~大正 13 年(1924) 草創期 1872 年ウィルソンが野球を日本に伝え、1886 年第一高等中学校(旧制一高の前身)に「べーす ぼーる会」創設され、旧制第一高等学校を中心に発展する。ほぼ同時期に早慶にも野球が伝え られ、早慶戦が行われるものの、応援の加熱により 1906 年以降中断することとなった。 早慶不戦の中、1910 年明治大学野球部が創設される。 1915 年に早慶明で三大学野球連盟を発足させた。このリーグ戦実施に当たり、入場料の徴収が 提案され、規約として締結された。同年、法政大学野球部が創部し、第 1 回全国中等学校優勝 野球大会(現在の高校野球夏の大会)が開催された。 1917 年法政大学が三大学リーグに加わり四大学リーグとなった。同年東京帝大と京都帝大が定 期戦を開始し、東京帝大にも野球部創部の機運が高まる。 1918 年一高は入学した内村祐之投手の活躍により早大・慶大・三高・学習院と当時の 4 強を倒 し国内制覇をした。 1919 年一高から内村投手が東大に入学し、東京大学野球部創設の動きが加速し、長与又郎が 初代部長に就任し、野球部は正式に発足する。次いで、対京都帝大野球定期戦の協定を成立 させた。 東京六大学発足の機運 1921 年には立教大学が 4 大学リーグ戦に加わり 5 大学リーグ戦となる。また同年プロ野球誕生 の基となる合資会社「日本運動協会」が発足した。 1922 年秋、尾久球場が設けられ、開場記念として一高 OB・現役連合軍と慶大 OB・現役連合軍 が対戦し、内村と小野三千磨投手の対決が人気を呼んだ。以降、東大野球部は尾久球場を賃 借して日々の練習を行った。 1923 年関東大震災が起こり、一高 OB・現役が関西で義援金募集試合を行い、入場料を義援金 として醵出した。この義拳は東大クラブとして翌年の第 1 回神宮大会へ参加させる大きな理由と なった。その神宮大会では稲門クラブ、早大には敗戦するものの、法友クラブには勝利する。当 時一高の投手であった東武雄は高く評価され、東大入学が多くのファンから期待された。 1924 年には第1 回選抜中等学校野球大会(通称:春の甲子園大会)開催され、野球界が徐々に 発展していた。 大正 14 年(1925) 東京六大学野球連盟の成立と東京帝大の加入 東大野球部の実績並びに一高からの有力選手の加入で東大を 5 大学野球連盟に加入させては との声が大きくなった。当時の5大学野球運営の中心にいた明大・内海、早大・飛田らは共に一 高野球に感銘を受け、特に積極的に東大の加入を推進した。また、当時の東京帝国大学野球部 の長与又郎部長・芦田公平監督・山本久繁主将・石田久市マネージャーらも並々ならぬ努力は らって加盟を働きかけていた。その努力が実り大正 14 年 4 月末の後大学連盟の運営会議にお いて、東京帝国大学野球部の連盟加入が正式に承認され、東京六大学野球連盟の結成となっ た。加入を認められた東大は、春季はテストシーズンとして5大学と1試合ずつ行うこととなり、1勝 (立に勝)4敗の成績を残し、9月の秋季リーグ戦から5大学と正式の試合を行う運びとなった。 六大学リーグ戦における東京帝大の記念すべき初試合は、1925 年9月 22 日、中野の法大球場 において法大との間に行われた。この試合、2年生東武雄は、8回に形勢逆転の本塁打を放つ など、投打に大活躍し、結局4x-1でこのメモリアルゲームに勝利を収めた。 長与又郎東大野球部長は、東大の連盟加入に当たって、部員に対して次の2点を示して覚悟を 固めさせた。その1は、どんなに苦しくても自ら連盟を脱退することのないように、その2は、必ず 1度は優勝するように、というものであった。加入以来1世紀になんなんとする今日、その第1点に ついては、歴代の先輩・現役の必死の努力と、他5大学の理解ある友情に支えられて守られてき たが、第2点については未だに実現されていない。東大野球部の長い歴史を見守ってきた泉下 の長与の胸中はいかがであろうか。 なお、東大が加盟したこの大正 14 年秋季リーグ戦において、1906(明治 39)年以来続いていた 早慶不戦の状況に終止符が打たれ、10 月 19 日、戸塚球場において 20 年ぶりに早慶戦が行わ れた。結果は 2 戦とも早大の大勝とファンの期待を裏切る一方的な試合となった。 秋季リーグ戦 東大 勝ち点 2 第4位(5勝7敗2分) 大正 15 年(1926) 駒場に球場と合宿所を新設 東大野球部は、肝腎の専用球場を持たず尾久球場を賃借して練習や練習試合を行ってきて いた。しかしこの球場は、不便な点も多かった。 そこで大学当局に野球場建設を懇請した結果、駒場の農学部キャンパスの西隅の低地に東大 の野球場を建設することとなった。 1925(大正 14)年、工事が始められ、翌大正 15 年春に完成した。またその夏には球場に隣接 する地(現在のラグビー場の北端辺り)に合宿所も建設された(駒場野球場の新設については、 『部史』19 頁の石田久市の記述、合宿所建設については同 64 頁、塩沢信濃「昭和始め頃の駒 場寮」に拠った。) この球場は、昭和 10 年に一高が駒場に移転してからは一高の専用球場となり、昭和 24 年に 東大教養学部が発足してからは、教養学部の体育の授業に使用され、また準硬式野球部が優 先的に使用している。 春季リーグ戦 東大 勝ち点 0 第6位(0勝 10 敗) 秋季リーグ戦 東大成績 東大 勝ち点 0 第6位(2勝 10 敗) 明治神宮野球場の建設 1923(大正 12)年になり、内務省衛生局が企画して、明治神宮奉賛競技大会(現在の明治神 宮大会)が開催されることとなった。五大学野球連盟としては、この際外苑に球場を建設して多く のファンを集めること強く望み、明治神宮奉賛会理事長阪谷芳郎男爵にその旨を懇請することに なった。そこで、連盟の代表者としての飛田穂洲早大監督をはじめ、明大の内海弘蔵野球部長・ 法大 OB の武満国雄、およびこの時点ではまだ正式加入前であった東大の芦田公平監督の4人 が阪谷を訪ねて、野球場建設の件を懇請した。阪谷は事情を了解し、まず五大学連盟として建 設資金を集めることを条件に、前向きの姿勢を見せた。 五大学連盟としては、早速募金活動を進めたが、関東大震災の直後で財界は不況、募金は難 航を極めた。 しかし阪谷は、この情況を知ると、集まった金をともかく出すように、不足分は奉賛会でなんとか する、と好意的な意向を示してくれ、大正 14 年に野球場は起工の運びとなった。 かくして総工費 5,147 百万円、敷地 7,000 坪、収容2万 9000 人の、美しい外苑の景観を背景 とする新式の大球場が、翌大正 15 年 10 月に竣工し、23 日に奉納式が挙行され、第3回神宮大 会の野球試合はこの新球場で行われたのであった。 六大学野球連盟では、1926(大正 15)年秋季リーグ戦から、この神宮球場を部分的に使用し、 1927(昭和2)年からは、この球場をホームグラウンドとしてリーグ戦のすべてをここで挙行するこ ととなった。 (神宮球場建設については『七十年の歩み』28 頁「神宮球場誕生までの経緯」に拠った) 昭和2年(1927) 春季リーグ戦 東投手は対立大2回戦では、ノーヒット・ノーランの快記録を残し、1-0で立大から勝点を上 げる殊勲を建てた。翌日の新聞評は、「この日東の調子は素晴らしく遂にノーヒット・ノーランの記 録を造る。偉なる哉『至宝』」と、その投球ぶりを讃えた。 春季リーグ戦 東大 勝ち点 1 第4位(3勝7敗)(早大は渡米で不出場) 対京大戦 9月 12 日と 15 日に東大駒場球場で行われ、5x-0、17-4で東大が連勝した。大正 8 年以来 確保していた3N カップが授与されたが、翌昭和3年からは、対京大定期戦は「四帝大リーグ戦」 に吸収されることとなった。 秋季リーグ戦 東大 勝ち点 2 第4位 (4勝7敗2分) ラジオ実況中継の開始 この昭和2年、秋季リーグ戦の明立2回戦(10 月 10 日 神宮球場)で、JOAK(現在の NHK) により、六大学リーグ戦の初実況中継が行われた。 昭和3年(1928) 春季リーグ戦 東大 勝ち点 1 第4位 (2勝6敗)(慶大渡米) 四帝大リーグ戦 9月上旬、第1回の東北・東京・京都・九州の四帝大によるリーグ戦が甲子園球場で開催され、 東大が優勝した。なお、この年から対京大定期戦は、この四帝大戦に吸収される形となった。 東大初の首位打者三嶋東作 三嶋はこの秋季リーグ戦において、主に右翼手として出場していた。10 試合に出場し、打数 32・安打 11・打点2・四死球4・三振3・打率 0.344 の堂々たる成績で、東大初の首位打者のタイト ルを獲得した。 三嶋は岡山一中在学中、第7回の全国中等学校優勝野球大会(当時甲子園はまだ無く、鳴尾 球場で開催)に出場している。福岡高を経て東大に入学、この年は2年生だった。入学当初は捕 手だったが、肩をこわして外野に回り、打撃に専念していた。始めはレフト方面に引張る中距離 打者だったが、2年の春頃からライト打ちも会得し、シーズン前の四帝大戦で本塁打を打って自 信を深めたという。(三嶋の首位打者獲得については、『部史』44 頁三嶋東作「東大初の首位打 者」に拠った。) リーグ初の専属審判制度 東京六大学野球連盟はこの昭和3年の秋季リーグ戦から、専属審判員制度が設けられ、9月 22 日の開幕第1戦東明1回戦に新しい専属審判員が登場し、鮮やかなジャッジ振りを披露した。 この制度は、その後、昭和6年5月に起こったいわゆる“八十川ボーク事件”の責を負って、リーグ の審判員全員が辞職するという事態に及んで廃止された。 秋季リーグ戦 東大成績 東大 勝ち点 1 第5位(3勝8敗) 昭和4年(1929) 春季リーグ戦 4月 21 日の神宮球場は、本塁からセンター方向に向けて烈風が吹きまくり、投手は真正面か ら砂まじりの風を受けるという状態であった。投手のコントロールは定まらず、初回から慶大は 15 人の打者を送って9点を奪い、その裏に東大も 11 人の打者で5点を奪い返すという波瀾の幕あ けとなった。打球は強風に流され、投・送球もままならぬという状態のもとでの大乱戦の末、結局7 回コールドゲームで、29-15 というスコアで慶大の勝利となった。両軍の得点合計 44 は、その 後も破られることのないリーグの記録である。両軍の安打数は合計 29、四死球数 25、さらに打順 が一巡したことが両軍合わせて4回というすさまじい記録を残した珍ゲームではあった。 この春のリーグ戦において、六大学野球連盟としては初めて公式戦開始に先立って、6チーム 全選手がそろって入場式・開幕式を実施することとなり、これも以後ファンの眼を楽しませる行事 として定着することとなった。 また、この春からの初の試みとして、1日に2試合(1日に4チームが出場する)を行い、シーズン の最後に早慶戦をシングルゲームで行うという日程が組まれ、これも以後六大学リーグの原則的 な日程として、長く定着することとなった。ファンにとっては、1日に4チームの選手の活躍が見ら れるということで、満員の盛況をもたらしたのであった。 春季リーグ戦 東大 勝ち点 0 第5位(0勝8敗)(明大は渡米で不出場) 夏季合宿・九州遠征・四帝大戦 この第2回四帝戦では、九大(11-7)・京大(8x-1)で2勝を挙げ、前年度に続いて優勝し た。 秋季リーグ戦 東大 勝ち点 0 第6位 (2勝 10 敗) 11 月 1 日の早慶戦でリーグ戦初の天覧試合となった。 昭和5年(1930) 春季リーグ戦 東大 勝ち点 1 第5位 (3勝9敗) 夏季合宿・北海道遠征・四帝大戦 8月には 4 帝大戦が甲子園で行われ、前年に引続いて優勝して帰宅した。 秋季リーグ戦 秋季リーグ戦 東大の成績 東大 勝ち点 2 第4位 (4勝7敗) 昭和6年(1931) 春季リーグ戦 また、前年 12 月に着工した神宮球場の拡張工事が5月9日に竣工したが、春のリーグ戦はそ のため例年より約1か月遅れと5月 10 日開幕となった。この拡張工事費は六大学野球連盟が負 担し、球場は、5万5千人収容、スタンドの外周をアーケードで囲むという偉容を誇るたたずまいと なった。 八十川ボーク事件 この春のリーグ戦の第3週の慶明2回戦(5月18日)6-5で明大リードの状況で迎えた8回裏に 事件は起こった。慶大が1死で走者1・3塁の好機を作った時、明大の八十川投手は、3塁走者 に対して牽制の擬投をした後、ふり向いて1塁に牽制球を送った。浅沼主審はこの動作をボーク と判定し、3塁走者の生還を認めた。明大岡田監督はこれに烈しく抗議し、「あの動作はボークと は認めないという申し合わせになっていたはずだ」と主張し、30 分にわたる紛糾が続いた。結局 浅沼主審は明大の抗議を抑えきって3塁走者を生還させて試合を再開した。これで気落ちした 明大は、9回にも1点を失い、試合は7x-6で慶大の勝利となった。ところが、試合終了後、激昂 した明大応援団数千人は、球場の門を閉鎖して、慶大応援団と慶大選手をカン詰にし、また一 部の団員はフィールド内に飛び降りて、慶大腰本監督や選手に食ってかかる事態となった。この 騒動は警官隊が出動することとなって一応鎮圧された。 連盟としては翌 19 日夜に、この大不祥事件を処理するための最高委員会を東京会館で開い た。各校の部長・監督・先輩理事・主将が一堂に会して善後策を講じたのだが、東大は、あいにく、 広岡主将がただ1人出席することとなった。 白熱した議論の中で、慶大監督腰本は、「試合は審判の裁定に服することによって成立つもの であり、自己の主張に固執した明大に非がある。この騒ぎを起こした明大はリーグを出るべきであ る。さもなければ慶大が脱退する」と論じ、明大岡田監督は「主審の判定は、申し合わせを無視し て突如下されたものであり、これに疑義を表明するのは当然だ」と反論した。このような応酬があ るうちに、腰本は突然広岡を指さし「東大の広岡君から第3者としての公平な意見を聞きたい」と 発言した。一瞬たじろいだ広岡だったが、一呼吸おいて意を決して次のように述べた。(1)明大 野球部は責任をとって善処すべきだ。(2)しかし、その責任の理由は、応援団の暴挙に対する責 任である。(3)審判の判定には、原則として従うべきだが、今回の判定については疑義が多く、こ の時点で明大野球部の態度を非難する意見には同意し難い。さらに広岡は「審判の判定には絶 対に服従すべきだ」とする河野早大監督の発言に対して、「ジャッジに対しては絶対に服従すべ きだが、ルールの適用については、疑義を正し、誤りを指摘するのは当然だ」とも述べた。 当夜の会議の結論は、多数決をもって、浅沼主審の判定を正当と認め、明大は一連の騒動の 責任をとって自発的にこの秋のリーグ戦の出場を遠慮してほしい、というものであった。明大の学 園内は騒然となった。結局3日を経て、明大側は連盟の決定に服するという態度を決め、この事 件は落着した。この間、明大の学生大会等において、東大は明大に理解ある態度をとったという ことで、大いに感謝されたという。 