チプリアーノ・デ・ローレとジャケス・デ・ヴェルト(1)

チプリアーノ・デ・ローレとジャケス・デ・ヴェルト(1)
ジョヴァンニ・デッラ・カーサ作のソネット「おお、眠りよO sonno」
を歌詞とする2曲のマドリガーレについて
園
田
みどり
1. はじめに
16世紀イタリアの文学者で高位聖職者でもあったジョヴァンニ・デッラ・カーサGiovanni
Della Casa(1503∼1556)は、晩年の一時期、トレヴィーゾ近郊ネルヴェーザの修道院に移
り住み、ラテン語および俗語の抒情詩と『ガラテーオGalateo』などの執筆に専念した。
『ガラ
テーオ』
はルネサンスのよき市民として心得ておくべきことがらをまとめた書物で、
カスティ
リオーネBaldassare Castiglione
(1478∼1529)の『宮 人Cortegiano』と並び、当時からヨー
ロッパ中で広く読まれ、日本でも翻訳によって紹介されている 。一方、デッラ・カーサの俗
語抒情詩はペトラルキズムの系譜に属するもので、本論で取り上げるソネット「おお、眠り
よ O sonno」は、中でもとりわけ有名な作品である 。
ネルヴェーザ滞在中の1554年3月に完成したとされる
「おお、眠りよ」
は 、彼の死後、1558
年10月に秘書の手によってヴェネツィアで初めて 刊された。だがそれに先立って2人の作
曲家、チプリアーノ・デ・ローレ Cipriano de Rore (1515/16∼1565)とジャケス・デ・ヴェ
ルト Giaches de Wert (1535∼1596) が、この詩を入手して作曲し、前者は1557年、後者は
1558年に楽譜を出版している 。両者の歌詞のテクストは同一とみなすことができ 、またデッ
ラ・カーサのテクストとも一致する 。
本論では、2人の作曲家が、まだ手稿としてしか存在していなかったこの詩をそれぞれど
のように入手した可能性があるのかを検討した上で、2曲間に音楽的類似が認められるか否
かを楽曲 析によって明らかにする。そして、アインシュタインの提示した
「ヴェルトはロー
レの弟子」という仮説の蓋然性を再 する足掛かりとしたい 。
2. デッラ・カーサとローレ
ローレの歌詞入手経路
デッラ・カーサとローレのかかわりは、ソネット「おお、眠りよ」の完成から6年前にま
でさかのぼる。1548年に、ローレ中期の傑作 美しき聖母よVergine bella> を収録する『5
声マドリガーレ集第3巻』が、当時のヴェネツィア、ひいてはイタリア全土の楽譜出版業者
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を代表するスコット Girolamo Scotto (ca. 1505∼1572) とガルダーノ Antonio Gardano
(1509∼1569)
の双方から刊行された 。スコットの版は現在3点が各地の図書館に保管されて
おり 、ヴェネツィアで横笛奏者として記録の残るヴェルジェッリPaolo Vergelliから 、同
じくヴェネツィアで文学と音楽の後援活動をしていたスペイン出身の商人オッカーニャ
Gottardo Occagnaに献呈されている 。一方、ガルダーノの版は12点が現存する。5声のパー
トブック全てが揃っているのは3点で、他の9点では1∼3声部
のみが残る。この12点を
声部別に数えなおすと、カントのパートブックが4冊、アルトが6冊、テノールが5冊、バ
スが6冊、クイントが7冊、ということになるが、その6冊残るアルトのパートブックのう
ち3冊にのみ、ペリッソーネ・カンビオ Perissone Cambio (ca. 1520?∼ca. 1562)からデッ
ラ・カーサに宛てた献辞が印刷されているのである 。通常、ガルダーノの楽譜においては献
辞は全声部のパートブックの同一箇所に同一の文面が印刷されるものであり、どれか1声部
にのみ印刷する場合は、バスのパートブックが選ばれた 。従って、アルトのパートブックに
献辞があるということ、しかも献辞の印刷されたものとないものがあることは、かなり奇妙
なことと言わざるを得ない。
このように、デッラ・カーサは1548年にローレ『第3巻』のガルダーノ版の一部について
献呈を受けていたわけであるが、この件における彼の役割、およびローレとのかかわりを明
らかにするためには、なぜローレの『第3巻』が同一年に2度、別々の版元から出版される
に至ったのかを知る必要がある。そもそも2つの『第3巻』は、双方の巻頭に置かれた 美
しき聖母よ>を含めて半 以上同じ曲を収録するが 、一方がもう一方をコピーしたのではな
く、互いに異なる曲集である 。加えて興味深いことに、ローレは全11連からなるペトラルカ
のカンツォーネ「美しき聖母よ」全体を連作マドリガーレとして作曲する心積もりであった
のに 、スコットもガルダーノも当初は第1連から第6連までしか収録できなかった。だが、
現存する12点のガルダーノ版のうちの4点には、続く第7連から最終連までを含む折丁1つ
の「補遺」が 、各声部に添付されている 。しかも、その4点の「補遺」のうち、活字の
形状から3点はガルダーノが、1点はスコットが印刷したものであることがわかる 。ガル
ダーノが印刷した
「補遺」
は、活字の摩滅状態からおそらく1549年に印刷されたものであり 、
スコットの「補遺」は、それを丸写しして版組みしたものと思われる 。ルイスの詳細な資料
研究およびフェルドマンの 察 によれば、事の成り行きは以下のように推測できる。
スコットに対して楽譜を準備したのはおそらくヴェルジェッリである。ヴェルジェッリは
いまだ未完で第6連までしかない 美しき聖母よ> の楽譜をローレ本人、あるいは彼に近い
人物から入手することに成功したが、ローレの許可を得ないままスコットに渡した。
オッカー
ニャの歓心を買いたいヴェルジェッリにとっても、ローレのような著名作曲家との 友を喧
伝したい成金オッカーニャにとっても 、これは好都合であった。スコットによる 美しき聖
母よ> を含む『第3巻』の出版が間近であることを知り、ローレはガルダーノと協力してよ
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チプリアーノ・デ・ローレとジャケス・デ・ヴェルト(1)
り良い『第3巻』を出版することにした。このことは、ガルダーノ版の 美しき聖母よ> の
中に、スコット版には存在しない音楽テクストの改訂があり、その改訂が1552年にガルダー
ノが出版することになる『第3巻』第2版( 美しき聖母よ> 全曲を収録)でも踏襲されてい
ることから裏付けられる 。また、スコットが曲集として成立させるのに十 な曲数を確保す
るため、ローレの他に5人の作曲家の作品を10曲も加えたのに対して 、ガルダーノ版では
ローレの作品がスコット版よりも6曲増え、追加の作品もウィラールト Adrian Willaert
(ca.1490∼1562)による4曲だけとなっている。スコット版の雑多な印象からすれば、ガル
ダーノ版はより一貫した出来であるとも言えよう 。
なお、現存するガルダーノ版の4点に添付されている「補遺」については、ローレは1548
年にガルダーノに対して出版協力をした際に、続く第7連以降をできるだけ早く完成させて
提供すると約束したのだろう。事実その約束は果たされ、翌年にガルダーノは「補遺」を印
刷して、すでに販売されている楽譜に可能な限り添付した。スコットはローレから直接 美
しき聖母よ> の後続部 を入手することができなかったので、ガルダーノの「補遺」を丸写
しして、前年に売り出した自 の楽譜に添付した。ただし、スコット版で「補遺」付きのも
のはその後400年余りの間に全て失われてしまい、
その間に誤ってガルダーノ版にスコットの
印刷した「補遺」が添付される、という事態も生じた。
このように、デッラ・カーサ宛の献辞は、ローレも出版に関与した「より正統な」ガルダー
ノ版に見られる。ここでローレ本人による献辞がないのは、タイトルに彼の名前が入った印
刷譜に普通に見られることである。ローレは直前の世代に属するヴェルドロ Philippe Verdelot (ca. 1580/85∼1530/32?)やアルカデルト Jacques Arcadelt (1507?∼1568)、若いころ
のウィラールトとは違い、同時代のヴェネツィアにおける楽譜出版業興隆の恩恵を存 に受
け、自作の出版を通して名声を獲得することのできた作曲家である。通常この世代の作曲家
は、しかるべきパトロンを見つけ自選の個人作品集を献呈、 刊することで作曲家としての
キャリアを形成してゆくが、ローレは自 で個人曲集を編んでも、それを自
で誰かに献呈
するということをしない 。それに何より、この『第3巻』は未完の作品を含んでいる。誰よ
りも本人が不愉快であったことは容易に想像がつく。すでにフェラーラの宮
楽長という地
位も得ていたローレが、そのような不備のある曲集を誰かに捧げるとは えにくい。
ローレのかわりにペリッソーネが登場する理由と、献辞が一部にのみ印刷されている事情
については、ルイスは次のように える。ペリッソーネはガルダーノの友人で、正統な『第
3巻』の出版に深く関わった。彼はある一定数の『第3巻』を買い取るか、あるいはその費
用の一部を負担して、それに自
の名前で書かれた献辞を付けさせた。当時彼はヴェネツィ
アで歌手および作曲家として地歩を固めようとしており、名前入りの献辞付き『第3巻』が
そのために役立ったのである。アルトのパートブックにのみ献辞が現れるのは、ペリッソー
ネがアルト歌手だったためである 。ただし、この解釈には もある。いわば「名刺代わり」
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として他人の曲集に自 の名前を献呈者として刷らせたとして、それで一体どのような箔が
つくのか 。しかも、上述のとおりペリッソーネは作曲家でもあり、スコット版のローレ
『第
3巻』には彼のマドリガーレが1曲収録されているのに 、ガルダーノ版の『第3巻』には彼
の作品は全く入っていないのである。
いずれにせよ、デッラ・カーサが献呈先として選ばれたのには、それなりの理由があるよ
うに思われる。デッラ・カーサはファルネーゼ家の教皇パウルス3世(在位1534∼1549)の
治下、1544年4月にベネヴェント司教に任じられ、同年9月には教皇大 としてヴェネツィ
アに赴任した。目前に迫ったトレント 会議の準備も彼の重要な任務の一つであった。以来
