扮装論(!) 野村幸弘 ―6 7― 扮装論(!) A Study on the Artists in Guise(!) 野 村 幸 弘 NOMURA Yukihiro 扮装画の継承―カラヴァッジョ ミケランジェロと同様,カラヴァッジョにも自画像がない。画家としての自分を描いた絵は1枚も残っ ていないのである。 ただしカラヴァッジョと同時代の画家ジョヴァンニ・バリオーネは,カラヴァッジョが鏡に映した自分 自身をモデルに,バッカスの絵を描いたと述べている(1)。カラヴァッジョの伝記を書いたジョヴァンニ・ ピエトロ・ベッローリもまた, 《ダヴィデとゴリアテ》の斬首されたゴリアテが,カラヴァッジョの顔だ と書いている(2)。そしてオッタヴィオ・レオーニが素描でカラヴァッジョの肖像を残しているので(図1), それらを手掛かりに,カラヴァッジョが自作の中で何に扮装をしているのか,見て行くことができる。 カラヴァッジョが扮装して登場する場合,大きく分けて,ふたつの顔をもっていると言っていい。ひと つは十代と思われる少年の顔で,もうひとつは,ひげを生やした成人男性の顔である。 少年の顔で登場する時のカラヴァッジョは,たいてい画面のこちら側に顔を向けて,絵を見る者を見詰 め返している。くっきりと長い円弧を描いたまゆ毛と,しどけなく半ば開いた唇が大きな特徴である。そ してそれは初期作品の中にしか現れない。 その最初の作品は,おそらく《病めるバッカス》 (図2,ローマ,ボルゲーゼ美術館)である。これは 1 9 27年に,R. ロンギが,カラヴァッジョの自画像であると指摘し,以来,定説となっている(3)。ただし, カラヴァッジョは,古代風のトーガを身にまとい,頭にはツタの葉 を巻き,手にはブドウの房を持っているので,正確に言うと,これ は自画像ではなく,扮装像である。 カラヴァッジョの伝記作者ジュリオ・マンチーニは,その著『絵 画についての考察』の註に「そのほかにも,彼(=カラヴァッジョ) はボルゲーゼにあるヒゲのない非常に美しいバッカスを描いた」と 書き込んでいる。またすでに述べたように,バリオーネは「次にカ ヴァリエーレ・ダルピーノの家に行き, (カラヴァッジョは)そこ に数ヶ月滞在した。そして独り立ちしようとして,鏡に自分を映し て絵を何枚か描いた。その最初の絵が,いろいろなブドウの房をもっ たバッカスで,それは非常に丹念に描かれていたが,描き方がやや 硬い」と書いている。それらの記述にしたがえば,カラヴァッジョ はこの絵でバッカスに扮していることになる(4)。 カラヴァッジョの初期作に,《果物籠を持つ少年》 (図3,ローマ, ボルゲーゼ美術館)という作品がある。この少年は頭にツタの葉を 図1 オッタヴィオ・レオーニ《カラヴァッ ジ ョ の 肖 像》フ ィ レ ン ツ ェ マ ル チェッリアーナ図書館 付けてはいないものの, 《病めるバッカス》と同じような真っ白な 衣装に身を包んで右肩を大きく露出し,たくさんの果物を抱えてい ―6 8― 岐阜大学教育学部研究報告 人文科学 第5 6巻 第1号(2 0 0 7) るので,バッカスに非常 に近い扮装である。とこ ろが,《果物籠を持つ少 年》がカラヴァッジョ自 身の扮装であることを主 張する研究者はきわめて 少ない(5)。 しかし,ここで注目し ておきたいのは,《果物 籠を持つ少年》と《病め るバッカス》の両作品に 図3 カラヴァッジョ《果物籠をもつ少年》 ローマ ボルゲーゼ美術館 おける左手の描写であ る。もしカラヴァッジョ 図2 カラヴァッジョ《病めるバッカス》 ローマ ボルゲーゼ美術館 が,バリオーネの言うように,鏡を見て自分を描いたとしたら,当 然,筆を持つ右手(それが鏡では左手になる)は描けないので,後 から描き足すことになる。その時,どうしてもその手は不自然な表 現とならざるを得ない。つまりそこだけ想像で描くわけで,しかも 後から描くため,そこに左手のための十分な余地が残されていない。 したがって,ふたつの作品の左手をよく見ると,じつに窮屈そうで, 《果物籠を持つ少年》にいたっては,左手がどこに描かれているの か,ほとんど分らないくらいである。この左手の不自然な描写こそ が,画家自身であることの,確かな証拠だと私は思う。 カラッヴァッジョには,もう1点バッカスを描いた有名な絵があ る(図4,ウフィツィ美術館) 。この大きな黒い瞳とぽっちゃりと した頬の紅顔の美少年は,カラヴァッジョのほかの絵にも何度か登 場する。たとえば,《リュート奏者》(エルミタージュ美術館),《ト 図4 カラヴァッジョ《バッカス》 フィレンツェ ウフィツィ美術館 カゲに咬まれた少年》(ロベルト・ロンギ財団),《奏楽の若者たち》 (メトロポリタン美術館)などにである。これをカラヴァッジョの 自画像と考える研究者もいるが,カラヴァッジョとは明らかに顔がちがう。また,もしモデルがいたとし ても,その顔は他の絵の別の主題にも使われているので,これは厳密には肖像画とは言えないだろう(6)。 これら《病めるバッカス》 , 《果物籠を持つ少年》, 《バッカス》に共通しているのは,半裸の姿で,絵を 見る者にワインや果物を差し出し,こちらをじっと見詰めていることである。とくに《バッカス》は,M. マランゴーニがウフィツィ美術館の収蔵庫に眠っているのを発見した当初から,これを両性具有者的だと 《果物籠を持つ少年》を少女と記述している(8)。そこに注目し 述べている(7)。L.ランツィにいたっては, た D. ポズナーは, 《果物籠を持つ少年》をはじめ,《奏楽の若者たち》,《リュート奏者》,《バッカス》,《ト カゲに咬まれた少年》など,一連のカラヴァッジョの初期作品を,彼のエロティックな同性愛的傾向が示 されたものと解釈する(9)。 《病 そして近年,L. ベルサーニと U.