横浜市立大学エクステンション講座 パリ史こぼれ話 第4回(11/26) 大佛次郎の『パリ燃ゆ』執筆取材旅行 (1961 年) 横 浜 市立 大学 名 誉教 授 松 井 道昭 Ⅰ 始 動 1. 創作日記 Janvier 正月元旦 Goncourt の日記を蒲郡の宿にて読み始める。中旬、Journal official de la Commune 到着。 28 日 演舞場で秋山君より渡仏の件、朝日重役会の承諾を経たりとの話あり。手続の件、木内が 手伝ってくれることも決定。 ○ 辰野氏の話 Gustave Geoffroy de l’Aca. Goncourt (Blanqui Barbès を書いている) 2 Fevrier 1 日、Maurois に続けて山上正太郎、フランス史、王政復古からあと Commune まで読む。 二月 革命が Commune(革命的)ouvrier を既に造り上げている感あり。まことに巴里の外に他国には なきことならぬ。p.192 のG.Sand が Tocquevile に話せしこと注目に値す。 私の仕事は本来なら大革命からだが、prolétaire の造られし時期として 1848 年の革命から始め られねばならぬ。Jean Dautry の本を読もう。 」 2 日 暗いうちに床の中で考える。今度の仕事に紀行(地理)回想の形、友に与える書簡の形など、 あらゆる形式を集め随筆風に人に読ませる vivant<生き生きした>のものにする。小説でも読み 物でもなく新しい形式のもので進展に変化をつける。 何となく Corps が予見されて自信を持った。 ○ あらゆる本を読もう、その時代の。まるで受験勉強のように。 ○ Metz Sedan も行く(むだでも) J. Desmaret : La Défense nationale, 1870-71 (Paris, 1949) 2 日午後、Jacques Chastenet : His. de la Troisième.を読み始める。平易な文章である。今日は Le 4 Sep. et le Gouvernement national の章。 以上は大佛次郎の「La Commune de Paris の為の日記 1961」の一節である。1961(昭 和 36)年の正月元旦を期していよいよ「パリ燃ゆ」の執筆が始まったことを物語る。こ のときはまだ「パリ燃ゆ」という論題はない。タイトルが決まったのはこれより 9 か月後、 『朝日ジャーナル』への掲載が決まる直前である。大佛はこの歴史小説を書くにあたっ て「あらゆる形式を集め随筆風に人に読ませる vivant なものにする。小説でも読み物でもなく 新しい形式のもの」という決意をもっていた。そのために、 「あらゆる本を読もう、その 1 時代の。まるで受験勉強のように」強い意志をもって臨もうとする態度が読み取れる。 「La Commune de Paris の為の日記 1961」は長くない。全部で 19 ページしかなく、 4 月 4 日で終わる。しかも、かなり大きな文字で書かれ、執筆以外のことも記されてい て、内容的にそれほど細かくない。4 月の時点で Lissagarey の本と L. Michel の本を読 み始めたばかりで、この時はまだ「パリ燃ゆ」の概略はできあがっていないとみるべきで ある。 2.「パリ燃ゆ」執筆の動機 大佛次郎が戦前からパリ・コミューンを主題にした歴史小説を書こうとしていたこ とはまちがいない。大佛次郎と面識があり、 「パリ燃ゆ」執筆に協力した故村上光彦(成 蹊大学名誉教授)は次のように述べる。 「大佛氏は戦前からパリ・コミューン関係の参考書を集めにかかっておられました。氏が『パリ 燃ゆ』執筆を開始されてからまもないころ、氏は『こんなものがあった』とおっしゃりながら、 一冊の古い本を筆者に見せてくださいました。パリ・コミューンの時期の郵政省の事務を主題に したものだったように記憶しています。コミューンを書くために戦前に買い集めた本の一冊だと のことでした。 」 戦前から筆を起こそうとしながらついにそれをなしえなかったのは、テーマがテー マだけに検閲制度にふれることを恐れたことと、資料収集が不完全で執筆に自信がもて なかったからである。この二つの理由のうち、前者のウェイトのほうが大きいようだ。 なぜなら、同じような理由で戦後に持ち越されたテーマがあったからだ。それはパナマ 事件である1。 「パナマ事件」は『朝日ジャーナル』創刊号(昭和 34 年3月号)に掲載され、6ケ 月で完結した。これをやり遂げると、パリ・コミューンだけが残った。単行本『パナマ 事件』 (昭和 35 年、朝日新聞社)の「後書き」で大佛は次のように述べている。 「この『パナマ事件』で私のフランス第三共和政について書きたい仕事は『巴里コンミュン』だ けが残った。これはもう一度パリに出かけ、本を探がし、その土地を歩きまわって、私のこの系 列の仕事の最終のものとして、書きたい。どうしたものが、私は第三共和政の三大事件を時間的 に逆に辿り歩いて、振出しの『コンミュン』に向うことになった。この内乱は画家のクールベや ゴンクールなど作家の日記にも体験した記事が出ていることで、資料集めに係ったら、容易なら ざる仕事になるものと覚悟している。 」 「パナマ事件」の後書きは「パリ燃ゆ」の予告編となっている。こうした筆の運び 1 パナマ事件といっても日本人にはなじみの薄いが、それは第三共和政下のフランスを揺るがした収 賄事件である。大佛次郎はスエズの英雄レセップスの栄光と失墜のプロセスを通じて、議会政治のか らくりを暴いていく。大佛は昭和 10 年の「ブゥランジェ将軍の悲劇』に引き続いてこれを書くつも りでいたが、当時、日本の軍部による政治介入が急速に進むなかで議会政治の腐敗を説くことはタイ ミングがあまりに悪く、あたかも軍部専横を支持しているかのような印象を与えることになりかねな いとの思いから、執筆を見送ったのである。このことは大佛自身が述懐している。 2 から、彼がいよいよライフワークに取りかかる決意のようなものが感じとれる。 「もう一 度パリに出かけ」という記述が気になる。大佛は昭和 33 年春から夏にかけての米欧旅行 の途中でパリに立ち寄っている。このときの模様を旅行日誌や妻宛て絵はがきにおいて 記している2が、 「パリ燃ゆ」の取材を匂わせるような記述は皆無である。よって、1961 (昭和 36)年のパリ旅行は「パナマ事件」の執筆を終えてから思い立ったとみてまちが いない。むろん、昭和 33 年のパリ滞在によって土地カンが生まれ、今度は自身で事件の 現場検証をやってみたい気になったことは十分考えられる。 大佛のパリ行きについては、 「パナマ事件」の大佛番をつとめた朝日新聞社の秋山節 義が述懐している。 「 『パナマ事件』が終わって間もなく、つづけて大佛先生にご執筆をねがいたい、ということに なりました。それとなく伺ってみると、九十年前(当時)におきたパリ・コミューンを書きたい と思うのだが、長期にわたるたいへんな仕事になるだろう。資料も今まで意識的に集めてきた以 外に、もっと広く集めたい。それよりもまずパリへいきたい。コミューンの兵士や、バルケエド のおかれたパリの町を、自分で歩いて、石ダタミにコツコツとひびくクツの音をきいてみたい。 そういう意味のことを話されましたので、わたくしは編集首脳に伝えました。 」 ( 「パリで宣伝 された『パリ燃ゆ』 」<大佛次郎ノンフィクション全集「月報」No.4、1971 年 11 月、所収>) 「パリ燃ゆ」は昭和 36 年 10 月から 38 年 9 月までの丸 2 年にわたり『朝日ジャーナ ル』に連載された。それで完結せず、半年ほどあいだを置いて、続きは雑誌『世界』で 昭和 39 年 3 月号から 11 月号まで「焦土」と題して連載された。それらは上・下巻とし て昭和 39 年 6 月と 12 月に朝日新聞社から単行本として世に出た。 昭和 36 年はわが国で安保闘争が荒れ狂った翌年に当たる.大佛の執筆時期がこのと きに一致したというのはけっして偶然ではないだろう。安保闘争は大正中期の米騒動に 匹敵する、全国を巻き込む大騒動であった。それが、鋭い感性をもつ大佛の胸を打たな いはずがない。日本の政治動向が風雲急を告げるとき、大佛はきまってフランスの事件 を引き合いに出し、それのアナロジーにおいて日本人に警鐘を鳴らすのがつねだった。 安保に擬えられているのが 90 年前の未完に終わったパリの民衆革命であったと考えて 何ら不自然なところはない。しかし、安保闘争と「パリ燃ゆ」との関連について大佛は なにも述懐らしきものを残していない。 