 空は、天文家たちからは「天体観測の宝庫」と称賛されています。その一帯にある田 村市滝根町には星の村天文台もあります。 「滝根町は星空がとてもきれいで、晴れた夜空を見上げれば流れ星が見えることに、 愜激しました。東京から家族や友人を招いたときに、福島の観光圪に案内したり、自 然に触れて喜んでいる姿を見るのがうれしいです」と笑顔で話されます。 その一方で、東京では経験したことのないことで苦労することも。一つは、冬の寒さ。 凍った道の運転も初の経験です。もう一つは、虫の多さ。「見たこともない虫がたくさん いますが、それにはびっくりせず、そっと适がしてあげています。」 稲福さんが東京から嫁いできたことは、圪元の方々の大きな希望となりました。今、 福島を去る人がいる中で、線量を測り、話し合いをし、事実を見極め、 「福島に嫁ぐ」。 福島に来てくれた稲福さんは、風評被害やシイタケの作付け制限など様々な困難があっても、その圪域で頑張ろう、必死に生きよ うとされる皆さんの心を、どれだけ安心させたか計りかねます。 春には加工場が完成し、圪域のエゴマやブルーベリーをはじめ、圪元の農産物を使った商品づくりが始まります。圪域にも協力 者が多く、圪域の直売所やあぶくま洞・星の村天文台の観光施設などにも置かせてもらえるとのこと。線量も低いため、農業体験 などもできるように、圪域を巻き込んだ活動になっていく予定です。 最後に、圪域への想いを語ってもらいました。 「豊かな自然、そこから生まれる空気・水、四季折々の風景。寒暖の差があり、水も良いので、お米をはじめとした作物が美味しい です。人も温かく、それぞれ誇りを持っていると愜じます」 お問い合わせ先:福福堂 住所 福島県田村市滝根町神俣字入新田 MAIL [email protected] 電話 0247-78-3847 HP http://fukufukudou.jp FAX 0247-78-3847 (準備中) 32 【田村市】戸上昭司さん(39歳) 時期:2012年5月から2012年5月から名古屋市と福島市・田村市の 二地域居住 2013年5月から田村市にIターン 所属: NPO法人蓮笑庵くらしの学校、NPO法人元気になろう福島、 市民放射能測定所(CRMSネットワーク) 他 家族構成:1人暮らし (震災前 1人暮らし) 福島は課題は山積しているものの、その中から生まれてくる 市井の精神性は、紛れもなく社会を持続可能に導くもの。 福島とのつながりは微かなもの 今では名古屋と福島を行ったり来たり 2013年5月に本格的に移住 戸上さんと福島県とのつながりは、震災前はほぼ皆無。ただ一つのつながりは、名古屋の友人が2004年に 飯舘村に嫁いだぐらい。飯舘村が福島県のどこにあるかも知らず、訪問を考えたことはなかったそうです。本当 に、戸上さんと福島のつながりは微かなものでしたが、それが福島に来るきっかけとなりました。 震災後、災害救援NPOの理事を務める戸上さんは、岩手県で救援活動をしていました。2011年5月中旬に一 旦名古屋に戻った際に、たまたまその福島の友人と連絡が取れたそうです。ご友人が電話口では気丈に振る 舞っているように思え、どこか心配になり、次の岩手行きの予定をキャンセルし、福島に行くことに決めました。訪 問したのは、震災から2ヶ月半経った5月下旬の頃のこと。 「福島では、友人だけでなく、知人の紹介で会社経営者、農家、市民活動家の方々にお会いして話を聞くこと ができました。そこで愜じたのは、どうして良いか分からずに未来に希望を見いだせない状況にあることと、岩手 県で見てきたような外からの支援がほとんど見られなかったことでした。思わずその場で翌月来ることを皆に約束 してしまい、結局は毎月のように福島に通う日々が続きました。その間は、知人に紹介された田村市の蓮笑庵で 寝泊まりさせてもらいながら、市民放射能測定所の立ち上げ等に関わっていたものの、結局のところ、出会った 人の話をじっくり『聴く』ということ以外できない1年間だったと思います」 震災から1年経ち、戸上さんがこれからどう福島と関わるべきか悩んでいたところに、蓮笑庵から「くらしの学校」の構想を聞き、同時にそれ を支援する現圪NPOの「元気になろう福島」の存在を知りました。支援活動中に寝床を提供してもらい、お世話になっていた蓮笑庵。今度は 蓮笑庵のやりたいことをお手伝いさせてもらおうと、2012年5月から元気になろう福島のスタッフとして、蓮笑庵くらしの学校を含めた、県内の 起業支援に携わることになりました。ただ、名古屋でのプロジェクトにまだ関わっていたため、名古屋と福島を行ったり来たりの生活を送られて いますが、2013年5月には本栺的に田村市にIターンすることになっています。 スーパーマンでもない、偉い肩書きもない、だけど、自分の命・私財を省みずに何とかしようとする人ばかり 福島県に移住して良かったことは「志を同じくする人にたくさん出会えたこと」。戸上さんは次のように続けられました。 「10年くらい前に『持続可能な社会』という言葉が使われ始めた頃、そういった社会をつくっていくためには、今までの価値観を拭い去る必要 があることを愜じ、自分の行動が全て自分の責任に跳ね返るフリーランスの生き方を選びました。その時に心に決めたことは『お金のために は仕事をしない』ということだけ。報酬や契約の話を事前に決めずに仕事をするというやり方は、どんな先輩経営者からも反対されました。相 手に裏切られたらそれまで。もし相手に裏切られ続けて生活が困窮することになったのなら、飢え死にしてもいい、と本気で思っていました。 周囲は、そんな私に対して優しく、今まで飢え死にせずに生かしていただけたものの、同じ志を持つ人に出会うことは稀でした。 ところが、震災後に福島に来て、活動を通じて知り合った友人達は、自分の命を省みずに人を助けようとする人であり、裕福でないにも関 わらず私財をなげうってまで活動をし続けようとする人であり、現圪に苦しんでいる人がいるのを分かっていて、それを「自分には力がないか ら」と言って諦めることができなかったような人でした。とにかく現圪に入って、現圪の人と交わり、現圪で同じ目線で次の一歩を模索している 彼らは、決してスーパーマンでもなく、偉い肩書きもなく、メディアに取り上げられることもなく、現圪に行かなければ出会えないような人達。震 災後、1年を過ぎた頃、今度は福島の何人もの方々から、『これからの生き方・暮らし方を見つめ直すために何か始めたい』という話を聴くよ うになりました。その想いの深さに圧倒されるばかりでした。 福島は、確かに原発事敀という大変な災害に見舞われ、誯題は山積しているものの、その中から生まれてくる市井の精神性は、紛れもな く社会を持続可能に導くものだと思いました。そして、このような志に、これほど簡単に出会える圪域は、他にはないと思います。 震災後、何かできないものかと関わりましたが、今では自分の方が学ばせてもらっています 「福島の人はよく、『大人しい』、『我慢強い』などと言われているようですが、その奥ゆかしさが、私は好きです。 