龍谷大学アジア仏教文化研究センター 2010 年度 第1回 国際シンポジウム 平等を求めて ―南アジアのマイノリティとマジョリティ― Voices for Equity: Minority and Majority in South Asia セッション1 現代インドにおけるダリット/仏教徒コミュニティの現状 プロシーディングス 龍谷大学アジア仏教文化研究センター 2011 平等を求めて ―南アジアのマイノリティとマジョリティ― セッション1 現代インドにおけるダリット/仏教徒コミュニティの現状 2011 年 1 月 22 日 龍谷大学大宮学舎 目次 報告Ⅰ ヴァレリアン・ロドリゲス 「近代性と宗教に関するアンベードカルの見解」 ...................................................1 報告Ⅱ 舟橋健太 「「カースト」と生きる ―ウッタル・プラデーシュ州における仏教徒ダリトの事例から-」 .....15 報告Ⅲ 榎木美樹 「次世代育成を目指す仏教施設の役割・ネットワーク調査 ―インド仏教徒のルネッサンス―」 .............................................................27 報告Ⅳ 足立賢二 「南インドでのはり・きゅう治療と「改宗仏教徒」 ―無料医療奉仕活動 Free medical camp の分析から―」 .............................43 報告Ⅴ シヴ・シャンカル・ダース 「ウッタル・プラデーシュ州のアンベードカル仏教(1951~2001 年) 人口統計的および社会経済的発展の分析」 .........................................59 パネルディスカッション .............................................................................................79 近代性と宗教に関する アンベードカルの見解 ジャワーハルラール・ネルー大学 ヴァレリアン・ロドリゲス* 若原雄昭 訳 最初に、この論文で進める議論を簡単にまとめておきたい。アンベードカルは、仏教に 改宗することで、インドの世俗化プロジェクトに大きな害を与え、蒙昧主義を補強し、彼 が代表する人々がその状況に対する根本的変革案を求める自然な志向を妨げた、という意 見がある1。このような見方に対し、私はアンベードカルが、ある特殊な宗教観を前面に押 し出した近代化プロジェクトに賛同していたのだと考えたいのである。彼はまた、人間理 性と科学と相互関係の様式との創造物である近代性は、宗教に根ざすことなくしては持続 し得ないと考えた。この点で西欧の多くの重要な思想家とは異なっており、インドにおけ る近代性について思索したオーロビンドやイクバルに、そしてガーンディーにさえも、近 いのである。彼らはみな近代性の諸条件下で宗教のもつ一定の重要性に訴えたからである。 しかし、彼はガーンディーとは異なり、宗教と近代性を対置することはせず、両者の関係 を対話可能なものと見ていた。宗教は近代的精神に反するものではなく近代的精神も宗教 に反するものではない以上、適正な宗教を論じることは公共的理性の構築にとって不可避 であり、結果的に諸宗教を比較せざるを得ないことになる。したがって、宗教は私的な事 柄ではなく公的な関心事であり、直接の信者仲間を越えて検討し議論しなければならない。 しかし、宗教には公共的理性に抵触する宗教と、全面的な反感や敵意を抱かせることのな いより開かれた宗教とがある。それゆえ必然的に、適正化の過程に於いて宗教的信仰と実 践に意味づけし、再評価し回復するという手段をとらざるを得ない。こうした吟味にかけ た場合、仏教は他の宗教よりも優位に立つとアンベードカルは考えた。それ故に仏教が我々 の時代、近代性の時代、のための宗教に最も近いものと考えた。それは単に「抑圧された 人々の宗教」或いは「社会参加型」の「解放のための」宗教、事実そうなのだが、である のみならず、人間の最も根源的な希求に調和した何ものかなのである。 このような結論に達したアンベードカルは、宗教の間に区別を設ける。宗教の中にはそ の信仰や儀式や実践が人類を支配し矮小化する、もっと言えば正当な理由なく人間を上下 に位づけする、ようなものがある一方で、共同体の成員間に永続的な絆を築いて人間の成 長能力に資する環境を提供する宗教もある。したがって諸宗教は同等ではない。それらが 全て同等であると信じることほど大きな誤りはない、とアンベードカルは言う。ガーンデ 1 この議論については、W. N. Kuber, Dr. Ambedkar – A Critical Study, New Delhi, Peoples’ Publishing House, 1977 を参照のこと。 1 ィーの「全ての宗教は同等である」(sarvadharma samabhava)という主張をその哲学的拠 り所である(ジャイナ教的)多面性論(Anekantvada)とともに斥ける。この理由で、ある種の 信仰体系や制度化された実践を宗教と呼ぶのは誤称であり、この名称がそうしたものまで 含むのであれば真正の宗教は別の呼び方をすべきだと論じることもある。 問題 宗教と近代性の関係は今日再び脚光を浴びており2、広く行われた近代性論によって我々 が鵜呑みにしていた説明や価値に対しても、異議が唱えられている。両者の関係を改めて 再考することで、我々は従来考慮に入れていなかった多くのものに注意するようになった。 近代プロジェクトにおいて宗教に訴えたのはアンベードカルだけではない。近代インド 思想の複雑な綴れ織りの中で悪戦苦闘している者にとって印象的な特色の一つは、宗教の 突出である。この時代を過去 200 年という期間で大きく一括りにしてみても、宗教を無条 件に拒絶した思想家はほとんど存在しない。パンディット・ネルー、ラーム・マノーハル・ ローヒヤー、そしてマルクス主義者たちが一般にはそうした中に数えられる。こうした言 い方はこの点に関する彼らの建前にもとづけばある程度までは当たっているが、一方で、 彼らの発言の多くには宗教が包含する概念空間が見られるということに注意するのも大切 である。ネルーには常に、唯物論的人生観には還元し得ず、絶対的なものの希求という内 在的観念に帰せられるような、当惑や恍惚や驚異があった3。 ローヒヤーは、極めて抑圧的 で奴隷的なものであると彼が見なした迷信や儀式、信仰を激しく非難したが、歴史は束縛 と開放との漸進的展開の循環を伴った<精神> (geist) の具現化であると見ており、ヘーゲ ルやマルクスとは全く異なっていた4。インドにおけるマルクス主義者たちが、強い意味で 宗教を遠ざけたということを示唆する確たる証拠はない。一般に上位カースト出身である 指導者たちにとっては、宗教とその実践の多くは文化的装いに包まれていて、巡礼や寺院 参拝などの民衆的実践は義務とは見なされていなかった。大衆は宗教的実践に熱心だった が、マルクス主義者たちは、こうした実践から信者を脱却させようとする大きな運動を指 導したり、彼らに批判的に関わったりするようなことはなかった。そもそもマルクス主義 者たちの間でも多くの宗教儀礼が特に家庭的環境の中で、或いは必要に応じて得られる残 2 以下を参照せよ:Talal Asad, Genealogies of Religion: Discipline and Reasons of Power in Christianity and Islam, The Johns Hopkins University Press, 1993; Formations of the Secular: Christianity, Islam, Modernity , Stanford University Press, 2003; On Suicide Bombing, Columbia University Press, 2007; Charles Taylor, A Secular Age, Cambridge, Mass., Harvard University Press, 2007. 3「人生は見たり聴いたり感じたりするものや、時間的空間的に変化する可視的世界だけでできているので はない。それは他のおそらくより安定したあるいは同じくらい変化しやすい諸要素でできた不可視の世界 と常に接しており、思慮深い人ならこの不可視の世界を無視することはできない」、 J. Nehru, The Discovery of India, New York, John Day Co., 1946, p.14. 4 Rammanohar Lohia, Wheel of History, Hyderabad, Rammanohar Lohia Samatha Vidyalaya, 1974 及び “The Doctrinal Foundations of Socialism” in Marx, Gandhi and Socialism, Hyderabad, Rammanohar Lohia Samatha Vidyalaya, 1964 pp. 320-363 を参照のこと。 2 滓として、存続していたのである。宗教に正面から立ち向かおうとした主要な試みの一つ に南インドでラーマスワーミ・ナーイッカルが行ったものがあるが、彼の試みの全体は何 よりもバラモン的実践とその派生物に向けられたものであり、宗教的実践の素朴な核とい う重要な側面は保持していたのだ、という議論も成り立つ。 宗教への個人的な侮辱は近代インドでは珍しいことではなく、宗教と関連があるとされ る行為の回避という形をとり、また公的な場での同趣旨の告白も多いが、このような態度 は西欧における世俗-宗教の分離を模倣したにすぎず、宗教分離の一方の側に立つという ことが状況に照らして如何なる意味を持つかについての哲学的考察はほとんどなされてい ない。近代性プロジェクトから宗教を控除しようとする上掲の諸例を考慮しても、近代イ ンドが宗教的理想を育むことを、あるいは少なくともそれに吝かでないことを、期待する という、大いに人気のある他の諸要素がある。サバルタン・グループの社会運動は宗教的 色合いを帯びて起こることが多い。マイノリティ宗教コミュニティ或いは先住民(adivasi)出 身の思想家で、宗教なき近代インドを強く主張したような者は、ほとんど思い出せない。 近代性プロジェクト インドで定式化されるに至った近代性と宗教との関係は、西欧での近代性と宗教の関係 に関する主流の理解とは顕著に異なっていた。後者は、近代性の諸過程は公的生活の非神 聖化に帰結し、ウェーバーのいう「幻滅」('disenchantment')をもたらした、と規定する。理 論的には、このような結論は宗教的信仰は客観的基礎を持たないという主張にもとづいて いた。それゆえ、その真理値は、確証と確実性をもって立証出来るものではない。宗教的 信仰が客観的基礎を欠いている以上、多数の信仰が人々に享受され得るのであり、それ故 に信仰は公的領域の機構や制度にはなり得ない。宗教的信仰と実践は信者の選択にのみ委 ねておくのが最善である。このような理解により、私的領域と公的領域の分離は決定的に なった。私的領域はとりわけ多様で個性的な信仰と価値の諸体系で満ちているのに対し、 公的領域は共有の理解と利害を中心に構成された。そのような共有の理解と利害には可能 な組み合わせがいくつかあり、それらは様々な問題や関心事への多岐に亘るアプローチを 生み出す。細部について意見の相違はあるが、この主流な理解を際だたせている重要な原 理の一つに、直接的な愛着や利害を離れて理性にもとづいた公益の判断に到達する力と能 力を持つ人間、という観念があった。この理性は、もはや人間性そのものの属性ではなく、 類似の他者で構成された共同体の範囲内で、熟考を経て共有の利害に対する理解に至り、 そのような理解に従った行動を確認することを誓約する各個人のものであった。イマーヌ エル・カントは、このようなプロジェクトに決定的な哲学的弁明を提供することとなった。 宗教が近代性プロジェクトに深く関わっているとする近代性に関する観点が他になかっ たわけではない。例えば、理神論者たちは、人間の自律性と選択は必ずしも神や超越的な 領域の存在を否定するものではないという主張を唱えた。しかし、彼らはそれまで広く普 及していた人為に介在する神の摂理という観念を否定して、神は人間に自らの営為や世事 の責任を負うという運命を与えたのであり、人間は結局は創造主に対して自分の行為の責 任を負う、と論じた。言い換えれば、神は創造全体を人間の手に委ねる、但し、究極的な 監督者として、日々の営みには介入しないものの、責任は負わせるのである。最近では、 哲学者チャールズ・テイラーがこの問題に対して異なる観点を提案した。彼は、世俗的な 3 るものは宗教的なるものの只中から出現すると言い、宗教的観点は近代性プロジェクトの 展開過程を通じてほの見えている、と論じた。テイラーは、近代内部の宗教的観点に対す るこの想像力が、将来を予想する興味深い可能性を提供するとも論じている5。 この論文で私が論じたいのは、近代性と宗教の関係がインドでは大いに異なって説明さ れただけでなく、この問題について全く異なる有効な諸観点があったということだ。しか しながら、これらの異なる諸観点は、いずれも近代プロジェクト形成における宗教の重要 性を共有しているという点では共通点も多く、インドにおける近代性プロジェクトに明ら かな減衰を与えている。思うに、この論文を通じて私が提起する問いの中には、インドで は近代性と並行して宗教的信仰と実践が一貫して顕著であるということに関して洞察力あ る学識が注意を喚起してきた、大いなるパラドックスの若干に光を投じる助けとなるもの があろう。これに関する重要な観点の一つがアンベードカルのものであって、彼は宗教と 近代性の相関的関係を対立的というよりは補完的なものと見たのである。この要求に応じ られない宗教は人間の十全な成長の障害となったし、宗教に倫理的基礎を置かない近代性 は殆ど弁護の余地のないものだった。同時に、宗教の名のもとに行われる因習化した信仰 や実践の多くは宗教という名に値しないものだった。したがって、正しい宗教と間違った 宗教に線引きし双方を比較して賛否の議論をすることは可能である。アンベードカルは諸 宗教は同等であると見なせない、さらに言えば、あらゆる人の宗教の選択は等しい敬意と 考慮に価するが誰も真剣にそうしていない、と考えた。それ故に、近代社会は宗教的信仰 や実践に関する公の論争や討議を避ける必要はない。実際、宗教の重要性を考えれば、こ うした信仰や実践はその他多くの要件よりも優先度が高い6 。事実、宗教を私的領域に閉じ 込めることで、近代性は自らに対する自らの不信を証明しており、先入観や半面の真理を 真理として認めることを許しているのである。 いろいろな意味で、アンベードカルは上に略述したような主流の西欧的近代性プロジェ クトの中で育てられ、そのプロジェクトを偉大な前進として擁護し、そこに人間開放の可 能性を見た。しかし、彼は常に人間の営みの中に宗教の然るべき場所を認め、宗教は強力 な力であると考えた。世俗的理想との闘いでは、宗教的理想はその過程で何らかの直接的 な利益を犠牲にするにも関わらず、勝利するように見える。「宗教的理想は、現世的利得 とは無関係に、人類に対する支配力を持っている。これは純粋に世俗的な理想については 決して言えないことである。」7 アンベードカルは、宗教は私事であるとする一般的な見方 をとらなかった。多様な宗教の存在を認め、宗教的選択を含め宗教の自由を尊重する一方 で、同時に、宗教の中には人間の達成を妨げ、理性の吟味に耐えないものがあると考えた8 。 5 Charles Taylor, The Secular Age, Cambridge, Belknap Press, 2007 6アンベードカルがダンマを宗教とすることを拒絶し、宗教という概念を常に否定的な意味で用いていると いうのは正しくない。ただし、彼は The Buddha and His Dhamma の中ではそうしている。このテキストの 目的は仏陀とそのダンマ(法)を擁護することであった。 7 B. R. Ambedkar,‘Philosophy of Hinduism’, Dr. Babasaheb Ambedkar Writings and Speeches (BAWS), Vol. 3, Bombay, Government of Maharastra, Department of Education, 1987, p. 23 8 アンベードカルにおいては宗教という概念が多様に用いられるため、規範的分析的ツールとしては扱い にくいと指摘する学者たちがいる。例として以下を参照のこと:Timothy Fitzgerald,‘Analysing Sects, Minorties, 4 ここに示された大まかな区別は、諸宗教を社会学的及び規範的に考察したものである。こ の両方の点で受け入れ難い宗教もあるが、いずれか一方の点で、或いは若干の面では両方 の点で、望ましい宗教もあろう。アンベードカルは「儀式の宗教」とか「原理の宗教」、 或いは同じ意味で「ダルマ」と「ダンマ」といった区別を用いることもあった。 アンベードカルは、近代性のいくつかの型について論じている。それは植民地出身の知 識人にとって社会主義的革命の状況下では或る意味で避けられないことだった。彼は、自 由主義的な近代性は不平等の関係に絡めとれており、その枠組みのせいで、広汎な民衆が 被っている類の窮乏に取り組むことにすら無感覚になっていて、権利の宣言を行ったにも 関わらず利益の保護に傾きがちだと考えた9。ソビエト連邦に見られるようなマルクス主義 型の近代性についていえば、階級及び階級闘争の存在や、公共生活における平等を強調す る必要といった、社会に関する洞察は推賞に値するものの、社会を倫理的に基礎づける能 力はほとんどもたなかった。したがって、それがもたらす社会的絆は必然的に脆弱であり、 日常的・物質的期待が破れれば崩壊するだろう10。結局、そのような社会は破綻を免れるた めに非常な強制力を必要とし、いつしか引き換えに自由を手放すことになる。さらにアン ベードカルは、マルクス主義は資本主義的であれ何であれ凡ゆる経済的土台が産み出す複 雑な上部構造に気づいていない、と考えた。上部構造諸要素のある種の相関関係は、経済 的諸選択を殆ど否定しかねないほどに制限し得るとも考えた。また彼は、いかなる将来予 測も、必ず人間の可能性と限界そして人間関係において生じうる不可避の衝突を考慮に入 れなければならないと感じていた。それ故に、国家のような機関及び法の支配は当分の間 必要とされるのであって、それらが死滅するというお目出度い希望は何であれ単にユート ピア的であるのみならず、人間のなすべき種々の選択に必ず悪影響を及ぼすことになる。 アンベードカルはまた断固たる大衆行動を支持し、強権と弾圧には人間性を変える力はな いと考えた。 植民地インドの内部でアンベードカルは近代プロジェクトの限界に直面した。植民地内 部では近代性が公約を守ることは稀で、その本来の主流となる推進力に対立する構造と結 託した。インドでは、イギリスの植民地政策が旧い信仰構造を支え、バラモン教の強化を 熱心に助け、独特な信仰形態を構築してインド人をほとんど共通点のない諸集団に振り分 けてしまった。アンベードカルは、インドにおいてはカースト制度の構成要素である服従 と蔑視によって階級行動がほぼ不可能であるために、社会主義プロジェクトはうまく行か ないと考えた。こうした服従と蔑視は、特有な正当化と認可の方法によって宗教的に定め られたものだと当事者自身が認めていたのである。アンベードカルは、インドにおける主 and Social Movements in India: The case of Ambedkar Budhism and Dalit(s)’, Surendra Jondhae and Johannes Beltz 編, Reconstructing the World: B.R.Ambedkar and Buddhism in India, New Delhi, Oxford University Press, 2004, pp. 267-282;‘Ambedkar, Buddhism and the Concept of Religion’, S. M. Michael 編 Dalits in Modern India, New Delhi, Vistaar, 1999, pp. 118-134; Martin Fuchs,‘Buddhism and Dalitness: Dilemmas of Religious Emancipation’, Surendra Jondhale and Johannes Beltz 前掲書, pp. 283-300 9 B. R. Ambedkar, What Congress and Gandhi have done to the Untouchables, Bombay, Thacker & Co., 1945 を 参照のこと。 10 B. R. Ambedkar, Buddha or Karl Marx, in BAWS, Vol. 3 (1987), pp. 441-462 を参照のこと。 5 流派ナショナリストの観点は、カースト制を無視するか或いは国家を全カーストを包括す るものとして考える限りでは、カースト支配として現れている特殊な様態の宗教支配が国 家という新興の理念に優越することを許すものだと考えた。このような天啓制度は社会的 ヒエラルキー下にある人々に対する敬意と平等な考慮に資するものでないのみならず、国 家そのものの現実性のある観念にも役立たないと考えたのである。アンベードカルは、植 民地主義がインドでの宗教的プロジェクトを育成するやり方にも賛成しないし、同時にナ ショナリストのプロジェクトが自由の名の下に宗教支配を温存しようとするやり方にも反 対した。それ故に、宗教の植民地(主義)的利用もナショナリスト的利用も拒絶する一方 で、宗教は社会的再建においてあまりにも重要であり、ある種の近代的立場が提案するよ うに無くしてしまえるものではないと考えた。公的領域と私的領域の分離によって宗教の 自由を擁護することよりも、寧ろ宗教に関する或る特殊な観念を支持し擁護することに努 めた。そのような宗教の観念は、公然隠然の支配を持続させるために運用されるようなも のであってはならず、人間の尊厳と平等、理性、そしていかに不完全であろうとも完成を 目指してやまない人間の努力、を織り込むことを必要とするのである。アンベードカルは、 自由・平等・博愛といった、近代性を浸出する中心的諸価値を称賛する一方で、それらは 近代性の中にのみあるものではないし、近代性自体がそれらを実現することも滅多にない、 ということを理解するに至ったのである。 近代プロジェクトにはさまざまなタイプがあるが、その多様な現れ方に共通する哲学的 核がある。この核を援用することがとりわけ重要であるのは、それが近代性の下での人間 の条件と宗教との関係を、過去の諸時代と比べて非常に異なった形で明確にするからであ る11。近代性にあって中心的な位置を占めるのは理性と人間の経験である。真理を謳う命題 は、人間の行為を肯定するにせよ批判若しくは反対するにせよ、理性や経験の前で実証さ れなければならない。近代性は生活様式全体や信仰、宗教的実践を規定するわけではない が、これらを正当化したり非正当化したりすることは確かであり、また当然そうでなけれ ばならない。さもないと、人類はその過去、熟考されざる過去、の言うがままになってし まうであろう。仏教との遭遇はアンベードカルにとって決定的なものとなる。 アンベードカルの宗教に対する批判と承認は、規範的・社会学的・政治的なものであり、 この批判という観点からすると宗教の位置づけは宗教によって異なっていた。こうした批 判を展開するために採用した解釈学的用語も多様で、宗教の成り立ちによって異なってい た。普遍的に正当化しうる議論を用いた批判にさらされる宗教もあれば、その具体的な実 践を批判し実践面に現れている欠陥に注意を喚起する場合もあった。ヒンドゥー教と仏教 の評価を行う際には歴史的探求にも深く手を染めた。この論文の後半で今から論じようと するのは、様々な宗教に対するアンベードカルの批判、宗教擁護論、そして仏教が人間の ある種の根本的探求に答えるものだと考えた理由、である。その際、死の直前に仏教へ改 宗したことを単なるエピソードとしてではなく、彼の全生涯を貫いていた完全性の探求と して考えて見たい。 11 宗教の辿った軌跡を示す過去の二つの時代がアンベードカルにとってとりわけ重要である:神話の時代、 すなわち自然現象に人間的意味や必要物が備わっていた時代と、宗教的宇宙論の時代、つまり普遍宗教が 自然的人間的条件についての説明を与え、人間の営みがそうした説明のうちで為されていた時代、である。 6 宗教の理解 アンベードカルの宗教に関する著述は広範囲にわたり文脈も多様である。彼の宗教とい う概念の主な用法には顕著なものが二つある:一つは、単なる人間の努力には還元できな い究極的には神の観念を中心に展開する実践の体系として、第二は、人間がその理想とし て自ら共同で定める実践の体系である。第一の概念は、アンベードカルが比較的見地から 宗教を論じる際に提示されることが多いのに対し、第二はこの問題に介入して価値判断を 表明する際に目立つ。第一の用法に従って、「私の見るところ、宗教とは人がその中で生 きている社会秩序を道徳的秩序にすることを究極の目的とした神による統治の理想的企図 を提起することを意味する。」と彼は述べている12。このような活動家的姿勢は三つの命題 にもとづいている。すなわち、「1.神は存在し、我々が自然や宇宙と呼ぶものの創造者 であること、2.神は自然を構成する全ての出来事を支配していること、3.神は至上の 道徳律にしたがって人類を統治していること」、である13。これらの命題が論理的思考過程 を通して定式化されそれらの帰結が論理的に導かれているのであれば、そうして形成され た体系は自然神学であり、啓示にもとづいているならば啓示神学である。アンベードカル はこの両者の観点を矛盾するものとは見ない。啓示によって自然神学の諸結論は裏書きさ れ、或いは「より豊かで深長な意味」を与えられる。そうした理想的企図及びそれを基礎 として打ち立てられた道徳的秩序は、段階的発展の過程を経て、或いは彼が啓示宗教と呼 ぶものにあっては啓示によって、形成されうる。後者の場合にはイエスや預言者ムハンマ ドのような「宗教的革新者」がいて、彼らが神の企図を宣するのである。興味深いことに、 アンベードカルはヒンドゥー教、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教を啓示宗教であると している。 しかし、このような宗教概念によって提示される理想的企図は、どの程度まで理想とし て正当なものであろうか?そのためにどういった基準を用いるべきだろうか?アンベード カルは、そのためには「宗教が閲してきた発展を研究する」必要があると考える。すなわ ち、当初、宗教は個人生活と社会生活のあらゆる面に浸透している。やがて「宗教の帝国」 は極めて限定されたものになり、このように「恣な成長を断ち切ることは歓迎すべき過程 であった」。14 この変化の過程で、「神と人、社会と人、そして人と人との関係」は深刻 な変化を被った。未開社会では、宗教は主に慰撫であり、呪術やトーテム、タブー、呪物 などによって表現された。しかし、未開社会であれ「文明社会」であれ、宗教が求める目 的は「生と生の維持」である。神の概念は、そのような目的を補助するのに不可欠ではな いし、未開社会にはなかった。しかし未開段階を過ぎると、一群の実践と道徳原理が宗教 の不可欠な構成要素となった。これらは最初は分離していたが、融合するようになった。 かくして宗教は生・死・誕生・結婚といった「人間存在の基本的事実」の神聖化と「それ らの維持のための諸規則を供給する」道徳原理とを意味するようになったのである15。 12 B. R. Ambedkar, Philosophy of Religion, in BAWS, Vol. 3, p. 6. 13 同書 14 同書, p. 9. 15 同書, p. 12. 7 宗教が包含する領域は、近代社会の到来とともに大きな変化を被った。古代社会では人々 は同じ空間の住人だった。「宗教の領域と日常生活の領域」には区別がなく、神と人は親 族関係にあった。どの集団もそれぞれの神と結ばれていた。社会の成員は道理にもとづい て信仰しているというよりは、一群の宗教的実践の中に填め込まれていた。近代では、宗 教は内的信念と「道理にもとづいた信仰」の問題となった。より初期の段階では外的服従 が最も重要であったに対し、近代では内的信念が最も重要な側面となった16。前近代社会は 神を普遍的なものと考えておらず、神は誰かの属する共同体に限定されたものだった。近 代社会では、神は共同体、民族及び国家への付着から遠ざかった。科学の発達が宗教の範 囲を制限することになり、これをアンベードカルは外的革命と呼んでいるのだが、一方で は宗教内部での内的革命が根本的に新たな形で宗教を改鋳した。「この革命によって、神 は共同体の一員であることをやめた。そのため神は中立的になった。神は物質的な意味で 人間の父であることをやめた。神は宇宙の創造者となった。血縁を断ったことで、神は善 なりと主張することが可能になった。この革命によって、人間はひたすら神の命令に従う だけの盲目的崇拝者であることをやめた。その結果、人間は自らの信念によって神の戒律 への信仰を正当化することが必要とされる、責任ある者となった。この革命によって、神 は単なる社会の守護者であることをやめ、社会的利益の総体は単に神的秩序の中心である ことはなくなった。社会と人間がこの神的秩序の中心として新たな場所を占めた。その中 心となったのは人間である。」17 第二の用法では、アンベードカルは宗教を価値と人間的共感の普遍化への要求であると 見る。この要求は、機械的な世界観に反発して生じるものであり、物事に意味と目的を付 与するものである。それは社会が諸個人の行為を制御して利己的性向を他者への配慮に矯 正する手段である。チャールズ・A・エルウッドの言葉を借りると、「宗教は最も強力な社 会的引力であり、それがないと社会秩序は軌道を保つことが出来ない」18のである。エルウ ッドは、宗教を、最も取るに足りない人間のものでもその尊厳を擁護し、その人の行動を 限りない意義を持つものとする装置と見ている。彼はコントのような実証主義者はこうし た包括的な関心には与しないと考える。宗教は人々に互いに愛し合うことを勧め、そして 他者を敬い公正で情け深くあるよう躾ける。共同体の絆を固め、感謝・愛・同情・善意・ 利他心といった徳を育む。他者に対する不正行為があれば、共同体にそれを償う措置を講 じさせる。 この用法によれば、近代において宗教を評価する基準は、それが果たす有用性ではなく、 正義である。宗教の中心が社会から個人へと変化したというのは、このような意味であっ た。それは人々が人間の行為において何が善であり悪であるかを決められるようにする基 準である。それは人間の総体全てに関わるものだから、単に世俗的基準と解してはならな い。