22.ベトナム(2006) PDF

ベトナム縦断紀行
2006年1月2日(月)
日暮里駅は新春で混みあっている。乗る予定の1つ前のスカイライナー1号は満席の表示だ。
ところが6時56分発のスカイライナー3号に乗り込むと思ったほど混んでいないので拍子抜
け。ネット予約が出来ず、わざわざ京王観光に頼んで購入してもらったのだが。成田に停車しな
いため、初詣客が乗っていないからかもしれない。
7時47分に第2空港ビルに到着。集合時間は8時、4階の出発フロアーへ急いで向かう。H
カウンターの団体窓口は相変わらずの混雑だが、Gカウンターの添乗員対応のところはそれほど
でもない。添乗員の小原さんから航空券を受け取る。旅行保険に入っているかどうかを聞かれた
が、これは交通事情が良くないことによるものだろうと想像される。案内にも交通事故が多発し
ていると書いてあった。そしてベトナム出国時に必要となる空港税14ドルを支払う。それから
説明を聞いてDのベトナム航空カウンターに向かう。とりあえず成田まで着てきた薄手のコート
をスーツケースへしまう。冬に暖かいところへ行くということで悩んだあげく、コートの下は春
仕様で薄手のジャケットと薄手の長袖シャツにしている。これならば暑い国でも可笑しくはある
まい。
カウンターの列の一番先頭にベトナム人の男2人がいてなかなか手続きが終わらない。結局チ
ェックインできなかったようで去っていったが、その後のおばさんと娘の二人、こちらも長々と
話をしていて、地上係員もどこかへ電話するなど結構時間がかかって後ろはイライラ。他の窓口
がさっさと終わっているのに運のなさを感じる。座席はすでにツアーとして押さえていたようで、
通路側54Cになっていた。地上係員に、確かこの便はJALのコードシェア便のはずだが、と
切り出すと、マイルの提携はしていませんと冷たく言われた。
いったん8時半に集合する。ツアーは11名しかいない。申し込んだときには16名とか言っ
ていたはずだが、どうやら鳥インフルエンザの影響もあってかキャンセルが相次いだようだ。一
通りの説明を受けて解散、いつものラウンジでちょっと休憩。かなり混んでいたが、アイスコー
ヒーを持ってきて大きなテーブル席に座ると、前には年賀状を必死に書いている若い夫婦がいた。
20分前になったので出国審査へと進み、シャトルでサテライトターミナルへ移動する。ゲート
はD95と搭乗券に書かれている。10時発なのに搭乗開始時刻は9時20分と実に早い。とこ
ろがD95のゲートに行くと表示が台北行きとなっている。不思議に思い、その先のD97を見
ると、こちらがホーチミン行きと表示されている。変更されたのであろうと勝手に判断する。結
局、搭乗開始時間は25分に変更となり、実際には9時半の搭乗開始となる。向かい側のゲート
のANAの地上係員たちは正月らしく着物を着ていた。一方こちらベトナム航空の地上係員は民
族衣装のアオザイで、厚手の生地のエンジ色。腰のあたりまでスリットの入った上着に白のパン
ツという姿、客室乗務員もこの格好である。
VN951便、飛行機は777−200で青緑の機体、尾翼には金色の蓮の花をあしらったマ
ークが描かれる。青地のシートは最近では珍しいレカロ製で「RECARO」のロゴが入っている。名
門シート会社の割には肩や腰のあたりに空間ができていてあまりいい出来ではない。前の背もた
れに液晶画面があるがメニューの操作はできない状態だ。座席配置は3−4−3で54Cの通路
側。乗客は思ったより多い。定刻10時を過ぎて10分、ようやくゲートから離れる。主翼の可
動部分の点検を終えて、ゆっくりと進み、くねくねした道を通って滑走路へ出る。順番待ちの飛
行機もなく、そのまま25分に離陸した。すぐに雲で何も見えなくなるが、そのまま右旋回で上
昇を続ける。飛行時間は約6時間ちょっとで、洋上を南下し台湾の横を通ってホーチミンに直行
する飛行経路になっている。
まず東南アジア独特の香りが染み込ませてあるお手ふきのサービス。11時になって立派な食
事メニューが配られ、飲み物のサービスが始まる。ビールを頼んだところ麒麟のラガーであった。
席の前には浪速のおばちゃんが陣取っており大阪弁がにぎやかである。食事はなぜか名古屋風で、
メニューによれば鰻のひつまぶしか牛肉のオイスターソース炒めときしめん、この2種類が選択
できる。スチュワーデスの英語が聞き取れないが、たぶんイールと言っているのだろう。ひつま
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ぶしにした。その他、茶そば、ロールパン、マンゴーケーキなどが付いている。そして白ワイン
を食前と食後に2回もらって結構酔った。
飛行機が水平飛行に移ると座席にある液晶システムが使えるようになる。しかし、映画と音楽
が故障で使えないというアナウンスがあった。ゲームを選んでソリティアを始めた。パソコンと
違い、選択方法が難しいが次第に慣れてくる。これは暇つぶしにはもってこいのゲームであろう。
食後の睡眠時間とばかりに照明が落とされるが、暗くなってもソリティアを続ける。それでもな
かなかクリアできないのだ。途中までルールを勘違いしていたこともあるが、結局クリアできた
のは1回だけだ。
暗い機内、スチュワーデスがカップに飲み物を入れて配っている。何を配っているのか真っ暗
なのでよくわからず、とりあえずもらうとかなり甘いドリンクだった。次に来たとき透明なもの
を取るとただの水であった。その後、照明が点いてから赤いトロピカルな色のジュースをもらう
と、何とこれがトマトジュースであった。現地時間に合わせるため2時間時計を戻すと14時過
ぎである。機長からのアナウンスがありホーチミンの気温は31度とのことで、どっとざわめき
が。液晶画面に機外カメラが付いているので着陸までの画像を楽しむ。カメラは前方と真下に付
いていて、これを切り替えて見ていた。下方のカメラは緑の密林、水田、家々、街と移り変わっ
ていく地上の様子を映し出し、前方カメラは反射で光る蛇行する河を映し出している。14時2
5分に着陸し、35分に駐機場で停止するがターミナルには横付けされない。前後2カ所の扉に
タラップが取り付けられる。一番後ろの扉にタラップを設置するのも珍しいが、後方に乗ってい
る我々にとってはありがたい。扉を出るとムッとする暑さ。一気に夏がやってきた陽気だ。タラ
ップを下りてバスに乗り込んでターミナルに向かい建物の中へ。若い乗客が、はしのえみという
芸能人がいると言って騒いでいた。正月休みというよりは取材か何かであろう。
2階にエスカレータで上がると係員が振り分け、トランジットの人は左で待たされ、ホーチミ
ンで入国する人はそのまま入国審査へ進む。はしのえみは入国の方へ進んでいった。トランジッ
トは、これからカンボジアのシュリムアップに向かう人たちである。直行便のないカンボジアへ
はベトナムでトランジットするのが普通だ。我々は一旦入国審査の前に集まり、全員そろったと
ころで、そのまま審査へと向かう。必要なのはパスポートと黄色の入国審査票。審査票はカーボ
ンコピーになっていて、手続きが終わるとコピーが返される。これは出国の時に必要になり、な
くすと罰金だそうだ。何か聞かれる場合もあるので帰りの航空券と搭乗券の半券を手に持ってお
いた方がいい。審査を終わりエスカレータで下るとターンテーブルがあって、ここでは荷物がも
う回っている。おもしろいのは、この場所にパナソニックなど日本の電機メーカーの販売店、酒
などを販売する店などが並んでいることだ。到着者に免税品を売るのも珍しい。
同じツアーの中に、スーツケースの取っ手が折れている人がいた。取っ手は破損認定が難しい
部分なので、破損になるのかどうなるかわからないがとりあえずクレームしてみようということ
でクレームカウンターへと。添乗員はそっちに付いて行ったため我々だけで、厳しいというベト
ナムの税関へ。何も聞かれずそのまま通り抜け外へ出る。さわやかな風が吹き、まるで初夏の木
陰のような感じだ。
現地旅行社のガイドが見あたらず、とりあえず出たところでかたまって待っていると、ようや
くガイドの方からやってきた。しばらく添乗員たちが出てくるのを待っていたが一向に出てこな
いので、バスへと向かうことに。我々には11名にもかかわらず大型のバスが用意されている。
やはりキャンセル前の人数で手配していたのであろう。バスは新車の香りがする韓国ヒュンダイ
製である。バスの中で待つものの、なかなか添乗員たちはやってこない。前にタクシー乗り場が
あって、青いタクシーと白いタクシーが止まっている。色は会社により違うようだ。車両はマツ
ダ製のファミリア、そして韓国大宇製も多い。冷房が付いているのだろう窓の閉まっているタク
シーは別の場所に止まっている。そして、大型のRV車が駐車場に並んでいるが、こちらはトヨ
タといすゞ製だ。
ようやく荷物のクレームの人たちが戻ってきてバスは出発する。本日はホテルでチェックイン
してから夕食の予定。現地ガイドHIEUさんからホーチミン滞在時の注意と両替について説明があ
った。ベトナムでは基本的にドルが通用するので円を現地通貨「ドン」に両替する必要はないと
のことだ。ただドルで支払うと、お釣りは原則ドンで帰ってくるので、ドンの使い道も考えてお
くことが必要となる。1ドルはだいたい15000ドンで換算。そして円からドルへの両替は基
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本的にできない。交通事情については、町中オートバイが無尽蔵に走っているので注意が必要と
のことであった。こちらでは横断歩道で待っていても止まってくれないそうなので、オートバイ
の押し寄せる波の中を横断する勇気がいる。オートバイの多くはホンダ製だそうだ。街は電線が
蜘蛛の巣のように上を這っていて、中国をもっと雑然と汚くした雰囲気、どちらかというとイン
ドに近い感じだ。なぜか洋服屋が多く、どの店もマネキンに洋服を着せて所狭しと並べている。
喫茶店と思われる人がたむろしている店が多く見られる。ベトナムではコーヒー文化が定着して
おり、飲むならベトナム風のアイスミルクを、とガイドは勧めていた。果物も種類が豊富だそう
でモンキーバナナがおいしいらしい。気候は、南北に長いベトナムだけあって、南部は熱帯、北
部は亜熱帯と2分されており、こちら南部には乾季と雨季がある。現在は乾季で雨はほとんど降
らないそうだ。ホーチミンには中国人街があり多くの中国人が集まっている。中国人はほとんど
が広東人だ。こちらの民族衣装といえばアオザイが有名だが、これは長い上着という意味で、若
者は薄い色を、年輩の人は濃い色のアオザイを着る。公務員(国営企業の社員も)の制服もアオ
ザイになっているという。体のラインが強調されセクシーなアオザイのイメージが強いが、元々
はゆったりしたものだったようで、このようなスタイルになったのは最近のこと。やはりチャイ
ナドレスの影響らしい。
バイクの波の中を走り抜けウインザープラザホテルへ到着。ホテルのロビーはこの建物の4階
にあるということでエレベーターで上がる。入り口にケーキの並ぶレストランのあるロビー。ソ
ファーに座っていると、ウエルカムドリンクが配られる。赤いトロピカルジュースをホテルの従
業員が運んできた。氷が入っていたが喉が渇いていたので飲んでしまった。基本的に東南アジア
の氷は、ミネラルウオーターで作ったもの以外飲まないほうがいい。部屋の鍵を受け取って11
階の1128号室へ。ロビー4階から客室の階へ上がるためには、部屋のカードキーをエレベー
ターのボタンのところにある差し込み口に通さなければボタンが有効にならない仕組み。宿泊者
以外が上に上がっていけないこのシステムは防犯上効果的だ。知らない人が同乗していない限り。
部屋に入る。まだ新しい木の香りがする部屋で家具類の色調は明るい。床がタイル敷きなのが
珍しい。枕チップは1ドル必要となるが、ポーターには原則チップはいらない。ところがスーツ
ケースを運んできたポーターは、物欲しそうな目でこちらの手元をちらちら見ながら帰っていっ
た。大都市部のホテルのポーターは、やはりあげてしまう人が多いせいもあって、チップを欲し
がる人が多いと聞いた。
1時間ほど部屋で休憩し、18時に食事に出かけるため1階に集合する。皆、着替えて半袖に
なっている。このホテルで結婚式をするのか新郎新婦がホテルに入ってくる人たちに挨拶してい
た。全員揃ってバスで出発する。夜になると昼にましてバイクが増えている。家にクーラーなど
ないので、人々は走り回って涼むという。ガソリンは1リッター40円くらいで、スタンドも2
4時間やっている。70ccまでは免許もいらない。バイクは3人まで乗れるが、子供は2人で1
人と計算されるため、一家4人で乗っている姿もしばしば見られる。バイクの方が自動車より圧
倒的多いので、立場は逆転、バイクはクラクションを鳴らし続けて、自動車たちを邪魔ものとば
かりに右から左から追い抜いていく。道に信号機が少なく、交差点はフランス式にロータリー形
式になっていて、ぐるぐる回りながら行きたい方向へ向かっていくのだが、バイクが多すぎて本