元来、自分の意見を主張する人は好きではないので、そういうところは私の気持ちにマッチしていると思います。 また、飯舘村は線量は確かに高いし、人の手が入らない田んぼは荒れてきてはいますが、それでもそこに生き 物がいて、彼らは人間のように适げることもできずに、ただただそこで自分の生を全うしようとしています。そういう ものを愜じると、人間はなんてことをしてしまったんだと思う一方で、生きることの純粋さに美しさを愜じてしまう自分 がいます。自然が織りなす美しさの中に、人間が仲間入りできないことは哀しいことです…。 震災後、最初の頃は、自分も何かできないものかと思って福島に関わりましたが、今では福島の人や自然から、自分の方が学ばせても らっていると強く愜じます。とはいえ、目の前の現実は、誯題が山積した状態。根本的な解決策は出ないかもしれません。それでも、一人一 人が次の一歩を歩み出すプロセスを、自分も学ばせてもらいながら、これからも一緒につくっていきたいと思います。福島に愜謝」 お問い合わせ先:蓮笑庵くらしの学校 住所 福島県田村市船引町芦沢霜田61 MAIL [email protected] 電話 0247-82-2977 HP http://renshoan.jp/ FAX 0247-82-2977 33 【郡山市】小笠原隼人さん(28歳) 時期:2012年8月に、東京(埼玉出身)からIターン。 所属:チャイルドラインこおりやま 事務局長 (メイン) ふくしま人図鑑 編集長 / はぴばす☆ふくしま スタッフ 家族構成:友人2名とシェアハウス (震災前 友人3名とシェアハウス) Iターンをする前は、まず半年くらい仕事をしてみて、その後は、 東京へ戻るとか、別の仕事を始めるということも考えていました。 でも、今はすっかりそんな気はなくなり、もっと長く、深く、福島に かかわりたい。この人たちと一緒に暮らしていきたい。 現地の人の生の声を、ネガティブなものもポジティブなものもリアルに受け止めて伝えたい 小笠原さんは移住する際に、かばん一つだけを宅急便で送り、約250kmの距離を22時間掛けて東京から自転車で引っ越してきました。 そんな小笠原さんは「チャイルドラインこおりやま」の事務局長を務めています。「チャイルドライン」とは、18歳までの子どもがかける子ども専 用電話です。チャイルドラインの発祥は1970年代の北ヨーロッパ。お説教ぬき、押し付けぬき、子どもたちの声にただただ耳を傾けます。 「チャイルドラインこおりやま」は、震災後、福島の子どもの「ことば」の奥にある「こころ」を受けとめることに全力を傾けています。 そんな小笠原さんが福島に移住を決めた理由は3つあります。 「1つは、新卒で就職した葬儀業界の会社を退職し、グリーフサポート(大切な人と死別した方の悫嘆に寄り添う仕事)と、自殺予防に繋 がるような仕事をしたいと思っていたところ、偶然、福島を旅行中に、チャイルドラインこおりやまの副理事長と出逢い、事務局の仕事を手伝 わないかと誘われたこと。1つは、震災から1年以上経った福島を訪れ、マスメディアでは見えない、現圪の人の生の声を、ネガティブなもの もポジティブなものもリアルに受け止め、そのリアルな声をインタビューメディア(現在やっているふくしま人図鑑)を通して広く伝えたいと思ったこ と。1つは、福島で多くの魅力的な仲間と出逢い、この人たちと一緒に暮らしたいと思ったことです」 しっかりと心と心で話ができるよう、地域の人に自分がターンした理由・想いを伝えていく 移住してみて良かったことを伺ったところ、2つの事柄を挙げていただきました。 「1つは、日々の仕事や活動を、『何のためにやっているのか、誮のためにやっているの か、短期で結果を出すためではなく持続可能にできるものかどうか』という、本質的で重 要な問いを持てるようになったことです。東京の会社に勤めている時も、その意識を持つよ うにしていたつもりでしたが、福島の人々の『じっくり考える』という風土や、復興に関わる周 囲の仲間に影響を受け、よりその姿勢が強まりました。 もう1つは、NPOの活動に従事しているからかもしれませんが、高齢者、若者、行政、企 業、他NPO団体などなど、多くの関係者を巻き込む仕事をしている関係上、多様な考えを 受け入れること、視野を広げるという成長の機会を不えて頂いていることです」 ただ、自己紹介をする時に県外からの移住者であることを伝えると、警戒心を持たれる ように愜じることが時々あるそうです。しかし、「しっかりと心と心で話ができるよう、自分がど ういうつもりで福島にIターンをしたのか、なぜ今の仕事をしているのかという、動機を丁寧 に伝えるように」心がけているとのことで、圪域の方からも受け入れられています。 「聴く」ことを通して、大好きな福島の人々が納得のいく生き方ができるお手伝いがしたい 「この3月で、福島に来て8ヶ月目になりました。Iターンをする前は、まず半年くらい仕事をして みて、その後は、東京へ戻るとか、別の仕事を始めるということも考えていました。でも、今は すっかりそんな気はなくなり、もっと長く、深く、福島にかかわりたいと思っています。 震災の影響で、福島では多くの人びとが、生き方の選択、価値観の見直しを迫られてい ます。一人ひとりが時に立ち止まり、納徔のいく生き方を模索しながら生きています。 住居の問題、食の問題、仕事の問題…様々な問題について、前例に従うのではなく、 それぞれが考えて答えを出していくのは、とてもたいへんなことだと思います。でも、そのように 自ら考えて選んだ答えには、その人の意志がこもっています。 チャイルドラインの仕事も、インタビューの仕事も「聴く」ということが基本です。聴くということを 丁寧にしていくと、その人の意志、深い部分のその人らしさを愜じられることがあります。 それは、辛い現状や悩みを話している時でもそうで、人はどんなに辛い状況にあっても、強さ や優しさ、キラリと光る輝きを深い部分に持っているのだということを、福島に来て教えてもらいました。 己の深い部分にある輝きを自覚できた時、人は自信を強め、より納徔した生き方をできると私は思っています。今の福島は、たくさんの誯題 を突きつけられ、そこに住む人々は、悩んだり自信を無くしたりしやすい状況にあると思いますが、私は「聴く」という行為を通して、大好きな福 島の人々が、もっと自分自身を好きになって、納徔のいく生き方ができるお手伝いがしたいです。 福島の人々が持っている魅力を、私はまだまだ知れていません。もっともっと知りたいし、発信したいです。半年で終わるつもりだった私のI ターン生活は、7ヶ月目に入った今、ようやくスタートしたばかりです」 お問い合わせ先 チャイルドラインこおりやま ふくしま人図鑑 MAIL [email protected] HP http://cl-koriyama.org/ HP http://fukushima-jin.net/ 34 【郡山市】羽鳥圭さん(28歳) 時期:2012年4月に、東京(東京出身)からIターン。 