広告の記号論 - genesis

平成 18 年度前期「文化記号論演習Ⅰ」 1
ジョディス・ウィリアムスン『広告の記号論Ⅰ』
(1978)、山崎カヲル&三神弘子 訳、拓
殖書房、1985
広告の記号論Ⅰ
序論 意味とイデオロギー
広告とは、私たちの現在の生活を形づくり、また反映もしているもっとも重要な文化的
要素のひとつである。あらゆるメディアに浸透し、そのうえ特定のメディアに制約される
ことがないという特質を持っている広告は、外見的に、自立した存在と広範な影響力とを
誇る巨大な上部構造をなしている。
広告にはモノを私達に売りつけるという機能がある。そしてモノを私たちに売りつけよ
うとするときに、広告は生産物の内在的な特質や属性だけでなく、そうした特性を私たち
にとってなにか意味のあるように見せかける仕方をも持ち合わせている。例えば、ある人
が「リッター当たり15キロ」で宣伝している車を買ったら、その購入者は節約家になり、
逆に「リッター当たり10キロ」の車を買ったら、節約に気をつかわない放胆な人になる。
つまり、どの車を買うかによってその人がなりたいタイプの人間になれるのである。広告
は私たちに人間的で象徴的な「交換価値」を与えるのである。そして、モノの言語を人間の
言語に、また人間の言語をモノの言語に変形しうるような構造を提供するのである。 広告は明らかに、あるタイプの消費者とある種の製品との間に結びつきをつくる。例え
ば、ダイアモンドを永遠の愛と結びつけて売り出せば、私たちは「ダイアモンド=永遠の
愛」と翻訳し、自動的にその結びつけを受け入れてしまう。つまり、記号を記号内容と、ま
たモノを情感と同一化してしまうのである。
広告が売りつけるイメージは、私たちが広告を受け入れ利用するようになるにつれて、
ブーメランのように返ってくる。視聴者は全ての広告をひとつのものとして見て、別の広
告からすでに得ているイメージを利用し、それをスクリーンに向け返す。広告は消費財に
加えて、他のなにものかをも私たちに売りつけるのである。
私たちの社会においては、広告が呼びさます偽りの諸カテゴリーのなかで、階級的な区
別が特定の製品の消費で作り出される区別によって置き換えられてしまい、現実の社会構
造を曖昧なものにしている。従事している職業に自らを同一化するかわりに、人々はなに
を消費するかで自分たちの自己同一性を作り出す。このことから、
「車二台にカラーテレビ
を持つ」労働者は、労働階級の一部をなさないという誤った主張が生まれる。私たちの社
会における基本的な差異は、いまだに階級的な差異なのであるが、階層や集団の区別を創
り出す手段として製品が利用されるため、差異が覆い隠されているのである。この覆いが
イデオロギーなのである。イデオロギーとは、社会の諸条件によって必然化されながら
も、これら諸条件を永続させる手助けとなるような意味のことである。
広告が持つ独特な特徴のひとつは、私たちが語り手と聞き手、主体と客体との双方にな
平成 18 年度前期「文化記号論演習Ⅰ」 2
ることなのである。先の「ダイアモンド」の例のように、広告の語りかけを受け取ることで
この語りかけを利用してしまうのである。最終的に、広告は循環的な運動をするのであっ
て、この運動はいったん開始されると、自己永続化の方向をたどる。広告が「作用」するの
は、それが本当の「使用価値」 に力の源泉をあおいでいるからである。また、私たちは社
会的な意味を必要とするだけでなく、物質的な財をも明らかに必要としているからであ
る。広告はそうした財に社会的意味を与えることで、財と意味とを交差させる。私たちに
必要な物質的なモノは、同様に私たちに必要な別の非物質的なモノを表現するようにな
る。こ れ ら ふ た つ の モ ノ の 交 換 点 に お い て「意 味」が 創 り 出 さ れ る の で あ る。
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第一部 広告作業
広告がなにを意味するかを理解するためには、広告がどのように意味するかを見出し、
また広告がどのように作用するのかを分析しなければならない。あらゆる広告の大部分
は、その背後にひかえている「メッセージ」からなっている。それらのメッセージを通し
て、私たちはある製品についてなにごとかを語りかけられ、またそれを買うように求めら
れている。そのような広告のメッセージは製品の利潤を生むことを目的としているため、
広告によって私たちは必要でもない製品を買うように促される。広告製作を批判する根拠
はこのような理由による。広告製作の批判は、多くの場合、現代社会における広告の役割
を理解する際の最大の障害物なのである。というのは、そうした批判は、広告とはなんら
かの望ましくないメッセージの不可視の送り手にすぎないという仮定を土台にしており、
広告の「形式」にではなく表面的な「内容」のなかに意味を見出しているからである。
通常の理解によると、「形式」は不可視であって、「内容」によって充さるべき足場であ
り、諸関係の集合体だと考えられている。他方、「内容」は意味の担い手で、実質的なも
のだと考えられている。「形式」や「内容」ということば自体は単独で使うかぎり有用な
のであるが、両者を対にすると、それらは意味を過程の最終結果としてではなく、過程そ
のものとして捉えようとする試みにとって有害な理論的障害になってしまう。
ここでは「形式と内容」という用語にかわって、「記号表現と記号内容」という用語を
使うこととする。記号表現はモノであるのに、形式は不可視である。また、記号内容は観
念であるのに、内容には物質性が含意されている、それだけでなく、形式と内容は通常は
分離可能とされるが、記号表現と記号内容は物質的に分離不可能なのである。なぜなら両
者は記号のなかで結び合わされており、記号こそが両者の全体をなしているからである。
意味を創出する際に記号表現が演じる役割は、次のタイヤの広告のなかできわめてはっ
きり示されている。
タイヤの広告について
この広告の表面的な意味は、グットイヤー・タイヤがきわめて良好な制動性能を持って
いるということである。広告に書き込まれたメッセージは、こう述べている。「制動性能
のテストのために、ドーセット州ブリットポートの桟橋に私が車を乗り入れたとき、四本
のスーパースティール・タイヤはすでに三万六〇〇〇マイルを走行ずみだった。私たちは
目標をたったの六〇フィートに定めたが、時速五〇マイルでブレーキをかけると、スー
パースティール・タイヤは、交通規制で決められた停止距離の半分のところで、私を止め
てくれた。この桟橋のうえでも、スラロームで走るとタイヤははっきりしたラインを描い
た ̶̶ 三万六〇〇〇マイルも走ったあげくなのに。」
これは合理的なメッセージであり、現実のテストでの結果を述べてタイヤが安全で耐久
性を持つことを示している。
写真を見てみると、桟橋は、車が桟橋の端まで進む前に停止できるかどうかテストする
ためのものだとされている。桟橋は最大の制動距離を測るための手段であり、合理的で
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「科学的」な証明を行なうためのものである。そこで車が停止した位置だけが、「記号内
容」の伝達に必要な情報だと言うわけである。
しかしながら、桟橋の意義は実際のところ危険とは正反対のところにあって、広告の文
章面の合理的な語りとは無関係な側面で作用している。桟橋の外観はタイヤの外観と似て
おり、その曲線もタイヤの形を示唆するものである。つまり、桟橋全体がひとつの大きな
タイヤなのだ。桟橋の外側、写真で言えば右手の側面に、いくつかのタイヤが付けられて
いることによって、桟橋とタイヤの結びつきがわかりやすくなっている。桟橋は頑丈で強
く、水や腐食に耐え、摩滅したりしない。外見上の類似性のおかげで、私たちはタイヤも
同じだと思い込む。また写真においては、桟橋は実際に車をすっぽり取り囲み、危険な海
の真っ只中でしっかりと車を保護して包みこんでいる。同様に、車とドライバーの一切の
安全はタイヤのなかに含まれる。タイヤこそが自然の諸力に対抗して車を支えるのであ
る。かくして、タイヤの制動力についてのメッセージを伝える道具の一部でしかないと見
