年男・年女登場 - 三菱電機神戸ひしのみ会

神 戸 ひ し の み 会
謹賀新年
年男・年女
第140 号
7 回目の男 1 回目を思う
石躍 信夫(1932 年生まれ)
登場
わが人生 83 歳に乾杯
甲斐 茂義 (1932 年生まれ)
1944 年 11 月尼崎市西国民学校 6 年
生。学童疎開で親父の故郷鹿児島県大
隅半島錦江湾側中間地点に位置する
垂水町柊原下に疎開した。当時村人達
は農業のかたわら防空壕堀に明け暮
れていた。翌年 5,6 月頃から空襲警
報が発令されるようになり、8 月 5 日空襲に遭った。
国道 220 号を挟んで海側山側に藁葺き屋根が立並ん
でいたが、2 時間足らずで 9 割が焼失した。まさか疎
開先で戦災に遭うとは夢にも思っておらず、戦後 70
年よくぞここ迄生きて来られた事と思う。
仕事ではいろいろな事をしながら運よく三菱電機
伊丹製作所に入社することが出来、良き上司、良き先
輩・後輩に恵まれ、平成 5 年無事神電を退職する事
が出来ました。本当に有難うございました。このペー
ジを借りてお礼申し上げます。
定年後は、月 4,5 回は好きな釣りを続けており、
又、年 4,5 回は元同僚との歓談に花を咲かせており
ます。今後共元気で居られる限り、ひしのみ会にお世
話になります。よろしくお願い申し上げます。
平成 5 年 10 月に三菱電機神戸を定
年退職して早や 21 年が過ぎ去りまし
た。在職中は良き先輩、同僚や後輩に
恵まれ、神戸製作所で働くことが出来
て皆様に感謝しております。又、神戸製
作所では第 11 回創立記念行事として
構内駅伝大会を計画され、40 歳以上の部でパワエレ
のアンカーとして出場し優勝しました。その時、神電
甘粕所長より頂いた優勝トロフィーとメダルを大切
に保管しております。
年男の近況報告
日常生活では、週 3 回元気にグラウンドゴルフを
し、あまり勝負にはこだわらず笑顔でゲームを楽しん
渡邉 宏(1932 年生まれ)
でおります。その合間には中山寺の奥の院に 2 時間
ほどかけて登ります。参道には四季折々の花が咲き、
明けましておめでとうございます。
鶯の声が響き心が癒されます。参道の中間点に東屋が 私は今年の年男、昭和 7 年の早生まれ
あり、そこで休憩をとり眼下を見ますと大阪の街梅田、で 今年 1 月に満 84 歳になりました。
あべのハルカス等素晴らしい街並みを見ることがで
毎年の老人健康診査では特に異常
きます。朝早く登れば梅田のネオンがキラキラと輝き、は認められず、年とともに老化してき
神戸の一千万ドルの夜景に匹敵する景色を見ること ていると感じてはおりますが元気で
もできます。元気でグラウンドゴルフや山登りができ、過ごしております。ゴルフはやめにし
幸せ者だと感謝しています。100 歳を目標に心と身体 まして天気の良い日はウォーキングで脚力の維持を
の健康に留意しながら目標に向かって頑張っていき 図り、テレビのクイズ番組や雑誌の数独を楽しみなが
ます。
ら脳トレをして健康長寿ができればと願っておりま
最後に、三菱電機の益々の発展と繁栄をお祈りいた す。
します。
定年退職後は、今も「NPO 兵庫県技術士会」の役
員として、技術士仲間(現在約 80 名)とともに国・
県・市・商工会議所等からの要請を受けて地元中小企
申年を迎えるに当たって
業に対する技術相談・支援やセミナー等を行うと共に、
前川 隆 (1932 年生まれ)
大学のインタ−ンシップへの協力等種々の活動をし
ております。
いつの間にか歳を重ね、7 順目の
また、在職中に知り合いました他企業の方々と「こ
年男を迎えることになった。振り返
うゆう会」を結成(現在約 20 名)して毎月の例会の
ってみると、実に波乱に富んだ時代
他、見学会、勉強会、旅行、観劇会、スポーツ等も行
を体験してきましたが、家族をはじ
い、また毎年文集の作成もしております。
め職場の同僚、その他多くの人々の
皆様のご健康とご多幸をお祈り致します。
援助を受け、お陰をもって今日を迎
えられたことに心から感謝している。
年男としてこの一年元気で楽しい日々を過ごせるよ
う、精一杯努力する積りでいます。
今年もひしのみ会の総会でお元気な皆様方とお会
いできるのを、楽しみにしております。
-4-
神 戸 ひ し の み 会
万病乗り越え新たな趣味に挑戦!
