平成26年2月 №728 大 す 分 お 歯 う な 界 月 報 だ 周防灘物語 ~軍師黒田官兵衛~ 第1回 中津歯科医師会 吉村泰洋 「中津初代城主官兵衛の 大河ドラマ化を機に、中世 の郷土史を少しばかりか じってみました」とのこと で、中津の吉村泰洋先生か らご投稿いただきました。 その中から、中津市での出 来 事 を 中 心 に 全12回 で 掲 載していく予定です。 豊前八郡 ①馬ヶ岳城 ②苅田(松山)城 ③中津(川)城 ④妙見岳城 ⑤竜王城 黒田家の御先祖は? ①近江国伊香郡黒田村②播磨国多可郡黒田庄との二説ある。 黒田家の系図は? ①・・・政光→高宗→高政→重隆→職隆→孝高(官兵衛) ②・・・重貞→重昭→重範→重隆→職隆→孝高(官兵衛) ③・・・重貞→重昭→重範→重隆→治隆(長男)・孝高(次男) 重隆の妻は妻鹿氏の出身で比延懿讃院(黒田城落城時に治隆と共に死亡?とあり、官兵衛27歳まで存命 ということになる?)重隆の次男孝高が万吉こと官兵衛で小寺職隆の養子となった。 小寺家系図 →則職 →政職(長男:御着城)→氏職(軽い知的障害) →職隆(次男:国府山城) 妻鹿にある職隆の墓 重隆と官兵衛の母?(明石氏)の墓 右の写真の案内板には「黒田家譜」の捏造?を そのまま書いています。祖父と嫁の墓ですか?明 石氏は職隆の妻で官兵衛13歳時に死亡していま す。実父重隆と生母懿讃院の夫婦墓と見るのが自 然ではないでしょうか?今後の研究調査が待たれ ます。 −18− 大 分 歯 界 ※官兵衛が有岡城に幽閉された時に黒田家の重臣 7人が、主が不在の間は職隆の命に従うという 誓約書を書いた(職隆が実父であればそのよう な事をする必要はないと言われる)。職隆の継 室は神吉氏、母理氏。 ※目薬屋(玲珠膏の名で販売とか)は怪しいかほ んの少し関係(家伝薬くらい)があるのかな? といった感じ(中津でも福岡でもその後 目薬の 木 の記述は見当たらない)。 ※目薬の木(千里眼の木) ・・・標高500∼600mの 山地に自生するカエデ科の落葉高木樹で、昔か ら山村では外傷性の眼病や物もらいに木の皮を 煎じて洗眼したり、小枝や葉を煎じて飲用し、 かすみ目や白内障に用いていた。福島県耶麻郡 塩川町には幹回り4.1m、樹高20m、推定樹齢300 年の巨木がある(樹皮を剥ぎ取られた跡があ る) 。特許のない時代、生薬の目薬で財をなせる はずがないと言われる。黒田家譜には一言も書 かれておらず、江戸中期の(信憑性にやや劣る) 講談本『夢幻物語』から 黒田家目薬屋伝説 が登 場して以来、引用される書物が多い。中津、福 岡には目薬の木が植えられていた形跡もない。 ※中国大返し・・・官兵衛が秀吉に天下取りを進 言しないと、柴田勝家あるいは徳川家康が明智 光秀を滅ぼしたであろう。時間との戦いであ り、中国大返しを企て、山崎の合戦で主導権を 取るまでの道筋をつけた官兵衛は、誰もが認め る秀吉の最大の功臣であった。 月 報 平成26年2月 №728 ん型で ひょうたん城 とも又、茅切城とも言われて いた。普段は麓の「溝口館」に住み、戦の時は山 奥の茅切城に籠もった。 最後の16代当主となった宇都宮鎮房は1536年生 まれで、大友家のお家騒動「二階崩れの変」で有名 な大友義鑑 (宗麟の父で正室は大内義興の娘) (1502 ∼1550)の娘を正室に貰って大友氏側についていた (ちなみに父長房は大内義興の娘が正室) 。義兄弟 大友義鎮(宗麟)の一字を貰って鎮房と名乗り、秀 吉が九州平定にやって来た時には50代で、正直で無 骨な気性の持ち主であった。体格的には身長が180 ㎝もある大男で、強矢の使い手であり、鹿の角をも 引き裂く怪力があったと言われる。鎮房は豊前企救 郡長野を所領していた長野祐盛(秋月種実の弟)と 共に小領主故に大友、毛利の間をうまく渡っていた。 豊前国随一の名門である城井流宇都宮家には多 くの分家があった。野仲(長岩城)、佐 田(赤井 城)、深 水、江良、加来、犬丸、西郷(不動ヶ岳 城)、奈須等古くに岐れて本家との繋がりが薄く なった分家もあるが、山田輝家(山田城)、如法寺 輝則(山内城)、城井信継(川底城)、仲蜂屋(馬 場城・・・鎮房の姉婿)等は代々本家の指図に従っ て身を処している。筆頭家老の伝法寺家も分家で ある。城井家を盟主とする鬼木、緒方等国衆もあ り、最盛期には岩石、一ツ戸城、馬ヶ岳、香春岳 も38支城網に入っていたが、惣領の庶子に対する 統制が弱く、各地で庶子が大きく成長してお互い に争うことも多かった。 城井宇都宮氏の初代信房から分家独立した弟の 重房は下毛郡津民荘で当代鎮兼に至るまで野仲氏 を称し、22代約390年続いた。豊前に於けるもう一 方の実力者であり、下毛郡の代表者であった(城 井氏とも過去に数回戦っている始末)。 城井宇都宮家は・・・大内義隆→大内義長(大 友義鑑の次男)→大友義鎮(宗麟)→島津義久と 強大な勢力と巧妙に渡り歩いて来た。戦国時代の 北九州は、大友氏と大内氏の抗争時代である。天 文年間の1532年には豊前妙見岳城で大内勢と大友 義鑑が戦っている。天文3年には大内義隆は豊前 仲津郡に出兵(勢場ケ原の戦い) 。鎮房の祖父正房 は大内氏から室(正妻)を、父長房の室は大内義隆 の妹を、鎮房は大友義鎮(宗麟)の妹を室に迎えて いる。宇都宮鎮房・朝房父子は1578(天正6)年、 宇都宮勢も参戦した 耳川の戦い で大友氏が敗れ ると、豊前の諸城は大友を離れ、鎮房は大友宗麟と 決別し、島津と組んだ秋月種実氏と共に島津側に つき、種実の五女竜子姫と朝房の婚約が決まった。 続く ◎時流を見る目がなかった城井宇都宮家 (豊前に土着する中世武士の名門) 宇都宮家はその遠祖が、 その名のように下野(栃木 県)の出で、源頼朝の平家 討伐後、1185(文治元)年、 頼朝は諸国に守護や地頭を 置 い た。 頼 朝 の 御 家 人 で あった宇都宮信房は豊前国 の地頭を賜り(分家) 、築 城、上毛、下毛、中津、宇 佐の五郡を支配していた。 以後400年間、この一族は善政を行い、その居城は 周防灘に流れ込む城井川の上流の城井谷の奥にあ る寒田の城井谷城(福岡県築上郡築上町)である。 四方に岩石を巡らし、通路が狭く城にたどり着く までが至難、 「入り口狭くして中広し」のひょうた −19− 平成26年3月 №729 大 す 分 お 歯 う な 界 月 報 だ 周防灘物語 ~軍師黒田官兵衛~ 第2回 中津歯科医師会 吉村泰洋 ◎豊臣秀吉(1537∼1598)の(九州 征伐)豊薩戦争、37か国25万の大軍 は秀吉の示威行為あるいは朝鮮出兵の 布石とも言われる 理に立て、しかもわずかな兵しか出さなかった。 又、秀吉の九州滞在中に大胆不敵に挨拶にも行か なかった。5月に島津義久が剃髪して降伏した。 ◎論功行賞…豊臣政権樹立の最大の功労 者(その智謀を警戒されたと言うが伴 天連追放令の手前)官兵衛の禄高はな ぜか?わずか12万石(でも実際は18 万石あった!) 豊前豊後を中心に大友氏が勢力を伸ばしていたた め、中津・宇佐付近は多く大友氏の支配下にあった。 義統の時代になって勢力が急激に衰えたため、原田 (筑前) 、立花、龍(竜)造寺らは自立した。一方、 薩摩の島津氏は北上して九州各地を侵略し始め、九 州の大半を制圧した島津氏の領有地は100万石を越 えていた。これに対し大友宗麟、義統父子は豊臣秀 吉に援助を求めた。秀吉は毛利氏に命じて大友氏を 助け、黒田官兵衛、安国寺恵瓊をその軍監として九 州に派遣した。1586(天正14)年7月25日、官兵衛は 三万石(100石に付き3が目安なので900が妥当)には 過ぎた4000(2000とも)の兵を集め、京を出発した。 11月7日に宇留津城(築上郡築上)陥落。 11月20日、香春岳城を抜き、豊前の長野、広 津、中八屋、山田、宮成(宇佐郡)は調略により 戦わずして人質を出して降伏した。12月の初めに はほぼ豊前を手中にし、官兵衛は香春岳城に、小 早川隆景、吉川広家らは松山城と馬ヶ岳城(福岡 県みやこ町犀川)に陣を構えた。 1587(天正15)年6月7日、秀吉は大宰府から博 多へ入り、箱崎宮を本営として約20日間滞在し、 九州御国分(論功行賞)を行った。6月17日には伴 天連追放令を出し、この時官兵衛は(表向き)棄 教した。秀吉は九州攻めの功に一国を与えようと 官兵衛に約束したが、口約束に終わった。 秀吉は7月2日、箱崎から豊前小倉城に入り、 参謀として功が大であった官兵衛にはこれまた二 郡を削って、治めるのに苦労するであろう豊前6 郡12万余石しか与えなかった。宇佐郡の大友方の 戦略的要地である妙見城(現宇佐市院内)と龍王城 (現宇佐市安心院)は除くとある。豊前国の残り二 郡(企救郡、田河(川)郡)は毛利勝信(中国の毛 利氏とは無関係)に与えられた。 「たったこれだ け・・・」官兵衛は政権から遠避けられたと判っ た。秀吉は自分と似たしたたかな考えを持つ官兵 衛を用心したのか、それとも伴天連追放令を出し た手前、キリシタンの官兵衛に多くの領地を与える ことができなかったともある。 秀吉は官兵衛に対する遠慮か後ろめたさから か?豊前の石高を差出(自主申告)にした。官兵 衛はサバを読んで12万余石と申告したが実際は18 ∼20万石位あった(およそ一郡は3万石が目安 で、後の関ヶ原の戦いでは、100石に付き3と、18 万石としての出兵数5400を要求されている)。 日向、高鍋3万石を安堵された秋月種実は鎮房 との約束を守り、城井本庄の若山城で竜子姫の婚 姻を済ませ、種実は高鍋へと旅立った。一方秀吉 は安国寺恵 瓊 を通して鎮房に家宝の藤原定家の 「小倉色紙」を出せと催促したが、鎮房は「先祖 の遺品で(秋月種実の 楢柴肩衝 と違って)購入 した品ではない・・・」と拒んだため秀吉は激怒 した。そのため、所領安堵は微妙な立場であった。 博多は龍造氏、島津氏の攻撃で焦土と化してい 松山城(苅田町松山) 1587(天正15)年3月、秀吉は37ヶ国25万(秀吉 直属軍10万、実弟の秀長の軍15万)の大軍で豊前 に着陣、南北に分け、秀吉は北軍10万を率いて秋月 種実を攻め降伏させた。16歳の息女を人質に出 し、名茶器「楢柴の肩衝」と「国俊の刀」を献上さ れたので許され秀吉軍に加えられた。秋月氏が降 伏すると鎮房はあわてて病と称して子の朝房を代 −16− 大 分 歯 界 たため、秀吉は官兵衛に博多の復興を命じた。