「「子ども」の誕生」に関する二つのエッセイ

「「子ども」の誕生」に関する二つのエッセイ:
経済学的パースペクティヴ
安達貴教
2004 年 8 月
1 フィリップ・アリエス『「子ども」の誕生』について:アナール学派とマルクス学派の統合 *
[要約] このエッセイは、子どもの歴史学的及び社会学研究において影響力を持ってきた
フィリップ・アリエス (1962)について考えたことから生まれている。個人行動のインセンティ
ヴを考えるという分析視角から、16 世紀のヨーロッパに何故、「子ども」が誕生したのかにつ
いて経済学的な説明を与えたい。私は、「商業革命」とそれに続く「プロト工業化」が、一般
的な技能と知識への需要を増し、人的資本投資の時期としての「子ども期」を要請したとい
う見方を提唱したい。更に、それは、リスク・シェアリングや信用の供与といった、共同体に
おける相互扶助の役割の低下によって促進され、それらもまた「商業革命」と「プロト工業
化」によって生じたものであるという仮説を提示する。
1.1 イントロダクション
「家族は、人類社会の歴史において、子どもを養育するための最も基本的な役割を果たすユニ
ットとして機能してきた。」「近代において子どもの教育に共同体が果たす役割は小さくなってきた
一方で、人類の誕生と狩猟採集時代から、子どもの養育については家族が最も基本的な役割を果
たしてきた。」 これらを聞いて首を縦に振る人は多いかもしれない。
フィリップ・アリエスは、しかし、上で述べたような〈子供〉の概念が、ホモサピエンスとしての「ヒト」
の生物学的な根拠に基づくというものではなく、歴史の中で創出されてきたものであることを論証し
た。すなわちアリエスは、〈子供〉の概念は、ヨーロッパにおいては 16 世紀から 17 世紀、すなわち中
世から近代の転換期に生まれたものであると主張する。彼の論証の手法は、図像記述や墓碑銘、
日誌、書簡などの断片的な資料を緻密に分析し、それらから人々の意識や感情(マンタリテ)を抽
出するというものである。1
* 初稿に対してコメントいただいた藤堂史明氏と中村義哉氏に感謝する。残りうる誤りは
筆者のものである。
1
アリエスの仕事は、歴史学のみならず、近隣諸分野、とりわけ社会学に大きな影響を与
えた。例えばフェミニズム社会学は、アリエスの精神を受け継ぎ、「夫婦愛」や「母性愛」
といったものは、生物学的根拠にもとづく歴史普遍的なものではないことを強調する。そ
の中で例えば牟田和恵は、アリエスの手法に倣って、明治時代の修身教科書の図絵に描か
れている家族のひとコマを、時代を追ってその変遷を分析するなどした。そして、「妻=母
たる女性が「良妻賢母」として、家庭領域を担い、夫=父たる男性が家庭外の「公的」領
域を担う」という「近代家族」モデルが、日清日露戦争期に確立し、以降の侵略主義的な
日本の国家形成に、家族が戦略的に組み込まれていったことを明らかにした。
1
本論では、彼においてはあまり明確にはされてないと思われる論点について考えてみたい。そ
れは次のようなことである。アリエスは確かに、中世には存在していなかった〈子供〉という意識が、
近代になって人々の中にどのように形成されたのかを説得的に明らかにした。 しかしながら、「な
ぜ」〈子供〉が誕生したのか、言い換えれば、〈子供〉の概念が生まれる必然性は何だったのかにつ
いては、あまり説得的な論拠を提示しているとは思われない、ということである。
以下では、アリエスの論点に注目しつつ、How の問題ではなく、上で述べた Why の問題、すな
わち、なぜ〈子供〉の概念が誕生したのか、なぜ〈家族〉の意識が変化したのかについて、それらの
背景を探ることにしたい。経済学徒としての私の分析視点は、ミクロレヴェルの個人のインセンティ
ヴに焦点を当てるというものである。ここで注意しておくべきは、〈子供〉の誕生と〈家族〉の意識の変
化の問題は不可分であるということである。アリエスは次のように述べる。
「十六世紀から十七世紀にかけて、こうして迸り出る家族意識は子供の意識と不可分である。私
たちがこの本の最初に分析した子供期に向けられた。関心は、このさらに普遍的な意識である家
族意識の一つの形態、一つの個別の表現に過ぎない。」 (330 ページ)
以下で、〈子供〉と〈家族〉を同時に扱うのは、彼のこの指摘に従うからである。そして私が取る分