デュトワがポズナーの説をさらに展開している(10)。それによると, めるバッカス》では,トーガ風の白い衣装に巻かれた帯の結び目が,性器の形をしており, 《バッカス》 では,その結び目を右指ではさんで持ち上げている。この意味ありげな結び目は, 《奏楽の若者たち》の 右端の少年の腰にも目立つように描かれ,さらにカラヴァッジョの初期のキリスト教絵画である《法悦の 聖フランチェスコ》の天使の衣装にも使われている。 この《法悦の聖フランチェスコ》 (図5,ハートフォード,ワーズワース協会)は,おそらくミケラン ジェロの《聖パウロの回心》のパウロと若い兵士の関係をなぞっていると思われる(11)。ここでは,それ が聖フランチェスコと天使の関係となって受け継がれているのだ。 扮装論(!) 野村幸弘 ―6 9― カラヴァッジョのこの作品は,ジョッ ト以来,何度も描かれてきたどの「聖痕 拝受」 とも異なっている。まずここには, 聖痕を与える6枚の翼をもったセラフィ ムが描かれていない。その代わりに聖フ ランチェスコを抱きかかえる天使が登場 し て い る。し か し そ ん な 図 像 は カ ラ ヴァッジョ以前には存在しない。聖痕拝 受のさいに,天使が現れたということを 述べた文章さえない。だから,これはカ ラヴァッジョの完全な創作である。聖フ ランチェスコをカラヴァッジョ自身が演 じ,ミケランジェロと同じような脚色を 図5 施して,自らを美しい天使に助け起こさ カラヴァッジョ《法悦の聖フランチェスコ》ワーズワース協会 フォード(コネチカット州) ハート せているのである。 ミケランジェロ・メリーシ・ダ・カラヴァッジョは,同じ名前をもつ偉大な芸術家ミケランジェロ・ブ オナローティをかなり強く意識していたふしがある(12)。ミケランジェロが,若く美しい男性=「イニュー ディ」を繰り返し描いたように,同じく同性愛的傾向をもつカラヴァッジョは,何度も美少年を自作に登 場させている。 《法悦の聖フランチェスコ》に描かれている天使もまた,そのうちのひとりである。 聖痕を受けて倒れた聖フランチェスコを,肌もあらわな天使が優しく抱きとめている。よく見ると聖フ ランチェスコの手足に聖痕はなく,薄目で天使の顔を見上げている。あたかも天使に抱かれたいがために, わざと失神した振りをしているかのようである。ここにはミケランジェロのような,助けられたい,救わ れたいという切実さはない。むしろ恋愛遊戯のような自由と余裕さえ感じられる。天使のおだやかで優し げな表情も,それが嘘の芝居であることを十分承知しているかのようだ。 この作品をトレント宗教会議後の時代思潮,およびサン・フランソワ・ドゥ・サール(1 5 67―1622年) の著作と関連させ,ものものしい神学的解釈をほどこした P.アスキュウの詳細な研究があるが(13),たと えその解釈が妥当だとしても,それは表向きのことであって,実質的には,カラヴァッジョの個人的な感 情や願望がきわめて濃厚な作品だと私は思う。 アスキュウは,カラヴァッジョのこの作品の主題が,「聖フランチェスコの法悦」ではなく,「聖フラン チェスコの聖痕拝受」だという。というのは,画面左背後には聖痕拝受の目撃者である修道士レオ,天空 には超自然的な光,それにおののく羊飼い,そして聖フランチェスコの右脇にはキリストと同じ槍の傷が 描かれているからである(14)。 しかし私は,この絵のテーマの中心は, 「聖痕拝受」ではなく,むしろ「法悦」のほうにあると思う。 まずカラヴァッジョは手足の聖痕を意図的に描かないようにしている。描こうと思えば,いくらでも描く 方法はあるにもかかわらず,である。左手の傷は親指の陰になって見えないし,右足は左足の向こうに隠 れ,右足の傷は修道着の裾で覆われている。つまりカラヴァッジョは右脇以外の傷を描く気がなかったの である(15)。じっさい,カラヴァッジョのこの作品に影響を受けたジョヴァンニ・バリオーネの同じ主題 の作品では,フランチェスコに聖痕はなく,あきらかに「法悦」を描いている。つまりバリオーネはカラ ヴァッジョの作品をそのように見ていたのである。 また修道士レオは,背景の闇の中に沈み込んでいて,よく目をこらして見ないと,彼の存在には気づか ないほどである。それは非常に小さく描かれた羊飼いについても言える。そして超自然的な光は,セラフィ ムからフランチェスコに向けて発せられたものというより,曙光という自然現象として描かれている。逆 に,セラフィムの超自然的な光をよそに,この絵では,周囲の暗闇にもかかわらず,なぜか,聖フランチェ スコと天使のふたりだけは暗がりにならず,そこに強烈なスポットライトが当てられている。このスポッ トライトのほうこそが,じつは超自然的な光ではあるまいか。この光源はいったい何だろうか。これはカ ―7 0― 岐阜大学教育学部研究報告 人文科学 第5 6巻 第1号(2 0 0 7) ラヴァッジョ自身が意図的にふたりの関係を強調するために導入した光であり,まさにフランチェスコの 法悦と天使に抱きとめられた喜びを示すための舞台演出的な照明である。 したがって,フランチェスコ・マリア・デル・モンテ枢機卿のために描かれたこの作品が,その財産目 録(1 6 27年2月2 1日)に「法悦の聖フランチェスコ」と記載されているのは,故なきことではない(16)。 いやむしろ当時の人間はそう認識していたのであって,あえて言うならば,そちらのほうが「正しい」の である。これを描かれた内容の「逐語的な」解釈によって, 「聖痕拝受」だとするのは見当ちがいと言わ ざるをえない。でないと,この作品の中心とその本質を見失ってしまうだろう。 またアスキュウは,カラヴァッジョがフランチェスコのイメージをキリストに重ね合わせ,フランチェ スコの此岸での死は,愛の法悦によって,キリストの中で新たに生まれ変わると解釈している。