Food and Human Security 食料と人間の安全保障

GLOCOL ブックレット
GLOCOL BOOKLET
03
食料と人間の安全保障
Food and Human Security
上田晶子
[編]
大阪大学グローバルコラボレーションセンター
GLOBAL COLLABORATION CENTER
OSAKA UNIVERSITY
GLOCOL ブックレットの創刊にさいして
「GLOCOL ブックレット」は、大阪大学グローバルコラボレーション
センター(以下、GLOCOL)が企画・実施している、教育、研究、実践の 3
領域にわたる活動の成果を大阪大学内外に知らしめるために創刊されま
した。2007 年 4 月に開設された GLOCOL は、大阪外国語大学との統合
後の新大阪大学における新たな教育理念を具現化するため、教育プログ
ラムの改革をおこなうことを第一の使命としています。
グローバル化のなかで、現代の世界は、紛争、貧困、文化の衝突、感染症、
環境破壊といったさまざまな問題に直面しています。経済的繁栄のなか
で、他の国や地域の問題は「他人事」ですましてきた日本という国の住民
も、ナショナルな枠組みのなかで安住することはもはや困難になってい
ます。現在の総合大学に課されているのは、こうした世界の状況を適切
に 理 解 し、そ の 改 善 や 解 決 に 向 け て 真 の「国 際 性」
(intercultural
communicability)をもって主体的に行動することのできる人材を養
成することであると考えます。この責務を実現するためには、従来の学
部・研究科の枠組みを超えた連携(コラボレーション)が必要です。連携
のパートナーには、学外・国外の研究機関、開発援助機関や市民団体も含
まれます。GLOCOL の役割は、こうした連携の媒介者兼牽引者となるこ
とです。
先端的な教育プラグラムの開発は、先端的な研究の裏打ちがあっては
じめて可能になるものです。GLOCOL が、
「人間の安全保障」と「多文化
共生」を二つの柱とする研究の推進に力点を置いているのはそのためで
す。また、GLOCOL における教育研究のプロジェクトは、現代世界の動
態と深く関連しているがゆえに、学生と教員の双方は必然的に「現実と
の か か わ り 方」の 模 索 を 求 め ら れ る こ と に な り ま す。そ れ ゆ え に、
GLOCOL が教育・研究・実践の「三位一体」をスローガンにしているの
です。
「GLOCOL ブックレット」は、シンポジウム、ワークショップ、研究プ
ロジェクト、教育プログラムの開発、実践とのかかわりなど、GLOCOL
のさまざまな事業を報告するメディアです。皆様のご理解とご支援をお
願いするしだいです。
2009 年 2 月
大阪大学グローバルコラボレーションセンター
センター長
栗本英世
はじめに
3
はじめに
上田 晶子
大阪大学グローバルコラボレーションセンター特任准教授
GLOCOL ブックレット第 3 号を、
「食料と人間の安全保障」
という
テーマでここにお届けする。本書は、GLOCOL 共同研究「食糧の
安全保障に関する学際的研究:食糧確保のセーフティ・ネットの事
例の比較を中心に」
の 2 ヶ年の成果である。草の根のレベルで人々
が、日々、どのように食料を入手しているのか、そして、万が一
のときのために、どのようなセーフティ・ネットがあるのかについて、
世界のさまざまな地域からの事例をもとに分析をしている。
冒頭の論文で、上田は、セーフティ・ネットに関する最近の主な
研究を概観し、政策としてのフォーマルなセーフティ・ネットについ
ての議論、インフォーマルな草の根のレベルでのセーフティ・ネッ
トの議論、そして、政策と草の根のレベルのセーフティ・ネットの
関係についての議論を紹介している。それらの議論をふまえ、
ブー
タンのトウガラシの取引を事例として取りあげ、ブータンの農村部
で異なる取引の形態が人々にとってセーフティ・ネットとしてどのよ
うに機能しているかを考察している。
これ以降に続く論文で顕著なのは、草の根のレベルに焦点をあ
てていても、フード・セキュリティという問題の国際的なつながり
を理解することの重要性である。湖中は、ケニアの国内避難民の
事例を取り上げている。この考察が示唆するように、通常、国内
避難民や
(国境を越えた)
難民の食料確保の問題は、
避難先のキャ
ンプ地での援助機関と避難民という枠のなかで、語られることが
多い。湖中は、これまでそれほど触れられてこなかった国内避難
民が、自身の家族や避難先の地域住民との間に作り上げた食料
のセーフティ・ネットに焦点をあて、それらが国際的な援助機関に
よるグローバルなセーフティ・ネットをどのように補完しているかを
分析している。
岸上は、外部の市場経済の影響とともに、環境汚染と地球温
暖化の影響をも受けるようになってきているカナダの極北地域に
住むイヌイットの人々の食料確保の問題をとりあげる。岸上は、イ
ヌイットの人々の間に存在しているさまざまな食料分配の方法を紹
4
食料と人間の安全保障
はじめに
5
介したうえで、定住化や上記のグローバルな変化の影響を受ける
研究の文脈と問題意識を反映したものであるという認識に立ち、
中で、従来のインフォーマルな食料分配が機能しなくなっている
各々の使い分け方を尊重したいという結論に至った。
状況を提示している。そして、そのようなインフォーマルな分配を、
食料の確保と草の根レベルのセーフティ・ネットの問題は、当初、
地方自治体によるセーフティ・ネットが補完している状況を検討し
研究会が始まったときに予測されたよりも、広い視野と深い視点
ている。
が必要であることが、研究会を進めていくうちに明らかになってき
グローバルな市場の影響は、食料価格だけでなく、燃料価格と
た。具体的には、食料が生産され、流通し、消費されるまでの
いう形でも人々の食料確保に重要な意味を持つことを示している
間の諸条件と環境に関するグローバルなレベルから草の根のレベ
のが、阿良田による論文である。同氏は、インドネシア西ジャワ
ルまでの広い視野であり、そこに展開される人々の営みの複雑さ
州からの事例を取りあげ、燃料不足という状況のなかで、親族や
と柔軟さへの深い視点である。本書におさめられた考察から、さ
隣人との相互扶助関係がセーフティ・ネットとしていかに機能した
らに議論が発展していくことを願う。
かを、詳細に検討している。
思と住村は、社会主義体制下で、それぞれの世帯の小規模な
果菜園が、食料確保のセーフティ・ネットとして果たしている役割
を、ロシアのダーチャとベトナムの屋敷地でおこなわれる農業の
事例から、それぞれ検討している。
中川は、
「食料主権」と「農民的農業」という概念を検討し、小
規模農家が、どのように生産が行われるべきだと考えているかを
描くことによって、フード・セキュリティの問題を世界観とモラル観
のなかで理解することを試みている。フランス南部での「農民的
農業」
の実践を紹介しながら、中川は、フード・セキュリティが単
に食料の量と質の確保という問題だけではなく、その確保のプロ
セスをも含む概念となりえることを示唆している。
これらの考察から、議論のひとつの軸となりえるのが、政策と
草の根のセーフティ・ネットとの関係である。政策としてのセーフ
ティ・ネットと草の根のセーフティ・ネットが相互補完的な関係にあ
るのが、湖中や岸上が取りあげている事例と考えられる。それに
対して、阿良田が提示する事例は、ある政策が実施された結果に
よって、草の根のセーフティ・ネットが必要となった場合であろう。
思と住村は、草の根のセーフティ・ネットとして機能しているものが、
政策の裏付けをもつものといえるかもしれない。
「食料」
と「食糧」
の使い分けについて、最後に短かく記しておか
なければならないだろう。結論から先に記せば、本ブックレット
全体として、このふたつの表記の「違い」
について、統一した見解
はあえて取らなかった。研究会内部での議論はあったが、それぞ
れが違うレベルで使い分けを行っていることが明らかになった。そ
して、編者としては、そのような異なる使い分け方がそれぞれの
取引の形態にみる草の根レベルのセーフティ・ネット
7
取引の形態にみる
草の根レベルのセーフティ・ネット
ブータンのトウガラシの例
上田 晶子
大阪大学グローバルコラボレーションセンター特任准教授
セーフティ・ネットは、生活水準に何らかの落ち込みがあったと
きの命綱、あるいは保険としての機能を果たすものという文脈で
議論されることが多い。それは、典型的には、突発的な、予想
以外のできごと
(自然災害、紛争、親族の不幸、失業など)の負
の効果を緩和する機能を果たすものであり、親族や共同体のメン
バー間でのインフォーマルな財やサービスの譲渡や貸与から、公
的な救済措置などが含まれる。一方で、これらの議論のなかでは、
日常的な生活そのものがセーフティ・ネットをかけながら営まれて
いるような状況にはあまり注意がはらわれていない。例えば、多
品種の作物の栽培や、異なる地理的条件の場所での耕作、ある
いは、異業種の経済活動に従事することなどがこの例である。こ
の「日常生活に埋め込まれた」
セーフティ・ネットは、日常の営みの
一部となっているために、事前の備えとしてのセーフティ・ネットと
認識されていないこともある。しかし、それがなくなったときには、
人々の生活の脆弱性の増大として表れてくる。本稿は、そのような
「日常生活に埋め込まれた」セーフティ・ネットのひとつとして、異
なる取引の形態に注目し、それがブータンでどのように機能して
いるかを検討することを目的とする。
本稿では、セーフティ・ネットの議論を概観したのち、ブータン
の農村において、人々が貨幣を仲介とした市場での取引と、物々
交換という異なる取引の形態を使うことで、どのようにトウガラシ
の、そしてひいては食料の確保を確実にしようとしているかを検
討する。そして、これらの異なる取引の形態をもつことが、セー
フティ・ネットとしてどのように機能しているかを考察することにす
る。
8
食料と人間の安全保障
1. セーフティ・ネットの議論の概観
取引の形態にみる草の根レベルのセーフティ・ネット
9
る。従って、セーフティ・ネットへの財政的支出は、長期的な貧困
削減に効果のある事業を組み合わせることが大事であるとしてき
セーフティ・ネットについての議論は、政策としてのセーフティ・
ている
(例えば、公共事業として道路や灌漑設備を建設し、そこ
ネット、草の根のレベルのセーフティ・ネット、そして、このふた
で生まれる雇用をセーフティ・ネットとして最貧困層に向けるといっ
つのレベルをつなごうとする議論に分けることができる。このセク
たようなもの)
(Smith and Subbarao 2003)
。
ションでは、これら 3 つの議論を概観し、ブータンでのトウガラ
このような立場と関連して、政策としてのセーフティ・ネットに
シの確保のケース・スタディの検討につなげることとする。
ついての議論では、
「ターゲッティング」が重要な関心事となっ
ている。ドゥブルーは、誰をセーフティ・ネットの対象とするか
1.1 政策としてのセーフティ・ネット
開発の分野での、近年のセーフティ・ネットに関する議論の源
を選定する作業自体が非常にコストがかかることを指摘している
(Devereux 2001)
。その上で、次の 3 つのターゲッティングの手法
は、1990 年頃にさかのぼることができる。世界銀行による World
を紹介し、それぞれの長所と短所を指摘している。それによると、
Development Report 1990 のなかで、セーフティ・ネットは、災害
個々人による必要性の評価は、収入や栄養状態などをもとにおこ
等の一時的なできごとに対する収入の補てんと定義されている
なわれ、理論的にはもっとも正確で客観的なデータが期待でき
(World Bank 1990: 90)
。セーフティ・ネットは、1980 年代におこ
る半面、実施にはとてもコストがかかり、煩雑であるとしている。
なわれた構造調整融資等に代表される新自由主義の考え方にもと
また、情報が自己申告をもとにしたものであるために、虚偽の申
づく経済政策や援助政策によって引き起こされた人々(特に貧困
告もありうる。二番目に、年齢、性別、地域などを指標として、
層)
の生活水準の落ち込みへの対策として、盛んに採用されていっ
一定のグループをターゲットにする方法は、簡便で、時間や予算
た。ドナーのコンディショナリティに盛り込まれた緊縮財政のなか
上の制約のある状況で最もよく用いられる。しかし、同時に、こ
で、食料などの生活必需品の価格につけられていた補助金が撤廃
の方法は、含まれるべき人を排除してしまったり、それほどニーズ
され、市場の競争のなかで取り残された貧困層の生活はますます
が深刻でない人を含んでしまう可能性が高い。
三番目の方法として、
苦しくなっていった。そのようななかで、全般的に適用されていた
「セルフ・ターゲッティング」
があげられている。これは、セーフティ
・
補助金に代わって導入されたのが、対象を絞った食料や現金の補
ネットへのアクセスを高くして、本当にニーズのある人だけに限る
てんや公共事業による雇用の創出といったセーフティ・ネットであっ
か、あるいは、セーフティ・ネットを通じて支給されるものの価値
た
(Devereux 2001: 293)
。このような状況から、政策としてのセー
を抑えることによって、生活に余裕のある人が関心を持たないよ
フティ・ネットについての論文は、世界銀行そのものや、世界銀
うにするものである。例えば、食料の配給においても、
「貧しい人
行に何らかの関係のある実務者や研究者によるものが多い1。こ
の食べ物」として社会的に認知されているものにのみ補助金をつ
れらの文献に読み取れる世界銀行の立場は、もともとセーフティ・
けて販売価格を抑えることで、裕福な人がそのスキームから恩恵
ネットの必要性が、新自由主義の考え方にある市場のはたらきに
を得ることがないようにするというような方法である。このような
よっても生活の向上がなされなかった
(あるいは、実質的に生活
方法は、そのスキームのデザインと対象となるべき人々が合致し
のレベルがおちこんだ)
最貧困層への救済という認識に立つため、
ない場合もあり、本当に必要としている人にその恩恵がいきわた
セーフティ・ネットの導入による財政的な負担が、構造調整融資の
らない可能性がある。
コンディショナリティになっている緊縮財政のためのさまざまな支
ターゲッティングの議論には、このほかにも、コミュニティ内
出の抑制の範囲内でおこなわれなければならないというものであ
部で、住民たち自身によって、セーフティ・ネットに含まれる人々を
決める手法を検討しているものもある 2。それらの議論では、この
1
例えば、
Subbarao, K., Bonnerjee, A., Ezemenari, K. et al. (1997), Holzmann, R.
and Jorgensen, S. (1999), Rogers, B. L. and Coates, J. (2002), Smith, W. J. and
Summarao, K. (2003) など。
2
Conning J. (2002) や Chinsinga, B. and Kevane, M. (2005) など。
10
食料と人間の安全保障
取引の形態にみる草の根レベルのセーフティ・ネット
11
方法がプログラムの実施とモニタリングに住民の参加を促すのに
向へ行くという結果にはならないこともある。危機的な状況では、
有効である一方で、対象を決める過程そのものがコミュニティの
社会的に地位の低い女性の所有する財産がまず最初に売られる
有力者に支配されてしまう危険性があることを指摘している。
ことが多いことや、男性の消費を確保するために、女性や子ども
の消費がまず減らされたり、また、子どもを働かせるために学校
1.2 草の根レベルのセーフティ・ネット
をやめさせるのは広くみられる対処法であるとカビール
(Kabeer
上記の政策としてのセーフティ・ネットと対照的に、草の根のレ
2002: 594-595)は指摘している。ここで、注目したいのは、一時
ベルのインフォーマルなセーフティ・ネットについても検討がなさ
的にセーフティ・ネットとして機能することも、長期的には、負の
れている。カビール
(Kabeer 2001; 2002)
は、インドとバングラデ
効果をもたらすことがあるという点である。この点については、
ブー
シュにおける草の根のセーフティ・ネットについてのいくつもの論文
タンからのケース・スタディからも指摘できる。
を検討し、社会的、経済的関係のなかにこれまで埋め込まれてい
ブータン西部のプナカ地区で、小規模の土地しかもたない
(あ
たインフォーマルな社会保障が弱まり、そしてその性質を変えつ
るいは、全く土地をもたない)農家のなかに、世帯の必要量に足
つあることを指摘している。このインフォーマルな社会保障には、
りない分のコメを同じ村の裕福な家から借りている人々がいる。
地主が小作人や職人の食料を確保する習慣や、共有の財産と慣習
彼らは、コメを借りることによって、短期的には足りないコメを調
的な権利、宗教施設における食料の配給などが含まれる。カビー
達することができるのであるが、長期的には、借米とその利子と
ルは、これらの変化が貧困層の市場へのアクセスの増大を伴うも
いう負債を抱えることになる。事実、このような農家は調査をお
のであれは、それ自体が悪影響をもつとは言えないとしているが、
こなった村の約 3 割を占め、利子を労働で返済するために、毎年
実際には、より多くの地域で、貧困層の人々が従来型の保護を失
数週間から1 ヶ月間はコメを貸してくれた農家の土地で農作業を
うと同時に、新たなリスクに直面していると指摘している
(Kabeer
しなければならない。そのために自分の土地での作業がおざなり
2002)。カビールはヴァサヴィ(Vasavi 1999)を引用しながら、南
になり、生産性の低下を招くという悪循環にはまっていた。また、
インドで小規模農家が、生産性は低いがリスクは少ない作物から、
借りたコメ自体を返すことができずに、毎年累積していき、自分
生産性は高いがリスクも高い作物へのシフトするなかで、高いリス
の親の代からの借米を何百キロという単位でかかえている。この
クをとれるだけの政府の保障制度もなく、以前からの共同体や親
ような状況は、調査をおこなった村に特別の状況ではないという
せきの相互扶助ネットワークも失い、自殺に追い込まれていった
ことは、ブータン政府関係者などからの話で明らかになっている。
事例を紹介している。
分析の視点からは、このような状況をセーフティ・ネットとみなす
カビール
(Kabeer 2002)
は、また、世帯による危機的状況への
のかどうかという点に更に慎重な検討が必要であろう。
対処方法の社会的文脈にも触れている。例えば、ブレマンの著作
に描かれているインドの移民労働者が、高カーストの土地所有者
1.3 政策レベルと草の根レベルをつなぐ議論
による安定的な終身雇用をやめて、不安定な都市の賃金労働者に
政策としてのセーフティ・ネットと草の根のレベルのインフォーマ
なることを選んだのは、カーストのスティグマから逃れ、自分たち
ルなセーフティ・ネットをつなぐ議論もなされている。モーダック
自身の尊厳を保つためであったと指摘する。また、バングラデシュ
とシャルマ
(Morduch and Sharma 2002)
は、コミュニティや親せ
では、多くの家庭が、自分の家庭の女性が外に働きに行くより
き関係の間に築かれた対処法を理解することから始め、公共政策
も、基本的な消費を減らすことを選んだと紹介している。これら
としてのセーフティ・ネットは、それらのインフォーマルなものを補
は、いくら危機的な状況だとはいえ、自分たちの尊厳を失ってまで、
完する役割を持つべきであると主張をしている。政府によるセー
収入や消費を拡大することには多くの人が慎重であることを教えて
フティ・ネットの導入によって、すでに存在するインフォーマルな
くれる。
セーフティ・ネットが失われる
(あるいは縮小される)
可能性がある
加えて、インフォーマルなセーフティ・ネットも、全てが良い方
かどうかということが、最も考慮されるべき点であると指摘する
12
食料と人間の安全保障
取引の形態にみる草の根レベルのセーフティ・ネット
13
と同時に、インフォーマルなセーフティ・ネットはその恩恵をうける
ためにさまざまなコストがかかり、その負担は貧困層であるほど、
大きい傾向にあると述べている。
そして、
政府によるセーフティ・ネッ
トのプログラムが、インフォーマルなメカニズムよりも効率的で
公平である場合には、公共のセーフティ・ネットの導入がインフォー
マルなメカニズムにとって代わることも妥当であるとしている。
ノー
トンら
(Norton, Conway and Foster 2002)も同様の立場をとり、
途上国の農村社会を弱者に対する心配りと年長者への尊敬にあふ
れた調和した社会とみなすことには、慎重であるべきであると指
摘している。
写真1 エマ・ダツィ。見えるのはすべてトウガラシ
コンウェイとノートン
(Conway and Norton 2002)は、公共政
策によるセーフティ・ネットの導入によってインフォーマルなセーフ
ティ・ネットがなくなっても、全体として、長期的に住民の生活の
写真 2 トウガラシのディップをご飯につけて食べる子ども
向上に役立った南アフリカの例を紹介している。それによると、
南アフリカでは、政府による年金制度の導入によって、それまで
食事で、トウガラシが使われないおかずは、例外的である。そし
おこなわれていた家族による年老いた両親への送金が大きく減少
て、国民食ともいえる定番のおかず「エマ・ダツィ」
はトウガラシを
したが、その代わりにそれまで両親への送金に使われていたお金
チーズで煮込んだものである
(写真 1)
。ブータン人は、小さな子ど
が、子どもの教育のために使われるようになった。セーフティ・ネッ
ものときからトウガラシを食べている。筆者が出会ったなかでは、
トの導入により、玉突き式に別の支出を可能にしている。
3, 4 歳の子どもでも、トウガラシを山椒、コリアンダーの葉、ネ
これらは、的を射た妥当な立場であるが、同時に、これは政
ギ、塩などと混ぜて作ったディップのようなものをご飯につけて食
府によるセーフティ・ネットが「機能した」
場合であることに注意を
べていた
(写真2)
。トウガラシは、
ブータン人のほとんど全員にとっ
しておく必要があろう。この点については、野田
(2007)
も、途上
てなくてはならない食材であるが、ブータン国内全ての地域で栽
国では、政府による人間の安全保障が充分に機能するとは限らな
培されているわけではない。国土のほとんどがヒマラヤ山中にあ
いと指摘している。また、湖中
(2006)
は、貧富の格差の縮小とい
るブータンでは、標高 2,700 メートルぐらいが、トウガラシの栽培
う観点から、インフォーマルなアレンジは、多くの場合、裕福な
の限界といわれている
(Choden 2008)
。また、それ以下の標高で
者が困窮する世帯を助けることが期待されるのに対し、政府によ
も、さまざまな条件により、栽培ができない
(していない)
地域が
る社会保障は、裕福な者からの税金を引き上げない限り、貧富
ある。トウガラシが育たない地域の人にとっても、トウガラシは
の差の縮小にはつながらないと指摘している。
必要不可欠な食材である。では、どうやって入手するのか。以下
では、市場での貨幣を媒介としたトウガラシの取引と、物々交換
2. ブータンのケース・スタディから
によるトウガラシの取引に焦点を当てて検討し、トウガラシの入
手についてどのようなセーフティ・ネットが機能しているかを考察す
2.1 なぜ、トウガラシ?
