秋学期グループ Service-Learning Year 2 Gregory King This was the second year for our students to partake in the Ohio University Long-Term Study Abroad Program: Japan-American Academic Service-Learning (JASL) Semester Abroad. I had the pleasure of chaperoning the students both to Ohio University in August and back to Japan in December. I was able to observe some classes duing my time at the beginning of the semester, but unfortunately all of the classes were finished when I arrived in Athens in December. I was impressed with the speeches that students gave at the beginning of the semester. I believe that I observed the first speeches that the students gave in their class with American students. I was impressed with the level of quality of the speeches and many of the speeches given by the students in the Department of English Language and Culture at Chubu University were better than those given by the native speakers of English. I was able to observe from afar what the students were doing in the U.S. from seeing what was happening on Facebook and on the LINE group that we made. It seems that students had a great time in Niagara Falls, New York City, Washington D.C., Kings Island, and the other places that they went. I saw that some students even made it to an NBA game in Cleveland. I was also happy to see that students were able to participate in a variety of service-learning activities and that the types of activities were better than the year before. I know that this was especially due to the hard work and dedication of Mr. Kevin Jambor, who taught the Fluency/Service-Learning class this year. I hope that we can continue to improve this program in the years to come. As always students did not want to return to Japan at the end of the program. I hope that they can retain the level of excitement about learning English that they had on the day of their return. I would ask that students find a way to continue to study every day and take advantage of everything we have to offer in our department whether it be classes taught in English, going to English Table, or even taking PASEO classes. Now is not the time to relax, but the time to continue your progress towards further proficiency in English. 授業で発言することが楽しかった 川口由依奈 アメリカに 4 ヶ月間留学するという体験はと ても貴重ものとなった。行く前は、留学生活に 対する実感が全くなく、それは飛行機に乗って も同じであった。バスでオハイオ大学に向かっ ている時も、ここはアメリカなのだと思う程度 であった。オハイオ大学に着くと、オハイオの 大学生が出迎えてくれた。そこから一気に英語 だけの世界になった。私は焦った。荷物をバス から降ろすとき、オハイオ大学の学生が何か言 っていることはわかったが、内容は理解できず、その学生へ反応する者は誰もいなかっ た。皆、戸惑っていることがよくわかった。当然だが、聞こえてくる会話が全て英語で あった。ここで私はやっとアメリカにいることを実感した。突然、心臓がバクバクする のがわかった。この時のことはとても印象に残っていて、今でもはっきりと覚えている。 ここから私のオハイオ生活が本当に始まったのである。 私にはルームメートがいた。彼女はブラジル人で歳は私の一つ上であった。彼女は少 し内気で大人しい性格だった。私はアメリカ人や他の国からの留学生は音楽をガンガン にかけていてドンドンとものをいってくるイメージがあったので、もの静かなブラジル 人のルームメートは少し意外であった。彼女は何もわからない私にお風呂のことや寮の ことを教えてくれた。しかし、私は彼女の英語を聞き取ることができず “I’m sorry, please say that again.” と何回もお願いした。彼女は根気よく私に付き合ってくれた。 違う日に彼女と話していた時、また聞き取れずに私が同じようにお願いすると、彼女は “Why did you say sorry?”と笑いながら聞いてきた。私は少し驚いた。私にとっては “sorry”というのは当たり前のことだったからだ。わたしが聞き取ることができないた めに彼女に同じことを言ってもらっているのだ。「すいませんが」とお願いするのは当 然である。日本人なら私と同じようにお願いするのではないだろうか。しかし彼女にと って、それはおかしなことだったのだ。なぜ私が“sorry”というのかという質問につい て、私は上手く答えることができず、その場はそのまま終わってしまった。 後からそのことについて考えると、確かに日本人は「すいません」という言葉をよく 使う気がした。また謝るような言葉もよく使う。この話を一緒に留学にきた友人に話す と、友人も同じようなことがあったという。そう考えると、 日本人は相手に何かしてもらう時や、相手にお願いするとき 少し申し訳なさを感じているのではないかと思う。少なくと も私はそのように感じていた。私は日本でアルバイトをして いたが、仕事を相手に頼むとき最初に「悪いけど○○お願い してもいい?」と言っていたことを思い出した。アルバイト の先輩や後輩などもそういっていたように覚えている。年上 の人に頼むときは尚更だ。しかし、私のルームメートやアメ リカ人たちはよく“thank you”と言っていたように思える。 「すいませんが○○お願いします」という言葉ではなく、 「○○してくれてありがとう」 という言葉をよく聞いた。彼らは話すときお互い同士いつも対等であった。 それは授業中に意見を言うときも同じであった。アメリカ人たちは授業中もどんどん 発言していき、先生に意見を述べていた。日本人の私にとってそれは驚くことであり、 最初の頃はその場面を見ていて、そんなにはっきり言ってしまって大丈夫なのかと心配 してしまったほどだ。しかし先生はそれが当たり前というように、学生たちが意見した ことや尋ねたことに答えていった。実際、先生たちはむしろ私たち日本人に対する対応 のほうに困っているように見えた。というのも、私たちがなにも発言しなかったからだ。 日本での授業で先生が話している時に発言する者はそういない。だが、アメリカで日本 と同じように授業を受けていると、先生が困るのだ。なんだか面白かった。日本で塩澤 先生の授業を聞いていたので、多少異文化についての知識はあったのだが、こんなにも 違うのかと思った。そこから私は日本人の友人と授業で少しずつ発言していこうという ことを話しあった。発言するのに慣れていないうえ、英語で発言するということもあり、 それは容易ではなかったが、発言すると先生が返してくれることが楽しかった。その瞬 間、私はアメリカにいるのだなと実感できたのである。 それ以降も、私はやれることはなるべく積極的にやっていこうと思い、さまざまなこ とに自分から取り組んでいった。Conversation partner とも自分から連絡をとり、二 人で一緒にカフェに行って話しあった。このように、私は日本にいた時の自分では考え られないほど積極的に行動することができたのである。そして 4 ヶ月のオハイオ大学留 学でたくさんの思い出ができた。American Experience での授業、日本語を教える授 業、アメリカ人との食事、パーティーなど、毎日がたくさんの初めてであふれていた。 最初のうちは、アメリカ人と一緒に食事をするだけでも緊張した。留学生活の途中には 辛いこともあり、日本に帰りたいと思ったこともあるが、私が4ヶ月間頑張り続けられ たのは一緒に留学した中部大学の友人、オハイオ大学の先生や学生たちの助けがあった からである。 私はこの 4 ヶ月の留学を終えて、学んだことがたくさんある。また、自分自身でも、 前よりも発言することや自分から行動することに抵抗がなくなったように思える。これ は私にとってとても大きなことである。今考えると夢のような4ヶ月間だった。長いと 思っていた4ヶ月だったが、あっという間だった。こんな貴重な体験をさせてくれた両 親へはもちろん、友人や先生にも感謝したい。そして今回、この4ヶ月の留学生活で学 んだことをこれからも忘れず、将来の私の生活に生かしていきたい。 私を変えたアメリカ 福山紗帆 私の留学の目標は英語の上達というよりは、自分を変 えることであった。周りの目ばかり気にして消極的にな ってしまう自分が嫌で、そんな自分からの脱却が大きな 一つの目標だった。 アメリカにいって一番に感じたことは、 「皆、自由だ」 ということだった。芝生の上にビニールシートを敷いて パソコンを操作している人、木にハンモックをかけてお 昼寝をしている人、そんな人を至る所で目にした。自由 でのびのびした国だと感じた。授業でも自由に自分の意 見を発言したり、突然質問を投げかけたり。日本での静 な講義が当たり前だった私にとっては、大きな衝撃を与 えた。 私は思っていることや、言いたいことがあっても周りを気にして言えないときが多く あった。周りの人に出しゃばりだと思われることや、悪く思われることが怖かったから だ。だがアメリカで COMS1030 のクラスメイトが堂々と自分の意見を発言している姿を 見て、自分の意見を言うことが悪いことでは決してないことを知った。実際私が授業中 発言したときも、それに対して周りのアメリカ人のクラスメイトがうなずいて聞いてく れた。当然だがアメリカでは自分の意見を言うには英語で伝えるしかない。伝えたいこ とがあっても、うまく伝えられなくて悔しい思いを何度もした。そのとき毎回、日本に いた頃、日本語で伝えるなんて簡単なのに、なぜあんなに難しく考えていたのだろうと 感じた。日本で周りの目ばかり気にしていた自分の悩みがちっぽけなものに思えた。こ のときから私は目標である消極的な自分からの脱却のための大きな一歩を踏み出せた。 また伝えたいことを伝えたいように自分の言葉で伝えることができることが、どんなに 幸せなことか知った。難しく考えずに話すことのできる母国語の大切さや、日本語がわ からない人とのコミュニケーションをとるために必要な言語を学ぶ大切さを知った。言 葉がないと伝えたいことが伝えられないという当たり前のことを改めて知ることがで きたと思う。 以前の私は、英語を間違えてしまったらどうしよ う、間違えたら恥ずかしいという思いが強かった。 しかし実際はどんなに間違えても、どんなに時間を かけて話してもアメリカ人は聞いてくれたし、理解 しようとしてくれた。アメリカに着いてまだ二週間 もたってない頃、隣の部屋のジェシカに初めて会っ た。ジェシカは何か私に話しかけてくれたが、私は 聞き取ることができず、答えることができなかった。 とにかく何か言わなきゃいけないと思い、私は必死 に自己紹介をした。名前や日本から来たことを説明 した。私はジェシカと上手くコミュニケーションと れなかったことがとても悔しかった。後日私はジェ シカの部屋を訪ねた。以前会ったとき話しかけてく れて嬉しかったこと、私は英語が上手くはなせないし、上手くあなたの英語も聞き取れ ないこと、でも彼女と仲良くしたいことなどを伝えた。おそらく間違いだらけの英語だ っただろうし、すべて話し終わるまでかなりの時間がかかった。しかしジェシカは私が 最後まで話し終わるまで、うんうんと頷きながら聞いてくれた。そして最後に、困った ことがあればいつでも助けるから、と言ってくれた。このでき事は、私に自信と勇気を 与えてくれた。その後もジェシカに会うと挨拶をしたり、宿題のインタビューを手伝っ てもらったりした。私はこの体験でどれだけ英語が話せるかが重要なのではなく、どれ だけ伝えようとするかが大切なのだと知った。 言語は人と人を繋ぐためにはとても大切である。しかし、言語以外にも人と人を繋ぎ 国境をこえるものがあると私は知った。それは音楽とスポーツだ。私はアメリカで仲良 くなった友人のオーケストラのコンサートを見に行った。会場にはたくさんの観客がお り、とても盛り上がっていた。最後は、会場にいた全員で総立ちし合唱した。そのとき 私は会場にいたすべての人と一つになって楽しめた。同じような経験をスポーツ観戦の 場でも味わった。私がオハイオ大学で初めて応援しに行ったのは、女子バレーボールの 試合だった。まず会場に入り驚いたことは、大学生の試合だというのに会場には多くの 観客がいたことだ。しかもオハイオ大学の学生だけではなく、近所に住んでいるのであ ろう老夫婦、小さな子供を連れたご家族、まさに老若男女、様々な人が観戦に来ていた。 そしてそのほとんどの人が Ohio University と書かれた T シャツやパーカーを着ていた ことにも驚いた。もしかしてこれはプロの試合なのかと疑うほどであった。日本ではな い光景に戸惑った。アメリカはこんなに母校愛が深いのだと驚いた。試合に始まると、 対戦相手の選手紹介では背を向け、逆にオハイオ大学の選手紹介は、照明を暗くしての 派手な演出だった。いざ試合が始まると、会場が一体となり応援が始まった。オハイオ がポイントを取るたびに観客が声を合わせて“Ohio!”と叫んだり、相手のサーブの時 は圧力をかけるような声をあげたりした。はじめは応援の仕方もわからないし戸惑って いたが、次第に応援の仕方がわかってくるとアメリカの学生たちと一緒に喜び飛び跳ね ていた。最終的には、知らないアメリカの学生たちとハイタッチをしたりしていた。言 葉を交わさなくても、同じことを感じ、共有できた気がした。それから私は様々なスポ ーツを応援しに行った。メンズアイスホッケー、アメリカンフットボール、メンズバス ケットボール、やはりどの競技でもたくさんの人が集まり、一体となって応援していた。 私はその空間がとても好きだった。 オハイオ大学で様々な経験をし、以前の自分からの脱却と、伝えようとする意志の大 切さや、言葉以外にも人と人を繋げるものがあると知った。決して日本にいては学べな いことばかりだった。私は本当にこの留学に行けてよかったと思っている。行かせてく れた親と、支えてくれた友人と先生方に感謝したいと思う。 アメリカが私を変えてくれた 武儀山留奈 私にとって海の向こう側へ行くということ、 そして、そこで勉強をするということは小学校 の時からの憧れであった。その夢がかなうと思 うと、私は楽しみで仕方なかった。アメリカと いう単語にでさえ魅力を感じていた。強い憧れ だけをもっていたからか、私は日本とアメリカは文化や考え方、その基本が違うという ことを忘れていた。初めの 2 週間は生活に慣れるのに必死であった。入浴、食事など、 生活のスタイル自体が違っていたためである。そのカルチャーショックをうけるたび、 日本はこうなのに、日本の方が優れているのに、と日本とアメリカを比較してしまう私 がいた。広く心をもつということができなかった。それに加えて不安もあった。 寮に到着し、すぐに数人のアメリカ人の学生が声をかけてくれた。しかし、中学や高 校のとき聞いていた英語の早さとは比べ物にならないくらい早く感じ、私が言えたのは 名前と国名だけだった。またある日、私はコーヒーを買いに行った。コーヒーを買うこ とにこんなに苦労するとは思ってなかった。私の英語が全く伝わらないのである。申し 訳なさで一杯になった。生活にも順応できない、言葉も通じない、英語を話すのが楽し いと思えなくなっていた。 そんな時、私はカンバセーションパートナーと出会った。一人はアメリカ人の Rachel でもう一人は中国人の Yujia である。それと同時に日本語クラスの学生たちとも出会っ た。私の英語は決して上手ではなかった。しかし、彼らは私の言いたいことを最後まで 聞いてくれ「こういうことだね」と言いながら、理解しようと努力してくれた。それが 素直に嬉しかった。自然と英語を話すことが楽しくなっていた。ある程度仲良くなって からはよく遊ぶようになった。 ある時、Rachel から映画のお誘いが あった。誰が来るかも告げられていな かったので、私はてっきり2人で行く のだと思っていた。しかし、行ってみ ると 10 人弱はいた。驚いた。またそ れとは逆に、 Yujia とその友達を誘い、 ご飯を食べに行ったとき、 「友達は誘っ てこなかったの?」と不思議がられた。 どうやらアメリカでは知らない人でも、 誘いたい人を連れてきても、快く受け入れる習慣があるらしい。日本だったら、はじめ に誰が来るかを告げるだろう。また、誰が来るかで行くか行かないか判断することだっ てあるだろう。 こんなこともあった。映画を観に行った日、Athens の映画館は比較的古いからなの かどうなのか分からないが、映画の冒頭で音声が流れなかった。座席があまりよくなく 前の人の頭で映像をよく観ることができなかった。日本であったらまずこういうことは ない。こんな風にアメリカで生活していると、日本と違うところが意外と面白くみえて きた。初めのころはアメリカと日本を比較しては日本が優れているとアメリカを否定し ていた。だが今はその比較の仕方が違う。日本とアメリカを優劣なく比較し、その違い が魅力に思えるようになっていた。 それと同時に、私の英語もな んとかしなくてはと思った。ま ず、伝わらない理由を考えた。 理由としては私の英語に自信 がない故、はっきりと話すこと ができていないこと、もう一つ は発音がよくないことだ。発音 の授業がいかに大切かを実感 させられた。それを知ってから は、インターネットで発音のし かたをチェックし、英語で話す ときもスピードは遅くなって しまうが意識してはっきりと話すようにした。また、アメリカ人の友人とチャットで連 絡を取る際、友人が使っていた表現を真似して使ってみたりもした。カンバセーション パートナーの Yujia とその友達とご飯を食べに行ったとき、彼女たちはお互いの英語が 違っていたらお互いに指摘しあっていた。それもなんだか印象的だった。英語で会話す ればするほど、状況にあった単語の使いかたや、relaxed pronunciation などがわかる ようになった。英語はよく聴いて使うことが上達のコツでもあると思った。また COMS1030 は一番手ごたえがある授業であった。回数を重ねるごとに難しくなってい くスピーチ、最初のころに比べると質がかなり上がったように感じる。私の英語は今に なっても上手とはいえない。だが、私は留学に行く前よりも確実に上達したと胸を張っ ていえる。 留学に行って目で実感したことがもう一つある。それは学生一人一人が夢を持ってい るということだ。就職難であるから、大学に行っていたほうが給料や就職先がよくなる からといった日本の大学のありかたとは違う。アメリカの大学は夢をかなえるためにあ るのだ。その夢をもった人たちが、遠いところから来て勉強している。私は英語が勉強 したいという考えだけで中部大学に通っている。だが夢がない。何になりたいかわから ない。もしかしたら英語とは全く関係のないものかもしれない。しかし、夢をかなえる ために勉強しているという考えをうけてからは、自分自身の将来をさらに真剣に考える ようになった。 この留学で、私は英語だけではなくアメリカの文化も経験することができた。自分自 身の考え方も見つめなおすことができた。それもすべてこのアメリカが教えてくれた。 4 ヵ月間は長い人生の短い間であるが、アメリカで過ごせたことに、とても喜びと誇り を感じている。そして留学を通してお世話になった人たちに感謝をしたい。 分岐点となったオハイオ生活 長縄聡志 私にとって今回のオハイオ長期留学は、これからの人生のターニングポイントとなっ た。アメリカでの4ヶ月間は、非常に楽しく日本ではできないようなことを多く体験し た。だが、反対に辛く投げ出したくなること悩んだこともあった。私は、今回の留学で 英語で日常会話を円滑にできるようにすることを目標としていた。しかし、その目標は これからの成長過程に過ぎないと帰ってきた今強く思う。私は将来の夢が決まっていな かった。漠然と の留学で英語を になった。 験が 英語を使った職に就ければよいと考えていた。しかし、こ 使って将来どんな仕事をしたいのかと深く考えるよう そういう面で今回のプログラムは、非常に貴重な体 できた4ヶ月と感じる。 私は、留学当初「自分は英語を聞く耳には自 信がある。」と思っており、少しの会話ぐら いはできるだろうと自分の英語力を過信 していた。だが、その自信はすぐに打ち砕 か れた。ネイティブスピーカーの話す英語は、 非常 ができな 槌をたくさ だ。今思えば、 に早く癖があり全くといっていいほど聞き取る事 かった。したがって、初めの頃は理解できない事は相 んしていた。分からない事を分からないままにしていたの 極めて恥ずかしことだなと痛感する。言葉の壁だけでなく日本 とは異なった生活や文化など、ただでさえ会話で手がいっぱいだった自分には非常に辛 い時期であった。異文化に適応することは容易ではなかった。何をするにでも必ず言葉、 会話が必要となってくる。少し買い物がしたい時でも相手の言っている言葉が理解でき ずに一苦労。一つの動作をすることにも時間を多く費やしてばかりだった。そして、留 学しにきて初めて日本でもっと勉強をしておけばよかったと後悔をした。自分の持って いる単語の少なさ、挨拶ぐらいしかできない日常会話、自分の実力を気づかされること が多い毎日だった。だから、この悔しさをバネにオハイオの生活で自分を変えようと心 に決めた。 また、私は非常に負けず嫌いな面があるため必然的に誰かと自分を比較してしまう小 さい人間である。自分の友人が流暢に英語を聞いたり話したりしているのを見ていたら 対抗心が沸かないわけがなかった。それと同時にできない自分に劣等感と焦りに埋もれ 勝手に気持ちが沈んでいた。ほとんど毎日顔は合わせると思うので周りに優れている人 がいれば同じ体験をするかもしれないだろう。しかし、一番大事なことは自分をしっか り持っていることだと実感した。他人と比較するのではなく自分自身がやりたいことを 実現できているかということだ。英語ができる人は今まで努力をしてきたから、自分は それをできるようになるために努力をしないといけないということだ。比較するべきな のは周りではなく今までの自分である。結果的には、このような思いが英語に向き合え る理由となった。 まず、会話を円滑にするため英語を耳に慣れさせることが重要だと思った。だから、 寮にいる人たちに自分のことを知ってもらうためたくさん話しかけた。オハイオに日本 人は少ないようで日本から来たと話すと多くの人は興味を持ち、すぐに打ち解けること ができた。自分の中でアメリカ人は、同じ人種の人としか関わらないと勝手に思い込ん でいた。しかし、実際には全く異なっていて誰に対してもフレンドリーで紳士的だった。 道に迷ったときや困ったとき、関わったことのない人に「What’s wrong?」や「Can I help you?」と道行く人は声をかけてくれ非常に嬉しかった。このとき私は、同じことが日本 で起きたとして同じ結果ではないだろうと国の文化の違いをすぐ実感した。 また、寮でできた友達 Caleb は私の拙い英語を頑張って聞いて、積極的に話しかけて くれた。私も彼とたくさん話がしたかったので「How was class today?」など会話を試 みた。フレーズを一つや二つしか知らないと途端に会話が途切れるため、必然的に日常 会話の勉強をするようになり今思えば彼には非常に助けられた。Caleb は遊ぶ時は遊ぶ 勉強するときは勉強とメリハリのついた人であり人間的に尊敬できた。 しかし、彼のように優しい人ばかりではなかった。Caleb の繋がりで知り合った人に は、「何を専攻しているの?」と質問され「英語です。」と答えた。「へ~」と返された が明らかに「その英語力で?」というニュアンスが私には伝わり、バカにされているよ うでとても悔しかった。だから、見返してやるくらいもっともっと頑張ろうと強く思っ た。日本ではこんな感情は生まれなかっただろうし、こんな体験もしなかっただろうと 思う。しかし、今までの自分ならバカにされても「なにくそ!」と対抗心すら燃やして なかっただろう。できないことをできないままにして「自分の母語は日本語だから。 」 と、自分の中で逃げ道を作っては英語に向き合うこともしてなかった。故に、今までの 人生も「どうせなんとかなる。 」と根拠もなく考えていた。だが、留学を終えた今は英 語の向き合い方が以前とは変わったと 胸を張って言える。そして、これからの 事についても真剣に考えるようになり、 少しは精神的に大人になれたと思う。 講義も大事だがその他の余っている 時間をどう使うか、当たって砕けて自分 の実力を知ることが重要ではないかと 感じた。私は、たくさんコミュニケーシ ョンを試みて今では留学当初よりも耳 が養えたと実感できる。普段の日常の方 が学べることが多いと思った。 今まで自分が留学に行くとは考えてもいなかったが結果的には非常に大事な分岐点 だったと思うし、オハイオは自分を変えられる場所だと自信をもって言える。後押しし てくれた先生方や留学へ行かせてくれた親には言葉にならないほどの感謝である。この プログラムがあったから、笑ったり、喧嘩したり、悩んだりと切磋琢磨できた同期たち。 どれも何一つ欠けてはいけないことだと思う。この経験を生かしてさらなる成長へと頑 張りたい。自分に関わってくれた人たち、本当にありがとう。 何もかもはじめてのオハイオ留学生活 小田智之 私は 4 ヶ月間オハイオ大学に留学するという貴重な経 験をした。オハイオ大学での生活で、私は心身ともに大 きく成長できた。この 4 ヵ月間の内容は濃く、留学して 本当に良かったと思えるものだった。だが、なかには、 辛いことや思い通りにいかず悔しい思いをしたことも いろいろと経験したが、今になって思い返してみると、 それらは自分自身のステップアップに必要な材料であ ったのだろうと感じる。また、この留学で Halloween や Thanksgiving など、普段日本では絶対味わえないよ うな行事にも参加することができて、とてもよい経験に なった。 私にとって今回の留学は何もかも初めてのことばかりの生活であった。