HIKONE RONSO_291_043

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リルケとゾフィー・リープクネヒト
金 子 孝 吉
L
リルケは,1910年に彼の中期時代の総決算といえる散文作品『マルチの手記』
を苦吟ののちに完成させたあと,創作上の危機に陥り,しばらくのあいだ作品
をなにひとつ発表できない状態が続く。ときには,もはや詩人として生きるの
をやめることさえ彼の脳裏をかすめる。それでも,1912年初めに,のちに代表
作『ドゥイノの悲歌』に収められる「第1悲歌」と「第2悲歌」,その他の断片
が成立し,また1912年11月から1913年2月にかけてのスペインへの旅は,いく
篇もの優れた詩を彼に生み出させ,詩集『マリアの生涯』も1913年に出版され
ている。この時期,たしかに彼の詩作力は回復のきざしをみせていたのである。
しかしながら,1914年夏に第一次世界大戦が勃発し,とりわけ1915年秋,彼自
身も兵役に就かなければならなくなるに至って,せっかく好転しかかっていた
リルケの創作力は,今度こそほぼ完全な麻痺状態に陥ってしまう。その後は,
ときおりいくつかの文学雑誌にちょっとした詩や散文を載せたのを除けば,第
一次大戦終結後しばらくしてスイスへ移住し,1922年に『ドゥイノの悲歌』と
『オルフォイスへのソネット』を生み出すまで,自作の詩集を一冊も出版しな
い詩人として沈黙しつづけることになるのである。
リルケが軍隊にいた期間はそれほど長くはなく,1916年6月には多くの友人
たちの努力によって除隊となったのだが,もともと身体が丈夫でなく,神経も
特別繊細だったリルケは,軍人生活のために生命力・精神力をすっかり使い果
たしてしまった。その後,彼はひどい無気力状態に陥り,詩どころか,手紙さ
えも簡単に書けない極度のスランプが続く。また一方で,戦争は膠着状態をむ
44 彦根論叢第291号
かえて長期化していた。前世紀までの戦争とは異なり,前線では近代的な殺教
兵器が大量の悲惨な戦死者を生み出し,ノルベルト・フォン・ヘリングラート
をはじめとしてリルケの友人たちも次々と命を落としていた。ドイツ国内では,
経済・社会的な混乱が拡大し,国民の生活はますます窮迫し,精神的な荒廃も
めだつようになっていた。人々は伝統的な価値観に頼ってみてももはや何らの
救いも見出せず,自分たちのよって立つ確かな土台を喪失したように感じてい
た。このような状況のなかで次第に多くの人々は,従来の世界秩序・政治体制
に対して強い疑念を抱くようになっていた。リルケも,このヨーロッパ社会全
体を根底から塗回させた戦争,「まさにおそるべき,堕落して腐敗してしまった
1)
世界破局Weltkatastrophe」のただなかにあって,単に詩人として個人的な創
作の不毛に悩んでいただけではない。同時に,従来の世界観・価値観が,そし
てこれまで続けられてきた政治・社会体制がもはやその有効性を失い,世界が
いまやその向かうべき方向を見失っていることに気づかざるをえず,それによ
っても彼の精神は動揺させられていたのである。このようないわば内面的・外
面的な二重の危難のなかで彼は,自分とそして世界が進むべき道を必死に捜し
求めていた。
このような苦難の時期に彼が出会って親交を結んだのが,ゾフィー・リープ
クネヒトである。彼女は,スパルタクス・ブント(のちにドイツ共産党KPD)
の指導者カール・リープクネヒトの妻であり,また,スパルタクス・ブントの
もう一人の指導者ローザ・ルクセンブルクの親友でもあった。一この交友
を意外に思われる向きもあるかもしれない。リルケは一般には,〈非政治的〉な
詩人,いや,どちらかといえばむしろく保守的〉な態度をとる〈象牙の塔〉の
詩人というイメージをもたれているからである。そのリルケが,ラジカルな政
治革命をめざす共産主義者カール・リープクネヒトやローザ・ルクセンブルク
のすぐ近くにいたゾフィーと親しく接触していたというのは,たしかに想像し
にくいことかもしれない。事実また,ふたりの交友については,少し古いリル
1)1917年5月24日付,カタリーナ・キッベンベルグ夫人宛書簡。R. M. Rilke/Katharina
Kippenberg : Briefwechsel. Wiesbaden : lnsel Verlag, 1954, S. 229.
リルケとゾフ/一・リープクネヒト 45
ケの伝記・研究書などではまったく触れられることがなかったので,熱心なリ
ルケ読者,あるいは研究者たちにさえ,そのような交友があったことは知られ
ていなかったのである。こうなったのは,なによりも,ふたりに親しい交際が
あったことが,長いあいだほとんど公表されなかったからだといえる。いやむ
しろ,その後の時代の政治的展開の方向を考えてみれば,政治的配慮によって
意図的に隠されてきたといってもよいだろう。ふたりの交流が広く一般に公表
されたのは,ようやく,1975年にマールバハで開催されたリルケ生誕100年記念
の展覧会においてリルケ研究家ヨーアヒム・シュトルクが二人の関係を印象的
2>
に呈示してからである。そして,やはりシュトルクが周到な準備のもとに編纂
3)
した浩潮な『リルケ政治書簡集』が最:近1992年に出版され,そのなかに,リル
ケとゾフィー・リープクネヒトの往復書簡が数点印刷されたことによって,私
たちはふたりの関係をさらに具体的,詳細に知ることができるようになったの
4)
である。今のところ,ふたりが交換した手紙のすべてを収録している完全な往
復書簡集は出版されていないが,本稿は,現在公表されている資料を使って,
リルケとゾフ/一・リープクネヒトの出会い・交友・文通をできるかぎり詳し
く跡づけてみたい。そしてそれを通して,ゾフィーとの交際が,この時期,人
生と創作の深い危機のなかにいた詩人リルケに,また彼の政治観・世界観にど
のような影響を与えたか,さらには,リルケの詩人としての生涯においてこの
2) Storck, Joachim W. (Hrsg.) : Rainer Maria Rilke, 1875−1975. Katalog der Ausstel−
lung des Deutschen Literaturarchivs im Schiller−Nationalmuseum Marbach a. N.,
Stuttgart : Ernst Klett Verlag, 1975.
3) Storck, Joachim W. (Hrsg.) : R. M. Rilke. Briefe zur Politik. Frankfurt/M und
Leipzig:Insel Verlag,1992.[以下, BzPと略す。本文中でも同様。]
4)ふたりの交友については,次の2つの資料にも比較的詳しい言及がある。
a) Nalewski, Horst (Hrsg.) : Rilke. Leben, Werk und Zeit in Text und Bildern.