しかし、一件落着の後、この八十川投手の動作をボークとしないというルールは、リーグ戦開始 前に早・慶・法には通達してあったが、明・立・東には通達を怠っていたことが判明し、広岡の指 摘の正しさが立証され、専属審判団は責任を取って総辞職した。そこで、残りの試合は学生審判 で行うこととし、最後の早慶戦は、東大の高橋(主審)・広岡(1塁)・小宮(3塁)の3名が勤めること となった。東大の3名の学生審判は、堂々と、そして無事にその勤めを果たしたのであった。 (「八十川ボーク事件に関しては、主として「部史」(P.75)の広岡の回想録に拠ったが、事件の 詳細については『明治大学野球部史』第 1 巻(昭和 49 年)などに記録がある。」 春季リーグ戦 東大成績 東大 勝ち点 0 第4位 (0勝6敗)(法大渡米、明大八十川ボーク事件により途中辞退) 秋季リーグ戦 この秋、立大が 11 戦8勝3敗、勝点4でリーグ加盟後、初の優勝を遂げた。 また、このリーグ戦で広岡知男主将・捕手(時には外野も守った)が打率4割5分5厘という高率 で首位打者を獲得した。東大としては、昭和3年秋の三嶋東作に次ぐ2人目の首位打者である。 彼の打撃に関する持論は、「ヒットは人のいない所に打つものだ。取れそうで取れない打球のほ うが、良い当たりの打球より効果がある」というものだった。この秋のリーグ戦の彼の成績は、まさ にこのような彼の持論を実行したものだったであろう。 秋季リーグ戦 東大成績 東大 勝ち点 1 第5位 (4勝9敗) 昭和7年(1932) 野球統制令 昭和7年3月 28 日、文部省は「野球の統制ならびに施行に関する件」という訓令を発した。いわ ゆる「野球統制令」であり、この訓令により、大学・高校・中学・小学校の野球は文部省の統制下 におかれることとなった。大学に関しては「選手たる故を以て学校又は学校を背景とする団体等 より学費その他の生活費を受くることを得ず」と規定し、また「コーチ、審判等を行うに当たり、旅 費、宿泊費以外の金品を受けざること」と明記した。文部省の狙いは、世間の人気の的となって いた六大学野球の弾圧にあった。 さらに衝撃的だったのは、早大が、リーグ戦開幕第1週の対東大戦を終った時点で、突如「純 真なる学生スポーツを守るために興業化した連盟を脱退する」という爆弾声明を発して、連盟を 脱退してしまったことである。結局早大は、秋のリーグを前にして、東京記者クラブの大田四州等 の斡旋により、連盟への復帰を申し出、連盟もこれを認めた。 春季リーグ戦 東大 勝ち点 1 第3位 (2勝4敗)(早大辞退・立大渡米) 四帝大戦優勝。 秋季リーグ戦 東大 勝ち点 1 第5位 (2勝9敗) 昭和8年(1933) 昭和8年度リーグ戦 昭和8年度の六大学リーグ戦は、春秋1季制という新制度の下に行われることになった。この制度 の趣旨は、学生スポーツの本分である“野球と学業の両立”をめざす点にあったと言われる。この 制度の骨格は次のようなものであった。 (1) 連盟の試合は毎年4月から 10 月末までの期間に、加盟校相互の間に勝負引分けを問わ ず、3回行う。 (2) 3回の試合のうち、1回戦は4月から6月の間に、第2・3回戦は9月から 10 月に至る期間 に行う。 (3) 試合は原則としてすべて土・日・祭日に行い、9月以降の試合は(変則)ダブルヘッダー にて行う。 (4) 加盟校の試合成績は、春秋合期間を通じての勝率によって決め、複数校が勝率首位の 場合には優勝決定戦を行う。 (5) リーグ戦の開会式は試合期間の最初に行い、閉会式は最終日程を終了した時に行う。 また、学内においては、運動会から野球部に割当てられる予算が、10000 円から 5000 円に減 額されるという経済的な危機にも見舞われた。この苦難の時期に主将をつとめた中村敬一は、 『野球界』に回顧録を寄せ、主将としての苦衷と後輩への思いを書き残している。(『部史』94 ペ ージ) この年の早慶戦は、両校1勝1敗の後、10 月 15 日に3回戦が行われた。この試合は烈しい点 の取り合いの末、9-8で慶大の勝利に終わったが、試合中に興奮した三塁側スタンドに陣取っ た早大応援団から守備についていた慶大水原三塁手にリンゴが投げられ、水原がこれを応援団 席に投げ返した。これに怒った早大応援団は、試合終了後グラウンドになだれこみ、両校応援団 の乱闘となり、さらに学校当局・連盟当事者をもまきこむトラブルとなった。しかし、その後の話し 合いでこのトラブルは無事解決された。いわゆる“水原のリンゴ事件”である。 また、10 月1日に行われた早立3回戦で初めての日没サスペンデット・ゲームの規則が適用さ れた。日没の迫った9回表2死、早大の2死満塁の好機に、主審はすでに立大塩田投手の投筋 を見定められないとしてサスペンデット・ゲームを宣言し、翌日、前日と同一条件で試合を再開す ることとなった。立大の塩田投手の第3球を早大長野選手が打って投手ゴロとなり、宵越しの試合 は4球であっけなく終わった。 その後、この規定は、1晩休養をとる投手に有利だということになり、この1年限りで廃止され た。 リーグ戦(春秋1期) 東大 勝ち点 0 第6位 (2勝 13 敗) 昭和9年(1934) 昭和9年度リーグ戦 六大学リーグ戦は、この昭和9年度も1年1シーズン制で行われた。 しかし、この制度は評判が悪く、飛田穂洲も、1シーズン制は夏季に長期にわたる中断があるこ と、大学野球では春と秋とではチーム編成に変化があり得るのであって、同一条件では行われ 難い、等の理由をあげて、この1年 1 シーズン制を厳しく批判した。結局連盟は、1年1シーズン 制をこの昭和9年度を以て廃止し、翌10 年春から 14 年秋までは、1年を春秋2期に分け、それぞ れの期に各校が2回ずつ対戦し(3回戦は行わない)、15 試合の勝率によって春・秋の優勝校を 決めるという制度に変更される。 リーグ戦 東大 勝ち点 1 第6位 (3勝 12 敗) 昭和 10 年(1935) 2シーズン制復活を望む強い声に押されて、連盟はこの年の春のリーグ戦から2シーズン制を復 活させた。ただ、過去の2シーズン制とは異なり、1勝1敗となっても決勝戦は行わず、また引分け 再試合も行わず、引分けは 0.5 勝と計算し、勝率によって優勝を決める。2校が同率も同じ場合 には優勝決定戦を行う、という制度であった。 春季リーグ戦 東大成績 東大 10 戦勝率制 第5位 (慶大と同率) (1勝9敗) 秋季リーグ戦 東大 10 戦勝率制 第6位 (1勝8敗1分) 駒場から川口へ 昭和 10 年は、東大野球部にとって、ひとつの歴史的意味をもつ年であった。それは、球場と合 宿の移転である。 この年、本郷の東大キャンパスの北に隣接していた第一高等学校は、駒場(現在の東大教養 学部)にあった東大農学部と“校地交換”をすることとなった。ここに一高駒場時代が幕を開けた のである。 この“校地交換”に伴って、東大野球部も大正 15 年(1926)以来ホームグラウンドとして 10 年間 使用してきた駒場の野球場を一高に譲り渡すこととなった。そこで、将来は本郷キャンパス内に 野球場を新設することを視野に入れつつ、とりあえずの練習場の候補地として白羽の矢が立った のが、埼玉県川口市の荒川の河川敷だった。当時のマネージャーの吉川三郎は精力的に動い た。その努力の甲斐あって埼玉県庁当局も理解を示して受入れを許諾した。川口市民も大歓迎 で、私設応援団をつくったり、歓迎会を開いたりしてくれた。日常の練習にも見物人が多く集まる といった状況が見られた。 (『部史』64 ページ「昭和初め頃の駒場寮」より) 昭和 11 年(1936) この年の 2 月 5 日、日本職業野球連盟が創立し、以後プロ野球へと発展していく。 春季リーグ戦 東大 10 戦勝率制 第5位 (1勝6敗1分)(早大渡米) 秋季リーグ戦 東大 10 戦勝率制 第6位 (2勝7敗1分) 秋季リーグ戦早大 2 回戦で小野遊撃手・池田二塁手が 6 併殺のリーグ記録達成 昭和 12 年(1937) 春季リーグ戦 野村正守一塁手は、34 打数 13 安打、3割8分2厘の高打率を挙げ、見事首位打者の栄誉を獲 得した。東大としては、昭和3年秋の三嶋東作・昭和6年秋の広岡知男に次ぐ、3人目の快挙で あった。 春季リーグ戦 東大 10 戦勝率制 第6位 (0勝 10 敗) 本郷野球場の竣工と一誠寮の新築 大正 12 年の関東大震災の直後、駒場の農学部と本郷の第一高等学校の校地交換を決定し た。その折に、本郷の一高の寄宿舎の辺りに野球場等を設けることが定められた。そして奇しくも 長与総長(初代野球部長)の代になって、球場建設はいよいよ実行期に入ったのであった。 敷地面積は約 3000 坪、ネット裏の観覧席も完備し、防球網、センター後方のスコアボード、学 生・選手の更衣室・洗面所・足洗場・管理人宿直室等の附属設備も備えられた。ネット裏観覧席 上部に設けた白堊工の屋根の、野球場側に於る高さは 10 メートル余り、半円形をなして背部か ら突き出されていて支柱を設けず、実用・外観等共にすぐれた構造をなしている。 「本学全学生のため」という大原則のもとに、大部分が大学の予算によってまかなわれたが、観 覧席やバックネットなど、競技に直接関わるものの設置については、運動会の予算をこれに当て て大学に寄付する形をとった。 この昭和 12 年春のリーグ戦をもって川口の球場を引払い、8月1日から新しい本郷の球場を練 習に使用することとなった。そして、10 月 26 日に竣工式がとり行われ、長与総長の始球式によっ て正式の球場開きとなったのであった。 この東大球場は、東大野球部の専用球場であるのみならず、東大の一般学生の軟式野球のゲ ームなどにも利用されたほか、旧制高校のインターハイや、東京の中等野球の甲子園大会の予 選などにも使われるようになった。伝統の一高対三高の野球定期戦の最終戦(第 38 回)が、昭和 23 年(1948)8月8日に行われたのもこの東大球場であった。 新球場の建設と併行して、新しい合宿所が設けられ、部員は夏の練習からここに入居した。新 合宿所の所在地は、本郷区東片町 130 番地、現在では文京区向丘1-5-9と町名・地番が変 更され、建物も昭和 40 年に建て替えられたが、所在地は変わっていない。 この寮は、おそらく長与又郎総長の命名によるものと思われるが、「一誠寮」と名づけられた。 長与は、ここに起居し、勉学と野球に励む部員に、「ひたむきな誠意」を期待したのであろう。食 堂には長与の揮毫した「一誠寮」という横額が掲げられ、それは 70 年を経た今も応接間に掲げら れている。 長与が筆を揮ったこの「一誠寮」の「誠」の字には「タスキ」が1画欠けている。長与は揮毫した 時に、東大が優勝した時にこの「タスキ」を書き入れよう、と言ったと伝説的に語り継がれている。 この額には、長与の東大野球部に対する強い思い入れがこめられているのである。 秋季リーグ戦 この年の7月7日に盧溝橋事件が起こり、リーグ戦も「非常時下」で行われることとなった。9月 4日に行われた開会式にて、東大緑川主将は、非常時下に開催されるリーグ戦の意義と、学生と しての選手の覚悟を強調した宣誓文を読み上げた。 この年、明大は春秋を通じて連覇したが、これは六大学リーグ戦に於ては初の偉業であった。 秋季リーグ戦 東大 10 戦勝率制 第6位 (1勝9敗) 昭和 13 年(1938) 春季リーグ戦 東大 10 戦勝率制 第6位 (1勝9敗) 秋季リーグ戦 明大は連盟史上初の四連覇の偉業を成しとげた。 東大 10 戦勝率制 第6位 (1勝7敗2分) 昭和 14 年(1939) 小宮一夫専任監督に就任 春季リーグ戦 東大 10 戦勝率制 第5位 (3勝4敗3分) 秋季リーグ戦 東大 10 戦勝率制 第6位 (0勝7敗3分) 昭和 15 年(1940) 春季リーグ戦 この昭和 15 年は、もともとは「皇紀 2600 年」ということで、それに合わせて東京オリンピックの開 催が予定されていた。しかし、日中戦争の戦線拡大、国際情勢の緊迫化ということで、2 年前の 昭和 13 年にオリンピック開催は返上された。六大学リーグ戦に対する監督官庁の文部省による しめつけも日を追って厳しくなり、秋のリーグ戦は“一本勝負”つまり 1 回戦制をとることが決めら れた。 この春のリーグ戦は 4 月 9 日に開幕し、慶・明・立が同率で並び、3 校による優勝決定戦を行う だけの日程の余裕がなく、優勝は預かりとなった。 春季リーグ戦 慶・明・立 3 校同率で優勝は預かり 東大 10 戦勝率制 第 6 位 (1 勝 9 敗) 秋季リーグ戦 秋のリーグ戦は 1 回戦制・各校 5 試合ということで行われた。 東大 1 回戦制 第 5 位 (2 勝 3 敗) 昭和 16 年(1941) 非常時下のリーグ戦 戦局が深刻化し、この年の 12 月 8 日には米・英両国に宣戦を布告し、当時のいわゆる「大東亜 戦争」に突入したのである。それに伴い、第 27 回全国中等学校優勝野球大会をはじめ、全国的 な競技大会が中止となった。また、この年から大学の繰上げ卒業が実施されることとなった。 春季リーグ戦 東大 10 戦勝率制 第 6 位 (0 勝 10 敗) 秋季リーグ戦 秋は前年と同じく 1 回戦制で行われた。 東大 1 回戦制 第 6 位 (0 勝 5 敗) 長与又郎初代部長の逝去 大正 8 年の東大野球部創部に尽力し、部の創立に当たって初代の部長に就任し、対京大定期 戦の協定を成立させ、さらに大正 14 年の六大学野球連盟への東大の参加を実現させ、その後 は、第 12 代東大総長として大学全体の経営に当たった長与又郎は、この昭和 16 年 8 月 16 日 に逝去された。 昭和 17 年(1942) 戦時色強まる中の六大学リーグ戦 日米開戦から数ヶ月を経て、日本全体が非常時色に塗りつぶされてきた。 文部省は、「学徒体育会」を作って、あらゆるスポーツをその傘下に収めて統制する姿勢を打ち 出していた。野球は、その派手な動きを批判する向きも強かったが、何とか振興会の中の競技種 目として生き残った。しかし、巷間の評論家の中には、文部当局に迎合して六大学リーグを悪の 根源の如くに見なし、入場料を廃止せよ、とか、連盟を解体して一本勝負の全国大会を開催せよ、 などという声を挙げる者もあった。昭和 17 年春のリーグ戦は、こうした雰囲気の中で、うやむやの うちに従来通りの開幕に流れこむことになった。 空襲による開幕延期 4 月 18 日土曜日、春のリーグ戦は、入場式と、それに引続いて行われる東早 1 回戦によって 幕を開けることになっていた。 ちょうど球場に到着する頃、突如空襲警報のサイレンが鳴り、それと殆ど同時に見慣れぬ濃緑 色の飛行機の編隊が東京上空に現れた。それは、ドーリットル麾下の米 B25 の爆撃隊だったの である。この爆撃隊は東京奇襲に成功し、早稲田など都内数ヶ所に焼夷弾を落として西方中国 大陸に飛び抜けて行った。米空軍による、日本本土空襲の第 1 号であった。当然のこと、リーグ 戦の入場式は即中止。翌週の 4 月 25 日に改めて開幕することとなったのである。また、本郷の 東大球場に陸軍の軽気球隊が駐屯するなど、戦争の色が次第に濃くなっていった。 