えたものが、メッセージそのものに変貌するのである。それはほとんど無意識なレヴェル
で働くメッセージである。
この広告が示しているのは、広告のなかにある明示的な意味の記号表現がどのようにし
てそれに固有な機能を持つか、つまり他のより明確でない意味創出過程のなかで、どのよ
うな位置を占めるかということである。タイヤが頑丈で強く安全だという「隠れた」意味
は、公然と「明示」されているメッセージとは異なり、最終陳述として私たちに読み取れ
るように広告の文章のなかに安全な形で書き込まれたりはしないのである。ここで、三つ
の決定的な点を挙げる。第一に、この「記号表現の意味」は二つのモノの関連づけを含ん
でいる。二つのモノは論証や物語などの線にそってではなく、写真の中での双方の位置関
係によって結び付けられている。第二に意義のこうした移転は、広告のなかで完全なもの
としては存在しておらず、私たちに結びつきを作るように要求している。タイヤが桟橋と
同じくらい強力だとはどこにも書きとめられてはいないのであるから、そうした意味は、
私たちが自ら移転を完成するまで存在しないわけである。第三に、移転が基礎を置いてい
るのは、桟橋が移転さるべき意義を持っているという事実である。桟橋が力強いという意
味システム自体は広告の外部にあり、広告はそれを単に指示して、その構成要素の一つを
価値(力強さ、耐久性)の担い手として、つまり通貨として利用するのである。
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第一章 記号という貨幣(p 39 ~p 49)
本章の予備作業として、視覚的広告における色彩を検討することからはじめることとす
る。以下の六つの例は全て、少しずつ違った仕方で色彩を利用している。色彩は各々にお
いて、広告の文章部分では述べられていない《結びつき》の土台をなしているのである。
A 2 飲み物の広告
色彩の「軸」は、スクリュードライバーのふたつのグラスと森のかなたの太陽が作ってい
る、オレンジとゴールドである。この結びつきが、太陽と関係づけられ飲み物の温かく自
然で、純粋かつ軽い特質を示唆している。金色はトウモロコシと結びつけられ、それも自
然で熟成したまろやかさを示唆している。もうひとつの結びつきはカップルの服装と彼ら
のバックの白である。白いバックの中に黄金色のトウモロコシが入っているのと同じく、
スクリュードライバーは白い服のカップルによって飲まれ、消費されるということを示唆
している。
A 3 タバコの広告
広告に「Beautiful Blue」と書かれているが、ブルーは、この広告の中で1番重要な色で
はない。タバコのパッケージのブルーは、デニムのブルー、バックのブルーと溶けあって
いる。真に浮き出ているのは、ビンの頭の深紅色で、それは女性の唇の色とマッチしてい
る。ビンと口との結びつきは、タバコと口との結びつきと対応している。
A 4 タバコの広告2
タバコの箱は白と栗色からなり、コーヒーカップの色彩と完全に同じである。加えて、
箱のフタのへりは金色で、カップの受け皿のへりの色とマッチしている。ここで仮定され
ているのは、容器が色彩的に同じ以上、製品も同じ品質を持っているということである。
だから、カップのマイルドさと豪華さがタバコにも示されている。
A 5 タバコの広告3
ここでは、色彩(黒と白、それに少々の銀色)と形状(流線的な長方形)とが、タバコの
箱と、広告そのものが「世界」と呼んでいるもの、つまり「ランバート・アンド・バトラー」
とを結びつけている。ここでも、相関されているふたつのモノ(箱と部屋)は、実は共に容
器なのである。1本1本のタバコの対応物は人々である。したがって、この広告の文章、
「ほかのタバコ(人々)とはちがった特質やスタイルを持った……新しい世代のきわだった
タバコ(人々)の第一番目」は、直接的に人々と関連づけて解読されうるのである。
A 6 キッチンの広告
彼女の白い服は、室内で唯一白い食器だなの内部と結びつけることができる。女性の肌
は、卵と同じ色である。彼女の髪は食器だなの色とマッチしている。キッチンが彼女を反
映している。
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A 7 化粧品の広告
この広告では、製品と世界と消費者は全て、たった二つの色彩(黄金とブラウン)に還元
されている。黄金色とブラウンで「ブロンズ光沢」を伝えている。
色彩利用は単なるテクニックであって、画像的広告において、製品を他のモノと相関さ
せるために主に使われている。広告は形式的なテクニックを通じて、外面的な記号内容の
レヴェルではなく、記号表現のレヴェルで、製品と他のモノとの結びつきを行うのである。
a 差異化 (p 50~p 62)
洗剤、マーガリン、紙タオルといったカテゴリーの中にある製品間には、銘柄の違いは
あるものの、ほとんど実質的な差異がない。それゆえ広告は、同一のカテゴリーに属する
ある特定の製品と他の諸製品との間で差異を創り出している。例えば、同じ企業が売り出
す二つの似たような製品に、違った名前や違ったイメージが与えられたり、また A11 の広
告のように、いくつかの製品の集合体が、時には同一の「イメージ」によって一つの「範囲」
に属するものとして売り出されるという事実がある。
以下にいくつかの香水の広告を取り上げる。香水の広告は、製品について実質的な情報
を与えないので、広告の世界の外部からもたらされるイメージを香水と結合させることに
よって、他の製品との差異化を創り出している。
A 8 シャネルの 5 番の広告
カトリーヌ・ドヌーヴの顔とシャネルのビンは、いかなる物語によっても結びつけられ
てはおらず、両者は並置されることによってのみ関係づけられている。カトリーヌ・ド
ヌーヴのフランス美人のシックなイメージがそのまま香水に置き換えられているのであ
る。
A 9 ベイブの広告
この広告の「イメージ」は、A 8のような広告が存在しているがゆえに、まさしく衝撃的
である。マーゴ・ヘミングウェーの斬新さ、若さ、「男っぽい」スタイルというイメージが
香水に置き換えられている。
カトリーヌ・ドヌーヴとマーゴ・ヘミングウェーは、お互いに差異化されており、両者は
相互関係の中でのみ、記号としての価値を持っている。カトリーヌ・ドヌーヴがマーゴ・ヘ
ミングウェーとの間に持つ関係は、シャネルの5番がベイブの間に持つ関係と等価なので
ある。
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A10 シャネルの 19 番の広告
この広告のイメージは、カトリーヌ・ドヌーヴとマーゴ・ヘミングウェーの中間に位置し
ている。女性はここで「ウィッティで大胆」でありつつ、「圧倒的に女らしい」のである。
シャネルにとって重要なのは、5番と 19 番の区別をすることであり、カトリーヌ・ドヌー
ヴの「古典的」な女らしいスタイルと、19 番の「遠慮ないけれど、女らしい」モデルとの
間の差異が、区別を創り出している。しかし、同時にシャネルのこの二つの製品は、他の
香水メーカーとは違ったある独特な何かを共有しなければならないため、両者は「女らし
い」「フランス的」というイメージを持つ点で似ることになる。
A11 シャネルの 5 番の広告
ここでは、カトリーヌ・ドヌーヴが異種の諸製品を束ねるシンボルとして使われている。
異なった種類のモノにここで同一の意味が与えられ、他方では同じようなモノである香水
に5番と 19 番のように別々のイメージが与えられている。
b 完成された結びつき ̶̶ 客観的相関物(p 62~p 67)
(イメージ)をもったモノや人間こそが製品に意味を与えるにもかかわらず、私たちは意
味がもとから製品に備わっていると思いこまされ、相関物と製品とには本来的な類似性も
なく、ただ同列に並べられているにすぎないことに、ほとんど注意を払わなくなっている。
こうして、ある製品と何らかのイメージや気分が私たちの心の中で結び付けられ、しかも
その結合の過程は意識されないままである。
内的な思考や感情と、外的で「客観的」な何ものかとの結合は、広告だけでなく、どんな
