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サントル
図版博物館 vol.62
3
土地の記憶 27
Musée imaginaire philatélique
Région Centre au travers des timbres français
4e éd. 2013
[E]【11-3-1 シュヴェルニィ城】 YT-980 ロワール・エ・シェール県の最後は、シュヴェルニィ城 Cheverny である。
狩猟の本場ソローニュにあり、
今日でも猟犬を 100 頭近く飼養し、定期的に猟犬猟 Chasse à courre
実施している。猟犬猟とは聞いたことがない?これは私の訳語だ。犬の嗅覚と走力と統御
された集団行動で狩猟をする。主要なターゲットは鹿、猪、野兎、季節によって鳥類の場合も
ある。銃砲は用いない。下左は勢子というよりは楽隊で狩猟の行事に不可欠である。2 段目
はシュヴェルニィで用いられているのと同じハウンド
種の写真だが、シュヴェルニィとは断定できない。
3 段目は紛れもなくシュヴェルニィで、日に一回の
食事の時間である。飼養員の注意事項と明日
の予定などを聞いてから食べる。しかし、「最
近の若い犬は人の話など聞いていない」、と
は飼養員のぼやきである。ここのハウンド犬は
イギリス・ハウンドに近いフランス種で猟犬中の貴族で
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ある。右端の 2 つの小さな絵はのちほどのお楽しみに。上掲の城館全体の写真から一部を
切り取り、それをベルギーのコミック作家エルジェ Hergé に頼んで絵にしてもらった。
さて、肝心のお城だが、外観および庭園は上に見たように極めて端正でかつ美麗であり、
整備されている。切手の方は少し左手から描いたもので、1954 年の観光切手 6 点のうちの
1 つである YT-980。シュヴェルニィ城は 1926 年に歴史的記
念物として登録され、ユネスコの世界遺産には 2000 年
に《Val de Loire entre Sully-sur-Loire et Chalonnes》と
して一括登録された。この城の建造を始めたのはルイ 11
世の武官で軍経理官であったアンリ・ユロォ。時代は 15 世紀
末だが、国王アンリ 4 世はユロォが不正を働いたとして没
収し、愛人のディアヌ・ド・ポアチエに与えた。しかし、ディ
アヌはシュノンソォの方がいいといってユロォの息子フィリプ夫婦に売ってしまった。
この夫婦が 1624-30
年に現在の城を建てたがやがて手放し、その後所有者は転々とした。革命期には難を逃れ、
1825 年に初代ユロォの末裔ヴィブレイ子爵アンヌ・ヴィクトル・ユロォがこれを手に入れた。現在もその子孫
が所有し、そこに住みながら観光客に公開している。ロワールの城の中では稼ぎ頭の 1 つ。そ
の理由は、内部にある。下の写真でおおよそのイメージを描いていただければと思う。11-3-1
国王の間
グランサロン
甲冑の間
食堂
玄
関
プチサロン
書
斎
大階段
【11-3-2 タンタンの城】
YT-4051/4056
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ところで、この城には他の城にはない強力な集客の
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エンジンがある。先にふれたベルギーのコミック作家エルジェの超ベストセラー漫画「タンタン」Tintin の主役の
1 人ハドック船長の城ムランサール Moulinsart のモデルがシュヴェルニィ城なのだ。外観だけでなく豪華な内
部の造りもシュヴェルニィにヒントを得ている。先に城の正面の写真の下に建物の両端を切り取った
ものとそれを
写した小さい
絵を掲げた。
この小さい絵
を復元すると
左のようにな
る。タンタンとハド
ックが城へ向かっている。
ハドック船長
のために潜水艦
ルカン(鮫)を
建造したヒマワリ教
授がその特
許を売った金で
買ったのが
この城であった。
以後、タンタン
がどこに出かけ
るにもこの城が出発点となる。そこで、漫画を転載すれば
喜ばれると思い、あらゆるホームページを猟渉したが、ガード
が堅くて取り出せたのは上の絵とハドックの船長帽、それにタンタンに限らず他の漫画の主人公ま