春季リーグ戦 東大 10 戦勝率制 第 6 位 (1 勝 9 敗) 秋季リーグ戦 小宮監督が検見川の第 2 工学部に転勤となり、チームは実質的に無監督制となり、岡本主将 に代わる豊川新主将の下、最上級生の合議による指導体制が敷かれた。秋のリーグ戦は前年同 様 1 回戦制で行われた。東大は対慶大戦で、3x-2 でサヨナラ勝ちとした。これが戦前のリーグ戦 で東大の挙げた最後の 1 勝である。 秋季リーグ戦 東大成績 東大 1 回戦制 第 6 位 (1 勝 4 敗) 昭和 18 年(1943) 六大学リーグ解散 4 月 7 日、文部省から東京六大学野球連盟に覚書が届けられた。それは、連盟解散に関する 次のような通達であった。 一、 戦時学徒教育訓練実施要項の趣旨に基づき、リーグ戦形式による試合は自今これを取 りやめること。 一、 従って東京六大学野球連盟はこれを解散することとし、残務処理に関する委員会を置き、 残務処理終了の上はその経過を文部省に報告し、これを解散すること。 一、 摂政賜杯については目下宮内省の指図を願い出でたるをもって、何分の指図あるまでこ れを残務処理委員会において保管の任に当たること。 連盟はただちに理事会を開いてこの通達に対する返答を検討した。その結果、リーグ戦形式 による試合は取り止める、名誉と伝統を有する連盟ではあるが、挙国一致の戦時態勢に鑑み、 文部省の指示に従って解散する旨を骨子とする回答案を作り、内村理事長(当番校東大野球 部長)が文部省を訪ねて、その回答を手交した。 リーグ戦のない野球部 豊川主将の下、残った部員はそれまでと変わらぬ一誠寮での生活を続け、陸軍の阻塞気球 (敵機の空襲を妨害するために揚げる軽気球)の拠点となった球場で、気球置場を避けながら の練習を行った。 近場での試合を数回こなし、いずれにも敗れたが、部員たちはそれなりに野球の試合がで きる喜びを味わっていた。 バットを捨てて銃を手に-野球のない野球部員 文科系学徒に徴兵延期中止の命令が下ったのは、秋の新学期が始まってから間もなくのこと であった。そして、10 月 21 日には、強い雨の降りしきる神宮競技場に於いて、出陣学徒壮行会 が挙行された。東大では、運動会所属運動部員全員がこの壮行会に動員されたが、野球部員の 中には参加しない者もあった。 10 月 16 日、万難を排して出陣学徒早慶戦が戸塚球場で行われ、10—1で早大が勝利した後、 両軍応援団が万感をこめて両校の校歌•応援歌を歌い、更に自然発生的に「海行かば」の歌声 が球場に流れた。 昭和 19 年(1944) 空白の1年 東大野球部の 100 年に及ぶ歴史の中で、ただ1年、この昭和 19 年(1944)のみが空白の1年 となっている。これは、東大野球部だけのことではなく、日本の野球史に於ける「空白の1年」「悲 しむべき1年」であった。 昭和 20 年(1945) 廃墟の中から 8 月 15 日 終戦、すべてが廃墟の中から再起の動きを始めることとなった。 10 月 19 日 東大運動会の加藤橘夫主事の呼びかけで、復学した旧鍛練部(運動部)部員の有 志が第二食堂 2 階の会議室に集合、運動部の再建について話し合う。 10 月 29 日 一誠寮と、大学学生部の倉庫を点検したところ、試合用ユニフォーム、グローブ、ボ ール、バット等の用具が、2 年前に収納したまま無事保管されていたことが判明。学生部の倉庫 にあった物を一誠寮に運ぶ。 11 月 19 日 部員募集の掲示を学内に貼り出した結果、2 日間で 22 名の者が集まった。 11 月 26 日 御殿下グラウンドで、トレーニング(ランニング•キャッチボール•トスバッティング)を行 い、一方、本郷野球場の地ならし作業を開始。 11 月 六大学の主将会議、マネージャー会議が頻繁に開かれ、リーグの復活について話し合 う。 12 月 8〜14 日 検見川に合宿、参加者 17 名。 12 月 16 日 上井草球場で OB 戦を挙行。佐藤剛彦(昭和 16 年秋卒)の監督就任を内定。 12 月 21 日 年内の練習を終えた。 神宮球場の接収 9 月 16 日、神宮球場は占領軍に接収され、STATE SIDE PARK と呼ばれるようになった。な お、占領軍の特別のはからいで、11 月 18 日に神宮球場で全早慶戦が大観衆を集めて挙行され (6-3 で全慶應の勝)、5 日後にはプロ野球の東西対抗戦が行われた。 昭和 21 年(1946) 六大学野球連盟再建とリーグ戦の復活 連合軍の占領策の一貫として、戦時中に文部省当局の強圧によって廃止ないしは抑制の対象 とされたスポーツの復興が軌道にのせられ、特に学生スポーツの復興は大いに奨励された。 昭和 21 年の年明けと共に、六大学野球部連盟再建とリーグ戦の復活をめざして具体的な検討 が開始された。春になって連盟が正式に再建され、同時に、春からリーグ戦を復興させることを 決定した。神宮球場が使用できない状況の下で、上井球場と後楽園球場を併用して行うこと、春 のリーグ戦は総当たり1回戦で行うことと決定された。 春季リーグ戦 ― 2 位進出 このリーグ戦は、東京六大学野球リーグ戦の、戦後復活の最初のシーズンという歴史的意味を もつと同時に、東大野球部の歴史に於ても画期的な価値のあるリーグ戦となった。東大は緒戦の 明大戦に勝利を収めてから、早・立・法を連破し、3 勝 0 敗の慶大と、いわば優勝決定戦と言うべ き大試合を演じ、投手戦の結果 1-0 で惜敗、慶大がこの後早慶戦にも勝って優勝したため、2 位 に甘んぜざるを得なかった。東大野球部 100 年の歴史に於て、誠に痛恨事であったが、あと一 歩で優勝というところまで行ったことは最大の快挙として長く記録に留め、称讃されるべきであろ う。 春季リーグ戦 東大 1 回戦制 第 2 位 (4 勝 1 敗) この夏全国中等学校優勝野球大会が再開された。 秋季リーグ戦 この昭和 21 年秋のリーグ戦については、記録に留めるべき二つの事柄がある。 その 1 は、米軍が試用しないときの神宮球場、六大学リーグ戦の試合のために開放されたこと である。平日もあれば、午前中ということもあったが、再び神宮球場でリーグ戦が行えるようになっ たことは、連盟及び各校選手にとっては、大変な喜びであった。 その 2 は、六大学野球連盟に対する天皇杯の下賜である。昭和 18 年 4 月に六大学野球連盟 が解散した時、文部省体育局長の小笠原道生(東大野球部 OB、大正 15 年卒)は、リーグ戦の 優勝校が受領するものとして下賜されていた摂政杯を、文部省を通じて宮内省に返還する意向 を示したが、連盟はこれを断わり、内村理事長が直接宮内省に返納した。終戦後、幸いにも宮内 省接従職に、東大野球部 OB の戸田康英(昭和 10 年卒)が在任していて、この件について仲介 の労を執ったこともありスポーツ界に於ては、ほかに先駆けて東京六大学連盟に摂政杯に代わ る天皇杯を授与されることとなったのである。 プレーの方では山崎(喜)が打率 0.333 で第 5 位に、野口が 0.300 で第 6 位に入る健闘を見せ た。 優勝 早大 東大 勝ち点 2 第 4 位 (4 勝 7 敗 勝ち点 2) 日本学生野球協会の設立 12 月 21 日、東大構内の山上会議所にて、この年の夏に創立した学生野球指導委員会の総会 を開催し、同委員会を発展的に解消して「日本学生野球協会」を設立することが決定し、同時に 「学生野球基準要綱」が制定された。かくして、学生野球の指導監督は文部省の支配化を離れ て、民間の「日本学生野球協会」に委ねられることとなったのである。 昭和 22 年(1947) 学生野球協会結成記念大会が開催され、東大は中央大と対戦し、4-5 で敗れた。 このシーズンから東大に応援部が結成され、初代の応援団長には法学部の中沢幸夫が就任し た。東大に応援部が生まれたので、東京六大学応援団連盟が結成され、東大の南原繁総長が その会長に就任した。 春季リーグ戦 東大 10 戦勝率制 第 4 位 (4 勝 6 敗) 全国選抜中等学校野球大会が復活。また、東京六大学・東都大学・関西六大学の代表により、 選手権試合を甲子園で開催され、慶大・専修大・関学1勝1敗で優勝預かりとなった。 3 シーズン指揮をとった佐藤剛彦監督は松本へ転勤となって監督を退任し、秋のリーグ戦から津 田収(昭和 13 年卒)が監督に就任した。しかし津田は勤務多忙の為、ウィークディにはほとんど グラウンドに姿を見せることができず、練習は細谷主将を中心とする部員の自主的な運営に委ね られた。 秋季リーグ戦 東大 10 戦勝率制 第 5 位 (2 勝 7 敗1分) 昭和 23 年(1948) 1・2 部制採用の提案 春のシーズン開幕前に、東都六大学野球連盟から東京六大学野球連盟に対して、大学野球を 一本化して、1・2 部制を採用すべしという提案がなされた。東京六大学野球連盟としては、この 提案を受けて連日理事会を開いて慎重かつ真摯な検討を重ね、結局、それぞれのリーグは、そ れぞれ貴重な歴史的事実を背景とする独自性と伝統を尊重すべきである、という議論を得て、東 都六大学の申入れを拒否することとなった。 東都大学側もこの返答を了承したが、この提案、この考え方が後の大学野球選手権大会が挙 行されるきっかけとなった。(東京六大学・東都六大学・関西六大学の代表による選手権試合は、 前年昭和 22 年からすでに行われていた。) 春季リーグ戦 東大 勝ち点 0 第 6 位 (1 勝 10 敗) 秋季リーグ戦 東大 勝ち点 0 第 6 位 (3 勝 10 敗 2 分) 好投手岩佐守 上背に恵まれていなかったが、手首の強さを活かした切れのよいストレートと、落差とブレーキ のあるカーブで打者を幻惑した。また研究熱心さゆえに身に付けた精緻なコントロールと巧みな 配球・投球術や精神的な大胆さがあった。岩佐は東大卒業後三井鉱山に入社、砂川鉱業所に 勤務しながら社会人野球選手として都市対抗大会などで活躍を続けた。東大野球部出身者の社 会人野球選手第 1 号でもあったのである。 井波義二選手の連続試合出場記録 井波義二は、旧制富山高をから昭和 21 年に東大に入学した。そしてこの春、5 月 19 日の開幕 緒戦の対明大戦には 6 番遊撃手として先発出場し、レギュラー選手としてこのシーズンの東大 2 位進出に重要な役割を果たした。それ以後井波は、昭和 23 年秋季リーグ戦までの 6 シーズン 62 試合全イニングフル出場という大記録を樹立した。1・2 年の間は遊撃手として、最後の 3 年の 時には主将・捕手としてチームを引っ張り、また常に中軸打者として大活躍を続けた。井波のこ の記録は、広瀬謙三(野球に関する記録調査の功績により、1973 年に特別表彰により野球殿堂 入り)が、六大学リーグに前例のない新記録と認めている。大学在籍年間すべての春・秋リーグ 戦に全試合・全イニング連続出場というこの井波の記録は、恐らく今後も破られることのない偉大 な記録となるだろう。 帝大から東大へ -ユニフォームの変更 昭和 22 年 10 月 1 日、東京帝国大学は東京大学とその名称を改めた。そこで東大野球部も、 創部以来使用し続けてきた TIU(TOKYO IMPERIAL UNIVERSITY)のマークを左胸に付け た上着に、黒の 5 本線の入った白のストッキングという伝統のユニフォームを改めることとなり、昭 和 24 年春のリーグ戦から LB(LIGHT BLUE)の花文字を組合わせたマークを左胸に付け、ブ ルーと白に染め分けたストッキングを着用することとなった。 昭和 24 年(1949) 春季リーグ戦 東大 勝ち点 2 第 6 位 (5 勝 7 敗) 秋季リーグ戦 東大 勝ち点 2 第 5 位 (4 勝 7 敗) 東大野球部史上初の慶大から春・秋連続勝ち点という快挙を達成した。 なお、秋のリーグ戦で主将伊藤驍は打率第 4 位に入った。 新制大学の発足と東大野球部の新体制 この昭和 24 年度は、3 年制の旧制大学に代わって 4 年制の新制大学が発足した年であった。 東大に於いても、新制大学の教育体制として、4 年制の前期 2 年の教育課程を新設の「教養学 部」で実施することとなり、その教養学部は駒場の旧制一高のキャンパスに置かれた。 新制東大発足に当たり、新設の教養学部体育科助教授として着任していた神田順治(昭和 14 年卒)は、教養学部の存在が将来の東大野球部にとって極めて重要である、との強い認識をもち、 入学式が終わるとまもなく、教養学部独自の野球部の創立を企図し、部員の募集を広告した。こ れに応じて野球好きの学生が 20 数名集まった。この「教養学部野球部」は、駒場の球場でその 夏休みから練習を始めた。 秋になって、その教養学部野球部のメンバーから、竹田・渡辺ら数名が呼ばれて本郷の野球 部の練習にも参加することとなった。教養学部の野球部は、いわば本郷の野球部のファームチ ームのような形になっていたわけである。 昭和 25 年(1950) 苦難のシーズン 3 月、旧制東大最後の入試が行われたのに加え、新制東大としても第 2 期の学生が入部した。 部の財政難は深刻だった。戦後も 5 年目となると、金さえ出せば何でも買える、という社会情勢の 中にあって、六大学リーグ戦は、試合の前日まで開催球場が決まらないということでは戦前のよう な観客数を確保することも叶わず、収入は減っていた。東大野球部としては、運動会への納入金 も大きく、その財政は極端に逼迫していた。 春季リーグ戦 東大 勝ち点 0 第 6 位 (0 勝 10 敗) 総失点 82、総得点 10、完封負け 6 という惨淡たる成績に終わった。1 シーズン全敗は戦後初め てだった。 春のリーグ戦終了後、対京大定期戦を挙行、2-0 で勝つ。 秋季リーグ戦 東大 勝ち点 0 第 6 位 (1 勝 10 敗) 教養学部野球部 新制大学大会に出場 前年、新制東大教養学部に作られた野球部は 4 月で 2 学年となり、チーム力としてもかなり整 備されてきた。2 年目を迎えた竹田は、本郷の野球部と掛け持ちで、春のリーグ戦から出場して いたが、リーグ戦終了後はこの教養学部チームに加わり、7 月に開催された第 1 回全国新制大 学野球大会の東京予選に出場することとなった。 東大は中村(旧制浦和高)と稲村(唐津高)両投手の好投と、バックの好打で、1 回戦は芝浦工 大に 18-8、2 回戦は武蔵工大に 10-3 と快勝を続け、決勝戦で青学大と対戦した。試合は延長 10 回、13x-12 でサヨナラ敗けを喫して優勝を逃がした。 教養学部野球部が、独自のチームとして活動したのはこの昭和 25 年度までで、昭和 26 年 4 月に 3 度目の新入生を迎える頃には、本郷の野球部に吸収合併される形となり、昭和 28 年 3 月 に最後の旧制大学の卒業生を送り出した後は完全に新制東大の野球部として一本化されたの である。 昭和 26 年(1951) 春季リーグ戦 4 月、新入部員が新たに入部したが、この中の脇村春夫(後の日本高野連会長)は前々年の 第 31 回全国高校野球選手権大会で優勝した湘南高の 3 塁手であり、東大野球部としては初の “甲子園の優勝経験者”をチームに迎えたのであった。 