る。
ブータンで、フード・セキュリティの問題を考えるとき、主食の
トウガラシは、コメと並んで、ブータン人にとってなくてはなら
コメに次いで重要なのがトウガラシの確保である。ブータンでは、
ない食材であることはすでに述べたが 3、トウガラシと他の食材の
トウガラシはスパイスではなく、野菜として食されている。そして、
ブータン人は本当にたくさんのトウガラシを食べる。ブータン人の
3
ブータンの食文化と社会におけるトウガラシの役割と位置付けについては
Choden (2008) に詳しい。
14
食料と人間の安全保障
取引の形態にみる草の根レベルのセーフティ・ネット
15
重要な違いを指摘しておきたい。その違いとは、トウガラシには
がある。そして、乾燥させたものは、食用だけではく、次の年の
代用品がないということである。例えば、
コメは、
コメがなければ、
種としても流通する。
また、
苗としても取引される。栽培農家にとっ
トウモロコシ、ソバ、コムギ、ヒエというようにその代わりとなる
ては、現金収入となるし、また、物々交換の品として、穀物、野菜、
食材がある。そして、事実、ブータンにおいても、コメの栽培が
果物をはじめさまざまなものと交換される。
困難な地域においては、これらの食材がコメの代用として食され
トウガラシの入手には、大きく次の 6 つの手段が考えられる。ひ
ている。しかし、
トウガラシにはそのような代用品がない。これは、
とつ目は、市場や店での貨幣を介しての取引である。主に近くの
ブータン人にとってのフード・セキュリティを考える上で重要な事実
市場や店からが多い。ふたつ目は、物々交換である。物々交換に
である。
写真 3 トウガラシと交換するかご
は、食料のほかにかごやお香といった日用品も含まれる
(写真 3)
。
その食生活のなかで非常に重要な位置を占めるにも関わらず、
また、農作業、家の建設などの労働の対価がトウガラシで支払わ
代用となる食材がないという事実は、トウガラシの確保という課
れることもある。3 つ目は、先にも述べた物乞いならぬ「トウガラ
題をますます切迫したものにする。中央ブータンのブムタンにあ
シ乞い」
である。4 つ目は、何かの補償がトウガラシでおこなわれ
るタン谷は、標高が高いためにトウガラシの栽培が困難であるが、
る場合、例えば、家畜が他人の畑に入りこんで作物を食べてしまっ
その谷の人々が 20 年ほど前までは、毎年秋になると、隣谷のク
た場合などに、その弁償にトウガラシが用いられるなどである。
ルテ地方まで、トウガラシの「物乞い」
に出かけていたという事実
5 つ目には、主に中央ブータンでの場合であるが、牧草地を貸し
は、ブータン人にとってトウガラシの確保がどれだけ重要なことで
た対価がトウガラシで支払われる場合である。最後に、トウガラ
あるかを示すひとつのエピソードである。
シは寺や宗教儀式にお供えの一部として用いられる他に、親戚、
量的には十分なトウガラシが生産できる地域でも、標高の関係
知人などへの贈り物にされる。本稿では、このなかから、トウガ
で、収穫期が雨季にあったってしまう場合には、トウガラシを保
ラシの主な入手ルートとなっている貨幣を仲介とした取引と、物々
存用に乾燥させることができず、保存用
(そして、来年の種用)
の
交換に焦点をあてる。
トウガラシの供給を、他の地域に頼らなくてはならない。従って、
表 1は、トウガラシの取引のいくつかの側面を、貨幣を仲介と
トウガラシの確保は、トウガラシが栽培できない地域の人だけで
した場合と物々交換の場合を比較したものである。取引するもの
なく、トウガラシの栽培ができる地域の人にとっても大きな関心
については、物々交換のなかにトウガラシが含まれている点にひ
事である。
とつ注意を喚起したい。これは、トウガラシとトウガラシの物々
交換がおこなわれていることを示している。多くの場合、時間差
2.2 トウガラシの入手
を伴った交換である。先に、栽培する地域の標高によっては、収
ブータン農業省のデータによると、ブータンでの、トウガラシ
穫の時期が雨季に当たってしまい、収穫したトウガラシをうまく乾
の生産量は約 8,368トン
(2007 年)
である(Ministry of Agriculture
2009)。トウガラシはインド産のものも市場に多くでているが、輸
表1 トウガラシの取引形態の比較
入量に関しては正確なデータは入手できていない。筆者の調査で
貨幣と交換
は、標準的な 4 人家族で 1 週間に 1.5 キログラムから 2 キログラム
の生トウガラシを購入するという情報があったが、それに加えて、
取引するもの
貨幣。
取引の場と相手
長年、取引する相手のコミュニ
市場や店で。個人的
ティや「ホスト」が、ある程度き
に。見知らぬ人と。
まっている。
価値変化
10 倍以上。
乾燥のトウガラシも同時に食している。
トウガラシは、育てているさまざまな時点で、商品価値を持つ。
緑色の生の実としてはもちろんのこと、乾燥させたものは、丸の
ままの赤いもの、それを粉末にしたもの、緑色のまま乾燥させた
もの、緑色の実を熱湯に浸したのち乾燥させたものなど、数種類
物々交換
モノ:トウガラシ
( 時間差 の 交
換)
、穀物、果物、乳製品、
肉類、日用品など。
労働の対価。
シーズンを通じて、取引条件に
量的な変化はほとんどない。
16
食料と人間の安全保障
取引の形態にみる草の根レベルのセーフティ・ネット
17
写真 4 市場で
燥することができないと指摘した。このような地域に住む人々は、
ブータン地図(概念図)
収穫した緑の生トウガラシを標高の高い地域の人々のところへ持っ
筆者のフィールドワークからのデータによれば、交換の比率は、
ていく。標高の高い地域では、収穫時期が遅いので早い時期の
少なくとも「ある地域内」
で一定である。
「ある地域内」
というのは、
生トウガラシは歓迎される。そして、彼らの収穫時期は雨季明け
人々が物々交換に動くことが多い範囲内である。これは、具体的
になるので、収穫したトウガラシを乾燥させて、標高の低い人の
には、ブータンの場合、パロ、ティンプ、プナカ、ウォンディの西ブー
ところへ持っていく。このような時間差の物々交換がおこなわれて
タンをひとつの地区、ブムタン、トンサ、ルンツィ、モンガルのブ
いるのである。
ムタンと交流の多い地域をひとつ、そして、モンガルのタシガン
次に、取引の場と相手であるが、貨幣での取引の場合は、た
に近い地域、タシガン北部、タシヤンツェをひとつの地域と考え
いていの取引は市場や店でおこなわれ、売り手と買い手は、
(特
て差し支えないと思われる
(ブータン地図
(概念図)
)
。そして、交
に市場での売買では)
個人的に知り合いではないことが多い
(写真
換の比率は、年間を通じて、ある程度一定である。それに対して、
4)。対照的に、物々交換の場合には、取引する者同士がお互い
市場での取引の場合には、価格はシーズンを通して大きく変化す
によく知っている。物々交換では、取引の相手となる村と取引す
る。最も高い値をつける初物のトウガラシは、最盛期のトウガラ
るものが決まっている場合が多い。例えば、
トウガラシが欲しくて、
シの 10 倍以上の値がつくことも珍しくない。これは、生の緑のト
ミカンを取引のために持っていくのは、たいていきまってこの村と
ウガラシの場合であって、乾燥した保存用のトウガラシの価格は
いうのが存在する。そして、それは、毎年だいたい同じ時期にお
おおむね安定している。
こなわれる。取引に行く人は、すでに目指す村に知り合いがおり、
筆者は 2004 年から 2009 年にかけて、ブータンでトウガラシ
その知り合いが「ホスト」となってくれるのである。ホストへの贈
がどのように取引されているかについて、フィールドワークをおこ
り物とともに取引用の品物をホストの家に預けてくる。あるいは、
なったが、そのなかで、貨幣を介しての市場での取引と、物々交
取引が終わるまで、
ホストの家に泊めてもらう。ホストは、
村の人々
換に関して、聞き取り調査をおこなった農家から次のような情報
に、
「○○村からのミカンが到着した。トウガラシと交換したい。
」
が得られた。西ブータンのパロ県のダワカと呼ばれている地域で
というメッセージを届ける。この取引に応じたい村の人々が、トウ
は、トウガラシを主に栽培している農家のなかに、以前はティン
ガラシをもってホストの家を訪れるというのが、おおまかな取引
プの市場で売るだけであったが、近年、新たに隣谷プナカの農家
のプロセスである。
と、トウガラシとコメの物々交換を始めた人々がいた。その理由
18
食料と人間の安全保障
取引の形態にみる草の根レベルのセーフティ・ネット
19
は、トウガラシの価格は上下するが、物々交換では交換の比率が
一定であるため、自分が物々交換に持っていくトウガラシの量か
ら、どれだけのコメが入手できるか事前に予測が容易につくとの
ことであった。また、別の農家は、トウガラシを売ったお金で得
られるコメの量は、同量のトウガラシによって物々交換で得られ
る量よりも少ないからと語った。東ブータンのタシガン県の農家
は、物々交換は、もともとの知り合いを介しておこなうので、自
分の持っていったものが、引き取り手もなく余ってしまうというこ
とはほとんどないが、市場では、どれだけ売れるかは事前に予測
がつかないと語ってくれた。実際、別の農家は、物々交換のため
に人が来たときには、
自分から提供するものが十分になくても、
「つ
きあいもあるし、何も交換せずに帰すのはかわいそうなので」
、ほ
んの少量の交換に応じると語った。
写真 5 トウガラシを運ぶ
物々交換では、取引によって得られるものの量はある程度予測
ざまな差異があり、各々の農家は、自分自身のおかれた状況のな
可能である一方で、人づきあいがあって、取引に応じないわけに
かで、最も有利になるようにそれぞれの取引の形態を使っている
はいかないという側面があるために、交換に相手が差し出すもの
ようである。市場では価格は上下するが、物々交換では比較的安
の品質を問うことは難しいようである。ある農家は、
「市場で売っ
定しているという点をとって、トウガラシ農家はシーズン初めの価
て、自分に必要なものをお金で買うほうがいい。物々交換では品
格が高い時には市場にトウガラシを持っていき、最盛期になって
質をえらべないから」
とコメントしていた。
価格がある一定額よりも安くなると、物々交換のために、なじみ
これとは別に、市場でなかなか手に入らないものを物々交換で
の村へ持っていくという具合である
(写真 5)
。開発と近代化が進む
手に入れるということもある。例えば、ブータンでは宗教的な儀
につれて、社会のなかで貨幣の有用性が高まっていることも事実
式や祝い事には赤米が欠かせないが、首都ティンプ以外の場所で、
であるが、フィールドワークでは、物々交換を最近始めたという
店で売られているコメはインドからの白米であることが多い。そこ
農家もあり、それぞれの取引の形態の短所と長所を上手に補い、
で、コメの栽培ができないところにいる人々は、赤米を物々交換
賢く使っている状況がうかがえた。
という方法で得ることが多い。多くの農家が、赤米のこのような
では、このような異なる取引の形態とセーフティ・ネットがどの
社会的、文化的に重要な役割を指摘し、
「必ず、一定量は確保し
ように関連するのだろうか。取引の形態を複数持つことによって、
なければならない」
と答えた。赤米だけではなく、ヤク乳でつくら
ひとつの取引手段では必要な物がその品質と量を伴って入手でき
れた発酵チーズや攪乳器など、市場や商店で手に入りにくいもの
ないときに、もうひとつの取引方法を使うことができる。現に、
全般が物々交換によって流通している。
フィールドワークで出会ったブータンの農家の人々はそのような行
物々交換と市場での取引の間には、さらに「見えにくい」
コスト
動をとっていた。もしも、
トウガラシの価格が市場で暴落してし
の差も存在する。例えば、コメを栽培している農家は、市場や店
まったとしても、物々交換というもうひとつの手段で、必要な物
にコメを売ろうとすると、精米しなければいけないので、精米機
を調達することができる。この反対の例が、ブータンのポブジカ
の使用料を払わなければならないが、物々交換の場合は精米せ
谷のジャガイモ栽培農家の例である。この谷では、ほとんど全て
ずにもみ殻つきのまま取引できるし、自分の家まで来てくれるの
の農家がジャガイモを主な作物として栽培しており、自家消費用
で便利だと言った。
と種用以外の全てをインドとの国境の町であるプンツォリンにあ
このように、物々交換と貨幣を介した市場での取引には、さま
る輸出用市場へ出荷している。しかし、この輸出用の市場の価格
20
食料と人間の安全保障
取引の形態にみる草の根レベルのセーフティ・ネット
21
の上下は激しく、2008 年のシーズンには、ポブジカからプンツォ
は物々交換によって入手することも多い。商店で売られているも
リンまでの運送費用さえもまかなえないような価格であったのに、
のは、主にインド産のトウガラシであり、これは、多くの人々の嗜
2009 年には、その 15 倍以上の価格がついた。このジャガイモの
好から考えると、補完的に
(あるいは、ブータン産が手に入らな
主な輸出先はインドであり、2009 年にはインドでジャガイモが不
いので
「仕方なく」)
用いられるものである。
作であったために、このような価格になったといわれている。ポ
このように、セーフティ・ネットが草の根のインフォーマルなアレ
ブジカ谷の農家は、ジャガイモの取引をこの輸出市場に依存して
ンジと、政府による政策や制度の両方にまたがっているとき、草
おり、他の形態の取引はほとんどとっていないので、価格が下がっ
の根レベルの営みと政府の政策のつながりの部分が大変重要に
たときに、その影響を避けたり、やわらげたりすることができな
なってくるのは、いうまでもない。物々交換と市場での取引の両
いのである。異なる形態の取引手段を持つことによって、それぞ
方を使うことによって、どちらか一方の取引が思うような結果をも
れの短所を補って相互にセーフティ・ネットとして機能させること
たらさなかったとき、もう一方の取引を利用できる状況というの
ができるのである。
は、トウガラシに限ったことではない。コメなどの穀物、バター
やチーズといった乳製品も、同様に貨幣を介した市場での取引と
結論
ともに、インフォーマルな物々交換で取引されることが多い品で
あることが、フィールドワークから明らかになっている。一方で、
本稿のケース・スタディでは、ブータンの農村部において、異な
先にあげたポブジカ谷のジャガイモ農家の例に見られるように、
る取引の手段を持つことが、セーフティ・ネットとして機能してい
取引の手段をひとつに依存している場合、そしてその取引の状況
ることをみてきた。この事例は、本稿前半で概観したセーフティ・
に大きな変動がある場合には、生産農家がその悪影響を回避す
ネットの議論とどのように関係するのであろうか。本稿で扱った
ることは難しい。このような状況は、ブータンでは、ミカンやリ
ブータンの事例は、補助金や年金制度などといった政府による
ンゴの栽培を主にしている農家にも見られる。いずれも、輸出用
直接的なセーフティ・ネットには当てはまらないことは確かであろ
の市場が主な出荷先であり、そのほかの出荷先がそれほどない。
う。しかし、草の根のインフォーマルなセーフティ・ネットに区分
これは、生産者側からの事情であるが、消費者側からも同様のこ
されるかどうかは、少し慎重な考慮が必要である。それは、第一
とがいえよう。入手手段がひとつしかない場合には、その影響を
に、貨幣を介した市場や商店での取引が、
「インフォーマル」と区
もろに受けるが、複数あれば、それぞれの状況を見ながら、使い
分されるかどうかという点である。ブータンで、県庁所在地等に
分けることが可能である。
設けられている週末の野菜市場は、その多くが、政府や地方自
政府の政策レベルでは、これらの状況は何を意味するのであろ
治体によって設置されているものである。政府による商品の価格
うか。第一に、
取引の場を多く設定することの重要性である。物々
のコントロールは、肉類を除くとないが、その「場」
自体が公の設
交換がおこなわれるかどうかには、政策はあまり関連しないよう
定によるものであるという事実は残る。輸出のための市場も、FCB
見えるかもしれないが、一方で、貨幣を介した取引の場と種類を
(Food Corporation of Bhutan)
という政府系の食料公社が、その
増やすことは政策で十分に実行できる事項である。例えば、輸出
手続きとコミッションを取っているという意味で、同様に「場」
を提
用の市場の他にも、地元の市場や、加工用に出荷する先を作り出
供しているといえる。第二に、本稿で扱ったケースでは、物々交
したり、奨励、促進することができるかもしれない。開発によって、
換と貨幣を介した取引で、どちらかがもう一方のセーフティ・ネッ
交通手段が整備されるに従って、物々交換が減ってきているとい
トとなっているのではなく、ふたつの異なる手段を持つこと自体
うメディアの報道もあるし、また、ブムタンのタン谷のように、地
が、セーフティ・ネットとして機能している。特に、トウガラシはブー
域によっては、道路ができてから商店が増えたため、物々交換を
タン産のものが一般に好まれる。週末に開かれる市ではブータン
あまりしなくなったというところもあるが、一方で、パロのダワカ
産のものも入手できるが、農村部では、ブータン産のトウガラシ
地区のように、政府の開発事業によって整備された交通網を使っ
22
食料と人間の安全保障
て、
「タクシーで物々交換に行く」という農家もある。取引の手段
の多様性を維持し、それをさらに増やしていくことが、食料の確
保のセーフティ・ネットのひとつとして重要な役割を果たすのであ
る。
謝辞
本稿の準備にあたっては、GLOCOL 共同研究
「食糧の安全保障に関する
学際的研究」
のメンバーの方々に貴重なコメントをいただいた。また、ブー
タンでのフィールドワークでは、ブータン農業省から全面的な協力をいた
だいた。ここに記して、謝意を表したい。 2004 年のフィールドワークは味の素食の文化センターによる食文化研究
助成金「ブータンにおけるアイデンティティ形成に果たす食文化の役割:ト
ウガラシと『辛さ』
を中心に」
、2008 年から 2009 年のフィールドワークは科
学研究費補助金若手研究
(B「
)ブータンの草の根レベルでの食糧安全保障
を得ておこな
と自立を目指した政策と援助の方向性」
(課題番号 20710191)
われた。あわせて、謝意を表す。
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救援食糧へのアクセスと地域セーフティ・ネット
25
救援食糧へのアクセスと
地域セーフティ・ネット
ケニア大統領選挙後の紛争による
リフトヴァレー州の国内避難民の事例
湖中 真哉
「食料」
と「食糧」
の使い分け方:本
稿は、おもに「救援食糧」
を扱うの
で、
「救援食糧」
を表記する際の傾
向に倣い、
「食料」
ではなく、
「食糧」
と表記する。
静岡県立大学国際関係学部准教授
1. はじめに:サハラ以南アフリカにおけるフード・
セキュリティと難民・国内避難民
サハラ以南アフリカは、フード・セキュリティに関して、重点的
な取り組みが要請されている地域である。FAO
(国連世界食糧農
業機関)
の2009年9月の討議資料によれば、
アフリカの約2億1,800
万人、全人口の約 30 パーセントが慢性的な飢餓と栄養不足に苦
しんでいると推定されている
(FAO 2009: 2)
。
UNIC
(国連広報センター)が公表している国連ミレニアム開発
計画についての 2005 年報告書
(UNIC 2005)によれば、世界で飢
餓人口がもっとも増加した地域は、サハラ以南アフリカであり、
1990 年から2002 年までの 12 年間に 3,400 万人が増加している
(UNIC 2005: 6)
。
こうしてサハラ以南アフリカにおいて飢餓人口が増加している
理由としては、さまざまな要因が想定されるが、同報告書でも指
摘されているように、飢餓の主因は、人口増加と低い農業生産
性にあるとみる見解が一般的である。ただし、もうひとつ重要な
増加の要因が指摘されている。同報告書で示されている災害に
よる死者
(1994-2003 年推計)
、紛争による死者
(1994-2003 年推
計)
、難民と国内避難民
(2003 年推計)
の地域別割合を示した資料
(UNIC 2005: 7)をみると、サハラ以南アフリカにおいては、災害
による死者はそれほど多くの割合を占めているわけではないが
(6
パーセント)
、紛争による死者数
(69 パーセント)と難民と国内避
難民数
(43 パーセント)では、世界の各地域中、最も高い割合を
占めていることがわかる。同報告書は、次のように指摘している。
26
食料と人間の安全保障
救援食糧へのアクセスと地域セーフティ・ネット
27
1994 年から 2003 年までの大規模紛争による死者 1,300 万
飢餓救援のはたらきについてわずかな注意しか払ってこなかった」
人のうち、サハラ以南アフリカ、西アジアおよび南アジアで
と指摘している。とりわけ、難民・国内避難民やホスト地域住民
の死者は 1,200 万人を超える。これらの地域が、全世界の難
と救援食糧の関係については、現在なお、十分に報告されていな
民・国内避難民 3,700 万人の 4 分の 3 を抱え、その各所で飢
い状況にある。
餓に苦しむ人々が増えてい るのも無理からぬことだ。中でも、
本稿では、東アフリカのケニア・リフトヴァレー州
(Rift Valley
サハラ以南アフリカと西アジアの 2 地域では、貧困も増大し
Province)の国内避難民
(Internally Displaced Persons: IDPs)
をお
ている。
もな対象として、筆者が実施した臨地調査の成果を報告する。ケ
ニアでは、2007 年の大統領選挙後の暴動によって、多数の国内
つまり、紛争の発生による難民・国内避難民の増加が、サハラ
避難民が発生した。本稿では、筆者が実施した国内避難民を対
以南アフリカのフード・セキュリティを悪化させている原因のひと
象とする調査成果をもとに、アフリカの紛争と国内避難民の発生、
つとして特徴付けられる。もし、紛争が発生すると、紛争に巻き
および、それに対する救援食糧をめぐる諸問題を考えることを目
込まれた人々は、避難を余儀なくされ、生活基盤を根こそぎ奪わ
的とする。
れる。難民・国内避難民は、農業、商業、賃金労働等のそれま
での生計維持手段を突如として絶たれることになる。当然、自給
2. ケニア大統領選後の紛争による国内避難民の概要
自足的な生業経済に依存することは困難になり、同時に、なんら
かの現金収入によって、市場で食糧を購入することも困難になる。
ケニアでは、とりわけ、1991 年の複数政党制の導入以降、大
フード・セキュリティにおいて肝要な「食へのアクセス」
が突然、断
統領選挙の前後に、ケニア各地で選挙と関連した紛争が繰り返し
たれてしまうのである。
発生するようになった。なかでも 2007 年の大統領選挙後に発生
こうした事態に対して、多くの場合、さまざまな国際援助機関
した暴動は、ケニア全土に展開し、過去最悪の被害をもたらした。
は、国連の各機関等の調整のもとに、各国政府や国際赤十字等
ケニアの大統領選挙は 2007 年の12 月27日に実施され、
事実上、
の各国際 NGO 等の諸機関との協同によって、国際緊急人道支援
現職キバキ大統領とオディンガ党首の一騎打ちとなった。事前の
の一環として、救援食糧
(relief food)
の配給を迅速に実施してい
世論調査では常にオディンガ党首が優勢であったが、2007 年 12
る。これらの救援食糧は、難民・国内避難民が居住するキャンプ
月 30 日、キバキ大統領の再選が発表された。野党側は集計プロ
や被災地の配給拠点において実施されてきた。
セスにおいて不正があったとして集計やり直しを主張し、これが
こうした救援食糧は、サハラ以南アフリカにおけるフード・セキュ
発端となって国内各地で紛争が発生し、1 ヶ月間で死者 1,000 人
リティの維持に、極めて大きな役割を果たしている。もし、仮に
以上、国内避難民約 30 万人が発生する事態となった1。
こうした救援食糧が全く配給されなかったと仮定すれば、サハラ
2008 年の1月末よりAU
(アフリカ連合)
の委任を受けてケニア入
以南アフリカにおける飢餓状況は、著しく拡大していたと推測さ
れる。つまり、救援食糧は、国際協力によって提供されるグロー
バルなセーフティ・ネットのひとつといえ、この救援食糧の問題は、
サハラ以南アフリカのフード・セキュリティを考える上で極めて重
要な位置を占めている。
しかしながら、こうした救援食糧をめぐるさまざまな問題は、
多くの場合、臨地調査研究の対象として取り上げられることが極
めて少なかった。アフリカの飢餓とフード・セキュリティについて
広範にレビューしたシプトン
(Shipton 1990: 376)
は、
「人類学者は
1
紛争の要因や背景の分析は、本稿の直接の課題ではないので、ここで
は、ごく簡潔に問題点だけを指摘しておく。紛争当時のマス・メディアに
よる報道では、紛争の要因として、政党の対立と対応する民族対立の問
題ばかりが強調されたが、実際には、リフトヴァレー州における土地問
題等、さまざまな要因が背景にあり、決して単純な民族対立だけに原因
を帰することはできない。武内がルワンダのジェノサイドを分析した近著
(武内 2009: 49-75)
において、その主因として指摘している、パトロン - ク
ライアント関係を基盤とした
「ポストコロニアル家産制国家
(Post-Colonial
Patrimonial State: PCPS)」の解体現象は、ケニアにおいても、かなりの
程度共通していることが指摘できる。筆者の調査においても、政治的な
パトロンが、貧困層の若者を扇動して、武器や資金を与え、暴動を導い
たことが確認されている。
28
食料と人間の安全保障
救援食糧へのアクセスと地域セーフティ・ネット
29
りしたコフィ・アナン前国連事務総長率いる代表団が与野党間対
調査したのは、同州のうち、ナロック県オロルルンガ
(Ololulunga,
話の仲介に入り、2 月末、キバキ大統領とオディンガ党首は連立
Narok District)とナクル 県 国 内 避 難 民 キャンプ
(IDPs Camp,
政権を設置することに合意した。2008 年 4 月には、この合意を受
Nakuru District)である。以下に、この 2 地点における調査の概
けて、連立内閣が発足し、その後、情勢は、少なくとも表面的に
要を報告する。
は落ち着いている。
UNHCR
( 国連難民高等弁務官事務所)は、2008 年 1月 25 日
3. リフトヴァレー州の国内避難民と救援食糧
時点のケニアの国内避難民の状況を示した地図を公開している
(UNHCR 2008)
。この地図によると、ケニア中西部に位置するリ
3.1 ナロック県・オロルルンガの事例
フトヴァレー州を中心として避難民が発生していることが報告され
はじめに、ナロック県の紛争と国内避難民について報告する。
ている。また、UN-OCHA
(国連人道問題調整事務所)の資料は、
ナロック県では、
県内数ヶ所で紛争が発生している。県都のナロッ
2008 年 1月 28 日時点のケニアの避難民と人道的援助の状況を公
クでも暴動が発生し、
死者・負傷者が発生した。商店が略奪にあい、
開している
(UN-OCHA 2008)
。この地図によると、国連の調整の
手足をナタで切り落とされた人もいたという。ナロックの西 35 キ
もとに食糧と栄養、治水と衛生、居住施設、非食糧物資、教育
ロメートルにあるオロルルンガでは 12 月 30 日に紛争が始まった。
等にかかわる緊急人道的支援が実施されたことがわかる。
筆者が訪れた際にも、ナロックの町では、焼き討ちにあったスー
ケニア国内避難民への国際的な緊急食糧支援は、2008 年 1
パーマーケットを、オロルルンガ郊外では、放火され、廃墟と化
月 6 日には、紛争地へ向かっており、迅 速に実施された
(BBC
した民家を目の当たりにした。キクユ系の入植者とカレンジン系の
2008)。わが国も資金協力によって人道支援に協力している。
住民の土地をめぐる対立が紛争の背景にあると言われている。お
2008 年 2 月1日付けの外務省プレスリリース
(外務省 2008)によ
もに、筆者の調査では、カレンジン系の人々が、キクユ系の人々
れば、わが国政府は、ケニア人避難民に対する人道支援として、
をこの土地から追放するために襲撃した事例が多く聞かれた。オ
WFP
(国連世界食糧計画)
、および、UNICEF
(国連児童基金)
を通
ロルルンガの住人は、紛争の概況を次のように語っている。なお、
じて、食糧及び水供給支援のために、約 4 億 7,800 万円の緊急無
本稿における国内避難民の発言の引用は、筆者がその内容を簡
償資金協力を実施することを決定したことが発表されている。
潔に要約したものである。
ケニア 政 府 は 2008 年 5 月に、 国 内 避 難 民 8,000 人の 帰 還
を目指す第一次再定住計画「オペレーション・リターン・ホーム
弓矢とナタで 3 人が殺されました。100 軒以上の民家にガ
(Operation Return Home)」
を発表した。
「すべての国内避難民の
ソリンがまかれて、放火され、食糧などが略奪されました。
再定住、そして民族や出身地の区別なく財産や土地を所有し、居
約 3 万人が国内避難民となり、その多くがオロルルンガの町
住し、労働する権利を、政府は約束する」
と、声明はうたっている
にある地方行政府の庁舎とその近くのグラウンドに避難しま
(AFP 通信 2008)
。この計画は、国内避難民の間では、一部、ス
した。そして、1, 2 週間後、避難民キャンプが設営され、国連、
ワヒリ語を用いて "Operation Rudi Nyumbani"と表現されている。
赤十字、カトリック教会などが食糧、鍋、毛布、石鹸などを
国内避難民の帰還や入植をめぐる問題は、現在なお継続しており、
避難民に配給しました。
とりわけ、2009 年にケニアを襲った長期の旱魃は、厳しい生活を
余儀なくされている国内避難民に対して、さらなる打撃をもたら
ある国内避難民は、当時の状況について、次のように語ってい
している。
る。
筆者は 2008 年の 8 月から 9 月にかけて、大統領選挙後、最も
紛争が激しかったケニアのリフトヴァレー州を訪れ、各地の国内
何も持って逃げることができませんでした。藪に隠れて 3
避難民とその地域住民を対象とした臨地調査を実施した。おもに
日間寝ました。庁舎に着いて、食糧などの配給を少し受けま
30
食料と人間の安全保障
救援食糧へのアクセスと地域セーフティ・ネット
31
したが、テントはもらえず、外で寝なければなりませんでした。
つまり、藪の中に逃げ込んでいて配給の際にいあわせなかった
ために、援助物資をもらえなかった人々がいたことが窺える。と
くに、オロルルンガの場合には、食糧だけ渡されても、煮炊きで
きる場所も、寝る場所もない状況におかれていた人々が多かった
ようである。
筆者は、オロルルンガ滞在中に、雑貨店を経営するある人物、
A 氏に出会った。彼は、今回の大統領選挙で、暴動の直接的被
害にあったわけではない。しかし、雑貨店を経営する彼は、さま
ざまな援助機関に代わって、自主的に国内避難民を支援していた。
A 氏の母親は、プルコ・マーサイ
(Purko Maasai)
で、キクユ人と養
子縁組により結婚した。A 氏自身はマーサイと自称している。A 氏
写真1 国内避難民に提供していた部屋
は、当時の状況について次のような内容を語ってくれた。
雑貨店の並びの区画に将来の商業活動等の展開のために空き部
2007 年 12 月 31日に国内避難民 5 家族、28 人が外は寒い
。こうした事情で、A 氏は、国内避難
屋を保有していた
(写真 1)
ので泊めて欲しいと頼みに来ました。そこでわたしの店の空
民に生活・宿泊場所を提供できる空間を有しており、援助機関に
き部屋に避難民を泊めることにしました。
代わって、国内避難民に対して、住居と食糧の両方を支援するこ
この5家族のなかで、
前から知っていたのは、
畑が近くにあっ
とができた。
た1 家族だけで、残りの 4 家族とはこの時にはじめて会いまし
A 氏は国内避難民を助けた理由をつぎのように語っている。
た。
彼らを雑貨店の空き部屋に住まわせ、食糧を与えました。
わたしたちが助けたのは、10 年前の大統領選挙後に自分
子供が 8 人いる家族には 1,000 シリングのお金をあげました。
の家が放火され財産が略奪されたからです。その時には、家
