マルティニーク島の歴史

特 集
世代をこえて ∼ 語り継ぎたい八雲の心 ∼
入賞作品
作品募集と審査・表彰について
趣旨 八雲の魅力を伝える
小泉八雲の作品の感動を自らの言葉で語り伝えるため、没後 100 年記念実行委員会と北日本新聞
が主催し、
「世代をこえて ∼語り継ぎたい八雲の心∼作品募集」を行いました。評論や随筆、感想、
脚本、詩、短歌、俳句など、形式や分量を問わず、広く全国から募集しました。募集期間は、七月
から二ヶ月間と短い間でしたが、力のこもった六十四の作品が全国から寄せられました。
審査 広く顕彰する
九月十八日に予備審査、十月七日に本審査を行い入賞作品を決定しました。審査の観点は、告知
の趣旨に沿っている作品であること、メッセージ性があり、小泉八雲の人間性または作品の魅力に
ふれていることとした。部門は、
「エッセイ部門、評論部門、創作部門、詩・短詩部門」の4部門と
し、グランプリ、部門賞のほか各賞を設け、審査の結果、十五人を入賞者としました。
表彰 アイルランド大使ほかから
十月二十三日の記念講演・フォーラムに先立ち表彰式を行い、吉田和夫審査委員長を始め、グラ
ンプリ作品はポドリグ・マーフィー大使から表彰いただきました。
紹介 さまざまな媒体で
北日本新聞で入賞者の発表とグランプリ作品掲載のほか、ホームページなどで広く広報しました。
(木下 晶)
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世代を越えて 語り継ぎたい八雲の心
入賞者一覧 (敬称略)
グランプリ
米澤たもつ 全編貫く”常民観” 読み継がれる八雲文学
部門賞 エッセイ部門賞 千田 篤
佳作
評論部門賞
光畑 隆行
ハーンはなぜ"weirdtales"を再話したのか
創作部門賞
金川 欣二
小泉八雲「知られざる富山の面影」
詩・短詩部門賞
江沼 半夏
(短歌)
審査員特別賞
藤岡 義一
(エッセイ・創作・短詩)
エッセイ部門
越野多美枝
ラフカディオ・ハーン
創作部門
三宅 エミ
戯曲「蝶の幻想」
沓名奈都子
桜の散った夜 小泉節子”思い出の記”より
鍋島 良子
(詩)
高原 敦子
(短歌)
大橋 敦子
(俳句)
矢部 敏子
八雲が教えてくれた日本人の心
小松 信久
小泉八雲の心
田近 風夏
耳なしほう一を読んで
詩・短詩部門
入選
横を向く八雲
エッセイ部門
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グランプリ
全編貫く”常民観”
~ 読み継がれる八雲文学 ~
米澤 たもつ
「小さな妖精の国 ―― 人も物も、みな、小さく風変わりで神秘をたたえている」
(『神々の国の首都』講
談社学術文庫)と、日本に感嘆の声をあげた小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)
。まだ日本に民俗学という言
葉さえなかった時代に、フォークロアの採集者的な視点で日本人の暮らしを観察、多くの日本文化論を著し
た業績は、百年後のいまも変わるものではない。
八雲は最初の日本論『知られぬ日本の面影』
(一八九四年)の序文で「日本人の生活の魅力はコモン・ピー
プルの中に見いだされる」と書いている。つまり「常民」
「庶民」の風俗習憤の中にこそ、日本人の本当の心
がある ―― とみたわけだ。
その視点は最後の
『日本 ―― 一つの解明』
(一九〇四年)
に至るまで変わらず、
著作のすべてがわが国の伝統や風俗信仰と深くかかわっている。
この「常民観」は、八雲の文学を理解するうえで大きなキー・ワードだと思う。平家の亡霊に誘われて一
門の墓前で壇ノ浦合戦を弾誦する盲目の琵琶法師の物語「耳なし芳一」や、伝説の「雪女」など収めた代表
作『怪談』
(一九〇四年)にしても、常民観に根ざす民間説話への関心によるものだといえる。
民間説話を夫人の助けで再話する際、夫人が書物を見ることを許さなかった。
「本を見る、いけません。た
だあなたの話、あなたの言葉、あなたの考えでなければ、いけません」と夫人自らの語りを要求している(『怪
談・奇談』解説、同文庫)
。それはまぎれもなく語り部を前にした、昔話採集者の姿である。
日本民俗学の父といわれる柳田国男は、日本文化の歴史のなかに、畏怖とか恐怖の原始的な文化の型をと
らえるとしたらどうなるのだろうか。それを明らかにしていくと少なくとも、日本人の人生観や信仰、宗教
の変化を知ることができるのではないか、と『妖怪談義』
(同文庫)のなかでのべている。東西の両民俗学者
が同じ思いを持っていたことは興味深い。
怪談、奇談は八雲の著作にはよく出てくる。
『怪談』は『古今著聞集』や伝説などに材をとった短編集だが、
どれもが八雲のみごとな筆で再話文学、口承文芸に昇華している。
『怪談・奇談』は、寓山大学「ヘルン文庫」蔵本から原拠と推定される原話本文三十編を翻刻、収録して
いる。この再話と原話を読み比べれぱ、そのことがよくわかる。同書の解説で布村弘氏(高岡法科大教授)
は「再話作者にとって、原話は常に一つの素材のようなもので、彼の目的はその素材を、いかに按配して美
味な料理に作るかということだ」と書いているが、
「耳なし芳一」がよい例だといえる。