意味創造の過程においても決定的な役割を演じるのである。この種の結合によって、主観
と客観、個と普遍との間にロマン主義が持ちこんだ深淵に橋を架けることが、芸術の機能
であった。
「芸術」には、私たちが個人的に経験するような感情やアイデアを、それらの個
人的な性質に左右されない場、どんな主観からも独立した「客観的」な意味を持つ場へと高
める機能があると思われる。芸術のそうした「結合的」ないし相関作成的な側面を、T・S・
エリオットは「客観的相関物」と呼んでいる。
現在、私たちに表面的に「客観的」な相関物や「意味」を提供するのは、メディアの役割
である。広告制作の技法は、気分やムードあるいは何らかの属性を有形の対象と相関さ
せ、手に入れがたいモノを手に入れ得るモノと結びつけることで、前者が手を伸ばせば獲
得できるのだと私たちに保障することにある。広告は情感を記号として使い、この記号が
製品を指す。製品を買う時、情緒の獲得も約束されるのである。それゆえ、情感と製品は、
記号表現/記号内容として交換可能になる。
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c 記号内容としての製品 (p 67~p 76)
当初、何も「意味」を持っていない製品が、私たちにとって何らかの価値を持つようにな
るためには、すでに何かを意味している人物やモノによって、その製品に価値が与えられ
なければならない。以下のいくつかの広告は、全て意味を与えられた製品の例示である。
A 12 タバコの広告(ジョン・プレーヤー)
ジョン・プレーヤーの広告は、豪華さの相関物として高価な車を使い、この車をタバコと
関連させている。タバコの箱のベージュと黒は、車のカラーと似ており、意味づけ機能の
ほとんどを担っている。タバコ自体が豪華さを「意味」したり、豪華で「ある」はずがない
のは、確かである。レイアウトを見ると、車は上の長方形の枠からはみ出して、タバコの
枠線内に入りこんでいる。車の踏み板の曲線は下方に進み、タバコを取り巻く方向に向
かっており、この曲線の動きはまた、タバコの箱に描かれたベージュ色の曲線と連関する。
それゆえ車は両者を結びつけるものであり、豪華な車は、空間的にも意味的にもタバコに
反映されている。最後に、上部の文章は、二つの異なった種類の豪華さがあることを述べ
ている。上部の文章は車とタバコを囲んでいる二つの枠線の外部に書かれており、それゆ
えに車とタバコとの双方を指示し、両者を結びつけて関係を作り上げている。下部の
「ジョン・プレーヤー・キングス ̶̶ 三五ペンスで豪華な味合い」という文章は、下部の
タバコを包む枠線の中に書かれている。これらのことから、両者を指す表現は枠線の外部
に置かれており、各々の対象についての文章は、妥当する枠線内に位置していると言える。
A 13 タバコの広告2(ビレア)
このタバコの広告の中では、私たちが「新鮮な味合い」 を喚起する食べ物が提示されて
おり、このタバコを喫煙することで、同様に新鮮な味合いが意味される。
A 14 壁紙の広告(サンダスン)
スーザン・ハンプシアは壁紙に意味を与えるために、相関物として使われている。彼女
は高尚で印象的かつ好ましい人間というイメージであり、サンダスンの壁紙はそのイメー
ジと結びつけることができる。彼女の「パーソナリティ」は記号内容であり、壁紙もまた、
同じ「パーソナリティ」を持つ記号表現である。
A 15 aおよびb 指輪とヴェールの広告(ハリファックス)
A 15 aの指輪とA 15 bのヴェールは結婚を象徴しており、両方の絵の中で力強い男性
の手が「約束・信頼・安心感」を示している。だが、これらの広告の主眼点は、実は男性が
差し出す信頼や安心感を損なうことに置かれている。文章はこう書かれている。「未来は、
決して自己実現したりはしません……時々、ちょっとした手助けがいるのです。
」男性が差
し出す安心感や約束という常套的表現の内実が暴露され、ハリファックスがその埋め合わ
せに約束・信頼・安心感を提供している。
平成 18 年度前期「文化記号論演習Ⅰ」 9
A 16 車の広告(モリス・マリーナ)
ポートペロ・ロードのマーケットは流行の盛り場で、そこにたむろしている人々は、明ら
かにボヘミアン風の凝ったライフ・スタイルを示している。私たちは骨董品を高価な流行
品と見るので、それと相関関係にある車も好むはずだ、というわけである。しかし、実の
ところ、車は場違いに見えるし、周辺の雰囲気と適合しておらず、不適切な所に駐車して、
人々の歩行を邪魔している。一見すると骨董品探しが指示されているように見えるが、明
らかに車への指示が意図されているため、結びつきは成功していない。それゆえ、記号表
現であるマーケットは、その意味を車に移転することに失敗している。
d 記号表現としての製品(p 76~p 80)
A 17 が示すのは、記号内容から記号表現への変容の過程の中にある製品である。
A 17 タバコの広告
ここで人々は、文字通りに「高級品」の相関物であり(
「上流社会」の反響である)、豊か
な生き方の相関物である。しかしながら、このパッケージ上の反映には水晶玉風の魔術的
なものがある。タバコを買う人々の多くは、上流社会のライフスタイルを反映させるため
ではなく、むしろそうしたライフスタイルを創り出すために、タバコを買うのである。
ある製品は、ライフ・スタイルの付属品になることによって、ライフ・スタイルと結びつ
けられ、それを記号的に表現するようになり得る。製品が「相関物」と融合していくにつれ
て、製 品 と 記 号 は 相 互 に 吸 収 し 合 い、製 品 は 記 号 そ の も の に な っ て い く の で あ る。
e 発生器としての製品(p 80~p 84)
ある製品は、抽象的な特質あるいは気分を代表するだけでなく、その気分を発生させた
り、気分そのものになったりする。つまり、単に「記号」 になるばかりでなく、その記号
の現実の指示対象にすらなり得るのである。また、ある製品が幸福を意味することと、そ
の製品が幸福そのものになったり、幸福を発生させることとは、区別して考えなければな
らない。例えば、幸福だと感じるからチョコレートを買いに行くという場合は、チョコ
レートは幸福感の記号であり、幸福感がその指示対象である。しかし、チョコレートを
買ったから、幸福だと感じるということになると、チョコレートは記号以上のものになる
のである。
A 18 飲み物の広告(ベイブチャム)
この広告の意図は、ベイブチャムがそれを飲む人の欲する状態へと導く助けになるだろ
うということである。ここでは私たちの感情にささやかな手助けを与えてくれるのであ
平成 18 年度前期「文化記号論演習Ⅰ」 10
る
。
ある気分と結合されたある製品を長期にわたって見たあとでは、連想によって、製品だ
けでもその気分が創り出されるようになる。
A 19 ヘア・カラーの広告(クレロール)
この広告を見た人が、広告の文章と街頭で踊っている女性の有頂天な姿勢から考えられ
るのは、彼女が幸福を見つけたこと、そして「見つけたわ」というコピーが幸福という感情
を指示していることである。しかし小さな文字で「私は髪の毛が失っていたツヤを見つけ
たわ」と書いてある。この文章が私達に語りかけるのは、彼女が「幸福(ハピネス)
」
(製品
名)を通じて、新しいヘア・カラーを見つけたということなのである。しかし、本当のメッ
セージはその逆で、彼女は新しいヘア・カラーを通じて、幸福(感情)を見つけたというこ
となのである。
このように製品は単に感情的な経験を表現するだけでなく、そうした経験そのものにな
り、経験それ自体を生み出すのである。
f.通貨としての製品(p 85~p 89)
A 19 のヘア・カラーの広告が示しているのは、感情と交換可能になった製品である。「幸福」と
いう名のヘア・カラーは幸福に近づくことを表象しており、それゆえにこの製品は幸福を買い取る
ような一種の貨幣になる。
A 20 a 及び b クレンジング・クリームの広告
ここで製品は、その使用価値を前面に押し出して売られているかに見える。しかしながら、実際
には、クレンザーは、ボーイフレンドを呼び戻す力によって宣伝されている。製品は、あるレヴェ
