フランソワ・ミッテランの欧州観

1
フランソワ・ミッテランの欧州観
――社会党第一書記から「偉大なる欧州人」へ――
赤崎
元太
(赤木研究会4年)
!
序
"
社会党第一書記としての「欧州統合」
1
論
社会党第一書記以前のミッテランと欧州
2 「資本主義との決別」による欧州の解放を目指して
3
社会主義欧州への回帰
#
フランス社会主義の挑戦と挫折
1
フランス社会主義政権の誕生―左翼の政権奪回―
2 「フランス社会主義の実現」と欧州への拡大の試み
3
社会主義プロジェ、終わりの始まり
$ 「偉大なる欧州人」ミッテランの誕生
1
フランス、欧州化への軌跡―EMS 残留をめぐって―
2
EC 議長国としてのフランス―欧州化への出発点―
3 「社会主義者」ミッテランから「欧州人」ミッテランへ
%
結
論
! 序 論
1
9
7
0年代後半から8
0年代前半にかけて、欧州統合は「欧州悲観主義」という病
に苛まれていた。悪化する世界経済情勢が欧州各国を内向きへと変化させ、欧州
統合が抱える諸問題は未解決のまま時だけが経過していた。しかし1
9
8
4年6月に
開催されたフォンテンヌブロー欧州会議においてイギリスの予算還付金問題、共
2
政治学研究4
1号(2
0
0
9)
通農業政策、そしてスペイン・ポルトガルの加盟問題に決着が図られる。これに
より欧州統合は新たな時代へと突入し、1
9
9
2年のマーストリヒト条約調印へと収
束する。こうした欧州統合の歴史的転換には、当時議長国を務めたフランスの国
内事情が大きく関係していたのである。
本論文は、欧州統合の歴史をフランスの内政及び対欧州政策と結び付けて理解
し、整理することを主眼とする。フランソワ・ミッテラン(François Mitterrand)
個人の政治環境の変化が、1
9
8
4年までの対欧州政策及び欧州観にいかなる影響を
もたらしたのか。現在では欧州統合の牽引役を自負するフランスがいかにしてそ
の座を手に入れ、どのような要因がフランスを欧州統合に適合させたのか。欧州
統合に関して、欧州統合それ自体を一つの対象として捉え論じた文献は多々ある
が、一国の政治、外交を中心としてその関係から論じられた邦語文献は数に乏し
い。拙稿はそうした環境下でのささやかな試みである。
! 社会党第一書記としての「欧州統合」
1
社会党第一書記以前のミッテランと欧州
第五共和制史上初の社会党出身大統領ミッテランは、1
9
7
0年代後半から1
9
8
0年
代前半にかけてそれまで加盟国に根付いていた「欧州悲観主義」を一蹴し、欧州
統合を新たな段階へと引き上げ、EU(欧州連合)創設の礎を築いた。そうした業
績を称えるように、ミッテランには「欧州統合の父」という一般的認識が存在す
る。欧州統合という歴史的事業は歴代フランス大統領にとっても重要な外交問題
の一つである。特に1
9
8
1年に2
3年ぶりに左翼勢力による政権交代を実現し大統領
に就任したミッテランは、フランス社会主義の実現に陰りが見え出した1
9
8
3年以
後、この歴史的実験への関与を一層深めていく。
そのミッテランが「欧州」と初めて出会ったのは、1
9
4
8年5月のハーグ欧州会
議である。米ソ二大国による冷戦が徐々に国際社会を覆い始めた時代。欧州の政
治指導者たちはそのハーグにて、第二次世界大戦後初めて公式の場で欧州建設に
ついて討議をしたのである1)。そこにはイギリスのチャーチル、そしてドイツの
アデナウアーも出席しており、同席した若きミッテランは「欧州に寄せられた興
奮」を直接肌で感じ取っていた2)。ミッテランは後に、この新たな試みに賛成の
意を示していたことを度々例に挙げ、古くからの「欧州人」であることの証とし
ている。たしかにこのハーグ欧州会議以降、ミッテランは EDC(欧州防衛共同
3
体)やローマ条約には反対を示したものの、総じて欧州統合に前向きな姿勢を保
ち続けていく。
しかし、ミッテランのそうした「前向きな」姿勢について、フランスの国際関
係史教授モーリス・ヴァイス(Maurice Vaïce)は「一貫性は欠いているが、欧州
3)
と指摘する。言い換えるとミッテランは、欧州統
統合への信念は古くからだ。
」
合を無条件に、また絶対的な価値として首尾一貫認めていたのではないというこ
とである。その姿勢はまず、ミッテランという政治家の国内政治における立場に
よって変化を見せる。
例えば1
9
5
0年から1
9
5
1年に海外領土相を務めていた際のミッテランは、歩み始
めた欧州統合の歴史に寄り添うよりも、フランスの国力の源泉となる植民地の維
持に力を傾注した。また先述の EDC 批准に関しても、フランスの国力維持の観
点からその影響を保てる西欧地中海とアフリカ北部を欧州よりも優先すべきとす
る姿勢から、1
9
5
4年6月の EDC 条約採決には、棄権票を投じてフランス発のこ
の条約案を葬り去っている。
このように「欧州統合の父」というミッテランの一般的に描かれるイメージは、
第一にミッテランの国内政治に占めるその立場によって変化し、次にフランスの
国益追求と照らされた上で表出するものであると指摘することができる。した
がって欧州統合に関するその立場は、ミッテランが自身で後に述べるような生粋
の「欧州人」とは言い難いほど国内の政治環境に影響されている。特に政権交代