この春のリーグ戦に、東大チームはユニフォームのデザインを変更した。過去 2 年間用いたL Bの胸のマークは、その意味が一般にわかりにくいということから、左胸にTOKYO UNIV.と2 行に記したマークを付け、ストッキングは従来のまま、ライトブルー(上部)と白(下部)の 2 色染め 分けのものを用いた。 この春のリーグ戦は、国鉄(現在の JR)が新たに建設した三鷹のグリーンパーク球場で行われ た。日程を終え、早・慶・立が同率となり、神宮球場で優勝決定戦が行われ、慶・立を降した早大 が優勝した。 東大 勝ち点 0 第 6 位 (2 勝 10 敗) 秋季リーグ戦 東大 勝ち点 0 第 6 位 (2 勝 10 敗) 昭和 27 年(1952) 新チームの発足に当たり、1 年半監督をつとめた片桐勝司が退任し、代わって神田順治(昭和 14 年卒)が監督に就任した。 ベースボールプロフェッサー神田順治 新たに監督に就任した神田順治は、現役当時はマネージャーとして、部の経営に努めた。昭 和 20 年、終戦直後に東大厚生部の職員だった神田は種々尽力した。昭和 24 年東大教養学部 の発足と同時に体育科助教授として体育実技を担当する一方、ゼミで野球の原書購読などを行 って、野球好きの学生の人気を博していた。その野球に対する強い情熱と豊富な知識を買われ て監督に就任したのであった。神田は昭和 27 年•28 年の 2 年間と、30 年秋〜32 年の 3 年間、 前後計 5 年にわたって監督をつとめた。退任後も、日本学生野球協会理事•日本プロ野球コミッ ショナー参与(内村祐之コミッショナーの請われて就任)•野球規則委員会委員長•日本学生野球 協会常務理事•野球体育博物館表彰委員会委員などを歴任、日本の野球、特に学生野球の発 展のために多大な貢献をした。昭和 45 年、東大教授の任を辞し、朝日新聞東京本社嘱託•日出 学園園長等を歴任した。その間、多数の野球に関する著訳書を著し、「ベースボールプロフェッ サー」の名をとった。 春季リーグ戦 昭和 20 年 9 月 16 日以後、占領軍に接収されていた神宮球場が、3 月 31 日を以て明治神宮 に返還された。かくして東京六大学の春•秋のリーグ戦は、前と同様にこの神宮球場で挙行される ことになった。 東大 勝ち点 0 第 6 位 (3 勝 10 敗) 日米大学選手権試合と全日本大学選手権大会 日本学生野球協会の招待で、米国の太平洋沿岸大学選抜チームが 8 月上旬に来日、日本の 大学選抜チーム(早・慶が主体)との間に選手権試合を行い、4 勝 3 敗で米国が優勝した。この 日本選抜軍に、東大から蒲池投手が選ばれて参加した。米国チームは、選手権試合の他に親 善試合を 17 戦行い、米国チームは 10 勝 5 敗 2 分の成績を収めた。これが戦後初の日米大学 野球の交流試合であった。 また、これまで行われてきた東京六大学・東都六大学・関西六大学野球連盟の、秋の優勝校 による大学王座決定戦を発展的に解消し、第 1 回全日本大学野球選手権大会が 8 月 22 日から 3 日間、8 大学チームが神宮球場に参集して開催され、東京六大学リーグ春の優勝校慶大が初 の選手権を獲得した。 秋季リーグ戦 東大 勝ち点 0 第 6 位 (1 勝 10 敗) 非運の好投手蒲池信二 東大野球部創部以来、野球部史に好投手・名投手としての名を留める活躍をしながら、バック の援護に恵まれずに敗戦投手の屈辱を味わい続けた非運の投手は数多い。蒲池信二投手もそ の例に漏れない。 戦後旧制成城高校に入学してから本格的に野球を始め、投手としてインターハイで活躍した。 彼の独特の下手投げの投球は“軟投”と評された。堂々たる体躯と前述のような強靭な下半身を 使って投げこむ球には、意外に威力があり、重みがあった。そして彼の最も武器とした球種は、 下手投げ独特のシンカーであった。よく伸びて時には高めに浮き上がるストレート、それにカー ブ、シンカーを組合わせたコンビネーションに相手打線は内野ゴロの山を築いた。来日した米国 大学選抜軍と対戦した日本大学選抜軍の一員に選ばれたのがその証左である。また蒲池投手 は東大卒業後も、日立製作所等のエースとして社会人野球でも活躍し、日立製作所では監督も つとめた。 昭和 28 年(1953) この春のシーズンでは首位打者を獲得した堺(後の柿埜)一塁手の猛打が光った。東大の首 位打者は 16 年ぶりの快挙であった。 この年春季リーグ戦の半ばから NHK によるテレビ中継が開始されたが,当時はまだ家庭にテ レビは普及しておらず、街角や喫茶店のテレビに観客が集まって見ていた。プロ野球の人気が 高まりつつあったが、六大学の人気も高く、観客の入りもよかったので、野球部の財政もやや豊 かになり、ボールやバットなどの消耗品をあまり気にせずに使えるようになっていた。 野球年鑑の発行 六大学野球連盟はこの年 9 月に初めて“野球年鑑”を発行。以来その年の当番校が担当して 毎年発行されることになった。 春季リーグ戦 東大 勝ち点 1 第 6 位 (2 勝 9 敗) 秋季リーグ戦 東大 勝ち点 0 第 6 位 (0 勝 10 敗) 昭和 29 年(1954) 竹田新監督を迎えて新しいチーム作りが始まったが、各学年 5 名前後で総勢 10 数名というさ びしい状態であった。春のリーグ戦は 10 敗 1 分けで、明治の秋山投手には 1 試合 22 個の不名 誉な三振記録を献上してしまった。 この秋のシーズンからベストナイン制度が始まり、東大から斉藤憲外野手が最初のベストナイ ンに選出された。 この年から部員が全員新制高校卒となり、旧制高校の経験者がいなくなった。 春季リーグ戦 東大 勝ち点 0 第 6 位 (0 勝 10 敗 1 分) 秋季リーグ戦 東大 勝ち点 0 第 6 位 (0 勝 10 敗 1 分) 昭和 30 年(1955) 竹田監督が春のリーグ戦後、神田監督に交代したが、秋季法政との 1 回戦で、3-1 で勝利し、 それまでの 50 連敗 3 引き分けの不名誉な記録に終止符を打つことが出来た。当時の新聞はス ポーツ欄のトップで優勝でもしたかのように大事件並みの扱いをしたのであった。 春季のベストナインにキャプテンの千野敬二三塁手が選出され、また第 2 回アジア野球選手 権大会の選抜チームに原田投手が選ばれている。 春季リーグ戦 東大 勝ち点 0 第 6 位 (0 勝 10 敗) 秋季リーグ戦 東大 勝ち点 0 第 6 位 (1 勝 10 敗) 昭和 31 年(1956) 秋には早、明、立から 3 勝を上げることができた。3 勝を上げた吉田投手はベストナインにこそ 入らなかったが、記者クラブより敢闘賞を受けた。 春季リーグ戦 東大 勝ち点 0 第 6 位 (0 勝 10 敗) 秋季リーグ戦 東大 勝ち点 0 第 6 位 (3 勝 10 敗) 昭和 32 年(1957) 春のシーズンに明治から勝ち点を上げ、最下位を脱出、第 5 位になった。この年のリーグ戦は 春秋とも立教の連続優勝となったが、杉浦、長嶋、本屋敷を始めベストナインの半数以上を立教 が占めて、他校の追随を許さなかった。早稲田、慶應、明治がそれぞれ木村、藤田、秋山という 好投手の卒業によりチーム力の低下を招き、秋には早慶ともにBクラスに転落という 6 大学史上 初めての結果をもたらした。 春季リーグ戦 東大 勝ち点 1 第 5 位 (2 勝 9 敗) 秋季リーグ戦 東大 勝ち点 0 第 6 位 (1 勝 10 敗) 昭和 33 年(1958) 長嶋、杉浦等が卒業した後も、立教の黄金時代が続き、春の 10 戦全勝に続いて秋も優勝して 4 連覇を遂げた。早慶は元気なく、32 年秋と同様両校Bクラスでシーズンを終えた。東大はこの年 よりピッチングマシンを導入し、打撃力向上に努めた。春のシーズンから東大は神田監督より渡 辺融監督に変わった。秋には慶應に 1 勝 2 敗 1 分け、明治に 1 勝 2 敗、早稲田に 2 勝 1 敗、 立教に 0 勝 2 敗、法政に 1 勝 2 敗 1 分けと、実に 16 試合を戦い、惜しくも最下位に留まること になった。 このシーズン 4 勝を上げた岡村の好投が光ったが、打率 6 位に入る活躍を見せた片桐遊撃手を はじめとして、攻撃陣もチャンスによく打ち、リーグ最多の 16 盗塁や最多四球記録など積極的な 試合振りが目立った。 春季リーグ戦 東大 勝ち点 1 第 6 位 (3 勝 8 敗) 秋季リーグ戦 東大 勝ち点 1 第 6 位 (5 勝 9 敗2分) 昭和 34 年(1959) 秋は立大が優勝したが、秋には早大と立大が全日程を終了の時点において同勝点同勝率で 並んだため、優勝決定戦となり、結局立大が 4-2 で早大を下して優勝となった。 また東大明大 3 回戦は春のリーグ最終戦となり、勝ったほうが 5 位になるという試合であった。 15 回の延長戦にもつれたが引き分け寸前に明大のスクイズにより 0-1x と惜敗した。 また秋の対立大第 3 戦では、東大は立大のエース石川の好投によりノーヒットに抑えられ、四 球とエラーにより辛うじて 1-5x とノーヒットノーランを免れた。 逆に対明大戦 2 回戦では岡村投手が 9 回裏 2 死まで明大をノーヒットに押さえ込んだが、次 の打者に初ヒットを許し、鈴木のリリーフを得て 2-1 で勝ったものの、東大野球部史上昭和 2 年の 東武雄投手以来の大記録を達成寸前で逃すことになったのは惜しまれる。 なおこのシーズンから六大学でも始めて背番号が採用された。 春季リーグ戦 東大 勝ち点 0 第 6 位(2 勝 10 敗) 秋季リーグ戦 東大 勝ち点 0 第 6 位 (2 勝 10 敗1分) 昭和 35 年(1960) 東大はユニフォームを左胸へ「TOKYO」の文字を並べるデザインに変更した。春のシーズンは 東大が 21 シーズン振りに立大から勝点を上げ、続く早稲田との第 1 試合にも勝って 3 連勝を遂 げたこともあり、マスコミは東大旋風と書きたて、早大 2 回戦には 5 万の観衆が集まり、東大始ま って以来の大応援団がスタンドを埋めた。 秋のリーグ戦では、後半に調子を上げ、春に続く 3 連勝を遂げ、最下位を脱出して 5 位に浮上 した。岡村投手は通算 17 勝を上げて卒業することになるが、これはこれまでの東大野球部史上 の不滅の記録である。 秋は早慶とも勝点、勝率ともタイの首位となり、優勝決定戦に持ち込まれた。引き分け 2 試合を 含む 6 連戦の熱戦となり、早大の安藤投手はそのうちの 5 試合 49 イニングの 4 連投で早大の優 勝となった。これは「早慶 6 連戦」と呼ばれ、早慶戦の歴史の中でも一際輝く力投の記録であろ う。 春季リーグ戦 東大 勝ち点 1 第 6 位 (3 勝 9 敗) 秋季リーグ戦 東大 勝ち点 1 第 5 位 (3 勝 8 敗 2 分) 昭和 36 年(1961) 春季リーグ戦 東大 勝ち点 0 第 6 位 (0 勝 10 敗) 秋季リーグ戦 東大 勝ち点 0 第 6 位 (2 勝 10 敗) 秋のリーグ戦で、佐藤一塁手は打率 3 割 4 分 2 厘をマークして、ベストナインに選出された。ま た、この年神宮第 2 球場が竣工した。 昭和 37 年(1962) 杉山選手が、春秋を通じて強打をほしいままにし、2 シーズン連続してベストナインに選ばれ た。 春のリーグ戦は法大と立大が同率首位で並んだため、優勝決定戦が行われ、法大が立大を 下し優勝を遂げた。 なおこの年の 6 月に神宮球場にナイター設備が完成した。 春季リーグ戦 東大 勝ち点 0 第 6 位 (3 勝 10 敗) 秋季リーグ戦 東大 勝ち点 0 第 6 位 (0 勝 10 敗) 昭和 38 年(1963) 国分正胤部長、清水健太郎監督、岡村甫助監督という新体制になった。 春季リーグ戦 東大 勝ち点 0 第 6 位 (0 勝 10 敗 2 分) 夏に九州で行われた七帝戦は、堂々優勝した。 秋季リーグ戦 東大 勝ち点 0 第 6 位 (1 勝 10 敗 1 分) 昭和39年 春季リーグ戦 東大 勝ち点 0 第 6 位 (2 勝 10 敗 1 分) 秋のリーグ戦は東京オリンピックの開催と重なり、途中長期の中断がありいまひとつ盛り上がりを 欠く結果ともなった。 一誠寮建替え計画が軌道にのり、春のリーグ戦終了後、一誠寮の取り壊しがおこなわれ、夏以 降はバックネット裏に立てられた仮説寮に移った。 秋季リーグ戦 東大 勝ち点 0 第 6 位 (0 勝 10 敗) 昭和 40 年(1965 年) 清水健太郎監督(昭和 4 年卒)のもとで、坪井先輩(昭和 10 年卒)がコーチとして就任された。 一誠寮建て替えのため、仮設合宿所をグラウンドのスタンドの裏側に、通用門との間に建てて頂 いた。いわゆる工事現場事務所使用であり、個室はなく 3~4 人部屋が 5~6 室と大広間が 2 階 にあり、1 階が食堂、台所、風呂であった。 春季リーグ戦 初戦慶大に連勝で勝点をとり、対慶大 16 年ぶりの勝点。井手投手の活躍はめざましく、フィリピ ンで開催された第 6 回アジア野球選手権大会に六大学選抜に同行した。 東大 勝ち点 1 第 6 位 (3 勝 8 敗) 秋季リーグ戦 東大 勝ち点 0 第 6 位 (0 勝 10 敗) 神宮球場ラッキーゾーン設置 危険防止策としてラッキーゾーンが設置され左右両翼 300 フィートとなり、続々本塁打記録が 生まれた。 新治伸治、大洋ホエールズ球団に入団、東大野球部プロ入り第 1 号となる。 昭和 41 年(1966) 春季リーグ戦 慶應に 2 勝 1 敗で最下位脱出。 打率ランキングで金田が 0.356 で 6 位、片山が 0. 347 で 9 位また鈴木が 0. 326 と 3 割打者が 3 人もでた。 東大 勝ち点 1 第 5 位 (2 勝 9 敗 1 分) 秋季リーグ戦 東大 勝ち点 0 第 6 位 (1 勝 10 敗) 井手峻投手が敢闘賞受賞。井手投手が中日球団に入団。東大野球部プロ入り第 2 号。 井手と片山主将は長野の上田高校野球部に呼ばれ高校生と練習、東大の野球を教え、後に渋沢 捕手が入部してきた。これがスカウティング活動のはしりであった。 昭和 42 年(1967) 法大の田淵捕手は対慶大 3 回戦で連盟新記録となる通算 9 本目の本塁打を放った。 春季リーグ戦 東大 勝ち点 0 第 6 位 (0 勝 10 敗) 秋季リーグ戦 東大 勝ち点 0 第 6 位 (1 勝 10 敗) 神宮球場大改修工事竣工(両翼 91m、センター120m、ネット裏観客席を 8.5m前に、内野スタン ドを9m前に) 昭和 43 年(1968) 明大戦では見事に連勝して勝点を挙げた。この連勝により、立大から 1 勝を挙げれば最下位 脱出との期待が持たれたが、2 回戦ではサヨナラ負けを喫し、結局最下位脱出は成らなかった。 61 イニング連続無得点の不振で 5 シーズン連続の最下位に甘んじることになった。 春は法大がチーム打率 3 割 6 分 4 厘と猛打を振るって 2 連覇し、秋にはシーズンの連盟記録 となる 15 本塁打で法大を圧倒して優勝した。