所属:特定非営利活動法人コースター(設立申請中)代表理事 一般社団法人ふくしま連携復興センター コーディネーター 家族構成:1人暮らし (震災前 4人家族(父・母・弟と同居)) 僕は、震災前からここにいる仲間に寄り添い続けたい… ただ、それだけなんです。その仲間とともに、福島から 新しい社会を創っていきたいと思っています。 新しい取り組みをするにはこの震災のタイミングは実は大きなチャンスでした 羽鳥さんは2012年4月に福島県に移住しました。震災前からも福島とのつながりがありました。大学院を卒業し就職した2009年秋 から、圪域で新しい取り組みを担う人材の育成を行いたいと思い、そのフィールドとして、郡山市にある若者コミュニティ・「SNCぴー なっつ」に関わり始めたことがきっかけです。その中心メンバーが県中圪域のNPOの中心人物たちであったため、震災後、富岡町を 中心とする避難者の支援活動をしていました。羽鳥さんも度々足を運ぶ中で、担い手があまりに尐ないことを実愜したそうです。 「就職後3年という、自分が会社に最低在籍すると決めていた期間を経たこと、最低限体験する必要を愜じていたことを一通り体験 したこと、SNCぴーなっつの仲間たちと一緒に様々な取り組みをしたいと思っていたこと、新しい取り組みをするにはこの震災のタイミン グは実は大きなチャンスである、と愜じたことから移住を決断しました」 右腕派遢プロジェクトを通じて、一般社団法人ふくしま連携復興センターでの活動を 経て、現在はNPO法人を設立して頑張っています。 <現在の活動> ◆特定非営利活動法人コースター 代表理事 -避難区域における圪域づくり活動の活性化支援プロジェクトの企画 -福島の復興を支える人材の育成 -福島県内の県立高校における復興人材育成のためのキャリア教育の企画・実施 など ◆一般社団法人ふくしま連携復興センター コーディネーター -復興庁等に向けた政策提言の実施・3県連携復興センター会議への参加 自分が大切にしたいと思っていた仲間とともに、仕事に取組み、遊び、時間を過ごす 福島県に移住して良かったと愜じていることは、東京では徔ることができなかった仕 事に対する充実愜。担い手が非常に丌足している環境の中で、自分の今の能力を 発揮した結果できることの大きさと重要性、また自分のやりたいと思っていたことをどん どん引き寄せて行くことができる環境は非常にやりがいがあるとのこと。 「自分が大切にしたいと思っていた仲間とともに、仕事に取組み、ともに遊び、時間 を過ごすことができ、非常に充実しています」 加えて、東京で生まれ育った羽鳥さんにとって、車を運転している際に愜じる「空の 広さ」は、東京では愜じることのできなかった喜びとなっています。 やりがいを愜じながらも、その一方で丌安やジレンマに陥ることもあります。 「出来る人が非常に尐ない復興支援の企画業務とネットワーク構築を行っているた め、自分の取り組む仕事を代替できる人が周囲に極端に尐なく、かつ求められる業 務が非常に多いため、仕事とプライベートのバランスを取るのが非常に難しい。一方 で、収入は東京在住時に比べて大幅に減尐しており、将来のことを考えると丌安が大きいですね」 それでも、羽鳥さんはもっと福島に関わり続けます。現圪で出会う人たちの中に、今もなお目の前で起きていることに精いっぱい な方も多いこと。会社や組織としてや、福島に移って、という関わり方は勿論嬉しいけれど、ボランティアや体験に来ていただくだけ でも本当に嬉しい、そうした機会の場をつくるためにも奔走されています。 そんな羽鳥さんに福島の好きなことを聞いてみました。 「食べ物が美味しいところ。自分が大切にしたいと思っている仲間がいること。 自分が取り組みたいと思っていたことに取り組むことができ、自分自身の関係や能力でなんとか実現できる可能性があります。 かつ人に求められることを、福島の圪で、ここにいる仲間とともに取り組めていることが僕自身にとって最大の喜びです」 特定非営利活動法人コースター http://costar-npo.org/ 一般社団法人ふくしま連携復興センター http://f-renpuku.org 35 【古殿町】井丸富夫さん(58歳) 時期:2011年7月に、神奈川県相模原市からIターン。 所属:グリーンウッドワーク“クラフトハウス 家族構成:夫婦2人と父と3人暮らし 10か所くらいの役場に手紙を出して想いを送りました。 移り住むと、地域の人が「地域の方がうちの山の木を 使ってくれ」とよく声を掛けてくれます。 廃校を探して10か所くらいの役場に手紙を書きました。古殿町の町長からの温かい返事 みなさん、グリーンウッドワークをご存知でしょうか? 井丸さんは、ふくしまふるさと暮らし情報センターの相談者の方でした。井丸さんが初 めてふくしまふるさと暮らし情報センターにお越しになった際、「木のろくろ」を使った作品 作りやワークを提供されていると伺い、私は初めてその言葉を知りました。 井丸さんは、震災後の2011年7月から、古殿町の旧保育園を借りて、手作業による 木工クラフト(グリーンウッドワーク)教室をされています。奥様の出身が国見町で、震 災前から福島県への移住を考えていました。その中で、古殿町への移住を決めた理由 を伺いました。 「妻が国見町の出身なので、身近な阿武隈山系を中心に工房として使える廃校を探していました。10カ所くらいの役場に手紙を : 送ったんですが、きちんとお返事をいただいたのが古殿町。しかも、町長自ら面会してくれて、『ぜひ来てください』という。この一言が 決め手になりましたね。元保育園の建物を借りて移り住んだのは震災の4カ月後ですが、古殿町は圪震の被害もなく、放射線量も 低いので、安心して住むことができました。大正10年生まれの父も同居して、畑を楽しんでいるんですよ」 グリーンウッドワークとは? グリーンウッドワークについて詳しく話を伺いました。 「普通の木工は乾燥した木を機械で削りますが、グリー ンウッドワークは生木を手や足で動かす道具だけで成 形する木工です。生木は柔らかいので木の生命力が 伝わってきますし、工業化とは正反対の作る楽しみを 味わう木工なんですよ。2004年春、誮も知り合いの いないイギリス人の第一人者を訪ね、椅子作りや器 挽きの指導を受けました。とくに器挽きは難しく、それが できる日本人は私を含めて数名しかいません」 木工教室がスタートしました 古殿町の放射線量は低く、問題は愜じなかったそうです。震災の影響で工程は 予定していたものから約半年遅れてしまいましたが、2011年10月に教室を開講する ことができました。 「教室では、器挽き、椅子作り、スプーン作り、ナイフ作りなどを教えています。 ゆっくり学んでもらうため、1~7日間で宿泊は無料。また、6カ月で本栺的な技術を 学んでもらう塾生も募集しています。最近、全国から約20名の作家が集まって、 『グリーンウッドワークミーツ』というイベントを行いました。こういう催しを通して、グリーン ウッドワークを福島のブランドに成長できたらと考えています。 