ORCHESTRA “EXCELSIS”

オーケストラ《エクセルシス》第4回演奏会出演者
Concertmaster
oncertmaster
コンサートマスター
Viola
Flute & Piccolo
ヴィオラ
フルート&ピッコロ
加藤由貴夫
Horn
ホルン
大林裕幸
井上春海
久保健俊
加藤洋子
大島美由紀
1st ヴァイオリン
近藤健一郎
高林りか
菊池早苗
1st Violin
石井真郷
正根知美和子
加藤美菜子
高田賀夫
菊地 誠
錦見容代
小山啓久
村井良行
袖崎徹也
塚本澄子
徳島由莉
豊田由起
広瀬紘子
森光祐子
簗田千明
2nd Violin
2nd ヴァイオリン
海野とし絵
小倉勇樹
斉藤優実
佐藤 俊
澤野 宏
Cello
Oboe & English horn
オーボエ&イングリッシュ・ホルン
チェロ
井上里恵子
北畠重顕
鈴木将人
西崎佳苗
布施公崇
佐藤泰彦
古山友理
新保京子
田中奈津姫
伊木史紀
Bass Clarinet
Contrabass
バス・クラリネット
コントラバス
今井良美
荒木浩志
Bassoon
ファゴット
戸田利忠
音 謙一
東 亜希子
中島健太
鈴木孝一
Contra Bassoon
橋本理紀
コントラ・ファゴット
畑谷孝浩
越島康太郎
森 康司
会 計
プログラム編集
佐藤泰彦
チューバ
バルト三国プログラム
~ 20 世紀に生まれたロマンティシズム~
The 4th Concert - All Baltic Program ~Romanticism of the 20th century~
広 報
植松隆治
大林裕幸
Timpani & Percussion
五十嵐美波
第 4 回演奏会
伊木史紀
半澤 靖
ティンパニ&パーカッション
~知られざる作品に光を当てるオーケストラ~ 演奏会
実行委員長
窪田和史
Tuba
オーケストラ《エクセルシス》
オーケストラ《エクセルシス》
奥山 恵
十川雅彦
髙田裕二郎
ORCHESTRA “EXCELSIS”
伊木史紀
Trombone
トロンボーン
前嶋修光
公平亜紀
Trumpet
代 表
圓道 敦
クラリネット
加藤由貴夫
小山啓久
トランペット
奥山 恵
弦トレーナー
松木由香
今角良子
Clarinet
大浦智弘
石関沙紀子
草野康子
道場生基
正指揮者
撮 影
ビデオクラシックス
今 豊紀
鶴田祐介
Harp
ハープ
奥田恭子
山本美帆
Honor member
名誉団員
石井浩史
♪オーケストラ《エクセルシス》第5回演奏会♪
日時:2014年9月23日(火・祝) 午後公演予定
場所:杉並公会堂 大ホール
指揮:大浦 智弘
〜フランス・プログラム(仮)〜
♪ マニャール:交響曲第4番 嬰ハ短調 他
♪♪♪ 団員募集 ♪♪♪
演奏機会の少ない作品が好きな方はもちろん、
「いろいろな知らない曲の魅力
を感じてみたい!」という方のご参加もお待ちしております。
普段は触れることの少ない作品を、ご一緒に演奏してみませんか?
練習場所:都内施設を中心に活動
募集パート:弦楽器全パート
練 習 日:月 2 ~ 3 回 土曜日(演奏会直前は集中練習もあります)
(第 5 回演奏会の練習は 2014 年春頃開始予定)
参 加 費:35,000 円程度(学生割引あり)
HP: http://excelsis.sub.jp email: [email protected]
-過去の演奏会- 指揮はすべて大浦智弘
第1回 2010年 9月20日 かつしかシンフォニーヒルズ 大ホール
~オール・ステーンハンマル・プログラム~
♪序曲「エクセルシオール!」
♪ピアノ協奏曲第2番 ニ短調 / ピアノ独奏:和田記代
♪交響曲第1番 ヘ長調(日本初演)
第2回 2011年 8月 7日 渋谷区文化総合センター大和田 さくらホール
~オール・ポーランド・プログラム~
♪ノスコフスキ:演奏会用序曲「モルスキェ・オコ」
♪カルウォヴィチ:ヴァイオリン協奏曲 イ長調 / ヴァイオリン独奏:小山啓久
♪カルウォヴィチ:交響曲「復活」 ホ短調
【アンコール】キラール:オラヴァ
第3回 2012年 9月16日 杉並公会堂 大ホール
イギリス音楽復興の時代~19世紀末から20世紀初頭の音楽~
♪ハーティ:ワイルドギースとともに
♪フォーサイス:ヴィオラ協奏曲 ト短調 / ヴィオラ独奏:加藤由貴夫
♪パリー:交響曲第2番 ヘ長調 「ケンブリッジ」
【アンコール】パリー:イェルサレム(エルガー編に基づく大浦智弘管弦楽版)
2013 年 9 月 23 日(
日(月・祝
月・祝)
開演 14:00(開場 13:30)
杉並公会堂 大ホール
主催:オーケストラ《エクセルシス》
後援:駐日エストニア共和国大使館 駐日ラトビア共和国大使館 駐日リトアニア共和国大使館
日本・エストニア友好協会 日本リトアニア友好協会
excelsis
s i s l e c x e a r t s e h c rOrchestra
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Orchestra excelsis
Greeting
Orchestra excelsis
本日はお忙しい中、オーケストラ《エクセルシス》第 4 回演奏会に足をお運びいただき、
誠にありがとうございます。団員一同、心より厚くお礼申し上げます。
日本で演奏機会の少ない作品を取り上げるというコンセプトのもと、今回はバルト三国
に焦点を当て、各国から1曲ずつ選び演奏いたします。複雑な歴史を辿ったこれらの国、ま
とめて紹介される事も多いようですが、取り上げた作品は同時代ながらそれぞれ異なる趣
の作品です。
きっかけは、ドヴァリョーナスのヴァイオリン協奏曲が管弦楽も大活躍の作品で、聴く
人みな「かっこいい!やりたい!」と口にし、
ソリストの小山氏も同様に「これ弾きたい!」
と言っていただいた事から、せっかくならバルト三国を紹介するプログラムを、という事
で組み上がったプログラムです。
なお、1曲目に演奏するトルミスの序曲第2番は、当団設立当初からのティンパニストで
昨年の本番3週間前に急に旅立ってしまった”とどさん”こと石井浩史さんが、「この曲やり
たい!」としきりに言っていた作品。私自身も大好きな作品であり、ドヴァリョーナスの
ヴァイオリン協奏曲を取り上げると決め、バルト三国のプログラムとなった時点で、ぜひ
トルミスも取り入れたい、という希望を出し、交響曲をラトビアの作品から選びました。
最後になりましたが、当団の正指揮者である大浦智弘氏、弦トレーナーでソリストを務
めていただく小山啓久氏、弦トレーナーの加藤由貴夫氏,ドヴァリョーナスの譜面手配に
あたりアドバイスを頂いたネーメ・ヤルヴィ氏、ワジム・グルズマン氏、ユスタス・ドヴァ
リョーナス氏、布川由美子氏、その他この演奏会のためにご尽力いただいた皆さまにも、
心よりお礼申し上げます。
オーケストラ《エクセルシス 》 代表 伊木 史紀
オーケストラ紹介
Introduction
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Orchestra excelsis
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Orchestra excelsis
代表挨拶
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s i s l e c x e a r t s e h c rOrchestra
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プログラム
Orchestra excelsis
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Program
バルト三国プログラム~ 20 世紀のロマンティシズム~
All Baltic Program ~Romanticism of the 20th century~
ヴェルヨ・トルミス(1930-)(エストニア)
序曲第2番(約14分)
Overture No. 2 / Avamäng Nr. 2
バリス・ドヴァリョーナス(1904-1972)(リトアニア)
Balys Dvarionas (Lithuania)
ヴァイオリン協奏曲 ロ短調
※日本初演 (約30分)
Violin Concerto in B minor / Koncertas smuikui ir orkestrui h-moll
I.
II.
III.
