Kuckucksjunge in Schwarzwald3

第三幕
第一場――メーアスブルク コンスタンツ領主司教の別荘
かくして依頼者を訪れたフランツとキーファはケチで排他的
な領主司教から大幅な報酬の減額と引き換えに自由な構図を勝
ち取ることに成功していた。その上フランツが下絵を描き終え
ると乗合馬車を拾ってとっとと森へ帰ってしまったために領主
司教は更なる屈辱に堪えて地元の画家工房から応援を要請しな
ければならなくなった。
怒りに燃える彼は実に支配者らしいやり方で復讐を試みた。
派遣されてきた徒弟フィデリオとショーンにかかる経費をキー
ファに提供されるべき宿泊費や食費で弁償するべしと宣言して
一方的に彼の支援を打ち切ってしまったのである。そして心あ
る人間ならば当然するように市民たちが協力して彼の支援を名
乗り出ると今度はそれは自身に対する反乱の表れまたは当てつ
けだと宣言して街の警備を強化、異端者を厳しく取り締まり始
めたのだった。
領主司教: (皮肉っぽい口調で) プロテスタントでもアズライトを使うのだな。
質素倹約がモットーと聞いているが。
正午を前にこの日二度目の視察に訪れる領主司教。少なくな
い供を引き連れ、旧教徒の聖職者らしく紫色のカロット(縁なし
帽)以外は所狭しと刺繍装飾が施された衣をまとい、これ見よが
しに司教杖を突いている。
キーファ: 下絵通りです、領主司教様。お気に召しませんか?
領主司教: ああ召さないな。お前のような異端の駆け出し小僧が描いた物など私はまっ
たく気に入らない。ヤギの小便でもひっかけた方がましだ。さっさと音を上げ
1 / 44
てあの男を呼んでくれるといいんだが・・・。
フィデリオ: (傍白) そいつはいいことを聞いた。今度試してやろう。
反り返った猫っ毛がかわいらしいあどけない顔で意地悪そう
に言う。
キーファ: フランツさんはいらっしゃいません。これは僕の仕事ですので。
領主司教: 違うな、それは依頼者である私が決める事だ。お前のしていることは
住居侵入と器物損壊に過ぎない。すぐに警備隊を呼んだっていいんだぞ。
キーファ: (筆を下ろして) それなら僕はすぐに立ち去りましょう。あなたに脅されたら
仕事を断ってもよいとフランツさんに言われていますので。失礼します。
毅然として足場を降りる。
領主司教: (歯噛みをして) ・・・それが生意気というんだ。戻れ! 戻って悪魔を描け!
私は「直接能力」を持っている領主司教だぞ。
キーファ: そのお話しはもう付いております。僕は悪魔を描きません。それは(旧約)聖書
では言及されていませんし、それにどのような人間にも取りつく許しを得ている
からです。
フィデリオとショーンは慌てて彼を呼び、首を振って制止を促す。
トマス派が発明したとされる「直接能力」という語には微妙な取り
決めがなされており、それ自体に何の権威もないが、疎かにすれば
異端またはジャンセニストの烙印を押されたからである。
領主司教: (徒弟たちの信仰心には満足して) それがどうした。確かに旧約ではサタンに
2 / 44
ついて言及されてはいない、しかしそれは確かに主イエスに取りつき、マルテ
ィン・ルターにも取りついた。いずれも意志の反対者として姿を現したのだ。
ためにマタイはそれを「導かれた」と記し、マルコは「追い立てられた」と記
した。ルカにいたっては「引き回された」と記している。
これをどう説明する?
キーファ: 主は私たちに断食の務めを教えて下さいました。ルターは聖書を私たちにも
読めるよう翻訳して下さいました。お二方とも正しい行いをなされたと思いま
す。ですがその行いは悪魔がいなくても成し遂げられたことです。あえてその
姿を描けば正しい行いには妨害が付き物という解釈になってしまい、正しいこ
とを行おうとする弱い立場の人々はそれを王族の方や貴族や領主様の事だと誤
解してしまうのではないでしょうか?
領主司教: そんなことはない。高貴な我々には実際に悪魔の姿が見えるからだ。
キーファ: それは嘘です!
だって旧教の人たちはジャンヌダルクや罪のない市民に
それが見えると自白させて火あぶりにしてきたではないですか。中には財産を
奪うために高貴な方を異端扱いしたこともあったはずです。
ショーン: (傍白) フィデリオ、どうしよう? あいつ捕まってしまうぜ。
フィデリオ: 彼は間違ったことは言ってない。でも一応逃げ出す準備をしておこうぜ。
領主司教: 黙れプロテスタント、庭の犬、糞の山の雄鶏め!
口を開けば理屈をこねて我々を説き伏せ、徴税請負人よろしく我々の教会から
装飾や聖遺物や典礼を差押え札を貼り付けていきよって。無慈悲にも人々の不
安を和らげる告解や免罪符や煉獄の教えさえ必要なきもの、邪道のものと言い
放つのがお前たちだ!
フィデリオ: (傍白) 見ろ、頭に血が上って自分のことを言ってら。
知ってるか、雄鶏は旧教徒を表す動物だって?
新教徒は「あのブドウは酸っぱい」とけなすキツネがいいとこさ。
領主司教: それでは文字も読めず、理性を持たず、礼節も身分も弁えない無知蒙昧の
徒を如何にして正しい信仰へ導けと言うのか? 我々はため息の出るような壁
画と目にも艶やかなステンドグラスと有難い聖遺物によって永らく彼らを導い
3 / 44
てきた。高尚な者には愚鈍の者には決して見えないものが見えていると敢えて
知らしめることによって彼らの虚言を戒めてきたのだ。
さあ悪魔の姿を描け。これが最後の警告だ。さもなくばお前は異端審問に
かけられる。描け!
キーファ: ・・・見えないものは描きようがありません。私に見えるのはイエス様が人
々に実践された愛だけです。それを描くことをお許し頂けないのであれば私は
ここでは画家ではないということです。失礼します。
領主司教: (彼を振り返って指さし) 待て! この部屋を一歩でも出ればそこはカトリッ
クの領土だぞ。フィデリオ、ショーン! そこのプロテスタントを捕らえよ――
これは司教命令だ!
キーファは両手を上げて彼らの出方を待つ。対する二人は真
意を悟られないようにキーファの下へ歩み寄ると領主司教を振
り返って失望をぶつける。
フィデリオ: ・・・あなたはやっぱりそうなんですね。端から俺たちと和解なんてする
つもりなんて無かったんだ。・・・少しでも期待した俺たちが馬鹿だった。
領主司教: ああ?
ショーン: (前掛けを弄びながら) 親方の言った通りだった。僕は司教様のお手伝いがで
きるって聞いて嬉しかったのに・・・。あなたは市民を悪魔に仕立てる事で頭
が一杯なんだ!
領主司教: 当たり前だ! 為政者の為す事に敵対する者は悪魔が取り憑いているに決ま
っている。私は聖職者としてそのことを愚かな市民どもに自覚させるためにお
前たちを雇ったんだ。それが描けないと言うならお前たちも秩序の破壊者だ!
(手を叩いて) 警備隊、出会え! 謀反者どもをひっ捕らえろ。
フィデリオ: 捕まってたまるか。キーファは俺たち全員で守ってみせる。
この町の将来を想ってくれる人は一人だって死なせるもんか。行くぞ!
4 / 44
部屋を出て行く三人。その後を警備隊が追いかける。
第二場――同市内
町中で大捕り物が始まる。フィデリオとショーンは走りなが
ら声を上げて同志たちに救援を求める。
フィデリオ: (通行人を見つけて) あ、メアリーさん!
助けて下さい、警備隊に追われているんです。
メアリー: まあ今度は何なの? フィデリオ、あんた司教さんのとこへ絵を描きに行っ
たんじゃなかったのかい。
(彼らの後ろを覗いて) 嫌ねぇ、またあんなにぞろぞろ出て来て。
あ、ショーンちゃんこんにちは。この間お宅から頂いたスモモ、あれおいしか
ったわ―。あんまりおいしいものだからあたし夢中になっちゃって、気が付い
たら一人で六つも食べちゃったわよ。あっはっはっ、嫌ねえ。
だからスモモの事はお父さんには内緒なの。お母さんによろしく言って頂戴ね。
フィデリオ: メアリーさん、話は後にして!
メアリー: ああそうね。――あなたが例の新教の子だね。
キーファ: こんにちは、メアリーさん。
メアリー: ごめんなさいね、こんな街で。
何か司教さんの気に障る事でも描いてくれたのかしら?