1550年まで教皇庁の利益のためにヴェネツィア共和国との外
渉に携わり、ヴェネト地方
の検邪聖省代表として数々の異端審問を行い、禁書目録(1549)を編集した 。つまり彼は、
スコット版の献呈先である野心家の外国人商人オッカーニャとは全く異なるタイプの人物な
のである。ペリッソーネによる献辞は、たしかに通り一遍の型にはまった文面ではあるが 、
デッラ・カーサが教皇大 であることは明記されている 。権威という点からすれば、彼は
オッカーニャとは比較にならない。ローレも編集に参加した「より正統な」曲集の献呈先と
して、何の不足もないだろう。
それに、デッラ・カーサとローレの間には接点がないわけではない。当時のヴェネツィア
には、メディチ家復興のために亡命を余儀なくされたストロッツィ家を始めとするフィレン
ツェ貴族が数多く住んでいた。フィレンツェ近郊ムジェッロ出身のデッラ・カーサは、常に
反メディチの立場をとっていたことが知られており、ヴェネツィアでは彼ら亡命貴族と親し
く わっていた 。
一方、ベルギー西部のロンセRonse
(Renaix)
で生まれたローレについて 、
イタリアで見つかっている最古の記録は、1542年10月18日付、当時フェラーラにいたルベル
ト・ストロッツィ Ruberto Strozzi に宛てて、同じく亡命貴族ネーリ・カッポーニ Neri
Capponi がヴェネツィアから書き送った手紙である 。ローレと彼の作品についての言及は、
翌月11月3日に、ストロッツィに仕えるパッラッツォ・ダ・ファーノ Pallazzo da Fano が
ブレッシャからルベルトに送った書簡にも見られる 。この2通の手紙からは、ローレが1542
年にはしばしばヴェネツィアに通いつつもブレッシャに居住し、ストロッツィとカッポーニ
のためにモテットやマドリガーレを作曲していたことがわかる。彼らは、
イタリアに来たロー
レの、我々が知る限り最初のパトロンなのである。別の書簡によれば、ルベルト・ストロッ
ツィとローレの関係は、ローレがフェラーラの宮 楽長となった1546年にも続いていた 。こ
の間、ヴェネツィアの亡命貴族たちの邸宅で演奏されていたローレの作品を、デッラ・カー
サが耳にした可能性は大いにあるだろう。
また上述のとおり、ガルダーノ版ローレ『第3巻』にはウィラールトのマドリガーレが4
曲印刷されている。そのうちの1曲 Mentral bel lett ove dormia> は、教皇パウルス3世
の息子ピエルルイージ・ファルネーゼ Pierluigi Farnese(1503∼1547)がパルマを征服した折
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チプリアーノ・デ・ローレとジャケス・デ・ヴェルト(1)
の祝祭音楽ではないかと言われている 。デッラ・カーサが、ピエルルイージの息子、枢機卿
アレッサンドロ・ファルネーゼ Alessandro Farnese (1520∼1589)の強い後押しで教皇大
になったことはよく知られている 。献呈を受けるに際して、この曲が収録されていること
は、デッラ・カーサにとって決して無意味なことではなかったはずである 。
ガルダーノ版の性格からして、ペリッソーネによるデッラ・カーサへの献呈をローレが知
らされていなかったとは えにくい。こうして、ローレは1548年の時点で 、デッラ・カーサ
を少なくとも間接的に知ることになった。
では、ソネット「おお、眠りよ」はいつ、どのようにローレの手に渡ったのだろうか。本
論冒頭でも述べたとおり、この詩は1554年3月、詩人がトレヴィーゾ近郊のネルヴェーザに
滞在していた折に完成したと言われている。1554年からローレの楽譜が出版される1557年ま
での3年間に、詩人と作曲家を仲介した人物としてまず検討すべきは、両者を知っていた上
述のルベルト・ストロッツィであろうが、1546年を最後に、彼がその後ローレに作品を委嘱
した形跡はない 。ローレが宮
楽長として1546年から1559年まで仕えていたエステ家の
人々、たとえばフェラーラ 爵エルコレ2世 Ercole II d Este (1508∼1559)やその弟イッポ
リト2世 Ippolito II d Este (1509∼1572)枢機卿も、仲介者となり得るだろう。とりわけイッ
ポリトは、教皇パウルス4世(在位1555∼1559)の選出に伴い、ネルヴェーザから戻って教
皇第1秘書官に着任した デッラ・カーサと1555年にローマで顔を合わせたはずである 。後
にパレストリーナ Giovanni Pierluigi da Palestrina (1525/1526∼1594) のパトロンにも
なったイッポリトのことである 。もしもデッラ・カーサの抒情詩を入手することになれば、
マドリガーレ作曲家として名高い故郷の宮 楽長に作曲させようと思ったかもしれない 。
その他に手がかりとなり得るのは、ローレの作曲した4声マドリガーレ トレヴィーゾよ、
お前は幸せだ Felice sei,Trevigi> である。アウグスティノ修道会士でトレヴィーゾのサン
タ・マルゲリータ修道院院長、ジョヴァン・フランチェスコ・リベルタ Giovan Francesco
Liberta (15世紀末あるいは16世紀初頭 ∼ ca. 1580) を称えた作者不明の詩に作曲したもの
で 、ローレの死後1565年にスコットが出版した曲集に収められている 。現代譜を 訂した
マイヤーは、ローレがいつどこでリベルタと知り合ったのかがわからないので、作曲の時期
としてローレがヴェネツィアにいたときに作曲されたのではないか、つまり、遅くとも1542
年からフェラーラの宮 楽長になる1546年までの4年間か、あるいはヴェネツィアのサン・
マルコ大聖堂楽長時代(1563∼1564年)を える。そして初期様式で作曲されていることと、
リベルタが1543年の四旬節にヴェネツィアのサント・ステファノ教会で説教を行っているこ
とから、ローレが比較的早い時期に作曲した可能性を示唆する 。たしかに歌詞内容から 作
の機会を推測するのは困難だが、
ローレがヴェネツィアにいた時期にこだわる必要はないし、
また様式も初期のものとは必ずしも言い切れないだろう。
この作品の 作年を える上で、ローレが上述の『第3巻』を経て、その後出版業者とど
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のような付き合いをしていくのかを観察しておくのは無益ではないだろう。ローレは明らか
にヴェネツィアの出版業者に嫌気がさし 、自選の個人作品集『4声マドリガーレ集第1巻』
(1550)を当時住んでいたフェラーラの業者から刊行したのを最後に、自 から新作を出版す
るのをやめてしまった。事実その後ローレの新作マドリガーレは、ガルダーノが1557年に彼
の名前を前面に出した2冊の曲集で20曲を出版するまで 、まったく市場に現れなくなるの
である。1557年から先は、ほんの4曲の新作があれこれの曲集に時折顔を出すのみで 、残り
20曲は全てローレの没後に出版された 。このような状況であるから、死後出版の20曲には、
初期の作品も混入しているかもしれないが、主に1550年以降没年までの作品が含まれている
可能性が非常に高い。実際、 トレヴィーゾよ、お前は幸せだ>を収める曲集には、他にも3
曲の機会作品があり、歌詞の内容からどれも1557∼1559年に作曲されたと えられている 。
もしもこの3曲とおおむね同じ時期か、それよりも少し前に
作されたのであれば、 トレ
ヴィーゾよ、お前は幸せだ> の存在はリベルタ経由でローレがデッラ・カーサのソネットを
手にしたと える重要な根拠となり得るだろう。
なお、デッラ・カーサとリベルタを結びつけるものは、今のところ両者が聖職者であるこ
と以外はよくわからない。はっきりしているのは、デッラ・カーサはネルヴェーザ滞在中に
ヴェネツィアをしばしば訪れていたということと 、トレヴィーゾはネルヴェーザとヴェネ
ツィアを地図上で結んだ直線のほぼ真ん中に位置している、ということである。つまり、デッ
ラ・カーサがヴェネツィアへの行き帰りにトレヴィーゾに立ち寄り、その地で人望を集めて
いたリベルタと知り合ったとしても、それはさほど不自然なことではないのである。
3. デッラ・カーサ、ヴェルト、そしてローレ
ヴェルトの歌詞入手経路
ヴェルトのマドリガーレ おお、眠りよ> は、1558年に彼の個人作品集『5声マドリガー
レ集第1巻』の中で初めて出版された。この曲集はヴェルト初の自選作品集で、巻頭にノ
ヴェッラーラ伯爵アルフォンソ・ゴンザーガ Alfonso Gonzaga (1529∼1589)に宛てたヴェ
ルトの献辞が付いているが、献辞に日付がないため、その年の何月ごろに出版されたのかは
わからない。一方、ソネット「おお、眠りよ」が歌詞としてではなく文学作品として初めて
活字になったのは1558年10月である。たとえヴェルトの楽譜が1558年の年末に刊行されたと
しても、10月に
刊されたデッラ・カーサの作品集を見てヴェルトが作曲を始めたのでは間
に合わないはずである。
では、ヴェルトは前年に出版されたローレの印刷譜、
『4声マドリガーレ集第2巻』
から歌
詞を書き写して作曲したのだろうか。ローレのこの印刷譜について、出版業者ガルダーノは
ヴェネツィア共和国に特許を申請した。その許可証が発行されたのは1557年6月25日であっ
たから 、ヴェルトの印刷譜との間には、最短では数ヶ月、最長では1年半弱の時差があった
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チプリアーノ・デ・ローレとジャケス・デ・ヴェルト(1)
はずである。双方の歌詞テクストから判断する限り、それはあり得ないことではない。資料
1(60頁)が示すとおり 、ローレとヴェルトの歌詞にはほとんど差異がないからである 。
ただし、ローレの歌詞には1箇所印刷ミスがある 。ヴェルトの歌詞はそれを反映していない
ので、もし本当にヴェルトがローレの印刷譜を参照したのであれば、ヴェルトが誤りに気づ
いて直しながら筆写したと えざるを得ない 。この印刷ミスの問題と、両者の出版年があま
りに近接していることは、ローレの印刷譜をヴェルトの歌詞の出典とみなすことを若干ため
らわせる。
ローレの印刷譜が出所でないとすれば、ヴェルトにデッラ・カーサのソネットを仲介した
人物としてまず最初に名前が挙がるのは、上述のアルフォンソ・ゴンザーガである。アルフォ