Andante semplice - Allegro strepitoso
Andante molto sostenuto
Vivo
ヴァイオリン独奏:小山啓久
Orchestra excelsis
Violin Solo: Hirohisa Koyama
様々な作品が日々の演奏会で取り上げられていますが、本当は素敵な曲であるにもかか
わらず、諸処の事情により埋もれてしまい、演奏される機会の少ない、あるいは録音が少
ない事などからなかなか知られる事がない、けれども耳にすれば「ステキな曲」と思える
ような作品も数多くあります。
作品を知らない方にとっては、新しい作品に接して魅力を体感していただく場となるこ
とを願い、また作品を知っている方には、待ち望んだ場であることを願い、創設致しました。
決まった枠組みの中で考えられる「名曲」だけではなく、
人それぞれが「ステキ」と感じる、
そういう作品はたくさん埋もれているはずです。このオーケストラが、少しでもそのよう
な作品との出会いの機会となって頂ければと思っております。
誰でも、どの曲に対しても「初めて接する」時は必ずあります。
このオーケストラで演奏する、このオーケストラの演奏会で聴く、それがその曲の初体
験となり、作品を1つ、また1つと知っていただき、よく耳にする作品以外にもステキな作
品があると実感していただければ幸いです。
“EXCELSIS”は、
「高位」
「高所」
「優秀」
「天」などの意味がある単語です。
このオーケストラは、あまり知られていない《佳曲》を、
“高いところへ”と導きたい(=多くの人に曲の
良さを知っていただきたい)
、それを通してオーケストラのメンバーも、オーケストラそのものも向上してい
きたいという気持ちを込めて、
「オーケストラ《エクセルシス》
」と名付けました。
休憩 (20分)
intermission
ヤニス・イヴァノフス
(1906-1983)(ラトビア)
Janis Ivanovs (Ratvia)
交響曲第 3 番 ヘ短調
※日本初演 (約32分)
Symphony No. 3 in F minor / simfonija 3 in F minorā
I.
II.
III.
IV.
Adagio - Allegro moderato
Andante
Allegro
Moderato
指揮:大浦智弘
Conductor: Tomohiro Oura
管弦楽:オーケストラ《エクセルシス》
ORCHESTRA “EXCELSIS”
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Orchestra excelsis
Conductor & Soloist
Orchestra excelsis
大浦 智弘(指揮)Tomohiro Oura, Conductor
宮城県塩竈市出身。東京学芸大学教育学部を卒業後、
同大学大学院を修了。
ピアノを斎藤信子、須田昌宏、作曲を小林康浩、吉崎清富、指揮を松岡究、
山本訓久、
小林研一郎、スコア・リーディングとオペラ・コーチングを田島亘祥の各氏に師事。
2007,2009年イタリア・カターニアにおけるArte Musicale Italianaのマスター・コースに
おいてベッリーニ歌劇場副音楽監督のレオナルド・カタラノット氏に師事、
氏よりディプロマ
を授与される。
これまでに数々のオペラ公演やコンサートを指揮するほか、
新国立劇場、
びわ湖ホール、
大阪音楽大学カレッジオペラハウスをはじめ、
各地のオペラ団体や管弦楽団、
合唱団等
において副指揮者や合唱指揮者、
コレペティ
トールを務めている。特に井上道義、
チョン・
ミョンフン、
阪哲朗、
ユーリ
・テミルカーノフ、
ロベルト
・
リッツィ=ブリニョーリ、
沼尻竜典、
ヴィ
ト
・
クレメンテ、
キンボー・イシイ=エトウ、大勝秀也、北原幸男、上岡敏之、高関健といった著
研鑽を積んでいる。
名な指揮者のアシスタントを務め、
また、
近年はマニャール作曲/交響曲第4番、
ステンハンマル作曲/交響曲第1番、
カル
ウォヴィチ作曲/交響曲「復活」、
パリ―/交響曲第2番「ケンブリッジ」等の日本初
演を手掛けるなど、知られざる作品の演奏にも意欲的に取り組むほか、
ポラーノ基金代
表として音楽による復興支援活動を行っている。
現在、日立シビックセンター音楽ホール音楽監督、Orchestre de Sendai 指揮者。栃木
フィルハーモニー交響楽団常任指揮者。
オーケストラ《エクセルシス》正指揮者。厚木交
響楽団客演指揮者。国立音楽大学オペラ研究会指揮者。二期会オペラ研修所講師。
ポラーノ基金代表。
小山 啓久(ヴァイオリン)Koyama Hirohisa,, Violin
那須塩原市出身。
東京音楽大学を卒業後モスクワにてエドゥアルト=ダヴィ
ドヴィチ=グラーチ教授に、
東京にてクルト=グントナー教授に師事する。
在学中から様々なコンサートに出演。
2003年10月には茨城県真壁町(現 桜川市)社会福祉協議会から、
音楽文化を
通じての地域への貢献に対し表彰を受ける。
2005年より、
NHK交響楽団首席クラリネット奏者磯部周平氏らと共に木管楽器を
含む室内楽曲のコンサートシリーズを開始し毎日新聞等各紙で紹介され高い評価
を受ける。
2008年11月には磯部俶作曲、磯部周平指揮の室内オペラ「夕立」公演(磯部俶
没後10年記念公演)にてコンサートマスターを務める。
2012年2月、
オーチャードホールでのKバレエカンパニー「シンデレラ」公演(芸術監
督熊川哲也)にて「二人のヴァイオリニスツ」役の一人として、舞台上での演奏・演
技を担当しDVD(TBS・ポニー キャニオン)にも収録される。
現在、磯部周平室内合奏団のヴァイオリン奏者として、
また各オーケストラのコン
サートマスター・首席奏者を務め、
東京を拠点にソロ・室内楽を中心とした演奏活動
を全国的に展開している
使用楽器:ヴァイオリン
:V. Sannino (1925-1935) 弓:F. Ouchard (1930)
∼・∼・∼・∼・∼・∼・∼・∼・∼・∼・∼・∼・∼・∼・∼・∼・∼・∼・∼・∼・∼・∼・∼・∼・∼・∼・∼
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解説
Orchestra excelsis
指揮者&ソリスト紹介
Commentary
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Orchestra excelsis
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リトアニア王を名乗る事を認められ、
1253年に即位した。
この頃から南西のポーラ
【バルト三国の歴史】
ンド人と戦いが繰り返されていたが、
ミンダウガス王の死後、
14世紀前半に登場し
バルト海の東側に位置し、1991年
に当時のソ連から独立を果たした南
北に並ぶ3つの国、北からエストニア
共和国、
ラトビア共和国、
リトアニア共
和国。東側はロシア、ベラルーシに接
し、一番南に位置するリトアニアのさら
に南側は、
ポーランドとロシアの飛地カ
リーニングラード州に接している。
さら
にバルト海を挟んで西はスウェーデン、
北はフィンランド。
このような強国の狭間で長い苦難の歴史を越えてきた三国、言
語的には、
ウラル語族のエストニア語、
インド・ヨーロッパ語族に属するバルト語派
のラトビア語とリトアニア語というように異なりながらも、長い複雑な占領の歴史の
中、
エストニアとラトビアが国家を形成したのは20世紀になってからの事。
リトアニ
アだけは古く13世紀頃から大公国として認知され、
ヨーロッパ最大の国家となっ
ていた時期もあった。
中世ヨーロッパで大国ともいえる国家をもったリトアニア、一
方で20世紀になってようやく国家となったエストニアとラトビア。
この地域が交易に
おいて人々の重要な交流の場でもあり、周辺諸国との関係に翻弄され支配下に
おかれた歴史の中であっても、
それぞれが民族としての意識を持ち続けた結果
が、
独立を果たした今の“バルト三国”である。
