L`ultima sposa di Palmira

読んでみたい
人のイタリア人作家
10
Rea d Legg Italiano
To kyo 2012
F o nd az ione Arnold o e Al b e r t o M onda dor i
w w w. fond az ionem onda dor i .i t
Is t itu to Italiano di Cu l t u r a di Toky o
w w w. iictokyo. este r i .i t
Tradu z ione d i Nana ko S at o
Pubblicato da C -Li g h t Pu b l i s h i ng
読んでみたい10人の イ タ リ ア 人 作 家
東京 2012
企画:アルノルド・エ ・ ア ル ベ ル ト ・ モ ン ダ ド ー リ 財 団
www. fond azi one m ondador i .i t
イタリア文化会 館 東 京
www. iictokyo.e s t e r i .i t
翻訳:佐藤奈々子
発行:シーライトパブ リ ッ シ ン グ
Read LeggItaliano
Tokyo 2012
Fondazione Arnoldo e Alberto Mondadori
www.fondazionemondadori.it
Istituto Italiano di Cultura di Tokyo
www.iictokyo.esteri.it
Traduzione di Nanako Sato
Pubblicato da C-Light Publishing
〔凡例〕掲載(紹介)スタイル
№・タイトル・著者名
作品の部分訳
作品解説
著者プロフィール
R ea d l eggItal i ano 読んでみたい10人のイタ リ ア 人 作 家
Read legg Italiano は 、 イ タ リ ア の 本 を 紹 介 す る 企 画 と し て 、 ふ た
つ の 大 き く 異 な る 性 格 の 経 験 が 出 会 う こ と に よ っ て 生 ま れ ま し た。
そ の ひ と つ、 C AR TADITAL IA は、 イ タ リ ア 文 化 会 館 ス ト ッ ク ホ ル ム
が2009年に創刊した季刊のバイリンガル雑誌で、現代のイタリ
ア文化の多様な側面―文学から映画、演劇から視覚芸術まで―を紹
介してきました。他方 、 COPY I N I TALY は 、 ミ ラ ノ の ア ル ノ ル ド ・
エ・アルベルト・モン ダ ド ー リ 財 団 が 2 0 0 9 年 に 展覧 会 「 1 9 4 5
年から現代までの世界 の イ タ リ ア 人 作 家 」に よ っ て 開始 し た プ ロ ジ ェ
ク ト で、 戦 後 か ら 今 日 ま で イ タ リ ア 文 化 の 世 界 的 な プ ロ モ ー シ ョ ン
に お い て、 出 版 メ デ ィ ア が 果 た し た 役 割 の 再 評 価 を お こ な う こ と を
目的としています。
Re ad legg Italian o は 、 今 年 、 東 京 ( 7 月 5 - 8 日 )、 イ エ テ ボ
リ( 9 月 2 7 - 3 0 日 ) の ふ た つ の 大 規 模 な 国 際 ブ ッ ク フ ェ ア に お
いて、現代イタリア人小説家の最新作を抜粋・翻訳した選集によっ
て、「 読 ん で み た い 1 0 人 の イ タ リ ア 人 作 家 」 を イ タ リ ア 国 外 の 出
版 社 に 提 案 し ま す。 印 刷 版 ・ 電 子 版 の 両 形 式 で 刊 行 さ れ る 「 R e a d
l e g g It al iano 読 ん で み た い 1 0 人 の イ タ リ ア 人 作 家 」 は 、 さ ま ざ
ま な 出 版 社 が 選 ん だ 作 品 の サ ン プ ル ・ テ ク ス ト を 通 し て、 現 代 の イ
タリア小説の略図を描きだそうというものです。日本語版はイタリ
ア文化会館東京の協力 に よ っ て 制 作 さ れ ま し た 。
Re ad leg g Italiano は 、よ り 大 き な 目 標 に 向 か う た めの 第 一 歩 で す 。
本 企 画 は、 イ タ リ ア 出 版 協 会 と の 緊 密 な 協 力 関 係 に も と づ き、 イ タ
リ ア の 図 書 文 化 を 支 え て い る 公 的 ・ 私 的 団 体 の 支 援 を 得 な が ら、 イ
タリアの出版活動を国際的に広めていくための多言語によるウェブ
サ イ ト と い う 形 に 結 実 す る 予 定 で す 。 こ の サ イ ト を 通 じ て、 図 書 関
係 の 仕 事 に 従 事 す る 人 々( 出 版 人、 図 書 館 員、 教 師 ) や イ タ リ ア に
関心のある読者の人々は、イタリアの出版業界を理解するのに役立
つ豊富で詳細な情報に加えて、イタリアの新刊書籍にかんする予告
や最新ニュースを手に 入 れ る こ と が で き る よ う に な り ま す 。
パ オ ロ・ グ ロ ッ シ ル イ ー ザ ・ フ ィ ノ ッ キ
CAR TAD ITALIA アルノルド・エ・アルベルト・モンダドーリ財団
ス ト ッ ク ホ ル ム ミ ラ ノ
6
Read leggItaliano è un’iniziativa di promozione del libro italiano all’estero che
nasce dall’incontro di due esperienze molto diverse fra loro, ma accomunate da un analogo
intento di valorizzazione del patrimonio culturale italiano sul piano internazionale: da un
lato, la rivista bilingue CARTADITALIA, che dal 2009 l’Istituto Italiano di Cultura
di Stoccolma dedica, con cadenza semestrale, ad una mappatura dei più diversi territori
della cultura italiana contemporanea, dalla letteratura al cinema, dal teatro alla musica alle
arti visive; dall’altro, il progetto COPY IN
ITALY, lanciato dalla Fondazione Arnoldo
e Alberto Mondadori di Milano nel 2009 con la mostra “Autori italiani nel mondo dal 1945
ad oggi”, intesa a valorizzare il ruolo svolto dalla mediazione editoriale nella promozione
della cultura italiana nel mondo dal dopoguerra ad oggi.
Read leggItaliano
debutta quest’anno in due grandi fiere internazionali del libro,
quella di Tokyo (5-8 luglio) e quella di Göteborg (27-30 settembre) proponendo agli
editori stranieri dieci autori italiani da scoprire, una raccolta di testi tradotti tratti da
alcuni fra i titoli più recenti della narrativa italiana contemporanea. Pubblicato in versione
cartacea e in versione elettronica, Read
leggItaliano offre al lettore, attraverso una
serie di testi campione, ognuno scelto da una diversa casa editrice, uno scorcio significativo
del romanzo italiano di oggi. L’edizione giapponese è stata realizzata con il contributo
dell’Istituto Italiano di Cultura di Tokyo.
Read leggItaliano è la prima tappa di un’ambiziosa iniziativa che, in stretta
collaborazione con Associazione italiana editori e con il sostegno delle maggiori istituzioni
pubbliche e private variamente preposte a sostenere il libro italiano, assumerà il formato
di un sito web plurilingue dedicato alla promozione internazionale dell’attualità libraria
italiana in cui gli operatori culturali (editori, bibliotecari, insegnanti) e i lettori interessati
all’Italia potranno trovare anticipazioni e aggiornamenti sulle novità in libreria, oltre ad un
ricco e articolato apparato di indicazioni utili per orientarsi nel mondo dell’editoria.
Paolo Grossi CARTADITALIA Luisa Finocchi
Fondazione Arnoldo e Alberto Mondadori
Stoccolma Milano
7
イ タ リ ア 文 化 会 館 東 京 を 代 表 し、Read legg iItal i an o 日 本 版 を
ご 紹 介 で き る こ と を た い へ ん 喜 ば し く 思 い ま す。 イ タ リ ア 文 化
会 館ストックホルムとアルノルド・エ・アルベルト・モ ン ダ ド ー
リ 財 団 に よ っ て 発 足 し た こ の プ ロ ジ ェ ク ト は、 ア ジ ア 地 域 に お
けるもっとも重要な本の国際見本市である東京国際ブックフェ
ア のイタリア文化会館ブースで紹介されます。
イタリア文化会館が TIBF へ参加して今年で七年目を迎えまし
た。 こ の 間、 文 化 会 館 は 書 籍 展 示 の 機 会 を 無 償 で イ タ リ ア の 出
版 社 に 提 供 し、 日 本 と イ タ リ ア の 出 版 業 者 の 仲 介 役 を 果 た し て
き ま し た 。 試 み は 成 功 し、 近 年 で は、 1 0 社 に 満 た な か っ た イ
タ リ ア の 参 加 出 版 社 も 3 0 社 ほ ど ま で 増 加 し ま し た。 ま た、 日
本の出版社からの問合せ件数も14件から50件となり大幅な
伸 び を 示 し ま し た。 さ ら に 、 版 権 取 引 の 点 に お い て も い く つ か
の 商談が成立しました。
こ の 電 子 書 籍 の 出 版 は、 最 近 イ タ リ ア 文 化 会 館 が そ の 図 書 室
で は じ め た 電 子 書 籍 の 貸 出 サ ー ビ ス と 連 動 し て い ま す。 実 際、
日 本 に は、 非 常 に 多 く の 、 そ し て た く さ ん の 本 を 読 む 読 者 が 存
在 し て い ま す。 こ の 国 で イ タ リ ア 文 学 が あ ま り 普 及 し て い な い
と す れ ば、 そ れ は も っ ぱ ら 情 報 不 足 に よ る も の で、 こ の 点 は 改
善 さ れ な け れ ば な り ま せ ん。 私 た ち は モ ン ダ ド ー リ 財 団 ― 私 た
ち の 大 い な る 感 謝 を 捧 げ ま す ― と 共 に、 こ の よ う な 方 法 に よ っ
てイタリアの本が日本の地でも存在感を発揮するのに貢献でき
れ ばと願っています。
イタリア 文 化 会 館 東 京
館長 ウンベルト・ ド ナ ー テ ィ
8
L’Istituto Italiano di Cultura di Tokyo è particolarmente lieto di presentare al pubblico
l’edizione giapponese di Read leggItaliano. Il progetto, ideato dall’Istituto Italiano di
Cultura di Stoccolma e dalla Fondazione Arnoldo e Alberto Mondadori, verrà presentato
presso lo stand dell’Istituto alla Tokyo International Book Fair 2012, la più importante fiera
internazionale del libro in area asiatica.
E’ il sesto anno consecutivo che l’Istituto partecipa alla TIBF, fornendo un’occasione
gratuita di visibilità alle Case Editrici italiane e svolgendo un ruolo di intermediario tra
editori giapponesi e italiani. Grazie al successo dell'iniziativa, in questi anni sono cresciuti
gli editori italiani presenti e rappresentati (da meno di una decina a circa trenta) ma,
soprattutto, sono aumentati considerevolmente i primi contatti (da 14 a oltre 50) con
editori giapponesi che hanno portato ad alcuni proficui risultati commerciali in termini di
cessione di diritti.
La realizzazione di questo ebook si accompagna tra l’altro al servizio di prestito digitale
che l’Istituto ha recentemente attivato presso la propria Biblioteca e che sta riscontrando
un notevole successo. Il Giappone infatti vanta lettori forti e numerosi e se la letteratura
italiana è ancora poco diffusa ciò è dovuto quasi esclusivamente ad un difetto di
informazioni che va assolutamente colmato. Speriamo in questo modo di contribuire,
insieme alla Fondazione Mondadori cui vanno i nostri più sentiti ringraziamenti, a
incentivare la presenza del libro italiano sul suolo giapponese.
Umberto Donati
Direttore
Istituto Italiano di Cultura di Tokyo
9
1
2
3
4
ミケーラ・ムルジア エドアルド・ネーシ サルヴァトーレ・ニッフォイ ヴァルテル・シーティ マルコ・ヴィーキ 12
33
51
66
179 164 143 130 116 102 82
『 よ い 夢 を 』 マッシモ・グラメッリーニ 『パルミーラの最後の花嫁』
ジュゼッペ・ルーポ 『名声と不遇と』
フェデリカ・マンゾン 『すべての悪人がウィーン生まれというわけじゃない』
アンドレア・モレジーニ
『終わらせる女』
『私たちの物語』
『亡者の霊』
『無駄な抵抗』
『フィレンツェに死す』
『 首 飾 り の 仕 業 』 アンドレア・ヴィターリ 版権担当者リスト 10
5
6
7
8
10 9
1 Fai bei sogni
Massimo Gramellini24
2 L’ultima sposa di Palmira
Giuseppe Lupo43
3 Di fama e di sventura
Francesca Manzon60
4 Non tutti i bastardi sono di Vienna
Andrea Molesini75
5 Accabadora
Michela Murgia93
6 Storia della mia gente
Edoardo Nesi110
7 Pantumas
Salvatore Niffoi124
8 Resistere non serve a niente
Walter Siti137
9 Morte a Firenze
Marco Vichi155
10 Galeotto fu il collier
Andrea Vitali172
Contatti degli editori
11
182
1
Mass i m o G ram e l l i n i
Fa i b e i s o g n i
『 よ い 夢 を 』 マ ッ シ モ ・ グ ラ メ ッ リ ー ニ
私たちが知っている、あるいは知らないことで、より大事なことは、私たちが知りたくないことだ。
エリック・ホッファー
例年のように、私は、大晦日に母のところへ連れていくためにマドリーナを迎えに行った。
マドリーナは、保存状態のいい年代物の木だ。光に満ちた家にひとりで暮らし、ミステリーを読み、
額縁に入った夫の写真とおしゃべりをする。時に棚を変えて母の写真と話すこともある。話題はたい
てい私 の こ と だ 。
たぶん一番厄介な情報を彼女に告げ口しているんだろう。私がふたりの妻をもったこと、もちろん
一度にひとりずつではあるけれど。それから弁護士にならなかったこと。
コートを着るのに手を貸している間、クリスマスに彼女に贈った本について話を切り出したのは彼
女のほ う だ っ た 。
「昨日の晩、読み終わったわよ…」
「ミステリーじゃないけど気にいった ?」
「もちろん、貴方が書いたんですからね」
「あの母親に関するくだりは ?」
「ええ、その話がしたかったの」
「あそこは唯一自伝的な箇所なんだ。少しだけ自分の体験を入れこんでみた」
「あれは本当に貴方の体験なのかしら」
13
「え … 違 う の ? 」
「あの通りっていうわけじゃない…。貴方に渡すものがあるの」
彼女は整理ダンスの引き出しの前で小さな鍵をごそごそといじりまわしていた。節はあるが美しい
その両手の間に一枚の茶色い封筒が見えた。
それを私に手渡しながら彼女は声を震わせていった。
「あれから四〇年、誰かが貴方に本当のことを告げるべき時かもしれない」
四〇 年 前
一
四〇年前の大晦日、私はあんまり早く目覚めたせいでまだ夢の中にいるような気がしていた。部屋
の中に漂う母の香りと、ベッドの足元にあった彼女の部屋着を覚えている。そんなところで母は何を
してい た ん だ ろ う 。
それから。窓枠に積もった雪と、家中の灯りがついていたこと、引きずるような足音と、傷を負っ
た生き 物 の あ の 叫 び 。
「アアアアアアーッ」
私は左右を違えてスリッパを履き、だけど履き直している暇はない。私の手に押された扉はすでに
ぎしぎしと音を立てていて、廊下の真ん中、クリスマスツリーの脇に彼の姿が見えた。
父さ ん 。
14
幼い私にとって頑丈な樫の木は、目に見えない何かの力で柳のようにしなり、彼は、見知らぬ二人
から両脇を抱えられていた。
父は、母が贈った緋色の部屋着姿だった。ベルトがあるべきところにカーテン止めの紐が通してあ
るやつだ。彼は足をばたつかせ身体を捩りながらぎくしゃくと動いていた。
私に気づくと同時に、彼がつぶやくのが聞こえた。「私の息子だ… 頼む、お隣へ連れていってやっ
てくれ 」
彼は頭をがっくりと背後に逸らしてクリスマスツリーにごつんとぶつかった。ガラスの羽根をつけ
た天使がぐらりと揺れて絨毯の上に落ちた。
見知らぬ男たちは無言ながら丁重に、年金暮らしの夫婦が住む踊り場の向かい側の家へ私を連れて
いった 。
ティリオとパルミーラ。
ティリオは縞柄の寝間着という常に変わらぬ鎧をまとい、ひどい難聴をこれ幸いと世の中と相対し
ていた。会話は筆談のみで、ただあの朝は、私が新聞の余白に活字体で書いた質問に頑として答えよ
うとし な か っ た 。
母さ ん
は
どこ ?
父さ ん は
15
誘拐
され た
の?
パルミーラが買い物袋を手に姿を見せた。
きっと夜の間に悪党たちが家に入ってきたんだ…。もしかしたらあの両脇から父さんを支えていた
男たち か ?
「坊や、坊やのお父さんはちょっと頭が痛くなったんだよ。でも今はもう大丈夫。あの男の人たち
はお父さんを診察にきたお医者さんよ」
「なぜ白衣を着てないの ?」
「あれを着るのは病院の中だけよ」
「なぜ二人いるの ?」
「救急病院のお医者さんはいつも二人組だからね」
「そうか。それならひとりがいきなり具合が悪くなっても、もうひとりが治せるもんね。母さんは
どこ ? 」
お父さん ?が買い物に連れていったよ」
「いつ戻ってくる ?」
「じきに戻るさ、大丈夫。ホットチョコレートを飲むかい ?」
母がいないから、私はチョコレートで気持ちを満たした。
16
数時間後、私は両親の一番の親友の家へ連れていかれた。
ジョルジョとジネッタ。
私の中では彼らはいつも二人一組だ。母と父は彼らの結婚式で出会い、その場面は私の幼い頭脳を
刺激してやまなかった。
「ねぇ、ママ。もしジョルジョとジネッタがママをパーティに招待するのを忘れてたとしても、僕
のママはママだったのかな、それとも違う招待客の女の人だったのかな」
職人の前掛けのように切り傷や斑点でいっぱいなのに、私の舌は疲れ知らずだった。
「こんな器具をつけているのに息子さんが話せるのはまるで奇跡だ」と小児科の医師は母に告げた。
「先生、もっと別な奇跡が必要ですわ。この子のおしゃべりをたまに止められるような」そう彼女
は応じた。「これだけ口が達者なら弁護士になるでしょう」
これには賛成できなかった。私は話すのをやめて書き始めたかったのだ。誰か大人が私について何
か不当なことをしたと感じた時、その人の顎の下でボールペンを振りながら言ったものだ。
「大きく
なったら全部本に書いちゃうからね。タイトルは『僕という少年』だよ」
タイトルは改善の余地があったけれど、その本は衝撃的なものになっていたはずだ。
『一房
実は私は本当は画家になりたかった。私は六歳にしてすでに最後の傑作を描きあげていた。
のブドウを食べる母さん』だ。房は母の二倍ぐらい高く、ブドウの実はツリーについている球のよう
母はそれをキッチンの壁に飾って、訪れる親戚たちに自慢げに見せていた。彼らの当惑した顔つき
で、母にはその実と全く同じ顔がついていた。
17
から、私は生涯初の実存的託宣を受けた。すなわち、私に絵描きの才能はない。私は、自分の内側に
ある世界を言葉を使って描き出さなければいけないのだと。
ジョルジョとジネッタの家では、この上なく侘しい夕食となった。会話を盛り上げようとした私の
努力も空しく、バターで味付けされたパスタと小さなステーキの後、九時になると私と彼らの十三歳
の息子は二段ベッドに押し込まれた。
パネットーネにも妥当な説明にもありつく術はなかった。母と父は買い物に行ったとかで、今朝の
続きなのかあるいはまた別の買い物か、どうあれ不可思議なことにかわりはなかった。そして私たち
はすぐに寝なければいけなかった。
私の上にいる、隔離場所のお仲間の規則正しい寝息を覚えている。それから、半開きのままの鎧戸
から入ってきて室内の暗闇を消し去った午前零時の花火。
毛布の下に潜り込んで、目はらんらんと、頭は魔法をかけられたメリーゴーランドのようにぐるぐ
ると、自分はこのクリスマス休暇中にこんな罰を受けるようなひどいことをしただろうかと考え続け
た。
嘘をついたのが二回、母さんにきちんと返事をしなかったことが一回、あと、三階に住んでいるユー
ヴェの息子のリッカルドの尻を蹴飛ばした。
そんなにひどい罪じゃない気がした。とくに最後のひとつは。
18
ニ
新年の最初の日、ジョルジョとジネッタは私に、母は買い物の帰りにいくつかテストを受けるため
に病院へ寄らなければならなくなったのだと言った。もう何ヶ月も前から、いつも買い物、いつもテ
ストだ。それもいつも病院で。もし学校へ来るんだったら、母さんに答えを丸写しすることを教えて
あげた の に 。
先生から出された休暇中の宿題のひとつと格闘しながら、そんなことを考えていた。ひとりの男の
子が三キロメートルの道程を進んでいます。彼は二ヘクトメートル (長さの単位、百メートル)ごとにボー
ルを二個失くします。一九〇〇メートル進んだ地点で彼は何個のボールを失くしているでしょう。
私はこのヘクトメートルというやつを憎んでいた。おまけにこの間抜けな子どもは、あちこちでボー
ルを失くすくせにまるで何事もなかったかのように歩き続けるのだ。
午後になると母の病院へ私を連れていくために父がやってきた。彼は頑丈な樫の木に戻っていた。
「まずは母さんに花を買おうよ」と私は提案した。
「いや、まずはバルーに会いに行くんだ。彼から私たちに大事な話がある」
私はイヤだと言って動かなかった。バルーは、私が数ヶ月前から通っていたボーイスカウトの少年
組担当の司祭だった。彼が彼の出番を待ってくれるなら喜んで彼に会いに行っただろう。でも母さん
への道に割って入るなんてありえなかった。
ジョルジョとジネッタが仲裁に入って名誉ある妥協案が取りつけられた。私たちはバルーに会って
から病院へ行く、ただしその前に花を買う。
19
赤い薔薇の花束を両手に抱えてボーイスカウトの礼拝所へ行った。
『ジャングル・ブック』の熊から、同じ名前を持つバルーは、
もっさりとした物腰しと善良さをもらっ
ていた。彼は、少年組が集会に使う広間に私たちを通すと、すぐさまサッカーのリーグ戦をネタにし
た軽口を叩いた。ブエノス・アイレス生まれで私たち同様トリノに住んでいるのに、彼はジジ・リー
ヴァのいるカリアリのファンだった。
彼はサッカー選手のフィギュアを私に見せようとしたが、父がそれを諌めた。
「バルー、また次の機会に見せてやってくれ」
彼は溜息をつくと、私に天井を見るよう言った。私も色塗りを手伝った青いチョークの空があった。
彼は巨大な片手を私の肩に置き、もう片方の手でチョークの空を指した。
「母さんは君の守護天使だ、わかるだろう。彼女は少し前から、君をもっとちゃんと守るために空
を飛ばせてくださいとお願いしていたんだ、そして昨日、主は彼女をそのもとにお呼びになった…」
凍ったスプーンがお腹に差し込まれて、私のすべてを掻き出すのを感じた。とっさに父のほうを向
いて嘘だという兆しを探したけれど、その赤い目と蒼白の唇が見えただけだった。
「お祈りをしよう」とバルーが言った。
「主よ、彼女に永遠の休息をお与えください。彼女に絶えまなき光を。安らかな眠りを。そうなら
んこと を 」
バルーの穏やかな声が人影のない教会の身廊に響き渡った。最前列に跪いて、赤い花の花束を胸に
しっかと抱いて、私は彼の調子に合わせて唇を動かし、けれども心の底からは違う言葉が流れ出てき
20
ていた 。
「主よ、母さんにほんの少しの休息を。母さんを目覚めさせて、コーヒーを淹れてあげてすぐにこ
こへ送り返してください。だって僕の母さんなんだ、わかりますよね ? 母さんをここへ連れてき
てくれるか、僕をそっちに連れてってくれるか。選んでください。でも急いで。今から目を閉じます
から、また開けるまでには決めておいてくれますよね。そうでありますように」
21
〔作品 解 説 〕
『よい夢を』は、一枚の封筒の中に四十年間隠されていた秘密を描いた物語。ひとりの少年、そし
てひとりの大人の物語だ。彼は、母を失うというこの上ない苦しみと、最も厄介な怪物、すなわち生
きることへの不安に立ち向かうことを覚えていく。『よい夢を』は、人生において何かを失った人た
ちに向けて書かれている。愛情や、仕事や、大切なものを。彼らは現実を受け入れることを拒み、や
がて自分を見失ってしまう。まさにこの小説の主人公のように、爪先立ってうつむいて歩く。空も、
大地も、彼を怯えさせるものだからだ。
『よい夢を』には、現実とそれを知ることへの恐れが描かれている。苦悩に沈みそれを越える主人
公を通じて、私たちは、どんな時でも、それぞれの限界の先へ進むべく不安を捨て去ることができる
のだ、ということを思い出させてくれる。 マッシモ・グラメッリーニは、揺るぎない支えを欠く人
生における、さまざまな強い感情と傷を拾い集めた。孤独や欠落感や孤立感との絶えまなき闘いを、
情熱と嫌みのないアイロニーをもって描き出してみせた。苦悩の果ての到達点は、愛情と真に豊かな
人生の獲得だ。そうやって主人公は、ようやく地に足をつけ、空を見上げながら生きていけるように
なる。
22
マッシモ・グラメッリーニ Massimo Gramellini
日刊紙 La Stampa の副局長のひとりで当紙に記事を執筆。国
営テレビ Rai3 の Che tempo fa にレギュラー出演。主な著書に
Colpo grosso(1994 年刊。クルツィオ・マルテーゼ、ピーノ・コッ
リアスとの共著)、Compagni d’Italia(1996)、Buongiorno(2002)
、
Granata da legare(2006)、Longanesi 社から出版された Cuori
allo Specchio、Ci salveranno gli ingenui がある。
2010 年、 初 の 小 説 L’ultima riga delle favole(Longanesi)
を発表して 30 万部を売上げ、40 週に渡ってベストセラー・ラ
ンキングの首位を占めた。 本著作の諸権利は、すでにブラジ
ル(Objetiva)、 フ ラ ン ス(Robert Laffont)、 ド イ ツ(Kailash/
Random House)、オランダ(De Bezige Bij)、スペイン(Suma
das Letras/Santillana)、 台 湾( 繁 体 字、Solo Press)
、トルコ
(Pegasus)に譲渡されている。
『よい夢を』は1週間で 10 万部の売上げを記録した。
23
1
Fai bei sogni
Massimo Gramellini
Molto più importante di quello che sappiamo o non sappiamo è quello che non vogliamo
sapere.
Eric Hoffer
Come ogni anno, l'ultimo dell'anno sono passato a prendere Madrina per accompagnarla
dalla mamma.
Madrina è un legno antico ben conservato. Vive da sola in una casa piena di luce, dove
legge libri gialli e chiacchiera con le fotografie incorniciate di suo marito. Ogni tanto
cambia mensola e parla con la foto della mamma, principalmente di me.
Suppongo le taccia le informazioni più scabrose. Che ho avuto due mogli, sia pure una alla
volta. E che non ho poi fatto l'avvocato.
Mentre la aiutavo a infilarsi il cappotto, è stata lei a portare il discorso sul romanzo che le
avevo regalato a Natale.
«L'ho finito stanotte...»
«Ti è piaciuto, anche se non è un giallo?»
«Certo, lo hai scritto tu.»
«E le pagine che riguardano la mamma?»
«Appunto di quelle volevo parlarti.»
«Sono le uniche autobiografiche. Ci ho messo un pezzo della mia storia lì dentro.»
«Sei sicuro che sia la tua storia?»
«Perché... non lo è?»
«Non è andata proprio così... Caro il mio ragazzo, avrei una cosa da darti.»
L'ho vista armeggiare con chiavi da gnomo intorno ai cassetti del comò. Fra le sue belle
mani piene di nodi è spuntata una busta marrone.
Me l'ha consegnata con un tremolio nella voce.
«Dopo quarant'anni sarebbe ora che qualcuno ti dicesse la verità.»
QUARANT'ANNI PRIMA
I
Quarant'anni prima, l'ultimo dell'anno mi ero svegliato così presto che credevo di sognare
25
ancora. Ricordo l'odore della mamma nella mia stanza, la sua vestaglia ai piedi del letto.
Che ci faceva lì?
E poi: la neve sul davanzale, le luci accese in tutta la casa, un rumore di passi strascicati e
quel guaito di creatura ferita.
«Nooooo!»
Infilo le pantofole nei piedi sbagliati, ma non c'è tempo per rimediare. La porta sta già
cigolando sotto la spinta delle mie mani, finché lo vedo in mezzo al corridoio, accanto
all'albero di Natale.
Papà.
La quercia della mia infanzia, piegato come un salice da una forza invisibile e sorretto per
le ascelle da due sconosciuti.
Indossava la giacca da camera color porpora che gli aveva regalato la mamma. Quella
con un cordone delle tende al posto della cintura. Si muoveva a scatti, scalciando e
contorcendosi.
Appena si accorse della mia presenza, lo sentii mormorare: «È mio figlio... Per favore,
portatelo dai vicini».
Abbandonò la testa all'indietro e urtò l'albero di Natale. Un angelo con le ali di vetro perse
l'equilibrio e precipitò al tappeto.
Gli sconosciuti erano muti ma gentili e mi parcheggiarono sul lato opposto del
pianerottolo, da una coppia di pensionati.
Tiglio e Palmira.
Tiglio affrontava la vita dietro la corazza immutabile del suo pigiama a righe e con il
conforto di una ostinata sordità. Comunicava soltanto per iscritto, ma quella mattina
si rifiutava di rispondere alle domande che gli avevo scarabocchiato in stampatello sul
margine bianco del giornale.
DOV'È
LA
MAMMA?
HANNO
RAPINATO
PAPÀ?
26
Dei banditi dovevano essere entrati in casa durante la notte... E se fossero stati i due che lo
tenevano per le ascelle?
Apparve Palmira con le borse della spesa.
«Papà ha avuto un po' di mal di testa, bambìn. Ma adesso sta bene. Quei signori erano i
medici che lo hanno visitato.»
«Come mai non avevano il camice?»
«Lo mettono solo in ospedale.»
«E come mai erano due?»
«I medici del pronto soccorso sono sempre in due.»
«Ah, giusto. Così se uno si ammala di colpo, l'altro lo può guarire. Dov'è la mamma?»
«Papà l'ha accompagnata a fare una commissione.»
«E quando torna?»
«Presto, vedrai. La vuoi una cioccolata calda?»
In mancanza della mamma mi accontentai della cioccolata.
Qualche ora dopo venni preso in custodia dai migliori amici dei miei.
Giorgio e Ginetta.
Non credo di averli mai considerati separatamente. Mamma e papà si erano conosciuti
al loro matrimonio, una circostanza che non smetteva di stimolare gli ingranaggi del mio
cervellino.
«Mamma, ascolta: se Giorgio e Ginetta si fossero dimenticati di portarti alla festa, saresti
stata sempre tu la mia mamma oppure un'altra invitata?»
Avevo una lingua mai esausta, nonostante fosse piena di tagli e di toppe come il grembiule
di un artigiano.
«È un miracolo che con un attrezzo simile suo figlio possa parlare» aveva spiegato il
pediatra alla mamma.
«Adesso di miracolo ne servirebbe un altro, dottore: riuscire ogni tanto a farlo stare zitto»
aveva risposto lei. «Con la parlantina che si ritrova mi diventerà un avvocato.»
Non ero d'accordo. Io volevo smettere di parlare e incominciare a scrivere. Quando mi
convincevo che qualche adulto aveva commesso un'ingiustizia nei miei confronti, gli
agitavo una biro sotto il mento: «Da grande racconterò tutto in un libro che si intitolerà Io
bambino».
Il titolo era migliorabile, ma il libro sarebbe stato una bomba.
27
La verità è che avrei preferito essere un pittore. A sei anni avevo già dipinto il mio ultimo
capolavoro: La mamma mangia un grappolo d'uva. Il grappolo era alto il doppio della
mamma, gli acini sembravano le palle dell'albero di Natale e la faccia della mamma era
identica a un acino.
Lei lo aveva appeso in cucina e lo mostrava con orgoglio ai parenti di passaggio. Dalle loro
facce perplesse avevo ricevuto il primo responso esistenziale: la pittura non sarebbe mai
stata il mio talento. Il mondo che avevo dentro avrei dovuto cercare di disegnarlo con le
parole.
A casa di Giorgio e Ginetta andò in scena il cenone più triste della storia. Malgrado i miei
tentativi di ravvivare la conversazione, io e il figlio tredicenne venimmo spediti nei letti a
castello alle nove di sera, dopo una pastasciutta e una bistecchina, entrambe al burro.
