ミッドウェー海戦 70 周年を迎えて 1.

ミッドウェー海戦 70 周年を迎えて
~父母たちの戦った戦争~
負ける筈のない戦、負けてはならない戦に
何故大敗したのか?日本の体質的欠陥?
講師メモ
勉強会に先立って講師の勝亦から、現在海戦史の勉強を水交会や市來会で
行っており、
「何故ミッドウェー海戦に興味を持ったのか」などの説明をしまし
た。同海戦に関する勝亦の問題意識に関しては、この勉強会の案内文をご覧下
さい。
以下、勝亦の説明を記します。
1.日米開戦前の戦争指導の方向
この海戦に先立って、日米開戦前のわが国指導者達の認識や米国の戦略、
それがミッドウェー海戦前までにどのように推移して行ったかを説明したい。
「日米もし戦ったら・・・長期戦では成算がない」ことは山本大将の言葉
として夙に有名だったが、実は開戦前に同大将以外の指導者が多く口にしてい
たことで、東條陸軍大将、永野軍令部総長などの軍事参議院会議や天皇陛下侍
従武官への文書でもそれを確認できる。これは『対米英蘭帝国海軍作戦計画』
にも明記され、
「要するに負けないように戦い、相手が嫌気を出したら終戦。相
手の息の根を止める戦いではない」ことはここにも明記されている。
上記の帝国海軍作戦計画では、第一段作戦と第二段作戦が記述されている。
それでは第一段作戦で南方の資源地帯を押さえ、在亜米英蘭軍を追い出し
た後の第二段作戦の新目的(従来は来航する敵艦隊を邀撃、決戦)は何なのか、
ここで軍令部と聯合艦隊の大激論が展開され、結果としてそれまで全く検討さ
れていなかった『ミッドウェー作戦』が計画された。
2.軍令部の戦争方針と聯合艦隊の戦争方針の齟齬
ミッドウェー作戦は、やる必要のなかった、あるいはやってはいけなかっ
た作戦だったのではないかと勝亦は考える。
軍令部では、
『不敗の体制』を作るために、米軍に反抗の足場を与えないこ
とが重要との考えの下に軍令部第一課長富岡定俊大佐が南太平洋のサモア、フ
ィジーを占領して米濠間の兵站(物資補給)を遮断する構想を抱いていた。オ
ーストラリアは後のガダルカナル攻防戦で明らかになったように、米軍の反攻
上最重要の土地だったことを富岡大佐は見抜いていたのである。
昭和 17 年 1 月末頃、陸軍はこの構想に賛成し、逐次準備を進めることにな
った。
当時のわが国は、戦略物資である、石油、ゴム、ボーキサイトの豊富な産
地を押さえ、満州の高品質の鉄鉱石、石炭を押さえ、満州と朝鮮北部に大投資
して一大重化学工業地帯を作っていたので、まさに『不敗の体制』を築くこと
ができた。
一方聯合艦隊は、南太平洋を軽視し、東太平洋で攻勢を強め、唯一の不安
要因である米空母を誘引して捕捉撃滅し、昭和 17 年 10 月にはハワイを占領す
ることにより終戦に持ち込むことを考えていた。ところがこの時期のハワイ占
領計画には、軍令部は反対した。軍令部は、ハワイには米陸軍少なくも 3 個師
団(約 3 万名)が常駐しており、陸戦隊では対応できないためである。
このような状況で軍令部の意図を多少盛り込んだ折衷案を聯合艦隊参謀が
作ったのがミッドウェー攻略(占領)を含む第二段の作戦計画。ここで初めて
『ミッドウェー』の名が出た。
これには軍令部第一部福留部長以下が改めて猛反対した。別に面子にこだ
わったのではなく
①米側は空母と基地から索敵機を飛ばせるので、すぐに発見され、空母の索敵
機しか持たないわが方は著しく不利(先制される危険)
②方面がハワイと同方向なので、ハワイ海戦と同じ方法では、既に学習してい
る敵に通用する可能性は低い
という至極もっともな意見だった。
この対立は長く続き、ついに永野軍令部総長が聯合艦隊案を後押しし、軍
令部内の意見を抑えた。
参謀本部も当初この時期にハワイまで進出することは反対した。陸軍は支
那事変が片付かず、ソ満国境でソ連が百万とも言われる兵力を集中させている
ことは知っていたので、ハワイ占領で出兵することには及び腰だったのである。
しかし、軍令部からはミッドウェー攻略はハワイ攻略の前提ではないことが明
言され、
「ミッドウェー攻略は陸戦隊のみで実施しても良い」ことを告げられる
と、反対できなかった。
勝亦は「ミッドウェー作戦自身、政治上、戦略上でも誤った決断であった
と考える」と述べ、これを最初の敗因に挙げた。
3.ミッドウェー作戦の目的理解の差
重要なのはミッドウェー作戦目的を、軍令部は『ミッドウェー攻略』と考
えていたが、聯合艦隊は『米空母を誘引して捕捉撃滅すること』としていたこ
とである。ところが実施関係者(第一機動部隊、攻略部隊、先遣部隊等)は皆、
『ミッドウェー攻略』を主目的と考えていたことが終戦後でも判明した。聯合
艦隊の意思は全く伝わっていなかった。
このことは、後の海戦時に、ミッドウェー基地攻撃を重視する余り、司令
部の意思決定に大きな影響を与えたと勝亦は考える。
第二段作戦の紹介をすると、それは珊瑚海海戦で始まり、わが方は昭和 17
年 5 月 7 日小型空母祥鳳を撃沈されるも、 8 日の海戦では米国最大の正規空母
レキシントンを撃沈し、中型空母ヨークタウンの飛行甲板に大穴を開け中破さ
せた。わが方は翔鶴が飛行甲板に被弾して中破したが瑞鶴は無傷。航空機は、
米側が稼動機ゼロ(飛び立てない)、わが方は 40%消耗した(通常では起きない
事件が起きた)ので、残敵を掃討することなく引き上げた。「戦には勝ったが、
戦略で負けた」と評された海戦だった。興味深いのはこの時、米国海軍省によ
る『大本営発表』が行われ、「日本艦艇の撃沈確実 25 隻、おおむね確実 5 隻、
やや確実 4 隻」として、ニューヨーク・タイムズ紙も提灯記事を掲載したこと。
勝亦は「ミッドウェー作戦は、作戦目的の解釈がチグハグで、後の作戦指
導にも影響を及ぼした」ことも敗因と考えている。
4.開戦前後の米国の作戦
当時、米側はどのように考え、対応していたのか。
米側は開戦前の戦略がすべて吹き飛んでしまったのだが、実は最重要に考
えていたのは、米濠連絡線の確保だった。ところが日本軍はラバウルまで進出
し(昭和 17 年 1 月 23 日)、ガダルカナル島対岸のツラギ( 5 月 3 日占領)に
飛行艇部隊(横浜航空隊)を進出させてきたが、いっこうに南太平洋で米濠連
絡線の遮断に出てくる様子がなかったので一安心し、南太平洋の連絡線保護に
空母部隊を遊弋させていた。
先に述べた珊瑚海海戦は、このような環境で生起した。
ミッドウェー海戦に関することでは、情報隊(在ハワイ)は 4 月末頃から
日本海軍の情報量が活発化し、近いうちに日本海軍が作戦行動を起こすことを
察知し、その時期と方面割り出しに努めた。
5.米国は情報戦で、あるいは我が軍の失態で、我が軍の動きを察
知し、待ち伏せを掛けた
ミッドウェー作戦開始前に、わが軍の作戦と動きとを知られてしまった、
敗因がここにもある。
情報隊は日本軍暗号文の断片的な解読により『AF』という符号が頻出して
きたことに目をつけた。そして過去の傍受電文から「ミッドウェーである公算
大」との仮説を立てる。これから先は実験による検証をした。情報隊はニミッ
ツ大将(太平洋艦隊司令長官)の承認を受け、ミッドウェー基地から『オトリ
電文』を平文で発信する。それは「海水蒸留装置が故障のため使えない」とい
うものだった。その二日後、そのオトリに『超大物』がかかる。確か陸戦隊か
ら呉の軍需部に送った低レベルの暗号文だった。
「・・・ミッドウェー島に海水
蒸留装置を送られたい・・・」
加えて、これに輪を掛けた大問題が発生した。海軍で使用していた暗号を
使った電報が 5 月 26 日に解読されてしまった事件である。
この文書は、我が軍のミッドウェー作戦の全貌を明らかにした、極秘の、
長文の電報だった。これで、以下のような、各部隊の兵力、指揮官、予定航路、
攻撃時期などの超極秘情報が判明した。
①南雲部隊の空母は『瑞鶴』を含まない 4 隻
②来攻時期は 6 月 3 日~ 5 日
③来攻方向はミッドウェーの北西から
ということも分かった。この暗号は『海軍暗号書 D 系統』と思われている。以
下の点が問題。
①重要な情報は、『現在でも』通信では送信しないのが普通(傍受者がいて、
どのような解読技術を持っているか分からないから)
極秘情報は、当時も文書による手渡しのはず。それを電文化するとは、ど
のような神経の持ち主か!勝亦はこの不始末を行ったのは参謀であると思う。
②暗号変更の遅延にみる怠慢
この暗号は、 4 月 1 日に変更予定であった。ところが変更実施が 1 ヶ月ズ
レ込み、 5 月 1 日とした。これがさらに遅れて実際に変更されたのが 5 月
26 日だった。因みに、 5 月 26 日以降、米海軍情報隊は解読できていない。
以上の情報により、米海軍はミッドウェー北東海面に空母を伏せ、我が軍
が知らずに来攻するのを『待ち伏せ』していた。
6.作戦計画立案時と異った事象が発生した時、対策が打たれず
作戦文書もそれを反映した最新の状態に改訂されなかったこと
続く敗因は、作戦計画が最新状態にメンテナンスされなかったことである。
その項目は驚くことに、非常に多岐に亙っている。すべて重要な項目なので、
少し詳しく説明する。
(1) 兵力の変更
作戦計画で使用空母が 33%減と激変した(聯合艦隊電令作第一五一号
5
月 17 日頃)のに 何ら手段を講じていない。 33%減は会社経営など通常の感
覚では 大問題の数字(参考:勝亦の経験では、生産管理の場では 計画変
動でシステムが対応できるのは普通 15%。20%に達するとシステムが混乱し
対応不可となる)。
五航戦(瑞鶴、翔鶴)が参加できないのであれば、四航戦(アリューシャ
ン作戦で投入予定の隼鷹、龍驤)を編入などすべきだったのではないか?