包括的基準としての正義は同時に、平等、平衡と補償の観念、善と義、及びそれらに 16 同書, pp. 18-19. 17 同書, p. 21. 18 Valerian Rodrigues ed., B.R.Ambedkar: Essential Writings, New Delhi, Oxford University Press, 2004, p. 227. 引用は Charles A. Ellwood, Sociology in its Psychological Aspects, New York and London, D.Appleton & Co., 1912, p. 357 による。 8 伴う諸規則・規定をも含意している。この意味で、それはまた自由、平等、博愛、そして 「道徳的秩序の基礎」をも包括するものとなる19。 アンベードカルに見られる宗教のこれら二つの用法は不安定なものだが、彼も近代性の 諸条件の下では両者がしばしば重なり合うと考えている。 現存諸宗教に対する批判 アンベードカルが宗教を論じ近代性プロジェクトを練り上げる文脈の上ではヒンドゥー 教が常に敵役であった。しかし私が示したいのは、彼のヒンドゥー教批判は、批判にさら される諸属性を具体的に表現している限りでは、他のいかなる宗教形態に対しても適用し うるということである。アンベードカルはまた、ガーンディーのようなヒンドゥー教擁護 論者の主張を吟味して、自分の批判は単に一々の実践や信仰に対してではなく、ヒンドゥ ー教自体の規範的基礎そのものに向けられているのだと言う。言い換えれば、単なる社会 改革では充分ではないと考えたのであり、更に言えば、顕著な表面的特徴の存在を指摘す るだけでは足りないとしたのである。アンベードカルは、ガーンディーが「永遠なる法(ダ ルマ)」(Sanatana Dharma)であると考えたヒンドゥー教の中心的な価値と信仰に戦いを 挑むと論じた。ヒンドゥー教が複雑極まりないものであり、多様な流れが注ぎ込んでいる (ガーンディーは多岐に枝分かれした巨樹という比喩を用いてこれを表し、また多数の支 流を持つガンジス川に喩えた)ということを彼はよく分かっていた。それと同時に、同時 代のナショナリストの殆どがそうだったように、ヒンドゥー教は核となる一群のテキス ト・信仰・実践を中心に織り上げられていて、常にそれらを援用して論争や対立を権威を もって乗り越え、他に対する地位を強化している、と考えた。それは決して取るに足りな いような浅薄で漠然としたものではないのである。また、バクティのような抗議運動もこ の核に挑戦することはないし、たとえそうする者があっても、この権威の諸資源を運用し て挑戦を退け或いは封じ込めている、と考えたのである。 アンベードカルがヒンドゥー教を批判するために採用した諸基準は、イスラム教やキリ スト教のような一神教によって用いられたものではなく、近代性プロジェクトの中心とな る諸価値であった。彼はヒンドゥー教が人間的営為や自由を否定していると激しく非難し た。ヒンドゥー教は、その信者及び信者の行為を自ら選んだのでも努めたのでもない等級 や序列に振り分ける諸規定の複雑な網の中に、信者を閉じ込めていると考えた。このよう なシステムの犠牲になった人々は、現世にほとんど希望を見出せず、来世で繰延配当を給 施されるのだ。そのため、人間の行為とその結果は合理的な精査と予測に準拠したものに ならない。このような宗教によれば、特権的な者と困窮する者とがいる状態が全面的に正 当化され誤魔化されてしまう。この宗教的構成物を規定している社会的慣習の原理は、行 為とその明白な結果に殆ど関わりがなく、またそれ故に行動と自我形成との間のいかなる 合理的な相互関係にも関わりがない。同時にそれは、困窮する者と特権的な者とがいる現 状を維持する巨大な力を持っていた。ヒンドゥー教聖典に記されている命令は、法律のよ うには機能しないかもしれないが、社会構造と信仰体系を考え合わせると、これらの聖典 はそれらを弱めるというより寧ろ肯定し強化する傾向があった。当然このような宗教は人 19 前掲書. p. 25. 9 間存在の価値や尊厳に対する敬意を持たなかった。このような宗教を支配する者たちは完 全に免責されたままであった。ヒンドゥー教は特別な宗教であるから他律的な根拠にもと づいてではなくそれ自体の観点から判断さるべきであるという主張は、アンベードカルに とってはおいそれと受け入れらるものではなかった。宗教は人間の福利と充足のためにあ り、そうでなければ単に余計なものである。ここで注意しておかなければならないのは、 アンベードカルがヒンドゥー教の再構築に相当な精力を注ぎ、当初はガーンディーらの 人々を当面の盟友と見なしていたということである。ラーナデーを大いに称賛したのは、 社会的な権利と自由を先頭に立って推し進めたからである。ヒンドゥー教法典の改正を思 い描いたのも、反対者たちが正しく理解していたとおり、ヒンドゥー教の規範的根拠と考 えたものに正面攻撃を加えるためだった。 キリスト教に関しては、アンベードカルは神学的にも社会学的にも異存があった。イエ スの神性とか三位一体の観念といった幾つかのキリスト教の神学的真理は人間理性には理 解不能であり、それ故に信仰の名の下に信者を欺いているに過ぎない、とした。倫理的に はキリスト教が擁護する受苦の観念は有害な結果をもたらすであろうということを、ガー ンディーのような人たちが山上の垂訓を喜んで評価する場合に見いだしていた。このよう な観念は現世での解放を求める被抑圧階級の闘争を強く圧迫する可能性があると考えたの である。カルマの教義が盲従的な自我に約束する来世の至福というものを強く懸念してい たが、主流のキリスト教倫理は正にこうした道に沿ったものだった。アンベードカルはま た、キリスト教が世界中に布教するために採用した方策をあまり評価してはいなかった。 福音伝道の過程で広範に武力が用いられたことやキリスト教が植民地拡大に関与したこと に言及している。社会的慣習の中にキリスト教が填め込まれてしまっているという見地か ら、キリスト教内でカーストの慣習が継続していることや、この難問に効果的に対処でき ていないことにも言及した。したがってキリスト教は妥当な案とは思われなかった20。 イスラム教に関しては、アンベードカルには提起しなければならない重要な問題が三つ あった。第一は、あらゆる有神論的宗教に対する彼の一般的な立場と、神と霊魂の存在に ついてのより大規模な議論に関するものであった。第二の議論は、預言者と啓示の究極性 に関わるものであった。こうした究極性の主張は人間の創造性と新たなる革新の可能性に 対する侮辱であると感じられた。実質的に啓示として述べられたようなものが人間理性の 創造的可能性を支配するのは謂れのないことだと考えていたのである。第三に考えたのは、 イスラム教的構成物は社会的等級やヒエラルキーを弱めるのに成功したことが殆どなく、 それらと共存する傾向にあったということである。但し、イスラム教が根づいた社会にお いて普及した相対的な平等主義については大変好意的であった。だが、キリスト教の場合 と同様に、与えられた宗教的真理の体系が信者にも非信者にも等し並みに押しつける強制 と抑圧を深く懸念していた。 アンベードカルは、既成諸仏教に対しても同様に批判的であった。世界に対応できない 仲間内の談義に陥っていると映ったのである。彼らの姿勢は仏陀の教えと殆ど関係がなか った。既成仏教教団は、「瞑想という怠惰」の空虚な追及に迷う「怠け者の大軍」となり 20 キリスト教を拒絶したことが文化的理由と関係があることを伺わせるような証拠は殆どない。 10 おおせていた。彼はこれを現代人に訴えるもののない「無用の長物」('deadwood')と呼んだ。 仏教による近代性の再構築 そうであったとして、具体的な宗教とその実績を考え合わせたときに、アンベードカル において宗教はいかなる場所を占めていたのであろうか?近代性の諸条件の下で彼はそれ に対して相反する感情を抱いていた。また、神話としての宗教は、理性が真理の裁定者と して介入し人間の自由が絶えずより新たなる可能性へと開かれている近代性の下では、自 らを維持する能力がほとんどないと考えていた。啓示宗教は、信者に諸原理の実質的な体 系を忠実に信奉させ実践させようとする限り、結局は自らを正当化できない。彼は、仏教 の伝承にもとづいて、神の存在を否定する一連の本質的議論を練りあげ、また、縁起説が 究極的存在に対する信仰に最後のとどめを刺すと考えた21。諸宗教は、神及び霊魂への信仰 を助長する限り、理性の吟味に殆ど耐え得ないというのが彼の考えであった。 著書『ブッダとそのダンマ』」の中で、アンベードカルは苦心してダンマ(Dhamma)とダ ルマ(dharma)、宗教と正しい行いを区別しようとしている。しかし、それなくしては人間が 人間たり得ず、また人間存在の再生が困難になるような一連の準拠先(身元証明)がある。 一定で継続的な相互関係と熟慮を助長する共同体は、自我の十全な発達を促進するもので あり、重要な準拠先の一つである。但し、このような共同体はその成員を平等なものとし て認め、そのような平等性を維持する諸条件を絶えず再生しなければならない。アンベー ドカルは、人は他者との出会いにおいてのみ自己を実現し得るのであり、それには批判的 な相互関係の機会が充分にあることが肝要である、という意見を最初に表明した一人であ った。だが何よりも、彼は人間が未来へと創造的に開かれるのは、ただ自由においてのみ、 そして自由によってのみであると考えた。未来へと創造的に開かれているというこのこと は、アンベードカルにとっていろいろな意味で神聖なものであり、人間の努力に対して基 準となる指標を示していた。こうした見解にはウパニシャッド的な努力に合致するところ があるとする強力な内在論的な神性の観念があり、アンベードカルはそれを評価したが、 但しそのような努力は共同体の絆を蔑ろにするものだとして非難した。 アンベードカルの考えるところでは、このような人間生活の展望を仏陀という人物は既 に先取りしており、その実現への道も示しているし極めて人間的だから、現代に復活させ られない理由はないと考えた。実際、どの主張にもそのような復活を提案する傾向があっ た。聖典及び注釈書も含めた仏教文献に幅広く手を染め、こうした系統の思想が現代に適 していると考えた22。既存の仏教には非難すべき点も多々あったし、仏教聖典には夥しい改 21 縁起説は、無からは何も生じないと説く。神は何物かから宇宙を創ったか、或いはそもそも創らなかっ たか、いずれかである。もし神が何物かから宇宙を創ったとすれば、その物は神の行為に先立ってあった ことになり、神による創造、あるいは神が唯一の原初的存在であること、は覆される。 22 クリストファ・クイーンは、アンベードカルの蔵書の中で 250 冊を超える仏教関係の書物(仏教正典は 除く)にアンベードカル自身がぎっしりとコメントや賛意、反対を書き込んでいるのを見つけたと言う。 Christopher Queen, "Ambedkar’s Dhamma: Source and Method in the Construction of Engaged Buddhism", Surendra Jondhale and Johannes Beltz 編, Reconstructing the World: B.R.Ambedkar and Buddhism in India, New Delhi, Oxford University Press, 2004, pp. 132-150 を参照のこと。 11 竄があると考えた。しかし、もしこの堆積物と厚顔不純な宗派根性をくぐり抜けられれば、 仏陀の教えと人格と行動は、特に抑圧と周縁性の状況下で、人間の未来のための規範的根 拠となるのである。仏陀は悟りとしての理性の体現者そのものであった。仏陀は道徳性に もとづいた共同体を創ろうと努めた。但し、道徳性の範囲自体が、全ての人間関係及び人 間と自然との関係を包括するものとして再定義されることとなった。どんな人にとっても この共同体に加わる道を阻む障害物はなく、その過程には熟慮による論理的思考が際立っ ていた。人間の自己実現への深い関心と同時に人間の条件の限界に対する自覚があった。 アンベードカルの仏陀は喜びに満ちた人であり、顔を三昧の姿勢で世界から背けるのでは なく、世界へ向けている。 仏教を選択したことがアンベードカルにとって非常に重要な問題であったことは、これ に関する豊富な証拠によって裏付けられている。彼の運動の多くは、その中には極めて個 人的なものもあるが、このような選択を注意深く予見していた。ラクシュミー・ナラス著 『佛教の要諦』(The Essence of Buddhism)」の 1948 年改訂版への序文で、アンベードカル は、「仏陀の教えに向けられた反対者たちの批判のいくつかについて論じる」つもりだっ たが、自身の「仏陀の生涯」を準備中であり、「私自身の言葉を使う方がもっとうまくそ の問題を論じられるだろう」と述べている23。1950 年にはパーリ語仏教礼拝聖典をまとめた。 またセイロンとビルマに旅行したが、その目的は専ら両国の社会に広まっている仏教の研 究であった。V. H. Varadhe と R. B. Madilgekar に佛像を造らせたときは、世界から顔を背 ける姿勢ではなく、この世界の問題に取り組む姿で制作するよう明確に指示した24。伝統的 仏教では禅定や三昧が強調されてきたが、彼の論述においてはこれも重大な変化を被った のである。アンベードカルが自身の仏教改宗を極めて重要な事件と見ていたことを示すあ らゆる証拠がある。 伝統の現代的蘇生 アンベードカルの著作に登場する仏陀の言行が真正な典拠にもとづいたものか否かは何 年も議論されてきた主題である。この問題は、仏教内でのアンベードカル仏教あるいは新 仏教の地位に関連し、また著書『ブッダとそのダンマ』が仏教諸派において正統とされる 仏陀の教えを体現していると認めるかどうかにも関係する。前者は後者にもとづくと考え られる。ここで問題になるのは以下の三点である: 1.仏陀の教えの正統性:この問題は 19 世紀後半から 20 世紀初頭にかけての西欧におけ る仏教研究においては極めて当を得たものとなった。但し、その意義は、現存仏教徒 コミュニティの慣例内の問題というよりは寧ろ聖書研究内の<歴史的イエス>論争と 深い関係がある。だが多くの学者がキリスト教において提起されるような正典の問題 が仏陀の教えにも適用できるか否かについて論じた25。アンベードカル自身、仏陀の教 23 P. Lakshmi Narasu, The Essence of Buddhism, Mumbai, Thacker & Co., 1948 (第三版), p. ix 24 Gary Michael Tartakov, "The Navayana Creation of the Buddha Image", Surendra Jondhale and Johannes Beltz 編, 前掲書. pp. 151-185 を参照のこと。 25 Vasudha Dalmia, Angelika Malinar, and Martin Chrostof 編., Charisma and Canon: Essays on the Religious History of the Indian Subcontinent, New Delhi, Oxford University Press, 2001; Janet A. Contursi, "Political 12 えを伝える正典の存在を真剣に論じた。 2.たとえ正典の存在を認めないとしても、アンベードカルの代表作『ブッダとそのダン マ』がどの程度まで仏陀の教えの正しい解釈といえるのか。この著作の出版後数年を 経ずして、『マハー・ボーディ』(Mahabodhi :大菩提会 Mahabodhi Society の機関誌) は、「書名を『ブッダとそのダンマ』から『アンベードカルとそのダンマ』に変える べきだ、政治的野心と社会改革のためにダンマでないものをダンマとして説いている のだから、」と評した26。これに続いて他にも多くの人たちがアンベードカルは仏陀の 口を借りて持論を述べているだけだという主張を繰り返した。 しかし、何年にもわたる専門家たちの研究により異口同音に保証する声が高まって来 ているのは、『ブッダとそのダンマ』の多くが膨大な仏陀の教えや仏教に関する研究 と考察から採られたものだということである27。ただ、アンベードカルは回収復元した 素材を彼独自の鋳型の中に流し込んでいるのだ。 3.アンベードカルが『ブッダとそのダンマ』の中で用いた復元と解釈の方法の正当性は どうであろう?同じ教義を援用する伝統的解釈は充分にあるのだろうか?伝統的解釈 は伝統自体によって認可されているのであろうか?これに関してプラディープ・ゴー カレーは、アンベードカルの仏教解釈は伝統自体によって認可された範囲内にあった と論じている。 「アンベードカルがやっていたことは、嘗て大抵は原典の隠された意味の発見という 装いの下に著述家たちが哲学的革新を導入した伝統に大変よく合致する。実際、イン ドの諸哲学体系は、伝統的にこういう風な註釈を通して発達してきた。仏教もこうし た一般的傾向の例外ではない。仏教のさまざまな学派の提唱者は、仏陀の言葉を再整 理し再解釈して、そこから各学派の基本的教義を導き出してきた。だから、時には仏 教のある学派が仏陀の教えの核心と見なすものが他の学派にとっては些末なものだと いうこともある。」28 アンベードカルはその仏教論の中で奇跡的要素を控え目に扱っているが29、全く除外して いるわけではない。人が日常性或いは現世に単純に還元し得ないような出来事や過程を前 にしているということを示す記述においては、絶えず超自然的なものが侵入してくる。仏 Theology: Text and Practice in a Dalit Panther Community", Journal of Asian Studies, Vol. 52, No. 2 (1993 年 5 月), 及び Christopher S. Queen, Engaged Buddhism: Buddhist Liberation Movements in Asia, Albany, N.Y., State University of New York Press, 1996. 26 Jivaka による書評: The Buddha and His Dhamma, Mahabodhi, 68 (December, 1959) 27 Bhikhu Anand Kausalyayan 訳., The Buddha and His Dhamma (ヒンディー語), 1971; Adele Fiske and Christoph Emmrich, "The Use of the Buddhist Scriptures in B.R.Ambedkar’s The Buddha and his Dhamma", Surendra Jondhale and JohannesBeltz 編, 前掲書, pp. 97-119 と Aakash Singh Rathore and Ajay Verma 編/注, B.R. Ambedkar’s The Buddha and His Dhamma – A Critical Edition, New Delhi, OUP (近刊)を参照のこと。 28 Pradeep P.Gokhale, “Universal Consequentialism”, Surendra Jondhale and Johannes Beltz 編, 前掲書, pp. 121-122 29 Adele Fiske and Christop Emmrich 前掲書を見よ。. 13 陀は人間であり人間味があって誰でも皆近づきやすいが、同時に傑出した「道案内」 ('Margdarshak') である。 結論 アンベードカルの宗教観にも、探求を試みた宗教と近代性の関係にも、いくつか未解決 の問題がある。彼は、宗教的支えを欠いた近代性は機械的な経過をたどりやすく、結局は 多様な形態の支配を受けることになると強く感じていた。但し、その場合の宗教は近代性 の健全な達成を考慮に入れた「正しい宗教」でなければならない。近代性に浸された宗教 は、超越的領域及びそれと一対の本質的自我に関しては、殆ど信じるに足りない。人間の 宗教選択の自由に敬意を払う一方で、近代性の衝撃の下に宗教が大きな変容を被りつつあ ると見ていた。このような変容は、人間の価値、尊厳、自律性、そして世界そのものの自 律性の承認へと明らかに傾斜していた。実際、彼は仏教がこうした価値全てを支持してい ることを見出した。こうした価値は公正な社会を構成する基礎となるものである。このよ うな価値を喚起する宗教は私的なものではあり得ない。それは公然と宗教を名乗っている 他の諸観念と戦わざるを得ない。 *Valerian Rodrigues: Jawaharlal Nehru University, India 14 「カースト」と生きる ―ウッタル・プラデーシュ州における仏教徒ダリトの事例から― 京都大学東南アジア研究所 舟橋健太 1.はじめに インド社会、そしてインドの人びとの生活世界と密接に関連したものとして、 「カースト 制」が取り上げられることが多い。なかでも、このカースト制の最下層に位置するとされ、 抑圧されてきた/いる人びとが、「不可触民」(ダリト)と呼ばれる人びとである。特にイ ンドの独立以降、数多くの不可触民解放運動/ダリト運動がみられるが、そのうちのひと つとして、仏教徒による運動を挙げることができる。後述するアンベードカルの大改宗以 降、ダリトたちの仏教への改宗の動きが、漸進的に増えてきているのである。 本小稿においては、こうした「改宗仏教徒」 、とりわけ、ウッタル・プラデーシュ州に暮 らす仏教徒ダリト(カースト的にはチャマールとされる)に焦点をあてていきたい。ウッ タル・プラデーシュ州西部においては、仏教徒ダリトはあくまでマイノリティであり、か れらの親族・姻族は、その大多数がヒンドゥー教徒となる。こうした状況は、マハーラー シュトラ州の状況と比較検討した際、特に重要となってくる。かれら仏教徒ダリトは、一 方で自分たちの祖先が仏教徒であると主張しつつ、また一方ではチャマールに出自を持つ 中世の詩聖人(サント)であるラヴィダースを信奉してもいるのである。ブッダもラヴィ ダースもともに平等主義者であり、ダリトたちは「平等主義」に強く惹かれている。仏教 徒ダリトは、親族・姻族との関係性を保持するように選択的に宗教・儀礼実践を行ってお り、また、ラヴィダースは、仏教徒ダリトとヒンドゥー教徒ダリトとの結節点の役割を担 っていると考えられるのである。 本小稿では、かれら仏教徒ダリトの宗教・儀礼実践とかれら自身の語りを検討すること により、いかにかれらが親族や姻族と交渉しているか、すなわち、いかに「カースト」な るものとともに生きているか、考察していきたい。 2.事例の背景と問題設定 ここでは、まず、本小稿で使用する主要な用語の説明を行いたい。第一に、「仏教徒ダリ ト」であるが、かれらは、ヒンドゥー教から仏教へと改宗した元「不可触民」である。ウ ッタル・プラデーシュ州西部においては、そのほとんどが、ジャータヴあるいはチャマー ル・カーストに出自をもつ。かれらは時に「新仏教徒」と呼ばれているが、かれら自身は この呼称を忌避している。 15 第二にチャマールであるが、チャマールとは、北インドで大きな不可触民カーストの一 つである。かれらは、伝統的に皮革業、製靴業、村落の雑役、小作農業などに従事してき た[Briggs 1999; Cohn 2004; Khare 1984; Singh 2002]。筆者の調査村落においては、その多く が工場労働、農業、日雇い労働に従事していた。 さてここで、ウッタル・プラデーシュ州西部における仏教への改宗において、主要な役 割を担う二つのアクターを紹介したい。ひとつは、アンベードカル(Bhimrao Ramji Ambedkar、 1891-1956)という人物である。彼は(現在においてもなお)ダリトの傑出した指導者であ る。アンベードカルは、1891 年、マハーラーシュトラ州における著大な不可触民カースト のひとつであるマハールに生まれた。彼は苦学の末、アメリカのコロンビア大学とイギリ スのロンドン・スクール・オブ・エコノミクスの双方において博士号を取得した。インド 帰国後は不可触民解放運動に専心し、1935 年にヒンドゥー教棄教宣言をしたのち、1956 年 に仏教へと改宗した。そして仏教改宗からおよそ 2 ヶ月後、アンベードカルは帰らぬ人と なった。 写真 1 V 村のアンベードカル像 もうひとつのアクターは、インド仏教徒協会である。これは、1955 年にアンベードカル 自身によって設立された、ゆえに強い「正統性」を主張しうる組織である。この組織の目 的としては、仏教の伝播・普及と仏教的儀礼の遂行が掲げられており、ゆえに、かれらは 「宗教的な」活動のみに専心していることになる。このインド仏教徒協会は、ウッタル・ プラデーシュ州西部において仏教改宗運動を先導している。 ここで、先行研究をふまえた本小稿の問題設定を論じたい。本小稿と関係した主要なテ ーマとして、ひとつにダリト研究が、いまひとつに仏教徒ダリトの研究[Fitzgerald 1997 な ど]がある。 まずダリト研究に関してであるが、近年の多くの研究が、ダリトのアイデンティティ、 16 すなわち、ダリトとしてのアイデンティティの自省や再解釈、主張をその主題として扱っ ている。ここにおいては、かれら自身の「過去」に対する熟考・視点を指摘することがで きる。こうしたダリトのアイデンティティに焦点をあてた研究は、特に近年、数多くみる ことができる[Khare 1984; Deliège 1993; Dube 2001; Lamb 2002; Ciotti 2006; Arun 2007; Narayan 2008]。 次に、仏教徒ダリト研究に関してである。先行研究の多くは、かれら仏教徒ダリトたち の改宗以前、つまりヒンドゥー教/ヒンドゥー教徒との「断絶」を強調する傾向にある[Beltz 2004, 2005; Burra 1996]。しかし、 「改宗」は、断絶ではなくむしろ「連続」として捉えたほ うがよいと考えられる[Viswanathan 2001; Heredia 2004]。そうすることによって、かれらが マジョリティの人びと(すなわちヒンドゥー教徒)といかに関係しているか、より明白に なってこよう。 以上の先行研究の検討を受けて、本小稿においては、まず、仏教徒ダリトたちの「過去」 に対する熟考ならびに再解釈に焦点をあてたい。かれらは自分たちを、ブッダならびにラ ヴィダースの系譜を継ぐものと主張している。ブッダもラヴィダースも、ともに「平等主 義」を唱えた過去の偉人であり、仏教徒ダリトたちは、これら両者に対する強い信奉の意 を言明している。また、仏教徒として、またチャマールとしての側面が前面に出てなされ るいくつかの実践を取り上げ、最後に、基本的にヒンドゥー教と関わる儀礼・祭礼の選択 的実践について検討を行いたい。 3.現地調査について 現地調査は、まず 2003 年の 2 月~5 月ならびに 2004 年の 6 月~10 月の合計 9 ヶ月、ウ ッタル・プラデーシュ州西部のメーラト(Meerut)市において、ダリト運動、特に仏教改宗 運動(インド仏教徒協会)の組織とその指導者たちに関する調査が行われた。ついで 2003 年 3 月、2005 年 4 月~2006 年 2 月、そして 2009 年 3 月の計 13 ヶ月、同じくウッタル・プ ラデーシュ州西部のムザッファルナガル(Muzaffarnagar)県の一村落(V 村)において、仏 教徒ダリトの生活実践・儀礼実践に焦点をあてた調査が行われた。 17 図 1 インド全図 図 2 ウッタル・プラデーシュ州県別図 図 3 メーラト県とメーラト市 図 4 ムザッファルナガル県と V 村 4.事例から 本節では、具体的な事例を取り上げて検討していきたい。まず調査村落 V 村の概要であ るが、図 5 の V 村概念図において赤色で図示してあるように、本小稿で焦点をあてるチャ マールの居住地域は、村落の境界部に二つに分かれて存している。2001 年の国勢調査によ れば、V 村の総人口は 3982 人であり、うち指定カースト(そのほぼすべてがチャマールで ある)は 21%を占める 847 人を数えている。このうち仏教徒は、237 人(男性 120 人、女 性 117 人の合計 37 世帯、2009 年 3 月時点)となっている。 18 図 5 V 村概念図 図 6 は、カースト別の V 村人口構成図となる。もっとも数的に大きいのは、その他の後 進諸階級(OBC)とされるジンワル(ディンワル、ディーワル)であり、ついでチャマー ルとなる。 図 6 V 村カースト別人口構成 V 村に住む仏教徒ダリトのほとんどが、1996 年にインド仏教徒協会メーラト支部の指導 者によって行われた入信儀礼(ディークシャー Dīkṣā)において改宗を行った。かれらは 仏教が唱える「平等主義」に強く惹かれており、また、仏教を自分たち祖先の元々の宗教 であると認識している。加えて、アンベードカルに対するきわめて強い崇拝の念を指摘す ることができる。 19 ⅰ.仏教徒としての実践 ここでは、仏教徒ダリトたちの「仏教徒として」行われる実践を紹介したい。まず一つ 目の例として、命名儀礼を挙げることができる。これは、新生児への命名を行う儀礼とな るが、ブッダの肖像画、花、ロウソク、香などが設置された祭壇が用意され、儀礼が遂行 される。また二つ目の例として、ダンマ・ヴィジャヤー(Dhamma Vijayā)が挙げられる。 この儀礼は、ヒンドゥー教におけるダシャラー祭(Daśahrā)と同日に行われる。この日、 ヒンドゥー教徒が(そして仏教徒でも幾人かが)ダシャラー祭を祝うなか、少なくない仏 教徒がブッダへの帰依を唱えているのである。この儀礼実践からは、仏教徒としての自己 の強い主張をみてとることができる。 ⅱ.チャマールとしての実践 次に、チャマールとしての側面が強く伺える実践となる、ラヴィダース生誕祭の事例を 取り上げたい。ここにおいて、ラヴィダースという存在が、仏教徒とヒンドゥー教徒の結 節点となっているさまをうかがい知ることができる。ラヴィダースは、チャマールの出自 を有する、15 世紀頃にヴァーラーナーシーに生きたバクティ運動の流れをくむ詩聖人(サ ント)である。ラヴィダースは、平等主義を唱え、カースト制やあらゆる差別に反対した といわれている。 写真 2 コロニーA ラヴィダース寺院のラヴィダース像 20 図 7 V 村概略図 図 7 は V 村の概略図となる。V 村には二つのラヴィダース寺院があり、一つはコロニーA に近接、いま一つはコロニーB 内に存している。コロニーA に近接するラヴィダース寺院に はラヴィダース像のみが祀られており、コロニーB のシヴァ・ラヴィダース寺院にはシヴァ 神とラヴィダースの像が祀られている。 ラヴィダース生誕祭当日に向けて、それぞれのコロニーにおいて実行委員会が組織され た。コロニーA では、仏教徒がその多くを占めており、コロニーB ではほとんどがヒンドゥ ー教徒であった。実行委員会は、それぞれ別々に企画を立案していた。