析アプローチは、副題が示すように、アリエスに代表されるアナール学派と、大塚史学に代表され
るマルクス学派の融合を企てたものになっている。以下の 1.2 では、〈子供〉を扱い、それを踏まえて
1.3 で〈家族〉に進む。1.4 において、私の分析アプローチをアナール学派とマルクス学派との対比
で位置づけ、最後の 1.5 でまとめを行う。
1.2 「「子ども」の誕生」の歴史的背景
この節では、〈子供〉の概念の誕生の歴史的背景を探り、次節において「近代家族」のそれにつ
いて考えることにしたい。
上述のアリエスの指摘によると、ヨーロッパにおいて、〈子供〉の誕生と〈家族〉の意識の変化は 16
世紀から 17 世紀にかけておきている。そこで、それより少しさかのぼり、ヨーロッパの歴史的趨勢を
15 世紀から見てみることにする。
中世の停滞の時代を終えて、ヨーロッパが富を蓄積していく契機となったのは、大航海時代の到
来である。スペインとポルトガルがイスラム駆逐の余勢で対外進出を開始した。その「地理上の発
見」に伴い、ヨーロッパ商業の構造は変化していった。すなわち、伝統的な地中海(イタリア商人)
経由の東方貿易は衰えた一方、アジア、アフリカ、アメリカとの直接貿易が開かれていったのである。
この「商業革命」こそが、ヨーロッパ中産階級における〈子供〉の誕生を促したのではないかと考えら
れる。それまでのヨーロッパにおいては、〈子供〉は〈小さな大人〉とみなされていた。7 歳前後になる
と、〈小さな大人〉たちは徒弟として他家へ送り込まれ、見習修行での生活を通して知識と実務経験
を得ていった。しかし、「商業革命」による取引機会の増大は、鍛冶屋なら鍛冶屋のことだけ知って
いれば事足りる、というのではなく、一般的な知識や技能を身につけた上で、増大した取引機会を
2
利用することのメリットが生まれてきたものと思われる。例えば、普段から交流のない、旅先の商人
を相手に取引をするのであれば、一般的な技能や知識の有無は、自分の売るものの説得の仕方
や、相手が売ろうとしているものの理解の仕方に差を生むであろう。このような経済的な背景によっ
て、目の前の〈小さな大人〉をいきなり働かせるのではなくて、まずは教育投資をしばらく行ったうえ
で、経済活動に従事させるということのメリットが、社会の中層間で共有されていったものと思われ
る。2
以上のような要請と同時並行して、社会的富の蓄積に裏付けられた衛生状態や栄養状況の改善
は、〈小さな大人〉を〈子供〉として扱う素地を用意していったと捉えられよう。それまでは、「ひと」は
生存可能性の不確実な時期(7 歳前後)を越えると大人の一員とされ、「小さな大人」とされた。「ひ
と」は、7 歳になるまで人間とは見なされていなかったといってよい。このことはアリエスが、モンター
ニュの言葉などによって論証していることである。しかし、乳幼児死亡率の低下と、上述の経済的背
景によって、「ひと」は、生まれたときから、保護され、愛され、教育される対象として捉えられるよう
になってきたと考えられる。
1.3 「近代家族の誕生」の歴史的背景
前節では、「〈子供〉の誕生」の経済的、社会的背景について考えた。この節では、それと不可分
である「近代家族の誕生」の経済的、社会的背景について考えていく。
そもそも、それ以前の〈家族〉とは、共同体に対して開かれていた。別の見方をすれば、職業生
活、私生活、社交ないし社会生活の間に区別がなかったと言える。その結果、本来言うところの家
族のみならず、血縁関係にないもの(徒弟や家庭奉公など)も住んでいる人数の多い大所帯は珍
しくなく、とりわけ、富裕な家では奉公人や使用人、書生、事務員、商店の小僧、徒弟、友人等々も
同居していた。以上のように、家族は共同体から独立して存在していたのではなく、あくまで地域の
一部であったのである。
以上は、アリエスが指摘するところであり、彼は、前節で分析したような、〈子供〉の誕生に伴う「学
校化」によって、親は子供を手放さなくなったために、親子間の感情的な交流が深まり、家族は次
第に、共同体から独立した完結した組織、すなわち「近代家族」になっていったのだと言う。
しかしそれは、結果としての現象であって、「近代家族」の背景をなす理由としては不十分である
と思われる。そこで私は、共同体の経済的機能として、相互扶助の機能に着目したい。未だ「産業
革命」による技術革新の夜明け前ではあるが、「商業革命」によって、土地の移動、そして前節で述