1961 年はフランスでコミューン騒動が起きてからちょうど 90 年目にあたる。1960 年代はソ連を中心とする社会主義体制は安泰、アフリカ諸国の独立が相次ぎ、その中で 社会主義をめざす国家も珍しくなかった。キューバの独立、ヴェトナム戦争に示される ように、社会主義は全世界的な拡大傾向を示していたから、社会主義との関連でコミュ ーンを取りあげる傾向も根強く残っていた。なかでも、1966 年に始まる中国文化大革命 は、軍隊の民主化問題とのかかわりでパリ・コミューンをモデルと仰ぐ姿勢さえ見せて いた。 拙著「大佛次郎のパリ探訪、1958年」 (『日仏文化』No. 71, 2005,日仏会館)を参照された い。 2 3 社会主義との関連を意識していたかどうかはともかく、大佛がコミューン発生 90 周年を意識し、そのことが執筆動機に絡んでいるのは否定できない。大佛は『朝日ジャ ーナル』への掲載を予告する「作者の言葉」のなかで、次のように述べている。 「パリ・コミューンからちょうど 90 年目に当たる。パリで行われた記念行事などで掲げられた テーマは『パリ・コミューンの精神、理念はまだ生きている』というものだった。パリ・コミュ ーンは,現代に生きた問題を投げかけているという。これが謙虚に勉強してみようと思った第一 の理由である。 」 「謙虚に勉強してみよう」という言葉が見える。これは大佛の本心だったようだ。 彼がマルクスと同じような問題意識をもってこの事件に臨んだのではないことは確かで ある。大佛はマルクスの「フランスの内乱」をようやく読みはじめたばかりであった3。 昭和 40 年1月の荒垣秀雄の対談でも同じような発言を繰り返している。 「書きたいなと思ったのは — 書きたいなじゃないですね。調べたいなと思って本を買い出した のは、やっぱり三十年くらい前です。ああいうのは戦前には書けないわけでしょ。書いたら“御 用”になる。ただ読んでみたいと思っていたんです。 」 ( 「時の素顔」 『週刊朝日』1 月 15 日号 所収) Ⅱ 二度目のパリ 1. パリ旅行を裏づける資料 A.1958 年のパリ旅行 大佛次郎の海外渡航は戦時中の従軍記者としての東南アジア、中国への渡航を除く と全部で 4 回である。うち 2 回がパリに関連する。最初は、1958(昭和 33)年 5~7 月 の 84 日間に及ぶ米欧旅行の途中でパリに立ち寄っている。そして二度目が本稿で取り上 げる取材旅行である。大佛は戦前から同人会の「巴里会」に身を寄せるなどパリに憧れ ていたのだが、連載ものを多数かかえる売れっ子作家のつねとして、長く日本を空ける わけにはいかないため、パリはずっと遠い存在のままであった。しかし、ひょんなとこ ろから訪問の機会が訪れた。 大佛の作品「帰郷」がクノップ社から“Homecoming”として英訳出版され(1955 年) これが大当たりしたため、同社が謝意を込めて大佛を旅行に誘ったのである。1958 年 春・夏のクノップ社による招待旅行はニューヨークまでだったが、大佛は足を延ばして ヨーロッパを訪れる。ヨーロッパの訪問先はイギリス、フランス、ベルギー、スイス、 イタリアの6か国である。イギリスに 10 日、フランス(パリ)に 29 日、ベルギーのブ リュッセル万博に3日ほど見物し、スイス⇒イタリアは 14 日間のドライブ旅行である。 パリでの滞在日数の長さが目につくが、それほど愛着があったということだろう。 5月4日付の旅行日記に「マルクス読み始める」とある。この日、パリ探訪に出かけるつもりが、 案内役の佐藤敬が腹痛で行けなくなった。マルクスの本は『フランスの内乱』と思われる。 3 4 初めてのヨーロッパおよびパリの滞在で大佛の過ごし方はふつうの観光客のそれとほと んど変わるところがない。敢えて特徴を挙げるとすれば、名所旧跡に加え美術館めぐり と観劇が多い点、そして、パリ在住の知人が大佛専属の案内役を買って出た4点である。 パリ郊外にある印象派の巨匠たちの活動舞台(オーヴェル、バルビゾン、モレ)への視 察も彼らが車で案内した。旅の最後を飾るスイス⇒イタリアへのドライブ旅行も佐藤敬 が案内した。 この旅行について大佛次郎はかなり精細な旅行日誌をつけ、同時に故国の酉夫人へ の絵はがきで、見たこと、感じたことを克明に記している。絵はがきは 166 通に及び、メ モ代わりのような役目をもっていたようだ。この旅行日誌と絵はがきを追っていけば、 大佛のパリでの足取りはほとんど毎日、正確に確かめることができる。この他に大佛自 身または知人が撮影した写真が多数ある。カラー写真が主で、コダック社のスライドの 形で保管されていたため、退色もひどくなく当時のパリでの過ごし方もよくわかる。 B.1961 年のパリ旅行 一方、3 年後の 1961(昭和 36)年のパリ旅行は「パリ燃ゆ」取材が主目的であった が、さすがに二度目のパリとなると、かなり土地カンが出来ているわけで、行動は前回 よりも自由だ。史跡・旧跡めぐり以外は、ほとんど単独で行動する。この時も大佛次郎は いくつか紀行文や随筆のかたちで記録を残している。すなわち、紀行文としては「パリ 通信」 、 「九十年目」であり、随筆集としては『水に書く』 、 『砂の上に』 、 『ちいさい隅』 、 『石の言葉』 、 『未刊随筆』などがある。 この旅行については以前はこれらの公刊記録のみで、旅行日記は存在しないものと 思われていた。そして、書簡やはがきの類もないと思われていた。今度の旅行では酉夫 人を同伴してのもので、前回のように夫人宛て絵はがきはないものとみられた。あには からんや、最近、大佛記念館の倉庫奥から出てきたダンボール箱に旅行日記と絵はがき が収められているのが見出された。 絵はがきは酉夫人に宛てた 14 通と、留守宅を預かる2人の家政婦に宛てた 2 通であ 5 る 。夫妻のパリ到着にタイムラグがあるために、大佛の紀行文(絵はがき)が残ったの だ。この他に、遅れてパリに着いた酉夫人がパリから家政婦2人に宛てた絵はがきが 19 通ある6。絵はがきは何かの事情で家政婦から大佛家に返却されたものとみられる。次に 述べる旅行日記が素っ気ない記述であるのに対し、絵はがきのほうは大佛の旅行気分や 見聞が綴られていて読んで楽しい。 旅行日記は文芸春秋社製 1961 年版「文芸手帳」で、縦 7cm×横 12cmの大きさで ある。見開きページで1週間分の記載ができるようになっている。3 年前の旅行日記と 比べると、記述は訪問先とその日の行動に関するメモ程度で、見聞に関するものはなく、 画家の佐藤敬と荻須高徳がそれ。大佛の 1961 年のパリ滞在時にも 2 人は案内役となる。 酉夫人は大佛次郎より 20 日ほど遅れて 5 月 10 日にパリに到着する。したがって、大佛がパリに 滞在した当初はまだ鎌倉の自宅に居たわけである。 酉夫人宛ては 4 月 21 日から 4 月 30 日まで 14 通、 大佛留守宅の家政婦さん宛てが 2 通の合計 16 通。酉夫人は 5 月 9 日にパリに向けて出発し、翌 10 日に大佛次郎に合流している。 6 全 19 通のうち、最初の 3 通は「大佛次郎」宛てに出し、それより後は伊藤光子、陽子宛てとなる。 4 5 5 きわめて簡素である。しかし、備忘のために書いたメモとはいえ、大佛のパリでの足跡 を追うのに充分な資料ではある。 さらに、存在しないと思われていた写真も出てきた。写真がないについては、パリ で大佛夫妻の世話をした画家佐藤敬と荻須高徳がともに「写真は失敗だった」7と、帰国 後の大佛宛ての書簡で書いていたからだ。ところが、ダンボール箱のなかに数こそ少な いが、若干の写真が出てきた。それには、大佛自身が撮影したものと、大佛以外の誰か が撮ったものとが含まれる。前者はカラー写真だが、色彩は前回旅行時の写真ほどに鮮 やかではない。 このほかに、大佛がパリから持ち帰った地図、演劇プログラム、美術展カタログ、 図書目録、書籍、旅行ガイドブック、美術館絵はがきなどがある。文末の一覧表を参照 されたい。 さらに、このときの大佛の動静を伝えるものとしては、前出 2 人の画家が大佛に書 いた手紙とはがきがあり、さらに荻須高徳が残したメモがある。荻須メモについては、 筆者(松井)が 1998 年冬にパリを訪れ、美代子夫人から聴き取ることができた。 その他、パリ滞在中の大佛次郎の消息および「パリ燃ゆ」関連史料の収集について ふれる資料に次のようなものがある。 