まず飛行機に 乗るというのが初めての経験であった。ましてや、飛行機に乗って国外に出るなどは、 当然のことながら、初めてのことであった。よって、飛行機搭乗の経験には最初から最 後まで自分でも驚くほどの感動を覚えた。そしてアメリカの空港に到着して、オハイオ 大学へ向かう途中にも、バスに揺られながら真っ直ぐな道路や、左ハンドルの運転席に さえ、一人で興奮していた。そうしている間に、私たちはオハイオ大学に到着した。 私はまずオハイオ大学のキャンパスの大きさを目の当たりにした時、あいた口が塞が らなかった。中部大学も私の中では非常に大きな大学であり、それ以上に大きなキャン パスを持つ大学はないだろうと思っていたので、オハイオ大学の広大さを目の当たりに して、余計に私は感動したのである。私は College Green 近くにある Bryan Hall とい う寮に住むことになった。寮内でも驚いたことがあった。それは、お風呂とトイレであ る。日本のお風呂はバスタブ・シャワーが一般的だが、ここの寮のお風呂は日本とは全 く違い、市民プールの更衣室に置いてあるようなシャワー室が 3 つ並んでいるだけであ った。水も軟水ではなく硬水だった。とにかく、日本と比べるととても使いにくかった と同時に、初日から日本のお風呂が恋しくなってしまった。トイレも日本とは違い、ド アの下部分が丸見えになっている構造だった。トイレに関しては、留学に来る前から知 っていたし、実際に使ってみても特に差支えはなかった。全てが違っていたが、異文化 をさっそく体験できたことが嬉しかった。 翌日、オハイオ大学のキャンパスを巡り、改めて圧倒的な大きさを実感した。そして、 本格的に授業が始まったのである。履修した科目の中で、COMS1030 は主にスピーチ の練習をする授業であった。私は大人数の前で話すことが苦手で、あがり症なのでこの 授業については本当に苦であった。もちろん、初めの頃は緊張しすぎて自分の覚えてき た台本がなかなかスムーズに出てこない。途中で何回もフリーズしてしまうことが多々 あった。他の人はなぜあんなに緊張せず話せるのだろうと私は何度も考え、悔しかった。 そして、担当の Linn 先生や Tutor の Kat さんに教えてもらったスピーチのコツを参考 にし、暇さえあれば練習するようにした。すると、その後のクラスでは、私は前回より も少々ながらスムーズに話すことができた。こ の感動を忘れないように、スピーチがあると、 私はひたすら練習した。やはり慣れてくるのだ ろうか、回数を重ねるたびに、それに比較する ように、緊張はするがスラスラと自分の意見を 話すことができるようになったのである。また、 Pronunciation のクラスでも、私は初めの頃、 L と R の発音の区別がうまくできなかった。 特に R の発音が上手くできずに、私は毎週担 当の先生と練習した。そこでも悔しかったので、 COMS と同様、暇さえあれば発音の練習をし たのである。すると、知らぬ間に R の発音が できるようになった。そこで、 「努力は嘘をつ かない」という言葉はこういうことだ、と私は 実感したのである。 授業外でもはじめてのことが多々あった。その一つは旅行である。この留学では思い 出せないほど多くの旅行をした。その中でも、ニューヨークとワシントン D.C に行っ たことが特に印象に残っている。ニューヨークでは生まれて初めて自由の女神をフェリ ーから見ることもでき、有名なタイムズスクエアの周辺も巡ることができた。一番感動 したのは、映画『ナイトミュージアム』のモデルとされている自然史博物館に行けたこ とである。この博物館は中に入ると、様々な動物の展示品があり、どれも日本の博物館 にはないものばかりであった。ワシントン D.C.でも多くの博物館巡りをした。どの博 物館でも、自分にとって本当に勉強になる展示ばかりを目にすることができた。ワシン トン D.C.では、特に建造物が素晴らしいと感じた。歴代のアメリカの大統領の住居で あるホワイトハウスやモニュメントなどを見学し、また、当時の人物はどういう政策を して、その当時には何が起こったのかなどの歴史を学ぶことができ、とても勉強になっ た。アメリカの文化について政治面や歴史面、自然面で実際に触れてみて、様々なこと を勉強できて本当によかったと思う。 今回のオハイオ大学への留学の中では、数えきれないほどの出会いがあった。そして、 自分自身にとって得られるものが多くあった。これらと出会えて、さらに自分がステッ プアップできるだろうと思う。今回の留学で自分の欠点を改めて発見することもでき、 それに向かい合い、克服することができたので、留学生活はそうした意味でも良い機会 となった。こういう経験ができたのは、留学に行かせてくれた親や先生方のおかげでも ある。感謝の気持ちを忘れずに、これらの留学で経験したことを今後の人生に生かして いけたらいいと思う。本当にオハイオに行けてよかったと、私は心から思っている。 アメリカから見た日本 松原大朗 オハイオでの留学生活を通して、私は自分が成長した と実感している。アメリカでの生活は、私にそう言える だけの自信をつけてくれた。見た景色、聞いた英語、感 じたこと、出会った人々、それらすべてが私の人生に大 きな影響を与えた。アメリカではすべてが日本と異なり、 とても興味深く、どこがどう違うのか考察することが楽 しかった。だが、思い返せば、すべてはたった4ヶ月間 の出来事だった。 私にとってアメリカで経験したことの中で特に印象に 残っているのが、外国から見た日本ついてのイメージで ある。あるとき、ルームメイトの Vitor に日本について 知っていることや、そのイメージについて話を聞く機会 があった。彼はブラジルからの留学生であり、実家の近 くに日本人街があるらしく、日本についてある程度の知 識を持っていた。彼は「寿司」、「ハイテク」、「人々が親 切」、「昔、戦争をしていた」 、 「日系ブラジル人」などのキーワードを挙げた。 その中で彼が特に興味を示したのは日本の文字についてである。「なんで日本人は文 字を三つ使っているの」と彼は私に聞いてきた。私はなるほどと思った。たしかに、ア ルファベットを用いている人達からみると、日本語の漢字、カタカナ、ひらがな、さら にはローマ字を混ぜて使うことはややこしいだろう。私たち日本人はそれらを「日本語」 とひとくくりに捉えているが、彼らは三つの言葉を使っていると感じるのかもしれない。 そういえば、日本語の勉強をしている Alyssa も同じようなことを言っていた。私は外 国人にとって日本語を学ぶのは難しいことだとは知っていたが、なぜ、どのように難し いのかは考えたことすらなかった。このように、日本語学習者と私たち日本人の間には、 日本語に対する捉え方の違いが確かに存在するのである。そして、そのことについて、 私はアメリカに来て初めて気がついたのである。 さて、日本とアメリカを語るうえで欠かせないキーワードとして「戦争」がある。私 が訪れた国立アメリカ空軍博物館には紫電改、国立航空宇宙博物館にゼロ戦と、日本と あまり関係のなさそうな場所に日本の戦闘機が展示されていた。これはやはり、第二次 世界大戦はアメリカにとっても深い関心があることの表れであるように感じた。展示品 の近くに太平洋戦争のブースがあった。そこには、開戦から終戦への流れ、海戦時の両 軍の動き、戦闘機に対する評価などの解説が書かれていた。実は、私の曽祖父は戦闘機 乗りで太平洋戦争中に戦死していたらしく、私は少なからず戦争に対して興味があった ので、それらの展示品の解説をよく読んでみた。その中にゼロ戦との戦い方を解説した ものがあった。その一つは「Touch Weave」と呼ばれる戦法でゼロ戦の動きを研究し、 それに対して2機一組で戦 うというものであった。こ のように研究されているな ら、ゼロ戦が勝てないのも 道理だと、私は納得したの である。さらに、神風特別 攻撃隊についての解説もあ った。この攻撃隊機には、 若い兵士が乗っていたこと、 アメリカ軍にとってはきわ めて衝撃的な攻撃だったことなどが書かれていた。また、私にとって驚きだったのが「VT fuse」という弾丸である。これは弾丸から電磁波を発して、反応すると爆発するという ものであるらしかった。つまり、この弾丸を使用すれば、攻撃の際、標的に正確に当た らなくとも、電磁波に反応したものを爆破できるということだ。こんなものが、アメリ カにはすでに戦時中からあったというのだから驚きである。それと同時に、これで多く の若者が亡くなったと思うと、私の中にはこみ上げてくるものがあった。 ふと、周りを見ると、太平洋戦争のダイジェスト映像を真剣な眼差しで眺めている小 学生ぐらいの男の子がいた。彼はこの映像を見て何を感じているのだろうか。私にはそ の少年の目が今でも印象に残っている。私は解説に日本のことが悪く書かれていないか と疑ったが、そのようなこともなく、そこには淡々と事実だけが書かれていたように思 う。さて Washington D.C.では、アーリントン国立墓地やワシントン・モニュメントな ど戦争に関する場所に行き、様々な資料を見た。それらを目の当たりにし、私たちは知 っておかなければならない過去があることを再認識させられたのだった。日本から見た 戦争とアメリカから見た戦争は視点は違うが、どちらの国にとっても悲しいものであり、 戦争は決して再び繰り返してはいけない、と私は強く思ったのである。 ところで、この4ヶ月で私の英語はうまくなったのだろうか。小さなことではあるが、 英語が上達したと感じたことがある。それは、レストランやコーヒーショップなどで、 注文を聞き返されなくなったことである。最初のうちは、「キャラメルマキアート」が 上手く伝わらないことがあったが、やがてそのようなことはなくなった。4 ヶ月も英語 を使って生活していれば、英語が少なからず上達するのは当然だろうが、その進歩を実 感できたのがとても嬉しかった。 この短い留学生活の間に、私は本当にいろいろなことを経験することができた。たっ たの 4 ヶ月間だが、このかけがえのない 4 ヶ月間を、私はこれからも決して忘れること はないだろう。 人生の中で最も大切で有意義な時間 森部アシフ優 私は最初オハイオ大学での4ヶ月について軽く考 えていた。しかし、現実は私が思っているほど甘い ものではなかった。私は英語なんて簡単だ、向こ うにいってもそれほど苦労はないだろうなどと 甘く考えていた。しかし、アメリカに着いて多く の人に話しかけられても、相手が何を言っている のか全く聞き取れなかった。なにもわからなかったのだ。私は自分自身に絶望した。そ してオハイオでの生活のすべてが突然不安になってしまったのだ。そして、早くも日本 へ帰りたいという感情で頭がいっぱいになってしまった。毎日、毎日、帰りたいとそれ だけを考えている私だった。そのうえ、一緒に来た周りの日本人とも打ち解けられずに いたのである。私にとっては夜も眠れない生活が続いた。実は、それを誰にも相談でき ないことが私にとってとても負担であった。しかしアメリカでの生活が始まって一ヶ月 がたったころ、私に現地の友達ができたのである。そしてこのことが私のアメリカでの 生活を大きく変えることになった。 最初その友達と会った時も、相手が何を言っているのかわからない状態だったが、何 度か聞き返すことによって徐々にわかるようになっていった。彼は何度も優しく言い直 してくれたのだ。徐々に、私は多くの現地の人の言っていることがわかるようになり、 多くの人とコミュニケーションをとることができるようになった。そしてアメリカでの 生活が非常に充実したものになっていった。当初の日本に帰りたいという気持ちはもは や消え、英語でコミュニケーションをとれることの喜びを実感できるようになった。 ただ見ていると、彼は遊んでばかりで勉強をしているようには全く思えなかった。と いうのも、彼はいつもお酒を飲み、女の子の話ばかりしていたからである。だから私は、 彼がいつ勉強しているのだろうかと疑問に思った。そこで、ある日私は、彼に直接その 疑問をぶつけてみた。すると彼は、授業の前に予習をしっかりとしていると答えた。確 かに彼は授業には出ているようだったが、それ以上に遊んでいる印象は拭えなかった。 毎週金曜日と土曜日になると、彼は遊び歩いていたのだ。だから週末は勉強していない だろうと聞いたところ、遊ぶのは金曜日と土曜日だけで、日曜日には気分転換してすっ きりしているので宿題を集中してやっているのだという。 ここで私は彼らと日本人の学生 の違いに気づいた。彼らは金曜日と 土曜日にしっかり遊んで、日曜にな ると別人のように切り替えて勉強 することができるのだ。これに対し て日本人は、金曜日から日曜日まで 切り替えることなく遊ぶ。そのせい で、月曜日の授業に悪い影響が及び がちだったのである。そういえば、 日曜日に外出していてすれ違うの は買い物に行く現地の人と日本人 数人だけというのがよくあった。そのことを、私はこのときあらためて思い返したので ある。前日まで祭りのように賑わっていたコートストリートは日曜日には静まり返って、 皆、寮や図書館で勉強していたのである。このとき、私はアメリカ人の切り替えの早さ に感動してしまった。そして、いつの間にか私もそのような生活を送るようになってい った。この習慣は日本に帰っても実践していきたい、と私は思った。 その後も彼に宿題を手伝ってもらうなどした。その時にも私は自分の英語力の低さを 痛感した。私が最初に書いていた英文は彼の手によって原型がほとんど残らないほどに 形を変えていた。そして、彼はアメリカで文章を書く時の構成や文章体の英語を私に教 えてくれたのである。私の宿題は非常に良い仕上がりになっていたが、自分の書いたも のがこれほどまでに完成度が低く、稚拙な文章であったと実感して、私は心から恥ずか しく思った。彼は一つ一つ丁寧に解説をしてくれた。文章で書くときはこの単語は適切 ではない、同じ語をあまり使わないなどのことであった。授業で学ぶこと以上に、私は 彼から大切なことを学べたような気がした。 この留学で英語の学習は授業も大切だが、自分と同じ目線で話せる同世代との積極的 なコミュニケーションこそが英語力向上のために必要なのであると実感した。私は一緒 にアメリカに行った中部大学の仲間と馴染めなかった。そしてそのことによる孤独感や 相談できない辛さがあったと前述したが、そのことは私のこの留学での英語力向上に非 常に良かったかもしれない。もし私が中部大学の学生と一緒にいることに居心地が良い と感じてしまっていたら、今の私はないかもしれない。中部大学生と馴染めなかったか らこそ現地の学生に救いを求め、そして彼らと友達になり話したことで、この留学が私 にとって非常に有意義な時間となったと思っている。 最初アメリカについたとき、私は英語力が伸びないまま帰りたくない、お金が無駄に なるなどの不安ばかりを抱いていた。親に無理を言ってまで来たこの留学が無駄になる のではないかと思っていた。しかし帰るころには、この留学は私にとって英語力を伸ば すだけではない貴重な体験となり、有意義な時間を過ごすことができたと胸を張って言 えるようになった。そして私は自分の英語力が伸びたことを、その場で実感することが でき、現地の先生や友達にも英語が話せるようになったと言われ、非常にうれしかった。 この留学は私の人生の中で最も大切で有意義な時間の一つになった。次は大学院を目指 せるように、このアメリカで学んだことを今後の大学生活に生かし、努力していきたい。 アメリカ人の優しさにふれて 西村里奈 私は今まで海外に行ったことが一度もな かった。今回のアメリカへの留学が私にとっ て約4ヶ月間という長期間、そして初めての 海外での生活であった。最初はとても長く感 じた4ヶ月だったが、だんだん早く過ぎてし まって、最後にはあっという間の出来事のよ うに思えた。楽しいことが多くあったが、辛 いことも少なくなかった。しかし、それらも 含めて、私はアメリカでの生活を通して、と ても貴重な経験をすることができた。そして私は英語のことだけでなく、自分のことに ついても、以前より深く考える時間が増えたと感じる。このことは、留学を通してしか 体験できないことだったと私は思う。 そのようなアメリカ生活の中で不安になっていた時や辛かった時に、私は conversation partner や寮の人に助けてもらうことがしばしばあった。そんなとき、私 はアメリカ人の優しさにふれることができたと思う。私はその人達の親切に接して感動 し、彼らにとても感謝している。 留学当初、私はなかなか積極的に自分からアメリカ人に話しかけることができなかっ た。というのも、話しかけることが私にとって難しかったうえ、怖いという気持ちもあ ったからである。しかし、時間が過ぎるごとに、それではダメだと感じ、自分なりにど うすれば良いかを考えた。そして、conversation partner がいたため、その人と連絡を 取って多く話そうと考えた。その conversation partner の Andrea とよく連絡を取って 食事をし、話をした。車の中やレストランでいろんな話をした。しかし、相手の英語が 聞きとれないことや、こちらの英語が上手く伝わらないことがしばしばあった。それで も、彼女は私が分かりやすいようにゆっくり話してくれ、私の言っていることを理解し ようとしっかり聞いてくれた。上手に英語で言うことができなくて、「ごめんね」と言 ってしまうことが多かったが、その度に彼女は「気にしなくて良いよ」と言ってくれた。 英語を使わなければ上達しないし、相手との会話 も上手くいかないと分かっていたが、 上手に話せないと相手を不快にさせてしまうと いう不安があった。その不安から少し消極的にな ってしまっていたと思う。しかし、彼女は本当に 気にしていないようだったし、私との会話を楽し んでいた。何度も伝わらなかったら嫌になるし、 うんざりすると思うが、彼女からはそんな感じは まったくしなかった。その優しさに私はとても感 動し、私の方ももっと頑張ろう、もっと多く話そ うという積極的な気持ちになっていった。そして、 Andrea とは家族の話、勉強の話など多く話すこと ができた。彼女のおかげで私は以前よりも自信が ついた。本当に、彼女の優しさには感謝している のである。 私は寮の人にも助けてもらい励まされたことが ある。ある日、私は restroom でシャワーを使って いったところ、誰かが何かを言った。その時、私はその英語を聞き取ることができなか ったため、「もう一度、お願いします」と聞き返した。しかし、その人は私が理解して いないと感じ、ため息をついて去ってしまった。同じことが前にもあったが、その時は 「もっと英語頑張らなければ」と前向きに考えていた。しかし、この時は前にも同じこ とがあったのに、まったく成長できていない自分に苛立った。英語について悩んでいた 時期でもあり、このことをとてもショックな出来事として受け取ったのである。そして 私はそのことを誰かにすぐ相談したかったため、その後 restroom に来た寮の人にこの 悩みをそのまま話した。その寮の人と私は1、2回程度しか話したことがなかったので、 彼女を不快にさせてしまうかもしれないと私は思った。しかし、耐え切れずに誰かに話 してしまいたくて、このことを相談したのである。自分でも少し混乱していたため、何 を言っていたのかあまり思い出せない。 しかし、英語が上手く伝わらなくてため息をつかれてしまったことや、英語や文化を 学びに来たのに、自分は成長した気がしないくてとても辛いことなどを打ち明けた。話 しながら、涙も出てきてしまった。しかし、その時、彼女は「私はあなたを理解してい る、あなたはすごいわ」と慰めてくれた。私は彼女のこの言葉を聞いたとき、心の中で 溜め込んでいたものが軽くなった気がした。私の言っていることが伝わっていて、相手 がそれを理解してくれた感じがしてとても嬉しかった。その言葉にとても励まされた。 この英語も上手く伝わっていないのではないかという気持ちもあった。もしかしたら、 文法など変になっていたかもしれない。しかし、それでも彼女は私の言葉を聞いてくれ て、慰めの言葉もかけてくれた。私はそれが本当に嬉しかった。 全てのアメリカ人とは言い難いが、それでもこのようなアメリカの人たちの優しさに 私はとても感動した。たとえ母語が違うため相手に上手く伝えることができなくても、 それを真剣に聞こうとする気持ち、理解しようとする気持ちが相手にあったとき、相手 からこのような優しさを感じるのではないかと私は思う。当たり前に思うかもしれない が、このようなお互いへの思いやりがコミュニケーションを取る上で大切なことである と、私はこの留学であらためて考えさせられたのである。そして、そのような真の意味 でのコミュニケーションを私は体験することができた。もし留学をすることがなかった ら、このようなことに気づくことができなかっただろう。本当に、私はこの留学でたく さんの経験をすることができた。これらの経験は私にとって自分を成長させる大きなも のであったし、かけがえのないものとなった。 言わなければ伝わらないのか? 早瀬敏貴 私がアメリカで生活した約4ヶ月間は英語力の向上は もちろん、人間的な成長をするうえでも貴重な体験であ った。 アメリカで約4ヶ月生活する前と後では、人間的な成 長で具体的に何が変わったかというと、潔癖症が治った ことと、他人をあまり気にしなくなったということだ。 私はアメリカで生活する前は、自分の部屋の清潔さを保つことや、物の配置等にこだわ っていた。今思えば少しやりすぎていたと反省している。しかし私は約4ヶ月間他人と 同じ部屋で暮らすことによって、この潔癖症を治すことができた。自分だけが部屋を清 潔に保とうとしても、他人が同室に住んでいるのだから無駄だと気づき、あきらめた。 特に私の部屋は4人部屋だったため、自分の潔癖症を治すのには好都合だったと実感し ている。 私以外の友達の部屋は基本的に2人部屋であった。アメリカへ発つ数日前に知らされ たオハイオ大学の寮の部屋割りに対して、私は当初、少しショックを受けたことを覚え ている。私のルームメイトとなるのは同じ学科の日本人2人、それにオハイオの学生1 人という部屋割りだった。結果的に、日本人の友達一人は引っ越して三人部屋となった。 私は当初、二人部屋ならばルームメイトにさほど大きな不満を抱くことなく生活できる だろうと考えていた。しかし、部屋割りでは4人部屋に配置されたため、冗談ではない と思ったのである そしていよいよ日本を発ちアメリカへ留学する当日になり、飛行機とバスに乗り数十 時間かけてオハイオ大学に着いた。簡単な翌日からの予定についての説明が終わり、言 語や雰囲気の違いからの異文化を感じていたのも束の間で、私たちはすぐ寮へと案内さ れた。私の寮は他の友達とは違い、体育館のような建物で変わっていると感じた。自分 の部屋へと案内され、鍵を開けてもらい中へ入ると、二人のアメリカ人学生がいた。そ のうちの一人が私のルームメイトのケビンであった。もう一人は彼のガールフレンドら しき女性であった。私はその夜は大変疲れていたので、すぐに休みたかった。だが、こ の女性はいっこうに帰る気配がなく、私がいるにも関わらず、そのまま二入で寝始めた のだ。遠い所から旅してきた私にたいする気遣いはまったく感じられなかった。アメリ カ人はみんなこんな感じなのかと私は疑問に思いながらも、その日は遅かったので寝た。 こうしたケビンのルームメイト に対する気遣いの無さはその後 もずっと続いたのである。これは、 他人の迷惑を心配して、相手に対 して細やかに気遣う日本人の態 度とは大きく異なり、私にとって は最初の異文化体験となったの である。 実際、ケビンに対しての不満は いくつもあった。まず4人部屋で あるのにも関わらず、部屋の半分 がケビンのスペースであることだった。普通なら、4人部屋であるならば部屋を4等分 するべきだが、彼は机の配置などを勝手にかえて、より広い自分のスペースを確保して いた。そして、まだ部屋の電気を消すのには早い時間でも部屋を真っ暗にすることがあ るくせに、別のときは夜遅くまでテレビゲームをして電源をつけっぱなしで寝ることも あった。それらの不満は自分たちが留学を終える一ヶ月くらい前まで感じていた。しか し留学を終える一ヶ月くらい前から、そのことについてよく考えてみると、それらの不 満は自分がケビンに伝えていれば、もしかしたら変わっていたのではないかと考え始め るようになった。 そのことに気づいてからは、ケビンのことをあまり気にしなくなったとともに、自分 が情けないと思った。そして私は留学する前に読んだ先輩方の書いたレポートに、ルー ムメイトと最後まで会話がなくて後悔しているなどと書かれていたことを思い出した。 私はそれを読んだとき、さすがにそんなことはないだろう、自分はそうはならないと思 っていたが、自分も同じ経験をしてしまった。先輩方やいろいろな方が書かれた気をつ けるべきことや教訓になることなどは、読んで理解していた。だが、それを読んだから といって、そのようなトラブルを避けることができないことも、身をもって学んだ。知 識として知っていることと、それに従って行動できるということは全く違うのである。 ルームメイトの他人に対する迷惑な態度や行動がどう見てもおかしいうえ、そのことに 本人も気が付いていると思い、私はわざわざこちらから言う必要もないと考えてしまっ たのだ。言わなければ伝わらないということにまで、私は頭が回らなかった。英語で言 うということにやや躊躇していたのかもしれない。これが異文化の大変なところであり、 面白いところかもしれない。しかし今では、それも含めて良い異文化体験をしたと感じ ている。異文化体験とは自分が納得いくことばかりではないのはもちろんだが、それら が自分を人間的に成長させてくれることもまた多く、悪くないものだと思う。 私を大きく変えた 4 ヶ月間 山本優花 あっという間の 4 カ月間が過ぎた今、 自分にはなにが残っているのだろう か。オハイオ大学での留学を通して、 信頼や友情を仲間との間に深め、たく さんの思い出ができた。こんなにも濃 い時間を過ごした 4 カ月は 20 年間の 人生の中で初めてである。最初は慣れ ることに精一杯で自分の境遇など考 える余裕はなく、目の前のことに必死 で生活していた。オハイオでの生活に慣れ始めた時、ふと自分の境遇を考えると、こん なにも英語を肌で感じるのに素晴らしい環境はないことに気付いた。そのとき、自分の 中で何かが大きく変わった気がした。それと同時に、色々なものに対しての私の見方も 変わった。そういったことの全てが、この 4 ヶ月間で起こった変化なのである。 今回の留学は私にとって3回目の海外経験であった。というのは、私は中学生の時に カナダへ、去年の夏にイギリスに留学したことがあるからである。だが、2 回の経験は どちらも 1 カ月以内の短期間であった。そのため、どちらの国に対しても、誰もが知っ ているような表面的なことしか学べなかった。もちろん、私自身が直接的に経験したこ とであるため、学んだ事柄には大いに意味があったが、それでもいずれの国についても 深く理解するまでは行かなかった。それに比べると、今回の留学では、想像もつかない ほどの多くの体験をし、様々なことを深く考え、英語の難しさや楽しさも実感し、そし て、五感で異文化を感じることができ た。 私には、アメリカという国に対して、 良い意味でも悪い意味でも、様々な固 定概念があった。私の中での「アメリ カ」または「アメリカ人」というのは こうだ:彼らはとても自由で、挨拶の 仕方が日本とは違う、脂っこいものを よく食べる、人にあまり親切ではない、 欲深な人が多い等など。このような雑 多なイメージが私の頭の中にはあった。だが、実際のアメリカ人は自分のなかで勝手に きめつけていたステレオタイプとはまるで違っていた。私は、ポジティブな意味でのカ ルチャーショックをたくさん感じることができたのである。しかも、それらは誰かから の口伝えや聞いた話ではなく、自分自身が本場アメリカで感じたものだったのである。 このレポートでは、そのような例をいくつか挙げてみたい。 まず、アメリカの大学のダイニングホールにはピザやパスタ、ハンバーガーなどしか 並んでいないと思っていたが、実際はたくさんの野菜が並んでいた。男性も女性も自ら 進んでサラダをたくさん食べていた。予想以上にスレンダーな女性やムキムキマッチョ の男性が多かった。ジムに行けば、多くの人たちが運動をしていた。一度話しただけな のに、それ以降会うたびに声をかけてくれる人が多かった。名前も知らないのに、お互 いにアイコンタクトをとり、世間話を楽しんだ。道では歩行者優先が徹底されていた。 私一人が歩道を渡ろうとしているときでさえ、車は必ず止まって私が渡り切るのを待っ てくれた。