を実現させるまでの社会党第一書記時代においては、
「社会主義フランスの実現
から欧州統合へ」という一つの公式をミッテランは抱いていた。
2 「資本主義との決別」による欧州の解放を目指して
1
9
5
8年にシャルル・ドゴール(Charles de Gaulle)が大統領としてフランス政治
の表舞台に再び登場し第五共和制が始まると、それまで第4共和制で政権を支え
ていたミッテランは主要な左翼勢力と共に周辺へと追いやられることとなる。こ
のドゴールによる第五共和制憲法は、大統領に絶大な権力を保障している。こと
外交に関しては、大統領の専任事項という側面が強い。それは戦前第三共和制下
ナチスドイツの台頭による危機の際、多数の小政党の乱立状態が大統領職を機能
不全に陥れた苦い経験を反映したものである。ドゴールはこの権力の強化された
大統領職と与党という強力な政権基盤を柱に、1
9
6
9年までフランス政治にドゴー
ル派を根付かせる。1
9
6
9年の大統領選挙では分裂する左翼勢力を尻目に、ゴーリ
4
政治学研究4
1号(2
0
0
9)
ストであるジョルジュ・ポンピドゥ(Georges Pompidou)が大統領に選出され4)、
ミッテランを含めた左翼勢力はこうして再び保守勢力を前に政治の表舞台への登
場を阻止されるのだった。
こうした政治環境を受けて、左翼勢力は1
9
7
1年6月1
3日のエピネー大会で勢力
の再編と結集を行う。当時ミッテランは少数派の CIR(共和制度会議)に属して
いたが、共産党とのイデオロギー闘争を主張する多数派のサヴァリ派を制して、
ミッテランは社会党第一書記の座を手に入れ、政権奪取へ向けて自身の足場を築
いていく5)。このエピネー大会においてミッテランは「資本主義との決別」を訴
え、党の公式路線を提示した。
この「資本主義との決別」という党路線には三つの意味がある。まず国内政治
との関連では、当時国政選挙で2割以上の得票率を有する共産党の票数を奪うこ
とを目的とした「対共産党」という要素。そしてもう一つは、
「超自由主義アメ
リカ商業帝国」への抵抗を示すと同時に「ソビエト型社会主義」を批判し距離を
置くことで、両者の枠に収まらない中間層の支持を得ようという「社会党の中道
化」という要素。最後に国際社会との関連では、米ソ二極構造を拒否し、西側の
資本主義陣営、そしてソビエト社会主義の両者から自立した立場を確立するとい
う「独自路線の追求」という要素である。
特に国際社会との関連で述べるならば、戦後ドゴールがヤルタ体制を批判し、
冷戦下米ソ二極構造に反発して独自路線を追求した従来のフランス外交を、その
目指すものは異なるにせよ踏襲したものと言える。ドゴールにとってその根拠が
「フランスの栄光」であったなら、ミッテランにとってのそれは「フランス社会
主義」という「資本主義との決別」であった。
こうしてエピネー大会を出発点とし、その歴史に新たなページを記した社会党
は、翌年1
9
7
2年に「生活を変える(Changer la vie)」と題した社会党政府綱領を
発表する。前年に開かれたエピネー大会で確認された「資本主義との決別」とい
う党路線を反映させ、
「経済の統制」と題して国家主導の金融・産業政策につい
て触れ、新たな成長モデルのもとフランスを大きく「左旋回」させる必要を説い
た。また欧州統合については「国内で左派政権の樹立をめざし、ついで欧州各国
6)
と国内での社会主義の実現を第一段階とし、
の共通利益に資する提案を行う。
」
フランス社会主義を欧州統合の軸足にするとした方針が示された。このように当
時の社会党は欧州統合を進めるその前提条件として、フランス国内における社会
主義の実現を挙げている。
5
しかし、この社会党政府綱領に関しては党内で一致した合意が形成されていた
訳ではなかった。というのも党内には親欧州派から大西洋主義者まで、こと外交
問題に関しては多様な意見が存在していたからだ7)。経済政策では国有化の範囲、
党内権力構造における労働者の役割、また欧州統合についてはマルクス主義色の
強い CERES(社会主義調査教育センター)がその帝国主義的側面を強調して批判
を加えていた8)。結果、党内勢力の妥結を図るため、欧州統合については「資本
主義勢力を利する現在の欧州統合は受け入れがたいものの、欧州統合なきフラン
9)
という結論に落ち着いた。ミッテランは急進派の
スと欧州は考えられない。
」
CERES の意向を汲みながらも党内世論の多様性を考慮せねばならず、この時点
においては社会主義と欧州統合の明確な優先順位を示すことはできなかった。
3
社会主義欧州への回帰
1
9
7
2年6月、ミッテラン率いる社会党はフランス政治におけるより安定した地
位を築くため、来るべき政権交代時に共産党の入閣を約束した「左派政府共同綱
領(Programme Commune du Gouvernement de la Gauche)」をまとめあげ る。ミ ッ
テランは共産党に対するマルクス主義的関心からではなく、若い社会党が確固と
した政治基盤を築けるようにと現実主義的関心からこの共闘を選択した10)。この
共同綱領を推進力に社会党は、1
9
7
3年3月に総選挙において大幅に躍進し、1
9
6
8
0.