竹谷富士雄『パリの陽だまりから』 (芸立出版、1978 年) 佐藤敬「パリ取材の大佛さん」 (ノンフィクション全集月報No.1971. ) 大佛次郎「荻須高徳さんとパリ散歩」 (『大佛次郎自選集』現代小説月報No.6) 角田房子「大佛先生とパリ」 (『大佛次郎時代小説全集』付録月報、9-1) 荻須高徳の大佛宛て書簡 2 通(①1961 年 8 月 14 日;②1965 年 1 月 13 日) 佐藤敬の大佛宛て書簡 3 通(①1960 年 5 月 17 日;②1961 年 9 月 20 日;③1961 年 10 月 10 日) 2. パリの宿 1961 年 4 月 21 日午後 11 時半、エール・フランス機で単身で羽田を発った大佛がア ンカレージ経由でパリのオルリー空港に到着したのは 4 月 22 日午前 9 時半8。到着の夜 は 3 年前の常宿オテル・ル・ロワイヤルで迎えている。ここは、画家佐藤敬の住居に近 いモンパルナスにあり、住み慣れた場所である。大佛は今度の滞在については妻同伴で あることもあり、ホテル住いではなく、台所付きのアパートを借りるつもりであった。 そのことは佐藤敬の 1961 年 3 月 24 日付の絵はがきでわかる。 「・・・ホテルも色々考えています。奥様が見えられるので大兄の巴里の旅行者の滞在用のアパート、 風呂、便所、電話、台所つきのもの、月に八・九万フランもあり、或は台所つきホテルもありま す。アパートは小磯君がいた所ですから悪くないですが、何しろエトワールでモンパルナスから 遠いです。それとも一時、又ロアイヤルにして其後きめますか。では又書きます。 」 大佛は現地パリで現像と焼き付けを頼んでいた。多分、技術上の理由から、当時は現地のほうが優 れていると思ったからであろう。 8 時差を考慮すると 18 時間かかったことになる。経由地がアンカレージであることを考えれば通常 の渡航時間である。 7 6 つまり、台所つきアパート探しはすでに渡航前に目鼻がついていたようだ。大佛が 夫人と合流するのは 5 月 10 日だが、そのときはすでにアパートに身を落ち着けている。 旅行日記での宿探しの記述は皆無で、夫人宛て絵はがきでも僅かしか出てこない。夫人 宛て絵はがき(4 月 27 日付)によれば、 「高野さんの話だと、アパートの方がずっと安くつくと のこと、ホテルの部屋代だけで三人で月三十五万円はかかる。アパートだと三間で十万ぐらい。 」と ある。高野さんとは、岩波映画の支配人高野悦子で、当時パリ留学中だった。 「三人」に ついては後述に譲る。だから、佐藤敬が目を付けたアパートに住むことを決めたのであ ろう。4 月 30 日の絵はがきに「アパートを見て大体きめて来た。鰹ぶし一本、味の素などあると よい、つけものと。 」9とあるからだ。 佐藤敬のはがきに「小磯」とあるのは画家小磯良平のことである。荻須美代子の話 によれば、ここを紹介したのは竹谷富士雄である10。小磯、竹谷、佐藤、荻須いずれもパ リ在住の画家であり大佛の顔なじみであった。竹谷は大佛次郎より少し遅れてここに移 ってきて、翌年まで住むことになる。竹谷の随筆書『パリの陽だまりから』によると、 こう書かれている。 「 (ここに)林武さん、小磯良平さんもおられることがあった」 「大仏さん夫妻は表通りの部屋に おられて、向かい側の八百屋の白猫を窓越しに眺めておられたが、私たちの部屋は中庭に面して いて、毎朝鳩の訪問で目をさました。11」 アパートは、エトワール広場に近い「レジダンス・コペルニク」という名のアパー ト。コペルニクとは天文学者コペルニクスのことで、アパートの所在地パリ第 16 区コペ ルニク通りから名をとっている12。この通りは、その全体がセーヌ川に向かって下る坂道 となっている。このアパートは現在、 「ヴィクトル・ユゴー」という名の三ツ星ホテルと なっている。真ん前に大きな貯水池があるが、四辺を高い壁で囲まれた構造になってお り、ホテルからは壁のみが見えるわけで、ホテルからの眺望は決してよくない。ただ、上 階からは右前方に凱旋門が望め、眺めはこれによりいくぶんは救われる。このアパート については、大佛次郎自身が随筆「八百屋の猫」で詳しく述べているが、そこからの眺 望については一言もふれていない。 パリ滞在中の世話をしたのは前回の旅行時と同じく、佐藤敬とその知友ジャクリー ヌ、荻須高徳夫妻であり、その他にパリ在住の日本人として朝日新聞パリ支局員のアン ビル笹本と斉藤がいる。どういう人物かはわからない。前回と比べ世話人の数は少ない。 それだけ大佛にとってパリが勝手知った場所となったということであろう。出会った人 9 大佛夫人が来仏したとき、 「味噌、醤油までもってきた」と、大佛次郎が笑いながらいったという。 10 荻須夫人談によると、このアパートは本来、長期滞在者用のもので少なくとも半年ぐらいを単位 として契約するものだったという。 『パリの陽だまりから』107 ページ、138 ページ。大佛次郎のネコ好きは有名で、絵はがきでも旅 日記でもネコの話が出てくる。随筆「八百屋の猫」はこのアパートでの話。それは、わざわざ日本か らタタミイワシを空輸してもらい、ネコにやるという物語。 12 大佛の旅日記で 4 月 22 日の前のページに、 「パリ十六区、コペルニク通り 19 番地、レジダンス・ コペルニク、電話 Klé76-10;Klé 28-73」という走り書きがある。これが出発前に記されたものであ るとすると、大佛はすでに出発前にここを宿の候補に入れていたことになる。 11 7 物には佐藤敬とジャクリーヌ、荻須夫妻、作家の角田房子(夫妻)、高野悦子(姉妹) 、竹 谷富士雄(夫妻) 、歴史家の二宮宏之、鎌倉美術館の吉川逸治、画家の林武、朝日新聞の 斉藤?、与謝野駐仏大使らがいる。酉夫人は鈴木という若い女性を伴っていた。この人 は雑誌社に勤務し、大佛夫妻の秘書だという。先ほど宿探しの便りの中で、大佛次郎が「三 人」といっているのは、この鈴木という女性も一緒に住むつもりでいたからだ。しかし、 鈴木が住んだかどうかについては不明である。風邪で寝込んでしまった酉夫人を残して、 大佛が高野悦子と鈴木を連れてオンフルールに旅行した以外はわからない。 3. 厳戒体制下のパリ 旅行目的は「パリ燃ゆ」執筆のための取材だったが、大佛は図らずも歴史的大事件 を目撃する。それは旅行前も旅行中も始終付きまとう不安の種であったらしく、酉夫人 宛て絵はがきのなかでも物情騒然たるパリの様子を書いている。 大佛は朝日新聞 4 月 27 日号において「アルジェリア反乱とパリの表情」と題して現 地報告を発表。そして 5 月 7 日号でも「パリのその後」と題して続編を発表している。 この 2 つの記事はそれぞれ「パリ通信(1)」「パリ通信(2)」にまとめられ『大佛次郎 随筆全集 第 2 巻』 (朝日新聞社、昭和 49 年) 、刊行された。 この現地報告は朝日新聞との契約で最初から執筆するが約されていたのかもしれな い。他の主題はさておき、パリにおける物情騒然たる様子を主テーマに集中的に書かれ ているからである。つまり、大佛のパリ滞在に際し、朝日新聞が臨時特派員として執筆 を委託したと考えられる。大佛次郎は今回の旅行について、朝日新聞から 7,000 ドル、 つまり 250 万円の金を受け取っている13。2 か月間の取材旅行にしては破格の待遇といえ よう。 当時のフランスは植民地アルジェリア独立をめぐって大きく揺れていた。政治の流 れは独立承認に向かっていたのだが、独立すればアルジェリア在住のフランス人が利権 を失うことになり、母国政府に独立反対の要求を突きつけ、国内でテロ行為を働いてい た。人の集まりそうな公共場所、ホテル、鉄道、劇場などに爆弾が仕掛けられ、まさに 世情騒然と言った按配であった。大佛がパリに着いて最初に書いた「アルジェリア反乱 とパリの表情」において次のような記述が見える。 「パリに向かう飛行機の中でフランス新聞を読むと、パリの近くの小さい都市の2ヶ所で、市役所 に何者かが時限爆弾を仕掛け、結婚式を挙げていた花嫁や立会人に死傷者があったと出ていまし た。・・・[中略]・・・パリに着いて夕方になってみると、アルジェリアのフランス軍首脳が本国に そむいて、クーデターを起こしたと知らせがありました・・・[中略]・・・次の朝になると、私が前 日に降りたオルリの飛行場とパリ市中に3つの鉄道駅で、それぞれ時限爆弾が炸裂し,多数の死傷 者が出ました。 」 「月曜日の朝[注、4 月 24 日]になると、前の晩の夜中の 2 時に、アルジェリアの反乱軍がパリ の空港に落下傘部隊を降下させる危険があるからサイレンとともにパリ市民は警戒態勢にはい るようにと布告がでたのを知りました。 」 13 旅日記に 4 月 29 日付でそう記載されている。 8 「今日は 4 月 25 日・・・反乱軍の将軍たちのやり方は確かにきわめて愚劣で、追い詰められた野獣 のせっぱつまった行動のようにみえます。・・・半世紀以上昔のドレフュス事件の将軍たちの頑固さ と少しもかわっていない。 