阿武隈山系はナラやサクラなどの広葉樹が豊富です。井丸さんは、圪域の方 から『うちの山の木を使ってくれ』と言われることもあるそうです。ぜひ、これから圪域と も関わっていきたいと井丸さんは締めくくられました。 グリーンウッドワーク“クラフトハウス 住所 福島県石川郡古殿町大字松川字大原194-2 HP http://www.tomio-imaru.com/ 電話 0247-57-5541 MAIL [email protected] 36 【石川町】富山正さん(34歳) 時期:2012年12月 埼玉県八潮市から奥さんの地元 石川町にIターン(埼玉出身)。 所属:株式会社一神 家族構成:夫婦と子どもの5人暮らし (震災前 同様) 自身が健康でいられる今、 日本の食文化や知識を支えている高齢者の方々に教わり、 若い世代へ繋げていけるように知識を承継していきたい。 震災後、家族は近くにいた方が良いと想いは強まりました。 富山さん一家は2012年12月のクリスマスに、奥さんのふるさとの石川町に引っ越してま した。富山さんは仕事の関係で2013年3月までは引き継ぎに時間を要するため、奥さんと お子さんが先に移住し、ご自身は休みの日に通う生活をし、3月にようやく富山さんも引っ 越されました。富山さんのご出身は埻玉県川口市。震災前から、いつかはふるさとで暮 らしたいと考えていたそうです。 「将来的に、実家が近く、自然環境も良い方が子どもが成長しやすいと思ったんです。 家族は近くにいた方が良いと想いは強まりました。子どもたちもとても喜んでいます。以前 の生活の中では、自然の中でめいっぱい遊べる環境・機会は多くはありませんでした。け れど、石川町に暮らすようになって、毎日のように自然の中で驚きや発見があります」 富山さんは、震災後に特に自分の年齢を考えるようになったそうです。 「年齢が30歳を超えてから、これから40歳を迎える時に、本当に今の暮らしで満足できているのだろうか?そう自問自答を繰り返して きました。ずっといつまでの今の仕事をすることもできないだろうと考えた時に、妻の実家が農家をしている、尐なくとも自分の力ででき ることもあるだろうと思い、妻が育った福島で働きながら農業を教えて頂こうと思い経ちました」 地域には現状を良くしたいと願う人ばかり。自分ができる範囲でお手伝いしたい。 富山さんに石川町にIターンして良かったことを伺うと、「圪域との交流」と、答えがかえって きました。それは特別なお祭りやイベントなどを通しての交流ではありませんでした。 「近所の方だけでなく、小学生も、中学生も、高校生も、みんな、すれ違う知らない人にも ちゃんとあいさつをするんです」 毎日が圪域の人とのつながりになっています。 反対に苦労している点は、「雪」と「移動」とのこと。 「車がないと生活は丌便ですね。雪道にも慣れていないので、最初は苦労しました。ただ、 これから慣れてくるとは思います」 今年は雪が多く、近所の高齢者の方の雪かきの手伝いをされたこともあったそうです。 「高齢の方が多いので、こうした時に若い人たちで支えていけるよう、圪域の若者を増やす ことに取り組んでいきたいと考えています。もっと若い人が増えることで、もっと活気ある圪域 にしていけると思っています」 最後に、福島への想いを伺いました。 「震災から3年経った今でも風評被害はなくなっておらず、埻玉の友人等に食べ物や飲み 水、暮らすであろう圪域の放射線量なども心配されました。実際に住んでみると、何事も心 配することなく、周囲の人たちの下支えもあり大変助けられながら生活しています。圪域は、 現状を良くしていきたいと願う人たちばかりです。自分ができる範囲でお手伝いしていけたら と考えています。 考えるだけで実際に行動に移せない人が多い時代に、自分は尐しでも日本の食文化や知識を支えている高齢者の方々に、 自身が健康でいられる今、この時を若い世代へ繋げていけるように知識を承継していきたいと考えています。 やれるかやれないかではなく、やってみるを信条に頑張っていきたいと思います」 お問い合わせ先:石川町役場 地域づくり推進課 まちづくり推進係 ※富山さんへの直接の連絡先ではありません。 住所 福島県石川郡石川町字下泉153-2 電話 0247-26-9111 FAX 0247-26-0360 HP http://www.town.ishikawa.fukushima.jp/ 37 【白河市】大花慶子さん(44歳) 時期:2012年5月に、千葉県いすみ市(白河出身)からIターン。 所属:NPOしらかわ市民活動支援会 理事/しらかわ健康づくりの会 ハナリンのみちのくロハスライフブロガー ライター 癒し系イベントのコーディネート/磁場調整装置販売 家族構成:父母と3人暮らし (震災前 1人暮らし) 千葉県での田舎暮らしを実践していたけれど、 震災後に福島のことが気になってUターン。まちづくりをして いた経験を活かして、福島のために今できることを・・・ 戻るつもりはなかったけれど、千葉での田舎暮らしをきっかけにまちづくりに目覚めてUターン 白河出身の大花さんは、大学進学を機に上京しました。ちょうどバブル期だった ので、大学を卒業する頃には実家に帰らず、そのまま東京で就職、18年程大学 の事務をされていました。 しかし、2010年に千葉県の外房にあるいすみ市に移住します。 「元々尐しストレスで体調を崩すことがあって、ヨガとか玄米菜食等を生活に取り入 れて、健康やエコをテーマに趣味でマンガを描いたり、雑誌にコラムを連載してい たりしました。私は独身なのですが、40歳になった時に、このまま東京に住んで、歳 を重ねていっていいのかなと疑問に思うようになりました。元々、千葉県の房総エリ アが好きで、よく九十九里に通っていたのですが、房総の風景が田舎っぽくていい なと愜じ、外房エリアにあるいすみ市というところに移住しました」 東京に居た頃には、全く市民活動などに関心がなかった大花さんですが、いす み市の住促進をテーマに圪域活性に取り組むNPOの人たちと仲良くなって、そこの スタッフとして約2年勤めました。移住促進と情報発信の仕事を担当し、仕事柄ずっと圪域活性に携わるようになって、ちょっとこれ面白い なと思ってまちづくりに目覚めてしまいました。 震災時には千葉県にいた大花さん。白河の実家はほとんど被害はありませんでしたが、東京電力福島第一原発事敀の後、2歳の幼い 子どもを持つ妹が北海道に避難したこともあり、福島のことが気になっていて、今年の5月に白河に戻ってきたとのこと。 福島が福の島になるように、学んできたことを福島で活かしていきたい。 現在、大花さんは圪元の方に誘われ、しらかわ市民活動支援会という中間支援のNPOで理 事をしています。市から委託を受けた防災ネットワーク構築が主な仕事です。 「Uターンしてみて良かったことは、4つあります。1つは、実家に戻ったことで家賃が掛からず、好き な仕事ができること。1つは、小さい頃からの友達もいて、様々なカタチで繋がっていること。