ンソは1530年に34歳で早世したノヴェッラーラ伯爵アレッサンドロ・ゴンザーガ Alessandro Gonzaga の三男である。 親が亡くなった当時まだ小さかった彼は、10代半ばから の
弟でパウルス3世の側近、アレクサンドリア 大司教ジュリオ・チェーザレ Giulio Cesare
Gonzaga の元に送られローマで教育を受けた 。アルフォンソは、パウルス3世の後任とし
て教皇ユリウス3世(在位1550∼1555年)を選出したコンクラベで秘書官を務め、新教皇が
戴冠する前から教皇私室侍従に任じられた 。こうしてアルフォンソは、2人の兄が皇帝軍に
参加して軍人として活躍する道を選んだのに対して、ローマで聖職者としてのキャリアを積
んだのである 。叔 ジュリオ・チェーザレが1550年10月に45歳で亡くなった後も、ローマと
ノヴェッラーラを数ヶ月ごとに行き来する生活を続け、1555年にはパウルス4世を選出した
コンクラベでも秘書官を務めた 。一方のヴェルトは、遅くとも1552年までにはノヴェッラー
ラ伯爵家と関わりを持つようになっていた。アルフォンソ・ゴンザーガにヴェルトがマント
ヴァから書き送った1568年10月20日付の手紙の中に、ヴェルトが1552年にアルフォンソの長
兄フランチェスコ2世 Francesco
(1519∼1577)と共にノヴェッラーラからマントヴァに
出発したことが書き記されているからである 。その後、ヴェルトは1556年5月4日から1557
年3月17日までの間のいずれかの時点で伯爵家の庶流、通称ゴンザギーニ Gonzaghini の娘
ルクレツィアと結婚した 。1558年11月14日にはヴェルトの長男アルフォンソ・ガレアッツォ
Alfonso Galeazzo がノヴェッラーラで受洗した 。ヴェルトはなんと伯爵家の遠縁の親戚に
迎えられたのである。ヴェルトと伯爵家のこのように緊密な結びつきを思えば、アルフォン
ソ・ゴンザーガがローマで入手した詩をヴェルトに作曲させたとしても、何の不思議もな
い 。
もう一人の有力な候補者はローレである。ローレはこの詩を遅くとも1556年の年末までに
は所持していたはずである 。すでに指摘したとおり、ローレの印刷譜をヴェルトの歌詞の出
所と仮定するには、ローレの印刷譜にある歌詞の印刷ミスと、ヴェルトにとっての時間的余
裕のなさが妨げとなる。
だがもしもローレがヴェルトに手書きの詩を渡したり、あるいはヴェ
ルトがローレの手稿譜を見る機会に恵まれ、その中に書き込まれている詩を筆写することが
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できたとすれば、この障害は取り除かれるのではなかろうか。
ローレのマドリガーレやモテットは、ノヴェッラーラの宮 で歌われていた。1550年8月
8日に、フランチェスコ2世がノヴェッラーラから弟アルフォンソに書き送った手紙【A】
には、以下のような一節がある。
【A-1】この他に、そなたがレアンドロに依頼したチプリアーノの楽譜一揃いを送る。
Vi mando oltre di questo una muta de quelli libri di Cipriano quali avete domandato
a Leandro[Bracciolo]...
アルフォンソはフランチェスコの秘書レアンドロ・ブラッチョーロ Leandro Bracciolo
にローレの楽譜を入手するように頼んでいたのだろう。
先を読み進めると、
ここで話題になっ
ているローレの曲集とは、フェラーラで1550年に出版された『4声マドリガーレ集第1巻』
であることがわかる 。
【A-2】これは私がフェラーラから持ってきたものと同じものだ。「甘美な木陰に」に作
曲した歌が大変気に入ったので、ここ一月の間、皆でこの曲を繰り返し歌わない日はな
かった。
dico che questi son quelli stessi ch io portai da Ferrara,et tanto mi piace la canzone
che vi e sopra Alla dolc ombra che in un mese al longo non era mai giorno ch ella
non si cantasse piu volte...
マントヴァ 国の役人フォッロニコ Francesco Follonico も、アルフォンソに楽譜を工面
する役を務めていた。1552年1月12日付で彼がフェラーラからアルフォンソに送った手紙
【B】によれば、ローレの作品は、曲集としてだけでなく、1曲ずつ筆写してノヴェッラー
ラに送られていた。
【B】…私は同封のチプリアーノのモテットを筆写させました。この曲は先だっての降
祭に彼が主人 に捧げたものです。新しいようですので、一緒に送る2曲のマドリガー
レも筆写させました。……(中略)……その後私たちはフェラーラにおりますが、過日
私が貴方様にお送りしたマドリガーレ以外の新しいものは見ませんでした、本日お送り
するモテットと、もう一つ別のモテット以外は。これも、先だっての降 祭にチプリアー
ノが[フェラーラの] 爵様に贈ったものですが、 爵の宮
で誰かが横取りしている
ので、手に入れることはできませんでした。これではこの曲がいつ日の目を見ることに
なるかわかったものではありません。…
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チプリアーノ・デ・ローレとジャケス・デ・ヴェルト(1)
[e]
... io fecce una copia[del]presente motetto di Cipriano, il qual a questo Natal
presento al Reverendissimo patron, insieme con gli doi M[adriga]
li che insieme
mando, parendomi nuovi... dopo che noi siamo a Ferrara, non ho visto altro di
nuovo che il madrigale ch alli giorni passati vi mandai, et il mote[
t t]o, che ora
mando, et un altro che pur a questo Natale Cipriano dono al Signor Duca, il quale
non ho potuto avere,per esser nelle mani di certi tiranti la nella corte della Duca,il
qual Dio sa quando vedra piu lume:...
フォッロニコは、1553年10月30日にもフェラーラからアルフォンソにローレの作品を送っ
ている【C】
。このとき、送るべき曲を準備したのはローレ本人であった。
【C】この従僕に託してチプリアーノ氏から同封のマドリガーレをご送付いたします。
1曲は彼の作品です。良い作品ですので、きっと気に入っていただけるでしょう。彼も
また殿下にお仕えしたいと言っております。ちょうどジャコモ氏がそうしましたように。
ジャコモ氏はきっと殿下の名誉となるでしょう。チプリアーノ氏はまた、何か新しい作
品を書いたときにはいつも、殿下に真っ先に知っていただきたいとのことです。…
M ando a Vostra Signoria per il presente staffiere questi madrigali, di Messer
Cipriano,insieme con uno suo,li quali son certo che gli sarano carissimi,perche sono
buoni; offerendole ancor lui a servitio di Vostra Signoria per quanto esso m ha
imposto, sıcome gli offerse et diede per suo, M esser Jacomo, il quale son certo gli
fara onore. M ha detto ancora che sempre fara cosa alcuna di nuovo, vuole che lei
sia de primi, ...
ところで、ここに出てくる「ジャコモ」とは一体誰だろうか。1960年代にノヴェッラーラ
でこの手紙を発見したマックリントックは、この「ジャコモ」こそヴェルトであると主張し
た 。一方、1999年にヴェルトの書簡集を出版したフェンロンは、そう えることに慎重であ
る。たしかに、イタリアでは珍しい名前の「チプリアーノ」とは違って、
「ジャコモ」だけで
は誰のことか特定できない 。
だが、マックリントックの言うように、ヴェルトは周囲から「ジャコモ」と呼ばれること
が多かった 。1556年9月6日付の以下の手紙でもそうである【D】
。
【D】…ご主人様が長くいらっしゃらないことが私には次第に残念に思えてまいりまし
た。私たちがヴィオールによって楽しいひとときをご提供できますよう、もう私はおか
えり遊ばされるお姿を拝見いたしたく存じます。そのヴィオールは大変良い出来映えで、
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以前殿下がお持ちであらせられたヴィオールよりも、私の見るところ、より優れたもの
です。
ジャコモ氏の作ったスタンツァはさらにいっそう優れた出来映えです。
スタンツァ
は殿下が出発なさったあとに3つになりました。今はモテットを1曲書いているところ
で、次にフランチェスコ伯爵 がミラノから持ち帰ったカンツォーネの作曲を始めるで
しょう。その詩の主題はイッポリタ様 のご病気です。作者はカミラーノ[=カメラーノ]
伯爵です。…
... M i comincia a rincrescer, padron caro, la longa assentia di Vostra Signoria, et
vorrei omai vedervi rittornato accio si potessimo dar bon tempo con le viole,le quali
riescono benissimo,et sono a mio giudizio meglio di quelle ch ebbe Vostra Signoria.
