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中部学院大学・中部学院短期大学部
研究紀要第
号(
)
あきらめに関する心理学的考察1)
−その意味と概念について−
Resignation (giving up): Meaning and Concept in Psychology
大
橋
明
Akira OHASHI
本論では、 人間が生きていく上で必ず出会う“あきらめ”という心的様相について考察した。 あきらめの語義を整
理したところ、 あきらめには“明らかにする”“心を晴れやかにする”“断念する”などの意味があることが示され
た。 また対象喪失やあきらめについて述べてきた研究者の論を吟味したところ、 あきらめは“不運に従う”“向き合
わない”“放棄する”といった側面で捉えられている一方で、 対象を断念する中でその痛みや思慕の情に折り合いが
ついていくという意味で用いられていることが示唆された。 加えて従来の臨床研究を検討し、 あきらめと希望との関
連性について肯定的な視点から論じた。
キーワード:あきらめ
断念
対象喪失
受容
希望
はじめに
域では、 あきらめの意義について語られてもいる (倉光
人間は生きていく中で、 様々な目標や欲求、 期待を抱
佐藤・佐々木・鈴木・朝田
く。 そしてそれらを叶えようとする。 しかし、 我々の思
いは叶うことばかりではない。 デパートで物をねだった
内田
)。 このように、 あきらめはさまざまな意味が伴うも
のであり、 明確な定義というものがみられない。
が結局買ってもらえずに、 泣いたり地団駄を踏んだりし
本論では、 あきらめが何を意味するのかについて概観
た幼い頃の体験をはじめとして、 自分の目標とした学校
する。 次いで、 あきらめを説明する上で関わりのある理
に進学できず、 違う学校に入学することもそのひとつで
論について考察を行う。 さらに、 あきらめることがどの
ある。 また、 好意を抱いた相手に思いが届かない場合に
ような意味をもつのか、 その肯定的な意味について希望
傷心することもある。 大切な人を喪った場合もあれば、
との関連性に焦点を当てて検討したい。
まだ生きていたいのに死を迎えなくてはならない場合も
ある。 今まで夫婦生活を送ってきたのに、 離婚しなけれ
1. あきらめの語義
あきらめの動詞形である“あきらめる”の語彙と意味
ばならない状況に追いつめられ、 その決定をしなければ
ならないことや、 大切な会社を売り払わなければならな
の変遷については、 遠藤 (
い状況に追いやられ、 その決断をしなければならないこ
によると、 “あきらむ”は万葉集から用いられた息の長
ともある。 せっかく心を込めて丹念に育て、 実りを待つ
い言葉である。 あきらむは、 上代 (奈良時代) から現代
ばかりとなった農作物が、 たったひとつの台風によって
に至る間に意味の大きな変遷がある。 もともとあきらむ
失われてしまうこともある。 このように、 願ったものが
という言葉は“見る”と結びついて“十分に見て、 よく
手に入れられない場合や思い通りにならない場合に、 時
わかる”“心を晴らす”という意味で用いられていた。
にはその対象を思い切る、 すなわち断念しなくてはなら
平安時代には“事情をはっきりさせて申し上げる”“聞
ないこともある。 この事象は“あきらめ”と表現される
いて事情が明らかになる”となり、 明治時代に“断念す
が、 我々の人生の中であきらめを避けて通ることはでき
る・思い切る”という意味が伴ったことが指摘されてい
ない。
る。
乙幡 (
このあきらめについては、 “あきらめるな”“あきら
) は、 正岡子規の著書
) に詳しい。 それ
病牀六尺
を吟味
めずに”などとよく表現されることからもわかるように、
し、 その中であきらめるという語が多く使用されている
あきらめることは望ましくないことといった意味合いで
ことを指摘する。 またその意味を、 断念というよりもむ
よく用いられている。 一方で、 心理臨床や精神医学の領
しろ、 置かれた状況で物事を受け入れ、 乗り越え、 その
1)
本稿を作成するにあたり、 平成
を受けた (若手研究 (B)
年∼平成
)。
年度文部科学省科学研究費の補助
生を楽しむという積極的な姿勢と捉えている。
以上のような語の意味については、
― 23 ―
に示した
研究紀要
第9号
通りである。 “明らめる”は“明らかにする”“見極め
“あきらめずに彼 (彼女) にアタックしなさい”“ゴー
る”という意が、 “諦める”は“思い切る”“断念する”
ルまであきらめるな”などと使用することがある。 この
という意が中心となっていることが窺われる。 また、 佐
場合は対象が失われてしまわないように、“断念しない
) も指摘するように、 “諦”という字も本来
ように”“しがみつきなさい”などの意図で発せられる。
は“つまびらか (にする)”“明らか (にする)”“まこ
一方、“自分の欲しかったものをあきらめた”“就職
と”“真理”という意味と“さけぶ”“なく”という意
することをあきらめた”と使用する場合、 一般的には対
味をもつ (
藤ら (
)。 このよ
象を手に入れることを断念するあるいは対象を思い切る
うに、 本来あきらめ (諦め・明らめ) という言葉は、 無
鎌田・米山
戸川
という意味合いになる。 しかしその場合は、“あきらめ
力感や自棄を意味せず (佐藤ら
た”と言いながらも“あきらめられない”状況になるこ
)、 自らをみつめ、
明らかにすることを示していると考えられる。
一方、 英語では、
や
される。
とも多い。“もうあきらめた”と言い、 その思考と距離
などと表現
を置き考えないようにすることで自分の心を守ることも
) による
ある。 もしも“あきらめた”と心の迷いもなく言える場
(
は
と、
合は、 どれだけもがいても対象が手に入らないというこ
’
、
とを明らかに捉える、 つまり“事情をはっきりさせる”
、
される。 また
という作業があり、“心を晴れやかにする”こともある。
については、
、
と表現
このように、 私たちの生活の中で“あきらめ”は私た
、
ちの心をさまざまな意味合いで示すために用いられてい
、
る。 愛好されると共に嫌悪されるもの (山野
、
) と
いう指摘のように、 肯定的な意味合い・否定的な意味合
と記されている。
いを共に携えた語であることが推測される。
このような語義のある“あきらめ”であるが、 普段私
たちはこの言葉をどのような意味合いで用いているだろ
2. あきらめに関する主要な論
うか。“最後まであきらめずに試験勉強をしなさい”
― 24 ―