国内避難民に貸したものは、木炭調理コンロひとつ、鍋 3 つ、
もなく、衣服の着替えすらありませんでした。2007 年末の大
皿 5 枚、20リットル水容器 5 個等です。
統領選後には、わたしたちはその時のことを思い出しました。
国内避難民にあげたものは、石鹸、木炭、洗剤、トウモ
だから助けたのです。困っている人をみると助けようという気
ロコシの粉、野菜、塩、食用油、紅茶の葉、砂糖などです。
になりました。
店の販売用商品をおもにあげましたが、なくなったら、知ら
せてもらって、また補給しました。
つまり、A 氏は、なんらかの理念に基づいて援助をしたのでは
なく、自らの厳しい具体的経験を思い起こし、相互扶助の気持ち
さまざまな援助機関は、食糧、水、住居等を避難民に提供し
に駆られて互酬的に援助を行ったことがわかる。オロルルンガの
ているが、そのすべてが同時にもたらされないこともある。オロ
国内避難民の事例からは、
要約すると、
下記の諸点が明らかになっ
ルルンガの紛争の場合、国内避難民は、藪の中に避難し、安全
た。
が確認できるまで、藪の中で長く滞在していた。こうした家族は、
援助物資の配給の際には、テントや調理器具の配給を受けること
ができなかったようである。A 氏は、雑貨店を経営しており、当時、
(1)オロルルンガの国内避難民のなかには、藪の中等に避難し、
そこに長く滞在したため、援助機関から、食糧の配給を受け
32
食料と人間の安全保障
救援食糧へのアクセスと地域セーフティ・ネット
33
れにあるケニア政府のショウ・グ
ラウンド
(show ground)に設置
された
(写真 2)
。2007 年の大統
領選挙後の暴動に際して設置さ
れたキャンプの中では、最大の
規模のキャンプである。調査を
実施した 2008 年の 9 月時点で、
大統領選挙後の紛争で難を逃
れた約 1 万 2,000 人がキャンプ
で暮らしていた。このキャンプ
は規模が大きいため、ナクル周
辺の地域のみならず、リフトヴァ
レー州の全域から、国内避難民
が集まっている。このうち、も
写真 3 救援食糧の配給
多い割合を占めているのは、キ
クユで、あるキャンプ居住者は、キャンプ内の 7 割を占めていると
推察している。
キャンプは、テントの設置場所によって、Camp A、Camp B の
写真 2 ナクル国内避難民キャンプ
ふたつに分けられている。キャンプには自治組織委員会があり、
代表者は「委員長
(chairman)」
と呼ばれている。民族集団の構成
ることができても、テントの配給を受けることのできない人々
も多様で、キクユ、キシイ、ルオ、カンバ、メル等の民族集団の
がいた。こうした人々は、
食糧の配給を受けることができても、
出身者が集まっていた。現在は、このキャンプは、既に解散して
それを
「調理する場」
がない状態にあった。
おり、国内避難民は、もとの居住地に帰還したり、新たな入植地
(2)オロルルンガの地域住民のなかには、こうした人々に対して、
や別のキャンプに移動している。
自主的に住居と調理器具を貸し与え、食糧やお金を援助する
ことで、包括的な支援を提供していた人々がいた。これによっ
3.2.2 ナクル国内避難民キャンプにおける配給食糧
て、国内避難民は、はじめて調理することができ、飢えを凌
ナクル国内避難民キャンプでは、わずながらも国内避難民は生
ぐことが可能になった。
産活動を営んでおり、その生活力には驚かされる。国内避難民
(3)援助した地域住民のなかには、自らが過去の紛争の被害者も
は、テント脇でトウモロコシの畑をつくったり、野菜、薪、食糧、
含まれており、その際の厳しい経験を想起して、互酬的な相
日用雑貨品等の商売を行ったり、籠を編んだりしている。しかし、
互扶助を行った。
それらの生産活動がうみだす利益はごくわずかであり、彼らは、
食のほとんどを配給食糧に依存している。
3.2 ナクル国内避難民キャンプ
筆者が調査を実施した 2008 年 9 月当時、キャンプでは、ケニ
3.2.1 ナクル国内避難民の概要
ア政府により、各月の下旬に食糧の配給が行われていた
(写真 3)
。
つぎに、ナクル国内避難民キャンプの事例について報告する。
キャンプ住民によると、以前は、1 週間から 2 週間に一度、食糧
ナクル国内避難民キャンプは、2008 年の 1月 3 日にナクルの町外
の配給があったというが、5 月にケニア政府が先述の国内避難民
34
食料と人間の安全保障
救援食糧へのアクセスと地域セーフティ・ネット
35
帰還計画を発表してからは、食糧配給の間隔が広がったと国内避
潤沢な量が供給されており、少なくとも、食糧が不足して、飢餓
難民は認識していた。
に陥る状況にはなかった。通常は、これに加えて食塩の配給が
あるが、9 月には配給されなかった。救援食糧のパッケージには、
このキャンプでは、援助物資の食糧を売却して現金を得ること
「USAID
(米国国際開発庁)」
、
「WORLD FOOD PROGRAMME
(世
が、日常的に行われている。手持ちの現金がなく、配給される食
糧は、毎回同じトウモロコシやデング豆等であり、それ以外の物
界食糧計画)」
などの文字がみられたが、配給を受けた女性 B は、
資が配給されることは稀である。そのため、国内避難民は、援助
配給元についてほとんど認識しておらず、配給食糧はすべて「赤
物資を売却して得た現金で、他の物品を購入し、消費生活の範囲
十字
(Red Cross)」
からもらったと認識していた
(写真 4)
。
を広げている。援助食糧が配給されると、ただちに買取人がキャ
一般的に、東アフリカの主食のひとつはトウモロコシであり、
ンプを訪れ、"mahindi dengu
(トウモロコシと豆)
"と声をかけなが
その意味では、配給食糧がトウモロコシであることは、決して、
ら、巡回する。
写真 4 WFP が配給した
トウモロコシ
表 1は、2008 年の 9 月にある女性 B の世帯が有していた配給食
間違った対応ではない。しかし、この場合、国内避難民キャンプ
に集まった人々の多くは、キクユ人であっ
糧の一覧を示したものである。彼女はキクユである。調査は、食
た。キクユ人は、ウガリの他にギデリやイ
糧が配給された当日である 2008 年 9 月17 日に実施した。調査を
リオと呼ばれる食事を好んでおり、いずれ
実施した当時は、この世帯は、2008 年 8 月に配給された食糧の
にせよ、トウモロコシ単体で食べることを
残りも有していた。女性 B の世帯では、彼女の他に、彼女の息子
あまり好んでいない。
3 人と娘 1 人が暮らしており、5 人世帯である。9 月に配給された
そこで、この世帯では、例えば、32 キロ
粒状のトウモロコシは、大人1 人当たり 6 キログラム、子供 1 人当
グラムのトウモロコシの粉を配給された場
たり3 キログラムと配給量が決められており、この時、世帯は 2 ヶ
合には、そのうち 4 キログラムを売却して、
月分のトウモロコシの粒の配給を受けた。配給された食糧は、ほ
ササゲの豆と交換し、ササゲの豆とトウモ
とんどがトウモロコシである。粉状のトウモロコシは、
いわゆる
「イ
ロコシの粒を一緒に煮込んでギデリと呼ば
エロー・メイズ
(yellow maize)」である。トウモロコシに関しては
れるキクユ料理をつくっていた。デング豆
写真 5 テント脇で調理する国内避難民
表1 ある国内避難民の女性の世帯が有していた食糧
(2008 年9月ナクル国内避難民キャンプでのサンプル世帯の例)
物品名
方名
分量
トウモロコシ
Unga
(粉状)
25キログラム
トウモロコシ
Unga
(粉状)
7.5キログラム
用途
入手時期
入手方法
ウジを料理する。
赤十字からもらった。
5リットル
(各
自 コ ッ プ12
杯)
2009 年9月17日 赤十字からもらった。
ビスケット
Biscuit
1箱
2009 年9月17日 赤十字からもらった。
いので、配給食糧のトウモロコシを売却して、米を入手していた。
このように、この避難民キャンプでは、国内避難民が、配給食糧
では満たされない
「食の好み」
を満たすために、配給食糧を売却し
3.2.3 調理器具・食器をめぐる相互扶助
このキャンプでは炊き出しをしているわけではないので、避難
32キログラム
トウモロコシ
Unga ya uji 4.5キログラム
(粉状)
Biins
べることをせず、米と一緒に炊き込む。しかし、米は配給されな
て、多様な食材を得ることが行われている。
Saladi
デング豆
パッケージの記載
赤十字からもらった。 USAID
食用油
トウモロコシ
Meis
(粒状)
キクユの人々は、デング豆だけを単体で食
ウガリを料理する。 2008 年 6月
2008 年 8月
についても同様のことが言える。一般に、
7キログラム
ギデリを料理する。 2009 年9月17日 赤十字からもらった。
ウジを料理する。
WORLD FOOD
2009 年9月17日 赤十字からもらった。
PROGRAMME
ムチェレに入れて
2009 年9月17日 赤十字からもらった。
料理する。
(5人世帯、2008 年9月17日筆者調査による)
民は配給によって得た食糧をテント脇のわずかな空間で調理しな
ければならない
(写真 5)
。屋根はないため、雨の日には、雨に濡
れながらの調理とならざるを得ない。
このキャンプで暮らすある女性 C は、紛争当時の状況を次のよ
うな内容を語った。
36
食料と人間の安全保障
救援食糧へのアクセスと地域セーフティ・ネット
表 5 ある国内避難民の女性の世帯が個人的な援助によって得た調理器具・食器
(2008 年9月ナクル国内避難民キャンプでのサンプル世帯の例)
2007 年 12 月 30 日に紛争が始まりました。わたしたちは森
に逃げました。3人が毒矢で殺されました。ガソリンがまかれ、
物品名
方名
180 軒が焼かれました。わたしたちは、2 週間森の中にいまし
た。政府の治安部隊がわれわれを逃がしてくれました。ずっ
と森に隠れていたので、赤十字や国連から全く何の援助も得
ンプに来ました。持ち物は自分が着ている衣服だけでした。
お金は 1 円もなく、わたしの家は焼かれて塵になってしまいま
表 2 ある国内避難民が保有する
全物品の種類別割合
2008 年9月ナクル国内避難民キャ
ンプでのサンプル世帯の例
(N=88)
した。
種類
キャンプでは、テントだけをもらいました。それから、3 週
衣類
44
50
間ごとに食糧の配給を受けています。でも、鍋などの調理器
寝具
13
15
調理具・食器
12
14
日用品
12
14
食品
7
8
合計
88
100
具は今に至るまでもらっていません。
このように、女性 C は調理器具・食器等を持って逃げることが
できず、途中の避難先でも入手することができなかった。当時、
実数
(点) 割合
(%)
用途
入手時期
入手方法
コップ
plastic
ミルクティー等を飲むの
2008 年3月
に使用。
お茶入れ
Mkebe ya Blu Band
紅茶の葉を入れるのに使
2008 年 8月
用。
キャンプで知り合った国内避難
民の女性の友人からもらった。
鍋のふた
Mabati
鍋をふたするのに使用。
2008 年 8月
キャンプに挨拶に来た、母の姉
妹からもらった。
鍋
Sufuria
調理するのに使用。
2008 年 8月
キャンプに挨拶に来た、母の姉
妹からもらった。
鍋
Sufuria
調理するのに使用。
2008 年 8月
キャンプに挨拶に来た、母の姉
妹からもらった。
鍋
Sufuria
調理するのに使用。
2008 年 8月
キャンプに挨拶に来た、母の姉
妹からもらった。
ナイフ
Kisu
調理するのに使用。
2008 年 8月
キャンプに挨拶に来た、母の姉
妹からもらった。
ナイフ
Kisu
調理するのに使用。
2008 年 8月
キャンプに挨拶に来た、母の姉
妹からもらった。
ることができませんでした。
2008 年 1月15 日に政府の車で、子供 4 人と一緒にこのキャ
37
キャンプで知り合った国内避難
民の女性の友人からもらった。
(5人世帯、2008 年9月17日筆者調査による)
(5人世帯、筆者調査による)
ナクル国内避難民キャンプにおいても、援助物資は必ずしもいき
わたっておらず、食糧は配給されても、鍋などの調理器具や食器
がない人々もいる状態にあった。それでは、キャンプ内の国内避
難民は、どのようにして、調理器具や食器を入手しているのだろ
表 3 ある国内避難民が保有する
衣類を除く全物品の入手元別割合
2008 年9月ナクル国内避難民キャ
ンプでのサンプル世帯の例
(N=88)
うか。
分類
筆者は、このキャンプ内で女性 C の世帯が保有する全物品 88
援助機関配
給
19
43
個人的援助
15
34
施した。表 2 は、彼女の世帯が保有する全物品の種類別割合を
購入
10
23
示したものである。衣類が 50 パーセントと半分を占めているが、
合計
44
100
点を対象として悉皆調査を実施した。調査は 2008 年に 9 月に実
これはあるカトリック教会がキャンプで大量の古着を配給したか
実数
(点) 割合
(%)
(5人世帯、筆者調査による)
ものである。このようにしてみると、個人的な援助は実に 34 パー
ることが分かる。つぎに、キャンプを訪ねてきた親族からの援助
が 40 パーセントを占めている。
表 5 は、女性 C の世帯が個人的な援助によって得た調理器具・
食器の内容を示したものである。女性 C は、2008 年の 1月にこの
キャンプに来てから 9 月に至るまで、どのような援助機関からも、
一度も鍋や調理ナイフを配給されていない。このため、しばらく
は、同じ地域から逃げて来た国内避難民のテントで鍋を借りて調
理していた。彼女が現在使っている鍋や調理ナイフは、2008 年 8
月にキャンプを訪ねてきた母方の叔母がくれたものである。コップ
らである。
表 3 はその衣類を除いた全物品 44 点の入手元別割合を示した
ないにもかかわらず、国内避難民同士が助け合ってやりくりしてい
表 4 個人的な援助の内容別割合
2008 年9月ナクル国内避難民キャ
ンプでのサンプル世帯の例
(N=15)
や容器は、同じキャンプの避難民が無償でくれたものである。
こうしたケニア人同士の援助がなければ、いくら食糧の配給が
あっても、彼女は、調理することができずに、配給された粉や油
セントを占めている。つまり、衣服以外の物品の 3 割以上は、援
分類
助機関による援助ではなく、個人的援助によって入手されたもの
国内避難民
から
7
47
親族から
6
40
ケニアの人々同士がつくりあげている相互扶助のセーフティ・ネッ
個人的援助の内容別割合を示したものである。もっとも多かった
ナクルの町
で物乞い
2
13
トがあるからこそ、調理が行われ、多くの命が救われたことが判
のは、同じキャンプに暮らす国内避難民から援助してもらったも
合計
15
100
であることがわかる。
そこで、つぎに、この個人的援助の内容を検討する。表 4 は、
ので、47パーセントを占めている。つまり、ほとんどものを持た
実数
(点) 割合
(%)
をなめながら、餓死しなければならなかったかも知れない。つま
り、調査の結果、援助機関による援助だけが援助の全てではなく、
(筆者調査による)
明した。
38
食料と人間の安全保障
救援食糧へのアクセスと地域セーフティ・ネット
39
ナクルの国内避難民の事例からは、要約すると、下記の諸点
様な食材を入手して、
「食の好み」を満たしている。もちろん、援
が明らかになった。
助物資は原則的に非売品であり、こうした行為は、いわゆる闇取
(1)ナクルの国内避難民キャンプでは、配給食糧の量については、
引の一種と見なされるかも知れない。しかし、それにもかかわら
十分な量が配給されている。
しかし、
トウモロコシに著しく偏っ
ずこうした行為がみられることは、
「食の好み」
を満たすことを、国
た配給食糧は、キャンプ住民の大半を占めるキクユ系農耕民
内避難民がいかに希求しているかの証左でもある。
の
「食の好み」
には適合しなかった。このため、国内避難民は、
救援食糧は、限られた種類の食材の状態で国内避難民に提供
トウモロコシを売却して、好みにあった食糧を入手している。
される。フード・セキュリティを考える際に、われわれは、単純に
(2)このキャンプでは、配給食糧の量は、十分であったが、調理
どれだけの量の「もの」
としての救援食糧が、被災地に届けられた
器具は明らかに不足しており、国内避難民は、同じキャンプ
かばかりに注意を向けがちであるが、当の避難民の側にとってみ
に居住する別の国内避難民や、キャンプを尋ねてきた国内避
れば、フード・セキュリティの問題は、そうした
「食材の物流」
の問
難民の親族から、調理器具をもらったり、貸してもらったりす
題に留まらない。避難民が、調理や食事を営む「食の場」や、調
ることによって、調理器具を調達することができた。
理や食事に必要な「調理器具・食器」
、そして、多様な「食の好み」
などが考慮されて、人間の文化的行為としての食は、はじめて成
4. おわりに:食へのアクセスと地域セーフティ・ネット
立する。これらの必要性は、まさに、フード・セキュリティという
概念が要請しているものである。例えば、1996 年に FAO が開催
現代的な形態の食糧援助は、そもそも「第二次世界大戦後、
した「世界食糧サミット」
における有名な「ローマ宣言」
は、フード・
先進国の余剰農産物処理と輸出促進という形で始まった
(中井
セキュリティを下記のように定義している 2。
2008: 140)」。つまり、かつての食糧援助の考え方においては、
食糧支援を受ける側のニーズが第一に考慮されるのではなく、食
フード・セキュリティとは、すべての人々が、つねに、元気
糧を提供する側の論理が優先されてきた。
で健康的な生活を営むために、食餌の必要と食の好みを満
ケニア大統領選挙後の紛争によって発生したリフトヴァレー州
たし、満足な量があり、安全で、栄養のある食糧に対して、
国内避難民の場合においても、救援食糧が極めて大きな意義を
物理的かつ経済的なアクセスをもつことをいう
(World Food
果たしたことについては疑う余地がない。筆者も調査の課程で、
Summit 1996)。
もし、こうした国際緊急人道支援が実施されなければ、極度の
貧困状況にあるケニアの経済環境のなかで、一体、どれだけの国
「食の場」
や「調理器具・食器」
などの問題は、ここでいう食に対
内避難民が餓死しなければならなかっただろうかという思いに何
する
「アクセス」
という課題の一部を成している。また、
「食の好み」
度もとらわれた。
の問題は、
「食へのアクセス」
の問題の一部として考慮されている。
しかしながら、ケニアの国内避難民の臨地調査からは、救援
すなわち、ケニア国内避難民に対する緊急食糧支援においては、
食糧をめぐるさまざまな課題も明らかになった。たんなる
「もの」
と
確かに、物流として食材は届けられたが、フード・セキュリティの
して救援食糧が配給されるだけでは、人間の文化的行為としての
概念に照らして考えた場合、食の好みの問題を含めた
「食へのアク
食は決して成立しない。それを成立させるためには、たんにもの
セス」
という点において、さまざまな課題を残していると言わねば
としての食糧が十分な量配給されるだけではなく、オロルルンガ
ならない。
の事例から明らかなように、調理や食事を営む
「食の場」
が提供さ
しかし、緊急人道支援における食糧支援においては、時間的・
れ、ナクル国内避難民キャンプの事例から明らかなように、
「調理
器具や食器」が提供されることが必要である。また、ナクル国内
避難民キャンプでは、人々は救援食糧を売却することにより、多
2
ポチエは、このローマ宣言を「その文言の性質は、行動の指針といったも
のではなく、まことしやかな美辞麗句の域を出ていない」
と厳しく批判し
ている
(ポチエ 2003: 31)
。
40
食料と人間の安全保障
救援食糧へのアクセスと地域セーフティ・ネット
41
経済的な制約や制限のなかで、迅速に支援を実施しなければなら
だろう。少なくとも、本稿で報告したような国内避難民を援助し
ず、食糧を物流としていきわたらせることも困難な状況にあること
たアフリカ人が、評価されたり表彰されたりしたことは寡聞にして
も確かである。こうした状況下で、援助機関が「食へのアクセス」
聞かない。例えば、こうした相互扶助を物心両面で評価し、イン
を一挙に高度に満たすことは、確かに困難であると言わねばなら
センティブをつける政策を検討してもよいのではないか。本稿が、
ない。とりわけ、
「食へのアクセス」
にかかわる「食の場」
、
「調理器
サハラ以南アフリカにおけるフード・セキュリティにおける、こうし
具・食器」
、
「食の好み」
などについても、すべて国際的援助機関が
た見えない援助の領域との相補的な連携を考えるひとつの材料と
担わなければならないとすると、その負担は極めて重くなってしま
して検討されることを願い、本報告を結ぶこととしたい。
うと想定される。
少なくとも、筆者の臨地調査は、アフリカの国内避難民が、国
内避難民、ホスト地域住民、国内避難民の親族などとの間に「地
域セーフティ・ネット
(local safety net)」を即興的に構築し、自律
的な相互扶助による援助を行ってきたことを明らかにした。アフ
謝辞
本共同研究のメンバーの先生方からは、共同研究のさまざまな機
会に貴重なコメントをいただいた。本稿は、私を研究代表者とする
リカの地域住民同士が、それぞれの生活基盤に基づいて、
「食の
文部科学省科学研究費補助金基盤研究
(B(海外学術調査)
)
「東アフリ
場」
や「調理器具・食器」
などを提供し合い、国内避難民の食への
カ・マー系社会の地域セーフティ・ネットに基づく在来型難民支援モデ
アクセスを包括的に可能にしてきたことは看過されるべきではな
ルの構築
(課題番号:20401010)」の助成を受けて行われた。現地調
い。しかし、通常、われわれは、援助や支援というと国家や国際
査でお世話になったケニア・リフトヴァレー州の国内避難民の皆様に
機関の援助ばかりを思い浮かべ、こうした途上国住民同士の見え
は、調査に御理解と御協力をいただいた。
ない援助は見過ごされてしまいがちである。ドゥブルー
(Devereux
以上の方々の御厚意と御協力に、心より御礼申し上げる。
2001: 267-268)は、フード・セキュリティにおける移譲とセーフティ
・
ネットを論じた論考のなかで、寄付金や物品の移譲を、政府、ド
ナー、NGO 等によるフォーマルで「公的な移譲
(public transfer)」
引用文献
と、拡大家族や共同体の中で行われるインフォーマルで「個人的
AFP 通信
2008 AFPBB News 「選挙後の暴動に揺れたケニア、政府が「国内難民
帰還プロジェクト」
を開始」
2008 年 5 月 6 日 13:49 発信地 : ナイロ
ビ / ケニア
( http://www.afpbb.com/article/life-culture/life/2387541/
)2008 年 9 月 26 日)
2901902(
FAO
(国際連合食糧農業機関)
2009 『プレスリリース LOJAPR09/20-No. 142』
(http://www.fao.or.jp/media/press_090928.pdf(
)2010 年 1 月 22
な移譲
(private transfer)」に分類しているが、彼の考察において
は、後者の潜在的可能性が十分に考慮にいれられているとは言い
難い。市場からも国家からも見放された領域がある場合、最貧
民は最貧民自身のなけなしの力で、それを補って生きていく他な
い。サハラ以南アフリカのフード・セキュリティは、国家や国際機
関のみが支えているのではなく、無名の民衆が、理念ではなくそ
の土地での経験に基づいて、地域セーフティ・ネットをつくりあげ、
公的な援助からこぼれ落ちる領域を迅速に補っているからこそ、
成り立っているはずである。
それゆえ、緊急人道支援に際して、国際援助機関は、すべて
の領域をカバーして、独力で「食へのアクセス」
を実現する必要は
ない。こうした地域セーフティ・ネットを正当に認識し、評価し、
そして、それらと相補的に連携できる仕組みを構築してゆけば、
難民や国内避難民の「食へのアクセス」
は、より容易に実現される
日)
UNIC
(国際連合広報センター)
2005 『ミレニアム開発目標報告 2005』
(http://www.unic.or.jp/pdf/MDG_Report_2005.pdf(
)2008 年 11
月 20 日)
外務省
2008 「プレスリリース 平成 20 年 2 月1日」
(http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/release/h20/2/1177493_
)2008 年 11 月 8 日)
902.html(
武内進一
2009 『現代アフリカの紛争と国家:ポストコロニアル家産制国家とルワン
ダ・ジェノサイド』
東京:明石書店。
42
食料と人間の安全保障
津田みわ
2009
「暴力化した『キクユ嫌い』
:ケニア 2007 年総選挙後の混乱と複数
政党制政治」
『地域研究』
9
(1)
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中井恒二郎
2008 「食糧支援」内海成治・勝間靖・中村安秀
(編)
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京都:ナカニシヤ出版、pp. 140-159。
ポチエ,ヨハン
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法政大学出版局。
BBC
2008
BBC NEWS Kenya food effort gets under way Last Updated:
Sunday, 6 January 2008, 10:04 GMT
(http://news.bbc.co.uk/2/hi/africa/7173565.stm(
)2008 年 11 月 8
カナダ極北地域における食糧の安全保障について
43
カナダ極北地域における
食糧の安全保障について
ヌナヴィク・イヌイット社会を事例として
岸上 伸啓
国立民族学博物館先端人類科学研究部教授
1.はじめに
日)
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)2008 年 11 月19 日)
Kenya%20IDP%20situation%20map.pdf(
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(国際連合人道問題調整事務所)
2008
Relief Web Kenya: Displacement and Humanitarian Response (as
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( http://www.reliefweb.int/rw/fullMaps_Af.nsf/luFullMap/
44AD8F3F67DF3A36852573E000557E0E/$File/rw_CE_ken08013
0_withlinks.pdf?OpenElement(
)2008 年 8 月18 日)
World Food Summit
(世界食糧サミット)
1996
Rome Declaration on World Food Security
(http://www.fao.org/docrep/003/w3613e/w3613e00.HTM(
)2008
年 11 月19 日)
貧困問題や食糧の不足は、発展途上国特有の問題とみなされ
る傾向にあるが、現実にはそれ以外の国々にも存在している。そ
の一例が、米国やカナダ、オーストラリアなどの先進諸国の中に
取り込まれ、各国の周辺地域に存在しているさまざまな先住民社
会の食糧問題である。
先住民とは、その土地の先住者でありながら、後から来た欧
米人やそのほかの人びとによって作られた国家の中で、現在、政
治経済的な少数者として被支配的な立場に甘んじている人びとで
ある。彼らは国民国家の中で、独自のアイデンティティや文化を
保持しているため、主流社会から明確に区別されている。北アメ
リカにはさまざまな先住民のグループが存在している。その中で
極北地域に住んでいる民族のひとつがイヌイットと呼ばれる人び
とである。
かつてイヌイットは、季節に応じて分布が変わる動物を捕獲す
るハンターであり、不猟による食糧不足は恒常的な問題であった。
彼らは個人や家族レベルでの食糧不足を補うための社会制度や社
会関係を作り上げ、過酷な自然環境の中で生き延びてきた。国
民として国家によって保護されている現在でも、彼らはさまざま
な理由から食糧不足に陥ることがある。ここではカナダ極北地域
の現代のイヌイット社会を事例として、食糧に係る問題を紹介し、
食糧の安全保障の点から検討する。
2.食糧の安全保障とイヌイット社会
食糧の安全保障は、1974 年の世界食糧会議で初めて検討され
44
食料と人間の安全保障
カナダ極北地域における食糧の安全保障について
45
た。当時、その概念は、
(1)食糧の消費拡大の支援、
(2)食糧生
なったことである
(Hovelsrud, McKenna and Hantington 2008)
。
産の変動と価格の調整、
(3)
つねに基本的な食糧品を確保できる
この状況は現在でも続いている。
状態を意味していた。しかし、アマルティア・センの飢餓と市場に
これらが極北地域のイヌイットの食をめぐる大きな問題であり、
関する研究の影響を受けて、食糧の供給よりも需要の方に力点が
食糧の安全保障はカナダ・イヌイット社会においても緊要な課題
置かれはじめた。1983 年の食糧農業機構
(FAO)の提言では、食
である
(Chabot 2008; Duhaime and Bernard eds. 2008)
。以下で
糧の安全保障とは、すべての人々が、いかなるときでも必要とな
は、いくつかの問題の中から食糧の確保に関する問題に限定して、
る基本的な食糧品を入手できることを意味するようになった
(ポチ
紹介し、検討を加えたい。
エ 2003: 21-22)
。その後も議論が続けられ、1996 年の世界食糧
サミットのローマ宣言では、
「フード・セキュリティとは、すべての
3. 現代のイヌイット社会
人々が、つねに、元気で健康な生活を営むために、食事の必要
性と食の好みを満たし、満足な量があり、安全で、栄養のある食
カナダ・イヌイットの大半は、1920 年代よりホッキョクギツネの
糧に対して、物理的かつ経済的なアクセスをもつこと」
と定義され
毛皮交易に深くかかわり、ハドソン湾会社などの毛皮交易会社や
た
(World Food Summit 1996)
。食糧の確保は人間の生存の条件
毛皮商人を通してライフルやナイフ、やかん、鉄鍋、鉄針、布地
の中で不可欠なもののひとつであるが、イヌイット社会では食糧
など欧米製品をより恒常的に入手するようになった。これによって
を獲得
(生産)
すること、分配・流通すること、食べることや料理す
彼らの狩猟・漁労における生産効率は向上したが、社会外部で生
ることはさまざまな社会関係、信仰・世界観、価値観と深く関わっ
産された生活物資に依存するようになった。
ており、単に生存に必要なカロリー摂取を意味しているわけでは
第二次世界大戦が終わり、極北地域における軍事戦略的な重
ない
(岸上 2008; 2009)
。
要性が増し、国家主権が問題になり始めると、カナダ政府は極
カナダ・イヌイット社会では、近年、さまざまな食糧問題に直
北地域の領有権を主張するためにそこに住むイヌイットを定住村
面してきた。第一は、最近の生業離れや食の嗜好の変化により、
落に集住させ、福祉サービスを提供するとともに英語習得を核と
若者を中心に外部から輸入されてくる加工食品に依存するように
する初等教育を実施し、主流社会への同化を強力に推進した。こ
なったことである。この食生活の変化は、
肥満症や高血圧、
脳卒中、
の定住化政策や教育の実施は、季節移動と狩猟・漁労活動に基盤
がん、虫歯など健康被害の増大をもたらした
(岸上 2005: 147-149,
をおくイヌイット文化に大きな影響を与え、狩猟・漁労活動は衰退
155)。これについては、地元産の動植物を食べるように医療関
の一途をたどった。そして以前にまして外部の市場経済の影響を
係者はイヌイットに呼び掛けている。第二は、PCB や水銀など有
強く受けるようになった。
害物による環境汚染に起因する食糧の安全性の問題である
(岸上
1960 年代には米国における公民権運動の影響により、カナダ