Sıcome anco riescono ogni di piu le stantie che ha fatto Messer Jacomo, che sono
tre altre doppo la partita di Vostra Signoria. Adesso fa un motteto,poi si mettera
a far una canzone che ha portato da Milano il Conte Francesco, il soggetto della
quale e per la infirmita ch ebbe la Signora Donn Ippolita. L auttore e il Conte da
Camirano;...
これはブラッチョーロがノヴェッラーラを留守にしていたアルフォンソに送った手紙の一
節である。ここで話題となっている
「ジャコモ」
がこれから作曲しようとしているカンツォー
ネとは、ヴェルトが連作マドリガーレとして作曲し、『5声マドリガーレ集第1巻』
(1558)
の巻頭に置いた
夜に時折 明が Qual di notte talor chiara facella> の歌詞であることは
疑いない。カメラーノ伯爵とはフェデリコ・アジナーリ Federico Asinari (1527/28∼1575)
のことで、彼の抒情詩で16∼17世紀に歌詞として用いられたことがわかっているのはカン
ツォーネ「夜に時折 明が」とセスティーナ「敵意に満ちた運命が Qual nemica fortuna」
の2つだけである 。ヴェルトはその両方を作曲しているが、病気の女性を歌っているのは明
らかに前者である 。一方の「敵意に満ちた運命が」の主題はポー川であり、ヴェルトの作曲
時期も10年先の1566年ごろと推測できる 。
ジャコモ」はノヴェッラーラに保管されているローレの書簡にも登場する【E】
。宛先は
アルフォンソ・ゴンザーガである。全文を引用しよう。
【E】高名なる伯爵様
フェラーラ猊下 の秘書リッチュオーロに宛てた殿下の今月13日付の書簡を拝受し、殿
下のお えを承ったのち、翌日ヴェネツィアに向かおうとしていたジャコモにすぐに話
をしました。そして彼に説教をして、殿下から彼に提供された契約を示しながら、よく
言って聞かせたのです。そうしましたら殿下のところに戻って愛情を込めてお仕えする
ことに納得いたしました。殿下のお手紙の中にどれほどのものがあるのかを えてのこ
46
チプリアーノ・デ・ローレとジャケス・デ・ヴェルト(1)
とです。その内容を私は全く疑っておりませんし、むしろ私は彼があのしかるべき愛情
で殿下に仕えましたならば、殿下の方でも彼に対してご寛大さゆえに、約束を超え、人
が思う以上の礼節を用いてくださるものと確信しております。殿下にあらせられまして
は、彼がこれから行うことに対してしかるべく処遇してくだされば、殿下にお仕え申し
上げる心積もりになっているということをご理解くださいますよう、切にお願い申し上
げます。私が改めて殿下にお送り申し上げますのは、同封したスタンツァだけです。こ
れは、私が先だっての降 祭の折にわれらが君主 のために作曲したものです。私の真心
ゆえにお気に入りいただけますことでしょう。このスタンツァによって殿下のご好意に
感謝し、そのご幸福を全能の主にお祈り申し上げる次第です。
フェラーラ 1556年1月17日
殿下の下僕
チプリアーノ・デ・ローレ
Illustre Signor Conte,
Recevuto ch io ebbi la sua alli 13 del presente drizzata al Ricciuolo Segretario di
M onsignor Reverendissimo di Ferrara, et conosciuto lanimo di Vostra Signoria
subito parlai a Jacomo il qual dovea partirse il dıseguente per andar a stare in
Venetia, et tanto gli ho predicato nella testa esortandogli, et dimostrandogli il
partito profertogli da quella che si e contentato di tornare amorevolmente servirla,
tenendosi quanto nella sua si contiene,d il che non dubito punto,anzi tengo per certo
che se egli servira Vostra Signoria con quella amorevolezza che si deve, quella gli
usera per generosita sua, magior cortesia di quello che si pensa oltra la sua promisione. Sapia Vostra Signoria che egli e deliberato stabilirse in servitio di quella
trattandolo nel modo che si conviene a il che fara,summamente la prego. Di nuovo
non mando a Vostra Signoria altro che la presente stanza la quale ho fatto questa
Natale per il Signor Prencipe nostro, la quale quella godera per amor mio, con la
quale a la bona grazia di quella sempre mi ricomando e pregando lomnipotente Idio
la felicita.
Da Ferrara alli 17 di genaro del 1556
Di Vostra Signoria Servitor
Cipriano de Rore
ジャコモ」
はフェラーラからヴェネツィアに向かおうとしていたが、ローレの説得を受け
てアルフォンソの元に戻った。その後「ジャコモ」はマントヴァを経由して、28日までには
47
ノヴェッラーラに到着したことが、アルフォンソ宛のブラッチョーロの2通の手紙から明ら
かになっている 。とりわけ2通目(1月28日付)の手紙では、ブラッチョーロは「ジャコモ」
が再びアルフォンソに仕えることになったのをたいそう喜んでいる 。
仮にフォッロニコが1553年に書いた【C】の「ジャコモ」がヴェルトでなかったとしても、
ローレの手紙【E】に出てくる「ジャコモ」はヴェルトと えるのが自然だろう。これは、
ヴェルトに言及していることが確実な【D】と同じ1556年の書簡である。しかも、ローレの
説得を受けて「ジャコモ」がノヴェッラーラに戻ったことを喜んだブラッチョーロは、【D】
の手紙を書いた当人であるばかりか、同じ年に「ジャコモ」を話題として取り上げる手紙を
他に3通もアルフォンソに書き送っているのである 。
このように、いつからかは不明だが1556年初頭まで、ヴェルトはフェラーラでローレの世
話になっていた。ローレとヴェルトの おお、眠りよ> がそれぞれ出版された1557年と1558
年から逆算して極めて都合の良い時期に、両者は同じ町にいて言葉を わしていたのである。
ソネット「おお、眠りよ」は、そのときに2人が共有していたのだろうか。【B】
【C】【E】
に登場するような、ノヴェッラーラに筆写して送られたローレのさまざまな作品に おお、
眠りよ>が含まれていた可能性もあるだろう 。あるいは、最初に詩を得て作曲したのはヴェ
ルトで、それを見てローレも作曲することになったのか。詳細は一切わからない。だが、こ
こに引用したローレの手紙を読むと、ローレとヴェルトによる2つのマドリガーレ おお、
眠りよ> が、互いに全く無関係に成立したとはとても思えないのである。
(続く)
1 デッラ・カーサ『ガラテーオ(よいたしなみの本)
』池田廉訳、東京:春秋社、1961年。
2 デッラ・カーサの俗語抒情詩成立の経緯については、以下を参照。G. Della Casa, Le rime, a
cura di R.Fedi (Roma:Salerno editrice, 1978),tomo
,pp.IX-XL. デッラ・カーサによる
同時期の他の作品については、P.Procaccioli, Della Casa,Giovanni, in Letteratura italiana:
gli autori, Dizionario bio-bibliografico e indici,vol.1(Torino:Einaudi,1990),pp.683-685:684
を参照。
3 1554年3月31日付のヴェットーリPiero Vettori
(1499∼1585)宛の書簡に、このソネットへの言
及がある。G. Della Casa, Le rime, cit., tomo
, p. 75; idem, Rime, a cura di S. Carrai
(Torino:Einaudi, 2003), pp. 181-182.
4 それぞれ以下の曲集の中で出版。Di Cipriano de Rore il secondo libro de madregali a quatro
voci con una canzon di Gianneto sopra di Pace non trovo con quatordeci stanze novamente
per Antonio Gardano stampato et dato in luce. Con gratia et privilegio (Venezia:Antonio
Gardano, 1557)(=RISM 1557 );Di Giaches de Wert il primo libro de madrigali a cinque
48
チプリアーノ・デ・ローレとジャケス・デ・ヴェルト(1)
voci. Novamente posti in luce et da lui proprio corretti alla stampa (Venezia: Girolamo
Scotto, 1558) (=W 855). ボローニャ大学で作成中の歌詞データベース「1500∼1700年に作曲
されたイタリア語による詩の目録 Repertorio della Poesia Italiana in Musica, 1500-1700(=
RePIM )」と新フォーゲル・カタログ(E.Vogel et al.,Bibliografia della musica italiana vocale
)を用いた
profana pubblicata dal 1500 al 1700 [Pomezia-Geneve:Staderini-Minkoff,1977]
筆者の調査によれば、ソネット「おお、眠りよ」を歌詞とする声楽曲は、まずローレとヴェルト
の作品が相次いで出版され、その後1560年から1623年までに6人の作曲家による6作品が刊行
された。デッラ・カーサの抒情詩全般が16∼17世紀にどのように歌詞として用いられたかに関し
ては、別稿を用意する予定である。なおRePIM については園田みどり
「16世紀イタリア多声世俗
声楽曲における作曲家の歌詞の入手経路
ヴェルトの18曲のマドリガーレを中心に」日本音
楽学会機関誌『音楽学』第45号、1999年、28-41
: 33頁、注1、および A.Pompilio, Il Repertorio
della Poesia Italiana in Musica, 1500-1700 (RePIM ): un aggiornamento, in Petrarca in
musica. Atti del convegno internazionale di studi. VII centenario della nascita di Francesco
Petrarca. Arezzo, 18 -20 marzo 2004,a cura di A.Chegai e C.Luzzi (Lucca:LIM, 2005),pp.