生誕祭当日、コロ ニーA では、V 村に近接するムザッファルナガル市から、ラヴィダースとブッダに直接の関 連はないが、ロード・ブッダ・クラブのメンバーを特別来賓として招いた。一方コロニーB においては、ラヴィダースやガネーシャ、シヴァに捧げるプージャーが行われていた。こ こに、両実行委員会の差異を顕著にみることができる。しかし、午後になって、コロニーB が企画した音楽バンドの先導による村落内の巡行が開始されると、コロニーB の住民のみな らず、次第にコロニーA の住民も巡行に加わり、最終的には、コロニーに関係なく、村落の チャマールの多くが(そのほとんどが男性であるが)熱狂的に踊り歩く大行列となった。 ここから、ラヴィダースという存在が、チャマールにとっての重要な核となっていると 考えることができる。仏教徒たちは、ラヴィダースが平等主義者であり、そしてチャマー ルの出自を持つことから、ラヴィダースに対して強い信奉心を抱いている。すなわち、仏 教徒としての意識とともに、かれら自身の過去、つまりチャマール・カーストとしての過 去にも強い意識があり、断絶しうるわけではないのである。そしてまた、ヒンドゥー教徒 のみならず仏教徒にとっても、ラヴィダースは大きな存在感を示しており、また、両者を 結ぶ結節点として機能していると考えられるのである。 ⅲ.宗教・儀礼実践の選択的遂行 本項においては、仏教徒ダリトによって選択的に遂行される宗教・儀礼実践について検 討を行いたい。図 8 の仏教徒ダリトであるアマン氏の家系図にみられるように、すべての 親族・姻族が仏教徒であるというわけではなく、V 村在住者は仏教徒であるが、それ以外(特 に姻族)は大多数がヒンドゥー教徒であることが分かる。 21 Aman 図 8 アマン氏家系図(太枠:V 村在住者、赤:仏教徒) ここで、アマン氏の次女の婚姻儀礼をみた場合(写真 3、4 参照) 、それはヒンドゥー教 式に執行されていた。この点に関するアマン氏家族の語りを紹介しよう。 この儀礼は、仏教のものじゃない。ヒンドゥー教のものだ。 (新婦の義姉、妹たち) ヒンドゥー教徒との結婚にあたって、問題は何もない。新郎の父親は迷信(andhvishvās)など 信じていないし、ヒンドゥー教徒だが、知識が豊富で、アンベードカルについてもラヴィダース についてもよく知っている。 (新婦父親) 新郎の家族が、とても強くヒンドゥー教式の儀礼を要求した。もしそうでなければ、結婚自体 ないものとする、と。なので、仕方なく了解した。 (新婦母親) 新婦父親と母親の語りの相違は大変興味深いが、いずれにしても、新郎側と新婦側で何ら かの交渉が行われたであろうことは知り得よう。 22 写真 3,4 アマン氏次女の婚姻儀礼 次に、ディーワーリー祭(Dīwālī)の事例を取り上げたい。写真 5、6、7 は、カルワー・ チョウト(Karvā Cauth)の際の様子であり、かれらはすべて仏教徒となる。カルワー・ チョウトは、ヒンドゥー教の神話と深い関連があるものだが、仏教徒ダリトたちは儀礼を 行っていた。これは、ひとつには、カルワー・チョウトには夫婦間の絆を強めるという意 味・機能があるからであると考えられよう。夫の言によれば、「カルワー・チョウトには、 神に対するプージャーもあるが、われわれは行わない。われわれがするのは、夫と妻に関 する儀礼だけだ」ということとなる。 写真 5,6,7 カルワー・チョウトの様子 次に、バーイー・ドゥージ(Bhāī Dūj)の例を取り上げたい。ディーワーリー祭のうち、 3 日目がディーワーリー本祭であり、4 日目がゴーヴァルダン・プージャー、5 日目がバー イー・ドゥージとなる。アマン家の場合、ディーワーリー祭において、祭礼・儀礼を行っ たのは、バーイー・ドゥージのみとなる。これは、バーイー・ドゥージが、ヒンドゥー教 徒であるか仏教徒であるかにかかわらず、家族や親族との関係を保持する機能を有するか らであると考えられる。つまり、アマン家の人びとが言うところの、 「バーイー・ドゥージ は(ヒンドゥー教に関係なく)兄弟姉妹のお祝いだ」[丸括弧内は筆者の付記]ということ になる。 23 以上の事例の検討から、ここで儀礼に関する分析をまとめたい。まず、婚姻儀礼に関し てであるが、儀礼をいかなる様式で行うかは、新郎新婦両家族の交渉によるところであっ た。次に、ディーワーリー祭の事例からは、儀礼を実践するか否かは、その儀礼の持つ意 味と機能、すなわち、家族・親族の絆を強める意味と機能を有するか否かに基づいて、実 践/非実践が選択されているさまをみることとなった。つまりこれらから、「改宗」を考え るにあたって、断絶ではなく、むしろその連続性をみる必要が認識されえよう。 5.おわりに 最後に、若干の考察を加えたい。本小稿では、仏教徒ダリトたちが、自らの「カースト」 をいかに交渉しているか、また生きているか、検討を行ってきた。また検討にあたっては、 かれら自身の「過去」に対する視点・熟考に着目し、語りと宗教・儀礼実践を分析してき た。以下に、改宗理由を述べるにあたって、「過去」に関して語られたかれらの語りを取り 上げたい。 われわれインド人は、もともと、みな仏教徒であった。仏教は、われわれの祖先の宗教 (purānā dharm)である。だから、われわれは仏教を信じている。 (40 代男性、工場労働者) 仏教はわれわれの祖先の宗教だから、仏教への改宗を行った。われわれは、宗教をかえた のではない。祖先の宗教を受け入れたのだ。 (60 代男性、農業従事者) すでにみてきたように、仏教徒ダリトたちは、仏教徒としてのアイデンティティを強く 主張している。仏教は、インド発祥の宗教であり、また世界宗教でもある。ゆえに、仏教 徒ダリトたちは、ヒンドゥー世界とのつながりではなく、インドとのつながり(さらには 世界とのつながり)を主張しうることになる[Khare 1984: 6]。 また重要な点として、仏教徒ダリトたちは、ブッダとラヴィダースをともに、ひとつに 両者が平等主義者である点から信奉の念を抱いている。仏教徒ダリトは、この両者を信奉 することにより、仏教徒であることとチャマールであることとの両面をともに含みつつ、 ヒンドゥー教徒のチャマールたちとの交渉を行いえている。これはつまり、平等主義を唱 えたブッダとラヴィダースの両者に対する信奉ゆえ、すなわち、「平等」というものに対す る強い信念ゆえである。 24 [参照文献] Arun, C. Joe, 2007, Constructing Dalit Identity, Jaipur: Rawat Publications. Beltz, Johannes, 2004, “Contesting Caste, Hierarchy, and Hinduism: Buddhist Discursive Practices in Maharashtra”, In Surendra Jondhale and Johannes Beltz (eds.), Reconstructing the World: B. R. Ambedkar and Buddhism in India, New Delhi: Oxford University Press, pp. 245-266. ――――, 2005, Mahar, Buddhist and Dalit: Religious Conversion and Socio-Political Emancipation, New Delhi: Manohar Publishers & Distributors. Briggs, G. W., 1999[1920], The Chamars, Delhi: Low Price Publications. Burra, Neera, 1996, “Buddhism, Conversion and Identity: A Case Study of Village Mahars”, In M. N. Srinivas (ed.), Caste: Its Twentieth Century Avatar, New Delhi: Penguin Books India (P) Ltd., pp. 152-173. Ciotti, Manuela, 2006, “‘In the Past We Were a Bit “Chamar”’: Education as a Self- and Community Engineering Process in Northern India”, Journal of the Royal Anthropological Institute (N.S.), 12(4), pp. 899-916. 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Viswanathan, Gauri, 2001[1998], Outside the Fold: Conversion, Modernity, and Belief, New Delhi: Oxford University Press. 25 26 次世代育成を目指す仏教施設の役割・ネットワーク調査 ~インド仏教徒のルネッサンス~ 独立行政法人 国際協力機構 榎木美樹 1.研究課題 1-1. 研究の目的 インドにおける仏教への改宗は、近年、仏教徒運動のメッカたるナーグプル市(マハ ーラーシュトラ州)以南においても活発である。それを牽引するのがインド人のボデ ィ・ダンマ僧侶(Bhadant Bodhi Dhamma)1で、ボディ僧侶は 2000 年ごろからカルナータ カ州およびアーンドラ・プラデーシュ州における改宗活動を重点的に行ってきた。南部イ ンドにおける活動に勢いをつける出来事として、2003 年のバンガロール(カルナータカ州 の州都)における 8 万人の大規模集団改宗の挙行がある。 この大規模改宗と同じ年、カルナータカ州ビジャプル市に仏教思想に基づく青少年育成 施設として禅塾(英語名:Bodhi Satva Dr.Babasaheb Ambedkar Bhikhu Academy, Indo-san Sogenji Zen Monastery)が設立された。主にカルナータカ州およびマハーラーシュトラ州の 子弟が応募してくる由で、寄宿生活を通して学校教育を受けるとともに仏教教義や禅につ いて学び、塾を卒業する時には僧侶になることが奨励される。 1956 年の集団改宗挙行以降、インドにおける仏教徒運動は、当事者による仏教への改宗 といった短期的かつ直接的な行動が注目されるが、一方で、改宗後の信仰維持や仏教徒の 再生産のサイクルといった中・長期的な問題については不明な点が多い。本件調査は、次 世代育成に取り組む青少年育成施設の実態とそこを利用する人々の動機や属性を調査する ことで、仏教的青少年育成施設としての禅塾の役割・意味・ネットワークを検証し、中・ 長期的な視点で活動するインド仏教徒の視座とそのコミュニティの実態に迫るものである。 カルナータカ州ビジャプル市に立地する禅塾(英語名:Bodhi Satva Dr.Babasaheb Ambedkar Bhikhu Academy, Indo-san Sogenji Zen Monastery)を事例とし、仏教徒コミュニティおよび仏 1 1961 年、インド共和国マハーラーシュトラ州ナーグプル市生まれ。インド社会では不可触民とされる階 級の出身。生家は仏教徒であったが、政府へはヒンドゥー教徒(マハール)として登録していた。高校生 になるまでは、自分の出自を自覚することはほとんどなかったが、高校時代の差別体験により、自分が不 可触民であることを強く自覚し、カーストを超える存在として仏教徒となり出家した。その後、佐々井秀 嶺僧侶の紹介により、ビハール州ブッダガヤにある印度山日本寺(仏教寺院としての宗教行為のほか、イ ンドの宗教福祉法人として、無料保育施設や無料医療施設等の社会事業を展開する組織)で 2 年間修行。 1986 年(25 歳)、臨済宗南禅寺派の富士玄峰僧侶の紹介により、岡山県の曹源寺(臨済宗妙心寺派)に入 り、15 年修行。1995 年以降は、1 年のうち 2 ヵ月はインドで活動する機会を設け、日本とインドの往復と いう生活をする。2000 年(39 歳)頃よりインドでの活動を本格化し、ナーグプル市以南を中心に活動して いる。 27 教への関心を示すコミュニティの実態を明らかにする。 1-2.調査の方法 Research Methodology 本件調査では、この禅塾に通う子弟およびその親族への属性調査を実施し、禅塾に入塾 する子弟の家庭環境、入塾理由、実家における周辺コミュニティとの関係などを塾生本人 とその親族の視点から聞き取り、仏教的青少年育成施設としての禅塾の役割・意味・ネッ トワークを検証する。また、塾生およびその親族の了解が得られれば、塾生の実家を訪問 し、それまでに収集した情報の確認をするとともに、地域社会との関係性を分析する。 1-3.調査期間 2009 年 10 月 26 日~11 月 4 日 RINDAS 予備調査(ムンバイ 26 日-ビジャプル市 27 ~29 日-グルバルガ 29・30 日-アディラバード 30・1 日-ナーグプル市 1~3 日-ム ンバイ 4 日) 2010 年 10 月 14~26 日(ナーグプル 14~18 日、カルナータカ州 19~26 日。うちビジ ャプル市は 19~22 日) 2010 年 11 月 4~7 日(ハイデラバード 4 日-ビジャプル市他、塾生の自宅訪問 4~6 日、 7 日ハイデラバード) 2.ナーグプル以南における改宗・決起集会 2-1.ボディ・ダンマ僧侶について:アンベードカル思想の継承と発展 ボディ僧侶は、マハーラーシュトラ州ナーグプル市の出身であり、母語はマラーティー 語で、ヒンドゥー教では不可触民とされるマハール(Mahar)2をその出自とする。18 歳で 佐々井秀嶺僧侶(Bhadant Arya Nagarjuna Shurei Sasai)3の下で出家して以降、日本での修行 期間以外はナーグプル市で佐々井僧侶とともに活動してきた。1994 年ナーグプル市におい て、国際仏教青年会(International Buddhist Youth Organization. 以下 IBYO)を設立したのが、 彼の独自活動の第 1 歩であった。以後、活動拠点を徐々にシフトさせ、現在ではナーグプ ル市以南全域を広く移動しながら活動している。 インド外の下層民衆コミュニティとの連携にも熱心で、海外に移住したパンジャーブ州 出身の不可触民コミュニティ(チャマール)をイギリスに訪問したり、それらの者がパン ジャーブ州に一時帰国する際に、当該集落に招かれて集会を開催したりもする。このチャ 2 マハーラーシュトラ州で最大の不可触民カースト。マハールの伝統的職業は、死んだ家畜の処理、村役 場の前・村の入り口などの清掃、地税支払いのための農民呼び出し、脱穀場の見張り、村・田畑などの境界 線の記憶と訴訟における証言などであった。また、その多くは土地なし農民として農業にも従事した。ヒ ンドゥー教の観点から不浄視されるこれらの職業や習慣があり、中でも肉食、特に牛肉を食すマハールの 習慣は不浄とされた。 3 1935 年 8 月 30 日、岡山県新見市菅生村別所出まれ。1955 年(20 歳)に高尾山薬王院(真言宗智山派) にて出家した。1966 年(31 歳)の時、タイへ留学し、1967 年(33 歳)にインドを訪れた。当初、ラージ ギルの日本山妙法寺にて修行するが、日本への帰国の前日、龍樹のお告げによりナーグプル市へ赴き、指 導者を失い困惑していた仏教徒を宗教的・精神的に指導するようになった。1987 年、インドに帰化し、 現在は大菩提寺奪還運動(1992 年から開始され、大菩提寺の管理権獲得のための断食・デモ行進など) に邁進中である。近年はマンサルにおける仏教遺跡発掘にも取り組んでいる。BJP 政権下、2002 年に は NMC (National Minority Commission:マイノリティ委員会)の委員に任命され、3 年の任期を務めた。佐々 井秀嶺の活動については[島 1995][白鳥 1995][山際 2000]に詳しい。 28 マール・コミュニティはまだ仏教徒ではないが、アンベードカル4に強い関心を示している。 ボディ僧侶は常に仏教僧の衣を着用しているが、教学や説話といった仏教関係の話より はアンベードカルに関するエピソード、著作、演説内容に関する話に割く時間の方が圧倒 的に多い。本件調査時でも、アンベードカルが下層民衆に対して付与したもの、それを現 代の自分たちがどのように継承していくか、差別をどのように受け止め、いかに克服して いくかという話が中心であった。ボディ僧侶の中ではアンベードカルの考え方、述べたこ と、成したことの全てを理解し実践すると、それこそが仏教への理解であり実践であると 考えている。 「アンベードカル」を知ることが仏教を学ぶことであり、逆に仏教を学ぶこと はアンベードカルを学ぶことであるため、アンベードカル理解を欠いた仏教というのはあ り得ないという理解である。 アンベードカルの出自と人生は、州や言語を超えて、まだ不可触民としての生活を強要 されている人々に対し、希望と活路を開くという信念がボディ僧侶にはある。ボディ僧侶 が頻繁に使用する言葉として“our people”という言葉がある。これはマハールではないけれ ども、同じような思いをしている人びと、同じような生活を強要されている人びと、カー スト・ヒンドゥーからひどい扱いを受けている人びと、といった多義的な意味を持つ。ボ ディ僧侶は、厳密にこの言葉の意味を定義することはしないが、参集した人びとが、それ ぞれの思いで解釈しながら、時に涙しながらボディ僧侶の話に耳を傾けていたことは印象 的であった。ボディ僧侶はヒンディー語、マラーティー語、英語で話すが、必要に応じて キーパーソンたるコミュニティの有力者やその息子が現地の言葉に直して、通訳形式で集 会を行う。 ボディ僧侶の活動は 2000 年ごろから南インドの中でもカルナータカ州およびアーンド ラ・プラデーシュ州における改宗活動に力点を移し、現在の形式をとるようになった。特 に 2003 年にはバンガロールで 8 万人規模の集団改宗を挙行し、活動に勢いがついた。 2-2.ボディ・ダンマ僧侶による決起集会の流れとパターン ボディ僧侶は下層民衆の集落を訪問し、仏教への改宗式を挙行することに加え、改宗前 後の集会やイベントを企画・実施する。OBC やムスリムが隣接する村に居住しているケー スもあるが、いずれもホラヤ(Holaya)あるいはマハールと呼ばれる人々が大半を占める。 アーンドラ・プラデーシュ州の一部地域には、元ナクサライト(共産主義ゲリラ)の活動家 もいる。 手法としては、アンベードカル思想を解説・強調しつつ仏教について演説し、時にはデ モ行進やシュプレヒコールを用いて、仏教徒の存在をコミュニティ内外にアピールする。 4 Bhimrao Ramji Ambedkar(1891-1956). コンカン地方の不可触民マハールとして生まれた(14 人兄弟の 末子)。不可触民として当時異例の教育を受け、アメリカ、イギリス、ドイツ等への留学の後、1922 年に 弁護士の資格を取得した。1924 年ころから弁護士として不可触民問題に取り組むと同時に、政界に進出し 1930-40 年代には不可触民解放運動の指導者として、MS 州を中心に活動を展開した。1942 年に労働大臣、 1947 年に法務大臣として入閣し、憲法起草委員会委員長として 1949 年にインド共和国憲法を発布した。 1956 年 10 月 14 日、ナーグプル市において仏教への集団改宗を挙行し、同年 12 月 6 日に病没した。いわ ゆる「新仏教徒」からは父とも菩薩とも尊敬される。 「不可触民解放の父」と呼ばれることもあり、近年は、 仏教徒に限らず指定カーストからの尊敬も集める。 29 挨拶語(Jai Bhim5)、白い装束の着用を奨励し、共通のスローガンやキャッチ・フレーズを 使用する。 各式典・集会は、ボディ僧侶の移動時間に合わせて 1 日のうちいつでも行われる。各式 典・集会ごとの若干の相違と特徴はあるものの、共通して一定の流れとパターンがある。 開始から終了までおおよそ 90~120 分程度で、住民の出迎えに始まり、住民の見送りで終 わる。決起集会の流れとパターンを時系列で示すと以下のようになる。 IBYO(国際仏教青年会)のメンバーが、一行を宿泊所もしくは幹線道路まで迎えに来 る 会場到着 青年会や地域有力者との打ち合わせ ボディ僧侶を含め、ゲストは会場前方に設置されている椅子に着席。聴衆はゴザ・布・ 椅子などに座る(聴衆とは対峙するような位置関係) 会場前方に安置されているブッダとアンベードカルの像・絵画に献灯・献花・献香 三帰依文などの仏教経典を全員で唱和(おおよそパーリ語) ボディ僧侶がゲスト来訪の目的を紹介 ゲストによるスピーチ ボディ僧侶スピーチ ボディ僧侶は布施を受ける 記念撮影 横断幕や仏旗などを持って、仏教徒宅・寺・集会所などへ移動(一種のデモ行進状態 になる) 仏教徒宅・寺・集会所で施食を受ける 集会関係者への挨拶 退出(次の会場へ移動) 写真 1:会場まで先導するバイク隊 写真 2:町中での集会後の様子 5 写真 3:仏教徒宅での会議の様子 ビームラーオ・アンベードカル(Bhimrao R. Ambedkar)の名前からきており、原意は「ビームに勝利あ れ」だが、 「アンベードカル万歳」といった意味あいで使用される。広くインドで交わされる挨拶語「ナマ ステ」のように、他者と対面した際、別れの際などに使用される。より丁寧な挨拶の場合は、「ナマステ」 の時と同様、両手を合わせて「ジャイ・ビーム」と言う。 30 2-3.改宗母体 これまで、ヒンドゥー教から仏教への集団改宗は、マハーラーシュトラ州における最大 の不可触民階級であるマハール(Mahar)を母体とすると考えられてきた。マハールの 75% は仏教徒であるともいわれる[Zelliot,1998:127] 。1956 年以降の集団改宗も、マハーラーシ ュトラ州を中心に実施されてきた。佐々井秀嶺僧侶(Bhadant Arya Nagarjuna Shurei Sasai) の改宗活動は、マハーラーシュトラ州、マッディヤ・プラデーシュ州、チャッティスガル 州で行われ、いずれもマハール・コミュニティを中心に実施されてきた。したがって、仏 教への集団改宗は、マラーティー語もしくはヒンディー語圏のマハール・コミュニティで のみ活発であると考えられてきた。併せて一般に、1956 年における仏教への集団改宗によ って生じた仏教徒の 90%がマハールからの改宗者だともいわれているため、仏教徒=マハ ールという固定観念は根強い。佐々井僧侶の拠点であるナーグプル市周辺では、マラーテ ィー語で「バウッダ(Bauddha)」の意味は「マハール」であるとさえされている。 本論文 2-2 において、調査地のいずれもが元不可触民集落であることは述べた。このとき 聞き取ったカースト名称や伝統的職業に鑑みるに、ホラヤ(Holaya)とマハールは同じ不可 触民というカテゴリではあるが、州も異なるため別個の集団であると考えられた。しかし、 興味深い記述があった。古い著作かつボンベイを中心に述べられたものであるため同一で あるとみなすには注意が必要であるが、エントーベンによれば、ホラヤはマハールの下位 区分だとあり、服装や装飾品はマハールと酷似しているとある[Enthoven 2008(1922): 74-75]。 また、 「大地の子」 (Bhumiputra; son of the soil)と称されるマハール同様、マイソール(カル ナータカ州)ではホラヤも「大地の子」と称される[Ibid.:75]。さらに、ホラヤはマラーテ ィー語圏のマハール居住地域およびグジャラートなどに分布し、死肉を食す。牛を食し酒 類を飲むことも[Ibid.:80-81]、マハールと同様である。職業に関し、死んだ動物の移動・処 理、靴製造、農繁期の農作業、村の境界の清掃、村の境界や池の見張り番、隣接する村間 のメッセンジャーなどがホラヤの伝統的な生業で[Ibid.:80]、マハールとほぼ同様の役割を 担っている。 調査地においては、ホラヤがマハールの下位区分だとの言説に触れることはなかったが、 ボディ僧侶がホラヤ集落に入っていくことができた理由のひとつに、言語・習慣・差別体 験等のマハールとの類似性があったことは確かであり、この意味するところがマハールの 下位区分としてのホラヤであるならば、ホラヤ集落へのアクセスの容易性は、こうした出 自の親和性に強く依存したものとなる。 調査地で出会ったホラヤがマハールの下位集団として位置づけられるなら、その意味に おいて、仏教徒運動は、広い意味でのマハール・コミュニティ内部での動きとなる。しか し、少なくとも今回聞き取った限り、ホラヤ民衆は自身をマハールの傍系だと自称するよ うなことはなかった。エントーベンの記述はさておき、他者から見て同一/類似であったと しても、当事者が違うと意識しているのであれば、それを尊重する必要があろう。今後の 調査でさらに明らかにしていく。 2-4.担い手としての青年層 ボディ僧侶は少なくとも 90 年代後半からすでに青少年育成に熱心であった。若者の方が、 伝統や規則に無条件に従うことをせず、正当性を見出せば変更や廃止に対して果敢に挑戦 31 していこうとする意志が強いからであろう。それなりに人生の経験を重ねた世代の価値観 を変えることは容易でないことをボディ僧侶は強く意識していた。日本における修行を一 旦終えて帰国したボディ僧侶がナーグプル市で活動する際に最初に組織したのは、サンガ (僧伽)ではなく IBYO という在家の青年グループであった。 今回訪れた全ての場所において、地域の仏教青年会もしくは地域の青年・壮年有力者が主 導して式典を開催し、送迎や食事の世話、行政への申請手続き等、全ての過程を取り仕切 っていた。口コミなどで広がった VCD や DVD に収録されたボディ僧侶の活動記録を観た り人づてに聞いたりして、ボディ僧侶にコンタクトを取る場合が多いとのことだ。現在、 ボディ僧侶はこういった人物をキーパーソンとして、そのコミュニティに招き入れられ、 式典や集会を開催する。訪問が 1 度きりということはほとんどなく、複数回足を運ぶ中で、 熱心にかつ誠実に働く 20~40 代の青年・壮年のダリット俗人男性に仏教青年会を組織させ、 次回のボディ僧侶の訪問までに達成目標を与える。たとえば、次回は何月何日に来るので、 それまでに村全戸の家の中のヒンドゥー教神像を一ヵ所に集めておくように、といった具 合である。 上述した仏教青年会および下記に述べる禅塾に共通するのは、アンベードカルについて 学び、仏教的視座を持つ地域のリーダーとなる人材を育成しようとする試みだという点で ある。 (左から) 写真 4:アンベードカル像前での礼拝 写真 5:僧侶を先達としてアンベードカル像に供養 写真 6:アンベードカル像前での集会 3.禅塾 3-1.禅塾の運営 ボディ僧侶は仏教を修行するために、インドでの師である佐々井僧侶によって、岡山県 の曹源寺(臨済宗)の原田正道僧侶の下に送られた6。その影響で、臨済禅の修行で培った 6 曹源寺は、岡山県岡山市郊外(中区円山)に位置する臨済宗妙心寺派の禅寺である。通常、住職の原田 正道僧侶を除き、他は全て海外より来日した修行僧であるため「外国人の寺」としても知られる。 32 瞑想や仏教学を実践する場としてこの禅塾がある。カルナータカ州ビジャプルに 2003 年に 設立された禅塾(英語名:Bodhi Satva Dr.Babasaheb Ambedkar Bhikhu Academy, Indo-san Sogenji Zen Monastery)には、11 歳以上の男子なら志願すれば、無条件で入塾できる7。ボデ ィ僧侶を支援する日本からの寄付金によって建設された8。主にカルナータカ州およびマハ ーラーシュトラ州の子弟が応募してくる由である。寄宿生活を通して仏教教義や禅につい て学び、塾を卒業する時には僧侶になることが奨励される。 塾内では僧衣を着用して朝夕に勤行を行うが、日中はシャツにトラウザーといった一般 的な服装で地元の公立学校へ通って勉強する。食事の準備、掃除などは当番を決めて行う。 塾を不在にすることの多いボディ・ダンマ僧侶に代わって、以前は塾生であったボディ・ プラッギャ僧侶(Rev. Bodhi Prajna. 26 歳)が現在の塾全般の運営管理を行っている。時折、 仏教徒や仏教に強い興味を持つ人が、冠婚葬祭や家庭における儀式を依頼しに来る。依頼 者の仏教に対する理解度に応じて、ボディ僧侶や、ボディ・プラッギャ僧侶が対応する。 2009 年 10 月に筆者が初めて禅塾を訪問した際の塾生の年齢構成は、10 歳 1 人、11 歳 0 人、12 歳 2 人、13 歳 4 人、14 歳 5 人、15 歳 4 人であった(1 人は不明)。これら塾生 17 人 およびボディ・ダンマ僧侶、ボディ・プラッギャ僧侶から聞き取った内容は次のとおりで ある。 塾生の募集は、新聞に公告を出す。応募資格として、SC(指定カースト)もしくは ST (指定部族)であること、11 歳以上、男子、禅塾卒業時には僧侶になることなどを記 載する。書類審査後、面接をする。 応募条件を満たし、本人と親の希望があれば、ほぼ無条件で受け入れる。 毎年、60 人程度が応募してくるが、大半は途中でやめていく。 これらの少年の中から、1 人でも僧侶が輩出できればと思う。 親は、禅塾を無料のホステルのような存在と考えているようだ。 本来はそのようなことでは困るが、実際に生活する少年が学校教育を受け、仏教を学 ぶことで、僧侶になるあるいは別の形で社会の役に立とうと考えるようになればそれ でいい。 そういった場を提供することが、禅塾の最大の意義である。 塾生のうち 7/17 人は将来、僧侶になりたいと思っている。 塾生のうち 4/17 人は将来、学校教員になりたいと思っている。 7 現在は男子のみ受け入れている。これは男性指導者が男子生徒を指導し、女性指導者が女子を教育する という価値観に依っている。指導にあたる人材の確保を前提として、将来的には女子も受け入れていきた い由とのこと。 8 岡山県の曹源寺や錬心館道場にかかわる人々による寄付等で運営されている。 33 写真 7:禅塾外観 写真 8:塾生たち(2009 年 10 月) 写真 9:禅塾内(ブッダとアンベードカルが貼ってある) 3-2.禅塾における生活 禅塾は、原則的に仏教僧侶育成機関である。10 代の青少年を対象として、見習い僧とし ての共同生活を通して、学校教育と仏教教育を享受できる施設としての機能を有している。 但し、塾生の全員に僧侶になることを強要するのではなく、現段階では入塾者の中から一 人でも多く、将来僧侶になる者がいればよい、僧侶にならなくても実際に生活する青少年 が学校教育を受け、仏教を学ぶことを通して、将来、別の形で社会の役に立つようになれ ばよいとボディ僧侶は考えている。この意味で、仏教僧を養成することが必ずしも重要な 34 のではなく、仏教的視野で物事を観ることのできる人間を育成することに主眼が置かれて いる。 ただこの場合、仏教といっても、日本の臨済宗で用いられる経典類、言語使用、価値観、 時間観念の枠組みで運営されている。食事の際も、禅寺での食事作法に則り、私語は許さ れず、決まった形式で秩序正しく飲食行為がなされる。時間や物の配置に関しておおらか なインドにあって、禅塾で実践されていることは規格・規程どおりである。