作戦が言葉の遊びになってしまって 環境変化に対応をせず、合理性が著
しく欠如していたように感じる。
もしも当初の計画通り空母 6 隻を擁していたならば、ミッドウェー海戦は
全く異なった結果になっていたであろうことは想像に難くない。
(2) 想定していた 事前の知敵手段が『すべて』実現不可能となる
以下に記す重要な 3 つの手段がすべて奪われたのにリカバリ・ショット
を打っていない
①潜水艦の散開線構成の遅延
潜水艦が散開線上に展開することにより、ハワイを出撃した米空母部
隊がその線上を通過する事象を把握する。
遅延は第六艦隊(潜水艦部隊)の手落ちではない。 5 月初旬の聯合艦
隊図上演習に際し、聯合艦隊から連絡がなかったので、第六艦隊は開催
を知らず、従って欠席した。 5 月 18 日聯合艦隊参謀はクェゼリンで打ち
合わせた際、第六艦隊への連絡が脱落していたことを知った。その時点
では、作戦計画の散開線構築は間に合わなかったにもかかわらず、その
対策を打たなかった。その結果、潜水艦が散開線を構築した時は、敵空
母は既にハワイを出撃し、通過した後だった。
②ミッドウェー北東海面の飛行艇哨戒計画が実現不可能となる
同じくクェゼリンでの打ち合わせで、聯合艦隊の立案した計画(ウェ
ーク島から飛行艇を発進させ ミッドウェーの北東海面を哨戒するも
の)が実現不可能であることが判明した(ウェークからの離陸が夜間と
なり困難なため ウォッゼ発ウェーク帰着となった)。
実は、米空母はこの海域に待ち伏せしていたのである!
③第二次 K 作戦取り止め
飛行艇が、ハワイとミッドウェーの中間にあるフレンチ・フリゲート
礁で、潜水艦から燃料補給を受けた後、真珠湾を偵察し、空母の真珠湾
在非を確認する。担当のイ 123 は 5 月 29 日、同礁で敵艦艇を発見したが、
31 日に至るも警戒厳重なため、聯合艦隊の指示により、計画取り止めと
なった。ところが、聯合艦隊代替策打たず。
これらどれか一つでも知敵手段が残っていたとすれば、わが方は米空母
が附近に存在していることを知り、海軍航空全力を以って攻撃できた筈で
あり、勝利は疑いのないものだった。
(3) 作戦計画が、演習成果や作戦打ち合わせ結果など、最新の状況を反映して
いなかったこと
聯合艦隊は、昭和 17 年 5 月はじめ旗艦大和において、第二段作戦図上演
習を実施した。 そして 5 月 5 日に『機密聯合艦隊命令作第十二号』文書
で第二段作戦を明示した。
ところが、この文書には直前まで実施されていた演習成果や作戦打ち合
わせ結果は反映されていなかった。
当作戦の立案者である渡邉戦務参謀は「大本營の命令を受けて直ちにこ
れを発布し、所要の訂正は後刻行うこととした」と回想しているが、旧版
を出すなどもってのほかであり、参謀としての責任感とセンスを疑う。徹
夜してでも作るのが参謀の責務。万一反映できなくとも 演習結果やそこ
で出た意見は別添資料とすればよい筈である。これは、
『企画に携わる者の
常識』と勝亦は考える。
実際に、この演習では、
●ミッドウェー攻略中に米空母部隊が出現し 艦隊戦闘が行われ わが空
母に大被害が出て 攻略作戦続行が難しい状況となった
など判定されたが、これはまさに実戦で生起した事象である。文書で反映
されなかったためそこで得られた知識が、
『共有された規範、知識』になっ
ていない。これでは演習も『単なる無効エネルギーの発散』でしかない
第一機動部隊は、出撃直前の 5 月 26 日に、旗艦赤城で作戦打ち合わせを
実施した。ここでは「索敵が不十分である」指摘があったが、機動部隊司
令部はこれをついに改めなかった。
「攻撃兵力が減ることになり、惜しくて
索敵に割けなかった」とは索敵計画を立案した航空乙参謀吉岡忠一少佐の
回想であるが、なんとコメントすべきか、言葉の選択に窮する。
7.重要な敵情が入手できた時、当事者への連絡を怠ったこと
5 月 27 日は海軍記念日であり、聯合艦隊はこの日に出撃した。
出撃の途上、敵に関する情報が次々に入ってきた。この情報に関する適切
な処理の失敗も、重要な敗因と勝亦は考える。
聯合艦隊出撃後、にわかに敵の電信の量が増加した。聯合艦隊ではこれを
敵が作戦行動に入りつつある兆候と理解した。傍受以外に以下のような事象が
発生したが、すべて処理に失敗したと判断される。
■事象 1: 6 月 1 日ごろ 聯合艦隊は 軍令部から「敵機動部隊らしいものが
ミッドウェー方面に行動中の兆候あり」との連絡を受けた
山本長官は「一航艦に転電する必要なしか?」と参謀に質問した。
黒島主席参謀は「宛名に一航艦も入っており 当然受けている またその
搭載機の半数は艦船攻撃に備えているので 無線封止を破ってまで知らせる
必要なし」と申し上げた。
結果として、聯合艦隊は転電しなかった。
(赤城はこれを受けていなかった)
■事象 2: 6 月 4 日 聯合艦隊の敵信班が「ミッドウェーの北方方面に敵空母
らしい呼出符号を傍受した」と報告してきた
山本長官は すぐ「赤城に知らせては?」と注意した。
通信参謀和田雄四郎中佐は 「無線封止中でもあり、また一航艦は聯合
艦隊より優秀な敵信班を持ち、敵にも近いので当然赤城もこれをとっている
であろうから 特に知らせる必要はあるまい」と意見を述べた。
結果として、佐々木航空参謀が長官に申し上げて、この電報は転電しない
ことにした。
勝亦は、「通信参謀の認識は全く間違っている」と考える。「私達の社会生
活でも、他の部門に情報などを伝える場合、メールを送信して、そのままで
済ます筈がない。必ず電話してメールを送ったことを伝える筈。責任上は電
話する必要はないかもしれないが、
『組織活動上当然の行為』として考えてい
る。」と勝亦は説明した。
■事象 3 : 6 月 2 日か 3 日頃、第六艦隊敵信班による敵空母らしい電波を捕
捉、方位測定した後、東京通信隊から全艦隊に反復放送した。しかし、これ
は受信者に無視された可能性がある
同艦隊敵信班の長年敵信傍受を専門にしてきた熟練者が、海戦の 2、3 日前
敵空母らしい電波を捕捉しクェゼリン、ヤルートから方位測定。測定所のベ
ースが短かったので正確な位置は得られなかったが、
『ミッドウェーの北北東
170 浬』と推定した。東京通信隊から全艦隊に反復放送された。勝亦は、この
発信位置は米空母が待ち伏せしていた方面であると判断する旨説明した。
これらの事象で、どれか一つでも第一機動部隊に連絡することができてい
れば、後述する『雷爆兵装変換』による混乱と攻撃隊発進の遅延は避けられた
ことは明らかである。
8.第一機動部隊司令部のガバナンスに問題のあったこと
作戦展開での問題点に移る前に、もう一点、敗因と考えられる点を紹介し
たい。それは『第一機動部隊の意思決定』についてである。現代風の言い方で
は『第一機動部隊司令部のガバナンス』という点である。長官である南雲中将
が、同長官が水雷部隊出身ということもあって、海軍航空畑に疎く、意思決定
におけるガバナンスに問題があったと考えられる。勿論それは、長官個人の問
題だけでなく、それを支える参謀長、参謀の問題でもある。海軍航空のような
新しい分野の専門家で長官を務めることのできる器量の将官が、当時多くなか
ったのは当然であり、企業においてもこのような問題は潜在的に存在するが、
それで特に大きな問題は、普通は起きない。
この状況は、戦史叢書は以下のように記述している。勝亦はその記述に注
目した。
■(意思決定について)