ルにおいては、それ自体の有用性を押しだしているが、同時に他のレヴェルでは、実体のないモノ
ないし入手困難なモノを買うための通貨として使われている。
この種の広告では、ある製品とそれが買い取りうる第2の「製品」
(愛、幸福等)の結びつきを発
生させる。
「お金で愛は買えない」としても、クレンジング・クリームでなら買えるのである。こう
して製品は消費者が買うことのできないモノ(愛、幸福等)を買うことができるのである。この結
果、製品はあなたに取って代わる。それは、あなたができないでいることを可能にする。例えば、
次のような冷凍野菜の広告がある。「バーズアイのエンドウ豆は、あなたの夫の注意を惹きつける
ためなら、どんなことでもしてくれます。
」女性とバーズアイのエンドウ豆とが、ここで交換可能
と さ れ る。冷 凍 の エ ン ド ウ 豆 が、女 性 に で き な い こ と を 代 行 し て く れ る の で あ る。
第二章 だれかに向けられる記号(p 91~p 96)
平成 18 年度前期「文化記号論演習Ⅰ」 11
記号は誰かに対して、あるものの代わりをする。あらゆる記号の記号表現過程は、特定の具体的
な受信者に依存している。ある人々の信念体系において、記号は意味を持つのである。広告にお
ける意味の交換作用においては、あるモノがなんらかのイメージないし情感を「置き換え」
、また
「表象」する。ついで、製品がこのモノの役割を「取り替え」て、そのイメージや情感の意味を專有
してしまう。製品を記号内容から記号表現へと変えるのに広告が成功するには、広告は、受け手の
空間へと入りこまなければならない。広告を見た人は、単なる受け手ではなく、むしろ意味の創出
者なのである。広告が私達に語りかけると、私達はただちにその語りかけを創り出し、またその創
出 者 と し て 語 り か け に よ っ て 創 り 出 さ れ る。私 達 は、「能 動 的 な 受 け 手」と な る の で あ る。
私達が広告に意味を与えることと、広告が私達に意味を与えることを関連づけているのが、イデ
オロギーである。私達は恒常的にイデオロギーを再創造している。私達は、誰かによって誤った
考えを「教え込まれ」たり、騙されたりしているのではない。イデオロギー作用はもっととらえが
たいものである。それが基礎を置いているのは、誤った諸前提である。私達は、それら諸前提が
「すでに」正しいと思っている。広告において、私達が消費者であり、なんらかの価値を自分で
持っており、その価値にしたがって、自由にモノを買い消費するだろうといった「事実」が「すで
に」定められている。私たちは自由な選択という罠にはめられている。「自由」とは実のところ、
もっとも基本的なイデオロギーの一部なのであり、広告製作のまったくの下部構造なのである。
広告は、メーカーが競争する自由の一部をなし、そうした競争から生み出される様々な製品のどれ
かを選択する私たちの自由の一部でもある。自由という観念は、イデオロギーの維持にとって決
定的に重要である。
a 貨幣は主体に交換を要求する(p 96~p 101)
貨幣の価値は、貨幣と交換されうるものによって決定されるのである。その価値は、物価の上昇
とともに下落する。このことから、価値とは、固定的で内在するものではなく、交換ないし置き換
えの中でのみ存在するのである。ちょうど貨幣の価値が、どれほどの食糧や衣服などを買えるか
で決められるのと同じく、記号の貨幣としての価値も、私達が記号が何と置き換えられているかを
「認知」して使うことによって決められる。カトリーヌ・ドヌーヴの顔が広告で使われる際、私達は
彼女の顔がどんな意味を与えるのかということを広告の外部にあるシステムの中で知っている。
しかし、その顔が広告で使われる前は、私達は顔が与える意味を知っているにも関わらず、その意
味に気付かないでいる。広告の中で意味を得ることで、私達は、その意味をあらかじめ知っている
ことに気付くのである。価値はモノの移転の中にあるのである。私達が、記号を恒常的に「解読」
することによって、その価値は永続化される。
それゆえいかなる価値システムもイデオロギーなのであり、イデオロギーが存在しうるのは、そ
れを構成する諸価値がその移転によって恒常的に更新されるかぎりのことである。モノは私達に
とっての「意味」を持っており、私達は、この意味を、広告の形式が惹き起こす不合理な精神的飛
躍を土台にして、製品へと与える。A12 においては、車がまずは意味を持っており、すでに述べて
おいたような形式的関係によって、タバコがやはり同じ意味を持つにいたる。私達は、そこで二つ
の記号表現の間での交換を作りあげており、その結果として生じる価値は、両者に共通する記号内
容のそれなのである。しかしながら、私達が交換を作り上げ、過程に参加しているという事実その
ものが、実は、イデオロギーの構成要素なのである。
平成 18 年度前期「文化記号論演習Ⅰ」 12
b. トーテミズム ――記号内容としての主体(p 101 ~p 112)
A8(シャネルの香水)と、A9(ベイブの香水)の広告では、製品を差異化するために人を使っ
ている。私達は、自分が買うものによって、他の人々と自分自身を差異化するのである。この過程
の中で私達は自らをその製品と同化する。これは一種のトーテミズムである。人間を集団的に差
異化するために、自然のモノとモノとの間にある差異を利用することを、レヴィ=ストロースは
トーテミズムと呼んでいる。著者が、
「トーテミズム」という言葉をあえて使う理由の1つは、それ
が階級的差異からなる集団とは混同しえないような、特別な集団を形成しているからである。広
告が曖昧に回避するのは、社会の現実的な諸問題、労働に関連した諸問題、それに誰が誰のために
働くかといった諸問題である。広告が創り出す社会的な差異化システムは、私達の社会的な階級
構造の上に張り付けられた飾りである。
広告が機能する、より巧緻なレヴェルは、
「すでにある」というレヴェルにほかならない。そこで
は「トーテミズム」はイデオロギーの一部となるのである。消費者は当然ながら自分がすでにその
集団に属しており、それゆえ製品を買うのだと感じなければならないのである。消費者は、広告に
よって、あるブランドを使うはずの人間の一人として自分自身を「認知」させられるから、そのブ
ランドを選びとるのである。そうでなければ、広告の意図は失敗だったのである。この理由から
して、決定的に重要なのは、広告が消費者自身の中に入りこみ、消費者の自己イメージの外部では
な く 内 部 に 根 を 降 し、実 際 に そ の 消 費 者 の 自 己 イ メ ー ジ を 創 り 上 げ る こ と な の で あ る。
A 21 ワインの広告
写真の中の人々は、一人一人がユニークで、はっきりした個人的な好みを持っているに違いな
い。食後の酒に何を飲むかについて意見が違うからである。しかし、彼らは、同じ種類のポートワ
インを珍重している。ポートは、彼らの好みの最も高級な共通意識として機能している。重要な
のは、彼らの一人一人は個性的に見えるが、ポートワインに関しては全員の好みが一致しているこ
とである。コックボーンのポートという「トーテム」を基軸に作られた集団が示されている。しか
し、広告は同時に、個性という概念を身にまとっている。そのうえ、広告は一人の個人としての消
費者に語りかけ、広告の中の人々が、
「あなたの友人たち」であるとアピールしている。写真は広告
を見ている人がテーブルの上座についている状態を示している。広告が主張しているのは、広告
を見ている人が個性的な友人たちを持ち、コックボーン集団に属しているということである。
A 22 タバコの広告(ナンバー・シックス)
広告の中の人々は、ナンバー・シックスの愛煙家であり、その製品に「日常的」なイメージを与
えている。広告は、「あなたのような人々が、ナンバー・シックスに変わりつつあります。」という
想定を含んでおり、広告の中の人は実際にナンバー・シックスにタバコを変えた人々という設定で
ある。広告の中の人々は、
「通常の」ないし、
「平均的な」人々に見えるよう、注意深く選び出され
ている。キャプションが語りかけているのは「あなた」なのであり、それゆえ「あなた」はメッセー