禅宗に関する 知識と情報を多少なりとも持った者なら、規律正しい禅の精神がここ禅塾で実践されてい ることを目撃するだろう。 禅塾運営の資金源が日本の寺院(臨済宗の曹源寺)を取り巻く人々およびその寺院が開 催する座禅会(=菩提心を発こそう会)への出席者の寄付金であることに鑑みると、禅宗 的教育を推進するのも納得がいく。 【Time Table】Indosan Sogenji Zen Monastery, India Morning Afternoon Evening Night 4:40 Wake up Bell 5:00 - 5:30 Chanting (Pali & Japanese) Kinhin 5:30 - 6:30 Zazen (Meditation) Han 6:00 Sanzen 6:30 - 7:00 Kinhin (Walking Meditation) 7:00 - 7:30 Shukuza (Breakfast) 7:30 - 8:30 Soji (Cleaning, outside and inside) 9:00 - 11:30 Zazen 10:00 Sanzen 11:30 - 12:00 Kinhin (Walking Meditation) 12:00 - 12:30 Saiza (Lunch) After Lunch 1:50 Rest 2:00 – 3:30 Teiso (Dhamma Discourse) 3:30 – 4:00 Nebenorai (Toilet) 4:00 - 4:30 Sarei (Tea Time) 4:30 - 5:30 Zazen 5:30 - 6:00 Kinhin (Walking Meditation) 6:00 – 6:30 Yakuseki (Dinner) 6:30 – 6:50 Nebenorai (Bathroom) 7:00 – 7:30 Kinhin (Walking Meditation) 7:30 -8:30 (Discourse on Meditation) 8:30 – 9:00 Chanting (Pali and Japanese) 9:00 – 9:30 Yaza (Night Sitting) 9:30 – 10:00 Toilet and Rest 10:00 Light off 35 写真 10: 塾生(2010 年 11 月現在) 写真 11: 食後の勉学風景 前述した 2009 年の訪問時には 17 名いた塾生が、約 1 年が経過した 2010 年の本件調査時 には 8 名になっていた。通常は、新聞広告を用いて 6 月頃に入塾生を募る。今期は、入塾 受付時期にボディ師は日本に行って不在、留守預かりの B.Pragnya 師は大学の試験を受けに 他所に行っていたため、受け入れ体制が十分でなかった(通常は、60 名くらい受け入れ、 最初の 1 ヵ月ほどで自主的に退塾していく子弟がいるため、新規入塾から 3 ヵ月ほどの間 で 20 名ほどになる由)。今期入塾当初は 20 人ほどいた塾生も、4 カ月目を迎える 10 月には 8 名となっていた。 少人数ということを逆手にとって、本件調査では全員の塾生に家庭訪問を実施した。禅 塾の立地するビジャプル市から車両で日帰りできる距離に実家がある者が 7 名(2 名はビジ ャプル市から 15km、1 名は 30km、3 名は 60km、1 名は 160km)、1 名は日帰り不可能であ った(ビジャプル市から 300km)。8 名全員の出自はホラヤ(Holaya)、母語はカンナダ語で あるが、初歩的なヒンディー語は理解できる。かつて英語を教えるために外国人が禅塾に 滞在したこともあり、初歩的な英語も使用できる。各塾生への自宅訪問の前後には、ほぼ 必ず地域の仏教徒集会が開催された。ボディ僧侶もしくボディ・プラッギャ僧侶が、ゲスト (つまり筆者)と塾生を伴って地域を訪問する旨連絡を取るため、地域有力者もしくは青 年仏教会が集会をアレンジしていた。集会開催の主な流れは、本稿 2-2.において示したとお りである。 36 3-3.塾生の家庭訪問 No.1&2 Karna Bodhi および Bodhi Daya の家 場所:Ukumanal Shed(禅塾から南東 10km) 特記:2006 年、以前居住していた村が洪水で沈んだため、Gram Panchayat が割り当てた場 所の仮設住宅(アルミトタンの壁と屋根、100 世帯)に移転した。SC、OBC、ムスリ ムがレーンを分けて混在する。2km 先に新しい村を建設中。一家庭あたり 2.5×2.5m の 土間の空間に居住(台所込み、薪使用)する。この兄弟の家は、父(49 歳)母(30 歳)弟(6 歳)妹(4 歳)が同居。母方の祖父母の家も同じコミュニティ内にある。 入塾のきっかけ:家においておくと父親に暴力を振るわれる。この地域からではほとんど 学校へ行かない。 (Rs.:インドの通貨ルピー) 家族 年齢 職業 備考 Rs.120/日 父 49 タクシー運転手 酒飲みで家族に暴力を振るう 母 30 主婦・日雇い労働 夫とは親戚関係。Rs.100/日 K.B 13 7 年生・塾生 将来は医者になりたい B.D 11 4 年生・塾生 将来は警察官になりたい 弟 6 未就学 母は禅塾に入塾させたいが、父は反対 妹 4 未就学 ――― No.3 Dhamma Kirti の家 場所:Gulbarga 県 Valamgi 村(ビジャプル市から北東 160km) 特記:父が 2010 年 6 月からドバイに出稼ぎ。村の中で多くの家庭がドバイ出稼ぎ経験(出 稼ぎのお金で家を建てる)。 入塾のきっかけ:母の兄である地元有力者で地元パンチャヤト・メンバーのアンバライ氏の 紹介。 家族 父 年齢 30 職業 ドバイで就業 備考 職種は不明(少なくとも妻や近所の人は認識していない) ドゥバイで出稼ぎ中 Rs.2000Rs/月、銀行送金あり。 母 26 主婦 地元有力者 Ambarai さんの妹 D.K. 11 5 年生・塾生 将来は学校教員になりたい 妹 1 未就学 ――― No.4 Vinaya Bodhi の家 場所:Sindagi(ビジャプル市内から東北東 60km)の Jai Bhim Nagar・・・仏教徒は 70/200 世帯 特記:家庭内に TV あり、携帯あり、電気あり、冷蔵庫なし。Ashray Yojna(指定カースト への Governent Scheme)で家を建てた。 37 入塾のきっかけ:父の弟=ココナッツのビジネスマンが V.B.を禅塾に連れて行った。 Banteji の運転手の Mundappa 氏が禅塾を紹介。叔父が施設を見学しに来て決めた。 家族 年齢 38 父 職業 備考 10 年前、アンベードカルを知って仏教徒になった。 水運び プラスチックポット6つをバイクで運んで一回 Rs.15. 朝 5 時から夕方 6 時まで。何回運んでいるかはわからない。 母 32 市役所の清掃 結婚後、仏教徒になった。Rs.4000/月 姉 15 10 年生 学部修了まで行きたい。医者か教員になりたい V.B. 13 8 年生・塾生 将来は Dalit Nayakar(ダリットリーダー)になりたい 妹 11 6 年生 女子の入学が許可されれば禅塾に入塾するかもしれない 弟 8 2 年生 ――― No.5 Prashant Bodhi の家 場所:Sindagi(ビジャプル市内から東北東 60km)の Jai Bhim Nagar・・・仏教徒は 70/200 世帯 特記:仏教徒ではないが、アンベードカルを知っている。家庭内に TV あり、冷蔵庫なし、 電気なし。Prashant Bodhi の祖母の家(実家は Shalpur。父の死後、祖母の家へ移って きた。現在は祖父が Shalpur で一人暮らし)。この家は、レンタル。 入塾のきっかけ:V.B.父の弟(=祖父の弟の息子)=ココナッツのビジネスマンが Psht.B. を禅塾に連れて行った。 家族 年齢 職業 父 - - 祖母 50-55 市役所の清掃 母 37 市役所の清掃 備考 死亡 農業 Rs.1600/月、日曜休日(Rs.40/日×25 日+寡 婦年金 Rs.400/月)←Rs.200 差額あり 結婚後、仏教徒になった。息子に僧侶になってほ しくはない 姉 18 ホステルの料理人 結婚したが、夫が出て行く 姉 16 既婚 夫の場所(30km の距離)で暮らす Psht.B. 13 8 年生・塾生 将来はエンジニアになりたい。村の 60 家族のう ち 25 家族が仏教徒。彼らが仏教寺院を建設した。 彼らが自分に敬意を表してくれる。 11 弟 6 年生 2 度禅塾に入れるが、戻って来た No.6&7 Dhamma Raja および Dhamma Gosh の家 場所:Kadani 到着(Sindgi から 5km:ビジャプル市内から東北東 65km)・・・仏教徒は 40 世 帯 特記:仏教徒ではないが、アンベードカルは知っている(生誕祭などで)。家庭内に TV な 38 し。 入塾のきっかけ:母の姉が Bijapur 在住で、「いい学校がある」と紹介→母が禅塾に入れる 決断 家族 年齢 備考 クーリー(荷物運び) 20 代前半にムンバイで出稼ぎ→家を建てた 35 父 職業 Rs.150/日、日曜休日 32 母 Rs.80/日、休日なし クーリー 姉が Bijapur 在住で、 「いい学校がある」と紹介→ 学校という認識なので、僧侶にはなってほしくな い D.Raja 13 7 年生・塾生 将来は僧侶になりたい D.Gosh 11 5 年生・塾生 将来はリーダーになりたい 妹 9 3 年生 ― No.8 Prasanna Bodhi の家 場所:Berula 村(ビダル市内から 15km:ビジャプル市から 300km)・・・40~50 世帯(2~3 世帯を除き、コミュニティは仏教徒) 特記:幹線道路から一番近い、村の入り口に家がある。家庭内に電気、TV、携帯電話、冷 蔵庫なし。母は「仏教徒ではない」と言うが、日々の信仰形態を聴取すると、ヒンド ゥーの神々ではなくアンベードカルとブッダを祀っているため、仏教徒だと判明。書 類上は「SC」(指定カースト)=ヒンドゥーと登録。 入塾のきっかけ:夫の死から 1 年後、Bijapur 在住の母の友人が禅塾を紹介(かつて自分の 息子を入れていた) 家族 年齢 職業 備考 父 - - 2005 年死亡(体が痛いと言い出し、突然死んだ) 祖母 75↑ 無職 ― 母 35 クーリー クーリーは季節労働(6~8 月) 禅塾をはじめは学校だと思っていた。 Psn.B には僧侶でなく、稼ぎ手になってほしい (市の清掃業務 Rs.4000/月もある可能性あり) Psnna.B. 14 9 年生・僧侶 将来はエンジニアになりたい 弟 8 3 年生 ― 塾生の最少年齢は 11 歳、最長年齢は 14 歳で、出身コミュニティは既に仏教徒であること もあれば、ヒンドゥーのままのこともあるが、すべての塾生の実家でアンベードカルを敬 っている。したがって、コミュニティ全体が仏教徒という村の出身者もいれば、近隣に OBC やムスリム、カースト・ヒンドゥーと混在している村の出身者もいた。 39 アンベードカルについては 1 名(入塾当初 10 歳の最年少)を除く全員が禅塾に来る前か ら知っていた。ブッダや仏教に関しては全員が禅塾に来るまで知らなかったと応えた。 いずれの実家も、コミュニティ内では貧しく、扇風機・TV・冷蔵庫といった電化製品は ほとんどない家庭だった。携帯電話も、働き手の男を含め、誰も所有していない。子弟を 禅塾に入れなければ義務教育を受けさせるのも困難な家庭であった。 3-4.考察 塾生の家庭訪問を実施した率直な感想は、彼らの出身家族は経済的な困窮家庭だという ことだ。コミュニティの他の過程に比較して、家も簡素で、モノが極端に少ない。我々の 訪問に興奮したコミュニティ成員が携帯のカメラで写真や動画を撮る光景が比較的多かっ たが、塾生の家庭には携帯電話がなく、そもそも電気が通っていない場合が多かった。8 名 のうち 2 組は兄弟であるため、実質的には 6 家庭であるが、2 家庭は父親が最近 5 年以内に 死亡した純粋な母子家庭、別の 2 家庭は父親が生存はしているもののある種の「不在」家 庭(1 家庭は酒ばかりのみ家族に暴力を振るって迷惑をかける父親であり、もう 1 家庭は出 稼ぎ労働者で不在)であり、残る 2 家庭のみが父親が生活費を入れ、一家の大黒柱として 機能している。しかし健全な父親のいる 2 家庭でさえも不安定な日雇い労働者である。ち なみに、ホラヤの伝統的職業に就いている者は、今回の調査ではいなかった。 そのようなコミュニティにおける脆弱家庭ではあるものの、親戚や友人・知人にコミュニ ティの有力者がおり、その人を介して禅塾という存在を知り、子どもの教育のために数十 キロから数百キロ離れたビジャプルまで子どもを送っている。禅塾は塾生募集に際して新 聞広告などをするが、この 8 名に関しては、全員口コミであった。 禅塾がなかりせば、義務教育といえども受けられない家庭の子弟である。したがって親 は、子どもと物理的に離れることの別離の悲しさはあるものの、それを我慢すれば、無料 で 12 年生までの教育を受けさせることができ、食事をさせることができる。出身コミュニ ティにおいて 12 年生というのは学歴として非常に高く、公務員やエンジニア、医者といっ た社会的地位と経済的に安定する職種につくための最低限の学歴を保証することができる。 筆者は全員の保護者に、息子が僧侶になることを望むか質したが、今回家庭訪問した 8 名の親のいずれも、将来僧侶になってほしいとは応えなかった。返答の言葉を濁す場合も あったが、家計を支えるために学歴をつけ就業して欲しいと明確に述べる者もいた。これ に対し、筆者は日本やチベット社会の例を引いて、僧侶でも教員、医者、弁護士、社会活 動家などになっている者はいることを示したが、僧侶が俗人の仕事をも兼務することにつ いては理解できないようであった。僧侶(という仕事)か一般の就業かの二者択一式の思 考をしていた。仏教僧に関しては、生産活動に携わらない宗教活動をする人間と捉えてい るようである。 親の多くは禅塾を「寄宿学校」と認識しており、宗教施設とは知らない者もいた。した がって、自分の息子の剃髪した僧衣姿を初めて見たという者もいた。びっくりしたけれど、 ちゃんと教育を受けられるのであれば何も言わないと述べたことも印象深かった。塾生本 人たちも、僧侶になることを希望するのは 2010 年 11 月の調査時点で 1 名のみで、残りはエ ンジニアや教員などの職に就くことを希望した。 上記のように、禅塾はその理念において「アンベードカルについて学び、仏教的視座を 40 持つ地域のリーダーとなる人材を育成しようとする試み」であるが、その実において現時 点では困窮家庭のセーフティネットとしての性格が強いことがわかる。 4.結論と課題 4-1.得られた成果 禅塾は、原則的に仏教僧侶育成機関である。10 代の青少年を対象として、見習い僧とし ての共同生活を通して、学校教育と仏教教育を享受できる施設としての機能を有している。 それを踏まえたうえで、禅生およびその親族への属性を調べ、禅塾に入塾する子弟の家庭 環境、入塾理由、実家における周辺コミュニティとの関係などを塾生本人とその親族の視 点から聞き取り、仏教的青少年育成施設としての禅塾の役割・ネットワークを検証するこ とが本稿の目指すところであった。 得られた成果として、禅塾は南インドにおけるボディ・ダンマ僧侶の活動拠点となって、 アンベードカルや仏教をまだよく知らない人々をエンパワーするスポットになっているこ とが判明した。また禅塾は教育施設であることから、経済的支援・人的支援を目的として 外国人や地元以外の人々を引き寄せてもいる。この意味でインドと日本をつなぐ結びの役 目も果たしている。また、現時点における禅塾の主要な役割として、切実な経済問題を抱 える脆弱家庭に対するセーフティネットとしての機能も重要である。 これら脆弱家庭には、当該コミュニティの有力者が親戚・友人・知人としてコンタクト を取れる距離におり、禅塾を紹介されている。その地域有力者が禅塾の存在を知る契機は、 ボディ・ダンマ僧侶の活動を知ったことに始まっている。彼らの多くは 2003 年のバンガロ ールにおける 8 万人の改宗式の前後に撮影された VCD/DVD によってボディ僧侶の存在を 知るに至っている。その 2003 年の改宗式は、1990 年代後半からのボディ僧侶による南イン ド 3 州における地道な啓蒙活動が結実したものである。禅塾が設立されたのも 2003 年であ る。 初期の塾生であったボディ・プラッギャ僧侶が今や塾の運営側に携わり、カルナータカ 州内における仏教徒の活動を先導するなど、徐々にではあるが、確実に人材が育ちつつあ る。ボディ・プラッギャ僧侶も、当時 60 名ほどいた塾生の中の 1 人であった。僧侶になり、 社会活動を担うまでに成長した。また、地域の有力者とまではいかないが、仏教青年会の 中核メンバーを務める者は還俗したかつての塾生であったりする。 この意味において、禅塾は、仏式の儀礼を執り行いたい地元の仏教徒コミュニティもし くは仏教に強い関心を寄せるコミュニティの需要を満たし、かつ経済的に困窮する家庭の 子弟を受け入れて教育・経済支援をするとともに、外国人を含めた外部者とのプラットフ ォームを提供する施設として機能している。 ビジャプルの位置するカルナータカ州をはじめ南インドでは、近年とみに幹線道路沿い にそびえ立つアンベードカル像をいたるところで目にするようになった。アンベードカル を信奉する被抑圧者層が多いのであろうことが見て取れる。ボディ・ダンマ僧侶の開催す る集会や式典における布施にお札が混じるようになり、結構な数の出席者が携帯電話を所 有している現状を見るにつけ、彼らの相対的な経済状態の向上を肌で感じることが多くな った。しかし、今回の調査で判明したように、個別に見れば、電気・水道、清潔なし尿処 理施設がなく、政府からの支援もほとんど受けられていない層がいることもよくわかった。 41 仏教を取り巻く社会状況の中に、経済的貧困は重要なファクターとして存在していること を、この一連の調査を通じて確認できた。 4-2. 今後の課題 何度も述べたように、塾生のネットワーク周辺には、当該コミュニティの有力者が親戚・ 友人・知人として配置されている。親戚や知人に有力者がいること自体、そのコミュニテ ィ内においては本来影響力を持つはずの家庭なのかもしれない。たとえば、父親が健在で あれば等のいくつかの条件が整えば、彼らは脆弱家庭ではなかったのかもしれない。ある いは、ホラヤはその内部に 6 層のサブカースト持つと聞いた(ちなみにマハールはその内 に 12 と 1/2 のサブカーストを有する)。今回の調査ではこの詳細について確認が取れていな いが、ホラヤ内におけるヒエラルキーが塾生となる際のフィルターの役割をしている可能 性も否定できない。同一コミュニティ内におけるパワーバランスについては、今後の調査 でつきとめてみたい。 今回の調査は、ビジャプル市の禅塾という極めて末端で起きている現象を明らかにする ためのものであるが、ボディ僧侶は彼らのコミュニティとの交流を通して、着実に仏教徒 運動を推進している。ミクロの活動がマクロと連動する萌芽がここにある。しかし、この 構造解明は容易ではない。現代インド研究という大きな枠組みの中で、多くの困難を抱え る下層民衆の全体像を描き出しつつ、かつ人々の抱える困難とそれを克服する試みが社会 運動となって一定の動きを見せている仕組みと構造を捉えることができるのかという課題 について、今後も挑戦し明らかにしていく。 4-3. 謝辞 最後に、本稿執筆の基になった一連の調査は龍谷大学アジア仏教文化研究センター (BARC:Research Center for Buddhist Cultures in Asia, Ryukoku University)の公募研究費によ り実施が可能になった。逐一お名前やご所属を挙げることはしないが、調査・研究におい て助言を下さり、激励してくださった先生方、そして惜しみない協力をしてくれたインド 仏教徒およびアンベードカルを信奉する人々に、記してお礼を申し上げる。 以上 【参考文献】 Zelliot, E., From Untouchable to Dalit:Essays in the Ambedkar Movement, Manohar Publishers & Distributors, New Delhi, 1998(1992). Enthoven, R. E., The Tribes and Castes of Bombay Vol.II in 3 Volumes, Low Price Publications, Delhi, 2008(1922). 42 南インドでのはり・きゅう治療と「改宗仏教徒」 ~無料医療奉仕活動 Free medical camp の分析から~ 四国医療専門学校 足立賢二 【要 旨】 現在、世界各地で多くのはり・きゅうによる国際協力活動が実施されている。南インドで は現地の仏教指導者がはり・きゅうを活用した無償医療奉仕活動を 2002 年から企画・運営 しており、日本のはり・きゅう師らが当該活動に参加している。当該活動は現地仏教徒が 支援し、受診者の大部分が「改宗仏教徒」である。従って、当該活動を分析することで、 現地でのはり・きゅう施術の意義、現地仏教徒の布教活動と組織化、そして「改宗仏教徒」 の受診行動を把握できる。本報告で筆者は、3つの異なる視点―受診者の受診行動、現地 仏教徒への影響、はり・きゅう師の参加動機―から 2009 年と 2010 年に開催された無償医 療奉仕活動を分析した。分析結果は、以下の3点に要約できる。(1) 受診者は健康状態を自 分で決め、症状に対処する優先順位を自ら設定し、治療方法を自ら選んでいる可能性が高 いことがわかった。また受診者は、自由に医療を選択することも可能であった。しかし、 選択は自由でも、選択の実現は非常に困難な模様であった。(2) 一連の医療奉仕活動は、現 地仏教徒の着実な組織化に貢献していた。(3) 日本のはり・きゅう師は「理想の医療専門職」 として自らを規定できる活動に魅力を感じていた。この背景には彼らを取り巻く日本の曖 昧な法的・社会的状況が影響していると考えられた。 Ⅰ はじめに 本報告の目的は、筆者が南インドで参加しているはり・きゅうを用いた無償医療奉仕活 動の実態を報告することにある。具体的には、当該活動の実態把握を通じて、(1)現地で のはり・きゅう施術の意義と、(2)現地での仏教布教の現状とを考える。 現在、世界各地で多くの団体・個人により、はり・きゅうなどのいわゆる民間医療1を用 いた国際協力活動が実施されているが2、その実態を包括的に分析した論攷・紹介記事はほ 1 本発表では「排除された医療としての民間医療」とする佐藤の定義[佐藤 2000]を採用し、伝統医療を 含むものとして「民間医療」の用語を使用する。 2 例えば、スイスを本部とする“Acupuncture without Borders(Acupuncture Sans Frontieres Suiss)” [A.W.B. on line]、アメリカを本部とする“Acupuncturists Without Borders” [AWB on line]など「国境なき医師団」を意 43 とんどなく、また業界内部でもあまり知られていない3。 文化人類学的観点から国際保健医療を分析した事例を検討すると、 「世界の国際保健医療 協力が「バイオメディカルモデル(生物医学モデル)」に偏重している」との認識[例えば、 松園・門司 2008:12-14]を代表として、 「現地の近代医療」 「現地の民間医療」そして「外 来の近代医療」を批判的な視点で分析した研究が蓄積されてきたが4、同様の批判的な視点 で「外来の民間医療」を分析した研究は多くない印象を受ける 。同様に国際保健医療の分 野においても、「現地の近代医療」「現地の民間医療」そして「外来の近代医療」を批判的 な視点で分析した研究の蓄積があるが、 「国際保健医療の実践をより円滑に行うことを可能 とする」ために「地域で行われている伝統医療を理解すべき」との認識[松岡 2005]が展開 されて、近年盛んに伝統医療を活用した国際協力活動が実施されつつある[日本財団 on line: dentouiryou.html]わりには、 「外来の民間医療」の活用への批判的な視点での研究は不足する 印象を受ける。 国際医療援助活動の担い手を目指して「確信的に」はり師・きゅう師資格を取得した事 例[山本 2000、医道の日本編集部 1993]に加え、伝統医療を含む民間医療を活用した事業 に対して外務省や JICA の資金援助が用いられている現状[AMDA on line: myanmar04.pdf など]を踏まえると、医療のバイオメディカルモデルと対比して一般的に描かれてきた民間 医療[例えば、佐藤編 2000]が、どのような「顔」をして国際保健協力に参画しているのか を批判的に検討することは、絶えざる変化をなしている「現地の民間医療」の検討と並ぶ 重要な検討課題であって、国際協力活動における民間医療の効果的な活用を考える上で、 何らかの重要な知見を提供するのではないかと考える。 南インドでは、現地の仏教指導者である1人の禅僧がはり・きゅうを活用した無料医療 奉仕活動を 2002 年から企画・運営しており[IBYO on line:Manav.html]、例年、日本のはり師・ きゅう師らが当該活動に参加している [足立・箕口・山地 2009]。従って、当該活動の検 討により、現地でのはり・きゅう施術の意義が把握できると共に、外来の民間医療の実態 も把握できる可能性がある。 一方、当該活動は、現地仏教徒が支援している活動であり、大部分の受診者をいわゆる「改 宗仏教徒」として把握できる。従って、当該活動の検討により、現地仏教徒の布教活動と 組織化の一端が把握できると共に、 「改宗仏教徒」の受診行動の一端も把握できる可能性が ある。本報告はこれらの観点から出発した。 Ⅱ 活動の概要と分析方法 識したと思われる団体のほか、インド West Bengal で活動するアメリカの団体[AIAN on line]、アフリカ Uganda で活動するイギリスの団体[Moxafrica on line]などがある。日系団体としては、レバノン[吉村 1993]、メキシコやグアテマラ[山本 2000]、ニカラグア[井上 1998]、ネパール[畑 2003; ティテパティよ もぎの会 on line]、ベトナム[JSS on line]、ミャンマー[命門会 on line]などでの実施例を確認できる。 3 後藤修司氏(現 4 国境なき医師団を分析したアレンの研究がある[Allen 1994,但し奥野・森口 2007:138-139 より]。 全日本鍼灸学会会長)のご教示による。 44 1 主催者 主催者はインド・Nagpur 出身の禅僧ボディ ダンマ師である。ボディ師はインドの仏教指 導者として著名な佐々井秀嶺師の下で仏門に入り、1986 年に来日して以降、日本の伝統仏 教の禅宗(岡山県にある臨済宗の古刹曹源寺)で修行に励んでいる。2000 年以降定期的に インドに戻り、年に1度以上の来日を続けながら、現在は Bijapur を拠点に南インド各州で、 ダリット Dalit を核とする貧困層に対する教育・福祉活動を展開中である[ボディ 2006]。 2 なぜ医療奉仕活動なのか? ボディ師は、医療奉仕活動が始まった経緯を、以下のように説明する。 「1998 年より、ダリットの村々を巡り多くの村人たちと話をしてきました。村人たちは、 いつも決まって体の不調を訴えます。肉体疲労、倦怠、節々の痛み、頭痛、その他いろい ろな慢性的な症状について、解決策がなく苦しんでいると語るのです。ダリットの村には、 手軽に利用できる適切な治療法や体調管理の方法が明らかに不足しています。村人たちは いつも耐えることで日々の体の不調をやり過ごしているのです。それで、適切な医療が不 足し「痛み」に苦しむ彼らに、何とかして確かな医療手段をもたらしたい、と考えたのが この活動の始まりでした。ではどのような活動が最もふさわしいのでしょうか。インドで は多くの医療奉仕活動が実施されていますが、ほとんどの活動は、ある一部の人たちにし かその恩恵を与えていません。ここにも差別があるのです。私はこれをおかしいと思いま す。それで、仏教の教えに基づいて医療奉仕活動を実践しようと決めました。宗教・宗派、 性別、カースト、財力を問わず、苦しむ人の求めに応じて、無料で、医療奉仕活動を実施 しようと決めたのです。 」 3 なぜはり・きゅうなのか? 当初、ボディ師はインド人の医師に賛同者が現れないか探してみたという。しかし当時 は賛同者を見つけることが出来なかった。そこで、ボディ師は日本で探すことにしたと語 った。ボディ師の語った内容は以下の2点に要約できる。 (1)2001 年の来日時に、日本の医療関係者から協力を得ようと思い、まず最初に岡山に 本部を置く著名な人権団体 AMDA を訪ねた。しかし、応対した担当者はボディ師の話には あまり興味を示さず、協力は得られなかった。 (2)次に、修行先の曹源寺で知り合ったはり・きゅう師に対して、ボディ師の想いとイ ンドでの人々の状況を語った。はり・きゅう師はボディ師の話に共感し、「仲間を募りイン ドを訪問して無料の医療奉仕をしよう」と申し出た。そこで、はり・きゅう師らの都合に あわせ、毎年 8 月に 1 週間のはりきゅうを用いた医療奉仕活動が 2002 年から実現すること となったのである。 はり・きゅうは日本の伝統医療の一つである5。体表にある様々なツボ(経穴)に対して 鍼を刺入し、またはもぐさ(艾)を燃焼させ、身体の不調にアプローチする治療法で、日 本では医師・はり師・きゅう師(いずれも国家資格)だけが施術を許可されている。以前 5 はりきゅうの分野では、中国の事例(いわゆる中医学)も著名であるが、日本と中国の施術に は概念と方法上大きな違いがある。本稿では論じない。 45 より、はり・きゅう共に「痛み」の除去に利用されてきた。 4 活動地域と受診者 一連の医療奉仕活動は、現地の国際青年仏教徒連盟(IBYO)の支援を受け、Karnataka 州 Bijapur に所在する禅塾で 2002 年から始まった。2002 年から 2008 年までの6年間、禅塾を 会場にして展開された医療奉仕活動に訪れた受診者の数は、約 1200 名に及ぶ(図1)。 図 1: 活動地域と受診者数 当初は、一見して貧しい人々と判断される受診者が多かったものの、活動を始めて 2~3 年後からは、徐々に裕福な人々が受診するようになり、貧しい人々の受診は激減した。そ こで、主催者のボディ師がこの事実をはり・きゅう師らに伝えたところ、はり・きゅう師 らは、「当初の目的に適うよう、貧しい人々に奉仕したい」と回答したのだった。 この状況を受け、2009 年からは、より貧しいと主催者側が考える場所に会場を移して医 療奉仕活動が実施されることとなった。まず 2009 年に Bidar・Gulbarga・Bijapur(ダリット の村)の 3 箇所で活動が実施された。Bidar では 114 名、Gulbarga では 117 名、Bijapur では 113 名が受診に訪れた(図1)。当該地域は、多くの指定部族の人々とダリットの人々が受 診した記録がある[足立・箕口・山地、2009] 。 