上岡 康宏(1932 年生まれ)
生来病弱で七人妹弟のなかで私だ
けが、医者の手を離れることがなかっ
た。
子供の頃は、腸チフス・ジフテリヤ・
肺浸潤・耳下腺炎・扁桃腺炎・マラリ
ヤ等、成人後も虫垂炎・腎臓結石・中
皮腫・外科面でも半月板削除で今も膝関節痛に苦しみ
更に最近は骨粗鬆症・繊維筋痛症とかで体のあちこち
の痛みに悩まされている。
80 歳を超えた頃から急激に視力・聴力とも低下し
入歯も増え、医者からは「そういう年です」と片付け
られているが、今の処は他人様の助けは必要ない。こ
れからも惚けることなく心身ともに健康な毎日を送
りたいと思う。 運動神経や筋肉は確実に退化してき
ているが、若い人達と共に楽しめる社交ダンスは趣味
としても最高だと思うので、週 4 回はやっている現状
をこれからも続けたい。
半月板削除手術の後遺症による膝の痛みや耐力不
足、繊維筋痛症による首・肩・腰・背中・胸等痛の機
嫌を取りながら、やればやる程鍛えられるはずの筋肉
が、やっただけ疲労衰弱する現実に妥協しながら、で
きるだけ長く続けられるよう頑張っている。 又、今
迄やっていたコーラスは、難聴のせいで続け難く引退
したので、代わりの惚け防止に何か頭を使う趣味に挑
戦したいと考えているところです。
第140 号
年男に寄せて
牧田 譲(1932 年生まれ)
新年おめでとうございます。7 回目
の年男です。お陰様で今迄大病もせず、
月 4 回位通院しながら医師の指示どう
りの生活と摂生を続けております。
振り返れば、昭和 26 年 6 名の同期
生と当時の神電に入社し回品課に配属。
制電設立で制御盤品管課に移り、昭和 51 年に九支プ
ラ建部に転勤。昭和 53 年九プラ(現 MPEC 九本)
設立で出向・転籍し平成 9 年退職。平成 10 年秋、22
年間の九州生活を終わり帰神しました。
平成 12 年神戸市シルバーカレッジに入学、私立大
学シニア専修コースを平成 19 年に卒業し、国際関係
とボランティアを学んだつもりです。学校のモットー
「再び学んで他の為に」を実践するべく、NPO 法人
「グループ わ」北区会でボランティアに励んできま
した。
地域の先輩の勧誘で「広陵地区ふれあいのまちづく
り協議会」に参加してボランティアを継続中です。現
在はパソコン教室や広陵小学校のメディアクラブな
どの指導ボランティアを継続中です。広陵町・筑紫が
丘・小倉台在住の神戸市シルバーカレッジ卒業・在校
生 153 名で「SC 広陵同窓会」を結成し、ボランティ
ア・親睦活動を行い、今年度は副会長で新年以降多忙
となりそうです。
心の絆(ほだ)し
新宮 均(1932 年生まれ)
申年に因んで
陰山 弘(1932 年生れ)
洒落にもならない話。入社間もな
い少年の頃、同僚に言われた、『陰さ
んは猿に似ている』、
『エッ?』唖然と
した顔を察した彼は言葉を訂正して、
『猿に似てないけど、猿が陰さん似て
るかも!』。これに開いた口が開いた
まま、田舎っペの小生には返す言葉が見当たらなかっ
た。似てる似てないは見る人の勝手でどうでもよいこ
と。巡りくる申年に遠い過去に記憶が甦ったまでのこ
と。
さて、現在です。体内で深刻な異変が起きなければ
7 度目の申年を迎えることは確実で有り難いです。
今後は寝たきりを回避できるか否かが関心ごとで
す。予防の処方箋はあり得ません、細々と山登りの継
続、日常生活の重点は歩くこと、手足を動かし筋力強
化、その他です。
生まれは偶然、去るのは必然、宿命です。そして最
後は『終わり良ければ全てよし』
。これに尽きます。
-5-
私の妻は、一昨年 1 月認知症で介護
2 となり家で介護していました。12
月には肝細胞癌で介護 4 になり私一
人では介護が難しいので、介護保険施
設にお世話になり下着類の交換に 2
日おきに通っていました。1 ヶ月余り
で体の具合が悪くなり病院に入り毎日点滴をするよ
うな状態でした。見舞いに行く毎に「家に帰りたい」
と言う、大きな声で泣き私を困らせる。家で最期を迎
えたい心が察せられました。昨年 3 月、治療の甲斐
なく亡くなりました。妻が元気な時は気づかなかった
家の仕事の数々、食事・洗濯・掃除・買い物などを自
分がやって初めて分った大変な作業です。
押入れを見ると消耗品が山と積まれており私のた
めに買ったものが多くあり、タンスを引き出すと半袖
シャツ、長袖シャツと色々なメモが書いてあり、胸が
熱くなり涙が出ました。
妻と一緒になって 57 年長いようで短い人生をあり
がとう。
神 戸 ひ し の み 会
年男の夢
川添 正道(1932 年生まれ)
新年おめでとうございます。“思い
出せば”昭和 22 年 4 月に養成工 9 期生
として入社しました。会社の教育課
(研修課)は第一小物建屋の 4 階の西
側に事務所と教室がそして南側に、バ
イス台が十数台並んでハンマー振り
やヤスリ掛けの実習場があってそこ
にお世話になった。
“キョウイク”教育=すなわち「今日行く」ところ、整
形外科で「右肩関節周囲炎」と診断されて「電気療
法」と「体操療法」を受けに週一回通っている。“カ
キクケコ”=か・感動、き・興味、く・工夫、け・健
康、こ・恋(ときめき)
ときめき体操と言ってベッドに寝かされて孫のよう
な 23 歳のピチピチギャル先生(健康運動指導士?)
