1 ヴィクトリア朝文学における〈修道女〉のテーマ ―女性詩人の「連歌」をめぐる一考察― ! 橋 美 帆 〔Summary〕 ‘Nun’ is one of the most prevalent themes in the 19 th century, although it is not a conspicuous craze but a silent spread of popularity. Women poets, such as Hemans, Landon, Browning, and Rossetti, started making adaptations of the Portuguese literature and circulating the works through themselves. They influenced each other, linked their works together, by borrowing or quoting phrases or themes each other, and made a mutual collaboration. As a result, they produced a significant intertextuality at a large―scale, which could be called ‘the Portuguese Boom.’ This boom is considered to have created and cultivated the literary theme of nun at that time. Accordingly, in the middle of the century, ‘nun’ became one of the literary trends, and took part in a sort of ‘mini’ genre, ‘nun literature’. This paper deals with the intertextuality of Browning and Rossetti, with a slight introduction of Hopkins, and casts a new light on a genealogy of nun literature in the century through their works. 〔Key words〕 Elizabeth Barrett Browning, Christina Rossetti, Luis de Camões, Portuguese Letters, nun literature 1.は じ め に 英国の文学や美術において,ヴィクトリア朝の初期から穏やかに流行をみせ,中期頃にピー クに達したテーマのひとつに「修道女」がある。このテーマは,絵画ではラファエル前派に代 表される中世趣味も相俟って,彼らの活躍した1 8 4 0年代から5 0年代にかけてよく見られる。同 じ頃にはこのテーマを扱った散文作品も現れ,これは6 0年代まで続いた。さらに散文よりも詩 において,このテーマはより早く,長く,最も実りある形で展開した。たとえば,ラファエル 前派同盟が活躍していた頃のクリスティーナ・ロセッティ(Christina Georgina Rossetti: 4)は,このテーマについて最も熱心であったし,ロセッティが先輩として仰ぐエリザ 1 8 3 0―9 1) ,の代表作『ポル ベス・バレット・ブラウニング(Elizabeth Barrett Browning:1 8 0 6―6 トガルからのソネット集』 (1 8 5 0)は,ポルトガルの修道女の書簡集『ポルトガル文』 (The Letters of a Portuguese Nun,通称 The Portuguese Letters)からその題名と語りの設定を借 用している。そしてジェラード・マンリー・ホプキンズ(Gerard Manley Hopkins:1 8 4 4― 8 9)は1 8 6 0年代以降,このテーマに強い執着を見せている。(1) しかしながら,これまでヴィクトリア朝の文学研究において,このテーマを追求したものは ない。これらの作品群は修道女さながら,主流から隔絶され,忘れ去られた存在であった。本 稿は,こうした〈修道女〉をテーマとした文学作品,とくにこのテーマが最も顕著に見られる 1 8 4 0年代以降の女性詩人の作品群のなかから,ブラウニングとロセッティという二人の女性詩 2 天理大学学報 第6 2巻第2号 人の詩作上の継承関係,とくにソネットにおける継承関係に焦点を当てていく。そして,この 継承関係を越えて〈修道女〉のテーマを独自に育んだロセッティに着目し,「修道女文学」と でも呼ぶべき「ミニジャンル」の再評価を提起したい。 2.修道女にまつわる幻想と現実 ヴィクトリア朝詩文学における「修道女」のテーマを考える場合,中世趣味にまつわるイメ ージとしての〈修道女〉と,英国国教会の修道女(修練女)という現実レヴェルでの「修道 女」という二つの類型があることを,はじめに指摘しておきたい。 英国ではヘンリー8世の宗教改革に伴い,6 0 0以上あった修道院は1 5 3 0年代に解散させられ たうえ土地や財産も没収されて壊滅状態となった。以降,旧教に対する抑圧が3世紀近く行わ れたが,1 8 2 9年のカトリック解放法よって旧教徒は市民権を回復し,宗教改革以来非合法だっ たカトリック教会の再建も可能となった。こうしてカトリック教会の勢力が強まるなか,1 8 3 3 年英国国教会内にオックスフォード運動(2)が起こった。結果として,国教会では従来の規律 や儀式が復活し,それと同時に修道生活に対する関心も高まった。特に女子の修道会が1 9世紀 半 ば ま で に 次 々 と つ く ら れ,そ れ ら は 全 体 で「英 国 国 教 会 派 修 道 女 会」 (Anglican Sisterhoods)と呼ばれる組織となり,カトリックの女子修道院に近い活動を行うようになっ た。(3)また修道女会には看護婦として活動する女性たちも所属しており,(4)英国国教会の修 道女会は,こうした看護活動や貧民救済活動を含めた慈善活動を行う宗教団体として,まさし く ‘devotional’ な社会的役割を果たしていた。 一方で,厳密な意味での修道女,つまりカトリックの修道女はむしろ現実から離れた「イメ ージ」だったと思われる。本来,修道女は社会から隔絶している存在であり,カトリックの修 道女が遠い昔にいなくなったヴィクトリア朝英国では,たとえばフランスやポルトガルのよう な旧教国で感じられる以上に,修道女は遠い存在であった。特に中世趣味の流行した1 9世紀半 ば頃には,「中世の,異国の修道女」はそれだけで ‘exotic’ な情緒をかきたてた。こうした 「時間的・距離的に遠いものへの憧憬」という情緒を引き起こすゆえに,修道女は当時,絵画 や韻文の対象となりやすい傾向があったようである。たとえばラファエル前派の絵画作品のな 3) 『修道院の想い』Convent Thoughts かで,コリンズ(Charles Allston Collins:1 8 2 8―7 (1 8 5 1)では,修道女は白百合や睡蓮をまとって瞑想にふけるポーズで描かれ,類型化されて いる。この時期の絵画に見られる修道女への憧憬は,「誰にも触れられたことがなく,手の届 かないところにいる美しい女性」という典型的な〈修道女〉のイメージと結びついていた。ま た,ホプキンズが同時代の画家で最も高く評価したミレイ(John Everett Millais:1 8 2 9― 9 6)は,メンデルスゾーンの合唱曲からタイトルを取った『休息の谷間』The Vale of Rest 9)を描いた。『休息の谷間』で描かれた場面は,修道院の中庭,棺桶の形をした不吉 (1 8 5 8―5 な雲が浮かぶ夕暮れの空である。その夕空を背景に,一人の修道女は墓場で墓穴を掘り,もう 一人の修道女は髑髏のついたロザリオを握っている。ロザリオを握る修道女は画面を見る者に 眼差しを向けており,死についての瞑想を促しているようである。黄昏が昼と夜すなわち生と 死の境界であるように,修道院も俗世と天上界の境にあり,生と死の架橋であった。絵画にお ける〈修道女〉は,俗世にいる者には手を触れることのかなわない「天上の恋人」の典型のひ とつであったと定義できるだろう。 そうした絵画における憧憬のイメージとは対照的に,ヴィクトリア朝の散文作品は「同時代 の修道女」 ,つまり英国国教会の修道女(修練女)たちに手厳しいものであった。1 8 5 0年頃の 3 ヴィクトリア朝文学における〈修道女〉のテーマ パンチ誌 The Punch は ‘Convent of The Belgravians’(1 8 5 0年1 0月1 8日)や ‘Fashions for 1 8 5 0; ―or A Page for the Puseyites’(1 8 5 0年1 1月3 0日)といった記事で修道女会をたえず批 判していた。その論調を代表として,この時代の散文作品には,国教会所属の修道女会に入っ て修練女になる女性たちを軽蔑し批判する調子がしばしば見られる。キングズリー(Charles 5)はその小説『浮世の泡』Yeast(1 8 5 0)で,恋人との結婚をあきらめる Kingsley:1 8 1 9―7 ため修練女になろうと考えている女性に対し,「修道生活は,非現実的な禁欲主義と神秘的な 瞑想という卑小な理想を満たすもの」と批判している。当時「家庭の天使」(5)を逸脱する女 性の生き方はすべて批判の的となったが,小説に見られる修道女(修練女)に対する批判もそ の一例である。こうした修道女に対する憧憬と非難という両価的態度は,ヴィクトリア朝の家 父長制社会のモラルが有していた二重基準に通じているとも解釈できよう。 また,批判的な小説が書かれた背景には,独身女性,いわゆる結婚適齢期を過ぎた未婚女性 の増加という問題がある。独身女性が増加した原因には移住や死亡率などによる男女の人口差 ジェンティリティ も含まれるが,なによりも「お上品ぶり」の流行によるミドル・クラス以上の階級に属する男 性の晩婚化あるいは未婚(生涯独身)化が挙げられるだろう。ロセッティの代表作 ‘Goblin Market’ のタイトルが当時の ‘Marriage Market’ を揶揄しているように,女性にとっての 「結婚市場」の厳しさは社会問題化していき,未婚女性を結婚させようという社会的圧力はい っそう強まった。婚期を逃した女性は経済的に自立できないため,一家の「余り者」として扱 3)は,女子教育の欠如が自活できない女性を生み われた。ミル(John Stuart Mill:1 8 0 6―7 出す一因であることを念頭に置きつつも,『女性の隷従』The Subjection of Women(邦題 『女性の解放』 ) (1 8 6 9)のなかで,独身女性を「社会の表層に浮かぶ異常増殖物のようなも の」と 評 し て い る。こ の 時 代 に ミ ド ル・ク ラ ス の 女 性 が 社 会 的 体 面 を 保 て る 職 業 は, ガ ヴ ァ ネ ス コンパニオン 女家庭教師や相手役くらいしかなく,それはシャーロット・ブロンテ(Charlotte Bronte: 5)が描くように,時には使用人同然の扱いを受けかねない曖昧な社会的地位であった。 1 8 1 6―5 また,労働者階級のうちで貧困層に属しており売春等で生計を立てている者は,「堕落した 女」 (Fallen Woman)と呼ばれた。恋人に捨てられた女性もいわゆる傷もの扱いされて結婚 のチャンスがなくなり,娼婦に身を落とすか身投げをして命を落とし,文字通り「落ちてしま 9世紀半ば頃 った」 。(6)そうした社会状況下で,英国国教会において修道女会が復活してきた1 から「修道女(修練女) 」という身分は,ロセッティの姉マライアの例のように中産階級の独 身女性の身の振り方の選択肢のひとつになったと考えられる。散文作品での同時代の修道女へ の非難は,独身女性に対する社会的圧力の延長線上にあるとみなしてよいだろう。(7) 3.ポルトガル・ブーム――カモンイスと『ポルトガル文』 現実の修道女に対して批判的な散文作品とは対照的に,あるいは男性(画家)たちの憧憬を 映し出す類型化したイメージからも離れて,詩文学においては女性詩人が中心となってこの 〈修道女〉のテ ー マ を 好 意 的 に 扱 っ て き た。な か で も,フ ェ リ シ ア・ヘ マ ン ズ(Felisia 8 3 5)らが翻訳して流行したポルトガルの詩人カモンイス(Camoëns ; Luis Hemans:1 7 9 3―1 de 5―8 0)の作品や,すでに前世紀に英訳されていた『ポルトガル文』The Camões:1 5 2 4/2 Letters of a Portuguese Nun,通称 The Portuguese Letters(1 6 6 9)を代表とするポルトガル の文学作品は,1 9世紀中期の女性詩人たちの注目するところとなり,彼女らに翻訳され,以降 女性詩人を中心に徐々に読まれていった。そして中世趣味の隆盛と共に,彼女らはその翻案作 品を発表し,同じヴィクトリア朝の一時期に「ポルトガル・ブーム」とでも呼べる流行を引き 4 天理大学学報 第6 2巻第2号 起こした。〈修道女〉をテーマとした詩作品は,その流行を揺籃として育まれていったもので ある。 ここで「ポルトガル・ブーム」についてまとめておきたい。カモンイスの作品群と『ポルト ガル文』のほかにも,1 6∼1 7世紀のポルトガルの文学作品は英国を含むヨーロッパ各国で翻訳 されたのち,1 9世紀に入って英国でふたたび翻訳され,紹介されている。(8)ポルトガルの文 学作品が1 9世紀に英国で再び翻訳されるようになった契機のひとつには,さかのぼって1 7 7 5年 にリスボンで起こった大地震がある。スペインに併合された時期を経たあと,ポルトガルはか つての栄光と勢力を失い,ヨーロッパの表舞台から姿を消していた。だがこの大地震によって ポルトガルは突如として脚光を浴び,ひいてはポルトガルの文化や文学もヨーロッパ中の注目 を集めることになった。とりわけカモンイスの作品には特別な関心が向けられ,地震の翌年 7 8 9)の翻訳が,フランスでは 1 7 7 6年に英国ではマイクル(William Julius Mickle:1 7 3 4―1 ラ・アルプ(La Harpe)とデルミリー(D’Hermilly)の共訳が出版された。ドイツでは少し 遅れて1 7 8 0年代以降カモンイスの作品が少しずつ翻訳され,1 9世紀には伝記や翻訳が次々と発 表されていった。こうした1 8世紀末を発端とするカモンイスの流行と相俟って,スペイン独立 4)も英国におけるポルトガル・ブームの一因となった。英国の軍人ウェリント 戦争(1 8 0 8―1 8 5 2)がスペイン軍を率いてナポレオンに勝利し, ン(Arthur Wellesley Wellington:1 7 6 9―1 イベリア半島つまりスペインやポルトガルに対する英国民の興味がさらに高まったのである。 こうした一連の史実もまた,ポルトガル・ブームの要因として特筆に値するだろう。 次に,ポルトガル・ブームの火付け役となったカモンイスの作品および『ポルトガル文』に ついて,英国における受容および翻訳の変遷を概略的に見ておきたい。 まずカモンイス作品の英訳についてまとめておこう。彼の代表作である叙事詩『ウズ・ルジ ア ダ ス(ル シ タ ニ ア の 人 々) 』Os Lusiadas(1 5 7 2)は,1 6 5 5年 フ ァ ン シ ョ ー(Richard Fanshawe)により初めて英訳された。同じく1 7世紀に,エアズ(Philip Ayres)が『抒情詩 集』Lyric Poems, Made in Imitation of the Italians. Of which, many are Translations From other Language(1 6 8 7)にて,ポルトガルの抒情詩人としてカモンイスを紹介した。 