ジの一部に組み込まれてしまっている。
C.呼びかけと個人主義 ――主体として構成される個人(p 112 ~p 126)
広告は消費者をある集団の一員として構成するが、しかしまた、個人としての消費者にも呼びか
平成 18 年度前期「文化記号論演習Ⅰ」 13
けている。A22の広告の「 あなたのような人たちが、ナンバー・シックスに変わりつつある。
」と
いう呼びかけは、ある種の交換を含んでいる。消費者は、自分自身を「広告の中で話しかけられた
人」と交換するのである。広告の中の「あなた」は、常に複数の人々に送られているものだが、私
達はそれを単数と受け取る。つまり広告にはたった一人の受け手しかいない。消費者は、広告の
中の「あなた」になるという点で、製品を中心としたトーテム集団の一員として実在するのである。
私達が、トーテム空間に足を踏み入れると同時に、A22の絵の中のナンバー・シックスをふかす
人々と同様の人間になるのである。特定の製品と個人として結びつけられていることは、実際の
と こ ろ、私 達 が 一 人 ず つ「ト ー テ ム 的 自 己 同 一 性」と な る こ と を 意 味 す る よ う に な る。
製品にはそれぞれ名前がつけられている。固有名詞の使用は、分類化の終局点である。それは、
一義性の究極的な記号表現なのである。とはいえ、香水の固有名詞である「ベイブ」は、どんな女
性にも呼びかけられるほど、十分に曖昧である。私たちは、
「集団で」で呼びかけられ、しかも同時
に様々な主体として呼びかけられている。
A 23 a、b カメラの広告(PENTAX)
有名人が使っているペンタックスが示しているのは、製品があなたの一部になるというアイデ
アである。広告で示されているカメラはあなたのものではなく、ディヴィット・ホクニーとケン・
ラッセルのものである。両方の広告において、人々はやはり、モノと完全に自己同一化させられて
いる。これらの広告は社会全体に当てはまる集団を示すのではなく、ただ一種のミニ・トーテム集
団を示しているだけである。
A 24 車の広告
この広告の車は、あなたが自分自身の嗜好や判断を持ち合わせていることを、前提としているの
である。「 あなたの嗜好はすてきに感じるって……それはすばらしい。でもあなたの判断の方
は?」と、買い手を強調することで、広告は、別の文脈ではステロタイプ化された大量生産品にす
ぎないものを、個性へと変容させうるのである。
ペプシを買う場合、消費者はお金を製品と交換するだけでなく、消費者自身をペプシ・ピープル
とも交換する。消費者は特別な人間になるが、それでも集団の一員なのである。この消費者の選
択が個人的なものであり、私たちは自分の「信念」にしたがって行動しているのだという神話を維
持することが、広告にとって決定的に大切なのである。
A 25 車の広告
この広告の目標は、広告を見ている人を突出させて、道路上の「羊たち」の群に加わらないよう
にすることにある。しかし、もしもこの広告を見た人々が全員フィアットを買ったとしたら、彼ら
は明らかに、そうたいしてユニークな存在にはなれない。
ユニークな主体になることを呼びかける広告に含まれているあらゆる矛盾を、このフィアット
の広告は全面的に明らかにしている。私たちは他人とは異なるものとされることで、結果的には
全員が同じになる。私達は決して、他の誰かと同時に、広告を受け取る主体の空間にいることはで
きない。したがって、私達が自分を同一化できる唯一の人間は、広告の内部にいる人間なのであ
る
。
平成 18 年度前期「文化記号論演習Ⅰ」 14
A 26 タバコの広告(カールトン)
この広告は、個性という概念に新しい次元を与えている。製品は様々な人々にではなく、様々な
場にある消費者にふさわしいものとして提示されている。3つの異なったカールトンを与えるこ
とで、消費者に「選択」の幅を与えている。
広告がいかにして、様々な場にある「あなた」という観念を取りこんで、差異を同一性へと吸収
してしまうかをA26は示している。消費者の内部にある様々な「複数のあなた」という問題を広
告に取りいれるのが、呼びかけ過程の次のステップである。
d. 分割(p 127~p 140)
広告がきっぱりと「あなたはこのような存在だ」と断言することは、次第に困難になりつつある。
それゆえ広告は「あなたの人格には沢山の側面がある。
」と言うようになってきている。こうした
発想は、レイアウトの総体、その「配置」と密接に結びついており、映画製作における分割スクリー
ン技法と並んで、視覚的広告製作において次第に多様されるようになってきている。構成された
レイアウトの総体が持つ核心は、それが様々なモノ、また広告を見ている人の様々な側面を表象し
つつも、それらすべてを同時に表象しているという点にある。
A 27 ヘアーのセット製品の広告
各々の絵には主題がつけられ、彼女の多様な活動は単純化されて、ヘアセットの様々な機能と合
致するラベルが貼られている。人格のこのような分割(キャリア・ガール、ロマンティックなデー
トをする女性、健康的なスポーツ愛好家)は、その女性の多面性を暗示するように見えるが、実の
ところ女性の人格を単純化し制限している。文章には「あなたが髪を家でセットするとき……」と
ある。つまり、広告に全体性を与え、人格のこうした多様な側面に意味を与える基軸となるのは広
告を見ている人なのである。広告に見入ることで、消費者が視覚的に様々な図柄を統一するので
ある。
A 27 では、広告を見る人が全体を創造するのであり、この統一は私達の内部でしか行われない。
こうした広告は潜在的な広告批判を受け入れる方法を示しており、広告独自の意味システムに批
判を統合してしまう。このことは特に、広告によって長い間単一の「女らしさ」を持つとみなされ
てきた女性への広告の対応策にあてはまる。「女性解放運動」の発想が広告の中にも浸透してきて
おり、広告も、宣伝する製品が単にあらゆる女性に当てはまるだけではなく、一人の女性の内のあ
らゆる種類の女性にも当てはまることを、断乎として示すつもりなのである。
A 28 香水の広告 (カシェ)
この広告は、A 27 と同じく、ある女性の生活のさまざまな側面(彼女の外見、彼女の趣味、彼
女の仕事)を示しているが、それを表示する各パネルの型や大きさの変化が、A 27 と比べて、よ
り一層柔軟であるという幻想を作り出している。
差異のこうした創出が性的役割と結びつけられているのは不思議ではない。前の二つの広告で
女性達は示され、解放されている(つまりキャリア・ガールにも夜の麗人にもなれる)ように見え
るとしても、彼女達の演じる役割が持たざるをえない限界や含意は、同じ原理が男性達に適用され
る広告において、よりはっきり見ることができる。
平成 18 年度前期「文化記号論演習Ⅰ」 15
A 29 車の広告
ここでは一つの広告の中に3台の車がある。ロマンチックな雰囲気のための、そして男らしさ
のシンボルとしての「ガッツにあふれ」
「若々しく」刺激的な車と、
「子供や愛犬」のためのやさし
く実用的なファミリー・カーと、
「男の子」をやさしく惹きつけ、つり道具も運べるスマートでゆっ
たりとした車である。興味深いのは、各状況が別々の車を必要としていない点にある。広告の主
眼は、一台の車で3つのことができることに置かれているからである。
これらの車の広告は、男性と女性のきわめて奇妙な関係性を示している。男性の方は、生活の真
に「男らしい」諸側面が家族を切り離してしまっており、女性は、実務的なオフィス・ガールとい
う側面が、彼とのデートのために変身するという側面に変わるのである。
A 30 化粧品の広告(スキン・ダイナミックス)
モデルは「生化学者として」の彼女の職業的役割と対比されて、
「女性として」示されている。そ
れゆえ、生化学者としての彼女は女性でないとされている。
「生化学者として」の女性は、髪はきち
んと整えられ、服装は男らしいシャツとジャケットで、また唇は閉じられている。ところが、
「女性
として」と書かれた写真では、同じ女性が流行の髪型をして女らしいブラウスを着ており、唇は誘
いかけるように軽く開かれている。女性の顔全体の表情が、ここでは女性を見つめている男性の
眼に連動しているのである。