Non ci fu verso di ottenere una fetta di panettone e una spiegazione decente. Mamma
e papà erano andati a fare una commissione, la stessa della mattina o forse un'altra, ma
altrettanto misteriosa. E noi dovevamo filare subito a nanna.
Ricordo il respiro regolare del mio compagno di clausura sopra di me. E i fuochi di
mezzanotte che smacchiavano il buio della stanza attraverso le serrande non perfettamente
abbassate.
Rintanato sotto le coperte, gli occhi accesi e la testa vorticante come una giostra incantata,
continuavo a chiedermi cosa avessi combinato di tanto tremendo durante le vacanze di
Natale per meritare un castigo simile.
Avevo detto due bugie, risposto male una volta alla mamma e tirato un calcio nel sedere a
Riccardo, il bambino della Juve che abitava al secondo piano.
Non mi sembravano peccati gravi, specie l'ultimo.
II
Il primo dell'anno Giorgio e Ginetta mi dissero che al ritorno dalle commissioni la mamma
si era dovuta fermare in ospedale per alcuni esami. Erano mesi che non smetteva di fare
commissioni e di dare esami. Sempre in ospedale, poi. Se almeno fosse venuta a scuola, le
avrei insegnato a copiare.
La immaginavo alle prese con uno dei problemi che la Maestra ci aveva assegnato per
le vacanze. Un bambino percorre tre chilometri e ogni due ettometri perde due palline:
quante palline avrà perso dopo millenovecento metri?
28
Io detestavo gli ettometri. E quel bambino idiota che perdeva palline da tutte le parti,
eppure continuava la sua passeggiata come se niente fosse.
Al pomeriggio riapparve papà per accompagnarmi in ospedale dalla mamma. Era tornato
una quercia.
«Prima passiamo a prenderle dei fiori» proposi.
«No. Prima andiamo a trovare Baloo. Deve parlarci di una cosa importante.»
Mi impuntai. Baloo era il sacerdote dei lupetti, la sezione infantile degli scout che
frequentavo da qualche mese. Lo avrei salutato volentieri, se solo avesse aspettato il suo
turno. Però non poteva tagliare la strada alla mamma.
La mediazione di Giorgio e Ginetta propiziò un compromesso onorevole. Saremmo andati
in ospedale dopo l'incontro con Baloo, ma i fiori li avremmo comprati prima.
Mi presentai all'oratorio degli scout con un'aiuola di rose rosse fra le braccia.
Dall'orso del Libro della giungla, suo omonimo, Baloo aveva copiato i modi goffi e la
bontà. Ci accolse nella sala riservata alle riunioni dei lupetti e fece subito una battuta sul
campionato di calcio. Nonostante fosse nato a Buenos Aires e vivesse a Torino come noi,
tifava per il Cagliari di Gigi Riva.
Aveva delle figurine di calciatori da farmi vedere, ma papà lo interruppe.
«Gliele mostrerà un'altra volta, Baloo.»
Lui sospirò e mi chiese di guardare il soffitto: un cielo di gessetti azzurri che avevo
contribuito a colorare. Affondò una mano enorme nella mia spalla e con l'altra indicò il
cielo a gessetti.
«La mamma è il tuo angelo custode, lo sai. Da tempo chiedeva il permesso di volare lassù
per proteggerti meglio e ieri il Signore l'ha chiamata a sé...»
Sentii un cucchiaio di ghiaccio penetrarmi nella pancia e svuotarmela tutta. Mi voltai di
scatto verso papà, alla ricerca di qualsiasi indizio assomigliasse a una smentita, ma vidi
soltanto che aveva gli occhi rossi e le labbra bianche.
«Andiamo a pregare» disse Baloo.
«L'eterno riposo dona a lei, Signore. Splenda a lei la luce perpetua. Riposi in pace. Così
sia.»
La voce calda di Baloo risuonava lungo le navate della chiesa deserta.
In ginocchio nel primo banco, l'aiuola di fiori rossi serrata sul petto, muovevo le labbra al
suo ritmo, ma dal cuore mi sbocciavano parole diverse.
29
«Breve riposo dona alla mamma, Signore. Svegliala, falle un caffè e rimandala subito qui. È
mia mamma, capito? O riporti giù lei o fai venire su me. Scegli tu. Ma in fretta.
Facciamo che adesso chiudo gli occhi e quando li riapro hai deciso? Così sia.»
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Presentazione del libro
Fai bei sogni
Fai bei sogni è la storia di un segreto celato in una busta per quarant’anni. La storia di un
bambino, e poi di un adulto, che imparerà ad affrontare il dolore più grande, la perdita della
mamma, e il mostro più insidioso: il timore di vivere.
Fai bei sogni è dedicato a quelli che nella vita hanno perso qualcosa. Un amore, un lavoro,
un tesoro. E rifiutandosi di accettare la realtà, finiscono per smarrire se stessi. Come il
protagonista di questo romanzo. Uno che cammina sulle punte dei piedi e a testa bassa
perché il cielo lo spaventa, e anche la terra.
Fai bei sogni è soprattutto un libro sulla verità e sulla paura di conoscerla. Immergendosi
nella sofferenza e superandola, ci ricorda come sia sempre possibile buttarsi alle spalle la
sfiducia per andare al di là dei nostri limiti.
Massimo Gramellini ha raccolto gli slanci e le ferite di una vita priva del suo appiglio più
solido. Una lotta incessante contro la solitudine, l’inadeguatezza e il senso di abbandono,
raccontata con passione e delicata ironia. Il sofferto traguardo sarà la conquista dell’amore
e di un’esistenza piena e autentica, che consentirà finalmente al protagonista di tenere i
piedi per terra senza smettere di alzare gli occhi al cielo.
Fai bei sogni ha venduto 100.000 copie vendute in una settimana.
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Biografia dell’autore
Massimo Gramellini scrive sul quotidiano La Stampa, di cui è uno dei vicedirettori. E'
ospite fisso della trasmissione di Raitre Che tempo che fa. Ha pubblicato: Colpo Grosso
(con Curzio Maltese e Pino Corrias), 1994; Compagni d’Italia, 1996; Buongiorno, 2002;
Granata da legare, 2006 e, con Longanesi Cuori allo Specchio e Ci salveranno gli ingenui.
Nel 2010 Gramellini esordisce come romanziere con L’ultima riga delle favole (Longanesi)
vendendo 300.000 copie e restando in testa alle classifiche dei bestsellers per 40 settimane.
I diritti di questo libro sono stati venduti in Brasile - Objetiva, Francia - Robert Laffont,
Germania - Kailash/Random House, Olanda - De Bezige Bij, Spagna - Suma das Letras/
Santillana, Taiwan (Complex Chinese): Solo Press Turchia – Pegasus.
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2
Gi us e p p e Lu p o
L'u l t i ma sp osa d i Pa l m i ra
『パルミーラの最後の花嫁 』
ジュゼッペ・ルーポ
二
パルミーラ開拓者の物語
パトリアルカ・マッジョーレが家財道具と布団と衣類を詰め込んだ十五台の馬車を連れて、東方か
らトリベントの丘の麓に到着し、レヴァータ川の左岸に村の境界線を引いた正確な日付を知る者は誰
もいない。手はじめに彼は石灰と煉瓦で自分と妻のアルビーナのための家を造り、次に凝灰岩でその
周囲に壁を巡らせ、樫の並木でそれを補強し、さらに果実の木々やフェンネルの茂みやヒヨコマメ、
レンズマメやインゲンマメを植えるための菜園を作った。外壁の横に、子どもひとりにつきひとつず
つ、また別な家をいくつか建て、それらにはブドウ棚とワイン貯蔵室と川へ出られる地下通路がつい
ていた。こうしてパルミーラが誕生した。それは開拓者の家の周りに螺旋状に配された複数の家とア
ーチと階段の寄せ集めで、開拓者は、自分が骨を埋めんとするその地にある女性の名前をつけた。知
りあった女性は世界中に山ほどいたが、その人は最初の女で、若い頃に亡くなり、彼はどうしてもそ
の彼女のことが忘れられなかったのだった。
彼がどうやってその所有権を得るための資金を得たのか、それもまた誰も知らない。確かなのは、
パトリアルカは若い頃、馬ではなくラクダの背に乗り、山ほどの職に就いていたということ(石工、
大工、博労、荷馬車の御者、毛梳き職人、豚や羊の去勢人、粉挽き、採石人、織物商、木こりをした
経験がある)、そして、古参の執事たちも近寄れない倉庫に隠さねばならないほどの財を築いたとい
うこと だ 。
34
パトリアルカがパルミーラに落ち着いたのは六十歳の時だったが、彼は妻のアルビーナにまだ子ど
もを生ませることができると豪語していた。けれどもアルビーナは痛んだ食べ物にあたって死に、彼
はアルダムヴェナと二度目の結婚をした。かつて絹を求めて旅をしていた時に、インドで見つけたダ
イヤモンドとナポリで交換して手に入れた、彼に仕える五人のアラゴン生まれのメイドのひとりだっ
た。
七回の出産の後にアルダムヴェナはマラリア熱を患い、パトリアルカはまた別なメイドのヴェナン
ツィアを選ぶことになったが、彼女の運命も同じだった。さらにアラゴン生まれの姉妹の三番目と四
番目、カンタブリアとザモラーナも同様だった。彼女たちはパルミーラの開拓者に嫁ぎ、子どもたち
を産んで、不可解な病で死んだ。
この誕生と死の連鎖で、生と死を同時にもたらせるという、パトリアルカ・マッジョーレの精悍さ
についての噂が膨れ上がった。医師たちは診察をするたびに、
彼は完璧な健康状態にあることを認め、
若い女性をはべらせるその習慣を非難する者がいると、彼のような者は絶滅の危機にある種属なのだ
と、応 じ た 。
流産と早産で一年保たなかった幼児を除いて、パトリアルカの子どもは合計四十人。男子が二十八
人に女子が十二人、そして、彼らもまた父親同様に山ほどの子をつくり、百年のうちには、絶え間な
き近親相姦と異邦人との結婚により、マッジョーレの子孫は一千にも及んだ。パルミーラも単に家々
と菜園からなる一角ではなくなり、鍛冶屋、大工、仕立屋、靴職人、牛や馬の飼育者、商人、聖具屋、
絶食を説く者や修道女などが住み着いた。従兄と兄弟、叔父叔母と甥姪、曾祖父母と赤児、広がった
35
血族の蜘蛛の巣が道々に声を溢れさせ、ラバたちの鳴き声を太古からの音楽的郷愁で包み込んでいた。
パトリアルカの住居は他のすべてを見下ろし、昼夜となく見知らぬ者たちの訪問を受けた。彼の許
しがなければ婚姻はならず、商売の交渉もできず、家畜や土地の売買もならなかったのだ。その銀の
握りつきの杖で洗礼を受けないことには、誰ひとり、海の向こうを旅することも、幸運を求めて出立
することも、戦に出ることも叶わなかった。
パトリアルカ・マッジョーレは九十歳になり、子孫の群の中でもお気に入りの、アポッロニオの末
っ子ベネデットの結婚のための準備を進めていた。花嫁となるマリア・リトスカヤを見つけてきたの
は彼自身で、彼女は、ブラダーノの市場を巡って馬を売り歩いていた狡猾で喧嘩っ早いジプシー、コ
スタンティーノ・ルンガーロの長女だった。彼が彼女に目を止めたのはある出張の道中、嵐の日で、
彼は仕方なく家畜たちと荷馬車を食堂の回廊に避難させた。コスタンティーノ・ルンガーロは、手回
しオルガンを弾き、イナゴマメを食べる親族一同の真ん中に陣取っていて、パトリアルカは、雨の降
る庭で髪に白いリボンをつけて踊るひとりの娘に見惚れたのだった。たぶん十五歳ぐらい、孫の嫁に
ぴったりだ。彼はコスタンティーノ・ルンガーロを呼び、ふたりきりで話をした。どんな話がなされ
たのかは誰も、アラゴン生まれの五姉妹の唯一の生き残りで、パトリアルカとベッドを共にしたのに、
なぜか妊娠せずにいられたヌヴィア・クリスティアナですら知らない。
結婚式の日取りは復活祭の八日目と決まった。招待客の一覧が作られ、トリヴェントの丘の上に建
つ大邸宅、ボッカディルーポ農園は壁を塗り直されて、そこで祝宴が開かれることになっていた。そ
の間、クリスマス前にはすでにマリア・リトスカヤの親族が村へ到着した。二つの家族が知り合うの
36
にひと冬という時間があった。商売を中断して、パトリアルカとコスタンティーノは、西の菜園の、
ヒヨコマメとレンズマメの畝の真ん中で会談した。明日にもセイヨウサンザシが開花するだろうなど
と思いつつ、互いが互いの話に耳を傾けた。
結婚式の午餐のために、パトリアルカの息子たちは二十頭の羊と十五頭の豚、百キロの果物と五十
キロの小麦と三十ダースの卵を調達した。息子の嫁たちは一週間かけて料理の献立を決めた。それか
らアヴィリアーノとパトリアルカ・マッジョーレの楽団に連絡して、招待客に敬意を表して、東洋調
の牧歌のレパートリーを演奏するよう取り決めた。
祝いの日、アポッロニオ・マッジョーレは、太陽が山際から顔を出すより先に目覚め、父親に挨拶
しに行った。彼はベッドの中で骨の激痛に苦しんでいた…という話は、不妊を自覚してから夫と離れ
て、夕焼け色に染まるカーテンがかかった別室で眠っていたヌヴィア・クリスティアーナが彼にした
ものだ。実際は、顔に浅い眠りの微笑みを浮かべてはいたが、パトリアルカはもう何時間も前に息を
引き取 っ て い た 。
アポッロニオは、父親の性格を熟知していたから自分がどう振る舞うべきか逐一わかっていた。だ
から彼は部屋を出て、扉に鍵をかけ、兄弟だけを呼び集めた。そして全員一致で、この事実を誰にも
明かさないと決めた。ヌヴィア・クリスティアーナとその他の家族、妻たちと子どもたちと孫たち、
執事たちは、パトリアルカは夜の間にリューマチ痛に襲われたために冷気に当たれないと知らされた。
厩舎番は馬車と馬を磨き続け、
女たちは何事もなかったかのようにクリームと天花粉で化粧を続け、
給仕たちは皿やグラスや舞踏の時間を告げる鳩時計まで入ったトランクを抱えてボッカディルーポ農
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園へ赴く前に、制服の埃を払い続けた。
正午になるとコスタンティーノ・ルンガーロの娘は白い雌馬にまたがり、荷馬車と竹馬に乗った少
年たちの列を従えてパルミーラの道を進んだ。花籠と数珠つなぎの砂糖菓子で飾られた開拓者の家の
前を、通り過ぎてはまた戻り、少なくとも十回は往復して、司祭や修道女たちに会釈をし、パトリア
ルカ・マッジョーレの贔屓の孫に、彼女ほどふさわしい嫁はいないと人々が納得し始めた頃、親戚と
友人と楽団がボッカディルーポ農園に到着して、トランペットとタンバリンの調べにのって午餐が始
まった。パトリアルカと死んでしまった奥方たちを除けば、農園には、ヌヴィア・クリスティアーナ
が金の鳥籠で育てたカナリアに到るまで全員が揃っていた。
給仕たちは階上の鏡の間に大きな食卓をしつらえ、コスタンティーノ・ルンガーロは、たくさんの
盆が昼食の間の絨毯の上を行き来するのを見て息をのんだ。祝賀会が終わって一週間は食べ物を口に
しないだろうと思えるほどの。皿と次の皿の合間、鳩時計が鳴るたびに、楽団はマンドリンで聖歌を
演奏し、室内は踊り子たちでいっぱいになった。やがて第一部が終わると、疲れきった招待客たちは、
親族内の序列に応じて簡易寝台やラバ用の寝わらに横たわった。祝宴がお開きになった時、最初の一
皿から十二時間が経った時には、パトリアルカの二十八人の息子たちだけが食卓に残って、干しピー
マンを食べ、互いに肩を叩き合っていた。
二日目の午後、ちょうど全員が新たな夫婦の幸運を祝って乾杯しようとしている時に雨が降り出し
た。花嫁と花婿は砂糖菓子を配り、上質なリンネルのレースの房飾りがついた馬車で海辺の地へ旅立
った。
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空はまだ明るかったが、マッジョーレ家の者たちがパルミーラに戻る頃には雪になりそうだった。
父の寝室に入る前に、アポッロニオは再び兄弟たちを呼んで、ウンガロ一族が村を発つまではそれぞ
れの家族への通知を禁じると告げた。その誓いを得てから、彼は扉を開けた。寝台は空っぽで、キル
トの掛け布団と敷布はきちんと畳まれていた。パトリアルカが祝宴のために仕立てさせた服と靴、外
套と帽子、竹の杖と葉巻が消えていた。息子たちは、遺体がないため、葬儀を行うこともできず、誰
かが恐喝するために遺体をくすねていったのではないかと危ぶんだ。
翌月、花嫁と花婿は新婚旅行から戻ると、ドゥラスへ向けてアドリア海を渡る途中に、パトリアル
カが彼らの船室を訪ねてきたと報告した。彼は式服を着て、少なくとも二十歳ほど若返り、彼らの結
婚式に一緒にいてやれなくてすまなかったと言った。孫はまだ何も知らなかったが、祖父の目が、彼
の目と怯えたその妻の目と交差しただけで、マリア・リトスカヤは胎内に新たな生命を宿らせたのだ
った。
この報せはパトリアルカの神秘性をさらに膨らませた。彼の誕生日は守護聖人の日の祝祭のように
扱われ、グレゴリオ聖歌でミサが執り行われ、野兎狩りや現金が当たる福引き、竹馬競争やトレッセ
ッテの対抗戦が催された。何十人もの子どもが彼の名前を洗礼名としてもらい受け、戸籍係はそれぞ
れの血統を区別するために、それぞれが考えて好きな姓をつけられるという対処策を考え出した。こ
うして、マッジョーレ家の家系樹から、パルミーラのすべての家系が生まれたのだった。マドレロ家、
コネッサ家、モルガンテ家、スキオ家、アマトローネ家、マジエッロ家、スポンサーレ家、ダミエロ
家、コントレーロ家、グアルダシオーネ家、ヴァッラスコ家、アッフィード家、ニグロ家、マドント
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家、ア ラ ー ニ ョ 家 。
ひとつだけ謎が残った。息子や孫たちが何年もかけて必死で捜索し、果てはトルコの易者に訊ねる
までしたが、パトリアルカの遺体はついに見つからなかった。
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〔作品 解 説 〕
一九八〇年十一月二十三日。大地震がイタリア南部を襲い、多数の死者や行方不明者や家屋を失う人
が出た。ミラノ在住のひとりの女性人類学者は、地図上にない特殊な小集落パルミーラを訪問。瓦礫
の山や、分断された道路や鉄道、崩壊したダムや橋、倒壊した家屋、失われた家族を目にする。唯一、
ある大工の作業場だけが倒壊を免れ、親方のエルサレムが最後の花嫁のための家具を作っていた。彼
は、箪笥の扉に、キリスト教徒とユダヤ教徒とイスラム教徒が共存する地で語り継がれてきた数々の
伝説や、夢や、短い叙事詩や、奇跡を描き出す。これらの家具の羽目板は、パルミーラが存在した唯
一の証拠であり、それらを通して消滅したひとつの文明の痕跡を浮かび上がらせるという偉業が成し
遂げられていた。板に描かれている絵が、地震という大破壊がこの地を死者のプレゼーピオに変えて
しまうまでに、開拓者パトリアルカ・マッジョーレとその子孫たちが成した事業を再現しているのだ。
本作品は、夢やお伽噺を語るような文体で、人生や孤独、母性や理想郷なるものの壮大な原型に取り
組み、さらに、死の感覚を遠ざけるというかつてあった文学的着想を取り入れつつ、説話的な架空の
「イタリア南部」を描き出している。 41
ジュゼッペ・ルーポ Giuseppe Lupo
1963 年、ルカーニア(現バジリカータ)のアテッラ生まれ。
現在はミラノとブレーシアのキリスト教大学でイタリア現代
文 学 を 教 え る。 他 の 主 著 に L’americano di Clenne(2000 年、
Giuseppe Berto 賞、Mondello 賞、Premier Roman 賞 を 受 賞 )
、
La carovana Zanardelli(2008 年、Grinzane Cavour-Fondazione
Carical 賞、Carlo Levi 賞を受賞)がある。2011 年、『パルミー
ラの最後の花嫁』で Selezione Campiello 賞(ならびに Vittorini 賞)
を受賞。
42
2
L’ultima sposa di Palmira
Giuseppe Lupo
43
Storia del fondatore di Palmira
Nessuno ha mai conosciuto il giorno in cui Patriarca Maggiore era arrivato da oriente sotto
la collina di Trivento con una quindicina di carri pieni di mobili, materassi e corredi, e
aveva tracciato sul versante mancino del fiume Levata le linee di un villaggio. Prima aveva
costruito una stanza di calce e mattoni per sé e la moglie Albina, poi aveva aggiunto un
muro perimetrale di tufo, lo aveva fortificato con una fila di querce e ricavato l'orto dove
piantare alberi da frutta, cespugli di finocchi, siepi di ceci, lenticchie e fagioli. Di fianco al
muro aveva innalzato altre abitazioni, una per ogni figlio, complete di pergolato, cantina
e un corridoio sotterraneo che sbucava al fiume. Così era nata Palmira: un agglomerato
di stanze, archi e gradini, disposto a chiocciola intorno al letto del fondatore che aveva
voluto intitolare a una donna il luogo dove fermarsi a vivere per sempre, la prima donna
fra le tante conosciute al mondo, morta in tenera età, che non si era mai rassegnato a
dimenticare.
Dove avesse trovato le risorse per quella proprietà, anche questo non è dato saperlo.
Quel che è certo è che Patriarca, finché era giovane, cavalcava cammelli anziché cavalli e
aveva praticato una sfilza di mestieri (era stato scalpellino, falegname, sensale, guidatore
di birocci, cardatore di lana, castratore di maiali e agnelli, mugnaio, scaricatore di pietre,
venditore di tessuti, boscaiolo) e accumulato una tale ricchezza da doverla nascondere nei
magazzini, dove nemmeno ai maggiordomi anziani era consentito mettere il naso.
Quando si era stabilito a Palmira Patriarca aveva sessant'anni e pretendeva che la moglie
Albina
continuasse a dargli eredi. Ma Albina era morta con un'infezione da cibo sporco e lui
aveva sposato in seconde nozze Aldamuvena, una delle cinque cameriere aragonesi al suo
servizio, barattate a Napoli in cambio di un diamante trovato in India, durante un viaggio
in cerca di seta.
Dopo aver partorito sette volte Aldamuvena si era consumata di febbre malarica e Patriarca
dovette scegliere Venanzia, un'altra cameriera, che non ebbe sorte diversa. Così fu anche
per Cantabria e Zamorana, la terza e la quarta delle sorelle aragonesi: si maritavano con il
fondatore di Palmira, generavano figli e si spegnevano di malattie indecifrabili.
Questa catena di nascite e di lutti accrebbe le voci sulla virilità di Patriarca Maggiore,
capace di dare la vita e la morte nel medesimo istante. I medici, nel visitarlo, lo trovavano
sempre in perfetta salute e a chiunque disapprovasse l'abitudine di contornarsi di giovani
donne rispondevano che tipi come lui appartenevano a una razza in via di estinzione.
I figli di Patriarca, senza contare gli aborti naturali e i settimini che non avevano superato il
primo anno di vita, ammontavano in tutto a quaranta: ventotto maschi e dodici femmine,
che a loro volta procrearono in abbondanza come il padre, tanto che nel giro di un
secolo, da un'interminabile serie di incesti e di accoppiamenti con forestieri, la stirpe dei
Maggiore si fece di mille nomi. Palmira era diventata più che un fazzoletto di tetti e orti:
si era popolata di fabbri, falegnami, sarti, calzolai, allevatori di vacche e pecore, mercanti,
sagrestani, predicatori di quaresime e suore di carità. Una ragnatela di parentele allargate,
cugini con fratelli, zii con nipoti,
bisnonni con neonati, riempiva di voci le strade e copriva il raglio degli asini con antiche
nostalgie musicali.
L’abitazione di Patriarca sovrastava tutte le altre ed era visitata notte e giorno da
sconosciuti: senza il suo consenso non si stringevano matrimoni, non si contrattavano
affitti, né si concludevano compravendite di bestiame e terreni. Nessuno affrontava viaggi
per le terre d'oltremare o partiva a caccia di fortuna o andava in guerra senza farsi battezzare
dal suo bastone con il pomello d'argento.
Patriarca Maggiore aveva toccato novant'anni e si preparava al matrimonio di Benedetto,
l'ultimo dei figli di Apollonio, il suo preferito nell'esercito dei discendenti. Era stato lui
stesso a procurargli in sposa Maria Litòskaja, la primogenita di Costantino l'Ungaro,
uno zingaro furbo e litigioso che mercanteggiava cavalli nelle fiere del Bradano. L’aveva
adocchiata durante una trasferta per affari, in una giornata di temporali che aveva costretto
animali e carrozze a ripararsi nel chiostro di una taverna. Costantino l'Ungaro sostava in
mezzo a una tribù di parenti che suonavano organetti e mangiavano carrube, e Patriarca
aveva ammirato una ragazza ballare con un nastrino bianco nei capelli, al centro di un
giardino sotto l'acqua. Poteva avere quindici anni: la sposa giusta per il nipote. Aveva
chiamato Costantino l'Ungaro e si era appartato con lui. Nessuno sa cosa si siano detti,
nemmeno Nuvia Cristiana, l'unica superstite delle cinque sorelle aragonesi che non si
capisce come, pur coricandosi con Patriarca, era riuscita a evitare gravidanze.
La data delle nozze venne fissata all’ottava di Pasqua. Fu stilata la lista degli invitati e
intonacata a nuovo Masseria
Boccadilupo, un immenso casone sulla collina di Trivento, dove si sarebbe tenuto il
45
banchetto. Nel frattempo, già prima di Natale erano arrivati in paese i parenti di Maria
Litòskaja. Le due famiglie ebbero un inverno per conoscersi. Sospesi gli affari, Patriarca
e Costantino si davano appuntamento negli orti a occidente, in mezzo ai filari di ceci e
lenticchie. Uno ascoltava i racconti dell'altro, pensando che mancava davvero poco alla
fioritura dei biancospini.
Per il pranzo nuziale i figli di Patriarca procurarono venti agnelli e quindici maiali, cento
chili di frutta, mezzo quintale di farina e trenta dozzine di uova. Le nuore impiegarono
una settimana per mettersi d'accordo sulle pietanze. Poi furono contattati i suonatori di
Avigliano e Patriarca Maggiore, in onore degli ospiti, concordò con loro un repertorio di
madrigali dal sapore d'oriente.
Il giorno del festino Apollonio Maggiore si svegliò con il sole ancora dietro le montagne e
andò a salutare il padre. Lo trovò a letto con forti dolori alle ossa: questo seppe dirgli Nuvia
Cristiana, che da quando si era scoperta sterile dormiva separata dal marito, in una stanza
addobbata di mantovane colorate dai tramonti. Patriarca invece era morto già da parecchie
ore, anche se in volto conservava il sorriso del sonno leggero.
Apollonio conosceva così bene il carattere del padre da sapere per filo e per segno come
comportarsi. Uscì dalla stanza, chiuse a chiave la porta e convocò a quattr'occhi i fratelli. Di
comune accordo decisero di non rivelare a nessuno la verità. Nuvia Cristiana e il resto della
famiglia, mogli, figli, nipoti e maggiordomi, seppero che durante la notte Patriarca aveva
sofferto di attacchi reumatici e non poteva prendere freddo.
Le donne continuarono a imbellettarsi con creme e borotalco come se niente fosse
accaduto, gli stallieri a lustrare carrozze e cavalli, la servitù a spolverare le livree prima di
trasferirsi a Masseria Boccadilupo con i bauli di piatti, bicchieri e perfino un orologio a
cucù che doveva segnare il tempo delle danze.
A mezzogiorno la figlia di Costantino l'Ungaro salì in groppa a una giumenta bianca e
attraversò le vie di Palmira seguita da un corteo di birocci e da una processione di ragazzi
sui trampoli. Passò e ripassò almeno una decina di volte davanti alla casa del fondatore,
ornata da cestini fiorati e trecce di confetti, fece inchini a preti e suore, e appena la gente si
convinse che non esisteva una sposa migliore per il nipote prediletto di Patriarca Maggiore,
parenti, amici e orchestrali raggiunsero Masseria Boccadilupo e avviarono il pranzo
accompagnati da trombe e tamburelli. Se si escludono Patriarca e le mogli già morte, nella
masseria non mancavano nemmeno i canarini che Nuvia Cristiana addestrava in una
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voliera d'oro.
I camerieri avevano apparecchiato una grande tavolata fra gli specchi del piano superiore
e Costantino l'Ungaro era così impressionato nel vedere i vassoi andare e venire lungo i
tappeti della sala da pranzo che, dopo quel festino, pare non abbia toccato cibo per una
settimana. Tra un piatto e l'altro, ogni volta che il cucù suonava, gli orchestrali inauguravano
una corale di mandolini e la stanza si riempiva di ballerini. Finito il primo giro, stremati, gli
invitati si distendevano sulle brande o, secondo il grado di parentela, sui pagliericci per i
muli. Alla fine della festa, dodici ore dopo la prima portata, soltanto i ventotto figli maschi
di Patriarca sedevano
ancora a tavola a mangiare peperoni cruschi e a darsi pacche sulle spalle.
Nel pomeriggio del secondo giorno iniziò a piovere e quello fu il momento che tutti
aspettavano per brindare alla fortuna della nuova coppia. Gli sposi distribuirono i confetti
e partirono per le terre della marina con un calesse infiocchettato da merletti di fiandra.
Il cielo era ancora luminoso e forse prometteva neve mentre i Maggiore fecero ritorno
a Palmira. Prima di entrare nella stanza da letto del padre, Apollonio chiamò di nuovo
i fratelli e vietò di informare le rispettive famiglie fin quando si fosse trattenuta in paese
l'intera tribù degli Ungaro. Ottenuto il giuramento, aprì la porta: il letto era vuoto, trapunte
e lenzuola ben piegate. Mancavano l'abito che Patriarca s'era fatto cucire per la festa,
le scarpe, il cappotto, il cappello, il bastone di bambù e i sigari. I figli, non trovando il
cadavere, non celebrarono nessun funerale, temendo che qualcuno l'avesse trafugato per
chiedere il riscatto.
Il mese successivo gli sposi tornarono dal viaggio di nozze e riferirono che durante la
traversata dell'Adriatico, sul vapore diretto a Durazzo, Patriarca aveva bussato alla porta
della loro cabina. Indossava l'abito da cerimonia, era ringiovanito di almeno vent'anni e si
scusava di non essere stato insieme a loro il giorno delle nozze.
Il nipote ancora non lo sapeva, ma era bastato che gli occhi del nonno incrociassero i suoi e
quelli spauriti di sua moglie per generare nel ventre di Maria Litòskaja una nuova vita.
La notizia non fece che ingigantire il mistero sul conto di Patriarca. La data del suo
compleanno fu rispettata come la festa patronale, si celebravano messe in gregoriano, si
organizzavano cacce alla lepre, lotterie con premi in denaro, campionati di corse sui
trampoli, tornei di tressette. Con il suo nome furono battezzati decine e decine di bimbi
tanto che l'impiegato dell'anagrafe, per distinguere il ceppo di appartenenza, escogitò il
47
sistema di aggiungere a piacimento cognomi pescati nella fantasia. Così, dall'albero dei
Maggiore, scaturirono tutte le famiglie di Palmira: i Madrero, i Conessa, i Morgante, gli
Schio, gli Amatrone, i Masiello, gli Sponsale, i Damiero, i Contrero, i Guardascione, i
Varrasco, gli Affido, i Nigro, i Madonto, gli Aragno.
Rimaneva soltanto un enigma: per quanto i figli e i nipoti avessero impiegato anni e anni a
rintracciarla, interpellando finanche gli indovini del rione Turco, la salma di Patriarca non
fu mai trovata.
