魂の覚醒 ― 自覚的応現と回心的影現

ISSN 2186-4020
『聖 書 と宗 教 』3(2013)
Bible and Religions 3(2013)
論文
Article
魂の覚醒
― 自覚的応現と回心的影現 ―
Awakening of the Soul
― Self-generative Manifestation in Ascent and Metanoetic Manifestation in Descent ―
寺尾 寿芳
TERAO, Kazuyoshi
要約
生命の本源性に発する魂という発想を導入すれば、神学にも顕著な形而上学的な主体に自己を明け渡すこ
となく、その発見機能にしたがって多様で相互に矛盾する自己像を共立させることができる。さらに他者の
魂を豊かにすることが倫理の崇高な目的であることもわかる。そこでの魂は、自我と直結してそれを善導す
る《魂の自覚的応現》と、あえてその調和を崩して新たに広角な視野をもたらしうる《魂の回心的影現》と
いう二相からなる垂直的教導構造をもつ。わけても後者が魂の本領であり、そこにこそ「全世界を異郷と思
う者こそ、完璧な人間である」といわれる人物が出現するのである。
SUMMARY
The Perspective of the soul originating from the primordial nature of life can extricate us from our reluctant handover of
the self to the metaphysical subject frequently observed in theology and can give us the possibility of the co-existing
self-images which are varied and mutually inconsistent. The enrichment of the others’ souls is easily regarded as one of
the most sublime themes in ethics from this perspective. The soul has the biphasic construction of enlightenment:
“self-generative manifestation of the soul in ascent” which directly guides our egos properly and “metanoetic
manifestation of the soul in descent” which daringly deconstructs the harmony of the soul and the ego and opens up the
wider horizon. In the latter case the most potential condition of the soul can be found and appears someone in the manner
of the apothegm that he or she to whom the whole world is a place of exile has achieved perfection.
キーワード
魂、情念、元型的心理学、自覚的応現、回心的影現
Keywords
soul, passion, archetypal psychology, self-generative manifestation in ascent, metanoetic manifestation in descent
1
『 聖 書 と 宗 教 』 3( 2013)
はじめに
「隣人を自分のように愛しなさい」
(マタイ 22:39)
。この言葉を知らない者はいないだろう。多くの釈義
学的な成果が蓄積されてきたにもかかわらず、この一節はいまだ禅の公案にも似た趣を強くそなえている。
その難しさはひとえに「自分のように」という箇所に見出せよう。
伝統的宗教の多くが日常生活のなかで信頼性を失いつつある現在、われわれにとって人口に膾炙した言葉
であればあるほど、不審感がおのずとわきおこってくる。キリスト教は「神とは何か」と神に問い、仏教は
「自己とは何か」と自らに問いかけ、哲学は「存在とは何か」と言葉に問いかけた。しかしながら、こうし
た形而上学的な問いに応じてひねり出されてきた既存の回答群は、現代人の問題意識においては過剰に仰々
しく、リアリティに欠ける印象が避けられない。他方、無意識の「発見」によって生まれた近代心理学がこ
うした観念遊戯を超克できるものとして期待されたものの、それさえもいつ知れず既成の科学主義、教育体
制、さらには癒しすら商品とする市場経済に絡め取られてしまい、いまや浅薄さを顕わにしている。
本当に我々は「隣人を自分のように愛せるのか」
。本稿では理念構築に盲進する愚を極力避け、むしろ自己
同一性からの適切な離脱可能性と発見機能を備えた「魂」という視点から、この難題の切り口を模索してみ
たい。
1 愛の存在論
西洋の倫理思想を一貫して最も強く影響力を与え続けたのは、周知のごとく、アリストテレスの『ニコマ
コス倫理学』であろう。特にトマス・アクィナスがアリストテレス倫理学に強い影響を受けたことから、キ
リスト教神学わけてもカトリック神学においてアリストテレスの倫理学は主導的な地位を占めるに至った1。
このアリストテレスの倫理学は行為の倫理学であり、実践が優先される。この点でプラトンの思想がイデ
ア論に根拠を持ち、抽象的な性格をもつことと対照的である。またアリストテレスはあくまで特定的な具体
性を重視する。プラトンの倫理学においては徳の本質を洞察することが最重視されるが、アリストテレスの
場合は有徳の人間になるための術を知ることこそが重要とされるのだ2。この実践性は現実の生を忘却しない
1
トマスの主著『神学大全』
(Summa Theologiae)は単に思想的にアリストテレスの影響を受けているのみならず、全512 問のうち倫
理的な事項を述べる第二部が 303 問に及んでいる。つまり量的に半ば以上を占める。体系的神学書の中心部分に倫理的考察を位置付け
ることは当時としては画期的な試みだった。稲垣良典『トマス=アクィナス』清水書院、1992 年、139 頁参照。
2
『ニコマコス倫理学』1103 b 26-29。
「ところで、われわれの現在の論究は、他のそれのように純粋な観照的考究(テオーリア)を
目的とするものではないがゆえに、
(すなわち、われわれは徳の何たるかを知ることを目的としてではなく、われわれがよきひととなる
ことを目的としてこの考察を行なっているのである。でばければそれは無意味であろう。
)
」アリストテレス(高田三郎訳)
『ニコマコス
倫理学』
(上)岩波書店(岩波文庫版)
、1971 年、58 頁。以下訳文は同書物(上)および(下)より。
2
魂の覚醒― 自覚的応現と回心的影現 ―
点で長所となるが、一方では存在の剥奪につながる欠点を示す。同時に個の成熟への偏向を示し、普遍性へ
の問いが脱落してしまう3。
しかし、そもそも行為はその主体たる個人の存在へ差し戻される。つまり徳を身に着けようとし、あるい
は身に着けた人間の現状への視線が不可避である。アリストテレスの場合、思想の対象となる人間はやはり
ポリス的な人間であり、その意味で自明かつ普遍的な存在だった。しかも、まだしも師のプラトンさらには
ソクラテスには明確に見られた死への視線がアリストテレスからは消えている。ゆえに楽観的な行為志向が
成立しうるのである。
しかし、近代以降の思想界はこの存在をもはや忘却できるほど自明のものとはみなせない。
「死すべき者
としていかに生くべきか」という倫理が現前化する問いにしても、その基盤における人間存在をまず問うこ
とが欠かせない。すなわち、われわれは現在すでにいかなる者として存在し、またいかにあるべき者として
規定されているのか、と。
この問いはさらに、自己がすでに文化によって編み込まれていることをわれわれに知らしめる。つまり、
われわれの人柄(ἦθος)はそもそも文化的な習慣(ἔθος)に基盤をもつ。文化は習慣づけによりもたらされる
性向(ἕξις)の根拠なのである。
じつのところ行為に留まることができない最大の理由は、愛つまり自己愛と隣人愛をなす「愛する」
(ἀγαπάω)が行為では捉え切れない点にある。
ここにごく平凡な人間を想定してみよう。ただ「歩け」と命じられれば、その人物は歩くことはできる。
しかしただ「笑え」と命じられた場合、事情は簡単ではない。たしかに笑い顔を作ったり、笑い声をあげた
りすることはできよう。しかし「目が笑っていない」ことはありうるし、それ以前に、笑いの本質をなす愉
快な感情までは湧いてこない。もちろん名優のように、外見から区別がつかない笑いを「演じ」
、また自ら愉
快な気分になる訓練を積んだ者もいようが、その場合の笑いも、演技を離れた日常における自然な笑いとは
本質的に異なるはずである。
愛の場合、
「歩く」よりは「笑う」に近い。しかし愛は訓練で上達するものではない。むしろ人間の情念
に最も深く根差すものである。もちろん愛においても習慣づけが愛へと導く契機となりうることは否定でき
ない。しかしこのようにして達成できる愛は、むしろ親愛あるいは友愛とでもいうべきフィリア(φιλία)で
あろう。そこでの愛する者はともに均等であり、またそのかぎりで均等性(ἰσότης)を特徴とする愛となる。
これこそがアリストテレスの主張した愛である4。
ところが、福音書を通じて主張される愛ことに隣人愛はまったく異質である。そこでの隣人は自己との均
3
このあたりの事情に関しては次の文献に詳しい。加藤信朗「倫理学とは何か」
(日本倫理学会編『倫理学とは何か』日本倫理学会
論集23、慶応通信、1988 年、所収)
。
4
『ニコマコス倫理学』第8・9巻。
3
『 聖 書 と 宗 教 』 3( 2013)
質性を保証された同朋ではなく、むしろ最も異質な者である。つまり助けを必要としない自己充足した者に
とって、自己生存のすべてを賭けて助けを求める絶対的危機にある者は「いのち」
(βίος)をめぐる対極に位
置することになる。
さらに助けをめぐる呼応において自己は隣人に「なる」
。つまり「隣人になる」ことは自己(ego)の存在
(esse)を拡大することによっても、また自己の本質(essentia)を投影することによっても成就しえない。
つまり危機(その究極は死)において「共にある」ことで自己における既存の本質を打ち壊し、言語以前の
無限の地平からやってくる「存在そのもの」
(esse)の奔流に身を委ねることこそが隣人愛の実現なのである。
これはまさに生命(ζωή)の充溢であり、その意味で先述のように人間存在をめぐる大いなる「回復の道」と
いえるのだ5。ここに隣人愛を考察するにおいて行為から存在へと視点が移り、その焦点として魂が登場して
くる視圏が開かれる。
2 魂への気づき
2.1 個人から人格へ