諸部族が居住していたこの地域、
あまり外界との交流もなく暮らしていたようだ
が、7∼8世紀頃になり、大陸からのスラヴ人とスカンディナヴィアからのヴァイキン
グが進出、居留地を作るなどして交易が盛んになっていった。10世紀頃にはヴァ
イキングの居留地は消え、代わって11∼12世紀頃にはデーン人(現在のデン
マーク人)
が現在のエストニア北部を領土とした。現在のエストニアの首都タリン
は、
エストニア語で「デーン人の町」
という意味である。
また12世紀末頃、現在のエストニアおよびラトビア北部で、紀元前1世紀頃に
北シベリアから移住してきたリーヴ人の居住地リヴォニアと呼ばれる地域に、
ドイツ
人が進出してくる。異教徒が住む地として、
ドイツ十字軍による布教の対象となっ
たためである。13世紀初頭、
リーヴ人の中でも信頼の厚かった族長がその地で
最初のキリスト教徒となったこともあり、
現在のラトビアの首都リーガにドイツからの
植民地化にともなう宗教化の砦となるドーム教会がつくられ、商業の中心、
そして
たゲディミナス大公が和解を進め、娘をポーランド
皇太子に嫁がせた。
さらに14世紀後半には現在
のベラルーシ、
ウクライナ、
ロシアの一部、
ポーランド
の一部を領土とするヨーロッパ最大の国家となっ
ていた。
そして、共通の敵である騎士団に対抗す
るため、
ポーランドから提示されたポーランド王位
の座を当時の大公ヨガイラが受け、
ポーランド王
女ヤドヴィカと婚姻を結び、
ポーランド=リトアニア
連合が誕生した。
この連合は1410年にジャルギリ
ス
(ポーランド名:グルンヴァルト)
の戦いにおいてド
イツ騎士団を討った。
これによりリヴォニア騎士団
は、
ドイツ騎士団からの支援が期待できなくなり弱
体化が進む。
ポーランド・
リトアニア軍の農民歩兵が騎士団
総長ウルリッヒ・フォン・ユンギンゲンを討つ場
面
(ヤン・マテイコ画「グルンヴァルトの戦い」
(ポーランド国立博物館、
ワルシャワ)
の一部)
15世紀後半頃からモスクワ公国が力をつけたことが脅威となり、
ポーランド=リト
アニア連合とリヴォニア連盟が安全保障条約を締結。
ロシアのイヴァン雷帝はこれ
をロシアへの敵対行為とみなし、
リヴォニアへ侵攻を開始、
リヴォニア戦争が始ま
る。20年に渡るこの戦争で、
リヴォニア北部はスウェーデンに、
リヴォニア南部は
ポーランド=リトアニア連合に助けを求め、
ロシアの侵攻を抑えた。
また弱体してい
たリヴォニア騎士団領も解体され、最後の騎士団長ケトラーは、現在のラトビア南
部、
クールラント公国で公爵の地位を与えられ、
ポーランドの宗主権下に置かれた。
1569年、
リトアニアとポーランドの間にルブリン連合が結ばれ、
リトアニアは徐々
にポーランドの政治的、社会的、文化的構造に組み込まれ、
ポーランド化が進ん
だ。
またリトアニアの首都ヴィリニュスは、東中欧にいたユダヤ人の重要な入植地
の1つとなり、後に人口の3分の1を占め、第二次世界大戦まで東方ユダヤ人の知
的中心地としての役割を担っていた。
リヴォニアを巡る覇権争い、17世紀に入ると次はポーランド=リトアニア連合とス
植民地化の拠点となっていった。
この頃のバルト海東岸地域では、
依然として部
ウェーデンの間でおこり、
スウェーデンが勝利しリヴォニアの広い地域はスウェーデ
族単位で社会が構成されており、
これらを結集させるほどの実力者が現れてい
ンの支配下となる。
この時代、
スウェーデン国王が教育に力を入れた事や農民の
なかった一方、東南岸地域に住むリトアニア人は既に政治的にある程度まとまっ
地位改善を試みた事などからか、
現地の人々には「幸福な時代」
とされている。
た社会を構成していた。
この違いがその後の歴史にも大きく影響した。
リヴォニアの幸福な時代は100年ほどしか続かず、18世紀に入るとピョートル大
帝によるロシアが進出、
大北方戦争でスウェーデンを破り、
この地域の多くをロシア
リーガを拠点に進められたキリスト教化は十字軍騎士によって支えられて展開
され、
エストニアを領有した。
帯剣騎士団はローマ教皇によって正式に認められた
ためその征服活動は正当化され、諸部族の抵抗は弾圧にあい、現在のエストニ
アおよびラトビアの大半が帯剣騎士団領となった。
ロシアが、
ラトビアの南西部ラトガレとリトアニアはポーランド=リトアニア連合による支
配という、
大きく2つに分けられた時代となった。18世紀後半になるとポーランドも分
割され、
リトアニアも順次ロシアの支配下となり、大半はロシア支配下へ、
また一部
13世紀中頃、
リトアニアでの帯剣騎士団はリトアニア人に
よる奇襲攻撃により壊滅状態に追い込まれ、
プロイセンで活
はプロイセンの支配下となる。
この時代、
ロシア帝国の基盤を固めたエカテリーナ2
世は、
バルト地方の農奴解放を命じた。
すぐに効果は表れなかったが、19世紀に
動していたドイツ騎士団に統合され、
帯剣騎士団が征服して
入りアレクサンドル1世が農奴制を廃止、
20世紀に入るまでにエストニア人、
ラトビア
いたリヴォニア地域に進出、
その征服地全体が「リヴォニア
騎士団領」
と呼ばれるようになった。
なお、
ドイツ騎士団のさら
なる北東への征服は、1242年、
エストニア東部でロシアとの
人、
リトアニア人の地主、
自営農民などがあらわれた。
またその中で民族意識が高
まり、民族主義運動が盛んになっていった。1905年革命の影響で、
バルト海東岸
地域でも古くからの支配階層であったドイツ・バルト人の地主貴族からの解放を求
境にあるペイプシ湖での氷上の戦い
(チュド湖の戦い)
にお
いて、
アレクサンドル・ネフスキーにより阻止されている。
が支配するようになった。
つまり、
リヴォニア、
現在のエストニアとラトビアの大部分を
リヴォニア帯剣騎士団
14世紀半ば、
デーン人は支配していた領土をドイツ騎士団へ売却、
騎士団の
め蜂起した。
しかしリトアニアは支配階層が異なり、
地主に対する反感がなく、
革命
の影響はみられなかった。結局、
この時の東岸地域の革命は成功にはいたらな
かった。
領土はさらに拡大した。他方、
ロシアとの衝突が繰り返されていた地域は混乱が
第一次世界大戦が始まると、
リトアニアはドイツ帝国に占領され、
ラトビアはドイツ
続いていた。
とロシア、
そしてボリシェヴィキの最前線となる。1917年のロシアの三月革命後、
各
一方リトアニアは、
エストニアやラトビアとは異なり、
指導力のある人物が登場し
国は呼応して行動を起こし、
1918年には三国とも独立を宣言した。1921年には国
た事で諸部族の統一が促された。13世紀半ばには諸部族を率いてリヴォニア騎
際連盟への加盟も果たすが、
リトアニアは首都ヴィリニュスをポーランドに占領さ
士団とも戦っている。
この指導者ミンダウガスは騎士団の脅威を和らげるため、
カト
れ、憲法上で首都はヴィリニュスと明記しつつも、
カウナスが臨時首都とされ、
この
リックへの改宗およびリトアニア西部の一部をドイツ人に譲渡する事と引き換えに、
状態は1939年まで続いた。
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Orchestra excelsis
Orchestra excelsis
解説
Commentary
解説
Commentary
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Orchestra excelsis
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Orchestra excelsis
1939年にナチス・
ドイツとソ連の間で結ばれた独ソ不可侵条約により、1940年
このように複雑な歴史をたどったバルト三国。特に今回の演奏会で取り上げる
しかしトルミスは、歌を伴わない作品をほとんど残していない。管弦楽で演奏さ
にはバルト三国が再びソ連の占領下に置かれる。在リトアニア・カウナス日本総領
3人の作曲家は、
いずれも20世紀に生まれている。第一次世界大戦前、独立の
