平成27年度第9回医報編集委員会 次 第 日時 平成27年

平成27年度第9回医報編集委員会
次
第
日時
平成27年12月22日(火)
場所
午後7時30分
秋田県医師会館 会議室
1.開 会
2.挨 拶
3.報 告
4.協 議
(1)1月15日号、2月1日号の編集について
資料1~3
(2)秋田医報1500号について
資料4
(3)その他
資料5
5.閉 会
平成27年度
No.
号
1467 4月1日
1468 4月15日
1469 5月1日
締切
巻頭言
(2400字)
〆3/15 坂本副会長
〆4/1 稲村常任理事
〆4/15 吉原理事
資料1
執筆担当者(案)
郡市医師会報点描
消えゆくものたち
千葉二美夫
休診日
(2000字)
麺好き;山田翼
核思考のアンプリファイ
高橋修三
大正時代の大館;石田眞
若手医師
(2000字)
深呼吸
(1000字)
柳谷委員
三田基樹(秋田大学)
キリマンジャロの雪は
白かった;三浦由太
蓮沼委員
安岡委員
人生の最期の迎え方;仔狸
1470 5月15日
〆5/1 五十嵐常任理事 1カ月でフルマラソン完走;
宮部 賢(秋田厚生) 井田理事
中島発史
1471 6月1日
1472 6月15日
〆5/15 島田理事
〆6/1 伊藤常任理事
1473 7月1日
〆6/15 作左部理事
1474 7月15日
〆7/1 小山田会長
1475 8月1日
〆7/15 小笠原理事
1476 8月15日
〆8/1 西成副会長
1477 9月1日
〆8/12 佐藤常任理事
病の起源 うつ病;圓谷智夫
肩こりの体操;三浦利哉
ガーデニング;中村純一
いよいよ地域創生始動
谷合久憲
免許証;笹尾知
斎藤晋太郎(日赤) 伊藤委員長
Go!Go!HAPPINETS、みんな
で秋田県民歌を!;和田勲
感謝のこころ;伴實
マタニティハラスメント;並
木龍一
スーベレーン;藤田繁俊
天草への旅;鬼平聡
柳谷委員
蓮沼委員
よく生きよ;荒井嗣
サウナ風呂;高崎育男
インドカレーと歳を取るこ
と;荻野奈央
〆9/1 大澤理事
1479 10月1日
〆9/15 島常任理事
笑いの治療を北日本から発 食べ歩き;高橋賢郎
祥;伊藤実喜
(リポーター:田村豊一)
1480 10月15日
〆10/1 井田理事
日光から、こんにちは?
秋元正年
1481 11月1日 〆10/15 鈴木常任理事
51万8000人のネット依存
山狸
1482 11月15日
分水嶺;月影の狸
1483 12月1日 〆11/15 小玉常任理事
浴衣で歩く石脇夕涼み;
谷合久憲、作左部昇
1484 12月15日
介護と医療;笹尾知
〆12/1 坪井理事
岩崎副委員長
谷合久憲(由利組合) 後藤委員
1478 9月15日
〆11/1 佐藤理事
佐藤常任理事
安岡委員
松浦多恵子(中通) 井田理事
佐藤常任理事
佐々木諒(市立横手) 伊藤委員長
クルーズトレイン「な
なつ星」in九州;若松
秀樹
岩崎副委員長
堀江美里(大曲厚生) 後藤委員
鉱石ラジオはいかがで
しょうか?;鈴木和夫
柳谷委員
田中円葵(大館市立) 蓮沼委員
1485 1月1日 〆12/15 小山田会長
1486 1月15日
〆1/1 大山常任理事
1487 2月1日
〆1/15 坂本副会長
1488 2月15日
〆2/1 長谷川理事
1489 3月1日
〆2/15 小泉常任理事
1490 3月15日
〆3/1 三浦理事
安岡委員
芝 翔(平鹿総合) 井田理事
佐藤常任理事
藤原舜也(能代厚生) 伊藤委員長
岩崎副委員長
高清水清治(市立秋田)
後藤委員
1月15日号(案)
表
紙
巻
頭
言
追
悼
論 壇 ・ 解 説
代
議
員
会
名
簿
理 事 会 報 告
座
談
会
講
演
県 医 師 会 か ら
特
集
逝
去
会
員
委 員 会 報 告
県
医
報
告
日
医
報
告
東 北 医 連 報 告
報
告
会 長 室 か ら
郡市医師会トピックス
郡市医師会だより
郡市医師会報点描
開 業 し ま し た
若手医師のページ
投
稿
本
会
員
の
声
連
載
各 委 員 会 か ら
通 達 ・ 文 書
通 達 ・ 文 書 か ら
医療センターだより
医 師 国 保 だ よ り
放 送 ・ 講 演 会 等
県 医 師 会 掲 示 板
お
知
ら
せ
帰 ・ 去 ・ 来
総
目
録
深
呼
吸
(未)
(未)
能登彰夫先生
大山則昭常任理事
小山田,松岡,寺田,石川
第9回理事会報告
平成27年12月の動き
(未)
(未)
芝 翔(平鹿総合病院)
平成27年12月1日~31日受付分
(未)
井田理事
2月1日号(案)
表
巻
論
代
名
理
座
講
県
特
逝
委
県
日
東
報
会
郡
郡
開
休
投
壇
議
事
頭
・
会
談
解
員
報
医 師 会 か
去
会
員 会 報
医
報
医
報
北 医 連 報
長 室 か
市医師会だよ
市医師会報点
業 し ま し
診
紙
言
説
会
簿
告
会
演
ら
集
員
告
告
告
告
告
ら
り
描
た
日
稿
(未)
(未)
坂本哲也副会長
第4回郡市医師会長協議会並びに第10回理事会合同会議
(未)
(未)
本
会
員
の
声
連
載
各 委 員 会 か ら
感 染 症 発 生 情 報
通 達 ・ 文 書
通 達 ・ 文 書 か ら
医療センターだより
医 師 国 保 だ よ り
放 送 ・ 講 演 会 等
県 医 師 会 掲 示 板
お
知
ら
せ
深
呼
吸
新任教授紹介
高橋直人
平成27年11月分
(未)
佐藤常任理事
資料2
1/15追悼
能登彰夫先生を偲んで
寺田俊夫
去 る 11 月 2 5 日 に 、 能 登 先 生 の ご 近 所 の 方 か ら 「 能
登 先 生 が 22 日 に 亡 く な ら れ た 。 ご 葬 儀 は ご 家 族 と 近 親
者 で 行 わ れ た 」と の 話 を 聞 き 、県 医 師 会 事 務 局 に 確 認 し
た こ と で し た 。 そ し て 、「 長 い 間 の ご 指 導 あ り が と う ご
ざいました」と心の中で合掌いたしました。
昭 和 55 年 12 月 、 私 が 弘 前 大 学 を 辞 し 現 在 地 に 開 業
し た 時 に 、秋 田 市 医 師 会 の 班 組 織「 大 町 旭 南 班 」の 末 席
に 加 え て 頂 き 、そ れ 以 来 同 じ 班 と し て ご 指 導 を 頂 い て き
ま し た 。 も う 35 年 に も な り ま す 。
能 登 先 生 の ご 推 薦 で 市 医 理 事 を 務 め て い た あ る 日 、先
生 か ら「 市 医 理 事 会 に ○ ○ の 議 案 が 出 な か っ た か 」と 聞
か れ 、「 そ う 言 え ば 出 ま し た 。し か し 、担 当 で な い の で 、
よ く 覚 え て い ま せ ん 」と 答 え ま し た 。そ の 時 に「 担 当 は
誰 よ り も よ く 知 っ て い る の は 当 然 で あ る 。理 事 は 会 員 の
代 理 で 出 て い る の で 、担 当 以 外 の 問 題 に も 口 を 出 さ ね ば
な ら な い 」と ご 指 導 を 受 け ま し た 。早 速 、理 事 会 で そ の
こ と を 話 し 、お 互 い に 担 当 以 外 に 口 出 し を す る こ と に し
て、理事会は活発な議論の場となったことでした。
保険診療についても、いろいろご指導を頂きました。
特 に 、審 査 に つ い て 能 登 先 生 の 持 論 は「 一 次 審 査 を キ チ
ン と 行 い 、そ の 後 に 保 険 者 か ら 再 審 査 申 し 立 て が あ っ て
も『 1 0 0 % 原 審 通 り 』と な る べ き で あ る 」で し た 。当 時 、
秋田県支払 基 金 の 社 保 審 査 委 員 会 で は 査 定 率 が 低 く 原
審 率 が 80% 程 で 全 国 一 で あ り 、他 の 都 道 府 県 で は 50%
以下がほと ん ど で し た 。 その よ う な 時 で も 能 登 先 生 は
「 80% は ま だ 低 い 。 一 審 で 『 カ ラ ス は 白 い 』 と 判 断 し
た ら 、保 険 者 か ら『 カ ラ ス は 黒 い の で は な い か 』と 再 審
請 求 が 出 さ れ て も 、再 審 は『 白 い カ ラ ス も い る 』と 原 審
通 り に す べ き で あ る 。そ の 上 で 一 審 担 当 者 や 医 療 機 関 に
『 一 般 的 に は カ ラ ス は 黒 い 』と 注 意 を 促 す こ と が 大 切 で
あ る 」と ご 指 導 を 受 け ま し た 。そ の 後「 実 際 に 白 い カ ラ
ス が い る か 」の 話 に な っ た こ と が あ り ま す が 、本 質 は「 審
査 委 員 会 は 保 険 者 か ら『 委 託 』を 受 け て い る 。人 間 が や
る
い
と
に
協
県
み
盟
ま
切
突
ご
こ
る
に
な
成
議
に
し
あ
友
し
れ
っ
お
冥
と で 少 し の 間 違 い も あ る 。そ れ を 含 め『 委 託 』し て
。原 審 率 が 下 が る こ と は 審 査 委 員 会 の 信 用 を 崩 す こ
な る 」と の ご 意 見 で あ り 、日 医 推 薦 の 基 金 本 部 監 事
られた時にも全国でそのことを訴えられました。
人 病 医 療 セ ン タ ー に つ き ま し て は 、数 年 前 に 県 と の
内 容 を ご 報 告 し た と こ ろ 、「 年 が 経 つ に つ れ 、 結 局
裏 切 ら れ た ね 」と の 一 言 で し た 。今 、そ の 一 言 を 噛
めながら、清算業務を進めております。
る 人 は 、能 登 先 生 を『 日 本 刀( ま た は ガ ラ ス の 刃 )』、
の 熊 谷 正 之 先 生 を 『 青 龍 刀 ( ま た は ナ タ )』 と 評 し
た 。熊 谷 先 生 は 力 ず く で 切 る 、能 登 先 生 は ス パ ッ と
味鋭く切るが、ポキッと折れることがある、と。
込む・受ける、阿・吽の名コンビでした。
二人で、ユックリお話されていることでしょうか。
福 を お 祈 り 申 し 上 げ ま す 。あ り が と う ご ざ い ま し た 。
1/15追悼
秋田医報・追悼文
原稿
< 能登彰夫先生を偲んで>
会長
小山田
雍
厳冬を目前に迎え、慌ただしい師走の時候だが、元秋
田県医師会長・故・能登彰夫先生を偲び、追悼文を記す。
改めて述べるまでもないが、能登先生は医療界の巨人
ともいうべき方であった。
先生は、昭和 51 年3月、第 61 回定例代議員会において
秋田県医師会長に選ばれ、昭和生まれの新時代の会長が
誕生した。
先生は、誠実で強い責任感にあふれ、今日まで 60 有余
の年月に亘って地域医療・保健・福祉の発展に貢献され、
医師会活動においても、卓越した指導力と先見性を発揮
され、各方面から高い評価が寄せられてきた。
先生は、昭和 27 年3月に新潟大学医学部をご卒業後、
同医学部助手を経て、昭和 35 年7月から、秋田赤十字病
院に勤務され、昭和 39 年には耳鼻咽喉科能登医院を開設
され、平成 26 年7月まで地域医療に貢献されてこられた。
この間、昭和 37 年より、秋田市医師会理事を経て、同
会長、また 41 年から 47 年まで秋田県医師会常任理事、49
年、同副会長、そして 51 年から平成2年まで 14 年間、会
長を務め、秋田県の中心としてご活躍された。
このほか、厚生省医療審議会委員、社会保険診療報酬
支払基金監事、県地方社会保険医療協議会委員、県医療
審議会会長ほか、多くの公職を歴任された。
秋田県においては昭和 46 年当時から、県民の健康管理
の主要事業として、県民皆検診を推進し、当時の成人病
検診など各種検診の受診率の向上をめざしていた。
