第 4 部 国際交流:日本語スピーチコンテスト

第 4 部 国際交流:日本語スピーチコンテスト
1.2010年度留学生日本語スピーチコンテスト
開催日時:2010 年 8 月 12 日(木)10:00-13:00
会場:佐賀大学大学会館 2 階 多目的ホール
09:00
受付開始・開場
10:00
コンテスト開会式
総合司会:頗羅堕昇
主催者挨拶
佐賀大学経済学部国際交流室:
室長 ラタナーヤカ・ピヤダーサ
挨拶
佐賀大学国際交流担当:
副学長 中島晃
採点説明
10:15
鹿毛理恵
スピーチ開始[順番.名前(出身国)『発表の題材、タイトル』
]
前半の部の出場者によるスピーチ開始
11:00
10:15
1.
ヤオ(中国)
『これは不思議』
10:20
2.
チェ(韓国)
『私の日本留学』
10:25
3.
チャンピカ(スリランカ)
『スリランカの結婚』
10:30
4.
クマール(バングラデシュ)
『バングラデシュの食文化』
10:35
5.
ワン(中国)
『佐賀自然環境に対する感想』
10:40
6.
グェン・アン(ベトナム)
『私の大好きなおばあさん』
10:45
7.
ナスリン(バングラデシュ)
『私が思う面白い日本語』
10:50
8.
ジン(中国)
『中国の朝鮮族』
前半の部の出場者の採点表回収
小休憩(5∼10 分程度)
11:10
後半の部の出場者によるスピーチ開始
11:10
9. クム(韓国)
『現代人にとって幸福とは』
11:15
10.
ムディ(インドネシア)
『私の国インドネシア』
11:20
11.
ハン(中国)
『中国の神話:七夕伝説』
11:25
12.
アラム(バングラデシュ)
『日本のトイレ』
11:30
13.
ジュ(韓国)
『私のイビキについて』
11:50
11:35
14.
カルパ(スリランカ)『写真を通して見える日本』
11:40
15.
グェン・ティ(ベトナム)
『私の好きな日本人』
11:45
16.
キョウ(中国)
『人生は挑戦だ』
全出場者によるスピーチ終了
後半の部の出場者の採点表回収、お弁当引き渡し
12:00
昼食:同会場で留学生とご歓談ください
12:40
学生らによる演奏
佐賀大学ジャズ研究会
12:50
結果発表
結果報告者:鹿毛理恵
表彰式
上位三名表彰:中島晃 副学長
特別賞
ラタナーヤカ、池田
閉会挨拶
頗羅堕昇
13:00
閉会
主催:佐賀大学経済学部国際交流室
協力:スリランカと佐賀の会、みんなの大学受講生有志
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『留学生日本語スピーチコンテスト 2010』出場者の原稿
『これは不思議』
Yao Yuan(姚遠)
工学系研究科院生1年
中国
皆さん、こんにちは。今回のテーマは「これは、不思議」
、ちょっと大げさかもしれません。
実は、日本に来てから、
「えー」と思ったこと、或いは自分の体験で「これは違うでしょう」
と感じた瞬間などをここで皆さんに伝えたいと思います。
先ず、私が大好きな食べ物から語りたいと思います。中国では、初めて料理を作るなら、
多分たまご料理でしょう。これは日本でも同じかもしれません。しかし、中国全国、どこで
も、誰でも好きな料理なら、正にこの一品――トマトとたまごの炒め。日本では、あまり見
たことがないけれども。作り方はとっても簡単。先ずたまごを炒めて、それからトマトを入
れで、後は塩と砂糖を加えるだけ。あっという間に完成です。皆さんも作って見ませんか。
日本にやってきて、初めて「えー」と思ったのは、日本人は朝でもご飯を食べること。も
ちろん、中国人も朝ご飯を食べるんですけど、晩御飯みたいに、炊き立ての白いご飯とおか
ずを家族皆で食べるのはあまりないんですね。では、中国人は朝何を食べますかという疑問
を持つ方がいるかも知れません。お粥、小龍包、ワンタン、ラーメン、焼そば、餃子、春雨
…何でもありますね。本当に数え切れないほど多いです。朝から旺盛な食欲ですね。でも、
朝ご飯をちゃんと食べて、一日頑張れるではないでしょうか。
時々、外食するとき、日本人は寒い冬でも食事をしながら、冷たい水を飲むのを見て、私
はつい「胃は大丈夫ですか」と心配をしてしまいます。
日本人はすいかに少し塩を振って食べますね。
更に甘くなるからと言われました。
同じく、
トマトにも塩を加えて食べますね。私も食べましたけど、
「味はどうですか」と聞かれて、つ
い「うん、そうですねー」
、結局言えなかったんです。何故なら、中国人はトマトに砂糖を入
れて食べますから。ちょっと不思議でしょう。食べ物の話はここまで。
かつて、風呂を入るとき、お湯の温度は40度を超えるなら、皮膚が乾燥になる話があっ
て、私は「まさか毎回温度計で測って、お湯の温度を調節するわけ?それは面倒くさいよ!」
と思いました。日本に来て、まさか本当にスイッチを押すだけで温度の調節が実現するなん
て、しかもいつでも、いくらでも、直ぐに使えます。本当に便利ですね。
初めて日本でタクシーを乗るとき、私は後ろのドアを閉めようとしていましたけど、いく
ら力が入っても、ドアは動かなかった。
「あれっ」と思って、そのとき、タクシーの運転手さ
んに叱られました。
「タクシーのドアは自動ドアですよ」と。
「はい、失礼しました。
」それか
ら、バスの中で両替もできる等について、
「やはりすごいですね」と思いました。生活上で、
どんなささやかなことでも心をかけられて、おかげで安心で便利な生活を送ることができま
す。本当に感心しました。
中学校のとき、うちの学校にやってきた何十名の日本人学生と一緒に授業を受けました。
当時のこと、今でも覚えています。雪が降っていて、気温もマイナスでした。日本人生徒は
薄い制服を着て、それに比べてうちらは皆パンダみたい。そのときの日本人の女の子の、可
愛いスカート姿、不思議と思いながら、憧れでした。今、中国の若者たちは日本のファッシ
ョンに注目し、真似をしている。もっと綺麗になりたいという気持ちは誰でもありますね。
言いたいことまだ沢山ありますけど、時間ですので、ここで終わらせていただきます。チ
ャンスがあれば、皆さんと直接交流したいと思います。ありがとうございました。
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『私の日本留学』
Choi Hyun Ah
理工学部聴講生
韓国
私が日本への留学を決めたのは大学に入った頃でした。最初はたいした理由ではなかった
んです。ただ、大学をプゥールストレイトで通いたくなかったから「一年ぐらいは休学しよ
う」と思ったんです。でも、ただ休むだけなら何の意味もない一年になるから「どこかに交
換留学でも行って見ようかな」と思って中学生のころから関心を持っていた日本にでも行っ
て見ようと思って能力試験を受けて合格して第一の資格を準備しました。そして、皆遊んで
いる一年生の時も交換留学生に選ばれるための十分な成績を作るために一所懸命勉強して優
秀な成績を作りました。それで、とうとう交換留学生申し込みの日が来て志願して合格しま
した。
これが、私が日本へ来ることになった契機です。本当に何もなかったんです。ただ、二年
間の大学生活で勉強、クラブだけだったからちょっとした変化が必要だと思っただけなんで
す。それに他人はめったに出来ない特別な何かがしたかったんです。これが、私が日本留学
を決めた最初の理由です。
でも、選ばれて色んな準備をしていく間に考えが変わったんです。
「せっかく選ばれて行く
のにただちょっと休憩が必要だとか遊びたいとかの理由だけだったら何か惜しいな」と思っ
て私が日本へ留学して戻ってきた時その経験を私の夢に活用できるところはないかなと思っ
て探したんです。そしたら何と、すごく役に立つ機会になると言う事を分かったんです。私
の夢は宇宙航空科学者です。宇宙船も飛行機も不可欠な存在があります。
「ロボット」です。
ロボットは日本が世界一だと知られている国。私にとってはとらなきゃならないチャンスだ
ったんです。
そう考えると今までやってきたものが何かすごいなと思うようになったんです。
日本に行くことを最初から考え直さなきゃならなくなったんです。日本に行く目的、行って
する事、したい事、知りたいことなど全部だったんです。
でも、ちゃんとした目的を持って日本に来ることになった今は本当に良かったなと思いま
す。
もし何の目的もないままここに来たとしたら今頃私は何もせずただ遊んでいるでしょう。
でも、何か臨むものがちゃんとあってやりたいことがはっきりあるから今私は本当に楽しみ
ながら暮らしていけるんだと思います。わずかなことからも何かを感じて考えて習います。
別に私の一番の目的である「ロボット」だけに限ってじゃありません。日本人の行動、話し
方、習慣などでも私たち留学生には見たり聞いたり感じたりするこのすべてが経験であり勉
強なんです。他の人は本とかメディアとか先生を通じて知られるようになることが私たち留
学生には直接的に自分なりにちょっとは主観的に判断して学ぶ勉強の場なんです。ちゃんと
した目的があり学びたいことがあるからもっともっと経験したくなるしあきらめたくなる時
も諦めずに頑張ることが出来ます。
私が日本に来て学校で授業をもらう時、一番気にしたのは学ぶこと、学生たちの行動及び
志、授業をする方法でした。私が知りたいのは日本を世界のロボット強大国にした原動力で
した。ロボットの技術や知識を学ぶのは大学が出発点です。だから、日本の大学生を見れば
分かるんじゃないかなと思いました。別に、私と同じ夢を持っている学生を探してその人だ
けを観察したわけではありません。大学生たち皆が対象でした。沢山の日本人と友達となっ
て遊びに行ったり一緒に勉強したりしながら本当に色んなことから違いとか同じところとか
が自然に見られるようになったんです。まだ、
「原動力はこれだったんだ!」とは言えません
けどまだまだこれからだと思います。私が日本に来てからもう五ヶ月目です。今は日本での
生活も結構慣れたし日本に来たばかりのうろうろしてた私はもういません。ですから、今か
らはじっくりもっとたくさんのものを見たり感じたり考えたりすることが出来るんじゃない
かなと思います。韓国に帰るまで後六ヶ月半です。私が帰るまで答えを探して満足して帰る
かそれとも見つからないまま帰るかは今には分かりません。答えは決まってないし、たとえ
出たとしてもそれが正解かどうかは誰も分かりません。でも、私なりに結論付けてそれを私
の夢をかなうための一つの足場として前へ進みたいです。これから頑張ります。発表最後ま
で傾聴して下さって有り難うございます。
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『バングラデシュの食文化』
Ghosh Mohendro Kumar
スペース(SPACE)
バングラデシュ
私の祖国バングラデシュは南アジアにある発展途上国です。2500 年以上の独自でユニーク
な歴史と文化があります。この文化にはいくつかの民族文化があります。バングラデシュの
文化は長い間ヒンドゥー教、仏教、イスラム教の影響を受けているため、とても複雑です。
音楽、舞踊、ドラマ、美術、工芸、民話、言葉、文学、哲学、祭りなどによく現れています。
バングラデシュの食文化について話しをします。バングラデシュにはたくさんの川や 田
んぼがあります。人々は米や魚を食べています。村の人々は川で魚をとって、その魚を売っ
て生計を立てています。私のお母さんがよく作る料理にカレーがあります。ジャガイモとた
まねぎとショウガを炒めて、後から魚や肉を入れます。最後にスパイスで味付けをします。
私はこの料理が大好きです。
食べたくなりました。
くだものもたくさんあります。マンゴー、ライチ、ジャックフルーツ、バナナ、オレンジ
などです。バングラデシュはくだものが安く手に入るので、人々はくだものが大好きです。
バングラデシュ人はお菓子も大好きです。米と牛乳や砂糖からできる甘くておいしいお菓子
がたくさんあります。温かいお菓子は冬になると、どこの家でも作ります。バングラデシュ
は金銭的に豊かではありませんが、たくさんの贅沢な食文化を持っています。
『佐賀自然環境に対する感想』
Wang Baozhong(王保中)
文化教育学部研究生
中国
私は、昨年9月25日に佐賀に来ました。佐賀に来て佐賀の自然環境の美しさに感動して
います。日差しが明るくて空気もきれいですから胸がすっきりして、いつもいい気分になっ
ています。
昨年10月中旬頃、
友達と一緒に唐津へドライブしました。
山の緑が深くて感動しました。
夜中に突然、狐が大通りを渡り切って山の奥に隠れました。私は珍しいと思いましたが、友
達は佐賀ではそんなことは普通の事と言いました。なるほど佐賀の人は自然と動物と調和し
て共存していると思いました。川に魚が悠然と泳ぐ姿をよく見ます。鳥が田圃を自由自在に
歩く姿もよく見ます。自然環境を大事にして色々な動物と共存することを大事にして地球の
自然状態を保つことは非常に大切だと思いました。地球は人類の母親です。人類は色々な必
要品を大自然からもらっています。ですから人類は大自然の恩恵で生きています。人間も自
然界の母親のように地球を愛し守るのは当たり前です。
次に語るのは、私にとって大切なお母さんの物語です。今日のテーマと密接につながって
ないかもしれません。しかし、私は、あえてお話したいと思います。私のお母さんは中国遼
寧省阜新モンゴル自冶県のある農村に暮らしていました。普通の農家の主婦でしたが、家計
のためにいつもハードワークして働いていました。お母さんは子供に優しくて、年老いた祖
父母に対して親孝行でした。しかし、残念ながら、三年前に血栓にかかったことが原因で、
亡くなりました。今年6月ごろ、血栓が急に悪化して、体が不自由になって、話もできなく
なりました。そのため、親戚、子供たちが、私のお母さんの介護でたいへんになりました。