私はそのとき思わず会釈をしてしまった。日本でしみついた行動は、どこの 国にいってもなんの意識もなく出てきてしまうのかもしれない。日本人は歩行者が道を 渡るときにも、車の運転手のことを考えて、待たせて申し訳ないと思い、少し急いだり 小走りになったりしてしまう。しかし、アメリカ人は走ることは一切なかった。私たち 日本人が「信号が変わる!」といって走ったときには、周りにいた多くの人から奇妙な 視線を受けたのである。 私にとってなにより印象に残っているのはアメリ人が本当に優しい人達であるとい うことだ。その象徴として「ドアを次の人のために開け続ける」という習慣がある。ア メリカ人にとっては、この行為はすでにマナーの一部かもしれないが、私は本当に驚い た。老若男女問わず、ほぼ 100%の確率で毎日、皆このような行動をとっているのであ る。私はこのような行動をするのは男性だけだろうと考えていた。しかしそうではなく、 男女に関係なく、皆がやっていたのである。そして、開けてもらった側は必ず“Thanks” とか“Thank you”などというお礼の言葉を口にし、開けていた側は相槌を打ったり、 微笑んだりと、お互いに何かしらのコミュニケーションをとっていたのである。私はこ の習慣がとても好きである。最初は、ただただアメリカ人同士がこのような行為をして いるのを観察して、微笑ましいと思っていたが、気づくと自分も全く同じように、次の 人のためにドアを開け、微笑みながら相槌を打つようになっていた。これは、自分自身 でも意識しないうちにとっていた行動であった。私は、文化に適応するというのはこう いうことだと実感できた。これは、日本に帰ってきた今でも、私にとっては習慣づいた 行動なのである。日本でも、私だけではなく友達も同じようにしているのを見たとき、 私は思わず微笑んでしまった。胸の中が暖かくなるような、そんな気持ちであった。 この 4 カ月のオハイオ大学への留学は私にとって、非常に貴重で有意義なものとなっ た。上記のような習慣を肌で実感したこと以外に、私は自分を見直すことができた。さ らに、多くのことを学び、新たな自分を見出すことができたと思う。もちろん楽しかっ たことだけではない。うまくいかなくて涙を流すこともあった。リーダーであったとい うことも含め、たくさんのことで悩むこともあった。苦い経験もした。しかし今となっ ては、どれもかけがえのない貴重な経験だと思っている。この 4 カ月の留学は私の人生 を大きく変えるものとなった。このような素晴らしい経験ができたのも学校の先生を含 め、一緒に行った仲間たち、なにより家族の存在があったからだと思っている。彼らに 対して、私は心からの感謝の気持ちを伝えたい。 Conversation Partner に助けられた留学生活 小出元重 私はこの4ヶ月間オハイオ大学に留学し、たくさ んのことを学び、色々な経験をしてきた。例えば、 専門科目のスピーチ、American Experience での小学 生に日本語を教えること、Service Learning クラスの ボランティア活動、パーティー、旅行などなどだ。 学んだことは他の友達とほとんど一緒だと思うが、 授業外での経験や感情は皆と違う。 私は、初めは基本的な英語さえ理解していれば何 とかやっていけるだろうという、甘い考えで留学を 待ち望んでいた。だが、現実は全く甘くはなかった。 ただ普段から使うようなレベルの英語では歯が立た ないのだ。頭の中で聞き取った英語を整理しようと しても、うまくまとまらない。そうこうしているう ちに、また次の発話が始まる。アメリカ人の英語は早すぎて初めは短いやり取りでも非 常に難しかった。だが、授業や友達と話したり聞いたりしていくうちに慣れていった。 だが、今思えば、アメリカの事情や文化を留学前にもっと学んでおけばよかったと後悔 する。このように、後悔したこともたくさんあったが、私はオハイオ大学に留学できて 本当によかったと実感している。この4ヶ月間の楽しいこと、辛いこと、そして、充実 した生活や学んだことは決して忘れないだろう。 オハイオ大学に着いた初日の真夜中、早速 自分の滞在する寮を案内してもらった。私の 寮は Smith という South Green の一番端にあ る寮であった。毎週ミーティングが行われた Gordy Hall から Smith までは意外と遠く、旅 行に行くとき等、毎回歩くのが大変であった。 同じ Smith 寮の住人の中には、中部大学から の他の4人もいた。私のルームメイトの名前 は Konnor という。着いた初日、真夜中だっ たというのもあり、とても部屋に入りづらかった。いざドアを開けると、やはり眠って いたので、起きたらどうしようという心配もあった。だが、私が電気をつけて、スーツ ケースを持って部屋の中に入ると、当然のことながら、ルームメイトは起きてしまった。 私は彼が怒っていないか不安だったが、そんなことはなくて、彼は優しくてむしろ部屋 のことや寮のことについて詳しく教えてくれた。彼は、物を共用してくれるなど、とて もいい人で、私はルームメイトに恵まれたと思う。オハイオに来て最初の2、3週間は ルームメイトと会話をしたり、宿題を手伝ってもらったり、週に1、2回ほど一緒に Court Street で食事をした。それに2人だけだったので英語の練習にもなった。食事に関 しては、彼が奢ってくれたことにも、とても感謝している。 しかしながら、日数がたつにつれて、ルームメイトと一緒にいる機会が減った。理由 は彼がテストや課題で忙しかったのと、私が自分から誘ったりしなくなったからである。 加えて、私が普段の時間、部屋にいる機会が減ったということもあるだろう。なぜなら 日数がたっていくと、日本人同士で固まったり、Ping Center で運動をしたり、図書館で スピーチの原稿を作ったり、他の宿題をやったりして、することが多かったからである。 それらが終わって部屋に帰ると、たいていルームメイトは動画をみているので話しかけ たくてもなかなか話せないでいた。その頃の会話は、 “Good morning”か、寝るから “Can I turn off the lights?”くらいしかなかった。私は会話することもなく、2人で部屋にいる 空間がとても気まずかった。だが、帰国が近くなるにつれて、向こうから話しかけてき て、より仲良くなれたと感じた。 ルームメイトの他にも、私が英語を話したアメリカ人の友人としては、日本語のクラ スを受けていて、私の conversation partner となったオハイオ大学生もいた。私の conversation partner は初め二人であった。二人とも日本語を独学で3、4年間ほど勉強 していたらしいので、ある程度の日本語を話せた。個人的には彼らが日本語がある程度 わかるパートナーでよかったと思う。毎週木曜日に日本語のクラスをとっている人や日 本の文化に興味がある人などが集まる Japanese Culture Hour というのがあった。初めて の Japanese Culture Hour で私は一人の conversation partner に会った。日本語を何年か独 学していたこともあり、彼の日本語は上手であった。だが、私は彼とコミュニケーショ ンを取るのが難しかった。なぜなら、彼の英語も日本語も私にとっては聞き取りづらか ったこともあり、彼に親しみを感じることができなかったからである。私はこの時以降、 相手から連絡が来なかったということもあり、彼とは再び会うことはなかった。 conversation partner のことについ て、このプログラムのアシスタン トである Cheyenne と Alyssa と話し ていると、一人だけ誰も日本人の partner がいないというオハイオ学 生がいることを知った。それは中 部大学にこの前まで留学していた Alex であった。私とパートナーに なってもらえないかと思い、彼に メールをすると、早速パーティー の招待が来て、私は数人の日本人 と一緒に彼の家でのパーティーに参加した。初めてのパーティーは楽しく、その後にも 二回ほど誘ってもらった。今思えば、彼とは中部大学にいた頃からもっと仲良くしてお くべきだった。 一方で、私のもう一人の conversation partner である Zach とは週に一、二回ほど会っ ていた。彼もまたとても親切で、私がオハイオの大学生で一番仲良くしていた友達であ ったと思う。彼は大学のマーチングバンドに所属している。だから彼とはとても忙しく て会える機会が少なかった。それでもほぼ週末、彼の数少ない忙しくない時間に Nelson でよくご飯を一緒に食べた。私が旅行に行って次に会うとき、よく彼は「ニューヨーク はどうだった」とか、「ワシントンは楽しかった」などと、興味をもって毎回聞いてく れたり、趣味のことなども聞いてくれたりして、私はとても嬉しかった。彼と話してい て、私が英語を理解できないときは簡単に説明してくれて、彼はとても優しかった。ま た彼は、自分が主役を務める“Rocky Horror”パフォーマンスショーに私を招待してくれ た。その頃はハロウィンも近かったためか、観客はコスプレをしている人ばかりだった。 時間が遅かったため、私は最後まで観ることはできなかったが、彼の演技は素晴らしか った。私が帰国する一週間前に、彼は部活やテスト前の勉強で忙しいのにも関わらず、 都合の良い日は私とよく会ってくれて嬉しかった。彼は私がすぐに帰国することを知る と、大学内であるイベントに招待してくれたり、一緒に遊びに行ったり、最後のパーテ ィーに来てくれたりした。私はとても嬉しくて感謝でいっぱいで彼に手紙を書いた。彼 は今一年生で、三年生になったら中部大学に留学するかもしれないから、「日本に行っ たらまたよろしく」と最後の別れのときに言っていた。私は彼とまた会える日を楽しみ にしている。私は彼らのような conversation partner と巡り合えて本当によかったし、私 はとても恵まれていたと思う。 この4ヶ月間は、楽しい時も辛い時もたくさんあった。留学する当初は甘い考えだっ たが、この4ヶ月を通して現実はそう簡単に上手くいかないということがよく分かった。 だが、それでもオハイオに来て、毎日を充実して楽しめたし、日本ではできない貴重な 経験もたくさんしたと思っている。この先、オハイオでやり尽くせなかったことに対す る心残りが出てくるかもしれないが、留学に行かせてくれた家族、先生、友達、ルーム メイト、そして conversation partner にはとても感謝している。これからも、オハイオで 学んだことを忘れず、その経験を生かして今後の勉学や生活で頑張っていきたい。 新しい寮、そしてルームメイトとの出会い 谷口緋梨 中部大学に入学前に家族 旅行でシンガポールに 3 日 間滞在したことがあった。そ の時は、自分の英語がどれぐ らい通じるのかを試すこと も一つの目的ではあった。今 回の目的は英語力を上げる ことは当然だが、積極的に行 動する自分となることであった。4 ヶ月という長期間を海外で、かつ留学という形で過 ごしてみて、2 年前とは比べ物にならないほど英語力が上がっただけでなく、間違いを 恐れずに自分から積極的にアメリカ人に話しかけることが出来るようになった。 私が積極的に話しかけることが出来るようになったのは、ルームメイトと出会いがき っかけである。私がルームメイトにはじめて出会ったのは 9 月 13 日、ナイアガラの滝 に行く前日、今でも最初の出会いは鮮明に覚えている。最初は私はある寮に一人で滞在 していたのだが、私はその部屋でハチに刺されたため、2 週間遅れで新しい寮に移動と なった。私はルームメイトが今まで2人部屋を快適に一人で使用していたはずであるが、 2 週間遅れで入ってきたこの外国人である私を受け入れてくれただけでも十分嬉しか った。だが、彼女は私をうっとうしがるどころか、大変歓迎してくれた。また、彼女だ けでなく、友達も部屋に連れてきて私に紹介してくれたのも嬉しかった。その日から私 はルームメイトをはじめとするアメリカ人と少しずつ話すようになった。 しかし、徐々にルームメイトの友達は私と話さなくなってしまった。私が話しかけて も無視するようになり、大変悲しかった。私は特に彼女達に嫌われるようなことをした 記憶はない。私の何かが気に入らなかったのだろう。もしくは、はじめは挨拶代わりで 話しただけで外国人である私と仲良くするつもりなどなかったのだろうか。今でも理由 はわからないが、私の英語が貧弱で私と会話をするのか面倒だったことは想像できる。 だが、私のルームメイトは最初から最後までほぼ毎日“How was your day?”と私に話 しかけてくれた。嬉しかった。そのおかげで私はアメリカ人と英語で話すことに慣れ、 間違いを恐れず積極的に話すことができるようになった。 確かに、この新しい寮でルームメイトと出会い、全てが良くなったように感じられる が一概にそうとも言えない。例えば、私が勉強しているにも関わらず音楽を大音量で鳴 らしたり、ボーイフレンドを連れてきて騒いだり、部屋の中を暴れまわったりと不都合 も感じた。そして、耐えきれなくなり先生に何度か相談することもあったが、「アメリ カらしさを感じられて良いじゃん」と言われて片づけられてしまった。でも冷静に考え てみると、確かに先生がおっしゃった通りでもあり、外国人である私を 2 週間も遅れて 受け入れてくれただけ感謝しなければいけないと思えるようになった。 私がルームメイトと約 3 カ月という月日 を共に過ごしてきて最も感謝していることは、 私が COMS というスピーチ科目のテスト範 囲で分からないところを訪ねた際、私が理解 するまで何度も教えてくれたことだ。この授 業のテスト範囲は、授業中に先生が説明して いない場合が多く、自分で教科書を何十ペー ジも読んで一から理解しなければならない。 その為、ほとんど理解が出来ないという状態 に陥ることも多々あり、ルームメイトに一から説明してもらわなければならなかった。 だから、私は分からないから教えてほしいと尋ねても、何となく全体の概要だけ説明し てくれるだけであろうと考えていた。だが、彼女は嫌な顔一つせず、一から一つ一つ丁 寧に教えてくれた。それだけでも感謝の気持ちでいっぱいなのだが、私が分からなさそ うな顔をすると途中でとまって「分かった?」と笑顔で聞き返してくれた。それゆえ、 分からないふりをすることなく正直に「ゴメン、分からない」と言うことが出来た。そ の後、私がこの解釈で正しいか彼女に尋ねた際、少しでも解釈の仕方が間違っていると 再びその部分だけ丁寧に教えてくれた。私は彼女がこんなにも私に親切にしてくれるこ とが大変嬉しかった。そして、彼女の多くの手助けのおかげで、私はこの科目のテスト で高得点を取ることが出来た。このことは彼女に感謝してもしきれない気持ちでいっぱ いだ。 また、私の帰国間近も彼女は「パッキングを手伝おうか、段ボール運ぶ時は声かけて ね」といった具合に私に優しく声をかけてくれた。実際は、一人で全て終わらせてしま ったのだが、声をかけてくれたことが嬉しかった。帰国時は、荷物を一階まで運ぶのを 手伝ってくれただけでも感謝の気持ちでいっぱいだった。それなのに、迎えの Van が 到着する夜中の 2 時 40 分まで、 外で一緒に待っていてくれたことが何より嬉しかった。 その時、私は彼女と最後の会話をしていたのだが、私が、 「夜遅いからもう寝ていいよ」 と言った直後の「一人に出来ないよ」と言った彼女のあの優しい一言に、嬉しさのあま り涙がこぼれ落ちそうだった。そして、Van が来てお別れの時となると、はじめて会っ た時以来2度目の彼女との hug をした。その hug は今までありがとうという感謝の気 持ちと、さようならという悲しい気持ちの入り混じった力強い hug であった。 私は、4 ヶ月間オハイオ大学に留学してみて、英語力が上がったことはもちろん言う までもないが、身体的にも精神的にも大変成長できたと考えている。時には友達と意見 の食い違いなどからぶつかることもあった。だが、今まで以上にお互いを知ることがで きて、より仲良くなることができた。加えて、今まで話したことがない英米科の仲間と も話すことができ、友人としての絆も深まり、この留学で得たものは計り知れないと実 感している。 最後に、オハイオ大学の留学費用を出してくれた親、私達に英語を教え、時には Joke を言ってその場を笑わせてくれたオハイオ大学の先生方、いつも私の傍にいてくれて困 った時はすぐに助けてくれた友達に感謝してこのエッセイを終わらせたい。皆さん、あ りがとうございました。 アメリカのハロウィン 田嶋 愛 私がオハイオにきて深く思ったこ とは、自分の考えは甘かったという ことだ。私は留学にいけば毎日英語 に触れる。だから、自然と英語力は のびるだろうと思っていた。しかし、 それはまったく違った。たしかに母 語話者から学ぶことはたくさんある が、自分が話そうとするときは、当 然今まで学んだ単語、文法、表現しか使うことができないのだ。実際話そうとするとき 自分がどれほど英語を知らないか、自分の実力を知った。発話して初めて、まさに言語 習得論でいう「アウトプット仮説」を実体験したと言ってもいい。 特に私の考えが甘かったと思うことは、留学先で外国人と友達になることは簡単だと 思っていたことだ。アメリカは多国籍国家なので彼らは誰にでもフレンドリーですぐに 友達ができるだろうと思っていた。私の周りでも留学にいっている友達はたくさんいる。 皆、Facebook で外国人の友達と楽しく遊んでいる姿をのせていた。それを見て私も外 国人の友達を早く作りたいと思っていた。しかし実際は、当初は私はアメリカ人の友人 は簡単にはできなかった。私は自分から話しかける勇気を持っていなかったし、話しか けられてもうまく返すことができずにさらに自 信をなくした。最初はアメリカ人の友達がほし いと思っていたが、次第に英語力もなく、勇気 もなく、諦めようかと思うようになった。しか し、私は友達の紹介で双子の外国人と出会った。 彼女たちは気さくですぐに打ち解けることがで き、私の英語に対する不安はいつの間にか消え ていった。 彼女たちはダンスが得意で私たちはダンスの練習をよくしていた。そんなある日、彼 女たちに「ハロウィンパーティで一緒に出し物としておどらないか?」と提案されて、 やることになった。それから時間があるときは彼女たちに教えてもらいマイケルジャク ソンのスリラーを練習した。そして当日は彼女たちのお母さんが車で迎えにきてくれて、 彼女たちの住んでいる地元まで向かった。アメリカのハロウィンはすごいと聞いていた が本当に日本とは規模が違った。町全体が本当にハロウィン一色になっていた。私もし っかりと仮装し、彼女たちにゾンビメイクをしてもらった。私はゾンビメイクをしたこ とも初めてで、自分の顔にメイクで傷ができるだけでハロウィンに参加している気がし てとても楽しかった。 お昼のうちに準備をして、夜になると子供から大 人までみんな仮装をして町をまわり、キャンディー やチョコなどお菓子をもらった。日本でもハロウィ ンに子供が仮装をして「Trick or treat」といってお 菓子をもらいに家をまわる。これはまさにアメリカ の文化をまねたものだと実感した。町を周り終わる と日本でいう集会場のような場所に皆が集まり、ご 飯を食べて、劇やコーラスなど出し物をみた。その 出し物の一つとして私たちはスリラーを踊った。こ の一日はとても楽しく、私がアメリカに来て最も異 文化に触れることができた貴重な体験となった。 最初は苦戦していた友達作りだが、帰るときには 友達がたくさんできていた。友達としたこと、話したこと一つ一つが私にとっては貴重 な異文化体験であり、大切な思い出となった。やはり、英語を伸ばすのも、他の国の文 化に触れるのも、私はその国の現地の人と仲良くなるのが一番手っ取り早いと思う。だ から、留学では、必ず友達を沢山作った方がいい。 私は日本では体験できなかったことやオハイオ大学で過ごしてできるようになった ことがたくさんある。この4ヶ月間のオハイオ大学への留学にいって本当によかったと 思っている。私を応援して留学に行かせてくれた家族に はとても感謝している。そして、一緒に行った中部大学 の仲間、私たちの生活をサポートしてくれた先生方にい つも支えられて、楽しい生活を過ごしていたから私はカ ルチャーショックやホームシックにならず、無事日本に 帰ってくることができたと思う。私と仲良くしてくれて ありがとう。日本に帰ってきた今、この経験を活かして、 もっともっと英語を勉強したいと思っている。留学で終 わりではなく、ここでの経験を日本での生活に活かし行 きたいと思う。これからももっと頑張っていきたいと思 う。そんな自信と勇気を与えてもらった留学であった。 アメリカ人は勉強熱心 加藤由紀乃 私は海外研修に行くことが小学校 からのひそかな夢だった。理由は私 たちの小学校は国際交流会といった 多国籍の人々とふれあえる機会が多 くあり、彼らに日本語や日本文化を 教えた。我ながら幼い時にいい経験 ができたと思う。しかし私は、周り に流されるまま、それほど英語は勉 強せず海外留学という夢は夢のまた夢となった。そして今回、オハイオ大学に留学とい うチャンスが巡ってきた。私は英語は好きだが全く話すことも聞くこともままならない 状態だったので、語学学習という点はもちろんだが、アメリカ人たちの文化、価値観、 異国へ行ったことでしか感じられないものを感じに行こうという目的にしぼり、日本を 旅立った。 オハイオ大学に到着し、やはり一番初めにふれあうのはルームメイトや同じフロアー のアメリカ人たち。しかし私にはルームメイトがいなかった。同じフロアーのアメリカ 人は外出しない人たちだったので、顔を合わすことはほぼほぼなかった。他のルームメ イトのいる中部の学生は、ルームメイトと仲良くなってご飯を一緒に食べに行ったり、 ルームメイトが友達を呼ぶから、そこでまた友達の輪が増えたりと、最初の頃本当に私 は焦っていた。でも私は、先輩たちの経験談やアドバイスから自分からアクションを起 こさないと何も得られないことを知っていた。だから私はドアの上にポスターを書いた り、ドアを開けっ放しにして過ごしたり、フロアーの人ともっと仲良くなれるように部 屋や図書館で勉強せずに、寮のロビーで勉強した。それでもうまくいったわけではない。 だからタイミングを見計らって洗面所に出てみたり、ノックしてハサミとか借りに行っ たりもっと関わろうとした。でもおそらくだが、私の隣人はアジア人があまり好きでは ないのか、毎回少々冷たかった。それに感ずきながらも必死だった。 そんな時、洗濯機の使い方がよく分から なかったので、隣人に聞きに行った。また 冷たくされるかもしれないと、すこしビビ リながら向かった。そうしたらわざわざコ インランドリーのある一階に一緒に来て くれて、丁寧に説明してくれた。洗濯を終 え、部屋に戻るとその隣人のドアに「We’re around the corner if you need us !」と書 いてあるメモが貼ってあった。この人たち、 こんなにも優しい人たちだったのだと知 って本当に嬉しかった。隣人とも距離は縮 められたとは感じたが、何故だか隣人の部 屋に遊びに来ていた黒人の友達の方がすごくよくしてくれて仲良くなった。こんなこと をしているうちに自分の心が少しだが成長していくような気がして、さらにモチベーシ ョンが上がった。一人の時間でも英語の勉強を大切にした。当初は、文化とか価値観を 学べるだけでいいと思っていたが、それもやはりコミュニケーション能力がないとやっ ていけないと思ったからだ。 ある日、OPIE で出会った Jaida という黒人の女の子と仲良くなり一緒にご飯を食 べていた。彼女の母は再婚して日本人なのでそれで私たち日本人のいる OPIE に来てい たらしいが、日本語のクラスをとっていないので conversation partner がいないので あなたが私に声をかけてくれてとても嬉しかったと言ってくれた。そんな彼女はなんと 17歳。アメリカならではの飛び級制度なのだろうか。とても驚いた。飛び級ができる ということはやはり頭がいいのだろう。彼女はよく図書館にいる。Journalism を勉強 しているようでやはり、色々な言語を習得していた。また、COMS のクラスメートの アスティンは私たちが英語を勉強しに来ていることが不思議だったようで、何故英語を 学びに来ているのか、英語は皆話せる言語なのに。ぼくはドイツ語も話せるし、僕以外 のみんなも2,3か国語は話せるだろう。と、言っていた。私はこの時日本人の勉強の しなさを痛感した。確かに図書館に行けば、日本では考えられないほどの学生が勉強し に来ている。私は今英語を習得するにも困難な状態なのに本当にすごい国柄だなと尊敬 しつつ、同時に負けられないなという闘争心も生まれた。ここでわたしの心は大きく変 わった。私は今まで勉強なんか全然嫌いで、勉強したら遊ぶ時間もけずられてしまうし 付き合いも悪くなってしまうのではないかと勉強に対するメリットがうまく見いだせ ないでいたが、アメリカ人と実際過ごしてみて自分はとても自分に甘かったのだと気づ くことができた。彼らは学校のある日は真面目にしっかり勉強して、週末には別人とい うレベルで遊びまくっている。実力社会と言われているアメリカはこうでもしないと将 来活躍の場を広げることができないのだろう。そんな彼らの国柄に私は心を打たれて、 多言語を必要とする職業を目指そうと決めた。それは私にとってとてもハードルの高い 目標であるかもしれないし、今までのような勉強に対する考えややり方ではとうていや り遂げることは難しいものであると私も分かっている。しかし、これは私自身の心の変 化からうまれた挑戦として絶対にこの経験を無駄にはしたくない。 一生の思い出 清水 愛 私は留学に行くのが楽しみで仕方なかった。中部 大学を選んだ理由のほとんどがこの留学プログラ ムに魅了されたからだ。だがしかし、アメリカにつ いて一週間もたたないうちにそのわくわく感が覆 された。なぜなら、まず、親や家族とこんなにも離 れて暮らすことが初めてだったからだ。正直英語が 得意ではない私が、文化も言語も異なる地で四ヶ月 間もやっていけないという不安が大きくなった。実 際に、最初の COMS の授業で壁にぶつかった。先 生の声が呪文のようだった。自分は英語が聞き取れ ないのに、周りは合図地やうなずいているのを見て、 涙が出た。来なければよかった。こんなに英語がで きない私はこの環境には不向きだと思った。これが、 留学にきて一週間のお先真っ暗の私の始まりだった。 私がこの留学にきて、一番強く思ったことはとても人が暖かいということだ。ジョン ヒー先生やカージック先生はいつも私たちのために考えてくれて、週末のお出かけなど 朝が早いときには、「ご飯食べた?朝ごはん大丈夫?」などと声をかけてくれて水やパ ンをくれた。しかも、私はワシントン DC の旅行中体調を崩し、ずっと寝込んだ日があ った。その時、部屋に来たり電話くれたりと気にかけてくれた。自分の子どもでも何で もないのにここまで気にかけてくれる先生の人柄にぬくもりを感じた。チューターの Alyssa には感謝の気持ちでいっぱいだ。私の文法がぐちゃぐちゃな英語にちゃんと耳 を傾けてくれて、理解してくれて授業のサポートやアイディアを一緒に考えてくれて本 当にこの四カ月間たくさん世話になった。私は Alyssa に会うと自然と笑顔になれて、 英語を話したい、英語を聞きたいと思うようになった。ルームメイトがいなかった分強 くそう思った。そして、私も Alyssa みたいな優しくて親身になってくれる人になりた いと思った。 私がアメリカにきて一番驚いたことは、アメリカの食生活だ。私は、留学生活の楽し みがみんなでダイニングホールにいきご飯を食べながらおしゃべりするのが日々の生 活の中で一番楽しかった。アメリカのごはんはとてもおいしく、バイキングということ もあってつい食べ過ぎたり、摂りすぎてしまった。実際、四カ月間で四キロも太ってし まった。やはり、アメリカのごはんは少し脂っこく、オハイオ生がテーブルに置いてあ る紙ナプキンでピザの油を吸い取っているのを見たときは驚いた。だが、アメリカのチ ーズは最高においしかった。私が、ダイニングホールでご飯を食べているとき、ある学 生がお皿を落とし割ってしまった。そのと たん、拍手が起きた。思わず私も拍手をし た。私は初めて見る光景に驚いた。その光 景は、一度だけではなく何度も目にした。 なぜだろうと疑問に思い調べてみた。そし たら、割ってしまっても気にしないでとい うフォローの意味があると書いてあった。 だが、オハイオ生に聞いた子の話を聞くと、 からかっていたり冷やかしの拍手だと聞い た。そのことを聞いてから、私は拍手をす るのをやめた。