また法大の田淵選手が自己記録を伸ばして 22 本 塁打の記録を残した。 また、明治維新 100 年を記念して明治神宮杯が東京六大学野球連盟に寄贈された。 春季リーグ戦 東大 勝ち点 1 第 6 位 (2 勝 8 敗) 秋季リーグ戦 東大 勝ち点 0 第 6 位 (0 勝 10 敗) 昭和 44 年(1969) この年は前年から続いていた東大紛争で、1 月には機動隊の学内導入、安田講堂での攻防 戦などが広く世間に報道されるとなった。入学試験の中止が決まったことから、東大のリーグ戦か らの辞退が論議される事態となり、一誠会臨時総会に選手も参加して討議されたが、結局選手達 の意向が尊重されて、リーグ戦参加が決定された。1 年生のいない新チームは春のリーグ戦に臨 んだが、1 勝も挙げることなくシーズンを終えることになった。 秋のリーグ戦 4 勝で 5 位に 秋の開幕戦では明大にまず 1 勝して 23 試合振りのリーグ戦勝利をものにした。その後慶大との 3 回戦は小林の初回本塁打、8 回橋本の本塁打も惜敗した。なお 1 試合 2 本塁打は昭和 24 年 以来 20 年ぶりの記録であった。法大戦ではエース山中の連投に連敗したが、山中投手にとって の 46 勝目となり、連盟最多勝記録となった。その後山中は記録を 48 勝に伸ばした。立大戦では 連勝で勝点を挙げて立教を抑えて 5 位に浮上し、立大は 20 年ぶりに最下位に転落した。早川 捕手が 7 年ぶりのベストナインに選出された。 なお、この年神宮球場フェンスに広告出現した。 春季リーグ戦 東大 勝ち点 0 第 6 位 (0 勝 10 敗) 秋季リーグ戦 東大 勝ち点 1 第 5 位 (4 勝 8 敗) 昭和 45 年(1970) この年は、昨年の入試中止により、4 年生 5 名、3 年生 8 名の計 13 人の少人数になってしま った。その後新入生 20 名が入部したが即戦力とはならず、結局卒業の延びた 4 名に残留して貰 うこととなった。 春のリーグ戦では早大との 2 回戦にサヨナラ勝ちし、それまで 20 連敗を喫していた早大に 10 年振りの勝利となった。この年は春秋とも法大が勝点 5 の完全優勝で 3 連覇を遂げている。また、 京大戦は辛勝し、辛くも連勝を保つことが出来た。 プロ野球で八百長事件「黒い霧事件」が発生し 3 選手が永久追放となった。 春季リーグ戦 東大 勝ち点 0 第 6 位 (1 勝 10 敗) 秋季リーグ戦 東大 勝ち点 0 第 6 位 (0 勝 10 敗) 昭和 46 年(1971) 春季リーグ戦 東大 勝ち点 0 第 6 位 (0 勝 10 敗) 8 月の京大戦は 0-3 で負けて 10 年ぶりの敗戦となり、京大戦は 10 年ごとに負けるというジン クスを再現することになった。 秋には、慶大 2 回戦には不名誉な連盟記録となった毎回の失点計 21 という悪夢を経験するこ とになった。最終の対明大 1 回戦に敗れて、連敗 31 となっていたが、2 回戦にサヨナラで 3x-2 と勝利を収め、連敗に終止符を打つことが出来た。 春季は法大が 3 人の完投可能の投手を擁して 4 連覇を達成したが、秋には慶大が早慶戦にも 連勝して 9 シーズンぶりの優勝を遂げた。 秋季リーグ戦 東大 勝ち点 0 第 6 位 (1 勝 10 敗) 昭和 47 年(1972) 昭和 44 年度の入試中止の影響で、この年は最上級生が 3 年生というチームであった。 前年まで 6 年間監督を勤めた坪井監督が勇退し、岡村新監督に代わった。 リーグ戦は 20 戦全敗に終わったが、春秋の新人戦では、それぞれ法大から 1 勝ずつを上げ、 来年度以降に大きな望みを残したのであった。春秋のリーグ戦は共に慶大がエース萩野の活躍 で優勝、3 連覇を達成した。 また、中野武二(明治 30 年代の一高の名 2 塁手、名審判としても有名)野球殿堂入りした。 春季リーグ戦 東大 勝ち点 0 第 6 位 (0 勝 10 敗) 秋季リーグ戦 東大 勝ち点 0 第 6 位 (0 勝 10 敗) 昭和 48 年(1973) 春季リーグ戦 東大 勝ち点 1 第 6 位 (3 勝 9 敗) 春のリーグ戦では相川 3 塁手がベストナインに選出された。 秋季リーグ戦 東大 勝ち点 1 第 6 位 (4 勝 8 敗) 秋のリーグ戦の慶大戦は連勝で勝ち点を挙げたものの、4 勝しながら 6 位に終わったのであっ た。 この年春のリーグ戦は早大が独走し、第 6 週で早々と優勝を決めた。秋は明大が勝点 5 の完 全優勝で 9 シーズンぶりの優勝を飾った。 昭和 49 年(1974) 岡村監督から岡田彬監督(S38 年卒)に替わった。 この年、高校時代「怪物」と言われた作新学院卒業の江川が法大に入った事とその年の高校 野球の優勝、準優勝チームのレギュラーがほとんど東京六大学に入った事であろう。球場はい つも満員状態であり、雑誌も「ベースボール」だけでなく「神宮の星」始め 2~3 誌創刊された。六 大学野球連盟も増収で余剰金ができ、各大学に配分した。東大ではバットの購入資金にあて、選 手に対するバットの支給に充てられた。 東大と江川の因縁も多く、江川の初登板は東大戦(1 年の春)、江川の初黒星も東大戦(1 年の 秋)、江川の初被本塁打も東大である。 春のリーグ戦、最終の法大 2 回戦では山本投手が、7 年振りの完封勝ちしたが、結局春は勝 点を挙げられず、最下位に留まることになった。遠藤選手が 3 割 7 分 5 厘の打率で首位打者に なり、ベストナインに選出された。 春季リーグ戦 東大 勝ち点 1 第 6 位 (2 勝 10 敗 1 分) 七帝戦は優勝し、秋のリーグ戦に入った。法大 1 回戦では法大のエース江川から 9 安打を放 ち 3x-2 で勝つ快挙があった。江川投手のその後の法大連覇への貢献や、卒業後のプロ野球で の活躍などを見れば、この秋の法大からの 1 勝は、東大野球部史に残る大金星であったと言え るのではなかろうか。 秋季リーグ戦 東大 勝ち点 0 第 6 位 (1 勝 10 敗) 昭和 50 年(1975) 東京六大学野球は、法大の江川選手はじめ多くのスター選手の影響で観客動員数も大幅に 増え、また連盟結成 50 周年とうことで、秋のシーズン終了後には多くの記念行事や東京六大学 出身のプロ野球人による紅白戦も行われ、活況を呈した 1 年であった。 岡田監督、石上助監督の体制となる。一般の方が「東大を優勝させよう会」なるものを発足させ た。 春季リーグ戦 東大 勝ち点 0 第 6 位 (1 勝 10 敗) 秋のリーグ戦の開幕戦で春の優勝校である明大に連勝という形で秋のシーズンのスタートを 切ることができた。結局明大は、その後他校からすべて勝ち点を奪い春秋連続で優勝します。一 方東大は、結局最終の立大戦に最下位脱出を賭けることとなる。 立大はここまで勝ち点が無く、我々は 1 勝すれば念願が叶う状況でした。そして第 2 戦。西山 投手の完投で、3-2 で完勝。実に 12 シーズン振りの最下位脱出を果たしました。伊藤 2 塁手は ベストナインに輝く貢献を見せた。 秋季リーグ戦 東大 勝ち点 1 第 5 位 (3 勝 8 敗) この年、TV神奈川で六大学中継開始、プロ野球・パリーグでDH制を採用した。 また、創部 50 年を期に「東大野球部史」刊行した。 昭和 51 年(1976) 小笠原監督が就任された。 春季リーグ戦 東大 勝ち点 0 第 6 位 (0 勝 10 敗 1 分) 秋のリーグ戦では最終の立大戦に連勝して 5 位を確保した。 東大 勝ち点 1 第 5 位 (2 勝 8 敗) この年、明治神宮外苑創建 50 年。東京六大学野球選抜対東都大学野球選抜試合が行われた。 昭和 52 年(1977) 昭和 52 年春、東大は開幕戦対慶大を 6-1 で快勝した。翌 2 回戦はサヨナラ勝ち。東大は前 年秋最終カ-ドの立大から、昭和 24 年以来 28 年ぶり 3 度目の 4 連勝となった。立大 1 回戦は 完封勝ちを飾った。そして翌日、30 年ぶりの 4 位がかかった立大 2 回戦の 8 回の裏、東大は 2 死 2 塁から 2 番平野が右前に適時打を放ち決勝点をもぎ取った。この日も西山は快調で結局 3 安打完封。東大に 22 年春以来 60 シ-ズン振りの 4 位をもたらした。 春季リーグ戦 東大 勝ち点 2 第 4 位 (4 勝 6 敗) 京大戦、七帝戦いずれも何とか勝つことができた。 そして秋、最終週の立大戦は 6-0 で先勝、2 回戦もサヨナラ勝ち、何とか 5 位を確保した。尚、秋 のシ-ズンでは中澤が外野手でベストナインに選ばれた。 秋季リーグ戦 東大 勝ち点 1 第 5 位 (2 勝 8 敗) 昭和 53 年(1978) 渡辺融新監督が就任。春季リーグ戦開幕カードの慶大戦では堀場に前年秋から通算で 10 打 数 10 安打、連続 12 打席連続出塁という、いずれも連盟タイとなる記録を達成されてしまった。対 法大 2 回戦では岡田に法大居郷以来のサイクルヒットを許してしまう。 最後の立大戦 1 回戦は序盤に失点を重ね、6 回に野村が東大選手として 7 シーズンぶりの本 塁打となる 3 ランを放ったが敗戦となった。2 回戦も負け、ついに 10 連敗の最下位で春のリーグ 戦を終えた。最下位は 4 シーズンぶりのことで、悔しい思いを味わった。 春季リーグ戦 東大 勝ち点 0 第 6 位 (0 勝 10 敗) 京大戦で勝利を収めた。 秋季リーグ戦 東大 勝ち点 0 第 6 位 (0 勝 10 敗) この年は結局 1 勝もできなかった。前年まで続いた好成績を継続することができず、「強い東 大」に終止符を打ってしまったことに大きな責任を感じつつ、持てる力を出し尽くしたことには一 定の満足感もあった。 昭和 54 年(1979) 渡辺融監督が総監督に就任、大沼新監督、平野新助監督が就任した。 この年の六大学は、春は投打がかみ合った早大が下馬評どおり完全優勝 2 連覇、秋を開幕 3 連敗から奮起した明大が制した。 春季リーグ戦 東大 勝ち点 0 第 6 位 (0 勝 10 敗 1 分) 秋季リーグ戦 東大 勝ち点 0 第 6 位 (1 勝 10 敗 1 分) この年の東大の戦績は、全 23 試合 1 勝 20 敗 2 分け。4 シーズンぶりに 1 勝をあげ、52 年 秋以降の連敗を 35 で止めた。速水投手はこの年だけでも、22 試合に登板、先発 12 試合、完投 5 試合、投球回数 105 回、失点 38、自責点 26 という好成績を残し、卒業後本田技研で野球を 続けた。 昭和 55 年(1980) 春第 4 節は六大学史上に残る早大戦なった。同点の 9 回裏 2 死 1,3 塁、ここで重盗が決まり、 見事サヨナラホームスチールとなった。続く 2 回戦も勝利し 3 年振りの勝点。何と六大学史上初め ての対早大戦 2 連勝である。完投した大山投手が安達 3 塁手と抱き合う写真が翌日スポーツ紙 の一面を飾るなど「赤門旋風」としてもてはやされた。しかし、その後は 1 勝もできず、結局春は 2 勝 8 敗 1 分で最下位脱出を果たすことは出来なかった。 春季リーグ戦 東大 勝ち点 1 第 6 位 (2 勝 8 敗 1 分) 秋季は、春優勝の明大に連敗でスタート。春連勝した早大に対して、1 回戦は高橋の適時打で 先制、一歩も譲らない試合運びだったが、終盤追いつかれ引分け。2,3 回戦は打ち負けて勝ち 点を失った。結局立大に 1 勝したのみで 6 季連続の最下位。ただ、年間通算では、前々年の全 敗、前年の 1 勝 1 分から、3 勝 3 分と確実に飛躍した年であった。 秋季リーグ戦 東大 勝ち点 0 第 6 位 (1 勝 10 敗 2 分) なお、この年神宮球場に電光スコアボードが導入された。 昭和 56 年(1981) 昭和 56 年春季リーグ戦、東大としては歴代最多の 6 勝をマークするとともに、史上初めて早慶 両校から勝点を挙げた歴史的なシーズンであった。この年のチームは、エース大山、4 番下嶋を 中心として、投打のバランスが取れており、守備面でも二遊間、外野に堅実なプレーヤーが揃っ ていた。それまで 6 シーズン最下位という屈辱を味わってきていたが、下級生の頃からリーグ戦 の経験豊富なメンバーが最上級生になったこともあり、今シーズンは他大学とある程度互角に戦 えるのではないか、との気持ちでリーグ戦に臨んだ。 春のリーグ戦は、優勝候補の呼び声高い法大戦で幕を開け、6-2 で見事に開幕戦勝利。続く 第 2 戦、第 3 戦は、惜しくも勝ち点は逃した。対早大第 1 戦は、1-0 と勝利。続く 2 戦目国友が力 投、自らの本塁打で 2-0 と快勝。そして史上初の早大戦連続完封勝利で、この年の「東大狂騒曲」 が幕を開ける。次の慶大戦、初戦は敗れたものの、第 2 戦は大山の好投で 4-1 と快勝。第 3 戦は 延長 10 回、大久保の決勝 2 点タイムリーで、史上初めて早慶両校から勝ち点を挙げた。 慶大戦終了時点で東大の順位は明大に次いで 2 位。翌日のスポーツ新聞一面には「東大、 初の V へ突進」の大見出しが躍った。翌週の立大戦は、4 回戦までもつれ込む死闘になった。 初戦は 4 点をリードされたが、中盤以降東大の打棒が爆発し、立大のエース野口を攻略、結局 10-5 で圧勝。第 2 戦は野口投手の力投の前に敗れたが、続く第 3 戦は、大山・野口、両エース が相譲らず、0-0 で引き分け。ついに決着は第 4 戦に持ち越された。第 4 戦は民放(TBS)が数 十年ぶりに東京六大学野球を生中継することになり、盛り上がりは頂点に達する。まさに運命の 一戦となった第 4 戦は再び大山・野口の投げ合いとなったが、前日の雨で 1 日順延となった影響 もあって、疲労のとれた立大・野口の投球は冴え渡り、結局東大は 3 安打しか放てず、惜しくも 1-0 で敗れた。この敗戦によって優勝の可能性は消え「東大の春」は終わった。結局、この後の 明大戦にも連敗し、東大の最終成績は 6 勝 7 敗 1 分、勝ち点 2、順位は 4 位でリーグ戦を終え た。なお、相賀英夫 2 塁手がベストナインに選出された。 2 ヶ月間にわたって、優勝、優勝と世間では騒がれたが、実際のところ当事者であった私たち は、入学以来ずっと最下位だったチームが一気に優勝できるほど甘くないと思っていたし、まず は A クラス入りを目指していた、というのが正直なところだった。 春季リーグ戦 東大 勝ち点 2 第 6 位 (6 勝 7 敗 1 分) 坪井忠郎(S10 卒)アマチュア野球審判としての功績で朝日スポーツ賞受賞 秋季リーグ戦 東大 勝ち点 1 第 6 位 (3 勝 9 敗1分) 昭和 57 年(1982) 部員 50 人を越える大所帯に 4 年生の春には 51 人を数えるほどの大所帯となっていた。分かれて練習するようになった起 源がこの年ということになるかもしれない。 東大弱体化? 3 年間 5 つ以上のレギュラーポジションと主戦投手陣を張ってきた学年が卒業したのである。 「これで東大は弱体化する。4 年前の再現だ」と誰もが思ったはずである。口には出さないものの、 私たちもそういう思いは拭えなかった。