また、この女性は販売者と消費者とへの分割も表象している。女性は一方でスキン・ダイナミッ
クスを推奨しており、他方で、同じ彼女が少々驚いた口調で「スキン・ダイナミックスのすてきな
ところは、本当によくきくことね」 と述べているのである。それはまるで、広告主によって製品の
ために作られる約束と、消費者によって経験されるその諸効果とが本質的に分離されているかの
ごとくである。
この広告の中で、女性は生化学者(女性に対立するもの)と女性とを記号的に表現しなければな
らない。この女性の場合、各々の半面の意味は、他の半面が当てはまらないところに依存してい
る。両者ともに「彼女」であること、単一の人格をなしていることを私達は知っている。ところが、
私達は彼女が空間的に統一されているとは見ない。それゆえ、女性が本当は「同一人物」だという
私達の認識は、想像力のレヴェルで存在するのである。
e. 広告制作と「鏡像段階」(p 140 ~p 154)
筆者はこれまで、いかにして広告製作という作業が様々な記号の交換から作られるかを示して
きた。広告の中での様々な価値イメージとの交換を通じて、製品の差異化は、主体としての具体的
な諸個人の差異化と彼らへの呼びかけとを可能にする。本節で明らかにしたいのは、いかにして、
またどのような形式で、広告によって呼びかけられ、差異化される主体が存在するのか、というこ
とである。
広告が公然と行うのは、欲望の対象、つまり自我を私達に記号表現し表象することである。消費
者による記号の交換を通じて主体を罠にかけ/創造しながらも、実のところ広告は、自己のうちで
の一貫性や意味を求めるという主体自身の欲望に糧を与えるのである。
社会の記号表現的諸実践は、私達が誰であるかということと結びついている。以下でジャック・
ラカンの理論を扱うことにする。ラカンの精神分析理論が重要なのは、それが意識を生来的なも
平成 18 年度前期「文化記号論演習Ⅰ」 16
のではなく、創出されたものと見るからである。つまり、主体は生得的ではなく形成されるのであ
る。ラカンは、同一性(一種の全体的内在性)と差異(つまり意味作用)という二つの領域を描き
出すのに、想像界と象徴界という用語を使っている。想像界と象徴界を結ぶ軸が、
「鏡像段階」であ
る。ラカンの鏡像段階理論は、鏡を前にした幼児の反応の観察から展開された。幼児が鏡の中の
自分の像と向かい合うと、鏡に写った像が「本当に」自分自身だと気づくにいたる過程が生じる。
幼児は、自分が統合を欠いていること、自分の身体の全体を一度に見ることができないことを知っ
ているので、鏡の中の人間が自分であると自覚したとしても、像は自分自身とは違うとも思う。か
くして、自らの身体的統一性を鏡像として見ることで、幼児は自らの自己同一性を自己とは分離し
た状態に置くように要求される。想像界において、幼児はいまだに統合された位置にある自分自
身の像と固く結びつけられており、幼児とその像、つまり「主体」と「客体=対象」とは差異化さ
れていない。想像された「私」は幼児から空間的に分離されているため、両者の結合は想像的なも
のとならざるをえない。象徴界とは差異の構築物なのであり、そこでは記号はもはやその指示対
象とは合体されえない。よって、幼児は自らの像と分裂するのである。
幼児が自らと鏡像との間にもつ関係は、二つの相矛盾する認識を含んでいる。一方では、幼児と
その像は同一である。想像界レヴェルでは、鏡という障害は砕け、幼児の自我とその表象である自
我像との間には、自己同一性の流れが存在する。この想像的統一性が理想自我である。しかし他
方では逆説的なことに、像が「統一化された」自我を表象するために、像は自我から分離させられ
なければならない。なぜなら、記号はなにごとかを記号的に表現しなければならず、像が幼児を
「意味する」ためには、その像は、不可避的に彼であってはならないからである。それゆえ、同一性
が存在する想像界と、差異が存在する象徴界の二つの領域が形成される。
鏡像は幼児を表象しうる。しかし、幼児が自分自身を他の人々と差異化するまでには、鏡像は社
会的自己同一性、つまり「社会的自我」という意味での幼児を表象することはできないのである。
象徴界への接近は、性的差異の認識によって得られる。この認識こそが「社会的自我」を創り出す
のである。ひとたび「社会的自我」が形成されると、旧来の統一された「理想自我」への復帰は不
可能となる。というのは、鏡像はいまや、幼児との関係で特定のある意味を持つようになり、かく
して幼児はそれと完全に再融合はしえなくなる。想像界から象徴界への境界線をひとたび越えて
しまうと、想像界への復帰は不可能になる。
ラカンが言うように、主体が自らを自分自身から疎外する像に固着することで、自我がその生き
られた自己同一性には還元できなくなるとき、自我は形成とエネルギーの双方において構成され
るのである。このことは、広告製作過程ときわめて類似している。私達が、渇望しはしても、決し
て手に入れられない私達自身の像を、広告は提供するのである。広告は、私達自身が行わざるをえ
ない交換の中で、私達をひとつのモノにしてしまい、それによって私達自身の「価値」を取り返し
てくれる像を私達から取り上げ、私達の自己同一性を疎外してしまう。
A 8において、カトリーヌ・ドヌーヴの視線は私達に向けられている。多くの広告が同様であっ
て、モデルの顔は、私達の方に向いており、その視線は、私達の視線と絡みあっている。とはいえ、
A 27のタイプの広告では、視線の方向は、全てバラバラである。
「分割」型の広告では、私達は、
いわば鏡の中から外を見るのであって、それによってバラバラな人間に対して、不在な統一性を与
えるのである。こうして私達は全体的な像になる。あるいは、そうした像になりたいと思う。
イデオロギー装置としての、あるいは象徴界における記号表現システムとしての広告製作は、主
体に対して象徴界での位置を再=提示できる。あなたが広告と能動的に関係するなら、広告は「自
我理想」の偽りの創出を行う。広告が提示するのは、あなたの欲望を惹きつけることを目的とし
た、あなた自身の象徴である。広告が行いうるのは、主体の位置を誤認させ、主体と広告の関係を
誤認させることである。広告は、私達の前に他者の像をちらつかせるが、また私達にそれと同一者
平成 18 年度前期「文化記号論演習Ⅰ」 17
になるような誘いもする。そうすることで、自我理想の想像的な統一性へと向かう、私達の退行的
な傾向を利用するのである。統一性の対象としてのシンボルを私達に差し出すことで、広告は、私
達が不可能なものを追い求めるよういざなうのである。
A 31 旅行の広告
この広告は、はっきりと「ラカン的」状態を示している。旅という発想は、あなたと「本当のあ
なた」との間の距離を越えるという意味で、広く転用される比喩だからである。トムスン・ホリデ
イと旅に出かけるなら、あなたは自分自身をほとんど忘れてしまう。旅は、息もできないほど窮屈
に生きている自我と、本当のあなたとして表象される自我理想との間の隙間を埋めるものになっ
ている。
「起きるかどうか判らない嫌なこと」を待ち受けておびえている自己と、再発見されるた
めに疎外されている自己との間で、旅行会社によってある交換がなされる。下の写真で、女性は
シーツのようなものの陰にある何かを見つめている。おそらく女性は、見ている対象を買おうと
しているのだろう。ちょうど私達が、息をつまらせている現実の自己と、トムスン・ホリデイで待
ち受けている本当の自己の間を旅行して、私達自身を見つけるように。
f. 創り出された自己(p 155 ~p 166)
A32 化粧品の広告
この広告における鏡像は、
「自分の肌に満足していない」あなたと、広告にある鏡の中で示されて
いる完璧な肌をしたあなたの姿との間の分離を含んでいる。写真の男性は〈他者〉であり、あなた
は彼を惹きつけたいと願っている。実際には、男性の写真も、「あなたの肌があなたにほほえみか
けている」写真も、同じようにあなたから分離している。しかし、広告の中で鏡が示されているこ
とで、あなたは鏡を見ている女性の位置に不可避的に置かれてしまうのである。広告にある鏡の
前にあなたを置くことで、あなたは鏡の中のモノの世界と合体する可能性を与えられる。