そして聖 フランチェスコと天使の関係を, 「キリストの十字架降下」「キリストの埋葬」「ピエタ」,そして「エリア の夢」 「オリーヴ山での祈り」などの場面と関連づけている。 しかし,この考察で決定的に欠落しているのは,天使の存在である。アスキュウはつねに,フランチェ スコをキリストとの関係でしか捉えていない。しかしじっさい絵に描かれているのは,フランチェスコと キリストではなく,まさに天使との関係なのだ。そしてキリストの受難に関する先行図像と,カラヴァッ ジョの絵が決定的にちがうのは,フランチェスコと天使が顔を向けあい,互いに見詰め合っていることで ある。H. ヒッバードは,フランチェスコが片目を閉じ,もう片方は開いているものの,神秘的な法悦状 態で何も見ていない,と記述しているが(17),よく観察すると,フランチェスコは天使のかぎりなく優し い眼差しに応えようと,両目とも薄目を開け,天使を見詰め返しているのだ(18)。 天使の右手がフランチェスコの脇の下に差し込まれ,フランチェスコの頭がその裸の二の腕に抱かれて いる。こんなに愛情の溢れた介護の役を務める天使がこれまで表現されたことがあっただろうか。またカ ラヴァッジョの影響を受けた画家が,彼のこのようにきめ細かな表現をはたして理解することができただ ろうか。 たとえば,先ほどのバリオーネの作品を見てみよう(図6)。この絵では,天使がもうひとり追加され, フランチェスコと天使のふたりだけの濃密な空間はあっさり放棄されてしまっている。そして天使はフラ ンチェスコの脇の下に手を差し入れているとはいえ,フランチェスコの顔から目をそむけ,いっぽうのフ ランチェスコは法悦どころか,瀕死の表情でのけぞっている。このふたりには情感のこもった交流のひと かけらもない(19)。しかしアスキュウの解釈なら,少なくとも部分的にはこのバリオーネの作品にも適用 できてしまう。そこに神学的な解釈の陥穽がある。同主題でも,カラヴァッジョとバリオーネの作品は, 似て非なるものだからである。 カラヴァッジョが描きたかったのは,天使が支えるフランチェスコという図柄ではない。たとえそれが, 天使に支えられるキリストと神学的に関連していたとしても,彼の眼 目はそこではなく,天使とフランチェスコの濃密な関係性にあったの である。そしてそれは,ミケランジェロによるパウロと兵士の関係に もっとも近いものなのである(20)。 ところが,聖フランチェスコがカラヴァッジョの顔であるという指 摘は,不思議なことに,これまで一度もされていない。それはおそら く《聖痕拝受》がカラヴァッジョの初期作であり,その時期のカラ ヴァッジョは,聖フランチェスコとちがって,どれもひげを生やして いない少年の顔で描かれているからだろう。 しかし一連の初期作品はすべて1590年代に描かれ,1571年生まれの カラヴァッジョは,じつはその時すでに20歳代で,絵に描かれた少年 姿の扮装画は,したがって,あきらかに「若造り」である。マンチー ニが「ひげのないバッカス」と書いているように,ひげを剃っている 図6 バリオーネ《法悦の聖フランチェ スコ》 個人蔵 シカゴ ことが扮装の証拠なのである。つまり,じっさいの20代のカラヴァッ ジョは,普段ひげをたくわえていたはずである。事実,彼が20代の終 扮装論(!) 野村幸弘 ―7 1― わりに描いたローマ,サン・ルイジ・デイ・フランチェージ聖堂の《聖マタイの殉教》に登場するカラ ヴァッジョはひげを生やしており(21),オッタヴィオ・レオーニの描くカラヴァッジョの肖像画でも,ひ げが描かれている。したがって,こちらのほうが彼の素顔に近いと言うべきだろう。 また晩年にも彼はふたたび聖フランチェスコに扮している。たとえば, 《瞑想する聖フランチェスコ》 (ローマ,バルベリーニ宮,国立古代美術館寄託)や《祈りを捧げる聖フランチェスコ》 (クレモナ市立 美術館)である。これらのフランチェスコ像は,初期の《聖痕拝受》とはまったく異なっている。ひざま ずいて,両手に頭蓋骨を持ち,それをじっと見詰めて,死に思いを馳せている。あるいは暗闇の樹木の下 にうずくまり,キリストの十字架像を物憂げに眺めている。ここでは,初期のフランチェスコ像の恍惚と した表情はいっさい消えている。彼に救いの手を差し伸べる天使の現れる気配はまったくない。圧倒的な 孤独と静寂が支配しているばかりである。 カラヴァッジョの短い人生に,こうした陰を投げかけているのは,おそらく,多くの研究者が指摘して いるように,彼の犯した殺人であろう。1 606年5月28日日曜の夕方,彼はローマのスクローファ通りでテ ニスの試合をしている時に,賭け金の1 0スクーディが原因で,乱闘の末,相手のラヌッチョ・トンマソー ニを殺めてしまう。そしてローマから逃走し,その後,4年もの間,ナポリからマルタ島,そしてシチリ ア島へと逃亡生活を繰り返すことになる。 カラヴァッジョはフランチェスコの姿を借り,神に祈りを捧げることで,殺人の罪を悔悛し,償おうと しているのだろう。その罪の意識は, 「ダヴィデとゴリアテ」のテーマでは,さらに自己懲罰の表現とし て現れる。つまり自らを斬首されたゴリアテの顔として描いているのである。こうした表現は,ミケラン ジェロがシスティナ礼拝堂の天井壁画で,ホロフェルネスの首として登場したことを思い出させる。そし てダヴィデがゴリアテの首を手にぶらさげているポーズは,まさにミケランジェロの生皮を手にした聖バ ルトロメオとそっくりである。カラヴァッジョがミケランジェロからこうした自己表現を学んだことは明 らかだろう。 カラヴァッジョは, 「ダヴィデとゴリアテ」の絵を3枚残している。それらはそれぞれマドリードのプ ラド美術館,ウィーン美術史美術館,ボルゲーゼ美術館にあり,ゴリアテの顔はどれもカラヴァッジョの 顔として描かれている。