れるのは序曲第2番のみ、
この作品は全世界で幾度となく演奏されてきているの
事館の杉原千畝が多くのユダヤ人を助けたのはこの頃である。1941年には再び
機運が高まりつつあった時代に生まれたリトアニアのドヴァリョーナス
(1904生)
と
だが。
なぜか。彼にとって音楽は言葉から始まる。
「純粋に音楽的なアイディアが
ヴァイオリンを中心に激しく16分音符で刻まれるリズムによって作られた旋律で
ドイツが占領、1944年にはソ連が再占領という厳しい歴史を経て、大戦後は長い
ラトビアのイヴァノフス
(1906生)、2つの大戦間に生まれたエストニアのトルミス
なく、
作曲するには言葉が必要なのだ」
としばしば語っている。
また、
楽しみや喜び
音楽は始まる。
リズムは打楽器に引き継がれ、
管と弦に2つの新たな音形が現れ
作品は、弦楽器と打楽器を中心に作られる印象的なリズムが支配する速い
部分と、
それに絡む旋律をメインにしたゆったりした部分から成る。
(1930生)。
その生涯の大半はソビエト連邦の1つの共和国であり、音楽の師や
のために音楽を作るのではなく、音楽とは世界や自然、人間について何か伝える
る。4分の3拍子で書かれているのだが、
たまに登場する不規則な音形で聴く者
1986年以降、
ソ連のゴルバチョフ政権下、
ペレストロイカやグラスノスチなどもあ
影響などはロシア、
ソ連の音楽家からのものも多い。
そのような中、
民族的な要素
ためのものだと言う。
また、
現代芸術の形式を通じて、
民俗音楽のエッセンスや精
を一瞬惑わす。一度クライマックスを築き、
続いてゆったりした静寂へ。急速部分
り、
各国で国民運動も盛んになっていった。1988年、
エストニアとラトビアで独立運
を取り込んだドヴァリョーナス、
西欧の新しい音楽要素を自分の作風と織り交ぜよ
神、意味や形式を表現しなければならないとも語っている。
トルミスの作曲に対す
で出て来た音形が少しずつ形を変えて登場、
次第に加速し、
冒頭の刻まれる音
動が展開され、
リトアニアでは国民運動サユーディスが成立、後に独立運動へと
うとしたイヴァノフスなど、
着実に自分の足で歩む道を探した作曲家の作品、
今回
る姿勢がよく伝わってくる。
発展していった。
の演奏会で触れていただければと思う。
間、
ソビエト連邦の共和国となった。
1989年8月23日、
エストニアの首都タリン、
ラトビアの首都リーガ、
リトアニアの首都
ヴィリニュスを
「人間の鎖」で結ぶ運動となり、
これには約100万人が参加、
独立回
復に向けた運動は抑えがたいものとなっていた。
1990年3月11日、
初の非共産党員の最高会議議長ヴィータウタス・ランズベルキ
ソ連は
ス
(1932- ピアニストでもあった)
がソビエト連邦からの独立を最初に宣言、
これに対し経済封鎖などを行うが、
1991年8月にモスクワでのクーデターが失敗に
終わると、8月20日にはエストニアが、続く21日にはラトビアも独立を宣言し、9月6日
にはソ連が三国の独立を正式に承認、
17日には三国とも国際連合に加盟した。
上げたポーランドの作曲家ミエチスワフ・カル
1959年に作曲され、
タリンでマツォフ指揮により初演された。
師シェバリーンはD.ショスタコーヴィチ
(1906-1975)
の親友であり思想を分かち
首都ヴィリニュスに生まれている。当時はポー
合う仲間でもあった。音楽院時代、
そんなショスタコー
ランドの領土であり、彼の家族、
そして終生を
ヴィチの影響を大きく受け、
また1953年、
スターリンの死
過ごした場所などからポーランドの作曲家とし
カルウォヴィチ
(出典;Wikipedia)
今回、
それを意識してバルト三国を取り上げたわけではないが、解説を書く中
で第2回に書いた事と重なる部分もあり、
また第2回でもヴァイオリン協奏曲を取り
*
上げていた事もある。
そして当団の弦楽器トレーナーでもある小山啓久氏に両方
のソリストを務めていただける、
という事もあり、
どこか縁を感じずにはいられない。
∼・∼・∼・∼・∼・∼・∼・∼・∼・∼・∼・∼・∼・∼・∼・∼・∼・∼・∼・∼・∼・∼・∼・∼・∼・∼・∼
そのような時 期 、文 化 的 復 興を牽 引したのが E .カップやG .エルネサクス
●ヴェルヨ・
トルミス
(1908-1993)
であった。
スターリンの死後、
精神的抑圧の緩和により新しい時代
Veljo Tormis(1930-:エストニア)
へと入る。
トルミス、E.タンベルク
(1930-2010)
らが民族的イディオムに独自の色
去した年に書かれたショスタコーヴィチの交響曲第10
番は学生だったトルミスに大変な衝撃を与えた。
モスク
ワ音楽院での1956年の試験ではショスタコーヴィチが
試験官であり、
学位証明書にはショスタコーヴィチのサ
そんな彼との私的な会話の中で、
序曲第2番は「交
結局、
そのままの形で残されたのではあるが。
る中でも最も重要な合唱作曲家の1人であるトルミス。
幅広く独自の路
やコラージュの技法も取り入れ革新的な創作活動を続けるなど、
Balys Dvarionas(1904-1972:リトアニア)
特に大規模な合唱作品や連作歌曲、
無伴奏合唱作
線を模索した。
トルミス
(出典;Wikipedia)
今や世界の合唱大国として知られるエストニア、
その歴史は新しく、
エストニア
井浩史さんも大好きだった作品。他団体でしきりに「この曲やろうよ」
と言っていた
の作品を候補に挙げたところ、
「あ、
エクセルシスでやるんなら
!」
と他団体では自
分から取り下げてしまったらしい。
とどさん、悔しがっているだろうか、
、
、
いや、彼も
に奏で、
楽しみ、
そしてエクセルシスの成長を感じていることだろう。
*
1955年、
ドヴァリョーナスのピアニストとしてのコン
トルミスがタリン近郊のクゥサルで生まれたのは1930年、
エストニアが一時的に
サートが企画されていたが、急病のため出演できなく
独立した時期であった。父はアマチュアのヴァイオリニストで、
地元合唱団の指揮
なり、急遽、代わりの若いピアニストによるコンサートと
者も務めた音楽好きな農夫だった。母はその合唱団でアルト
・パートを歌い、
子供
なった。
しかし若いが故にレパートリーも少なく、
やむな
の頃からトルミスは側でそれを聴いていた。
この合唱団は全国規模の合唱祭にも
く弾ける曲を披露した。
ソ連時代、
リトアニア民謡を取
で初めて歌の祭典が開催されたのは1869年の事であり、首都タリンではなく、
ス
参加しており、幼少時のトルミスの経験は、後に作曲家となった彼にとって重要な
ウェーデン支配時の1632年に大学が設立された、
学問都市として知られるタルト
ものであった。1943年よりタリン音楽学校でオルガンを学ぶも第二次世界大戦と
の場で弾く事すら許されていなかった時代のこと。
こ
であった。
ロシア革命や第一次世界大戦などで空白期間はあったものの、
断続な
病気によって中断を余儀なくされる。
しかし1949年にはタリン音楽院に進学し、
さ
(出典;Wikipedia
のコンサートで披露されたのは、
リトアニアで最も著名 ドヴァリョーナス
らには1 9 5 1 - 1 9 5 6 年にはモスクワ音 楽 院でヴィッサリオン・シェバリーン
の3週間前に急に旅立ってしまった当団のティンパニストだった、
“とどさん”こと石
ものの取り上げられず、今回、
バルト三国をコンセプトにしようと決まった時点でこ
ショスタコーヴィチ
(出典;Wikipedia)
り入れたため楽譜の出版がされていないどころか、
公
がら歌の祭典は続けられ、
各地に合唱団も作られた。歌によって心を一つにし、
祖
気ではないが、心に迫り訴えかけてくるこの作品、実は昨年の夏、第3回演奏会
∼・∼・∼・∼・∼・∼・∼・∼・∼・∼・∼・∼・∼・∼・∼・∼・∼・∼・∼・∼・∼・∼・∼・∼・∼・∼・∼
●バリス・
ドヴァリョーナス
も大きく影響しているだろう。
筆者の音楽仲間で「世界で一番カッコイイ序曲はこれだ!」
と豪語する者もい
るほど、
とにかく冒頭から強烈な印象を植え付けられる。明るく楽しい、
という雰囲
響曲の1楽章としても十分な作品だ」