フィデリオ: キーファは悪くない。あいつに悪魔を描けと言われて断ったんだ。とにかく
みんなに呼びかけて加勢を頼みます。いつもの酒場まで逃がしてくれるよう。
5 / 44
メアリー: 分かったわ。行きなさい、追っ手はすぐそこよ。
ショーン: 行こう、キーファ!
キーファ: ありがとう、メアリーさん。
メアリー: まあ、いい子だねあんたは。ドルトンさんもコンスタンツの生まれで新教徒
だから良くしてもらいな。
警備隊長: そこの女! 今の連中と何を話していた? 奴らは謀反人だぞ。
協力するとお前もひっ捕らえることになる。
メアリー: ああ怖い怖い。この街じゃ道で会った人に挨拶をすると謀反人にされちまう
のかい。私の美貌も罪なものさ。
一体何の騒ぎだい? 司教さんの肩掛けの色でも取り違えたかい。
あの子たちは徒弟なんだからそれくらい大目に見てやんなよ。
警備隊長: 口を慎め、おしゃべり女め。尻を振って仲間を集めやがったらただじゃおか
ないぞ。
――コンスタンツの方へ逃げられたら厄介だ。半分は船着場へ行け。残りは
俺と来い。――どけぇ!
メアリーを突き飛ばし、雪崩のように去っていく。
メアリー: あいたたたた。危ないじゃないか!
・・・まったく、ひどいことするね。女子どもに手を挙げて守る治安なんて願
い下げだよ。人間なんて悪さして引っ叩かれてる内が華だね。誰にも叱られな
くなったらもうどこにも帰り着けやしない。行けども行けども空しく扉を叩く
ばかりだ。人っ子一人いない往来で勝手に得意になっているがいいさ。私たち
は温かい部屋でみんなでわいわい幸福な食卓を囲んでいるから。
――参ったね、腰をやられたよ。おーい、だれか! 誰か来ておくれ!
助けて!
6 / 44
そこへ網をたたみ終えた漁師の一行が通りかかる。
漁師一: 俺たちを呼ぶのは誰だ? それとも俺たちがお人好しなだけなのか。
おいメアリー、俺たちを呼んだのはお前さんかな?
メアリー: そうだよ、お人好しさん。助けておくれ、腰をやられたんだ。
放牧へ出る牛の群れにも突き飛ばされた事は無かったんだがね。
漁師一: そいつは牛飼いの裁量次第だろうぜ。それで暴れ牛どもはどっちへ行った?
メアリー: 農場の方だよ。追われているのは例の新教の子さ。フィデリオとショーンが
ドルトンさんの酒場まで逃がしてくれってさ。
あの子はいい子だよ、あたしが保証する。なんたって司教に悪魔を描かないっ
て啖呵切ったせいで追われてるんだからね。
漁師二: 毎度のことだがバカなことで怒る奴さ! きっと忍耐の尾が短くなりすぎて
平穏が窮屈でならなくなっているのだろう。
漁師三: キャベツの食いすぎだ。とすれば警備隊は奴の屁だな。
垂れたい時に垂れたいだけ出てきやがる。
漁師一: しかしそいつはなかなか見所のある奴だ。棒も持たずに牛を制御しようとした
のだから。それでいくつだって?
メアリー: さあそこまで深いことは話してないよ。二人と同じくらいじゃないかね。
声は水みたいに透き通っていて善良そのものだった。ありゃ牛でも山羊でも
羊でも何でも呼べるよ。
漁師二: そいつは大事にしてやらなきゃ両親が泣くな。牛追いとなれば俺たちの網では
不足だろう。棒杭と柵を持ってもう一度集まろう。酒場の前にバリケードも作ら
なきゃならないからみんなにも声を掛けてくれ。
漁師四: 網はメアリーを運ぶのに使えるよ――もっとも俺たちはこのサイズの獲物を捕
7 / 44
らえた事はないが――。
漁師一: 行けるか? パーチ四十匹では足りまい?
漁師たち: (目利きして) ・・・八十だな。尻がでかい。
メアリー: 失礼だね。人魚と同じくらいさ。
漁師二: よしてくれ。湖が溢れちまう。
暗転。
第三場――同フィデリオの家
市民たちは互いに声を掛け合って女子どもと老人を家の中に
匿い、男たちは干し草積用フォークや木柵や麻紐や棒切れや石
や荷車を持って暴走する警備隊の進路の前に立ち、あるいは誘
導して若い画家たちを逃がしつつ彼らの家の前と市民の本部と
なっているドルトンの酒場の防御を固めていった。本通りの二
階の窓からは夫人たちが水や排せつ物やナデシコを植えた鉢を
ぶちまけて応戦する。
フィデリオ: かあさん!
母ベッティーナ: どうしたの? 外の騒ぎはまさかあなた達なの?
フィデリオ: 僕たちはしばらくドルトンさんの酒場で寝泊まりしなくちゃならないよ。
父さんにはもう伝えてきた。
ベッティーナ: そう――。(キーファを見て納得する)
8 / 44
ごめんなさいね、怖い思いをさせてしまって。でも安心なさい、私たちは
みんなあなたの味方よ。
とにかく座って。喉が渇いたでしょう。
(ゴブレットを並べてミルクを注ぐ) ショーンの所は? もう荷物をまと
められたの?
ショーン: いいえ、これから帰って知らせます。
でも誰かが行って知らせくれているかも・・・。
ベッティーナ: そう。
(ビールを供しつつ) シーツは持って行った方がいいわね。お宅に余分はあ
るかしら? ――彼の着替えも要るわね。
ショーン: あると思います。兄さんたちのお古が家に残っていれば。
ベッティーナ: 助かるわ。家は余分が出るとすぐに売ってしまうか継ぎ当てに使ってし
まうから。
フィデリオ: キーファもショーンに感謝した方がいい。あそこのシーツはとんでもない
臭いがするから。
キーファ: え?
ショーン: 酔いつぶれた親父のあらゆる体液が染みついてるからね。
フィデリオ: 酔っぱらいは頭の栓から尻の栓まで身体中のあらゆる栓が緩み切っている
から。同じ潰れたといってもカメムシの十倍は嫌な臭いを出すよ。
キーファ: (楽しい気持ちになってきて) こういう事はよくあるの?
ベッティーナ離れる。
フィデリオ: まあね。こっちが穏やかに暮らしたいと願っても向こうが黒を白にしよう
9 / 44
と仕掛けてきたら戦うしかない。
ショーン: ひっくり返したいならメンコで挑んでくればいいんだ。
それなら子どもだって戦える。
フィデリオ: 君は聖ゲオルギウスのカードを持っているからそう言えるんだ。この町で
あれがひっくり返るのを見た人は一人もいないよ。
ねえそろそろ作り方を教えてくれたっていいだろう? あれは僕のウリエ
ルもドルトンさんのトールだって打ち負かしたんだから堕天するべきだよ。
ショーン: 嫌だね、高名な錬金術師は簡単にレシピを明かさないものさ。ただ一つ言え
るのはメンコを作る所からすでに勝負は始まっているってことだね。
・・・でももし司教が金の板でメンコを作ってきたら勝負はつかないかも。
フィデリオ: いいや、そっちの方が僕にも勝機がある。台の上で戦えばいいんだ。表面
にロウや油を塗ってつるつるにしておけばあいつのは勝手に滑って場外負けさ。
ショーン: ああ、その手があった! それなら確かに君でも勝てるね。
フィデリオ: だからさ、メンコで勝負ってのはいい案だよ。
キーファ: ははは。
ベッティーナ: (彼らの会話に安心して) それじゃ私はお泊りの用意をしてくるからあ
なた達も早くドルトンさんの所へ行きなさいね。――あら、そうしたら私
のことは誰が守ってくれるのかしら? 荷物は?
フィデリオ: 待ってるよ。彼とはまだ話し足りないし。ゆっくりでいいよ。
ショーン: ごゆっくり~。
ベッティーナ: あなた達がいるなら手伝いなさいよ。そうすればあなた達の時間で私も
出られるのに。
フィデリオ: そうはならないから人生は難しいんです。
10 / 44
ベッティーナ: まあ…、生意気言っちゃって。
まあいいわ。それじゃキーファ、ごゆっくり。
キーファ: ご迷惑をお掛けします。
この言葉に三人はそろって声を上げる。
ベッティーナ: この町でそれは言いっこなしよ。あなたが来てくれてメーアスブルクは
また少し良くなるわ。ありがとう。それじゃね。
フィデリオ: そうさ、水臭いことを言うなよ。こんな事は君の村でもよくあることだろ
う?
ショーン: グータッハの領主はどんな人なの? 新教徒だからやっぱり服装にも厳しい
んだろうね。
キーファ: (ややためらって) いい人だよ、とっても。陽気だし、着る物にもうるさく
ないよ。
二人: そんなバカな!