2002; 2005)。1970 年代よりアザラシやホッキョクグマの体脂肪
では先住民運動が盛んになった。そして 1973 年のニスガー判決
から PCB などが検出されていたが、1980 年代にはイヌイットの母
の結果、カナダ政府は同化政策を転換し、先住民族と政治交渉
乳からも同様な残留性有機汚染物質がかなりの濃度で発見され
を行うことになった。カナダ・イヌイットは、1975 年に「ジェーム
た。これらの汚染物質は、おもに気流や海流、河川を通して極北
ズ湾および北ケベック協定」
、1984 年に「西部極北
(イヌヴィアル
地域に運ばれ、それが食物連鎖を通して人間やホッキョクグマの
イット)
協定」
、1993 年に「ヌナヴト協定」
、2005 年に「ラブラドル
体中に蓄積されるようになった。これらの汚染物質は人間をはじ
協定」をカナダ政府等と締結し、土地権や生業権、言語権、教
めとする動物に生殖障害や精神障害、免疫力の低下などをもたら
育権や補償金などを獲得し、政治的に自律の道を歩み始めた。
すため、大きな問題となった。第三は、1990 年代以降に顕在化
ここでは、ケベック州北部のヌナヴィク地域のアクリヴィク村の
した地球の温暖化が、イヌイットの生業活動に悪い影響を及ぼし、
経済活動の現状について紹介する。
捕獲量が低下し、ハンターによる食糧の安定的な供給が難しく
現在のアクリヴィク村が形成され始めてから約 40 年がたった。
46
食料と人間の安全保障
カナダ極北地域における食糧の安全保障について
47
その間に人口は、ほかの極北地域の村と同様に急激に増加し、
ら約 5 人の計 13 人程度であった。生協や村役場には定職や臨時
1973 年に 9人であった人口は、2010 年には約 500 人となった。こ
職があるほかに、夏から秋にかけては、家屋建築や道路工事な
の間に、村の体制もカティヴィク地方政府の下位単位の行政村と
ど 3 ヶ月間の季節的な労働雇用があった。当時のイヌイットの成
してカナダ国ケベック州に組み込まれるとともに、住宅、道路、
人男性は、週 5 日間毎日 8 時間拘束される職に就くと、好きな時
飛行場、公共施設など下部構造の整備が進み、近代的な村へと
に狩猟や漁労、キャンプに行くことができないといって、長期間
変貌していった。村の運営や下部構造の整備は、ケベック州の予
同じ仕事に従事することはなかった。イヌイットは定職に就いて
算と「ジェームズ湾および北ケベック協定」
などに由来する村外か
恒常的に現金を獲得することよりも、自由に狩猟・漁労活動に従
らの資金が使用されている。さらに、イヌイットの個人レベルの
事することを好む傾向にあった。彼らは 3 ヶ月間から 6 ヶ月間賃
収入も、
賃金労働に従事しているにせよ
(村人の全収入の約 70 パー
金労働に就いた後にやめ、3 ヶ月間から 6 ヶ月間を失業手当に頼
セント)
、福祉金など公的援助に依存しているにせよ
(村人の全収
るという就業パターンを繰り返していた。これは失業手当を利用し
入の約 30 パーセント)
、そのもとはカナダ連邦政府かケベック州
て、狩猟・漁労活動を行うというイヌイットによる経済戦略のひと
政府であるといえる。
つであった。
ヌナヴィク地域の各世帯の生活に必要な物資のほぼすべて、さ
アクリヴィク村をはじめとする極北の村には、就労可能な人口
らに食糧の 50 パーセント以上は、週 1 便の貨物の空輸か年 1 回の
に比べて定職の数が絶対的に不足している。したがって、村役場
輸送船によって村の外から運び込まれている。ヌナヴィク地域の 3
の担当者は村関係の季節労働や臨時の仕事がある場合には、す
村で世帯経済の調査を実施したシャボーは、
1995年当時、ヌナヴィ
べての世帯に仕事がいきわたるように配慮しながら、雇用をして
クの人々が食べている食糧の 85 パーセント余りが、村の生協や小
いた。定職を好まないとはいえ、村の中での生活や狩猟・漁労を
売店で購入されたものであり、各世帯は 1 ヶ月平均で 1,000 カナダ
・
行うためには、現金が必要である。賃金労働の定職に就かない
ドルを食品の購買のために使用していると報告している
(Chabot
イヌイットは、高齢年金、家族扶養手当、福祉金、失業手当など
2001)。この指摘は、アクリヴィク村のイヌイットにもほぼあては
政府支出の現金や、滑石彫刻の制作・販売で得た収入を利用し、
まる。また、地元で野生動物を捕獲するためには、船外機付きカ
家賃や電話代を支払ったり、生活用品や狩猟・漁労に必要な物資
ヌーやスノーモービル、ライフルと弾丸、漁網、ガソリンなどを
を購入していた。1983 年以前は、アザラシやホッキョクギツネの
現金で購入しなければならない。このように現在のイヌイットの
毛皮の販売も重要な収入源であった。
生活にとって現金収入は必要条件のひとつになっている。
1996 年当時、アクリヴィク村でイヌイットが就くことができる実
現在のアクリヴィク村の経済は、貨幣経済を基盤としつつも生
際の職の数は、約 45 余りで、村全体の世帯数約 90 世帯
(うち15
業経済と混交しつつ、経済システムを形成しているのが特徴であ
は 1 人世帯)
よりはるかに少ない。
る。
フルタイムの職とパートタイムの職を合わせれば 130 人余りの人
かつては賃金労働を基本とする定職に就こうとするイヌイット
が何らかの形で現金収入を得ていた。アクリヴィク村の成人の平
の数も、実際に長期間にわたり定職に就いているイヌイットの数
均年収は約16,500カナダ・ドル
(ケベック州全体は約23,200カナダ
・
も少なかったが、現在では、男女を問わずほぼすべてのイヌイッ
ドル)
であった。夫婦合わせての年収の平均は、
38,500ドル
(ケべッ
トが村の中で定職に就くことを望んでいる。
ク州全体は約 53,200 カナダ・ドル)であった。極北地域では、現
1980 年代半ばに、アクリヴィク村の中で 1 年以上にわたって賃
金収入が少ない一方で、物価がカナダ南部と比べ 1.5 倍ほど高い
金労働の定職に従事していたのは、生協のマネージャーと滑石彫
ため、生活は決して楽ではない
(表 1 参照)
。イヌイットはそうした
刻購入担当係各1 人、小中学校の用務員 2 人、小中学校のイヌイッ
厳しい現金収入の一部を狩猟・漁労活動や加工食品の購入のため
ト語の教師 1 人、イヌイット航空のエージェント兼郵便局員 1 人、
に使用している。
看護所の通訳 1 人、発電所員 1 人、村役場の配水係やし尿処理係
1980 年代半ばと1996 年を比べればわかるように、賃金を得る
48
食料と人間の安全保障
カナダ極北地域における食糧の安全保障について
表1 ヌナヴィク地域とケベック市における食品価格の比較
(Duhaime, et al. 2000: 10)
49
カリブー猟、冬季はカリブー猟や湖上での漁労、春季から夏季に
かけてはアザラシ猟や鳥猟がおもに行われている。そして彼らの
ヌナヴィク地域
ケベック市
牛肉
(1キログラム)
7.95カナダ・ドル
5.52カナダ・ドル
リンゴ
(1キログラム)
2.84カナダ・ドル
2.40カナダ・ドル
ジャガイモ
(1キログラム)
7.18カナダ・ドル
3.17カナダ・ドル
村においては狩猟や漁労によって捕獲されるカリブーやアザラシ、
バター(454グラム)
4.34カナダ・ドル
3.17カナダ・ドル
ホッキョクイワナ、鳥類は重要な食糧である。
狩猟・漁労は、スノーモービルや船外機付きカヌーを利用した村
からの日帰りの活動を基本としている。現在でも、アクリヴィク
鶏卵
(12 個)
3.11カナダ・ドル
1.78カナダ・ドル
近年は、地球温暖化の影響で気象状況が予測不可能なまでに
ミルク
(1リットル)
2.72カナダ・ドル
1.38カナダ・ドル
不安定になっており、イヌイットの狩猟活動に大きな影響が出て
食パン
(675グラム)
1.99カナダ・ドル
1.46カナダ・ドル
いる。とくに海域の凍結が遅くなり、海氷原が溶け出す時期が早
まっており、冬季と春季の狩猟活動が低迷している。
ことができるフルタイムの職やパートタイムの職の数は、増加し
以上の事例から分かるように、
(1)物価が高いにもかかわらず
た。ヌナヴィク地域では雇用の 62 パーセント以上が村役場や学
現金収入源が限られており、購買力に限界があることや
(2)
地球
校などパブリック・セクターであり、カナダ政府やケベック州政府
温暖化の影響による狩猟活動の低迷がイヌイットの食糧獲得を脅
の経済分野での役割が大きいといえる
(Duhaime 1999; Chabot
かす大きな問題となっている。
2003)。1990 年代以降は、より多くの村人が月曜日から金曜日ま
で村内で働き、週末か1日の仕事が終わってから狩猟・漁労に行く
4. 食糧の確保と食物分配の実践
ようになった。このためウィークデーに狩猟や漁労に従事するの
は老人や無職の者のみとなった。村人の経済戦略もできるだけ現
現在、イヌイットが食糧を獲得するおもな方法は、
(1)
みずから
金を稼ぐことができるフルタイムの職に長期間就くことへと変化し
もしくは世帯内のハンターが獲物を捕獲すること、
(2)
食糧をもら
た。このような傾向は現在でも認められる。
1980 年代以降におけるヌナヴィク・イヌイットの生業活動には、
(1)
アザラシやホッキョクギツネの毛皮の価格の低迷、
(2)
定職に
うこと、
(3)
食糧を現金で購入することである。
すでに述べたように、
(1)と
(3)に問題があるときには、
(2)の方法が重要な食糧確保の
鍵となる。
就くことによる生業活動の時間的な制限、
(3)
狩猟・漁労経費の高
もともとイヌイット社会では、厳しい自然環境のもとで狩猟活
騰などの負の要因が存在した。現在の生業活動は、現金収入で
動に依存していたので、食糧確保が不安定であった。それゆえに
購入したライフルやガソリン、スノーモービル、船外機付きカヌー
食糧難の時に集団が生き残るためのいくつかの工夫が制度化され
を利用して行われるという意味で、貨幣経済の上に成り立ってい
ていた。そのひとつが、食物分配であり、現在でも実践されてい
る活動である。
る
(岸上 2007)
。
生業活動は商業目的ではないので経済収支の点から見ると金
現在のアクリヴィク村の食物分配は、狩猟に参加したハンター
銭的な利益を生み出すことはない。しかし、イヌイットは狩猟や
間での第一次分配、村やキャンプに帰ってきたハンターと村人や
漁労などの生業活動を行うことによって、カリブーやホッキョクイ
キャンプのメンバーとの第二次分配、村にもたらされた肉が食事
ワナなど好みの伝統的な食糧を入手することができるし、生業活
を通して分配されたり、村人の間で分配されたりする第三次分配
動に従事することやツンドラの大地や海氷上で過ごすことで、文
からなる。分配の対象となるものは、地元でとれる陸獣や海獣の
化的かつ精神的な満足を得ることができるのである。
肉や魚類、現金で購入した食糧品などである。
1970 年代半ばから現在までアクリヴィク村の生業活動の年周期
第一次分配は、狩猟に参加したハンターによって行われる。獲
は基本的には大きく変化していない。夏季はホッキョクイワナ漁
物を仕留めたハンターは、獣皮やもっとも多くの量の肉を取るこ
とアザラシ猟、秋季はセイウチ猟、シロイルカ猟、アザラシ猟、
とが許されるが、残りは狩猟に参加したハンターに分配される。
50
食料と人間の安全保障
カナダ極北地域における食糧の安全保障について
51
とんどが与えるという形をとる。セイウチやシロイルカなど大型獣
を仕留めたハンターは、村に帰ると村人全員に肉やマッタック
(シ
ロイルカの脂肪付き皮部)
を少量ずつ、分配することがある。
別の形態の第二次分配が存在している。村有の大型ボートや個
人所有の大型ボートを利用し、捕獲したセイウチの肉やシロイル
カのマッタックなどが村人に分配されている。村有ボートを利用
した場合には、村に雇われたハンターが村に持ち帰った肉やマッ
タックを村の役人がそれらを必要とする全世帯に平等に分配する
(岸上 2001: 37-38)
。個人所有のボートの場合には、私有大型ボー
トの船長とそれに同乗したハンターが自分たちの肉やマッタック
写真1 ハンターによるアザラシの
分配
(1999 年撮影、アクリヴィク村
の近く)
を取った後、残った肉やマッタックをもらいにきた村人に船長が
手渡しをする
(岸上 2001: 40-41)
。前者も後者も、村人に食糧を
もたらすという意味で、現地では
「パユツク」
と表現される。
獲物の一部や食物をほかの者に与えることは、現地では「ニッキ
第三次分配としては、第二次分配で手に入れられた肉が食事を
ミク アイツイユク」
(niqimik aituijuk「肉もしくは食物を与える」)と
通してさらに親族やほかの村人へと分配されることがある。食事
表現され、獲物や食物を受け取ることは
「ニンギクツク」
(ningiktuk
に招待することや食事に参加することによって食物が分配される。
「獲物の一部を手に入れる」)
と表現される。多くの場合、獲物の
誰かを食事に招待することは、
「カイクイユク」
(qaiqujijuk
「誰かを食
解体に参加したハンターたちは捕獲量全体を考慮しながら、自分
事にくるようにと招待する」)
と表現される。アクリヴィク村のイヌ
が欲しい分を取ることが多い。かつてはシロイルカやセイウチなど
イットは祖父母や父母が存命の場合には、自宅ではなく祖父母や
の大型獣を仕留めた場合、捕獲したハンターがどの部分を取るか
父母の家で昼食や夕食をとることが多い。また、クリスマスやイー
は決められていたが、現在では、そのような厳格なルールは存在
スターの時には、村が主催する村全体での祝宴が実施され、食
していない。
事が村人に振る舞われる。このように人々が集まって食事を共に
第二次分配では、肉をもたらしたハンターが彼の近親族
(両親
とることは、
「ニリマツット」
(nirimatut「一緒に食べる」)
と表現され
や祖父母、兄弟姉妹、オジ、オバ、子供)
に全部もしくは部分を
る。
与えることが多い。近親族以外にも、近所の友人、古老、病弱
このようにイヌイットの間には、食糧を確保するさまざま食物分
で狩猟に行けない人、同名者
(sauniq)
、儀礼的助産人
(sanaji)に
配のやり方が存在しているが、ハンター・サポート・プログラム以
肉を分け与えることがある。ある人間が、ほかの人の家やテント
外の食物分配は、おもに拡大家族関係にある人びとのあいだや狩
に獲物や食物を持っていってあげる行為は、
「パユツク」
(pajutuk
「同
猟パートナー間で行われることが多い。このため、村内に多数の
じキャンプや村の中の別の家に住む人にプレゼントを持っていく」)
家族や親族を持たない人びとにとっては、通常の食物分配という
と表現される。さらに、これらの人々の中で、肉が必要な人は直
制度は有効に働くとは限らない。これに対し、ヌナヴィク地域に
接、ハンターの家に肉をもらいにいく場合がある。また、親戚や
おいてはイヌイットであるならば享受できる食物分配にハンター・
近所のハンターが肉を持っていない場合には、村の FM ラジオ放
サポート・プログラムを活用した制度がある。私は、この制度が
送局に電話をかけ、肉を無償で提供してくれる人を探すことや、
「ハ
食糧確保の不安定な現代のイヌイット社会にとって非常に重要な
ンター・サポート・プログラム」
のもとで村の冷凍庫に貯蔵している
役割を果たすと考えている。
肉や魚を必要に応じてもらうことがある。肉や魚などに関して、1
対1の対面的関係で
「貸し借り」
を行うことは非常にまれであり、ほ
52
食料と人間の安全保障
5. ヌナヴィク地域におけるハンター・サポート・
プログラム
カナダ極北地域における食糧の安全保障について
表2 アクリヴィク村のハンター・
サポート・プログラムの年間支出
(出典:HSP Annual Report 1983-2002)
年
53
ハンター・サポート・プログラムの具体的な実施内容は村ごとに
管理され、運用されることになっている。プログラムの会計年は
1月1日から同年の 12 月 31日までであるが、このプログラムによる
プログラムの支出額
1970 年代初頭には、ホッキョクギツネやアザラシの毛皮の価格
1983 年 約5万3,000カナダ・ドル
アクリヴィク村の年間支出額は、次の表 2 に示す通りである。
が低迷したために、イヌイットはそれらの毛皮を売って現金を入手
1984 年 約32万6,000カナダ・ドル
村議会がこの予算をどのように運用するかを決める。このため
し、その現金を利用して狩猟・漁労活動を続けていくことが困難
1985 年 約11万2,000カナダ・ドル
村ごとに独自のプログラムを作ることができる。
になりつつあった。しかし、当時のイヌイットは、狩猟・漁労活動
1986 年
を、さらにはそれに基づく生活を保持し続けたいと希望していた。
1987 年 約10万8,000カナダ・ドル
カナダ・ドルであり、年間の最少支出額は初年度を除けば、1986
このため、1975 年に締結された「ジェームズ湾および北ケベック
1988 年 約18万5,000カナダ・ドル
年の 9 万カナダ・ドルである。初年度から 2002 年までの年間平均
協定」において生業活動を促進するような経済プログラムの創出
が提案された。このハンター・サポート・プログラムの創設目的は、
約 9万カナダ・ドル
この表 2 によると、年間の最高支出額は 1996 年の 51 万 3,000
1989 年 約11万5,000カナダ・ドル
支出額は、約 18 万カナダ・ドルである。1カナダ・ドルを 90 円と換
1990 年 約13万9,000カナダ・ドル
1991年
約14万2,000カナダ・ドル
算すると、アクリヴィク村は年平均 1,620 万円をハンター・サポート
・
生活様式として崩壊の危機に瀕したイヌイットの狩猟や漁労、ワ
1992 年 約15万カナダ・ドル
プログラムの資金として使用していることになる。
ナ猟など生業活動を促進し、永続化させ、かつそのような活動か
1993 年 約18万2,000カナダ・ドル
アクリヴィク村では 1984 年からハンター・サポート・プログラム
ら得ることのできる産物をイヌイットに供給することを保障するこ
1994 年 約13万5,000カナダ・ドル
を利用してシロイルカ猟やセイウチ猟を実施し、獲物を村人に分
とであった。
1995 年 約20万8,000カナダ・ドル
配するようになった。さらに、村のハンター・サポート・プログラ
1980 年から1982 年にかけては暫定的な経済プログラムが実施
1996 年 約51万3,000カナダ・ドル
ムの予算に余裕があれば、冬季に村のハンターからプログラムを
されたが、1982 年 12 月にイヌイットの生業活動を促進するための
1997 年 約18万5,000カナダ・ドル
利用して肉や魚を買い上げ、必要な村人に無償で分配することが
ハンター・サポート・プログラムが「法律 83」としてケベック州議会
で可決され立法化された。イヌイット側から強い要望があり、そ
のプログラムの実際の運用はそれぞれの村に任されることになっ
たため、村が希望すれば、村用の大型狩猟ボート
(コミュニティー・
1998 年 約16万カナダ・ドル
行われてきた。アクリヴィク村において 1999 年に実施されたハン
1999 年 約16万1,000カナダ・ドル
ター・サポート・プログラムの運用を紹介する。
2000 年 約 20万カナダ・ドル
2001年 約24万8,000カナダ・ドル
2002 年 約20万7,000カナダ・ドル
ハンター・サポート・プログラムの運用は、年を追うごとに新た
な試みが追加されるとともに、ほかのプログラムと組み合わされ
ボート)や村人のために食糧を冷凍保存するための大型冷凍庫を
て運用されるようになった。1999 年のアクリヴィク村におけるハ
購入することや、隣村から肉や魚を購入し、それらを村人に無料
ンター・サポート・プログラムの支出内訳は、表 3 の通りである。
で提供することなどが可能になった。
ハンター・サポート・プログラムの予算は、ケベック州政府から
その自治体のひとつであるカティヴィク地方政府に支出される。
この予算は、インフレ率やイヌイットの人口増加などの可変要因
に基づいて毎年修正や補正が加えられている。こうしてカティヴィ
ク政府の管轄下にあるハンター・サポート・プログラムの全予算の
第一に、ハンター・サポート・プログラムを
表3 1999 年のアクリヴィク村の
ハンター・サポート・プログラムの支出の内訳
(出典:HSP Annual Report 1999)
狩猟・漁労・ワナ猟活動
約 3万9,000カナダ・ドル
道具や設備
約 3万1,000カナダ・ドル
狩猟地への航路や道路の整備 約 8,000カナダ・ドル
利用した狩猟遠征が実施された。セイウチ猟
とシロイルカ猟は、村有の大型狩猟用ボート
を利用して実施された。セイウチの狩猟場は、
サルイット村の北方海上にあるサルスベリー
島やノッチンガム島で、出猟期間は 1 週間以
15 パーセントはカティヴィク政府の管理事務費として使用される。
救助・探索活動
約1万2,000カナダ・ドル
上であった。シロイルカの狩猟場は、イヴイ
さらに残りの 85 パーセントのうちの 15 パーセントがカティヴィク
毛皮買い取り
約 2,000カナダ・ドル
ヴィク村以北のハドソン海峡であり、出猟期
地方政府によって地方全体のプロジェクトのために使用される。
野生生物管理
約1万カナダ・ドル
間は約 1 週間であった。これらの狩猟の獲物
以上の予算を差し引いた残額が原則として各村に人口数に比例し
狩猟者や漁労者のサービス
約 2 万4,000カナダ・ドル
は、村人に食糧として無償で平等に提供され
て配分される。しかしながら、
各村とカティヴィク地方政府は毎年、
伝統的活動への補助金
約1万4,000カナダ・ドル
た。
村の計画や要望を加味しながら予算配分を調整するので、
年によっ
管理費
約 2 万1,000カナダ・ドル
第二に、冬から春にかけてハンター・サポー
ては高額な予算配分を受けることがある。
総計
約16万1,000カナダ・ドル
ト・プログラムの資金で村人からカリブー肉
54
食料と人間の安全保障
カナダ極北地域における食糧の安全保障について
写真2 ハンター・サポート・プロ
グラムを利用したシロイルカの肉
と脂皮の村全体での 分配
(1999
年10 月撮影、アクリヴィク村)
55
第四に、ハンター・サポート・プログラムを利用して、船着場へ
のアクセスを容易にするための橋の建設、浅瀬の石を除去し船外
機付きカヌーの運行を容易にするための作業、村の近くのイハル
アツク湖までブルドーザーを利用して道をつくる作業を実施した。
第五に、狩猟中に遭難した人を捜索し、救助することや村のジュ
ニア・レンジャー隊、若者の夏期狩猟・漁労訓練キャンプにプログ
ラムから資金を提供した。
第六に、狩猟中に事故でスノーモービルをなくしたハンターや
船外機を壊したハンターに、新しい道具を購入するための補助金
を出している。これは 1997 年頃から始まった新規事業である。村
役場がハンターの申請を承認すれば、道具を購入するために地域
全体のハンター・サポート・プログラムから購入価格の 3 分の 1 が、
村のハンター・サポート・プログラムからも、さらに 3 分の 1 が補
助されることになっている。1999年には、
アクリヴィク村のハンター
やホッキョクイワナを購入し、食糧を必要とする
から小型ボート3 隻と船外機 1台の購入補助申請があり、補助金
村人に無償で提供した。購入量が多かった場合
が支給された。
には、村の全世帯に肉やホッキョクイワナを分配
第七に、1999 年からアクリヴィク村では新たな試みが開始され
することがあった。また、同資金を利用してサル
た。ハンター・サポート・プログラムの資金で、スノーモービルとソ
イット村から帆立貝を1,000 カナダ・ドル分購入し、
リを購入し、村の 65 歳以上の老人
(約 10 人)
が狩猟や漁労のため
その貝を欲しい村人に無償で提供した。
に利用できるようにした。利用したい老人は、村役場に届けて、
第三に、狩猟・漁労活動を促進するために狩猟
職員が調整したスケジュールにしたがって、無料で利用すること
道具やその材料、狩猟関連機器をハンター・サ
ポート・プログラムの資金で購入し、安価でハン
ターに販売するとともに、故障した無線通信機を
写真3 ハンター・サポート・プログラムを利用した
セイウチの肉の村全体での分配
(2003 年 9 月撮影、
アクリヴィク村の近く)
ができる。この貸借制度によって、収入が少なく、スノーモービ
ルを所有していない村の老人もより頻繁に狩猟や漁労に行けるよ
うになった。
修理した。1台1,500 カナダ・ドルの無線通信機を
第八に、アクリヴィク村では、ハンター・サポート・プログラムや
5 台、プログラムの資金で購入し、村のハンターにその 70 パーセ
そのほかの資金を利用して、伝統的な技術保存・振興プロジェク
ントの価格で販売した。また、村人が所有する故障した無線通信
トを実施した。まず、カティヴィク地方政府とマキヴィクの経済開
機 3 台をプログラムの資金で修理した。また、1台 4,000 カナダ・
発基金を利用して村人から、毛皮を一定の価格で買い取った。た
ドルもする大型狩猟用ボートのレーダーを購入するための補助金
とえば、ホッキョクギツネの毛皮1枚は 40 から 60 カナダ・ドル、
を出した。1999 年当時、
アクリヴィク村には 3 隻の大型狩猟用ボー
ワモンアザラシの毛皮 1 枚は 30 から 50 カナダ・ドルであった。
トがあった。村用の大型狩猟用ボートには全額を、2 隻の私有大
1980 年代半ば以降、毛皮の買い取り価格が低迷していたため、
型狩猟用ボートにはそれぞれ1,000 カナダ・ドルの補助金を出した。
イヌイットはアザラシやホッキョクギツネの毛皮をおもに自家用に
これ以外にテント用のキャンバス布地、ソリを製作するための板、
利用するのみで、販売することはあまりなかった。このことは、毛
ゴム製長靴、漁網、無線機など狩猟・漁労活動で使用する道具や
皮が現金収入源にならないことを意味し、狩猟・漁労活動の低迷
その材料をプログラムの資金で仕入れ、村人に仕入れ価格の 70
の原因のひとつであった。
この状況を改善させるために、
カティヴィ
パーセントの値段で販売した。
ク地方政府とマキヴィクはイヌイットから毛皮を買い取り、村人に
56
食料と人間の安全保障
カナダ極北地域における食糧の安全保障について
57
現金収入を提供するための経済開発基金を1998 年頃
イヌイットを事例として紹介した。
に創設したのであった。なお、アクリヴィク村での毛皮
現代のイヌイットにとって彼らの食糧の安全保障を脅かす問題
の価格付けと買い取りは、村役場の職員が担当した。
は、
(1)食糧となる動物の汚染、
(2)食生活の変化による健康の
第一と第二の事業は、ハンター・サポート・プログラ
悪化、
(3)
地球温暖化に起因する狩猟・漁労活動の低迷、
(4)
限ら
ムの資金を利用して、ハンターからカントリー・フード
れた現金収入に起因する購買力不足などである。言い換えれば、
を購入し、村人に提供するというものである。1999 年
食糧の安全性、栄養価、入手の困難さである。本章では、この
において獲物が購入された月は 2 月および 3 月、10 月、
中から特にいかにして食糧資源を確保するかという問題を取り上
12 月で、日数にすると合計で 15 日であった。その総数
げた。
は、カリブー 31 頭、セイウチ 6 頭、シロイルカ 15 頭、
イヌイット社会には、おもに家族・親族関係に基づいた食物分
アザラシ肉約 390 キログラム、ホッキョクイワナ約 4.5
配という制度が存在し、機能してきた。現在でも、慣習的な食物
トンであった。カリブー 31 頭は、2,170 人日分
(5 人 14
分配は、拡大家族関係者間や狩猟パートナー間では有効に機能
日 31 頭)に相当する。セイウチ1 頭あたりの肉を 500
しているものの、非親族間ではその効果に限界がある。それを補
キログラム、シロイルカ 1 頭あたりのマッタックの量を
うかたちでヌナヴィク・イヌイット社会において実践されているの
50 キログラム、その肉を 200 キログラムとして換算す
が、ハンター・サポート・プログラムを活用した村レベルでの食物
ると、セイウチの肉は約 3トンに、シロイルカのマッタッ
クは約 750 キログラム、その肉は約 3トンに相当する。
また、ホッキョクイワナ約 4.5トンは約 2,000 匹に相当
分配である。家族・親族関係というセイフティ・ネットワークがカ
写真4 クージュアック村のコミュニティー・
フリーザーの中
(2005 年 2 月撮影、クージュ
アック村)
バーできない範囲を、この制度はカバーでき、村人であれば食糧
にアクセスできる。ただし、このプログラムの予算には限度があ
する。これらの肉や魚が、食糧を必要とする村人に提
るため、常に村人に食糧を提供できるとは限らない。それでも特
供されたことになる。
定の個人や家族の食糧危機を救う可能性がある。
ここで紹介した事例は、1999 年のアクリヴィク村におけるハン
このように、グローバル化の進む現代社会に生きるイヌイット
ター・サポート・プログラムの事例であるが、2010 年現在、基本
は、既存の慣習や社会制度を利用するとともに、新たな制度を作
的におなじプログラムが実施されている。このプログラムは、村
りだし、運用しながら集団として食糧の確保問題に対処している。
人の狩猟・漁労活動を振興させるとともに、村人にカントリー・フー
カナダ・イヌイット社会において食糧を確保するためには、
(1)従
ドを供給することを主目的としていた。最近では、ヌナヴィク地
来の狩猟・漁労活動を維持・振興させること、
(2)現金収入を確保
域のすべての村において村有冷凍庫に肉や魚を保存し、食糧を必
すること、
(3)
新旧の扶助制度を維持・活用させることが肝要であ
要とする村人は、そこから必要な分だけを自由に入手できるよう
ると考える。
な制度を、ハンター・サポート・プログラムを利用して実施してい
グローバル化の進展とともに、1980 年代より多数のイヌイット
る
(Polak 2010)
。このようにヌナヴィク地域の各村では、ハンター・
が都市に移住をはじめた。2006 年の国勢調査によると、カナダ・
サポート・プログラムの運用がイヌイットの食糧確保に貢献してい
イヌイットの総人口約 5 万人のうち15 パーセント以上が、生まれ
るということができる。
故郷の村々を離れ、オタワやエドモントン、モントリオールといっ
た大都市に移住し、生活を営んでいるという。移住先で経済的に
5.結論
成功しているイヌイットもいるが、大半が失業者やホームレスであ
る。都市に住む彼らには、家族関係や親族関係のセイフティ・ネッ
ここでは食糧の不足問題は、アフリカや中南米などの発展途上
トワークがほとんど存在していないので、食糧の確保が常に深刻
国だけの問題ではなく、第一世界の国家の中に存在している先住
な問題となっている
(Kishigami 2008)
。都市イヌイットの食糧の
民社会においても発生していることを、カナダの極北地域に住む
安全保障の問題は今後、ますます重要な課題となることを指摘し
58
食料と人間の安全保障
ておきたい。
注
本章の事例の部分は、岸上
(2007)の第 5 章に基づいていることをお断り
しておく。
引用文献
岸上伸啓
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のシロイルカ資源の場合」
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70: 29-52。
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『国立民族学博物
館研究報告』27(2): 237-281。
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(世界の食文
化 20)
東京 : 農文協、pp.121-159。
2007 『カナダ・イヌイットの食文化と社会変化』京都 : 世界思想社。
2008 「文化人類学的生業論―極北地域の先住民による狩猟・漁撈採集活
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物館研究報告』
ポチエ,ヨハン
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カナダ極北地域における食糧の安全保障について
59
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2010)