と助言を受けた。
彩を取り入れようとした一方で、
ペルト、
J.ラーツ
(1932- )等はより前衛的なセリー
数の合唱王国であり、
両親が合唱に携わっていた事
突き進む。
第1回から参加し一緒にエクセルシスを作り上げてきた1人。今日の演奏を一緒
インが書かれているという。
多くの合唱作品によってその名が知られ、現存す
品などを得意としている。
それはエストニアが世界有
へ。短い静寂を挟み、
ホルンの強奏により急速部が戻り、
集結部に向けて一気に
∼序曲第2番∼
余談になるが、
当団の第2回演奏会で取り
ウォヴィチ
(1876-1909)
は、
現在のリトアニアの
て紹介される。
形が戻ってくる。前半とは形を変えてさらに激しく、
そして2度目のクライマックス
*
な作曲家の1人、
ミカロユス・コンスタンティナス・チュルリョーニス
(1875-1911)
の
チュルリョーニス
(出典:Wikipedia)
ノスコフスキ
(出典:Wikipedia)
敬虔なクリスチャンの家庭に育った幼い頃のドヴァリョーナスは、父とラトビア人
(1902-1963)
の下で作曲を学んだ。
タリンに戻ると1960年までタリン音楽院で、
書いた、
リトアニア民謡を取り入れたピアノ作品であった。
このような形を取らなけ
音楽家からオルガンの手ほどきを受け、10代の頃にはサイレント映画の伴奏者と
音楽は、
中世から19世紀にかけてはドイツの影響を受けていたが、
その後はロ
そして同時期から1974年までタリン高等音楽学校で教鞭をとり、
同時にエストニ
れば演奏が許されない時代だった。
そう、
ドヴァリョーナスの急病というのも実は仮
して生活の糧を得ていた。1925∼26年にはベルリンでエゴン・ペトリのもと勉強を
シアの影響が強く、
多くの音楽家がサンクトペテルブルクで勉強するようになる。
エ
ア作曲家連盟のコンサルタントも務めた。1953年のスターリンの死後、知識の自
病。
そして代わりに弾いたピアニストは、後に国家元首にもなった、
チュルリョーニ
続け、
ピアニストとしてロマン派の作品はもちろん、
ドビュッシー、
ラヴェル、
スクリャー
ストニア人として初めてヨーロッパで名声を得たR.トビアス
(1873-1918)
、
交響曲
由化の影響を受け、
トルミスの教え子であるペルト等はアヴァンギャルドな作曲技
ス研究の音楽学者ヴィータウタス・ランズベルキスであった。
ビン、
プロコフィエフ、
カゼッラ、
スコットなどの作品を演奏し、
特にチュルリョーニスを
国を愛する思いを表す表現手段でもあった。
やオペラの分野を開拓し、
かつピアニストとしても国際的名声を勝ち得たA.レンバ
学生たちと遠足で訪れた島
法のリーダー的存在となっていた。一方のトルミスは、
(1885-1963)、現在のエストニア音楽演劇アカデミーの前身タリン高等音楽学
で偶然、昔のフォークソングとダンスで祝う伝統的な結婚式に立ち会った。
これが
校を設立したA.カップ
(1878-1952)
、
現在のヘイノ
・エッレル記念タルト音楽学校
彼に大きな影 響を与えた。
さらにはハンガリーの 作 曲 家 バルトーク・ベラ
の前身タルト高等音楽学校を設立したH.エッレル
(1887-1970)
など、
サンクトペ
(1881-1945)
の音楽および著作との出会い、1962年にハンガリーを訪れた後、
テルブルク音楽院でR=コルサコフ、
リャードフ、
グラズノフといった“ペテルブルク
コダーイ
・ゾルターン
(1882-1967)
の歌曲を研究することで、
さらに音楽語法を変
派”の元で学んだ者たちが、
新しい時代のエストニア交響楽の基礎を築いた。特
えた。
また、
より古い時代まで遡り、
紀元前やシャーマニズム時代の民俗音楽など、
にA.カップとエッレルは新しい様式の探求、
そして後進の指導者として活躍した。
ほとんど絶滅しかけているような文化も注意深く研究した。
このような中、
全ての歌
E.トゥビン
(1905-1982)
、
A.ペルト
(1935- )
など世界で広く認められる作曲家も彼
詞が原 語で書かれた50以 上のア・カペラからなる連 作 歌曲“Forgotten
らの門下生であり、A.カップの息子E.カップ(1908-1996)や甥のV.カップ
Peoples”は、1969-1989年にかけて収集・作曲された。古い要素、民俗の伝統
(1913-1964)
もA.カップに学んでいる。
トゥビンはエストニア民族のイディオムを重
的な歌の豊かさを巧みに自身の音楽に取り入れ、独特の質感と音色によりオリジ
はじめとする同郷の作曲家に敬意を払い、
レパートリーとしていた。
リトアニアはポーランドとの関係も手伝ってか、
その音楽の歴史は短く、
ここ100
年ほどの事である。
バルト三国の他の2国と異なるのは、
ポーランドとの往来であっ
たかもしれない。前述のチュルリョーニス、
ポーランドのワルシャワ音楽院で最初は
ピアノを、
後にノスコフスキに作曲と対位法を学んでいる。
そう、
ノスコフスキは当団
の第2回演奏会、
ポーランド音楽を取り上げた際に演奏している。
その後、
ドイツで
も作曲を学んだ後はポーランドに戻り、
リトアニア民謡の発掘・編曲も勢力的に行っ
た。同時にワルシャワ美術学校にも学び、1907年には第1回リトアニア美術展覧
会を開催するなど、画家としての活躍もした作曲家であった。
むしろ画家としての
方が有名な人物である。
彼は、
リトアニアの文化的活動が活力を取り戻した最初の10年間に知名度を
高めた。作曲においてはもちろん、1924年にはピアノ・
リサイタルを開催、1928年
には学校のオーケストラ指揮者といて、1930年からはフィルハーモニック・ソサエ
ティ室内交響楽団で指揮者としてデビューした。1934年にはザルツブルクでブ
ルーノ
・ワルターとそのアシスタントだったヘルベルト
・フォン・カラヤンのマスター・クラ
スを聴講、1937年にはヘルマン・アーベントロートの下で指揮法に磨きをかけた。
1960年頃にはソビエト国内の有名オーケストラの指揮に招待され、東ドイツや
ポーランド、
ブルガリアでも数多くの演奏を指揮した。
そんな彼の、
指揮者としてもピ
アニストとしても最後のステージとなったのは、1972年5月12日、
リトアニア室内管
ナリティ溢れる合唱作品を作り上げてきた。
こうした彼の作曲活動は、2000年に
さて肝心のドヴァリョーナス、
幼少時代は実はリトアニアに接するラトビア西部の
も激化する中、
トゥビンを始め多くの音楽家は国外へ逃れ、音楽文化が流失して
創作活動から引退するまでに500曲以上の合唱曲を作曲、20世紀の合唱曲の
港町、
リエパーヤで過ごしている。両親はロシアのサラトフで結婚しリトアニアに
奏曲、
シューベルトのミサ曲第2番を指揮した。
そしてその約3ヶ月後の8月23日に
いった。
レパートリーに偉大な貢献をした。
戻ったが、
多くのリトアニア人が住むリエパーヤに移っていた、
そういう地だった。
この世を去った。
んじながら独創的作品世界を構築した。
しかしソ連占領下で社会的思想の強要
弦楽団との演奏で、
自身のピアノによるモーツァルトのピアノ協奏曲、
クラリネット協
excelsis
s i s l e c x e a r t s e h c rOrchestra
O
excelsis
s i s l e c x e a r t s e h c rOrchestra
O
Orchestra excelsis
Orchestra excelsis
Orchestra excelsis
Commentary
全曲に渡ってソロの技巧や歌はもちろん、
管弦楽も大活躍の作品。特にホルン
●ヤニス・イヴァノフス
いては批判的であることが非常に大切だ。公に発表する事を急いではならない。
は冒頭のソロ、
ソロ・ヴァイオリンに絡みつく対旋律、
終楽章冒頭のファンファーレ的
Janis Ivanovs(1906-1983:ラトビア)
薄っぺらなキャリアより、20年かけて音楽を作曲し、
それをあたためることの方が
なユニゾンによる旋律など大活躍。
クラリネットも冒頭のソロはヴァイオリン協奏曲
彼が没した年、