キーファ: みんな「ヒルシュケーファー」って言って慕ってる。
フィデリオ: 「ヒルシュケーファー」って?
キーファ: 僕が付けたんだ。身体が大きくて黒目が真ん丸で、それでひげがクワガタムシ
の角みたく上向きに整えられているんだ。それに僕たちは大抵黒っぽい服を着て
いるでしょう? だから「ヒルシュケーファー」
、本当にそっくりなんだ。
ショーン: うん、シルエットは言うこと無しだ! それでその人は夜な夜なブナの木に
しがみついたり、仰向けになると足をバタバタさせたりするの?
フィデリオ: 物を持ち上げようとするといつも勢い余って後ろへ放り投げちゃうとか?
11 / 44
キーファ: あったかもね、
「ヒルシュケーファー」は大人気さ。カーニバルにはヘラクレ
スになるし、クリスマスには聖ニコラウスにもなる。それを村のみんなで木彫
りしてね、町のマーケットで売るんだ。もちろんジェントルマン風のもあるよ。
ショーン: ええっ、領主のグッズがあるの? 本当に大人気じゃないか!
・・・ここじゃ考えられないな。
フィデリオ: まったくだ。あだ名なんて考えた事もない。仇の名前を子どもに付ける人
さえいないね。――強いて言うなら干したニシンかな? そんな顔をしてい
るよ。
ショーン: 似てる似てる。炭鉱夫でもないのにすすけた顔色をしてさ、細かいことを詮
索しすぎて目玉は飛び出ているし、顎もしゃくれてる。同情するよ。彼は生ま
れで得した分顔で損をしているんだ。
フィデリオ: 憐れなもんさ、絹と金ぴかの杖がますます不幸を惨めでみすぼらしいもの
にしていることに奴は気付かない。
おお神よ、あなたの忠実な僕に憐れみを! あれは鞭を振るう喜びで頭が
いっぱいになって主の試練に耐え得る忍耐力を置いて生まれてきてしまった
のです。どうぞご慈悲を!
キーファ: ・・・君たちの親方は司教様の肖像画を描かれたことは無いの?
旧教のお得意は宗教画なのに。
ショーン: ないない。あいつはこの街の画家が干上がるのを見て楽しんでいるんだ。
魚や野菜やロウソクもわざわざよその町から送ってもらっているし、教会や壁
画の修繕も祭服の仕立てもよそから雇った職人にやらせてこれ見よがしに見せ
付けて来るんだ。本当に嫌な奴さ。頼まれたって描くもんか!
フィデリオ: だから俺たちのお得意はコンスタンツやリンダウの穏健派の連中さ。
キーファ: 寂しいね・・・。こんなに大きな街なのに親方の絵を観たことが無い人が
あるなんて。それは寂しいよ。
フィデリオ: まあね。でもしょうがない・・・。
12 / 44
そこへカッコウの鳴く声がしてカッコウ坊やが絵の具セット
を持ってやって来る。
キーファ: (受取って) ありがとう。
(それから鞄を掲げて) ねぇ、描こうよ!
顔を上げた二人は突然鞄が現われ驚く。
――僕たちで。みんな半人前なんだし、報酬のことなんて気にしないでさ。
落ち着いたら町のみんなに頼んで壁やくぼみや鎧戸に描かせてもらおうよ。
ショーン: やっぱり君はこの町の救世主だ。――でも無理だよ。前例がないもの。
キーファ: 僕はそれをやって巨匠と呼ばれている画家を知っているけど?
フィデリオ: あの人は特別だよ! 旧教と新教の垣根を越えちゃっている。
習慣の方が彼には小さすぎたんだ。
キーファ: 僕たちだって習慣なんか破らないよ。朝目覚めた時や家事の合い間にちらっと
目に留まるものを描くだけだから。テーブルの一輪挿しを見るのと一緒さ。
ショーン: ああ、そんなサイズね! それならいけるかも。
ねぇフィデリオ? 頼んでみようよ。
フィデリオ: 君は本当に救世主だよ!
(握手を求める)
そうだよな、敵が仏頂面をしているからってこっちまでにらめっこに付き合
ってやる事はないんだ。こっちはこっちで楽しくやっていれば向こうが何を
してきたって腹も立たないし、向こうだって一人で腹を立てていることが馬
鹿らしくなるはずだ。「笑ろたら敗けよ、あっぷっぷ」ってね。
まったくどうして今までそんなことに気が付かなかったんだろう!
13 / 44
ショーン: (続いて強く彼の手を握って) ありがとう! これから君に本当のメーアス
ブルクをお見せするよ。
・・・それでこう言ったら変だけど、君も手伝ってくれる?
キーファ: もちろん!
カッコウ坊や: もちろん!
フィデリオ: そうと決まればこんな所で足踏みしてはいられない。新たな計画の同志を
募ろう。まずは親方だ。みんな、親方の家まで走るぞ!
一同、鬨の声を上げて駆け出す。別室で下着類を畳んでいた
ベッティーナは物音を聞き付けて窓から顔を出し、彼らの背中
に月並みな苦情とはなむけの言葉を投げ掛けた。
そして彼らの逆境に怯まないたくましさとその愉快な計画に感
心して安堵のため息を吐いた。
第四場――ハイデルベルク
その頃シュヴァルツヴァルトの北のボヘミア=プファルツ領
内では首都ハイデルベルク陥落が間近に迫り、不気味な沈黙
と重苦しい死相とが辺りを覆っていた。普段はのどかな田舎町
も城の主に見捨てられた絶望感とちりちりとした苛立ちが垂れ
込め、いたる所で説教師が声を張り上げていた。
ホルバイン家もヴィンペンの戦いの直後からこの情報を受け
て避難の準備を進めており、この夜も幾度となく開かれてきた
家族会議が開かれていた。
ヴォルフラム: いよいよ運命の九月十九日、旧教の同盟軍がハイデルベルクの包囲を開
14 / 44
始する。今宵はちょうどその二週間前に当たる夜であるが皆準備はできて
いるな?
コルネリア: 荷物はあらかた送ってしまいましたわ。あとは私たちを馬車に乗せるばか
りです。
シュテファン: 心残りは所領のブドウ園で新酒をいただけない事ですかね。我々の感傷
的な舌がヴィースバーデンの農夫たちの感動的な再会のキスにノスタルジ
ーを覚えなければよいのですが・・・。
タリア: 私はあんまり遠くは嫌だよ。私たちのような家柄の者は危険を回避しながら長旅
の事故や疲労でぽっくりというのがままあるからね。そんな馬鹿馬鹿しい喜劇は犬
にくれてやるさ。
ヒルデブラント: 大丈夫ですよ、母上。母上の体調と旅の安全性を熟慮した上でルート
を決めてありますから。それにヴィースバーデンはオラニエ公と血続き
のナッサウ家の所領ですから最も安全なのです。そうでなければ今の時
期に急いでアンスヘルム家と姻戚関係を結んだりしませんよ。
タリア: ・・・オラニエだかオレンジだか知らないけど私の体調のことはその都度聞い
てみないことには分からないね。
コルネリア: ですから余裕を持って家を発ちますわ、タリア夫人。それに道々ではホル
バイン家が代々発掘してきた芸術家や学者や陶芸家たちとの感動の再会の連
続になりますからきっと素敵な旅になりますわ。ねぇ、あなた?
ヒルデブラント: うん、彼らも今や土地土地の名士となって我々の到着を心待ちにして
くれていますよ。スペインもネーデルラントの独立でガタガタになって
すでに撤退しましたし、旧教のティリー伯というのもなかなかできた武
将のようですからね。仮にこの猶予期間がジェームズ一世の援軍を警戒
してということであったなら私は彼の勝利に祝杯を挙げてもいい!
ヴォルフラム: これこれ、そいつははしゃぎ過ぎだ。
ヒルデブラント: だってそうじゃないですか。彼はあの「最も賢明にして愚かな王」が
愛娘の為に海を渡って駆け付けることを想像したのですよ。愛する王妃
15 / 44
の誕生日を祝って無謀にも城の防御を切り崩した娘婿の打算なき愛情に
きっと父王は心動かされるに違いないと! ジェームズの国内外での評
価を考えればこの美談を利用しない手はないとあの名将は考えたので
す。素晴らしいじゃありませんか!