1 8世紀には,先に触れた1 7 7 6年のマイクル訳『叙事詩ルシタニアの人々』The Lusiad ; or, The Discovery of India. An Epic Poem が英訳の定本として版を重ねた。ほかに1 8世紀では, ヘイリー(William Hayley)の『叙事詩論』An Essay on Epic Poetry ; in five Epistles (1 7 8 2)とラッセル(Thomas Russel)の『ソネットと雑詩集』Sonnets and Miscellaneous Poems(1 7 8 9)がある。(9) 1 9世紀の詩人たちに最も広くカモンイスの存在を知らしめたのは,ストラングフォード卿 8 5 5)の『カモンイス訳詩集』Poems, from the Portuguese of (Viscount Strangford:1 7 8 0―1 Luis de Camoens(1 8 0 3)であった。これは翻訳というよりむしろ翻案であり,その出来栄え には賛否両論あるものの,この版が英国におけるカモンイスの受容において重要な位置を占め るのは,卿が付した「カモンイスの生涯と作品について」 (‘Remarks on the Life and Writing of Comoens’)――詩人カモンイスの困難と波乱に満ちた生涯を紹介した3 3ページに わたる伝記的解説――のためである。(10)その伝記のなかでもとりわけ女性詩人たちの間に共 感を呼び起こしたのは,カモンイスとその恋人カタリーナ(Catarina de Atayde)の悲恋物 語であった。カタリーナは宮仕えの女官で,カモンイスが旅をしている間,彼の帰りを待ちわ びながら本国ポルトガルで若くして亡くなった。詩人の不幸な生涯のみならず,この悲恋の逸 話にいっそう「感傷」を誘われ,1 9世紀の女性詩人たちはこの異国のルネサンスの恋人たちに 5 ヴィクトリア朝文学における〈修道女〉のテーマ 思いを馳せたのであった。 こ の ス ト ラ ン グ フ ォ ー ド 版 の 伝 記 的 解 説 に 着 想 を 得 て,1 8 1 8年 に ヘ マ ン ズ(Felicia 8 3 5)が『対訳カモンイスほか』Translations from Camoens, and Other Hemans:1 7 9 3―1 Poets, with Original Poetry を出版した。(11)ヘマンズが訳したのはカモンイスの叙事詩では なく抒情詩,なかでもそれまであまり知られていなかった恋愛詩であった。当時フェリシア・ ブラウン(Browne は旧姓)と名乗っていた彼女は,将来の夫ヘマンズ大佐の帰還を本国で待 っていた。彼女は,婚約者と自分の置かれた状況をカモンイスとカタリーナが離れ離れになっ ている境遇になぞらえ,自ら翻訳を手がけたその恋愛詩に託して,「待つ女」の思いを表現し たのだった。『家庭の愛情』The Domestic Affections(1 8 1 2)を出版して成功を収めた同年, 彼女は予定通り大佐と結婚した。そして1 8 1 8年,自身のこの恋愛物語を託したカモンイスの英 訳を Mrs. Felisia Hemans の名で出版した。だがその出版から数ヵ月後,大佐は妊娠してい る妻と4人の子を残してイタリアへ去り,家族の元へは二度と戻らなかった。幸福な結末で終 わったはずのヘマンズの恋物語は,カモンイスの悲恋物語に劣らぬ辛い結末を迎えた。 こうしてヘマンズ版において,カモンイスとカタリーナの悲恋物語にヘマンズの実人生が重 なり,恋愛詩の語り手は男性詩人カモンイスから女性詩人ヘマンズへと移行したのである。そ れは,ブラウニングやロセッティのような1 9世紀の女性詩人たちによる,女性が書いて女性が 語る恋愛詩の系譜の幕開けであった。 続いて『ポルトガル文』の英国における受容と系譜について見ていこう。書簡集『ポルトガ ル文』は,ルイ1 4世時代,1 6 6 7年から1 6 6 8年にかけてポルトガルの修道女マリアナ(マリアン 7 2 3)が フ ラ ン ス 軍 将 校 シ ャ ミ リ ィ(Noël ナ) (Mariana(Marianna)Alcoforado:1 6 4 0―1 7 1 5)に宛てた5通の恋文である。マリアナは戦争でポルトガル Bouton de Chamilly:1 6 3 6―1 にやってきたシャミリィと恋に落ち,彼が本国に帰ってからも再会の日を待ちつづけ,愛情を 込めた手紙をフランスへ送り続けた。第1の手紙はシャミリィの出発後すぐに書かれたもので, 別れのつらさが綴られている。第2の手紙からは,マリアナが激しい恋慕と嫉妬にさいなまれ ている様子が,そして第3の手紙からは,相手の不実を恨みながらもなお愛情を乞う姿が伝わ ってくる。第3の手紙から数ヶ月経っても返事をもらえないまま,マリアナは第4の手紙をし たため,修道院の門番になったという近況報告を交えつつ,なおも相手の愛情を確認しようと 問いかける。そしてシャミリィからつれない返事を受け取ったのち,自分が捨てられたことを 認め,彼女は未練と諦めの入り混じった最後の手紙を書いて,以降,生涯沈黙を守った。 こ の5通 の 手 紙 は1 6 6 9年 フ ラ ン ス に て『ポ ル ト ガ ル の 修 道 女 の 手 紙』Lettres Religieuse d’une Portugaise と題され,匿名で出版された。匿名とはいえ,第1の手紙のなかで名 を明かす格好になっている(12)ため,読者は皆「マリアナ」というこの気の毒な修道女の名を 知ることになった。手紙を公開する行為は差出人に対する侮辱ではなく,当時のフランスでは 書簡は文学形態のひとつであり,私信であっても出来栄えのよいものは文学作品として回覧あ るいは出版されていた。フランスで出版されたのちは,ヨーロッパ各地でもこの書簡集の翻訳 7 0 4)により『修 が出版された。英国では1 6 7 8年にレストレンジ(Roger L’Estrange:1 6 1 6―1 道女から騎士へ宛てられた5通の恋文』Five Love―Letters from a Nun to a Cavalier と題し て訳された。その後1 7 1 3年に初めて韻文として訳され(New Miscellaneous Poems, With five ,この韻文版は1 7 3 1年まで7回も版 love―letters from a nun to a cavalier. Done into verse.) を重ねた。1 9世紀にはいると,1 8 0 6年パリでの『ポルトガル文』の再版を受けて,1 8 0 8年ボウ ルズ(W. R. Bowles:生没年不明)の訳が『ポルトガルの修道女からフランス軍将校へ宛て 6 天理大学学報 第6 2巻第2号 られた書簡』Letters from a Portuguese Nun to an Officer in the French Army と題して出 版され,1 8 1 7年と1 8 2 8年に版を重ねた。当時はさらに異本まで流布していたものの,実在の修 道女によって書かれたものではなく,シャミリィあるいはその友人ギュラーグ伯(Gabriel― Joseph de Lavergne, comte de Guilleragues:1 6 2 8―1 6 8 5)によって書かれたフィクションだ と思われていた。たとえば『新エロイーズ』Julie ou la nouvelle Héloïse(1 7 6 1)を書いたル 7 1 2―7 8)でさえ,男性の手によるものだと思いこんでいた。 ソー(Jean―Jacques Rousseau:1 1 9世紀末にようやくマリアナのいたベージャのノッサ・セニョーラ・コンセイサン修道院の記 録から,「修道女マリアナ」が実在の人物であることが確認され,手紙の信憑性についても明 9世紀の書簡体文学史において「マリアナ」の名は「待つ女」の らかになった。(13)つまり,1 代名詞となってはいたものの,作者としての彼女は「名もない修道女」のままであった。 さらに英国文学史における『ポルトガル文』の意義は,それがヨーロッパにおいて1 7世紀後 半から流行した書簡体小説の先駆的存在であるところにも見出せる。『ポルトガル文』が1 6 7 8 年に英国で訳されたのち,もっとも早い反応として,アフラ・ベーン(Aphra Behn:1 6 4 0? ―8 9)の小説『ある貴族から妹への恋文』Love Letters from a Young Nobleman to His Sister (1 6 8 4―7)が挙げられる。そして,リチャードソン(Samuel Richardson:1 6 8 9―1 7 6 1)の 7 4 1)と『ク ラ リ ッ サ』Clarissa(1 7 4 7―4 8) ,ゴ ー ル ド ス ミ ス 『パ メ ラ』Pamela(1 7 4 0―1 4)の『世界市民』Letters from a Citizen of the World (Oliver Goldsmith:1 7 3 0?―7 (1 7 6 2) ,スモレット(Tobias 1)の書簡体旅行記『ハンフリー・クリン Smollett:1 7 2 1―7 カー』Humphrey Clinker(1 7 7 1)が登場した。同時に,書簡体という繋がりから,アベラー 1 4 2)とエロイーズ(Héloïse d’Argenteuil:1 1 0 1―6 4)の往復書簡 ル(Peter Abelard:1 0 7 9―1 7 2 0)に 集が Letters of Abelard and Héloïse(1 7 1 3)としてヒューズ(John Hughes:1 6 7 8―1 より英訳され,1 9世紀後半まで版を重ねた。ヒューズに影響を受けて,ポウプ(Alexander 7 4 4)は翻案『エロイーズからアベラールへ』Eloisa to Abelard (1 7 1 7)を書い Pope:1 6 8 8―1 た。そして,ポウプに私淑していたジュディス・マダン(旧姓クーパー) (Judith Madan 7 8 1)の翻訳 Abelard to Eloisa(1 7 2 0)は,ポウプの翻案とともに1 9世 (Cowper):1 7 0 2―1 紀に入っても版を重ねた。1 9世紀も半ばに入ると,書簡体は劇的独白・ソネットという新しい スタイルへと変容を遂げた。それがエリザベス・ブラウニングの『ポルトガルからのソネット 集』Sonnets from the Portuguese(1 8 5 0)である。 たとえ「1 7 9 0年以降英国に正統な書簡体小説はない」 (Favret 34)としても,名もない修道 女の手による書簡集『ポルトガル文』は,1 9世紀に至るまでその系譜を脈々と受け継がれてき た。その系譜のはじまりを担うのは女性作家アフラ・ベーンであり,途中で男性作家たちによ る翻訳や翻案の時代を経るものの,1 9世紀にはヴィクトリア朝を代表する女性詩人ブラウニン グによって,『ポルトガル文』はソネットという「正統な」 (legitimate)文体へと飛躍を遂げ た。ここにおいて,『ポルトガル文』は書簡体小説というジャンルを超え, 〈修道女〉のテーマ をもつ一連の文学作品群の先駆として,英国ヴィクトリア朝に再び花開いたのだといえよう。 さらに,ポルトガル・ブームに加えて重要な事項として挙げておきたいのは, 〈修道女〉の テーマが書簡体から韻文へと発展した過程には,1 8世紀末に起こったソネット復興(Sonnet 4)のソネットがいわ Revival)が関与していることである。ミルトン(John Milton:1 6 0 8―7 ば「正統な」ものへと高められたにも関わらず,1 8世紀になるとポウプやジョンソン博士 (Samuel 4)らにより,ソ ネ ッ ト は 貶 め ら れ た。(14)し か し,ボ ウ ル ズ Johnson:1 7 0 9―8 8 5 0)の『ソネット集』Fourteen Sonnets, Elegiac and (William Lisle Bowles:1 7 6 2―1 ヴィクトリア朝文学における〈修道女〉のテーマ 7 Descriptive, Written during a Tour(1 7 8 9)は,コウルリッジ(Samuel Taylor Coleridge: Southey:1 7 7 4―1 8 4 3)に影響を与え,英国でしばらく忘れ 8 3 4)やサウジー(Robert 1 7 7 2―1 られていたソネットを復活させるきっかけとなった(Ousby 106) 。そして,のちにエリザベ ス・ブラウニングとクリスティーナ・ロセッティのソネット連作が示すように,ポルトガルの 詩作品は文学テーマとともにソネット復興においても,ヴィクトリア朝詩文学に大いに影響を 与えたといえるだろう。 4.女性詩人たちの「連歌」ソネット 前述のように,1 9世紀初めの英国において,カモンイスの詩作品と『ポルトガル文』は時期 を同じくして,その翻訳あるいは翻案により広く,とりわけ女性詩人たちのあいだで流布して いった。重要なのは,こうした一連の「修道女文学」とも呼べるミニジャンルは各作品がオリ ジナルの翻訳・翻案であるだけではなく,しばしば相互にそれぞれのさらなる翻案あるいは 「連作」のような形で作られていった点である。すなわち,他の詩人の作品を引用したり,そ れを「本歌」にした作品を創作することによって,大規模な「連歌」ともいうべきものが半ば 意識的,半ば自然発生的に形成されたのである。その中でイメージとしての〈修道女〉も,文 学的想像力が作り出した形象であると同時に,文学作品の生産を促すような,いわば触媒のよ うな役割を果たした。もっとも典型的かつ代表的な例が,エリザベス・ブラウニングの作品を いわば「本歌取」したクリスティーナ・ロセッティの場合である。 その背景の一部として,先に触れたように,当時の女性の社会的自立の問題が考えられる。 ガ ヴ ァ ネ ス 1 8 5 0年代に詩人となったロセッティは,かろうじて女家庭教師の道を免れ職業詩人として身を 立てることができたが,1 9世紀前半にはまだ,女性がプロの詩人あるいは作家として経済的・ 社会的に自立するのは容易ではなかった。フェリシア・ブラウンは,レティシア・ランドン 8)と並んで,1 9世紀前半の女性詩人たち (通称 L.E.L.) (Letitia Elizabeth Landon:1 8 0 2―3 の「成功物語」のヒロインであった。それでも彼女は結婚してから姓を「ブラウン」から「ヘ マンズ」に改め,夫が去った後も「ヘマンズ夫人」として執筆活動を続けた。同様に,独身時 代にはゴシップの絶えなかったランドンも結婚して,夫に従ってアフリカへ渡った(不運なこ とに,彼女はほどなく現地で非業の死を遂げた) 。エリザベス・バレットもロバート・ブラウ ニ ン グ(Robert 9)と 駆 け 落 ち し て イ タ リ ア へ 渡 り,結 婚 後 は ‘Mrs. Browning:1 8 1 2―8 Browning’ を名乗って,「エリザベス・バレット・ブラウニング」および「ブラウニング夫 人」としてイタリアで執筆を続けた。彼女たちはみな古典語をはじめとして他のヨーロッパ言 語も学び,さまざまな教養を身につけていた。それゆえなおさら,ミルの言う「異常増殖物」 ! ! ! ! ! ! にならないためにも,結 婚 す る 必 要 があった。すなわち家父長制社会において,女性詩人 ‘poetess’(15)は社会的に安定して執筆活動を続けるためにも結婚して夫の姓を名乗り,さらに は戦略上,いわば「女性詩人」という連盟において結託する必要があったのである。(16) ‘Sisterhood’ という語で示されるにふさわしい当時の女性詩人の系譜は,修道院における ‘Sisterhood’ につながるところがあり,〈修道女〉のテーマが特に共通のテーマとして発展し ていったのは,ごく自然の成り行きであったといえるだろう。 そうした具体例として,エリザベス・ブラウニングとクリスティーナ・ロセッティの作品上 の継承関係で挙げられるのは,次の二組である。