ここで倫理神学の領域における昨今の趨勢に一言触れておきたい。そこでは、人格的倫理観が重要な主題
となりつつある6。キリストと使徒たちとの交わりに原型をもつ人格共同体観を前提として倫理を考えるもの
で、その背景のひとつには個人倫理と社会倫理へと分裂した倫理神学を統合しうる視点を見定めたいという
正当なる意欲がはたらいている。
さらに思想的背景へと目をやると、近代人間中心主義の中核となる「個」
(individuum)を超克しようとい
う意図が見える。近代的個の思想史上の起源は普遍論争において「ものの後なる普遍」
(universalia post rem)
を主張した唯名論に発している。この唯名論においては本質的な善と悪とが否定され、結果、まったく個有
な人間と、その人間の各状況における行為のみが問題視され、最終的には状況倫理に陥ってしまう事態に至
った。と同時に反面、個人主義による恣意性を統制するため法律主義的な決疑論が支配的になってしまう7。
この傾向を打破すべき人格への注目が、新たな普遍を希求する契機としても関心を集めている。
ただし、現代はもはや唯名論に対置するかたちで実念論を提唱すればよいという時代ではない。新しい形
5
筆者は“βίος”を「いのち」と、
“ζωή”を「生命」と訳し分けたが、
「ビオス」と「ゾーエー」との相違に関しては精神病理学者の
木村敏がこう語っている。
「
『ビオス』bios というのはある特定の個体の有限の生命、もしくは生活のことである。……『ゾーエー』zoé
は、……個体の分離を超えて連続する生命、個々のビオスとして実現する可能態としての生命だという」
。木村敏『心の病理を考える』
岩波書店、1994 年、121 頁。
6
基本的な概観は次の文献から得ることができる。吉山登『カトリック倫理の基礎』サンパウロ、1996 年。
7
吉山『カトリック倫理の基礎』103-104 頁。
4
魂の覚醒― 自覚的応現と回心的影現 ―
而上学を構築することが倫理神学の主目的ではないのだ。むしろ神の前で最終責任を引き受ける主体として
人格は理解されているようである。この人格観は経験を重視するものであり、人格性に依拠しつつも経験の
基体にはなりえない架空の要請概念たる人格観に立つカントの発想とは異なるものである。むしろ経験世界
における自己存在の根拠を問いとして追求する実存思想の立場、例えば一般者への解消不可能な「人格愛」
(マックス・シェーラー)に通じているといえよう。
そこでは個々の行為の基盤をなす根本決断がなによりも重要視される8。
もはや行為の次元を超えた人間存
在の基底こそが問題となるのである。
ならば根本決断は従来いかに表現されてきたのだろうか。端的に言って、終末における最終的救いを背景
とした自由の問題として述べられてきたといえるだろう。固有の自己を実現するため、自由を有しつつ神の
恩恵に応えることが根本決断の内容なのである。まさに死を目前にして、それを超克しようという人間こと
にキリスト者にとって当然の事態である。
しかし、筆者はこの自由を中核とする根本決断を容認しつつも、それに留まらない決断の可能性を探って
みたいと考える。まず倫理の領域において根本決断の自由は個志向を免れえない。なぜなら、それは自己の
信仰告白を確立するという一人称的決断(Credo)に帰着するからである。しかもその際に最終責任を引き受
ける主体はきわめて強固な剛体たる自己だろう9。しかしながら、現実の経験を直視するならば、自己と環境
との交わりは能動性以上に受動性によって彩られているはずである。つまり「わたし」は環境によって編み
込まれているのである10。ここから「隣人になる」とは「隣人にならざるをえない」状況に追い込まれると
いう実情が見えてくる。
主体性を喪失せずに、しかも受身におかれていることをまず容認する決断として、筆者は「自己を他者に
さらす」ことをここで挙げたい。自己存在(ens)の解釈を他者に委ねるのである。ここではいたずらに自己
理解を押し付けてはならない。たしかに神の愛に嘉せられた自己像を伝えることは正当だといえるが、逆に
他者の可能性を自己固有の既成の枠で束縛する面もなしとはしない。
《神の国》では「伝える」よりはむしろ
「伝わる」を重視したい。しかも「強さ」や「真しさ」よりはむしろ「弱さ」や「迷い」を正直にさらすこ
とが重要である。真理は順接的に「伝える」のではなく逆接的に「伝わって」こそ、倫理的な正しさを実現
しうる。いずれにせよ、人格理解における自由は自己から他者へと移るといえよう。
8
根本決断に関する神学的基礎文献としては、次のものが有益である。K・リーゼンフーバー「根本決断の構造――自由と信仰行為
の関連について」
(
『カトリック研究』32 号、1977 年、所収)
。
9
本稿では直接の意図からはずれるため詳説することは控えるが、個体化原理とペルソナ化原理の区別は、古典的ながら、キリスト
論のアポリア解消の一助となる可能性がある。この視点からアプローチしている論考としては次のものが興味深い。石脇慶總「カトリ
ック信仰の構造」
(南山宗教文化研究所編『カトリックと創価学会――信仰・制度・社会的実践』第三文明社、1996 年、所収)
。
10
拙稿「滝沢克己の哲学的理解に向けて――『不可逆』をめぐる一考察」
『南山神学別冊』11 号、1994 年、31-35 頁、参照。
5
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ここで《神の国》が「共にある」ことを主原理とすることを想起すれば、他者への自己譲渡は同時的相互
的なものとなろう。だが、他者を受容する際、エゴイズムによって自我の過剰防衛、他者の排除、さらには
自己の分裂を帰結する。この事態は神学的な表現では「原罪」において生起するといえるだろう。しかしな
がら、こうした分裂状態は従来の教義術語によってはうまく架橋することができない。
2.2 人格から魂へ
人間は例外なく物的客体として扱われてはならない主体的存在である(べきだ)というカント的な思想を
単純に排拒することなく、しかし同時に、人格間の分裂を媒介し、かつ人格の尊厳性が現出してきた由来で
ある深層領域を探求しなくてはならない。
ここでまず想起されるのが情念である。個人の内面に潜在する懊悩の源泉であり、また歴史的現実におい
て国家あるいは民族といった集団次元での心情を規定する。情念は日常的であり非日常的である。情念を抑
圧したままで、われわれは隣人愛というキリスト教倫理の原点を納得できるとは思えないのだ。
2.2.1 情念としての民族的特殊性
愛の倫理は最も愛せない事態において真価が問われる。その極端な事例は戦争である。近代に入り、戦争
像は大きく変化した。それは「総力戦」という概念で表現される事態の発生である11。そこでは傍観者を決
め込む安全地帯は残されておらず、あらゆる人がいやおうなしに戦争に巻き込まれていく。
ことに国民国家成立以降、戦争は民族主義と不可分である。民族自決は単に西洋起源の理想主義ではなく、
はるかに根深い普遍的志向性であり、一概に外在的に批判すればよいといったものではない。
湯浅泰雄は民族的特殊性と人類的普遍性との関係を、西洋と東洋との概要を対比して、以下のように二つ
に類型化している12。
近代ヨーロッパ思想が確立した人間観は「われわれはすべてまず第一に人間である」という先験的に自明
な知的公理から出発し、第二に、事実認識の問題として「われわれはイギリス人(フランス人、ドイツ人等
……)である」という経験的命題を提出するに至る。他方対照的に、非ヨーロッパ世界に属す人間は、
「自分
はまず何よりも日本人(インド人、黒人……)なのだ」という感じ方(考え方ではない)を強制される。こ
の場合、人は自己の特殊性を受容した後に普遍的な人類に「なる」と考えることができるのであり、その典
11
「総力戦」は近年、社会科学の領域において従来のイデオロギー的な図式を無化させ、社会哲学的にしてシステム論的な視点から
大胆な構図を描きつつある。日本における代表的提唱者としは山之内靖が挙げられる。その思想が簡明に主張されているものとして、
山之内靖「ニーチェ以後の社会科学」
(
『思想』864 号、1996 年 6 月、所収)が参考になる。また、小林敏明は西田幾多郎の『日本文化
の問題』に見える「闘争」の概念を「語の本来の意味における『総力戦』
」とみなしている。小林敏明『西田幾多郎 他性の文体』太田
出版、1997 年、138 頁。
12
湯浅泰雄『東洋文化の深層――心理学と倫理学との間』名著刊行会、1982 年、11-27 頁。
6
魂の覚醒― 自覚的応現と回心的影現 ―
型的な例を湯浅はインド独立の父たるマハトマ・ガンディーに見出している。
湯浅にとってガンディーは、同じく非ヨーロッパ世界に属しながらも人類的普遍性への次元を総体的に志
向できなかった近代日本の事例と比較しても、またまず先験的な普遍性を強固に前提したがゆえに民族志向
の情念を抑圧してしまった結果、その情念が宗教戦争や革命や植民地化といった形で爆発してしまい、弱者
に多大な迷惑を被らせたヨーロッパの事例に比べても、優れたものとして理解されている。
戦時期日本の軍国主義のように当時の経済力や国際的政治力からしてみて分不相応に自らを強者と思い
込んだり、帝国主義期の西洋列強のように自他とも認める事実として強者として振舞ったりすることなく、
自らの特殊性および非近代的な弱さを認めつつ、自ら強者たらんとすることなしに普遍の次元へ進化しよう
というガンディーの思想は、自己愛と隣人愛と調和という面でひとつの具体的模範をなしていよう。
その際、湯浅は賢明にも「われわれは日本人である」という「感じ方(感じさせられ方)
」と「われわれ
は人間である」という「考え方」との間の亀裂に着目している。つまり近代日本思想史の問題はまずもって
情念の問題なのである。まさに湯浅のいうごとく、日本を含む東洋の形而上学は常に人間の主体的体験の心
理的基盤からは離れえず、論理と心理、哲学と心理学は不可分の二重性において立脚している。筆者はこの
湯浅の視点に対し基本的に同意する。
2.2.2 善悪の倫理から情念を把捉した倫理へ
普遍的人類に妥当すべく想定され、伝統的倫理の骨子を構成してきたといえるのは善悪の倫理だった。
善悪の問題はいわゆる神義論の問題として、ながらくキリスト教神学における大命題であった。そこでは
かろうじて悪は「善の欠如」
(privatio boni)として理解され、実態として善の一元論をなしていたといえよ
う。これは神が造られたものを「見よ、それは極めて良かった」
(創世記 1:31)と是認されたことを文字通
り受け取る創造論と原罪論との整合性を図ろうとした苦肉の策といえる。この事態は、神の名乗りの通念的
理解とともにキリスト教存在論に顕著な同義反復(tautology)の源泉となっている13。
もちろん善悪の基準は啓示として神から賦与されるものとされる。したがって倫理観は「上からの神学」
で理論化された。この「上からの神学」は中世期に確立されたが、その「哲学は神学の婢」
(philosophia ancilla
theologiae)というかたちではあるが神学に哲学が導入された結果、主観の独自性は許容されており、さらに