先生は、かねてから保健、検診、医療の3領域が一体
となって機能する「総合保健医療センター」の構想を、
主張してこられたが、昭和 51 年4月に県医師会長に就任
後も、構想の実現に向けて県に中核的機関の設置を提言
された。
昭和 51 年7月、県は「総合保健医療施設等設置協議会」
を発足させ、県医師会ほか関係機関と協議を重ね、昭和
61 年に「財団法人秋田県総合保健事業団」が設立された。
設立された事業団の組織機能、その他、事業の推進体
制には県医師会の意見、助言が広く反映され、先生の情
勢分析に基づく県医師会長としてのご尽力は誠に大きな
ものがあった。
また先生は、住民の健康を守るためには、住民自らが
健康意識を高めることが重要、との認識にあって、啓発
活動や、報道媒体を含めた広報活動を推進された。
昭和 53 年には、地域住民を対象とする「医療を考える
集い」を各郡市医師会単位で開催することを決定し、以
来 37 年に亘って現在も継続されており、地域住民から大
きな評価を得てきた。
受賞歴では、昭和 61 年日本医師会最高優功賞、同 62 年
医療保険功労の厚生大臣表彰、同 63 年全国学校保健・学
校安全功労の文部大臣賞、平成2年藍綬褒章、同 12 年勲
4等旭日小綬章、同 23 年秋田県文化功労者表彰、ほか、
数々の受賞を受けてこられたが、これらは先生のご尽力
の僅かな一部にすぎず、その功績を挙げれば、枚挙に暇
がない。
先生の、先見性と使命感、厳正な姿勢と指導力は、今
もなお私たちの胸中にあり、「やあ、どうした」とか、
「君、それはだめだよ」と、車座になって、気さくな中
にも厳しさをもってご指導いただいたことが、今、眼前
に蘇ってくる。
永年に亘る先生の足跡を偲び、その偉大なご貢献に対
し衷心より感謝と尊崇の意を捧げ、追悼の記とする。
(2015.12.21 記)
2/1[解説]掲載希望
秋田県成人病医療センター解散にあたって
前一般財団法人秋田県成人病医療センター理事長
寺田俊夫
【はじめに】
秋 田 県 成 人 病 医 療 セ ン タ ー ( 以 後 、 当 セ ン タ ー ) は 、 昭 和 59 年 開 設 以 来 31 年 の 医 療 活
動 に 幕 を 降 ろ し て 平 成 27 年 3 月 31 日 解 散 し 、 4 月 1 日 よ り 「 県 立 病 院 機 構 脳 研 セ ン タ ー
循環器科拡充のため、当センターの循環器医療機能を活用する」という形で 循環器医療機
能の移転が行われた。その際、何人かの方々から「この間の経緯について、文章に残して
ほしい」とのお話をいただき、私も会員の皆様にお伝えする必要があると考えていた。
そして、解散、清算作業を進めてきたが、結果的には大口債権者に債務の一部放棄のご理
解とご協力を頂きながら任意清算する状況となり、関係された多くの方々にお詫び申し上
げながら、ここに私の視点から振り返ってみることにした。
【設立の頃】
当 セ ン タ ー 開 設 の 発 端 は 、昭 和 51 年 に 「秋 田 県 総 合 保 健 医 療 セ ン タ ー 協 議 会 」が 発 足 し 、
昭 和 56 年 12 月 に 「 総 合 保 健 医 療 セ ン タ ー 設 置 基 本 構 想 」 が ま と め ら れ た こ と で あ る 。
それに基づき、
「 県 が 土 地 ・建 物 を 準 備 し 、運 営 を 県 医 師 会 が 担 う『 公 設 民 営 』の 医 療 機 関
を 設 立 す る 」 こ と で 計 画 が す す め ら れ た 。 そ し て 、 県 医 師 会 で は 昭 和 58 年 2 月 お よ び 8
月の臨時代議員会において協議され、①財団法人として、事業を行う、②県は出資せず、
土 地 ・ 建 物 を 無 償 貸 与 す る 、 ③ 県 医 師 会 は 、 財 団 に 1000 万 円 を 出 捐 し 、 今 後 、 財 団 に 関
する金銭面の負債は一切負わないこととする、ことで承認され、財団が発足した。 このこ
と は 、 完 全 な 『 公 設 民 営 』 と は 言 い 難 く 、『 公 設 民 営 の 理 念 に 基 づ く 民 設 民 営 の 医 療 機 関 』
という曖昧な立場を残すスタートとなった。
後年、池田竹二郎副知事(当時)と二人で懇談した際に、池田副知事から「県庁内部で
は『成人病医療センターは県とは関係ない。医師会立である』という声があるがどうか」
との質問があり、私から「確かに県立ではない。しかし、公設民営の理念(佐々木喜久治
知事(当時)が挨拶文に記載している)があり、県が土地建物を無償で貸与し、理事に歴
代の部長と課長を送り、事務局長には現職の県職員が出向している。それで『県は関係な
い』とはおかしいでしょう。また、県医師会立でもない。が、地域医療支援のため設立に
深 く 関 わ り 、歴 代 の 医 師 会 長 が 理 事 長 を 務 め て 、
『 県 医 師 会 は 関 係 な い 』と は お か し い で し
ょう。私は『公設民営の理念に基づき、県も県医師会も深く関わった財団立(民設民営)
の医療機関である』が最も妥当な理解であると考える」と答えたことを思い出す。
私 事 に な る が 、 昭 和 57 年 秋 、 自 院 を 開 業 し て 2 年 目 で 入 院 医 療 も 行 っ て い た た め 全 く
秋田を離れることはなかった。そのような時に、当時の熊谷正之秋田市医師会長(初代成
人病医療センター長)から「成人病医療センターができることになった。この病院は地域
医療支援が大きな柱で、
『 登 録 医 』と 言 う も の が 作 ら れ る 。ど ん な 制 度 に し た ら 良 い か 、準
備小委員になって考えてくれ」と話され、否応もなく強引に仙台市医師会立医療センター
へ の 1 泊 2 日 の 視 察 に 同 行 さ せ ら れ た 。 そ れ 以 来 、開 設 の 頃 は 登 録 医 と し て 共 同 診 療 を 行
い、毎週のように夜の症例検討会に出席して一緒に勉強させていただいた。それから今日
まで間接的・直接的に当センターの成長を見守ってきた。
当初は、熊谷センター長が先頭に立ち、若い向島副センター長や門脇副センター長が意
1
気盛んなスタッフをリードして、登録医および県民からの熱い期待に応えるべく昼夜を分
かたず全職員が一致してがんばっておられる姿を驚嘆の目で見てきた。 その努力の結果、
多 く の 信 頼 を 得 る こ と が で き 、① 地 域 医 療 支 援 病 院( 県 知 事 認 定 )、② 第 三 次 心 疾 患 救 命 救
急医療機関(県医療計画)の指定も受けて、県民医療に大きく貢献してきた。
【改築問題】
一方、建物の狭隘化と老朽化はスタート直後から大きな問題であった。 5 年目頃からは
常に改築問題が話題となった。当初は、能登理事長、熊谷センター長ともに「土地建物は
県が準備するのが筋である。改築も県が行うべきものである」との主張であり、設立の当
事者としては当然であった。しかし、県は「県が建替えることはできない」との意見であ
った。それは、平成 9 年、私が県医師会長として当財団理事長に 就任した以後も同様であ
っ た 。そ こ で 、基 本 方 針 を 大 き く 転 換 し 、
「 当 セ ン タ ー が 独 自 で 改 築 を 行 い 、県 は 相 当 の 支
援を行う」ことを柱に協議を重ね、大筋の合意を得るまでになった。
さらに私は、秋田県立脳研センター(以後、脳研セ)と当センターとの医療連携は県民
にとって大きなメリットがあると考えてきた。私の持論は「循環器とは、脳・心・腎とそ
れを結ぶ血管である」との考えである。また、脳卒中も心筋梗塞も基本は動脈硬化で両者
の病態は同一であると考えてよく、さらに両者は消化器疾患を合併することがしばしばあ
る。そのような患者の場合には、医師がお互いのセンターに出入りし、職員も融通し合う
ことがよい、例えば夜間など守衛室を両施設の真ん中に置き、脳卒中なら右へ、心筋梗塞
なら左へとすれば守衛は一人で済む、X 線技師や検査技師も交互に当直すれば効率的であ
る、などを考え、当初は、お互いに連携して協力し合うことを発言してきた。しかし、実
際には経営母体が異なるために、そのような連携は不可能に近かった。
それならば必然的に統合して経営を一本化すればよいということになる。
私は「病院は公立(国立・県立・市立等)ではなく、公的機関が良い」と考えてきた。そ
の理由は、公立では①支出は予算に縛られ、収入と別会計である(例えば、予算が抗がん
剤 10 名 分 の 時 に 、15 名 の 患 者 が あ れ ば 予 算 オ ー バ ー で 制 限 さ れ る )、② 単 年 度 会 計 で あ り 、
がんばって収益を出しても自治体の収入に算入され、翌年に繰り越せない、③『公務員は
公僕である』との考えの人も少なくないが、一般的に『親方日の丸』的な意識の人や事務
系職員の中には目が本庁に向いている人も多い、等である。従って、不採算であっても住
民に必要な医療には政策的に補助金を支援することは不可欠であり、できるだけ公平な評
価で求めた補助金額の支援を受けた公的病院が中核となるべきと考えている。その意味で
は、独立行政法人化は必然的でより良い方向と考えているが、さらに一歩進めて「自由度
が高い第三セクター方式の方が更に良い」と考えている。
前述の池田副知事との懇談で、
「 成 人 病 医 療 セ ン タ ー で は 、実 際 に は ど の 程 度 の 運 営 費 補 助
が あ れ ば よ い か ? 」と 尋 ね ら れ 、当 時 は 年 間 総 医 業 収 入 が 約 20 億 円 の 病 院 で あ っ た が「 年
間 2 億 円 あ れ ば よ い 、 少 な く と も 1 億 円 で が ん ば れ る ( 実 際 の 補 助 金 は 約 1.6 千 万 円 で あ
っ た )」と 答 え た こ と を 思 い 出 し て い る 。後 年 、全 国 の 自 治 体 病 院 の 決 算 を 調 査 す る と 、平
均 で「 年 間 総 医 業 収 入 の 10% ~ 15% の 補 助 金 が 入 っ て 、単 年 度 黒 字 か 赤 字 か の 評 価 」で あ
った。それを見た時に、池田副知事に答えたことは妥当であったと思ったことである。 因
み に 、 最 近 の 当 セ ン タ ー の 年 間 総 医 業 収 入 は 約 30 億 円 以 上 で 、 補 助 金 は 県 が こ こ 数 年 増
額 し て 頂 き 年 間 約 6.6 千 万 円 で あ っ た 。 す な わ ち 、 当 セ ン タ ー の 医 療 を 仮 に 県 立 病 院 と し
2
て 行 う と す れ ば 、3 億 か ら 4,5 億 円 の 補 助 金 を 入 れ て 黒 字 か 赤 字 か の 話 に な る も の で あ り 、
評価にはそのような視点も必要であると考えている。
【統合問題】
平 成 17 年 、 県 が 「 脳 研 セ を 独 立 行 政 法 人 化 す る 」 と い う 方 針 を 打 ち 出 し た 。 そ の 話 を
受けて、
「 当 セ ン タ ー が 独 自 で 改 築 し た 後 に 統 合 す る よ り も 、統 合 し た 後 に 将 来 計 画 に 基 づ
き改築する方がよいだろう」と寺田典城知事(当時)と合意した。
当 時 、平 成 15 年 度 の 脳 研 セ ン タ ー の 年 間 総 医 業 収 入 は 約 20 億 円 で 、補 助 金 等 の 他 会 計 収
入 は 約 18 億 円 で あ っ た 。成 人 病 セ ン タ ー の 総 医 業 収 入 は 約 32 億 円 で 、仮 に 両 者 が 統 合 し
た 場 合 に は 総 医 業 収 入 50 億 円 の 統 合 セ ン タ ー が で き る こ と に な る 。 そ こ で 、 前 述 の 全 国