ひとつは『ポルトガル文』の翻案ものである ブラウニングの『ポルトガルからのソネット集』 (1 8 5 0)に対して,ロセッティの「名もなき 貴婦人」‘Monna Innominata : A Sonnet of Sonnets’(制作年不明,おそらく1 8 5 0年代,1 8 8 1 8 天理大学学報 第6 2巻第2号 出版)との継承関係,もうひとつはカモンイスの作品を「本歌取」したブラウニングの「カタ リーナからカモンイスへ」‘Catarina to Camoens’(1 8 4 3年出版,1 8 4 4年 Poems に収録)に対 0年,1 8 9 6年ロセッティの死後 New してロセッティの「三人の修道女」‘Three Nuns’(1 8 4 9―5 Poems に収録)との継承関係である。 はじめにソネット集から,ブラウニングとロセッティの作品を比較してみよう。代表的なも のを挙げてテ ー マ 上 の つ な が り や 発 展 を 示 す だ け で は な く,ソ ネ ッ ト と し て の 詩 作 法 (prosody)を詳細に比較していきたい。 ブラウニングの代表作『ポルトガルからのソネット集』は,彼女の結婚にまつわる自伝的作 品であり,ブラウニングが夫ロバートに実際に宛てた恋文だといわれている。その個人的な書 簡をそのまま発表するのはあまりにも直截すぎるため,ロバートのすすめにより「ポルトガル 語の翻訳」という「仮面」を用いることになった。ブラウニング本人は当初 ‘Sonnets from the Bosnian’ というタイトルを考えていたようだが(McSweeney 499) ,ポルトガル・ブー ムを経て〈修道女〉のテーマの流行が見られるヴィクトリア朝中期において,『ポルトガル 文』やカモンイスの作品を思い起こさせるタイトルをつけたことは,結果的にこのソネット集 を成功へと導く一因となったと思われる。 このソネット集は全部で4 4のイタリア式ソネットから成り,押韻形式は一般によく使われる 交替脚韻 rima alternativa(cdcdcd)とその変形だけが用いられている。この点においては, ブラウニングは「型にはまっている(conventional) 」といえよう。(17)ソネット1番を見てみ よう。(18) I thought once how Theocritus had sung ⇒ Of the sweet years, the dear and wished―for years, Who each one in a gracious hand appears ⇒ To bear a gift for mortals, old or young : And, as I mused it in his antique tongue, I saw, in gradual vision through my tears, The sweet, sad years, the melancholy years, Those of my own life, who by turns had flung ⇒ A shadow across me. Straightway I was ’ware, So weeping, how a mystic Shape did move ⇒ B ehind me, and drew me backward by the hair, And a voice said in mastery while I strove,… ‘Guess now who holds thee?’―‘Death,’ I said. But, there, The silver answer rang, . . ‘Not Death, but Love.’ (Sonnets from the Portuguese:Sonnet I) (強調は筆者による) 【註】⇒は行跨りを,下線は強音節の長母音と二重母音, 破線は弱音節の長母音と二重母音を,イタリックは頭韻を示している オ ク タ ー ヴ セ ス テ ッ ト このソネットには八行連句と六行連句の間の行末終止による境界がない。矢印(⇒)で示し たように,八行連句と六行連句の間で行跨りが用いられているからである。ブラウニングのソ ネットでは行跨りが頻繁に用いられ,それに伴う行間終止が同じだけ頻繁に見られる。これは 9 ヴィクトリア朝文学における〈修道女〉のテーマ ミルトンのソネットによく見られる特徴で,八行連句と六行連句の境界を越えることで,全体 に強い統一感を生み出すものである。ワーズワス(William 8 5 0)はミ Wordsworth:1 7 7 0―1 ルトンのソネットを手本として,そのソネットの力強さを「狭い空間に注ぎ込む,力溢れる変 化に富んだ音の流出(‘energetic and varied flow sound crowding into narrow room’) 」と評 した(Selincourt 312) 。ただしブラウニングの場合,行跨りは駆使しているもののイタリア 式の脚韻を忠実に守っている点と,テーマが恋愛である点において,ペトラルカ風ソネットの 伝統を受け継いでいるといえる。行跨りのこうした駆使は,『ポルトガルからのソネット集』 において最も際立つ特徴である。それは1 4行を一気に,一息の緊張感でもって読ませるためで あると思われる。このようにして,ブラウニングはソネット特有の厳密な規則を逸脱するよう な,独特の即興的リズムを作品に与えている。 母音の動きにも注目してみよう。一重線で示したように,二重母音[i!] ["!] [ou]と長母 音が強音節で繰り返されている。ソネット集の冒頭では ‘Theocritus’ や ‘a mystic shape’ につ いて語ることで詩神祈願辞(invocation)の伝統にのっとり,それにふさわしく荘重な印象が ロンド 音によっても作り出されている。そして,この母音のパターンが一種の輪舞となって音楽性を もたらし,その動きはテーマの展開に沿って変化している。八行連句では,長母音と二重母音 の強音節が支配する輪舞が重く響き,語り手が展開するテーマ通りの ‘melancholy’ な雰囲気 が生み出されている。ここでは長母音と二重母音の強音節の輪舞が徐々に弱音節に取って代わ られ,1 2行目あたりから短母音に取って代わられていく。 さらに注目したいのは,‘Not Death, but Love’ という部分における音響的効果である。こ の句における4つの語はそれぞれ独立し,鐘を一回一回打ち鳴らすような断続性を示している。 この効果が成り立つのは,一つの単語の語末の子音に対して次の単語の最初の子音がぶつかり, 休止なしに読むことが難しいためである。以降,‘love’ という言葉はこのソネット集で頻繁に 用いられていく。同時に見逃してはならないのは,このソネット集全体を通して,‘d’ と ‘l’ の 頭韻を踏む語が意味の上でも音の上でも対立している点である。有声破裂音[d]は「死」 (‘death’)の音と結びつき,有声側音[l]は「愛」 (‘love’)の音と結びつき,同時に[l]と [d]の音は互いに対立している。この連結と対立は,テーマである「愛による死から生への 復活」を聴覚的に表現していると思われる。 またブラウニングは,同語反復(ploce)で中間韻を踏むのを好むようである。このソネッ トでは ‘years’ がその顕著な例として挙げられよう。同語反復による中間韻は,ロセッティの 作品にもよく見られる押韻の種類である。これは,のちにロセッティやホプキンズも用いる手 法であることを,ここで指摘しておきたい。 次に,『ポルトガルからのソネット集』で最も有名な4 3番を見てみよう。 How do I l ove thee? Let me count the ways. I l ove thee to the depth and breadth and height My soul can reach, when feeling out of sight For the ends of Being and ideal Grace. I l ove thee to the l evel of every day’s M ost quiet need, by sun and candle l ight. I l ove thee freely, as men strive for Right ; I l ove thee purely, as they turn from P raise. 10 天理大学学報 第6 2巻第2号 I l ove thee with the passion put to use In my old griefs, and with my childhood’s faith. I l ove thee with a l ove I seemed to l ose With my l ost saints,―I l ove thee with the breath, Smiles, tears, of all my l ife! ― and, if God choose, I shall but l ove thee better after death. (Sonnets from the Portuguese:Sonnet XL!) (強調は筆者による) 【註】下線は同語反復と似た語彙の反復を,イタリックは頭韻と[l] [m] [n] [r] を,太文字は‘love’と‘love’を含む単語のその音節と‘d’ではじまる語を示している この4 3番は1番と比べると,文構造と語のバランスがはるかに均一に保たれている。このソネ ットで繰り返されるのは,‘I love thee’ というフレーズである。また,‘l’ で始まる語にはすべ て強勢が置かれている。そして,オクターヴとセステットの間は行末終止できちんと分けられ ヴ ォ ル タ ているものの,下線で示した ‘purely’ ‘praise’ ‘passion’ ‘put’ の ‘p’ の頭韻が,展開部に緊密な つながりをもたらしている。この力強い調子は彼女独自のソネット・スタイルとなり,そのス タイルは修道女の書簡体を劇的独白へと発展させた。つまり,ブラウニングの『ポルトガルか らのソネット集』は,ポルトガルの(修道女の)恋文の翻訳という「仮面」を用いてはいるも 9)の『祝婚歌』 のの,最後には自らの結婚を歌ったスペンサー(Edmund Spenser:1 5 5 2―9 Epithalamion さながらに幕を閉じる。これはペトラルカ風恋愛ソネットの伝統,すなわち悲 劇的結末を迎えるというソネットの伝統に反している。 一方ロセッティは「名もなき貴婦人」 (‘Monna Innominata’)の序文(19)で,ブラウニング の幸福な結末を踏襲するのではなく,ダンテやペトラルカに歌われたベアトリーチェやラウラ に並ぶような,名もない女性(donna innominata)になりきって心をこめて歌おう,という 決意を示している。そこにはもちろん,多くの専門家が指摘するように,ロセッティがブラウ ニングをライバル視していたという事情もあるかもしれない。しかし,それはむしろ〈修道 女〉というテーマの扱い方に異議を唱えたものと解釈できるのではないだろうか。 ロセッティのソネット集の形式面で興味深いのは,まず ‘A Sonnet of Sonnets’ という副題 が示すように,各ソネットをさらに大きなソネットの1行とみなして,全体で1 4のソネットか らなる連作(sonnet sequence)にしている点である。押韻形式については,イタリア式ソネ ットの厳しい押韻規則のひとつである「5種類以内の脚韻」という点は守られており,八行連 句と六行連句の境界も保たれているものの,六行連句のパターンが複雑であることが特徴的で ある。ソネットには5万以上の押韻形式が可能であるといわれるが,このロセッティのソネッ ト集では,最もよく使われる閉鎖脚韻 rima incatenara(cde cde)も,ブラウニングが好ん だ交替脚韻 rima alternativa(cdcdcd)も一度も使われていない。これらの点において,ロセ ッティのソネット形式は conventional ではなく,ブラウニングのソネットに逐一対応して書 かれたわけでもないことがわかる。しかしながら,いくつかのソネットを取り上げて比較する ことで,ロセッティが『ポルトガルからのソネット集』に対抗して,『ポルトガル文』に始ま る〈修道女〉のテーマを,いかに自分のテーマとして発展させていったかを見ることができる。 まず,ロセッティのソネット集1番を見てみよう。『ポルトガル文』の修道女のように,あ るいはカモンイスの恋人カタリーナのように,語り手は,自分の元を去った恋人が帰ってくる のを待っている。このソネット集のテーマは「別離(separation) 」であり,恋人の帰還への ヴィクトリア朝文学における〈修道女〉のテーマ 11 期待と諦念とのあいだを揺れ動く状態(ambivalence)が,ソネット全体の音声的な特徴と響 き合っている。 Come back to me, who wait and watch for you : ― Or come not yet, for it is over then, And long it is before you come again, So far between my pleasures are and few. While, when you come not, what I do I do Thinking “Now when he comes,” my sweetest “when” : For one man is my world of all the men This wide world holds ; O love, my world is you. Howbeit, to meet you grows almost a pang Because the pang of parting comes so soon ; My hope hangs waning, waxing, like a moon Between the heavenly days on which we meet : Ah me, but where are now the songs I sang When life was sweet because you called them sweet? (‘Monna Innominata’ : Sonnet 1) (強調は筆者による) 【註】下線は同語反復と似た語彙の反復,イタリックは頭韻を示している ロセッティはまず八行連句と六行連句を行末終止で分け,八行連句をさらに行末終止で4行ず つに分け,六行連句をコロンとセミコロンで各2行ずつに分けている。こうしてソネットは各 部に均等に分けられ,その各部分を進行段階として,テーマが展開していく。ロセッティは, ミルトンやブラウニングとは異なり,行跨りを使わず,シェイクスピアとも違って,最後の2 行でそれまでの内容と相反することを述べたりはしない。彼女は,ペトラルカ風恋愛ソネット にふさわしい,成就の困難な恋への期待と諦念というテーマを追求し,あくまでもイタリア式 ソネットの伝統を遵守している。 最も特徴的なのは,使われている語彙がほとんど単音節語であり多音節語は見られないこと である。加えて,同じ語が何度も使われ,その反復に応じて使用語彙の範囲が狭くなっていく。 こうした意匠がロセッティのソネットに,ホプキンズが賞賛するところの「単純な美しさ」 (‘the simple beauty of her work’) (Abbott 119)を与えている。 頭韻で目立つのは,[w]の響きである。まず1行目の二重語(doublet)である ‘wait’ と ‘watch’ は,語り手である「私」の「待つ」行為の虚 し さ や 孤 独 感 を 強 め て い る。対 照 的 に,1 1行目の ‘waning’ と ‘waxing’ は語り手の揺れ動く感情,つまり ‘ambivalence’ を表現し ている。頭韻を用いて表現されるこうした感情の動きは,『ポルトガル文』の修道女が手紙に 綴っている待つ身の辛さや恋慕と疑惑の葛藤などを,あらためて音響的に表現しようとした工 夫だと思われる。 