Frankfurt/M und Leipzig : lnsel Verlag, 1992.
b) derselbe (Hrsg.) : R. M. Rilke. Briefe in zwei Banden. Frankfurt/M und Leip−
zig:Insel Verlag,ユ991.似下, Nalewski:Br.と略す。本文中でも同様。]なおb)すな
わちNalewski:Br.は,3)すなわちBzPより出版年が先になっているが,編集作業に関
しては,BzPのほうが早く出来あがっている。それは, Nalewski:Br.がBzPの資料を
基礎にして作られていることから明らかである。Nalewski:Br., S.457などを参照。
46 彦根論叢第291号
交友がいかなる意味をもっていたのかを考察することにしたい。
II.
1917年6月,当時ミュンヒェンに住んでいたリルケは,娘ルートの希望もあ
り,休養をかねて初夏をミュンヒェンから東南東に70キロほど離れたところに
ゼ 位置する風光明媚なキーム湖ですごすことにした。当初は,妻クララ,娘ルー
トといっしょに休暇をすごす予定だったようだが,すぐに彼は,創作のために
必要な孤独を求めるということで,妻子をキーム湖上のフラウエン島に置いて,
自身はひとりで同じ湖に浮かぶヘレン島のほうに移った。彼がゾフィー・リー
プクネヒトと出会ったのは,このヘレン島においてである。彼女も,ルートヴ
ィヒ寒紅の城があるこの美しい島に休養のために滞在していたのだった。ふた
りの出会いは,まったくの偶然だったわけではないらしく,りルケと親しかっ
5)
たへルタ・ケ一酌ヒ夫人の紹介で,ふたりは知り合ったともいわれている。
ともあれ,ふたりは会ってすぐに親しくなった。それには,ゾフィーがロシ
ア生まれであったことが大きく関与していた。リルケが若いころ旅したロシア
は,彼にとって生涯を通じて忘れられない〈精神的故郷〉となっていた。ロシ
ア生まれの女性とロシアのことを話すことができるだけでも,リルケは幸福感
に浸れたのである。また,リルケがゾフィーに惹かれたのは,彼女が若々しく,
生命力にあふれた美しい女性であるばかりでなく,のちに触れるように,リル
ケの詩を深く理解することができる豊かな芸術的感受性に恵まれた聡明な女性
でもあったからである。
この時期ふたりはともに困難な問題を抱えていた。リルケについてはすでに
述べたとおりであるが,ゾフィーにとっても苦渋の日々であった。彼女の夫カ
ール・リープクネヒトは,1916年5月1日にベルリンで開かれた大規模なデモ
集会の際,反戦を激しく訴えたために逮捕され,内乱罪で4年1ケ月の懲役判
決を受け,当時服役中だった。また,彼女の兄は1916年の秋に戦死していた。
5) Schnack, lngeborg : R. M. Rilke. Chronik seines Lebens und seines Werkes, 2 Bde.
Frankfurt/M : lnsel Verlag, 1975, S. 561.
リルケとゾフ/一・リープクネヒト 47
そして,彼女にとってこのように辛いときに一番の相談相手になるはずの親友
ローザ・ルクセンブルクも,この頃依然としてく保護拘禁〉の名目で監獄に閉
じ込められたままだったのである。しかしながら,リルケを驚嘆させたのは,
このような逆境にあってもゾフィーが決して絶望することなく,困難にじっと
耐え,それどころか毎日を生き生きと明朗に,有意義に送ろうと決意し,また
それを勇気をもって実践していることだった。苦難のなかでも,希望を失わず,
懸命に生きようとしている女性,そのうえ彼の芸術上の問題に理解を示し,さ
らには苦悩している彼を元気づけてさえくれる女性と出会ったことにより,リ
ルケは自分のなかにふたたび生きる力が湧きあがってくるのを感じた。一方ゾ
フィーの側でも,人間の生の内奥の秘密にまで導くようなリルケの詩を,作者
みずからの朗読によって聞くことができ,それは彼女を深く感動させ,苦しみ
に耐えている彼女の心をやさしく癒したのだった。
初夏の太陽が明るく輝き,野々の緑が水上に美しく映り,さわやかな風が吹
き寄せる自然あふれるヘレン島でのふたりの出会いは,ほんの数日間のことに
すぎなかったにせよ,ふたりにとっては忘れがたい思い出となる。ゾフィー・
リープクネヒトが島を去ったあとも,リルケはなおしばらくの間そこに留まっ
た。彼女が,ベルりンからクッキーをリルケに届け,島での楽しい思い出を綴
った手紙を送ってくると,リルケもそれに応えて,6月22日,島で宿泊してい
た,以前は修道院だったシュロス・ホテルの一室から返事をしたためる。
昨日あなたからのお菓子の小包が届きました。ありがとうございました。
そのなかに手紙が入っていないかと捜したのですが一,今朝がそれを運ん
できてくれました。そしていま,あなたがお手紙のなかで,島でのことを美
しく生き生きと回想してくださったことに私は幾重にも感謝します。私にと
ってもくヘレン島の日々〉は,まさにすばらしい贈り物を得たような美しい
思い出です。このあますところなく感じとられた,ふたりでともに過ごした
時間,それは,人生のすべての蓄えのなかから,突然私たちに授けられたも
のでした。私は,あの日々のあいだ私自身Ich selbstであることができまし
ヘ ヘ ヘ へ
た。そしてそれは,なによりも,ゾフィー・ボリソーヴナ,あなたのお力,
48 彦根論叢第291号
あなたの純粋な生命力,あなたの喜びの力によるものだということを私は知
っています。それらのおかげで私は生命が甦るのを感じたのでした。ともあ
れ私はふたたび,私を,私という存在を,私のかけがえのない思い出を,時
代の流れによって制限され,否定されてきた私の心の感情を,いっときでし
たが取り戻すことができたのでした。これらすべてのものが,私のいまの硬
直状態Erstarrungにおいても,なお消滅していなかったのを知るのはとて
も良いことです。……悪しき圧迫が弱まった際にときおり自然の力が成し
遂げてくれたこと,いや,今年の生気濫れる春ですらどうしても成し遂げら
れなかったこと,つまり,私を生き生きと活動させること,それを可能にし
たのは,今回私にとっては,まさにあなたのお力なのです。それを実現させ
たのは,この思いがけない日々に,さまざまなものに心から喜び,限りなく
驚いたあなたの生き方なのです。・…・・
親愛なるゾフ4一・ボリソーヴナ,私たちふたりの調和につつまれた対話
のなかで,ふたたび世界はそのすべてにおいて,覆いのかかっていない,完
全な姿で現れたのでした。それは,私たちをすっかり満たし,そして昼と夜
とを,私たちにやさしい味方にしたのでした。… …あなたがいらっしゃら
なくて,とても寂しい思いをしています。 R.