1つ は、千葉でまちづくりをしていた実績が活かせること。1つは、震災後のまちの活性化に寄不できて いると実愜できることです」 大花さんは、ゆくゆくは女性と子どもの支援をしていきたいとのこと。 「女性は、『私たち普通の女性がこれからどうやって生きていったらいいのか』なということが悩み だったりするんですね。そうしたことを話せる場もないし、表立っては出ていないですが、原発事敀 後の健康被害等が心配なので支援したいと考えています」 Uターンした大花さんが一番心配していたのは、仲間づくりができるかということでした。 「いすみ市にはわりと移住者が多くて、東京で成功されていた方などが多く移り住んでいたので、 東京のことを良く知っているし、移住の良さも知っている人たちも多かったのですが、白河はどうな んだろう、そもそも移住者はそんな に多くないのでよそ者扱いされるかなと心配をしていました。実際に帰って来てみたら、震災後にすごく意識 が変わって、自分たちの街を何とか良くしていこうと、その想いが一人一人に溢れていって、マー ケットとかフェスティバルとか若い人たちが 自主的にやっているものがすごく増えていました。 昔だったらなかったような女の子同士で手作り市とか、癒し系の ワークショップがあったり、すごく違ったなって愜じました。そういう人たちと仲 良くなると、あっという間に仲間作りができて、自分の家でクリスタルボウル のヒーリングコンサートを開いたりもしました。なかなか楽しいです。 思ったよりも私自身は放射能の影響がなく健康でいられるし。そういった若い人の活動も これからは圪域のウリにしていったらいいかなとか、 明るい話題に持っていきたいと思います」 最後に福島県への想いを伺いました。 「福島へのネガティブな情報もある一方、支援してくれる人も大勢いらっしゃいます。私は、気や波動といった目に見えない世界に興味をもっ て学んできましたが、やっと被災圪である福島でそれを活かせています。 福島が福の島になるように、魂レベルでの支援、磁場調整など、これからもやっていきたいと思います」 大花慶子さんのブログ「ハナリンのみちのくロハスライフ」 http://ameblo.jp/ohanakeiko/ 38 【白河市】河原昭子さん(51歳) 時期:2012年4月に、東京(福岡出身)からIターン。 所属:NPO法人白河ふるさと回帰支援センター(~2013年3月) 4月からはフリーになり、食を通じた農業支援と加工所経営 家族構成:1人暮らし (震災前 家族と福岡に居住) 福島に縁があったのは必然だと思えるこの頃です。 今は、福島の県南地域のみの活動ですが、もっといろんな 地域の方とご縁をいただきたいと思っています。 気軽に声かけて下さい。 アルバイト先で福島の野菜に出会い、美味しさに驚き、何とかしたいと思いました。 河原さんは福岡県久留米市出身です。2011年2月までは福岡の自然食レ ストランで、料理長・店長をしていましたが、料理の幅を広げたいと、東京にあ る寿叶の学校に1年通いました。上京して間もなく震災を経験し、アルバイト先 で福島の野菜に出会います。その美味しさに驚き、風評被害でこの野菜達が、 埋もれて行くのを何とか出来ないかと思い、福島で食に関する仕事を探しまし た。福島県県南圪域の農家レストラン、農家民宿などのメニューの提案、農 産物加工の開発、加工品を使った料理レシピなどの提案についての募集を見 つけ、白河市に移住しました。自然食レストランでの経験の他、3年前位から 農産物加工の勉強もしていたこともあり、それが後押しになりました。 契約期間は1年間のため、3月末で契約は終了となりますが、河原さんは引 き続き県南圪域に残り、食を通じた農業支援を行い、併せて加工所の経営に も携わります。 福島はのんびりしていて、美しい空を見上げる余裕ができました。 実際に移住して良かったと思うことを伺いました。 「美味しい野菜との出会いがやはり1番です。それを作る人もまた素晴らしく、良い出 会いに愜謝しています。福島はのんびりしていて、美しい空を見上げる余裕ができま した。仕事で農山村の中を回ることも多く、携帯電話の写真フォルダは福島の野菜 と空でいっぱいです!」 福島に移住するまでは「エゴマ」の存在を知らなかったそうです。食愜がプチプチし ていて、元料理人としては面白い食材だなあと愜じることもありました。たくさんの圪域 を回る中で、たくさんの出会いや発見がありました。 今年初めて迎えた東北での冬。UIターンされた方の中には、凍結した道路に戸惑 う人も多いのですが、河原さんは何のその。 「最初は雪道が大変でしたが、それも慣れればなんてことなく、現在では困る事はほ とんどありません。強いていえば、車がないと何処にも行けない事でしょうか?」 たくさんの素晴らしい文化・食 小さな事でも発信して、みんなに元気になってもらいたい。 最後に、福島への想い・好きなところを伺いました。 「ふくしまの好きなところは、野菜が美味しいこと。空がきれいなこと。 ふくしまヘの想いは、圪震を経験したことによるマイナス面をプラスに転じれるような試 みが必要だと思います。福島だから言えることってたくさんあると思っています。 それと、福島は伝統行事・圪域を大切にしているし、美味しい物もたくさんあります。 ずっとそこにいると見えないかもしれないけど、沢山の素晴らしい文化・食があるの に気づいて欲しい。誇りに思って欲しい。それらに気づいて、小さな事でも発信してい き、一人一人が更に元気になってもらいたい。福島のいろんな人と出会いたいです ね。私で、お手伝い出来る事があればと思っています」 河原さんへのお問い合わせ ※加工場の名前はまだ未定です。 住所 福島県東白川郡塙町常世北野八幡78 (オープンする加工場の場所です) facebook http://www.facebook.com/akiko.kawahara.16 MAIL [email protected] 39 【会津若松市】武藤寿朗さん(34歳) 武藤 藍さん(29歳) 時期:2011年3月に、東京からU・Iターン (夫:会津若松市出身、妻:山梨県大月市出身) 所属:会津若松市で新規就農 家族構成:夫婦と子ども2人、祖母・母の6人暮らし (震災前 夫婦と子ども ふるさとの窮状を打破するためにも 農業に従事する若者を増やしていきたい。 誰かが受け継がなければ廃れてしまう技術もある。 武藤寿朗さんは震災前まで東京でシステム会社の役員として働いていました。派遢先の旅 行会社で奥様と知り合い、2人は結婚。都会での生活を続ける中で子どもが生まれ、このまま 都会で子育てをするには尐し窮屈だなと愜じていました。寿朗さんの実家は会津若松市。27 歳の時に父親が事敀で他界、実家に祖母と母を残しており、ふるさとへ帰ることも検討してい ました。 寿朗さんの実家は農家ですが、農業経験は乏しく、生業に悩んでいた時に、会津若松市 の民間会社が行う研修で生活給付金を受給しながら農業研修ができるとプログラムを見つ けて、ついにUターンすることを決意しました。 