もっとも,制作年が確定していないので,そこに斬首のカラヴァッジョが描かれ ているからと言って,これらの絵をすべて1 606年の殺人と結び付けられるかどうかは分からない。 ただ,これら3枚の「ダヴィデとゴリアテ」で顕著に異なっているのは,ゴリアテではなく,ダヴィデ の表現の仕方である。プラド美術館の作品では,幼さのまだ残るか弱い少年が,ゴリアテの髪の毛をロー プで縛る作業に余念がない。ウィーンでは,剣を振りかざした勇壮な少年が,断固とした表情で,力強く ゴリアテの首を前に突き出している。そして最後のボルゲーゼのものだけ,薄い胸板の華奢な少年が,暗 い悲しげな表情をして,ゴリアテの首を見詰めている。 先にも書いたように,カラヴァッジョの絵で重要なのは,この視線である。絵の中の登場人物が何を見 ているか,その視線の先にあるものこそが,カラヴァッジョの絵画では重要なのだ。ダヴィデの視線は, たしかに初期の《法悦の聖フランチェスコ》の天使が見せるような,限りなく優しいものではなく,もっ と複雑な心境を内に含んだ眼差しとなっている。 互いが見詰め合うこともなく,ゴリアテの目は虚ろに宙を眺めている。しかし,視線は交差していない ものの,ダヴィデの眼差しは,この絵がたんなる自己弾劾,自己懲罰に終わらず,他者の自己に対する感 情をも表現していることを示している。この他者の視線こそ,ミケランジェロにはなく,カラヴァッジョ によって初めて表現された彼のオリジナリティーと言えるだろう。 扮装画の展開―アルテミシア・ジェンティレスキ ギルランダイオ,ミケランジェロ,カラヴァッジョが,自作の絵画の中にどのような役柄で登場するか を,以上見てきたわけだが,彼らはいずれも,言わば脇役として自らを描いてきたと言える。カラヴァッ ジョの《法悦の聖フランチェスコ》のように,画家が主人公になりすましている場合でも,けっして能動 ―7 2― 岐阜大学教育学部研究報告 人文科学 第5 6巻 第1号(2 0 0 7) 的に行動する役柄ではないし,ましてや絵の中で自分が活躍することなど,とうてい考えられなかった。 ところが,アルテミシア・ジェンティレスキは,絵の中の脇役にけっして甘んじてはいない。彼女は明 らかにミケランジェロとカラヴァッジョの扮装の意味と方法を知っていたと思われる。事実,後年フィレ ンツェで彼女のパトロンとなる人物は,ミケランジェロの甥であり,彼女がミケランジェロの作品を熟知 していただろうことは,容易に想像できる。また彼女の父オラツィオ・ジェンティレスキは画家で,カラ ヴァッジョの友人でもあったので,彼女は当然カラヴァッジョの扮装画を知っていたにちがいない(22)。 そしてじっさい,アルテミシアは,彼ら以上に積極的に自作の中に登場して来るのである。 彼女の《ユーディットとホロフェルネス》 (ナポリ,カーポディモンテ美術館)を見てみよう。これは, カラヴァッジョの同主題の作品を元にして描かれているので,それと比較すれば,アルテミシアの表現の 特徴がはっきりと分るだろう(図7・8) 。 登場人物はいずれも同じく3人。ユダヤの女傑ユーディットとその従者アブラとアッシリアの将軍ホロ フェルネスである。右手に剣を持ったユーディットが,ベッドで寝ているホロフェルネスの首を切り落と そうとしている構図は,両者でほぼ同じである。 ただひとつ大きなちがいは,従者アブラの表現である。カラヴァッジョの作品では,彼女はユーディッ トの後ろに控えているだけの老女として表されている。そして伝統的な図像の中でも,アブラは老女であ る。ところが,いっぽうのアルテミシアの作品では,アブラは若い女性に替えられ,しかも彼女はホロフェ ルネスの身体の上に馬乗りになり,ホロフェルネスの抵抗を封じるために,両手に体重をかけ,渾身の力 をこめて彼の左手を押さえつけている。そしてよく見ると,ホロフェルネスの右手は,アブラの胸ぐらを つかんでいる。つまりホロフェルネスが必死で抵抗している相手は,斬首しているユーディットではなく, ほかならぬこの従者アブラなのである。 アルテミシアの絵で,アブラは殺人の共犯者となっている。これは今までの「ユーディットとホロフェ ルネス」の図像では考えられなかったことだ。いや,それどころか,この絵の表現の仕方では,主犯格は ユーディットではなく,むしアブラの方である。 「ユーディットとホロフェルネス」の物語のこうした解釈はまったく新しい。あきらかにこれはアルテ ミシアの創作になるものである。しかしそれにしても,この言わば主役と脇役の転倒という斬新な発想は, いったいどこから生まれてきたのだろうか。 それは,これまですでに何度も指摘されてきたよう に,1611年,アルテミシア17歳の年に彼女の身に起きた ある事件が大きな原因となっているにちがいない。 翌1612年3月,アルテミシアの父オラツィオ・ジェン 図7 アルテミシア・ジェンティレスキ《ユーディット とホロフェルネス》ナポリ カーポディモンテ美 術館 図8 カラヴァッジョ《ユーディットとホロフェルネス》ローマ 代美術館 国立古 ―7 3― 扮装論(!) 野村幸弘 ティレスキは,彼の友人で 協作者でもある画家のアゴ スティーノ・タッシを告訴 し,裁判は3月から1 0月ま で,約8か月続く。法廷で アルテミシアは,1 6 11年5 月,アゴスティーノ・タッ シにレイプされたと証 言(23)。タッシは 遠 近 法 を 駆使した建築 表 現 や 風 景 画,海洋画を得意とする画 家で,オラツィオから娘の アルテミシアに遠近法の教 図9 授をするよう依頼されてい アルテミシア・ジェンティレスキ《ユーディッ トとホロフェルネス》 (部分)フィレンツェ ウフィツィ美術館 図1 0 ア ル テ ミ シ ア・ジ ェ ン テ ィ レ ス キ 《ユーディ ッ ト と 侍 女》 (部 分)ヴ ァ チカン ピナコテーカ た。