南雲長官 草鹿参謀長もほとんど口を出さなかった。航空作戦の計画も指導
も 源田航空甲参謀の意見がほとんど全部通っていた
聯合艦隊でもウスウス気がついていて、聯合艦隊参謀長がこれを心配して、
海軍航空の専門家である第一航空艦隊第二航空戦隊司令官の山口多聞少将と話
したことが、その日記『戦藻録』に思い出として記されている。
■(南雲長官のガバナンスについて)
「長官は一言も言わぬ」
(ニ航戦司令官山口少将言 宇垣参謀長の「艦隊司
令部は誰が握っているのか?」との質問に対して( 6 月 5 日)
このような状況が、後に述べる第一機動部隊の土壇場での判断に大きな影
響を及ぼし、敗因の一つであったと勝亦は考える。
9.戦闘時の索敵方法の誤り
そしていよいよ運命の 6 月 5 日の陽が上る。
同日の日の出は 0200 であり、日米両軍とも 0130 に空母あるいは水上艦艇
から索敵機を発進させた。米軍の場合、ミッドウェー基地からも索敵機が発進
した(軍令部が心配したとおり、米は索敵で有利に立つ)。
我が方の索敵方法は米国に比べてズサンであり、これが敵発見の遅れある
いは敵艦位情報の誤りを招いた。これが大きな敗因の一つであると勝亦は考え
る。具体的には、以下の二点である。
(1) 索敵網が粗かった
我が方の索敵方法は、一機が 23 度の扇状海域を担当する。まず直線で 300
浬飛び、敵を発見できない時にはそこから側程に折れ 60 浬飛んだ後、再び
折れて 300 浬の直線を戻ってくる。
米軍の場合、ミッドウェー基地からの索敵は一機当たりの担当は 5 度の
角度であった。米軍は 0220 と 0240 に異なる索敵機が我が空母部隊を発見
した(わが方の発見は 2 時間遅れの 0428。後述)。
米軍攻撃隊が発進した時(ミッドウェー基地からの攻撃隊発進は 0310、
空母部隊からは 0402 発艦 0445 発進)、我が軍はまだ米空母部隊を発見さえ
していない。そして、軍令部が心配したとおり、わが軍は 300 余機の艦載
機を持ちながら、一機も攻撃隊を発進できず、先制攻撃を受けることにな
った。
(2) 我が索敵機の、目を疑うような使命感欠如と技倆の低さ
巷間、『利根四号機のエンジントラブルによる 30 分の発進の遅れが大き
な敗因であった』と言われてきた。ところが戦史叢書が関係者等に当たっ
て調査した限り、エンジントラブルがあったという事実はなかった。発艦
命令が出なかったので、艦長の一存で発艦させたことが分かっているが、
何故発令されなかったのか、不明である。
もっと致命的なのは、索敵機の索敵行為と報告の問題である。
敵を発見する筈の索敵線を飛んだのは、筑摩一号機であるが、この機は
遂に『敵発見』電を発することはなかった。なぜか?
機長黒田大尉は、「敵を発見せず 東方に飛行するに従い 低空に雲が
垂れ込めてきたため 雲上を飛ぶ」と回想している。素人の私でも、
「余り
に愚か!」と感じる。雲の上を飛んだら、雲の下の敵艦を発見できなかっ
たのも当然である。搭乗機は水上偵察機であるので、高度は、艦載機ほど
心配する必要はないはずである。黒田大尉は、索敵機の基本的な使命を理
解していないと勝亦は思う。因みに、米側は「米艦隊附近の天候は悪くは
なかった」と記す。また、誤って筑摩一号機の索敵線上を飛んだ利根四号
機は敵空母を発見している。
おそらく黒田大尉は筑摩の飛行長であろう。黒田大尉の発言は間違いで
ある可能性が極めて高い。その理由は推測できない。
次に、実際に敵を発見したのは、筑摩一号機の隣の索敵線を飛んだ利根
四号機であった。ところが困ったことに、利根四号機も『トラブル・メー
カー』であった。同機は、これに止まらず、索敵機として果たすべき使命
を、これも完全に忘れ、我が軍の傷口をますます拡げる致命的な影響を及
ぼした。
順次説明するが、最初に敵発見時点での誤りを説明する。
①利根四号機の 0428 に発見報告した敵位置は、全く誤った位置であったも
のであり、この海戦の成否に大影響を与えた
利根四号機は進出命令距離(300 浬)未達のまま、なぜか側程に入り(利
根飛行長は「そのようなことは命令していない」と回想)、帰投しようとし
た時、敵を発見した。利根四号機が発見したのは確実である。それは米軍
の記録によっても明らかであり、0428 同時刻に、エンタープライズのレー
ダーは南方に目標を発見している。
利根四号機の報告位置の誤りについては、同機だけでなくその報告電を
受けた利根飛行長、利根司令部のチェックも機能していなかったことが分
かった。なぜならば、報告電によって、利根の司令部は艦上海図に記入し
て行く筈であり、この時点で利根四号機の飛行経路がおかしいことは発見
されるべきである。またその後、筑摩五号機が敵発見電を送信しているが、
敵部隊の編成は利根四号機発見のものと同じであり、この時点でも誤りに
気づくべきであるが、これを看過しており、それを問題とした戦闘記録は
ない。
②利根四号機は、最初の発見電送信の際、敵空母 2 隻を見落としている
利根四号機は、0428「敵ラシキモノ 10 隻発見 ミッドウェーノ 10 度 240
浬、針路 150 度」と報告した。第一機動部隊司令部は艦種が分からないの
で、
「艦種知ラセ」と督促した。同機は 0455「敵兵力ハ巡洋艦 5 隻、駆逐艦
5 隻ナリ」と報告した。その後、0520 になって「敵ハソノ後方ニ サラニ
空母ラシキモノ 1 隻ヲ伴フ」と報告してきた。
当時米空母部隊は以下の二部隊が存在した。
●TF16:空母 2(エンタープライズ、ホーネット)主幹
巡洋艦 6 駆逐艦 9
合計 19 隻
●TF17:空母 1(ヨークタウン)主幹、
巡洋艦 2 駆逐艦 6
合計 9 隻
編成を比較すれば分かるように 同機は 0428 には TF16 を 0520 には
TF17 を発見したものと推定される(米空母部隊の航跡図でもこれは正しい)。
従って、利根四号機は、最初の部隊中の空母 2 隻を見落とすという大失態
を演じていることが分かる。
③利根四号機、命令にない帰投を勝手に果たそうとする
敵と接触を保ち、来るべき攻撃隊を導くことが索敵機の使命である。と
ころが、利根四号機は、0534 突然「我今ヨリ帰途ニ就ク」と打電してき
た。発進後僅かに 3 時間 34 分である。艦偵は通常、10 時間飛行可能であ
る。勿論司令部は帰投命令など発令していない。
どのような理由があったのか不明であるが、流石に第八戦隊(第一機動
部隊で空母を護衛する戦艦以下の水上艦艇部隊)阿部司令官は、0555「帰
投待テ」と利根四号機に命令する。ここからの利根四号機と阿部司令官と
の遣り取りは、目を疑うばかりの椿事であるが、戦史叢書には以下のよう
に記録されている。
0630 利根四号機「我燃料不足触接ヲ止メ帰途ニ就ク」
阿部司令官「0700 マデ待テ」
0638 利根四号機「我出来ズ」
0730 利根四号機 自隊上空に戻る
0825 利根四号機「燃料残額 50 リットル」
0847 利根四号機を収容
④利根四号機 司令官命令を無視し長波を輻射せず
①の敵位置誤報は、実は修正できる方法があった。航空機が長波を輻射
すると、艦艇がそれを受信し、方位測定することである。これにより、航
空機がどこにいるかが明らかになる。
本来は、より正確な位置の測定に使うのであるが、司令官からは攻撃隊
に正確な位置を指示するために必要であった。
0604 阿部司令官は利根四号機に「筑摩五号機(交代機)来ル迄触接セ
ヨ」