誰も落ち着いて過ごすことができなくなりました。6月26日の昼、お母さん以外に誰も家
にいないとき、お母さんは家の窓とドアをしっかり閉めて、農薬を飲みほしました。自分で
自分の命を終えさせました。どうしてかと言えば、他の人々に迷惑をかけたくないと思いつ
めていたからです。
家族や親戚が落ち着いて働けるようにするためです。
三年たった今でも、
私はひどく悲しんでいます。このような話をして、本当にすみませんでした。
われわれ人間はいつも自分たちが世界の中心にいて宇宙の中で一番賢明だと思いこんでい
ます。でも実は、決してそういうものではないです、人間はいつでも大自然の子に過ぎない、
地球がわれわれのやさしい母親なのです。もし、われわれの共同的母親がなくなったら、わ
れわれは悲しい気持ちや楽しい気持ちを持つチャンスすらなくなります。ですから、地球を
きちんと守って愛すことは大切だと思います。
『私の大好きなおばあさん』
Nguyen Anh Thi Lan
文化教育学部研究生
ベトナム
みんなさん、こんにちは。私はアインと申します。ベトナムから来ました。文化教育学部
の研究生です。今から私のおばあさんについてお話します。
私のおばあさんは 私たちの家族と離れて、別の家で一人で暮らしています。おばあさん
が寂しいので、私は小学一年のときから、おばあさんと一緒に暮らしていました。家族の中
でおばあさんの生き方の影響を受けています。
日本に留学しておばあさんと離れ離れになりましたが、おばあさんと一緒に住んだ時の思
い出は決して忘れられません。二人きりでテレビを見たり話し合ったり、お寺へ参ったり、
親戚の家を訪問したりして、楽しかったです。私が勉強に集中できるように、いろいろ世話
をしてくれました。毎日朝早く起きて、ご飯を用意してくれました。一時期、私は ばかな
考えで、やせるように、朝ご飯を食べなかったけど、だんだん、おばあさんから、朝ご飯の
大切さを話してもらって、今の私は、朝ご飯をちゃんと食べるようになりました。
私に対しておばあさんさんは非常に厳しかったです。あるとき、私のわがままでおばあさ
んに反抗したことがありました。挫折した時、勉強したくないときなどに言われたら、おば
あさんがうるさいと思ったことがありました。今、そんな反抗的な行動を後悔しています。
もう一度昔に戻れば、おばあさんにやさしくお世話をしてあげたいと思っています。 私が
日本へ留学できたのは家族の応援のおかげです。特に、おばあさんのこういう言葉に励まさ
れて、留学できました。
「留学を通して、自分の将来を作ってください。世界中の人々と会う
のは、勉強になるし、外国で勉強したことを、ベトナムのためになる人になりなさい!」
。そ
んな一つ一つの言葉を覚えています。日本へ来てから、もうすぐ一年経ちますが、これだけ
は確信しています。おばあさんの言葉は絶対間違いないということです。今の私があるのは
おばあさんのおかげです。
私のおじいさんがなくなったのは、おばあさんが 28 歳のときです。それで、おばあさんは
一人で困難を乗り越えて、私のお父さん、おじさん、おばさん、それから私たち孫もちゃん
と育ててくれました。私にとって、おばあさんは私の理想です。おじいさんがずっとそばに
いないこと と おじさんとお父さんも外国で仕事をしていて、一年か二年に一度しか会え
ないために、おばあさんは寂しそうな顔をよく見ました。私が気づかないように、寝る前に、
おばあさんはひそかに泣いているのがいつも頭に浮かんでいます。
日本人のおばあさん、おじいさんのように、自分の趣味を見つけて、楽しんでくれたら、
私もうれしいです。こんなおばあさんが大好きです。
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『私がおもうおもしろい日本語』
Mst. Nasrin Nahar
農学部研究科修士課程2年
バングラデシュ
先日、大川の堤防を一人でトコトコ歩いていると蛇がニョロニョロと現れました。蛇がグ
ニャグニャ動くのを見て、私の身体はゾクゾクしました。蛇はピタッと止まって、グルーッ
と首を回し、ジーッと私を見て、シャーッと言いました。私はそれを見て冷や冷やドキドキ
して汗がタラタラ垂れて足がガクガクしました。
さて、今、私はあえてたくさんの音を使って話しました。日本語が持つこれらの音が私の
スピーチのテーマです。日本語には2種類の音があります。
「擬音語」と「擬態語」です。実
際の音や声を混ぜた言葉は「擬音語」といいます。例えば、猫の鳴き声はニャオニャオ、一
方、いびきはグーグーといいます。一方、物や人の様子を表す言葉は「擬態語」といいます。
例えば周りを見る時にキョロキョロ、笑顔を見せる時にニコニコといったりします。私は日
本語を学ぶにあたって、この擬態語はたいへん面白いと思っています。英語や他の外国語に
も擬態語はありません。初めて来た時、音の無いものに音を付けるという考えは馬鹿馬鹿し
いと思いました。雲はフワフワいいませんし、光はピカピカいわないからです。しかし、あ
る日、テレビでニュースを観ていた時、アナウンサーが地震についてグラグラしましたと言
いました。私はびっくりしました。なぜならとても大切な場面でも擬態語は使われているか
らです。興味を持って調べてみると、いくつかの擬態語には色々な意味があり、使う時には
気をつけなければならないと知りました。
私の日本人の友達に先週何をしましたかと聞くと、
彼はゴロゴロしていましたと言いました。私は、
「あれ、廊下でゴロゴロ転がっていたのか」
と思いました。なぜなら、ゴロゴロは物が回転することだと思っていたからです。全然意味
が違いますね。また擬態語が便利です。去年の冬にスノーボードに行った時、雪が氷のよう
に固まっているところがありました。友達に滑るから気をつけてと言ってあげようとしまし
たが、言い方がわかりませんでした。しかし、とっさにそこはツルツルすると言ったところ、
友達は滑らなくてすみました。私は擬態語を上手に使うと日本人の皆が喜んでくれます。そ
れは日本語を話すことが自信になります。日本語をペラペラ話せるようなるためには擬態語
はなくてはなりません。それは日本語の勉強がもっと楽しくなります。一万回笑顔を見せて
も、そのことは聞こえません。しかし、ニコニコという言葉が私の心の中に一万回の笑顔が
思い浮かびます。そして日々少しずつ日本人の心に近づいていることを実感します。
ご清聴ありがとうございます。
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『中国の朝鮮族』
Jin Yunu(金王女)
経済学研究科修士1年
中国
皆さんこんにちは。中国黒竜江省の牡丹江から来た金玉女です。私は中国の少数民族の一
つである朝鮮族です。朝鮮語を話し、漢族とは違う考え方をするときが常にあるので、日本
人の友達によく「あなたは一体どっち?」と聞かれます。また、悲しいけれども最初に日本
に来た時はやさしい日本人に「自己紹介する時は中国人と言うだけでいいよ、朝鮮族とは言
わない方がいいかも。
」と言われました。最初は理解できませんでした。中国ではずっと堂々
と朝鮮族だと言っていたからです。1 年ぐらい経ってから北朝鮮についてのニュースなどを
見て何となくわかるようになりました。でも私は今も変わらず自分が朝鮮族であることを紹
介したいです。そして今日は十分ではないと思いますが、中国の朝鮮族のことを皆さんに伝
えたいと思います。
中国の 13 億人人口の 10%は 55 種類の少数民族であります。その中で朝鮮族の人口はたっ
た 192 万人です。朝鮮族はもともと中国の領土で生活していたのではなく、19 世紀半から 20
世紀前半をかけて政治や経済の理由で朝鮮半島(北朝鮮+韓国)から移住しました。だから最
初は朝鮮族ではなくて外国人として認識されました。
それが 1949 年に中華人民共和国が成立
し、共産党によって朝鮮族として明確に規定され、中国の少数民族の一つになりました。こ
れは私たち朝鮮族も中国人の一人であることを象徴します。つまり中国人と同じ待遇をもら
えることを意味します。そのおかげで私たち朝鮮族は中国でも高校まで朝鮮語で勉強し、さ
らに大学入試試験も朝鮮語で受けることができます。これらはずっと当たり前のことだと思
いましたが、朝鮮語を話せない日本の在日韓国人、在日朝鮮人、成人式まで和服を着る在日
韓国人、在日朝鮮人を見てから、私は中国で朝鮮族の伝統を続けることができたのは中国政
府のおかげだと思いました。もちろん中国人口のわずか 1%である朝鮮族の努力も欠かせま
せん。
それでは私自身を例として中国の朝鮮族のあり方をもう少し具体的に説明したいと思いま
す。私は朝鮮族だけの農村で生まれ、家族は四人で父、母、妹と私です。中国は一人子政策
ですが少数民族は二人でも大丈夫です。村の人と学校のみんなが朝鮮族なので、普段は朝鮮
語を話します。もちろん中国語も勉強します。朝鮮族もほかの民族と同じように年長の方を
尊敬します。例えば食事をする時は年配の方が先に食事を始めるまで待ちます。私の家庭で
は箸を置くときはいつも父の箸を先に並べました。また、朝鮮族の料理や祭り伝統は今でも
守られています。将来、私が結婚する時も必ず朝鮮伝統の結婚式でします。もちろん結婚式
に朝鮮料理は欠かせません。中国で生活しますが、みんなが民族伝統を大事にしています。
また守ろうと頑張っています。
だから私はこのような中国に感謝し、朝鮮族に誇りを持っています。そして私の答えはい
つも「私は中国の朝鮮族」です。私は自分が中国人であることも、朝鮮族であることも光栄
に思っています。
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『現代人にとって幸せとは』
Keum Changman(琴彰暁)
文化教育学部聴講生
韓国
こんにちは。私は4月に韓国から来ましたクム・チャンマンと申します。
先日、朴ヨンハという韓国の俳優が自殺しました。その話を聞いた時「なぜ」ということ
が頭に浮かびました。それで私はこれをきっかけに現代人にとって幸福について考えてみま
した。
現代人が関心を持っていることの中で一つは「経済」だと思います。皆、どうしたらたく
さんのお金を稼げるか腐心します。ところで、そういうふうになったら果たして幸福でしょ
うか。そんな成功にも関わらず、幸福感は下る一方です。豊かに暮しているのにどうして不
幸になるでしょうか。私は、一つは欲のせいだと思います。もっといい物、もっとたくさん
の物と次々に上を目指す人の欲が問題です。もちろん、欲があったために人類は今まで発展
してきたわけです。しかし過ぎたるはなお及ばざるがごとし。時には現状に満足することも
重要です。
欲心よりもっと大きな問題は希望の喪失だと思います。先日「アジア経済論」という授業
で「韓国と日本はなぜ自殺率が高いか」というテーマでレポートを書きました。その中に失
業率と自殺率の関係を示したグラフがありました。
日本では 1990 年代の通貨危機による失業
率の上昇とともに自殺率も上がりました。単純に見れば経済的な理由ですが、私は希望がな
くなったので不幸になったと思います。人々は夢を持ちながら生きています。夢を持ち、夢
が叶えられるという希望を持っている時、人は生きる力を得ます。しかし夢から離れていく
時絶望を感じて不幸になります。 パンドラの箱の物語をご存じでしょうか。ギリシャ神話
の有名な物語です。パンドラという人は地上の最初の女性で、多くの神様に様々な贈り物を
もらいました。その中にゼウスからもらった箱がありました。そして、その箱をもらう時開
けてはいけないと警告を受けましたが、無視して開けてしまいました。その結果、箱の中か
ら罪悪や災難が世の中に出てしまいましたが、最後に出てきたものが希望でした。それがあ
っての世の中にどのような困難や災いがあっても耐えられます。
私は今の現代人はほぼ幸福を求める人間と不幸から逃げようとする人だと思います。不幸
から逃げるため、幸福になるため、お金を稼いでいますが、お金だけでは幸福になれません。
お金はただ希望を招くための手段です。希望がなければいくらお金があっても人は幸福にな
れません。人はよく言います。幸福はいつも自分の近くにあると。私は皆が希望を持って小
さいことにも満足して余り欲張らなければ近くにある幸福を手に入れることができると思い
ます。今、私が話したことは、どなたももうご存じのことかもしれません。しかし知ってい
ることだけでは何もできません。それで皆が幸福になってこのような悪いニュースはなくな
ってほしいです。
ご清聴ありがとうございます。
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『私の国、インドネシア』
Mudi Yuliani
スペース(SPACE)
インドネシア
今日は私の国インドネシアについてお話します
インドネシアは1945年8月17日に日本の植民地支配から独立して誕生しました。イ
ンドネシアの正式名称はインドネシア共和国です。インドネシアの州都はジャカルタです。
また、国旗はメラプティ旗(Merah Putih)と呼ばれます。Merah は赤であり、Putih は白と
いういみです。赤は勇敢を象徴し、白は神聖なること、あるいは国家の尊厳を象徴していま
す。インドネシアの名前はギリシャ語のインドと群島に由来します。したがって、その言葉
の意味は“インド群島”ということになります。この名前ははじめイギリスの民俗学者の G.R
ロンによって決まりました。
インドネシアの島の総計は1万8110あります。しかし、そのうち人が住む島はほんの
6000島にすぎません。インドネシアには5つの主要な島があります。すなわちスマトラ
島、ジャワ島、カリマンタン島、セレベス島、およびパプア島です。スマトラ島にはオラウ