ラジオで若者の指導として彼が語った言葉がある。
「創作にお
大切だ。」
ピアニスト、指揮者としての名声を得た後、作曲者としても有名になっ
である事を忘れさせるほど聴く者を惹き付ける。
ソロ以外にも聴きどころは満載で、
た。才能ある演奏家としての多様な経験と、
国の熱狂的な文化的発展の時期に
旋律も非常に馴染みやすく、知られていないのが信じられないほど素晴らしい作
培われた強い信念からその才能を磨き、
40歳の頃にその才能は成熟し、
暗い戦
品。
なぜこのような作品が埋もれたままになっているのか、
もったいない限りである。
争の時期、1947年に交響曲を、1948年にヴァイオリン協奏曲を作曲、
また1959
年にはオペラ
「ダリア」が初演されている。
また、
ドヴァリョーナスは学生や子供のオーケストラで一緒に演奏することを好
み、子供たちへの指導にも力を注いだ。彼の死後、1973年には彼の教育におけ
る功績をたたえ、
ヴィリニュスの音楽学校はバリス・
ドヴァリョーナス音楽学校と改
名された。
さらに1974年から、
ピアニストでもあるドヴァリョーナス夫人の主導でバリ
ス・
ドヴァリョーナス青少年ピアノ
・コンクールが開催され、
1989年にはピアノとヴァイ
オリンのためのコンクールへと発展した。
20世紀の作曲家とはいえ、
その作品は非常に馴染みやすい。
そんな彼の作
ここで冒頭のグレゴリオ聖歌について触れておく。明記されているものが見つ
からないが、
調べた限りでは“Christus resurgens”というグレゴリオ聖歌の冒頭
のようである。
これはペンテコステで歌われる
「アレルヤ」
とのこと。
ペンテコステ、
キ
リスト教の三大祭の1つ。復活したイエスが昇天してから50日、12人の弟子を始
めとする120人の信徒の上に聖霊が降りた出来事。
これにより彼らは神の力を受
けて様々な言葉で福音を語りだした。
ペトロがイエスについて説き、
それを受け入
れ洗礼を受けた人々が史上初の教会をイェルサレムに形成した。
そしてこの歌
は、死から復活したイエスの滅ぶ事ない永遠の命を誉め称える、
といった歌詞に
なっている。
excelsis
s i s l e c x e a r t s e h c rOrchestra
O
解説
Orchestra excelsis
解説
excelsis
s i s l e c x e a r t s e h c rOrchestra
O
Commentary
1983年、
ラトビアの独立を見届けることなく、
リガで生涯を閉じる。長い占領や
政治闘争による影響を受け、
ラトビア民俗音楽と伝統を描きつつ、
様々な手法を
取り入れ発展していった彼の作品。
「鉄のカーテン」で隔てられていたからか、
ヤニス・イヴァノフスは21曲の交響曲
(第21番
その外側ではあまり知られていない。
はオーケストレーション未完)
を始めとする様々な
*
作品を残した、
ラトビアで最も重要な交響曲作曲
家の1人である。
∼交響曲第3番 ヘ短調∼
イヴァノフスの師、ヤーセプス・ヴィートリス
(1863-1948)。彼は1880年からサンクトペテル
ブルク音楽院でR=コルサコフの下で作曲を学
イヴァノフス
(出典:kultura.lv)
び始めている。エストニア同様、多くの音楽家がロシアの影響を強く受けたラトビ
ア、
その代表的存在がヴィートリスである。音楽院を1886年に卒業した後、彼は
半音階。
これが非常に特徴的に使われている。
1938年に作曲されたこの作品、
ラトビア放送のプロデューサー時代に書かれ
たもので、
イヴァノフスとしてはかなり初期の作品。彼の全体的な作風としては後
期ロマン派や印象派の影響が強い時代ではあるが、
おそらく新ウィーン楽派の
そのまま音楽院に残り作曲を教え、1901年には教授となった。
その教え子には、
音楽も入って来ていたのではないだろうか。
当団の練習時、指揮者とのやりとり
ミャスコフスキーやプロコフィエフが名を連ねる。
また同僚の教授であったグラズノ
で「この部分は、
こうしたかったのではないか」あるいは「この部分は、
あの作曲
フ、
リャードフとは親しく、
ベリャーエフの「金曜会」にも定期的に参加した。
家の技法を使おうとしたのかも」
という話も出ていた。入ってくる情報と、
自分の描
1918年、
ラトビア国立オペラを指揮するため、
ロシアから独立したラトビアに
きたいラトビアの民俗音楽の影響を受けた世界をいかに融合していくか、
模索し
これが後にヤーセ
戻ったヴィートリス、翌年にラトビアで最初の音楽学校を設立、
ていた時代のようにも思える。
しさと秀麗さ、
そして調和を伝えたいという強い欲求を持っているものではないだ
プス・ヴィートリス音楽アカデミーとなる。設立の1919年から1944年まで教鞭をと
曲は4つの楽章からなっている。
ろうか。」
り、
その間に在籍した生徒で最も有名なのが、
ヤニス・イヴァノフスとアードルフス・
風は、
晩年の1971年に自身の語った言葉を知れば誰もが納得するだろう。
「私の審美的理想はロマン派の影響によって作られた。音楽家なら誰しも、美
*
スクルテ
(1909-2000)
の2人である。
イヴァノフスは、
1906年にラトビア南東部のラトガレに生まれ
∼ヴァイオリン協奏曲 ロ短調∼
第1楽章は、
金管楽器によって奏される短いAdagioの序奏で始まる。旋律は
半音階で下降し、
和音は短調と長調が交互に現れる。
ほぼこれだけでできた序
奏。
続くAllegro moderatoの主部、
第1主題がホルンによって奏される。
これも
た。
リトアニア、
ベラルーシ、
ロシアと国境を接するこの地域は、
いたるところに半音階がちりばめられており、様々に引き継がれる旋律も、
どこか
に半音階が顔をのぞかせる。
Meno mossoの第2主題は、
どこか物憂げな世紀
1948年に作曲され、
D.オイストラフの弟子であったア
何世紀にも渡ってポーランドやロシアに属し多くの影響を受け
レクサンドラス・リヴォンタス
(1920-1974)
のソロ、
ドヴァ
てきたが、
美しく自然豊かな地域で、
そのような環境が彼独特
末のワルツのような雰囲気。
ここでも旋律のどこかに半音階を忍び込ませたり、
あ
リョーナス自身の指揮により初演された。
のメランコリックで夢見るような特徴に影響を与えているかもし
これ
るいは全音音階で雰囲気を変えてみたり、
と様々な工夫がこらされている。
れない。
ら2つの主題が変形しながら一度盛り上がりをみせ、序奏の変形がホルンで奏
ラトビア音楽院でヴィートリスとシュネヴォイトの下で作曲を
されて静かに終わる。
作曲者は、浜辺を歩いていた時、強い風が吹き、暗
雲が海の上に立ちこめ、波が空高くうねった、
そんな時
ヤーセプス・ヴィートリス
(出典:Wikipedia)
にこの作品のメイン・テーマが思い浮かんだという。作
曲を進める中、友人であり初演者であるリヴォンタスの
師、
D.オイストラフの助言も受けている。
オイストラフ
(出典;Wikipedia)
第1楽章はAndante sempliceと記されたゆっくりした序奏に始まる。無伴奏の
ホルン・ソロで歌われる4小節の旋律は、
どこにも明記されていないが、
おそらくグレ
協奏曲冒頭のホルンソロに引用したと思われるグレゴリオ聖歌。
Alleluia. Christus resurgens ex mortuis, iam non moritur:
morsilli ultra non dominabitur.
アレルヤ 死者のうちから復活させられたキリストは、
もはや死ぬことがないと、
わたしたちは知っています。
死はもはやキリストを支配していません。
ゴリオ聖歌 “Christus resurgens” からとられたものと思われる。
続いてクラリネッ
トが木管伴奏に乗って長い民謡風のソロを奏で、
ソロ・ヴァイオリンに受け継がれ
ドヴァリョーナスが、意図してこのグレゴリオ聖歌を曲の冒頭に使ったとしたら?
る。突如、
管弦楽の全奏によりAllegro strepitosoの速い部分に突入、
ソロ・ヴァ
終楽章で民族音楽との融合とも思える展開をさせた理由は?