「長波輻射セヨ」と命令した。ところが、利根四号機が長波を輻射した
形跡がないのである。もしも長波を輻射し、方位測定がされていたら、後
の敵情把握で大混乱が発生することは避けられたであろう。
それにしても一下士官(機長)が司令官命令に従わない姿を初めて知り、
勝亦は驚愕した。
10.作戦要領に明記された、艦艇攻撃用兵装を変換した命令違反
ここからは、戦術、あるいは実際の戦闘場面での判断に関係する誤りにつ
いて述べる。
兵装変換を行ったこと。これも大きな敗因であったと勝亦は考える。
0415 索敵機予定索敵線先端に到達(300 浬、所要時間 2 時間 45 分)し、
敵を発見しないことから、南雲長官はミッドウェー第二次攻撃を決意し、兵装
転換を下令した。艦上攻撃機の魚雷を外し、水平爆撃用の爆弾を搭載するので
ある。これは、聯合艦隊の第二段作戦計画による命令の違反であった。
同計画は、 4 月末の第一段作戦戦訓説明会の場で関係者に渡された。この
作戦要領では、上陸作戦中に敵艦隊が出現する場合のことが記述されている。
勝亦は現物を見ていないが、このために航空兵力の半分を控置するように指導
していたことは多くの関係者が伝えている。
現場の最高責任者が、戦況に応じて事前の上位命令と反する命令を下令す
る場合、勿論最高責任者の責任であるが、勝亦は「そのように南雲長官を追い
込んだ者がいる筈である」と考える。これも大きな敗因と勝亦は考える。彼ら
こそが実質的な責任者である。
なぜならば、南雲長官は、聯合艦隊作戦計画に基づき、自ら筆を執り機動
部隊内での命令、『機密第一機動部隊命令作第 34 号』『同第 35 号』を発令して
いる(5 月 20 日頃)。ここには、詳細は不明であるが、
■対敵艦隊攻撃待機(指揮官:赤城飛行隊長)
が書かれているといわれている。このような長官が自らそれを破る判断を下す
とは考え難い。そして先の敗因を併せ考えた場合、
『参謀長あるいは参謀達が長
官の兵装転換の判断を誘導した』ことは限りなく黒に近いグレーであると勝亦
は判断できる。
このような命令違反の例として有名なものは、三国志演義に見る『泣いて
馬謖を斬る』故事であるが、逃げ帰った馬謖は諸葛亮孔明によって、命令違反
により斬首されている。
11.敵艦隊発見後、直ちに攻撃しなかったこと
続く敗因は、敵発見の後、直ちに攻撃隊を発進させなかった判断である。
これも最終的な責任は南雲長官が負うことであるが、参謀長や参謀達の誤った
判断が見え隠れする。さらに、利根四号機の敵艦位誤報告がここでも深刻な影
響を与えたことに注目しなければならない。
『兵は拙速を尊ぶ』は兵法の極意であるが、それに従っていないのである。
南雲長官は 0415 兵装転換を下令した後、0428 の敵発見電を受信し、空母の存在
はその時点では不明であったにもかかわらず、0445 には艦攻の兵装を元に戻す
見事な判断を下令した。0445 南雲長官下令「敵艦隊攻撃準備 雷撃機雷装其
ノ儘」がこれである。
兵装転換には時間が掛かるが、南雲長官は「30 分前の下令後対空戦闘が続
いていた(艦は回避行動をするので大きく揺れ、作業できない)ので転換作業
は殆ど進んでいない」と判断したものと、叢書は推測している。
その後、最初の敵発見電から約 1 時間を経過した 0520、利根四号機から重
大な連絡が入った。
「敵ハソノ後方ニ サラニ空母ラシキモノ 1 隻ヲ伴フ」であ
る。
第一機動部隊司令部は、それまで、戦闘機の護衛の付かない米攻撃隊が我
が空母にたどり着く前に上空警戒に当たっていた零戦にバラバラと撃ち落とさ
れる姿を見て、『雷爆同時攻撃』という正攻法を採用することを決めた。即ち、
雷撃機の兵装を完了し、上空警戒に飛び立った第二次攻撃隊の戦闘機を収容し
て、燃料や機銃弾を装填した後、攻撃隊に付けて送り出すことである。
ところがそのような司令部の尻を叩く司令官がいた。山口ニ航戦司令官で
ある。0520 敵空母発見電直後、同司令官は第一航空艦隊司令部に意見具申す
る。
「直ニ攻撃隊発進ノ要アリト認ム」。当時二航戦には艦爆隊が待機していた。
空母を攻撃するには飛行甲板を損傷させるだけで十分であること、そして艦爆
は艦攻と異なって敏捷であり、前方機銃もあることから、投弾後は敵戦闘機と
十分戦えることを考えたものと推測される。
ところが、一航艦司令部は山口司令官意見具申を握り潰し、あくまで正攻
法を採用したのである。
おそらくこれが、劣勢を挽回できる切り札であったと勝亦は思うが、これ
も裏目が出てしまった。
その後ミッドウェー基地攻撃を終えた第一次攻撃隊を収容するためにまた、
1 時間程度時間を要し、攻撃準備は遅れる一方であった。
司令部判断を擁護すると、戦後源田航空甲参謀が回想するように、
『敵との
距離の誤解』があったためと思われる。同参謀は、
「検討の結果 敵機の来襲ま
でにまだ時間的余裕があると判断し 、全機を収容して有力な攻撃隊編制を
考えた」と述べている。
この判断の根拠となったのは、利根四号機の報告した誤った敵艦位であり、
同参謀は「敵との距離 210 浬。敵艦戦は航続距離の関係で付いてこられないの
で、間合いを詰めるまで攻撃してこないであろう」と考えた。ところが実際の
距離は、わずか 90 浬であったのである。
第一航空艦隊司令部の判断と正反対の判断をした人たちが山口司令官のほ
かにもいる。一人は山本長官である。空母発見の報を受け参謀達に、
「南雲長官
に直ちに攻撃を行うよう発令しては?」と質問した。これに対して、参謀達は
「半兵力は艦船攻撃に備えておくよう指導してあるからその必要はなかろう」
との意見であったので、 発令は沙汰止みとなったという。航空参謀佐々木彰
中佐、主席参謀黒島亀人大佐の回想であるが、両参謀とも連絡不要の意見であ
った。
もう一人は、実に、敵の TF17 司令官であったスプルアンス少将である。
0220 および 0240 ミッドウェー基地の索敵機は我が空母部隊を発見したが、
米機動部隊は攻撃隊を発進できなかった。米航空機の航続距離が短いためであ
る。スプルアンス少将は検討したが、0400 発進でも距離は 155 浬であり、これ
を 100 浬まで詰めたかった。このためには 0600 発進となるのでさらに検討した。
結果として 0402 攻撃隊を発艦させた。その理由は、同少将は当初全力攻撃を考
えていたが、0428 利根四号機をレーダーで捉え、日本側に位置を知られたため、
0445 全力攻撃を断念したためである。そして、空中の攻撃隊に即時発進を下令
した。これが成功したのである。
このような状況を考えると、第一航空艦隊司令部の申し開きは、殆ど弁護
の余地がない。
12.我が主力空母 4 隻が一挙に被弾したこと
我が主力空母は一挙に失ったが、これが部分的な被害に止まらなかったこ
とも敗因の一つである。特にヒドイのは最初の 3 隻被害の状況で、同時期に同
じ方法で同じ被害を受けている。この原因は『空母の陣形の誤り』と『上空警
戒機の運用法の考慮不足』である。後者については 15 で述べるので、ここでは
前者を中心に紹介したい。
彼我の空母陣形を比較してみると、米国は空母 1 隻ごとに巡洋艦や駆逐艦
で周りを固めた輪形陣を作り、この部隊を、距離をとって配置していた。我が
軍は空母 4 隻を矩形に配置し、その周囲を水上艦艇で固めていた。米の陣形で
は全空母が一挙に被災する確率は低いが、わが国の陣形の場合、攻撃側は「空
母 A が距離等で攻撃し難ければ、目標を隣の空母 B に切替える」などで攻撃の