多くの論者はこうした八雲の特異な才能を、その生いたちにあるとみている。多神教的伝統のギリシャに
生まれ、再生譚の多い「ケルト神話」の国、アイルランドで育った。両親の離婚後、熱心なカトリック信者
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の大叔母に育てられ、神学校に通った。この間の厳格な宗教的生活は「私の守護天使」
(『明治日本の面影』
同文庫)に赤裸々に書かれている。
それによると、幼・少年期に夜ごとお化けがとりつくような神経過敏な性格を形成したとみられ、この体
験が後年の『怪談』などを生み出す素地になったといわれている。確かに怪奇指向の経緯はそうであろう。
文学者の作品には、
そのイメージやモチーフを支える母胎として、
自己形成空間が色濃く投影されている。
”
原風景”とよばれるものだ。深層に深く残り決定づけている幼時体験、原イメージである。
だが、八雲の著作を読むとき、いま一つキー・ワードとしてジャーナリスト的な感性があげられるのでは
ないか。十九歳で渡米、職を転々と変える苦しい生活の末、新聞記者になっている。明治二十三年(一八九
〇年)の来日も「ハーバーズ・マンスリー」誌の特派員として、見聞記執筆の条件付きによるものだった。
.『神々の国の首都』や『明治日本の面影』を読むと、旅人としての素直なまなざしとともに、ジャーナリス
トとしての鋭い観察力と洞察力がうかがい知れる。八雲の紀行文の醍醐味、面白さは、その土地土地の自然
や人間と真撃に向き合い、きちんと事実関係の具体的なディテールをおさえて書いている点にある。
それはジャーナリストとしての冷静なまなざしと、広い異文化体験によるものだといえる。山陰の各地に
取材した作品には、現地報告のルポライターとしての技量の確かさがうかがえる。今日もなお民俗学的資料
としても高く評価されるのは、当時の生活風習や民間信仰をはじめ、神社仏閣、俗謡、わらべ唄など幅広く、
忠実に記録されているからだ。私たちが一九五〇年ごろまで見聞、経験したことがらも随所に出てくる。例
えば庖瘡流しや、キツネ火を見破る法だという両手指を組んでのぞくしぐさなどは、寓山県内でもみられた
ものである。
八雲は東大の講義で、超自然な話など信じない、幽霊の話などばかばかしいという学生を前に「そんなこ
とをいうが、君たち自身、われわれ自身が、一個の幽霊ではないか、まったく不可解な幽霊ではないか」と
語っている(山田洋次編『不思議な世界』
(ちくま文庫)
。
明治以降、わが国は「合理的」
「科学的」
「発展」を善としてきた。その結果、長い歴史のなかで形成して
きた感受性が抑圧され、つぶされてきた。闇の部分、不可解なもの、不合理なもの、さらには霊的な心性や
考え方が失われてきた。それが今の時代になって、教育問題をはじめ、親子や夫婦問題、社会問題などのゆ
がみとなって表れているのではないか。洪水災害や多発する工場災害も、自然への敬けんな心を捨てた結果
といえる。
現在、陰陽師ものやホラー小説などに人気がある。物質生活が豊かになり、科学が発達しても、かえって
人々の心は目に見えぬ超自然の世界へと志向していることを物語っている。これは民族の遺産である神話や
伝説、民聞伝承などのなかに、自分たちの根を求め、アイデンティティーを探そうとしているのではないだ
ろうか。
八雲の文学は、すぐれて内省的な視座から日本の近代を見すえている。明治以降発展的に継承されること
なく失った民間習俗が、本来もっていた合理性を随所で再確認させてくれる。私たちの意識の奥底に不滅の
生命をたたえ息づいているアイデンティティーを呼びさますものだ。時代を超えて、現代を問い直す著作と
して今後も読み継がれることだろう。
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部門賞 エッセイ部門賞
横を向く八雲
千田 篤
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部門賞 評論部門賞
ハーンはなぜ "weird tales"を再話したのか
―物語の言葉の力を手掛かりにして―
光畑 隆行
1.物語を聞く喜び
ラフカディオ・ハーン(Lafcadio Hearn, 18501904)が関心を寄せる物語を一言で表すと、“weird”なも
のとなる。
そのことを裏づける例として、
『怪談』
(Kwaidan, 1904)の序文で、
「怪談」の訳語に”Weird Tales”
が当てられることやi、
『中国霊異談』
(Some Chinese Ghosts, 1887)の序文に、“in preparing the legends
I sought especially weird beauty.” ii(これらの伝説を集めるにあたって、私は特に『怪異美』を求めた。)
という記述が見られることなどが挙げられる。本稿では、ハーンが“weird tales”(怪異譚)を語り直し
た理由の一端を明らかにしたい。
ハーンが至福の境地に達するのは、何よりも物語を聞く喜びに浸る瞬間であった。ハーンはその喜びがあ
ったからこそ、再話物語を次々と作り上げていくことに精力を傾注することができた。そして物語を聞くこ