シュテファン: 確かにそれで反乱が終結する前にイングランドがマリー・ド・メディシ
スを保護していたなら新教徒にとってこの上ない追い風になったかもしれ
ませんね。アルザスにはブラウンシュヴァイク卿の軍もほぼ無傷で潜伏し
ておりましたし。彼女が息子のルイ(十三世)から三度復権を狙う絶好の機会
が生まれたわけです。
タリア: うちの殿さまもそのつもりで庭園を造ったんだろうよ。けど駆け引きの相手が
悪いよ。浪費家の妻に悩まされて憔悴しきった軟弱者に血気盛んな親子喧嘩の仲
裁を頼もうったってそりゃ無理な話さ。
愉快そうにパイプをふかす。
ヴォルフラム: そこまで!
コルネリア: ですが殿様にはその資格がおありだったのではないですか? 子だくさん
でいらっしゃいますし夫婦仲もお宜しいし。
タリア: それでも母親とは生き別れてる、
「冬の王」の一件で揉めたままね。不向きだね。
ヴォルフラム: おい、後の祭りをここで議論しても実はならないぞ。いずれにしても空
の居城に援軍も何もない。我々は我々の倉庫を守ることだけ考えればよい。
シュテファン: これで命まで取られたら末代の恥です。我々も早くヴィースバーデンへ
差して旅立ちましょう。
コルネリア: カールには?
あの子たちには滞在地を伝えなくてよろしいのですか?
ヒルデブラント: 二人にはティティゼーの山奥で無知な暮らしをしていてもらおう。
これから元気な初子を授かろうという新婚夫婦には何よりなことだ。
16 / 44
コルネリア: まさか孫が手綱を取って挨拶に参る事はありませんよね?
ヒルデブラント: すぐに終わるさ。フェルディナントが領土的野心を抑えて我々の信仰
を認めさえすれば。
シュテファン: しかしそれが何よりも難しいのです――特に快勝を続けている内は。
それではこちらも戦わざるを得なくなる。これで大義が対ハプスブルク家
に化ける事でもあれば泥沼になりますよ。
ヒルデブラント: それはもう宗教の埒外だ。本末転倒だよ。
・・・まあそれが戦争の厄介な所ではあるが。
ヴォルフラム: そろそろお開きにしよう。これ以上は壁の向こうに用心する必要がある。
明日は日の出前にここを発ちマンハイムのカスパル家へ向かう。しかしこ
こも攻撃の対象になっているのでさらに翌朝直ちにビュルシュタットのフ
ランケンシュタイン家へ向けて発つ。旅程は思うほど楽観できるものでは
ないがみんなマインツを過ぎるまでは気を引き締めるように。
それから各自荷物と香水は最小限に、祖母と母は特にかつらとパニエを
控えめに。それではよい眠りを。解散!
一斉に立ち上がり、一通りビズをしてそれぞれの寝室へ。母
が最後に残り、ロウソクの火を消す。
第五場――グータッハ バーンスタイン家の前
一六二二年九月十九日、予定通りハイデルベルクが陥落する
とフリードリヒ五世はプファルツ選帝侯位をはく奪される。翌
年、旧教連盟の母体であったバイエルン公マクシミリアン一世
が新選帝侯に就任しフェルディナント二世の権勢は強化、大空
位時代より分裂状態であった神聖ローマ帝国に絶対王政の波が
17 / 44
訪れつつあった。
これに対しフランスの枢機卿リシュリューは自国最大の悲願
であるスペイン・ハプスブルク家打倒の妨げとなるオーストリ
ア・ハプスブルク家の伸長を抑止するべくネーデルラント、ス
ウェーデン、デンマーク、イングランドなどの新教国と友好条
約を結ぶ。
・・・戦争はいよいよ土地の美しい妖精に誘われて
有識者たちの危惧を嘲笑うように泥沼へと舵を取り、欧州列強
入り乱れての権力闘争の性格を濃くしていく。
外はそのような政情であったが、神聖な森の中は依然どこ吹
く風で人々は森と太陽と風と水とが運ぶ便りに従って旧教徒も
新教徒も質素堅実な生活を続けていた。少なくとも彼が帰って
来るまでは・・・。
ライナルト: (懐かしの我が家を見上げて) 変わらないな、ここは。何も知らない森の
中はこんなにも悠々と静かに時を過ごしているんだ。
・・・俺は帰ってきたんだ。(涙ぐむ) 母さんは元気にしてるかな?
父さんの言う通り、あの頃の俺は若かった。俺がいくら焦って駆け出したっ
て遠くの雲に手が届くわけじゃない、運命が近づいて来てくれるわけでもな
いのに――。それなのに自分には何かあるはずだって粋がって意地を張って
母さんを泣かせて・・・。
泣いている場合じゃない。俺には伝えなければならないことがあるんだ。
マクレガルさんは今の時間は畑かな?
(行こうとして立ち止まり) ・・・信じてもらえるのか、俺みたいな家出人
の言うことなんかを? もしかしたら敵もここまでは入って来ないかもしれ
ない――フライブルクが動いたらひとたまりもないけど――。カルフやテュ
ービンゲンの辺りを一齧りしたらもっと実の詰まったライン河の方へ行くか
もしれない。
兄さんはもう帰ってるだろうか? そうしたら俺の話も嘘じゃないってわ
かってもらえるはずだけど・・・。
再び家を見上げる。その何とも言えない厳かな存在感は彼に天
国と地獄を分ける審理の門をイメージさせた。
18 / 44
マレー: あら、こんにちは。バーンスタインさんに何かご用?
――あらやだ、あなたライナルトじゃない? (無遠慮に近づいて) ほら、この縮
れ毛とそばかすの感じはやっぱりそうよ。あなた元気にしていたの? 何年ぶり
かしら?
ライナルト: 六年になります。お久しぶりです、マレーさん。お変わりありませんね。
マレー: おかげさまで。この年になると元気かそうでないかだけさ。全部顔に出ちまう
からね。それよりあんただよ。首府(シュトゥットガルト)はどうだった? 仕事は?
ライナルト: (伏目がちに) まあいろいろと・・・。
マレー: そう。でもなんでまたこんな晴れがましい時期に帰ってきたんだい?
あ、もしかして若い娘にちょっかいを出して街を追われてきたんじゃないだろ
うね? 都会にはきれいな娘がたくさんいるからね――まあ、私の若いころには
劣るだろうけど――。ほどほどにしなさいよ。
ライナルト: (苦笑いしてみせ傍白) 今はそれどころじゃないんだ・・・。
それよりマクレガルさんは? 外のことで何か言ってませんでしたか?
マレー: マクレガルさん?
あの人は相変わらずだよ。ロバの耳を付けて広場で収穫祭
の木を立てているはずさ。
外がどうかしたかい? ああ、グレートヘンから手紙をもらったんだね。
それで帰ってきたんだ。早く顔を見せておやり。だいぶ参ってるようだから。
ライナルト: なんの話です? 母さんの具合が悪いんですか?
マレー: あれ、違うのかい。エリーゼが貴族夫人の所へ奉公に出たんだよ。
ライナルト: それはいつの事です? 俺は知らされていませんよ。
兄さんは知ってるんですか? 兄さんはもう帰ってますか?
マレー: いいや、見てないねぇ。マクシミリアンはテュービンゲンの大学で勉強を頑張
ってるんだろう。グレートヘンもあの子には余計な心配を掛けたくないんだね。
19 / 44
果ては学者か偉い牧師さんか。それで長女はハイデルベルクでご奉公ってんだか
らお家は安泰だね。
ライナルト: (驚愕して) ハイデルベルク・・・。(詰め寄って) エリーゼはハイデルベ
ルクへ行ったんですか?
マレー: ひゃあ! なんだいこの子は。びっくりするじゃないか! あの子は今はティ
ティゼーだよ。ハイデルベルクからハネムーンのご一行が参られてそれについて
行っちまったんだ。キーファが夫人の絵を描いている時は『ハーメルンの笛吹き
男』みたいに村の者がみんな御二人の後をぞろぞろついて歩いたもんだけど村の
外までついて行ったのはエリーゼとキーファだけって話さ。
ライナルト: キーファも!
あいつの絵が認められたんですか?
マレー: そうそう。ご夫妻がえらくお気に召されてね。フェルトベルクの何とかいう
偉い画家の先生に紹介してもらえることになったんだよ。あたしもちゃんとした
絵は初めて見たけどそりゃ良い絵だったよ。あの子の優しさをまんま写したよう
な画でね、ああ、この子は私たちの事もこんな風に見てくれているんだってしみ
じみ思ったもんさ。
ライナルト: へぇ、あいつ・・・。
マレー: でもおかげであの二人は別れることになっちまった。いつか両親に認めてもら
うためだってさ。健気で泣かせる話じゃないか。
そこへ表の声を聞きつけてグレートヘンが恐る恐る玄関先に
出て来る。隣人たちも二階の窓から様子をうかがっている。
グレートヘン: ライナルト・・・? (扉を開け放って) あなたライナルトなの?