ヒット率を向上できるのである。この配置が大被害に繋がった。
よく考えてみると、わが国は『空母の集団運用』を目指したが、それはあ
くまでコンセプトであり、実際の陣形でそれを実現する必要はないのだが、そ
の違い(コンセプトと実装には差が出て当然)を理解していなかったように見
える。
この陣形の危険性については、部外者の方が正確に認識しており、軍令部
内部でミッドウェー作戦などが内定した 4 月 5 日前の軍令部と聯合艦隊の打ち
合わせにおいて、軍令部がミッドウェー作戦におけるわが空母の損害を危惧し
ていた時、源田参謀は次のように断言している。
「空母を集団使用し、上空警戒
機を多数集中すれば、敵の航空攻撃は阻止可」
( 4 月 2 日頃 戦史叢書による)
ところが、そのとおりに推移したミッドウェー海戦では、効果が全くなか
ったことが明らかになった。当時の上空警戒機は合計で 35 機程度上がっていた。
にもかかわらず、一挙に 3 空母が被弾したのがその証拠である。源田参謀は、
現実に即して問題点を把握したのではなく、単に言葉の問題(「足らないならば
機数を増やせ」)としてしか捉えていなかったことが明らかになった。
おそらく 50 機いても同様の被害は蒙っていたであろう。
13.水上艦艇による攻撃実施のタイミングを失したこと
次は、航空兵力によらない、水上艦艇による攻撃の実施を断念したことが、
敗因の一つであると勝亦は考える。
水上艦艇の投入は、我が方が敵を発見した時、 3 空母が被弾した時、飛龍
が奮戦していた時、そして飛龍もまた被弾した後、検討された。
兵装変換に手間取っている時、南雲長官は、以下のように昼戦の企図を信
号発令している。
0630「昼戦ヲ以テ敵ヲ撃滅セントス」
しかし、これは航空攻撃と独立した意図ではなく、航空攻撃後の残敵殲滅命令
と考えられる。
そして、0730 頃、3 空母が揃って被弾した時から、筑摩五号機が、利根四
号機と異なり、極めて正確な敵情を送信してきた。筑摩五号機は返電する。
0810 「敵空母ノ位置 味方ノ 70 度 90 浬」
それまでは、利根四号機の(誤)位置報告により、彼我の距離 210 浬と思って
いたが、ナント 東京-静岡程度の近さだったのだ。
そこで、0830 に一航艦司令部が長良に復帰した後、水上部隊の司令官であ
る阿部少将は、南雲長官宛に水上艦艇投入を迫る。
0843 「今ヨリ第八(利根、筑摩)、第三(榛名、霧島)、第十戦隊ヲ以テ敵ヲ
攻撃シタシ」
当時の彼我の距離は 90 浬なので、30 節で進攻すれば 3 時間で補足可能の距離
である。しかも、当時敵は、攻撃を加えるため、ほぼ同区域にいた。米艦載機
は足が短いので、米空母部隊は、避退したら帰投する攻撃隊を収容できないと
いう絶対条件があった。図らずも飛龍が囮となって米機動部隊を引き付けてい
たのである。
ところが、南雲長官は水上艦艇を投入させそうなフリをしながら、結局や
めてしまうのである。
0843 南雲長官から阿部司令官宛信号 「集結シテ暫ク待テ」
0850 南雲長官信号 「今ヨリ攻撃ニ行ク 集レ」
0909 南雲長官 針路を 70 度から 45 度に変更下令
45 度は筑摩五号機が 0730、0745 に報告した敵艦位ではない。南雲長官がこ
の方位を取った理由は不明。敵は東にいるのに北東へ向かおうとしている。勝
亦は、「利根四号機が 0428 報告した 誤った位置に向かおうとしたのではない
か?」と考える。
0925 南雲長官信号 「間モナク会敵ヲ予期ス」
会敵する筈がない。
0935 南雲長官 針路を北に変更
北上は、実際は東にいる敵や、誤報告位置(北東)の敵に接近する方角で
もない。極めて不思議な動きと勝亦は考える。
この後は水上艦艇投入に関する命令は、南雲長官からも阿部司令官からも
一切表明されなくなった。
昼戦を見送るならば、次は夜戦の検討である。
1220 南雲長官 一時北西に避退し、第三次攻撃に策応して夜戦を決意
1403 に飛龍が被弾し、いよいよ夜戦を企図することになる。
1601 南雲長官下令 「第十、第八、第三戦隊ノ順 予定針路 135 度」
1605 南雲長官下令 「第十、第八、第三戦隊ノ順 針路 315 度ノ予定」
南東と思ったら わずか 4 分後に今度は北西。これは避退の方角。既に護
るべき空母はいないのに、なぜ非敵側に向かうのか?長官の一存でできること
か?極めて不思議。後述の誤報の拡大再生産の影響かも知れない。
当時の状況では敵との距離は 150 浬(わが方が北西に退避して距離が離れ
たため)であり、不時会敵は考えられなかった。飛龍が被弾するまでは、米空
母部隊はほぼ同一海域に止まっていたが、攻撃が成功した 1607、米空母部隊は
東南東に避退を開始したのである。
ただし米空母が避退している情報は、我が軍は把握せず、1950 に至っても
『西航中』と誤解しており、山本長官も『夜戦可能』と考えていたと思われる。
1950 南雲長官発 「敵空母(特設空母ヲ含ムヤモ知レズ)ハ尚 4 隻アリ
巡洋艦ハ 6 隻 駆逐艦ハ 15 隻 西航中 当部隊空母全部戦闘不能 明朝
水偵ヲ以テ敵ヲ捕捉セントス」
6 月 5 日の推移を見る限り、飛龍 1 隻でも空母戦闘が行われていた間は、90
浬の近距離にあった敵に対して、水上艦艇を差し向けていれば、航空戦の敵討
に、砲雷撃により、捕捉殲滅は可能であったと勝亦は考える。
翌日の昼戦での可能性について考えると、わが方はミッドウェー基地を艦
砲射撃により制圧するので、米機動部隊の艦上爆撃機(雷撃機隊は既に壊滅し
ている)と我が水上艦艇との戦いになる。戦艦は爆弾では沈まないから一日持
ち堪えれば、翌日はアリューシャンから南下する第四戦隊が参戦(搭載機数 200
機以上)し、再び我が軍が有利になる可能性はあったと勝亦は考える。山本長
官は、そのような多少長いスパンでの海戦を思い描いていたと思うが、早く店
じまいをしたがる参謀長や参謀が長官の構想を理解できなかったように思う。
14.戦闘中の正確な敵情把握の失敗
正確な敵情把握ができなかったことが、大きな敗因であると勝亦は考える。
航空決戦は、日本海海戦のように指揮官が敵を直接目にする戦と異なり、
指揮官からは見えない敵と戦う戦なので、敵情を正確に把握することが最重要
である。ところが、この海戦では、敵情把握で大失態を演じた。これでは正確
な判断はできない。
実情をまとめると、以下のとおりと勝亦は考える。
①索敵機のうち、水上艦艇搭載の偵察機で、著しく技倆が劣り、索敵の使命を
理解していない者の存在(勿論、正反対の特筆すべき見事な索敵機も存在)
②水上艦艇搭載機の責任者(飛行長、艦長、司令官)の索敵機情報の分析不足
③索敵の継続性保持の失敗
④虚偽情報の増殖による敵の過大評価
まずは、敵情がどのように報告されたのか、戦史叢書に記された事象を時
系列に並べてみる。
0428 利根四号機 「敵ラシキモノ 10 隻発見 ミッドウェーノ 10 度 240 浬、
針路 150 度」
敵位置が誤っている。
0455 利根四号機 「敵兵力ハ巡洋艦 5 隻、駆逐艦 5 隻ナリ」
TF16(エンタープライズ、ホーネット基幹)を発見したものと推察される。
重大な点は 『同一隊内の空母 2 隻を見逃している』こと。
0520 利根四号機 「敵ハソノ後方ニ サラニ空母ラシキモノ 1 隻ヲ伴フ」
TF17(ヨークタウン主幹)と思われる。その時点の位置、TF16 の北北東 25 浬
程度か?