391-396 を参照。
5 本論43頁参照。
6 フェーディ
訂によるデッラ・カーサ俗語抒情詩集(本論 2参照)のテクスト。秘書の手によ
る初刊本(1558年刊、「おお、眠りよ」も収録)を底本としている。詳細は以下を参照。G.Della
Casa, Le rime, cit., tomo
, pp. 3-38. 本論 61も参照。
7 A.Einstein,The Italian Madrigal,trans.by A.H.Krappe,R.H.Sessions,and O.Strunk,vol.
2(Princeton:Princeton University Press, 1949), pp. 511-519:515. アインシュタインの仮説
は資料批判に基づくものではないが、彼はそこで2人がデッラ・カーサの同じソネット「おお、
眠りよ」を作曲していることを指摘し、2曲間の相違点と共通点についてごく簡潔に述べてい
る。
8 ペトラルカ『俗事詩片』366番に付曲。
9 スコット版 (=RISM 1548 ) のタイトルはDi Cipriano Rore et di altri eccellentissimi musici
il terzo libro di madrigali a cinque voce novamente da lui composti et non piu posti in luce.
Con diligentia stampati. Musica nova et rara come a quelli che la canterano et udirano sara
palese. 収録曲、所蔵図書館名などの詳細は、J.A.Bernstein, Music Printing in Renaissance
Venice. The Scotto Press (1539 -1572) (Oxford: Oxford University Press, 1998), pp.
368-371 を参照。ガルダーノ版 (=RISM 1548 ) については、タイトルが2種類ある。カント
とテノールのパートブックは Musica di Cipriano Rore sopra le stanze del Petrarcha in laude
della Madonna, et altri madrigali a cinque voci, con cinque madrigali di due parte l uno del
medesmo autore bellissimi non piu veduti, insieme quatro madrigali nuovi a cinque de Messer
49
Adriano. Libro terzo. 一方、残りの3声部は以下のタイトルとなっている。 Musica di Cipriano Rore sopra le stanze del Petrarcha in laude della Madonna e cinque madrigali di due
parte l uno non piu veduti ne stampati, con alcuni madrigali di M. Adriano. Libro terzo.
詳細は M. S. Lewis, Antonio Gardano, Venetian Music Printer, 1538 -1569, vol. 1: 1538
-1549 (New York:Garland, 1988), pp. 610-616を参照。タイトルが2通りになった理由に関
しては、本論
29を参照。
10 J. A. Bernstein, op. cit., p. 370.
11 M . S. Lewis, Rores Setting of Petrarch s Vergine Bella , in The Journal of Musicology,
4(1985-86):365-409:397.
12 M . Feldman, City Culture and the Madrigal at Venice (Berkeley:University of California
Press, 1995), pp. 23, 51ff. なお、献辞の全文はJ. A. Bernstein,op. cit.,p. 369のほか、以下に
は献辞のファクシミリが掲載されている。A. H. Johnson, The 1548 Editions of Cipriano de
Rores Third Book of Madrigals, in Studies in Musicology in Honor of Otto E. Albrecht,
ed. by J. W. Hill (Kassel:Barenreiter, 1980), pp. 110-124:111.
13 M .S.Lewis,Antonio Gardano...cit.,pp. 615-616 (p. 610には献辞の全文あり);idem, Rore s
Setting...cit., pp.367,table 2. 所蔵する図書館名と、現存するパート名を略記する。D-Hs (C);
D-Mbs (CATBQ);D-Rp (CATBQ);D-W (CATBQ);F-CH (Q);I-Bc (AB);I-CMc (B);I-Rsc
(ATB); I-VEaf (Q); NL-DHgm (T); US-U (Q); YU-M As (AQ). なお、ルイスは最後の
(旧ユーゴスラビア)を確認していないので、このアルトのパートブックにデッ
YU-M As (AQ)
ラ・カーサ宛ての献辞があるかどうかはわからない。なお、以下には献辞のファクシミリ版が掲
載されている。A. H. Johnson, op. cit., p. 121.
14 M . S. Lewis, Rores Setting... cit., p. 399.
15 Ibid., p. 385, table 3.
16 本論 25参照。Ibid., pp. 386-387.
17 全11連で構想していたことは、調構成から明らかである。Ibid.,pp.392-393と、そこで言及され
ている文献を参照。
18 第7連から最終連までだけでは5ページにしかならず、折丁1つ (8ページ)に満たない。そ
のため作者不明の3曲3ページ
が埋め草として最終連の後に続けて印刷されている。Ibid.,
pp. 367-368.
19
補遺」が添付されているのは D-Mbs、I-Bc、I-Rsc、I-VEaf 所蔵の4点(Ibid., p. 367, table
2)。ただし、I-Bc(アルトとバスが現存)では、アルトにのみ「補遺」が添付されている。また、
「補遺」
YU-M Asに関しては、上述のとおり(本論 13)ルイスは内容を確認していないので、
があるかどうかわからない。なお、M. S. Lewis, Antonio Gardano... cit., p. 615 によれば、
F-CH所蔵の楽譜にも、後述のガルダーノが印刷した「補遺」が添付されている。この記述に従
50
チプリアーノ・デ・ローレとジャケス・デ・ヴェルト(1)
うと、
「補遺」は12点中5点に添付されていることになる。
20 スコットが印刷した「補遺」は I-Rsc の楽譜に添付されている。Idem, Rore s Setting...cit.,
p. 367;idem, Antonio Gardano... cit., p. 616.
21 Idem, Rore s Setting... cit., pp. 369-370.
22 ルイスは楽譜の譜割り(五線の改行の仕方)が全く同じであるため、どれか一方がすでに印刷さ
れた楽譜を丸写しして版組みしたと述べるが(Ibid., p. 368, n. 6)
、どちらがどちらを丸写しし
たのかは明言しない。しかし、バーンスタインの指摘するとおり、スコットがこの「補遺」部
の折丁に関してのみ、ガルダーノの「補遺」にある折丁番号を
用していることを勘案すると(J.
A. Bernstein, op. cit., p. 412)、スコットがガルダーノの「補遺」を丸写ししたと えるのが適
切であろう。
23 M . S. Lewis, Rores Setting... cit. ;M. Feldman, op. cit., pp. 60-62, 407-408.
24 M . S. Lewis, Rore s Setting... cit., p. 405;M. Feldman, op. cit., pp. 61-62. ヴェルジェッリ
による献辞の文面には、「極めて優れた音楽家チプリアーノ・ローレ氏、あなたのそして私たち
の親愛なる友人 lo eccellentissimo musico messer Cipriano Rore,vostro et nostro carissimo
amico」という記述がある。本論
12も参照。
25 スコット版は声部の名称、変位記号とリガトゥーラの 用、歌詞のテクストや反復方法、歌詞の
配置の点でも、ガルダーノ版とは異なる。M . S. Lewis, Rore s Setting... cit., pp. 381-384.
26 5人の内訳
(カッコ内は曲数)は以下のとおり
(J.A.Bernstein,op. cit.,p.370)。Adrian Willaert
(5), Gabriello Martinengo (2), Perissone Cambio (1), Baldassare Donato (1), Gioseffo
Zarlino (1).
27 A. H. Johnson, op. cit., p. 116.
28 J.A.Owens, Rore,Cipriano de, in The New Grove Dictionary of Music and Musicians (=
New Grove), 2nd ed., vol. 21, pp. 667-677:672. 現存するローレの自選個人作品集には『マド
リガーレ集』(1542)、
『モテット集』
(1545)
、
『4声マドリガーレ集第1巻』
(1550)の3つがあ
り、
『モテット集』のみが出版者ガルダーノによってポルトガル王大 フェリアBaldasar Feria
に献呈されている。
(ただし、現存する『モテット集』には献辞の印刷されていないものもある。
)この3つの曲集に収録されなかった作品
M .S.Lewis,Antonio Gardano... cit.,p. 483を参照。
は、出版業者が企画・編集する、ローレ以外の作曲家の作品も入った曲集で出版された。
29 M . S. Lewis, Rores Setting... cit., pp. 399ff. なお、ガルダーノのローレ『第3巻』では、
タイトルの表記内容から、カントとテノールのパートブックが刷り上った後に、その他3声の
パートブックが印刷されたと
えられている。カントとテノールのパートブックでは、タイトル
の中で①ローレの 美しき聖母よ>、②ローレの未発表作5曲、③ウィラールトの新作4曲、以
上3種が含まれていることを明記しているが、残る3声のパートブックでは③のところが
「ウィ
ラールト数曲」に変化している(本論
9参照)
。これは、ガルダーノがカントとテノールを刷
51
り終わったところで、スコットの『第3巻』の中身を知ったため、と えられている。つまり、
ガルダーノは自
が用意したウィラールトの作品が全て未発表であると思っていたが、スコッ
トに先を越されてしまったことがわかった。そのため、残りのパートブックではタイトルの表現
を急遽変
したのである(Ibid., pp. 378-381)
。全体の工程の中でアルトのパートブックが比較
的後(少なくともカントとテノールのパートブックの後)に刷られたことと、献辞の有無が関
わっているか否かは明らかでない。最大の問題は、献辞がどの時点で印刷されたのかが確定でき
ないことである。献辞はアルトのパートブックのタイトルページ裏にある。ルイスは、献辞があ
る場合は「補遺」も添付されているため、
「補遺」印刷時に献辞が刷り込まれた可能性を示唆す
る一方で、タイトルページと献辞が1548年の本体印刷時と別刷りだったことを示す物的証拠は
ないとも述べる(Ibid., p. 399)
。
30 有名人との
友が重大な意味を持つ社会ならば、ペリッソーネの行動も理解できる。なお、デッ
ラ・カーサを献呈先としたことと、ペリッソーネが女性詩人ガ ス パ ラ・ス タ ン パ Gaspara
Stampa(1523∼1554)と親しかったことは、関係があるかもしれない。スタンパは子供たちの
音楽教育をペリッソーネに任せていた。P. Procaccioli, Stampa, Gaspara, in Letteratura
italiana: gli autori,... cit., vol. 2(Torino:Einaudi, 1991), p. 1668を参照。
31 本論 26参照。
32 C. Mutini, Della Casa, Giovanni, in Dizionario biografico degli italiani (=DBI), vol. 36
(Roma:Istituto della enciclopedia italiana, 1988), pp. 699-719.