あきらめは突然生じるものではなく、 何らかのきっか
あきらめに関する心理学的考察
けがあって起こる。 あきらめの概念に関する整理はほと
いる) という。 これらのさまざまな感情を洞察すること
を中心
が、 心の煩悶を消し真の断念に達するために必要である
んどなされてこなかったが、 ここでは
とした精神分析学・対象喪失の論に触れたい。
を
(山野
は、“元来われわれは何も
)。 一方で
祖とする精神分析学の領域では、 あきらめという言葉が
断念することができない”“断念と見えるものも、 実の
特に採用されているわけではない。 しかしながら、 あき
ところは元のものの代用あるいは補償構成物なのである”
らめという語がある対象を失うことに伴って用いられて
(
いることを考慮すると、 対象喪失の観点は無視できない。
ように、 失われた対象を自分のもとに戻すことは叶わず、
対象喪失とその折の精神的な問題を論じたものに
悲
哀とメランコリー があるが、 その中では“断念(
という言葉が用いられる (
)
) 。
訳
(
)”
高橋他訳
) に
課題となる。
の理論を背景に、
(
) は、 対象喪失が
よると、 悲哀やメランコリーは愛する者や祖国、 自由な
これを“
どの喪失によって生ずる反応である。 小此木 (
ここでいう
山野 (
) や
) も、 これは死だけではなく愛する人との別
) と述べる。 この
新たな対象へと向きを変えるに至ることが悲哀の作業の
井村・小此木
井村・小此木訳
,
(
) や
つの部分から構成されるとし、
―
”と表現している。
は、 失った満足を与えるものに対
する望みをあきらめること (
) あるいはたどり着け
れや住み慣れた環境との分離、 自分の誇り・よりどころ
などにも言えることであるという。 悲哀とメランコリー
ないような自分で選択した目標や大望 (
) をあ
に共通する部分としては、 苦痛に満ちた不機嫌な状態や、
きらめることをいう。 前者は外部からもたらされるもの
外部への興味の放棄、 新しく愛の対象を選ぶ能力の喪失
で、 無力感、 つまり放りっぱなしにされ、 見捨てられ、
などが指摘されている。 またメランコリーの場合は、 行
がっくりとしている状態であり、 後者は絶望感と関連し、
動の制止や自責・自嘲によって代表される自我感情の低
自暴自棄、 空虚感、 残されているものは何もないという
下が伴うという。 これらは、 対象が存在しないにもかか
感情が伴う (
)。 一方
は、 満足を与
わらず、 リビドーがその対象との結びつきから離れる際
えるものの喪失の認識や許容 (
)、 かつての満
の反抗、 つまり失われた対象にこだわることから生じる。
足を与えるものに対する望みにたどり着けないという最
その例として、 小此木 (
終認識に付随する解決段階 (
) や山野 (
) は、 失っ
) を示す。
たことを認めようとはしない“否認”をはじめ、 相手に
小此木 (
なぜこのようなことをしてしまったのだろうという“く
る最中に対象を手放そうとしない心の部分 (
) と、 喪失が動かしがたい現実とあきらめ、 この現
やみ”、 埋め合わせをしたいという“つぐない”、 相手
に激しく怒りを燃やす“憎しみ”“うらみ”とそれに対
) の言を借りると、 対象喪失が起こってい
実を受け入れてしまった心の部分 (
) があ
する罪悪感から生じる“おびえ”、 失った対象に自分が
り、 対象喪失の心理過程には常にこの つが存在してい
なってしまう“同一化”、 失ったことは大したことでは
るという。 また、 このようなあきらめの経験は、 成長過程
ないと考えたり無関心であるかのように振る舞ったりす
や加齢など人生を通して繰り返し起こる (
また
る“躁的防衛”などを挙げている。 その他追想や期待な
どさまざまな形でリビドーと対象とが結びつくわけであ
) は
)。
の
―
必須要素を、 心理的無力感 (
) であり、 置かれた環境の変化に対処できない
るが、 現実はそれに対して対象が存在しないことを告げ、
ひとつひとつリビドーの解放が行われる。 これには時間
(
という長期に渡る感情 (
がかかり、 また備給が多く費やされながら行われていく。
) としている (
そして悲哀の作業が完了した時には自我は自由になる
井村・小此木訳
(
小此木 (
) は、
)。 つまり、 過去において活用された心理的・
)。
の論を引用し、 相手を失っ
てしまったことを知的に認識することと、 失ったことを
社会的手段がもはや効果的でなく利用できない状況であ
る。
その他
心からあきらめ、 情緒的にも断念できるようになること
(
) によると、 患者に病気になる前
とは異なるとする。“なんとかして対象を失うまい”と
の感情を話してもらった結果、 ①無力感あるいは絶望感
する“さまざまな情緒体験”の中で、“最終的には、 対
という
の感情、 ②低下した自己イメージ、 ③関
象を取り戻そうとする試みが不毛であり、 自分にはとて
係や役割の満足感の喪失、 ④過去・現在・未来の連続性
もそれは不可能だと心からわかるとき、 激しい絶望が襲
の感覚のなさ、 ⑤以前にあきらめた記憶の復活という
い、 すべてを投げ出した悲嘆の状態に陥る”(小此木
つの特徴があるという。 ①については、
―
を示す患者は、 進退窮まり、 途方にくれ、
下線部は小此木によって傍点がつけられて
の訳
混乱し、 先が見えず、 行き詰っているといった感情を一
書における表現である断念をそのまま採用している。 このもともとの語である
について、 本邦の和独事典ではあきらめとも表現されているため、 本論で扱っ
た。
般的に示したり、 そのような感情を回避するあるいは打
2)
山野 (
) や小此木 (
) では、
の
悲哀とメランコリー
ち勝つための努力を代わりに強調したりすることがある
― 25 ―
研究紀要
第9号
という。 この
の
―
につ
ど続く。 思慕と探求の段階では、 喪失を事実として受け
いて、
止めつつも、 失った対象を探し求め取り戻そうとする衝
(
) は、 落胆、 絶望、 抑うつなどと呼ばれる士気喪
動が生じる。 探しても成果が得られないためにフラスト
)、 対処不能などの感覚が伴うことを
レーションがたまり怒りを示すことが多い。 この段階で
失 (
指摘している。
は、 対象の探求、 希望、 悲観、 嘆き、 怒り、 非難や忘恩
なお、 精神分析学との一派である自己心理学の観点か
) は、
ら“意地”という心性について検討した富樫 (
が認められるが、“失われた人を見つけて取り戻したい
黒田他訳
という強い衝動のあらわれ”(
他者を自分の思い通りにして自己愛の欲求を満たすこと
