W杯南ア大会直前! 映画で南アフリカを知る

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2010 年度 活水市民大学講座(2010 年 5 月 29 日)
南ア W 杯直前! 映画で南アフリカを知る
活水女子大学文学部英語学科
香川実成
■ W 杯南ア大会スタジアム・マップ
World Cup Stadiums: the 10 stadiums of the Fifa World Cup 2010 in South Africa from June 11, 2010
スタジアム
都市
新築/改装
収容人数
① ペーター・モカバ・スタジアム
ポロクワネ
新築
46,000 人
② ロイヤル・バフォケン・スタジアム
ルステンブルク
改装
45,000 人
③ ロフタス・フェルスフェルト・スタジアム ツワネ(旧プレトリア)
改装
50,000 人
④ ムボンベラ・スタジアム
ムボンベラ(旧ネルスプリット)
新築
46,000 人
⑤ サッカーシティ・スタジアム
ヨハネルブルク
新築(全面改築)
94,700 人
⑥ エリスパーク・スタジアム
ヨハネスブルク
改装
61,006 人
⑦ フリーステート・スタジアム
マンガウン(旧ブルームフォンテーン) 改装
45,000 人
⑧ モセス・マビダ・スタジアム
ダーバン
新築
70,000 人
⑨ グリーンポイント・スタジアム
ケープタウン
新築
68,000 人
⑩ ネルソン・マンデラ・ベイ・スタジアム
ポート・エリザベス
新築
48,000 人
木崎伸也『2010 年南アフリカ W 杯が危ない!』より
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■ W 杯南ア大会予選グループとスケジュール
■ 南アフリカ 略史
1652 年
オランダ東インド会社、ケープ植民地設立。
1652-1795 年
アフリカーナー(ボーア人)の創世記と拡張
1795 年
イギリスがオランダからケープ植民地を奪取(その後 1806 年に再征服)
1816 年
シャカがズールー王国を創設。南東部アフリカの大部分の場所でアフリカ人同士の戦争
1820 年
イギリス人入植民がケープ植民地に到着
1834-35 年
コーサ人がイギリス軍及び植民地部隊に敗北
1835-40 年
5,000 人のアフリカーナーが配下のカラードとともにケープ植民地を離れる。この運動は後にグ
レート・トレックとして知られる。
1843 年
イギリスがナタールを併合
1846 年
コーサ人がイギリス軍及び植民地部隊に敗北
1852、1854 年
イギリスがトランスバール及びオレンジ自由国をアフリカーナーの独立国家として承認
1867 年
グリカランド・ウェストでダイアモンド採掘の開始
1868 年
イギリスがレソトを併合
1877 年
イギリスがトランスバールを併合
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1886 年
ウィットワータースラントで金採掘の開始
1898 年
白人による南部アフリカのアフリカ人住民の征服が完了
1899-1902 年
ボーア戦争。イギリスがアフリカーナーの共和国を征服
1906-07 年
イギリスが旧アフリカーナー共和国に議会政府を与える。有権者は白人のみ
1910 年
ケープ植民地、ナタール、トランスバール、オレンジ自由国が参加して「南アフリカ連邦」成立。
1912 年
南アフリカ原住民民族会議(NNC)結成。のちにアフリカ民族会議(ANC)となる
1913 年
原住民土地法により、アフリカ人の土地所有は居留地(リザーブ)内に制限される。一連の人
種隔離法の制定開始
1914-19 年
南アフリカは大英帝国の一員として第一次世界大戦に参戦
1917 年
南アフリカ・アングロ・アメリカン社創立
1921 年
南アフリカ共産党結成
1939-45 年
南アフリカは連合国側で第二次世界大戦に参戦
1948 年
アフリカーナー国民党が総選挙に勝利し、アパルトヘイト政策を実施し始める
1950 年
民衆を人種別に分類する人口登録法制定。民衆を人種別に区分された地域に居住させる集団地
域法制定。治安法の制定が始まる。民衆と組織に対する巨大な支配権が政府に与えられていく
1952 年
ANC とその同盟組織が不服従抵抗運動を開始
1956 年
会議連合のメンバー 156 人が反逆罪で告発される
1959 年
パンアフリカニスト会議(PAC)結成
1960 年
シャープビルにて警察官が反パス法デモに参加していた
アフリカ人 67 人を殺害(写真右)。政府がアフリカ人の政
治団体に活動禁止処分
1961 年
英連邦(コモンウェルス)から脱退し共和制移行(「南ア
フリカ共和国」成立)
1964 年
ネルソン・マンデラをはじめとする ANC と PAC の指導者に終身刑、ロベン島収監
1966-68 年
レソト、ボツワナ、スワジランドが独立国家となる
1975-76 年
モザンビークとアンゴラが独立国家となる
1976-77 年
ソウェトとその他のアフリカ人居住区におけるアフリカ人と警察官
の衝突で、少なくとも 575 人が死亡(写真右)
1976-81 年
南アフリカがトランスカイ、ボプタツワナ、ベンダ、シスカイの各
ホームランドに「独立」を与えるが、国外では承認されず
1977 年
国際連合安全保障理事会が南アフリカに対する強制的な武器禁