その個人指導がきっか けとなって悲劇は起こり,レイプ裁判にまで発展 したのである。 彼女はこの裁判で,真実を語っていることを証 明するための「シビッレ sibille」という,指を締 め付ける金具の拷問をすすんで受け入れ,処女か どうかを確かめる検査も受けている。ジェンティ レスキ家と親しくしていたトゥツィアという女性 の証言に裏切られ,タッシ側の証人からは,身持 ちの悪い女というレッテルをはられ,タッシ自身 は最後までレイプを否認し続けた。十代の女性が こうした一連の出来事で,心に深い傷を受けたこ とは想像に余るものがある(24)。 アルテミシアが《ユーディットとホロフェルネ 図1 1 アルテミシア・ジェンティレスキ《絵画の寓話》 (部分)ロンド ン ケンジントン宮 ス》を描いたのは,この裁判の直後である。した がって多くの研究者が,この絵にアルテミシアのタッシに対する憎悪と復讐の念を読み取ったとしても無 理はない。つまりユーディットがアルテミシア自身で,ホロフェルネスがアゴスティーノ・タッシであり, この絵は彼に対する懲罰の願望の表れである。そして彼女はこの絵を描くことでカタルシスを味わってい るというわけだ(25)。 アルテミシアは,これとほぼ同じ構図の同主題の絵をもう1枚描いており(フィレンツェ,ウフィツィ 美術館) ,そのほかにもスザンナ,ルクレチア,クレオパトラなど,男性におとしめられ,窮地に立たさ れた女性像を数多く残している。 とくに彼女の《スザンナと長老たち》 (ポンマースフェルデン,シュロス・ヴァイセンシュタイン)は, やはりこれまでの図像伝統にない表現がとられ,ここではスザンナの長老たちに対する激しい拒否と嫌悪 感が表されている。このスザンナをアルテミシア自身に,そしてスザンナに言い寄る左側の長老(しかし この絵では,若い男として描かれている)をアゴティーノ・タッシ,右側を父親のオラツィオと考える研 究者もいるが(26),しかし少なくともスザンナはアルテミシアの顔をしていない(27)。しかもこの絵は彼女 がレイプを受ける前の1 6 1 0年に描かれている。 画家の実人生の出来事と,その絵画作品の関係は,必ずしもぴったりと重なり合うわけではない。作品 には,じっさいの出来事からのずれや変形,歪曲,婉曲,韜晦が複雑に入り込んでいる。したがって,こ こではできる限り拡大解釈や推測は避けて,絵の中で確認できるものだけに論点を絞ろうと思う。 ―7 4― 岐阜大学教育学部研究報告 人文科学 第5 6巻 第1号(2 0 0 7) ふたたび《ユーディットとホロフェルネス》に戻りたい。アルテミシアの身に起こった悲劇がこの作品 に色濃い陰を落としているとしても,ユーディットの顔はけっしてアルテミシアの顔ではない。それは《ス ザンナと長老たち》の場合と同じである。しかし,従者アブラの顔はどうだろう。ホロフェルネスに馬乗 りになった彼女の顔はうつむきかげんの角度で捉えられているが,その顔は《絵画の寓意》 (ロンドン, ケンジントン宮,女王陛下コレクション)として描かれたアルテミシア自身の自画像に非常によく似てい る(図9・1 1) 。豊かな頬に尖ったあご,しっかりとした大きな鼻,ふくよかな唇,広い額とそこにかか る2つの鬢のほつれ。顔の角度はちがうものの,以上の特徴が両者で一致しているのである。 アルテミシアの父オラツィオもまた 「ユーディットとホロフェルネス」をテーマにした絵を残している。 この絵も,じつは非常に珍しい主題の解釈を示している。この場面は,ホロフェルネスの首を切り落とし た後のユーディットとアブラの様子を描いている。ホロフェルネスのテントから外へ出た暗がりの中で, ふたりは身を寄せ合うようにしてうずくまっている。しかしふたりの目は周囲を警戒して厳しく険しい。 ここでもやはりアブラはけっして脇役ではない。主役のユーディットと堂々と渡り合い,競演している。 従者の姿にこれほどの重要性を与えるという解釈は,やはり独特と言わなければならない(28)。そしてこ のアブラの顔もまた,アルテミシアの顔の特徴を備えているのだ(図10・11)。したがって,この作品に, 娘アレテミシアの構想と彼女自身の筆が入っている可能性は十分ある。 このように,アルテミシアは,これまで脇役扱いしかされてこなかった登場人物を利用して,そこに自 分を投影させ,彼女独自の図像を作り出した。その新しいイメージは,だからこそ,新鮮で力強く,見る 者に強烈な衝撃を与えずにはいないのだ。 おわりに ルネサンス以降,絵画表現が,広く宗教や社会,文化との関係というよりも,むしろ画家個人の性格や 人間関係,セクシュアリティ,あるいは実生活上のプライベートな出来事と密接な関係を持ち始めること が,扮装論の視点から見えてくる。もっともすべての画家が自作に扮装して登場するわけではない。この 扮装論で扱った芸術家は,やはりかなり特殊な例と言わなければならない。扮装は,あきらかに芸術家の 個性,あるいは自意識に関わる問題である。 しかし,自作の中で扮装する画家が,作品の言わば「造物主」でありながら,かならずしもそこで神の ように振る舞うわけではないところが興味深い。そこには複雑な心理過程や屈折,韜晦があって,ストレー トな自己表現や全能感に満ち溢れた表現となっているわけではない。 ルネサンスの画家は外界の目に見える世界を正確に認識するために,絵画を描き始め,それはやがて科 学的な物の見方へと受け継がれていったわけだが,それと同時に,自己の内面という目に見えない世界を 認識しようという欲求も芽生えていた。そして自分とは何か,人間とは何か,というテーマは,現代でも 芸術上の大きな問題であり続けている。