48
Presentazione del libro
L’ultima sposa di Palmira
23 novembre 1980: un terremoto di proporzioni devastanti colpisce le zone dell'Italia
meridionale e provoca morti, dispersi e senzatetto. Un'antropologa milanese si precipita
a Palmira, minuscolo centro abitato che ha la particolarità di non figurare sulle carte
geografiche. Trova macerie, strade e ferrovie interrotte, dighe e ponti crollati, abitazioni rase
al suolo, famiglie distrutte. Solo una falegnameria è rimasta in piedi e mastro Gerusalemme
fabbrica il mobilio per l'ultima sposa. Sulle ante degli armadi sta disegnando le leggende
che si tramandano, sogni, piccole epopee, miracoli avvenuti in un luogo dove convivono
cristiani, ebrei e musulmani. I pannelli dei mobili sono l'unica testimonianza che Palmira
sia esistita e attraverso di essi si compie il prodigio di restituire alla memoria i segni di una
civiltà distrutta, facendo rivivere nel legno le imprese di Patriarca Maggiore, il fondatore,
e dei suoi discendenti, fino all'apocalisse del terremoto, che ha trasformato il paese in un
presepe di morti. Con una lingua onirica e affabulata, il romanzo affronta i grandi archetipi
della vita e della solitudine, della maternità e dell'utopia. E nel ripercorrere l'idea di una
letteratura che esorcizza il senso della fine, parla di un Sud immaginario e favolistico.
49
Biografia dell’autore
Giuseppe Lupo è nato in Lucania (Atella,
1963) e vive in Lombardia dove insegna
let-teratura italiana contemporanea presso
l'Università Cattolica di Milano e di Brescia.
Dopo i romanzi L'americano
di Celenne (2000, Premio Giuseppe Berto,
Premio Mondello, Prix du premier roman),
Ballo ad Agropinto (2004), La carovana Zanardelli (2008, Premio Grinzane CavourFondazione Carical, Premio Carlo Levi), nel 2011 ha vinto il Premio Selezione Campiello
con L'ultima sposa di Palmira (vincitore anche del Premio Vittorini).
50
3
Fe d er i ca Man z o n
D i f ama e d i s v ent u ra
『 名声と不遇と 』 フェデリカ・マンゾン
「死はだめです、どうか行方不明で」
ヴィットリアは祈っていた、毎晩毎夜祈っていた。聖母様、奇跡を起こしてください、こんなこと
をお願いすべきじゃないことはわかっています、でも聖母様、私はいつも良い子でした、だからどう
か奇跡を起こしてください。彼女は、汚物の流れといったほうがいい川からすぐのところに借りた家
の、大理石もどきの冷たい床に膝をついて祈っていた。天にまします聖母様、死はだめです、お願い
です、どうか行方不明ということで、そうすれば、もうそれ以上何も知ることなく、私たち全員が心
安らかにいられるのです。
ヴィットリアは美しくて若かった。全員が海の男という男ばかりの家でただひとりの娘だった。彼
女が一番末っ子で、その湾に向いた公営住宅に住む誰もが、生き残った者だけですでに九人の息子た
ちがいた大家族の誰もが、その誕生を計算に入れていなかった時に彼女は生まれた。ヴィットリアは
父親の大のお気に入りで、兄たちに幸せを与える娘だった。三歳で船の舳先に立つ父親の肩の上に立
ち、大声で皆に指示を出していた小さなお姫様ヴィットリア。麦わら帽子をかぶって兄弟たちのバイ
クの後ろに乗り、フランチェスコやリーノの首に両腕を巻き付けていたヴィットリア。学校ではいつ
もきちんとしていて、お下げ髪に清潔なエプロンをつけていたヴィットリア。だから女教師はその貧
窮に気づいていないはずで、それは家の中に密かにしまっておくべきものだった。小学校を終えた時
には兄たちより速く本が読めた、算数の天才ヴィットリア、父親が愛してやまないあのお転婆娘。
その後のことを、彼らは私に話してくれたが、私はその話をすべて聞きたくはなかったから、今は
たぶん覚えていないところもあるし、抜けていることもあるはずだけど、とにかく物事はすべてひっ
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くり返って、ヴィットリアにとって、全世界が逆向きに回り始めたんだ。
ある復活祭の午後、そう彼らは私に話して聞かせた。彼女の父親は船長かあるいはただの水夫で、
まっさらの美しい制服姿で、遅ればせの蒸し暑い復活祭の午後、微笑みながら失礼と言って食卓を離
れ、妻の額にキスをして、バスルームへ入った。そして鏡を覗き込み、彼が絶対に持たないと誓った
力がどことなく漲っているのを見た。彼は胸に触れて、ちょうど心臓のあるところだ、そこに指で十
字架を描いた。祈りを唱え始めたけれどそれは途中で止まった。先を続けられなかったからだ。カト
リック信徒だったことが一度もない彼は、ローマカトリック教会ではなく、帝国と鷲の紋章の信者だ
った。彼は、子どもの頃の記憶を頼りになんとかもう一度祈ろうとしたが、やがて諦めた。それは自
分自身のための祈りじゃなく、彼の両親のため、彼らを自分より優秀な聖人に託すための祈りだった。
彼はそれまで彼らのことを気にかけることができず、そしてたぶん聖者に加護を頼めるような立派な
人物で も な か っ た 。
ヴィットリオの父親は、女の尻を追いかけて遠洋航海をする水夫で、戻ってくると酒場のテーブル
で大金を賭けた。町にはどの建物の下にも酒場があり、カード遊びのトレセッテが貧民たちの悦楽だ
った。家の中でいつも歌っていたヴィットリオの父親は、毎朝、子供たち全員に声をかけ、いつもご
く軽くキスをした。あの男、眉目秀麗で、北風の吹く日の三月の海のように落ち着きのない男は、唇
でぎゅっと銃身をくわえこみ、昼食の部屋では皆が鈍い音を聞いた。それは幼い子どもたちの叫び声
彼の妻がまず走り出し、すぐ後に彼女の父親がナプキンを口にあてたまま、酔っぱらいのあいまい
よりも激しく、皆を見捨てたその身体がドスンと落ちる鈍い音よりも激しかった。
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な笑みを浮かべて続き、すでに全員がしこたま飲んでいた。一瞬、誰もが何をしていいかわからず、
彼の妻が両手を髪に埋めて辺りを切り裂く叫び声を上げている時、見ていた誰かによると、招待客た
ちがさっと立ち上がり、すぐにまた一歩後ずさって、ぐいと杯を空けた上で、無知な者から間違った
方法で屠られる動物の声のような、あの耐えがたい音が聞こえてくる階上へ駆けていったそうだ。
誰かが医者の名を叫んだが、声はか細くて、返事は期待していなかった。全員があの部屋に集まっ
ていて、そんな事態を前に、どうしていいかも何を言っていいかもわからずに肩を寄せ合っていた。
誰も気づかなかった。ただ目だけが、悪趣味に見開かれた真っ青な目だけが残った船長の顔にタオ
ルがかけられている間、タイルの上にうずくまった十歳の少女が、銃を指で弄んでいることに誰も気
づかなかったか、もしくは注意を払わなかった。弾倉はすでにカラだったが、それはあの絶望した父
親が身につけていた用心深さ、兵士さながらの慎重さゆえだった。彼は銃に弾を一発しか込めていな
かった。事後の狂乱の最中に、誰かが後追いしたり、十分すぎるほどの熟考の末の行為を真似るのを
防ぎた か っ た か ら だ 。
小さなヴィットリアについては、彼らは私にこう描写した。彼女はお下げ髪にピンクの服を着て、
髪に紙製のマーガレットの小さな王冠をのせ、片手に銃を、もう片方にケーキのマジパンを持ってい
た。そして、ある遠い親戚が、子供たちの隊列を立てなおして、その誰にも見せてはならない、家族
の秘密にしなければいけない場所から、子どもたちを連れ出すべく彼女の腕を引っぱった時、その両
方が手から滑り落ちた。
ヴィットリアが実際に何を見たのかは誰もわからなかったし、まだ温かい父親の手を握りしめて、
54
その手の中に、自分が聖ジャスタスの祝祭に父親にあげた紙の船を見つけた彼女のトラウマを、気遣
ってあげた人がいたかどうかもわからない。
その後、と彼らは私に言った、息子九人に娘ひとりというその家族にとって、世界は逆向きに進み
始めた。あらゆる進化や、新時代を始めるにあたって国中に満ちていた楽観的気運に反して、彼らの
上には、夜の港の市場で海に投げ捨てられる前の残り物にありつくべく列を作るという、貧困の乳白
色のベールがじわじわと降りてきた。兄たちは、順風満帆な高度経済成長にのってイタリアを巡って
いた保険会社勤務の従兄にバイクを譲って、《マーガレット女王号》に乗り込み、彼らの妹のほうは、
すでに適齢期に差し掛かり、教師になるという夢をさっさと捨ててユダヤ人地区の仕立屋に働きに行
ってい た 。
[…]
彼ら曰く、ヴィットリアは真剣な恋をしていた[…]
相手は彼女の父親同様に水夫で、ボタンをはずし無造作に引っ掛けた上着の肩に星章をつけていた。
白い帽子をかぶり、目は深海のように黒に近い群青。小声で鼻歌を口ずさみ、静かにスススと歩き、
彼が階段を上がってこっそりヴィットリアを連れ出す時も誰ひとりそれに気づかなかった。皆には内
緒の恋。彼女は胸に風がひと吹きするように彼の来訪を感じて、誰にも聞かれぬように裏手の扉をそ
っと開けた。すると彼女の前にはいつもあの目顔の微笑みがあった。そして彼は彼女の唇の先にキス
をした。ヴィットリアは帽子をかぶり、導かれるままに船楼のてっぺんの秘密の場所へ行き、彼らの
身体は音をたてることなく、長いこと、あたかもひとつの生き物のようにその手と足を互いに絡み合
55
わせて い た 。
ヴィットリアの恋人は耳に魔法の言葉を囁いてそそくさと去っていき、また姿を見せたかと思えば
去り、それでもいつも必ず彼女の元へ戻ってきた。彼女は、彼がいつか、有無を言わさず、自分を連
れ去ってくれることを夢見ていた。そこまできてトンマーゾは話すのをやめ、横向きになり、話に熱
中しすぎたことを少し恥じていた。そして、ヴィットリアと同じように、瞬く間にキラキラと輝きを
放つ、彼の澄んだ暗色の目、本来ならば、ちくしょう、青かったはずの彼の目を。
56
〔作品 解 説 〕
トンマーゾは、最も暑い夏の最も暑い日の最も暑い時間帯に生まれた。近所の婆さまたちは「彼は
悪い星の下に生まれた」と口々に言う。けれどもその男児は特別なものをもっていた。彼はやがて、
ひと目で人々の心を理解し、未来を読む力を持つようになるが、自らの上には成功と同じぐらいの災
いを呼び込むことになる。放置と不公平からなる人生に対して、トンマーゾは償いを求めることを拒
み、それゆえに、国境に近い海沿いの、狂人と夢想家のひしめく故郷の町を棄て、善意はあれど小物
に過ぎないインディアンから、石の心臓を持つカウボーイへと変身しつつ、アメリカの国際金融とい
57
う得体の知れない 仮借なき世界へ入っていく。彼の物語にはきわめて印象的な人物が登場する。膝
上までスカートをたくしあげて男たちを魅了する祖母のヴィットリア。アリエル・フィオーレは、水
泳チャンピオンの若き友人で、いつも善良で、いつも格好よく、愛されやすく騙されやすい。ミラは、
名高い保険代理人の娘で、蜂蜜のように黄色くて蛇のように毒のある目の持ち主だ。フェデリカ・マ
ンゾンは、闇の世界の甘い囁きと闘うひとりの男の物語という、時代を限定しない、衝撃力のある一
編の英雄伝説を織り上げた。同時にまた、ある重大かつ特殊な時事を通して、無節操で非情な取引と、
恐慌の黒く激しい波の間に、新千年紀 世紀初頭の経済のありようを描き出している。
21
遅れて本当にごめんなさい、でも急な用事が山ほどあって、それにあなたの小説は内容があるので徹
底的に読み込むには時間がかかったの。
何よりまず、あなたは本当にすばらしい作品を仕上げたと思う。野心的で深くて、あなたは自分のや
りたいことを見事にやってのけた。さすがだわ。
とくにトンマーゾの人物像は並じゃない。あのすごく人間的な矛盾した言動、出しゃばらない知性、
痛ましい失望、なんだかずっと昔から知っている人のような気がするわ。アリエルとトンマーゾとい
う二人の若い友人たちの寄宿学校内外での交流が描かれた箇所もとてもよかった。
私はこの小説の世界に沈み込んでいった。あなたには本当に物語を語る才能があると思う。あなたに
は、巧みに関連づけた複雑な話を、その展開を常にコントロールしながら、行き止まりに迷い込むこ
となく、勢いがあって迷いのない筆力で物語ることができる。
あなたが私を何日間もぐっと引きつけながら私の心の中へ入り込んだように、多くの読者たちの心を
つかむことができますように。
抱擁を。またね、ダーチャ。
ダーチャ・マライーニが作者に宛てた手紙
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フェデリカ・マンゾン
Federica Manzon
1981 年、ポルデノーネ生まれ。
2008 年 Come si dice addio で
小説家デビュー。 『名声と不
遇 と 』 で Selezione Campiello
賞、Rapallo 賞受賞。
59
3
Di fama e
di sventura
Francesca Manzon
1
«Morto no, ma disperso.»
Pregava Vittoria, pregava ogni sera e ogni notte. Madonnina mia santissima fai il miracolo,
sì lo so che queste cose non si devono chiedere ma Madonnina mia ti prego fammi questo
miracolo che io sono stata sempre buona. Pregava con le ginocchia a terra sul pavimento
gelido, il finto marmo di quella casa in affitto a due passi dal fiume, che più che un fiume era
una corrente di schifo. Madonna santa che sei nei cieli, morto no, per l’amor di Dio, solo
disperso, una cosa così, che non se ne sa più niente e ci mettiamo tutti il cuore in pace.
Vittoria era bella ed era giovane. Era l’unica figlia femmina di una stirpe di maschi tutti
partiti per mare. E lei era la più piccola, arrivata all’ultimo momento quando nessuno in
quella casa popolare con le finestre sul golfo, in quella tribù di già nove figli a contare solo
i sopravvissuti, nessuno l’aveva messo in conto quell’ultimo arrivo. Vittoria amatissima
di papà suo e gioia dei fratelli. Vittoria piccola principessa che a tre anni svettava sulle
spalle del padre sulla prua della nave e strillava ordini a un intero reggimento, Vittoria
sulla motocicletta dei fratelli con il cappello di paglia e le braccia aggrappate al collo di
Francesco o Lino, Vittoria con le trecce e il grembiule pulito che a scuola si va sempre in
ordine che la maestra non la deve vedere la miseria, quella è roba da tenere in casa, Vittoria
che aveva finito le elementari e leggeva più veloce dei fratelli, un prodigio della matematica,
quella piccola peste amore di papà.
Poi, mi hanno raccontato, ma io non ho voluto sentire del tutto la storia e quindi adesso
forse la riporto male e piena di lacune, poi le cose si sono rovesciate e tutto il mondo ha
preso a girare al contrario, per Vittoria.
Un pomeriggio di Pasqua, mi hanno raccontato, il papà suo capitano di nave o forse
semplice marinaio con divisa luccicante e bellissima, un pomeriggio di una Pasqua tardiva
e calda si era alzato da tavola chiedendo scusa con un sorriso, aveva baciato in fronte la
moglie e si era chiuso in bagno. Si era guardato allo specchio e aveva trovato da qualche
parte una forza che avrebbe giurato di non avere. Si era toccato il petto, all’altezza del cuore,
e ci aveva segnato sopra una croce col dito. Aveva sillabato una preghiera ma a metà si era
fermato perché non sapeva proseguire. Lui che mai era stato cattolico, fedele all’impero
e allo stemma con le aquile e non alla Chiesa di Roma. Ci aveva provato ancora, con uno
sforzo per recuperare una memoria dell’infanzia, e poi aveva lasciato perdere. Quella non
61
era una preghiera per sé, ma per i suoi, per raccomandarli a qualche santo più bravo di lui,
che non era riuscito a badare a loro e forse non era stato nemmeno una brava persona, uno
raccomandabile.
Il papà di Vittoria, un marinaio di lungo corso che andava dietro alle donne e quando
tornava si giocava una fortuna al tavolino del bar, in una città dove sotto ogni palazzo ne
spuntava uno e il tresette era la felicità dei poveracci. Il papà di Vittoria che in casa cantava
sempre, al mattino, e aveva una parola per ogni figlio, un bacio sempre a fior di labbra.
Quell’uomo, bello e inquieto come il mare di marzo quando soffia il borino, aveva stretto le
labbra attorno al ferro e dalla sala da pranzo avevano sentito il colpo secco, più forte delle
urla di una stirpe di bambini
ancora da crescere e più forte del tonfo sordo del corpo che abbandonava tutti.
La moglie era corsa per prima, e subito dietro il padre di lei con ancora il tovagliolo sulle
labbra e il mezzo sorriso dell’alcol, che ne avevano bevuto tutti parecchio. Per un attimo
nessuno seppe cosa fare, e mentre la moglie si metteva le mani nei capelli e scoppiava in un
grido che strappava l’aria, qualcuno vide gli ospiti alzarsi in fretta ma poi indietreggiare di
un passo, svuotare il bicchiere e solo dopo accorrere al piano di sopra da dove arrivava quel
suono insopportabile, di un animale ammazzato con poca sapienza e colpo sbagliato.
Qualcuno gridò il nome del dottore, ma in modo fiacco, senza aspettare risposta. Si
trovarono tutti in quella stanza, a tenersi per le spalle senza riuscire a trovare un gesto o una
parola per reagire.
Nessuno si accorse, mentre con un asciugamano coprivano in fretta il volto del bel capitano
di cui restavano solo gli occhi, azzurrissimi e oscenamente spalancati, nessuno si accorse
o fece caso alla bambina di dieci anni che accucciata sulle piastrelle si girava tra le mani la
pistola ormai scarica. Perché un’accortezza quel padre disperato l’aveva avuta, uno scrupolo
da soldato: aveva messo un solo colpo in canna, perché nella follia che sarebbe seguita a
nessuno venisse in mente di andargli dietro, di ripetere un gesto fin troppo calcolato.
La piccola Vittoria, me l’hanno descritta così, con le trecce e il vestito rosa, la coroncina di
margherite di carta sui capelli, tenne in una mano la pistola e nell’altra il marzapane della
torta, fino a quando non le caddero entrambi, strattonata per un braccio da un lontano
parente che cercava di ricomporre la truppa dei piccoli
per portarli via da quel posto che doveva rimanere segreto, un affare di famiglia.
Nessuno seppe mai quello che davvero aveva visto Vittoria né ci fu qualcuno che si occupò
62
del trauma, del possibile trauma di quella bambina che aveva stretto la mano del padre
ancora calda e vi aveva trovato dentro la barchetta di carta che lei gli aveva regalato per la
festa di San Giusto.
Poi, mi hanno raccontato, il mondo cominciò a marciare al rovescio per quella famiglia di
nove maschi più una femmina. Contraddicendo ogni regola dell’evoluzione e l’ottimistico
spirito con cui il Paese aveva iniziato il secolo, calò lento su di loro il velo lattiginoso
della miseria, delle code al mercato del porto la sera a cercare di tirare su qualche resto
alimentare prima che venisse buttato in mare. E mentre i fratelli lasciavano la motocicletta
a un cugino lontano, uno che lavorava nelle assicurazioni e girava l’Italia con il vento in
poppa dei grandi successi economici, e si imbarcavano sulla Regina Margherita, la loro
sorellina, quasi una ragazza da marito, salutava in fretta il sogno di diventare maestra e
andava a bottega dalla sarta nel quartiere ebraico.
[…]
Raccontano che Vittoria un grande amore l’ebbe per davvero […]
Era un marinaio come suo padre e aveva stellette cucite sulle spalle di una divisa portata
con disinvoltura, un po’ sbottonata. Aveva il cappello bianco e gli occhi blu scuro, come il
fondo del mare che quasi diventa nero. Cantava con voce leggera, aveva il passo di velluto
e nessuno lo sentiva quando saliva le scale e andava a prendere di nascosto Vittoria. Il loro
amore clandestino. Lei ne
intuiva l’arrivo come un soffio sul cuore e apriva piano la porta sul retro, senza farsi sentire.
Sempre si trovava davanti quel sorriso silenzioso che usciva dagli occhi; in punta di labbra
la baciava. Vittoria prendeva il cappello e si lasciava portare volando nei posti segreti
in cima al castello, e i loro corpi non facevano rumore, le mani strette e le gambe che
procedevano avvinghiate come fossero di un’unica creatura.
L’amore di Vittoria le soffiava parole magiche nell’orecchio e andava veloce, compariva e
scompariva, ma poi tornava sempre. E lei sognava che un giorno, senza accordarsi, l’avrebbe
portata via. A questo punto Tommaso smette di raccontare e si gira sul fianco, un po’ si
vergogna dell’entusiasmo commosso del racconto. Dei suoi occhi scuri e liquidi come
quelli di Vittoria, che diventano subito lucidi, occhi che avrebbero dovuto essere azzurri,
maledizione.
63
Presentazione del libro
Di fama e di sventura
Tommaso nasce nell'ora più calda del giorno più caldo dell'estate più calda. "È nato sotto
una cattiva stella", dicono le comari. Ma quel bambino ha qualcosa di speciale. Sarà in
grado di capire l’animo degli uomini con uno sguardo, di leggere il futuro, ma su di sé
attirerà tanto il successo quanto la sventura. A un'esistenza segnata dall'abbandono e
dall'ingiustizia Tommaso opporrà una voglia di rivalsa che lo porterà a lasciare la sua città
di mare e di confine, di matti e sognatori, per il mondo oscuro e spietato dell'alta finanza
americana, trasformandosi da piccolo indiano dal cuore buono in cowboy dall'anima di
pietra. La sua storia sarà attraversata da personaggi indimenticabili. La nonna Vittoria, che
cammina alzando la gonna sopra il ginocchio e incanta gli uomini. Ariel Fiore, il giovane
amico campione di nuoto, sempre buono, sempre bello, facile da amare e da tradire. Mila,
la figlia del grande assicuratore, dagli occhi gialli come il miele e velenosi come il serpente.
Federica Manzon disegna una saga coinvolgente, la storia senza tempo di un uomo che
lotta contro le lusinghe del lato oscuro. E al tempo stesso racconta, in una cronaca dura e
originale, l’economia di inizio millennio, tra speculazioni crudeli e dissennate e ronda nera
e travolgente della crisi.
Di fama e di sventura è stato vincitore del Premio Selezione Campiello e del Premio
Rapallo.
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Biografia dell’autrice
Federica Manzon (Porde-none 1981) ha
esordito nel 2008 con il romanzo Come si
dice addio.
“Cara Federica,
Scusa tanto il ritardo, ma ho avuto molte emergenze e poi il tuo è un romanzo sostanzioso,
c’è voluto del tempo per leggerlo da cima a fondo.
Prima di tutto ti dico che hai fatto un gran lavoro, ambizioso e profondo e sei riuscita nel
tuo intento. Brava!
Soprattutto straordinario il ritratto di Tommaso, un uomo che sembra di conoscere da
sempre, con le sue umanissime contraddizioni, con la sua intelligenza muta, con la sua
disperazione crudele. Molto belle le pagine sul rapporto tra i due giovani amici, Ariel e
Tommaso, in collegio e fuori. Bello anche il ritratto di Mila.
Mi sono immersa nel romanzo e ti dico che hai un vero talento narrativo. Insomma sai
raccontare una storia complessa e articolata, senza perdere mai il controllo della trama,
senza perderti in vicoli ciechi, con mano potente e consapevole.
Ti auguro di entrare nella mente dei lettori, come sei entrata nella mia, tenendomi
compagnia per giorni e giorni.
Un abbraccio, a presto, Dacia”
Da una lettera all’autrice di Dacia Maraini
65
4
A n d rea Mo l e s i n i
No n t u tt i i bastard i s o n o d i Vi en na
『 すべての悪人がウィーン生まれというわけじゃない』 アンドレア・モレジーニ
一
<
>
祖母の 三番目の恋人 は、賢者と見られるにはあまりに足が大きかった。馬鹿だったわけじゃな
い、だっていつも何もせずにぶらぶらしていてもそれを気に病んだりせずにいられたのだから。でも、
足の大きさゆえに、彼の頭脳に関心が向けられることはあまりなかった。祖父のグリエルモは、あち
こちに愛人がいたけれど、よくこう言っていた。あの男は(彼は恋敵を決して名前で呼ばなかった)
、
ただ口に空気を送るためにしゃべっている。「愚か者はその愚かさをひけらかすのが好きで、そのた
めには言葉に優るものはない」。
祖父は世の中の物事に裁定を下すのが好きだった。葉巻を噛み、世界の海を旅した水夫を気取りな
がら。水が大嫌いで、洗面台の水すら嫌っていたというのに。彼は一徹な自由主義者で、祖母の穏や
かな社会主義への共感をいつも馬鹿にしていた。「君のあの三人をひとつの部屋に閉じ込めたら半時
間後には四つの異なる意見が出てくるだろう」。彼は一日の大半を決して終わらない小説を書いて過
ごしたが、祖母によれば実際は一行も書いていなかった。曰く「未熟者や無教養な輩と距離を置くた
めのポーズだよ」。とはいえ、雨が降ると祖父は縁がよれよれのフェルト帽をかぶり、ひとりで、傘
<
>
をささずに散歩に出かけるのだが、それ以外はほぼ終日を過ごす小部屋、その 瞑想の場 の扉を開
けようとするものは誰ひとりいなかった。仏教徒だったが、仏陀についてそれほど多くを知っていた
わけじゃない。一方でブリスコラ (カードゲームの一種)と歴史には通じていて、ガゼッティーノ紙に何
通も投稿したが、掲載されたことは一度もない。ヴェネツィアの行政当局に対する中傷で溢れていた
からだ。彼に言わせると、彼らはひとり残らず「愚かな坊主どもの汚れた息子ども」ということにな
67
るらし い 。
一方、祖母はあらゆることに「泡立った」。半リラでも払わなきゃいけないとなると彼女は言った。
「やめといたほうがいい」。そしてこの「やめといたほうがいい」という局面が日に二ダースほどもあ
るのだった。七十歳という年齢にも関わらず、彼女はすらりと背が高く、美しく力強い、一頭の白豹
だった。彼女のバスルームは驚嘆もので、ベージュ、黄土色、黒、肌色の浣腸器で飾られていた。エ
ナメル仕上げの洋服掛けの各腕の上に二、三個ずつ。一方でパジャマとパンティは緑色の整理箪笥の
中にしまわれ、その上にはムラーノ製のガラスの器がひとつあり、つや消しの真珠やヴェネツィアン
グラスムリーネの首飾りが十本ほど入っていた。浣腸器は、かつてそれが栄華を誇った時代には、そ
の数は十六にものぼり、四分の一、二分の一、四分の三、一リットルという四つのゴムの握り手がつい
ている。袋の部分は、洋なしや、かぼちゃや、カンタロープのように丸みを帯び、どれも防水布製で、
くすんだ色のゴム製のチューブは、モザイクの球に反射して、弓なりの口を持つ海洋生物の触手のよ
うに見 え た 。
三人の使用人、テレーザと娘のロレッタとレナートは六人分の働きをしていた。ロレッタは、二十
歳のまあまあの美人で、斜視で、伏し目がちだったが、それが君に向けられる時は、例外なく、君を
憎んでいる時だ。レナートは片足がやや短く足を引きずって歩いた。彼は私のお気に入りで、何でも
こなし、銛とナイフを使って川で魚を捕ることも、テレーザのシチュー鍋に入れられる鶏の羽をむし
ることもできた。そして彼女、テレーザは、ある種の驚異的な存在だった。類を見ないほど醜く、歳
よりも若く見える五十歳、ラバよりも強く、頑固さでも負けていなかった。対してマリア叔母(他人
68
にとってはマダム・マリア)は美人で、自尊心の塊だったことで、男たちを惹きよせては遠ざけ、最
も情熱的で大胆な男たちも口説くのに及び腰になった。それは彼女にとっては小さからぬ痛手だった。
それからジュリアだ。ジュリアは狂人で、美人で、赤毛、顔一面にそばかす。彼女は誰も語りたが
らない不祥事のせいでヴェネツィアから逃げてきた。彼の地では、彼女の姿を見かけると地に唾を吐
く者が少なからずいて、貞淑な女たちはパペ・サタンを追い払うべく十字を切った。私より六歳年上
で、たとえ遠くからでも彼女を目にすると、私は赤面した。彼女は精神病院には入っていなかったが、
それはカンディアーニ家の一員だったからだ。高貴な者たちは(少なくとも当時は)牢獄などに入ら
ないし、また彼らは変人だったかもしれないが、狂人でもなかった。ある紳士は、窃盗症だったが泥
棒ではなく、ある婦人は、色情狂だったが娼婦ではなかった。
あの十一月九日の夜、ドイツ人たちが私の部屋を占拠した時、私は屋根裏に寝に行き、そこは九×
五メートルの大部屋で、天窓が四つ、カラマツの桁組みが走り、かがまなければ居られなかった。そ
こで私は、屋根裏のぼろぼろになった床に打ち捨てられていた安物のマットレスを祖父と共有したが、
祖母のほうは自室に残ることを許されていた。
イタリア軍の敗退は、侵略軍のあらゆる兵隊が私たちの顔に吐きかける不名誉だった。私は十七歳、
十八の誕生日を間近に控えていて、敵が我が家で主人面をするのは見るに耐えなかった。一八九九年
生まれの者たちはすでに塹壕内にいた。ほんの数ヶ月でおそらく私の番だった。
「あと少しで彼らはローマで教皇を解放するという噂だ、もちろん、小悪党どもが示し合わせての
ことだ」。祖父は司祭たちのことを、税の取り立て屋の上に位置するひとつの踏み段(それもかなり
69
低い)と見なしていた。「あのスカートをはいた奴らは七面鳥ほどの想像力しか持たず、だが狐や蛇
のように狡賢い、彼らこそ神の創造の悪戯、ヨブの病どころの話じゃない。いいか、仏陀には司祭た
ちなどいない」と言って私の目をまっすぐに見すえた。それは私が両親を亡くして以来滅多にないこ
とだった。「あるいは、いたとしてもオーストリア追随派などではない」
。彼は片手に唾を吐き、大き
なハンカチでそれを拭った。
私は祖父が好きだった。彼はいつも朝十時ごろになってようやくナイトキャップにしぶしぶ別れを
告げた。けれどもあの夜は、帽子なしでそろそろと過ぎていった。歩兵と伍長が彼を椅子に縛りつけ、
ひとりは彼の胸に銃把を押しあてながら、もうひとりは彼の喉元を銃剣でくすぐりながら、彼に宝石
の隠し場所を吐かせようとした。幸運なことに、祖母は彼の知らないうちに貴重品と、さらにひと掴
みの金貨を、略奪者の食欲をそそるにはあまりに糞に近い、あまりにも惨めったらしい物、すなわち
浣腸器の袋のひとつに隠し終えていた。
「私はマリアが心配だ。そう、ドイツ人が誰かを怖がらせるとしたら彼女だ」
。祖父は安物のマット
レスに身を投げ出しながら言った。トウモロコシの皮がその重みでかさこそと音を立てた。彼は潤ん
だ目で天井の梁を見つめていたが、自らの恐怖心を私に感じさせないようにしていた。私たちの命、
私たちの物、すべては敵の思うままだ。「戦争と略奪品は唯一の誠実な夫婦だ」
私 は 彼 の 脇 に 横 に な っ た。 祖 父 は 叔 母 が 好 き で「 美 し く 上 品 な 女 性 」 だ と 言 っ て い た。 彼 女 は、
一九一四年五月、私たち家族が 大惨事 と呼ぶあの旅の途中に、エンプレス・オブ・アイルランド
<
>
号の沈没で、自らの妻と私の両親と一緒に死んだ祖父の兄弟の娘だった。その時から家の中のことは
70
彼女に一任され、それはたぶん祖母が、いかんせんのらくらとしたものではあったが、私の教育に没
頭したからだった。「お前は叔母さんの目をちゃんと見たことがあるか? 緑色で、岩のように揺る
ぎない。水夫たちがこう言うのを知ってるか? 水が緑色になると嵐にのみ込まれると」
。祖父は一
度も海へ出たことがなかったが、彼の話は遠洋航海船の船長の言い回しや悪態に満ちていた。
「その
<
>
まま」
「くい下がれ」
「見つけたらメインマストに吊るすぞ」。最後のひとことは、 大惨事 のすぐ後、
彼が私 に よ り く だ け た
<
>
君/僕 で話すように要求した時を境に彼の語彙から消えた。
エンプレス号の沈没後、誰もが私にとても親切になり、わたしはそれを喜んで享受した。幸いだっ
たのは私が苦しまなかったこと、少なくとも、皆が思っていたほどには。両親は、私にとっては異邦人、
もしくはそのようなものだった。彼らは問題を遠ざけるため、あるいは(善き人たらんとして)若者
の教育に父母はふさわしくないと考えたためか、私を寄宿学校へ送った。寄宿学校はドメニコ会系で、
神父たちは肉体の健康を少なくとも精神のそれと同じぐらい大事なものと考えていて、
驚いたことに、
彼らは精神の健康についてあまりとやかく言うことはなかった。
あの運命的な日、校長(聖ドミニコ・グスマンの研究者で、私たち学生にはその真っ白な髭と曲が
った背中から百歳ぐらいに見えた)は私を呼びつけた。彼の職務室は、革表紙の本で埋まり、ごく小
さく、黴と紙とインクと脇の下と火酒の臭いが互いに場所を取り合っていた。彼は読んでいた手稿か
ら額を上げると、眼鏡で拡大された青い目で私をじろじろと眺めた。「若者よ、座りたまえ」
。彼は前
置きをせず、永遠の生命に関する説教をしてその報せをごまかしたりもしなかった。抑揚のない声で、
一気に話した。私はあえて悲しんだふりもせずに、言った。「いなくなっても寂しいと思うことはな
71
いでしょう」。彼は目を見開いて厳しい顔で私を見つめた。
「後になってわかるということもある」
。
そう言うと彼は再び手稿に鼻を埋めた。たぶん私が出て行ったことにも気づかなかっただろうが、そ
の彼の言葉は私の胸に残った。彼は正しかった、痛みは後からやってきて、傷口は少しずつ開き、少
しずつ癒されていった。
72
〔作品 解 説 〕
第一次世界大戦末期、ピアーヴェ川流域のとある土地で、スパーダ家は数名の敵の将校を自宅に迎
え入れるはめになる。パオロは十八歳になろうという青年で、幼い頃に両親を亡くし、グスタボとナ
ンシーという祖父母と共に暮らしている。ナンシーはイギリス人で、グスタボは持ち前の親切さでオ
<
>
ーストラリア人の 客人たち を受け入れる。広い家屋には、家政婦のテレーザと娘のロレッタ、謎
の過去を持つ屈強な管理人のレナートなど使用人たちも同居している。戦況は悪化し、すでにピアー
ヴェ川に迫った前線から何十人もの負傷者が送られてきて、自宅を仮の病院として提供しなければな
らないほどだった。そして終戦へ向かう中、屋敷内ではさまざまな事件が起こって…。歴史小説でも
あり、一人称で出来事を語るパオロ青年を中心にした自己形成小説でもある本著は、時に想像豊かな、
時に皮肉めいた文体をもって書かれ、それが、祖父から年老いた女中、裏切者となって罪の意識に苛
まれる者まで、他の登場人物をも際立たせる効果をもたらしている。各人物像は生き生きとしてリア
ルで、また、時に忘れてしまいがちな残酷で容赦ない戦争という背景に巧みに溶け込んでいく。
73
アンドレア・モレジーニ Andrea Molesini
ヴェネツィア生まれ、在住。エズラ・パウンド、
チャールズ・シミック、デレク・ウォルコッ
トといったアメリカの詩人の作品の取扱いや
翻訳を手がけた。自身も子供のための童話を
執筆、作品は各国後に翻訳されて 1999 年に
はイタリア・アンデルセン賞を受賞。パドヴ
ァ大学にて比較文学を教えている。
『すべての悪人がウィーン生まれというわけじ
ゃない』(2011)Campiello 賞、Comisso 賞、
Latisana 賞、Città di Cuneo 賞を受賞。著者
の初小説で、英語、フランス語、スペイン語、
ドイツ語、オランダ語、スロベニア語、ノル
ウェー語への翻訳が進められている。
74
4
Non tutti i
bastardi
sono di Vienna
Andrea Molesini
1
Il Terzo Fidanzato della nonna aveva i piedi troppo grandi per essere considerato
intelligente. Scemo non era, perché sapeva oziare con grazia e costanza, ma, date le
dimensioni dei piedi, l’attenzione riservata alla sua testa non poteva essere molta. Il nonno
Guglielmo, che vantava diverse amanti, diceva che quello – il rivale non lo chiamava mai
per nome – parlava solo per dare aria alla bocca: «Agli stupidi piace mettere la stupidità in
vetrina, e non c’è niente di meglio della parola per questo».