最後の2行は結びにあたる。ここでは ‘sweet’ という語が繰り返されている。ブラウニング もよく用いる,同語反復による中間韻が見られる。かつて語り手が歌った,幸福に満ちた甘美 な(‘sweet’)恋の歌は,今はもうない。[s]の頭韻が響く2行であるが,ここで注目したいの は,頭韻を踏まないけれど強勢を置かれている ‘me’,‘now’,‘life’ である。ブラウニングは 12 天理大学学報 第6 2巻第2号 ‘love’ という語に必ず強勢を置き,‘l’ で始まる単語には強勢を置いて[l]の音を響かせる効果 を意識している。ロセッティの場合は,柔らかく優しく響く流音[m] [n] [l] [r]にはでき るだけ強勢を置き,こうして紡ぎ出される快音調(euphony)を繰り返すことで全体の印象を 音楽のように聴かせる効果を生み出している。最後の2行に限らず,このソネット1番全体を 通じて同様の聴覚的効果が見られることにも留意しておきたい。 では,ブラウニングの用いる頭韻の効果を,ロセッティがいかに自らの作品において反映さ せているのかに着目してみよう。ロセッティのソネット7番では,‘love’ という語が多用され, いくつかの表現はブラウニングのソネットと呼応している。 “Love me, for I l ove you”―and answer me, “Love me, for I l ove you”―so shall we stand As happy equals in the flowering l and Of l ove, that knows not a dividing sea. Love builds the house on rock and not on sand, Love l aughs what while the winds rave desperately ; And who hath found love’s citadel unmanned? And who hath held in bonds l ove’s l iberty? M y heart’s a coward tho’ my words are brave― W e meet so seldom, yet we surely part So often ; there’s a problem for your art! S till I find comfort in his Book, who saith, Tho’ jealousy be cruel as the grave, And d eath be strong, yet love is strong as d eath. (‘Monna Innominata’ : Sonnet 7) (強調は筆者による) 【註】下線は同語反復と似た語彙の反復を,イタリックは頭韻を, 太文字は‘love’と‘love’を含む単語のその音節と‘d’ではじまる語を示している このソネットでは,ロセッティの他のソネットと同じように,そしてブラウニングのソネット 2 1番と同じように,首句反復(anaphora)と同等句反復が頻繁に用いられ て い る。特 に ‘meet’ と ‘part’,‘often’ と ‘seldom’ は,意味の相反する語がペアになっており,同等句反復 においていっそうその意味上のコントラストが強められている。そして,最後の行 ‘And death be strong, yet love is strong as death’ は雅歌第8章7節を出典とし,‘love’ に関係 ’,‘ (the す る 語 に お い て 頭 韻 を 成 し て 響 き 合 い,[d]は ‘death’,‘dividing(sea) winds rave)desperately’(‘Love laughs’ と対立)など,‘death’ に関わる語において響いている。 つまり,注目すべきは,[l]と[d]の音がロセッティのソネットでも互いに対立しているこ とである。本来ロセッティは ‘love’ という語を多用することはなく,脚韻についても ‘love’ を ‘dove’ や ‘above’ と韻を踏ませて用いることが多い。このソネットでの ‘love’ の使い方は例外 的で,ブラウニングのソネットを踏襲しているものと考えてよいだろう。 このように,ブラウニングのソネットにおける頭韻の効果は,ロセッティの「連歌」ソネッ トに引き継がれている。ブラウニングの技巧を取り入れつつ,ロセッティは頭韻を交差させる ことで独自のスタイルを生み出していった。また,同語反復や首句反復などの修辞法は,ブラ ヴィクトリア朝文学における〈修道女〉のテーマ 13 ウニングのソネットの場合よりも,ロセッティのソネットおよび彼女の作品全般において,さ らに頻繁に用いられている。そうした修辞法のなかで,特に首句反復はソネットにバランスを もたらすものであり,最小単位(2行)において用いられると,2行1組で他の行から独立し カ プ レ ッ ト ているような二行連句のように緊密性を有してくる。そうした2行1組を多用すると,極端な 場合はソネット内の行がそれぞれ2行ずつに分けられ,まさしく1 4行という小さなソネット空 間の中に,さらなる「小部屋」(20)が7つ出来上がる。ロセッティのように行末終止を用いて, ソネットを‘4+4+3+3’あるいは‘4+4+2+2+2’と分ける傾向のある詩人にと っては,この修辞法は使い勝手がよいものである。この手法は,のちにロセッティからホプキ ンズのソネットに引き継がれていく。 5.「偉大な女性詩人」から「名もなき女性」へ 以上のように,ブラウニングは『ポルトガルからのソネット集』で,修道女マリアナの書簡 体で綴った悲歌を,劇的独白のソネットで書かれた祝婚歌へと発展させた。そして,ロセッテ ィは「名もなき貴婦人」において,ブラウニングの作品と同じソネット形式を選びながらも, ハ ッ ピ ー・エ ン デ ィ ン グ を 逆 転 さ せ て 悲 劇 的 結 末 に 戻 す こ と で,ソ ネ ッ ト の 伝 統 (convention)を遵守した。ロセッティはまた,序文で述べているように,語り手を「当代わ が国の誇る閨秀詩人」 (‘the Great Poetess of our own day and nation’)から,修道女マリア ナのような「(中世の)名もなき女性」 (‘donna innominata’)に戻したのであった。 ロセッティの「名もなき女性」である語り手は,1 9世紀末まで架空の人物にされていた「名 もなき修道女」マリアナのように,恋人をむなしく待ちつづけ,年老いていく自分を嘆き,最 後は沈黙を決意して,このソネット集を閉じた。ここで最後のソネットを見てみよう。 Youth gone, and beauty gone if ever there Dwelt beauty in so poor a face as this ; Youth gone and beauty, what remains of bliss? I will not bind fresh roses in my hair, To shame a cheek at best but l ittle fair,― Leave youth his roses, who can bear a thorn,― I will not seek for blossoms anywhere, Except such common flowers as blow with corn. Youth gone and beauty gone, what doth remain? The l onging of a heart pent up for l orn, A silent heart whose silence l oves and l ongs ; The silence of a heart which sang its songs While youth and beauty made a summer morn, S ilence of love that cannot sing again. (‘Monna Innominata’ : Sonnet 14) (強調は筆者による) 【註】下線は同語反復と似た語彙の反復を,イタリックは頭韻と[l] [m] [n] [r] を,太文字は‘love’を示している 1 4のソネットから成り立つソネット連作の,最後の「行」は,ブラウニングのソネット4 4番よ 14 天理大学学報 第6 2巻第2号 りも快音調が少ない。また,‘love’ という語は2回しか現れず,[l]の音を持つ語も ‘l ittle’, ‘Leave’,‘l onging’,‘for l orn’(第2音節が強勢) ,‘l ongs’ などで,これらの語の意味を考え るだけでも,結ばれぬ恋の終末がいっそうもの悲しく感じられるようである。ペトラルカ風の ! ! ! ! 甘く苦い(dolce amato)この調べは,最終行の ‘love’ で終わる。そして,もう「二度と歌わ れることはない(‘that cannot sing again’) 」のである。 このソネットでは,ブラウニングの最終ソネットよりも同語反復が多く見られ,それが語彙 を狭め全体の響きを単調にし,言葉を反復すればするほど空虚感が漂う印象を与えているよう である。この空虚感は,同語反復に加え,首句反復と同等句反復,それらに伴う等長句を用い て表現されている。そして,否定表現を繰り返すことによって喪失感が強められ,やがて ‘silence’ が繰り返される。‘Youth gone, and beauty gone’ の繰り返しには,たえずこうした 虚無感がつきまとっているように思われる。また,‘love’ は,‘silence’ と ‘cannot sing again’ の間に置かれているため,語り手の過去の心理状態を総括する ‘love’ と ‘longing’ の円環―― すなわちこのソネット集を通して繰り返し歌われてきた,恋人に対する感情の ambivalence ――は「惨めにも閉じ込められ」 (‘pent up forlorn’) ,否定され,秘められ,もう二度と口に されることはない。最後の4行では,[s]の頭韻が最も響いており,「沈黙」 (‘silence’)とい う語り手の強い決意が,聴覚的にも表わされているといえるだろう。最後に,ロセッティの語 り手は否定することすらやめ,待ち続けた虚しさの果てにただ沈黙を決意する。修道女マリア ナの最後の手紙のようである。 ブラウニングとロセッティが当時入手可能だった『ポルトガル文』の主な版は,書簡体のま ま訳されているレストレンジ版(初版1 6 7 8)とボウルズ版(初版1 8 0 8) ,そして1 8世紀から1 9 世紀にかけて英国で版を重ねて流行した韻文版 New Miscellaneous Poems, With five love― letters from a nun to a cavalier. Done into verse(初版1 7 1 3)である。「仮面」に用いたとは いえソネットで書く以上,ブラウニングが英語の韻文版を参照していたことは想像に難くない。 ロセッティも同様に,ブラウニングの『ポルトガルからのソネット集』を直接の「本歌」とし ながら,さらにその「本歌」である『ポルトガル文』の書簡体版と韻文版を参照している。韻 文版はレストレンジ版の最終部 ‘I am mad to keep saying the same things over again, I must leave you and spare you not another thought. In fact I think I shall not write to you again ; do I have to give you an exact account of all the various things I am feeling? ’ を ほぼそのまま韻文に置き換えた内容ではあるが,詩としての形式的特徴を備えている。最後の スタンザを見てみよう。 Fool as I am, to say thus o’er and o’er, The same that I’ve so often said before, Of you a Thought I must not entertain, And fancy too I ne’er shall write again. For what Occasion’s there, that I to you Shou’d be accountable for all I do? 返答のない愛の繰り言を重ねた己を恥じ,マリアナは二度と手紙を書かない決意を示して,筆 を 置 く。こ の 韻 文 版 全 体 は 二 行 連 句,そ し て ソ ネ ッ ト と 同 じ 弱 強 五 歩 格(iambic pentameter)で書かれている。否定表現や反語表現が繰り返され,同じ表現の反復が多く, ヴィクトリア朝文学における〈修道女〉のテーマ 15 使用される語彙の幅が狭い。つまり,ロセッティの詩の特徴に通じるところがある。ロセッテ ィは,ブラウニングのソネットの祝婚歌を修道女マリアナの悲歌に戻しただけでなく,詩の形 式的特徴も,修道女マリアナのような「名もなき女性」の手によるシンプルな文体へと戻した のであった。 以上,ブラウニングとロセッティの詩法を比較してきたが,ここでまとめてみたい。まずブ ラウニングのソネット形式としての特徴については,大きく次の3点が挙げられる。1.イタ リア(ペトラルカ)形式の脚韻を守っているが,幸福な結末において従来のソネットの伝統的 手法(convention)を破っている。2.行跨りと母音韻を駆使して,即興的なリズムを生み出 そうとしている。3.このソネット集のテーマである「愛による死から生への復活」を,頭韻 をはじめとする聴覚的効果を用いて,示している。たとえば,「愛」 (‘love’)や「生」 (‘life’) に結びつく[l]の頭韻には強勢が置かれ,「死」 (‘death’)に結びつく[d]の頭韻と対立させ られている。 そして,この劇的独白を継承したロセッティの「名もなき貴婦人」には,ブラウニングのソ ネットに挑戦するかのように,上記の3点とは異なる,次の特徴が挙げられる。1.イタリア 式ソネットの多様な脚韻を試みつつ,テーマその他においては従来のペトラルカ風ソネットの 伝統的手法を遵守している。2.行末終止を駆使して八行連句と六行連句の境界を守り,さら に八行連句と六行連句のなかも,首句反復,同等句反復,等長句(isocolon)などの修辞法を 用いて,2∼4行の組を作って細分化し,それぞれの部分を独立させている。3.単音節語を 多用したうえ,同じ語句の反復により,語彙を狭小化している。 また,この二人のソネットの特徴における共通点は,次の3点である。1.同語反復による 中間韻を踏むことが多い。2.同語反復,頭韻(alliteration)などを用いて,テーマに合う 音を強音節に置いて響かせる。3.基本的にイタリア式ソネットの脚韻に合わせて,イタリア 式ソネットのテーマ展開(状況説明および問題提起,解決,結論)に従っている(ブラウニン グの4 3番は例外) 。 以上をまとめると,ブラウニングとロセッティの間には,ソネット形式としての相違点,修 辞法や音韻論的な観点からの相違がある。さらに,〈修道女〉というテーマの扱い方,ひいて は宗教的見解の違いも,そのソネット集の相違点の背景として考えられるだろう。 前に述べたように,ソネットは1 8世紀に廃れたが,カモンイスの翻訳をきっかけに1 8世紀末 に復活した。そのソネット復興を支えたのは女性詩人たちであった。つまり,ソネットの復興 。