(BzP, S. 623ff.)
1917年のリルケの生命力・創作力の「硬直」ぶりは,実際はなはだしいもの
で,作品をまったくといってよいくらい生み出せなかっただけでなく,いつも
なら内容豊かな手紙を次から次へと書いていたのに,その点でも驚くべき停滞
に陥っていたのである。送られてきた手紙の返事を書くのがつねに大きく遅れ,
たとえばその年の5月,彼はある女性に宛て次のように嘆いていた。
あなたのお手紙になんと長い間応えられなかったことでしょう。それをみ
ても,私のいまの硬直状態と無気力さの程度の異常さがじつによく分かるの
です。そのあらゆる障害と,きわめて恐るべき崩壊へと押し流される行為と
を伴うこの時代は,まるで鉛のように重く私に降りかかったのでした。私は
身動きがとれないのです,外側においても,内面の奥深くに向かっても。そ
してたとえ私のもっとも深い内奥になおも少しばかりの生命力が残っていた
リルケとゾフ/一・リープクネヒト 49
としても,いまの私はあまりに感覚が鈍く,洞察力が衰えていますので,そ
6)
れを手がかりに私自身を感じ,認識することができないのです。
「時代」のせいで「気力」・「生命力」がすっかり減退し,毎日をほとんど無
為のうちにすごしていたリルケは,暗澹とした気持ちで,ふさぎこんでいるこ
とが多かった。だが,ヘレン島でゾフィー・リープクネヒトと出会い,親しく
話しをしたとき,彼は自分の生命力が久しぶりに甦ってきたように感じ,気分
も一遍に明るさを取り戻した。それはなによりも,彼女が,困難な問題を抱え
ているにもかかわらず,日々出会うどんなささやかなことにも全霊を傾けて接
し,それらに新鮮な「驚き」を感じることにより,そこから生きる「喜び」を
見つけ出して自分の気持ちをつねに明るく保っていたからだった。また,それ
ができるだけの「純粋な生命力」を豊かに自分の内に備えもっていて,それを
周りの人間にも惜しみなく分け与えていたからだった。リルケは,すぐ近くに
彼女の豊かな生命力を感じることによって,ようやく無気力な「硬直状態」か
ら抜け出し,「自分自身」を「取り戻し」て「生き生きと活動する」ことができ
るように思ったのである。6月22日付のゾフィー・リープクネヒト宛書簡は,
この頃に書かれた手紙のなかでは,ひときわ明朗な調子を響かせ,リルケの幸
福感をよく伝えているものである。
III.
ゾフィー(ソ一団ャ)・リープクネヒトー旧性リュスーは,1884年,ロ
シアはドン河畔のロストフで生まれた。ハイデルベルク大学で美術史を学び,
博士号を得ている。ハイデルベルク時代,彼女は,法学講師グスタフ・ラート
ブルッフを中心とする若いロシア知識人のサークルに属していた。カール・リ
ープクネヒトとは,ベルリンで,亡命ロシア人グループのあいだで開かれた1906
年のロシア暦の新年を祝うパーティーで知り合った。そして,カールの最初の
妻ユーリアの死後,1912年10月1日にふたりは結婚式をあげ,ゾフィーはカー
6)1917年5月18日付,エリーザベト・タウプマン宛書簡。BzP, S. 165.
50 彦根論叢 第291号
ルの二番目の妻となった。彼女は,夫カール・リープクネヒトによれば,「この
7)
地上でもっとも非政治的な人間」であるといわれていたが,たしかに,彼女の
優れた芸術家的性質を考えてみれば,そのような発言にも首肯できるところが
あるといえよう。どちらかといえば,革命政治家の妻になるよりも,才能豊か
な芸術家として独立して生きる人生のほうが,彼女にとっては相応しかったか
もしれない。むろん,彼女自身は,夫や親友ローザ・ルクセンブルクらの革命
的政治姿勢に心底から共感していて,自分も彼らとともに政治活動に身を捧げ
るのは当然と考えていたのではあったが。ともあれ,ゾフィー・リープクネヒ
トは,芸術についてとりわけ優れた感受性をもっていた女性であったのは確か
である。そんな彼女に出会い,リルケは,自作の詩をゾフィーに朗読して聞か
せたり,また,彼女に手紙を送るさいには,手書きで丁寧に書き写したみずか
らの詩を幾度となく同封したのである。彼女はリルケのそれらの気遣いを心か
らありがたく思う。彼女は,8月18日付の手紙でリルケに書いている。
あなたはとても親切で,素晴らしい詩を私のために書き写したり,不思議
なほど感動的な本を贈ってくださったり,また私に長い手紙を書き送ってく
ださいます。…… いま突然電話が鳴り,あなたのお声が聞こえ,これ
から私を訪ねてこられるとおっしゃるようなことがあれば,どんなにか喜ば
しいことでしょう。……あなたが私にあのとき朗読してくださった幾篇か
の詩を,今回ひとりで何度か読んでみたのですが,すると,あのときとまっ
たく同じ強烈な印象を私は受けました。とくに「おおいなる夜」,一「天使
に寄せて」,「ナルシス」一「兄妹」一「春の死者」の詩です。一私に
とって今度初めて読ませていただいた詩のなかにも,私は素晴らしい作品を
8)
見つけました。「ラザロを呼び覚ます」です。 (BzP, S.558)
7) Trotnow, Helmut : Karl Liebknecht. Eine politische Biographie. Mtinchen : Deut−
scher Taschenbuch Verlag, 1982, S. 30.
