負エネルギー

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第1章
歴史的な話
歴史的には,Maxwell 方程式とか Klein-Gordon 方程式とか Dirac 方程式といった,相対論的な波動方程式の研究
と共に量子場の理論が成長したのもあって,量子場の理論の講義とか論文とかでは,これらの波動方程式を導入して
いくのが普通だ.でも実はもっと適切な出発点があって,それは粒子を非斉次 Lorentz 群の表現とする Wigner の定
義だと思う.長いこと注目されなかったんだが…….そんなわけで粒子から出発して,それから波動方程式に進むこ
とにする.
これは別に粒子が場よりも本質的だと言いたいのではなくて,粒子の方がよく知っているのと,量子力学と相対論
の原理からより直接的に導けるからだ.
実際,場の理論でもなく粒子の理論でもなく,弦のようなものの理論が基礎かも知れないなんて話がある.その場
合,量子電磁理論とかは単なる「有効場の理論」で,より基礎的な理論の低エネルギー近似でしかない.つまりいか
なる相対論的量子論も,充分に低エネルギーの粒子に適用すると場の理論に見えるということだ.そう考えると,粒
子から出発するのが良さそうだろう.
とは言え,歴史をないがしろにするのはいかがなものかということで,この章では場の量子論の初期から,最終的
に現代の形を取った 1949 年までの歴史を辿る.
1.1
相対論的波動力学
1923 年に de Broglie が物質波を提唱し,その後 Davisson と Germer により確かめられたが,自由粒子でない場
合の修正案を見出せなかった.そのうち行列力学が台頭するが,Schrödinger によって波動力学が復活する.彼は最
初,相対論的波動方程式を導いたのだが,それが誤った結果を与えた.しかし非相対論的近似が意味ありげだと気付
き,のちに相対論的波動方程式を発表した(1926 年.Dirac 談).その時点では既に Klein と Gordon によって独立
に発見されていたため,この方程式は通常 Klein-Gordon 方程式と呼ばれている.
Schrödinger の理論は Sommerfeld の理論とは異なる結果を与えるが,これは電子のスピンを無視したせいだとい
うことに気付いたし,それを考慮すれば説明できることも 1927 年に確かめられた.それにも拘わらず,電子のスピ
ンを初めから組み込んだ理論は,1928 年の Dirac によるものを待たなければならない.彼は別に電子のスピンを組み
込みたかったわけではない.彼の主張を現代的に言い換えれば,「なぜ物質の基本的な構成粒子はスピン ~/2 を持た
なければならないのか」という疑問提起である.彼は,確率は正であれという要求こそがこの問題のミソだと考えた.
非相対論的 Schrödinger 方程式の確率密度は正であったが,相対論的 Schrödinger 方程式から連続方程式を満たす
確率密度を求めると符号が一定でなく,確率密度とは言えなかった.負の確率を与える原因が 2 階の時間微分にある
ことに気付き,時間についての 1 階微分(従って Lorentz 不変性から空間についても 1 階微分)の方程式を作ったの
だが,この方程式の解は波動関数が 4 成分を持つ.そのうち 2 つが正エネルギー解で残りの 2 つが負エネルギー解,
そして正負のエネルギーそれぞれにおける 2 成分は,スピン ~/2 の上下成分に由来している.ここで,新たな問題に
直面した.「負エネルギー解があると,正エネルギーの電子が光子を放出して負エネルギー状態に落ちて行ってしま
う!」さて,困った.
そこで目を付けたのが Pauli の排他原理である.「負エネルギー状態はすべて占有されていて(Dirac の海),正エ
ネルギー電子は落ち込めないのだ! でも少しだけ席が余っていて(空孔),そいつが電子とは逆の正エネルギー正電
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荷を持った粒子(当時は陽子と目された)として振る舞うのだ!」というのが Dirac の提案である(空孔理論.1930
年)
.しかし,これには困難がつきまとう.「負エネルギー電子による無限大の電荷密度はどうした」
「空孔に対応する
粒子が陽子だと都合が悪いよ」の二つだ.前者について Dirac は,Maxwell 方程式の電荷密度を「世界の帯電の通常
状態からのずれ」と解釈し直すことを提案した.後者については観測との矛盾から,陽子ではなく電子の正電荷版の
新粒子であると Dirac は考えを改めた(1931 年).実際に 1932 年に陽電子を発見し,問題は解決した.しかし,こ
の理論には次のいくつかの不満足な点がある.
(i) スピンゼロ粒子の存在は許されない 正の確率を得る手続きの中で,自動的にスピン ~/2 が入ってきた.従って,
Dirac の理論を相対論的 Schrödinger 方程式の修正案として考えると,スピンゼロ粒子は存在しないことにな
る.しかし,1920 年代にはいくつかのスピンゼロ粒子が知られており,今日では数多く見つかっている.更に
はスピン 1 の粒子も見つかっているのだ.スピンゼロ粒子の相対論的方程式に本質的な間違いがある,という
意見には同意しがたい.単に,電子がたまたまスピン ~/2 を持つ粒子だというだけだ.