だからこそ,現代美術においても,いまだに芸術家の扮装が後を 絶たない。自己をどう認識するのか,という問題は,この先もまだまだ芸術の領域で繰り返し取り上げら れることになるにちがいない。 註 (1)G. Baglione, Le vite de’ pittori, scultori et architetti dal pontificato di Gregorio XIII del 1 572 in fino a’ tempi di papa 642, p.136(ried. in facsimile con postille di G. P. Bellori,1935, a cura di V. Mariani). Urbano VIII nel1 (2)G. P. Bellori, Le vite de’ pittori, scultori e architetti moderni, Roma,1 6 7 2, ed. E. Borea, Torino,1 9 7 6, p.2 0 8. (3)R. Longhi, Il Caravaggio e la sua cerchia a Milano, in “Paragone”, n.1 5, marzo1 9 5 1, pp.3―1 7. 7. しかし (4)G. Mancini, Considerazioni sulla pittura; ed. A. Marucchi, note critiche di L. Salerno,2vols. Roma1 9 5 6―5 1 7 9 0年頃の財産目録には,《サチュロス》というタイトルで記載されている(A. De Rinaldis, Documenti inediti per la storia della R. Galleria Borghese in Roma, III, Un catalogo della quadreria Borghese nel palazzo a Campo 760, in Archivi. “Archivi d’Italia e Rassegna Internazionale degli Archivi”, IV, nn.3―4, pp.218― Marzio redatto nel1 ―7 5― 扮装論(!) 野村幸弘 2 3 2; P. Della Pergola, La Galleria Borghese, I, I dipinti, I, Roma1 9 5 5, p.1 5 7, n.4 8.) 。 (5)A. Czobor, Autoritratti del giovane Caravaggio, in “Acta Historiae Artium Academiae Scientiarum Hungaricae”, II, pp.2 0 1―2 1 4; H. Wagner, Michelangelo da Caravaggio, Bern,1 9 5 8. (6)H. Voss, Caravaggios europäische Bedeutung, in “Kunstchronik”,4,1 9 5 1, p.2 8 9; A. Czobor, loc.cit.; R. Wittkower, Art and Architecture in Italy, 1 600―1750, Baltimore1958, p.22. なお,A. Czobor は,《病めるバッカス》 (ボ ルゲーゼ美術館) ,《バッカス》 (ウフィツィ美術館) ,《果物籠をもつ少年》 (ボルゲーゼ美術館) ,《奏楽の 若者たち》 (メトロポリタン美術館)のリュート奏者とコルネット奏者,《リュート奏者》 (エルミタージュ 美術館) ,《トカゲに咬まれた少年》 (ロベルト・ロンギ財団) ,《メデューサ》 (ウフィツィ美術館)をすべ てカラヴァッジョの自画像と考えているが,その説は支持されていない。M. マランゴーニによれば,1 9 2 2 年に絵を洗浄したところ,画面左下のワイン・ボトルに,カンヴァスに向かっているカラヴァッジョの顔 が映っているのが発見された(M. Marangoni, Note sul Caravaggio alla Mostra del Sei e Settecento, in “Bollettino 2 9.) 。私もそれを実見して確認することができた。とすれば,当然,描かれている d’Arte”, 1 9 2 2, pp. 2 1 7―2 バッカスはカラヴァッジョ自身ではあり得ない。またこのバッカスのモデルは,J.ヘスによれば,シチリ アの画家リオネッロ・スパーダであり(J. Hess, Modelle e modelli del Caravaggio, in “Commentari”, V,1 9 5 4, pp. 8 9.) ,C. L. フロンメルによれば,一時期ローマでカラヴァッジョといっしょに住んでいたマリオ・ミ 2 7 1―2 ンニッティである(C. L. Frommel, Caravaggios Frühwerk und der Kardinal Francesco Maria del Monte, in “Storia dell’Arte”, III, nn. 9―1 0, gennaio-giugno, pp. 2 5ff.) 。《奏楽の若者たち》 (メトロポリタン美術館)のコルネッ ト奏者がカラヴァッジョの顔だと考える R. ロンギの説は,たしかに後からこの場面に付け加えられたよう に見える点で,妥当とも言えるが,すぐ左のリュート奏者とかなり似た顔立ちをしているので,これもや はり肖像ではなく,一般化した理想の少年像と見なすべきだろう。