8)「おおいなる夜」>Die groBe Nacht〈(1914年1月,パリで成立), SW II. S.74L;「天
使に寄せて」>An den Engel<(1913年1月,ロンダで成立),SW II.S. 48f.;「ナルシス」>
NarziB<(1913年4月初旬,パリで成立), SW II. S.56f.;「兄妹」>Die Geschwister〈
(1913年暮れ,パリで成立〉,SW II. S.68ff.;「春の死者」>O alle diese Toten des April
(Aus einem Frtihling)〈(1913年4月初旬,パリで成立), SW II.S.54f.;「ラザロを呼び/
リルケとゾフィー・リープクネヒト 51
リルケは,上の手紙であげられている作品以外にも,〈悲歌断片>Fragment
9) 10)
einer Elegieや「モーゼの死」も書き写してゾフィーに送っている。とくに後者
の詩については,リルケは8月3日付のゾフィー宛の手紙で,作者本人による
かなり詳細で,踏み込んだ説明・評価をおこなっている。これは,ゾフ/一は,
そうするに足る,自分の詩の優れた理解者だとリルケが見なしていたことを示
しているといってよいだろう。
また,上の手紙にもあるとおり,ゾフィーはリルケから,いろいろな雑誌や
書籍をプレゼントされている。そのなかには,「ウールフェルト伯爵夫人の手記」
という本もあった。デンマーク王クリスティアン四世の娘レオノーラ・クリス
ティーナ・ウールフェルトは,夫コルフィッツ・ウールフェルトによって,1663
年から1685年までもの長きにわたりコペンハーゲン城の〈青の塔〉に幽閉され
続けた。伯爵夫人がその長い獄中生活のことを書き綴ったのが,この「手記」
11)
である。同じく獄房に閉じこめられた夫カールがいったいどのような気持ちで
毎日をすごしているのか,それをリルケはこの本を贈ることによってゾフィー
に想像させ,彼女の心配を少しでも取り除いてやろうとしたのだろう。
このように,リルケの詩を,作者自身の声によって聞き,あるいは作者みず
からが美しく手書きしたものによって読むことにより,さらには,彼からさま
ざまな「不思議なほど感動的な本」を贈られることにより,なるほど気丈夫に
は生きているようにはみえても,夫が収監されていることで心のなかでは先行
きに不安を覚えていたゾフィー・り一プクネヒトは,魂が深く慰められるのを
感じたにちがいない。
ちなみに,この時期ゾフィーは,夫カールと同様に政治的理由で監禁されて
\覚ます」>Auferweckung des Lazarus〈(1913年1月,ロンダで成立), SW II.S.49f.[な
おSW II.は, Rainer Maria Rilke:Samtliche Werke, Zweiter Band. Frankfurt/M:
Insel Verlag,1956をあらわす。]
9)1912年1月下旬ドゥイノで,「第一悲歌」にひき続いて生まれてきた悲歌の断片。SW II.
S. 385f.
10)>Der Tod Moses<(1914年夏パリ,1915年10月置ュンヒュンで成立), SW II.S.102f.
11)Nalewski:Br., S。575参照。
52 彦根論叢 第291眠
いた友人ローザ・ルクセンブルクからも,すばらしく感動的な書簡一のちに
12)
『獄中からの手紙』として出版され,多くの人に感銘を与えた一を何通か受
け取っている。ということは,1917年の後半にはゾフィーは,リルケとローザ
といういわば超一流の手紙の書き手ふたりと同時に文通していたことになる。
このことは,獄中の夫のことで胸を痛めていた彼女にとって,どれだけ大きな
精神的支えとなったかはいうまでもないことだろう。
6月末日にリルケは,楽しい思い出の残るヘレン島を立ち,ミュンヒェンの
ケーファー街にある下宿先に戻った。しかし夏の後半を彼は,友人ヘルタ・ケ
ーニヒ夫人がヴェストファーレンに所有していた屋敷ですごすことに決め,7
月18日に再びミュンヒェンを後にした。が,途中ベルリンに一週間ほど立ち寄
り,そこでゾフィー・リープクネヒトと再会する。リルケは彼女といっしょに
カイザー・フリードリヒ美術館を訪れた。このとき彼女とともにすごした時間
は,彼にとって,ヘレン島で出会ったときと同じくらい忘れがたい美しい思い
出となる。8月3日,ケーニヒ夫人の館の一室から,リルケはゾフィーに宛て
書いている。
私を憧れにも似た気持ちにさせることがあります。私たちにとって素晴らし
かったあの日曜日,カイザー・フリードリヒ美術館を訪ねたことは,私を限
りない幸福感で満たしました。私は,いっか一週間のあいだ毎日そこに通う
ことを夢見ているのです。 もちろん,少なくともそのうちの三日間は,
あなたにいっしょにつきあってもらわねばなりません。そうでないと,私の
心はまた無感動な状態に逆戻りしてしまうでしょうから。
(Nalewski : Br., S. 629)
あるいは,8月23日の手紙でも,やはりケーニヒ夫人宅からリルケは同じ願
いを語っている。
私はここから帰る途中,最低一週間はまたベルリン(あるいはヴァンゼー)
ですごしたいと思っています。私はいまでもたえず,カイザー・フリードリ
12) Luxemburg, Rosa : Briefe aus dem Gefangnis. Berlin 1921.
リルケとゾフ/一・リープクネヒト 53
ヒ美術館の素晴らしい諸作品のことを思い浮かべています。私たちはまたあ
の続きをおこなわなければなりません。つまり,いろいろなものをいっしょ
に見,いろいろなことについて話し合い,また私たちにとって本当に切実な
ことについて,あるいは時代が私たちの心に強いることについて話し合うの
です。 (BzP, S.178)
これらの文面から,このときゾフィーといっしょにすごした時間がどれだけ
詩人にとって実り豊かなものだったかがよく想像できる。彼の生命力が,ゾフ
ィーと会っただけで見事なまでにすぐ回復したのは,なんといっても驚くべき
ことである。ゾフィーは,彼女と会った人間を即座に元気にさせてしまうよう
な強い生命力を備えていた女性だったのだろう(すくなくともリルケにとって
はまちがいなくそのような女性であった)。また,ともに造形芸術に精通し,よ
く似た芸術趣味をもっていたふたりは,展示作品の評価についても意見が一致
したことだろう。理解しあい,信頼しあえる相手とふたりですごした美術館で
の時間は,リルケにとってはこのうえなく充実したひとときだった。ベルリン
を去る日,リルケは別の女性に宛て書いている,「ベルリン滞在は私にとってた
いへん素晴らしいものでした。それは何人かの人物との出会いとカイザー・ブ
リードリヒ美術館のおかげです。美術館で私はようやく本当に久しぶりに生き
生きとした受容と鑑賞の数時間をもつことができたのです。(そのようなこと
は,永い問まったくの無感覚に陥っていた私には,ほとんど思いも寄らぬこと
13)
でした。)」と。
ふたりはまた,書簡のなかで広く文学のことについて語り合っている。イギ
リスの作家ゴールズワージーの小説『富める人』The Man of Property(1906)
について意見を交わし一ゾフ/一は,ローザとの文通においてもこの小説の
ことを話題にしている ,さらに,リルケ自身も若い頃に翻訳したことがあ
る,難解な古い教会スラヴ語で書かれた『イーゴリ公軍記』の一部を,ゾフィ
ーがドイツ語に翻訳してリルケに贈ってもいる。
13)1917年7月24日付,マリアンネ・ヴァイニンンガー宛書簡。Schnack,
Chronik, S. 564.
Ingeborg :
54 彦根論叢 第291号
IV.