当に危険だ。中心街の幅の広い道を進み、オペラハウスの手前を左折、その突き当たりのフラン
ス領時代の建物、旧市庁舎の前でUターンして、その横にある4つ星REX Hotelに到着。現在改
装中のこのホテルは完成すると5つ星になる予定。バスは止めておけないので走り去り、我々は
エレベータで5階へ上がって、Hoa Maiというレストランへ。
まず食事。サラダは柑橘系のドレッシングに野菜、キクラゲのようなコリコリのものが入って
いて、それにエビも。サトウキビにエビのすり身を巻いたもの。揚げ春巻きはパイナップルをく
り抜いた提灯に刺さっている。エビ煎餅、そして緑黄色野菜とマッシュルームにあんかけ。それ
から白菜、マッシュルーム、椎茸、ゼラチン質の魚の入った鍋。デザートは蓮の実が氷のシロッ
プに浸かったもの。飲み物はビール。最初は「333(バーバーバー)」というベトナム全国区
のビール、それからホーチミンの地ビールの「サイゴン」。ふたつ合わせて5ドルである。うま
い具合に現地通貨のドンが来ない。
食事が終わると正面の少し高くなった舞台で民族音楽の演奏がある。親子と思われる4人組に
より演奏。母親は竹を簾のように並べた打楽器、娘が琴、息子が鯨の髭で作られた調音部を持つ
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一弦の弦楽器、そして父親が鼓のような打楽器を担当する。演奏が終わるとスケスケの青いアオ
ザイ娘たちが踊り、また民族音楽の演奏が始まるが、こんどは家族のうち娘が独奏。ピンクの薄
いアオザイもきれいだが銀色の渦巻き状になっている帽子がおもしろい。そしてまた4人娘が今
度は扇子の舞、そして次の演奏は母親の独奏。音楽と音楽の間は4人娘の踊りが繋ぐことになっ
ているのか、出てくるたびに黒のノースリーブ、赤い線に白い服と竹籠、と次々に各地の少数民
族の衣装を着て踊っている。ベトナムには多数民族のベト族と53の少数民族がある。民族音楽
の演奏も1時間を超えて、その合間を縫ってレストランを出る。外は心地よい風が吹いており爽
やかだ。市内で駐車するところのないバスは、どうやらグルグル回っているようで、ガイドは携
帯電話を使って呼び出している。その間に、美しくライトアップされている旧市庁舎を眺めてい
る。クリーム色と白の美しい旧市庁舎はホーチミン市内に残る数少ないフランス統治時代の建造
物であり、現在は人民委員会の建物となっている。
ようやくバスが来て、急いで乗り込みホテルへ。このあたりはホーチミンの中心であり、この
大通り(レロイ通り)をまたぐように設置されたクリスマスの電飾は光の天井となり、街路樹に
も電飾が垂れ下がるなど、イルミネーションが美しい光景を創り出している。こうしたイルミネ
ーションはクリスマスにはじまり旧正月に終わる。今年の旧正月は1月29日からだ。電飾ばか
りでなくホーチミンはネオンや広告塔なども多く明るい。夜の明るいホーチミンと夜が暗いハノ
イはよく対比されるという。バスはバイクをかき分けて進んでいく。薄暗い公園にはたくさんの
バイクが止まり、その座席の上で若い男女が向かい合っている。夜のスーパーはすごい人だかり
になっているが、これは買い物客ではなく単に店のクーラーに涼を求めて殺到しているだけとの
こと。ベトナム文化を象徴する喫茶店には、若者たちが集まっている。1杯で3時間は粘るとい
う彼らはミルクたっぷりのベトナムコーヒーを楽しんでいる。大人の男たちはビールをひっかけ
て帰るのがこちら風。男はビールとタバコをやらなければオカマと言われるほどの男の嗜み、そ
れでも家でちゃんと食事をする習慣になっている。家にいる妻はトラに喩えられるそうだ。
ところでベトナムの経済はどうなっているのであろうか。ホテルも国営ではないし、個人の商
店もあるし。本当にここは共産主義社会なのであろうか。多少遅れは見られるものの、資本主義
体制の近隣アジア諸国とあまり変わらないように思うのだが。共産主義を標榜するベトナムの経
済は、当初、中央集権的計画化経済管理制度を採用して、国家が国営企業の労働者や公務員・軍
人などの最低限度の生活水準を保障するために、生活必需品を国の負担で低価格で供給、社会主
義経済セクターに属する国営企業や合作社に生産計画を求めていた。ところがベトナム戦争によ
る南北統一により、資本主義各国の援助が得られなくなったことから、1986年共産党大会に
おいて市場経済の導入を含むドイモイ政策が掲げられた。社会主義経済セクターの生産力増大を
目指した市場メカニズム導入は、インフレをまねいて、結局、非社会主義経済セクターを認めざ
るを得なくなっていく。こうして国営企業と私的企業とは法的に同一の地位を認められて、競争
原理が導入されたのである。
1月3日(火)
7時30分モーニングコール。食事は4階ロビーにあるレストラン。パンはたくさんの種類が
あるが、甘そうな菓子パン系が多く実際に食べたいと思うものは少ない。食パンにフランスパン、
ハッシュポテト、ビーフンはエスニックなカレー味である。ヨーグルトはパック入りの市販品。
奥の方にベーコンやソーセージがあったのでこれを選ぶ。コーヒーはココアのような風味でこれ
がベトナム風なのか。9時半に一度4階に集まってから、みんなで1階に下りて観光へ出発。
ホーチミンに住んでいる人たちは600万人だが、さらに200万人が郊外から入ってくる。
バイクは渦を巻いて走っている。ホーチミンの朝は早く、6時に起きて体操、6時半に朝食だそ
うだ。途中、霊柩車とすれ違う。ごてごてと銀色の装飾がされているワンボックスである。中国
式というのもあるようで、そちらは極彩色。学校は授業が始まっているようだ。こちらの学制は
小学校5年間、中学校4年間、高校3年間、大学4年間(専門性のあるものは5年)、大学院が
3年間である。こちらで学ぶ外国語といえば90%は英語であり、残りはフランス語と中国語。
先生が足りないために、午前中で帰る学生、午後から来る学生と、2部制をとっている。郊外の
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学校に至っては3部制をとるところもある。
ホーチミンは、かつてのベトナム共和国(南ベトナム)の首都サイゴンである。観光の一番最
初は、統一会堂だ。1955年、ゴ=ディンディエムが、アメリカの後ろ盾を得て初代大統領と
なり、1975年4月30日にベトナム民主共和国(北ベトナム)により、サイゴンが陥落され
るまでの20年間、ベトナム共和国の大統領官邸であったところだ。フランスのインドシナ総督
府跡に建設された大統領官邸(トンニャット宮殿)は、ベトナム人建築家ゴベトトゥ氏によるも
ので近代西洋建築と東洋伝統芸術を調和させた作品になっており1966年10月に落成した。
バスは正面の鉄の扉の隙間から入るのだが、その隙間はバスの幅ギリギリ。この正面の門はサ
イゴン陥落を象徴する北ベトナム軍の390号戦車が大統領官邸に突入した、あの門である。入
ってすぐにバスを下りて、会堂の正面から写真を撮りながら歩いて車寄せへ。バスはそのまま回
送し裏に向かう。我々は正面玄関から入る。正面に大きな大会議室があり、左側には大きな円形
テーブルが置かれた集会室が、右側に閣議室がある。階段で2階へ上がると。ベトナム戦争当時
作戦本部となった地図室があり、木製の壁にはベトナム全土の地図が貼られテーブルには電話機
が並ぶ。その奥に大統領執務室がある。この部屋には地下に逃げられる扉が設置されている。次
の間は外国来賓応接室と国内賓客応接室があって2つの部屋は立派な象牙の置物で隔てられてい
る。赤い絨毯に皇帝の印である黄色の配色で寿の字が描かれている。その向かい側が副大統領の
応接室で、こちらの絨毯の文字は青い。その上の階に国書呈上室があって正面には漆の壁画があ
る。この建物でもっとも立派なところだ。この階には中庭があって中国式と日本式を合わせた庭
園があって、その向かい側が私邸部分となる。中庭を取り囲むように質素な婦人の寝室と大統領
の寝室、洋式の食堂、さらにその上の階が娯楽室、舞台付き映画館、そして、ここから最後の大
統領が逃げていったということを記念するヘリコプターが置かれている。正面向きの窓からは、
かつて突入した北ベトナム軍が旗を掲げた象徴的な場所だ。土産物屋があって観光用に音楽を実
演している。そこで昨日聞いた民族音楽で使われていた楽器が置かれ、実際に触らせてくれる。
手をたたいて空気を送り込み音を出す木琴(竹琴)などもあり、これは実際にやってみると難し
い。一弦の弦楽器も鯨の髭で自由自在な音が出る。
階段でこの建物の地下まで一気に下りていく。蒸し暑く、大型の古風な扇風機が回る。この建
物の地下は作戦本部になっており、まるで映画の世界で見る基地のような感じで息苦しい。グレ
ーの壁は大型爆弾にも耐えられるようにぶ厚く、時代物の古い通信機器、タイプライター、電話
機がそれぞれ狭い部屋に積み重ねられている。当時は暗号がここで解読され、指示が各方面にな
され作戦が遂行されていった。そして大統領指令室にはスチールの机と後ろには地図。椅子に座
って記念写真。階を上がって厨房へ。器具は日本製でありガスボンベにもTOKYOの印刷が。大統
領官邸は近代フランス式の建物である。外壁には柱列が並べられ壁としているが、これは風を取
り入れつつ採光を図るという仕組みで竹を模しているという。柱の微妙なカーブが美しい。
バスに乗って先ほどの狭い門を通って外に出る。次の観光地は、サイゴン大教会、正式名称は
聖母マリア教会である。これは19世紀末フランス植民地時代の建造物で赤煉瓦と2つの尖塔が
特長である。フランスによる支配は、当時の阮朝を侵略したことにはじまって、1884年にパ
トノートル条約によりベトナム全土を植民地化、翌年の清仏戦争終結となった天津条約により全
土を保護領化した。フランスの支配は、阮朝を傀儡としつつ日本軍による1940年の仏印進駐
まで続く。教会の前の広場でマリア像とともに記念写真、その隣の駅のような黄色い建物は、や
はりフランス時代の建物で中央郵便局。時計を取り巻くアーチに施された白い装飾彫刻がすばら
しい。入るとアーチ状の天井と淡い黄色で彩色された梁、正面にはにこやかな髭のおじさんホー
チミン氏の大きな肖像絵画が飾られている。色彩豊かなカードや記念切手が売られている。
食事の前に、土産物屋に寄り、ここで初めてベトナムコーヒーを飲ませてもらった。かなり濃
く抽出したコーヒーに練乳を入れ、お湯で薄めて飲む。そうするとまるでココアのような感じに
なる。こちらのコーヒーは1番から最高級の8番(8番だけは番号が書かれていない)までラン
クが決められており、安いものほどトウモロコシが混ぜられる量が多いという。トウモロコシを
焼いてしまうとコーヒー豆と同じような香りになり、味もそっくりなのだそうだ。1番のコーヒ
ーは安くて容量も多い。
昼食は、入り口にしゃれた感じのクリスマスデコレーションがされているレストランLA TAVER
NE。入り口を入ると、ガーデン・テーブルが置かれたテラスになっている。フランス調の建物に
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入って2階へ。まず、ベトナム麺の牛肉入りのフォー。そうめんのようだが腰があってスープは
酸っぱい。生春巻きは、きいれに十字並べられているが、ひとり一つ。サラダは蓮の茎、ピーナ
ッツなどが入り、味は甘酸っぱいドレッシングがかかっている。魚の天ぷらは汁のない麺にのっ
ただけのもの。味がないのでこちらの醤油をかけて食べる。キャベツとマッシュルームのオイス
ター炒めは、実際出てきたものはチンゲンサイと椎茸に代わっている。その他、チャーハン、果
物、最後は蓮のお茶。こちらでは蓮は、実、花、茎とすべて食べてしまうという。
食事が終わり、ベンタン・マーケットへ向かう。野菜や魚、蟹などが並ぶ生臭い通路を通り中
へ。小さな店が碁盤の目のように並び、商品分野ごとに分かれている。マーケットのちょうど真
ん中、そこを集合場所と決めてから解散。自由時間は40分である。ぐるぐると歩き回る。衣料
関係は若い女性たちが座り込んで店番をしている。これだけの人たちが、この商売でどうして暮
らしていけるのか不思議だ。側を通ると日本語で話しかけてきたり、中には手をつかむ強引な者
もいる。商売熱心ではある。食堂エリアもあって屋台が並び、そこから出前をとっていたりで、
食べ物を運んでいる人たちも多い。市場の天井は高いが、商品をうずたかくは積んでいない。た
だ店と店がくっついているので、商品に埋もれているような感じだ。そして売り子は、ただ座っ
ているだけ。おもちゃはあるが電化製品はなぜか見あたらない。発酵しているのか漬け物のよう
なものが独特の臭いを放ち、香辛料の匂いもきつい。正面のレロイ通りに面したゲートを出ると
入り口は白い時計台となっており、両側に赤い垂れ幕が掲げられているが、これは新春を祝うも
のらしい。
まだ時間があるのでショッピング街として有名なドンコイ通りへバスで移動。その中の店がい
くつか集まったショッピングセンターの中の一軒で解散、集合することに。この店を経営してい
る人は日本語があまりにも流暢なのでたぶん日本人であろう。ここにいても仕方がないのでドン