33 M . S. Lewis, Rores Setting... cit., pp. 398-399. 本論 13も参照。
34 宛先に いとも尊きわが主人、教皇庁在ヴェネツィア大 ジョヴァンニ・デッラ・カーサ様に Al
Reverendissimo Signor mio il signor Iovanni Dela Casa Legato di sua Santita. In Venetia」
と記されている。
35 C. Mutini, op. cit., p. 713;A. Santosuosso, Vita di Giovanni Della Casa, (Roma:Bulzoni,
1979), p. 183.
36 ローレの出身地については、J. A. Owens, op. cit., p. 667を参照。
37
この手紙と一緒に私がチプリアーノに作曲させたソネットをあなたに送ります Mandovj con
questa il sonetto fecjfare a Cipriano」という一節がある(I-Fas,CS,Ser.V,1210,10,160,fol.
1)
。詳細はR.J.Agee, Filippo Strozzi and the EarlyM adrigal, in Journal of the American
Musicological Society (=JAMS), 38(1985):227-237:236,n. 35を参照。なお、ルベルト・スト
ロッツィはメディチ家転覆を図ったとして1538年にフィレンツェで獄死したフィリッポFilippo
Strozzi(1488∼1538)の息子で、ネーリ・カッポーニとは従兄弟同士だった(M .Feldman,op.
。
cit., pp. 25-29)
38 R.J.Agee, Ruberto Strozzi and the Early M adrigal, in JAMS,36(1983):1-17:12-13;idem,
Filippo Strozzi... cit., p. 236, n. 35.
52
チプリアーノ・デ・ローレとジャケス・デ・ヴェルト(1)
39 Idem, Ruberto Strozzi... cit., pp. 14-16. ルベルトは フィリッポの遺志を継いで反メディ
チ活動に身を投じ、フランス王寄りのフェラーラ 爵家との付き合いを深めていった。その数年
後にローレがフェラーラの宮
楽長となっているので、フェルドマンはローレをフェラーラ宮
に紹介したのはルベルトではないかと推測する。M . Feldman, op. cit., pp. 37-46.
40 A. Willaert, Opera omnia, 14: Madrigali e Canzoni Villanesche, ed. by H. Meier (s.l.:
American Institute of Musicology, 1977)(Corpus mensurabilis musicae, 3/14), p. X.
41 C. M utini, op. cit., p. 703.
42 ただし、ピエルルイージ・ファルネーゼは1547年に暗殺された。G. Brunelli, Gonzaga, Ferrante, in DBI , vol. 57(2001), pp. 734-744:739-740.
43 献辞が「補遺」印刷時に刷り込まれたと えるならば(本論 29参照)
、1549年ということにな
る。
44 本論40頁参照。
45 C. M utini, op. cit., pp. 713-714.
46 デッラ・カーサは1555年6月中旬にはローマに到着していた(A.Santosuosso,op. cit.,p.178)
。
当時のイッポリト2世の動向については L. Byatt, Este,Ippolito d , in DBI ,vol. 43(1993),
pp. 367-374: 371を参照。なお、エルコレ2世とデッラ・カーサの接点としては、パウルス4世
が戴冠後まもなくフランス王アンリ2世と共に組織した反ハプスブルク同盟が挙げられよう。
デッラ・カーサも成立に尽力したこの同盟に(A. Santosuosso, op. cit., pp. 181-188)
、エルコ
レ2世は1556年11月13日に参加した(G. Benzoni, Ercole II d Este, in DBI , vol. 43[1993]
,
。デッラ・カーサはその翌日にローマで亡くなった。
pp. 107-126:115)
47 パレストリーナは1564年の7月から9月までと、1567年8月から1571年3月まで、ティヴォリの
ヴィッラ・デステでイッポリトに仕えた。L.Lockwood,N.O Regan and J.A.Owens, Palestrina,Giovanni Pierluigi da, in New Grove, 2nd ed.,vol. 18,pp. 937-957:939;L.Byatt,op.
cit., p. 373.
48 後に引用する書簡【B】
(本論44頁と
75参照)は、ローレがイッポリト2世のためにも作曲し
ていた証拠の1つになりうるものである。なお、1555年当時にはイッポリトの宮
にもマドリ
ガーレを作曲できる人物がいた。ヴィチェンティーノ Nicola Vicentino (1511∼ca. 1576)とサ
ンドラン Pierre Sandrin (ca. 1490?∼1561以降) である。前者は1540年代中ごろから1560年代
初頭まで、後者は1552年から1561年までイッポリトに仕えていた(N.Vicentino,Ancient Music
Adapted to Modern Practice,translated,with Introduction and Notes,by M .R.M aniates,ed.
。だが、この2人
by C. V. Palisca[New Haven:Yale University Press, 1996]
, pp. xi-xxiv)
の手によるマドリガーレで、デッラ・カーサの抒情詩を歌詞とするものは現存しない。そもそも
サンドランはシャンソンを得意としており、彼のマドリガーレは1曲しか知られていない(H.
M . Brown/J. T.Brobeck, Sandrin[Regnault,Pierre]
, in New Grove, 2nd ed.,vol. 22, pp.
53
236-237)。ヴィチェンティーノにとっては、1555年は音楽理論書
『今日の実践に応用される古代
の音楽 L antica musica ridotta alla moderna prattica』を上梓した年である。この書物は、パ
ウルス4世が選出される前日の5月22日にローマで出版された(L. Byatt, op. cit., p. 371; N.
。
Vicentino, Ancient Music... cit., p. xxii)
49 リベルタについては、A. Serena, Un fautore dei Monti di Pieta (Venezia: Ferrari, 1919)
(estratto da: Atti del reale istituto veneto di scienze, lettere ed arti, tomo 78, parte 2a
(1918-1919):543-556) を参照。歌詞作家の調査はRePIM (本論 4参照)による。
50 Le vive fiamme de vaghi e dilettevoli madrigali dell eccell. musico, Cipriano Rore, a quattro
et cinque voci, novamente posti in luce, per Giulio Bonagionta da S. Genesi, musico dell
illustriss. Sig. di Vineggia. Con gratia et privilegio (Venezia, Girolamo Scotto, 1565) (=
RISM 1565 ), 第2曲。この曲集にはボナジュンタGiulio Bonagiuntaがデル・フォルノAnibale
Del Fornoに宛てた献辞(1565年11月8日付)があり、文面からローレがすでに亡くなった後であ
ることがわかる(曲集についての詳細、および献辞は J. A. Bernstein, op. cit., pp. 674-676 を
参照)
。実際、ローレは同年9月11∼20日に死去した(J. A. Owens, op. cit., p. 667)
。
51 C. Rore, Opera omnia, 5: Madrigalia 3 -8 vocum, ed. by B. Meier (s.l.:American Institute
of M usicology, 1971)(Corpus mensurabilis musicae, 14/5),p.XI. なお、マイヤーがこの説
を主張した当時は、ローレは遅くとも1542年からフェラーラの宮
での間、ヴェネツィアに住んでいたと
楽長に迎えられる1546年ま
えられていた。だが今日では、本文中にも記したとおり
(40頁)、ルベルト・ストロッツィ宛のパッラッツォ・ダ・ファーノの手紙が発見されたことで、
ローレはヴェネツィアには通っていただけであり、住んでいたのはブレッシャだったことが明
らかになっている。
52 本論 50で指摘したとおり、 トレヴィーゾよ、お前は幸せだ>を出版した曲集 Le vive fiamme
(RISM 1565 )には、ボナジュンタの献辞が付いている。そこでは、ローレが彼に4声と5声の
マドリガーレをいくつか預けたことに加えて、ローレが
「誰彼なしに容易に広まることのないよ
う保管していて欲しいと私に頼んだ pregandomi li dovesse tenir appresso di me,accio le sue
opere non cosıfacilmente nelle mani di ciascheduno si divulgassero」ことが記されている。
この一節はローレの出版嫌いの証拠として今日しばしば引用される。ヴェネツィアの出版業者
に対する不信感は、後述のとおり『4声マドリガーレ集第1巻』出版に際して1550年にフェラー
ラの業者を選んでいることに現れている。
53 『4声マドリガーレ集第2巻』と『5声マドリガーレ集第4巻』の2冊。前者には おお、眠りよ>
が収録されている。2冊ともローレの名前を前面に出しているが、ローレ本人の了承を得ていた
かどうかは定かでない。前者のタイトルは本論 4を参照。後者のタイトルは Di Cipriano de
Rore il quarto libro d i madregali a cinque voci con uno madregale a sei e uno dialogo a otto,
novamente da lui composto e per Antonio Gardano stampato e dato in luce. Con gratia et
54
チプリアーノ・デ・ローレとジャケス・デ・ヴェルト(1)
privilegio. A cinque voci (=RISM 1557 )。詳細はM .S.Lewis,Antonio Gardano... cit.,vol.