A32 では、完璧なほほえむあなたを表象したが、A33 ではあなたの敵を表象する。これら双方の
広告において、女性の視線があなたを見つめていることに注意してほしい――彼女達はまるであ
なた自身の映像でもあるかのように、あなたを見つめ返している。
A33 化粧品の広告
ここでは、あなたの肌が「あなたを見捨てる」という発想が示されている。消費者と写真の女性
との間には隔たりがある。というのは、広告を見ている人が、自分の肌の心配をして、肌があなた
を見捨てるかどうかを気に病んでいるとされているのに対して、写真の中の女性は明らかに若々
しい肌をしているからである。女性が鏡を手にしているのに、それを見つめていないことに注意
してほしい。鏡の裏は私達の方を向いているので、彼女が手にしている鏡は、
「彼女」と「私達」の
間にある見えざる鏡の代わりをしているのである。
鏡の中で、あなたの外面、あなたの顔はすでにモノという資格を得ている。だから容易に、企業
の所有物であるモノになりうる。鏡によってすでに持ち去られた私達の顔は、完全に流用されう
る。次の広告では、私達の顔は消費者である私達の一部ではなく、製品の一部になってしまってい
る。私達は流用された自分の像との統一性を再創造できるわけである。
A34 化粧品の広告(コティ)
平成 18 年度前期「文化記号論演習Ⅰ」 18
コレクションの一部としての顔――この「コティによるすてきな顔のコレクション」は、その顔
が誰か他の女性の所有物であることを示している。顔は芸術作品の地位を与えられている。
A35 化粧品の広告(マックスファクター)
A34 と同じく、顔は芸術作品と見なされている。写真全体が、油絵に似せた処理を加えられてい
る。しかしこの場合は、顔全体が持つモノ的な性質は、顔の一部がモノ化している点を強調してい
る
。
A36 化粧品の広告(レヴロン)
ここには、顔の中でも特に創り上げられた部分、つまり眼がある。レヴロンはあなたの顔を創り
上げるのであり、そうして創られた顔はまったくの顔そのもの、だれのものでもありうる顔にな
る。顔が製品なのである。右側の三つの小さな写真が、この顔は大量生産されるのだと告げてい
る。小さな写真では、別々の色のアイシャドウの効果が示されているが、顔の形は全て同じであ
る。つまり、モデルの顔はアイカラーを塗るためのモノでしかない。
私達は私達の人格や特性を、さらには私達の過去や未来をも創り出すのである。これはまった
く実存主義的である。私達は製品を買い消費する。しかし、私達こそが製品なのである。私達の
生活は購買を通じて、つまり様々な製品によって創り出される私達自身の様々なイメージを通じ
て、私達自身の被造物になる。私達は顔、眼、ライフスタイルを創りあげる芸術家になる。
A37 レコードの広告
この広告に含まれる自己芸術化はおどろくべきものである。
「一緒になったあなた達の生活」と
は創り出されたモノにほかならない。また、
「あなた達は生活を一緒にした」と書かれている。つ
まり、あなた達の生活は完了したのである。それは変化しないであろう。生活そのものが購買可
能な人工物になってしまうのである。
平成 18 年度前期「文化記号論演習Ⅰ」 19
第三章 解読のための記号―解読学(p 167 ~p 180)
広告は私達を、解釈さるべき世界、つまり意義の世界へとますます包み込んでいる。様々な対象
が、広告掲示板やポスターの中で新しい象徴的な意味を獲得している。対象はもはやモノではな
く記号なのである。以下で明らかにしたいのは、広告製作過程において製品や人間や言語が、それ
らの通常の豊かさと対立した仕方で不在化され、この排除が主体に、
「自由」に彼ら自身のための意
味を生み出しうるという印象を与えるという点である。
ところで、広告における不在が私達にそれをなにかで埋めるように要求し、またジョークないし
パズルが私達に「解読」を要求するとしても、そうした解読過程は明らかに自由ではなく、広告が
自らの解読のために提供する回路、注意深く準備された回路を通るように制約されている。例え
ば、広告についての法則規制が導入されたため、マスケン社は自社製のビールが「健康によい」と
いう主張を放棄せざるをえなかった。それで今では、昔からのスローガンの一部を使って、
「すば
らしい色、すばらしい味、そのうえなんと……」と述べている。今や私達がこの文章の点線部分を
埋めなければならない。私達は公然と意味形成への参加者として呼び入れられる。とはいえ、点
線部分を充たす正しい答えは、
「健康によい」という1つしかない。私達は広告そのものへと、広告
のかつての形式へと差し向け返されるのであり、このかつての形式を知っているから、点線部分に
なにを入れるかという知識を引き出せる。
不在やジョークは、広告制作上では本質的に異なった二側面ではない。広告の中のジョークや
パズル、ユーモアや言葉足らずの表現は、全て広告製作が常用するもので、そこではなんらかの
ギャップ、それに欠けているものへの遠まわしの言及が、広告を通じて到達されるはずの不在の意
味へと近づくための位置に私達を置くのである。広告における不在は、パズル(例えばクロスワー
ド・パズル)における不在と同様に、何かが意味されていることを示している。不在やパズルは、
自らの「明示的」意味を私達に潜在的だと提示することで、真の「潜在的」な意味を隠してしまう。
記号を解読する過程において、私達は意味の発見者として構成され、
「意識的」活動に巻き込まれ
る。この活動こそが私達に、記号表現過程におけるある種の不透明さを通して、そのかなたにある
メッセージを見せ続けるものである。それゆえに、解釈的で限定された「解読」に加わっていると
はいえ、私達は記号表現過程そのものを見過ごしてしまうのである。
不在を含む広告と、だじゃれやカリグラフィーを使う広告とは、一見するとひどく異なってみえ
るが、それらは広告の記号システムが直接的に有意的な現実へと導くという仮定を共有し、土台に
している点で似かよっている。それらは「すでに」そこにあるものを表象するだけである。記号を
表象的なものと見たり、あらかじめ存在し、私達が接近可能な意味を持つとする考えこそが、イデ
オロギーにとって本質的なものなのである。このイデオロギーの中で、私達は自由な主体に見え、
秩序と意味を持つ世界を理解しうる。このことがまた、その秩序や意味は当然ながらイデオロ
ギーに規定されており、
「現実」に「すでに」世界にあるものではないという事実を曖昧にしてしま
う。しかし、ある記号が自分自身のかなたを指し示すようになると、それはモノのシステムをあり
のままに再生産しているだけだと主張するにいたる。本章にある広告の全ては、私達が現実を解
釈しているのだと、つまり、広告は歪められない直接の関係性において、本当に現実を指示してい
るのだと、私達に感じさせようと努めている。
広告における不在の利用と「解釈」という考えとの双方は、イデオロギー的な機能を持っており、
そこではイデオロギーは、
「自由」にふるまう具体的な「主体」の創出を行う。主体の創出過程は、
広告における不在の充填という考えと明らかに深い関連がある。なぜなら、不在もまた、不在の周
平成 18 年度前期「文化記号論演習Ⅰ」 20
囲にある諸対象がもつ偶然性によって規定されるからである。
私達はこの切り取られた不在の空間に自分自身を挿入するように誘われ、それによって象徴界
への私達の参入を再上演する。この結果、広告の中のモノが、私達=不在なものを記号表現する。
つまり、モノはそこにいない人間、観客を指示するのである。
広告を解釈することで、私達は、意味の「生産」に「意識的」にたずさわっていると思い込める
のである。私達は現前しているものと不在なものとの、記号表現と記号内容との交換を行ってい
るのである。私達は真の「意味」を生産などせず、あらかじめ決められている「解答」を消費する
にすぎない。解釈の過程は、広告そのものによって制約されているからである。
以下に挙げる全ての広告において、不在なものと現前しているものとの間の関係は、対称性(シ
ンメトリー)による結びつきである。つまり、記号表現は記号内容の対称的な再生産にほかならな
い。
A38 テレビの広告(ソニー)