お皿を割ったときに拍手を することがいい意味でも悪い意味でも、日 本にはない光景を見ることができてよかっ たと思った。次に驚いたことは、アメリカ の人の食べ残しの多さにとても驚いた。洗 う場所に持っていくお皿の上には取っただ けの手つかずのピザやパン、サラダがあった。私は幼いころから自分の食べられる分だ け取りなさい、残さないように食べなさい。お茶碗にくっつく米粒一つもきれいに取っ て食べなさいと言われてきた私にとって、アメリカの食べ残しの量にとても驚いてしま った。ファッションやメイクなどアメリカのスタイルに流されたり合した私だったが、 食べ残しのことに関しては周りに流されないで極力自分の食べられる分だけを取るよ うにした。COMS のスピーチで優花が食べ残しについて発表していて、私も食べ残し が少しでも減ればいいなと思った。 私はこの留学でたくさんのことを学びたくさん成長できたと思う。家族が近くにいな い生活に言葉や習慣が違いバイトのない環境のなか、私は自分自身を見直し考えること ができた。最初は、泣いて日本に帰りたくて仕方なかった私だが、四カ月間アメリカで 過ごして、日本にいるときは考えるのを避けていた、将来や将来の夢を考えることがで きもっと英語を話せるようになりたいと強く思った。留学費を出して留学に行かせてく れた家族、アメリカで面倒を見てくれたカージック先生、チューターをしてくれた Alyssa、たくさん話しかけてくれた conversation partner、アメリカの人々に感謝の気 持ちでいっぱいだ。私は、日本にはない、違う文化や習慣をもっとたくさん経験したい と思った。だから、またアメリカに来たいと思ったし、違ういろんな国に行ってたくさ ん吸収して立派な女性になりたいと思った。そして、今よりもっと立派に成長した姿を 空から見ているお父さんに見せたいと思う。きっとお父さん が一番近くで一番強く私の成長し た姿を見たいと思っているに違いな いだろう。 小学生が教えてくれた ~遠慮せずはっきり言うことの大切さ~ 阿久根 瞳 私は幼い頃から英会話を習っていた。英会話 を習っていくうちにだんだん海外に興味を持つ ようになった。その中でも特に私はアメリカに 興味を持ち、いつかアメリカに行ってみたい、 留学したいと思っていた。そしてその目標が今 回達成したのだ。しかし、アメリカに行ってみ たいとは思っていたのだが実際に行くことが決 まると、自分の英語力は大丈夫か、アメリカの 生活に適応していけるかなど、たくさんの不安 が出てきた。 その不安を抱えたままアメリカでの留学生活 が始まった。だが、たくさんの人と関わってい くうちにその不安は消え、アメリカ生活を楽し んでいる自分がいた。今思えば4ヶ月はあっと いう間に過ぎ、そしてたくさんの出会いや思い 出を得ることができた。 この留学プログラムの中に、毎週大学近くの小学校へ行って小学4年生の子とアメリ カの文化について学んだり、日本の文化を教えたりする授業があった。そこで私のパー トナーになってくれたのは Abbey という女の子だ。彼女と私はお互いに人見知りで、 私から積極的に話しかけないといけないのだが、英語力にも不安があり、正しい文法で 話さないといけないということばかり考えてしまって上手くコミュニケーションをと ることができなかった。私が消極的だとパートナーの子も消極的になってしまって仲良 くなれないと思ったので、どうすればいいのか自分なりに考えた。他のパートナー達は どのようにコミュニケーションをとっているのか見たり、彼女を観察して彼女の得意な こと、好きなことを見つけてそれについて話したりもした。そのとき私は彼女と仲良く なりたいという気持ちで、正しい文法や正確に伝わることを念頭に話してはいなかった。 だが、かえってそれが彼女には伝わった原因だったのかもしれない。自然に会話が成り 立っていていた。 それからだんだん彼女といろんな話をできるようになった。彼女は日本や日本の文化 に興味を持ってくれていたので、おりがみや日本語、たくさんの日本の文化を楽しく学 んでくれた。だから私も楽しい時間を過ごすことができた。彼女は特に日本の数字の1 から 10 を覚えるのが得意でいつも私に「覚えているか言ってみるからチェックして ー!」と話してくれた。気付けば彼女から話しかけてくれるようになっていた。時間が 過ぎていくうちに彼女ととても仲良くなり、毎週小学校に行くのが楽しみになっていた。 毎週会うと必ずハグしてくれて、帰るときにもハグして「帰らないでー、一緒に私の家 に行こうよー!」と甘えて来てくれてとても嬉しかった。それと同時に彼女と友達にな れ、彼女の言っていることを理解できているのが嬉しかった。少しではあるが、意識し ていなくても英語力は上がっているのだと感じた。 私は彼女とコミュニケーションをとる中でたくさんのことを学んだ。それは完璧でな くてもいいということだ。なにかするにも完璧にしようとするとやる気がでなかったり 自信がなかったりして挑戦できないことがある。私も彼女と話すときに文法を正しく使 って正確に伝えないといけないと考えてしまって上手く話せなかった。だが実際はそう ではなかった。文法が違っていても、間違った言い方でも彼女は理解してくれていて会 話は成立していた。自分が何か伝えたい話したいと思えば、自然に出てくる言葉や簡単 な言葉でも十分であるということが分かった。彼女と関わっていくうちにたくさんのこ とを学ぶことができた。伝えたいことをはっきり言うこと、その時には完璧な文法では なくてもいいことということだ。 伝えたいことをはっきり言うという ことはアメリカではとても重要だと思 う。私は実際にそう感じた場面がある。 それは隣の部屋のルームメイトと共同 で使っているバスとトイレである。初め に部屋に来たときは、シャワールームに 彼女たちは自分のバスグッズを置いて いなかったので何も言うこともなく使 っていたのだが、数週間たつとだんだん 彼女たちは自分の物をシャワールーム に置くようになってきた。私は自分が使うときにどかして使えばいいとあまり気にして いなかったが、何も言わないとあっというまに、それらがずっとシャワールームを占領 していた。あるとき意を決して「私物を置かないで」と伝えた。するとあっけらかんと 笑顔で片付けてくれた。私の遠慮や気遣いはなんだったのだろう。日本人はどうしても 遠慮をしてしまいがちだ。それは、日本では美徳でもある。だがアメリカ人ではあまり 意味のないことなのかもしれない。この経験を通じて、アメリカではもう遠慮するのを やめようと思った。それがアメリカに来て学んだ大きなことの一つであった。 気付けば私もアメリカの生活に慣れ、最初に不安がっていたことが嘘のように無くな っていた。それは自分の成長もあると思うが、生活する中で関わってきた人たちのおか げだと思う。それは私の中では小学校で出会った Abbey という女の子であり、その子 のおかげでアメリカの人たちと関わることに自信がついて気軽に挨拶もできるように なったと言っても過言ではない。この留学で学んだことをこれからの生活に活かして、 日本でも自分に自信を持てるように成長していきたいと思う。 ダイニングホールから見えてくるアメリカ文化 安達弘光 私は初めての海外留学とアメリカ の生活に緊張していた。向こうで上手 く授業についていくことができるの か、また、英語がうまく話せない私が 生活できるのだろうかと不安で一杯 であった。だが、向こうでいざ生活を してみると、不思議と大きく違和感を ともなう事も無く 4 ヶ月を過ごすこと ができた。アセンズにはとてもたくさ んの親切な人がいた。大学のキャンパ スマップを広げていれば、必ず誰かが 助けようと声をかけてくれるし、先生 は皆優しく指導してくれた。授業も大 事であるし、人との出会いも、もちろん大切なことだが、私にとって一番大切だったの は「食事」であり、オハイオ大学のダイニングホールは、私にとって元気をくれる場所 だった。 私は初めてダイニングホールを訪れた時、 “For here or to go?”と尋ねられた。最初は それが聞き取れずに何のことだかよく分らずにいた。そのあとになってよく観察してい ると、“For here”と答えている人はそのまま中へ、“To go”と答える人には持ち帰り用 のパックを渡されていた。「郷に入っては郷に従え」だ。一度覚えさえすれば、なんて ことはない。この言葉はほとんど毎回必ず尋ねられるので、留学中一番使った言葉かも しれない。 私はアメリカでの毎日の食事が気にならなかった。それはダイニングホールに行けば たくさんの食べ物が輝いて見えたからだ。パスタにスープ、サラダや自分で選んだ食材 で作ってもらえるオムレツ、ハンバーガー、ケーキにアイスクリーム、シリアルなど、 それらが自分の好きなように取り放題である。ネルソンダイニングホールに行けば、白 米や醤油などのアジア食品も置いてある。ダイニングホールに行けば食べることにはま ず困らない。私はいつもフライドポテトやアイスクリームを食べていた。そこでは、週 おきに様々な種類のアイスクリームが並んでいた。バ ニラ、チョコレート、ストロベリー、カフェオレ、変 わった物ではパンプキン、ミント、アイリッシュファ ッジなどがあった。そのアイスクリームとともにチョ コやグミといったお菓子もトッピング用として置かれ ていた。中部大学の食堂とはまるで違っていて、私は オハイオ大学のダイニングホールがとても気に入った。 ダイニングホールでは日本で全く見ない驚く光景を 見ることがある。それは、誰かがダイニングホールで お皿を割ると、その場にいる人たちが一斉に、まるで 盛り上げるかのように拍手をするのだ。私はその光景 に初め、とても戸惑った。どうしてそんな事をするの かサッパリ分からなかったからだ。彼らは誰かに指示 される訳でもなく、周りに合わせている様子にも見え た。私は気になって授業の一環として行った街頭イン タビューで、カフェで休憩していた学生に「なぜダイニングホールで、誰かがお皿を割 ると周りの人たちが一斉に拍手をするのか?」と尋ねてみた。答えてくれたオハイオ学 生の Zuck は、 「それは sarcasm だよ」と教えてくれた。さらに Zuck は、 「それをする理 由は、お皿を割ってしまった人を傷つけないように、また後を引きずるような気まずさ を無くすためだよ」と教えてくれた。私はその時「sarcasm」の意味を知らなかったが、 後になって調べてみると、その意味は「皮肉」であった。しかし、その言葉を悪い意味 で使っている訳ではないらしい。むしろ気を利かせたアメリカ人なりのユーモアである ようだ。お皿を割ってしまった本人だけでなく、周りにいる人たちも気まずくなる。だ から、その張りつめた空気をユーモアで吹き飛ばそうという考えらしい。また、お皿を 割るという行為は幸運を呼ぶ、という言い伝えがあるそうだ。お皿を割ること自体それ ほど深刻に捉えていないのだろう。誰が作ったのか分からない習慣であるが、面白い習 慣である。 その他にも、ダイニングホールで一度だけ“We’re going to miss you Sam”“Thank you Sam”と書かれた紙がたくさんダイニングホール中に貼られていた。私は何のことなの か全く分からず、周りにいた学生達も特に気に留める様子はなかった。どうやら、 “We’ll never forget you, Sam”といった内容から、ダイニングホールで働いていた従業員たちか ら、同僚の人へ送る「お別れ」を告げるサインだったようだ。その人が仕事を辞めてし まったのか、もしくは亡くなってしまったのかは分からないが、とても「粋」なことを するものだと驚いた。日本では決して見ることのないだろう光景である。アメリカと日 本の大きな違いは「サプライズ文化」である。この出来事は日本人の私からすれば不思 議なことだが、彼らアメリカ人にとっては、ごく自然なことだったのかもしれない。 アセンズで感じ取った経験は、面白いことばかりだ。何気ない日常風景を全く飽きな い物にさせてくれる。ハロウィーンの季節には、蜘蛛の巣やマネキンの生首、魔女や黒 猫の飾り、本物のカボチャで作ったジャックオーランタン、電動で動く吸血鬼の人形な ど様々な飾りがされている。クリスマスが近い時には、雪の結晶や雪だるまの飾りつけ や雪景色の街を再現したミニチュアがディスプレイされており、次々とダイニングホー ルの中の風景が変わっていた。 私はこのオハイオ大学の雰囲気がとても気に入った。私にとっては何から何まで私の 好きな食べ物で埋め尽くされたダイニングホールが天国のように感じたからだ。ここま で自由に食べることができるのなら、健康的な食事ができるのだろうかと思うが、オハ イオ学生は学内にあるジム Ping Center に通って運動をする。 「アメリカの食べ物」と聞 くとあまり健康的な食べ物であるようなイメージを持たれにくい。もちろん日本と比べ ればたくさんの食べ物が溢れているこの場所で太ることは簡単だろう。しかし、その分 運動を心がければ、それほどまでに気にしなくても過ごしていけると感じた。実際に Ping Center で運動をする学生は非常にたくさんいて、みんな自分の体に気を使っている 様子だった。私はありったけの好きな食べ物を特に気にせず食べていたが、毎日 Ping Center で運動することで、体重が 2 キロほど増えただけであった。 私はこのアメリカの生活にとても慣れてしまった。最初の緊張感など忘れて、とても 安心できる場所になっていた。一緒に留学をした友達の中には「この食事に飽きた」、 「早く日本に帰って日本食を食べたい」という声もたくさん聞いたが、私はオハイオ大 学での食生活が大好きであった。最後の日にオハイオ大学のダイニングホールで食べた 物は、アメリカンドッグにハンバーガー、フライドポテトにアイスクリームであった。 いつもと変わらない味に私は大満足であった。私にとってはオハイオ大学のダイニング ホールが第二の故郷の味になっていたのかもしれない。今でもあの場所で過ごした日々 を懐かしく思う。 ある日、部屋に警官が... ~ルームメイトから学ぶ異文化~ 伊藤アキノリ 私は留学に行く前、アメリカ人のルームメイトが欲しいといつも口にしていた。ルー ムメイトがアメリカ人であれば現地のことを教えてもらい、英語力も上がるとも思って いたのだ。そして自分の願い通りルーム メイトはアメリカ人であった。しかし、 ルームメイトの最初の印象はよくなか った。ルームメイトの名前は Dennis。彼 はゲームと酒と大麻に明け暮れる問題 を抱えたアメリカ人学生であった。アメ リカ人には大麻をやっている人がいる ことは知っていたが、まさかアメリカに ついて2日後に大麻を勧められること になると思わなかった。私は日本では酒も飲んでなければタバコも吸っていなかったの で、はっきりと断った。 最初はアメリカ人全員が Dennis のような人かと思っていたが日が経つにつれて違う ということに気づいた。アメリカについて2週間後に、あるアメリカ人に部屋を変えな いかと尋ねられた。どうやらその友達は私のルームメイトと小学校からの付き合いで、 春学期は同じ部屋だったが秋学期で部屋も寮も違うところになってしまったらしい。私 は引っ越しの荷物を運ぶのは面倒だったので断ったが、その後も部屋変えてくれと何回 もせがまれた。結局、最後は先生に部屋は変えられないと言われているからだめだ、伝 え収まったが、妙なやつと同じ部屋になってしまったと思った。ある意味いい経験でも あったので、今はよかったと思っている。 さらに驚いたのが1か月後のある日に自分の部屋に帰ろうとすると、そこに警察官の 姿があった。自分とルームメイトの荷物が外に出されていて、そして警官が私に気づき、 質問があるからちょっと時間あるか尋ねてきた。質問は主にルームメイトについてで、 昨日の夜、彼が部屋にいたかどうか、誰かを連れて来たかどうか、最近の様子はどうか などと聞かれたのである。ルームメイトが大麻をやっていたのは知っていたのでそのこ とについてだと思ったが、彼らは大麻について何も質問しなかった。しかし、警官はル ームメイトが女性を部屋に連れて来たとか、女性の特徴とか聞き始めたので、ルームメ イトが犯罪を犯したのかと思ったりもした。質問が終わり、警官に部屋には入れないと 言われたので外で時間をつぶし、夜に部屋に戻ると警官はすでにいなかった。荷物は全 部元の場所に戻されていて、ルームメイトも何もなかったかのように、ベッドに座って いた。 最初は警察が来たことを伝え、彼が何かをやらかしたかどうか聞くつもりだったが、 怖くなり、その日は何も聞けなかった。それ以後、警察からもルームメイトからもその 件に関して話はなかったので解決したと思っていた。日本に戻る1か月ほど前に、私が またオハイオ大学の上層部に呼び出されていることを聞き大変驚いた。最初は私が何か 悪いことをして叱られるのかと心配したが、先生にはあなたのことではなくルームメイ トのことだから心配しないでねと言われた。まだルームメイトがトラブルに巻き込まれ ていたことに驚いた。その後、英語で事情聴取されることがあったが、すべて前とほと んど同じで、私の部屋にルームメイトとの関係のある女の人が来たかどうか、あるいは、 その人の特徴はどうだったかなどの質問ばかりであった。質問が質問だけに心配してい たが、思ったよりも理解できたので、意 外なところで、オハイオで過ごした 3 ヶ 月は無駄ではなかったと実感してしま った。その数日後ルームメイトと久しぶ りに話すと、来年からオハイオ大学を辞 め、転校すると言っていた。理由を聞い ても詳しいことは何も言わずただちょ っとトラブルに起こしたから転校する ことになったとしか言わなかった。 ルームメイトは昼に寝ていて夜に起 きていることが多かった。夜に電気とテレビつけて、私は毎日睡眠不足の日々を送って いた。それで早く日本に帰って自分の部屋でゆっくり寝たいと思っていたこともある。 だがオハイオから帰る直前には、やはり帰るのは少し寂しくなった。ルームメイトのせ いで迷惑をかけられたり、寝不足になったが、よくよく考えてみると悪いことばかりだ けではなかった。私が風邪をひいたとき時は気を使ってくれたり、何かわからないとき は教えてくれたり、場所がわからないときはそこまで案内してくれたりしたルームメイ トであった。迷惑はかけられたが優しい奴だと思ったのである。それに、こんな経験は 彼と過ごした私しかできなかったはずで、貴重な異文化体験をさせてもらったと思って いる。 オハイオで過ごした4ヶ月間は自分にとって大きな影響を与えてくれた。英語力の向 上もだが、何よりも人間として大きく成長できたことが一番大きいと思っている。そし てもう一つ留学に来てよかったと思 ったことは、留学に来る前よりも英 米の仲間と仲良くなったことである。 今まで一度も話したこともない中部 大学の仲間と話したり、仲良くなっ たことはとても嬉しかった。留学は 私の人生に大きな影響を与え、そし てかけがいのない思い出になったの である。 ありがとう、最高のルームメイト 鵜飼里奈 私は今まで何をしていたのだろう。 これは私がオハイオ大学長期海外研 修に参加した率直な感想だ。私はこの プログラムに参加するまで正直適当 に大学生活を送っていた。思い返せば 勉強なんてまともにしたことはなか った。でも約 4 ヶ月が経ち、私は目が 覚めた。目標ができた。この夢のよう な 4 ヶ月で私は少なからず成長できた のではないかと思う。それは私を変え てくれた素敵な出会いがあったからだ。 出発当日、私は誰よりも不安だった自信がある。初めての海外、初めての留学、すべ てが初めてなことばかりで押しつぶされそうだった。オハイオ大学に着いたのが朝の 3 時で眠いはずなのに不安で全く眠くなかったのを覚えている。それと同時にルームメイ トと初めて会う不安もあった。どんな子だろう。どこの国の子だろう。仲良くなれるの だろうか。数えきれないくらいの不安があった。オハイオ大学へ着いてすぐ寮へ向かい 部屋へ案内された。部屋へ着いたのが真夜中だったということもありルームメイトは寝 ていた。起こすのも申し訳なかったので静かに寝る準備をして次の日も早かったので私 もすぐ眠りについた。 次の日の朝、私が目を覚ましベッドからおりて準備をしていると彼女も目を覚ました らしく急に挨拶をされた。そしてお互い自己紹介をした。彼女の名前は Sydney。オハ イオ州出身のアメリカ人であった。Sydney は軽く部屋の説明をしてくれて、朝ごはん にとシリアルも用意してくれた。私のルームメイトに対する不安はすぐに安心へと変わ った。彼女はよくしゃべる子であった。その日、部屋へ帰ると日本のことや私の家族の ことなどたくさん質問された。そのとき改めて自分の英語力のなさに絶望した。Sydney の話す英語は今まで日本で受けてきた授業で聞いていた英語の何倍も速く、全く聞き取 れなかった。彼女は私が聞き取れなくて困っていると、「私の話すスピードは友達にも 速いって言われるから聞き取れなくても大丈夫。 」と私に言ってくれた。私は申し訳な くなった。彼女に話しかけられても、私の英語力では会話にもならない。彼女の質問に 簡単な英語で答えることしか私はできなかった。それでも、私に話しかけてくれる Sydney の優しさに何度も助けられた。 ある日、Sydney に紹介したい子がいると言われ、誰だろうと緊張しながら Sydney に ついていき、その子に「Hi!」と軽く挨拶した。すると、「こんにちは。初めまして。」 と予想外の返事が返ってきた。彼女の名前は Ami だ。お母さんが日本人でお母さんと 日本語で話すから日本語が話せる、と私に話してくれた。同じ寮の同じフロアにこんな 子がいるのだと思うと、少しホッとした。この時、まさか Ami が私の Conversation partner になるとは想像もしていなかった。彼女はいつも勉強を頑張っていた。ただでさえ上手 い日本語をもっとしゃべれるようになりたいと言っていた。そして Ami に会うと毎回 「授業で困ったことない?手伝おうか?」と私を気にかけてくれた。これは Ami に限 ったことではない。Sydney も寮へ帰ると毎日部屋で勉強をしていた。そんな彼女たち を目の当たりにして、私は今までどれだけ自分に甘えてきたのか痛感した。自分の専攻 している英語でさえもろくにしゃべれない。恥ずかしくなった。 でも、そんな甘えていた私を怒ってくれた友達がいた。彼の言ったことはとても当た っていて悔しくて泣いてしまったことを今でも鮮明に覚えている。その日を境に私は一 から勉強を始めた。基本的なことも必死になって勉強した。こんな私に勉強を教えてく れる友達もいた。私は友達に恵まれていることを改めて実感した。 そんな中、Sydney に Thanksgiving Day に家に来ないかと誘われた。私は誘われたこ とが嬉しくてすぐに行きたいとその誘いを喜んでうけた。しかし、よく考えると誰にも 頼ることができない期間は初めてだったことを思い出し、出発日以来の不安が押し寄せ た。Sydney の家は大学から車で 2 時間の場所にあり、Sydney の運転で家へと向かった。 移動中の車の中も終始緊張していた。いよいよ Sydney の家族と初対面だ。彼らはとても温かく 私を迎え入れてくれて安心した。Thanksgiving Day は、ターキーやマッシュポテトなど特別な 料理を食べる。アメリカに来て初めての家庭料 理はどれも美味しかった。その日の夜 Sydney が私をショッピングモールへ連れてってくれ て Black Friday(クリスマス商戦が始まる前日 の大バーゲン)も体験することができた。5 日 間、Sydney は私を楽しませようと色々な場所へ 連れてってくれてとても楽しかった。少しでも アメリカの文化に触れることができてとても 充実した 5 日間だった。 Thanksgiving Day も終わり帰国まで残り少な くなってきた。もう終わってしまうのかと思うと帰りたくなかった。荷物をまとめてい ると 4 ヶ月間の思い出が蘇って無性に寂しくなった。帰国前日の夜、私たちは早朝にオ ハイオ大学を出発するので荷物をスーツケースに詰めたり、重さをはかったりバタバタ していて部屋へ帰ると Sydney はもう寝ていた。最後の挨拶はできなかった。ドアを見 ると Sydney からの手紙が貼ってあった。私はその手紙を読んでボロボロと泣いてしま った。私が全然英語を聞き取れなくて、しゃべれなくて、Sydney を困らせていたこと が何回もあると思う。だが、Sydney は私の喋る英語を一生懸命聞いてくれて、時には 私の英語の勉強を手伝ってくれたりもした。この 4 ヶ月間、私は Sydney に迷惑をかけ っぱなしだったと思う。それなのに私を最高のルームメイトと呼んでくれる彼女には、 感謝してもしきれない。そして目標ができた。もう一度オハイオへ行き Sydney に会う ことだ。Sydney に宣言した「英語の勉強をもっと頑張ってオハイオに戻ってくる」と いう言葉を現実にするためにこれから努力するつもりだ。このような目標を持てたのも Sydney のおかげだ。Sydney がルームメイトで本当によかったと思う。 最後に、こんな素敵な体験をさせてくれた両親、この4ヶ月間支えてくれた友達、そ して先生方に感謝しかない。このプログラムに参加して人生が変わったと言っても過言 ではない。この経験を無駄にしないようにこれから過ごしていきたい。 アメリカと日本の異文化 河西真吾 私はこのオハイオ留学が初めての海外であった。 また、初めて実家から長期間離れるということもあ り、出発前は非常に不安であった。そして何より一 番の不安だったのが、自分の情けない英語力であっ た。往路の機内では、友達はできるのか、一人で生 活できるか、授業についていけるかなどという不安 ばかりが頭の中をよぎっていた。だが、オハイオ留 学が終わり今振り返ってみると、とても充実して、 留学して本当によかったと私は胸を張って言える。なぜなら、飛行機で考えていた不安 はすべて克服できたからである。私は、英語の上達を目的にオハイオ留学に行った。そ して実際に自分の英語力を上げることができたと思う。だが、それ以外にも学んだこと は非常に多かった。自分のことは全て自分ですることなど人間的にも成長できたと思う。 そんなエピソードをいくつか紹介したい。 アセンズ到着後の初日。私は寮に着き自分の部屋のドアを開けた。そのとき隣の部屋 からアメリカ人が飛び出し、とても元気に私に向かって走ってきた。自己紹介に来てく れたのだ。私も自己紹介をしたが歓迎されている感じがして嬉しかった。この時から、 頻繁に隣の部屋に遊びに行き、くつろいだりすることも多くなった。 隣の部屋はいつもドアが開いていて、いつで も仲間を歓迎してくれた。だが、悩んだ。英語 をうまく喋れない私が行って、皆は私と一緒に いて楽しいのか、私は、隣の部屋に行っても いいのか、行くべきではないのではなどと、 消極的なことを考えていた。常に相手の気持 ちを自分より察して優先してしまう日本人 的な考え方である。こんなことを考えてい るうちに、隣の部屋で彼らと遊ぶ回数が徐々に少な くなってしまった。私は自分からこのままではいけないということを、分 かっていたが行動に移すことができなかった。しばらくして私は久しぶりに隣の部屋に 遊びに行った。彼らは、前と変わらずに優しく私を受け入れた会話をしてくれた。私は 勝手に小さいことを気にしすぎていたようだ。そうだ、ここはアメリカだ。もっと自己 主張しなければ、と思った瞬間であった。それ以来、彼らとより一層仲良くなることが できた。今までの自分が馬鹿の様に思えた。 他にもアメリカ人との思考の違いに何度も直面した。私のルームメイトはゲームが大 好きだ。彼は暇があれば常にゲームをしていた。私がオハイオに着いて次の日の夜、彼 はゲームをしていて私は寝ようとしていた。彼は、私に「電気を消したほうがいい?」 と聞いてきた。その時は、電気がついていても寝ることができたので私は、「気にしな いで」と言った。私はこの会話が毎日続くと思っていたが、彼はそれ以降一度も聞いて こなかった。彼は、毎日夜遅くまで電気をつけてゲームをしていた。最初は我慢してい たが、私も限界になり、勇気をだして「電気を消してっ」と言った。すると彼は、嫌な 顔一つせず「分かった」と言ってくれた。もちろん英語での会話である。私は嬉しくて ほっとした気持ちになった。この時から、私は相手に気を遣わなくなり、ルームメイト との会話が増えた。塩澤先生の異文化コミュニケーションの授業でアメリカ人の特徴を 習ってはいたが、アメリカ人は本当に習った通りの行動をとる人たちだと知り驚いた。 アメリカ人は、とてもフレンドリーで自己主張が強く周りからの視線を気にしない。留 学当初は、このような文化的な違いに少し抵抗を感じた。