コイ通りを散策。ドンコイ通りの突き当たりサイゴン川まで行って、取って返し、レロイ通りの
突き当たりのオペラハウス、さらには昨日の旧市庁舎まで歩く。オペラハウスは現在、市民劇場
として使われている赤い屋根に薄いグレーと白の建物。白の部分に彫刻が施されている。昨日見
た旧市庁舎は中央に時計塔を持ち、赤い屋根にクリーム色の壁そして白い柱、手すりや装飾の彫
刻が美しい。散策には道路の横断が当然必要になるが、これには少しコツがいる。信号機はある
ことはあるが、そのようなものは当てにならない。まず、交差点では左側からくるバイクに注意
しつつ渡る。直線道路を横断するときは、バイクのスピードを読みつつ、わずかな間隔を縫って
進む。当然クラクションを鳴らしてくるが、そんなものは無視だ。向こうが避けてくれるのでこ
ちらは慌てて走ってはいけない。悠然と歩くのみ。車の数は少ないのでバイクだけ注意すればよ
ろしい。
バスは空港へと向かう。バイクはほとんどがホンダ製だが、車は圧倒的にトヨタが多い。カロ
ーラより小型のアジア専用のセダン(最近は日本でも売られ始めたベルタ)で、金持ちはカムリ
など大型を使っているようだ。メルセデスなどの高級車がほとんどないので貧富格差は大きくな
いのであろう。韓国のGM大宇の看板や販売店が多く見られ、実際増え始めている。韓国が販売
攻勢をかけているので日本車優位も過去の話になりつつあるとか。建築中の建物も多く見られる
が、こちらの建築は煉瓦造りが基本である。地震がないこともあって鉄筋は入れない。こちらは
地震がないということをしきに自慢していたが、地球上の陸地は地核の変動でできているのだか
ら、いつか必ず動くのであって、「ない」ということはなく「少ない」だけなのだが。何万年に
1回に備えお金をかけるかどうか、それは考え方次第である。
踏切を通過する。この単線は、ホーチミンとハノイを結ぶ鉄道とのこと。ハノイまでは一番早
い列車で29時間、普通列車で行けば3日間かかる。空港の近くに軍隊の駐屯地が見える。そこ
には大きなサッカー場もある。ベトナムでは徴兵制をとっており、18歳になると大学に行って
いない限り3年間の軍役の義務がある。
そして空港へ。国内線はターミナルの一番端の方にある。ここでHIEUさんとはお別れ。普通は
スルーガイドになるようだが、今回は場所場所で人が変わるという。まず空港に入るのに、航空
券とパスポートの検査があって、さらに荷物も手荷物を含めX線検査を通す。フイルムのシール
ドをケース状のものに変えてからこれまで一度も引っかかったことがなかったのだが、今回初め
てチェックされた。ちゃんと見ているということだ。しかし、検査しようと手袋をはじめた女性
に、遠くからフィルムだとばかりに、蓋を外して見せたところ、それで放免。詰めが甘い。
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これからベトナム航空326便でダナンへ向かう。チェックインは団体で。しばらく時間がか
かっていたが、座席の調整をしていたようだ。時間が少しあったので、ロビー中央にある売店で
物色。種類豊富な果物がなかなかおもしろい。ようやく搭乗券を受け取って、2階のゲートに向
かう前にもう一度チェックがある。パスポートと搭乗券、そして手荷物検査、金属検査。そこで
は何もなくクリアして、エスカレータで2階に。そこは待合室になっていて椅子が並んでいるほ
か、土産物屋と化粧品・装飾品の売店がある。搭乗開始時刻の17時になって搭乗口へ、と言っ
ても、正面に一つしかないのだが。もうすでにゲートの中の待合室に人がたくさんいた。この人
たちも同じ飛行機のようで、搭乗開始時間の前にも中に入れていたようだ。小型飛行機でプロペ
ラ、と聞いていたのだが、777−200という大型の機材だ。やはりクリスマス休暇で旧正月
も近いとのことで客が多く大型の機材が手配されたのだろう。乗客は西洋人が多い。濃い緑に金
の蓮のマークが付いた最新鋭の機材で成田−ホーチミンの時と同じだが、座席にモニター画面は
なく、その部分に蓋がされている。椅子もレカロ製ではない。ツアーの座席を調整した結果、座
席は30Eから47Lに変更している。どう数えてもそんな席があるはずないと思ったが、行っ
てみると2−5−2という座席配置で窓際の席にその番号が振ってあった。2−5−2は短時間
でサービスできるように工夫された国内線専用の配置なのだろう。17時30分に動き出し40
分には離陸。上昇するとランチボックスが配れる。中には、フランスパンにハムなどを挟んだサ
ンドウィッチ、水の入ったカップ、チョコレート。ダナンに到着するとすぐ食事とのことなので、
水を飲んでチョコを食べただけ。サンドウィッチはお持ち帰りだ。最初は夕焼け空であったが、
18時になると暗くなり何も見えなくなる。30分には降下を開始し40分にダナン空港に着地。
それほど大きな空港ではない。ターミナルの真ん前に駐機するもののブリッジではなく、タラッ
プがかけられバスで移動する。はっきり言って歩いたほうが早いかもしれない。ホーチミンより
はやや涼しいという感じで不快感はない。
飛行機との距離が近いわりに荷物がなかなか出てこない。ターンテーブルに出てくるものは段
ボールや巨大トランクなど。携帯電話でピーチク喋りまくっている金持ちそうな東洋人、それか
ら寒い本国を離れたてきたいかにもバカンス風の半袖半ズボン姿の西洋人たちが取り巻いてい
る。喋っている言葉を聞くとフランス人のようだ。やはり旧植民地ということで、フランス人に
はベトナムは人気があるのだろう。ダナンは海洋レジャーが盛んなこともあって長期滞在っぽい
人が多い感じだ。なかなか出てこないでイライラしていると隣のターンテーブルが動き出し、こ
ちらからすぐに出てきた。この空港では荷札と控えのチェックを出口でしており、団体もちゃん
と一つひとつ確認している。日本人のツアーもJTBを始め3グループいて、控えは添乗員が一
括して持っているので、出口あたりがごちゃごちゃで混乱するのも当然の結果だ。
外に出ると現地のガイドのHOANGさんが待っていてバスへ。やはり新しいヒュンダイ製の大型
バスだ。この旅行社で一括購入でもしたのだろうか。バスは薄暗いダナンの街を進んでいく。ダ
ナンはベトナム第3の都市であるが、バイクの数も少なく暗い。ダナンには川が流れておりこれ
をハン河という。ベトナム中部はホーチミンより涼しく過ごしやすい。HOANGさんによれば、こ
ちらは現在雨季の末期で毎日雨が降っているという。ベトナムは現在乾季というのはホーチミン
だけのようで、ベトナムが南北に長いということを実感した。
ダナンの街の中華レストラン金都大酒楼で夕食。特にどこそこの名物という訳ではなく、普通
の中華とのこと。店に入ると12人を1つの円卓にぎゅうぎゅうに座らせたので、メンバーから
不満が出て、店の人が渋々2つのテーブルに分けた。なまこのスープに酢豚、白菜のオイスター
ソース炒め、川魚は蒸し焼きに。生春巻きを店の人がテーブルにのっている素材を使って巻いて
くれる。昨日食べたサトウキビにエビのすり身の巻いたものは、この生春巻きに使ってしまうも
のらしい。そして餃子。ビールはダナンに地ビールがあるとのことで、これを注文。しかしアル
コール度数が3%しかない薄いもの。もう一本サイゴンもあるとのことでこれを追加。あわせて
4ドル。最後はアイスクリーム、そしてジャスミン茶。
食事を終えて、ここから35キロ離れたホイアンへと向かう。約1時間かかる。バイクは少な
いのだが、道の真ん中を堂々と走っていているのでこれを抜きつつ進まなければならない。暗い
道沿いの町、ところどころにインターネットでもやっているのか、ブラウン管が並ぶ店に人がた
くさんいるのには驚いた。家の前に石で出来た棺桶のようなものが置かれているのが多く見られ
る。青白く光る民家の入り口、正面には外からも見えるようにテレビが置かれている。人だかり
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がする店は喫茶店だ。
ホイアン・パシフィックホテルへ到着。周りもホテルも暗い雰囲気だが、クリスマスの飾りだ
けが明るく光っている。JTBのツアーが先着しているようで混雑している。ロビーがいっぱい
なのか、隣の会議室に通されてしばらく待つ。それでもウエルカムドリンクとしてトロピカルな
黄色いドリンクがサービスされた。ようやくチェックインできて鍵が配られたが珍しくカード式
ではない。しかし電気を付けるときはそれを入り口に差し込んでおく必要があるとのこと。先に
JTBの人たちが上に向かっていたところ悲鳴が。廊下をコウモリが飛んでいった。そして我々
も部屋へ上がっていく。小さなエレベータで3階へ。313号室の部屋に入ると寿の文字を両脇
に彫り込んだ中国風の大きなベッド。調度品も宮殿を思わせる重々しい感じ。そして布団の上に
は花びらが置かれ、籠にはウエルカム・フルーツ。床は入り口だけ木製であとは絨毯敷き。さす
が4つ星ホテルだけあるが、クーラーは後付のナショナル製。風呂に入っていると、お湯が出な
くなるが、これはこうした地方ホテルではよくあることで、天井裏のタンクが2部屋共用になっ
ているのだろう。誰かが使いすぎて、それが空になると出なくなる。しばらくお湯が溜まるのを
待てば出るようになるのだが、めんどくさいので浸かるのをやめシャワーだけに。部屋のモンキ
ーバナナと機内食のサンドイッチを夜食として食べる。こんなところでもNHKのBSが映って
いる。
1月4日(水)
今日の朝は早い。6時15分にモーニングコール。道路が濡れており一雨あったようだ。7時
に食堂へと向かう。食堂は6階と聞いていたが、このエレベータは5階までしかない。ツアーの
人が降りてきたので聞いてみると、5階まで行って、そこから階段とのこと。行ってみるとスカ
イバーと書かれた矢印が。矢印に従って階段で上ると確かにバーがあり、入り口にはカウンター
があってお酒が並んでいる。その奧がレストランのようだ。外を眺めながら食べられるガーデン
テラスもあってテーブルが出ている。スクランブルエッグが食べたかったが、頼み方が悪かった
ので、具を全部いれられてしまい、オムレツがぐちゃぐちゃになったものができあがった。栗の
炊き込みご飯、コーヒーはミルクをたっぷり。クロワッサンがおいしい。自慢のスカイラウンジ
からの景色は、まわりの農村の風景が見えるだけだ。椰子の木が南国の雰囲気を漂わせ、中国風
の黄色い反った屋根の寺院と南フランスを思わせる赤い直線の屋根の対比がおもしろい。昨日は
気が付かなかったが、このホテルもピンク色だった。
8時にホテルを出発する。JTBが先に出発してしまった。バスは朝のホイアンを進んでいく。
こちらの朝食は、ほとんど外食だそうで、フォーかフランスパンのサンドウィッチを屋台で食べ
る。夜は家で家族で食べるのだが、こちらは3世帯同居なのでかなりの大人数となるそうだ。田
植えが始まっている。このあたりでは二毛作であるが、南の方に行けばもっと暖かいので三毛作
だという。経済改革の進まないベトナムであるが、唯一うまく行っているのが農業の分野であり、
かつて食料を自給できなかったものが、現在、農産物はタイと米国に次ぐ世界第3位の輸出国に
まで成長した。
バスはホーチミンとハノイ1800キロを結ぶ国道一号線に出る。バスで40時間。一号線と
言っても上下2車線で信号機がまったくない。間組が作ったというバイパス橋がありながら、な
ぜかそこを渡らずに旧道を進んでいく。途中、ミーソンへ折れる。ミーソン遺跡までバスで1時
間半かかる。途中、工事で道がかなり荒れていて凸凹だ。そしてミーソン遺跡の駐車場へ。一生
懸命前を走っているJTBの大型バスを抜こうとしたが、道が狭いのでうまくいかない。向こう
は24人の大ツアーなので、先に行かれると遺跡まで行く車の待ち時間が発生してしまう。遺跡
へ向かう車の数が少ないのである。我々は小ツアーの利点を生かし、駐車場でトイレタイムを取
らず、さっさと橋を渡ってジープのある駐車場へ直行することに。JTBをトイレタイムで抜い
た形だ。橋の隣は、昔使われていた吊り橋が残っている。傾いているが今でも渡れるという。
遺跡行きの駐車場にはジープがあるが、乗り切れないのでワゴン車に分乗。現在、駐車場には
ジープが2台、ワゴン車が1台しかなく、先着の西洋人がジープに乗ってしまったため、ジープ
の空きに数人が乗り、あとはワゴン車に乗る。乗っているのは数分、石畳のがたがた道を進んで、
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売店があるところで終わり。この先も石畳になってるので、もう少し先にいけばいいものを。歩
いてさらに先に進み、ようやくトイレタイム。ただここのトイレは現地式でしかもチップを要求
される。ここにある吾妻屋で9時半からチャンパ族のショーが見られる。女性が神に捧げるアプ
サラの踊り、後ろで男性が演奏。最後に老婆が歌を披露するのだが、息継ぎなしで延々と発声。
息が長いのに関心して拍手拍手。そうこうするうちに20分以上遅れてJTBのグループがやっ
てくる。彼らはこのショーを見れなかったわけだ。