が身体を密着させて右肩を中心にして肩甲骨周辺を
揉んでくれる。ああ嬉しい!これなら早く良くなるだ
ろう。月 5 回、公園や小学校でグラウンドゴルフを
楽しんで居る。
(1)毎回 1 回はホールインワンを入れたいなー
(2)1ラウンド 20 点以下、3 ラウンドのトータル
60 点を切りたいなー
今年で自動車運転免許証が切れる。あと 3 年運転
するのは無理だろう!自動車運転免許証を返納して
廃車にしよう。
年
男
池水 保(1932 年生まれ)
今年で 7 回目の年男を迎えることに
なりました。と言うことは自分がそれだ
け年を取り熟年高齢者の仲間になった
ことになります。しかし自分ではそんな
に年老いたとは認識していません。
私は 92 歳の長女を頭に 80 代の兄弟
姉妹が 5 人います。両親はかなり前に他界している
のですが、5 人の兄弟は一人も欠けることなく健在で
す。私はいつも陰ながら長寿の体に産んでくれたと両
親に感謝しております。
自分でも健康長寿で有ります様に多くの薬を飲み
ながら、地域の老人会に入会し、地域の清掃美化運動
に積極的に参加しています。また週 1 回のグラウン
ドゴルフ、脳トレのために月 1 回の麻雀を仲間達と
遊びでやっています。他に市立の老人福祉センターで
毎日、ラジオ体操、ステップ運動、ストレッチと、別
に体育館では週 1 回の卓球も行っております。趣味
の詩吟も長い間継続していて、大きな声を出してスト
レス解消や健康に役立つ様にしていますが、年をとる
と声も低くなり、声も出にくくなってきています。次
の年男を迎えられる様健康長寿で元気で頑張って行
きたいと思います。
-6-
第140 号
申年を迎えるにあたって
佐々 勝重(1932 年生まれ)
元気で 7 回目の年男を迎えるこ
とが出来て幸せで有難く思ってい
る。
人生の大半 45 年間勤務生活の中
での苦楽も、先輩・同僚に支えられ
勤めた事が基礎であり、今がある感
謝に堪えない。
定年後は金の掛からない趣味で、テニス・囲碁・写
真等(どれも下手の横好き)楽しんで来た。テニスは定
年後に備え 58 歳から始め 80 歳まで続け、定年後は
老寿人(ロスト)クラブでお世話になり会社のコート
で週 1・2 回、又、数回 1 泊して楽しんで来た。お陰
で大病もせず仲間に感謝。囲碁は“メール碁”と言う
手法で1度に 3 局をメールでやり取りする、気のな
がーい貴重な経験を 4 年、今は有料チャンネルでの
視聴を楽しむ。
写真は神戸駅南のクリスタルタワー5 階の生活創
造センター内のパソコン倶楽部で、遊び課題としてホ
ームページ作り今は更新してないが残っている(ネッ
トで私の名で検索)。パソコン倶楽部の中から写真グ
ループが出来、月 1 回の例会と年 1 回の展示会を実
施している。今は 1 人暮らしの身になったが同期の
朋友との月 2 回の飲み会、カラオケ・年 2 回の 1 泊
旅行が今の私に必要な活力と至福の時を戴いている。
カラオケを楽しんでいます
高鍋 博之(1932 年生まれ)
私は昭和 21 年 4 月に養成工第 8 期
生として入社し、平成 4 年 4 月までの
46 年間勤務させて頂き、色々と先輩、
同僚、職場の皆様にご迷惑をかけ、又
大変お世話になり有難うございまし
た。厚くお礼申し上げます。
この度ひしのみ会会報「年男、年女登場」欄へ寄
稿のお願いを頂きましたが、別に変わったこともなく
定年退職後も無事に過ごせたことに感謝しておりま
す。毎年 5 月の定期総会には出席するように心掛け
ていたのですが、1 年ほど前から膝の調子が悪く治療
に通院しており、日課になっています。
退職後、自治会の中でカラオケの先生をやっていた
だける方がおりまして、公民館で会員有志 15 名程で
月 2 回カラオケ教室を開いており、そのメンバーに
入り遠慮のないことを云い合い、又は合唱したり独唱
したりして楽しい時を過ごしています。
今年 7 回目の年男を迎える事になりましたが、歳
月の過ぎるのが早いように思います。自分では若返り
の方法がないものかと思うこの頃です。
第140 号
神 戸 ひ し の み 会
年男です
戎 稔雄(1932 年生まれ)
平成 28 年はお猿さんと 7 回目の
巡り合わせです。思えば第 1 回目は
終戦時、闇米を買い列車の中をポリ
さんから逃げ回った事を鮮明に思い
出されます。
その後の区切りは定かでないが、
少し珍しいことを経験しました。それは班長を 2 回
担当したことです。1 回目は昭和 42 年、MDW 導入
の 1 年前です。班長任命の証書と班長手帳を手渡さ
れ班長教育を受講、2 回目は昭和 54 年に勤労課にて
「班長に命ずる」の一言、班長任命も時代と共に簡素
化されたと感じたものです。当時私は直流機を製造す
る部門にいましたが昭和 54 年これから先は直流機だ
けでは飯が食べていけないと機械装置、新エネルギー
も導入された頃です。その時、幸か不幸か機械装置の
班長に白羽の矢が立ちました、初めは躊躇もしました
が半ば強引に任命されました、13 年目の苔の生えた
班長です。定年退職時、当時の河村博敏神電所長から
形どうりの感謝状を読み上げられた後、機械装置立ち
上げの労いのお言葉と共に 2 度の班長ご苦労さんと
手を差し伸べられた瞬間目頭が熱くなったことが今
でも忘れられません。
加齢と共に体力、気力も無くなった今は、毎朝 6
時 30 分からのラジオ体操、万歩計で 10.000 歩と細
やかな目標を守っています。これからも大きな望みは
持たず、適当に平々凡々と過ごしていきます。
なんでも観てやろう、やってやろう
天野 恒(1932 年生まれ)
80 歳を過ぎてからはリコーダー
(縦笛)演奏による施設訪問、その
ための練習を除いて、ボランティア
や地域活動からは縁遠くなっていま