0555 南雲長官発 聯合艦隊司令長官宛
「0500 敵空母 1、巡洋艦 5、駆逐艦 5 ヲ『ミッドウェー』ノ 10 度 240
浬ニ認メ此レニ向フ」
利根四号機『0455 報』『0520 報』 2 グループに分かれているのに、単純に隻
数を足して送信。
0700 二式艦偵 利根四号機報告位置に敵を見ず 南東 30 浬まで索敵するも
なお 敵を見ず
0710 二式艦偵、帰途に就く旨打電
0730 筑摩五号機(利根四号機の交代機)空母 1 隻発見
ミッドウェーの北 130 浬(利根四号機報告位置より約 100 浬南)
米艦隊航跡図(TF16 が日本空母部隊に近い)と比較すると、利根四号機『0428
報』で見落とした TF16(ホーネット、エンタープライズ主幹)と思われる。
TF16 の方が TF17 よりも我が空母部隊に近い。ただし、航跡図では、TF16 は
筑摩五号機報告の北東 30 浬にあり(TF17 は北東 60 浬)。
0745 筑摩五号機 敵巡洋艦部隊発見
「更ニ敵巡洋艦 5 隻、駆逐艦 5 隻見ユ
基点ヨリノ方位 10 度 130 浬
針路 275 度(西) 速力 24 節」
集団の隻数はすべて利根四号機『0455 報』と同じ。TF16(ホーネット、エン
タープライズ主幹)の水上艦艇群と思われる。
(左近允著では 1045 としているが、戦史叢書に従った)
0810 筑摩五号機 「敵空母ノ位置 味方ノ 70 度 90 浬」
この空母は 0730 頃発見した TF16 のホーネットまたはエンタープライズと
思われる。
0830 二式艦偵 敵発見
「敵空母部隊見ユ ミッドウェーノ 4 度 150 浬 針路 180 度(つまり
南) 速力 25 節」
米艦隊航跡図による TF16 と北東に 10 浬、TF17 と 20 浬、利根四号機、筑摩五
号機の発見位置から北に約 20 浬の差がある。 電信機不具合のため飛龍、長
良( 3 空母被弾後、一航艦司令部が移った軽巡洋艦)には到達せず。
0920 筑摩五号機 先に報告した空母部隊の東方 40 浬に、空母らしいもの 1 隻
を含む部隊北上中を発見
「ミッドウェーヨリノ方位 15 度 距離 130 浬 敵大巡ラシキモノ 2 隻
見ユ 敵空母ラシキモノ 1 隻見ユ 針路北方 速力 20 節」
部隊の構成から見て TF17(ヨークタウン主幹)か?ただし、飛龍一次攻撃
隊は 0908~0912 攻撃し、爆弾 3 弾を命中させているので、炎上とかの記述が
ないのが不思議。不要の航空機を退避させたため、誘爆は発生せず。30 分で
応急修理完成し、2 時間後には 20 節出せたと記録。
ということは 0730、0745 に報告した空母部隊と水上艦艇部隊は TF16(ホー
ネット、エンタープライズ主幹)で、この西に航進していたと考えられる。
1000 第四駆逐隊指令 捕虜よりの情報として、敵空母は 3 隻であることを全
軍に電報
●空母ハヨークタウン、エンタープライズ、ホーネットノ 3 隻 巡洋艦
6 隻 駆逐艦約 10 隻
●ヨークタウンハ巡洋艦 2 隻、駆逐艦 3 隻ヲ一団トシ他ノ部隊ト別働ス
●ヨークタウン搭載機種
艦爆 18 艦偵 18 艦攻 12 艦戦 27
1005 筑摩五号機 「敵針 20 度 速力 24 節 我敵ヨリノ方位 265 度 30 浬ニ
触接中」
直前(0920)情報から TF17(ヨークタウン基幹)と推測。これで筑摩五号
機が長波を輻射すれば 方位測定により索敵機の正確な位置(=敵位置)が
判明する。
1010
阿部司令官より総合報告(0825 での敵の位置)
①ミッドウェーの 353 度 130 浬 針路 135 度 24 節
②ミッドウェーの
2 度 260 浬 動静同じ
これには重大な誤りが 3 点ある
a)①は、当時最も適切な情報を送ってきた、筑摩五号機はこれを報告してい
ない。どこからの情報か不明。
b)筑摩五号機が 0920 発見した空母を含んでいない。
c)②は 0728 の利根四号機の報告であり、既に位置が誤っている。この時点
でこの誤りを発見できなかったのは、第八戦隊司令部、利根幹部の失態。
1015 筑摩五号機 敵空母のうち最北に位置するものが撃破されていることを
報告(左近允著)
1020 筑摩五号機 「敵大巡 4 隻ハ分離シ、278 度ニ向フ 速力 24 節」
0745 発見の大巡 5 駆逐艦 5 の部隊の編成替と推測。針路、速度共に 0745
と同じ。これは TF16(ホーネット、エンタープライズ基幹)の護衛部隊(空
母はいない)と推測する。
1020 阿部司令官 情報を総合(?)して信号
「敵空母 1 大巡 2 ノ位置 90 度方向 120 浬 針路零度 速力 20 節」
構成から見て筑摩五号機が 0920 に報告した部隊と思われる。即ち TF17(ヨー
クタウン基幹)と推測される。
1038 飛龍 二式艦偵収容
山口司令官、二式艦偵搭乗員から「敵空母は 3 隻」であることを知る
二式艦偵近藤勇飛曹長報告
「敵空母は 3 隻であります。その位置は味方から 80 度 100 浬」
(出所:別戦記)
1040 筑摩五号機 「基点(ミッドウェー)ヨリノ方位 20 度 160 浬 針路
270 度 速力 24 節」
同じく 0920 に報告した TF17(ヨークタウン基幹)と思われる。0920 から
北進していたので、0920 の位置から 20 浬程度北北東に上がっている。
1045 筑摩五号機 「敵ハ針路 90 度ニ変針ス」
これも 0920 発見した TF17(ヨークタウン基幹)と思われる。筑摩五号機は
この敵を継続触接していた。
1055 阿部司令官 筑摩五号に報告求めるも応答ナシ
司令部は筑摩五号機被撃墜と判断。
1100 榛名一号機 「1040 敵ノ方位 90 度 大巡 5 空母 1 炎上」
これは第一次攻撃(0908)で炎上したヨークタウン(TF17)であろう。
1130
山口長官
「敵空母は三隻」を全軍に通知
「艦爆(二式艦偵)ノ報告ニ依レバ 敵空母ハ概ネ南北ニ約 10 浬間隔ニ
テ 3 隻アリ」
もっとも正確な敵情。山口司令官は、二式艦偵報告(利根四号機の報告艦位
誤りらしきことを伝え、二式艦艇偵察員自身で敵を視認)、捕虜情報、敵の攻
撃状況からの推測を総合、実証的に判断したと勝亦は考える。
同司令官戦死のため、後の一航艦、聯合艦隊の誤判断を防げなかった
1137 榛名水偵報告
「味方飛行機ハ敵空母ニ突撃ス 敵空母 3 隻」
飛龍第二次攻撃隊の攻撃開始は 1140。榛名水偵は、敵が 3 群に分かれていた
ことは確認していたと推測する。
1215 利根四号機(問題児)触接 敵情報告
「敵大部隊見ユ 基点(出発点の誤り)ヨリノ方位 102 度
120 浬 敵
針 280 度(つまり西進) 敵速 24 節」
この時点でもまだ『大部隊』など言って、味方が知りたがっていた艦種詳細
を報告せず、基点と出発点を誤る報告に勝亦は驚愕する。
1230
利根四号機(問題児) 敵情報告
「敵ハ巡洋艦 6 隻ヲ基幹トシ 前衛ニ駆逐艦 6 隻ヲ伴フ 前方 20 浬ニ
更ニ空母ラシキモノ 1 隻見ユ」
1215 報告した『大部隊』の中身であろう。編成は筑摩五号機が 0730、0743、
0920 に報告したものに似ている。従って、巡洋艦 6 隻は TF16 の巡洋艦、前
方の空母は TF16 所属の 1 隻と推定できる。
1235
阿部司令官 南雲長官に報告
「利根四号機ノ発見セル敵位置ハ 1230 我ガ位置ノ 114 度 110 浬」
1245 利根三号機
「敵巡洋艦ラシキモノ 6 隻見ユ 我ガ出発点ヨリノ方位 94 度 117 浬ニ
アリ 敵針 120 度 速力 24 節」
TF16 の巡洋艦グループ米艦隊航跡図と正確に一致!
この後、利根三号機未帰還(被撃墜と思われる)
1250
利根四号機(問題児)報告
「敵ハ空母 2 隻ヲ基幹トシ 駆逐艦 2 隻(叢書著者はこの数字 誤りと
判定 アタリマエ!)ヲ伴フ」
1230 の訂正と推察。 1 隻ではなく 2 隻であった。 即ち TF16 のホーネット、
エンタープライズ。「米艦隊は TF16 空母 2 隻、巡洋艦群、ヨークタウンと 3
群あった」と勝亦は推測。0730、0745、0920 の筑摩五号機報告と陣形は変え
ていないと思われる。
1305
阿部司令官 全部隊に信号
「1300 敵空母ノ位置 30 度 25 分北 177 度 26 分西」
(戦史叢書筆者は「記録に間違いがあることは確実」と記す)
この報告はヒドイ 0730 筑摩五号機の報告位置または 0810 二式艦偵報告位置
に近い。実際の航跡図に比べて約 60 浬西を報告。この誤報告の増殖が混乱に
輪を掛け 正確な対応を羽交い絞めにしたのでは?