官 兵衛は入江、湿地を埋め立て、町の区画整理を 行って町作りを行い、武士の住む町と商人の住む 博多(港町)と、一つの地域に二つの町を作った。 博多の町に武士が住むことを禁じ、楽市楽座の商 人の町を作った。「太閤町割り」と言われる。又、 官兵衛は「博多塀」と呼ばれる 廃物利用の 瓦礫 を素材とした塀を張り巡らした。これは博多の櫛 田神社に一部現存している。又、町の端に寺を集 め(墓地の墓石を)防塁(鉄砲玉除け)とした。 (私見ではあるが)この時点では秀吉は官兵衛に 「一国を与えよう」と約束した通りに筑前を与え ようと思案していたのでは? ちょうどその時、宣教師の悪行が秀吉に知れる ことになり、宣教師を呼んで問うと開き直られ、 キリシタン大名が悪いと反発された。怒った秀吉 はバテレン追放令を時を同じくして出したのであ る。キリスト教そのものを禁じたわけではなかっ たが、この突然の心変わりに官兵衛とやり取りが あったと想像される(官兵衛のクリスチャンとし ての記録は江戸期に抹殺されている)。バテレン 追放令を出した手前、真っ先に棄教したとはい え、官兵衛に大国を与えるわけにはいかなかった ことも十分に考えられる。 丸山雍成九州大学名誉教授は「官兵衛は九州勢力 を次々にキリシタンへ塗り替えた。秀吉は、世界制覇 に乗り出していた西欧諸国にキリシタン大名が利用さ れ、自分の海外戦略の妨げになるのを警戒したので はないか」と官兵衛が賢すぎたからというよりもキリ シタンだったことが大きかったのではとみている。 月 報 平成26年3月 №729 1587(天正15)年7月、黒田藩は播磨国山崎か ら豊前に入部。官兵衛は先ず時枝氏の居城時枝城 に入り、その後築城郡(現築上郡)東八田の法然 (念)寺(8か月間仮住まい) 、長政は京都郡「馬ヶ 岳城」 に入った (八田と馬ヶ岳城間は約8㎞) 。馬ヶ 岳城は古くて狭いためとても全員は収容出来な い。又、足の悪い官兵衛には山城は無理、それと 八田の方が海に近いからである。官兵衛は甲賀忍 者の馬杉省五郎を情報源として雇い、情報は早舟 のリレー、大阪淀川河口→鞆の浦(広島県福山) →周防上ノ浦(下関)で築城の浜に届かせていた。 又、城井谷には福森甚内を忍ばせていたようだ。 <如水の治政>三ヶ条の制法 天正15年7月25日 ①主従の身分秩序(主人・親・夫)を重んじる ②殺人・強盗をした者は罰せられる(領内の治安) ③検地に協力し、隠田は厳罰(密告した者には密 かに褒美を取らす) 広津治郎少輔、中間六郎左衛門、八屋、時枝平 太夫、宮成吉右衛門(時枝氏の弟で宇佐大宮司)、 吉岡の上毛、下毛、宇佐の武士達はいち早く人質 を出して恭順。土田城(旧下毛郡真坂)の百留河内 守は黒田に降り、彼の手引きで叶松城(旧上毛郡 友枝)主内藤太郎も黒田に降りた。 地侍(半農半武)を廃止して 刀狩 (兵農分離) ・ 太閤検地 (間尺法を統一して六尺三寸を一間 とし、検地竿を使って、田ごとの収穫高と作り手 を台帳に載せた)をおこなって作り手から大名が 直接年貢を徴収する制度を行った。天正19年の検 地は20ヶ国に及ぶ最大のものであり、 「太閤検 地」と呼ばれる。それがため、国人、地侍は ①俸禄を得て武家奉公人になる(数少ない) ②帰農する(兵農分離でここから江戸時代に庄 屋・名主が出た) ③反乱(一揆) ・・・祖先伝来の領地は検地によっ て大名の直轄地となり、実際は取り上げられ る。 「わしらの領地は取り上げられ、百姓になれ というのか!」命にかえても所領を守る。 黒田官兵衛が豊前に入部した時には、百を超え る国人、地侍がいて(半数以上が宇都宮氏の分家、 分派、配下)それぞれの村落に小さな城砦を構え、 自らを城主と号し、強者に臣隷して横暴を無秩序 に極めていた。そして〇〇守と勝手に称してい た。他に彦山衆徒(数千人)の山伏、求菩堤宗徒 (宇都宮氏の支配下)等がいた。 続く ◎(統治に苦労するであろう) 豊前国に黒田官兵衛入部 時枝城址 (宇佐市下時枝) −17− す お う な だ 周防灘物語 ~軍師黒田官兵衛~ 第3回 中津歯科医師会 吉村泰洋 き い ◎城井一族の殉節 (高橋直樹著『城井一族の殉節』参照) ※中間氏・・・一ツ戸城(現中津市耶馬溪町宮 園)主中間(太郎右衛門)統胤は山田、八屋 宇都宮鎮房には加増の上、四国今治(伊予国府 氏らと一揆に加わったがいち早く降伏臣従し 城で今の今治城とは異なる)12万石への転封が命 た。中間は上毛郡の雄山田大善と従兄弟だっ じられ、他の分家は所領安堵となったのである。 たため行動を共にしたが、一族郎党衆の票決 鎮房は鎌倉以来 一所懸命 の地である豊前に愛着 で全員一致し、黒田に従うことになった。鎮 を持ち、加増は辞退するが本領安堵の話を秀吉の 房の使者が一揆に加わるよう一ツ戸城を訪れ 家来の毛利勝信に託したが駄目であった。勝信は たが、統胤は一旦黒田氏に従ったからには出 豊前八郡の内企救、田河(川)の二郡を賜った。 来ないと返事を使者に託した。その使者が帰 毛利勝信は「(この度のことは秀吉公一時の怒り 途黒田側に捕えられ、返事を見た官兵衛は統 によるものであるから)自分の所領する田河(川) 胤の忠義を感じた。 郡赤之郷三か村(白土、柿原、成光)を進呈する ので、一旦城井谷を出て赤之郷で吉報をお待ちく ださい」。朱印状の返上は秀吉に楯突くことであ り、容認されるはずがなかった。勝信は大名に 1587(天正15)年 そむ 秀吉「命に叛く者は領地を切り取れ」 なったとはいえ、武士団を持っていなかったので 馬ヶ岳城の長政の近習から「肥後で一揆が起き 宇都宮父子を家臣として岩石城(毛利吉雄が一万 ましてございます」と時枝城(宇佐)で碁を打っ 石で城将)と香春岳城に置こうとしているという ていた官兵衛に一報が入ったのは9月。官兵衛は 風聞を聞き、鎮房は勝信にはめられたのではない 大阪城へ急便を送り、折り返しの返事「一揆鎮圧 かとの不信感で日々悶々としていた。鎮房は立派 に向かえ」ということで久留米(鎮圧軍の集合地) な武士であったが、秀吉の大軍が、戦国時代の終 に向かった。官兵衛が肥後一揆鎮圧に向かったそ わりを告げる軍隊であるとの時流を見る眼がな の隙を見て、豊前一揆を起こしたのである。 かったのだろうか。 <豊前国一揆は3つのグループが各々起こしたも ※築後200町(小早川隆景配下)という説もある のであり、まとまってはいなかった> (陰徳太平記)。何故なら(1.5∼2)万石から 6倍以上の加増を鎮房とて喜ばぬはずがない。 24 ◎豊前国一揆勃発 ①城井鎮房の支配下の築城郡、仲津郡、京都郡、 上毛郡の一部(城井衆) 200町(2,000石)と12万石では大差である、秀 ②山田大膳(輝家)氏を中心とする上毛郡 吉の方針からすれば、200町説があるいは正し (山田衆) いのかも知れない。200町とは・・・その上「小 ③野仲(重)鎮兼の支配下の下毛郡、宇佐郡 倉色紙」を出せ・・・官兵衛が入部するや戦に (野仲衆) なったという説も見受けられます。 ※野仲氏は大内氏の下で下毛郡代を世襲していた 大分歯界月報 平成26年4月 № 730 下毛郡の雄であった。そして武力・暴力でもっ 屋明神の森にて手兵300で布陣し、多勢に無勢で て宇佐神領にも進出していた。大友方の福島 滅んだ。黒田家譜では日熊城近辺の戦いで討死し 城、大畑城に執拗な攻撃を何度も掛けていた。 たとなっている(一般に、敗者側には記録の文献 豊前には黒田官兵衛の長男黒田長政(1568∼ がなく、旧家臣らや住民からの伝承をまとめた後 1623)がいた。20歳を過ぎ、分別はともかく勇気 日集を基にしているため、この様に一部矛盾した があり、戦いの指揮は単純であったが果敢であっ ところがある)。 た。長政は急を官兵衛に知らせ、官兵衛は後のこ 1,000数百人の黒田勢は城兵300余人で死守して とは小早川隆景に託して、3,000の手勢で豊前馬ヶ いた日熊城の鎮圧に向かった。黒田勢の背後を狙 岳城に引き返し始めた。この非常事態に官兵衛は い、宇都宮鎮房の旗本如法寺孫四郎率いる300余 秀吉に窮状を一報、次いで安芸の毛利輝元に援軍 人、緒方城城主緒方惟綱率いる200余人、川底城主 を要請した。毛利の援軍は1万2,000であった。 城井弥七郎知房が攻めてきた。同時に、日熊直次 1587(天正15)年10月1日、長岩城の野仲鎮兼 は小郡利右衛門、村岡内匠に命じ城内より討って の呼びかけ(この時代は野仲衆の方が城井衆より 出て、二刻ばかり息もつかず戦った。高所からの 勢力的であった)で先ず、上毛の日熊(姫熊、日 城兵の突撃に長政は苦戦、黒田勢は二手に別れ、 隈とも)城の日熊直次氏、宇佐高家城(中島城) 栗山大膳は城を取り巻き、もう一手は後詰の敵に の中島房直(統次)氏が挙兵。長政は午後10時に 向かって戦った。後藤又兵衛の活躍で何とか日熊 馬ヶ岳城を出発、翌10月2日早朝(早くから黒田 城を陥落させたが、黒田軍は思いのほかの死傷者 に降りていた広津鎮種の)広津城に向かった。黒 を出した。日熊直次はもはやこれまでと悟り、城 田勢の背後を狙い、山内城主如法寺孫治郎輝則、 に火を放ち自害、郎党も自害した。嫡男は3歳で 川底城主城井弥七朗、鬼木城主鬼木掃部助、山田 あったが乳母が抱いて逃げ、彦山に逃げ隠れた。 城主山田大膳、八屋城主八屋刑部、東友枝叶松城 13年後、細川時代にもどってきて民間人となった 主内尾主水、西友枝雁股城主友枝大膳らの山田衆 ともある。如法寺氏は黒田方の櫛橋三十郎によっ が手勢を率いて出陣した。黒田軍は日熊城に押さ て討たれ、如法寺信政から400年続いた如法寺氏 えの隊を置き、残る1,000余の軍勢で国人連合軍を は滅亡した。緒方氏は討死、緒方城は落城。 観音原(上毛郡友枝)(別名桑野原)で戦い、平地 ※官兵衛の妹(妙円)婿の尾上安右衛門繁常(武 戦を得意とする黒田勢は鬼木掃部を(上原新右衛 則)が討ち死にした。後に兄官兵衛から毛利家 門が)討ち、上毛一揆連合軍は敗れ、それぞれの 臣との再婚を薦められたが拒否、筑前入国後地 居城に逃げ帰った。 元の麻生氏と再婚。妙円の長女おたいは黒田家 山田大膳は宇都宮鎮房と並ぶ上毛郡随一の強敵 臣井上一利に嫁いだが早世で未亡人。二女おい であるが、山城に逃げ籠った。黒田軍は大膳の従 ちは母理武兵衛に嫁いだが討死で未亡人。