8パー
年の総選挙から約1
3
0万の票を増やすことに成功した11)。投票率にして2
セントを獲得した社会党は、共産党との共同路線に対するフランス国民の承認を
得て、6月のグルノーブル党大会を迎える。選挙を通じて共産党との協力から多
大な恩恵を被ったミッテランはこの党大会で、
「欧州は資本主義のルールを受諾
すれば失敗する」として、共産党寄り CERES の路線に沿った欧州観を示すので
あった12)。
しかし、国際情勢の変化が社会党に「欧州」と「社会主義」のいずれかの選択
を迫った。1
9
7
3年9月にチリのアジェンデ社会主義政権がクーデターにより崩壊
し、また西ドイツでもドイツ社会民主党(SPD)が保守政党の UDR に接近する
など、
「社会主義」を取り巻く国際環境に大きな動きが見られた。これにより
ミッテランは1
9
7
3年1
2月に開かれた「欧州に関する特別大会」で、
「欧州建設の
闘いは国家の枠組みで政治権力を獲得する闘いと不可分である。フランスでの社
会主義は欧州の前提ではなく、欧州建設は社会主義の前提でもない。
」として、
それまでの立場を修正せざるを得なかった13)。こうした社会主義と欧州統合に関
6
政治学研究4
1号(2
0
0
9)
する曖昧な定義からは、国際社会における「社会主義」の位置づけの変化がフラ
ンス国内で目指す社会主義の実現に支障をきたさぬよう、
「欧州」と「社会主義」
の両者に一定の距離を設けようとするミッテランの意図が窺われる。その背景に
は「フランス社会主義の実現」を第一とすることで自らの権力基盤を安泰なもの
とし、欧州統合という党内世論の対立を呼び起こす問題は避けようとするミッテ
ランの思惑が垣間見える。
このことは、ミッテランが具体的に欧州統合をどうような形で進めるのかとい
う政策論争にではなく、自身の党内での求心力維持に努めたいという政治家とし
ての野心的な一面を示している。言い換えればミッテランにとって欧州統合は、
党内世論の合意を生む範囲ではその議論が可能であっても、そうでない場合にお
いては棚上げとしたい問題であったのだ。
1
9
7
4年5月、ポンピドゥ大統領の急逝に伴い行われた大統領選挙において、社
会党ミッテランは決選投票で4
9.
2パーセントの得票率と、フランス民主連合
6
(UDF)率いるヴァレリー・ジスカールデスタン(Varély Giscard d’Estaing)に1.
パーセントまで迫った。この結果にミッテランは「止められない何かが始まっ
1
4)
と、フランス左翼の新たな胎動を感じるとともに、ミッテラン自身の社会
た。
」
党大統領候補としての正統性と求心力の源泉をフランス国民の間に得たという認
識を示すのであった。
この大統領選を制した「中道、自由主義、そして親欧州」とされるジスカール
デスタンは、その任期7年間でドイツ首相シュミットとの蜜月関係の下、初の欧
州理事会開催、加盟9カ国直接普通選挙による初の欧州議会選挙実施、そして欧
州通貨制度(EMS)の発足と具体的な発展をもたらした。こうして深化と拡大を
果たす欧州統合を前に社会党は、ジスカールデスタンの欧州政策を「経済的自由
主義」に基づいた欧州と強く非難した。そして1
9
7
9年のメッス党大会では欧州統
合に関して「新たな欧州主義」と題した指針動議を発表する。これを機にミッテ
ランは「多国籍企業の支配する自由貿易圏に貶めようとする自由主義経済原理へ
の共同体の同調は、関連する社会法制と機構内での労働者の代表性の不足に由来
する」と述べ15)、欧州統合に関してそれまでの曖昧な態度から、従来の社会主義
を前提とする欧州統合への回帰を見せるのであった。来るべき大統領選挙に向け
て中道保守のジスカールデスタンとの差別化を、この欧州統合で試みるのであっ
た。
この「新たな欧州主義」は後に初期社会党政権の基礎となる「社会主義プロ
7
ジ ェ―フ ラ ン ス の8
0年 代 の た め に(Projet Socialiste pour la France des Années
9
8
0年1月のアルフォーヴィル特別大会で採択された。同文
80)」に反映され、1
書の中で欧州統合を「自立した世界に開かれたフランス」を目指す外交政策の中
に位置づけ、人権の推進、世界貿易の管理、軍縮の推進と並んで言及している。
そして現在の欧州統合は「自由主義と大西洋主義」によって支配され、欧州での
社会主義の実現にはローマ条約のセーフガード条項の適用が必要であるとした。
こうしてフランスの社会主義実現が、欧州全体を社会主義的方向に導くことで統
合が完成するというエピネー結党大会で表明された欧州観と同様の見解を示すこ
とによって、社会党は再度大きく左へと舵を切り直す。そしてこの「社会主義プ
ロジェ」は1
9
8
1年の大統領選挙の際には選挙公約として「フランスのための1
1
0
の提案」と題され、社会主義への移行をフランス国民に訴える公約となるのであ
る。
! フランス社会主義の挑戦と挫折
1
フランス社会主義政権の誕生――左翼の政権奪回――
1
9
8
1年5月1
0日、フランスは1
9
5
8年以来2
3年ぶりに左翼政党を政権の座へと迎
え入れた。当時社会党第一書記の職にあったミッテランは、二期目を狙う現職の
ジスカールデスタンを5
1.