「怒った」
「荒れ
イオリンが軽快に民俗音楽的な第1主題を奏する。
その盛り上がりに呼応し、管
狂った」
というような表記も登場する事まで含めて考えてみる。
当時の時代背景、
弦楽も全奏で第1主題を繰り返す。第2主題はまず管弦楽のヴァイオリンによって
ほんの短い独立の時代以外、
20世紀前半までと第二次大戦以降、
諸国の支配
奏されるコラール風のもの。楽器は受け継がれ、
ソロ・ヴァイオリンがオブリガード的
下にあった生地ラトビア南西部からリトアニア一帯。
自国の辿っている境遇を思
な三連音符で絡む。途中で「荒れ狂った」
「怒った」などと楽譜上に書かれた部
い、
そして自国復活への希望を曲に込めて、聖霊降臨の祭りで歌われた歌と民
分を含む短い経過句を挟みながらも、
コラールは美しく歌われる。
ソロ・ヴァイオリン
俗音楽を融合させた、
とするのは考え過ぎだろうか。
のカデンツァが終わると、第1主題、第2主題が戻り、
ソロ・ヴァイオリンが聴かせる
学び、1933-40年はオーケストラの指揮を務め、
その後、
ラト
ビア放送でプロデューサーと芸術監督を兼任した。
美しさか・
・
・。1楽章で提示されている物憂げな雰囲気とは一変した、心地よい
を帯びている。
当初、
革新的な作曲ではなかったがラトビア放送で働くという好機
第3楽章は再び半音階が支配するスケルツォ楽章、
Allegro。半音階で旋律
を作りながら、
“ワルプルギスの夜”のような雰囲気を醸し出している。非常に短い
ギやバルトーク、
シマノフスキなど当時の音楽に接する事ができたが、
この当時、
ながら印象的な楽章である。
音楽院やホールでこれらの作品を聴く事はできなかった。最初の3つの交響曲が
moderatoの主部は、
再びホルンから始まり、
様々な楽器に受け渡される。
そのよ
1940年代に入ると、
バルトーク、
オネゲル、
マルチヌー、
ショスタコーヴィチなどの
うな中に、
第2楽章の美しい旋律が短調になって登場したり、
あるいは第3楽章も
戦争の影響も聴こえる音楽がイヴァノフスにも影響を与え、
再び占領下となったラ
顔をのぞかせながら曲は進む。4楽章のテーマが転調を繰り返しながら少しず
トビアで、戦争時期という事を色濃く反映した作品が残されている。1945年に作
つ顔を出したあと、金管で高らかにテーマが奏され、最後は全合奏で1楽章の
曲された交響曲第5番は、
全体的に暗い影を落としているが、
フィナーレで希望と
6番、民族的旋律に満ち溢れた美しい交響曲第7番(1953年)
やヴァイオリン協
奏曲(1951年)
を残している。
この頃は当局にも好意的に受け入れられ、多くの
け、
次いで楽章冒頭の旋律へと流れる。
中間部はやや速くなり、
民俗舞曲を思わ
楽譜が印刷され、
録音もされるようになっていった。
しかし1959年のソビエトによる
せる。再び楽章冒頭が回帰し、
楽章を閉じる。
抑圧によって裏切られる事となり、
国の伝統的な祭りも全て中止、
KGBの活動が
第3楽章はVivo。管弦楽の全奏による力強い始まりに導かれ、
ホルン4本のユ
ラトビア全体に強い影響をおよぼす用になった。
この主題、第1
ニゾンで楽章の開始を告げるとソロ・ヴァイオリンが主題を奏でる。
『鉄のカーテン』のため、
イヴァノフスは西欧の音楽発展からは遠ざかってい
楽章の冒頭でホルンが奏でた4小節の旋律の変形であり、
かつ民俗音楽的な音
たが、次第にラトビアにも20世紀音楽が入ってくるようになった。表現はより簡潔
楽となっている。管弦楽と掛け合いながら、次々と新たな旋律が紡ぎだされてい
になり、新古典主義も取り入れるようになっていった。初期作品のメロディアスな
く。少しずつ形を変えながらいくつかの旋律を繰り返しつつ曲は進み、
ソロ・ヴァイオ
作風から、
次第に12音技法も取り入れるようになっていった。
しかし1960年代後
リンによる短いカデンツァ風の部分を経て、
これまで出て来たいくつかの旋律の
半には「ニュー・ロマンティシズム」へ傾向は移り、晩年には自身の初期作品の
ドヴァリョーナス
(出典;LMIPC)
第4楽章で再び第1楽章の序奏が木管楽器によって奏される。Allegro
作られたのは、
この時代である。
ト
・ソロで始まり、
木管で次々と旋律を受け継いでいく。
ソロ・ヴァイオリンがこれを受
ヴァリエーションを繋いでクライマックスを築き、
曲を閉じる。
楽章である。
に、積極的に新しいものと接していった。
ストラヴィンスキーのバレエ音楽、
オネゲ
ルの「機関車パシフィック231」、
ラヴェルの「ダフニスとクロエ」
をはじめ、
レスピー
同様、
闘争的でない音楽を作曲するよう命じられ、
明るく調和の取れた交響曲第
第2楽章はAndante molto sostenutoの緩やかな音楽。無伴奏のクラリネッ
響が、
この楽章の雰囲気に現れている。
しかし、
この旋律との融合の美しさは、
ラトガレの民俗音楽を多く取り入れて確立されたイヴァノフスの音楽スタイル、
そ
の和声は後期ロマン派や印象派の影響がみえ、
オーケストレーションは深い哀愁
期待で満ちた曲となったものの、
当局には受け入れられなかった。
そしてソビエト
コーダへと繋がり、
第1楽章を終える。
第2楽章は夢を見るような美しいAndante。R=コルサコフの孫弟子である影
ラトガレ民俗音楽のもつ雰囲気か、
ラトガレで暮らしたイヴァノフスが生み出した
引用もみられるようになった。
序奏となり、
曲は結ばれる。
イヴァノフスは完成した交響曲で20曲もあり、
様々な当時の音楽を吸収したそ
の時代によって作風も異なるのだが、
それを実際に聴いて実感できる機会が非
常に乏しいのは残念な事。演奏されてこその音楽。
いつの日か、
イヴァノフス交
響曲チクルスなど企画されないものだろうか。。。
音 楽 の 歴 史
イヴァノフス
Orchestra excelsis
1901
1902
1903
1904
1905
1906
1907
1908
1909
1910
0歳 ドヴァリョーナス生
1歳
2歳
3歳
4歳
5歳
6歳
0歳 イヴァノフス生
1歳
2歳
3歳
4歳
1911
7歳
5歳
1912
8歳
6歳
1913
9歳
7歳
1914
1915
1916
1917
10歳
11歳
12歳
13歳
8歳
9歳
10歳
11歳
1918
14歳
12歳
15歳
16歳 ライプツィヒへ
17歳
18歳
19歳
13歳
14歳
15歳
16歳
17歳
1924
20歳 リサイタル開催
18歳
1925
1926
1927
1928
1929
1930
1931
1932
0歳 トルミス生
1歳
2歳
21歳
22歳
23歳
24歳
25歳
26歳
27歳
28歳
19歳
20歳
21歳
22歳
23歳
24歳
25歳
26歳
1933
3歳
29歳
学生オーケストラで指揮デビュー
プロ・オーケストラで指揮デビュー
バルト三国の音楽史
ヴィートリス
ペテルブルク音楽院の教授に
トゥビン生
1919
1920
1921
1922
1923
ベルリンに渡り勉強
カウナスの音楽学校で教え始める
Orchestra excelsis
ドヴァリョーナス
Chronology
27歳
E.カップ生
スクルテ生
チュルリョーニス没
V.カップ生
バルトーク「中国の不思議な役人」初演
ステーンハンマル没(第1回演奏会)
ヤナーチェク没
タンベルク生
武満徹生
ランズベルキス生
キラール生(第2回演奏会)
オーケストラの指揮者に
交響曲第1番作曲
30歳 ワルターの指揮マスタークラス
28歳
5歳
6歳
31歳
32歳
29歳 交響曲第2番作曲
30歳
ペルト生
1937
7歳
33歳 アーベントロートに学ぶ
31歳
ネーメ・ヤルヴィ生
1924
1925
1926
1927
1928
1929
1930
1931
1932
ウォルトン「交響曲第1番」初演
ヒンデミット「交響曲"画家マチス"」初演
ベルク没
ベルク「ヴァイオリン協奏曲」初演
オルフ「カルミナ・ブラーナ」初演
ラヴェル没
1934
1935
1936
1937
8歳
34歳
32歳 交響曲第3番作曲
1938
35歳 ヴィリニュスにオーケストラ設立
33歳
1939
36歳
37歳
38歳
39歳
40歳
41歳 祝典序曲作曲
42歳
43歳 交響曲作曲
44歳 ヴァイオリン協奏曲作曲
ヴィリニュスの音楽アカデミーで
45歳
教え始める
46歳 リトアニア国家作曲(ソビエト時代)
47歳
48歳 小組曲作曲
49歳
50歳
51歳
52歳
53歳
54歳 オペラ「ダリア」作曲
55歳 オペラ「ダリア」初演
56歳 ピアノ協奏曲第1番作曲
57歳 ピアノ協奏曲第2番作曲
58歳
59歳
60歳
61歳 ソナタ・バラード作曲
62歳
63歳
64歳
65歳
34歳
35歳 交響曲第4番作曲
36歳
37歳
38歳
39歳 交響曲第5番作曲
40歳
41歳
42歳
1940
1941
1942
1943