次いで 2010 年には、活動の拠点を Andhra Pradesh 州のアディラバードに移した。ここで は現地の仏教徒組織と共に仏教徒の医師らのグループがこの活動を支援した。結果として、 1021 名の受診者があった(図 1)。 以上、現在までの受診者数を振り返ってみると、実に 2500 名以上の受診者が一連の医療 奉仕活動に参加したこととなる。 ところで、主催者のボディ師は活動に際し、「一つお願いがあります。来る人たちの宗教 的立場や職業を尋ねないでください。理想の医療奉仕活動を実施するためです。 」とはり・ 46 きゅう師に要求した。そこで、日本のはり・きゅう師らは、挨拶の言葉「ジャイ・ビーム」 や、服装を観察して彼らの信仰状況(仏教徒かイスラム教徒かそれ以外か)を判断した。 一連の活動を通じて、多くの人たちが「ジャイ・ビーム」という挨拶を使用していた。 日本のはり・きゅう師 5 大部分のはり・きゅう師がはり師・きゅう師養成施設の教員である。これまでに延べ 23 名の日本のはり・きゅう師が当該活動に参加した。筆者は 2007 年より参加している。 分析方法 6 (1)現地でのはりきゅう施術の意義と、 (2)現地での仏教布教の現状とを考える目的で、 「受診者の受診行動」、 「現地仏教徒への影響」 、「はり・きゅう師の参加動機」という 3 つ の観点から 2009 年と 2010 年に実施された当該活動を分析した。 第一に、1365 名の診療録を分析して男女差、年齢集団間の差を検討した。第二に、現地 仏教徒への影響を、筆者のフィールドワーク結果をもとに考えた。第三に、日本人はり・ きゅう師にとってのこの活動の魅力を、彼らの聞き取り調査をもとに明らかにし、参加動 機の背景を批判的に考えた。 Ⅲ 1 結果と考察 受診者の受診行動 1)受診者数 表1: 受診者数 Total 2009 2010 n % n % n % 男性 614 45 117 34 497 49 女性 751 55 227 66 524 51 性別 2009 年の受診者 344 名のうち、34%(n=117)が男性で、66%(n=227)が女性であった (表1)。一方、2010 年の受診者 1021 名のうち、49%(n=497)が男性で 51%(n=524)が 女性であった(表1)。 ボディ師は、 「女性は社会的弱者である」と常々語っている。従って、社会的弱者である 女性が積極的に参加できる当該活動は、現地仏教徒の名声を何らかの形で高めている可能 性があると筆者らは考えている(写真 1・2・3)。 47 (下左から) 写真(1) 2009 年 Bidar での女性受診者 写真(2) 2009 年 Bijapur(Dalit の村)での女性受診者と指定部族の人々 写真(3) 2010 年 Adilabad での女性受診者 2)年齢集団 図 2: 年齢集団 年齢階層別の受診者の構成を概観すると、2009・2010 年共に、男性では 31~60 歳代が優 越し、女性では 21~60 歳代が優越する傾向を理解できる(図2)。 60 歳代が再生産年齢人口に該当することを重視すれば、この年齢層特有の事象と関連す るのではないか、という仮説が成り立つ。受診者の出産の有無・結婚の有無・就業の有無 については今回記録化しておらず、厳密な分析は出来ていないが、例えば結婚に伴い女性 の「病気の閾値」が下がる、あるいは婚家にて自身の身体の変調を主張することがなんら かの疾病利得をもたらすなど、この差異の背景に、結婚や就業と言ったいわゆる社会的・ 文化的な背景が関係していた可能性は高いだろう。日本の事例ではあるが、これまでの研 究によって、慢性症状発症の原因のひとつとして「結婚」 「出産」「育児」「家事」などが把 48 握されており[光藤 2003]、これらがインドにおいても適用される可能性は高いと筆者は 考える。今後の課題としたい。 さて、年齢階層別の受診者の構成をあらためて概観すると、2009・2010 年、男女共に、年 齢集団間で受診件数に差がある(図 2)。 なぜ年齢集団間で受診件数の差異を観察できるのだろうか。受診者の語りを検討してみ ると、多くの男性受診者は、はり・きゅう師に対して「注射は怖いよ。だから鍼も怖い。で もほんとに体調が悪いから、ここへ来てるんだよ。痛くなけりゃここへは来ないよ」と語 っていた。10 代前半の女性受診者は、「私も鍼は怖い」と語った。一方で、40~60 代の女 性受診者は、 「母さんは鍼が嫌いだと言ってた。だから連れて来なかったんだ。でも、あた しは怖くないよ。たくさん打っとくれ」と話した。従って、世代間で異なる治療方法の好 みが、これらの差異を生んだ可能性が高い、と筆者は考える。 3)既往歴 2009 年の受診者のうち、麻痺を呈する受診者の大部分は、 「これまでに何らかの治療を受 けたことがある」と語った(n=14、63.6%)。一方、頭痛を訴える受診者で「これまでに何 らかの治療を受けたことがある」と語ったのは 5.9%(n=2)しかいなかった(表2)。2010 年も同じ傾向であって、麻痺を呈する受診者の大部分は、 「これまでに何らかの治療を受け たことがある」と語った(n=68、60.7%)。一方、頭痛を訴える受診者で「これまでに何ら かの治療を受けたことがある」と語ったのは 4.8%(n=2)しかいなかった(表2) 。 表 2: 「麻痺」と「頭痛」の受診歴 Total 2009 2010 n % n % n % あり 82 61.2 14 63.6 68 60.7 なし/不明 52 38.8 8 36.4 44 39.3 あり 4 5.3 2 5.9 2 4.8 なし/不明 72 94.7 32 94.1 40 95.2 麻痺への受診歴 頭痛への受診歴 麻痺は、深刻な症状のひとつである。一方頭痛は、一般的な症状である。既往歴の分析 からは、深刻な症状の場合は、何らかの治療を受診していることを理解できる。 受診者の中には、レントゲン、MRI 画像、処方箋、診断書などを持参する者もおり、総 じて彼らは深刻な症状(疾病)を抱えていた(写真 4・5・6)。彼らは「これらを得るのは本 当に難しかったんだ」と語った。ボディ師を通訳として彼らは、「民間のクリニックはとて も値段が高い。一方公営病院は信用できない。公営病院は、医者がいないことがしょっち ゅうだし、もし医者がいても今度は看護師がいない。われわれが利用できるよい医療はな いんだよ」と語った。 49 (下左から) 写真(4) 外来受診カード (Adilabad 2010) 写真(5) 診療録 (Adilabad 2010) 写真(6) 染色体検査報告書 (Adilabad 2010) 表 3: 受診者の症状 Total 2009 2010 n % n % n % 風邪様症状 2 0.1 0 0.0 2 0.2 消化器症状 9 0.6 0 0.0 9 0.9 頭痛 76 5.4 34 9.9 42 4.0 生理痛 1 0.1 0 0.0 1 0.1 内科その他 7 0.5 4 1.2 3 0.3 打撲・捻挫 1 0.1 0 0.0 1 0.1 1144 81.6 283 82.5 861 81.4 眼・耳・皮膚その他 27 1.9 0 0.0 27 2.6 麻痺 134 9.6 22 6.4 112 10.6 筋肉痛・関節痛 4)症状 2009 年では受診者 344 名のうち、283 例(82.5%)が「筋肉痛・関節痛」だった。次に「頭 痛」34 例(9.9%)、 「麻痺」22 例(6.4%)と続く(表3)。2010 年では受診者 1021 名のうち、 861 例(81.4%)が「筋肉痛・関節痛」だった。次に「麻痺」112 例(10.6%)、「頭痛」42 例(4.0%)と続く(表3)。症状の分析からは、 「筋肉痛」 「頭痛」といった「痛み」と、 「麻 痺」を呈する受診者が多かったことがわかる。 「痛み」日常的な症状である。「痛み」は身体の不調を生み、また様々な症状を引き起こ す。はり・きゅうは「痛み」に対処する方法として知られているから、はり・きゅうは現 50 地の受診者のニーズに合致していた(代替性があった)といえよう。 また、「麻痺」は治療が難しい症状である。「麻痺」は患者とその家族に深い悩みを与え る。はり・きゅう分野には、症状が固定化してしまい有効な手段のない「麻痺」に対する アプローチも存在するから、はり・きゅうは現地の受診者のニーズに合致していたといえ よう。言い換えれば、「はり・きゅう」は未知の療法であり、「麻痺」のような固定化した 症状をもつ人々(及び関係者)に対しては、「ダメもと」の期待感であっても、訴求力の強 い療法であったことを想定できる。 いずれにせよ、症状の分析調査は、受診者がどのような症状をはり・きゅうの適用と考 えたか、言い換えれば、現状で存在する現地の医療処置に対するはり・きゅうの代替可能 性を検討できる資料となりうると考える。 2010 年の事例では、「ネズミ咬傷」を伴う腰痛の受診者が存在した(写真 7)。当該受診 者は咬傷について「どうでもよい」 とし、「腰痛を診てくれ」と申し立 てた。受診者は、健康状態を自分で 決め、症状に対処する優先順位を自 ら設定し、治療方法を自ら選んでい る可能性が高いと筆者は考えた。 2009 年・2010 年の受診者の中に は、身体に人為的な火傷の跡がある 者も多数存在した(写真 8・9)。こ の火傷の痕跡は、民間療法家による 温熱療法によるものである6。 彼らはこの治療法を実施する理 写真(7) ネズミ咬傷の痕 (Adilabad 2010) 由をこのように語った。 写真(9) 火傷の痕(Bijapur 2009) 写真(8) 火傷の痕(Adilabad 2010) 「痛みが激しいときは、まず薬草や市販薬を試してみる。しかし薬草は効かないことが多 いし、薬は高くて続けられない。だから、これをやるんだ。熱いし、やるときは怖いけど、 6 インドの伝統医学であるアーユルヴェーダには、温熱療法の一つとしてアグニ・カルマという 施術法がある。しかし、現地で知り合ったアーユルヴェーダ医のひとりは、「このような大きな 火傷痕を残すアグニ・カルマは本当の医者は実施しない」と筆者に語った。 51 これをやったらしばらくは痛くないし。だいたい数週間?痛みが楽になるんだよ。」 そして、たいてい次のように続けた。 「もちろんインドには、イングリッシュ・メディスンのお医者さんや、アーユルヴェーダ のお医者さんがいる。どの医療を選ぶのかは、我々の自由だ。でも、大体のところ、値段 は高いし、待ち時間は長いし、混んでるし、遠いし。簡単には利用できないんだよ。我々 が簡単に利用できるような治療法や体調管理法は、あんまりないんだ。」 以上の諸点は、以下の5点にまとめることが出来る。 (1)受診件数を調査すると、明らかに女性の受診者が男性の受診者よりも多かった。 (2)年齢階層別の受診者の構成を検討すると、年齢集団間で受診件数に差があるうえ、 男性では 31~60 歳代が優越し、女性では 21~60 歳代が優越する傾向を理解できた。筆者 は、いくつかの社会的・文化的要因と、治療法に関する年齢集団の「好み」がこれらの差 異を生んだ可能性が高いと考える。 (3)既往歴の分析からは、深刻な症状では何らかの治療を受診していたことを理解でき た。そうでないときは、民間療法や家庭療法を試していることが判明した。 (4)症状の分析からは、受診者は、健康状態を自分で決め、症状に対処する優先順位を 自ら設定し、治療方法を自ら選んでいる可能性が高いことがわかった。受診者は、自由に 医療を選択することも可能であった。しかし、選択は自由でも、選択の実現は非常に困難 な模様であった。 (5)症状の分析はまた、「筋肉痛」「頭痛」といった「痛み」と、「麻痺」を呈する受診者 が多かったことがわかった。当該症状に対し、はり・きゅう治療は十分に機能していたと 考えて良いだろう。 2 現地仏教徒への影響 1)宗教儀礼への参加機会 現地仏教徒によれば、大部分の仏教徒は、通常週に1回仏教徒としての「おつとめ」を するだけだったそうである。しかし、医療奉仕活動開催期間中は、主催者による早朝のメ ディテーションの時間、夕食後主催者を囲んでの説法、医療奉仕活動支援中の説法などで 仏教の教えに触れていた。結果として、医療奉仕活動期間中は、宗教儀礼への参加機会が 非常に増えていたことが観察できた。 2)一体感の醸成 現地仏教徒らは、医療奉仕活動の期間中努めて白色の衣類を着用していた(写真 10)。彼 らによると、白色は仏教徒を意味するそうである。 52 写真(10) 白装束とバッジ (Adilabad 2010) 写真(11) バッジ(Adilabad 2010) また、現地仏教徒で当該活動のボランティアとして参加した者は、釘で止めたバッジを 胸に着装していた(写真 10・11)。これらのバッジを認めたのは 2010 年からである。これら の方法を通して、現地仏教徒らは自らの一体感を醸成していると筆者は考えた。 3)現地仏教徒の組織化 一連の医療奉仕活動では、毎回横断幕が掲げられていた(写真 12・13・14・15)。 (下左から) 写真(12) 参考写真 2007 年 Bijapur での横断幕 写真(13) 2009 年 Gulbarga での横断幕 写真(14) 2010 年 Adilabad での横断幕 写真(15) 現地仏教徒の顔写真と肩書き(Adilabad 2010) 53 2010 年の Adilabad の事例では、現地仏教徒の顔写真と個人の肩書きとが共に掲載されてお り(写真 15) 、組織化と役割分担が徐々に進展している状況を伺うことが出来た。指揮命令 系統の確立としても把握できる可能性がある。 以上の諸点は、以下の5点にまとめることが出来る。 (1)当該医療奉仕活動を通じて、現地仏教徒の宗教儀礼への参加機会は増加していた。 (2)当該医療奉仕活動を通じて、揃いの衣服・揃いの小道具(バッジ)を用いて現地仏 教徒は一体感を醸成していた。 (3)現地仏教徒らの組織化と役割分担の明確化が観察でき、指揮命令系統の萌芽を認め た。 従って、一連の医療奉仕活動は、現地仏教徒の着実な組織化に貢献していると、筆者は考 える。 3 はり師・きゅう師の参加動機 1)受診者の要求 当該活動で受診者は、施術による単なる気持ち良さ(「リラクゼーション」ないし「癒し」) ではなく、「病気」に対する「処置」及び「治療」を求めて来訪していた。聞き取り調査に よれば、受診者のこの「治療の要求」にとても魅力を感じたと、はり・きゅう師らは述べ た。 なぜ、はり・きゅう師は「治療」にこだわるのだろうか。筆者は、彼らを取り巻く日本 の社会的立場がこの「こだわり」と深く関係すると考える。日本には、公的な資格を持た ない多くの民間医療従事者(リフレクソロジスト・カイロプラクティック・整体など)が 存在する。彼らはビジネスの面ではり・きゅう師と競争関係にある。一般的に、はり・きゅ うの利用者と民間医療従事者の利用者は重なることが多く、これら利用者の大部分は「自 らの好み」によって施術者を選択することが多い。彼らは公的資格の有無を問題にしない。 この傾向が、はり・きゅう師の「治療」への「こだわり」を生むのではないだろうか。何故 ならば、法的に「治療」が許されているのは、公的資格を保有するはり・きゅう師らに限 られるからである。 筆者の聞き取り調査によれば、はり・きゅう師は他の民間医療従事者との違いを、「医療 保険を何らかの形で扱えること」のほか、「大量に近代医学の勉強をして病気に対する“正 しい”知識を身につけていること」及び、「国家資格を取得して“治療”ができる“医療専 門職”であること」と把握している。自らを“医療専門職”として把握するためには“医 療”の対象である「病気」に対処する必要がある。従って、「病気」に対する「処置」及び 「治療」、即ち「治療実践」が求められている本活動は、「医療専門職」としての自己規定 を意識する重要な場面としても把握できよう。 2)当該活動の目的 はり・きゅう師らは、当該活動の目的を「貧困によって満足な医療を受けることが出来な い現地の人々」に、「無料ではり・きゅう施術を実施すること」と説明する。当該目的を言 い換えれば、「医療過疎地域で医療奉仕する」ことであり、さらには「「医は仁術」の実践 者として活動する」ことと把握できる。聞き取り調査で、はり・きゅう師らは当該目的に「非 54 常に魅力を感じる」と回答した。 なぜ、はり・きゅう師は「医療過疎地域」での「無料奉仕」にこだわるのだろうか。筆 者はこれも、彼らを取り巻く日本の社会的立場がこの「こだわり」と深く関係すると考え る。ほとんどの日本のはり・きゅう師ははり・きゅう施術を「医療類似行為」として把握し ている。聞き取り調査では、彼らはこの「類似」という言葉を好きではない。 一般的に、日本で最も理想的な医療専門職として知られるのは「赤ひげ」である。「赤ひ げ」は現代医学の医師や医療に対する構造的な不満・不信が生み出した現代医療の神話の 一つとして把握できる[黒田 1998]。「 「医は仁術」の実践者として活動する」ことは、「赤 ひげ」像に合致した活動であり、当該活動を実施する者にとって、自らが「赤ひげに代わ りうること」を、言い換えれば、「医療の実践者として活動できること」を主張する機会に なっている可能性が高いと把握できる。つまり、本活動ははり・きゅう師にとって無自覚な がらも、自らが「医療の実践者」であること、即ち「医療」の担い手であるとの自覚(自 らの存在意義)を再認識し、人々にアピールする場面になっている可能性が高い。故に、 「貧 しい人々」を求めて活動地域を変更しているのではないだろうか。 以上の諸点は、以下の2点にまとめることが出来る。 (1)受診者は「治療」を求めており、この受診者の「声」がはり・きゅう師にとって非 常に魅力的だった。 (2)はり・きゅう師は当該活動の目的を「医療過疎地域」で「無料で医療奉仕すること」 と説明し、この目的の実現にこだわっている。筆者はこの目的へのこだわりこそが、彼ら の「隠れされた」参加動機を解明する鍵と考える。日本における曖昧な法的・社会的地位が 彼らを「医療過疎地域」での「無料医療奉仕」に駆り立てている可能性が高い。 Ⅳ 結論 以上を踏まえると、以下の 4 点を提議できよう。 (1)受診者は、健康状態を自分で決め、症状に対処する優先順位を自ら設定し、治療方 法を自ら選んでいる可能性が高いことがわかった。受診者は、自由に医療を選択すること も可能であった。しかし、選択は自由でも、選択の実現は非常に困難な模様であった。ま た、年齢集団によって治療法に対する「好み」が異なっていた。これらの背景にはいくつ かの社会的・文化的要因が存在すると筆者は考えた。いずれにせよ、はり・きゅうは現地 の人々のニーズに合致しており、一つの新しい選択肢を提供したものと判断できる。 (2)一連の医療奉仕活動は、現地仏教徒の着実な組織化に貢献している。 (3)日本のはり・きゅう師は「理想の医療専門職」として自らを規定できる活動に魅力を 感じていた。この背景には彼らを取り巻く日本の曖昧な法的・社会的状況が影響していると 考えられた。 本報告の弱点は、限られた情報から検討を進めていることと、短期の滞在によって事象 を表層的にしか観察できてない点である。今後も活動を継続していく予定であって、先学 諸賢の論攷を参考にしながら、適切・的確な検討を進め、現地住民の文化的な行動として の健康行動、あるいは消費活動としての健康への欲望がいかなるものであるか、どのよう に変化していくかを追求してゆきたい。 55 謝辞 本稿を成すにあたり、以下の各氏から貴重な教示と意見を賜った。記して感謝する。 D.Gururaja 氏(M.D.(アーユルヴェーダ), PhD)、ボディ・ダンマ禅師、現地仏教徒の皆さ ん。なお、一連の活動に参加した全ての人々にも心から感謝する。 参考文献 ALLEN, Tim 1994 Closed Minds, Open Systems. 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[cited 2011 Jan at:URL:http://www.jsam.jp/data/files/Introduction_of_JSAM.pdf 日本財団 2008 「伝統医療の活用」 [cited 2011 Jan 1] Available at: URL:http://www. nippon-foundation.or.jp/inter/dentouiryou.html ティテパティよもぎの会 n.d. よもぎの会 [cited 2010 May 24] Available at: URL: http://www. yomoginokai.jp/index.htm 58 7] Available ウッタルプラデーシュ州のアンベードカル仏教(1951~2001 年) 人口統計的・社会経済的発展の分析 ジャワーハルラール・ネルー大学 シヴ・シャンカル・ダース* 【要旨】 ウッタルプラデーシュ州のアンベードカル仏教徒は、アウトカーストの改宗やその他の 二次的な理由により、この 50 年間(1951~2001)で、他のあらゆる宗教コミュニティを凌 ぐ比類ない増加率を見せている。統計データは僅少であるものの、彼らの社会経済状態は、 他の宗教コミュニティと同等とは言えないものの、指定カースト/アウトカーストに比べ ると、識字率、男女人口比、耕作者の割合という点において、若干優れている。国の機関 は、彼らの社会経済状態のデータを集めることに消極的である。1990 年代の 10 年間で、政 治の分野においても彼らの影響力は大きくなり、その後も発展し続けている。全体として、 アンベードカル仏教徒は、ウッタルプラデーシュ州の大衆社会党の政治的言説において、 強い訴求力と重要性を有する。現代の大衆社会党政策は単にダリット政策と見ることはで きないのであって、実際的に仏教徒によって主導されているのである。 -----------------------------------------------------------------------------------------------------------------------現代インドにおける仏教の熱烈な唱導者であるビームラーオ・ラームジー・アンベード カル博士(Dr. Bhim Rao Ramji Ambedkar: 1891~1956)は、インド全土にわたる仏教復興の 波を引き起こした。1935 年のイエオラの大会(ナーシク)で演説に立ったアンベードカル は、自分はヒンドゥー教徒として生まれたがヒンドゥー教徒として死ぬつもりはないと宣 言した 1)。1956 年 10 月、ゴータマ・ブッダの生誕 2500 年に際し、彼はその約束を果たす べく、ダンマ・ディークシャー(Dhamma Deeksha:仏教改宗儀式)という式典で、ナーグ プル(マハーラーシュトラ州)の何百万という彼の支持者とともに仏教への入信を誓った 2) 。世界中のあらゆる宗教を学んだ彼は、被差別民の解放のためには仏教が最善の選択であ ると考えた。最終的に、不可触民の宗教的ジレンマは、1956 年に彼が 22 の誓約とともに仏 教入信の決意をしたことにより解決された。アンベードカルは被差別民を啓蒙するにあた り、彼らに、かつてのインドが平等を前提とする仏教の豊かな文化史を礎に光栄ある平等 主義的社会を築いていたと諭した。それは、階層的なカースト制に基づく既存のバラモン 教的社会秩序の動態とは実に対照的なものであった。1956 年 5 月 24 日にアンベードカルは、 同年 10 月に仏教改宗を誓う前のボンベイでの初めての公開宣言の場で、神、霊魂、カース ト制という観点から、仏教とヒンドゥー教の中核的な違いを簡潔に説明した。彼は次のよ うに述べた。 「ヒンドゥー教は神の存在を信じる。仏教には神はいない。ヒンドゥー教は霊 59 魂の存在を信じる。仏教の教えに霊魂はない。ヒンドゥー教は四姓制度(チャトゥル・ヴ ァルナ)とカースト制を信じる。仏教にはカースト制や四姓制度の入る余地はない。」3) アンベードカルにとって、インドの政治体制がうまく運ぶためには、ただ機能を果たす 政府があることではなく、支え合う生き方、カーストや階級のない社会という仏教思想が 不可欠であった。彼の言葉を引用すると、「民主主義の本質は政府や議会といった形で存在 するのではない。民主主義とは、政府に留まる問題ではないのだ。それは元来、支え合う 生き方という形で存在する。民主主義の本質は、社会的結びつき――社会を構成する人々 の支え合う生き方という点――に見出されるべきだ。」4)このように、彼の見方では、民主 主義と仏教は互いに補い合うものなのである 5) 。 アンベードカルの改宗により、インド全土で夥しい数のカースト被差別民がヒンドゥー 教から脱し、仏教を信奉しはじめたことを、統計データは示している。インドの仏教徒は 1671%と驚異的に増加、人数にすると 180,823 人から 1961 年の統計で 3,250,227 人に増加し たが、これは世界のいかなる宗教史上にも見られない現象であった 6)。現代インドの著名な 仏教学者 D. C. Ahir によると、1956 年以降は、激動をともなう仏教復興の時代であり、「イ ンド仏教のアンベードカル時代」と呼ぶにふさわしいと言う 7)。これは「アンベードカル」 の名を前につけずに現代インドの仏教を社会学的に研究することはできない、ということ を意味する 8)。しかしながら統計では、アンベードカル仏教や新仏教ではなく単に「仏教」 として記述されているため、本稿で統計データを扱う時には「仏教」というカテゴリーを 使用している。 ウッタルプラデーシュはインドで最も人口の多い州であり、インド国家体制において重 要な地域である。世界の人口データによると、41 人に 1 人がウッタルプラデーシュに住ん でいることになる。2001 年の統計を見ると、166,197,921 人というウッタルプラデーシュの 人口は、中国、アメリカ合衆国、インドネシア、ブラジル、ロシアを除いた世界の多くの 国を上回っている 9)。このような膨大な人口の 22%を指定カーストが占めている(2001 年 統計)。ウッタルプラデーシュは、インドで 2 番目に高い経済力を持つ州でもあり、2004 年 から 2009 年のインドの総 GDP の 8.17%を占める 10)。インドの政治において、改宗はいつの 時代も重大な事柄であり、紛争と暴力を伴ってきた。宗教的アイデンティティーの転換は、 たびたび政治論争を引き起こしてきた。ある集団がアイデンティティーを変えると、ある コミュニティの人数が増減することになり、それは民主主義において非常に重要なことな のである。 古くから、指定カースト(かつては不可触民として扱われた)は、ウッタルプラデーシ ュにおいて社会・経済状態という点で最も後進的なコミュニティであった。そうした悲惨 な状況を打破するため、時に彼らは支配的なヒンドゥー的社会秩序に異議を唱えてきた。 カビール(Kabir)、ラヴィダース(Ravidas)、アチュタナンダ(Achhutanand)などは、何百 年もの間、恵まれない人々の声の象徴であった。現代になって、彼らに続くひとりの英雄 が現れた。それは憲法、社会、文化、政治の面で彼らの権利のために闘った、アンベード カル博士である。アンベードカルの理想とビジョンは、社会的に軽視され、政治的に服従 させられ、文化的に破壊され、経済的に搾取されている人々に権利を与えるために、非常 に重要である。周知のとおり、アンベードカルのビジョンのひとつは、被差別民に権利を 与え、インドを Prabuddha Bharat(覚醒したインド)――自由、平等、友愛、公平という仏 60 教の価値観が広く行きわたる国――に変えることであった。1956 年の仏教への改宗運動は、 まさにそういった目標に向けての動きであった。アンベードカルの理念に対する敬意は、 仏教徒人口の増加に如実に表れている。ウッタルプラデーシュでは、アンベードカル博士 と仏教を前面に押し出さなければ、いかなる政治も成立し得ないだろう。 1. ウッタルプラデーシュにおける仏教徒の人口統計的発展 現在のウッタルプラデーシュの境界にもとづけば、1951 年の統計では総仏教徒数は 2,517 人であった。当時、ウッタルプラデシュの 12 の県で仏教徒はゼロ、13 の県で 2 桁以下であ り、この 4 桁の数字は 46 の県の合計であった。しかし、その後の統計では毎回、著しい増 加を見せている。 周知のとおり、ウッタルプラデーシュの地理的境界は数回の変更を経ている。例えば、 2000 年にウッタランチャルが切り離されたため、その地理的領域分の人口を、2000 年以降 だけではなく 1951 年からずっと差し引いてあり、現在の地理的領域だけを考慮に入れて表 示ならびに分析している。1951 年にあった地域区分をベースにして、のちに作られた地域 61 区分はそこに組み入れられている。仏教徒数の増加を詳細に研究するには、統計に沿って 研究するべきであろう。 1.1 統計 1961 ウッタルプラデーシュはインド古代史における仏教発祥の地である。支配層および大衆 の宗教であった仏教は、その誕生の地から衰退してゆき、1951 年にはわずか 2517 人(州人 口の 0.004%)まで減少した。1950 年代の仏教復興を見るまでは、主要な 12 県で完全に絶 えてしまっていた 11)。 ウッタルプラデーシュ東部の諸県は、かつて仏教の中心地であったが、6 世紀以降に政治 的保護を奪われたことや 12) 、バラモン教との対立といった悪条件により、その魅力を失っ た。マウリヤ朝やクシャーナ朝の時代に仏教の美術・文化は全盛を極めたものの、20 世紀 までには最低レヴェルまで衰退した。中国の学僧、玄奘は、7 世紀にインドを訪れた際に目 にした魅惑的な仏教文化を描写している。彼によると、仏教の美術と建築を象徴する 30 の 僧院と多くの仏塔があった。サールナート(鹿野苑)とシュラーヴァスティー(舎衛城) は、ウッタルプラデーシュの仏教徒のみならず、世界中の仏教徒からも崇敬を集める場所 である。また、ウッタルプラデーシュを 5 世紀初頭に訪れた中国人巡礼者の法顕(Fa-hian) や、7 世紀末に訪れた義浄は、当時目にした仏教の記念物の数々を紹介している 13)。 仏教徒人口の大幅な増加が最初に見られたのは 1961 年の統計であり、とりわけアーグラ ー(Agra)、メーラト(Meerut)、アリーガル(Aligarh)、バレーリ(Bareilly)、ビジノール (Bijnor)、ピーリービート(Pilibhit)といったウッタルプラデーシュ西部の県において顕 著であった。他にも集団改宗が見られた重要な地域は、カーンプル(Kanpur)、ラクナウ (Lucknow) 、ミルザプール(Mirjapur)である。その後、ウッタルプラデーシュ全域で仏教 徒人口の急増が記録された。1951 年にゼロだった 12 の県のうち 8 県においても、その後の 統計で多数の仏教徒人口が記録された。これにより、仏教の勢いは特定の地域に限られた ものではなく、あらゆるところにその影響が及んだことがわかる。 62 1961 年の統計では、仏教徒数は 4 倍に増えて 10,478 人(ウッタルプラデーシュ総人口の 0.014%)となり、全体の増加率が 16.38%であったのに対して 316.28%という驚異的な増加 率を示した。