輸措置を科す
1980 年
ジンバブエ(旧ローデシア)が独立
1981-88 年
南アフリカ軍がアンゴラに大規模侵攻、レソト、モザンビーク、ジンバブエ、ザンビアに奇襲攻
撃。ANC ゲリラが南アフリカの諸都市で破壊活動
1984 年
中央政府にアジア人とカラードを限定的に参加させ、アフリカ人は排除する新憲法制定。ボータ
が大統領就任
1984 年
デズモンド・ツツ主教(写真右)(その後大主教)がノーベル平
和賞受賞
1984-86 年
黒人系南アフリカ人の居住区で持続的かつ広範な反体制運動。
政府は暴力的に対応
1985 年
政府と、獄中及び亡命中の ANC 指導者が初めて接触
1986 年
パス法の撤廃。政府が全国に非常事態宣言を発令。数千人を
拘禁するとともに、新聞、ラジオ、テレビによる衝突の報道を禁止。レーガン大統領の拒否権を
覆し、アメリが合衆国議会が包括的反アパルトヘイト法を可決
1986-95 年
インカタを支持するズールー人と ANC 支持者が、クワズールーとウィットワータースランドで暴
力的衝突
1989 年
F.W.デクラークがボータの後を継ぎ、国民党党首。のちに大統領に就任
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1990 年
1990-91 年
デクラークが ANC、PAC、南アフリカ共産党を合法化。ネルソン・マンデラ他の政治犯を釈放
アパルトヘイト関連法(土地法、集団地域法、人口登録法等)の廃止。諸政治組織の合法化。
非常事態の解除。外国政府が段階的に制裁解除へ。
暴力がエスカレートする中で、18 政党の代表が、民主南アフリカ会議(CODESA)を舞台に正
式な交渉を開始
1992 年
白人有権者の国民投票。対話路線が支持される。インカタ
の暴徒が居住区で 46 人を虐殺した事件をきっかけに、ANC
が CODESA から脱退
1993 年
共産党書記長クリス・ハニ暗殺。交渉再開。デクラーク、
マンデラ、及び他の 18 政党が暫定憲法を承認
1993 年
ネルソン・マンデラ、デ・クラーク大統領がノーベル平和賞
受賞(写真右)
1994 年
「ホームランド」のボプタツワナとシスカイが崩壊
1994 年
史上初の全人種参加型の総選挙(4/27-30)を実施。ANC が勝利
1994 年
マンデラ政権成立(5/10)。外国政府の制裁解除。南アフリカが英連邦に復帰
1995 年 6 月
1995 年
1997 年 2 月
1998 年
1999 年 6 月
2003 年
ラグビー W 杯開催、南ア代表が優勝
真実和解委員会設置(委員長 ツツ大主教)
新憲法発効
真実和解委員会の報告書出版
総選挙実施、ムベキ大統領就任(写真右、ブレア英首相と)
BEE(Black Economic Empowerment 黒人経済優遇政策)
法制定
2004 年 4 月
総選挙実施、ムベキ大統領再任
2004 年 5 月
2010 年サッカー W 杯の開催国が南アに決定
2008 年 9 月
ムベキ大統領辞任、モトランテ大統領就任
2008 年 6 月
移民排斥運動が激化
2008 年 12 月
ANC の一部が分裂し、COPE(国民会議)を結党
2009 年 4-5 月
総選挙実施(4 月)、ズマ大統領就任(5 月)(写真右)
2010 年 6-7 月
サッカー W 杯開催(予定)
■ 民主化直後、「虹の国」(Rainbow Nation)建設に向けて高揚期にあった南ア
(1) ラグビー W 杯開催、そして優勝
南アのW杯ラグビー優勝に政治的価値
国際社会への復帰加速
人種融和進む気配
(読売新聞 東京朝刊 1995 年 6 月 26 日)
【ヨハネスブルク25日=勝田誠】南アフリカ共和国が二十四日、ヨハネスブルクで行われたラグビーの第三
回ワールドカップ(W杯)決勝で悲願の初出場初優勝に輝いたことは、南アの国際社会への復帰拡大に弾み
をつけ、人口の約一四%を占めるに過ぎない国内少数派の白人が、黒人ら多数派に、新生南アの積極的な一
員として認められる好機となりそうだ。国内では、今回の優勝が「真の人種融和社会の起点になる」との期待
が高まっており、マンデラ政権にとっては政治的価値も大きいイベントだったと言える。
◆黒人からは冷めた見方も
二十五日の南ア各紙は「最高の栄誉の日」(サンデー・タイムズ紙)と、昨年のマンデラ政権誕生と同じく
らいの大扱いで勝利をたたえた。白人中心の盛り上がりに対しては、一部に批判もあったが、この成功に飲み
込まれた格好だ。
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南ア代表チームの愛称「スプリングボクス」(南ア産カモシカ)が、白人言語アフリカーンス語であることか
らもわかる通り、優勝チームは、黒人とは一般的に関係の悪いカラード(混血)の選手一人を除けば、全員
が白人だった。
アパルトヘイト(人種隔離政策)のため、長年、国際舞台から排除されてきた南ア白人の「国技」が、こ
れで堂々復権しただけでなく、一躍、世界の頂点にも立ったわけで、昨年四月の全人種参加選挙後、黒人主
導政権の誕生で一種の喪失感に捕らわれていた白人社会は、陶然とした雰囲気に包まれている。
とはいえ、今回の勝利は「白人至上主義」の復権にはつながっていないようだ。決勝戦の最中、スタジア
ムや市内の観戦場では「南ア白人がいかに偉大かを示す大会だ」と豪語し、白人支配を象徴した旧国旗を振