近代に至っては主観―客観構図が完成され、ここに「上」は「下から」見る限りでの上という性格があらわ
13
有賀鐵太郎は、
“Ego sum qui sum”
(出エジプト記3:14)と表現された神が「最高の有」あるいは「有自体」とみなす伝統的存在論
としてのオントロギアに疑問を呈し、原語であるヘブライ語表現“éhyéh asher éhyéh”は生成によるハヤトロギアとして理解されるべき
ことを主張している。有賀鐵太郎『キリスト教思想における存在論の問題』
(有賀鐵太郎著作集 4)創文社、1981 年、171 頁以降。この
ハヤトロギアは近年ドミニコ会司祭で上智大学教授の宮本久雄によって、三人称的なハヤトロギアから一人称的なエヒイェロギアへと
独自の展開を遂げている。たとえば、宮本久雄『他者の甦り――アウシュヴィッツからのエクソダス』創文社、2008 年、187-196 頁。
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になる。ここに人間は自ら想定した「神」を絶対的な超越神と見立てて、その「神」の権威を借りて結局自
己の思想を神学の名のもとに権威づけるにいたるのである14。
また、そこでは神とともに自己(ego)も「神の似姿」
(imago Dei)とみなされ、経験的自己理解以前の既
定の現実存在として理解される。そこには神も人も「もの」
(res)であり、理性(ratio)で把握可能とされる
発想がある。ゆえに神も人も分析の対象であって、真理の視点から判断されるのであり、個別感覚に支えら
れた技術たる「クリティカ」
(critica)が支配的となる15。以上によって論理的な真偽を判断する「形式論理」
(canon)の世界が展開されるのである。
たしかにこのような善悪の倫理は神学史上、特異な光彩を放つものではある。しかし、ナザレのイエスか
ら現代に至るまでの全キリスト教思想史を支配するものではない。むしろ国教化以前の初期キリスト教や近
代以降の現代さらには未来のキリスト教に観察可能な多元性および多様性がそこには抜け落ちている。その
典型的な事例が、伝統的神学における文化的多様性およびその基盤としての他宗教さらには民族性の忘却に
ほかならない。そして何よりもイエスの思想に見られた特殊性と普遍性との逆接性がいつのまにか失われて
いるのである。
2.2.3 情念から魂へ
情念は自明とはいえない。
「情念」という概念そのものが伝統的神学体系において確固たる地位を占めて
こなかったことに加えて、この語が指し示す内容も複雑だからである。情念は「心」
、
「精神」
、
「魂」のいず
れにも関与するように思われる。注目するのは「魂」との関連である。この「魂」は「神」という観念より
も複雑であり、おそらくより古い起源をもち、さらに極めて重要なことに、より広範に類似観念を見出すこ
とができる。
キリスト教との関連では、古代ギリシアの精神世界で多様な霊魂観と交流した過程から、ことに初期キリ
スト教において瑞々しい「たましい」
(ψυχή)が感じとられた。しかし、神学のラテン化が進行するにつれ、
ギリシア的精神世界に由来する感性は異教を想起させるものとして排斥されていったといえる16。
このように一旦は否定された魂にまつわる情念が現代において再考されるには、いくつかの契機が考えら
れる。たとえば、第一にヘーゲル哲学の援用である。
『精神現象学』の登場はアリストテレスの形而上学から
14
この問題に関しては次の書が興味深い視野を与えてくれる。小田垣雅也『現代のキリスト教』講談社、1996 年。
15
「リアリティ」および「アクチュアリティ」
、
「クリティカ」および「トピカ」に関しては、木村『心の病理を考える』1-37 頁を参
照せよ。木村が示す「クリティカ」と「トピカ」はヴィーコ(Giambattista Vico)に示唆されたものである。
16
トマス・アクィナスは『神学大全』I-II, qq.22-48 にて情念を扱っている。しかしそこでの情念はあくまでキリスト中心である『神
学大全』の総意のなかの一部であり、直接に人間の内面における情動を考察したものとは言い難い。がもちろん、トマスが情念に着目
したことは看過されるべきことではなく、しかもこの分野の研究がいまだ不十分であることを鑑みれば、今後真剣な考究を重ねること
が望ましい。
8
魂の覚醒― 自覚的応現と回心的影現 ―
の決定的な飛翔であった。
第二に近年の諸宗教対話における最大のテーマたる仏教との遭遇が指摘できよう。
仏教の根本原理は苦の超克を教える四諦に読み取れるが、これは仏教においては出発点に苦という情念が存
在していることを意味する。仏教との宗教間対話という点でも情念は不可欠の視点たりえよう。
周知の通り、この情念すなわち「パトス」
(παθός)あるいは「パッシオ」
(passio)は受動または受苦ある
いは受難をも意味する。しかしこの受動性はただちに静態性を指すわけではない。むしろそこには受動性が
能動性に反転する力動性が満ちている。根源的な否定のダイナミズムが感じられるのだ17。
ゆえに、たとえば、愛することと憎むことは二律背反的な関係にあるのではなく、表裏一体といえるので
ある。愛が深まれば、憎しみも深まり、逆に憎しみが深まれば、愛も深まるという正比例の関係に両者はあ
るといえよう。ここで情念の観念化を避け、演繹的な神学体系から距離をおき、人間の深層ないし真相に誠
実たらんとすれば、このような矛盾相即的な事態における倫理を直視し、追求しなくてはならなくなるので
ある。まさにこのような分裂や対立を媒介しうるのが、従来厳密な規定の外に置かれてきた魂にほかならな
いのである。
3 魂の来歴
3.1 「正統」的な諸伝統における魂
以下に歴史上、神学においての魂観を形成していると推察される伝統を顧みてみたい。これらの影響力は
歴史上極めて多大であり、その意味で歴史を「作る」ものであった。いまだに思想的営為において、知識と
思考形態を多く提供している。しかし、もはやかつてのような力動的な歴史形成力はなく、むしろ歴史によ
って「作られた」ものとして、思想上の客観性を規定する地位にあるとみてよい。以下の諸伝統を通じて魂
は形成され、この世に現われたのである。
3.1.1 聖書
聖書のごく基本的な魂観を概観してみよう18。
旧約における魂に相当する概念はネフェシュ(‫)נפש‬である。これは霊に相当するルーアハ(‫)רוה‬とな
らんで、人間の生命原理一般を指すものだが、後者が神と人間の関係において使用されているのに対し、前
17
法哲学者の小畑清剛は三木清に学んで、否定性の認知および交換可能性においてこそ「真理性」
(Wahrheit)ならぬ「真実性」
(Wahrhaftigkeit)が生起しうると語る。
「
『話し手』の『真実性』のみが、
『聞き手』の『真実性』を呼び起こしうるが、この場合の『話
し手』とは『
(聞き手に対する)自己否定の可能性を有する者』=『聴き得る者』であり、
『聞き手』とは『
(語り手に対する)否定の可
能性を有する者』=『語り得る者』でもある。
『魂のまこと』つまり『真実性』は、そのような『話し手』と『聞き手』の間でのみ、存
在することができる」
。小畑清剛『魂のゆくえ――〈人間〉を取り戻すための法哲学入門』ナカニシヤ出版、1997 年、13-14 頁。
18
聖書における基本的な魂観は次の文献によっている。宇田進他編『新キリスト教辞典』いのちのことば社、1991 年。
9
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者は人間と他の人間との関係において用いられている。ここから倫理的命題たる隣人愛を支える魂として、
まさしくネフェシュがふさわしいことが判明する。
ただし旧約において注意すべきは、魂と肉体を分離したうえで魂を重視し肉体を蔑視するギリシア的発想
とは、無縁であることだ。魂は体に宿っているのではなく、体を通して自己を表現しながら、
「肉」と同様に
人間存在全体を意味している19。
他方、新約において、ネフェシュに相当するのがプシュケー(ψυχή)である。これはプネウマ(πνεύμα)
が神へ向いた人間の非物質的本質であるのとは対照的に、人間の側に向いた非物質的本質といえるものであ
り、やはり倫理的性格を持つのである。
このように魂は元来人間関係を表わす倫理的概念であり、その出来事性に見出される微妙な位相を「息」
および「風」に由来する生動性によって受容していたと考えられる。しかしながらキリスト教のラテン化が
急速に進行するにともない、その動態的な柔軟性は静態的で剛体的な教義概念へと取り込まれてゆくことに
なる。
3.1.2 中世神学
中世神学において確立されたのは、人間構成における魂と体、または霊と肉の二分説である。ギリシアに
顕著な発想で、ことにプラトンに由来する、魂・霊・体の三分説は魂と霊における曖昧さを不可避としたが、
そもそも教義が曖昧さを忌避する性格を持つことから、次第に軽視されるようになり、やがて9世紀には最
終的に教会の教えから追放された20。
しかし、それは魂という観念を完全に排除したことを意味せず、むしろ神学の中に囲い込んで「異教的」
な彩りを脱色してしまったことを示唆する。その最大の功労者はトマス・アクィナスである。たとえば、ト
マスは人間と神との間に、分離霊魂(anima separata)つまり死者と天使という人間以上の諸存在の位階を設
定し、そこに身体および情念の問題を取り込むことに成功したといえよう21。
19
X・レオン・デュフール他編集(Z・イェール翻訳監修)
『聖書思想事典』三省堂、1989 年、より「魂」の項。
20
ジェイムズ・ヒルマンは9世紀のコンスタンチノープル公会議で魂が脱落したと示唆している。ジェイムズ・ヒルマン(河合俊雄
訳)
『元型的心理学』青土社、1993 年、105 頁(原著:James Hillman, Archetypal Psychology: A Brief Account, Dallas: Spring Publications, 1979)
。
それは自由な魂(ψυχή)が教義的に固定された霊魂(anima)に一義的に吸収された事態を指すものと思われる。公会議は次のように決
している。
「旧新約両聖書は人間がただ一つの霊魂、すなわち理性的・知性的霊魂を持つことを教え、神の霊感を受けたすべての教父と
教会の学者がこれと同じ意見を堅持する」
。A.ジンマーマン監修(浜寛五郎訳)
『デンツィンガー・シェーンメッツアー カトリック教会
文書資料集――信経および信仰と道徳に関する定義集』エンデルレ書店、1988 年(改訂3 版)
、153 頁、DS657(以後本書からの引用は
「DS657」のように略記する)
。(原著:Denzinger-Schönmetzer Enchiridion Symbolorum Definitionum et Declarationum de Rebus Fidei et Morum,
Edition XXXVI, Freiburg im Breisgau: Verlag Herder KG, 1976.)