で寄せ集めた絵だけであった。どうすべきか迷ったが、フランス郵政がいっきに解決してくれ
た。
数年前切手の世界に呼び込んだ漫画がおどろくほどの人気を博したので、郵政はエルジェと
交渉し、多
額の対価を
払ってタンタン
の著作権使
用権を手に
入れた。
2007 年 、
タンタンはつい
に「著名人
シリーズ」とな
って 6 枚組のシートに登場した。YT-4580
切手という有難いメディアによってタンタン
の売れ行きはまた増大した。ユロォ氏は、漫
画の集客力を改めて認識し、猟犬小屋の
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隣にエルジェ記念館を建てた。その結果、この城は犬と漫画で一層有名となった。11-3-2
YT-4051 タンタン、YT-4052 ヒマワリ教授、YT-4053 ハドック船長、YT-4054 デュポン とデュポン、YT-4055 ビアンカ・カスタフィオーレ、YT-4056
チャン。タンタンとハドック船長が向かうのはラッカン・ル・ルージュ宝島。l'île du Trésor de Rackham le Rouge
【11-3-3 ラブレンヌ圏立自然公園】 YT-2601 次は、アンドル県である。サントル地域圏に属する 6 県
の中では最南部でオーヴェルニュ地方と接しているが、県央を西に
流れるアンドル河によって南北 2 区域に分かれる。フランス郵政はこ
の県についてさほど高い関心を持っていないようで、僅か 2
点の切手を発行しているにとどまる。人物をテーマとしたものも
見当たらない。アンドル河の南に多数の池沼を含む広大な湿地帯
が広がり、ラ・ブレンヌ圏立自然公園 Parc naturel régional de La
Brenne として保護されている。1989 年に自然公園の指定がな
されたことを記念して、この横長大版切手が発行された。
公園の面積は
1672km2
で 1300 の池沼があるが、他の湿地帯と異なるのは、そのほとんど
すべてが人の手
で掘られた 10ha
ほどの小規模の
もので、160ha の
Mer Rouge 池が最
大である。地域の
中心は Le Blanc.
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11-3-3
[F]【11-3-4 ヴァランセィ城-その 1 ジョン・ラスとタレイラン】
YT-1128 同じアンドル県内でアン
ドル河の北、シェール河の南に、
タレイラン公爵の居城ヴァランセィ城
Valençay がある。この城は、
一時、スコットランド出身のジョン・
ラス*John Law(1671-1729)
が所有したことがある。ラスは外国人でありながらルイ 15 世の財務総
監をつとめた財政家で経済学者であり、財政の観念を重視した。通
貨はそれ自体としては交換の手段であって財貨ではなく、国富は商
業によって形成されることを説いた。王立銀行 Banque Générale を設立し、前王ルイ 14 世時
代の膨大な財政赤字を解消するためアメリカ・ルイジアナのミシシピ開発を担保とした不兌換紙幣(銀
行券)を発行したが、正貨との交換を求める取り付け騒ぎによって破綻し(1720)失脚し
てヴェネチアに亡命した。ジョン・ラスがヴァランセィ城を取得したのは 1719 年であるから城主としては
短期間であった。*日本では英語読みでジョン・ロォと呼ばれているが、同時代のフランスでの呼称はジョン・ラス(w=ss)。
その後持ち主は変わったが、1803 年にナポレオンがタレイラン Charles Maurice de Talleyrand de
Périgord (下)に命じて外国の要人の滞在(拘束)に適した城館として取得させた。この
ようにして 19 世紀最大の外交家タレイランの所有物となったが、このこ
とはこの城館にとって幸いであった。1838 年にタレイランが死亡するま
で地元との関係は良好であり、多くの賓客
がここで至上のもてなしを受けた。MarieAntoine Carême の名を知っているだろうか。
19 世紀フランスの最高の料理人たるカレーム(右)
はこの城でのタレイランの料理人としてその名
を不動のものとした。タレイランもこの地が気に
入り、遺骨は庭園内の廟所に収められた。 城は、あとで述べるよう
に傍系の血族が相続しその後 1952 年までタレイラン家の所有に属してい
たが、男系が絶え養子を介して 1979 年にフランス歴史城館協会に売却