との喜びの淵源には、口の利けない幼児期に生母ローザに物語を聞かされた原体験がある。その生地レフカ
ダ島での原体験は、
『東の国から』
(Out of the East, 1897)所収の「夏の日の夢」
(“ The Dream of A Summer
Day”)に以下のように記されている。
・・・I remember, too, that the days were ever so much longer than these days, ―and that the days were new
wonders and new pleasures for me. And all that country and time were softly ruled by One who thought only of
ways to make me happy. Sometimes I would refuse to be made happy, and that always caused her pain, although
she was divine; and I remembered that I tried very hard to be sorry. When day was done, and there fell the great hush
of the light before moonrise, she would tell me stories that made me tingle from head to foot with pleasure. I have
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never heard any other stories half so beautiful. And when the pleasure became too great, she would sing a weird
little song which always brought sleep. ・・・iii
(・・・私はまた、一日一日がこの頃よりずっと長かったことを、それから毎日が新しい驚きと新しい喜びの連続であ
ったことを覚えている。そしてその国と時間はすべて、私を幸せにすることだけを考える人によってやさしく支配され
ていた。その人は神々しかったけれども、時々私はすねて幸せにされるのを拒むことがあったが、すると決まって彼女
は心を痛めた。それで私は本当にすまなく思ったことを覚えている。日が沈み、 昼が過ぎて月が出る前の黄昏時の大い
なる静寂がおとずれると、彼女は嬉しさのあまり頭のてっぺんから足のつま先までぞくぞくする物語の数々を語ってく
れた。今まで聞いたことがある物語は、美しさにおいて彼女のお話の半分にも及ばない。そして楽しさが非常に大きく
なると、彼女は決まって眠りをもたらす妖しい短い歌を歌ってくれた。)iv
上の引用から、ハーンが至福の境地に至るのは物語を聞かされる瞬間であることが読み取れる。ハーンは
母と思しき女性の優しさに包まれる世界で、黄昏時にその女性から「嬉しさのあまり頭のてっぺんから足の
つま先までぞくぞくする物語の数々」(stories that made me tingle from head to foot with pleasure)
を聞かされた。その世界はイオニア海に浮かぶレフカダ島であり、その世界を統べる人は母ローザのことで
ある。それを裏づける決め手となるのが、1890 年1月16 日付の弟ジェームス宛ての手紙にある「あの言葉
の力さえも彼女(母)から来ているのです」
(even that language power …came from Her.)vという一節で
ある。母に繰り返し物語を聞かされた幼児期の原体験が心の奥底にしっかりと刻まれているからこそ、ハー
ンはこの手紙で母から言葉の力を授かったと言い切ることができた。母ローザはイオニア海のキシラ島の口
承文化で育った人なので、読み書きを習わなかった代わりに、その土地の伝承の歌や物語を数多く聞いたは
ずである。それらを滋養として育った母から授かった「あの言葉の力」(that language power)とは、物語
の言葉の力にほかならない。この場合、母から言葉を教わるということは、すなわち母から物語を聞くとい
うことを意味したのである。
ハーンにとって、物語を聞く原体験はアイルランドで過ごした幼年期にも大いに影響を及ぼすことになる。
そのことを端的に示す記述として、1901年9月付のW.B.イエィツ(William Butler Yeats, 18651939)
に宛てた手紙の中の、
「私には妖精譚や幽霊譚を語ってくれるコノート地方出身の乳母がいた。だからアイ
ルランド的なものを当然愛するべきだし、実際に愛している」
(I had a Connaught nurse who told me
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fairytales and ghost stories. So I ought to love Irish Things, and do.)viというハーンの述懐が挙