ライナルト: 母さん・・・。
マレー: そうだよ。ライナルトが帰ってきたんだよ!
20 / 44
駆け出して我が子に抱き付く母。
グレートヘン: ああ、神様! 本当に? あなた本当に私のライナルトなのね?
ライナルト: ただいま、母さん。
その声に感動して至福の涙を流す母。
マレー: よかったねぇ、あんた。
ライナルト: 母さん、エリーゼが奉公に出たんだってね。だいじょうぶ?
父さんはなんて言って送り出したの?
グレートヘン:
お父さん・・・? (我に返って) あなた、ここに居てはいけないわ。
私が話しを付けるからそれまではどこかへ隠れていなさい。今見つかったら
大変よ。
バーンスタイン: (鞭棒を手に出て来て) ライナルト、グレートヘンから離れろ!
やい悪党! 何しに帰ってきやがった?
マレー: ひゃー、さっそく雷が落ちたよ。
グレートヘン: (息子の肩を抱いて庇い) あなた怒鳴らないでちょうだい! 神様が私
たちにこの子を返して下さったのよ。
バーンスタイン: (鞭を振り回して) 私はこんな奴は知らん。
出て行け、二度と顔を見せるな!
隣人たちも出て来る。
21 / 44
グレートヘン: ライナルトを許してあげて! この子も十分反省しています。
それにご覧ください、この子の身体にはもう十分すぎる罰が刻み込まれて
いるではありませんか!
(彼の頬を撫で付け) ああ、こんなにやつれて・・・。辛かったわね、孤
独だったわね。外の人は神様のようにお前を守っては下さらなかったのね。
とても飢えた目をしているわ。解けたチーズのように瑞々しかった肌も桃
のようにガサガサになっているし、身体だってこんなに――ああ、老木の
ように節くれ立っているじゃないの。・・・成人のお祝いもまだしてあげら
れていないのに。
安心なさい、これからまた私が守ってあげますからね。さあいい子だか
らお父さんに謝りなさい。ね、お父さんも心の中では喜んでいるはずよ。
ちゃんと向き合って話をするべきだわ。
しかしライナルトは祈るような眼で哀願する母を引き離し、
ゆっくり父の前へ進み出る。
ライナルト: ・・・俺は謝らないよ。
周囲の空気が張り詰める。
バーンスタイン: なに? (鞭を持つ手に力が込もる)
ライナルト: 確かに俺は向う見ずだった。自分の惨めさをこの村のせいにして街へ逃げ
出したんだ。実際、首府へ着いて宮殿前の広場に立った時にはそれを確信し
たよ。俺はがむしゃらにそれを探した。まず居酒屋のボーイをやってそこで
仲良くなったリュート弾きと流しをやったり、その傍ら小麦の収穫やブドウ
の木の剪定を手伝ったりもした。それが駄目になってワイン売りや牛乳売り
や洗濯屋、それに木彫りの仕事もやってみた。一番続いたのは庭師だったけ
どそれも五月に大公様が敗けて駄目になった。
グレートヘン: ああ、神様!
22 / 44
ライナルト: ・・・でも俺は後悔しちゃいない。惨めなのは俺自身に何も無いからだっ
て分かったから。何処にいて何をするかなんてどうでもいい事だったんだ。
その事に気が付いて俺はやり直すために帰ってきた。今さら家に戻ろうとは
思わない、マクレガルさんのところで世話になるつもりだ。
だから俺は謝らない。
どよめき。
マレー: よく言った! いい男になったよ、あんたは。
バーンスタイン: キサマ・・・。
グレートヘン: ああ、ああ・・・神様・・・。
(泣き崩れる)
そこへ作業を終えた村長マクレガル及び村人たちが通りかか
る。その中にたまたま村を訪れていたニコの姿もある。
マクレガル: 私も誰か紹介してあげられればいいのだが。今はキーファの帰りを待つ
しかないな。
ニコ: ええ。僕もそれを期待しているんです。
マクレガル: 絶望に負けずに続ける事だ。今日のお礼に私がモデルになってあげよう。
こう見えてなかなか人気があるんだぞ。
ニコ: ありがとうございます。あ、何でしょう? 人が――。
マクレガル: ほんとうだ。これこれ、一体何の騒ぎかね?
村人: ああ、
「ヒルシュケーファー」さん。(頭飾りを見て) 今日はエーゼル(ロバ)さん
でしたね。ライナルトが帰って来たんです。
23 / 44
ニコ: えっ――。ライナルト!
ライナルト: (声の方を振り返り) ニコ! 来てたか。
(ハグをして) お前でかくなったな。いくつになった?
ニコ: 十六だよ。ライナルトが村を出て行ったのは十歳の時だったから。あれから僕も
ヴァンデル親方の工房に入ったよ。キーファが誘ってくれたんだ。
ライナルト: そっか、俺がいない間も従兄弟の絆は続いていたんだな。
けどキーファは行っちまったんだろう。殿様のご夫妻にすごい肖像画を描い
てやったんだって?
ニコ: うん。といって僕は観なかったけど・・・。遍歴に出発する朝にね、キーファが
親方の家へあいさつに来てそこで聞いたんだ。
でも僕はもう泣かないよ、だってライナルトが帰って来たんだから!
ライナルト: ああ、俺はもうどこへも行かない。
マクレガル: ニコ、わたしにもハグをさせてくれるかい? だってあんまり感動的じゃ
ないか。
ニコ: はい! 六年ぶりに従兄さんが帰って来たんです。
マクレガル: (ハグをして) ああ、離れていた時間が流れ込んでくるようだ。
身体中がライナルトを思い出す・・・。
マクレガルの言葉に村人たちの気持ちも弛緩する。
ライナルト: お久しぶりです、マクレガルさん。
マクレガル: おいおい、そんなよそよそしい呼び方はよせ。
「ヒルシュケーファー」だ。
・・・おかえり。私たちの村によく帰って来てくれたね。お前が外で得てきた
経験は必ずやこの村に恩恵をもたらしてくれるだろう。
24 / 44
ライナルト: はい・・・。(ふたたび涙ぐむ)
村長を慕って集まってくる村人たち。
(我に返って離れ) あの、村長――。
マクレガル: 「ヒルシュケーファー」だ。なんだね?
彼の真剣な表情を読み取りながらも敢えて楽観的に返す。
ライナルト: ・・・やっぱりなんでもありません。
マクレガル: 言ってごらん。それを伝えるために帰路を急いでくれたんだろう。
ライナルト: でたらめなんです。大見得切って出て行った手前、物にならないで帰って
来たのが気まずくて、皆に優しく迎えてもらいたくてでたらめを持って帰っ
て来たんです。
マクレガル: ライナルト。ニコは優しくお前を迎えたじゃないか。
言いなさい、私もお前を受容れるから。
ライナルト: (頭を抱えて悩み悶え、それからゆっくり口を開く) ハイデルベルクが・・・
ハイデルベルクが、旧教の手に落ちました。
驚愕する一同。
マクレガル: (努めて冷静に) それはいつの事だね?
ライナルト: 十日前です。五月のヴィンペン戦いに続いてティリー伯爵が一万五千の軍
25 / 44
を率いてハイデルベルクを包囲したんです。選帝侯はすでにネーデルラント
へ亡命していて攻城戦も無しにそのまま・・・。
一同の絶句が悲鳴に変わる。
マクレガル: なんということだ・・・。それで大公は? 首府も攻撃を受けているのか?
ライナルト: 大公はヴィンペンの戦いで敗れました。中立協定も白紙になるだろうって・・・。
マクレガル: (大いに嘆いて) ああ・・・。もう一度ハグさせておくれ。よく無事で帰っ
てくれた。
グレートヘン: 嫌~! マクシミリアン! 私のマクシミリアンが!!
バーンスタイン: グレートヘン!
(抱きかかえて) 落ち着きなさい、テュービンゲンは
無事だ。大学の寮には旧教徒もいるのだから滅多なことが無ければ攻撃は
されない。それに危なくなったらあいつも帰って来るはずだ。落ち着きな
さい!
村人たち: (パニックになって) 逃げろ! 逃げろ!
――でもどこへ? ――周りは
旧教の町ばかりだ。 ――森の中に逃げ場なんてあるもんか! 火を放たれた
らみんな火あぶりだ。
ニコ: そんな・・・。
マクレガル: 落ち着け! みんな落ち着くんだ。まだ敵がここまで入って来るとは限ら
ない。たとえ来たって我々には生きて生産するもの以上の財産もないじゃな
いか。それに我々にはホルンベルクのゲミンゲン伯爵が付いてる。
大丈夫、みんな、グータッハは大丈夫だ!