2: 1550 -1559 (New York:Garland, 1997), pp. 354-358を参照。
54 各々の曲名の後に、収録する曲集を略記する。 O voi che sotto lamorose insegne>RISM 1560 ,
Ben qui si mostra> RISM 1561 , Era il bel viso suo> RISM 1561 , Madonn hormai>
RISM 1564 .
55 ここでは専らマドリガーレの作品数を挙げて議論を進めているが、宗教曲でも似たような現象
がみられる。J. A. Owens, op. cit., pp. 670-675.
56 エグモント伯 Lamoraal, Graaf van Egmond (1522∼68)のサンカンタンでの勝利を歌う Da
lestremo orizonte> は1557年以降に、オーストリア
(1522∼1586)の
ア(カルニオラ)
生日を祝う
女マルガレーテ Margherita d Austria
Alma real se come fida stella> は1559年12月に、カランタニ
国の君主でヴォルフガンク・エンゲルベルト・フォン・アウエルスペルク1
世 Wolfgang Engelbert I von Auersperg の没後に作曲されたと思われる
Rex Asiae et
。
Ponti>は1557年以降に作曲された(C.Rore,op. cit.,pp.XI-XIV;J.A.Owens,op. cit.,p.669)
57 A. Santosuosso, op. cit., p. 137. 本論 3で指摘したヴェットーリ宛の手紙も、ヴェネツィア
で書かれたものである。手紙の全文はOpere di Monsignor Giovanni Della Casa (Napoli:s.e.,
1733), tomo 5, p. 187を参照。
58 R. J. Agee, The Privilege and Venetian M usic Printing in the Sixteenth Century (Ph. D.
diss., Princeton University, 1982), pp. 19-29, 180, 233-235.
59 本論 4で掲げた曲集に基づいて筆者が 訂したテクストを提示。所蔵図書館名(声部名)は以
下のとおり。RISM 1557 :I-VEaf (CAB), I-Bc (T);W 855:D-M bs (CATBQ).
訂方法と脚
注での略号表記については、園田みどり「ジャケス・デ・ヴェルトのマドリガーレにおける形式
の問題」
(東京藝術大学博士学位論文、2001年)221-222頁を参照のこと。
60 両者の違いは、16世紀のイタリア語に生じる表記の揺れの範囲に収まっている。16世紀のイタリ
ア語の表記については、B.Migliorini, Note sulla grafia italiana nel Rinascimento, in Studi
di filologia italiana,13(1955):259-296を参照。また、印刷譜の歌詞には、版組みを担当した人
物の表記上の癖が反映されることもある。互いに異なる版元から出版されたことを思えば、この
2つの歌詞は同一と言っても差し支えない。
61 14行目中央にある「o」が全声部で「e」になっている。1569年出版のローレの楽譜第2版(I-Bc
所蔵)では、この誤りは全声部において訂正されている。筆者の えではデッラ・カーサのテク
スト(本論
6参照)と資料1の2つのテクストとの間に重要な相違はない。唯一指摘するとす
れば、デッラ・カーサのテクスト7行目の「ten vola」が、ローレとヴェルトの歌詞ではそれぞ
れ「t envola」と「t invola」になっていることである。だが、これも意味の変化を伴わない表記
上の違いとみなすことができる。なお、近年デッラ・カーサの抒情詩集を出版したカッラーイ
(本
論 3参照)は、文学の研究者としては珍しく、ソネット「おお、眠りよ」がまずは歌詞として
55
ローレの印刷譜上で初めて活字になったことを指摘し、ローレの楽譜にある「異読」を3つ挙げ
る(pp. 181-182)。だが残念なことに、カッラーイが本当にローレの初版楽譜を見たのかは疑わ
しい。曲集名と出版者名を誤記していることに加え(
『5声マドリガーレ集第2巻』ではなく『4
声マドリガーレ集第2巻』、Angelo Gardano ではなく Antonio Gardano が正しい)、この印
刷ミスに言及しないからである。彼の挙げる3つの「異読」も、選択が不適切であり、しかも3
つ目は間違っている(カッラーイは、ローレの印刷譜では13行目の「e」が省略されていると述
べる)
。これらの誤りの大半は、以下に記載されているローレの歌詞テクストと初版楽譜につい
ての情報に従ったためと思われる。S. La Via, «
Natura delle cadenze»e «
natura contraria
delli modi»
. Punti di convergenza fra teoria e prassi nel madrigale cinquecentesco, in Il
Saggiatore Musicale, 4 (1997):5-51:33-35, n. 58, 34.
62 あるいは、ヴェルトの楽譜を印刷する際に、出版者スコットが訂正した可能性もある。本論 60
参照。
63 アレクサンドリア
大司教職は、居住義務もなく名目上の肩書きであったので、ジュリオ・
チェーザレはローマに住んでいた。V. Davolio, Memorie storiche della contea di Novellara e
dei Gonzaghi che vi dominarono (Milano:Ferrario, 1833), p. 22.
64 Ibid., p. 35.
65 Ibid., pp. 22-40.
66 I. Fenlon, Giaches de Wert: Letters and Documents (s. l.:Klincksieck, 1999), p. 28.
67 Ibid., p. 102. ヴェルトの書簡は現在57通の所在が確認されている。うち38通は1990年代にノ
ヴェッラーラ在住の郷土
研究者たちが当地の
立古文書館で発見したものである。この成果
は、以前から知られていたマントヴァ国立古文書館所蔵の19通と併せてフェンロンによって
1999年に『ヴェルト書簡集』として出版された(本論
66参照)
。
68 ゴンザギーニはアルフォンソ・ゴンザーガの曽祖 フランチェスコ1世 Francesco
の庶子ガ
レアッツォGaleazzoに始まる家系で、ルクレツィアはガレアッツォの孫である。ゴンザギーニの
家系図は、Ibid., p. 19。
69 ルクレツィアは深刻な病気のために1556年5月4日に遺書を書いたが、その中にヴェルトにつ
いての言及はない。一方、1557年3月17日付のブラッチョーロ(彼については本論44頁を参照)
の手紙からは、ヴェルトが結婚していることがわかる(Ibid., p. 37, n. 45)
。
70 Ibid., p. 37.
71 ヴェルトの初めて出版された4声マドリガーレ 誰が私のために昇るでしょうか Chi salira,
per me> が主にローマで活躍していた作曲家の作品ばかりを揃えた Secondo libro delle muse,
a quattro voci. Madrigali ariosi, de diversi eccell.mi autori, con doe canzoni di Giannetto,
di nuovo raccolti et dati in luce. Con gratia et privileggio per anni X (Roma:Antonio
Barre, 1558)に収録されていることから、ヴェルト自身もローマに行って一時期を過ごした可
56
チプリアーノ・デ・ローレとジャケス・デ・ヴェルト(1)
能性がある(Ibid., pp. 28-30)
。
72 出版許可を得るための手続きとして、ガルダーノの楽譜は審査を受けた。審査は2名が担当し、
それぞれ1557年4月30日と同年5月1日に報告書を作成した(R. J. Agee, The Privilege and
。従って、ローレの おお、眠りよ> は1557年4
Venetian M usic Printing...cit., pp. 20, 233)
月には完成していたはずである。
73
甘美な木陰に Alla dolce ombra>はペトラルカ『俗事詩片』142番の1∼36行を作曲したもの
で、ローレの『4声マドリガーレ集第1巻』巻頭を飾る連作マドリガーレである。
74 Novellara,Archivio Comunale,Archivio Gonzaga,Corrispondenza,b. 32;I.Fenlon,op. cit.,
pp. 35-36, n. 41. なお、本論で引用する書簡のテクストは、オリジナルを参照の上、筆者が整
えたものである。基本的にはフェンロンの編集方法(Ibid,p.79)を踏襲するが、
「h」が他の語
との識別機能を担っているとき(例えば動詞「avere」の活用形「ha」
、
「ho」など)以外は取り
除く点で、彼の方法とは異なる。彼の「h」の扱いと、それによって生じる問題については、筆
者による書評(Il Saggiatore Musicale, 8(2001):361-364)を参照のこと。
75
主人 patron」に付けられている形容詞「いとも尊き Reverendissimo」は聖職者に対する敬称
なので、ここでの主人とは後に出てくるフェラーラ 爵エルコレ2世ではなく、エルコレ2世の
弟、枢機卿イッポリト2世と思われる。
76 オリジナルでは「ca」となっている。S.Battaglia,Grande dizionario della lingua italiana, s.