げられる。ハーンは6歳の時、瞼の母と生き別れたことで「かわいさのかけらもない」(with never crack in
his heart)viiいやな少年になり、大叔母サラ・ブレナン(Sara Brenane)のダブリンの邸宅で悶々とした日々
を送っていた。しかしながらハーンの述懐から、こうした惨めなアイルランド時代にあって唯一の楽しい出
来事が、コノート地方出身の乳母から物語を聞くことであったということを窺い知ることができる。そして
その物語は、ケルトの習俗が色濃く残されているコノート地方に伝わる妖精譚や幽霊譚のことである。ケル
トの口承文化で育った乳母から聞いた物語は、イエィツへの手紙に記されているように、具体的な物語の内
容となって生涯ハーンの心に残ることになる。
ギリシアのイオニア諸島でも、アイルランドのコノート地方でも、口承文化の中では物語を聞くことは
人々の生活の重要な一部分を成していた。そして、ハーンが『ユーマ』(Youma, 1890)の中で描いたマルテ
ィニーク島におけるクレオールの口承文化も同じことがいえる。
Often, when the nights were clear and warm, the slaves would assemble after the evening meal, to hear stories told
by the libres-de-savane(old men and women exempted from physical labor)―those curious stories which
composed the best part of the unwritten literature of a people forbidden to read. In those days, such oral literature
gave delight to adults as well as to children, to bekes as well as to negroes: it even exerted some visible influence
upon colonial character.viii
(・・・夜、空が澄んで暑い時は、奴隷たちは夕食後も集まって、libresdesavane
と呼ばれる老齢で
肉体労働を免除された、老人の男女から話を聞くこともあった。−それは面白いお話の数々であった。読書には縁のな
い人が伝える、非文字文学の粋といってもいいような物語だった。このような口承の文学もあのころは子供のみか大人
も、黒人のみか白人も、わけへだてなく楽しんだ。そうした口伝えの話を聞かされたことが、植民地生活者の性格に目
に見えるほどはっきりとした影響をおよぼしていた。)ix
上の引用を一言でまとめると、決まって夜に、マルティニーク島に伝わる物語の数々
を”libresdesavane”と呼ばれる古老から聞く喜びに浸ることが、その土地に住む人たちの性格に多大な
影響を及ぼすということになる。以上見てきたように、口承文化において物語を聞くという行為は庶民の日
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常生活に深く浸透している。物語を聞くことがその人の内面に深く影響を及ぼす。
いわゆる「口承文学」(oral
literature)における物語の言葉の力とは一体どのようなものなのか。そのことを考えることが、ハーンが
母から授かった「あの言葉の力」(that language power)の意味を探り出す糸口となる。そこで、次に口伝
えの物語とはどのようなものなのかを考えてみたい。
2.物語の本来の姿
書物が知られる以前の古代に目を向ければ、物語とは本来口頭伝承されるべきものであることがわかる。
ハーンは「創作論」(“On Composition”)という東京大学における英文学講義の中で、ホメロスの叙事詩『イ
リーアス』と『オデュッセイア』を例に挙げて、本や文法ができる以前に作られた古代の物語の口頭伝承の
重みを次のように説明している。この二つの口承叙事詩は一人の人間によってではなく、それを暗誦したあ
らゆる世代の何千何万の人たちによって少しずつ改良されてきた。そして、最後に書き留められることにな
ったときには、それはすでに磨かれ完成されていた。xしたがって、口承文学、言いかえれば「非文字文学」
(unwritten literature)というものは、一個人の創造とみなされる今日の物語の原初的存在であり物語の
本来の姿を有している。
『ユーマ』の中の「夜にゾンビを見たくなければ、昼間に物語を語ってはいけない」(one must not tell
stories in the daytime, unless one wants to see zombies at night!)xi という一節は、物語を語るとい
うことが本来呪術性をともなうことを示している。
つまり、
物語は夜の世界の住人とともにある。
”The Fairy
Dwelling on Selena Moore”(