自 治 体 病 院 の 平 均 的 補 助 金 額 の 多 い 率 15% を 考 え る と 「 7,5 億 円 の 補 助 金 で が ん ば り な さ
い 。 そ れ に 研 究 費 を 仮 に 5 億 円 出 す 」 と す れ ば 、 統 合 セ ン タ ー に は 12.5 億 円 の 補 助 金 と
な り 、 脳 研 セ ン タ ー へ の 補 助 金 か ら 5.5 億 円 の 減 額 に な る 。 そ の 減 額 分 を 一 般 財 源 に は 入
れずに、県内各医療機関が果たしている政策医療の役割に応じて分配すべきである、と 話
し合いした。岩手県は県立病院が県内医療を支えている(青森県は市、町立病院が主体で
あ る ) こ と か ら 、 当 時 で 年 間 約 150 億 円 を 支 出 し て い た が 、 秋 田 県 は そ の 半 分 以 下 で あ り
多くが県立脳研センターとリハ精神センターに使われていた
以 前 、 県 が 一 時 的 に 厚 生 連 に 約 13 億 円 の 補 助 金 を 出 す こ と が 議 論 に な っ た こ と が あ っ た
が 、私 は「 各 厚 生 連 病 院 が 地 域 医 療 の 中 核 を 担 っ て い る の だ か ら 、毎 年 、総 医 業 収 入 の 10%
程度は補助金を出すことは当然である」と考えている。
そ の 協 議 の 間 で 平 成 18 年 3 月 に 私 は 県 医 師 会 長 を 退 任 し 、小 山 田 現 会 長 が 就 任 さ れ た 。
その際に、恒例に従い成人病センター理事長の交代を二人で話し合ったが、統合問題が詰
めの段階と考えられたため、私が継続することにした。歴代県医師会長が理事長に就任し
た 時 に 「 個 人 保 証 を 引 き 受 け て い る 」 問 題 も 考 慮 し た 。 平 成 19 年 、 脳 研 セ が 独 立 行 政 法
人 化 さ れ た 。県 は 議 会 審 議 に お い て 、
「脳研セの独立行政法人化と成人病セとの統合問題は
絡めない」ことになり、標榜診療科、地域医療支援機能、医師の全国公募と秋田大学との
関係、などの問題から協議が保留状態となり、頓挫した。
統合問題が保留となったため小山田県医師会長との理事長交代を考えたが、 理事長が医
師 会 長 と し て で は な く 個 人 と し て 債 務 保 証 し て い る 状 況 で 、平 成 19 年 度 と 20 年 度 の 決 算
が赤字となり、累積債務超過の状態になった。その状態で交代することは申し訳ないと考
え 、理 事 長 を 継 続 す る こ と に し た 。
( 結 果 的 に 今 回 の 清 算 過 程 で 、私 は そ の 債 務 保 証 問 題 に
直 面 し て い る 。)特 に 、新 し い 法 人 法 に よ る 移 行 期 限 が 迫 っ て い る こ と も あ り 、是 が 非 で も
債務超過を解消する必要があった。それまでも経費削減に努力してきたが、それにも増し
て 経 費 削 減 を 求 め た 。 平 成 23 年 度 か ら は 、 幹 部 医 師 の 年 俸 削 減 と 職 員 に は 賞 与 縮 減 に 協
力 を 頂 き 、 平 成 24 年 度 で 債 務 超 過 を 解 消 す る こ と が で き た 。 理 事 会 で 「 人 件 費 比 率 40%
の 病 院 は 驚 異 的 で あ る 。職 員 に 負 担 を 掛 け 過 ぎ て い る の で は な い か 」と の 意 見 が あ っ た が 、
全くその通りで、全職員が協力してくれたことに心から感謝したことである。
【東日本大震災の影響】
そ こ に 、平 成 23 年 3 月 11 日 、東 日 本 大 震 災 が 発 災 し た 。老 朽 化 の 限 度 を 超 え て い る 成
人 病 セ の 建 物 は 、全 く の 幸 運 に し て 崩 壊 は お ろ か 大 き な 損 壊 や 人 的 被 害 も 免 れ た 。し か し 、
その建て替えは一刻の猶予も許されない状況であることを突き付けられた。 その建て替え
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を 県 と 話 し 合 っ た が 、県 は「 財 団 立 で あ る 民 設 民 営 の 病 院 を 県 が 建 替 え る こ と は で き な い 」
との立場に変わりがなかった。
( 私 共 は「 公 設 民 営 」と 考 え て い る が 、法 律 上 は 民 設 民 営 で
あ る 。)そ し て 、何 か 事 故 が 起 こ っ た 場 合 に は 建 物 を 無 償 貸 与 し て い る 県 の 責 任 も 免 れ 得 な
いという面もあり、早期決着を図ることで一致した。県の考えでは「できるだけ早く貸与
を解消して解体したい。成人病セが独自で改築をするのであれば、別の場所を確保しても
らいたい。解散して、循環器機能を県立病院機構拡充に活用するのであれば 県立病院機構
の問題となるので、県が新病棟を増築する」とのことである。
そ こ で 、保 留 状 態 に あ る「 県 立 病 院 機 構 と の 統 合 」問 題 の 再 検 討 を 打 診 し た 。県 は 、
「地
方独立行政法人と財団との統合は、法的にできない」との理解であった。
し か し 、私 は 全 国 に 同 様 の 事 例 が な い か 調 査 し 、
「 桑 名 市 民 病 院( 234 床 )が 地 方 独 立 行 政
法 人 化 し た 後 、 特 別 医 療 法 人 平 田 循 環 器 病 院 ( 79 床 ) と 医 療 法 人 山 本 総 合 病 院 ( 349 床 )
と 統 合 し た 」事 例 を 県 に 示 し た 。こ の 事 例 で は 、成 人 病 セ ン タ ー の 諸 課 題 と 同 様 に 、
「 山本
総 合 病 院 の 職 員 退 職 金 問 題 と 資 産 評 価 」 が 大 き な 問 題 で あ っ た が 、「 統 合 後 3 年 間 の 譲 渡
営業権(約 5 億円)を評価して懸案解決し、統合が行われた」ものであり、当方の視察に
お い て も 「 統 合 可 能 な 事 例 で あ る 」 と ア ド バ イ ス を 頂 い た こ と で あ っ た 。 私 は 、「『 独 立 行
政 法 人 桑 名 市 立 病 院 と 一 般 医 療 法 人 の 山 本 病 院 の 統 合 事 例 』等 か ら み て も 、統 合 は で き る 。
厚労省や日本医師会関係者からも『病床過剰地域で、統合により病床削減を図るモデルに
なる』とのアドバイスもある」と申し入れたが、理解を得られなかった。
また、県は「8 年前に県議会で『統合は否決された』ので、統合はできない」との見解
で あ っ た 。私 は 、
「 当 時『 統 合 が 否 決 さ れ た 』こ と は 認 め る が 、そ れ を も っ て『 統 合 は で き
な い 』は 間 違 っ て い る と 思 う 。否 決 さ れ た か ら こ そ 今 回 は『 循 環 器 に 特 化 し た 』の で あ り 、
議会に『循環器医療機能の統合』をキチンと説明し、理解を得るべきである」と申し入れ
たが、これも理解を得られなかった。昨年、県議会で県立病院機構の循環器医療拡充計画
が 審 議 さ れ 、『 病 床 過 剰 地 域 に お け る 病 床 の 増 床 』 問 題 が 出 た 時 に 、『 特 例 で 増 床 』 と し て
処理されたが、本来は『成人病センターの病床を削減して循環器機能を拡充するので、結
果的に削減される』ことを説明すべきであったと考えている。
【統合への第 4 コーナー】
平 成 26 年 6 月 、 小 山 田 県 医 師 会 長 か ら 県 に 対 し て 「 脳 ・ 循 環 器 疾 患 の よ り 包 括 的 な 医
療推進の実現について」との陳情書が提出された。これを受けて、私が当初から主張して
いた「成人病セの全医療機能の統合」では早期の実現が困難であり、全県および秋田市の
医療提供体制を俯瞰し「循環器医療機能に絞った機能活用」との計画案 を進めることにな
った。当然ながら成人病セ理事会、評議員会では「消化器系を中心とした地域医療支援機
能 を 切 り 捨 て る 計 画 に は 反 対 」、「 全 職 員 が 移 行 で き な い 計 画 に は 反 対 」、「 今 、 黒 字 に な っ
ているのだから、数年黒字を続けて体力をつけてから将来を考える方が良い」等、賛否多
岐にわたる議論がなされた。しかし、建物の耐震構造を含めた老朽化を考え、県から「悪
いようにしない」との話もあり、できるだけ早期に決着すべきと考え、結論的には「全職
員 の 再 就 職 を 100% 実 現 す る 」 覚 悟 を 持 ち な が ら こ の 計 画 を 早 期 に 実 現 す る こ と が ベ タ ー
で あ る と 判 断 し 、 ご 理 解 を 求 め た 。 そ し て 、 平 成 26 年 12 月 17 日 の 理 事 会 、 18 日 の 評 議
員 会 で 「 平 成 27 年 3 月 31 日 に 解 散 す る 」 た め の 定 款 改 定 が 承 認 さ れ た 。
その間、職員への対応では、幹部職員が参加する病院運営会議において随時報告した。
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全 職 員 に は 、 7 月 か ら 毎 月 書 面 で 報 告 し 、 11 月 に は 1 回 目 の 全 職 員 へ の 説 明 会 を 3 日 間 、
2 回目の説明会を 2 日間開催して情報伝達、質疑応答を行った。また、登録医諸先生には
1 月 17 日 の 登 録 医 交 流 会 で ご 説 明 申 し 上 げ た 。こ の 時 期 が 遅 過 ぎ た と の ご 批 判 に つ い て は 、
当財団理事会及び評議員会において十分なご理解を得る私の努力が不足であったことから
最終決定が遅れてしまったために、第一には患者さん、第二に職員、第三には登録医を始
めとする会員諸先生に大変なご迷惑をお掛けしたことは誠に申し訳なかったと心からお詫
び申し上げます。
【怒涛の 4 か月】
私は内外から「寺田は解散、清算について専念し、4 月以降の機構の医療体制について
は一切口出ししないこと」とされていた。
そ し て 、12 月 か ら 3 月 末 ま で の 怒 涛 の 4 か 月 間 、県 と 打 ち 合 わ せ 合 意 し た 想 定 と は 大 き
く 離 れ た『 想 定 外 』の 事 態 が 続 出 し た 。そ れ は 、① 12 月 に 県 立 病 院 機 構 か ら『 循 環 器 科 拡
充 計 画 に 対 す る 看 護 師 等 の 募 集 計 画 』が 公 表 さ れ た が 、私 が 想 定 し て い た『 CCU 体 制 等 を
含めた心外科手術可能な必要看護師数』よりも募集数が大幅に下回り、院内から「これで
は、これまでの循環器医療の質を継続できない」との意見が強く出され、県に申し入れを
し て 少 し 増 加 し た が 尚 不 十 分 で あ っ た ( 量 の 問 題 )。 ② 12 月 末 に 合 格 者 の 発 表 が あ り 、 成
人 病 セ CCU 経 験 看 護 師 の 採 用 が 想 定 よ り も 少 な か っ た ( 質 の 問 題 )。 そ こ に 、 ③ 正 月 に 循
環 器 内 科 医 師 1 名 の 不 採 用 が 明 ら か に な り 、「 約 束 が 違 う 」 と 強 く 異 議 を 申 し 上 げ た が 、
覆水が盆に還ることはなかった。これらのことで、職員のモチベーションが低下し た。追