7
6パーセントの得票率で破り、フランス「左翼」に勝
利をもたらした。悪化の一途たどるフランス経済、そして増え続ける失業者。ジ
スカールデスタンはミッテラン社会党の政策を非現実的と指摘し、またマスコミ
も国家主導型の経済政策を早くも批判していた。
しかしジスカールデスタン率いる UDF(フランス民主連合)と、ジャック・シ
ラク(Jacques Chirac)が率いる RPR(共和国連合)間の保守分裂は、社会党に政
権へと近づく大きなチャンスを与える結果となった16)。またミッテランは従来か
らソ連と距離を置き、反共産主義の姿勢を明らかにすることで独自の「中道主
義」的イメージを定着させ、右翼・左翼の双方に収まらない票を吸収することに
成功したのである。こうしてドゴールが築き、ポンピドゥ、そしてジスカールデ
スタンと受け継がれてきた保守政治の流れは、政権交代という変化の前にその表
舞台から姿を消し、社会党は最大左翼としての地位を有する共産党の支持を得ず
して、政権交代を達成するに至った。
当時国際社会は1
9
7
9年1
2月のソ連軍によるアフガニスタン侵攻、そして欧州の
8
政治学研究4
1号(2
0
0
9)
ユーロミサイル問題がデタントの機運を「新冷戦」への緊張と変えていた17)。ま
たアメリカでは共和党のレーガン大統領が誕生し、イギリスでは保守党からサッ
チャー首相が登場するなど、国際社会は政治的にも経済的にも新たな潮流を生み
出しつつあった。こうした背景の下、フランスには社会党ミッテラン大統領が誕
生した。世界がこの左翼政権の誕生を好奇心と奇異の目で眺めるなか、フランス
国民は興奮と期待を胸に新たな時代へと歩みだすのであった。
2 「フランス社会主義の実現」と欧州への拡大の試み
興奮冷めやらぬ同年6月2
1日に行われた総選挙では、社会党が単独過半数を獲
得した。選挙戦での再びの共産党との協力で得たこの結果を受けて、共産党から
4人の閣僚を迎えて第二次モーロワ内閣が発足した。内閣発足から5日後の6月
2
9日、ミッテランはルクセンブルクで開催された欧州理事会に出席し、いよいよ
フランス社会主義のビジョンを欧州首脳に訴えかける機会を手にする。これは大
統領に就任したミッテランにとって大きな関心事であった。国内政治と密接に結
びついた欧州統合を自ら描き出すことで、
「フランス社会主義の実現から欧州統
合へ」という長年の想いを政策に結実させるという強い覚悟があった。
またこの時期欧州統合が「欧州悲観主義」という停滞期にあったのも、ミッテ
ランにとってチャンスであった。サッチャー首相登場以後問題となったイギリス
の予算還付金問題や、共通農業政策改革をめぐる各国の思惑。そして欧州拡大に
関しては1
9
8
1年新たにギリシャを加盟国として迎えるも、フランスやイタリアの
農業政策に悪影響を与えかねないスペインとポルトガルの加盟問題について加盟
国は一致せず、欧州統合は停滞していた。また、1
9
7
9年の第二次石油ショックに
よる影響が世界経済を直撃し、欧州各国は目下国内の経済対策という現実に力を
傾注せねばならなかった。
「欧州の失業」
、
「欧州のインフレ」と呼ばれる経済危
機は、欧州各国を内向きへと変化させ、欧州統合という理想に力を向ける余力を
失わせていた。
この停滞する欧州統合にミッテランは社会主義という新たな政治的、そして経
済的イデオロギーを注入することでその主導権を握り、フランス国内と欧州の双
方で社会主義の確立を目指そうと試みる。そうしたミッテランの関心の高さの表
れとして、二人のブリュッセルの官僚がフランスへと呼び戻された。ミッテラン
はその二人のうちジャック・ドロール(Jacques Delors)を経済財政相へ、そして
クロード・シェイソン(Claude Cheysson)を外相に任命する。長年個人的な関係
9
を築き、欧州統合の中心地で任に当たっていた彼らを国内へと呼び戻し自らの政
権へと招いたことからは、ミッテランの欧州統合に対する強い意気込みを感じ取
ることができる。
このルクセンブルク欧州理事会においてミッテランは、欧州担当相アンドレ・
シャンデルナゴール(Andre Chandernagor)を通じて欧州各国による国内需要創
出と「欧州社会空間(Espace Social Européen)」の創設を訴えた18)。失業問題を
解決するため、社会・産業投資、研究開発の共同スキームをベースに欧州統合の
再興をフランスの旗印の下に行おうというものである。これはミッテランが大統
領就任以前より「フランスの社会主義政権は実施主体に、尖兵となる産業・情
報・原子力・石油化学・航空宇宙政策の権限を与えて欧州の自立を可能にする柱
1
9)
と述べていた欧州像の具体案であり、
「資本主義と商業のため
を打ち立てる。
」
の欧州」からの転換を行う上での基本的枠組みであった20)。
しかしこうしたミッテランの提案に対して欧州理事会の各国の反応は冷ややか
であった。ベルギーとデンマーク、そしてイタリアのみがこの提案に前向きな姿
勢を示すのみで、イギリスと西ドイツは失業問題よりもインフレ対策に力点を置
く必要があり、フランスの経済構造こそが問題だとして欧州統合という構想の前
に双方の認識に大きな溝があることを示した。ミッテラン社会党の「社会主義プ
ロジェ」はフランス国内では理解を得るも、欧州という空間では支持を得ること