っていた保守的な白人ファンが、周囲のリベラルな白人の冷たい視線を受けて、すごすごと旧国旗をしまいこ
む場面も見られた。
これには代表チームの模範的な行動が大きく影響した。南アではラグビーは最保守層が好むスポーツであ
り、人種差別が最も露骨な形で噴き出す場だ。だが、ピナール主将は新国歌「ヌコシシケレ・イ・アフリカ(ア
フリカに祝福あれ)」の黒人言語ズールー語の歌詞をチーム全員に覚えさせ、多人種国家の代表としての自覚
を植えつけた。
かつてはラグビーを敵性競技と見なし、「必ず相手国を応援する」ことにしていたマンデラ大統領も、今大会
では「一つの民族、一つの国家」を合言葉に、人種の壁を越えて応援するよう訴えた。大統領は南ア・フィフ
ティーンを「息子たち」と呼び、自身も代表のジャージーを着て観戦した。
この一か月間、地元紙は、連日のようにW杯を一面トップで報道。このハデな報道ぶりや、一部白人がW杯
を白人の祭典と見なす傾向に対して、黒人知識人からは「黒人居住区の整備を優先すべきで、W杯は時期尚
早」という批判も出た。中には「白人が増長するから、南アは準決勝あたりで負けるべきだった」との声まで
あった。
また、決勝戦の入場券は二百ランド(約五千円)と黒人にとっては高額で、このため、観客席の九九%は白
人だった。黒人居住区ソウェトの住人は「最初から、オレたちに無縁の世界だと思っていた」と話す。
それでも、社会心理学者や地元記者らは、W杯は選挙前から疎外感ばかりを感じていた白人にとり「最高
の精神安定剤となった」と肯定的に受け止めている。黒人マラソン選手としてバルセロナ五輪に参加したウィリ
アム・ムトロ氏も「南アのスポーツ界にとっての朗報。(黒人に人気の)サッカーでも白人が南アチームを応援
してくれたら、本物の人種融和だ」と、今後のW杯効果に期待している。
★ この映画を観る!
『インビクタス 負けざる者たち』(Invictus、2009 年)
名匠クリント・イーストウッド監督による実話をベースにした感動
ドラマ。南アフリカ大統領ネルソン・マンデラと同国のラグビー代表
チーム主将との人種を超えた友情を描く。
反アパルトヘイト運動により反逆罪として逮捕され 27 年を監獄で
過ごしたネルソン・マンデラ(モーガン・フリーマン)は、釈放後
の 1994 年、遂に南アフリカ共和国初の黒人大統領となる。だが彼
は、国民の間に人種差別と経済格差がいまだに残されていることを
痛感する。そんな中、スポーツという世界共通言語で国民の意識を
変えることができると信じるマンデラは、弱小だった南アフリカ代表
ラグビーチームの再建を決意。翌年に自国で開催するラグビー・ワールドカップに向け、マンデラとチームキャ
プテンのフランソワ・ピナール(マット・デイモン)は、互いに協力していくことを誓う…。(MovieWaker より)
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(2) 真実和解委員会(TRC [Truth and Reconciliation Committee])
南アフリカ真実和加委員会は、社会を癒し過去の繰り返しを回避することを目標に掲げ、隠蔽され抑圧されてき
たアパルトヘイト時代の事実を明らかにして記録を残すこと、その過程で規定を満たした加害者に特赦を与えること
を目的として 1995 年の暮れから活動を開始した。第 1 回目の公聴会が開かれたのは、翌年 4 月である。
・調査対象期間… 1960 年 3 月 1 日(シャープビル事件発生、非常事態宣言が発令され対立が激化)
~ 1994 年 5 月 10 日(マンデラ元大統領就任)
・組織構成…真実和解委員会(男性 10 名、女性 7 名、合計 17 名)
その下に、人権侵害・補償・特赦の各 3 小委員会、及び調査部、その他実務機関
・活動期間…人権侵害・補償に関する小委員会 1996 年 4 月~ 1997 年 12 月に公聴会をほぼ終了
特赦小委員会 1996 年~ 2002 年
「アパルトヘイト」総括
南ア真実和解委が最終報告
ボタ氏の「罪」指摘
(読売新聞 東京朝刊 1998 年 10 月 30 日)
【プレトリア29日=吉形祐司】南アフリカ共和国のアパルトヘイト(人種隔離政策)時代の人権侵害などを二
年半にわたって調査してきた真実和解委員会は二十九日、調査の最終報告書をマンデラ大統領に提出した。
この時代、白人少数支配の確立・維持のために多数派の黒人が弾圧され、一方、黒人側も解放闘争の過程
で破壊活動を続けた。南アの暗い現代史を総括する初の公式文書となった。
◆人権侵害、黒人側にも厳しい内容
報告書は全五巻、計三千ページに及んだ。
アパルトヘイト体制の完成に最も責任があるとされるボタ元大統領(写真右)を巡っては、
ボタ氏が真実委に証言を拒否し、真実委侮辱罪で有罪判決(控訴中)を受けた経緯があ
る。報告書は人権侵害の章で、
「南ア国内外の反体制派の人物の意図的かつ不法な殺人、
殺人未遂」への同氏の関与を公式に指摘した。
一方、警察の拷問で死亡し、映画「遠い夜明け」の主人公のモデルとなった、黒人解
放闘争の活動家ステ
ィーブ・ビコ氏の死因について、多くの新事実を明らかにした。また、マンデラ大統領のウィニー前夫人と取り
巻きによる殺人未遂・誘拐事件に踏み込むなど、黒人側にも厳しい内容を含んでいる。
マンデラ大統領は同日、「報告書の内容には欠陥もある」としながらも、「国民融和の土台構築に貢献した、
と確信する」と評価した。