だが、自分もその文化に合わ してみると、意外と心地よい。留学の後半では、抵抗感は一切なくなった。むしろこの ようなアメリカ人の行動文化が好きになったと言ってもいい。 アメリカ人の行動の中で、一番驚いたのは、彼らの授業への真剣な姿勢である。ほと んどの学生が授業中に積極的に発言をして、私語などまずない。日本とは比較にならな いほどの、真剣な授業の取り組み方であった。学生も授業と関係することしか話さない ので、授業に集中し日本よりも進み具体が早いと私は感じた。アメリカ人は勉強にまじ めで、授業中に自己主張や意見交換があり、これらの特徴がすべていい方向に働いてい た。これには非常に感激した。アメリカ人は週末のパーティーでは狂ったように暴れて いるが、ウィークデイは、人が変わったようにまじめな学生に切り替わる。私は、彼ら は人生を最高に満喫していると思った。彼らの切り替えの早さは本当に尊敬に値する。 私が持つ日本人のイメージは常にまじ めで少しつまらないという印象だ。私は 日本の文化も素晴らしく誇れるものだ と考えているが、もう少し日本人学生は アメリカ人学生を見習って、周りの目な ど気にせず、大いに遊び、積極的に授業 に関わるべきではないだろうか。アメリ カ人やアメリカ文化はもっと見習い、尊 敬してもいいのではないかと思った。 これらは私の経験のほんの一部であ る。他にもいろいろなこと学ぶことができたが全部書ききれないのが残念だ。私にとっ て、オハイオ留学は非常に大きな経験であった。現地でしか学ぶことのできない日本と の異なる文化、伝わらない言葉、英語母語話者たちとの交流があった。これらの経験は、 一生忘れることのできない楽しい、そして充実した時間となった。楽しいことばかりで はなく、日本よりも大変な勉強や、伝わらなくて困ったことなど様々なことがあったが、 今ではどれもが私にとっての大きな財産となっている。 こんなにも留学が素晴らしいものだということは知らなかった。ほんの4ヶ月のオハ イオでの留学生活だが、最高に内容のある濃密な日々を過ごすことができ、本当に留学 して良かったと思う。高い留学費を払ってくれた両親、サポートしてくれた人たち、日 本人の仲間に感謝しなければならない。この経験を忘れず、これからの日本での英語学 習にも積極的に取り組んでいきたいと思う。 「ウェンディーズに行きたい!」 ~考えを主張することの大切さ~ 亀井祐哉 私は 20 年生きてきた中で一度も日本を出たこと がなかった。しかし、ついに成人を迎えるこの年に、 生まれて初めて日本を出ることになった。しかも、 4ヵ月という長期間をアメリカのオハイオ大学の寮 で外国人とルームシェアをするということとなった。 出発前は自分がアメリカで生活を送ることなど想像もつかなかった。ましてや、外国人 とルームシェアをすることを考えると、不安と緊張で押し潰されそうだった。 出発後、私達がオハイオ大学に到着したのは夜中の3時過ぎであった。さらに、先生 からは、私達の方が早く寮に入ると言われていて、二人部屋の好きな方のベッドを選べ ると勝手に思っていた。ところが、既にルームメイトが寝ていて、好きなベッドどころ か、起こさないように、音を立てずに部屋に入るということになってしまった。それで も、スーツケースの物音で、結局、ルームメイトを起こしてしまった。 これが私とルームメイト Nick との最初の出会いであった。 次の日の朝、Nick に「昨日は起こしちゃってごめん。」と謝った。だが、Nick は「No problem.」と言って全く気にしていないようだった。私はとても驚いた。同時に、Nick はなぜ全く気にせず怒ってもいなかったのだろう?と疑問に思った。 これが、私が最初に感じたアメリカ人と日本人の考え方の違いである。大半の日本人 は、予測していたこととは言え、夜中にいきなり初対面の人間で人種も違うルームメイ トに雑音で起こされたら怒るのではないだろうか。少なくとも不機嫌になるか、良い気 分ではないと思う。だが、この経験をはじめ、アメリカ人は生活する中で、おおらかに 構えて全く物事を「気にしない精神」が素晴らしいと思う経験をした。 例えば、オハイオの街中で見かける車はすべてと言っていいほど、ほとんどの車がへ こんでいたり、ヘッドライトが割れていたりする。私が見た中で一番ひどい車は、後部 座席に草が生えていた。また、雨の日の大学内を歩いてみるとほとんどの学生が、雨が 降っているにも関わらず傘をさしていないのだ。雨に濡れても気にしないのである。こ のように何に対しても、大ざっぱと言うか、「気にしない精神」があり、感心した。 他方、別の経験もある。ある日、同じ階の寮生の Danie の部屋で遊んでいる時、彼の ルームメイトの Jimy が「ユウヤも一緒にご飯を食べに行こう。」と誘ってきたので、私 はもちろん「行く!」と答えた。 「ビックママかウェンディーズ、どっちに行きたい?」 と聞かれた。私は内心「ウェンディーズに行きたい。」と思っていたが、 「どっちでもい い。」と答えた。Danie が「ビッグママに行きたい。」と答えたので、Jimy が私に「じゃ あビッグママでいいかな?」と聞いてきたので「なんでもいいよ。」と答えた。そうす ると Jimy が私にとても怒ってきた。その時はよく聞き取れなかったのだが、私は不思 議に思ったので、次の日友人にこの出来事を相談してみることにした。すると友人は、 「アメリカ人は自己主張が強いからそういった曖昧な返答を嫌うんだよ。」と教えてく れた。私はその時、異文化コミュニケーションの授業で習ったことを思い出した。アメ リカ人は自分が思ったこと、感じたことをストレートに伝える国なのだ。だから、アメ リカ人は授業中でも積極的に発言し、自分の意見を率直に述べている。その一方で、日 本人は相手の気持ちを考えたりして気遣いしすぎる節がある。これは、日本では良いこ となのかもしれないが、はっきり自分の意見を持つことを美徳だと考えるアメリカでは あまり良いことではないのだ。だから、それからは言いたいことを言うようにした。Jimy に「ユウヤ、ご飯食べに行こう!」と言われると真っ先に「ウェンディーズに行きたい!」 と言えるようになった。また、日本人の友人との間でも、嫌なことは嫌と言えるように なった。結果、その分自分の時間を作れるようなった。 この4カ月の間で、私の英会話力 が成長するきっかけとなった出会い があった。それは、オハイオ大学で 履修していた発音の授業での Freddy との出会いだ。発音クリニックはマ ンツーマンの授業で、私の担当が Freddy であった。Freddy は大学3年 生で歳も結構近かった。Freddy との 会話はいつも“How’s it going?” から始まった。最初の頃は全く会話 が続かず、発音の授業を黙々とこなしていくしかなかった。だが、オハイオの生活にも 慣れてきた頃には、いつものように Freddy が“How’s it going? ”と聞いてきた。私 はその時、COMS の授業でのスピーチの原稿制作に追われていたので、“I’m tired. ” と答えた。すると Freddy は“Why”と聞いて来た。理由を説明すると、Freddy は笑い ながら「そんなの俺だってあるよ、ましてやユウヤは留学に来ているんだから沢山勉強 しないと!」と言ってきた。その時、この言葉がとても心に響いた。それと同時に、少 しでも同情を求めた自分が恥ずかしくなった。それから私は、発音の授業がある日は Freddy とその日あった色んなことや、日本のことを話すようになった。COMS のスピー チも以前より時間をかけて質の良い原稿を作るようにした。その結果、私のスピーチは、 アメリカ人の学生から「お前のスピーチはいつも面白い topic で、聞いてて楽しい。 」 と言ってもらえるほど成長した。もちろん、会話力も Freddy を含む沢山の現地の友人 のおかげで成長することができた。 この4ヵ月は、私の人生の中で間違いなく一番の思い出になった。また、様々な異文 化に触れることで考え方や、勉強への意識も変わった。一日一日が充実し、毎日が驚き と新しい発見の連続であった。辛いときやストレスで押し潰されそうな時もあり、決し て楽な留学ではなかった。だが、そういったことも含めすべてが良い思い出になった。 最後に、留学に行かせてくれた家族には感謝しなくてはならない。また、現地で 辛い時も楽しい時も一緒にいてくれた現地の友人、英語英米文化学科のみんな、ジョ ン・ヒー先生、Krzic 先生、それに Alyssa や Cheyenne には感謝しきれないくらい感謝 している。ほんとうにありがとうございました。。先生やあなたたちのおかげで本当に 素晴らしい留学となりました。 不安が自信に変わった 4 ヶ月 ~ずっとここに滞在していたい~ 金原竜椰 留学前には、本当に英語力が上がるの か、友達ができるか、心が折れないか、 等、いろいろな不安を持っていた。それ は異国の地で生活していくことに対す る恐れだったのだと思う。しかし、実際 にアメリカでの生活を振り返ると、不安 になったことは一度もなかった。もちろ ん、初めは、まだ耳もネイティブスピー カーの英語に慣れていなかったうえ、私 の発音も悪かった。当然、上手にはコミ ュニケーションをとることができなか った。それでも、日に日に上達しているのが感じられた。そして、アメリカの文化が心 地よかった。それに友達や先生に恵まれていた。私はもともとシャイな性格ではないた め、アメリカ人にも積極的に話しかけると、思いのほかあっさり仲良くなれることが多 かった。日本に帰らないで、ずっとここに滞在していたいといつも思うようになってい た。 私にとってこの留学は濃厚でかけがえのない経験になった。楽しい留学生活が送れた のはたくさんの友人ができたからだ。私はアメリカで毎日のようにフットサルかスケー トボードをして仲間と楽しんでいた。オハイオ大学には Ping Center という素晴らしい スポーツ施設があった。そこで私は、ひとり現地の人たちの中に混ざって、フットサル をしていた。初めは、知らない現地の人たちの中にいきなり入ってもいいのかなど、不 安であった。しかし、勇気を出して参加すると、すぐに多くの人が話しかけてくれた。 アメリカに来たばかりの私はまともに英語を聴けないし、話せなかった。しかし、皆、 一生懸命話そうとしている私の英語を聴いてくれた。とても嬉しく、アメリカの人はな んて優しいのかと感じた。 そして、意外とアメリカ人は日 本人に興味を持っているのだと 知ることができる機会もあり安 心した。たとえば、少しの間 Ping Center に行かなかったときは、 大丈夫か、何かあったのかと友達 から連絡がきて、日本人よりも親 切なのではと思ったこともある。 スケートボードのときも同じで あった。皆、私が理解しやすいよ うにゆっくり話してくれた。帰る 前にはいつも写真を撮ってから解散した。近くにある Skate Park にもよく言った。行 くたびに現地の人と会話ができた。いつの間にか、彼らとしっかりと会話を楽しむこと ができるようになっていた。スポーツを関して英語力が上達していくことに喜びを覚え た。たわいもない冗談を言ったりして、とても親しくなれた。今でも、ネットを使って 連絡が取れる友達もできた。 英語を学習する環境もとてもよかった。COMS1030 の授業は、Linn 先生が教えてく れた。Linn 先生は、塩澤先生が 20 歳のときに Ohio 大学に留学したときも Ohio 大学 の教師で、塩澤先生は Linn 先生の教え子だと聞いた。Linn 先生はお年寄りだが、と ても元気で、常にエネルギッシュであった。授業は私たちが聞き取りやすいようにゆっ くり話してくれた。私たちのリスニング力が上がったと思うとだんだんと話すスピード が上がり、彼女の授業はとても勉強になった。 COMS1030 はスピーチコミュニケーションの授業だ。私も最長8分のスピーチを作 り発表した。Service Learning の授業は、Kevin 先生が教えてくれた。Kevin 先生は、 見た目は固そうでまじめに見えるが、冗談をよくいい、授業を楽しましてくれた。私が この授業で一番ためになったと思うことは、relax pronunciation を学んだことだ。私 のほとんどの友達は want to を wanna と、他にも reduction 等のある発音で話してい た。Kevin 先生の授業を受けたことで、さらに会話がしやすくなり、友達もさらに増え た。私も授業で習った英語を実践して身につけた。最後に American Culture は Dr. Krzic が教えてくれた。毎週 East Elementary School に出向き、子供たちと触れ合っ た。子供たちの英語は単語が優しかったため、いつもより気楽にたくさん話せた。この Ohio 大学への留学で本当にお世話になったのは Jounghee 先生である。いつも私たち のことを気にかけてくれて、困ったときはいつも彼女が手助けしてくれた。他にも、 Pronunciation Lab があり、毎週私たちの英語の発音を磨いてくれた。こういった授業 があったからこそ友達もたくさんできて、中味の濃い留学になったと思う。授業以外に も、学生 tutor や同じ寮の友達が宿題の分からないところを教えて くれたり、正しい文法に直してくれたりしてくれた。 みんながいなかったら、不安が常につきまとっていたと思う。私 たちは先生や多くの友達がいたからこそ、多 くのことをこなせていけたのだと思う。私は 留学に行く前、海外に行ってみたいという気 持ちの方が、英語力を上 げ ようと いう気 持ち よ りも大きかった。しかし、 Ohio 大学で生活をして、 英語を学ぶうちに、もっ と 自分の 英語力 を上 げ たいと思った。楽しく生 活 してい れば友 達も 増 える。友達が増えると、 遊ぶ機会が増えて、英語 を話す機会も増えて、さ らに自分にと っ て良い ことば かり が 起こる。彼ら に刺激を受けて、勉強も 頑張ろうと思 った。 これか ら留学 を考 え ている人に私は伝えたい。留学に 行く前は緊張や不安があると思うが、留学したそこで楽しく生活していれば緊張や不安 など全く気にはならない。大切なのは、良い友達を作ることだと思う。友達がいれば、 もし辛いことがあっても励まし合い、乗り越えていけると思う。私はこれからもっとコ ミュニケーションができるように語彙力や表現力をつけていきたい。次に、Ohio 大学 の友達に会う時には、自分の英語力が上がっていることを見せてあげたい。 自ら発しなければいないのと同じ 溝江澄花 アメリカ人は、何事にも興味があり、実力主義で、何にたい しても自由で開放的な人々。この三つが私が留学に行く前 までの私のアメリカ人に対する印象であった。多分この 印象は、よくメディアで放送されているアメリカ人 の印象から付いたものである。だが実際、アメ リカに行ってみて、変わった印象もあれば、変 わらない印象もあった。しかし、アメリカで 過ごし、アメリカ人と触れ合い思ったことで、私 はさらにアメリカ人やアメリカという国が好きにな った。 私 にも興味を示 がアメリカに抱いていた印象のひとつは「アメリカ人は何事 す」である。これは実際、そのとおりであった。なぜそう思っ たのか。それは、何か事が起きたときの野次馬の多さを見たからだ。日本人も野次馬は 多い。多いというか、人は普通に集まっている。しかし、それと同時に無関心な人が多 くいるので素通りすることもある。アメリカ人も無関心な人がいるだろうが、日本人以 上に顔を必ず覗き込むなど、何かしら見ようとしていた印象があった。それにアメリカ 人は何かやっていると必ず参加しようとする。他人のパーティーでも、楽しそうなら道 を通りすがりに参加したり、反対に通りすぎの人を招き入れたり、日本では信じられな いような光景にあった。私はアメリカ人の物事の関わり方、人との付き合い方を見て、 日本人のほうが少し冷たいと思った。 二つ目は「アメリカ社会は実力主義」というものだ。これはまさにそのとおりであっ た。それを切実に感じたのは体育 の授業でバレーボールをしたと きだ。私たち中部大学生の仲間は 三人とも身長が 155 センチ以下 だった。Ohio 大学の学生はもち ろん高身長でバレーもうまい。し かも、バレーボールのクラスを受 けていた学生たちは全員本気で バレーをしており、誰一人手を抜 いていなかった。そんな中、初め てバレーの試合ではただただび びり、自分からは何もできずに、そして、誰も私にパスをくれることなく試合は終わっ た。思ったことは悔しかったのと、この中でやっていけるのか不安で怖かった。自分か ら何も言わずに、ただただパスが来るのを待っていただけであったので、この結果は当 然であったのかもしれない。だが、少なくとも日本では同じ状況でも、仲間が気を使っ て一度くらいは、パスを回してきたはずだと思う。そして、この不安、悔しさは自分が 吹っ切れて声を出し、バレーに積極的に参加するまで続いた。そう、私も頑張ったのだ。 三回目のバレーボールの授業ではパスを回したり、ハイタッチをするなどメンバーの一 員となった。それはとても簡単なことだった。ただ自己主張をし、それが伝わり、結果 がでればもう周りには認められるのだ。自分からアクションを起こすのがどれだけ大切 か身を持って実感した。行動して結果が出れば認めら れる。バレーボールを 通じ、アメリカ社会の縮図を見た気がした。とてもい い経験をしたと 思う。身長や国籍とは関係ない。 三つ目は、アメリカ人が「何に対しても自由 で 開 放的な人々である」ということだ。これはあ ながち間違っていないのかもしれないが、ま だわからないこともある。それは私があ るアメリカ人の女の先生と先生の旦那 さんの話や、先生の子供の話で盛り 上がっていたときだった。旦那さん との家での暮らしや何から何ま でいろいろと話していた先生 旦那さんからうけたプロポー 言葉を聞いたときに先生は、それ イベートな質問だから答えれない、と 直どこからどこまでがプライベートなのか分 た。アメリカ人のプライベートな範囲がよく分から 都合は関係なく向こうの都合で色々と話し、色々と聞く に、 ズ の は プ ラ 言った。正 からなかっ ない。こっちの のだが、プライベ ートという言葉をよく使うのだ。アメリカ人は開放的な人々だと思ったが、少し違うと 思った。プライバシーの概念が少し違うようだ。確かこれは異文化コミュニケーション でいう「自己解放」の大きさの違いだと思うが、どう違うかは、分からない。卒業論文 のテーマとして取っておきたいと思う。 私は留学をしてアメリカ人の印象が変わったり、変わらなかったりしたが、以前より 確実にアメリカが好きになった。また機会があったら是非もう一度行きたいとも思う。 アメリカに行き、いろんな人と話したりして自分の考えの幅が広がったと思う。家族、 先生、友達に心より感謝したい。ありがとう。 「早く帰りたい」から「日本に帰りたくない」へ 高橋満帆 私は何の目標も持たずにオハイオ大学での留学に参 加した。学科の半分の仲間が参加すると言い、先生も とてもこの留学をすすめていたからである。家族から も、留学に行き良い経験をしてきなさいと言われた。 留学した先輩からも、留学の話をする時にとても楽し かった、行くべきだよ、等と勧めてくださったことも 留学するきっかけとなった。最初はそんな中途半端な 気持ちで留学に行くことを決めたのだった。そのため、 一緒に留学に行った同級生達とは全く意識が違ってい たと思う。私はこの留学が楽しいものになればそれだ けで十分だと考えていた。 アメリカに出発する前までには友達同士で留学の話をたくさんした。友達はオハイオ の大学生とたくさん話すぞ、オハイオ大学で友達をたくさん作るぞ、英語を話せるよう になりたい、等と素敵な目標を持っていた。私はその話に合わせるように「私も!」と 適当な返答をしていた。しかし、こういう中途半端な気持ちで留学に行ったことを今で はとても後悔している。 アメリカに到着後、すぐに入寮の手続きがあった。だが、アメリカ人の言っているこ とが全く理解できず、自分の署名をすることすらてこずった。いきなり、自分の英語力 の拙さを思い知らされた。そこには、私のほかに中部大学の学生が3人いた。ほかの3 人は何の問題もなくすんなり手続きを終えた。私は英語が苦手なことを彼らも悟ったか もしれない。そう考えると私はとても恥ずかしかった。この時、彼女たちはすごい、と しか考えなかった。 初めての授業は、当然であるが、英語だけの授業だった。しかも、アメリカ人と一緒 に履修する授業だ。私は何一つついていけなかった。先生が何を言っているのかが全く 聞きとれない。静かな教室の中、友達に「今何をしているの?」とも非常に聞きづらか った。周りの同級生は真剣に授業を聞いていてしっかりついていっている。私は一人取 り残された気持ちになった。今まで中部大学で同じ授業を受けて何で私は何一つ分から ないの、今回の留学組で一番英語を理解できていないのは自分ではないか、と自問した。 最初の2週間はこのような悔しさや情けなさ等のネガティブな感情で頭の中が一杯に なってしまった。もう、日本に帰りたい、4ヶ月なんて長すぎる、とばかり思っていた。 そのため最初の2週間はとても長かった。 2 週間を過ぎた頃から welcome party 等様々なイベントが増えてきた。この頃には、 たくさんのオハイオ大学の学生たちも来て、交流する機会がたくさんあった。中部大学 で私の一番仲の良い学生がオハイオ大学の学生と楽しそう話しているのを見た時のこ とだ。日本人1人に対しオハイオ大生が2人であった。なんで日本人1人なのにその場 にいられるの?なんで楽しく話せているの?と羨ましく思った。その時は、この友人の お陰で話に混ぜてもらうことができた。しかし、私は会話に全くついていけなかった。 友達が笑って話を聞いているが、何が楽しいのもわからなかった。自分だけ何も分から ず本当に辛かった。その時に友達が遠い存在に感じた。いつも自分だけ何もできない、 何も分からない、何も楽しくない、本当に自分は何もかも最低だ、と考えてしまう日々 がしばらく続いた。一番の親友まで失った気持ちになった。 だが、逆に、親友が遠い存在に感じたことは、実は良いことであった。私はこの時に 初めてもっとみんなと仲良くなりたい、と強く考えることができたからだ。それからは、 周りの学生にはたくさん迷惑をかけたが、会話中でも理解できない時には、すぐに近く の友達に聞いた。そうやって会話も少しずつ成り立っていった。だが、私が会話を止め ることになってしまった。友達も話についていけなくなることに気付いた。迷惑をかけ ている。私はさらにこれではだめと考えた。分からないことは後から自分で調べること とした。宿題も友達に毎回付き合ってもらった。ほんとにこんなに「自己中」な私に付 き合ってくれた友達には今でも感謝しかない。 アメリカ人の学生にもとてもいい刺激をもらった。彼らは授業についていくためだけ でも、睡眠時間を削ってまで勉強していた。彼らと日本人の遊びとバイトにかける時間 の使い方の違いを実感した。ある友達は私に勉強の大切さを教えてくれた。彼は今たく さん勉強をすれば良い成績がとれる、知識や技術や能力や人間的にも成長する、そうす ればたくさんの企業がその学生を欲しがる、そうなった時に、自分の将来の家族に良い 生活を与えられる、と、とても楽しそうに話してくれた。なんて素敵な考えだろうと思 った。他の中部大学の学生も、みんなが楽しく遊んでいても、宿題があるからと断って 勉強していた学生がいた。宿題がない時でさえ、授業の予習のために誘いを断って勉強 している学生もいた。頑張っている仲間やオハイオ大生を見るにつけ、私はいままで何 をやっていたのだろうと心から反省した。 他にも辛い経験をした。現地の学生と日本人は私だけで会話した時のことだ。この時 ほどに英語を勉強していなかったことを後悔したことはない。この頃には私の英語力も やや上達し、何を言っているか聞き取れる程度にはなっていた。しかし、単語の意味が 分からないことが多かった。単語一つ分からないだけでこれほどにも何を言っているの かが分からないものだと感じた。相手は私に理解させようとして話してくれた。だが、 私はそれでも理解できなかった。本当にごめんなさいという気持ちで頭が一杯になった。 彼女は、一つ一つ話すたびに、“Right?”と聞いてくれた。私は、分からない場合は“Sorry.” と言って、分かってないことを素直に伝えた。その都度、私が分かるまで単語一つの意 味を英語で細かく説明してくれた。 しかし、それでも分からない時 があった。その時には相手も慣 れない日本語と英語を使って説 明してくれた。分からないこと を恥ずかしいと感じず、遠慮せ ず伝えればいい。そう思いなが ら、相手に多大な迷惑をかけな がらようやく会話がなりたつ状 態であった。これでも、以前と 比べるとはるかにうまくコミュニケーションができるようになっていると自分では感 じた。相手は日本を大好きな学生だからよかった。素直に嬉しかった。 だが、さらに辛い経験はここからだった。その場に日本に全く興味のないオハイオ大 生がいた。私たちの会話をきいて、その学生は“Speak English. Here is America.”と言 って何度も怒ったのだ。現地のアメリカ人にとっては、日本語のような外国語を私たち がアメリカで話すことを不快に考える人もいると実感した。しかし、これほどに怒るも のかと不思議に思った。なぜ彼は怒ったのか。私は日本にいる時に外国語を聞いても不 快に思ったことはない。思っても日本人ならきっと言わないだろう。理解できない言語 で話されると私たちが悪口を言っていると思うのか、あるいは、なぜ私がいつまでたっ ても英語ができないのだ、等と思っているのかもしれないと想像した。以前に日本人と 不快な経験をしたのだろうか。あるいは、自分 のテリトリーが冒されていると感じたのだろう か。いずれにしても、直接言ってくるところが 自分の意見をしっかり言うアメリカ人らしいと 感じた。怖かったが、相手の素直な気持ちを理 解できて、少し嬉しい気持ちもあった。 他にも数えきれないほどの良い経験や辛い経 験をした。それでも、日本に帰りたい、辛いと 考えた最初の2週間と比べると比較にならないほど成長できたと思う。 嘘のような話だが、帰国日には日本に帰りたくないと真剣に思った。自己中心的な私 に付き合ってくれた友達には頭が上がらない。仲良くしてくれた現地の学生にはこんな 私と友達になってくれてほんとに嬉しい。親にも感謝したい。 アメリカにおける「たばこ」 佐橋皓介 私は留学に行く前にアメリカは禁 煙大国だと聞かされていた。私はたば こを吸うので少し面倒だと思ってい た。しかし、実際行ってみるとたばこ を吸っている人は少なくないことが 分かった。大学内は全面禁煙にも関わ らず外には灰皿がいくつか設置して ある。法律では日本よりも軽く 18 歳 から喫煙ができる。私が受けた印象では大学内に限って言えば、アメリカは私が思って いたほどの禁煙大国ではなかった。 なぜ喫煙者が少なくないにも関わらずアメリカは禁煙大国というイメージがついて いるのだろうか。たばこの値段は様々だが安いものだと 5 ドル、私が行っていた時のレ ートは1㌦ 120 円前後で日本円に直すと 600 円である。確かに日本円に換算すると高 いが、アメリカの食べ物は安いものでも 5 ドル以上はする。その物価から考えればあま り高いようには感じない。アセンズにも一店舗だけだが、たばこ屋もありコンビニなど で普通に売っていて、箱に他国で見られる過激な写真や警告はついていない。あまり日 本のたばこと変わっているところはない。一つ変わっている点はニコチン、タール数が 書かれていないことだ。その理由は、アメリカは WHO の「たばこ規制枠組条約」に加 入していないからだと考えられる。ちなみに、ネットの情報であるが、この条約締約国 は条約の発効から 3 年以内に、1.健康被害が少ないと誤解を与えかねない表示をしな い。2.包装面積の 3 割以上を用いて、健康被害の警告表示の掲載を求める。その他、 発効後 5 年以内に、煙草の広告や販売促進などを全面的に禁止し、規制の実施措置を取 るよう求められ、法律の整備を行って、未成年者の自動販売機による煙草購入を防ぐこ とも要求される。煙草に対する課税率引き上げの要検討、「マイルド(mild)」「ライト (light)」などの表示規制は、各国の自主判断に任される。また、条約第 8 条では、た ばこの煙に晒されることからの保護を求めており、具体的な指針として「たばこの煙に 晒されることからの保護に関するガイドライン」が定められている。 (Wikipedia) 。 こうやってみると、あまり日本と違う面はないように思。