い 打 ち を 掛 け て ④「 入 院 患 者 を そ の ま ま 新 病 院 に 移 行 さ せ る 」予 定 が 、
「解散時に入院患者
をゼロにすること」を求められたことで、黒字基調が一気に債務超過状態を生じることに
なった。
平 成 24 年 度 ( 平 25 年 ) 2 月 3 月 の 収 益 合 計 は 4.5 億 円 、 平 成 25 年 度 ( 平 26 年 ) 2 月
3 月 は 医 療 機 器 更 新 の 影 響 で 収 益 合 計 は 4.1 億 円 で あ っ た 。平 成 26 年 度 は 、解 散 に 伴 う 消
化 器 科 廃 止 の 影 響 は 考 慮 し て い た が 、加 え て 上 記 ① ② ③ ④ 等 に よ り 2 月 3 月 の 収 益 合 計 が
予 算 比 約 1.9 億 円 の 減 と な り 、 結 果 的 に 約 1.65 億 円 の 債 務 超 過 を 生 じ た 。
『 そ も そ も 』 こ の 状 態 を 作 っ た 原 因 は 、「 県 立 病 院 機 構 の 循 環 器 医 療 機 能 拡 充 の た め に 、
成 人 病 セ の 医 療 資 源 を 活 用 す る と の 方 針 で こ の 件 が 進 め ら れ 、 平 成 26 年 11 月 13 日 に 堀
井副知事を立会人として基本合意書締結が行われた」が、その合意であった「県立機構が
成人病セの循環器医療機能を『そのまま』活用する」ことを県がキチンと機構に伝え、理
解して頂くことができなかったことにある、と考える。その合意がキチンと実行されて い
れば、
「 成 人 病 セ の 赤 字 問 題 も 生 じ な い で 、4 月 以 降 の 県 立 病 院 機 構 の 循 環 器 医 療 提 供 体 制
の著しい低下も無かった」と考える。
当初、県から「県立病院機構本部の下に、脳研センター、精神リハビリセンター、認知
症センター、循環器センター等をぶら下げることを考えている」との提案があり、了承し
た 。 そ の 後 、「 統 合 は で き な い 。『 統 合 』 と い う 言 葉 を 使 わ な い で ほ し い 。 統 合 と の 誤 解 を
与えないために、現在の脳研センター組織の枠組みをそのままにして『循環器科を拡充す
る』ことを了承して頂きたい。成人病セの循環器医療機能を大きくもしないし小さくもし
な い で 、『 そ の ま ま 移 す 』」 と の 話 が あ り 、 私 か ら 「 機 構 の 循 環 器 科 拡 充 の た め に 、 成 人 病
セ 循 環 器 機 能 を 『 移 転 』 さ せ る こ と は 了 承 し た 」 と 答 え た 。 さ ら に 、「『 移 転 』 と い う 言 葉
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も統合と誤解される危惧があるので使わずに、
『 そ の ま ま 活 用 す る 』と の 表 現 に し た い 」と
のことであったが、実質的な統合・機能移転と考え、了承した。
解散以降、時に県や県立病院機構において、あたかも「成人病セが解散を決めたから余
剰の人員を活用した」というような言葉や態度があるということは甚だ遺憾であり、承服
で き な い 。 本 来 は 「『 成 人 病 セ の 循 環 器 機 能 を 活 用 す る 』 が 前 提 で 解 散 が あ る 」 の で あ り 、
「何もなくて解散があるのではない」と強く申し上げたが、理解を得られなかった。医師
を含め職員から、
「 寺 田 理 事 長 が『 循 環 器 医 療 機 能 の 維 持・向 上 の た め の 活 用 を 、県 と 合 意
した』と話したことはウソであった」と批判されたことに弁明の余地も無い。
また、私は必ずしも「県立病院機構が悪い」とは思っていない。県が県立病院機構に対
して、
「 今 回 の 循 環 器 医 療 機 能 を 活 用 す る 意 義 を 、キ チ ン と 理 解 さ せ て い な か っ た の で は な
いか」と考えざるを得ない。私は「県民のための循環器医療提供体制整備が主であった」
が 、県 立 病 院 機 構 は「 県 と 成 人 病 セ と の 話 を 機 構 に 持 っ て 来 ら れ た 」と 考 え 、
「統合ではな
く 、機 構 の 機 能 拡 充 な の で 、機 構 独 自 の 計 画 に 基 づ き 進 め る 」と 考 え ら れ 、CCU 維 持 に 経
済的負担が大きいと判断されたのかも知れない。私は県に「成人病セの医療レベルを『そ
の ま ま 活 用 す る 』こ と は 約 束 で あ り 、県 民 医 療 提 供 と し て 重 要 で あ る 。CCU の 不 採 算 部 分
は経済の問題であり、県が県立病院機構に補助金として支援することで解決する」と話し
たが、県がどのように伝えたか は分からない。しかし、結果的に 4 月以降県立病院機構 の
循環器医療体制が成人病セ当時よりも相当低下した事実は、県立病院機構が十分に理解し
ていなかったと考えている。そして、私自身も周囲から「機構に直接意見を述べてはなら
ない」と釘を刺されていたとは言え、県立病院機構の循環器医療機能拡充が県民にとって
も機構にとっても望ましい『将来構想』の在り方について、直接話し合いして来なかった
ことについては後悔している。
3 月末の成人病セの理事会や評議員会で、
「 事 こ こ に 至 り 、改 め て 存 続 の 道 を 選 ぶ こ と は
できないが、結局、県に騙されたのですね」との意見が複数出され、多くの役員は同様の
感想であった。私は「騙されたとは思わないが、ハシゴを外されたという思いである」と
答えた。
【4 月以降のこと】
解 散 後 、4 月 か ら の 重 要 問 題 点 は 、① 成 人 病 セ ン タ ー 解 散 時 の 決 算 が 1.65 億 円 の 赤 字 と 、
②県立病院機構循環器科において「成人病センターの循環器医療機能をそのまま活用する
という構想が崩壊の危機にある」の二つである。
県 は ① に 対 し て 、「 赤 字 発 生 の 責 任 は 成 人 病 セ に あ り 、 県 は で き る だ け の 支 援 を す る が 、
全ての支援はできない。成人病セの責任で解消するように」との意見であり、 県からの支
援を除いた残りについて、任意清算を目標に大口債権者にご協力を求め、債権放棄のお願
いをした。債権者からは「県の関わりはどうなっているのか!民間に犠牲を強いるのか」
とのご意見が出されたが、それでも債権者の皆様からご協力の内諾を頂いた。
しかし、詳細は控えるが、4 月以降の状況変化により資金計画に差異が生じたことなど
により、任意清算とする枠組みが崩れ特別清算(破産清算)となる可能性が増大した。そ
のことについて県といろいろ話し合いを行い、結果的には県として「任意清算に向けて、
できるだけの支援を行う」との立場でご支援を決定して頂いた。その結果、最終的には任
意清算という形で幕を引くことになった。これについては、どのような理由があろうとも
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結 果 的 に 任 意 清 算 と な っ て し ま っ た こ と に つ い て は 、大 き な 責 任 を 感 じ て い る 次 第 で あ る 。
そして、その①の問題以上に、②の問題である「県と合意した『県立機構が成人病セの循
環器医療機能を『そのまま』活用する』構想が、現状では心外科手術や冠動脈治療の大幅
な 低 下 が 見 ら れ る 状 況 と な っ て い る 」こ と は 断 腸 の 思 い で あ る 。
『 機 能 を 一 緒 に す る 』こ と
は 、 少 な く と も 1 + 1 は 2 に な り 、 2,5 と な っ て い く も の で な け れ ば な ら な い 。 県 も 同 様
の考えであろうと思っていたが、理由はどうあれ結果的に「大幅な低下となった」事実に
は、私の責任が非常に大きいと考えている。
【最後に】
患者さんや職員の大きな犠牲がありながらも、
「 脳 血 管・心 臓・大 血 管 を 一 体 化 し た 循 環
器医療提供体制を、効率的かつより向上させることが県民のためになる」との統合の目的
のために進めてきた。しかし、目的成就のため「小異を捨てて大同に付く」との考えで譲
歩 し て き た こ と が 逆 に「 譲 歩 し す ぎ で あ る 」
「 本 来 の 目 的 は ど こ に 行 っ た の か 」と の ご 叱 責
を受ける状態に変化させてしまったことは、私の努力不足を痛感するとともにお詫びの言
葉もありません。
今、解散を終えて、残務整理をしながら「開設時のボタンの掛け違えが最後まで大きな
影響を与えた」と思っていますが、それ以上に「医師をはじめ全職員が本当に一生懸命、
情 熱 を 注 い で が ん ば っ て く れ た 」と い う こ と と 、
「多くの会員諸先生がいろいろな形で支え
てくださった」ことに心から感謝を申し上げますとともに、それにもかかわらず最も重要
な目的を達成できないまま任意清算という最悪の状態を作ってしまいましたことに、多く
の患者さん、職員、大変なご迷惑をお掛けした金融機関を始め関係企業の皆様 、関係各位
に心からお詫び申し上げます。
そして、長い間、本当にありがとうございました。
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2/1新任教授紹介
秋田医報依頼原稿 2016 年 2 月号希望
現在 2234 字 (制限なし)ver. 2.1
秋田市 高橋直人
(秋田大学医学部血液腎臓膠原病内科学講座教授)
昨年2月に秋田大学医学部臨床講座の教授を拝命し、早いもので1年が経ち
ました。秋田医報編集委員で15期同級生の柳谷先生から原稿を催促されてお
りましたが、この度ようやく医局運営1年を乗り切ることができたことを記念
し(原稿執筆時点はまだ年末ですが・・・)、この執筆をお引き受けすることに
いたしました。さて、かつて大学医局または研究室に所属され、専門研修・研
究に励まれていた先生も多いと思われますので、もちろん大学臨床教室につい
てはご存知でしょう。大学医局についてはいろいろなイメージがあるかと思い
ますが、実はここ数年で医局や講座の役割が大きく変わっております。その一
つは県内医師派遣に関わること、もう一つは研修医教育です。
平成 16 年に「新医師臨床研修制度」が必修化され、2年間の初期研修が義務
化されました。その内容自体は内科、外科系、救急などのスーパーローテート
を含み、将来の総合医の基盤を作るという崇光な理念を大切にしているもので
あります。いままででも気の利いた研修医または臨床講座はこの制度ができる
前から自主的に取り入れていたものでありますが(第三内科で言えば2期生の
今井先生のころからでしょうか?)、この平成 16 年から全研修医を対象とした
臨床レベルの底上げが敢行されたわけです。厚生労働省のマッチング(研修医
候補者と研修病院の希望に基づくコンピューターによる対応)により初期研修
医は地域から都会へ、大学病院から一般病院へと大きく流れ、大学入局という
今までのシステムはまるで初期研修制度を阻害する「白い巨塔」にイメージさ
れる古き(悪しき?)慣習に位置付けられました。日本の臨床医はヒポクラテ
スの誓いごとく、やや閉鎖的なしかし伝統的なこの徒弟制度により育まれてき
たのですが、この変革により大学と大学教授の人事力は地に落ちた感がありま
す。さらに 12 年経過し、残念ながらいまだ復活の目処がない講座も少なからず
ございます。医師は免許をもらった時点でフリーランス可能であり、専門医を
とった後は一匹狼で渡り歩くこともでき、医局など自らの生き方の邪魔にしか