21
トマスの魂については次の文献がわかりやすい。湯浅泰雄『近代日本の哲学と実存思想』創文社、1970 年。ことに第 3 章「実存
思想と存在論の復位」
。
10
魂の覚醒― 自覚的応現と回心的影現 ―
しかしトマスにおいて、倫理神学と存在論の主題との直接の結びつきは自明ではないとされる22。また、
トマスの全思想がしばしばゴチック建築にたとえられるように、本来の魂が果した瞬間的で自由自在な生動
性は総じて失われている。しかもトマス自身の思索としてはまだしも歴史形成的な主体性を備えていたが、
やがてその神学が教会において圧倒的な優勢を誇るようになると(いわゆる「神学校神学」化)
、魂は規範的
範疇へと変容していった。やがて魂は司牧活動の一環としての救霊つまり「魂の治療」
(cura animarum)とい
う片隅に追いやられてしまう。また、トマス死後ほどなく始まった普遍論争における神学の「分裂」ことに
唯名論による個人観の進展は、魂との交わりを排した近代的自我の先駆となった。
3.1.3 宗教改革
プロテスタンティズムは極めて多様な内実を備えており、その魂観を一概に評価することは困難である。
しかし幾分乱暴だが、教会制度への反発や聖書主義が内面主義と結びついて内面的心情の聖書による支配と
でもいうべき事態が発生したことはいなめない。ことにその聖書理解が三分説を排拒していたことと個人の
概念の拡大とから、霊と肉の対決が強調されるに至り、同時に、神と人との直接性が浮上してきた。それは
中間領域を否定する直接性の病理とでもいうべき事態を帰結した。また、感覚的快楽を拒否することで、逆
に感覚に執着することになった。もはや魂をめぐる神秘性は剥奪され、魂はひたすら罪にまみれた病める魂
として救済の対象へと成り下がるほかなかったのである23。
3.2 「異端」的な魂観からの知見
中世から近代にかけては、魂にとっては不遇の時代だった。しかしその前後の期間においては、豊かな魂
観と新しい魂の展開への期待がみてとれる。
「正統」の視点から見れば「異端」的な分野においてこそ、魂は
辛うじて生存してきた。がいまやその魂は復活しつつある。その意味でこれら隠蔽あるいは過小評価された
伝統を再考することにより、新しい歴史が創出されるだろう。
3.2.1 グノーシス主義
グノーシス(γνῶσις)は元来、
「認識」さらには「知恵」を表わす概念であり、キリスト教に限らず仏教等
の他宗教においてもそれにあたる観念は広汎にみいだされる。たとえば、カトリック神学者のアロイシャス・
ピエリスは仏教の基本的性格をこのグノーシスに代表させ、キリスト教のアガペーとの相補的な関係を見出
22
湯浅『近代日本の哲学と実存思想』248 頁。
23
もちろんヤコブ・ベーメのような神秘主義者も例外的に存在する。しかしベーメは後にヘーゲルによって「発見」されるまで、忘
れられた存在であった。
11
『 聖 書 と 宗 教 』 3( 2013)
すのみならず、その相互浸透において各人の内奥にはキリスト者と仏教者が同時に成立しているとさえ言う
24
。
しかしキリスト教の伝統において決定的影響を与えたのは1世紀から3世紀にかけて「正統」教会と対立
的に、しかし相互に相手における自己生成の契機として関係したグノーシス主義である。
荒井献はグノーシス主義を「人間の本来的自己と、宇宙を否定的に超えた究極的存在(至高者)とが、本
質的に同一であるという『認識』
(ギリシア語の『グノーシス』
)を救済とみなす宗教思想」と定義する25。
またグノーシス主義は教会制度を基盤にした「正統」が教義を志向したのとは異なり、神話を重視した。そ
れらグノーシス神話は「
『反宇宙的・本来的自己の認識』をいわば『解釈原理』として、既存の諸宗教に固有
な神話、ないしはそれらの神話を内含するテキストを解釈し、それをグノーシス神話に変形することによっ
て形成」されたといえる26。
このグノーシス主義は「正統」にとって脅威であり、聖書の正典化や教義体系の整備などが急速に進めら
れた27。グノーシス主義が決定的な契機として「正統」教会を「作った」ともいえるのである。
グノーシス主義は厭世的な世界観を持っている。造物主(デミウルゴス)によって作られたこの世は悪に
満ちており、理念化という知的努力はむなしいものであるがゆえに、そこから脱出する視点の確立こそが重
視された。したがって世界の理念化を放棄している点で、もはやグノーシスは「思想」ですらないという見
解も成立しうる28。
正統教義から判断はさておき、この思考形態そのものは「一切皆苦」の世界観に立つ仏教と類似している
点で興味深い29。がいっそう共感するのは、神話的な思考によってあくまで魂の刷新が志向されており、特
定の教義に依存することなく救いが目指されている点である。
ジェームズ・ハイジックが
「
『救いからの救い』
24
Aloysius Pieris, Love Meets Wisdom: A Christian Experience of Buddhism, Maryknoll(New York): Orbis Books, 1988, p.113.