ブラウニング は,女性の文藝運動の勃興とロマン派の起源と一致している(Curran 30―31) が女性詩人によるソネットを「正統な」ものへと高めるまでに,ヘマンズやランドンだけでは !!! なく,1 8世紀末からすでに「女性ソネット詩人」 (sonneteeress)として,シャーロット・ス ミ ス(Charlotte 8 0 6) ,ヘ レ ン・マ リ ア・ウ ィ リ ア ム ズ(Helen Smith:1 7 4 9―1 8 2 7) ,メアリ・ロビンソン(Mary Williams:1 7 6 1?―1 Maria Robinson:1 7 5 8―1 8 0 0) ,アンナ・ス 8 0 9) ,メアリ・タイ(Mary Tighe:1 7 7 2―1 8 1 0)などの ィーワード(Anna Seward:1 7 4 2―1 先駆者がいた。スミスはイタリア式ソネットよりも英国式「正統」であるシェイクスピア式ソ ネットを好んだが,ブラウニングはイタリア式ソネットの規則を遵守するよう主張した。ここ で指摘しておきたいのは,ルネサンス期以来の「正統なソネット」を復活させ継承することは, 女性詩人が「正統な詩人」として社会的に認められるための戦略であったということである。 ブラウニングもロセッティも,テーマと詩形においてイタリア式ソネットの伝統的手法を遵守 し(ブラウニングの場合,その連作の結末を除いて) ,恋愛詩の対象として歌われる側から自 16 天理大学学報 第6 2巻第2号 ら歌う側に女性を移行させた。ブラウニングのライバルは男性詩人たち――ダンテやペトラル カをはじめとして,彼女が成り得た桂冠詩人の座を手にしたテニスン(Alfred Tennyson: 2)に至るまで――であったといっても過言ではない。ロセッティの兄ダンテ・ゲイブ 1 8 0 9―9 2)もヴィクトリア朝を代表する「ソ リエル・ロセッティ(Dante Gabriel Rossetti:1 8 2 8―8 ネット詩人」 (sonneteer)である。長い間男性が支配してきた詩壇に女性が参入していく過程 において,女性詩人は男性詩人を凌ぐ方法を考え,戦略的に作品を制作・発表しなくてはなら なかったのである。 そして,ソネットにおける〈修道女〉のテーマについては,次のようにまとめられる。ブラ ウニングのソネット集の場合,タイトルと語りの設定は確かに『ポルトガル文』を援用してい るものの,結果的にソネットの伝統的手法を逸脱しているのと同様に,〈修道女〉というテー マからも逸脱している。ブラウニングはそのテーマに拘 泥 は な く,自 ら の 恋 を ‘love’ や ‘praise’ という語を繰り返し用いて,高らかに歌い上げる恋愛詩をつくった。一方ロセッティ にとって,ブラウニングのそのような逸脱は,「名もなき修道女」というテーマの濫用であり, 作者であるポルトガルの修道女に対する侮辱にも等しいものであっただろう。ロセッティにと って〈修道女〉とは1 9世紀半ばに流行した「イメージ」というだけではなく,のちに修練女と なる姉のマライアが活動していた万聖修道女会の修道女たちのように,リアルな存在でもあっ た。またロセッティ自身は聖母マリアのモデルとして兄の絵画作品(21)に描かれ,ラファエル 前派の〈修道女〉のイメージを賦与されており,自らもそれを自己イメージと一致させていた。 こうした事情もあって,ロセッティは『ポルトガル文』とペトラルカ風ソネットの伝統に忠実 であり,「名もなき修道女」というテーマをいっそう大切に育んだものと思われる。そして, 語り手を「当代わが国の誇る閨秀詩人」 (ブラウニング)から,1 9世紀末まで匿名のままであ ったポルトガルの修道女マリアナのような「名もなき女性」に戻したのだと考えられるのであ る。ソネットの伝統通り,‘Monna Innominata’ は不幸な結末を迎える。「名もなき女性」で ある語り手は,『ポルトガル文』で匿名にされていた「名もなき修道女」のように,去った恋 人を虚しく待ち続け,年老いていく自分を嘆き,ソネット集を閉じたのだった。 6.「歌われる恋人」から「語る女性詩人」へ これまでに述べてきたような違いはあるものの,ブラウニングの作品とロセッティの作品の 間にある共通点として,次のことは見落としてはならない。それは,「名もなき貴婦人」の序 文にもあるように,ダンテやペトラルカに歌われたベアトリーチェやラウラのような,これま で男性詩人の詩作の対象であった女性が「語る側」に移行したことである。ロセッティの批判 するブラウニングのもうひとつの作品「カタリーナからカモンイスへ」も,男性詩人であるカ モンイスに向けて,その詩作の対象であった女性カタリーナからの語りとなっている。そこで, 二人の2組目の継承関係として,ポルトガルの詩人カモンイスの作品をいわば「本歌取」した ブラウニングの「カタリーナからカモンイスへ」と,それに対抗して書かれたロセッティの 「三人の修道女」との継承関係を検討したい。「カタリーナとカモンイス」は修道女をテーマ とした作品ではないものの,ポルトガル・ブームの一端を担う重要な作品であり,ロセッティ が独自の詩作法と修道女のテーマを深化させる契機のひとつでもあるため,ここで取り上げて おきたい。ちなみに「カタリーナとカモンイス」と「三人の修道女」の継承関係に関してはス トーン(Marjorie Stone)が論じているが,(22)本論ではストーンが触れていないポルトガル 文学との関連,詩形と音韻を含む詩作法(prosody)を中心に,ソネットにおける継承関係を ヴィクトリア朝文学における〈修道女〉のテーマ 17 補足するかたちで,テーマと語りの問題を探っていきたい。 「カタリーナからカモンイスへ」の題材は,ヘマンズらが翻訳して流行したカモンイスの抒 情詩と,ストラングフォード訳に付された詩人の伝記である。先に触れたように,詩人カモン イスは女官カタリーナと恋に落ちて彼女に求婚するが,彼女の家族から反対を受ける。それが 原因で国を追われる身となり,アフリカやアジアを冒険する身となった。その放浪の間に,恋 人を待っていたカタリーナは2 0歳と言う若さで亡くなった。この悲恋物語が含まれたストラン グフォード卿の『カモンイス訳詩集』 (1 8 0 3)に収録されている「マドリガル」 (‘Madrigal’) と題された詩から,ブラウニングは創作のヒントを得ている。(23)各連最後で繰り返される ‘And sweetest eyes that e’er were seen!’ はブラウニングの詩心をとらえ,彼女の「カタリー ナからカモンイスへ」の有名なリフレイン ‘Sweetest eyes, were ever seen’ となり,のちに ロセッティを惹きつけた。実は,カモンイスの原詩にはこのリフレインに相当する詩行は見当 たらない(Monteiro 37) 。ストラングフォード訳は,翻訳というよりカモンイス風の詩ある いは翻案と呼んだ方がふさわしいだろう。また多くの批評家が指摘する通り,翻訳としての出 来栄えは粗いかもしれない。しかしながら,原詩からあの印象的なリフレイン ‘And sweetest eyes that e’er were seen!’ を生み出し,のちにブラウニングとロセッティの間テクスト的関 係を強化したのは,ストラングフォード卿の功績といわねばなるまい。 「カタリーナからカモンイスへ」は1連8行全1 8連から成る。まず第1連を見てみよう。 On the door you will not enter, I have gazed too long―adieu! Hope withdraws her peradventure― Death is near me,―and not you. C ome, O lover, C lose and cover ⇒ These poor eyes, you called, I ween, ‘S weetest eyes, were ever seen.’ (‘Catarina to Camoens’ : Stanza 1) (強調は筆者による) 【註】下線は同語反復を,イタリックは頭韻を,⇒は行跨りを示している 脚韻は ababccdd で,前半4行の ‘enter’ と ‘peradventure’ の押韻が目立つ。これはいわゆる 二重韻(double rhyme)で,5行目と6行目の脚韻である ‘lover’ と ‘cover’ も同じように二 重韻である。厳密に言えば,‘enter’ と ‘peradventure’ は母音だけで韻を踏んでいるので,「二 重 母 音 韻」と で も 呼 べ る だ ろ う。後 半 で 見 ら れ る[k]の 頭 韻 は,‘come’,‘close’,‘cover’, ‘called’ と置かれ,動作の連続性を強めているようである。ところが,恋人に対する一連の命 令形が4番目の ‘called’ で過去形に変化するとき,「恋人がいたのは昔のことで,今,彼はも ういない」という語り手の失望感が露呈される。また5行目と6行目の間には行跨りがあり, ‘Close and cover/ These poor eyes’ の2行を一気に読ませたところで ‘called’ が現れるため, その失望感はいっそう深いものとして示されるようである。同時に,この一連の命令形は結果 的に,今まさにやってくる「死(‘Death’) 」に対して向けられてしまう。このようにみると, すでに第1連で,語り手カタリーナを待ち構える悲劇的運命の予感が示されているようである。 また,最後の2行では,繰り返される ‘eyes’ に加え,リフレインにおける[s]の頭韻と ‘e’ 18 天理大学学報 第6 2巻第2号 ([ai][!])の頭韻の交差韻がある。[s]の頭韻を成す ‘sweetest’ と ‘seen’ は共に長母音を持ち, このリフレインに余韻を与えている。これらの音にはすべて強勢が置かれ,音が強弱のリズム に乗って交じり合って,‘S weetest eyes, were ever seen’ は,遥か彼方にいる恋人の耳に届 けようとするかのように,強く長く響くのである。 一 方 ロ セ ッ テ ィ の「三 人 の 修 道 女」は「名 も な き 貴 婦 人」と 同 じ く 修 道 女 の 独 白 (soliloquy)になっており,3人の修道女が1人ずつ語るという3部構成(24)になっている。 加えて,「名もなき貴婦人」と同じように, 「三人の修道女」にも各部の冒頭にイタリア語の題 辞が添えられている。ただし,「名もなき貴婦人」の題辞はダンテとペトラルカの詩の一節で あり,詩神祈願辞(invocation)の役割を果たしていたが,「三人の修道女」のそれはロセッ ティ自身が作った題辞(mottoes)である。そうした題辞は「名もなき貴婦人」の場合と同様, ラファエル前派的な中世風の雰囲気を作品にもたらしている。その意図はロセッティの兄ウィ 9 1 9)の註(4 6 0)にもあ リアム・マイケル・ロセッティ(William Michael Rossetti:1 8 2 9―1 るように,語り手の設定である。ダンテやペトラルカあるいはカモンイスのような男性詩人に よって書かれたのではなく,あるいはエリザベス・ブラウニングのような有名な女性詩人によ って書かれたわけでもなく,名もないイタリアの修道女によって書かれた,という設定が重要 なのである。 では,「三人の修道女」の冒頭部をみてみよう。第1部は1連7行,全9連から成り,脚韻 は ababccc である。 Shadow, shadow on the wall S pread thy shelter over me ; W rap me with a heavy pall, W ith the dark that none may see. Fold thyself around me ; come : Shut out all the troublesome Noise of life ; I would be dumb. (‘Three Nuns’:1―7) 【註】下線は同語反復,似た語順(首句反復や同等句反復)を,イタリックは頭韻を 示している 最初に繰り返される ‘shadow’ が2行目の ‘shelter’ から6行目の ‘Shut’ にまで響き渡り, 文字通り「広がって」この連を「覆い包む」 。そして ‘spread’,‘wrap’,‘fold’ と命令文が続い た後,‘come’ が後続の副詞句なしで現れる。次の ‘Shut’ は副詞句を伴って命令文を成し,最 初の ‘shadow’ と頭韻で繋がっている。そのため ‘come’ だけが,単独で存在する命令形の動詞 となる。この単音節語 ‘come’ は,他の命令形動詞とは異なり脚韻も踏み,独特で強烈な存在 感を示しながら響いている。 重要な点は,この独立した ‘come’ が「カタリーナからカモンイスへ」の第1連5行目の ‘Come’ と響き合うことである。カタリーナが招くのは恋人,実際にやってくるのは死である。 修道女が招くのは闇のような影,視界を閉ざし世俗の喧騒を遮断してくれ,彼女を「すっぽり 2)である。その影は死の予兆でありながらも,修道 と覆ってくれる影」 (‘Three Nuns’:9―1 かくれ が 院という場の持つ隠 処のような性質に通じる。(25) ヴィクトリア朝文学における〈修道女〉のテーマ 19 アステリスク さて,「三人の修道女」の第1部1 8行目には星印が付けられ,別の箇所に書かれた同じ印の 先 に は,ロ セ ッ テ ィ 自 身 が こ の 詩 に 関 し て 書 き つ け た メ モ が 残 さ れ て い る。そ れ は ‘“Sweetest eyes were ever seen.” E. B. Browning’ という1行である。この1行が,「三人の 修道女」とブラウニングの「カタリーナからカモンイスへ」をまさしく結び付けている。 By the grating of my cell S ings a solitary bird ; S weeter than the vesper bell, S weetest song was ever heard.* S ing upon thy living tree : Happy echoes answer thee, Happy songster, sing to me. 1) (強調は筆者による) (‘Three Nuns’:1 5―2 【註】下線は同語反復と似た語彙の反復を,イタリックは頭韻を示している 下線を施した ‘Sweetest song was ever heard’ こそが,カモンイスからブラウニングへ, そしてブラウニングからロセッティへと継承された「連歌」的リフレインである。この連では ‘Song’ をはじめとする「歌」に関する表現が繰り返され,それに合わせて各行には[s]の頭 韻が豊かに施されている。のちに[s]の頭韻は ‘sing’ から ‘sorrow’ と ‘sin’ へと続く。そし て,「名もなき貴婦人」のように首句反復が多用されており,それらは行末終止で区切られた 行をペアにして,まるで修道女の小部屋のような空間を作っている。籠の中の鳥のように,修 道女はその小部屋で独りきりで,この歌を歌うのである。 続いて第二の修道女,第三の修道女がそれぞれ語っていくのだが,「カタリーナからカモン イスへ」との詩作法上の違いは,[s]と[p]の交差頭韻と,二重押韻である。ブラウニング の語り手カタリーナは[s]と[p]の音を響かせて,死が近づいても一貫して高らかに恋を 歌い上げる。一方ロセッティの修道女たちにとっては,[s]の響きは罪の意識 ‘sin’ につなが り,ブラウニングが誇らしく響かせる[p]あるいは[pr]の頭韻には否定的意味がつきまと う。 O my poet, O my prophet, When you praised their sweetness so, Did you think, in singing of it, That it might be near to go? Had you f ancies F rom their glances, That the grave would quickly screen ‘S weetest eyes, were ever seen.’