H. ヒッバードは,コルネット奏者をカ ラヴァッジョ,リュート奏者をマリオ・ミンニッティとしているが(H. Hibbard, op.cit., p. 3 5) ,この意見 も,したがって説得力があるとは思えない。 2, pp.7 8 3―7 9 4. (7)M. Marangoni, loc. cit.; M. Marangoni, Quattro “Caravaggio” smarriti, in “Dedalo”, II,1 9 2 1―2 795―96. ed. M. Capucci, Firenze,1968―74, I, p.359. (8)L. Lanzi, Storia pittorica della Italia, Basano1 2 4. (9)D. Posner, Caravaggio’s Homo-Erotic Early Works, in “Art Quarterly”, XXXIV,1 9 7 1, pp.3 0 1―3 この考えは M. キットソン(M. Kitson, The Complete Paintings of Caravaggio, London1 9 6 7.) ,C. L. フロンメル(C. L.Frommel, op. cit.) ,H. レットゲン(H. Röttgen, Il Caravaggio: Ricerche e interpretazioni, Roma1 9 7 4.) ,A. モアール (A. Moir, Caravaggio, New York1 9 8 2.) ,そして部分的に H. ヒッバード(H. Hibbard, op. cit.)も共有してい 979), in “The Burlington Magazine”, CXXI, る。それに批判的なのは,R. スピア(R. Spear, Review of Nicolson(1 1 9 7 9, pp.3 1 7―3 2 2,) ,M. チノッティ(M. Cinotti, Michelangelo Merisi detto il Caravaggio) , in “I pittori bergamaschi 1 6.) ,M. グレゴーリ( M. Gregori, The Age of del XIII al XIX secolo: Il Seicento”, Vol. I, Bergamo1 9 8 3, pp.2 1 5―2 Caravaggio, New York and Milano1 9 8 5, p.2 2 9.) ,C. E. ギルバート(C. E. Gilbert, Caravaggio and His Two Cardinals, The Pennsylvania State University Press1 9 9 5, pp.1 9 1ff.)である。私は D. ポズナーの見方に同意するが, 彼が《病めるバッカス》をカラヴァッジョ作と考えない点は理解できない。 3. (1 0)L. Bersani, U. Dutoit, Caravaggio’s Secrets, London1 9 9 8, pp.1―1 (1 1)P. Askew, The Angelic Consolation of St. Francis of Assisi in Post-Tridentine Italian Painting, in “Journal of the War0 6. burg and Courtauld Institutes”, XXXII, 1 9 6 9, pp. 2 8 0―3 P. アスキュウは,カラヴァッジョの《聖痕拝受》 がミケランジェロの《聖パウロの回心》と「似ていなくはない(not unsimilar) 」という言い方をしている が,私は,カラヴァッジョがもっとも影響を受けたのが,ミケランジェロの作品だったと考える。アスキュ ウは,カラヴァッジョが参考にした作品として,モレット,ヴェロネーゼ,A. カラッチを挙げているが, 絵の中の登場人物ふたりの関係性の表現でもっとも近いのは,やはりミケランジェロの《聖パウロの回心》 なのである。 (1 2)H. Hibbard, Caravaggio, New York1 9 8 3, pp.1 4 9ff. (1 3)P. Askew, The Angelic Consolation of St. Francis of Assisi ...loc.cit (1 4)P. Askew, op. cit., p.2 8 5. ―7 6― 岐阜大学教育学部研究報告 人文科学 第5 6巻 第1号(2 0 0 7) (1 5)アスキュウは,ウーディネの市立美術館にあるコピー作品では,聖フランチェスコの右手の甲に傷が描か れているという事実,D. メイホンのフランチェスコの右手付近に描き直しの跡があるという報告(D. Mahon, Addenda to Caravaggio, in “The Burlington Magazine”, LXXXXIV,1 9 5 2, p.7, n.2 4.) ,紫外線投射による調査で 右手の甲の絵の具の下に赤い点が確認されたことを挙げて,カラヴァッジョはもともと聖痕を描いていた と考えている。そしてその傷が消され,ほかの傷口も隠されていることを,サン・フランソワ・ドゥ・サー ルの『神の愛について(Traite de l’Amour de Dieu) 』 (1 6 1 6年)で,セラフィムと聖痕の傷が重視されてい ないことに関係付けている(P. Askew, op. cit., pp.2 8 6―2 8 7.) 。しかしこの説明では,カラヴァッジョの作品 の中心テーマが「聖痕拝受」であるという彼女自身の断定とあきらかに論理矛盾している。 (1 6)C. L. Frommel, op. cit., p.3 4. (1 7)H. Hibbard, op. cit., p.5 8. (1 8)美しい天使との濃密な関係は,《エジプト逃避途上での休息》 (ドリア−パンフィリ美術館) ,《聖マタイと 天使》の第1作目(逸失) ,《聖マタイの殉教》 (サン・ルイジ・デイ・フランチェージ聖堂コンタレッリ礼 拝堂)でも繰り返されることになる。 (1 9)オラツィオ・ジェンティレスキの作品(マドリード,プラド美術館)でも,天使がフランチェスコを背後 から支えているものの,やはり彼らは互いに顔を背けたままである。 (2 0)カラヴァッジョの作品で重要なのは,おそらく登場人物の視線である。《果物籠をもつ少年》 (ボルゲーゼ 美術館) ,《病めるバッカス》(ボルゲーゼ美術館) ,《リュート奏者》(エルミタージュ美術館) ,《バッカス》 (ウフィツィ美術館) ,《勝利のアモル》 (ベルリン国立絵画館) ,《洗礼者聖ヨハネ》 ,(ボルゲーゼ美術館) 《洗礼者聖ヨハネ》 (ピナコテーカ・カピトリーナ)では,登場人物が絵を見る者を見詰め返しており,直 接的な訴求力をもって迫ってくる。また絵の中の人物同士が互いの目を見る視線は,《女占い師》 (ルーヴ ル美術館) ,《聖マタイのお召し》 《聖マタイの殉教》 《聖マタイと天使》 (すべてサン・ルイジ・デイ・フラ ンチェージ聖堂コンタレッリ礼拝堂) ,《アブラハムの犠牲》 (ウフィツィ美術館)に顕著であり,そこには つねに緊張感溢れるドラマが展開している。 (2 1)《聖マタイの殉教》にカラヴァッジョの顔を初めて指摘したのは,M. マランゴーニであり(M. Marangoni, Quattro “Caravaggio” smarriti, op. cit., p.7 9 4, n.5.) ,その後,定説となっている。 (2 2)M. D. Garrard, Artemisia Gentileschi, The Image of the Hero in Italian Baroque Art, Princeton, New Jersey,1 9 8 9, pp. 6―7. (2 3)R. W. ヴィッセルによると,その出来事は1 6 1 1年5月6日のことである(R. W. Bissell, Artemisia Gentilesch and the Authority of Art, The Pennsylvania State University,1 9 9 9, pp.1 3 8.) 。 3, 4 0 3―4 0 6.この研究書は,裁判記録の英訳を収録している。 (2 4)詳細は,M. D. Garrard, op. cit., pp.2 0―2 5 6; J. (2 5)R. W. Bissell, Artemisia Gentileschi: A New Documented Chronology, in “Art Bulletin”, L, 1 9 6 8, pp. 1 5 5―1 Shearman, Cristofano Allori’s Judith, in “The Burlington Magazine”, CXXI,1 9 7 9, p.8. もっとも,M. D. ガラー ドに始まるフェミニズムの視点からのこうした解釈には異論があり,たとえば G. ポロックは,芸術家であ る父親から女流画家として独立しようとするアルテミシアの決意を表す,といった芸術上の問題として解 釈している(G. Pollock, Differencing the Canon: Feminist Desire and the Writing of Art Histories, London1 9 9 9, P. 1 2 3.) 。 また E. コーエンは, アルテミシアの受けたレイプを, 当時の社会の歴史的な文脈の中で捉え直し, かならずしも彼女個人の性的問題に局限していない(E. S. Cohen, The Trials of Artemisia Gentileschi: A Rape as 5.) 。 History, in “Sixteenth Century Journal”,3 1, n. I,2 0 0 0, pp.4 7―7 (2 6)L. Berti, Artemisia da Roma tra i fiorentini, in “Artemisia”, a cura di R.Contini, G.Papi, Roma1 9 9 1, p.2 1. (2 7)じつはアルテミシアの肖像については,どれが本人自身を表しているのか,いまだ確定していないと言っ ていい。たしかにジェローム・ダヴィッドによる版画と作者不詳のメダルが残されているが,そこからは アルテミシア個人の顔の特徴を引き出すことは難しい。しかも非常に特徴的に描かれているアルテミシア 自身による《絵画の寓意》における自画像と,あきらかに顔が異なっている。したがって,これらをすべ てアルテミシアの肖像と考える J. W. マン(Orazio e Artemisia Gentileschi, a cura di K. Christiansen, J. W. Mann, 2 1.)の説は説得力に欠けると言わねばならない。いっぽう,ヴィッセル,ハスケル, Milano2 0 0 1, pp.4 1 7―4 扮装論(!) 野村幸弘 ―7 7― グレゴーリは,《絵画の寓意》をアルテミシアの自画像と考えていない。 (2 8)ボッティチェリにも,ホロフェルネス殺害後のユーディットとアブラの場面を描いた作品があるが(フィ レンツェ,ウフィツィ美術館) ,アブラはやはり二義的な存在として扱われている。 本研究は科研費(1 8 6 5 2 0 1 5)の助成を受けたものである。
© Copyright 2024 Paperzz