べたような一般的な技能や知識の習得可能性は、職業の選択の自由を促したと考えられよう。その
結果として、共同体における人々の流動が増したことによって、共同体による相互扶助機能は低
下して行ったものと考えられる。明日も確実に会える「顔見知り」でなければ、お金の貸し借りが行
この時期は、工業化以前の工業化という意味で「プロト工業化 (proto industrialization)」
と呼ばれ、織物業などの農村工業が展開された時期である。すなわち、自家消費ないしは
共同体内部での交換を目的とした生産から、市場での販売を目指す「商品」としての生産
活動への転換期だったと言える。その意味で、「商業革命」の影響は、社会の広範囲に及ぶ
ものだったと考えられよう。
2
3
われるような誘引(すなわち信用)は生まれないであろう。 3 そのため、敢えて生物学的関係を超え
て、共同体に対して境界を開くことのメリットは低下していったものと考えられる。この結果として、共
同体に対して閉じた「近代家族」が形成されていったのではないだろうか。
それとともに、前節で扱った「〈子供〉の誕生」によって、上述のように形成されていった「近代家
族」において、「子供」は以前と比べてはるかに重要な登場人物となり、親の関心が子供へと向かう
ようになっていったものと考えられる。
このようにして、一方で、一般的な技能や知識の習得の要請による「〈子供〉の誕生」は、近代家
族の「子供中心主義」を特徴付け、他方で、共同体の相互扶助機能低下による「近代家族の誕
生」は、「誕生した〈子供〉」の家族における位置、すなわち庇護され、教育される者としての位置を
明確にした。その意味でアリエスが指摘するように、「〈子供〉の誕生」と「〈家族〉の意識の変化」の
問題は不可分なのである。 4
1.4 上述の仮説と、アナール学派及びマルクス学派との比較
以上の分析視角は、アリエスに代表されるアナール学派とも、大塚史学に代表されるマルクス的
史観とも異なる。
まず、アナール派の特長としては、国家を単位として歴史を語るのではなく、末端の庶民に注目
することである。そして、メンタリティの変化を追及し、政治や経済、革命や事件に依らずに、人間の
意識の変化を追う。これは、ちょうどマルクス的歴史学とは正反対の立場である。なぜなら、マルク
ス的歴史学は、基本的なマルクス主義的発想である「下部構造が上部構造を規定する」という考え
方をとるからである。
この対立は、どちらが正しくて、どちらが間違っているというものではないと考えるのが生産的で
プラグマティックな態度であろう。その中で私の分析視角を位置づけるのならば、アナール学派のミ
クロ的視点から得られる知見を、マルクス的なマクロの歴史潮流と整合的に把握しようとする態度
であるといえよう。一方のアナール学派においては、ミクロの統計や台帳などが重視する結果、ある
村、ある地方の、例えば人々の心性の変化など、かなり細かなことが明らかにされるが、それを超え
たマクロ的、時間的な歴史把握には重点が置かれない。他方のマルクス的歴史学においては、逆
に、個々の地域の差異を捨象した、抽象的、一般的な歴史把握に努めようとするが、「階級史観」
が中心のため、個々人のミクロ的行動に注目するという観点が希薄である。私のアプローチは、経
済的な「下部構造」を、「階級」の視点から捉えるのではなく、個々人の経済社会的な行動動機に
3
最近、経済学者のジョセフ・スティグリッツとブルース・グリーンワルドは、金融活動
の本質を、貨幣というよりも、広義の信用(credit)の役割に求めることの重要性、とりわ
けマクロ経済や経済発展の問題を考える際の重要性について強調している。
4
もっとも、
「商業革命」による市場経済の浸透によって共同体機能が低下したからといっ
て、
「
〈子供〉の誕生」に伴う、今日の義務教育の前身たる〈学校〉システムの発達は、共
同体によって担われた部分が大きいだろう。この問題については、今後の課題としたい。
なお、アリエスの本は、
「第一部 子ども期へのまなざし」、
「第二部 学校での生活」、
「第
三部 家族」という三部構成である。
4
着目して、アリエスがミクロの調査から指摘する現象面を理解しようとするものである。その意味で、
私の分析視角は、アナール学派の長所と、マルクス主義的歴史観の長所をミックスしたものと言え
よう。
1.5 結語