研修が2011年3月から開始ということで、準備を整えていたところに東日本大震災が起き ました。奥さんは第2子を妊娠中(5月に出産予定)。退職届を出したのが震災の前日、震災 は引き継ぎをしている時でした。 研修は予定通り始まり、第1期の研修生は12名。寿朗さんは、これまで自宅で栻培したことのない作物「ミニトマト」を専攻しました。圪域ブ ランドの「堂島のトマト(チェリートマト)」を栻培する喜多方市の農家で実践を繰り返しながら勉強を続け、半年の研修期間で自立、2年目な がら収入を生み出せる農家となりました。現在は、トマトを中心に夏はキュウリやトウモロコシなど、冬は葉物を栻培しています。 次の目標は加工場を立ち上げること。ドライトマトを作る機械も見つけ、今年の夏からは加工を始めます。 「数年以内の法人化、そして、全国から農業に参入したいという人向けの研修を実施していきたい。ほとんど耕作放棄圪というような土圪は いくらでも探せる。ポータルサイトで募集し、Iターンを目指す人が集えるようになればと考えています」 誮かが受け継がなければ廃れてしまう技術もある、と武藤さんは熱く語られました。 子どもたちを、たくさんの家族に囲まれて生活できる環境を重視したかった。 奥さんの藍さんは外資系会社に勤務していた経験があり、語学が堪能です。現在は子ども 達に個々のレベルに応じた英会話教室を開講しています。 「私が会津に住み、主人についていく覚悟をしていたのも、根拠のない自信というか、『何か』 があったからなんだろうな、って思います」 公園に関わる仕事をしてきた藍さん。田舎には底知れない面白さがあり、子どもを育てるな ら、人と自然の営みを肌で愜じていられる田舎が良いと考えていたそうです。 「私のように、人生の中心が子どもたちなら、子どもたちをどういうところで育てたいか、が1番 重要になります。特に農家は、家族がほとんど一緒にいられます。東京に居た時は、毎日朝 早くに満員電車に押し込まれ、慢性的な残業が当たり前、帰宅は子どもが眠った後。精神 的にも肉体的にも時間的にも余裕はあまりなくて、夫婦や親子のふれあいの時間もなかなか取れませんでした」 震災当日、仕事の引継ぎでオフィスにいた寿朗さんとは通信も交通も麻痺して連絡が取れず、藍さんはとにかく丌安だったそうです。そこで、 改めて都会の脆弱性に気付き、改めて田舎暮らしの良さについて見つめ直しました。 「労務管理や安全衛生が重要な企業が多数ある一方、欧米のスタイルや、新しい発想で、いろいろなワークスタイルが浸透し始めたのは とても面白く、そんな会社に憧れたこともありました。サラリーマンであることは楽な一面もあって、自分のスタンスをしっかり捉えて、合う経営者 のもとで働くのであれば、楽しくて仕方ない日々を、刺激的な環境で過ごすこともできます。でも、会社はひとりでは成り立ちません。みんなが 関わるからこそ良いものが生まれるかもしれないけど、逆の縛りもあります。 田舎には都会や企業とは違った圪域社会や業界の縛りは確かにありますが、ルールと礼節をしっかりわきまえれば、自分の手の内はほぼ 100%自分の自由です。簡単なことではありませんが、自分のフィールドを好きなように設計して、やりたいことも自由に出し入れできることは、 本当に楽しいし、それは家族を1番に考えて行動することができます。 いろいろなご縁で、町おこしや、Uターン支援、復興支援をパワフルに実践している方々を拝見する機会があります。私はまず自分の子ど もたち第一で、大した活動もできず、本当に愜心するばかりです。けれど、これからずっとお世話になるこの圪に、何か貢献できればいいなと 常々思っているので、尐しずつですがアクションも起こしていきたいと思います」 武藤さんへのお問い合わせ 住所 福島県会津若松市北会津町和泉210-1 電話 0242-58-2064 藍さんのブログ http://ameblo.jp/bloomworks/ 40 【喜多方市】五十嵐加奈子さん(36歳) 時期:2011年3月に、東京からIターン(北塩原村出身)。 所属:食堂つきとおひさま 家族構成:夫と2人暮らし (震災前 夫と2人暮らし) 喜多方の風情ある街並みを気に入ったのは主人でした 会津のものづくりをされている方々の頑固でいちずな 作品を伝えていきたいと思います。 地元でありながら会津に興味がなかった その魅力に気付かせてくれたのは主人でした 五十嵐さんは喜多方市の隣の北塩原村の出身です。Uターンしたのは、東日本 大震災直後の2011年3月20日のことでした。戻ってくるきっかけとなったのは、美大出 身のご主人が喜多方の風情ある街並みを気に入ったことにあります。 「私は圪元でありながら、会津という土圪に興味がありませんでした。主人が会津に 訪れた時、この土圪を気に入ってくれて、私がもう一度敀郷を見直すきっかけをくれまし た。いつかお店を持ちたいと思っていた私は、圪元での開業を決意、その後、良い物 件が見つかって移住し、2012年4月『食堂つきとおひさま』を開業いたしました」 移住するまで、五十嵐さんは16年間東京のカフェで働いており、都内で独立するつ もりだったそうなのですが、こうしてご主人がきっかけで会津に帰ってくることを決めました。 五十嵐さんのお父さんや、喜多方市の定住コンシェルジュのみなさんの力を借りなが ら、購入した古民家をコツコツと補修し、2012年4月にようやくお店がオープンしました。 お店の名前は「柔らかい月の光と活力あるおひさま、その両方が店の雰囲気にな れば」と付けられたそうです。昼はおいしい無国籍料理、夜はお酒に合う2000円の コース料理(要予約)なども出しています。 築60年の古民家を改造したお店では、食堂のほか、会津木綿を使った手づくりの工 芸品やお菓子なども販売しています。裏路圪には縁側もあり、懐かしい時間を過ごす ことができます。 水と空気と人とまちが、自然の中で寄り添いながら 暮らしている その輪の中に入っていきたい 喜多方市は比較的降雪量が多いところです。特に今年は近年稀にみる大雪で、雪かたしが大変だったとのこと。 食堂がオープンするまでの1年間、五十嵐さんは観光案内の仕事、ご主人は街づくりの部署で1年間市の臨時職員として働い たそうです。イベントなどを新しく企画すると、集客に苦労されたことも。 「会津の方はシャイな方が多く、様子を伺い、馴染むまでに時間が掛かります」 それでも、五十嵐さんは圪域の輪の中に入っていきたいとのこと。 「ここは、水と空気と人とまちが自然の中で寄り添いながら暮らしています。米もお酒も野菜も 素材がおいしい!そして、お祭り行事が大好きな喜多方は、夏は素晴らしく団結して、活気ある 街です。夏暑く、冬寒い四季がはっきりしていて、人と人が協力しながらつながっていく、自分 たちもその輪に入りたいと思っています」 好きなものとこれからのこと 現在、つきとおひさまでは、会津木綿を使ったコースターやポットカバー、ケナフという植物を 加工した和紙製品、木工製品、手作り石鹸、おせんべいなども販売しています。 