真実委は九五年、デズモンド・ツツ元大主教(ノーベル平和賞受賞者)を委員長として設置された。同委
設置は、国民融和をめざすマンデラ政権の目玉。人権侵害の事実を自ら正確に告白した加害者には刑事免責
を与え、逆に、人権侵害に加担した人物、組織については刑事訴追を勧告する権限を持つ。これまで二万人
以上から実態を聴取、罪を告白した約七千人について個々に恩赦を検討した。このうち、恩赦の得られなかっ
た約四千五百人や、恩赦申請しなかった者には訴追の可能性が残されている。
ただし、同委は、その調査を魔女狩りと見なす白人保守派から中立性に疑いを投げかけられ、人種間の亀
裂を一層深めたとの指摘もある。世論調査では白人の七割が、同委は国民和解に反する影響を及ぼしたと回
答した。
今回の報告書提出を巡っては、不利な記述の削除を拒否されたデクラーク前大統領が、提出中止を求めて
提訴し、真実委が二十八日、その個所の削除を余儀なくされた。さらに、組織の人権侵害を指摘された、与
党アフリカ民族会議(ANC)も二十九日早朝になって、提出差し止めを求めて提訴する騒ぎも起きた。
ツツ委員長は「(和解のために)真実委ができるのは貢献だけ。大きな貢献だが、貢献でしかない」と語
り、和解を達成するのは国民自身であることを強調した。
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★ この映画を観る!
・『イン・マイ・カントリー』(In My Country、2004 年)
・『ヒラリー・スワンク in レッド・ダスト』(Red Dust、2004 年)
白人支配から抜け出し、民族の和解と統一を求め始めた南アフ
リカ。白人支配当時の犯罪は、真実和解委員会の公聴会で、す
べてを告白すれば恩赦で無罪とされることとなった。そんな中、元
警官ヘンドリックスの恩赦申請に、黒人男性アレックスが異議を申
し立てる。弁護士サラ(ヒラリー・スワンク)は、師である老弁
護士ベンに請われ、アレックスを助けることに。彼女はかつてこの
地に住んでいたが、黒人と交際した罪でヘンドリックスと上司のム
ラーに逮捕された過去があった。アレックスが異議を唱えた理由と
は、共に逮捕されその後行方不明になった友人シゼラの行方を突き止めるためであった…
真実和解委員会の公聴会の様子。"Truth
& Reconciliation Committee" と書かれた旗
の他、"Truth. The Road to Reconciliation"、
"The Truth Shall Set us Free" 等の垂れ幕が
掲げられてい る。 中央は新生南ア国旗。
公聴会会場近くのアフリカーナー(オラ
ンダ系白人)の家の庭。被告ヘンドリッ
クスに対する神の加護を祈っていると、
黒人の一団がやってきて騒ぎ立て、祈り
の邪魔をする。
一方アフリカーナーの側も、白人極右組
織 AWB(アフリカーナー抵抗運動)の団
旗を掲げ、黒人に対して睨みをきかす。
「真実と和解」への道はまだまだ遠いこ
とを示している。
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■ 南アフリカ共和国のその後、そして現状
( 1) 南 ア フ リ カ の 三 重 苦
・貧困 / 失業
・犯罪
・AIDS
→超格差社会
失業率
(Statistics South Africa)
人口 1,000 人あたりの故殺件数
SOURCE: Seventh United Nations Survey of Crime
Trends
and
Operations
of
Criminal
Justice
Systems, covering the period 1998 - 2000 (United
Nations Office on Drugs and Crime, Centre for
International Crime Prevention) via NationMaster
人口 1,000 人あたりの強姦件数
SOURCE: Seventh United Nations Survey of Crime
Trends
and
Operations
of
Criminal
Justice
Systems, covering the period 1998 - 2000 (United
Nations Office on Drugs and Crime, Centre for
International Crime Prevention)
HIV/AIDS 感染による死者数
SOURCE: All CIA World Factbooks 18 December
2003 to 18 December 2008
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朝日新聞(2009 年 6 月 25 日)
(2) 新たな問題点
① poor white(貧乏白人)急増
② 白人農園主の殺害、暴行被害
③ 政治汚職の横行
④ 移民排斥
① "white poverty"
Seeking to reverse decades of
racial inequality, the ANC government
introduced affirmative action laws that
promote employment for black South
Africans.