25
荒井献『トマスによる福音書』講談社、1994 年、102-103 頁。
26
荒井『トマスによる福音書』105 頁。
27
もちろんすべてをグノーシス主義の「功績」とするものではない。キリスト教成立時点での重要な要素で従来忘却されがちだった
ものとして、ジェームズ・ハイジック(James W. Heisig)によれば(1992 年度南山大学大学院神学専攻における「諸宗教の神学演習(二)
」
から)
、ローマ神話、ギリシア神話、エジプト神話、そしてユダヤ人の中の多神論が指摘される。また、聖書の正典化において最も影響
が強かったのはマルキオンへの対抗意識だったと推察されるが、マルキオンをグノーシス主義に数えるか否かはそれ自身でひとつの問
いを形成する。彌永信美は、初期キリスト教の一群の異端に限定する教義の定義をとる「唯名論的」なグノーシス観とグノーシス事態
をひとつの極めて特殊な〈思考―感情〉の型に基づいた「心性の構造」と考える「現象学派的」なグノーシス観の複綜を指摘し、後者
の視点に依拠して卓越したグノーシス考察をなしている。彌永信美「
『異なるもの』への飛躍」
(
『現代思想』19 巻 1 号、1991 年 1 月、
所収)172-177 頁。
28
彌永信美「閉塞世界とグノーシスの〈光〉
」
(
『現代思想』20 巻2 号、1992 年2 月、所収)124 頁。
29
もちろん仏教においては涅槃寂静の楽が目的であり、また苦はかならずしも悪ではない点を忘れてはならない。
12
魂の覚醒― 自覚的応現と回心的影現 ―
を通じての救済」と呼ぶ発想である30。
ただし、ここでハイジックはグノーシス主義に観察できる感覚への忌避に対抗して、
「正統」
(orthodoxy)
、
「正行」
(orthopraxis)に加えて、真の五感の解放たる「正感」
(orthoaesthesis)という『トマス福音書』に顕
著に見られる新尺度を措定する 31 。がしかし、それは彌永信美がA・ラブジョイを受けて唱える
メタフィジカル・パトス
「形而上学的情念」つまり「
(ほとんどの場合無意識的な)形而上学的、あるいは超越論的選択に基づいた〈思
『トマス福音書』は「グノーシス
考—感情〉の型」に相当しよう32。ハイジックが正しくも指摘するように、
のイメージを使うことによって、グノーシス主義に一矢を報いた」33のであり、感覚の再生ではあっても形
而上的な基盤は放棄されたわけではないからである。
さて、彌永信美によれば、グノーシスの体系において最も重要な要所となるのは、
「異なるもの」の概念
である。なにより、
「相対的な『私』と絶対不変の『真の自己』とのあいだにあるのと同じほど絶対的な隔絶
が横たわっている」のであり、ゆえに「グノーシス的な意味での『自己の探究』は、決して単なるナルシシ
ズムではない。
『異なるもの』としての『真の自己』は、
『この世』において『私』に対する『他者』として
現われると言うこともできる」34。
顧みれば、
「真の自己」なる観念が往々にしてどこかにすでに実在しているかの印象を与えがちなのに対
して、この異者性の受容は倫理の次元にまで視野を拡大する利点を持つ。つまり、自己の内なる他者を受容
することが「真の自己」の成就であるとともに、またこの受容はこのもはや「誰の主観とも関係なく『客観
的に』存在している」35他性の受容であり、ここに隣人愛とともに客観性が想起される。
この「真の自己」という主体性の確立と隣人愛に伴う客観性の生起とは簡単に統合されえず、また、統合
してはならない。そのようないわば叡智的技法の模範を『トマス福音書』は提供できるのだ。
「二つのものを
一つとする」
(語録 106)あるいは「二人の者が同じ家でお互いに平和を保つ」
(語録 48)は、二者を融合統
一して第三の「一つ」にすることではなく、原初的な対関係を回復することにほかならない36。現世におい
て身体性を本性として主体となるわれわれは、相互に他者でありつつも、客観性を原初的対関係の極地とも
いえる「双子」
(δίδυμος)たるイエス(さらに彼が示す女性や小さな子供)に倣い、
“alter Christus”
「他のキリ
30
ジェームズ・W・ハイジック「五感の恢復――時代の禁欲主義に抗して」
(上智大学東洋宗教研究所編『慈悲・身体・智慧』春秋
社、1994 年、所収)72 頁。
31
ハイジック「五感の恢復」73 頁。
32
彌永「
『異なるもの』への飛躍」176 頁。
33
ハイジック「五感の恢復」87 頁。
34
彌永「
『異なるもの』への飛躍」181 頁。
35
彌永信美「グノーシスとパルメニデース――または『属性ある絶対』とはなにか」
(
『現代思想』19 巻 3 号、1991 年 3 月、所収)
261 頁。
36
荒井『トマスによる福音書』314 頁。
13
『 聖 書 と 宗 教 』 3( 2013)
スト=もうひとりのイエス」つまり「トマス」
(アラム語で「双子」を表わす「トーマー」tōmā のギリシア
語形)となるべくして道を歩む行者となるのである。われわれはこの「他のキリスト=もうひとりのイエス」
において、
「真の自己」あるいは自己と他者との媒介者たる「永遠の魂」を見出せるのである。この道を知っ
た限りは、もはや立ち止まることも後退することも許されない。分別の次元を超えた「神化」の道が開かれ
ている以上、それを抑圧してはならないのである。
3.2.2 元型的心理学
心理学とは元来文字通り「魂の学び」
(psychē-logos)である。この極めて当然の事実を過剰な科学主義の
現代において思い出させてくれたのがユング派の心理学といえるだろう。ユング心理学の一系統をなし、
「魂
作り」
(soul-making)という着想を展開する元型的心理学(archetypal psychology)について、以下において一
瞥しておきたい。
元型的心理学の第一人者であるジェイムズ・ヒルマンの主著『魂の心理学』を一読すれば、その起源がル
ネサンスにおかれていることは明白である。ヒルマンによれば「ルネサンスを始動させたのは、自然から人
間への回帰ではなく、魂への回帰なのである」37。そこで支配的だった新プラトン主義は疎外、悲しみ、死
の自覚といった否定的感性を強く保持しており、その心理学化において「人は、自らの死と魂をいつも目の
前におき、あらゆる事物、あらゆる人の深みを見抜かなくてはならなかった」38。
ただしそこでの死は字義的な死とは異なり、生の「防衛的同一性」を超えて下方ないしは内へ向う運動で
あり、そこでは永遠性と安息が見出される39。もちろんそれは死や悪さらには悲惨等から目をそらすことで
はなく、二重の真理つまり「非人間性と魂との同居!」が認知され、
「ルネサンスの道徳性は、魂作りを、魂
それ自身の中の深い非人間性と病理化過程から分かたなかった」40。つまりルネサンスは光と闇を隔離しな
かったのである。
さまざまな類似点にもかかわらず、グノーシス主義が現世を厭世的に忌避したのに対して、ルネサンスは
この世の病理を受け入れ、さらには魂作りに不可欠な視点へと変容させた。真の自己の探究という共有され
た責務においてもルネサンスはあくまで現世から出発する。つねに人間の現存在は汚辱にまみれつつも、
「魂
の声としての人間」なのだ41。
37
ジェイムズ・ヒルマン(入江良平訳)
『魂の心理学』青土社、1997 年、368 頁。
(原著:James Hillman, Re-Visioning Psychology, New York:
Harper and Row, 1992, with new preface.)
38
ヒルマン『魂の心理学』381 頁。
39
ヒルマン『魂の心理学』386 頁。
40
ヒルマン『魂の心理学』389-390 頁。
41
ヒルマン『魂の心理学』400 頁。
14
魂の覚醒― 自覚的応現と回心的影現 ―
本稿は心理学領域の論文ではないので、元型的心理学の詳細を叙述することは避けたい。しかしながら、
「魂の学び」としてのその視点は後述する筆者独自の魂による思想理解において極めて教唆的である。ゆえ
に、繁雑さを恐れず、重要な着眼点を詳しく挙げておかねばならない。
a) 魂の内の人間存在: ユングでいう“esse in anima”に相当し、
「人間が魂を持っていて、人間の脳
の中に心があると考えるのではなくて、逆に魂の中に人間がいると考える」42。人間が魂をイメージするの
ではなく、逆に魂が人間をイメージするのである。
b)観点としての魂: 魂は「実体というよりも観点(perspective)であり、ものそれ自体というよりも
ものに対する見方」であり、
「ファンタジーやイマジネーションの働きによって現実を体験しているときに、
魂は生じてきている」43。
「魂を、他のものと切り離して、それ自体で把握することはけっしてできない。た
ぶん、
それは魂が流れる鏡の中の反映のようなもの、
あるいは他からの光を媒介する月のようなものだから」
44
。重要なのは、魂のパースペクティヴ性が重相可能ということだ。ここに諸相共生の可能性が開かれる。
c)作用かつ対象: さらに魂は「イマジネーションとして現実を作り出すはたらきでるのと同時に現
実がイメージとして現れてくる対象でもある」
。つまり魂は作用であるとともに対象である。歴史像において
は、魂は歴史を作るものであるとともに歴史によって作られるものである。
d)病理化: このように「魂は深みを持つ」
。そこ至るには「メタファー的な見方を必要とする」
。し
かもそれは「日常を壊していくような病的(pathological)な形で体験されることが多い」が、
「この変形され
た角度から生を見るから深い洞察もある」45。思想的展開は魂の自己展開と同一ではないが、思想家も魂の
中に存在する以上、思想は魂に属するといえよう。魂の「はからい」が思想に集中されるわけではないこと
は当然であるにせよ、思想上の病理現象において魂の深みが観察されることはいなめない。ゆえに、通念的
な倫理観から病理的思想を排拒してはならない。戦争中の諸思想が今もなお精査に値する所以である。
e)魂と観念: 「魂と観念は互いに指し示しあっている」のであり、
「魂は観念の中で自らを開示す
る」
。そのような観念あってこそ事象が経験になる。また「魂は、何であれ自分のもとにやってくる観念の中
に自分自身を探し求めることによって学ぶ」ことをわれわれは知らねばならない46。逆に観念は、その暴走を
防ぐべく、絶えず魂の垂直的深みへ差し戻されなくてはならない。
f)魂作り: まさに主役は探求される魂なのである。
「ヒルマンによれば心理学は無意識への王道とし
ての夢を常に無意識から何かを取ってくる方向に用いてきた。そうではなくて、無意識の方へ行き、無意識
42
河合俊雄「ユング/ヒルマンの元型的心理学」
(ヒルマン『元型的心理学』所収)160 頁。
43
河合「ユング/ヒルマンの元型的心理学」162 頁。
44
ヒルマン『魂の心理学』21 頁。
45
河合「ユング/ヒルマンの元型的心理学」164 頁。
46
ヒルマン『魂の心理学』240-242 頁。
15
『 聖 書 と 宗 教 』 3( 2013)
に何かを贈ることが大切ではないか」とヒルマンは提言する47。つまり自我にとっては良くても、魂にとっ
ては破壊的なことがありうるのだ。目指すべきは自我の統合ではなく、魂作り(soul-making)なのである。
したがって当然、魂に貢献する過程で自我の苦しみを受容すべき場合も生じてくる。
ゆえに、結合あるいは統合というモデルは追求されない。様々なイメージや感情の背景には「様々な神が
働いている」
。イメージや感情を「自我に統合しようとすることは神の行為にまで責任をもって支配すること
になってしまう。大切なのは情動の影にどのような神がはたらいているかを見通すことなのである」48。し
かも統合は、ことに神あるいは魂の視線を忘却した場合、一種の合体つまり「カニバリズム」になる危険が
ある。われわれにとり重要なのは自我の統合ではなく、魂の観点から看破(see through)する想像力を磨く
ことである。
g)死と下降的神秘主義: ここにおいて魂に焦点を定めることは、じつは死に焦点を定めることであ
るとヒルマンは言う。
「人間であることは、死を想起し、死が告げるパースペスティヴを持つこと」にあり、
「生のもろもろの関心事の『彼方』かつ『下』にある視点」としての死が見出される49。ゆえに「新しい神
秘主義は……下降の神秘主義である」50。その日常的形態は「この出来事、この物、この瞬間は私の魂の中
でいったい何をつき動かしているのだろうか。それは私の死にとって何を意味しているのであろうか」とい
う問いかけとして出現するのである51。
h)貸し与えられた魂: もちろん自我はこの問いの支配者たりえない。魂は「祖先によってわれわれ
に貸し与えられ」
、
「神々によって貸し与えられ」
、
「夢によって貸し与えられた」ものであるからだ。あるい
は「これから起こるべき何か、われわれを通じて進みつつある何か――時代精神、進化の過程、カルマ、万
物の創造者への回帰――によって貸し与えられた」ものゆえにである。
「われわれの生は、しばしの間、心に
貸与されているだけだ。この期間、われわれはその心の世話人であり、そのためにわれわれはできるだけの
ことをしようとするのである」52。われわれは魂をより豊かにすべく管理能力を賦与された存在である。そ
れこそが、キリスト教的に言えば、魂を通じて神から賦与された恩寵の内容なのである53。と同時に責任で
47
河合「ユング/ヒルマンの元型的心理学」176 頁。
48
河合「ユング/ヒルマンの元型的心理学」175 頁。
49
ヒルマン『魂の心理学』384 頁。ここで天上と大地との対比を連想することもできる。本多正昭の以下のことばは重要である。
「有
の文化は、天上を目ざす精神性の所産であり、無の文化は、大地に根ざした身体性の表現である」
。本多正昭『人間とは何か――矛盾相
即的世界』
(増補新訂)創言社、1992 年、121 頁。
50
ジェームス・ヒルマン(樋口和彦、武田憲道訳)
『内的世界への探求――心理学と宗教』創元社、1990 年、59 頁。
(原著:James Hillman,
Insearch: Psychology and Religion, Dallas: Spring Publications, 1967.)