す。自由時間が増えた分、展覧会(最
近では琳派関連のものやレイブラン
トなど)、音楽会(ロイヤル・コンセ
ルトヘボウなど)
、講習会(神戸新聞文化センターで
の古代史・民俗学など)
、社寺参拝(関西花の 25 か
寺など)、その他食べ歩きやイベントの参加など外出
する機会が増えています。また、家にいる時は、買
いためていた CD を聴いたり、録りためたり、買い
ためたりしていた DVⅮ・BD を観たり、図書館で借
りてきた本を読んだりし て、暇をつぶしています。
一つのことにこだわらず、なんでも観てやろう、や
ってやろうとマイペースで毎日を楽しんでいます。
-7-
感謝あるのみ
原田 孝一(1932 年生まれ)
8 回目の申年 2017 年まで永い間
元気で生きてこられたものだと想
う。
小学生時代は、戦時中で大変な食糧
難、一杯の雑炊を並んで求めたりし
て大変な時代でした。
3 月 19 日の神戸の空襲にあい焼けだされ、死人の
山を見ながら、笠松∼離宮まで大八車で避難、父の知
人宅で 2 日程世話になり、新倉敷まで疎開。父の本
家の納屋で暮らすこととなる。
高等小学校に入学、色々ないじめに遭い、終戦後の
10 月に船で神戸に帰り、父の用意した吉田町の家で
敗戦後の生活が始まる。進駐軍より配給の缶詰等を持
参して、米やイモ等と物々交換に大久保あたりの百姓
家に行く。
高等小学校を卒業し三菱電機の養成工として入社。
(昭和 22 年 3 月末)その 8 月に父を病気で亡くし、
勤労課の方々に大変お世話になる。男 3 人女 4 人の
長男として責任を感じる。母や姉の助けをもって、弟
2 人も当社に入社後立派に定年退職を迎えた。会社の
先輩、後輩等色々な人達のお陰をもち大過なく現在に
至る。工具課 20 数年、資材部 20 数年と技術系と事
務系の仕事ができたことを大変有り難く思います。
阪神大地震等色々ありましたが、色々の方々に助け
て戴きました。
好きに絵をかき、テニスや読書をしたりして 90 歳
まで、(私を支えてくれた家内と共に)自然体で過ご
してゆけたらと想っています。皆々様に感謝あるのみ
です。
昭和一桁の年男
國田 正(1932 年生まれ)
ひしのみ会会員で昭和 7 年生まれ
の養成工出身者は他の申年生まれに
ないエピソードが有ります。
私は国民学校高等科 1 年生で終戦
となりました。2 年後の昭和 22 年 4
月教育制度が現在の 6・3・.3.制に移
行しました。それまでは義務教育は小学校 6 年生迄
で、新制度移行の際、高等科 2 年生はそのまま卒業
して就職する人、新制中学校 3 年に進む人に分かれ
ました。前者が養成工 9 期生、後者が養成工 10 期生
に当たり何れも大半は申年生まれです。そのため入社
歴を見ると 2 年続けて申年生まれが殆んど、加えて
養成工 11 期生の中にも私を含め 4 名が 9・10 期生の
方々と平成 5 年春、定年を迎えました。昭和一桁の
申年生まれは、以上の様な奇遇に巡り会った年男です。
神 戸 ひ し の み 会
年男の寄稿依頼を受けての回顧
神木 正弘(1932 年生まれ)
第140 号
鉢伏を 杖を頼りに 秋の風 : 昭雄
回転展望台でコーヒーを飲み、更に一段上がると、
西は世界一の大橋と東は神戸空港が一望出来ます。帰
りは雨が心配でロープウエイで一気に降りました。
4 度目の寄稿依頼である。現役時代、
思い出します。40 年前、制電開発部の皆さんと、
神電時報に 2 度、ひしのみ会会報に 2
須磨∼宝塚約 60Km を 10 時間 40 分で歩き通したこ
度目、大当りである。今回で最後と
とを、その日 30 分で登り切った道を、今は 1 時間 30
思い当時どんな記事を書いたのか記
分かけて…?
憶を辿ってみた。神電時報には 2 回
でも、まだまだ夢を持っています。
目と 3 回目の年男の時だった。数項
俳句に、コーラス(“第九”は 15 回目),ゴルフにと。
目の設問に答えるものであったが、1 問だけ自分の思
あと、4 年後の東京オリンピックの年に、垂水ゴルフ
いを述べる項目があり、ユニークな設問であったので
場は 100 周年を迎えます。その時 88 歳、何んとか ゴ
記憶に残っている。多少言葉の違いがあるかもしれな
ルフができますことを!
いが。
2 回目の年男 24 歳の時
平成 28 年度年男のメッセージ
Q、もし猿に生まれていたとしたら、どんな猿に
なりたいですか。
山脇 陽一(1932 年生まれ)
A、孫悟空のように雲に乗り世界中を翔け巡りた
い。(若かりし頃なので、こんな幼稚な夢を
今年 84 歳の年男とかで、この年
見ていたのだろう)
齢まで健康で生活できていること
3 回目の年男 36 歳の時
に感謝しています。
Q、自由自在の身になれたら、今一番やりたいと
振り返ってみると、食べるもの
思う事は。
に事欠いた少年時代だったので、
A、CP(コンピュータ)ウィルスになって、知
三菱電機入社後も、当時の寮は休
能犯を突き止めたい。
日の昼夜は欠食でしたし、いつも腹ペコの日々を過ご
(当時、各界では CP ウィルスに感染し業務機
した。
能が麻痺状態となる事件が頻発していた。毒に
伊電では、昭和 33 年北アルプス穂高岳での遭難事
は毒をで)
故発生が基で、山岳部再編成の機運が高まり、私
6 回目の年男 72 歳の時(ひしのみ会会報へ)
も微力でしたが紅菱会山岳部の再発足に寄与した思
自由課題で依頼を受けた記憶はあるのだが、記
い出があります。
事内容については全く記憶が甦らない。50 年、
独身時代の寮生活では、楽しく良き友人に出会った
60 年昔の記憶があるのに我ながら情けない。思
事が私を成長させてくれたし、この人たちとの出会い
えば十数年昔の頃の記憶が最も薄いように思え