) であり、 数ヶ月から数年かかるという。 混
ができると信じることを蒼古的自己愛空想としている。
乱と絶望の段階では、 悲しみに耐え、 喪失した対象を探
そして“諦め”を、“自己愛的に投資された対象とその
し求め、 喪失の経過や原因について検討を繰り返すなど
蒼古的自己愛空想への執着を捨てること”(富樫
を通し、 喪失が永続的な事実であることを認め、 その際
) とした )。 そして対象を諦められない場合は、 自
は抑うつや無感動の状態になるという。 それを通り過ぎ
分の傷つきを修復しようと一層蒼古的自己愛空想にこだ
ると、 新しい場面と自分とを再確認する再建の段階に至
わり、 独善的な正当化や自己破壊的な攻撃性につながっ
る。 自分の生活が再建されなければならないこと、 自分
ていくことを指摘している。
のこれまでの行動パターンを取り去らなければならない
以上のことからも、 断念とは対象喪失を契機に否認や
ことを自覚する。 遺された者は、 現実的に起こってきた
くやみ、 自暴自棄、 絶望感、 時間のつながりの感覚のな
変化に伴って生じる新しい役割を達成すればするほど、
いさまざまな心的様相を呈しつつ、 悲哀の作業という過
自信をもち独立感を味わうという。
程を通して愛着の対象から離れていくことに成功する
村上監訳
(
考えられる。 富樫 (
) ことと
) の論では、 対象やそれへの思
末期患者の心理過程についてまとめた
(
川口訳
うつ、 受容の
) は、 否認、 怒り、 取り引き、 抑
段階に分類している。 否認の段階では
いを取り除くことを諦めとしているが、 この断念と概ね
“それが私のことであるはずがない”と自分が破局的な
符合すると考えられる。
状況にいることを認めない。 次の怒りの段階では、“自
分で間違いはなかった”と否認が維持できなくなり、
3. あきらめが生じる過程
“なぜ自分なのか”“なぜあの人ではないのか”などと
あきらめが生じる過程はどのようになっているのだろ
怒りや憤り、 羨望、 恨みが生じる。 取り引きは、 人々や
うか。 ここでは、 さまざまな対象喪失体験とその回復過
神に対して申し出をし、 何かを約束すれば死を引き延ば
程に関する研究の一部を採り上げ、 先に記した“心を晴
せるのではないかと考える段階である。 そのうち自分の
れやかにする”“断念する”をあきらめとして整理した
病気を否認できなくなり、 衰弱が進み、 さまざまな喪失
い。
感が生まれてくるが、 これが抑うつの段階である。 ここ
まず挙げられるのは、
(
黒田他訳
では反応性抑うつと準備性抑うつが生じるという。 前者
) が親と分離した乳幼児を観察する中で見出した反
抗、 絶望、 離脱の
段階である。 小此木 (
) による
は例えば病気によって歩くことができなくなったことに
よって陥る抑うつ (柏木
) であり、 後者は差し迫っ
と、 反抗とは対象は不在であるものの、 喪失には至って
た喪失に思い悩み、 この世と別れ死を迎えるために陥る
いない段階である。 または再会への期待が伴う段階であ
抑うつである。 この準備性抑うつに伴う苦悩や不安に耐
るために、 子どもは親を探し求め、 取り戻そうと試みる。
えることのできた患者だけが、 受容の段階に至ることが
絶望は、 対象が永久に戻ってこない現実を認める段階で
できるという。 この段階では、 すべてを失うという嘆き
あり、 不穏、 不安、 引きこもり、 無欲状態が生じる。 離
も悲しみもし終え、 ほとんど感情もなく、 自分の終わり
脱は、 対象に対する愛着が失われる段階であり、 新しい
を見つめることができる。 しかし、“もうこれ以上闘え
対象を発見し結合することで新たな心的体制が再建され
ない”といった諦念や絶望を示すものではないことも指
る。
(
黒田他訳
) は、 反抗を分離不
安、 絶望を悲嘆、 離脱を防衛と関連づけて整理している。
また
(
黒田他訳
) は、 従来の研
究を参考に配偶者の喪失においてみられる悲哀の
を提示した。
(
黒田他訳
段階
) によると、
摘している。 デーケン (
(
川口訳
) は、 この
) の論に“期待と希望”という第
番目の段階を加えている。 死後にも永遠の生命を信じる
人の場合、 第
段階の“受容”に留まらず永遠の未来を
積極的に待ち望み、 希望に満ちた明るい態度をとるよう
無感覚の段階、 思慕と探求の段階、 混乱と絶望の段階お
になるという。 デーケン (
よび再建の段階に分類される。 無感覚の段階では、 茫然
で愛する人に再会するという期待が多い。
として死別を認めることができず、 数時間から
富樫 (
) は論文の中で 「諦め」 と一貫して表現しているため、 本稿でもその
まま記した。
3)
なお、 このデーケン (
週間ほ
) によると、 死後の世界
) も日本、 ドイツあるいは
アメリカで肉親と死別した人たちに共通してみられた悲
嘆の
― 26 ―
段階を提示している。 そこでは、 肉親との死別
あきらめに関する心理学的考察
後、 第
段階の麻痺状態に始まり、 否認、 パニック、 怒
求、 攻撃や幻想的一体感による自我防衛が図られる。 第
りと不当感、 敵意とうらみ、 罪意識、 空想形成・幻想、
孤独感と抑うつ、 精神的混乱とアパシーなどが続く。 第
段階は“あきらめ−受容”であるが、 愛する人がもう
段階では、 否認が揺らぎ始め、 相手のネガティブな側
面を語るようになるが、 一方でその心境を否認し、 相手
を取り戻そうと焦る。 第
段階は、 この第
段階と第
この世にはいないというつらい現実に勇気をもって直面
段階を行き来し、 怒り、 焦り、 不安が生じるという。 第
することにより、 相手の死を心から受け入れられるよう
段階では悪あがきがひどくなり、 愛情の離脱がわかっ
になる。 ここでは現実の世界に立ち返り、 事実を受け止
てくるがそれを否認しようとする。 行動化で不安を抑制
めようとする真剣な努力がなされるという。 そして、 第
し、 イメージの中で配偶者を殺すこともある。 続いて諦
段階の新しい希望、 第
段階の立ち直りの段階へと至
る。
る。 第
障害受容の過程はさまざまな研究者によって議論・整
理されており (
田・南雲
高瀬
古牧
では上田 (
上田
段階は、 幻滅と愛想尽かしによって幻想的一体
感が消失し、 制裁や復讐を求めつつも、 諦めと未練が入
本
り混じった態度を示す。 そして第 段階では、 諦めを表
)、 本邦
明し、 配偶者に対しての情念が消え、 ほろ苦い中に漂う
) のショック期、 否認期、 混乱期、 解決
への努力期、 受容期、 古牧 (
) のショック期、
回復への期待期、 悲嘆期、 再適応への努力期、 再適応期