51
ヒルマン『元型的心理学』55 頁。
52
ヒルマン『魂の心理学』339 頁。
53
この構造を筆者は次の拙稿において詳述している。
「
『諸宗教の神学』と『内なるアナーキズム』
」
(
『思想のひろば』7 号、1996 年、
16
魂の覚醒― 自覚的応現と回心的影現 ―
もある。魂が自己の理性を超え出るものである以上、その責任は良心といった自閉性からさらに深層へ降り
立ったものとなろう。
i)歴史への視線: さて魂は常に現実の歴史において働き、また観察される。この魂は歴史の教義化
を許さない。つまり、特定の史観からあるいは歴史哲学から遺漏する影たる非・存在からの視線が理念的な
安定を許さないのだ。このような事態に直面して、ヒルマンの主張に教えられることも多い。
彼は論稿「頂上と谷」においてこう語る54。
「魂は、我々が歴史にかかわり合うようにさせる」
。魂ならぬ
精神や宗教の目標たる「頂上は歴史を一掃してしまう。歴史は克服されるべきものになる」
。ヒルマンにとっ
て唯一の正しい歴史など、魂への迫害にほかならない。
つづいて思いもかけない指摘がなされる。
「歴史が最も抑圧されているものになったと思われる」と。フ
ロイトの時代の性に代わって「我々は歴史を否定し、誰でもが、パンドラの希望のような、袋に詰まった様々
な可能性を持ったプロメテウスであると思っている。妨げられることなしに、かくも多様で美しく新しい未
来を前にして、男も女も解放されて新しくなって、サイエンス・フィクションに向って生きていく。それゆ
えに歴史は低い所でブツブツと言い、我々の心的なコンプレックスの中で働き続けるのである」
。歴史は見え
ないが、存在しないのではない。抑圧されているだけであり、再生の機会をつねに狙っている。
「我々の中の歴史に取り組むよりも、山を登ることによって歴史を超越してしまって、その後に何であっ
ても来らしめることの方がはるかにやさしい。谷における変化は、歴史の承認、廃墟の中を掘り起こして再
び集めるという仕方での想起を行なうような魂の考古学を必要としている。そして、ある特定の地理的で歴
史的な土壌に、自分独自の香りと風味を伴って、死者の霊(精神)と結び付きつつ、木を植えていくことが
必要なのである。それは、下にある土地に沈むポー=魂である。
」ともヒルマンは語っている。
いわば歴史の疎外である。理念的な歴史像の体系美に酔いしれることで、具体的な歴史の底に沈む死者さ
らには自己の深層心理を抑圧忘却してしまう。この複雑な事情の解決は、昨今先の戦争に関する未可決の諸
問題に見出されるごとく、容易ではない。というのも、近代的な二元間の対決のみでは扱えない次元を含ん
でいるからだ。
ゆえに第三の視点である魂を取り戻さねばならない。貸し与えられた魂を忘却の淵から救いだし、豊かさ
を増し加える仕事を久し振りに思い出さねばならないのである。それは現実の時代背景までを射程に入れて
思想史的に接近するという視点を形成する55。
所収)
。
54
ヒルマン『元型的心理学』121-124 頁。同書に「頂上と谷――心理療法と精神的訓練の違いと精神の区別」が収録されている。
(原
論稿:James Hillman,“Peaks and Values: The Soul/Spirit Distinctions as a Basis for the Differences between Psychotherapy and Spiritual Discipline,”[in:
J. Needleman and D. Lewis, On the Way to Self-Knowledge, New York: Knopf, 1976.])
55
ここに「発語内行為」と「発語媒介行為」という区別も可能である。
17
『 聖 書 と 宗 教 』 3( 2013)
3.3 新しい「魂への配慮」へ
グノーシス主義には自他の間に厳在する「異なるもの」を受容し自己変革を遂行する意志が読み取れるが、
その前提はもはや現代では許容しがたい彼此の分裂的併存である。元型的心理学はいまここでの魂の多様性
と通底性を明らかにしたが、その反面では異者性に対して望まれる厳しい覚悟がぼやけてしまう傾向をあら
わとする。
ともあれ、現在新たに要請されるのは「魂への配慮」
(care of souls, Seelsorge)を刷新することといえるだ
ろう。人間の魂の成長・発達・癒し・救済への配慮は従来のような司牧の一環としての一方的な「魂の治療」
(cura animarum)ではなく、むしろ各人の自己の探究と隣人愛への自覚的参与として理解されなくてはなら
ない。教会の役割は指導者(leader)ではなく、援助者(helper)なのである。確認されるべきは、人間は人
格の中心にして人格を超脱する魂において病んでおり、それの状態は癒されねばならないという単純明解な
原事実のみである。ここに人は誰しも自らの現実たる歴史的・身体的生において「魂の火花」
(scintilla animae)
を見出すべく、つねに目を凝らさねばならない。正統と異端とを拙速にメタ次元で統合せんとする「超人」
を目指すのではなく、魂からの教導にしたがって、自らの魂における責任性を認識し、生を解釈する術を身
に着けなければならないのである。
4 魂の教導
ここで視野を国家へと向けてみよう。そこでも魂ははたらいている。魂と自我との関係は相関的であり、
不完全性を受容し、
試行錯誤が繰り返される。
しかし基本的に個を超える歴史的現実に視点を据えるかぎり、
魂が呼び掛け、自我が応えるという呼応関係が成立しているといえよう。以下において、魂の教導構造を一
瞥しておきたい。その内実は自我へと魂が「受肉」し思索主体として国家と対面する次元であり、言説その
ものの内実における責任性が問われる《魂の自覚的応現》と、その状況からあえて魂が焦点をずらし、回心
機能を喚起しつつ、言説そのものが予想しなかった結果的事態への責任性を明らかにする《魂の回心的影現》
との二相性において観察できる。
4.1 魂の教導構造
独自の「生の解釈学」を模索する竹田純郎は、歴史的・身体的生の経験を二つの位相において理解しよう
とする。
「歴史的・身体的生の表現態を介してあくまで歴史の流れに即した経験」としての「歴史的経験」と、
「ひとが自らの生動性を思索しつつ」
「歴史的・身体的生の生動性に遡って、なんらかの仕方でその生動性を
18
魂の覚醒― 自覚的応現と回心的影現 ―
分肢化し分節化する」経験するものとしての「垂直的経験」である56。
しかし、従来の国家をめぐる議論は歴史的経験に特化され、そこでの対立は垂直的深みないしは切断を想
起しえず、その結果論者はいずれも自説の騰貴的インフレーションに自己満足してきたといえる事実は反省
されるべきであろう。ゆえに、この垂直的経験への移行は忘却されてきた次元の想起であるとともに、膠着
状態にある歴史的経験の解釈を再活性化させる契機ともなろう。端的に言えば、垂直的経験の解釈こそが宗
教の領分に重奏してくるのである。
ようげん
なお、以下においてこの垂直方向を描写するにあたり、
「応現」と「影現」という概念を長谷正當から借
り受けたい。応現は仏の顕現として仏教教理の世界で散見されるものの、影現はさほど知られていない。長
谷は曽我量深に学んで、
「無の場所」としての心で捉えるしかない「地下観念界」への降下において宗教的世
界の現われを影現と呼ぶ57。この語は否定を契機とした逆説的顕現を表記するのにじつにふさわしいもので
あろう。
4.2 《魂の自覚的応現》
竹田に倣えば、生の解釈学の垂直的経験をめぐる試みは、
「生の本質」たる「生動性」
(Lebendigkeit)を「分
肢化し分節化する思索」である「生の自己省察」と名づけられる58。この生の自己省察に伴う意味理解は「私
の身体の地平に制約されているし、身体の地平と共にあるパースペクティヴに制約されている」のだが、反
面、
「ひとが神の御座へと飛翔しえない必然の定めは、ひとの歴史的・身体的生がそのつどの現在の地平に親
しく生きていけるという安らぎをも示している」とされる59。この地に脚を着けた安定感は思索に不可欠な
条件である。人間は高揚した心理において深く思索することはできないからである。
くわえて「地平のそのつどの形成と消滅とともに、パースペクティヴが移動でき交換できるばかりか、さ
らに生成し消滅するゆえに、パースペクティヴは在って無いに等しい」とされる60。この一文は、必ずしも
魂が身体に隷属しているのではなく、身体的生の変容にしたがい魂がさまざまな様相を自由自在に呈示して
いく事態を示唆していると考えられる。
「ひとは身体の形態と活動を介して、生動性という見えないものを理解せざるをえない」のだが、ここで
56
竹田純郎『生きることの解釈学』勁草書房、1994 年、19 頁。
57
長谷正當『欲望の哲学――浄土教世界の思索』法蔵館、2003 年、280-288 頁。および拙稿「
『近代の超克』論議における道徳的緊
張――吉満義彦と西谷啓治の比較考察」
(
『比較文明』24 号、2009 年、所収)220 頁参照。
58
竹田『生きることの解釈学』145 頁。
59
竹田『生きることの解釈学』152 頁。
60
