日中文学文化研究学会通信7月号 東京大学での日々、北園高校と中国

日中文学文化研究学会通信7月号
〒178-0063 東京都練馬区東大泉 6-34-21 大泉公館
2014 年 7 月 8 日
日中文学文化研究学会
電話&fax 03-5387-9081 Mail [email protected]
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東京大学での日々、北園高校と中国語
中山時子
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昭和 21 年 2 月 1 日の「女子教育刷新要綱」により女子にも東大の門が開かれ、最初の女
子受験生は 108 名、合格者は 19 名でした。倉石武四郎先生は、当時京都大学との兼任教授
でした。宇野哲人先生は北京大学の名誉教授で、頼惟勤先生は東大の助手でいらっしゃい
ました。授業では長澤規矩也先生の授業が印象的でした。別な機会にもお話ししたことで
すが、長澤先生の書誌学の授業を受けたときのことです。私が期末試験のレポートの準備
として取った大量のカードを持参してお目にかけたところ、先生はそのカードを一枚一枚
ご覧になって、レポートは提出しないでよいと試験を免除してくださいました。カードを
取ることはその後も続けていますが、研究の基礎作業だと思っています。大学ではもちろ
ん中国語の授業もありました。最初の授業で発音してみるように言われたので、
bo,po,mo,fo と言ったところ、先生からは、授業に出ないでよい、単位は出すからと授業を
受けさせてもらえませんでした。こうして中国語の発音を教室でどのように教わるのかを
学ぶチャンスを失ったのです。崇貞学園でもそうでしたが、教室で中国語を習ったことが
ないんです。
魚返善雄先生の授業もありました。作品名は忘れましたが、受講生はあらかじめ担当箇
所が決められおり、予習してから授業に臨むのですが、あるとき突然「中山さん、ここを
訳してごらんなさい」と私の担当でない箇所の訳を求められました。当時は中国語の辞書
は井上翠先生の辞書しかありませんでしたから、そこに載っていない中国語の意味は調べ
ようがありませんでした。先生もお分かりでなかったのかもしれません、私に訳してみろ
と言われるのです。私は仕方なく文脈から、これこれという意味ではないでしょうかと申
し上げると、先生は非常にお喜びになって「さすが中山さんだ」と、こちらが恥ずかしく
なるほど褒めてくださいました。北京での生活があったためでしょうか、初めて見る言葉
でも意味が何となく分かるようになっていたのかもしれません。このような日々を過ごし、
昭和 24 年に女子学生 17 名(うち文学部は 9 名)の一人として卒業しました。
倉石先生のご推薦で在学中から都立北園高校で中国語を教えました。東京府であった頃
のナンバースクールで、府立第一中学が現在の日比谷、第二が立川、第三が両国、第四が
戸山だったでしょうか、九番目が北園です。当時は「九中」といっていました。昭和 25 年
から北園高校と改名しました。板橋区にある進学校です。倉石先生の御著書『中国語五十
年』*に、私が中国語を教えることになったいきさつが書かれています。第二外国語教育に
1
熱心な高校です。
「落合校長からの使者として、教頭がたずねてこられ、北園で中国語をや
りたい。語学の先生は女性がよいとおもうので、女性で中国語ができる人を推薦してほし
いということであった」と書かれています。
編集注:1973 年 岩波書店
中国語のほかにドイツ語、ロシア語などがあり、生徒のレベルが高いのです。中国語の
授業では、この“就”はどういう意味か聞かれましたが私は答えられませんでした。当時、
湯島聖堂で教えておられた宮越健太郎先生に中国語文法をどのように教えておられるか伺
いました。先生は「天衣無縫の中国語に文法などは無い」と言われました。
“就”はどのよ
うに教えておられるのか伺いましたら、先生は即座に「そういうことを聞く子に限って中
国語はできないんだ」と言われました。後年、私は教師になる方のために『中国語学習基
礎資料』
、俗称「三種の神器」(時間詞語・場所詞語・ムード詞語その他)というものを作り、
かねがね気になっていた“就”に加えて“了”、
“要”の解説を入れました。