しかし、街の飲食店などで は灰皿を置いている店は一つもなく、たばこを吸っている私の近くを通ると嫌な顔をし たり、中にはわざとらしく咳をする人もいる。日本よりかなり吸いづらい環境ではある。 民間のレストランなどを含め、人が集まるところは基本的に全て禁煙である。これは居 酒屋や喫茶店でも同じである。この意味でアメリカは禁煙大国というイメージが強いの かもしれない。 アメリカでは州ごとにたばこの値段が異なっていて喫煙者数も州ごとに違っていた。 ニューヨークは値段が最も高く、他の州より 7 ドル近く高い。だがたばこ屋は少なくな かなか見かけなかった。コンビニに少し置いてある程度だ。しかし、喫煙者の数はオハ イオ州より圧倒的に多いように感じた。なぜ値段が最も高いのにここまで喫煙者が多い のだろうか。純粋なアメリカ人が少なくみんな観光客なのかもしれないが、灰皿もない ので歩きたばこをよく見かけた。ここでは、たばこを吸っていてもあまり嫌な顔をされ ない。ワシントンではたばこの値段はオハイオより少し安かった。だがニューヨークに 比べると喫煙者を見かけなかった。ナイアガラの滝で、カナダにも行ったのだが、たば この値段はニューヨークと同じくらい高かった。喫煙者はニューヨークより少し少ない くらいかもしれないという印象を持った。たばこの値段と喫煙者は比例しないのだろう と思った。 以前に日本のテレビでた ばこが値上げする際に、た ばこを止めるかという質問 をしていた番組を観たこと がある。止めないと答えた 人がほとんどであった。そ れに加えてたばこがいくら になったら止めるかという 質問に対して、1000 円と答 える人が大勢いた記憶があ る。だが少しずつ値上げしていったら止め時が分からず、だんだん値段に慣れていって、 本数を減らすなどして 1000 円を超えても吸うのを止めないのではないかと思う。それ と同じことがアメリカでもあるのかもしれない。 最近、アメリカでは電子たばこが流行っている。「VAPE」と呼ばれていてその名前 もかなり認知されている。日本では電子たばこというと禁煙のために使われていて、コ ンビニなどでも売られている小さいものだ。だがアメリカの電子たばこは日本のものよ り大きいものが主流である。またニコチンが入っているカートリッジもあるため、禁煙 のためというより、たばこが高いから本数を減らすために使われているようだ。煙は霧 状化した液体だが、たくさん出るためその煙を使った技を見せる趣味の道具としても人 気があるそうだ。ニコチン以外に果物の香りなどが入ったカートリッジもある。日本で もさらにたばこが値上げすると、電子たばこが流行る時がくるかもしれない。ほかにも 水たばこを吸う店も日本に比べると多くあった。中東が発祥で、知り合った友達はとて も大好きだと言っていた。 アメリカにはたばこ以外にも食文化、ルームメイトとの部屋での暮らし方、チップの 払い方など日本とは多くの文化の違いがたくさんあり、それに触れることがとても楽し かった。オハイオにはアメリカ人以外にもたくさんの国の留学生がいて、イベントなど を通して他の国の文化もわずかながら知ることができた。苦労したこともあり大変であ ったが、どれも今となれば良い思い出だ。また行ってみたいと思う。たばこではやや辛 い思いをしたが、この留学は私の人生にとって有益であったと心から言える。 机の外の世界 佐藤 空 私にとって今回の留学は初めての留学であるととも に、初めての海外でもあった。振り返ってみれば、とて も不思議な4ヶ月間であったなとしみじみと感じる。 オハイオ大学に着いてからの一週間はとても長かっ た。1日がまるで3日分くらいの長さに感じるほどであ ったのは、恐らく全てが「初めて」であったからであろ う。 初めて訪れる場所に行く時は着くまでにとても長く 感じるが、帰りは短く感じたり、あるいは幼いころは1 年がとても長く感じることはよくあることだ。人間は何 事においても脳の刺激によってその体感的な速度を変 化させる。この場合で言えば全てが新鮮で発見だらけの新しい世界での一週間は、私の 脳にとって刺激が多すぎて充実し過ぎたため、体感的速度がだいぶ遅くなっていたので あろう。 私にとって初めての海外での一週間は Awesome!!の一言であった。そんな「素晴らし い」留学生活のなかで、特に興味深く印象に残った出来事の一つに人々との出会いがあ る。サポーターやチューターなども含めると、とても多くの人々に出会うことができた。 その中でも印象的な人物は同じ寮で同じ MOD に住んでいた Jazzmine である。彼女は アフリカ系アメリカ人の三年生で、かつて中部大学に来ていた Alex に誘われたパーテ ィーで知り合った。私がパーティーの最中に爆音が流れていた中でうまくアメリカ人達 のノリについていけず、ソファーに座ってただ彼らが踊ったり騒いだりしているのを眺 めていると Jazzmine が話しかけてきてくれたのだ。「あなたを同じ寮で見たことがあ るわ。あなたのヘアースタイルは素敵ね。一緒に踊らない?」と、とてもフレンドリー で東洋人である私に何の偏見もなく気さくに話しかけてくれた。 そのことがあってから、近くに住んでいることもあって連絡先を交換し、頻繁に連絡 を取り合うようになった。彼女はとても個性的な女性で、恰好や行動やセンスはすこぶ る奇抜なのだが、同時に大人びた品性のある考え方の持ち主であった。人種的差別につ いて、未だに人種に優劣をつけるのはもはや古代の考えだ、このまま古代の考えを引き ずり続けるならば人類に進展はないなどと述べていた。私もその考えについては強く同 意した。 そもそもこれだけグローバル化している社会で、人種云々言うこと自体が愚かな考え なのだ。先生や大人はよく「いじめは良くないことです。個性を尊重しなさい。」と言 う。では人種的な差別や個性・ジェンダーに対する社会的な偏見は許されることなので あろうか。無論そんなはずがない。大人の社会は複雑で、醜くて汚い。それはアメリカ でなくても同じことである。特に日本では個性は調和志向や集団志向が強い。髪は黒に して適切な長さに揃え、派手過ぎない場に合った服装にしなさい、みんなの意見に合わ せなさい、みんなと同じようにしなさい、秩序を 守りなさい、と高校まで散々聞いてきた私にとっ ては何の意味も無い言葉だ。Jazzmine は私と同 じような意見を持っていた。それだけで多少の言 語の壁があっても色々分かり合うことができた。 彼女との出会いをきっかけに、私は新しい人との 出会いに積極的になったと言える。 日本語や日本文化を教える授業のほぼ全てに 参加した。 将来教職を志している私にとってこれ らの授業に参加することはこれ上なく有意義な 時間を過ごすこととなった。日本語のクラスでは 日本語を学んでいるオハイオ大生を、先生の指示 に従ってサポートするのが主な役割であった。一 概に日本語のクラスと言ってもそれぞれレベル が違い、下のクラスではひらがなから教え、上のクラスではプレゼンテーションやイン タビューを受けた。 オハイオ大に来る前は日本はマイナーな国であり、日本語を学びたい人などそれほど いないだろうと思っていた。だが、来てみると意外と日本語を学んでいる学生がたくさ んいることを知った。学生達に「なぜ日本語に興味があるの」と聞くと、大半は日本の 漫画やアニメに興味があるからとの答えが返ってきた。日本の漫画やアニメ文化は優れ ていると実感した瞬間であった。 もう一つ日本文化を教える授業とし て American Experience という授業が あった。その授業では毎週金曜日に East Elementary School に行って小 学生に日本語と日本文化を教えた。私の パートナーは Nikolaos という子で、初 めの頃は言語も違い、お互いよそよそし かったが、色々四苦八苦して教えていく うちにとても仲良くなることができた。 大学の日本語のクラスでも小学校のク ラスでも言えることだが、人に何かを教えようと努力すると、どのように説明すれば理 解してもらえるか、どうしたら効率よく伝えることができるのかが自然と各々分かって くるようになる。日本語についてどのように説明すれば分かってもらえるのか、発音を どのように教えれば英語でうまく伝えることができるのかなどとよく考えた。そうする と、自分自身の英語力も自ずと上達していった。実際の経験で得ることのできる何かが 留学することの利益だと私は思う。 私は留学をする前に母親からこう非難された。「あなたが留学しなきゃいけない必要 がどこにあるの。ただのお金の無駄ではないの。 」と。また、通っている病院の先生に もこう言われた。 「留学なんて行かなくったって英語は学ぶことができる。そんな留学 してる時間とお金があるんだったら、ひたすら勉強して英検1級とか TOEIC でいい点 とればいいじゃない。 」と。でも彼らは何か勘違いをしている。私が留学に行きたいと 思ったはそういう訳ではない。机の上だけで学べる知識はたかが知れている。たしかに 文法や単語や学術的なことは、日本でも学べるだろうし英語力を上げることだってでき る。しかし現地でのかけがえのない経験は留学することでしか得ることができない。友 達との思い出や考えや文化や慣習や流行を、どうやって机に座ってだけいて学び得るの か。英語を積極的に話し聞く習慣や、スラングを聞き実際使ってみる機会が机の上にあ るのだろうか。 この留学では確かに大変だと思うことばが圧倒的に多かった。しかし、オハイオに行 ったことについては微塵も後悔したことはない。多くの友達と出会い、様々な経験をし、 かけがえのない時間を大切な友達や先生達と共有できた。そして、今、自信を持って言 えることは、 「私は人間的に成長した」と。目の前にある世界は机の上だけではない。 もっと広く深く、時には厳しい世界が机の外には広がっているのだ。私はもう既に経験 した。もし迷っている人がいるならば時間とお金が許す限り留学を体験してみて欲しい。 最後に、一言付け加えたい。 「全てのオハイオ留学での出会いと経験に、ありがとう」 9 月 29 日は私の 20 歳の誕生日 ~“Would you like to join us for the party?”~ 佐野広樹 オハイオ大学長期海外研修に参加することは私 にとって、中部大学に入学してからの1つの目標で あった。海外への研修は高校時代に2度体験してい たが、長期にわたる研修ではなかったので、日常生 活で英語を使って人とコミュニケーションを取る ということはほとんどなかった。オハイオ大学に行 けると決まってから、事前にアメリカについて学び、 失敗しないように日本にいる間に学ぶ努力をした。 とにかくひたすら単語を読み書きし、英語の CD を 毎日のように聞き、少しでも上達しようと英検、 TOEIC など検定試験を受け、自分から1歩踏み出 してみようと思い、頑張っていた。だが、実際体験 してみると、オハイオ大学での現実は甘くなく、自分の英語はなかなか理解してもらえ ず、もっと学んでおくべきだと悔しい思いをした。 オハイオに到着したのは真夜中の2時半頃だった。飛行機での 13 時間におよぶフラ イトは、私の体をボロボロにし、筋肉痛を抱えながら初めてのミーティングに参加した。 これから始まる4ヵ月も寮生活を送ることに対して、不安や、緊張感を隠すことができ なかった。私の寮はジェファソンといい、外見は格式のある高級ホテル、内部は少し古 めの館のようであった。部屋は日本でいう 8 畳ぐらいの大きさで、初日にはルームメー トの姿はなかった。 2、3 日たったころ、私の1人目のルームメート David が現れた。とにかく彼はジェ ントルマンなアメリカ人であった。私にとってアメリカで最初にできた友達が David だった。私はこれまで、他人とルームシェアをするということがなく、はじめのうちは とても David に気を遣っていた。とりあえず挨拶が肝心だと思い、勉強したばかりの 英語を使い、自己紹介をして、日本から持ってきた土産を渡した。その土産がきっかけ で会話が弾むようになった。David は彼のことについて話してくれた。70~80 年代の 音楽や車が大好きで、そのころのレコードをたくさん持っていた。カーボーイハットを 被りながら、音楽を聴いたり、ベンツのクラッシックカーに乗っていたりする時もあり、 お茶目な一面も見えた。夜になると、友達やガールフレンドの寮に行っていて帰って来 ないことも多く、とても活動的に思えた。朝もいない日が続き、てっきり、私は彼に迷 惑を掛けて、嫌われているのではないかと思った日々もあったが、思い過ごしであった。 ある日 David からお返しのプレゼントをもらった。アメリカンカウボーイハットとア メリカ国旗のナプキンとサングラスであった。中部大学のグループで小旅行の動物園に 行くときに着けていくといいよと言 われた。このおかげで動物園では見 ず知らずの色々な人に、声をかけら れ、アメリカ人の人なつっこい一面 を見たような気がした。 しばらくして、ルームメートの David がこの部屋を去ってしまい、 少し寂しい思いをしていた。加えて COMS1030 の授業でのスピーチが上 手くいかないこともあり、気持ちが とても落ち込んでいた。表情が硬く なり、誰もが気付くような雰囲気になっていたようで、多くの人から励ましをもらった。 自分としても、そのままではいけないと思い、イベントや卓球などに積極的に参加しよ うと心がけた。特に、同寮の Anthony、Brain、Kirby、Josh の4人は気を遣ってくれ て、留学生の私を励ましてくれた。Josh は RA であった。Kirby は自分に自信を持ち なよ、と私を鼓舞してくれた。自分に自信を持つということは、常に向上心を持ち、何 事も前向きに物事を考えようとし、心を強くすることである。しかし、彼らはあるがま まの自分も肯定して、特に強い向上心があるわけでもないが、自分に自信を持っている。 そんなアメリカ人を羨ましく思った。研修中に多くのことを経験して、帰国した時に少 しは成長したねと、言われるように毎日を大切にしようと考えた。 9 月 29 日は私の 20 歳の誕生日で、アメリカで迎えることとなった。その数日前に、 インターネットからの情報だったが、アメリカ人の場合、誕生日には自分から友達を招 待するというのが風習だということを学んだ。以前、私の寮の友達 Kirby が自分に自信 を持った方がよいと鼓舞してくれたことを思い出し、勇気を出して自分から誕生日祝い に誘って友達を招待しようと思い実行した。日本人 3 人に対して、オハイオ大生 5 人が 集まってくれた。少ない人数ではあったが、私にとっては快挙である。少し自分の殻を 破ることができて、やり遂げたと嬉しくなった。アメリカは自由な国だが、自分から積 極的に行動しないと目的は達せられないし、一つ踏み出せば、新しい世界があるという ことも実感した。友達を誘うという簡単なことではあるが、私にとっては勇気のいるこ とで、結果として交流の輪が広がり、コミュニケーションを少しとることができた。 今回のオハイオ長期海外研修は、私にとって本当に貴重な体験だったと思う。見る物 がすべて新しく、アメリカ人の考え方は当然ながら日本人と違い、それによって自分自 身について考え直す良いチャンスとなった。もう少し英語力が伸びたらよかったと思う ところもあるが、環境や価値観が異なる場所に行くことで、自分がその時に何を考え、 どう行動に移したらよいかを、異国の人の考えや行動をみて勉強する機会となった。本 当の自分について色々と考えることができた。また、少し積極的になったような気もす る。この留学は、私の人生の中で自分を変えてくれた出来事であったといえるように、 帰国後の生活をより一層充実させたいと思う。 留学は駄目な自分との闘い 坂本雄希 私にとって初めての海外が、アメリカで過ごした4ヶ月 であった。初めてということもあり、留学に行くことをと ても楽しみにしていた。行く仲間の中で人として一番成長 しよう、英語力も一番つけようという気持ちで一杯であっ た。同時に、自分の英語は通じるのか、文化の違いに驚き カルチャーショックをたくさん受けるのではないかとい う不安もあった。しかし、アメリカへの憧れや英語力を伸 ばしたいという気持ちの方が強かった。 今思えばアメリカで過ごした4ヶ月間は、駄目な自分と の闘いだったのだと思う。現地の人々や現地の環境が、駄 目な自分と戦わせくれた。 留学当初は、とにかく英語を話そうと沢山のアメリカ人に話しかけた。自分自身でも 私の話す英語はボロボロな英語だと分かっていたが、それでも話しかけた。ところが、 アメリカ人は何も嫌な顔をせず聞いてくれ、ずっと私と話をしてくれた。しかし、相手 の言っていることが全く分からないことが多かった。留学に行く前はある程度は聞き取 れるだろうと思っていたネイティブスピーカーの英語は、アラビア人が話すアラビア語 のように何も分からなかった。私はこれほどまでに分からないものなのかとショックを 受けた。自分の英語力の無さを痛感した。それでも話さないと英語力は伸びないと分か っていたのだが、少しアメリカ人と話すことを避けている自分がいた。 そんな時、気分転換にオハイオ大学内にあるピングセンターに行ってみた。ピングセ ンターとは、バスケットボールやフットサルはもちろん、ジムやボルダリングが夜中の 12 時まで空いている巨大総合スポーツセンターである。そこでは現地の学生や、留学 生たちが毎日一生懸命に体を鍛えたり、スポーツをしていた。私達がアメリカ人とバス ケットボールの試合をした時は、彼らは力を加減せず本気で試合をしてくれた。また、 私がオハイオ大学内にある図書館に行った時も、学生たち皆が夜中まで真剣に黙々と課 題や予習に取り組んでいた。いつも大学内でパーティーやゲームで遊んでいるアメリカ 人たちの意外なところを見ることができた。 そんな何事にも真剣に取り組む現地の学生 や、他の留学生を見て、私は何をしている のだろう、留学に来て何も頑張っていない じゃないか、と思うようになった。それか ら1週間に最低でも1回はアメリカ人と食 事に行くよう心がけた。留学の最初の頃の ように些細なことでも、誰にでも話しかけ るようにした。そして、私も図書館で夜中 まで勉強するようになった。 ここで私は、 「留学は駄目な自分との闘いなのだ」と気付いた。オハイオ大学は施設 が整っている上、英語を使う環境も整っている。だから後は自分次第なのだ。私がアメ リカ人と話していて気付いたことは、伝えたいことを必死に伝えようとすれば不思議と 伝わることだ。生半可な気持ちで伝えようとすると、伝わらない。気持ちを込めて一生 懸命話すと相手も一生懸命聞いてくれて、会話がとても楽しくなった。 ある時、私は、なぜオハイオ大学生が、集末に、パーティーやゲームばかりしている が夜中の図書館では一生懸命に勉強をしているのか疑問に思った。そこでアメリカ人の 日本の大学に留学していた友人に聞いてみた。彼が言うには、アメリカの大学は日本の 比にならないくらいの課題の量が多く、テストはとても難しい。またインターネットで アメリカの大学について調べたところ、完全なる単位制で、単位が取り終わり次第卒業 ということになるそうだ(グローバルスタディ海外留学センター) 。早い人は2年強で 卒業できるが、長い人は7年ほどかかってしまう。実際にアメリカの大学は入るのが簡 単で卒業するのが難しいと言われている。教育方針だけでも真逆なのだ。ここでも結局 は自分次第ということが分かった。頑張れば早く卒業でき、そうでなければ、7 年もか かる。自分との闘いだ。それを理解し ているからこそ、遊びと勉強にけじめ をつけて、ウィークデイは一生懸命に 勉強しているのだろう。 私は留学に行き、行動力はとても大 事だと確信した。自ら行動することは とても大事なことであり、人生全て、 自分自身で何とかするしかないと思う。 アメリカ人と食事に行く時もアメリカ 人から話してくれるのを待っていては 駄目だ。自ら話を作り、自ら食事に誘 うことが大事なのだ。それは簡単なことではないが、せっかく留学に来ているのだから、 駄目な自分を変えるべきだと自覚した。私は留学に行き、駄目な自分を本気で変えよう と意識していたから、少しは変えることができただろうと思う。留学に行く前の目標で ある「英語力も付け、人としても成長する」という目標は達成できたと思う。留学とい うものがこれほどまでに自分を成長させてくれるとは思わなかった。留学は駄目な自分 と戦わせくれる最大のチャンスであった。また必ず留学に行きたいと思う。 参考文献 「グローバルスタディ海外留学センター」http://www.global-study.jp/scholar/ feature.html.(2015/12/22 入手) アメリカでの異文化体験 三井雅仁 夏から冬にかけて、アメリカのオハイオ大学に四ヵ 月間留学した。初めてのアメリカ生活は決して楽では なく、大変なことも多かった。しかし、とても貴重で 素晴らしい経験ができたことは間違いない。書くべき ことは多くあるが、体験した経験の中でも、不思議に 思ったアメリカ人の行動や文化について幾つか書いて みたい。 一般的に、日本人の意識の一つに、 「日本人は、他の 国の人たちより親切である」というものがあると私は 考えている。無論、私にもそういう意識があった。し かし、アメリカで暮らしていくうちにこの意識は、ある意味間違いであり、ある意味正 解であると気付いた。アメリカ人は優しい。何故ならば、彼らは後ろの人に気を遣い、 ドアを抑えておき、抑えていてもらった側は一言お礼を言う。これは、非常に一般的な ことであり、4 ヵ月の間これをしないアメリカ人に出会ったことは記憶にはない。他方、 日本ではこの行動様式はあまり一般的とは言えない。実際に私は帰国後、癖で後ろの人 間にドアを開けておいたが、後ろから続いた日本人は何も言わず、会釈すらしなかった。 つい、カチンと来たがすぐに、 「あぁ、そうか。こういう文化だったな。 」と納得したと 同時に、日本よりアメリカの方がよほど親切だと感じたのだ。 また、日本人が親切だと感じたこともある。帰国後、トイレにたばこを置いたまま出 てしまい、少ししてから気づいて取りに戻ったのだが、そこにまだ置いたままであった。 実はアメリカでもトイレにたばこを置いたままだったことがあり、その時はすでに無く なっていた。結局、私は、日本人もアメリ カ人も親切であるが、どの場面で親切であ るのか、どのようにそれを表現するかが大 きく違うのだという結論に至った。また、 心の余裕がある時には親切で優しいとい うことも言えそうだ。 インターネットサイトを見ていると、頻 繁に RSS の部分に【海外の反応】外国人 「日本の接客態度が素晴らしい」という類 のスレッドを目にする。よくあるレスポン スには、私の国の店員はひどすぎる…という不幸自慢があり、アメリカに来る前の私は この情報を鵜呑みにし、私も確かにアメリカの店員は態度が悪そうというステレオタイ プを持っていた。しかし、実際にアメリカの店員の接客を受けてみると、この考えはど こかへと消えた。確かに一部の店員は、ぼそぼそと何を言っているか聞こえなかったり、 挨拶もほとんどせずに商品をスキャンすると金額だけを告げたりしていた。たが、こう いった店員は非常に少数派で、大多数の店員は、日本人よりもフレンドリーで親切であ った。恐らく、アメリカ人たちは働いている時も友人たちと話している時と同じ感覚な のだと思う。いわゆるカジュアル文化なのだ。日本人のように、お店で働いているとき は、君はお店の看板を背負っているのだから、疲れていてもキチンと作り笑顔でいなさ い、という教育を受けていないのだろう。であるから、時には、疲れている時はあまり 褒められた態度ではない店員がいるのかもしれない。この意味では日本のサービス精神 は素晴らしいと思うが、仕事として教育された人工的な丁寧さを心地よく感じるかと言 えば、疑問も残ってしまう。 留学中、私はいろいろな飲食店に行った。ここでアメリカのチップ文化に辟易とした。 ファストフード店以外では、どこへ行っても、チップが必要で毎度毎度飲食した分の 15~20%の余分なお金を払わなければならなかった。アメリカの飲食店は基本給が低 くチップがなければまともな収入にならないという。しかし私は全く納得できず、一度 アメリカ人に何故チップを払うのと、たどたどしい英語で聞いたことがある。すると、 その人は不思議な顔をし、普通だろ、と言われてしまった。これは文化というものかも しれない。文化ならもう仕方がないので、私は、アメリカは拝金主義なのだなと無理や り納得したが、私と同様にアメリカ人や他の海外からの旅行者でもチップの習慣に違和 感を持っている人もいることを後日知った。店員に直接渡すチップならいいが、店が強 制的に請求書に加えてくるようなチップはおかしいと思わざるを得ない。 アメリカに旅立つ前から、大学の講義でアメリカ人と日本人の人との距離感が違うこ とは、あらかじめ習っていたが、それを直に経験することができた出来事がある。私は アメリカにいた時、よくベンチの一番 端に座って携帯を見ていたのだが、た まに反対側に何食わぬ顔で座ってくる 人がいた。初めのうちは少し戸惑った が、そのうち、そういった文化なのだ なと納得した。また、ベンチに座って いる時に、前を通った人と目が合うと、 “What’s up, men?”と言って通り過ぎ て行く人や頷いてどこかへ行く人が多 い。さらには、道ですれ違う時に、お 互いに避けようとして移動しようとすると、“Excuse me.”やら“Sorry.”の一言があった。 互いに言語で表現しようとする直接的な文化なのだ。 四ヵ月の間にこの文化に少し慣れてしまっていたため、日本へ帰国してからも何度か こういった場面に遭遇した時に、思わず”Excuse me.”と言ってしまった。当然ながら、 先方は何も言わず、すれ違っていった。何故日本人は何も言わないのだろうと考えると、 恐らくは、日本人の察する文化でお互いに頭の中だけで、謝って、それをまたお互いに 察しているのだと思う。察しの文化である。 最後に、若いうちのアメリカでの生活は非常に貴重で楽しく、学んだことは役に立つ と思う。チャンスを逃せば二度と経験できないであろう。高い留学費用を捻出してくれ た親には感謝している。できることならば、またいつかアメリカを訪れて、友人たちと 旧交を温めたい。可能なら、大統領とツーショット写真を撮りたいとも思っている。 彼が私にくれたもの 成田崚清 私にとってこの留学は初めての海外であった。留学を決めたきっかけは自身の語学向 上のためでもあったが、日本語が通じない相手とどう接すれば良いのかを学びたかった からである。さらに、たとえ英米科で英語を学習したとしても、実際にネイティブスピ ーカーと話した経験がないと英語を確実に自分の物にできないと考えたからだ。そして、 実際に彼らと共に過ごしたことで、英語も向上し、様々なものを体験し、目の当たりに してきた。考え方、生活スタイル、食事、スポーツなどどれも新鮮であった。 私が約 4 ヶ月アメリカで過ごした中の一番の思い出は私の conversation partner の Zach と過ごしていた日々だ。彼は韓国人でありながら英語、フランス語、手話、そして日本 語を少々話せると言い、三ヶ国語が話せた。私は彼を尊敬し、非常に興味を持った。彼 は私を兄弟のように慕ってくれ、様々なことを教えてくれた。そこで、彼から学んだア メリカ文化をいくつかここに記していきたい。 はじめに、私の中ではアメリカは筋肉ムキ ムキな人と見たことないぐらいのおデブさ んたちが多いイメージだと勝手に想像して いた。実際は私の想像以上で非常に衝撃を受 けた。しかし、一番私が驚かされたことは、 刺青を入れている人の多さだ。食堂に行けば 数えられない人が刺青を入れており、目を惹 かれる程の美人の肩にもそれがあった。私は それを見ただけでヤクザと連想して、その人 がとても厳ついイメージが付くようになっ ていた。Zach の右肩にも手の平くらいの大き さの刺青があった。そのせいで最初彼に対し てかなり警戒していた。しかしある日、彼の 刺青について話してくれたおかげで今まで の私の考えがガラリと変わった。その刺青は 三角形の上にハートが描かれているものであった。彼曰く、三角形の各頂点は実父、義 父、自分を表しており、ハートは 3 人が血だけではなく心で繋がっていることを示して いるという。私はその時まで刺青はただそれをカッコいいと思った人がファッションと してやるものだと思っていたが、それぞれに深い意味があるのだと知らなかった。これ が彼から学んだことの一つである。 そこで Zach と刺青について色々調べてみた。その中でも興味を持ったものがいくつ かある。例えば、ある二人の腕には Twitter のロゴのような刺青が一つずつ入っていた。 