」 「機関銃を抱いた武装憲兵が立番しています。今日(4 月 28 日)になってもそれで、私が朝の散歩 に出る道路の裏にも、昨夜は何もなかったなという表情で、ジープやトラックが夜露にぬれて隠れ て並び、歩哨が警戒に立っています。それにしても、事件が悪く拡大しなかったのは何よりでし た。 『反乱は終わった』と大見出しで朝刊に出た夜には、昨夜までガラ空きだったレストランに も人があふれ酔ってでたらめに大きな声で歌う客と、ほかの客との間に立って服の胸グラを取る 喧嘩さえ合ったのは珍しいことでした。 」 大佛次郎によるパリ騒動についての報告はこれでおしまい。その後の旅行日記、絵 はがきで再論されることはない。心配したわりに反乱行動が素早く鎮圧され、パリに平 穏が戻ってきたからだ。 4. 旅行の概要 では、大佛次郎の足跡のあらましを見ていこう。文末の一覧表「大佛次郎の旅行日 程」を参照されたい。これを作成するため準拠したのは既述の書類である。大佛次郎の 足跡を辿るのは絵はがきよりも旅行日記のほうが頼りになる。前述のとおり、日記の記 述は極めて簡素であるが、訪問先はもとより同行者を書き留めているからである。途中、 5 月中旬において連続して 4 日間ほど記載がなく足取りのわからない期間がある。まち がいなくパリ滞在中のことである14。 日本~パリ往復の移動のための 2 日間を除くと、旅行は全 61 日間となる。パリ滞在 が主だが、途中 5 月初旬に一泊旅行でロレーヌに出かけ、6 月 1 日より 12 日までマドリ ードと南仏へ旅行している15。これを差し引くとパリに滞在したのは正味 47 日間となる。 スペインと南仏旅行は「パリ燃ゆ」取材旅行と直接関係しない。しかし、ロレーヌを訪 れたのは普仏戦争の古戦場査察のためであり、 「パリ燃ゆ」取材に大いに関連がある。 パリ・コミューンの故地の実地検証も「大佛次郎の旅行日程」に出ているが、これ についての論評は後述に譲りたい。 5. 絵はがき (パリ便り) 3年前の米欧旅行では酉夫人を連れていってない。当初、同伴の予定だったが、夫 人が病気になってしまい、結局、大佛次郎は単身でまわことになった。3 か月近く留守 番するはめになった夫人を不憫に思い、大佛は合計 166 通の絵はがきをせっせと送りつ 大佛夫妻がヴェルサイユに行っていることは確実であり(写真あり) 、日記記載の欠けている4日 間(5月中旬)のうちに行った可能性が高い。 15 マドリード行きは佐藤敬の誘いによるものと推定される。 1958 年 9 月 11 日付けの大佛次郎宛ての 書簡は、「今度大佛さんが来巴されたら、こうした村々を通ってスペインまで行きたいものです」とあ る。因みに 1958 年の初欧州旅行時に、イタリアへのドライブ旅行に誘ったのも佐藤敬である。 14 9 づけた。そのお蔭で、旅の模様は克明に記録されることになった。1961 年の渡仏は夫人 同伴の旅行であったが、夫妻の出発にタイムラグがあり、大佛次郎は最初の 10 日間だけ はパリから夫人宛てに絵はがきを送りつづけたため、その期間だけは大佛の足取りがか なり細かく掴める。しかも、多少、観察記録も含められている。その後は絵はがきを出 さなくなったため、大佛の動静は旅行日記を頼る以外に知る術はない。しかし、前述し たように、この旅日記には訪問先と同伴者のみが書かれているだけで、言わば骨格を示 しただけで肝心の中身が抜けている。一方、今回のパリ滞在を題材にした随筆では、見 聞についてかなり克明に書かれているが、主題が限られているのが惜しまれる。 それを今さら嘆いても仕様がないので、ともかく、絵はがきから幾つか選んで紹介 しておきたい。さきほどのパリ騒動報告と並んで、大佛のパリ便り第一報である。 「パリに着いた。やはり疲れたホテルは前の時のへ来た16。少しばかり傾くようで不安だったら ヒコウキ涼しいのでかぜ気味。町はマロニエやリラの花盛り。新緑が美しい。セーヌの河岸の レストランへ生き庭で食事をしていたら、小雨が来た。[四月]二十三日月曜朝」 「やっと気分なおった。一時はまたかと思いイシャに行くことまで考えた。昨日の日曜は郊外の 森へ見に行く。帰ってひるね。夜八時に起き公園を散歩しブイヤベエス、アスパラガスを食べ一時 間ほど市中をドライブで。香水とローションをふんだんに使用中。今日はインキを買って来よう。 四月二十三日」 妻宛て絵はがきでは、次に示す 4 月 25 日付の2通のみにおいてパリ騒動に関する記 述が見える。しかし、それが最後で、それよりのちは物情騒然が話題になることはない。 慣れてきたことと、クーデターが失敗しその反乱が鎮圧されたからであろう。 「ニ十五日朝六時に起きて朝日の原稿を書いたのでねむい。十二時に[注、判読不能]電報で送 る。騒ぎの為まだあまり歩いていない。町の物情を見物するだけであとは眠ったり時間の長い食 事をしたり。しかし働き者さ、これはシャンゼリゼ通り、凱旋門がのぞける。こうしたカフェで よく腰かけ時を過ごす。 」 「旅客機が出るようになった。あぶないところに入って来たが先ず心配なかろう。いざとなった らスイスやイタリアに逃げ込む。敬の自動車があるならストライキで汽車が出ないでも平気。少 し様子を見て出発するといいが、木内、秋山と相談したらよかろう17。 」 「二十六日。雨が多い。昨夜(ニ五)は映画バルドオを見に行った。今日はコミュンの最後の場 所のペエルラシェーズを見に行くが、また降りそうに曇っている。まだルーブルにも行かない(コ ノ画)が自動車でニ・三度通っている。このホテルの電話番号は ROYHOT-Paris 52 覚えておく と人に頼めば連絡出来る。電話も通じるらしい(一万円ぐらいすぐ話すそうだ) 。 」 モンパルナス駅に近い「オテル・ル・ロワイヤル」のこと。 末尾の一節は、遅れてパリに発つ予定の酉夫人を気遣っている。木内とは木内良胤のこと。秋山と は朝日新聞の大佛番の秋山節義で、 「パナマ事件」と「パリ燃ゆ」を担当した。 16 17 10 「四月二十七日。昨二十六日は車がなく、歩くより他はない広い墓地18で雨にあいぬれた木の下に 雨宿りしていたら、偶然に老人の研究家と出あい、雨の中を一緒に歩いてくれて助かった。夜は ユネスコの新しい音楽会に行き音楽より会場の空気が楽しかった。今夜はバロオを見る。ペンを 買うことにしよう。 」 「バロオ一座のパントマイム(バロオは出なかったが)面白かった。桜ん坊やアスパラガス(た ま)がうまいのでよく食べる。今日(二十八)はまた墓地歩き、夜はバレエを見る。ひととおりの もので期待したいが、酒をのむ時間が長くならないからよい。・・・」 「新しいペンを買ったのでインキがよく出る。金が二千ドルとどいたそうだ。まだ要らないが明 日(二十九)貰いに行く。原稿をまた書いて今朝航空便で送った。それからまた墓地を歩きに行 き石道で足を痛くした。案内のジャクリンは遂に靴をぬぎはだしで歩いたのは気の毒(二十七月 曜) 。 」 「昨日のバレエはきれいだった。ロシア、イギリスと違って洗練されている。今日は朝日から金を 受取りやはりアパートの準備をすることにした。買物(市場)は教えてやる。野菜物や肉がある。 この葉書が着く頃もう出発ではないか。今夜は天長節で大使館へちょいと顔を出す。四月二十九 日。 」 「出発迫ったことでいそがしいでしょう。僕でさえ不用の物を持ち過ぎた。買えばいいので日本 出来の女の洋服など持って来て損をする。アパートを見て大体きめて来た。鰹ぶしを一本、味の 素などあるとよい。つけものと。留守中のこと、この間話したとおりに豊島君19、おはんちゃん20 に時々頼むとよい。 」 夫人宛て絵はがきはこれでおしまい。パリで夫人と合流してからはあと 2 通だけ留 守宅の家政婦に絵はがきを送る。最初の便は光子、陽子宛てのレストランのトゥール・ ダルジャンの絵はがきに書いたもので、後便はニースからの絵はがきである。それぞれ 面白いタッチなので、紹介しておく。 「306,422/423 これは僕らの食べた鴨の番号。鴨料理の古い店で有名。ツール・ダルジャン(銀 の塔)五月三十一日、 古い店で六階に上ル。窓の下にセーヌ河が流れ、ノートルダム寺院が見 える。これからスペインに僕だけ行き、二十三日の夕方鎌倉に帰ります。 」 「六月八日 ニースにて。南フランスの海水浴場に来ています。熱海と鎌倉逗子を一緒にしたよ うなところ。暑いが元気でいます。四日ばかり、この附近を廻ってパリに帰り、最後の用事を果 して帰国します。モナコでいい捨猫を見たが、ひろうわけには行きませんでした。千葉さんによ ろしく。 (大佛) 」 ペール=ラシェーズ墓地。 光風社の豊島清史。 