「セリナムーアの妖精の住まい」
)というイギリスのコーンウォールに伝わる
妖精譚の中に、妖精は人間のようにキリスト教を信仰するのではなく、
「星の崇拝者」 (starworshippers)
であるという一節がある。xiiこの表現を借りれば、決まって夜に行われる”libresdesavane”と呼ばれる
古老の語りの場には、太陽崇拝者である人間はもちろんのこと、星の崇拝者である霊的存在も居合わせる。
かつて物語は両者を結ぶ役目を果たしたのである。したがって、口承文学に見出される物語とは、英語で示
せば、”weird tales”(怪異譚)ということになる。
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“weird”という語は、
『オックスフォード英語辞典』(The Oxford English Dictionary)によれば、 語源
が「運命」を意味する古英語の “wyrd”であり、本来「人間の運命を支配する超自然の力を持つ」(having
preternatural power to control the fate or destiny of human beings)xiiiという意味である。
“weird tales”
は超自然の要素が入り込む物語のことであり、特に人間と超自然の存在の交渉を扱う。超自然の存在とは普
通の人間には見えない霊的な存在のことであり、幽霊よりずっと広く、神、精霊、妖精、妖怪、天使、悪魔、
魔女までも含む。ハーンは「小説における超自然的なものの価値」(“the Value of the Supernatural in
Fiction”)という東京大学における英文学講義の中で、
「あらゆる偉大な芸術作品には、文学、音楽、彫刻、
あるいは建築のいずれにおいても、何か霊的なものがある」 (There is something ghostly in all great art,
whether of literature, music, sculpture, or architecture.) xivと指摘し、“weird tales”の文学的価
値を認めている。
ここで「超自然」
(supernatural=preternatural)という用語からくる霊的存在に関しての誤解を述べて
おきたい。超自然の存在は自然を超越した異次元世界にいるのではなく、あくまでも自然内部に遍在してい
る。キリスト教の無機質な自然観の影響を受けて、自然内部にいるはずの霊的存在が超自然というレッテル
を貼られてしまったのである。ギリシアでも、アイルランドでも、マルティニーク島でも、そして日本でも、
古代より有機的自然が自然の原型であるとされてきた。霊的存在は神ですら自然を超越するものでなく,そ
れに内在する。自然は人間や神をそのうちに包み込む。自然の神秘に畏敬の念を抱く人々の間で、”weird
tales”は語り継がれてきた。では、”weird tales”の言葉の力とは一体どのようなものであろうか。次に
そのことを考えてみたい。ここから”weird tales”を「物語」と呼ぶことにする。
3.物語の言葉の力
古老だけでなく、”da”と呼ばれる乳母もクレオールの民話の重要な語り手である。白人の子どもを預か
る乳母はだれもがストーリーテラーであり、乳母の重要な仕事は、夕暮れになると不思議な物語を語り子守
唄を歌って子どもを寝かしつけることにある。乳母のユーマは子どものマヨットに対して、実際に作品の中
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で語られる「ケレマン婆さん」(“Dame Kelement”)という名前を当てられると魔力を失ってしまう魔女の
物語の他に、
「モンタラ」(“Montala”)という天までのびる魔法の樹の物語、
「マザンラン・ガン」
(“Mazinlinguin”)というゴブリンと結婚した気位の高い娘の物語、さらにはゾンビ鳥、聖母マリア様、
悪魔、善き神などの様々な超自然の存在が登場する物語を語っている。こうした物語を何度も聞かされてい
くうちに、マヨットは「物語に対する異常なる熱情」
(an extraordinary passion for stories)が高まり
物語の虜になる。それと同時に、彼女の内面ではある劇的な変化が生じる。まさにその変化こそが、物語の
言葉の力によるものなのである。クレオールの物語の言葉の力を受けて、マヨットの自然に対する見方が一
変する。作品からその変化を表す記述を拾っていくと、
「現実世界の周辺に甘美で非現実的な雰囲気が広が
り」(spreading about reality an atmosphere deliciously unreal)、
「本来は生気のないものまでが不思
議な個性を帯びる」(imparting a fantastic personality to lifeless things)ようになる。具体的には、
「物影にはゾンビが満ち」(filling the shadows with zombies)、
「灌木にも樹木にも石にも物言う能力が
賦与され」