長政 兄弟の中間統胤を道案内として兵を向け、従兄弟 は筑前で二人に150石、100石を隠居領として与 の来訪ということで気を許した隙に一斎に鉄砲で えている。 攻撃し、山田氏は滅んだ。その後、黒田軍は八屋 続く 城に向かった。八屋刑部は山田氏の一族で、黒田 軍を多く討って落城すると行方をくらました。山 田大膳の弟とも次男とも言われる如法寺輝則は八 大分歯界月報 平成26年4月 № 730 25 す お う な だ 周防灘物語 ~軍師黒田官兵衛~ 第4回 中津歯科医師会 吉村泰洋 ◎宇佐郡での豊前一揆 秀吉の九州平定の際に黒田家臣となって豊前地 方の案内役となり、官兵衛の寄騎(与力)となって 再び時枝城主(1,000石)に返り咲いた時枝鎮継(平 太夫)は弟の宮成吉左衛門(宇佐宮)と共に、一 揆勢の高家城を黒田長政の援軍(黒田兵庫助、母里 太兵衛)により3,000余騎で囲んだ。750人の城兵は 矢戦を開始、その後中島雅楽介、中島弾正忠及び 高家玄蕃 允に率いられた140人は門を開いて黒田 の先鋒を破ったが、数に勝る黒田勢が殺到し、城 兵は皆敗走した。城主中島房直(統次)は三人張 りの強矢を操って長政に注ぎ、矢が長政の鎧袖に 当たった。長政は退き、兵を入れ替えて攻め込ん だ。房直は嫡子と共に大友を頼って、夜陰に紛れ て向野(宇佐市西屋敷)に行き、外戚(妻の実家) の松尾民部(大友方)の宅に逃げこんだ。しかし、 民部は黒田に密告して(部落の者がともあり)遂に 房直は時枝平太夫に討たれた。城は焼かれ、15代 続いた中島氏の栄華は煙と消えた。吉松城主吉松 鎮俊も中島家に味方して敗れた。 そうけん 宗顕寺(中島氏の菩提寺) <小倉城攻め>(小倉池の北東部) 小 倉 城主の渡辺左馬頭統政は大友氏の旗下で あったため、黒田に服従せず籠城の準備をしてい た。長政軍は兵を二分して、一つは糸口原から、 もう一つは木行坂より進み城を囲むと城主統政は 精鋭部隊数十人と共に門を開いて突出し、接戦と なった。長政は軍を退かせて数重に遠巻きにして 囲んだ。統政は最早これまでと自決しようとした が、将山下伝六兵衛は降伏を薦めた。嫡子充満を 人質に出したので長政は許し、酒を将士に賜り労 した。そして兵を時枝村まで移した。 この形勢を見て乙女城主土岐修理允(亮)、光岡 城主赤尾源三郎、敷田城(館)主萩原種親(宮熊 城から移転した)も降伏。宇佐郡では宇佐宮の幹 18 大分歯界月報 平成26年5月 № 731 部の時枝氏、宮成氏が黒田方であったため一揆の 鎮静は早かった。豊前一揆に参加した辛嶋氏、益 永宗世氏(両氏とも宇佐市四日市)は降伏して宇 佐宮神官に、黒田家が筑前転封となった時に、時 枝鎮継(平太夫)も一族と共に筑前に行き家老職、 時枝城は廃城となった。墓は北九州市八幡西区の 貴船神社にある。 敷田城址 佐田宇都宮氏は大友方の被官でもあり、又、他の 宇都宮一族からも地理的に離れていたこともあり、 豊前一揆には参加せず、大友氏を頼って豊後に赴 いた。佐田氏は戦国時代を通して「忠節他に異也」 と言われるように、誠実で争いのない誠実な家で あった。御許山の御神用を懈怠なくおさめていた。 文禄の役後、大友氏の豊後除国で佐田一族は黒田 に降り、その客分となり、後細川氏に仕えた。細川 氏の転封と共に熊本に同行したとある。 副城(現宇佐市院内)は1566年に田原紹忍の家 臣によって焼かれ、1581(天正9)年には大友氏 の家臣大津留左京進によって副宗澄は攻められ自 刃、1588(天正16)年3月3日に一族は黒田官兵 衛に降ったとある。 副城址 櫛野城(現宇佐市院内)の櫛野茂晴は天正17年 に黒田に降伏、所領没収 (帰農) 、城は破却とある。 矢部城主矢部山城守、津布佐(津房)城主津布佐 次郎丸、原口城主(院内)原口次郎、元重城主元重 統信(清) 、令官、祝、小山田の神官や万徳坊の僧 も黒田に降伏した。岩尾繁殊氏は大友氏に属してい たが、天正17年に黒田官兵衛に所領没収された。石 垣原の戦いでは大友義統に属して戦うが敗走した。 ※豊前一揆の鎮圧は天正15年に終息したという説 と、同17年に終息したとの二説があり、同一氏 でも案内板にバラツキがあります。 しげふさ ◎宇都宮鎮房 城井大平城奪回 けんこんいってき 乾坤一擲の大勝負 (高橋直樹著『城井一族の殉節』参照) 豊前国一揆の第一報は、すぐに赤之郷の宇都宮 鎮房のもとへもたらされた。鎮房は長岩城に使者を 送り軽率を戒めると、野中鎮兼は「本領を安堵され たのに黒田官兵衛の仕置きはまことに不審、我らが 一挙天下への逆意にあらず、ただに黒田官兵衛の 非政を糾さんの意なり」との口上を使者に返した。 野中鎮兼の口上を受け取った鎮房は自身の決断 を迫られていることを悟り、弥三郎(朝房)と相談 した。 「毛利勝信は関白殿下に我らが本領安堵をお 願いした形跡はあるのか」弥三郎は首を横に振っ た。 「父上、このままでは兵も減り毛利勝信の旗本 となって朽ち果ててしまいます。大平城にて大敵 を引き受け、戦場に骸を晒し後世に名を残すべし。 籠城すれば秀吉の耳に入り、何らかの沙汰もあ ろう」。この 沙汰 への期待が挙兵の目的でも あった。しかし、秀吉は「命に叛く者は討ち取れ」 という恐ろしい相手であった。鎮房は宇都宮本家 の威信と責務から蜂起を決めた。分家衆及び傘下 の国人衆に「豊前国人一揆の盟主たる決意」を密 使を使って表明した。 天正15年10月2日、赤之郷にいた鎮房以下150 の一族郎党で「城井谷」へと決起した。出陣の前 夜、鎮房は柿原の館に村人を招き「牛篭りの祭り じゃ、牛も馬も彦山で体を癒すのじゃ、村の衆は 遠慮せずに飲んでくれ」。その間、藁を満載した牛 馬の列が彦山の麓を目指した。藁の下には弓矢、 鉄砲、食糧を隠し、毛利勝信の忍びの者に気づか れないようにうまく欺いた。館の庭に幕を張り、 大量の酒樽を用意して村人を酔わせ、鎮房一行は 酔ったことを口実に館に下がり裏口から抜け出 し、間道を通って彦山の麓を通り鎮房は神楽山 に、朝房は鉾立峠から寒田に向かった。途中、野 山に隠れていた仲間が「すわ!城井殿様の挙兵 だ・・・」と次々に参加して軍勢は倍増し、伝法 寺を通り、寒田盆地になだれ込むと村人達は歓喜 の声で迎えてくれた。 主家の本領喪失は家臣の 所領喪失である。近郊の民も代々恩を施してきた 者共なので共に戦ってくれる そう鎮房は思っ た。城井谷の黒田家の城代、大村助右衛門はこれ はかなわじと馬ヶ岳城へと逃げた。約3か月ぶり に城井谷を奪還した鎮房等は合戦の準備を行い、 各砦の守りを固くし、武器兵糧を運び込んだ(霊 峰求菩提山を眺め、城井川のせせらぎを懐かしく 聞いたことであろう)。 鎮房は黒田勢を刺激して誘う策を取り、馬ヶ岳 城付近まで出没して、略奪、放火を行って長政を けしかけたともある。 ※ 蟹足戦法 ・・・地形を利用して要所々所に砦 を築き、その一、二を失っても大勢には影響が 少なく、敵を包囲して孤立させ、迎撃するもの である。戦国期に寒田の谷に移ってからも谷全 体を城塞化した。 ※上毛、築上の国人の一揆後・・・仲八屋氏、渡 辺氏は帰農して大庄屋、一揆参加後降伏した友 枝氏、内尾氏も帰農して大庄屋になった。 城井谷があわただしい中、分家衆のひとり、山 田輝家がわずかの郎党を連れて落ち延びてきた。 疲れ切った表情で輝家は先に蜂起した一揆勢の惨 敗を告げた。 「日熊、高家両城は陥落。日熊城に加 勢した我らも観音原にて打ち負け申した」 長政の軍は2,000、一揆勢は合わせて1,500。やや 劣るがこんなにあっけなく完敗するとは思いもし なかった。鎮房と朝房は輝家より詳しく事情を聞 いた。完敗の原因は明らかで、相互の連絡がまっ たく取れてなく、己の手勢を率いてばらばらに布 陣したのだった。国人一個の手勢は2∼300であ る。1,000対2,000では勝負にならない。 弥三郎「何故今少し連携することを心がけな かったのか・・・・」。国人衆は黒田憎さの一念で 蜂起したが、縄張り意識が強く元々は敵味方であ る(毛利方大友方で争っていた)お山の大将であ るため、各人ばらばらに戦い、連携協力等望むべ きもなかった。鎮房「このままでは(宇都宮)宗 徒の国人衆は全滅ぞ。黒田の注意を城井谷に引き 寄せるのじゃ」 ※天正7年から14年まで、島津側についた野中鎮 兼は何度も大友方の拠点である大畑城を攻めた が福島氏の伏兵のため落城できなかった。下毛 郡に於ける大友方の最期の拠点として下毛平野 部の武士をここに集めて野中、高橋、毛利勢の 侵攻を防いでいた。豊前一揆の際には犬丸、大 畑、福島の城に一揆勢が立て籠もった。 ※山田城に逃げ帰った山田大善は黒田勢に攻めら れ滅亡。 続く 大分歯界月報 平成26年5月 № 731 19 す お う な だ 周防灘物語 ~軍師黒田官兵衛~ 第5回 中津歯科医師会 吉村泰洋 ◎1587(天正15)年10月9日、黒田 軍城井谷を攻める長政の浅はかさ! き い (「岩丸山合戦」、「峰の合戦」、「黒岩合戦」と も言われる) 前進して「城の台」(小山田谷の詰め部にある小山 田城跡)に陣を構えた。鎮房は岩丸山に陣取った 黒田勢を見て、 「敵は大勢、味方は小勢。難しい戦 軍勢が少なかったので官 いだ」。敵陣から離れた所の岩陰、谷に伏兵を置い 兵衛は秀吉に援軍を乞い、 た。住民達には決死の白装束姿で竹竿を持たせ、 秀吉は尾張出身の子飼いの 山の脇や森に隠れさせ、戦いが始まれば起き上 近隣の毛利勝信、毛利輝元 がって “鯨波作戦” を行うのである。長政「要害 の援軍を差し向けた。上毛 堅固といっても小勢が守っているのだから一度に 一揆勢を打ち破って意気上 攻め落とすべし」と岩丸谷から城井谷に向かう黒 がった長政は「明日城井を 岩峠に差し掛かった時、黒田勢は一列になって竹 攻める」と下知した。井上 把を盾として進むと伏兵が何度か黒田勢に攻めか 九郎右衛門「城井城は要害よくして険難の地であ かるがすぐに逃げてしまう。「400年の名流、艾蓬 り、こちらから攻めても不利である。城井は険難 の射法、口ほどにもなし・・・」黒田軍は勢いづ を離れて戦うことの不利を知っていて、馬ヶ岳城 いて攻め進んだ。これは鎮房の策略(無理をする まで来て戦うことはあるまい」。竹森新左衛門「こ な!山の日没は早い、日中は息を殺して敵を待つ こはもう5日も待てば(官兵衛殿が)到着される のじゃ)である。長政がふと背後を振り返ると折 であろうから、その上で然るべく評定して決めた り重なる山裾に退路が断ち切られている。