“了”はいまだ
に日中両国の言語学者からいろいろな意見が出されています。
「三種の神器」は、中国語を
教えていらっしゃる方には是非読んでいただきたいと思っています。
北園での教科書は倉石先生が編まれたものを使いました。卒業してすぐお茶大に行くこ
とになったので、後任に滝川格子さんを推薦しました。小野沢格子さんです。お父上は、
滝川政次郎という有名な法制度の学者でいらっしゃいました。昭和 21 年天津の塘沽から一
緒に日本に帰りました。到着した仙崎港、山口県長門市にある港です。そこから鳥取に行
きました。たしか、榎本英雄先生は北園高校で小野沢さんに習われたはずです。昭和 34 年
度まで講師を続けた小野沢さんの後任には橋本萬太郎先生がご担当されたと聞いています。
倉石先生は謝冰心さんに親愛の念を持っておられました。夫君の呉文藻氏が戦後、中国
代表部の仕事で来日されたとき、謝冰心さんをはじめご家族で麻布にお住まいでした。私
が東大 2 年の時、謝冰心さんが“中国文学を如何に鑑賞するか”という題目で一年間講義
をされました。通訳は倉石先生がご自身でなさいました。この日本語を当時の助手が速記
しました。後にこの講義を講談社から出版することになりましたが、倉石先生が助手が速
記した日本文を女士にお見せしたところ中国文に直して欲しいと言われ、私は大至急、中
国文に直すようにと御下命を受け、三日二晩で仕上げ、倉石先生にお渡ししました。まも
なく講談社の担当者が東洋文化研究所に持って来て、私は校正をさせられることになりま
した。製本を待つばかりの本の表紙に中国語の題名が『怎様心賞中國文学』となっていま
した。私はびっくりして“欣賞”ではないでしょうか、というと、その担当者が私からそ
の本を、ぎゅっと取りあげて、何も言わずに本社に持って帰ってしまいました。30 分以上
待ちましたが、何の音沙汰も無いので家に帰り、急ぎ『辞海』を見たところ、
“心賞”とい
う言葉も出ていました。私が卒業論文について口頭試問を受けたとき、面接の最後に倉石
先生が一冊の本を取り出して「これはあなたの第一の業績です」と言われました。この前
にも後にも倉石先生からこの本に関して一言のお言葉も全くありませんでした。その書名
は『中國文学をどう鑑賞するか』となっていました。中国語はまったくなくなっていまし
た。倉石先生のこの一言だけで、二年の時間をかけたこの仕事はすべて完了となりました。
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旧刊紹介――――――――――――――――――――――――――――――――――――
倉石武四郎訳『中国文学をどう鑑賞するか』
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訳者による「はしがき」から本書の成り立ちを知ることができる。
謝冰心は昭和 21 年夫君の呉文藻に伴って来日した。「民国 35 年 10 月 22 日在東京」と記
した〈従重慶到箱根〉という小品があり,11 月には朝日新聞、12 月には中華日報に,と文
章を寄せている。当時倉石博士は京都大学に籍を置き,東京大学は兼任であった。中略の
多い引用で恐縮であるが成書過程のあらましが読み取れると思う。
わたくしがお願いしたのは、せっかく東京へおいでになったのだから東京大学の中国
文学専攻学生のために何かお話をお願いしたいということであった。女士は皆まで聞か
ずに承知された。
(略)いよいよ昨年の六月、東方学会東京支部と東京大学文学部中国文
学研究室との共同主催で、女士に連続五回の講演をお願いすることになり、わたくしが
その通訳という任務を買って出た。連続五回のこととて聴衆者の数も日によって出入り
はあったが、あの三十六番の大教室がほぼ一杯になる位で、女士のことばを借りると、
「嬉
しいことに婦人の方もたくさん見えて」中国関係の講演会としては未曾有の盛況の中で
幕をとじた。(略)講演の筆記を出版したいという声がおこり、(略)講演の席でのわた
くしの通訳を研究室の小野沢精一・山井湧・山下龍二の三君にメモを取っていただき、
講演がすむとその晩すぐ、遅くまでかかって、わたくしが三君のメモを見ながら通訳の
復習をして三君の中の一人に一応筆記してもらい、それをまた加筆して第一次の草稿を
作りあげた。