(giving speech to shrubs and trees and stones)
、
「サトウキビさえもシューワ、シューワと
彼女に向かって語りかける」(even the canes talked to her)。そして彼女にとっては、
「毎朝の散策でユ
ーマとともに訪ねた丘や岸や谷間の場所の一つ一つが、あのあり得ないお話の景色の一つ一つを提供してい
るように思われた」(each spot of hill or shore or ravine visited in her morning walks with Youma,
furnished her with the scenery for some impossible episode)ということになる。xv要するに、マヨット
は自然内部の霊性を強く意識するようになる。クレオールの不思議な物語の数々は、マヨットの内面に自然
内部に遍在する霊的世界に対する畏敬の念を芽生えさせたのである。
霊的世界の特質は何よりもその無限の深さにある。ハーンは『異国情緒と回顧』(Exotics and
Retrospectives, 1898)所収の「永遠の憑きもの」(“The Eternal Haunter”)の中で、森の中に潜む乙女の
樹の精霊の霊的深さを「宇宙樹」
(Yaggdrasil)のようなものにたとえて、”the measureless, timeless,
billionbranching Tree of Life”xvi(無限大に伸び、永遠不滅の、無数の枝葉のつけた生命の樹)と表現
している。また、霊的世界の無限の深みは遠い過去へと沈んでいく深みである。ハーンは光輝く乙女の樹の
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精霊の正体を「遠い昔に消えた太陽の幻の光」(the phantom light of longexpired suns)xviiと称している。
先に触れた”The Fairy Dwelling on Selena Moore”では、妖精たちが、例えば「収穫を祝う夕食会」
(the
Harvest Supper)のような、数千年も前に人間として生きた時の楽しい思い出を心のより所にしていること
や、あるいは妖精たちの背が低いのが数千年もの時の重みで徐々に縮んでいった結果であることなどが語ら
れており、ここには妖精の霊的深さが示されている。
マヨットは物語の言葉の力を借りて、普通の人間には見えない、無限の深みを帯びる霊的世界を幻視・幻
聴することができた。物語の言葉の力とは、有限の浮世を生きる人間の澱んだ魂を無限の時空へいざない浄
化することをさす。まさにその魂の浄化再生作用こそが、物語を聞くことの喜びの誘因となる。物語は聞き
手の心底の扉を開き、聞き手を無限の深みへと導くのである。ハーンは先に挙げた「小説における超自然の
価値」の中で、超自然の要素が内包される物語の最大の特徴として、それが私たちの心の内の「無限性」
(infinity)に関わる何かに触れることを指摘している。xviii
物語を聞く側はいずれ物語を語る側に回る。物語を聞くことの喜びを体感した者は、別の言い方をすれば
物語の真髄を悟った者は、いつの日か物語を語り始める。ただし、これまで述べてきたように、自然内部に
遍在する深淵な霊的世界を感じ取ることが、語り手としての必須条件となる。語り手は自ら霊的世界との繋
がり求めて、その繋がりそれ自体から物語を創り出すのである。そうすうことによって初めて、語り手は星
の崇拝者たちも含めた聴衆を魅了することが可能となる。
ハーンの幼少時代に乳母から聞かされたケルトの妖精譚や幽霊譚への関心は、アイルランドと同様にケル
トの習俗が残されているスコットランドのバラッドの妖精譚や幽霊譚への関心ということで、生涯にわたっ
て続く。そして、ハーンは「英国バラッド」(“English Ballads”)という東京大学における英文学講義の中で、
バラッドの語り手が霊性に満ちた自然と関わっていく必要があることを以下のように述べている。
Ancient woods and streams were peopled for him with invisible beings; angels and demons walked at his side; the
woods had their fairies, the mountains their goblins, the marshes their flitting spirits; and the dead came back to him at
times to bear a message or to rebuke a fault. Also the ground that he trod upon, the plants growing in the field, the
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clouds above him, the lights of heaven, all were full of mystery and ghostliness.