長政が が良いのでは」と諌めたが武略派の長政は聞かな 狼狽した時はすでに遅い、隠し砦の伏兵が突然に しろしょうぞく た ば げいほう かった。 襲ってきた。鉄砲の三段撃ちと交互して矢継ぎ早 黒田、毛利の連合軍2,000騎(3,000とも)は黒田 に矢が射たれた黒田勢はどこから狙われているの 長政を隊長、大野正重を先鋒、毛利輝元の援将勝 かさっぱり分からない。この時、“鯨波作戦” の叫 間田彦六左衛門を二陣として出兵。長政は城井谷 び声を聞いた長政は「思いの外大勢なり」と肝を を包囲して、砦ごとに各個に攻めるべきだった 潰し、一矢も返せず逃げ散った。黒田勢は進んで が、大軍に頼り一気に攻めた。長政は先ず宇都宮 来た谷とは違う東の小山田谷、西の山秀谷の谷底 氏の出城広幡山城(椎田町)を降し、 (少し前から に雪崩のように追い落とされ、味方の槍や太刀で 黒田に内通していた)城代爪田春永を道案内にし 死ぬ者が多かった。総崩れとなっていく軍団を長 た。黒田軍は爪田の薦めで、城井谷を真正面から 政は「逃げるな!踏みとどまれ・・・」と。家臣は 南下して城井川を遡上したのではなく、城井谷と 「このままでは全員打ち死に」と諌めても聞かな ほぼ平行して走る小山田谷と岩丸谷の帯状に連な い。怪力の大野九郎衛門が長政の馬の口を掴み、 ひろはた つめ た はるなが き い る山筋ルートを進んだ。そして最奥部の岩丸山か 無理やり引きずって退かせた。怒った長政はその ら白岩、黒岩を越えて城井谷の櫟原に出るため、 九郎衛門を鐙で蹴りつけ、三か所の傷を負わせた 岩丸山に陣取ろうとした。寒田の盆地の出入り口 が「決して離してはならぬ、若殿のお命はそなた で城井谷が最も狭くなっている堂山の上にある堂 の腕にかかっている」と近習達の叫び声で九郎衛 山城(家老伝法寺氏が城代で「一の戸」、「遠見番 門は馬の口を握り続け引き返した。長政はなおも しろいわ いちぎばる さわ だ き い す おう あぶみ きんじゅ 所」とも言われた。現伝法寺)は山頂から周防灘 敵に向かっていこうと馬を引き返そうとするの まで一望できる。家老の伝法寺兵部は “藤の花房 で、貝原市兵衛が馬より飛び降りて、長政の馬の の旗” を見て微笑み、 「黒田の小倅め、城井谷の恐 尻を鞭でしたたか打つと馬は駆け出した。 ろしさを見せつけてやる・・・」。鎮房は黒田勢が 長政は築城まで退却しようと50騎に守られて赤 岩丸山の(“馬の背道” という難所のある)尾根筋 幡付近までたどり着いたが、緒方、池永、進、白 せがれ 10 を進んでいる情報をキャッチして大平城から3㎞ 大分歯界月報 平成26年6月 № 732 つい き 川、渡辺等の若者が追撃して来た。渡辺興次郎は みうなされた。 谷を先回りして挟み撃ちにした。近習達は返し合 戦死者は900名に近く、参戦人数からは戦国史 わせては討死し、その隙に長政らは逃げ、槍を振 上まれにみる死者数であった。鎮房は広畑城に馬 り回した長政は馬ごと深田(※腰まではまり込む を進め、寄手の退却を見届けて死傷者を収容し、 泥田)にはまり込んだ。鞭を打てども馬(戦国時 戦勝を誇示するため、城井川上流の櫟原の忍岩付 代の馬は背高はせいぜい120㎝位で現在の馬より 近2キロ半にわたり、864の首を掛け並べ首実検 30㎝は低く、これを越せば良馬である)は身動き をしたといわれる。これに対し宇都宮側の死者は できない。小河伝右衛門、久野四兵衛、黒田(三 ほとんどなかった。 むち おごう ひさ の し へ い かずしげ いちぎばら 左衛門)一成、大野九郎衛門、木屋兵左衛門達が 必死に長政を助け、三宅三太夫が担ぎ上げて「こ こは御大将の討死する場所ではござらぬ」と菅六 之助の馬に乗せてわずか8騎に守られて退いた。 剣の達人六之助は敵二人を斬った後、深田から (長政の馬?)を引き出し、馬に乗って追った。 この逃走中に原弥左衛門種良も馬を深田に落とし た。敵3騎が来ると、気が狂ったように謡曲を謡 いちぎばる 城井川上流の櫟原 いだした。追手は気狂いと思ったのか?相手にし なかった。 ※後にこれらの首級は合祀されて首塚となった。 ※「深田に馬を駆け落とし、引けども上がらず、打 後年になって百体の石像が刻まれたようだが、 てども行かぬ望月の、駒の頭を見えばこそ、こは その地は不明であり、単なる伝承と思われた 何ともならん身の果て」一説に種良の妻は城井鎮 が、昭和46年に畑地造成中に偶然40の石像が発 房の娘ともある。 (本山一城「黒田軍団」 ) 掘され、寒田飯盛山に移されているとのこと。 かしら 長政「引き返して勝負するべし・・・」と意気 さわだ (豊前宇都宮一門の栄枯) おん 込んだ。黒田三左衛門「必ず犬死するでありましょ ※「敵共爰の藪陰、谷の陰、かしこの陰、岩の陰 う。後日手だてをもって敵を討てば良いことです。 にかくれいたりと見えて、思ひもよらぬ道の左 私が御名を名乗って討死しますのでその間に逃げ 右より出て身方を討ければ、手負も多かりけ てくだされ」長政はこの諌言により退却して(長政 る」(黒田家譜) しょうじょうひ は黒田三左衛門の討死は許さなかった) 、ようやく ※大野(小弁)正重は長政の猩々緋(鮮やかな赤 虎口を遁れて砦見村に着き、馬ヶ岳城まで泥まみれ 色の毛織物)の陣羽織を狙って次々に攻撃して になって逃げ帰った。長政の家臣で先陣の大将大野 来るので長政の陣羽織を奪うように剥ぎ取って 小弁正重は長政の身代わりとなって白岩で討たれ それを羽織って長政の身代わりとなり、手勢を た。二陣の毛利の武将勝間田彦六右衛門は敗戦を 率いて敵中に突入した。塩田内記と小弁の一騎 のが 立て直そうと戦ったが深傷を負い、仲間に連れられ 打ちになり、塩田が危うくなって宇都宮の猛将 て市道まで逃げ、人目の付かない茂みに休ませ、仲 渡辺与十郎が小弁に討ちかかり、さすがの小弁 間は逃げた。そこへ落ち武者狩の新貝荒五郎が首 も力尽き討たれた。又、別説に農民の農具「椿 を討ち取った。享年46歳であった。後にこの地は のおうご」という六尺の棒で打たれた所を、 「黒 「勝又越」と呼ばれた。後藤又兵衛はこの時は30前 田長政討ち取った!」と塩田内記(求菩提城主 ながら “戦の名人” と言われていた程の男だったが で宇都宮方随一の猛将))が首を取ったとも。そ 敵矢を受け、後送(注・負傷兵を前線から後方に移 の地に後に小弁殿(コベンド)という石碑が立っ 動させること)されたと言う。又、日没のため又兵 ている。一つは「大野小弁正重戦死所」で1828 衛は谷に落ち、気絶したまま夜を過ごし、翌朝我に (文政11)年、子孫によって建立(上の部分が もどって槍を杖に戻ってきたとか、捕虜になったと 欠かされている)もうひとつは明治28年、地元 の説もある。又兵衛が長政を嫌うようになったのは の竹内勲氏(戦死を防ぐまじないのために欠か この城井谷の敗戦からである。長政はこの時の敗戦 し、無事帰還できたので)が建立。 こうそう き い を生涯悔やんでいた。 ※「長政一生の間、本意なく思ひ、独り言にも発 し給う」。長政は2,3日の間、布団の中に潜りこ く ぼ て ※この戦いで節丸城主である鎮房の次男昌房が戦 死したとある。 続く 大分歯界月報 平成26年6月 № 732 11 す お う な だ 周防灘物語 ~軍師黒田官兵衛~ 第6回 中津歯科医師会 吉村泰洋 数日後、官兵衛が肥後から帰陣すると、長政は 地没収(富山)をされ浪人となっていたが、島 父に合わせる顔がないといって一室に閉じこもっ 津征伐の功で島津の監視役として肥後一国を与 た(負傷もしていた)。また、物頭(足軽大将)以 えられていた。肥後はその後、加藤清正が25万 上の武士達は髪を切ったが、又兵衛だけは「勝負 石で隈(熊)本城に、小西行長が24万石で宇土 は時の運、負けるたびに髪を切っていたのでは髪 城と二分された。 ものかしら ※近習・・・主君の側近くに仕え、護衛する者。 者共が高名心でいたずらに深追いするのは敗北の ※後藤又兵衛(1560~1615) ・・・永禄3年播州に もとじゃ・・・」。 生まれ、父基国は三木城城主別所氏の家臣で さ っ さ なりまさ 肥後一揆が鎮圧されると、佐々成政は安国寺恵 あったが、又兵衛が少年の頃若くして自刃し 瓊の助命嘆願も効果なく、1588(天正16)年5月 た。父の遺言で小寺家に仕えた。官兵衛の旧友 14日、上阪の途中摂津尼崎で秀吉に切腹を命じら の遺児で、少年のころからその薫陶を受け、長 れた。新しい体制に馴染まない旧秩序を守ろうと 政以上に愛された。そのため長政とは反りが合 する一揆を、力のみで抑え付けてはならぬ、と言 わなかった。小寺氏滅亡後は仙石秀久に仕え、 う秀吉の方針を理解しなかった責めを問われたの 仙石氏が島津家久に大敗し、讃岐に逃げ帰って である。とは言っても成政も検地しなければ家臣 からは黒田官兵衛の重臣である栗山利安の元に に知行地を与えられない “起こるべくして起こっ 100石で仕えている。三尺の秋水を提げて天下 た一揆” であった。秀吉は降伏した者も含めて肥 を横行した英雄、野武士、悪く言えば無頼漢は 後の国人52人中48人を処刑した。秀吉「喧嘩相手 至る所で槍先の功名を立てた。又兵衛は斗酒も の成政を許しておいては片手落ちと国々の者は思 辞さない怪物で、 「四斗兵衛」と綽名された。中 うだろう。一揆の責任は領主にもある。それで不 津では片端町(片側が堀で上級武士が住んだ) 憫ながらも成政にも腹を切らせた」 。肥後も含めて の西端に邸を構えた。 豊前一揆の原因の一つに、秀吉が “本領安堵”(と 関が原の戦いで武功を挙げ、筑前では益富城 は言ってもその所領の半分以下である)の朱印を (大隅城)1万6,000石を官兵衛より与えられ 乱発したことがある。この本領安堵の解釈の違い た。官兵衛の死後2年後、長政と反りが合わず が “太閤検地” の進展によって国人衆は事の重大さ 黒田家出奔、転々とした後京都で浪人生活を送 を知ったのである。国人は城主としての地位を奪 り、長政から刺客を向けられていた。大阪夏の われ、百姓身分として検地帳に登録された。 陣が勃発すると先駆けて(大阪城に)入城、大 検地に対する反抗であれば官兵衛の統治能力が 阪城五人衆の一人に数えられ、無謀にも(後詰 疑われ、佐々成政と同じ運命(切腹)をたどる。 