の
めの気持ちが湧いてくるが、 まだ認めたくない段階であ
甘い感傷で心の傷を癒すという。 山野 (
) は、 第
段階で“‘コトッと落ちたように’諦めが表現される”
と述べる。
段階が主に採用されているようである。 古牧
以上のように、 研究者によって表現も異なり、 また喪
) の論に従うと、 ショック期では障害者に
失する対象や背景も異なるが、 どの研究者にも概ね共通
なったという自覚はもっておらず、 いつか元通りに戻れ
に認められる段階として、 ①対象を喪失する可能性が生
るという意識がある。 回復への期待期では、 健常時と同
じた時、 防衛などを通して自分の心を守ったり、 さまざ
じ身体機能ではなくなった、 障害者になったという意識
まな行動を採ることを通して対象を取り戻そうとしたり
をもち始めるが、 回復への期待が大きいために障害部位
するもがき・あがきの段階、 ②その対象を取り戻せない
の機能回復に執着する。 悲嘆期では、 回復に期待がもて
という事実を認識し、 無気力や抑うつになる段階、 ③対
ず、 障害をもって生きなければならないことを知り、 怒
象と離れあるいは対象への思いとともに回復や立ち直り
りや嘆き、 苦しみの感情をもつ。 再適応への努力期では、
へと至る段階の
(
種類が考えられよう。
健常な身体を求めることをあきらめ、 障害者として生き
ていく準備を行う。 抑圧や退行などの防衛反応が生ずる
こともある。 そして再適応期は、 社会や家庭で新しい生
4. あきらめと受容の差異−あきらめとは何
か−
このように対象喪失とその過程について整理してきた
活が行われる時期である。
配偶者から離婚を求められた当事者の心的変化を裁判
所調査官という立場でまとめた山野ら (山野
野・平川・森本・伊藤
山
) は、 “諦め”の過程その
が、 ではあきらめとは一体何なのだろうか。 類似すると
思われる概念である受容 (自己受容) と比較しながら、
あきらめというものが何かを考えたい。
)
ものを整理している 。 山野は、“既にその保持が不可能
障害受容について詳しい
(
) は、 あきら
となってしまった対象に対して、 なおも残存している愛
めがそれでよいという感情というよりは、 不運に従う
着”を“未練”と定義し (山野
(
)、 離婚調停
) ことを意味し、 肯定的な感情が
における当事者の様相から、 中核未練群、 類未練群、 疑
含まれていないことを指摘している。 同様にリハビリテー
似未練群に分類している。 中核未練群とは、 あきらめる
ション学の立場から障害受容について論述している上田
しかない状態にあるにも関わらず、 その状態を否認し、
(
) は、 松田・花岡・斎藤・松本・児玉・滝沢
幻想的・錯覚的に対象の保持を願い続ける者である。 類
(
) が脳卒中片麻痺患者が麻痺を受容している場合
未練群は夫婦の心中で進んでいる愛の離脱の過程がずれ
をあきらめ、 受容が悪い場合を執着としているのをうけ
ることで生じる情緒的混乱に基づく反応としての未練を
て、 受容とあきらめを同一視していることに疑義を呈し、
もち、 自力では諦めに達することができない者を指し、
これらの意味に関する誤解が頻繁に生じていると指摘す
疑似未練群は正常な諦めの過程でアクシデントによって
る。 また、“障害の受容とは、 あきらめでも居直りでも
意地となり、 諦めの表現を拒否している者を指す。 その
なく、 障害に対する価値観 (感) の転換であり、 障害を
うち、 類未練群の諦めの過程を
もつことが、 自己の全体としての人間的価値を低下させ
段階に分類している。
段階では、 愛情の離脱を否認し、 相手の気持ちを無
ることではないことの認識と体得をつうじて、 恥の意識
視して自分の思い通りにさせようとしたり、 自分の下に
や劣等感を克服し、 積極的な生活態度に転ずること”
戻ってこないことを非難したりする。 また、 合体化の欲
(上田
第
4)
山野 (
まま記した。
) は論文の中で 「諦め」 と一貫して表現しているため、 本稿でもその
) とし、 受容があきらめという消極
的なものではなく、 障害を心理的に克服するという積極
的なものとして捉えている。 さらに、 古牧 (
― 27 ―
) を引
研究紀要
第9号
き合いに出し、 自分の障害を受容したということは、 新
することもできないと、 解決をあと延ばしにする”とい
しい人間に生まれ変わったという自覚をもつことである
う項目で示している。
という。
このように、 障害受容や自己受容などの立場では、 あ
) は、 自分に対してそれでよい、 そ
きらめが置かれた状況を認めつつも“不運に従う”“向
のままでよいと感じている状態を自己受容とし、 あきら
き合わない”“放棄する”といった否定的な側面を強調
めや自己満足、 開き直りを、“問題に直面することなく、
していると言える。 一方、 受容は喪失感や怒りなどの感
それを回避したり、 そこにとどまろうとして、 安易に現
情は克服され、 自分の置かれた状況を“受け入れる”こ
状に満足するようなもの”(沢崎
) と捉えて
とであり、 そしてそこには積極性が伴うものとされてい
) は、 内省の
る。 つまりあきらめと受容は、“否定的−肯定的”といっ
沢崎 (
いる。 その定義に従った鈴木・渡部 (
程度を軸にして、 自分に受容的で内省を十分行った場合
た対立軸で捉えられているともいえよう。
は自己受容であり、 一方自分に受容的であるが内省を十
しかしながらあきらめとは、 果たして内省の程度が低
分行っていない場合が“あきらめ・自己満足”で、 自分
く、 安易に現状に満足する、 あるいは現状を放棄するこ
と十分向き合わず今のままでよいと感じている状態とし
とのみを示すのだろうか。 またあきらめと受容は、 否定
た。 また自己受容している場合は、 他者と良好な関係を
的−肯定的という対立軸で区別できるものなのだろうか。
もつことを志向するという。
上田 (
末期患者を数多く看取ってきた
) は、 自己受容をありのままの自己を受け
(
入れることであり、 自己に対する肯定的態度を示すもの
であきらめと受
であるとする一方で、“受け入れる”ことは必ずしも肯
容の違いを述べている。 受容の段階にある者は平静さや
定的であることや適応的であることを意味しないと指摘
平和な感情、 落ち着きを見せ、 威厳の雰囲気を漂わせる
する。 また、 自己受容のメタ認知的機能にも言及し、 自
という。 一方、 運命へのあきらめという段階にある者は、
己評価の低い人がそのことを認めた上で、 “しょうがな
怒りの感情が滞り、 恨みと悩みがあふれていて、 放棄の