以上本論では、〈子供〉概念の誕生と、それに伴う〈家族〉意識の変化について、How でなく、
Why の側面からの考察を試みた。その際、アナール学派のミクロ的知見を、マルクス学派的に経
済的要因と整合的に理解しようとつとめ、しかし、「国家対市民」であるとか「ブルジョワ対労働者」と
いった「階級闘争的」側面ではなく、あくまでミクロの個々人の行動動機の側面に焦点を置いて考
察を行った。結論として、「商業革命」による、一般的技能と知識の習得の要請が「〈子供〉の誕生」
を、共同体の相互扶助機能低下が、「近代家族の誕生」を促し、それぞれがお互いを補完しあうと
いう意味で、不可分であることを指摘した。
もっとも、ここで私が提示した分析アプローチは、あくまで見取図の、しかもラフスケッチに未だ留
まるものであろう。本来であれば、本論で提示した仮説をサポートする一次、二次資料の参照をす
るべきであったが、時間と(なにより)能力の制約のため、果たせなかった。また、私が本論で提示し
たような「ミクロの個々人の行動動機の側面に注意を払う」というような視点は、昨今の歴史研究に
おいては必ずしも珍しくなくなってきているようであり、そのような一例としては、私が知る範囲では
岡崎哲二編がある。私自身は歴史研究を専門とするものではないが、一経済学徒として、今後とも
勉強を続けていきたい。
参考文献
岡崎哲二(編)『取引制度の経済史』東京大学出版会、2001 年。
牟田和恵『戦略としての家族:近代日本の国民国家形成と女性』新曜社、1996 年。
アリエス、フィリップ(杉山光信・杉山恵美子訳)『〈子供〉の誕生:アンシャン・レジーム期の子供と家
族生活』みすず書房、1980 年。
スティグリッツ、ジョセフ、ブルース・グリーンワルド(内藤純一・家森信善訳)『新しい金融論:信用と
情報の経済学』東京大学出版会、2003 年。
2. 日本における「子ども」の誕生 ∗
[要約] この 2 番目のエッセイでは、最初のエッセイで述べた観点を日本のケースに当ては
め、日本における「「子ども」の誕生」の時期を考える。私の仮説は、寺子屋(主に私立の初
頭教育機関)の数が増大した(明治維新前の)19 世紀前半というものである。
∗
初稿に対して批判的かつ建設的なコメントをくださった渡辺安虎氏に感謝する。残りうる誤りは筆
者のものである。
5
2.1 イントロダクション
フィリップ・アリエス(1980) は、「子ども」概念の存在を歴史的に相対化して、「子ども観の変遷」
についての研究の出発点となった。彼が対象にしたのが中世から近代のフランスであったことを考
えれば、これらの研究が主に西欧社会を対象としていることは不思議なことではない。翻って、非
西欧圏、特に日本についても、アリエスが指摘した「子ども」概念の誕生というものは見られるので
あろうか。
ここでアリエスの研究をもう一度振り返ってみる。彼は、「子ども」の概念は、西欧においては、16
世紀から 17 世紀、すなわち中世から近代の転換期に生まれたものであると主張する。それを論証
するために彼が用いた手法は、図像記述や墓碑銘、日誌、書簡などの断片的な資料を緻密に分
析し、それらから人々の意識や感情(マンダリテ)を抽出しようというものである。
私 (2003) は、アリエスの論点に着目しつつ、彼においてはあまり明確になっていないと思われ
る論点、すなわち、なぜ「子ども」の概念が誕生し、なぜ「家族」の意識が変化していったのかという
ことについて、ミクロの個々人の行動動機の側面と、マクロの世界史(とりわけ社会経済史)の趨勢
からの考察を試みた。「地理上の発見」を契機とする「商業革命」そして、それに続く「プロト工業化」
が、一般的技能や知識の習得を要請し、それが「子ども期」の必要を生み出し、そして、共同体の
相互扶助機能低下による「近代家族の誕生」が、それを後押しすると同時に、「子ども期」概念の浸
透が、「近代家族」概念をますます明確にしたのではないかという仮説を提示した。
本稿の目的は、同様の手法を日本社会に応用して考えてみることである。まず次の 2.2 で、国際
日本文化研究センターの研究プロジェクトである「ユーラシア社会の人口・家族構造比較史研究」
(1995-1999 年)の中で、落合恵美子を代表とする「家族史」研究班の成果を紹介する。この研究成
果は、日本の江戸後期を対象にした人口学的立場によるものである。続く 2.3 で、その研究成果と