世界遺産のミーソン遺跡の観光。この遺跡は8世紀から13世紀末にかけて造られたチャンパ
王国の遺跡である。山々に囲まれたヒンズー教の礼拝遺跡であり、破壊と想像の神であるシヴァ
神を祀り、年4回礼拝されたという。チャンパ王国は2世紀から17世紀までベトナム中部の海
岸平野を中心に栄え海上貿易を担った。最初はグループCと呼ばれる遺跡を見学。隣に見える大
きい遺構がグループBであり、ここにはいくつもの礼拝施設があったと想像される。この遺跡に
は、アーチを使わずに屋根を造るという特長がある。ミーソン遺跡は、ジャングルに埋もれてい
たため、遺跡があるということを知らなかったアメリカ軍が雨のように爆弾を落としたため、ほ
とんどが破壊されてしまった。その中でも比較的残っているというのが、このCやBで建物がい
くつか残っている。男性器をかたどったリンガが女性器をかたどったヨニの上に乗っている。リ
ンガに水をかけるとヨニから流れ出るが、これが男であれば精力増進、女性であれば出産に効果
がある。実際は塔の中に納められていたのだが、塔が吹き飛んでしまってリンガだけが露出して
しまっているものもある。
次にグループAへ。ここは土台が残っているだけ。そしてグループGは建物の形が残っている
が木材の足場が組まれている。だいぶ復元されてきたという。最後がEとFであるが、ここは修
復が始まったばかりという感じ。この遺跡でもっとも高い塔であったものも土台だけ残っている
が、これは現在積み直しが行われ、トタンの屋根が掛けられている。これは日本人により修復さ
れているとのこと。帰りは密林に切り開かれた石畳道を通って、ジープ乗り場の売店のところへ。
向こうから観光客が来ないとジープは来ない。1台だけあったワゴンに12人とガイド1人を乗
せてみんなでぎゅうぎゅうなって出口へと向かう。帰り道、さっきの吊り橋を渡ろうとした人た
ちがいたが、施設の係員に戻れと言われていた。あれだけ傾いていたらやはり無理だろう。出口
で休憩。ここに簡単な博物館がある。グループCの一部の柱は切り取られここに展示されている。
その他石碑もあるが、文字は古代の文字が刻まれ、ガイドは「インスタントラーメン文字」と表
現していた。確かに乾麺のようだ。そして碑面を打ち砕いた銃弾の痕が生々しい。
バスは来た道を取って返しホイアンに戻る。ホイアンは海の交通の要衝であったことから、各
国の商人たちが住みついた。日本人もここに住みつき家屋を設けた。家屋は間口に対して税金を
掛けられたので、細長い住居となっている。その後日本は鎖国となり日本人たちが引き上げたた
め、その空いた住居には中国人が住んだ。その街並みが今日まで残され世界遺産となっている。
この旧市街は自動車が入れないのでシクロとよばれる人力三輪車で観光することになる。その前
にホイアン市内で昼食。レストランはRiver Side Garden。名物のカオラウという汁なしの麺を
食べる。ちょっとだけ汁があって、日本でいえば伊勢うどんのようなものだ。それからホワイト
ローズ、これはシュウマイを開いたようなもの。そのライスペーパーの開き方がバラの花のよう
なのだ。煎餅にすっぱめの野菜を乗せたもの、えびせん、煎餅とバナナの花の漬け物のようなも
の、魚の味噌煮、豚肉の味噌煮、デザートがバナナ。
続いてシルクの工場を見学。海のシルクロードの拠点であるホイアンは、絹織物が有名である。
入り口に蚕がいて桑の葉を食べている。その隣に眉棚があって、横では眉から生糸を取り出して
るが、黄色い眉玉が珍しい。こちらでは白と黄色の2種類あるという。その横では古い機械を使
って布が織られている。奧では若い女の子たちが刺繍をしている。彼女たちは公務員だそうで、
ちゃんと制服のアオザイを着ている。壁には美しい刺繍絵画が並ぶ。そして売店ではカバンやス
カーフなどが手頃な値段で売られている。買い物が終わった人たちは外で待っている。工場の入
り口に並ぶバイクを見ていると、ホンダの名前が書かれたバイクと、それとまったく同じ形でノ
ーネームのものがあるのに気が付いた。スピードメータのデザインまでまったく同なのだ。これ
が噂の中国製コピーなのであろう。
工場の前からシクロに乗る予定であったが、我々がその工場の売店で買い物をしている間に、
JTBのバスが止まり、どっと降りてきた人たちによってシクロを取られてしまった。ミーソン
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の復讐された感じだ。うちの現地ガイドが、シクロの親方に手配するように言ったが、なかなか
集まってこない。そこでバスで違う乗り場へと向かった。そこの親分に話をするとあっという間
にシクロが集まりだし、我々はすぐに出発することができた。人力三輪車シクロは自転車の前に
乗車籠が着いた乗り物だ。39番のシクロに乗って出発。こぎ手は少し年配の髭の生やした痩せ
おじさん、こちらは重いけど大丈夫か。
シクロに乗って旧市街の観光に出発。最初は福建会館。福建省の人たちが航海の安全を祈願し
た中国式道教の寺院である。緑の瓦にピンクの壁の門をくぐって本堂へ。極彩色の堂の中の天井
には一ヶ月保つというぐるぐる巻きの線香がたくさんぶら下がっている。次に海のシルクロード
博物館へ。39番のシクロを見失ったが、車夫のおやじがこっちを見つけてくれた。海のシルク
ロード博物館といっても海底から引き上げられた日本の陶磁器が少し、それと航海に使われた船
の模型があるだけ。ここの見所は、当時のままの木造の家屋だ。長が細く、中央に中庭があると
いう昔ながらの形式。室内の吹き抜けは洪水の時に商品を2階へ引っ張り上げるためのもの。シ
クロは黄色い壁の町並みを通り、川沿いを進んで、来遠橋へ。1593年に造られた赤い壁の中
国風の装飾がある橋だが、これは日本人により作られたため日本橋と呼ばれる。この橋が日本人
街と中国人街を隔てていた。来遠とは、遠くから来た人たちによって造られたという意味である。
中国人街側に猿の石像があって、日本人街の方に犬の石像がある。これは申年に造り始めて戌年
に完成したからだとガイドは説明した。ところが違うツアーのガイドは日本人が猿と犬を信仰し
ていて・・・猿は知恵の神様で・・・という解説をしていた。どちらが本当であろうか。ここで
自由時間を取って、旧市街をぶらぶら。店先まで商品を並べている土産物屋が多く、さらに電線
がたくさん空中を張っていて、中国の古民居群などに比べれば雰囲気はいま一つである。日本橋
から39番のシクロに乗って駐車場へ戻る。途中、上りがあって、その時、おじさんはシクロを
降りて押していた。やっぱり重かったのだろう。シクロを降りるときにチップ1ドルを渡す。
バスに乗って、一路フエへと向かう。180キロあり4時間ぐらいかかる。真っ白な美しいア
オザイを着た女の子が歩いている。白いアオザイは高校生が着るものだそうで、いわばセーラー
服のようなものらしい。アオザイにはいろいろな種類があり、公務員はアオザイを着ることにな
っている。たとえば航空会社でも地上勤務は青、スチュワーデスは赤、そして銀行も青いアオザ
イと、色を見れば仕事がわかるそうだ。
国道一号線に出る。フエに向かう途中、ダナンの市内を通過。ベトナム第3の都市ダナンの観
光名所といえば五行山がある。名前のとおり5つの山からなり、山腹の洞窟には仏像が祀られて
いるという。ここでは5色の大理石が採れるが、石はそれぞれ産出量により値段が異なり、一番
高価だとされるのは透き通った緑色の石である。大理石の町ダナン、どうりで墓石、棺桶を作っ
ている人が多いわけだ。大きな石屋でトイレ休憩。ここでは石ノミで彫像を彫る人、ヤスリをか
ける女性たち、石工たちの作業が見られる。仏像からマリア像まで、あるいは庭の置物から現代
彫刻まで、ありとあらゆる注文が世界中から入ってくる。木組みで梱包して発送しているのだが、
この木材が虫食いだらけ。これでは生態系に影響がでるかもしれない。
ダナンからタインビンビーチ沿いの道を進む。海には丸い籠で出来た船が浮かんでいる。留ま
って漁をするにはこの形がいいのであろう。日差しが厳しいが、このバスにはなんとカーテンが
なかった。座席はいっぱい空いているが、全員片方に寄ってしまっている。それでも日が傾いて
車内全体に日が差し込み眩しい。国道一号線はダナンの街を離れ標高を上げていく。フエまでは
3つの峠を越える必要があるが、まずは最も高いハイヴァン峠越えだ。この峠、国道一号線随一
の難所として知られる。この峠越えには40分かかるのだが、実は間組がトンネルを造り、たっ
た10分で通れるらしいのだ。観光の場合は、眼下の海の景色を見ながら峠を越えていくのが一
般的であり、峠の一番頂上では休憩を取る。ここには土産物屋があって、我々が止まると、売り
子の子供たちが一斉に寄ってくる。どうやら縄張り争いがあるようで、自分がゲットした客に他
の子が寄ると追い払われる。この峠、標高は1000メートルを超えガスが出やすいという。こ
の時もガスっていて海岸線はぼやっとしている。
峠を下がっていくと美しい海岸線が眼下に見える。世界的な観光リゾート地、ランコー・ビー
チである。ヨーロッパ的な町並み、教会の塔が見える洲を横目に見ながら、トンネル越えのバイ
パスと合流し海岸沿いの道を進んでいく。レストランと思われるところにバスは入り休憩。椰子
の木が並び、ベンチシートが並べられている海岸は、オフシーズンでひっそりとしている。ビー
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チへ足を踏み入れると、キュッキュッと音がする。泣き砂である。足を擦るように歩くと音が大
きくなる。太平洋の波はどんよりとした雲に濁り、湿気が多いためかハイヴァン峠は霞んで見え
る。バスはここから2時間弱、あと峠を2つ越えて行く。夕日に照らされた水田がきれいだ。道
端に祠が置かれているのを時々見る。峠にもたくさんあった。ガイドに聞くと、これは事故で死
んだ人を弔うために置かれたものだという。バスも照明を落とし、あたりも真っ暗、家々には青
白い蛍光灯の照明が物寂しげに灯る。正面にはテレビが置かれ、それを家族が囲んでいる。家は
細長い構造で3階建てや4階建てだ。
うとうとしていると、いつの間にか上下4車線になっていた国道一号線から急に左折し細い道
に入っていく。フエに近づいているのだろうか。道はかなり細くなり、だんだん寂しくなってい
く。明かりの点いた家がまばらにあり、ローソクが灯された祭壇なんかが数多く見られ気味が悪
い。よくみると真っ暗な中はお墓のようだ。墓地の中を進んでいるのであろうか。ようやく人通
りが増えてフエに到着。あまりにぎやかな町ではない。そして今日のホテル、ピルグリメイジ・
ビレッジに到着。名前からしてそうだが、入り口はまさにリゾートという感じである。椰子の生
えた庭を歩いていくと東屋風のフロントがある。ここで籐の椅子でウエルカムドリンク。流暢な
日本語を話す女性係員が世話をしてくれる。聞くと日本人のとこと。鍵をもらって部屋のあるコ
テージへ向かう。宿泊棟はすべて煉瓦造りのコテージになっており、2階建て4部屋で1棟を構
成している。棟の並びは2列になっていて真ん中には池がある。部屋は2階の220号室、扉を
開けて中へ。壁は煉瓦むき出し、天井には天井扇があり、絵はもちろんのこと棚にはきれいな素
焼きの人形や未開文化風の彫像などが飾られている。ベッドには花びらが。浴室も縄跳びができ
るぐらい広い。洗面台にも歓迎の花びらが散らしてある。洒落たデザインの緑とピンクのガウン
もあったりで、まさにリゾート施設である。残念なことに煉瓦が吸った湿気があって、土っぽい
匂いが気になる。
しばらくして食事のためフロントの東屋に集合。今回の夕食は趣向が凝らしてある。まず皇帝
夫妻を決める。辞退あいつぐ夫婦組のなか、やはり押しの強い人たちの立候補で決まり。そして
皇帝夫婦は黄色い衣装と冠、その他の人たちは皇帝家族の役割で、男は青、女は赤の宮廷衣装と
冠を着用する。衣装は阮朝のものというが、やはり中国の影響が強い感じだ。侍従だか宰相だか
わからないが、その年老いた彼が何やら読み上げ先導、そして民族楽器を持った楽団が演奏しな
がらレストランへ行進する。レストランには西洋人たちがすでに食事をしていて恥ずかしい。皇
帝は2人で正面の上座に着席、後ろには団扇を持つ侍女2人が付く。そして侍従がまた何かを読
み上げ、それを日本人の係の女性が訳す。つまりはおめでたい席ということのよう。侍従は右に
控え、左の楽団は民族楽器を奏でる。食前酒で乾杯したあとは、宮廷料理を楽しむ。やっぱり暑
いので衣装は脱いでしまう。
さて料理の方。前菜は孔雀(不死鳥とのこと)のようにきれいに装飾されたハムで孔雀の頭は
ニンジンでできている。ワンタン麺は、コリコリした腰のある米製の麺、パイナップルに揚げ春
巻きが串で刺してあるもの、蒸しエビ、米粉の上にエビのそぼろをのせバナナの葉っぱに包んだ
蒸し物、それに特製のタレをたらして食べる。牛肉とマッシュルーム、蓮の実の煮物。野菜炒め、
豚肉の炒めもの、ミックスチャーハン、デザートはフエ名物の笹団子のようなもの。これは笹で