20 日本舞踊家の武原はん。鎌倉の大佛邸のすぐ近くに住んでいた。大佛は後にこの武原邸を買い取り 茶室として使う。 18 19 11 絵はがきの筆致を全体的にみたとき 3 年前のパリ便りと比べ、パリに慣れたという こともあって感動に欠ける面があり、大佛の記述は全体におとなしい。しかし、持ち前 のひょうきんな性格を物語る一節もあり、また大佛の好奇心の旺盛さや演劇好きが随所 に出ている。前回同様、食い物の話もしょっちゅうである。観劇と有名レストランめぐ り、こうした生活スタイルは前回の旅行時もそうだった。さらに、インクとペンで困っ ているという話が出てくるが、大佛はこの種の道具にうるさい。前回旅行時にも同じよ うな苦労話が綴られている。 上記引用文にあるように、墓地めぐりを 4 月中に二度行っている 5 月末にもう一度 行なう。 「パリ燃ゆ」関連の取材をコミューン騒動最期の舞台ペール=ラシェーズ墓地か ら始めているところが特筆に価する。つまり、大佛の頭の中ではすでに作品の筋立てが できあがっていたのではなかろうか。あらゆる文学作品では ― 文学作品に限らないか もしれないが ― 締めくくり方がいちばん難しい。それを熟知している大佛は何はさて おき、パリ・コミューンの闘士たちが最後の抵抗を試みたペール=ラシェーズの査察を真 っ先に行なったのであろう。この時の様子については、 「九十年目」と題する紀行文に詳 しく出ている。 「パリ燃ゆ」に直接関わることなので、節を改めて論じることにしよう。 Ⅲ 「パリ燃ゆ」の舞台めぐり 1. メニルモンタンとベルヴィル A. ペール=ラシェーズ墓地 「九十年目」という紀行文は『朝日ジャーナル』の 7 月 23 日号に掲載された。すでに 大佛次郎がパリから戻って「パリ燃ゆ」の執筆を準備している時分である。これに、ペ ール=ラシェーズ墓地の探訪について書かれている。大佛のペール=ラシェーズ墓地訪問 は 3 度だが、最初は 4 月 26 日に単身で、二度目は 28 日にジャクリーヌと同伴で、三度 目は単身で 5 月 28 日、 「連盟兵の壁」の前での式典見物のため訪れている。 「九十年目」 では二度目と三度目が詳しく書かれている。最初の探訪については夕方であったらしく、 細かくみていないようだ。 「九十年目」での記述は三度目の 5 月 28 日から始まる。 「ペール=ラシェーズの墓地へ行った時は、一人でなく、ソルボンヌ大学で文学の勉強をして いるフランス人の娘さんに一緒に行って貰った。ペール=ラシェーズの墓地は、コミューンの 人々が市中に雪崩れ入った官軍に追い詰められて最後の拠点として死守したメニールモンタ ン、ベルヴィルの丘の一角にあって、この墓地の中に逃げ込んで抵抗は悲壮に続いた。武装の 完全な正規軍隊に向って、町の男女、子供まで加わって必死の抵抗をしたのだ。掃討されつく して最後に屈服した人々を、墓地の東北隅にある石の壁の前に立たせ、その場で、一斉射撃の 銃弾を浴びせた。 「同志の壁」と呼ばれて、その後、記念されている場所である。毎年 5 月 28 日(コミューン最後の日)にはパリの労働者が行列を作って、この「同志の壁」の前まで行進 する。 12 …二度目の訪問はコミューンのリーダーの一人で小説も書いたジュウル・ヴァレスの墓があ るのを知って、それを探しに行った。…ペール=ラシェーズの墓地は広い。大きな丘の斜面に 田舎の小さい都市ぐらいの広さはあろう。…どこに誰の墓所があるか、案内なしに探し出すの は困難であった。門を入るところで門衛が粗末な地図を二百フランで売りつける。鉛筆でしる しを付けてあるところへ行けば、有名人の墓があると言う。…墓所の間から誰か出て来て、雨 やみして道の角にあった石の堂の下に立った。私たちもそこに逃げ込むことにした。血色のい い顔に顎まで白い髯で囲んだかなり老人のフランス人で、日本人かと尋ね、コミューンのあと を訪ねて来ているのだと私の連れが話すと、自分は隠居してこの近くに住み、毎日この墓地を 歩くので、この土地にねむる死者たちに自然と関心を抱き、その研究が自分の老後の仕事とな った。ペール=ラシェーズの沿革を調べて著述したこともあると、おだやかな話し振りで言う。 」 B. 最後のバリケード 大佛次郎のパリ東北街区の古跡めぐりの第二弾は 5 月 24 日、佐藤敬のガイドで行なわ れたメニルモンタン、ベルヴィル地区の探訪である。 「官軍の包囲が圧縮されてからコミューンの人々に残った陣地は、メニールモンタン、ベルヴィ ルの地区だけであった。ここは労働者街である。私が前に訪れた時はこの地区の古い家の色調を 好んで描く画家の荻須君が案内してくれた。今度は佐藤敬さんと出掛けた。いつの間にか、新し い集団住宅が現代風に建てられて、もとのメニールモンタンの面影は崖を降りる階段に子供たち が遊んでいることや、毀れそうに残っている木造の家に…うかがわれる。 」 ここで、ベルヴィルに住む佐藤敬のベルギー人の友人からもらい受けた絵はがきが 機縁となって、その絵はがきに出ているコミューン最後の抵抗の砦のあった場所を探し に出る。トゥルティル通りとランポノー通りが交差してできる十字路がその場所である。 所在地がわからず近くのカフェで休みがてらに絵はがきを眺めているとき、その絵に描 かれている建物の形が目の前にある家の形と同じで、40 番地と掲げられている酒屋も絵 のままであるのを発見する。 「カウンターに立って酒を飲んでいた客の一人が、のぞきこんで見せてくれと言って手を出した。 『コミューン — 1871年』と彼は読んで、おどろいたように仲間の顔を見た。 『なるほど、この町だ』と彼は画を見て、外と見くらべる。コミューンの一番最後まで残って 抵抗したバリケードがここだったとは、そこのカフェの者も知らなかった。亭主までがカウンタ ーの板から乗り出して絵葉書をのぞき込んだ。 」 C. 「人質荘」 同日、大佛次郎と佐藤敬の二人はベルヴィル丘を昇ってアクソオ通りに向う。 「アクソオ街は、ペール=ラシェーズの墓地の西側の坂を、更に遠く丘に登った地点を通ってい る。墓地の中で闘っている人々と連絡は早く断絶したろうし、また包囲を圧縮され兵力を寸断さ れて司令部も孤立してしまったのだ。…アクソオ街では、壊滅の数日前にコミューンで捕えてあ った人質を一部の者が引き出して銃刑にして、これが後日官軍が捕虜となったコミューンの者を 何千人と虐殺したむごたらしい事実を、後から正当化する口実にされた。この場末の街の名はそ れ故、記憶された。私が行ったのは暑い日だったし、アクソオ街はまったく場末らしい乾いてほ 13 こりっぽい町で、倉庫や工場が多く、トラックがしきりと通るのが目立った。パリの市中では白 昼トラックを見ることがないのだ。 」 大佛らはここでも人質殺害の現場探しに奔走する。だれに訊いてもわからないので、 諦めて引き返そうとしたとき、老人がふとした洩らした「お寺」という言葉を頼りに、 「人質荘」 (Villa de l’Otages)21を探し当てる。 「ちょうど、物陰から、黒い服の坊さんが出て来た。坊さんはさすがに人質たちが殺された場所 を知っていた。寺の裏が小学校の教室である。それをまわると、空地の真ん中に石を積んだ昔の 塀のなかば毀れて低くなって残っているのを新しくコンクリートの屋根を築いてかこってある。 『この塀の前で人質を銃殺したのです。そして、この井戸に死体を投げ込んだのだそうです』 井戸には金網が張ってあった。底が浅く水もなく乾いている。そばの砂地に生きた亀の子が一匹 静止していた。…私たちは、やっと目的の物を見つけた。殺された 64 名の人質の名前がペンキ で並べて書いてあった。私は、何かの本の写真で石の板に人質の名を記したのを見たことがある。 もとは、それが壁に嵌めて、場所を明らかにしてあったはずだ。…コミューンが軟禁してあった 人質はパリの大司教を初め 64 名であった。…コミューンの側では政府側に監禁されている社会 主義者ブランキ一人とこちらに在るパリ大司教以下 64 名ンオ人質と交換しようと申し出て、テ ィエールに拒絶されたのである。ペール=ラシェーズの墓地の凄惨な白兵戦、その壊滅が次の日 に迫った 5 月 26 日のことである。官軍の圧力が刻々と烈しくなり、コミューンの抵抗がベルヴ ィル地区に集結した灼熱した空気の中で、この人質の処刑が行われたのである。その 2 日後に、 コミューンは挫折した。 私はもとの掲示板の石の破片を地面から拾って見た。偶然に1871と年号がはっきりと出て いた。記念に、と思い、舟便の荷物にいれて日本に送った。 」 筆者は「人質荘」には過去 3、4 度足を運んだが、そのつど周りの様子が変わってい き、今では付近一帯に囲いが施され、問題の井戸に接近することはできなくなっている。 