v. Ca , vol. 2, p. 471;s. v. Che , vol. 3, pp. 26-30:28 を参照。
77 Novellara, Archivio Comunale, Corrispondenza, b. 41.
78 後述のとおり、これを最初に発見して報告したのはマックリントックである。C.M acClintock,
New Light on Giaches de Wert, in Aspects of Medieval and Renaissance Music: a Birthday
Offering to Gustave Reese,ed.by J.LaRue (New York:Norton, 1966),pp. 595-602. 残念な
がらこの書簡は現在
失中である。だが幸いなことに、マックリントックは不鮮明ではあるが書
簡を写真製版した図版(Pl.3b)を掲載している。その右端に見える
以前ノヴェッラーラの
筆の書き込みを見る限り、
立古文書館がこの書簡を所蔵していたことはほぼ疑いないと思われ
る。なお、マックリントックは書簡の執筆者を「ポッロニーチェPollonice」としたが、これは今
日フォッロニコの間違いであるとされている(I.Fenlon,op. cit.,p.32,n.35)
。筆者がここで提
示するテクストは、上述の図版を参照しながら本論 74に記した方法で整えたものである。
79 さらにマックリントックは、
「ちょうどジャコモ氏がそうしましたように sıcome gli offerse et
を(これから)そうするように just as M esser Jacomo, ...,
diede per suo, Messer Jacomo」
offers and dedicates himself to you」と訳す、つまり遠過去形をあえて現在形に訳すことで、
ヴェルトはローレの紹介でノヴェッラーラの伯爵家に仕えるようになったと強弁する(C.Mac。だが、本論43頁に記したとおり、今日ではヴェルトが遅くと
Clintock, op. cit., pp. 600-601)
も1552年にはすでに伯爵家に仕えていたことが判明しているので、彼女の恣意的な解釈はもは
57
や必要ない。
80 I. Fenlon, op. cit., p. 32.
81 本論 71で言及したヴェルトの4声マドリガーレ 誰が私のために昇るでしょうか>は、1558年
に「Iacomo Werth」の名前で出版された。また、ヴェルトがマントヴァ宮 の楽長となったこ
とを示す最初の証拠(
国役人の記した手紙)でも、ヴェルトは「Jacomo」と呼ばれており(C.
、ノヴェッラーラ宮 の給料支払
M acClintock,op. cit.,p. 601;I.Fenlon,op. cit.,p. 54,n. 101)
い記録(1559年)においても、ヴェルトは「Jacomo」と記されている(S.Ciroldi, Giaches de
Wert (Wert
Novellara
Anversa 1535 ca.
Mantova 1596) nelle corti dei Gonzaga di M antova,
Bagnolo e degli Estensi a Ferrara, in Bollettino storico reggiano, 37 (2004),
「ジャコモ」以外の呼び方としては、
「ジャコッボ Giacobbo」があっ
fascicolo n.123,p.111)。
た(I. Fenlon, op. cit., p. 39, n. 56)。
82 アルフォンソ・ゴンザーガの長兄フランチェスコ2世のこと。
83 フェンロンはミラノ
督(1546∼1554)フェランテ・ゴンザーガ Ferrante Gonzaga(1507∼1557)
の娘、イッポリタ Ippolita Gonzaga (1535∼1563)ではないかと える (Ibid., p. 43, n. 65)
。
84 Novellara,Archivio Comunale,Archivio Gonzaga,Corrispondenza,b. 44;I.Fenlon,op. cit.,
pp. 42-43, n. 65.
85 RePIM (本論
4参照)を用いた調査による。
86 歌詞全文は筆者の前掲博士論文(本論
59)235-237頁にある。この詩については、ヴェルトの
作曲したもののみ現存する。なお、フェンロンはカンツォーネ「夜に時折
明が」とセスティー
ナ「敵意に満ちた運命が」の内容を取り違えている(I. Fenlon, op. cit., p. 43, n. 65)
。
87 詳細は、園田みどり前掲論文「16世紀イタリア多声世俗声楽曲における作曲家の歌詞の入手経
路」31-32頁を参照。ヴェルトの他にラッソ Orlando di Lasso (1532∼1594)が作曲した。歌詞
全文は筆者の前掲博士論文(本論
59)276-277頁にある。
88 枢機卿イッポリト2世を指すと思われる。
89 エルコレ2世の長男で後のフェラーラ
爵アルフォンソ2世 Alfonso II d Este (1533∼1597)
を指すと思われる。
90 Novellara,Archivio Comunale,Archivio Gonzaga,Autografi,b.73/36. フェンロンは『ヴェ
ルト書簡集』(本論
67参照)の中でその一部を掲載したが(I. Fenlon, op. cit., p. 36, n. 43)
、
テクスト表記は不正確である(本論
74で言及した筆者による書評を参照のこと)
。オリジナル
のファクシミリは、S. Ciroldi, op. cit., p. 194 にある。
91 1556年1月22日付(I. Fenlon, op. cit., p. 36, n. 42)と同年1月28日付。
92
ジャコモ氏が殿下に再びお仕えすることになった旨、大変嬉しく思っております。L aver
inteso che M esser Jacomo sia ritornato al servizio di Vostra Signoria m ha cosıallegrato...
(Novellara,Archivio Comunale,Archivio Gonzaga,Corrispondenza,b. 44)」
(I.Fenlon,op.
58
チプリアーノ・デ・ローレとジャケス・デ・ヴェルト(1)
cit., p. 36, n. 44.)
93 1556年3月5日付(Ibid., p. 41, n. 61)
、同年7月26日付(Ibid., p. 42, n. 64)
、同年8月30日付
(Ibid., p. 23, n. 3;S. Ciroldi, op. cit., pp. 86-87)の3通。
94 もっとも、
【B】と【C】はデッラ・カーサのソネット「おお、眠りよ」完成以前の手紙である
から、その中で言及されているマドリガーレには該当するものはないはずである。また、
【E】
ではローレは「スタンツァ」を送ると記している。ソネットを「スタンツァ」と呼ぶことはない
と思われるので、【E】と一緒に送られた作品も、 おお、眠りよ> ではないだろう。
59
60
Cipriano de Rore e Giaches de Wert (1)
Su due intonazioni musicali del sonetto «
O sonno»di mons. Giovanni Della Casa
SONODA Midori
Il sonetto «
O sonno»di mons. Giovanni Della Casa, composto approssimativamente nel
marzo 1554 nel ritiro di Nervesa,nellevicinanzedi Treviso,fu stampato per la prima volta con
la musica di Cipriano de Rore nel suo Secondo libro de madregali a quatro voci (1557). In
un mese imprecisato del 1558 apparvela seconda versionemusicale,quella di Giaches deWert,
pubblicata nel suo Primo libro de madrigali a cinque voci. Entrambi i musicisti sembra non
abbiano potuto attingere alla prima versione letteraria apparsa nelle Rime et Prose,edizione
postuma pubblicata nellottobre 1558 con le cure del segretario Erasmo Gemini. Un confronto attento fra i tre testi, del Rore e del Wert e del Gemini, non presenta alcune varianti
significative. In questo articolo si intende proporre alcune possibili ipotesi sui percorsi del
componimento poetico, ossia come giunse il sonetto nelle mani dei due musicisti.
A giudicare dal fatto che una parte degli esemplari rimasti del Libro terzo dei madrigali a
cinque voci del Rore,uscito nel 1548 presso Antonio Gardano,porta la dedica al Della Casa,
firmata non dal compositore ma da Perissone Cambio, musicista e collaboratore delleditore,
si puo immaginare che il Rore intrattenesse rapporti con il monsignore, nunzio apostolico a
Venezia a quellepoca.Colui che per il sonetto ha fatto da tramite tra il Della Casa e il Rore
pero sembra essere un altro personaggio. Ad esempio,il cardinale Ippolito
di Ercole
d Este,fratello
,duca di Ferrara,nella cui corte il Rore fu il maestro di cappella dal 1546 al 1559.
Dopo il conclave che si tenne per lelezione di Paolo
nel maggio 1555,il cardinale dovette
avere modo di incontrare il Della Casa, appena ritornato a Roma con lincarico di primo
segretario del nuovo pontefice. Ercole II stesso puo essere un candidato, in quanto questi
aderı
,il 13 novembre 1556,un giorno prima della morte del monsignore,alla Lega antiasburgica formata da Paolo
ed Enrico
, della quale il Della Casa fu uno degli artefici. Un
altro possibile intermediario e Giovan Francesco Liberta, priore del monastero di Santa
Margherita di Treviso, dato che un anonimo testo poetico «
Felice sei Trevigi»in lode
dellagostiniano appare intonato dal Rore in una raccolta musicale compilata dopo la morte
del compositore (1565).
Giaches de Wert si sarebbe potuto servire del componimento poetico edito nel Secondo libro
del Rore, purche avesse avuto tempo a sufficienza per metterlo in musica e pubblicare la sua
171
versione entro il 1558. Va ricordato pero che il testo del Rore contiene un errore di stampa,
che sara corretto nelledizione seguente (1569) e non apparira mai nel testo wertiano. Un
altro possibile canale di appropriazione del sonetto potrebbe essere rappresentato da Alfonso
Gonzaga, conte di Novellara. Segretario del conclave sopra menzionato, egli ricopriva
importanti incarichi nella Curia ed era protettore del Wert, non piu tardi del 1552. Diversamente il Wert sembra aver attinto il testo dalla musica inedita del Rore. Alcune lettere
conservate nellArchivio Comunale di Novellara testimoniano che mottetti e madrigali del
Rore furono copiati e mandati al conte da agenti o dal Rore stesso. Oltre a cio,in una lettera
del 17 gennaio 1556 indirizzata ad Alfonso, il Rore lo assicura di aver convinto il Wert, che
era a Ferrara e stava per partire per Venezia,a rimanere al suo servizio. Sebbenei documenti
rimasti non ci rivelino chi sia stato il primo ad avere il sonetto, non sembra inopportuno
formulare lipotesi che a quellepoca ci sia stata una gara reale fra i duemusicisti sul medesimo
componimento poetico.
172