ができなかった。
欧州理事会での挫折を経験しても国内世論の支持を後ろ盾としたミッテランは、
「社会主義プロジェ」に基づいた欧州統合というビジョンを変えようとはしない。
しかし、欧州統合について社会主義への移行を通して「資本主義との決別」を実
現するには、冷戦二極構造下のアメリカを中心とする自由主義経済主要国からの
急激なシフトではなく、欧州諸国との緊密な連携を通してこの「社会主義プロ
ジェ」を実現させるという認識を抱くようになった。これによりアメリカの帝国
主義とソビエト型社会からの逃げ道であり、市民に社会主義的な第三の道を示す
ことが可能であるという結論に至る。このミッテランの認識は1
9
8
1年1
0月に開催
されたヴァランス党大会で党路線として承認されることろなる。
3
社会主義プロジェ、終わりの始まり
1
9
8
1年はミッテラン率いる社会党にとって飛躍の年となった。大統領選、そし
て総選挙と2回の民主的な手続きを通じてその社会主義路線に支持と正当性を取
10
政治学研究4
1号(2
0
0
9)
り付け、欧州統合に関しては同意を取り付けるには至らなかったが各国首脳に
「社会主義プロジェ」に基づく欧州象を示し、フランス政治に新たな業績を残す
ことが出来た。しかしあくまでフランス国内での「社会主義プロジェ」に基づい
た政策の実行と社会主義の実現が優先事項であり、欧州統合はその延長線上に位
置するものにすぎない。
その国内政策としてミッテランは、選挙公約である「社会主義プロジェ」に基
づいた政策を実行に移す。社会主義路線に沿った大規模な構造改革と賃金の大幅
引き上げに支えられた景気刺激政策により21)、フランス経済の回復を目指すので
あった。深刻さを増す失業問題対策として、段階的な週3
5時間労働への移行、年
間5週間の有給休暇導入を実施し、そして1
9
8
3年までに2
1万人の公務員を増やし
雇用を創出するとの数値目標を設定。また経済対策としては公共投資の拡大によ
り雇用を創出し、低所得層の所得を引き上げることで国内の需要を喚起して年3
パーセント以上の成長率を実現するとし、民間銀行を含めた大規模な国有化を検
討した。自由主義経済がより世界の潮流となる頃、フランスは大きな政府へと歩
み始めた。経済情勢の悪化に苦しむフランス国民にとってこれらの政策はまさに
「生活を変える」政策であり、ミッテラン率いる社会党には大きな期待が寄せら
れていた。
一方こうした社会主義路線の政策に対しては、ミッテランの大統領就任以前か
ら懸念の声が上がっていた。7年間のジスカールデスタン政権が残した7.
3パー
セントの失業率、そして1パーセントにも満たない経済成長率が、新たな左翼政
権にとって大きな障害となることは明白であった22)。各国経済の相互依存が深化
するなか、一国による社会主義路線は短期的な成果を上げることは出来ても、長
期的にはその成果は疑わしいというものであった。
「フランス社会主義の5年間
はフランスを2
0年前に後退させる」とするマスコミからの声も上がっていた。そ
れを裏付けるかのように、第二次石油危機以後下落を見せていたフランは、ミッ
テラン大統領就任以降も依然下がり続けていた。
そして1
9
8
2年度予算の発表を境にフランは EMS の平価調整も相まって困難に
さらされる。いよいよ「社会主義プロジェ」が予算として計上され日の目を見よ
うという矢先に、EMS という「欧州」が壁となり1
9
8
1年1
0月4日、フランの切
り下げを余儀なくされたのだ。この1
9
8
1年のフラン切り下げを皮切りに、フラン
スは徐々に社会主義路線の修正を迫られることとなっていく。当初社会党内部で
強かった世界経済情勢への楽観的観測とは裏腹に、依然厳しい状況が続いた23)。
11
政権を掌握して以来、社会党とミッテランは数々の社会主義プロジェに基づく
政策を実行に移すも、世界の流れは自由主義経済にあった。隣国西ドイツではマ
ルクがその存在を発揮してドイツ経済の好調ぶりを見せ付け、イギリスではサッ
チャー首相が大規模な民営化案を打ち出していた。しかし一方ミッテランは、大
企業を国有化することで資本の流れをコントロールし、需要を創出して失業問題
を解決する決意を表明していた。ただこの社会党の看板政策もが、次第に国民の
疑念の目に晒されるようになる。
一方外交面、こと欧州統合についても大きな成果を挙げることができていな
かった。1
9
8
1年1
1月2
6日から2
7日にかけて行われた欧州理事会では、引き続きイ
ギリスの予算還付金問題、そしてスペイン・ポルトガル加盟問題が議論の的とな
り、フランスが提案した社会的政策、農業政策、共同体予算の議題では合意を得
ることができなかった。欧州各国はフランスが示した「共同体規模での産業政
策」に関心を示すことはなく、フランス社会主義が欧州を牽引することで国内政
治、そして経済情勢の改善につなげたいというミッテランの思惑はまた挫折する。
! 「偉大なる欧州人」ミッテランの誕生
1
フランス、欧州化への軌跡――EMS 残留をめぐって――
こうしたフランス社会党を取り巻く政治的、経済的に厳しい状況下で行われた
1
9
8
3年3月の市町村議会統一地方選挙で左翼勢力は苦戦を強いられた。政権交代
以後国民の期待を一身に受けた左翼勢力は、合計4
4.