(略)女士からこの草稿を出版するなら目を通してあげようという御注文が
出た。まったくの御厚意であるが、日本文でお目にかけたのでは何にもならない。そこ
で東京大学の中国文学科に在学中の中山時子さんに、語学の勉強になるからという口実
を設けて日本語から中国語に還元するという難題を押しつけた、われながら申しわけな
い次第ではあったが。しかし、中山さんはさすが今までの生涯の大部分を中国で過ごさ
れただけに、極めて明晰な中国語で早々この難題を片づけてくださった。その原稿を女
士が詳細に修正もされ、ことに講演中に挿まれたおもしろい話などは、おおかた削除さ
れた。
(略)そうして縦横に手の入った原稿が中国代表団の閻承恵君によって浄書された
上、昨年の暮れ、女士からお渡しいただいた。明けて今年の元日から三日までかかって、
わたくしがその原稿によって最初の日本文の草稿を改刪し、ふたたび小野沢・山井二君
たちの手で浄書してもらった頃、講談社との間に出版の約束も成立した。
現在《冰心全集》第 3 巻(1932-1949) 海峡文芸出版社(1994 年 12 月)に〈怎样欣赏中国
文学〉が収められている。上記の〈従重慶到箱根〉も全集に収録されており文末に訳者が
(刘福春译)と記されている。しかし〈怎样欣赏中国文学〉には(本书最初由东京大日本雄
辩会讲谈社 1949 年 9 月刊行)とあるだけで訳者名はない。つまりこの文章は謝冰心の書い
た,あるいは修正削除を行った冰心自身の文章であることを示すものと思われる。残念な
がら中国語に還元した中山時子先生のお名前は見られない。
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【文責:編集部】
中国語教科書を読む―――――――――――――――――――――――――――――――
“書店”について
大塚秀明
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漢字を一切使っていない中国語教科書がある。『ローマ字中国語初級』という本である。
倉石武四郎著とあり,謝冰心女士が日本滞在中に,二人のお嬢さんとその友人二人,当時
女士の家で預かっていた小さな女の子,合わせて六人で吹き込んだレコードをもとに倉石
先生が作成した野心的な教科書である。戦前先生は自身の名を冠した『倉石中等支那語』
全 5 巻,教授資料も用意した周到な教科書を編集され,また中国語教育の理念を体系化し
『支那語教育の理論と実際』も著されているが,ローマ字だけの本書は,先生の戦後中国
語教育の出発点ともいえる教科書である。《冰心全集》第 3 巻(海峡文藝出版社,1994 年)
の巻頭には 1949 年元旦東京で撮った冰心の家族写真が収められ,呉宗遠(呉冰),呉宗黎
(呉青)という二人のお嬢さんが写っている。後年冰心は北京外国語大学の一角に住まう
ことになるが,次女呉青さんの勤務先が“北外”であったためである。
日中国交正常化がなった年から中国語を学び始め,課外でご指導いただいたときのテキ
ストが『シェイア』であった。本書の冒頭の言葉が Shéi a? であることから俗に称されて
いたもので,著者の万感の思いが込められた書名より分かりやすかった。ただし当時“谁”
の正しい発音は shuí であり,shéi は“又音”扱いであったが,課外という気安さもあり,
正音とか俗音とかにとらわれずに中国語のリズムに親しんだ。なお現在は,shuí と shéi の
扱いが逆転し《現代漢語詞典》では 1996 年の第 3 版から“谁”は shéi の項に字解が移り,
“谁”shuí は“shéi 的又音”となっている。今ならシェイアでよいのである。
倉石先生の思いは本書の前身である B5 判の書名にも現れている。
『ラテン化新文字によ
る中国語初級教本』というもので,漢字に替わる音標文字として当時のいちばん優れてい
たラテン化新文字を採用したのである。
『シェイア』の課程を卒業した(つもり)の院生時代
に古書店で入手した本である。同じく岩波書店から 1953 年の発行である。B6 判の小型のシ
ェイアと違い,巻末には漢字と注音字母によるテキストがあり,発音・綴字・語彙・語法
のまとめもあり,さらに常用 1 千語と索引までも備わる申し分のない教科書である。
「ラテ
ン化新文字」が簡潔な「ローマ字」となり,至れり尽くせりの附録が削られ,薄く小型の