された。11-3-4
【11-3-5 ヴァランセィ城-その 2 ドロテアとミロのヴィ-ナス】 外交家としての
稀有な成功をおさめたタレイランがヴァランセィ城を所有していたという
事実は、間接的ではあれ次のような幸運を城と国民とひいては日
本からの訪問者にもたらした。タレイラン外交の要諦は直接・間接に
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さまざまな手段を用いてドイツを懐柔したことであった。いいかえればタレイランはドイツに信用さ
れたということである。1786 年に北ドイツの貴族 Peter von Biron が当時プロイセン領(現ポーランド)
であった下シレジア地方のザガン公領を購入し、それをタレイランの愛人でその後タレイランの甥 Edmond
Talleyrand-Périgord の妻となった娘ドロテア Dorothea に与えた。タレイランの死後 Edmond は同公
爵 2 世となり、ドロテアは一子 Napoléon Louis(同 3 世)をもうけて離婚し余生を故郷ザガン公
領ですごした。回りくどかったがここからが本論。ドイツ皇帝は 1845 年にドロテアをザガン公爵
として承認し、ナポレオン 3 世も彼女の爵位をフランスで承認した。したがってタレイラン公爵 2 世、3
世もフランスでザガン公爵位を継ぐこととなる。かくして、彼女とその末裔は両国で貴族となり、
両国が戦争状態になればザガン公領は中立国の地位を享受した。フランスは第 2 次大戦下でも中
立国待遇を受けるヴァランセィ城にルーヴル博物館の最重要のコレクション(ミロのヴィナス、サモトラケのニケなど)
を疎開した。戦火を避けると同時にドイツ軍による破壊行為から守るためであった。ヴィナスた
ちは戦後ルーヴルに復帰して何ごともなかったかのような表情であるが、数奇な運命をたどっ
YT-3234
ミロのヴィナス
YT-354,355
サモトラケのニ
ケ
勝利女神像
たことは覚えておいてほしい。
城自体の説明は多くを要しない。ドンジョンがあり、四隅に円塔が配さ
れている点で先に見たシャンボール城に似通っている。シャンボールは狩猟のため
に施設であり、その 5,000ha をこえる付属地=森林が主たる猟場であ
った。これに対して、ヴァランセィ城は周囲 23 町村に 12,000ha の土地を有
しその収益で公私の必要を賄っていく領主領の本拠地である。タレイランは
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この所領を 160 万リィヴルで取得し、外交上の賓館として、また身柄預かりの施設として活用
した。城の名を冠した「ヴァランセィ条約」なるものがある。これは 5 年にわたって身柄を預か
ったスペイン国王フェルディナンド 7 世とその同行者に贅沢な日々を送らせた(1808-13)のち、スペ
インへの復帰を取り決めた条約であった。11-3-5
【11-3-6 ヴァンドォム】
Vendôme
YT-4143
左の切手と下の写真とはほぼ同一地点からトリニテ修
道院付設教会を眺めたものである。切手にはロワール河
Loir(ロワール河 Loire の支流)が広々と描かれているのに
対して、写真には河岸が切り取られているため趣きが
ことなる。眺めている地点はヴァンドーム・ブルボン城
Château des Bourbon-Vendôme のテラスだと思われる。
見所は、この教会の正面ファサドである。下の写真の
ようにゴシク建築でその後期に現われるフランヴォワイヤン様
式の典型の
ような造り
である。ヴァ
ンドームとシャルト
ルは距離的に
遠くないが、
トリニテ教会のフ
ァザドとシャルト
ル大聖堂の尖塔とは、もっと近い距離にある。なせならば作者は同じジャン・ド・ボォス Jean de
Beauce だからである。
この町はバルザク Honoré de Balzac が 7 年間中学(collège de Vendôme)の寄宿舎にいたこ
とでも知られている。トゥルで生まれた彼はここで教育を受けてパリへ出るのだが、その学校
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生活は主作品のひとつ『ルイ・ランベール』(1832)に描かれている。恐ろしく厳格で、かつて兵
学校であった頃の規律を引き継いでいるみたいだ。生徒であったオノレは「あまり活発でもな