が、人としての絆の大切さを感じています。
る。脳軟化が始まりメモリーが狂いかけていた
今後の目標として、健康であることに尽きます。老
時期であったせいかも。
化していく体力の現状維持に努めるべく、フィットネ
8 回目の年男 96 歳ではどうだろうか。多分この世
スクラブで週 3 回ですが 2 時間程汗を流し、また現
には居ないだろう。冥土に於いても閻魔より「現
在 20 坪余りの畑で、妻共々の希望品を多種少量での
世での悪行を懺悔せよ」との依頼がくるかもし
野菜作りに励んでいます。
れない。
長年楽しんでいる趣味の盆栽、陶芸も少なくとも 5
∼6 年は頑張りたいと考えている年男です。
まだまだ夢を持っています
古谷 昭雄(1932 年生まれ)
昨年の 9 月 19 日、83 回目の誕生日
を迎え、今年は年男です。
体育の日に、家内と鉢伏(260m)に
登りました。山電須磨浦公園を降りる
と、空が怪しくなり、敦盛蕎麦を食べ
ていると日が差してきました。
1 時にスタートし頂上着 2 時半。2 本の杖を頼りに
一歩一歩登って行くと、何組もの若い家族連れやハイ
カーに逢いました。80 代の老人組は皆無。爽やかな
山登りでした。
-8-
神 戸 ひ し の み 会
第140 号
思い新たに
山内 公昭(1944 年生まれ)
定年後を振り返って
粟井 孝明(1932 年生まれ)
今年が 6 回目の年男になる
とは年月の経つのは早いもの
私は、定年後この 23 年間何をして
だ。このうちの 5 回を三菱電機
きたか振り返ってみると、定年から 1
に関わってここ兵庫の地で過
年が過ぎ、私の家の近くにコベルコ建
ごそうとしている。会社人間の
材の下請け工場があり、そこで働くこ
私の人間関係は、中学・高校の
とになった。
友が一握りで、三菱関係の方々
そこは社員数人、定年を過ぎた年寄
りが 10 数人、あとは圧倒的に女性(美人)が多く、 がその殆どを占める。マスコミ等で報道される典型的
な高齢の男性だった。
この会社はパートで持っていると言われていた。
何とかせねばと一念発起し 4 年前から三木市高齢
あてがわれた仕事は機械を使ってくれと言われ、ま
者大学に入学し、
3 年前からは重ねて兵庫県高齢者放
ったく畑違いの仕事でこれは続くかなと思ったが、ま
送大学の受講も始めた。
あなんとか馴れて友達もできた。
ここで、流行の「断捨離」として「物」「思い出」
会社もそれなりにホテルでカラオケ、日帰りバス旅
「新たな趣味への
行もあって、日がたつにつれ工場も増え人数も増えた。「仲間」を捨て「身の周りの整理」
挑戦」
「高齢になって後の仲間つくり」や、
「教養=今
私も 61 歳から 73 歳まで 12 年間楽しく働かさせて貰
日 用(きょう よう)がある」と「教育=今日 行く
った。
(きょう
いく)所がある」等の必要性を学んだ。特
私は歴史が大好きで、お寺、神社、
京都もよく行き、
に「仕事で繋がった友は本当の友には成り得ない」
「学
そこでブラブラしています。
歴や職位のレッテルが剥がれた人間同士の友が大切」
最近大腸ガン手術でストーマーを抱える身となり、
などは新鮮だった。そして入学後に幾人かのレッテル
肺炎も 2 回患ったが何とか落ち着いています。
今は会社の同期、近所の友達、ノミニケーション等 の剥がれた友を得ることが出来た。
両大学に参加し、皆が身体健康で考え方が前向きで
に支えられています。
あるのに驚いた。美人でグラウンドゴルフがクラス 1
の女性が、自分より一回りも年上と聞き信じられなか
我ら年男
ったし、太極拳クラブの師範が 20 歳年上で、その足
古賀 石郎(1944 年生まれ) 腰の強靭さと頭脳の明晰さにびっくりした。自分もあ
と 20 年間健康で居ようと太極拳を始めて 4 年が経過
しようとしている。
新年おめでとうございます。今年は
このような生活で、今のところ健康を持続できて
私にとって 6 回目の年男を迎えること
おり、健康寿命を平均寿命まで伸ばして、高齢者仲
となりました。
間の付き合いとして「ひしのみ会」も「同期会」も
2005 年 3 月、定年先(阪神精工)で定
継続して行きたい。
年を迎え、10 年が過ぎ、早いもんです。
定年後は約 4 年程阪神機器にお世話に
なり、その後、加古川市シルバー人材センターに会員
私の仕事の紹介
登録。約 3 ヶ月ほどで新しい職場の紹介があり、健
今居 稔雄(1944 年生まれ)
康のためにも体を動かすことが大事で、報酬は別とし
て健康第一に考えました。
市内のスーパーで約 2 年、
三菱電機を定年退職して 12 年になり
その後はオーミケンシで梱包作業を週 4 日程、現在
ますが現在、マンションの管理員として
も頑張っております。
働いています。マンションにお住まいの
また、2011 年より地域の町内会の役員(広報担当)
、
方は管理員をよくご存知かと思います
2012 年 4 月より 2015 年 3 月まで町内会長として 3
が、私の仕事を少しご紹介します。 中
年間、安心・安全な町づくりの為に頑張ってまいりま
小規模のマンションでは日常清掃(玄関、
した。仕事と両立するのもいろいろと苦労もありまし
廊下、階段等共用部分の清掃)が管理員の主業務とな
たけど、他の役員の協力のおかげ、無事努めることが
っており、私もこの清掃に大半の時間を割いています。
できました。
執務を行う管理事務室にはエアコンが設置されてい
これから先は自分の歳を考え、あまり無理をしないよ
るのですが室外作業時間が長く、真夏・真冬は結構厳
うに、ほどほどに過ごしていきたいと考えています。
しい環境での作業となります。特に夏は熱中症対策が
必要です。その他、住民の方からの苦情受付も業務の
一つですが、苦情内容によってはなかなか解決出来ず、
対応に苦慮することもあります。