竹田『生きることの解釈学』152-153 頁。
19
『 聖 書 と 宗 教 』 3( 2013)
「
『身体の現象』は、ひとが生動性へと遡及するための『方法上』の手引きとして働くのである」61。視点を
反せば、ここに「見えない」魂の「見える」次元への応現の位相を想像することができる。したがって、自
我が存在している歴史的現実の次元へと魂が自らを進んで顕在化させるという意味で、
《魂の自覚的応現》と
名づけることができよう。
この不在(Abwesen)を現存(Anwesen)とする機能は歴史的・身体的生が最大の危機を受容し、その意
義を極大化される戦争において最も活性化されるはずである。ただし、極端なイデオロギー的圧迫下でその
活力が歪曲されてしまうといえよう。このような背景のもと、魂はさまざまな制約を受けつつも自我と連合
し、批判的原理として機能するはずである。ゆえに《魂の自覚的応現》はまずもって思想の発語内行為的責
任を問われるのである。
この《魂の自覚的応現》の表現は、しかし、直接的あるいは命題的に表現されるわけではない。
「生動性
はたとえ言い表わされるにしても、隠喩的に表現されるほかはない」からである62。ここでこの生の生動性
を無限なるものとして把握すれば、そこには有限に根ざす成長も成熟もありえない。まさに超越的な「神」
の様相を示すことになる。しかし、神と人の間に介在する第三項としての魂は自我からの働きかけによって
豊潤化され、滋養されるものであり、その意味で敢えて前提として不完全性を甘受する。この不完全性ある
いは否定性の受容は、まさに魂は身体性と不可分な主観性に対して反省を迫る客観性として現出すると考え
られるのだ63。それは思想の権利ないし責任を言説の内実に囲い込むものではない。つまり、魂は自我を強
化するものではなく、覚醒させるかたちで協働するのである。
4.3 《魂の回心的影現》
魂は生の自己省察においてより広角な展望ないし視圏を実現する。
魂は統合を避けつつ包摂を志向するが、
そこでは弁証法的な止揚による高次元な統一者は求められない。むしろ魂の発動としての自己省察は無自覚
の前提を闡明しようとする。そこでは相反する位相が複綜する。つまり、魂は受肉つまり応現し、象徴的・
寓意的に世界構造に介在するに至るとともに、そこでの主客対立を止揚的に統合することはなく、いわば異
化作用を発揮すべく、自明化されてきた関係性から一歩下がって距離を置く。不可視の領域から可視的領域
61
竹田『生きることの解釈学』156 頁。
62
竹田『生きることの解釈学』161 頁。強調引用者。
63
エーリッヒ・ノイマンは新しい全人的倫理において神も「光と闇」といった両義性に見られる対立原理を自らの内に包摂している
限り不完全だと語る。エーリッヒ・ノイマン(石渡隆司訳)
『深層心理学と新しい倫理――悪を超える試み』人文書院、1987 年、155 頁。
(原著:Erich Neumann, Tiefenpsychologie und neue Ethik, 1948.) これは当然、筆者の視点から見れば、魂の自性を表現するものである。
ただし注意すべきは、ここでいう両義性は一方を採り他方を排する意味での二元論的倫理ではない。むしろ生きる知恵とでもいうべき
柔軟性の現れといえよう。
20
魂の覚醒― 自覚的応現と回心的影現 ―
へと自覚的に現成倶現されてきた方向からすれば退歩つまり影現するのである64。この影現は魂が自我から
不可視の根源へと目を向け変え「視点そのものを移す」という点で、本来的語義における「回心」に相当す
る65。
そのような回心の遂行態たる魂は、自明な生の此岸から此岸と彼岸との境界にまで退き、そこで在りつつ
無い二重相を実現する。竹田の表現を借りれば、魂たる「生動性は、見える形態のように存在するものでは
ないという意味では、無い……にもかかわらず、生動性は現存する」のである66。あるいは竹田がガダマー
に倣ったように、受動的であって能動的といえる「中動相性」
(medial)な在り方をとるともいえるだろう67。
この視点から要請される倫理は、覚醒つまり「気づき」に依拠するものとなる。この「気づく」という意
識はまずは受動的で、初発的かつ非主題的な意識であり、事後的な性格が避けられない68。しかも、それが
指示する倫理的根拠である不可視の「絶対」には直接的な言語的形象化は及びえないため、必然的に隠喩的
に仄めかすに留まる。つまり明瞭性および指示性における否定性を受容した隠喩によって、
「
『魂』の内的像」
69
として新しい倫理の「根拠=無・根拠」は象徴的・寓意的に、つまり《魂の回心的影現》として仄唆され
るのである。
とはいえ、この微妙な事態において身体性は厳然と現存している。その身体的生の生命力は、現在つまり
「
『もはやない』という無と、
『まだない』という無とのいわば二重の無から成りたっている」
「常にすでに抵
抗をうけている」基点において「隠れながらも現われる」という二重性として造形される70。そこに看取さ
れる仮象性は、生の垂直的経験の位相が忘却されれば、たちまち肥大した自我による歴史的経験の作為によ
って悪用されてしまい、その結果生命力は「暴力」と化してしまう。
注目を要するのは、この回心を遂行するのが自我ではなく、あくまで魂である点である。もちろん魂から
64
ブレット・デービス(Bret W. Davis:Loyola University Baltimore、日本哲学史専攻)によれば、
「退歩」という観念が後期西谷およ
びハイデガーを通底するニヒリズム超克論理として看取されるという。
デービスは、
主に西谷啓治の
『宗教とは何か』
および
「転回」
(Kehre)
以後の後期ハイデガーに依拠して「主観―客観」等の二元論的対立構図さらには二元論対一元論さえも克服する視点として、
「退歩就己」
(西谷)および「Schritt zurück」
(ハイデガー)に着目するのである。詳細は、ブレット・デービス 「西谷啓治における「退歩」――ニ
ヒリズムを通して絶対的此岸へ」(細谷昌志編 『「根拠」への探究――近代日本の宗教思想の山並み』、晃洋書房、2000 年)に
まとめられている。筆者はこの問題に関してデービスから貴重な教唆を受けたことをここに表明しておく。ちなみに筆者が「魂」へ気
づく源となった元型的心理学はハイデガーとほぼ同時代に(西谷にはやや先立って)同じく「脱近代」を志向したユングの心理学に発
しているため、そこには類似の着想が散見される。
「退歩」をめぐって、デービスと筆者はこの事情を共有しているといえよう。
65
本田哲郎「
『回心』――福音を信じるための条件」
(
『日本カトリック神学会誌』創刊号、1990 年、所収)30 頁。
66
竹田『生きることの解釈学』166 頁。
67
竹田『生きることの解釈学』170 頁。中動相については、中井秀明「ベンヤミンの中動態、ヘイドン・ホワイトの誤解」
(ブログ
『翻訳論その他』
、http://d.hatena.ne.jp/nakaii/20110728/1311837769 、2011 年7 月28 日)が詳しい。
68
竹田『生きることの解釈学』171-172 頁。
69
竹田『生きることの解釈学』188 頁。
70
竹田『生きることの解釈学』195-196 頁。
21
『 聖 書 と 宗 教 』 3( 2013)
の回心作用を受けて自我がその実践に協力することはもちろん可能であるし、また望ましい。この魂からの
告知を感知にするにあたって宗教的感性は親和的に働くであろう。
この魂の回心遂行を受けて、歴史的身体的生の実存的主体は過去と未来との連続性において自己を理解し
うる。つまり水平的な歴史的経験と魂による垂直的経験と交点としての「今ここ」
(hic et nunc)に限定され
ていた自己(これこそが《魂の自覚的応現》態として時代を批判する主体たりうるものだった)が魂の視点
の退歩につき従うかたちで時間的広がりを獲得するのである。
(下図参照)
垂直的経験
痕跡的自己
P0
予覚的自己
応現
影現
過去
<可視界 :体>
未来
(esse-in-anima)
<半可視界 : 魂>
即
P1 P-1
絶対
<不可視界 : 霊>
もちろん、現在点に屹立する自己主体が消滅するわけではないが、その時間的前後の像つまり痕跡的自己
と予覚的自己が魂の影現により造形されるともいえよう。
つまり、ここに自我は魂との関係性を認知する(隣人愛の原関係)とともに、過去の自己像および未来の
それと共生する可能性を獲得する(自己愛)
。この事態は瞬間的な主観の迸りを抑制する志向性を示し、ゆえ
に「客観的」である。この視野の拡大こそが、
《魂の自覚的応現》に不可避ともいえる自我による硬直性や歪
みを気づかせてくれる。つまり歴史批判の主体たる自我への《魂の自覚的応現》態は、
《魂の回心的影現》を
受容消化してこそ自我と魂との調和を実現させ、さらにはそれまで視野の外に置かれたままだった「隣人」
つまり相互的主観を共有すべき存在を想起せしめるのだ。
それを空間的にイメージすれば次のようになろう。
そこでは文字通り身近な隣人のみならず、日常の想像力では捉えがたい「遠人」への気づきが見られる。
つまり「遠人愛(das fernste Liebe)」