ータンがいます。ジャワ島には首都ジャカルタがあります、パプア島では石油が採掘されま
す。バリ島はインドネシアの他の島に比べると外国人によく知られています。海がとてもき
れいで波が大きいのでサ−フィンが有名です。バリ島には仏教徒が多いので寺院がたくさん
あります。
次にインドネシアの人口は、大小数百もの少数民族が住んでいます。インドネシアで最も
大きい民族はジャワ族、スンダ族、マドウラ族、マレー人、バリ人、ミナンカバウ族、バタ
ク族、ダヤク族、ブギス族、および華人などがいます。このような多民族社会という背景が
あるため、インドネシア人はその民族によって異なっており、ひとくちにインドネシア人と
はどのような人々かと言うのは簡単ではありません。インドネシアでは重要な役割を果たし
ています。インドネシアにはイスラム教徒、カトリック教徒、プロテスタント教徒、ヒンズ
ー教、および仏教の5つのもっとも多きい宗教があります。このようにインドネシアには多
くの人口、たくさんの民族、たくさんの宗教があるのでインドネシア人は我慢すると許すと
いうことが一番大切なことだと思っています。
最後にインドネシアは世界で一番面白い国だと思います。
皆さん、インドネシアへ来てください!
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『日本のトイレ』
Miah Md. Ashraful Alam
工学系研究科博士課程3年
バングラデシュ
皆さんこんにちは。私はバングラデシュから来ました、アラムです。今日は日本のトイレ
についてお話したいと思います。どうぞよろしくお願いします。
私は日本に来てから今までたくさんすごいものを見ました。その中で一番感心したものは
とても大切なものです。それは日本のトイレです。日本の新しい洋式トイレはトランスフォ
ーマーな様で、他の国のトイレよりちょっと大きいです。他の国で日本のようなテクノロジ
ーを使いません。日本のトイレはお年寄りが使い安いように便座が上がります。そしてお尻
も洗ってくれます。でも、古い和式のトイレは床にあってしゃがまなければならないし、お
尻も洗ってくれません。だから私はお若いけどいつも洋式トイレを使います。
新しい洋式トイレはスイッチを入れると便座が温かくなり、温度は調節できます。初めて
使った時は最高の熱さにしてしまい、お尻が火傷するかと思うほどビックリしました。その
後、友達から教えてもらってコントロールすることが上手になりました。そのトイレは面白
くて気持ち良いです。
トイレが終わって水を流そうとした時に、水を流す方法が分かりませんでした。次の人が
来た時にうんちがそのまま残っていると恥ずかしいと思ったので、数分間座ったまま、この
まま逃げるか、トイレットペーパーで見えないように隠すか悩みました。でも、そのまま逃
げるよりトイレットペーパーで隠そうと考えて、
ペーパーを取ろうと立ち上がった時に突然、
水が勝手に流れました。なぜ勝手に流れたのか分からなかったのですが、ホッとしました。
他にも、日本語が分からなくて恥ずかしい思いをしたことがあります。この前のように自
動で水が流れると思っていたのですが、立ち上がってトイレから離れても水が流れませんで
した。
このトイレは自動じゃないと気付いて、
水を流すためのスイッチを探していたところ、
壁にあるボタンの下に何か日本語で書いてありました。私はこれが水を流すという意味だと
思って押してみたところ、突然、
「ピーピーッ」とよう大きな音がなって、人が何人も集まっ
て来ました。その人たちは「ドンドン」ドアを叩いて、大丈夫ですかと言いました。私は水
を流していなかったので、恥ずかしくて最初は黙っていました。でも、心配して集まって来
た人が無理やりドアを開けて入ってきたら困ると思って、どうやって水を流すのですか、と
中から聞きました。すると、やさしい人が水の流し方を教えてくれたので、助かりました。
そのボタンは助けを呼ぶためのボタンだったと後でわかりました。ある意味では、使い方は
間違っていませんでした。なぜならば私は助けが欲しかったからです。
次にお尻をきれいにしてから、乾かすトイレやトイレがトイレを掃除するトイレ、そして
自動でフタをあけるトイレもあると聞きました。私はまだこのトイレを使ったことがありま
せんが、とてもかっこいいと思います。私はいつか一番新しい洋式トイレを使ってみたいで
す。私は国に帰る時、日本の新しい洋式トイレを一つでも買って帰りたいです。もし、向こ
うで日本の洋式トイレがあったら、皆はとても喜んで使うでしょう。
ご清聴ありがとうございます。
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『私のいびきについて』
Ju Hyun Hwa(周賢和)
特別聴講生
韓国
みなさん、こんにちは。
私は特別聴講生の身分で韓国から来ました。ジュヒョンファと申します。今日は私のいび
きをテーマにしてスピーチいたします。よろしくお願いします。
昔々、
幼かった私は母と父の家中いっぱいになる酷いいびきの騒音で毎晩苦しかったです。
それでいびきをかく人はみんな嫌いだったし、自分が大人になっても“私は絶対いびきはか
かない”と心に決めました。
時間が流れて大学生になった私は家から遠いところに進学したので学校の寮で暮らすよう
になりました。家族以外とは初めての生活だったのでルームメートに迷惑をかけるとどうし
ようという心配ですごく緊張した日々でした。だが、ルームメートは心が優しいお姉さん2
人ですぐ姉妹のように親しくなりました。
その4月のある日、ひどい鼻風邪をひいて息がつまって苦しかったんですが、寝て起きる
と風邪が直せると思って速く寝ました。問題はその後です。翌日、目の下にくっきりとした
黒いくまができたルームメート2人を発見、どうしたのか気になって‘大丈夫?’と聞きま
したが、
“あなた!昨日の晩、あなたが凄いいびきをかいて2人とも寝られなかったよ!”と
いう返事。
♪ティロリ∼ン
そうでした。鼻風邪によって私の血の中に流れていたいびきの遺伝子が活動を始めたので
す。その日から今まで私はずっといびきをかいています。確かにすごいいびきを…
もう夏休みで、そろそろキャンプの時期になります。日本人の友達から一緒にキャンプ行
こう!と言われたんですが、その友達はまだ私がすごいいびきをかくのを知らないからちょ
っと心配です。いつか私が高校生だった頃に母が他の人と遊びに行って一緒に寝るのが怖い
と言ったことがあります。なぜなら、いつも次の日の朝からうるさいんだよと皆に責められ
たからです。その話を聞いた時には母の話に共感できなかったんです。しかし、今はあれほ
ど嫌いだった父と母がいびきをかくことが十分わかるようになりました。
ただ、
理解できて、
言葉では表現できない連帯感さえ感じています。
皆さんの中で他人のいびきをかく騒音で寝られなかって、その人の鼻の穴をふせいてしま
いたいと思ったことはありませんか。あってもしょうがないでしょう。人間なら疲れた時や
年をとると誰にも起こる症状がいびきをかくことですから。そして先に寝る人が勝ちという
万国共通の話もありますから。その瞬間は苦しいかも知れませんが、皆さんの広くて優しい
心でいびきをかく人も愛して頂けませんか。経験して見たらいびきをかくことは自分の意思
でなんとかなる問題ではありませんでした。
皆さんも知らず知らずにいびきをかいているかも…しれません。ですから皆さん、深くて
広いこころで、よろしくお願いします。
私のスピーチはこれで終わります。
ご清聴ありがとうございました。
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『私が好きな日本人』
Nguyen Thi Thu Huong
文化教育学部2年
ベトナム
私は四年間ベトナムで日本語を勉強しました。日本語だけではなく日本人の生活、日本の
社会、つまり日本の文化、風俗についても教えてもらいました。日本人の先生との交流をは
じめ、教科書の知識を通じて、日本人の特徴がわかるようになりました。そのとき、
「日本人
についてどう思いますか」と聞かれた私はこのように答えました。まず、何よりも目立つ特
徴は時間どおりに仕事をやるということです。日本人の時間厳守は世界一だと言っても、過
言ではないと思っています。働き蜂と名づけられたほどよく働く日本人、細かいところまで
よく気遣い日本人、本音とたてまえのある日本人、そして人間関係を重視する日本人などの
特有の性格が挙げられます。
大学生のとき私がそういう日本人のイメージを持っていました。
大学を卒業してから、日本へ留学することにしました。佐賀駅に着いて初めての日からあ
っという間一年半が経ちました。今まで、いろいろな人に出会えて、たくさんのことを体験
して、自分のいい経験なりました。大学の先生、ゼミの友達、バイト先の店長などの違った
立場を持っている日本人に関わって、日本人の心がもっと理解できるようになりました。日
本人は必ず集団に属して集団作りを大切にします。そして、人間関係を重んじる日本人は何
かについて問わされたとき、いつも「yes」とか「no」をはっきり言わないで、あいまいな表
現を利用して、相手を気づかないように答えます。外国人にとって、日本人のあいまいな表
現は難しいものだと思います。自分とっても、そういう日本の文化は慣れてきたまでにかな
りの時間がかかりました。今、私の日本人のイメージは昔と少し違っています。アルバイト
をしていて、たくさんのことを優しく教えてもらいました。
「お客様は神様」ということはよ
く言われていますけど、日本ではその通りです。挨拶はもちろん、いくら疲れてもいつも笑
顔で、心をこめて「ありがとうございました」と言ったのは私の店長です。日本人のもてな
しの心はなんてすばらしいものか。アルバイトをしてから、気遣ったのはそういうことでし
た。日本人は勤勉な人間だけでなくて接客の仕方もすごかったです。何よりも私の好きな日
本人はそういうところです。
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『人生は挑戦だ』
Qiao Jichao
経済学部研究科修士1年
中国
みなさんこんにちは: 私のスピーチのテーマは「人生は挑戦だ」です。
人生の目的は幸福になることです。政治も経済も宗教も哲学も科学も学问を学ぶことも全
てが幸福になるためにあるのです。しかし本当の幸福とは苦しみの中にあります。悩みがな
いのが幸せなのではなく悩みに負けない事が大事なのです。幸せとは他人と比较するもので
はなく昨日の自分より今日の自分、今日の自分よりも、明日の自分が成長できればいいので
す。日々成長し続けるために努力するのです。
私は多くの中国人と同じように、楽しい子供時代、一生懸命頑張っていた学生時代、そし
て、大学に入ってから、また一生懸命頑張って勉強していたが、今に至ります。ずっと勉強
して、そして試験に向けて、未だ勉強して、未だ試験に向けてという繰り返しで、日本に来
る前に、小学校 6 年間、中学校と高校は三年ずつ、そして大学は 4 年間、また中国における
大学院は 3 年間、合わせって 20 数年間の人生の中に、学生という身分で、19 年間を過ごし
ました。そして、自分の夢を実現するために、1 人で日本まで飛んできまして、未だ未だ学
生の人生を続きます。
留学生活は本当に苦労が多いです。でも意味があります。いろいろ珍しい人生体験を得ら
れます。まわりの友達は何回も私に聞きました。どうして中国の安定した生活をすてて日本
へ来たんですか。何といっても、自分を超えるということが私の人生の信念です。一度成功
しても、
満足しないでもっと高い目標を追求しようと思っています。
目標を実現するために、
疲れても、苦労しても、ずっと努力します。そうすれば、本当にみのりのある人生になると
思います。 幸福を追求するにあたって、いろんな苦労と挑戦が出てきます。しかし、幸福を
追求するために、頑張ります。御清聴ありがとうございました。
広報誌かささぎ:
『留学生日本語スピーチコンテスト2010』開催
8月12日(木)
、大学会館多目的ホールにおいて「留学生日本語スピーチコンテスト」
(主
催:経済学部国際交流室)が開催されました。
留学生14名が、民族衣料などを身にまとい、母国の文化や考え方、家族愛の素晴らしさ
を紹介したり、
「地面がグラグラ揺れる」など母国語にはない日本語の面白さ、世界一とも言
える時間を守る日本人、長崎で見た原爆の写真の印象など日本での体験について緊張した面
持ちで5分間のスピーチに挑戦しました。
スピーチ終了後、昼食を挟んで、留学生が日本人学生と一緒に立ち上げた佐賀大学ジャズ
研究会「サンライズ」による演奏がありました。
審査の結果、1位は曖昧な言葉の中にある相手への思いやりに感激したというグェン・テ
ィさん(ベトナム)
、2位は日本のトイレの親切さに驚いたというアラムさん(バングラデシ
ュ)
、3位は少数民族に生まれたことへの誇りについて話をしたジンさん(中国)でした。特
別賞には大嫌いだった両親のイビキを受け継いだ自分のことを話し、会場から多くの笑いを
誘ったジュさん(韓国)が選ばれました。
主催した経済学部のラタナーヤカ国際交流室長は、
「このコンテストの目的は、地域の方々
の国際力を高め、佐賀大学の国際交流事業の力になってもらうことです。佐賀大学には30
0人以上の留学生がいます。
彼らは佐賀大学で専門知識や日本語を学ぶために来ていますが、
母国とは違うさまざまな生活習慣等に悩まされます。そこで、正しく彼等をサポートしてく
れる地域の絆が欲しいのです。
」
そのため、開催前には市民による3回の日本語指導と1泊の
ホームステイが実施され、当日の審査も来場した約100名の
市民でした。
来年の開催が待ち遠しい心温まるスピーチコンテストでした。
新聞記事
2.