World Food Summit
1996 Rome Declaration on World Food Security.
http://www.fao.org/docrep/003/w3613e/w3613e00.HTM(2009
年 12 月 20 日)
燃料危機を乗り越えるセーフティ・ネット
61
燃料危機を乗り越える
セーフティ・ネット
インドネシア政府の「灯油からプロパン
ガスへの転換プログラム」
をめぐって
阿良田 麻里子 国立民族学博物館外来研究員
はじめに
フード・セキュリティの基本は、まず食料を得ることであるが、
その食料を調理して食べられるようにできるということもまた、
フード・セキュリティの重要な一側面である。本稿では、2004 年
から 2008 年にかけての世界的な燃料危機と燃料価格の高騰がイ
ンドネシアの庶民の台所に与えた影響をとりあげ、西ジャワ州の
村落部をおもな事例として、燃料不足を乗り越えるために食事や
燃料を融通し合う人々の戦略について述べる。
1. 灯油コンロとガスコンロ
人口の大部分が集中する西インドネシアでは、米飯を主食とし
ており、飲料水を煮沸消毒する習慣も深く浸透している。炊飯を
はじめとする調理にも、飲料水の煮沸にも、当然、燃料が必要で
ある。この地域で広く使われている家庭用のおもな燃料は、薪、
木炭、ケロシン
(灯油)
、プロパンガス
(LPG)
であった1。
1
2002 年のインドネシアエネルギーバランス統計によれば、家庭で消費さ
れるエネルギーは、軽石油製品 412,312 テラジュール
(TJ)
、石炭以外の固
形燃料 547,493TJ、電気 123,816TJ に対し、都市ガスが 267TJ、LPG と天
然ガス液が 96TJ であった
(中央統計庁 Biro Pusat Statistik 2003: 20-21)
。
ただし、都市ガスの使用されている地域は限定的であるらしく、調査地
周辺では都市ガス設備は全く見られない。電気は村落部でも全世帯に行
き渡っているが、その主な用途は照明、テレビ・ラジオの視聴、電動ポ
ンプなどで、電熱器や電気ポットは一般的ではなく、電気炊飯器や電子
レンジを所有するのは、都市部の富裕層や中間層にほぼ限られていた。
2001 年当時、調査集落にはマジックジャー(電気保温器)を所有している
世帯はあったが、電気炊飯器を所有している世帯はまったくなかった。
62
食料と人間の安全保障
燃料危機を乗り越えるセーフティ・ネット
63
薪や木炭を使用するカマドについては後ほど扱うことにして、ま
はほかのワルンがあるし、少しならば隣人から灯油を分けてもら
ずは、この燃料危機で最も大きな問題になったコンロを取り上げ、
うことができた。
その使用状況について述べることにしよう。インドネシア政府が
村の典型的なワルンは、住宅の一部を簡単に改装した小さな売
「灯油から LPG への転換プログラム」を 2006 年末に開始するまで
店で、早朝から夜まで開いている。少額の資本金で簡単に始めら
は、LPG コンロの使用はほぼ都市部の比較的裕福な層やレストラ
れるので、小金を貯めた主婦が商売を考えるときに、代表的な選
ンなどに限られており、庶民にとって身近で手軽なコンロと言え
択肢のひとつとなっている。ワルンで売る食品や日用品の仕入れ
ば灯油コンロであった。というのも、当時普及していた LPG ボン
は、通常、店の経営者が深夜から明け方にかけてミニバスで町
ベはおもに 12 キログラム入りのもので、一度に 12 キログラム分の
の市場や商店へ行って買ってくるという形式をとる。買い出しの行
きがけに、名前を書いた空のポリタンクを給油所におろしていく。
ガス代を支払うのは庶民には負担が大きかったからである。また、
最初に購入する際には高額なボンベ代を支払う必要があった。空
のボンベと充填済みのボンベを交換することでガスを補充するシ
ステムなので、調理中にガスが切れた時のことを思えば予備のボ
ンベも必要である。都市部では業者が定期的に巡回するが、そ
もそもガスの利用者がほとんどいない村落部では業者の巡回もな
かった。
表1 灯油コンロの所有数
(2000 ∼ 2001年調査、13世帯中)
1台
2台
3台
4台
5世帯
5世帯
2世帯
1世帯
すると帰りにはタンクに灯油が満たされているので、これを受け
取って代金を支払う。ワルンの顧客が一度に購入する量はせいぜ
い数リットルなので、一回の買い出しで、何世帯分もの燃料をま
かなうことができたのである。
2. 燃料危機と
「灯油からLPGへの転換プログラム」
これに対して、灯油コンロならば低所得者層でも容易に燃料の
補給ができた。特に村落部では、
コンロと言えば灯油コンロであっ
さて、
「灯油から LPG への転換プログラム
(以下、転換プログラ
た。2000 年から2001年にかけて西ジャワ州バンドゥン県アルジャ
ムと略す)」の内容は、国有石油ガス会社であるプルタミナ 2 の主
サリ郡 B 行政村
(desa)の B 村
(kampung)という農村で台所設備
導により、LPG 用の器具を無料配布すると同時に、灯油の供給量
などの調査をした際の様子を紹介しよう。当時、調査対象の 13
を制限してガスへの移行を促進するというものであった。配布さ
世帯全てが灯油コンロを所有し、LPG コンロを所有する世帯は皆
れた器具は一口コンロ、ガスボンベ、調節器のセットで、配布対
無であった。灯油コンロは一口コンロなので、同時に複数の調理
象となったのは、低所得者世帯および屋台等の商売人である。ガ
を行うために複数のコンロを所有している世帯も多い。各戸の所
スボンベは従来よく使われていた12 キログラム入りのものではな
有数は表1の通りである。ただし、所有数 3 ∼ 4 台になっている
く、3 キログラム入りの小さなものが用意された。2007 年の初め
世帯のコンロには、調子が悪くてほとんど使っていない古いもの
から首都ジャカルタで配布を始め、西ジャワ州へと広げていき、
も含まれている。
2009 年には中ジャワ州、東ジャワ州、バリ州までを完了するとい
村人はおもに村内のワルンと呼ばれる簡易商店や行商人から日
う計画であった。
用品や食品を買っている。町の市場やスーパーマーケットで買うよ
このプログラムが実施された背景には、2004 年頃から 2008
りも割高になるが、交通費や時間が節約できるし、品物を小分け
年にかけての世界的な燃料危機と、それに伴う国際的な原油
にして売ってくれるので、日常的な買い物には都合がよい。B 村の
価格の高騰があった。インドネシアでは、BBM(bahan bakar
東集落では、約 50 世帯に対して大小 9 軒のワルンが店を開いて
minyak、燃料油)と呼ばれるガソリンや灯油などの石油燃料の価
いた。うち 5 軒はほぼ食べ物に特化した小さなワルンであったが、
格が消費者物価を決める大きな要因となっている。石油燃料価格
残り 4 軒では灯油を含めた日用品も扱っており、調理中に灯油が
があがると、生鮮食品も含め生活必需品の物価が一斉にあがる
なくなってもすぐに買い足すことができた。ワルンでの灯油の購入
は、小さなポリタンクを持参して量り売りで灯油を移し入れてもら
うシステムである。たまたま最寄りのワルンが品切れでも、近所に
2
プルタミナは国内石油ガス産業に関する独占的な権限を持っていたが、
2001 年に制定された新石油ガス法により独占権を失い、2003 年に国有
株式会社に改組された
(坂本 2008:1)
。
64
食料と人間の安全保障
というパターンがあるので、政府は、物価を安定させる
ためにも燃料価格を補助金によって抑えてきた。しかし、
スハルト政権崩壊後、自国の産油量が落ち込んだことも
あって、補助金の負担は大きくなっていた 3。そこで、家
庭の主要な燃料を灯油からより安価な LPG へ移行させ
燃料危機を乗り越えるセーフティ・ネット
65
表2 灯油とLPG の価格と補助金
(単位はルピア)
2007 年 9 月
灯油1㍑
LPG0.4kg
国際市場価格
5,688
2,920
国内販売価格
1,818
1,385
政府の補助金
3,870
1,535
て、補助金の経費を節減しようとしたのである。
主要英字紙ジャカルタ=ポストによれば、1リットルの灯油は
0.4 キログラムのガスに相当する。この記事から、当時の両者の国
写真2 安全装置つきの調節器を実演する青年。
売値は 30万ルピア
際市場価格、国内販売価格、政府の補助金をまとめたものが表
4
2 である 。補助金が、年間 25 兆ルピア
(2007 年半ばのレート1円
=約 90 ルピアで計算すると約 2,700 億円)
の削減となるのに対し、
写真1 配給品のガスコンロ
(左)
と、灯油コンロ
(右)
2008 年の予算案では転換プログラムの一年間の経費は 2.4 兆ルピ
また、配給されたガス器具は、質が悪く、ガス漏れを起こす
ア
(同じく約 260 億円)
である
(Jakarta Post 2007.9.10)
。
ことがあった。人々がガスの扱いに慣れていなかったことも原因
プログラムの実施は計画より遅延したものの、2009 年 12 月の
したのか、プログラム開始当初、ジャカルタ各地でガス漏れによ
プルタミナの発表によれば、バンテン州、ジャカルタ首都特別区、
る爆発や火災が起こり死傷者を出した。そのため、特に年配者の
西ジャワ州、ジョクジャカルタ特別区、南スマトラ州ではすでに
間では、ガスコンロを恐れて、使いたくないという人が多かった。
完了し、2010 年前半期で全プログラムが完了する予定となってい
ガスの補給のためには、空のボンベから調節器を外して新しいボ
る。
(Jakarta Post 2009.12.23)
ンベに自分でつなぎなおさなければならず、慣れない利用者に対
し、操作を間違ってガス漏れを起こすのではないかという恐れを
3.転換プログラムの影響
抱かせた。このため、訪問販売で、ガス漏れを防ぐ安全装置つき
の高価な調節器を実演してみせ、分割払いで売るという商売も登
しかし、プログラムの実施に伴っては、さまざまな問題が起こっ
場した。
た。まず、ガスの補給の問題である。転換プログラムで配布され
ガス器具自体を入手できない世帯もあった。器具の配布数は住
る器具一式には予備のボンベがないので、一旦ガスを使い切らな
民台帳を元に決められたが、世帯数の調査と器具の配布に時間
いと、次のガスを買うことができない。ガスの業者は村落部には
差があったため、その間に引っ越しをした人は、配給を受けるこ
ほとんど巡回してこない。村内のワルンでもガスを売っているが、
とができなかった。不良品や故障への対応もほとんどなかった。
すぐに品切れになってしまう。そもそも少額な資本で商売をして
このような状況下で転換プログラムによって灯油の供給が制限
いる零細なワルン経営者は、高価なボンベをいくつも買えるほど
されたために、人々は使い慣れた灯油を求めて、給油所で長蛇の
5
の資金の余裕がない 。たとえボンベを買えても、一度の買い出し
列をなした。2008 年なかばに最高潮に達した世界的燃料危機の
ではせいぜい数戸にしかガスを供給することができないのである。
影響も相まって、灯油の価格は暴騰した。
3
おける燃料価格と農業労働者の賃金の推移をまとめたものであ
表 3 と表 4 は、2001 年から 2007 までの年西ジャワ州村落部に
4
5
インドネシアは石油や液化天然ガスの産出国であり、原油の輸出国でも
あった。しかし、スハルト政権が 1998 年に倒れると、産業の発展を牽引
する強力な政治リーダーを失ったことが産油量にも影響し、2004 年には
原油の輸入国に転じた。製油施設も不効率なため石油製品も輸入してい
る。
ただし記事では補助金の額は灯油 Rp. 3,869、
LPG Rp. 1,534 となっている。
2008 年調査当時 3 キログラム用のボンベの価格は 15 万ルピアであった。
る。灯油の消費者価格の平均値は、2001 年に 1リットルあたり約
684 ルピアだったが、2006 年から2007 年にかけては 2,640 から
2,680 ルピア程度と、5 年間で 3 倍以上に上がった。同じ時期の農
業労働者の平均賃金を見ると、インフレにより上がってはいるが、
66
食料と人間の安全保障
燃料危機を乗り越えるセーフティ・ネット
その上昇率は 2.5 倍足らずにすぎない。
暴騰した 2008 年の灯油価格はこの統計資料には
記されていないが、8 月から 9 月にかけての調査時に
妹の結婚などを機に独立して、親世帯の近
ア 2002 年ごろ
表3 西ジャワ州村落部の燃料価格
(単位はルピア)
67
隣に核家族で暮らすことが多い。
(ハルソヨ
灯油
(1㍑) 木炭
(1kg) 薪
(40kg)
1980; 渡辺 1992 など)。世帯構成は流動的
2001年
684.09
1,007.89
5,551.57
2002 年
1,034.41
1,127.99
6,154.80
で、祖父母が孫を預かったり、オジオバが
ルピアになり、品切れ状態が続くと12,000 ルピアま
2003 年
1,134.33
1,357.79
7,431.97
甥や姪を養い子として育てることもよくある。
で値をつり上げる店まで現れた。村人が遠くの店へ
2004 年
1,185.06
1,392.46
8,416.90
独り身の高齢者は、子ども・孫・甥・姪などの
は、調査地近辺の給油所ではリットルあたり7,000
B村
でかけていって長時間並んでも、手に入るのは一人 2
2005 年
1,587.09
1,570.90
9,013.49
世帯に同居するか、逆に自分の家に独身の
∼ 3リットル程度であった。これほど急激な価格高
2006 年
2,653.17
1,896.88
11,019.74
孫・甥・姪などを住まわせて一緒に寝泊まり
に見合う収入の増加があるはずもなく、交通費や手
2007 年
2,653.33
1,768.42
13,324.08
間暇の負担も馬鹿にならなかった。
してもらうことが望ましい。
イ 2008 年 9 月
中央統計庁資料
(Badan Pusat Statistik 2008a: 203)
に基づいて引用者作成。
筆者の調査地の事例を紹介しよう。私は、
さらに 2008 年の後半には、追い打ちをかけるよう
に、LPG の供給不足が問題となった。3 キロ用のボ
ンベの在庫が不足したためである。灯油よりも安く
2000 年から 2001 年にかけて西ジャワ州バ
表4 西ジャワ州村落部の農業労働者の賃金
(半日4∼6時間分、単位はルピア)
耕起
田植え
ンドゥン県アルジャサリ郡 B 行政村の B 村に
約1年間住み込んで、言語と食文化を中心と
草取り
手に入るはずだったガスの価格も上昇し、元売りの
2001年
9,049
7,039
7,681
した調査を行ったあと、断続的にこの村を
ガス販売所での品切れが起こった。
2002 年
11,100
8,106
9,020
訪れている
(阿良田 2004; 2008)
。ここでは、
マスコミは、燃料問題に直撃された貧困層の人々
2003 年
12,192
10,296
10,306
おもに 2008 年の 8 月∼ 9 月に再訪した際の
の困窮ぶりを盛んに報道し、各方面から政府やプル
2004 年
11,315
10,075
10,158
観察やインタビューに基づいて稿を進める。
タミナの不手際を非難する声があがった。
2005 年
12,661
11,604
10,934
B 村の元住民アミ
(仮名。以下人名はすべ
2006 年
18,842
15,478
16,712
て仮名)は、1 年前に夫を亡くし、隣の M 行
2007 年
21,487
18,071
18,783
4. 親族関係によるセーフティ・ネット
ウ 2009 年 9 月
政村の C 村に引っ越した。そこに、彼女の一
中央統計庁資料
(Badan Pusat Statistik 2008b: 10-12)
に基づいて引用者作成。
人娘ウイスや孫達の家が徒歩 2 ∼ 3 分圏内
しかし、ちょうど転換プログラムに巻き込まれて
に集まっていたからである。B 村から C 村は
いた調査地で、実際の暮らしぶりを見てみると、村人は確かに問
徒歩で 30 分ほどの距離である。
題に直面して困ってはいたのだが、さまざまな方策を講じてこの
図1はアミの子孫の家系図である。同じ
事態に対応していた。日頃つちかった親族関係や、地域コミュニ
ティのありかたが、セーフティ・ネットの役割をはたしたと言えるだ
ろう。
図1 アミ家一族の居住形態の変遷
(家系図の一部は省略し、同じ家に同居している者同士を線
で囲ってある)
家に住んでいた者同士を線で囲ってまとめて
ある。イが 2008 年の調査時点を表している。
ウイスの第一子から第四子まではすでに結
まず、親族関係について見てみよう。筆者のおもな調査対象で
婚して子どももいるが、全員、同じ集落内に住んでいる。ウイス
あるスンダ民族は、西ジャワ州およびバンテン州をおもな居住地
家には、第四子のレニ一家が同居している。第五子と第六子は、
とする民族集団である。宗教はイスラームが圧倒的多数派である。
ほかの兄姉とは年が離れていてまだ幼く、ウイスの孫たちと同年
都市部には少数ではあるがキリスト教徒も見られ、バンテン州の
代である。アミは、夫の死後しばらくウイス家に身を寄せていた
一部地域には独自の古い信仰を守る人々もいるが、西ジャワ州の
が、やがて元の家を売って、ウイス家の近所の中古住宅を買った。
村落部に住むスンダ人はほぼ 100 パーセントムスリムである。
アミがさびしくないようにと、小学生の孫娘リニ
(ウイスの第五子)
スンダ民族は双系出自で、リネージやクランを形成しないが、
がアミの家に寝泊まりしている。リニは、
アミの家で食事をしたり、
血縁関係や姻戚関係にある親族とは広い範囲で結びつきをもつ。
母ウイスの家で食事をしたりしている。
結婚したばかりの夫婦は、まずは妻の実家に同居し、出産や妻の
C 村では 2008 年 7月の末から 8 月にかけてガス器具が配給され
68
食料と人間の安全保障
燃料危機を乗り越えるセーフティ・ネット
69
た。ウイス家とレニ家の場合、世帯はふたつとみなされるので、
トニがバイクを購入する際には、アミ夫妻が金銭的援助をしたし、
2 セットのガス器具が配布された。コンロのひとつは壊れていて使
逆に寡婦となったアミが C 村の家を購入する際には、ウイスもトニ
えなかったが、この 2 世帯は料理も食事も共にしており、残るひ
もティニも、自分たちの経済状態に応じて援助をしている。
とつのコンロを使って料理をすることになった。余ったガスボンベ
アミは自前の交通手段をもっておらず、C 村の公共交通手段は、
ひとつが、同居している 2 世帯にとってだけでなく、他の独立した
乗り合い馬車かバイクタクシーしかない。灯油の供給不足にあたっ
子ども世帯にとっても、ガス切れの際の予備の役割を果たすこと
て、高齢のアミが買い出しに行って長い行列に並ぶことはなかな
になった。
か難しかった。しかし、若い孫世代の協力を得て、いくらかの灯
アミは、
C村に移住したばかりで、配布リストから洩れてしまった。
油を入手することができた。また、ガス器具を持っていて灯油コ
元の B 村でも転出済みという扱いで結局ガス器具の配給は受けら
ンロの必要性の低い娘や孫たちから残った灯油を分けてもらった
れずじまいだった。近所で灯油を入手することが難しくなってから
り、ヤカンを娘の家に持っていき、ガスコンロで飲み水をわかし
は、どこそこの村では灯油を売っているという話を聞くと、アミは、
てもらうこともあった。また孫娘ティニと同居するようになってか
バイクを持っている孫やその配偶者に頼んで、買いに行ってもらっ
らはティニのコンロを使用している。
た。
他の世帯でも,調理中にガスが切れたら,親族の台所へいっ
アミの娘ウイスは、通常の慣習とは違い、結婚してからは両親
て調理の続きをさせてもらうという形で燃料を融通しあっていた。
のもとを離れ、C 村にある夫の生家に同居していた。しかし、ス
調理済みの食事そのものを融通し合うこともあった。産婆を職業
ンダではごく一般的なことであるが、離れて住んでいても、アミ
とするアミは、通常は自炊をしていたが、仕事が忙しくて料理をす
夫婦と娘一家は互いに頻繁に行き来をし、非常に緊密な関係を
る暇がない時には娘の家で食事をしていた。いよいよ燃料不足が
保っていた。スンダでは、子ども同士が結婚をした親同士の関係
深刻になってくると、アミは産婆の仕事がなくてもしばしば娘の家
はベサン
(bésan)と呼ばれ、ごく近しい姻戚関係とされている。
で食事をするようになった。
アミ夫妻と、ベサン関係にあるウイスの舅・姑も仲がよかった。ウ
筆者が 2008 年 8 月から 9 月および 2009 年 9 月に B 村と C 村を訪
イスの舅・姑もアミの夫も 2003 年から 2007 年にかけて相次いで亡
れた時期は、ちょうどイスラーム教の断食月に当たっていた。断
くなってしまったが、みな健在だったころには、アミ夫妻が B 村で
食月には、1 ヶ月間にわたって、毎日暁から日没までの間飲食や
儀礼をおこなったり、伝統芸能の保持者であったアミの夫が興行
喫煙を断って、争いごとを避け心を浄く保たなければならない。
を行ったりする際には、必ずウイスが子どもたちや姑や姑の妹とと
断食月は、特別礼拝を行うなどして神に近付く神聖な月であるだ
もに泊まりがけで手伝いにきて、みなでにぎやかに料理をしたも
けでなく、断食のつらさを分かち合い、日没後の断食明けの食事
のである。また、ウイスの長子トニは独身時代 B 村のアミ夫妻の
や夜明け前の食事をともにすることによって家族や信徒同士の連
家に住んでいたし
(図 1 ―ア)
、第三子ティニは 2008 年の末に夫と
帯感が高まる楽しい季節でもある。
離婚してからは、息子とともにアミの家に同居するようになった
(図
この地域では、夜明け前の食事をサウール
(saur)
と呼ぶ。朝 4
1 ―ウ)。
時頃に行われる暁の礼拝の 10 分ほど前にサイレンが鳴ると、も
このような経緯を経て、アミと娘一家や孫たちは、互いに独立
う飲み食いをしてはいけない。この断食開始の合図をイムサック
した世帯でありながらも、損得勘定にとらわれず助け合い、与え
(imsak)
と呼ぶ。ねぼうをしてイムサック直前に食べ物をかきこむ
合う関係をしっかりと築いてきた。サーリンズの分類するところの
6
「一般的互酬性」
が成り立つ間柄である。孫たちの婚礼の際や、
6
generalized reciprocity。
「一般化された相互性」
「 一般的互恵性」
「 総合
的互酬性」などとも訳される。等価物を交換することを意味する「均衡
互酬性
(balanced reciprocity)」
に対し、
「一般的互酬性」
とは、近親間に
見られるように、直接的な返礼を期待せずに惜しみなく与え、その返礼
は漠然と期待はされるが、いつどのような形で返礼しても、またたとえ返
礼できなくてもかまわないような互酬性を指す
(サーリンズ 1972: 182-184;
1984: 233-235 ほか)。
70
食料と人間の安全保障
燃料危機を乗り越えるセーフティ・ネット
71
人もいるが、ふつうは、夜 3 時ごろに家族が集まってサウールの
れる日常的な共食では、通常それぞれの世帯が食べ物を持ち寄る。
食事をとる。主婦はその 1 時間前には起きて、米飯やおかずを温
料理を床に並べて、周りを囲むように座り、各自一枚の皿に米飯
めなおしたり湯を沸かしたりといった作業をしなければならない。
とおかずを盛り合わせて食べる。持ち寄ったおかずはみなで分け
サウールの準備が間に合わなければ、一家全員が空腹のまま一日
合うが、米飯は基本的には各世帯ごとに持参した容器からとる。
の断食に臨むことになる。
主食である米は貴重な食料である。賃労働の際にも食事つきか否
他宗教の信徒も混住する都市部では、サウールの知らせは比
かで賃金体系が異なっており、食事に対するコスト意識は高い。
較的静かに行われる。しかし、住民の 100 パーセントがイスラム
米飯を世帯ごとに分けておけば、一緒に食事を楽しんでも、その
教徒である村落部では、サウールの呼びかけは騒々しいと言って
うちの誰かに特別な負担をかけずに済む。ここに、それぞれが世
もよいほどである。B 村では夜 2 時ごろにモスクのスピーカーから
帯として独立した家計を営んでいるという意識が表出する。
大音量で「サウル、サウル、サウール」という放送がされるし、C
しかし、米飯をくれと乞われれば、誰もが快く分け与える。特
村では 2 時から 3 時にかけて青年団の有志がスピーカーや楽器を
に小さな子どものための米飯は、遠慮する必要はないし、後で借
かついで村中を練り歩き、獅子舞を
りを返す必要もない。たとえば、燃料問題も落ち着いた 2009 年
踊ったり歌を歌ったりして人々を起
の断食月には、アミの家に、小学生であるトニの息子が夜3時半
こして回る。小さな家が密集する村
ごろに米飯をもらいにやってきた。トニの妻が寝過ごして米飯を
の中では、食事の準備をする隣人
蒸し直す暇がなかったからである。トニの息子は温かい米飯を皿
の気配もつつぬけである。
にとって持ち帰り、家にあるおかずとともに食事をとった。
2008 年の訪問時、私はアミの家
また、スンダの慣習では、食事時に来客があれば、一緒に食
に泊まっていた。短期の訪問だった
べるように勧めなければならない。客のほうは、隣近所で頻繁に
こともあり、体調も優れなかったの
顔を合わせる間柄であれば遠慮するのが普通だが、遠方からの
で、断食をするつもりはなかった。
稀な来客ならばむしろ誘いを受けたほうがよいとされる。ともに
正直なところアミも断食をしていな
食事をとって楽しい時間を過ごし、謝意を表すことが、ホストに
かったし、サウールを用意するにも
写真 3 4世帯から 4 世代が集まったサウールの食事。夜 3 時頃
敬意を表すことにもなる。
灯油がない。しかし、このような状
日ごろからともに食事をしたり、気軽に食べ物を分かち合ったり
況下では、サウールの食事をしないということは、断食をしない
する、こういった慣習のもとでは、燃料に困っているアミと、そ
ことを隣人に喧伝するようなもので、アミは「恥ずかしい」
と言う。
の家に滞在する私が、ウイスの家へ行って食事をするのは、たと
同居する小学生の孫娘リニは断食に挑戦しているので、ムスリム
え夜中の 3 時であっても、ごく自然な流れなのであった。
としての規範も見せておかなければならない。そこでアミもリニも
私もウイスの家へ行ってサウールを食べることにした。すると、す
ぐ隣の家に所帯を構えていたティニも、自分の食べ物を携えて息
5. 代替器具によるセーフティ・ネット:カマドへの
回帰と電気炊飯器の利用
子とともにウイスの家へやって来た。もともとウイスと同居してい
るレニも交えて、4 世帯から 4 世代がそろって食事をすることになっ
人々が問題を乗り越えるために利用したのは、親族のネットワー
た。断食月に限らず、アミも、所帯を持つ孫たちとその配偶者や
クだけではない。灯油やガスのコンロが使えなければ、他の燃料
子どもたちも、このようにことあるごとにウイスの家に集まって、
を使うという手段もあった。
ともに食事をしていた。
灯油コンロが広く普及していたとはいえ、村落部では、薪や炭
儀礼のもてなしなど特別なイベントとしてホストが客を招く場合
を燃料にしてカマドで調理をすることもまだ一般的に行われてい
には、ホストが食べ物をすべて準備するが、特別な理由なく行わ
た。先に触れた B 村東集落での 2002 年の台所設備調査の結果
72
食料と人間の安全保障
燃料危機を乗り越えるセーフティ・ネット
73
工場労働者や教員など経済的に余裕のある層では、逆に最新
の調理道具である電気式の自動炊飯器を購入して、調理に利用す
るようになったケースもあった。自動炊飯器の利用目的は炊飯だ
けではない。たとえばワルンではよく温かい魚のツミレ団子のスー
プを鍋に常備して、客の好みで麺を入れるなどして販売していた
が、B 村ではこのスープを温かく保つために自動炊飯器を用いるワ
ルンが登場した。
6. 商習慣によるセーフティ・ネット
写真4 廃材を薪にする隣人
B 村では、燃料危機以前には職業的に薪を売っている人はいな
かった。日常的に薪を使う人々はおもに自分たちで薪を作ってい
では、13 世帯中 11 世帯はカマドを所有していた。私の観察では、
たし、現金収入のある人にとっては灯油を買うほうが手軽だった
当時日常的に灯油コンロのみを使用していたのは 4 世帯で、7 世
からである。しかし、灯油の供給が減らされると、薪を作って村
帯はカマドと灯油コンロを併用し、2 世帯は日常的には灯油コン
内で売り出す村人が現れた。
ロはほとんど使わずカマドのみを使って調理をしていた。
ワルンや行商の例に見られ
もともとカマドを常用していた世帯の場合、影響は少なかった。
るように、機会と元手があれ
薪の値段も上がったが、これらの世帯は薪を購入するのではなく、
ば、普通の村人が気軽に商売
自分で森や竹林からとってきたり、人に頼んでとってきてもらった
を始めることは、インドネシア
りしていて、薪のストックも十分に持っていた。このような世帯の
では一般的である。隣人や親
場合、配給されたガス器具を転売してしまうこともあった。隣人
戚を相手に小さな商売をする
にコンロを売ったり、ワルンにボンベを売ったりしたのである。
ことは、ごく当たり前のことで、
一方、もともとほとんどカマドを使っていなかったのに、燃料
金銭をやりとりするのに気後
危機によってカマドに回帰した人もいた。土を固めて作った本式の
れする必要はない。顧客とな
カマドが家になくても、臨時のカマドを作ることは容易である。こ
る側にとっても、たとえそれ
の地域では、婚礼や割礼の披露宴の際に、数百人の招待客を自
が自分でもできる簡単なこと、
宅に呼んで食事を供する習慣がある。この時には、地面にレンガ
や石を重ねて臨時のカマドを作って大量の調理をする。カマドの
写真5 薪の商売を始めたB村の村人
自分でも作れる普通のもので
あっても、誰かが代わりにして
使用経験が全くない人はいないと言ってもよい。
くれることや作ってくれることに対して手間賃を払うということは、
アミの家にもウイスの家にも、屋内にカマドの設備があった。
慣れ親しんだ習慣である。
アミはそれまで、日常の調理にはもっぱら手軽な灯油コンロを使
このような慣行が、燃料危機に際して村人にいち早く薪の商売
い、儀礼の準備など大量に調理をする時にだけカマドを使ってい
を始めることを促した。そして、その結果として、体力的にある
た。しかし、いよいよ灯油が入手できなくなると、元の家の一部
いは時間的に薪を自分で用意することが難しい人々も、比較的容
を取り壊したときの廃材を薪にして、カマドで調理をするように
易に手頃な値段で燃料を調達することができるようになったので
なった。薪割作業は、このような作業に慣れている隣家の中年女
ある。商売の目的は、当然ながら品物を売却して利益を得ること
性に頼んでわずかな手間賃でやってもらった。
である。しかし、売り手は自分の利益を考えているだけではない。
74
食料と人間の安全保障
燃料を容易に入手できない社会的弱者への配慮も、動機のひとつ
燃料危機を乗り越えるセーフティ・ネット
75
謝辞
になっていると言える。
2000 年からの長期調査は、財団法人大阪国際交流センターの大阪・
LPG を扱うワルン経営者も同様である。B 村のワルン経営者の
アジアスカラシップによって実施が可能となった。また燃料問題に関す
女性に 2008 年 9 月に聞いた話を紹介しよう。彼女の夫は高校教
る 2008 年の調査は、国立民族学博物館の研究費によっておこなった。
GLOCOL の共同研究に参加し、メンバーの方々から学ばせていただいたこ
師で給与収入があるので、資金繰りは比較的余裕があるが、そ
とが、私がフード・セキュリティというテーマに関心を寄せるきっかけとなっ
れでも彼女は予備のボンベを 3 本購入するのがせいいっぱいだっ
た。またメンバーのみなさんからは折に触れてコメントやご助言をいただ
た。ボンベ代が 1 本 15 万ルピアなので 45 万ルピアの投資である。
いた。B 村・C 村のみなさんは、常に私をあたたかく迎え入れ、快く調査
3 キログラムのガスの仕入れ値が 15,000 ルピアで、売値は 17,500
ルピアに設定している。いつもは一日に一度、朝ミニバスで買い
に協力してくださっている。上記すべての方々に心からの感謝を捧げるとと
もに、不足な点や誤りがあればひとえに私の責任であることを申し添えた
い。
出しに行くだけだが、ガスが売り切れるとバイクでガスの販売所
まで買いに行く。交通費と手間を考えると、大した儲けにはなら
ない。しかし燃料がないと「人々が karunya(可哀想、哀れ)
だか
引用文献
ら」
、買いに行かざるを得ないと彼女は言う。商売というものが、
阿良田麻里子
2004 『インドネシア・スンダの食文化:言語人類学的観点から』総合研究
大学院大学博士学位論文。
2008 『世界の食文化6:インドネシア』東京 : 農文協。
サーリンズ、マーシャル・D
1972 『現代文化人類学5 部族民』青木保訳、東京:鹿島出版会。
1984 『石器時代の経済学』山内昶訳、東京:法政大学出版局。
坂本茂樹
2008 「 東 南 ア ジ ア NOC に 新 た な 動 き: タ イ PTTとイ ンド ネ シ ア
Pertamina」石油天然ガス・金属鉱物資源機構調査部:http://oilgas-
売り手にとっての利益になるだけでなく、買い手をも利するもので
あると意識されていることがここに表れている。
おわりに
この地域における燃料問題は、ガス器具が全世帯に行き渡り、
info.jogmec.go.jp/report_pdf.pl?pdf=0802_out_m_id_th_ptt_p
ertamina.pdf&id=1927
(2008 年 10 月11日)
人々がその使い方に慣れて、世界的な景気後退に伴う原油価格の
値下がりの影響が国内各地に及ぶにつれて、次第に落ち着きを見
せた。2009 年 9 月に再訪した際には、ワルンのボンベの備蓄も増
ハルソヨ
1980 「スンダの文化」土屋健治訳、クンチャラニングラット編『インドネ
シアの諸民族と文化』加藤剛・土屋健治・白石隆訳、東京:めこん、
pp. 369-394。
えて、ガスは近所で買えるようになり、灯油も高価ではあるが再
び入手可能になっていた。
もしもさらに深刻な事態へと進展していたらどうなっていたか
はわからない。しかし、少なくとも 2008 年の時点では、人々は、
親族との一般的互酬性、隣人を相手にした小規模な商売や有償の
サービス提供の習慣、そして旧来の台所設備であるカマドや新し
い調理道具である電気炊飯器といったさまざまな要素を駆使して、
燃料や調理済みの飲食物を手に入れ、融通し合っていた。そこで
高齢者や貧困層のフード・セキュリティを保障するセーフティ・ネッ
トの役割を果たしていたのは、政府でも企業でもなく、常日頃人々
が長い時間をかけて築きあげてきた緊密な絆であったということ
が言える。
渡辺敦
1992 「食事の提供・獲得をめぐる社会関係:インドネシア、西ジャワ州南
29
(4)
: 422-453。
バンテンの村落から」
『東南アジア研究』
Badan Pusat Statistik
2008a Statistik Harga Konsumen Pedesaan di Indonesia 2001-2007, Jakarta:
Badan Pusat Statistik.
( インドネシア村 落 部 の消 費 者 物 価 統 計
2001-2007)
2008b Statistik Upah Buruh Tani di Pedesaan 2001-2007, Jakarta: Badan
(村落部農業賃労働者の賃金統計 2001-2007)
Pusat Statistik.