めなしで)3,000の兵で死場を求めてか?徳川の そこで官兵衛はよく考え、国人衆を鎮房と同一線 大軍と対峙して、道明寺河原で銃弾が胸板を貫 上に並べて、秀吉への反抗者に仕立て、先ず国人 通して落馬、従者吉村武右衛門に「自分の首は 衆を先に滅ぼして,検地反対の口を封じ、秀吉へ 敵に渡すな」とのことで泥中深く埋めさせたと の事実上の反抗者鎮房を最後まで残した。宇都宮 伝えられている。 氏への伊予国府城12万石への転封は宇都宮氏側の 後年の逸話として・・・大阪城で従臣の長沢 記録にあるだけで、鎮房も筑後200町で小早川隆 九郎兵衛が風呂で又兵衛の背中を流した時に、 景の与力を命ぜられたのではあるまいか。 又兵衛の身体に刀、槍、矢弾の傷跡が53箇所あ (大分の歴史⑤大分合同新聞社参照) るのを見て驚いた。 又、播磨から来た家来達は土地柄か品行が良く 後藤又兵衛(遺髪墓)の墓は、岡山城主の鳥 なかったのも遠因の一つと言われている。 取移封にともない、正室の実家三浦家も鳥取に ※佐々成政は織田家の旧臣で、秀吉に抵抗して領 移ったため、鳥取市の景福寺にあって、その子 ふ びん ど しげふさ 10 きんじゅ が伸びる暇はない」。官兵衛は皆に向かって「若き 大分歯界月報 平成26年7月 № 733 くんとう あだ な ますとみ しゅっぽん 孫9代までの墓がある。しかし、一説には道明 川隆景と相談して諸事を取り行うように」。 寺の又兵衛は影武者で、秀頼を匿って西国に落 <黒田方の向かい城作戦> ちのび、島津に届けた後、縁故(※愛妾)のあ 官兵衛は二万の援軍の威力で、宇都宮勢が戦勝 る金吉村伊福(中津市耶馬溪大字金吉)へ落ち 気分に酔っている最中に神楽(釜楽)山(城井谷 延び、村の子供達に文字を教えたり、隠棲の中 に深く食い込んだところにある?鎮房の大平城と に豊臣家再興を期していたが、風の便りに豊臣 はわずか4㎞しか離れていない)古城を急襲し 家廃嫡の不運を知 て、向かい城を築いて宇都宮方の動きを封じる作 り、遂に自刃したと 戦にでた。桐山孫兵衛、黒田宇兵衛、原弥左衛門 伝えられる。しばら 以下350人を置き、城 井 谷と平野部の連絡を絶 く時が過ぎて村人は ち、兵糧攻めを行ったのである。長政は「敵は我々 この武士が後藤又兵 が普請(この場合は築城作業)に疲れていると見 衛と知り、墓を立て て、おそらく今夜寅の刻(午前4時)頃に夜襲を たが、後に伊福茂助 かけて来るだろうから、今すぐ兵を寝させ、夜の が昔の墓の荒廃を見 八つ頃(午前二時)に全員起こし、食事を取らせ かねて建て替えたの よ」と言って馬ヶ岳城に帰った。果たして、寅の が1763年(宝暦13) 刻に宇都宮勢が500の兵で夜襲をかけて来た。黒 年であった。 き ふ しん とら 後藤又兵衛の墓(中津市伊福) かいほう い ひょうろう よもぎ ※艾蓬の射法・・・ 「蓬は枯れても薬効を残す。生 田方は用意周到で防ぎ、宇都宮方は90余人が討ち 取られて退却した。その後敵は攻めて来ることは なかった。 ひょうろう 死一如にして戦えば敗れることなし。戦場にあ この向かい城は効果てき面で鎮房は兵糧搬入に りてこそ神武の顕現を見る、いざ往かん」神功 も支障を生じるようになった。一年間城井谷を封 天皇が朝鮮遠征で用いた射法で、後に中臣氏が じ込めたまま黒田・毛利連合軍は鎮房与力の城を 受け継いで藤原道兼に伝授され、その子孫であ 次々に落としていった。鎮房は密使を送り国人同 る城井宇都宮家に伝えられた。蓬の茎を矢にし 士の連携を模索したが官兵衛に通路を遮断されて て吉凶を占い、敵を恐怖に落とし入れる、唸る おり、その様を鎮房と弥三郎(朝房)は成す術な ような音を立てる仕掛けであると言われるが、 く遠望するのみであった。 一子相伝であったため城井家滅亡と共に消え <宇都宮氏の赤幡城警固> た。秀吉は朝鮮出兵の時にその射法を真似たが 宇都宮方も城井谷の最北東部の赤幡山に出城を うまくいかなかったので大変残念がった。 築いて家人壁兵庫、城井宮内の両人を置き、黒田 けい ご ※鎮房領で一番黒田方に近い場所故、仕方なく降 方の動きを見張った。赤幡山は標高90mと低い 伏して道案内をした爪田春永は城井氏滅亡 が、全山が岩で出来ており、山麓は城井川の流れ 後、求菩堤山に10数年間籠って仏道に帰依した でほぼ垂直に傾斜している。 という。 ※神楽山城・・・城井谷には神楽山城は見当たら つめ た はる なが く ぼ て こも き え ◎黒田官兵衛の豊前国一揆鎮圧 (個別討伐) き い しげふさ ない。城井谷から遠い京都郡犀川町木井馬場に ある城が神楽山城である。一説に築上町下本性 の西にある小川内城付近ではないか?又、一説 官兵衛は、城井谷の宇都宮鎮房他、十指に及ぶ に城井谷の入口にあった香楽城のことではない 領内の一揆勢を鎮圧するため、家臣の反対(意 か?(豊前宇都宮一族の栄枯) 地?)もあったが、官兵衛「黒田の武名にこだわ 又、神楽山城とは、上本庄小河内城、あるい るは、侍の意地に過ぎぬ。意地にこだわれば大局 は茅切城と呼ばれた城と言う。貝原益軒の「豊 を誤る。一日も早く領内を治めるのが領主の務 国紀行」では茅切城は城井谷の内本庄村の西の め」と、今度は秀吉に援軍を頼んだ。秀吉は岩丸 山峰である。この山に塞の跡があって黒田は宇 山の戦いで黒田勢が大敗したことに驚き、急ぎ、 都宮の兵を押さえるために兵を籠らせた。 毛利輝元、小早川隆景、吉川広家(元春の子で広 (鎮西宇都宮氏の歴史) かや とりで 家は官兵衛を父の様に慕っていた、出雲富田城城 主)の中国勢を動員させた。秀吉「重ね重ねの九 続く 州出陣は御苦労の至りであるが、毛利輝元、小早 大分歯界月報 平成26年7月 № 733 11 す お う な だ 周防灘物語 ~軍師黒田官兵衛~ 第7回 中津歯科医師会 吉村泰洋 <長岩城の戦い> 堅堀等を持つ九州では最大規模の堅固な山城で、 ろうじょう (籠城は最後の手段)! 黒田家もお家の存続を賭けて必至! 一人守れば1,000人の者も進むことは出来ないと言 われていた。長政は陣地を笹が峰に移した。城主 しげふさ 城井鎮房の勝利でそれまで様子を見ていた野仲 野仲鎮兼は豪士(一族郎党70人、与力100余人、雑 鎮兼他の国人達が挙兵。鎮兼は内尾、友枝、野依、 兵850余人。又、野仲軍1,500ともある)で防戦し 犬丸の庶家を持ち、“小戦国大名” として高瀬川中 た。長政軍一時退却の際に(放浪癖の)水野勝成 流域で宇都宮鎮房よりも活発に活動していた。 と後藤又兵衛の殿(しんがり)の功名争いは有名。 しげかね 栗山「あの両城は切所にあり、籠る兵も大勢あ かつなり 寄手・・・群がって山の急斜面を這い上がった。 り、我が小勢で戦って負ければ為ならず、 城手・・・鉄砲を激しく撃って防ぐ。 他の者に仰せつけくだされ」と渋った。 寄手・・・撃ち落とされて斜面を転び落ちた。 長政「四郎兵衛臆したる返答なり」と怒った。 寄手・・・竹束(※)、板木を盾にして必死に攻 めた。 栗山「我を臆病者と思われるなら、なお更他の ※竹束・・・丸竹を一束に結び、並列にして矢玉 者に仰せつけられ」と固辞した。 を防いだ。 長政「汝を選んで申しつけるのであって是非発 かくて、防 塁に迫った黒田勢は奇妙な石造物 向せよ」 栗山「とかく申すに及ばず」と承諾した。 (石積み櫓砲座)を見るのであった。板状の石材 栗山「多くの家臣の中から選ばれたことは武士 (鉄平石)が積み上げられていて、そこから大砲 の面目である。この戦いに勝てば生涯の が火を噴いた。大友氏が使った「国崩しの大砲」 幸運である」 である。百の雷が一度に落ちたかの大音響を響か せんじん 長政は栗山四郎兵衛利安 せ、寄せ手は千仭の谷に打ち落とされたが、さり を“攻城指揮官”の役にした。 とてここで退くと黒田の豊前所領は失敗する。官 一行は3,500騎を率いて、 兵衛「粉骨をもって自領した国を治め得ずして家 観音原の戦いで黒田に降り の面目を知る」、長政「某も士卒も身の浮沈ただこ た下毛郡土田城の百 留氏の の時にあり」 道案内で、上毛郡垂水から高 下毛郡誌に「両軍互いに迫り、鋒を交え激戦三 瀬川(現山国川)を渡り、山 昼夜に及び、死傷者は数えきれない程で、死体は それがし ひゃくどめ 国道に出た(途中樋田城主樋 長岩城跡 田山城守は大勢を見て屈し そ ぎ ほこ 山の如く流血川をなせる・・・」と書かれている。 数に勝る長政軍が遂に落城させることが出来た。 降りたとか。曽木城を囲むと城主遠入中務丞は自 重房以来23代続いた下毛郡の雄、野仲一族は多勢 刃したと書いてある書物もあるが、これらの城主 に無勢を悟り、最後の酒宴を催し、豊前今 様を は長岩城に立て籠もっていたので空城であったか 謡って一同自刃した。時に鎮兼54歳。長政は長岩 もしれない) 。長政は大野の宮に陣を敷き、小友田 城に火を放ち、野仲側の350人の首級を晒し、黒田 お とも だ つ たみ いまよう 城、長(永)岩城(旧下毛郡津民村)を攻めた。 側は300余人の死傷者 (1198年に野仲重房が築城した)長岩城は背後に を出した。 険しい山を負い、西側の扇山(海抜540.7m、比高 その後、長政は草本 220m)の頂上に本丸があって、東側は陣屋であ 城を攻め、城将木村筑 つ たみ る。前は津民川に臨んでいて、鉄平石を積み上げ た “銃眼つき石積櫓”(物見の目的?)や、万里の 長城を思わせる延700mの石塁、弓型砲座、塹壕、 04 ぼうるい 大分歯界月報 平成26年8月 № 734 紫守を討った。次に、 やまうつり 山移城の久野左馬助 まつたけ を降伏させ、白米城主 長岩城跡 あと だ 平田掃部助を降伏させた。続いて、跡 田 城を攻 るが天正15年12月28日で豊前一揆は一応終息し め、跡田守水を放ち(帰農させた)、福土城、高坂 たという説に従って年月を調整しています。 ふくつち (柿坂)城を焼き払い、屋形城を壊して丸山城(中 津川城)に戻った。 ※首級350というと数の上から見ると、かなりの <池永(2,100石)城 “凄惨に” 落城> さび や 吉川広家、黒田長政連合軍は錆 矢 堂を本陣と 人数が逃げ延びたとことであろう。事実下毛郡 し、天正15年12月(3月10日とか諸説あり) 、沖代平 耶馬溪の隅々に隠れ住んで、今日に至っている 野の東部の高台にある池永城を攻めた。黒田勢は 子孫もかなりいる(中尾氏等)。