テキストになり,昼休みの課外テキストにはちょうど良かったのではないかと思っている。
教科書の判型は変わっても本文は同じである。「どなた?あたし.いらっしゃい!あの方
は?まだ来ないの.どうしてまだ来ないの?来ない気なんでしょ.いえ.きっと来ますわ.ち
ょっと待っててね」
,中国語ではどの言葉も話すと 3 秒以内,漢字にする(編著者の趣旨に
反するかもしれないが)と 5 字以内,覚えやすく,調子がよく,今日では規範にも合致した
第 1 課の本文である。しかし以前に次のような指摘を行った。「本書にも難点がないわけで
はない。それは話されている中国語が,現在の規範化されたものと多少ズレがある点で…
shūpù(p.46)は古く,現代では“书店”と言うはずだ」と書いた。この指摘に関連して,
香坂順一先生が「
“书店”と“书铺”」と題した文章と補筆である「“书店”と“饭店”」を
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お書き下さり,今は『中国語の環 総集編Ⅰ』に再録されている。
謝冰心女士が吹きこんだ中国語に使われている“书铺”は 20 世紀後半,つまり中華人
民共和国ではすでに古く感じられ,現在では“书店”という言葉が使われていることは確
かである。その「書店」の由来について,内山完造は『花甲録』の一節に「書店と云う文
字を中国側で使うようになったのも内山書店がその基本である」と記した。これに対して,
香坂先生は《儒林外史》第 18 回の用例を示され,1740 年頃の作品に見えるのであるから内
山書店来源説を誤りとされた。貴重な用例報告だと思うが,香坂順一主編『角川中国語大
辞典』にはこの情報が記されていないのは不思議である。では日本語の「書店」の使用は
いつごろまでさかのぼれるのか。香坂先生にご報告したころにはまだ出版されていなかっ
た『日本国語大辞典』第二版には随筆『秉燭譚』(1729)の用例が見える。同じ 18 世紀の日
中両国語での「書店」と“书店”の用例である。日本語の用例の年代が早いからといって,
日本語の「書店」が中国語に受容されたとは考えられない。
《儒林外史》以前に“书店”が
使われており,日本に伝来し音読されて「書店」として日本語となり,その後に内山書店、
岩波書店…として使われているのである。内山書店が上海で開店し魯迅を中心とする文学
サロンを形成し,日本に留学した中国人が岩波書店をはじめ,いろいろな書店を見て帰国
し,日本語の「書店」が受容される下地を形成したことは大いに考えられる。
一方中国語の“书铺”はすでに唐代の文献に用例が見られ,20 世紀前半に刊行された辞
典でも依然としてその優位は変わらなかった。これに対して“书店”は《王云五大词典》
1930 に立項されてはいないが“书肆”の解説語として使われており,
《标准语大词典》1935,
《国语辞典》1945 には立項されている。
《語言自邇集》1867 は確かに“书铺”しか見られ
ないが,20 世紀に入ると《英華正音詞典》1921 に「book-shop|s, -stall|s, -trade……
書店」とあり,
《模範英漢会話》1927 に「At a book store 書店」とあることから,上記
の辞典に収録される以前から“书店”が使われていたことがわかる。さらに興味深いのは
《現代漢語詞典》の試用本 1965(香港経由で広く海外でも見られるようになったのは 1973
年版)では“书”の字解に「~店|~铺」とあったものが,正式出版である第一版 1978 で
は「~店」のみになり“书铺”が消えていることである。
《汉语拼音词汇》1963 にも,その
前の 1958 年《初稿》にも shūdiàn はあるが shūpù はない。民国期には商務印書館、中華書
局、世界書局などという出版社があり,三聯書店もあったが,共和国になると,商務印書
館、中華書局といった出版社はそのままでも,本を販売する店舗名として,全国レベルで
は新华书店、外文书店、国际书店が主要な名称となり,こうして“书店”が優勢になり“书
铺”が辞書の項目から外れたことが見てとれる。
『ローマ字中国語初級』は,その漢字を使わない教授法や音声を機械で可視化した波形
表示などと合わせて,そこに使われている中国語は,音声も含め 1940 年代の中国語の貴重