こうした仏教徒数の目覚ましい増加は、キリスト教徒(-20.39%) 、ヒンドゥ ー教徒(15.91%)、ジャイナ教徒(25.56%)、イスラム教徒(19.19%)、シク教徒(27.16%) など他のすべての宗教を凌いでいた。ヒンドゥー教徒とキリスト教徒においては、その 10 年間の平均的な増加率(16.38%)にさえ満たなかった。 1.2 統計 1971 1971 年の統計では再び仏教徒の急増が見られた。この 10 年間で仏教徒人口の増加率は 235.42%、一方、総人口の増加率はわずか 19.64%であった。仏教徒数は前回の統計の 10,478 人から 35,056 人へと跳ね上がった。1971 年の統計における仏教の発展に関してさらに注目 すべきことは、古くから仏教の中心地であったウッタルプラデーシュ東部に代わり、西部 および中部において仏教の人気と改宗が増加したことである。ベナレス(Banaras)、クシナ ガラ(Kushinagar)、シュラーヴァスティー(Shravasti)といった古くから有名な仏教の中心 地では、州西部で起こったような目覚ましい仏教復興の波がなかった。1971 年の統計で仏 教徒人口が驚異的に増加した行政区画は、アーグラー(11,343 人)、メーラト(11,739 人)、 アラーハーバード(5,130 人)、ロヒルカンド(2,327 人)、ジャーンシー(1,847 人)、ラク ナウ(1,708 人)であり、一方、ベナレス(580 人)、ゴーラクプル(289 人)、ファイザー バード(103 人)といったウッタルプラデーシュ東部の県は、千の位にさえ届かなかった。 1.3 統計 1981 1981 年の統計を見ると、仏教徒数は、1961 年統計での仏教復興以来、最も緩慢な増加率 (35.35%)を示した。それでも他の宗教コミュニティに比べると、その増加率は他のすべ ての宗教、すなわちキリスト教徒(22.38%)、ヒンドゥー教徒(24.78%)、ジャイナ教徒 (12.76%)、イスラム教徒(29.28%)、シク教徒(19.00%)を上回っていた。 63 前回の統計で増加が緩慢だったウッタルプラデーシュ東部の行政区画が、この 10 年間で は著しい増加を示した。ベナレス、ゴーラクプル、ラクナウ、ファイザーバードといった 地域が、それぞれ 1,816 人、1,302 人、10,139 人、404 人というこれまでにない高みに達し た。ベナレス、ゴーラクプル、ラクナウ、ファイザーバードのこの 10 年間の増加率は、そ れぞれ 213.10%、350.51%、493.61%、292.23%である。ウッタルプラデーシュ西部ではアー グラーだけが 50.83%と、西部地域の中では比較的良好な増加率を維持した(10 年間の州全 体の仏教徒数の増加率は 35.51%)。仏教徒数の増加率が極めて小さかった行政区画はロヒル カンド(15.90%)、ジャーンシー(3.89%)である。メーラトとアラーハーバードでは増加 率がマイナスとなり、それぞれ-37.26%、-6.00%であった。 1.4 統計 1991 1991 年の統計では仏教徒人口が目覚ましく増加した。ウッタルプラデーシュにおける現 代の仏教復興史上、1991 年の統計は 338.44%という最大の仏教徒数増加率を記録し、一方、 ヒンドゥー教徒の増加率は、17.03%と再びどん底に落ちた(総人口の増加率は 24.56%)。ウ ッタルプラデーシュの全地域の仏教徒数の増加率 14) を、高い順に挙げると、ファイザーバ ード 3017.32%、ゴーラクプル 2800.76%、ベナレス 1021.03%、ジャーンシー542.36%、ロヒ ルカンド 474.37%、ラクナウ 269.08%、アーグラー151.58%、アラーハーバード 147.09%、 メーラト 139.83%であった。 64 上図(Figure 4)を見ると、仏教徒の目覚ましい垂直的な増加率(338%)は、他のすべて の宗教、すなわちヒンドゥー教徒(17%)、イスラム教徒(34%)、ジャイナ教徒(23%)、 キリスト教徒(23%)、シク教徒(51%)を大きく引き離していることがわかる。 1.5 統計 2001 20 世紀最後の 10 年間、ウッタルプラデーシュの平均的な人口増加率は 25.84%であり、 一方、仏教徒人口の増加率は 44.80%と、すべての宗教コミュニティの中で最大であった。 仏教徒の増加率が前回の統計で見られたほどではないことは事実であるが、その数は明ら かに増加しており、その著しい重要性は確かである。その 10 年間で平均的な増加率の 25.84% にさえ届かなかった宗教は、ヒンドゥー教徒 24.5%、ジャイナ教徒 22.9%、キリスト教徒 19.3%である。アラーハーバードは 100.78%と、最大の仏教徒増加率を記録したのに対し、 同地のヒンドゥー教徒の増加率は 24.5%に留まった。他にファイザーバード、ロヒルカンド、 ゴーラクプルといった地域の仏教徒の増加率は、それぞれ 87.15%、78.63%、55.48%であっ た。仏教徒数の詳細については既出の Table 2 を参照されたい。 全体的な仏教徒数の増加率を下回った地域は、アーグラー(40.84%)、ラクナウ(29.63%)、 メーラト(6.88%)であった。ジャーンシーでは仏教徒数の増加率が-36.80%と、マイナス であった。これはジャーラウン県で仏教徒数が 5447 人減少したことによるが、その原因は 未だに不明である。メーラトでは、メーラト県で仏教徒数が 5012 人減少した。これらマイ ナスの数字を除けば、2001 年統計のウッタルプラデーシュにおける仏教徒数の急増が新た な頂点に達したことは否めない。 2001 年の統計を見ると、ウッタルプラデーシュの仏教徒数は、1951 年の 2,517 人から 302,031 人に増え、11,899%という先例を見ない増加を示したことになる。1951 年~2001 年 の平均的な仏教徒増加率は 194.36%であり、わずか 22.37%という人口の平均的増加率に比 べて驚くべき差をつけた 15)。その 50 年間の平均的な仏教徒増加率は他のすべての宗教を大 65 差で上回っており、ヒンドゥー教徒 61.92%、イスラム教徒 71.56%、キリスト教徒 48.31%、 ジャイナ教徒 54.82%、シク教徒 77.79%であった。このような驚くべき増加率の傾向は、仏 教が人々にとって非常に重要なものであり、民主主義政治においてこの現象を無視するこ とはできないということを示している。 2. ウッタルプラデーシュの仏教徒の社会指標 インドの 2001 年の統計は、宗教コミュニティ別の男女人口比や識字率などの特定の側面 を浮き彫りにしている。仏教徒コミュニティの識字率は、イスラム教徒を除けば、全ての 宗教コミュニティの内で最下位に位置してはいるものの、指定カーストのそれよりも上で ある。高等教育への仏教徒の参加といった、他の側面については、統計データでも全国標 本調査機構(National Sample Survey Organisation: NSSO)などでも得られない。他に役立つ 有意義なデータとして全国家庭保健調査(National Family Health Survey: NFHS)があるが、 これも州レベルのデータは得られない。このように判断材料が少ないことから、ここでは 仏教徒の最も重要な側面のみに光を当てることにする。すなわち「識字率」であり、これ は 2001 年の統計に示されている。 識字率: 独立後のインドで、統計当局が宗教別の識字率に関するデータを発表したのは 2001 年が初めてである。識字率は社会および人間の発展を表す重要な指標であり、出生率 の他、死亡率――特に子どもの死亡率(男女人口比)――に直接影響する。仏教は指定カ ーストの大規模な改宗により最も大きく成長した宗教であるため、仏教徒の識字率は指定 カーストよりも高い。とはいえ、他の宗教に比べると遅れている。下記 Table 3 と Figure 6 はその点を明確に示している。 66 Table 3 から、仏教徒の識字率(56.2%)はイスラム教徒(47.8%)と比べた場合のみ上回 っており、それ以外の宗教コミュニティ、すなわちジャイナ教徒(93.2%)、キリスト教徒 (72.8%)、シク教徒(71.9%)、ヒンドゥー教徒(58.0%)の識字率の高さがわかる。Figure 6 を見ると、指定カーストの識字率は 46.27%であり、仏教徒の識字率のほうが 56.21%と、上 回っている。 3. ウッタルプラデーシュの仏教徒の経済状態 経済状態は、人間の生存に関する最も重要な変数のひとつである。経済基盤が健全なコ ミュニティは、政治や高等教育などの分野において常に優位に立つ。あるコミュニティの 経済特性は、人々が携わっている経済部門、彼らの労働の性質、雇用者か被雇用者か自営 業者かといった雇用状態、収入の状態に基づいて計算される。こうした観点から、他と比 較した仏教徒コミュニティの経済状態を把握するため、以下の要素を取り上げることにす る。 労働者の活動形態: 労働者の業種は、主に第一次産業部門、第二次産業部門、第三次産 業部門の 3 つの部門に分けられる。この分類法にもとづき、特定のコミュニティの労働の 専門化および多様化の程度を分析することができる。これは経済学者にも経済的進歩の指 標として用いられている。2001 年の統計は、耕作者、農業労働者、家内産業労働者、その 他の労働者といった部門毎の労働者のデータを宗教別に提供している。それを下記 Table 4 に示す。 略語: CL=耕作者(Cultivators)。政府、民間団体や他の団体が所有または占有する土地の耕作に 従事する。 AL=農業労働者(Agricultural Labourers)。他人の土地で働いて金銭または現物で報酬を得 る。 HHI=家内産業労働者(Household Industry Workers)。1 人またはそれ以上の家族が自宅また は農村部集落内で経営する産業。 OW=その他の労働者(Other Workers) 。過去 1 年間において公務員、鉱業、建設、社会・ 政治業務、教員、通商、商業などの何らかの経済活動に従事している。 67 Table 4 を見ると、仏教徒の労働者は、主に耕作者(41.0%)、農業労働者(35.4%)、その 他の労働者(20.5%)として従事している。上表で注目すべきことのひとつとして、仏教徒 で農業労働に従事している労働者の割合は他のどの宗教よりも高いことが挙げられ、ヒン ドゥー教徒は 25.6%、イスラム教徒 21.6%、キリスト教徒 13.1%、シク教徒 9.1%、ジャイナ 教徒 1.9%となっている。このことから、仏教徒の第一次産業部門の参加率は最も高いと言 える。 仏教徒と他のコミュニティのもう一つの妥当な比較は、指定カーストとの比較である。 なぜなら、仏教徒の大半が指定カーストの出身だからである。Figure 7 を見ると、仏教徒の 総労働者は主に耕作者(41%)、農業労働者(35.4%)である。指定カーストでは、耕作者の 割合は 39.5%、農業労働者は 30 %である。それ以外の 2 つの部門、すなわち HHI と OW に ついては仏教徒よりも指定カーストが高い。指定カーストの HHI および OW の割合は、そ れぞれ 4.5%、26%、仏教徒はそれぞれ 3.1%、20.5%である。仏教徒コミュニティは主に第 一次産業部門、とりわけ耕作(41%)を生業とし、指定カースト(39.5%)のそれをわずか に上回る。この比較調査から、仏教徒は耕作および農業労働の分野において優位であり、 一方、家内産業とその他の業種においては下位であることがわかる。 4. 仏教徒の台頭を支える要因 4.1 アウトカーストの改宗 大規模な仏教改宗が確かに存在することを証明するもののひとつは、その大幅な増加比 率である。下記 Table 5 を見ると、5 回の統計における総人口の増加率はそれぞれ 16.3、19.6、 25.4、24.5、25.8%であるのに対し、仏教徒人口の増加率はそれぞれ 316.2、235.4、35.3、338.4、 44.8%となっている。このような仏教徒数の大幅な増加率は、高い出生率と低い死亡率にも とづいて計算されるその内的人口増加率によるものではない。歴史上、このような高い増 加率が自然に生じたコミュニティは存在しない。これは間違いなく集団改宗運動、特にア ウトカースト/指定カーストの人々の改宗によるものである。 68 Table 5. Decadal Population Growth Rate of Uttar Pradesh in % (1961-2001) Growth in % 1961 1971 1981 1991 2001 Buddhists 316.28 235.42 35.35 338.4 44.80 SCs ----- ----- ----- ----- 25.2316) 16.38 19.67 25.40 24.56 25.84 Total Population Sources: Census of India 1951-2001 もうひとつ、仏教徒数の大幅な増加率における最も重要な要因が改宗であることを示す ものは、2001 年の統計レポートに示されるとおり、仏教徒人口統計の社会構成である。2001 年統計によると、仏教を信奉する指定カーストの人数は 302,031 人のうち 210,890 人、同州 の総仏教徒人口の 69.82%を占めている。 Total Number of Buddhists formerly Other Buddhists in Buddhists (UP) 2001 Hindu SCs 2001 210890 (69.82%) of 91034 (30.14%) of total 302031 17) total Buddhists Buddhists Scheduled Tribes 107 (0.04%) of total Buddhists Figure 8 は、アウトカースト/指定カーストが仏教徒人口で最も大きな割合を占めること を裏付けている 18) 。このデータから、改宗した指定カーストにとって最も魅力的な宗教が 何であるかは明らかであり、インド全体の指定カースト総人口の 0.6%、仏教徒総人口の 3.74%を占めている。 1961 年統計の一般報告書も、指定カーストの仏教改宗が仏教徒の飛躍的な増加率におけ る最も可能性の高い要因であると述べている。同報告書によると、「同州の増加率 316.28% という仏教徒人口の拡大に寄与した最も重要な要因は、とりわけヒンドゥー教徒の指定カ ーストからの大規模な改宗である」とある 19) 。従って、アウトカーストの改宗という理由 が、仏教復興における最も重要な側面だと言える。 69 4.2 アンベードカルの影響範囲 1956 年のアンベードカルによる改宗の呼びかけは、ウッタルプラデーシュのアウトカー スト、とりわけ同州で最多の指定カーストであるジャタヴ(Jatav)の人々の心を動かした。 ジャタヴは、アンベードカルを自分たちの文化的英雄として受け入れることでこの歴史的 な改宗運動を歓迎し、その結果、幾度もの改宗式を主催した。 4.2.1 文化的英雄 アンベードカルが圧倒的に支持された理由は幾つかあるが、第一に文化的な理由が挙げ られる。Lynch[1969]によると、文化的要因とはジャタヴの間に受け継がれた文学、神話、 芸術、象徴、価値観である。アーグラーのアウトカーストは、1957 年のアンベードカルの 集団改宗運動に賛同し、22 の寺院からヒンドゥーの神々を撤去し、それらの寺院を仏教の 寺に変えた 20)。ラクナウでは、ボーダーナンダ(Bodhanand)の後継者であるプラギャーナ ンダ尊者(Bhante Pragyanand)が、1957 年に何度か仏教改宗式を執り行った 21)。 当初、ウッタルプラデーシュ西部の多くの県(アーグラー、アリーガル、メーラト、ピ ーリービート)におけるヒンドゥーの不可触民は、自分たちは仏教徒であると主張し、ア ンベードカル博士を自分たちの文化的英雄であると断言し始めた。彼らはアンベードカル を英雄として受け入れたが、それは多くの人々にとって意外なことであった。なぜなら、 アンベードカルはジャタヴ出身ではなく、マハーラーシュトラ州のマハール(Mahar)とい うカーストに生まれていたからである。よそ者であるにもかかわらず、アンベードカルは 彼らの英雄として受け入れられた。このことは出自の結束力が重要な役割を果たすインド の歴史上、珍しい出来事だと見なす社会学者もいるが、アンベードカルの場合、そういっ たことは重要ではなく、彼は幅広く受け入れられた。Lynch[1969]は次のように述べてい る。 彼はジャタヴの文化的英雄になり、彼が集めた注目は崇拝に近い。これは一見、意外 なことに思える。なぜなら、アンベードカルはウッタルプラデーシュのジャタヴの出 身ではなく、マハーラーシュトラ州のマハールの出身だからである。異なるカースト、 異なる出身地という 2 つの要因は、出自の結束力が深く根を張り集団と集団を分断す るインドでは、通常、指導者に向かないと判断される根拠になりかねない 22)。 4.2.2 経験の共通性 上述の Lynch の言葉は、カーストと出身地という点でウッタルプラデーシュのジャタヴ とは異なるアンベードカルが受け入れられたという点をより明確にしている。なぜジャタ ヴはアンベードカルを自分たちの理想として受け入れたのか。その答えは「経験の共通性」 であり、それがアンベードカルとジャタヴの人々を結びつけた主な絆であった。両者とも カーストの階層社会と不可触民制度の犠牲者であり、故に彼らは、自分たちの人生を変え るためにアンベードカルの理想と方法を称賛した。Lynch は次のように論じている。 ジャタヴにアンベードカルを指導者にするという異例の選択をさせた推進力は、多分 に彼らの人生とアンベードカルの人生の共通性にある。アンベードカルの人生は、厳 70 しい現実、複雑な問題、根本的な解決法という、彼ら自身の人生の縮図なのだ。それ 故にアンベードカルと自分たちを同視し、カーストと出身地への偏狭なこだわりを超 えることは容易であった。〈中略〉ジャターヴは、アンベードカルの経験と自分たちの 経験は同じだと感じている。このため、彼らはアンベードカルに従い、自分たちの問 題を克服するために彼の方法と理想を受け入れている 23)。 Lynch がさらに述べているように、「アンベードカル博士に対するジャタヴの人々の並々 ならぬ尊敬の念には幾つかの理由があり、それがアンベードカルを紛れもない英雄として 広く受け入れ、彼の仏教解釈を新たなアイデンティティーの立脚点として受け入れること につながった」24)のである。仏教は彼らに、希望の光、まとまった根本的な価値観、理想的 な社会モデルを授けた。 そして Lynch が主張するように、 「それらを現実のものにするため、 ジャタヴは政治活動に従事した」25)。初めにジャータヴはアンベードカルに連絡を取り、1930 ~31 年にガーンディーとアンベードカルの間で激しい論争が起こった 2 度目の円卓会議の 時に、ガーンディーに対抗してアンベードカルを支持する電報を何度も送った。ジャタヴ はアンベードカルの見解が正しいと感じていた。 もうひとつの理由はアンベードカルの社会構造における地位にある。彼はジャタヴとの 共通点、すなわちヒンドゥー教の制度化された社会構造のもとで不可触民であるという共 通点を持つ革命家であった。この共通点は、「彼は仲間だ」、インドで大いなる名誉と権力 と責任のある地位を獲得したアンベードカルが自分たちの問題と気持ちを身内として本当 に理解することのできる人間だ、という思いを強固にした。アンベードカルがジャタヴか ら圧倒的支持を受けた第四の理由は、象徴としての重要性である。彼の輝かしい功績から 生まれたカリスマ的イメージがジャタヴに著しい影響を与えたのである。 4.2.3 伝統の共通性 Lynch[1969&1972]によると、ジャータヴの人々にとって二つの重要な北インドの伝統 があるという。すなわち(a)カビール(Kabir)とラヴィダース(Ravidas)という宗教的伝 統、そして(b)アルハ(Alha)とウダール(Udal)という英雄的伝統である。いずれの伝 統もヒンドゥー教と不可触民制度との闘いの歴史である。宗教的伝統の闘いの中で、カビ ールとラヴィダースはヒンドゥー教のカースト的側面を否定しており、彼らの教えはアン ベードカルのメッセージと非常によく似ている。ふたりの宗教的伝統の体現者はヒンドゥ ー教を否定し平等を説いた。アンベードカルは、どちらの伝統にも合致する。彼はまずカ ビールとラヴィダースの伝統を引き継ぐべく、ヒンドゥー教とカースト制に猛烈に反対し た。彼はカビールを、ジョーティラーオ・プレー(Jyotirao Phule)やゴータマ・ブッダ(Gautama Buddha)と並ぶ導師のひとりと見なしていた。このため、カビールのような宗教改革者と して、彼はジャタヴにすんなり受け入れられた。アンベードカルとジャタヴに共通する英 雄観については、アルハとウダール(おそらく不可触民であろう)の英雄的な活躍により 証明しようとする試みがなされている。アルハとウダールは、英雄的功績によりプリトヴ ィーラージ(Prithviraj)との戦争でパルマル(Parmal)王を助け、不可触民がその心と言葉 と行為において偉大な戦士であることを証明した。そういった意味で、ジャタヴは、不可 触民制度に対抗するアンベードカルの活動、教育のための彼の闘い、インド憲法の父とし 71 ての彼の役割には、伝統的英雄であるアルハとウダールに通じるものがあると信じている 26) 。 4.3 社会政治的組織が果たした役割 増加の一方を見せる仏教徒人口ならびにアウトカーストの間での仏教の人気は、彼らに とっての「アンベードカル仏教」の重要性を示している。アンベードカル亡き後、アンベ ードカル仏教のメッセージが伝えられたのは、インド仏教徒協会(Bhartiya Baudh Mahasabha または Buddhist Society of India: BSI)やインド共和党(Republican Party of India: RPI)などの ような彼が設立した組織の功績である。BSI は、1955 年 5 月 4 日にアンベードカル博士に より、ムンバイの会社登記官事務所にて登記された。この組織はインド全土およびウッタ ルプラデーシュで積極的に活動した。アーグラーがその主な活動拠点であった 27) 。これら 組織のリーダーたちは改宗運動に積極的に参加し、アウトカーストを精力的に説得して、 古くからの社会的・精神的隷属――改宗により終焉するとアンベードカルが願ったもの― ―を打破する希望の光としてアンベードカル仏教を信奉させた。 アウトカースト仏教徒が率いた政治団体である RPI は、当時、アンベードカル仏教徒の 運動を広く受け入れさせるのに非常に大きな役割を果たした。RPI は、1960 年代以降、 「留 保制度」をアンベードカル仏教徒(指定カーストまたは指定部族からの改宗者)に拡大す ることを要求し、党首たちはアウトカーストの仏教改宗を積極的に促進した 28)。RPI はダリ ット政治と仏教の結合体の典型例である。このように、仏教の振興において社会政治的組 織が果たした役割は極めて大きい。1980 年代、ダリット・パンサー(Dalit Panther)は、刊 行物や公開集会を通じてアウトカーストとアンベードカル仏教のための運動を起こす活気 ある戦力であった 29)。 1990 年代の 10 年間は社会的・政治的安定という分野で大きな矛盾が生じた時代である。 インド人民党(Bhartiya Janta Party: BJP)や世界ヒンドゥー協会(Vishva Hindu Parishad: VHP)、 バジラング・ダル(Bajrang Dal)などのヒンドゥットゥヴァ(Hindutva: ヒンドゥー原理主 義)勢力が、ヒンドゥー教のイデオロギーにもとづいて社会的政治的規範を確立しようと する一方で、ダリットが率いる大衆社会党(Bahujan Samaj Party: BSP)や社会党(Samajwadi Party: SP)などの政党が、ダリットや他の後進層の力強い代弁者となった。Bellwinkel[2007] が論じるところによると、ヒンドゥー原理主義団体のサング・パリワール(Sangh Parivar) が主導した政治的言説は何ら影響力を持たず、アンベードカル仏教徒に激しく否定された。 ウッタルプラデーシュの社会政治史上の重要な出来事として、指定カーストを党首とす る政党である大衆社会党(BSP)の台頭がある。Ilaiah[1994]は、BSP の目標はカースト 制を崩壊させ、社会変革をもたらすことであったと述べている 30) 。Pai[2002]によると、 「BSP はダリットに社会変革を意識させるのに重大な役割を果たしたが、それを達成し得 なかった」。彼女はこうも主張する。「BSP はアイデンティティーと意識覚醒にもとづいて 強力なダリット運動を構築したが、その一方で、1980 年代と 1990 年代にウッタルプラデー シュのダリットの政治参加が格段に進んだにもかかわらず、BSP は、マヌヴァーディン(マ ヌ法典主義者、すなわち、カースト上層民の代表)勢力を退け、社会変革をもたらすと公 言した目標を達成できていない」31)。つまり彼女の見方では、BSP がもたらしたのは社会変 革を伴わないダリットの政治参加のみである。 72 4.4 チベット移民 1961 年統計の一般報告書 32) によると、改宗以外の出来事として、中国によるチベット占 領後、ダライラマがインドに政治的亡命を求めた 1959 年に、大勢のチベット仏教徒の移住 があった。この移住は仏教徒人口の増加において最も現実味のある原因のひとつであった。 その後も移住は続いた可能性があるが、統計の一般報告書では言及されていない。それに 加え、どの統計も移民の仏教徒の数を明らかにしていない。2001 年統計は、ウッタルプラ デーシュの総仏教徒数の 70%(概算)がアウトカーストからなると明記している。そこか ら示唆されるのは、残りの 30%(概算)がチベット移民を含む他のカースト出身の仏教徒 だということである。 4.5 留保制度の拡大 1991 年以降の仏教への改宗の原因のひとつは、改宗前の指定カーストだけのものだった 留保制度が、新たに改宗した者に拡大されたことである。この点は Mahendra K. Premi によ り立証されており、彼は次のように述べている。「議会による「宗教」に関する法の改正は 数度にわたってなされてきた。例えば、いくつかの州における仏教徒数の異例の増加は、 多くの指定カーストの人々が仏教に改宗し、しかも指定カーストに適用される特権を受け 続けたことによるものであった」33)。1991 年の仏教徒に対する「留保制度の拡大」は改宗 を後押しした要因であるかもしれないが、唯一の要因ではない。なぜなら、それ以前の統 計でも仏教徒数の急増が示されているからである。留保制度が唯一の要因であるならば、 1991 年以前に仏教があれほど発展しなかったはずである。それもひとつの原因ではあるが、 加えて、アンベードカルによるイデオロギー的な鼓舞があらゆる年代における仏教伸張の 主な動因であった。 5. 仏教徒コミュニティの政治的意味 社会地位に関して現在入手できる指標の一つとして、仏教徒の「識字率」は、同コミュ ニティが識字率の点で指定カースト(SC)に比べてやや上位であるということを示してい る。とはいえ、イスラム教徒を除けば、すべての宗教コミュニティの内で最下位である。 経済面については、仏教徒は主に耕作と農業労働の割合が指定カーストよりやや高く、一 方で家内産業、公務員、鉱業、建設、教員、商業などでは指定カーストの割合がかなり上 回っている。実際、彼らの社会経済状態を調べるデータは充分には存在しない。政治とい う点では、仏教徒の発言力は、1990 年以降はかつてない高いレヴェルに達している。 73 ※註記: 候補者が仏教徒であるか否かは彼らの姓から判断してある。仏教徒の大半は、自分の姓を ゴータム(Gautam)またはバウッド(Bauddh)に変える。しかし、姓を変えていない仏教徒も多いた め、実際の数字はこれより高い可能性がある。大衆社会党(BSP)では多くの仏教徒リーダーが名前 を変えずに選挙に立候補する 34)。 上の表は政治における仏教徒の参加と発言力を示している。1991 年以前には仏教徒の候 補者はほとんどいなかったが、20 世紀の最後の 10 年間で急速な増加を見せた。それ以前に は仏教徒の政治参加は無いに等しかったため、上記のデータでは 1990 年以降の発展のみを 示している。 ウッタルプラデーシュの州議会議員選挙に関する統計レポートは候補者の宗教的立場に 関するデータを一切公開していないが、指定カーストに関しては言及している。仏教徒の 大半が指定カースト出身であることが知られているため、インド政府も彼らを指定カース トの中に含めている。 上の表から推察される結論は次のとおりである。すなわち、仏教徒候補者の割合は、1991 年の 0.16%から 2007 年の 0.37%へと増加した。1996 年に急激な増加が見られ、割合が 0.77% に達している。候補者のほとんどは無所属議員と見られる。2007 年の選挙では無所属の候 補者(09)を除くと、BSP の候補者(05)が最も多い 35) 。このように選挙戦における仏教 徒の数が上昇した理由として考えられるのは、指定カーストの留保制度が仏教徒にも拡大 されことであろう。 現在、BSP が支配する州では多くのアンベードカル仏教徒が州大臣に任命されている。 州政府の政策・政治計画は彼らの影響を多分に受ける。仏教徒の大半は BSP の大票田であ るダリットであるため、アンベードカル仏教徒の台頭は BSP にとって非常に大きな関心事 である。どこかで仏教徒人口の驚異的な増加傾向があれば、それは BSP 政権の政治計画に 影響を及ぼすであろう。シャカムニ・ブッダの名のもと、マーヤーワティ(Mayawati)政 権は多くのプロジェクトに着手した。中でもとりわけ重要なものはゴータム・ブッダ・ナガ ル(Gautam Buddha Nagar)県のゴータム・ブッダ大学(Gautam Buddha University)とラクナ ウの国際仏教研究所(International Buddhist Research Institute: IBRI)、そしてバウッド・ヴィ ハール・シャーンティ・ウパヴァン仏教寺院(Bauddh Vihar Shanti Upavan)である。この IBRI では仏教徒の言語であるパーリ語が教えられる予定である 74 36) 。同研究所の図書館はラクナ ウの Bauddh Vihar Shanti Upavan の 1 階に置かれ、2 階には立派な仏教瞑想センターがある。 その図書館には、東南アジアのさまざまな仏教国の協力を受けて、仏教に関する稀少な本 が多数揃えられている 37)。 6. 結論 入手可能な統計データにもとづいた以上の調査から、仏教徒はウッタルプラデーシュに おいて最も急速に成長した宗教コミュニティであることが明らかである。アウトカースト (指定カースト)の改宗がそうした急速な成長の主たる原因である。