この様な苦労もありますが、今年も住民の方に満足
して頂ける様、頑張ってこの仕事を続ける予定です。
-9-
神 戸 ひ し の み 会
あれから 12 年
木下 壽弘(1944 年生まれ)
60 歳の年男で、会報に“元気でず”
の報告をしてから、はや 12 年経ちま
した。その後、61 歳でくも膜下出血に
みまわれましたが、周囲の方々や優秀
なお医者さんに助けられて、何とか生
き延びることが出来ました。幸いに後
遺症も皆無で元気です。この 12 年間
の出来事を紹介します。
1. 頭のリハビリを兼ねて、1 万人の“第九”に 9 回
参加。(抽選なので毎年参加ならず)
2. 放送大学に取り組み、エキスパート 5 コース履
修完了。又、卒業まであと 2 単位。
3. 山登りも再開、三菱電機山岳部 OB グループの
仲間に入れてもらい、毎月の山歩きと、1~2 回
/年の遠征に参加。2015 年は塩見岳−仙丈ヶ岳
縦走でした。
さあ、これから次の年男まで 12 年間、何をしよう
か思案中です。
年男と三ツ山大祭
上住 好章(1944 年生まれ)
定年から 12 年、この間少しずつ仕事もしながら入
院もせず、ほぼ元気に過ごせたことは有難いことで
した。
子供の頃は生まれ故郷の播州赤
穂に居ましたので、年男のような定
期的なイベントでは 20 年ごとに開
かれる姫路の三ツ山大祭が身近な存
在でした。8 歳のときは親に連れら
れて、開通間もない赤穂線に乗って
行きました。以後 28 歳、48 歳、68 歳と皆勤です。
8 歳のときには次の 28 歳のとき、28 歳のときには
次の 48 歳のとき、と色々想像していました。しかし
その想像は 48 歳のときから怪しくなり、68 歳のとき
は次の 88 歳のときのことは見当がつきませんでした。
今くらいの歳になると、
『どうなるか』よりも『ど
うするか』の方が大切なのでしょう。先のことはわか
りませんが、健康に留意して元気で次の三ツ山大祭に
参拝したいものです。
話仲間と缶コーヒ
甲斐 克彦(1944 年生まれ)
私には、楽しい話仲間がいます。私
の家から徒歩 7 分のゴルフ練習場の仲
間、約 10 名(65∼80 歳)
。月、水、金
の 10 時∼11 時にかけて、練習場の自
販機の缶コーヒを飲みながら、社会、
経済、国際、野球、ゴルフ及び疑問事
項等々の広範囲にわたり「新聞や TV の報道解説」
「応
援球団の評価」等で大いに話に熱がこもっている。
(仲
間はそれぞれが、自称:評論家?スペシャリスト?解
説者?を気取っている。
)応援している球団が前日に
勝てば、缶コーヒ代は応援者が出している。我が「阪
神」は、それなりの勝率?で、私もそれなりの負担に
なっている。
各人の経歴は「金属−製鉄」
「船舶」
「関電系」
「ス
ポーツメーカ」「商社」
」
「個人経営」
。
出身、経歴がそれぞれ異なるので、見方、考え、知
見も多種にわたる。仲間の話を聞き、大きな声で積極
的に話す、そして多くの見聞・知識を得ることで、私
も仲間も顔色が大変良好で健康のみなもとです。
会話と適度な運動で、
「しぶとく」
、毎日が「さわや
か一番」を継続していきましょう。
第140 号
6 回目の年男を迎えて
阪本 芳昭(1944 年生まれ)
申年、年男としての寄稿依頼を頂
いたとき、とうとう 6 回目の年男が
やってきたのかと感慨深いものが
ありました。
10∼20 代の頃は、70 代と聞けば
お年寄りやなという感覚でしかなか
ったものですが、いざ自分がこの年齢になると、気持
ちは若いつもりでも体力的にはあちこちと故障が発
生し、実感せざるをえません。
思えば会社生活は伊電に入社、研究所を経て神電に
て定年を迎えることができました。定年後は少しのん
びりとして新たな人生をと考えていましたが、定年
早々に病で妻に先立たれ、早や 10 年が過ぎました。
当初 2∼3 年は精神的に落ち込みましたが、兄弟、友
人、地域の人々他多くの人の支えもあり、何とか独身
生活を頑張ってこれました。
現在は、気分転換と健康維持のため、週 3∼4 日フ
ィットネスクラブに通い汗を流しています。また月 2
∼3 回でランチの食事会やレクレーションなど、OB
の友人たちと交流を図るとともに、年 1 回の割合で
「元気な間に活動しよう」を合言葉に、同期会メンバ
ーと旅行を楽しんでおります。
ひしのみ会には、ここ数年参加できていませんが、
会報での便りなどで情報を頂き感謝しております。
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神 戸 ひ し の み 会
音楽と体操で元気に
鹿野 義郎(19 44 年生まれ)
年男・年女登場への寄稿
中嶋 勝弘(1944 年生まれ)
申年に当たり振り返って見ると、
最初の年男 12 歳の時は故郷岡山の小
学 6 年で、地方とはいえ全校 2000 人
の生徒数がいたことを覚えている。
今の少子化時代では考えられないこ
とである。2 度目の 24 歳時は既に三
菱電機に入社しており、神戸資材部の担当として、上
司・先輩の指導を得て仕事一途の多感な時でした。3、
4 度目の 1980 年から 1992 年は海外調達が叫ばれ、
円高メリットを享受することに真剣に取組んだ時期
で、全社的に韓国市場調達のトップバイヤーと持ち上
げられ、多い年は 8 回もの韓国出張を経験しました。
お陰で朝鮮半島の歴史に興味を持つと共に当時関係
した人達との交流は今も続いています。2004 年 5 度
目の 60 歳時はグループ会社菱神興産(現菱神テクニ
カ)に転籍して 3 年が過ぎますが、営業本部を立ち上
げ三菱電機以外からの受注活動に邁進していました。
三菱電機時代と正反対の営業活動に懸命の日々で、初