又、鎮兼は大神 寒江堂(錆矢堂)を本陣とし、野村太郎兵衛、栗山 右衛門、森備前守を率いて平戸の法印を頼み落 四郎右衛門は吹上坂に、井上九郎右衛門、後藤又兵 ちている時に、日田郡で三宅三太夫、上原新左 衛は金丸に布陣させ、軍を二手に分けて東西から 衛門等に追撃されて討ち取られ、その時辞世の 池永城を挟んだ。この頃黒田勢は在地武士を陣中 句を読み終えて腹を切ったともある。 に加え、稲男隼人、深水内記、小幡甚兵衛(牛神住 ふこうず ※戦国時代の主従関係は、後の時代に見られる絶 民)の在地武士を案内人とさせている。宇都宮方の 対服従ではなく、契約関係に近かった。主君と 地侍で、大貞八幡宮神官でもある城主池永重則は 意が合わなければ,何時でも主君の扶持を離 一族郎党及び大貞宮の神官・社僧850人でもって(佐 れ、他に士官していた。 田氏以外の宇都宮系統を悉く壊滅させる秀吉の方 いまよう おおさだ ※今様…流行歌という意味で、平安時代の越天楽 針なのか?宇佐宮時枝氏との内部対立か?・・・) という雅楽の七五調の旋律で、皆それぞれの歌 “本領安堵”(2,100石を例え減領されても)を乞い て籠城していたのである。それを情け容赦なく軍勢 詞を付けて歌っていた。 お とも だ ※小友田城・・・長岩城の支城で城番は小友田氏。 を率いて攻めてきたので、仕方なく城を枕にして防 ※後藤又兵衛も手傷を負った・・・野仲氏も城か 戦させたが勇士は殆ど戦死。城主の嫁は紅の小袖 ら出て、柚木原で初戦、次いで井手の口で迎え に鉢巻をしめて駆け出し、 「わらわは宇佐大宮司公 撃った。ここで後藤又兵衛は野仲側の南弥助と 達が孫娘にして、城主池永左馬頭重則の妻なり」と 一騎打ちとなった。又兵衛は弥助の長刀に叩き 名乗りを挙げて大長刀を水車の如く振り回した。か つけられて受太刀となり、後ずさりになり、麦畑 弱い美人を討ち取るのも不愍と思い、生け捕りにし の畝につまづいて転んだ。そこを弥助は立て続 ようと油断していると、あっという間に13人を切り けに斬りつけたが、又兵衛は鎧のしころを傾け 伏せて城に引き上げた。あっぱれな女武者であっ て防いだので傷が浅かった。そこへ後藤次郎三 た。城を良く知る小幡甚兵衛は城の後門から兵を 郎が駆け付け、又兵衛は危ない所を助かった。 突入させた。嫡子乙次郎(3歳)を永松三蔵法印に 南弥助は後に栗山善助の家臣になったという。 託し、笈(背負い箱)に入れて城を逃れさせ、多勢 黒田軍は井手の口を破り、津民川左岸の赤田の の無勢を悟り一族20余人と共に城に火を放ち(長政 原で激戦となり、野仲軍は本城に籠城した。 が火を放ったともある) 、静かに自刃した。 や すけ ※族長の森駿河兼家の辞世の句「咲く時は花の数 にはあらねども散るには漏れぬ山桜かな」 ※百留河内守は野仲鎮兼の長子が防州の杉氏を 頼って落ちて行くのを、赤間関(現下関)で追 いつき、その首を取ったともある。筑前転封の 際に500石であったが重い咎があって焼き討ち ふ びん おい じ じん ※乙次郎は和泉国(大阪)永平(久)寺に潜み、 名を東小右衛門と名乗り、長じて帰郷して宮司 を継いだ。 <福島城降伏> せいろう 9月19日(諸説あり)、福島城(田丸城)は井楼 にされ滅んだとも。 ( 『豊前宇都宮一門の栄枯』 ) (偵察目的のやぐら)を組み、竹束を並べて攻め ※大友宗麟が天正年間にポルトガルから輸入した た。城主福島佐渡守鎮充は3,000余騎で城門を開 青銅製の日本初の大砲 “国崩しの大砲” は、大 き、一度に討ち出たが寄せ手の猛勢にかなわじと 友領内で複製製造していた。単なる鉄の玉であ 罪を謝し、剃髪して黒衣の体となり降伏、武士を るが、山の上からだとかなり効果があったと考 捨てて出家して「祐了」と号し後、京都で教如上 えられる。 人について修行し、帰国して「長久寺」住職とな ※長岩城の戦いは天正17年4月と記す記録もあ る。この時代の年代、日付はかなり錯綜してい ちょうきゅう る。福島城は長久寺の寺域となり、城は天正16年 に破却された。 続く 大分歯界月報 平成26年8月 № 734 05 す お う な だ 周防灘物語 ~軍師黒田官兵衛~ 第8回 中津歯科医師会 吉村泰洋 なりつね <成恒田島城降伏> 福島城の後、同日黒田勢は成恒田島崎城に向 かった。黒田方より小郡利右衛門重勝を使者とし それがし て遣わし、城主成恒鎮家は降伏し、 「某老衰して近 ていはつ 頃仏門に入り、剃髪して安信と号し封禄の望みな し。このまま民間に隠れたい・・・」と民間人と なった。嫡男統忠は医業を学んだという。 なりつね 成恒氏は近江源氏の佐々木氏の系統とあり、承 久の乱後の新補地頭として相良三郎長頼が上毛郡 奈利恒荘に入部。1410年に成恒雅楽允種増は下毛 郡今行村に移り成恒村となった。今の山口氏は成 こうえい 恒氏の後裔である。 <堅城犬丸城落城> 黒田父子の謀殺により滅ぼされた! とりで 長岩城陥落後、次々に領内の小砦を破って服従さ せた。先ず、伊藤田中尾氏を崩し、12月 (諸説あり) 、 黒田長政軍は堅固な犬丸城(中津市犬丸字居屋敷) を攻めた。秀吉書状に「野仲家来楯籠候犬丸城」と あり、犬丸氏は野仲氏の庶子で、野仲氏が下毛郡代 であった時に下毛郡の段銭奉行であったのであろ おおさだ ばる ばる ばる う。黒田軍は大貞原を経て犬丸原(後に如水原と呼 わかはたみや ばれる)に至り、若旗宮の松林を本陣として多くの水 路に囲まれている犬丸城を遠巻きに攻め囲んだ。宇 都宮の分家野仲氏の庶流、城主犬丸清俊が中尾三五 兵衛、上野新右衛門、芝原外記、荒川治朗兵衛、 (上 伊藤田城城主) 草場甲斐守五郎ら250騎で籠城してい た。初戦で長政の家臣荒巻軍兵衛は城主の弟の犬丸 右京を討ち取ったが、二ヶ月以上経ってもなかなか 落城しない。黒田側は陰謀を計って、犬丸清俊と親 うしがみ 交のある牛神利衛門(中津市牛神)を使者として和 (開城して近村に退去すれば本領安堵される・・・) まくさ を申し入れ、神文を交わして清俊は開城し、秣に落 ふこうず ちたが約束は破られ深水村(現中津市深水)瑞泉寺 おおいのすけ で秣大炊助に討たれた。城主と家老の馬場氏の墓は 西秣の泰源寺にある。城兵は和睦が成立したものと 思って無抵抗でいると黒田勢は殺略を始めた。中津 川軍記によれば 「黒田勢は城兵630人を討ち取り、700 にはまだ不足なりとて、今津、植野あたりにて与力の きょうしゅ 者共70人を討ち取り,之を犬丸の往還に梟首(獄門 さらし首)せり( 『豊前宇都宮一門の栄枯』から孫引 けん ご や ぐら き) 」 。犬丸城の城門は堅固故、中津城の「矢倉門」 型の大手門に再利用された。黒田長政は家臣の小林 16 大分歯界月報 平成26年9月 № 735 新兵衛を使者として犬丸清俊の首を秀吉に届けた。 秀吉は長政に「早速の誅代は神妙である」と感状を 書き、褒美として秘蔵の馬が与えられた。犬丸一族 の落人は隣の福島村に逃げたが栗山利安に滅ぼされ た。犬丸城は黒田方より城番が置かれたが、間もな く壊され中津城の建設材料とされた。 ※段銭 幕府や朝廷が臨時支出の際に集める、田一反あ たり何文という臨時徴税。 ※犬丸城 これとし 緒方惟栄が築いた豊前五城の一つで、築城当初 は惟栄の一族大神惟貞が守り、子孫代々城主とし て居城。後に野仲氏に帰し、野仲氏の一族犬丸氏 の居城となった「犬丸城由来記」 (中尾正親著) 。 城址は6町歩に及び、周囲に法海寺(城址) 、堀 の内、構口、五段口、水門口、一矢口などの字 がある。又、河入と言う堀続きの56坪の溜池が あり、水底には石畳を敷き詰めているとある。 城主犬丸民部少弼清俊 法名崇性院殿保亭仁安大居士 天正16年2月11日没 とある。 (一般にこの時代の位牌の日付は正確ではない) ※犬丸城(中津市大字犬丸) 犬丸川左岸の南北に伸びる丘稜を利用して、 500m上流の池から「長池と言われる幅7~10m お き の用水路を掘としていた。旧尾紀村の中尾屋敷 の中尾氏は犬丸氏の家臣であった。清俊の嫡男 清秀は家臣に守られてお遍路になって逃亡、後 裔(子孫)が当地犬丸で続いている。 <堅城大幡(畑)城(加来城とも)落城> ばる 12月下旬、黒田勢は加来(大貞)原に現れ、軍を 五隊に分け、城を十重、二十重に囲み兵糧を絶って 誘降策はせず、大幡(畑)城を攻めた。城中から加 来勘助が打って出て後藤又兵衛と一騎打ちとなっ たが勝敗つかず、長政は「勝負は二番に譲るべし」 と引き分 けさせ たと か。続いて城中から名 田七朗、弁城小六、塚 本次郎、藤本金与等が 槍 で 攻 め出て激 闘と なったが城に引き上げ 籠城した。 大畑城跡の神社 むねなお 統直は千変万化、城を枕に討死と覚悟し、秘術を 尽くして防戦するも、長政は井楼を組み、合戦三昼 夜、火矢を打ち込んだ。三宅三太夫は夜中に案内を けん 従え城の乾(いぬいとも読み北西)の方向から忍び 入り、二の丸まで乗り込んだ。続いて大勢が討ち入 り落城(寄せ手280人余死亡、城兵300人余死亡)さ からめて せた。城主加来統直はもはやこれまでと搦手(裏門 のこと) から、主従5騎で伊藤田の尾根を東に向かっ て大友義統を頼り、罪を秀吉に謝すために豊後に逃 まくさ おおいのすけ 亡中、秣村の幕の峰で待ち伏せしていた秣大炊介氏 の伏兵に討たれた。加来統直の子加来重基は土田村 に逃げ、後の中津城主細川家に仕えた。その後帰農 こうえい して後裔が続いている。大幡の城には三宅三太夫が 留め置かれた。 ※統直の夫人は宇佐郡山藏村(佐田の山蔵村)の 加来一族に助けられたともある。 ※秣大炊介 ふこうず 宇都宮氏の分家深水氏の支族で、深水と共に長 岩城に在ったが落城のため、秣に潜んだ。 ※大畑城は緒方惟栄の築城で、22代統直まで、大友 氏のこの地に於ける最大の拠点として続いた。毛 利方の野仲鎮兼は大畑城を48回攻めていて、天正 年間の下毛郡は野仲氏と加来氏の合戦であった。 加来氏には大友方の宇佐郡の渡辺、中島等が、下 かき ぜ 毛郡内の蠣瀬、成恒、福島の応援があった。 ※豊前五城 これとし 源義経が豊後国緒方庄の緒方惟栄に命じて作ら せた五城で、五城相接して、平氏が九州に走る のを防いだと言われる。大畑城、高森城、犬丸 しお た 城、 (国東郡)芝崎城(高田城)、 (豊前)塩田城 (宇留津城) 大幡(畑)城落城を最後に豊前一揆は天正15年12 月18日に一応制圧されたと言われている (諸説あり) 。 ◎秀吉「宇都宮の娘を長政の側室として ひとまず印書を与え思いを果たせ」 一方、城井谷は、天正15年11月16日、毛利・吉 川の増援(1万人) 、黒田軍(2,000)が茅切城に しげふさ 布陣、鎮房は岩丸山に布陣、両軍は本庄盆地を挟ん で対峙した。寄せ手はじわじわと攻め込み、大軍の 広家は一気に勝負に出ようとしたが官兵衛に止め られた。官兵衛は秀吉への反逆者鎮房を最後まで 残そうと考えたのである。官兵衛は使者を送り、和 睦交渉を行って、鎮房の降伏を待った。籠城戦で食 料は欠乏、飢餓状態となって兵も逃げ出し、さすが の鎮房も折れて、毛利・吉川の斡旋により、安国寺 え けい 恵瓊と黒田の家臣三宅三太夫(祖先は鎮房と同じ しもつけの 下野ともあり)の4度の和談を介して罪を謝し、黒 田方の旗本に属すことを請い、降伏した。又、官兵 衛も豊前国一揆の鎮圧を急ぐため、長政と鶴姫の政 略結婚を条件とし和睦した(天正16年1月下旬か2 月上旬) 。小袖打ち掛け姿の鶴姫が一族の安泰を 願って、侍女、小者達20名の行列が(長政が仮の城 としていた)中津川城へと向かった。 ※4度の和談 鎮房は当然三宅三太夫の和談を疑った。過日の 上毛郡の山田城や下毛郡の犬丸城での騙し討ち を知っていたからである。その鎮房が4度目の 交渉で折れたのには官兵衛が秀吉からの「(一時 的な騙しの)本領安堵をするとの御朱印状を発 給してほしい」と要求したのではないか。 ※『黒田家譜』では人質としているが宇都宮方の 文書では長政に嫁いだことになっている。江戸 中期の『翁草』では婚姻説。『陰徳太平記』は妾 説。婚姻説は当時長政には正妻がいたから有り 得ないことである。 え けい ※安国寺恵瓊(1537 ?~1600) 毛利氏の外交僧であったが秀吉を尊敬し、本能寺 の変の10年も前に信長の没落と秀吉の天下統一を ほんそう 予言していた。恵瓊の奔走で “中国大返し” が出 来、その後は秀吉の参謀として活躍した。伊予国 和気郡に2万3,000石で、僧侶としては前例のない 大名となった。黒田官兵衛領内に1,500石、毛利勝 信領内にも500石安国寺名義で拝領していて羽振 りもよかった。関ヶ原では西軍の主謀者 (果たして 石田三成の勝を予言していたのであろうか?) 。 <破るために結ばれた和睦> ①「陰徳太平記」では 吉川広家は家臣横道権を使者として和睦を勧告 した。遺恨なくして防戦することは秀吉公に対 しての逆意である。広家良きように計るので和 睦なされ・・・。 ②「黒田家譜」では 三宅三太夫を使者として、宇都宮方が詫びを入 れ、人質を出して和睦ではなく降伏したとして いる。 ③宇都宮方の「豊前治覧」では 黒田方が秀吉の力を借り、朱印状まで示し、両 家の結婚を申し入れて黒田方から和睦を求めた としている。 三者それぞれ言い分が食い違っているが、謀略 の匂いが立ち込めている。 しんがり ※殿とは、後退する際に “追っ手” を防ぐ部隊で ある程度強い武将でないと務まらない誉の高い 仕事役である。水野勝成は大阪夏の陣での功績 で初代福山藩主となった。 諸説あるが、天正15年12月28日で豊前国人一揆 しゅうそく 続く は一応終熄したという説が有力である。 大分歯界月報 平成26年9月 № 735 17 す お う な だ 周防灘物語 ~軍師黒田官兵衛~ 第9回 中津歯科医師会 吉村泰洋 き い ◎謀殺・・・「城井谷崩れ」 鎮房との講 和は一時しのぎである ㎝)の大太刀(野太刀)を捧げて入室となった。 官兵衛はしきりに状況を秀吉に報告し、その都 りながら(城井谷攻めの際に負傷した)酌に出た。 度指示を仰ぐことによって佐々成政のような責任 続いて又助が鎮房の杯に手を震わせながら酌をす を取らされることを防いだのであろう。鎮房は毛 る。鎮房は左手で杯を受け、右手は脇差の柄に置 利軍が帰ってしまったが、“講和” が本物かと疑 いていた。 い、黒田家に出仕することも出来ず、娘の鶴姫の 長政「肴を持て」(これは事前の打ち合わせで ことが気になりつつも城井谷に籠っていた。官兵 「討て」の合図である) 衛にとって宇都宮鎮房をこのままの状態で置くわ だが誰も出てこない。六尺(180㎝)ある鎮房の けにはいかない。秀吉の厳命である「一揆勢を撫 威容に臆したのである。 で斬りにせよ」「逆意の族、尋ね捜し、ことごとく 長政は焦って「誰か!これ、肴を持て来ぬか」 成敗せよ。そのために国、郡荒れ果てても苦しか 「はっ、ただ今」と声がかかって野村太郎兵衛(母 らず」という弾圧政策である。毛利、吉川の斡旋 里太兵衛の弟)が、三方に載せた肴を持って現れ とは言え、宇都宮氏との講和は領内を鎮撫したこ た。野村は鎮房の前に進み、お辞儀をすると見せ とにはならない。将来責任を問われる恐れも十分 ていきなり三方を鎮房に投げつけ、 「中務どの(鎮 にある。新領内の鎮撫はできるだけ短時間にやら 房 は 豊 前 で は 中 務 少 輔 と 呼 ば れ て い る )、 ご なければかえってもつれるだけとあせった(佐々 免!」と抜き打ちに鎮房を斬りつけた。ぱっ!と 成政の切腹が脳裏に・・・)官兵衛は秀吉に相談 鎮房の左の額から眼の下まで切られ血が飛んだ し “謀りごと” を企てた。 が、鎮房は自慢の怪力で太郎兵衛を投げ飛ばし 1589( 天 正17 ※16年 と 書 く 書 物 も あ る )年4月20 た。「無礼者成敗」長政も抜き打ちに鎮房に二の太 日、黒田家より「酒宴の会を催したい」と申し出 刀を浴びせると、廊下に座していた鎮房の家臣団 があった。鎮房もこの長政からの “誘い” を警戒 も飛び込んで主人を守った。負傷しながらも鎮房 し、護衛に屈強の兵200を引き連れ、早朝20kmの は立ち上がって太刀持ちの小吉の大太刀を執って 道のりを進んだ。長政は父子のみの宴を主張し、 振り回し(びゅんびゅんと空気音)、黒田の家臣団 45人のみの入城を許した。 を薙ぐように切り払い、広間の奥に長政を追い込 和親を以って之を欺く さっさ しげふさ ちん ぶ はか ず長政からである。小姓の吉田又助が足を引きず さんぽう な ※渡辺右京進(篠瀬城主)、渡辺与七朗、 むように進んだ。「父上」と後藤太郎助が父又兵衛 松田小吉、遠藤吉兵衛、吉岡八太夫 を呼ぶと又兵衛が槍を持って現れ、又兵衛の巧妙 ごうがん 残りは鎮房の庶子が住職の「合元寺」に待機さ な操りの槍と鎮房の水車の様に振り回す太刀で、 せた。鎮房は豊前一揆の際に「我らが再挙の時は 余人は近寄れず一騎打ちの形になった。だが負傷 命を捨てる覚悟」であった。(この度の)招待が謀 した鎮房の顔から血の気が失せ、「城井民部少輔 略ならば、我が太刀で婿殿(長政)を討ち果たし、 どの、ご免!」と又兵衛の槍が胸元を刺しぬい 家名を残そうぞ。45人は小屋仕掛けの仮屋(築城 た。「無念」と言って地響きをたてて鎮房は倒れ 中なので)に招かれ、黒田の家臣が馳走人となっ た。「止めを」又兵衛は、周りの武士に指示する て酒肴でもてなした。この馳走人は合図があれば と、槍を捨て、鎮房に合掌すると次の間に去った 討手になる手はずであった。小屋の陰には鎧兜で (又兵衛は鎮房謀殺には乗り気ではなかった)。 武装した兵が隠れていた。 (浜野卓也『黒田官兵衛』) 奥の広間には鎮房と小姓の小吉一人が三尺(90 ※小姓・・・戦国時代は主君の盾として命を捨て よろいかぶと 08 両者のぎこちない挨拶が終わった。和睦の杯はま 大分歯界月報 平成26年10月 № 736 こしょう て守る秘書的役割。 ※大仏次郎の「乞食大将」では後藤又兵衛が鎮房 てさまよって出たのであると言う。(『豊前宇都 宮一門の栄枯』黒木譲五) を槍で仕留めたことになっている。野村太郎兵 ※合元寺ではその後何度壁を塗り替えても血の色 衛が背後から鎮房を切りつけたとか、築城中の がしみ出てくるため、思い切って赤壁にしたと 中津城を血で染めたくないとのことで浴室の鎮 言われている。血は乾けば茶色になるので、茶 房に網をかぶせて槍で突いたとか、鎮房がとっ 色を塗るのが合理的なはず。別説も当然あっ さに長刀を振るって抵抗し、大玄関まで出て来 て、創建当初は儒教の寺であったため、元々ベ たところを又兵衛が槍で突いたとか、又、毒殺 ンガラで赤く塗っていたとか、建造途中である したとか・・・すべて密室内のことなので真実 ため漆喰を塗るまでには至ってなく、赤土のま のところはまったく分からない。 まであった事も考えられる。赤壁は魔除けの意 ※『黒田家譜』では、鎮房は長政に挨拶のためと官 味があり、宇都宮家の怨霊を除けるために赤土 兵衛が朝房と肥後に行った留守に突然手兵200 のままであったか、ベンガラを漆喰に混ぜて上 騎で訪れたとしている。宇都宮方の記録 「築上郡 塗りしたのであろうか? しっくい 誌」では長政からの招待(娘さんに会いません か)としている。長政は4月20日に両家の婚約を 期して招待した。鎮房は 「朝房が肥後から帰るの を待ち、その上で親子揃って参上したい」と再三 申し上げたが、長政「親子対面の日取りは、既に 太閤殿下にもお届けしてあるので、この上の日 延べは如何と存ずる。太閤殿下の御機嫌を損じ ては貴家のためにも宜しくはござるまい」と脅し た。金子賢太郎の「黒田如水伝」では鎮房謀殺 は秀吉の下知(命令)となっている。秀吉の下知 ごうがん 中津市寺町の「合元寺」(赤壁寺) という事であれば、当然計画的になされたはず 吉田又助による非常招集の鐘の音の中、城内の で、 『黒田家譜』記述はあやしく、宇都宮方の記 生き残った鎮房の家臣達は中津城から飛び出し、 述が正しいことになる。それにしても4月20日 近くの寺町の合元寺に向かった。小吉は中津城で の謀殺、22日の鶴姫らの処刑、24日の朝房謀殺と 主君を傍で亡くし、自らも手負いながらも門下の の手際の良さは周到な計画と準備があったと察 京町まで19人に手傷を負わせて反撃し討ち死にし せられる。 た。掘もなく塀も低い合元寺は、門を開けて黒田 し もの ※仕 物・・・当時はこのような暗殺を仕物と呼 の追っ手を迎えた。宇都宮勢は弓矢を引き、盾の び、よく行われていた。丹後の細川 用意がない黒田勢を槍で攻め、門外へ押し出し 藤孝(幽斎)も仕物で一色氏を滅ぼ た。門前での死闘、血飛沫が寺の白壁を真っ赤に している。 染めた。