い”と感じること、 あるいはそういう自分でもよいと感
言葉を示すようなことが多い。 そしてそれは挫折や徒労、
じることとしている。 この上田 (
敗北の感情であるという (
として質問紙調査を行っているが、 自己評価の低い人に
川口訳
) も、
死ぬ瞬間の対話
川口訳
) は、 学生を対象
)。 そして“わたしたちすべては遅かれ早かれ死な
自己受容的な構えがみられることを示し、 受け入れるこ
なければならないのですから、 死の受容ということは人
とは自己が受け入れられるものだからであり、 受け入れ
として到達あるいは成就し得るもっとも現実的なことが
がたいものを受け入れるあきらめにこそ自己受容的な構
) と述
えがあるという。 同様に自己からあきらめを捉えようと
らです”(
川口訳
べる。
した井上 (
同様に柏木 (
柏木
) は、 現実自己に見合うように理想自己
) は、
を低めようとする態度をあきらめとしている。 これらの
ターミナルケアにおける患者の心理状態の移り変わりに
論に従うと、 あきらめと受容とが否定的−肯定的として
ついて、
相反するものであると限定するような考え方に疑問が生
(
川口訳
) の論を踏
まえ日本人の傾向を指摘している。 患者は最終的に死に
対して受容 (
) あるいはあきらめ (
じる。
)
登校拒否の子をもつ親を対象に心理臨床面接を実施し
に到達する。 柏木によると、 受容とは積極的な態度であ
た内田 (
り、 医療スタッフは受容している患者と深くコミュニケー
まり”“あきらめ”という過程を通ることを指摘した。
ションが取れ、 全体的に温かい感情を体験する。 一方、
操作的期待とは相手に自分の思い通りになってほしいと
あきらめとは消極的な態度であり、 表面的なコミュニケー
いう期待をいう。 つまり、 何かのきっかけで学校に行っ
ションや非連続的なコミュニケーションしか取れず、 若
てほしいといった思いを指す。 親が自分の期待に気づく
干冷たい感じがするという。 柏木は
名の死を看取っ
と、 あまり期待をしないでおこうと考えつつ、 深いレベ
) であり、 あきらめに対
ルで別の期待を抱いていたりする中で、 子どもが学校に
てきたホスピス医 (柏木
する考え方は同じく多くの患者を看取ってきた
) は、 親の思いが“操作的期待”“行き詰
行かないことが続くと、 親はかなり困惑し、 期待を押し
と符合する。
付けてはダメだと言いつつ、 操作的に働きかけたりする。
ストレス理論のコーピングでもあきらめという表現が
親がかなり不安定になり行き詰まり (息詰まり) の状態
採用されている。 例えば、 対処方略の三次元モデルとい
に至る時期を過ぎると、 操作的期待をせずに自信をもっ
う観点から、 神村・海老原・佐藤・戸ヶ崎・坂野
て子どもを見られるようになり、“子どもに任せる”と
(
いう発言が認められるようになるという。 この状態が内
) は
という尺度を
作成し、 そのうち回避型コーピング、 問題焦点型コーピ
田 (
ングおよび認知型コーピングの組み合わせを“放棄・諦
とするのではなく、 結果として変わっていくものとして
め因子”と命名し、“自分では手におえないと考え、 放
捉えられている。
棄する”“対処できない問題だと考え、 諦める”“どう
同様に内田 (
― 28 ―
) のいうあきらめであるが、 あきらめさせよう
) は、 てんかん児をもつ親への面接
あきらめに関する心理学的考察
事例から、 あきらめとは子どもを見放したり見捨てたり
これらは、 失わなければならない対象が自分にとって大
することではなく、 子どもの現実の姿や現状にそぐわな
切なもの、 またそれに依存しているほどその苦痛に耐え
い過剰な期待をあきらめることであり、 親のイメージに
ることができず、 現実否認や、 取り戻そうとする空しい
近づけようという“操作的期待”をあきらめることであ
努力、 責める、 恨む、 運命を変えようとするなどのさま
るとする。 そしてこれによって、 より素直にありのまま
ざまな思いが生じるとする小此木 (
の子どもの姿を見ることができるようになるという肯定
る。 この論に従うと、 ここでの“あきらめ”は、 対象と
的な意味合いを込めている。 この内田 (
うまく離れるためのもがきであると考えられる。 つまり、
) に
報告される親の心境は、 内省しない、 子どもの発達に向
(
高橋他訳
) の論と符合す
) が示した悲哀の作業に
き合わない、 不運に従うというあきらめの概念では説明
おいて、 対象との結びつきから離れることへの抵抗の結
できない。 先述した山野 (
果出現するものではないだろうか。
) の例でも、 確かに否認
をはじめとする防衛が伴うにせよ、 内省していないわけ
さらに障害受容に詳しい本田・南雲 (
(
第二は、 北山 (
内田 (
でもなく、 向き合っていないわけでもない。
) は、
)、
)、 山野 (
) や松岡 (
) などに示されるように、 行き詰まり
を体験したり、 対象を取り戻すことが不可能だと心から
) が記した受容の状態を示す“たとえ思い
わかり絶望や無力感に陥ったりする中で、 その苦い感傷
つくような資産 (能力) がないけれども、 わたしの人生
を抱きつつも折り合いがついていくことを“あきらめ”
は満ち足りている”(本田・南雲
とする場合である。
) という
言葉を障害者からいまだ耳にしたことがないという。 関
(
の論を解釈した小此木
) の言に重ねると、“悲哀の作業が完了した後では、
) も精神障害者のライフストーリーを検討する
自我は自由になる”“対象と二度と会うことのできない
中で、 誰もが障害者となった自分をよしとできるものな
この苦痛は、 依然として苦痛として残る”が“その悲し
のかと疑問を呈している。 そして、 障害を否定し、 それ
みや思慕の情を、 自然な心によって、 いつも体験し、 悲
までの人生に未練を残しつつも、 障害者となった自分を
しむことのできる能力を身につける”(小此木
谷 (
あきらめとともに認めながら生活を送っている者の存在
) 状態と考えられる。
を指摘している。
これらの
精神分析学と心理臨床に詳しい北山 (
) は、“あ
きらめた”と言う人は“あきらめてはいない”し、“あ
つの側面は、 対象喪失において対象を断念
する過程で共に体験されるものであり、 ともに“あきら
め”としてよいのかもしれない。
きらめないぞ”と言う人も半分“あきらめている”こと、
なお、 あきらめの概念に混乱が生じるひとつの理由と
半分あきらめ半分あきらめていないという“あきらめ半
して、 西洋と日本のあきらめというものの違いが大きく
分”が重要であることを指摘している。 それを踏まえ松