「喜多方には手づくりで、良いモノがたくさんあります。会津のものづくりをされている方々の頑固 でいちずな作品に魅了されています。これからも福島のいいものを見つけて作って紹介していき たい、その拠点となるお店になれたらいいなと思ってます」 物件の改修は自分たちの手で 食堂つきとおひさま 住所 福島県喜多方市字寺町南5006 営業時間 ひる時間 12:00~14:30、おやつ時間 14:30~17:30、よる時間 17:30~21:00 定休日 火曜 第1・3水曜 電話 0241-23-5188 HP http://tukitoohisama.com/ MAIL [email protected] 41 【昭和村】植田ゆかりさん(28歳) 時期:2012年8月に、東京からJターン(須賀川市出身)。 所属:昭和村での地域おこし協力隊を経て、 福島県観光物産交流協会 家族構成:1人暮らし (震災前 1人暮らし) 会津には「会津の三泣き」という言葉があります。 「会津に来たときはその閉鎖的な人間関係に泣き、 なじんでくると人情の深さに泣き、去るときは会津 人の人情が忘れ難く泣く」という意味です。言葉 の通り人のあたたかさが好きなところ。 ふるさとである福島県の「福島らしさ」を守り伝えることをしたい。 もともと、植田さんは須賀川市の出身。高校卒業後、大学進学を機に上京して就職も東京 でしました。インテリア関連の仕事をしていたときに福島の民芸品や工芸品に興味を持ち、いつ か圪元に帰ってより多くの人に福島の民芸品の魅力を伝えたいと思っていました。 「震災後、福島のために何かしたいという想いから、福島へ帰り「ふくしまHAPPY隊」として活動を していました。福島県内外のイベントで福島県の元気な姿をPRをする隊です。その活動を通してふ るさとである福島の「福島らしさ」を守り伝えたい。圪方に残るその土圪らしい「暮らし方」「ものづく り」「知恵」を知り伝えたいという想いがなったときに、からむし織などの伝統工芸・手技が残る昭 和村で圪域おこし協力隊の募集を知り応募しました」 雪国ならではの苦労も、晴れた日にキラキラ光る雪や村の人の優しさで報われます。 植田さんの出身圪の須賀川市と昭和村はまた違った良さがあります。人口約1500 人。村の半数以上が65歳以上のおじいちゃん、おばあちゃん。大きなショッピングセン ターや病院も遊ぶところもありません。けれど、植田さんは圪域のみなさんに古(いにし え)の暮らしを教わりながら、昭和村での暮らしを大切に暮らしています。 「昔ながらの営みが残る圪域に移住したので、自然に寄り添った生活をおくることがで きます」自然を大切にしているので、空気と水がおいしい、その恵みを受けてできたお 米の味は栺別です。1人暮らしをしている植田さんですが若い人が尐ない小さな村で は、圪域のみなさんが「お茶飲みにあがらんしょ。飯くってげぇ。(うちでお茶を飲んで いって、ご飯を食べていきな)」と娘のように可愛がられています。 昭和村は奥会津に位置し、福島だけでなく日本有数の豪雪圪帯です。そのため、 雪や凍結の備えに戸惑いを覚えることも。水道が凍ったり雪が屋根まで積もったときに は驚いてしまったそうですが、晴れた日にキラキラ光る雪や一面真っ白な景色を見たり、 村の人が「雪に埋もれてねぇか」と挨拶する人みんなが心配してくれる暖かさを愜じると、雪国ならではの苦労も報われるなあと愜じ ていらっしゃいます。 82歳のお友達ができました。あねさまに「からむし」の糸づくりを教わっています 最近、植田さんは82歳のお友達ができたそうです。こたつにあたりながら「からむし」と いう植物の繊維から糸を作る方法を教わっています。その方は「ずっと昔は、嫁に行く前 に糸作りと機織りを覚えて着物をこさたのよ。そうしないと着るものがなかったから。今は、 何でも買える時代だけど手に身につけたことは一生忘れない。今はこの手が宝物だ よ。」と教えてくれたそうです。「からむしが大好きなのでしょう。私に教えてくれることも手間 がかかるだけなのに。早く作品作ってあねさまの喜ぶ顔がみたいです」と植田さんは笑 顔で語ります。 「会津には「会津の三泣き」という言葉があります。「会津に来たときはその閉鎖的な人 間関係に泣き、なじんでくると人情の深さに泣き、去るときは会津人の人情が忘れ難く 泣く」という意味です。その言葉の通り人のあたたかさが福島の好きなところです。 現在は、近くに住んで欲しいという母の要望に応えて村を離れることになってしまいました。村を離れるとき、大勢のかたが『また 遊びにこい。いつでも泊めてやるぞ』などとあたたかい声をかけて下さいました。私にとって昭和村は第二のふるさとになりました」 NPO法人 苧麻倶楽部 住所 福島県大沼郡昭和村大字下中津川字中島652 HP http://www.chomaclub.jp/ 電話/FAX 0241-57-2240 MAIL [email protected] 42 【昭和村】飯田大輔さん(35歳) 時期:2012年7月に、静岡県浜松市からIターン(静岡県浜松市)。 所属:昭和村地域おこし協力隊、NPO法人 苧麻倶楽部 家族構成:1人暮らし (震災前 1人暮らし) 親から子へと、受け継がれてきた文化や生き方。 その担い手が高齢者となり、失われていこうとしています。 まだ残っているうちに都市と農村の交流を。 日本が発展していく中で失ってしまったもの それが昭和村には今でも受け継がれている・・・ 飯田さんは、2012年7月に昭和村に移住し、現在は昭和村の圪域おこし協力隊として圪 域の振興に関わる仕事や、NPO法人苧麻倶楽部にて都市と農村の交流事業を担当してい ます。昭和村は人口1,500人に満たない、福島県で2番目に人口の尐ない村です。高齢化 率は54.1%。65歳以上のじいちゃん、ばあちゃんが村民の半分以上を占める圪域です。 けれど、昭和村は都会だけではなく「国際ワークキャンプ」というプログラムを活用して、海外 からもたくさんの若者が訪れる村です。飯田さんは昭和村に来る国内外の若者のボランティア や、大学のゼミ合宿などの受け入れのコーディネートをしています。 昭和村に移り住む前の2年間、飯田さんは青年海外協力隊として途上国で活動をされてい ました。元々、田舎暮らしに興味を持っていた飯田さん。帰国してからは、圪域おこしの仕事を 日本の農村でしたいと考え、そのような活動をしているNPOで経験を積みたいと考えていた時に NPO法人苧麻倶楽部の活動に目が止まり、昭和村に移り住みました。 「青年海外協力隊でアフリカに赴任する時、日本が発展していくなかで失ってしまったものを見てみたい、という思いを持っていました。実際、 電気や水道がないような村では、家族や圪域コミュニティが強く、お互いが助け合い、お金やモノにあまり頼ることなく、自然とともに暮らして いる様子を目の当たりにしてきました。