四角く作られた米菓子である。きれいなのだが笹が剥きづらくて食べにくい。ビールは、地ビー
ルのフェスティバル。これは美味しいのだが330ミリの小瓶のため、もう一杯目は違う地ビー
ルのフダビールを。これはデンマークのビール会社との合弁で作っている地ビールで、そういえ
ばマークが似ている。こちらは500ミリあるが、最初の方がおいしかったので、3杯目はまた
フェスティバルを。添乗員によればこのビールはなかなかお目にかかれないとか。
皇帝たちは、少し離れたところに座らされ、侍女や侍従に監視され楽しくない。こちらだけ、
皇帝とはそういうものだといいつつ楽しく飲み食いしている。楽団、侍従、侍女たちが20分く
らい休憩で席をはずす。体調が悪く途中で引き上げた人がいて空いた席があったので、皇帝たち
もこちらの席に移動。戻ってきた彼ら、どうするかと思いきや、最初は戸惑ったが、やっぱり定
位置に立って、そのままお仕事。団扇を持った侍女2人はずっと喋りっぱなし。何を言っている
のやら。きっと変な人たちだと思っていることだろう。終わりはやはり終宴の辞を読み上げる。
この日本語訳にしている女性、ベトナム語を勉強したくてこちらにやってきたそうだが、ホテル
内は英語が通じるので思うような勉強ができないと言っていた。
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部屋に戻って風呂。お湯がちょろちょろしか出ない。タンクの問題かと思ったが、そのあと出
るようになったので、一斉に使ったための水量不足が原因であろう。タンク式ではなく湯沸かし
式のようだ。部屋のリンゴを剥いて食べたがおいしくなかったので半分でやめた。部屋が大きす
ぎてテレビが見にくい。
1月5日(木)
モーニングコールは7時15分。天気は曇りで、雨は何とか持ちそうな感じ。8時ごろに表に
出て庭を散策しながら昨夜の宴が開催された建物の地下にある食堂へ。ツアーの人は若い人が数
人いるだけだ。みんな早起きして散策に出かけたのだろう。コテージ形式なので散策するところ
がたくさんある。朝食は、まずオムレツ、フォーは屋台で作ってもらう。フランスパン、ベーコ
ンは厚くて脂っこい。果物にはハエが止まっていたがあまり甘くない。ヨーグルトはパック入り。
食事が終わって、コテージの間を散策しながら帰っていく。ビレッジの外と内は雲泥の差があっ
て、警備員が守る。ビレッジの一番奥には青い美しいプールがあって、白い椅子が並んでいる。
その横にある赤い煉瓦の建物がマッサージルームだ。
部屋に戻って荷物をまとめてから、フロントに集まって9時にバスで出発する。最初は、世界
遺産の阮朝王宮へと向かう。阮朝は、阮映がフランスの助けを借りてベトナムを統一した王朝で
1802年の入城から始まり、後半はフランスの保護下に置かれ実質的な植民地化を余儀なくさ
れ、末期の日本進駐、最後は1945年のフランス再侵略による皇帝退位で幕を下ろす。
川沿いの道を進み、踏切のところで列車の通過待ち。道端ではナマズが売られている。ゲート
式の手動式の遮断機が外されると、一斉に人やバイク、車が渡り大混乱だ。踏切を越えて左へ曲
り、しばらく行くとフエの駅。そこを右に折れるとフエのメインストリートだ。ホーチミン記念
会館や政府機関の建物が並ぶ。左に曲がってフォン川に架かるフースアン橋を渡って、すぐを右
に曲がり、バスは駐車場へ。大型のバスはここまでしか入れないので、ここから歩き。広い原っ
ぱの向こうに土台だけの大きな城門が聳える。門の中央には大きな赤地に黄色の星が描かれたベ
トナム国旗が翻っている。城門の左右には黄色い屋根の2層の櫓が残る小さな城門があり、そこ
から入城。入ると大砲が並んでいる。大砲は、左右の門に置かれ、それぞれ5門、4門となって
いているが、これは祝砲用とのこと。ベトナムでは9というのが縁起のいい数字だそうだ。左右
の門の中間、大きな城門の正面に黄色の瓦を持つ「午門」がある。屋根瓦には細かな龍の装飾、
赤地の壁に黄色の装飾、コの字形に張り出した楼閣部分には繊細な柱で支える設計。当時のまま
残る世界遺産の門だ。その門を抜け、鳥井を細くしたような柱というか枠があってさらに進む。
文官や武官が並ぶための石敷きの庭があって、その正面にはこれも黄色い屋根の「太和殿」があ
る。こちらはベトナム戦争後の1970年の再建だ。装飾は王権の象徴である太陽と龍の文様が
ちりばめられている。中国の紫禁城を真似て造られたという太和殿に入ると玉座がある。内部は
撮影禁止。この太和殿を突き抜けると、その後ろはまったく建物がない。実はこの阮朝の王宮、
巨大な面積に様々な建築があったのだが、アメリカ軍の攻撃によりすべて破壊されてしまった。
大和殿に展示されている全体模型は壮大なもので、現在残されている部分がほんのわずかという
ことがわかる。右の建物が簡単な展示館、左の建物がこれも踊りが披露される建物で、いづれも
復元されたもの。
左の方へずっと歩いていくと「顕臨閣」がある。ここは霊廟になっていて、阮朝の歴代皇帝の
位牌が安置されている。3重の櫓を持つ楼閣、瓦屋根が幾重にも積み重ねられたような構造にな
っている黄色い門、霊廟も黄色い屋根で赤い壁に黄色の細かな装飾になっており、黄色の皇帝色
をふんだんに使った中国式霊廟である。ぐるっと回って午門に戻り、歩いてバスのところへ。
バスはフォン川沿いの少し荒れた道を進み、ティエンムー寺院へ。入り口には四つの柱が聳え
る。生、老、病気、死の人間の四つの苦しみを表しているという。石段を登ると1601年創建
の7層8角の石で出来た塔、トゥニャン(慈悲)塔がある。正面には赤い塗り壁とアーチがデザ
イン、積まれる石と石の間は白い漆喰が入る。塔は登ることも可能だが開放されていない。大き
な鐘があって、その先が寺院になっている。釈迦を祀ったダイフン寺である。きれいな花が棚か
ら垂れ下がり咲いている。古い車が展示されているが、これは住職がこれに乗ってサイゴンまで
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行き、ベトナム戦争に反対して焼身自殺をした、その記憶を留めるためのものである。お寺にお
参りしてから、石段を下がって、さらに川のところまで下りる。そこから船に乗ってクルーズだ。
大きな観光船ではなく数十人定員、我々だけの貸し切りである。家族で運行しているようで、最
初は飲み物、次第に古銭、木彫、刺繍といった土産品を次々に売りにやってくる。そのうち誰も
買わないとわかると投げやりに並べてあった品物を箱詰めにしていく。同情を買って売ろうとい
うのか、あるいは本日の営業が本当に終わりなのか。ボートで物売りがやってくるわけでもなく、
景色がいいわけでもない。ただ淡々と川を下っていくだけだ。見える風景は、建築資材とするた
め川の砂を取っているボート、そして砂を川岸に積みあげている業者、そんなものだけだ。さっ
きの王宮の城壁が唯一見える遺跡で、あとはきれいとは言えないような橋をいくつか過ぎていく。
市場が見えるその対岸、ボートがたくさん並ぶ船着き場に到着する。船着き場から歩いて昼食へ。
お昼にはまだ早いが喫茶店には男たちがたくさんいる。ベトナムの男は本当に働かない。ベト
ナムが働き者の女性で持っているとは本当の話のようだ。周りよりは少しきれいで、妙に植物が
たくさん植わっているレストラン、その名もHUE RESTAURANTの2階へ。西洋人のツアーが食事を
している。冷房はない。フンボーフエという名のフエ名物のフォー。スープがスパイシーで麺が
太いのが特徴である。ベトナム風お好み焼きバインセオはパリパリの皮の中にエビやモヤシ、豚
肉などが入っている、どちらかといえば天ぷらという感じだ。エビフライには緑色の衣がついて
いる。パイナップルの葉っぱに餅状のものが乗っている蒸し物。あとは煮魚、そしていかにもミ
スマッチと思われそうなイカとパイナップルの煮物、これは意外に合うのだ。チンゲンサイのス
ープ、そしてデザートがちまきと昨日の四角い笹団子だ。このレストランでは、ちゃんと取り分
けてくるがありがたい。この笹団子も、ちゃんと剥いてくれるので、ようやく食べ方がわかった。
まずフォークに刺してから笹を剥いていき、そのまま食べる。聞けば意外に簡単なのだ。この食
堂、見渡すと日本人ツアー客でいっぱいになっている。大したことのないただの食堂のように見
えるが、味良しサービス良しの数少ない外国人向きのレストランだ。
食べ終り、そのままフエの飛行場へと向かう。フエにはまだ皇帝陵などの世界遺産がたくさん
あるが、飛行機の便が少ないせいもあって、残念ながら昼の便でフエを去らなければならない。
ここはもう一泊したいところであるが、次回をまた来れることを期待したい。1時間前に飛行場
へ到着する。小さながらんとした飛行場である。出発の表示を見るとハノイ行きは1日2便しか
なく、ホーチミン行きも2便、その他2便といったところ。こんな小さな空港なので、空港に入
る時には手荷物検査もない。チェックインカウンターで添乗員が一括チェックインをして、また
座席の調整を行っている。その間、ロビーにある売店、と言ってもショウケースを並べて店員が
2人いるだけだが、ここでフエの銘菓と言われているお菓子を購入。一つ食べてみるが少し堅め
の餅に胡麻が付いているという代物。
ようやく座席の調整が終わって出発ロビーへ。パスポート、搭乗券をチェックしてから手荷物
検査、そして階段で2階へ。滑走路には先ほどハノイから到着したベトナム航空機が止まってい
る。2階は待合室になっていって、大画面のモニターでは子供向け番組が流されていて、入って
右側には衣類関係、奥にはお菓子がある売店、そして左側には刺繍が展示される。刺繍にはちゃ
んと銘があって、鑑定書が付いているので、どうも著名作家による作品と思われる。花壇の風景
を刺繍した大きな作品がいい。購入者と作家が写った写真集も置かれていて、やはり価値がある
ものなのだろう。これらの作品は、きちんと梱包され送られるとのことであるが、その英文説明
の和訳がとても笑える。「空気により運ばれる」と書かれているが、つまり BY AIR を直訳した
もの。
VN−244便は定刻の14時10分に搭乗手続きが開始されるというアナウンスがあって、
再び1階に下り、滑走路へ出る扉のところでチケットをもぎられ、停車しているバスに乗り込む。
バスは座席がいっぱいになると、まだまだ乗れるにもかかわらず出発。バスはものすごいおんぼ
ろだ。そして目の前の飛行機のタラップ下で停車する。ほんの数秒の出来事であり、歩いてもい
いところ。バスを降りると、搭乗券を見て後ろのタラップから乗るように指示される。券は22
Cだが21Fの窓際に変更している。バスは次々と到着し、全員が搭乗すると定刻前の14時3
0分には動き出す。滑走路は一つしかないので、35分には離陸できた。機材は767である。
上昇するとすぐにランチボックスが配られる。前回と同じようにフランスパンのサンドウィッ
チ、水、今回はチョコがついていない。夕食まで時間があるので今回は食べてしまう。15時1
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5分には降下を開始し、30分にハノイ空港に着陸。首都にある空港の割に閑散とした空港だ。
タラップを降りるとかなり涼しく、やはり北に来ている実感がする。バスに乗ってターミナルへ
到着。風が強く今度は寒いくらいだ。建物に入るとターンテーブルが2つしかなく、荷物はあっ
という間に出てきた。やはり荷物のタグのチェックがあって出口を出ると現地ガイドBINHさんが
待っている。漢字で書くと「平」になると言っていたが、ベトナム人の名字はすべて漢字に置き
換えられるという。バスに移動する。やはりヒュンダイ製の新品である。
バスでハノイの市街へと向かう。ガイドからハノイについての説明。ハノイは1999年の調
査で人口は300万人、現在は350万人に達しているだろうとのこと。バイク天国のベトナム
であるが、ハノイもまたバイクが多く、バイクは150万台もあるそうだ。こちらは涼しいこと
もあり、ヘルメットをかぶった人たちが多く見られるが、これは実は飾り物とのことで、ぶつけ
ると割れてしまうそうだ。いかにも中国製らしい。バイクは1000ドルで買えるが、まったく
そっくりに出来た中国製は300ドル、ただ品質が粗悪なため、3年ぐらいで壊れてしまうとの
こと。走行中にハンドルが抜けてしまうという事故はしょっちゅうだそうだ。交通死亡事故も多
く、ベトナム全土で1日25人から50人死んでいるとのこと。治安はホーチミンに比べて良く、
ひったくりも聞いたことがないという。しかしいろんな人たちがどんどん流入しており安心はし
ていられないそうだ。
空港からの道はなかなか綺麗なのだが、高速道路でもないのに所々に料金所がある。これらの
道は日本の外資で建設しているため、返済のために料金を取っているという。空港の近くは元々
農地であったが、だんだん工業団地ができてきているという。右側にキャノンの大きな工場が見
える。この工業団地は、住友が開発したもので、ヤマハや東陶の工場もここにある。農民が72
%を占めるベトナムにおいて、農地がこのように減ってきていることにガイドも危惧しているそ