Biro Pusat Statistik
(イ
2003 Neraca Energi Indonesia 1998-2002, Jakarta: Biro Pusat Statistik.
ンドネシアのエネルギーバランス1998-2002)
転換期における「ダーチャ」と人びとの生活
77
転換期における
「ダーチャ」
と
人びとの生活
フード・セキュリティの視点から
思沁夫
「食料」と「食糧 」の使い分け方:
語源から見ると、
「料」という字は
米を量ることを意味する。しかし、
後世では使い方が変化し、モノを
作る時に用いる「原料」
、あるいは
「材料」を指すようになった。一方、
「糧」の語源はリスクに備えて貯蔵
する
(準備する)フードを指す。こ
の意味から発展し「食糧」
の意味で
よく使われるようになった。そのた
め、ダーチャで穫れ、直接生活で
消費する作物などを指すときは「食
糧」という表現を用い、加工され
た「作物」
( あるいはその目的のた
め)
を指すときは「食料」
ということ
ばを使う。
大阪大学グローバルコラボレーションセンター特任助教
1. 問題の所在
1991 年、ソ連が崩壊し、同地では長年蓄積された矛盾が一気
に噴出した。国家が崩壊したことにより、政治、民族や宗教対立、
葛藤が表面化し、独立、分裂の動きを促し、地域社会は再編を
余儀なくされた。しかし、
歴史の転換期においておこっているのは、
目に見える変動、変化ばかりではない。社会システムが機能停止、
あるいは麻痺した時、表面下で人びとの生活は不安、危機にさら
されている。
また、国家が破綻し、地域社会が再編のプロセスに動いた時、
人びとはヒューマン・セキュリティ(human security)
の問題に直面
すると同時にフード・セキュリティ(food security)
の危機にもさら
される。特にロシアにおいては、その歴史、政治や文化の特殊性
によって、フード・セキュリティの問題はヒューマン・セキュリティ
の問題でもあった1。
ロシアのフード・セキュリティの問題を考えるとき、ダーチャに
注目することが大変有効なアプローチではないかと考える。後述
するようにダーチャのロシア農産物収穫量に占める比重は高い。
そのためダーチャは人びとが危機を乗り越えるための手段になっ
てきた。ダーチャという「場所」
での人びとの実践から社会的、文
1
スターリンの罪といえば「粛清」
や「収容所群島」
などをまず思い浮かべる
人が圧倒的に多いのではないかと思う。しかし、20 世紀にロシアで起き
た「飢餓」
はヨーロッパの国の中で最大規模である。スターリンの農業集
団化政策が 1930 年代以降のソ連の慢性的農業の不振と食糧不足の原因
にもなったと考える専門家もいる。前者に関してはロバート・コンクエス
トの『悲しみの収穫―ウクライナ大飢饉―』
(恵雅堂出版 2007 年)
が詳し
い。後者に関して S・ブラギンスキー、V・シュヴィドコーの『ソ連経済の歴
史的転換はなるか』
(講談社現代新書 1991 年)
を参照してほしい。
78
食料と人間の安全保障
転換期における「ダーチャ」と人びとの生活
79
化的な特徴も読み取ることができる。ダーチャは「ロシア的な存
を守っただけではなく、国や社会も支えたといわれている。
在で、ロシア文化そのものである」
と表現する歴史研究者もいるく
近代農業は産業化、工業化や都市化によって形作られたと考え
。しかし、なぜかダーチャはフード・セ
らいである
(аидар 2006)
られる。そのプロセスにおいて、多くの人口が土地から「解放」
さ
キュリティの観点からほとんど注目されてこなかった。ロシア人な
れたため、農業に従事する人口は大幅に減少した。また、農業自
ら誰でも無縁ではないダーチャの存在と私たちの関心とのあいだ
体も合理化の波にさらされ、技術革新などによって大きな変貌を
に差があるのには、大きくふたつの理由があると考えられる。ひ
余儀なくされた。農業は家族、コミュニティや地域社会を養う存
とつ目は
「経済」
に対する捉え方である。ダーチャとは人びとの
「趣
在から、巨大化する都市
(人口)の胃袋を満たすための「供給地」
味」
の経済であり、
「国民経済」
というカテゴリーには属さないと判
と化し、ビジネスの道へと進んだ。さらに、絶え間ない技術の刷
断されていることに起因する。ふたつ目はソ連・ロシアにおいて党、
新、ビジネスの拡大によって、金さえあればほぼ何でも入手でき
国家は絶対的な存在であったことに起因する。人びとの主体性は
る国や地域は世界の東西を問わずに数多く出現した。時々私たち
常に軽視され、否定され、排除されてきた。そのため、
「小さな
は現代社会においてフード・セキュリティの問題はもう解決された
物語」
は歴史の表舞台に出にくかった。いや、出てはいけなかった
と錯覚に陥ることさえある。
のである。
ロシアはさまざまな特殊な事情を抱えているとはいえ、このよ
うな構造変化は、18 世紀から、特に 1861 年の奴農制度廃止以降
2. はじめに
に加速したと考えられる。都市化と都市人口の増加がそれを端的
に示している。例えば、1913 年にロシア総人口の 5 分の 4 を占め
ロシアはヨーロッパの一員に数えられながら、アジア的な要素
ていた農民は、1950 年代半ば以降は半分以下までに減った。そし
も色濃く感じられる。宇宙開発、軍事産業など G7諸国と肩を並
て、1980 年代以降は先進国並みの水準に達した 2。しかし、ロシ
べた分野もあれば、そうではない分野も数多く存在する。また、
アの事情はヨーロッパ、アメリカ、日本、そして社会主義国であ
ロシアは自然資源が豊富で広大な土地を持ちながら、長いあいだ、
る中国とも大きく異なることに注意しなければならない。本論の
飢饉、モノ不足を経験してきた。政治、政策制度だけではなく、
趣旨からそれるため詳しくは述べないが、ロシアの農業は、政治
天候、自然状況に影響される農業はロシアがかかえる矛盾を最も
や政策に翻弄されてきた過去を経験したが、農民の菜園
(副業)
、
よく、そして象徴的に示していると思われる。
市民のダーチャで作られたジャガイモ、野菜や果物が大きな比重
物質的に著しく豊かになった 20 世紀になってからも、ソ連・ロ
を占め、人びとの生活の安定に重要な役割を果たしたと言っても
シアでは、飢饉が度々発生し、それによって大量の命が奪われた。
過言ではない。
例えば、スターリン政権下で実施された農業集団化によって悲
最近になって、ロシアの農業集団化、農業や食に関する研究は
劇的な食糧不足がおこったことは、象徴的な出来事であった。旧
日本語文献を含め急速に増えているが、農民の「副業」である菜
ソ連の農業政策は国内事情、国際事情
(特に冷戦対立)
によって、
園や市民のダーチャがどのような状況下で形成され、どのような
大きく変化したが、ソ連が崩壊するまで、国家の強い統制下で土
役割を果たしてきたかを、人びとの対応に視点をすえた実証的な
地などをめぐる自由な取引と生産の主体性が厳しく制限されたこ
研究はまだあまり見られないように思う3。特に、ダーチャと人び
とは一貫して続けられた。しかし一方、ロシアの強権的な国家の
ととの関係に関する研究は大変稀である。
存在は、農民や市民に「自分の生活
(食糧)を自分で守る」道を開
本論では市民の台所を支えてきたダーチャに注目し、2004 年
いたとも考えられる。言い換えれば、食糧の確保は常に国家戦略
から 2006 年にかけてクラスノヤルスク市で見聞したことを通して、
にとっての問題だけではなく、一般市民、農民にとっても自ら考
え、判断し、そして実践しなければならないことでもあった。特
2
に、戦時下や政治混乱期においては、人びとの行動は自分の生活
3
2009 年のロシアの統計によると、ロシアの総人口は 1 億 4,000 万人以上で、
そのうち都市人口は約 1 億 1,000 万人である。
例えば、奥田央編『20 世紀ロシア農民史』
(社会評論社、2006 年)
など。
80
食料と人間の安全保障
転換期における「ダーチャ」と人びとの生活
ソ連崩壊後の歴史の転換期におけるダーチャと人びととの関係を
120
記述する。そして市場経済の影響がますます強くなるなかにおけ
100
81
るダーチャの役割の変化を考察する 4。
80
3. ダーチャとフード・セキュリティ
独立農民経営
60
住民の副業経営
40
20 世紀初頭、モスクワ郊外のダーチャについて張
偉は文豪チェーホフを引用しながら以下のように描写
20
している。
0
1986
農業企業
1988
1990
1992
1994
1996
1998
2000
2002 (年)
図1 農業生産量の経営類型別推移
(1990 年の総生産量=100)
*住民の副業経営がダーチャによるものである。出所:山村理人 2009 年。
昔、村には地主と農民しか住んでいなかった。
しかし、いまはダーチャに住む都会人が現れ、
全ての都市、無名な小さな町までもダーチャに
ソ連崩壊後、もともと基盤が弱かったロシアの農業は深刻な状
包囲されようとしている。20 年後にはダーチャに
住む人は何倍も、何十倍も増えていることだろう。
写真1 モスクワ郊外に広がるダーチャ区
況に陥った。この危機を乗り越えるために、また、土地に関する
そして、いまはベランダで優雅にお茶を楽しんで
取引の自由化が進んだという背景もあり、ダーチャは大いに注目
いるが、あまり時間を待たずに、彼らは農民のように手に鋤
された。プーチン政権下でロシアの経済は回復し、中央省などで
を握り、畑を耕すことだろう。
(張偉 1959)
は農業の改革が進められ、また農産物の輸入も増加したが、ダー
チャでとれた作物の比重はそれによって大きく変動していない。む
チェーホフの指摘はロシアにおけるダーチャの普及、ダーチャ
しろ増加している
(図 1を参照:山村理人 2009)
。
の変化を見事に捉えている。
いまダーチャの利用は地域や家庭の経済状況、趣味、交通手
ロシア人にとって、ダーチャとは郊外にあり、ジャガイモ、野菜、
段などによって多様化する傾向にある。しかし、菜園としての機能
果物、花を栽培し、自然を感じる場所である
(写真1)
。毎年 5 月
(ジャガイモ、野菜、果物、花などを栽培する)
の重要性には根本
から 9 月にかけては「ダーチャ・シーズン」
といわれ、モスクワ、サ
的な変化はない。特に年金生活者や低所得者にとって、ダーチャ
ンクトペテルブルクなどの大都会では週末になるとダーチャに行く
は生活の一部分であり、なくてはならない存在である。
車で町が大渋滞になるなど、ダーチャと人びとの生活との関係は
大変深い。特に、フード・セキュリティの観点から見た場合、そ
4. ダーチャとは
の重要性は一層明白である。
ロシアの統計
(1997 年)
によると、ロシア全体では 2,200 万世帯
そもそもダーチャとは何であろうか。露日辞典などではダーチャ
がダーチャを所有しており、その総面積はおよそ182 万ヘクタール
を「別荘」
と訳している。訳は間違いではないが、私たちが考えて
である。ダーチャで栽培した作物は、ロシアの作物の全体におい
いる別荘とロシア人が利用している別荘=ダーチャは大きく異な
て、
ジャガイモの90パーセント、
果物の77パーセント、
野菜の73パー
る。場合によっては別のものと考えてもいいぐらいである。
セントを占める。
ロシア語文献によると、ダーチャはピョートル大帝の時代にす
でに存在したといわれる 5。しかし、ほとんどの家庭がダーチャを
4
本論は筆者が 2004 年から 2006 年にかけてロシアで経験したことに大き
く依存しているが、その後の電話インタビュー、および短期調査によって
得た資料も参照している。
5
ダーチャの語源は「ダーチ」=「与える」という意味である。皇帝が功臣や
貴族に
「土地」
を与えることに由来している。
82
食料と人間の安全保障
転換期における「ダーチャ」と人びとの生活
持ち、全国的に普及した
のはソ連時代になってか
今の同市の中心部当たりで要塞を作ったことから始まったと言わ
②ソ連崩壊後
(1991年∼)
①ソ連時代
国家
らである。
ソ連時代、政府は慢性
国家機関
市場
企業等
的な食糧難を克服するた
め、農民には 0.2 ヘクター
ダーチャ管理組合
ル
( シベリア で は 1 ヘク
ダーチャ
タール)
、都市住民には 6
アールの土地利用を許可
待遇・奨励
菜園:野菜、
ジャガイモなど
ソ連 時 代 、ダーチャは
政府、企業から与えら
れ、取引は禁止され、定
められた目的以外の利
用も認めなかった。
しか
し、1991年以降は法と
制度の改革によって、
ダ
ーチャの管理は政府か
ら不動産会社に移り、
自由に取引ができるよ
うになり利用の形態も
多様化した。
不動産会社
れている。要塞を作った当初の目的は身を守ることであったが、
ロシア人の支配地域が拡大するにつれて先住民から毛皮を集める
場所として機能し、さらに帝政ロシアのシベリア開発の拡大に伴
い、人口が徐々に増え始めた。しかし、クラスノヤルスク市が今
ダーチャ管理組合など
ダーチャ
日ある形を形成したのは第二次世界大戦中からである。1930年代、
ソ連のヨーロッパ部分に危機が迫ってきた頃、多くの工場がソ連
のヨーロッパ地域からクラスノヤルスク市や同市の周辺地域に移
利用目的の多様化
転した。第二次世界大戦後、
クラスノヤルスク市はヨーロッパから、
そしてアメリカからも遠く離れている位置にあったため、工業化に
し、ジャガイモ、野菜な
どの栽培を認めた。無償
83
図 2 ダーチャのソ連崩壊後の変化
並んで軍事産業も発展した。
で土地が与えられたとは
クラスノヤルスク市はクラスノヤルスク地方の中心都市で、
いえ、ほとんどの場合、その土地は農村周辺や森のなかの未開
2005 年の時点で総人口は 91万人である。クラスノヤルスク市は大
拓地であったため、作物栽培ができるまでには大変な苦労が費や
河エニセイ川を挟んで西と東に分かれ、かつての要塞は西側にあ
されたといわれている。ダーチャが増えるとダーチャ区が形成さ
り、いまは政府関係の建物や文化施設が集中している。東側は
れ、
「ダーチャ組合」
が作られ、管理された。当時は畑の広さ、栽
1930 年代ヨーロッパ地域から多くの工場が移転することに伴い広
培できる作物の種類
(飼養は基本的に認めない)
などが決められて
がった地区で、いまも工場から出る煙で町は深刻な被害を受けて
おり、ダーチャで建造物を立てることは認められなかった 6。
いる 8。
すでに触れたように、ダーチャはソ連崩壊後深刻な食糧難や土
クラスノヤルスク市の郊外には至る所にダーチャが見られる。
地制度の改革に伴い大きく変化した
(図 2 を参照)
。変化の特徴と
クラスノヤルスク市のダーチャ組合の Web サイトによると、クラス
しては利用の多様化
(後述)
が挙げられる。結論を先にいうとダー
ノヤルスク市の約 70 万人が郊外でダーチャ、あるいは畑を持って
チャは国家権力によって与えられた「ご褒美」
から市場で取引する
いる。ダーチャの総数は 30 万戸
(そのうち18 万戸は組合に未登録
「商品」
へと変わりつつある7。
の状態)で、この 30 万戸のダーチャを1,042 のダーチャ組合が管
理している。かつて、人びとはダーチャを持ったとき、組合に入り、
5. 調査地の概要
組合費を払い、組合に道路の建設や修理を依頼し、またダーチャ
区の治安を維持してもらっていたが、近年は森を開拓しダーチャ
クラスノヤルスク市は 17 世紀にロシア人がエニセイ川を南下し、
を作る場合も、またダーチャの売買も住民同士間で行われ、組合
を通さない場合が多く、組合の機能は大きく低下しつつある。
6
7
「個人副業経営規則」
などの政府規定によって、ダーチャでの活動は管理
されていた。
ソ連時代には土地は国家の所有物で、土地に関するあらゆる取引は全面
的に禁止された。しかし、ペレストロイカ期にソ連時代の制度は農業不
振を招いたと考えられ、1990 年 2 月にソ連土地基本法が採択され、土地
改革が開始された。特に 2001 年 10 月に「土地法典」が採択されてから、
ロシアの土地改革は新しい局面を迎えた
(取引の自由化、手続きの簡潔化
など)
。さらに、ダーチャの利用に関しては、2006 年に採択された「不動
産登録手続き簡易化に関する法」
(ロシア人に「ダーチャ恩赦法」
と呼ばれ
ている)
によって、ダーチャを売ったり、買ったりする、いわゆる取引の自
由化が進んだと考えられる。
ロシアのヨーロッパ地域と比べて、クラスノヤルスク市は都市
化が遅れただけではなく、気候も大変厳しい
(寒い)
ため、ダーチャ
の利用開始は大変遅かった。今記録されているのは 1930 年代ぐ
8
東地区にはアルミ工場を初め重金属の工場が多く、ロシアで最も汚染が
深刻な町のひとつである。ソ連時代汚染は隠されていたが、ペレストロイ
カ以降は調査研究が進められ、公開され、その実態が知られるようになっ
た。東地区は西地区に比べてアパートの家賃は安い。これも町の汚染と
関係している。
84
食料と人間の安全保障
転換期における「ダーチャ」と人びとの生活
85
ダーチャ 2
写真2
リリヤたちのダーチャの一部
写真3
リリヤたちのダーチャで取れた野菜
ダーチャ 3
ダーチャ 1
2004 年 9 月、筆者は彼らと一緒に彼らのダーチャを訪ねた。た
くさんのダーチャが密集し、ダーチャの周りを森や林が囲み、ダー
図 3 ダーチャ 1、2、3 の位置
注:この図はグーグルが提供しているサービスを利用して作られた。
個人情報を保護する観点から、この図は調査したダーチャの大体の位置を
示す程度にとどまっている。
チャ区はひとつの集落になっている感じがした。実際、人びとは
よく協力しあい、常にコミュニケーションをとりながらダーチャを
利用していた。例えば、物を借りる、また、人手が足りない時は
らいからである 9。クラスノヤルスク市ではダーチャは 1970 年代か
力を借りるなど色々な形で協力し合っていた。
ら、特に 1980 年代末から急速に増えた。
リリヤたちのダーチャには畑、木造の家、バーニャという蒸し
ここでは、3 つの事例を紹介し、ダーチャ利用の実態を考えたい。
風呂、農具などを入れるための小屋、畑に水を入れるための缶、
5.1 リリヤ
(50 代、女性)
の場合 10
周りのダーチャも同じような構造であった。ダーチャには井戸が
簡単なトイレなどがあった。ダーチャ全体の面積は6アールである。
リリヤはクラスノヤルスク大学の事務員で、家族構成は娘と 2 人
11
ないため、雨水を貯めて利用する。自分が貯めた水が不足した場
で、クラスノヤルスク市の中心部の市営住宅に住んでいる 。リリ
合、井戸がある右隣のダーチャに分けてもらう。電気は通ってい
ヤはダーチャを持っていない。彼女の場合、両親が所有するダー
た
(電気、道路などはこの地区を管理する組合が行う)
。
チャを両親と一緒に利用している。
リリヤの話によると、最近経済が良くなり贅沢な時間
(休暇、遊
両親のダーチャは市の南にあり
(図 3 の
「ダーチャ1」
を参照)
、リ
びなど)
を過ごすためのダーチャも増えているが、彼女たちの場合
リヤの家からは車で約 40 分かかる。ダーチャは 1980 年代リリヤ
は、父が労働者で、母が主婦だったので、生活があまり良くなかっ
の父が機械工場で働いていた時、企業組合から与えられたもので
た。そのため、ダーチャは昔も今も生活を支える存在である13。
ある。リリヤの父の話によると、組合に指定された土地
(ダーチャ)
特に父と母はジャガイモ、キュウリ、トマト、ピーマン、キャベツ、
は雑草と木が生茂る未開拓地で、道路や水道もなかった。会社の
カボチャ、ネギ、ビーツ、ニンジンなどを栽培し、夏のほとんど
同僚、親戚、友人などの助けを借りて、約 2 年間の時間を費やし
の時間をダーチャで過ごす
(写真 2、3)
。昔、ダーチャには建物を
てやっと作物を栽培できる環境が整えられたという12。
作ってはいけなかった。ダーチャの周りには自然以外に何もなかっ
たので、今のように長期滞在はできなかった。リリヤの小さな木
9
10
11
12
データは http//kprifkrask.ru/content/view1166/2
(2009 年 12 月)による
ものである。
本論のインフォーマントの年齢はすべて 2010 年現在のものである。
筆者は 2004 年 9 月から 2005 年 2 月までリリヤの家に滞在した。この部分
データは彼らと一緒に生活した時に得られたものである。
2 年間といっても、平日は会社に勤務しているので、大体は 2 年間の週末
の時間と夏季休暇の時間を利用したことになる。
造の家は 2001 年、二階建ての寝泊まりもできる家に改造された。
リリヤも両親も車を持っていない。しかし、バスや電車がダー
チャの近くまで通っていないため、車がないとダーチャには行け
13
調査時点で、リリヤの両親は年金生活者であった。
86
食料と人間の安全保障
転換期における「ダーチャ」と人びとの生活
87
ない。リリヤたちがダーチャに行くときは、ほとんどの場合リリヤ
キャベツはスライスし、塩漬けして保存することもある。
の友人か従兄に頼んで送ってもらう
(リリヤたちがガソリン代を出
リリヤの母の話によると、ジャガイモ、ニンジン、ビーツはほ
す場合もある)
。彼らは車の運転、さらに畑仕事の手伝いもする。
ぼ毎日消費するが、市場から買うことはほとんどない。ジャム
(自
毎年の 5 月からリリヤの両親はダーチャに通い始め、畑の手入
分のリンゴの木でとれたリンゴや近くの林で取れた木の実などで
れをし、栽培の準備に取り掛かる。天候にもよるが、5 月末頃か
作る)
やハチミツ
(リリヤの叔父からもらう)
もほとんど自家製で足
ら 6 月にかけてジャガイモや野菜の栽培を始める。この頃からリリ
りるという。
ヤの両親はほとんど街に戻らず、畑の世話をし、ダーチャで過ごす。
リリヤたちは自分で消費する目的でダーチャの畑を作っている
リリヤは週末を利用し、両親がほしいものを届け、畑仕事の手伝
が、ジャガイモ、ニンジン、ビーツの 2 割、野菜の 4 ∼ 5 割、ジャ
いもする。少し暑くなると、親戚や友人たちを誘ってしばしばダー
ム、漬物の 1 ∼ 2 割は親戚や友人たちに贈答している。また、少
チャでパーティを開く。リリヤの従兄
(30 代)
はお金持ちのロシア
し売る場合もある。
人は海外に行って過ごすが、お金がない貧乏なロシア人はダーチャ
ダーチャで取れたものが食卓にのぼり、どのように消費されて
で過ごす、これがロシア流だという。
いるのかを2004年10月2日の献立を例に見ると以下のようになる。
ダーチャの仕事は 9月後半、
時には10 月まで続く。9月になると、
リリヤは筆者とダーチャについて話しをする時、
「ダーチャ」
とい
街の中は急に年配者が増え、いたるところで、自家製のものや森
うことばはほとんど使わない。代わりに
「オゴロド=菜園」
というこ
から取ってきたものを売る人を見かける。しかし、最近、町にスー
とばを使う。リリヤは金を持っていないから、ダーチャで重労働
パーが増え、モノが入手しやすくなったため、秋になって自家製の
しなければならないと思っている。リリヤの娘オーリャも母親と同
野菜、ジャム、ハチミツや漬物を売る人が大きく減っている。
シベリアの大変厳しい環境の中で、ジャガイモや野菜を育てる
のは大変な仕事で、多くの労力と努力が必要だが、一年の半分以
上が零度以下、あるいは零度近くという厳しい自然条件のなかで、
収穫したものを保存するのも大変な仕事で、さまざまな工夫が必
要である。ジャガイモやニンジンは穴式倉庫に入れて保存する方
法が、シベリア地域では最も一般的な保存方法である14。ジャガ
イモは温度に敏感で、暖かいと発芽してしまい、寒すぎると凍っ
てしまうため、倉庫の中の温度を12 度前後に維持することがコツ
だという。もうひとつには塩づけし、瓶や缶に入れて密封して保
存する方法がある。
リリヤは自分の穴式倉庫を持っていない
(五階建てのアパートの
リリヤー家の献立
朝食の材料
①市場で手に入れたもの:パン
(黒、白二種類)
、紅茶、チーズ、ハム、
砂糖、クリーム、ミルク、ヨーグルト類
②自分で作ったもの、交換によって得られたもの:ハチミツ、ジャム、
キュウリの漬物、トマト
昼食と夕・夜食の材料*
①市場で入手したもの:塩、豆、パン、米、小麦粉、肉
(豚、或は
牛)
、たまご
②自分で作ったもの、交換によって得られたもの:ジャガイモ、ニ
ンジン、キャベツ、ネギ、キュウリの酢漬け、トマト、塩漬けト
マト
(緑色)
、ピーマン、塩漬け魚**、塩漬けキノコ***
三階に住んでいる)
ため、両親のところを利用している。ジャガイ
モとニンジンは選別してから、倉庫に入れる。キュウリ、トマト
(熟
注
*
していない緑のまま)は塩漬けし、瓶に入れて密封すれば長く利
用できる。キャベツやカボチャなどは倉庫の棚に並べて保存する。
14
基本的には家
(台所が多い)や倉庫の床に穴を掘り、そして穴の周りを木
やレンガで固定して作る。この地方では家の中で作られた場合は、4∼5
メートルの深さがあれば、保存に必要は温度が保たれる。ジャガイモや
ニンジンは土や砂の上におくが、野菜などは棚の上におく。
**
***
昼食はジャガイモ、ニンジン、キャベツ、塩漬けキュウリを肉と一緒
に煮込んだボルシチ
(ворщ)
で、夕食はソバ粥にジャガイモ・サラダ、
ニンジン・サラダであった。
塩漬け魚はエニセスク町に住んでいるリリヤの叔父が、エニセイ川や
その支流から取った魚
(マス類が多い)を塩漬けして送ってくる。リリ
ヤたちはお礼にジャムやハチミツ、塩漬けキュウリなどを送ることが多
い。
塩漬けキノコ
(作り方は取ったばかりのキノコを塩水で茹でる)はリリ
ヤの友人からもらったものである。
88
食料と人間の安全保障
転換期における「ダーチャ」と人びとの生活
89
じ考えである。しかし、リリヤの両親は彼女たちと違う考え方を
と一緒にダーチャに滞在するのが大きな楽しみになっているとい
持っている。畑の仕事は大変だが、ダーチャの空気は綺麗だし、
う15。
自然に触れることもできるので、ダーチャの生活はとっても健康的
2007 年エリーナは年金生活者となった
(ロシアの女性の退職年
だという。ダーチャについて見方は分かれるが、ダーチャを必要
齢は 55 歳)
。退職後、時間的な余裕が生まれ、そして何よりも孫
としていることには変わりはない。
と一緒に過ごしたい気持から、エリーナは冬を除いた時間のほと
んどをダーチャで過ごすようになった。
5.2 エリーナ
(58 歳、女性)
の場合
近年エリーナのようにダーチャに長期滞在する人が増えている。
エリーナはトレーナー会社で販売部門の部長を務め、クラスノ
その理由は様々であるが、エリーナは以下のように考えている。
ヤルスク市の大学に通っている息子
(ワロージャ)
と 2 人で、同市の
大学が集中している地区
「学園都市」
の市営住宅に住んでいる。
クラスヤルスク市では、経済状況はよくなっているが、退
エリーナは 1997 年、夫と一緒に同僚
(エリーナの夫の同僚)が
職後の再就職は簡単ではない。また、簡単に利用できる公
所有していたダーチャ(畑と土地だけ)
を買った。ダーチャは森の
共施設も少ないため、退職後ほとんどの時間をひとりで家で
なかにあり、面積も広い。エリーナたちは週末などの休みの時間
過ごすしかなかった。また、元の同僚や友人たちも仕事で忙
を利用し、友人や同僚たちと一緒に、二階建ての木造の家
(250
しく、あまり訪ねて来ないため、寂しさと孤立感を感じた。
平方メートル)
を建て、さらにプール
(8 12 メートル)
も作った
(図 3
しかし、ダーチャに長期滞在するようになってからは精神的
「ダーチャ 2」
を参照)
。しかし、ダーチャが完成して間もなく
(1999
によくなった。ダーチャでは自然が相手になってくれるので、
年)
、エリーナは病気で夫を亡くした。
あまり孤独感や不安感を感じない。また、子どもは大自然の
2005 年 5 月末、筆者はエリーナとワロージャと一緒にダーチャ
中で成長するのが一番理想と思うし、ダーチャはまさにその
を訪ねた。私たちはエメリヤーノブ村の近くに車を止め、森の中
ような場所である。暖かい季節になると、孫はほとんど外で
を約 15 分歩いてダーチャに到着した。2 週間前、ワロージャは友
過ごしている。
人を連れて、
畑を手入れしたため、
この日は筆者とワロージャはジャ
ガイモを植え、ニンジンの種を蒔いた。エリーナは花の種を蒔い
エリーナはさらに、息子夫婦は週末にダーチャで一緒に過ごす
た。近くに川があり、筆者はワロージャと一緒に川水をタンクに
ことが多く、ダーチャは一家が集まる場所にもなっているという。
いれ、タンクをリヤカーに乗せ、ダーチャに運んだ
(約 200 メート
退職後の時間をどのように過ごすかは収入状況や家族構成など
ル離れている)
。そして、運んだ水を畑に撒いた。合計 7 時間の労
によって異なるが、年金生活者の中には、ダーチャに長期滞在し、
働であった。市のアパートに戻った時はかなりの疲れを感じた。
畑を耕し、あるいは花を植え、自然を楽しむ人が増えている。こ
その後はキュウリとトマトも植えた。筆者は 7月から 8 月にか
の変化
(週末の利用から長期滞在へ)
には経済的な理由があるが、
けて調査に行ってクラスノヤルスクにいなかったが、エリーナとワ
市場経済を導入後の都市部の変化も考えられる。つまり、クラス
ロージャは、時に一緒に、時に交代で作物の世話をした。9 月に
ノヤルスク市の経済状況はよくなり、町には活力が戻り、モノも
クラスノヤルスクに戻った時、ダーチャで作ったジャガイモ、野菜
豊かになりつつあるが、一方、個人と社会との関係が薄れ、社会
は毎日にように食卓にのぼっていた。
との接点が減っている。すでに述べたように、ダーチャの利用は
2006 年 2 月、ワロージャは市内にてエリーナの車を廃車にする
社会関係に大きく依存している。その社会関係が変化すれば、利
事故を起こしたため、ダーチャに行く交通手段が無くなった。そ
用方法にも影響が及ぶと考えられる。
のため、2006 年には作物を作ることができなかった。さらに、
2006 年 12 月、ワロージャは結婚し、エリーナから離れて独立した。
エリーナの話によると、2006 年を境に畑は作っていないが、孫
15
2009 年 9 月筆者はロシアのチタ市でエリーナと再会した。彼女からダー
チャについて色々話を聞くことができた。
90
食料と人間の安全保障
転換期における「ダーチャ」と人びとの生活
91
5.3 ワロージャ(51歳、男性)
の場合
学や仕事を求めて都市部に流れ、人口が大幅に減ったため、空き
ワロージャはクラスノヤルスク市の南にあるシフノコルスクとい
家が増えた。一方、都市の人は食糧や自然を求めて郊外や農村に
う村に生まれ、大学時代をモスクワで過ごした。卒業後はクラス
注目するようになった。このふたつの条件が重なり、村の空き家
ノヤルスクに戻り、2005 年筆者が彼と知り合った時は国立師範大
をダーチャにする人が現れたという。
学の歴史学の先生を務めていた。ワロージャの家族は妻、長女、
もし村がなかったら、ダーチャの普及も考えにくい。どの地域
長男の 4 人である。