アクソオ通りに面したところに、史跡であることを告げる石碑が立っているにすぎない。 以前はそういうことはなかったと記憶している。ヴィラは私有地の一種で、無断で中に 入ることはできないが、筆者は一度だけ(1982 年)無断で中に入り、井戸の傍まで近づ いて写真を撮ることができた。 掲示板の石の破片は行方不明である。もし残っていれば、大変な宝物になるはずだ が、それがどこにいったか、ようとして知れない。 2. ゴンクールの家 前出「九十年目」には、大佛がゴンクールの家を訪れたときのことが克明に書かれ ている。ゴンクールは普仏戦争の開戦時にも、パリがプロイセン軍に包囲されたときも パリにとどまって、パリ内部の状況変化の貴重な目撃者となった。彼は日誌にそれをつ Villa という語の和訳は難しい。もともとは「別荘」という意味。これについては大佛自身が「九 十年目」で述懐している。 「人質荘」は元カフェ・コンセールの所在地。コミューン騒動のとき、ロケ ット監獄から連れ出された人質がここに連行され殺害されてから、この名がついた。コミューンから 2年後にイエズス会がこの地を買い取って教会堂を建てた。 21 14 ぶさに記録し、のちにそれを公刊した。大佛次郎は籠城下で食糧難の苦境に喘ぐ市民の 姿を、このゴンクール日記の記述を借用して追跡した。 「九十年目」を発表したこの段階 (昭和 36 年 7 月 23 日)で、パリ市民の酷難の模様を書いていることから、すでに「パ リ燃ゆ」でこれを用いることを決めていたであろう。 大佛がゴンクールの家を訪ねたのは 5 月 7 日のことである。大佛のコペルニク通り のアパートから歩いていけなくはないところにある。同じ日にバルザック邸も訪れてい るが、どちらを先に訪ねたかは定かではないが、旅行日記にはゴンクール邸、バルザッ ク邸の順に記されているので、訪問順もおそらくこの順序であっただろう。 「ゴンクールの家のあったモンモランシー街は、昔のパリを囲んだ城壁があった地帯で、まった くの町外れ、オーツイユ、ブーローニュの森の眺望をすぐ目の前に見ていたはずだが、現在ヴェ ルサイユ行きの鉄道線路が土手の下を通っている向側は十階に近く高いアパートの建築が壁の ように隙間なく立ち並んで、森も競馬場も全然見えなくなっている。大げさに言えばダムの堰堤 の下に立ったような感がある。ゴンクールの旧宅も新しい建物の間に挟まれている。それと知ら ずに眺めて古い佇まいから、この家らしいなど、すぐに考えられた。玄関の上の壁にゴンクール 兄弟の像らしい横顔の浮彫がメダイユのような円形の中にはめてある。 …私は日記を読んで想像した街とは、まったく様子が変わったよそよそしい街を歩いていた。 現在美しく繁っているブーローニュの森でさえゴンクール日記ではパリ籠城の時、市民が冬を越 す燃料がなくて町のお内儀さん達が出かけて森の木を伐り薪に束ねて運び去ったので、森は根っ こばかり残した荒涼たる景色になっていたと言うのである。今は池を囲んで鬱蒼とした夏の繁り を九十年後の私に見せている。 」 3. メッス 大佛次郎は「パリ燃ゆ」連載が始まって半年後、昭和 37 年 2 月 3 日の朝日新聞 PR 版で「メッスの一夜 ― 『パリ燃ゆ』について辰野博士へ」と題する文章において、古 戦場のメッスを訪れたことを記している。辰野博士とは、大佛次郎が帝大学生時代にフ ランス語を教わった仏文学の辰野隆教授である。 「メッスの一夜」の後段で、 「これからス ダン開城、九月四日革命、パリ防衛戦について書くつもり」と書いていることから、これを書い たのは、普仏開戦から八月政変までの諸事件を書き終えた時点であろう。 大佛は、冒頭の部分、叙述の説明をする箇所で、自分が格闘を続けていることを訴 える。 「 『パリ燃ゆ』はまだ、ほんの前奏の部分で、主題に入っておりません。これからという言う ところまで、やっと漕ぎつけました。しかし、今日まででも、ジャングルの中に迷い込んだよ うな苦労でした。草を分け、藪をきりはらい、絡まる木の枝の間に細い路をつけて来たような ものです。本題に入ったら更に大きな森の中に立ったようなことに成りましょう。しかし、自 分が求めて始めた仕事ですから、気力をふるって格闘を続けましょう。 」 多分、この時の大佛にはまだ先が見えていなかったであろう。彼がそのとき執筆し ていたのは、普仏戦争のアルザス=ロレーヌ戦線におけるメッス攻防戦の箇所である。そ こで辰野博士への説明も、メッスへ行ったときの思い出話になる。 案内人は佐藤敬で、自動車旅行である。ヴェルダン経由でメッスに辿りついたのは 15 夜の 10 時になり、どこのホテルも満員で泊めてくれない。そこで、心細い気持ちととも に来た道を 50 キロメートルも引き返したところの小邑にやっと宿を見つける。午前 2 時のことだった。その村の名は記されていない。大佛は「朝になって起きて外を見るとモー ゼル川に沿った段丘の畑の中」であることを知る。ヴェルダンへ引き返す途中は山ばかりで あってモーゼル川は存在しないので、彼らが停まったところは、メッスをモーゼル川沿 いにナンシーに向かって南下した場所であったであろう。50 キロメートルも行ったとい うのはオーバーの言い方で、恐らくはその半分くらいだろう。そうすると、ポン=タムソ ンという町に出くわす。ポン=タムソンはかなり大きな町であり、ここに着いていれば、 そうと確認できたはずである。それゆえ、二人はメッスから見て、この町の手前に位置 する集落のどこかに宿を見つけたに違いない。 次いで大佛の叙述はメッス市の描写に移る。 「私はメッス市の地形を眺めました。山地に囲まれ、要塞年にふさわしい様子でした。市の中央 の寺院は、ナポレオン三世がメッスを退却して離れた日曜日の朝にもミサに行ったものでしょ う。三度もあった戦争の破壊のせいで、窓の絵ガラスの昔からのを失くしたと見え、現代のパ リン画家のデザインで造ったものが入っています。抽象画風の新しいものも合って,古風な石の 伽藍の窓なので、ちょっと意外に思って見ました。 」 つづいて、シャンパーニュ州とロレーヌ州の沃野の説明に移るが、大佛は、静穏な フランスの田舎の風景の中に戦争の影を見出す。 「畑の中に夥ただしい十字架の墓標を立てつらねた墓地が林の陰、低地の草野に点々と目立つ のが、遠く国内各地方から動員されて来て、この野辺に戦死した人たちのものなのでした。 」 大佛はふたたびモーゼル川を上ってナンシー経由して、パリに戻る。したがって、 ナポレオンが破れ捕虜となったスダンには行っていない。普仏戦争の天王山はこのスダ ンでの戦いである。大佛次郎がここを訪れなかったのは残念に思われる。もし、踏査し ていれば、 「パリ燃ゆ」におけるスダン戦の描写はもう少し写実性と現実味を帯びたはず である。大佛は、ナポレオン三世の侍医アンジェールの記述を借りて、スダン城を取り 巻く地形をこう書いている。 「城と言っても、まだ大砲の弾が遠くまで飛ばぬ旧時代の城砦であった、四方を囲んでいる丘陵 から近代火砲の攻撃をあびせられては、ひとたまりもない。参謀が形容したとおり鼠落しの穴に 在って、今は歴史的記念物でしかない城砦である。 」 スダン城は実際は四方を丘陵に囲まれていない。せいぜいのところで三方、正確に 言うと北側と東側の二方である。南側はムーズ川を挟み、それより以南はたしかに丘陵 がつづくが、ここからスダンを砲撃するのは遠すぎる。だから、二方である。二方とは いえ丘地を先取されたほうが戦況は決定的に不利になる。事実、そのように丘地を占領 されることによって戦況は仏軍不利に展開していくが、戦闘は最初から仏軍がスダン城 に籠っていたのではなく、戦闘に備えて仏軍は丘地を押さえていたのである。しかし、 敵の砲撃により徐々に陣地を失っていくのである。大佛が現地査察を行なっていれば、 戦闘描写はもう少しニュアンスとリアリティを加えたにちがいない。 16 大佛の事件現場の査察で何らかの形で記述されている箇所はこれですべてである。 普仏戦争とパリ・コミューンの戦闘にかかわる重要地点を押さえているのは頷けるが、 二か月間の取材旅行にしてはどこか物足りなさを感じる。普仏戦争の戦場はフランス全 土の 3 分の 1 ほどに亘っているし、パリ攻防戦は市郊外の東西南北で繰り広げられてい る。さらにコミューンの戦闘場所についても市内のほぼ全域にわたるのだ。歴史小説を 書くのに、わざわざ外国にまででかけ現地査察をするというのは実に立派なことであり、 これに注文をつけるのは“ないものねだり”になることを百も承知のうえで、大佛の探 訪でどこが欠けているかを指摘しておきたい。大佛の別のメモ帳(今は失われてしまっ た?)