ならない無用のものである、という意識を一部の若い先生や開業で成功されて
いる先生方からお聞きします。特に初期研修が始まったばかりのころに卒業し
た先生に多い気がします(まったくの私見ですが・・・)。また、医局人事自体
の公平性や公益性に対しても個人の希望が優先されることが当たり前となりま
した。一方、今の自分は社会に育ててもらった結果であることを、キャリアを
経た医師はみな感じていると思いますし、自分の力を社会に還元することが生
きる意味であることもわかっていると思います。自分自身若い時は、義理人情
や浪花節の世界はちょっと暑苦しいなと思っておりましたが、三浦亮教授、澤
田賢一教授の下、20 年以上医局生活のなかで演歌を聞いて育った心にはちゃん
と浪花節が植え付けられているのかもしれません。
(逆にいうと、医局というも
のをまったく知らない先生は浪花節がさっぱり理解できないということでもあ
ります。
)
さて、奨学金制度や地域枠により、確かに初期研修で県内に残る人は増えま
した。平成 28 年度は 84 人の秋田県内初期研修医が生まれる予定です。しかし、
某医大出身者同様にお金で研修医を秋田県に9年間、いやいや縛り付けるので
はどうでしょう。秋田大学の臨床教室に入局すれば、医局(または教授や医局
長)がキャリアパスを一緒に考えてくれるような環境があることをぜひ、医学
生、初期研修医、そして医師会のみなさまに知っていただきたいと考えており
ます。その昔、「B 先生!2年間、A 病院へ赴任してください。」で、A 病院の
指導医にお願いし、あとは「個人の努力で専門医になってね」ということで、
もしかしたら医局の人事と研修が終了していたのかもしれません。現在はその
病院が専門研修施設であるか、指導医が何人いるのか、年間の症例数、経験で
きる疾患の種類、キャリアパスにおける研修プログラムの位置付け、などなど、
初期研修修了医師が臨床教室に「入局」し「後期研修プログラムに入った」時
点でその後の何年間のことを、私たちは責任持って計画しなければなりません。
そのような親身のメンターが大学病院に限らず秋田県に何人いらっしゃるでし
ょう。または、今まで何人いらっしゃったのでしょうか。実はそれが秋田に医
師を増やし育てる必要条件であります。
秋田県の地域医療は医局制度で守られているという幻想はとうに崩れ、私を
含め、医局という乗り物を上手に使って医師を育てて行く、または医師自ら育
んでいく必要があります。そしてその結果、優秀な専門医が少しずつ県内に増
えていくことでしょう。少なくとも血液腎臓膠原病内科の分野においては、秋
田の専門医過疎地を無くすること、そして秋田大学に来れば最先端の治療を受
けられることを秋田県民にお約束できるように、第三内科のプロフェッショナ
ルなスタッフそして医局員とともに努力していくつもりであります。
秋田大学医学部血液腎臓膠原病内科学講座(旧第三内科)のホームページ
(http://www.med.akita-u.ac.jp/~naika3/)
と
Facebook
(https://www.facebook.com/3nai.akita/?ref=bookmarks)がアップデートされて
おります。ぜひ訪問してください。今後とも「いいね!」をよろしくおねがい
いたします。
投稿 ※医報換算約6頁分
最後の診断―上坂先生の思い出
黒川博之
プロローグ
上坂先生のご逝去の報に接したとき私はなんとも表現しがたい気持ちに包ま
れていた。その気持ちを日にちが経つにつれて文章にまとめたい気持ちが抑え
られなかった。
追悼文は大体以下に大別できると思う。哀悼型―こんなことになり本当に残
念だ、第二は批判型―せめてもう少し酒を控えていればなあ、第三は諦念型―
これも運命、人生だ、そして、追悼しながら自身を語る自慢型、ざまあみろ型
も理論的には成り立つが私は見聞したことはない。日本語は難しくて、馬鹿野
郎め!!、ほんとに上坂の馬鹿野郎!!死にやがってーは一見、罵倒型だが内
容はやはり哀悼型の範疇か。
私は上坂先生の死の時期と死に方は早過ぎるし、酒が過ぎたようで悲痛な雰
囲気があるものの、自然で天寿全う型のような気持ちが今はしている。
私は先生とは仕事では四半世紀以上ににわたり同じ大曲市、現在大仙市の仙
北組合総合病院(現・大曲厚生医療センタ―)に勤務し、忘年会、新年会、桜の花
見、その他をつうじて、酒を愛飲する先生が心底、幸福に感じた。この人の酒
に臨む姿は希なほどに明るくて恬淡にして新卒辺幅を飾らず実に飄々としてい
た。
先生は酒をめしのように食い、その滑舌を私にお酒のように飲ませ酔わせて
くれた。
こういう人が亡くなるとあいつは酒にもって行かれたとか、酒さえ控えれば
もっと長生きできたとかいうけれど、酒は先生にとりもう大分前から末期の水
であったように思えた。そのことや先生と私の最初の出会いー私が医学部5年
生の昭和51年に遡り、先生を思い出しながら、この拙文に閉じ込めてみた。
読経
上坂先生の通夜も、葬儀も晩秋11月の11,12日、秋田市広面大学付属
病院近くのレゼール広面で施行された(写真1)。喪主は長男の宗敬氏であった。
先生の訃報はその日の朝、突然のI先生からの電話で聞き、昼近くに個人的に
施設に送られてきたFAXで確認した。JAホールの葬儀場には、もうすっか
り暗い午後5時に着き、お通夜になんとか間に合った。寒くて冷えた、やや閑
散とした葬儀場の第二列左隅に○○技師長と数珠を左手の中指にはさみなおし
て、並んだ。始まるところで室内にはご遺族をあわせて三十人ばかりのように
思えた。三人の僧侶が読経を始めた。読経というものはどうして非日常の抑揚
をつけて発せられるのであろうか。キリスト教の音楽のような斉唱は荘厳で明
るく天国に昇る気持ちがするが、仏教のそれは荘重で暗く重く沈んでゆく。
「人間ノ浮生ナル相ヲツラツラ観スルニオホヨソハカナキノハコノ世ノ始終終
マホロシノコトクナル一期ナリ」。
読経を聴きながら私は数字にふと因縁を感じた。上坂佳敬(うえさかよしゆき)
先生は昭和23年1月8日に生まれ、私は同年11月10日であった。上坂先
生は8日に生まれて8日に68歳で亡くなっている。
お通夜は11月11日でその前日、私は誕生日を迎えていて、故人と同じ年
齢になっていた。
「一生スギヤスシ今ニイタリテ誰カ百年ノ形体ヲタモツベキヤ。我ヤ先人ヤ
先、今日トモ知ラズ」の白骨の章、白骨の御文は無宗教の私も重なる葬儀にで
ているうちに暗記してしまった。
長い読経をきいているのは無宗教の私にとり辛いものだが、今度はいい時間
に終わり、ほっとしていると、その後の坊さんの日常的な発音の講話がなかな
かによかった。
「上坂先生のお父様は新興の厚い方であったときいています。また、上坂家
のご先祖は真宗大谷派だそうで、もともとは富山県で、明治時代初期に北海道
夕張に移住されて、その後に秋田にこられたたようです。明治には北海道には
浄土真宗のお寺は約 3500 ありました。真宗のお寺は全国に七万五千あり、うち
二万は京都にあります。浄土真宗を今日のように興隆されたのはなんといいま
しても、蓮如聖人ですが、その蓮如聖人は約二百通の書き物や手紙があります。
そのうち特に八十通を編纂しまして御文とされています。この中に先ほど読み
上げました「白骨の章」がありなんとも人の命ははかないものです・・・。
さて、佳敬という名前もご長男の名前である宗敬(むねゆき)という名も深く
仏教に関係のある字であります。御長男のお名前は父君様の敬の字と宗をあわ
せて宗敬とされています。このあたり、浄土真宗との御縁を関します。両方の
名前共にそのまま法名としてつかえるものであります。宗という字ですが、も
ともとはなにかの中心を意味するもので・・・・。
・・・・。と続いてきて自らの寺の事―秋田市内からこの御所野に数年前に移
ったというような宣伝めいた講話で終わった。
翌日の御葬儀はすばらしい秋晴れの中で執り行われた。
略歴
先生は昭和50年に岩手医科大学医学部を卒業し同年4月に秋田大学医学部
に第一病理学の綿貫教授の教室に入った。
綿貫教授退官後の平成八年四月に正式に仙北組合総合病院に正式の常勤医とし
て勤務した専門は消化器病理である。秋田県消化器病研究会という50年を越
える歴史を有する研究会があり、その会では何時も上坂先生は会の病理診断の
全てをいちいち解説し臨床医から絶大の信頼を得ていた。
昭和59 年頃から非常勤医師として勤務しているが、実際は昭和53年から第一
病理教室からの派遣としてボランティア的、不定期で仙北組合総合病院の病理
手伝いと言う形で来院していた。平成8年に病理学教室助教授をへて4月に仙
北組合総合病院に正式に検査科科長として赴任している。医局長もしていて忘
年会の幹事その他で面倒見が大変良かったようである。
彼の博士論文は「B型肝炎ウィルス(HBV)感染肝疾患の免疫組織化学的お
よび病理組織学的検討」である。
先生の日常的な病理の平均レポート数は一日大体三十件から四十件で病理解
剖は一年間で約十数件をこなした。上にあげた期間の検査科技師長は小松田技
師長が非常勤時代に接し、次の佐藤信徳 佐藤幸二の両技師長時代を含めての
10 年間、 鈴木学が3年間、最後と成った藤田とは8年であった。(写真2,3,
4)
技師長を困らせたことはない
病院時代を中心として関連論文は主論文、副論文いれて約90編である。これ
を少しだけタイトルのみあげてみる
肝組織内HBs抗原検索のための酵素抗体簡便法の開発と病理組織学的検討、
中国吉林省における非ホジキンリンパ種の研究、災害時における検査科の相互
連携支援を目指して、秋田県9病院における沿革病理診断ネツトワークの構築、
放射線画像の遠隔診断に関する研究。膣原発悪性黒色腫の一例、等等。
業績としては平成の時代に入り臨床検査デジタルシステム化をすすめたことで
ある。平成 12 年に最初の三菱臨床検査システム導入を佐藤信徳技師長と共には
たした。OMR 依頼票で受付された採血管がミスなく準備され至急報告書も瞬時
に外来、病棟プリンターに印刷されるようにして院内電子化が急速にすすんだ。
「院内の我々の業務その他の提示に先生が反対されたことはほとんどあません
でしたが、病理にかける情熱はなみなみならないものは感じていました。顕微
鏡を覗いている姿は本当に鬼気せまるものでした」と常に傍らにいて同じ仕事
に従事した前・佐藤信徳技師長は述懐した。
藤田技師長はいまでも先生が真剣に顕微鏡を覗く姿が忘れられない。
私は医学部に入学する以前は電気工学を専攻していたので、医学はどこかうさ
んくさいものがあった。胸部や腹部の打診聴診の類は大雑把なものと感じ消化
器病専攻のM教授の○○の圧痛点の講義は特に信用できなかった。その点にお
いて病理組織検査対象を明快に説明する上坂先生と共に覗いている顕微鏡の世
界はすばらしい祝祭の時であった。
先生は宴席以外、病院では一切、酒は飲みませんでした。宴席でも乱れること
はありませんでした。
名字
私は先生の名字に以前から興味があった。秋田県では先生以外知らない。
上坂という名字の読み方はうえさか、うえざか、かみさか、こうさか等いろい
ろだがネットでみると全国で一万四百人いて、北海道には約九百人、富山県で
は約五百人とあるが、秋田県では三十人にとどまる。
上坂氏は桓武平氏鎌倉等の板東八平氏の一つの梶原氏の子孫といわれる。
信州大谷派である上坂先生の父君は信仰心が厚く「佳敬」の名前はお寺の住
職に命名してもらっている。
先生の祖先は庄屋で、浄土真宗の檀邦寺の世話をしていた
忘れもしないが、私が先生にお目にかかったのは昭和51年の冬であった。
医学部五年次のその冬、入浴してもう寝ようかと思っているとアパートの電
話がなった。電話台の近くの窓外はかなりの雪模様であった。「黒川さん、今、
電話があって病理解剖が始まるって。すぐきてよ、僕と黒川さんが今夜の解剖
の見学者になっているとの連絡が今大學からあった。」真冬の午後10時頃であ
ったか、私は不意をつかれ混乱した。
「病理解剖だと・・???」沈黙している