影響していることが考えられる。 北山 (
岡 (
) は、 乳幼児のイナイイナイバアにおいて“イ
(
川口訳
) の
) は、
死ぬ瞬間
で
ナイ”と“イル”を繰り返しながら子どもが母親の不在
は“あきらめ”が敗北として捉えられており、 “受容”
に適応していく例を挙げる。 そして松岡 (
) は、 あ
という指針で主体性の発揮が示されていると考察し、 西
きらめをこのような“‘あったりなかったり’の過程の
洋のあきらめと日本人のいうあきらめとは方向づけが異
なかに生まれてくる感覚”と捉え、 これがなくなってし
なるという。 また、 北山 (
まうことの痛みや悲しみを和らげていくことを示唆して
表現が対象喪失における困難や痛みを噛み締める感覚を
いる。
(
) も
と
に存在することを指摘している。 さらに山野 (
) は“はかなさ”という
が共
指しており、 厭世主義につながるために
) も
外として西洋文化では忌避されやすいという。 確かに障
の断念について、 失われた対象をまったく思い出
害受容は
ら (
)、 自己受容の概念は
さなくなることや、 悲しみを感じなくなることではなく、
を例
(
) と西
悲哀にこだわっていた自我が自由となり、 例えば悲しみ
洋で発展して本邦にも導入された概念であるが、 これら
は悲しみとして自由に感じることができるようになるこ
は肯定的に捉えられている。 一方、 先述したように西洋
ととしている。 つまり、 あきらめという事象には、 様々
におけるあきらめは、 受容とは対照的に否定的に位置づ
な思いを抱きつつも、 思い通りにならない、 対象を取り
けられている。 この視点に立脚してあきらめを論じる場
戻せないということを理解する、 あるいは相反する思い
合は、 あきらめを美意識としても捉える (山野
を抱きながらその思いとうまく折り合いがついてくると
九鬼
いう側面もあるように思われる。
合致しない部分があるのかもしれない。
以上のことからも、 あきらめには
とが指摘できる。 第一は、
)、 上田 (
) 日本人という視点を考慮に入れた立場とは
つの様相があるこ
(
川口訳
) に代表されるように、 怒り、 恨み、
5. あきらめと希望−あきらめは何をもたら
すのか−
悩み、 放棄、 挫折、 徒労、 敗北の感情、 内省しないなど
このように概観してきたあきらめであるが、 あきらめ
が出現している状態を“あきらめる”とする場合である。
は何をもたらすのだろうか。 これまで述べてきたように、
― 29 ―
研究紀要
第9号
(
) は
が無力感や絶望感をも
(
たらすという。 また
(
川口訳
) や
持ちと許せない気持ちとを両方持ちつつも、 仕方がない
こととしてあきらめることで、 夫への評価も変わり嫉妬
) は不運の思いや怒りなどをもた
妄想が軽減していったという。
らすと指摘している。 一方、 学生相談での体験を紹介し
ている田嶌 (
(
) はこの
∼
か月の間に寡婦 (寡夫)
) によると、 境界例の学生が様々な満
となった高齢者を対象に研究を行った結果、 効果的な悲
足や失望を体験していく中で、 特定の人が自分のニーズ
嘆の解決が高い希望につながることを報告している。 加
を完全に満たしてくれることはありえないことを体験的
えて東村ら (東村
) は
東村・坂口・柏木
に知るという。 そして、 他者に対して期待できるものと
の観点から死別経験による成長感
できないものとの区別ができ、“健全なあきらめ”“哀
を検討し、 遺族に“周囲の人たちへの感謝の気持ちをよ
しいあきらめ”が起こり、 その結果、“苦しみをひとり
り強く持つようになった”という人間関係の再認識、
で抱えておける力”がついてくるという。 また先述した
“私はどんな困難にも立ち向かっていけるとより強く思
) の例でも、 子どもの現実の姿や現状にそぐ
うようになった”という自己の成長、“自分の死につい
わない過剰な期待、 親のイメージに近づけようという
てもっと考えるようになった”という死への態度の変化、
“操作的期待”をあきらめることによって、 より素直に
“今までできなかったことをやりたい、 新しいことに取
ありのままの子どもの姿を見ることができるようになっ
り組みたいという意欲が増した”というライフスタイル
たという。 このように従来の研究者によって指摘された
の変化、“いのちの大切さを学んだ”という生への感謝
あきらめの影響は相反するものとなっているが、 これら
が生じていることを明らかにしており、 さらにこの内容
の相違は、 先述したあきらめをどのように捉えるかとい
を構成する尺度と楽観性には正の相関がみられたことを
うことと大きく関わっていると考えられる。
指摘している。
内田 (
ここでは特に希望という心的現象とあきらめとの関係
このように、 対象喪失の体験に対して解決あるいは折
について整理したい。 希望については、 本邦でもこれま
り合いがついていくことで精神的健康が高くなることが
で様々な研究者がその意味について論じてきた (北村
窺われるが、 精神的健康、 心理的幸福感と希望とは正の
大橋・恒藤・柏木
渡辺
白井
都筑
相関がある (
)。 近年では東京大学社会学研究
) ことからも、 あきらめが希望につながる可
所のプロジェクトとしても希望が採り上げられている
能性が考えられる。 しかし、 あきらめをどのように捉え
(玄田
るかによってその関係性は変わってくる。 例えば、 ネガ
)。 希望とは“来るべき未来の状況に明るさ
があるという感知に伴う快調をおびた感情”(北村
) であり、 人が生きていくための必須の要素
である (
作田・佐野訳
のだろうか。
)。
このことからも、 あきらめを“無視する”“内省しない”
) もあきらめが希望をもたらすことを示唆してい
る。 北村 (
ないことが心理的幸福感につながることが報告されてい
る (
) は、 分別あるあきらめ (
) が希望をもつためには必要であるといい、 渡辺
(
たりあまり考えないようにしたりする離隔型対処や、 問
題から心理的に逃げ出すなどの逃避型対処をあまり用い
) が、 あきらめは希望をもたらす
(
ティブな出来事に対して何事もなかったように振る舞っ
などとして扱う場合は、 精神的健康や心理的幸福感と関
連のある希望も低下することが推測できる。
) は、 求めたものが得られないという挫
また喪失の仕方や喪失した対象との関係性なども大き
折の中で、 新たなものを見つけることができれば希望が
く影響することも指摘できよう。 松岡 (
生じるという。 デーケン (
るように、 喪失した対象に関して簡単には心が晴れない