? (‘Catarina to Camoens’ : Stanza 8) (強調は筆者による) 【註】イタリックは頭韻を,下線は[s]と[p]の頭韻を持つ語を示している カタリーナは恋人カモンイスに ‘O my poet, O my prophet’ と呼びかけ,『ポルトガルから 20 天理大学学報 第6 2巻第2号 のソネット集』で語り手が繰り返したように ‘praise’ という語を用いて冒頭から[p]あるい は[pr]の頭韻を響かせている。また ‘screen’ は「覆って遮断する」という意味であり,カ タリーナが入る墓場(‘the grave’)と,ロセッティの第1の修道女を「覆い包む」 (‘wrap’) 死の影(‘shadow’)とは,同じ性質を有していることが読み取れる。すなわち「死」は,布の ような性質を持ち,人を守るように包み込み,最後の審判まで眠らせるものだと考えられてい る。(26)また,‘screen’ は,‘sweetest’ と ‘seen’ の[s]の頭韻と長母音[i : ]で韻を踏んでい る。前に指摘したように,ブラウニングは母音韻と二重押韻を好み,両者を併せた二重母音韻 を多用する傾向がある。この連の5行目と6行目の脚韻である ‘fancies’ と ‘glances’ も,その 例に漏れない。「カタリーナからカモンイスへ」の全連において,5行目と6行目の脚韻は例 外なく二重押韻である。 一方「三人の修道女」の第2の修道女は,1連6行全1 0連から成る詩を歌い,第1連から罪 (‘sin’)の問題について語り出す。 I loved him, yes, where was the sin? I loved him with my heart and soul. But I pressed forward to no goal, There was no prize I strove to win. S how me my sin that I may see : ― Throw the f irst stone, thou Pharisee. 9) (強調は筆者による) (‘Three Nuns’:6 4―6 【註】イタリックは頭韻を,下線は[s]と[p]の頭韻を持つ語と首句反復を示し ている 脚韻は abbacc で,まず注目すべきは,ブラウニングなら ‘praise’ という語を用いて響かせ る[p]あるいは[pr]の頭韻が,ロセッティにおいては ‘pressed’ と ‘prize’ に置かれ,どち らも否定語 ‘no’ を伴っている点である。また ‘Pharisee’ は視覚的には ‘p’ で始まる語であるが, 音の上では ‘first’ と頭韻を踏み,その最終音節 ‘see’ は強音節であるため,[s]の音が連の最 後に響いている。ロセッティの修道女の歌では,‘s’ の頭韻が主要な音として何度も使われ, それが ‘sin’ の[s]へと結びつく。「名もなき貴婦人」の最後の「沈黙」を決意する部分と同 じように,「三人の修道女」においても[s] (音が同じ)あるいは ‘s’(綴りが ‘s’ で始まる) の頭韻は幾度となくこだまし,それが罪の ‘sin’ の響きへと変容していく。恋愛を高らかに歌 い上げるブラウニングの語り手とは対照的に,ロセッティの語り手である修道女たちにとって, 恋愛は罪の意識を伴うものであった。彼女たちは,修道院でその罪を悔悟しながら,別れた恋 人を想いながら,倦んで空虚な残りの一生を過ごす。ロセッティの第3の修道女も,第2の修 道女のように,[s]と[p]の頭韻を交差させて罪の意識を歌う。死の床においても高らかに 愛を歌い決して厭世的にはならないカタリーナとは,まったく対照的である。 さて,ブラウニングが二重韻,特に二重母音韻を多用する傾向は,先に指摘したとおりであ る。第1 8連の5行目と6行目においては ‘Death has boldness/ Besides coldness’ も,二重押 韻を踏んでいる。最終連(第1 9連)の同じく5行目と6行目も,行末の2語が二重押韻を踏ん でいる。 ヴィクトリア朝文学における〈修道女〉のテーマ 21 I will look out to his future ; I will bless it till it shine. Should he ever be a suitor Unto sweeter eyes than mine, Sunshine gild them, Angels shield them, Whatsoever eyes terrene Be the sweetest HIS have seen! (‘Catarina to Camoens’ : Stanza 19) (下線は筆者による) 【註】下線は同語反復,首句反復,同等句反復を示している。 最終行のイタリックと大文字は,原文のままである 各行では行末終止が守られている。初めの2行は首句反復と同等句反復で組となり,冒頭から バランスの取れた連になっている。5行目と6行目は同じ語 ‘them’【his eyes】で脚韻を踏む と同時に等位構造を成している。「陽光(‘Sunshine’) 」と「天使(‘Angels’) 」はどちらも天上 の存在であり,それぞれの持つ動詞「輝かせる(‘gild’) 」と「守る(‘shield’) 」に意味の違い はあるものの,長短の違いを除けば同じ母音を含むうえ,語末の子音は同じである。 最初の連から続いてきた高揚した調子はおさまり,天に召されたカタリーナが,天上界から 地上の恋人の行末を守護天使のように穏やかに見守っている。その穏やかで落ち着いた様子が, 詩形と音においても表現されている。これまで最終行で繰り返されていたカモンイスのリフレ イン ‘S weetest eyes, were ever seen’ は,最終連の最終行でカタリーナの祈願に変わった。 そして,この詩はカタリーナからカモンイスへの永遠の愛の歌となったのである。 これに対し,ロセッティの第3の修道女は「カタリーナからカモンイスへ」の最終連の1行 目 ‘I will look’ を否定に変えて,連続する連の各冒頭で繰り返している。 I will not look upon a rose Though it is fair to see : ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ I will not look unto the sun Which setteth night by night : 7 3―4) (‘Three Nuns:1 6 6―7;1 7 2) ,現世を 修道女は,現世での愛や純潔を示す薔薇ではなく,神の楽園の花に囲まれ(1 6 6―1 7 6)を自らに纏うことを望んでいる。そして 照らす太陽ではなく,天で戴く冠の輝き(1 7 3―1 最終連では,イタリア語の題辞の「心」のように,修道女は言葉を発する。 Until I grew to love what once H ad been so burdensome. S o now when I am faint, because H ope deferred seems to numb ⇒ My heart, I yet can plead ; and say 22 天理大学学報 第6 2巻第2号 Although my lips are dumb : “The S pirit and the B ride say, Come.” 0 7) (強調は筆者による) (‘Three Nuns’:2 0 1―2 【註】⇒は行跨りを,イタリックは頭韻を,下線は特に触れるべき語を示している ブラウニングの好む二重押韻はまったく見られない。しかし,矢印で示したように,ブラウ ニングは多用してロセッティはほとんど使わない行跨りが見られる。ここでは4行目から5行 目にかけて動詞と目的語の間にあり,強度の跨りとなっている。目的語の ‘My heart’ は強調 され,題辞の ‘cor mio’(「私の心」 )に重なっている。また例外的にこの連では目立った頭韻 はないものの,脚韻は第1の修道女が語った3 6行目から4 2行目で示した有声鼻音[n]で終わ る脚韻(‘sin’,‘begin’,‘again’,‘pain’,‘complain’)と結びついている。この最終連の脚韻も すべて有声鼻音[m]で終わるうえ,第1の修道女の歌の最初の連の脚韻,‘come’,‘some’, ‘dumb’(27)と同じである。3つの題辞がひとつになって小さな詩となるように,この脚韻が重 なることで第3部の終わりと第1部の初めが繋がり,「三人の修道女」の三連全体がここでひ とつの大きな連環を成していると考えられる。 さらに,この連作に関して最も強く指摘すべきだと思われるのは,最後の ‘Come’ である。 第1の修道女が第1連で発した ‘come’ のように,そしてカタリーナが第1連で発した ‘Come’ のように,これは副詞句を伴わない命令形の動詞で,最後の脚韻を踏んでいる。こうして,連 作の最後にふさわしい簡潔かつ独立した単音節の一語によって,ヴィクトリア朝を生きた二人 の「偉大な女性詩人」の「連歌」は完結したといえるだろう。 また,最終行の “The Spirit and the Bride say, Come” は,ヨハネの黙示録の最終章(2 2 章)1 7節からの引用であることも見逃してはならない。黙示録の最終章1 7節から2 0節にかけて, ‘Come’ は副詞句を伴わない単独の命令形として何度も繰り返され,2 0節の最後では,‘Even so, come, Lord Jesus.’ と,キリストへの呼びかけになっている。そして,最終節(2 1節)で 結びの言葉が唱えられ,この書は終わる。ロセッティは,自分とブラウニングとの「連歌」の 結末にあの黙示録の一節を引用し,‘Come’ という語を印象的に響かせることによって,その 「連歌」を完結させただけではない。新約聖書の最後に置かれたこの黙示録の終末に,名もな き女性たちの「連歌」の結末を重ね合わせたのである。いうなればロセッティは,伝承を紡ぎ 合わせて生まれた聖書のポリフォニーと,名もなき女性たちが語り継いできた恋愛詩のそれと を,共鳴させようとしたのである。そのやり方は,のちに ‘Devotional Prose’ と呼ばれる散文 を残して,自らのキャリアを女性詩人にとどまらせず,聖書解釈学という長い歴史を持つ壮大 な分野に踏み込んだ,あの大胆な挑戦に通じていると考えられるだろう。 7.「修道院の敷居」――「修道女文学」の最後 以上述べてきたように,ヴィクトリア朝中期の詩文学における〈修道女〉のテーマは,旧教 国であるポルトガルの文学作品に端を発し,女性詩人の「連歌」ともいえる翻案作品群を中心 に,「修道女文学」と呼ぶべきミニジャンルを形成してその最盛期を迎えた。その結果,ダン テやペトラルカのような男性詩人に歌われたベアトリーチェやラウラのような女性は,歌われ る対象から語る側へと移行した。テーマと文体においても,ポルトガルの修道女マリアナの書 簡集はブラウニングの「祝婚歌」へと,そしてロセッティの「名もなき女性」の劇的独白へと 発展した。同じく,ポルトガルの男性詩人カモンイスのリフレインはカタリーナの永遠の愛の ヴィクトリア朝文学における〈修道女〉のテーマ 23 歌へと変わり,やがて中世イタリアの修道女たちの問わず語りとなった。 さて,この「連歌」関係を通して,ロセッティがブラウニングから継承したものは何だった のであろうか。劇的独白は,明らかにロセッティがブラウニングに多くを負うものである。ロ セッティはこの独白体を自分の詩の中に取り入れ,修道女の語りを独自に発展させていった。 また,ブラウニングが多用する母音韻とりわけ二重母音韻は,幼い頃からブラウニングの詩に 親しんでいたロセッティの初期作品によく見られる。ホプキンズの講義ノート ‘Rhythm and other structural parts of rhetoric―verse’ には,ブラウニングとロセッティの詩に共通する 特徴として母音韻を挙げるという,興味深い指摘が残されている。(28)しかし,兄ダンテ・ゲ イブリエルは妹のマネージャーとして,ブラウニング作品が持つ「男性詩人の裏声(‘falsetto muscularity’) 」を真似ないよう命じ,ブラウニングの悪影響(‘taint’)の見られる跡を消し た。(29)当時は反発していたロセッティもこの連作においては改めてその点を意識し,ブラウ ニングが多用する二重押韻および母音韻の使用を避け,彼女があまり使わない交差頭韻の使用 に集中した。それが結果的には,この「三人の修道女」で顕著に見られるように,単音節の語 を用いて脚韻を踏み,単音節の語とその反復を用いて頭韻を響かせるという,ロセッティ独自 のスタイルの確立へとつながったのである。端的に言えば,ロセッティの「三人の修道女」は 「名もなき貴婦人」とともにブラウニングへの挑戦状であり,また女性詩人たちが育んできた 〈修道女〉のテーマと語りを自分が継承するという宣言書でもあったといえよう。 ブラウニングはポルトガル・ブームに乗るような格好で〈修道女〉をエキゾチックなファン タジーとして利用し,むしろ女性詩人として恋愛ソネット連作を成功させるための戦術的な問 題として捉えていた。こうした外在化した〈修道女〉のイメージに対し,ロセッティはこのテ ーマを自分の問題として内的に位置づけ,いわゆる「家庭の天使」の裏面ともいえる文学的テ ーマおよびイメージとして定着させようとした。ロセッティは〈修道女〉のテーマに最も真摯 に向かい合った女性詩人であり,その作品は,彼女の実人生と文学が重なる形で発展していっ た。〈修道女〉をテーマにしたロセッティの主な作品を挙げてみると,長篇詩では先に詳述し た「三 人 の 修 道 女」 ,中 篇 で は「修 道 院 の 敷 居」‘The Convent Threshold’(1 8 5 8年6月9 日,1 8 6 2年 Goblin Market and Other Poems に収録) ,短篇では「修練女」‘The Novice’ (1 8 4 7年9月4日に書かれ,1 8 9 6年ロセッティの死後 New Poems に収録) ,散文では死後出 版された『モード』Maude(制作年1 8 5 0年ごろ,1 8 9 7年死後出版)が挙げられる。 注目すべきは,中篇詩「修道院の敷居」である。これは『ポルトガル文』の翻案もののひと つで,そのタイトルは,『ポルトガル文』の4通目の手紙で修道女マリアナが門番になったこ とを伝えるくだりからきている。この作品に関してウィリアム・マイケルは,「 『エロイーズと アベラール』と『ジュリエットとロミオ』を合わせたようなもの」 (4 8 2)だと考えていた。こ の点から「修道院の敷居」はポウプの『エロイーズからアベラールへ』 (1 7 1 7)の翻案でもあ るとも考えられるが,こうした作品がすべて『ポルトガル文』の系譜においてつながっている ことを,もう一度指摘しておきたい。すなわち,『ポルトガル文』が英訳されたあと,書簡体 という繋がりから修道士アベラールとエロイーズの往復書簡集が英訳され,ポウプは『エロイ ーズからアベラールへ』を書いた。ヴィクトリア時代になって,ブラウニングは『ポルトガル からのソネット集』を書き,ロセッティは「名もなき貴婦人」や「三人の修道女」を経たのち, さらに「修道院の敷居」を書いて〈修道女〉のテーマを独自に発展させたのである。 これまでみてきたように,『ポルトガル文』の系譜において,ロセッティは「異国の名もな い修道女の恋愛詩」というテーマを大きく変化させた。ブラウニングの作品で ‘song’ や 24 天理大学学報 第6 2巻第2号 ‘sweet’ という語において響いた[s]の音は,「名もなき貴婦人」や「三人の修道女」におい て ‘sin’ に繋がるように変容して響いた。つまりロセッティは,それまでの修道女たちが歌っ てきた恋愛詩に,官能的な愛を交わしたゆえの「罪」の意識を加えた。さらにロセッティは 「修道院の敷居」で,語り手の修道女に「人の愛」と「神の愛」との間の選択と迷いの姿を託 している。「修道院の敷居」を越えるか越えないかは,人の愛を選ぶか神の愛を選ぶかという 大きな岐路でもある。