これはお互いの友情と信頼を確認するためでもあり、あなたがどこにいても会いに行く という意味が秘められているということだった。他にも、3 人で一つの刺青を繋げて完 成できるものもある。刺青はただのファッションとしてではなく、一生をともにするパ ートナーのようなものでそれぞれに意味があると彼は熱弁していた。私は彼の熱意に惹 かれ、一度刺青を入れようと試みたが結局その願いは叶わなかった。しかし、私の考え を改めさせられるいい機会となった。 次にアメリカ人の対人関係における考え方について触れてみたい。Zach と図書館で 一緒に勉強している時、私が発音について悩んでいることについて相談した。すると彼 は、通りがかった女性二人組に声を掛け、私の発音をチェックしてほしいと頼んだ。彼 女たちは快く引き受けてくれたのだが、私にはいきなりの展開すぎてついて行けなかっ た。彼にそのことを伝えると、どうせ話しかけても 2、3 日で顔も忘れるだろうからと 言った。確かに広いキャンパスなので会うことも無いのだろうが、たかが発音のチェッ クのために呼び止めたことがその時私には理解できなかった。他にも、アメリカではど うしても気に食わない人がいたら、I hate you.や F*ck you.など罵声を浴びせて去って行 くこともあるらしい。なんとストレートな言い方だと思いながらも、そんな考え方もあ るのかと、自分を納得させた。この 2 つ以外にも彼から学んだことは幾つかあるが、友 達同士で一生身体に残る刺青を入れることや罵声を浴びせて去って行くなど、どれも大 胆なものであったと私は感じた。 日本に帰ってきた今となってはオハイオ大学で過ごした日々が夢のように思えてく る。寮の特徴的な匂い、食堂のピザ、ホッキング川沿いの景色など忘れることのできな いものとなった。特に、兄弟のように慕ってくれた Zach との日々は私にとってかけが えの無いものである。拙い英語を喋る私といつまでも付き合ってくれて、いろんなこと を経験させてくれた彼には本当に感謝している。私は人と話すのが苦手だったが、彼の おかげで変えられることができた。 彼はいつか日本に来てくれると言っていたので、その時には彼に色々な日本の文化を 体験させてあげたいと思う。さらに、彼に日本語を教えるためにも、私は英語で説明で きるようにもっと上達させなければいけない。英語の上達が自分のためだけではないこ とを知り、これほど嬉しいものだとは思わなかった。ありがとう、Zach。 親や友人に支えられ大きく成長した私 太田葉夕 私はこのオハイオ大学長期海外研修に正直行くか行 かないか、ギリギリまで悩んでいた。私は英語が得意 でもなく、成績が優秀なわけでもなかった。私が全て 英語の世界でやっていけるのか、行く前から弱気な気 持ちが心の中にあった。 「4 ヶ月」という期間を長く感 じてしまい、家から 4 ヶ月離れて暮らすのも初めてだ ったため、とても心配や不安が大きかった。そのため、 なかなか長期の留学に踏み込むことができなかった。 英米科に入ったからには、将来の夢に少しでも近づく ため、英語が上手くなりたいなどという様々な思いが あった。「1 度でも留学を経験したい」という憧れの思いもあり、家族や友達が私の背 中を押してくれたおかげで、オハイオ大学に留学することができた。終わってみればあ っという間の 4 ヶ月のオハイオ留学生活であった。 正直、留学する当日まで「4 ヶ月間も留学する」という実感はなかった。空港まで父、 母、妹、祖母、家族みながそろって送ってくれた。複雑な気持ちがたくさん入り混じっ て、当日まで「行きたくない」と言って泣いてしまったのを覚えている。今思えばいい 大学生が情けない。 オハイオ大学では、私は Dougan という寮に住み、1 人部屋となった。1 日目は Wi-Fi が使えず、携帯が繋が らないということで不安に 感じてしまった。しかし、同 じ寮に中部大学からの友達 がいてくれたため心強かっ た。私は人見知りなところが ある。そのうえ、あいにく、 ルームメイトはいない。当初は、どんなふうに人に話しかけていいのか分からなかった。 しかし、たまたま廊下にでてみると、隣に住むアメリカ人の 2 人も出ていて初対面とな った。「ここに住んでいるのはあなた?」と 2 人が話しかけてくれた。その時は、どう いうわけか私は自ら自己紹介をした。すると、2 人は、私のことについていくつか質問 をしてくれた。だが、初めてで緊張もあってか、私はうまく話すことも、聞き取ること もままならず、ほぼ笑っていることしかできなかったことを覚えている。最後には、 「何 か分からないことがあったり、何かあったらいつでも助けるから呼んでね」と言ってく れた。私はその言葉が聞き取れてほっとした。 私が留学生活の中で、一番大変だったと感じたことは「COMS1030」という授業であ った。この授業では、主にスピーチをする授業だ。自分のことを話す自己紹介スピーチ から始まり、PowerPoint を使ったスピーチや、話すお題がその日に伝えられる、即興ス ピーチなど、スピーチは計 6 回あった。しかも、アメリカ人と一緒のクラスで彼らの前 で話さなければならない。私の性格は、とても恥ずかしがり屋で、私は大勢の人前で話 すとすぐに赤面してしまう。だから、スピーチをやると聞いたとき、絶対やりたくない と思っていた。日本にいたときから、できるだけ人前で話すことは避けてきた。だが、 もちろん授業の一部であり、やらざるをえない。だが、かえってそれがプラスになりこ の授業が私の 1 番の成長に繋がったと思う。 スピーチの原稿を毎回考えるのが、とても大変だった。スピーチを数回重ねていく中 で、人の目を見て、アイコンタクトをとりながら話せるようになったり、スピーチが少 しでも上手くできるようになったと実感した。友達と図書館でこもって、必死に課題や、 原稿作り、スピーチの練習をした。図書館が夜中の 12 時を過ぎてもやっていたので夜 中まで、1人で図書館で頑張ったこともあった。自分の部屋だとダラダラとしてしまっ たり、他のことをしてしまったりだったので、図書館は最高の環境を提供してくれた。 図書館は静かで周りも一生懸命勉強しているので、とても集中しやすい環境だった。時 には、図書館ボランティアが無料でコカ・コーラなどのジュースを配っていたり、期末 テストが近づくと、水やバナナを配っていたこともあった。頑張る学生を応援するとい うアメリカの大学の環境が素晴らしいと思った。 また、アメリカは自由な国だということは知っていたが、思っていたよりはるかに自 由で本当に驚いた。例えば授業中に食べ物を食べている人がいた。日本では、お茶やジ ュースなどの飲み物を飲むことは可能だが、通常食べ物を食べることは許されない。教 室内の飲食と成績にはどうも相関はなさそうだ。そのアメリカの自由さが良いと感じた こともあった。それは、話したいときに一人一人が自分の意見を言うことだ。日本では、 発言する時に手を上げることが多い。意見があっても手も上げないことさえある。だが アメリカの人たちは、発言にしたいときに手も上げずに発言したいことを、彼らのタイ ミングで常に自由に話していた。彼らは答えが間違ったとしても、気にしなかった。単 なるコメントでさえも、自由に発言していた。先生と学生が発言しながら一緒に授業を 作り上げていく感じだ。日本ではこれを「アクティブラーニング」というが、アメリカ では全ての授業がアクティブラーニングで、わざわざアクティブラーニングなどという ことが、いかに日本の授業が受け身的かわかってしまう。自分の意見をあまり主張でき ない私にとって、意見を 多く発言することや、自 分の意見を常に持つこと が重要だと常に思い知ら されたアメリカの授業で あった。 英語に関しては苦労し た。私が留学のことで悩 んでいたことを知ってい る中部大学からの友達や、 オハイオの友人たちは常 に「授業ついていけて る?」、「大丈夫?」と声 をかけてくれたり、心配 してくれたりした。日本にいたときは、あまり話さなかった友達とも話すようになり、 仲良くなることができた。4 ヶ月の間とても友達に助けられることが多かった。私は他 の日本からの仲間より英語力がなくて、ついていけなかったらどうしようと心配してい たが、彼らのおかげで、徐々にそのような不安も無くなり、授業も理解できるようにな った。英語ができないなどと不安がるより、どしどし発言したり、本を読み、課題を書 けばいいのだと英語学習にも前向きになった。 最後になったが、私は親に 1 番感謝している。1 人部屋だったため、1 人暮らしのよ うな生活が 4 ヶ月続いた。正直、洗濯機も自分で回したことがなかったのでアメリカで 初の体験となった。親は私にもちろん英語をうまくなってほしい、頑張ってほしいと言 っていた。だが、人としての成長も期待していたと思う。帰国後、たまたま口から出て しまった英語を、母が聞き取って「もう 1 回言って」と言われて発音すると「おー」と 嬉しそうに笑顔を浮かべていた。英語を話すのはどこか恥ずかしかったが、その笑顔を 見たとき親孝行をしたようで素直に嬉しかった。 私の頭の中にずっと残っている親の言葉がある。それは、「チャレンジ精神を忘れな いで」、「どんどん外国人に話しかけて いろんなことを蓄えてごらん、必ずど こかで役立つから」の二つだ。親の言 葉は、他の人に言われるのと違って心 にグッとくるものがある。アメリカで あまり上手くいかなかったときに、励 まされた言葉なので更に感動した。自 分では英語力が上がったのかよく分か らないが、もう英語を話すことに大き な不安はなくなった。人間的にも少し だが大人になり、自立できるように成長していると思う。初めは本当に不安で仕方なか ったが、色々なことを経験し、4 ヶ月のオハイオ大学生活はとても充実し、楽しく、有 意義なものとなった。もちろん、楽しいことばかりではなかったが、英語力の向上、人 としての成長も含め、本当に留学してよかったと思う。お父さん、お母さん、留学させ てくれて本当にありがとう。帰国の時も全員で迎えてくれた家族のみ んな、ありがとう。何度感謝しても感謝しきれないと思っている。 スケートボードで繋がるアメリカ留学 平岩宗樹 私は、今回参加した4ヶ月間のオハイオ大学長期留学で 多くのことを学んだ。英語力が向上したことはもちろん、 物事の考え方も変わり、日本で暮らしていては経験でき なかったことを沢山体験できた。1日1日が、とても濃 い毎日だった。日本に戻り約1週間が経ったが、今でも アメリカにいないという現実が不思議でしょうがない。そう感じさせるくらいに、オハ イオ大学での4ヶ月間は充実していた。その間、私は数多くのアメリカ人に出会い、友 達となり、兄弟といえるほど仲良くなった。 オハイオ大学に到着して1週間ほど経ったときに、友達が「スケートボードを日本か らもってきたので一緒にやろう」と誘ってくれたので、ついていくことにした。オハイ オ大学についたばかりだったので、どこかスケートボードで滑れる場所を探していた。 しばらく歩いていると、体育館の近くのゴミ置き場に滑れそうなスペースが見つかった ので、ここで滑ろうとなった。私は、座って友達が滑るのを見ていた。すると、どこか 遠くのほうから、何かが近づいてくる音がした。見ると、スケートボードに乗った2人 組が、こちらに向かって来ていた。彼らは板から降りると、私たちに「スケートボード は好きかい?」と聞いてきた。友達が「好きだよ」と答えると、2人は「自分たちは Carter と Jack」だよと自己紹介してくれ、「僕たちもスケートボードが好きだ」とい ってくれた。こうして、Carter と Jack は、アメリカでできた初めての友達になった。 Carter が「もっと面白い場所があるよ。ついてきて。 」と言ってくれた。とても優しい 人たちという印象を受けた。二人はネルソンホールという大学内にある食堂の下の駐車 場に僕たちを連れて行ってくれた。2人が滑る姿はてともカッコよく映った。その瞬間、 私は「そうだ、自分もスケートボードを買おう」と決めた。 後日、友達と大学の近くにあるスケートボードのショップに行ってみると、店はしま っていた。この時は運が悪いと思い、また来ることにした。その次の日は、昼にショッ プに行ってみた。が、ショップは閉まっていた。昼休みかと思い、授業が終わった後で また来ることにした。だが、夕方に再度訪ねた時も、ショップは閉まったままだった。 この時は、もはや店が開いていることは、あまり期待していなかった。そして、次の日 の昼にまたショップに行ってみたのだが、予想通りショップは閉まっていた。「すでに この店は潰れているのではないか」という思いが頭をよぎった。ショップの中を覗いて も、誰もいない。あきらめて帰ろうとしたその時、車から1人の男が降りて来て言った。 「待って、今開けるから」 。そう言い残し、男はショップの中へ入っていった。どうや ら、男はショップの店長だったらしい。こうして、やっとの思いでスケートボードを買 うことができた。 余談だが、この店長は上半身裸で働い ていた。まるで、裸でいることが普通で あるかのように、裸で働いていた。日本 ではこのような恰好で勤務している人 を見たことがないので、これにはとても 驚いた。他のショップでも、リンゴをか じりながらレジ打ちをしたり、弁当を食 べながら接客をしたりする店員さんを 見たことがある。その人達が特殊だったのか、それともアメリカではその様な振る舞い が普通なのかはよく分からないが、それを見た日本人は、まず驚くことだろうと思う。 ただ、チップを払うような店では、そのような接客は見なかった。やはり、チップを渡 すようなフォーマルな場所では、このような接客はしないようだ。 スケートボードを買った後で、初めてボードに乗ってみた。思った以上に難しく、簡 単そうに乗っていたみんながすごいのだと実感した。そこから毎日のように練習した。 1ヶ月くらい経ったころ、ようやく1つ技ができるようになった。一緒に練習に付き合 ってくれた友達も、自分と同じように喜んでくれてとても嬉しかった。気が付くとアメ リカの友達も増えていた。紹介してもらった駐車場で練習していると、スケートをして いる学生がたくさん集まってきて Carter と Jack が自分たちのことを紹介してくれて 友達になれた。そこで会う皆から「調子はどうだい兄弟?」と言われるようになった時 は、とても嬉しかった。間柄がギュッと縮まったような気がした。その時から、私もそ の言葉を使うようになった。 オハイオ大学の近くには、Athens Skate Park という公共のスケートボード場があり、 そこにも行った。テレビでしか見たことのないような場所だったので、とても興奮した。 しかし、そこでは何回も転び、何十回と怪我もした。ある日、そんな私を見ていた男の 人が、わざわざ自分の車まで防具を取りにゆき、私に貸してくれた。帰る時に防具を返 そうとしたら、 「スケート続けるんだろ?全部あげるよ。」と言ってくれた。スケーター 達はみんな優しいのだ な、と感じた瞬間だっ た。ある日 Athens Skate Park へゆくと、 とても上手な人が滑っ ていた。よく見るとそ の人は、私がボードを 買った店の店長だった。 話を聞くと、元プロス ケーターとのことだっ た。店長が、とてもカ ッコよく見えた。 帰国の日が近づいたころ、最後にみんなで滑ろうということになり、駐車場に集まっ た。本当に楽しくて、帰りたくないと心の底から思った。みんな悲しそうな顔で最後に ハイタッチとハグをしてくれた。私もとても悲しくなった。もし、またみんなに会う機 会があるのなら、またみんなで一緒にスケートボードをしたい、そう感じた。 中国人もアメリカ人もいいやつばかり ~偏見から解放してくれた異文化体験~ 米田征志 アメリカに行ってみて、私の中で大 きく変わったことが1つある。それは、 人に対する偏見が少なくなったことで ある。 まず、アメリカへ向かう以前の私は、 日本人以外の人とまともに話したこと がほとんど無かった。そのため、私は外 国人について、インターネットやテレビ で得た情報やイメージしかもっていな かった。例えば、アメリカでは日本よりも多く犯罪が起きている。だからアメリカ人は 怖い人達なのだ、と思っていた。他にも、中国人や韓国人に対しても良い印象を持って いなかった。原因は、やはりインターネットやテレビである。彼らは、みな日本や日本 人に対して敵意を持っているのだと私は思っていた。しかし、中国人に対する偏見は、 アメリカに着いてからたったの3日で消えた。 オハイオ大学に着き、翌日にはもう講義が始まった。その頃の私は、まだ大学の敷地 内を歩く時にも地図を手にうろうろしていた。講義会場の建物の位置が分からなかった からだ。初日の講義には、なんとか出席することができたが、その次の日は、朝の講義 がおこなわれる建物の位置が判らず、迷っていた。ここで間違いないという部屋を見つ けたが、中には誰もいなかった。どうしようもなく困っていたところに、たまたま通り かかった中国人の女性が私に声をかけてくれた。英語で「中国人ですか?」と聞いてき たので、私は、首を横に振りながら「ノー」と答え、自分は日本人であるということを 伝えた。道に迷っているということは私の様子から伝わっていたようで、彼女はスマホ を取り出し、翻訳アプリを起動させ、「どこに行きたいのですか?」という英文を私に 見せてきた。 どうやら、英語がほとんど話せないことも伝わってしまっていたらしい。それでも慌 てる私を見て、彼女は自分自身のノートとペンを取り出し、文字を書いて私に見せてく れた。そして、どこに行きたいのかを、そのノートに書くようにと、ノートとペンを渡 してきた。私も翻訳アプリを使いながら、なんとか文字を書いた。その時、たまたま中 部大生の友人に会ったので「友達と一緒に部屋を探します」と礼を言って彼女とは別れ た。実は、この日の朝は休講になっていた。彼女にとても悪いことをしてしまったと思 う半面、とても親切な人だったと少し嬉しい気持ちも感じた。 親切なのは、中国人に限ったことではなかった。ある日の夜、私は、自分の寮に帰る 途中、道がわからなくなり、またうろうろしていた。その時、ランニング中のアメリカ 人の男性が声をかけてくれた。その頃はまだ英語がうまく聞き取れなかったので、こち らから一方的に「ここに行く道を教えてほしい」と、日本で覚えた道を尋ねる英語を試 してみた。一度聞き返されたが言葉は通じたようで、「それはこっちじゃない、引き返 して右に曲がって真っ直ぐ行けば着 く」と、激しいジェスチャーと 早口で答えてくれた。私は礼を いい、彼はまた走り去って行っ たが、正直、少し疑いもあった。 真っ直ぐ自分の寮に向かってい たはずなのに、引き返すなんてお かしいと思っていた。が、結局、 彼の言うとおりに引き返し、道を 右に曲がると見覚えのある場所 に辿り着いた。 もし、これらの様な状況で、私 が逆の立場であればどうしていた のだろうかと今で も考えることがある。見知らぬ人で、違う人種で、言葉も通じない。そのような状況で は声をかけることすらできないのではないかと思う。少なくともアメリカに行く前の私 なら、間違いなく無視していただろう。しかし、今後そのような人を見かけたら、積極 的に力になりたいと思っている。 この留学を通して、この人種はこんな人達、あの人種はあんな人達といった風に決め 付けることはできないと知った。肌の色や目の色、髪の色や体格が違う人達と話したり、 一緒に暮らしたりして、私は、結局人は皆同じなのだと実感した。それぞれの文化や習 慣に違いはあったが、楽しい時やおいしいものを食べた時は笑い、いらいらしたり失敗 した時は怒り、寂しい時や悲しい時は泣きそうな顔をする、そのことは誰でも一緒だっ た。 私は、ステレオタイプを捨てることが差別や偏見を無くすことにつながるのだと思う。 だが、頭で理解しても、私のような実体験がない限り、なかなか心で理解することは難 しいのかもしれない。今回の留学は、私を偏見から解き放ち、国際人としての扉を開い てくれたという意味で、非常に有意義なものだったと思う。古いことわざに「愚か者は 自分の経験からしか学ばず、賢者は他人の経験から学ぶ」とあるが、賢い後輩や読者の 皆様は、私の経験から学んでいただければ、と思う。 日本の母とアメリカの母に感謝 ~アメリカで知る家族の大切さ~ 別所祐美 私は、オハイオ大学に行きたいなどと 言う気持ちは全くなかった。なぜなら、 4ヶ月間も家族と離れて暮らす事などで きないと思っていたからだ。私は、家族 が大好きだ。結局は両親の勧めで行くこ とを決意したわけだが、日本に帰ってき た現在では、今回の留学に参加できて、 本当に良かったと思う。思い返せば、こ の4ヶ月間はたくさんのことがあった。 楽しいことばかりではなく、むしろ辛い ことのほうが多かった。だが、ある人に出逢って私は変わった。 オハイオ大学についてしばらくの間は、食事も口に合わず、水も硬水のため髪の毛は ギシギシになり、大学がとても広いせいで道に迷うこともあり、ストレスしかなかった。 英語に関しては、現地の人の喋るスピードが速すぎて、何を言っているのか全くわから なかった。それに加えて、私が喋る英語を聞き取ってもらえないことも、やる気を失う 原因になっていた。 「私のような人間がこのような場所に来たことが、そもそもの間違 いだったのだ」、毎日そう考えていた。早く帰りたい、とひたすら考えていた。だが、 ジョンヒー先生との出逢いが私を大きく変えた。20 年間生きてきて、やりたいことや 将来の夢など全くなく、だらだらと過ごしてきた私とは違い、ジョンヒー先生は輝きに 満ち溢れていた。ジョンヒー先生とは、たくさんの話をしてきた。だが、ジョンヒー先 生が自分自身について話すことは余りなく、いつも私が自分の話をしていた。先生は、 私の話をいつも静かに聞いてくれていた。私は、それだけでとても救われた。その日か ら、少しずつやらなければいけないことから逃げずに、向き合うようになっていた。授 業も分からないなりに頑張った。わからないことがあれば、先生や友達に聞いた。恥ず かしい気持ちも次第になくなっていた。日本人でもアメリカ人と混ざって遊んでいる人 もいた。そういう人を見ると羨ましいと思うようになった。 以前よりも前向きに物事を考えられるようになったと、自分でも自覚するくらいにな っていた。そこである日、私は勇気を振り絞って、日本が大好きな Alyssa という女の 子を食事に誘ってみた。すると、彼女は快く「Okay!」と、言ってくれた。それからも たびたび食事に行き、たくさんの話をした。彼女は、日本の食事や文化やアニメが好き だと言っていた。その中でも、特に盛り上がったのは日本の温泉についてだ。私は温泉 がとても好きで月に何回もいろいろな温泉に行っているということを話した。彼女も、 温泉に入ってみたいと言っていたので、日本に来たらぜひとも行くべきだ、と勧めた。 だが、彼女の背中には刺青が入っていた。日本の温泉では、刺青が入っている人は入浴 禁止だ。それを、どのように彼 女に伝えようかとても悩んだ。 このまま言わない方がいいか もしれないとも思ったが、事実 を知らないまま日本に来たと き恥ずかしい思いをするのは かわいそうだ。そこで、私は刺 青が入っている人は温泉に入 れないこと、日本には刺青に偏 見を持つ人が多くいることを 伝えた。すると、彼女はとても 悲しそうな顔をした。彼女のその表情を見ると私まで悲しくなったが、これは文化の違 いだから仕方ないとも思った。実際に、大学内には刺青をしているアメリカ人が大勢い た。刺青が入っていても、優しい人はたくさんいる。刺青がいけないこととも思わない。 しかし、日本人からすると、刺青を入れた人は怖い。アメリカ人にとっての刺青は、フ ァッションであったり、大切な人への愛情の印であったりする。アメリカでは刺青に何 の偏見もない。これがまさに「カルチャーショック」なのだと思った。 アメリカでの思い出はたくさんあるが、次に書きたいのは、何といっても家族の応援 についてだ。この私がここまでやってこられたのは、日本で暮らす家族の応援があった からだ。日本にいたころは、食事・洗濯・掃除は、すべて母がやってくれた。私も手伝 うこともあったが、基本的には、私はいつもアルバイトに明け暮れていた。だが、アメ リカに来て洗濯をする大変さを痛感した。とても面倒でやりたくないと常に思っていた が、やらなければ明日の服がない。仕方ないので、眠い目を擦りながら洗濯をしていた。 食事も、日本にいたころは座っていれば料理が出てきた。だが、ここでは違う。食堂ま で出向かなければいけない。そして、掃除もしなければならない。私が愚痴をこぼすと、 母は遠い日本から励まし応援してくれた。様々な経験をして、家族の大切さを再認識し、 特に、もう少し母を労わってあげるべきだったと痛感した。 私は、アメリカに来て多くのことを学んだ。英語力も日本にいたころよりは伸びたの ではないかと思う。この感覚は、これから先、英語の勉強を続けてゆく時の心の支えに なると思う。それに、ジョンヒー先生に出逢って韓国語を勉強したいと心から思った。 昔から韓国は好きだったが、韓国語を覚えようとは思っていなかった。だが、ジョンヒ ー先生が韓国の良さを教えてくれたおかげで、私は初めてやりたいことが見つかった。 韓国語で日常会話ができること、それが私の今の目標だ。 一番に感謝しているのは家族だ。下の兄弟にこれからお金がかかってゆく状況で、異 文化を経験してほしいと言って私を送り出してくれた両親には、一生頭が上がらない。 家族と離れて、私は両親の偉大さに気が付いた。これからは、もっと親孝行をしてゆき たいし、洗濯など、できることは積極的に手伝いたい。人間的にも成長できたこの4ヶ 月間を、私は決して忘れない。改めて、家族には「ありがとう」の気持ちでいっぱいだ。 憧れの地、アメリカ 木下莉沙 アメリカに行くことは小さい頃からの 夢だった。小学生の頃からヒップホップ ダンスを習っていたので洋楽に興味があ り、アメリカという国自体にとても憧れ があった。アメリカに行って実際に見た ものは全て新鮮で、とても感動したこと を今でも鮮明に覚えている。その中でも、 私がこの留学で最も衝撃を受けたことが 2つある。それは、アメリカ人の周りを 気にしない姿勢と英語に対する考え方の違いだ。このエッセイでは、この2つについて 書いてみたい。 アメリカ人が周りの目を気にしないということは、アメリカに行く前から知っていた。 しかし、私は本当に驚かされた。まず、女の子の服装はいつも“ラフ”ということだ。 夏はレギンスかスポーツ用のハーフパンツにサンダルで、冬はスウェットパンツにムー トンブーツというスタイルを学生の8割の女の子がしていた。おしゃれな格好は、金曜 日と土曜日の夜くらいだ。きっとパーティーに行くからだろう。大学内でのファッショ ンは、周りを気にしない本当にラフなものばかりだった。また服に季節感がないことも とても特徴的だった。葉が全て落ちきって風が冷たくなりつつなった冬の初めでも、ま だ半袖半ズボンの人がいた。日本なら季節が“冬”という理由で、少し暑くても季節感 を合わせるために長袖やパーカーを羽織る人の方が多いだろう。 周りの目を気にしないという点で特に驚かされたことは、アメリカ人がトイレで自分 の荷物を平気で地べたに置いてしまうことだ。せっかくトイレのドアに荷物をかけるた めのフックがあるにもかかわらず、地べたに置いていた。トイレの床が綺麗だとは、と ても思えない。むしろ汚いだろう。私は、とても驚かされた。私の周りの日本人の友達 も「トイレの床に荷物置くなんてありえない」と言っていた。 アメリカ人は、何故これほどに周りを気 にしないのだろうか?それは、アメリカに は色々な国の人がいるからではないだろう か。色々な国の文化と日常的に触れるアメ リカでは、人にも色々な個性があって当然、 という考え方があるのだと思う。だから彼 らも周りの目を気にしないのではないだろ うか。そういった国民性は、彼らの行動に 反映されているのかも知れない。そして、 それは私に大きなカルチャーショックを与えた。 衝撃を受けたことの2つ目は、英語に対する考え方の違いだ。留学期間中の授業が全 て終了し、あと数日で帰国となったある日、同じクラスを取っているAustinというクラ スメートから「なぜ英語を勉強しているの?」という質問をされ、私はとても困った。 英語が話せるようになりたいから。たったそれだけの理由だからだ。そして、私は英語 を話せるようになりたいからと言った。すると、彼はすごく不思議そうな顔をした。そ の時は彼の反応の意味が分からなかったが、今思えば、その理由も分かる気がする。私 のtutor(家庭教師のようなOUの学生)のAlyssaの第二言語はスペイン語で、彼女は私 たちにスペイン語のスピーチを聞かせてくれた。