さて,以上見てきたように,リルケは,ゾフィー・リープクネヒトから生命
力を豊富に分け与えられ,また,芸術上の面でも深く理解しあうことができ,
彼女との出会いは彼にとってきわめて価値あるものとなったのだが,しかし,
ただその点だけにふたりの交友の意義があるのではない。リルケの生涯を見渡
してみれば,それと同じような関係を彼とのあいだにもつた女性は,ルー・ア
ンドレアス=サロメやバラディーヌ・クロソウスカ,ナニー・ヴンダリー=フ
ォルカルト,ルル・アルベール=ラザールなどを初めとして,数多くいるので
ある。リルケとゾフィー・リープクネヒトとの交友関係の独自性は,この交友
関係が,生命力の譲与と芸術的な一体感にとどまることなく,それらと同時に
〈政治〉の色をも濃厚に帯びていたという点にある。そこが,リルケの他の女
性たちとの交友関係と大きく異なるところなのである。リルケは一生を通じて
数えきれないほどの女性たちと親しくなったが,ゾフィー・リープクネヒトほ
ど多くリルケに向かってく政治〉のことを語った女性はいないといってよい。
ヘ へ
もちろん,男性の友人・知人たち,たとえばリヒャルト・キュールマン,ハリ
ー・
Pスラーや,あるいはまたエルンスト・トラーなどの左翼作家・政治家た
ちからは,リルケは頻繁に政治についての話しを聞いてはいる。だが,リルケ
に生きていく力や創造的霊感を授け,彼という存在を強く導くことができるの
は,結局は,男性ではなく,つねに〈女性〉 あるいは〈女性的なもの〉一
であった。リルケ自身,彼を救うことができるのはく女性〉でしかないことを
本能的に承知していた。従って,戦争という時代のなかで,もはや現実の政治
・社会の動向と無関係に生きることができなくなっていたリルケは,その面で
彼を導き,助けてくれる〈女性〉をぜひとも必要としていたといえよう。そこ
に現れたのが,ゾフィー・リープクネヒトだった。激動し,混迷する時代のな
かにあって歩むべき進路を見失い,途方に暮れているリルケに対して,ゾフィ
ーは,あるべき真の社会の姿を熱っぽく説き,その実現のためにはどう行動す
ればよいのかを確信をもって語った。もちろん,それと同時に彼女は,無気力
リルケとゾフィー・リープクネヒト 55
から抜け出せない人間リルケに対しては,自己の豊かな生命力をふんだんに分
け与え,創作の不毛に悩む詩人としてのリルケには,彼の感受性を活性化させ
る役目も果たした。ゾフィーとの出会いが,この時期のリルケにとって大きな
ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ
意義があったのは,彼女がひとりで,上に述べたりルケの三つの側面における
危機を同時に解決できる可能性を有していた稀なる〈女性〉だった点にある。
リルケにおけるこの三つの危機は,相互に関連しあっており,個別に解決でき
るものではなかった。政治にだけしか精通していない女性では,リルケの人間
的・詩人的な問題の相談にのることはできなかったであろう。リルケと芸術的
次元でのみつながっていた女性も,やはりこの時期のリルケを全面的に救うこ
とはできなかったであろう。ゾフィーこそが,戦争のもとで苦悩しているリル
ケにとって,彼という存在のすべての面に影響を及ぼすことができる力をもっ
ている女性だったのである。
ゾフィー・リープクネヒトは,リルケと人生や詩の話しをするかたわら,自
分を「この戦争という災厄についてはまったく無知な人間Analphabet des
Unheils」(Nalewski:Br., S.630)と呼ぶリルケに,今回の戦争の拡大・長期
化とドイツ社会の混乱・荒廃の真の原因について解説し,反戦・反帝国主義思
想の正当性を説き,根本的な政治的変革の必要性を訴え,彼女の夫カールや友
人ローザ・ルクセンブルクらがおこなっている政治運動について情熱的に語っ
た。とはいえ,聞き手のリルケが彼女の政治観・思想をすべてそのまま受け入
れたわけではないことはもちろんである。だが,賛同できないことがあったと
しても,彼にとってのいわば最良の政治教師であったゾフィーが,普段にも増
して瞳を輝やかせて語った話しの多くに共感を抱いたこと,またその後,リル
ケが彼なりの時代把握をしていく過程で,ゾフィーから聞いた話がすくなから
ぬ影響を及ぼしたことは,まちがいないといえる。もともとリルケは,若い頃,
教育改革をめざすイエーテボリのサムスクーラ学校の賛同者であったことから
も明らかなように,自由を重んじる反権威主義的な思想の持ち主であった。ま
た,戦争継続反対はこの時期彼にとっても,もはや自明のことであった。現実
的な利害関係になんらのかかわりも持たず,従って偏見もなく,世界やものこ
56 彦根論叢 第291号
とを公平にみることのできたリルケが,当時の社会のさまざまな不幸と混迷の
原因をつきつめて考えてみたならば,ゾフィーの時代状況の分析と体制変革の
訴えが大筋において正しいことを理解するのは難しくなかったはずである。そ
して実際,のちに見るように,戦争による社会的混乱がしだいに深まっていく
なかで,リルケは,ゾフィーから教えをうけた政治観にますます近づいていき,
世界の根本的な〈変革〉が必然だとみなすようになっていくのである。
v.