人の愛への未練をふりきって修道院へ入り,神の永遠の愛に身を委ねよ うとしても,彼女たちには常に迷いが残っている。諦念のうちに迷いながら,修道女たちは現 世での人の愛の成就をあきらめ,天上でそれが復活することを祈る。この作品には,宗教上の 問題から婚約を破棄せざるを得なかったロセッティ自身の愛と信仰の葛藤が織り込まれている ともいえるだろう。 「修道院の敷居」で,天国で成就される愛を信じて修道院に入った語り手は,官能的な愛を 交わしたかつての恋人に,今すぐ祈りを捧げて共に罪を悔いるよう求める。この世の虚しさを ‘weary’ という言葉で繰り返しながら,修道女は恋人に「悔悟してください(‘Repent’) 」と何 2, 6 5―6 6, 7 8―8 4) 。 度も呼びかける(5 1―5 The time is short and yet you stay : Today while it is called today Kneel, wrestle, knock, do violence, pray ; Today is short, tomorrow nigh : Why will you die? Why will you die? You sinned with me a pleasant sin : Repent with me, for I repent. Woe’s me the l ore I must unl earn! W oe’s me that easy way we went, So rugged when I would return! ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ Only my l ips still turn to you, My l ivid l ips that cry, Repent. Oh weary l ife, Oh weary Lent, Oh weary time whose stars are few. How should I rest in Paradise, Or sit on steps of heaven alone? I f S aints and Angels spoke of love, Should I not answer from my throne : ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ Oh save me from a pang in heaven. By all the gifts we took and gave, Repent, repent, and be forgiven : This l ife is l ong, but yet it ends ; ヴィクトリア朝文学における〈修道女〉のテーマ 25 Repent and purge your soul and save : No gladder song the morning stars Upon their birthday morning sang Than Angels sing when one repents. 5, 6 5―7 2, 7 7―8 5) (強調は筆者による) (‘The Convent Threshold’:4 6―5 【註】イタリックは頭韻を,下線部は以下で説明すべき箇所, 太文字は重要と思われる押韻と同語反復を示している この部分では同語反復が特徴 的 で あ る。太 文 字 で 示 し た よ う に,「悔 悟 し て く だ さ い」 (‘Repent’)という台詞は,至るところで繰り返されている。4 6行目から5 2行目にかけては ‘Today’ が3回繰り返され,6 7行目と6 8行目では ‘Oh weary’ が3回繰り返されている。脚韻 については太文字で示したように,‘you stay’ と ‘today’,‘repent’ と ‘we went’ が二重母音韻 を成している。4 7行目,5 0行目,5 2行目には同語反復による中間韻が見られる。さらに見落と してはならないのは,繰り返される ‘repent’ の狭間にある,8 2行目からの[s]の頭韻である。 [s]の頭韻は,‘soul and save’ において罪の響きから「魂の救済」salvation の歌へと一変し, ‘song’,‘stars’,‘sang’,‘sing’ において,天上で天使たちが歌う歌へと変わっていく。 ここで〈修道女〉をテーマとする作品群は,その舞台を恋愛詩(Courtly Love Poems)か ら信仰詩(Devotional Poems)へと展開させていくことになる。「修道院の敷居」で語り手 (修道女)が愛と信仰の葛藤や聖と俗との相克のあいだで迷う姿は,作者ロセッティ自身の姿 と重なり合う。のちに童謡詩人として名を知られるようになってからも,ロセッティは信仰詩 を書き続けた。社会的成功に甘んじることなく,修道女のように自ら倫理的に厳格な生き方を 課した。生涯独身を貫き,晩年はまさしく修道女のように引きこもりながら,賛美歌の新作な ども手がけている。彼女の賛美歌は平易な語彙の使用と反復の多い表現によって,詩の内容が 理解しやすくて親しみやすく,好意をもって人々に受け入れられた。すなわち,ロセッティの 信仰詩はシンプルな美しさと親しみやすさのゆえに評価され,彼女は「宗教詩人」という一定 の評価を得ることになったのである。 こうして,1 9世紀英国でポルトガル・ブームに育まれた〈修道女〉のテーマは,ブラウニン グとロセッティの「連歌」を経て,ロセッティが〈修道女〉のイメージに自己同一化した時点 で,いわば「聖化」されたといえる。ロセッティの作品群は,女性詩人の手によるヴィクトリ ア朝「修道女文学」のクライマックスを飾ったというべきだろう。 8.む す び 最後にエピローグとして,〈修道女〉のイメージを最もよく体現した人物としてのロセッテ ィにまつわるエピソードを添えて,本稿を締めくくりたい。 実は,「修道院の敷居」の修道女の呼びかけには「返歌」がある。ホプキンズによるもので ある。彼は「修道院の敷居」を読んで,その返歌(answer)として「この世からの声」‘A Voice from the World’(1 8 6 4)を書き,ロセッティの詩と自分の詩をまるで「問答歌」にな るように仕立てた。エリザベス・バレットの詩を読んで,ロバート・ブラウニングがその作者 に恋をしたように,ホプキンズもロセッティの詩を読んで憧れの気持ちを抱き,彼女に賦与さ れた〈修道女〉のイメージに執着した。そして二人は顔を合わせたが,同じことは起こらなか った。この返歌はロセッティに知られることなく,ホプキンズの死後も埋もれたまま断片詩と 26 天理大学学報 第6 2巻第2号 なってしまった。しかしホプキンズが返歌を書いた段階で,修道女の独白(モノローグ)は対 話(ダイアログ)へと昇華したといえよう。さらにホプキンズは,ロセッティが深めた〈修道 女〉のイメージに対し,男性の側から自己同一化した。つまり,彼にとって〈修道女〉は憧憬 の対象であったが,修道女にはなれないために彼はイエズス会士となり,その時点で憧憬の対 象を追い越し,自らが修道女の身代わりを引き受けたのである。 6 3 3)の流 現在,ロセッティとホプキンズはともに,ハーバート(George Herbert:1 5 9 3―1 れを汲むヴィクトリア朝の「宗教詩人」という範疇において評価されている。しかしながら, ハーバートは神の存在が確実なものである時代にいた詩人であるのに対し,ロセッティとホプ キンズは神なき時代に神の痕跡を追う詩人である。両者はヴィクトリア朝においてはもはや 「見えない」神の存在を,各々のやり方で意識し,その信仰を貫いた。ブラウニングにとって は,〈修道女〉であれ男性詩人の恋人であれ,語り手とは詩人自身を託す「仮面」でしかなく, そこに自己投棄することはあり得ない。対照的に,ロセッティとホプキンズにとって, 〈修道 女〉は「神の花嫁」という信仰のひとつの象徴であるだけではなく,鏡に映った自己イメージ そのものでもあった。 確かにロセッティの信仰詩は単純な美しさと親しみやすさのゆえに評価されたが,彼女の抱 える葛藤は果たして同時代の読者に理解されたとはいいがたい。超越的なものの価値を見失っ たヴィクトリア朝の同時代人は,彼らにとって隠れた神の問題と苦悩を持って対峙できるわけ もなかった。当時のこのような情況で,聖と俗の相克を厳粛に歌う〈修道女〉ロセッティの信 仰詩の切実な内面を理解しうるのは,ただひとり,自ら殉教者の道を反復せんとしたホプキン ズ以外にはなかっただろう。 註:本文中エリザベス・ブラウニングの詩の引用はすべて The Complete Works of Elizabeth Barrett Browning, eds. Charlotte Porter and Helen A. Clarke. 6 vols.(1 9 0 0. New York : AMS Press, 1 9 7 3)に,クリスティーナ・ロセッティの詩の引用はすべて The Complete Poems of Christina Rossetti. Variorum Edition, ed. R. W. Crump, 3 vols.(Baton Rouge and London : Louisiana 0)に拠る。 State University Press,1 9 7 9―9 (1) ロセッティとホプキンズの詳細な比較については,TAKAHASHI Miho ‘A Transition of the ‘Nun’ Image in Gerard Manley Hopkins’s Works’(天理大学学報第2 1 4輯,2 0 0 7年2月, 0所収)参照。 pp. 4 5―6 8 6 6) ,ニューマン(John Henry Newman:1 8 0 1―9 0) ,ピュ (2) キーブル(John Keble:1 7 9 2―1 2)らを中心として起こった運動。当時危機的状態 ージー(Edward Bouverie Pusey:1 8 0 0―8 にあった国教会を高教会の理想に従って改革し再建することを目的とし,ニューマンがカトリ ックに改宗する1 8 4 5年まで続いた。 (3) こうした女子修道会のひとつに「万聖修道女会」 (All Saints’ Sisterhood)があり,クリス 6)はこの修道女会 ティーナ・ロセッティと姉のマライア(Maria Francesca Rossetti:1 8 2 7―7 で活動していた。カトリックの修道院と同じように,修道女会には見習修道女である「修練 女」と修練期を終えて終生誓願した「修道女」という区別があり,修練女のまま修道院で生涯 を過ごすことも可能であった。マライアはのち1 8 7 4年に同修道女会の修練女となり,晩年の2 9 4 6)も 年間をその修道院で過ごした。ホプキンズの妹ミリセント(Milicent Hopkins:1 8 4 9―1 同じ修道女会に所属し,彼女は9 7年という長い人生の大半をこの修道女会で過ごした。ホプキ ンズ一家は熱心な英国国教会の信者で,この信仰を通じてロセッティ一家との付き合いがあり, 27 ヴィクトリア朝文学における〈修道女〉のテーマ それはのちに,ホプキンズがロセッティに関わるきっかけのひとつとなった。 (4) 1 9世紀前半まで看護婦の社会的地位は低かったが,ナイチンゲール(Florence Nightingale: 9 1 0)の活動により,1 8 5 0年代以降飛躍的にその地位は向上していった。やがて,ナイチ 1 8 2 0―1 ンゲールを代表とした看護婦という存在自体が「家庭の天使」と対極を成しつつ, 「白衣の天 使」というヴィクトリア朝女性の憧れの職業となっていった。実現はしなかったものの,ロセ ッティはナイチンゲールに憧れて従軍看護婦に志願したこともある。 6)の The Angel in the House(1 8 5 4―6 2)に由来す (5) パトモア(Coventry Patmore:1 8 2 3―9 る,家父長制社会における理想の女性像を示す表現。 (6) 実際のところ,多くの「堕落した女」 「捨てられた女」の行きつく先は,テムズ川等での入水 自殺であった。興味深いことに,ラファエル前派絵画においてこうした女性たちは,ミレイや アーサー・ヒューズの描いたオフィーリアのように,あるいはのちにウォーターハウスやバー ン=ジョーンズの描いた人魚やセイレーンのように,男を水中深く引きずり込む「水の女」の イメージと結びついていった。 (7) 旧教国の散文作品において,<修道女>のテーマの扱いは異なるようである。たとえばフラ 1未完)が, ンスでは,マリヴォーの長編『マリヤンヌの生涯』La Vie de Mariannne(1 7 3 1―4 修道女を主人公とした書簡体小説の先駆として挙げられる。旧教国では,概して修道女は現実 の存在として描き出されており,マリヴォーのこの作品もリアリズム小説の先駆とみなされて いる。こうしたフランスのリアリズム小説の伝統のなかで,よりアクチュアルな社会問題とし て 修 道 女 を 捉 え て い る の は,1 8世 紀 の 啓 蒙 思 想 家 デ ィ ド ロ の 書 簡 体 小 説『修 道 女』La 2執筆,1 7 9 6年出版(生前未完) 】である。これは修道女を語り手としてい Religieuse【1 7 6 0―8 るものの,むしろ旧体制において虐げられている人々すべてに向けた啓蒙の書である。他の作 品でも主張するように,ディドロは社会の周縁に位置する人物――この場合は修道女にならざ るを得なかった一人の女性――を描いて,旧体制下に置かれた修道院も含め,当時の社会体制 全体が抱える問題を批判している。登場人物のマヌリ弁護士がこの修道女のために行う弁論は, ディドロの思想が代弁された も の と い え る だ ろ う。こ の 作 品 が フ ラ ン ス で 出 版 さ れ た 直 後,1 7 9 7年にロンドンだけではなくダブリンにおいても匿名で同書の英訳が出版された。アイ ルランドは住民の8割がカトリック教徒であり,宗教革命以降イングランドから過酷な弾圧を 受けてきた。おりしも進行中のフランス革命の影響を受け,当時のアイルランドでは翌1 7 9 8年 のユナイテッド・アイリッシュメンの蜂起をはじめとする独立運動の気運が高まっていた。こ うした時期にディドロの『修道女』が出版直後にダブリンでも匿名翻訳された背景には,フラ ンスを革命に導いた啓蒙思想を翻訳小説という形で取り入れ,イングランドに抗議していこう とする姿勢がうかがえるようである。しかしながら当時のアイルランドでは,修道女をテーマ あるいは主人公とした文学作品は見られない。 9)の Inés de Castro(1 5 5 7) (8) たとえばアントニオ・フェレイラ(António Ferreira:1 5 2 8―6 は1 6 9 6年 Agnes de Castoro. A Tragedy と題して英訳され,1 8 2 5年に再び Ignez de Castro : A Tragedy と し て 英 訳 さ れ て い る。ロ ペ ス・デ・カ ス タ ン ヘ ー ダ(Fernão 9)の Histõria do Descobrimento e Conquista da Castanheda:1 5 0 0?―5 Lopes de Índia pelos Portugueses の第1巻(1 5 5 1)も,1 5 8 2年に The First Booke of the Historie of the Discoverie and Conquest of the East Indies として英訳され,1 8 1 1年に新しい英訳が A General History and Collection of Voyages and Travels に収録されている。