1310 利根四号機 敵機に追跡されたため帰途に就く旨報告
触接機 0 となる
利根四号機到着を待たず引き揚げ
一時敵情不明となる
利根機の信じられない使命感欠如!
1355 阿部司令官 総合報告
「敵大部隊ハ空母 2 隻大巡 6 隻ヲ基幹トシ 駆逐艦ハ 8 隻程度ヲ伴フモ
ノト判断ス 更ニ水偵 2 機ヲ触接偵察ノタメ発進セリ」
1415 筑摩機 敵空母 1 隻針路東よりを発見
■南雲長官 筑摩艦長に総合報告求める
■筑摩艦長 「傾斜中 1 隻、他に 3、4 隻の空母」
と回答
1510 筑摩二号機 空母 1 隻を基幹とする別隊を発見
1519 筑摩二号機 更に空母 1 隻を基幹とする別隊を発見
1539 筑摩二号機 空母計 3 隻を報じる
■筑摩艦長 阿部司令官に報告
「本艦二号機 1413 傾斜火災中ノ敵空母ノ東方 30 浬ニ 敵空母 4 巡洋
艦 6 駆逐艦 15 ノ西航スルヲ認メタリ ソノ後敵戦闘機ノ追躡ヲ受ケ敵
ヲ見ズ」
余りにもヒドイ虚偽情報!空母は炎上するもののほかは 2 隻のみであるのに
4 隻などと虚偽が増殖されている。
1102 ヨークタウンは鎮火に成功し、第二次攻撃隊の魚雷攻撃により傾斜した。
筑摩二号機はこれを入れて 3 隻としたと勝亦は推定。筑摩艦長は傾斜中の空
母を外数とし、健在空母を 3(実数より 1 隻多い)、4 隻(実数より 2 隻多い)
とし、第八戦隊司令部はその大きい方を採用して他に健在空母 4 隻と判断し
たことが推定される。関係者の情報処理の誤りか(例:同じ実体の消し込み
操作をせず、報告隻数を単純に足し算する)?
「これが正確な敵情把握に基づく水上艦艇によるリカバリ・ショットを不可
能にし(余りに多数の敵空母からの航空攻撃懸念による?)、ミッドウェー敗
戦を決定的なものにした」と勝亦は考える。
1730
南雲長官 索敵機の残存空母 4 隻の報に疑問を持ち信号
「敵空母 4 隻ノ艦型 速力知ラセ」と信号
(一航艦戦闘詳報)
流石の長官の嗅覚。
1739
南雲長官宛 筑摩艦長発
「筑摩二号機の報告を総合し 敵健在空母 4 隻西進中」の報告を得た
叢書には「筑摩艦長は精査の上、1900(もっと早いか?)『ヨークタウン、ホ
ーネット速力 24 節 ソノ他艦型速力不詳』と報告している」(一航艦戦闘詳
報)との記述。勝亦はこの精査が問題だったと推測する。
1830 南雲長官 夜戦企図を断念し北西避退をようやく報告
1615 の聯合艦隊電令作第一五八号(夜戦命令)の「敵艦隊ハ東方に避退
中ニシテ 空母ハ概ネ撃破セリ」に誤った敵情判断ありとみて報告
「敵兵力空母総計 5 隻 巡洋艦 6 隻 駆逐艦 15 隻 西航中 地点トス
ワ 15(北緯 30 度 55 分 西経 176 度 15 分 1530 の第一機動部隊位置の
東約 140 浬)附近」
敵空母数は、今度は 5 隻に増えている! 敵艦位の報告位置は、航跡図では
1250 の位置 筑摩二号機報告では 1730 のもの
米空母部隊は、米航跡図では 1607 までほぼ南下し、さらに南東に避退してい
る。筑摩二号機がなぜこのような全くデタラメな敵情、誤った位置を報告し
たか不明。
この 2 件については何者かが 自分の都合の良いように 情報を加工した可
能性を感じる(「マサカ、戦後これほど解明されるとは!」思わなかった?)
1950
南雲長官
「敵空母(特設空母ヲ含ムヤモ知レズ)ハ尚 4 隻アリ 巡洋艦ハ 6 隻 駆
逐艦ハ 15 隻 西航中 当部隊空母全部戦闘不能 明朝水偵ヲ以テ敵ヲ捕
捉セントス」
(つまり夜戦の意図ナシ)
■南雲長官は、当時の我が方の米正規空母保有量判断から、この 4 隻には特設
空母を含むはずであると判断した
2115
山本長官 南雲長官の 1950 発電を受け 「こんな状況では夜戦決行の見
込みなし」と判断して 本作戦の中止を決意
2355 山本長官 電令作第 161 号を以て、ミッドウェー攻略作戦中止を下令
このような詳細を見ると、以下のような敗因が見えてくると思う
①索敵能力の劣る、水上艦艇搭載の偵察機で、索敵を行ったことの失敗
元来、水上偵察機は、艦隊決戦の際に搭載される水上艦艇の弾着を上空
からチェックし、補正情報を送るのが主目的と勝亦は考える。空母戦闘に必
要な情報は、空母搭載の索敵機でないと無理だったのではないか?この方法
を企画した吉岡航空乙参謀の失策だったと考える
②水上艦艇搭載機の責任者(飛行長、艦長、司令官)の索敵機情報の分析不足
正確に敵情判断をしたのは山口二航戦司令官のみ。南雲長官も感覚的に
「オカシイ」と思ったようだが、周囲に流された模様。
③索敵の継続性保持の失敗
水偵は多く飛んだが、ばらばらな敵情報告。継続的に触接できていれば
敵の全体像は把握できた筈。これができたのは筑摩五号機と二式艦偵のみ。
④虚偽情報の増殖による敵の過大評価
阿部司令官は、筑摩二号機の敵空母隻数に加算し、南雲長官はさらにそ
の隻数を加算させ、
『トンデモナイ大部隊』と戦った報告をしている。存在し
なかった『特空母』(商船改造の小型空母)が存在したと思い込んだ。
これが「米には、物量でかなわない」という潜在意識を醸成させ、後の
多くの作戦指導に深刻な影響を及ぼした。
因みに、先に挙げた『泣いて馬謖を斬る』の例では、逃げ帰った馬謖は
敗戦の原因として「敵が余りに大軍であった」ことをヌケヌケと孔明に申し
開きして、これが孔明の更なる怒りを誘った。
15.上空警戒態勢、警戒機運用の欠陥
最後に空母を護るのは上空警戒機である。我が軍は、このシステムでも欠
陥を露呈した。
上空警戒態勢の問題点は、上空警戒機の過多で解決されるものではなく、
「発想の転換がなければ解決できない」ものであったと勝亦は考える
空母直前で敵攻撃隊を邀撃する危険に認識が足りなかったと考える。一歩
間違えれば 空母上空がガラ空きとなる。
たとえば、スポーツで言えば、サッカーのゴール前の乱戦である。サッカ
ーの試合で、ゴール直前に敵が迫った時、防禦陣をどれだけ厚く敷いても相当
なリスクは残る。敵のボールを奪うのはゴール直前では危険であるように、空
母の近くに敵の攻撃機を近寄らせないことが重要なのである。
また、別の例を挙げれば、勝亦がかつて研究し、開発に携わった生産管理
システムでも、時間的余裕がなくなった時点で流量コントロールをすることは
難しい。変動を見据えて、早い時期に下流の流量をコントロールすべきなので
ある。これは人手では難しい。これと同じように上空警戒においても、もっと
前の時点で邀撃できる工夫が必要だった。
また、モラルの問題だと思うが、上空警戒機の『手柄争い』があったので
はないだろうか?雷撃機から空母を護ることは成功した。そのために上空警戒
機の多くが、海面まで降りていた。この防禦感覚だけでなく、
「まごまごしてい
ると手柄を僚機に横取りされる」という思いも含まれていたように、勝亦は感
じる。飛龍被弾の場合は、先に 3 空母の被弾した教訓は全く生きなかった。空
母上空はガラ空きになり、3000 ㍍から降ってくる急降下爆撃機には対応できな
かったのである。
次に、技術的観点からの問題点を述べたい。これは直接的な敗因ではなか
ったかもしれないが、大きな影響を及ぼしたように見える。
16.科学技術の軽視
戦争は科学技術を急速に発展させる。わが国は日露戦争を経験したが、不
幸なことにこのことを理解できなかった。日露戦争の海戦は、開戦時の兵器を
そのまま使って勝つことができた。
以下、 3 点で決定的な遅れをとったと、勝亦は考えている。
(1) 『20 世紀の 3 大発明』の開発、応用に決定的な遅れをとった
第一次世界大戦はその戦争中に、航空機と戦車とが長足の進歩を遂げたが、