うだ。かつてのように食料を輸入に頼ることは危険だという。大きな橋を渡る。この橋はベトナ
ム一長い。川は濁っており川岸では建築資材として川砂が採取されている。大型のスーパーが見
えるが、駐車場にずらっと並ぶのは車ではなくバイクだ。そして大学街を通過。巨大な工事現場
が見えるが、これは新しい国会議事堂だそうで、そこを曲がると、高層マンションがいくつも建
ち並び建設中の建物も多い。ここもつい最近まで農地であったという。
市内に入ってくるとバイクの数がどんどん増え、道いっぱいに溢れている。バイクの波は洪水
のように道路を埋めていく。信号機はあっても守られず、みんなで渡れば怖くない的な状況だ。
バスはこのような中を進んでいく。そして我々の宿泊ホテル、フォーチュナホテルは左側に見え
るが、分離帯があって入れない。入り口にコンテナーが積まれたアメリカ大使館の前を通り、何
と、こともあろうに分離帯の切れたところでUターンである。このバイクが溢れる道の中をであ
る。クラクションの嵐は当然のこと。それでもゆっくりと回りきり、少し戻ってホテルの中へ頭
から突っ込む。ホテルの前には山のようにバイクが駐車している。
ホテルに入りチェックイン。ロビーにはかわいいサンタクロース付きのクリスマスツリーが輝
いている。早いものでクリスマスも明日までだ。今回の部屋は906室、ダブルサイズのベッド、
広めの室内ではあるが、調度品はビジネスホテル的である。6時半にロビーに集りバスで出かけ
る。ホテルの前を横断するのは自殺行為だと言っていた人がいたが、向こう岸のスーパーに行っ
た人たちがいた。とめどもない流れもじっと見ていると隙間が見えてくるとか。また、さらに混
雑度を増した道路をUターンしてアメリカ大使館の前を通過し旧市街へ入っていく。旧市街は昔
のままで職種別に町割がされている。衣料品街があれば秋葉原のような電気街も見え、電気屋が
ずっと続いている。テレビ関係を扱う店が多いが、スピーカーやアンプなどを積み重ねたオーデ
ィオ関係の店が多いのがおもしろい。路線バスが強引に我々のバスを抜いていく。これらのバス
は、バイク対策で大量に導入されたそうだが、どんなに数を増やしてもバイクほどの利便性がな
いため、バイクを減らすまでには至っていない。
狭い旧市街を通り抜けると、街の中心部にホアンキエム湖という湖がある。湖にある建物がラ
イトアップされている。ぐるっと湖を回っていくと、周回道路に面して水上人形劇場がある。こ
こは1956年にホーチミンが子供たちのために建てた劇場だそうだ。開演ギリギリということ
で、団体がひしめき大混雑だが、多くはフランス人のひとたちである。2階に上がり、ぐちゃぐ
ちゃに折りたたまれた出来の悪い扇子をもらってからホールの中に入る。我々は階段席の中央の
一列を占めるが、前に座っているフランス人たちが大きいため、視界を塞いで見にくい。舞台は
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下部に緑色の水をたたえたプール、上部が楼閣のようなセット、左上の高くなった部分にに楽団
が乗る。台詞はすべてベトナム語であるが、入るときに物語の簡単なタイトルが記されたプログ
ラムが渡されているので、これでなんとなく物語の概要がつかめる。それぞれ3から5分の短編
17場面から構成されている。物語に入る前に、まず楽団が民族音楽を奏で、それから人形が登
場する。人形は裏から棒や紐で操られクルクル回り行ったり来たりするのだが、見所は人形が交
差するところであろう。裏でうまく人形の受け渡しを連携して行わなければ交差できないからだ。
たくさんの人形が船を漕ぎ、動きの早い動物が走り回り、竜が出たりと、出入りは激しい。人形
は思ったより小さく、あまり細かな動きはできない。外に展示されている人形を見ると子供も仙
女も顔がひょうきんなのである。写真も撮っていいようだが、フラッシュも届かないし、暗いの
でシャッタースピードが遅くボケてしまう。どうやら今日から写真撮影には料金がかかるように
なったそうだが、それを知らされたのは終わってから。知らずにみんな撮影していたので、結局
どうでもいいようである。
物語は、まず祭りの旗上げから始まって、竜が踊り、水牛と笛を吹く子供が出てきて、田植え
があって、カエル採り、アヒルを使った稲作、釣りと続き、凱旋帰郷、獅子舞、鳳凰が舞って、
ホアンキエム湖の伝説と続き、水遊び、ボートレース、獅子がボール遊びして、そして仙女が舞
って、最後は竜と獅子と鳳凰と亀が共演する。そういうお話である。1000年も続く農民が収
穫の祭りに屋外で演じていたものと言われ、11から15世紀には宮廷の娯楽にもなったという。
最後に裏から団員全員が出てきて水に浸かりながら挨拶して終わり。この国立人形劇団の人たち
は海外でも演じており各種賞を受賞しているとパンフレットには書かれている。
人形劇は1時間で終わり、終了するとすぐに外に出てバスへ。一斉にバスがこの周辺に停まる
ので大混乱である。バスに戻ってから舞台で使われる民族音楽が収録されたCDがプレゼントさ
れる。バスは劇場の近く、こんな路地に大型バスで入るか!というような少し奥まったところに
ある日本料理の「富士」に到着。赤提灯が掲げられている。その3階に上がり掘り炬燵の部屋へ。
まずビールであるが、麒麟やアサヒはない。赤い短冊と縦書きの文字が謹賀新年を表していると
いうハリダビールの缶を。2杯目は、東南アジア一のシェアを誇るシンガポールのタイガービー
ル。2本とも1.2ドルと中途半端な金額なので、初めての現地通貨ドンがお釣りとして来てし
まう。料理の方は、天ぷら、そして焼き肉。焼き肉は甘ダレで焼いたもの。その他、酢の物、焼
き鯖、お新香。残念ながら刺身はない。みそ汁、ご飯はとてもおいしい。米は日本から輸出でき
ないので、こちらで生産されているとのことだがタイ米ではない通称ベトニシキ。日本茶、デザ
ートはバナナ。次から次へと出されるので、あっという間に食事が終わってしまい、日本酒で盛
り上がるということもなかった。
食事が終わって、バスに乗ってホテルへ帰る。バスは旧市街からホアンキエム湖に向かう。湖
のところに立派な国営のデパートがあって明るい。途中、道の真ん中で人だかりになっていると
ころを通過。交通事故である。若者のバイク同士の事故で、バイクにまたがったまま倒れている
男性を人々が輪になって取り囲んでいる。
車は意外に少ない。実は、車には360%という高額の税金が課されていて、これは車を増や
さないという政策の一環だという。車が増えてしまえば、バイクどころではないとわかっている
ので、高額の税金をかけて抑制しようとしているのだ。街にある喫茶店のような飲み屋は大繁盛
である。なにしろビールは100円で4杯飲めるそうで、ベトナムの男たちは本当に働かないの
である。帰りは当然バイクで帰るのだ。
1月6日(金)
モーニングコールは7時の予定であったが、15分も早く電話がかかってきた。7時半に食堂
へ。チェックインの際に1階のレストランと聞いていたので行ってみると2階に行けという。ど
うも1階がベトナム人で2階が外国人と分けているような感じもあって、2階では韓国語や中国
語が聞こえる。オムレツがなかなかおいしい。その隣でフォーの屋台もあるが、こちらは作り置
きで干からびており誰も並ばない。フランスパンにはチーズが入っていて、クロワッサンよりも
おいしい。その他、厚手のベーコン、そして揚げたポテト。
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フォーチュナホテルの外に出てみる。高層のホテルの正面には白いマーライオンがあるので、
シンガポール資本なのだろう。8時30分にハノイ市内の市内観光へ出発する。今日は寒波襲来、
寒いので上着を着ていく。最初はホーチミン廟。廟は月曜日と金曜日が休みのため、本日は入れ
ない。廟は重厚な土台の上に、こぢんまりとした大理石の直方体と屋根を支える柱で構成されて
いる。蓮を象っているという。正面にある入り口には2人の白い制服を着た衛兵が24時間、交
代制で銃を持って立っている。入り口は土台にあって、窪んでいるので、そこに立っている衛兵
は雨でも濡れないのであるが、風は強く余計寒く感じる。ちょうど9時に衛兵の交代があって、
その儀式を見学。と言っても行進してすれ違っていくだけなのだが。直方体の前は広場になって
おり、国家の重要な行事が行われる。この場所は、バーデン広場と言われ1945年の9月2日
にホーチミンが独立宣言を読み上げた場所である。また広場に面して黄色のフランス風の外務省
や白いソ連風の国会議事堂が見える。ホーチミンは、1969年、南北の戦争のさなか9月2日
に亡くなるが、時局のため当初公表されなかった。優勢に進められていたことから戦意が落ちる
ことを心配したのである。死期を悟った本人は火葬を希望していたが、南部の人たちに北部の偉
大な指導者ホーチミンを見せる必要があったことから、遺体の保存が決められた。保存の処置は、
レーニンや毛沢東と同じようにソ連に委託された。廟では保存された遺体を見ることができるが、
写真撮影はおろか立ち止まることもできない。また服装にも厳しい制限があって、露出が多いと
入れてもらえないという。
本日はホーチミン廟の中を見ることができないということで、予定に入っていないホーチミン
の家の見学が加えられた。場所は廟の隣、中に入ると黄色い立派な建物が見える。これは公邸と
して作られたものだが、ホーチミンはこのような華美なところに住むのを嫌って、この建物はそ
の後迎賓館として使われた。池の畔に建っている黄色い洒落た2階建ての長屋が1954年から
ホーチミンが公邸として使ったところで、執務室が残されている。狭く質素である。死んだとき
草履しか残さなかったというホーチミンの人柄が忍ばれる建物だ。そして池の向こうに私邸があ
る。少数民族の家を模して1958年に作られたといい、高床式になっている。柱だけで構成さ
れる1階部分は様々な指示を出したというソファーがあり、外階段を上って2階にあがると書斎
と寝室。いずれも狭い。隣にある平家の建物がホーチミンが亡くなった部屋だ。そして小山があ
ってその地下30メートルのところに防空壕がある。核爆弾にも耐えられる作りになっている。
一周して外へ出るとホーチミン廟の裏に出る。
そのまま廟の後ろを歩いて行くと一柱寺へ。これは1049年に李朝の太宗が創建した延祐寺
内の楼閣であったもの。1本の柱の上に仏堂を載せており、その柱は現在はコンクリート製にな
っているが、この形が愛らしい。階段があって上がっていくと祠の中には観音様が祀られている。
安産の神様といわれ、ガイドもここに祈って子を得たという。柱は周囲十数メートルの正方形の
池の中に立つ。
ホーチミン廟の駐車場まで歩いて行き、途中で向こうから迎えに出て来たバスに乗り込む。次
は文廟へ。1070年に孔子を祀るために建てられた廟である。門を入って進むと今度は鐘楼の
ある門、そして池がある中庭へ。両脇には亀の上に乗った碑があってそこには15世紀以降30
0年間の科挙合格者の名前が漢字表記で刻まれている。一番奥には赤い瓦の孔子廟がある。ここ
の売店に水上劇で使われていたと思われる糸が切れたりした壊れた人形が売られていたそうだ。
この文廟の隣には1076年に開設されたベトナム最古の大学があったところで700年に渡っ
て学者や指導者を排出してきた。ベトナムは仏教徒が70%を占めており、仏教は直接ベトナム
には伝わらずインドから中国を経て入ってきたことから、中国の影響を受けていて、道教や儒教
の影響がある。ちなみにベトナムの仏教は大乗仏教になる。
バスで昨日のホアンキエム湖まで行って、水上人形劇場のところで降りる。ここで旧市街散策
の自由時間が40分。ハノイの旧市街は同業者ごとに集まっている。まずは路地に入っていくと
道の中央にたくさんの店が並ぶ市ができている。野菜や肉、魚などが所狭しと置かれ、荷物を天
秤で運ぶ三角編み笠の女性たち、やはりベトナムは女性がよく働く。米なども種類があって、も
のすごく小粒のものなども見える。肉も牛、豚などあるが、やはり鳥インフルエンザの影響であ
ろうか、鶏肉がまったく見あたらない。この市が開かれている細い路地にまでバイクは容赦なく
入ってくる。しかもクラクションを鳴らしながら。
市を通り抜け、ホアンキエム湖のほとりまで戻ってくる。そして湖の周回路を横断、バイクの
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波を身をもって体験する。じっと見ているとわずかに隙があるのがわかってくる。そこを見計ら
って、さらにはバイクの速度を読んで到達時刻を計算しながら、道路に足を踏み入れる。あとは
バイクを見ずにゆっくりと歩いていく。バイクを見てしまうと、こちらの速度が変わってしまい、
そうなるとバイクの方でも焦ってしまい対処できない。ゆっくり同じ速度で歩けば、あとはバイ
クが避けてくれるのだ。クラクションの嵐には耐えればよい。慌ててはいけないのだ。
道路を渡って湖沿いに歩いていくと、湖に浮かぶゴックソン島に赤い太鼓橋がかかる祠が見え