Al nonno piaceva incasellare in sentenze le cose del mondo. Sentenziava masticando il
sigaro e fingendo un’aria da marinaio di molti mari, proprio lui che odiava l’acqua, non
esclusa quella del lavabo. Liberale di ferro, beffeggiava le blande simpatie socialiste della
nonna: «Chiudi tre dei tuoi in una stanza e dopo mezz’ora avranno quattro opinioni
differenti». Passava molte ore del giorno a scrivere un romanzo che non finiva mai,
ma secondo la nonna non aveva mai scritto un rigo: «È una posa per tenere a distanza
mocciosi e villani». Nessuno, però, osava forzare il Pensatoio, lo stanzino dove il nonno
passava quasi tutto il giorno, tranne quando pioveva, perché allora usciva a passeggiare
senza l’ombrello, solo, con il cappello di feltro dalla tesa slabbrata. Era buddista, ma
di Budda non sapeva un granché. Però capiva di briscola e di storia e scriveva lettere
al Gazzettino, mai pubblicate perché coprivano d’insulti gli amministratori della città
lagunare: tutti «sozzi figli di preti sciocchi», a sentir lui.
La nonna, invece, spumeggiava su tutto. Se c’era da spendere mezza lira diceva: «Meglio di
no», e quel meglio
di no capitava due dozzine di volte al giorno. A dispetto dei suoi settant’anni, era alta e
diritta, forte e bella, una pantera canuta. Il suo bagno era un poema: ornato di clisteri beige,
ocra, neri e tinta pelle. Ce n’erano due o tre su ogni braccio dell’appendiabiti di smalto,
mentre pigiami e mutande erano relegati in un comò verde, dove una ciotola di vetro di
Murano ospitava una decina di collane di perle matte e di murrine. I clisteri, nei giorni della
loro gloria, raggiunsero il numero di sedici, con le quattro perette da un 1/4 , da 1/2, da
3/4 e da litro. Le sacche erano tondeggianti, a pera, a zucca, a cantalupo, tutte di tela cerata,
e i tubi di gomma opaca sembravano, riflessi nel pallore del mosaico, tentacoli di creature
marine dai becchi ricurvi.
I tre domestici – Teresa, la figlia Loretta, e Renato – facevano per sei. Loretta, ventenne,
76
era belloccia, e aveva gli occhi storti, che guardavano in basso, ma quando te li puntava
addosso sapevi che ti odiavano, e che altro non sapevano fare. Renato aveva una gamba un
po’ più corta dell’altra, e zoppicava. Era il mio preferito e sapeva fare di tutto, pescare nel
fiume con fiocina e coltello, ma anche spiumare il pollo destinato alla casseruola di Teresa.
E lei, Teresa, era un portento. Brutta di una bruttezza rara, aveva cinquant’anni ben portati
ed era più forte di un mulo, e non meno cocciuta. Zia Maria – Donna Maria per gli estranei
– era invece di bell’aspetto, prigioniera di una fierezza che affascinava e allontanava gli
uomini: veniva corteggiata con discrezione anche dagli spiriti più appassionati e audaci,
una non piccola condanna.
E poi c’era Giulia. Giulia era matta, bella, rossa. Uno schiaffo di lentiggini. Era fuggita da
Venezia per uno
scandalo di cui nessuno osava parlare: in paese c’era più di qualcuno che, nel vederla
passare, sputava per terra, e non mancavano le beghine che si facevano il segno della croce
per scacciare Pape Satàn. Aveva sei anni più di me e al suo apparire arrossivo, anche da
lontano. Non stava in manicomio perché era una Candiani, e i signori – in quegli anni,
almeno – non finivano in gattabuia, e non erano nemmeno matti, semmai eccentrici: un
signore era cleptomane, non ladro, e una signora ninfomane, mai puttana.
Quella notte del 9 novembre, quando i tedeschi s’impossessarono della mia stanza, andai
a dormire nella soffitta, uno stanzone di nove metri per cinque, con quattro abbaini e le
capriate di larice che mi costringevano a tener bassa la testa. Là condivisi con il nonno uno
stramazzo buttato sulle assi del solaio, che erano tutte una scheggia, mentre alla nonna fu
permesso di restare in camera sua.
La sconfitta dell’esercito italiano era una vergogna che ogni soldato invasore ci gettava in
faccia: io avevo diciassette anni, quasi diciotto, e vedere il nemico spadroneggiare in casa
mia era insopportabile. Quelli del ’99 erano già in trincea: pochi mesi e sarebbe toccato a
me.
«Manca poco e sono a Roma a liberare il Papa, così dicono loro, eh… tra felloni se la
intendono, dico io». Il nonno considerava i preti un gradino – piuttosto piccolo- sopra
gli agenti delle tasse: «Quei figuri in gonnella hanno l’immaginazione di un tacchino, ma
l’astuzia della volpe e del serpente, sono loro la grande beffa del creato, altro che le piaghe
di Giobbe… vedi, Budda non ha preti» mi guardò dritto negli occhi, cosa che faceva di
rado da
77
quando avevo perso i genitori, «o se li ha non sono austriacanti». Si sputò nel palmo della
mano, che ripulì nel vasto fazzoletto.
A me il nonno piaceva. Dalla berretta da notte si separava solo, e a malincuore, verso
le dieci del mattino. Quella notte, però, se l’era svignata senza la sua berretta. Un fante
e un caporale l’avevano legato a una sedia e l’uno premendogli il calcio del fucile sullo
sterno, l’altro accarezzandogli la gola con la lama della baionetta, gli avevano fatto dire il
nascondiglio delle gioie. Fortuna che la nonna, a sua insaputa, era riuscita a infilare le cose
più preziose – e una manciata di sterline d’oro – nella sacca di uno dei suoi clisteri, oggetti
troppo umili, e troppo prossimi alla merda per solleticare l’appetito dei predoni.
«Sono preoccupato per Maria… certo, se c’è qualcuno che può spaventare un tedesco è
lei» disse il nonno, accasciandosi sullo stramazzo. I cartocci di pannocchia scricchiolarono
sotto il suo peso. Fissava le travi con gli occhi umidi, ma non voleva farmi sentire la sua
paura: le nostre vite, le nostre cose, tutto era in balìa del nemico. «Guerra e bottino sono i
soli sposi fedeli» disse.
Mi sistemai accanto a lui. Il nonno voleva bene alla zia, «è una donna di piglio e di grazia»
diceva. Era la figlia di suo fratello, scomparso nel naufragio dell’Empress of Ireland, nel
maggio del ’14, insieme alla moglie e ai miei genitori, in quel viaggio che tutti, in famiglia,
chiamavamo la «Grande Sciagura». Da allora le erano stati affidati gli affari della villa,
forse perché alla mia educazione si dedicava, sia pure con svogliata costanza, la nonna.
«L’hai mai guardata bene negli occhi, tua zia? Sono verdi, fermi come sassi. Lo sai cosa
dicono i marinai? Dicono che quando l’acqua si fa verde la tempesta t’inghiotte». Il
nonno non era mai stato in mare, ma i suoi discorsi erano infarciti di detti e imprecazioni
da capitano di lungo corso: «alla via così», «duri i banchi», «se t’acchiappo t’impicco
all’albero di maestra», frase, quest’ultima, che aveva bandito dal suo dire da quando, subito
dopo la Grande Sciagura, aveva preteso che gli dessi del tu.
Erano tutti diventati molto gentili con me dopo il naufragio dell’Empress, e io ne avevo
approfittato per godermela; il bello è che non ne avevo sofferto, non come ci si aspettava,
almeno. I genitori, per me, erano degli estranei, o quasi. Mi avevano mandato in collegio
per togliersi dai piedi un problema, o perché – volendo essere benevoli – pensavano che
l’educazione dei giovani fosse un affare a cui padre e madre sono inadatti. Il mio collegio
era dei domenicani e i padri consideravano la salute del corpo importante almeno quanto
quella dell’anima, su cui erano – e la cosa stupiva non poco – propensi ad ammettere una
78
certa ignoranza.
Nel giorno fatale il preside – uno studioso di San Domenico di Guzmán, che a noi ragazzi
sembrava centenario per via della barba bianchissima e della curvatura della schiena – mi
mandò a chiamare. Il suo ufficio, foderato di grossi libri di cuoio, misurava tre passi per
quattro: lì il puzzo di muffa, di carta, d’inchiostro, d’ascella e di grappa si contendevano
il campo. Sollevò la fronte dal manoscritto che stava consultando, e mi squadrò con tutto
l’azzurro dei suoi occhi, ingigantito dalle lenti: «Sedete, giovanotto». Non fece preamboli,
e non annacquò la notizia con dicerie sulla vita eterna.
Parlava con voce ferma, senza una pausa. Non cercai di fingermi addolorato, dissi: «Non
sentirò la loro mancanza». Strinse le palpebre e mi fissò con la faccia
dura. «Certe cose si capiscono dopo», disse prima di ricacciare il naso nel manoscritto.
Forse non mi sentì nemmeno uscire, ma quelle sue parole mi rimasero dentro: aveva
ragione lui, il colpo venne dopo, la ferita si aprì un poco alla volta e un poco alla volta si
rimarginò.
79
Presentazione del libro
Non tutti i bastardi sono di Vienna
Negli ultimi tempi della I Guerra mondiale in una località vicina al Piave la famiglia Spada
è costretta a ospitare nella propria villa alcuni ufficiali dell’esercito nemico. Paolo ha quasi
18 anni, è rimasto precocemente orfano e vive coi nonni, Gustavo e Nancy, lei è di origine
inglese, lui riesce a intrattenere gli “ospiti” austriaci aiutato dalla sua simpatia. Nella grande
proprietà, vivono anche le persone di servizio, Teresa la governante con la figlia Loretta, e
Renato, l’imponente custode dal misterioso passato. Le vicende della guerra si complicano,
dal fronte ormai prossimo al Piave giungono decine di feriti tanto da dover improvvisare in
casa un ospedale. E mentre si delineano le sorti della guerra, nella villa gli eventi precipitano.
A metà tra romanzo storico e romanzo di formazione, incentrato sulla figura del ragazzo
Paolo che narra gli eventi in prima persona, il libro è scritto con uno stile a volte immaginifico
a volte ironico, che mette bene in evidenza anche gli altri personaggi - dal nonno, alla vecchia
serva, a chi tradirà e non ne avrà pace - i loro caratteri riescono a apparire vivi, credibili e
intelligentemente sfumati sullo sfondo di una guerra che fu crudele e spietata come talvolta si
tende a dimenticare.
80
Biografia dell’autore
Andrea Molesini è nato e vive a Venezia. Ha curato
e tradotto opere di poeti americani: Ezra Pound,
Charles Simic, Derek Walcott. Ha scritto storie per
ragazzi tradotte in varie lingue e nel 1999 ha vinto
il Premio Andersen. Insegna Letterature comparate
all’Università di Padova.
Non tutti i bastardi sono di Vienna - Premio
Campiello 2011, Premio Comisso, Premio Latisana,
Premio Città di Cuneo - è il suo primo romanzo,
in corso di traduzione in tutte le maggiori lingue
europee, fra cui l’inglese, il francese, lo spagnolo, il
tedesco, l’olandese, lo sloveno, il norvegese.
81
5
Mi ch e la Mu rg ia
A ccabad o ra
『 終 わ ら せ る 女 』 ミ ケ ー ラ ・ ム ル ジ ア
第一章
魂の 子 供 た ち 。
ひとりの女の貧困から、また別の女の不妊から、二度生まれた子供たちをこう呼ぶ。この後者の出
産で生まれたのが娘のマリア・リストルで、それはボナリア・ウッライの魂の遅ればせながらの産物
だった 。
老女が、彼女の母のアンナ・テレーザ・リストルと話そうとレモンの木の下で立ち止まった時、マ
リアは六歳で、三つの正しきことの後の過ちだった。彼女の姉たちはもう若き娘で、彼女はいつもひ
とりで地べたに座り、少女らしい丁寧さで、蟻を練り込んだ泥ケーキを作って遊んでいた。泥団子の
中で赤い足がうごめき、野草の飾りと砂の砂糖の下でゆっくりと死んでいった。七月の灼熱の太陽の
下、ケーキは彼女の手の中で大きくなり、悪いことがえてしてそうであるように美しい。少女が泥か
ら顔を上げた時、その隣には、逆光を受け、アンナ・テレーザ・リストルが彼女にくれたものに満足
しつつ華奢な腰に手を当てて微笑むボナリア・ウッライおばさんがいた。くれたものが正確に何なの
か、マリアが知るのはもっと後のことになる。
その日のうちに、彼女はボナリアおばさんと出発した。片手に泥ケーキ、もう片方には御礼代わり
の祖末な食料、生卵とパセリがいっぱい詰まった買い物かごを持って。
マリアは微笑みながら、ここで泣く理由がどこかしらにあってもいいはずだという気がしたが、と
くに思いつくことができなかった。遠ざかるうちに、母の顔の記憶も消え、まるでそれはもうずっと
83
前に、幼い娘たちが泥ケーキの中に何を練り込むかをひとりで考えついた瞬間に、忘れ去られてしま
ったかのようだった。逆に、熱を帯びた空とテズィア・ボナリアのサンダル履きの足は何年たっても
忘れることがなかった。片足は外に、もう片足はスカートの縁に隠れて、歩調を合わせにくい静かな
ダンス を 踊 っ て い た 。
ボナリアおばさんは彼女に専用のベッドと、聖人たちでいっぱいの部屋を与えた。聖者はひとり残
らずおどろおどろしかった。マリアは天国というのは子供向けではないのだと知った。丸二晩、暗闇
キリスト
を見すえて血の涙や後光の煌めきを見守りながら黙ってそこにじっとしていた。三晩め、胸元にかか
った血の滴る三本のロザリオのせいで見るからに怖そうに見える、指を突き出した聖心への恐怖に取
り憑かれた。彼女はもう我慢せずに、絶叫した。
一分も経たないうちにボナリアおばさんが扉を開け、犬のぬいぐるみがわりの毛足の長いクッショ
ンをぎゅっと握りしめて壁際に立つマリアを見つけた。それから、かつてないほどベッド際に寄った
血塗れた像を眺めた。彼女は何も言わずに像を抱えて部屋を出た。翌日、祭器卓から内側に聖リタが
描かれた聖水盤が消え、野犬のような巻毛で獅子のように凶暴な石膏の妖しい羊も消えた。それから
しばらくして、マリアはアヴェマリアの祈りを再び口にするようになった。ただしあくまで小声で、
聖母マリアに聞こえないように、聖母がそれを真剣に受け取らないように、私たちの死に際して、ア
ーメン 。
ボナリアおばさんの年齢を知るのは簡単ではなかった。何年も前から歳月は止まっていて、まるで
84
彼女が自分で決めて一気に歳をとり、実際の時間が追いつくまで老いるのをやめたかのようだった。
対してマリアは母親の胎内に辿り着くのにも遅れをとり、当初から常に、自分がすでに満杯の家の最
後のお荷物だと思い続けてきた。けれどもかの老女の家で、自分が大事な何かになったのだという奇
妙な感覚を知った。毎朝、扉を開けて教科書を握りしめて学校へ向かう時、振り返れば、彼女が蝶番
を支えるように扉枠にもたれながら自分を見ていることがわかっていた。
マリアは知らなかったが、あのさしたる理由もなく目覚めているような夜に老女はそこにいた。ひ
っそりと部屋に忍び込み、彼女が寝ているベッドの前に座って暗闇の中で彼女を見つめていた。そう
いう夜、ボナリア・ウッライにとって、自分は「一番大切なもの」なのだと信じていた少女は、実は
それが「唯一のもの」であること、またそうあることの重みをまだ知らずに眠っていた。
アンナ・テレーザ・リストルが末娘を老女にやった理由は、ソレーニでは誰もが頷けることだった。
彼女は家族の助言を聞かずに間違った結婚をして、その後の十五年間、たったひとつのことしかでき
ないあの男の文句を言い続けた。アンナ・テレーザ・リストルは、隣人たちを相手に、あの夫は死ん
だって役に立てない、戦争で死んで年金を残してくれるならまだよかったのにと嘆き続けていた。貧
弱なせいで軍務不適格とされたシシニオ・リストルは、たまに作男として仕えていたボレドゥ・アッ
レージのトラクターの下で、圧搾機の中のブドウのようにぺちゃんこになるという、その生きざま同
様に無様な死に方をした。四人の娘を抱えて未亡人となった気の毒なアンナ・テレーザ・リストルは
極貧になり、彼女の言葉を借りれば、鐘楼の影を入れてスープ作ることを覚えた。ボナリアおばさん
がマリアを娘にしたいと言ってきた時、スープの中に毎日ウッライ家の土地のジャガイモをふたつ入
85
れられるなど、よもや本当のこととは思えなかった。その対価が子供ということなら、悪くない。子
供なら彼女にはまだ三人いた。
逆に、ボナリア・ウッライおばさんがなぜあの年で他人の娘を引き取ったのかは、誰にも全くわか
らなかった。老女と少女が並んで道を行くと沈黙が影のように伸び、その後に隣人たちは椅子の上で
ひそひそ話を始めるのだった。煙草屋のバインズは、どんな金持ちでも、老いれば、尻を拭く誰かが
必要になるのだとしたり顔で言った。けれども水道屋の長女のルチアーナ・ロンディーネは、お金を
つめばいくらでも手伝いのものにやってもらえるのだから、娘をもらう必要などないと言った。尻に
ついては看護婦より詳しいアウソニア・フラウは、この会話を終わらせたくて、女狐でさえひとりで
は死にたがらないのだと言い放ち、するともう誰も口を開く者はいなかった。
当然ながら、もし裕福に生まれついていなかったら、ボナリア・ウッライは独り身になったすべて
の女たちと同じ境遇にあって、娘をもらうどころではなかっただろう。彼女は一度も籍を入れなかっ
た夫の未亡人で、状況が違えば娼婦になっているか、在家かあるいは修道院に入るかして尼になり、
息を引き取るまで扉を閉めきって黒衣をまとっていただろう。彼女から花嫁衣装を奪ったのは戦争だ
ったが、村には、ラッファエレ・ズィンクがピアーヴェ川で死んだのは嘘だと言う者もいた。彼は狡
賢いから、彼の地で別な女を見つけたが、それを説明しに帰ってくるのが面倒だったのだと。おそら
く、だからボナリア・ウッライは若い頃から老いていて、マリアの目に映る彼女のスカートはどんな
夜も叶わないほど黒いのだ。けれども村には生きている夫の未亡人が溢れ、中傷する女たちはそれを
承知していた。ボナリア・ウッライもまたそれを知っていて、だから彼女は、毎朝焼きたてのパンを
86
買いに出かける時、キッと顔を上げて決して立ち話などせずに、八行詩の韻のごとくまっすぐ家に戻
ってく る の だ っ た 。
ひとりの少女を引き取ると決心した時、ボナリアにとって一番の問題はもちろん人々の好奇心など
ではなく、家へ連れてこられた少女の最初の反応だった。たったひとつの部屋を三人の姉と共有して
六年、マリアが自分のものと考える空間が腕の長さほどしかないのは当然だった。ボナリア・ウッラ
イ邸へ到着して、彼女のこの心理的地理は書き換えられた。あの壁の内側の、彼女だけの空間はあま
りに広すぎて、たくさんの閉じられた扉から、「触らないで、これは私のよ」と言いながら誰かが出
てきたりしないことを理解するのに何週間もかかった。ボナリア・ウッライは「ここを自分の家だと
思って」と言うような間違いを決しておかさず、また客人が逆に自宅にいないことを思い出すような
月並みな言葉も、一切言わなかった。ただひたすら、何年も空っぽだった空間が少しずつ少女のかた
ちになるのを待ち、そしてひと月後にすべての部屋の扉が開け放たれたままになった時、家が自然に
変化するに任せたことは間違いではなかったと思った。そして、その家と親密になったことを実感す
ると、マリアは自分をそこへ連れてきた女性に少しずつ興味を示すようになった。
「おばさん、あなたは誰の子どもなの?」。ある日、スープで口をいっぱいにしながら少女は訊ねた。
「お父さんはタニエイ・ウッライという名前で、あそこにいる男の人だよ」
ボナリアは暖炉の上に掛けられた光沢のある古い写真を指差したが、そこには三十歳ぐらいだろう
か、コーデュロイのチョッキ姿で胸を張ったダニエレ・ウッライがいた。少女は、それが目の前にい
る老女の父親だというなら、あらゆることがありえると思った。ボナリアはその薔薇色の顔から驚き
87
を読み と っ た 。
「これはまだ若い頃、私はまだ生まれていないんだ」と老女は説明した。
「お母さんはいなかったの?」。父親だけから娘がうまれるということが信じられないと言いたげに
マリアは老女に詰めよった。
「もちろんいたよ、アンナという名だった。でもお母さんももう何年も前に死んだ」
「私の父さんみたい」。そしてマリアは真顔で続けた。「時々そういうことが起こるの」
ボナリアはその言葉に唖然となった。
「え っ ? 」
「そういうことが起きるの。子どもが生まれる前に死ぬのよ」。マリアは彼女をじっと見つめた。そ
してしぶしぶ付け加えた。「リタが、アンジェラ・ムントーニの子どもがそう言ってた。リタのお父
さんも 先 に 死 ん だ の 」
説明する間、彼女のスプーンは弦楽器の弓のように中空を行き来していた。
「そうだね、そういうこともある。でもみんなじゃないよ」
。ボナリアは曖昧な笑みを浮かべて彼女
を眺め な が ら 言 っ た 。
「みんなじゃないわ、もちろん」とマリアも同意する。
「少なくともひとりは生きてなきゃ。子ども
たちのために。だから親っていうのはいつも二人なんだわ」
ボナリアは頷き、この会話はこれで終わりだと自分のスプーンをスープに沈めた。
「おばさんも二人だったの?」
88
ボナリアはようやく気づき、食べる手を止めずに、先刻までと同じ何気ない口調で応じた。
「あ、おじさんと二人だった。おじさんも死んだ」
「そう。死んだの…」。一瞬の間を置いて、安心なのか遺憾なのかわからない口調でマリアはそう繰
り返し た 。
「ああ」とボナリアも真顔になった。「時々そういうことが起きる」
そういうことが稀ではないことに満足して、少女はまた静かにスープを吹き始めた。時々、スプー
ンの湯気から顔を上げ、ボナリアおばさんと目を合わせ、それが少女を微笑ませた。
その時から、ボナリアが朝にパンを買いに出ると、マリアは台所の椅子に座って足をぶらつかせな
がら、ゴムの靴が椅子にあたる音を、自分が知っている数まで数えて待った。百を三回数えたぐらい
でボナリアおばさんが戻ってきて、それから学校へ行く前に温かいパンとオーブンで焼いたイチジク
をふた り で 食 べ た 。
「マリア、お食べ。胸が大きくなるからね!」とおばさんは言い、片手で微かに残っている自分の
胸を叩 い て み せ た 。
マリアは笑って果実をふたつずつ口へ運び、それを確認しようと歯の間にイチジクの種が挟まった
まま自室へ駆けていった。ボナリアおばさんが言うことはすべて地上の神の掟だからだ。ただそれで
も、彼女と暮らした十三年間で、マリアが彼女を「おかあさん」と呼んだことは一度もなく、母親と
いうのはまた別のことなのだった。
89
〔作品 解 説 〕
」 は、 ス ペ イ ン 語 で「 終 え る 」 の 意。 そ し て、 サ ル デ ー ニ ャ 語 で「 accabadora
」 は、
「終
「
Acabar
わらせる女」の意。地域の人々にとっては、彼女の行為は殺人ではなく、天命の終わりの手助けをす
る者の、愛情のこもった慈悲深き行為なのだ。彼女こそ最後の母。
マリアとボナリア小母は母娘として暮らしているが、彼女たちが共にいることには、それが選択さ
れたものであるがゆえに特別な価値があった。仕立屋の老女ボナリアは、マリアがある店で万引きを
するのを見かけたが、他に見ている者がいなかったので、彼女を自分で引き取ろうと考えた。
「罪とは、
人間と同様、誰かが気づかない限り存在しない」のだ。となればこれから、この孤独で頑固な少女に
多くのことを教えこまなければいけない。たとえばボタンの穴かがりや、やがて起きる戦争から身を
守る術や、粛々と生と死を受け入れることを学ぶ術。けれども逆に、「どこであれ多くの父や母を持
たずして最期の日を迎える生者はいない」。
マリアがどうしてボナリア・ウッライの家で暮らすことになったのか、それはサレーニの人々にとっ
ては理解を絶する謎だった。老女と少女が町を歩くと、悪意に満ちた言葉が次々と浴びせかけられた。
だが実際はごく簡単なことだった。ボナリア小母はマリアを引き取った。彼女を育て、彼女を後継ぎ
として、そのかわりに老女が必要な時は側にいて世話をしてもらうのだ。
<
>
末娘 であることを常に実感して
未亡人となった母の四番目の娘マリアは、他の誰よりも自分が
いた。だから町の仕立屋の老女の配慮や関心にもとくに驚くこともなかった。老女は彼女に家と将来
を与えたが、彼女の好きなようにさせ、また彼女に何も望んでいないかのようだった。
「突然に、ま
90
るでずっとこうだったかのようになった、魂と魂の娘、それは母と娘であることよりも罪なきかたち」
けれども、この黒衣の老女とその長い沈黙の内には何かが、彼女につきまとう謎めいた気配のよう
なものがあり、彼女と出会う者は必ずその目に恐怖の影を浮かばせる。さらにマリアが盗み見ても意
味のわからない夜の外出、そして生と死にまつわる事柄に関する千年越しとも思える知識。
皆が知っていてマリアが想像もせずにいるのは、ボナリア・ウッライ小母は洋服を縫い、魂に力を
与え、占いと呪いに通じ、そして必要な時には家々に入り込んで慈悲深き死をもたらすということだっ
た。彼女の行為は、終わらせる女、すなわち最後の母の、愛情に満ちた最後の行為なのだった。
一九五〇年代のサルデーニャは、いわば辺境にある原始の世界で、そこには独自の規則と禁忌と、
先祖代々の言語と暗黙の取り決めがある。共同体はひとつの生物さながら、さまざまな要望を本能的
に嗅ぎ取り、あまり言葉を交わさずともそれに対処する術を知っている。ふたつの孤独を結びつける
術を知り、どの絆を損ねてはいけないかを知り、最期を求める者にそれを与えることを知っている。
ミケーラ・ムルジアは、簡潔であると同時に詩的な語彙をもって、文学の持つすべての力を使い、
これほどまでに複雑な物語を単純化することなく描き出してみせる。さらに彼女は、文字を覚えるた
めのカードのように、すなわち「物体とその名前というものが、論理的分析という暴力によって分か
たれることなく、まだ解き明かされていないものであった頃」の初歩の記号体系のように、さまざま
な問いに対して明確な答えが存在したこの遠い世界と、その本質的かつ秘められた均衡を物語りつつ、
私たちの世界に疑問を投じる言葉を見いだすのである。
91
ミケーラ・ムルジア Michela Murgia
1972 年、 カ ブ ラ ス ( オ リ ス タ ー ノ ) 生 ま れ。
2006 年、Isbn Edizioni よ り Il mondo deve
sapere を 出 版 し、 パ オ ロ・ ヴ ィ ル ツ ィ の 映 画
Tutta la vita davanti(『見わたす限り人生』)の
着 想 の も と と な る。Einaudi 社 か ら は、2008
年 に Viaggio in Sardegna. Undici percorsi nell’
isola che non si vede、2011 年に Ave Mary. E la
Chiesa inventò la donna を刊行。さらに 2010 年、
Einaudi 社から、アンドレア・バジャーニ、パ
オロ・ノーリ、ジョルジョ・ヴァスタとの共著
Presente を出版。最新作は同社から 2012 年刊
行の L’incontro。
公式サイト: http://www.michelamurgia.com
92
© Meloni-Deidda
5
Accabadora
Michela Murgia
Capitolo primo
Fillus de anima.