前年はヒットを打つにつけエラーを冒すにつけ圧倒される ような観客の歓声を浴びていたが、そういうのも消えたこの昭和 57 年であった。 神宮球場、人工芝へ この年、神宮球場が歴史的な変化を選んだ。人工芝を敷きたのである。土の時代の神宮球場 でイレギュラーバウンドによる展開がなくなったものの、人工芝はカレッジベースボールの象徴の ようにも受け取ることができた。 秋は 5 位 年間 4 勝をあげ秋は 5 位で卒業できたことは周囲の予想を裏切った好成績だったと胸を張って いるのである。春季リーグ戦で八重樫永規外野手がベストナイン獲得。プロ野球ドラフトで六大学 連盟から 4 人の 1 位指名(六大学連盟史上最多)された。 春季リーグ戦 東大 勝ち点 0 第 6 位 (1 勝 10 敗) 秋季リーグ戦 東大 勝ち点 1 第 5 位 (3 勝 8 敗) (篠原 一郎) 昭和 58 年(1983) 我々の代は、入部者が不作の年で、4年時は選手3人、マネージャー1人と少なく、下級生主体 のチームだった。しかし、下級生に恵まれた。監督は、新日鉄釜石の主将として、都市対抗でも 活躍された伊藤仁氏(昭和 53 年卒)が新たに就任された。 この年の大きな出来事は、東大球場の内野が人工芝になったことである。神宮球場が前年か ら人工芝を導入し改装されたが、その同じ質の人工芝が東大球場の内野、ファールグラウンドに 敷き詰められた。それまでのグラウンドは土の質が良いとはいえず、イレギュラーバウンドを意識 から取り払うことができずに、守備の上達にも限界があったが、イレギュラーバウンドを全く気にし なくてよくなったので、内野手はプレーが伸びやかになり、守備力の一段アップが実感できた。ま た、スタンド下の室内トレーニング場設置工事竣工した。 この年はユニフォームも新調した。白地にライトブルーの東大カラーで、「TOKYO」の文字や 背番号のデザインを変え、サイズを少し大きくした。文字は、それまでのブルーよりも明るい色に なったため、全体としてさわやか感が漂うユニフォームに変身した。 春のリーグ戦は、早大 2 回戦は息詰まる投手戦となり、ダブルスチールであげた 1 点を、大越 が守りきり、1-0の完封勝ち。3回戦は、4回に相手投手の4四死球の乱れに乗じて4点を奪い 逆転、5回に1死満塁のピンチを大越が1失点で凌ぎ、4-3で早大から3季ぶりの勝ち点を奪っ た。 春季リーグ戦 東大 勝ち点 1 第 6 位 (2 勝 9 敗 2 分) その快投ぶりから大越健介投手が日米大学野球選手権出場の全日本選抜チームに選ばれる。 秋のシーズン 早大1回戦はスクイズと浜田の本塁打で挙げた2点を大越が見事に守り2-0の完封勝ち。2回 戦は5-2の完勝。これで早大戦は春から史上初の4連勝。 その後全敗し、2勝6敗で最終立大戦を迎えた。試合はいずれも投手戦になり、1回戦は惜しくも 0-1。2回戦は市川が好投し、1-0の完封勝利を挙げた。3回戦は3-4で敗れてしまった。こ の結果3勝8敗、立大と勝ち点で並ばれたが、勝率で5位となった。 秋は、投手力、守備力が向上し、試合を引き締めたため接戦が多く、8敗のうち大差がついた のは1試合、2試合が3点差、5試合は1点差だった。投手は市川が防御率でリーグ2位の 1.97 を 記録。大越はリーグ 2 位の投球回数 53 回ながら 2.70 で6位と、上位を東大が占めた。失策はシ ーズン6と東大最少記録、投手・捕手を除く野手の失策は4だった。 秋季リーグ戦 東大 勝ち点 1 第 5 位(3 勝 8 敗) 内村祐之(第 4 代野球部長・元プロ野球コミッショナー)野球殿堂入り 昭和 59 年(1984) 春、4 勝で 5 位 昭和 59 年の春のシーズンは、満を持して臨んだリーグ戦であった。開幕の相手は早大、東大 にとっては“負けられないというプレッシャーのかかる”相手であった。そのプレッシャーのせいで もないのであろうが、初戦を 1-4 で落としてしまう。第 2 戦は 2-1 で何とか五分に戻したものの、 第 3 戦は 3-4 と惜敗し、勝ち点を落としてしまった。 法大第 2 戦には打線が大爆発し 10-1 で大勝し派手な金星を挙げた。法大はリーグ戦を 10 勝 1 敗で優勝し、続く大学選手権でもトーナメント戦を圧倒的な力で勝ち上がり優勝した。つまり、 春のシーズンの敗戦はこの東大戦だけだったのである。最終の立大戦で連勝し、結局 4 勝 8 敗 で勝ち点1の5位となった。 春季リーグ戦 東大 勝ち点 1 第 5 位 (4 勝 8 敗) 外野フェンスの上に金網 強力打線を象徴するかのように、東大球場でのフリーバッティングの打球がレフトフェンスをは るかに越えて、奥の民家に飛び込むこともしばしばであった。このため、フェンスの上に金網を設 置するとともに、レフトの奥には防球ネットが張られた。それでも、このネットさえも時々越える打球 があったが…。 最下位、立迫は首位打者 優勝を目指した昭和 59 年秋のシーズンは、結局 2 勝 9 敗勝ち点 1 の最下位に終わってしまっ た。また、立迫は、リーグ戦に入ってからもヒットを量産し、打率.409 で見事首位打者を獲得し た。 秋季リーグ戦 東大 勝ち点 1 第 6 位 (2 勝 9 敗) 昭和 60 年(1985) 春 接戦するも1勝 中沢監督一年目のこの年の春は、1 回裏初球本塁打を含む浜田の 2 本塁打で 2-1 で勝利し た立教 2 回戦しか勝てず、1 勝 10 敗 2 分けで最下位であった。なお、個人では、草刈が.333 2 本塁打で、打率 8 位にはいったほか、桜井 2 本塁打、浜田 3 本塁打と長打力を示した。 春季リーグ戦 東大 勝ち点 0 第 6 位 (1 勝 10 敗 2 分) 早大と4回戦の死闘 秋のリーグ戦で、このチームの力を示したのは 4 回戦にまでもつれ込んだ早大戦と、年間で唯 一ではあったが、貴重な勝ち点を挙げた立大戦であった。 早大は春に引き分けるなど戦いやすさを感じていたが、秋はそのイメージが現実のものとなっ た。1 回戦(東大 2-0 早大)、2 回戦(東大 2-2 早大)、3 回戦(東大 1-2 早大(延長 11 回サヨナラ 負け))とまったく互角の戦いは、翌週の平日決戦にもつれこんだ。4 回戦も、延長 11 回、東大 5-7 早大と惜敗した。さらに、60 年のシーズンの最後の立大戦を勝ち点で締めくくることとなる。 東大は、3 勝 9 敗 1 分けで 3 シーズンぶりに最下位を脱出した。 秋季リーグ戦 東大 勝ち点 1 第 5 位 (3 勝 9 敗 1 分) 昭和 61 年(1986) 1000 敗目を喫する この年の最大の出来事は何と言っても、春の立大 1 回戦で東大野球部史上 1000 敗目を喫し たことであろう。 このシーズンは通算 198 勝 991 敗で迎え、200 勝と 1000 敗のどちらを先に達成するかが話 題となっていた。春は、惜しい試合が何試合かあったものの、結局 1 勝もできず、とうとう対立大 1 回戦で 1000 敗目を喫してしまった。東大がこのシーズンに 1000 敗目を喫する可能性があること は、たびたびマスコミに取り上げられ、実際に 1000 敗目を喫した後もテレビや新聞で取り上げら れた。 春季リーグ戦 東大 勝ち点 0 第 6 位(0 勝 10 敗) 京大戦は5-6で負けた。 20 連敗も惜敗の連続 秋は、2桁安打を記録すること4試合、立大の.228を上回る.239に改善した。眞鍋、浜田の打率 は3割を超え(それぞれ.343と.314)、特に眞鍋はシーズン途中まで首位打者争いを演じ、打率総 合6位の成績を残した。 秋季リーグ戦 東大 勝ち点0 第6位 (0勝10敗) 昭和 62 年(1987) 春リーグ戦 河野敏章監督就任最初の年であり、2 勝で通算 200 勝だから早い段階でこれをクリアしてしま おうと全員当然考えていた。 こうして臨んだリーグ戦であったが、春は全敗となった。 春季リーグ戦 東大 勝ち点 0 第 6 位 (0 勝 10 敗) 秋に 1 勝を挙げ、通算 200 勝に王手 春の 10 戦全敗で連敗は 3 シーズン連続となり 30 に達していた。課題を克服すべくハードな練 習を行なった。 春の優勝校との慶大 1 回戦で、初回 4 番岩本が右越 2 点本塁打し、先発大沢が 9 安打されか つ内野陣が 4 失策しながらも完投、2-1 で逃げ切った。この 1 勝でようやく待ちに待った通算 200 勝に王手をかけることができた。対慶大 2 回戦では、笠間・岩本が東大史上初の連続本塁打を 放った。 春の優勝校の慶大に勝ったのだから、当然すぐにもう 1 勝できるはず、つまり通算 200 勝を達 成できると誰もが思っていた。達成しなければならないという気持であった。しかし、その後 10 連 敗し、結局通算 200 勝に王手をかけたままとなってしまった。 秋季リーグ戦 東大 勝ち点 0 第 6 位 (0 勝 10 敗) 30 連敗から 70 連敗への節目の年に 秋の開幕戦での勝利は 30 連敗をストップさせたが、そこからの我々の 10 連敗は結果的には 六大学野球史上最長の 70 連敗のスタートとなってしまった。 合宿・遠征・定期戦 京大定期戦は、4 年時には 2 年ぶりに勝利した。 七帝戦には出場していない。 昭和 63 年(1988) 春季リーグ戦 東大 勝ち点 0 第 6 位 (0 勝 10 敗) 結局20戦全敗。これがこの1年間の成績であった。 秋季リーグ戦 東大 勝ち点 0 第 6 位 (0 勝 10 敗) なおこの年、東京ドーム完成した。 平成元年(1989) 昭和から平成へ 新チームが発足してまもなく、64 年ぶりに元号が平成に改められることとなり、六大学連盟で は、優勝チームに与えられる賜杯を返還すべきか否か、というお伺いを立てており、後日「返還 の必要なし」との回答を得て今日に至っている。賜杯は 1 競技につき 1 つ、というのが原則である ため、連盟がこれを返還しない限り、硬式野球において“天皇杯”という大会が行なわれることは なく、改めて東京六大学野球の歴史と伝統の重みを感じた一件であった。 点が取れず連敗 春は大差での敗戦を繰り返し、春のシーズンは全敗で終えることとなった。序盤の大量失点と 貧打の組み合わせで早いイニングで勝敗が決し、10 試合中 5 試合が完封負け、10 試合の合計 得点は 7 点、合計失点は 79 点という、正に惨敗であった。 春季リーグ戦 東大 勝ち点 0 第 6 位 (0 勝 10 敗) 秋、50 連敗で終了 当番校として出場した七帝戦でも初戦敗退、秋季リーグでも迷走を続け、慶大の若松投手にノ ーヒットノーランを喫する等、10 試合中 8 試合が完封負け、57 イニング無得点の記録も作ってし まい 50 連敗という歴史的記録に立会い、シーズンを締めくくることとなった。 秋季リーグ戦 東大 勝ち点 0 第 6 位 (0 勝 10 敗) 平成 2 年(1990) 世間への反骨からのスタート 前年までに積み重ねた勝利数 199、同時にリーグ戦での連敗記録 50。平成 2 年春季リーグ戦 の開幕は、勝てば節目の 200 勝、負ければ連盟の連敗記録更新の 51 連敗という年だった。 善戦するも連敗記録更新 迎えた春季リーグ戦の開幕立大戦、3-6 で敗れ、2 回戦は小林実主将の本塁打が 9 回に出たも のの、2-4 で連敗、連敗記録を更新した。 春季リーグ戦 東大 勝ち点 0 第 6 位 (0 勝 10 敗) 京大定期は勝利。 連敗阻止ならず 70 連敗 連敗記録を 70 としシーズン終了となった。連敗阻止には至らなかったものの、青野・柏木が打 率 2 位と 3 位に入り、青野はベストナインに選出された。 振り返ると敗戦記録の連続であり、それを辿ると真に無念である。「勝敗は時の運」と割り切ってし まうには 70 という数字はあまりに重いし、残酷である。もし、もう一度やり直せるなら、慶應との 8 回裏・早稲田との 9 回表に戻りたい。あれから 20 年にならんとするが、詮無き思いに囚われるの は悔しい限りである。 春季リーグ戦 東大 勝ち点 0 第 6 位 (0 勝 10 敗) 平成 3 年(1991) 春の開幕戦で通算 200 勝達成 長年にわたって部長を務めて下さった平田賢先生に代わり、学生時代投手として活躍した岡 村甫先生が野球部長に就任された。また、9 年ぶりに赤門旋風の立役者である平野裕一監督が 就任され、現役時代投手の屋台骨を務められた速水隆先輩が助監督となり、昨年の副将・髙野 賢一先輩がコーチとして加わった。 春の開幕戦は昨年優勝の立大と激突、8 回表 2 死 3 塁となったところで吉江のセーフティーバ ントが決まり、その後安打が続いて 4 得点を奪った。6 回から登板した今西信隆(3 年)が後半をし のぎ、通算 200 勝を達成。翌日のスポーツ新聞の一面を飾った。 新ユニフォーム 春のリーグ戦から新しいユニフォームに代わった。平野監督の第一期に「白ヘル軍団」と称さ れていたデザインが大きく変更された。上下のユニフォームが白地からグレー地になり、両袖に 二本のネイビーの線が、胸にゴシック体で「TOKYO」の文字が入った。ヘルメット、帽子の色は ネイビーとなった。ドジャーズのビジター用をイメージしたものである。ストッキング、アンダーシャ ツは従来の青色のものを引き続き使用した。 秋の立大戦で通算 201 勝 春季リーグ戦 東大 勝ち点 0 第 6 位 (1 勝 10 敗) 秋のリーグ戦は、立大 1 回戦では長短打を絡めて 6 点を挙げ、先発した松本浩一が 1 失点に 抑えて完投、通算 201 勝目を挙げた。その勢いで勝ち点を、といきたいところだったが 2 戦目は 10-0 の大敗、3 戦目は 1 点差で落としてしまった。 春季リーグ戦 東大 勝ち点 0 第 6 位 (1 勝 10 敗) 平成 4 年(1992) 東大、100 号本塁打 こうして春のリーグ戦を迎えたが、10 連敗という結果に終わった。記念すべき東大 100 号本塁 打を法大 1 回戦の 4 回に礒根(4年)が放った。 春季リーグ戦 東大 勝ち点 0 第 6 位 (1 勝 10 敗) 立大に初勝利 秋のリーグ戦、開幕戦では先発草野が明大鳥越に東京六大学史上初の開幕戦プレイボール ホームランを浴びる屈辱のスタートとなった。 最終週、東立 1 回戦で東大はこの年の初勝利を挙げた。 史上初のナイター この秋のリーグ戦では、ヤクルトが出場する日本シリーズと東立 2 回戦・3 回戦が重なり、ナイタ ー開催となった。本来は六大学優先ではあるがこの年は当時昼間に開催されていた日本シリー ズに譲る判断をしたのである。東大史上初となるナイターに臨んだが、立大投手陣に連続完封さ れ勝ち点はならず。4 年生にとって最後となる 3 回戦では、22 時以降は近隣住民との関係から 鳴り物は禁止、応援団の手拍子と肉声のみによる応援となったが、むしろ応援の 1 つ 1 つの声が 良く通り応援団を身近に感じながらのプレーとなったことは思い出深い。 春季リーグ戦 東大 勝ち点 0 第 6 位 (1 勝 10 敗) (草野 泰和) 平成 5 年(1993) 春のリーグ戦では石田(3年)は、二塁手でベストナインを獲得した。 