その時、私は日本人とアメリカ人の第 二言語に対する考え方がまるで違うことを知った。世界の多くの人にとっては、第二言 語はまさに単なる第二の言語であり、家庭内で使ったり、海外の親戚と話したり、隣の 国に行って買い物をするときに使う言語だ。言葉を学び話すことが目的ではなく、それ を使って何かをするかが目的なのだ。だから、日本人のように外国語に対して憧れや劣 等感を持っていない。 英語は、世界共通語といっても過 言ではない。しかし、私たちは中学 校から英語を勉強しているのにか かわらず、流暢に話せない。だから、 彼からみると英語を話せない私た ちが不思議だったのかもしれない。 私は、もっと早い段階から英語の教 育を行い、英語でのコミュニケーシ ョン能力を伸ばすことの必要性を 強く感じた。4ヶ月も親元を離れ、 外国に行くことは今までなかった。 留学をする以前には、全く不安はなかった。楽しみしかなかったと言ってもいい。だが、 いざアメリカに着いてみて、自分の英語力のなさに愕然とした。中学校から勉強してき た英語はなんだったのかと思った。こんなにも単語力がない自分が情けなかった。さら に、アメリカ人の勉強熱心さにも心を打たれた。もっともっと勉強しなければ彼らに追 いつけない、と思えた。留学して本当によかったと思う。視野が広がり様々な価値観に 触れることもできた。同性愛者が堂々と手を繋いでいて、カップルはどこでもキスをし て、公共の場で普通におならをする。道に迷った時はその場所まで付いてきてくれて、 英語の上手下手に関わらず私たちに“Hi! How are you?”と必ず聞いてくれる。私たちが 理解できるようにゆっくり簡単な単語を使って会話してくれる。私はそんな自由で心の 優しいアメリカが大好きだ。 こんな貴重な経験をさせてくれた親には、本当に感謝している。ありがとう。そして 一緒にオハイオでの生活を過ごしたメンバーにも感謝したい。ありがとう!!! オハイオでの4カ月 野原崚平 オハイオ大学長期海外研修への出発前、私は研修に参 加しようかどうか迷っていた。出発前は、4カ月ものあ いだ親元を離れて自分だけで生活していけるのか、文化 の違う人たちとうまくやっていけるのか、自分の英語が 通じるのか、と多くの不安に悩まされていたのだ。親か ら「こんなチャンスは他に無い」といわれ研修に参加す ることを決めた後は、単語を覚えるなど、可能なかぎり 不安を減らす努力をした。 オハイオ大学に着いたのは、夜中であった。私と同じ 寮に中部大学の生徒はおらず、1人で非常に不安であっ た。部屋のルームメイトは、私が部屋に案内された時に は既に寝ていた。だが、彼は私に気づくとわざわざ起きて自己紹介をしてくれた。彼の 名前は Patrick といった。彼は、私のアメリカでの初めての友達になった。Patrick は とても親切で、私のへたくそな英語を理解しようと努力し、また努めてゆっくりと話し てくれた。私は、彼と英語で話をして、アメリカに来たのだと初めて実感した。彼は洗 濯の仕方や、寮の規則なども教えてくれた。洗濯には 25 セントのコインが数枚必要な のだが、私に持ち合わせがない時は、Patrick が代わりに払ってくれた。この時、アメ リカ人はとても親切だと思った。他にも、私が両手に荷物を持っていて扉を開けられな い時には扉を開けてくれるなど、Patrick が親切だと気づくことはたくさんあった。ア メリカの人達は、初対面でも私に気さくに話しかけてくれた。こんな時は、自分の言い たいこと伝えきれず、また相手の言っていることも全てを理解することができない自分 が悔しく、また相手にも申し訳ないと思った。 オハイオ大学での最初の授業は、COMS1030 という英語コミュニケーションの授業で あった。COMS では、英語で何度かスピーチをしなければいけなかった。私はスピーチ が得意ではないので、COMS は私にとって1番難しい授業となった。だが、振り返って みると、COMS での授業が私の英語を最も上達させてくれた。最初のスピーチは、3 分間 で自己紹介をするというものだった。日本語でも人前で 3 分間話すということは難しい のに、それが英語でできるのか非常に不安であった。私は、話す内容を友達と一緒に考 えたりして、工夫しながら一生懸命スピ ーチの原稿を作った。原稿を作る中で気 がついたことは、先ずは自分の言いたい ことの概略を日本語で考えて、それかを 英語に直してゆけば上手く発表内容を考 えられる、ということだった。 COMS での授業内容をサポートするため のクラスである Support クラスでも、私 は日本人のクラスメイトとスピーチの内 容を相談し合い、Linn 先生という指導教 官からスピーチの内容に Feedback をもら うなどして、スピーチの練習に取り組ん だ。また、私は週 2 回行われる Tutorial にも欠かさず出席し、Tutor の Kate にもスピーチをみてもらった。彼女は、とても親 切に指導してくれた。留学後半の COMS の授業では、Persuasive Speech という、6 分か ら 8 分の長いスピーチをおこなった。Persuasive Speech とは、相手を説得して行動さ せることを目的としたスピーチだ。最初の自己紹介と比べると、時間的には 2 倍の長さ である。私は、エクササイズ(運動)の大切さについてスピーチをしたが、このスピー チの原稿を作っている最中にも自分の英語の上達を実感することが多かった。 また、このころになると友達の言っている英語も理解できるようにもなっていた。留 学が半分過ぎたころくらいからだろうか、私は頻繁にアメリカの人たちと関わるように なった。例えば、Conversation Partner の友達と食事をしたり、寮の友達とテレビゲ ームをしたりした。他にも、毎日のように外国の人たちと関われる機会があった。特に 毎週オハイオ大学で開催されていた Conversation Hour は、スピーキングの力を伸ばす ための絶好の機会であった。そこには多くの留学生が集まっており、私も毎週欠かさず 参加するようにしていた。参加した当初は、緊張して全く話すことができなかった。簡 単な英語「How are you?」や「Nice to meet you」 などの英語しか使うことができな かった。しかし、参加者は皆、私のへたくそな英語を一所懸命理解しようとしてくれ、 そのことがとても嬉しかった。参加回数を重ねるにつれ緊張もなくなり、しっかりと会 話ができるようになっていった。ここで聞く英語は、教室で聞く英語とは違い非常に速 くカジュアルなので聞き取りづらかったが、聞いているうちに少しずつ理解できるよう にもなり、様々な国の人たちと友達になることができた。 私は、この 4 ケ月間で新しい友達を作り、たくさんのことを学び、もっと英語を学び たいと思うようになった。オハイオでは、日常的に英語に触れることができた。しかし、 日本では英語を使うかどうかは、自分次第だ。もっともっと上達させたいなら、自分か ら積極に英語を使わなければならない。だから、日本に帰っても留学で学んだことを活 かして英語を勉強していきたいと思う。授業やゼミなどでも積極的に英語を使い、将来 は、英語を使う仕事に就きたいと思っている。もし、またアメリカに戻ってくることが できたなら、オハイオ大学で知り合った人たちと、上達した英語を使って会話をしたい と思う。 私は、この留学で非常に有意義な 4 カ月を過ごすことができた。さまざまな価値観に 触れることで、発想にも幅ができたように思う。私は、この留学に関わった人たち全員 に感謝したい。特に、留学をさせてくれた親、見守ってくれた友人、この留学を成功に 導いてくれたオハイオ大学の友人や先生方に、心から「ありがとう」と言いたい。 人生で最も輝いた4か月 ~人との出会いと英語での会話の楽しさを知る~ 林 オハイオでの4ヵ月間は、私の人 生の中でもっとも輝いた期間だ。私 は、2年生の秋学期から約4ヶ月間、 オハイオ大学長期海外研修に参加 した。私は、このプログラムに参加 するために中部大学に来たといっ てもよい程、この留学に対して熱い 思いを持っていた。研修への参加条 件をクリアするために、英語の実力 や授業の成績を上げようと必死で 俊輔 努力した。決して安くはない留学費用を無駄にしないためにも、この留学で何かを身に つけたいと思っていた。 この留学でたくさんの人と知り合い友達を作ることができた。アメリカに行くまでは、 友達作りが心配であった。私は、友達作りがとても苦手だ。しかし、オハイオ大学で出 会った人々は、フレンドリーな人たちばかりであった。共通の趣味や知識が少しでもあ れば、すぐに打ち解けることができた。例えば、カンバセーションパートナーのニック は、日本のアニメが大好きで私とも話が合い、すぐに仲良くなれた。彼は、何かのイベ ントがあると一緒に行かないかと誘ってくれ、映画やパーティにも連れてってくれた。 また、彼は自分の友達も紹介してくれ、そうして知り合いも増えていった。アメリカの 人たちにとって私の名前はとても覚えにくく、発音もしづらいようだったが、仲良くな るにつれ私の名前を覚え、正しく Shunsuke と呼んでくれた時は、とても嬉しかった。 留学期間が二ヶ月過ぎたあたりから、寮でも友達を作ることができた。彼の名前は、 AJ という。私は、AJ とは一生の友達になれたと思う。AJ も私たちと同じ留学生だっ た。彼と私は、いつも夜中に話をしていた。彼は日本に多少興味があるようで、日本語 の単語もいくつか知っていた。しかし、それらのほとんどは汚い言葉だったので、初め て聞いた時は笑ってしまった。彼は、洋楽やゲームのことをよく話していた。私も多少 知っている内容だったので、すぐに話が合って仲良くなることができた。彼は、英語の 質問にも気軽に答えてくれた。彼と仲良くなっていくうちに、彼は私のことを Bro と 呼んでくれるようになった。Bro は Brother の略であり、男同士ではかなり仲良くなっ た相手にしか使わない呼び名だ。このことを知っていたので、彼が私をそのように呼ん でくれるのが非常に嬉しかった。 彼と会うのはいつも真夜中で、集まってはくだらない話ばかりしていた。一番長く話 していたときで、夜中の1時頃から4時過ぎまで喋っていたと思う。サンクスギビング の休暇は、ほとんど彼の部屋で遊んでいた。私は、彼にはよく宿題を見てもらった。あ るとき、私は彼のパソコンを借りて課題のスピーチ原稿を書いた。AJ に原稿を見ても らうと、文章をたくさん直された。彼は、主に口語で書かれた部分を文語に直してくれ た。また、前置詞の間違えや、文法のミスなどを直してもらった。私は、ひどい文章を 書いてしまったことに落胆もしたが、同時にとてもいい勉強ができて嬉しかった。英語 には、様々な表現があることを勉強するいい機会になった。言語背景が違う人と友達に なるということがこれほど素晴らしいものだとは、オハイオにいくまでは想像もつかな かった。 友達だけではなく、町の人々とも、たくさん会話をすることができた。私は、よく夜 にお腹がすいて食べ物を買いに行ったのだが、お店の中やレジに並んでいる時も頻繁に 話しかけられた。また、暇そうにしている人に自分から声をかけて楽しい時間を過ごし たこともあった。名前は知らなくても、気軽に話しかけられることが楽しくて仕方がな かった。アメリカ人のフランクさが、とても私に合っていたと思う。日本では、知らな い人同士が会話をすることは滅多にない。日本にいるときの私は、まさにこの状態だっ たと思う。自分の殻に閉じこもって いたのだった。 オハイオ大学に留学し、アメリカ の空気に触れ、私は内面から自分を 変えることができたような気がす る。例えば困っている人を見れば、 それが知らない人でも積極的に声 をかけられるようになった。私は、 これを日本でも日ごろからできる 人間になりたい。身についたことを 「学んだ」と言うのであれば、この ような習慣は、継続しなければ意味がなくなってしまう。これは、英語学習の面でも同 じだ。留学中にしか真面目に勉強ができないのであれば、意味がない。私たちはオハイ オ大生が勉学に向ける熱心さをもっと学び、それを日本でも実践すべきだと思う。 アメリカに行ったことで、たくさんの友達ができた。それだけではなくそれらの友達 から、たくさんのことを教えてもらった。自分とは異なる文化背景を持った人たちと出 会いは、私にとって素晴らしいものだった。私にとって、4 ヶ月という留学期間は短す ぎるものだった。将来、私はまた留学に行くと思う。そのときは、今回学んだことを忘 れず、さらに今回はできなかったことにも挑戦してみたい。また、新たな出会いを大事 にして、大きく成長したい。 軍人は英雄か ~戦争を考えた留学~ 林 瑛理花 オハイオで過ごした日々は、私に とってとても充実したものだった。 目に映る全ての物が、新鮮で楽しか った。私が出会ったオハイオの学生 たちは、自分のやりたい事が明確で、 勉強熱心で毎日忙しそうだったが、 みな充実した学生生活を送っている ようだった。そんな彼女たちの姿に、 私は勇気付けられていた。自分のや りたい事ははっきりしているのに、なかなか行動を起こす気にならなかった私にとっ て彼女らの積極性は良い刺激となった。 11 月の初め、私は体調を崩し、それからしばらくのあいだ病院に通っていた。病 院に行くと必ず誕生日を聞かれ、そのたびに驚かれた。私は、なぜ彼女たちが誕生日 を聞いて驚くのかが分からなかった。私の誕生日は 11 月 11 日で、日本ではポッキー の日として有名だ。しかしアメリカでは、その日は Veterans Day(復員軍人の日) と呼ばれている。その日は、第一次世界大戦の休戦記念日だ。私の誕生日=Veterans Day は祝日で授業が休みだったため、友達とパレードを見に Court Street に行った。 私たちは、そこで盛大なパレードを見る事ができた。この時、私は Veterans Day に ついて何も知らなかったため、ただパレードを見るのを楽しんだ。その日の夜、私は、 いつものように CNN Student News を見ていた。その日の特集は、軍人であった。 特集の中で、軍人は家族の元に帰り、喜んでいた。この様な特集を見ても Veterans Day がどんな日か分からなかったため、私は、Veterans Day について Cross Currents というサイトで調べてみた。 Veterans Day は、 「全ての戦争を終わらせるための戦争」と言われた第一次世界大 戦で戦った軍人たちを記念して設定された日である。現在は、退役軍人を称える日に なっている。その日は、アメリカ各地で記念祝典やパレードが行われている。アメリ カでは、国の為に戦っ た軍人が英雄として 称えられていた。私は、 軍人を英雄とするこ とに驚いた。なぜなら 日本では、軍人は戦争 の被害者として扱わ れることが多いから だ。 オハイオ大学に在 学中、私は、いくつも の博物館に見学に行 った。中学高校でも戦 争に関する博物館を何度か訪れていたため、最初はあまり興味がわかなかった。しか しある時、日本とアメリカとでは戦争の見方が違うとことに気が付いた。日本の博物 館展示の主な目的は、戦争がいかに酷いものかを来場者に見せることにあるような気 がする。一方、アメリカの博物館では、戦争の被害の写真をあまり見なかった。初め は、それが当然だと思っていた。日本は第二次世界大戦の敗戦国で、アメリカは戦勝 国だからだ。そして、そのような考えは、今も残っているのだと思っていた。しかし、 いくつか博物館をまわるうちに、私はその前提に疑問を抱き始めた。アメリカの博物 館には、敗戦国の戦果も展示されていたからだのだ。ワシントン D.C.の博物館を訪 ねた時、子供たちが軍人の展示を見て「かっこいい」と言ってはしゃいでいた。その 時は、戦争の展示を見てはしゃぐのは不謹慎ではないかと思った。しかし、Veterans Day について調べた後で、子供たちは、自分の国の為に戦った全ての軍人の姿がかっ こいいと言ったのではないかと考えるようになった。これが、私にとって一番のカル チャーショックであった。もしアメリカが戦争に負けていても、彼らは「かっこいい」 とその展示を見て言ったかもしれない。そう思ったのだ。 少し戦争に興味を持った私は、歴史を専攻している双子の姉に連絡をとった。彼女 に戦争の話を聞いたところ、当時の政治や政府の話をしてくれた。その話の中に軍人 の活躍が出てくることはなかった。その時、私は戦争が日本の中で黒いネガティブな 歴史として扱われているのではないかと思った。日本史の教科書では、戦争について 真珠湾攻撃、原子爆弾、東京大空襲などの代表的な出来事しか書かれていない。日本 の軍人の活躍は、教科書や博物館であまり見る事がない。しかし、異国であるアメリ カで日本人兵士らの活躍をも見る事ができた。私は、この事実にショックを受けた。 私は、戦争の事を知っているようで、実は知らない事の方が多かったと気が付いた。 よく考えてみると、私は、日本以外の国がどこで・いつ・どのように戦ったのかを知 らない。戦争のことを学ぶたびに「もう二度とこの様なことがあってはならない」と だけ思っていた。日本軍や一般市民が攻撃されている資料を見て、私はただ彼らに同 情していた。だが、戦争にはこ の他の側面もたくさんあるので はないかと考えるようになった。 私は、この留学で以前より戦 争について深く考えることがで きた。考えすぎて、困惑した時 もある。アメリカの博物館では 戦果を見て、日本の博物館では 戦争の被害を見た。もちろん戦 争はよくないことだが、日本は、 戦争や軍人に対して単に否定的な意見しか持ちあわせていないことが分かった。戦争 の見方も、国が違うとこれほど変わることに驚いた。歴史的観点から見ると、軍人は 英雄になると思う。しかし、日本では、そのような考え方はタブー視されているよう に思う。私は、どちらの見方も正しいのだと思う。戦争が二度と起こらないよう願う と同時に、私は国を背負って戦った彼らのことを忘れないようにしたい。そんなこと を考えさせてくれた留学だった。 参考文献 Cross Currents by the US-Japan Conference on Cultural and Educational Interchange(CULCON) (http://www.crosscurrents.hawaii.edu) CNN student news – November 11, 2015 (http://edition.cnn.com/ 大きく変わった自分 渕野広行 オハイオでの約4ヶ月間の研修を通して、私は大きく 成長することができた。中部大学に入学して、すぐにこ の研修に行こうと決心し、自分の英語力を向上させよう と考えた。留学にいく前は、不安で仕方なかった。4ヶ 月という長期間、親元を離れて、しかも英語だけを使っ て生活してゆけるのか?そう思ったりもした。 オハイオへ行く前に、私は現地では積極的に人に話し かけようと心に誓っていた。しかし、私は留学当初から アメリカの文化に圧倒されてしまい、なかなか積極性に なれずにいた。私の部屋には外国人のルームメイトがい たが、彼に自分から話しかけることもできず、日本人の 知り合いとばかり話していた。これは、クラスでも同じことだった。積極的に人に話し かけることができないので、当然、友達もできなかった。そのため、いつも日本人とば かり一緒にいた。そうしている内に、1カ月が過ぎた。「何をしにアメリカへ来たのだ ろう、このままじゃいけない」という思いが込み上げてきた。 そこから、私は少しずつ自分を変えようとした。アメリカ人や、他の国からの留学生 と話すことができる Japanese Culture Hour や、International Conversation Hour にも積極的 に参加し、なるべく英語に触れるようにした。そこでは、英語を学んでいる中国人やア ラブ系の人達と話すことができた。彼らは、私たちと同じように英語を学んでいるので、 その人たちと話すことは、いい刺激になった。他にも、Conversation partner とも連絡を 取り会う機会を作った。しかし、そこで私は壁にぶち当たってしまった。彼らの多くは、 日本のゲームやアニメに関心をもっていた。私の周りの日本人は、英語が上手く話せな くても、ゲームやアニメの話で盛り上がり仲良くなっていた。しかし、私はゲームもや らなければ、アニメも見ない。趣味もあまりなく、Conversation partner と会っても話に ついてゆけず、英語も上手く伝わらないので、そのうち Conversation partner と連絡を取 らなくなってしまった。 途方に暮れていた私に、ある出会いがあった。彼と初めて出会ったのは、最初の Japanese Culture Hour の時間だった。彼は、たまたま私の後ろに座っていた。彼の名前 は、エリックという。私は、友達を作りたかったのでエリックに積極的に話しかけた。 エリックは日本に興味を持っており、 独学で日本語を勉強していた。エリッ クには Conversation partner がおらず、 しかも私の寮と近い場所に住んでいた。 私は、エリックと仲良くなりたいと思 い、エリックの Conversation partner に なれたらと思った。そこから連絡を取 り合い、最初は、週に1回のペースで 食事に行った。エリックは、日本語を 話すことができるので、私の英語が伝 わらないときは、日本語を少し交えながら会話した。エリックの日本語は、本当に独学 なのかと思うほど上手かった。私が日本のことを英語で話すたびに興味をもって話を聞 いてくれるので、彼にもっと日本のことを知ってほしい、教えたいと思うようになった。 そこから、エリックと会う頻度も増えていった。週に1回だった食事も、週に3、4 回行くようになり、土日のどちらかは、お互いの寮で勉強するようになった。熱心に日 本語を勉強するエリックの姿を見て、私も英語の勉強を頑張ろうと思った。しかし、エ リックは日本語についての疑問があるとどんどん聞いてくるので、少し困ったこともあ る。質問の多くが、日本人でも説明に困るようなものだったからだ。例えば、日本語で の「未来」と「将来」などは、普段は意識せず区別して使っているが、その使い分けを 聞かれると、さっぱり分からなかった。結局、私は上手く説明できなかった。エリック と出会えたことによって、このような日本語の複雑さにも気付くことができた。 今回の4ヶ月の研修で、英語力が上がったことはもちろんだが、人間としても大きく 成長できたように思う。最初は、不安もあり全く積極的になれなかった。せっかく行か せてもらえた研修で、日本人とばかりいて、日本にいる時と変わらないような生活。 「こ のままではダメだ、絶対後悔する」と思い、積極的になった。エリックと出会うことが できて、私は変わった。彼の日本語を学ぶ姿勢を見て、私の英語を勉強する意識も変わ った。自分の英語力も、彼と話す中で自然と上がっていったのだと思う。自分の中で一 番大きく変わったことは「エリックのような人たちに日本語を教えられるようになりた い」と思うようになったことだ。日本人でも、日本語の使いかたを上手く説明すること は難しい。エリックとの会話の中で、私はそのことを実感した。将来は、エリックの様 な学生に授業ができる日本語教員になりたいと思うようになった。今回の研修を通して 自分は大きく変わり、成長したと思う。 アメリカ人の友人から学んだこと 梛野香波 4 ヵ月という長期間の海外生活は 私にとって決して楽しいばかりの生 活ではなかった。つらいことや、苦 しいことがあるのも承知していたつ もりだったが、自分が想像していた 以上に大変だと感じたことも多々あ った。その中でも留学に行かなけれ ばできなかった経験や、4 ヵ月の海外 生活を共に過ごした仲間達とたくさんの思い出を作ることができ、オハイオ留学は私の 人生の中でも価値のあるものになったと思う。大きな目標も特になく、ただ自分の英語 力が上がればいいと言う思いで向かったアメリカだったが将来の自分について考える いい機会になった。 留学に行く前からアメリカ人は、日本人よりもフレンドリーだということはなんとな く分かっていたが、オハイオに留学することで、その事実を自分自身で実感することが できた。アメリカ人の友人を作ることが私の小さな目標の一つであったが、元々積極的 ではない私にとって異国の地で言語の違う友人を作るということは私にとって簡単な ことではなかった。オハイオに留学して一週間ほど経った頃、私の周りの友人達には少 しずつアメリカ人の友人ができ始めていた。その時、私はルームメイトが日本人だった ということもあり、アメリカ人と話す機会がほとんどなかった。周りの友人たちがアメ リカの友人達と「連絡先を交換した」「一緒に出掛ける約束をした」そんな話を聞くた びに焦りを感じた。消極的な自分の性格を悔んだりもした。自分の英語力を実感して涙 する友人たちもいたが、それ以前に英語を使ってすらいなかった自分がとてもむなしか った。 それから数日経ち、アメリカの生活には少しずつ慣れていったが相変わらずアメリカ 人の友人を作ることはできていなかった。そんなある日、conversation partner の存在 を知り、私は思い切ってその conversation partner に連絡してみることにした。彼女 は文面でもわかるほど親しみやすく、実際初めて会った時も笑顔で迎えてくれた。カフ ェテリアで一緒に食事をしながらお互いの趣味などを話した。私のつたない英語で話が 途切れてしまうことがあっても、彼女は一生懸命聞き取ろうとしてくれた。初めはお互 い緊張していたがだんだん緊張も解けていった。食事も終わりに近づいてきたころ、彼 女は自分の寮に遊びに来ないかと言ってきた。その時、私は少し驚いた。日本人なら、 初めて会ったその日に自分の部屋まで誘うことはあまりないのではない。私自身も、親 しい友人でない限り、自分の部屋には誘わない。オハイオに来て初めてできたアメリカ 人の友人が寮まで誘ってくれることがとても嬉しくて、食事を終えてすぐ私たちは、彼 女の寮まで行くことにした。 寮では、お互いの趣味がダンスであることを知り、彼女は ダンスを披露してくれた。話したいことはたくさんあったが、 英語でうまく話せないことが少し悔しかった。しかし、言葉 がなくても一緒に踊ったりすることでより距離を縮めるこ とができた。それからは、彼女がダンスを教えてくれるとい う形で何度も会って私達は仲良くなっていった。ハロウィン の日には、彼女の地元で行われたハロウィンパーティーにダ ンサーとして出演させてもらえることになった。地元の人た ちが大勢来る大きなパーティーだったが、どの人達もみんな 日本から来た私たちに対して優しく接してくれた。ここまで してくれるのかと思うほどのおもてなしをしてもらってす ごく驚いた。日本ではここまでのおもてなしをしてくれる家 は少ないのではないかと思う。 私はある時、韓国人の友人に「なぜ日本人は一度会って仲良くなってもまた会う時に は気まずくなるのか。 」と聞かれたことがある。確かに私自身も初対面の人と話をして、 その場では仲良くなったつもりでも、月日が経つと話しかけにくくなってしまうと言う 体験を何度かしたことがある。しかし、オハイオ大学で出会った conversation partner はもちろんオハイオで出会ったほとんどの人は気まずさを感じることはなかった。これ はきっと、アメリカの人たちがみんなフレンドリーだからなの 思う。初めて会った時からとても接しやすいので二回目に会 時も気まずさを全く感じなかった。私は、アメリカ人のフレ ンドリーなところがとても好きである。日本人とは違い、 いい意味であまり気を使わない感じがとても楽だなと感 じる。アメリカ人の友人を作ることを目標にしていた今 回の留学であったが、私が思っていた以上にアメリカ 人の友人と素敵な思い出をたくさん作ることができ て良かった。 この留学を通して、語学力はもちろん自分自身も たくさん成長することができたと思う。思ってい た以上にたくさんの新しい経験ができたので、留 学に行けて本当に良かったと思う。正直、今回 のオハイオ大学への留学は、最後の最後まで行 くべきか悩んでいた。行ってから思うのは、 ではないかと う 留学して良かったと思うということと、もし行ってなければいろいろな意味で自分自身 を成長させることができなかったと思う。この留学で本当にたくさんのことを学ぶこと ができ、自分の将来の道が広がったと思う。今回の留学でできた素敵な友人達とこれか らも仲良くしていくことができたらいいと思う。
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