バーンスタイン: (息子を殴る) このバカ息子が! そんなに皆の同情が欲しいか!
再び女たちから悲鳴。騒然とする中、ニコが一人決意して歩き出す。
26 / 44
マクレガル: ニコ、待ちなさい! どこ行くつもりだ?
ニコ: フェルトベルクへ――。キーファにこの事を知らせないと。
マクレガル: 知らせてどうするんだ?
安全な所からわざわざ引き返させるつもりかい?
それは大した友情だね。
ニコ: この村は彼にとって特別なんです。何も知らされないままどうにかなったらきっと
悲しみます。だからそうなる前に伝えておくのが僕の友情です。
シュヴァイツァー: やめてくれ! ニコ、お願いだからあいつをそっとしておいてくれ。
ニコ: ・・・ごめんなさい、シュヴァイツァーさん。彼は僕の希望なんです。
力なく微笑んで駆け出すニコ。シュヴァイツァーの悲痛な叫
びが空しく響く。それにカッコウの声が応えた。
第六場――メーアスブルク
平静を取り戻した街ではさっそく若い画家たちが次の嵐に
備えて動き出し、フィデリオとショーンから親方へ、親方か
ら市長へ、市長から市民へとキーファの熱意が伝えられた。
そしてこれには市長をはじめ多くの市民たちが賛同し、それ
でも教区司祭や警備隊の家族に気を遣って始めは小規模に、
しかし間もなく大胆に計画が進められていった。
これには領主司教も早くから気付いて大いに憤慨したが、
彼らが描いているのが天使やトウヒの木や港町にちなんだ魚
の絵など異端とは無縁の絵であったために下手に禁止するこ
ともできず歯噛みして様子を見ていた。一方の市民たちも彼
27 / 44
らの動向には常に目を光らせており、画家たちの側にはいつ
も幾人かが見張りとボディーガードを兼ねて付くようにして
いた。
この日も屈強な漁師たちに見守られながらフィデリオとシ
ョーンとキーファが船着き場に面した家々の外壁に明るい色
の描画を施している。
市民一: 壮観だな、おい!
これが本当に俺の家かい。しかしこの家はもう何年もこう
なるのを待っていたみたいだ。今になってやっと完成したんだ!
市民二: ああ、えらくしっくりきやがる。色といい、モチーフといい、ボーデン湖の中
を覗き見ているみたいだ。
市民三: 港町はこうでなくちゃ。これならきっとナポリやニースにも引けを取らないぜ。
市民一: ありがとよ、フィデリオ、ショーン――それからキーファ! 報酬は弾むからな。
フィデリオ: (足場の上で振り返り) 報酬なんかいらないよ、半人前の俺たちがこんなで
っかい壁に一人で描けるなんて夢のようだし、それに今すごく幸せなんだ!
――なあショーン!
ショーン: うん! 大きな白パンを一人で食べてるみたいだよ。これもみんなキーファ
のおかげさ。だから報酬はみんなキーファにあげて下さい!
市民一: ああ、もちろんだ。キーファ、遠慮することないぞ。親父さんとお袋さんに白
パンでもスパイスでも何でも買って行ってやれ。
キーファ: ありがとうございます。でもこれはみんなの絵だから・・・。街のみんなが
自分たちの街を守ろうって頑張っているのを見て、僕も何かお手伝いできたら
って思ったんです。そうしたらこんなに素敵なことになって――、だから報酬
はみんな絵の具代に充ててくださって結構です。僕も二人と同じで今とっても
幸せですから!
市民三: よく言った! キーファ、俺はお前のこと気に入ったぜ。お前の思うように描
28 / 44
いてくれ。そんで俺たちが獲った魚をたらふく食って行ってくれよな。
周りの市民たちも賛同の声を上げる。
キーファ: はい!
男の子: パパ、ぼくもお魚描きたい。
女の子: わたしも!
市民四: (長男の頭に触れて) ダメだよ、あれはお仕事なんだ。お兄さんたちは一生懸命
練習したからあそこに立って描くことを許されるんだよ。それはパパにだってで
きやしない。だからパパと一緒にここから見ていようね。(二人の肩を抱く)
男の子: ぼくもいっぱい練習したらあそこで絵を描ける? ぼく絵描きになるよ。
それであのお兄さんたちみたいにみんなを喜ばせるんだ。
女の子: わたしも!
市民四: そうだね。リッツもケイトも将来は人を喜ばせる仕事に就いておくれ。
子どもたち: うん!!
そこへ見張りの市民が駆けてくる。
市民五: おいみんな! 司教だ、司教の奴が警備隊を連れてやってくるぞ!
市民二: ちっ、支配者ってのはそんなに孤独なのかねぇ。人が陽気にやっているところ
を嗅ぎ付けてはぶち壊しに来やがって。
市民一: みんな、武器を取れ! 画家先生はそのまま。あんたらには指一本触れさせや
しない。
29 / 44
市民四: 私たちも離れていよう。さあこっちへ。
市民たち、武器を回す。キーファはその様子を足場の上から
悲しげに見つめている。そこへ領主司教と警備隊登場。
領主司教: やあ諸君、御機嫌よう。
(マスケット銃を構える警備隊に) 降ろせ。
お前たちもそう怖い顔をするな、私は諸君らの楽しみを奪いに来たわけでは
ない。
・・・なかなかよく描けているじゃないか。これはいい客寄せになる。
市民一: 何をしに来た? ここはお前のような奴が来るところじゃない。
今すぐ立ち去れ!
領主司教: おやおや、ずいぶん嫌われたものだ。ここは私の領地なのに。
では手短に済ませよう。プロテスタントを引き渡してもらおう、お前たちに
危害を加えるつもりはない。
市民三: 断る。あんたが客寄せと言ったあれはあいつが提案したんだ。お前の支配下で
俺たちがしかめ面をして生きなくていいようにってな。――もっともあんたは
水桶の中で口をパクパクさせている俺たちの方がお好みだろうが。
領主司教: ん、私の聞き違いかな? 司教である私の命令を差し置いて異端の絵描きを
庇う声を聞いた気がしたが。・・・まさかな、敬虔なカトリック信者がプロテス
タントにほだされるなどあり得ないことだ。
市民二: ほだされたんじゃない、あいつの方から歩み寄ってくれたんだ。
それを最初に依頼したのはあんただろう。俺たちはまんまとあんたの術中にはま
っただけだぜ。
市民たち声を合わせる。
30 / 44
領主司教: なるほど、確かにそれは私が意図したことだ。そしてお前たちは私の思惑通
りになった。しかしそれは過去の話、現在は状況が変わった。
市民一: それはお互い様だ! もしあいつがお前の思惑通りに悪魔を描いた画家として
俺たちの前に姿を現していたら、俺たちはあいつを街から叩き出していたかもし
れない。――その点では感謝してやる、よくぞ癇癪を起してくれたとな。
だがこれだけははっきりしている、俺たちは決してお前にひざまずく事だけは
しなかった!
市民たちも武器を掲げて鬨の声を上げる。
警備隊長: えい、静まれ、静まれぃ! (再び銃を構える)
領主司教: (それを再び制して) ・・・言いたいことはそれだけか? お前たちなど私の
権限で今すぐ破門してやることもできるんだぞ。さあ、最後通告だ。プロテス
タントを引き渡せ。さもなくばここにいる全員を異端審問に掛けることになる。
――もちろんそこのガキもな。
この言葉に怯む市民たち。子どもたちも父親の陰に隠れる。
キーファはグータッハとはあまりにかけ離れた現状を目の当た
りにして二つの勢力の間にあるこの絶望的な溝の間を取り持と
うとした自分の無知を恥じ、恵まれてきた自分がこれ以上彼ら
に匿ってもらう事が図々しくて、居た堪れなくなって、ついに
口を開く。
キーファ: みんな、ありがとう。僕行きます。僕が行けばみんなは作業が続けられるで
しょ。フィデリオ、ショーン、あとは君たちに任せたよ。ありがとう、楽しか
った。
足場を降りる。
31 / 44
フィデリオ&ショーン: キーファ!
領主司教: ふん、それでいい。
市民四: (子どもたちの前にかがみ) リッツ、ケイト、少しだけここでお利口さんにして
いられるかい。パパちょっと司教様とお話ししてくるからね。
(進み出てキーファを制し) 君はそのまま。
・・・そのまま。
警備隊長: (またも銃を突き付けて) 止まれ! 何者だ?