春季リーグ戦 東大 勝ち点 0 第 6 位 (1 勝 10 敗 2 分) 七大戦(京都)や国公立戦は、ともに優勝している。 秋の法大戦で勝ち点を挙げたこと。東大として16季ぶり、対法大戦では81季ぶりの勝ち点獲得 であった。 秋季リーグ戦 東大 勝ち点 0 第 6 位 (2 勝 9 敗) (東海林 和志) 平成 6 年(1994) 新たに河野通方部長が就任 この年から岡村甫前部長に代わり、河野通方部長(工学部教授、当時)が就任された。以後 13 年間にもわたって部長をお務めになり、野球部のバックアップはもちろんのこと、全日本大学野 球連盟や六大学野球連盟の要職も歴任された。 5 位も不本意なシーズン 春季リーグ戦は、早大戦・慶大戦は、2 回戦をリリーフにまわった高橋の好投と打線の活躍で 1 勝 は挙げたが 3 回戦は力尽き勝ち点には至らなかった。最終週の立大戦では打線の活躍と高橋 の完封勝利で勝点をあげ、かろうじて立大との同率 5 位にこぎつけた。当時のマスコミの記事に は「東大単独最下位脱出」という難しい表現の見出しがついた。また、春季リーグ戦早慶 2 回戦を 天皇皇后両陛下が観戦し、伝統の重みを再認識した。 春季リーグ戦 東大 勝ち点 1 第 5 位(4 勝 9 敗) 年間8勝は歴代2位 秋季リーグ戦も早大、慶大とは春季同様各 1 勝した。最後の立大戦では初戦負けから勝点を 挙げ、今度は立大を抑え単独の 5 位となった。打撃 10 傑には北村が 6 位、片山が 7 位、別所が 10 位に入り打線の活躍も目立った。結局春季 4 勝、秋季 4 勝の年間計 8 勝をあげ東大史上歴 代 2 位の好成績であった。 秋季リーグ戦 東大 勝ち点 1 第 5 位(4 勝 9 敗) 初めて女子マネージャーを採用 この年、女子マネージャーの採用を開始した。当時、立大や明大には女子マネージャーがおり、 合宿所での食事の準備や部の事務的な運営に携わっていた。東大でも男子マネージャーにか かる負担は大きく、選手からマネージャーを選出するのにも苦労してきたが、一般学生から募集 するものの不調に終わることも多かった。また、マネージャーをするくらいなら部を辞めると考える 選手も多かった。そこで、男子マネージャーを確保するために業務の負担を一部分散し、将来は 選手を兼任しながらでもマネージャーができる可能性を残した形で、女子マネージャーの採用を 決定した。当初は仕事の割り振りがうまくいかず、混乱したこともあったが、女子マネージャーが 定着するに至った。ちょうどこの頃、他大でも女子マネージャーの採用拡大の動きが広がった。 この年広岡知男(S7卒)が日本学生野球協会・全日本アマチュア野球連盟会長野球殿堂入り。 平成 7 年(1995) 連盟結成 70 年 連盟結成 70 年というこの年、春の優勝校法大は全日本選手権で、秋の優勝校明大は明大神 宮大会でともに優勝と、東京六大学の優勝校が共に全国制覇するというハイレベルなリーグ戦で あった。 われわれとその上の代が受験生当時、東京大学野球部は 200 勝間近で足踏みを続けており、 かつ 70 連敗中であった。1 浪、2 浪、仮面浪人は当たり前、俺が東大を勝たせると腕に覚えのあ る選手が集結した時代であった。 またこの年は河野通方部長、平野裕一監督に加え、ベストナイン経験者の石田和之さんが助 監督に就任し、スタートした。 春、間宮が首位打者 一方、東大も前年春は同率 5 位、秋も単独 5 位で年間 8 勝した直後のせいか、5 位のまま卒 業するのは当然といった雰囲気であった。しかし春の結果は最終戦の逆転サヨナラで辛うじて単 独 5 位をキープするという結果に終わった。 また、主将の間宮が首位打者を取った。春のリーグ戦はチーム打率が.253 で優勝した法大と 同率のリーグ 3 位となった。チーム防御率の方は 5.02 の 5 位で、投手陣が足を引っ張った形と なった。一方、4 年の土屋、佐治両投手のリレーで勝ち星をあげ、沢田が本塁打を放つなど次に つながる収穫の多いシーズンであった。 春季リーグ戦 東大 勝ち点 1 第 5 位 (2 勝 9 敗) 秋は久しぶりの最下位 こうして迎えた秋のシーズンは法大戦で勝利したが、1 勝 10 敗 1 分で久しぶりの最下位となっ てしまう。 秋季リーグ戦 東大 勝ち点 0 第 6 位 (1 勝 10 敗 1 分) 平成 8 年(1996) スピードガン表示が始まる 春のリーグ戦においては、ひとつの画期的な出来事があった。大学野球史上初めてスピード ガン表示が始まったのだ。選手は必要以上に急速表示を気にして、結果に大きな影響が出た。 いずれにしても、春のリーグ戦は野球において如何にメンタルが重要か、と言うことを思い知らさ れたシーズンであった。戦績では 8 季ぶりの 10 連敗を喫した。 春季リーグ戦 東大 勝ち点 0 第 6 位 (0 勝 10 敗) 連勝で勝点は 25 シーズン振り 2 カード目の対早大 2 回戦において、3-2 で初勝利を上げることができた。更に 4 カード目の 立大戦では、初戦で先発全員安打を達成し、5-4 で逃げ切った。続く第 2 戦も 6-3 で連勝して勝 ち点をあげることができた。連勝による勝ち点獲得は、昭和59年以来25季ぶりの快挙であった。 しかし、同じ日に明大が 14 年ぶり 4 度目の 10 戦全勝優勝達成し、戦後最短の第 5 週での優勝 決定であったことにより、東大の快挙が大きな記事にならなかったのが残念でならない。 秋季リーグ戦 東大 勝ち点 0 第 6 位 (3 勝 8 敗) 平成 9 年(1997) 三角監督が就任 伊奈学園総合高校で監督として甲子園出場経験のある三角さん(S58 卒)が監督に就 任された。助監督には引続き石田和之氏(H7卒)という布陣で平成 9 年度のチームはス タートした。 一誠寮の改修終了 平成 8 年秋から平成 9 年初春にわたり諸先輩方の多大なご協力を賜り一誠寮の改修 工事を行った。内装・水まわりが新しくなり衛生面が大幅に向上。また、給食制度を導入し た。朝食は寮生が 2 人 1 組の当番制を敷いて賄った。 経験豊かな陣容 また春合宿は先輩からの紹介でダイエーホークス(現ソフトバンク)が使用する施設を 全面的に借用して練習することができる宮崎で初めて行った。 立大に勝点も 6 位 そして迎えたリーグ戦であったが、チームとして春は最終週の立大戦1回戦では、2-3 のサヨナラ勝ち。2 戦目は、9-2 と危なげなく勝利を収め 2 連勝で勝ち点を獲ったが、立大 に 1 勝およばず 6 位に終わった。 春季リーグ戦 東大 勝ち点 1 第 6 位 (2 勝 8 敗) 秋は 5 位 秋季リーグ戦。敗戦を続けて、最終週の立大戦を迎えた。ともに勝ち点なしの両チーム が 5 位と 6 位を争うことになった。初戦を 2-3 で落とし追い込まれたが、2 戦目は 4-3 で逆 転勝利を収め、1 勝 1 敗のタイに持ち込み、3 戦目も 4-3 で勝ちし前年秋以来の 5 位とな った。 秋季リーグ戦 東大 勝ち点 1 第 6 位 (2 勝 9 敗 1 分) 平成 10 年(1998) 春の開幕戦、早大に勝利 春のリーグ戦前には、開幕カードの早大 1 回戦を 8-2 で勝利した。しかし結局このシーズンは、 東大は 1 勝 10 敗 1 分勝点 0 の 6 位に終わった。その中で、須貝が打率.351 で打率 5 位に入 り、遊撃手でベストナインに選出された。 秋季リーグ戦 東大 勝ち点 0 第 6 位 (1 勝 10 敗 1 分) 秋、早大から 15 年振り勝点 秋のリーグ戦では 3 カード目の早大戦で、東大は 1・3 回戦をいずれも 3-1 で勝ち、勝点を挙 げた。東大が早大から勝点を奪うのは実に昭和 58 年秋以来 15 年(30 シーズン)ぶりのことであ った。しかし、結局このシーズンは、東大は 2 勝 9 敗勝点 1 の 6 位に終わった。現在平成 24 年 春まで続いている連続最下位記録の出発点となっている年代でもある。 秋季リーグ戦 東大 勝ち点 1 第 6 位 (2 勝 9 敗) また当時のリーグ戦は、土曜日と日曜日には、MXテレビで生中継されていた。 平成 11 年(1999) 遠藤、6 シーズン連続の勝星 そうして迎えた春のリーグ戦の開幕カードは法大戦。2 回戦は雨で中 1 日あいたこともありエー ス遠藤が再び登板、7-6 で勝利を収めた。これで、遠藤は 6 シーズン連続の勝星となったが、こ れは東大の連続シーズン勝星のタイ記録となった。勝点を狙った 3 回戦は 1-25 で敗れ、戦後の 最多失点記録を更新することになってしまった。次に対戦した明大1回戦では 4-1 で勝利し、92 連敗と 24 年もの間、東大が勝つことができなかった連敗記録が終わらせた。 春季リーグ戦 東大 勝ち点 0 第 6 位 (2 勝 10 敗) 木塚にノーヒットノーランを喫す 秋のシーズンは、結果的には 1 勝も挙げることができず 10 連敗となってしまった。 明大のエース木塚にはノーヒットノーランを喫してしまうなど屈辱的な試合もあった。 秋季リーグ戦 東大 勝ち点 0 第 6 位 (0 勝 10 敗) 取材攻勢 遠藤良平投手、ドラフトで日本ハム球団から指名され、東大卒プロ入り 4 人目。春のシーズン が終わった頃から、プロへの道が徐々に現実的になるにつれ、取材の申し込みも増えていった。 ドラフト当日は取材の申し込みが殺到し、一誠寮が取材陣であふれることが予想されたため、急 遽安田講堂を記者会見場とすることになった。また、女性選手の入部ということで 1 年生の竹本 恵にも数多くの取材申込みがあった。 平成 12 年(2000) 練習環境を整備 首脳陣は、三角監督が 4 年目を迎え、1 年生から教えた最初の世代を率いる形となり、また石 田助監督から村田助監督にバトンタッチされた。 環境面の改良もあった。東大球場内の老朽化したトレーニング場ならびに更衣室の改修、ライ トフェンス改造による防球ネット収納スペースの確保、日本ハム遠藤先輩よりアーム式ピッチング マシンの寄贈といった、練習環境の整備を図っていただいた。またトレーナーを招き、選手の体 のメンテナンスをしていただいた。 シーズン初の先制点で明大に勝利 こうして迎えた春のリーグ戦、9 連敗で迎えた明大 2 回戦。全敗では終われない東大は初回、 4 番武藤がレフト前 2 点タイムリーの 2 点を守りきり 2-1 で勝利。これにより明大は優勝を逃した。 春季リーグ戦 東大 勝ち点 0 第 6 位 (1 勝 10 敗) シドニーオリンピック この年のシドニーオリンピックでは、プロ・アマの混成チームが結成されたが、そこに六大学か ら、法大の廣瀬が選出されたのである。廣瀬は日の丸を背負って、準決勝のキューバ戦で二塁 打を放つなど活躍した。 立大・上重投手に完全試合を喫す 秋、迎えた立大 2 回戦、立大の上重投手に史上 2 人目の完全試合を喫したのである。球は低 めに集まっていたし、ストライクを先行されたが、何本かヒット性の当たりも出ていたし、打てそうだ った。選手がようやく完全試合を意識しだしたのは 6,7 回くらいだっただろうか。9 回の攻撃は悲 鳴にも近い声援をベンチから送っていたが、最後の打者井出が三振に切って取られ万事休す。 大記録を献上してしまったのであった。 秋季リーグ戦 東大 勝ち点 0 第 6 位 (0 勝 10 敗) 平成 13 年(2001) 春季リーグ戦 春季リーグ戦。苦しい展開が続いた。 そんな中話題となったのがリーグ初の日本人女性選手として4試合に登板した竹本(3年)であ る。最終戦となった明大2回戦では竹本と明大小林千紘(2年)が先発し、女性投手対決が実現し た。竹本は1回裏に先制を許し、2回には本塁打を浴び2失点。一方、打線は小林にタイミングが 合わず、2回2死2、3塁のチャンスも竹本が三振して無得点。その後は長尾に6回をパーフェクト に抑えられ、0対10で敗れた。翌日のスポーツ新聞の1面には女性投手対決の記事が掲載され、 テレビ各局のスポーツコーナーでも試合の模様が放映されるなど、当時の東京六大学としては 最も世間の注目を集めた試合となった。 春季リーグ戦 東大 勝ち点 0 第 6 位 (0 勝 10 敗) 夏季 京大戦では井出(4年)の3ランなどで7点差をひっくり返し逆転勝ちした。京大戦の翌日から 行われた七大戦では、地元開催で意気込んでいたものの初戦で阪大に惜敗。8月に神宮球場 で行われた東京六大学選抜対韓国大学選抜には、東大からただ1人児玉が出場した。 秋季リーグ戦 そしてついに4カード目の立大2回戦で待望の勝利を挙げ、リーグ戦の連敗を28で止めた。 越智啓一郎遊撃手がベストナインを獲得した。 秋季リーグ戦 東大 勝ち点 0 第 6 位 (1 勝 10 敗) 平成 14 年(2002) 好投手多く 10 連敗 春リーグ戦、慶大 2 回戦では 21 奪三振を喫するなど連敗スタートとなってしまった。その後も、 所謂「松坂世代」と呼ばれる各大学のエースに対し歯が立たず、守備面でも、全く良い所なく 10 連敗を喫してしまった。しかしながら、このシーズン主戦となった松家は孤軍奮闘、防御率 1.96 (7 位)の堂々の成績で、各チームのエースともほぼ対等に渡り合った。 春季リーグ戦 東大 勝ち点 0 第 6 位(0 勝 10 敗) 七大戦に優勝 京大定期戦は敗戦。七大戦では優勝した。 4 年振りの勝点 秋のリーグ戦の立大 1 回戦で念願の今季初勝利を得た。1 勝 1 敗で迎えた第 3 戦、9 回に河 原の値千金の勝ち越しホームランと浅岡の好投で、4 年ぶりの勝ち点を挙げ、結局に 2 勝 9 敗 (勝点 1)でシーズンを終えた。なお、入山聡三塁手が打率.357(5 位)でベストナインを取った。 秋季リーグ戦 東大 勝ち点 0 第 6 位 (2 勝 9 敗) この年、脇村春夫(S30 年卒)が日本高等学校野球連盟会長就任した。 平成 15 年(2003) あまりに大きい得失点差 春のリーグ戦では、シーズンを通してのチームの得点が 6,失点が 93 であり,接戦に持ち込む こともほとんどできず全敗した。杉岡 2 塁手が,首位打者には一歩及ばなかったものの堂々の打 率 2 位の打率.424 で,ベストナインに選出された。 春季リーグ戦 東大 勝ち点 0 第 6 位 (0 勝 10 敗) 秋も早大に完敗 秋シーズン、東大のエース格は松家。しかし,開幕戦に投げた以降,松家の肩の状態は思わし くなく,結局この秋のシーズンはほとんど松家なしでの戦いとなった。 第 3 週は慶大戦であった。初戦は初回に 3 点を先制するも,慶大中村に 2 本の 2 点本塁打を浴 びて逆転負けを喫した。 続く第 2 戦, 5-8 と 3 点のリードを許した 9 回裏,東大は 3 点差を追いつき、最後は杉岡のサ ヨナラ安打で大逆転勝ちを収めた。この勝利で昨秋から続いていた連敗を 21 でストップさせると ともに,対慶大戦 9 年ぶりの勝利を挙げた。 