最も決定的な要因と しては、アンベードカルが多くの社会政治組織を通じてダリットに与えたイデオロギー的 影響が挙げられるが、その他に、新仏教徒(Neo-Buddhist)への留保制度の拡大といった要 因も挙げられる。このような現象にダリット率いる政党が反応するのは当然のなりゆきで ある 38)。現在において最も強力な政党である BSP は、アンベードカル仏教徒に多大な関心 を向け、敏感に対応している。その他の後進諸階級(Other Backward Castes: OBC)出身の BSP のリーダーでさえ、アンベードカル仏教に関して非常に肯定的なようであり、彼らの 自宅やオフィスにアンベードカル仏教の聖像を見ることができる 39) 。統計に表される仏教 徒の台頭は小さな現象ではあるが、実際にはそれ以上の大きな訴求力と意義を有している。 識字率の点で仏教徒が他のコミュニティを上回るという社会指標も重要な側面ではある が、仏教徒の実際の社会的状況を知るにはそれだけでは不充分である。高等教育や衛生と いった他の面における彼らの状態も知る必要がある。現在入手できる社会経済指標は、仏 教徒が他の宗教に比べ、多くの分野で不充分な状態にあることを暗示している。現在入手 可能な経済指標はまた何らかの結論に達するには充分ではなく、彼らの窮乏と不公平を断 ち切るためには適切な調査を必要としている。彼らの経済状態を把握するためには、一人 当たりの消費量や雇用率、基本的な施設・サービスの有無といった、他の決定的な指標も 必要である。 ウッタルプラデーシュにおいては仏教徒は政治的領域において自身の要求を伸張させ続 けているが、中央政府レヴェルでは、彼らの要求はさほど勢いをもってはいないようだ。 マイノリティである仏教徒に対する国の無関心な姿勢は、次のような事例に明確に見受け られる。 第一に、政府機関は仏教徒に関する調査を実施していない。2005 年に全国標本調査機構 (NSSO)は、イスラム教徒、キリスト教徒、シク教徒、ヒンドゥー教徒など多くの宗教コ ミュニティの社会経済状態に関するデータを発表したが、仏教徒については何ひとつ記述 しなかった。アンベードカル財団――インド政府の社会正義・エンパワーメント省(Ministry of Social Justice and Empowerment)に関係する独立機関でアンベードカル思想を推進するこ とを目的として設立された――も、仏教徒に関するプログラムを何ら実施していない。仏 教徒は指定カーストとは文化が異なるため、指定カーストと同じように手助けすればいい というものではない。 第二に、インドにはマイノリティの分類基準が二つある。それは宗教と言語である。仏 教聖典の代表的な言語はパーリ語であるが、中央政府レヴェルではパーリ語を国内で奨励 することを積極的に推し進めようとはしていない。 75 ウッタルプラデーシュ州の大衆社会党の政治的言説において、仏教徒コミュニティは非 常に重視されている。仏教徒であり BSP のシンクタンクである人々は大勢いて、彼らは政 府の政策・政治計画において重要な役割を担っている 40) 。BSP 政権が州全域にアンベード カル仏教の聖像を展開し、パーリ語と仏教教育を奨励する機関を幾つか開設したことは、 仏教徒からの文化的要求を考慮すれば理解できる 41)。 総括すると、公平を推進する政策・政治計画を立てるために、仏教徒コミュニティには 社会経済、政治、文化の分野における彼らの発展と、発展不足を認知するための調査とデ ータという点で、今以上の配慮が払われるべきである。その後に、仏教徒コミュニティの 力強い発展がインドを真の民主国家にする助けとなるであろう。 【註記】 * 1) Shiv Shankar Das, Centre for Political Studies, Jawaharlal Nehru University, New Delhi. Hari Narake, N. G. Kamble, Dr. M. L. Kasare, Ashok Godghate 編, Dr. Babasaheb Ambedkar: Writing and Speeches,Govt.of Maharashtra (abbr. BAWS), Vol. 17(3), Dr. B.R. Ambedkar and His Egalitarian Revolution: Speeches, by Dr. Ambedkar (Mumbai: Govt. of Maharashtra, 2003), 95 を 参照のこと。これと同じような意思表示が、「カーストの崩壊」という実現しなかった彼の 演説にも見出せる。この時の演説はアーリヤ・サマージの Jat-Pat-Todak-Mandal で述べるこ とになっていたが、改宗を支持する彼の「声」が牽制されたために許可されなかった。 2) アンベードカルはディークシャーの儀式を改宗のために不可欠なことだと考えた。彼は ある手紙の中でこう記している。 「仏教に改宗したい者は必ず儀式を受けなければならない。 さもなければ仏教徒と認められない」BAWS, Vol. 17(1), Dr. B.R. Ambedkar and His Egalitarian Revolution: Struggle for Human Rights, by Dr. Ambedkar (Mumbai: Govt. of Maharashtra, 2003), p. 430 を参照のこと。 3) BAWS, Vol. 17(3), Dr. B.R. Ambedkar and His Egalitarian Revolution: Speeches, (Mumbai: Govt. of Maharashtra, 2003), p. 517 を参照のこと。 4) 同書, p. 519 を参照のこと。 5) 詳細は BAWS, Vol. 17(3), pp. 406-409 を参照のこと。 6) D.C. Ahir, Buddhism in India after Dr. Ambedkar (1956-2002) (New Delhi: Blumoon Books, 2003), p. 40 を参照のこと。 7) 同上。 8) 1956 年 10 月 13 日の記者会見で、アンベードカルはある記者の質問に応じて、Navayana という言葉を使い、翌日それに改宗した。Navayana は一部の学者から新仏教(Neo-Buddhism) と呼ばれるが、頭に「Neo」が付くことに反対する Navayana 信徒の間で抗議の対象となっ ている。David Pandyan, Dr. B.R. Ambedkar and the Dynamics of Neo-Buddhism (New Delhi: Gyan Pub. House, 1996), 201-202 を参照のこと。 「Neo」とは「新しい」、 「後の」 、 「形を変えて復活 した」、 「何かを基にしている」を意味する (Collins English Dictionary, 1998 編を参照のこと) 。 ここでは言語の問題を論じることが目的ではない。前に「アンベードカル」を付けるほう が 、 Timothy Fitzgerald が 自 著 で 用 い た 明 快 な 趣 旨 に 沿 っ た 語 な の で あ る 。 ( 例 : Ambedkar-Buddhism In Maharashtra, Contribution to Indian Sociology, July,1997 (31) no.2. pp. 225-251). 76 9) Wikipedia: The Free Encyclopedia(http://en.wikipedia.org/wiki/Uttar_Pradesh), 2010 年 12 月 26 日に検索。 10) 同上。 11) 1951 年統計で仏教徒人口がゼロとなっているのは以下の県。ゴーンダー(+バルラーム プル)、バーラーバンキー、キーリー、シータープル、ウンナオ、アーザムガル、バスティ ー (+シッダールト・ナガルとサント・カビール・ナガル)、ミルザプール(+ソーンバドラ ー)、ラームプル、ピーリービート、シャージャハーンプル。 12) N. Dutt and K. D. Bajpai, Development of Buddhism in Uttar Pradesh, (Lucknow: Publication Bureau, Government of Uttar Pradesh, 1956), pp. 308-326. 13) 同上。 14) 1951 年統計以降、行政区画の変更や新設が頻繁にあったが、ここでは検討しやすくする ため 1951 年にあった行政区画のみをベースにしている。 15) このデータは、ウッタルプラデーシュのさまざまな統計レポート・要録から得られた 1951~2001 年当時の境界に基づいて算出したものである。 16) ウッタルプラデーシュとウッタルカンドを合わせた指定カースト人口に基づいている。 17) ウッタルプラデーシュの指定部族(ST)の総人口の 0.1%、すなわち 107 人が仏教徒コミ ュニティに属する。“Uttar Pradesh Data Highlights: The Scheduled Tribes”, Census of India 2001 を参照のこと。Wikipedia (http://en.wikipedia.org/wiki/Dalit、2011 年 1 月 1 日にアクセス)によ ると、NSSO の第 61 回 Round Survey では、インドの仏教徒コミュニティにおける SC また は ST の総人口はそれぞれ 89.5%、7.4%となっている。 18) 指定カーストから改宗した仏教徒の数が示されたウッタルプラデーシュの統計は、これ が最初である。この数字は詳細な県別のかたちでは示されていないが、全体的にはそれ自 体が画期的なことである。 19) “General Report on the Census,” census of India, Vol. XV, Uttar Pradesh, Part I-A (ii), p 128 を参 照のこと。 20) Owen M. Lynch, The Politics of Untouchability, Social Mobility and Change in a City of India (New York and London: Columbia University Press, 1969), 149. 21) 2010 年 7 月 31 日にラクナウの Risaldar Park Baudh Vihar で直接聞き取り。 22) Lynch[1969], pp 130-131. 23) 同上。 24) 同上。 25) 同書、pp. 127-128. 26) Lynch, O. [1972]. “Dr. B. R. Ambedkar-Myth and Charisma”.(J. M. Mahar 編). The Untouchables in Contemporary India. Tucson: The University of Arizona Press. p. 107 and, Lynch 1969, pp. 140-141. 27) Fiske, A. [1972]. “Scheduled Caste Buddhist Organisations”.(J. M. Mahar 編), The Untouchables in Contemporary India (pp. 112-142). Tucson: The University of Arizona Press, p. 118 を参照のこと。 28) インド共和党は留保制度におけるアウトカースト仏教徒の割当を増やすために長年奮闘 していた。Lynch[1969], p. 104 を参照のこと。 77 29) Maren Bellwinkel-Schempp, 2007, p. 2181, Economic and Political Weekly (abbr. EPW). 30) Ilaiah[1994], BSP and Caste as Ideology. EPW, 29(12), p. 668 を参照のこと。 31) Sudha Pai, Dalit Assertion and the Unfinished Democratic Revolution: The Bahujan Samaj Party in Uttar Pradesh - Cultural Subordination and the Dalit Challenge Vol. 3, (New Delhi: Sage, 2002), p. 1 を参照のこと。 32) “General Report on the Census”; Census of India, Vol. XV, Uttar Pradesh, Part I-A (ii), p 128 を 参照のこと。 33) Premi Mahendra K. Population of India, In the Millennium: Census 2001.(New Delhi: NBT. 2006). p. 167 を参照のこと。 34) 例として、Swami Prasad Maurya、Paras Nath Maurya、Daddu Prasad などは名前にゴータム またはバウッドを加えていない。BSP のマーヤーワティ党首も多くの儀式を仏教式に行っ ている。彼女は BSP 創設者のカーンシ・ラーム( Kanshiram) の葬儀を仏教的慣例に則って 行った。 35) Statistical Reports on General Election 2007, the Legislative Assembly of Uttar Pradesh, Election Commission of India, New Delhi を参照のこと。 2010 年 12 月 6 日、Bauddh Vihar Shanti Upavan にてラクナウ国際仏教研究所所長 Chandima 比丘に直接聞き取り。 37) 同上。 38) BSP の他に、インド共和党(RPI)、インド正義党(Indian Justice Party: IJP)、アンベ ードカル・サマジ党(Ambedkar Samaj Party)など多くの政党がある。当初から RPI の リーダーらは仏教改宗に深く関わっている。IJP の党創設者でもある党首は仏教に改宗した。 39) 実際、筆者も、その他の後進諸階級出身の多くのリーダーの自宅やオフィスにアンベー ドカル仏教の聖像があるのを目の当たりにした。 40) BSP の多くのリーダーたちは、党首脳部による改宗儀式への招集を心待ちにしている。 マーヤーワティによる 2003 年と 2006 年の宣言によれば、彼女は、中央政府での権力を掌 握した暁には、数百万の支持者たちとともに改宗儀式を受け、彼女の政府のすべてのプロ グラムは仏教的儀礼に従って執行されることになっている。興味深いことに、彼女は改宗 儀式を受けることができなかったけれども、ラクナウの仏教寺院には彼女の像がその師カ ーンシ・ラームの像とともに立っている。これは明らかに彼女が仏教徒だと主張している ことを象徴する。 41) 2010 年 7 月 21 日、Gautam Buddha University, NOIDA の人文社会科学部長である Mahavir Singh 教授への直接聞き取りによると、同大学の学生全員が仏教教育の課程を履 修しなければならないとの話であった。 36) 78 平等を求めて ―南アジアのマイノリティとマジョリティ― セッション1 現代インドにおけるダリット/仏教徒コミュニティの現状 パネルディスカッション ファシリテーター: 桂紹隆(龍谷大学) ティモシー・フィッツジェラルド(スターリング大学) パネリスト: 佐藤智水(龍谷大学) 池亀彩(国立民族学博物館) グニャーニャ・アロイシャス(近現代インド研究者) ヴァレリアン・ロドリゲス(ジャワーハルラール・ネルー大学) 舟橋健太(京都大学) 榎木美樹(独立行政法人 国際協力機構) 足立賢二(四国医療専門学校) シヴ・シャンカル・ダース(ジャワーハルラール・ネルー大学) 79 桂: それでは、ディスカッション・セッションを始めたいと思います。元々私どもの計 画では、スロートさんの方からコメントいただく予定にしておりました。ただ残念ながら、 今回、多分政治活動であまりにもご多忙のせいか、お越しいただくことができませんでし た。スロートさんの代りに、国立民族学博物館の池亀彩さんにコメントをいただきたいと 思います。また、アロシャスさんから特にロドリゲスさんに対するコメントだと思います が、コメントをいただきたいと思います。佐藤智水先生をはじめとする3名のディスカッ サント、それぞれこれまでのペーパーについてのコメントを頂戴します。その後、パネリ ストの方から、ご自分の方に向けられたコメントについてのコメントを頂戴します。また、 小さな用紙に質問・意見が書かれたものがあると思います。これを全てお答えいただく必 要はないんですが、何か非常に重要だなと思うコメント・質問があった場合には、コメン トをいただければと思います。ロドリゲスさんに対するコメントで日本語で書かれたもの がありましたので、後で私が日本語で読ませていただきます。そして、英語に訳していた だきます。2つ英文のコメントが届いていますが、ロドリゲスさんのものが1つと、ダー ス先生に関するものが一つあります。じゃあ、そちらはフィッツジェラルドさんの方でケ アしていただけますね。それでは、コメントをいただきます。佐藤智水先生からどうぞ。 佐藤: 龍谷大学の佐藤智水です。私は仏教の歴史が専門で、エリアとしては中国を中心に してやっております。30 年前に初めてインドを訪れました。なぜ私がインドに関るように なったかということについて少し話をさせていただき、その後で報告者の先生方に質問を させていただきたいと思います。 1980 年に初めてインドを訪れたのは、一つは自分のやっている仏教史が迷路に入ってい て、仏教がアジアの中でどのように展開してきたかという全体像と、その中で中国仏教の 展開をどう見たらよいかという問題がありました。それからもう一つは、当時日本で部落 解放運動がかなり高まっておりまして、そのころ岡山におりました私は、同和教育を進め る先生方と一緒に差別の問題を考えようということで、その先生方 10 人と初めてインドを 訪れたわけです。ですから当然、インドのカースト・システムの現状がどうなっているか というのが皆さんの主たる関心事でしたけれども、私自身はもう一つ、仏教の現状がどう なっているのかということが気になっておりました。 そこで、カルカッタ(現在はコルカタ)、デリー、ボンベイ(現在はムンバイ)、オーラ ンガバードというような都市を廻りましたけれども、ほとんど仏教に関る人達にも、施設 にも、なかなか出会えなかったんです。もちろんオーランガバードには有名なアジャンタ ーの石窟があり、仏教遺跡としてはありますが、インドから仏教が消えていることに私は 非常に苛立っておりました。ようやく最終日の前日に、ボンベイでアンベードカル・カレ ッジ・オブ・コマース・アンド・エコノミクス(アンベードカル商経大学)という小さな 単科大学に仏教徒がいるという情報を得て、飛び込んでみました。突然の訪問にもかかわ らず、学長さん以下先生方 30 人ほどが集まって、大歓迎を受けたわけです。その理由は日 本から被差別の仏教徒がやってきたというのです。 (私を含めあまり仏教徒らしくないので …恐縮しました)。非常に恥ずかしいことながら、私はアンベードカルという人物をその時 初めて知りました。学長室にはブッダの写真とアンベードカルの写真が並べてあって、花 80 輪とお香を炊いて、お祈りしてくださいと言われ、「この眼鏡の太ったおじさん、誰かな」 と思ったこと、それがアンベードカルとの最初の出会いでした。その時にダリット・パン サー(カースト差別と闘う被差別民青年運動)の若者が 2 人来ておりまして、その 2 人が 「俺達のところに来ないか」と誘ってくれて、青年 2 人と副学長の案内で彼らのアジトに 行きました。うす汚れた学寮の中にダリット・パンサーのボンベイ本部事務所があり、3×5 メートルぐらいの小さな部屋ですけれども、壁中に集会のポスターやビラがべたべた張っ てあって、そこには、仏陀とアンベードカル、そしてヒョウの爪先から血が滴るマークが 描かれ、まさに闘うダリット・パンサーを象徴するという感じの部屋でした。そのとき、 「イ ンドではダリット(不可触民・被差別民)のカースト解放運動と仏教信仰とが結びついて 進行している」という私にとって衝撃の現実に出会ったわけです。 このときから彼らとの交流が始まりました。帰国後、アンベードカルについて調べ、ほ ぼ 4 年毎に 2000 年までに 6 回訪問しました。2 回目の訪問では、アンベードカルが小さい 頃に住んでいたボンベイのアパート、最初の奥さんラーマバーイーの故郷の村、チャオダ ール池、などアンベードカルゆかりの地を訪ねて、プーナからナーシクと、各地の不可触 民の村に連れて行ってもらいました。車で走る時には仏旗をなびかせて走るのですが、1980 年代は、途中の茶屋で小食やチャイ(茶)を取るときには、旗を車の中に一旦隠していま した。頑迷なヒンズー教徒とのトラブルなど危険なことがあってはいけないということで、 そういうふうにしてマハーラーシュトラ州の半分ぐらいを廻ったのであります。 その村々を回っていた時に一番私が驚いたのは、ダリット仏教徒のお母さん方が、もう 身なりはものすごく貧しいんですけれども、しかし、何と言うんでしょうか、子供達をし っかり躾けているその姿。過酷な労働の毎日、その中で自分達は朝も昼も水で済ませ、食 事は夜だけ、そして、その節約したお金で子供達を学校にやるんだという姿勢ですね。そ して彼女達の、力強いと言うか、貧しいながらもこれでいいんだという自信に満ちたその 眼を見た時に、私は何か背筋がぞくぞくっとしたんです。聞いてみると「私たちの父アン ベードカル博士が、教育せよ!そう教えてくれた」と笑って答えてくれました。私は日本 では非常にいい加減な仏教徒だったんですけど、その時に、「あっ、仏教というのはこうい うふうに人をエンパワーメントする力があるんだ。人々に生きる自信を持たせている。そ の力の背景には何があるんだろう」ということがすごく気になって、同時に自分を恥ずか しく感じたのです。インドでのこの交流がとても楽しいものですから、別に研究しようと か調査しようとかいうことなしに、その後 20 年以上交流させてもらい、3 回目の訪問では ナグプールの日本人僧佐々井秀嶺師との出会いもありました。今から思うと、純粋な研究 の立場で、もっと冷静に調査すればよかったかなと惜しい気もしますが、1980 年代当時ま だよちよち歩きの小さな運動だった仏教改宗運動が、その後どういうふうに展開するだろ うというのが非常に気になっていました。当時、日本の著明な仏教学者でアンベードカル に言及される方がありましたけれども、しかし、それは概ね冷たいものでありまして、こ の運動は仏教が何たるかもわかっていないので、多分潰れるだろうというような概説が出 回っておりました。本当にそうなのかな? でも、自分が肌で感じたところでは、彼らの 差別解放に対する渇望、そして生活改善へのあのまっすぐな熱気、これは抑えようがない かもしれない、という思いをしておりました。 21 世紀に入り、仏教改宗運動は紆余曲折を経ながらも、仏教徒の存在は極めて大きなも 81 のとなっています。今では車で回る時も、仏教徒は車に仏旗を掲げて堂々と走るわけです。 去年、インド僧のボーディ・ダンマ師や志賀さんと一緒に南インドを回った時も、車の仏 旗とボーディ師を見て、向こうからクラクションをパパーッと鳴らして、それで手を振っ てくるんですね。要するに、お互い仏教徒同士で連帯のあいさつをするわけです。途中の 路上で車を止めて休息していたら、そこにやってきて「私達も仏教徒です」と言ってあい さつに来たり、タクシーがその後ろに仏教徒のマークを付けて走っていたり、今では南イ ンドでも、ごく普通にそういう光景が見られます。 1988 年に南インドに行った時は、仏教徒は陰に隠れてほとんどわかりませんでした。と ころが最近では、主要幹線道路にはアンベードカルの像があちこちに建っているんです。 それで、私はボーディ師に、「カールナタカ州のアンベードカルの像を、どこの村に、どう いういきさつで建っているかというのを全部調べたいんだけど」と言ったら、師は「勘弁 してよ。とてもじゃないけど、そんな数えられないよ」って言うんです。この調査はまだ 諦めていませんけれど、そういう状況になりつつあるということは、私にとっては正直嬉 しいという気持ちです。けれども、反面、仏教徒が増えてくると、ある意味では非常に人 間臭い様々な問題も噴出してきているのではないかと思います。 それで、今日お伺いしました5人の先生方の報告に対して質問したいと思います。それ ぞれ、対象とされるテーマが違って非常に刺激的でした。 まずロドリゲス先生のお話の中で、アンベードカルの持っている宗教観というものが公 のもので、パブリックのものであって、公正(社会的正義)を根幹としており、私的なも のとはまた少し違うと。つまり、宗教の捉え方がアンベードカルの場合は大分違うんだと いうお話があって、またそれ自身が非常に魅力的であるというふうにおっしゃっておりま した。その点私も共感するところですが、そこで、現状を見ておりまして、そういうアン ベードカルの宗教観に基づく宗教(仏教)をどういう形で引き継いでいくのか、という点 は大きな課題だと思います。宗教観の分析や解説は思想家・哲学者にもできますが、それ に基づく具体的試みとしての宗教(仏教)はどのような継承のあり方が可能でしょうか。 私が想定するのは、宗教家(お坊さん)はどうだろう?というふうに、先ず思うわけです。 しかし、先ほど榎木さんの報告にありましたように、子供さんを禅塾のようなところに預 けていても、ほとんどが実家に帰ってしまう、坊さんになりたいという希望が必ずしも達 成されない、或いは非常に厳しい修行と言いますか、抑制的な人生を送らなければならな いということを自覚すると、坊さんのなり手が極めて少ないということがあります。私流 に申しますと、正しい仏教の在り方を引き継いでいくリーダーをどういうふうにして養成 していくのか。坊さんなしでも良いとすれば、それはどういう形であり得るだろうかとい うのが、ロドリゲス先生のお話を聞いていて感じたところです。 舟橋先生の報告では、非常に貴重な調査の報告を伺いました。仏教徒とヒンドゥーとが、 ラヴィダースを通して、ある種リンクされているという、その実態の在り方を説明してい ただき、大いに触発されました。そこでは、彼ら仏教徒はヒンドゥーではなくて、インド との関りが強いのだというふうにおっしゃったように思うんですが、その辺りを、もう少 しわかりやすく説明していただければと思いました。 榎木さんの報告。私は榎木さんと一緒に調査することが多かったのですが、お聞きした いのは、先ほどのロドリゲスさんへの質問と同じように、インドの改宗仏教徒の今後の展 82 開というものをどういうふうに予測されているか、或いは特にそのリーダーの養成という ものをどういうふうに考えておられるのか、或いは展望されているのかということをお聞 きできたらと思いました。 足立さんの報告。実は私、足立さんと知り合いで、いろんな興味深い話を聞いています。 今日の報告は医療支援の全体像が見えるような報告でした。そこで、もう少し個別の事例、 たとえば鍼灸診断に来られた方の、ある意味で、新しい医療に接した時の人々の、声とか 驚きとか、そういう実情をもう少し教えていただければと思いました。 シブ・シャンカール・ダース先生の報告では、ウッタル・プラデーシュ州における仏教 徒の人口統計に関する動向をセンサスに基づいて分析されました。興味深い報告でしたが、 私はセンサスを利用する時に、いつもこれをどの程度信用して利用していいのかと考えま す。もちろん利用せざるを得ないんですけれども。ここでは、センサスの仏教徒の人口の 問題があります。そこに現れている数字の数倍、もしかして 10 倍ぐらいかもしれない仏教 徒が、現在インドで存在しているのではないかというふうに思います。そこでお伺いした いのは、仏教徒であるということを登録する場合の申請の在り方について、外国人である 私達にはよくわかりませんので、仏教徒であると申請する、或いは登録するというその場 面を、少し具体的に説明していただければいいかなと思いました。 以上です。 桂: 佐藤先生、ありがとうございました。そうですね、30 分ぐらいしかディスカッション の時間がございませんので、それではロドリゲス先生の方から先ずお答えをいただけるの であればお願いしたいと思うんですけれども、1 分でお願いします。 ロドリゲス: 佐藤先生のご質問は、アンベードカルが提唱した、公共領域(public domain) に属する宗教を社会的実践へと移行させるというアイデアを、実際にどのように解釈し実 行していくのかということであったかと思います。おそらく、アンベードカルは、サンガ が大きな役割を果すべきだと考えていました。アンベードカル自身は、この件に関して 2 つのことを述べています。まず、サンガが非常に重要であるということです。すなわち、 彼が追求する仏教思想を広め公共領域の一部とする上で、サンガが非常に重要であると述 べました。しかし、私はこれがとても重要だと思うのですが、彼はまた、いわゆる市民の 徳(civic virtue)というものが、比丘サンガの媒介や主体性(agency)を超越して形成され 重要な役割を果たすとも述べています。つまり、市民文化の中に認識論が打ち立てられる ことが彼の想定した道筋だったといえます。比丘サンガとこの新しい市民としての意識/ 認識との補完性が実現されうるでしょう。 桂: 舟橋先生、日本語でお願いします。 舟橋: ブッディスト・ダリットの人が、ヒンドゥーではなくてインドとのつながりをとい うところがわかりにくかったところなんですけれども、この場合はラヴィダースでインド と、というわけではなくて、ブッダというですね、自分達で仏教を信じていて、ブッダは 自分たちインド人の祖先であるというようなところから、自分たちインド人の祖先はヒン 83 ドゥー的なものというよりは、もっとその昔からあると言われているインド的なものとつ ながっているんだという主張をしているということになります。 桂: じゃあ、榎木さん、お願いします。 榎木: はい。今後の仏教徒達の展開、特に僧侶とかリーダーという観点からということな んですけれども、先ず私として、様々な意見があると思いますが、アンベードカルがおそ らく考えていたのは、日本で言うというか、日本的な理解で言うと、大乗仏教的な仏教の 在り方。というのは、僧侶の役割として、アンベードカルは社会改革を指導していく者と いうふうに位置付けているので、自分だけが悟りを開いてニルヴァーナに至ることよりは、 その民衆を教化して、民衆の社会的地位であったり、精神性を高めていくということも僧 侶の役割として非常に盛り込んでいるので、大乗的な仏教の在り方を追求していくんであ れば、もっと僧侶は社会に密着した存在でなければならないというふうに思われているだ ろうと。 