2011年度留学生日本語スピーチコンテスト
開催日時:2011 年 7 月 13 日(水)10:00-12:50(予定)
09:30
10:00
会
場:佐賀大学大学会館 2 階 多目的ホール
主
催:佐賀大学経済学部国際交流室
協
力:佐賀大学経済学部地域経済研究センター
受付開始・開場
コンテスト開会式
主催者挨拶
挨拶
総合司会:頗羅堕昇 様
佐賀大学経済学部国際交流室:
室長 ラタナーヤカ・ピヤダーサ 教授
佐賀大学国際交流担当:
副理事長 中島晃 教授
審査員紹介
審査員 11 名
10:15
佐賀新聞社編集総務部長:
平有治
様
佐賀県国際交流協会企画交流課長:
矢冨明徳
様
元佐賀大学留学生センター教授:
浅岡高子
様
元佐賀大学留学生センター長:
田端正明
教授
元佐賀大学留学生センター職員:
太田妙子
様
元佐賀大学国際交流担当理事/佐賀大学経済学部:
古賀和文
教授
佐賀大学公開講座「みんなの大学」受講生(曜日/50 音順):
門山ひとみ 様(佐賀・火曜クラス)
冨池キクエ 様(佐賀・火曜クラス)
西村弘子
様(佐賀・水曜クラス)
柳原忠行
様(佐賀・水曜クラス)
今井耕治
様(鳥栖・金曜クラス)
スピーチ開始[順番.名前(出身国)
『発表の題材、タイトル』
]
前半の部の出場者によるスピーチ開始
10:15
17. チョウ・テキ(中国)
『理解できない日本人の「表」と「裏」
』
10:22
18. サイ・サイジュン(台湾)
『日本語との出会い』
10:28
19. レ・ティ・ティン(ベトナム)
『たった一つのおにぎりではない』
10:35
20. ナ・ヘリン(韓国)
『
「迷惑をかけない」日本の文化』
10:41
21. モハマド・ハニフ(マレーシア)
『楽しさについて』
10:48
22. ワン・ショウリン(中国)
『日本のファッション』
10:54
23. ディン・トゥ・トウイ(ベトナム)
『
「いただきます」と「ご馳走様でした」
』
11:01
24. ガヤニ・ラクマリ・パティラゲ(スリランカ)
『私が見た日本の大学の先生とスリランカの大学の先生』
11:07
小休憩(10∼15 分程度)
11:20
後半の部の出場者によるスピーチ開始
11:20
25.
マイ・ハン・ティ・テュ(ベトナム)
『人生のたび』
11:26
26.
モハマド・イクワン(マレーシア)
『人生のさじ加減』
11:33
27.
ズォン・リン(ベトナム)
『日本からのプレゼント』
11:39
28.
チン・ウ(中国)
『全力を尽くす日本人の精神を学ぼう』
11:46
29.
サンドゥニ・クマリ(スリランカ)
『スリランカ女性の恋の表現』
11:52
30.
ジョ・キン(中国)
『私の宝物』
11:59
31.
グエン・アイン・ティ・ラン(ベトナム)
『東日本大震災で感じたこと』
12:05
32.
メガサリ・マルセラ(インドネシア)
『親切な日本人』
12:10
全出場者によるスピーチ終了
審査員採点表の集計
12:15
審査
12:35
表彰式:審査発表、論評
12:50
閉会式
閉会の言葉
『留学生日本語スピーチコンテスト 2011』出場者の原稿
『理解できない日本人の「表」と「裏」
』
チョウ・テキ
文化教育学部特別聴講生
中国
日本にきてもう 3 か月ぐらい経ちました。いろいろ体験して、日本と中国の違うところも
いっぱい実感しました。そのなかで面白いところもあるし、留学生にとって、さっぱり理解
できないところもあります。今日はこの場をかりて、私が感じた日本と中国の『表情』と『本
音』について発表させていただきます。
日本に来てから、一番感じられたのは日本人の親切さです。家から出掛けてスーパーに行
く途中で、たとえ全然しらない人に会っても、目を合う時必ずうなずいたり、
『こんにちは』
と言われたりします。最初はあんまり慣れていなかったから、恥ずかしくてあまり返事がで
きませんでした。多分中国人の私はまだ知らない人に対して警戒していたかもしれません。
私達中国人はこういう場合は怪しい人だと思われないように、あんまり自ら知らない人に声
を掛けたりしません。けれども、日本人にとって、こういう挨拶をしっかりした方が礼儀正
しいと認められてるらしいですね。多分、日本人はちゃんと挨拶をできるからこそ、人間関
係をいつも調和を取れるかもしれません。ですから、
『日本人は親切で優しい』というイメー
ジが多くの外国人が持っています。けれども、その親切さといい、優しさといい、よく感違
いされています。外国人はこんな素敵な日本人を感じて一歩を踏み込んで付き合おうと思っ
たら、日本人はなかなか心を開いてくれないと外国人は感じています。ですから、私達外国
人にとって一番困ってることはこの前言った挨拶のような生活習慣などではなくて、日本人
の心を読み取りにくいということです。つまり、日本人はあんまり表情を表面に出さないと
いうことです。
『人を傷つけない』ようにするために過剰に『気を遣う』というところも、
『気
まずくない』ようにするために『遠回し』というところも、外国人にとってすごく苦手です。
先日、
こういうこともありました。
私は日本人の友達にパーテイーの誘いメールを送って、
その友達はこう返事しました。
『行けたら行く』
。
『行けたら行く』ってはっきりいってくれな
っかったから、yes か no か私には分かりません。日本人の得意な『曖昧さ』を『察する』こ
とをできず、よく期待を持たせられたり、がっかりさせられたりします。
『人間関係を大切にする』日本人はこうやって、外国人との間で見えない壁を作ってしま
って、真の交流を築きにくいではないでしょうか。ですが、こういう異文化があるからこそ、
お互いにますます理解し合うことを図りたくなると私はそう思っています。それに、これら
の体験を乗り換えて、このような誤解を解くことこそ、私達留学生の役目だと思います。私
はこれからも、日中友好のために、力を尽して頑張りたいと思っています。
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『日本語との出会い』
サイ・サイジュン
文化教育学部交換留学生
台湾
「やぁーこの服かわいい。札見て、日本製だ。
」
「これめちゃめちゃ美味しい。裏を見て、日本製だ。
」
「かっこいい。面白い。あれは日本のドラマだ。
」
日本の番組を見ながら、
なんて日本は不思議な国なんだろうと最初はずっと思っていました。
日本は一体どんな国なのか。自分の目で見て、体験したい。そんな思いが強くなって、
「よし
ー日本語を学ぼう。
」と思いました。私が日本語と真正面から向き合うきっかけは、そんなこ
とでした。
高校最後の夏休みに私と友だちはようやく、憧れだった日本に旅行しました。行き先は日
光東照宮です。周りはたくさんの木に囲まれていて、雨が降っていたこともあり、涼しくて
静かでした。東照宮の門はとても大きくて立派だったので感動しました。閉門時間になった
のでホテルへ帰ろうと思いましたが、バスの最終便に乗り損なってしまい、山から下りられ
なくなってしまいました。そこで、二人で相談して、ヒッチハイクをすることにしました。
日本語を使ってみたくてわくわくしていましたが、日本人が本当に車を停めてくれるのか不
安もありました。車を停めてくれた瞬間は本当に言葉で表せないほど嬉しかったです。そし
て、手振りや間違いだらけの日本語を使ってみると、言葉は通じなくても、心はなんとか通
じました。
日本語を勉強しているとき、日本人はものをはっきり言わないことがあるとよく耳にしま
した。日本に住んでいる今でも、本当に困ることがあります。私は、思ったことをちゃんと
相手に伝えないと気が済まないタイプなのですが、そのことが、特に日本では、本当にいい
のかどうか自分でも悩んでしまいます。確かに、曖昧な言い方は好きではありませんが、私
の率直な物言いが、知らず知らずのうちに相手を傷つけているかもしれません。
この間、日本人の友だちに直接「この服とあなたはちょっと合わないねぇー」と言ってし
まいました。大したことではないと思ったのですが、それ以来、彼女はその服を着ませんで
した。なんだか自分が彼女を傷つけてしまったようで、彼女にもうしわけない気持ちがいっ
ぱいでした。
相手に敬語を使い、相手の立場を思いやり、気配りの行き届いた日本人。私はいままで日
本人と遣り取りの間でそれを強く感じました。相手を傷つけないようにうまく本音と建前を
使い分ける日本人。私もそういう日本人を見習って「こう言ったら相手が傷つくかも知れな
い」と相手の気持ちを考えて、相手にプラスになるほめ言葉を、どんどん本音で言える人間
になりたいです。
日本語はとても奧深い言葉です。
日本語の勉強の道はまだまだ長いですが、
これからも精一杯頑張りたいと思います。
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『たった1つのおにぎりではない』
レ・ティ・ティン
文化教育学部特別聴講生
ベトナム
去年の 9 月に日本に来て10ヶ月が過ぎました。長い時間とは言えませんが、幸いなこと
に、様々な体験ができました。今日、私にとって忘れられない体験についてお話したいと思
います。
日本に来て以来、ずっと東京を旅行したいと思っていました。それで、春休みに、東京ま
で18青春切符で一人旅に挑戦したのです。
列車に揺られながら、賑やかな新宿駅や、ディズニーランドなどの東京の有名な場所をた
ずねてまわるところを想像していたところ、突然電車が止まってしまいました。
「ええ?何か
あったのかしら」とびっくりしました。その時、
「東北地方で地震と津波があった影響で、列
車の運行が再開するまで、もうしばらくお待ちください」というアナウンスが流れてきまし
た。ちょっと怖くなりましたが「日本は地震が多い国だからね」と思いなおし、電車が再開
するまで、待つことにしました。
でも1時間、2 時間、また 3 時間、4 時間がたったのに再開する兆しはまったくなかったで
す。外はもうだんだん暗くなり、人々は次々に列車から降りはじめました。その様子をみて
本当にこわくなりました。その上、駅のキオスは閉まっているし、持って来た食べ物もなく
なり、空腹になりました。でもその時の一番の怖さは別のところにありました。
初めて佐賀から出て電車に一人で乗った私、初めてこんな知らないところにいる私、友達
も知り合いもいない私は外国にいるということもあるし、たった一人で孤独をしみじみ感じ
ると、急に涙があふれだしてきました。それから、疲れきったせいか、いつの間にか眠って
しまいました。
目が覚めると、遠いところから、誰かがが私のところに近づいてきました。目をこすった
ら、
駅員さんだときづきました。
「また何かあったのかな」
と思ってなんとなく心配しました。
でも、その駅員さんは優しい声で「おにぎりが一つあるんですけど、どうぞ」と、私にお水
と一つのおにぎりを渡してくれました。私は「ありがとうございました」と言っていただき
ました。その瞬間、今まで感じていた疲れ、孤独感、怖さ、全部消えてしまいました。駅員
さんの姿を見た時、自分は一人だけではないと心強く感じたからです。駅員さんもきっと、
不安に思うこともあるのではないでしょうか、いろいろと疲れることもあるのではないでし
ょうか。私のような知らない人に気遣い(きづかい)して食べ物を配ってくれると思うと、
また涙が流れはじめました。となりのおばさんはこんな私の様子を見て「きっとあなたはお
腹が減っているでしょう。食べて。駅員さんはありがたいよね」と言いました。おにぎりを
口にすると、何よりも美味しいと感じました。
私にとってその時のたった一つのおにぎりはただ空腹を満たしただけの食べ物ではありま