(ニーチェ)が成立するには魂の《魂の回心的影現》が不可欠なのである。
そして隣人・遠人とともに痕跡的自己・予覚的自己との関係において成立しえている(次図参照)
。
もちろん、この客観性の成熟と確立が保証されるためには、拠点となりうる歴史的・身体的客体の存在が
まず要請されねばならない。ここにこそ国家や教会の存在意義が端的に表現されてくるのだ。ただし自己の
言説の内部に留まることは許されないのである。それはともかく、
《魂の回心的影現》を受けて、歴史的・身
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魂の覚醒― 自覚的応現と回心的影現 ―
面的
点的
X
隣人
X
隣人
遠人
遠人
影現
応現
絶対
体的世界にも回心的客観性が成立する可能性が開示されることを上記のごとく明言しておきたいと思う。
5 魂の旅人
エドワード・サイードが引用して以来、ヴィクトル・フーゴーの『ディダスカリコン』の一節がしばしば
引用されるようになった。いわく「故郷を甘美に思う者はまだ嘴の黄色い未熟者である。あらゆる場所を故
郷と感じられる者は、すでにかなりの力をたくわえた者である。だが、全世界を異郷と思う者こそ、完璧な
人間である」と71。
5.1 柄谷行人による解釈
この一節に現代日本において最も鋭い分析を加えているのが、柄谷行人である。柄谷はヴィクトル・フー
ゴーのこの言葉をスピノザの「無限」につなげ比較展開させるとともに、なにより思考の根本的三タイプと
みなしている72。
最初の「故郷を甘美に思う」とは共同体の思考であり、
「組織された有限な内部(コスモス)と組織され
ない無限定な外部(カオス)という二分割にもとづいている」閉じられた空間を形成するとされる。
第二の「あらゆる場所を故郷と感じられるもの」は、いわばコスモポリタンで、共同体を超えた普遍的な
理性なり真理なりが存在するという思考である。
第三の「全世界を異郷と思うもの」は「あらゆる共同体の自明性を認めない」ものであるが、
「共同体を
71
Edward Said, Orientalism, New York: Vintage Books, 1979, p. 259. エドワード・W・サイード(板垣雄三、杉田英明監修、今沢紀子訳)
『オリエンタリズム』
(下)
、平凡社、1993 年、138 頁。
72
柄谷行人『言葉と悲劇』講談社、1993 年、251-254 頁。
23
『 聖 書 と 宗 教 』 3( 2013)
超えるわけではなく」
、むしろ「その自明性につねに違和を持ち、それを絶えずディコンストラクトしようと
する」タイプを指す。それは「第一のタイプが持つような内と外との分割というものを、徹底的に無効化」
するとともに、
「第二のタイプで普遍的なものというとも、また違う」のであり、それを柄谷は「
『社会的』
な交通空間」と名づける。
5.2 魂の教導との相応
この三タイプは筆者の魂の教導構造に相応合致する。
第一の共同体タイプは魂に導かれない自我中心主義ないしは独我論的な段階に相当する。
そこでは一見極めて強固な主体が観察されるが、しかし自我を脅かす「他者」は登場することも想像させ
られることもない。また神もじつは自我理想の象徴化にほかならず、自我のナルシシズムに留まっている。
つまり自我はいっさいの反省を経ることなく、究極の価値根拠と自同視され、自己の存在を無反省に外部へ
投影し、強制することになる。いわば外部を内部化するのである。またそこで可能な変容はあくまで自己差
異化にともなう主観的な次元に留まる。
「大東亜戦争」期の日本ナショナリズムにその典型が予想されるであ
ろう。
第二のコスモポリタニズムは、一定の自己否定過程は内在されている。また自己を超える他者としての超
越者も与えられる。この意味で自我と魂が一体化した《魂の自覚的応現》過程にあるといえる。そこでは共
同体による束縛から自由となり、自己が魂によって示唆される神的な意志を受けて自己と神による自他協働
を果たすことになる。ただし、その正統性および目指すべき理念は普遍的な真理として保証されており、ゆ
えに自己の変容は予想されず、むしろ普遍的な自己の遍在が可能だとされる。このいわば特権意識があらゆ
る場所を故郷と感じさせるのである。つまり内部を外部に合わせることで超越的優位を享受するのである。
また看取できる変容の根拠はたしかに客観的な性格をもつが、いまだ自同的なものである。具体的な事例と
して、論理的矛盾を忌避する神学によって過剰なまでに支えられた伝統的および正統的なカトリシズムを思
い起こすことはさほど難しくはない。
第三の「全世界を異郷と思うもの」において、共同体に内在しつつ共同体を脱構築していくことは、第二
の段階で自我と魂が一体だった次元から、あえて魂が教導的に逸脱していくこと、つまり《魂の回心的影現》
に相当する。魂は自我を見捨てるのではなく、自我に変容をもたらし、痕跡的自己像および予覚的自己像の
創造を志向する。
この変容は決して共同体を出て砂漠へ籠もる隠修士となることで成就されるのではなく、むしろ共同体の
ただなかで生きることを引き受けつつ、たえず「砂漠」を思い起こしつつ、開かれた存在としてさまざまな
交流を促すことでもある。それは自家撞着的および超越志向的な自我肥大をともに拒否し、諸共同体間の境
界に立つことであり、その砂漠はコミュニケーションにとって障害ではなく、むしろ無障害の経路となって
24
魂の覚醒― 自覚的応現と回心的影現 ―
いる。ここにみられる動態的主体あるいは「旅人」
(homo viator)こそが、たとえば一見実現困難な自己愛と
隣人愛の相即を果たす主体たりうるのであり、またそこでの「掟」は決して硬直した律法ではなく、人間が
その根底からおのずと従わざるをえない出来事の範型を指すことになろう73。
ここに見られる回心構造はなにか既存の根拠へと安易に依存することを拒否する点で、主観的にして自同
的ではないことは当然ながら、他者へと自己忘却的にすり寄るものでもなく、むしろ非自非他的な冷たくも
厳格なものである。しかし同時に否定性に伴う試行錯誤を許容する点で暖かいものともなろう。具体的には
中世のドミニコ・デ・グスマンおよびアシジのフランシスコから現代のシャルル・ド・フーコーに至る托鉢
修道会の精神が想起される。さらに身近には、第二ヴァティカン公会議において明示された福音の再興が相
当するだろう74。
以上の三タイプは、たしかに柄谷のいうように思想史上の三類型であるとともに、魂の教導でもあるかぎ
り、微視的にいえば諸々の思考事例において生起しているともいえるし、巨視的にいえば人格や思想の変容
ないし成熟過程に見出すことができる位相ともいえるだろう。重要なことはこれらの内実ではなく、あくま
で魂の教導にしたがって隣人愛を達成すること、つまり変容の「パターン」の示唆である。矛盾した自己像
や他者像に辛抱強く耐え忍び、誰をも排除することなく、しかし否定性が確保されることにより超人的な境
地への競りあがりを夢想することもなく自己存在が根底から変容されていくこと。さらには埴谷雄高の言葉
を借りるならば「自同律の不快」を経験し、そこからいっそう開かれた自己に至ること。この道行きはまさ
しく魂の覚醒から始まるのである。
おわりに
冒頭で「理念構築に盲進する愚を極力避け」ると大言壮語したにもかかわらず、じつに煩瑣にして輻輳し
た代物に堕してしまった感がいなめない。もちろん筆者の浅学非才が最大の理由である。しかし理性的厳密
性をみずから脱する本性をもつ生動的な「魂」の視点に立ち、既存の思考に異化作用をもたらしつつ、同時
に学としてまとまった論述を行うことそのものがもつ困難さも、言い訳半分で挙げておきたい。魂の領分は
従来われわれが確信犯的に忘却してきた次元であり、そこに眼差しを向ける技法の再興はわれわれに残され
た課題であり、また希望である。いずれにせよ、衰弱した「神学の場」
(loci theologici)の再生のためには、
長期にわたる緩やかな「体質改善」が欠かせず、古びた趣をともなった服薬が試みられてもよいのではない
73
ここでいっそうの展開を企図するために、照合系として宮本久雄による「脱在」思想を想起することは十分に意義深いものと信じ
る。宮本の神学思想に関しては、宮本久雄『旅人の脱在論――自・他相生の思想と物語りの展開』
(創文社、2011 年)を参照のこと。
74
第二ヴァティカン公会議において発表された公文書は、いずれも聖書ことに福音書に強く依拠している。それは注記を見れば明ら
かである。他方で公会議以前の公文書の多くは、トマス・アクィナスの『神学大全』といった教義神学の文献に多分に依拠していた。
25
『 聖 書 と 宗 教 』 3( 2013)
か。また、なによりもこうした模索は、無機質な現代社会のただなかで神秘の回復を求めて懊悩するわれわ
れの魂の叫びに応じた営みであろう。そうした温故知新の試論として本稿をまとめたしだいである。
本稿は博士論文「西谷啓治と吉満義彦における倫理――隣人を自分のように愛せるか」
(南山大学大学院、1999 年合格、
未発表)の第 3 章に、ことに「応現」
「影現」を主とした新たな視点から大幅な補筆修正を加えて新稿としたものである。
26