もう一つ、可能性と言うか、インドの仏教に取り入れてもらいたいと私が個人的に思う のは、日本で言うと、浄土真宗のような仏教の在り方。要は、在家仏教と言うか、僧侶で あっても妻帯することができる。特にインドの僧侶の場合、結婚はしてはいけない、女性 と関係は持ってはいけない。となると、大体今、僧侶のなり手というのが、退職したおじ さん方が多いわけです。そうすると、エネルギーとかメンタリティとかがなかなか追い付 いていかないという現状があって、逆に若い人が子供の時から僧侶になったりすると、あ る一定の、特に 10 代後半から 20 代になった時点で、やはり家庭を持ちたいであったり、 もっと社会貢献が僧侶の役割であるならば、経済力を付けて、もっと地域のリーダーとし て社会改革をしていく方がいいんじゃないかというふうに若い世代は考えがちなので、僧 侶の在り方というものを見直すことで、もうちょっとリーダー、或いは僧侶のなり手を育 成していくという可能性は開けるのではないかというふうに思っています。 桂: ありがとうございました。それじゃあ足立さん、お願いいたします。 足立: はい。それでは先ほどの、実際に鍼灸を受けた方はどういう反応を示していたかで ございますが、日本の鍼というものは、これまでの歴史上から中国の鍼等とは違いまして、 チューブを使って鍼を刺すというのがございますので、最初インドで鍼灸に来た方は、新 しい注射の一種ではないか、何かここから特別なパワーが出るのでは? は? 薬液が出るので みたいな誤解があるんですけれども、きちんと説明をしますと、それは理解してい ただきまして、新しい、注射じゃない注射だというのを理解して帰って行くというような 状況になっておりました。そして先ず 1 カ所、痛そうなので 1 カ所だけっていうふうに指 を差すんですけれども、1 カ所打って痛くないのがわかると、あそこも、ここも、あっちも、 こっちもということで、全身鍼山にしてくれというようなことがございまして。実際に頭 痛の方に、技の一つとして、額、この眉間に鍼をクロスするような、目で見て鍼が刺さっ ているのがわかるような鍼を刺しますと、次に来た人も、 「俺も同じようにしろ」とか、も のすごいその口コミというのが多いようでございまして、その口コミによってどんどん患 84 者さんがお越しになりまして、2 日目、3 日目、経ちますと、その順番を誰かのために取っ て横から入ってこようとする方ですとか、それから、カルテが予診表の代りだったんです けども、偽造カルテが出回り始めたりですとか。ですので、そのカルテをどうやって隠す かというのをボーディ氏とかが一生懸命考えていたりとか、そういうような状況がござい ました。総じて、結構皆さん喜んで鍼を打たれておりまして、そして、最後に生活指導と いうのを私どもはしますので、運動の仕方というのを教えますと、これはジャパニーズの ヨガだというような形をしまして、一生懸命運動を繰り返し実施をする、喜んで帰ってお りました。そういう状況でございます。 桂: どうもありがとうございました。ダース先生、何かお答えとかコメントありますか、 佐藤先生がおっしゃったことに。 ダース: 仏教の今後の展開、特に上位カーストの間で仏教はどうなっていくか、というこ とについて、問題なのは、アンベードカルの仏教というのは非常に公的事柄(Public Affair) に関わるものであったと思いますが、上位カーストの人達は、自分達のプライベートな部 分に非常に関心を持っていることです。彼らはまた、ブッダを神の生まれ変わりであると いうふうに考えているようです。上級カースト出身の僧侶もいます。あまり目立ちません が、いるわけです。興味深いことに、ウッタル・プラデーシュの IPS オフィサーのある人物 が、彼は上位カーストの出身ですが、仏教の機関で学んでいました。 「どうしてそんなこと をするんだ?」と聞きますと、ブッダは自分たちと同じクシャトリヤに生まれた上位カー ストの人だからだ、という答えが返ってきました。つまり、上位カーストの間でも、自分 達の過去を求める動きがあるということで、その意味で上位カーストの中にも仏教が広が っていく可能性があると言えます。 桂: それでは次のディスカッサントの池亀先生から、5 分で何かおっしゃっていただけま すか。 池亀: 今日いきなり、ディスカッサントをつとめるよう仰せつかったものですから、全員 のペーパーをきちんと読めていないのです。しかも、私は仏教の専門家でもありませんの で、むりろダリット文化、ダリット・ポリティクスに関して、私の理解するところから質 問およびコメントをさせていてだきます。 全ての論文は非常に興味深いものであると思います。特にこの南アジア研究において、 インドの改宗仏教徒コミュニティについてはあまり研究がされてきていないように思いま すので、非常に重要な貢献だなと思いました。これまでの研究は、ヒンドゥー教徒のダリ ット、或いはまたキリスト教に改宗したダリットの政治といった観点の研究が多かったと 思います。そういった意味で、このシンポジウムは私にとって非常に新しい種類のもので ありまして、新たにいろいろと勉強させていただきました。 まず 5 つの論文に共通するものとして 2 つの問題があると思います。先ず、どのように 我々は仏教のイデオロギーとアンベードカルの仏教の理解、その現在のダリット文化の間 における関係性をどう我々は考えていくべきか、これがまず第一点です。2 番目の問題とし 85 ては、仏教徒であるということが、インドのダリット・ポリティクスの中で一体どういう 意味合いを持つんだろうか、その政治的・社会的な意味はどういうことなのかを考える必 要があると思います。この 2 つの問題を考えた上で、それぞれ、一人一人の先生方にお伺 いしたいと思います。 まずロドリゲス先生、非常に興味深い、刺激的な論文をありがとうございました。特に 面白いと思いましたのは、アンベードカルの宗教の理解ということです。これは、この宗 教を近代に対峙するものとして捉えるのではなく、宗教というのは近代プロジェクトであ ると捉えられているところです。これは非常に興味深い点でありますし、また、アンベー ドカルの宗教理解、そしてセキュラリズムの理解に光を与えるものだと思います。 このアンベードカルの宗教理解は非常に興味深いものがあるわけですが、一方で、仏教 を、近代化を促進するもの、或いは文明化するミッションの一環というふうに捉えるとし ますと、それはある意味、そのダリットの存在あるいはダリットの文化や宗教実践を否定 するものになる可能性はないでしょうか。というのは、もしアンベードカルが、ダリット の慣習を含めたヒンドゥー教を、遅れた、後進的な、モダンなものと考えていたとすると、 例えば、動物供犠であるとか、また、肉食や飲酒の習慣であるとか、それから、呪術的な 信仰ですとか、 そういったものすべては、必ずしもダリットに限られた慣習ではないです が、そうしたダリットを含めた下層カーストの実践を否定することにはならないだろうか と疑問に思うわけです。 アンベードカルはどういうふうにしてそういったような宗教実践 を包含したのか。あるいは彼はそれらを否定していたのか、それとも取り入れていたんで しょうか?そのあたりのことを、ロドリゲス先生にお伺いしたいと思います。 舟橋先生の論文も非常に興味深いものでした。また、先生が明らかに示されたのは、こ のダリットの仏教改宗者を非連続としてではなく、連続と捉えられたということです。た くさんのその民族史学的な例を用いて、人々がどのようにこの仏教の実践とヒンドゥーの 実践を繋いでいたかということを話されました。しかし、この宗教的な対話、交渉という のが、特にこのダリットのコミュニティに特有のものであるのか、或いはまた、いつも常 に人々がそういうことを普通にやっているのかということです。たとえば、ダリットに限 らず、婚姻関係は、今現在はかつての小さなサブ・カーストのコミュニティの中でだけ行 われているのではなくて、もっと幅広く、いろいろ違ったサブ・カーストのコミュニティ 間で行われていることは報告されていると思います。となりますと、例えば婚礼儀式のア レンジなどにおいて、サブ・カースト、あるいは異なる宗派の間でも擦り合わせを行う必 要はあるのではないでしょうか?特にやはり仏教徒において、そういったネゴシエーショ ンは多いのでしょうか? また、仏教徒であるということが、チャマールであることを否定しているわけではない ということでした。このチャマールというアイデンティティは非常に重要だと思うのです が、むしろ問題は、仏教徒であるかチャマールであるかではなくて、チャマールの仏教徒 でありつづけるのか、或いはダリットの仏教徒、或いは単に仏教徒というアイデンティテ ィを得ることができるのかといことではないかと思うのです。また聖人ラヴィダースが結 節点になっているという議論は、とても興味深い点でした。この聖人信仰がヒンドゥーの ダリットと仏教徒のダリットを繋いでいるということです。この聖人ラヴィダースはチャ マールだけでなく、他の低カーストにとっても聖人としてあがめていると思います。ただ、 86 聖人ラヴィダースがダリトの聖人だと言われるようになるのは、「創られた伝統」としての 側面もあると思います。ダリットの研究者は現在、個々のダリットのカーストに対してヒ ーローを再発見するということを熱心に行っていると思います。そういうことを考えると 聖人ラヴィダースが二つのダリットのコミュニティをつないでいるというのは、お話にあ ったような古くからの伝統の延長なのか、それとも政治的に促進されていることでもある のでしょうか? 次に、榎木先生の発表もとても興味深いものでした。特に、私はカルナータカについて 10 年ほど研究していますが、恥ずかしいことに、いままでカルナータカの仏教の情勢につ いて聞いたことがなかったので、特に関心をもってお聞きしました。私が思ったのは、こ れは仏教のグループが一種の政治的・社会的・経済的ステータスを持って、かつてはキリ スト教の伝道師がやったこと、つまり無料の教育、食事、寮、医療を与えるという一種の 慈善団体としての機能を果たしているということなのかなと思いました。お聞きしたいの は、キリスト諸派、ヒンドゥー教の僧院など、さまざまな宗派が慈善活動において競合し ているような現状で、ダリットには選択肢があるのでしょうか。一体、ダリットの人々は なぜ、あえて、禅塾を選択したのでしょうか?単に近くに禅塾があったのでそこに行くこ とにしたのか、それとも禅塾の理念に惹かれている側面があるのかどうか。それから仏教 の考え方や実践と、ダリットの文化との関係についてお聞きしたいのですが、例えば学生 達は肉を食べることができるのか、或いは純粋にベジタリアンの学校なのか、それから動 物の供犠などは許さないのか。多分、多くの学生の家族たちは動物供犠や肉食を継続して いると思うんですが、こういった実践はここでは否定されているのでしょうか?禅塾は社 会的な平等性ということを言っているわけですが、ある側面においては、禅塾のような実 践は、サンスクリット化の一部として捉えることもできるのではないでしょうか。 足立先生のご発表ですが、これもとても貴重なものでした。特に足立先生は、日本の実 践者のモチベーションを多少批判的な形で捉えておられて、興味深く伺いました。こうい った代替的な医療が、特にヨーロッパなどの特に中間層と思いますが、オーガニックな食 品を買うような層ですね。彼らの間で、代替的な医療を受けるということが、とてもポピ ュラーになったかと思います。そういった代替医療の受け入れ状態に対して、日本の代替 医療の方々がインドで活動される動機は、中間層ではなく、貧困者を救うということでし た。ただ、貧困の人達が求めているのは、代替医療ではなく、内科や外科などの医療であ るということはないでしょうか? そうすると、むしろ、鍼灸を実践される方々は、都市部 に住むインドの中間層を対象にした方が、人気が出るのではないかと思いますが、どうな のでしょう? 今後の鍼灸の方向性として、これからも貧困者を対象とするのか、或いは その方向性、対象を変えていくというようなことが今後考えられるでしょうか? 次にダース先生の論文もとても興味深いものでした。この UP(ウッタル・プラデーシュ 州)における仏教者、地域社会の人口統計に関するご発表でしが、私自身、あまり勉強し てきていなかったことで大変おもしろくお聞きしました。最近の、ダリットの人々の仏教 徒への改宗、これは上層・中間層に見られるという論がこれまでは多かったように思うの ですが、先生の分析では低層部の人達に多いということでした。どのような組織がどのよ うな影響力をもって、実際にこういった人々が仏教に改宗したのか、とても関心のあると ころです。私は個人的に現代のダリットの宗教活動、特に南インドにおけるダリットの新 87 しいグル(宗教リーダー)の活動に関心をもっているのですが、そこから見えてくるのは、 ダリット運動をダリット全体として維持していくことが非常に難しい状態になっていると いうことです。ダリットと自ら呼称せずに、マハール、チャマール、ホレヤ、マディガと いった伝統的なサブ・カーストの名前を使うということがよく行われているように思いま す。そうした状況では、留保制度の中の留保(quota within quota)を目指すことが多々主張 されています。それゆえにダリットを全体として政治的に動員することが難しくなってき ていると言えます。こういう状況のなかで、ダリットという一つのカテゴリーで人々をく くるということが未だに有効でしょうか?またダリット内のこうした分裂は統計上、どう あらわれているでしょうか? 桂: ありがとうございました、池亀先生。とても詳細に亘る質問だったと思います。それ では、パネリストの皆さん、2 分間でそれぞれお答えいただければと思います。 ロドリゲス: ありがとうございます。私は文化に関するアンベードカルの見解について、 何年か前にペーパーを書きました。ごく簡単に、この質問にお答えしたいと思います。ご 質問の内容は、アンベードカルはどれほど真剣にブッディズムに対するオプションが文化 を侵食するという点を考えていたのか、というものでした。4 点指摘したいと思います。あ まり詳しくは申し上げませんが、第一に、アンベードカルは、インドの不可触民、あるい はダリットは非常に多様性に富んだ文化を持っているということを認識していました。で すから、「ダリット文化」を形成するということは問題ではありませんでした。しかし、ア ンベードカルは、ダリットが継承してきた文化は徹底的に蔑まれてきたことから、その文 化を再建しようとする努力や、それに前向きの意味を与えようとする運動は大きな問題を 引き起こすと考えていました。ですから、彼はチョウカーレーバーについては非常に批判 的でした。これが、彼が釈迦の初期仏教を称賛しながら、その仏教を全体的に維持する方 向には行かなかった理由です。3 番目に、アンベードカルは、いかなる宗教を選択しようと も、筋書きを完全に直ぐに書き換えるわけではないと看破していました。実際アンベード カルは改宗の役割について 3 つ書き残しています。改宗の初期段階では、彼が規範的に放 棄したはずの文化の中に住みつづけていた、しかし世代が下れば物事はずっと同じ状態で ありつづけるわけではなく、やがて認識できるほどの変容が起きるようになる、と。最後 にもう一つ申し上げたいのは、アンベードカルは規範性(normativity)に固執していました。 彼は、ハードケースを決定するもの、ソフトケースではなくてハードケースを決定するも のは、価値のバランスがどこにあるかによって決まる、規範が決定的な支柱となって判断 をするのだから規範性がとても重要になる、と言っています。例えば、過去における人間 の実践は、伝統的ヒンドゥーが規範性をもつか、仏教が規範性を持つかで、最終的にハー ドケースの場合に大きな違いが出て来ると言うのです。 桂: 舟橋先生、どうぞ。 舟橋: 貴重なご意見と、そして質問をありがとうございました。まず質問の方であります けれども、その交渉ということが、特に仏教徒が活発にとりわけやったのかどうかという 88 ことをお尋ねになったと思うんですけれども、仏教徒の場合は親戚、あるいは婚姻の関係 者との話し合いをせねばならなかったという状況がありました。特にこの親戚縁者、ヒン ドゥーである親戚縁者、ほとんどの人たちがヒンドゥー教徒なんですけれども、その人た ちとやはり交渉をせねばならなかったということが日常的にあったという点、これは確か に仏教徒にとって非常に重要な点でありました。そして、このアイデンティティの問題で すけれども、アイデンティティといってもいろんなレベルとカテゴリーがあると思います。 ですので、ただ単にアイデンティティ単体として考えるんじゃなくて、このアイデンティ ティ作りの過程ということが問題で、どの状況で自分たちをどう見なすかというアイデン ティティ、或いは自分たち自身のアイデンティティを持って誰とどのように交渉するのか という過程で考えることが重要だと思います。私はこのダリットというカテゴリーをペー パーの中で強調しましたけれども、ダリットという自分たちのアイデンティティがあると いうようなことを言いましたが、しかし、このアイデンティファイするプロセス、その静 止的な、止まったある一点のアイデンティティではなくて、自分たちをそう見なすという 過程が重要だということです。また、このアンベードカルだけが自分たちのヒーローとい うわけではなくて、確かに同じようなダリットの新しいたくさんのヒーローがあるわけで すが、特にラヴィダースの場合、ラヴィダースというのは非常に共通的に尊敬され、或い はまたチャマールの人たちによって信奉されているヒーローであると思います。 桂: それでは榎木さん、お願いいたします。 榎木: 3 つの答え、質問にお答えするのに、多分そのマハールというカースト、それはマ ハーラーシュトラ、それからホラヤ、私の今回のプレゼンテーションのメインポイントが ホラヤなんですけど、これはカルナータカ。マハールの場合はマラーティー語を喋って、 もしくはヒンディー語を喋るコミュニティで、アンベードカルとボーディ・ダンマ、バン テージーの出身カーストです。ホラヤの場合はカンナダ語を基本的には喋るんですけれど も、マラーティーもわかります。やっぱり、と言うか、今回の調査地は非常にそのマハー ラーシュトラとのボーダーに近いということもあって、人々はマラーティー語も理解する という中で、そのマハールとホラヤがどこまで近いのかというのを、今回の、今日の発表 では言わなかったんですが、それを今後調べていく必要があると思いますということを先 ず言わせていただいて、最初の方のそのクリスチャン・ミッションの影響に関しては、今 回聞き取った限りでは全くないと。他の、ヒンドゥー以外の宗教と接したのはこの仏教が 初めてで、その時にボーディ・ダンマという僧侶が非常に重要な役割を果したと。2つ目 の、肉を食べるのか、それは延いてはサンスクリタイゼーションに繋がっていくのかとい うことなんですけれども、禅塾の中で肉は食べません。ただ、これは僧侶だからというよ りは、ボーディ・ダンマ僧侶が日本の臨済宗の仕来(しきた)りに従う人なので、且つ、 自分があまり肉は好きではないということがあって、寺の中では菜食主義で通しています。 塾生達も、従って肉は食べません。ただし、家庭ではどうしていたかという話を聞くと、 大体週に1回ぐらい肉を食べています。「どんな肉を食べますか」という質問をしたら、チ キン、マトンが大体安いからという理由で多いんですけれども、元々マハールと、あとホ ラヤがどうして不可触民と言われるか、或いは彼らがどういう生活習慣を持っていたかと 89 いうことに着目すると、彼らは牛を食べますし、また、死んだ動物の肉を食べます。こう いったことがアンタッチャビリティーと結び付いて、不可触民性と結び付いていくわけで すけども、全くそのベジタリアンだから、それはサンスクリタイゼーションに向かうとい うことではなく、自分が従いたい仏教の教え、或いは五戒の中に「殺生をしないこと」と なっているので、それをどこまで個人として強く守っていくかという観点になると思いま す。以上です。 桂: ありがとうございます。はい。じゃあ足立さん、お願いします。 足立: ご質問の中にございました、貧しい人達にどのように役に立てるのかというものに つきまして、私達自身も実際に自問自答を繰り広げておるところでございますが、実際の ところ、治療時間が1回につき約 20 分から 30 分でございまして、治療と言いながら、医 学の用語になるんですけども、加療という形になっておりまして、実際に治すというより も、その時の症状を和らげるというような方法になっております。ですので、どちらかと 言うと、日本なんかではプロスポーツ分野でどうしてもその試合に出たいという時なんか に、痛みを一旦忘れさせてパフォーマンスを上げるというような、そういう技を使ってお りますので、実際に1回や2回で結果が出るようなもの、症状の方ばかりではありません ので、その辺りが本当にどうしたらいいんだろうというのを考えているところです。ただ、 一つ言えるのは、私どもの日本式の鍼灸というものが、中国、今中国式のものが非常に盛 んに広まっているんですけども、中国式のものはツボは移動しないという考えで、そのツ ボの場所を目測で全部刺していく。ほとんど触らないんです。ところが、日本の鍼灸のや り方は、ツボは移動するということなので、必ず体を触ることが基本になります。ですの で、触診の技術というのが重要になってくるんですけども、その 20 分治療時間がございま したら、10 分以上は体を触りながら、通じない言葉なんですけども話し掛けながら、 「ここ が痛い」と言うところに刺したりということがありますので、おそらくそういう貧しい方 達に医療従事者が思う存分触って、その場所を刺してあげるということは、あまり体験が ないんじゃなかろうかと思われますので、この辺りが彼らにとってはやや満足感を高めて いるんじゃないかと思われるところです。 私どもの活動の後、ボーディ氏に聞きましたら、現地の仏教徒の医師が同じように貧し い村へ巡回の診療に出掛け始めたという話も聞いたりしておりますし、今年の夏、もし来 る機会があったら、その現地の病院のお医者さん達に鍼灸の技術を教えてくれというよう な話も来ておりますので、実際のところ鍼治療をしておりますと、貧しい人よりも徐々に お金持ちの方達がどんどん来始めて、貧しい方達が追いやられてしまうという現象はある んですけれども、殊普及ということに関しましたら、少しまた今後の方向性を考えている ところでございます。 桂: ありがとうございます。ダースさん、お願いします。 ダース: アイデンティティの交渉(negotiation)、つまり、仏教徒やダリット内部のサブ・ カテゴリーの人々の間で行われる交渉についてですが、交渉・話し合いというのは、どの 90 時代に仏教徒が住んでいるのか、どの分野に関するものかによって変わってきます。その 駆け引きも、例えば政府の福祉の問題であるとか、或いはもっと公的領域での交渉かによ って異なります。公的領域では確かに交渉のメリットがあり、それが重要でもあります。 そしてまた、カーストの分類も、支配カーストや指定カーストやその他様々なカーストが あり、それぞれのカーストに様々な歴史があり、それぞれの意味するところが重要になり ます。例えば、ジャータヴ・カーストは仏教徒として自分たち以外のカーストと交渉する わけですが、それぞれ自分達の独自性を持っています。ここでわかるのは、そのカースト 毎の歴史があるなかにも、元々仏教が彼らの宗教であったという歴史があることです。か つてインドでは、支配的宗教は仏教でした。それゆえに、仏教は自分が包含している、色々 な文化の価値の中に仏教が入っている、というふうに考えられていると思います。したが って、カテゴリー分けというのは実際にはそれほど重要ではないと思います。どの時点で 彼らを仏教徒と呼び、仏教徒として登録するのかという質問があったと思います。データ の上で仏教徒だと主張することが重要なのですが、この点については、個々に先生と話を したいと思います。 桂: 最後にアロイシャス先生、どうぞ。簡単なロドリゲス先生のペーパーに対するコメン トをどうぞ。 アロイシャス:ロドリゲス先生は、アンベードカルの仏教について、この数年非常に共感を もって真摯に向き合ってきた研究者です。私もまた、この問題に真剣に取り組んできまし た。ロドリゲス先生も指摘したように、最も重要な範疇は公正さ(Justice)です。これはヒ ンドゥー哲学に向き合うと明確に分かります。全ての宗教は近代性に適応する時点で、こ の公正さという試験を受けねばなりません。これは仏教に限らず、いかなる宗教であって も他宗教に改宗する場合にこのテストを通らないといけないわけです。アンベードカルに とっての公正さとは、博愛や平等性などを意味していましたが、ロドリゲス先生が言うよ うに、時には宗教をそれに限定しなくてはなりませんでした。方法論や形而上学的な枠組 みというのは、例えばキリスト教でも持っているが、それから新しい宗教の理解が生まれ るのだということでした。もし、新しい宗教の理解が、この公正さを求めないのであれば、 一体宗教というのは何なのかということになると思います。もちろん文化の問題として語 る人もいますが。宗教は公的なものか私的なものかという問題について、アンベードカル は、宗教は公的な領域に属すると積極的に選択したわけではないと考えます。あえていえ ば、彼はそう選択せざるを得なかったのです。 この点について、先生がおっしゃっていたことと関連すると思いますが、インドでは、 ナショナリストによって宗教が公的場の中央に連れ出されたのは植民地期だったという経 緯があります。個人の私的生活に宗教を閉じ込めるという西洋的思考に批判的だったのは このナショナリスト達でした。こうして復権した宗教とは、カースト以外の何者でもあり ませんでした。ここで図像学や方法論が用いられてカーストを中心に構築されたものがヒ ンドゥー教とされたのです。したがってアンベードカルは、公か私かという対比ではなく、 公共圏(public sphere)の中での、中央にカーストを据えた宗教と、同情(Compassion)や 無カースト性(Castelessness)を中心に据えた宗教とを対比させようとしたのです。次のジ 91 レンマは、果してアンベードカルは、仏教を、ヒンドゥー教やキリスト教、イスラームと は区別される個別の宗教として構築しようとしたのかという点です。これについては、宗 教をもってアイデンティティを模索する状況にあった当時、アンベードカルはそうせざる を得なかったでしょう。しかし同時にアンベードカルは、仏教を生活の基礎、つまり社会 全体に通用する生活の原則と見なそうとしました。彼らを仏教徒と呼ぶかどうかはともか く、ロドリゲス先生が釈迦の初期仏教と呼んだものです。仏教徒と呼ぶかどうかではなく、 仏教徒として生きるかどうかという文化的事柄になってきます。ただし問題なのは、アン ベードカルやアイヨテー・ダースの言うこととは裏腹に、国勢調査(Census)では(宗教・ カースト別に)数が示され、最大の数値を占めたのがムスリム・マハールだったことです。 ある会議で、アンベードカルは、他の不可触民が何をしようと関係ない、自分はマハール であると発言したといいます。ダリットの改宗は、ガンディーや他のカーストから非難さ れたのみならず、ダリット内部からも批判の声があがりました。これは、カーストの上と いうことではなく、ダリット・カーストそのものが、南部と北部の文化的相違、労働階級 に深く埋め込まれた意識などの多様性をもつため、ある種の概念的に均質な仏教に改宗す ることは、多くの人々にとっては好ましいことではありませんでした。このように、ここ にジレンマがあったわけです。ロドリゲス先生は、アンベードカルがどのように理想的な 宗教を再構築しようとしたかを指摘しましたが、これだけではなく、アンベードカルは実 践面も検討していました。 『ヒンドゥー帝国主義(Hindu Imperiarism)』という本を書いたサ ニヤーシーのダンマティルタは、スリー・ナーラーヤナ・グルなどと並ぶ当時の「反逆者」 だったのですが、アンベードカルは彼を招待して、自分は何をすべきか聞いたのです。す ると、彼はフラストレーションが溜まっていて、キリスト教徒になれと言いました。そう すれば、自分自身の問題は解決できると言ったのですよ。これに対して、アンベードカル は次のように考えました。(キリスト教への改宗は)人々に負担をかける。キリスト教に改 宗することによって、私は人々に、住む家を変えさせなくてはいけない。しかし、仏教へ の改宗は、隣の部屋に行く程度のことだ。家を変えるのではなく、家の中の隣の部屋に来 てくれといえば、こういった人達は私に従ってくれる。私の言うことを聞いてくれるかも しれない、と。公正のプロジェクトではいかなる手段を使ってもそれを達成しなければい けない、と彼は真剣に考慮したのです。これはダンマティルタの自伝にあるエピソードで す。 もう一つ注目したい点でありますが、下からの公正を基礎とする道徳としての宗教の力、 挑戦する可能性ということをロドリゲス先生は強調しました。全ての宗教には一種の緊張 感が存在し、民主的な形で宗教を解釈する人が超越すると、それを危惧する宗教的権威が ドクトリンや正典を押し付けようとする。キリスト教における神学のように。こういった ストーリーがこの本にも書いてあるわけですが、こういった一種の緊張関係が全ての宗教 にはあって、仏教の中にも緊張感がある。アンベードカルが指摘した能力が釈迦の初期仏 教の中にありますが、人は他ならぬ尊厳(dignity)に到達します。インドにおいては、人々 は敢えて神になろうとしたりするのです。こういった文脈において、アンベードカルが、 公正化プロジェクトを宗教的枠組みを通じて達成しようとしたことが理解できるのです。 桂: ありがとうございます。このセッションを終了する時間だと思います。多くの質問を 92 フロアからいただきましたが、残念ながらパネリストのお答えをいただく時間がありませ ん。ですから、私は全てのパネリストの皆さんに、この書かれた質問用紙に対するお答え を書いていただいて、明日の朝配布したいと思います。パネリストの今晩の宿題です。明 日、書面でもって回答をしていただきます。何かありますか。 ダース先生に対する質問の一つはもう答えが出ていると思います。それでは、皆様、今 日ご参加いただきましてありがとうございました。明日の詳細は志賀先生の方からです。 志賀: それでは、ありがとうございました。このセッションにご参会、ありがとうござい ました。このプレゼンテーションのスピーカーの方々、そして参加者の方々、ありがとう ございました。朝の9時半から明日は再開します。明日も是非参加いただきたいと思いま す。レシーバーを返してください。その机の上に置いていただいたらいいかと思います。 レストランで、1階ですけれども、レセプションをします。レセプションですけれど、も う今から始めます。今から始めます。ですので、全ての参加者の方にすぐに、すいません けれども、すぐに行っていただきたいと思います。ありがとうございました。(拍手) 93
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