時代趨勢の考察をもとにして、日本における「子ども」概念の誕生時期の特定化を試みる。最後の
2.4 で、まとめと今後の課題について述べる。
2.2 18 世紀後半の低出生率と 19 世紀前半の出生率の上昇
この節では、上述した「家族史」研究プロジェクトの中の「出産・子育て」についての沢山美果子
による研究成果の紹介 (2000) をまとめる。5
この研究が依拠する資料は、宗門人別改帳である。ヨーロッパの研究で主に用いられる教区簿
5
なお、この研究プロジェクトの位置付けは、落合恵美子の説明(沢山 (2000) と一緒に載ってい
る)によると、次のようである。マイケル・アンダーソン (1988) は、家族史のアプローチには(1)人口
学的アプローチ、(2)心性史的アプローチ、(3)家庭経済的アプローチの三者があると整理した。し
かし、日本においては、人口学的アプローチは、主に経済史学者によって担われてきたため、より
社会学に近い(2)や(3)のアプローチとの交流がなかったという。そこで、そのプロジェクトでは、社会
学者の立場から、(1)のアプローチを開拓しつつ、他の二つのアプローチを拡充することを目標とし
たということである。
6
冊は、出生、結婚、死亡といった個人イベントの記録なので、誰と誰が同居して、どのような家族を
持っているのかということまでは分からない。しかし、宗門人別改帳は、毎年、世帯ごとに作成され
ているので、世帯構成員の静態情報(名前、年齢、続柄等)のみならず、動態情報(出生、死亡、
婚姻、奉公等)までも把握可能になる。
研究プロジェクトが対象としたのは、多数の良質の史料が残されていた奥州二本松藩領農村で
ある。資料分析の結果、明らかにされたことは、近世後期(18 世紀後半)の低出生率である。他の
地域との比較から、日本近世の家族形態や相続制を考える際には、少なくとも、東北日本、中央日
本、西南日本の三つの地域で大きな相違が見られることが同プロジェクトから明らかにされている
が、この時期の低出生率は全国共通である。そこで考えられる原因としては、潅漑施設のない田圃
(深田、沼田)で腰や胸まで浸かりながら田植え作業を強いられた近世農村の女性たちが妊娠初
期に自然流産する確率は高かったこと、また、母乳に代わる栄養源がほとんど存在しない日本で
は長期授乳は長い間の慣行であり、この長い母乳哺育期間が出産後の妊娠不可能期間を長引か
せたこと、などが考えられるという。ところが、19 世紀の前半から、出生率は増加に転ずる。これは、
養蚕・生糸・絹織物業の発展とともに、若年女子労働がそれらの産業に割り振られていったためと
考えられる。
以上が、このプロジェクトが、脚注 5 における(1)のアプローチの立場から明らかにしたことである。
なお、このプロジェクトのもう一つの柱は、「堕胎・間引きの倫理観」の心性史的解明である。通説に
おいては、「堕胎は、不義密通を隠すために、都市で広く見られた一方で、農村においては、労働
力としての母親の母体重視のために、間引きが広く行われた」とされていたが、このプロジェクトで
明らかにされたことを簡単にまとめると、(a)農村における正式の婚姻関係にある夫婦においても堕
胎がおこなわれた可能性が高いこと、(b)その背後には、間引きよりも堕胎のほうがましとする生命
観があるらしいこと、(c)都市、農村を問わず、近世後期の出生制限の手段は間引きよりも堕胎だっ
たのではないかということ、である。
これ自体は、当時の人たちの宗教観・倫理観との関係についての探索や、ヨーロッパにおける
「子殺し・捨て子」の社会史研究との比較が興味深いと思われるが、それらは今後の課題とし、次節
では、日本における「子ども」概念の誕生について考える。
2.3 日本における「「子ども」の誕生」の時期の特定
ヨーロッパにおいては、16 世紀から 17 世紀にかけて誕生した「子ども」概念は、日本においては
いつ誕生したと考えられるのだろうか。そしてそれは、どのような背景によるものなのか。それらにつ
いて考えたい。なお、以下の説明は、笠原一男 (1977) に依拠している。
中世からの転換期において、アリエスが対象としたヨーロッパと日本とで最も異なる点は、ヨーロ
ッパがイスラム駆逐の余勢で、アフリカ、アメリカ、アジアとの直接貿易の道を切り開いていったのに
対し、日本は、徳川幕府が鎖国によって、外国貿易の道を閉ざしたことである。しかし、海外との取