この広告は、私達に参加を呼びかけている。それは、スクリーンの部分を切り抜いて、窓の外を
その空間から見てみろと呼びかける部分である。私達は、不在を埋めるよう呼びかけられている。
つまり、切り抜かれた空白のスクリーンの「かなた」にある内容を、私達が提供しなければならず、
この内容が現実世界なのである。この現実世界は、テレビ枠によって限定されており、その意義は
広告によってあらかじめ決定されている。したがって、私達が、スクリーンを埋めるよう誘われて
いる画像の「かなた」にある世界は、実のところ製品を記号表現し、ソニーのテレビ画像を表象す
るために使われる象徴なのである。しかし、それは広告が現実を表象していることも含意してい
る。
a. 不在 (p 180 ~ 199)
広告が最も効果的に機能するのは、自らの意味を直接に明らかにすることによってではなく、そ
の意味を広告の解釈学的な「解釈」の結果ないし商品として与えることによってである。私達はそ
の表層を解読することで、
「隠された」意味への「突破」に成功したと思って、表層そのものを放棄
してしまう。広告を見る人は、広告の中に滑り込み、その空間に入って、意味の「発見」に参加す
るように誘われるのである。
広告の中に入り込むようあなたを誘う最もはっきりした方法の一つが、不在の充填である。と
ころで、解釈学的世界においては、意味はモノの「背後」にある想像的空間の中で見出される。し
たがって、解釈学的な「意味」は、常に解読さるべき対象には不在なのである。
例えば「鏡像段階」においては、鏡の中の「想像された私」は「私」という鏡をのぞきこんでい
る人間を記号表現する。だが、この人間は鏡からは常に不在であり、その意味作用は自らから離れ
去って、外部の指示対象を指し示すことにあるのである。広告内の想像された人間が、あなたを、
つまり広告では不在な人間を指示することを、著者はすでにいくつかの広告で示した。しかし、私
達を解読に縛りつけることで、広告は私達を理解から引き離すのであり、広告そのものの空間内部
で不在を表象することによって、こうした基本的な不在の自覚を偏倚させる。私達は自由に素材
を読むわけではない。解読するためにある特定のヒントが与えられることで、私達の理解は一方
向にのみ流しこまれるのである。
a 1 不在の人物
平成 18 年度前期「文化記号論演習Ⅰ」 21
A39 タバコの広告
この広告には人物がいない。しかし、私達はそこに与えられているデータ、つまりある種の性格
を示す相関物(新聞、カード、チケット、帽子、場所)から、ある自我を構成する。これらの「目
印」はある人間を表現する記号である。――だが、彼は不在であり、私達もそうなのである。不在
であることを共有しているため、私達は容易に彼と合体する。私達は無意識のうちに、
『タイムズ』
は上流階級向けの新聞であり、イスタンブールはエキゾチックな場所であり、黒いメガネは神秘的
だなどと、広告の中にある記号としてのモノの一次的な意味を想定してしまう。広告の外部にあ
る記号システムについての私達の認識が呼び入れられ、またその記号システムによって私達が広
告の中へと呼び入れられる。
同様の現象がすでに A21 においても観察されていた。これらの広告は言ってみれば、鏡像関係
を逆転するようにと私達を誘っている。私達が鏡の中に入り、不在によって私達とひどく似てい
る人物になれと誘うのである。
A40 キッチンの広告
ここでの写真のアングルは、あなたが実際に部屋の中におり、トマトが置いてある場所のちょう
ど手前にいるかのような幻想を創り出している。欠けている人物はあなたなのである。ここでも
また、スコット・ジョプリンの音楽、ワイン・ボトル、古風なシロップ・ナベなどの不在の人物に
ついてのいくつかの目印が、影のような輪郭を作っている。ワイングラス、それに4つのボールは
また、ディナーパーティーを暗示する。つまり、ここでは物語が語られている。
「あなた」の一番近
くにあるトマトとタマネギがまずきざまれて料理され、ワインが飲まれ、レコード・プレーヤーが
……というわけである。暗示されている話のこうした進行と時間的な運動とが合致するとはいえ、
広告を眺める時間の長さと、広告に含まれる話の長さの間には、いまだに非対照的な関係が存在し
ている。私達はこのように、この空虚な台所の中で、時間的にも空間的にもある位置を与えられ、
周辺にある一群の記号表現によって、私達の不在の内に、構成されるのである。
この種の「不在」広告は物語を含んでいる(もちろん、物語は全て偶発的である)。この種のコン
テクストの核心は、物語の不在の主人公があなただということにある。あなたは広告に誘われて、
閉ざされた物語の中である位置を占めるように広告の中に閉じ込められる。
不在の男
別タイプの不在が、見る者の不在である。これは一般的にセックスと結びついている。以下の
例おいては部屋の中にある「目印」は男性を記号表現しており、女性も単にこの目印の一つでしか
ない。
A41 飲み物の広告
見えざる男――この女性はある男性を見ている。彼女のセリフは、男性の「何か飲むかい?」と
いう問いへの答えである。彼女のドレスは挑発的にボタンがはずされており、見えざる相手が男
性であることをはっきりと示している。彼女の後ろにはチェス盤がある。それは二人目の人間と
の親密さを暗示し、しかも同時に男との関係での彼女の知性を示してもいる。この広告の中で男
はどこにもおらず、しかしあらゆる所におり、一切を規定し決定する強力な現前者であり、彼に
よって女性は自分自身を規定しなければならない。彼女は彼の眼を通じて自分を見、また彼の言
平成 18 年度前期「文化記号論演習Ⅰ」 22
語で自分を語ることを運命づけられている。
A42 ビールの広告
男性は、ビールとシガーを手にして、わずらわしさの一切から「解放」されている。彼の自立性
や男らしさは、そのことに結びついている。彼は「受け手」の方を向いていない。彼にはその必要
がない。消費者は彼を見るのではなく、彼とともに製品を見ることで、製品を売りつけられてい
る。
a 2 不在の製品
テレビのあるビールの宣伝は、ビールを決して登場させない。その一つでは、工場内で二人の労
働者がコンヴェア・ベルトから空のグラスを二つ取り上げ、そこからビールを飲んでみる。する
と、職長が後ろからやって来て、もう「閉店時間」だから、
「飲み干す」ように彼らに言う。製品は
実際には不在なのだが、広告の中の二人の男性の態度や嗜好などによって、ビールは十分に記号表
現されている。広告の中で不在であることによって、空白を充たすべきモノは単に置き換えに
よってではなく、偶発的なものによって常に規定される。空白を取り巻くものが、空白の形状を決
めるのである。本節で取り上げる広告は、広告の中の不在を表象し、その不在を一連の偶発事の一
部とする点で特異なのである。偶発性という発想は、必然的に物語へといたる。物語の中で製品
にある位置を与えることは、常にこの種の偶発性による規定を含む。物語がユーモラスに思える
場合には、物語の中の「ギャップ」が完全に製品に適合していないのである。 A43 テレビの広告(ソニー)
テレビは不在であるが、それは室内にある別の諸対象、つまり青々とした観葉植物、いくつもの
小さなソケット、テレビ・スタンドによって規定されている。それが不在である場所もまた、一種
の輝きを帯びている。この輝きは、失われた対象を欲望の領域へと位置づけるオーラである。私
達が経験するのを許される唯一の悲しみは、いまだにソニーのテレビを持っていないという悲し
みでしかない。それゆえ、私達は物語の中に包みこまれ、私達の未来の購買行動はそれによって条
件づけられ、不在についての話にハッピーエンドが与えられるのである。
A44 テレビの広告
この広告では、人々と製品との不在が、同一の写真の中で可能になっている。広告の中の人々が
スマートでありながら、テレビを見るなら、私達もそれが可能であるし、人々がテレビを「観ない」
のであれば、私達もそうしない。つまり、二つのグループの重要性は、テレビを見る「スマートな
人々」と見ないない「スマートな人々」の存在を私達に知らせることである。とはいえ決定的な点
は、様々な記号が関係し、有意的に共存し、価値を交換することである。