のダーチャにも共通しているのは、村に隣接して作られていること
ワロージャのダーチャは彼が少年時代を過ごしたシフノコルス
である。農業集団化時代、多くの村に道路、電気、水道が整備
クの家である
(図 「
3 ダーチャ 3」を参照)。彼はクラスノヤルスクの
された。多くの地域ではこのような条件
(インフラ)がダーチャの
高校に進学するため、シフノコルスクを離れたが、彼の両親や姉
普及につながったのである。ソ連時代、工業は大きく発展し、そ
がシフノコルスクの家にのこっていたが、彼の姉が地元の人と結婚
れに伴い都市部の人口が増えたが、農業の発展は遅れた。その
し、家を離れ、また彼の父が病気で亡くなった後、母がクラスノ
ため、食糧問題は常に緊張状態にあり、政策の失敗や自然災害
ヤルスクに引っ越ししてきたため、シフノコルスクの家には住む人
に遭遇するとすぐ食糧不足の状況に陥る。言い換えれば、度重な
がいなくなり、ワロージャはこの家をダーチャとして利用するよう
る食糧難の問題がダーチャの普及を促したと言える。
になった
(写真 4、5)
。
シフノコルスクは山とエニセイ川に挟まれ、土地が狭い地域で
6. 終わりに
ある。ワロージャたちの畑もやはり広くなかった。ワ
ロージャの父は地元の小学校の先生だったが、母は
すでに述べたように、ダーチャに対する政策、法制度は大きく
農民だった。ワロージャによると、ソ連時代、この小
変化した。ここでひとつの情報を加えると、ソ連時代、ダーチャ
さな菜園だけに自分たちが消費するジャガイモ、野菜
には住所がなかった。つまり、ダーチャがあった場所で住民登録
を栽培することが許されていたため、ワロージャの母
ができなかった
(認められなかった)
。ダーチャは国家の所有物で
はいろいろ工夫して、できるだけ多くの種類のものを
あり、ダーチャを利用する人も組織によって管理された存在であっ
作ったという。またロシアになってからもワロージャ
た。しかし、いまダーチャは不動産会社を通じて自由に売買でき
の両親はジャガイモ、野菜、ジャムなどを作り、ワロー
る物件
(商品)になった。町の中心でマンション買うことも森のな
ジャたちに分け与えていたという。
ワロージャの生家がワロージャのダーチャになって
からも、いろいろな作物を作っていたが、ワロージャ
もワロージャの妻も仕事で忙しく、来られる日が少な
かでダーチャを買うことも買う側の選択であり、法律や行政によっ
写真 4 右側にすわっている方がワロージャで、
2005 年11月筆者が彼のダーチャを訪ねた時
の様子。テープルの上に見える果物は菜園で取
れたものである。
て規定されない。実際、ネット上で不動産会社の広告から個人が
のせた情報まで、ダーチャに関する取引情報は多く流れている。
さまざまな設備を備えた、冬でも快適に過ごせるダーチャも現
いため、実際畑の世話はワロージャの姉一家が代わ
れている。このようなダーチャはいまのところ交通が便利な、商
りにやっていた。
業施設もある程度整っている場所に建設されることが多い。また、
2005 年 11月、筆者はワロージャと一緒に彼のダー
実際、ダーチャを生活の中心にする人も現れている
(年金生活者
チャを訪ね、彼の姉夫婦に知り合った。その時聞い
などが多い)
。
た話だが、ワロージャの姉夫婦には子どもが 2 人いて、
近年、外国から野菜、果物や食料品を大量輸入するようになり、
クラスノヤルスクの大学に通っているが、高校の時か
食品安全問題が浮上している。食品安全の立場から、ダーチャの
ら主にワロージャが面倒みているという。
重要性を再認識する動きが都市を中心に見られる。自分で栽培し、
ワロージャによると、1990 年代以降、ロシアの農村、
特にシベリアの農村は深刻な状況に陥り、若者は進
作ったものは一番安全であり、安心して食べられる。また、食文
写真 5 シフノコルスク村一角
化ブームもこの動きと相乗関係にある。ロシアの食文化は大変保
92
食料と人間の安全保障
転換期における「ダーチャ」と人びとの生活
93
守的で、変化があまり感じられないといわれている
(石毛 2005)
。
実現していないなど課題が多く残っているため、ここでは理論的
このことが正しいかどうかは別にして、ロシア人が自分の食にこだ
考察を避け、研究の可能性を示すにとどめたい。
16
わり、愛着を持っているのは確かなことである 。
本論文では歴史の転換期において、社会システムが十分機能
しなくなったとき、ダーチャが注目され、そしてどのように利用さ
引用文献
れてきたかを見てきた。国や地域社会の変化に伴い、ダーチャの
奥田央編
利用が多様化していることについても触れた。これらの記述から、
以下のことを少し強調しておきたい。
ダーチャは制度的に作られたものであるが、社会状況
(出来事)
に応じて人びとはその形を大きく変えつつある。また、フード・セ
キュリティの問題は経済状況だけではなく、世帯構成、親族関係、
社会的なネットワークとも密接に関連している。さらに、フード・
セキュリティの確保は社会関係の構築の問題でもある。
最後に、
ダーチャと地域文化との整合性も考えられる。ダーチャ
で作る作物は各家庭の台所が必要としているモノ
(食糧)
ばかりで
ある。それは地域の習慣、地理的な条件とも一致している。
「国民経済」
を制度的なものと考えるなら、ダーチャは出来事の
経済と言える。国全体で体系化、均一化を図り、常に「成長」を
追い求める「国民経済」
と異なり、ダーチャは地域、主体によって
多様であり、人びとが置かれている状況に応じて利用の目的、方
法も変化し得る。
また、見てきたようにダーチャの利用方法はいろいろ変化して
いるが、食糧を確保する、少なくとも自分で消費するジャガイモ
や野菜を作る場所
(=菜園)としての機能は今現在でも健在であ
る。また、ダーチャで作った作物は各家庭が消費する食糧を供給
するばかりではなく、親戚、友人などの社会関係の中でも流通さ
せており、その関係を依存しながら関係維持にも作用している。
従って、ダーチャのフード・セキュリティの機能は歴史転換期に
おいて大きくなった。ロシアの社会状況の改善と人間関係の流動
化、個人化で、フード・セキュリティの重要性を維持しながら多様
化している。
しかし、ダーチャが最も集中しているモスクワ郊外での調査も
16
近年ロシアではファースト・フードや日本料理などの外来食が大変流行し、
都市部を中心に食文化の変化も感じられる。しかし、ロシア人にとって、
特に普通の人びとにとっては従来の食が最も基本であり、身近な存在で
ある。
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農家の屋敷地から見たベトナムにおけるフード・セキュリティの歴史的見取り図
95
農家の屋敷地から見た
ベトナムにおけるフード・セキュリティ
の歴史的見取り図
住村 欣範
「食料」
と
「食糧」
の使い分け方:
量を示す場合は「食糧」
を、その他
の場合は
「食料」
を用いた。
大阪大学グローバルコラボレーションセンター准教授
ベトナムのキン族は、近代化の進む今日でも人口の 7 割が農村
に居住し農業を生業としている。キン族の農家は伝統的に自給自
足性が高いとされているが、水田と共にその自給自足の中心に位
置しているのが、屋敷地で行われるVAC 農法
(vườn:家庭果菜園、
ao:自家用池、chuồng:家畜小屋)と呼ばれる複合農法である1。
キン族の農民の主要な生業は水稲農業であるが、農家の敷地
には、それを補完するものとして、家庭果菜園、池、家畜小屋が
存在する。キン族が家を建てる際、農村部では、まず、穴を掘っ
てその穴から出た土を盛って基礎とし、その上に家屋を建てるの
が普通であった。そして、掘った穴には自然に水がたまり池にな
る 2。さらに、台所のある棟に近いところに家畜小屋を建て、裏庭
に果樹や野菜を植えると VAC は完成する。
VAC についてのこれまでの研究では、主に
「資源循環」
と貧困削
減に向けた
「経済的有効性」
の側面が注目されてきた。これに対し、
本論では、
「循環」
と
「経済」
以外の側面についても考慮しつつ、屋
敷地の農業生産の意味の変遷について検討し、ベトナムにおける
フード・セキュリティの変遷について歴史的考察を試みたい。
1. ラン・オンにみる
「地産地消」の思想
ベトナムは、紀元前 2 世紀から紀元後10 世紀にいたる1,000 年
1
2
現在では村レベルで資源を循環させる VAC 農業も試行されている。
ただし、池と家畜小屋は、VAC に必須のものではない。ベトナム国立栄
養研究所が 2005 年に Bắc Giang 省で行った調査結果を、筆者が集計しな
おしたところ、家屋の面積の平均が 50 平方メートル程度であるのに対し、
果菜園の面積の平均は、1,500 平方メートルにも及ぶ。また、果菜園がほ
ぼすべての世帯に備わっている
(95 パーセント)
のに対して、池は 57パーセ
ント、家畜小屋は 62 パーセントの世帯が備えているに過ぎなかった。
96
食料と人間の安全保障
農家の屋敷地から見たベトナムにおけるフード・セキュリティの歴史的見取り図
97
以上もの間、中国の直接支配を受けた経験を持ち、植物利用に
屋敷地と同じの多くを身近な食品として用いていたことが分かる。
関する知識についても、中国からの多大な影響を受けたことは間
また、
『女功勝覧』
では、主として植物を日持ちのする食品に加工
違いない。しかし、逆に、現在のベトナムに相当する地域で産出
する術が紹介されており、加工せずに日常的に用いられる葉物野
される香辛料は、中国道教の医療的側面に不可欠のものとして認
菜については、はじめから同書の記述の対象になっていない可能
識されていたと言われており
(大西 1998: 44-45)
、中国から見て
性が高い。
南方地域で産出される植物が本草学の形成に逆に影響を与えた。
この書の中で、ラン・オンは値段が高くて入手の難しい北薬
(漢
11 世紀になるとベトナムではキン族の王朝が中国から独立し、
方薬)
よりも、身近にあって容易に利用できる食材の利用をすすめ
その後、後述する トゥエ・ティン
(慧靖 Tuệ Tĩnh)
が『南薬神効』
(14
ている。中国産の北薬に対するベトナムの植物利用
(南薬)
の独自
世紀と17 世紀の両説あり)
(Tuệ Tĩnh 1998)
、ラン・オン
(懶翁 Lãn
性の主張である。そして、その独自の植物利用法は、その「地」
に
Ông)が『海上医宗心領』
(1770)といった医書を著した
(Lãn Ông
根差したものであり、究極的には農村の家族世帯の中で認識され、
2005)。その過程では、
「南薬」というという概念に典型的に見ら
育まれ、継承されていくべきものとして提示されている。今でい
れるような、ベトナムの農民の生活環境に基づいた薬用・食用植
うところの「地産地消」
に通じる思想であり、その中には、以下の
物利用体系が作られていった
(Hoang Bao Chau et al., 1993)
。
また、
節で変奏されて現れる主題、
「食」と「健康」と「環境」がすでに埋
少なくとも、ラン・オンの時代には、ベトナムにも中国の
「薬食同源」
め込まれているように思われるのである。
とよく似た考え方が存在していたと考えられる。
このラン・オンの著書の中には、ベトナム独自の植物利用を意
2.「VAC」の誕生
識した『女功勝覧
(Nữ Công Thắng Lãm)
(
』1760 年)という料理指
南書がある。ラン・オンの前書きによれば、この本は、社会生活
次に近代における農業生産の変化について見てみたい。1950 年
をより豊かなものにするよう、女性に対して奨励するために書か
代後半に行われた農地改革によって、自作農が増え一時的に農業
れたものであり、食品の調理法
(レシピ)
のほか、桑の栽培、養蚕
生産量は向上した。しかし、その後、集団化が進むと生産は再び
など「女性の仕事」
について記述されている。
『女功勝覧』
が書かれ
停滞し、1970 年代には食糧を輸入しなければならなくなっていた。
た18 世紀は、朱子学がベトナムに伝わり、農村においても性別役
さらに、この時代には、地域ごとに農地の面積の 5 パーセントを
割分業が進んだといわれる時代だけに、本書はジェンダー論の観
自留地として農民世帯に配分し、世帯の裁量で生産を行い、自
点からも興味深い。
由市場と呼ばれる市場でそれを販売することができたのであるが、
ラン・オンは中国医学にも造詣の深い医師であったが、常に農
1970 年代の後半には、所得全体の 3 分の 2、場所によっては 9 割が、
民の傍らにおり、身近にあって容易に入手できるものによって健
自留地から得られていたという統計もある
(吉沢 1987)
。このよう
康を維持することを民衆に勧め、ベトナムの農民が暮らす環境に
なフード・セキュリティの危機的な状況の中で、ベトナム政府は少
あった、ベトナム独自の植物利用を推進した。
『女功勝覧』
のうち、
なくとも 3 つの対策を打ち出している。
食品の調理法についての部分には、ジャム、おこわ、菓子、豆腐
ひとつ目は、1980 年代以降、農村部で本格的に実施されること
などについて、152 種類のレシピが書かれている。そして、それら
になった産児制限である。ふたつ目は、家族小農経営への転換で
のレシピには 127 種類の食材が使われており、そのうち、3 種類が
ある。1981 年に出された党中央政治局第 100 号指令によって、農
鉱物、8 種類が動物性食品であり、残り117 種類が植物性食品
(う
業生産の個別請負制がはじめられた。これによって一時期生産
ち、米を原材料とするものが 3 種類、小麦を原材料とするものが
は向上するが、農地の請負が短期間であること、生産物の多く
1 種類)である。
を合作社への納入しなければならなかったことなどの制約があり、
その内訳を、現在の屋敷地で生産されている植物と比較してみ
1980 年代の後半には生産は再び停滞し、食糧不足は深刻度を増
ると、少なくとも18 世紀にはすでに、葉物野菜を除いて現在の
していった
(図1)
。このような状況を背景に、1986 年にドイモイ
食料と人間の安全保障
農家の屋敷地から見たベトナムにおけるフード・セキュリティの歴史的見取り図
(刷新)
が開始された。この政策によって、
5000
国営企業や合作社と並んで私的経営の
4500
4000
に基づいて、1988 年には、集団農業か
3500
党中央委員会第 10 号決議が行われ、翌
年、ベトナムは突然世界第 3 位の米輸出
国となった。そして、1993 年に出された
「農地法」によって、農民世帯の土地利
用権がより明確になった。
以上のような、土地と生産手段の私有
1000トン(輸出量)
発展が促進されることとなり、その方針
ら家族小農経営への転換を内容とする
1200
輸出量
輸入量
800
2500
600
2000
400
1500
1000
200
500
0
1960
300
が、指示に登場する
「家族世帯の樹園地」
であり、それは稲作がおこなわれる農地
0
1965 1970 1975
1980 1985 1990
1995 2000
実はこの動きと密接に関連しながら、そ
ではなく、各世帯が生活を営む屋敷地
290
に存在していたと考えられる
(図 2)
。
285
ところで、この屋敷地には、収入の
280
改善とはもうひとつの期待がかけられて
北部では239kg /人/年で
81年以来最低水準
いた。1980 年に、ベトナム政府は「食事
275
270
図1 輸出量と輸入量
(糯米換算)
化に向けた動きはよく知られているが、
うひとつ重要な土地があった。それこそ
295
3000
99
305
1000
1000トン(輸入量)
98
構造の改善」という研究プロジェクトを
1981
1982
1983
1984
1985
1986
1987
(モミ換算)
図 2 一人当たりの年間消費食糧
出典:Nguyễn Sinh Cúc (1995), Nông Nghiệp Việt Nam (1945-1995),
Nhà Xuầt Bàn Thồng Kê
提起するとともに、ベトナム国立栄養学
研究所を設立した。高名な軍医であった
トゥ・ザイ
(Từ Giấy)
大佐が、栄養学研究
所の初代院長に就任した。このトゥ・ザ
れと並行して、もうひとつの農業政策的な流れがあった。それが
イ院長こそが、国民の栄養状態の改善に農業生産の面から応える
樹園地を利用した園芸農業を奨励する流れである。例えば、ドイ
ために、VAC 複合農法を定式化した人物である
(Từ Giấy 1993)
。
モイ開始に先立つ1 年前の 1985 年末には、祖国戦線と林業省の連
VAC とは、庭の野菜や果樹、池の魚、家畜小屋の豚や家禽類
名で「植林による森の創成と園芸経済に対する奨励」
という指示 3
を組み合わせて資源循環を行う農法であり、現在では生産物を市
が出されている。この指示が出された背景には、戦争や経済的な
場に売り出すことが前提となっている。しかし、栄養学の専門家
活動のためにできた荒れ地に対する植林活動があるが、この指示
であるトゥ・ザイは、むしろ自家消費をするためのシステムとして、
4
の対象には、
「ホーおじさんの樹園
「家
(vườn bác Hồ)」と並んで、
ビタミンと動物性たんぱく質の栄養バランスのとれた食料の供給
族の樹園
(vườn gia đình)」
があげられており、実質的に、合作社
源であるVAC を思い描いていたようである。この意味で、トゥ・ザ
以外の主体が私的な農業生産を行う活動を奨励するものである。
イの考え方は本論のはじめに取り上げたラン・オンの視点に連なる
また、果樹園地や養魚池など現在の VAC を構成する要素につ
ものであると言える。
いては、第 10 号決議においても意欲のあるものに優先的に配分す
さらに、ドイモイの開始された1986 年には、栄養学や農学の
る政策がとられ、また、農地法の制定時には、他の通常の農地
専門家を顧問として、ベトナム園芸協会 Hội người làm vườn
(the
よりも長い貸与期間が規定されている。つまり、VAC において行
Association of Vietnamese gardeners、略称:VACVINA)が 設 立
われる農業生産では、私有の意味合いがより強調されているので
された。これまでの文脈をみてもわかるように、園芸協会の設立
ある。
には、当初 3 つの目的があった。土地の私有的利用の促進による
先に述べたように、合作社の時代においては、5 パーセント自留
所得向上、多様な食料源を身近に確保することによる栄養改善、
地においてのみ自由な土地利用と生産物の利用が許されていたと
荒廃した土地を回復する環境保護である
(Vietnam Gardening
される。しかし、これ以外に、家族世帯の農業生産にとって、も
Association 1998)。
その後の研究と施策の結果、ビタミンA不足による眼球乾燥症、
3
VIỆC TỔ CHỨC ĐỘNG VIÊN NHÂN DÂN TRỒNG CÂY GÂY RỪNG、BẢO VỆ
RỪNG VÀ PHÁT TRIỂN KINH TẾ VƯỜN
4
一般には、ホー・チ・ミンがハノイで執務をとった高床式住居の近くにあっ
た菜園を指すが、ホー・チ・ミンの教えとして、学校などで植林活動が行
われていたことから、同盟の菜園が他にもある可能性がある。
たんぱく質エネルギー不足による子供の浮腫・皮膚炎、ヨード不
足による甲状腺機能低下症など、ベトナムにおける栄養疫学上の
課題は、大きく改善されてきた。特に、食物の生産は大幅に改
善され、ドイモイ直後の 1980 年代末に早くも、国全体のレベル
100 食料と人間の安全保障
農家の屋敷地から見たベトナムにおけるフード・セキュリティの歴史的見取り図 101
あり、そこには、モノカルチャー化した菜園と、豚の飼育
(場所に
フード・セキュリティ関係年表
1900
1945
フランス植民地支配
日本
支配
1955
抗仏
戦争
1975
1985
1995
2005
物が植わっている。
生産
請負
合作社
(集団化)
200万人
→革命? 飢餓 → 餓死
日本軍の搾取↑
洪水等の天災↑
いる高齢者世帯や非農業世帯の屋敷地であり、VAC の三位一体
は不完全で、植物を育てる庭が中心であり、数十種類の多様な植
抗米
戦争
土地
革命
植民地支配による
食糧危機?
1965
よっては、養魚)
が典型的に見られる。もうひとつは、働ける人の
生産停滞
食糧不足
集団化の失敗↑
ベビーブーム↑
図 3 20 世紀以降のベトナムのフード・セキュリティ
ドイモイ
(刷新・開放政策)
300万人
→
飢餓
前者の壮年世帯の VAC は、ドイモイ以降のベトナム人の食の傾
向を典型的に反映している。つまり、菜食の減少と、肉食の増加
である。さらに言えば、これらの傾向は、ベトナムで急速に増え
てきた糖尿病などの生活習慣病とも関連性があると考えられてい
る。このような変化を背景として、ベトナムの栄養学分野の研究
者たちはシンポジウムや科学的研究を行い、ベトナムの食の構造
を見直す作業を始めた。
でみれば、食物需給のバランスもほぼ問題がなくなったといえる。
屋敷地内に VAC がおかれた時の関心は、食料の欠乏をどのよう
そして、VAC についても、食糧の自給が確保され、VAC 自体が国
に改善するかということにあった。しかし、21 世紀になると、欠乏
際機関からも注目されるようになる過程で、自給自足的な利用で
が依然残っている一方で、過多やその他の問題にも関心が払われ
はなく市場に向けた経済活動の活性化による所得向上の面だけが
なければならなくなった。農村部では、貧困と栄養不良が解消さ
強調されるようになるのである
(図 3)
。
れないままである一方、都市では食生活の変化が一因と考えられ
る肥満や生活習慣病が急速に増加し、21 世紀に入った現在では、
3. 養生と衛生:
「安全」の新たな領域へ
その現象が農村の一部階層にまで広がりを見せるようになってい
るのである。
VAC は、ドイモイ以降のベトナムにおいて急速に拡大した。屋
この過程で、屋敷地には、再び栄養学的な観点から新たな意
敷地の中に、野菜と果樹、畜産がコンパクトに詰め込まれた複合
味が付与された。例えば、南薬を「機能性食品」
として見直すとい
農業によって、大部分の農民は VAC を始めて半年から 2 年後には、
うものである。筆者は 2008 年から、ベトナムのタイビン医科大学
利益を得ることができるようになった。しかし、ドイモイ以降の
と共同で、
「家庭菜園を利用した農村部高齢者の栄養ケアの実践
ベトナムの農業について研究している長によれば、それは労働を
とモデル構築事業」を行っている。この事業では、屋敷地内に多
度外視してはじめて利益の出る農業であり、家族経営という前提
様な植物を育てる果菜園を復活させ、コミュニティ内での高齢者
なしには成り立たない農業であるともいえる
(長 2004: 124-133)
。
のネットワークを強化し、老人の栄養および社会関係改善を目指
VAC では、育てやすく栄養価の高い野菜、果物、動物性タン
している。
パク質から多様な栄養を摂取することができ、栄養失調の一部を
その事業の過程で、屋敷地の農業生産に、これまでは注目さ
改善した。また、VAC 協会のデータによれば、VAC 農法行われる
れてこなかった新たな意味が見出された。筆者の調査では、果菜
多くの村で、VAC からの収入が農民の全収入の 50 - 70 パーセント
園を作るようになってどのくらいになるかという質問に対して、5 年
を占めることが明らかになった。これらのことから、VAC は政府
前後の年数を挙げる人が多くいた。上述の事業の開始に先立つこ
とユニセフをはじめとする国際的組織からも注目を浴びるように
と4 年であり、それに先行して同じ地域で行われていた、タイビ
なった。
ン医科大学による栄養学的実践の開始よりもさらに早い時期に、
しかし、この過程で屋敷地の利用法は、二分化されていった。
高齢者の屋敷地で果菜園が再活性化されつつあったのである。
ひとつは、壮年世帯によく見られる市場向けに農業を行うVAC で
そして、理由を問うと、圧倒的に多かったのが「衛生」
の問題で
102 食料と人間の安全保障
農家の屋敷地から見たベトナムにおけるフード・セキュリティの歴史的見取り図 103
た。そして、普通に農薬を使う茶の生産を小規模に行っていたが、
ある時、有機栽培に転換すれば一定量を買い取るという企業が現
れたので、
契約を結んで完全有機栽培に転換した。数軒の農家が、
農薬を使って脱落する中、彼は農薬を使わない除虫法を開発する
などして、他の農家の先頭に立ち、ベトナムで初の完全無農薬茶
写真 2 有機 栽培のための技 術
改善によって賞状を授与された生
産農家のリーダー
生産をやり遂げたということである。
1キログラム当たりの茶の買い取り価格は高くなるものの、農薬
を使わないので収量が下がってしまう。今後、耐性ができて虫が
つきにくくなれば、農薬を使う場合よりも利益が上がるようになる
写真1 ベトナムではじめて有機栽
培の茶としてヨーロッパの認証をう
けた茶畑
かもしれないが、少なくとも現時点では、以前よりも収入は落ち
ているとのことである。それでもなお、有機栽培茶農家が無農薬
茶を生産する理由は、農薬を使うと生産者自身の体に悪いからと
あった。近隣の壮年世帯の行う農業では、大量の農薬が使われ
いうことである。ここでも、タイビンの高齢者の場合と同じく、食
るようになっている。高齢者の人々は、その危険を回避しようとし
料の消費ではなく、食料の生産段階での安全を考える視点が芽
て、自分たちの屋敷地で「安全な」
食用植物を作ろうとしているの
生えているのだと考えられる
(写真 2)
。
である。1980 年代に、VAC が考案されたときに存在した 3 つの意
味、
「所得」
、
「栄養」
、
「環境」
に、新たに
「衛生」
の意味が付け加わっ
おわりに
たのだといえる。
また、ベトナムでは近年「安全野菜」
という概念がよく使われる
ベトナムを中心に東南アジアの歴史的研究を行ってきた桜井由
ようになっている。明確な管理基準のないまま
「安全野菜」
は生産
躬雄は、黎朝以降のベトナムにおいて、干ばつ、洪水、高潮など
流通しているが、それにも関わらず、大都市の住民には好評をは
による農業災害があり、そのたびに大量の流民が発生したことを、
くしている。その効果はどうであれ、農業の生産基盤を持たない
文献研究によって明らかにしている。この研究は、今なお、ベト
都市の住民が、食の安全
(セーフティ)を強く意識するようになっ
ナムのフード・セキュリティの問題を取り扱う上で必須の文献であ
ている証拠である。
る。しかし、その論述には、ひとつ抜け落ちている点があるので
2009 年の夏に、筆者はベトナム一の茶の産地であるタイグエン
はないかと思われる。農業災害について論じる際に、村落レベル
地方で、有機栽培の茶の調査を行ったが、ここでもまた、
「安全」
での土地利用だけに注目し、屋敷地の中で行われる私的な農業
に関心を払う生産者に出会った。筆者が訪れたタンクオン社はタ
については言及していないことである
(桜井 1987)
。
イグエン地方でも最も有名なお茶の生産地である。この地域の周
少なくとも 20 世紀後半以降の状況を見ると、農村に暮らす人々
辺では、茶の生産加工に関するさまざまな新しい取組が行われて
のフード・セキュリティにとって、屋敷地内での農業が重要な役割
いるが、そのひとつが完全有機栽培茶の生産である。同じ、村
を果たしていたことは間違いなさそうである。タイビンの高齢者
の 17 世帯が集まって、完全に化学薬品を使わない生産に切り替え
たちがとっている戦略に見られるように、農村に暮らす人々は、屋
て 3 年がたって、はじめて「有機栽培」
の認証を得たものである
(写
敷地の外で行う農業と屋敷地の中で行う農業、外に対して行う農
真 1)
。
業と内に対して行う農業を区別しつつ、自らの安全を確保しよう
興味深いのは、有機栽培農家の中核となり、化学薬品によら
とするのである。
ない除虫の方法を開発するなどした男性の話である。彼は、抗米
このような意識の芽生えは、ベトナムの他の場所でも確認でき
戦争中に南部で枯葉剤を浴び、負傷兵の認定を受けて故郷に帰っ
た。今後、
ベトナムの農村部におけるフード・セキュリティの問題は、
104 食料と人間の安全保障
農家の屋敷地から見たベトナムにおけるフード・セキュリティの歴史的見取り図 105
国家、村落、家族の 3 つの軸に基づいて考察する必要があること
Hoang Bao Chau, Pho Duc Thuc, and Huu Ngoc
1993 ‘Overview of Vietnamege Traditional Medicine,’ In Vietnamese
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Tuệ Tĩnh
1998 Tuệ Tĩnh toàn tập
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『慧靖全集』)
, Hà Nội: Nxb. Y Học.
Phạm Văn Hoan, Doãn Đinh Chien và CTV.
1995 Nghiên cứu an toàn lương thực thực phẩm và dinh dưỡng của các
hộ gia đình tại một số vùng sinh thái khác nhau
(
『異なる生態環境
を示している。
もうひとつの問題は、量から質への転換である。栄養の二重負
荷の問題はまだ未解決なまま残されている。そういった状況の中
でも、人々の求める安全は次第に量
(セキュリティ)から、栄養を
通って、質
(セイフティ)
の問題に変化しつつあるように思われる。
しかしながら、問題はここで終わらない。これまで人々が対処し
てきたものは、農薬の問題など、可視化できるものが主であった。
しかし、近年、鳥インフルエンザや、薬剤耐性菌など、VAC のう
ち家畜に関する問題がクローズアップされるようになってきてい
る。これらの問題は、すでに不可視の領域に入っており、当事者
住民の意思だけではどうしようもない部分を持っているのである。
このことは、ベトナムのフード・セキュリティに対してこれまで大
きな意味をもって存在してきた屋敷地、動物とヒトが共に暮らす
周密な環境、短いサイクルの中で資源が循環する農法などを、根
本から見直さなければならなくなる可能性を示しているように思わ
れる。
引用文献
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1996 Vai trò của VAC gia đình trong việc đa dang hóa bữa ăn tại một xã
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(
『ハイフン省カムビン県に属す
るある社の食事の多様化における家族世帯 VAC の役割』)Luân án
thạc sĩ dinh dưỡng cộng đồng.