な資料であると思われる。
『中国文学をどう鑑賞するか』という文学案内だけでなく,本書
も倉石先生の手を経て,謝冰心が戦後日本に残した貴重なモニュメントといえるのではな
いだろうか。
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総会資料―――――――――――――――――――――――――――――――――――
内規(案):来年 3 月の第 5 回年次大会の総会でお諮りする案です
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入退会に関する内規(会則第 5 条関連)
入退会を希望する者は、文書(電子メール可)で事務局にその旨を伝え、常任理事会が審査
し会費の納入完納を確認したのち入退会を認め、総会で報告するものとする。
解説:中山会長と重森貝崙、水野力、大塚秀明の各理事が今年度の常任理事です。
会員資格停止に関する内規(会則第 5 条関連)
会費を 3 年滞納している会員に対して、
以下の手続きを経て資格の停止を行うものとする。
第一期:前年度 3 月大会会場にて新年度の会費を徴収し、それができない会員には紀要送
付時に会費納入を依頼する。7 月通信発送時に滞納者への一回目の督促通知を行い、12 月
には二回目の督促通知を、年度末 2 月に大会開催通知発送時に三回目の督促通知を行う。
第二期:大会終了後の紀要送付時:滞納者には紀要は発送せず四回目の督促通知を行う。
12 月に五回目の督促通知を、
年度末 2 月に大会開催通知発送時に六回目の督促通知を行う。
第三期:3 月大会時開催の理事会で審議決定し総会で退会者とは別に報告する。
解説:現在は内規整備までの移行期間の特例として、退会を前提に、これまで配布を受け
た紀要を会に戻すことで滞納会費を相殺する措置を行っています。
賛助会員に関する内規(会則第 5 条関連)
本会の賛助会員は、個人賛助会員と団体賛助会員に分け、後者は総会での議決権や第 6 条
の諸権利を有しないが、前者は普通会員と同等の議決権や諸権利を有するものとする。
解説:賛助会員の方々です:桜美林大学 小木曽治夫 小野沢格子 川路ヤス 清水畏三
鈴木輝康 中山時子 長谷川耕生 ピコ 深谷基弘
麦谷誠子 (敬称略)
会員の紀要配布に関する内規(会則第 6 条関連)
海外会員は、郵便物の受取り先を日本国内に定めるものとする。
会長・理事・会計監査の選出に関する内規(会則第 8 条関連)
会長は、総会の合議で選出されるものとする。また理事と会計監査は、会長の指名で選出
され、総会の承認を得るものとする。
総会会計報告に関する内規(会則第 10 条関連)
総会では、前年の大会開催日から本年の大会開催前日までの会計報告を行うものとする。
解説:これにより直近の会の収支状況の報告が可能になります。
【文責:庶務会計担当理事】
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事務局から――――――――――――――――――――――――――――――――――
○新会場が増えました:練馬区民・産業プラザ
これまで主として千代田区立の施設(九段生涯学習館)で研究会を開催してきましたが、
このたび重森理事が中心となり練馬区在住の会員に呼びかけ団体登録を行い、今年 4 月に
オープンした練馬区立の施設(区民・産業プラザ)が使えるようになりました。
西武池袋線・西武有楽町線・都営地下鉄大江戸線が乗り入れる「練馬駅」から徒歩 1 分、
池袋駅から準急で次の停車駅が練馬駅です。池袋から所要時間 5 分、大変便利な会場です。
道順:西武線練馬駅の改札口は 2 階です。この 2 階改札口を出て、左に行き外へ出ます。
外に出たらさらに左方向に進みます。目の前に大きな建物が見えます。これが「練馬区
民・産業プラザ」の建物です。中に入ってエスカレーターで 3 階へ。3 階に研修室があり
ます。進路はすべて 2 階にあります。1階地上に下りる必要はありません。
○研究報告書が刊行されました:『東京紅学レポート』第 4 号
本学会の水野理事が編集長を務める紅楼夢研究会の報告書です。2014 年 7 月発行です。
創刊(2011 年 12 月)以来着実に刊行されています。収録論文は以下の 3 篇です。