This shift in racial hiring practices
coupled with the fallout from the global
financial crisis means many poor white
South Africans have fallen on hard times.
At least 450 000 white South
Africans, 10% of the total white
population, live below the poverty line
and 100 000 are struggling just to
survive, according to civil organisations
and largely white trade union Solidarity.
..........
White poverty in South Africa is a
politically sensitive subject that gets
little attention, but it is not new.
Under apartheid, introduced in
1948, whites enjoyed vast protection
and sheltered employment. The weakest
and least educated whites were protected by the civil service and state-owned industries operating as job-creation
schemes, guaranteeing even the poorest whites a home and livelihood.
But with that economic safety net now gone, South Africa's unskilled whites find themselves on the wrong
side of history, gaining little sympathy from those who perceive them as having profited unfairly during the brutal
apartheid years.
Trade union Solidarity says there are around 430 000 whites who live in squatter camps. Around the capital
Pretoria alone there are 80 squatter settlements. There are over 2 000 much larger black squatter camps across
South Africa.
Formerly comfortable Afrikaners recently forced to live on the fringes of society see themselves as victims of
"reverseapartheid" that they say puts them at an even greater disadvantage than the millions of poor black South
Africans.
("Tough times for white South African squatters," Mail and Guardian Online, 2010. 3. 26)
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② farmer killings
Since 1991, there have been 11,785 attacks and 1,804 murders, and the problem is getting worse, Andre
Botha, the president of Agri SA warned.
Mr Botha told the South African parliament's police committee: "We're talking about two attacks per day,
we're talking about two farm murders per week, and it's increasing. What is a very worrying aspect is the
brutality in which the murders are conducted."
.........
Farm killings are a racially charged matter in South Africa with official reforms having failed to dent
apartheid land patterns that left the bulk of farms in white hands 16 years after majority rule.
("Two South African farmers killed every week," Daily Telegraph, 2010. 4. 20)
③ corruption
Nelson Mandela would be hurt if he was fully aware of the "gutter level of discourse" among some
politicians in South Africa today, Archbishop Desmond Tutu has told the Guardian.
Tutu, who led the campaign for Mandela's release, admitted his generation had been naive in thinking the
altruism of the anti-apartheid struggle would inoculate against corruption in the democratic era.
..........
Tutu, seen by many as the conscience of South Africa, recently said he was grateful Mandela, who is 91 and
retired, was not always aware of events in the nation.
Expanding on this, Tutu wrote: "Issues such as corruption would certainly hurt him, as well as the gutter
level of discourse by some politicians within the ruling party. We naively thought struggle attributes such as
altruism were transferable, but sadly this was not the case, as seen by the high level of corruption that has
plagued us since we gained our democracy."
..........
The 78-year-old continued: "Poverty, health issues such as HIV and Aids, inadequate service delivery and
lack of balanced discourse are some of the issues that would worry Mandela. One would have imagined that in
our old age, we would sit back and watch the younger generation making a go of turning South Africa into a
pride."
The remarks could be seen as a swipe at Julius Malema, president of the African National Congress youth
wing, who faced a party disciplinary hearing over his recent behaviour. Malema has hurled personal abuse at
opponents, been convicted by a court of hate speech, and called a BBC journalist a "bastard" and "bloody agent".
He has also been accused of using his connections for financial gain.
("Desmond Tutu: Gutter politics would hurt Nelson Mandela if he knew," The Guardian, 2010. 5. 17)
④ xenophobia
次ページ、朝日新聞記事(2008 年 6 月 2 日)参照
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★ この映画を観る!