市民四: (手を挙げながらなお進み) 名乗るほどの者では・・・、しがない物書きです。
警備隊長: 止まれ! どいつもこいつもこいつが見えないのか。
領主司教: ・・・で、そのしがない物書きが何の用だ。私に説教でも垂れようというのか。
市民四: ええまあ・・・。その前にとりあえず銃を降ろすよう命令してもらえませんか。
子どもたちが見ています。(市民たちに) あなたたちも。
領主司教: (大儀そうに) 降ろせ。
・・・それで?
市民四: 彼の絵はご覧になりました? 温かくて優しい絵です。私たちの絵はとかくグ
ロテスクを求めがちで五十歩百歩の絵に競争心を塗りたくったような印象を受け
る事が多いのですが、彼はそんな競争からまったく解き放たれて自由に主題から
受けた感銘あるいは感動を表現している点でとても素晴らしい。子どもたちにも
安心して見せられます。
領主司教: 何が言いたい?
市民四: 司教様もそのことにお気づきだったのではないですか?
だから悪魔の描写はともかく彼の描いた壁画があれば市民たちとの溝を埋められ
るかもしれない、武器を取っていがみ合う現状を変えられるかもしれない、そう
すれば血に飢えた同盟軍に抗争を嗅ぎ付けられてあなたの土地が踏み荒らされる
32 / 44
のを回避できるかもしれない――そうお考えになったのではないですか?
領主司教: だとしたらどうだというのだ。結局奴は壁画を描かず、市民たちも武器を
棄て去りはしなかった。
市民四: いいえ、彼らもあなたとまったく同じ期待から街を絵で埋め尽くそうとしてい
るのです。
「ごみが置かれた所に人はごみを捨てる」という言葉をご存じと思いま
す。街に生々しい弾痕が残ったままでは私たちはいつまでも戦ってしまいます。
戦いを終わらせるにはまずそれを消さねばならない――彼らはそう考えたのです。
市民たち、武器を放り捨てる。
さあ、あとは司教様が彼らの絵を、彼らが飾り付けた街を褒めて下されば
よいのです。彼らは決して異端に落ちたり致しません。
警備隊長: 耳を貸してはなりません。物書きはみんな嘘つきです。
即興で耳触りの良い作り話を作っては民衆をたぶらかすペテン師なんです。
領主司教: ・・・そうかもな。行くぞ。
市民たちの間で歓喜の声が上がる。
警備隊長: 司教、司教!
(市民たちを睨み付け) えい、覚えていろ。戦争が終わったら全員牢屋へぶち
込んでやるからな! 行くぞ!
警備隊を引き連れて領主司教の後へ続く。
市民四: (向き直って) さあみんな、作業を続けて下さい!
33 / 44
子どもたち: (駆け寄って) パパ―!
市民一: 兄さん、ありがとよ。おかげで胸がすっとしたぜ。
市民二: ああ、これで心置きなく作業ができる。
市民三: それにしても街を白黒に染める葬式野郎を一緒に追い払えたのはでかいな。
さあこれから街は賑やかになるぞ! 頼むぜ、画家先生!
画家たち大いに猛る。
フィデリオ: (足場から手を差し出して) さあ、キーファ。
キーファ: ・・・うん。
と手を伸ばした時、ふいに内陸の方から声を掛けられる。
振り返るとそこに突如としてニコとフランツ、そしてカッコウ
坊やが現れた。
ニコ! ・・・それにフランツさんも。
(フィデリオに) 親友なんだ。来て、紹介するよ。
そう言ってニコたちの下へ駆け寄る。フィデリオもショーン
を連れて足場を駆け下りる。
マイスター: 俺たちは作業再開だ! そろそろリミットだぞ、急いで描き上げろ!
キーファ: (親友に抱き着き) まさかこんな所まで会いに来てくれるなんて!
ニコ: うん、自分でも驚きだよ。でも僕は来たんだよ。トリベルクから君に会いに来た
34 / 44
ようにメーアスブルクまで来ちゃったんだ。
キーファ: 君の行動力にはいつも感心するよ。
もしかしてフランツさんの小屋へも行ったの?
ニコ: 行ったよ。地図も持たずに。――嘘。St.ゲオルゲンまでは頑張ったんだけどね、
日が暮れて半べそをかいている所にカッコウ坊やがやってきて僕を導いてくれたんだ。
キーファ: カッコウ坊や?
ニコ: この子だよ。すごいんだよ、この子は実は――
フランツ: キーファ!
キーファ: フランツさん・・・。ごめんなさい、せっかくもらった仕事を断ってしまい
ました。
フランツ: お前の筆が決めたことだ。私のサインは不要だ。
それで後ろの徒弟たちは? それにこの騒ぎは何だ?
キーファ: フィデリオとショーンです。フランツさんが森へ帰ってしまわれた後に司教
様が助手に雇って下さったんです。それでいろいろあって街を絵でいっぱいに
しようってことになりました。
(フィデリオとショーンを前へ促して) この方が巨匠のフランツさんだよ。
隣にいるのはニコ。それから・・・。
(カッコウ坊やに期待の目を向けられるが彼のことは伏せることにする)
フィデリオ: フィデリオです。クライバーの工房の徒弟です。
巨匠のことは知っていました。お会いできて光栄です。(ビズをする)
ショーン: ショーンです。フィデリオと同じ工房の徒弟です。お会いできて光栄です。
(ビズをする)
ニコ: ニコだよ。僕はトリベルクのヴァンデルの工房だよ。知ってる? 最近、戦勝祈
願の壁画を完成させてフライブルクで話題になっているんだけど。(ビズをする)
35 / 44
フランツ: (キーファに) それで報酬は?
キーファ: 頂いておりません。街のみんなで決めたことですから。
フランツ: なんと、ではお前はこれを無償で動かしたのか! こいつは愉快だ。
(高らかに笑う)
キーファ: 僕一人の力じゃありません。大人たちを動かしてくれたのはフィデリオとシ
ョーンで、市長を動かしてくれたのはその大人たちです。さっき司教様がお見
えになって、市民たちとは長くいがみ合っていたんですけど、あそこの子連れ
の方が司教様を説得して作業を続ける許可をもらって下さったんです。
彼らと目が合って市民四は帽子を取って会釈する。
みんな本当はもっと早くこうしたかったんだと思います。
フランツ: それは良い仕事をしたな。だが今度はもっと大ごとだぞ。
――おいニコ、いつまでじゃれている? 急ぎで伝えることがあって来たんだ
ろう。
キーファ: えっ――?
ニコ: ああ、はい! ――ちょっとごめんね。
キーファ、君はやっぱりすごい奴さ。初めての土地で、しかも旧教の街で外装を任
されるなんて。
キーファ: 君も一緒にやろうよ。まだまだ描くところはたくさんある。
ニコ: それは僕が夢にまで見た話だよ。君がマイスターで僕が助手、エリーゼと三人で
世界中を飛び回って僕たちの絵でいっぱいにするんだ。
これは彼がカッコウ坊やの能力に気が付いてから更新した夢である。
36 / 44
キーファ: いいね、やろうよ。そうしたら庶民のための絵もたくさん描けるね。
ニコ: うん。でも、今はそれどころじゃないんだ。グータッハが・・・。
ライナルトが帰ってきてね。
キーファ: えっ、ライナルト? ライナルトが首府から帰ってきたの?
(他の三人に説明) ライナルトというのはね、僕の幼なじみの二番目のお兄さん
で僕たちは三人で義兄弟の契りを交わしたんだ。
それで? 彼はどんな感じだった? 太ってた、それとも痩せてた?
横柄だった、それとも謙虚だった? 手はキレイだった、それとも油まみれだ
った?
ニコ: 頭と襟に羽がたくさんついてた。たぶん彼は鳥になりたかったんだよ。
でもひよっこのまま帰ってきちゃった。
徒弟たち大笑い。
・・・ライナルトが悪いわけじゃない。首府の大公様が戦争に敗けてしまったんだ。
それでハイデルベルクも旧教に占領されたって。
彼らの顔色が変わる。
近くで聞き耳を立てていた市民の一人が近づいてくる。
市民五: 君、今の話は本当かい? ハイデルベルクが陥落したって。それはいつの話だ?
ニコ: 今月の十九日です。殿様が不在で抵抗する間もなく、その日のうちに入城を許し
たそうです。
市民五: 十九日だって!
市民一: どうした?
37 / 44
市民五: ハイデルベルクが落ちた。先週のことだそうだ。
市民たちの間にざわめき。
市民二: それが真実なら大変なことになるぞ。
市民三: なぜ? 新教の拠点を制圧したのなら戦争は終わりだろう。
市民一: だからだよ。こっちの大将は新教の滅亡を宣言しているんだぜ。
これから同胞の面汚しどもが大はしゃぎで帝国領を略奪するだろうよ。そうなり
ゃ周辺の新教国だって黙っちゃいない、世界大戦に発展する可能性がある。
市民五: ・・・急にうちの司教が立派な人に思えてきたよ。俺たちはそんな馬鹿な戦い
には加わりたくないからな。神聖な森を穢す奴は人でなしだ!