わが国は従属的な経験だったので、教訓を得なかったように勝亦は感じる。
勝亦は、ルネサンス期の三大発明、火薬、羅針盤、活版印刷と同じように
『20 世紀の世界史的な三大発明』があったと考える。それは以下のものである。
①航空機
②原子力
③コンピュータ
米国はこれらの 3 技術を発展させて、第二次世界大戦でその力を遺憾なく
発揮させた。ところがわが国は、②、③については全く利用していない。
(2) 兵器技術の進化する方向を予知し、対応することができなかった
科学技術に携わるものであれば、開戦前でも、科学技術は
機械技術⇒電子技術⇒情報技術、原子力技術
の順に進んでいることは予期できた筈。
零戦、大和は如何に優れていても、所詮はメカニクス止まり。言ってみれ
ば、日露戦争、第一次世界大戦のレベルを脱却していない。
特にエレクトロニクスの立ち遅れが目立つ。米国は、レーダー、VT 信管(勝
亦は、その技術は今でも PAC3 のような邀撃ミサイルに生きていることを説明)、
無線電話のようなエレクトロニクスに止まらず、コンピュータ、レーダー射撃、
原子爆弾まで兵器化している。
レーダーについて、勝亦はミッドウェー海戦で戦艦伊勢、日向に試験的に
搭載したことを説明。松井君からは、
「八木アンテナの技術は欧米で認められて
いたが、わが国では知られていなかった」と補足説明あり。
ミッドウェー海戦では、レーダーと無線電話とが遺憾なくその威力を発揮
した。
(3) 第一次世界大戦の教訓をまったく認識していない
日露戦争では、戦争中に新兵器は誕生しなかった。ところが、第一次世界
大戦(4 年間)では、航空機や戦車のような新兵器が投入された。
大東亜戦争でもこのような視点があるべきなのに、わが国にはまったく新
兵器は投入されなかった。新兵器とはいわず、新型兵器でも、たとえば零戦後
継の艦上戦闘機烈風も、その生産開始は昭和 20 年で、決定的に遅れた。
17.航空戦様相の事前研究の欠落
航空機は革命的な兵器であったが、戦争様相がどのように変わるかの研究
が不足していた。
日露戦争の艦隊決戦では、司令官は敵の姿を眼前に、明確に把握すること
ができた。空母決戦では、司令官の視野の外で戦闘は進むので、敵の姿を明確
に捉えられない。
これを可能とするために 新しい各種の戦術、工夫、兵器が開発されなけ
ればならない。わが国はこれを怠っていた。
たとえば、先に敵空母部隊が出現した時点で水上艦艇を敵に指向する可能
性を述べたが、空母護衛という単純目的にのみ考えていたら、空母護衛が手薄
になるので、躊躇があったかもしれない。
この思考の隘路を乗り越え、新しい時代の海軍航空戦の形となったかもし
れない形はあったと勝亦は考える。その研究は可能だったはずである。
18.『カタログ性能』とさえ思えてしまう兵器の仕様
カタログ上では立派だが、実用性が落ちる仕様もかなりあったように勝亦
は感じる。
たとえば零戦の 20 ミリ機銃。この海戦では一機銃当たりの携行弾数は僅か
に 60 発(一斉射 6 発ならば 10 斉射)であった。これはミッドウェー海戦後、
100 発に増加した。また、初速が遅いため、空中戦では G が掛かるから命中し難
いというパイロットからの苦情もあった。
また零戦には無線電話機は装備されていたが、性能が悪く、まったく使い
物にならないという評価が定着している。無線電話は単なる電話ではなく、そ
の使用場面を想定すると、攻撃隊での制空、護衛、艦隊護衛のための上空警戒
では、時々刻々の情勢変化に合わせて戦闘機隊の位置取りが必要であることを
考えると、極めて重要な伝達手段であったが、我が軍はまったく対応できなか
った。
反例は、マリアナ沖開戦におけるわが国の攻撃失敗であり、先制したにも
かかわらず、敵の無線電話の利用により、大損害を蒙った。
25 ミリ対空機銃についても、基本的な仕様の欠陥が指摘されている。他国
の対空機銃と比較して射程距離が短いことであり、我が軍対空機銃の射程距離
は、2500 ㍍。これでは急速でダイブして来る戦闘機や急降下爆撃機を落とせな
い。ミッドウェーでは米急降下爆撃隊は、5,500 ㍍上空から降下して来たので、
撃墜はきわめて難しい。この点については支那事変の時から、支那軍の対空機
銃に比較しても劣ることを指摘されていたが、改善されることはなかった。
19.人間的な側面、文化的側面での問題点
ミッドウェー海戦の直接の敗因ではないと思うが、人間的な側面と文化的
な側面について、勝亦の所感を述べたい。
(1) 人材の問題について
それまでの経歴がその人たちを育てたのか、あるいは育てなかったのか不
明であるが、勝亦は、階級によって洞察力と実行力が異なる感じがする。
最初に長官クラスの人たちは、感覚が鋭く、俊敏な対応をしたと思う。山
本長官、近藤長官、南雲長官、小松長官(第六艦隊司令長官)の判断力は鋭さ
を感じる。参謀(長)達の意見を上回る卓見を感じたこともあった。そのよう
な鋭さを感じさせない人材は長官までは辿り着けないのかもしれない。
しかし、残念ながら、参謀(長)達の意見に流された(ガバナンスの問題
を含め)と思われる場面もあったように感じる。
先年放送された NHK の『坂の上の雲』では、バルチック艦隊を邀撃するた
めに、津軽海峡にも配慮する秋山参謀の意見を、東郷長官、上村長官が退け、
「軍
人だったら、必ず対馬を通る」との深い洞察から得た信念を貫いた。ミッドウ
ェーではそのようなことはなかった。
参謀長、司令官クラスは殆ど頭が固い。
『長官の直感を支えられず、洞察力
の足りない参謀長』というイメージが勝亦の頭のなかに定着した。参謀長の発
想が硬直的であり、教条的な場面が散見されると思う。
例外的に、山口司令官の敵情判断に見られる、感覚、洞察力、合理的な判
断力は光っており、戦死されたのはわが国にとって、まことに残念だと感じた。
参謀クラスの『資質』は相当問題であると思う。現実を知らない『理論家』
の参謀や『ああ言えば上祐』的な参謀も見られた。また自らが主担当であった
この作戦に『几帳面』でない者も見られた。勝亦はある企業で、商品企画を担
当していたが、商品企画は『会社の全組織の活動を繋げる商品について、どん
なことでも知っている』ことが必要だと思う。その点で『企画者』の資質が脱
落している参謀もいたように感じる。また一つの事象の発生した時、問題を探
さない精神的に不精な参謀も少なくなかったと思う。
(2) 海軍兵学校の『五省』で一番大切なもの
兵学校では、毎日この五省を唱えて就寝していたという。驚いたことに、
これは英訳されて、現在、米国の海軍兵学校でも唱えられているという。
五省とは、次の反省点である。
一、至誠ニ悖ル勿リシカ
一、言行ニ恥ヅル勿リシカ
一、気力ニ缺クル勿リシカ
一、努力ニ憾ミ勿リシカ
一、不精ニ亙ル勿リシカ
第五の反省項目は他の四項目と比べて異質な感じがするが、勝亦は組織活
動において他の四項目よりも大切な項目であると思う。ミッドウェーの敗因を
考えると、まさにそれを地で行く失敗の連続を認めることができる。
(3) ミッドウェー海戦時、既に『大艦巨砲主義』者はいなかったものと思う
ミッドウェー以前に海軍航空戦力が赫々たる武勲を挙げていたので、既に
大艦巨砲主義者はなくなっていたと思う。
宇垣参謀長は大艦巨砲主義者で、当初は山本長官との反りが合わなかった
と言われているがその面影は払拭した。近藤長官はそれまでの経歴から大艦巨
砲主義者と思われていたが、勝亦の見る限り、極めて柔軟な考えの方だったよ
うに思う。栗田司令官は、その反動が強過ぎて、この作戦での行動を見ると、
『海
軍航空兵力恐怖症』の兆候が見られる思いがする。これがレイテ海戦での同長
官の行動の原点となったのかもしれない。
以上