勝ち点をかけて戦った第 3 戦,東大は初回に四球や暴投など相手投手の自滅に乗じてノーヒ ットで幸先良く 3 点を先制したが,投手陣が踏ん張れず大量 12 失点で完敗した。 対法大 2 回戦では, 16 安打を放ち 9 年振りとなる 2 桁得点を挙げるなどしたが、結局 1 勝 10 敗の最下位でシーズンを終えることになった。 秋季リーグ戦 東大 勝ち点 0 第 6 位 (1 勝 10 敗) 食事を「D アスリート」へ 一誠寮での生活を振り返ると,この年の春のシーズンが始まる少し前に,食事を提供してもらう 業者を「Dアスリート」に変更したDアスリートは朝夕ともケータリング(出来上がった料理を運んで きてもらう,いわゆる出張給食である)の形態であった。スポーツ選手の総合栄養管理を手がける 会社だけあって,カロリー計算,栄養バランスなどに十分配慮した食事を提供していただけてい たと思う。食事の味や分量も,選手たちには概ね好評だったのではないだろうか。 小学生野球教室を開催 また,この年の 8 月には,地域の子供たちを対象にした小学生野球教室を開催した。当日は 30 名ほどの小学生の参加を得て,ノックやミニゲーム等を行い,最後は軽食をつまみながら選手 と子供たちが懇親する場を設けて締めとした。 (上原 裕紀) (2954 字) 平成 16 年(2004) 充実した戦力 就任 8 年目の三角監督に加え、助監督として真鍋助監督(平成 14 年卒)を迎え入れた。 3 勝するも最下位 新治一誠会会長が逝去 平成 16 年春季リーグ戦の開幕カード、目下リーグ戦 4 連覇中の早大 2 回戦では東大が 3-2 で勝利した。東大が早大に勝利したのは平成 10 年秋以来という久方ぶりの勝利であった。法大 2 回戦では 3 点差をひっくり返し逆転勝利を収めた。入部前から東大史上稀に見る逸材と言われ 続けてきた松家が、4 年目にしてようやく手にした初勝利であった。松家はさらに立大相手にも完 投勝利を収めたものの、勝ち点奪取はならなかった。結局春季リーグ戦東大は 3 勝 10 敗勝点 0 の最下位に終わった。 春季リーグ戦 東大 勝ち点 0 第 6 位 (3 勝 10 敗) プロ球団から「栄養費」で大問題 8 月、明大・一場がプロ野球の 3 球団から金銭を受け取っていた問題が発覚し、世間を騒がす 大問題となった。学生野球憲章ではプロ野球関係者とアマチュア野球関係者の間の金品の授受 を禁じており、それが明るみに出たことで一場は明大野球部を退部することになった。 北海道で行われた七大戦では優勝。 高校生が練習に参加 なお、この時期にスカウティング活動の一環として高校生を東大球場に招待し東大野球部の 練習に参加させたことがあった。有望な人材に東大野球部を目指してもらうためのこの試みは、 のちに一誠会の先輩方も加わった組織的なスカウティングへと発展した。 明大戦で惜しくも勝点を逃す 平成 16 年秋季リーグ戦の開幕戦、東大の先発松家が被安打 2 本という完璧な投球内容で明 大を完封し、東大が 1-0 で勝利した。続く 2 回戦を落とし 1 勝 1 敗で臨んだ対明大 3 回戦、 6-3 と東大リードの 8 回裏、失策、暴投、適時打、犠飛で 6-6 の同点に追いつかれ、 なおも 2 死 2,3 塁。ここで松家の投じた 3 球目を 2 年生捕手升岡が捕逸し、2 塁走者 までもが生還して 6-8 と 2 点を勝ち越されてしまった。9 回表に東大は 1 点を返した が力及ばず、一度は手中にしかけた勝ち点を取りこぼす結果になった。対立大 1 回戦 では木村が完封勝利を収めた。そして 1 勝 1 敗となって迎えた対立大 3 回戦、東大は先発鈴木 雅の好投で 5 回まで 3-0 とリードしていた。しかし 6 回に一挙 6 点を奪われると、これがこのまま 決勝点となり 5-7 で敗れてしまった。結局このシーズン 2 勝にとどまり、勝ち点奪取および最下位 脱出は叶わぬこととなった。なお、東大から太田外野手が打率.333 でベストナインに選ばれた。 秋季リーグ戦 東大 勝ち点 0 第 6 位 (2 勝 10 敗) 松家、5 人目のプロ選手 リーグ戦終了後のドラフト会議にて、横浜ベイスターズが 9 巡目で松家を指名した。東大から 5 人目のプロ野球選手になった松家はマスコミの注目度も高く、多くのテレビ局、新聞社などから 取材依頼を受けた。 平成 17 年(2005) 三角監督が勇退、大沼新監督へ 六大学野球連盟結成 80 周年記念式典を行れたこの年、8 年間監督をされた三角監督が勇退 され、大沼新監督が就任されるとともに、真鍋助監督に代わり中西助監督が就任するなど、チー ムの首脳陣が一新された。また、大沼新監督は、当時大学で教壇に立たれていることもあり、平 日の練習毎日参加することが難しかったが、その分、中西助監督は欠かさず練習に参加し、持 ち前の熱血ぶりを発揮されていた。 法大に勝利 そして迎えた春季リーグ戦。2 カード目の法大二回戦。先発の楠井が 6 回に 1 点に抑え、後を 任された三宅、松岡が法大打線を無安打に押さえ、3-1 で勝利した。その後も善戦したものの勝 利を挙げることはできず結局 1 勝 10 敗の最下位に終わった。 秋季リーグ戦 東大 勝ち点 0 第 6 位 (2 勝 10 敗) 早大に 1-0 で勝利 こうして迎えた秋季、初戦の相手は春季リーグ戦で優勝した早大であった。5 回裏の東大は 2 死から 3 連打と打線が粘りを見せ春の優勝校相手に 1 点を先制し、先発の松岡が相手打線を完 封し 1-0 で勝利。 2 カード目の立大戦では安打こそ出るもののあと 1 本が出ず立大 2 回戦 6 回に 2 得点を挙げ るまで開幕戦から実に 36 イニング無得点となってしまった。 秋季リーグ戦 東大 勝ち点 0 第 6 位 (1 勝 10 敗) 古くなった人工芝 リーグ戦以外に忘れられないのが、老朽化した人工芝の維持補修である。先にも述べた通り 当時、東大球場の人工芝は相当老朽化が進んでおり、一部では灰色の生地が剥きだしの状態 であった。また、東大球場のライト側に位置する農学部グランドからは風に乗って土埃が球場に 降り積もって芝目に詰まり、滑りやすく危険な状態であった。新チームが発足時、このような東大 球場の人工芝は部員間で共通の不安としてあり、環境整備係に就任した中富らの提案により、 全体練開始前の 10 分間程度を人工芝のメンテナンスに充てることとした。球場の全体の砂を清 掃するまでということ始めたが、いくら芝の目に詰まった砂を金ブラシで掻き出しても次の日には また砂が詰まっているという状態で、結局シーズンを通しての恒例となってしまった。 平成 18 年(2006) 16 季連続最下位からの脱出へ この年の東大は、前年に引き続き大沼監督、中西助監督の指揮のもとで始動した。 インターネット動画配信へ またこの春から、リーグ戦のインターネット動画配信が開始されたことも、部員のモチベーショ ンの向上に一役買った。従来、リーグ戦の試合は早慶戦のみがNHKで中継されていた他 は、一 部 の試 合 が東 京 のローカル波 で放 送 されていただけであったのだが、ファンの期 待に応えるため、全試合中継が行われることとなった。 17 シーズン連続最下位 春の法大 2 回戦では富田が初回に東大通算 150 号となる 3 点本塁打を放ったものの敗戦した。 結局 10 連敗で最下位。これによって、東大は 17 季連続最下位で六大学記録に並んだ。 春季リーグ戦 東大 勝ち点 0 第 6 位 (0 勝 10 敗) 18 季連続最下位、六大学記録 この秋東大は開幕から打線に元気がなく、結局 10 連敗の最下位。18 季連続最下位 が決まり、六大学記録を更新することとなってしまった。 秋季リーグ戦 東大 勝ち点 0 第 6 位 (0 勝 10 敗) ヤクルトと記念試合 またこの年は、明治 神宮外苑の創建 80 周年の節目の年でもあった。これを記念して、 11 月 4 日、東京六大学選抜チーム対東京ヤクルトスワローズの試合が行なわれ、東大 からは升岡と重信の 2 名が選出された。結果は 3-2 で東京ヤクルトスワローズの勝利。 重信は打者 3 人と対戦して 1 失点というほろ苦い結果だった。升岡は残念ながら打席は 回ってこなかったが、内野ゴロを無難に処理した。 平成 19 年(2007) 部長・監督の交代 前年まで 13 年間野球部部長を務められた河野先生が大学を退官され、また大沼監督の 2 年 の任期満了により、丹下副部長、中西助監督がそれぞれ部長、監督に就任した。 早大・斎藤佑樹の入学 この年の大きな出来事といえば、何といっても駒大苫小牧との決勝引き分け再試合で甲子園 を沸かせた「ハンカチ王子」こと早実斎藤投手の早大入学である。斎藤の動向はことあるごとにマ スコミを賑わせ、東大もその影響を受けた。特に開幕戦が東大早大だったため、開幕前には連 日のようにテレビや新聞が 2~3 社ずつ東大球場を訪れていた。 斎藤の入学によりリーグ戦の運営にも変更が加えられた。試合前の球場外周でのウォーミング アップが禁止され、移動のバスも球場入口に横付けして柵で囲い、試合後の取材方法も記者ク ラブからの指名方式になった。また前年から引き続き日本テレビ系列の CS やインターネットで試 合が中継され、試合後にはヒーローインタビューも行われるなどプロ野球と変わらない扱いで、 開幕戦は地上波で放送されるという注目振りであった。 迎えた開幕戦、神宮球場は超満員に膨れ上がっていた。早大の開幕投手は斎藤。当時早大 には好投手が揃っており、その中で 1 年生の斎藤が選ばれたことは驚くべきことであった。東大 は斎藤に 6 回わずか 1 安打と見事に抑え込まれ、斎藤の初登板に花を添える形となってしまっ た。リーグ戦は結局いいところ無く 0 勝 10 敗 1 分の最下位に終わった。 また、春のリーグ戦終了後、3 年生から 3 名の学生コーチを出し、様々な側面から勝利を目指す 体制を目指した。 春季リーグ戦 東大 勝ち点 0 第 6 位 (0 勝 10 敗 1 分) 7 月上旬には京大定期戦が東京で行われ、3 対 4 で敗戦。 7 月下旬には第 3 回となるソウル大学との交流戦が東京で開催された。この年は東大球場 70 周 年にも当たり、試合前には濱田純一副学長、古田元夫運動会理事長にも参加頂き、球場前でア オダモ植樹の記念式典を行い、濱田副学長にはその後の始球式にもご登板頂いた。 秋季リーグ戦、重信が 48 連敗に終止符 この秋の開幕週、長年に渡り六大学野球に従事された長船騏郎元連盟事務局長が死去。関係 者の混乱を避けるため訃報は翌週まで知らされなかった。リーグ戦では半旗を掲げ弔意を表し、 閉幕後は神宮球場で送る会が行われ多くの野球関係者が参列した。 秋のリーグ戦最終カードとなる立大戦、先発のエース重信は立大打線を 8 回途中まで散発 4 安打 1 失点に抑え、4 回に先制打を放つなど投打に大活躍。その後も鈴木、三宅とつないで逃 げ切った。重信はリーグ戦初勝利。チームも 17 年秋の開幕戦以来続いていた連敗を 48 で止め た。 秋季リーグ戦 東大 勝ち点 0 第 6 位 (1 勝 10 敗) (小谷 亮太) 平成 20 年(2008 年) 春季リーグ戦 2008 年 1 月から 2 月にかけて神宮球場改修に伴い、神宮球場の芝を神宮第 2 球場へ、そして その神宮第 2 球場の芝を譲り受け、東大球場外野人工芝を貼り替えた。期間中の練習は検見川 グラウンドにて行った。 春のリーグ戦は東大記録のシーズン 104 失点で 0 勝 10 敗に終わった。 春季リーグ戦 東大 勝ち点 0 第 6 位 (0 勝 10 敗) 秋季リーグ戦 秋季リーグ戦、エース鈴木の活躍で慶大 1 回戦に勝利。法大 1 回戦に鈴木の 12 回完投で引き 分けると、3 回戦では鈴木の好投に揚場のサヨナラ内野安打で勝利する。 秋季リーグ戦 東大 勝ち点 0 第 6 位 (2 勝 10 敗 1 分) また、この年 OB の脇村春夫(S30 卒)が日本高野連会長を退任した。 平成 21 年(2009 年) 春季リーグ戦、投手は東大シーズン記録の 90 与四死球、打線も最高 2 得点と奮わず未勝利に 終わった。 春季リーグ戦 東大 勝ち点 0 第 6 位 (0 勝 10 敗) 秋季リーグ戦、延長戦 2 度など競った展開が多いものの 0 勝 1 に終わった。 秋季リーグ戦 東大 勝ち点 0 第 6 位 (0 勝 10 敗) 平成 22 年(2010 年) 六大学野球を盛り上げようと、号外を発行し神宮球場等で配布し、ブログを開始。 春季リーグ戦、東大はチーム防御率 7.73 と奮わず 0 勝 10 敗。リーグ戦では早慶戦で勝ち点を 取った方が優勝となり、神宮球場は 3 日間で約 10 万人の観衆を集める。慶大が優勝。 春季リーグ戦 東大 勝ち点 0 第 6 位 (0 勝 10 敗) 秋季リーグでは、早大齋藤投手のリーグ戦通算 30 勝がかかった早大 1 回戦、1 年生鈴木の完投 で齋藤の 30 勝を阻止するも、同 3 回戦では 30 勝を献上してしまう。リーグ戦は 50 年ぶりに早 慶による優勝決定戦が行われ、神宮球場は超満員となる。早大は優勝し、明治神宮大会も制し 齋藤フィーバーは終わる。 春季リーグ戦 東大 勝ち点 0 第 6 位 (1 勝 10 敗) 平成 23 年(2011 年) 東日本大震災により、オープン戦の 3 月後半・社会人対抗戦が中止となる。春季リーグ戦開幕も 危ぶまれたが、電力事情に配慮した時間制限を設けることで開催できることになった。また、プロ 野球の日中開催に配慮し、早慶戦以外の土日に 1 試合開催日を設けた。リーグ戦期間中は東 日本大震災への募金活動を行い、約 500 万円集め日本赤十字社を通して被災地へ送った。 春季リーグ戦では投手は好投するも打線が 6 試合完封されるなど今一つで、0 勝 10 敗 1 分に 終わる。 春季リーグ戦 東大 勝ち点 0 第 6 位 (0 勝 10 敗 1 分) 秋季リーグ戦では、競った試合が多いものの、結局 0 勝 10 敗に終わった。早大2回戦では 0-23 と大敗し、1 試合 26 安打の六大学タイ記録を献上してしまった。 秋季リーグ戦 東大 勝ち点 0 第 6 位 (0 勝 10 敗) 平成 24 年(2012 年) 4 年前に外野を貼り替えた人工芝であったが、内野部分のズレのみならず外野部分のシワも顕 著になり、膝や腰の慢性痛や転んで怪我をする原因となっていた。そこで、東大の施設部・一誠 会(野球部 OB 会)などが先導して、人工芝張り替え並びにフェンスのラバー化工事を行った。そ の結果、神宮球場にも負けない程素晴らしい人工芝のグラウンドになった。 春季リーグ戦では、前半 4 試合は全て完封負けと打線が奮わなかったが、後半は持ち直し接戦 を演じるも、結局 0 勝 10 敗に終わった。 春季リーグ戦 東大 勝ち点 0 第 6 位 (0 勝 10 敗) 秋季リーグ戦では春季リーグ戦後半から 14 試合連続得点など打撃が好調だった。
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