9パーセントの得票率に留ま
0パーセントと異例の
り、大都市部では悉く保守勢力の前に破れた24)。全国平均8
高い投票率であったがパリやリヨン、そしてマルセイユ等大都市では棄権率が3
5
パーセントにも上リ25)、左翼の退潮が著しい。この選挙結果は社会党政権にとっ
て厳しい現実を突きつけると同時に、フランス社会主義への警告でもあった。
また政権内でも足並みが乱れだしていた。EMS を巡って離脱を訴える当時の
首相ピエール・モーロワ(Pierre Mauroy)と、残留を主張するドロール経済担当
相とが対立をしていた。従来ドロールは社会党政権実現の半年が経過する頃には
社会主義路線の行き詰まりを感じ取り、緊縮財政によるインフレ抑制を訴えてい
た。結果1
9
8
1年1
1月末、同路線の「改革休止」を一方的に宣言し、社会党政権内
で反発を呼ぶ26)。ミッテランはドロールに改革の象徴として引き続き社会主義路
線に沿った政策を実行するよう迫り、閣内不統一を免れるという経緯がある。
12
政治学研究4
1号(2
0
0
9)
そのような対立にも3月の市町村議会統一地方選挙の結果は影響を与えた。
「社会主義プロジェ」に基づく公共投資の増大、社会保障の拡充は悪化する経済
に歯止めをかけることは出来ず、世界の流れとは逆行する経済政策はフランスを
窮地に追い込んだ。政権内にも徐々に社会主義路線に疑念が向けられ始め、モー
ロワもドロールの緊縮財政を推す立場へと回った。その結果第一次緊縮策、そし
て第二次緊縮策の「ドロール・プラン」として政策に反映されることとなる。こ
の「ドロール・プラン」では従来の公共投資による内需拡大ではなく、インフレ
抑制とフラン安定によって国際収支の均衡を達成するための内需削減を目指すも
のであった。あくまで従来の路線に従おうとしたミッテランであったが、モーロ
ワとドロールの二閣僚による路線変更の圧力を受け、もはやミッテランも了承せ
ざるを得なかった。
この国内政策における路線変更を受けて EMS 問題にも動きが見られた。EMS
は1
9
7
8年5月に当時のジスカールデスタン大統領、ドイツのシュミット首相のイ
ニシアティブによって生まれた制度である。欧州の通貨統合を視野に入れ、イン
フレの抑制と通貨交換率の安定を目的に創設された27)。もはや世界、そして欧州
の経済情勢の流れから立ち遅れることの出来ないフランスはこの EMS 残留へと
舵を切る。モーロワは後に振り返って、
「フランスにおける完全なる左派の政治
はほかの欧州諸国も左派的な政治を行わない限り実現しない。世界的な危機に
2
8)
と、一連の緊縮政策が欧州統合とい
よって欧州協力という妥協が強いられた。
」
う外的要因から迫られたことを認めた。そしてこの決定を受けてフランスは、そ
れまでの「フランス社会主義の実現から欧州統合へ」という路線の修正を余儀な
くされる。ミッテランが描いた欧州像は、大統領就任からわずか2年あまりで潰
えることとなった。言い換えればこの1
9
8
3年3月の EMS 残留をもって、フラン
ス社会主義は欧州統合という現実の前に霧散する。ミッテランは社会党の夢を捨
て去ることで、フランスの未来を切り開こうと方向転換をする。それが意味する
ところは、紛れもないフランス社会主義の失敗である。
こうしてミッテランによる短い「一国社会主義」は挫折した。それまで閣僚と
してミッテランを支えていたモーロワやドロールによる路線変更の提案は、ミッ
テランにとって自身の求心力低下を意味し、党内の反発と国民の失望をもたらし
た。しかし一度緊縮財政へと切られた舵は戻らない。政府自ら一度否定をした
「社会主義プロジェ」に、1
9
8
1年当時の新鮮味はもはやなかった。それはまた
ミッテランの権力の源が枯渇し始めたことの証でもあった。
13
そのためこれ以後ミッテランは社会党第一書記としてではなく、大統領として
の立場を存分に利用することで権力の源を確保しようと努めるようになる。それ
は外交というナショナルな空間を越えた舞台であった。フランス社会主義という
一つの実験を終えたミッテランは、フランス大統領として欧州統合という新たな
実験へと身を投じていく。国内政治の挫折により生じた求心力の低下を、欧州統
合という外交問題を通して復活させ、いよいよ社会党第一書記ミッテランからフ
ランス大統領ミッテランへとその姿を変えていく。
2
EC 議長国としてのフランス――欧州化への出発点――
「
(側近の)誰も決して反欧州的ではなかったが、欧州を呼び覚ますほどの
2
9)
」
政策を(ミッテランに)助言したものはいない。
こう述べるのは1
9
8
1年からエリゼ宮に入り、ミッテランの外交顧問を務めたユ
9
8
3年3月を境にフランスは
ベール・ヴェドリーヌ(Hubert Védrine)である。1
徐々にその重心を欧州へと移していくが、この言葉はミッテラン個人がいかに欧
州統合に再び強い関心を持ち始めたかを描写している。内閣を改造し来るべきフ
ランスと欧州との合流点に向けて備えるミッテランは、新しい首相に史上最年少
での就任となるローラン・ファビウス(Laurent Fabius)を任命した。ファビウス
は「我々は欧州の存在に気づく必要がある。我々の国内経済はあまりにも狭小で
3
0)
と述べ、ミッテ
あるから、汎欧州的な連携を模索していかなければならない。
」
ランは以後フランスの独立と欧州の建設が相互補完的になるよう努めていく。も
はやこの時点では、7
0年代社会党第一書記時代に描いていた「フランス社会主義
の実現から欧州統合へ」という図式は存在しない。国内での社会主義政策が失敗
した以上、欧州へと還元できるものは手元になく、フランスが欧州という資源を
活用して生き延びる道を選択する必要があったのである。
そのことを歓迎するかのように1
9
8
4年はちょうどフランスが EC の議長国を務
める年であった。ミッテランにとってこの年はフランス国内での社会主義挫折を
挽回するための絶好の機会となった。早速ミッテランは議長国としてのイニシア
ティブが取れるよう、下院議員ローラン・デュマ(Roland Dumas)を欧州問題担
当相に任命し、6カ月間で加盟国首脳と3
0もの首脳会談を行った31)。またオラン