È così che li chiamano i bambini generati due volte, dalla povertà di una donna e dalla
sterilità di un’altra. Di quel secondo parto era figlia Maria Listru, frutto tardivo dell’anima
di Bonaria Urrai.
Quando la vecchia si era fermata sotto la pianta del limone a parlare con sua madre Anna
Teresa Listru, Maria aveva sei anni ed era l’errore dopo tre cose giuste. Le sue sorelle erano
già signorine e lei giocava da sola per terra a fare una torta di fango impastata di formiche
vive, con la cura di una piccola donna. Muovevano le zampe rossastre nell’impasto,
morendo lente sotto i decori di fiori di campo e lo zucchero di sabbia. Nel sole violento
di luglio il dolce le cresceva in mano, bello come lo sono a volte le cose cattive. Quando la
bambina sollevò la testa dal fango, vide accanto a sé Tzia Bonaria Urrai in controluce che
sorrideva con le mani appoggiate sul ventre magro, sazia di qualcosa che le aveva appena
dato Anna Teresa Listru. Cosa fosse con esattezza, Maria lo capì solo tempo dopo.
Andò via con Tzia Bonaria quel giorno stesso, tenendo la torta di fango in una mano,
e nell’altra una sporta piena di uova fresche e prezzemolo, miserabile viatico di
ringraziamento.
Maria sorridendo intuiva che da qualche parte avrebbe dovuto esserci un motivo per
piangere, ma non riuscì a farselo venire in mente. Si perse anche i ricordi della faccia di
sua madre mentre lei si allontanava, quasi se la fosse scordata già da tempo, nel momento
misterioso in cui le figlie bambine decidono da sole cosa è meglio
impastare dentro il fango delle torte. Per anni ricordò invece il cielo caldo e i piedi di Tzia
Bonaria nei sandali, uno che usciva e uno che si nascondeva sotto l’orlo della gonna nera, in
un ballo muto di cui a fatica le gambe seguivano il ritmo.
Tzia Bonaria le diede un letto solo suo e una camera piena di santi, tutti cattivi. Lì Maria
capì che il paradiso non era un posto per bambini. Due notti stette zitta vegliando con gli
occhi tesi nel buio per cogliere lacrime di sangue o scintille dalle aureole. La terza notte si
fece vincere dalla paura del sacro cuore col dito puntato, reso visibilmente minaccioso dal
peso di tre rosari sul petto zampillante. Non resistette più, e gridò.
Tzia Bonaria aprì la porta dopo nemmeno un minuto, trovando Maria in piedi accanto al
muro che stringeva il cuscino di lana irsuta eletto a cucciolo difensore. Poi guardò la statua
94
sanguinante, più vicina al letto di quanto fosse sembrata mai. Prese sottobraccio la statua e
la portò via senza una parola; il giorno dopo sparirono dalla credenza anche l’acquasantiera
con santa Rita disegnata dentro e l’agnello mistico di gesso, riccio come un cane randagio,
feroce come un leone. Maria ricominciò a dire l’Ave solo dopo un po’, ma a bassa voce,
perché la Madonna non sentisse e la prendesse sul serio nell’ora della nostra morte amen.
Quanti anni avesse Tzia Bonaria allora non era facile da capire, ma erano anni fermi da
anni, come fosse invecchiata d’un balzo per sua decisione e ora aspettasse paziente di esser
raggiunta dal tempo in ritardo. Maria invece era arrivata troppo tardi anche al ventre di sua
madre, e sin da subito aveva fatto l’abitudine a essere l’ultimo pensiero di una famiglia che
ne aveva già troppi.
Invece in casa di quella donna sperimentava l’insolita sensazione di essere
diventata importante. Quando la mattina si lasciava alle spalle la porta e stringeva il
sussidiario verso la scuola, aveva la certezza che se si fosse voltata l’avrebbe trovata lì a
guardarla, appoggiata allo stipite come a reggerne i cardini.
Maria non lo sapeva, ma era soprattutto di notte che la vecchia c’era, in quelle notti
comuni senza nessun peccato a cui dare la colpa di essere svegli. Entrava nella camera
silenziosamente, si sedeva davanti al letto dove lei dormiva e la fissava nel buio. In quelle
notti la ragazzina, che tra i pensieri di Bonaria Urrai credeva di essere il primo, dormiva
senza ancora conoscere il peso di essere l’unico. Perché Anna Teresa Listru avesse dato
la figlia minore alla vecchia, a Soreni lo si capiva anche troppo bene. Ignorando i consigli
della gente di casa aveva sbagliato matrimonio, passando i successivi quindici anni a
lamentarsi di quell’uomo che si era dimostrato capace di far bene una sola cosa. Con le
vicine, Anna Teresa Listru amava lagnarsi di come il marito non fosse riuscito a esserle
utile nemmeno in morte, avendo magari la buona grazia di crepare in guerra per lasciarle
una pensione. Riformato per sua pochezza, Sisinnio Listru era finito stupidamente come
era vissuto, schiacciato come un acino nel torchio sotto il trattore di Boreddu Arresi, per
cui faceva ogni tanto il mezzadro. Rimasta vedova con quattro figlie femmine, Anna Teresa
Listru da povera si era fatta misera, imparando a fare il bollito – diceva – anche con l’ombra
del campanile. Adesso che Tzia Bonaria aveva chiesto Maria in figlia, non le sembrava vero
di poter infilare tutti i giorni nella minestra anche
due patate dei terreni degli Urrai. Se il prezzo era la creatura, poco male: lei di creature ne
aveva ancora altre tre.
95
Perché invece Tzia Bonaria Urrai si fosse presa in casa la figlia di un’altra a quell’età, davvero
non lo capiva nessuno. I silenzi si allungavano come ombre quando la vecchia e la bambina
passavano per le vie insieme, suscitando code di discorsi a mezza voce sugli scanni del
vicinato. Bainzu il tabaccaio si beava di scoprire come anche un ricco, invecchiando,
avesse bisogno di due mani per farsi pulire il culo. Ma Luciana Lodine, la figlia grande
dell’idraulico, non vedeva necessità di procurarsi un’erede per sopperire a quello che poteva
fare qualunque serva pagata bene. Ausonia Frau, che di culi ne sapeva più di un’infermiera,
amava chiudere il discorso sentenziando che neanche la volpe vuole morire sola, e a quel
punto nessuno diceva più nulla.
Certo, se non fosse nata ricca, Bonaria Urrai avrebbe fatto la fine di tutte quelle rimaste
senza uomo, altro che prendersi una fill’e anima. Vedova di un marito che non l’aveva mai
sposata, in altre condizioni sarebbe forse stata bagassa, oppure suora di casa o di convento,
con le imposte sempre chiuse e il nero addosso finché avesse avuto respiro. A rubarle
l’abito da sposa era stata la guerra, anche se qualcuno in paese diceva che non era vero che
Raffaele Zincu sul Piave c’era morto: più facile che, furbo com’era, avesse trovato femmina
lì, e si fosse risparmiato il viaggio per venire a spiegare. Forse era questo il motivo per cui
Bonaria Urrai era vecchia da quando era giovane, e nessuna notte a Maria sembrava nera
come la sua gonna. Ma di vedove di mariti vivi il paese era pieno, lo sapevano le donne che
sparlavano e lo
sapeva anche Bonaria Urrai, per questo quando usciva ogni mattina a prendere il pane
nuovo al forno, camminava con la testa alta e non si fermava mai a parlare, tornando a casa
dritta come la rima di un’ottava cantata.
In quella decisione di prendere una fill’e anima, la cosa più difficile per Bonaria non era
stata certo la curiosità della gente, ma la reazione iniziale della bambina che si era portata
in casa. Dopo sei anni di notti passate a condividere l’aria di una sola stanza con le tre
sorelle, era evidente che lo spazio che Maria considerava suo non andava oltre la lunghezza
del braccio. L’arrivo nella casa di Bonaria Urrai sconvolse questa geografia interiore; tra
quelle mura gli spazi solo suoi erano così ampi che la bambina ci mise alcune settimane
a capire che dalle porte delle molte camere chiuse non sarebbe comparso nessuno a dire
«Non toccare, questo è mio». Bonaria Urrai non fece mai l’errore di invitarla a sentirsi a
casa propria, né aggiunse altre di quelle banalità che si usano per ricordare agli ospiti che
in casa propria non si trovano affatto. Si limitò ad aspettare che gli spazi rimasti vuoti per
96
anni prendessero gradualmente la forma della bambina, e quando in capo a un mese le
porte delle stanze erano state tutte aperte per rimanere tali, ebbe la sensazione di non aver
sbagliato a lasciar fare alla casa. Una volta che si sentì forte della nuova confidenza acquisita
con quelle mura, Maria cominciò a mostrarsi via via più curiosa della donna che l’aveva
condotta a viverci.
– Di chi siete figlia voi, Tzia? – disse un giorno, con la bocca piena di minestra.
– Mio padre si chiamava Taniei Urrai, era quel signore là…
Bonaria indicò la vecchia foto brunita appesa sopra il camino, dove Daniele Urrai impettito
nel corpetto di velaccabadora luto dimostrava forse trent’anni, e tutto poteva sembrare alla
bambina fuorché il padre della vecchia che aveva davanti. Bonaria le lesse l’incredulità sul
viso roseo.
– Lì era giovane, io non ero ancora nata, – precisò.
– E mamma non ne avevate? – incalzò Maria, che evidentemente con l’idea che si potesse
essere figlie di un padre non aveva particolare confidenza.
– Certo che ne avevo, si chiamava Anna. Ma è morta tanti anni fa anche lei.
– Come mio padre, – aggiunse seria Maria. – A volte lo fanno.
Bonaria rimase stupita da quella precisazione.
– Cosa?
– Lo fanno. Muoiono prima che nasciamo –. Maria la guardò paziente. Poi aggiunse
malvolentieri: – Me lo ha detto Rita, la figlia di Angela Muntoni. Anche a lei suo
babbo era morto prima.
Durante la spiegazione il cucchiaio si agitava nell’aria come l’archetto di un orchestrale.
– Sì, alcuni lo fanno. Ma non tutti, – disse Bonaria, osservandola con un sorriso vago.
– Non tutti, certo, – convenne Maria. – Uno almeno deve rimanere. Per i bambini. Ecco
perché i genitori sono sempre due.
Bonaria annuì, infilando a sua volta il cucchiaio nella minestra, convinta di aver chiuso il
discorso.
– Voi eravate due?
Bonaria finalmente capì, e senza smettere di mangiare, parlò con il tono quasi casuale che
aveva usato fino a quel momento.
– Sì, eravamo due. Il mio sposo è morto anche lui.
– Oh. È morto… – fece eco Maria dopo un istante, indecisa tra il sollievo e il dispiacere.
97
– Sì, – fece Bonaria a sua volta seria. – A volte lo fanno.
Con il conforto di quella personale statistica, la bambina riprese a soffiare piano sulla
minestra. Ogni tanto, sollevando gli occhi dai vapori del cucchiaio, incrociava quelli di Tzia
Bonaria, e le veniva da sorridere.
Da quel momento, quando Bonaria usciva al mattino a comprare il pane, Maria prese ad
aspettarla seduta al tavolo della cucina con i piedi ciondoloni, contando in silenzio
i colpi della scarpa di gomma contro la sedia finché sapeva i numeri. Intorno a tre volte
cento Tzia Bonaria tornava, e allora prima di andare a scuola mangiavano pane caldo e fichi
infornati.
– Mangia Maria, che ti crescono le tette! – così diceva Tzia, battendosi una mano sul poco
seno rimastole.
Maria ridendo mangiava i frutti a due a due, poi correva in camera con i semi dei fichi
ancora tra i denti a controllare, perché tutto quello che diceva Tzia Bonaria era legge di
Dio in terra. Eppure in tredici anni che visse con lei, nemmeno una volta Maria la chiamò
mamma, che le madri sono una cosa diversa.
98
Presentazione del libro
Accabadora
«Acabar», in spagnolo, significa finire. E in sardo «accabadora» è colei che finisce. Agli
occhi della comunità il suo non è il gesto di un’assassina, ma quello amorevole e pietoso di
chi aiuta il destino a compiersi. È lei l’ultima madre.
Maria e Tzia Bonaria vivono come madre e figlia, ma la loro intesa ha il valore speciale delle
cose che si sono scelte. La vecchia sarta ha visto Maria rubacchiare in un negozio, e siccome
nessuno la guardava ha pensato di prenderla con sé, perché «le colpe, come le persone,
iniziano a esistere se qualcuno se ne accorge». E adesso avrà molto da insegnare a quella
bambina cocciuta e sola: come cucire le asole, come armarsi per le guerre che l’aspettano,
come imparare l’umiltà di accogliere sia la vita sia la morte. D’altra parte, «non c’è nessun
vivo che arrivi al suo giorno senza aver avuto padri e madri a ogni angolo di strada».
Perché Maria sia finita a vivere in casa di Bonaria Urrai, è un mistero che a Soreni si fa fatica
a comprendere. La vecchia e la bambina camminano per le strade del paese seguite da uno
strascico di commenti malevoli, eppure è così semplice: Tzia Bonaria ha preso Maria con
sé, la farà crescere e ne farà la sua erede, chiedendole in cambio la presenza e la cura per
quando sarà lei ad averne bisogno.
Quarta figlia femmina di madre vedova, Maria è abituata a pensarsi, lei per prima, come
«l’ultima». Per questo non finiscono di sorprenderla il rispetto e le attenzioni della vecchia
sarta del paese, che le ha offerto una casa e un futuro, ma soprattutto la lascia vivere e non
sembra desiderare niente al posto suo. «Tutt’a un tratto era come se fosse stato sempre
così,
anima e fill’e anima, un modo meno colpevole di essere madre e figlia».
Eppure c’è qualcosa in questa vecchia vestita di nero e nei suoi silenzi lunghi, c’è un’aura
misteriosa che l’accompagna, insieme a quell’ombra di spavento che accende negli occhi di
chi la
incontra. Ci sono uscite notturne che Maria intercetta ma non capisce, e una sapienza quasi
millenaria riguardo alle cose della vita e della morte.
Quello che tutti sanno e che Maria non immagina, è che Tzia Bonaria Urrai cuce gli abiti
e conforta gli animi, conosce i sortilegi e le fatture, ma quando è necessario è pronta
a entrare nelle case per portare una morte pietosa. Il suo è il gesto amorevole e finale
99
dell’accabadora, l’ultima madre.
La Sardegna degli anni Cinquanta è un mondo antico sull’orlo del precipizio, ha le sue
regole e i suoi divieti, una lingua atavica e taciti patti condivisi. La comunità è come
un organismo, conosce le proprie esigenze per istinto e senza troppe parole sa come
affrontarle. Sa come unire due solitudini, sa quali vincoli non si possono violare, sa dare
una fine a chi la cerca.
Michela Murgia, con una lingua scabra e poetica insieme, usa tutta la forza della letteratura
per affrontare un tema così complesso senza semplificarlo. E trova le parole per interrogare
il nostro mondo mentre racconta di quell’universo lontano e del suo equilibrio segreto e
sostanziale, dove le domande avevano risposte chiare come le tessere di un abbecedario,
l’alfabeto elementare di «quando gli oggetti e il loro nome erano misteri non ancora
separati dalla violenza sottile dell’analisi logica».
100
Biografia dell’autrice
Michela Murgia è nata a Cabras (OR) nel
1972. Nel 2006 ha pubblicato con Isbn Edizioni
Il mondo deve sapere, che ha ispirato il film di
Paolo Virzí Tutta la vita davanti. Per Einaudi ha
pubblicato nel 2008 Viaggio in Sardegna. Undici
percorsi nell’isola che non si vede, nel 2009 il
romanzo Accabadora (Premio Campiello 2010,
tradotto in venti Paesi), nel 2011 Ave Mary. E la
Chiesa inventò la donna.
Nel 2012, sempre per Einaudi, insieme ad
Andrea Bajani, Paolo Nori e Giorgio Vasta ha
preso parte al libro Presente. Il suo ultimo libro
è L’incontro (Einaudi 2012).
Il suo sito è http://www.michelamurgia.com
101
6
Ed oard o Ne s i
Sto r ia d e l la m ia g ente
『 私たちの物語 』 エドアルド・ネーシ
ク ル ス ス・ ホ ノ ル ム
名誉の キ ャ リ ア
こうして私はいきなり「おそらく大量の本を読んでいて、これまで一時間たりとも働いたことがな
い若者」という立場に置かれ、多くの企業家の子息たちと同じように長期に渡る、伝統的かつ無意味
な徒弟生活を始めた。それは理屈では、すぐさま君の鼻っ柱をへし折って、工場内で仕事なるものの
現実を知ることに役立つはずだが、実際は工員たちに可愛がられたり、ほとんどあるいは何も学ぶこ
とのないちょっとした仕事を、適当にこなすことに貴重な年月を費やすことを意味した。ちょっとし
た仕事、すなわち、私は原材料部門の補佐であり、紡績の補佐で、倉庫番補佐で、営業補佐で、あら
ゆることの補佐、のようだった。
<
>
名誉のキャリア のプラート版を終えると、少しずつ会社を切り盛りすることの基礎を教わ
この
るようになった。そこから私の仕事人生は加速し、旅での通過駅のごとく、続けざまに起きる小さな
事件に身体ごと飛び込んでいくのだが、それを説明するには、数秒で何年間もの出来事を語るという、
優秀な監督だけが実現できるあの映画中の時間経過をご想像いただくのが一番だろう。まずは当時の
歌を歌ってみてほしい(あの頃に売れたディスコミュージックなら何でもいいが、とりあえず、チミ
ーノ監督の『ディア・ハンター』で、若者たちがベトコンとの戦争に出発する前夜のダンスシーンに
を選んでみよう)。その上で、私が上着とジーンズとスニ
も使われた Can't Take My Eyes Off of You
ーカー姿で、私の父とアルヴァーロの何気なさを装いながら実は鋭い視線にさらされて、会社の各事
務所を闊歩するのを眺めていただきたい。アルヴァーロというのはオメーロの孫、アルフィエーロの
103
息子、そして家系樹のまた別な幹の代表者で、その名前は、ロジャー・ムーア&トニー・カーティス
アルヴァーロ&アルヴァラード
のような最強の二人組のプラート版、「あのふたりの繊維業者にゃ気をつけろ」てな感じで、私の父
の名前とあわせて
>
と調和がとれるように考えてつけられたらし
<
い。そして、私は徐々に難しくなる会社の懸案事項を対処するようになる。たとえばこんな感じだ。
一.運送業者の請求書をチェックする(こちらの料金表をもとに請求書を検査するコンピュータ
・プログラムを起動させて、常にこちらが損するようになっている請求書の間違いを見つけ出した)
。
この部分はこんな映像が撮れるだろう。私は立って、シャツ姿で、コンピュータ上の集計表の一部を
アルヴァーロに見せている。彼は自分の机の前に座り、青い上着と黄色いネクタイ姿で、頷く。
二.在庫の査定をする(私の天才的貢献は、半加工品の種別ごとの査定を導入したことだ。つまり
色物の糸と白糸、よく使う素材とあまり使わない素材をそれぞれ別々にチェックすることで、倉庫の
より厳密で包括的な査定をしようとした)。この部分の映像は、立っている私、季節は冬で、場所は
後にダニエレ・ヴィカーリが『私の故郷』というドキュメンタリーのロケ地に選んだ原材料の倉庫内
だ。私は裾を切りっぱなしの濃紺のコートを着て明るい色のマフラーを巻き、ブッリ親方がお気に入
りのジュートに包まれた羊毛の梱の列を眺め、フォークリフトで私のまわりをうろつく倉庫番に何事
か指示 す る 。
三.銀行と交渉する(これはかなり簡単で、当初はこの羊毛加工工場は自己資金ですべてをまかな
っていたから、その仕事と任務は、私たちが支払った小切手の利息開始日や預金の金利を交渉するこ
とに限られていた。その後、私の父の不祥事で銀行貸付けの世話にならなければならなくなった時か
104
ら、仕事はより厄介なものになった)。この部分の撮影はおそらく、私は、若くて野心家で着こなし
の悪い支店長の厳めしいオフィスに腰を下ろし、私たちは微笑みつつ握手を交わし、陽光は背後から
私たちにあたり、両者はまだ輝かしい経歴の賭場口に立っているに過ぎない、という具合になるだろ
う。
四.小さい市場で取引開始についての交渉を始める(ポルトガルは、年に一度、建物の外壁が青い
マジョリカ焼きで飾り付けられている、大西洋岸の美しい町ポルトへ行った。ロシアは、国を解体す
る大不況から抜け出し、そのことは誰もが忘れてしまっていた。モスクワで大きな国際見本市が開か
れることになり、出展したがたいした成果はなかった。見本市で私は通訳とニキータ・ミハルコフの
映画の話をしながら時間を過ごした。彼女はかつてミハルコフに大学で教わったので、
百ドル払えば、
ネージ&フィリ羊毛加工工場のブースに連れてきて、出展した織物を背景に私と写真を撮
彼を T.O.
ってもらうことができると言っていた。アメリカは、私たちの製品が全く通用しない国だった。アメ
リカのシークエンスはこんな感じになるだろう。私はニューヨークの五番街を歩いていて、アメリカ
の凄い人混みに埋もれてはいても、その長い巻き毛とヴェルサーチのハウンドトゥースチェックの上
着のせいですぐに見分けがつき、私は誰かに電話をして、すべては順調だと微笑む。ゆっくりと映像
がオーバーラップして音楽がフェードアウトすると、私は集計表と未加工の布のサンプルで溢れた自
分の仕事机に向かっていて、直前の出張について父に話して聞かせている。
アルヴァラードが少しずつ賢く日々の経営と距離を置いていったことで、私はアルヴァーロと並ん
で会社を切り盛りするようになった。こめかみに白いものが混じり、私はかなりわざとらしい顎髭を
105
生やし始めた。なかなか幸せそうだ。私は三十を越えたところで、とても美しいかねてからの婚約者
と結婚し、彼女は長男の出産を控えていて、さらには私の最初の小説『静止からの逃避』も出版を控
えている。私は、改めて世界は自分のものだと感じ、足りないのはただ、『スカーフェイス』のトニ
ー・モンターナのように、夕暮れ時にカルヴァーナ上空を過ぎていく飛行船上に、『世界は君のもの』
と書かれているのを見ることぐらいだ。
その数年後に私が会社を売りに出すとは誰も想像すらしていなかった。もちろん、ひとりで決めた
わけではない。アルヴァーロは、すでに経営陣のうちで最古参で、すべての業務にかかわっていたが、
同意した。私の父のアルヴァラードは、私に場所をあけるべく年々自らの仕事を削っていたが、彼も
同意した。私の兄弟たちも同意し、私の家族も同意し、アルヴァーロの家族も同意した。
みんなが同意し、売ることになった。
ひとたび交渉が終わると私の役目は終わり、というのも、さまざまな興味深い極めてイタリアらし
い理由で、私は経営には携わっていたものの、この親族経営の会社の代表者には一度もならなかった
からで、だから売却契約に署名をすることもなく、かわりにアルヴァーロとアルヴァラードが、ある
九月の暑い日、プラートの共和国通りにある、公証人ダンブロージの事務所で、半信半疑で署名を済
ませた の だ っ た 。
けれども、公証人があのうっとりとさせるようなナポリ調で証書を読み上げ、当社のふたりが麻の
シャツを颯爽とまとって(アルヴァーロは青、アルヴァラードは生成りだった)署名をし、買収者が
連署し、全員が微笑みを浮かべてこの二度とない奇妙な会見を陽気なものにしようとしていた時、私
106
今でも時々、それを眺める。
もその場にいて、携帯電話でこっそりと写真を撮った。
107
〔作品 解 説 〕
社から刊行され、二〇一一年ストレーガ賞を受賞した『私たちの物語』は、
二〇一〇年に Bompiani
イタリアに蔓延していた豊かさについての幻想の消失を描いた小説だ。
優れた映画や文学作品などで、田舎町の無教養で純朴な経営者たちがいつも揶揄の対象として描か
れているが、経営者がそうであっても、元気のある小企業が、成功を収めるということがかつてはあ
りえた。だが、そうしたケースが今日では、いかにして遠い日の記憶となってしまったのか。
経済的衰退がおそらく不可避となった現在、指導者という立場にいるのは、インテリ気取りで高慢
ちきなだけの半人前の経済学者たちと、国際化という巨大な竜巻に魔法で立ち向かおうとでもするよ
うな、身を震わせるあらゆる派閥の政治家たちだ。
エドアルド・ネーシは、小説ともエッセイともとれ、自伝とも経済の論文ともとれる興味深い著作
を引っさげて舞い戻ってきた。彼は、国際的な大嵐の中心たる、中国人に占拠された彼の故郷プラー
トを舞台に、かつてないかたちで、親よりも貧しい状況に置かれるイタリア人の
>
第一世代 を生き
<
るとはどういうことかを描き出す。
( 昨 日 の な い 私 た ち の 人 生 )』 は、
『 Storia della mia
二 〇 一 二 年 出 版 の『 Le nostre vite senza ieri
(私たちの物語)』の秀逸な続編である。
gente
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エドアルド・ネーシ Edoardo Nesi
Bompiani 社 か ら Fughe da fermo(1995)、
Ride con gli angeli(1996)、Rebecca(1999)、
Figli delle stelle
(2001)
、
L’età dell’oro
(2004、
Bruno Cavallini 賞 を 受 賞、Strega 賞 で 最 終
選考に残る)、Per sempre(2007)を出版。
映画 Fughe da fermo(2001、日本未公開)
の脚本ならびに監督を手がける。
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Storia
della mia gente
Edoardo Nesi
Cursus honorum
Così mi ritrovai di colpo a essere un ragazzo che avrà letto un centinaio di libri e non ha
lavorato nemmeno un’ora, e iniziai il lungo, tradizionale, inutile apprendistato in azienda
comune a tanti figli di industriale, che in teoria serve a arti abbassare subito la cresta e a
conoscere tutte le realtà del lavoro in una fabbrica, ma in pratica ti fa passare anni preziosi a
farti coccolare dagli operai e a svolgere senza grande impegno mansioni minime dalle quali
si impara poco o nulla: fui assistente reparto materie prime, assistente allupino, assistente
magazziniere, assistente commerciale. Assistente a tutto, pareva.
Finita questa versione pratese del cursus honorum, pian piano venni istradato a guidare
l’azienda. Da qui in poi la mia vita lavorativa accelera, lanciandosi in una successione
d’eventi minimi, stazioni d’un viaggio, e il modo migliore per raccontarvela è chiedervi
d’immaginare uno di quei passaggi di tempo cinematografico che sanno fare solo i registi
migliori, che in qualche secondo riescono a raccontare anni di vita. Fate partire una
canzone d’epoca (andrebbe bene un qualsiasi successo di discomusic di quegli anni, ma
immaginiamo che si scelga Can’t Take My Eyes Off of You, quella canzone esultante che si
sente anche nel Cacciatore di Cimino durante la scena del ballo, la sera prima che i ragazzi
partano per andare a fare la guerra ai vietcong), e guardatemi mentre infesto gli uffici della
ditta in giacca e jeans e scarpe da ginnastica, sotto lo sguardo corrusco ma fintamente
burbero di mio padre e
di Alvaro (figlio di Alfiero, nipote di Omero e rappresentante dell’altro ramo della famiglia,
il cui nome sembra perfettamente congegnato per accompagnarsi a quello di mio padre
a formare Alvaro & Alvarado, la versione pratese di una di quelle coppie irresistibili tipo
Roger Moore e Tony Curtis, gli Attenti a quei due del tessile), e mi occupo di questioni
d’azienda via via sempre più alte, tipo:
1. Controllare le fatture degli spedizionieri (sviluppai un programma di computer che le
analizzasse in base alle nostre tariffe e scovai differenze sistematiche nelle fatture, sempre
a nostro sfavore), e qui si potrebbe fare un’inquadratura in cui, in piedi, in maniche di
camicia, mostro qualcosa su un tabulato di computer ad Alvaro – seduto alla sua scrivania,
con la giacca blu e la cravatta gialla – e lui annuisce.
2. Valutare il magazzino (il mio geniale contributo fu quello di introdurre valori differenti
per tipologie diverse di merce semilavorata, cioè valutai diversamente i filati colorati
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dai filati bianchi, le materie prime di uso più comune da quelle meno impiegate, così da
avere una valutazione globale del magazzino più accurata), e qui l’inquadratura potrebbe
mostrare me in piedi, d’inverno, nel magazzino delle materie prime che poi Daniele Vicari
scelse di filmare per il documentario Il mio paese. Porto un cappotto blu marina a taglio
vivo e una sciarpa di qualche colore vivace, guardo una sfilata di balle di lana avvolte nella
iuta cara al maestro Burri e indico qualcosa al magazziniere che mi gira intorno sul muletto.
3. Trattare con le banche (questo era piuttosto facile, all’inizio, poiché il lanificio era
interamente autofinanziato e il lavoro/compito si riduceva a trattare
sui giorni di valuta degli assegni che versavamo e sul tasso d’interesse del conto; poi
diventò più sgradevole quando, con un certo scandalo di mio padre, dovemmo iniziare
a ricorrere al credito bancario), e direi che qui potrei essere ripreso seduto nell’ufficio
spartano del giovane, ambizioso, malvestito direttore della filiale mentre ci stringiamo
la mano sorridendo e la luce del sole ci illumina da dietro, certi tutti e due di essere solo
all’inizio di una grande carriera.
4. Iniziare a discutere i primi ordini nei mercati minori (il Portogallo, dove andavo una
volta all’anno, nella bellissima Porto, sull’Atlantico, dove decorano con le maioliche azzurre
i muri dei palazzi; o la Russia che, appena uscita dalla grande crisi che la smembrò e che
oggi nessuno ricorda più, si dette a organizzare a Mosca colossali esposizioni universali
alle quali partecipavo senza grandi risultati, e passavo il tempo a parlare dei film di Nikita
Michalkov con l’interprete, che era stata una sua allieva all’università e che si diceva capace,
per cento dollari, di riuscire a portarlo in fiera a visitare lo stand del Lanificio T.O. Nesi
& Figli e farsi fotografare con me sullo sfondo dei nostri tessuti; o gli Stati Uniti, dove la
nostra produzione proprio non voleva saperne di funzionare), e potrebbe esser questa
l’ultima inquadratura del passaggio di tempo: sto camminando lungo la Quinta Strada, a
New York, immerso nel gran traffico umano d’America ma perfettamente riconoscibile per
i miei capelli lunghi e riccioluti e la mia giacca a pieddepoule di Versace, sto telefonando a
qualcuno, e sorrido perché va tutto bene. Una lenta dissolvenza, lo sfumare della canzone
ed eccomi seduto alla mia
scrivania ingombra di tabulati e campioni di tessuto grezzo, mentre racconto a mio padre
dell’ultimo viaggio.
Complice un lento, sapiente distacco di Alvarado dalla gestione quotidiana, sono arrivato
ad affiancare Alvaro a dirigere l’azienda. Mi si sono imbiancate le tempie, ho iniziato a
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portare una barba piuttosto stenta. Sembro felice. Ho poco più di trent’anni, sono sposato
con la mia eterna fidanzata bellissima, sta per nascere il mio primo figlio e sta per uscire
il mio primo romanzo, Fughe da fermo. Penso di nuovo che il mondo è mio, e ci manca
solo che lo veda scritto su un dirigibile che passa lento sopra la Calvana, al tramonto, THE
WORLD IS YOURS, come Tony Montana in Scarface.
Nessuno avrebbe potuto immaginarsi che pochi anni dopo avrei venduto l’azienda. Certo,
non ho deciso solo io: Alvaro, che era ormai il socio più anziano impegnato nella gestione e
aveva seguito ogni parte della trattativa, era d’accordo; mio padre Alvarado, che ogni anno
affievoliva il proprio impegno per farmi spazio, era d’accordo; i miei fratelli erano d’accordo;
la mia famiglia era d’accordo; la famiglia di Alvaro era d’accordo.
Eravamo tutti d’accordo, e vendemmo.
Una volta conclusa la trattativa, il mio ruolo si esaurì perché, per varie e curiose e
italianissime ragioni, non ero mai diventato socio dell’azienda di famiglia che pure dirigevo,
e così non firmai nemmeno il contratto di vendita, che invece firmarono increduli e storditi
Alvaro e Alvarado in un caldo pomeriggio di settembre, nello studio del notaio D’Ambrosi,
in viale della Repubblica, a Prato.