る。これが玉山祠である。入り口に料金所があってお金を取られる。見ると3000ドンと書か
れていたので、4000ドンを支払い1000ドンのお釣り。そして写真付きのきれいなチケッ
トをもらって赤い太鼓橋を渡っていくと島側にも門があって、ここでせっかくのチケットを回収
されてしまう。島に渡ると1865年に建立された得月楼があって、その中に入っていくと、い
ちばん奥に13世紀に元の侵攻を撃退したチャン・フン・ダオ将軍が祀られている。最近の中国
が中華思想を強めている現状を踏まえよく拝む。祠の隣の部屋には1968年に捕獲された全長
2メートルの亀の剥製が飾られている。推定年齢300年。ホアンキエム湖には守り神の伝説が
ある。池の亀から授かった宝剣でレ・ロイは1428年に中国からベトナムを解放したという伝
説で、その亀がこれ、と言われている。再び赤い太鼓橋を渡って湖畔に戻り、バイクの波に埋め
尽くされた周回路をドキドキしながら無事渡りきって水上劇場の前に集合。このあたりは外国人
が多いとあって、売り子が寄ってくる。果物を天秤に乗せて三角の傘をかぶった女の子たち、天
秤棒を持たせてくれてるという。そしてお金はいらないとも言っている。結局、彼女たちは天秤
棒と傘を貸して観光客に写真を撮らせるまではタダなのだが、あとで商品の果物は買って欲しい
ということなのだ。ようやくバスが来て乗り込む。
食事は中華料理、FIRSTという店である。入り口が分かりづらいところにあり、バスは中庭の
駐車スペースに入って下車。建物に入ってエレベータで4階。円卓の並ぶ普通の中華である。料
理は、スペアリブ、辛いスープ、ザーサイのスープ、牛肉と魚、チンゲンサイの炒め物、麻婆豆
腐。ハノイビールは、ここの地ビールだが、アルコールは低く3.8%。450ミリリットルあ
るのが救い。店のトイレに行くと、便器がとても高い。ベトナム人は背が低いので不思議に思っ
ていると、この店はフランス人が多いので外人仕様になっているのではないかと添乗員。
店の前で、バスが来るまで、隣のバイク屋や電気屋で商品を眺めている。ようやくバスが来て
乗り込み出発。ハロン湾へと向かう途中に、陶磁器で有名なバッチャン村へと向かう。ハノイ市
内から堤防道を進む。この堤防はたびたび氾濫する紅河からハノイの街を守っている。紅河を渡
るとき、左側にトラス橋の鉄橋が見える。これはエッフェル氏の設計であるが、ベトナム戦争に
より破壊された。所々に残っている主構の鉄骨の組み合わせが不規則で面白いデザインである。
現在、フランス政府が資金を提供して復元しようとしているそうだ。
郊外へ向かう道の道端、おばさんたちがパラソルを広げフランスパンを売っている。田舎の方
ではフランスパンがないので、都会からの帰り道にここで買って帰るとのこと。しばらく国道一
号線を進み、平行して走っている線路に貨物列車が見えた。この線路を跨いで右折し、バッチャ
ンへの細い道をどんどんと進んでいく。そして土手の上のような道へ。狭いでこぼこの道である
が対向車も多い。観光バスなど走っていてかなりぎりぎりですれ違っていく。ここは危険なので
シートベルトをするようにガイドから指示がある。遙か向こうにハノイの市街地が見える。そし
て大林組が作っているという一号線のバイパス橋の下を通り、ようやくバッチャン村へ到着。
バッチャン村には100軒の工房があり5000人いる住民のほとんどが陶磁器関係の仕事に
携わっていると言われるだけあって店先には様々な陶磁器が積まれているまさに陶芸村だ。その
なかの1軒ミンハイ・セラミックという店に到着しバスから降りて、建物の4階へ階段で上る。
4階では絵付けの作業が行われていて、石油窯が置かれている。この町では土は採れないので運
んできて成型し焼かれる。安い製品は薪で焼かれているので、燃焼温度が低く鉛などが残ってい
て有害、安全なものは石油で高温で焼かれてたもの、だそうだ。だから、この4階には人にわざ
と見えるようにドンと近代的な石油釜が置かれているのである。ナチュラル=贅沢=高価という
我々の感覚とは少し異なる。製品は淡い色調の素朴な絵柄でお洒落である。確かに急須セットが
2000円もしないので日本に比べれば安いのだが、ただし苦労して日本まで持って帰るかどう
かとなれば難しい選択である。トランクに詰められるように梱包してくれるわけではなく、紙で
包んで竹で編んだ特製の手提げ袋に入れてくれるだけだ。手荷物が増えるだけなのである。
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バスは先ほど来た道を取って返す。畑の中に煉瓦を焼く窯がいくつも見える。バッチャン村の
陶磁器も煉瓦作りから始まったものだ。対向車として路線バスが結構通っている。一号線に戻っ
て、途中左折し高速道路のような広々とした道路に出る。これは先ほどの大林組の造っているバ
イパスとつながる道になっている。この道をどんどん進むと中国の国境まで行ける。日本の外資
で作っているために、返済のため有料となったいる。道がいいにもかかわらず、このヒュンダイ
製のバスは後輪のばねからギコギコ音がする。一号線から途中で折れて、ハロン湾のほうへ向か
って進む。対向2車線の田舎街道だ。
途中、サウロ村のヒューマニティ・センターで休憩する。サウロは、赤い星という意味。ここ
の町の人たちは勇敢で知られ、ベトナム戦争のときにも出兵し南下した。彼らはアメリカ軍の枯
葉剤を受けていたことがわかり、後になって奇形の子供達がたくさん生まれた。こうした子供達
のために刺繍が教えられて、この町の産業となったのである。このセンター、実質は様々な品物
を扱う土産物屋になっているが、奧ではたくさんの子供達が刺繍の作業をしており、店員たちの
中にも足を引きずっている人が見られる。
バスはなかなかスピードが上がらず、小型のバスに次々と抜かれる。確かに前にはバイクがま
ばらに走っていて走行の邪魔であり、遅い大型のトラックもあったりで、対向車もひっきりなし。
この大型のバスで抜くのは難しいのであろうが、他の大型のバスにまで抜かれてしまうと、どう
なってるのかとイライラしてしまう。ガイドが言うには取り締まりが強化されているからとのこ
と。罰金は1万円で運転手の給料は12万円ぐらいだから捕まるとかなり痛い。さらに3回違反
をすると免許証が取り消されるので、もしかしたらこの運転手も2回目なので慎重なのかもしれ
ない。町の中に入ってくると極端にスピードが遅くなるのは警察が潜んでいる可能性が高いから
だそうだ。運転手同士は取り締まり情報をパッシングで教えあうのだが、警察の方も民家に隠れ
たり、救急車を使ったりといろいろ考えている。さっきも急にスピードが遅くなったのは救急車
がいたためのようだ。なお、警察も金次第で、賄賂も効くらしい。
炭鉱の町に入る。ここは露天掘りで、今後150年間も石炭は採取できるという。主に火力発
電に使われていて日本にも輸出されている。黒い石炭のホコリで空や家々、街路樹も真っ黒であ
る。だんだん日も暮れて暗闇へ。左側に何となく桂林を思わせる急峻な山が連なっているような
感じがする。ハロン湾に近いのであろうか。ハノイからハロン湾まで200キロあり、休み休み
で4時間もかかる。今回でもバッチャンまで40分、そこから休憩したサウロまで1時間。そし
てハロン湾まで1時間半。高速道路がないベトナムでは移動に時間がかかる。産業の発展のため
にも、観光のためにも高速道路は必要だろう。
道は急に良くなり、街路灯がしっかりと点いて、ホテルなどの建築物がちらほらと見え出す。
台湾が大規模な開発を行っているところを通過。そしてようやく夕食会場のヘリテージホテルへ。
このホテルも4つ星ホテルであるが、ずいぶん閑散としており、1階のレストランも西洋人が一
組食事しているだけだ。食事は、豚足、スペアリブ、シャコの揚げたもの、スープ、そして海鮮
鍋。鍋には豆腐、フォー、白菜、白身魚、椎茸。ビールはハリダの缶。隣の人がワインをボトル
で取ったのでご相伴にあずかる。本日宿泊のホテルは、このホテルから坂道をちょっと上がった
ところの4つ星ホテル、スプリングホテルだ。バスで10分、歩けば5分と言ったとおりで、乗
り降りを考えるとそんなものかもしれない。スプリングホテルもひと気がなく、がらんとした感
じだ。ロビーで鍵をもらって904号室へ。全員、海側の部屋だそうだが、窓からは暗闇しか見
えない。部屋はまずまず広く、装飾はシンプルな感じだ。
1月7日(土)
モーニングコールは7時。窓からは湾とそこに浮かぶ島々が見え、確かにオーシャン・ビュー
である。食事は1階のレストラン。朝食券があったのを思い出したが、気がついたのはレストラ
ンを出てからだ。フォーは牛と豚どっちがいいか聞かれたが、迷ってると両方入れられてしまっ
た。焼きそばはインスタントよりまずい。ハム、そしてフランスパンもあまり美味しくない。そ
れから、お好み焼きの何も入っていないようなもの。デザートのナシもおいしくないし、パイナ
ップルは失敗という感じ。見た目はおいしそうなのだが。コーヒーはミルクをたっぷり入れて飲
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む。
鍵はフロントに預ける。荷物はそのままでいいのが楽だ。8時半に出発予定だったがバスが来
ていない。他のツアーのバスが2台、ホテルの駐車場に止まっているのだが、うちのバスはどこ
かに置いているようだ。ようやく遅れてやってきてガイドに怒られていた。10分遅れの40分
に出発。バスはホテルから道を下っていく。右折して湾沿いのメインストリートを進むと左側に
観光船が並ぶ船着場が見える。駐車場へ。船着場には海賊船のような、茶色のマストのある船が
たくさん集まっている。ガイドがチケットを買ってくる。船は一人いくら+チャーター料となる
そうだ。改札から入って茶色の船が並ぶ桟橋を沖に向かって進み、一番奥に停泊している海賊船
へ。どの観光船にもマストがあるのだが、動力はエンジンで排気ガスの匂いが充満している。我
々の船にもマストがあって2階のデッキには植物の鉢植えがたくさん置かれていた。この船は新
造船で、この会社では数十艘所有しているとのこと。船自体は約800万円ほどだ。船は他の船
を掻き分けるように出航する。群がっている船の集団の中から何艘かが一斉に出て行くので、先
を争い混乱している。30分ぐらいなにも変化のない景色の中、湾を進んでいく。その間、1階
のテーブル席の並ぶ船室でくつろいでいる。遠くに急峻な島が霞んで見えている。船は島の群れ
に次第に近づく。山の形はまさに桂林のようになだらかかつ急な立ち上がりである。ハロン湾は
石灰岩質の大小2000の島が浮かぶ世界遺産だ。ハは降りる、ロンは龍を意味し、外敵の侵略
に悩まされていたこの地に龍の親子が降りたって、敵を打ち破り、吹き出した宝玉が奇岩になっ
たという伝説がある。船は島の一つに到着し、桟橋に接岸。船が何艘も一つの桟橋に付けるので
少し順番待ちがある。船を下りて階段の登り口にある入場口でチケットの一部を切ってもらう。
チケットにはいくつか数字が書いてあるので入島できる島がいくつかあるのであろう。このチケ
ットはきれいな写真が付いていて記念になりそうなのだが、ガイドが回収してしまう。現地旅行
社の証拠書類になるそうだ。階段を登って天宮洞と呼ばれる鍾乳洞の入口へ。中は大きな空洞に
なっていて鍾乳石も細かなものはなく大味だ。その鍾乳石のところどころに赤や青、緑の照明が
当てられていて、あまり趣味がよくない。島の鍾乳洞はもともと海中にあって海の浸食を受け、
それが隆起したあと石灰が雨水で溶けて鍾乳石が成長してきた。天井部分が洗濯板のように削ら
れていてるのは海中にあったためだ。他で見られるような鍾乳洞のように水が滴っているような
ことはないく乾燥した感じだ。大きな空洞になっている部屋の鍾乳石の林の中を歩いていく。そ
れぞれの庭には由来とか伝説がいろいろあって、その話を聞きながら進んでいく。出口からは階
段で下って海岸に。そこの桟橋で回送してきた船に乗って出航する。
これから60分間ぐらい11時までは島の間をクルーズだ。今の鍾乳洞のある島を大きく回り
込む、波のまったくない鏡のような静かな海面に山、まさに桂林を思わせる山々が次々に現れて
くる。天気はあまりよくなく曇っていて、遠くのものが霞んで見える。船が多く写真を撮るのに
邪魔だと思ったが、これでも少ない方だそうで、シーズンの夏になると船がウヨウヨしている状
態になるという。今はオフシーズンなのである。島々を過ぎると海上生活者の家々が見えてくる。
平屋の船に生け簀が設置されて浮いている。船をこの生け簀に付けて上陸(乗船?)。各生け簀
は指定の船会社と契約しているのだろうか、我々の生け簀にも船が次々に到着する。生け簀には
シャコ、エビ、カニなどが入っていて、これをすくって売る。シャコの巨大な大きさには驚かさ
れる。韓国のツアーの人たちはその場で買っていたが、彼らはこれを船で料理してもらうようだ。
我々は、食事が付いていると思っているので誰も買わず見ているだけ。
島々を巡り時間がゆっくりと過ぎていく。2階のデッキで外の風を受けながらBINHさんと雑談