に記されている可能性は否定しきれないが、それは存在しないことを仮定したう えで、彼の訪問先との関連に限って問題点を述べておこう。 普仏戦争についていえば、スダン踏査が抜け落ちていることは既述のとおりだ。ヴ ェルダンからメッスに行く途中の街道筋に普仏戦争の古戦場が点々と並んでいるが、こ れらを歴訪しただろうか。また、東部戦線についてストラスブールはともかく、ベルフ ォールは行くべきであっただろうし、西部戦線のシャルトルから足を伸ばしてル・マンを 訪れるべきであったし、南部戦線のオルレアンまで行ったのなら、近くのトゥールへも 行くべきであっただろう。 パリ攻防戦については大佛の探訪は南郊・西郊が中心だが、東郊でもシャンピニー でも激戦が行なわれたし、城壁から目と鼻の先にいくつか外部要塞が残されている。こ こはコミューン闘争の最中にはドイツ軍が駐留していた場所でもある。サン=ドニ争奪戦 で重要な役割を演じた東要塞も、サン=ドニ修道院から歩いていける至近距離にある。 コミューン内戦所縁の地探訪については、パリの東北外縁部(ベルヴィル地区とメニ ルモンタン地区)が中心となっているが、激戦が展開され、ヴェルサイユ軍の圧力でコ ミューン本部がジリジリ後退を余儀なくされたパリ第 10 区、 第 11 区が忘れられている。 ここはバスティーユ広場とレピュブリック広場の間の地域である。 Ⅳ 資料収集 大佛次郎の渡航のもう一つの目的はパリ・コミューン関連の資料収集であった。大佛 自身は二度目の渡仏の目的を次のように述べている。 「二度目にパリに行ったのは、コミュヌ関係の古書を買うのが目的であった。古本屋22の倉庫の 鍵を空けて貰い、ほこりと鼠の小便臭い中で長い時間奮闘した。買物に躍起になるとは我ながら 異例のことである。古本屋の主人がコミュヌの本を、皆日本へ持って帰るつもりか、と高い書棚 の梯子の上から大げさなお世辞を言ってくれた。 ( 」 大佛次郎随筆集 『砂の上に』昭和 39 年、 所収「買物ぶくろ」より) この古本屋がどこの本屋か長くわからなかったが、関東学院大学名誉教授(故)山口俊章氏の指摘 で、パリ第6区 Monsieur le Prince 通りにあることがわかった。 22 17 パリ滞在中の大佛はこのように時々書店・古書店めぐりを行っているが、さほど頻 繁というわけでもない。旅日記に空白の4日間があるが、あるいはそのときにまとめて 書店めぐりをしていたのかもしれない。それはともかく、そのとき思い立ったから貴重 な史料に出くわせるというわけでもなく、日常ふだんから探索をしていなければダメと いうことを、神田の古本やめぐりを繰り返していた大佛自身が一番よく知っていた。大 佛は日ごろから丸善を通してコミューン関連の史料を集めていた。そして、在パリの佐 藤敬と荻須高徳にも史料探索をお願いしている。 1960 年 5 月 17 日付の佐藤敬の手紙は次のように述べる。 「…さて御申し越のモーリス・バジイのジュルナル、 『ル・タン』の件ですが、早速今電話し て、たしかにまだその本のあることをたしかめました。日本の作家の大佛さんがさがしている 事を通じ、大兄のお返事を待って買う事になるかも知れないから、十日余り在倉してもらう様 に電話をしました。御返事を待ちます。値段は御名記の様に、1,200 NFでした。 」 1960 年 10 月 9 日付の絵はがきには古地図のことが記されている。 「…ヴァカンス明で巴里の古地図必ず手に入れる様う努力致します。そして来年の御来巴を心 から楽しみにいたしています。 」 佐藤敬は前出「パリ取材の大佛さん」 (1971 年)の中でも同じようなことを述べる。 「パリにおける大佛さんのコンミューヌ調査は、こうした棒足だけでなく、多くの参考書、記 録類、画報、ポスター、新聞等の蒐集の仕事があります。その方を専門にしていた若い学究の 二宮宏之君初め、いろいろな方がこのため動いたのですが、私が一つ強い思い出にしています のでは、大佛さんが熱心に求められていた当時(1870-72)の『官報』 (ジュルナル・オフィシ エル)の1冊つづりを手に入れる事が出来た事でした。これは親しい友達のミッシェル・ラゴ ンの夫人だったSが、セーヌ岸にある『古本屋』をやっていて、ここにこの本をたのんでおい たのです。なにぶん百年前の当時の新聞のそろい合本という稀こう本でちょっと入手がむつか しいような話でしたが、彼女の苦心かなって、待望のその分厚い綴込みの本を手にした時、そ の値段にびっくりしてしまいました。よく覚えていませんが当時の『二十万円』前後だったと 思います。 …この期間だけにおそらく二百点位の新旧の雑誌や書籍を買入れられたのではないかと思 います。毎日毎日小包みにして日本へ郵送したことを覚えています。おそらく日本における最 高唯一のコンミューン関係の資料コレクションといえましょう。 」 上記引用文で、資料収集協力者の中に二宮宏之の名が挙げられている。留学中の二 宮はフランス近代史を専攻し、アンシアン・レジームとフランス革命に詳しい。当然、 パリ・コミューンについても造詣をもっていたはずだ。そのほか旅日記に木内良胤(父 子)の名が見える。明確な証拠こそないが、彼が大佛の資料収集に協力したことが十分 推定できる。木内良胤は大佛次郎の帝大時代の同輩の外交官で、後に日本で最初に民放 を立ち上げた人物だが、当時は国際大学都市の日本館館長をつとめており、パリ事情に 通じていた。 18 佐藤敬のこの述懐で重要なのは、大佛が持ち帰った資料の総点数が「二百点位」と ある箇所だ。大佛次郎の旧蔵のコミューン資料は 250 点余になる。数え方次第で資料点 数はどうにでも数えられるのだが、その 8 割がたがこの時に蒐集されたことになる。 大佛次郎の旅行日程 [注記] 同伴者は[ ] で示し、 は「パリ燃ゆ」取材に関連する場所または 事項を指し、レストランについてその名がわかっているものはカタカナ表記にした うえ、下線を引いた。 4 月 21 日(金)羽田発 4 月 22 日(土)アンカレージ経由でパリのオルリー空港着、Basival[?]のティル ール、オテル・ル・ロワイヤルに投宿、クーポール 4 月 23 日(日)[佐藤敬] セーヴル(サン=クルー宮)、ムードンのレルミタージュ、 クラマール(ヴァンヴ要塞) 、 ラ・パレットで夕食、市中をまわりクーポ ールへ 4 月 24 日(月)佐藤敬宅訪問、[佐藤敬] 佐藤敬の画廊へ、ロシア料理店 4 月 25 日(火)レルミタージュ 4 月 26 日(水)バスティーユ広場、ムスー・ド・ヴェルレーヌ、ペール=ラシェーズ 墓地、ユネスコ本部 4 月 27 日(木)[高野悦子] ラ・パレット、ヴォージュ広場、カルナヴァレ美術館、オ デオン座(パントマイム) 4 月 28 日(金)[ジャクリーヌ] ペール=ラシェーズ墓地(ジュール・ヴァレスの墓)、 オペラ・コミック 4 月 29 日(土)朝日パリ支局、日本大使館、[高野姉妹]クーポール 4 月 30 日(日)オペラ座(カルメンを観劇) 5 月 1 日(月)[佐藤敬] サンリス、コンピエーニュ、ピエールフォン、シャンティ、 オテル・デュ・パルク 5 月 2 日(火)シュザンヌ・ロディヨン(画家)宅、サン=ミシェルの書店巡り 5 月 3 日(水)ガリマール書店、レジダンス・コペルニクに住居を移動、[村上( 「色 彩学の研究者」 )]ポール・ルネアン 5 月 4 日(木)ヴィクトル・ユゴー大通り界隈を散策、マルクスを読み始める 5 月 5 日(金)[斉藤(朝日新聞)] エール・フランス社、グレヴァン美術館、[ロデ ィヨン夫妻] ピエ・ドゥ・コション 5 月 6 日(土)[佐藤敬;ジャクリーヌ] サロン・ドゥ・モア、シャンゼリゼ、フーケ 5 月 7 日(日)オートゥイユのゴンクール邸とバルザック邸 5 月 8 日(月)[佐藤敬] メッスへ 5 月 9 日(火)ナンシー、フォンテーヌブローを経てパリ帰着 19 5 月 10 日(水)酉夫人来る、[荻須夫妻] ピエ・ドゥ・コション、クーポール 5 月 11 日(木)シテ島、[佐藤敬;ジャクリーヌ] クーポール、[シュザンヌと林も加 わる]モンマルトル、画廊ムーランルージュ 5 月 12 日(金)[高野悦子;鈴木] モン・サン=ミシェル、中華料理店、[酉] オルリ ー空港、大使公邸 5 月 13 日(土)ジュ・ドゥ・ポーム美術館、リヴォリ通り、ヴァンドーム広場、ルー ヴル美術館 5 月 14 日(日)~5 月 17 日(水)旅行日記に記載なく、動静不明 5 月 18 日(木)[佐藤敬とジャクリーヌ] シャルトル、ヴァンドーム、オルレアン 5 月 19 日(金)休養 5 月 20 