xix
(彼[バラッドの語り手] のために、古くからある森や川には目に見えない存在が群がり住んでいた。天使や悪魔が彼の
脇を通り過ぎる。森には妖精が、山には小鬼が、沼地には飛び回る精霊がいる。そして死者の霊はメッセージを携えたり、
過ちを叱責したりするために、時々彼のもとに戻ってくる。その上、彼が踏みつける地面や、野原に育つ植物や、彼の頭
上に広がる雲や、天空の光など、万物は神秘と霊性に満ちていた。)
この引用に見られる“he”はバラッドの語り手であり、今も昔も変わらない自然とともに暮らす農民のこ
とである。バラッドの語り手とは、バラッドの伝承者であると同時に再生者でもある。彼は受け継がれてき
たバラッドをただ暗誦するのではなく、自分の言葉で語り直す必要がある。ハーンはそういう意味合いを込
めて、バラッドの語り手の必須条件として、
「悠久の昔から存在する」(ancient)自然の霊的深淵さを意識す
ることを挙げている。彼が足を踏み入れる森、川、山、沼地には、
「天使」
(angels)
、
「悪魔」(demons)、
「妖
精」(fairies)、
「小鬼」(goblins)、
「精霊」(spirits)、
「死者の霊」(the dead) などの、様々な姿をした「目
に見えぬ存在」(invisible beings)が群がり住んでいる。また、彼が踏みつける地面、彼の周囲に広がる植
物、彼の上の雲や天空の光などの天地万物はすべて「神秘と霊性」
(mystery and ghostliness)に満ちてい
る。超自然の存在だけでなく、バラッドの語り手も自然の一部としてそれに包まれる。自然それ自体が神秘
的なのである。霊性満ちた世界は人間界の近傍に遍在している。そして、自然内部の霊的世界を日常的に意
識する人々の間で、バラッド形式の妖精譚や幽霊譚は伝承かつ再生されてきた。バラッドの語り手は、自ら
その世界との繋がり求めて、その繋がりそれ自体から物語を紡ぎ出すのである。
バラッドの語り手について述べきたことは平家物語を語る琵琶法師にも当てはまる。
『怪談』所収の「耳
なし芳一の話」(“The Story of MiminashiHoichi”)の場合、平家琵琶の語り手である琵琶法師芳一は平
家の亡霊たちとの繋がりを求めて、亡霊たちにむけて琵琶を弾じ平家物語を語る。琵琶法師の本来の職務は、
当時の源平合戦の様子を見事に語り直すことによって、亡霊たちに感極まって涙を流させるほどの深い感動
を与え、その澱んだ魂を活性化させることにある。まさにそこに物語の言葉の力が現れる。700 年以上も前
に合戦で非業の死を遂げた平家の亡霊たちは、芳一に限らず琵琶法師の語りを聞くたびに、合戦が行われた
遠い過去の時空へさかのぼることができた。したがって、ストーリーの核心部分は、平家の墓地に表出した
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霊的世界で、平家の亡霊たちが、芳一から壇ノ浦の合戦の物語を聞く喜びに浸る場面に置かれることになる。
4.原初への往還
ここでもう一度、冒頭に掲げた「夏の日の夢」からの一節について考えてみたい。この一節が浦島伝説の
ストーリーと密接に関わっていることは明白なことである。
「浦島」
の核心は時が一瞬のうちに過去にさかの
ぼる点にある。浦島太郎は玉手箱を開けた瞬間、竜宮へたなびく白雲を追うと同時に、一瞬、竜宮で過ごし
た日々を追想するが、たちまち老人と化し、400年の冬の重みに押し潰される。白雲が海の彼方に消えて
いく瞬間の浦島の心の状態に焦点が当てられる。つまり、その瞬間、一番大切な過去の記憶、すなわち竜宮
で乙姫と過ごした400年前の至福の日々の記憶が浦島の心に鮮明に蘇るのである。そして浦島伝説を語り
直すことが誘因となって、すなわち物語の言葉の力を借りて、ハーンは自分自身の「遠い昔の」(which is not
at all new)xxの母と過ごした至福の日々の記憶を追想することになる。そのレフカダ島での母との生活を象
徴する原風景が、母に物語を語ってもらう場面となって、一瞬のことだが彼の心の内奥から表出される。も
う一度その追想の場面の一部を次に引いてみる。
・・・I remember, too, that the days were ever so much longer than these days, ―and that every day there were
new wonders and new pleasures for me. And all that country and time were softly ruled by One who thought
only of ways to make me happy.・・・
「一日一日がこの頃よりもずっと長かった」(the days were ever so much longer than these days)
という表現から幼い頃の記憶であることがわかる。また、
「私にとって毎日が新しい驚きと新しい喜びの連
続であった」(every day there were new wonders and new pleasures for me) と同じ表現が、ハーン版「浦
島」の竜宮での生活を描く場面に、”each day for Urashima there were new wonders and new pleasures
“xxiという形で用いられていることから、
竜宮とレフカダ島が彼の心の中で重なり合っていることがわかる。
そして「その国と時間はすべて、私を幸せにすることだけを考える人によってやさしく支配されていた」(And
all that country and time were softly ruled by One who thought only of ways to make me happy)と
- 20 -
いう表現から、その時空がハーンと母親の二人だけの世界であることがわかる。しかしながら、”One”と
いう語は含みのある表現である。直後の引用でわかることだが、その人は無限化された「聖なる」(divine)
女性である。その人の言葉は聖なる言葉であり、その人の物語の言葉の力は聖なる領域に属するものである。
その聖なる領域は、幼児期の思い出の島であると同時に、竜宮すなわち常世と重なり合うことから、そこは