ダでは3
6年前のハーグ欧州会議を引き合いに出しながら、
「ほかの先進工業国が
進める保護主義との戦い」が欧州の課題だと述べ、自らの欧州統合に対する意欲
14
政治学研究4
1号(2
0
0
9)
とその個人的な関係性を強調し32)、同年5月にはストラスブールの欧州議会で、
ミッテランは次のような演説を行っている。
「フランスの欧州人であり、欧州誕生の各段階に立ち会った者が宣言する。
1
9
4
8年5月、第二次世界大戦後からちょうど3年後、欧州という構想はハー
グ欧州会議で形となった。私はその場所におり、その構想に想いを馳せてい
た。
(中略)我々は今日、欧州をそれが抱える問題から解放しなければなら
3
3)
ない。未来への道へと取り組まなければならない。
」
このように自身と欧州統合との深い関わりについて力説し、欧州統合への期待
を滲ませている。また同演説の中で8
0年代冒頭から問題となっているイギリスの
予算還付金問題そしてスペイン・ポルトガル加盟問題の解決を訴え、欧州を新た
な段階へと導くことを加盟各国に求めた。さらに画期的なことに、ミッテランは
欧州連合創設に向けた条約締結をも呼びかけており34)、欧州統合が抱える過去か
らの問題だけではなくその未来像についても言及したのであった。
ミッテランのこうした働きかけは前年までの欧州統合に対する姿勢とは明らか
に異なる。それらは自身が議長を務める6月開催のフォンテンヌブロー欧州会議
への布石と考えることができよう。会議の席で議長を務めるに当たって事前に
「欧州人」としての立場を明らかにすることで、欧州統合という新たな次元で具
体的な成果を得ようとするミッテランの思惑が働いている。
そのフォンテンヌブロー欧州会議でミッテランは、西ドイツのコール首相と共
にイギリスの EC 予算還付金問題の解決に当たる。従来フランスと西ドイツは、
そのジスカールデスタンとシュミットの蜜月関係が表すように、両者の強いつな
がりが欧州統合の牽引役としての役割を果たし、その深化と拡大を助けてきた。
ミッテランはこのフォンテンヌブロー会議を境に、西ドイツと良好な関係を築い
ていく35)。それは欧州という枠組みの中に西ドイツを組み込むことで相対的な力
関係の優位を保とうと試みると同時に、仏独を再び欧州統合の牽引役に据えよう
0パーセント以
とする試みであった36)。結果としてその試みはサッチャー首相の7
上の還付要求を抑え込み、最終的には6
6パーセントという数字で妥協をさせ、
「欧州悲観主義」の一要因を除くことに成功する。これによりその他のスペイ
ン・ポルトガルの新規加盟、新条約草案及び市民の自由移動の検討委員会の創設
が決定され、欧州統合は新たな一歩を踏み出すのであった。
こうした1
9
8
4年 EC 議長国としてのミッテランのイニシアティブは、1
9
8
6年2
15
月に単一欧州議定書という形でもって結実する。そして8
0年代後半から9
0年代へ
と欧州統合の深化と共に歩むミッテランは「欧州の父」という地位を国内、また
欧州で確立する。フランス社会主義の実現を自身の力の源としていたミッテラン
は、1
9
8
4年のフォンテンヌブロー会議を経て欧州統合という外交と内政が密接に
関わる領域において新たな力の源泉を獲得するのであった。
3 「社会主義者」ミッテランから「欧州人」ミッテランへ
これまで見てきたように、1
9
8
3年の緊縮政策への方向転換はフランス国内政治、
そしてフランスの対欧州政策を根本から変えるものであった。ミッテランは1
9
7
1
年に社会党第一書記に就任して以後、欧州を「アメリカの息のかかった自由主義
経済市場」と捉え、常に批判を繰り返してきた。戦後間もない1
9
4
8年のハーグ欧
州会議の頃から欧州統合そのものには前向きな態度を示していたミッテランで
あったが、社会党第一書記という新たな要素はミッテランを党内政治、そして国
内政治へと専念させた。1
9
8
3年の社会主義路線からの変更に至るまでは、国内で
の「社会主義プロジェ」の政策実現を第一とし、欧州統合についても国内政策の
延長上にその姿を見ていた。言い換えれば「フランス社会主義の実現」が国民の
心をつかみ、ミッテランの力の源泉がそこにある限りは彼にとって欧州統合はさ
ほど重要なものではなかった。その時点では欧州統合も、
「フランスの社会主義
実現」のための外的要素という位置を与えられていたに過ぎないのである。
ミッテランのこうした欧州像は、EMS 問題をめぐってミッテランが関係閣僚
に対して指導的役割を果たせなかったことからも明らかである。EMS 残留派と
離脱派が政権内での確執を深めるなか、ミッテラン自身は明確な判断をすること
はなかった。
「社会主義プロジェ」の政策実現による国内の経済対策が思うよう
な成果を出せず、国際社会におけるフランス経済の弱体化がフラン下落という形
で表れて初めて危機感を抱くのであった。またそれに対する対処法としてミッテ
ランは、当初欧州市場という枠からフランを保護するためとして EMS からの離
脱を検討していた。そこには「欧州統合の父」としての顔は表れていない。
1
9
8
3年に緊縮策へと舵を切り、
「社会主義プロジェ」から距離を置いたとき、
ミッテランがそれまで拠り所としていた「フランスの社会主義実現」という夢は
大きな失望を呼んだ。それまでの国民の期待は落胆へと変わり、左翼支持者の一
部はこれを境に体制批判を繰り広げる極右支持へと回り、1
9
8
4年の欧州議会選挙
ではジャン・マリー・ルペン率いる極右政党 FN(国民戦線)の台頭を呼び起こ
16
政治学研究4
1号(2
0
0
9)
した。ミッテランには新たな政治的原動力が必要であった。
こうした党内、そして国内でのミッテランの立場の変化は次第に彼を欧州統合
というナショナルな空間を越えたものへと引き付けていった。しばしば第5共和
政下で問題となる大統領による外交の「個人化」を、ミッテランは欧州統合とい
う空間で行うのであった。まず欧州統合に関してドイツ首相コールとミッテラン
の個人的関係が築かれ、両者の関係は欧州統合の推進という政策面に投影され、
いつしかミッテランはコール首相に「偉大なる欧州人」と呼ばれるまでに自身と