く、むしろ怠け者で、考えに耽り、罰を受けること少なからず」という。当時の学校には
生徒の尻を叩く木の箆が常備されていたようだが、オノレ君も教師たちに叩かれて悔しい思い
をしたことが少なくないようだ。11-3-6
【11-3-7 ユセ城】
Château d'Ussé YT-4161
ロワールの城の 1 つで、アンドル・エ・ロワール県のリニィ・ユ
セ Rigny-Ussé にある。ロワール地方の他の多くの城と異なり、
個人所有に属するが、一般に公開されている。1931 年
に歴史的記念物に指定された。切手の絵を見ても判る
が、まことに「お城」らしい構えで観光客に人気があ
る。
下右の絵には 1699 年に描かれたもののようだが、城
の周りには立派な堀がめぐらされており、15 世紀の築城としては本格的な構えを見せてい
る。この絵と同時代に書かれた文書の記述を借りよう。
「ユセの領主領は大したもので、大きな広がりがある。5 つの大きな塔を備えた城館があり、
堀割に囲まれ、跳ね橋がある。中央には教会(注:現在の礼拝堂)があるが、この教会は
参事会長と 5 人の会員からなる教会参事会によって護持される聖堂区の教会でもある。城
壁に囲繞された庭園は 60 アルパン(約 30ha)もあり、装飾もよく調って、高位の方にふさわ
しい場所となっている。」
古文書には 6 世紀に Ucerum という名でこの土地が出てくるが、それによれば、シノン Chinon
の森を背負い、シノン街道とロワール、アンドル両河川を制御しうる戦術上の要所であったようだ。
領主として名が出てくるのは 1004 年のヴァイキング上がりの Guelduin Ier de Saumur(通称
ソォミュルの悪魔)で、木製の砦をまず造った。その息子ゲルドァン 2 世が 1040 年に石造に改築
したという。現在の城の原型となる構築物は 100 年戦争が終わろうとする 1424 年のもので
領主のジャン 5 世の命によるが、息子のアントワヌは 1456 年に父を継いで領主となり、国王シャルル
7 世とその愛妾アニェス・ソレル(【サントル 5】)の間の娘ジャンヌ・ド・ヴァロワを嫁に貰って 4 万金エキュという
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大変な額の持参金を手にした。これで城を 15 世紀風に改築しようとしたが、それでも足り
ず、債務超過に陥って竣工前に Jacques d'Espinay に売却した(1485 年)。このジャク・デピネイ
という男はブルターニュ出身でブルターニュ公フランソワ 2 世の侍従をしていたが、出世上手でのちには国
王シャルル 8 世、ルイ 12 世の侍従となり,最後には王妃付き大侍従長となる。ユセの城を手に入れて
建築を進め、家族の墓所とするために教会参事会も設立した。城は工事中のままその息子
から孫へと相続され、1538 年に礼拝堂ができてすべて完成をみた。しかし、時の当主も債
務過重で 57 年に売却、その後、相続、婚資(持参金)、売却で大小貴族諸侯の間を転々と
したので、ここではとても追いきれない。最後に国王書記のヴァランチネイ伯爵トマ・ベルナンが取得
し、庭園を名手ルノートルに整備させて今日の姿となる。先の絵図が描かれた翌年、ユセの所領も
侯爵領に昇格した。子のルイ・ベルナンは、国王宮廷総監の要職について城塞建築の大家ヴォーバン
元帥の娘と結婚した。そのため岳父ヴォーバン(【ブルゴーニュ 3】)も時々やってきて口を出し、
あちこちを直させたらしい。イタリア風の建築を追加したり、テラスを造成したり、騎士の小径を
作ったり....。
ベルナンの末裔になると持ちきれずにデュラス公に売却、公妃クレール・ド・ケルサンがシャトォブリアン(【ブ
ルターニュ 1】)の愛人であったことから、彼は聖地からレバノン杉を送らせ、礼拝堂から見えると
ころに植えた。シャトォブリアンはこの城が気に入っていたようで、彼の自伝に当たる『墓のかな
たの回想』Mémoires d’Outre-tombe の一部をここで書いている。
デュラス公はその甥の子のブラカス公 duc de Blacas に譲り、ブラカスの後裔が今日の当主である。
あえて長々と書いた。花を城に置き換えてみた。「年々歳々城相似たリ、歳々年々人同じか
らず」。気晴らしになることを期待して、お城の写真をもう一枚。11-3-7
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