と「ほら、一週間前にポリクリでいつたでしょう。病理解剖の順番が次は我々
だと・・。県立病院の裏口から廻って入ってくれって。ほら、いつものポリク
リの時に使う玄関」ああと思い出してホンダZに乗り込んだ。
歯の高い下駄に履き変え白衣に着替えて部屋に入ると、天井の高いコンクリ
ート作りの灰色の部屋、というより箱のような解剖室はかなり冷えていて寒く
はあったが明るかった。部屋の中央の解剖台にはもう死体が裸で横たわってい
た。台の傍らに長身、痩せぎす、すっぽりと全身を暗緑色の解剖着に包んでゴ
ム長靴の老人が立っていた。私は彼を見た瞬間、何かしら神々しい姿にうたれ、
鑑真和尚のようだなと感じた。しかしこんな先生は講義でも病院でもついぞ見
なかったな。教授にしても随分と老けているが、秋田大学医学部外の教授かな、
と少し不審に思った。
少し隅の方でなにやらガサゴソと準備している老人より一回り小柄な若者が
やはり解剖着姿でいた。そして若者が遺体の病歴をごく簡単に二、三分で私達
に説明し今回の症例の病理要点を述べたがもう忘れた。解剖はほとんどその老
人が施行して、時々若い方に何か言い、若者はそのたびに「はい」とほそく一
言だけ返事していた。年末の雪の深夜の解剖室でその声はひときわ大きく響い
ていた。解剖は明け方の午前四時頃に終わった。
「あの年寄りが昔からずっと県
中―秋田県立中央病院の解剖を担当している助手でもう三十年以上やっている
そうだよ。若い方が病理の医者だってさ。卒業したばかりじゃないの」黒木が
そういったとおり彼、上坂先生は卒後二年目で解剖助手の老人は彼の父君であ
った。父君は信仰厚い人であったという。
あの頃の自分の事と共に
卒業して私は母校の放射線科に入局し3年間いたので放射線科で死亡した患
者の解剖で二、三度ばかり上坂先生のお世話になった。私が依頼した解剖の初
回例は上顎癌の60代の男性であった。数回の放射線照射と化学療法を四、五
年施行した末の癌死であったがその胸部を開くなり、上坂先生は微笑混じりに
鎖骨下静脈に空気が入っているが中心静脈でもしていたのかい、その部分を押
しながら私に問いかけた。
左の鎖骨部の黒い管からゴボゴボする音が聞こえた。IVHはまだその頃は
一般的でなくて施行していた。静脈に空気が入ったのは臨終の際に末梢静脈か
らステロイドや昇圧剤をどんどん入れたからであろう。卒業してほぼ四十年、
私はこういう事例を解剖や死後のCT写真に数回、遭遇した。
私は秋田大学医学部から秋田赤十字病院、鶴岡市荘内病院、会津若松市の竹
田総合病院、郡山市の南東北脳神経外科病院をへて昭和62年に大曲市で先生
と再会した形になった。
病理検査室には毎年45回は学会発表や論文の時に出入りさせて戴いた。
何時も丁寧に説明してくれた上に最後に「染色は○○と××を追加した方がい
いですね。これらの病理のスライドはこちらで作成しておきましょうか」と親
切に申し出て戴いていつも本当に助かっていた。
先生は最後の臨床病理医である自負があった。と同時に日本病理学の現状に
つよい憤りがあり実験病理ばかりで臨床病理なぞやる人間は一人もいませんよ。
私の診断は最後の診断なのですよ。癌と断定するか、正常とするかでその人の
一生が決まる最終診断なのです。とは昼間も宴席でもよくきいた。
日本では病理なんかやる人間はもう減る一方です、と憤怒してよく喋った。
ちなみに日本病理学会の会員数は4487名(うち医師3653名)、日本放射
線学会のそれは8999名である。学位論文で入会する者がいることを考えれ
ばこの差はもっと開くのではあるまいか。私は気の毒な感があった。
仙北組合病院医局でもよく談笑しながらいろいろと教えて戴いた。
かつて縊死したという老婆が救急室に運ばれてきた。頸部には縄の痕跡があっ
た。まだ少しは虫の息で半時ほど蘇生措置をしたが結局亡くなった。検視の際
である。
「首つりというが頚には何の痕跡も無いじゃありませんか」と警官に指
摘されそして詰め寄られ弱っていたときに上坂先生に非常に助けられた。
「乳幼児は意外につよいのですよ。よく報道されるように寒いときでも親か
ら家屋外に放置されてもなかなか死にはしません。ストレスがないからです。
次に強いのが老人で山奥で行方不明で数日いてもよく助かってますね。中高年
が一番ストレスに弱いので真っ先に死にます」と海山の遭難死の年齢構成によ
るストレス死の話とその対策は臨床と私の実生活で大変に参考になった。
趣味は農業、家庭菜園で秋田市郊外の小種地区の菜園農場で栽培した収穫を
毎年秋にくれた。朝、不意に医局の私の机にきて、ジャガイモ、ブルーベリー、
トウモロコシゃリンゴで膨らんだダン袋を「これ」と一言だけで後は何も言わ
ずにドサリと-椅床においた。
旅路
私は上坂先生と偶然に死去する二週間前に出会っている。
10月の下旬に私は新幹線で仙台に行く途中、ふと何気なく働いていた病院に
立ち寄った、大曲厚生医療センターの医局で偶然に出会った。秘書と世間話し
ているときに医局の奥にいた先生と目があった。先生は静かに、しかしややし
んどそうに私に近づいてきた。
「上坂先生、お久しぶりですが・・・」と挨拶を
始めたが先生は一言も言葉は発せずに大きく頷くだけでゆっくり背を向けて医
局の奥に立ち去った。だるまのように肥満していた。腹水があるように感じた。
そして11月4日、先生は傍目にもかなり体調が悪かったようにみえたが乗
用車で東京の日本病理学会に向かった。7日、上坂先生は奥様の運転する乗用
車で日本病理学会から帰る途中、山形県東根で体調が悪化し、ひとまず東根の
旅館に宿泊した。深夜から翌朝に再度気分が悪くなり奥様がどうするか聞いた
ら仙北組合総合病院にといった。しかしそんな状態でなくて地元の救急病院に
搬送し、そこで11月8日日曜日早朝の午前4時に亡くなられた。最後まで意
識はしっかりしていた。肝不全とおもわれるが厳密な死因は不明であった。そ
の時以外医者には最後までかかることはなかった。
先生は煙草はショートホープを1日に百本ちかくを喫し、御葬儀で長男喪主
の挨拶にもあったとおり、大変な医者嫌いで医者の不養生そのものであった。
私も煙草は止めろと意見したことはある。今さら止めたからと言って医学的
に結果、影響が変わりますか。と静かに返された。私は反対に意見されたよう
な気持ちになってしまい静かに退散せざるを得なかった。
仮に欧米のように国家で禁止してもですね、インターネツトでいくらでも買え
るのですよ、もつと凄いのがね。とネットでの購入法を伝授してくれた
酒も、先生は禁酒を誰かに誓うといった風情はとんと無かったようにみえた。
院内の宴会で先生と私は隣りどおしになる機会も多かった。先生の酒は朗ら
かでありにこやかで周囲に人が集まった。先生はまた凄い博識でもあり愛飲す
る日本酒の知識は無論、洋酒にも博識であつた。学問以外の政治なかでも県内
の政治情勢やその裏話にはやたらと詳しかった。
エピローグ
嫌われる酒飲みのタイプは、小言が多く、酒の燗の温度までがみがみと怒鳴
りつけ、我がつよくてわがままで図図しく、むやみに気位だけがたかい、平気
でおおぼら、大嘘をつく、といったタイプが多いが先生はその反対であった。
先生の酒は酒飲みで知られた若山牧水の歌を私におもわせた。
白玉の 歯にしみ通る 秋の夜の 酒はしずかに のむべかりけれ 牧水
指先に ちさき杯 もてるとき どよめきゆらぐ 暗きこころよ
牧水
上の句の二つの顔が先生であるように私は思う。結局、先生は酒と融合し炉心
融解しただけのように感じているのだ。
先生は急にお隠れになったので逝去の報は周知することが遅れた。今でも大勢
の弔問客が絶えないそうだ。
私は土佐の出で周囲に酒豪は大勢いるがこれは確かだ。私は二度と先生のよう
な人格、酒飲みは出会わないだろう。
了
尚之栄転記念
上坂先生1
(1)
-上坂葬儀
上坂先生1
(2)
点描・休診日候補
資料3
資料4
1500号記念誌
井田メモ
第1回 H27.7.26
<1000号記念誌発行時の担当理事:針生敬三先生とお会いして相談>
1.1000号記念誌は、秋田県医師会事務局元職員の大原さん(故人)が大変にご尽力された
ようです。
2.1000号記念誌表紙イラスト製作者は結局不明。
・日赤:宮下先生ではない。
・大曲の先生ではないかとの事⇒調査中
2.1000号記念座談会出席者
① 穂積 惇先生②石田秀一先生③黒川一男先生④樋口潔先生
⑤長沼雄峰先生⑥福島幸隆先生⑦針生敬三先生
*出席可能: ⑤ ⑥ ⑦
1500号記念座談会を開催するとすれば、候補として上記3人に加え、
歴代委員長
① 川原浩先生 ②大野忠先生 ③長沼雄峰先生 ④鈴木一夫先生
⑤山本久先生 ⑥井田隆夫 ⑦朝倉健一
その他候補者
① 荒井嗣先生 ②鈴木明子先生 ③設楽芳宏先生
など
3.秋田医報沿革史(1000号記念誌P63~75):後半を簡略にして、タイトルの
変遷は1000号を継続して掲載した。<*個人的な感想ですが>
4.歴代会長(1000号記念誌P76~77)
写真と共に掲載
5.新生医師会設立から現在までの秋田県医師会役員名簿
(1000号記念誌P78~87)
6.新生医師会設立後の会員数の推移 ⇒ 不要と思う。
7.1000号記念誌は、通常の秋田医報より巻末の広告が多い。
⇒ 記念号でもあり積極的に広告を募りたい。
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号
記
念
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田
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第2回 H27.8.25
< 秋田医報を印刷している株式会社 フロム・エー
と第1回打ち合わせ
>
もう一度、記念誌についてプロの目を借りて考えてみたい。
1.
秋田医報について
平常版:平均69ページ。カラー写真表紙裏表のみ。1冊単価約400円。1800
部印刷。
1000号記念誌:広告も含め130ページ(広告:25ページ)
「表紙を彩った写真」もあるが白黒。印刷部数は?
⇒
広告は通常通り、秋田県医師会の雑収入になるのか?
1500号記念誌の予算としては、どの程度か?
白黒あるいはカラ-写真のページ数も含めて、見積り必要。
⇒
広告の依頼(いつ、何社に依頼するか)
<1500号記念誌>
2.
表紙について:井田が個人的に交渉した結果。
① 「あきたびじょん」の若い農作業衣の女性の写真
⇒秋田県側と交渉したが「写真家の木村伊兵衛氏のご遺族があくまで作品である
ので
これ以上の使用を承諾しない」との返事でした。
② 矢口高雄の作品
⇒矢口高雄先生に直接手紙を書き、交渉中。
3.
カラー写真の使用:
1000号にも掲載された「表紙を彩った写真」を今回は
カラーで。
4.
医報編集委員=1500号記念誌準備委員
それぞれ担当をしてもらいたい
① 表紙 ⇒
② 祝辞&記念寄稿 ⇒
1.
秋田県医師会長
2.日本医師会長
3.秋田県知事
4.郡市医師会
長
5.
その他?(元医報担当理事?
常任理事? 理事?
③ 座談会 ⇒
元医報編集委員長? 元医報編集委員
常連投稿者? など )
座談会をやるか否かも含めて検討 ⇒
別企画
⇒
④ 「表紙を彩った写真」 ⇒
⑤ 秋田医報沿革史 ⇒
⑥ 歴代会長 ⇒
⑦ 新生医師会設立から現在までの秋田県医師会役員名簿
⑧ 準備委員会名簿:ぜひ記載したい。
⇒
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念
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井
田
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第3回 H27.9.15
1.
秋田医報について(第 2 回継続検討事項)
平常版:平均69ページ。カラー写真表紙裏表のみ。1冊単価約400円。1800
部印刷。
1000号記念誌:広告も含め130ページ(広告:25ページ)
⇒
記念号の発行部数は?