さて,ゾフ/一は,8月18日,ベルリンから,戦争による創作上の深刻な危
機に苦しむ詩人に向かって,次のような助言をおこなっている。
一私ははたして次のようなことを言うべきでしょうか? つまり,私は
確信しているのです,もしあなたが私たちの時代と向かいあうのを拒絶され
ることなく,もし,たとえこの時代がそのまったくの恐怖,その曖昧さ,そ
の恥知らずな虚偽のなかにあり,それがどんなにひどい名づけ方をされるの
が当然であったとしても,あなたがこの時代のことをもっと気にかけられる
なら,そしてもし,あなたが一どうかお許しください,でもこれはやっぱ
り間違ってはいないのです一新聞を読み,ともあれもっと積極的に関心を
もつことによって一時代ともっと密な関係をもたれるならば,そのときこ
そ,あなたはふたたび詩作することがおできになる,ということを。結局は
それがあなたにとってはなによりも重要なことなのですから。そのときにこ
そ,あなたはたんにあなたご自身の顔をふたたび見出すだけではなく,確固
とした基盤をもたれることでしょう。どうか,私の言うことをばかばかしい
とお思いにならないように。 たしかに,もしも,あらゆる出来事に対し
て完全に心を閉ざし,内面に沈潜し,出来事と関係を絶つことが可能である
のならば,そうやってご自身を保持されることもできるかもしれません
しかし,私には,あなたはそんなことはおできにならないと思えるのです。
あなたはたしかにこの戦争という時代による圧迫に恐ろしいほど悩んでいら
っしゃいます。でも,あなたが 私は信じています,あなたなら一この
時代のもとで生産的productivに悩むことがおできになることを。そしてそ
リルケとゾフ/一・リープクネヒト 57
のときあなたは救われるのです。 しかしそのためにはまず,何がいま起
こっているのかをよく知る必要があります,たとえそれがどんなにくだらな
いことであったとしてもです。そうすれば,あなたのように感じられること
のできる人であれば,すぐに的確な態度を取られることができると思います
・…・・
サのときには,あなたはどれほど素晴らしいお仕事を成し遂げられる
でしょう1 これが,だいたい私の考えた「助言」です。 (BzP, S.558)
このような「助言」を受けたりルケは,
8月23日付の手紙で次のように答え
る。
あなたの助言,一それに対して,私はここ数日,頭のなかでどんなに多
くの答えを考えてみたことでしょう,賛成のものもあれば,反対のものもあ
りました。 でも,それについて説明するのは,あとで,またお会いした
ときに口頭でできるでしょう。しかし,おわかりでしょうか,新聞Zeitungと
いうものは,時代Zeitそのものではないということが。……諸新聞の途方
もない不当さは,ただ新聞を歴史と対置させたときにのみ,正すことができ
るのです。……言葉の重さを言葉で,意見の重さを意見で測定すること,
また10の意見を,そのうちのひとつだけを正しいと決めずに,それらすべて
を同時に意識にとどめておくこと,これが,いわば,より賢い一人前の新聞
購読者にとって,もっとも不可欠な資格であり,心得であるのです。……
ヘ へ
新聞一,それが純粋な言語を私のなかに呼び覚ましてくれるとは私には思
えないのです。 (BzP, S. 177f)
リルケはもともと「新聞」をよく読むほうではなかったが,戦争中はそれで
も少しは眼を通すようになっていた。だが,彼は新聞に対してつねに手厳しい
態度をとっていた。ある手紙で彼は,「新聞は欺くことができるのです。しかし
欺きであっても,嘘を事実に変えてしまうことは可能なのです。今回の戦争の
間ずっと,新聞の書く軽率な嘘は,さまざまな賑わしくも,出来立ての事実を
世間にまき散らしました。ものごとを極端にまで誇張する新聞がでてきて以来,
戦争は一度始まったなら,もはやけっして終わることはできないといったよう
な感じさえ人々はうけています。なぜなら破廉i恥な新聞はいつまでも,戦争そ
58 彦根論叢第291号
14)
れ自体の経過よりも先を走ろうとしているからです。」と怒りをぶつけていた。
また別の手紙でも,「……嫌悪すべき新聞,それはたしかにこの戦争におおい
に責任があります。そのうえさらに,曖昧さと虚偽と歪曲によって,戦争とい
うこのとてつもない出来事を一種の病気にしてしまったのも,新聞の責任なの
15)
です。」と激しく新聞を非難していた。というわけで,いくら時代を知り,それ
とかかわりをもたねばならないとしても,リルケは,新聞を読むことを通して
それをおこなうことはできないのである。このような信念をもつ彼は,先にも
引用した8月23日付の手紙で次のような代替案を述べる。
この時代のなかでもっと活動的に仕事をし,時代をもっとよく知っている
重要な人物たちとっきあうこと,それがたぶん,私に現在という時代とより
ヘ ヘ へ
直接的な関係を結ばせ,私が生産的productivに苦悩することを可能にして
くれる方法だといえるでしょう。……今度はいつまたお話をすることがで
ヘ ヘ へ
きますでしょうか。……すぐ近いうちに会えましたなら,どうか,あなた
へ
が「新聞」の役割を演じて,私に教えてください。あるいは,そうすること
のできる人物を私に紹介してくださいませんでしょうか。 (BzP, S.178)
ここでリルケはゾフィーに,時代の動きを偽りなく伝えてくれる,彼だけの
ための「新聞」になってほしいと頼むのであるが,ヘレン島やベルリンの美術
館でいっしょにすごしたときからすでにゾフ4一はその役割りを果たしていた
のであり,夏の終わり頃にははやくも,彼のなかに時代をとらえるためのしっ
かりとしたパースペクティブのようなものが生まれ始めている。それまでのリ
ルケの口からはく私は戦争が理解できない〉といった発言が繰り返し聞かれて
いたのだが,8月31日,カタリーナ・キッベンベルグに宛て,こう書くように
なる。
戦争はその現段階にいたって私にはふたたび少しよく理解できるものになり
ました。前線では恐ろしい戦闘が繰りひろげられているにもかかわらず,今
14)1915年8月15日付,エーリカ・ハウプトマン宛書簡。BzP, S.134.
15)1915年8月22日付,アントニー・バウムガルテン宛書簡。BzP, S. 137.
リルケとゾフ/一・リープクネヒト 59
度の戦争はいまや,ますますいたるところで,強い力をもつふたつの陣営
Partei間の最終的な格闘となっているのですから。一方は,近視眼的な陣営
で,不当にも戦争からわずかばかりの悪どく強欲な利益を引き出そうとして
います。もう一方の偉大で人間的な陣営は,戦争という無限の不幸のなかに,
あらゆる人間的な事物をいまこそ変革しなければならないというきわめて強
力で有無を言わせぬ命令を認識し,その命令に従う意志があることをあらゆ
る国々において表明しています。私たちが歴史を見渡すことができるかぎり,
この歴史上もっとも恐ろしい溶解炉のなかにいる現在ほど,人間性の全体を
16)
すっかり変えることが可能となった時代はないといえるのです。
ここにみられる表現,言い回しのあちこちに,私たちはゾフィーの教えの影
響を見て取ることができるといえよう。リルケは,信頼していた彼女から,時
代の政治的状況についての解説を聞くことによって,長らく把握できないまま
そのもとで苦しんできた戦争を,いまや「理解」できたと思ったのである。こ
れ以後リルケが何人かに宛て書いた手紙を読むと,なおも「硬直状態」からは
抜け出せず,ときには自分が深い迷いのなかにいるのを嘆くことがあるにして
も,時代を捕捉する手がかワをつかんだことで,未来の展望が少しは開けてき
17)
ているのが感じられるのである。リルケは,ゾフィーの話しに耳を傾けること
によって,世界が向かうべき道,また,久しく見失っていた,自分がこれから
道むべき道を見出したように思ったのである。
VI.