引による商業的発展は閉ざされたものの、幕藩体制の安定につれて奨励されていった新田開発や
農業技術の進歩(治水技術の発達、肥料や農具の改良)によって、農業の生産力は著しく向上し
7
た。同時に、手工業も発展していった。しかし、未だにこの時期においては、子どもは、アリエスが
言うところの、「小さな大人」に留まっていたのではないだろうか。 6 最初のエッセイにおいて私は、
「小さな大人」を「子供」と認識する背景を、「商業革命」とそれに引き続く「プロト工業化」の時代に
おける、汎用的知識と技能の早期習得の必要性に求めた。しかし、近世前半(17 世紀後半から 18
世紀前半)の当時の日本においては、五街道に代表される陸上交通の整備や、近海海路の開拓
はまだ始まったばかりであり、農業や工業の生産性の増加は、全国的な商品流通網にはすぐには
結びつかなかったと考えられる。この点がヨーロッパと異なるところであろう。
続く 18 世紀前半から半ばにかけては、天候不良に伴う飢饉の頻発による低迷の時代が続いた
が、その後の田沼時代や寛政の改革の時代には、落ち着きを取り戻し、新田開発は全国的な広が
りを見せた。その結果として、前節で紹介した通りに、18 世紀後半には、若年女性労働力が稲作に
投入され、低出生率を引き起こしたものと考えられる。すなわち、前述の農業技術の革新に加えて、
生産の効率性に結びつく社会的インフラストラクチュアの整備が進んだことによって、労働の限界
生産性が高まり、女子労働力が投入されるインセンティヴが与えられた。その結果として低出生率
が生じ、それは 19 世紀前半になって、一人当たりの生産性を高めることにつながり、富を蓄積して
いくことのきっかけになったものと思われる。 7 日本では、この時期に、市場での販売を目指す「商
品」の生産を目的とする「プロト工業化」が軌道に乗り、広範囲に影響を及ぼすものになったと考え
られる。都市近隣部では貧富の拡大が社会的不安定要因となったが、 8 少なくとも地方について
言えば、18 世紀後半の少子化が、少産少死型社会の実現を用意し、19 世紀前半の安定期に入っ
て出生率が増加に転じた後も、初婚年齢の上昇も伴って、爆発的人口増加にはつながらなかった
ものと考えられる。このことは図 1 からも見ることができる。 9
6
井原西鶴の『日本永代蔵』(1688 年)には、「人は十三歳までは弁(わきま)へなく、それより二十
四から五までは親の指図を受け、其後は我と世を稼ぎ、四十五までに一生の家を固め、遊楽する
ことに極まれり」という言葉があり、当時の商人の人生観を示していると同時に、この時期(17 世紀
後半)彼らが既に彼らが「十三歳まで」を「子ども」期と認識していたことを示しているものと捉えられ
るかもしれない。本稿では、当時の人口の大部分を占めた農民に視点を置いているが、商人、農
民、武士などの階層別に「子ども」概念の誕生の時期は異なるのかもしれない。今後の検討課題と
したい。
7
なお、この時期は、天明大飢饉、浅間山噴火、関東大水害などの天災が再び頻発しており、そ
れらのことも低出生率と関係していると考えられよう。
8
19 世紀前半から半ばにかけても百姓一揆は頻発しているが、これらは、都市部貧民による打ちこ
わしが主であり、18 世紀中の地方農民一揆とは性格が異なると考えるのが妥当であろう(笠原の
281 ページを参照)。
9
ここで、人口の「増加」を見るために、縦軸の数値は常用対数を取っている。
8
図 1 江戸期以降の日本の人口推移
さて、ここで「子ども」概念の誕生を示唆するものとして、寺子屋の存在をあげたい。寺子屋は言
うまでもなく、民間におのずと発生した初等教育期間である。笠原一男によると、寺子屋は既に享
保年間の江戸府内に約 800 余りあったとされるが、幕末には全国的にその数は増え、江戸時代を
通じて、約 1 万 5000 以上の設置がみられたという。寺子屋で教えられたのは、「読み・書き・そろば
ん」であり、汎用的知識と技能の早期習得の必要性が庶民の間で浸透したことの表れであると考え
られる。
以上の考察により、日本における「子ども」概念の誕生は、19 世紀前半の近世後期に求められる
ものと考えられる。
2.4 要約と今後の課題
以上本稿では、江戸後期を対象とした人口学的研究で確かめられた、近世後期の低出生率を