Io c’ero, però, e mentre il notaio leggeva l’atto con la sua deliziosa cantilena partenopea e i
miei firmavano
splendenti nelle loro camicie di lino – blu per Alvaro, crema per Alvarado –, e i compratori
controfirmavano, e tutti stiravano i loro sorrisi cercando di far diventare ilare quello strano
incontro irripetibile, scattavo foto di nascosto, col telefonino.
Ogni tanto le guardo, ancora oggi.
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Presentazione del libro
Storia della mia gente
Storia della mia gente, pubblicato nel 2010 da Bompiani e vincitore del Premio Strega nel
2011, racconta dell'illusione perduta del benessere diffuso in Italia.
Di come sia potuto accadere che i successi della nostra vitalissima piccola industria di
provincia, pur capitanata da personaggi incolti e ruspanti sempre sbeffeggiati dal miglior
cinema e dalla miglior letteratura, appaiano oggi poco più di un ricordo lontano.
Oggi che, sullo sfondo di una decadenza economica forse ormai inevitabile, ai posti di
comando si agitano mezze figure d'economisti ispirate solo dall'arroganza intellettuale e
politici tremebondi di ogni schieramento, poco più che aspiranti stregoni alle prese con
l'immane tornado della globalizzazione.
Edoardo Nesi torna con un libro avvincente e appassionato, a metà tra il romanzo e il
saggio, l'autobiografia e il trattato economico, e ci racconta, dal centro dell'uragano globale,
la sua Prato invasa dai cinesi, cosa si prova a diventare parte della prima generazione di
italiani che, da secoli, si ritroveranno a essere più poveri dei propri genitori.
Del 2012 è Le nostre vite senza ieri, ideale seguito di Storia della mia gente.
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Biografia dell’autore
Edoardo Nesi ha pubblicato con Bompiani:
Fughe da fermo (1995), Ride con gli angeli (1996),
Rebecca (1999), Figli delle stelle (2001 ), L'età
dell'oro (2004, Premio Bruno Cavallini, Finalista
Premio Strega 2005) e Per sempre (2007). Ha
scritto e diretto il film Fughe da fermo (2001 ).
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Sa l v ato re Ni f f o i
Pant u mas
『 亡者の霊 』 サルヴァトーレ・ニッフォイ
六.私は私がお前から何を奪ったか知っている、お前はお前が私に何をすべきか知っている
あの日曜、フィジエドゥの行方がわからなくなってから十日が過ぎ、彼については噂以上のことは
何もわかっていなかった。野山の捜索は打ち切られた。知人の間では、得るべき情報や追うべき手掛
かりを求めて伝言ゲームが続いた。何も出ない! 木の葉一枚すら動きを止めていた。ダデウ・スヴ
ェラヌの友人たちは、ひとりの被疑者を逆さ吊りにして当人も知らないことを吐かせようとし、さら
にまた別の誰かの喉に小刀を突きつけた。何も出ない。
新たな報せを待つ間、また雨が降り出した。夜間に、最初は小降りで次第に強く、横殴りに、家々
に入り込んでくる不気味な嗚咽と、小麦粒のように屋根の上を跳ねる水滴を伴って。樋の薄板から道
の中央まで水が迸り、カフェオレ色の小川になった。「もしトラギネドゥ川が彼を飲み込んだんなら、
どこかへ返してくれるはずだ! そうすれば少なくともそこで泣くための墓を作れる!」
。もはや最
悪の事態を覚悟したマンディーナ・ブットーネはそう考えていた。トラギネドゥ川は酔っぱらいの大
男のごとく膨れ上がって、石や泥や、幹や葉や、犬の死骸や砕けた瓦の残骸を吐き出していた。フィ
ジエドゥに関しては、ごく普通のシャツと、片方のサンダルと、彼がいつも身につけていたカルメー
ロの聖母の肩衣がなくなっていた。彼の身体だけでも見つかるという希望も含め、もはやすべてが失
われたかに見えた。チェントベデスでは、サス・アペスやフィグラーヴァの近隣を沼に変えようとし
けれどもタデウ・スヴェラヌの家族とムンディーナ・ブットーナにとっては、それは恵みの雨で、
ているその大雨に悪態をつく者も出てきた。
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というのも雷鳴がして次の稲光がくるまでの一瞬の間に、ウッキデプッダス家にタデウ宛の謎の手紙
が届いたからだ。中庭の入り口の石の間に差し込まれたそれをルキア・セラスが見つけた。風にさら
われたり濡れたりしないように、家の鍵の隠し場所の奥に、よく見えるように置いてあった。タデウ
は、それを雌ロバを繋いである家畜小屋の中へこっそり持ち込み、歯で噛み切って開けた。一筋の巻
き毛のほかに、香り付きの赤いインクを使って達筆で書かれた、短い言葉。彼はよく見ようと蝋燭を
つけ、ゆっくりと声に出して読み始めた。「お前は、お前が私から何を奪ったか知っている、私がお
前に何をすべきか知っている。私がお前から何を奪ったか知っている、お前が私に何をすべきか知っ
ている 」
手紙に署名はなかったが、ウッキデブッダスすぐに、差出人はジュディッタ・ペッソトだとわかった。
「呪われた雌豚め! 忌々しい売女が。貴様は私にこんなことをしに来やがったのか?」
。手紙ごしに
彼女が見えるかのように彼は悪態をついた。そして片隅で髪の毛と手紙を燃やし、疲れきって藁束の
上に身を投げ出して柵にもたれた。やがて粗面岩の飼葉桶の中で火が消えると、睡魔に襲われ、疲れ
に身を任せて目を閉じた。
彼は記憶を手繰り、何年も前のチェントペデスへ、そして道で会うたびに彼を引き止め、意味のわ
からない言葉を囁いたあの頭でっかちで我がままな少女にまでさかのぼる。
「タデウ、愛しい人、キ
スして! キスしてタデウ、私にキスして!」。彼女はまだ十六歳にも満たなかったけれど、クロイ
チゴの実をかすかに丸みを帯びた未熟な胸の間に挟み、舌を鳴らしながら彼を侮辱した。もっとちゃ
んと伝えようと、ジュディッタはサルデーニャ語で喋ったこともあったが、愛という言葉はその語彙
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には存在しないので使わなかった。「あんたバカじゃない? あんたが欲しいの、昼も夜もあんたの
ことを考えてるのよ、わかってる?」。彼は、ポルソル修道士に教わったおかげでほんのわずかに読
み書きができ、でなければこの世の大半の人と同じように、ただ場所があったからというだけの生き
方をしていただろう。ただ、彼は生まれつき鈍いわけではなく、むしろ動物的な直感があり、理屈で
到達しないところへも勘で辿り着いた。だからあの手紙が言わんとしていることもすぐわかり、当初
の怒りはやや薄まった。子どもは生きていて、それを取り戻すために払わなければならない金も、彼
を破滅へ追い込む額ではなさそうだったからだ。
妻のところへ帰る前に彼は密かに微笑みさえした。あの若い日の報われなかった恋について、それ
を拒み続けたことに満足というか誇りを感じていたからだ。それはとても難しいことで、とくにジュ
ディッタがトイレの前にまで姿を見せるようになった時はそうだった。時が経つにつれて事態は悪夢
と化し、彼から眠りを奪うほどの責め苦となった。やがて災いが彼女を連れ去ってくれるのを願うま
でになり、ある夜、雌鶏のように彼女の首をへし折る夢さえ見た。ス・グラミンツォーネの菜園の水
槽の空積みした壁の後ろで、彼女がいきなりスカートを持ち上げたあの午後は、彼女を永遠に追い払
い、二度と彼女のことを考えずに、二度と彼女とやりたいなどと考えなくて済むように、彼女に思い
を遂げさせてやろうかとも思った。けれども彼女は腹黒い女で、知識を詰め込んで、恋愛に何かこむ
ずかしいものを見ているような頭でっかちの阿呆だった。結婚十年にしてまだ恥じらいがあり、しか
るべきところに収まっているマドリーナとは違った。あの夜、結婚を申し込みに行った時、義母のト
ズィア・フェッランダ・ジャガスは彼にこう言った。「この無垢な白ユリをご覧、誰にも手折られた
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ことがないんだよ!」。彼とマンディーナは、人も羨むほど美しく、愛情と聖霊と縁組みをしたあの
男の子があって、まるでヨセフとマリアのような夫婦だった。
逆にジュディッタのほうは、報われなかった恋によって醜くなり、急激に老け込んだ。歩き方もの
っそりと、まるで鉄の鎖を牽いているかのようで、顔には打ち捨てられた蜘蛛の巣のごとき粘ついた
憂鬱が貼り付いていた。「ねぇ愛する人、一度だけ、たった一度だけ! 私の願いを叶えて、私を抱
いてちょうだい。一生に一度だけだから!」。あの夏の午後、天水桶の向こう側で彼女は叫び、腹の
中にうずうずと疼く開いた傷口を抱え、まるでひとりの聖人を前にしたように彼に懇願した。
「ほん
の一度だけ、少しだけ、それでおしまい、終わりだから!」
「ジュディ、俺に構わないでくれ! 放っておいてくれ、俺には好きな人がいるんだ! 俺を誘わ
ないでくれ、俺は死んだ君にも触らないと誓ったんだ!」
「心は彼女のためにとっておいていいわ、でもタデ、私の願いを叶えて、お願いよ、なんでもない
ことじ ゃ な い ! 」
「なんでもない? ああ、てことは君は本当に売女なんだな、君はやるためには何でもするんだ!」
その言葉は、ジュディッタ・ペッソトを貶め、不意の剣の一撃よりも深く彼女を傷つけた。彼女は
スカートを下げて、怒りではちきれそうになりながら天水桶に近寄り、両手一杯に掬った水をタデウ
・スヴェラヌに向かって投げつけ始めた。「最低のニキビ野郎、あんたはいつか私のことを探すこと
ジュディッタはそれからしばらくチェントゥペデスを離れ、書物の研究に没頭し、己の分別との賭
になる わ ! 」
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けに勝つべくふるまい、必要なだけの時間をおいた。けれども彼女は受けた辱めを決して忘れはせず、
それは、冷ましてから利子付きで返すべきものだった。
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〔作品 解 説 〕
一九六四年十一月二日、チェントゥペデスに風が吹く。それはリサンドル・ニアラの復活の日。妻
のロザリアはその日をずっと待っていた。リサンドルはチェントゥペデスの掟に反して死んだからだ。
ここでは五百年以上も前から夫と妻は共に死ぬ。ロザリアが想像もしなかったことに、リサンドルは
謎めいた箱を持って還る。中には、映像フィルムのリール。ニアラ家のキッチンには家族や友人のた
めの上映室がしつらえられる。バルバジャ映画館の映写機とそれを動かすためのセラフィヌ・マッラ
ド ゥ も。 石 灰 の 内 壁 に
<
リサンドル・ニアラから奪い取られた秘密の人生の断片
>
が次々と映し出
される。それによって、祖母ロザリアと祖父リサンドルの孫のリサンドルは、ディッタ・ペッソト婦
人のタデウ・スヴェラヌに対する強迫的な感情と、フィジエドゥ少年の誘拐について祖父リサンドル
が果たした役目を知ることになる。それはすなわちパルテミウ・ディジスペルに対する残酷な復讐へ
の加担。さらに彼は祖母ロザリアの悲しい秘密を知る。リールがひとつまたひとつと回るうち、祖父
リサンドルはどんどん若返っていく。そして、その太古の不思議な、詩的かつ残酷な世界の物語の残
響がまだ残るなか、死が再びニアラ夫婦を迎えに来る時、ひとりの老女の手の中にひとりの赤児が現
れる… 。
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サルヴァトーレ・ニッフォイ Salvatore Niffoi
1950 年、ヌオーロ県オラーニ生まれ。2006 年まで中学校で教
師を務める。Collodoro(1997, Solinasu;2008, Adelphi)で小
説家デビュー、その後、Maestrale 社から Il viaggio degli inganni
(1999)、Il postino di Piracherfa(2000、2004 年にフランス語
版出版)、Cristolu(2001)、La sera ora(2003)、I malfatati(2011)
を発表。
Adelphi 社 か ら 出 版 さ れ た 他 の 著 書 に La leggenda di Redenta
Tiria(2005)、La vedova scalza(2006、 同 年 の Campiello 賞
を受賞)、Ritorno a Baraule(2007)、Il pane di Abele(2009)
、
Il bastone dei miracoli(2010)、Paraìnas. Detti e parole di
Barbagia(2009)、Il lago dei sogni(2011)がある。
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7
Pantumas
Salvatore Niffoi
6.
So cosa ti ho tolto, sai cosa mi devi
Quella domenica Fisieddu era scomparso da dieci giorni e, più che voci, di lui nulla si
sapeva. Le ricerche in campo aperto si erano fermate. Continuava il passaparola tra i
conoscenti, in cerca di uno sputo da raccogliere, un indizio da seguire. Niente! Non si
muoveva foglia. Gli amici di Tadeu Suveranu, a un sospettato lo avevano anche appeso a
testa in giù, in cerca di fargli dire quello che non sapeva, e a qualcun altro gli avevano messo
il coltello in gola. Niente lo stesso.
Nell’attesa di qualche novità era arrivata di nuovo la pioggia. Era arrivata di notte, prima
lenta e poi forte, a vento, con un lamento macabro che entrava nelle case e gocce che
rotolavano sui tetti come chicchi di grano. Gli scoli di lamiera delle grondaie spruzzavano
l’acqua fino al centro delle strade formando rigagnoli color caffellatte. “Se il fiume
Traghineddu lo ha inghiottito a tradimento, da qualche parte ce lo ridarà! Almeno avrò una
tomba in cui piangerlo!” Così pensava, ormai rassegnata al peggio, Mandina Buttone. Il
fiume Traghineddu si era gonfiato come un gigante ubriaco e aveva sputato pietre e fango,
tronchi e foglie, carcasse di cane e resti di tegole rotte. Di Fisieddu manco uno straccio
di camicia, un sandalo, lo scapolare della Vergine del Carmelo che portava sempre. Tutto
ormai sembrava perduto, anche la speranza di ritrovarne solo il corpo. A Chentupedes si
misero addirittura a maledire quel diluvio, che stava trasformando in uno stagno i vicinati
di Sas Apes e quello di Figuarva.
E invece per la famiglia di Tadeu Suveranu e Mundina Buttona quella era acqua benedetta,
perché tra un tuono e un fulmine portò a casa di Ucchidepuddas una lettera misteriosa,
indirizzata personalmente a Tadeu. L’aveva trovata Luchia Serathu, infilata tra le pietre
dell’imbocco del cortile. Era messa bene in vista, dentro il ripostiglio delle chiavi di casa,
per non lasciarsi prendere dal vento o infradiciarsi. Tadeu se la portò di nascosto nella
stalletta dove teneva l’asina e l’aprì a morsi, coi denti. Oltre a un ricciolo di capelli, poche
parole, scritte con grafia elegante e inchiostro rosso profumato. Accese una stearica per
vederci meglio e iniziò a leggerla, lentamente e a voce alta: Sai cosa mi hai tolto, sai cosa ti
devo. Sai cosa ti ho tolto, sai cosa mi devi.
La missiva non era firmata, ma Ucchidepuddas impiegò poco a capire che la scrivente era
dona Juditta Pessoto. “Maledettissima troia! Porca e maledettisima troia, a farmi questo sei
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arrivata?” imprecò, come se al posto dello scritto si fosse trovato di fronte a lei. Bruciò in
un angolo carta e capelli, si lasciò andare sfinito sopra una balla di fieno e poggiò la schiena
sullo steccato. Quando la fiamma si spense dentro la mangiatoia di trachite, vinto dal sonno
e preso dalla stanchezza, chiuse gli occhi.
Tornò indietro con la memoria, a com’era Chentupedes tanti anni prima, a quella
ragazzina studiante e imbisciada che lo fermava ogni volta che lo incontrava per strada per
sussurrargli parole di cui non conosceva il significato: “Tadeu, mon amur, beise muà! Kiss
mi Tadeu, kiss mi!”. Non aveva ancora sedici anni e già lo insolentiva schioccando la lingua,
infilandosi more tra le titte acerbe che le umbonavano il petto. Per farsi capire meglio un
giorno Juditta si dichiarò anche in sardo, senza
usare la parola amore, che nella limba nostra non esiste: “Ma tzecu ses? Cumpresu l’as
chi di chergio, chi di pesso notte e die?”. Lui, che a malapena sapeva leggere e scrivere
perché lo aveva istruito un poco frate Portholu, altrimenti sarebbe stato in questo mondo
come tanti, perché c’era posto. Ma di natura tonto non era niente, anzi aveva un intuito da
animale e dove non arrivava con la logica arrivava con il fiuto. Per questo capì al volo anche
il messaggio della lettera, e un po’ stemperò la rabbia che lo prese all’inizio, perché in fondo
il bambino era vivo e il prezzo da pagare per riaverlo non lo avrebbe mandato in rovina.
Prima di tornare dalla moglie gli scappò di nascosto pure un sorriso, perché in fondo
di quell’amore giovanile non corrisposto si sentiva quasi lusingato, orgoglioso di averci
resistito. Ed era stato molto difficile, soprattutto quando Juditta iniziò a trovarsela davanti
anche nei posti dove andava a fare i bisogni. Col tempo la cosa si trasformò in un incubo,
in un’ossessione che gli toglieva il sonno. Era arrivato al punto di augurarle un malanno
che se la portasse via e, una notte, sognò addirittura di averle spezzato il collo, come faceva
con le galline. Il pomeriggio che se la trovò all’improvviso con la fardetta sollevata, dietro
il muro a secco della cisterna degli orti di Su Graminzone, gli venne voglia di contentarla,
di togliersela per sempre dai piedi, dalla testa, dalla braghetta. Ma quella era femmina
malintragnia, gatta in calore che aveva studiato e vedeva nell’amore cose difficili, di testa
grande e testa piccola. Non era come Mandina, che dopo dieci anni di matrimonio si dava
ancora con vergogna e nei posti giusti. La sera che l’aveva domandata in sposa, la suocera,
tzia Ferranda Giagas, glielo aveva detto
chiaro: “Guarda che questo giglio bianco è immacolato non l’ha stropicciato nessuno!”.
Lui e Mandina sembravano Zoseppe e Maria, belli da far invidia, con quell’amore e quel
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bambino imparentato con lo Spirito Santo.
A Juditta invece, l’amore non corrisposto l’aveva imbruttita e fatta invecchiare in fretta.
Le era venuta una camminata pesante, come stesse trascinando catene di ferro, e il viso
aveva preso il grigiore appiccicoso della ragnatela abbandonata. “Solo una volta amore
mio, solo una volta! Contentami, prendimi e una volta sarà per sempre!” Così gli urlò
quel pomeriggio d’agosto dietro il vascone, implorandolo come un santo, con quella ferita
aperta che le danzava nel ventre. “Gusta una volta, per poco, poi basta, finito!”
“Lasciami perdere, Judì! Lasciami perdere, che ho il cuore impegnato! Non provocarmi,
che a te ho giurato di non toccarti neanche da morta!”
“Tieniti il cuore per lei, ma accontentami Tadè, ti prego, cosa ti costa!”
“Cosa mi costa? Ah, ma allora sei proprio a faccia di bagassa, sei una che se la cerca!”
Quelle parole, a Juditta Pessoto, la umiliarono e la ferirono più di una stoccata data a
tradimento. Si abbassò la fardetta e piena di rabbia si avvicinò al vascone, dove a manate
iniziò a lanciare acqua contro Tadeu Suveranu. “Maledetto barrosone, vedrai che un giorno
mi cercherai!”
Per qualche tempo Juditta si tenne lontana da Chentupedes, impegnata com’era a studiare
sui libri e a calcolare i modi e i tempi per vincere la scommessa con i suoi sentimenti. Ma
non dimenticò mai l’offesa subita,
che quella era cosa da lasciare sfreddare e restituire con gli interessi.
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Presentazione del libro
Pantumas
È il 2 novembre 1964, a Chentupedes tira vento. È il giorno della resurrezione di Lisandru
Niala. La moglie Rosaria lo aspettava, perché Lisandru è morto contravvenendo alla
regola di Chentupedes: da oltre cinquecento anni, marito e moglie muoiono insieme.
Quel che Rosaria non avrebbe mai immaginato è che Lisandru torna portando con sé con
certe misteriose scatole: dentro, bobine di pellicola. Nella cucina dei Niala viene allestita
una sala cinematografica per familiari e amici: c’è il proiettore del cinema Barbagia e c’è
Serafinu Marradu a farlo funzionare. Sulla parete di calcina scorrono i “pezzi di vita segreta
rubati a Lisandru Niala”: Lisandru, nipote di mannai Rosaria e mannoi Lisandru, scopre
così l’ossessione di dona Juditta Pessoto per Tadeu Suveranu e il ruolo avuto da suo nonno
nel rapimento del piccolo Fisieddu; assiste alla truce vendetta contro Partemiu Disisperu;
scopre lo struggente segreto di mannai Rosaria. Una bobina dopo l’altra, mannoi Lisandru
ringiovanisce sempre più: quando la morte torna a prendere i coniugi Niala – mentre
ancora risuona l’eco delle storie di quel mondo arcaico e magico, poetico e crudele – c’è un
neonato tra le braccia di una vecchia.
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Biografia dell’autore
Salvatore Niffoi (Orani, Nuoro, 1950) è stato insegnante di scuola media fino al 2006.
Ha esordito con (Collodoro, Solinas 1997; Adelphi 2008), a cui sono seguiti, con Il
Maestrale: Il viaggio degli inganni (1999), Il postino di Piracherfa (2000, tradotto in Francia
nel 2004), Cristolu (2001), La sesta ora (2003), I malfatati (2011).
Con Adelphi ha pubblicato La leggenda di Redenta Tiria (2005), La vedova scalza (2006;
premio Campiello 2006), Ritorno a Baraule (2007), Il pane di Abele (2009), Il bastone dei
miracoli (2010) Paraìnas. Detti e parole di Barbagia (2009), Il lago dei sogni (2011).
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8
Wa l ter Si t i
R e s i stere n o n s er v e a n i ente
『 無 駄 な 抵 抗 』 ヴ ァ ル テ ル ・ シ ー テ ィ
第二章 よ り
一
トンマーゾは、一九七六年八月二日生まれで、学校へあがった時は六歳になったばかりだったけれ
ども一番背が高くて一番太っていた。だから彼は最後列に座り、無関心ということを最初に学んだ。
椅子の脚で壁の青いプラスティク製の腰板に穴を開けたのに、それに気づく者は誰もいなかったのだ。
皆が煙草を吸いに行く学校の裏手の小川に、彼は針のように細っこい赤毛のナンドといつも二人きり
でいた。二人は、中が空っぽで重さが一キロしかないサロンニの自転車について話した。
「お前が乗っ
たら、ぶっこわしちまうな」。でもナンドには悪意があったわけじゃない。逆に、三年の時の女教師
はそうで、階段で彼らがちょっと変わった陣取りをして遊んでいた時、彼女は彼に二段降りろと命じ
てこう言った。「もしトンマーゾがその高さから飛び降りたらクレーターができるわ」。全員が笑った
が、それは彼のことをではなく新しい言葉がおもしろかったからで、けれどもそれから一ヶ月間、彼
は「クレーター」という渾名で呼ばれた。
「主が
ある黒人の女の子が、全身が黒いことを知られないようにスカートを膝まで引っぱった時、
彼女をオーブンの中に長く入れ過ぎたから焦げちゃったんだ」と誰かが言った。女教師はこの手の冗
談には激怒したけれど、金曜日に買い物の授業がある時は、彼女にいつもバナナを持ってこさせた。
金曜のこの授業がトンマーゾは大好きで、というのも彼は絶対に間違えなかったからだ。中庭に(雨
が降ったら廊下に)たいていは果物と野菜だったが食べ物がのった棚を並べて、実践的算数の練習を
するのだ(「それをかき集めてタダでスープを作ろうなんて、その女教師も馬鹿じゃないね」とママ
131
は言っていた)。何人かが売り子の役をやり、他の子供たちは買い物をする真似をした。トンマーゾ
にとっては掛け算や割り算はすでに退屈で、彼はナンドのぶんまで二秒で答えを出し、かわりにおや
つの時間に甘いパンを分けてもらった。彼は、次の金曜の授業がどんな風になるか賭けをした。女教
師が暗い色の服を着てきた時はたいてい値段をつりあげ、柄物や明るい色物で来た時は値段を下げる
ことに気づいたからだ。
賭事は罪だと、神父はいつも小言を言っていた。かつてジビッボに連れてこられた神父で、ジビッ
ボは監獄に入っていたことがあり、政党支部の前で女たちの尻に触ったり犬を殴ったりしていたけれ
ど、学校では極めて紳士的だった。その神父が言った。子どもたちよ、考えてごらん、人間というの
は、自由がなく、働くことや役に立つことができず、いつも悪い人たちと暮らしていると、たいてい
は罪を犯してしまうものだ。トンマーゾは、その時から、どこか遠くへ、豪華な建物が立ち並び、飛
行機がいつでもどこか違う場所へ連れていってくれて、監獄にいると感じずにいられる場所へ行って
しまいたいと思うようになった。けれども朝になって目覚めると、部屋はいつもと変わらなくてがっ
かりす る の だ っ た 。
彼の真の友人はエラー印のプリンと調理済みのリゾットだった。ママはお昼も工場に居残り(家に
帰るには遠すぎた)、パパはどこにいるのかわからなかった。トンマーゾが一時半に学校から戻ると、
温めれば食べられるリゾットがあったけれど、彼は冷たいままのほうが好きだった。そして冷蔵庫に
はぷるぷるのプリンが入っていた。それからナンドのところへ行くと、決まって米のタルトか、チー
132
ズとハムの細切れが入った塩味のパンが彼を待っていた。でも彼は甘いものが好きだった。スーパー
で何かを盗む時も、ドーナツやクレミーニ (チョコレート菓子)と決まっていた。
叔母は、赤ん坊の頃からおとなしくさせるために彼にクレミーニをあげていたからだと言っていた
が、ママはそれは違うと言い、クレミーニは最近のお気に入りで、彼に万引きをさせないために自分
がそれを作っているのだと言った。一方、部外者は単純で、彼が八、九歳にしてあんなに太っている
のを見ると、彼に食べ物をくれるのだけれど(「あれだけの胃袋を満たすにはどんだけの量が必要か
わかるか」)、まさにそうやっていつも山ほどの食べ物を与えるからあんなに太ったのだ、ということ
を彼らはわかっていなかった。一九八五年のピエトララータ地区には、細胞の機能障害(消化過剰)
や、あるいは遺伝子的(レプチンすなわち正しい新陳代謝を司るホルモンの肥満遺伝子)な機能障害
を診断する、まともな医師はひとりもいなかった。決して満腹にならず、あらゆる言い訳をつけて何
かをカリカリ食べるこの少年を見て人々は笑った。ただし「カリカリ食べる」という動詞は正しくな
い、トンマーゾは噛まずに飲み下せる柔らかいものが好きだったからだ。彼は地域の笑い者になるの
が嫌いじゃなかった。自転車に乗りながらわざとぴょんぴょん跳ねて、靴下で気球が作れるのを披露
したり も し た 。
満腹ではち切れそうになるまでガツガツごくごく、本当に胃袋に何も入らなくなると彼は自由を
感じた(これは勘違い、おそらく人生の門出に最も相応しくない間違いで、実際は指令を出すのは
満腹ではなく空腹のほう、つまり「誰も応答しないから食べよう」ということなのだ)
。叔母の話で
は、二歳の時、彼は小さな庭の苔や花をむさぼり食べていた。生クリームやアイスクリームはすでに
133
ひとつの進歩だったわけだ。空っぽに耐えないということは、空腹に、すなわち待つことに場を与え
ないということだった。彼は夜間も何かの切れ端を枕の下に忍ばせていた。甘いものは彼の塹壕、外
界と彼を隔てる壁だった。そこには嘲笑も、残酷な冗談も届かず、あらゆる限界を超えるべく自分を
鍛えるひとりの英雄がいるだけだった。この限界というのが何なのか、たった九歳の彼には説明でき
なかったけれど、もちろんその先には、豊かさと、無垢と、万人が知る栄光と非の打ち所のない愛情
に満ちた地平が広がっていた。教会では、食べ過ぎることもまた罪、強欲と傲慢の罪であると教わっ
た。聖人たちは固くなったパンを貧しい人々に分け与えたのだと。
「でも俺たちだって貧乏じゃんか」
とナンドはまぜっかえし、カッファレッラの農園で雌鶏の尻の下から卵を引きずり出した。それが生
活、公の生活だった。腹を膨らませる儀式はまた別のことで、ひとりで孤独に執り行うものだ。卵六
個のオムレツに、ストラッキーノチーズや苺のジャムを塗る(
「罪は僕の内側に葬り去ろう」
)
。その
腹は空のごとくゴロゴロと鳴り、トンマーゾは世界を創世する巨大な神なのだった。
134
〔作品 解 説 〕
<
>
多くの調査が、犯罪と金融業界の間にある グレーゾーン について語っている。それを構成する
のは、言いなりになる銀行員や、良心なきブローカー、腐敗した政治家、経済学部を卒業して最も贅
沢で疑われることのない階層に受け入れられた極道の二世たちだ。けれども彼らにひとつの顔を与え、
日常生活の中にいる彼らを想像するのは難しい。
ヴァルテル・シーティは、登場人物との一体化という独特のスタイルをもって、またさまざまな文
学的資源を活用して、間近に捉えたトンマーゾの人物像を私たちに見せてくれる。かつて彼はぶよぶ
よと太った少年で、現在は数学者になりそこない、マネーゲームの達人だ。良識に欠けるわけではな
いが、いまだオイディプス・コンプレックスを抱え、人には言えない交友関係を保っている。彼の周
囲では、金が物を言い、金が歪曲を生む世界が回っている。所有が唯一の評価基準、根本は金銭、暴
力は商売上のアドバンテージ。私たちは、権力者に囲われる利口な少女や社会派の女性作家と出会い、
都市郊外の悪びれないゴロツキや、各国を股に掛けて、それが使命であるかのようにリーダーシップ
を発揮するマフィアと出会う。汚れた金ときれいな金がもつれて絡まり合う世界、そこではまた善悪
の差自体もぼんやりと曖昧になる。
シーティは、物語というかたちで、同時代の絶えまない変化や、報道される派手な事件の背後にあ
る、表面には現れない脅迫観念を掘り下げつつ、民主主義の彼岸を予示する。それはすなわち(おそ
らくかつ根底から)否定される前に、明敏さをもって観察され苦境に立たされることを望む、自然な
状態に反する一種の地獄である。
135
ヴァルテル・シーティ Walter Siti
モデナ生まれ、ローマ在住。かつてピサ、
コセンツァ、ラクイラの大学で教鞭をとる。
ピエル・パオロ・パゾリーニ全集の編者。最
近 の 主 著 に Troppi paradisi、Il contagio、Il
canto del diavolo、Autopsia dell’ossessione
がある。
© Elisabetta Claudio
136
8
Resistere
non serve
a niente
Walter Siti
Dal capitolo 2
Commodore 64
1.
Tommaso è nato il 2 agosto 1976 e quando è andato a scuola aveva compiuto sei anni da
pochissimo ma era il più alto e il più grosso di tutti: ultimo banco quindi e prima lezione
sull’indifferenza, col piede della sedia aveva sfondato la plastica azzurra del battiscopa
ma nessuno se n’era accorto. Nella marana dietro la scuola, dove andavano a fumare, si
trovava quasi sempre da solo con Nando, un roscio magro come un chiodo; parlavano della
bicicletta di Saronni che era vuota dentro e pesava un chilo: «si ce monti te, la sfonni»,
ma Nando non lo diceva mai con cattiveria. Invece la maestra sì, quella di terza, una volta
che giocavano a rubabandiera speciale sulle rampe della scala, l’aveva fatto scendere di due
gradini, «se Tommaso salta da quell’altezza ci apre un cratere»; tutti a ridere non tanto di
lui ma della parola nuova, però poi per un mese l’avevano soprannominato “cratere”.