せん。思いやりがこもった物でした。駅員さんが配ったおにぎりのお陰で、日本人の暖かい
心を感じるようになりました。その暖かさこそ、私の弱さを乗り越える支え(ささえ)とな
って手伝ってくれました。そして、どんなことが起こっても、どんなところへ行っても私は
孤独ではないということもわかってきました。
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『
「迷惑かけない」日本の文化』
ナ・ヘリン
文化教育学部特別聴講生
韓国
最近、東北大地震と関連した日本人の態度が世界を驚かせています。なぜなら、混乱状態
になりやすい時でも日本人が冷静に秩序ある行動をしていたからです。どうして日本人はこ
のように秩序意識を守ることができたのでしょうか。それは、こどものころから学んできた
「迷惑の文化」と関係があるのだそうです。
日本人はこどものときから「人に迷惑を掛けるな」というこころがけを学ぶそうです。ア
メリカでは「正直に生きなさい。
」韓国では「目上の人を敬いなさい」と教えますが、日本で
は人のお世話にならないようにと教えられます。このような教育によって日本人は人に迷惑
を掛けないことが習慣になっています。
私が日本にはじめて来た時のことです。その時は自転車に上手に乗れなくて毎日のように
人とぶつかることがありました。その際にいつも驚いたことは、ぶつかった時に、先に日本
人の相手が「すみません」と誤っていたことです。最初はその状況が理解できませんでした。
でも、だんだんこれが日本の文化だと考えるようになりました。自分が悪いことをしていな
くても先に「すみません」と言うのが礼儀だったのです。
また、日本のどこにいってもきれいに一列に並んでいる姿をよく見かけます。どこに行っ
ても日本人の秩序ある姿を見て驚いたりします。これは今度の地震でも同じように見られた
光景でした。
しかし、
「迷惑の文化」がいつも良い影響を与えるとはかぎりません。私が日本へ来て一番
大変だったことが、日本人の友達と付き合う事でした。 初めはあまり親しくなったと思って
いましたが、なかなか簡単に心を開かない人々が多かったです。人との付き合いをすごく慎
重に進める印象を受けました。 自分のことばや小さな行動の一つ一つが、相手には迷惑にな
るかもしれないと考え過ぎるからです。だから、初めて日本人に会った外国人はすぐに親し
くなれないと感じるかもしれません。 また、このような意識が「お互いに被害を与えること
もなく、また、被害を受けることもないように」という個人主義の考え方から出てきたのだ
という意見もあります。
このように日本人の「迷惑掛けるな」という意識は外国人にとって少しめずらしく感じら
れます。 良いこともあれば、悪いこともありますが、東北大地震 が起きた時に見せてくれ
た日本人の姿は今でも忘れられません。残りの留学期間の間に、日本人のそのような良い文
化をたくさん学んで行きたいと思います。
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『楽しさについて』
モハマド・ハニフ
理工学部 4 年
マレーシア
皆さん、こんにちは。僕はマレーシアから来ました。ムハマドハニフビンムハマドタイッ
ブと言います。お聞きの通り名前は長いですが、本名は最初のムハマドハニフだけです。真
ん中のビンは中間名として息子の意味を持ち、後には名字でお父さんの名前です。僕はハニ
フと呼んでください。自己紹介が大変長くなりましたが、スピーチに移ります。
皆さんに質問をします。楽しさって何ですか?考えてもなかなか思い浮かばないでしょう
ね?みんなは普通に考えたことないから、思いつかないでしょう。僕も楽しさって頭で考え
られないものだと思います。
例えば、僕は家庭教師のアルバイトをしてから2年間経ちました。その2年間の間に家族
みたいに仲良くできました。
レッスンだけではなく、
その家族と日本の文化から恋愛話まで、
いつも笑いながら面白い話ばかりしています。僕が教えるよりも、むしろ僕が勉強をしてい
ます。また、一緒に食事をしに行ったり、料理したりとても楽しい時間が過ごせました。家
族と離れた僕は確かに時々さびしいですが、日本で家族の一人と見てもらってうれしい気持
ちでいっぱいです。
2 年前の冬、僕は友人と普通電車を乗って山形まで行きました。他の大学にいる友達を遊
びに行きながら旅行をしていました。その旅の途中にこんな経験もありました。新潟から山
形へ行くところ、夜の8時の電車が朝の8時の電車と間違って乗った結果、僕たちは坂町と
いう田舎町の駅で寒い冬の中にトイレの前に寝ていました。その時、辛かったですが佐賀か
ら 5 日間時間かけてやっと山形駅に着いた時などは喜びと楽しさが湧いてきました。今、思
い出すとわくわくしてみんなに教えたいぐらい貴重な経験になりました。
僕にはこんなこともありました。携帯電話を解約しに行った時、女性の店員さんに、携帯
電話を見せながら「婚約してもいいですか?」と言ってしまいました。女性の店員さんは、
びっくりして、変な顔をしました。「なんでだろう」と思った時、僕が気づきました。しま
った!僕は解約を婚約と間違って言ってしまいました。恥ずかしいですが、女性の店員さん
がきれいでよかったです。この言葉使いの違いでうきうきして楽しい気持ちが込み上げてき
ました。
このように、人の暖かさでうれしさと楽しさが湧いてきたり、心の余裕を持って辛いこと
は楽しいことにプラスになり、自分の気づきで楽しさを誕生することなどによって、楽しい
というのは自然に湧いてくるものではないでしょうか。日本に溶け込んだ僕は佐賀の環境で
こういった楽しさが生まれてきて感謝をしています。これでスピーチを終わりたいと思いま
す。ご清聴ありがとうございました。
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『日本のファッション』
ワン・ショウリン
経済学部(SPACE プログラム)
中国
皆さん:こにちは!
私は王ショウリンと申します、中国から来ました。去年の10月来ました。日本に来る前
に、日本語を全然勉強しませんでした。今では、日本語を少し話せます。でも、まだ日本語
は分らないところが沢山ありますので、どうぞ宜しくお願いします。
今日、私がとりあげたい話題は日本ファッションです。この話題をとりあげた理由は、日
本のファッションにはその独自の優れた点があるからです。私達はすべて知っています、日
本はアジアで経済大国です。世界の中でも経済強国です。日本国内だけでなく、日本のファ
ッションはアジアでとても流行っています。特に中国の沢山の若い世代は日本のファッショ
ンが大好きです。いつも日本のファッションの雑誌を読んでいます。例えば、<VIVI
>,<sweet>は人気があります。 それでは日本のファッションはどんなファッションでしょ
うか。日本のファッションはいくつかの傾向がみられます。たとえば、若い女の人は新しく、
キュートで、清純です;年上女の人の場合は、熟していて、細部を重視します、服はいつも
とても精緻で美しいものが好まれます。若い男の人はかっこいです;年上の男の人はいつも
スーツをきます、シンプルで、センスがよく、荘重です。特に、細部を重視している点は重
要です。例えば、ぴったりな指輪、イヤリング、ネックレスをかけたら、もっとファッショ
ン性が高まります。このことに加えて、欧米のスタイルは人気があります。でもやはり、多
くの日本人は依然として日本のファッションが好きです。その上、 みんな着ている服は違い
ます。たぶんここに日本のファッションの特徴があると思います。服はいつも日本のスタイ
ル、でも、日本のスタイルはバラエティーに富んでいて、いろいろなデザインの服がありま
す。常に一歩先を行く、日本の自動車もファッションです。デザインは綺麗で、斬新で、省
エネで、軽いです。自動車のタイプもいろいろあります。これこそが日本の自動車のファッ
ションと言えるでしょう。 このほか、日本のファッションはまだたくさんあります。ファ
ッションは服、化粧品だけではありません。業種の特色、民族、精神もファッションです。
つまるところ, 民族の特色を保持しながら、イノベーション、つまり改良を続けることが日
本のファッションなのです。
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『
「いただきます」と「ご馳走様でした」
』
ディン・トゥ・トウイ
文化教育学部特別聴講生
ベトナム
皆さん、こんにちは、ベトナムから来ましたトウイと申します。
日本へ来てから、半年がたちました。私は毎日、日本語を聞いたり、話したり、読んだり
しています。日々、日本語の隠れた魅力を発見するたびに日本語は美しい言葉だなと感じて
います。日本は東アジアに属す細長い国で、言語面では、標準語と方言があります。地方に
よって、食文化や料理の味つけも違います。でも、日本においては、北海道から九州まで、
大人であれ、子供であれ、三度の食事のときの挨拶は欠かせないものです。
毎日、先生方、日本の高齢者の方々、日本人の友達と一緒に食事をする時、
「いただきます」
「ご馳走様でした」をよく耳にします。最初、日本へ来たばかりの時は驚きました。ベトナ
ムでも食事の挨拶はありますが、食事をする前は、
「どうぞ」のような意味を持つ挨拶をしま
す。イギリス、アメリカ、ロジアなどの他の国での食事の挨拶も同じなのだそうです。世界
広しといえども、
「いただきます」
「ごちそうさま」のようなすばらしい言葉があるのは、日
本だけなのです。
お金を払っているのだから食べるのは当然の権利で、そんな言葉を言う必要がないと思っ
ている人もいるかもしれませんけど、私はその言葉には不思議な力があると信じています。
なのでそう思っている人は「いただきます」と「ごちそうさま」の隠れた本当の意味を分か
っていないのかなと思います。もちろん、私も興味がなければ知らないままでした。そんな
時、日本人のおばあさんにその意味を聞ける機会があり、説明してもらいました。
「いただきます」とは動物や植物そのものの命をいただくということなのだそうですね。日
本人は、人間と同じように動物と植物にも霊が宿っていると考え、動物と植物の命も大切に
しています。その命をいただくことで、自分の命を永らえさせていただくという感謝の言葉
です。
「ごちそうさまでした」は面白い意味を持っています。馳走とははしりまわることを意
味します。大事なお客さんをもてなすために、馬に乗るなどして迎えに走りまわってくれた
人や、食材を準備してくれた人に対する感謝の言葉です。日本人はすべての物事に対する感
謝の気持ちを持っています。他の物事に対する感謝の気持ちを持てば、自分も幸せになれる
のだと信じています。
昔から、海に囲まれた日本で暮らす人々は、生活のために天然の資源に頼ってきました。
食前に「いただきます」
、食後に「ごちそうさまでした」を言うことは感謝の気持ちを表すだ
けでなく、自然と人間が良好な関係を保てるように祈ることを表しているのです。今、家族
であれ、学校であれ、会社であれ、そのような食事の挨拶は当たり前のように使われていま
す。親は子供に、そして先生は生徒に食事の挨拶をするように教えます。日本では、先人た
ちからずっと受け継がれてきた、すばらしい伝統的な食文化が存在しているのです。
3月11日の大地震で、
何万もの人々が苦しい状況に陥ってしまいました。
東北地方は地震、
津波によって破壊され、人々は親戚や家をなくし、食べ物さえもありません。しかし、この
ような状況でも、日本人は支援を受ける時、丁寧に「いただきます」
「ごちそうさま」を言っ