念頭において、時代趨勢の考察とともに、日本における「子ども」概念の誕生時期の特定化を試み
た。その結果、日本における「子ども」概念の誕生は、社会的生産の安定を伴う少産少死型社会が
確立した 19 世紀前半の近世後期に求められるという仮説を提示した。
さて、本稿では、アリエスが指摘した「子ども」概念の誕生を、日本において位置づけることを考
えた。具体的には、最初のエッセイと同様に、経済発展の流れにおいて、個々の世帯が子弟を大
人とは別個の存在として、いわば「投資期」としての「子ども期」を認識する必要性を持つに至ること
が、「子ども」概念の誕生を意味することであるという立場からの考察を行った。ここで、東アジア圏
9
では、西欧社会とは異なり、「子ども」概念は、既に確立していたとの批判がありえるかもしれない。
しかし、南山大学の林雅代の講義紹介
10
によると、日本を対象にして、アリエスと同様の指摘を石
川謙(1891-1969)が、アリエスに先駆けて 1954 年に行っているという。インターネットでは、それ以上
の情報は得られなかったが、少なくとも、アリエスの考え方は非西欧地域には当てはまらないとは
言えないということは確かなのではないだろうか。
最後に、今後の課題について述べたい。
まず、日本における「子ども」概念の誕生を確かめる有効な手段の一つは、アリエスに倣って、元
禄文化(17 世紀後半)における風俗画、浮世絵、版画などと、化政文化(19 世紀前半)における浮
世絵、錦絵、写生画などを比較し、それらにおいて、子どもがどのように描かれているのかを検討
することであろう。
次に、2.2 でも触れた地域差の問題である。2.2 で紹介したプロジェクト「ユーラシア社会の人口・
家族構造比較史研究」において明らかにされたことの一つは、日本のみは、地域性を無視して、
「日本の」人口や家族を論ずることは出来ないとのことである。表 1 は、人口趨勢や家族パターンの
地域による違いをまとめたものである。
表 1 人口・家族の地域性
項目
東北日本
中央日本
西南日本
人口趨勢
減少
停滞
増大
家族パターン
直系
直系+核
直系+合同
世代数
多
少
多
傍系家族
若干
無
多
相続・相続
長子
長男子+末子
長男子+末子
結婚年齢
低
高
高
出生率
低
高
高
婚外子
無
若干
多
世帯規模
大
小
大
人口制限
多
無
無
人口移動
無
多
若干
(出所:http://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/13/03/010332d.htm より抜粋)
例えば、人口趨勢と出生率に着目すれば、東北日本は、他の 2 地域に比べて、「少ない子どもを
丁寧に育てる」必要が高かったと考えられ、そのことによって、東北日本においては「子ども」概念
10
http://www.nanzan-u.ac.jp/NYUSHI/joho/syllabus2003/jinbun/035.html
10
の誕生は早かったのではとも考えられるが、経済的発展の度合いを考えれば、効果が打ち消され
ているかもしれない。地域性の違いは、日本における「子ども」概念の誕生を簡単には捉えられな
いことを意味している一方で、違いによる差の出方の比較をすることができれば、むしろ様々な話
題が研究の対象になりえることを示しているかもしれない。
参考文献
Anderson, Michael. 1995. Approaches to the History of the Western Family 1500-1914, Cambridge
University Press. アンダーソン、マイケル(北本正章訳)『家族の構造・機能・感情 家族史研
究の新展開』海鳴社、1988 年。
石川謙『我が国における児童観の発達』一古堂書店、1954 年。
笠原一男『詳説日本史研究』山川出版社、1977 年。
鬼頭宏『人口から読む日本の歴史』講談社学術文庫、2000 年。
沢山美果子「出産・子育て」、『文部省科学研究費創成的基礎研究「ユーラシア社会の人口・家族
構造比較史研究」最終実績報告書』、2000 年。
(http://www2.ipcku.kansai-u.ac.jp/~hamano/eap/japanese/2.htm)
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