Una negretta si tirava la gonna sulle ginocchia per non far vedere che era negra dappertutto,
«il Signore l’ha lasciata troppo in forno e gli è venuta bruciata»; la maestra li strillava per
battute così, però quando il venerdì c’era la compravendita a lei faceva portare sempre le
banane. La lezione del venerdì a Tommaso piaceva molto perché lui non sbagliava mai; nel
cortile (o nell’atrio quando pioveva) si allineavano sui banchi dei prodotti alimentari, in
genere frutta e verdura, per le esercitazioni di aritmetica pratica («s’arimedia er minestrone
auffo, mica scema ’a maestra» diceva mamma); alcuni recitavano i
venditori e altri fingevano di comprare. Le moltiplicazioni e le divisioni a Tommaso ormai
non lo divertivano più, le risolveva in due secondi anche per Nando che gli regalava in
cambio i buondì supplementari per la merenda. Scommetteva sulle variazioni che ci
sarebbero state il venerdì successivo: aveva notato che quando la maestra arrivava vestita
di scuro in genere i prezzi li alzava, mentre li abbassava quando si presentava tutta dipinta e
colorata di chiaro.
Scommettere è peccato, brontolava il prete; una volta il prete era arrivato accompagnato da
Zibibbo, che era stato al gabbio e davanti al Partito toccava il sedere alle donne e picchiava
i cani ma lì a scuola faceva tutto il gentile; il prete ha detto bambini, pensate che quando gli
uomini non sono liberi, e non possono lavorare o rendersi utili, e abitano sempre insieme a
gente cattiva, sono quasi costretti a commettere peccato. A Tommaso da quel momento gli
138
era venuta voglia di andarsene via lontano, dove c’erano palazzi luccicanti e non ti potevi
sentire in prigione perché gli aerei ti portavano sempre da un’altra parte – ma quando si
svegliava la mattina si sentiva deluso che la stanza stava ancora lì.
I suoi veri amici erano il budino Elah e i risotti già pronti; la mamma a mezzogiorno
rimaneva in fabbrica (la distanza era troppa per tornare a casa), papà chissà dov’era.
Tommaso rientrava da scuola all’una e mezza, trovava il risotto da scaldare ma lui lo
preferiva freddo – e i budini tremolanti in frigo. Poi passava da Nando, dove c’era quasi
sempre ad aspettarlo una fetta di torta di riso, o un tòrtano salato coi pezzetti di formaggio
e prosciutto;
lui comunque si augurava il dolce: anche quando rubava qualcosa al supermercato, rubava
bomboloni o cremini.
La zia diceva che era perché i cremini glieli davano da neonato per farlo star buono; la
madre negava, i cremini erano una mania recente e per non fargliene riempire le tasche
gliele cuciva. Gli estranei invece ci cascavano, lo vedevano così grosso a otto-nove anni e
gli offrivano del cibo («sai quanto ce ne vòle pe’ riempì er sacco») – non capivano che
era proprio perché gli davano sempre tanto da mangiare che era diventato così grosso.
A Pietralata nell’ottantacinque non c’era uno straccio di medico che diagnosticasse una
disfunzione cellulare (un eccesso di assimilazione) o addirittura genetica (il gene Ob che
codifica la leptina, cioè l’ormone responsabile di un corretto metabolismo). Ridevano a
vedere quel ragazzino mai sazio, che ogni scusa era buona per sgranocchiare qualcosa – che
poi “sgranocchiare” non era il verbo, perché a Tommaso piaceva tutto ciò che era morbido
e andava giù senza bisogno di masticare. A lui non dispiaceva fare il buffone del quartiere;
si agitava apposta saltando sulla bici per farsi ripetere che coi suoi calzoni ci si poteva
costruire una mongolfiera.
Trangugiava e inghiottiva fin che non era pieno da scoppiare, solo quando nello stomaco
non ce ne stava proprio più si sentiva autonomo (era un inganno, forse il più perfido alle
soglie della vita; in realtà a comandare non era il pieno ma il vuoto: “nessuno mi risponde
e dunque mangio”). A due anni, nei racconti della zia, divorava il muschio e i fiori dei
giardinetti – panna e gelato dunque erano già una conquista. Non sopportarsi vuoto
significava non lasciare mai spazio alla fame, cioè all’attesa; anche di notte si teneva le
brioche sotto al
cuscino. I dolci erano la sua trincea, il muro divisorio che lo separava dal mondo; lì non
139
arrivavano più le risate, gli scherzi crudeli, lì c’era soltanto un eroe che si fortificava per
spingersi oltre ogni limite – quale fosse questo limite non avrebbe saputo spiegarlo, non
aveva che nove anni; ma certamente, al di là, si stendevano le terre dell’abbondanza,
dell’innocenza, della gloria pubblica e dell’amore senza eccezioni. In chiesa gli avevano
insegnato che anche mangiare troppo è peccato, un peccato di avidità e di superbia; i santi
dividevano il loro tozzo di pane coi poveri. «Ma anche noi siamo poveri» lo coglionava
Nando, e alla fattoria della Caffarella strappavano le uova da sotto il culo alle galline.
Quella era vita, vita comune. La cerimonia del rimpinzarsi era un’altra cosa, da celebrare
in solitudine; una frittata di sei uova, spalmata di stracchino e di marmellata alle fragole
(“seppellisco il peccato dentro di me”). La sua pancia brontola come il cielo, Tommaso è
un dio gigantesco all’origine del mondo.
140
Presentazione del libro
Resistere non serve a niente
Molte inchieste ci hanno parlato della famosa “zona grigia” tra criminalità e finanza,
fatta di banchieri accondiscendenti, broker senza scrupoli, politici corrotti, malavitosi di
seconda generazione laureati in Scienze economiche e ricevuti negli ambienti più lussuosi
e insospettabili. Ma è difficile dar loro un volto, immaginarli nella vita quotidiana.
Walter Siti, col suo stile mimetico e complice, sfrutta le risorse della letteratura per offrirci
un ritratto ravvicinato di Tommaso: ex ragazzo obeso, matematico mancato e giocoliere
della finanza; tutt’altro che privo di buoni sentimenti, forte di un edipo irrisolto e di
inconfessabili frequentazioni. Intorno a lui si muove un mondo dove il denaro comanda
e deforma; dove il possesso è l’unico criterio di valore, il corpo è moneta e la violenza un
vantaggio commerciale. Conosciamo un’olgettina intelligente e una scrittrice impegnata,
un sereno delinquente di borgata e un mafioso internazionale che interpreta la propria
leadership come una missione. Un mondo dove soldi sporchi e puliti si confondono in
un groviglio inestricabile, mentre la stessa distinzione tra bene e male appare incerta e
velleitaria.
Proseguendo nell’indagine narrativa sulle mutazioni profonde della contemporaneità, sulle
vischiosità ossessive e invisibili dietro le emergenze chiassose della cronaca, Siti prefigura
un aldilà della democrazia: un inferno contro natura che chiede di essere guardato e
sofferto con lucidità prima di essere (forse e radicalmente) negato.
141
Biografia dell’autore
Walter Siti, originario di Modena, vive a Roma.
Ha insegnato nelle università di Pisa, Cosenza
e L’Aquila. È il curatore delle opere complete
di Pier Paolo Pasolini. I suoi ultimi libri sono
Troppi paradisi, Il contagio, Il canto del diavolo e
Autopsia dell'ossessione.
142
9
Marc o Vi c h i
Mo r te a Fi ren z e
『フィレンツェに死す 』 マルコ・ヴィーキ
フィレンツェ、一九六六年十月
ベッドの中で片手を伸ばしてエルヴィラの温かな身体を探したが、手に触れたのは汚いシーツだけ
で、彼は彼女が去ったことを思い出した。仰向けになって暗闇を見つめた。また新たな女が彼の生活
に入り込み、肉を貫通する銃弾のごとくに出て行った。おそらく彼のための女は百年後に生まれてく
るか、あるいはもう生まれて、生きて死んでしまっているのだろう。どちらにせよそういう女には出
会っていないということだ。
ひとりになるたび、彼は再び作り上げるべき未知の世界と対面した。どこか生まれ変わるようでも
あり、不安の下に自由という感覚がうごめいているのを感じた。
何時だろう? 鎧戸を見やったがブラインドの隙間には一筋の光も見えなかった。自分は疲れてい
ると感じた。少年が無事で見つかるという希望は日に日に薄れていっていた。ジャコモ少年は五日前
に忽然と消えた。十三歳になったばかりで、栗色の髪に茶色の目、身長一メートル四十七センチ。お
となしく、勉強熱心で、従順な少年だ。もしかしたら単に家出しただけなのか? 十三歳ならそうい
う馬鹿なことをしてもおかしくない。
もし実際にそうだったら彼はどんな犠牲も厭わなかっただろうが、そんなことはありえなかった。
それについては彼の若き右腕のピラスとも何度も話したが、このサルデーニャ生まれの若者も悲観的
だった。彼らは行き詰まり、すがれる小さな手掛かりひとつなかった。
呼び鈴の音に跳び上がって、彼はボッタのことを思い出した。月曜だった。元囚人の友人は、ポッ
144
ジョ・アッラ・クローチェの上にある丘まで一緒に茸狩りに行くと無理やり彼に約束させたのだ。ち
ょうどいい日柄だから、そうボッタは言っていた。何日も雨の日が続いた後に少しだけ陽が出て、気
温も上がっていた。月曜が最高だ、散歩する家族連れもいないし狩人も少ない。ボルデッリは茸がそ
れほど好きなわけではなく、知識は全くないし茸狩りに行ったこともなかった。けれども森の中の散
策は彼にとってはいいことだろう。あの少年のことを考えて彼は憔悴しきっていた。
ごろんとベッドから降りて、顔に冷気を感じつつ窓際へ行った。空はまだ暗く、歩道の上に微かな
影が見 え た 。
「エンニオ、君か?」と小声で訊ねた。
「いや、ベファーナ (鬼婆)ですよ…」
「上がってこい、コーヒーを飲もう」。彼は音がしないように窓を閉めて、裸足のまま扉を開けにい
った。急いでズボンをはき、眠気を振り払うために冷水で顔を洗った。ボッタはタンクトップ姿の彼
を見つけると両腕を開いた。
「分署長、まさか眠っていたわけじゃないですよね、もう五時半です」
「コーヒーを火にかけてくれ、すぐ支度する」。彼は着替えを終え、タンスから古い登山靴を引っぱ
り出して、キッチンにいるボッタのところへ行った。二人はコーヒーを一息で飲み干して外へ出た。
サン・フレディアーノの静けさの中、フォルクスワーゲン・ビートルのエンジンの凄まじい大音響が
響いた。タッソ広場へ出て左に曲がった。暗い空の下、ペトラルカ通りには人影ひとつなかった。ロ
マーナ門まで来て、ポッジョ・インペリアーレ通りへ入った。登り坂ではビートルは戦車のような轟
145
音をた て た 。
「エンニオ、ひとつ約束してくれ」
「な ん で し ょ う … 」
「もし茸が見つからなくても泣き出したりしないでくれ」
「分署長、あなたはありえないことを言ってますよ。きっと持ちきれないぐらい見つかります」
「自信があるのか?」
「あなたはあなたの仕事をしてください、そちらの腕はたしかなんですから。でも知らないことに
は首を突っ込まないことです」
「私も君のように楽観的でいたいもんだ」。彼は消えた少年のことを考えていて、茸にかまけている
ことにやや罪の意識を感じていた。でも何ができただろう? オフィスに座ってジャコモ少年の写真
を見ながら怒りに悶々とする? それが何になる?
「私たちはポルチーニ茸づくしの夕飯を作らなきゃいけません」とボッタが自信満々に言った。分
署長は返事をしなかった。友達と夕食をとるような気分ではなく、まずはジャコモ・ペッリッサーリ
を見つけ出したかった。でももう考えちゃいけない。脳みそを休ませなければと思った。無駄に動き
回ることは獲物の後を追うより疲れるのだ。
ヘッドライトを点けたままポッジョ・アッラ・クローチェへ到着し、湿った草原に車を停めた。夜
明けが近かった。空の青白い顔が巨大な卵の殻のように見えた。ボルデッリは登山靴を履き、二人は
冷たい大気の中を登り始めた。山道は急で、石と泥だらけだった。ボッタは腰に大きな籠をぶら下げ
146
て進んだ。一分もすると、二人とも息を切らして、口から湯気が吹き出した。
丘の向こうの空は薄緑色になり、森の鳥たちが狂ったようにさえずり始めた。大気中に腐った葉の
臭いがする靄が漂っていた。ボルデッリは、暗闇の中で、霜の滴をいっぱいつけた細い蜘蛛の巣が光
るのを見て、一九四四年のある明け方のことを思い出した。彼の班の六人の男たちと巡視から戻ると
ころで、まさに同じように、暗闇の中で、木から木へ渡された細い糸についた水滴が光るのを見た。
だがそれは蜘蛛の巣ではなかった。その糸は、ちぎると、 バレリーナ
>
という名の地雷を起動させ
<
る。爆発する前に腹の当たりまで跳ね上がる爆弾だった。そんなおもちゃのせいで、その破片にぶち
ぬかれて何人もの仲間が死ぬところを見た。
「こっちです、分署長」。まるで誰かに聞かれているかのようにボッタが小声で囁いた。山道から外
れて森の中へ踏み入り、細い木々につかまりながら斜面をよじ登っていった。ボルデッリは栗の木の
葉の間から空を眺めた。朝陽を見ると、彼は決まってわけもなく憂鬱になった。戦時中はほぼ毎日朝
陽を拝むことになり、毎回これが最後の朝陽だと思った。
空は紫色になり、それからオレンジ色になり、そしてすぐに朝がきた。ボッタは地面を観察し、見
えない小径を辿っているかのように時々いきなり進路を変えた。そして突如、立ち止まって何かを指
差した。薄霧の中を数頭のイノシシが、毛皮から湯気を立てながら丘の頂上へ向かって音もなく駆け
て行った。森へよく来る者にはちっとも珍しいことではないが、分署長はまるで子どものような感情
が一気に押し寄せてくるのを感じた。丘陵の巡視に行く時は木々の間で野生動物が跳ねるのを見るこ
とがあり、そのたびに心臓を跳ね上がらせながら軽機関銃を構えた。けれども今はその光景を楽しむ
147
ことが で き た 。
彼らは登り続けた。ボッタは歩みを緩めず、というか時には速めているようでもあった。分署長は
心臓が早鐘を打つのを感じ、両足はすでにくたくただった。五十六という年齢と煙草のせいだ。サン・
マルコの頃は、満杯のリュックと武器を背負って日に二十五キロ進むこともあったのに。しかしなぜ
あんな汚れた戦争のことを思い出さなきゃいけないんだ? のんびり散策を楽しめないのか?
時々、ボッタは地面に屈んで、細くて白っぽかったり、暗色で膨らんでいたり、ごく華奢なものな
ど珍しい茸を観察しては、忌々しそうにその学術名や通称をつぶやいた。彼はそれらには手をつけず
さらに 上 を 目 指 し た 。
「なぜ採らないんだ? 毒茸か?」。後を追いながら分署長は訊ねた。ボッタは首を横に振った。
「ポルチーニか、何もなしかです」。厳かな口調でそう言うと、彼はまた沈黙した。やがて突如立ち
止まって目を見開いた。
「どうした?」。ボルデッリは心配になって聞いた。ボッタは目をまん丸にして彼を見た。
「分署長、あなたは信じないだろうけど、俺はポルチーニの気配を感じるんだ、だから森じゅうを
引っ掻き回す必要はないんだ」
「心配するな、いい精神科医を知ってる」とボルデッリは応じた。
「信じないんでしょう?」
「がんばってはいるが」
「ほら…」とボッタは気配を感じて言った。
148
「な ん だ ? 」
「茸はこの上のほうです」と上方を指差し、そう言うやいなや全速力で進み出した。分署長は遅れ
をとるまま、もう彼についていくのは無理だった。両足にまだ、前日のチェーザレの食堂での夕食が
残っていた。野兎のパッパルデッレ、骨付きの豚肉とトトというプーリア産のワイン。ボッタが栗の
黒い幹の陰に消えるのが見えた。彼は苦しくて汗をかきかき、登り続けた。十五分後、広い山道に出
て、立 ち 止 ま っ た 。
「エンニオ、いるか?」
「ここですよ、分署長」。ボッタの声がした。分署長は五十メートルほど上方に、森の中で屈み込ん
でいる彼の姿を見つけた。再び歩き出して彼のところへ行った。
「踏まないように気をつけて」とボッタが心配して言った。彼は膝をつき、ごく普通の刷毛を手に
大きなポルチーニ茸に慎重にブラシをかけていた。その周りに十ほどの茸が生えていた。
「茸の気配を感じるってのは本当なんだな…」ボルデッリは心底びっくりして言った。
「分署長、俺が口からでまかせを言ったことがありますか?」。エンニオは真顔で集中していた。古
めかしい宗教まがいの神妙な動作で茸にブラシをかけ続けた。ボルデッリはボッタが彼の仕事を終え
るのを待たねばならず、岩の上に腰を下ろした。その視線が動物を探して栗の木立の合間をさまよっ
た。動いているものは頭上から落ちてくる葉だけだった。それらはいきなり枝から外れて、意図せず
してかの有名な詩編を引用しつつ、地面までくるくる回りながら落ちてきた。そんな静かな平穏に包
まれて、分署長は再びジャコモ・ペッリッサーリと、失意の両親と、ピラスとの長い議論について考
149
えた。ひとりの少年が、何の痕跡も残さずあんなふうに消えられるものか?
「少なくとも二キロはあります」。一杯になった籠を持ち上げながらボッタが言った。彼は、戦の勝
者のように微笑んでいた。
「いや本当に驚いた」。分署長は大きく息を吐いて立ち上がった。
「もうひとまわりしましょう」。二人は枯れ葉に足を埋めながらまた登り始め、木々の間をツグミが
飛び回っていた。彼らは無言で、縦になって進んだ。もちろん先頭はボッタだ。
「エンニオ、ひとつ聞いていいか?」
「な ん で し ょ う … 」
「今は何をしてるんだ、食うためにってことだが」
「私がしゃべっている相手は分署長ですか、それともひとりの男?」
「男 だ 」
「私がずっとやってきたことをしてますよ」
「泥 棒 に 詐 欺 師 か 」
「身もふたもない言い方だ…」
「他の言い方を知らない」
「こう言いましょう、俺は、正当な法律ができるのを待ちながら富の再分配という策を講じている
んです 」
「感 動 し た … 」
150
「この山の中では好きなだけ泣いていいんですよ、誰にも言いませんから」。地面を検分し続けなが
らボッ タ は 言 っ た 。
「エンニオ、どうして普通の職につかないんだ? お前のために言ってるんだ。悪党としてはお前
はいつもツイてなかった、いっつも厄介ごとに巻き込まれる」
「もう刑務所には入りませんよ、分署長さん」
「コックなんかいいだろうに」
「まぁね、いずれレストランを作るってことも考えないじゃないですが」
「どの金で?」
「もしある商売がうまくいったら」。そこでエンニオはやにわに立ち止まり、長い呻きを漏らして両
手を広 げ た 。
「具合が悪いのか?」とボルデッリは聞いた。
「見てください、分署長。今季初のセイヨウタマゴタケだ」とボッタは感極まって溜息をついた。
オレンジ色に近い丸いものが積もった葉の下から顔を覗かせていた。
「狂喜の叫びをあげないように気をつけよう」とボルデッリ。
「分署長、あなたにはわからない。これは女と初めてキスするようなことなんです」
「何を言ってるんだ…」
「すごい」とエンニオはつぶやき、茸をそっと採った。
「ポルチーニだけ探してたんじゃないのか?」
151
「まだ他にもあるはずです」とボッタは彼の言葉を無視して言った。そして茸をハンカチでくるん
でポケットに入れ、周囲の地面を検分した。さらに六つ見つかった。彼はとても満足そうだった。
「今日のところはこれでいいでしょう、欲を出しちゃいけない」と彼は言った。ボルデッリが時間
を見ると、まだ九時にもなっていなかった。
「丘の上は気持ちいいな、すばらしい」。彼は溜息をついて辺りを見渡した。一瞬後、彼は岩の上で
足を滑らせて地面に転がった。そして、ボッタの大笑いを無視して、あいたたたと起き上がった。ズ
ボンは泥で汚れ、耳鳴りがしていた。
「ちくしょう…」。湿った葉を払い落としながら彼は言った。
「分署長、気持ちいいなんて口に出しちゃいけませんよ。悪魔は思考は読めないけど、言葉はわか
るんで す 」
「修道女たちからそう教わったか?」
「もちろん」。マルセイユの刑務所で少しだけ現地の言葉を覚えたボッタはフランス語で言った。
二人は、栗と樫の木立の中を、鳥たちの奇妙な鳴き声と枝の間をすり抜けていく風のざわめきを伴
奏に、小径に沿って歩いていった。茂みの間を逃げていく動物が見え、時々まだ地面が黒ずんでいる
古い炭置場の脇を通った。ボルデッリの頭に古い記憶がとりとめなく浮かんでは消えた。少年のころ
の記憶、戦争の記憶、もう顔も忘れてしまった昔の恋人の記憶。けれどもすべての思考の下に、消え
た少年の謎が広がっていた。彼は火星人にさらわれたんじゃないかと、
そんなことを思い始めていた。
152
〔作品 解 説 〕
一九六六年十月、フィレンツェ。雨ばかり降っている。ひとりの少年が行方不明になり、
最悪の事態、
残忍極まる犯罪が懸念された。警察分署長のボルデッリは死に物狂いで捜査にあたっていたが、この
捜査中に洪水が起きる。
十一月四日の夜半、アルノ川が水かさを増し、ヴェッキオ橋のアーチを掠めて堤防を越え、町は水
の狂乱に壊滅状態になる。道々は激しい奔流と化し、水流は車を押し流し、門や鎧戸を沈め、道路に
動物の死骸や木々や家具やあらゆる種類のがれきを注ぎ込む。町がこの予期せぬ信じ難い災難に見舞
われている間、かの犯罪はその罰を免れるかに見えたが、ボルデッリの執念は衰えることなく…。
153
マルコ・ヴィーキ Marco Vichi
1957 年フィレンツェ生まれ、キャンティ在住。
短編小説、演劇脚本、小説を執筆。その中に人
気のボルデッリ警察分署長シリーズがある。
Guanda 社から出版された小説は、L’inquilino、
Donne donne、Il brigante、Nero di luna、Un
tipo tranquillo。短編小説集は Perchè dollari?、
Buio d’amore。 ボ ル デ ッ リ 警 察 分 署 長 シ リ
ー ズ は、Il commisario Bordelli、Una brutta
faccenda、Il nuovo vento、Morte a Firenze
(2009 年 Giorgio Scerbanenco-La Stampa 賞の
イタリアン・ノワール小説部門の最優秀賞を獲
得)、La forza del destino。さらにワーサー・
デレドラとの共著のグラフィック小説 Morto
due volte がある。また Città in nero と Delitti
in provincia という2冊のアンソロジーの編者
も務めた。
現時点での諸権利の譲渡先:ドイツ(Lübbe
Verlag)、 ポ ル ト ガ ル(ASA)、 ス ペ イ ン
(Duomo Ediciones)、 イ ギ リ ス(Hodder
and Stoughton)、 ア メ リ カ 合 衆 国(Pegasus
Books)
ボルデッリ警察分署長シリーズは、現時点で合
計 25 万部以上の売り上げを記録している。
154
© Claudia Paoli
9
Morte a Firenze
Marco Vichi
Firenze, ottobre 1966
Nel dormiveglia allungò una mano per cercare il corpo caldo di Elvira, ma trovò solo il
ruvido lenzuolo di lino e si ricordò che lei se n'era andata. Si sdraiò sulla schiena e si mise
a fissare il buio. Un'altra donna era entrata nella sua vita e ne era uscita in fretta, come un
proiettile che trapassa la carne. Forse la donna che faceva per lui sarebbe nata fra cento
anni, oppure era già nata, vissuta e morta. In ogni caso non l'avrebbe mai conosciuta.
Ogni volta che si ritrovava nuovamente da solo, gli si affacciava davanti un mondo
sconosciuto da ricostruire. Era un po' come rinascere, e sotto il malessere sentiva
serpeggiare un senso di libertà...
Che ora poteva essere? Sbirciò le persiane e tra le stecche non vide nessun chiarore. Si
sentiva a pezzi. La speranza che il ragazzino venisse ritrovato vivo si assottigliava ogni
giorno di più. Il piccolo Giacomo era sparito nel nulla da cinque giorni. Tredici anni
appena compiuti, capelli castani, occhi marroni, un metro e quarantasette. Un ragazzino
tranquillo, studioso, obbediente. E se invece era soltanto scappato di casa? A tredici anni è
normale fare qualche coglionata...
Avrebbe fatto i salti mortali perché le cose stessero in quel modo, ma non ci credeva
nemmeno un po'. Ne parlava spesso con Piras, il suo giovane braccio destro, ma anche il
sardo era pessimista. Non erano riusciti a fare un solo passo avanti, non avevano il minimo
indizio a cui appigliarsi...
Il suono del campanello lo fece sobbalzare, e si ricordò del Botta. Era lunedì. Il suo amico
ex galeotto gli aveva strappato la promessa di andare insieme a cercare funghi
sulle colline, sopra Poggio alla Croce. Era il momento giusto, aveva detto il Botta.
Dopo molte giornate di pioggia era uscito un po' di sole e le temperature erano salite. Il
lunedì era un ottimo giorno, niente famigliole a passeggio e pochi cacciatori. Bordelli non
era un grande appassionato di funghi, non ci capiva nulla e non era mai andato a cercarli.
Ma una camminata nei boschi gli avrebbe fatto bene. Pensare a quel ragazzino lo stava
logorando.
Rotolò giù dal letto e si affacciò alla finestra, sentendo l'aria fresca sul viso. Il cielo era
ancora nero, e sul marciapiede intravide appena un'ombra.
“Ennio, sei te?” disse a voce bassa.
“No, sono la Befana...”
156
“Vieni su, ci prendiamo un caffè.” Richiuse i vetri senza fare troppo rumore, e a piedi nudi
andò ad aprire la porta. S'infilò in fretta i pantaloni e si lavò il viso con l'acqua fredda per
svegliarsi. Quando il Botta lo trovò in canottiera, allargò le braccia.
“Commissario, non mi dica che stava dormendo... Sono già le cinque e mezzo...”
“Metti su il caffè, faccio in un attimo.” Finì di vestirsi, prese dall'armadio un paio di vecchi
scarponi e raggiunse il Botta in cucina. Mandarono giù il caffè in un sorso e uscirono.
Nel silenzio di San Frediano, il motore del Maggiolino faceva un fracasso infernale.
Sbucarono in piazza Tasso e voltarono a sinistra. Sotto il cielo nero viale Petrarca era
deserto. Arrivarono a Porta Romana e imboccarono il viale di Poggio Imperiale. In salita il
Maggiolino rombava come un carro armato.
“Promettimi una cosa, Ennio.”
“Sentiamo ...”
“Se non troviamo funghi non metterti a piangere.”
“Lei sta dicendo una cosa impossibile, commissario. Ne troveremo così tanti che dovremo
lasciarli.”
“Ne sei proprio sicuro?”
“Lei faccia il mestiere suo, che lo fa bene... ma lasci perdere quello che non sa.”
“Mi piacerebbe essere ottimista come te.” Pensava al ragazzino scomparso, e si sentiva quasi
in colpa a perdere tempo dietro ai funghi. Ma che poteva fare? Stare in ufficio a rodersi il
fegato guardando le foto del piccolo Giacomo? A che sarebbe servito?
“Dobbiamo fare una cena a base di porcini” disse il Botta, sicuro di sé. Il commissario non
rispose. Per il momento non aveva voglia di cene con gli amici, voleva prima ritrovare
Giacomo Pellissari. Adesso però doveva smettere di pensarci. Sentiva il bisogno di far
riposare il cervello. Girare a vuoto era molto più stancante che correre dietro alla preda.
Arrivarono a Poggio alla Croce con i fari ancora accesi, e parcheggiarono in uno spiazzo di
erba umida. L'alba era vicina. La volta pallida del cielo sembrava un enorme guscio d'uovo.
Bordelli si mise gli scarponi e cominciarono a salire nell'aria fredda. Il sentiero era ripido,
pieno di sassi e di fango. Il Botta avanzava con il paniere che gli oscillava a fianco. Dopo un
minuto avevano tutti e due il fiatone, e dalle loro bocche uscivano sbuffi di vapore.
Oltre le colline il cielo diventò verdognolo, e gli uccelli del bosco cominciarono a
impazzire. Nell'aria stagnava una nebbiolina che odorava di foglie marce. Bordelli vide
scintillare nella penombra una sottile ragnatela carica di minuscole goccioline di brina, e si
157
ricordò di un'alba del
'44. Stava tornando da una pattuglia con sei uomini del suo plotone, e nell'oscurità
aveva visto brillare delle goccioline proprio come quelle, lungo un filo sottile come un
capello che correva orizzontale da un albero all'altro. Ma non era una ragnatela. Quel filo,
strappandosi, azionava una mina «ballerina», una bomba che prima di scoppiare balzava
in aria all'altezza della pancia. Aveva visto morire diversi suoi compagni sventrati dalle
schegge, per colpa di quei giocattoli.
“Di qua, commissario” sussurrò il Botta, come se qualcuno potesse sentirli. Uscirono dal
sentiero e si buttarono nel bosco, arrancando su per la salita aggrappandosi agli alberi più
sottili. Bordelli osservava il cielo tra le chiome dei castagni. Vedere l'alba gli aveva sempre
dato una grande malinconia, senza un motivo. Durante la guerra gli era capitato quasi tutti
i giorni di vedere l'alba, e ogni volta aveva pensato che poteva essere l'ultima.
Il cielo si tinse di viola, poi di arancione, e poco dopo fu giorno. Il Botta scrutava il terreno
facendo deviazioni improvvise, come se seguisse un sentiero inesistente. A un tratto si
bloccò per indicare qualcosa. Tra i lembi di nebbia alcuni cinghiali scappavano silenziosi
verso la cima della collina, emanando vapori dalla pelliccia. Per chi frequentava i boschi
non doveva essere nulla di speciale, ma il commissario si sentì invadere da un'emozione
infantile. Solo quando andava di pattuglia sulle colline gli era capitato di veder guizzare
tra gli alberi qualche animale selvatico, e ogni volta aveva puntato il mitra con un tuffo al
cuore. Adesso invece poteva godersi lo spettacolo.
Continuarono a salire. Il Botta non rallentava il passo, anzi a volte sembrava che
accelerasse. Il commissario sentiva il cuore battere forte, e le sue gambe erano già affaticate.
I cinquantasei anni e le sigarette si facevano sentire. E pensare che ai tempi del San Marco
faceva anche venticinque chilometri al giorno con lo zaino pieno e le armi addosso...
Possibile che dovesse sempre pensare a quella sudicia guerra? Non poteva godersi
tranquillamente la passeggiata?
Ogni tanto il Botta si chinava fino a terra per osservare strani funghi, alcuni esili e
biancastri, altri scuri e turgidi, altri ancora fragilissimi, e con aria accigliata borbottava nomi
scientifici o volgari. Ma li lasciava perdere e continuava a salire.
“Perché non lo prendi? È velenoso?” chiedeva Bordelli, seguendolo. Il Botta scuoteva il
capo.
“O porcini o nulla” diceva con aria solenne, e ripiombava nel silenzio. A un tratto si fermò e
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sbarrò gli occhi.
“Che c'è?” chiese Bordelli, preoccupato. Il Botta lo guardò con gli occhi tondi.
“Lei non ci crederà, commissario... ma io i porcini li sento, non ho bisogno di frugare ogni
angolo del bosco.”
“Non ti preoccupare, conosco un ottimo psichiatra” disse Bordelli.
“Non ci crede, eh?”
“Ce la sto mettendo tutta.”
“Ecco...” fece il Botta ispirato.
“Che succede?”
“I funghi sono lassù.” Indicò verso l'alto, e un secondo dopo partì a gran velocità. Il
commissario lo lasciò andare avanti, non ce la faceva a stargli dietro. Sentiva ancora nelle
gambe la cena della sera prima, alla trattoria di
Cesare: pappardelle sulla lepre, arista con le patate e vino pugliese di Totò. Vide sparire il
Botta dietro i tronchi neri dei castagni. Continuò a salire, sudando per la fatica. Dopo un
quarto d'ora sbucò in un sentiero largo, e si fermò.
“Ennio... ci sei?”
“Sono qua, commissario” frusciò la voce del Botta. Il commissario lo intravide una
cinquantina di metri più in alto, chinato in mezzo al bosco. Si rimise in marcia e lo
raggiunse.