1944
1945
1946
1947
1948
1949
19歳 タリン音楽院へ
20歳
21歳
22歳
23歳
24歳
25歳
26歳
27歳
28歳
29歳
30歳
31歳
32歳
33歳
34歳
35歳
36歳
37歳
38歳
39歳
モスクワ音楽院へ
序曲第1番作曲
序曲第2番作曲
劇音楽「大洋」作曲
ハンガリー訪問
「秋の風景」作曲
「エストニアの暦」作曲
1971
1972
1973
1974
1975
1976
1977
1978
1979
1980
1981
1982
「エストニアの暦」により
40歳
エストニア文化賞受賞
41歳
42歳 「鉄への呪い」作曲
43歳
44歳
45歳 イスホリアの抒情作曲
46歳
47歳
48歳
49歳
50歳 エストニアのバラード作曲
51歳 歌の懸け橋作曲
52歳
1983
53歳
1984
1985
1986
1987
1988
1989
1990
1991
54歳
55歳
56歳
57歳
58歳
59歳 「忘れられた民族たち」完成
60歳
61歳
ハーティ、フォーサイス没(第3回演奏会)
M.ヤンソンス生
クレーメル生
ヴィートリス没、マイスキー生
66歳
64歳
67歳
68歳 8月23日死去
65歳
66歳
67歳
68歳
69歳
70歳
71歳
72歳
73歳
74歳
75歳
76歳
ヴァイオリン協奏曲作曲
交響曲第7番作曲
ハチャトゥリアン「交響曲第3番」初演
メシアン「トゥーランガリラ交響曲」初演
R.シュトラウス没
43歳 交響曲第6番作曲
44歳
45歳
46歳
47歳
48歳
49歳
50歳
51歳
52歳
53歳
54歳
55歳
56歳
57歳
58歳
59歳
60歳
61歳
62歳
63歳
ラフマニノフ没
バルトーク「管弦楽のための協奏曲」初演
バルトーク没
シェーンベルク没
A.カップ没
カリユステ生
ショスタコーヴィチ「交響曲第10番」初演
オネゲル没
交響曲第8番作曲
ナルブタイテ生
シベリウス没
ピアノ協奏曲作曲
交響曲第9番作曲
交響曲第10番作曲
パーヴォ・ヤルヴィ生
レンバ没
V.カップ没
ブリテン「戦争レクイエム」初演
ヒンデミット没
ブリテン「チェロ交響曲」初演
交響曲第11番作曲
交響曲第12番作曲
コダーイ没
交響曲第13番作曲
エッレル没
交響曲第14番作曲
交響曲第15番作曲
クリスチャン・ヤルヴィ生
交響曲第16番作曲
リヴォンタス(Vn)没
交響曲第17番作曲
交響曲第18番作曲
ハチャトゥリアン没
交響曲第19番作曲
交響曲第20番作曲
交響曲第21番作曲(未
77歳 完)
イヴァノフス没
トゥビン没
1949
1950
1951
1952
1953
1954
1955
1956
1957
1958
1959
1960
1961
1962
1963
1964
1965
1966
1967
1968
1969
1970
ミヨー没
ショスタコーヴィチ没
ブリテン没
バーバー没
オルフ没
excelsis
s i s l e c x e a r t s e h c rOrchestra
O
年
1901
1902
1903
1904
1905
1906
1907
1908
1909
1910
1911
1912
1913
1914
1915
1916
1917
1918
1919
1920
1921
1922
1923
1924
1925
1926
1927
1928
1929
1930
1931
1932
1933
1934
1935
1936
1937
1938
1939
9歳
10歳
11歳
12歳
13歳 タリン音楽学校へ
14歳
15歳
16歳
17歳
18歳
1950
1951
1952
1953
1954
1955
1956
1957
1958
1959
1960
1961
1962
1963
1964
1965
1966
1967
1968
1969
1970
1919
1920
1921
1922
1923
1933
4歳
1940
1941
1942
1943
1944
1945
1946
1947
1948
1902
ハチャトゥリアン生
1903
ドヴォルジャーク没
1904
R.シュトラウス「サロメ」初演
1905
ショスタコーヴィチ生
1906
1907
エルガー「交響曲第1番」初演
1908
カルウォヴィチ、ノスコフスキ没(第2回演奏会) 1909
ストラヴィンスキー「火の鳥」初演
1910
ストラヴィンスキー「ペトルーシュカ」初演
1911
マーラー没
1912
シェーンベルク「グレの歌」初演
1913
ストラヴィンスキー「春の祭典」初演
1914
スクリャービン没
1915
1916
1917
パリー没(第3回演奏会)
1918
ドビュッシー没
オネゲル「パシフィック231」初演
シベリウス「交響曲第7番」初演
1934
1939
1901
ヴィートリス
ラトビア国立オペラの指揮者に
ラトビア初の音楽学校設立
R.シュトラウス「影のない女」初演
リヴォンタス(Vn)生
サン=サーンス没
1935
1936
1938
世界の音楽史
年
1971
1972
1973
1974
1975
1976
1977
1978
1979
1980
1981
1982
1983
1984
1985
1986
1987
1988
1989
1990
1991
1940
1941
1942
1943
1944
1945
1946
1947
1948
1949
1950
1951
1952
1953
1954
1955
1956
1957
1958
1959
1960
1961
1962
1963
1964
1965
1966
1967
1968
1969
1970
1971
1972
エストニア
excelsis
s i s l e c x e a r t s e h c rOrchestra
O
音楽史年表
Orchestra excelsis
トルミス
年
excelsis
s i s l e c x e a r t s e h c rOrchestra
O
音楽史年表
Orchestra excelsis
excelsis
s i s l e c x e a r t s e h c rOrchestra
O
Chronology
世 界 の 歴 史
リトアニア
ラトビア
世界
ノーベル賞制定
日本
八幡製鉄所稼働
ライト兄弟が飛行機を発明
日露戦争
ロシア革命
世界初のラジオ放送
南満州鉄道株式会社設立
伊藤博文暗殺
アムンゼン南極点到達
タイタニック号沈没
明治天皇崩御、大正へ
第一次世界大戦勃発
ロシアで三月革命/十一月革命
独立宣言(2/16)
独立宣言(2/24)
独立宣言(11/18)
ソヴィエト・ロシアと平和条約(2/2)
国際連盟加盟
ソヴィエト・ロシアと平和条約(8/11) ソヴィエト・ロシアと平和条約(7/12) アメリカで禁酒法施行
国際連盟加盟
国際連盟加盟
関東大震災
レーニン死去
ソ連と不可侵条約締結
大正天皇崩御、昭和へ
英国で男女平等普通選挙実施
ニューヨーク株式市場大暴落
ソ連と不可侵条約締結
ソ連と不可侵条約締結
ヒトラーが首相に
バルト協商
スペイン内戦
独ソ不可侵条約締結
エストニアとラトビアはソ連の影響圏に、リトアニアはドイツの影響圏に
ソ連による占領
1987
1988 最高会議がソ連法の拒否を宣言
1989
1990
1991 独立を宣言(8/20)
二二六事件
ドイツがポーランドに進撃
カティンの森事件
1939
日独伊三国同盟
真珠湾攻撃
ナチス・ドイツ軍が三国を占領
イタリア降伏
ソ連による三国の再占領
ドイツ無条件降伏
ポツダム宣言受諾・降伏
ガンジー暗殺
中華人民共和国の成立
朝鮮戦争
日米安全保障条約
スターリン死去
テレビ放送開始
自衛隊発足
ソ連が人工衛星の打上げ成功
合唱祭の再開
有人宇宙飛行に成功
ケネディ大統領暗殺
東京オリンピック
プラハの春
アポロ11号月面到達
浅間山荘事件
バルト三国で人間の鎖
昭和天皇崩御、平成へ
独立を宣言(3/11)
独立を宣言(8/21)
年
1901
1902
1903
1904
1905
1906
1907
1908
1909
1910
1911
1912
1913
1914
1915
1916
1917
1918
1919
1920
1921
1922
1923
1924
1925
1926
1927
1928
1929
1930
1931
1932
1933
1934
1935
1936
1937
1938
バブル崩壊
1940
1941
1942
1943
1944
1945
1946
1947
1948
1949
1950
1951
1952
1953
1954
1955
1956
1957
1958
1959
1960
1961
1962
1963
1964
1965
1966
1967
1968
1969
1970
1971
1972
1987
1988
1989
1990
1991