(ii) 反粒子は Dirac の海の空孔か Boson の場合 Pauli の排他原理は適用されないので,負エネルギーが占有されて
いようがいまいが,正エネルギー粒子が落ち込むことは不可避だ.Boson の反粒子が Dirac の海の空孔だとは
考えられないのに,どうして Fermion に対してだけ信じることができるだろうか.実際,反粒子を空孔とする
解釈は,場の理論の発展によりお払い箱となる.Dirac の海の描像は,もはや歴史的骨董品だ(Schwinger 談)
.
(iii) 磁気モーメントの値が一意的でない Dirac 理論の大きな成功の一つは,電子の磁気モーメントの精確な予言
だ.しかし実は,Lorentz 不変性と gauge 不変性を含む一般に認められたすべての不変性原理と矛盾しない項
(Pauli 項)が見落とされている.その項に入っている任意定数分だけ,電子の磁気モーメントに余分な寄与を
する.
結局これらの問題はすべて,量子場の理論の発展を通して解決される(少なくとも明らかにされる)こととなった.
1.2
The Birth of Quantum Field Theory
光子は粒子として検出される前に場として知られていた唯一の粒子で,それゆえ量子場の理論が最初は輻射に関連
して発展し,その後ほかの粒子や場に適用されたのは自然だ.1926 年に,行列力学に関する中心的な論文の一つで,
Born と Heisenberg と Jordan が自由輻射場に Fourier 級数展開を適用した結果,場が様々な角周波数を持つ独立な
調和振動子の和のように振舞うことが分かった(展開係数を正準「座標」とする正準形式)
.例によって生成・消滅演
算子と数演算子およびそれらの交換関係が現れる.彼らはこの形式を黒体輻射のエネルギーのゆらぎの 2 乗平均を導
くのに用いた.更に,より差し迫った問題だった輻射の自然放出率の計算にも応用された.1927 年に Dirac は自然
放出の完全に量子力学的な取扱いを得ることができた.少し後に同様の方法で,Dirac は輻射の散乱と励起原子状態
の寿命を量子力学的に取扱い,Weisskopf と Wigner はスペクトル線の形の詳細な研究を行った.
こうして電磁場の量子化が成功するとすぐに,これらのテクニックは他の場に適用された.最初これは「第 2 量子
化」と見なされた.つまり量子化される場は,電子の Dirac 波動関数のように,1 粒子の量子力学で使われる波動関
数だった(二度の量子化).1928 年に Jordan と Wigner により,電子に適用すると生成・消滅演算子は交換関係を
満たさず,反交換関係を満たす演算子とすべきだと提案した.かなり後になって Fierz と Pauli が,交換関係と反交
換関係の選択は粒子のスピンだけで決まっていることを示した(1939–1940 年).
一般の量子場の理論は最初,1929 年に Heisenberg と Pauli の 2 論文で提示された.出発点は,正準形式を場の展
開係数でなく場そのものに適用することだった.Lagrangian を場と場の時空微分の局所的関数の空間積分とした.
このとき場の方程式は最小作用の原理から決定され,また微分の代わりに汎関数微分を使うことで正準変数の(反)
交換関係が決定される.
同時期に Dirac が空孔理論によって負エネルギー問題を回避したが,量子場の理論はどうだろうか.Dirac の空孔
理論と電子の量子場の理論が同等であることは,1933–1934 年に Fock,Furry,Oppenheimer によって与えられた.
陽電子は負エネルギー電子の欠損だという考えに則ると,物理的真空を正エネルギー電子も正エネルギー陽電子も存
在しない状態と定義したとき,全エネルギーと真空のエネルギーとの差分演算子(物理的なエネルギー演算子)が正
第1章
歴史的な話
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の演算子であることが分かった.
電荷をもったスピンゼロ粒子の負エネルギー状態の問題もまた,1934 年に Pauli と Weisskopf によって解決した.
しかしこれは Dirac の描像への挑戦の意も含まれていた.というのも Fermion でなく Boson,すなわち反交換関係
でなく交換関係だからだ.以前と同様に,自由場は無限個の連成調和振動子のように振る舞うことが分かった.そこ
には粒子と反粒子に対応した異なる 2 種類の生成・消滅演算子が現れる.それも,Hamiltonian の中に正確に同じ形
でだ.このことから,同じ質量を持つ 2 種類の粒子(粒子と反粒子,電荷は互いに逆符号)の理論であることが分か
る.この場合も,物理的なエネルギー演算子は正であることが示される.
負の確率問題については,量子場の理論においてもついて回る.しかしこの問題の解答は,
「振動場は確率振幅では
なく,保存する正の確率密度を定義する必要もない,単に種々の基準モードの粒子を生成・消滅する演算子だ」とい
うことだ.「第 2 量子化」なんて紛らわしい表現は永久追放である.ましてや,数演算子を全確率と解釈してはならな
い.これは粒子数と反粒子数の差である.
量子場の理論にはこうした明らかな利点があるにも拘らず,ただちに空孔理論に取って代わったりはしなかった.