欧州統合を付けていた。以後ミッテランも「偉大なる欧州人」としての役割を果
たすべく、そして欧州におけるフランスの地位をより安定的に確保していくため
に邁進することとなる。ミッテランは「社会主義者」であることよりも、
「偉大
なる欧州人」であることで1
9
8
4年以後自らの権力基盤を強化しようと努めるので
あった。
! 結 論
当初実現を夢見たミッテランの「資本主義との決別」は、こうして「社会主義
との決別」という皮肉な現実的結果を呼び起こし、このナショナルな空間での挫
折は、欧州という空間で昇華されていくこととなる。しばしば「欧州統合の父」
として語られるミッテランであるが、彼にとって欧州統合とはあくまで自身の国
内における政治的正当性を担保するための政策的道具の一つと見ることができよ
う。
ここにはミッテランの政治家としてのレアリスト的一面が垣間見える。言い換
えればそれは、ミッテランがいわゆる「欧州悲観主義」の時代にあって、決して
反欧州的な姿勢から関与を控えていたのではないということである。欧州統合と
いう理念には共感をしつつも、前政権から引き継いだ厳しい環境での「フランス
社会主義の実現」への取り組み、そしてそのパースペクティブからは正当性を帯
びない資本主義的性格の強い欧州に対する反発が、ミッテランを欧州統合から遠
ざけていた原因と指摘することができよう。
事実、
「フランス社会主義の実現」を断念して以降はフォンテンヌブロー会議
を皮切りに、ミッテランの欧州統合に対する取り組みは目覚しいものがあった。
社会主義路線から離れフランス大統領として自身のリーダーシップを確保してい
くためには、外交における成果が必要であった。ミッテランは大統領の専任事項
17
である外交、特に欧州統合に自身の政治家としての役割を見出し取り組むことで、
再びその威光を取り戻すのであった。それはフランスそのものが、過去の「フラ
ンスの栄光」から新たな国際的立場を築いていく転換点でもあったのだ。
注
1) Marie-Thérèse Bitsch,Histoire de la construction européenne De1945 à nos
jours,France,
2
0
08,
pp.
4
6-4
7.
2) Francçois Mitterrand,Réflexions sur la politiaue extérieure de la France ,
(Paris: Fayard,
1
9
8
6)p.
6
8.
3) Maurice Vaïce,Histoire de La Diplomatie Francçaise,
( Paris: Perrin,
2007),
p.
5
1
5.
4) Olivier Duhamel,Histoire de la Ve Republique,
(Paris: Dalloz,
200
7)p.
16
5.
5) 渡邊啓貴『フランス現代史』
(中公新書、1
9
9
8年)17
6頁。
6) 吉田徹『ミッテラン社会主義の転換』
(法政大学出版局、200
8年)73頁。
7) Stanley Hoffman ,L’expérience mitterrand,
( Paris: Presses Universitqires de
7
9.
France,
1
9
87)pp.
3
7
6-3
3頁。
8) 吉田『ミッテラン社会主義の転換』7
9) 同上73頁。
1
0) 渡辺和行他『現代フランス政治史』
(ナカニシヤ出版、199
7年)2
15頁。
1
1) 渡邊啓貴『ミッテラン時代のフランス』
(芦書房、199
1年)1
9
3頁。
1
2) 吉田『ミッテラン社会主義の転換』7
8頁。
1
3) 同上79頁。
1
4) Duhamel,
Histoire de la Ve République,p.
2
1
2.
1
5) 吉田『ミッテラン社会主義の転換』9
1頁。
1
6) 渡邊啓貴『フランス現代史』2
1
5頁。
17) Bitsch,Histoire de la construction européenne De1945à nos jours,p.
21
9.
1
8) Pierre Favier,
La décennie mitterrand ,
(Paris: Seuil,
199
0)p.
36
4.
1
9) 吉田『ミッテラン社会主義の転換』1
4
3頁。
2
0) 同上1
43頁。
2
1) ロベール・フランク(廣田功訳)『欧州統合史のダイナミズム』(日本経済評論
社、2
0
03年)7
9頁。
(Paris: Fayard,
200
7)p.
10
3.
2
2) Roland Dumas,Affaires étrangères,
2
3) Duhamel,Histoire de la Ve République,p.
2
8
8.
24) Ibid .
,pp.
2
9
0-2
9
1.
2
5) 長部重康『変貌するフランス』
(中央公論社、1
99
5年)1
1
4頁。
26) Duhamel,Histoire de la Ve République,
p.
2
8
8.
2
7) Dumas,Affaires étrangères,
p.
1
0
2.
2
8) 吉田『ミッテラン社会主義の転換』3
0
7頁。
29) Hubert Védrine , Les mondes de Francçois Mitterrand: Al ’Elysée (1981 -
18
政治学研究4
1号(2
0
0
9)
1995),
(Paris: Fayard,
1
9
9
6)p.
2
9
4.
30) 吉田『ミッテラン社会主義の転換』3
3
8頁。
31) 同上3
39頁。
3
2) Mitterrand,
Réflexions sur la politique extérieure,pp.
268-279.
3
3) Ibid .
,p.
2
81.
34) Ibid .
,p.
2
96.
p.
22
6.
3
5) Bitsch,Histoire de la construction européenne De1945 à nos jours,
36) 渡邊『フランス現代史』2
6
5頁。