ていたとテレビで放送されていました。日本人は苦しくても、涙をいっぱい流しても感謝の
気持ち、
気品あるマナーを決して忘れていなかったのです。
そのような人々が暮らす日本は、
必ず明るい未来が待っていると私は確信しております。
皆さんは毎日、食事の時「いただきます」
「ごちそうさま」をちゃんと声に出していますか。
最近、言っていない人はぜひ言ってみてください。それは挨拶だけに留まることのない、と
ても幸せなメッセージだと思うからです。
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『私が見た日本の大学の先生とスリランカの大学の先生』
ガヤニ・ラクマリ・パティラゲ
経済学部(SPACE プログラム)
スリランカ
私はスリランカの大学の 2 年生まで勉強して、去年の 9 月に SPACE プログラムに参加する
ために、初めて日本に来ました。
しかし、日本に来る前に、私は日本についてよく知りませんでした。だから日本の文化や
人々の行動や教育システムなどについて、たくさんわからないことがありました。日本に来
る前に私は日本の先生から習ったことがなかったので、日本の先生はどんな人なのだろうか
と思いました。スリランカでは先生と学生の間には大きな壁があります。たいてい、先生は
授業が終わるとすぐに研究室に行きます。なので、学生とあまり話しません。もちろんその
先生は学生のことを避けているわけではないとスリランカの学生はわかっています。
しかし、
先生と学生が会話をすることはほとんどないのです。
その経験から、私は日本の先生はどんな人なのだろうかと考えていました。もしも、日本
の先生が厳しくて、親切じゃない人だったら、どうしようかと不安に感じることもありまし
た。しかし、去年の9月の29日に日本に来て、10月の1日に初めて日本の先生に会いま
した。それから今まで私は、良い経験をいただいてきました。先生たちはとても親切で、学
生にフレンドリーで、まるで昔からの知り合いのようです。先生は私にまるで自分の娘のよ
うに話しかけてくれます。
だから学生に何か問題があったら、
遠慮しないで先生に聞けます。
しかし、重要なことは、学生は先生を尊敬しているということです。この尊敬する気持ち
は、日々、深まるばかりです。日本で先生は学生ととても親しいから、その先生からもらっ
た経験や知識を学生の将来の勉強のためにも、
自分の見方や技術の進歩のためにも使えます。
しかし、
スリランカで先生は学生とあまり親しくないので、
学生にその機会がなくなります。
だから、スリランカの学生にとっては、社会的な価値観を発展させることが遅くなると思い
ます。なので、日本よりもスリランカの学生は専門的な知識があるけど、その専門的な知識
の効果的な使い方はあまり上手ではありません。そして、日本の先生は いつも自分の大学
の仕事で忙しいです。ある先生は週末と休みの時も仕事や研究をしています。しかし、スリ
ランカの先生は午前 8 時から午後 4 時までが仕事をする時間ですが、ほとんどの先生は自分
の授業がある時間にだけ大学に来ます。あるスリランカの先生は授業 がない時と週末に、
高校生の大学受験のための個人レッスンをしています。ここで、ひとつのことがいえます。
スリランカの先生の一番主な目的はお金を稼ぐことです。時々、先生は給料を上げてもらう
ためにストライキもします。
しかし、日本で先生の一番主な目的は、自分の仕事と研究だと思います。日本とスリラン
カの先生たち目的の違いは、経済発展の結果となって出ています。スリランカはまだ発展途
上の国ですが、日本は早く発達した国になるために仕事中心の考え方が発展し、それが役に
立っていると思いました。しかし、国や人種や文化による違いで、先生が先生でなくなるこ
とはありません。だから、私は日本の先生もスリランカの先生も好きです。私たちが尊敬と
感謝を忘れない限り、世界はお互いを尊敬できるすばらしい場所になると信じています。
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『人生のたび』
マイ・ハン・ティ・テュ
文化教育学部特別聴講生
ベトナム
「秋を愛する人は、心深き人、愛を語る人のような、僕の恋人」
皆さん、こんにちは。私はベトナムの首都ハノイから参りましたハンと申します。日本に
来た時はちょうど秋でした。なぜ私が日本を選んで留学したのか、簡単に言えば、日本の秋
が大好きだったからです。日本に来て、
「やっぱり日本の秋が最高だ」と思わずに言ってしま
いました。日本に来るまで、外国に行ったことがありませんでした。子供の頃からずっと家
族と住んでいましたから、初めての一人暮らしの生活を考えたら、不安と恐怖で体が震えそ
うになりました。でも、これがせっかくのチャンスですから、たとえ失敗してもそれは自分
のためになるのだからと自分に言い聞かせて日本に来ました。
どうやって、また、どうして私がこうして何事もなく佐賀で生活できるのでしょうか、そ
れは佐賀人の温かさがあるからです。まだ、日本のいろいろな所をたずねたことがないです
けれども、私は佐賀が一番居心地が良いところだと信じています。佐賀人は本当にやさしく
て、親切です。
日本に来たばかりの頃は、一番の問題になっていたのは日本語でした。いくらベトナムで
日本語を勉強してきても、日本語での講義は非常に難しく精神的に辛いと感じることもあり
ました。でも、そばにはいつも助けてくれる日本人学生がいてくれたのでとても心強かった
です。また、教授も私たちベトナム人学生を気遣ってくれたのでなんとか頑張ることができ
ました。私にとって佐賀人は家族のようです。みんなといる時はすごくいい気持ちになりま
す。佐賀の経験は死ぬまで私の心に残るでしょう。
九ヶ月間日本でいろいろな経験をしましたけれどその中で一番大きな収穫物といえばやっ
ぱりたくさんの友達が出来たことだと思います。やはり国が違うと根本的な考え方というの
も変わってくると思います。文化の違いは言葉の違いよりも確実に留学生を悩ませることも
時々あると思います。でも、文化の壁にたくさんぶつかって打ちのめされればされるほど大
きく成長できるものです。きっと、ベトナムに帰国する飛行機の窓から見える日本の夜景を
見て、別れが悲しくて泣きそうになれば上等なのかもしれません。なので、日本の秋が大好
きなのは日本の景色だけじゃなくて、秋になると人間の愛の美しさも感じることができます
から。
日本は私にとって恋人のような存在です。
この気持ちはだんだん大きくなっています。
このような様々な貴重な経験が出来て、本当に心をこめて佐賀大学に感謝しています。ま
た、佐賀を留学先に選んだ自分も幸運だと思います。これから社会に出て「世界を舞台にし
て挑戦したい」という気持ちがいっぱいです。皆さんもこんな素晴らしい環境に恵まれ、ぜ
ひいろんなことにチャレンジして充実した大学生活をおくってください。
なにごとにも一生懸命に頑張れば自然と自分の道をきりひらいて行けると信じています。
ご清聴ありがとうございました。
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『人生のさじ加減』
モハマド・イクワン
理工学部 3 年
マレーシア
皆さんこんにちは。理工学部機械システム学科の3年生 イクワン です。日本に来てから
もう3年目に入ります。
日本で留学して色んなことを経験してきました。皆さんも知っている通り、この世の中に
は悲しみや辛さがどこにでもあります。それらを欲しがっている人なんていませんね。皆さ
ん、できることなら幸せな日々を送りたいですね。でも、どうしてこの世の中に悲しいこと
や辛いことが存在するのでしょうか。存在しなければ良かったのにと思う人がいるかもしれ
ません。実は、私たちにとって、それらはとても必要なものです。もっと云うと、それらが
あるからこそ、心は豊かになるのです。
皆さんは料理をしたことがありますね。料理には甘いものだけをいれるのですか?
そうではないですね。甘いものも辛いものも、酸っぱいものも、色んな味が混ざってはじ
めて美味しいという感覚が出ますよね。でも、ただ混ぜるだけではどうにもなりません。や
はり、ただ混ぜるだけではどうにもなりません。やはり、技術と適当な料理が必要です。例
えば、どんなにゴーヤーが苦くても、ゴーヤーチャンプルーは美味しいでしょう。どんなに
ワサビが辛くても、お寿司とか刺身にそえれば美味しく食べられますね。だから美味しいも
のを得るためには色んな味を加えなければなりません。
自分が経験しないと絶対にわからないからです。だからどんなに酸っぱくても、しょっぱ
くても、美味しい料理を作るためにこのようなさじ加減も欠かせないのです。これを言い換
えると、貧しさ、悲しみ、悔しさなどを経験したことのない者は不幸だと思います。なぜな
ら、人生の味にさじ加減がまだ足りないので、精神力が発達できていないと思うからです。
だから昔、苦労してきた人々は、たいてい人間や社会のことをよく知っており、そのたくさ
んの経験によって、培われた強い精神力を持てるのです。その上、どんな場合でも、不幸か
ら抜け出して幸せを得られる人間です。逆に恵まれすぎて平穏すぎると、よほど心のしっか
りした人でない限り、人間的に駄目になりやすいのです。
私はこのように思います。「人生のどん底まで経験したのでなければ、人生の味はわから
ない」という深くて味わいのある言葉です。うれしいこと、楽しいことは、過去に辛いこと、
苦しいことがあってはじめて真の意味で経験できます。
生まれてからずっとうれしかったら、
それをうれしいことだとは感じられないでしょう。当たり前になっています。生まれてから
ずっと楽しければ、
それを楽しいことだとは感じ取れないでしょう。
比較できないからです。
苦しみがあるから、楽しみが存在します。悲しみがあるから、うれしさが存在します。
マイナスがなければ、プラスは存在しないのです。
真に人生を味わうなら、苦しみも悲しみも、うれしさも楽しさも、フルに経験する必要が
あるということです。私も日本の文化のさじ加減で、さらに人生の味がより豊かに味わい深
いものになれたかもしれません。ありがとう ございます 。
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『日本からのプレゼント』
ズォン・リン
文化教育学部特別聴講生
ベトナム
私は高校生の時、
「おしん」という日本の映画を見て、すごく感動して以来、日本のことが
好きになりました。会場のみなさんはご存知かと思いますが、
「おしん」の内容は、おしんさ
んの数奇な運命を通じて、明治末から1980年代にかけての日本の社会背景を忠実に再現
したものでしたね。私は日本人のまじめな性格や文化に対して興味を持っていたので、日本
語を勉強できる大学を選びました。今回、来日することができて「夢」が「現実」となり、
日本にまだ7ヶ月しかいませんが、
日本から既に大きなプレゼントをもらいました。
今日は、
この三つのプレゼントについて話そうと思います。
最初のプレゼントは紅葉と雪の季節でした。ベトナムでは雪が降らないので、初めて雪の
感触を味わった時には、とても幸せでした。日本では、人間と自然がうまく調和しているよ
うに思います。これからも日本にいる3年間、もっともっと日本の自然と風景を楽しみたい
と思っています。二番目のプレゼントは日本の友人達です。彼らの親しみ易い性格は私たち
の国境をこえて関係をより深いものにしてくれました。彼らと色々なことを話すことで、留
学生活の喜びや寂しさを分かち合うことができました。外国人の親友がいるということは本
当に貴重なことではないでしょうか?