日(土)[荻須夫妻] シャンティイ、サンリス、エルムノンヴィル、モンマルト ルのフレッツェ 5 月 21 日(日)オペラ・コミック(ボエームを観劇) 、[二宮宏之;J. ;高野悦子] ピ エ・ド・コション 5 月 22 日(月)近代美術館(サロン・ドゥ・メ) 、ナポレオン霊廟、ロダン美術館、[佐 藤敬] エッフェル塔 5 月 23 日(火)モンマルトル、ポン・ヌフ、花市、シェ・ポール、[二宮宏之] 古書 店、朱江楼 5 月 24 日(水)ギメー美術館、オテル・ディエーナ、近代美術館、[佐藤敬] メニル モンタン、ベルヴィル、ブージヴァルのサン=ジェルマン=アン=レイ、 ティルール 5 月 25 日(木)不明 5 月 26 日(金)パリ定期市、朝日新聞支局、オランピア 5 月 27 日(土)銀行、オランジュリー、プリュニエ 5 月 28 日(日)ペール=ラシェーズ墓地、連盟兵の壁の行列、[木内良胤(父子)] オ ペラ(フルール・デ・ピエール) 5 月 29 日(月)シュザンヌ宅、[佐藤敬] 田岡まき子から送ってもらったタタミイワ シを受け取る、シマラザ 5 月 30 日(火)スペイン大使館、フランク父子店(女装店) 、[角田房子(夫妻)] ト ゥール・ダルジャン 5 月 31 日(水)不明 6 月 1 日(木)[佐藤敬(与謝野大使が見送り)] オルリーからマドリードへ、ホテル・ デ・パリ、酉夫人はブルターニュへ 6 月 2 日(金)[佐藤敬] プラド美術館、大使公邸で昼食、[沼沢三郎] フラメンコ見 物 6 月 3 日(土)[佐藤敬] エル・エスコリアル修道院、ホテル・フェリーぺ二世 6 月 4 日(日)[佐藤敬、大使夫人] 蚤の市、大使公邸で昼食、闘牛とフラメンコ見物 6 月 5 日(月)[佐藤敬] トレド、フラメンコ見物 6 月 6 日(火)[佐藤敬] 大使館、飛行機でニースへ、オテル・アングレ 6 月 7 日(水)花市、ダ・バロン、パリから来た酉夫人と合流 20 6 月 8 日(木)ヴィルフランス、サン=レモ、モナコ、アズ、ダ・バロン 6 月 9 日(金)アンティーブ岬、カンヌ、ヴァルリス(釜を購入) 、グリマルディ美術 館、ビオー(ガラス工場) 、セジェ 6 月 10 日(土)サン=ポール・ヴァンス=ル=コク・ブランシュ、ポン・デュ・ルー、 ニース、ドン・カメリオ 6 月 11 日(日)ヴィルフランス、フェラ岬、フレギュ、サン=ラファエル、カンヌ 6 月 12 日(月)ニースよりパリに帰還、オート・カニュ? 6 月 13 日(火)不明 6 月 14 日(水)[ジャクリーヌ] 酉夫人の買物手伝い、[竹谷夫妻] ピエ・ド・コショ ン 6 月 15 日(木)鍋の買い物、[与謝野大使と斉藤] プリグール、クレージー・ホース 6 月 16 日(金)アルバン・ミシェル書店、[荻須高徳] サン・ドニ美術館(バリケー ド上のドレクリューズの絵を見る) 、モンモランシー(ルソーの家) 、朱江 楼、グラン・ゾーギュスタン通りのキャバレー(フラメンコ見物) 6 月 17 日(土)ルーヴル、マダム・バタフライ 6 月 18 日(日)[佐藤敬] モン・ヴァレリアン要塞、オペラ・コミック 6 月 19 日(月)荷物出し、オペラ(リュシア) 6 月 20 日(火)荷造り、買い物、[Baudri?] ルーヴル 6 月 21 日(水)荷造り 6 月 22 日(木)オルリー空港 6 月 23 日(金)羽田空港 付録 大佛次郎がパリから持ち帰った品 1. Plan: Cimétière du Père-Lachaise. ペール=ラシェーズ墓地の地図 2. L’Humanité, Samedi 27 mai 1961. フランス共産党機関紙『リュマニテ』5 月 27 日号 3. France-Soir, Jeudi 15 Juin 1961. 『フランス=ソワール』紙 6 月 15 日号 4. [6 月 14 日~21 日までのメモ:予定を入れたもの] 5. メモ: Ajouter, sac cuir soutenant nouveaux de pierce (Cadeaux) & suivre s.v.c. Nojiri. 6. 名刺 2 枚: 十河巌 神戸市灘区篠原北町 3-48; Miss Uchida 7. Maison de Victor Hugo: Catalogue. ユゴー美術館の展示目録 8. cinquième saison: au plus pris. 詩集(2 冊) 9. Château de Chantilly: Le Cabinet des Livres du Musée Condé, cent productions. シャンティ城蔵書目録 10. Château de Chantilly: Cent tableau du Musée Condé. シャンティ城所蔵絵画目録 11. Musée Carnavalet: Paris vu par les maîtres De Corot à Utrillo.カルナヴァレ 美術館図録 21 12. Touraine romane. Zodiaque, 1957. 古代ローマ期トゥーレンヌ地方ガイドブック 13. Tokyo Broadcating System 1961.手帳、ほとんど空白.末尾に鉛筆書きでメモ:「近 江初、いせ屋、…」 14. Nouveau répertoire des rues des Communes de la Banlieue de Paris. パリ近郊 地図帳 15. 18 Postales en fotocolor: Toledo. 18 枚の短冊状絵はがき 16. Valle de Los Caidos, Cuelganuros (Madrid). 短冊状絵はがき[開けない] 17. El Escorial. 短冊状絵はがき[開けない] 18. Les Vitraux de Chartres. シャルトル大聖堂のステンドグラス解説文 19. La Cote d’Azur. 短冊状絵はがき 20. Madrid. 緑色封書の中に入っているフラメンコとゴヤの絵はがき 21. Museo-Panteon de Goya, Serie 1 & Serie 2. 短冊状絵はがき 22. Visages de la Champagne; Horizons de France. 観光ガイドブック 23. Une Semaine de Paris, Nos. 753,754,756,757,760. 演劇催し物案内 24. Michelin Vert: Cote d’Azur, Haute-Provence. 観光ガイドブック 25. Michelin Rouge: Espagne. 観光ガイドブック 26. Catalogue de la Librairie Gallimard. ガリマール書店図書目録 27. Catalogue de la Librairie Albin Michel Paris, Nos. 157-161. et Catalogue général 1960. アルバン・ミシェル書店図書目録 28. L’Abbaye Royale de Saint-Denis; Recherches nouvelles. サン=ドニ修道院収蔵 物目録. 29. Key Sato; Galerie Jacques Massol à Paris. 佐藤敬の絵画展のパンフレット 30. Printings and drawings by Suzanne Rodillon. Drian Galerie. シュザンヌ・ロ ディヨン絵画展パンフレット 31. Opéra de Paris, le 30 avril. オペラ座上演題目 32. Opéra de Paris, le 30 avril. No. XVIII. オペラ座上演題目 33. Victor Hugo; homme politique, La Revue Française. 雑誌特集:ユーゴー論評 34. Les Rois de France. 似顔絵付き歴代フランス国王 20 人 35. XVIIe Salon de Mai, le 22 mai, Musée d’Art moderne de la Ville de Paris du 7 au 28 mai. 近代美術館「サロン・ド・メ」 36. Guide Magazine 61: Foire de Paris 18-29 mai. パリ定期市宣伝パンフレット (c)Michiaki Matsui 2015 22
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