トランスナショナルな農民運動と社会の再構想 107
トランスナショナルな農民運動
と社会の再構想
「食料主権」
と
「農民的農業」
中川 理
大阪大学グローバルコラボレーションセンター特任講師
1. はじめに
近年、
「食料主権」や「農民的農業」といった言葉が、支配的な
農業モデルに抵抗しようとする人々の口から発せられるようになっ
てきている。著者が調査を行っているフランス南部の農村におい
ても、これらの言葉はしばしば農民やその他の人々によって用い
られている。いったい、これらの言葉は何を言おうとしているのだ
ろうか。ここでは、これらの概念がどのような運動のなかから出
てきて、どのような意味を担っているのかを検討する。そこから見
えてくるのは、これらが農業のグローバリゼーションによる小規模
農業の破壊に直面した人々が、これらの概念を作りだし、その枠
組みを通して現状とあるべき姿を理解しようとしているということ
である。食料の生産はどのように行われる「べき」
なのか、そして
そのなかで小規模な農民たちはどのような役割と権利を持ってい
るのか。
「食料主権」
や「農民的農業」
の概念は、これらを新しいか
たちで理解可能にしようとしている。これらの概念は、フード・セ
キュリティの問題を世界観の問題、あるいはモラルの問題のなか
に位置づけ直していることが見えてくる。ただし、
本論が行うのは、
「食料主権」
や
「農民的農業」
がよいか悪いかを判断することではな
い。むしろ、これらの概念を用いる人々が、何がよくて何が悪い
と考えているのかを理解することが本論の目的である1。
1
本論は、南フランスの農業の変容について著者が行っている研究の一部
をなす。この研究で著者は、グローバル化によって大きな変化にさらされ
ている農民やその他の関係者たちが、どのように変化を理解し、新しい
社会像を創造しようとしているか
(あるいはそれに失敗しているか)
を理解
しようと試みている。この論文での作業は、フィールドがおかれた文脈を
理解するための予備的考察である。
108 食料と人間の安全保障
2. ビア・カンペシーナと
「食料主権」
トランスナショナルな農民運動と社会の再構想 109
に対応して、グローバル化してきた。例えば、北米自由貿易協定
(NAFTA)
は、これまでの対立を乗り越える連合をもたらした。
「か
2.1 トランスナショナルな農民運動の発生
つてアメリカ、カナダ、およびメキシコのアクターたちは、貿易や
「食料主権
(food sovereignty)
」
の概念は、最近のトランスナショ
環境や移民といった問題についての議論においてお互いに対立し
ナルな農民運動の発展のなかで生まれてきた認識の枠組みであ
ていた。しかし、NAFTA がもたらした社会的断絶は、これら三
る。ここではまず農民運動の展開を簡単に見た上で、
「食料主権」
国のいずれにおいても国内政策における利害と国外政策における
の概念が農民と食をどのように新たに位置づけなおそうとしてい
利害のあいだの境目を曖昧にした。そして、国境線に沿ってとい
るのかを考察する。
うよりも、
(国境線を越えて:引用者)共有された階級
(…)の利害
世界貿易機関
(WTO)の農業に関する合意や各地域における貿
に応じて人々を分断したり団結させたりする、トランスナショナル
易合意、さらには構造調整プログラム
(SAPs)
の履行とともに、各
な活動を必要とする新たなかたちの争いをしだいに生みだしてき
国政府は、市場主導の世界経済に自国の農業を統合するために、
た」
(Edelman 2003: 198)
。エデルマンが詳しく記述しているように
農業政策を見直そうとしている。既存の農業構造を解体する一方
(Edelman 2003)
、中央アメリカにおける「協力と発展のための中
で、土地の所有・利用や生産物の商品化のシステムを作りかえる
央アメリカ農民組織連合
(Association of Peasant Organizations
ための新しい法律をとおして、各国は農業セクターを産業化およ
for Cooperation and Development = ASOCODE)」やヨーロッパ
び自由化しようとしている。
「これらの法律は『近代化』とより『市
における「ヨーロッパ農民同盟
(European Farmers Cooperation =
場にすばやく反応する』
『ダイナミックな』
農業セクターの創出を強
EFC)」のように、他の地域においても国際的な連携が発展してき
調している」
(Desmarais 2002: 91-92)
。
た。
このような変化に対して農民 2 が対抗できるのかについては、
懐疑的な見方がなされてきた。弱体化し農業政策の策定への影
2.2 ビア・カンペシーナと
「食料主権」
響力を失いつつある各国政府と交渉できるだけではないか、とし
トランスナショナルな農民団体のひとつであるビア・カンペシー
ばしば考えられてきた
(Desmarais 2002: 92)
。しかし、じっさいに
ナ
(スペイン語で『農民の道』
を意味する)
は、この流れから生まれ
起こったのは、さまざまなトランスナショナルな農民運動の急速
てきたといえる。
な発展であった。これらの運動は、農業のグローバル化に対して
ビア・カンペシーナは、1992 年 4 月にニカラグアのマナグアに
対抗運動を形成するようになった。
「農業セクターにおける経済的
おいて開催された全国農畜産連盟
(UNAG)
の会合に参加するため
自由化は北と南の農民リーダーたちを刺激し、国境をはるかに超
に世界中
(中央アメリカ、カリブ、ヨーロッパ、カナダ、アメリカ)
えて大陸を股にかける行動するように促した。じっさい、進歩的
から集まった、8 つの農民団体の代表による議論に起源としてい
な農民組織はトランスナショナル化し、交渉と集合行動の新しい
る。そこで彼らは、世界中の農民団体とのトランスナショナルな
空間を創り出している」
(Desmarais 2002: 93)
。
連合を作り上げることを宣言した。翌 1993 年、46 の農民リーダー
農民運動は、農業政策決定のレベルがローカルからナショナル
がベルギーのモンスに集まり、正式に NGO としてビア・カンペシー
へ、さらに複数の国を含む地域からグローバルへと移動するの
ナが結成された
(Desmarais 2002: 95)
。
2
本論では、Peasant と小規模な Farmer をともに含む言葉として「農民」
を
使用する。農民研究においては、しばしば生存経済を営む Peasant と市
場のために農業を行う Farmer を区別してきた。しかし、近年の農民運
動においては Farmerと呼べる人々も Peasant
(あるいはこの語に対応する
Paysan
(仏)や Campesino
(西)
)という言葉を再利用して自らのアイデン
ティティを主張しようとしている
(Edelman 2003: 187)
。本論では、この
ようにアグロインダストリーとの対置において自らを理解する存在として
農民をとらえる。
ビア・カンペシーナは反ネオリベラリズムをかかげ、GATT 交渉
の場から当事者であるはずの農民が完全に排除されていることを
批判した。ビア・カンペシーナのリーダーの一人であるポール・ニ
コルソン
(Paul Nicholson)
が述べているように、
「ビア・カンペシー
ナの主要な存在理由は、農民の声となることであり、より公正な
社会の創造のためにはっきりと語ること」
(Desmarais 2002: 96 に
110 食料と人間の安全保障
トランスナショナルな農民運動と社会の再構想 111
引用)
であり、その名が示すように「農民のやり方」
を守ることがそ
表1 支配的モデル対「食料主権」
モデル
(Rosett 2003: 2を基に作成)
の目的であった。
イシュー
ビア・カンペシーナは、農業におけるネオリベラリズムの帰結と
支配的モデル
「食料主権」
モデル
して、小規模な農民たちは生存の危機にさらされていると考える。
貿易
すべてについて自由貿易
貿易合意からの食料と農業の除外
企業主導のネオリベラルな農業モデルでは農業は利益を生み出す
生産のプライオリティ
輸出
地域市場のための食料
投機として見られ、生産資源はどんどんアグロインダストリーの
手中に集中していくことになる。
「結果として、農民家族はどこに
おいても、北でも南でも『消滅しつつあり』
、農村共同体は弱体化
されている」
(Desmarais 2002: 99)
。ビア・カンペシーナは、この
作物価格
外国市場へのアクセス
地域市場へのアクセス。アグリビジネスによ
る地域市場からの農民の締め出しを終わりに
する
第三世界には禁止されるにもかかわらず、ア
メリカとEUには多くの補助金が許されている。
ただし、それらの補助金は大規模な農民にの
み支払われている
他国に
(ダンピングを通じて)
被害を与えるこ
とのない補助金は許される。すなわち、家族
農業を営む農民にのみ与えられる補助金、直
接販売への補助金、価格/収入補助のための
補助金、土地保全のための補助金、持続可能
な農業への転換のための補助金、調査のため
の補助金など
市場へのアクセス
ような消滅を拒否し生き残るための運動である。しかし、問題は
生存すればよい、ということではない。
「どのように生きるのか」
と
いうモラルの問題が、ビア・カンペシーナの思考の中心にある。
「市場が命じる通りに」
(低価格を強いる市場メ 生産コストをカバーし、農民および農業労働
カニズムに手をつけない)
者が尊厳ある暮らしを送れるようにするため
の公正価格
補助金
ビア・カンペシーナはそのためにふたつの主要な主張を展開し
ている。ひとつは、WTO の適用範囲からの農業の除外であり、も
うひとつが彼らの提唱する「食料主権」の概念である
(Desmarais
2002; Edelman 2005)。ここでは、
「食料主権」に焦点を絞ってみ
ていく。
食料
主に商品とみなされる、有害な残留物を多く 人間の権利とみなされる。とくに、健康で栄
含む食料
養に富み、手の届く価格の文化的に適切で地
域で生産された食料
生産する能力
経済的に効率のよい人々にとっての選択肢
農村の人々の権利
飢え
低い生産性による
アクセスと分配の問題、貧困と不平等による
最も安い地域からの輸入食料によって達成
腹をすかせた人々自身の手の内に食料生産が
あるとき、あるいは食料が地域で生産される
ときもっともよく達成される
私有化
地域的。コミュニティによってコントロールさ
れる
市場を通して
真の農地改革を通して。土地へのアクセスが
なければ他のことは意味を持たない
特許の対象となる商品
人類の共有財産。コミュニティと諸文化に託
される。
「命に特許なし」
民間銀行と企業から
公共セクターから。家族農業を支援するため
にデザインされる
「食料主権」
の概念は、1996 年にローマで行われた世界食料サ
ミットにおいてはじめて明確化された。それは、
「それぞれの国民
がその基本的食料を生産する能力を、文化および生産の多様性
を尊重しつつ、維持し発展させる権利、
(…)また、自分たち自身
の食料を自分たちの領土で生産する権利」
(Desmarais 2007: 34 に
フード・セキュリティ
生産資源のコントロール
(土地、水、森林)
土地へのアクセス
引用)と定義される。この定義を聞くと保護主義的な響きをもつ
ように感じるが、デマレが強調するように、
「食料主権」
は回顧的
種子
なロマンティシズムでもないし、反動的なナショナリズムでもな
借入と投資
いといえる。むしろそれは、たんに国内自給が達成されればよい
ダンピング
問題にならない
禁止すべき
独占
問題にならない
多くの問題の根源。独占は破壊されるべき
定義上そのようなものは存在しない
価格を低下させ、
農民を貧困に追いやる。我々
はUSとEUのサプライマネージメント政策を必
要としている
未来への流れ
健康と環境に悪く、必要ない技術
とする保護主義的な考えではなく、
「どのような食料を、どのよう
に、どのような規模で生産するのか」という問題につながる。環
境と文化の維持の担い手とみなされる小規模生産者が維持され
るような、倫理と価値にのっとった「オルタナティヴ・モダニティ」
(Desmarais 2002: 102)
を創り出そうとするものである。
支配的なフード・セキュリティの認識と「食料主権」の概念を対
過剰生産
遺伝子組み換え作物
(GMO)
農耕技術
置するとき、そのオルタナティヴなモデルとしての特徴がよりはっ
きりするだろう。ビア・カンペシーナと密接な協力関係にある研究
者であるロセット
(Rosset 2003)
が、戯画的なまでの二分法で示し
ているように
(彼による二分法は表 1を参照)
、
「食料主権」は、地
産業的、モノカルチャー、化学製品の集中的 環境に配慮した、持続可能な農業方法、GMO
使用、GMOの使用
不使用
時代錯誤、非効率な者は消え去るだろう
農民
もうひとつの世界
(オルタナ 不可能/関心ない
ティヴ)
文化と作物遺伝子の守護者。生産資源の保護
者、知識の宝庫、広い層を含んだ経済発展の
一部
可能であることは十分示されている
112 食料と人間の安全保障
トランスナショナルな農民運動と社会の再構想 113
球上の全員が十分な食料を得られるかどうかという量と効率の問
型実践にのっとった抗議行動の上演
(インドでの多国籍種子企業
題にとどまらない、質と権利の問題として食料問題を捉えなおそ
の襲撃、ブラジルの「土地なき農民運動
(MST)」による遺伝子組
うとする。フード・セキュリティの枠組みだと、安価な食料の輸入
み換え作物の引き抜き、フランスでのマクドナルド「解体」
(後述)
がより効率的でよいという主張を許すことになる。
それに対して
「食
など)
をとおして「食料主権」
をはじめとする農民の「声」
を届けよう
料主権」
は、
「真のフード・セキュリティを実現するためには、農村
としている。
地域の人々は生産的な土地へのアクセスを持ち、まっとうな暮ら
これまで見てきたように、その
「声」
は小規模農民の生存の権利
しができるだけの価格を彼らの作物の対価として受け取ることが
とグローバル化した市場に反対する道徳的規範を強調するもので
できなくてはならない」
と主張するのである
(Rosett 2003: 1)
。
ある。
「食料主権」
は、問いの立て方を、いかにしてフード・セキュ
これらの考えは、ビア・カンペシーナのバンガロール宣言に明
リティを実現するかというエンジニアリングの問題から、いかなる
確にあらわれている。
かたちでフード・セキュリティを実現するのが望ましいのかという
モラルの問題へと転換しようとする。この点に注目して、エデルマ
農業生産物における強制された地域的・世界的貿易自由化
ンは、トムソンやスコットによって展開されたモラル・エコノミー
は、われわれの生産する食料の多くについて破壊的なまでの
の概念を用いてトランスナショナルな農民運動を把握しようとして
低価格をもたらしつつある。安価な輸入食料が地域市場を
いる。ドンキホーテ的、ユートピア的であるかもしれないにしても
覆いつくすにつれて、農民の家族はもはや自分たちや共同体
「公正価格、土地へのアクセス、不公平な市場、強者の貪欲に関
のために食料を生産することができなくなり、土地から追い
する古いモラル・エコノミー的言説は、今日のグローバルな貿易
立てられることになる。このような不公正な貿易協定は、世
自由化、市場をベースとした世界銀行の農業改革プログラム、フー
界中に新しい食習慣をおしつけることによって、農村共同体
ドサプライと植物の遺伝子に対するコントロールを強めようとする
とその文化を破壊しつつある。地域的で伝統的な食料は低
企業の努力に対する闘いにこだましている」
(Edelman 2005: 341)
。
価格でしばしば低品質な輸入食品にとってかわられつつあ
ただし、20 世紀前半の東南アジア農民の事例を通してモラル・エ
る。食料は文化の鍵となる部分であり、ネオリベラルな政策
コノミーの概念を広めたスコットが、エデルマンの議論を引き取っ
はわれわれの生活と文化のまさに礎を破壊しつつある。われ
て述べているように、モラル・エコノミーの舞台は国のレベルを超
われは飢えと土地からの引き離しを受け入れない。我々は食
えてグローバルなレベルに引き上げられている。
料主権を求める。それは自分たち自身の食料をつくる権利を
意味する。
(Desmarais 2002: 100 に引用)
いまや資本は国際機関と多国籍アグリビジネスの中に埋め
込まれており、自己防衛反射もまた、エデルマンのいうように、
このように、北と南の国々がお互いの農業の保護を主張して対立
国際化しなくてはならなくなった。地域の知的所有権、フー
するモデルとは異なり、
「食料主権」
は北と南の双方において小規
ド・セキュリティ、生物多様性、および農民コミュニティの存
模農民の価値と権利を主張する点でオルタナティヴなモデルであ
続を、正しい方向へのステップとして保護しようとする、国の
るといえる。
レベルを超える農民集団間の協力の増大を、彼は指摘する。
ビア・カンペシーナ運動はこの傾向を示すものであり、じっさ
2.3 グローバル・モラル・エコノミーとしての「食料主権」
い、その WTO に対する批判は、すべての実践的目的におい
ビア・カンペシーナは一方で国際会議での主張
(1995 年ケベック
て、国際機関と世界的ガバナンスのレベルへと引き上げられ
シティ:フード・セキュリティ世界会議、1996 年ローマ:世界食料
た「モラル・エコノミー的議論
(moral-economy argument)」
サミット、1999 年シアトル:WTO 閣僚会議、2001 年ポルト・アレ
のように聞こえるのである。
(Scott 2005: 397)
グレ:世界社会フォーラムなど)
により、他方で農民的伝統と劇場
114 食料と人間の安全保障
トランスナショナルな農民運動と社会の再構想 115
このように、ビア・カンペシーナ運動とその「食料主権」
の概念は、
3.2 「農民的農業」
生活の破壊に直面した世界の農民たちによる、生存のモラルに支
「農民的農業」
の概念は、生産主義に対抗する農業のモデルを
えられた世界の、グローバルなレベルでの再想像であると理解で
示すものとして、農民総同盟によってかかげられた。それは、
「生
きる。
産者の保護、農業のモデル、それに近代性と連帯を結び付けよ
3. 農民総同盟と
「農民的農業」
2000: n. p.)。この概念は、フランスにおいて後進性の象徴となり
3.1 農民総同盟の発生
をあえて使い、生産主義的農業とは異なる生き方として再定義し
うとする社会構想を結合しようという意志を示している」
(Martin
軽蔑的な含意を持つようになっていた
「農民
(paysan)」
という表現
トランスナショナルなレベルにおける「食料主権」の概念に、
ようとした。農民総同盟のリーダーの一人であるジョゼ・ボヴェ
(José
フランスのナショナルなレベルでは「農民的農業
(agriculture
Bové)が言っているように、
「農民
(paysan)
とはたんに農業をやる
paysanne)」の概念が対応しているといえる。この概念もまた、
人であるという意味じゃない。公正で威厳ある生き方にコミットす
小規模農民をベースとした文化と環境の担い手としての農業を再
るという意味なんだ」
(Heller 2006: 320 に引用)
とみなされる。
想像しようとするものである。この概念は、フランスの反主流派
この概念は、したがって、農民総同盟のキャッチフレーズであ
農民組合である農民総同盟
(Confédération Paysanne)
によって推
る
「三つの小さな農場はひとつの大きな農場よりいい
(Trois petites
進されてきた。
fermes, c'est mieux qu'une grande)」に示されているように、小
農民総同盟は、フランス農業の生産主義
(productivisme)と
規模な生産者の保護を主張するものである。そのため、農民総
それを支えてきた主流派の農民組合である全国農業経営者組合
同盟が提言する「農民的農業」
の十原則
(ボヴェとデュフール 2001
全国連盟
(La Fédération nationale des syndicats d'exploitants
[2000]: 241-246)3 の第一原則として「できるだけ多くの人が農業を
agricoles = FNSEA)に対抗する農民組合である。戦後のフランス
営んで生きていけるように、生産量を分配する」ことが強調され
の農業政策においては、農業共通政策
(PAC=Politique Agricole
ている。この原則は、大生産者によって小生産者の「生産する権
Commune)のもと、大規模集約的農場の所有者により大きな補
利」
(言い換えれば生存する権利)が犠牲にならないように国と農
助金を与えることで農業の産業化を促進した。フランスの農業銀
民たち自身が行動することを要求する。しかし、この小生産者の
行は生産主義的な農業企業を優先し、小規模農民を融資から排
生存権の要求は国内のみにとどまるものではない。そこで、第二
除した(Heller 2006: 320)
。
「1960 年代初頭には、フランスは『欠
原則として「欧州全体や世界中の農民と連帯する」
ことが重要にな
乏以降』
時代に入り、大きく補助金を受けた輸出向けの農業経済
る。
「食料主権」
において述べたのと同様に、
「農民的農業」
は保護
をもつ、集中的で化学化された農業装置と成長するアグロフード
主義的な概念ではない。
「生産が過剰な分野では世界市場で攻撃
およびファーストフード産業を優先する世界的な農業勢力へと変
的な農業政策を取り、脆弱な分野では保護主義的な政策を取る
容した」
(Heller 2006: 322)
。この状況のなかで、生産主義の国内
なら、世界の農民を競争関係に置くことになり、結果的に農民の
における弊害
(余剰生産の拡大、一部の「近代化」
した農民とその
数が大幅に減少する」
(ボヴェとデュフール 2001[2000]: 242)
ため、
他の農民のあいだの格差、農民数の減少など)と国外における弊
小規模農民の生存の権利に反する。むしろ、そのような結果を招
害
(集約的につくられた安い農作物の輸入による第三世界の農業
かないためのグローバルな連帯が必要とされるのである。このよ
の破壊)に対して批判を強めた農民たちによって、農民総同盟は
うに、
「農民的農業」
は小規模生産の権利を主張するものであるが、
1987 年に結成された
(Martin 2000: n. p.)
。この組合は、ビア・カ
同時に環境の保全を主張している。ヘラーは、1990 年代初頭か
ンペシーナの結成にも加わり、トランスナショナルなレベルでも活
動している。
3
この訳書では agriculture paysanne は「農的農業」
と翻訳されている。本
論文では、本文中で示したようにこの表現において「農民
(paysan)」
に強
い意味が込められているため
「農民的農業」
とした。
116 食料と人間の安全保障
トランスナショナルな農民運動と社会の再構想 117
ら中頃にかけて、農民総同盟の言説は、より環境や消費者に関す
制度
(AOC)の厳密化、をとおして小規模な羊乳生産者の生活保
る言説にシフトしていったと指摘している
(Heller 2006: 324)
。第
障を確立しようとつとめていた
(Martin 2000: n. p.)
。
三原則「自然を尊重する」
、第四原則「豊富な資源を有効活用し、
1999 年夏、EU がホルモン処理された牛肉の禁輸措置を取った
希少な資源を節約する」
、第五原則「農産物の購入、生産、加工、
ことに対する対抗措置として、アメリカはロックフォールに対する
販売において透明性を追求する」
、第六原則「味覚と衛生面で食
関税率を100%にした。これをきっかけに、ボヴェらはアグロイン
品の品質を確保する」
、第九原則「飼育する動物と栽培する作物
ダストリーに反対する直接行動に出た。ちょうど近隣の町ミヨー
の多様性を維持する」
という一連の原則は、自然環境と食の安全
で建設中だったマクドナルドを、
「文化的画一化とグローバル資本
性に配慮した農業として
「農民的農業」
を規定するものである 4。
主義巨大企業の象徴」
(Martin 2000: n. p.)
として「解体」
したので
マルタンが指摘するように、この概念は小規模農民の生存を権
ある。
利として主張するとともに、彼らによって担われる農業を自然と文
当初は、この抗議行動はロックフォール生産者の利害だけを
化の多様性を維持する役割を持つものとして再定位しようとする
考えた暴力的行為であり、「略奪
(saccage)
」だと一般市民から
のである。
「農民総同盟はリベラリズムを拒否し、領土上に最大限
みなされかねなかった。従来の FNSEA を中心とする農民抗議に
の農民を維持し収入の不均衡を縮小するための国家による規制に
は、補助金など自分たちの利益を得るための暴力的な行動を行
対して賛成であることを表明した。彼らが構想し始めた農民的農
う農民というイメージが付きまとっていたからである。だが、ひ
業のプロジェクトは、人々を十分な量によってだけでなく、彼らが
とつには秩序だった行動であったこと、もうひとつにはグローバ
強調するように十分な質の食料によって養うという農業の伝統的
ルな枠組みに事件を位置づける語りによって、より好意的な「解
役割を思い出させようとする」
(Martin 2000: n. p.)
。
体
(démantèlement)」として事件は解釈されるようになっていく
5
(Martin 2000: n. p.)
。
3.3 マクドナルド
「解体」
農民総同盟は、
「あまりにもリベラルで多国籍企業に甘い WTO
「農民的農業」
の提示する社会像は、マクドナルドの「解体」
とい
に対する闘い」という枠組みを提示することで、ボヴェをはじめ
う劇場的抗議行動を通してフランス社会に広く伝えられるように
とする「解体」参加者の裁判を、羊飼いを裁く裁判から「グロー
なった。とりわけ、農民総同盟のリーダーの 1 人であったジョゼ・
バル化」や「恥知らずのアグロインダストリー」や「ジャンクフード
ボヴェによってこの抗議行動は都市に住む非農民層も知るメディ
(malbouffe)」を裁く裁判へと転換しようとした。そして、この枠
ア・イベントになった。
組みは都市の非農民にも受け入れられるものであった。それは、
ボヴェは 1953 年に農学研究者の息子として
(つまり非農民とし
マルタンの言うように、狂牛病以来のアグロインダストリー不信
て)
生まれ、ラルザック高原の軍事基地拡張反対運動に参加した
を背景とする人々の二分法的な想像力
(ロックフォール:マクドナル
後、
そのまま当地
(アヴェロン県)
で羊乳生産農家となった。そして、
ド=地域の独自性:画一化された製品)
に訴えかけたといえるだろ
創設とともに農民総同盟で活動するようになった。ボヴェらはア
う
(Martin 2000: n. p.)
。結果として、ボヴェは「反マクド十字軍」
や
ヴェロン県の特産チーズであるロックフォールに使用する羊乳生
「高原の怪傑ゾロ」
としてメディアで英雄視されるようになっていっ
産農家として、「農民的農業」を推進してきた。
(a)小規模農家の
た 6。
生活保証に重点を置いた生産クオータ配分のための交渉、
(b)
羊
この事件をとおして、ボヴェらは「農民的農業」
を社会全体に関
乳価格を維持するためのチーズ生産者との価格交渉、
(c)
結果とし
ての高価格を正当化するだけの名声を打ち立てるための品質保証
5
4
6
なお、残りの原則は第七原則「農業経営において最大限の自律性を確保
する」
、第八原則
「農民以外の農村住民とのパートナーシップを模索する」
、
第十原則
「つねに長期的な視野を持ち、グローバルに考察する」
である。
「解体」の様子については、当時のニュース映像を以下のアドレスで閲覧
できる。http://www.ina.fr/economie-et-societe/justice-et-faits-divers/
video/CAB99034526/portrait-jose-bove.fr.html
(2010 年 3 月16 日)
その後もボヴェは 1999 年のシアトルの WTO 閣僚会議へのロックフォール
の持込や、実験農場の遺伝子組み換え作物の不法伐採などといった劇的
な活動で名をはせることになる。
118 食料と人間の安全保障
トランスナショナルな農民運動と社会の再構想 119
わるプロジェクトの一部として残りの社会に提示しようとしたとい
確な数値は把握できないが、南フランスを中心に AMAP は急速に
える。小規模農民の役割を、食の安全や食の文化的多様性といっ
その数を増していると思われる7。
たより広い問題の鍵となる一部として、社会的ドラマのなかで捉
フランス版の CSAである AMAP は、農民総同盟の
「農民的農業」
えなおそうとしたのである。
の思想をその基本原則に組み込んでいることを特徴としている。
4. AMAPと
「農民的農業」の実践
は「農民的農業」
の原則のなかにすでに見られる要素を取り上げて
AMAP の憲章に記載されている基本原則の 18 条項のうち、半分
いる点からしても、そのことは明らかである。その他の、
「各シー
4.1 AMAP の展開
ズンにおいて生産者と消費者のあいだで公正な価格を決定するこ
本論はここまで、トランスナショナルな農民運動のなかから生
と」
、
「生産の失敗の場合の生産者に対する消費者の連帯」
、
「なる
まれてきた「食料主権」
や「農民的農業」
の概念が、あるべき世界
べく多くの会員に責任を与えることで促進される、AMAP への消
のなかでの小規模農民の位置づけについての新たな想像力を生み
費者の積極的参加」
といった条項は、
「農民的農業」
を維持してい
出してきたことを見てきた。以下に見るように、このようなグロー
くために、消費者がたんなる買い手の立場を超えて連帯していく
バルな想像力は、同時にローカルな実践を生み出していく。
必要を表わしている。
「農民的農業維持のためのアソシエーション
(Associations pour
le maintien de l'agriculture paysanne = AMAP)」は、その名のと
4.2 市場と連帯のあいだ
おり、農民的農業を維持していくためのひとつの仕組みをつくる
マンドレールによるローヌ=アルプ地域の AMAP についての調
ことを目的としている。その活動の仕組みは次のようになってい
査は、市場と連帯のあいだにある存在としての AMAP の像を浮
る
(Mundler 2007: n. p.)
。
(a)消費者たちは 1 年あるいは一定の期
かび上がらせている
(Mundler 2007: n. p.)
。この調査によると、
間 1 人の農民と定期契約を結び、農民が十分な収入を得られると
「リスクの共同負担」
、
「消費者の積極的参加」のいずれについて
考えられる価格で期間内分の代金総額を前払いする。
(b)消費者
も、AMAP は「なかば商売なかば連帯という関係
(relation mi-
たちは作物の分配や情報伝達などに参加し、場合によっては農作
marchande mi-solidaire)(
」Mundler 2007: n. p. )
において機能し
業に一時的に参加するなど、運営に関与する。そのため AMAP の
ている。
消費者は「消費者=アクター(consomm acteur)」
と呼ばれる。
(c)
消費者によるリスクの負担は、消費者が生産者を支える行為と
農民は契約にあるとおりの作物を年間を通して供給する義務を持
して重要である。生産者は、年間を通して場合によっては 30 もの
つ。また、アソシエーションの運営に関わり作物や生産について
作物を作るため、不作や失敗は起こりうる。生産者はこの場合、
消費者に教える責任を持つ。このように、AMAP は近隣の農家が
他の豊作の作物で埋め合わせようとしようとすることが多い。し
安全で質のよい
(有機農業の)
作物を持続的に供給できるようにす
かし、それができないときには、消費者は約束どおりの作物が受
るための、消費者と生産者のアソシエーションである。
け取れなくてもそれを受け入れ、リスクを負担する 8。
AMAP の原型となる仕組みは、1980 年代からアメリカなどで
また、AMAP においては生産者と消費者の関係の近さが重要な
Community Supported Agriculture
(CSA)
の名で広まった実践で
意味を持つ。取引を超える家族のメタファーで語られる関係が、
ある
(Cone and Myhre 2000)
。2001 年、アメリカの CSA に学ん
しばしば消費者の満足の源泉となっている。ある参加者が言って
だ農民ドゥニーズとダニエル・ヴィヨン
(Denise et Daniel Vuillon)
の夫妻が、ATTAC
(
「市民支援のための金融取引に課税を求めるア
7
ソシエーション」
= Association pour la taxation des transactions
financières pour l'aide aux citoyens)を支持するグループとともに
フランス最初の AMAP をフランス南部ヴァール県で設立した。正
8
著者の調査村においても 3 つの AMAP および同様の原理による組織が存
在している。
ただ、マンドレールが示しているように、消費者が自分の受け取る作物の
品質に不満を持つまれな場合には、
「契約の維持は生産者との連帯による
ものになるが、それは長く続き得ないだろう」
(Mundler 2007: n. p.)
。
120 食料と人間の安全保障
トランスナショナルな農民運動と社会の再構想 121
いるように、
「結局のところ、これは家族の誰かが自分の菜園の
会のあり方
(協同組合や労働組合をはじめとする社会的管理)
を構
野菜を私たちにくれているというのに似ている。匿名の状況で野
想した。国家による社会保障に発展していくこの認識を、ポラン
菜を買うというのとはまったく違う」
(Mundler 2007: n. p. に引用)
。
ニーは「社会の発見」
と呼んでいる
(ポラニー 1975[1957]: 173)
。同
濃密な関係は、時に消費者が農作業の手伝いをするというところ
様に、グローバルな農業自由化による小規模農民の生活の破壊
までいく。
「感じがいいのは、去年彼らがコロラドハムシに占拠さ
に対して、食料主権運動は市場を抑制する社会のあり方を「再発
れたときみたいに、ちょっとした困りごとがあるときに、会計係か
見」しようとしているといえる。ただし、
「再発見」された社会は、
ら連絡があって、私たちが手助けに行ったこと。楽しかった。も
かつての社会像と重要な点で異なっているといえる。
ちろん、コロラドハムシを取るのはあんまりきれいなことじゃない
第一に、ポランニーが扱っている社会像が一国的な社会的保護
けど。でも彼らとの交流があって、私にはそれが楽しく感じた。だ
に結びついていたのに対して、
「食料主権」
の描くのはよりトランス
から、別のところで買うのとは全く違う」
(Mundler 2007: n. p. に引
ナショナルな社会的保護である。
「食料主権」
は確かに国家による
用)
。
小規模農民の保護を要求しているが、それは世界各地の小規模農
このような連帯の実践は、消費者全員に共有されているわけで
民が社会的再生産していくという目的のための手段であって、そ
はない。マンドレールは
「手短に言うならば、AMAP には消費者=
れ自身が目的ではない。ボヴェが言っているように、
「南の人々に
アクター(consomm'acteur)とたんなる消費者の双方が含まれて
とっては、食料主権は輸入に対して自分たちを保護する権利を意
いる」
(Mundler 2007: n. p.)
と述べている。小規模農民を支えよう
味する。
(ヨーロッパにいる : McMichael)
われわれにとっては、そ
という意図を前面に押し出す人々と、よい品質の野菜を入手したい
れは輸出援助と集約的農業に対する闘いを意味する」
(McMichael
という人々が AMAP には混在している。そのことを勘案した上で、
2008: 52 に引用)。南北の双方において小規模農民
(と消費者)
の
AMAP の実践は
「農民的農業」
の提示する社会像をローカルなレベ
権利を保証しようとする点で、
「食料主権」はグローバルな市民社
ルで実行に移そうとする実践であるということができよう。
会を構想しようとしている。
第二に、食料主権運動は社会的関係だけでなく、人間と環境
5. 社会の再発見としての「食料主権」と「農民的農業」
の関係を再構想しようとしている。小規模農民はたんなる食料供
給の役割を担う存在としてではなく、生物多様性や環境や風景の
5.1 新たな想像力
再生産という多元的な機能を果たす存在として再認識される。こ
これまでの検討で明らかになったように、トランスナショナル
の観点からは、小規模な農業を実践する人々の数を維持すること
な農民運動が編み出した「食料主権」
や「農民的農業」
の概念をと
は、生産主義がしばしば考えるような経済的後進性の証ではなく、
おして、農民たちがオルタナティヴな農民像と新しい社会像を想
逆に重要な価値の証となる。
像しようとしてきた。そして、これらの主張は農民のグローバルな
このように、
「食料主権」
(および「農民的農業」)
は、グローバル
闘争のなかで語られるだけでなく、ローカルな実践にまで浸透し、
化する農業市場のなかで、新たな意味の枠組みを提示しようとす
ローカルな生産や消費の営みを意味づける枠組みとなっている。
るものであるといえる。この枠組みをとおして、小規模農民とは
最後に、農民たちが提示する社会像がどのようなものかをより密
何者であるか、その役割と権利はどのようなものなのかを、新し
接に見ておこう。
いかたちで意味づけることが可能になる。そして、時に AMAP の
その際、マクマイケルが提示する「社会の再発見」
という視点は
ようなやり方で人々は実践を組み立てていくことになる。
啓発的である
(McMichael 2008)
。彼は、ポランニーの「社会の発
見」
とのアナロジーで食料主権運動を捉えようとする。イギリス産
5.2 展望
業化期の市場自由化がもたらした人々の生活の破壊に直面して、
しかし、
「食料主権」
や「農民的農業」
を、危機にあるすべての農
ロバート・オーウェンのような人々は市場原理を抑制するための社
民が受け入れるわけではもちろんない。著者の調査地においても、
122 食料と人間の安全保障
農民総同盟や AMAP の支持者はごく少数であるといえる。日々畑
で働く人々の視点から見れば、
「食料主権」や「農民的農業」の提
供する意味の枠組みは、他のさまざまな理解
(と混乱)
のなかのひ
とつの選択肢でしかない。したがって、ここから、農民たちが危
機をどのように理解しているのか、そしてそこからどのような新た
な意味の枠組みが生まれてきているのか、その多様性をフィール
ドの視点から理解していく必要がある。
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GLOCOL ブックレット編集委員会
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