⇒
広告は通常通り、秋田県医師会の雑収入になるのか?
1500号記念誌の予算としては、どの程度か?
白黒あるいはカラ-写真のページ数も含めて、見積り必要。
(フロム・エーに通
告済)
⇒
広告の依頼(いつ、何社に依頼するか)
<1500号記念誌>
2.
表紙について:
矢口高雄先生の絵に決定!
画集 2 冊井田持参
3.
掲載料 5 万円、まんが美術館学芸員:大石卓氏が窓口。
⇒ 候補作品 10 例選別
カラー写真の使用:
⇒ PCに保存し委員全員で決定。
1000号にも掲載された「表紙を彩った写真」を今回は
カラーで。
⇒ PCに保存し委員全員で決定。
4.
医報編集委員=1500号記念誌準備委員
それぞれ担当をしてもらいたい
① 表紙 ⇒ 全員で。
② 祝辞&記念寄稿 ⇒
1.
秋田県医師会長
2.日本医師会長
3.秋田県知事
4.郡市医師会
長
5.
その他?(元医報担当理事?
常任理事? 理事?
③ 座談会 ⇒
元医報編集委員長? 元医報編集委員
常連投稿者? など )
座談会をやるか否かも含めて検討 ⇒ 別企画
⇒
④ 「表紙を彩った写真」 ⇒
3を参照。
⑤ 秋田医報沿革史 ⇒ 8 人で均等に分担。
⑥ 歴代会長 ⇒
⑦ 新生医師会設立から現在までの秋田県医師会役員名簿
⑧ 準備委員会名簿:ぜひ記載したい。
⇒
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第4回 H27.10.27
<確認事項:本日および前回まで>
1.
座談会
① 11月24日に予定の1500号記念誌に関する座談会 ⇒ 中止。寄稿を指名で依頼す
る
② 今年度の恒例座談会 ⇒ 中止。時間的に無理。座談会掲載号ページ数多いため。
2.
秋の随想号?
⇒夏の随想号が特集号になったので、9 月 15 日号を秋の随想号にする
か?
3.
祝賀会:1000号発行の祝賀会は約70万円。
① 70~80万円の予算:理事会でお願いするか。
② 郡市医師会長会議+理事会合同会議の会に合わせて行うか。
4.
(第3回までの決定・確認事項)
秋田医報・平常版:平均69ページ。カラー写真表紙裏表のみ。1冊単価約400円。180
0部印刷。
1000号記念誌:広告も含め130ページ(広告:25ページ)
1500号記念誌
①
記念号の発行部数 ⇒ 2200 部 ないし
②
広告は通常通り、秋田県医師会の雑収入になるのか
③ 1500号記念誌の予算 ⇒
2500 部
⇒ 雑収入!公認会計士に確認済
1000 号と同程度なら 146 万円。
④ 白黒あるいはカラ-写真のページ数も含めて、見積り必要。
(フロム・エーに通告済)
⇒
ページ単価 1 万円。カラー1 頁 2 万円。
⑤ 広告の依頼(いつ、何社に依頼するか)
⇒
3~4 か月前に依頼。地元企業 20 社、全国企業は広告代理店を通じて募集。
広告に関しては事務局にノウハウがあるので任せる。
<1500号記念誌>
1. 表紙:矢口高雄画集より全員で選択中。
提案 ⇒ 全紙印刷さらに表・裏連続印刷(一枚の絵巻風)
2. コンテンツ
① 祝辞:1.秋田県医師会長 2.日本医師会長 3.秋田県知事 4.郡市医師会長(10
人)
5. 寄稿(元医報担当理事? 元医報編集委員長? 元医報編集委員?
常任理事? 理事?
常連投稿者? など )
② 秋田医報変遷≪概要≫井田担当
③ 秋田医報沿革史≪タイトルを中心に≫ 8 人で均等に分担。
④ 「表紙を彩った写真」<カラー写真>
⑤ 歴代会長:
⑥ 新生医師会設立から現在までの秋田県医師会』役員名簿
⑦ 準備委員会名簿:できれば写真も。
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第5回 H27.11.24<確認事項:本日および前回まで>
1.
秋の随想号? ⇒夏の随想号が特集号になったので、9 月 15 日号を秋の随想号にする。
か?
事務局・印刷所の負担が大きければ、10月15日号でも。
2.
祝賀会:1000号発行の祝賀会は約70万円。
① 70~80万円の予算:理事会でお願いするか。
② 郡市医師会長会議+理事会合同会議の会に合わせて行うか。
③ 8月下旬、上記②の後に開催を提案するか。
3.
(第 4 回までの決定・確認事項)
秋田医報・平常版:平均69ページ。カラー写真表紙裏表のみ。1冊単価約400円。180
0部印刷。
1000号記念誌:広告も含め130ページ(広告:25ページ)
1500号記念誌
①
記念号の発行部数 ⇒ 2500 部 (ページ単価10,400円)
②
広告は通常通り、秋田県医師会の雑収入:公認会計士に確認済
③ 1500号記念誌の予算 ⇒1000 号と同程度なら 146 万円。⇔見積り作成予定
④ 白黒あるいはカラ-写真のページ数も含めて、見積り必要。
(フロム・エーに通告済)
⇒
ページ単価 1 万円。カラー1 頁 2 万円。顔写真カラー:66万円増。白黒で
⑤ 広告の依頼(いつ、何社に依頼するか)
⇒
3~4 か月前に依頼。地元企業 20 社、全国企業は広告代理店を通じて募集。
広告に関しては事務局にノウハウがあるので任せる。
<1500号記念誌>
1.表紙:矢口高雄画集より全員で選択中。新しく矢口先生からカレンダー頂く。
提案 ⇒ 全紙印刷さらに表・裏連続印刷(一枚の絵巻風)
矢口先生にもコメントをお願いする。
2.コンテンツ
Ⅰ.祝辞:1.秋田県医師会長 2.日本医師会長 3.秋田県知事 4.郡市医師会長(10
人:①鹿角
②大館③能代④男鹿南秋⑤秋田⑥秋田大学⑦由利本荘⑧大曲⑨横手⑩湯沢雄勝)
5.
特別寄稿(①寺田俊夫②針生敬三③川原浩④大野忠⑤長沼雄峰⑥鈴木一夫⑦荒井
嗣
⑧ 真木正博⑨福島幸隆⑩朝倉健一
Ⅱ.秋田医報変遷≪概要≫井田担当
Ⅲ.秋田医報沿革史≪タイトルを中心に≫
8 人で均等に分担。
Ⅳ「表紙を彩った写真」<カラー写真>8ページ 一人5点
Ⅴ歴代会長:
Ⅵ新生医師会設立から現在までの秋田県医師会』役員名簿
Ⅶ準備委員会名簿:白黒写真付き。委員長のコメントを付ける
秋田医報 創刊1500号記念誌
事務局メモ
【スケジュール】
☑平成27年1月 検討開始
・平成27年11 12月
28年度の予算に計上
・平成28年3月 代議員会
28年度予算
・平成28年6月中旬 執筆依頼
・平成28年6月下旬 18日
代議員会
27年度決算、選挙、新執行部発足
・平成28年7月上旬 常任理事会 新医報編集委員(案)協議
・平成28年7月15日号 新会長巻頭言
・平成28年7月中旬 〆切
・平成28年7月下旬 理事会
・平成28年8月12日
新医報編集委員(案)承認
1500号発送
【検討事項】
・記念号を発行するかどうか
→ 構成、執筆を依頼する範囲など
・祝賀会等を開催するかどうか →
開催時期、出席を依頼する範囲など
・このままいけば平成28年8月15日号は銷夏随想号となる。随想を前号か次号9月15日号にずらす。、
あるいは掲載しない
・平成27年11月頃の予算編成の時期までに計画を立てる。
・平成28年6月の代議員会、選挙で執行部が変わる可能性がある。
・委員も変更になる可能性がある。
【h26.12.16第9回医報編集委員会】
☑1000号の実物探す →現物は残っていない(データのみ)
1冊残っていた。
☑1000号の予算調べる →60万円
☑祝賀会の予算調べる →70万円
☑1500号の銷夏随想は秋9/15に遅らせる
☑医師会記念誌を委員が見れるようにする
☑スケジュールを理事会郡市医師会長協議会1月の常任、1月の理事会に諮る。 →承認
□祝賀会を開催するか理事会郡市医師会長協議会1月の常任、1月の理事会に諮る。
→改めて諮
る。(未)
☑1500号の執筆依頼の範囲は1000号に準じる予定
☑座談会のテーマを1500号にする → 指名原稿を依頼する
□
→ 開催月をいつにするか 平成27年11月24日?(予定)
□
→ 掲載号をいつにするか 平成28年1月15日号
□
→ 出席者を誰にするか
or 平成28年8月15日号(1500号)
参考)平成7年9月11日(月)秋田ビューホテル、出席者:穂積惇先生、石田秀一先
生、黒川一男先生、樋口潔先生、長沼雄峰先生、福島幸隆先生、針生敬三先生(司会)
【h27.2.24第11回医報編集委員会】
☑祝賀会は1000号の招待者を踏襲する。
□随想を9月15日号にずらすか、記念号に掲載するか。
【h27.3.24第12回医報編集委員会】
□祝賀会の日程候補 1500号の発行後?に決定。
→
参考)前回;平成7年10月9日(月)秋田ビューホテル
【h27.4.28第1回医報編集委員会】
☐寄稿依頼の範囲
→報道関係者には依頼しない(但し、魁新報社には依頼する)。県健康福祉部
長等、行政へ依頼する。
☑1000号以降の役職者をリストアップする。
☑1000号以降の医報編集委員をリストアップする。
☐座談会のゲストを各年代から1名、選定する。
【h27.5.26第2回医報編集委員会】
☐祝賀会の日取り、医師会行事と重ならないように。
→ 東北医連h28/9/10-11
東北北海道共同利用施設総会h28/9/3-4
☐座談会出席者;1000号を踏襲した構成で。1000号の経験者(長沼先生)、1000~1500までの役員・
委員で人選。
☑1000号の表紙イラスト →
彩画堂に依頼?(調査中) → 宮下正弘先生か?
当時を知る県医事務局の担当職員は亡くなっている。
☑1500号の表紙をどうするか
→ 矢口高雄氏
☐1500号の題字をどうするか
☑1500号は、お知らせ欄等のレギュラー項目は載せない。
【h27.6.23第3回医報編集委員会】
☐基本方針として、1001号から1500号までの内容とする。
☐秋田医報沿革史は追記する。
☑彩画堂に伊藤委員長が確認。→不明
☑1000号座談会の出席者に井田理事がコンタクトをとる。
【h27.6.23第3回医報編集委員会】
☑秋田県ゆかりの芸術家に表紙を依頼してはどうか
→ 矢口高雄氏
【h27.7.28第4回医報編集委員会】
☑表紙は継続検討、秋田ゆかりの芸術家?
→ 矢口高雄氏
□原稿は“役職”で事前に依頼。
【h27.8.25第5回医報編集委員会】
□原稿は“役職”で事前に依頼する。
□できるだけカラーで
☑広告収入を雑収入ではなく、1500号に使いたい → 公認会計士に確認「雑収入」
□座談会 or 原稿(質問)依頼
□座談会?、日時・会場
□祝賀会(開催可能か、理事会に諮る)、日時・会場
☑データDVDを委員へ。
→
DVDに入りきらない。表紙一覧の印刷方法を検討中。
☑沿革史を振り分ける
【h27.9.15第6回医報編集委員会】
☑見積もり:2200冊(ページ単価10,000円)、2500冊(ページ単価10,400円)、カラーは1ページ
20,000円加算。
☑矢口氏画集、医報PDFデータ →
回覧中
【h27.10.27第7回医報編集委員会】
☑顔写真を全てカラーにした場合の見積もり。→約66万円の増額
【h27.11.24第8回医報編集委員会】
☑執筆者の顔写真は白黒で。
□次回、表紙決める。
□表紙を彩った写真を4月頃までに一人5点選出。
☑お知らせ欄は通常どおり。
【ML】
☑開始シリーズ、廃止シリーズ調べる
1000号から1500号までの間に、新しく始めたシリーズ、廃止したシリーズ
兎の耳 ~1361.11.1
会員の声 随時掲載、近年掲載なし
特集 准看問題を考える 1052.12.15~1040.6.15
特集 カルテは誰のもの?