宇都宮方のしぶとい抵抗に攻めあぐねて •天正16年7月16日に尾紀村の中尾河内守を中津 城にて殺害と中尾屋敷の碑文にある。 いた黒田方は、ようやく門が開いていた理由に気 付き、合元寺の塀を乗り越え、数に勝る黒田勢の •上毛郡大村城には山田大膳の子の山田常陸介親 一方的な戦いで宇都宮の郎党達は滅んだ。寺は折 実がいたが、もはやどうにもならない状況を家 り重なる屍と血糊で足の踏み場もない状態であっ 臣と相談して黒田に降りた。官兵衛は親実を危 た。(鎮房の庶子とも弟とも言われる)空誉上人は 険分子として扱ったのであろう、その一年後の 合元寺で宇都宮家の家臣が惨殺されるのをどうい 天正16年9月9日、「殿にお目見えすれば扶持を う気持ちで見ていたのであろうか? くだされ、その身も家門も安泰である・・・」 深手を負った野田新助、寺岡八太夫の二人が黒 と騙して中津城で謀殺!小河内伝左衛門に討た 田の囲いを破って広津の広運寺に逃れ、変事を住職 れた。後に大村あたりの里人は、満月の夜に山 に告げ絶命した(同寺に二人の墓がある) 。そして の尾根を下る鬼火の行列を見ると言う。謀殺さ 住職からの使いの飛報が寒田の城井上城に届いた。 れた大村一族家臣が、黒田を恨んで鬼火となっ 続く ひ ほう 大分歯界月報 平成26年10月 № 736 09 す お う な だ 周防灘物語 ~軍師黒田官兵衛~ 最終回 中津歯科医師会 吉村泰洋 <残党狩り> き い が、壊疽を患って参戦できず、旧臣を頼り隠棲して しげふさ 長政はただちに城井谷を攻めた。城主鎮房を失 病死した。子春房の代になって越前松平家福井藩 い、朝房の安否もほぼ絶望的な状態の城井谷の戦 に召抱えられ500石、信綱の代に650石、貞綱の代に 意は失せ、もはや城井谷の詰め城である茅切城に 700石となり、代々明治維新まで続いた。竜子は秋 籠もって戦おうとする者はなかった。長政は在所 月の家臣入江主水正親茂と再婚。又、鎮房の弟の弥 在家に火を放ち、城井谷は炎と煙に包まれた。留 次郎が島津家臣となりそこで子孫を残している。 ともふさ かやきり 守を預かっていた伝法寺兵部は溝口館に火をかけ 自害した。長房(甫)公の消息は一説によると、 ◎官兵衛は宇都宮の兵力の分断を計った 下毛郡目指して落ち延びる途中、追手につかまり 官兵衛は宇都宮朝房と共に秀吉の命で共に肥後 斬殺されたともある。 一揆鎮圧処理のため、二十数騎(百余人とも)を 宇都宮の妻子(朝房の息女二人も)らは皆捕え 従えて肥後に向かった。4月24日、黒田官兵衛に られ、中津(川)城に連行された。この時、城代 随行する朝房は、肥後の木葉宿にいた。官兵衛は 池永善左衛門房勝(下毛池永城主重則の父とも言 むろん中津で鎮房が謀殺されたことを知ってい われているがこの辺りは系図がはっきりしていな る。朝房(19歳)は官兵衛と加藤清正(秀吉の命 い)は長甫(房)と密談の上、もし男子出生あれ 令もあり)の謀略により肥後の木葉の宿舎に深夜 ば時節を待って継嗣の断絶を防ぐため、年来恩恵 火をつけられ、家来と共に焼き殺された。朝房は の深い侍女を朝房室の身代わりとして出したので 「私が焼け死んでも、後に必ず霊界より陥虎の機 ある。侍女「女の身、主命に替り申す事は今生の を提げ、擒賊の略を布く。怨を償うを得んや」と 過分の思い出であり、さらに(身ごもった朝房室 家臣松田弥五郎に託し加藤清正に伝えた(弥五郎 が逃げて)御家二度の栄あるとなれば悦ぶ・・・」 はその後自害)。これも諸説あり。 <願わくは宇都宮家二度の栄有り?> ※木葉・・・熊本県玉名郡玉東町木葉 朝房の正室竜子(秋月種実の娘)は鎮房の重臣 ※朝房の怨霊に悩まされ不眠症になった加藤清正 進壱岐守ら数人の武士と乳母一人で彦山の座主家 は、焼け跡から朝房と家臣の遺体を、朝房の先 に髪を振り乱しながら逃亡した(3人目を懐妊し 祖の木葉に元々ある宇都宮神社に合祀した。こ ていた)。鎌倉時代の初代座主長助法親王は宇都 の宇都宮神社は宇都宮隆房を大明神として祀っ 宮氏の娘を妻に迎えている。戦国時代の14代座主 た神社である。 たねざね しゅんゆう このは かん こ きんぞく おんりょう 舜有には男子がなく娘に秋月種実の三男竹千代を 迎えた。座主家で生まれた朝房の長男は幼名の弥 三郎にちなんで弥市(暗殺を恐れて)と呼ばれて いた。3年後弥市は祖父の秋月種実に引き取ら はいえつ ともすえ れ、元服してから家康に拝謁して、家康から朝末 と名付けられ、宇都宮姓に復した。 「家人を率いて 参陣すれば、関東に所領を与えよう」と言われ、 城井谷の旧臣を集め、大阪冬の陣に再起をかけた 大分歯界月報 平成26年11月 № 737 23 鎮房は中津城内の西門の傍に石垣円墳として埋 葬された。官兵衛も、その後代々の領主も領民か らの信頼の厚かった宇都宮氏を祀ることで領民の 心を掌握したのである。1705(宝永2)年、小笠 原長円は小社を建て、城井大権現として崇め、そ の後幾度かの変遷の後「城井神社」と改められた。 明治維新で奥平氏が城を去ってからは城井神社は こうえい 荒れてしまったが、大正8年、宇都宮氏の後裔で 衆院議員であった蔵内次郎作さんが再建し、戦死 した家臣団45人を祀る扇城神社(稲荷社)も再生 された。城井神社では宇都宮鎮房を偲んで毎年5 月に例祭を催している。平成25年度は5月26日 宇都宮鎮房公墓 天徳寺 (日)に開催され、築上町長は昨年度から続いて 参加、今年度から豊前市長も参加。大河ドラマ化 を機に、400年も続く “怨念”(後述)が和睦への 道を歩んでいる。 鶴姫(14歳)は捕らえられて閉じ込められた。 はりつけはしら 部屋の外で磔柱を作る音を聞いて「何の音か」と 聞くと、磔台を作る意味の言葉を聞いて辞世の句 を詠んだ。「なかなかに きい(城井)て果てなん 唐衣 たがために織る はたものの音」詠んで 姫は眼を閉じた。 (この歌は後日の逸話とも言われる)。 「なかなかにきいて(城井)で果てなん」には 宇都宮朝房公墓 天徳寺 「願わくば生まれの地、城井にて一生を終わりた かった」の意がこもっており、鶴姫は最初から人 質であり、人生の春も待たないで散っていく我が ※バラの花はヨーロッパでは花の王様のようだ 身の上のはかなさを詠ったのであろう。 が、日本ではとげ故嫌われ、仏前に供えられる 天正16年4月22日、鶴姫、侍女、鎮房の妻子24 ことは全くない。地方によっては野イバラの一 名は幼女(朝房の息女)も含めて中津城近くの広 枝を土に挿し、死者の恨みを弔する所があるそ 津河原で磔にされた(朝房の妻子は息女と一緒に うだ。黒田藩家士出身の福本日南著の『黒田如 火あぶりにされたとあるが、鶴姫は兄嫁の “替え 水』に、江戸末期の福沢諭吉がこう言っていた 玉” に気づいたであろうか?)。 との話を書いている。宇都宮鎮房が惨殺された 城井谷の風習として、毎年鎮房親子の非業の最 期の日(4月20日)に、村の老若男女が皆遺塁 (天徳寺の裏山で本庄城址)に昇り、手に手に いばらの枝を土に挿し、(異口同音に黒田氏の 断絶を祈り)恨みを唱えるというのである(こ の儀式は200年以上も続いたと地元では言われ る)。貝原益軒の『黒田家譜』でもこの謀殺のこ 24 大分歯界月報 平成26年11月 № 737 とはうやむやに記されている。よって「鶴姫物 語」は伝説の部類で数々の歴史書では様々に書 かれている。司馬遼太郎は『播磨灘物語』では 殆ど触れず、官兵衛の” 蛮挙” としている。そ して「諸本をみてはっきりしていることは、宇 都宮鎮房もその子朝房も、また城にいて変事を 知ったのち自害した80歳の鎮房の老父長房(長 甫)も、皆、堂々としていさぎよかった」と『宇 佐の道「街道を行く」』に書かれている。()は 解説。 黒田官兵衛の唯一つの汚点と司馬遼太郎は言 宇賀貴船神社 う。鎮房が長政を討っていれば状況は変わった のに・・・。黒田の家臣が鎮房の大小刀を蹴散 らす等、武家の礼にない便法の振舞に考えも及 <引用参考文献> ばなかったのであろう(城井谷で帰農した旧臣 •『播磨灘物語』司馬遼太郎 達の集いでの嘆き)。名軍師としては卑劣な謀 •『黒田官兵衛』浜野卓也 はりつけ 殺、鶴姫を磔という罪人扱いの苦痛を伴う処刑 にした黒田家、その後、中津城内に幽霊出没。 「謀ったな・・・」「うわぁ~許せ~」。空誉上 人「 城 内 に 供 養 の た め の や し ろ を 作 ら な い •『大分の歴史』大分合同新聞社 •『城井一族の殉節』高橋直樹 •『黒田如水』三浦明彦 •「戦国武将城井鎮房」宇都宮泰長 •『大軍師黒田官兵衛』桜田普也 と・・・」これが中津城内にある「城内守護紀 • 改定『豊前一戸城誌』溝渕芳正 付(城井)大明神」です。福岡転封後はその地 •『稀代の軍師 黒田如水』興月善勝彦 に「警固大明神」を祀った。 •『黒田如水』吉川英治 ほう け ご <宇賀貴船神社(祭神は千代姫こと鶴姫)> 1702(元禄15)年4月、広津村城井氏の息女の 塚より両足の蛇はい出たり。その奇異に思い郡役 人に訴える。郡役人木村文兵衛が鉄砲にて打ち殺 し、塩漬けにして江戸に送った。文兵衛は5日後 ながのぶ •『豊前宇都宮興亡史』小川武志 •『鎮西宇都宮氏の歴』則松弘明 • 種々のweb記事 •『黒田家譜』貝原益軒、歴史図書社 •『新訂黒田家譜第一巻』川添照二、福岡古文書を読む会、文 献出版 に血をはいて死ぬ。江戸では藩主小笠原長円はこ •『中津市史』中津市 れを見て狂い、 「我はこれ城井の娘なり、咎なき身 •『豊前・宇都宮氏』松山 譲 を殺されて今におもいの晴れがたく長き恨みを成 •『豊前宇都宮一門の栄枯』黒木謙五(本名永添実義)私家版 ぞかし父鎮房、おなじ討死の諸家中も皆怨念のつ •『築上郡誌』上巻 福岡県郷土誌叢発行 とが もり来し、城主に恨み申すなり」とうわ言を言い 出した。近習の者どもこれは希代の不思議とおど ろき恐れ、蛇の箱を中津に返し墓に埋め小社を建 てて祭った。長円公の病は回復した。(『中津川由 •『中世武士団・鎮西宇都宮氏の研究Ⅰ』則松弘明 •『黒田如水と二十五騎』本山一城 あさ ぎ か うん •『方円の器』浅黄霞雲 •『黒田軍団』本山一城 •『豊前郷土史伝集』昭和16年発行、稲葉正邦(非売品) 来記』) 大分歯界月報 平成26年11月 № 737 25
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