最後のプレゼントは一番素晴らしいものだと思います。皆さんは東日本の大震災をご存知
ですよね。3月11日に地震があった日に私は東京にいました。初めての地震の体験でした
から、死ぬ思いをしました。本当に怖かったです。今、日本は多くの困難に直面して、東北
での生活は非常に苦しくなっていますが、日本人は常に助け合う気持ちと強い意志を持って
いると感じました。以前、日本の高度経済成長について話を聞いた時、
「日本はすごいな」っ
と思ったのですが、ここにきて、実際に日本人が困難に立ち向かう姿を見て、まるで侍の本
領を発揮したかのように思えて、すごく感動しました。日本での大震災から、命の大切さを
学びました。それは私だけでなく、全ての人にとって、大変貴重な教訓だと思います。生き
ている私たちは、毎日を大切にして、協力し合っていくことが重要だと思います。
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『全力を尽くす日本人の精神に学ぼう』
チン・ウ
経済学部交換留学生
中国
日本は世界で発展した国の一員として、特にアジア太平洋地域できらきらと輝く星のよう
です。第二次大戦後、日本社会は激しく変化しました。個人個人も、社会の一つ一つの部分
も、国の一つ一つの筋も全力を挙げて、経済力を高めることに励んできました。進んだ技術
の導入、アメリカの資金導入、日本に本来からある資源を利用して、戦後から30年も経た
ないうちに、100 メートル競走のスタートダッシュのような速さで急成長し世界中を驚かせ
ました。例えば、東京オリンピック大会のために作られた新幹線は、東京、大阪間を 8 時間
から 3 時間に短縮され、到着できるようになりました。それは 60 年代に実現したことです。
こうした日本発展の原動力は一体何だったのだろうかと考えます。
先日、1960 年代の神戸が舞台の『華麗なる一族』というテレビドラマを見て、非常に強い
インパクトを受けて、そこに答えを見つけました。木村拓哉の演じた主人公の万俵鉄平が祖
父の薫陶の下で育ち、東大を出て、アメリカのマサチューセッツ大学に留学しました。留学
の目的は技術者として製鉄の専門家になる夢を実現させるためでした。万表鉄平は「鉄は国
家なり」ということを見通し、阪神製鉄の高炉(製鉄の必要品)建設のために精魂を傾けて、
この世を去りました。万俵鉄平のように日本人の新しい技術を導入するための技術者として
の気丈な性格、絶対にあきらめない精神、勤勉的な態度、それに強烈な責任感などに感動を
受けたばかりでなく、厳しい現実の中で、彼らが見せた誠実さと積極さに対しても深く感銘
を受けました。万表鉄平がみせた優れた生き方は周囲にも影響を与え、日本人はたゆまぬ努
力をする精神を生まれつき持っているということが分かってきました。この精神は代々受け
継がれ、血となり骨髄まで染み込んでいるのです。日本の現代社会の印象といえば、駅では
まるで留まる事の無い川の流れのような人々、目的地に急いで駆けていく姿、知らず知らず
のうちに頭の中に浮かび上がってきます。日本に留学経験がある恩師が話してくれたことが
あります。日本についたばかりの時、都市のこうした早いリズムになかなか適応できなかっ
たそうです。駅でゆっくりと歩きたいけど、特にラッシュアワーの時は、後ろの人からぐい
ぐい押される恐れがあるので、歩みを速めなければなりませんでした。先生はさらに、
「日本
人はいつも止まらないでいて自分のやるべきことを心を込めてやり続けます。私が思うにこ
れは本当にいとおしく、本当に真面目で敬服するものである」と話されました。
日本には南アフリカの金やダイヤモンド、中東の石油、オーストラリアの石炭や鉄鉱石な
どのように、資源が何もありません。しかし、日本人には勤勉さがあり、自分の手で何でも
作り上げることができます。日本語の中に「必死」という言葉があります。だれでも「死」
という言葉に触れたくありませんが、
「必死に働く」というフレーズが私は大好きです。死を
覚悟するほどの気持ちで真剣に働くことです。たとえ現実の厳しさにどうしようもなくもが
いていても、ずっと変わらない理想と情熱と高い志を持ち続けることです。
一つ聞いてもいいですか。日本人はいつか歩みをやめて、ゆっくり休みたいと思わないの
ですか? ちょっと日本人の立場に立って私なりに答えてみます。
きっと日本人なら、
「だめ、
もっと未知のものを作りたいし、休憩は要らない、仕事は命の一部分になっていますから。
」
と思うのではないでしょうか。
最後に、東日本大震災で被災された方々が元の生活に戻れ、全力を尽くして日本人が復興
していくと信じています。相当な困難に対し、力を尽くして、みなの手を繋いで来る新世紀
へ挑戦しようではありませんか。私は日本人のように理想と現実の中を行ったり来たり、全
力尽くして生きていきたいと思います。
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『スリランカの女性の恋の表現』
サンドゥニ・クマリ
農学研究科修士課程1年
スリランカ
恋愛は世界中どこでもよくみられるロマンチックで素敵なことです。特に若い女性たちと
男性たちが恋をしているのは、実生活でも、ドラマや映画などの文化の中にもよく見られま
す。でも、今日は皆さんの前で私が話したいと思ったことは、スリランカの若者の間で恋愛
がどのようにして始まるのかについてです。
スリランカの女性たちの多くは、とても恥かしがり屋です。たからだいたい男性が自分の
好きな女性に自分の気持ちを伝えます。でも、女性が自分の気持ちを好きな男性に、直に云
うのは少ないです。そのとき自分が好きな男性の気を惹くために女性が考えてか、考えなく
てか、様々な恋の表現をするそうです。それは全部で64通りあって、シンハラ語で『64 マ
ヤ』といわれています。スリランカの男性たちは女性たちのしぐさにひっかかって、その女
性を好きになってしまうことが多いようです。
例えば、花子という女性がいて、太郎という男性のことがとても大好きだとしましょう。
しかし太郎は花子のことは意識していません。また、花子は自分の気持ちを彼に直接告白す
るのはためらっているという設定です。こんなとき、花子は太郎の気を惹くために、色々な
表現をするのです。例えば、彼女は自分の目を回しながら、かわいい声で彼に話しかけます。
スリランカの女性たちはアクセサリーをたくさん身につけるのが好きです。花子もアクセ
サリーをつけたら、アクセサリーと服を触りながら話すのです。彼が彼女を訪ねる時、彼女
は彼の顔を見ずにうつむきながら応えるのです。そして彼女は自分のつま先で地面に何かを
描きながら話します。
その後、彼は何か用事があって、彼女の家に行ったとしましょう。その時、花子は太郎に
は直接会おうとはせず、家の窓やドアごしから彼を覗いて見るだけなのです。スリランカの
女性の多くは長い髪をしています。花子も長い髪を持っていれば、太郎が見ている前で、髪
の毛を大きく揺らしながら、颯爽と歩いて見せるのです。でも女性が何度も恋の表現をして
頑張っていても男性が振り向いてくれないこともあります。
そうなると女性は可哀想ですね。
昔からスリランカで云われてきたように、女性はそのような恋の表現のしぐさをたくさん
持っているそうです。これはスリランカの女性たちが頻繁にそういうしぐさをするのは、男
性に直接告白することが恥かしいことだと考えているからです。スリランカでは、女性が男
性に片思いをした時にする恋の表現のしぐさは64通りだけです。
私は、
日本ではそんな時、
女性はどうやって恋の表現をするのかがわかるようになるのが楽しみです。
ご清聴ありがとうございました!
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『私の宝物』
ジョ・キン
文化教育学部特別聴講生
中国
私の宝物は二つのシンガポールのコインです。この二つのコインは今、中国の家に置いて
きました。見た目は普通のコインですが、私にとって、一番大切なものなのです。この二つ
のコインはおじ、つまり母の弟からもらいました。私が小さいころ、おじは船員でした。仕
事のため、いつも外国に行っていました。外国に行くたびに、絶対私にお土産を持って帰っ
てきてくれました。たとえば、当地の食べ物や、名産や、飾りや、おもちゃなど、たくさん
のお土産をもらいました。しかし、残念ながら、今でも残っているものはこの二つのコイン
だけなのです。
おじは私のことを大切にしてくれ、私のことを本当にかわいがってくれました。小さいと
きの私はいたずら好きだったので、いつも父に叱られていました。ある時、私がまたいたず
らをして、父を怒らせてしまいました。怒ると父は怖くなるので、私は家に帰れずにいまし
た。そのとき、おじは私を連れて、私の家に一緒に帰ってくれました。おじのおかげで、父
に叩かれずに済みました。ですから、私はいつもおじに感激していました。おじは船員なの
で、いつも家にいませんでした。ある時、おじは仕事で、韓国へ行くことになっていました
が、大雨のために、船の運航は中止になったのです。仕事しなくてよくなったおじは家にそ
のまま帰ってもよかったのですが、その前に、私を幼稚園まで迎えに来てくれて、いっしょ
に帰りました。つまり、両親のほかにも、おじは私のことを一番に大切にしてくれる人だっ
たのです。ある日、おじは私との電話で、
「今回は何がほしい?」と聞いてきました。
「うん、
何だろうね」と私は迷っていたのです。そのとき、私は小学校に入学したばかりだったので、
「じゃあ、新しいランドセルを買ってくれる?」と私は言いました。
「いいよ」とおじはいつ
ものように、やさしく言いました。それまで私がほしいといったものをだめだといったこと
のないおじでした。
大好きなおじだったのですが、私が小学校一年生のとき、海難事故でなくなりました。叔
父は25歳でした。こういったことがあったので、おじからもらった二つのコインは今でも
私のたいせつな宝物です。そして、ずっと私の宝物でありつづけると思います。このコイン
をきっと私を見守ってくれると思います
人は大切なものを失って、初めて、その大切さを知ります。皆さんの周りには、皆さんを
大切を思ってくれる人がいると思います。その人を、今、大切にしようという心がけを持ち
続けましょう。
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『東日本大震災で感じたこと』
グエン・アイン・ティ・ラン
文化教育学研究修士課程1年
ベトナム
『私は海岸に生まれ、海のおかげで成長してきたけど、もう海を見たくなくなった。
』と
ある 40 代の女性がふるさとが受けた津波被害について涙ながらに語ったというテレビのニ
ュースに感動しました。
彼女のふるさとである仙台市は、山の幸・海の幸に恵まれ、きれいな風景と、和やかなま
ちでした。いつまでも家族といっしょに海の近くで暮らせるのならよかったのに。3 月 11 日
3 時ごろに惨い被害を与えた東北地震が起きて、たった数分で残酷な津波にうちのめされて
しまった。日本という国に住んでいる人はいうまでもなくよく起きる地震に対する対応策を
把握しています。しかし、予想もできない津波が起きたのです。優しくてきれいな海といっ
しょに生きている日常が一瞬にして残酷な姿になってしまったのです。海の幸を大切にしな
がら家族といっしょに幸せに暮らしていた彼女が海の津波によってこわされてしまいました。
大震災は仙台市だけではなく、岩手県や宮城県などの東北地方の施設、家屋が壊され、10 万
人以上がなくなった東北の人たちは水・電気・食料が足りない日々を送っています。あのと
きのことを涙なしに語れないのはおかあさんが津波に海に流されたところをみても、なんと
しても救えなくて、逃げるしかなかった彼女の心の痛みがよく伝わってきました。
さて、そんな残酷な日が来て 3 ヶ月が過ぎました。けれども一度もふるさとに戻ったこと
がない人が数多くいると聞いています。戻りたくても戻れないのでしょう。震災と津波によ
る福島第一原子力事故があった地域では、住民は戻ることが許されていません。核のエネル
ギーは一度間違えれば人間の命と生活環境を脅かす力が強い。人間の力では暴走する核の力
をコントロールできないところに原子力の危険があります。そのため、福島に住む人たちが
ふるさとへ戻れない状況に陥ってしまったのです。
日本は原子力発電所がいたるところに設置されています。悪い目的で守ることではなく、