二つの考え方を組み合わせて種々の計算に使われ,その結果は実験データとかなり一致していた.それでも,量子場
の理論に不満な一般的雰囲気が 1930 年代を通して続いた.それは想定していない新粒子による実験の再現の失敗で
あるため,その発見と共に解決していった.1932 年の中性子発見,1935 年の湯川による meson の提唱および 1937
年の発見,1947 年の π meson および µ,更には K meson と hyperon の発見というように次々に新粒子が発見され
(それは現在も続いている),もはや光子・電子・陽電子に限定した議論は枠が狭すぎて使い物にならないことが明ら
かになった.しかし,このことよりはるかに重大な問題は,純粋に理論的な問題,すなわち無限大の問題だった.
1.3
The Problem of Infinities
量子場の理論以前の古典電子論には,点電子が無限大の電磁的自己質量を持つという発散問題があった(半径 a の
表面電荷分布で 1/a の形)が,これは量子場の理論においても残り,特に初期は 1/a2 というより深刻な形をしてい
た.この計算は Dirac 理論に基づいていたが,Dirac の海を取り入れていなかった.Wisskopf が空孔理論で電子の自
己質量を計算し直したところ,発散は ln a となり古典論の 1/a や以前の量子論 1/a2 と比べて緩和された(1934 年)
.
これとは異なる無限大を 1933 年に Dirac が発見した.それはほとんど一様な静的外部電荷による,負エネルギー準
位が電子で満たされている「真空」の偏極で,それも ln a の発散だ.高エネルギー側(短距離・短波長側)の無限大
は紫外発散と呼ばれる.無限大との戦いにおける一つの光明は,赤外発散(低エネルギー側の無限大)の扱いに成功
したことだ.1937 年に Bloch と Nordsieck が,任意個の低エネルギー光子が生成される過程を含めれば赤外発散は
相殺するということを発見した.
1930 年代を通してこれらの無限大は,特定の計算だけの問題ではなく理論自体の欠陥だという考えが広まり,1940
年代までを通して別形式の探求が続けられた.Heisenberg による基本的な作用 h や基本的な速度 c に類似した基本
的な長さ L の導入(1938 年)
,Wheeler(1937 年)と Heisenberg(1943 年)による S 行列の導入など,様々な変更
が提案され,その中には(形は変わっても)現在の場の量子論に生き残ったものもある.
1930 年代はより保守的な考え方も広まっていった.おそらくこれらの無限大は理論のパラメータの再定義,すなわ
ち「くりこみ」によって吸収されるだろうというものだ.Lorentz 不変な古典理論では電子に対してその形を取らな
ければならないことが既に知られており,問題は量子場の理論の全ての無限大がこのように扱えるかどうかだった.
1936 年に Weisskopf によってその正しさが示唆されたが,当時の計算技術では証明が難しく,また Dancoff の計算
(1939 年)からは不可能なように見えた.
無限大の出現による別の影響は,場の量子論で無限大になったいかなる効果も実際にはまったく存在しないと信じ
る傾向だ.特に,Dirac 理論では縮退する 2s–2p 準位の量子電磁気学での分裂が無限大問題を生じ,それゆえ分裂が
無視されていた.しかし 1947 年に Lamb シフトが発見されたことにより,量子場の理論を覆っていた暗闇が晴れ始
めた.その後の Bethe による Lamb シフトの計算が実験と一致したことと,Rabi による電子の磁気モーメントの精
密測定(g 因子が 2 からずれる問題(いわゆる異常磁気モーメント)の発見),Breit の輻射補正効果の提案および
Schwinger の計算の観測との素晴らしい一致により,ようやく物理学者は輻射補正の現実性を確信した.
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この時期に使われた数学的手法は,驚くほど多種多様な概念と形式を示した.Schwinger は演算子法と作用原理
に基づいた計算手法を発展させ,朝永は別の Lorentz 不変な演算子形式を発展させていた.それらとは一見まった
く異なった手法が Feynman により考案され,それは始点と終点を結ぶ無数の経路について積分する,いわゆる径
路積分だ.Feynman 図・Feynman 則は,彼の研究で実用上非常に重要な結果である.そして 1949 年に Dyson は,
Schwinger と朝永の演算子形式が Feynman のそれと同じ図形的規則を生み出すことを示した.しかも彼の Feynman
図の解析により,どのような量子場の理論が「くりこみ可能」かどうかを決める基準が推察できた.これにより,と
うとう一般的で系統的な形式が存在することになり,量子場の理論が物理学者の共通言語となった.
欲を言えば,もっと早い段階でここまで至れたのではないかと思う.いくつかの実験的証拠も理論的な試みもあっ
たが,無限大を処理する手段としてのくりこみに対する確信が欠けていたのだ.種々の問題の解決には,本当に大胆
な新しい考え方が必要不可欠であるという考え方が広く認められていた.この考えに背を向けてくりこみを吟味して
いた(ほとんどが)若いけれども保守的な物理学者が一堂に会す機会を得たこと,Lamb シフトや異常磁気モーメン
トの信頼できる実験値の存在により輻射補正について注意深く考えるようになったことが重要だろう.