) も、 悲嘆の
段階の中
で、 あきらめの後に新しい希望が生まれることを指摘し
のも事実である。 西脇 (
ている。
他訳
倉光 (
) は、 クライエントが自分の欲求が完全に
は満たされ得ないことを正しく認識することを“諦め
) も指摘す
) は
黒田
(
) を踏まえ、 殺人事件の被害者遺族の場合、
怒りを表出する相手がいないために怒りを吐き出せず、
慢性化した“終われない”喪の作業になっていることを
(明らめ) ”としている。 その際、 完全には満たされな
指摘する。
い、 すなわちある程度は満たされているという認知の逆
どもを亡くした親の悲しみは永遠に終わらないことを報
転が生じるという。 また、 自分は生かされている、 存在
告している。 加えて、 家族の自殺を経験した人は、 そう
する価値がある、 症状や問題行動にも肯定的側面がある
でない人と比べて自殺率が
という認知が生じ、 未来や世界を明るくとらえるように
などの指摘もある。 従って、 あきらめが希望につながる
なる。 そして、 個人の価値観に基づいてなすべきことの
といっても、 さまざまな背景によってあきらめられない
イメージが浮かび上がるという。 佐藤他 (
) は心気
状況が存在すること、
(
) は、 子
倍にもなる (高橋
)
の言を待つまでもなく、 あ
症および嫉妬妄想を呈する女性患者の面接を通して、 夫
きらめに至るには大変な苦痛を感じることにも留意しな
が実姉と接吻したという過去の出来事に対して許せる気
ければならない。 また臨床場面においてあきらめをクラ
― 30 ―
あきらめに関する心理学的考察
イエントに強要することにもつながりかねない (佐藤他
) という指摘のように、 あ
でもある”(松岡
) ため、 あきらめの意味の共通理解なしに“あきら
きらめとは悲しみや痛みと折り合えるようになってよう
めが希望につながる”と安易に表現することは慎まなけ
やく到達できるものでもある。 従って“あきらめ”とは、
ればならない。
私たちが一般的に用いる言葉が示すもの以上に、 人間が
人間として生まれてきたがゆえに向かい合わなければな
おわりに−今後の課題と展望−
らない壮絶な営みなのかもしれない。
本論では、 あきらめという心的様相を理解する第一弾
として、 あきらめの語義、 あきらめを理解する上で重要
な理論について概観し、 またあきらめの意味について従
引用文献
来の研究を整理してきた。 その結果、 ある対象をあきら
めようという過程の中で、 そのことを無視する・不運に
従うなどの意味と、 対象を断念してその悲しみとの折り
ボウル
合いがついてくるという意味があることが示唆された。
ビィ
つまり、 あきらめとは曖昧さを伴う概念と考えられる。
母子関係の理論
しかしながら、 本論であきらめの意味の吟味が十分でき
富樫
分離不安
訳
岩崎学術出
版社
たかというとそうではない。 あきらめは日本文化特有で
あるという指摘 (九鬼
黒田実郎・岡田洋子・吉田恒子
) もあり、 例
ボ
えば宗教観などに代表される文化によっても、 あきらめ
の意味は異なる (北山
ウルビィ
) ことが考えられる。
黒田実郎・吉田恒子・横浜恵三子 訳
母子関係の理論
また、 あきらめとは認知や対処なのか、 あるいは結果と
対象喪失
岩崎学術出
版社
してもたらされる感情なのかについても、 今後さらに検
討を重ねていく必要がある。
さらに、 あきらめがどのように捉えられ得るのか、 よ
り精査することが求められる。 曖昧な概念であるあきら
41
めだからこそ、 どのように科学的、 客観的、 数量的に捉
えるかということも今後十分検討していく必要があろう。
小此木 (
27
) の論を再度借用するが、 彼は“相手を
失ってしまったという事実を、 知的に認識することと、
失った相手を心からあきらめ、 情緒的にも断念できるよ
3
うになることとは、 決して同じではない”という
の論を引用しつつ (小此木
)、 思慕の情や現
実否認が生じ、 取り戻そうと努力する、 あるいは見捨て
デーケン
悲嘆のプロセス
た対象への執着や怒り、 同一化、 おびえが生じることが
ての人格成長
あるということを指摘している。 対象を取り戻そうとい
生と死を考える
う試みが不毛であること、 自分には不可能であることが
曽野綾子・デーケン
デーケン
育として捉える
対象との関わりを整理し、 心の中でその対象像をやすら
ンド編集部 編
える
) という。 あきらめとは、 自分の求
遠藤好英
(小此木
がき、 闘い、 離れていく対象に固執する、 また対象に届
遠藤好英
デーケン
死への準備教育第
あきらめる
語史Ⅰ
る文章史的様相
験するものである。 その絶望感は希死念慮と深く関わり
子大学日本文学会
) ことからも、 そこで人生
を終わらせてしまうこともある。 そして、 松岡 (
)
の“ただ悲しみを乗り越えようとするのではなく、‘ど
うしようもない (仕方がない)’ことを知り、 心から悲
しむところに私たちは心の安定を見出すことができる。
それは晴れない思いをいかに抱えていくか、 という課題
― 31 ―
死を教
講座
明治書院
古代におけ
日本文学ノート 宮城学院女
(
高橋
巻
佐藤喜代治 編
「あきらめる」 の語史
かないことを覚知・了解し絶望感に陥ることを通して体
がある
生涯教
・メヂカルフレ
メヂカルフレンド社
日本語の語彙
めるものを幾度となく取り戻そう、 願いを叶えようとも
編
春秋社
死への準備教育の意義
心からわかる時、 激しい絶望が生じる。 しかし、“その
かで穏やかな存在として受け入れるようになっていく”
苦しみを通し
―
32
研究紀要
第9号
56
柏木哲夫
死を学ぶ
最期の日々を輝いて
有斐閣
3
49
柏木哲夫
死を看取る医学
ら
24
柏木哲夫
定本ホスピス・緩和ケア
金田一京助 編
辞海
北村晴朗
48
ホスピスの現場か
出版
青海社
三省堂
希望の心理
自分を生かす
金子
書房
北山修
1
フロイト
詩人と空想すること
文化・芸術論
高橋義孝他 訳
幻滅論
北山修
フロイト著作集
みすず書房
「夕鶴」 問題
世話する側の健康、 傷
臨床心理学 6
つき、 そして死
人文書院
キューブラー・ロス
4
フロイト
死ぬ瞬間
井村恒郎・小此木啓吾 訳
悲哀とメランコリー
不安本能論
フロイト著作集6
川口正吉 訳
死にゆく人々との対話
読売新聞社
自我論・
キューブラー・
人文書院
ロス
川口正吉 訳
死ぬ瞬間の対話
読売新聞社
フロム
希望の革命
ざして
作田啓一・佐野哲郎 訳
改訂版
技術の人間化をめ
九鬼周造
岩波書店
動機づけの臨床心理学
心理療法とオー
ダーメイド・テストの実践を通して