めは血尿が出る程の苦しい経験もしましたが、最終的
には外販率(三菱電機以外の売上)40%近くの成果を
上げることができました。
2007 年 6 月にグループ会社を退職し、今回 6 度目
の年男になるまで 2 つの会社に引き続いてお世話に
なっております。三菱電機及びグループ会社で 4 回
の年男を重ね、その節々に素晴らしい経験と諸先輩の
指導により今の私があるものと感謝しています。
今後は毎年開催の三菱電機神戸資材部 OB 会の幹
事として開催を後押し、仕事でできた韓国の友との交
流を続け、特にいま世話になっている会社が発展して
行けるよう健康に留意しもう少し頑張ることにして
おります。
第二の人生
南條 晃太郎(1944 年生まれ)
私は、夫婦共々無事に定年を迎え、
その時は褒美にオーストラリア旅行に
行ってまいりました。第二の人生を健
康で楽しく送ってまいりましたが、妻
の持病が 65 歳を過ぎたころから悪化
しはじめ、享年 70 歳で他界しました。
妻とはよく喧嘩をしました。付かず離れず空気のよ
うな存在だと思っていましたが、亡くなった今は、妻
は偉大で亭主って本当にチッポケなものだと痛感し
ている今日この頃です。
これから残された人生、子どもたちに迷惑をかけな
いように、趣味のテニスや、野池の魚釣りで健康作り
を実践していきます。
第140 号
尺八を 20 歳代後半から始めまして
大師範の資格を頂いております。毎日
2 時間以上の練習と毎週大阪南での
プロの先生のレッスンは欠かさない
ようにしています。
60 歳でイタリア語アリアの歌唱勉
強を始めまして音楽大付属高校卒レベルになりまし
た。70 歳でスペイン語を始めまして大学の先生方と
スペイン語で e-mail 交換をしています。お陰さまで
毎週妙齢のスペイン美人に尺八を教えていますし、ギ
タリストの友人との演奏会も毎年続けています。また
毎日 1 時間家の中での体操を継続しています。72 歳
と聞くと 27 歳で戦死した父がすぐに頭に浮かびまし
た。第一子の写真も見ずに死んだ父に楽しい話を一杯
してあげなければなあと家内と良く話をします。
「そ
のためにも心身ともに健康で長生きして、いろんなこ
とを頭にも体にも一杯に詰め込まなければなあ」とも
語り合っています。
健康とランクアップ
原 康博(1944 年生まれ)
昭和 19 年 10 月 12 日生れ、申年,
当年 72 歳になります。
昭和 42 年入社、伊丹製作所 整流
器製造部(現 TMEIC)に配属。鉄鋼
業界を中心に圧延機用駆動電源の現
地調整業務がスタートでした。幾多の
変遷を経て、平成 20 年にリタイヤして自適生活 7 年
目です。
70 歳になったと感じたことは、医療費2割負担、
敬老優待乗車証受領、ゴルフ利用税の無料等優遇(?)
して戴いたことゴルフの飛距離が落ちた事かな?
男の平均年齢は約 80 歳ですが、厚かましく次の申
年を迎えられたらと念じています。長生きも健康でな
ければと笑いの効用が諸説あり、笑いのもとは、歌
って(声を出す)、踊って(体を動かす)、旅行する
(知的刺激)が上位にランクされています。
これに触発され、年寄りの冷や水ですが、数年前
から卓球を始めました。卓球ぐらいの気持ちで始め
ましたが,なかなか奥深いスポーツと気が付き、四
苦八苦しています。1 回/週の卓球教室、2∼3 回/週の
仲間との練習で、ほぼ卓球中心の生活ですが、お陰で
医者いらずです。
今年も変わらないですが、競技で上位へのランクア
ップを目指したいと思っています。
健康とランクアップが目標です。
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神 戸 ひ し の み 会
第140 号
感謝の気持ちを持ち続けたい
香山 康三(1944 年生まれ)
楽しいことをいっぱいしよう!
中山 妙輔(1944 年生まれ)
退職後の 10 年間はあっという間
に過ぎ、今 6 回目の年男。人生には
「学ぶ」・
「働く」
・「楽しむ」の 3 つ
の段階があり、この 3 つを一生懸命
やると、人生が充実すると言われて
いる。
さぁーやるぞ!と意気込んでみたものの、どうやっ
て楽しむの? その術(すべ)がわからない。いろい
ろな変遷を経て神戸シルバーカレッジに辿り着く。授
業やクラブ活動で絵画、陶芸、社交ダンス等を習うこ
とができた。10 年間の歩みを以下に。
・登山:キリマンジャロ登頂、日本百名山を 50 座踏
破
・海外旅行:退職後 23 回。特にスイスは 4 回
・絵画:市展入選、県展入選
・陶芸:市展入選、自宅で「6 人展」
・社交ダンス:ソロ・デモンストレーションでタン
ゴを踊る。
楽しい時間はあっという間に過ぎる。楽しいこと
を一杯して、次の年男を迎えられたらいいなと思っ
ております。
今年の、お盆は帯状疱疹で 6 日間
入院しました。夏大好きな私には大変
残念でした。その上、退院後も痛みで
眠れない日が続き、食欲も無く身体と
精神力にかなりのダメージを受けま
した。また、塗り薬の塗布やガーゼの
交換等々で、家内に心配と世話をかけさせてしまいま
した。そのためか外出もままなりませんでした。そん
な時、仲良くしてきた同期入社の一人が親身で私のこ
とを心配してくれ、メール、或いは電話で再三にわた
り励ましてくれました。メールのやりとりに、
「私も
頑張らねば!!!」と思うも、なかなか回復しなかっ
た。しかし彼からの励ましに助けられ、ヤット 1.5 ヶ
月位前から外出ができるようになり、食欲も以前に戻
ってきたように思えます。家内に感謝、善き友人に感
謝、感謝の気持ちを持ち続けたいと思います。
使い古された言葉ですが「持つべきものは善き友」
。
古希を過ぎて何を今更と思われますが、私も善き友に
絶対になりたい!絶対になるぞ!