“Stia attento a non pestarli” disse il Botta, allarmato. Era inginocchiato, e con un normale
pennello di setole stava spazzolando delicatamente dei grossi porcini. Tutto intorno ce
n'erano a decine.
“Allora è vero che li senti...” disse Bordelli, sinceramente stupito.
“Parlo mai a vanvera, commissario?” Ennio era serio, concentrato. Continuava a spazzolare i
funghi con gesti che sembravano ispirati da una religione arcaica. Bordelli doveva aspettare
che il Botta finisse il suo lavoro, e si sedette sopra una roccia. Il suo sguardo rimbalzava
fra i tronchi dei castagni, alla ricerca di un animale da spiare. L’unico movimento erano
le foglie che cadevano dall'alto. Si staccavano all'improvviso e volteggiavano fino a terra,
citando senza saperlo la famosa poesia. In quella pace silenziosa i pensieri del commissario
tornarono a Giacomo Pellissari, ai suoi genitori disperati, alle lunghe discussioni con
Piras... Possibile che un ragazzino potesse sparire così, nel nulla?
“Saranno almeno due chili» disse il Botta, soppesando il paniere colmo. Sorrideva come il
159
vincitore di una battaglia.
“Sono sinceramente ammirato” sospirò il commissario, alzandosi in piedi.
“Facciamo ancora un giro.” Ripresero a salire affondando i piedi tra le foglie morte, mentre
i merli frullavano tra gli alberi. Avanzavano in silenzio, uno dietro l'altro. Ovviamente a
guidare era il Botta.
“Ennio, posso chiederti una cosa?”
“Sentiamo ...”
“Cos'è che fai adesso, per guadagnarti il pane?”
“Sto parlando al commissario o all'uomo?”
“All'uomo.”
“Faccio quello che ho sempre fatto.”
“Il ladro e il truffatore?”
“Che brutte parole ...”
“Non ne conosco altre.”
“Diciamo che applico una politica di ridistribuzione della ricchezza in attesa di leggi più
oneste.”
“Sono commosso ...”
“Quassù può piangere quanto vuole, non lo racconterò a nessuno” disse il Botta,
continuando a scrutare il terreno.
“Perché non fai un lavoro normale, Ennio? Lo dico per te. Come fuorilegge sei sempre
stato sfortunato, finisci sempre nei guai.”
“In galera non ci torno più, commissario.”
“Potresti fare il cuoco ...”
“Be', non è escluso che prima o poi metta su una trattoria.”
“Con quali soldi?”
“Se mi va bene un certo affare...” All'improvviso Ennio si bloccò, emise un lungo gemito e
allargò le braccia.
“Stai male?” disse Bordelli.
“Guardi qua, commissario... Il primo ovulo della stagione” sospirò il Botta, al culmine
dell'emozione. Una specie di pallina quasi arancione sbucava da sotto le foglie.
“Cercherò di non urlare di gioia” disse Bordelli.
“Lei non può capire, commissario. È come baciare una donna per la prima volta.”
160
“Non sai quello che dici ...”
“Che meraviglia” sussurrò Ennio, raccogliendo il fungo con delicatezza.
“Non cercavi solo porcini?”
“Ce ne devono essere altri” disse il Botta, ignorandolo. Mise l'ovulo in tasca avvolto in un
fazzoletto, e ispezionò il terreno là intorno. Ne trovò altri sei. Aveva l'aria molto soddisfatta.
“Per oggi basta così, non si deve essere ingordi” disse. Bordelli guardò l'ora, non erano
ancora le nove.
“Si sta bene quassù, è una meraviglia” sospirò, guardandosi intorno. Un istante dopo scivolò
sopra un pietrone e si ritrovò seduto per terra. Si alzò dolorante, ignorando le risate del
Botta. Si era sporcato i pantaloni di fango, e gli ronzavano le orecchie per il contraccolpo.
“Fanculo...” disse, togliendosi di dosso le foglie bagnate.
“Non si deve mai dire a voce alta che si sta bene, commissario. Il diavolo non può leggere
nei pensieri, ma capisce bene le parole.”
“Te l'hanno insegnato le monache?”
“Sa va san dir, commissario” fece il Botta, che aveva imparato a masticare un po' di francese
nel carcere di Marsiglia.
Continuarono a camminare lungo i sentieri, avanzando in mezzo ai castagni e alle querce,
accompagnati da strani versi di uccelli e dal fruscio del vento che si infilava a folate tra
i rami. Videro altri animali fuggire tra i cespugli, e ogni tanto passavano accanto a una
vecchia carbonaia dove la terra era ancora annerita. Nella mente di Bordelli scorrevano
vecchi ricordi, alla rinfusa. Ricordi di quando era bambino, della guerra, di antiche
fidanzate ormai senza volto. Ma sotto ogni suo pensiero si faceva largo il mistero del
ragazzino scomparso. Cominciava a pensare che fosse stato rapito dai marziani...
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Presentazione del libro
Morte a Firenze
Firenze, ottobre 1966. Non fa che piovere. Un bambino scompare nel nulla e per lui si teme
il peggio, forse un delitto atroce. Il commissario Bordelli indaga disperatamente, e durante
le indagini arriva l’alluvione...
La notte del 4 novembre l’Arno cresce, si ingrossa, va a lambire gli archi di Ponte Vecchio,
supera gli argini e la città è travolta dalla furia delle acque. Le vie diventano torrenti
impetuosi, la corrente trascina automobili, sfonda portoni e saracinesche, riversando nelle
strade cadaveri di animali, alberi, mobili e detriti di ogni genere. Mentre la città è alle prese
con quella inaspettata e inimmaginabile tragedia, il delitto sembra destinato a rimanere
impunito, ma la tenacia di Bordelli non vien meno...
Diritti venduti in: Germania - Lübbe Verlag; Portogallo – ASA; Spagna - Duomo
Ediciones; Inghilterra - Hodder and Stoughton; US - Pegasus Books.
La serie con protagonista il commissario Bordelli ha venduto più di 250.000 copie
162
Biografia dell’autore
Marco Vichi è nato nel 1957 a Firenze e vive
nel Chianti. E' autore di racconti, testi teatrali e
romanzi, tra cui quelli della fortunata serie del
commissario Bordelli.
Per Guanda ha pubblicato i romanzi: L’inquilino,
Donne donne, Il brigante, Nero di luna, Un tipo
tranquillo; le raccolte di racconti Perché dollari?
e Buio d’amore; la serie dedicata al commissario
Bordelli: Il commissario Bordelli, Una brutta
faccenda, Il nuovo venuto, Morte a Firenze
(Premio Giorgio Scerbanenco-La Stampa
20009 per il miglior romanzo noir italiano) e
La forza del destino; e il graphic novel Morto due
volte, con Werther Dell’Edera. Ha inoltre curato
le antologie Città in nero e Delitti in provincia.
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10
A n d rea Vi ta l i
Ga l e o tto f u i l c o l l i er
『 首 飾 り の 仕 業 』 ア ン ド レ ア ・ ヴ ィ タ ー リ
二
リディオ・チェレヴェッリは、正規の会員で、カントーニ綿紡績工場の食堂の扉に面したヴェルディ
広場で、何が起きているのか最初に見に行ったのは彼だった。工場の上層部の好意でクラブのパーティ
のためにその食堂を使わせてもらっていたのだ。夜九時頃のことだった。大半の会員がまだ前菜と格
闘している広間に、十分ほど前から叫び声と拳で扉を叩く音が響いていた。やがて、七十歳で痛風持
ちの、会長のアニジオ・ペンナ卿が、杖を手に様子を見に行く素振りを見せた。
「お任せください」と、すかさずチェレヴェッリは言った。
「私が行きましょう」
。彼の席の近くに
いる関節炎持ちの一群を一瞬にして置き去れるような混乱が勃発していればいいのにと願いながら。
ハイキングサークル や
音楽団
<
演劇愛好家協会 や
彼は一同の中で一番若く、湖と自分の不安定な情緒が怖かったから、帆船に乗ったことは一度もな
かったし、乗りたいと思ったこともなかった。それでも彼は 帆船の会 の会員証を持っていて、同
じよう に
> <
や 各種競技団体
>
や、さらに
<
>
<
>
<
>
政党はもちろん、他にもさまざまな協会の会員証を持っていた。どれも母親の意志だった。それは、
彼をこの祝宴に出席するよう強要した意志と同じものだ。
「代理です」と母親は言った。大腸炎が数日前に回復したばかりでなければ、彼女もその場にいた
だろう。「これは貴方の将来の根幹に関わることです」
彼は五分後に広間へ戻ってきて、ことの次第を報告したが、夏の夜の薄明かりの中でも、扉口に立
つ五人のスイス人女性が気前よくはだけた胸をしっかと見届け、目は輝いていた。
会長のアニジオ卿は、チェレヴェッリの話を聞いて、副会長のペルコットラと秘書のルミナーティ
165
を呼びつけた。彼らに状況を知らせ、それについての意見を聞いた。そして最終的に、何よりもまず、
客をもてなすという義務を優先させた。
「異国からの客人たちが」と彼は会食者に告げた。「私たちと祝宴を共にしたいと言っている」
最も気難しい招待客たちの不平をよそに、ほどなくして九名が食卓に迎え入れられた。
こうしてリディオ・チェレヴェッリは、チューリヒ生まれのスイス人、ヘルガ・リッターと知り合っ
たのだった。五人の女性のうち、その時点では、彼女が一番酔っていた。彼女はエスコートしてもら
おうと彼の腕にしがみつき、彼の隣に座った。以降、青年はただひたすら娘の極端に開いた胸元の中
を目で漁ることしかできなかった。第一の皿は、実は熱々のリゾットだったが、彼の気を引くことな
くその鼻先を素通りした。娘と何か話そうとしたが、彼女は白ワインだけ選り好みしつつ、立て続け
に手酌で酒を注ぎ続けた。第二の皿は、アゴーネとサケの一種とマリネしたカワカマスという、湖な
らではの三種盛り合わせで、リディオはカワカマスを少しつまんだ。悪くない。もしあそこで、食後
を盛り上げるべく楽団が広間に姿を見せたことが、ヘルガをあんなに興奮させなかったら、彼はそれ
をもっと食べただろう。彼女は手を打ち鳴らすと、彼の耳元に口を寄せ、
皆の先陣をきって一緒に踊っ
て欲しいと言った。チェレヴェッリは口の中のものを飲み下した。自らの要望を通すべく、娘は、舌
の先で彼の耳たぶにじっとりとした痕跡を残していた。
「後で」と彼はやっとのことで答えた。
順番は守らなければならない。音楽はデザートの後に始まることになっていた。
するとヘルガは、テーブルクロスに隠れて、片手を若者の腿に伸ばしてそれを股ぐらまで上げた。
166
「聞いてみないと」。耳たぶを火照らせながら彼は言った。
、他に意見を仰ぐことす
アニジオ卿はこの二つめの要望も承諾し(彼も胸には目がなかったのだ)
らしなかった。こうして予定より早く楽団が演奏を始めた時、かねてから会長の椅子を奪いたがって
いた副会長のペルコットラは、不服を表明すべく席を立って出ていった。誰も後を追う者はいなかっ
た。けれども、デザートがふるまわれた後、四人の男性のうちの二人が楽団とそそくさと密談し、演
奏者のひとりのポケットに何かを、間違いなくお金を忍び込ませた上で、サックスとアコーディオン
を持ってこさせて気違いじみたリズムを奏で始めた時、明らかな
<
>
民族四散 が起きた。腹を立てた
フィオレッラ・ヴァスティタという女性がまずは出ていった。
彼女は自称オペラ歌手、メリディアーナ・
ホテルでメイドをしていて、そこで、口約束ではあったけれども、マズルカとワルツの合間にその声
帯を鳴らすための時間をもらうという約束がなされていた。エンジニアとその妻、ふたりのオールド
ミスの義姉というイントロッツィ家の面々がそれに続いた。間を置かずに次は法務官裁判所書記のデ・
マシェンティの番で、名字と同名の有力企業を経営するフィッカデンティ家の婦人たちもそれに倣っ
た。さらには年金暮らしに入ったデザイン教授のパロラーティと、凄まじい振動に苦悶して、万物と
も万人とも永遠に相容れないとでも言うかのように、止めどなく頭を振る夫の腕をとったセッラロー
ラ夫人。ほぼ半数が立ち去り、それを見ているアニジオ会長の目は嬉しそうで、彼は心の中で一人ひ
とりに「くたばっちまえ」と叫んでいた。踊り始めた五人の女性の胸の旋回は、どんな犠牲を払うに
も値したのだ。踊って体を動かしたことで、ヘルガが飲んだワインの大半を燃焼させた。同時に彼女
を熱した。彼女はやにわに、時間の感覚をすでに失くしたチェレヴェッリに向かって、グラス一杯の
167
冷たい空気が必要だと思うと告げた。
「ご一緒してくださる ?」
「どこへでも」。それがリディオの素直な答えだった。
二人は外へ出て、プンチャの小庭園へ向かって歩いていった。岸辺で囁き声にかき消されるほどの
さざ波で揺らめく湖面を前にして、娘はひらめいた。泳ごう。満月まで出ているわ !
チェレヴェッリは尻込みした。
「あなたもよ」とヘルガは言った。
「狂 気 の 沙 汰 だ ! 」
思いを口にするうちに娘は岸辺まで行き、ブラウスとスカートを脱いで、その下には何も着ていな
かったから、全裸で湖に跳び込んだ。
リディオは挑戦を受けた気がした。
この挑戦を、あの顔を、彼女を、彼女の胸を、あの半切りの新じゃがのような尻を誰が捨てられるか?
ヘルガは彼のことを「リヴィオ!」と呼び続けていた。でもそんなことはどうでもよかった。チェ
レヴェッリは服を脱いだ。パンツだけ足に引っ掛けて水に跳び込んだ。足元に気をつけながら腕をふ
たかき。岸から半メートルのところで、彼女を待ち、そして、チェレヴェッリは高く跳び上がり、二
人は一緒に太古の神々のように水から出た。
「しかし寒いな」と彼は呟いた。
鳥肌が立っていた。ヘルガのほうは平気だ。
168
「私が温めてあげるわ」。そう彼女は言った。
そしてなんと ! 想像もしなかったことが起きた。
身震いするほどのほどの揺らめき。まるで世界など存在せず、彼らを取り押えたり、警察を呼んだ
り、スキャンダルを吹聴する者など誰もいないかのようだった…。
やがて、恍惚として、その腕を開き、その目を暗い空へ向け、チェレヴェッリは、今夜は人生が彼
に食前酒をふるまってくれたのだと思った。食事を続けるかどうかを決めるのは彼だ。
わお !
そうこうしている間に、綿紡績工場の食堂には誰もいなくなり、祝宴は終わって、暗かった。スイ
ス娘の友人たちも消えていた…。
「く そ っ ! 」
リディオは悪態をつき、けれども娘は笑った。
「貴方のところで眠る」。そう言った。
そう、そうできればいいのに…。
「無理だ」と、彼は苛立ちを覗かせつつ言った。
「ど う し て ? 」
なぜ ? 結婚しているの ?
「結婚なんかしてるか !」
なお悪い、彼はまだ母親と暮らしていた。
169
〔作品 解 説 〕
リディオ・チェレヴェッリが妻を見つける時がきたのだが、結婚する気があまりないのだから残念
だ。湖岸でのすばらしい一夜に、リディオはといえば、魅力的で奔放な女性ヘルガの寛大なお相手を
するこ と を 選 ぶ の だ 。
けれども、建設業を営む裕福で有能かつ厳格なリディオの母リリカには、全く別な計画があった。
息子はしかるべき女性を見つけなければいけない。たとえばエウジェオ・コッレッティ教授の孫娘の
エウフェミアなんて最高だろう。ただし直視できないほど醜いという小さな欠点はあるけれど。
そんな事態は、リディオが改修工事の下見をしている時、正面の外壁の中から、ひと財産の金貨を
見つけたことでより複雑になる。一体、誰がいつ隠したものなのか。
それだけのお宝はリディオの夢を実現させうる、もしくは彼に山ほどの厄介ごとをもたらしうる !
またしても謎めいたストーリー、一見して穏やかなベッラーノの町に、汚れたビジネスと信じがた
い事実が隠されている。
170
アンドレア・ヴィターリ
Andrea Vitali
1956 年、 コ モ 湖 東 岸 の ベ ッ
ラーノで生まれ、当地で診療医
を 営 む。Garzanti 社 か ら 出 版 し
た著書に、Una finestra vistalago
(2003、2004 年 Grinzane
Cavour 賞の小説部門賞、2004 年
Bruno Gioffrè 文 学 賞 受 賞 )、Un
amore di zitella(2004)、La signorina Tecla Manzi(2004、Dessì
賞受賞)、La figlia del podestà(2005、2006 年 Bancarella 賞受賞)
、
Il procuratore(2006、 若 手 小 説 対 象 の Montblanc 賞 受 賞 )
、Olive
comprese
(2006)
、
Il segreto di Ortelia
(2007)
、
La modista
(2008、
アー
ネスト・ヘミングウェイ賞を獲得)、Dopo lunga e penosa malattia
(2008)、Almeno il Cappello(2009)、Pianoforte vendesi(2009)、
La Mamma del Sole(2010)、Il meccanico Landru(2010)、La
leggenda del morto contento(2011)、Zia Antonia sapeva di menta
(2011 年)がある。 2008 年、その全著作が評価されてボッカッチョ
文学賞を受賞。
ヴィターリ作品を扱う海外の出版社:フランス(Buchet-Chastel)、
ドイツ(Piper Verlag)、ギリシャ(Modern Times)、オランダ(Serena
libri)、日本(C Light Publishing)、韓国(Indebook)、ポルトガル(Porto
Editora)、ルーマニア(Historia and Corint)、セルビア(Evro-Giunti
Publishers)、スペイン(Roca Editorial) ヴィターリの全著作は総計
200 万部の売り上げを記録。
171
10
Galeotto fu il
collier
Andrea Vitali
Lidio Cerevelli, socio ordinario, fu il primo ad andare a vedere cosa stesse succedendo
fuori, in piazza Verdi, davanti al portone d'accesso alla sala mensa del cotonificio Cantoni
che la direzione dello stesso aveva gentilmente concesso per la serata di festa del circolo.
Erano più o meno le nove della sera. Da una decina di minuti grida e rumori di pugni al
portone rimbombavano nella sala dove la maggior parte dei soci era ancora alle prese con
l'antipasto. A un certo punto il presidente cavalier Agnisio Penna, settant'anni, gottoso,
aveva fatto la mossa di prendere il bastone e andare a vedere.
«Lasciate», aveva detto allora il Cerevelli, «vado io», con la speranza che fosse scoppiata
una qualsiasi rivoluzione così da poter lasciare all’istante la compagnia di artritici vicino ai
quali era seduto.
Era il più giovane di tutti, su una barca a vela non era mai salito né ci teneva a farlo,
temendo il lago e il suo instabile umore. Aveva la tessera del Circolo della Vela così come
aveva quelle della Società Filodrammatica, del Gruppo Escursionisti, del Corpo Musicale,
della Polisportiva Virtus, quella del Partito naturalmente, e di varie altre associazioni: tutte
per volontà materna. La stessa volontà che gli aveva imposto di partecipare al banchetto.
«Rappresentanza», aveva detto la donna: non fosse stato per la sua colite che proprio in
quei giorni s’era risvegliata avrebbe partecipato pure lei. «Fondamentale per il tuo futuro.»
Rientrò nel salone cinque minuti più tardi, latore di un'ambasciata, lo sguardo lustro per
quanto, pur nella
penombra della sera estiva, era riuscito a vedere dei generosi seni delle cinque svizzere che
erano al portone.
Il presidente cavalier Agnisio, udito il Cerevelli, chiamò a sé il vicepresidente Percottola e il
segretario Ruminati. Li mise a parte della novità, ne ascoltò il parere. Alla fine, su ogni altra
considerazione, prevalse il dovere dell'ospitalità.
«Ospiti stranieri», comunicò ai convitati, «chiedono di condividere il nostro momento di
festa.»
Di lì a poco i nove vennero ammessi alla tavolata, con buona pace dei mugugni degli
invitati più riottosi.
Fu così che Lidio Cerevelli conobbe la svizzera, di Zurigo, Helga Ritter. Tra le cinque, al
momento, era la più ubriaca. Gli si appese al braccio per farsi condurre e si sedette accanto
a lui. Da lì in avanti il giovanotto non fece altro che pescare con gli occhi nella fenomenale
scollatura della ragazza. Il primo piatto, un risottino in verità scotto, gli passò sotto il naso
173
senza che se ne accorgesse. Tentava una qualche conversazione con la ragazza mentre
questa non smetteva di versarsi del vino, preferendo il bianco. Del secondo, un tris di lago,
agone, lavarello e luccio marinato, Lidio pizzicò quest'ultimo. Mica male. Ne avrebbe
mangiato di più se, a un certo punto, l'ingresso in sala dei musicisti che dovevano allietare
il dopocena non avesse provocato in Helga un'entusiastica reazione. Battè le mani e poi,
bisbigliandogli in un orecchio, gli chiese di dare l'avvio alle danze con lei. Il Cerevelli
deglutì: per dare maggiore forza alla sua richiesta la ragazza, con la punta della lingua, gli
aveva lasciato un'umida traccia sul padiglione.
«Dopo», rispose con fatica.
Il programma era legge, la musica doveva cominciare dopo il dessert.
Helga allora, protetta dalla tovaglia, allungò una mano sulla coscia del giovane e risalì sino
al cavallo.
«Devo chiedere», disse lui, le orecchie in temperatura.
Pure a quella seconda richiesta il cavalier Agnisio disse sì - piacevano anche a lui le tette -,
e senza chiedere parere. Così che quando l'orchestrina attaccò in anticipo sul programma,
il vicepresidente Percottola, che da tempo ambiva soffiare la poltrona al tofoso cavaliere,
si alzò e se ne andò in segno di protesta. Nessuno lo seguì. Ma una vera e propria diaspora
si verificò quando, a dessert servito e consumato, due dei quattro maschi, dopo aver
brevemente confabulato con gli orchestrali facendo anche scivolare qualcosa, sicuramente
soldi, nelle tasche di uno, si fecero consegnare un saxofono e una fisarmonica per mettersi
a suonare ritmi forsennati. Stizzita se ne andò per prima certa Fiorella Vastità, sedicente
cantante lirica, cameriera presso l'hotel Meridiana, cui era stato promesso, pur vagamente,
uno spazio tra una mazurca e un valzerino per dare fiato alle proprie corde vocali. Seguì
l'intero gruppo Introzzi, ingegnere, moglie e le due cognate zitelle. Subito dopo fu la
volta dello scrivano di pretura De Mascenti a cui fecero seguito le signorine Ficcadenti,
dell'omonima premiata ditta; il professore, di disegno e in pensione, Parolati e la signora
Serrarola col marito tenuto per il braccio poiché, essendo afflitto da invincibile tremore,
tendeva a sbandare e a scuotere la testa come se fosse perennemente in disaccordo con
tutto e tutti. Quasi la metà se ne andò, sotto gli occhi divertiti del presidente Agnisio che li
mandò, uno per uno, mentalmente a dar via il culo: il vorticare delle tette delle
cinque, che s’erano messe a ballare, meritava qualunque sacrificio. La ginnastica del ballo
permise a Helga di bruciare buona parte del vino bevuto. Ma la scaldò. D'un tratto disse
174
al Cerevelli, il quale aveva perduto il conto del tempo, che avvertiva la necessità di un
bicchiere di aria fresca.
«Mi accompagni?»
«Dovunque», fu la risposta spontanea di Lidio.
Uscirono. Si incamminarono verso i giardini di Puncia. Di fronte al lago, alla sua superficie
appena mossa da un'onda che svaniva in sottovoce sulla riva, alla ragazza balenò l'idea: fare
il bagno. C'era pure una luna quasi piena!
Il Cerevellì inorridì.
«Anche tu», disse Helga.
“Fossi matto!"
Il tempo di formulare il pensiero e la ragazza aveva raggiunto la riva, s’era tolta camicetta
e gonna e, poiché sotto non indossava indumenti di sorta, s'era buttata nel lago
completamente nuda.
Lidio si sentì ingaggiato.
Poteva perdere la sfida, la faccia, lei, le sue tette, quelle chiappe che aveva visto rilucere
come due mezze patate novelle?
Helga continuava a chiamarlo: «Livio!» ma poco importava. Il Cerevelli si spogliò. Si
tenne addosso solo le mutande a mezza gamba e si pucciò nell'acqua. Due bracciate,
badando bene a stare dove toccava. La attese lì, a mezzo metro dalla riva e uscirono assieme
come, volò alto il Cerevelli, due antiche divinità.
«Freddo, però», commentò lui.
Aveva la pelle d'oca. Helga invece no.
«Ti scaldo io», disse lei.
E, trac!, quello che non aveva immaginato capitò.
Una ciulata da brivido. Come se il mondo non esistesse, nessuno potesse sorprenderli,
chiamare i carabinieri, far scoppiare uno scandalo...
Dopo, estasiato, le braccia aperte, lo sguardo rivolto verso il cielo fondo, il Cerevelli rifietté
che quella sera la vita gli aveva offerto un aperitivo: decidesse lui se voleva continuare con
quel menù.
Bon!
Intanto, presso la sala mensa del cotonificio, non c'era più nessuno, festa finita, buio. Pure
gli amici della Svizzera...
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«Raus!»
Lidio sacramentò, la ragazza invece rise.
«Dormire da te», disse.
Sì, magari...
«Impossibile», rispose con un gesto di stizza.
«Warum?»
Perché? Sposato?
«Macché sposato!»
Peggio, viveva ancora con la mamma.
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Presentazione del libro
Galeotto fu il collier
È tempo per Lidio Cerevelli di trovare moglie… peccato che non abbia una gran voglia di
sposarsi. È una splendida notte sulle rive del lago e Lidio preferisce godere della generosa
compagnia di Helga, ragazza affascinante e disinibita.
Lirica, la severa madre di Lidio, abile e ricca imprenditrice dell'edilizia, ha però piani molto
diversi in mente. Suo figlio deve trovare una donna come si deve. Magari la nipote del
professor Eugeo Cerretti, Eufemia, un ottimo partito con un piccolo difetto: è brutta da
non potersi guardare.
Le cose si complicano quando Lidio, durante un sopralluogo per un lavoro di
ristrutturazione, scova in un muro maestro un gruzzolo di monete d'oro, nascosto chissà da
chi e chissà quando.
Un simile tesoro può trasformare i sogni di Lidio in realtà… o può procurargli un sacco di
guai!
Ancora una volta trame misteriose, sordidi affari e impensabili rivelazioni si nascondono
dietro l’apparentemente tranquilla Bellano.
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Biografia dell’autore
Andrea Vitali è nato nel 1956 a Bellano,
sulla riva orientale del lago di Como,
dove esercita la professione di medico di
base. Con Garzanti ha pubblicato Una
finestra vistalago (2003, premio Grinzane
Cavour 2004, sezione narrativa, e premio
letterario Bruno Gioffrè 2004), Un amore
di zitella (2004), La signorina Tecla Manzi
(2004, premio Dessì), La figlia del podestà (2005, premio Bancarella 2006), Il procuratore
(2006, premio Montblanc per il romanzo giovane 1990), Olive comprese (2006) e Il segreto
di Ortelia (2007), La modista (2008, premio Ernest Hemingway) e Dopo lunga e penosa
malattia (2008), Almeno il Cappello (2009), Pianoforte vendesi (2009), La Mamma del Sole
(2010), Il meccanico Landru (2010), La leggenda del morto contento (2011), Zia Antonia
sapeva di menta (2011).
Nel 2008 gli è stato conferito il premio letterario Boccaccio per l'opera omnia.
Editori stranieri delle opere di Vitali: Francia - Buchet-Chastel; Germania - Piper Verlag;
Grecia - Modern Times; Olanda - Serena Libri; Giappone - C-Light Publishing; Corea Indebook; Portogallo - Porto Editora; Romania - Historia and Corint; Serbia - Evro-Giunti
Publishers; Spagna - Roca Editorial.
Le opere di Vitali hanno venduto complessivamente oltre 2 milioni di copie.
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版権担当者リスト
『よい夢を』
2012, 216 p.
Longanesi Editore - Gruppo Editoriale Mauri Spagnol s.p.a.
via Gherardini, 10
20145 Milano (Italy)
Foreign rights: Viviana Vuscovich
[email protected]
『パルミーラの最後の花嫁』 2011, 174 p.
Marsilio editori s.p.a.
Marittima, Fabbricato 205
30135 Venezia (Italy)
Foreign rights: Francesca Varotto
[email protected]
『名声と不遇と』
2011, 440 p.
Arnoldo Mondadori Editore s.p.a.
20090 Segrate – Milano (Italy)
Foreign Rights: Emanuela Canali
[email protected]
『すべての悪人がウィーン生まれというわけじゃない』 2011, 363 p.
Sellerio editore s.r.l.
Via Siracusa, 50
90141 Palermo
Foreign rights: Antonio Sellerio
[email protected]
179
『終わらせる女』 2009, 164 p.
Giulio Einaudi Editore s.p.a.
Via U. Biancamano, 2
10121 Torino (Italy)
Foreign Rights: Anna Dellaferrera
[email protected]
『私たちの物語』
2010, 168 p.
Bompiani - RCS Libri s.p.a.
Via Rizzoli, 8
20132 Milano (Italy)
Foreign Rights: Anna Falavena
[email protected]
『亡者の霊』 2012, 171 p.
Giangiacomo Feltrinelli Editore s.r.l.
Via Andegari, 6
20121 Milano (Italy)
Foreign rights: Theo Collier
[email protected]
『無駄な抵抗』 2012, 319 p.
Rizzoli editore – R.C.S. Libri s.p.a.
Via Rizzoli, 8
20132 Milano (Italy)
Foreign Rights: Michele Rossi
[email protected]
180
『フィレンツェに死す』 2009, 344 p.
Guanda Editore - Gruppo Editoriale Mauri Spagnol s.p.s.
via Gherardini, 10
20145 Milano (Italy)
Foreign rights: Viviana Vuscovich
[email protected]
『首飾りの仕業』
2012, 394 p.
Garzanti Libri - Gruppo Editoriale Mauri Spagnol s.p.a.
via Gherardini, 10
20145 Milano (Italy)
Foreign rights: Viviana Vuscovich
[email protected]
181
Contatti degli editori
Fai bei sogni
2012, 216 p.
Longanesi Editore - Gruppo Editoriale Mauri Spagnol s.p.a.
via Gherardini, 10
20145 Milano (Italy)
Foreign rights: Viviana Vuscovich
[email protected]
L’ultima sposa di Palmira
2011, 174 p.
Marsilio editori s.p.a.
Marittima, Fabbricato 205
30135 Venezia (Italy)
Foreign rights: Francesca Varotto
[email protected]
Di fama e di sventura
2011, 440 p.
Arnoldo Mondadori Editore s.p.a.
20090 Segrate – Milano (Italy)
Foreign rights: Emanuela Canali
[email protected]
Non tutti i bastardi sono di Vienna
Sellerio editore s.r.l.
Via Siracusa, 50
90141 Palermo
Foreign rights: Antonio Sellerio
[email protected]
182
2011, 363 p.
Accabadora
2009, 164 p.
Giulio Einaudi Editore s.p.a.
Via U. Biancamano, 2
10121 Torino (Italy)
Foreign rights: Anna Dellaferrera
[email protected]
Storia della mia gente
2010, 168 p.
Bompiani - RCS Libri s.p.a.
Via Rizzoli, 8
20132 Milano (Italy)
Foreign rights: Anna Falavena
[email protected]
Pantumas
2012, 171 p.
Giangiacomo Feltrinelli Editore s.r.l.
Via Andegari, 6
20121 Milano (Italy)
Foreign rights: Theo Collier
[email protected]
Resistere non serve a niente
2012, 319 p.
Rizzoli editore - R.C.S. Libri s.p.a.
Via Rizzoli, 8
20132 Milano (Italy)
Foreign rights: Michele Rossi
[email protected]
183
Morte a Firenze
2009, 344 p.
Guanda Editore - Gruppo Editoriale Mauri Spagnol s.p.a.
via Gherardini, 10
20145 Milano (Italy)
Foreign rights: Viviana Vuscovich
[email protected]
Galeotto fu il collier
2012, 394 p.
Garzanti Libri - Gruppo Editoriale Mauri Spagnol s.p.a.
via Gherardini, 10
20145 Milano (Italy)
Foreign rights: Viviana Vuscovich
[email protected]
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