市民たち賛同の声。
キーファ: グータッハが・・・。
ニコ: グータッハは大丈夫だと「ヒルシュケーファー」も言っていたけど、何も知らさ
れないままもしそうなったら君は悲しむだろう。そう思ったらシュヴァイツァーさ
んの制止も振り切って走り出していたんだ。
キーファ: 父さんが・・・。
ありがとう、ニコ。君以上に友達想いの男はいないよ。でもそれを聞いた僕が
その後どうするかという所まで君の友情は弁償してくれるつもりだったかい?
ニコ: もちろんさ。僕がしっかり村まで送り届ける。――といって本当に送るのはカッ
コウ坊やの仕事なんだけど――。
キーファ: それじゃこの美しい、活気あふれるメーアスブルクで君の夢を叶えるのはひ
38 / 44
とまず諦めてくれたまえ。僕たちには故郷で大仕事が待っている。
市民たち、相談を始める。
フィデリオ: キーファ、行くなよ。君は画家なんだからここに居なくては。
ショーン: そうさ、今起こっていることを書くのは新聞記者の仕事だろう。
芸術家はそれが吟味された後で描くものだ。
フランツ: うん、なかなかいい箴言だ。
キーファ: でも、歴史が塗り替えられようとする時にそれを描き遺しておくことも画家
の仕事でしょ。洗礼証明書を見返したって子どもの顔を思い浮かべることはで
きないから。財産目録を見て家を再現することもできないし、住民票を見て村
を再建することだって不可能だ。食べてしまったリンゴも文字で表わすことは
できない。
ニコ: キーファ・・・。
フィデリオ: けど君がそこに居たら描いた絵も一緒に――。君を肌で知る人は絵だけ遺
されたってきっと嬉しくない。辛いだけだ!
市民四: よしなさい、私たちがどうこう言えることじゃない。
キーファ、ありがとう。君のおかげで私たちは前へ進むことができた。
君たちの幸運を祈る。(二人にビズをする)
市民一: (市民を代表して進み出て) キーファ、これを。(コインを握らせる)
少ないがこれは謝礼の半分だ。残りはまた次に来た時に渡す。
・・・だから必ず取りに来い。
帽子を伏せて群衆に紛れる。仲間たちにしばき回される。
39 / 44
キーファ: (手を開いて) ・・・こんなに?
市民二: それだけあれば乗合馬車に乗れるだろう。また来いよ。戦争が終わったらなん
て言わずに行き場がなくなったら必ず俺たちを頼ってくれ。村人全員で押し掛け
てくれたって構わない――、きっと力になる。
それに後押しする市民たちの力強い声。
ニコ: ありがとう。わ~ん。
フランツ: なぜお前が泣く? おっちょこちょいめ。
(と言って彼の頭をくしゃくしゃにしながらもキーファの成長が嬉しくて涙ぐむ)
フィデリオ: キーファ、壁画は俺とショーンで進めておく。けど完成には三人のサイン
が必要だ。だから必ず帰って来い、自分の仕事を投げ出すな。いいな!
キーファ: (コインをポケットに入れて) 分かった。それじゃ留守を二人に預けるよ。
ありがとう、フィデリオ。(ビズをする) ショーン、君もありがとう。(ビズ)
ショーン: ありがとう、キーファ。君の村もきっと平気さ。幸運を祈ってる。
キーファ: 君たちにも。
それでは愛するメーアスブルクの皆さん、お世話になりました!
皆さんと過ごした時間は本当に幸せでした。それではお元気で、さよなら!
市民たちから歓声。
彼らに背を向けて出発を促すキーファ。とそこへ満を持して
カッコウ坊やが抱き付く。
カッコウ坊や: パパ~!
40 / 44
キーファ: ああ、ごめんね。君のことは話さない方がいいと思って。
けど君はエリーゼに付いていてくれたんじゃなかったの?
そこにフランツが抱き付いてくる。
フランツ: パパ―。
キーファ: ええっ・・・?
(ひきつった顔で) どうされたんです、フランツさん?
ニコ: (カッコウ坊やに触れながら) さあ行くよ。
さっき言ったろ、この子に送ってもらうんだ――別に抱き付かなくてもいいんだけど。
キーファ: この子に?
フランツ: お前は知らなくていい。ニコ、余計な事をしゃべるな。
さあ、カッコウ坊や、頼んだぞ。まずは私のアトリエまでだ。
カッコウ坊や: カッコウ、カッコウ!
暗転。内幕を引く。
第七場――ティティゼー
カール: (エリーゼの手を引いて) 何と言われようと私は発ちます! ホルバイン家の
馬車が襲撃されたのです。私が行って成敗してやらなければ治まりません。
オリバー、甲冑を着せてくれ。それから短剣とマスケット銃を!
41 / 44
従者たち慌ただしく動き回る。
ルクレツィア: おやおや、火のようにお怒りだこと。水を差したらこっちまで火傷を負
わされそう。
あなた、義憤も結構ですがどうか私への愛をお忘れなきよう。
カール: 私の義憤は家族への愛より発生したものだ。だから君にも同じものを期待して
いる。
ルクレツィア: 心はあなたと一つですわ。ですからどうぞ私の手をお取りください。
エリーゼは傷付いているのですよ!
カール: 思う事は即ち行動する事だ。しかし君の手は私の思いを半分にしてしまう。
ルクレツィア: それが夫婦というものではなくて?
それで辛い気持ちは半分になり、
喜びは二倍になると安物の脚本でよく謳われていますわ。
カール: 今の私はむしろスペードの気分なんだ。君も柄を握ってくれたまえ。
そうすれば君と手をつなげる。
ルクレツィア: ですからお手を差し出しています。
カール: いや、その手はドアノブだ。行くには離さねばならない。
ルクレツィア: お部屋にいらっしゃれば側に居られます。開け放っておくことも。
カール: 私たちはもう未婚の男女ではないよ。
ルクレツィア: でしたら寝室に二人きりでいても問題ありませんわよね?
カール: (エリーゼの手を離して肩を竦め) ルクレツィア!
お願いだから行かせてくれ。手紙には書かれていなかったがきっと誰か怪我をし
たに違いない。私には分かるんだ。そんな時に長男の私がいなくてどうする?
ラルフ・シュリッテン: その時の為にお前はここへ来たのだ。お忘れか?
42 / 44
お前は家族の身に何が起ころうともここで生きなければならない。
堪えなさい。
カール: 聞きません!
(肩を掴んで) エリーゼ、お前なら分かってくれるだろう? 一目でいいんだ、家
族の無事を確認したらすぐに戻る。
エリーゼは痛みに顔をゆがめ、怯えた目を見せる。
フリーダ: 「すぐに戻る」ですって? 占領地を突き抜けなければならないのにそんな
ことができますか。使者に化けるおつもりでしたら一人でお行きなさい。
カール: (なおも彼女に食い下がって) うんと言ってくれたらグータッハにも寄ってあ
げよう。メーアスブルクに寄っている時間はないが、お前も両親に顔を見せてあ
げるといい。きっとお喜びになる。
エリーゼ: (頭巾の上から耳を塞ぎ、ひどく目を逸らし) お許しください、旦那様。
お許しください!
カール: (その腕を掴んで凄み) 今自分の足で行くのと夜更けに無理やり連れられるの
とお前どっちがいい? ――来い!
エリーゼを表へ連行し、戸口の護衛隊に号令を掛ける。
ルクレツィア: あなた!
エリーゼ: お許しください! お願いです、旦那様。お許しください!
ラルフ・シュリッテン: カール! ・・・バカな子だよ。
止めろ! 決して行かせてはならん。
43 / 44
一同も戸口へ向かう。家の者は総出で彼の説得を試みたが叶
わず、妻の哀訴も彼には届かない。
カールはエリーゼを馬に乗せ、係留を解くと少しだけ冷静に
なってルクレツィアに一言かけた。しかしその後は一度も振り
返らず馬に跨り、掛け声と共に拍車を入れた。護衛隊が無感情
に後に続く――。
見送る者たちの目には諦念がにじんでいた。これが最後とは
言わないまでも今朝までの彼と再会する事はもうないのだとい
う気持ちからいつまでもいつまでも彼らが去った方を見つめて
いた。
(C)2015 Seita.Mogami, All Rights Reserved.
44 / 44