・『ツォツィ』(Tsotsi、2005 年)
アフリカ映画では初めて、アカデミー賞外国語映画賞に輝いた人間ドラマ。アパルトヘイト廃止後も残る人種差
別、経済格差といった南アフリカの現状を浮き彫りにしている。
南アフリカの貧しいスラム街。ツォツィ(プレスリー・チュエニヤハエ)は、自分の過去と本名を封印している。
彼は幼い頃から、たったひとり、社会の底辺で生きてきた。ツォツィの仲間は、ボストン(モツスィ・マッハーノ)、
ブッチャー(センゾ・ンゴーベ)、 (ケネス・ンコースィ)だ。「仕事場」の駅に向かうツォツィたち。電車の中で、
男の財布を奪う。思わず声をあげる男。ブッチャーは躊躇することなく、素早くその腹にアイスピックを差し込ん
だ。殺人のショックがおさまらないボストンは、ツォツィをなじりはじめる。ツォツィの怒りが噴き出した。ボストン
を血だらけになるまで殴りつける。気づくと彼
はスラム街を抜け、豪邸が建ち並ぶ通りに立っ
ていた。車で帰宅した黒人女性の姿。ツォツィ
は持っていた銃を引き抜いて女性を脅し、そ
の BMW を盗む。そして、追いすがる彼女に
銃弾を浴びせた。突然車内に、赤ん坊の泣き
声が響く。後部座席に赤ん坊が乗っていたの
だ。ツォツィは、一度はその場を立ち去ろうと
するが、赤ん坊を抱き上げ、紙袋に入れて、
歩きだした。泣き叫ぶ赤ん坊にミルクを与える
ツォツィが盗んだ高級車を乗り捨てた場所。彼方には広大なスラ
ム街。この道路が貧困層と富裕層を隔てる境界線となっている。
と、なんとか泣きやんだ。ツォツィは、赤ん坊を抱いた若い女性ミリアム(テリー・ペート)に目をつけ、その後を
こっそりつけていく。強引に彼女の家に入り込んだツォツィは、彼の赤ん坊にお乳をあげるように命令する。怯え
るミリアムだったが、気丈にも赤ん坊の世話を申し出る。ツォツィは一晩、赤ん坊を彼女に預けることにする。育
てるには金が要る。ツォツィが選んだのは、彼の赤ん坊の家に強盗に入ることだった。アープとブッチャーを連
れ、豪邸に押し入る。折りしも帰宅した父親を
縛り付ける。金目のものを盗もうを家探しする 3
人。だがツォツィには、別の目的があった…。
(MovieWlaker より)
ツォツィが狙う相手は裕福な黒人だ。ポスト
・アパルトヘイトの現在、BEE政策等によっ
て、ブラック・ダイアモンドと呼ばれる黒人
中産階級が現れた。
ツォツィの回想シーンに現れる母親。AIDSを
患っている。そして「病気が移るから近づく
な!」と怒鳴る父親。酒に酔って暴力を振る
父親から逃げ出すため、まだ少年の頃にツォ
ツィは家を出た。
・Disgrace(日本未公開、2008 年)
ノーベル文学賞、ブッカー賞を受賞した南アフリカ人作家 J. M. クッツェーの小説(映画と同名、1999 年出
版)を映画化。主人公の元大学教授の中年男をジョン・マルコヴィッチが演じている。
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(3) W 杯直前に起こった人種対立
AWB党首ユージン・テレブランシュ。2010年4月
3日、自分の農場で惨殺された。
ANCYL(Youth League)トップのジュリウス・マレマ。解放闘
争時代の「ボーア人を殺せ!」を自らの集会で歌ったり、記
者会見中に白人記者に罵声を浴びせて追い出したりと、過激
な問題行動を繰り返している。マンデラもかつてANCYLトッ
プだった。
南ア・白人極右党首殺害
W杯前
人種対立激化も
(読売新聞 東京朝刊 2010 年 4 月 6 日)
【ヨハネスブルク=中西賢司】南アフリカの白人極右組織アフリカーナー抵抗運動(AWB)のユージン・テ
レブランシュ党首(69)が殺害された事件で、ズマ大統領が即座に国民に平静を呼びかけたのは、アパルト
ヘイト(人種隔離政策)を撤廃した同国の人種融和がいまだに薄氷を踏む状態にあることを露呈したと言える。
AWBは報復を宣言しており、2か月後に迫るサッカー・ワールドカップ(W杯)開幕の不安定要因となる恐
れもある。
5日付の地元紙スターによると、AWBは「南ア黒人による白人社会に対する宣戦布告だ」と報復を明言。
これに対し、ムテトゥワ警察相はAWB党員に落ち着くよう訴え、事態の沈静化に躍起になっている。
テレブランシュ氏は1973年、ナチス・ドイツのカギ十字に似たマークを党旗とするAWBを結成。94年の初
の全人種参加選挙を妨害するため爆弾テロを起こしたほか、黒人警備員襲撃で3年間服役したこともある問題
の人物。事件では、なたを使って殺されており、警察は3日、同氏の農場で働く15歳と21歳の黒人の男を殺人
容疑で逮捕した。賃金を巡るトラブルがあったという。
政治的背景の有無は不明だが、若者に影響力を持つ与党・アフリカ民族会議(ANC)の若手幹部(29)
が「白人農民を殺せ」と白人を敵視する解放闘争歌を集会で利用するなど、人種対立をあおる言動を繰り返
してきた経緯があり、AWBはこれが事件を誘発したと批判している。
南アはアパルトヘイト撤廃後の96年、全人種平等をうたう新憲法を制定した。だが、黒人差別をうたった白
人のブログが新聞で暴露されたり、黒人に襲われたとする白人がカナダで難民申請したりするなど、相互不信
の根深さを示す事例は後を絶たない。
14
■『第 9 地区』(District 9、2009 年)をどう観るか?