現世を生きる者にとっての原初の島でもある。ということは、レフカダ島で口の利けない幼児期に生母ロー
ザに物語を聞かされた原体験は、追想以上の意味を含んでいるかもしれない。
浦島伝説の物語の言葉の力をバネとして、ハーン自身の小さな魂は夏の日の夢を通して一瞬、遠い過去の
深みに沈んでいき、己の根源地への往還を果たすことになる。その聖なる世界とは、この世に産み出してく
れた母ローザを投影する聖なる女性が統べる世界である。そして、ハーンはその世界でこの女性から物語を
聞くことで至福の極地に達する。まさにこの瞬間こそ、ハーンの原点を如実に映し出すものである。ハーン
の澱んだ魂は、己の始原へ回帰することによって浄化され生まれ変わったのである。つまり、原初の世界で
無限化された母と思しき聖なる女性から物語を聞く喜びに浸る原体験は、ハーンが聖母から物語の言葉の力
を授かることを具象化するものである。ハーンはこの時、ストーリーテラーとして物語を語り継ぐことを決
意したのかもしれない。そしてその物語が、物語の本来の姿を呈する”weird tales”なのである。ハーン
は夏休みを利用した長崎旅行の帰路、1893 年7月22 日の早朝、宇土半島の三角西港にある浦島屋旅館で朝
食をとった。その後、彼は朝日が差し込む部屋から遠く有明海を望み、ふと浦島伝説の夢を見た。この夏の
日の夢の原体験から約7年後に出版された『影』
(Shadowings, 1890)以降、ハーンは堰を切ったよう
に”weird tales”の数々を再話していく。そして、ハーンの再話文学は『怪談』(Kwaidan, 1904)において
結実するのである。
註
i
Lafcadio Hearn, Kotto and Kwaidan, The Writings of Lafcadio Hearn ⅩⅠ (New York: Houghton
Mifflin, 1923) p. 160.
- 21 -
Lafcadio Hearn, Leaves from the Diary of an Impressionist, Creole Sketches, and Some
ii
Chinese Ghosts, The Writings of Lafcadio Hearn Ⅰ, p. 213.
iii
Lafcadio Hearn, Out of the East and Kokoro, The Writings of Lafcadio Hearn ⅤⅡ (New York:
Houghton Mifflin, 1923) p.p. 1819.
拙訳には平川祐弘編『日本の心』
(講談社学術文庫、1990)を使用あるいは参照した。
iv
v
鳥谷照夫『若き日のヘルン』
(神戸洋々社出版、1932)p. 13。
vi
Paul Murray, A Fantastic Journey (Kent: Japan Library, 1993) p. 35.
vii
Paul Murray, A Fantastic Journey, p. 35.
viii
Lafcadio Hearn, Two Years in the French West Indies Ⅱ, Chita and Youma, The Writings
of Lafcadio Hearn Ⅳ, p. 282.
ix
x
平川祐弘『カリブの女』
(河出書房新社、1999)p.158。
Lafcadio Hearn, On Art, Literature and Philosophy, R. Tanabe, T. Ochiai and I. Nishizaki,
ed. (Tokyo: The Hokuseido Press, 1932) p. 73.
xi
Lafcadio Hearn, Two Years in the French West Indies Ⅱ, Chita and Youma,p.p. 287288.
xii
A Dictionary of British FolkTales in the English Language, Part B, Folk Legends Vol.
1, Katharine M. Briggs, ed.(Bloomington: Indiana University Press, 1971) p. 226.
xiii
The Oxford English Dictionary, vol. ⅩⅡ (London: Oxford University Press, 1987) p. 273.
xiv
Lafcadio Hearn, On Art, Literature and Philosophy, R. Tanabe, T. Ochiai and I. NIshizaki,
ed. (Tokyo: The Hokuseido Press, 1932) p. 115.
xv
拙訳には平川祐弘『カリブの女』を使用あるいは参照した。
xvi
Lafcadio Hearn, Exotics and Retrospectives, The Writings of Lafcadio Hearn Ⅸ, p. 209.
xvii
Lafcadio Hearn, Exotics and Retrospectives, p. 210.
xviii
Lafcadio Hearn, On Art, Literature and Philosophy, p. 115.
xix
Lafcadio Hearn, On Poetry, R. Tanabe, T.Ochiai and I. NIshizaki, ed. (Tokyo: The Hokuseido
Press, 1941) p. 13.
xx
xxi
Lafcadio Hearn, Out of the East and Kokoro, p.17.
Lafcadio Hearn, Out of the East and Kokoro, p.8.
参考文献
赤祖父哲二『宮沢賢治―物語の原郷へ』
(六興出版、1992)
- 22 -
平川祐弘『ラフカディオ・ハーン』
(ミネルヴァ書房、2004)
平川祐弘監修『小泉八雲事典』
(恒文社、2000)
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