1917年7月にベルリンの美術館でいっしょに充実した時間をすごしたのち,
ふたりは文通を続けばしていたが,実際に会って話しをする機会はもはやあま
りなかったようである。10月3日から12月9日までリルケは再びベルリンに滞
在するのであるが,そのあいだに,彼が強く「憧れ」,「夢見て」いたカイザー
16)1917年8月31日付,カタリーナ・キッベンベルグ宛書簡。R. M. Rilke/Katharina Kippen−
berg:Briefwechse1. Wiesbaden:Insel Verlag,1954, S.244.またはBzP, S.180。
17)たとえば,1917年9月19日付,マリエッタ・フォン・ノルデック・ツーア・ラーベナウ
男爵夫人宛書簡(BzP, S.182ff.)などを参照。
60 彦根論叢 第291号
・フリードリヒ美術館でのゾフィーとの出会いが再度実現したかどうかは,現
在一般に公表されている資料からは判断できない。いずれにせよ,そのあと彼
がミュンヒェンへ帰ってからは,ゾフィーと会うことはますます難しくなって
いった。ゾフィーのたぐい稀な明るい生命力をすぐそばで浴びながら,彼女と
「いろいろなものをいっしょに見,いろいろなことについて話し合い,また私
たちにとって本当に切実なことについて,あるいは時代が私たちの心に強いる
ことについて話し合う」(8月23日付,ゾフィー宛書簡)のをリルケが切に願っ
ていたことは確かなのだが,1918年に入り,時代の状況が戦争終結に向かって
緊迫度を異常に増していくなか,遠く離れていたふたりにとって,会うのは容
易なことではなかったのである。そのような経過のなかで,1918年秋頃,リル
ケは,女優志願の若い学生エリア・マリーア・ネヴァールと知り合い,彼が1919
年6月にスイスへ移住するまで,エリアが今度は若々しい生命力を彼に分け与
える女性の役を果たすことになる。少女らしさを失わないエリアは,そのなに
ものにも捉われない自由さと純真さで,詩人の心に心地よいやすらぎをもたら
したのである。
こうみてくると,リルケとゾフィーとの交際は,おおよそ1917年の後半期に
リルケのなかでもっとも重要な場所を占めていたといえるが,しかし,それほ
ど長期にわたる交際ではなかったにしても,もしこのふたりの出会いがなかっ
たならば,その後,第一次世界大戦終結とそれに前後して起こったドイツ革命
の時期,彼の生涯のなかではもっとも激動的といえる時期に彼がとった態度は,
ずいぶんと違ったものになったはずである。もともとリルケのなかにそのよう
な行動をとらせる思想的資質はあったにせよ,かりに彼がゾフィーのひたむき
な情熱にみちた教えを聞かなかったとしたら,おそらくこの時期,彼が,急進
的な革命をめざす左翼陣営の数多くの人たちと,以下に見るような親しい関係
を結ぶことはなかったように私には思える。
ゾフィー・リープクネヒトとの出会いは,戦争による混乱と伝統的価値の崩
壊のなかで進むべき道を見失っていたリルケに,時代を直視する必要性を認め
させ,また世界が向かうべき方向をはっきりと示したのだが,彼女との出会い
リルケとゾフィー・リープクネヒト 61
以後の彼の発言や行動,交友関係などを追っていくと,戦争が長びき,国内の
混迷が拡大するにつれてますます,彼のなかで,共和制に賛成する進歩的・左
翼的な姿勢が強まっていく。戦争終結と前後してミュンヒェンでバイエルン革
命がおこってからは,リルケは,もちろん革命運動の中心に位置することはな
かったにしても,革命派の政治集会に積極的に参加し,左翼陣営に属する友人
・知人たちと頻繁に接触していた。彼は,世界を根底から変革する革命に期待
18)
を抱き,その推移を熱心に見まもっていたのである。彼は,バイエルン共和国
政府の首相を務めたタルト・アイスナーや評議会共和国の中央評議会の議長に
もなった作家エルンスト・トラーと交際し,アルフレート・クレッラをはじめ
とする革命に加わった多くの共産主義活動家たちを知っていた。また,アイス
ナー内閣の蔵相についた経済学者エドガー・ヤッフェー,民衆的な左翼作家オ
スカー・マリーア・グラーフとも親しかった。リルケがその頃住んでいたアイ
ンミラー街の部屋には,トラー,クレッラ,グラーフをはじめとする革命活動
家たちがよく訪ねてきていた。
そしてリルケは,激しい動乱のミュンヒェンにいながら,同時に首都ベルリ
ンで展開されている革命運動のなりゆきをも,関心をもって見ていたにちがい
ない。なぜなら,ベルリンでは,ほかでもない,彼がゾフィーから幾度となく
話しを聞かされていたカール・リープクネヒトとローザ・ルクセンブルクが革
命勢力の先頭に立って熾烈な政治運動を繰りひろげていたからである。ゾフィ
ーを厚く信頼していたリルケは,彼女が賛嘆してやまなかったふたりの革命家
に対しても,シンパシーを感じていたことだろう。リルケは,ゾフィーがカー
ルやローザについて熱っぽく語っていたのを思い出しながら,ベルリンにおい
18)リルケが期待をかけていたのは,殺載とテロを伴う血なまぐさい暴力革命などではけっ
してなく,トラーらがめざしていたような非暴力革命 民衆のなかから生まれ出る自発
的な闘争による,いわば下からの力による変革,対話と自由を重んじる平和的な革命であ
つた。このあくまで民衆の善意と自発性を信じ,暴力を回避しようとする理想主義的な革
命観が,結局は,反革命派の武力に対してなんらの有効な対応策も見出せずに,バイエル
ン革命を挫折に導いたことも確かなのであるが,民衆とのつながりを欠いたごく一部の闘
争家の,テmをも辞さない武力による革命は,リルケにとってはやはりついていけないも
のだった。
62 彦根論叢 第291号
て彼らがめざしていた非暴力による革命に期待をかけていたと思われる。だが,
1919年1月15日,カールとv一ザのふたりは反革命勢力の手によって惨殺され
てしまう。この事件は,彼にとっても大きな衝撃だったであろう。戦争で苦し
んでいる彼に救いの手を差しのべてくれたゾフィー その夫と親友の悲劇
的な死は,ようやく戦争が終わって未来への期待を抱きはじめていた彼を,ふ
たたび絶望的な気持ちにさせたにちがいない。
さらにそれに引き続いてミュンヒェンでも,2月21日,革命派のなかでは一
番人望があり,リルケも信頼を寄せていたタルト・アイスナーが,ナショナリ
ストのアルコ伯によって暗殺された。そして5月2日,フランツ・フォン・エ
ップ率いる反革命義勇軍がミュンヒェンに侵攻し,評議会共和国を壊滅させた
とき,リルケは,世界が根本から変革されるのではないかという彼の革命への
期待が完全に打ち砕かれたことを思い知らされた。
ミュンヒェンを制圧した反革命軍は,ランダウアーをはじめとする多くの左