国民に電気を十分に提供することで原子力発電所を立てたわけです。しかし、思いもよらな
い自然の大災害である津波が発電所を壊し、痛ましい事故が起こりました。
社会から危険性が高いものはなくすべきではないでしょうか。人間の命を脅かす可能性が
あるものは、時に自然の脅威に、人間はなすすべもないからです。ですから、福島原発事故
のような事故が二度と繰り返されないようにするためにも、一日でも早く危険なものを作る
のをやめるようにすべきではありませんか。そして、
「核のない平和な世界を作らんばいかん
て思いよっけん」
、この佐賀からみんなでがんばろうね。
どうもありがとうございます。
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『親切な日本人』
メガサリ・マルセラ
農学部(SPACE プログラム)
インドネシア
皆さん、こんにちわ!私はメガサリ・マルセラと申します。まずは、皆様のご健康とご多
幸をお祈り申し上げます。
ところで幸せとは何でしょうか。皆さんが感じる幸せとは、家族や好きな人と一緒にいる
ことではないでしょうか。私はそう思います。今、私は自分の故郷から数千キロメートル離
れていますが、寂しくないです。第二の家族を日本でみつけたからです。
日本人はとってもすばらしいです。すごく親切でやさしいです。知らない人でも、外国人
でも、まるで自分の家にいるように居心地良くもてなしてくれます。日本人は何でも誰でも
すぐに誉めます。一口目を口にほおばったまま、まだちゃんと味わってもいないのに、その
食べ物が「おいしい」とすぐに言うのです。私にはそれが面白いと思います。日本人は人を
助けるのが好きです。知らない人でも助けてくれます。この前、私は東京にいました。佐賀
に帰るバスの時間を間違えました。バスは本当なら8:30出発だったのですが、私は9時
出発だと思い込んでいました。だから、私は知らずにそのまま五反田にいたのです。そのと
き、私の携帯電話の電源が切れて、さらに、持っていたお金はたったの200円でした。ど
んなにまずい状況なのか皆さんは想像できますね。佐賀に帰るためには、今いるバス停から
8時30分のバスしかないのに、私は時間を間違えました。怖くなったので、隣の人に助け
を求めました。彼は一日の仕事が終わって、家に帰る途中だったそうです。彼の携帯を借り
て、バスセンターに電話をかけました。その時の私は慌てていて、上手く説明できませんで
した。もちろん、私の日本語もあまり上手ではありませんでしたから。だから仕方がないの
で、もう一人の日本人に頼んで、私の代わりにバスセンターの人と話してもらいました。そ
れでも一つの方法があることを知りました。良かった!と思いました。新宿からバスに乗れ
ば良いと知ったのです。だから、私は次のバス停で降りて、新宿に行きました。その時、私
はまるでドラマや映画の主人公のように、バスセンターに駆けつけたのですが、既にバスが
出発し、バスの後ろを見ながら、もうあきらめなければならないと呆然と立っていました。
こんなことは私の人生では起こらないだろうとずっと思っていましたが、その時の私は、本
当にまるでドラマのヒロインを演じている感じがしました。
しかし私のその様子を見て助けてくれた日本人がいました。彼はまるで自分のことのよう
に早く走って、バスが出発する前にバスをひき止めようとしてくれたのです。彼の走る速さ
を見て私は、多分彼は学生の時、運動会でよく優勝していただろうと思いました。彼のおか
げで、私はバスに間に合うことができました。彼には感謝の気持ちでいっぱいです。さすが
日本人です。本当に親切で優しいです。時間をちゃんと守り、勤勉な人々だと思います。世
界大戦後、日本は先進国になりました。これはすばらしいです。外国人誰でもが日本に来た
ら日本を好きになって第二の故郷だと感じるようになると信じています。私はその彼の電話
番号と名前を聞こうとしましたが、彼は教えてくれませんでした。まるでアンパンマンのよ
うに悪者たちと闘った後、風邪と共に去るのです。私にできることはただ一つです。神様に
感謝して、日本人の暖かな心を覚えておくことです。
二ヵ月後にインドネシアに戻ります。でも、日本の思い出はいつまでも心に刻みたいと思
います。日本が好きです。いつか必ず日本に戻ります。私のことを待っていてくれますか?
三年後にまた会いましょう!! 以上です。ありがとうございました。
広報かささぎ:
「佐大留学生のための日本語スピーチコンテスト2011」開催
7月13日(水)
、大学会館において「佐賀大学留学生による日本語スピーチコンテスト2
011」が、経済学部国際交流室の主催で開催され、約150名の市民の参加を得ました。
中島晃理事(研究・国際貢献担当)の挨拶の後、留学生16名が、民族衣装を身にまとい、
母国の文化や考え方、日本での経験談や文化、ファッションなど、緊張した面持ちでスピー
チに挑戦しました。
佐賀県国際交流協会企画交流課長や佐賀新聞社編集総務部長、佐賀大学公開講座「みんな
の大学」の受講生、元留学生センターの教員など10人が審査員を務めました。
審査の結果、1位は、若くして亡くなった船員の伯父からもらったシンガポールのコイン
2枚が宝物だと語ったジョ・キンさん(中国)
、2位は、気配りが行き届いた日本人と奥深い
日本について語ったサイ・サイジュンさん(台湾)
、今年の3月11日、東京で一人旅の最中、
震災で駅構内で足止めされたとき、駅員からもらったおにぎりが空腹を満たすだけでなく、
思いやり、人の温かさを感じたという思い出話を語ったレ・ティ・ティンさん(ベトナム)
、
特別賞には、スリランカ女性の恋の表現、仕草を話したサンドゥニ・クマリさん(スリラン
カ)が選ばれました。
主催した経済学部のラタナーヤカ国際交流室長は、
「このコンテストの目的は、地域の方々
の国際力を高め、佐賀大学の国際交流事業の力になってもらうことです。佐賀大学には30
0人以上の留学生がいます。
彼らは佐賀大学で専門知識や日本語を学ぶために来ていますが、
母国とは違うさまざまな生活習慣等に悩まされます。そこで、正しく彼等をサポートしてく
れる地域の絆が欲しいのです」と話しました。
そのため、開催前には公開講座「みんなの大学」受講生による3回の日本語指導が実施さ
れ、孫の発表を見守る家族のような眼差しは、地域とのつながりを感じる心温まるものでし
た。
来年の開催が待ち遠しいスピーチコンテストとなりました。
挨拶をする中島理事
スピーチをするジョ・キンさん
↑授賞式:左から3位ティンさん(ベトナ
↑スピーチコンテストの模様
ム)
、
2位サイさん(台湾)、
1位ジョさん
(中
国)
、特別賞クマリさん(スリランカ)
↑スピーチ発表会に参加された皆さん(前列右がラタナーヤカ室長)
新聞記事
『2011年留学生スピーチコンテスト』に寄せられた
『みんなの大学』受講者たちの感想文
●佐賀大学留学生の日本語スピーチコンテストをきいて、アジア各国の留学生の皆さん日
本語が大変上手だったのには驚きました。日本の文化や知識を学ぶため、東京方面に旅行
して旅先で困った時は親切にしてもらったり、言葉が通じなくてもヒッチハイクをした日
本人は優しいと思いました。3 月 11 日の震災の日は東京にいて地震を経験したことなど、
日本の事をよく知りたいと思っておられると感じました。自分の国の恋は女性が好きな男
性に態度で気をひくようにするとか、佐賀弁を使って笑わせたり、面白い話もたくさんあ
りました。陳さんの発表は私も関心を持って聞きました、日本のテレビドラマ「華麗なる一
族」の話をされました。製鉄所の物語は工業関係の仕事をしていた私も、熱心にみました。
日本は資源がないが、日本人は必死に働くので東日本大震災復興を期待していると言われ
大変うれしくおもいました。モハマド・イクワンさんの「人生のさじ加減」のお話の内容
が大変素晴らしかったとおもいます、人生のどん底やつらいことや苦しいことがあれば、
うれしいこと楽しいことがある。わたしは所用がありスピーチだけ聞いて帰りましたが、
モハマドさんの発表を聞いて感動しました。
●3 ヶ月∼3 年程度の佐賀在住(留学)なのに「題材・タイトル」決め等大変だったと思う。
日本人の文化は長い歴史を持っているが、若い人たちの交流で少しずつ国際化もしていく
のではないか。旧来の私たちは「行けたら行く」などのあいまいな表現を慎み、スピーチで
褒められた日本人の勤勉さや助け合いの精神をこれからも続けるべきだろう。
●短期間の留学の間に自分の気持ちを日本語で上手に表現されたのは感心しました。彼ら
の日本への熱い気持ちが伝わりました。又民族衣装を着て登場されて国際化を一層感じま
した。私も浴衣を着て参加し、留学生から声をかけられ楽しい会話が出来、国際交流が出
来てよかったです。私個人の評価を言えばチン・ウさん(中国)の「全力を尽くす日本人
の精神を学ぼう」は見事な発想であったと思います。とにかく出場者全員が来日後僅かな
月日でこの様な見事なスピーチができるのは毎日のたゆまぬ涙ぐましい努力の賜物だと思
います。
●日本に来る留学生が増えていること、その留学生がどんな国からどんな目的で来て実際
の生活はどうなのかスピーチコンテストを通じて知りたいと興味深く拝聴しました。16
名の留学生の皆さんが自国でなく日本語で明瞭に生き生きと自然体で話されたのには感心
しました。そして人前で自然に話すコツをつかむのは練習するしかないことをよく心得て
いらっしゃると強く感心しました。難しさはどんな点だったでしょうか。留学生活を有意
義に送るためには積極的に日本人の生活の中に入り、日本のことを学ぶだけでなく、自国
の事をスピーチを通して日本人の人たちに知らせることも、留学生の一つの使命と心得て
おられ、自国と日本の文化の違いや震災体験等も紹介され、体験を通じて日本人の優しい
思いやりの心や絆を話され、私自身大変勉強になり自分の世界も広がったようです。最後
に印象に残ったスピーチは8番の「私が見た日本の大学の先生とスリランカの大学の先生」。
先生と生徒では大きな壁がある→スリランカ、日本の先生たちは昔からの知り合いのよう
に話される。学生は先生を尊敬している。国や人種の違い→社会的価値観→もっと聞いて
みたいと思いました。
●留学生の皆さんの堂々とした発表に感心しました。自分の考えを5∼6分でまとめて、
大勢の人の前で話すことは大変なことです。ましてや外国語で、となると相当な努力が必
要でしょう。発表者16人のうち、9人が滞在9ヶ月、3人が3ヶ月という短期間である
ことにも驚きました。それぞれのお話に改めて気づかされることが多く、興味深く拝聴し
ました。特に、ベトナムから来られた、ディン・トウ・トウイさんの“「いただきます」と
「ごちそうさまでした」”は、私たちが受け継いできた言葉の持つ意味を深く理解されてお
り、感動しました。命を戴いて生きているという感謝のメッセージであり、日本語は美し
い、というディンさんの言葉を忘れないようにしたいと思いました。マジとかヤバイとい
う言葉が、今は普通に使われていますが、もともと裏社会の言葉であったといわれる言葉
には、抵抗を感じ、使わないようにしたいと思っています。言葉は時代とともに変わるも
の、と言われれば、それまでですが。
●今後どんな困難にも打ち勝って進んで欲しいと願っています。将来は日本での留学で培
ったものをそれぞれの国で花咲かせてください。アジアの平和、世界貢献と広がっていく
ことを期待します。
●私とスピーチの勉強をした留学生はスリランカ出身のサンドウ・クマリさんでした。「ス
リランカ女性の恋の表現」という発表題材でした。私の年齢でサンドウさんが作ったスピ
ーチの文章の内容についていくのが大変でした。何回も読み直して彼女の文章を一部訂正
させていただきましたら、その通り発表されていました。成績は特別賞となりました。彼
女と話し合いながら出来た結果に満足を感じうれしく思いました。
●留学生の皆さんの日本語能力の高さに感心しました。私も日本語をボランティアで教え
ていますが、あれほど上手になるのは大変努力していらっしゃるはずです。これからも是
非頑張っていただきたいです。また各国の民族衣装の美しさに感激しました。佐賀にいな
がら世界旅行した気分でした。
●レ・テイ・ティンさん(ベトナム)のスピーチが特に印象に残りました。青春切符で東
京にはじめて行った日が丁度 3.11 大震災の日に心細い思いをしたけれど駅長さんからおに
ぎりをもらい空腹を満たしてくれただけでなく、勇気をもらったと…。人が困ったときに
こそ小さな親切でもありがたいものだと思う。