「ロード・オブ・ザ・リング」のピーター・ジャクソンが製作を務めた SF ドラマ。宇宙からの謎の来訪者と人
間が共存する南アフリカの“第9地区”で起きる出来事を描く。
28 年前、正体不明の巨大宇宙船が突如、南アフリカ共
和国に飛来した。しかし、その UFO は首都ヨハネスブル
グ上空に浮かんだまま、まるで動こうとしない。痺れを切
らした南アフリカ政府はヘリコプターで偵察隊を派遣。船
内で彼らを待ち受けていたのは、不衛生で弱り果てたエ
イリアンの群れだった。彼らは故障した宇宙船に乗った難
民だったのだ。処遇が決まるまで、エイリアンはヨハネス
ブルグにある第 9 地区の仮設住宅に住まわされることに
なる。だが、言葉も通じず、野蛮で不潔なエイリアンたちが一般市民と折り合いがつくはずもなく、彼らは下
級市民として蔑まれる。何の進展もないまま月日が流れ、エイリアンの管理事業は民間企業マルチ・ナショナ
ル・ユナイテッド社(MNU)に委託されることになった。軍事企業でもある MNU の傭兵部隊によって力による
平和が訪れるかと思われたが、MNU が彼らの世界に介入することはなく、第 9 地区はスラムと化していく。市
民とエイリアンの対立が激化したことを受けて、MNU は第 9 地区から郊外にある第 10 地区へ彼らの強制移住
を決定。第 10 地区は第 9 地区よりもさらに劣悪な環境だったが、MNU は彼らの福利厚生に興味はなかった。
立ち退き作業を始めるにあたり、MNU はヴィカス・ヴァン・ダー・マーウィ(シャルト・コプリー)を現場責
任者に指名する。事情を把握していないエイリアンたちから、承認のサインを無理矢理取りつけるのが彼の任
務だった。しかし、第 9 地区内の小屋を調査している際に、ヴィカスは謎のウィルスに感染。報告を受けた MNU
上層部はヴィカス捕捉の指示を出す。何の説明もなく執拗に追跡してくる MNU の行動にヴィカスは逃げ出す
しかなかった。第 9 地区に逃げ込むと、そこにクリストファー・ジョンソン(ジェイソン・コープ)と名乗るエイ
リアンが現れる。そして、ヴィカスはボロボロの小屋の地下で見たこともない科学技術を集結させた設備を目
撃する…。(MovieWalker より)
UFO が飛来したのは 1982 年―アパルトヘイト時代
である。映画の中の「現在」は 28 年後の 2010 年、
つまり南ア与党 ANC による黒人政権下。
第 9 地区の描写は、明らかにアパルトヘイト時代
の、そして現在も続く貧困層の黒人居住区を想起
させる。
一方、エイリアン(Alien)には「外国人」という
意味もあり、2008 年に激化した移民排斥運動の
寓意とも解釈できる。
15
■ 最後に…
W杯開催、南アフリカの思惑 (読売新聞 東京朝刊 2004 年 5 月 17 日)
サッカーの母国を任ずるイングランドがワールドカップ(W杯)を初めて制したのは、一九六六年に開催され
た第八回大会の時である◆当時のウィルソン英首相の言葉がふるっている。「労働党政権下だったから優勝し
た」。牽強付会(けんきょうふかい)の感は否めないが、W杯を獲得し、鼻高々の首相の表情が見えるようで
はある◆優勝は逃しても、大会を開催するだけで指導者の人気上昇は請け合い。国民のプライドは大いにくす
ぐられ、熱病のような高揚感と一体感が生まれる。そんな“W杯効果”というものがあるらしい◆二〇一〇年
サッカーW杯の開催が決まった南アフリカには、より切実な思惑があったはずだ。マンデラ前大統領までが、
八十五歳という高齢を押して選考会に臨み、力の入れようは並ではなかった。決定の瞬間、陣営の笑顔がは
じけた◆全人種参加の議会選挙から十年、堅実な経済発展を遂げながらも、貧困やエイズ問題の深刻さに変
わりはない。何より、癒やし切れていないアパルトヘイト(人種差別政策)の傷をどう克服するか◆一九九五
年のラグビーW杯で優勝した時、マンデラ氏は白人が大半を占める南ア代表を「息子たち」と呼び、肌の色
を超えた国民一丸の応援を演出した。ボールの形もメンバー構成も変わる次のW杯が、民族融和を一層促す
機会になればいい。
参 考 文献
書名
南アフリカ共和国
南アフリカの衝撃
南アフリカの歴史【最新版】
国家の仮面が剥がされるとき
―南アフリカ「真実和解委員会」の記録
南アフリカ経済論―企業研究からの視座
真実委員会という選択 紛争後社会の再生のために
2010 年南アフリカ W 杯が危ない!