1072.10.15~1074.11.15
全国会報ウォッチング 随時掲載、近年掲載なし
郡市医師会報点描 1017.7.1~
医師の再就職情報窓口 1096.10.15~
ホームページ掲示板から 1115.8.1~1124.12.15
医報に一言 随時掲載、近年掲載なし
郡市医師会トピックス 1166.9.15~
休診日 1165.9.1~
若手医師のページ 1180.4.15~
帰去来 1166.9.15~
開業しました 1313.11.1~
東日本大震災 1372.4.15~1375.6.1
郡市医師会&会誌紹介 1371.4.1~1393.3.1
【参考】
・秋田医報1000号
http://www.akita.med.or.jp/ihou/1000.pdf (約60MB)
・秋田医報500号
http://www.akita.med.or.jp/ihou/500.pdf
・関係資料一式
http://www.akita.med.or.jp/ihou/1500data/
(7.3MB)
「表紙を彩った写真」「秋田医報沿革史」等の分担表
1 伊藤委員長
1001 号から
1062 号まで
62 冊ずつ
2 岩崎副委員長
1063 号から
1124 号まで
62 冊ずつ
3 後藤委員
1125 号から
1186 号まで
62 冊ずつ
4 蓮沼委員
1187 号から
1248 号まで
62 冊ずつ
5 柳谷委員
1249 号から
1310 号まで
62 冊ずつ
6 安岡委員
1311 号から
1372 号まで
62 冊ずつ
7 井田理事
1373 号から
1434 号まで
62 冊ずつ
8 佐藤常任理事
1435 号から
1496 号まで
62 冊ずつ
秋田県医師会 会長 副会長
●:会長
○:副会長
S18
23~ 25~ 27~ 29~ 31~ 33~ 35~ 37~ 39~ 41~ 43~ 45~ 47~ 49~ 51~ 53~ 55~ 57~ 59~ 61~ 63~ H2~ 4~
~22
片岡 幸吉
●
黒田 利盛
○
神崎 三益
●
山信田 嘉平
●
●
●
渡部 均
○
○
○
○
○
○
松野 朝造
鈴木 次男
○
○
○
○
●
●
●
●
小林 正観
○
京 五郎
○
渡部 均
佐藤 民二郎
藤原 慶一郎
吉本 冨雄
内藤 賢一
神馬 恒成
能登 彰夫
6~
●
○
○
○
○
○
○
○
●
●
●
○
○
○
●
○
○
●
○
○
○
○
○
●
●
○
○
●
●
●
●
●
H2.3まで
熊谷 正之
○
○
○
○
○
H2.3まで
熊谷 貞夫
○
○
○
○
○
竹本 吉夫
畑沢 実
●
●
H4.7.21
土方 文生
○
○
H5.3.1
五十嵐 信寛
○
○
○
●
●
○
○
穂積 惇
小林 尚壬
H5.3.27~
H5.7.10~H8.2.2
秋田県医師会 会長 副会長
H
8~
●:会長
H
H
H
H
H
H
H
H
H
H
H
H
10~ 12~ 14~ 16~ 18~ 20~ 22~ 24.4~ 26.6~ 28.6~ 30.6~ 32.6~
藤原 慶之 ●
H8.11.13迄
寺田 俊夫
○
●
●
●
●
林 雅人
○
○
○
○
○
佐藤 祥男
○
○
○
○
○
H8.11.14~会長代行・H9.1.18~会長
H9..3.22~副会長
小山田 雍
●
●
●
斎藤 征司
○
○
○
福田 光之
○
○
坂本 哲也
西成 忍
○:副会長
○
●
●
○
○
○
○
歴代郡市医師会長 ※1000号発行時(平成7年10月15日)以降~
鹿角市鹿角郡医師会
時永達男 ~h12/3
大里祐一h12/4~h18/3
小笠原武h18/4~
大館市北秋田郡医師会
(現大館北秋田医師会)
佐藤祥男 ~h26/3
奈良正人h26/4~
能代市山本郡医師会
小西重夫 ~h10/3
黒川 元h10/4~h18/3
三田重人h18/4~h22/3
山須田健h22/4~
男鹿市南秋田郡医師会
佐々木宣明 ~h8/3
(現男鹿潟上南秋医師会)
笹尾 知h8/4~h16/3
千葉裕一h16/4~h18/3
神田 仁h18/4~
秋田市医師会
阿部士郎 ~h10/3
大野 忠h10/4~h18/3
福島幸隆h18/4~h26/3
松岡一志h26/4~
秋田大学医師会
佐藤光三 ~h8/3
櫻木章三h8/4~h10/3
三浦 傅h10/4~h12/3
加藤哲朗h12/4~h14/3
田中俊誠h14/4~h16/3
山本文雄h16/4~h22/3
真鍋 求h22/4~h24/3
伊藤 宏h24/4~h26/3
本荘市由利郡医師会
(現由利本荘医師会)
菅原和夫 ~h14/3
佐藤 誠h14/3~h22/3
金 直樹h22/4~
仙北郡医師会 ~h16/1
栗林明弘 ~h12/3
滑川五郎h12/4~h16/1
大曲市医師会
(現大曲仙北医師会)
荒井 嗣 ~h12/3
下山維敏h12/4~h18/3
山下榮敏h18/4~h24/3
池田芳信h24/4~
平鹿郡医師会 ~h17/11
石田六也 ~h8/3
渡部 恒h8/4~h12/3
中川輝彦h12/4~h16/3
高橋昭博h16/4~h17/11
横手市医師会
樋口 潔 ~h8/3
針生敬三h8/4~h14/3
小山幸夫h14/4~h20/3
西成 忍h20/4~
湯沢市雄勝郡医師会
斎藤敏昭 ~h10/3
小野崎幾之助h10/4~
h22/3
佐藤政弘h22/4~
羽渕友則h26/4~
歴代秋田医報編集委員
昭和24年7月
「秋田医報」創刊
編集は役員及び経験のある会員として、深味三郎(理事)、並木資四郎、佐藤秀一、川
原田理七(理事)、関
闡、神田豊吉、佐藤 茂、各氏が担当。
昭和27年2月
小林正観氏が編集を担当、企画・原稿集めは並木資四郎理事が担当、アレンジ・校正は
編集兼印刷発行人の石川事務長が担当。
昭和32年2月
「秋田医報社」誕生
編集兼発行人・小林正観
編集委員・小林正観理事、吉本冨雄理事、穂積
昭和38年6月
編集委員・山本氏辞任し、松野
惇氏、島田洋治理事、山本十士二氏。
清氏就任。
昭和41年以降は就任年月がはっきりしています(理事、常任理事、顧問含む)。
※小林正観 昭和41年4月~45年3月
※吉本冨雄 昭和41年4月~47年3月
※島田洋治 昭和41年4月~59年3月 18年
※松野 清 昭和41年4月~55年3月 14年
※石田秀一 昭和41年4月~59年3月 18年
※森本 登 昭和41年4月~43年3月
※牛込善正 昭和45年4月~47年3月
黒川一男 昭和45年4月~59年3月 14年
川原 浩 昭和49年4月~59年3月 10年
樋口 潔 昭和49年4月~59年3月 10年
金 市郎 昭和49年4月~51年3月
渡辺節躬 昭和51年4月~55年3月
三浦 亮 昭和53年4月~55年3月
大野 忠 昭和53年4月~61年3月
渡部 侃 昭和53年4月~55年3月
※畑沢 実 昭和55年4月~59年3月
長沼雄峰 昭和57年4月~平成10年3月 16年
花田雅寧 昭和57年4月~61年3月
荒井 嗣 昭和57年4月~平成4年3月 10年
三浦竜三 昭和59年4月~61年3月
栗林明弘 昭和61年4月~63年3月
馬場英行 昭和61年4月~平成6年3月
針生敬三 昭和61年4月~平成8年3月 10年
鈴木一夫 昭和61年4月~平成12年3月 14年
千葉満郎
進藤和夫
※東海林博
黒川 元
福島幸隆
大倉俊弥
山本 久
杉山 和
福田光之
柳澤 宗
川村光夫
佐藤家隆
三田重人
井田隆夫
山須田健
寺田邦彦
朝倉健一
鈴木明子
高橋 晶
淡路利行
萱場広之
千葉裕一
児玉 光
伊藤正直
井上多恵
岩崎洋一
後藤 尚
設楽芳宏
柳谷直樹
田村広美
蓮沼直子
安岡健二
平成2年4月~6年3月
平成2年4月~4年3月
平成4年4月~10年3月
平成4年4月~6年3月
平成6年4月~14年3月
平成6年4月~8年3月
平成8年4月~14年3月
平成8年4月~12年3月
平成8年4月~10年3月
平成10年4月~12年3月
平成10年4月~13年9月
平成10年4月~
平成12年4月~14年3月
平成12年4月~18年3月、平成20年4月~
平成12年4月~16年3月
平成13年11月~16年3月
平成14年4月~24年3月
平成14年4月~18年3月
平成14年4月~16年3月
平成16年4月~18年3月
平成16年4月~18年3月
平成16年4月~18年3月
平成16年4月~18年3月
平成18年4月~
平成18年4月~20年3月
平成18年4月~
平成18年4月~
平成18年4月~24年3月
平成18年4月~
平成18年4月~20年3月
平成20年4月~
平成24年4月~
歴代委員長
川原 浩
大野 忠
長沼雄峰
鈴木一夫
山本 久
井田隆夫
朝倉健一
伊藤正直
昭和57年4月~59年3月
昭和59年4月~61年3月
昭和61年4月~平成6年3月
平成6年4月~12年3月
平成12年4月~14年3月
平成14年4月~18年3月
平成18年4月~24年3月
平成24年4月~
歴代副委員長
大野 忠 昭和57年4月~59年3月
花田雅寧 昭和59年4月~61年3月
鈴木一夫 昭和61年4月~平成6年3月
長沼雄峰 平成6年4月~8年3月
福島幸隆 平成8年4月~12年3月
川村光夫 平成12年4月~13年9月
山須田健 平成14年4月~16年3月
朝倉健一 平成16年4月~18年3月
設楽芳宏 平成18年4月~24年3月
岩崎洋一 平成24年4月~
委員長、副委員長の記録は昭和57年以降しかありません。
(平成27年5月20追記)
参考)1000号祝賀会出席者
1/1新春随想
資料5
1
鷲田清一氏の「折々のことば」より
荒 井 嗣
2
オズワルドはなぜ映画館に逃げ込んだのか?
‐JFK暗殺を巡るささいな謎 その11‐
鈴 木 裕 之
3
今でしょ!ラグビー!!
曽 根 純 之
4
訪問(在宅)診療雑感(その17)診療所付きデイサービス 荻 原 忠
5
「日本書紀の謎を解く」(その3)「未知の暦」
福 田 健
6
古希の新しい職場
花 岡 農 夫
7
写俳あれこれ
真 木 正 博
8
シルバーウィーク2015旅行記
中 村 純 一
9
避難小屋
小笠原 史
10
旧友たちとの再会
朝 倉 健 一
11
解剖学書の著者のことなど
川 原 浩
12
県民性
肥田野 文 夫
13
80年ぶりに再会した屏風にちなんで
高 階 高
14
人間到る処青山あり、または年寄りの冷や水
佐々木 静一郎
15
「心の風邪」とバズワード
矢 幅 義 男
16
空中ブランコ
三 浦 亮
17
注 射
黒 川 博 之
18
スクワットと私
中 島 発 史
19
もしも酒飲みが、サラダ油を止めたら?
田 中 秀 則
20
私が秋田にいる訳
市 川 晋 一
21
100歳老人
坂 本 哲 也
22
犬との生活
黒 澤 尚
23
三崎海岸クライミング
橋 爪 隆 弘