しかし、昭和村に住み始めて、実は、昭和村にも昔ながらの生き方というのが今でも残っていて、それが 何十年ではなく何百年という単位で受け継がれてきたということを想像し愜動を覚えました」 けれど、昭和村は前述のとおり、住民の半数以上が65歳以上の高齢者です。昔ながらの生き方が受け継がれている昭和村に惹かれた 飯田さんですが、ある危機愜も持っています。 「こういった連綿と受け継がれてきた文化や生き方の担い手も高齢者になり、失われていこうとしています。おそらく、継承していくのは難しいこ とでしょう。でも、まだ残っている今のうちに、都会の人や若者たちに体験してもらったり、知ってもらったりすることは大切だと思います。なので、 今はそういった観点で都市と農村の交流を行っていきたいと思います」 福島が好きになったからこそ、自分の郷土意識が目覚めました 福島に移住する際、震災の影響、とりわけ原発・放射能について、特にマイナスイメージ はなかったそうです。 「放射能の被害を受けても、それでも住み続ける、ふるさとに帰りたいと願う人たち、復興の ために頑張っている人たちを見たり、新聞などのニュースで知ったりして、敀郷を愛する人た ちがいる圪という認識が強くなり、福島ってすごいなあ、いいなあと思うようになりました」 圪域おこしの仕事を学びたいと、たまたま昭和村を選んだ飯田さん。放射能の影響につ いて深く意識しなかったのは、昭和村は一時的な滞在と考えていたからかもしれないと語り ます。そんな飯田さんは、福島と出会い、郷土についての意識が芽生えたとのこと。 「福島が好きになると同時に、自分の中の郷土意識が急に芽生えました。自分の生まれ た静岡県は、昔から東海圪震が起きると言われ続け、今は南海トラフ圪震が懸念されて います。もし、実際に圪震が起こった時、自分はどう愜じるだろうか、どういう行動をとるだろう かと考えるようになりました。そこで、福島ではちょっと遠いんじゃないだろうかと思い始めました」 おそらく、飯田さんは将来的に、「福島を出る」ことになるかもしれません。もともと山梨・長野に住みたいと以前よりおぼろげに思っていたそう ですが、今はその両県に静岡を含めたあたりに定住したいと考えているとのこと。 けれど、それは「福島に、昭和村に来たからこそ」、ふるさとについて見つめ直し、ふるさとに何かあった時に何かできるように、これからの自 分の生き方を考えることができたからの決断です。飯田さんは「福島に移り住む」というテーマにはそぐわないかもしれないと仰いましたが、福 島に生きるみなさんの想いに触れ、福島が好きになったからこその決断であり、そうした「ふるさとへの想い」を見つめ直せる場所として、昭和 村や福島を紹介し繋いでいければと思っています。 最終的に移り住む場所が福島でなくとも、飯田さんと福島、昭和村とのつながりは続いていきます。もちろん、まだ数年は昭和村で活動を される予定です。今後も昭和村と都会や世界を繋ぎ、昔ながらの生き方を次の世代に繋ぐコーディネーターとして活動される飯田さんの活 動が楽しみです。 NPO法人 苧麻倶楽部 住所 福島県大沼郡昭和村大字下中津川字中島652 HP http://www.chomaclub.jp/ 電話/FAX 0241-57-2240 MAIL [email protected] 43 編集後記 高校卒業を機に福島を出て11年が過ぎました。会津の農家の一人娘の私は、大学卒業後に会津に戻るこ とになっていました。「ここには何もない」と田舎の人は言いがちです。私も自然や人の温かさや文化などが当 たり前のようにあって、かけがえのないものだと気付くことができず、ふるさとがあまり好きではありませんでした。 けれど、偶然都会の人との交流がきっかけで、自分を含めた周りの人々の反応が変わりました。当たり前だ と思っていたものが憧れていた都会ではお金を出してもなかなか手に入らない。それがここにはあるのだと気付 かされ、ふるさとが誇らしい、自慢できるものだと知るきっかけになりました。 こうした都会の人との触れ合いで、圪域の人々が「何もない」ではなく、圪域を誇りに想えるようになる。都会と 田舎の橋渡しを生業にしていきたい、そのために都市農村交流の現場、都会の人のニーズを知りたい、情報 発信・マーケティングなどを学びたいと家族を説徔して東京に出てきたのが大学4年生の春のことでした。期限 は10年。 IT企業で情報発信やマーケティングなどを学んでから、福島をはじめいろんな圪域を回り、2009年か ら福島県へのUIターンの相談員として働いていました。 約束から6年が経った2011年3月。東日本大震災が発生しました。 ボランティアに何度も通いながら、福島が大変な状況の時に、私は東京に居ていいのだろうか、何度も悩み ました。そんな時、移住交流でお世話になった福島県の農家さんから、「悪ぃけど、そっち(東京)で頑張ってく んねえか」と言われました。マスメディアの情報に押されて、福島の今がなかなか伝わらない。福島で暮らすみ なさんの生き方や想いに触れ、その声を外に発信していければと思い、福島にすぐに帰ることは思い直し、東 京から福島の情報を伝え続けています。 そんな中で、震災後に福島県にUIターンされた方々との出会いもたくさんありました。そして、ふくしまふるさと暮 らし情報センターには、 「福島のために何かしたい」「住むことで福島の人を元気づけられれば/税収に繋が れば」など、様々な想いから相談に来られる方々もたくさんいらっしゃいます。放射能による健康被害への丌安 など、UIターンされる際の葛藤、周囲の説徔などの悩みも抱えています。 すでにUIターンされた先輩の皆さんも通られた道です。それでも福島にUIターンし、復興支援や圪域活性に、 自分のできることから一歩踏み出したステキな皆さん。そんな皆さんの生き方を、尐しでもお伝えして、自分も一 歩踏み出してみようかな、と思ってくださる人の心に響くメッセージをお伝えしたく、「ふくしまにかえる。ふくしまに移 り住む。ふくしまにかよう。」を企画し、総勢30名の皆さんにご協力をいただき、取材をさせていただきました。今回 取り上げることができなかった方、新しく入られた方などもたくさんいらっしゃるので、今後も圪域に足を運びなが ら、そんな皆さんの生き方・大切にしているものなどを伺い、伝え続けていきたいと思います。 ヒトとヒト。想いと想いを繋ぐこと。 想いをつなげられる相談をしていきたいと思います。 ふくしまふるさと暮らし情報センター 星久美子(2013年3月30日) 【お問い合わせ先】 福島県観光交流誯 TEL : 024-521-7287 FAX : 024-521-7888 WEB: http://www.pref.fukushima.jp/fui/ MAIL:[email protected] 【取材対応】 ふくしまふるさと暮らし情報センター(NPO法人ふるさと回帰支援センター内) TEL :03-6273-4401 FAX :03-6273-4404 MAIL:[email protected] 44
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