また,1 7世紀半ばに一世を風靡し 6 6 6)は1 6 9 7年に Carta de たマヌエル・デ・メーロ(Francisco Manuel de Melo:1 6 0 8―1 Guia de Casados(1 6 5 1)の英訳 The Government of Wife が出版されてのち英国では1世紀 もの間忘れられていたが,1 8 1 5年に彼の韻文作品集 Obras Metrticas(1 6 6 5)は Relics of 28 天理大学学報 第6 2巻第2号 Melodino と題して英訳され,1 8 2 0年に版を重ねた。1 8 2 5年には Inés de Castro の新しい英訳 と同時に,フェレイラの O Cioso(1 6 2 2)の英訳が出版されている。 (9) An Essay on Epic Poetry ; in five Epistles(1 7 8 2)には,作者不詳のカモンイスの抒情詩の 英訳があり,カモンイスが叙事詩のみならず抒情詩も残したことが記されている。Sonnets and Miscellaneous Poems(1 7 8 9)で は,カ モ ン イ ス の ソ ネ ッ ト が2編 訳 さ れ て い る (Monteiro 3 6) 。 (1 0) 1 8 0 7年にバイロンが ‘Stanzas to a Lady, With the Poems of Camoens’ を書き,ボウルズは ‘Last Song of Camoens’ でカモンイスの晩年の貧窮を歌った。1 8 0 3年にはサウジーも英訳を残 している。ワーズワスは ‘Scorn not the Sonnet’(1 8 2 7)でカモンイスに触れている。 (1 1) ヘマンズによるカモンイスの英訳自体は1 8 1 3年にはほぼ書き終えられていた(Kelly 142)よ うだが,1 8 1 0年代に書かれたヘマンズの他の作品と併せて,1冊にして出版された。 (1 2) 第1の手紙のなかで,修道女は ‘Stop, wretched Mariane, stop eating your heart out in vain, stop searching for a lover you will never see again’ と言って,恋人に同情を求めてい る。 (1 3) この書簡集の真の作者像について論じたのは,Edgar Prestage The Letters of Portuguese Nun(1 8 9 3)の解説,F. C. Green “Who Was the Author of the ‘Letteres Portugaises’?” 7, そして2 1世紀に入り,Myriam Cyr Letters of Modern Language Review 21(1 9 2 6) :1 5 9―6 a Portuguese Nun : Uncovering the Mystery Behind a Seventeenth―Century Forbidden Love (2 0 0 6)が詳細に論じている。 (1 4) ポウプは Essays on Criticism(1 7 1 1)においてヘロイック・カプレットを駆使して,ソネッ トを ‘What woeful stuff this madrigal would be/ In some starv’d hackney sonneteer, or me!’ と諷刺している。ジョンソンは A Dictionary of the English Language(1 7 5 5)において,ソ ネットを ‘not very suitable to the English language’ と批判し,ソネット詩人を ‘small poet’ と定義している(Feldman and Robinson 8) 。 (1 5) ロセッティを含む1 9世紀後半の女性詩人たちが,その私生活や文学的テーマの選び方につい て前世代の女性詩人たちと異なるのは,詩人が女性の職業として認められ,彼女たちが結婚し ! ! ! ! ! なくても経済的自立を果たすことが可能になったからであろう。売れるためには,女性詩人ら ! ! しい宗教的なテーマ,あるいは童謡など,いわゆる「読者受け」するテーマを選ばなくてはな らなかった。ヴィクトリア朝の家庭の本棚に置いてもらうためには,いくら作品が婦女子に読 ませられるテーマを扱っていても,作者にまつわるスキャンダルは禁物である。ランドンのよ うにスキャンダルにまみれた女性が詩人として活躍できたのは,ヴィクトリア女王がアルバー ト公と「理想の家庭」を築き,国民に中産階級的道徳観を広める前のことであった。 (1 6) ブラウニング(当時はバレット)はヘマンズとランドン(通称 L.E.L.)に捧げるオマージュ として ‘Felicia Hemans’(1 8 4 4)と ‘L.E.L.’s Last Question’(1 8 4 4)という詩を書いている。 この二人の実人生は,それぞれの結婚生活にまつわる悲劇的要素により,劇化されたように思 われる。ヘマンズの場合,本文で述べたように,夫が彼女と子供たちを置いてイタリアへ去っ たため結婚生活は破綻した。残された彼女は息子を頼りに生涯を過ごすが,この経験はヘマン ズのその後の作品に影を落とし続けた。ランドンは1 8 3 8年6月に西アフリカのケイプ・コース トの総督であった George Maclean と結婚し,結婚直後夫とともに現地へ渡ったが,その2ヶ 月後青酸カリによる謎の死を遂げた。現地にいる夫の愛人に毒殺されたとの噂もある。ブラウ ニングは Blanchard が1 8 4 1年に出版したランドンの伝記を読み,この詩を書いた。ロセッティ においてヘマンズの影響は間接的である。ロセッティの兄ウィリアム・マイケルはヘマンズの 詩集を1 8 7 3年に編集している。また,ロセッティの ‘Paradise’(1 8 5 4)は,ウィリアム・マイ ヴィクトリア朝文学における〈修道女〉のテーマ 29 ケルがロセッティに贈ったへマンズの詩集にある ‘The Better Land’ を基に書かれたものと考 えられている(D’Amiko 29) 。一方,ロセッティの ‘L.E.L.’(1 8 5 9)はランドン本人の作品の翻 案というよりも,ウィリアム・マイケルの註(4 8 2)によると,ブラウニングの ‘L.E.L.’s Last Question’ を原詩として書かれたものだと考えられている。 (1 7) ブラウニング研究者,たとえば Angela Leighton, Helen Cooper, Dorothy Mermin, Glennis Stephenson などはブラウニングがソネットの convention を逸脱していることを強調しており, 特に Shaakeh Agajanian は著書 “Sonnets from the Portuguese” and the Love Sonnet Tradition(1 9 8 5)でこの点を最も詳細に分析している。 (1 8) 紙面の制限上,本稿では引用した作品の拙訳は割愛する。 (1 9) 序文は次の通り。 Had such a lady spoken for herself, the portrait left us might have appeared more tender, if less dignified, than any drawn even by a devoted friend. Or had the Great Poetess of our own day and nation only been unhappy instead of happy, her circumstances would have invited her to bequeath to us, in lieu of the ‘Portuguese Sonnets’, an inimitable ‘donna innominata’ drawn not from fancy but from feeling, and worthy to occupy a niche beside Beatrice and Laura. (‘Monna Innominata : A Sonnet of Sonnets’ Preface) 下線部 ‘the Great Poetess of our own day and nation’ はブラウニングを指しており,その ‘Portuguese Sonnets’ を継承するのではなく,それに挑戦するような姿勢で「名もなき貴婦 人」に取り組んだことがここで明らかにされている。ロセッティのソネット集では,ソネット ひとつひとつにダンテとペトラルカの詩の一節がイタリア語で題辞として付されているものの, それは詩神祈願辞(invocation)の役割を果たしているに過ぎない。この序文の目的は,ダン テやペトラルカの作品とこの小さなソネット集との比較に読者を誘うのではなく,同時代の女 性詩人ブラウニングのソネット集との比較を読者に促すことであると考えられる。 (2 0) ブラウニングのソネットが,ワーズワスの言うところの「激しい感情がひとりでにあふれ出 たもの」 (‘spontaneous overflow of powerful feelings’)であるとすれば,ロセッティのそれは, 同 じ く ワ ー ズ ワ ス が ソ ネ ッ ト 形 式 を 呼 ぶ と こ ろ の「修 道 院 の 小 部 屋」 (‘convent’s narrow room’)だといえる。ワーズワスはソネットという小さな空間に身を置きながらも,詩人がその 範囲内で自由に振舞えることを理解していた。ブラウニングも,そうであった。ロセッティは 逆に,厳密なソネット形式の規則を遵守しながらもなお語彙に制限を与えることで, 「修道院の 部屋のように」狭いソネット空間にさらなる閉鎖性を与え,語り手を,そして詩人である自ら を, 「小部屋の中にいる修道女」のように囲い込んでいる。 8 4 8)と Ecce Ancilla Domini(1 8 5 0) 。 (2 1) The Girlhood of Mary Virgin(1 (2 2) Marjorie Stone ‘Sisters in Art : Christina Rossetti and Elizabeth Barrett Browning’ 6 4)参照。 (Victorian Poetry 32:3 3 9―3 (2 3) 1 8 3 1年1 1月1 6日に書かれたブラウニングの日記(1 8 1)には,その創作のきっかけのくだりが こう記されている――‘a reading evening down stairs!―…over Camoens, & Moliére!―’。そ して次の日にブラウニングは ‘Reading Camoens last night, suggested what I have been writing this morning―‘Catalina to Camoens’. I do not dislike it.’ と日記に書きつけている。 そして1 1月3 0日までには ‘Catalina to Camoens’ を書き上げていたようである(1 8 8) 。 (2 4) 「三人の修道女」の各部は分けて書かれており,最も早い時期に書かれた第2部は1 8 4 9年2 月1 2日に,第1部と第3部は1 8 5 0年5月1 0日に書かれた。ロセッティの全詩集を編纂したウィ リアム・マイケル・ロセッティの註(4 6 0)には,この作品の出版にまつわる背景とともに,各 30 天理大学学報 第6 2巻第2号 題辞の英訳が記されている。 (2 5) 世間からの隔絶を望む語り手のこうした姿は,初期作品である「誰が私を解き放つ?」 (‘Who Shall Deliver Me?’) (1 8 6 4)をはじめとする多くのロセッティ作品を想起させる。 (2 6) ロセッティの ‘The Watchers’(1 8 5 0)を基にして描かれたリッチモンド(William Blake 9 2 1)の絵画 The Watchers(1 8 7 3―7 6)には,まさしく白い布(死)に包ま Richmond:1 8 4 2―1 れた女性の横たわった姿が描かれている。 (2 7) ‘come’ と ‘dumb’ の脚韻はロセッティの押韻の癖のひとつで,1 8 5 0年頃のロセッティの作品 にしばしば見られる。ホプキンズはのちにロセッティの詩を基に「休息」 (‘Rest’)という短詩 を書き,ロセッティの癖である ‘come’ と ‘dumb’ の押韻を踏襲している。 (2 8) Licences in rhyme― (i) to treat different words of the same sound as true rhymes, as I and eye, eve and eave etc : this may perhaps be called a rhyme to the mind ; (!) assonances―as glory and for thee : Mrs. Browning and Miss Rossetti have used them among others ; they are also found in ballads and Scotch native poetry : this and the former case are rather substitutes for rhyme than rhymes ; (") in general, the use of any imperfect rhyme.(House and Storey 287) (下線は筆者による) 。 (2 9) 詳細は Alison Chapman の論文 “ Defining the Feminine Subject : D. G. Rossetti’s 5 6)に譲る Manuscript Revisions to Christina Rossetti’s Poetry”(Victorian Poetry 35, 1 3 9―1 が,本論が示した押韻を含む聴覚的効果の特徴については言及されていない。 引証文献 Abbott, Claude Colleer, ed. Further Letters of Gerard Manley Hopkins. 2 nd ed. London : Oxford University Press, 1956. Agajanian, Shaakeh. “Sonnets from the Portuguese”and the Love Sonnet Tradition. New York : Philosophical Library, 1985. Arseneau, Mary, Antony H. Harrison, and Lorraine Janzen Kooistra, eds. The Culture of Christina Rossetti : Female Poetics and Victorian Contexts. Athens : Ohio University Press, 1999. Chapman, Alison. “Defining the Feminine Subject : D.G. Rossetti’s Manuscript Revisions to Christina Rossetti’s Poetry.” Victorian Poetry 35 (1997) : 139―156. Curran, Stuart. Poetic Form and British Romanticism. New York : Oxford University Press, 1986. D’Amico, Diane. Christina Rossetti : Faith Gender and Time. Baton Rouge : Louisiana State University Press, 1999. Feldman, Paula R., and Daniel Robinson, eds. 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