少年時代と現在の趣味
藤涛 勝(1944 年生まれ)
平穏な生活環境に感謝
古木 壽人(1944 年生まれ)
60 歳で転籍先の MPE 中部本部(旧
中プラ)を定年退職後,神電公共部(現
社会システム第一部)幹部のご好意
いつの間にか、こんなお爺さんにな
により,技術面のお手伝いをさせて
ってしまった。私は南あわじ市の北阿
頂いて約 11 年になります。昔の仲間
万で 9 人兄弟の 8 番目として生まれ兄
や若手技術者に囲まれて,有意義な
6 人、姉 1 人、弟 1 人と両親、祖父母
球拾い役を自認しております。
(そろそろ潮時ですが
の 13 人家族のなかで育ちました。父は
…)年 1 回受診する人間ドックでは歳相応の所見を
公務員でしたが農業もやっていたので
宣告されますが,幸いにも現時点において致命的な
麦めしに芋や、はったい粉などを食べて生活しており、
症状はなく,無難に勤務中です。勤務継続による生活
あまりひもじい思いをした記憶はない。
中学校卒業後町工場に就職したが、1 年半後新聞の リズムの維持,ソフトボール同好会の知人に誘われて
求人欄に三菱電機神戸が募集しているのを知り転職 34 歳から 30 年間携わった少年野球の指導,40 歳過
ぎから始めた早朝ジョギング(20 年弱),定年後に始
しました。
定年後は、大好きなゴルフが生活の中心である。週 めた通勤時のウォーキングなどが,老化の速度を抑制
に 3 回練習して 1 回コースに出るパターンで、10 年 してくれたのかもしれません。また,地元のゴルフ同
あまり過ごしているが、平均ストロークは年と共にだ 好会や自治会活動,週 1 回カラオケとセットで味わ
んだん悪くなっている。それでも兄弟 6 人のゴルフ う適度のお酒は,地域社会に溶け込むと共に精神的な
ァーの中では、チャンピオンです。その他の趣味は阪 ゆとりにもなっていると感じます。今後も背伸びする
神タイガースの応援で、時には 2 軍戦も見に行きま ことなく,余生を楽しみたいと思います。
す。土日はパソコンで馬券を買い楽しんでいます。こ
の生活がいつまでも続けられるよう、健康に気をつけ
たい。
- 12 -
神 戸 ひ し の み 会
楽しむことを忘れずに
岡本 紘一(1944 年生まれ)
七十の手習い始めましたが・・・
伊与田 寛忠(1944 年生まれ)
3 年前の 3 月、68 歳で職場を離れて
からもう今年は年男と呼ばれる年に
なりました。
“リタイヤしたら暇を持て余すぞ”と
の周囲の声に、不安な気持ちもありま
したが、いざふたを明けてみると、家
事、趣味の小旅行、家庭菜園の世話、嫁や娘の出産の
支援(もちろん妻が主役ですが)など、この 3 年間
は実に忙しく瞬く間に過ぎたように思います。
七十の手習いと意気込んで資格取得のための勉強、
六甲山全縦走のトレーニングなども始めました。しか
し、元々の頭の鈍さに加えて往年の体力、気力が無い
ことにも気づかされ、忙しさを口実に計画が先延ばし
になるばかりです。
幸い年相応には元気だと思っており、このような毎
日でもなんとか 5 年、10 年先まで続けられることを
願っています。また、同期入社の方々、元の職場のみ
なさん、更にはひしのみ会など、年数回ある飲み会を
楽しみに日々を過ごしています。
第140 号
昭和 38 年に入社して、タービン発
電機を中心に設計・開発・材料調達、
CAD の導入、ISO14000 の導入、業務
の効率化などに無我夢中で取り組ん
でいたなと振り返っています。
5 年前会社を完全に卒業すると同時
に、時期を置かず同期生が学んでいたしあわせの村の
「神戸市シルバーカレッジ」に入学して、3 年間生活
環境コースで学びました。
卒業後は、このカレッジの卒業生で構成されている
「NPO 法人グループわ」で、広報(情報誌やホーム
ページ)を担当すると共に、地球温暖化防止活動、地
域の小学校支援などの活動で忙しい状況が続いてい
ますが、楽しむことを忘れないようにしたいと思って
います。
継続は力なり
宮澤 徹(1944 年生まれ)
「一日 2 杯の酒を飲み、
さかなは特に
拘らず・・・」好きな歌詞である。
体調面で腰痛以外、特に大きな問題
は無く生活できていることは有難く
先輩、友人、親、家族に加え、適量な
お酒のお陰と素直に感謝。
年男を迎える感慨は特に無いが、今後も継続して
いきたい「二つのアイテム」があるので記してみた
い。
一つ目は「腰痛治療の為の筋トレ」です。脊椎の
軟骨がすり減り、神経を圧迫しているとの診断。筋
力強化による腰への負担軽減と言われ、スポーツジ
ムで筋トレを続けて 10 年目を迎える。完治してはい
ないが、頻発していたギックリ腰は解消方向であり
継続することの大切さを痛感。
二つ目は「写真撮影(ボケ防止にも期待)」です。
あるカメラメーカーの写真集に掲載されたことがき
っかけですが、知れば知るほど奥が深く、頭と体力
(身体能力も)を使うものであることを知りました。
撮影に出かけられる体力を維持し、これからもボケ
ないよう良き師、良き友と楽しく継続できればと思
っております。「継続は力なり」を信じて。
- 13 -
以上申年生まれの方々の『年男・年女登場』への
ご寄稿を掲載しました。
ひしのみ会員の申年生まれの方は、
1920 年(大正 9 年) 1 名
1932 年(昭和 7 年) 37 名
1944 年(昭和 19 年) 51 名
1956 年(昭和 31 年) 3 名
合計
92 名
いらっしゃいます。
その中の 38 名の方から登場頂きました。
今までの申年はどんなご時世だった?
1944 年(昭和 19 年)
・インパール作戦
・サイパン陥落
・ノルマンディー上陸
1956 年(昭和 31 年)
・日ソ国交回復
・弥彦神社惨事
・メルボルン・オリンピッ
ク
1968 年(昭和 43 年)
・三億円事件
・日本初の心臓移植
・金嬉老事件
・川端康成にノーベル賞
・東大紛争
1980 年(昭和 55 年)
・川治温泉でホテル火災
・富士見産婦人科病院乱診事件
・KDD 事件
・新宿バス放火 ・巨人、長嶋監督辞任、王引退
1992 年(平成 4 年)
・PKO 協力法案成立
・佐川献金疑惑で金丸議員辞職 ・共和汚職事件
・日本人初の宇宙士毛利衛宇宙へ
2004 年(平成 16 年) ・鳥インフルエンザの発生
・自衛隊イラク派遣開始 ・岸和田中学生虐待
・松戸立てこもり事件 ・宇都宮立てこもり事件
・沖国大米軍ヘリ墜落 ・栃木 5 億円強奪事件
・愛知豊明母子 4 人殺人放火事件
・新潟県中越地震
・スマトラ島沖地震