している。彼の娘さんは日本に留学することが決まっているという。聞くと別府の立命館アジア
太平洋大学(APU)とのこと。数年前APUの入試を担当しているベトナム語の教員と会って
おり、ベトナムで積極的に学生集めをしているという話を聞いていたが妙な縁もあるものだ。
船は海の桂林の中をゆっくりと進む。船はゆっくりとしか進まないのでエンジンも小さい。ト
ラックのエンジンのような小さなものが、トイレの後ろにぽつんと置いてあるだけだ。トイレは
意外にきれいなのでビックリ。クルーズの客はやはりフランス人が多いようで、こういうところ
には気をつかっているのだろう。ずっと調理のいい匂いがしていたが11時前に食事の用意がで
きたとのことで1階に下りる。食事中もいい景色があるので時々出て写真を撮る。食事に熱中し
てばかりはいられない。ところが、ほとんどの人は食べ始めると景色に関心がなくなったのか、
同じような景色に飽きたのか、わざわざ外には出て行かない。湾の代表的な風景である夫婦岩、
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これさえ気がついていない。食事は海鮮料理。ビールは333しかない。カニは甲羅を割って中
の身をほじくり、細い足から身を吸い出す。エビの天ぷらは油がきつい。スープ。そしてアサリ
をゆでたものはつまみにいい。チンゲンサイの炒めたもの。イカの唐揚げもおいしい。ライスは、
もち米と黄色い青豆の炊き込みご飯と白いご飯の2種類。デザートはバナナとミカン。ミカンは
珍しく甘くておいしい。
食事が終わったころには船は山々から離れて帰路についている。そして海賊船で大混雑してい
る桟橋に到着。船は普通、午前と午後の2回出航する。この船も午後はフランス人のグループの
予約が入っているとのこと。ホテルまでバスで戻る。現在、12時20分で、3時45まで休憩
だ。やはり夜便に乗るため夕方まで時間があったカンボジアを思い出す。あの時は暑さでくたく
たになりホテルで休んでいたが、今回はまだまだ余裕がある。そこで外出。ホテルを出て坂を下
ってメインストリートへ。途中、タクシーの運ちゃんたちが屋台で食事をしている。売店はほと
んど開いていない。海岸の砂浜を歩くとビーチに面して椅子が並べられていて、やはりリゾート
の雰囲気はあるが、まったくひと気がない。砂浜の向こうにはハロン湾の山々が浮かんでいる。
海沿いの道をホテルに向かって歩いていると、バイクの兄ちゃんたちに声をかけられる。乗って
いけという話らしい。彼れらはただ観光客が通るのを待っているだけ、ここの男達ほとんど仕事
をしていないようだ。ベトナムの女性たちは籠に果物や野菜を入れて歩き回ってるのに。
坂を上ってホテルへ戻る途中、運転手とその奥さんと思われる2人が車の中で喧嘩しているよ
うで、声は開いた窓からよく聞こえる。そしてひっそりとしたホテルへと戻るともうやることが
ない。ハノイに早めに行って時間をつぶした方がいいのではないかと思うのだが。ハノイなら自
由な時間をいくらでも使えるからだ。1時過ぎにホテルに戻ってからは、あとはテレビを見て、
部屋にあるインスタントの珈琲を飲んで、フルーツを食べる。ブドウは酸っぱいが、ミカンは甘
い。ベッドはすでにメイクされている。また枕チップを払うのもいやなのでベッドには横になら
ないで、ソファーでくつろいでいる。
荷物は15時20分に出し、出発は15時45分だ。バスはどんよりとしたハロン湾を見なが
ら来た道を戻っていく。次第に日が暮れてサウロ通過の時には暗くなっていた。休憩場所は1カ
所で、行きに寄ったサウロのヒューマニティ・センターではなく、さらにハノイ寄りの似たよう
な店である。ここにも奇形の子供たちがいると言っていたが、身体的におかしい人たちは見あた
らなかった。行きの店も同じだが、まったく商売気がない。店員は多いのだが、追いかけもしな
いし、しつこいセールスもない。これではまけさせるわけにもいかず、売値で買ってしまった。
国営企業であるからやる気がないのであろうか、それともこんな時間にやってきた我々が招かざ
る客なのか。
ハノイ市内に入って食事。旧市街の真ん中、フランス時代の建物が残る地区にあるレストラン
Le TonKinへ。この店もやはり当時の建物を手直ししたもので、白い門と塀、庭には竹、黄色い
建物に入って木造の階段を上がり2階に。白い天井に淡い黄色の壁と白いラインや装飾。日本人
の団体もいたが、フランス人男女2人とガイドと思われる現地人が食事をしている。ガイドはな
ぜか英語で喋っている。食事の方は、フォー、生春巻き、パイナップルの葉に挟んだエビ、パイ
ナップルとイカを炒めたものは意外においしい。そして野菜炒め、エビ炒め、チャーハン。ビー
ルはハノイビール。最後のビールは、これまた中途半端な価格でドンが来てしまう。原則混ぜる
ことはできなのだが、足りているはずだとばかり、強気に主張してドルとドンのまぜこぜで支払
った。なぜ混ぜて使えないかというと、つまり彼らは計算できないのだ。
店のある路地から通りまで歩いて回送してくるバスを待ち乗り込む。バスは市街から堤防の土
手に出て空港へと向かう。飲んだ若者が運転しているバイクが多く危険だという飲屋街、夜だけ
開く蘭の市場、こうしたものが土手から見えるので、ガイドが静かに解説してくれる。交差点に、
青い制服と茶色の制服の警官が立っていた。これは青が公安警官、茶色が交通警察という区分が
あるという。しばらく暗い道を走っていると明かりの点いている凱旋門のような建物が見える。
これが何なんのか気になるところ。そして1時間ほどで空港ターミナルの2階へ到着する。
首都の国際空港としてはかなり小さい感じだ。バスからスーツケースを下ろし、それを引きず
ってチェックインカウンターの列に並ぶ。うちのツアーのところになってかなり時間がかかって
いる。隣の列に並んでいた添乗員が、カウンターの係員と何やらもめていた。そして係員は右の
方を指さしている。どうやら航空券に間違いがあって、別の窓口に行け、と指示しているようだ。
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添乗員は我々に集まるように指示し、チェックインカウンターを後にして少し離れたベンチの前
に集合させた。チケットの手配ミスがあったとのことで、一度全員の航空券を回収した。詳しく
見ていなかったが、本来8日の0:10発のところ、7日の0:10発となっていたようだ。出
発は日付を超えているので8日が正しいのであり、乗るはずのVN−954は24時間前にすで
に飛び立ってしまっているのだ。手配した人が勘違いしたのであろう。添乗員は、我々にこのベ
ンチのところで待機するように言って現地係員とともに消えていった。
もう1泊しなければならない?といった悲観論から、どうせ阪急の負担だろうからビジネスク
ラスに乗せろ、という楽観論まで様々な話が。しばらくして添乗員が戻ってくる。座席は確保で
きるのでこのまま待っていて欲しいとのこと。悲観していた人は安心したが、それからが長かっ
た。添乗員は一向に戻らず、いらいらさせられる。もう一度戻り状況のを説明。予約を変更する
ためにはお金がかかるが添乗員が持っている手持ちのお金では全員分まかなえない。現地旅行社
と負担について交渉中とのこと。またしばらく時間がかかる。これも夜間のため手配ができず、
今度は本社と携帯で電話している。
出発まで1時間を切ってしまい、結局、時間がないため各自がとりあえず支払うことに。金額
的には約6万円、カードかドル払いのみ受け付けるということだが、ドルをそれだけ持っている
人はいないため日本円を両替する必要がある。ところが時間が時間であるため両替所が閉まって
おり、カードを持っていない人たちは困った。結局、カードを持っている人たちで肩代わりする
ことで落ち着いた。
ベトナム航空の地上係員の仕事の手際が悪い。誰と誰の分を誰のカードで支払う・・・彼女た
ちは混乱している。発券カウンターでサインをし、航空券を再発行してもらい、それを持ってチ
ェックインカウンターへ。スーツケースを預けて航空券を受け取る。我々しか並んでいなにも関
わらず随分のんびりと仕事をしている。もう時間がない。ガイドが空港税の領収書を持っている
のでこれをもらう。お金は初日に小原さんに払っているのだが、航空券がなければ受け付けても
らえないもののようなのだが、そのときだけはなぜか大雑把。あとで出国ゲート横の空港税支払
いカウンターで航空券に支払い済みの押印をしてもらった。領収書も見せていないのに、現地ガ
イドの顔パスだけで押印してもらったようなものである。他の人たちも時間がかかるだろうと、
これチャンスとばかりにトイレに走っていったら、そのときばかりはさっさとと終わってしまい、
もうみんな出国の方へ進んでいた。
出国のため必要な書類は4つ。パスポート、入国審査票の写し(黄色紙)、空港税領収書、航
空券である。手荷物検査を終え、空港税支払いのチェックがあって、それから出国審査である。
女性係官と男性係官が並んで座って出国審査をしている。あまり並んでいなかった女性係官の方
に並んだ。結果は失敗。女性の方が熱心にチェックしながら審査するため遅いのである。女性が
1人処理する間に男性は2人も処理している。出国審査を終えるとロビーに出る。ぐるっと免税
店が並んでおり、本来であればここで買い物ができるはずであったが、もうVN−954の搭乗
開始時間11時40分を過ぎていてゲート6番の列はどんどんと機内に進んでいた。残念ながら
買い物は断念して搭乗の列に並ぶ。
飛行機は白地に青のラインとマークという旧塗装。機体は767−200で2−3−2の座席
配置である。この配置は夜行便としては席を立ちやすいのでありがたい。座席は、最後の最後だ
ったので、後ろも後ろ42Cの通路側。周りにはベトナム人の若者の男が何人か座っている。日
本の若者の影響であろうか、長めの髪を茶色に染めて立てている。特に遅れて入ってきたアタッ
シュケースを持ったイケメン系男性は、スチュワーデスにいろいろ注文をつけているようだ。か
つてのアメリカ文化の浸透が日本の永続的な発展を阻害したのと同様に、日本文化の浸透も東南
アジアの発展を阻害する要因となっているのならば、日本人として歓迎すべきものなのかもしれ
ない。
定刻を5分遅れ0時15分に動き始める。中央列の席なので外は見えないが、かなりのスピー
ドで誘導路を走っている。その間に安全設備の説明をアナウンスだけで済ましてしまった。0時
30分、滑走路上に出て、くるっと回って停止することなく、そのまま加速して離陸。上昇を始
めるといきなり室内灯が消える。ある程度上昇し平行に近づくと照明が点灯。飲み物のサービス
が始まる。前の方からなので、早く寝たいこちらとしてはいらいらする。謹賀新年ラベルでない
ハリダビールとおつまみ。それから免税品の販売もちゃんとやる。ベトナムの若者達がタバコを
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買っている。この飛行機にも灰皿があって使われていた形跡があることから、かなり最近まで喫
煙可能であったのだろう。レストランでは吸えなくなったようだが、ベトナムは今でも喫煙天国
である。免税の販売が終了すると、ようやく消灯となって眠りにつく。
眠りもほんのひとときである。3時ちょっと前に照明が点灯する。まあ飛行時間が4時間半な
ので仕方がないところだ。配られたメニューによれば朝食には、フイッシュとポークがあったの
だが、やはり後ろの方では選択肢がない。そもそも我々のは人数に入っていないのだから仕方が
ないのだが。ポークの方は、脂身たっぷりのポークの角煮、生姜炒め、それにライスとかなりヘ
ビー。フランスパンにかまぼことお新香、スイカにヨーグルト。コーヒーはベトナム風。もうビ
ールはいらない。
着陸30分前になって、日本の紹介ビデオが流れる。誰向けなのか、なぜか日本語である。ま
ずお札の紹介があるのだがそこから間違っている。旧札を使っているのだ。そして東京の観光案
内。上野の観光ポイントについて説明があったのだが、東京都美術館が現代美術館として説明さ
れていた。訳の分からない展示があるという点では当たっているのであろうが。上野、浅草、銀
座、六本木と進む。六本木ヒルズはちゃんと紹介されている。そして東京タワー、秋葉原、築地、
これで一巡。日本には様々な自動販売機があると言っていたが、ネクタイの販売機ってあっただ
ろうか?食べ物の紹介でも、寿司などは漠然と紹介されていたが、なぜか「吉野屋」と「てんや」
だけが固有名詞で紹介されていた。そうこうしているうちに、うとうとしてしまい、突然4時4
5分に着地した。55分に第2ターミナルのサテライトのブリッジに到着。時差があるので2時
間進め、今は6時55分である。
帰りもスカイナイラーで終わるのがこの紀行シリーズの慣例になっている。今回は早朝であっ
たため、モーニングラーナーが走っていた。停車駅が多く、乗車駅ごとで指定される車両に乗る
形で、席は自由席になる。日暮里まで1400円と安く済むのがいい。(了)
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