紛争後社会と向き合う―南アフリカ真実和解委員会
ポストアパルトヘイトの政治経済
語りえぬ信実 真実委員会の挑戦
イギリス帝国と南アフリカ
―南アフリカ連邦の形成 1899 ~ 1912
南アフリカ ポスト・マンデラの行方
アパルトヘイト教育史
南アフリカ白人帝国の終焉
―ポスト・アパルトヘイトと民族和解のゆくえ
物語・「虹の国」南アフリカ
南アフリカ 「虹の国」への歩み
南アフリカと民主化―マンデラ政権とアフリカ新時代
サハラ以南アフリカ全般
アフリカを食い荒らす中国
アフリカ問題 開発と援助の世界史
アフリカ 動き出す 9 億人市場
南部アフリカ社会の百年 ―植民地支配・冷静・市場経済
アフリカ・レポート―壊れる国、生きる人々
アフリカと政治―紛争と貧困とジェンダー
最底辺の 10 億人
―最も貧しい国々のために本当になすべきことは何か?
アフリカ 苦悩する大陸
アフリカに緑の革命を!
ハンドブック 現代アフリカ
アフリカに吹く中国の嵐、アジアの旋風
―途上国間競争にさらされる地域産業
アフリカ世界を読む
子どもたちのアフリカ〈忘れられた大陸〉に希望の架け橋を
フランサフリック ―アフリカを食いものにするフランス
世界の子ども兵 見えない子どもたち
図説アフリカ経済
現代アフリカの悲劇
―ケニア・マウマウ団からザイール崩壊まで
現代アフリカと開発経済学―市場経済の荒波のなかで
新書アフリカ史
民族紛争を生きる人びと
―現代アフリカの国家とマイノリティ
その他
ワールドカップは誰のものか FIFA の戦略と攻略
インビクタス 負けざる者たち
When She Was White:
The True Story of a Family Divided by Race
恥辱
著者
出版社
出版年月
平野 克己
レナード・トンプソン
アレックス・ボレイン
日本経済新聞出版社
明石書店
第三書館
2009 年 12 月
2009 年 11 月
2008 年 12 月
西浦 昭雄
阿倍 利洋
木崎 伸也
阿倍 利洋
花田 吉隆
プリシラ・B・ヘイナー
前川 一郎
日本評論社
岩波書店
角川 SSC 新書
京都大学学術出版会
第三書館
平凡社
ミネルヴァ書房
2008 年 11 月
2008 年 4 月
2008 年 2 月
2007 年 12 月
2006 年 12 月
2006 年 10 月
2006 年 2 月
榎 泰邦
論創社
ジョナサン・ヘイスロップ 春風社
福井 聡
第三書館
2004 年 2 月
2004 年 2 月
1999 年 7 月
太田 正利
峯 陽一
川端 正久、佐藤 誠
時事通信社
岩波新書
勁草書房
1999 年 6 月
1996 年 11 月
1996 年 5 月
セルジュ・ミッシェル
ミッシェル・ブーレ
平野 克己
ヴィジャイ・マハジャン
小倉充夫
松本 仁一
戸田真紀子
ポール・コリアー
河出書房新社
2009 年 12 月
日本評論社
英治出版
東京大学出版会
岩波新書
お茶の水書房
日経 BP 社
2009 年 11 月
2009 年 7 月
2009 年 2 月
2008 年 8 月
2008 年 8 月
2008 年 6 月
ロバート・ゲスト
大高 未貴
岡倉 登志
吉田 栄一
東洋経済新報社
徳間書店
明石書店
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中津孝司
石 弘之
フランソワ=グザヴィエ
・ヴェルシャブ
レイチェル・ブレット、
マーガレット・マカリン
平野 克己
片山 正人
創成社新書
岩波書店
緑風出版
峯 陽一
宮本正興・松田素二 編
栗本 英世
日本評論社
講談社現代新書
世界思想社
1999 年 12 月
1997 年 7 月
1996 年 4 月
後藤健生
ジョン・カーリン
Judith Stone
文藝春秋
NHK 出版
Hyperion
2010 年 5 月
2009 年 12 月
2007 年
J.M.クッツェー
早川書房
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2008 年 5 月
2008 年 4 月
2007 年 3 月
2007 年 3 月
2006 年 10 月
2005 年 4 月
2003 年 3 月
新評論
2002 年 7 月
日本評論社
叢文社
2002 年 4 月
2000 年 1 月