『紅楼夢』にみえる「果子」について ― 第 63 回宝玉誕生会を中心に ―
池間里代子
中国・民国期『紅楼夢』古書価格
水野
力
中国紅学動向(4)
栗原 順子
なお創刊以来の論文を以下に挙げます。
創刊号 インタヴューに答えて―私と紅楼夢―(中山時子)
中国の『紅楼夢』専門研究雑誌について(栗原順子)
荷風と『紅楼夢』
(池間里代子)
中国紅学動向(1) (栗原順子)
第 2 号 占夢文化と夢幻文学――夢見の描写という視点からの一試論(清水洋子)
中山時子に『紅楼夢』を教えた包象寅とその周辺(池間里代子)
中国紅学動向(2) (栗原順子)
第 3 号 東京大学東洋文化研究所見学報告(中元雅昭)
曹雪芹没後 250 周年記念展示目録・展示資料一斑・展示会写真
中国紅学動向(3) (栗原順子)
○新しく入会されました:新入会員名簿(敬称略)
飯塚 敏夫
小倉 芳江
郭 玲玲
清地 ゆき子
小林 一弘
酒巻 朝子
田村 英里子
中田 カヨ
二宮 健
藤田 直子
松尾 妙子
松本 卓美
渡辺 紀子
平成 26 年度 4 月から 7 月までの新入会員の方々です。
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日中文学文化研究学会主催講演会予告――――――――――――――――――
演 者:楊逸 氏
演 題:未定(日本語で行います)
日 時:10 月 18 日(土曜日)15 時~16 時(14 時開場)
場 所:二松学舎大学(地下鉄九段下駅)
プロフィール
楊逸 Yang Yi (本名:劉莜 Liu You 1964 年 6 月 18 日生れ,ハルビン市出身)
2008 年「時が滲む朝」で第 139 回芥川賞受賞。中国籍の作家として,また日本語以外の
言語を母語とする作家として史上初めての受賞。
父は,ハルビンの大学で教えていたが,1970 年 1 月に蘭西県の農村に下放され,1973 年
9 月にハルビンに戻る。中学生の頃,日本にいる親戚が送ってきた日本の都会の風景写真を
見て日本に憧れる。ハルビンの大学に進学し,会計学を専攻するが,将来に不安を感じて
卒業の半年前に中退。1987 年留学生として来日。パソコンの外枠の組み立て工場や中華料
理店での皿洗いなどの仕事をして授業料を稼ぎ日本語学校に通った。お茶の水女子大学文
教育学部地理学専攻卒業後,繊維関係の会社や在日中国人向けの新聞社勤務を経て 2000 年
に中国語教師となる。この間 1991 年に結婚して 2 児をもうけるが,2001 年に離婚。2005
年頃から反日デモの影響で仕事が減ったため,小説を書き始める。2007 年「ワンちゃん」
で第 105 回文學界新人賞を受賞し小説家としてデビュー。2008 年「ワンちゃん」で第 138
回芥川賞候補。同年「時が滲む朝」で第 139 回芥川賞受賞。2009 年より関東学院大学客員
教授,2012 年より日本大学芸術学部文芸学科の非常勤講師に就任。
(ウィキペディア参照)
主要作品
ワンちゃん(文藝春秋社 2008 年 1 月:初出『文學界』2007 年 12 月号)
時が滲む朝(文藝春秋社 2008 年 7 月:初出『文學界』2008 年 6 月号)
金魚生活(文藝春秋社 2009 年 1 月:初出『文學界』2008 年 9 月号)
すき・やき(新潮社 2009 年 11 月:初出『新潮』2009 年 6 月号)
おいしい中国―「酸甜苦辣」の大陸(文藝春秋社 2010 年 10 月)
陽だまり幻想曲 (講談社 2010 年 12 月):短編集
楊逸が読む聊斎志異(黒田 真美子翻訳、明治書院 2011 年 9 月)
獅子頭(シーズトォ)
(朝日新聞出版 2011 年 10 月)
孔子さまへの進言 中国歴史人物月旦(文藝春秋社 2012 年 1 月)
流転の魔女(文藝春秋社 2013 年 6 月:『文學界』2012 年 8 月号~2013 年 2 月号)
あなたへの歌 (中央公論新社 2014 年 2 月:『本が好き!』2009 年 7 月号~2010 年 1 月号)
中国語教科書
楊逸エッセイを中国語で読む! 篠原征子編著(光生館、2013 年 11 月)
(会場でも作品・教科書の販売を予定しています)
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