紀伊國屋書店
古牧節子
「いき」 の構造
倉光修
障害受容の過程と援助法
理学療法と
日本評論
社
作業療法 11
古牧節子
リハビリテーション過程における心理
的援助
ラプランシュ
とくに“障害受容”への看護的アプロー
月刊ナーシング 6
チを中心に
玄田有史 編
希望学
訳
・ポンタリス
精神分析用語辞典
村上仁 監
みすず書房
中央公論新社
松田勇・花岡寿満子・斎藤邦男・松本真由美・児玉武雄・
13
滝沢洋子
あきらめと執着
脳卒中片麻痺
患者における麻痺手受容に関する心理学的一検討
東村奈緒美・坂口幸弘・柏木哲夫・恒藤暁
理学療法と作業療法 13
死別
経験による遺族の人間的成長 死の臨床 24
松岡裕子
典
東村奈緒美・坂口幸弘・柏木哲夫
あきらめ
死別経験によ
る成長感尺度の構成と信頼性・妥当性の検討
臨床
精神医学 30
66
本田哲三・南雲直二
て
障害の 「受容過程」 につい
西脇喜恵子
総合リハビリテーション 20
井上光一
鎌田正・米山寅太郎
大漢語林
名古屋
49
大橋明・恒藤暁・柏木哲夫
大修館書店
整理
教育相談研究
希望に関する概念の
心理学的観点から
大阪大学大学院人
間科学研究科紀要 29
対処方略の三次元モデルの検討と新しい
の作成
特に喪の仕事に注目して
大学大学院教育発達科学研究科紀要 心理発達科学
神村栄一・海老原由香・佐藤健二・戸ヶ崎泰子・坂野雄
尺度
殺人事件の被害者遺族が抱える対加
害者感情
自己受容における向上心とあきらめ
京都大学大学院教育学研究科紀要
二
北山修 監 日常臨床語辞
誠信書房
大野晋・佐竹明広・前田金五郎 編
― 32 ―
古語辞典
あきらめに関する心理学的考察
補訂版
鈴木秀人・渡部玲二郎
岩波書店
対象喪失
小此木啓吾
悲しむということ
「内省」 および 「自己の
側面の重要性」 が自己受容に及ぼす影響
カウンセ
リング研究 38
中公新書
小此木啓吾
対象喪失と悲哀の仕事
精神分析研
究 34
27
田嶌誠一
瀬藤乃理子・丸山総一郎
心身医学
44
高橋祥友
新訂増補
高瀬安貞
より引用
乙幡英剛
病牀六尺
自殺の危険
身体障害者の心理
金剛出版
更正とその指導
白亜書房
における創作意識
「あきらめる」 の用法について
心
理臨床学研究 9
子どもとの死別
と遺された家族のグリーフケア
青年期境界例との 「つきあい方」
二松学舎大学
富樫公一
「意地」 の自己心理学的考察
的自己愛空想への執着と諦め
人文論叢
蒼古
精神分析研究
50
戸川芳郎 監
全訳漢辞海
時枝誠記・吉田精一 編
三省堂
国語中辞典
角川書
店
57
都筑学
希望の心理学
内田利広
登校拒否治療における 「親の期待」 に
関する一考察
13
三省堂編修所 編
版
三省堂
佐藤晋爾・佐々木恵美・鈴木利人・朝田隆
療法における 「諦める」 ことの意義
き続き嫉妬妄想を呈した
内田利広
精神
上田敏
筑波大学教育相談
上田敏
新しい
カウンセリング研究 26
その本質と諸段階につい
リハビリテーションを考える
上田琢哉
青木書店
自己受容概念の再検討
自己評価の
低い人の“上手なあきらめ”として
心理学研
究 67
自己受容測定尺度の青年期における信頼性と妥当性
の検討
障害の受容
総合リハビリテーション 8
て
研究
自己受容に関する研究
家族心理
学研究 7
自己受容に関する文献的研究
沢崎達夫
てんかん児を持つ親の
「期待」 と 「あきらめ」 をめぐって
女性例の治療を通じて
その概念と測定法について
ハンディキャップ後遺症家族に対する
家族療法的アプローチ
心気症に引
臨床精神医学 31
沢崎達夫
操作的期待―行き詰まり―あきら
心理臨床学研究 10
め
広辞林第
ミネルヴァ書房
梅棹忠夫・金田一春彦・阪倉篤義・日野原重明
日本語大辞典第
版
編
講談社
8
関谷真澄
20
「障害との共存」 の過程とその転換点
精神障害を抱える人のライフストーリーからみ
えてくるもの
新村出 編
白井利明
うもつか
尚学図書 編
社会福祉学 47
広辞苑第
版
<希望>の心理学
未練の心理
男女の別れと日本的心情
創元社
時間的展望をど
講談社現代新書
国語大辞典
山野保
岩波書店
山野保・平川義親・森本行子・伊藤直文
調停事件の解決への手がかりを求めて
小学館
理と諦めの過程
渡辺弘純
調研紀要
希望の心理学へ向けて
愛媛大学教育学部紀要 第
渡辺弘純
困難な
未練の心
研究覚書
部教育科学
日本の児童生徒における他者と自己へ
の寛容の機構に関する比較文化的発達的研究
24
年度∼平成
― 33 ―
48
平成
年度科学研究費補助金 基盤研究
研究紀要
第9号
研究成果報告書
渡辺波二
希望の心理学について再考する
渡辺弘純
研
諦めると希望が見える?
人文学と情報処理
愛媛大学教育学部紀要 52
究覚書
Resignation (giving up): Meaning and concept in psychology
Akira OHASHI
This study dealt with the psychological aspect of“resignation”which we, human beings, inevitably experience in the course of our lives. Japanese dictionaries say that resignation generally means“to clear up”
,
“to brighten up”or“to give up”. Examining the opinion of a researcher who has remarked on the loss
of an object and resignation, it was suggested that while resignation is considered to mean“to yield to m
isfortune”,“to avoid facing”or“to abandon”
, it is also used to mean to come to terms with pain and longing we feel when giving up an object. Taking other existing clinical researches into consideration additionally, the relation between resignation and hope was discussed from the positive point of view.
Key words:
― 34 ―