翼政治家を容赦なく虐殺した。トラーやグラーフらは逮捕された。その後も:革
命派に対する執拗な追求は続き,リルケ自身も革命派に近い人物とみなされて,
何回か家宅捜索をうけ,ついに彼はスイスへ旅立つことを決意する。それ以降,
19)
彼はもう二度とドイツに戻ることはなかった。
それから約二年ののち,スイスに落ち着いていたリルケは,公表されたロー
ザ・ルクセンブルクのゾフ4一・リープクネヒト宛の『獄中からの手紙』(1921
19)第一次世界大戦後期及びバイエルン革命前後におけるリルケと政治とのかかわり,進歩
的・左翼的勢力との交流については,注2),3),4)のa)とb),5)などの文献・資料を参
照。ただ,この時期のリルケが,左翼陣営による革命に期待を寄せていたことは確かなの
だが,その一方で,その成功をかならずしも全面的に信じていたわけではなく,期待と同
時に,革命運動のあまりの性急さのゆえに,その結末について当初から悲観的な展望も抱
いていたことは指摘しておかなければならない。また,彼はこの時期においても,帝政を
支える保守的な政治家,革命に批判的な富裕市民や貴族たちとの交際をやめていなかった
ことも述べておくべきだろう。変革の必要性を認め,だが一方では過去の伝統をなにより
も重んじていたリルケと政治とのかかわりは,微妙で複雑であり,それを論ずるのは簡単
ではない。リルケと政治の関係については,いっかまた別の機会に詳しく論じてみたいと
思っている。
リルケとゾフa一・リープクネヒト 63
年刊)を読み,ある手紙(1921年5月9日付)で次のように書いている。
ローザ・ルクセンブルクについて私が知っているのは,ほんとうにごくわず
かです。いいえ,私は彼女に会ったこともないのです。一しかしながら,
私はあの頃,これらの書簡の宛先人であるリープクネヒト夫人《ソーニャ》
と知り合ったのでした。ロシア生まれの女性で,繊細で,愛情にあふれ,不
幸に苦しめられながらも勇敢さをけっして失わず,彼女がローザ・しのこと
を話題にするときにはいつも,深い感動なしには語れませんでした。長年に
わたって虐待されつづけてはいても,ローザは,心の内部においては,最高
に幸せな人々よりもさらに明るく,より強烈で,より確固とした希望を抱き
つづけていたようです。たとえどんなに意気消沈することが起ころうとも,
いつも彼女はそれとはいわば関係なしに,心のなかでの喜びを失うことがな
かったのです。ゾフィーはこの女性に対する賛美をいくら繰り返しても飽く
20)
ことがありませんでした……
リルケは公表されたゾフィー宛のローザの書簡を読んで,ローザがゾフィー
が話していたとおりの人間であったことを確認したといってよい。ローザは,
獄中生活という困難のなかでも,自然に対するみずみずしい感受性を失うこと
なく,自然とのほんのわずかな触れ合いのなかから,生きていることの幸せを
感じとっていた。太陽の光に,青空にそそり立つ雲に,咲き開く草花に,小鳥
の下りに喜びを見出し,それによって心のやすらぎを得ていた。それどころか
ローザは,孤独を感じているゾフィーを励ます心遣いまで,獄舎のなかからお
こなっていたのである。この『獄中からの手紙』に収められている書簡の日付
は,1917年のものがもっとも多く,リルケがゾフd一と一番親しいときを過ご
していた時期とほぼ重なる。リルケは,その日付を見て,またP一ザの手紙を
読んで,あらためてゾフィーとの対話や文通のことをなつかしく思い出したに
ちがいない。
20)1921年5月9日付,トーラ・ホルムストレム宛書簡。BzP, S.344f., S.619.
64 彦根論叢 第291号
VII.
1917年初夏にヘレン島で始まったゾフィーとリルケの出会い・交際・文通は
戦時中に進路を見失って立ち往生していたリルケをさまざまな点で助けた。ゾ
フ4一の若々しい生命力は,戦争・軍隊生活で擦り減らされた詩人の生命力を
回復させ,積極的に生きる勇気を奮い起こさせた。彼女の豊かな芸術的:才能は,
彼の感性につよい刺激を与えた。またゾフィーは,第一次大戦によって生じた
りルケの存在と創作の深刻な危機を乗り越えさせるために,彼に時代とのかか
わりを深める必要性を痛感させ,そして世界の根本的な変革について情熱的に
語ることによって,彼がそれ以降 1919年春,革命が挫折するまでのしばら
くのあいだではあったが一歴史的動乱のなかで進んでいく道を強力に方向づ
けたのである。
リルケは生涯を通じてじつに多くの女性と,次々に,ときには同時に交際し,
彼女たちからつねにさまざまな面で援助・保護を受け,また芸術的霊感を与え
られてきた。事実,第一次大戦中にリルケと親しい交際を結んだ女性は,ゾフ
ィーひとりだけではない。たとえば,ゾフィーと出会う前,大戦勃発のときか
ら1916年夏ごろまでは,画家ルル・アルベール=ラザールが,詩人のそばに寄
り添い,戦争のせいで疲弊していた彼をなにかと助けていたのはよく知られて
いる。また戦争末期には,先に触れたエリア・マリーア・ネヴァールや,彼に
よって「リリアーヌ」と呼ばれていた詩人クレール・シュトゥーダー(のちの
イヴァン・ゴル夫人)とも,リルケはしばらくの問親しく交際していた。一
さらにいうならば,リルケの全人生を通じてつねに最:高の精神的指導者として
彼に大きな影響を及ぼしつづけたルー・アンドレアス==サロメのような,いわ
ばリルケにとってのく生涯の女性〉というわけでも,ゾフィーはない。彼女が
リルケと交際し,彼に影響を与えたのは,そう長い期間ではなかった。しかし
ながら,ゾフィー・リープクネヒトは,リルケの人生におけるもっとも深い危
難の時期,創作の極度の不毛に苦悩し,政治と時代とに否応なしに係わりをも
たなければならなかった第一次世界大戦の後半において,詩人をもっとも多く
リルケとゾフィー・リープクネヒト 65
の面で救い,導くことのできる資格を備えていた稀有な〈女性〉であったこと
はまちがいないし,実際,彼女はバイエルン革命前後におけるリルケの行動に
大きな影響を及ぼしたのである。ヨーアヒム・シュトルクやエーゴン・シュヴ
21}
アルツの仕事を除けば,従来リルケ研究ではあまりとり扱われることがなかっ
たくリルケと政治〉というテーマーシュトルクの『リルケ政治書簡集』の刊
行を機にこのテーマはあらためて注目を浴びると予想される一を語るときに
は,ゾフィー・リープクネヒトは,真っ先に名をあげるべき一番重要な〈女性〉
であるといってもよいのである。 (1994.8,31.)
21) Schwarz, Egon: Das verschluckte Schluchzen. Poesie und Politik im Werk R. M.
Rilkes. Frankfurt/M : Athenaum Verlag, 1972,